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反逆の朝 - Eurex

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反逆の朝 - Eurex
反逆の朝(あした)
熊本市木村家に残る文書による
熊本県のある旧家(仮に木村家としよう)に古い文書がある。その一部に、吉見祐益という
武士が、天正10年、明智光秀の家臣として本能寺を襲い、天正15年に現在の熊本市砂原
に移ったとある。当時の滋賀郡の住所まで書いてある。不思議な文書で、だれかが気まぐれ
に書いた偽書かもしれない。少なくとも知られている限りは、明智光秀の家臣にそういう武
士の記録はないし、近江から熊本まで流れてきたというのも、距離がありすぎて何か不自然
である。
しかし取ってつけたようなその内容は、誰かが創作したにしては突飛すぎるように思える。
そこでさらに調べると、江戸末期まで木村家は「吉見」という名前であったことがわかった。
明治初期に当時の当主が何らかの理由で吉見という名前を捨て、木村と名乗っている。これ
はついこないだ(明治)のことであり、ちゃんとした記録があり間違いのない事実である。
ということは、少なくとも江戸時代の中後期、木村家は吉見という名前であったわけで、素
直に考えれば1700年代も、1600年代も吉見という名前であった可能性が高い。する
とこの文書はにわかに真実味を帯びてくる。吉見という名前はもともと関東(埼玉県)の名
前である。
さらに文書を探してもらうと、祐益の後ズラズラと子孫代々の名前を書いた文書が出てきて、
それぞれ世代交代を30年と短く見積もってもほぼ 1700 年代までたどれることがわかった。
多少の断絶があっても住所が一貫して砂原であること、断絶の前も後ろも吉見家がその地区
の庄屋であったことなど連続性がある。ここまで必要のない文書を偽造するとは考えられな
いし、第一目的が見当たらない。わざわざ裏切り者の光秀の家臣であったと告白する必要も
ない。昔の武将が自分の出自は大名だ、天皇だと見栄を張るのとはわけが異なる。そこでこ
のネガティブなことを書いてある文書を一応本物だとしてみた。
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では次に、なぜ下級武士(名前が残っていないからには、少なくとも上級武士ではない)が、
近江からはるばる九州の熊本まで来なければならなかったのかという問題が残る。運送会社
による引っ越しでもあるまいし、当時としては考えられないことである。だがこれはすぐわ
かった。天正15年は秀吉の薩摩征伐の年であり、佐々成政(さっさなりまさ)が秀吉に富
山から肥後に転封された年である。その後熊本に残ったのは小西行長と佐々成政であるが、
祐益の住居である飽託郡砂原(昔は飽田郡砂原・あきたぐんすなはら)は成政の領地である。
すると、吉見祐益は本能寺の後、明智光秀が山崎で死亡した後、佐々成政に仕官したという
ことになる。なるほど裏切り者の光秀の家臣であれば豊臣の武将には仕官しにくかったであ
ろう。その点、佐々成政は骨の髄まで秀吉嫌いであった。400年も前のことであるが理屈
は通る。なぜなら当時は戦国時代であり、求人難であった。佐々成政が軍事力強化のため、
大量の家臣を召し抱えたという記録もある。こう考えていくと、このさりげない不親切な文
書は、どうやらかえって本物であると思われてきた。
明智光秀の家臣団に吉見祐益の名前が見当たらないことは、少なくともこの武将が重役では
ないことを物語る。しかしこの時期光秀が多くの家臣を雇い入れたことが史実として残って
おり、ちゃんとした人名記録が残っていなくても不思議ではないように思われるし、むしろ
残っている者のほうが圧倒的に少ない。滋賀郡の古地図を手に入れ近江に行き、祐益の住居
があったのではないかと思われる場所をうろつき、役場を訪れたり、熊本城、名護屋城の資
料をあさり、ついには清和源氏の本拠地埼玉の吉見町を訪れたりと5年にわたり調査を行っ
てみた。
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反逆の朝(あした)
嶋丈太郎
December 2010
本能寺の変
また戦か・・・吉見祐益(よしみ・すけます)の主である明智光秀に対し、織田信長は、備
中岡山において毛利勢と睨み合いを続けている羽柴秀吉の援軍を行うよう命じた。祐益が光
秀に仕官した元亀元年(1571)以来十年、戦の途絶えることがなかった。祐益は自宅の裏
山にある竹林から、白く光る琵琶湖を見つめていた。この裏山は、すぐ背後にある比叡山へ
続く上り勾配の麓にあった。目の前には坂本城が、琵琶湖をはさんだ対岸には巨大な安土城
が陽光にきらめいていた。湖面を渡ってくる風が竹林を吹き抜け、ザワザワと秋風のような
音を立てた。天文二十年(1552)生まれ、吉見祐益は三十歳になっていた。天正十年(1
582)五月末のことである。
吉見は清和源氏の系であり、祐益の時代から遡ること三百年、現在の埼玉県比企郡吉見(現
在もこの名称である)に源義家を祖として起こった。その後子孫は現在の愛知県、石川県、
島根県などに守護地頭として派遣され、代を経てあちこちに吉見の名を残している。祐益
の曽祖父・時益は、祖先が近江源氏ではなく、能州(石川県)の出であると書き残してお
り、祖父は足利将軍に従いあちこちに転戦し、祐益が生まれた時、すでに一族はこの場所
に住みついた豪族であったということであった。吉見祐益は小川祐忠の家臣として、元亀
元年(1571)近江に侵入してきた信長に抵抗し、降参した小川祐忠とともに信長の陪
臣となり、その後明智光秀の家臣として編入された。
琵琶湖から宇佐に向かって登る小道をゆっくり四半刻ほど歩くと左手に一群の古びた墓
があり、その先に祐益の屋敷があった。三百坪ほどの敷地に、藁葺きの屋根を持つ簡素な
家屋で屋敷を取り囲む土塁の内側に板塀を張り巡らせてあった。敷地の片隅には年を経た
大きな楠の木が立っていた。夏の明るい日差しの中で、弟と遊ぶ小太郎の声が聞こえた。
3
「おかえりなされませ」
..
小川祐忠の遠縁に当たる病弱の妻なみが、庭仕事の手を休め歩み寄ってきた。
「またご奉公ですか」。
また、という言葉に、誰を恨めばいいかも分からぬ、戦国時代に生まれた女の屈折が現れ
ていた。光秀が近々出陣することはすでに村に知れ渡っていた。
「うむ、備中らしい、羽柴様の手伝いということじゃ。しばらく帰れぬ。これから気候も
温むゆえそなたもしっかり養生するがよい。支度はできておるか」。
祐益は小太郎を呼び寄せ、留守中の心得を一通り申し渡した。九歳の小太郎は、童顔を緊
張させ、お任せくださいと元気に答えた。殆ど席の暖まる暇のない夫と、男の子らしい気
..
負いで答える小太郎を、なみは戦国武士の妻が多くそうであるように、今度こそこれが親
子の別れかもしれないと自分に言い聞かせながら見つめていた。
天正十年(1582)六月一日、福知山城、亀山城、坂本城を進発した総勢一万三千の明
智軍は、暗夜の中ひたひたと京都へ進軍した。殆どのものが山崎を経由して備中(岡山)
方面へ向かうものと思っていたが、桂川のふもとへ到着した時、光秀は全軍に京都へ向か
うよう命じ、本能寺にある信長を討つことが知らされた。主の明智光秀が信長からたびた
びの屈辱を受けていることは家中に知らぬものはなく、10人組を引き受ける祐益はさも
あらんと平静に受け止めていた。現代の人間であれば、政府転覆に等しいことであり途方
もない事と思い迷うに違いない。しかし戦国時代の武士は命を捨てることについて現代で
は想像もつかないくらい割り切りができており、祐益も長年の戦いの中で、数多く命をか
けてきた。死ぬのが怖くないわけではないが、いつでも死ぬ覚悟をしておかなければ肉弾
戦などできるものではない。京都で死のうが、備中だろうが同じことである。命は所詮か
りそめのもの、これが武士の死生観であった。
夜明けまでまだ半刻の時間があった。京都本能寺は境内にかがり火がたかれ、魔王信長の
寝所らしく、夜の闇の中にどっしりと存在していた。「かかれ」光秀は下命した。正門に
は2名の門番がいたがたやすく討ち取られ、門は簡単に開いた。数千名の兵士たちは、押
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し合い圧し合いしながら中へ入り、祐益の隊も七番手として中に入った。境内は意外に静
かで、天下人信長を討ち取る戦いが行われているとは信じられないくらいであった。一説
では、本能寺には全部あわせても百人程度の手勢しか居なかったといわれている。祐益の
隊は先行する部隊に続いて無言のまま中へ中へと進んだ。他の門から入ってきた兵士たち
も入り乱れ、怒号、太刀打ち、ばたばたと走り回る音があちこちで聞こえ始め、行く手の
堂宇から火が上がった。祐益が所属する隊はその堂宇の周りを固めた。しばらくすると味
方の兵士がてんでに首を下げ歩き戻ってきた。無用な首は捨て置けと誰かが命じる声が聞
こえた。白い寝衣を着た女官が数名引っ立てられていた。
「安田作兵衛殿が信長様に槍をつけたらしい」
「信長様は自栽された。ご寝所は炎上中だ。手がつけられん」
「我等はこれから妙覚寺に向かい、信忠殿討伐の加勢を行う」
信長の長子織田信忠は約500名の兵士とともに妙覚寺に宿泊していたが、本能寺の変の
報告を受けるとすぐ覚悟をきめ、二条御所に引き移り、さんざん戦った後自刃した。信忠
は信長の息子たちの中では最も出来が良く、もしこの時生き延びていたら信長がいなくて
も織田の天下は続いていたであろうと言われている。
明智光秀は炎上する本能寺を呆然と見つめていた。信長の首が上がったという報告はまだ
なかった。安田作兵衛の槍をうけた後、信長は森蘭丸など家臣に防御を任せ、堂宇に火を
放ち奥室で自栽したという。火は瞬く間に燃え広がり、それ以上の追跡は不可能となった。
信長の遺体については、その灰を阿弥陀寺の清玉上人が持ち帰り供養したと言われている。
だが果たしてそういうのんびりしたことができる状況であったかどうか極めて疑わしい。
周りは敵だらけである。本能寺は全体が燃えているのであって、焼けてしまえばどれが信
長の灰なのか識別するのは難しかったであろうし、勢力から言っても攻める明智方が少な
くとも数千人であるのに対し、守る織田方はせいぜい 100 人である。そういう中、混乱し
た現場に清玉上人が侵入し、信長の遺体を運び出したというのは無理がある。多分あとで
それとおぼしき灰を持ち帰り、僧侶の威厳を背景にこれが信長の遺灰であると宣言したと
いうところではないだろうか。
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光秀の鋭敏な頭脳はめまぐるしく回転した。このままで細川は味方するであろうか、筒井
はどう反応するであろうか。自分はここまで覚悟してやったのだろうか、光秀は既に計算
が狂い始めていることを感じていた。祐益の隊を含む軍勢は、京都の治安維持と民衆の慰
撫、人心掌握のため休む暇もなく行動を開始した。一挙に京都を平定しなければどんな反
撃を受けるか分からなかった。見込みのある武将に対し、光秀は使者を走らせ味方を頼ん
だ。天正十年六月二日、反逆の朝は白々と明けていった。
秀吉は「百姓上がり」とかなりの軽侮を集めていたはずで、それはいろいろな史実に明ら
かである。この時、秀吉は中国の雄、毛利相手に備中の戦線で膠着していた。当然毛利は
反信長、反秀吉である。後ろ盾である信長が居なくなれば毛利相手に秀吉が勝つという保
証はない。一方の光秀は由緒ある家格の出であり、将軍足利義昭の側近でもあった。現に
その光秀が信長を討ち京都を押さえている。光秀であれば、信長のような苛烈な執政は行
わないであろうし、ビクビクしながら仕える必要もなくなる。誰がどう考えても光秀に味
方しない法はない。しかし実際には殆ど全ての武将が秀吉についた。このあたり、秀吉は
前もって暗殺を知っていた、でなければあんなに早く引き返せるはずが無いという説があ
るが、うがち過ぎて信用できない。また、秀吉が朝廷の実力者である大納言の勧修寺晴豊
(かんじゅじ・はるとよ)と内通していたという説もインチキくさい。ただし、成り上が
り者の秀吉を忌々しく思っていた近衛前久が、朝廷の綸旨を手に入れると光秀に約束した
として、その通り綸旨が下賜されていたら全く違う結果になったであろうことは想像に難
くない。
やはり暗殺が突然すぎて判断し対応する時間的余裕が無かった、信長が死んだという確か
な証拠がなかった、それが各武将をして武力結束をためらわせたと考えるほうが自然なの
ではないだろうか。信長は本当に死んだのであろうか、秀吉は百姓上がりだがすでに旧信
長派を親派として持っているなどの心理が働いたのではないだろうか。また、今となって
は分かりようも無いが、ひょっとして、光秀個人に各武将の味方をためらわせるような人
間的欠陥があったのかもしれない。このころ光秀には心身症的傾向が強く出ていて、ほか
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の武将の信頼を失っていたのかもしれない。どちらにしろ、どこかで狂いが生じ光秀の計
画は頓挫した。
本能寺の変について、光秀は織田信長から日ごろ侮辱を受け、こらえきれなくなった挙句
の反乱であると言われるが、これは俗説に近いものであり、それよりも藤吉郎秀吉に対す
る嫉妬のほうが作者にはありうることのように思われる。逆にいえば、そういうやきもち
焼き体質の光秀を信長は敏感に見抜いていたのかもしれない。またそういう光秀であれば
こそ、その嫉妬を秀吉ではなく、信長に向けたのではないだろうか。連歌の会で信長討伐
を歌に込めたとされているが、作者にはどうにでも取れるこじつけに思われる。もし本当
にそういう意味を込めたとすれば、わざわざ秘密をばらした光秀はやはりどこかおかしい。
明智光秀は当時の武将の中では飛びぬけて高い教養を持ち、儀事、故事に精通し、それで
いて決して柔弱ではなく、明智軍も精強であった。また、光秀は申し分のない優れた主君
で家臣や領民に慕われていた。よく知られた話であるが、その妻・煕子(ひろこ)は光秀
と結婚直前に天然痘を患い、顔中にアバタができてしまった。煕子の父親は煕子そっくり
の妹を身代わりに立て光秀に差し出したが、光秀はすぐ見破り、あえてアバタだらけの煕
子をめとった。夫婦仲はむつまじく、光秀は生涯側室をおかず、煕子は光秀を助けるため、
自分の黒髪を切って売ったりしたという。要するにまじめ、誠実であったかもしれないが、
その分、自分より一回り年下で、恥も外聞もなくあけすけのご機嫌取りをするこすからい
秀吉を軽侮し、嫉妬し、ある意味で恐れていたことは大いにありうることに思われる。
天正10年6月13日午後、備中岡山から引き返してきた秀吉軍約23000と明智軍約
13000は京都山崎で衝突した。この場所は現代の地図で言うと天王山東南一帯である。
吉見祐益の隊は伊勢与三郎の軍に交じり先鋒隊として突進した。目前に敵方の高山右近の
隊が布陣しており、明智隊の近藤半助というものが隊をたたきつけるように突っ込む様子
が見えた。「みな離れるな、槍を並べよ」、祐益の10人隊はわずかに左へ開きながら敵
軍に突っ込んだ。明智軍の戦意は旺盛であり、高山隊を圧倒しながら押し込んだ。強の者
として知られる近藤半助は自軍を叱咤激励しながら荒れ狂い、敵兵も恐れて道をあけるよ
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うになった。その時、新たな敵勢力が到着し、その中から兵を押し分けるように黒一色の
鎧をまとった男が近藤半助の前に立ちふさがった。男と近藤平助はにらみ合ったかと思う
と互いに槍を構え馬に蹴りを入れた。両者の馬は猛然と走りだし、周りの者はこの決闘を
見ようと戦闘をやめた。猛烈な速度で接近した2頭の馬がすれ違う瞬間、繰りだされたい
ずれかの槍をもう一方が払いのけるバキンという音がして両者はすれ違った。お互いは再
び馬を返すと2回目の疾走に入った。2頭の馬がみるみる接近し、歯をむき出した近藤平
助が繰り出す槍を相手方の男は巧みに絡めながら外し、そのまま近藤平助に向かって槍を
突き出した。槍は近藤の下腹から背中に抜け、そのまま近藤は駆け抜けた。槍は上下に激
しく揺れ、近藤平助が既に絶命していることは明らかであった。相手の男が大音声で叫ん
だ。「明智がたの近藤平助は加藤清正が打ち取った」。
激しい戦いが夕方まで続き、明智軍は善戦したが、三千の犠牲を出し散り散りになった。
秀吉軍はその2倍の犠牲を出しており、明智軍の味方をするものはなかった。当時の武将
には、江戸時代の武将のような節操はなく、利あるほうに、勝つほうに、強いほうに味方
するのが当たり前であった。吉見祐益の 10 人組は、最初敵軍の中に騎虎の勢いで突っ込
んだが、一人減り二人減り、午後遅くには 3 人を残すだけに減っていた。一方の秀吉軍は
後から後から新手の兵士が現れ、明智軍は算を乱して後退を始めた。
夜が来た。祐益は少しずつ集まった敗残兵十五名を率い真西へ向かい、地獄谷へ迂回して
丹波山中に分け入った。東の宇治、山科方面はすでに押さえられてしまっており、脱出の
チャンスはなかった。途中、光秀が軍の建て直しのために坂本へ向かったと聞き、山崎の
状況から見て、光秀がたやすく坂本城にたどり着けるとは思われなかったが、自らも大き
く北へ迂回し山道を近江へ向かっていた。だが彼らは主君光秀がすでに死亡していること
は夢にも知らなかった。兵は傷つき、疲れ、飢え、絶望していた。それまで傍観を決め込
んでいた各地の勢力は、秀吉が勝ったと見るや突然明智軍に牙を剥き、農民たちも首稼ぎ
(賞金)のために光秀の武将に襲い掛かった。誰も彼もみな敵である。
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丹波山中・・・・・何かが居る、篠突く雨の中、前方の木立が開けたところにわずかに松
明の光があり、少なからぬ人の動きが感じられた。祐益は松明の灯を木にくくりつけるよ
うに命じ十五名の部下を停止させた。全員が体を低くし全身を緊張させた。槍を持ち直す
もの、刀の鯉口を切るもの、全身の感覚を研ぎ澄ませた。前方のボンヤリとした松明が動
き、周囲の木立からバサバサという音が聞こえ、すさまじい殺気が襲ってきた。かなりの
人数であることが感じられた。「敵だ、来るぞ!」祐益はすっと腰をかがめ、左へ一歩移
動しながら気配を探り、黒い影に思い切って刀を横へはらった。ガツンという手ごたえが
あり、男が悲鳴を上げ祐益の頭上を飛んでいった。「みな散れ、同士打ちに気をつけよ」、
祐益はそのまま一歩進み、次の気配に向かって下から上へ逆に切り上げた。十分な手ごた
えがあり、薄闇の中を黒い影がたたらを踏んで横っ飛びに藪に突っ込んでいった。祐益は
思い切って前へ進んだ。体が敵にぶつかり、祐益は上段から切り下げた。次の瞬間だれか
の体が激しくぶつかり、祐益は左のほうへはじき飛ばされた。左肩が樹木に激突し、その
反動で右肩を下にして濡れた地面にたたきつけられた。肩の骨が嫌な音を立て、息ができ
なくなった。祐益はしばらくそのままじっとしていた。闇の中、其処ここで戦闘が行われ
怒号とうめき声が上がっていた。雨に湿った土のにおいに混じり血がにおった。何かが祐
益の耳のすぐ横をビュンとうなりを上げながら通り過ぎた。祐益は思い切って立ち上がっ
た。どうやら骨は無事らしい。それにしてもおかしい、手ごたえがなさ過ぎる、襲撃の方
法が単純すぎる。だが森はすでに混沌とした乱戦模様である。どうすれば・・・・・祐益
は叫んだ、「こやつ等は武士ではない、首稼ぎのやつばらだ。皆殺しにせよ」。バサバサ
と逃げ散る音が聞こえ、追いすがる足音が聞こえた。やがて賊が逃げ去り森は再び深い暗
黒を取り戻した。雨は森とけもの道を濡らし続けていた。
兵士たちは糒(干し飯)を少しずつかじり、谷川の水を飲み、作物を盗みながら慎重に進
んだ。途中険しい目をした、明らかに首稼ぎと思われる農民の群に出会うことがあったが、
十五名の殺気だった武士の集団に手を出すものは居なかった11日目、一行はひらけた峠
に出た。琵琶湖と近江平野が眼下に広がり、坂本の城もあちこちから薄い煙が上がってい
たが、他には変わりがないように見えた(このとき坂本城が焼け落ちたという説があるが
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坂本城はその後の火の不始末で焼けたと言う説もある)。だが、「ああ、なんという・・・」
兵士たちはうめいた。水の中に立っているといっても過言でない湖畔の坂本城には既に敵
方の旗が翻っていた。兵士たちに絶望が広がった。あれから逃亡十日以上が経過していた。
この様子では亀山城も同じ運命をたどったであろうことは容易に想像できた。主君はどう
なったのか、自分の家は、家族はどうなったのだろうか。思いは皆同じであった。祐益は
兵士たちに告げた。「これ以上ともに行動することは無益である、各自それぞれの土地へ
戻り立て直しを図ろう。我等は武運つたなくこのような有様となったが、恥じることはな
い。それぞれの幸運を祈る」。
山崎での戦闘から 12日がたった。祐益は用心のため直接自宅へは行かず、自宅を見下ろ
す丘の木立にまわった。見たところ祐益の屋敷に変わりはなかった。秀吉軍は来たのは来
たが、簡単な調べだけで引き上げて行ったらしく祐益の家族は無事であった。女子供に狼
藉を働くことは秀吉により厳禁されており、落ち武者狩りもふた月ほどで終わった。しか
し信長に槍をつけたという安田作兵衛だけは別であった。作兵衛は西国へ逃れ、天野源右
衛門と名前を変え、唐津寺沢家の家臣となった。作兵衛の墓は唐津市浄泰寺にあり、作者
の母方祖先の墓も同じ寺の、作兵衛の墓碑のすぐ後ろにある(作者の母方の祖先は唐津藩
の家臣でもともと現在の佐賀県多久市に、その後唐津に居住していた)。信長を刺したと
いう槍は、記憶では唐津城に展示してある。
祐益は山を慎重にくだり自宅の様子を伺った。全く異常がないことが見てとれ、妻のなみ
が家の裏手に姿を見せ、すぐ引っ込んだ。祐益は回り道をしながら家の正面に回った。
「み
なおるか」祐益が開け放たれた戸口から入ると子供たちが歓声を上げながら走りより、な
みは祐益が生還することにわずかの望みをかけていたのであろう、ぱっと顔を輝かせた後
しばらく立ちすくんでいたが、感情を隠すためか台所へ小走りに入っていった。光秀が首
稼ぎの農民に殺されたことがやがて伝わってきた。明智軍は主要な武士の多くが討ち死に
し、あるいは行方不明であった。だが祐益にはそれを心配するゆとりはなかった。彼は疲
10
れ果てていた。武士であることも、新たな主君を探すことも、ましてや戦など論外であっ
た。
佐
々
成
政
吉見祐益が越中富山の佐々成政に仕官する天正十二年までの約二年間、吉見家には平穏な
..
