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Kobe University Repository : Kernel Title 第30回海事資料調査報告 (平成2年度)(Maritime Museum Reports) Author(s) Citation 海事資料館年報,18:21-24 Issue date 1990 Resource Type Departmental Bulletin Paper / 紀要論文 Resource Version publisher DOI URL http://www.lib.kobe-u.ac.jp/handle_kernel/81005769 Create Date: 2017-03-30 第3 0回海事調査報告(平成 2年度) 今出],平成 2 年 12 月 1 日 ~2 日にわた っ て, 正面の本陣薩摩屋付近で,陸路による町口は北 瀬戸内海東部の兵庫県室津 と広島県柄 (とも ) 寄リのもと西嶋屋町であったことを明らかにし の両地に海事調査を行 った。 ている 。 また 室津の最盛期は 1 7世紀後半にあリ, 室津 以来 1 8世紀にかけてのこの港を利用した九州、卜を 室津は 相生市に j 6:ぃ揖保郡御津町 の西部にあ 4藩を数え,その他 はじめ中国・四国の大名は 6 って,播磨灘に突出した小半島の西岸に位置す に朝鮮通信使,琉球使節,長崎オラ ン夕、 商館長 頼μ内東部には占く摂播五泊と る良港である 。 l の江戸参府にさいして 上陸, 寄港地となっ た 。 称して,東から河尻 ( 現,大阪市川口 ) ,大輪田 室津民俗館 白( 現,姫 ( 現,兵庫 ) ,魚住 ( 現,明石) ,韓 i 室津のほぼ中央,近世の町名では南尾之町と 路) と室津があ った。 この中でも室津は規模は 称したところにあり.背後の山側に見性寺を控 小さいもの の,西海道からの舟運の入口として えている もっ ともよく知られたところであった すでに 屋などが相対していたが,これらは相次いで姿 所以号室 を消した 。民俗館の建物はもと脇本陣を勤めた 故国為名」とその海 i 白に適 とL汁伝承をもっ旧豊野家で¥魚屋 と号した豪 奈良時代の播磨国風土記に「室原泊 者 此泊防風如室 O した地形に地名の由来を求めている 。 調査の目的は,この室津に伝えられている海 運関係史料, とくに近世の港町の景観が伝統的 建造物の中にどのように修景保存されているか C もとは本陣の名村 ( 肥後屋) ,筑前 商の居宅として嘉水頃に建てられた 。近年維持 が困難とな ったため,佐藤氏ら地もとの人々の 尽力で全体を修復して町有の資料館として保存 されるに至 ったという ( 第 1図)。表間口 7間 を見るところにあ った。 このためあらかじめ地 もとの郷土史家佐藤正敏氏にお原品、して, 当 日 東道の労 をと って頂いた 。 港町としての室津 主津民俗館蔵の近世末に描かれた港絵図によ I Jに向か つて深く U字形に湾入した入江 ると, I に沿い 1条の街道がめ ぐり,突端の岬手前の番 所と,山上の賀茂神社に達していたことがわか る。 この街道は現在も町並みの中を通じている が,かつて浜側にあ った紀伊国屋,薩摩屋、一 津屋,肥白I i屋,筑前屋,肥後屋,御茶屋など本 第 l図 室津民俗館、もと脇本陣と伝えられる魚 屋の邸宅。 陣関係の建物は姿を消している 。 ただ山側に脇 本陣の 由緒をも っ魚屋が室津民俗館とし て保存 され,街道のところどころに近世の町並みの面 影を見 ることがで きる O 後背地に都市を持たな か ったため商港として発展してしベ機会に恵ま れず,主に西国からの海道に沿う宿駅の性格を 近世末に至るまでよく残した 。 佐藤氏の教示によ って渡辺宏・八木雅夫両氏 らによる調査をもとに,近年,町教育委員会か ら「室津』 町並保全報告書が出きれていること )得た。同書では海路からの室津上陸は湾 も知 1 第 2図 室津民俗館展示の駕鈍 内ノ臼 A 半,裏間 r l8間半,奥行き 6間半の建坪をもっ二 いた大型の絵馬がある 3もあり,柱材からも豪商の 階建て¥部屋数は 2 の現況写真と,その描写を辿って再現した状景 豊かさが偲ばれる O 複雑な部屋の間仕切 i ),箱 階段や隠し階段などの構造じ室津関係の各種 ) 。 