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OUMC No. 9(2007.6)

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OUMC No. 9(2007.6)
大阪大学山岳会 会報
ハb。
'
2007年 6月
2-1
発 行 大 阪大学 山岳 会
〒565-0871吹 田市 山田丘
大阪大学大学 院工学研 究科
地球総合工学専攻 大野研究室 内
TEL06-6879-7635
FAX06-6879-7637
部 間協力とOBの支援 を
た。その後、低落傾向が続 いており
﹃
1人部員﹄も今が初めてではな い。
同︶立大に限らず、伝統校の多くは
︵
同︶現状では
部員数がひどケタだ。 ︵
海外遠征は不可能 に近 い。そこで、
参加した のが日本山岳会 で組織する
学生登山隊だ。小山さんは昨秋、そ
のメンバトとしてネパール ・ヒマラ
6887眉︶ へ、本格
ヤの未踏峰 ︵
的な高所登山 の経験がな い他大学 の
5人と登頂した。日本山岳会は、大
学 の部員が海外 の登山を経験 できな
いことを懸念し、数年 に 一度、大学
同︶部存
をまたいだ隊を結成する。︵
新
続 の危機にた つ中、小山さんは ﹃︵
年度は︶ 1年生 の雪山 への抵抗をよ
り少なくした い﹄と話し、孤軍奮闘
で 念場に臨む﹂とある。
正
東京 の多くの大学山岳部 の部員数
はひとけたである。日大 の6∼7人
一橋は
は多 いほう で、東大は4人、
一昨年に聞 いた話では、2人 いる部
員がともに留学生だと いう。
こうした状況 のなか、日本山岳会
学生部は昨年、 マナスル北西に位置
大島 輝夫
現役山岳部 の活路
大学山岳部員 の減少がとどまると
ころを知 らな い。阪大山岳部も 4月
はた った 1人 のスタート であ った。
若者 の山岳 部離 れは時代 の流 れ で、
あ る程度止むを得ず、東京 の大学は
日本山岳会学生部 に活動 の場を求 め
て いる。関西 でも今年は4大学が西
チ ベ ツト に合 同登山隊を送 るなど、
大学問 の協力を模索する動き が出 て
き た。 こう した
な か で阪大 山岳
部 を存 続 させ、
山岳 会 の歴史 と
伝 統 を伝 え て い
くために我 々はどうす べきかをみん
なで考えた い。
毎日新聞は、今年 2月 の毎土曜日、
﹁
変容する登山界﹂と題して数回の記
0日 の記事 は
事 を 連 載 した 。 2月 1
﹁
部員 1人で奮闘﹂ の表題 で立教大を
一
取り上げた。
﹁
現在 の部員は、 3年生 の小山さ
中略︶ 0
やかさん1人だけだ¨ ︵
7年ご
0
ろま で0
2ヽ3人 の部員数を保 ってい
す るパ ンバリ ・ヒ マー ルに5大学 6
名 から成 る登山隊を派遣し て初登頂
を成功させた。こ の隊 には中央大学
OBl名 のほかは、 いず れも現役 の
専修 2名 、立教、千葉各 1名、関西
からも関学 1名 が参加した。同学生
部は毎年、皇居外苑 マラソン大会も
5大学
開催 し ており、昨年 H月 には 1
。
2
8名 が参加 したそうだ 走行距離は
0キ 、
0女子 1
で
団
個人戦が男子 5
ロ
ロ
1キ
。
体戦 は 5キ
ロ×4名 で行 わ れ て いる
女子個人 の優勝は前述 の立教 の小山
さんであ った。
ま た、少 し前 の話 になるが、日本
山岳会科学委員会 が2000年ま で
H年 にわた ってアラスカ ・マッキ ン
6194眉︶ の冬季 における
リー ︵
風速 、気温、気 圧など の定点観測を
続けた際い毎年 6月ご ろ、デナリ ・
パス上部 5、 715眉地点 に設置し
た観測機器 の取り替え や観測 データ
の回収を学生部、青年部 の人らが担
当 し、登頂も し ている。 こ の定点観
測はそ の後 、 アラスカ大学 に移管 さ
れたが、日本山岳会 のヒ マラヤ遠征
隊員養成、高所順化 に貢献 した意義
は大き い。
私はかねがね、部員が減少すれば、
各大学が協力 し て行動す べき であ る
と主張してきた。
そ の先例 が、昭和 4年 、当時い大
阪大医学部 の前身︶ の学
阪医科大 ︵
部 の協力 のき っかけとな ることを期
待した い。
各大学 の部員が減 るなか、同志社
7名と健闘し ているが、これ
は部員 1
は山岳部 の性格を変えたこと による
した、と の内容など によるも のであ
ろゝ
つ。
の応援を得 て成功 させ、息を吹き返
2名 の部員 で存続 さえ危 ぶま れた部
が、新人 の増え た夏合宿を OB8名
と の手紙を私 に寄 せ ている。事実上
山岳部
尾崎進氏は、松尾敬志君 の ﹁
中興 の記﹂ など の記事 に感激 した、
に加え て他大学と協力 しながら新し
い道を探 って いく以外 に活路は残さ
れていな いと思う。
︵
評議員、1952年理学部卒︶
策をも っと考え る べきだ ろう。 これ
年、OBの協力なし に合宿運営 が で
きな い状態 が続 いており 、大学院 に
進む若 いOBを含 めた組織的な支援
優れた指導者が現役を指導 して いる
よう に思われる。阪大山岳部 でも近
いが、これが今後 の関西各大学山岳
成果だそう であ る。OB の平林克敏
氏 ︵
日本山岳会登山隊 の エベレスト
時代が変わ ったとは いえ、山岳部
の活動が活発な各大学は、それぞれ
上高地 の ﹁
山研﹂ へも
夏の自馬集会
登頂者、前 日本山岳会副会長︶によ
ると、新入部員募集 の際、山 スキー、
人工登攀、 ワンダー フオーゲ ルも対
象 にしたと ころ、たちまち入部者が
増えたそう で、人 工登攀を目的 に入
った部員 の中 にも 3、 4年経 つうち
に ﹁
山 に行きた い﹂と言 い出す者も
テル対缶館﹂ ︵
丸山庄司館主︶で開か
5人が参加した。
れヽ同伴家族を含む1
初日は夕食 のあと、例によ つて別
棟の ﹁
与兵衛倶楽部﹂ へ移動。丸山
館主が同倶楽部 で保存している日本
の登山記録などを囲んで夜遅くまで
歓談が続 いた。
2日目は、朝 の
2006年度 の夏 の自馬集会 は8
ホ
月6