日々が続いた。妻なみの病状は一進一退であったが、祐益は 12 歳の小太郎を早めに元服
させた。次男の久馬も九歳になっていた。小者を雇う余力はなく、祐益自身が畑を開き、
家族が飢えないようにさまざまな作物の植え付けを行った。子供たちも嬉々として手伝っ
た。祐益には奉公する主人もなく、毎日は過不足なく平穏であった。子どもたちと畑を耕
し、琵琶湖で釣りをする毎日を続けていると、見も知らぬ人間と殺し合いをする戦がたま
らなくおぞましいものに思えてくる。祐益は三十三歳になっていた。
ある日大阪にある小川祐忠から便りが届き、いろいろ仕官の口を紹介してきた。いわゆる
就職斡旋である。当時は戦国の世であり、祐益のようないわゆる係長クラスの中堅武将は
最も需要が高く、いくらでも仕官の口はあった。祐益は生まれながらの武士であり、この
まま平穏な百姓生活を続けたいという願望の裏には、由緒ある吉見姓を名乗る自分が、近
江の田舎で百姓仕事に終わってしまうことに焦りがあった。このまま行けば祐益は帰農し、
子供たちも庄屋の息子として安定した人生を送れるかもしれない。祐益は迷った。しかし
子供たちは武士の子という観念が強くもっており、戦働きすることが人生の最重要課題で
あるかのように考えていた。叔父の九右衛門の意見もあり、祐益は小川祐忠の側とは反対
の富山の佐々成政(さっさ・なりまさ、もしくはしげまさ)への仕官を決めた。直接勧誘
の手紙をよこしたのは佐々成政だけであったし、仇敵の秀吉に面と向かって逆らっている
のも成政だけであった。天正十二年(1584)の春であった。
越中富山の佐々成政は信長の武将であったが、成り上がり者の秀吉を徹底して嫌っていた。
信長の死後、成政は秀吉と対立する柴田勝家に味方したが、その勝家も賤ヶ岳の戦いで秀
吉にほろぼされ、次に成政は単独で秀吉に対抗しようとした。それに対し秀吉は成政の所
領であった越中(富山方面)を安堵する(所有を認めること)ことを約束し、成政も和解
11
した。おそらく秀吉にとって、頑固一徹、どこまでも意地を通そうとする佐々成政のよう
な武将は扱いにくい存在であったに違いない。その後佐々成政は小牧・長久手の戦い(秀
吉対家康)では家康に加担し、天正十二年九月には末森城(現石川県)を襲撃し再び懲り
もせず秀吉と対立した。
末森城は能登と加賀の分岐点に当たる小高い丘の上に築かれ、戦略上の重要地点であった
(現在の石川県羽咋郡)。祐益も攻城軍の一員であった。佐々軍は北の上杉景勝とも戦火
を交えており、南北双方とも戦局は思わしくなかった。この戦いは、少数で大軍を迎え討
ちついに守り抜いた典型的な例として長く歴史に残った戦いである。一万五千の佐々軍を
引き受け、末森城にこもる奥村永富(あるいは永福)は 1500 名という無勢でありながら
意気軒昂であり、兵力を三百まで減じながらも本丸に閉じこもり抵抗をやめなかった。ひ
るめば殺される、生き残る唯一の方法は相手を殺すことであった。本丸から打ち下ろす銃
撃は激しく、寄せ手の兵士はばたばたと倒れていった。祐益をかすめるようビュンと銃弾
が唸り、後ろでウッと唸り声が聞こえた。友軍の死体で足の踏み場もないような狭い曲輪
を祐益たちは壁に張り付きながら進んだ。劣勢とは言っても奥村の兵卒は勇敢で、かつ死
を覚悟していた。槍で突かれ、膾(なます)のように切られても絶命の瞬間まで死に物狂
いの抵抗をした。奥村永富の妻女まで自らなぎなたを振るい一歩も引かなかった。なぎな
たは厄介な武器であったらしく、足など簡単に切断されたそうである。祐益もいつの間に
か左肩を負傷し、次第に強くなる痛みに耐えながら戦いを続けた。だがこれ以上先へ進む
ことはどうしてもできなかった。夕方になると佐々軍は引き下がり、飯もそこそこに泥の
ように眠った。佐々成政は、このとき兵士の疲労と雨による足場の悪さから夜間攻撃を控
える決断をしてしまい、これが運命の分かれ目になったと言われている。夜半ふたたび雨
となった。しかし兵士たちはずぶぬれになりながらもそのまま眠りつづけた。ところが翌
朝九月十日未明、応援に駆け付けた前田利家の軍勢三千が雨の中突然佐々軍の背後をつい
た。必死の抵抗を試みたが、寝不足で体の冷え切った佐々軍はあっという間に押し込まれ、
ここに戦機は失われ越中へ引き上げざるを得なくなった。
12
ところが、あろう事か、そもそも言い出しっぺの織田信雄(信長の次男)が、いわば勝手
に秀吉と和解してしまい、信雄を応援していた佐々成政をふくむ家康軍全体が秀吉との戦
いを継続する意味を失い、家康は領国三河に引き上げてしまった。これでは何のために
佐々成政は戦いを続けてきたのか分からなくなる。つんぼ桟敷に置かれた佐々成政は激怒
し、真冬の日本アルプスを12月から1月にかけ横断し、浜松の家康を訪ね、戦いの継続
を談判した。この小牧・長久手の戦いに代表される一連の抗争は、日本史上重大な影響が
あったとされている。つまり先に仕掛けた秀吉側は十分な勝利を挙げることができず、家
康の東国支配を取りあえず認めざるを得なくなった。これが秀吉をして事実上の東国、西
国の分離支配を容認せざるを得なくなり、これにより徳川は力を蓄積し、後年豊臣を滅ぼ
し全国の覇権を握ることになる。秀吉にしてみれば痛恨のミステイクである。一方の佐々
成政は怒り狂い、「いまさら何が手打ちだ。おれがあのサルを必ず滅ぼしてやる」と怒り
狂った。
サラサラ越えは佐々成政を語るとき必ず話題になる。家康に会うために富山から真冬の立
山、黒部を越え、太平洋側にある浜松まで徒歩で日本列島中央部を横切った話である。成
政は50歳を超えており、冬山を超えて長距離を歩行するほどの若さはなかったはずで、
サラサラ越えは作り話であるという主張もかなりあったが、今では証拠も発見されており、
それを疑う者はいないようである。ほとんどの書籍ではこれを壮挙として讃えているが、
見方を変えると100人もの家臣の危険を顧みず、自分の怒りのために敢行した暴挙でも
ある。家臣はさぞたまったものではなかっただろう。ただし50歳を過ぎても、秀吉に刃
向かうためにこういうことをする佐々成政という人物はよほどの偏執的人物であったか
というと必ずしもそうではなく、残っている記録や史実からはむしろ陽気な頑固者という
感じがする。生涯を戦争の中で生きてきた人間は、現代の我々からは微妙なところで理解
しにくい。
「山越えですか」、祐益は驚いて上役に言った。近江の人間は冬山に入ることがどんなに
危険なことかは経験上知悉していた。ちょっとした雪に降り込められ命を落とすものはい
くらでもいた。「うむ、殿はあのような御気性だからの。だが冬山越えじゃから」。この
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ルートは富山から黒部峡谷を横断し、長野県を横断し浜松に達する現代でもとんでもない
難ルートである。2000メートル級以上の山々を真冬にいくつも越え、日本で一番冬の
気候が厳しいとされる中部山岳地帯(立山)をまともに横断するルートで、作者も実際に
車で近所を走ってみたが、とても昔の装備で乗り越えられるような場所とは思われなかっ
た。たとえば刈安峠から針ノ木峠に到達するには黒部川を横断しなければならない。殆ど
2000メートルに達する峠を川まで下り、また2000メートル近く上るのである。そ
れを深い雪の中何回も行なう。現代でも冬山の遭難といえばこのあたりに集中する。昔の
道具だけを使って、50歳代の成政を含む約100名の武士が一ヶ月で成し遂げたという
ことは驚嘆すべきことである。人数には諸説あるが、とにかくまとまった人数であり、も
ちろん凍死、転落等で死者も出ている。後世同じような山越えがあったが、この時は比較
的楽な高山までの旅程であるにもかかわらず生き残ったのはたった1割である。さらさら
越えについては、易しいルートを選んだ、当時は暖冬であったとする説があるが、暖冬と
いっても冬は冬である。現代の地図をよく見ると、富山から浜松へ行くには飛騨高山経由
であれば比較的平たんな直線である。それをわざわざ山越えを選んだのはそれなりの理由
があり、敵対している上杉、前田、秀吉の目に止まることなく浜松へ行くには、北アルプ
スを越える以外なかったらしい。とまれ成政の一途で強烈な信念がいかんなく発揮されて
いるだけでなく、当時の武士の精神性を表す椿事である。
しかし命がけの冬山越えにもかかわらず成政は家康から再起を断られ、続けて訪問した織
田信雄にもいなされ、むなしく同じルートをたどって冬の立山を帰っていく。吉見祐益も
100名ほどの家臣に混じり、途中まで送迎を行った。これだけでも本格的冬支度(動物
の毛皮をまとっていたとある)と数日の旅程を要した。この無謀な試みを成政が成し遂げ
たことは多くの武将に衝撃と感銘を与えた。度重なる反逆にもかかわらず秀吉が成政を殺
さなかった理由の一つはこの辺りにもあるのかもしれない。
こうなればと、佐々成政は単独で巨大な秀吉と戦うことを決意するが、皮肉にも、秀吉を
説得し成政を助けたのは成政が裏切り者と嫌った織田信雄であった。織田信雄は幼名を三
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介といい、秀吉、家康の治世を生き延び天寿を全うしている。武士としては暗愚でありヘ
マばかりしているという定評がある。しかし単に戦嫌いの文系の武将であっただけではな
いだろうか。織田の血筋を後世に残したという功績を評価していいのではないだろうか。
翌1585年(さらさら越えの後)、秀吉は佐々成政の富山城を十万の大軍で包囲し、成
政は織田信雄の仲介により降伏した(富山の役)。だが秀吉に一命は助けられたものの、
越中東部の新川郡を除く全ての領土を没収され、妻子と共に大坂に移住させられ、以後御
伽衆(おとぎしゅう)として秀吉に仕えた。
大
坂
御伽衆とは、秀吉の身近にいつもおり、いろいろないわば世間話をする役目である。それ
にしても骨の髄まで秀吉嫌いの成政を、このような役職につけた秀吉の心理は何であろう
か。度量の広いところを見せたかった、成政を恐れていると思われたくなかった、傍に置
いておかないと危ない、へそ曲がりの天邪鬼であったなど考えられるが、作者は秀吉の成
政に対する興味と屈折した劣等感ではないかと考える。つまり成政の「極端」が身を助け
たのではないか。
大阪の町は吉見祐益にとっては必ずしも居心地のいいものではなかった。主の成政の鬱屈
は部下のそれでもあった。秀吉に対し反抗を繰り返した成政に仕える家来たちは、他家の
家来たちからも侮蔑を受け、家臣同士の刃傷沙汰も一度や二度ではなかった。いったい根
っからの武将である成政を御伽衆にするとはどういうことなのか、主はこのまま茶坊主に
でもなるつもりか、成政を見限るものが出始めた。
それはあっという間に起こった。その日、成政の足軽・林伍平は同僚二人と旧石山寺へ続
く道を歩いていた。伍平はまだ20歳の若者であったが、身の丈6尺を超す大男で、通り
を歩けばいやでも目だった。道の左側は淀川であり、右側には店が並び客を呼び込んでい
た。前方から4~5人の集団が近づいていた。明らかに酔っている様子であった。林伍平
はいやな感じがした。それはトラブルの予感であり、そうでありながらことさらそれを避
けようとしない自分の頑迷さへ嫌悪感であった。相手が絡んできた時に、うまくいなす自
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信がなかった。他の二人も同じなのか、急に黙り込んだ。はたして相手の一人が大げさに
立ち止まり大声で言い放った。「おお、これは茶坊主の家中ではないか。どこかで茶会で
もあったか」。騒ぎに気づいて通行人数人が立ち止まった。まずい、相手は犬猿の仲の前
田の連中だ、ここで事を構えると取り返しがつかなくなる。伍平たちは相手から目を放さ
ず横をすり抜けようとした。すると相手の一人が、よろめきながら体当たりをしてきた。
体の大きな伍平は肩で相手を軽く跳ね飛ばし、酔った相手はだらしなくひっくり返った。
するとこやつ、といいながら大声を出した武士が飛び掛ってきた。同時に伍平の同僚が殴
りかかっていった。相手は酔っ払いである。男は顔面にまともに打撃をくらいひっくり返
り、刀を抜きながら起き上った。他のものも刀を抜き、距離を縮めてきた。もうだめだ、
逃げるわけには行かない。林伍平は覚悟を決めた。
伍平は刀を抜くと、わめき声を上げながら最初にあざけりを浴びせた相手に向かい、思い
切り切り下げた。勢いのついた五平の刀は、防御のため刀を振り上げた相手の左腕を切断
し、そのまま左首筋から胸の中央まで切り裂いた。赤い霧のような血が噴出しヤジ馬がオ
オと驚きの声を上げた。その横の男はあわてて刀を抜きながら数歩下がったが、すさまじ
い五平の殺気に圧倒され、いたずらに刀を振り回した。五平は思い切り相手の刀を跳ね除
け体ごとその男にぶつかり、刀を腹部へ突き立てた。刀は男の背中に抜け、男は大きく目
を見張り凍りついた。この日、前田の家臣2人が死に、2人が負傷した。それに対し佐々
側は一人が死に、一人が重傷を負った。林伍平は逃亡した。秀吉のとりなしで大事には至
らなかったが、このことは両陣営に険悪な対立を引き起こした。伍平の父親林利平は同じ
く成政に使えていたが、この不祥事の責任を取り自殺した。佐々成政は伍平の母と妹に金
を渡しひそかに九州へ逃がした。
余談であるが、そんなにスパスパ生身の人間が切れるものかと思うかもしれないが、切れ
る。作者はイギリスで実際にずらりと並んだ人間が次々に蛮刀で首を切られる映像を見た
ことがある。なぜ斬られるまで漫然と待っているんだ、どうせ殺されるならなぜ抵抗しな
いんだと今でも思い出すたびに怒りを感じるが、それはそれとして、人間の首はかなり簡
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単に切れる。いきなり首を切断されると人間の体はビクンと痙攣し、その反動で首はかな
り前へ飛ぶ。このことから日本では皮一枚残して抱き首に切るのが上道とされた。
..
天正十四年十一月、近江にいる叔父の九右衛門から、祐益の妻なみの病状が重篤であると
連絡が届いた。いつかは起きることとは考えていたが、祐益は虚をつかれてもう少し早く
何とか手を打つべきだったと唇をかんだ。祐益は成政の許可を得ると馬を仕立て、伴二人
をつれ近江へと向かった。大阪を午後遅く出ると、かつて光秀の家臣として秀吉と戦った
大山崎で宿をとり、よく朝早く宿を出るとその日の午後坂本に到着した。琵琶湖は青く空
を映し、近江は晩秋の紅葉に覆われていた。屋敷に着くと、長男の小左衛門と元服前の次
男久馬が泣かんばかりの顔で迎えに出た。おじの吉見九右衛門が来ていた。なみは祐益を
見るとわずかに微笑み、唇だけを「お帰りなされませ」と動かした。顔色は異様に白く、
やせ細り生気がなかった。「ついこないだまで元気だったようだが、急に冷え込んできて
の」と九右衛門は自分の落ち度でもあるかのように言い淀んだ。なみはいつも家族の平穏
と無事を求めていた。妻がこのような状態であるのに、自分は看病もできずこれからどこ
に行かなければならないかも分からない。生まれてこの方、真の平和というものを経験し
たことのない祐益は、妻にも殆ど平穏で楽な暮らしを与えてやることができなかった年月
を思った。少しずつ夕方の暗さをます病床で、昏々と眠るなみの手を握り、祐益は黙然と
座り続けた。なみは時々目を開け、祐益を認めると安心した様子で目を閉じた。
なみの野辺送りはわびしいものであった。初冬の農道を祐益と2人の子供、九右衛門夫婦、
それに数人の村人、二人の小者がのろのろと歩いた。「なみは幾つだったかの」九右衛門
がポツリとつぶやいた。私と4つ違いでございましたと祐益は答えたが、何歳かと聞かれ
るとすぐには答えられなかった。この時代、人はいろいろな理由で簡単に死んだ。人生五
十年といわれるのは、人々の死亡率が高く平均年齢が下がったからである。なみの遺体を
抱え上げ、甕に入れる時、そのあまりの軽さに祐益は衝撃を受けた。白い死に装束を着せ
られ胸の前に手を組んだなみは、座ったまま眠っているようであった。子どもたちにその
姿を見せ、埋葬が終わると村人と同行していた小物たちは祐益の屋敷へ引取っていった。
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後に家族だけが残った。「なみ、ちょっと早かったのう・・・」、祐益は村の職人が作っ
てくれたなみの粗末な墓石に話しかけた。二人の息子は必死に涙をこらえていた。活けた
ススキの穂を祐益が直すと風を受けてさわさわと揺れた。親子三人はなみの居なくなった
屋敷へ戻った。祐益の屋敷はなみが居て初めて「家」であった。それまで一度も気がつか
なかった屋敷の寒々とした暗さが祐益の背中にのしかかった。
小左衛門も次男の久馬も武士の子ではあったが、小左衛門はどちらかといえば物静かなタ
イプで、どこから手に入れてきたのか数冊の書籍を手に入れるなどして繰り返し読みふけ
っていた。読み書きは叔父の九右衛門となみが厳しくしつけていた。一方久馬のほうはこ
のところ急に戦国武士の素質を見せ始め、習いもしないのにその立ち木打ちや身ごなしは
どこか鋭さを感じさせた。祐益は息子二人を前に話した。「父は秀吉殿の部下だ。これか
ら九州へ向かうと聞いておる。お前たちのことは叔父上に頼んである。しばらくしたら帰
ってくるが、あるいはここを引き払わなければならないかもしれない。お前たちは武士の
子だ。二人とも助けあって父の帰りを待て。母の墓の手入れも頼むぞ」。祐益はなみが居
なくなった屋敷を後にした。
九
州
遠
征
天正十五年(1587)三月、秀吉を総大将とする最終的に二十万(三十万とも言われて
いる)に膨れ上がる軍勢は、次第に勢力を広げつつあった薩摩の島津討伐のため九州へ向
かった。薩摩隼人という言葉で表される薩摩人は勇猛果敢であるが、当時から傍若無人な
振る舞いが多く、扱いにくい輩と認識されていた。それはこのような他領地の貪食に始ま
り、江戸時代の掟破りの密貿易や、5百万両の借金を勝手に踏み倒した図所笑左衛門、五
千の軍隊をひき連れ幕府への談判を計画した島津斉彬、英国人を後先考えずに切り殺した
生麦事件、会津での虐殺行為で現代でも薩摩嫌いの理由の一つになっている戊辰戦争、西
南戦争、明治維新から第二2次大戦にいたる薩摩軍人の行動などに一貫した傾向である。
特に会津戦争における薩摩の婦女暴行や略奪は情け容赦のないものであり、これまでの日
本史に例を見ない、あるいは日本人らしくない残忍非道なものである。薩軍は女と見れば
死体も犯すといわれていた。信長や秀吉も多くの女を殺したが、陵辱はしていない。その
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薩軍の多くが明治政府の要職についたわけであるから、その後の日本の運命は推して知る
べしである。それに対し、会津の人々の戊辰戦争における振舞いは多少の誇張はあるにし
ても清冽であり、中野竹子のように一兵士として勇敢に戦い戦死した女性も居る。とまれ、
薩摩は決して九州男児にイメージされるカラリ、さっぱりとした性質ではなく、かなり粘
液質であった。薩摩をしてこうまで頑なにしたのは、おそらく秀吉に対する侮蔑であろう。
島津は秀吉に渡すべき返書を、わざと細川幽斎に返すなど、農民上がりの秀吉を軽蔑しき
っていた節があり、勝とうが負けようが秀吉に従属するのはいやだといった風が見える。
天正十五年三月中旬、秀吉軍は山陽道、瀬戸内海路、山陰道に分かれ南下しつつあった。
軍功を挙げ、早く茶坊主のような立場から脱却したい、これは成政本人だけでなく、佐々
軍全員の願望でもあった。おそらく、二十万に膨れ上がる軍勢の中で、もっとも功名心に
逸っていたのは成政の軍勢であっただろう。総勢三万の軍勢は、長い帯となって山陰道を
南下した。佐々成政を大将とする五百の軍勢もその中におり、山陽、山陰とも途中で参加
する軍勢を吸収しながら西進した。これだけの軍隊となると、当時の山陽道の施設では収
容しきれず、一部を山陰道に振り分けることが必要であった。宿泊は、それぞれの近接の
宿場に分宿し、長い帯となるのは固まりになるのを防ぐためであり、かなり精密なプラン
が必要とされた。出発六日目の午後、祐益が所属する隊は石見(いわみ:島根県)の温泉
津(ゆのつ)へ差し掛かっていた。街道筋には旅籠を中心にいくつもの仮屋が設けられ、
接待役の武士が部隊を待ち受けていた。温泉津は当時既に銀の積み出しを行っており、山
地が海に迫る狭隘な平野に開けた港町であったが、銀山労働者や出入りする船乗りで結構
な賑わいを見せていた。
「接待役をおおせつかる岡田市兵衛でござる」。こざっぱりとした身なりの、祐益とほぼ
同年代の武士が祐益の隊に挨拶に来た。岡田市兵衛とその一族は現在の島根県邇摩郡の山
手、石見銀山に続く尾根の高台、飯原(はんばら)に居住し、もともと大内氏の家臣とし
て銀山経営に派遣されたが、大内氏は衰退し、紆余曲折を経て現在は毛利氏に仕えていた。
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このあたりは銀山をめぐる争いが絶えなかったところである。市兵衛の物腰は静かであっ
たが、その身を常に戦場においている戦国武士の風格を持っていた。祐益も挨拶を返した。
温泉津はその名が示すとおり湧き湯が豊富で、当時既に数百年の歴史を持つ湯の里であっ
た。兵士たちは久しぶりに行軍の垢を落とした。ずらりと立ち並んだ仮屋は粗末なもので
はあったが清潔であり、食事も港町らしい内容であった。祐益と市兵衛は出された酒を注
ぎあいながら、ポツポツと四方山のことを語り合った。市兵衛も祐益と同じく二児の親で
あり、小高い山村に居を構え、周辺に岡田一族が住んでいた。市兵衛は精製された銀出荷
を管理する役所に勤め、仕事柄あちこちの人間と接していた。言葉に中国訛りは少なく、
相手の理解を確認しながらゆっくり話した。「手前も後ほど討伐軍に加わることになって
おります。いずれ名護屋で御目にかかることになるでしょう」。よく朝二人は戦場での再
会を約して分かれた。日本海からは肌寒くはあるが潮の香りを含んだ春風が吹きつけてい
た。
三万の軍勢は萩を通過し、前進した。萩・津和野は、吉見祐益にもゆかりの深い吉見正頼
の所領であり、見るもの全てが祐益の感慨を誘った。津和野吉見との所縁を聞いてくる者
も少なからずあったが、祐益には元祖吉見がどのように分かれ自分が居るのかは分からな
かった。しかし、祖父はコチコチの清和源氏であり、何かにつけそれを自慢していた。曽
祖父時益もそうであったらしい。いかに祖先が由緒正しいものであっても、今の吉見祐益
