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HIKONE RONSO_264_001
1 フリードリッヒ・ヘルダーリン その誕生から死まで一(III) 大 谷 欣 也 VI ヘルダーリンは1798年9月25日の“ディオーティマ事件”の後,徒歩三時 間のホンブルクに行き,すべてを知る親友シンクレーアの親身な世話をうけ, 一緒に住もうという友人の申し出をさけて,近くに下宿して苦難の生活をは じめるのである。不意打ちの破局の直後,二人は一度はズゼッテの部屋で会 ったり,また劇場で会ったりするが,世間の眼をはばかり,かの女の提案で 毎月第一木曜日ひそかに書簡を交換することになる。不滅の愛の“記念碑” をうち建てんとしたかの女の手紙は17通のこされて,今日「ディオーティマ の書簡」といわれるが,詩人のものはわずかに四通ほどの草稿のみである。 詩人はこの危機的状況の中で,芸術,宗教,社会回すべての問題を徹底的に 再検討するが,聖なる魂の愛を書簡にしかあらわせないところがら,聖なる ものがこめられた,神的なものが祝祭される,魂と魂との交流がおこなわれ る書簡の至高の意味がまなばれて行くのであった。またわずかな瞬間にとり かわされる短い言葉,眼差し,握手等の何気ない仕草は,おなじく重要な人 間と人間との心と魂の通いあいを意味するよう,洗練され純化され霊化され て行くのである。したがってこのような苦難の体験は,あまりに儀牲が大き すぎたにせよ,真の偉大な詩人になるために必要な,運命的必然だったので あろうか。 彼は10月母にあてて,無礼な高慢,学問と教養が日毎に回忌されること等 が,職務とみずからの仕事を困難にしたので,家庭教師の職から丁重にわか ※ (1)は第250号,(II)は第257号に掲載済みである。 2 彦根論叢第264号 れたことをつげ,さらに500グルデン貯金したから1年間の生活は保証でき, シンクレーアの世話で年70グルデンのよい下宿に住み,独立した状態で自分 の未来の専門のために生きたいという。またホンブルク男工の家族は本当の 高貴な人たちであり,その志操や生活様式は,おなじ階級の他の人たちより いちじるしく秀でていると伝える。とくに当時22上程であった公女アウグス テ(1776−1871)は『ヒュペーリオン』を読み深く感動して,詩人に特別な 愛奴をおぼえるという不思議が生じるが,方伯一家に対する好印象はずっと さいごまで裏切られることなく,かえって詩人は後にその恩顧を受けること になるのである。彼はこの月ディオーティマに会いに行くが,用心してとり やめざるを得なかった。 彼はついで11月,ノイファーに,ホンブルクに移り,エムペドクレスの悲 劇を書きすすめていると綴ってから,「詩歌において生命に満ちているもの, これがいま私の思惟と感情とを最大に没頭させているものである。私の全魂 はそれを求めて苦闘している。ただ偶然が,そこから私をおし流してきた詩 神たちの甘美な故郷から分離するよりも,私はむしろ功績ないままに没落し て行きたい。純粋なものは不純なものにおいてのみ現われ得るのである。も し君が高貴なものを平凡なものなしに与えようと試みるならば,それはきわ めて不合理なものとなるだろう。かくて平凡なものなしには何も高貴なもの 75) は表現され得ないのである」と書いた。たとえば二人の高貴な愛は,まわり の世俗的愛によって,その醜悪によって輝やかしい本質を表わすが,それは また必然的に,人々の不純なものによって汚される運命にあることをいうの であろうか。この弁証法的見解は,『エムペドクレスの死』として,一般大衆 と芸術家の関係,聖なるものと不純なものとの運命として芸術化しようと努 力されるのである。だが,ひとたび高貴なものによって結ばれた魂は,まさ に平凡なもの,不純なものによってひき裂かれたとき,その魂は存在の深奥 からの痛みに苦しまねばならず,その結果,生身の人間として健康もすぐれ ず,心と魂にうけた衝撃のゆえに“生ける屍”となり,遅々として創作はは 75) StA VI, S. 289f. フリードリッヒ・ヘルダーリン 3 かど.らないのである。 シンクレーアはおなじ月,方伯の命を受けてラーシュタット会議に出かけ るが,詩人を招待したので下旬おくれて出発し,そこから母に,天候が悪い ので故郷にたち寄れず,また過去と未来との間でゆれうごき,侮辱的過去を 忘れるためには,現在の目標にまだ十分進んでいないと告げる。また弟に対 しては,「神々はすでに供物を必要としなくても,崇敬のためにそれを必要と する。そのように私たちもまた,私とお前との間にある神性に,再びときお り供物を捧げなければならない。つまり私たちがそれについて語りあい,私 たちを結びつけている永遠なるものを私たちがうれしい手紙のなかで祝うと いう,ささやかな,純粋なものを。どんなにしばしば私は,フランクフルト の最後の日々,お前に書きたかっただろう。しかし私は,みずからの苦悩を 私自身のために覆いつつんだ。そしてもし私がそれを言い表わそうと欲した 76) ならば,私は幾度か泣いて魂を晴らさなければならなかったろう」と伝えた。 それから12月はじめホンブルクに帰り,詩人は6日ディオーティマに会っ た。また母から紹介のあった家庭教師の口をことわり,「神がすぐれて私をそ のように定められた,より高次な,より純粋な仕事のなかで,いきいきした 力をもって1年間生活するために,他の人々を苦しめることなく,この面か ら自分を大事にしうるかぎり,自分を大切にすることは,私の義務であると 私は信じます。あなたは,これは一体どんな仕事なのか,と私におたずねに なりますでしょう。これまで私の仕事から,あなたが,私のもっとも独自な 仕事が何であるか,推測することはむずかしいでしょう。それでも私は,あ のささやかな諸作品において,遠くから,ひょっとしてこれから先もながく 完全には言い表わせ得ないかもしれない,私の心のより深い意見を,私の言 . . . . . . 77) うことを聞いてくれる人々の間に,準備することをはじめたのです」と,そ の理由をはっきり告げたのである。もちろん直接的には二人がいまだ衝撃か らたちなおれず,互いに納得したうえで平和的に別れるまで,心の準備がで 76) lbid, S. 293f. 77) lbid. S. 297. 4 彦根論叢 第264号 きていないことであろうが,彼はここではじめて,詩人としての天命を生き るのが義務であるとあからさまに表明したのである。このような詩人の見解 を,母がどこまで理解したかわからないが,同じ書簡で宗教について語った ことに満足したのか,母はとりたてて反対しなかったようである。 それから彼はクリスマスに,まだ会議に残っているシンクレーアにあてて, 78) 「ラーシュタットから帰って以来,私は信仰と勇気を大いに増した」と書き, そこで知りあい友人となった,より善き時代をめざす,詩人と心をおなじく する少数の若き人々のことを語り,みずからの天職にあらたな勇気と確信を 得たというのであろう。また暮の30B,母から頼まれた祖母の誕生日のため に詩をつくり,この『敬愛する祖母に』は年があけてから長い手紙と共に送 られるが,ここにはじめてイエス・キ・リストが登場するのである。 またこの年は『アキレウス』がっくられたが,前半では恋人をうばわれて なげくアキレウスが海辺に行き,海底からやってきた母に慰められることを 歌う。それから次のように吟じられた。「神々の息子よ1おお わたしがおん みのようであったなら,わたしはうち解けて/天の神々のひとりに訴えられ ようも.のをわが密かなる悲しみをば/ためして見てはならぬわたしはそを, はずかしめ ひと 担わねばならぬ恥辱を,あたかもわたしがもはや/あの女性のものではない かのように,それでも涙しながらわたしを想っている/慈悲深き神々よ!だ が耳傾けたもうおんみらは人間のどんな懇願にも/ああ!かつ誠実にかつ敬 慶に愛してきたわたしはおんみ聖なる光を/わたしが生を享けてこのかた, おんみ大地をそうしておんみの泉たちそうして森たちを/父なるエーテルと おんみを感じてきたあまりに憧れながら純粋に/この心は一おお しずめた まえ,おんみら優iしきものたちよ,わが苦悩をば/魂がわたしにとりてあま もだ りに時はやくも黙さぬように/わたしが生きそしておんみらに,おんみら高 貴なる天上の諸力よ/すみやかに逃げ去る日のうちにも,感謝するように敬 かて 慶なる歌もて/感謝するように以前の糧に,すぎ去りし青春のもろもろの歓 びに/そうしてそれから迎え入れたまえおんみらのもとへ慈悲深くもこの孤 78) lbid S. 299. フリードリッヒ・ヘルダーリン 5 79) 独なる者をば」 詩人は翌1799年1月弟に対して,まず書記の職務に苦しむ弟をはげまし, またカントはわれらが民族のモーゼであるという。それから「人間は芸術の もとで統一する。そして芸術は平静を,空虚なものでなく,あらゆる偉力が 活動し,その親密なる調和のゆえにのみ活動していると認識されない,生命 ある平静を与える。芸術は人間たちを近づけひとつにする。