2日から長野県白馬村八方 の ﹁
若者 が情熱を燃 やす目標が少なくな
った﹂と の声も聞くが、会社を定年
う ち で集会 はひと
まず解散 。日本山
出 てきたと いう。
﹁
ヒ マラヤの高峰も登り尽くされ、
私は、関西 の大学山岳部 OBに会
退職後ヽ東 チベ ット地方 の踏査 に力
を注ぎ、2003年 に日本山岳会 の
生 であ った水野祥太郎先生が京大 の
高橋健治氏と協力して組織した関西
学生山岳連盟 で、戦前から各大学が
協力して海外遠征をしていた。連盟
報告 7号/1936には、5月 の北
、
同志社、関学、東京歯科医専︶
千島 ︵
2
京大 OB、
︲月 の済州島 ・漢峯山 ︵
、7月の小長
浪高、関大、京都薬専︶
白山 ︵
同志社、浪高︶ の報告が掲載
されている。各大学が単独では難し
い遠征を協力して実施していたわけ
である。
水野先生は戦後も学連に愛着を持
つて られ、私も戦後 の復活に努力
お
し、ガリ版刷り の ﹁
時報﹂を発行し
たりした。ところが、学連はその後、
各大学 の部員数減少 の中で自然消滅
してしま った。
う 機会 があ るごと に、学連 の復活 、
それが難しければ 日本山岳会関西支
が 分 か つた た め
で、夜 はい西川元
を務 め て いること
大卒業生 が管 理人
て上 高 地 に 入 っ
た。山研行き は阪
劉
開
餓
料
F
赫
き
知
剛
讚研︶へ
向かう6人
岳会 の上高地山岳
通称 ・山
研究所 ︵
秩 父官記念山岳賞を受賞 した 一橋 0
Bの中村保氏 によれば、東チ ベ ット
ヒ マラヤ ヘ﹂を進呈した関学 OBの
て いくうえ で、 いまひと つ欠 かせな
いのはO の支援 であ 。
B
る
阪大山岳会 の記念誌 ﹁
後立山から
も含 め、まだ まだ魅力 のあ る山 々、
初登頂 の目標は残 っている。
部員 の少な い山岳部が活動を続け
には6000メ級 の未踏峰が約 30
0はあ ると のこと であ る。ネ パー ル
部 に学生部を つくることをお願 いし
てきた。日本山岳会学生部 にも、東
京だけ でなく、全国 の大学を対象 に
す ることを要望 し てきた。そんなな
か、最近、関西支部 に学生部を つく
る動きがあ ると の話を聞 いたが、ま
こと に喜ばし いこと であ る。また今
年 は、西 チ ベ ット に同志社 、関学 、
0名とOB
甲南、近畿各大学 の現役 1
2名から成 る登山隊を送 ると のこと
であ る。残念ながら阪大 の名前 はな
夫会員が同伴 した大阪山 の会 の大西
保氏 ︵
関大 OB、日本山岳会関西支
部西 チベ ット学術登山隊長︶を交え
て懇談した。
3日目は、対岳館 に残 った メンバ
2人 の現 役 部 員 日 ん で
O U M C新 年 会
で っ 。
あ
た
会長以外
出席者は次 のみなさん。 ︵
役部員が2人しか いな いこと にから
んで、﹁
2人を切ると、体育会加盟 の
大野会長は、あ いさ つの中 で、現
ーが参加 して恒例 の懇親ゴ ルフ大会
が安曇野市 の穂高 カ ントリークラブ
は卒業年次順︶
大野義照 ▽大島輝夫 ▽田島汎 ▽川
クラブとし て認められなくなる。ま
た、日本山岳会関西支部から学生部
本会の2007年新年会は2月1
日夕、大阪市北区の阪大中之島セン
旧歯学部跡︶で開かれ、現役
ター ︵
8人が出席した。
部員2人を含む1
島勇 ▽山本光 二▽三枝礼子 ▽木村裕
一▽坪井和子 ▽兼清喜雄 ▽野田憲 一
設立 に ついて協力 要請 が来 て いる﹂
と話し、現役側からは合宿 に ついて
簡単な報告があ った。
会長以外
出席者は次 のみなさん。 ︵
は卒業年次順︶
大野義照 ▽田島汎 ▽堺谷弘 ▽山本
光 二▽三枝礼子 ▽木村裕 一▽杢中勝
▽関本靖裕 ▽辻川員 ▽岡田博司 ▽石
澤命久 ▽五百蔵弘典 ▽木原秀幸 ▽高
田邦雄 ▽山田靖則 ▽大宅幸夫 ▽網野
現役︶
善久、三十尾誠 ︵
り鼈
支
部だよ
釉一
塁泉
大野会長も特別参加
にぎやなに新年会
OUMC東京支部 の2007年新
ワイガヤガヤの会となりました。
大野会長以外 の参加者は次 のみな
卒業年次順︶
さん。 ︵
年はも っと山に行くぞ!﹂
そして、天7
と の決意表明があり、例年通リ ワイ
趣味⋮⋮と幅広 い話題が満載 で、若
輩者 にはと ても興味深 い内容 でした。
、
年会 は2月 3
2日夕 東京都千代田区
のト ヨタ九段ビ ルで開催され、大阪
から特別参加 した大野義照会長はじ
4人が参加 した。
め会員 1
恒例 の近況報告 では、仕事 や山 の
話はもち ろん、最近 の出版物 や家族、
東京支部新年 会
大島輝夫 ▽宮本貞雄 ▽樋 下重彦 ▽
野田憲 一郎 ▽山本信樹 ▽兼清喜雄 ▽
前澤祐 一▽米澤成 二▽横尾秀次郎 ▽
原治左衛 門 ▽出雲路敬孝 ▽田中喜樹
▽光永正樹
◇
なお、東京支部 の2006年 の山
行は次 の通りでした。
二浦半島縦断偵察 ・佐島︱
3/4 一
8キ
︱前澤、横尾、出雲路、糸
六浦 1
ロ︲
取りまとめ ・横尾︶
井 ︵
二浦半島縦断 ・六浦︱秋谷
4/8 一
5ロ
同︶
=同 ︵
3キ
5/4 日光白根山 ・丸沼︱ 日光湯
元=野田、田井、前澤、横尾、出雲
同 上削澤︶
路、石原 ︵
︲ 6 二ツ峠山︱霜山︱天丼山=
1/ 2 一
野田、米澤、前澤、横尾、出雲路、
同 ・出雲路︶
石原 ︵
文責 ・光永︶
︵
日光 白根 山・ 頂上直下 で
郎 ▽前澤祐 一▽高 田邦雄 ▽山田靖則
上高地 のみ︶
▽西川元夫、木原秀幸 ︵
OUMC新 年会
のが必要で、今回は中華遡渓協会 の荘
再停先生 の手を煩わせた。霧台から5
00眉谷底 の下大武 へ下り、﹁
拉瀑湾
山一
と で泊ま った。この山荘は板状 の
粘板岩を積 み重ねた壁 で造られ て い
て、独特 の雰囲気がある。
驀 灘驀器 藩灘灘 器業 濃灘灘灘 器器藩灘器 恭灘 濃驀
灘 器 驀器驀 器器辮器纂器器 灘辮器器灘灘 灘驀纂纂
モルモン教 の村と いヽ
つことで、断崖に
立 つ教会から大音響 の説教が流れ、あ
も道理。両側から塀 のような尾根が迫
0研 の滝
り、閉ざ された門 の隙間 に2
が落ち ていると いった感じだっ﹁え!
