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HIKONE RONSO_250_019
19 フ’リードリッヒ・ヘルダーリン 一その誕生から死まで一 大 谷 欣 也 1 ヘルダーリンは,1770年3月20日,南ドイツはシュヴァーベン,ネッカー河 畔め小さな町ラウフェン郊外の静かでのどかな,3階建の大きく立派な修道院 館に生まれた。父ハインリッヒは1736年生まれであるが,祖父のあとをうけた, 当時は廃されていた女子修道院の執事および聖職管理者としての職務のかたわ ら,ブドウ畑を含む農業を営なんでいた。母ヨハンナは1748年生まれであるが, 牧師の娘であり,その祖母は‘‘シュヴァーベンの精神の母”と言われる,多く の詩人や思想家につらなる家系の出であった。すなわち両親の家系は親戚に牧 師や役人が多く,聖職および野史階級に属するものと言えよう。 父は町では名望家であり,世の中のことに心を開いた生活を愛し,客を歓待 することでも有名であった。彼は何かの折りに詩を作ることも’あったようであ るが,それは余裕のある市民文化に属することであって,詩人は印刷された父 の詩を少年時代目にしたであろう。結婚して4年目にしてはじめて授かった男 の子である故,おそらくまわりから大変喜ばれたが,洗礼の三聖達はみな同じ 社会的地位の市民階級に.属する,親戚の牧師や役人等であった。それから翌年 4月には妹のフリーデリケが生ま’れるが,秋には父の妹が上級役所官史ヴォル マールと結婚する。ところがその翌年7月父は,上級役所訪問の際とつぜん脳 卒中で倒れてそのまま亡くなり,36歳の短かい生涯を終えたのである。 母は幸福な結婚生活から一挙に悲しみのどん底につき落されたが,8月には 妹ハ:インリーケを生む。その翌年には母の父ハィンが亡くなり悲しみをあらた 20 彦根論叢 第250号 にするが,母は父の死後まもなく宮窪をひきはらい,近くにある,彼女の遺産 に属する家へ引越する。その同居人にして共同所有者は,1732年生まれの亡夫 の長姉フォン・ローエンショルトであった。彼女は1761年テユービンゲン大学 教授の夫の死後,子供もなく,ラウラェンに帰り,圃 サれ以後一緒に住んでいた が,16歳程も若い未亡人にとっては“母のような友人”となったのである。 それから夫の死後2年目の1774年はやく,母はゴックとの再婚を決意する。 学校教師の息子ゴックは1748年生まれであるが,ラゥフェンで書記をしていた。 その上役は詩人の代父をつとめた上級役所官史ビルヒンガーであるが,ゴック は亡夫の信頼できる友人であった。しかし父の死後彼は,ビルヒンガーと共に 近くのニュルティンゲンに移っていたのである。かくて母は遺産の分配を申請 し,母は持参金を含めて4019グルデン,他の3人の子供は各々2231グルデン相 続したが,ちなみに1グルデンはおよそ12マルク相当であるから,1マルク80 円で換算すると,母は385万余円,詩人は210万余円となろう。子供達の遺産は これ以後,担保証券と貸付金として母に注意深く管理され,利息を増やして行 くのである。 ゴックはすでにおそらく,ラウフェン時代から上役と共にはじめていたワイ ン商売をニュルティンゲンでも協同で続けたが,上役のおかげで財務管の称号 を得たのである。彼は夏結婚する新しい家として,母の資金援助により養老院 を購入した。これは,ネッカー河畔にある3階建の立派な建物であり,複数の 地下室や農業用建物を含み,スイス館とよばれていた。にの建物は現在小学校と なっている。)さらに彼は母の資金により,いくつかの土地や畑を買い足すが, 母は夏に4回にわけて土地をみな売却した後,10月ニュルティンゲンで3ケ月 年少のゴックと再婚する。ゴックは亡き父と似て,役所の仕事をするかたわら ワイン商売を行い,また農業も営むという“精力的な精神”の人間であったが, 第2の義父はヘルダーリンによっても大変なつき愛されたのである。ゴックは かなりな書物を所有していたように,書物をあがない求め読む種類の人間であ ユ り,詩人は少年時代,それらさまざまな本を読んだにちがいない。 1) Vgl. HOIderlin Stimtliche Werke, GroBe Stuttgarter Ausgabe(=St A), VII, 1: フリードリッヒ・ヘルダーリン 21 ゴックは翌年果樹,牧草地,疏菜畑のある広大な土地を買い足し,さらにそ れ以後もたくさんの畑や牧草地を手に入れるのである。この町は風光明眉であ るが,とりわけ果樹園等は少年時代じかに自然に触れる機会を与えたであろう。 かくて詩人は少年時代めぐまれた自然環境の中で余裕のある家庭に育ち,美し い自然はみずみずしい少年の感受性をより敏感に研ぎ澄ませたであろう。それ はたとえば後年『昔と今』において,「おんみら,わが少年の歓びの時々よ/ 遊びと安らかな微笑みの時々よ1/わたしはおんみらを再び見る一素晴しき瞬 間よ/かの時わたしはひな鳥にえさを与え/かの時わたしはかんらん/そして 2) 撫子を植え一かくわたしは春を歓び/そして収穫,そして秋の雑踏を歓んだ」 と歌われたのである。 新しい妹ドローテアが8月に生まれるが,またこの夏,母の妹マリアはレヒ ガウの牧師マーイェルと結婚する。また1L月母と共に親戚を訪ずれていた時, 4歳半の実の妹フリーデリケが急病で亡くなり,おそらく少年は大きな衝撃を 受けたであろう。しかし少年は妹の遺産の3分の1,743グルデンを相続し, 合計2974グルデン,つまり285万円の遺産を得た。さらに暮にはこの夏生まれ たばかりの義妹が亡くなり,少年はふたたび身近かに死の体験をもつことにな る。 一 ヘルダーリンは1776年秋,6歳でニュルティンゲンの有名なラテン語学校に 入学するが,修道院学校入学の国家試験準備のため,家庭教師の個人授業でず っと補習することになる。また彼は,ネッカー河畔で行われる,昔からの五月 祭に参加し,これは14歳まで続くのである。この10月には義弟カール・ゴック が生まれた。父は翌年ニュルティンゲンの市長となるが,5月目ウフェンのロ ーエンショルトが44歳で亡くなり,少年は遺産の4分の1,139グルデン相続 S.275f.詩人の年代記および記録はこの全集が文献学的に最:も詳細をきわめかつ信 頼できるため,本稿ではこれを基にしたBeck, Adolf:Hblderlin, Chronik seines Lebens mit ausgewahlten Bildnissen, Insel Verlag 1978も参照するが,ほとんど すべて大全集に従う故,以下特別に引用しないことにする。 