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HIKONE RONSO_267_031

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HIKONE RONSO_267_031
31
ソ連・東欧における政治・経済体制の変動
田
福
敏
浩
本稿の目的は二つある。第1は,ソ連・東欧における最近の政治体制およ
び経済体制の変化傾向を確定することである。第2は,経済体制に変化をも
たらしている誘因を試論的に指摘することである。本稿は筆者の経済体制変
動論の構築のための準備作業の一環をなすものである。
1.政治体制の変動
(1)ソ連・東欧諸国では1989年から90年にかけて強烈な政治的地殼変動
が発生した。オートクラシーからデモクラシーへの移行が劇的な形で進行し
たのである。
その震源地はポーランドであった。この国の民主化運動の歴史は古く,ソ
連でスターリン批判が行われた1956年の6月と10月に早くも「下からの」民
主化運動が展開された。これはソ連の圧力で実を結ばなかったが,次にこの
ような形式の運動が大きな高まりを見せたのは1980年であった。周知のよう
に,この年は自由労働組合「連帯」のイニシアティヴのもとに民主化要求の
運動の波が全土を襲い,ポーランド統一労働者党の権威は失墜し,事実上一
党独裁制(オートクラシー)は崩壊した。しかし,その後ソ連の圧力とポーラ
ンド国軍の介入と戒厳令の布告によって一党独裁制は辛うじて命脈を保って
きた。ところが,89年2月に政府側と労働者側の円卓会議が開催され,4月
に「連帯」が再合法化されると,民主化への動きが一気に高まり,6月には
総選挙が行われるに至った。その結果,統一労働者党は惨敗し,9月置は「連
帯」系の市民議会クラブを中核とする連立政権が誕生した。ここに至って一
党独裁制は名実ともに崩壊し,ポーランドは複数政党制に基づく議会制民主
32 彦根論叢第267号
主義へ移行した。
このような動きは周辺諸国に直ちに波及し,89年10月にはハンガリーと東
ドイツで,11月にはブルガリアとチェコスロヴァキアで,12月にはルーマニ
アで民主化運動が次々に展開された。
(2)ハンガリーでは「上から」の改革が行われた。すなわち,89年2月
にハンガリー社会主義労働者党の中央委員会総会で,党の指導的役割の放棄
および複数政党制の容認が決定された。10月の党大会で社会主義労働者党は
マルクス主義を放棄し,社会民主主義路線への転換を図るとともに党名を社
会党に変更した。こうしてハンガリーも議会制民主主義への移行を開始した
のである。
90年になると,3月25日目4月8日の二回に分けて総選挙が行われ,その
結果,民主フォーラムが得票率で1位を占め,自由民主同盟がこれに続き,
社会党は小地主党にも敗れて第4党に転落した。かくて民主フォーラムを中
核とする連立政:権が誕生し,ハンガリーは名実ともに議会制民主主義の仲間
入りを果たしたのである。
(3)東ドイツの政治改革はドラスティックであった。国民の西ドイツへ
の流出が増大しつつあった10月6日にゴルバチョフ(M.Gorbachev)は建国
40周年記念式典に参加のためベルリンに乗り込み,社会主義統一党首脳に政
治の民主化を迫った。これがきっかけとなって国民による「下からの」民主
化要求運動が急速に高まり,連日大規模デモが繰り広げられた。このため10
月18日にはホーネッカー(E.Honecker)書記長は退陣に追い込まれた。!1月
9日には冷戦の象徴であったベルリンの壁が開放され,国民の西への自由出
国が保証された。さらに12月1日に人民議会は憲法から党の指導的役割の条
項を削除し,ここに複数政党制への移行が開始された。
90年に入ると,3月18日に総選挙が行われたが,大方の予想を裏切って保
守のキリスト教民主同盟を中核とするドイツ連’合が大勝し,これに社会民主
党などの政党を加えた連立政権が誕生した。この政権は西ドイツとの統一の
実現に精力を傾け,5月18日には西ドイツ政府との間に「通貨・経済統合条
ソ連・東欧における政治・経済体制の変動 33
約」を締結した。この条約は7月1日に発効し,ここにいわゆる通貨同盟が
成立し,東ドイツ経済は事実上西ドイツ経済へ吸収されることになった。そ
ればかりではない。8月23日に人民議会は賛成多数で90年10月3日に東ドイ
ツを西ドイツへ編入することを決定した。東ドイツの消滅が決まったのであ
る。その歴史はわずか40年であった。
(4)ベルリンの壁が開放された翌日の11月10日にブルガリアで突如政権
交替が行われ,35年間政権iの座にあったジフコフ(T.Zhivkov)共産党書記長
が解任され,党内改革派の新指導部が実権を握った。12月11日に開かれた
中央委員会総会で自由選挙などの改革案が決議され,民主化への布石が打
たれた。
90年になると,まず1月15日の人民議会で憲法から党の指導的役割の条項