もしそれが真正 であり,真正に効果を及ぼすならば,詩歌はすなわち人間たちをひとつにす る。あらゆる多様な悲しみと幸福と努力と希望と恐怖,あらゆる意見と誤謬, あらゆる美徳と観念,人間たちのなかにあるあらゆる偉大なものと卑小なも のを,さらにいっそう生命ある千重に整理された,ひとつの全体にするの 80) である」としるす。 彼ははじめてここにみずからの芸術観を述べるが,人間に内在する神性, 聖なるものの発露として,真正なる芸術には聖なるものが内在し,人間はそ れに触れてみずからの本性に気づき,やがて互いの神性,聖なるものを発見 しあい,かくて人間たちは神性においてひとつとなり統一し,そこから魂は 真の平静を得るというのであろうか。真正なる詩歌は,まさにその聖なるも のによって人間たちを近づけひとつにするが,詩人がこのような芸術,詩歌 をとおして,聖なるものを互いに認識しあい,魂をひとつにし,平静を得た 人が,きたるべきより善き時代の模範,生ける古代ギリシャの美の典型ディ オーティマであったのであろうか。ここにも個人的体験からやがて普遍的一 般的真理に到達する,詩人の根本的特徴がうかがえるが,詩人の発見したこ のような芸術,詩歌美の本質は,20世紀のアグニ・ヨガにおいてはじめて人 類にあきらかにされるのであるから,二人のいと高き精神がまわりに理解さ れなかったのは,けだし運命であったかもしれない。したがって詩人は,航 る意味において,より善き時代の実現をめざす,火と美による人類意識の浄 化と陶冶,生ける倫理の教え,モリや大師が人類に与えた“アグニ・ヨガ” 79) StA 1, S. 271. 80) StA VI, S. 305f. 6 彦根論叢 第264号 81) の先駆者であったとも言い得よう。 彼は1月さらに母にあて,青春の半分を苦悩と迷誤のうちに失ったのは, みずからの感じ易さ,壊れ易さのゆえで,いまなお感じ易い人間であって, また現代の神学者やパリサイ人をよく知っているから,牧師にならないと告 げる。それから「聖なるものは,たとえ人間たちがそれを尊崇しなくても, 82) つねに神聖であり続ける」とかたり,それゆえに聖なるものがないがしろに され,侮蔑される時代にあっては,なおさら聖なるものを寿ぐ詩歌を捨てら れないという。やがて2月中旬シンクレーアが帰国するが,このころ詩人は, スパルタの社会革命的王の悲劇『アギス』にとりかかったと推測されるが, 今日何も残されていない。また3月中なり彼は,母に対して,故郷が戦争に まきこまれる恐れがあるかもしれないが,静かに忍耐する美しい姿で,勇気 のお手本をお示しくださいと伝える。 3月2日A.W.シュレーゲル(1767−1845)は『イェーナ文学新聞』で,ノ イファーの『教養ある婦人のための手帳』1799について,“ヘルダーリンのい くつかの寄稿は,しかしながら精神と魂の満ちたものである”と評し,はじ めてロマン派の人々に認めちれたのである。11日ディオーティマと会い手紙 を交換するが,それから母に,文筆家としてのささやかな評判を喜びをもっ て書いたものの,その手紙はそのままとなった。このころから彼は胆石痴痛 を病み,何も手がつかなくなり,強度のヒポコンドリーになったようである。 4月5日二人はまた会うが,翌月から夏の別荘の生垣越しに手紙を交換するよ う,ズゼッテが提案する。やがて母あての前の手紙を書きつぎ,春と共に元 気に若返り,新しい勇気と新しい力をもって人類を見ていると伝え,かくて ホンブルク時代最大の危機はようやく克服されたのである。 5月2日二人は別荘で書簡をとりかわすが,このころ友人となるべ一レン ドルフ(1775−1825)は敵る友人にあてて,「ヒューペリオンは,最も深い意 81) Vgl. Agni Yoga. Agni Yoga Society, lnc. New York 1980. 『モリヤの庭の木の葉』(竜王文庫)参照。 82) StA VI, S. 310. フリードリッヒ・ヘルダーリン 7 味において一時代を画する書物である。まことにうれしいことを君に言うが, 著者はその著書とおなじように高貴である」と知らせた。このころまでに『神 神はかつて耳払していた』がっくられたが,その後半は以下のように歌われ た。「わたしたちは生きよう,おお おんみ,おんみと共にわたしは苦しみ, おんみと共にわたしは/真心からかつ信心深くかつ誠実に奮闘するより美し き時代をめざして/わたしたちこそそうなのだ!そうしてかれらがまさに到 来しつつある年々のうちにも知ったならば/わたしたち二人について,いっ かふたたび守護神が大いに尊敬されるならば/話すだろうかれらは,かつて 創りあげた,孤独な人たちが愛しながら/神々にのみ知られて二人のよりひ そやかな世界をと/なぜなら死すべきものだけが世話する人々を,迎え入れる かれらを大地は/しかしより近しく光に向かい移り渡る,エーテルに向かっ て上方へ/かれらは,真心からの愛に誠実な,そうして神的なる霊に誠実な 84) ひとびとは/希望しつつかつ耐え忍びつつかつ静やかに運命にうち勝って」 6月詩人は,ノイファーの年刊を出しているシュタインコップ(1775− 1852)に,美的内容をもつ婦人のための雑誌を出したいと仲介してもらうが, これは,何とか経済的に自立したい思いと,外的現実社会にはたらきかけた い気持ちの現われであったろうか。出版者はのり気になり,より有名人をつ のりたいなど内容について意見を交換しはじめ,この件は秋まで折衝がつづ くが,このような事情もあってか,このころエムペドクレス第1稿は断念さ れたようである。 彼はまた弟に対して,「私たちをとりまく野蛮人たちは,私たちの最善の諸 力が姿をとる前に,それを引き裂くのである。そしてこの運命のしっかりし た深い洞察のみが,私たちが少なくとも無価値のうちに滅び去らないよう, 85) 私たちを救い得るのである」とかたる。これは“ティオーティマ事件”を契 機にして,詩人がいわば人間と世界といちじるしい敵対関係に陥っているこ 83) StA VII, 2: S. 133. 84) StA 1, S. 274. 85) StA VI, S. 327. 8 彦根論叢 第264号 とをあらわすだろう。さらに芸術創造の根本について,シラーの“遊戯衝動” (Spieltrieb)の見解をしりぞけ,「生命を促進すること,自然の永遠なる完 成の運行を加速すること一人間がみずからの前に見るものを完成すること, 理想化すること,これがあまねく人間のもっとも特徴的な,もっとも区別的 な衝動である。すべての人間の芸術,仕事,誤謬と苦悩はあの衝動に由来す る。何故私たちは学問,芸術,宗教をもつのだろうか。人間がそれを見出し たものよりも,より善いものをもとうと欲したが故である。美的芸術はあの 衝動から,その無限の対象を,いきいきした姿のなかで,表現されたより高 次の世界のなかで表現するのである」と述べる。これはもう少し別様に表現 すれば,万象を完成せんと欲する神の分光としての人間が,大学時代からの モットーである“神の国”をこの世に実現するためとなろう。 またこのころ母にあてて,みずからの悲しみよりも,世のまれな,善良な 人々がまさに善良ですぐれているが故に,いかに苦しんでいるかを見る方が 悲しく,それゆえにこそ詩作にみずからを駆り立てると書き,ここにも個人 的体験が一般化普遍化される様子がうかがえるのである。彼はまた雑誌の名 前を『イドゥーナ』にすると伝えるが,イドゥーナは北欧神話において,不 死のリンゴをあずかりもつ,青春と若返りの女神であるから,聖なるものを 祝する詩歌を青春と若返りの泉とみなしたのであろうか。 7月になり彼は,ノイファーに『エミーリエの婚礼まで』という長篇詩を 送ると共に,別荘で手紙をとりかわし,それからシラーに雑誌に寄稿を依頼 する手紙を出す。また母が,『運命の女神たちに寄せる』を見て心配してきた ことに対して,「詩人は,もしもその小さな世界を表現しようと欲すれば,天 地創造を模倣しなければなりません。虹が嵐の後においてのみ美しいとおな じように,詩においても真実で調和的なものは,空虚なもの,誤謬と苦悩か 87) らのみ,いっそうより美しく喜ばしく現われるのです」と創作の秘密をわか りやすく説明して,母を安心させたのである。 86) lbid. S. 328f. 87) lbid. S. 344, フリードリッヒ・ヘルダーリン 9 7月12日ズゼッテは,弟たちと一緒に湯治をかねてテユーリンゲンに出発 するが,27日シラーに面会したとき,その確証はどこにもないものの,おそ らく詩人については沈黙したままであったろう。シェリング,ゲーテにも原 稿依頼の手紙を書くけれども,それらは発送されなかった。また妹には,病 気をして出費がかさんだので,母に仕送りを頼まねばならなかったと伝える が,このころランダウエルがたずねて来て,おそらく詩人を慰め元気づけた であろう。彼は下旬,ノイファーに,『ディオーティマ 別稿』,『気むずかし い人々』,『祖国のための死』,『時の霊』を送る。 8月1日ふたりは別荘で手紙を交換するが,このころから妹の夫プロイリ ンは病床に伏し,母は133グルデンを送金する。