2)StAI,1=S,95詩と書簡等の翻訳は『ヘルダーリン全集』(河出書房新社)を主 として参照するが,随時適宜,変更:することにする。 22 彦根論叢 第250号 し,かくて合計4367グルデン,つまり419万円の相続となった。また11月に生 まれた子供はすぐ亡くなったが,翌年11月はじめ義妹クリスティアーナが生ま れたのである。 この月大きな洪水があって町も水害にあうが,一家のネッカー河畔の野良石 積の塀が流されると共に,ゴックは市長の職務を熱心に行うあまり肺炎にかか る。義父はかくて病床につくが,翌年3月とうとう30歳で亡くなった。これは 母にとってまごとに大きな悲痛であったばかりでなく,10歳にならんとする少 年にとっては,義父の死そのものよりも,それに伴う母の閉じむあり様を目の 当りにしていっそう感じやすい心を痛めたにちがいない。あの幸福な少年時代 はいまや終りを告げ,これ以後,名状しがたい悲痛への心的傾向が少年の身に ついて行くのである。それは,母にあてて後年,「私にとってその愛がとても 忘れがたかった,私の2番目の父上が亡くなられた時,私が,理解しがたい悲 しみと共に孤児であると感じ,あなたの日毎の悲しみと涙を見た時,あの時, 私の魂ははじめてこのような厳粛な気持になり,それが2度と私から離れなく きう なり,そして無論のことながら,それは年と共に大きくなるばかりでした」と 告白していることからも類推できるであろう。 母は,夫の死後すぐ3月のうちに,まず畑や牧草地の一部を売却し,残りは おそらく賃貸に出したのであろう。かくて少年は,ニュルティンゲンに移って から共に住むようになった母方の祖母ハイソと,母の女手によって育てられる が,甘やかされもせずまた悲痛によって暗くもならなかった。母は秋ネッカ一 河低地地帯(ウンターラント)の親戚をたずね,またラウフェンの実父の家も訪 問する。翌年母はまた土地の一部を売却するが,広大な果樹園等は賃貸のまま にしておいた。また少年はこの年から,毎日1時間クラヴィーアのレッスンを 受けるようになり,すぐフルートも加えられたが,この練習はずっと続き,詩 人が生涯愛したクラヴィーア演奏の基礎となり,フルートもすぐれて吹奏する ようになるのであ1る。 3) St A VI, 1: S. 333 フリードリッヒ・ヘルダーリン 23 母は4,月,少年と妹のハイソリーケをつれて,レヒガウの親戚および実父の 妹が嫁いでいたヴォルマールを訪ずれる。彼の書記であり,後に親戚ともなり またその後継者ともなるブルームはその折のことを日記で,「彼女はおよそ26 から28歳ほどの,若く美しい寡婦である。大変品がよく非常に理性的に見える。 の 彼女の子供,11歳の男の子,8歳の女の子は大変よくしつけられている」と書 いた。母は実際は31歳であって,多くの悲しみと苦しみを経て,一人で家政を きりもりしていたが,いわば世帯やつれしていなかったのであろう。また詩人 の容貌の美しさが,むしろ母ゆずりであることがここから推し測られるであろ う。少年は9月はじめて,修道院学校入学の国家試験をシュトゥットガルトで 受けるが,これはふつう数回受験して合格するものであった。かくて少年は 1782年副牧師ケストリーンと教師クラーッから,毎日1時聞ずつより高度の個 人授業を受けるようになる。それは受験課目であるラテン語,ギリシャ語,ヘ ブライ語,弁証法,修辞学,宗教等であった。とくにケストリーンの敬度主義 に特徴づけられた人格は,少年に畏敬と愛を目覚めさせたようである。また学 校と個人授業から古代人への偏愛がはやくも芽ばえ,見知らぬ世界の魅惑を伝 える旅行記への生涯変わらぬ愛好もはじまったのである。 少年は翌年秋4回目の最後の国家試験をうけ,次の年秋デンケンドルフ下級 修道院学校入学が決定されたのである。この年暮義妹のクリスティアーナが狸 紅熱で亡くなり,13歳の少年は2人の父,4人用妹を失い,祖父伯母も失った のであるから,まことに多くの死に色どられた少年時代を体験したと言えよう。 だからこそ少年は16歳の時,友人にあてて,「ぼくはその上かなり十分に耐え 忍ばなかっただろうか。ぼくはすでに少年の時,男子にも溜め息をつかせる、か もしれないことを経験しなかっただろうか。そして青年になった時,もっとま ヨ しになっているだろうか」と書いたのであろう。翌4月少年は古い町の教会で 堅信礼を受けるが,デンヶンドルフ修道院学校の教授未亡人から,丁度主義的 市民家庭のお気に入りの『宗教歌の小箱』を贈られた。 4) St A VII, 1: S. 298 5) St A VI, 1: S.9 24 彦根論叢 第250号 少年はかくて10月7km北方の下級修道院学校に29人の同級生と共に入学す るが,同じ頃ヴォルマールが亡くなる。これは全寮制であるが,母は小学校入 学時に始めていたものの,この入学と共に死によって中断されるまで続く,詳 細な支出帳を正式につけはじめるのである。そのはじまりには,「愛するブリ う ッツのための支出,これはしかし彼が従順であるかぎり控除されるべきではな い」と印されていた。すなわち詩人が母に従順であるかぎり,これらの支出は 遺産相続の厚岸除されないと注意深く記録したのである。やがて後年これが,. ゴックとハイソリーケの遺産あらそいの際,母の遺言状と共に重要なはたらき をするのである。これは,2度の結婚から生まれた子供達に正しく処置しよう とする母の敬度な良心からであろうが,40年間にわたる詳細な記録は,母のす ぐれた理性的一面をもうかがわせるものであろう。いずれにしてもこの明細帳 のおかげで,詩人の全生涯の出費がわかるという不思議な結果になるのである。 詩人が学費免除の牧師への道を選んだことは,その家系からしても,また父 を亡くした経済的事情からもごく自然のなり行きであったろう。生徒は修道院 の規則と秩序に従い,牧師以外の職業につかず,これに違反した場合はすべて の経費を弁済する旨の文書に署名しなければならなかった。修道院の生活は, 夏は朝5時(日,月は6時),冬は6時起床からはじま.り,こまかく決められた 日課を夜8時まで続けるのである。授業課目は宗教,ラテン語,ギリシャ語, 新教,ヘブライ語,論理学,修辞学,歴史,地理学,算術,週番,演説の12課 7) 目が1週間19時間おこなわれた。外出やレクリエーションはごくまれにしか認 められず,さまざまな規則によって厳しく監督される生活であったから,生徒 達はみな苦しむのである。学校長は70歳のエルベ監督教区長であったが,クラ ヴィーアのレッスンは食堂長のもとで続けられた。