史料もここに展示されている(第 2図 とが併載されている O O 前記の『室津』に絵馬 絵馬は着彩で,安永 3 ( 17 7 4 ) 年の年紀がある。東方の山上から室津 港を中心に,それを取巻く町並が左寄リに描か 賀茂神社 れ,上方には当時の賀茂神社の社殿の一部が争Ij 3メートル余の 主津港を抱く岬の突端,標高 2 落しないで残る O 小丘上にあリ,東から石段を上ると広い高台の 港内にイナ綱を囲む 2 0隻以上の漁船が認めら 中央に南向きに唐門と左右の回廊をめぐらして れ,街道に沿う町並は個々の建物の屋根を描き 古風な社殿が'IEんでいる 分けて甚だ精細を極めている。なお同書の注記 O この室津は平安末期から代々山城賀茂神社の によると絵馬の裏書に「享保十二丁未歳正月吉 御尉(みくりや)となった。御厨とは古代から 日株方中在所中綱方中敬安永三甲午 中世にかけて皇室や高級貴族・神社の所領で, 九月吉日再興之願主右同断画工姫路篠原長 その地の産物を貢納する建物の名称でもあった。 左衛門画之 1 1世 紀 初 頭 に 賀 茂 社 領 と な リ 高 倉 院 厳 島 御 とあるという 幸記」に「かものみくりや…ー・やしろ五六 摂州大坂住画工佐々木平助画之」 O 大 大正期の室津の写真によると町並みはまだ近 やかにならびっくリたる」とあるから, 1 2世紀 世の景観をよくとどめ,港内の南寄りに多数の にはすでに大規模な社殿が営まれていたとみら 碇泊する和船の姿を見ることができる れる。さらに社伝によると,古く室津が港とし 年代を境として町並みの様相は急速に変貌して て聞かれた頃から賀茂建角身命を祭杷すること いったようである。 O 昭和 4 0 が始まったとみられ,室津成立の背景には古代 祭耐の拠点としての地理的重要性があったとす るべきであろう。 現在では京都の賀茂神社と同じく五棟の社殿 鞠の浦と港町の成立 鞠(とも)は広島県の東端にある福山市内に あリ,瀬戸内海の備後灘に向かつて突出した沼 を配置いすべて流れ造 i )桧皮葺の建物からな 隈半島の南東端に位置している け,その周同の唐門,回廊を含めて国指定の重 瀬戸内海往復航のきい,沖合から熊ケ峰を背景 O 深江丸による 要文化財である(第 3図)。この賀茂神社には船 として,夢見るような輔の姿を仙酔島,玉津島 絵馬を見出さなかったが,次のような室津の港 の問に遠望する機会は度々あった。この輔の津 を十郎、た近世の絵馬がある。 を実際に訪れようとするのである O 今回の海事 調査については,神戸とも関係の深い地もとの 津村猪兵衛氏に万端お世話になった。 輔の地は瀬戸内海のほぼ中央にあ i ),朝の干 満の分岐点にあたるため,古来潮待ちの港とし て著名であった。大伴旅人ら万葉の歌人も「革雨 の浦のむろの木は常世にあれど・・・・・・」 と読み込 んだ。 中世を迎えて柄は平氏の進出の跡をうけて再 び歴史の舞台に登場し,南北朝の動乱期には数 第 3図 室津の賀茂神社社殿 知れぬ権力争奪の中心の地となった。この頃の 靭は南北ふたつの町からなり,南の浦町に対し 室津港絵馬 て,北の祇園社(沼名前神社)から小松寺・安 剥落と損傷が著るしいため実査の機会を得な 国寺・法宣寺などの門前町があった。 かったものの,賀茂神社には室津の町並みを描 2 2 1 9 7 9年 , 町中央部における発掘調査で,建物礎石や室町 期の埋 1層の存荘が確認され,中国龍泉窯系の 2年,元和 3年,寛永元年の 3 このあと慶長 1 青磁,景徳鎮窯系の 白磁が多数出土し,北方の 度,回 答兼刷還使 として瀬戸 内海を舟行する途 戸田川和Jr lに近い草戸千軒町遺跡の性格 と対比 次に納 を経由した 。幕府の体制が確 立した 寛永 して,中世の瀬戸内海貿易港の存在に新たな問 1 3年以降は,両国の善隣友好の 朝鮮通信使 とな って ,文字通リ“信を交わす "ために徳川将軍 題を提起した 。 近世の納は福山藩の奉行所カ tおかれたことも あって内海の要港としてますます栄え,その面 職襲職の機 など 8回にわ た り江戸を 訪れ,その 往復時に革両を賑わした。 影は港に面した 江之浦町,西町,納町によ く保 柄に寄航した通信使一行の人員は平均して約 存されている 。 