目的 の コ曾堕拉次ヽ
墜 出合に着 いたが、
驚愕した。近づくまで見えなか ったの
て稲妻形に裂けたと いう感じで、その
向こうに滝がかか っている。ここは右
岸を巻き、懸垂 で谷 に戻る。その後、
初 の大滝 0
4屑だ︱ 近づく に つれて
滝 の一
型白に奇怪な形 の岩が両岸から出
ている。薄 い尾根を流れがぶ った切 っ
右岸 の300房壁から派生する尾
根に沿 って小滝が続 いたが、そのヽ
つち
側壁が200∼300眉立 っている
も のの圧迫感はなくい楽し い遡渓2時
間ほどで良 い泊地があ った。
︻
2日目︼
。分 で大変な所 に
こ の日は出発後 3
出た。 300屑 の壁 に当 た って谷は
0メ の斜瀑が落ち て いる場所が
に約 1
通過できな い。ボルトを埋めたりして
尾根に上がり、懸垂2回でS字状 の上
の河原に下り、泊となる。
︻
3日目︼
ートがな いのだ︱ 全員が谷 に入る
のに3時間近くかか った。そこからは
どうするの?﹂と見ると、左岸 の壁上
部にロープが垂れている。そこしかル
谷が開け、日の高さに滝が見えた。最
突破 に 3時 間 かか つたZ型 の ゴル ジ ュ
大きな崩壊地を過ぎ、淵を泳 いだりし
た →﹂の淵で1人がカメラをなくした︶
あと、谷はS字状 に曲がり、大きな釜
まずは離寮北渓 の広 い河原を徒渉
を繰り返しながら進む。3時間ほどで
ちこちに五亡星が輝 いていた。魯凱 の
人々は南方 系の浅黒 い顔立ちで、瞳が
ば っちりと大き い。体躯はずんぐりし
ていて、中国系 の人とは違うい親しみ
やすさがある。
1日目︼
︻
出発 した翌日は大晦 日だ ったが、
台湾メンバー ︵
台湾は九州よりも小さ い島な のに、
ヽ
つち女性2人︶を加え
3000屑級山岳 の続く脊梁山脈が た総勢8人が彰化山景救助隊 の江さん
の車に乗り込み、三地門と いうところ
東海岸から急激 に立ち上が っている。
そのため、谷は深く切れ込み、急崚な から山岳地帯に入 った。
れていて、魯凱 ︵
ルカイ︶族 の文化と
暮らしが保護されている。この地域に
入るには山地経営管制区入山証と いう
二地潤 で入山許可証を見せ、霧台
側壁を形づく つている。今回、私たち 一
は、南部 の高雄 の東方、塀東縣を北に へ向かう。霧台村については茂林国家
除寮北 風景区ホームページに詳しく載 ってい
老濃渓﹂ の支流 ﹁
遡 っている ﹁
渓﹂のさらに支流である ﹁
査國拉次渓﹂ るが、原住民族 の文化保護区に指定さ
と いう 谷 を 遡渓
し てき た 。谷 は
素 晴 ら しく 、 メ
ンバ ー、 天候 に
恵 ま れ 、大 変楽
し い5日間だ つたので、ここに報告し
台湾 の山岳 に入るには入山許可証
た いと思う。
と中華民国登山協会 のガイドが必要
だ。このため、諸手続きと現地での移
動など世話 一切について、台湾に遡渓
協会なる組織を立ち上げた日本人グル
海外遡行同人﹂ の方 々と中華遡
ープ ﹁
渓協会、彰化縣登山協会 の方 々の献身
的な援助を受けた。その同人4人と私
2月 9日に台
の5人が連れだ つて昨年 1
2
0日は高雄ま で高
北 へ発 った。そして3
速ノンスト ップバス。そこから3人の
魯凱族 の村。正月の飾 り付 けを している
左折しているのだが、曲がり角 に大岩
局巻き の後、懸一
圭で滝 の上流に下
間の一
り立 った。ここもまた良 い泊地だ。
︻
4日目︼
前 日に大滝を越えた ので気分的 に
ゆとりができ、この日も泳 いだり、 ヘ
があり、その裏 の釜に、見えな いゴル
ジ ュから激流が噴出 し て渦巻 いて い
る。今回のチームには沢の名人がいる
ので心強 いが、大変なところである。
つったりで、奇怪な粘板岩 の造形を楽
うにして越えたが、上から見ると滝上
も強烈なS字状ゴルジ ュだ った。降り
道に出ればマ
エタド了と いうことで、ゆ
つくり昼食を取り、歩き出した。とこ
5y
ろがそこべ、全く通行不可能な 1
滝が門を閉ざしたように現れた。左岸
のぼろぼろの壁を、塀を乗り越えるよ
しんだ。そして、もうすぐ地図上で点
線 の猟師道と出合 い、それを辿 って林
この釜を泳 いで、激流横 の壁 の基部に
上がり、左岸 の壁を強引に巻 いて越え
たが、出発から3時間が経 っていた。
この後しばらくで右から大きな谷が入
って開け、左右 の稜線が合するところ
0
が
に4
大
滝
堂
の
眉
々と落ち ている の
が見えた。やがて一
向岸が立 って行き止
まりになり、見上げると大滝は見えな
いが、3 つほど滝が見え る。昼食後、
立 った滝上の砂地 で泊となる。
右岸 の急な尾根を高巻 いていくと大滝
の全容が見えた。なんと、壁 の真ん中
から大滝が落ち、その下に両岸から衝
前 日、 ルートエ作 してお いた右岸
の尾根に上がり、そのままゴルジ ュ帯
を高巻き、懸垂 で河原に下り立 った。
︻
5日目︼
立 のような尾根 が交 互に派生し てい
る。流れは鋭角に4回も曲げられ、角
かどに滝がある。すご い景観だ。3時
点線 の道は少し先
だが、もう時間が
な いので尾根 に取
り付き、途中 のぼ
ろ壁 で時間を食 つ
たが、無事 に林道
になり、廃道 にな
っていると聞 いて
いたが、なんとか
の台風 でずたずた
にたどり 着 いた 。
林道は 4年 ほど前
奥 の大 滝
地元猟師 の踏み跡が続 いていた。暗く
アーリー︶か
な った夕刻 6時に阿膿 ︵
ら2キ
地点ま で強引 に迎え に入 って
ロ
くれた江さんの車 に会 い、終了。林道
歩き の途中 で阿程 の猟師 に出会 った
が、2人は9
1世紀 の写真から出 てきた
ような風貌、 いでたちであ った。
霧台 で原住民 の長 ︵
おさ︶ の住居
を見学し、そのまま高雄まで送 っても
華民国登山協会 の方たち の歓迎を受
け、﹁
乾杯︱﹂ の連続。前後不覚 のま
ま夜行バスで台北に戻り、ホテル泊。
翌日には帰阪した。私としては初めて
の台湾行で、慌ただしい8日間だ った
が、いつまでも興奮冷めやらず、素晴
らtい体験をさせてもら つたことに感
謝、感謝だ。
年︶
︵
1976年歯学部一
ら い、夜行バスで彰化ま で行き、彰化 ◇
﹁
海外遡行同人﹂道上氏 のホーム
登山協会 の方 のマンションに泊めても
ら つた。
ページのURLは次 の通り。
︻
追記︼
ドξ ミ顧霊焉〓お89﹂
︼
ミゴ︼
ヽざ目σく①
翌日 アル コ ルゴ ルジ ュであ っ
aS〓日
は
ー
オo
ごユい
一
δ
O
コロ
た。昼過ぎから彰化登山協会 の方や中 ︵
湾 喬國拉次渓﹂ でも検索可︶
0日間3
5万円で募集した ツアーの客が
1
なかなか集まらず、ようやく福井、名
古屋、三重、滋賀、大阪、神戸、倉敷、
広島からの総勢 2名で成立した。集ま
1
った のは、世界中行き尽くしたよヽ
コな
旅慣れた人たちばかり。アイスランド
島内を 一周し、北部、東部、南部もく
まなぐ見せてくれるツアーは初めてだ