この年ヘルダーリンは,現 存する最初の詩「師への感謝』および『わが神に』を創ったが,14歳の少年は 早くから詩心をはぐくみ,詩作になじんでいたことがわかるであろう。 翌年1月実父が,テユービンゲン犬学時代に用いた記念帳に13名の記入が行 6) St A VII, 1: S. 281 7) Vgl. St A VII, 1: S. 324ff, フリードリッヒ・ヘルダーリン 25 われるが,この記念帳は,当時の教養形成に熱心な,とくに学業にある青少年 の象徴であった。しかし詩人はあまり熱心な記入収集家ではなかったようであ る。同じ頃彼は義務をないがしろにしたという軽い違反行為の故に,他の3人 と共に2度食事の際のテーブルワイン抜きとなった。試験が3月にあったが, 彼は6番であり,これは以後ずっと続き,4月の復活際の休暇にマルクグレニ ンゲンのヴォルマール叔母を訪ずれる。少年は11月現存する最初の手紙を,か つて個人授業をうけていたケストリーンにあてて書くが,全体は敬度な良心の 調子でつらぬかれ,あのより善きものをひたすらめざす意志的強さがはやくも おう 感じられるであろう。また少年は暮に現存する最初の母あての手紙を書くが, 子供の呼びかけである‘‘最愛のママ”をもちいて,これは以後唯一の特別な例 外をのぞいて社会人となるまで続くのである。また終りは変化もあるとはいえ, ‘‘ ]順な息子”としるされることが多い。 この年は『夜』,『M・B』,『みたされぬ者』,シラー(1759一一:1805)の『群盗』 に刺激された『夜の旅人』,「思い出』,クロップシュトック(1724−1803)の 『救世主』に影響された『アドラメレヒ』,『兵士をはげますアレクサンドロス の言葉』があるが,『人間の生』において,はやくも純真な心をもつ自身とま わりの人々との軋礫を次のように歌った。「人間たちよ,人間たちよ1おんみ らめ生とは何か/おんみらの世界,涙にみちた世界/この舞i台は,それは悲し みのっけ加わらぬ/喜びを与え得るだろうか/おお1おんみらのまわりに漂う 影よ/そはおんみらの喜びの生なのだ〃まさにたしかにすでにあまたの善き魂 は,欺かれて/おんみらの致死の毒を吸ったのだ〃千の悪意に満ちた中傷をば かくて/世界はさがす,美徳が世界に似るために/かくて嫉みの舌は咬みつき む 嘲笑する/あわれな無享が屈するまで」 少年は,1786年4月の復活祭の休暇を母のもとで過ごすが,妹の堅信礼が行 われた。彼は6,月,合唱礼拝の際教会内を歩きまわったかどで,1度テーブル ワイン抜きの罰を受ける。かくて10月マウルブロンの上級修道院学校に入学す 8)VgLStAV工,1:S. 3f. 9) St A 1, 1: S. 13f. . 26 彦根論叢 第250号 るが,修道院長は上級聖職者ヴァイラントであった。ここでは日課が以前と同 様こまかく決められていたが,はるかに自由であり,生徒達はそれまでの美徳 を失い,早婚への道を歩み,夜外出して青春の無軌道な遊びをするものもあっ た。11.月ヴュルテンベルク公国のカール・オイゲン大公とその妃フランチスカ は,ハイデルベルク大学400年祭に出席した後修道院を訪ずれるが,彼はフラ ンチス町彫に献詩したのである。これは同級生達の間ですでに詩才が認められ ていたことを示すであろう。 修道院管理人ナストは広大なブドウ畑の経営を大変有能におこない,修道院 の財政を高い地位にあげると共に,みずからも裕福となり,院長ともよい関 係を保っていた。少年は入学してすぐ管理人の三人娘の末子ルイーゼ(1768− 1839)と知り合い,2歳年上の女性と互いに愛しあうようになる。彼はこれ以 後愛と苦しみをさまざまに体験するが,まさに青春のはじまりと言えようか。 彼はルィーゼの従兄弟ナストと友人となり,彼あての書簡が多く残されている が,彼女のはたった3通であり,そこから見ると,ルイーゼは感激しやすい心 情のもち主であると共に,時として女らしい情熱にかわる優しさをもあわせも っていたようである。詩人は大変美しい姿,美しい容貌をしていたから,これ 以後つねにまわりの女の子達の注目の的であり続けるのである。この年は『わ が家のひと』において,母と妹,弟および祖母について家族の愛と敬度さを歌 い,またルイーゼにあてた,当時女性の名前としてよく用いられた『シ=テラ に』が創られた。さらに『さよなきどり』,『わが友Bに』および『ささげる詩』 が完成・されたのである。 ところが彼は翌年はやくも修道院生活がいやになり,復活祭の休暇の写場と 聖職者の道からはなれる望みについて話し合う。その原因は友人ナストにあて て,「ぼくは少年時代の一ぼくのその頃の心の一素質を持っている一それにま たこの素質こそぼくにはいまでも最愛のものなのだ一それはまったく蝋のよう に柔らかだった。ぼくがいまでもある種の気分になっている時には,何事によ らず泣くことができるのは,ここにその理由があるのだ一ところが,ぼくの心 のまさにこの部分が,ぼくが修道院にいるあいだに,もっともひどい仕打ちを フリードリッヒ・入ルダー.リン 27 受けたのだ一ぼくの心は一この心はとても邪悪なのだ一ぼくはかってもっと善 い心をもっていた一だが,それをかれらがぼくから奪ってしまったのだ」と書 いていることから推測できるかもしれない。すなわち彼は,詩人としての根本 素質である,みずみずしく柔らかな心が修道院の生活によって逆に奪われてい ると告げているのである。しかし修道院にもどると,ルイーゼへの思いもあっ てか断念する。しかし夏にはまた,「ここはぼくにはもう我慢できない!本当 にもう我慢できない1ぼくは去らねばならない一ぼくはかたく決心したのだ。 あす母に手紙を書くか一ぼくを修道院からまったく引き取ってくれるようにと, それとも修道院長にたびたび喀血するからと言って,2・3ヶ月の療養期間を 願い出るかだ」とナストに書いた。しかしまた断念し,これ以後ずっと聖職者 の道を離れたい思いは心の底にわだかまり続けるのである。たとえば,「今日 ぼくはひとりぶらついていた一突然,ぼくの気に入りの愚が,ぼくの未来の運 命が目の前に浮かびあがってきた。その時こんなことがぼくの心に浮かんだの だ,大学時代を終ったら,隠遁者になりたい一そしてこの考えはひどく気に入 った。まる1時間だったとおもうが,その間ぼくは空想のなかで隠遁者だっ う た」とナストに告げている。まわりの同級生野と相容れない微妙なものを心に 深く感じる故か,彼の非市民的性格がこのような表現をとるが,事実のちにこ のような形に近い家庭教師の生活をするのであるから,これは或る意味でみず からの未来の運命を予感したと言えようか。 