はたんなる十人頭に過ぎず、特に出世欲もなく昔の栄光を取り戻すというような野心はな
かった。むしろ武士であり続けることにやりきれなさを感じていた。私怨もない相手と殺
し合いをすることをばかばかしいと考えているものはかなりいた。祐益が生まれた時すで
に戦国の世であった。父親の兼益は浅井の家臣であったが、いつ、どこで果てたかも分か
らなかった。母親のさとは厳しいしつけで子供たちを育て上げたが、苦労が祟ったのか腎
を患い若くして死んだ。これから何十年同じことを繰り返すのか。息子たちの生涯も同じ
ことの繰り返しなのか。
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秀吉は下関・赤間で軍議を開き、その後軍勢は次々に海峡を渡った。軍は二手に分かれ、
大勢は筑後を経由して肥後方面へ、祐益の所属する佐々軍は羽柴秀長の指揮のもと豊後大
分方面を通って薩摩へと進軍した。このような掃討戦のとき、軍勢は海岸部、平野部、山
岳部というようにいくつかの筋になって進むのが常である。薩摩は北九州方面を事実上放
棄し、結局、最後は領地安堵を条件に川内(せんだい)で降伏した。佐々成政はその働き
により、大阪へ引き上げることなく秀吉にそのまま隈本城主を命じられた。
薩摩はたびたび豊後に侵入し、恐るべき残虐行為を行なっている。ルイス・フロイス(日
本に30年間在住)の「日本史」によれば、彼らは隣国豊後の女、子供、老人に対し信じ
られないような残虐行為を繰り返し、挙句の果てに肥後へ売り払い、それらの捕虜のうち
あるものは最後には現在のタイやベトナムに売り飛ばされたという。自分たちとほとんど
変わらない隣の人民に対し、ここまで残虐行為を働く薩摩人というのは、ある種不思議な
民族である。薩摩の残虐行為は、田原坂の戦いで知られる西南戦争でも頻発し、人吉で赤
ん坊を含む家族全員の首を、わずかの食料が欲しいために切ったなどのエピソードがある。
秀吉は薩摩制圧後、売り飛ばされた豊後人民を元の領地へ戻すよう命令している。だがそ
の秀吉自身が後年さらに大規模な残虐行為を行うことになる。
肥
後
熊
本
吉見祐益が佐々成政の家臣として移り住んだ場所は、肥後飽託郡砂原(現在の熊本市池田)
と考えられ、現在もその付近に住んでいる子孫(木村家)によれば、現在の砂原より北、
坪井川北岸付近の小高い丘にある竹林の中であったのではないかと考えられる。この場所
は坪井川のすぐ近くで、埋め立ての進んでいなかった当時は、殆ど有明海海浜であっただ
ろうと思われ、近江における祐益の住居と似たような景観であったかもしれない。筆者も
15年ほど前にかろうじて立っているその家を見たが、その時はたいした感慨もなく見過
ごし、まことに残念ながら今ではその家は失われている。無論何度も補修され、祐益の当
時の面影はなかったのであろう。砂原は白川・坪井川の度重なる氾濫で、砂地であるにも
かかわらず地味は肥えていた。現在でもなんとなく土は砂っぽい感じがするが、物なりは
いいようである。
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この時代、隈本城は現在の熊本城の東南、現在の古城町にあり、と言うよりも後の巨大な
熊本城の一角にあり、城久基が城主であった。祐益が住むことになる砂原池田からは南へ
3キロ弱の道のりであった。佐々成政が移封された当時の肥後は、全国でも稀有な地域で、
五十以上の豪族と呼ばれる武士(小大名といったほうが良い)が、北は現在の南関、南は
水俣・人吉、東は阿蘇地方まで広がり小競り合いを繰り返していた。その中の阿蘇氏、相
良氏や隈部氏、菊池氏などは2万人以上の兵力を動員できる力を持ち、下手な大名は手出
しができなかった。彼等は自分たちのケンカに忙しく、秀吉のことを知らないではなかっ
たが、後にしてくれと言わんばかりであった。秀吉軍が進出すると、殆どの国主たちはさ
ほど抵抗もせず降参した。隈本城主の城久基もすんなり城を明け渡し、家族ともども大阪
へ移っていった。もし国人たちがケンカばかりせずに纏まって抵抗していたならば、秀吉
は負けないまでも征服はできなかったかもしれない。そうなれば薩摩はまた息を吹き返し、
朝鮮出兵どころの話しではなかっただろう。その点肥後モッコスは薩摩のような狡猾さは
ないが妥協を知らず、お互いバラバラでこういう場面ではたわいがなかった。幕末の神風
連の乱でも、何か突発的で長続きしないし、明治維新を通じで肥後出身者の名前はあまり
出てこない。薩摩島津がいろいろ策を弄するのに対し、加藤清正は少々の誤解を受けても
筋を通す性格で、そのような清正の行動様式が肥後人の価値観に影響を与えたのかもしれ
ない。とにかく回りくどい面倒なことが嫌いなのである。
天正十五年六月二日、佐々成政は隈本城へ入城した。奇しくもこの日、天王寺の変からち
ょうど五年目であった。秀吉が佐々成政を肥後の国主として任命したことについて、わざ
と統治の難しい場所に追いやり、ヘマをしでかすのを待って処分するつもりであったとい
う説があるが、これは多分間違っている。秀吉の朝鮮出兵には肥後は重要な兵站ポイント
であり、その押さえに期待をこめて佐々成政を派遣したのであり、嫌がらせをする必要は
無かったと考えられる。また当面検地を行わないように指示したのに成政が功を焦って検
地を行ったとされるが、成政が行ったのは、このような場合当然行われる現有領地に関す
る書付、つまり領地をいくら所有しているという報告書の提出要求であった。成政の富山
での業績を見ると、どちらかといえば民衆寄りの政治であり、いきなり勝手に検地をやっ
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たとはどうも考えにくい。説はいろいろあるが、富山出身の作家、遠藤和子氏の資料のほ
うが自然である。多分成政という人物は短気なところはあっても、素直で正直な弱者思い
の人間だったように思われる。秀吉のような劣等意識はほとんどなかったはずである。し
かし結果から見ると、秀吉の命にそむいて拙速に検地をやってしまったと言う事になる。
いっぽう秀吉に関する本や資料を読み漁ると、それらが間違っていると言われればそれま
でだが、かなり複雑な劣等感の持ち主であったと推定される。秀吉は身長五尺(150cm 強)
程度しかないガリガリの貧弱な体躯で、顔はサルに似ているかどうかは別にして品が無く、
頭は若はげで、右手の親指が2本あった。唐津市の名護屋城址には立派な資料館があり、
入館無料である。ここに秀吉の死後1ヶ月で作られたという木像がある。この木像は極め
てリアルなもので、数多ある肖像画のように秀吉を実際より良く表現しようという意図が
感じられず、ディテールに修飾や誇張がない。善意も悪意も無くそのとおり作られた感じ
がする。作者はこの像がもっとも秀吉に似ているのではないかと思える。その像をひとこ
とで言えば頑固そうな醜男である。秀吉は現代風に言えば病的なエロ親父で、女と見れば
片っ端から手を出した。かつての主君である信長の妹、浅井長政の正室お市の方に横恋慕
し、それが手に入らないと分かると年端も行かないお市の娘茶々に手を出した。その茶々
は後年淀君となり、政務に口を出して豊臣崩壊の一因をつくった。因果応報である。女に
もてないブ男が金や権力をもつと現代でもこうなる。
秀吉は自分が優越する相手には極端に寛容、親切であり、一般大衆の前では物分りのいい
庶民太閤を演じた。逆に同等あるいは自分を優越するものには卑屈で陰険であった。極論
すれば、全てが劣等感のなせる業ではないだろうか。聚楽第、巨大な大阪城、それに勝る
とも劣らない名護屋城、黄金尽くめの茶室、派手な散財、民衆を交えての花見など、大向
こう受けを狙った感じがする。運がいいだけの、のぼせ上がった田舎者と思っていた武将
は少なくないに違いない。
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だが秀吉は年をとるにつれて残忍になっていき、茶道の巨人である山上宗二などは、言い
たいことを言い過ぎて鼻をそがれ、耳を落とされ打ち首にされている。多分宗二は内心秀
吉を軽く見ていたに違いなく、それが態度に出たのであろう。肥後討伐についても、事態
が収束したあと執拗に追跡して5000人を抹殺している。また豊臣秀次を殺した際は男
女を問わず、一時的に勤めていた女官を含め全ての関係者を殺している。しかしそれは性
格が変わったというより、もともとそのような劣等感と連動した酷薄さをもっていたと見
るべきである。また、秀吉の朝鮮征伐については、ポルトガルのアジア進出に刺激された
など多くの説が紹介されているが、一つには家臣に与える領地が国内だけでは不足するか
らという分析がある。権力を維持するものには確かにそういう恐れは深刻なものであった
かもしれないが、もっと表層的にいえば一種の劣等感からのスタンドプレーであり、百姓
上がりの自分に皆を心服させたいという心理ではないだろうか。信長の家臣であった頃、
国内の領地は要らない、大陸に領地をもらいたいという発言をした、長年の宿願であった
という説もあるが、そのころすでに領地が不足するとまで考えていたとは思えない。実弟
秀長の死後、秀吉の無様な言動にだれも諫言するものがいなかったというのは、現代の政
党の状況によく似ており興味深い。
千利休は秀吉に七十歳で切腹させられた。その理由を歴史家はいろいろ伝えているが、何
と言っても茶道に対する考え方があわなかったこととが根本的な理由であろう。その点で
は、侘びも錆びも解せず、金ピカの茶室を立てたりする人間を利休は尊敬できなかったで
あろう。俗説に娘を秀吉に差し出すことを断ったとあるが、そんなエロジジイに娘をやる
など論外であっただろう。別の研究では、利休が秀吉に朝鮮出兵を諌め、それを秀吉が激
怒したといわれる。もしそうであれば、秀吉自身が少しは朝鮮出兵を後ろめたく感じてい
たところ、利休に痛いところを突かれたということになる。とにかく、石田三成達の若手
取り巻き連中が、千利休のような老人が秀吉に大きな影響力を持ち続けることを嫌い、針
小棒大にことをあげつらい、利休を追い込んだという説もある。
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一方劣等感の塊である秀吉は利休の底深い侮蔑に敏感で、深く憎悪したに違いない。老い
先短い利休を周囲の諌めにもかかわらず屁理屈をつけて切腹させている。一方の利休も何
らかの助命工作もできたであろうに、ムキになって切腹している。おそらく死ぬまで秀吉
を軽侮していたに違いない。娘の件は俗説であるが、おそらくそういうことがあったので
はないだろうか。ところがその秀吉は死を前にして、子息秀頼のことを諸大名にくどくど
と頼んだ。秀吉の生涯をかけた成り上がりも失敗であったというべきであろう。また屁理
屈といえば、後年家康が大阪城の秀頼を滅ぼす時も、寺の梵鐘に刻印された国家安康とい
う文字にクレームをつけるなど、これまた因果応報の感がある。ちなみに秀頼は秀吉の子
供ではないとする説があるが、作者もそう考える。その理由は伝えられる外観があまりに
も違うことと、北の政所(ねね)が秀吉の死後あまりにもあっさりと豊臣家を見放してい
ることである。
吉見祐益は城久基の家臣が住んでいた屋敷に移り住んだ。作者はその場所に行ったことが
あり、もう廃屋となった家屋も見た。その時には大した感慨もなく、うかつなことに写真
も撮らなかった。その廃屋はもうなくなっている。白川や坪井側はその流れを何回か変え、
現在では砂原という名称はもっと狭い地域を指すようである。近江と肥後では屋敷のつく
りが全く違い、防御などまるで考えられておらず、三千坪ほどの丘は数軒の民家以外は主
として畑であり、その一角に無造作に屋敷が立てられていた。どこまでが祐益の土地とい
うのではなく、だらだらと森と竹林が下っていた。塀などは一切なく、豊かな竹林が区切
りといえば区切りであった。自生のものか前の住人が植えたものか、一角に菊の畑があっ
た。水はくぼ地に掘られた深い井戸と天水でまかなわれていた。すぐ眼下は白川であり、
一里ほど先には海が見えた。祐益はすこし下がった西の台地に小者2名とその家族を住ま
わせ、近江の家族および親族を呼びよせる手続きを取った。天正十五年六月、二人の息子
と九右衛門一家三人が移住してきた。
肥後国人一揆
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引越し間もなく祐益はいわゆる肥後国人一揆に巻き込まれた。この一揆は天正十五年夏に
始まり、翌天正十六年十二月に収束する九州歴史上の一大エポックである。一揆というよ
りは、中規模の戦が同時にあちこちで行われ肥後全体が秀吉に刃向かった。
「何じゃこれは、これでは我等は佐々殿から目腐れ金をもらって生きて行けということ
か!」
佐々成政の着任からひと月あまりの天正十五年七月、隈府城(わいふじょう)の隈部親永
は吐き捨てるように家臣に怒鳴った。実際に成政が要求した書付は、現在の所領を明らか
にして届けよというものであったが、それはそれに続く太閤検地の前触れであり、石高の
申告を領主たる隈部親永ではなく、農民の代表である庄屋が行えというものであった。つ
まり隈部親永は領土の半分以上を取り上げられた上、これまでの権限とうまみを失い、領
主から割り当てられた石高で生きて行けということになる。戦わずして服従した肥後の国
人たちにはどこか消化不良の部分があり、ことごとく成政に反発した。それはその背後に
いる秀吉への反感であり、成り上がり者に対する軽侮であった。現代でも成り金という言
葉があるくらいで、この時代では百姓からなりあがった人間を尊敬しろといわれてもそれ
は難しかったに違いない。隈部親永は、自分の領地は秀吉により認知されたものであり、
同等の地位でしかない成政にとやかく言われる筋合いはないとして一族郎党、親戚一同を
引き連れ隈府城に立てこもった。いかにも肥後モッコスらしい理屈立てである。今でも九
州では何かというとこういう理屈のための理屈をこねる人間が多い。現代風に言えばすね
てしまった。しかし命がけである。
隈部親永は隈府城に立てこもり、これを佐々成政は六千の軍勢で攻撃した。親永は善戦し
たが破れ、息子の親安が守る城村城へ逃げ、一万五千人の軍勢で9ヶ月間戦い続けた。こ
の戦いにはいろいろエピソードがあり、特に親永の妻と娘が阿蘇山地へ逃れ、追い詰めら
れて入水自殺をする際、娘を何度川に投げ入れても浮かんでくるので、最後は母親が一緒
にしがみついて水死させたという悲話は有名である。隈部親永らは捕らえられ、立花宗茂
の柳川城に幽閉されるが、5月26日秀吉は降伏時の約束を破り、全員に切腹を命じる。
しかし立花宗茂は囚人らの名誉を重んじ「討ち放し」を行なった。城内の黒門広場に捕虜
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12名を集め、それぞれに武器を持たせ、柳川城からも同じく12名の討手を出し集団に
よる決闘をさせた。形から見るとローマ剣闘士の見世物のようだが、捕虜の名誉を重んじ、
武士らしい最期を遂げさせようという計らいである。隈部方は一応刀を合わせたが次々に
倒された。そこにいたるまで、立花宗茂は有望な武将の命を救うべくいろいろと手を打っ
たが、誰一人翻心するものはなく、全員が死を選んだそうである。吉見祐益は九州の武士
の潔さに感服しながらも、その依怙地さに呆れた。勝つはずのない戦を延々と繰り返し、
女子供含む全員が戦死するということの繰り返しで、中央の戦いに比べ、あまりにも戦略
眼がなく無残であった。何のために戦っているのかも理解しがたかった。しかし現実に立
ち向かってくる相手に主君佐々成政も手をこまねいているわけにも行かない。
天正十五年(1587)八月、成政留守中の隈本城は、三万五千の国人一揆勢に取り囲ま
れていた。甲斐宗立と菊池武国を中心にした阿蘇氏と旧菊池家臣団連合軍で、主の佐々成
政は隈府城(現在の菊池市)の攻略に遠征しており、その隙を狙った攻撃であった。三万
五千と一口に言うが、当時の隈本城は現在の熊本城のような巨城ではなく、武者返しもな
く、二の丸、三の丸に取り囲まれた平城である。現在残っている城跡を見る限り石垣の高
さもせいぜい3~5 メートルである。そこへ守勢の十倍、中央日本の戦さなみの軍勢が押
し寄せた。外郭はあっという間に破られ、二の丸、三の丸の間にある曲輪では、敵味方入
り乱れての乱戦となった。いったん乱戦になると飛び道具は使えなくなる。敵勢が人数で
守勢を圧倒する場合、個別に迎え撃ってもまるで勝ち目はない。居残り組であった吉見祐
益は部下を集め、小さな槍衾(やりぶすま)を作って敵を迎え撃った。秀吉の軍勢が用い
る槍は、当時の常識的な槍より1尺近く長く、これは信長が考案したものであった。これ
はつまり長いほうが有利ということであり、祐益はそれをハリネズミのように並べて敵を
防いだ。一方、刀と刀の戦いでは、相手が鎧でも着ていればなかなか決着がつかなかった
そうで、斬ると言うよりは叩く、突くと言ったほうが当たっていたらしい。また刀を振り
回すと数分で体力が尽きるので、殺し合いであるにもかかわらず両者に適当に休むなど阿
吽の呼吸があったそうである。しかしそれは勢力が拮抗している場合の話である。
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肥後の地侍は戦慣れしており、勇敢であった。曲輪には多くの死体が転がり、それに躓い
て攻めるほうも難儀したが、数で圧倒する一揆勢は城方を次第に圧倒し、隈本城は落城寸
前まで追い詰められた。祐益も手傷を負い、本丸まで退却せざるを得なくなった。そのと
き、佐々成政が急報を受け隈本城へ引き返し、城の外から一揆勢の背後をつく形で突入し
た。彼我の勢いはとたんに逆転し、一揆勢は多くの死体を残し逃げ去った。この戦いのあ
と、秀吉は小早川、立花などの武将に命じ、大々的な肥後掃討戦を行った。肥後動乱は佐々
成政の不手際と言われてもやむを得ないだろう。物は言いようということがあり、もう少
し政治的にうまくやれたはずであるが、成政は根回しなど不得手であった。しかし、秀吉
にしても一刻も早く肥後を恭順させ、来るべき朝鮮出兵に備える必要があり、生煮えの鍋
の蓋を開けてしまったことも事実である。成政は御伽衆として秀吉に近く接し、その人と
なりや物の考え方は秀吉にも十分伝わっていたはずである。おそらく秀吉は成政の人柄や
能力に、少なくとも実務的な意味でかなりの信頼を置いていたと思われる。佐々成政がヘ
マをすることを予定していたというのはありえない俗説である。
秀吉の辞世の句は、秀吉の内省的側面を偲ばせる。
露とおち露と消えにしわが身かな
難波(なにわ)のことも夢のまた夢
秀吉は極貧の農家に生まれ、10 代で放浪の旅に出ている。どの本もおよそこのような内容
になっており、おそらく食うや食わずの水飲み百姓の家に生まれ、飢えや貧乏は骨の髄ま
で味わったはずである。そういう人間が三十年程度で頂点に昇り詰め、あらゆる贅沢と権
力を手に入れる、これはどういうものであろうか。秀吉は無論のこと貧困や飢えの辛さは
昨日のことのように覚えていたに違いない。上の辞世はもし本当に秀吉のものであるとす
れば、自分の栄華は所詮泡沫の夢であることをよく認識していたことがうかがえる。秀吉
のすごいところは、猿だ百姓だとあざけりを受けながら、全大名を抑えきったことではな
いだろうか。
天正十六年五月十四日、兵庫で謹慎中の主君佐々成政が切腹して果てたという知らせが届
いた。成政は肥後動乱の責任を問われ、大阪まで謝罪に出向いたが、秀吉に兵庫で蟄居さ
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せられていた。後年秀吉は朝鮮征伐を行う際、成政を死罪にした事を悔やんだそうである。
主君に非は無く,全て成り上がり者の秀吉の差配ではないか、あるものは悲憤慷慨し、あ
るものは冷静に受け止めていた。だがいまさら主君の仇を討つには状況が変わりすぎてし
まっていた。成政の家臣(五百名程度か)はあるものは加藤清正の家臣として、あるもの
は宇土、八代をあてがわれた小西行長の家臣として採用された。帰農、あるいは浪人した
ものも多数いた。祐益は、主君のために悲憤慷慨する家臣に混じり、またか、という徒労
感を味わっていた。このような南国の果てまで来て再び主取りのうるささを味わうことに
うんざりしていた。だが佐々成政の家臣には武士をやめて帰農するか、加藤清正に仕官す
るか、あるいは小西行長と言う選択肢しかなかった。祐益は清正に仕官した。だが、祐益
は間もなく自分の人生観に大きな影響を与える事態に遭遇する。
加藤清正
天正十七年(1589)加藤清正の軍と小西行長の軍は秀吉の命令により天草種元の本渡城を
攻撃する。大群に取り巻かれた本渡城では主だった武将は戦死するか負傷してしまい、落
城は目前まで迫っていた。だがそれでも抵抗を止めず、相も変らぬ九州武士の頑迷さに祐
益は腹立たしささえ覚えた。一人の武士を10人が取りかこみ、惨殺するような戦であっ
た。祐益の耳に甲高い声が聞こえた。清正軍は耳をそばだてた。武装した女数百名が城か
ら打って出てきた。清正軍は戸惑ったが、女たちはまさに武装しており、抗戦しなければ
こちらがやられてしまうことは明らかであった。男の代わりに女が戦うことは戦国時代で
はよくあることである。しかし数が違う。最初清正軍はジリジリと後退した。「ええい、
何をしておる、殺してしまえ」指揮官が叫び、清正軍は本格的に攻撃を始めた。甲高い悲
鳴が聞こえ始めた。無残な結果であった。このとき300名の女が殺されたという。いく
ら武装はしていても、重い刀を振り回すことさえやっとの女である。まだ10代とみられ
る子供のような女まで切り刻まれていた。あの秀吉という男は女子供まで殺してどうしよ
うと言うのか。九州での残虐な殺戮に唾棄する武将は少なくなかった。祐益もそのうちの
一人であった。
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朝
鮮
天正十六年(1588)十一月、對馬厳原から二十艘の軍船が船出した。向け地は朝鮮の
東35里にある鬱陵島(ウルルン島、なお当時の名称は竹島・現在の竹島はその東海上)
であった。李王朝は朝貢を求めた秀吉に対する交換条件として倭寇の征伐と、倭寇に協力
している自国の反乱分子の捕獲を秀吉に要求した。言い方を変えれば自宅に押し入った泥
棒の逮捕を別の泥棒に頼った。当時鬱陵島は無国籍の島で、日朝の漁師などが自由に出入
りしていただけでなく、海賊である倭寇の基地でもあった。倭寇の倭は日本人という意味