過ぎ去 った音を振り返る時、多 く した いと田やつ。
2005年春ご ろ、阪急交通社 が
の山行 の中でも特に思 い出深 い山行が
誰にもあるだろゝ。必ずしも高 い山で
, した山行とは限ら
はなく、また、成
功
な いかもしれな い。その意味 で、単な
る観光旅行ではあ ったが、予期しな い
大自然に接し、日の覚めるような経験
をさせてくれたアイスランド旅行は僕
にと つて忘れがた いも のだ った ので、
簡略に報告し、会員諸兄姉にもお勧め
から参加した、と一
百?人も いた。
鋼 の 1 8 7 1年 の
僕 にも それは分か つていた。 アイ
スランド紀行 の名著 であ るウイリア
英、近代デザインの父︶
ム ・モリス ︵
一記録 や、 リチ ャ
一︱ ド ・ ロ ン グ
英、現代美術家︶
一︵
7月 6日 深夜 にレイキ ャヴ イー
ク着。
7日 鯨 のフィヨルド、牡羊 のフ
イヨルドを経て、真夜中の太陽の町ア
ークレイリ泊。
8日 ゴーザ フォスの滝、ミーヴ
アト ン湖と地学 の諸現象 に驚きなが
ら、レイダルフィヨルズ ル泊。
9日 エイイ ルスタデイールの街
や森林公園、博物館を見て、ブレイダ
ルスヴィーク泊。
0
1日 アル マンナスカルズ峠から
ヴ ァトナヨークトル氷河を初めて眺望
し、ヨークルサルロン氷河湖のクルー
ズ後、ヴイーク泊。
■■淵﹁= Ⅲ卜一一
一 の写真 作 品 な ど
も島 の西半分のも のだけだ った。東部
には欧州最大 の氷河ヴ ァトナヨークト
ル、最大 の滝デティフオスや大小 のフ
イヨルド群がある。山は、最高峰のク
バンナダルスフオニュークルが2、1
19屑 で、2番目 のスナイ フエット
1
ンングヴ ェトリル国立公園
1日 ヽ
ゴールデンサークル﹂と称
を中心 に ﹁
現在 、 アイ スラ ンドを秘 境 と は言
えな いが、山 に憧れたこと のあ る人た
ちを夢中 にさせてくれる島 であ ること
リーダ ー所感
山を や っていきた い、と思うよう にな
っているはず である。そんな モチベー
シ ョンの高 い部員 がト ップを歩 いて、
できた3年生 は、これから自分らし い
2
4
︲日から 1日は レイキ ャヴ ィーク
市内外で多くの経験をした。全人口が
0万人に過ぎな いのに、世界の中で
約3
の存在感は輝 いている。自然条件、人
パーティーを引きずり回すぐら いの迫
力を示し てくれたら、と何度か思 った。
大き いのではな いだ ろうかと いう こと
だ。あ る程度 の経験と体力的な基礎 の
体力的 にも精神的 にも 3年生 の存在は
そ のこと に関し て気 が ついた のは、
にな った。
た。ま た、3薫蓋 諄藤が いな いため、
2年連縫で私がリーダーを務めること
新入部員がおらず、 2006年度
も現役部員 2人だけ の山岳部とな つ
網野 善久
鬱叫2006年 度
的条件に則して質実剛健に生きている
と いう印象でい日本人である僕などは
つい考えさせられたも のだ。
れたと いう。ここにはアイスランドの
原点となる精神が今も息づ いているの
を感じたのだ った。
ギ ャウ﹂と いう場斬 で、そ中撰難 で
﹁
930年に世界最古 の民 二季︵
ムが開か
される観光 の定番地域 へ。特に感動し
たのは、大地の裂け目が ユーラシアプ
レートと北米プレートを生成している
ルは約1、800メだ。
主な旅程は次 の通りだ った。
ゴーザ フ ォスの滝
︵
1958年法学塾 じ
は間違 いな い。
しかし、 いな い者はいな いので、その
役を現役部員2人でヽ
つまく分担できた
であろうかと思ヽ
反省させられる
つと、一
ことが多 い。
少人数 であるがために、やむを得
ず個人的な山行を別々に行うことがあ
った。例えば5月山行は、私はOBと
ともに叙 缶 へ行き、三十尾は知人と フ
リークライミングに行くと いった具合
であ った。また、人数が少な いと、や
はり向上心、モチベーションを維持す
るのが難しくなる。身近に切磋琢磨 で
きるライバルがいることの大切さを考
えさせられる。その意味では、三十尾
に つまらぬ思 いをさせ続けたように感
じている。しかし、部員が内部にいな
いなら、外部に求めることもできたと
思う。積極的に他大学と の合同山行や
連 携 を行 って い
れば 、と悔 やま
れる。
前 年 と特 に異
な ると 思 わ れ る
山行は御 缶アイゼン合宿、八ケ岳冬山
合宿 である。前年は冬にフリークライ
ミングをすることにな っていたので、
アイゼン合宿をしなか った。しかし、
御 缶では滑落事故を起こし、八ケ岳 で
は凍傷を負 つた。 いずれの山行でも何
らかのハプ ニングがあり、 いろいろ考
えるき っかけを与え てくれた。
私はこれで大学山岳部からは引退
となるが、山からの引退はまだまだ先
だと思 っている。今後も機会あるごと
に新しい山に挑戦していきた い。
︻
現役 メンバー︼
網野善久 理学部生物学科4回生
三十尾誠 理学部化学科 2回生
山行概要︼
︻
3月 伊吹山/雪上訓練
5月 個人山行/飢岳︱小窓 ︵
網
野︶
同/長野県 ・小川山ボルダ
リング ︵
三十尾︶
8月 夏山合宿/製缶 ・真砂沢
9月 白5廿上朝日羅 走 公二十
尾︶
H月 冬山偵察/八ケ岳 ・阿弥陀
岳南稜
御缶アイゼン合宿
2 冬山合宿八ケ岳 ・阿弥瞳缶
月
︲
南稜
◆3月山行/伊吹山
9日日帰り
︻
期間︼3月1
参 者︼網野、三十尾
︻
加
登山 口 ︵
9 ・0︶︱ 伊吹山頂上
0
0︶︱登山口
2 。
4 ・0
︵
1
︲ ・3︶︲雪訓 ︵
6 0
︵
︲ ・0︶
網野の研究室 の都合もあり、予定
し
八
縦走ができなくな った。や
た
ケ
岳
むを得ず、
せめて雪上訓練だけでもと、
伊吹山 へ日帰りで行くことにした。大
阪を朝6時に出発して登山口には9時
に到着。スキー場の営業は終了してお
り、人気がほとんどなか った。
5合目までは雪がなく、眼下に広
がる田園風景がきれいであ つた。伊吹
山周辺が戦国時代の要衝であ ったこと
を考えると、この山に登 って戦略を練
った大名がいたかも知れないと夢想し
た。5合目からは膝下までの積雪。キ
ックステップが快適に決まるサクサク
した雪質であ った。途中で3パーティ
稜線に出ると、
ーくらいとすれ違 った。
独立峰だけに風が強い。頂上に到着す
八 ツ峰下半
夏 山合宿
スを辿らずに自分 のキ ックステップで
登 っていくと山に体がなじむような気
がするので、個人的には好き である。
眺めも天気も良 いし、この日は飢沢ま
しかし、この登りで人 の付けたトレー
でだし、快適。
ると、それまでかか っていた雲が切れ、
北側 の眺めが飛び込んできた。幸運 で
あ った。風がかなり強か つたため、景
色を楽しむ余裕もなく、早々と下山開
始。途中でロープヮーク、支点作成 の
領域 であ った。
一般名詞的な名前が異
様な感じを与えるし、またどこか最果
飢岳北方稜線は僕 にと って未知 の