彼はルイーゼに関して人々のうわさも含め,さまざまな苦しみを経た後のこ の秋,彼女への愛を再確認するが,彼女はこの暮の手紙において,詩の形で “早い別離の苦しみ”について敏感にあらわすのである。この年の詩には,ル ィーゼとの苦しみの反映であろうか『嘆き,シュテラに』,『愛する少女たち に』があるが,『決意』では,詩人としての目覚めと他の仲間とはちがうとい う意識を歌い,何よりも‘‘ピンダロス(B. C. 518−446)の飛翔とクロップシュ 10) St A VI, 1: S.7 11) St A VI, 1: S. 16 12) St A VI, 1: S. 18 28 彦根論叢 第250号 トックの偉大さ”と具体的に目標を表現し,詩人の道を歩もうとする決意がは っきり歌われるのである。あたかも詩人17歳であった。さらに『荒野にて』で は,「おんみら,おんみら,より高貴な人々よ,来たれ1/気高い老人と男子 たちよ,そして気高い若者たちよ,来たれ1/われら小屋を建てよう一真のゲ 正3) ルマンの男性精神の/そして友情の小屋をわが寂しい荒野に」と歌い,世俗の 一般大衆意識から逃れて,高貴な精神の世界をうち建てんとする,生涯つづく 孤独な努力が歌われるのである。 翌年2月大公の60歳の誕生日が修道院でも祝われるが,彼は母にあてて, ユの 「私は,私たちの祝祭の席で詩入として登場する名誉をもちました」と書いた。 復活祭の休暇の3月下旬,ヴォルマール夫人が重病なので,彼は母たちと共に 見舞いずっと病床についていた。書記のブルームは病床の婦人のねがいにより, その若き娘フリーデリケと婚約する。詩人は4週間つきっきりであったが, 「ぼくが再びこちらへ旅立つことになり,彼女に永遠の別れを告げた時,そし て彼女がこう言った時一私たちはこの世ではもう決して会えませんが,あの世 では会えるのです一おお1この言葉をぼくは決して忘れはしない1これは人間 のもっとも至福な思想,永遠への思想なのだ」と友人に書いた。彼は幼い日か ら多くの人の死を体験してきたが,このおばの死を機会に人生の永遠について 深く考え,それはクロップシュトックの影響が感じられる,頬歌『魂の不滅』 に結晶したのである。 この頃おばと同じ地方に家がある,大学時代親しい文学の友となる,二歳年 上のマー・一ゲナウ(1767−1846)と知りあい,二人は詩について話しあう。彼は さらに他の親戚もたずね,父の家にもより,あるいはこの時その窓ガラスに, 悲痛な思い出の詩句を書きつけたのかもしれない。さらに6月ブルームが婚約 者をつれて故郷シュパイヤーへ行く旅に誘われるが,彼はこの時はじめてせま い故郷からぬけ出てプファルッ地方を旅し,ハイデルベルク,マンハイム等を 13) St A 1, 1: S. 30 14) St A VI, 1: S. 27 15) St A VI, 1: S. 30 フリードリッヒ・ヘルダーリン 29 見学し,オッカースハイムでは同郷のシラーが1782年に逃亡地として長い間泊 っていた,飲食店“フィーホーフ”で休み,“聖なる場所”として感動するの であった。しかしライン河の素晴しい眺望が旅のもっとも印象深いものであっ たろう。修道院長ヴァィラントが7月59歳程で亡くなったが,翌月最後の試験 でヘルダーリンは詩学で優をとり,またまわりから“熟達したギリシャ人”と 見なされたのである。 この夏彼は,いままでの詩を清書して一冊にまとめるが,そのノートをマー ゲナウに渡す。9月中旬にはルイーゼと別離の詩をとりかわし,ふたりは愛の ‘‘ i遠”について確かめあう。かくて彼はマウルブロン上級修道院学校を卒業 し,友入ナストを訪ずれ,ルィーゼもいっしょになって楽しい休暇をすごすが, 彼はこの頃母と彼女との将来の結婚について話しあい,母の承諾を得たようで あり,すぐそれを彼女に知らせ,幸福な返答を得たのである。あたかも詩人18 歳の秋であった。これはいったい何であろうか。 マウルブロン時代の詩の『桂冠』において,彼は「クロップシュトックのよ うな人が聖堂の広問で/その神に火の犠牲を捧げ/その賛美歌の歓喜のひびき のなかに/その魂が天にむかって舞いあがるならば/わがヤングが暗い孤独の なかに/まわりに亡き人々をつどえて目覚めるならば/深夜の霊感のために/ その弦楽をより絶妙に調律するために」と歌い,イギリスの詩人ヤングとな らびクロップシュトックが宗教的詩人の模範とされるのである。さらに『童名 心』と『謙虚』があるが,「静けさ』では,「おんみ,おお,おんみだけだった, 少年の心に/あの安らかさを注いだのは/おんみから流れ来たあの天の歓びは 17) /高貴な静けさよ1優しい歓びを恵むものよ」と歌った。また『夢想』では 「神さま1偉大な男子に成ることは/かくもしばしばかわが望みわが地上の夢 だった」と歌い,詩人の人間としての根本願望を伝えている。また『激情のた 16)St A I,1=S・36, Edward Young(1683−1765)1751年力〉らドイツ語に翻訳されは じめ,18世紀のドイツ文学に影響を与えた。 17) St A 1, 1: S. 42 18) St A 1, 1: S. 46 30 彦根論叢 第250号 たかい』では,ルイーゼという具体的愛の対象がある故か,青春の情熱の苦悩 が吐露されるが,「ヘーロー』では,古代から題材をとり,海を渡り恋人と逢 瀬をたのしむ主人公が,嵐の夜に溺死するさまを歌う。さらに『テックの峰』, 『友情の祝いの日に』,および『ルイーゼ・ナストに』がマウルブロン時代の 最後をかざる詩であった。 1 ヘルダーリンはかくて1788年10月テユービンゲン大学神学部に給費生とし て入学するが,シ=トゥットガルトのギムナージウムからヘーゲル(1770− 1831)等3入が加わり,学生達は神学寮に住むことになる。彼は友人達の間で “まるでアポロンが広間を歩いているようだ”と言われるほど,その美しさが 際立っていたようである。11月の成績では6番であったが,暮にバチュラーの 学位を受ける。彼はあいかわらずルイーゼと文通し,共通の幸福な未来への希 望の手紙と共に,当時はやっていた自分の切抜き絵を送った。さらにこの冬, 2年前から入学していたノイファー(1769−1839)とマーゲナウの“友情と詩の 盟約”に加えられて,3人目これ以後文学的活動に互いに努力しあうのである。 この盟約は,非現実的文学活動そのものに冷たかったシュヴァーベン,テユー ビンゲン,神学寮において,大いに詩人を元気づけるものがあったろう。