を削除することが決定された。6月10日と17日に総選挙が行われ,社会党(旧
共産党)が民主勢力同盟に水を開けて過半数を制し,引き続き政権を担当する
こととなった。かくてブルガリアでは,共産党支配がしばらく続くことにな
った。
(5)チェコスロヴァキアの改革も急激であった。ベルリンの壁の開放に
触発される形で1968年の「プラハの春」以来の「下からの」民主化運動が爆
発したのは,11月17日の学生デモからであった。それから1カ月もたたない
うちに憲法から党の指導的役割の条項が削除され,11月10日には市民フォー
ラム,社会党および共産党などの連立内閣が成立した。また12月28日には市
民フォーラムのハベル(V.Have1)が大統領に選出された。
90年6月8日と9日には44年ぶりに総選挙が行われた。その結果,市民フ
ォーラムが圧勝し,共産党を除くキリスト教民主同盟などとの連立政権が誕
生した。ここにおいて一党独裁制は名実ともに崩壊し,議会制民主主義が復
活したのである。
(6)ルーマニアの政治改革は劇的であった。12月15日から17日にかけて
ティミショアラで発生した反政府デモは全土に波及し,12月21日には首都ブ
カレストでも大規模デモが展開された。当局はこれに対し,武力で対抗した
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ため6万人もの人命が失われた。そうした血の代償を払いながらもクリスマ
ス革命は勝利し,25日にチャウシェスク(N.Ceausescu)大統領は処刑され
た。かくて権力は救国戦線評議会の手に移り,共産党独裁に終止符が打たれ
たのである。
90年5月20日には総選挙が行われた。その結果,上・下院とも救国戦線(旧
救国戦線評議会)が民主ハンガリー党や自由党や農民党などに大差をつけて圧
勝し,引き続き政権を担当することとなった。ルーマニアでは一応複数政党
制が導入されたものの,救国戦線の幹部の多くは旧共産党系であり,依然と
して強権的体質を持っている。最近反政府デモが繰り返されており,政情は
波乱含みの様相を呈している。
(7)1989年から90年にかけての以上の東欧諸国の政治変革は,東欧革命
と呼ばれている。そうした変動をもたらした誘因にはさまざまなものがある
が,各国に共通する直接的誘因としてはソ連におけるゴルバチョフの登場,
かれによるペレストロイカの推進,対東欧外交面でのブレジネフ・ドクトリ
ン(制限主権論)の放i棄およびペレストロイカの輸出戦略が考えられる。ゴル
バチョフは,88年3月,89年5月および同年6月の3回にわたって,東欧諸
国の主権を制限しソ連による内政干渉を正当化してきたブレジネフ・ドクト
リンの放棄を宣言した。加えてかれは,東ドイツのばあいが典型的にそうで
あるように,民主化に批判的な東欧の首脳にペレストロイカの推進を迫った。
ゴルバチョフは,衛星諸国への民主化の輸出によってソ連国内のペレストロ
イカの推進にとって都合の良い環境を作りだそうとしたのである。これらに
よって,永年東欧諸国の国民がソ連に対して抱いてきた異常なまでの恐怖心
一政治の抜本的な改革はソ連の武力干渉を招くという恐怖心 が急速に薄れ,
一斉にドラスティックな政治改革が行われるに至ったのである。
(8)東欧革命は,ソ連の政治に予想外のショックを与えた。グラスノス
チのお陰でソ連国民はマスコミを通して東欧の民主化を知ることができ,共
産党一党独裁に対する不信を募らせると同時に,従前に増して一層民主化や
生活改善や民族独立など多様な要求を主張するようになった。このため共産
ソ連・東欧における政治・経済体制の変動 35
党の支配力と権威は相対的に低下し,クレムリンからの遠心運動が加速化さ
れる状況が生じた。といってゴルバチョフが推進してきた権力基盤を党から
国家(人民代議員大会)ヘシフトさせるという戦略は完成していなかった。ペ
レストロイカの推進を目指すゴルバチョフにとって権力基盤の脆弱化は命取
りになる。ペレストロイカのイニシアティヴを取るには強力な権力基盤が必
要となる。しかも,政治の民主化を旗印にしてきたゴルバチョフとしては議
会制の中でこれを行わねばならなかった。
ゴルバチョフはその解決を大統領制に求めた。90年2月のソ連共産党拡大
中央委員会は,大統領制の導入を決議するとともに,党の指導的役割を規定
した憲法第6条の削除(つまり複数政党制の容認)を決定した。そして,それ
から1カ月後に臨時人民代議員大会が開かれ,3月13日に憲法改正が採択さ
れ,翌14日にはゴルバチョフが大統領に選出された。また,5月6日には共
産主義を真っ向から否定する「ロシア社会民主党」が結成され,ソ連はよう
やく複数政党制の時代を迎えた。
II.80年代までの経済体制の動向
東欧革命以後,以上の政治体制の変動とパラレルな形で経済の面にも変化
が生じてきた。ソ連・東欧諸国の経済はどこからどこへ向かおうとしている
のか。以下,この問題に筆者なりの回答を与えてみたい。
(1)1930年代にソ連で確立された管理社会主義体制の基本構造は,筆者
1)