やがて彼は出版者に,雑誌寄 稿者の名簿を送るが,下旬シラーが返事をよこし,彼自身の経験から雑誌発 行は大変であるから,似たようなことを行うことは勧められず,昔の忠告に もとづいて,落ち着いて独立して,一定の活動範囲に集中するよう,正直な 友人として忠告した。かくて他に頼んだ人から断わられたり,返事がなかっ たりも加わって,雑誌発行の計画は頓挫し,詩人はまたもや深い挫折感を味 わうのである。このころ創られた『夕のファンタジー』では,農夫や舟人た ちの幸せな生業をつづった後,「どこへいったいわたしは?死すべき運命のも のたちは/報酬と仕事によって生活する。苦労と休息、をとりかわして/すべ ては喜びをもたらす。何故にいったい/わが胸のうちにのみいばらは絶えて 88) 眠ちぬのか」と歌うのである。 9月になり彼は母に送金の礼をすると共に,執筆中の作品に全力を尽しお 礼にしたいと述べ,さらにレブレットが他の人と結婚したことに触れて,「私 は,人が年配の独身者の生活を,品位をもっておくることができることを経験 から知っています。たとえ私が牧師になったとしても,別にあなたの御希望 89) にまったく反しないならば,私はむしろ結婚しないで生活するでしょう」と 書くのである。生ける美の人ディオーティマとの聖なる愛にむすばれた人は, 88) StA 1, S. 301. 89) StA VI, S. 362. !0 彦根論叢第264号 どうしてこの世の世俗的結婚の愛にみずからをおとしめることができ得よう か。5日別荘で手紙をとりかわしてから,雑誌発行がおもわしくないことか ら生活の方法を考え,より重苦しい気分に沈みがちな中で,イェーナ大学で 講義することを計画する。しかしシェリングとシュレーゲルが,美学講義を する予定であるからむずかしいと友人から知らされて,ますます暗い日々を 生きなければならなくなる。そうして下旬彼はとうとう,ズゼッテに,雑誌 発行がむずかしくなった今,悲劇を仕上げるため3ケ月程努力し,それから 生活のためどこかへ移らなければならないと伝える。 10月になり母はまた133グルデン送金するが,下旬,『ヒューペリオン』第 2巻がようやく出版されて,31日デEオーティマに会う。それから11月7日, “おんみ以外の誰に”と献辞を書いてわたすが,その手紙で,「私たちが互い を欠いているが故に,私たち二人は最善の諸等をもちながら,ひょっとした ら滅びなければならないと,私たちが考えなければならないとすれば,しか しそれは天が絶叫します。あなたは変えられ得ないものを,英雄の力をもっ て耐え忍び,そして沈黙して,あなたの心の永遠の選択をあなたのなかに隠 し埋葬したのです。内面におけるこの永遠の戦闘と矛盾は,それはあなたを 90) もちろん徐々に殺すにちがいない」と書くのである。これは,まさに二人の 来たるべき運命の預言であったろうか。 詩人は中旬母に対して,「私がそのために生まれている事柄が高貴であるこ と,またそれが正しい言説と完成にもたらされるや否や,それが人間たちにと って良い薬(heilsam)になることを,私はみずから深く意識しています。そ れゆえ私は,私の現実存在が,必ずやこの地上になんらかの痕跡を留めるだ 91) ろうことをまた希望できます」とつげ,広く世間には評判にならないけれど も,少数の予感する魂たちには理解されて,ほめそやされているという。ま たこの頃パリのエーベルに,ズゼッテの力になってほしいと伝え,11月下旬 アウグステ公女の23歳の誕生日に,『ホンブルクのアウグステ公女に』,『ドイ 90) lbid. S. 370f. 91) lbid. S. 372, フリードリッヒ・ヘルダーりン 11 ツ人の歌』,さらにおそらく『ヒューペリオン』第2巻を献呈したのである。 12月4日ノイファーにあてて,『エミーりエの婚礼まで』をめぐって文学の 考え方の違いを知り,憤慨したと証状するが,ノイファーはこの年正牧師と なり,その職務の影響もあってか,文学にすべてを捧げる詩人と考え方が異 なっている事実が互いにわかったのである。したがってこれが最後の手紙と なり,二人の長い友情のおわりとなり,詩人はいよいよ真正なる高貴な芸術 をめざし,真の巨匠への孤高の道を歩むのである。 あけて1800年1月中旬,ランダルウエルは商用でフランクフルトを訪ずれ たついでに詩人をたずね,友人たちが心配しているから故郷に帰るよう説得 したようであるが,下旬彼は母にあてて,すすめられたおそらく教職を断わ り,やがてホンブルクを去るにつけても,シュトゥットガルトに行くかどう か分らないという。このころも憂轡症にかかったらしいが,2月6日ディオ ーティマとひそかに会い手紙を交換したのである。それから3月2日妹の夫 が亡くなり,詩人はなぐさめの手紙で,「結局,すべては善である。そしてあ らゆる悲痛はただ真実の聖なる喜びへの道程である,というのが私のたしか 92) な信仰である」としるし,ディオーティマとの悲劇も,ようやくその本質に おいて解決の目処がついたのであろうか。 やがて4月中旬の復活祭にいったん故郷の家を訪ずれたようであるが,5 月にはシュトゥットガルトに出ることを決定するものの,新しい戦乱のため しばらく見合わせることになり,5月8日二人は別荘でさいこの手紙をやり とりするのである。かくて7月10日頃,シンクレーアの留守中に帰郷するが, 1年10ケ月程のホンブルク時代において,とにかくもズゼッテとの衝撃的事 件を一応過去のものとし,そこから真の偉大な詩人としてすこぶる内的成長 をとげたにちがいなく,それは帰郷以来のゆたかな偉大なる諸作品となって 結実するのである。しかしその犠牲はあまりに大きく,かつての花のような 容姿はすっかり変化して,まるで影を見るかの如く,神経は極端に過敏にな っていたようである。あたかもホンブルクさいこの詩となった『沈み行け, 92) lbid. S. 387. 12 彦根論叢第264号 美しい太陽よ』では,「沈み行け,美しい太陽よ,かれらはほんの少ししか/ おんみを尊敬しなかった,かれらは,おんみ,聖なるものを見ぬけなかった /なぜなら楽々と静かに,おんみは/苦しむ人々のうちに昇ってきたから/ /わたしには,おんみは,親しく沈みまた昇る,おお,光よ1/そして確か にわがまなこはおんみを見分ける,素晴らしきものよ1/なぜなら神的に静 かに賛美することをわたしは学んだから/ディオーティマがわたしの心を癒 93) したから」と歌った。 VII このころヴュルテンベルク公国は,休戦が成立して駐留フランス軍が撤退 して行ったあと,人々は打ちのめされた気分に沈んでいたが,詩人はランダ ウエルの家に下宿し,私的講義をするかたわら詩作にもうちこみ,気心の知 れた友人たちに暖かくかこまれて,しだいに落ち着きをとりもどすのである。 しかし収入が足りないので家庭教師の口を考えるが,スイスからのものはう まく行かなかった。9月彼は,宗務局にランダウエル家で子供たちの教育の ために留まる許可を願うが,これは,どこかの副牧師に任命されることを心 配した処置であろう。下旬,夫の死後子供たちをつれて母のもとに帰った妹 がいる家をたずねるが,もはや家族にあてて以前のように長い手紙を書かず, 用件のみのような短かいものが多くなるのである。 10月10日宗i務局の許可がおりひと安心するが,妹にあてて,「私が,お前と 善良な人と家族のものたちと,このようにいとも真実で聖なるものにおいて 結ばれているという考えは,また私に,健康によい平静を与えてくれた。こ れがさいごにはあまりにもしばしば,あまりにも大きな孤独のなかで,声を 失い,私たち自身の前から姿を消してしまう私の心を保つのである。そして 私たちのなかにある,この幼子ちしい,敬虜な声がない,すべての知恵はい 93) StA 1, S. 314. フリードリッヒ・ヘルダーリン 13 94) つたい何であろうか」と書くのである。ディオーティマとの文通もとだえ, 誰ひとり深い心のうちを打ち明けられない孤独に苦しむ,凍てつく精神の荒 野でこごえる詩人にとって,家族や友人たちの暖かな,純粋な愛のみが,貴 重な生きる糧であるというのであろうか。 やがて11月になり休戦条約は破棄されるが,12月スイスから家庭教師の話 があり,その家の息子に会い,友人たちの反対をおしきり決定する。11日ラ ンダウエルの誕生日の楽しいつどいのとき,詩人は『ランダウエルに寄せる』 を捧げ,帰郷以来の親身な世話に報いたのであろう。それから生活の整理を すると共に,新しい旅の準備をして年をすごすのであった。この年は帰郷し てからまさにゆたかに詩作されて,『平和』,『ドイツ人に寄せる』,『ルソ ー』,『ハイデルベルク』,『神々』,『ネッカ一河』,『故郷』,『愛』,『生の行 路』,『ディオーティマの快癒』,『別れ 第2稿』,『ディオーティマ』,『故郷 に帰る』,『祖父の肖像』,『婚約者のまじかい帰還をまつある女性に』,『メノ ーンのディオーティマ哀悼歌』,『さすらい人 第2稿』,『シュトゥットガル ト』,『パンと葡萄酒』,『多島海』等があった。 