テユ ービンゲン時代最初の詩『男子の歓呼』では,「われらの内に神々の火花がほ のかに燃えている/そしてこの火花をわれら男子たちの胸から/地獄の力も奪 19) い去れぬ1」と歌った。また『さまざまな時代の書』と『成就を歌う』が創ら れた。 翌年1月まだ熱心に手紙のやりとりをして復活祭の休暇を楽しみにするが, 2月はじめて印刷された,失われた詩を彼女の従姉妹の結婚式に送る。彼はそ れから足の負傷治療のため4週間の休暇をとり家へ帰り,そのまま復活祭の 休みとなる。ノイファーは3月故郷シュトゥットガルトで詩人シューバルト 19) St A 1, 1: S. 67 フリードリッヒ・ヘルダーリン 31 (1739−1791)および,‘‘シュヴァーベンのミューズ達の上級司祭”であるシュ トイドリーン(1758−1796)をたずねる。この頃詩人は,ルイーゼとの婚約解消 について手紙を交換するが,結局,彼女が止むを得ざることと理解せざるを得 なかったのは,彼の表明が決定的理由となったようである。しかしこれは基本 的話し合いが一応済んだということであり,2人の間はこれ以後も以前とはち がうとはいえ,とくにルイーゼの側からさまざまな愛の名残りを響かすのであ る。ともかくこれで少年の日の恋は実質上終り,それと共に従兄弟ナストとの 少年時代の友情も終止符を打った。しかし母はこの件に心をいため,気分を害 し,おそらく詩人を非難したこともあったと思われ,憂縫のひとつの原因とな ったであろう。 彼は4月にはノイファーをたずね,その紹介でシューバルトを訪問するが, 母にあてて「彼が私をとても親切に父親のようなやさしさで迎えてくれたこと はあなたも御存知でしょう。彼は私の両親のこともたくさんだずねて,詩人に はたびたび大きな支出があるものだが,私もその援助が十分してもらえるのか とたずねました一私が彼にええと答えると,彼はそのことを能うかぎり大いに 神に感謝するようしきりに私に勧めました。そのために私はまったく感動させ られました。おお,このような男子の友であることは喜びでしょう」と書いた。 また成績結果は8番に下がり不愉快を覚え,ルィーゼとの後遺症,神学寮の陰 轡な雰囲気もあり,彼は次第に暗い瞬間をもつようになる。ノイファー達との 文学的語らいの他は,フルート,コーヒー,タバコが慰めとなるが,特にタバ コは好んだようである。夏には当地に滞在した,有名な盲目のフルートの名人 ドゥロンからレッスンを受け,ノイファーと共に早逝した同窓の先輩詩人,友 人達に尊敬されていたティル(1747−1772)の墓をたずねるが,詩人はずっと 後まで,クロップシュトックに感激したこの愛国的詩人を愛:回するのである。 これは『ディルの墓』に実った。 3人は近くの谷を“ティルの谷”と名づけ,よくそこを訪ずれてワインやビ 20) St A VI, 1: S. 45 32 彦根論叢 第250号 一ルを伴う文学的楽しみをもったりするが,秋にはシ鉱トイドリーンを訪問す る。11月大公はその妃と共に神学寮をおとずれて,より厳しい秩序と法をもた らすことを告げ,学生達は大いなる不満を抱くのである。彼は前年からつねに 心にかかっていた,神学寮をやめて法学を学びたい希望を母に伝えるが,もち ろん母たちはこれに反対し,これも心を暗くする原因のひとつであり続ける。 この下手は,路上で会ってもしきたり通り帽子を取ってあいさつしなかった, 小学校教師の帽子を取って地面に投げつけたかどで,6時間の監禁の罰をうけ るが,これは彼の醗屈した心情の反映であったろうか。彼はこの洋楽にあてて, 「私の身体と魂の状態は,この境遇のなかで,調子が狂っているのです。絶え ざる不愉快,束縛,:不健康な空気,悪い食事が,私の身体をもっと自由な境遇 にいる場合よりも,たぶん早く衰えさせるとあなたは結論できますでしょう。 私の亡き父は,大学時代がもっとも楽しかったと常々何度もおっしゃっていま したが,私はいっか,大学時代が私の人生を永遠に不愉快にしたと言わなけれ ばならないのでしょうか」と書いている。 しかし同じ手紙に同封して妹に送った「シュヴァーベンのおとめ』は,丹那 の唯一のいわば社会詩であるが,この頃の心情からすれば,何と明るい内容で あろうか。やがて新しい足の負傷により4.週間の治療休暇をとるが,暮には大 学に戻る。この年の詩は,大公の干渉やその他もろもろに対する不満いきどお りが,『いらだち』に歌われたと言えようか。さらに『悲しむ者の知恵』,神学 寮に学んだことのある『ケプラー』,『グスタフ・アドルフ』,『グスタフ・アド ルフに寄せる連詩の終章』,『やすらぎ』,「名誉』,『昔と今』,未完の『自虐』, 同じく未完の『聖なる道』があった。 翌90年1月彼は,長い間悩み苦しみ,また母や家族にも心配をかけてきた人 生の進路について最終決断して,牧師の道を進むことにしたと母に伝えるが, 心の底から晴れやかになれず,この十念はあとあとまで影をなげかけるのであ る。なにゆえ彼が牧師の道をいとうかいくつかの理由が考えられるが,その主 21) St A VI, 1: S. 45f. フリードリッヒ・ヘルダーリン 33 たる理由のひとつは,「新旧の哲学,プラトンやスピノザ,ルソーやカントに ついての議論が,ヘルダーリンをして,キリスト教正統主義に対してより批判 的にならせ,結局はまさに,テユービンゲンの神学者たちの教理神学に対立さ せてしまった」からであろう。この頃神学校改革のため大臣と宗務局の派遣員 が神学寮に来るが,すぐあと大公みずからも視察に訪ずれて,新しい諸規則の 必要性を強調した。時あたかも自由,平等,博愛の人権宣言が発せられた後, このような専制的大公の処置が行われる故,神学生たちはあらためて憤激した ことであろう。 春,後にロィトリンゲン市長になるカメラーが来て,妹との結婚を希望する が,詩人もそれに賛成し,妹は交際するようになる。3人はクロップシュトツ クの“学者の共和国”にならい,3月9日第1回“参事会員参集日”をもち, 盟約の書を奉献する。これは各人が自作の詩をもちより,ワインやビールを飲 みながら発表し批判しあうものであり,詩人は『友情の歌』を記入するが, 「専制君主がおどすときは真実を/不幸にあっては男子の勇気を/弱者がたお れるときは忍耐を/愛を,忍耐を,暖かさを/友らは友の眼から飲む」と歌う。 それから復活祭の休暇に家に帰るが,弟カールの堅信礼があった。またこの頃 ルイーゼから手紙と共に花の贈物をうけ,その意味する所を考え,彼は指輪と 手紙を返し最終的手紙を書いたのである。彼はそこで婚約解消の理由を満たさ れない名誉欲,世に対する不平,将来に対する不確かさ等とあげているが,本 当は少しニュアンスが異なっていたのではなかろうか。 