た。この後、2峰 の懸´
圭下降ポイント
で1パー ティー分待ち時間があ った
が、快適な雪稜登行 であ った。
危な いだろうなと思 った。トレースに
感謝しながら歩 いたっ1峰 の下りが本
当に核心 であ った。細 いし、クライム
ダウンだしと いうことで恐る恐る下 っ
下を見るとゾ ッとした。稜線は途中か
なり細 いところがあり、強風が来たら
0︶︱ 叙 頂 上
5 日 出 発 ︵5 ・3
0 ・0︶︲
4 ・0
︵
1
0 ︱小窓 ︵
1
3︶
明 るくな ると同時 に出発。源次郎
にはすでに3パーティーが取り付 いて
いた。1峰 へは急傾斜を登 っていく。
フを持 って来なか った。行動中は荷物
が コンパクトでいいのだが、当然、夜
は極めて寒か った。
トレースば つちり で、階段み
るが、﹁
た い﹂とのこと。核心部は1峰 の下り
らし い。網野はかさばるからとシ ュラ
ーテイーに状況を聞 いた。飢沢から見
ると、それなりにプレ ツシャーを感じ
飢沢 で、源次郎 から帰 ってきたパ
練習をして下山。
時刻表 によると、バ スが来 るま で
1時間待たねばならなか ったので、近
江長岡駅まで歩くことに。ところが道
を間違え、2時間以上歩き回ることに
な った。途中から降雪。日も暮れてし
ま った。こう いう土地に住む人たちは
あえ て雪山に登ろうとはしな いのだろ
うな、と思わせるほど吹雪 いた。
大阪から 3時間 であ んな に良 い山
があろヽ
つとは、と改めて思 った。
◆ 5月山行/鍛岳∼小窓
︻
期間︼5月3日∼6日
︻
参加者︼網野、越智OB
0︶︱ 立 山
3 日 敦 賀 ︵6 ・0
︵
9 ・∞︶
敦賀駅で待ち合わせをして越智0
Bの車で立山駅駐車場まで。きわめて
快適だ った。
エ山駅 ︵
4日 エ
7 ・∞︶︱ 室堂
0︶︱飢沢 ︵
2 ・0
0︶
︵
9 ・0
1
今年は積雪が多 いので翌日早朝 に
源次郎尾根に取り付ぐことにした。ゴ
ールデンウイークだけあ って、室堂は
大盛況で、人が多か った。別山乗越ま
での登りは相変わらずしんどか った。
ての地 のような暗く切な い神秘的な雰
囲気をかもし出している、と勝手に想
像していた。この想像はそれほど外れ
ていなか った。池ノ谷ガリーの下りは
︹
怖か ったが、一
全賀
一
一
ノ王の景色、
ノ窓、,
雰囲気は格別であり、山 の楽しさが凝
集されていたように思ヽ
つ。三ノ窓でチ
ンネを眺めながらお茶タイム。三ノ窓
は最高 である。途中い鹿島槍︱ガンド
ウ尾根 ルートを来たと いヽ
つ2人パーテ
ィーと会 った。彼らのまるで旅行して
がらであ ったが、
一時は車 5台が連な
る大 ツアーとな った。 ロープクライミ
ングのエリアも近くにあると聞 いたの
でロープも持 っていったが、結局、出
さずじま い。ひたすらボルダリングに
取り組むこととな った。 ツアー全体を
通して、これと いった成果はなか った
も のの、岩を満喫することができ、満
足のいく4日間であ った。
2日 出発
設営し、休息をと った後、岩に取り組
む。この日は何本か登りき った。
3日 小川山
早朝 、廻り目平 キ ャンプ場到着 。
いるかのような爽やかさが印象的だ っ
た。小窓 で行動終了。
0︶︱ 馬場島
6 ・0
6 日 小窓 ︵
朝食ま で御馳走 にな つたあと、 エ
リアの開拓者 である氏 の案内 で林の中
を回る。ここでは人で賑わう小川山と
はう ってかわ って静かな環境が得られ
た。
ギャップが激し いのには参る。この日
は結局、完登はなし。先行メンバーは
この日のヽちに小川山を発ち、あるク
,
ライ マーのお宅に宿泊させてもらう。
5日 山梨 の未発表 エリア
4日 小川山
朝 は冷え込んだ。昼間 の暑さと の
0 ・0
0︶
︵
1
小窓から西仙人谷を下 って馬場島
まで。デブリが堆積していた。小窓を
振り返ると、逆光が沢を幻想的なもの
にしていた。
越智OBには毎回、山の素晴らし
さを教えてもら つている。今回も大変
お世話にな つた。赤谷尾根、小窓尾根
2]
でも充
︹
など次の目標ができたといヽ
実した山行であ った。
三十尾︶
◆ボ ルダ リング ツアー ︵
質 に特徴がある。指 の皮を酷使 した後
した岩質とは違 い、 の っぺりとした岩
かなか美 し い。前 3日間 のざらざ らと
いに磨かれた大岩 が立ち並 ぶ様子はな
こ の日は河原 にあ る エリ ア。川沿
6日 早川
︻
期間︼5月2日ヽ7日
5月連体 は、我 がままを言 って、
知人達 の企画した長野県 ・小川山ボル
ダリング ︵
ロープを用 いずに、低 い岩
壁で行なう岩登り︶ ツアーに加え ても
ら つた。参加 メンバーは入れ代わりな
7日 帰 阪
にはち ょヽ
つど よ い。
◆夏山合宿/凱岳 ・真砂沢
4日∼9
︻
期間︼8月1
1日
参加者︼網野、三十尾、寺田0
︻
B、尾崎OB
4
晴︶
︲日 ︵
0
︶
飢
前小屋
室 堂 ︵9 ・0
︱
御
2 ・∞︶︲飢沢山荘 ︵
3 ・0
0︶︲真
︵
1
︲
5 ・0︶
砂沢 ︵
3
1
5
晴︶ ﹂
込足
︲日 ︵
BC → ・翌 ︱ 二股 → ・9
0 0
谷尾根の頭
・
︶
︲
池
1一
一
一
ノ窓 ︵
ノ
1
5
2 ・︲
5︶︲本峰 ︵
3 ・5
。︶︲ BC
︵
1
︲
6 ・5
0︶
︵
︲
雪渓 の状態など の偵察をかねて遠
阿弥陀岳南稜
冬 山偵察
足 へ。三ノ窓雪渓 の取り付きで目の前
渓はアンザ
■渓が崩壊したので、一
一ヨ
の予
イレンして通過することにした。上部
に行くに従 って雪渓 の状態が悪くな っ
ていた。そこで、途中から三ノ窓尾根
に乗ることにした。尾根上は小じんま
りしたお花畑が続 いて、眺めもよく、
気持ちがよか った。そのまま本峰を経
由して一
半蔵谷を下り、BC へ。
6
晴︶ 八 ツ峰 Ⅵ峰 Dフ ェー
︲日 ︵
ス富山大 ルート
。︶︲ 取り付き ︵
7・
4 ・3
BC ︵
0
0
3︶︲ 登 攀 終 了 ︵H ・3︶︲ BC
4 0
︵
︲ ・3︶
網野、三十尾、尾崎OBの3人 で。
好天の下、高度感、景色ともにすばら
しく、最高 の条件 でクライミングを楽
しむことができた。下降はVⅥのコル
に降りたが、個人的にはそのとき の八
ツ峰 の開放感が印象的であ った。BC
に帰ると、寺田OBが来 ていた。
7
八
峰
晴
︶
ツ
下
半
縦
走
︲日 ︵
0︶︱取 り付き ︵
5・
BC ︵
4 ・0
9 ︲
森 線 上 → ・9 1 VⅥのコル
2 ・こ I BC ︵
4 ・9
︵
︲
1
取り付きから稜線上 へ3級程度 の
フェースをひたすらノーザイルで登り
続けた。高度感、緊張感が心地よか っ
た。
登りき ったところはI峰であ った。
冬えながら
VⅥのコルまで懸 圭下降を一
縦走。
8
晴︶ 樫半を目指して
︲日 ︵
出発 ︵
4 ・0︶︲ ハシゴ谷 乗 越
3
0︶︲黒
。
︵
︶
内
蔵
平
︵
6 ・4
︲
助
8
.