1801年彼は,年初ニュルティンゲンからシュトゥットガルトに行き,旅の 準備をしてから,11日スイスに向けて出発するが,不思議なことに,友人た ちは名残りをおしむかのように,あるいは気づかうかのように,テユービン ゲンまで一諸に旅をするのである。またこの頃おそらくコンツによる,好意 的な『ヒューペリオン』の評論がちょうど発表されたのである。それから彼 は,15日ハウプトヴィルのゴンツェンバッハ家に到着するが,ふたりの娘を 教え,年俸は300グルデンという話であった。新年と共に新しい生活をはじめ た詩人は,母にあてて,ゴンツェンバッ画家の人々について楽観的見解をつ たえるが,2月9日とうとうリュネヴィルの和議が成立したのを知って,妹 にあて,「私は,今や本当に世の中がよくなるだろうと信じる。私は,青春時 代に十分に苦悩を経験し,そして,いまや満足して,十分あんせいに,現に あるものに対して心から感謝する人間のように,私の滞在を眺めている。し 94) StA VI, S. 402f. 14 彦根論叢 第264号 かしながら私は,善き良心をもって生き,そして私の義務を果すことを頼り 95) にしている。その他のことは神の欲するままに」としるす。 詩人はここであたかもリュネヴィルの和議と連動するかのように,ディオ ーティマ事件により敵対した世界と人間とも和解し,ようやく最終結着がつ いたが,その一種神秘体験は,Tアルプスの下に頒せり』に表現されたといえ ようか。しかし高揚した精神の高みから舞いおりたとき,誰よりも伝えたい ディオーティマがいない現実に愕然として,3月下旬,ランダウエルに対し て,「言ってくれ。祝福かあるいは呪誼なのか,この孤独は,私がみずからの 天性によって定められて,みずから打開策を見出すことをあのように考慮 して,この境遇を選ぶことがより目的に適っていると信じるほどに,ますま す抵抗しがたくそこへ押し戻されてしまうこの孤独は!一一せめて一日君た ちのもとに戻れたら!君たちに両手をさしのべられたら!友よ!もし君がフ 96) ランクフルトに行くならば,私を思ってくれ」と叫ぶのである。ランダウエ ルは,毎年商用でフランクフルトの大市に出かけるが,きっとその旨を詩人 にあてた手紙で知らせたのであろう。 おなじ頃彼は弟にあてて書いた。「もしも一致,聖なる一致,兄弟の愛もそ れに対しては軽くなる,普遍的愛が失われるならば,すべてはおしまいであ る。スベテハ神ヨリハジマル。これを理解し保つ人は誰であれ,自由で,力 強く,喜ばしい。万象は無限の一致である。善なる人々はたがいに捨てない。 かれらはそれができない,かれらが善であり,またかれらが含まれている全 体が善であるかぎり。ただひとりのメンバーが他のメンバーに心中をうちあ ける方法だけがしばしば欠けているのである。さらによりしばしば私たち人 97) 間の間では,しるしと言葉が欠けているのである」 善なる人々の代表は他ならぬ詩人たち二人であるが,ひとたび聖なるもの によって一致した魂と魂は,たとえ二人が物理的にかけ離れていようとも, 95) lbid. S. 413f. 96) lbid. S. 418. 97) lbid. S.419f. フリードリッヒ・ヘルダーリン 15 どうして一方が他方を捨て得ようか。二人はたしかにたがいの心中を打ちあ ける方法が,唯一の手段であった書簡さえもが失われているとはいえ,どう してもはや捨てあったといえようか。この弟あての書簡の難解さは,詩人た ち二人の普遍化された表現であると気づくならば,きわめて自然にかつ容易 に理解されるであろう。 そうして4月11日,ゴンツェンバッハが,親戚の少年2名が来れなくなっ た旨の手紙を詩人の部屋に置いた結果,彼はわずか3ケ月程で帰郷せざるを 得なくなった。しかし,それが単なる口実にすぎなかったかどうかは不明で あるが,おそらくその前から兆候をあらわしていた詩人の憂欝症こそが主た る原因ではなかったであろうか。そして解雇がみずからの欠点によるもので はなくて,雇主の都合による旨の証明書を書いてもらい,ただちにハウプト ヴィルをあとにするのである。この頃彼は,イェーナのフェルメールの年刊 詩集に,『メノーンのディオーティマ哀悼歌』,およびスイスで創られた『ア ルプスの下に碩せり』を送るが,後者は,それまで敵対していた世界と人間 たちと和解した詩人の“内的回心”の成果であり,それまでとがらり調子が 一変し,まさにアルプスの如き峨々たるしらべをかなで,これ以後最後期の 前人未踏の詩作のはじまりとなったのである。またこの帰郷は,悲歌『帰郷 ゆかり 縁の人々に寄せる』に結晶し,より高次の人類愛に脱け出た詩人の意識が 知られるのである。したがってこの世的に見るならば,このスイス遍歴はま ことに短くはかないものではあったが,霊的詩的にはきわめて実りゆたかな ものであったといえよう。 それから詩人はニュルティンゲンの家で暮らし,ときおりシュトゥットガ ルトに出かけたり詩作に専念するものの,やはり気分は晴々とはならなかっ たようである。そんな5月中旬,カルプ夫人から突然,『ヒューペリオン』を 読んだ感激を伝える手紙が来て,返事も出したようであるが,失われた二人 の結びつきは復活しなかった。そのうち宗務局からどこかの副牧師に任命さ れることを懸念して,6月はじめシラーに最後の手紙を出し,その心配をつ たえ,ギリシャ文学の講義の仲介を頼む。だがシラーは前年暮からヴァイマ 16 彦根論叢 第264号 一ルに転居しており,これに返事を出さず,またニートハンマーにも同様の 手紙を出したけれども,やはり返事がなかったらしく,詩人は失意と苦悩の 日々を故郷で過ごすのである。 8月コッタは,翌年の復活祭にヘルダーリンの詩を出版する用意があり, そのためさしあたり『婦人カレンダー』に任意の詩をのせようと申し出たが, その代りこの年の年刊詩集『フローラ』に,『さすらいびと 第2稿』をのせ ることになった。下旬ランダウエルは,シュトゥットガルトのシュトゥレー リン教授(1743−1802)が,それまで彼が長くつとめていたボルドーの家庭 教師を世話すると,詩人はただちに説教を免除するという条件でうけいれる。 しかしこの正式決定は暮までのびるのである。それから12月詩人はべーレン ドルフにあてて,「私が,わが祖国を今でもおそらく永遠にたち去ろうと決心 した時,私はつらい涙を流した。なぜなら,私はより好ましいものをこの世 でいったい何をもっているだろうか。しかしかれらは私を必要としていない のかもしれない。とにかく私はあくまでドイツ人であることを欲し,あり続 98) けなければならない」と書いた。祖国と祖国の人々を愛するがゆえに,詩作 を通じて,そのより善き日々のため積極的に働きかけようと努力しているに も拘らず,かれらはそれを受け入れず,かえって迫害する結果となっている のだから,外国へ行かねばならぬことはさぞかし“つらい涙”を流したこと であろう。しかしもはや運命の命ずるままに,詩人はどこへでも旅をするの である。詩人の深い運命愛の実践である。 かくて10日頃ニュルティンゲンを徒歩で出発し,テユービンゲンを経てシ ュトラースブルクに出るが,政治的情勢の結果足止めを食い,30日ようやく 許可がおりたものの,当初の計画のパリ経由ではなくて,リヨン経由で行く よう指定されたのである。この年もたいへん沢山のすぐれた詩が生まれたが, 『詩人の天職』,『民衆の声』,『盲目の詩人』(=後『キローン」),『なみだ』, 『希望に寄せる』,『ヴルカーノス』,『詩人の意気』(=後『意気消沈』),『束 縛を破った河』(=後『ガニュメート』),『はげまし』,『自然と芸術あるいは 98) lbid. S. 427f. フリードリッヒ・ヘルダーリン 17 サトゥルヌスとユピテル』,『エドゥアルトに』,おそらくその他『寿命』,『ル ールトのはざま』,『生のなかば』,『ドーナウの源で』,『さすらい』,『ライ ン』,『ゲルマニア』,『宥和するものよ』等があった。 あけて1802年1月はじめリヨンに向けて徒歩旅行をつづけ,8日到着して 4日間の滞在期間と旅館を指定されるが,9日母にあてて短い手紙を出す。 それから詩人は10日リヨンを出発してボルドーまで,およそ600kmの道程を, ほとんど徒歩で郵便馬車の通る道を旅する。そうして1月28日の朝ようやく 彼は,ハンブルク市の公使を兼ねる,富裕なワイン商マイヤー(1751−1818) 家にたどり着いたのである。それから彼は母にあてて,「ついに,愛するわが 母上,私はここにいます,気持よく迎えられました,健康です。おんみら愛 する人々よ!私は生命にかかわる危険から脱したので,新しく生まれた人の ように,おんみらにあいさっしました。ほとんど素晴しすぎる程に暮らして います。“あなたは幸福になられますよ”とわが公使は歓迎の際申しました。 99) 私は,彼が正しいと信じます」と書いたのである。 2月14日祖母ハイソが77歳で亡くなり,それはやがて知らされたであろう。 詩人は,ジロンド河からほど遠からぬ所にある,公使の立派な別荘にも出か けたはずであるが,幸福な家庭教師の生活を続けたようである。4月16日彼 は母に書いた。「私が信じますには,亡くなった人々が死後に生きる新しい純 粋な生は,それは,私たちの愛する祖母のように,その人生が聖なる素朴の うちに生きた人々にとっては,じっさい報いなのです。