彼が大学に入学して以来,本格的により広くより深い精神的世界を知り体験 するにつれて,また文学をめざそうとより真剣に自覚するにつれて,ルイーゼ はなる程美しく優しく気立てのよい娘ではあるが,ただそれきりの普通の娘で あって,一生を共にするにはあまりに共通する精神的基盤が欠けている事実を 直感し,それが時と共にはっきりした故であろう。名誉心を満たすとは詩に命 22) Greiner−Mai, Herbert: H61derlin Werke, 3. Aufi. Aufbau−Verlag 1968, Bd.1. S. 8 23) St A 1, 1: S. 108 34 彦根論叢 第250号 懸けでとりくむことを意味するから,ルイーゼが望むように田舎牧師に埋もれ るわけにゆかず,従って将来は不確かにならざるを得ないのである。文学をめ ざすことを名誉心と表現した故に,彼女は自分が文学や精神的世界において彼 について行けず,結局,2人の間の精神的世界の懸隔の大きさを認めざるを得 ず,彼女はあきらめざるを得なかったのであろう。しかしこれは人間的愛の食 い違いではなく,2人の精神の本質の問題であるから,彼女にはいつまでも何 かしらあきらめきれない愛の名残りが糸をひくのであった。しかし彼はいまま で相手を思いやって,具体的に明らかにすることをひきのばしてきただけであ るから,かくて少年時代からの愛の残津をきれいにし,一方の肩の重荷を最終 的におろし,これから青年の激しい情熱をもって詩の世界をめざすのである。 第2回参事会員日が4月20日にもたれて,彼は盟約の書に『愛の歌』を記す が,「愛は岩石をうち砕いて/魔法で楽園を創り成し/天と地を再び創造する ゆ /劫初のときと同じように神々しく」と歌い,いわば愛の個人的体験が見事に 昇華され客観化されて,愛はありとあらゆるものにみなぎりしみ通り,万象を 結びはぐくみ,宇宙を創造する永遠の普遍的力とされて,詩人の天性がはじめ て具体的に表現されたと言えよう。つづいて6月1日おそらく最後となった第 3回参事会員日がもたれるが,彼は『静寂に寄せる』を記入した。7月同級生 の1人が素行不良のかどで退学になったが,神学生たちは厳しい規則にしばら れ,今日では想像し得ぬような圧迫感に常にさらされていたから,その栓楷と 重苦しい雰囲気から逃れるべく,外出の際にはかなりしたい放題のことをして いたようである。3入の友情はこの夏が頂点をなし,しばしばティルの谷やそ の他お気に入りの所へ行き,時には他の心のあう入もまじえて,ワイン等を飲 みながら楽しく時を過す。そんな時はクロップシュトックの頒歌を朗読したり, 友情の歌をつぎつぎと歌ったりして,若き血をたぎらせたのである。そのよう な8月中旬3人は宗務局から最初の戒告をうけ,監禁の罰をこうむった。 詩人はまたこの夏哲学に目覚め,とくにカントの哲学に情熱的にとりくむが, 24) St A 1, 1: S, 111 フリードリッヒ・ヘルダーリン 35 この頃神学教授兼大学事務局長の娘エリーゼ・レブレット(1774−1839)と知 りあう。また彼は夏学期に,ヴィンケルマンの影響があるピンダロスを文学の 綜合とする「ギリシャ人の芸術の歴史』,『ソロモンの箴言とヘシオドスの作品 時代とのパラレル』の2つの模範論文を仕上げた。かくて彼は9月マギスター の学位を授与され,休暇に家へ帰るが,10月にはノイファーをたずねいっしょ にシュトイドリーンを訪ずれる。詩人は『不滅に寄せる讃歌』を伝え,彼の年 刊詩集に参加することを話し合い,これ以後親しい友人となる。ノィファーは シュトイドリーンの妹の1人を愛するようになり婚約するが,他の姉妹シャル ロッテは詩人に深い関心を寄せるようになる。 新学期にはシェリング(1775−1856)が15歳で神学寮に入学して,同じ大部 屋に暮らし勉強するようになった。彼はこの頃或るオークションでレブレット に再会し,高貴な家系の娘にかなり深い愛好を示し,ここから『わが快癒,リ ュー _に』が創られる。彼はこの新しい女性との出会により,それまでの醗屈 した精神の状態から救われ,新しい自立の道を歩むが,さらに『メロディー, リューダに』が創られ,『リューダに』では,短かくもはかない恋の終末が歌 われた。しかしこの新しい歌の泉はこの年かぎりで澗れ,それ以後2人の結び つきは緊張,幻滅,苦悩をともないながら,やはり主として彼女の側から大学 時代のあとまで続くのである。大公は11月神学寮を訪ずれて,新規則の徹底完 成を強調するが,この頃ノイフィーにあてて,「ぼくはストア主義者に永遠に 堕落してしまった。そのことがぼくにはよくわかるのだ。永遠に潮の干満。そ して絶えず仕事をしていなければ一時には無理にでも仕事をしていなければ, の また古代人(老人)になるだろう」と書いた。大公のたび重なる時代に逆行す るような締め付けば,若き人々の感情を大いに刺激したが,詩人は入生のあら しに動ぜず,平静であらんとするストア主義者になったと言うのである。この 頃順番により昼食の時説教するが,またスイス出身の或る貴族にラテン語とギ リシャ語を教えるアルバイトをするようになった。またフェンシングを習いは 25) St A VI, 1: S. 56 36 彦根論叢 第250号 じめたようである。 この年の詩には『テユービンゲンの城』,また最初のギリシャについての未 完の『ギリシャの精霊に寄せる讃歌」では,クロノスにむかい「神々の面前で 26) /おんみの口は決した/愛の礎の上におんみの国を築くことを」と歌った。ま さにギリシャの神々,文化の本質を歌うが,「神々すべてはヘルダーリンにと って個人的形姿はきわめてまれな場合であり,むしろはるかに広く地上や大地 にとってと同じく大空でも,たいてい恵み豊かにはたらく神的自然の諸力なの である。」また『ミューズに寄せる讃歌』では,“新しい至福の天職,,として詩 人の天職を生きんとする覚悟を歌い,さらに『自由に寄せる讃歌』を創り,大 学時代の一大特徴である讃歌の創作がいよいよ本格的になされるのである。ま たこの年から弟カールはおそらく経済的理由から進学を断念し,ニュルティン ゲン市書記となり役人の道を歩みはじめ,最後には貴族にまで射せられるが, 詩人はずっと続く教育者としての役割を演じはじめることが,その書簡からう かがわれるのである。 翌91年2月彼はヘーゲルの記念帳に,ゲーテの『イフィゲーニエ』から「歓 びと愛は偉大な行為への翼である」と書きこみ,ヘーゲルはそれに,かれら共 通のモットー“一にして全”をつけ加えた。