2
0︶︲崩
部ダム ・下ノ廊下分岐 ︵
H ・3
8 。
6 ・︲
5︶︱人生岐 ︵
一
壊輛“︵
︲
1 ・3︶
下 ノ廊 下経由 で十字峡 に幕営 し、
欅平 へ下山すること にした。しかし、
ルート崩壊が予想以上に進んでいたこ
とと、体力、精神力共に薄弱であ った
ために時間的にリスキーとな ってしま
ら眺める白馬は、特徴 のある東側 の岩
壁がガスで覆われていた。白馬缶頂上
象 晶。
1日 頂上宿舎を出 て、早く に白
5缶頂上に到着する。白馬山荘泊まり
とみられる、ご来光目当ての客も多か
った。雪倉缶避難小屋は朝日小屋 の人
が管理しているらしく、きれいな状態
を保 っていた。雪倉 缶山頂はガスに包
はよく晴れ、空も澄んでいた。朝日小
まれ、景観もなし。朝日小屋が近づく
ころには再び樹林帯に入 った。この夜
った。このため、黒部ダムど下ノ廊下
の分岐にテントを張り、十字峡 にビバ
ところが、
ークをしにいくことにした。
屋泊。
2日 朝日岳を経由し、蓮華温泉
まで稜線上をひたすら下る。途中、湿
地帯に設けられた木道は 一部が濡れて
滑りやすくな っていた。
◆冬山合宿/八ケ岳 ・阿弥陀岳南稜
4 0
三笠 山
八海 山 荘 ︵1
・
︶
︱
0
6 ・0
0
5 ・3
0︶︲登山口近く1
︵
︲
4
晴
︶
2日 ︵
。︶
0︶︱ ニノ池 ︵
0 。3
出発 ︵
6 ・0
1
0︶
︱雪訓 ︵
H ・0
積雪量は雪訓に十分なほど。この
日はアイゼンをはかず、歩行技術、滑
落停止を中心に行 った。
5
晴
︶
2日 ︵
6 ・5︶︲摩利支天山
雪訓開始 ︵
4
0︶
9 ・3
周辺で雪訓中、滑落事故発生 ︵
点︻
発 3 ・9 1
IBc 3 ・E ︲
◆冬山合宿偵察/八ケ岳 ・阿弥陀
岳南稜︱権現岳
︻
期間︼H月3日∼5日
参加者︼網野、三十尾
︻
3日 取り付きでテント泊
晴︶
4日 ︵
0︶
5 。
︵ ・0
出発 ︵
・
︶
旭
小
屋
6
1
3
6 ・0︶ 阿弥陀缶 ︵
︱ル練上 ︵
H・
1
3
4 ・3
0︶
0 ︲権蓼缶キレット小屋 ︵
︶
1
3
麓は紅葉シーズ ン。尾根上で1パ
ーティーと出会 った。核心部の岩峰P
3までは何事もなく通過。ルート紹介
の本によると、P3は巻 いて側面のル
ンゼから登るらしいが、あえて岩峰を
直 。 置支点はあるにはあるが、岩
上
残
全く信頼できなか った。
自体がもろく、
途中、ホールドが崩壊し、冷や汗もの
当初は阿弥陀岳 から権現岳ま で縦
走するマ
エ疋であ ったが、徊 缶での滑落
よると、長野地方は翌日の最高気温が
0度らしい。当然、夜は寒く、雪が 一
晩中降 っていた。
9
晴︶
2日 ︵
。︶︲舟
原村 ペンシ ョン上 ︵
9 o2
れ以外にも2パーティーが駅を利用し
ていた。駅 のテレビで見た天気予報に
事故を受け、南稜からの阿弥眩氏ヒー
ク ハントだけとした。
8
矛野ま では電車。茅野駅で
2日 一
ステーションビバークをした。われわ
8日∼︲日
2月 2
︻
期間︼ 1
3
参加者︼網野、三十尾
︻
0︶
7 ・0
三笠山 ︵
1
6
曇︶三笠山︱人海山荘
2日 ︵
︵
滑落事故の詳細は別稿︶
であ った。しかし、このちょ っとした
登攀で充実した1日とな った。あとは
赤 缶を経由して権蓼缶と赤 缶と のコル
にあるキレット小屋 へ。
5日 ︵
晴︶
5 0
現
7・
出発 ︵
・
︶
︲
権
小
屋
︵
3
0
。
0︶1観
8 ・3
0∼7 ・3︶︲青小屋 ︵
5︶
音平 ︵
H ・1
権現岳 、編笠山を経由し て小淵沢
へ下山。
◆ 御 岳 アイ ゼ ン合 宿
3日 ∼ 6日
︻
期 間 ︼ H月 2
2
参 加 者 ︼ 網 野 、 三十 尾
︻
3
曇︶
2日 ︵
(9)
雪渓と崩壊でこちらも予想以上にてこ
ずり、途中で時間切れ。テント場 へ引
き返した。なんとも後悔 の残る下山と
な った。
9
晴︶
︲日 ︵
0︶︱ 黒 部 ダ ム駅
出 発 ︵7 ・0
0︶
︵
8 ・5
黒部ダムから欅平 への縦走が課題
として残 った。
◆白馬岳︱朝 日岳縦走 全二十尾︶
9日∼9月2日
︻
期間︼8月 2
9
2日 大阪発
、
0
3日 猿倉 ま でタクシー で入り
樹林帯 の登りをサクサク進む。途中、
雨模様になるが、じきに止む。白馬鑓
温泉小屋泊。
︲日 礫と ハイ マツの稜線を行く。
3
白馬三山のうち、この日は鑓と杓子を
登る。鑓頂上は人が多か った。杓子か
剣 ケ峰 で
御岳 ア イゼン合宿
はタクシーで行 ってしま った。われわ
れはバスを利用した。舟越十字路 で数
0 ¨0︶︲尾根上 ︵
1 ・5︶
越十字路 ︵
1
1
3
4
4 5
︱立場山 ︵
1 ・︲︶︲青ナギ手前で幕
4 5
営 ︵
1 ・4︶
茅野駅 で 一緒だ った 2パーティー
尾が指先に凍傷を負う ことにな った。
詰めた。待ち時間が非常に長く、三十
ワークのコールが聞き取りづらく、時
間をとられた。P3は側面 のルンゼを
上は予想通り風が非常に強く、 ロープ
いつき、代わる代わるラッセル。稜線
7 研 ほど 下降 し て、 そ のま ま 待 機 。
ライ ムダ ウ ンし、 ステ ツプを つけた。
よく決まるも のだ った。網野が先 にク
アイゼ ンを着け てのキ ツクステ ップが
ル ンゼは幅 1房 ほど で浅 い。 雪質 は
阿弥陀缶頂上からは 一般ルートを下降
し、行者小屋を経由して美濃戸口方向
2 ・〇二
た。共同装備は網野が持ち、 1
0
7 ・0日 の原近く に到着。
ノ池を出発、1
0
のうち にできる限り下山すること にし
0 ・0にニノ池横 のBC へ向け
った。 1
0
て移動開始。三十尾は足を引きずりな
0 ・3
0BC到着。その日
がら歩 いた。1
膝と歴を打 ったとのこと。
態を聞くと、
見ると、膝と肛に擦過傷、腫れがあ っ
た。擦過傷には消毒をし、絆型 言を貼
網野 のけがは日の上を切 った程度
で、軽 いも の。三十尾 の所に行き、状
発生後 の処置︼
︻
ス状 の場所で停止。
網野 =ピ ッケ ルが手から離 れ、頭
。メほ
を下に仰向け で滑落し始め、 3
ど滑落してピ ッケルスト ツプで停止。
三十尾 =すぐ に滑落停止姿勢 に入
ったが、そ のまま Ю房ほど滑り、雪
に埋もれた岩 の頭に2回衝突し、テラ
▽以下、現場 のビ ッケ ル、滑落 の
本人の記憶から滑落 の様子を推測。
跡、
とも方向を異にして滑落。
イムダウンに切り替えようとしたとこ
ろ、ステップから足が外れて滑落。下
にいた網野と衝突した。その後、2人
続 いて三十尾が正面を向 いて ︵
クライ
ムダウンではなく︶下降。途中、クラ
パーテイーと出会 った。前夜 の降雪で
トレースはな いと予想したが、先行パ
