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自然をめぐるエッセー
由井
子
規
庵
28
浩
の
庭
5 月 の 中 頃 に 家 内 が 台 東 区 に あ る 書 道 博 物 館 に 行 っ た 時 に 、直 ぐ 前 に あ る 子 規 庵
(正岡子規の旧宅)に立ち寄って帰ってきた。家内から“子規庵の庭はとても風情
が あ る か ら 見 に 行 っ た ら ”と 薦 め ら れ て 、7 月 初 め に JR 鶯 谷 駅 か ら 徒 歩 10 分 ほ ど
の所にある子規庵に行った。
パ ン フ レ ッ ト に よ れ ば 、 子 規 は 明 治 27 年 ( 1894 年 ) に 故 郷 松 山 か ら 母 と 妹 を 呼
び 寄 せ て こ の 家 に 移 り 住 み 、明 治 35 年( 1902 年 )に 34 歳 11 ヶ 月 の 生 涯 を 終 え る
ま で の 8 年 間 を こ の 家 で 過 ご し た 。 20 代 後 半 か ら 俳 句 の 革 新 に 取 り 組 み 、 30 代 に
は短歌の革新にも取り組んだ子規は、子規庵に移った頃は既に病に相当冒されてい
たが、不自由な身体に鞭打ちながら俳句や短歌の近代化のために精力的な活動を行
った。
子 規 没 後 母 と 妹 が 子 規 の 門 人 た ち と 共 に 守 り 続 け た 子 規 庵 は 昭 和 20 年( 1945 年 )
4 月 の 戦 災 で 消 失 し た が 、 門 人 の 寒 川 鼠 骨 等 の 尽 力 に よ り 、 昭 和 26 年 ( 1951 年 )
にほぼ当時のままの姿に再建され、現在は東京都指定史跡として財団法人子規庵保
存会によって管理されている。
玄関から中に入り、案内ビデオを見てから、子規が最後の 8 年間を病と闘いなが
ら過ごした六畳間に入った。庭に面した南側のガラス戸の手前に、子規が起きてい
る時に座って庭を眺め、書き物をした座卓が置いてあった。伸ばせなくなった左膝
を入れるために板をくりぬいた特別注文の愛用の机だとパンフレットに書かれてい
る。強烈な衝撃を見る人に与えるこの机の前に佇みながら、病と闘いながらも後世
に残る大仕事を成し遂げた子規の凝縮された 8 年間を想像して、感無量だった。
各 部 屋 を 一 通 り 見 て か ら 庭 に 出 た 。20 坪 ほ ど の 広 さ の 庭 は 、保 存 会 や ボ ラ ン テ ィ
アの人達によって子規の
時代をできるだけ再現す
るように管理されている。
多くの人達の保存にかけ
る熱意を感じながら、小
雨の中で写真を撮った。
ガラス戸の外にヘチマの
棚があり、まだ小ぶりの
ヘチマが一つ垂れ下がっ
ていた。ヘチマは子規に
とって格別に愛着のある
植物だったようで、絶筆
の句は三句ともヘチマを
詠んだものだった。
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ヘチマ棚の南側
にはいろいろな草
花が一面に生い茂
っていた。一隅に
“ごてごてと草花
植えし小庭かな”
という子規の句を
記した立て札があ
り、この句の脇に
『今小園は余が天
地にして草花は余
が唯一の詩料とな
り ぬ 。』と い う 、子
規「小園の記」の
一節が書かれてい
た(原文のかな表
記 は 写 真 を 参 照 願 い た い )。庭 の 写 真 を 何 枚
か撮って、子規庵の見学を終えた。
「小園の記」を読みたくなって後日書店
で探したがみつからず、代わりに「仰臥漫
録」を見つけて買って読んだ。この本は子
規が死の1年前から庭の草花の様子、食べ
たもの、病状、来客などを、毛筆のスケッ
チと詠んだ句をふんだんに織り込みながら
記録したもので、巻末の解説の最後に“こ
れほど虚飾を去った人間の記録をわれわれ
は 他 に 知 ら な い 。”と の 解 説 者 の 賛 辞 が 書 か
れている。この本を読んで、外に全く出ら
れなかった子規が“小園”と称した庭の草
花から如何に大きな元気と詩想を得たかがよくわかった。
自 由 に 動 け る 人 は 、い ろ い ろ な 所 に 自 分 の“ 園 ”を 持 つ こ と が で き る 。そ の“ 園 ”
は、身近な所に咲く小さな花でも、職場の近くの通りに緑陰をもたらす大木で
も 、・・・ 何 で も 構 わ な い 。自 分 の“ 園 ”で 気 分 を 転 換 し 、発 想 の き っ か け を つ か ん
で、楽しく時を過ごしたいものだ。
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