彼はこの頃また昼食のとき説教し, 翌丹もまた行うが,妹にあてて,「ぼくの最高の願望は一いっか平静と閑居の うちに生活をして一そして本を書くことができ,その際飢えないということ だ」と理想を告げる。彼は4月復活祭の休暇に友人2人と共にスイス旅行に出 かけ,シャッフハウゼンでライン河の滝を見て感動し,またドナウ河上流も渡 る。旅の興奮さめやらぬ5月はじめ『シュヴィーッ州』が創られたが,6月に は『美に寄せる讃歌」の第一稿ができた。この頃母がルイーゼの結婚話につい て知らせたのに対して,とうとう母にもはっきり意志のないことを告げたが, 後年弟にあてた手紙によると,大学時代の第3年目でことは終り,あとはうわ 26) St A 1, 1: S. 126 27) Prang, Helrnut : H61derlins G6tter−und Christus−Bild. ln : Riedel, lngrid: H61derlin ohne Mythos, Gbttingen 1973, S. 50 28) St A VI, 1: S. 66 フリーードリッヒ・ヘルダーリン 37 べだけの名残りにすぎず,その後みずからの軽薄さの後遺症に苦しんだことが うかがえるのである。 シュトイドリーンの『1792年版年刊話集』が9月に出版されるが,「ミュ・一一 ズに寄せる讃歌』が巻頭をかざり,ヘルダーリンは詩人としてはじめてデビュ ーしたのである。ほかに『自由に寄せる讃歌』,『調和の女神に寄せる讃歌』, 『わが快癒』が載るが,彼は母に一部を送ると共に,これ以後緊張して批評を 待つことになった。この下旬ノイファーは卒業してシュトゥットガルトの孤児 院の説教師になるが,首都の精神生活に活発な関与をするようになり,マーゲ ナゥはまず故郷の義父の子弟の家庭教師となる。シューバルトは亡くなる直前 の10月目の年代記で,「ヘルダーリンのミューズは真剣なミューズである。そ れは高貴な諸対象を選んでいる。ただほとんどつねに押韻された10脚の弱強格 であるため,彼の詩はひどく単調になっている」と批評した。彼は秋の休暇に 家へ帰り,それからノイファーの所へ行き,以前からの希望,神学寮を出る件 について話し会う。彼は11目すべての学科で優をとり7番目上がるが,大公は また神学寮に来て,ひどく立腹して神学生達の間をきびしく貫き歩いた。彼は この頃心身の不調を訴えるが,これは時折の晴れ間はあるとしてもあとずっと 続き,母の願いのために神学寮を出ることも断念する。この年の詩には,ルソ ーの『社会契約型』からの引用がモットーとしてつけられている『人類に寄せ る讃歌』,『美に寄せる讃歌,第2稿』,前年のものとは違う『自由に寄せる讃 歌』があった。 翌年2月彼は妹にあてて‘‘男子に成る”べく努力することを告げ,青年から 成人をめざす意識の変化を知らせるが,復活寮の休暇にノイファーをたずね, そこで気高く静けさのある美しい女性に心ひかれる。またテユービンゲンでこ の頃オーボエの名人カフロのコンサートを聞くと共に,『友情に寄せる讃歌, ノィファーとマーゲナウに捧ぐ』,『愛の歌』の第3稿として書かれた『愛に寄 せる讃歌』,『青春の守護神に寄せる讃歌』を完成させた。かくて讃歌の時代は 29)VgL StAVI,1:S.264 30) StAI,2=S,419,438 38 彦根論叢 第250号 終り,これ以後彼は『ヒュペーリオン』にとりかかるのである。この頃から大 きく変化するフランスを中心とする政治的出来事に大きな関心を寄せるが,7 月末には4週間の健康回復の休暇をとり,8月あの優しい女性と再会する。こ の三二は,結局,前年暮妻を亡くしたプラウボイレン修道院教授プロイリン (1752−1800)と婚約する。9月には『1793年版年刊詩集』が出されるが,『シ ュヴィーッ州』,『人類に寄せる讃歌』,「美に寄せる讃歌』,『自由に寄せる讃 歌』,『友情に寄せる讃歌』,『愛に寄せる讃歌』,および『青春の守護神に寄せ る讃歌』が載せられた。 この頃パリでは大殺害が行われて,外国での革命への共感が弱まるが,詩人 は“世の中の新しい旧来事について,またもや頭と魂を欠いた発言を聞いて” ますます神学寮がいやになる。10月4歳の男子をつれたプロィリンと妹との結 婚式がニュルティンゲンで行われるが,彼はおそらく出席し,有名なパステル 自画像を妹に贈る。このあと母はとうとう広大な果樹園等をふくむ庭園を,買 った時より200グルデン安い1000グルデンで売却した。彼は下旬から翌月にか けてウンターラントの親戚をたずね,その近くで副牧師をしているマーゲナゥ をもたずね,「ヒュペーリオン』の原稿を読んで聞かせる。またこの頃母にあ てて,「そこに迎えられることが,入々の言うように高い名誉と私が思うべき である社会であっても,社会には愚かしさや茶番詐欺がつきものですから,そ うたくさんの社会に順応することは,私にはとてもできないのです」と書いて 腕曲に牧師にはなりたくないと告げると共に,実社会との折り合いがうまく行 かないだろうとみずからの非世俗性を告白した。彼はこの年最初の試験では7 番であったが,それ以後6番になり,これは次の年卒業するまで続くのである。 大学最後の93年3月,神学寮は革命の‘‘自由のめまい”に感染するが,彼は 妹夫婦をたずね近在をあちこち見てまわり,その後ノイファーとシュトイドリ ーンをたずね,女流詩人マイシュと知りあう。4月レヒガウの親戚をたずね, その行き帰りにノイファーをたずね,一時の仲違いを解消した後,翌月シュト 31) St A VI, 1: S. 81f. フリードリッヒ・ヘルダーリン 39 イドリーンがテユービンゲンに来て『ヒュペーリオン』を朗読する。この13日 大公および妃が臨席して,新しい学則のおごそかな告知が行われたが,その直 前“共和主義者”ヴェツェルが神学寮から逃亡してセンセーションをまきおこ す。6月詩学マチソン(1761−1831)がノイファー,シュトイドリーンとつれ だち神学寮を訪問するが,おそらくヘーゲルも同席した所で『敢威の霊に,讃 歌』を朗読し,感激したマチソンに抱きしめられる。7月14日バスチーユ襲撃 の記念日,ヘーゲル,シェリング,ヘルダーリンを含む神学評判は,ネッカー 河畔の草地に‘‘自由の木”を立て,そのまわりを踊って祝うが,8月大公の命 令にもとづき,神学寮の探査が行われるものの,神学部長達は核心をさけ,民 主的思考のうわさをそのままにして,神学生平の忠実な行動,秩序と平静を強 調したのである。 