その魂がかくも長く 憧れていて,いまやその分け前となった天国のこの青春は,苦悩のあとのこ の安らぎと喜びは,愛する母上,愛する妹よ,またおんみらの報いともなり ましょう。私の弟と私にとりましては,おそらくまた高貴な死が,生から生 への確実な進歩がとっておかれるのです。私が信じますには,すべての私の 家族にとっても同じように。私は,私がもとめるかぎりうまく行っています, 私は,私の環境が私に与えるものに次第にふさわしく値するよう希望してい ます。そしていっか私がふたたび故郷に帰りますならば,私がここでありが 99) lbid. S. 429f. 18 彦根論叢第264号 たく思っています,真に立派な人々に全くふさわしく値するようになること を希望します。善良なる子供たちは,おんみらにたくさんの喜びをもたらす でしょう。そしておんみらは幸福なのです,私が教え子たちにとりかこまれ 100) ているように,希望の生命ある姿たちにとりかこまれて」これは,詩人がい わば正気で一母にあてた最後の手紙となったが,この時点では,まことに幸福 に満足して暮らしていたのであろう。 それから1ケ月もしない5月10日,自由に周遊してもよいという許可のも とに,ボルドーからシュトラースブルクへの旅券が発行されたのである。こ の急激な変化は,かつてのイェーナからの突然の帰郷と似て,その原因がは っきりしないが,公使との破局でないことは,その彼の素晴しい証明書から も判断でき,いわば円満に辞職の話がついたのであろう。おそらく主たる理 由は,そのころボルドーにいたドイツ植民者たちの説教師になるよう要求さ 101) れたことであるといわれるが,真相は不明である。かくて詩人は中旬,エー ベルが一月には帰国していた第一の目的地パリをめざして出発し,下旬には 到着し,おそらく美術館等ですぐれた古代ギリシャの彫刻等,真正なる芸術 作品を精力的に鑑賞したり,革命のあとの生きたパリの姿をまのあたりにし て,大いなる刺激をうけたことであろう。ついで6月7日シュトラースブル クで旅券の査証をうけ,帰国の途につくが,これ以後故郷にもどった様子に ついてはさまざまに言われている。たとえば詩人は見るかげもなくすさみ荒 廃して,昂奮はなはだしくシュトゥットガルトの友人のもとに突然姿をあら わしたが,すでにいわゆる“精神の薄明”のいちじるしい兆候を示していた という。しかし真相は,あるいはシュトラースブルクからの帰郷途中で,何 者かに襲われたのではなかったろうか。いずれにしても彼はニュルティンゲ ンの出たちの前に急にあらわれ,またランダウエルのもとに来たりするうち, 次第に鎮まるようになったらしい。 6月22日ズゼッテは,風診にかかった子供たちの世話をしていて,それに 100) lbid. S.431. 101) Vgl. StA VII, 2: S. 261£ フリードリッヒ・ヘルダーリン 19 感染したのがもとで,年来の結核もあずかってとうとう亡くなったが,あた かも33歳だった。シンクレーアは30日,彼女の死を知らせる有名な手紙を, 詩人がまだボルドーにいると思い,連絡先のランダウエルに送る。「君の愛の 高貴な対象はもはや存在しない。しかしやはりそれは君のものだった。君は, 彼女がまだ生きている時,不滅を信じていた。彼女の死は,彼女の生のよう だった。私は,君が友人の胸に憩うことができると君に約束できる。君は, 私のすべての欠点を知っている。だから私のところへ来るよう,そして私が ここにいるかぎり,私のところに留まるよう君を招待する。もしも運命が万 一命ずるならば,私たちは,忠実な一対としてその道を歩もう。今私は,毎 年200グルデン正当に節約できる。それを私は君に与えられる。そして自由な 住居とそれに必要なものも。君の決意を知らせてくれ。もし君が望むなら, 私が君のところへ,ボルドーに旅し,君をつれに行こう。友人工一ベルが君 によろしくと言っている。彼は1月からフランクフルトにいる。彼は,彼女 が病気のとき,彼女のかたわらにいた。そして彼女の最後のときの慰めだ 102) つた」ディオーティマは,詩人がかつて預言したように,運命のまま,未来 のより善き時代においてのみ実現する,聖なる愛に殉じて,徐々におとろえ 無垢のまま亡び去ったのである。 ヘルダーリンはこの書簡を7月はじめランダウエルのもとで受けとり,深 い衝撃をうけ錯乱状態になるが,ランダウエルは3日,弟ゴックに,詩人が 平静になりつつあり,じきに完全によくなると確信している旨伝えた。しか し詩人はそれから逃げるようにして家に帰り,やがて医者の治療をうけるよ うになるが,ときおり狂乱の発作がおこり,そんな直る時,ラテン語学校生 がよばれてホメロスを読んで聞かせると,おどろくほど元気になったことも あったらしい。20日シンクレーアは心配して,望むならつれに行こうという 手紙と共に,母にあてても返事がないが,様子を知らせてほしいと書いた。 月末ランダウエルは,母に,今なお彼の状態がよくなるという希望を抱いて いると伝え,詩人の求めに応じて部屋代等の計算書をおくる。これに対して 102) StA VII, 1: S. 170f. 20 彦根論叢第264号 詩人は8月2日返事を出したが,それは失われてしまった。それから9月末 シンクレーアは,レーゲンスブルクの帝国議会に赴くとき,詩人を招待し一 緒につれて行くが,2人は翌年はやくホンブルクに行くことを取り決めたよ うである。また詩人はこの折りホンブルク方伯とより近しい関係をもったら しいが,10月中旬故郷にもどり,旅の好影響か,この秋は平静のうちに何時 間かすごせるようになり,『バトモス』執筆に全力をつくす。 11月シンクレーアは,翌年はやくホンブルクで一緒になろうと望み,詩を 送るよう頼むが,詩人の返事は失われた。彼は12月2日ベーレンドルフに, 南武の風土にふれて,正気な最後のものとなる重要な手紙をだす。「強烈な元 素,天の火と人間たちの静けさ,自然のなかのかれらの生活,そしてかれら の制限された状態と満足,これらが私を持続的に襲った。そして人が英雄た ちの口まねをするのにならえば,私をアポロンが撃ったと,私はおそらく言 うことができる。古代の芸術品の注視は,私に感動をあたえ,ギリシャ人た ちばかりでなく,芸術の至高のものをもより理解させたのである。幾度かの 魂の震憾と感動のあと,おちつくためには,私にはしばらくの期間が必要で あった。私たちは,私たちの時代までの詩人たちを理解しないだろう,そう ではなく,歌い方一般が異なる性格をとるだろう,そして私たちは,ギリシ ャ人以来ふたたび,祖国的かつ自然的に,本来的本源的に歌うことをはじめ 103) るが故に,私たちはそのためはやり出さないと,私は思う」 おそらくボルドーを中心とする南仏の風土から連想されて,ギリシャの本 質がより深く洞察された結果,“私をアポロンが撃った”が故に,詩人は耐え られず北方の故郷へとつぜんのごとく帰ったと,形而上的に考えた方がより 詩人の天性にかない,説教を要求されたからという世俗的理由は,あくまで もその物理的契機にすぎなかったのではなかろうか。それは,聖なるものに よってわかれがたく結ばれた魂の一方が亡びるとき,他方が無事でいられる はずがなく,詩人が精神の薄明におちいったことも,ディオーティマの死と いう物理的原因が秘める,その霊的形而上的影響によると考える方が,より 103) StA VI, S. 432f. フリードリッヒ・ヘルダーリン 21 詩人の本性にかなっていることにも通じよう。しかも詩人は,ギリシャ人以 来はじめてふたたび“祖国的かつ自然的”に歌うのだと自覚し,かくて最後 期のものは“祖国の歌”と称されるようになるのである。かくて詩人はソフ ォクレスの『アンティゴネー』の翻訳にとりかかるが,この年の詩は『平和 の祝い』,『唯一者』第1稿,『バトモス』,『追想』等があった。 1803年1月詩人は,シンクレーアを通じて,やがて3年後には領邦を失い, いわば亡びゆく運命のホンブルク方伯55歳の誕生日(30日)に,献辞と共に 『バトモス』を献呈するが,2月6日シンクレーアは,方伯が感謝と喜びを もって受けとり,ホンブルクで詩人に会うのを楽しみにしていると知らせた。 この頃ランダウエルは,友人たちを忘れ仕事に没頭していることを心配する 手紙を出すが,じっさい翻訳,またさまざまな讃歌等に着手して,どこへも 出かけず,散歩したら等の母や妹の言うこともきかなかったようである。し かしもはや以前の精神の集中力は失われつつあったから,新しい作品は完成 できなかった。3月クロップシュトックが亡くなり,詩人は献詩を検討する けれども,それもそれなりとなってしまった。 二三は,折から両親をたずねたシェリングのことを知り,訪ずれるが,ソ フォクレスをヴァイマールで上演することを頼んだらしい。シェリングは後 年このときの様子を,「つれもなく,徒歩で,本能に導かれるように野を突っ 切って私に会うために到着した。それは悲しい再会であった。なぜなら私は まもなく,この繊細な楽器が,永遠に破壊されてしまったことを確信したか 104) らです。