ーテイーが いたようで、この日は■レ
にしばらく行 ったところで幕営。
︲
山
下
日
3
0︶︱美濃戸口 ︵
。︶
6 ・3
出発 ︵
4 ・0
︻
合宿の目的︼雪上技術の向上
︻
参加者︼
理学部生物学科4回生︶
網野善久 ︵
理学部化学科2回生︶
三十尾誠 ︵
︻
事故発生日時︼ H月 %日午前9
時︲分か
﹂
ろ。
3
︻
事故 の場所︼摩利支天山南側斜
面
︻
事故内容︼斜面をクライムダウ
ン中に三十尾が滑落。下にいた網野と
衝突し、網野も滑落。
発生状況︼
︻
0分頃から摩利支
▽発生前 7時 3
天山南側斜面を利用して急な雪面を登
下降す 練習を始めた。
る
。頃、摩利支天山 の稜線か
▽9 ・3
ら南側斜面方向 ヘルンゼ状の雪壁をク
0度ほど、
ライムダウン。
斜面の色度は6
三十尾 の右膝は腫 れがひどくな ってい
た。
〇八海
0 ・3
翌朝 6 ・0に出発し 。1
0
0頃タグシーに乗り、木
山荘着。H ・0
2 ・0前 に到着。そのまま
曽福島駅に1
0
大阪まで帰り、三十尾は自宅近く の病
院 へ行 った。
けがの経過︼
︻
7日、三十尾から ﹁レントゲ ン検
2
査 の結果、骨に異常はなく、打撲 ・捻
挫 のよヽ
こ と連絡をもら つた。
︻
事故原因︼
正面を向 いての下降からクライ ム
ダウン ヘ姿勢を変えようとしてバラン
スを崩したことが直接的な原因であろ
う。しかし、下降前に三十尾は正面を
向 いて下降すると網野に伝え ていた。
従 って、網野の認識 の誤りと両者 の気
持ち の緩みが根本的な原因だと思われ
る。また、三十尾が滑落停止 の姿勢を
すぐに取 っていたことから、網野が直
下にいなければ、けがなく止ま ってい
たかもしれな い。
後の課題︼
天7
事故を起 こさな いために技術 の向
上をはかることはもとより、事故を起
こした場合 の応急処置、搬出救助 の知
識、実際的な練習をしていかねばなら
な いと思われる。今後 の山行について
は肉体的、精神的な面を考慮し つつ決
めようと思う。
(10)
ースをたど っていけばよか った。
。
晴︶
3日 ︵
。︶
7 ・3
出発 ︵
6 ・0︶︱無名峰 ︵
0
4 ・0
0︶﹁ 行 者 小 屋
︱ 阿弥 陀岳 ︵1
6 0
6 ・0
0︶︲
︵
上器営]︵
1 ・3︶
︲
無名峰前からトレースがなくなり、
ラッセル。積雪は腰から胸まで。無名
峰からP3までは先行パーティーに追
阿弥陀岳頂上
冬山合宿
警
脚
﹃
﹄
弊
精
瘍
︶
囃
︼
帯
]
維
審
͡
7︶山岳部 の諸先
エー
京極与寿郎 ︵
輩、同期生 が次 々世を去り、淋し い
、
こと です。 6
8歳 になりますが 元気
にしています。
3︶山も スキーも
医2
大久保勝 己 ︵
随分ご無沙汰 でござ います。お蔭様
で元気 でや っており、最近は絵を習
しております。
っ
た
り
7︶昨年 9月、故
理2
加藤 幹太 ︵
徳永君 の七回忌 の墓参 に行き、故人
を偲びました¨田島、山本、細見君
らと会食 できた のは楽 し いこと でし
た。私は元気 にし て いますが、体 の
あちらこちらとケ アす ることが多く
な って年齢を感じています。
7︶知 らな い所、
工2
二朗 ︵
久保 一
まだ行 った こと のな い所 へ行きた い
と いう気持ちはなくし て いな いつも
り ですが、運動能力 の衰えと の兼ね
合 いで、やはり遠慮 しと こうか⋮ の
多 い昨今 です。 そんな中 、 ここ二、
三年 で、園部 ∼津山 にほぼ並行す る
日本海 ∼瀬戸内海 の分水嶺I JAC
関西支部 で手分けし て全走破︱ のう
、
、
ち の0
3%ほど それから南奥駆 雲
取 への機会を得 て、 0
5年かか った吉
野︱ 那智を達成。そ の延長 で、 これ
も支部 で四国 へも。 H月末 の剣山と
石鎚山 の間 での吉野川横断、すなわ
ち大歩危前後 での背稜上下など、応
分以上に楽しませてもら つています。
経8
田島 汎 ︵
2︶相変わらず の
サ ンデー毎 日。何とか元気 で、たま
には六 甲 辺“ へ。正 月 は年 中行事
︵一人 で勝手 に︶ で京都 ・愛宕山 へ。
しかし、だんだ んじんどくな ってき
て来年 はどうか いなと思 っていると
ころです。
理 8︶昨年 5月には
堺谷 弘 ︵
2
自転車︶ で東海
マウ ンテンバイク ︵
道 五十三次を走り、東京 ま で行きま
9日は野宿、ホ
6日かかり、 1
した。 2
テルで6泊 でした。今年は芭蕉 の奥
東京︱ 仙台卜 山形︱ 新潟︶
の細道 ︵
をやる予定 です。
奈良県明日香村 で9月 に行われる
萬葉歌 の作曲 コンクールに応募す べ
く コンピ ューター作曲 にも取り組ん
で います。また、昨年 7月 に8件目
牛乳/糖分/ アルコー
の醍醐味酒 ︵
ル分/炭酸ガ ス︶ の特許を出願しま
した。
9︶年齢相応に元
医2
住吉 仙也 ︵
気 です。しかし、検査をすると、 い
ろいろ異常があります。自覚症状は
全くなく、たばこ、酒も毎日。今ま
で通りのわがまま、怠惰な毎日です。
、0
人生 。
5年 の時代 に生まれた ので 3
年は余分で、異常は当然 でしょう。
9︶可もなく不可
理2
大村 一生 ︵
もなく、平 々凡 々と暮らしています。
ただ、だんだんと長道が困難になり、
さびし い感 はぬぐえません。雪山を
見 ても懐かし いばかりです。
9︶脳出血後 の家
工2
二木 節夫 ︵
内 のリ ハビ リ テーシ ョンに参 加 し、
買 い物、料理を 二人三脚 でや って い
ます。毎 日、忙 し い限り です。私も
数年前から腰と膝 の調子が悪く、楽
しみにし て いた登山とゴ ル フがほと
んど できな い状態 です。昨秋 ご ろか
ら若干良くな ってきた気 がします の
で、今年は希望 の持 てる年 であ って
ほし いと願 っています。
︲︶冬 は スキー、
文3
横 井 保 枝 ︵
夏 は登山が、もう しばらく続けられ
ればと願 っています。昨年 のフラン
スでのスキーはと ても楽 しか った で
すが、今年は国内 です。
2︶本年は必ず白
医3
宍一
戸 元 ︵
馬集会 に出席する つもり です。毎 日、
相変わらず仕事をし て います。電車
でも誰も席を譲 ってくれません。
0月、自
2︶昨年 1
歯3
石澤 命 久 ︵
内障 の手術を受 け、運転免許更新も
無事 済ま せ、裸 眼 で運転 し て いる。
歯医者 の方 は月水金 の午前中だけ に
なり、大変楽 にな った。 スキー のた
め の老 人 のト レー ニングは難 しく、
だましだま しやらな いと腰痛などが
出 てく る。まあなんとか スキーに行
けそうだ。
7年 に退
8︶平成 1
医3