詩人は卒業が近づいてきたのでイェーナでさらに学ぶか,あるいはスイスに 家庭教師として赴くか,母に手紙を書くが,「説教壇からおりる時私は,1火 花でも人間愛と心からの積極的な同情を目覚めさせたならば,お前は幸福な人 32) 間なのだ,とよく考えます」と告げた。しかし彼は牧師になることをきらい, 裕福な家の家庭教師になることをめざすが,その間にいわば業績をあげて大学 等に就職する機会を待つのが,当時の神学生のもうひとつの生きる道であった。 またあまり長くその地位が得られないと,宗務局によってどこかの副牧師に任 命される恐れもあったし,母のもとで居候することは,たとえ文学にいそしん でいたとしても,それを評価するようなまわりの風潮ではなく,シュヴァーベ ンの勤勉な風土からは耐え難いことであったろう。だから「就職問題そのもの についての母との対話は,良心的な息子にとって,心が重くなることに対する 33) 絶えざる原因のひとつである」が,母の希望とみずからの願望との苦しみはず っと後まで続くのである。 彼は9月初旬弟にあてて次のように書いた。「ぼくは個々の人間にはもはや それほど暖かく愛着していない。ぼくの愛は人類なのだ。もちろんごく限られ 32) St A VI, 1: S. 90 33) Hausserrnann, Ulrich: Friedrich H61derlin, Rowohlt Verlag 1974, S.24 40 彦根論叢 第250号 た経験でも,我々があまりにも多く見い出すような,随落した,卑屈な,怠惰 な人類ではない。ただ堕落した人間であっても,ぼくはその偉大な美しい素質 を愛する。ぼくは来たるべき諸世紀の世代を愛するのだ。というのは,これが ぼくの最も至福な希望,ぼくを力強く活動的にさせている信仰なのだから。わ れわれの子孫はわれわれよりも良くなるだろう。自由がいっか来るにちがいな い。そして自由の神聖な,暖める光のなかでは,専制主義の氷のような寒帯地 方よりも,美徳がいっそうよく栄えるだろう。われわれは,すべてのものがよ り善き日々をめざして働く時期に生きている。この啓蒙の芽,人類の教育のた めのこの少数者の静かな願望と努力は広がり,増大して,素晴しい果実を結ぶ だろう。これが,ぼくの願望と活動の神聖な目標なのだ一未来の時代に熟すべ きもろもろの芽を,ぼくがわれわれの時代に目覚めさせるという,このことが。 おお1ぼくのようにあの目標に向かって努力する魂のもち主が見つかるなら ば,その人はぼくには神聖で貴重だ,何物にもまして貴重だ。ところで心の弟 よ1あの目標,人類の教育,改善,あの目標はぼくたちの一生の間には,たぶ ん不完全にしか達せられないだろう。だがぼくたちも,ぼくたちの活動領域で 多く準備しておけばおくほど,それだけいっそう容易に,より善き後世によっ て達せられるだろう。お前がぼくを友にしょうと思うならば,あの目標を今後, ぼくたちの心をいっそう固く,いっそう離れがたく,いっそう緊密に結びつけ るきずなにしよう。おお1兄弟はたくさんいる。だが,このような友である兄 おの 弟はわずかしかいないのだ。」 これが詩人の生涯における究極の目標であるが,それは牧師としてよりも, むしろ詩人としての活動によるとの自覚がいよいよ強固になって行き,その為 に「私の中にある力をますます多く形成して行こうとする,この打ち勝ちがた い衝動を,自然が私に与えたことは,幸福なのでしょうか,それとも不幸なの 35) でしょうか」と母にあてて興味深く告白している。9月ヘーゲルはベルンの家 庭教師になるため,予定より早い卒業試験をうけるが,詩人は別離に,かれら 34)StAVI,1=S.92f. 35)StAVI,1:S.94 フリードリッヒ・ヘルダーリン 41 のモットー“神の国”を書いた。この頃シュトイドリーンはシラーに,シャル ロッテ・フォン・カルプ(1761−1843)の家庭教師として詩人を推薦するが, 同じ頃後に大いなる関係をもつ法学生イサーク・フォン・シンクレーア(1775 −1815)と大学で知りあったろう。下旬彼は,折から故郷に帰ったシラーを, シュトイドリーンの紹介によりルートヴィヒスブルクにはじめて訪問するが, シラーは“諸々の規則”を与え,若干の留保をつけてシャルロッテに推薦する。 彼はそれ以後説教が主たる卒業試験にそなえ,故郷であちこちの教会へ出かけ 説教の練習にはげむ。 10月中旬『運命』に着手するが,24日大公が亡くなり,31日付のシャルロッ テの承諾とクリスマスを着任の日とする知らせが11月初旬ようやく届いた。彼 は別れのため妹を訪ずれたり,旅行に必要な買物も兼ねてシュトゥットガルト を訪ずれ,その近くの副牧師となった,恩師であり友人でもあるコンッ(1762 −1827)と夕食を共にすることもあった。12月6日宗務局で卒業試験が済み, 彼は牧師の資格を得ると共に,客観的にはこれで当時の上層階級への道を歩み はじめたことになる。それから詩人はテユービンゲンでも別離の機会をもち, おそらくレブレットとも別れを交わしたが,それから十分な旅の準備をして, 中旬はじめて単独で外国への旅に出るのである。 彼はまず徒歩でシュトゥットガルトに行き,20日郵便馬車でニュルンベルク に行き,エアランゲン,バンベルクを経て,28日テユーリンゲンはヴァルター ハゥゼンのシャルロッテの家に到着する。しかしシャルロッテ夫人は秋にイェ ーナに行って以来,新しい家庭教師について知らせてなかったので,カルプ少 佐はじめ,それまでの家庭教師もまだいて,家ではびっくりするというハプニ ングがあった。ともかく詩人は,たとえ母の希望する副牧師にならなかったと はいえ,もうひとつのより自分に適した職業としての家庭教師として,ここに 社会入,男子として第1歩をしるすことになったのである。詩人あたかも23歳 のクリスマスのことであった。この年の他の詩には,シュトイドリーンに捧げ た『ギリシャ,シュトイドリーンに捧ぐ』があるが,そこでは「ああ1あのよ り善き日々ならば/愛するおんみの心は,民のために/どれほど友愛に満ち 42 彦根論叢第250号 偉大に脈打つとも空しくはなかった/おんみの心から歓喜の涙は心地よく流 れた1/待たれよ1必ずその時がくる/神的なるものを牢獄から解きはなつ時 36) が一」と歌ったのである。古代ギリシャは,ヘルダーリンにとって,神々と共 に人間が平和と調和のうちにあり得た,美と芸術が生々と人間たちの心に躍動 していた,聖なるものと神的なるものがそのものとして尊崇され祝されていた 理想の時代であり,みずからが詩作を通じてめざす,来たるべきより善き日々 と時代の具体的な模範と見なされたのである。(未完) 36) St A 1, 1: S. 180