街道でのつらい別離でした」と記している。6月シンクレーアの仲 介で,フランクフルトのヴィルマンス(1764−1830)が,ソフォクレスの出 版をひきうける旨詩人に伝える。それからシンクレーアは母にあて,本当の 心の混乱と精神の衰退が起ったとは考えられず,期待にこたえて来てくれる と信じていると書くが,母は7月,それに対して,冬の間は楽しみにしてい たのに春以後は旅のことを口にせず,ひとり旅させるのは心配だと答えた。 シェリングは中旬ヘーゲルにあてて詩人の狂気をつたえ,本人がその気に 104) StA VII, 2: S. 253. 22 彦根論叢 第264号 なっているイェーナに行くことになったら,引き受けてくれるかどうか手紙 をだす。この頃ハインゼが亡くなり,詩人はあいかわらず立派な先生と尊敬 していたが,8月ヘーゲルからシェリングに,結果的に断わる返事がだされ たのである。このころ母はシンクレーアに,その厚情に対して礼を述べると 共に,病状は変らないものの,ソフォクレスの出版決定がたいそうよい作用 を及ぼし,最近は仕事をほとんどせず,終日野外に出て疲れきって帰ってく ると伝える。11月ヴィルマンスは原稿の催促と共に,年刊詩集『愛と友情に 捧げられた手帳』に寄稿してくれるよう頼み,詩人は12月翻訳をおくり,あ とから詩をおくると伝える。このころマルガレーテはエーベルにあてて,詩 人の不幸をすでに予感していたとつげ,「この恋愛関係には,完全をめざす永 遠の努力に活発な空想がありましたが,それにはしかし至るところで,いと も平凡な日常性が反対として置かれて,このより高い存在たち(今もなお私 はこの考えから離れられません)は,このように終らなければならなかった のです!一亡くなった人は,彼女のすべての運命において至るところで不幸 105) と不調和がありましたが,しあわせです」と書いたのである。 この年は『イスター』が創られ,ついでさいこの詩『ムネーモシュネー』 が完成されたが,詩人あたかも33歳,すなわちディオーティマの亡くなった のと同じ年で,いわば詩人としての天命がつき,霊的詩的には亡くなったこ とは人生の不思議といえようか。 VIII 1804年1月母はシンクレーアに対して,詩人が母に養われていることを心 苦しく感じているが,烈しい発作がほとんどなくなったものの,もっとも悲 しいことは,医者が回復の希望をほとんど与えてくれないことであると書い た。またこの頃シンクレーアは,方伯からという口実で彼のポケットマネー を詩人に送ると,詩人は献詩の御礼とうけとってか感激し,公女にまた幽暗 しょうと苦心するけれども,結局,断篇におわる。3月彼は,大学時代から 105) lbid. S. 268. フリードリッヒ・ヘルダーリン 23 知りあっており,当時シュトゥットガルトで行政事務官をしていたゼッケン ドルフ(1775−1809)に,「半神,騎士,王侯のさまざまな運命,かれらが運 命につかえるその仕方,あるいは運命のもとで懐疑的な態度をとるその仕方 106) を,私はおおよそ把握した」と書いた。これは,まさに詩人が,みずからの 運命をおおよそ把握したということであろうか。 4月ソフォクレスの悲劇が出版されて,ヘルダーリンは失意のなかにも新 しい喜びを味わうが,寄贈者にはシラーが含まれず,この件の出版者あての 手紙が正気のものの最後となったのである。この頃シンクレーアは,名目だ け宮廷図書館員として詩人をホンブルクにつれて行く計画をたて,母に伝え ると,5月母は,正式の司書とうけとったのか,今のところ詩人はその地位 をひきうけられないと返事する。月末ヴィルマンスは,222グルデンの原稿料 を送った。またこの頃シンクレーアは,宮廷特別委員であるブランケンシュ タインが山師であるとも知らず,方伯を経済的に援助せんとして,軽率にも 彼に,ホンブルクにおける宝くじ企画の設立を認可したのである。彼はシン クレーアの命によりシュトゥットガルトに行き,ついで6月シンクレーアも 到着し,ラーシュタット会議以来知りあった,政治的意見を同じくする,選 秦野からとくに疑われていた市長バーツに会ったりする。この頃選帝侯はク ーデターを用心してひそかに探査を行っていたが,それを知ってか知らずか, シンクレーア達は夕食を共にしながら,昂奮して大胆な発言をしていたよう である。 それから彼はニュルティンゲンに行き,詩人をシュトゥットガルトにつれ て行くと,母は心配してあとから,年に150グルデンしか出せず,よい賄付き の下宿をさがし,母親と兄弟の役目をお願いするとシンクレーアに手紙を出 す。ランダウエルは母を安心させるため,友人一同がホンブルクに行く方が よいという意見だから心配しないようにと書き,それから一旦帰った詩人は, 6月19日シンクレーアにともなわれて,ついにお互いそれとは知らず母と終 の別れをして,テユービンゲンを経てシュトゥットガルトに出る。シンクレ 106) StA VI, S. 438. 24 彦根論叢 第264号 一アは,22日ブランケンシュタインをつれて詩人と共に出発し,ヴュルツブ ルクでシェリングとさいこの出会いをするが,シェリングはヘーゲルに,「彼 は先年より良い状態になっているが,やはりあいかわらずはっきりした錯乱 のなかにいる。彼の朽ち衰えた精神の状態は,ソフォクレスの翻訳が十分に 107) 現わしている」と知らせた。たしかにすでに精神の薄明におちいった状態で なされたこの翻訳は酷評されたようであるが,たとえ言語的に誤訳があった としても,ギりシャ悲劇の本質をきわめたと自覚した意識から,なされた仕事 の全体をつらぬく悲劇的しらべの高さは,やはり人の心をうつものがあるの ではなかろうか。 詩人はシンクレーアの世話になるのを嫌い,近くのフランス人の時計職人 の家に下宿することになり,7月1日付で正式に宮廷司書となって,年200グ ルデンの俸給を得ることになるが,もちろんこれは名目にすぎず,じっさいの 仕事をしたわけではなく,おそらく旅行記等を読書しただろうと言われる。 しかしこれで経済的には,遺産の利子150グルデンを合わせて,十分に生活し てゆけることになったのである。また詩人はこれ以後,母が心配して手紙を 書き,たよりをくれるよう頼むが,なかなか返事を出さなくなり,母は仕方 なくシンクレーアに書くことになるのである。8月彼は,詩人から止められ ていたから書けなかったが,心配するに及ばず,満足に暮らしていると伝え た。詩人は,豊かな美術品収集家,素人詩人でもある人と知りあい,ときど き食事に招かれたりする。やがて11月シンクレーアは公務でパリに行き,詩 人を長くひとりだけにするが,その間彼の母フォン・プレックが世話するこ とになり,母にあて,「あなたの御子息は,なすべき義務を良心的にはたす, 善良な人々のもとにおりますと,安心なさいますよう,あなたに申し上げ 108) ます」と書いた。また方伯は年未までに貴重なウェルギリウスの出版物を贈 り,公女アウグステは,沈欝な気分を軽くするよう,一台のクラヴィーアを 贈ったのである。この年の詩的作品はもはや見るべきものはない。 107) StA VII, 2 : S. 296. 108) lbid. S. 309. フリードリッヒ・ヘルダーリン 25 1805年1月はじめシンクレーアは帰国するが,ようやくブランケンシュタ インの疑わしい商売を見ぬき,その営業を麻痺させると共に,仲違いし絶交 するに至る。29日改宗ユダヤ人であるブランケンシュタインはおそらくこれ を恨み,ヴュルテンベルク選帝侯に,シンクレーアはシュトゥットガルトで 革命謀反をたくらんだと告発した。かくしてシンクレーアは2月7日ヴュル テンベルクの役人により逮捕されるが,この事件は詩人を極端に刺激したよ うである。裁判がはじまり,3月はじめ方伯は詩人のひきわたしを望まず, 詩人は正真正銘の狂乱者であり,たえず私はジャコバン党員じゃない,ジャ コバン党員はみんな去れ,私は安心して恵み深い選三斜の前に顔を出すこと ができると叫んでいると伝えさせた。 捜査委員会はニュルティンゲンの役所,テユービンゲンの神学寮に問いあ わせるが,みな精神の異常を解答し,4月ホンブルクの医師は,精神錯乱状 態にすすんでいると報告した結果,逮捕の必要をみとめず,そのままとなっ たのである。もし詩人が正気であったならば,たとえ無実であっても,その 悪しき影響ははかりしれず,これは不思議な人生のめぐりあわせ,狂気のも たらした現実的プラス効果のひとつといえようか。夏のはじめ頃,彼はその 狂乱のふるまいが原因で,シュヴァーベン出身の皮革製造親方の家にひっこ すが,ここで彼は昼となく夜となくクラヴィーアを即興演奏し,昂奮すると その鍵盤をがんがんたたくのであった。7月10日ようやくシンクレーアは無 実を認められて,釈放されホンブルクに帰るが,おちついた詩人に会う。ま たこの頃ピンダロスのさいこの仕事が行われたらしいが,それも断篇におわ る。9月シンクレーアは職務でベルリンに赴くが,不思議にもカルプ夫入の 家に住むことになり,2人は詩人についていろいろ語り合ったにちがいない。 11月末,シンクレーアと共に裁判にかけられ,ヴュルテンベルク公国を追放 されたゼッケンドルフがたずねて来たが,おそらく後に発表する大きな詩を 詩人に見せたであろうと言われる。 