でつまり日本人の海賊である。倭寇は14世紀、南北朝時代の食糧不足を原因として発生
したといわれている。つまりそのころ日本は騒乱による農業疲弊で全国的に食料が不足し、
それを朝鮮半島から獲得すべく対馬を起点として、武士崩れを中心とした一団が半島沿岸
を襲い始めたのである。その後300年にわたり朝鮮半島から中国、東南アジアの全海岸
線をあらしまわり、一説では500隻に上る船と1500頭に上る馬まで送り込み、果て
はビルマにまで現れたそうである。倭寇は元武士、つまり浪人であり、日本刀を振り回し
やたらと強かったそうで、海上での略奪だけではなく陸上まで攻め入ったそうである。し
かし祐益の時代、倭寇の八割は実際には日本人のふりをした朝鮮人、中国人であったこと
がほぼ確認されている。
吉見祐益もこの遠征軍に加えられ、4日後船隊は鬱陵島の東海岸に接近した。総勢400
名の部隊は荒涼とした入江に入津し、次々に上陸した。部隊はその入江から急激に立ち上
がる馬の背のような尾根越えを目指した。そのむこうの入江には倭寇の集落があるはずで
あった。相手の人数は分からなかったが、朝鮮人の反乱分子だけでも200名近くが居る
と報告を受けていた。尾根の頂上はこのあたりによくある平らな台地になっており、その
端から入江の様子が一望できた。それは入江というよりはちょっとした平野であり、一面
に人家が並び、十艘ほどの船があちこちに舫われていた。四百名の部隊は五つの小隊に分
けられ、あるものは尾根伝いに集落の反対側に回り込んだ。女、子供、手向かいせぬもの
には攻撃するなという命令が伝えられた。部隊は四方から一挙に襲撃した。
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祐益は集落の真後ろから突入する小隊に居た。一番の目標は倭寇そのもの、つまり日本人
の浪人である。小隊は集落に走り寄った。子供が一番に祐益たちを見つけ奇声を上げ、次
に女たちが何かを叫んだ。たちまち男たちが手々に武器を持って飛び出してきた。祐益は
自分の正面に出てきた男に切りかかった。男は大きな身振りで祐益の一撃をかわし、その
拍子に家屋の板壁にドスンとぶつかった。男は何かののしりの声を上げながら体勢を立て
直し切りかかってきた。日本語ではない、この男は朝鮮人か。祐益は相手の刀を右から払
いのけ、返す刀で相手の肩に打ち込んだ。相手の攻撃をかわし、反射的に相手に切りつけ
る巧みさ、速度は日本武士の独壇場である。男の刀は地面を撃ち、祐益の刀は男の左肩に
食い込み、男はグウというような声を上げ凍りついた。血がパッと噴出し、男は絶望の表
情を浮かべ崩れ落ちた。祐益は男が出てきた家の戸を蹴破った。中は薄暗く悪臭がした。
若い女が子供を引き寄せ祐益をにらみつけ何かを叫んだ。死んだ男の妻だろうか。
祐益は怒号の飛び交う表へ飛び出し、集落の中心部へと向かった。そこに5~6人の日本
勢を相手に暴れ回っている男が居た。見るとその男は頭一つ抜き出る巨大な体をして、刀
ではなく、大きな棍棒を軽々と振り回していた。すでに一人の日本兵が倒れており、もう
一人も肩でも砕かれたのか、体を斜めにして、立っているのがやっとという態であった。
祐益はその男の動きを見つめた。男は無言であったが、明らかに日本剣法の動きをしてい
た。男の棍棒は日本刀より2尺近く長く、鉄の鋲が打ち込んであった。日本側が普通に打
ち込めば届かないだけでなく、先に打たれてしまう。祐益は刀をだらりと下げ、取り巻き
の輪の背後からつかつかと無造作に近づいた。「お前は日本人だな。勝ち目は無い、降参
しろ」、祐益は男に話しかけた。男はひげ面であったが、意外に涼しげな眼をしていた。
二十歳をいくらも出ていないのではないかと思える日本人の若い男であった。「そうはい
かん」、男が自然な日本語で答えた。男には抜き差しならない事情がありここまで流れて
きたのであろう。降参しても命が助かる可能性も確かに低かった。祐益はこの男に奇妙な
親近感を覚えた。
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祐益は味方の兵士に告げた。「この男に無理やり打ち込んでも怪我人が増えるだけだ。取
り巻いて隙を見つけ打ち込みすぐ引け、そういつまでももつものではない。そのうち加勢
も来る」。突然男が正眼から打ち込んできた。男の足運びは棍棒が届く距離まで一気に打
ち込み、引く戦法であった。踏み込みすぎて体勢を崩すということが無く、攻めにくい相
手であった。祐益はかろうじて男の打ち込みをかわし、男が他のものへ向かう瞬間を待っ
た。祐益は男の足運びに自分の動きをあわせた。祐益の左翼に居た兵士が動き、男もその
兵士に向かって動いた。祐益も動いた。男の棍棒が左翼の兵士の刀を叩き落したとき、祐
益は男のすぐそばまで全速で接近していた。男は目の端で祐益を捕らえており、鋭く棍棒
を左へ振った。祐益は体をいっぱいに沈め棍棒をかわすと、男の左くるぶしあたりに激し
く峰打ちし体当たりをくわせた。男は苦痛の声を上げひざをついた。祐益は男の手を押さ
えると首筋に刃を当て自由を奪った。数人の兵士が走りより男を縛り上げた。「おぬし名
はなんと言う」祐益は静かな声で男に話しかけた。男は祐益の目をまっすぐ見つめポツリ
と答えた、「イム・ドンスン(林道順)」。
軍勢は100人を上回る朝鮮人反乱分子を李朝朝鮮に引き渡した。朝鮮人と思われる女子
供は朝鮮に、倭寇20数名と日本語を話すものは日本へ送られた。祐益は林道順と名乗っ
た男のことを考えていた。イム・ドンスンと朝鮮名を名乗ったあの男は日本人であった。
男には日本の武士が持つ潔さがどこと無くあり、寡黙で堂々としていた。この時代、日本
を飛び出しアジアの各地域にわたる武士はかなりたくさん居たらしい。連行される男にす
がり付いて泣いている女が居た。女は朝鮮語を口走っていた。11月の鬱陵島は強風が吹
き、厳しい寒さになっていた。
天正十七年三月、九右衛門と祐益は無言で酒を汲みあった。開け放たれた障子からは明る
い春の空が見え、庭のさくらがかすかな風に花びらを散らせていた。九右衛門は清正の事
務方として禄を食んでいた。見事な文字を書き、小佐衛門も久馬も九右衛門に習字した。
九右衛門も祐益と同じく武士としていろいろな主君に仕え、やはり妻、息子の墓を近江に
残してきていた。
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「今頃近江はどうであろうかのう」
老いが目立ち始めた九右衛門はおだやかな近江の自然を懐かしんだ。全ては琵琶湖に終息
する近江の自然に比べ、火の国肥後の自然は荒々しく、人心は頑なであった。祐益は放置
してきたなみの墓の風景を思い浮かべていた。雑草に埋もれていることであろう。
「近江の桜もそろそろ満開でございますな」
祐益は答え、九右衛門に酒を勧めた。
長男の小左衛門は清正の家臣として取り立てられ、次男の久馬は元服し信正と名乗ってい
た。久馬(信正)は大男になっていたが相変わらずのやんちゃ坊主で、川魚取りなどは日
常茶飯事、突然イノシシなどを獲ってきて家族を驚かせた。また九右衛門の孫娘早恵のい
いお守り役でもあった。早苗の母親シズは近江の豪族の次女であったが戦で最初の夫を失
い、小さな娘を連れて九右衛門の息子明正と連れ添った。その明正もほどなく姉川で戦死
した。しかし九右衛門夫妻はそのまま血縁のないシズと早恵を家族として扶養していた。
その九右衛門の妻も肥後へ移転する前に身罷り、やもめとなった久右衛門のため今ではシ
ズが家事を行っていた。シズは性根明るく、それは娘の早恵にも受け継がれていた。「や
はり朝鮮に行くのかの」九右衛門がつぶやいた。武士に戦はつき物とはいえ、朝鮮に行っ
てしまえば小佐衛門も信正もタダではすむまい。
文禄元年(1592)三月、名護屋城は完成した。この城は朝鮮出兵のための仮城と誤解され
ているが、全く違う。小山全部に城が築かれ、そこから下る海岸平野にも小さな砦がいく
つも作られていた。大阪城につぐ七階建ての巨大な城で、瓦には金が用いられていた。実
際に廃墟となった名古屋城を歩いてめぐると、朽ちてはいるが堂々とした石垣が今でも残
っており、これだけの石をどこから持ってきたのだろうかと驚かされる。唐津から肥前町
にいたる半島全体に一大城塞都市が出現した。天守台跡からは遠く壱岐が見える。秀吉は
朝鮮出兵を行うため、博多を出発港と考え、肥後を食料、兵力の兵站基地として考えてい
たが、結局、肥前佐賀の唐津に名護屋城を築き、玄界灘経由での朝鮮出兵の拠点としたこ
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とは周知の事実である。名護屋城は後年取り崩され、唐津城築城のため部材が利用される
などしている。
秀吉の朝鮮征伐は文禄の役(1592)と慶長の役(1597)に分けて把握されている。
一方的な侵略である。歴史を見ると、日本という国は本当にわけが分からないところがあ
る。程の良さということがあまりないのである。7世紀の白村江はともかくとしても、20
世紀の大陸出兵もできそうもない理想と計画を掲げて侵略している。もちろんやられる前
にやれという当時の国際情勢はあったにしても、個々の動きはむちゃくちゃである。その
結果、例えば南京大虐殺などと中国にいちゃもんをつけられ未だに苦しんでいる。
祐益は内地で兵站を受け持つことになったが、その子、十九歳の小左衛門と十六歳の信正
(久馬)は加藤清正の兵卒として参加した。この時代は戦国期で、次男の冷や飯食いなど
ということはなく、男子はいくらでも家臣として取り立てられた。「お前たちは武士だ。
いつどこで果てるかも分からぬ。生死のことはやむをえない。しかしつまらぬ病などで無
駄死にせぬよう心がけよ」、二人の若者を自分の息子のようにかわいがった九右衛門は厳
しい表情で言った。シズと早苗はお守りを作って渡した。祐益は父親らしいことを言うべ
きだと焦ったが言葉が見つからなかった。「なみ、見ておるか」戦支度をして坂を下りて
いく二人の若者の背中を見つめて祐益はつぶやいた。弟の信正のほうがわずかに上背で兄
に勝っていた。この七年の間に小川祐忠、明智光秀、佐々成政そして加藤清正と祐益の主
が変わった。そして自分の息子たちはまだろくに世の中のことも分からず朝鮮へ戦に行こ
うとしている。揺れ動く囲炉裏の火の中に、祐益は自分の来し方を見つめていた。このま
ま何も変わらず、誰も去らず、このままに。祐益はこの年四十歳であった。
突然他国に攻め入り、本来敵でも無いものを虐殺し、毫とも恥じない精神性は今の日本人
には理解できないが、つい最近まで日本人はこういうことを繰り返してきた。文禄の役で
は、日本軍の一部は朝鮮人の耳や鼻をそぎ落とし、秀吉に送るという残虐行為をやってい
る。その後の慶長の役では他の部隊もそれを見習った。日本軍の残虐行為は相手が兵士で
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あるならある程度やむをえない。しかし一説には十万人の人間を殺したとある。無差別に
殺しまわったことが伺える。頭のいかれた秀吉のご機嫌をとるわけであるから、その材料
も勢い極端なものになった。そのような行動に批判的な武将もいたが、往々にして軟弱と
みなされた。ただし、薩摩軍はその勇猛振りをいかんなく発揮している。泗川の戦いでは、
たった五千の兵力で二十万の明軍を破ったと言われるし、大山綱宗と言う薩摩藩士は晋州
の戦いでは、たった一人で数万の明軍に切り込み、多くの敵を切り倒した後生還したと言
われている。薩摩人のこういう勇猛さは、単に勇敢という言葉だけでは片付けられないも
ので、薩摩の風土に根ざしているように思われる。反面、ちょっとしたことですぐ切り合
いをする、仁義に違反すると自分の子供でも切り殺すなど、いくら武士の世と言ってもあ
まりにもストイックである。ある薩摩武士は、討論で言い負かされると、突然便所に飛び
込み自分の首を切ったなどの逸話がある。
大
陸
出
兵
文禄・慶長の役と称される朝鮮出兵は、秀吉が一方的に自己の妄想に基づいて行ったもの
で、ただの狂気に基づく蛮行である。秀吉とそのご機嫌取りである各武将は、あらゆる残
虐行為を行っている。
当時の名護屋城の布陣図を見ると、加藤清正は名護屋城の西方直近に、毛利勢は東松浦半
島の根元の内陸部に布陣している。岡田市兵衛は石見での接待の後片付けと業務引継ぎを
済ませ、毛利隊の後を追って九州にむかった。道中、他家の軍勢だけでなく、徴用された
職工や農民がグループを作り九州へ向かっていた。途中通過した博多の町は市兵衛が見た
ことも無い賑わいを見せていた。博多から名護屋までの街道筋には多くの店が立ち並び、
客引きの声もかしましかった。わずか100名ほどの小隊は箱崎宮での参拝を済ませ、海
沿いに南下し福吉で宿泊すると、翌朝唐津を抜け、夕方には名護屋へ到着した。山陰の海
に比べると、西海路は小さな島が散らばり美しかった。名護屋城は市兵衛が見たこともな
い巨城で、付近の農家は接収され、臨時に作られた小屋が並んでおり、物資の買い付けの
ための巨大な集会所は足の踏み場もない有様で、あたかも一つの大きな町が出来上がった
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かのようで、温泉津をはるかにしのぐ規模であった。岡田市兵衛は秀吉の本隊に組み込ま
れ、名護屋城での兵站事務に当たった。加藤清正の陣は名古屋城の西方にあり、市兵衛は、
むかし佐々成政の家臣であった吉見祐益が、今では清正の家臣であることを聞き知ってい
た。清正の陣は名古屋城のすぐ左となりであり、そこへ行くには結構な山越えをしなけれ
ばならない。非番の日の早朝出発し、市兵衛は清正の陣を尋ね祐益の消息を尋ねた。だが
祐益は串浦(漁村)へ出かけているということであった。市兵衛は応対の武士に伝言を頼
み、自陣へ引き上げた。だが祐益はその後市兵衛に再会することなく熊本へ引き返す羽目
になる。
豊臣秀吉による 1 回目の朝鮮半島出兵の際、肥後国葦北郡佐敷の梅北国兼は、文禄元年六
月十五日突然佐敷城を占拠する。動機は秀吉の支配に対する反発だといわれているが、梅
北国兼でなくとも反発したくなるであろう。この一揆には伊集院元巣、東郷甚右衛門とい
った島津家有力家臣が参加し、農民や町人が加わった反乱軍の人数は二千人であったと言
われる。梅北国兼という人物は隙だらけの単純な人物であったようで、佐敷城の留守を預
かっていた安田弥右衛門らの偽りの投降に油断し、6 月 17 日に酒に酔って寝ているところ
を襲われ境善左衛門によって斬殺された。一揆はわずか 3 日で鎮圧されたとこれまでされ
ていたが、最近になって一揆勢は佐敷城を 15 日にわたって占拠していたという説も浮上
している。いずれにしても一揆勢は佐敷の北の八代を攻めたが失敗に終わり、加藤氏や肥
後人吉城主相良氏の軍勢によって鎮圧され、国兼は死亡した。国兼の首は名護屋城に運ば
れ、その妻も火あぶりにされたが、その際一言の泣き言も言わなかったという。この一揆
鎮圧に手間取り島津の朝鮮渡海は遅れてしまい、やがて豊臣政権の不信を招き、薩摩では
秀吉の遣わした浅野長政や細川幽斎らによる徹底した検地が行われることになる。さらに
島津歳久が一揆の黒幕とみなされ、島津義久に殺されたほか、その家臣が一揆に加わった
という理由で肥後の阿蘇惟光が処刑された。
祐益は、肥前名護屋城へ移り多忙な毎日を送った。十六万もの大群が渡海するのであるか
ら、兵站事務はものすごい量になった。船の確保、船頭の手配、水、食料の集積と積み込
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み、兵員の割り当て、次々と到着する軍勢の仮泊所の手配、記録と報告、それら全ての連
絡。これでは戦に行ったほうがよほど楽だ、冗談とも不平ともつかず言う者があった。博
多から唐津までの街道(現在の福岡市早良区から七山村を越える道、および前原を抜ける
現在の国道202号線近く)には俄か店舗が立ち並び、漁師や農民が持参したものは全て
買い上げた。岡田市兵衛も毛利の武将として名護屋に到着し、奇しくも祐益と同じ居残り
組みとして兵站事務に当たっていた。市兵衛は銀山事務の専門家であり、多岐にわたる業
務を経験しており、大工や土木技術、医術にまで驚くほど詳しい知識を持っていた。祐益
のように次々に主を変えざるを得ず、あちこちと漂流したものから見ると、ひとところで
同じ仕事に専従した市兵衛には熟練者の厚みがあった。
しかし半島全体はその賑わいとは裏腹に陰惨な雰囲気に包まれていた。それは無謀で無意
味な海外侵略に対する批判であり、無理やり徴用された民衆に対する過酷な扱いがもたら
すものであった。あまりにひどい扱いに脱走するものが後を絶たず、それに対し秀吉は厳
罰を科した。見せしめのための火あぶりで人肉が焼けるにおいが立ち込め、自暴自棄にな
った百姓が武士を相手に暴れるようなことが後を絶たなかった。武士の間でも秀吉を怨嗟
するものが後をたたず、祐益にはこの渡海作戦がどういうものかがやっとわかり始めた。
これは単に勝つ、負けるという問題ではなく、生還の見込みが立たない、いつ果てるとも
しれないばかげた遠征である。祐益にも果てしない大陸を攻め滅ぼすなど出来る相談では
ないことが分かった。祐益は会ったこともない秀吉という男のために、自分の子供二人の
命を投げ出そうとしていることに気づきうろたえた。
文禄元年(1592)3月12日、秀吉は朝鮮に十六万の軍勢を送り込んだ。秀吉の目的
は明国であったが、通過地であった李朝朝鮮から協力要請を軽くいなされ、朝鮮攻略が最
初の目標になってしまった。最初に朝鮮に上陸したのは加藤清正と競争していた小西行長
の第一軍で四月釜山に上陸し、次々に朝鮮軍を破り、翌五月には漢城(ソウル)を占領す
る。日本軍は特に最初のころありとあらゆる残虐行為を行っている。それは老若男女を問
わない無差別殺りくであり、強姦、略奪、拉致であり、朝鮮のありとあらゆる事物を破壊
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した。しかもそれを必要以上にいわば面白がってやっている。秀吉と言う下卑た精神しか
持たない成り上がり者の為政者に、歴代の武将たちがそこまで従ったことは不思議な気が
するが、要は権力に対するご機嫌取りであり、わが身の可愛さに意に染まないこともやっ
たのである。鉄砲を持たない朝鮮はいい迷惑であった。この小西行長のすばやい進撃には
理由があったとされる。それは、行長は秀吉の命にそむいて初めから和平工作を行い、結
果としてそれは不調に終わった。その独断専行を隠すために率先して奥地へ進んだという
もので、ほぼ事実とされている。しかもこの工作が不調に終わった原因が、実は清正が朝
鮮方の交渉キーパーソンである景応舜を誤って殺してしまったからとある。つまり小西行
長は掌中の珠を清正に殺されてしまったことになる。行長は清正を大局観のない忌々しい
イノシシ武者と捉えたかもしれない。行長の詰問に対し清正は一応謝ったが、そのしつこ
さに最後は腹を立てたとある。清正のファンからみると小西行長は姑息な臆病者と言うこ
とになるかもしれないが、こと朝鮮侵略に関する限り、いくら歴史的評価をしても行長の
ほうをほめるべきかもしれない。
日本軍のすばやい侵攻に朝鮮国王は今のピョンヤンまで逃げ散らかし、それを追う日本軍
はソウルに到着すると臨津江(イムジン河)をわたり、ピョンヤンまで手の届くところに
布陣した。しかし日本軍はそれ以上動かず、その間小西行長は再び明国と和平交渉を試み
た。だが返事は10日を経るも来ず、のんびりしているところを逆に朝鮮軍に襲われ退却
を余儀なくされた。言うまでもなく明国側にいまさら日本軍の要望を入れる意図は毛頭な
く、適当にあしらう一方朝鮮軍の反撃を後押ししたのである。小西行長は焦りのあまり物
が見えなくなりつつあったのであろう。
夕映えにうろこ雲が赤く染まっていた。4月17日夕方、小佐衛門と信正を含む加藤清正
の第二軍は釜山付近に上陸した。積み石と木材でできた粗末な家屋が20軒ほど集まった
寒村であった。上陸後すぐさま軍は朝鮮半島をほぼ垂直に切り割る谷に沿って北進し、殆
ど抵抗らしい抵抗を受けないまま慶尚北道の慶州城を攻撃したが、朝鮮軍司令官朴はすで
に逃げ出しており、士気を失った朝鮮軍は多数の被害を出し壊滅した。小佐衛門と信正に
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はあまりに手ごたえのない朝鮮軍は驚きであった。鉄砲に無抵抗であることは分かるにし
ても、肉弾戦となるとまるで弱く、そもそも刀の使い方や戦い方を知らない一般人である
ように感じられた。最初日本軍は積極的に敵を攻撃し殺したが、相手方に敵対心が薄いこ
とが知れてくると単に追い散らかすような攻撃をするようになった。無理やり切り結ばな
くても相手はすぐ逃げにかかり、そのコツが分かり始めたのである。
この当時、朝鮮の民衆には現代のような明確な国家意識が薄く、ともするといつも逃げて
ばかり自分たちを守ってくれない自国の王朝より、侵入してきた日本軍に親近感を示すも
のも確かにいたようである。李朝朝鮮は徹底的に民衆に人気がなかった。それは国家を治
めるという理念も技術もない王朝であったからである。日本もそういう意味では同じであ
ったかもしれないが、少なくとも天皇家は連綿と続いており、幸いなことに、他国から侵
略されにくい島国であった。
4月下旬、清正の第二軍は、朝鮮半島のほぼ中央部にある忠州で、ソウルから引き上げて
きた第一軍と合流し、その後の対策を練った。合議の結果、清正隊第二軍はそこから西へ
向かい、ソウルを下(南)から攻撃する作戦を取ったが、ここでも朝鮮軍の首脳たちはす
でに逃げてしまっており、日本軍は漢江を渡り、あっという間にソウルを無血占領する。
朝鮮軍がダラシないと言うよりも、やりたくもないケンカを一方的に仕掛けられ、戦闘意
欲も湧かないうちに攻め立てられたと言ったほうがいいであろう。だがこの頃日本は戦国
時代で、兵士はとてつもなく強く、たとえ朝鮮軍がその気になったとしても到底かなわな
かったであろう。ソウルを占領した日本軍は次にピョンヤンを目標に定め、黒田長政や宇
喜多秀家の到着を待って北進を開始した。
生暖かい5月中旬の夜であった。小佐衛門は第二軍の仲間約50名と共に臨津江(イムジ
ン川)南岸の警備についていた。日本軍の使者が川を渡り朝鮮軍に降伏勧告に向かってお
り、清正本隊は警備隊を残し一時的に後方へ下がっていた。深夜の大河イムジンはキラキ
ラと月明かりを反射し、対岸が黒くボンヤリと見えていた。日本と朝鮮では風物があまり