田村 俊秀 ︵
職し、臨床医として再出発しました。
ただ今 、奄美大島東 の離島、喜界ケ
島病院 に勤 め て います。若者は島を
離れ、高齢化が深刻 です。
昨年秋、さるNPOに参加 し てカ
ラ コルムに行きま した。山岳地帯 の
住民は眉目秀麗 で青 い目をし て いま
す が、何と チ ベ ット系 の言葉と生活
様式 のうえ、 シーア派イ スラム教徒
でした。チ ベ ット型 の寺院 で、イ ラ
ン系 の村人が メ ッカに向 か って礼拝
していました。
8︶昨年、動脈解
工3
梶 本 孝治 ︵
離 でド クター スト ップを かけら れ、
静養中 です。そ の後、症状も安定 し
て、春 め いてきたら、我が家 の奥庭
の六甲山を リ ハビ リに歩き出 した い
と思 って います。昨年末、岳 父が亡
くなり、明治 の頃から中国 。上海 に
小商売 です が︶を してきた
て事業 ︵
家 に生まれ育 った記録 メモ4どが出
てきた ので、それらを つなぎ合わせ、
空自 の明治 ∼大正∼昭和 の上海 の歴
史 メモを編さんしようと取り組 んで
いるのですが⋮⋮。
9︶昨年夏はカナ
医3
宇 野 雅明 ︵
デイアンロッキーを 1週間、満喫 し
ま した。も っとも、麓をう ろう ろし
ただけですが。
9︶先輩 の宮本貞
大川 和秋 ︵
工3
雄 さんが ︵
勤 め先 の︶ シャープが開
発 した市販前 の ハンデイ■ ランシー
8
バーを貸 してくださ った のが昭和 3
年。それと比 べて、今 の携帯電話 の
普 及 に革 命 的 な も のを 感 じ ま す 。
種 々の自然界 の現象を観察 し、記録
す る のに必要な変換素子 の開発、小
型化。山 のみならず、自然現象 にも
いろ いろと挑戦 した いと意欲は持 っ
て います。本年 はドイ ツの旧友たち
から テ ニスの挑戦を受 け ており、夏
いつぱ いはドイ ツに乗り込みます。
9︶幸 い、元気 に
工3
木 原 秀幸 ︵
毎 日を過ごし て います。体力維持 の
ため スポー ツクラブ で水泳と筋 トレ
を少 しや って います。また、月 1、
2回、大甲山 で自然案内 ガイドとし
てのんびリ ウオーキ ングを楽 しんで
います。仕事 の方はボケな い程度 に
少しだけ⋮⋮。
昨年 は家内と 2人 で1カ月余 り、
ニュージーランド ヘ。ナシ ョナルパ
ークとトレ ツキ ング の旅を楽 しみま
した。今年も冬は北海道 でスキーを、
夏もど こか へ行きた いと思 って いま
す。
0︶まだ 6歳。明
工4
桑原 昭夫 ︵
6
日 に向 か って働 いて います。勤務先
は大阪 ・曽根崎、お初天神 の近く で
す。
態に陥 っております。
今後 、会員数増加は望む べくもな
いことから、こ のような状況が続く
と、会務 や現役 の活動支援 に支障が
出 る恐れがあります。どうか窮状を
ご理解 のうえ、会費納入 にご協力 い
事務局からお願い
にご協力 いただ いております が、
近年 、納 入遅延、滞納 が目立ち、
事務局は困惑し て います。総会報
ただくよう お願 いいたします。滞納
され て いる方 は 一括納入し て いただ
ければ幸 いです。
パター ンを続け て いますが、だんだ
昨年
んしんどくな ってき ています。 ︵
一緒 に山を散策 でき ることを楽 しみ
にしながら︱
月から南紀白浜 の近く、田辺市 にあ
る紀南病院 におります。大阪と違 っ
リ アが守備範囲 です。冬 の山 へ行き
た いです。叡岳 はど んな表情な ので
し ょゝ
つか。
に和呵 臓0 い
﹁
︵
会報担当 ・高田邦雄︶
も歓迎します。
は新 鮮 な内 容 です 。 引 き 続 き 意
欲 的 な ご 投 稿 を お待 ち し ま す 。
随想 、山行報 告 、紀行 など何 で
た 。特 に大 宅 氏 の台 湾 の谷 歩 き
2氏から寄稿 の申 し出がありまし
って いる﹂と訴えたら、さ つそく
編 集 後 記
7︶院
基礎工 ・平成 1
渡 辺 景 子 ︵
生 で在学中 ですが、なかなか卒業 で
の︶連体 は栂池︱乗鞍︱蓮華温泉︱
金 山沢︶
雪倉︱ 蓮華 温泉︱ 小蓮華 ︵
会員 の皆様 には毎年、会費納入
告 に添え る資料 が示すよう に、山
岳会会計はす でに支出 が収入を上
回り、過去 の繰越金を取り崩す事
。︶心臓冠動脈 バ
経4
高 国 邦雄 ︵
イパス手術から、今夏 で満 3年。弱
った脚を鍛え直そうとウオーキ ング
に励む毎 日ですが、現状維持が精 い
ついでに過去 に登 った3、000屑
峰を調 べたと ころ、残 るは木曽御岳
夏 は沢登り、冬は スキーと いう ワン
っぱ いのよう です。それ でも昨夏 の
自 馬集 会 後 は平湯 温泉 か ら乗 鞍岳
︵
3、026眉︶ に登 ってきま した。
︵
3、067眉︶だけと いうことが分
次は御岳 へ﹂と機会をうかが
かり、﹁
3︶昨年 H
医 ・平成 1
佐藤 貴美 子 ︵
月 に長女を出産。育児を楽 しんで い
ます。子ども が歩けるよう になれば
っています。
4︶登山はさ っぱ
法4
岡 田 謙治 ︵
り です が、 スキトはし っかり続け て
おります。
上松 一雄 ︵
工0
5︶長年勤めた三
菱重工業から、関連会社 のRSGに
移りました。相変わらず 三菱重工業
きま せ ん。山も登 るも のではなく、
写真 で眺 めるも のにな ってしま いま
した。
︵
椎茸 の原木運びなど︶ の影響か、腸
ヘルニアが出 て、薬を飲む毎日です。
︱ 猿倉 のコースでしたが、若 い人 に
追 い越され、バテバテでした。
4︶長年 の自転車
法5
後藤 正教 ︵
通勤 ︵
︶が原因か、前立腺
片道 Hキ
ロ
の調子悪く、か つ、土、日 の力仕事
のサポ ートをして充実 した日 々を過
ごしています。
理0
井 上 太 一 ︵
5︶ 一昨年 のスペ
イ ン西北部サ ンティアゴ ・デ ・コン
て医師不足が深刻 です。周囲 の外科
も手術 しなくなり、車 で2時間 の エ
やはり年 ですね、体力 に自信を失 っ
ております。
医 ・平成 3︶昨年 8
藤 田 繁雄 ︵
ポ ス テー ラ ヘの8 0 0 キ
ロ巡 礼 旅行
8日間徒歩︶のあと、
ピ レネー北から 3
︵
宗教法 人カトリ ック東京大司教区 の
7の幼稚園 の
法人事務部 に就職 し、 1
経営をみています。
昨年春 には エジプトを旅行 し、皆
既日食を観測し てきました。 いちば
ん下 の子どもが大学生 になり、これ
から人生を楽しむ つもり です。
︲︶相変 わらず、
大 宅 幸 夫 ︵
歯5
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