1806年1月母は,宗務局に,病気の息子のため“心づけ”を請願する。月 末カルプ夫人は,ジャン・パウロ(1763−1825)にあてて,「この男性は,い 26 彦根論叢第264号 ま狂乱し精神錯乱しています。それにもかかわらず彼の精神は,神によって 109) 生命をあたえられた人,預言者のみがもちうる頂点に到達したのです」と書 いた。3月末シンクレーアは帰国するが,4月末母はふたたび宗務局に請願 をだし,のちに3度目の請願をだすことになる。それから7月12日,ヘッセ ン・ホンブルク方伯は,ライン同盟によりヘッセン・ダルムシュタット大公 国に合併されて,方塔はその所領を失う運命となるのである。かくてシンク レーアは8月3日生にあててこの事情をつたえ,もはや詩人を手もとにおけ なくなったと知らせ,9月11日,方伯の図書館の書籍購入を口実に詩人は馬 車にのせられて,直接テユービンゲンに向かい,前年落成式があったばかり の大学病院に入院する。 その設立者にして指導者は,当時有名であったアウテンリート(1772− 1835)であるが,詩人はおそらくさいしょの精神病患者であったろう。この 病院では,そのころ医学生であったユステK一ヌス・ケルナー(1786−1862) が詩人の日誌をつけることになり,それを機縁にして,後に詩人の詩集発行 におおいに関与することになるのである、9月26日シンクレーアは,プロイ センに嫁いでいた公女マリアンネに,「不幸におちいっている詩人をひき受け ましたことは,必ずや後世におきまして方伯の名誉となりますでしょう。私 はさいきんF.シュレーゲル(1772−1829),テ4一ク(1773−1853),ブレ ンターノ(1778−1842)と知りあいました。これらすべての人々は,ヘルダ ーリンの最大の崇拝者であり,彼にドイツの詩人たちの間において第1の地 110> 位をあたえております」と書いた。 10月とうとう“ヘルダーリンの病気回復に至るまで年額150フローリンの補 助金を支給する”ことが正式に許可されたが,遺産の利子をあわせた300グル デンは,詩人の生活を十分に保証するばかりか,利息はこれ以後ずっと増え つづけるのである。またこの年ゼッケンドルフは1807年版年刊詩集をだし, 本人も知らぬまま,『シュトゥットガルト』,『さすらい』,『夜』(『パンと葡萄 109) lbid. S, 351. 110) lbid. S. 355. フリードリッヒ・ヘルダーリン 27 酒』の第1稿)をのせ,原稿散逸をふせぎ,のちの詩集と詩人の名声のため おおいに寄与することになるのである。1807年5月はじめアウテンリートは, 回復の見込がない詩人を,せいぜいあと3年間余命といって,テユービンゲ ンの指物師親方ツィンマーのもとにあずけた。親方は後年そのいきさつを, 「当時私は,宮廷製本屋ブリーファーの奥さんと一緒に,彼のヒュペーリオ ンを読んだのですが,それは私にはたいへん気に入りました。私は病院にヘ ルダーリンをたずね,かくも美しく素晴しい精神のもち主が破滅しなければ ならないことを,ひじょうに気の毒に思ったのです。病院では,もうヘルダ ーリンについて,これ以上何もすることができませんでしたので,事務局長 アウテンリートは,私に,ヘルダーリンを私の家にひきとるよう提案いたし 111) ました」と述べている。 それから詩人の精神状態は大体において変化しないが,さいしょのうちは しばしば烈しい発作がおそい,いちじるしい肉体的疲労が残るので,そうい う時は半日もベットに寝ていることもあったようである。その他コンツ,ケ ルナー,ウーラント(1787−1862),その他古い友人がときどき訪ずれたが, おおむね詩人はそっけなかったらしい。また人が散歩に外へつれて行くこと もあり,すすめられて詩の断篇を書いたりもしたようである。この秋ゼッケ ンドルフは年刊詩集に『ライン河』,『バトモス』,『思い出』をのせたのであ る。1808年詩人は,ツィンマーが購入したクラヴィーアをよく利用し,即興 演奏の他,そらで演奏したりまた歌をうたったり,フルートを奏するように もなり,いわば音楽がつねに詩人の仕事となるのである。10月15日録は感動 的な“私の遺言”を作成し,これはのちに変更され補充されるものの,母は つねに詩人の将来を心配して,詩人の財産が,極端に窮乏した場合をのぞき, 手をつけられないよう希望した。 1809年ゼッケンドルフは,オーストリア後備軍の大尉として戦死する。そ れから秋コンツは,家族の委任をうけて未刊の作品を出版しようとするが, 111) StA VII, 3: S. 133f. 112) StA VII, 2: S. 407. 28 ・彦根論叢 第264号 結局この計画は実現しない。1810年1月ブレンターノは,ゼッケンドルフの 詩集にのった詩人の詩を称讃し,穿る友人にあて,「おそらく高貴な,じっと 見詰める悲しみが,かくも素晴しく言い表わされたことはかってありません でした。しばしばこの独創的精神は暗くなり,そしてその心の苦い泉に沈み ます。しかしたいていは,その黙示録的野,にがよもぎは不思議に感動的に, その感情の広大な海の上に輝くのです」と書いて,少しずつ作品が認められ てゆく過程を示すのである。1811年詩人は年刊を計画し,そのためにたくさ んの作品を書こうとするけれども,ほとんどは断篇におわった。この頃詩人 は,テユービンゲンの学生たちにとって,過去と現在がいちじるしい対照を なす,なかば神話的存在となりはじめていたようである。のちに最初の詩集 をだすG.シュヴァープ(17921850)たちは,はじめは畏敬をもって遠くか ら眺め,詩人の青春の美しいギリシャの歌は,神学寮で書きうつされ回覧さ れたのである。5月ケルナーは『旅の影』を出版し,そこに気の違った詩人 が空想的表現で登場するため,ツィンマー親方を怒らせる結果となった。 1812年4月彼はひどい発熱をし,それから回復すると,それまでの不安な 様子はなくなり,部屋にたちこめていた独特のにおいも消えて,ごく自然な 状態に近づくが,医師は衰弱が近づいたと診察し,親方は心配する。9月フ ケー(1777−1843)はウーラントにあてて,「ヘルダーリンはどうしています か。暗い雲はあいかわらず彼の頭の上にただよっていますか。狂気の詩人は 113) 私にとって,まったく特別におそろしく感動的で,神聖に思われます」と書 いた。またこの年ヴィンケルマンの作品の出版者目引ネス・シュルツェ(1786 −1868)は,シンクレーアを通じて詩人の作品に近づき,詩人の詩を公けに しようと努力しはじめるのである。1813年詩人はツィンマーの懸念したよう に衰弱せず,元気に生きつづけ,まともでいとも陽気であったが,親方は3 月母にあてて,「時代の状況がどのようになりましょうとも,私たちはどんな ;場合でも,あなたの愛する息子さんを引きうけることにつきまして,御安心 113) lbid. S, 425. フリードリッヒ・ヘルダーリン 29 114) ください」と告げる。1814年も詩人はまともに暮らし,はげしい発作も起ら ず,快適に満足して生活し,クラヴィーアの演奏を楽しむ。10月ブレンター ノは或る人にあてて,「もしあなたが,ヘルダーリンのヒュペーリオンを一度 もお読みでないのでしたら,できるかぎりお早くお読みください。それは民 115) 族の,まさに世界の最もすぐれた書物のひとつです」と書いたのである。 1815年3月アルニム(1781−1831)は,『ライン・メルクール』紙で,ヒュ ペーリオンから引用して詩人の運命について論じた。4月1日シンクレーア は,ウイーンの会議のとき40歳でとつぜん亡くなるが,この無二の親友の死 が詩人にあたえた影響はわからない。またこの頃からアルニムとブレンター ノが,詩人の触れ回り役として登場してくるのである。かくて時は流れて1820 年に至り,この頃からケルナーは,詩人の作品を集め出版するよう働きかけ をはじめるが,まったく独自にシンクレーアの知人ディースト大尉(1791− 1825)は8月コッタに詩人の作品を出版するよう動くのである。これに対し てコッタは9月,新しいヒューペーリオン出版に詩をつけ加えて出版する用 意があると伝えた。かくてデ/一ストはさっそく詩の収集をはじめ,知らせ を受けたマリアンネ公女は,妹のアウグステに未刊の詩を持っているかとた ずねたりする。やがてデ/一ストはケルーナーとも連絡をとりあい,下等曲 折を経ながら,次第に詩集出版にむかって少しずつ動いてゆくのである。ま たこの年弟ゴックは,スイス旅行の帰途詩人をたずねるけれども,弟である ことがわからなかったと悲しい記録をのこす。 1821年ディーストはすでに収集した詩のリストをケルナーに送るが,ケル ナーは,またシュルツェの独自の出版計画を知り,ウーラントに,「いまや外 116) 国人が,われわれの不幸な市民に心をもちいることは恥辱である」と書いた のである。翌1822年秋ようやくTヒューペ1,オン』第2版が出版されたので ある。またこの夏ヴァイプリンガー(1804−1830)ははじめて詩人をたずね, 114) lbid. S. 428. 