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変わらず、あたかも夜の白川河畔にいるかのような錯覚を起こさせた。小左衛門は仲間数
名とともに川の上流方面を警備しており、これまでの朝鮮軍の弱腰からして奇襲を受ける
とは考えにくかったが、若い兵卒らしく命令を忠実に守り、川を監視していた。だが、深
夜を過ぎた頃、はるか上流に黒ありの群れのように川を渡ってくる小船の影が見えた。小
佐衛門はすぐ仲間に注意を促し、一人が警備隊本体に向かって走り出した。警備隊はすぐ
ざわめき立ち、後方に下がっている本体に伝令を走らせる一方、全員が小佐衛門たちの待
機する上流に向かって移動を開始した。その頃には黒い影であった朝鮮軍の渡河部隊はす
でに川を渡りきっており、河岸をこちらに向かって近づいているはずであった。小左衛門
は、朝鮮上陸後初めて圧倒的に不利な戦いに臨むことになり、心を引き締めた。警備隊約
50名は木立にまぎれ低く構え朝鮮軍が現れるのを待った。少なくとも数倍の敵勢である
ことが予想され、それに対し幸い風下であったが、日本軍には20丁ほどの鉄砲しかなか
った。それにしても勇敢な相手であった。死を覚悟しているに違いない。
やがて大勢が草を踏みしだく音ともいえない音が聞こえ始めた。目を凝らすと、木立を多
くの人間がより固まって接近する黒々とした影が見え始めた。警備隊は鉄砲隊を真ん中に
置き、左右に広がる形で敵の接近を待った。敵の先頭が、小佐衛門が身を隠す木立から手
の届くほどの距離まで接近したとき、鉄砲隊がいっせいに発砲した。火花と硝煙が上がり、
相手の先頭の一角がバタバタと倒れた。同時に小左衛門たち15名がそれぞれ左右からわ
めき声を上げながら相手に切りかかった。こういう時は何も考えずにとにかく切りまくる、
大声を出す、出来るだけ奥へ進む、小左衛門は古参武士の教えどおり猛然と集団の中へ突
進した。反対からも同じく15名程度が切り込み、正面からは鉄砲を投げ捨てた20名が
切り込んだ。日本刀は切れ味が抜群であるだけでなく、鏡のように磨き上げられている。
それが月の光にキラキラと反射し、朝鮮軍の恐怖心を煽った。約4倍の朝鮮軍はたちまち
乱れたち、一部が逃げ始めた。だが殆どはとどまり、数で日本軍を圧倒する構えを取った。
乱戦になれば防御など考えても無駄である。小左衛門は正面の敵に向かっておもいきり刀
を叩きつけた。相手の兜を断ち割る手ごたえが伝わり、生暖かい血が小佐衛門の顔に降り
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かかった。小左衛門は先へ進もうとしたが相手は圧倒的な数であり、暗さの中、敵味方の
判別が難しくなってきた。
小左衛門は木立から抜け、戦いながら明るい月光に照らされた土手に出た。そこでも一人
の日本兵が4~5人の朝鮮兵を引き受け戦っていた。すでに手傷を負っているらしく、立
っているのがやっという態であった。小左衛門は「おい加勢するぞ」と大声を上げながら
集団に向かって突進した。一人の朝鮮兵が小佐衛門に向き直り構えたが、小佐衛門は相手
の態勢など無視して切りかかった。銅で作られた小左衛門の胴丸にガツンと相手の武器が
ぶつかったが小左衛門はまっすぐ相手の顔を突いて突き飛ばすと次の相手に襲い掛かっ
た。残りの朝鮮兵は小左衛門の勢いに恐れをなし、集団が戦いを繰り広げている木立のほ
うへ逃げていった。「だいじょうぶか」、小佐衛門が問いかけると、その兵士はがっくり
とひざを折り、自分のことはかまわず行ってくれと言った。その時西からも東からも清正
に率いられた味方の本体が続々と現れ、朝鮮軍を押し包むように攻撃を始めた。この戦い
で朝鮮軍は全員戦死した。その10日後、日本軍はソウルとピョンヤンの中間にあるケソ
ン(開城)に入城した。朝鮮軍はすでに逃げ去ったあとであった。
1592年5月末、清正の第二軍は本隊と安城で別れ、脊梁山脈を東へ横切り、現在の北
朝鮮の東海岸に当たる咸鏡道に攻め入り、山と谷と川だらけの土地を横切り、海岸沿いに
オランカイ(おそらく北朝鮮の根元のずっと北のほう)というところまで進出した。ここ
でも、朝鮮の王や朝廷の高官は何もかも捨てて逃げ回り、民衆は愛想に尽かされた。李朝
朝鮮の実体は明の属国であり、自国の若い女性を自ら明に差し出すなど、世界史でもまれ
に見る堕落した王朝であったが、朝鮮はそもそも文人国家であり、鉄砲を持たず、戦争な
ど苦手であった。ウサギ園にライオンを放すようなもので、まるで戦いにならない。
清正隊一万は、散発的な抵抗を制圧しながら現在の北朝鮮咸鏡南道の奥深くまで進入した。
日本軍の精強さが広まっているのか、ほとんどの村は無人であった。朝鮮の村々は、日本
の寒村よりさらにみすぼらしく、小佐衛門には土地そのものがやせているように感じられ
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た。小佐衛門にも農耕の経験があり、農村のたたずまいを見れば困難な土地であることが
わかった。永興府という場所に差し掛かると奇妙な立て札があった。いわく、自分たちは
朝鮮王子であり、国を救うために兵士を募るというもので、臨海君と順和君が立てたもの
であった。この二人は朝鮮国王の長男と六男である。二人は有名な暴れ者で、ふがいない
朝鮮軍に愛想を尽かし、自前で兵士を募るために数百名の兵をつれ咸鏡道へきていた。7
月末、加藤清正が会寧という場所に布陣すると、そこの長である鞠景仁が臨海君・順和君
を人質として降伏してきた。自分の身の安全のために王子二人を差し出すとはひどい話で
ある。清正は 1000 名の兵士を護衛につけ二人の王子を鏡城に送り、自身は豆満江を渡り、
兀良哈(女真族)を攻撃した。一ヵ月後清正は二王子を伴い鏡城を出て安辺まで戻った。
清正は2王子を含め約20名の捕虜に礼をつくしたといわれている。
吉見祐益の耳には朝鮮での日本軍の残虐行為が聞こえてきた。最初は兵士同士の戦いであ
ったものが、次第に民衆虐殺へと変化し、秀吉に送る耳や鼻を稼ぐために女子供を殺しは
じめた。略奪、強姦を得意げに語る者や、すでに降参した相手を切り刻んだ話しが伝わり、
祐益は自分の子供がそういうことに加担していないことを祈った。耳きり、鼻きりという
行為は殺した相手の数を上申するため、死体の耳や鼻を切り取る行為で、日本ではあまり
行なわれていないが、朝鮮半島、中国などでは前から行なわれていた。特に元寇の際元軍
が日本人に行った残虐行為はこの時代でも一部増幅されて伝わっていた。老いぼれた秀吉
はこれをよろこび、日本軍は次第に耳や鼻を得るために民衆を殺すようになり、ついには
生きたまま女や子供の耳を切り取るようになった。祐益が聞いた戦いの様子は、国内のそ
れとは全く違うもので、そこには武士らしい節度や自制が感じられず、いたずらに残虐無
残であった。いったい何をしに日本軍は朝鮮へ行ったのか。祐益は初めて秀吉という男に
強い怒りを感じた。あの時自分は武士の道を選んだ。あのまま帰農しておれば、子供たち
はのびのびと育ち、なみも死なずに済んだかもしれない。自分は取り返しのつかない過ち
を犯したのではないか。しかし祐益の想像は清正軍に関してはあたっていなかった。清正
の隊は住民虐殺などをしないことで知られていたそうである。清正軍に降伏勧告を行った
明の文書が残っており、それによると「汝加藤清正はその精強さは比類がないが、人民を
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虐殺するなどということがなく……厚遇するから降服せよ」などと言ったとある。その理
由は清正が熱心な日蓮宗の宗徒であったこと、それに清正自身の個性のせいであるなどが
挙げられている。もしそうだとすれば宗教も捨てたものではない。無論清正は降伏などし
ていない。
陸上では怒涛の進撃を続ける日本軍であったが、海上では李舜臣の率いる朝鮮水軍が優勢
であった。李舜臣は16世紀中ごろソウルで生まれ、その生涯を軍人として歩んでいる。
彼は日本の進行を予見し、亀甲船を開発したといわれている。李舜臣の朝鮮水軍は日本軍
に一度も負けたことが無く、この年文禄元年には、玉浦沖と泗川浦で日本軍を撃破した。
秀吉は脇坂安治らに反撃を命じたが、脇坂艦隊七十隻は閑山島で朝鮮水軍に遭遇し撃破さ
れ、救援に駆けつけた九鬼・加藤船隊までも大損害を受けた。つまり、勇んで出かけたが、
こと海戦に関する限りコテンコテンにやられてしまったわけである。この頃日本軍が用い
た安宅船(あたけぶね)と朝鮮軍が用いた亀甲船の模型を見たことがある。安宅舟は今の
我々から見ると実に珍妙な格好をしており、木造の大型船の上に檜造りの社、もしくは玄
関つき日本家屋がそのまま載ったような珍妙な外観である。それに対し朝鮮の亀甲船は木
造の船体ではあるが、船の上に金属の湯たんぽをかぶせた背の低い格好をしており、背中
にヤマアラシのように細かな棘がいっぱい出ている。これでは勝負にならないなと思わせ
る。それだけでなく、李舜臣は戦術が巧みで、事実日本軍は連戦連敗している。
脇坂安治は加藤嘉明に語った。「李舜臣の水軍には日本人がおった。ものすごく体の大き
な男で、こちらの船に飛び移り棍棒を振り回して暴れ狂った。あの男一人に全員がやられ
た船もあった。あれは日本人に間違いない。何やら日本語を叫んでおった」。
七月、陸戦に連戦連敗の李朝朝鮮に泣き付かれた明軍が突然平城の日本軍を攻撃し、戦線
はいきなり深刻化した。前線にある小西行長は圧倒的劣勢の中で明軍の攻撃をよくしのい
だ。しかし朝鮮軍と異なり、明軍は鉄砲を持っており日本軍の運命は風前のともしびとな
った。小西行長はすぐ後ろに詰めている大友義統(おおともよしむね・大友宗麟の息子)
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に援軍を求めたが、義統はどういうわけか煮え切らず、結局一兵も送らないまま全軍バラ
バラになって逃げ出してしまった。秀吉は烈火のごとく怒り、大友義統の領地(現在の大
分)をすべて没収してしまった。小西軍は結局後退を余儀なくされ、ソウルまで退却した。
背後で李舜臣により海路を断たれた日本は次第に補給困難となり、戦線は膠着状態になっ
ていった。果てしなく続くアジア大陸に攻め入り、補給も何も考えていないわけであるか
ら、いずれこうなることは明らかであった。翌文禄2年、日本と朝鮮の間に講和が成立し、
日本軍は引き上げを開始した。日本軍というのは、最初は勇ましいが段々尻つぼみになっ
て最後は負ける。朝鮮征伐もそうだが、日清、日露戦争は滑り込みセーフ、太平洋戦争で
もそうであった。スポーツでもそういう傾向がある。補給に関する考え方がだめだったと
いわれているが、その更に裏には、最初パアッとやってさっと忘れるという欠点とも美点
と言えるような精神性があるように思われる。7世紀の任那出兵の際、ニエという大和朝
廷の将軍は、新羅軍が降参の白旗を揚げると、何を考えたか自分も白旗を揚げてしまった。
白旗の意味を知らなかったらしい。これで相手は元気付き、逆にやられてしまったという
逸話がある。どことなくマヌケでいかにも日本人らしい。
日本軍は朝鮮から退却したわけではなく、殆どそのまま釜山近辺に滞陣した。その間小西
行長は北京まで行き、秀吉を形式だけでも大明国王と認める文書を発行するよう交渉した。
当然明は拒否し、代わりに妥協案として通信使を日本に派遣し、秀吉を日本国王と認める
と書いた文書を、読み上げる段階で「大明国王」と読み替えることで合意した。まるで馬
鹿げた話である。小西行長はさぞ弱り果てたことであろう。行長は勇猛な武将であったが
同時に熱心なキリスト教信者であり、一貫して両国の和解を画策した。しかしこんな子供
だましのことを小西行長にさせてしまうほど秀吉の政治が馬鹿げていたと言うことでも
ある。だが行長の苦心にもかかわらず、来日した通信使は日本国王のところを大民王とは
読まず、そのまま日本国王と読んでしまった。翌日になって通信使が持参した書簡を翻訳
させた秀吉は、劣等感の塊であるだけにカンカンに怒り、再度の征伐を命令した。慶長の
役である。
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清正が小西行長や石田光成を憎悪するきっかけはこの戦の前後に生まれている。清正のよ
うな人間から見ると、小西行長やその背後に居る石田光成のような官僚肌の人間はどうし
ても狡猾に映った。しかし光成や行長は、秀吉の内示を受け適当な段階で手打ちをするし
かないと考えていた。必ずしも彼らの独断ではないと言われている。これはむしろ自然な
ことであり、無論清正もそのくらいのことは分かっていたであろう。だが清正にとって重
要なのは秀吉の命令を忠実に守るということであり、光成、行長とはスタンスが違ってい
た。これは推測ではなく、それを裏付ける資料が残っている。清正は熊本の人間ではなく、
尾張中村の生まれで、母親は秀吉の母親のいとこか妹ではないかと言われている。武辺一
辺倒のような印象をもたれているが、領国の経営、城の設計に巧みで事実熊本城、名護屋
城、江戸城を設計している。これらはみな清正が朝鮮にいる時に学んだ技術とされ、さら
に日本に連れ帰った石工などの技術者が裏で支えた結果だといわれている。だがそういう
技術者の有用性をきちんと見抜いた清正自身にやはり他と違う素質があったのであろう。
その清正が設計した未完成の蔚山城に敵が攻め寄せてきているという報告 12 月 22 日に清
正のもとに届いた。ウルサン(蔚山)は朝鮮半島の先端に近い東側、複雑な海岸線に湾が
鋭く切り込んだ奥にある港町である。1597年冬、日本軍は清正の設計のもと、ここに
蔚山倭城を急ピッチで作り上げ、22 歳の浅野幸長がわずか3000の兵力で守っていた。
そこに明朝あわせ6万の大群が襲ってきた。朝鮮半島の気温は冬季軽くマイナス10度を
下回る。蔚山城は築城途上であり、まだ食料も水も運び込んでいなかった。対岸の西生浦
にいた加藤清正らが 100 名弱を引き連れ援軍に駆けつけ篭城するが、最初から食料が無い
だけでなく弾薬も底を尽きかけており、厳しい寒さの中倒れるものが続出し、落城は時間
の問題となった。この頃日本軍は防具も何もかも擦り切れ、まして防寒具などろくに持っ
ておらず、敵軍から奪い取ったもの、そこらで調達した間に合わせのものを身に着け、ま
るでこじきの集団のようであったらしい。極寒で食料がなければ2日と持たない。全員が
寒さと飢餓に真っ青になってガチガチと体を震わせ、戦どころの騒ぎではなかった。だが
日本軍の飢えを待つ朝鮮軍はあまり積極的な攻撃を行なわなかった。このままでは戦わず
して全滅する恐れがあった。
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12 月 28 日、敵軍から白旗を掲げた 1 騎が日本軍へ近づいてきた。驚いたことに、それは
明軍の服を着ていたが日本人であった。「おお、そなた岡本越後ではないか」、岡本越後
はつい先年まで清正の家臣であった男である。文字通り大陸へ渡りたいと清正のもとを退
身していた。まさかこのような形で母国の軍と渡り合うことになろうとは思いもしなかっ
たであろう。岡本越後は明軍から和議の軍師として派遣されていた。その伝えたところで
は、日本軍の勇猛さは評価する。降参ではなく、日本軍が自主的に退却してくれれば戦闘
を停止するというものであった。賛否両論噴出したが、このまま戦いを継続できないこと
は明らかであり、岡本越後の人柄を知っている清正は明軍の申し入れを受け入れることに
した。しかし年を越した正月2日、日本軍が退却の準備を完了したところへ、岡本越後が
夜間しのんできた。清正が引見すると、越後は思いもかけないことを言い出した。明日の
手打ち式にたくらみがあり、清正を打ちとる手はずだというのである。こうなれば全員討
ち死にするしかない。清正はすぐ友軍に使いを出したが、応援が間に合うとは思われなか
った。
翌 3 日明軍が大挙攻め寄せてきた。死を覚悟した日本軍は鉄砲を放ちながら勇敢に城を出
て突進し、深追いせずにすぐに引く戦法を用いた。わずかな日本軍のために明軍は大きな
犠牲を出し攻めあぐんだ。日本軍が弾薬を打ちつくし、あらゆる食料が底をついた二日後、
毛利、黒田等 4 部隊が駆け付け、明軍は 1 万人以上の犠牲を出して退いた。文禄・慶長の
役は1598年(慶長3年)の年末まで続く。
終
戦
文禄二年八月に豊臣秀頼が大阪城で生まれた。秀吉は秀頼ベッタリになり、戦などはそっ
ちのけになった。派遣軍はいい面の皮である。秀頼は二十二歳で大阪城に死亡するが、も
し秀吉が、とんでもない言いがかりをつけて自分の養子秀次を自刃に追い込むような真似
をしていなければ、豊臣家はもっともっと長続きしていたであろう。そのうち家康も死に、
豊臣家の将来は安泰であったかもしれない。まことに因果応報である
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日本軍が朝鮮で戦っている慶長三年(1598)八月十八日、秀吉は伏見城で生涯を終え
た。死因はガン、脳梅毒などと言われている。両方であったのかもしれない。梅毒はスペ
イン・ポルトガルによって持ち込まれ、あっという間に日本全国に広がった。スペイン・
ポルトガルというのはろくな事はやっていない。前者は南米に攻め込み、原住民族を無差
別に殺戮して金や宝石を盗むなど、歴史上最大のドロボウ国家である。後者はよせばいい
のにお節介にも日本を含むアジアまでやってきて、あと先考えずにキリスト教の布教をや
っている。このためいかに多くの悲劇が発生したか知れない。だが彼らのもっとも憎むべ
き行為は人買いであろう。一説では数10万人の日本人が彼らの手により東南アジアを始
めてした世界各地に売られている。そのうちの多くは女性及び男の子供であり、その売買
代金を狙った人さらいが国内各地で横行した。後年の唐行きさんとは異なり、あくまで一
方的に拉致された日本人である。これでキリスト教国家であるということだから、いかに
宗教がいい加減なものであるかが分かる。北朝鮮どころの騒ぎではない。最近ペルーの山
岳民族を対象に Y 染色体の検査を行ったそうである。その結果母方の遺伝子はほぼ全部が
ペルー人であったが(つまり歴代ペルーの女性が生みつないできた)、父方は90%以上
がヨーロッパ人もしくはアフリカの黒人であったそうである。これは、黒人は奴隷である
ので次第にペルー人との混血が進んだということであろうが、父方がヨーロッパ系という
意味は、スペイン人が現地の男性を殺害し女性を凌辱してきた証である。
秀吉もお里が知れるというか無様なことばかりやっている。国家の将来を見越してという
ような大義名分のかけらもなく、自分の気まぐれな欲望と劣等感だけのために自国、他国
を疲弊させた。後に明が清に滅ぼされた原因の一つは、この朝鮮出兵による明朝の経済疲
弊であったらしい。
慶長3年(1598)12月、派遣軍は朝鮮からの引き上げを開始し、小左衛門も信正も
帰ってきた。名護屋に連日入津する軍船を横目で見ながら、祐益は無宗教であったが、五
体無事で帰ってきた息子たちを見て内心手を合わせた。しかし六年の年月は二人の若者の
外観と内面をすっかり変えてしまっていた。小左衛門は極端に寡黙になり、一日中部屋に
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閉じこもることが多くなり、反対に子供そのものであった信正はどこか険しい殺気だった
雰囲気を身につけており、家に帰ってからもウロウロと近所の山を歩き回った。彼等は六
年の間野に伏し山に寝て朝鮮の荒野をさまよい、果てしない戦いを続けてきた。普通の精
神状態で居られるはずがなかった。しばらく休めば若者らしい心を取り戻すであろう、祐
益は自分自身の経験から子供たちへの対応を模索した。
名護屋からは次々に軍勢が去り、肥前松浦全体が祭りの後のような静けさを取り戻した。
大量の朝鮮人が連れてこられ、あるいは自分の意思で渡海し、肥前を中心に入植した。一
説には、この時期を前後して5万とも20万人とも言われる朝鮮人が九州地区に拉致され
た、あるいは自主的に移り住んだと言われている。李王朝のお粗末さに見切りをつけ、新
天地に賭けたものも居たらしい。伊万里、有田などの陶業の基礎は李参平など移住者によ
って作られたと言われている。そのせいか西九州には日本語ではないような地名や氏名が
多い。また西九州弁、佐賀弁はそのイントネーションが朝鮮語によく似ている。音韻その
ものも、タチツテト、カキクケコ、サシスセソが標準語より強い破裂音であり、これは福
岡出身のテレビアナウンサーも例外ではない。たとえば「ち」の音が chi ではなく、tzi
に近い音が混じり、「か」の音は ka ではなく、kha に近くなるものがいる。ただし局も本
人たちも気づいていないようである。西九州は場所によってはもともと居た日本人を上回
る数の朝鮮人が住み着いた。彼等はもともと日本にあった名前を名乗ったものがほとんど
であった。
熊
本
早恵は庭の隅でいつも来るオスのドラ猫と何か話していた。祐益には女性は二通りいるよ
うに思われた。動物とある種の話ができる女性とそうでない女性である。早苗はドラ猫に
ロク助という名前をつけていたが、ロク助は確かに早苗と何かを話しているように思われ
た。早苗もロク助にあ、そう、へえ~などまるで人間に話をするように返事していた。祐
益が近づくとロク助はコソコソと逃げ出し、早苗の後ろに回りこんだ。なぜ男が近づくと
猫は逃げるのかも不思議なことであった。早苗が「おなかすいた?」と聞くと、ロク助は
俄然わめきたてた。祐益が早苗に「猫の言うことが分かるのか」と聞くと、「分からない
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けど、おなかがすいたような顔をしている」とケロリとして答えた。どう見てもある種の
会話が成り立っており、男にはできないことのように思われた。
子供たちが帰ってきて二ヶ月ほどたった晴れた日であった。ちょっとした物音にも若者二
人は目を覚まし、特に夜間は眠れないようであったが、少しずつ日常の生活に慣れ始めて
いた。祐益が庭仕事の手を休め一服していると信正が山から戻ってきた。おう、中食は済
ませたのか、祐益が問うと信正が訳ありげに近づいてきた。彼は切り出し方を迷っている
ようであったがおずおずと話し始めた。
「父上、兄上は朝鮮で・・・・いろいろあって、私はもう少し時がたてば大丈夫ですが、
兄上は・・・・・」
驚いた祐益は二十二歳の信正の顔をじっと見た。祐益にも外を歩き回る信正より、部屋か
ら出ようとしない小佐衛門のほうが鬱屈の度合いが深いように思われたが、荒んだ戦場か