それを支えたのは鍛冶などの特 4 8 0名 と い う 大 人数 で, 天和 2年 の場合を 例に とると福善寺に 正 使 ら 6名,御茶屋 5 7名,阿弥 4 0名,南禅坊2 0名,東・西組小屋 2 6 1名が 陀寺 1 産品で あった 。朝鮮通信使の来航は柄の町に異 i日一 東第一形勝」の 名を残 彩を与え した 。 鞠の浦歴史民俗史料館 分宿した 。使節饗応 のため福禅寺の一角に 建て 町の中央, 高台 にひと きわ 高くオ フホ ワイト られた 客殿は 「対潮楼 」と名 付けられ, 弁 天島 , の壁に株色の屋根をもっ地上 2階建. 一部地下 仙酔島を 指呼の距離に, 右手 には内海を 一望し 1階の鉄筋コンク リート造 の施 設で,延床面積 て , 風光を賞 でた詩文の 応酬など彼我の交 流の 1, 3 0 0平方 メートル余,そ の中展示室は 3 0 0平方 。 斬 の津が演じ 舞 台となっ たと い う (第 4図) メートルある 。 た江戸期の国際性の一面をよく示している 。 展/ J ~品には化石および縄文時代以降の考古資 料 [ 1,代・中世・近世にかけての各種史料が, 多彩豊富なノ ず ネ ル解説をつけて行届 いている 。 また民俗資料として鯛綱,鍛冶,保命酒造の伝 統産業,祭りと神事ではお弓神事,お手火神事, チョウサイ ( l L J車),茅の輪などの宗教行事が紹 介されている 2階には父親の出身地という縁 で¥ 辛山の天才的演奏家句作曲家 であった 宮 城 道雄の特設展示コーナーがある。革問の j 甫に因む とされる「春の海」 を想起すれば,こ の地な ら ではの企画といえる O また地下 1階には江の j 甫 第 4図 柄から展望した弁実島、仙酔島の景観 奇心の実物展示がある 。昭和 3 6年から 4 8年に至る いろは丸展示館 Lの浦で j 魚、船として手釣(メバル・ス 問,革両の i 鞠港に突き出た 石敷きの埠壁 に面した 大 きな ズキ ・チヌ ) .延縄 ( アナゴ)漁に用いられてい 倉 を利用した施設。平成元年 7月「広島県・海と たとし汁 O このよう に各種 テーマに工夫を こら 島の博覧会」納会場として開設された ( 第 5図) 。 した館内展示万式は,本学の海事資料館に不足 しているところで,今後に参考とすべき点は多 か った O 絹と朝鮮通信使 j 工ド 時代に 李氏朝鮮国と徳川幕府と の問で修 好使節 の迎接があったことは , と くに近年注目 されている国際交流である 。 それに先立ち豊 臣 う 不幸な事件があ ったが, 秀吉の朝鮮出兵と L、 慶長元(19 5 6)年 8月まず和平交渉のため使節 が来航 したことに始まり,一行は柄の弁天島に 1基の石塔を 建 立 したと伝える。 第 5図 坂本龍馬にちなむ、いろは丸展示館 - 2 3 いろは丸とは坂本龍馬らの土佐海援隊が伊予 かり易くとりあげた近年の著作として,森本繁 6 0トンの英国製蒸気 大川│藩から借り入れた約 1 氏『坂本龍馬・いろは丸事件の謎を解く』新人 船であった。ところが慶応 3 ( 18 6 7 ) 年 4月2 4 9 9 0年があることをあげておこう 物往来社 1 日早暁,備後宇治島沖を航行中に紀州、I ~審船明光 O おわりに 丸と衝突していろは丸は沈没し,全員明光丸に 今回の海事調査で,室津ではもっともよく室 救助されてこの柄へ上陸した。近年,いろは丸 津民俗館の実現に力を尽くされた一人である佐 と推定される船体が宇・治島の南方約 4キロの海 藤正敏氏に,そのゆかりの脇本陣と伝える一室 底で発見きれ,折からの坂本龍馬ブームに乗っ で長時間詳しい説明を頂いた。厚く感謝し,今 て熱心な引揚げ作業が数次にわたって行われた。 後の室津の町並み保存のご推進を祈りたい。ま 館内には中央に沈船の遺存状況を原寸に復元 た輔でお世話になった津村猪兵衛氏は代々この した巨大なセソトがおかれ,ヲ│き揚げられた船 地で船具商を営み,いま嗣でとりわけ古い町並 体の一部や船具,硯,陶磁器などを壁面に展示 みをのこす県道沿いにあって,深津屋の町家を しである。 2階には輔の町家で志士が身をひそ 守ってこられた。津村氏には港町の内外を案内 めた隠れ部屋の間取りが再現され,幕末期の港 して頂いたが,旧家のお宅で令夫人の点てて下 町の一面として面白い。 さった一服のお茶の風雅を改めて思いおこし, なおいろは丸事件はその後の坂本龍馬らによ る初の海難折衝としても著名で,この経緯をわ 2 4 ご夫妻のご厚意に深謝したい。