115) lbid. S. 430. 116) lbid. S. 455. 30 彦根論叢 第264号 玉葛学寮に入学してからたびたび高ずれて,外へつれだしたりして親しく交 際するようになる。翌1823年メーリケ(1804−1875)は,友人と素描家をつ れて詩人をたずね,詩人の素描が描かれるが,メーリケ達はヒューペリオン に魅了されるのであった。それから1825年シュヴァープとウーラントは最:終 編集をおえるが,ウーラントは5月ゴックにあてて,「もしドイツにおいて偉 大な詩人に対する心が死に絶えていないとすれば,この詩集はセンセーショ 117) ンを巻きおこすにちがいありません」と書いた。かくて翌1826年6月ついに 詩集が出版されたのである。 ヴァィプリンガーは,この冬から翌年にかけて,『フリードリッヒ・ヘルダ ーリンの生涯,文学と狂気』を執筆するが,これは1831年に至り出版される のである。1827年シュヴァープは,『文学的楽しみの新聞』に,詩人とその詩 について理解ある論文を発表するが,翌年はじめアルニムは『ベルリン談話 新聞』に『ヘルダーリンとの迫上』と題する,たいへん思いやりのある論文 をのせ,ついで詩集から除外された重要な詩があることを惜しむ。この年1828 年2月17日,ついに母は老衰のためにニュルティンゲンで亡くなったが,80 歳にならんとする長寿であった。そうして母の遣言書が開かれるが,ゴック と妹のハイソリーケは,詩人がどれほど要求し得るか,という問題をめぐっ て遣産あらそいをすることになる。ツィンマーはこのあらそいを悲しむけれ ども,5月裁判所は,遣産の3分の1を含む額を詩人に与えるよう決定する。 しかしあらそいは,さらに上級裁判所にもちこまれたのであった。夏かつて 詩人に心をよせたであろう,青春時代の女友達,末婚のシャルロッテ・シュ トイドリーンが減ずれ,またインマニエル・ナストもたずねてきた。この頃 ツィンマーは増築して学生たちが下宿するが,二二は学生たちと仲よくやっ ており,コーヒーに招待されたり,また時には一緒に酒の歌をうたったりす ることもあったようである。 1829年詩人の病状の再診がおこなわれたが,見舞金はひきつづき詩人の回 復まで与えられることになる。秋シュトゥットガルト上級裁判所は和解を勧 117) lbid. S. 567. フリードリッヒ・ヘルダーリン 31 告し,かくて結着するが,詩人は9074グルデン,ゴックとハイソリーケは各 各5230グルデン得ることになった。また詩人の遣産は実妹のハイソリーケが 8分の7,義弟のゴックが8分の1うけるように決定された。しかしこの和 解は2人の間にしこりをのこして,詩人の死後よりするどくたがいの悪感情 が吹きだすことになるのである。またこの秋,スイスの作曲家テオドール・ フレーリッヒは,頒歌『故郷への帰還』と『ヒュペーリオンの運命の歌』を はじめて作曲する。1830年詩人はあいかわらず元気に暮らし,音楽を愛する と共に,自然の美に対してもセンスをもち,絵さえときどき描くこともあっ た。そうしてレブレット事務局長の孫が法学生としてツィンマーの家に下宿 し,詩人に関心をもち,ツィンマーに,詩人が父の姉妹(エリーゼ)に恋し ていたと語り,人生の不思議がおこるのである。この年ツィンマーはゴック と和議をとりかわし,毎年一括して250グルデン支払われることにするが,ゴ ックは詩人の財産を8772グルデン,つまり842万円余とした。 1831年ヴァィプリンガーの著作が出版されるが,これは最初の伝記的試み であり,これは後さまざまな人々に徹底的に利用されるのである。しかしこ れは,たとえば病気の由来をボルドーにおける放堵とするなど,資料も不十 分かつ不正確な面を多くもっているものの,詩人の本質と運命にたいする洞 察,詩人の日常生活の詳細,その存在の分析にはすぐれたものがあるとされ ている。1832年ヘルダーリンははじめて韻を踏んだ詩を書くが,これからた くさんの季節の詩がつくられるのである。そうして,1833年からはスカンダ ネリと署名するようになり,11月18日,忠実な恩人であるツィンマーは68歳 で亡くなった。それからは当時24歳ほどの娘ロッテが詩人の世話をするが, こまやかな愛を持って面倒を見るゆえ,詩人は彼女を“聖母ロッテ”と呼ぶ に至るのである。やがて1839年詩人は創作する詩の日付を現実とはちがって つけることがひんばんとなるが,1840年ベッティネ・フォン・アルニム(1785 −1859)は『グユンデブローテ』において,詩人の“聖なる狂気”について 書くのである。 1841年シュバープの子息クリストフは,前年の秋から神学寮に入学してい 32 彦根論叢 第264号 たが,この年はじめて詩人を訪問し,それから5度以上の訪問をくわしく日 記にしるすのである。たとえばクリストフは,「私にとって主に目立ったこと は,彼の魂にはまったく精神力の集中が欠けているように,彼の眼にはまっ たく固定した瞳をもっていないので,人は彼を眼でもってとらえることはで 118) きないことであった」と書いた。1月コッタは,詩集の第2版をだす計画を ゴックに提案するが,2月末詩人の後見人は,詩人の財産が11050グルデン, つまり1060万円上であることをゴックに伝える。5月ロッテは,ゴック婦人 に心のこもった扱いをしていることを伝えたあと,「要するに御心配なしでい てください。私はあなた方の委任を忠実に果します。この不幸な入に,さら に多くの善いことをすることができる状態に,私が置かれていますことを知 119) りますことは,私に喜びさえもたらすのでございます」と書いたのである。 詩人はロッテに素直にしたがい,まるで子供のようにあやつられるままであ ったらしい。 1842年1月哲学者・作家のモーリッツ・カリエレ(1817−1895)は,ゴッ コ クに対して詩人の全集をだすよう申しでるが,そこで「それはヘルダーリン である。国家と教会のためのより美しい未来の予言者は。かつてこの世界に 120> 生まれた最:大の悲歌詩人である」と記したのである。3月20日ウーラントは, 恒例のごとく,詩人の誕生日に花の活けた花瓶を贈るが,詩人はたいへんよ ろこぶ。そうして秋『フリードリッヒ・ヘルダーリンの詩』第2版が世に出 されたが,これには,シュヴァープ父子による伝記がはじめてつけ加えられ たのである。翌1843年3月ウーラントがクリストフと共に詩人をたずねると, 詩人はウーラントにはたいへん親しくしたが,誕生Bにはまた花が贈られて, 詩人をすこぶる喜ばせたのである。4月18日『ケルン新聞』に,『詩人の生 (1),フリードリッヒ・ヘルダーリン』の題で,該博な人生のスケッチがの ったが,おそらくシュヴァープによるものといわれる。そこでヘルダーリン 118) StA VII, 3: 205. 119) lbid S. 249. 120) lbid. S. 270. N フリードリッヒ・ヘルダーリン 33 は,ゲーテやシラーと共に,われわれ民族の最上の精神に数えられるとされ た。 6月はじめ風邪をひいた詩人は,さいこの詩『眺望』を書いたが,7日夜 11時,詩人はロッテたちに見守られながら,安らかに息をひきとったのであ る。12時ロッテはさっそくゴックあての知らせをしたためるのである。詩人 は12,959グルデン,つまり1,244万円の遺産をのこし,当時の中流市民的観念 からすれば,たとえ本人は自覚していなかったとしても,人生の不思議なが ら“豊かな人間”として亡くなったといえようか。10日午前10時,詩人はテ ユービンゲン市の墓地に埋葬されたが,ツィンマー家に下宿する学生たちが 枢をかつぎ,およそ100人ほどの学生たちが従ったのである。教授たちはひと りもいなかったが,親戚からは甥のプロイリンと遠縁の2人だけが出席し, クリストフ・シュヴァープが追悼演説を行ったのである。 詩人はかつてはつらつたる青春の大学時代,『テユービンゲン城』のおわり で,「甘美な厳粛もてわたしは帰り来たることを欲する/自由なる男子たちの 勇気を飲みこむべく/霊たちの大群にきらきらかこまれて/ヴァルハラのみ 121) ふところで魂がやすらぐまで」と歌ったが,みずからの運命を預言したので あろうか。ヘルダーリンはあたかも33歳余で十字架にのぼったイエスのよう に,33歳のとき霊的詩的には亡くなり,ながい間生ける屍として精神の薄明 のなかにあったが,時と共に高く評価されるようになり,足かけ40年伝記の ついた詩集第2版が世にでたごとく,肉体がほろびるとき,詩的霊的には完 全に永遠に復活したといえようか。まことに詩人の生涯ははかりがたい天命 のまま,劇的運命的であったが,土入は聖なるものを聖なる歌においてうた い,聖なるものを寿ぎ,聖なるものに殉じたのであるから,その意味におい て,ひとりの聖なる人であったといえよう。そうしてその真価は,詩人がめ ざした“より善き時代”がいよいよ近づく今日以後,ますます輝きを増し, その作品は美の実現をめざす人類の魂にとって,かつて詩人が預言したよう に“良い薬”となるであろう。(完) 121) StA 1, S. 103.