ら平和な故郷に戻り、環境順応に時間がかかっているだけだと思っていた。
「いろいろとは・・・?」
「耳切りとか人買いのことで…女子供までやったもので兄上は強く憤っておられ、皆と合
わなかったようで、時には死に急ぐようなことを・・・皆には勇敢に見えたことでしょう
が」
「うーむ、さぞいろいろあったであろうの、みなあの秀吉とかいう男のせいだ。私として
はお前たちが五体無事で帰ってきただけでもありがたいことだと思っている。ま、焦らず
に待つとしよう」
「それしかないかもしれませんが、兄上の場合は・・・・・心配です」
「そうか、とにかくもう少し様子を見よう。私には小佐衛門が正気を失っているとは思え
ない」
叔父の九右衛門には二人の変化はあまり分からないようで、兄弟二人の生還を手放しで喜
んでいた。もう戻らないものと覚悟していた若者二人が戻ってきたことは九右衛門にとっ
てよほどうれしい出来事らしく、何かにつけて良かった良かったと連発した。九右衛門の
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孫娘早恵は十五歳になっており、中身は子供ではあったが背丈も伸び、ちょっとした動作
にも女らしいやわらかさが出てきていた。早恵は相変わらず無邪気に信正にまとわりつい
たが、信正のほう屈託があり避けているようだった。祐益には、早恵が朝鮮での出来事を
信正に思い出させるのではないかと思われた。早恵は小左衛門にも遠慮が無く、心なしか
小左衛門も早恵には普通に言葉を返しているように思えた。彼等は近江言葉で話した。赤
い帯をした早恵が来るとどことはない明るさが家中に漂った。
白
川
祐益の主となった加藤清正は極めて風通しのいい歴史上の人物である。清正の人となりや
物の考え方は、彼の実績や行動から推し量るしかないが、大きく掴むとすれば、武将とし
ては質実剛健、忠誠心に厚く勇猛である。いっぽう肥後領主としては治水工事、農業政策、
熊本城築城など実務家であり領民の人気が高い。特に土木、建築に造詣が深く、自ら白河
を何度も船で上下し治水工事を行った。朝鮮から習い帰った技術であろうが、石刎(イシ
バネ)、轡塘(くつわども)などを作っている。そのせいか肥後地方はその後民間に治水
の名人が多く誕生している。
阿蘇・九州山地を水源とする川は多い。直接阿蘇から流れ出しているものもあれば、染み
出した地下水を水源とするものもある。熊本には 4 つの大河がある。菊池川、白河、緑川、
それに激流下りで知られる球磨川である。白川は非常に美しい川であるが、阿蘇を直接水
源とする暴れ川である。巨大な外輪山の中に降った雨が、多くの流れを作り白川となって
流れ出る。つまり山岳部に大量に降った雨が、肥後平野に流れてくると白川の容量を超え
てすぐ氾濫する。熊本県教育委員会報(大正5年)というのがあり、そこに白川の氾濫に
ついて次のような記述がある。
砂原地区(祐益の居住地)は灌漑はなはだしく悪く、白川下流薄場の渡しに渠を
設け、水を田畑に引いていたが、設備粗末にしてひとたび洪水となると砂原地方
三郷十五村2400町歩の水田は泥だらけになり、毎年春と秋には修復作業を余
儀なくされる有様であった。
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慶長七年(1602)六月十七日、白川は大氾濫した。2日前から降り続いた雨は前日に
なっていっそう激しさを増していた。吉見祐益の屋敷は高台にあり、さほどの影響を受け
なかったが、それでもただならぬ降雨量であった。白川はすでに清正により治水工事がな
されており、従前に比べれば氾濫は少なくなっていた。しかしそれは白川の中流であり、
隈本はそもそも洪水が起こりやすい土地柄である。祐益は大きな被害が出る予感を抱いて
いた。特に祐益の居住地から半里ほど南にある薄場は白川が大きく蛇行するすぐ下流にあ
り、容易に氾濫した。
その早朝、祐益は激しい雨音で寝不足のまま傘をさし戸外へ出た。3000坪の台地は高
台にあるにもかかわらず大きな水溜りができ、畑の土は川のような水流にえぐられ高台を
越えて流れ落ちていた。砂原を見下ろした祐益は驚愕した。村はきれいに無くなり、有明
海につながる巨大な泥の湖ができていた。白川のあった場所は確認できずただ一面の泥の
海であり、多くの被害者が出ていることは明らかであった。祐益は高台の反対側に移動し、
城の様子を確かめようとしたが、視界が悪く何も見えなかった。小左衛門、信正、九右衛
門、早恵、小者たちも起きだし、見たこともない大洪水に呆然としていた。小左衛門と信
正は身支度を整え城へと向かおうとしたが祐益は制止した。この雨脚では、白川どころか
小さな川を越えることさえ不可能であった。第一この高台の周りは全部泥の海であり、そ
こを抜けることさえおぼつかなかった。通用に使う小路も川になっており、石の踏み段も
多く流されてしまっていた。雨雲は阿蘇の方角へ流れていた。全員が叩きつけるような雨
を降らせる空を見上げた。
翌日は打って変わった快晴であった。午後にかけて水が引き、祐益たちは白川の氾濫場所
に集合した。土手は大きく崩れ、水はいまや白川ではなく、砂原を流れ下っていた。近江
出身の重鎮、井上吉弘が現場指揮に当たり、武士と農民は協力して氾濫箇所の復旧に当た
ることになった。砂原地区を中心とする白川の下流地域は惨憺たる有様で、被害を受けな
い家、田畑は一軒も無く、そこに家があったことさえ分からなくなっている箇所が方々に
あった。家畜は水死し、生き残った住民たちはその日から飢える始末であった。行方不明
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となった家族を探して、多くの住民が白川河口に集まっていた。海岸には二体、三体と無
残な死体が打ち上げられた。雨は今後も続くかもしれない、祐益は自宅の納屋や母屋の一
部などを取り片付けさせ、臨時の避難所を準備した。翌日になって近隣の村々から応援が
駆けつけ、炊き出しが行われた。夕方にかけ、空はまた黒い雲に覆われ、雨が降り始めた。
しかし全ての怒りを吐きつくした空は、それ以上の大雨を降らせることはなかった。
被害は深刻であった。砂原地区は上流の薄場に石堰を設け農業用水を取水していた。しか
し、堰どころか白川の河岸自体が全くなくなっており、いわば砂原村は「新」白河の真ん
中にあるような状態であった。田畑は広範に消失し、家も家畜も人手もなくなり、村民は
途方にくれた。祐益は水害を免れた自宅を臨時の集会所として開放し、砂原の復興計画に
自らも参加する一方、相談役と藩との連絡役を買って出た。三日後、祐益の敷地には藩の
費用で仮泊所が作られ、三千坪の台地はたちまち村人であふれた。日頃見知っているもの
の何人かが見えず、洪水の犠牲になったことが想像された。老人は呆然と座り続け、若い
母親は夜が明けるのも待ち切れず海岸へ子供を探しに行った。荷車に積んだ食糧が届くと
祐益も加わってズルズル滑る泥道に苦労しながら丘の上に運び上げた。祐益は村人のなか
から若手のものを選び、あるものには水、薪の調達を、ほかの者には道の整備を割り振っ
た。
小左衛門は薄場周辺の河岸の修復監督に当たっており、毎日早朝に家を出た。このことは
小左衛門の精神回復の大いなる助けになった。祐益は被害の実態と必要とされる食料の予
想を割り出し、藩からのお助け米を獲得した。藩は飯田覚兵衛直景など河川工事に知識の
深い専門家がおり、白川の堤防は瞬く間に復旧した。しかし復旧といっても上流と違って
下流の耕地はなかなか難しく、新たに田畑を開くことと大差なかった。祐益と村人たちは
藩の専門家にも相談し、その後半年をかけ、弁慶堰、はね堰、遊水地などを作り工夫を重
ねることになる。
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「このあたりは下ってきた白川と坪井川の水がまともに当たりますので、普通の普請では
堤防がもちませぬ。弁慶やハネ堰のことは漏れ聞いておりますが、今度の洪水を見ますと、
水かさがありすぎ、とてもそれだけでは間に合わないのではないかと思われます」
片膝をついたその男は清正の問いかけにきっぱりと答えた。この日、加藤清正は河川の視
察を行い、大きな水害が出た白川の薄場地区の堤防に来ていた。殆ど熊本を留守にしてい
る清正は自分の家臣の顔を覚えておらず、下級武士となると丸で面識がなかった。
「うむ、
そうであろうな・・・・」、清正は壊れかけた堤防から白川の川面を見渡した。今日の白
川は真っ白な河川敷の中を清冽な水流が陽光にきらめいていた。左手には有明海が、右手
には熊本城が手に届く距離に見えていた。清正は朝鮮で習得した石堰技術を用いれば、か
なりの水圧に耐える堤防ができると考えていた。しかし所詮水量と水圧の問題である。こ
こは白川が直角に曲がったすぐ下にあり、堤防技術だけでは到底防ぎきれない。「そなた
に何か考えがあるか」、清正はその家臣に尋ねた。
「私は近江より移り住んだもので、これといって名案はございませんが、村民によれば、
小さな出水は毎年あり、数年置きに田畑が流されるそうでございます。村人の中には多少
この方面に明るい者もおり、その者は雨季の前に河川敷を川浚いして深くすること、むし
ろ水を溢れさせ最小限の被害にする方法などを提言いたしております。また他のものは、
強固な石堰を作り、更に要所要所に水の勢いを止める石刎ね堰を川の中に作ることを提案
いたしております。どれがよろしいのやら私にはわかりかねます」。
そのような方式では朝鮮でも行なわれていた。清正は志願して日本に渡ってきた朝鮮人を
連れていた。実際当時の朝鮮に愛想を尽かし、日本にわたってきた職人はかなりいたとい
う。清正は朝鮮人職人の力で石堰を作り、その上で村人が言うような方法を用いればよい
結果が得られると直感していた。
「わざと溢れさすか・・・良かろう、線引きをさせるゆえ、そなたも村民をまとめてもら
いたい。そなた、名はなんという」。
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「吉見祐益でございます。これにおりますは愚息の小左衛門にございます」。祐益は猛将
といわれる清正が物静かで率直な人柄であることに感銘を受けた。
現在、白川にかかる薄場橋のすぐ横の水中に古びた石堰があり、土手の上に文字も読めな
くなった石碑が立っている。石碑には砂原の庄屋であった木村岬氏(仮名)が、明治年間
にこの堰を作ったと書いてあるらしい。木村岬氏は幼名を「吉見政吉」といい、吉見祐益
の子孫である。この堰は今ではコンクリートできちんと作られた機械式の水門が作設けら
れているが、これは明治初期、吉見政吉氏がほとんど独力で作った灌漑用ものだ。それを
感謝し地元民が木村翁の死後記念碑を建てた。120 年以上も昔のことだが、50 年祭にはた
くさんの人々が名を連ねており、いかにその地区に大きな影響を持ち、また感謝されてい
たかがわかる。誰でも世の中の役に立ちたいという気はあってもなかなかできることでは
ないし、第一何が役に立つのか今の世はよくわからない。木村岬氏は吉見祐益の子孫であ
る。吉見政吉氏は江戸末期、名前を木村岬に変えている。理由はわからない。
肥後熊本には大きな川が4つある。菊池川、白河、緑川、球磨川である。清正は慶長11
年、熊本城の完成に合わせ大規模な灌漑工事に着手した。当時の白川は現代のような堤防
はもちろんなく、現在の熊本市の中心部で熊本城内を流れ下る坪井川と合流していた。お
まけに白川はクネクネと蛇行し、大量の水が屈曲部にぶち当たるため簡単に氾濫した。清
正はこの二つの川を切り離し、白川がもともとの流れより500メートル南を流れるよう
に改修工事を行なった。轡塘(くつわども)と呼ばれる遊水地を持つデザインは、今でも
その原形を残している。また白川河口には大きな石を積み上げ石塘というものを作ってい
る。これは石を無造作に積み上げただけのもので、当然水は石と石の間を通り抜けるが、
満潮時の海水と流れ下る川の水がここでバランスを保ち、満潮のときに洪水が起こりやす
いという現象を防ぐものである。
小左衛門は河川工事や田畑の復旧に当たるうちに、精神の健康を少しずつ取り戻した。人
間というのは不思議なもので、情熱を持って具体的に何かを作り上げようとする時には相
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当の無理をしても耐えられるものである。小左衛門は武士の体面も何もなく、両刀など投
げ捨て、農民と同じ格好をしてひと夏を働き通した。土木の知識や、田畑、農耕の知識は
小左衛門が全く知らなかった世界であった。炎天下の作業は重労働であったが、朝鮮半島
にいた時に比べればむしろ心地よかった。洪水は悪いことばかりではない、上流から流れ
てくる土砂は養分に富み、豊かな土壌を作り出す。砂原は灌漑さえ行なえば非常に肥沃な
土地であった。それゆえに農民は洪水に叩かれてもここを離れずにいた。早苗が運んでき
た弁当を使い、農民と一緒に昼食を取りながら、小佐衛門は多くのことを学んだ。武士は
物を生産しない、消費するだけである。その代わり領民の財産を守るためには命を懸ける。
だがこの原則はとうの昔に忘れ去られ、戦国の世の中ではただ単に破壊するだけの存在に
成り果てていた。農民が雑草のように武士が破壊したものをまた作り上げているのである。
この時代、戦国の真っただ中である。
慶長五年(1600)九月十五日、関が原の戦いは起こった。その時清正は九州にあり、
豊臣方の小西行長が城主である宇土城や立花宗茂の柳川城などを開城せしめ、その功で家
康より肥後52万石の大名に取り立てられた。小西行長は熱心なキリシタンであり、清正
は逆に熱心な日蓮宗の信者であった。宇土城接収後、清正はキリシタンの風土を嫌い、領
土の一部を豊後の領土(鶴崎)と交換してもらっている。大阪城落城の知らせを聞いた時、
清正はどういう心境であっただろうか。大名と言いながら、九州の果てに追いやられたこ
とを、おそらく徳川の深謀と受け取っていたに違いない。
関が原の戦いは徳川と豊臣の戦いであるが、徳川方は家康を中心にまとまっているのに対
し、一方の豊臣方は誰の味方をしたのか掴みにくい。秀頼でもなく、淀君でもなく、石田
光成でもなく、もちろん秀吉でもない。逆にそれら全てでもある。真田昌幸など、単に家
康に対する嫌悪感だけで大阪方についたように見える。普通であるなら清正は大阪城方、
つまり豊臣方につくはずであるが、石田光成を嫌悪しており、徳川方についたということ
になっている。だが、清正はそういう単純な理由だけではなく、先を見越して徳川方につ
いたのではないだろうか。負ければせっかくの領地を奪われるだけでなく、自分を含め多
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くの家臣が殺される。もし淀君が伝えられる通りの女性であったなら、冷静な武将なら加
担をためらうに違いない。清正は実際に関が原には行かず、九州での反徳川勢力の掃討に
当たっている。清正は相当苦しかったはずである。慶長4年には前田利家が死去し、清正
にはもうはっきり家康の時代が来ていることが見えたのではないだろうか。ちゃんと割り
切りをしないと逆に秀頼も守れない。秀吉子飼いの武将であったの中では清正がもっとも
大きな割り切りをしたように思われる。大阪城築城のとき、福嶋正則であったかが不平を
言うと、それならさっさと国へ帰って戦支度をしたら良かろうと言ったとか。おそらく清
正は天下をとることも考えただろう、しかし自分がそのタイプでないこと、タイミングを
失したことを知っていたのではないだろうか、どこか見切ったような動きをしている。
関ヶ原の戦いは家康が勝った。その原因を小早川秀秋の裏切りなどを原因とする分析があ
るが、直接的にはそうであったにせよ、やはり淀君が最大の原因ではないだろうか。保科
正之の言葉(女を政治に参加させてはいけない)ではないが、女は先のことなど考えない。
戦略も戦術も人任せで、そのくせ口だけは出す。
たまたま関ケ原で工場監査の仕事があり、ついでに関が原を見てきた。予想したとおり、
何と言うことはない場所で、全体がわずかに傾いており、前後左右が山という感じの比較
的狭い場所であった。今は鉄道や道路が何本も走り、それらが関が原を分けてしまってい
るが、当時はせいぜい小川が数本流れ、あちこちに木立があるなだらかな丘、盆地ではな
かっただろうか。個人的感想を言えば、年代が全く違うが田原坂のほうが古戦場としては
雰囲気があるように思った。しかしここで20万人の日本人が東西に分かれ戦い、事実上
の徳川時代の幕があけた。陣跡や首塚があちこちにあり、なるほどと思わせる。関が原の
あと、慶長十六年(1611)三月、清正は渋る淀君を説き伏せ、二条城で家康と秀頼の
面会を実現させている。これは明らかに秀頼の行く末を見越して、事実上の命乞いを家康
にしたのではないだろうか。清正は懐に短刀を忍ばせていたとまでいわれる。清正の周旋
は無駄になっただけでなく、三ヵ月後、清正は肥後へ帰る船中で発病し、肥後に帰って死
去した。清正にとって、秀頼より先に死んだことはせめてもの幸運ではないだろうか。
56
新
時
代
家康は秀吉に比べると人気が無いと言われる。しかし実績を比べると秀吉など問題になら
ない。中央集権には違いないが、とにかく300年間安定した国家運営を行う基礎を築い
た。当時もし民主主義や自由経済主義を採ったとして、それで日本が良くなったかといえ
ばはなはだ疑問である。何より、秀吉が、わが世の春的個人プレーが多かったのに比べ、
家康はもう少し大きな価値基準、徳川の安定を通じ世の中を安定させるということを重視
した。その手法は信長のような閃きはなくとも、より洗練されており、武家階層や民衆に
受け入れやすいものであった。これは規模は違うが、現代の中国が13億の国民を統率す
る手法として共産主義、一党独裁を採るのと共通するものがある。徳川的な秩序は、良く
も悪くも現代の日本精神の基礎をなしていると言えるのではないだろうか。
慶長五年の関が原から慶長十六年(1611)に死亡するまでの十一年間、清正は家康の
家臣として仕え、名古屋城、江戸城の築城にも貢献した。慶長十六年六月、清正は肥後へ
向かう船中突然発病し、熊本城に到着後まもなく死亡した。五十歳であった。死因は梅毒
である、ハンセン病(癩病)である、いや痔の悪化による出血死であるといわれる。しか
しこれは少々おかしい。もし死亡するほど悪化していたのであれば、外観的にもそれらし
い症状が出ていたはずで、すぐ直前の伏見城での秀頼・家康の会見など手配できなかった
のではないだろうか。また、そういう重病人をこの時期わざわざ熊本まで旅行させるはず
がない。あるいは家康が毒殺した可能性もあるといわれる。家康は清正の個性自体は信用
していたかもしれないが、清正は家康に臣従しながら本性豊臣の人間であり、当然家臣に
もそういう心意気は伝わるであろう。徳川の世でありながら、豊臣を忘れない人間集団は、
老齢の家康には将来の不安材料と映っただろう。安全第一を考えれば取り除いておくに越
したことは無い。砒素を持って少しずつ殺す方法はよく取られているが、そういう人間を
清正の側近として送り込むのはこの時代至難の業であろう。同じ立場の浅野幸長も毒殺さ
れた可能性が高いといわれる。だが、おそらくこれもうがちすぎた作り話であろう。そん
な不確実でリスキーなまねを家康がするはずがない。続撰清正記という文書に舌が不自由
になったとあるらしく、脳卒中系の病気であったのだろう。
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吉見小左衛門は二十八歳になっていた。小左衛門は新陰流、タイ捨流をよく使い、決して
軟弱な武士ではなかった。しかし朝鮮での戦は、小左衛門が祐益を通じて知った戦とは全
く違うものであった。ある日、小左衛門は女の絶叫を聞いた。ふと目をやると離れた小屋
から血だらけになった女がヨロヨロと転びだし、同じく血だらけになった子供の肩を抱い
て森の中に入っていった。鍋島藩の兵士が数人で小屋の中で女を押さえつけ、生きたまま
耳や鼻を切り取った、その横で次は子供にも同じことをしたということであった。その時
の母親の絶望的な叫びを小左衛門は忘れることができなかった。せめて殺してからやれば
いいではないか。小左衛門は夜中にたびたび苦しんだ。小左衛門が知っている戦とは、研
鑽を積んだ武士同士が特定の目的のため力を尽くして戦うことであり、負ければ首をとら
れ、その代わり名誉が得られた。女子供に襲い掛かることは無かった。武士とはそういう
ものであると父親である祐益から聞き覚えていた。だが近江出身の小左衛門が理解できな
い言葉を話す九州の兵士は、遊び半分としか思えない残虐行為をどこでも繰り返した。小
左衛門は日本軍に背を向け、戦のタネを自ら探すようになり、敵がいれば真っ先に突入す
るようになった。すぐ逃げ散る相手にも腹を立てていた。傍目には勇猛に見えたかもしれ
ないが、その実小左衛門は自己の死を求めていた。不思議なことに、無茶をすればするほ
ど死は遠ざかった。
小左衛門は鋭い目をした、ものを言わない武士になっていった。弟の信正は次第に壊れて
いく兄を痛ましく見ていた。ある日、大声をあげながら敵の大群の中に、他の兵士を置き
去りにして一人で飛び込もうとする武士が居た。無茶なことをするとよく見ると兄であっ
た。信正はあわててあとを追い、兄を引き止めた。小左衛門は見たことのない表情をして
いた。信正は兄の激烈な反応に最初はあっけにとられ、時間がたつにつれて兄を監視する
ようになった。そうしなければ小左衛門は自殺に等しい突撃を繰り返し、明日にでも命を
落とすであろう。それ以降、信正の関心は日本軍の残虐行為よりも、小左衛門の振る舞い
になった。ついていないと何をするか分からない。小左衛門はいつも部隊の先頭を進軍し
た。敵が見えると相手の数も確かめず突進した。最初は勇敢なやつだと一目置いていた仲
間たちは、小左衛門の行動が必ずしも勇敢さからのものではないことに気づき始めた。
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肥後に帰り、城勤めに復帰しても小左衛門の傷はなかなか回復しなかった。今風に言えば
PTSD もしくはうつ状態であろうか。小左衛門は自分の精神に巣食った暗部が分かっていた。
時間がたてば薄れていくことも分かっていたし、祐益が自分を注意深く見ていることも知
っていた。自分のように精神を病むものは戦場では少なくなかった。しかしそれを表に出
すことは武士としてできなかった。日中は公務や屋敷周りの仕事でまぎれた。しかし闇の
中に朝鮮の悪夢が現れた。あの母親は今頃化け物のようになった自分の娘を抱えどうして
いるのだろうか。あの時、切り刻まれても死ぬまで日本兵をにらみつけていた朝鮮人の男
の気持ちはどうだったであろうか。小佐衛門は寝付けず、ひとり白川河畔へ向かった。
その夜、海風が強く吹き、月は早い雲に見え隠れしていた。背後の木立は風にザワザワと
騒ぎ立ち、かすかに潮騒が聞こえていた。小佐衛門は手ごろな石堤に腰かけ目を閉じた。
心を解き放ちすべての想念を放棄すると、小佐衛門を縛っていた何かがサラサラと崩れ落
ち不思議な安らぎが訪れた。小佐衛門はそのまま30分以上も瞑想を続けた。木々のざわ
めきも吹きつける風も次第に小佐衛門から遠ざかって行った。だが時々唸りを立てる風の
音に混じってウォーンという音が聞こえ始めた。音はだんだん強くなった。あれは風の音
か、男の叫び声か。小佐衛門は目を開けた。音はますます強くなり、やがて天空いっぱい
に響き渡った。小佐衛門はあたりを見回したがその音がどこから来ているかはわからなか
った。それまでで聞いたこともないウォーという男の叫び声は今では耳をつんざかんばか
りに大きくなり小佐衛門を圧倒した。男が何かを嘆き悲しんでいるようであった。これは
いったい・・・・小佐衛門はすっくと立ち上がった。音は消えた。
稲妻のふたたび三たび水の闇
采火
次の朝、小佐衛門は寝過してしまった。すでに朝は遅く、早苗が何かを話しているのが障
子越しに聞こえた。朝になるとやってきて屋敷内のこまごまとした片付けをこなす早恵の
奇跡のような明るさは小左衛門にとって救いであった。朝鮮では女はいつも慰みものか、
殺戮の対象であり、日本軍は朝鮮民族のあらゆるものを踏みにじった。小左衛門は日本軍
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を憎悪し、そのトラウマからなかなか抜け出せないでいた。早苗は母をたすけ炊事、掃除
をこなし、庭の草花の手入れを行った。小佐衛門が障子をあけると、早苗が猫と何かを話
していた。その猫は野良猫なのか飼い猫なのか、いまではいつも屋敷の中にいて 3 食をふ
るまわれていた。不思議なことにニワトリには全く関心を示さなかった。たぶん子猫のう
ちからニワトリのいる環境で育ったのであろう。穏やかな日和の中、早苗が猫と話をして
いる情景を小佐衛門は見つめた。
小左衛門は剣の修練に打ち込んだ。この時代の剣法は、江戸時代の安定期のもののような
形式に極度に縛られるものではなかったが、新陰流、タイ捨流は肥後では広く行われ、小
佐衛門は非番の日でも城へ出かけた。タイ捨流は体を右に開き、相手を袈裟懸けに切り、
終りの姿勢は反対の左開きになるもので、極めて実践的な剣法であった。それに対し隣の
薩摩の示現流はもっと極端であり、いわゆる防御というものが無い。鋭く踏み込み、大き
く振り上げた刀をまっすぐ全力で振り下ろし、相手を縦に切り裂く剣法である。空振りす
ればどうしようもない剣法であるが、相手との間合いを恐れずに縮め、一撃で倒す刀法で
ある。重い日本刀をわずかに引きながら全力で振り下ろすわけであるから、示現流で切ら
れると、頭であれば首までさけ、肩であるなら臍まで一気に切り裂かれるそうである。作
者が子供の頃、町内に軍人上がりのガマの油売りが時々来ていた。そのとき本物の日本刀
で竹を居合い斬りにする出し物をやっていたが、男竹というのは実際切ってみるとそう簡
単には切れない。それがスパスパ切れていた。大量生産された軍用の刀であったかもしれ
ないが、日本刀の切れ味はすさまじいものである。
慶長 8 年(1603)加藤清正は柳生利厳(としよし)を肥後に招き家臣とした。柳生利厳は
歴代の柳生一族の中でもっとも強かったといわれる人物である。当時の諸大名は武芸に重
きを置いており、名のある武芸者を積極的に雇った。そのすぐ隣の肥後に全国に名を知ら
れる柳生から高名な剣客が来たということで、肥後だけでなく相良藩からも熊本城での指
南、指導を求める家臣が相次ぎ、小佐衛門の順番はなかなか回ってこなかったが、立会い
を見る機会は数回訪れた。それは上級者同士の立会いであったが、小佐衛門には柳生利厳
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の動きが際立って無駄のないもの物に映った。例えば同じボクシングを練習しても、ある
ものは世界チャンピオンにまでなり、多くのものは市井の無名ボクサーで終わる。そこま
で行かないもののほうがむしろ多い。才能、適性というものは不思議なもので、できない
者にはどうしてもできない。
現在の熊本県人吉市は、もともと静岡県の出である相良氏の所領で、相良氏は12世紀、
源頼朝に静岡を追い出され、現在の人吉に移り住んだ。この時代、人吉藩相良氏は2万石
の小大名で、肥後加藤家の親藩の立場にあった。相良氏はもともと静岡の出であるため、
現在でも人吉市は鹿児島でもなく、熊本でもなく、独特の雰囲気を持っている。人吉は有
名なタイ捨流の創始者である丸目蔵人の出身地として知られている。タイ捨流は新陰流か
ら変化したといわれるが全く違うものように見える。どこが共通なのか作者には分からな
い。それに対し、示現流、タイ捨流の影響を少なからず受ける肥後の剣法は一撃必殺を目
指すものであるだけに、動きが大きく対照的であった。道場で立ち会えばとうてい敵いそ
うにないするどい動きを利厳はしたが、それは剣術であり、実際の戦場に身を置いた小佐
衛門から見れば、現実には役に立たないもののように思われた。実際の戦場では立ち会う
などということはほとんどなく、相手に隙があろうがなかろうが先手を取るのが必策であ
った。また、刀術よりも走り回る体力のほうが重要であった。だが剣術は碁や将棋、ある
いは茶道のように一つの「道」であり、武士が精神的、身体的に追求するものとしてはし
かるべきものであるように思われた。柳生利厳は 4 年間清正に仕えたといわれているが、
最後は藩内で不祥事を起こし、清正のもとを離れ諸国行脚の修行に旅立つ。清正の言うこ
とをきかない武将を諌めに行き、いきなり切り殺したというものであったらしい。
「どうであろうかの、小左衛門もいつまでも独り身というわけにもいかんじゃろう。身を
固める時じゃ。早恵はもう十八じゃ、血のつながりはないし、娶わせてはどうかと思うが」。
ある朝九右衛門がおずおずと切り出した。祐益も小左衛門と信正の身の振り方を考えてい
た。小左衛門が家を継ぎ、信正はしかるべき時期に分家させるというのがもっとも妥当で
あると考えていた。
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「ほう早恵ももうそんな齢ですか。早いものですな。私に依存はありません、本人の気持
ちを聞いてみましょう。ですが早苗はどうなのでしょうか」。
九右衛門は勢い込んで答えた。
「いや、女というものはたいしたものじゃの、早苗もシズも全く平静であったよ」。
祐益は小左衛門に言う前に信正に話をした。信正にも早恵に対する気持ちがあるであろう。
信正の表情が一瞬動いたが、日ごろから心構えをしていたのであろう、彼は祝福の言葉を
述べた。小佐衛門と早苗を呼び寄せ二人の気持ちを確かめた。
九月、小左衛門と早恵の婚儀が執り行われた。十八歳の早恵は、母親に似てほっそりと色
白で、初々しく美しい花嫁であった。村人は挙げて祝福に訪れた。祐益よりも九右衛門の
喜びは一方ではなく、日ごろになくはしゃいでいた。家系を重んずる九右衛門にとって、
血縁は無くても、自分が手塩を掛けて育てた早恵が小左衛門と連れ添うことは願ってもな
いことであっただろう。祐益にも戦国の世を生き抜いてきた九右衛門の気持ちはよく分か
った。盛装した母親のシズはどこで習ったのか、この地方の習慣をよく知っており、九衛
門とともにそつなく来訪者に応対した。祐益と信正だけがなんとなく浮き立った存在で、
二人は酒を飲みながら時を過ごした。祐益は新夫婦のために敷地の反対側に家を建ててや
った。程なく信正は城下の剣術指南所から望まれ、城勤めの便宜もあるといい、一里ほど
離れた本庄に単身居を構えた。祐益は小者の一人を信正につけ、面倒見を依頼した。
早苗は半年もしないうちにヌカ味噌くさくなり、ひとまわりも齢の離れた小左衛門に倹約
の戒めを言うようになり祐益を苦笑させた。まだ小娘のような早恵にやり込められる小左
衛門を見て少しは助けてやりたいと思ったが、シズまでもが全面的に早恵の味方に立ち、
到底かないそうもないと口をつぐんだ。信正もたまに訪れ、夕食に加わった。息子が身を
固め家督を引き継ぐと、祐益は自分の役割が終わったことを感じた。生まれた時期が少し
早かったために不幸な目にあったなみやそのほかの知人のことが思われた。早苗はその後
二男一女の母親となった。
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一方九右衛門は秋風邪を引き寝込んだ。そろそろ八十歳の声を聞く九右衛門の病状は年を
越えても改善せず、シズと早恵が甲斐甲斐しく看病したが春先になるとさらに悪化した。
九右衛門の衰え方は尋常ではなく、やがて身動きできないほど病状が進んだ。祐益は九右
衛門の病床にあった。
「これから気候もぬるみ回復へ向かうことでございましょう」。
「いや、近江へ帰ってみたかったが残念ながら叶わぬようじゃ。まさかこのような処で最
後を迎えようとは、だがおかげで他に思い残すことはない。シズと早恵をよろしく頼む」。
九右衛門はさくらが咲き始める時を待っていたように息を引き取った。シズと早恵は二日
間泣き暮らした。二人にとって九右衛門はまさに父親であった。祐益は九右衛門の頭髪を
一部切り取ると敷地の一角に墓所を作り、九右衛門を葬った。自分でなくても小左衛門か
信正が近江に行くことがあるだろう。同じ墓に返してやりたい。あの時の野辺送りと異な
り、多くのものが見送る、さくらの中の葬儀であった。
祐益はシズを娶った。家族だけの簡素な祝言を行い、シズは祐益の屋敷に移ってきた。と
いってもすでにシズは毎日のように祐益の屋敷に来て家事を行なっており、婚儀はけじめ
に過ぎなかった。しかし一人身の母親を心配する早恵は心底嬉しそうであった。祐益は九
右衛門が住んでいた家屋を改装し、砂原の村民たちが会合に使える場所を作った。元和元
年(1615)六十六歳の祐益は家督を小左衛門に譲り、母屋を明け渡すと、自分は敷地
の外れに小ぶりな家を建て、そこにシズと一緒に移り住んだ。
庭で3歳になる孫の小太郎が一人で遊んでいる。早苗は洗い場で、張り渡した竹棒に洗濯
物を干していた。小太郎は水溜りの中にある何かを一心に見つめているようで、祐益のと
ころからはしゃがみこんだ小さな体とすべすべした丸い頬が見えていた。祐益はそっと小
太郎の後ろから近づき、上から覗き込んだ。それは小さなカエルであった。腰から下を水
につけ、両手をぐっと張ってまるで小太郎とにらめっこをするように向かい合い、人間な
んかに負けないぞと言っているようであった。小太郎がしゃがんだ姿勢から右手を伸ばし
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カエルをつかもうとした。カエルはその瞬間左へピョンとはね、水しぶきが小太郎の顔に
かかった。小太郎はそれでもお構いなしに更にカエルを追った。3歳の子供がしゃがんだ
時に出すクック、クックという声とも息遣いともつかない苦しげな音が何とはなく哀れで
祐益は声をかけた。「ビキか、小太郎」。小太郎は祐益のことなど見向きもせず更にカエ
ルを追い、とうとう水溜りの中に両手をついてしまい、顔いっぱいに水しぶきを浴びてし
まった。あ~あと言いながら祐益は小太郎を抱きかかえ早苗のほうへ連れて行こうとした。
小太郎は幼児だけが持ついい匂いをさせていた。祐益はふと、自分が幼児との遊び方をま
るで知らないことに気づいた。小左衛門も信正も子供のときはこうであっただろう。それ
が全く記憶になかった。祐益は思わず立ち止まり視線を泳がせた。早苗が手ぬぐいを手に
持ち、あらあらと言いながら近づいてきた。
慶長十六年(1611)6 月 24 日、加藤清正は熊本で死亡する。清正が大阪からの帰り船の船
中に発病し、言葉もままならない状況であることはいつの間にか藩中に広まっていた。清
正は平時でも腰に非常用のコメをぶら下げていたといわれる。これは有事即応の武士の心
がけを示していたといわれるが、それよりも家康の手前いつでも役に立てるというデモン
ストレーションではなかっただろうか。清正は豪放磊落であるという外面とは別に、秀吉
の死後自分の経歴や立場から、いつも薄氷を踏むような気遣いをしていたに違いないと思
われる。これは非常にストレスの多い生活であり、今で言う血圧、コレステロール値など
を悪化させ、脳血管障害を起こしても不思議はない。河川の改修工事や海浜の埋め立て工
事で、肥後の庶民と向き合う政治を行った巨人清正の死は、肥後熊本藩に暗い影を投げか
けた。
清正には忠広という後継ぎがいたがまだ若年であり、父親の後を継ぐには力不足であった。
このような時には往々にして内紛がおこり、熊本藩も例にもれず「牛方馬方騒動」と呼ば
れるお家騒動を引き起こす。だが加藤忠広は偉大な父親のもとに生まれた普通の人間であ
り、ゼロから 50 万石の大大名にのし上がることになった清正とは所詮出発点が違う。歴
代の家臣が加藤忠広をないがしろにしたとしても、それはやむを得ないことである。悪い
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ことにたまたま徳川幕府が加藤忠広の後見人として藤堂高虎を任命していたがため、この
お家騒動は必要以上に幕府に筒抜けになった。徳川幕府にしてみれば、豊臣方最大の生き
残り大名である加藤・熊本藩に目を光らせるつもりであったのだろうが、思わぬ拾いもの
をしたことになる。
「牛方馬方騒動」の本当の原因は分かっていない。とにかく、加藤正方と加藤正次という
両家老が権力争いで対立し、こともあろうに正方派の津島何某という 3000 石の家臣は、
元和 4 年(1618)相手方の家老正次が大阪の陣の時、豊臣方の便宜を図ったと幕府に直訴
してしまった。この津島なにがしという男はもともと京都の坊主らしく、陰険、軽薄な人
柄だったのではないだろうか。そんなことをすれば、どちらが勝っても藩自体が幕府に取
りつぶしの口実を与えかねないことくらい分かっていたはずである。結果としては訴えた
正方の勝訴となるが、清正亡き後早くも熊本藩は崩壊に向かって走り出していた。
小佐衛門は苦り切っていた。無派閥の小佐衛門のような家臣にも両派から盛んに働きかけ
があり、自派に属さなければあたかも将来がないかのような露骨な物言いであった。小佐
衛門から見ればどちらの家老も藩の重職というだけでなじみのない人物であり、とっくの
昔に終わった大阪の陣をあげつらい、誰が見ても藩の危機につながりかねないことを繰り
返し言いたてる連中は、何を目的に波風を立てようとしているのか理解できなかった。小
佐衛門は、そういう血迷った連中に取り入ってまで因循姑息の出世をする必要はないと考
えていた。小佐衛門が受け持つ小普請という役職は、下級武士を救済するために設けられ
た閑職であるという。しかし熊本城におけるそれは閑職どころかきわめて多忙な役職で、
巨大な熊本城にはいくらでも補修・普請があり、小佐衛門は毎日忙殺された。このお家騒
動は結局正方派が勝訴するが、加藤家改易を目論んでいた幕府には一つの既成事実となっ
てしまった。
その 11 年後の寛永 9 年(1632)加藤家は取りつぶされるが、その理由が情けない。加藤
忠広の長男光広は、気の弱い生真面目な家臣をからかうため、偽の謀反連判状をこしらえ、
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その家臣にも加担するようそそのかした。ところがこれが冗談では終わらず、生真面目な
その家臣はふるえあがり、その連判状を持って幕府に訴え出てしまった。この信じられな
い出来事はいくつかの小説の題材になっている。徳川幕府から見れば「待ってました」と
でも言うべき不祥事である。幕府は連判状などもちろん信用していなかったであろうが、
藩政不行き届きという理由で加藤忠広を改易してしまった。こうして清正の死後たった 21
年で50万石の加藤家は消滅した。
加藤家改易の後、小倉から細川忠興・忠利父子が入封された。細川忠興は有名なガラシャ
の夫であり、そのやきもち焼きの性格は小説の絶好の材料となっているが、細川忠利は、
母親ガラシャの運命もさることながら、幼少のころは人質とされるなど数奇な人生を送っ
ており、そういう苦労のせいか細やかな心遣いをする人物であったらしい。また清正にな
い血筋とコネを中央幕府に持っていた。
元和 5 年 3 月、小左衛門が一人の武士を連れて帰ってきた。
「父上、お引き合わせしたい人物が・・・」
祐益が座敷に行くと、そこに小左衛門と同年代の武士が座っており、丁寧に頭を下げた。
「お久しぶりでございます」とその武士は挨拶した。確かにどこかで会ったような気がし
たが、祐益には思い出せなかった。
「林五平道順でござる。祐益様には鬱陵島でお目にかかりました」。
祐益は一瞬思いをめぐらした後、心底驚いた。
「おお、あの時の・・・・・・しかしまた、何故このような・・・・」。
祐益には混乱した。林道順、イム・ドンスンは処刑されたはずである。
「あるお方の口利きで命拾いをしました。今は人吉相良藩におります。ご存知のことと思
いますが、私は大阪で前田家の家臣と諍いを起こし、朝鮮へ逐電しました」。
それもこれも祐益は覚えていた。驚くべき運命である。目の前の林道順はきちんとした身
なりの日本武士であり、そういう変遷を経てきたようには全く見えなかった。小左衛門が
言った。
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「父上からそのようなものがいたことを聞きおぼえておりました。もしやとは思いました
が、このことが分かった時には道順も私も驚きました」。
二人は相良藩も交えた御前試合で、タイ捨流と新陰流の代表として戦って以来の友である
ということであった。捕えられた林道順は日本軍を苦しめた敵兵として多くの日本兵に知
られており、取り調べの中、その力を惜しむ者が相良藩にとり継いだということであった。
道順は母親と妹を呼び寄せ、人吉でつつがなく暮らしているということであった。
「そうであったか、何と言う奇遇、まことに感無量です。しかしよかった」。
道順は目で笑うと深々と頭を下げた。信正も呼び寄せささやかな酒宴となった。祐益はあ
のとき道順の命を奪わなかったこと、紙一重の運命のめぐりあわせで再会することになっ
たことをよろこんだ。
晩餐も進み、やがて9時になろうかというその夜、突然大地がグラグラと揺れだした。地
震は熊本では時々あることであったが、その日の揺れはかなり激しかった。早苗とシズが
悲鳴をあげ、台所で茶碗の割れる音が聞こえた。屋敷はギシギシと音を立て、座っていて
も手をつかなければならないほどの揺れであった。「みな外へ出ろ」、祐益が大声をあげ
ると、小佐衛門は台所へ飛んで行き、手桶の水をかまどにかけると、腰を抜かしている早
苗とシズを抱え起こし、子供たちを引き連れ屋外へ避難した。信正と道順は何を思ったか
部屋の中のものを持ち出そうとしていた。農具を入れた小屋がバキバキと倒れ、小者たち
の家から悲鳴と怒鳴り声が聞こえた。揺れは脈打つように周期をもって何回か続き収まっ
て行った。
敷地内は物置が壊れたくらいでほかに被害はないように思われた。
「ここはもうよい、ちょっと下のほうへ行って村の被害を調べてくれ。だが気をつけよ、
道が崩れているかもしれぬぞ」
祐益は小佐衛門と信正に命じた。見下ろすと一つの家から火が上がっていた。小佐衛門と
信正は丘を駆け下りていった。道順も至急国元の安全を確認する必要があり後を追った。
深夜に近づき、村全体がざわつく中、今度は突然熊本城から大音響が響き渡り、大きな火
花が上がった。火薬庫が爆発したのである。この爆発の原因は分かっていないが、地震直
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後の出来事であるから現在でいう化学反応の類であるかもしれない。祐益一同だけでなく、
村民のほとんどがあっけにとられて立ち上がる巨大な炎を眺めていた。この爆発はよほど
規模の大きなものであったらしく、近隣の武家屋敷、民家が多く破壊され、50名の犠牲
者が出たとされている。深夜であったが小佐衛門は城へ急いだ。小佐衛門は役目柄熊本城
の造作について掌を指すように知り尽くしていた。
熊本城は地震と爆発により天守閣の一部に被害が出ただけでなく、火薬庫のそばの城壁の
上にある石が外側に吹っ飛び、武家屋敷、民家あわせてかなりの被害が出ていた。だが清
正によって組まれた石垣は、地震では全く被害を受けていなかった。いっぽう以前小西行
長の居城であった麦島城(八代市)は震源地に近かったのだろうか多大の被害をこうむっ
たという噂が聞こえてきた。
離
別
地震による被害の回復が一段落したひと月後、祐益は朝から体調が悪かった。胃がムカム
カし、息苦しかった。しかし砂原の有力者が集まった席で無作法な振る舞いをするわけに
もいかず、できるだけ献杯も受けていた。だが昼を過ぎるころ腹部から胸に掛けて強い痛
みが走るようになり、これはただ事ではないと思った。痛みは段々強くなり、呼吸が苦し
くなり祐益は脂汗を流した。祐益は正座を続けることができなくなり、横に倒れた。シズ
と早苗は応対と台所仕事で忙殺されており、小左衛門は城での公務に出勤していた。周り
のものは祐益が酔いつぶれたと誤解し、あるものは冷やかし、あるものは抱き起こそうと
した。しかしこれはおかしいと気づく者が出て、宴席は次第に騒然としだした。シズと早
恵が駆けつけてきた。
祐益は意識があった。自分の最後が近づいていることを知った。「水をくれ」、祐益は必
死に覗き込むシズに言った。早恵が汲んできた水をシズが祐益に飲ませた。「寒い」、祐
益は体を起こそうとしたが全く力が入らなかった。これまで経験したことのない脱力感で
あった。祐益は痛みがなくなっていることに気づいた。眠気が襲ってきた。シズや早恵、
村民たちが段々遠くなった。自分はどこにいるのか、ここはどこなのか。祐益はウァーと
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いう叫び声の中にいた。敵が誰かは分からなかったが、周りは多くの兵士が戦っていた。
祐益も必死に刀を振るっていた。次の瞬間祐益は近江の自宅への道を歩いていた。門のと
..
ころに女がおり、明るい日差しの中何かを祐益に語りかけていた。いや、それはなみなの
か、まだ若い頃の母なのか、これまでのことは皆夢だったのか、祐益の意識は遠のいた。
小左衛門は熊本城で執務中であった。突然の知らせに取るものもとりあえず下城したが、
父祐益が突然他界するような健康状態であるとは全く考えられなかった。だが家に到着す
ると家族の沈みきった様子から事態の重大さが分かった。早苗が泣きながらすがり付いて
きた。多くの村人が取り巻く中、父は布団に寝かされ、顔には白布がかけられていた。白
布をのけると父は眠ったような安らかな顔であった。庄屋の村上何某が自分たちが傍にい
ながらと悔やみを述べた。母がなくなり、九右衛門をなくし、今度は父を失った。小左衛
門は孤児になったような心細さを感じた。信正がドタドタと走りこんできて、ああおそか
ったかと溜息を漏らすとドスンと座り込んだ。小左衛門と信正は祐益が九右衛門にしたよ
うに、父の髪を少し切り取り、九右衛門のそばに祐益を葬った。
涅槃会の水に流離の響きあり
采火
采火は、吉見祐益の子孫が用いた俳号である。
島原・天草の乱
島原の乱は寛永14年(1637)10月25日に勃発したとされている。だがその現実
的背景として、その10年も前からの宗教弾圧と農民に対する重税があった。島原藩主で
ある松倉勝家は年貢の取り立てるために極めて残虐なことをやっている。例えば普賢岳の
火口へ投げ込む、藁蓑を着させそれに火をつける、妊婦を冷水につけて殺すなど、どうす
ればこんな残虐なことを思いつくのであろうかと思えるほどである。実際にそれを行った
役人の神経も疑うが、この時代関ヶ原から37年しかたっていない。殺人や死は日常的な
ことであった。
「大矢野でござるか」小佐衛門は上役に聞き返した。
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「うむ、知っての通りあの地域は幕府の禁教にもかかわらずキリシタンの盛んなところだ。
小西殿がキリシタンであっただけになおさらだ。しかし藩としてはあまり厳しい手段をと
るわけにもいかぬ。百姓が逃散してしまえば藩の経営が成り立たぬ。かといってこのまま
では公儀に対し申し訳も立たぬ」。
「私は何をすればよろしいですか、あいにくキリシタンなるものをよく存じませぬが」
「それでよい、大矢野に増田四朗なるものがおり、多くの百姓が慕っておるらしい。そな
たはその説教を聞いて、百姓がそれほどまでに慕う理由を探ってもらいたい。そなたの長
男もそろそろ元服であろう、見聞のため連れて行ってはどうか。話しは城下の有力者から
通してある」。
関が原の戦いに敗れ、斬首されたキリシタン大名小西行長は、天正 15 年(1587)に
天草を領有するが、その前から天草には多くのキリシタン信者がいた。それは農民だけに
とどまらず、帰農した武士も多く含まれ、潜在化した。その中に益田甚兵衛という武士が
いた。甚兵衛は熱心なキリスト教信者であった。小左衛門はキリシタンではなかったが、
多くの人々をひきつけるこの新教に一応の興味を持っていた。熊本藩では対岸の島原にお
けるキリスト教信者に対する弾圧のうわさが聞こえており、徳川幕府も布教を禁止してい
た。小左衛門は出不精であったが、藩命であり、息子の小太郎を連れて天草へと出向くこ
とにした。キリスト教そのものよりも天草四郎と呼ばれる少年を見てみたかったし、息子
の小太郎にもいい経験になるであろうと考えた。宮津まで宇土経由で15里、途中で船を
雇う必要があった。
宮津を見下ろす丘までたどり着いた親子は宿で求めた弁当を使い、早めの昼食を取った。
祐益親子が日ごろ見慣れた有明海と異なり、宮津の海は真っ青に透き通っており、そのむ
こうに横たわる上天草は、小さな島に取り巻かれ立体的な美しさを見せていた。右手には
海を挟んで島原の普賢岳が手に届くかのようにくっきり見えていた。甚兵衛が指定した教
会は、丘を下ったところにあり、教わらなくてもそれと分かる特徴のある形をしていた。
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教会の前には多くの人々がたむろしており、甚兵衛が祐益と小太郎を見つけ近づいてきた。
「おお、小左衛門殿、遠路をようこそ。おいで下さることは聞いておりました」
すっかり白髪頭の甚兵衛は小左衛門の手をとるように中へと導いた。建物の中は奥に広く、
高い天井を持っていた。正面に教壇があり、長い腰掛がずらりと並んでいた。席は殆ど埋
まっていたが、甚兵衛は自分の分を加え三人分の場所を取っていた。小佐衛門は参集者を
見回した。皆肩に白い衣をかけ、クルスを手に持ち何事か祈りの言葉を唱えていた。静か
であるにもかかわらず仏教にはない熱気があった。やがて会場に静かなざわめきが起こり
少年が姿を現した。
その少年は不思議な雰囲気を持っていた。まだ前髪をたらし、背丈は五尺を少し超える程
度で、ほっそりした体に白いというよりも薄紅色に上気した顔、ふっくらとした頬や顎の
線、小さな頭、深く後退した眼窩から、小左衛門はこれは日本人ではないとも思い、女で
はないかとも思った。少年は膝まで届く上着を着け、教壇に書物を置くと厳かに十字を切
り、まっすぐに会場を見渡すと呼吸を計るように静かな声で話し始めた。まだ少し甲高い
成分の混じった声であったが、紛れもなく少年男子の声であった。最初小左衛門は芸を仕
込まれた子供かと思って聞いていたが、少年の話し方には年齢を超越した落ち着きと響き
があり、自分の言葉と思想で話をしていることが分かった。少年はおよそ一時間を掛け、
造物主と人間のかかわりからイエス・キリストへの傾信へいたるまでの話をした。小左衛
門には、それは一種の完結した信仰論理あるいは情念で、多くの人間が入信するのも無理
はないと思われた。特にこの少年が布教をすれば効果は絶大であろうと思われた。
「耶蘇天誅記」という幕府側の記録に、天草四郎は「綾羅錦繍(りょうらきんしゅう=華
やかな衣装)の衣装をまとい、頭にはガラスの飾りをつけた身長 150 センチ程度の子供、
民衆が天草四郎の前にひれ伏し、その言葉を有りがたがって聞いていた」とある。年齢は
15歳~18歳と諸説あるが、四郎の首が長崎で獄門に掛けられたとき、母親が、9歳の
時から5~6年学問をしたと証言したことから推察すると、島原・原城でなくなった時お
そらく15~16歳程度ではなかっただろうか。15歳は、一概に子供とは言えない年齢
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である。一説には父親は小西行長の祐筆(書類つくり担当役人)で、他にキリシタンであ
るもと小西家臣5~6名が天草四郎を教導したとあり、その名前も判明している。英才教
育を受け、祭り上げられた教祖といえば身も蓋もないが、一を聞いて十を知る少年、異常
な才能を発揮する子供というのはいるものである。記録では、支那人から手品の手ほどき
も受けたとあり、手の中から鳥が飛び立つ、海の上を歩くなど、民を驚かし洗脳する技に
関しては現代のタレントと同じような力を発揮したのではないだろうか。手の中から鳩が
飛びび立てば、当時の農民が腰を抜かすほど驚いたとしても不思議はない。しかし一種の
傀儡であったにしても、37000人の人間を統率し、原城の攻防を戦い抜いたことは驚
くべきことである。
窓から差し込む淡い午後の光の中で、四郎の説法は続き、農民の中には十字を切り、低く
祈りを唱えるものがあった。説教が終わると何人かの聴衆が四郎の前に進み出て洗礼を受
けた。その中には浪人も商人も混じっていた。洗礼は本来プロの神父でなければやる資格
がない。西欧では守られている規則である。しかし肥前・肥後では5~6人いたポルトガ
ルの宣教師は全部追放され、本来は資格のない、日本人信者のうち認められたものが行な
っていた。小左衛門は小太郎を見た。小太郎はかなり心を奪われている様子であった。小
左衛門親子は、甚兵衛が用意した宿に宿泊し、翌日大矢野を見物した。地域全体にねっと
りした静けさがあり、家々の戸口に十字架が掲げられていた。
大矢野島は熊本県宇土半島と天草の間にある小さな島で、現在では天草パールラインが島
を貫いている。大矢野島には「天草四郎メモリアルホール」というものがあり、そこでは
天草四郎に関する 3D の映画まで上映している。その映画では農民一揆の背景、原城での
戦いの様子が悲劇として描かれ、最後のアナウンスとして、籠城した 37,000 の殉教者は
郷土の誇りであると結ばれている。このようなメモリアルホールでは、こう謳いあげるの
はやむを得ないかもしれないが、ほかの見方もある。
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まず多くの信者がいったん棄教した戻りキリシタンであったと言われている点である。さ
らに、この一揆が民衆解放の正義の一揆であったと美化するには少し無理があり、その過
程で同胞たる民衆に対する殺戮、強姦、拉致などが発生しており、キリスト教に改宗しな
ければ皆殺しにすると脅され、村ごと熊本に脱走したなどの例がかなりある。さらに寺を
破壊し僧侶を殺すなどの事件が多発しており、天草四郎を表に立てて民衆を洗脳、扇動し
た武士の一団がいることも、見方によっては全体の胡散臭さを感じさせないでもない。さ
らに、原城に立てこもり、全員討ち死にしたように言われているが、実際には農民のかな
りのものが強いられたキリスト教徒であったと言われており、多くの脱走が発生している。
ただしこれは島原・天草の乱の本質とはいえず、どの一揆にもあったことであろう。いず
れにしても、神の名のもとに四民平等を唱えれば、封建幕府から弾圧を受けることは避け
られない。それから半年後の10月25日、島原において暴動が発生し、申し合わせたよ
うにその二日後には天草に飛び火した。
寛永14年(1637)初冬のある夜、天草郡代・石原太郎左衛門は農民に取り囲まれて
いた。日ごろから見知っているものばかりであったが、今日は皆が思いつめた顔で殺気立
っていた。海を隔てた対岸の島原では農民一揆が勃発し、林兵佐衛門という代官が農民に
虐殺されただけでなく、松倉重治の居城島原城さえも一揆勢に取り囲まれ、城兵は篭城し
て凌いでいる有様であった。松倉重治は少々頭のおかしな人物で、フィリピン攻略を本気
で計画しただけでなく、大規模な島原城建設計画の資金を農民から絞り取ろうとし、年貢
を納めきれない百姓には残虐な刑罰を課した。一揆は海を越え天草にもたった二日で広が
り、大量の浪人と百姓は結束し武装していた。
石原太郎左衛門は、キリシタン弾圧の風が吹きまくるこの地方で、比較的農民の恨みを買
っていない物分りのいい代官であった。しかしこういう事態になると、百姓にとっては敵
であるに違いなく、対応を誤れば郡役所の全員が虐殺される恐れがあった。
「お前たちの言い分は分かる。しかしお前たちも知っての通り、わしは無宗教だ。今キリ
シタンとして一揆に加担しろと言われても立場というものがある。考える時間がほしい、
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今日のところはこのまま引き取ってもらいたい。こうなれば藩がどうのこうのは言わぬ。
あす話そうではないか」
農民たちは郡役所の武士たちに危害を加えることなく引き上げたが、石原太郎左衛門は、
武士としても代官としてももはや何の力も残っていないことに気づいた。その夜、太郎左
衛門は全ての職員に退去を命じ、自身一人が残った。
島原・天草の乱は寛永十四年(1637)十月末、島原で起こり、それが対岸の天草にた
った 2 日で伝播し、最後は、一揆民は幕府軍に追い立てられ、海を渡った島原の原城に立
てこもる。その数 37,000 と言われ、その約半分が女子供を含む非戦闘員で、結果として
一人の内通者を除き全員が戦死したと言われている。関ヶ原の戦い、大坂の陣が終わって
いくらもたっていないころである。その発端はキリシタン農民2名(角内と三吉というも
のらしい)が逮捕、処刑されたことであるとされているが、たまたま当時飢饉が発生して
おり、そういう中重い税金や残虐な処罰に農民の我慢が限界に来ていた。キリシタン一揆
とされているが、実際には、普通の農民一揆とキリシタン一揆の中間といったほうが正確
で、松倉重治による極端な徴税と宗教弾圧に、キリシタンの扇動により農民が立ち上がっ
た、あるいは巻き込まれたというべきである。この一揆には、百姓だけでなく士農工商の
全ての身分のものが参加しており、多くの旧武士を含んでいるという意味では一揆軍は普
通の軍隊と大差なかった。
宗教弾圧は無論あってはならないことであるが、因をたどればポルトガル人の宣教師たち
の罪でもある。将軍家光から見れば、なにやらよく分からぬ西の果てで、将軍よりも上の
存在があると考える集団が増えれば、やがて幕府の屋台骨を揺るがしかねないと考えるの
は当然である。あの信長でさえ一向一揆にはあれほど手古摺ったではないか。大分の大友
宗麟など、このために国を滅ぼしたといっても過言でないくらいである。ポルトガルの宣
教師たちにはそういう配慮がなく、自分たちの情念だけで、あるいは国家的野心を背中に
隠し、無垢の民に洗脳教育を行った。キリスト教は本来戦闘的な理屈っぽい宗教であり、
とうぜん舌戦には長けている。それに対し仏教は沈黙の宗教である。信長の前で、キリス
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ト教の宣教師と議論させられた日本の僧侶が、宣教師たちに太刀打ちできなかったとして
も当然である。
宗教というのは何とも摩訶不思議なものである。実際の歴史では宗教が人類に救いを与え
た例はほとんどない。逆に多くの場合民族間に壁を作り、虐殺、戦争の原因になっている。
宗教は、あくまで個人がそれを信じることにより一種の心の平安を得るものといえるだろ
う。にもかかわらずそれは例外なく他人を巻き込み、組織化し自己増殖をしようとする。
そのためには他人を説き伏せ、あるいは洗脳し、金銭を集め、集団化し、ときには殺傷す
る。真の宗教は何かと問われれば作者にはこたえられないが、少なくとも昨今の新興宗教
は押しつけがましく、図々しく、何やら全部インチキくさい。オーム真理教を見ればそれ
は明らかである。それは宗教などというものではなく、知性の劣る人間を集め、洗脳、拘
束し破壊工作をやらせるただのテロ団体である。なぜこのようなおかしな宗教がはびこる
のであろうか。知性と理性が欠落するところに宗教は入り込むという言葉がある。作者に
は、古来の宗教も貧困と圧制というファクターを加えればその通りであると思える。
唐津・寺沢堅高(天草は寺沢家の飛び地)の弾圧はますます激しくなり、もともと小西行
長の旧家臣が多く住む天草は、海を隔てた島原の一揆に呼応するように増田(天草)四郎
時貞を担いで立ち上がった。いったん立ち上がると多くの武士を含む一揆勢の勢いは激し
く、たちまち本渡城を落とし富岡城に迫った。富岡城は下天草の真北に、イボのようにへ
ばりついた半島にある。富岡城では、一揆勢の力を甘く見た城代(飛び地であるので、実
際には領主と同じ)まで殺され、落城寸前となった。幕府は細川藩をはじめとする援軍を
送る決定を行った。その中には元服した小太郎も混じっていた。あの少年を殺すのか、小
左衛門は半年前に見た少年が、多くの信者に担がれ、天草一揆の中心人物となったことを
意外に思わなかった。
だが、細川軍15,000が大矢野島から家を焼きながら先へ進んでも人影は全く見えず、
軍はほとんど戦闘を行うことなく富岡城へたどり着いた。富岡城を取り巻いた一揆勢は、
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幕府の援軍派遣のうわさが伝わると城をあきらめ、富岡の港から島原へと逃れていた。大
矢野島、上下天草の住民はあるいは殺され、あるいは脱出し、殆ど無人の島になってしま
った。逆に、対岸の島原・原城には一揆勢が続々と集結した。あるものは信仰のため、あ
るものは恐怖と絶望のため、あるいはそれら群衆を扇動した者たちである。島原・天草の
乱がどういう経緯を辿ったかはすでに広く紹介されており、ここでは省略するが、とにか
く37000人に上る人民を抹殺してしまうという結果になり、その無残な様子はいろい
ろな資料に紹介されている。島原・天草の乱は農民を抑圧したのか、あるいは宗教を弾圧
したのか、5 万人近くが命を落としたにもかかわらず、農民もキリスト教も何事もなかっ
たかのようにその後続いている。島原・天草の乱から現代に至るまで、天草に住んでいる
人の多くは、幕府の呼びかけにより後から入植した人々である。戦後、唐津小笠原藩は減
俸され、それを苦にしたのか寺沢堅高は自殺している。その後小笠原藩は取りつぶされて
いる。また住民に対し残虐行為を繰り返した松倉重治は、切腹さえ許されず打ち首になっ
ている。
島原の乱を境として吉見小左衛門、あるいはその子供小太郎の代に吉見家は帰農している
ようである。はっきりした記録はなく、帰農した理由もわからないが、あるいは戦続きの
人生や無残な殺戮の明けくれに嫌気がさしたのかもしれない。吉見信正もおそらく分家し、
別の吉見家を立てたと思われるが、その記録もない。とにかく庄屋としての吉見家はその
後代々続き、江戸末期もしくは明治初期に吉見政吉という人物が家名を木村(仮名)に変
えている。
西南戦争の激戦地として知られる田原坂に戦没者の慰霊碑が立っている。吉見という名前
がいくつあるか数えてみた。幕軍に2名、薩軍に2名であった。この人たちは元をたどれ
ば同じ一族で、長い時間がたって、敵味方に分かれ戦うはめになった人たちかもしれない。
あるいは、薩摩に昔からある吉見の人々であったかもしれない。明治になって、家名を木
村と変更した子孫の吉見敬右衛門政吉は、極貧の中、白川薄場の河川工事を独力で行い、
地元の名士となっている。その長男敬太郎は、満洲へ渡り新聞社を設立するなど活躍して
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いる。長女として熊本に生まれたタキは、25歳のころ単身筑豊に行き、そこで島根出身
の人物と結婚している。女の子が一人、男の子が二人生まれ、長男は昭和13年中国山東
省で戦死している。くどいようだが、木村は仮名である。
終り
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