の「所有,相互・上下調整の三元論」をもってすると次のように特徴づけら
れる。
所有方式:共有(国有と集団所有)
相互調整方式:中央管理経済(中央計画機関(物財バランス)による需給の調
整)
上下調整方式:指令方式(中央管理機関一中間管理機関一調業の三層ピラミッ
1)筆者の経済体制論については次の箇所を参照されたい。福田〔8〕第6章および福田
(9〕第1章。
36 彦根論叢 第267号
ド型の行政的管理システム)
この管理社会主義はソ連ではその後たびたび修正されたが,その基本構造
の面では根本的な変化を蒙ることなしに最近まで存続してきた。
(2)以上のソ連型管理社会主義は第2次世界大戦後,東欧諸国に輸出さ
れた。かくて,50年半の半ばごろまでには東欧各国で管理社会主義が制度化
された。この意味で東欧経済は 政治もそうだが一ソ連化されたのであ
る。したがって,50年代のソ連・東欧諸国の経済は一様化をもって特徴づけ
られる。
(3)一枚岩の結束を誇ったソ連・東欧経済に多様化の動きが生じるのは,
1960年代である。その最大の誘因は経済実績の悪化であった。50年代のソ連
・東欧諸国の経済は好調であり,ほとんどの国が年率10%台の成長率を記録
した。ところが60年代に入ると,成長率は1桁台に低下した。62年の工業成
長率を見ると,ソ連4%,東ドイツ3%,チェコスロヴァキアに至ってはマ
イナス2%であった。
このような深刻な事態に直面したソ連・東欧諸国では党を中心に原因の究
明と対応策の協議が行われた。その結果,興味深いことに,成長率低下の根
因として管理社会主義それ自体が挙げられた。つまり,管理社会主義はある
一定水準以上の経済発展段階以上になると,経済成長にとってブレーキとな
ることがソ連・東欧諸国の党によって確認されたのである。
(4)かくて,1963年の東ドイツを皮切りに,アルバニアを除くソ連・東
欧諸国は一斉に管理社会主義の変革を柱とする経済改革に乗り出した。その
経済改革のスタイルは,体制保持的改革と体制改変的改革に区別される。前
者は管理社会主義の基本を保持しつつその部分の改革を目指すものであり,
後者は管理社会主義の全面的改革を目指すものであった。
体制保持的改革の道を選択したのは,ソ連,東ドイツ,ポーランド,ルー
マニア,ブルガリアであった。筆者の考えでは,これらの国の改革はもっぱ
ら上下調整方式に,つまり指令方式に限定されていた。しかもそれは指令方
式の枠内での改革であった。具体的には,中央管理機関の権限の一部の中間
ソ連・東欧における政治・経済体制の変動 37
管理機関への委譲,義務的指標数の削減,企業の成功指標の総生産高指標か
ら利潤・利潤率・売上高指標への転換などの措置が採られた。
しかし,体制保持的改革はどの国でもほとんど見るべき成果を挙げなかっ
た。このため,この改革の道を選択した国では,60年代以降もたびたび改革
が行われた。国ごとの動きを簡単に見ると次のごとくである。
①1963年に経済改革の先陣を切った東ドイツは,やがて部分的改革では実
効のないことに気づき,70年末には経済改革そのものを放棄し,再集権化の
措置を採った。その結果,東ドイツは管理社会主義へ復帰することとなった。
その後も経済体制の体制レベルでの改変は試みられず,管理社会病i義は80年
代末まで保持されてきた。東ドイツの経済政策を指導してきたミッターク
(G.Mittag)政治局員らは,昨年の革命直前まで管理社会主義の体制原則一
一社会的所有,国家経済計画,義務的・指令的計画,企業長単独責任制,破産・失
2)
業の禁止一を今後とも堅持することを宣言していたほどである。
②ルーマニアは東ドイツと同様に最も保守的な道を歩んできた。確かに,
70年代に入るとこの国はソ連と一線を画して自主独立外交を展開し,西側へ
の接近を図った。経済政策面でも72年にIMFに加盟したり,西側との合弁
企業の設立を認めるなどの措置が採られた。しかし,経済体制レベルでは70
年代以降も根本的な変化は見られず,管理社会主義が保持されてきた。
③ブルガリアでは70年代までは管理社会主義が保持されてきたが,80年代
半ば頃になると体制レベルで新しい動きが生じた。すなわち,管理社会主義
から市場社会主義への転換を思わせるような変化が現れたのである。87年の
共産党中央委員会で決定された経済改革プランは,企業の自立・自主管理や
所有方式の多様化(国有,協同組合所有,共同体的所有,集団所有,個人所有)
や株式・社債の発行などを含んでおり,後に見るハンガリー型市場社会主義
への転換を窺わせるものであった。しかし,市場社会主義の建設が実際に本
格化しているわけではない。市場社会主i義はまだ構想の段階にあると言わね
ばならない。
2)これについては次の文献を参照。Koziolek, et al.〔15〕,Mittag〔19〕,
38 彦根論叢第267号
④ポーランドは60年代以降いわばストップ・アンド・ゴーの改革を行って
きた。この国では67年に経済改革が開始され,企業に対する直接的国家統制
を企業合同を媒介とする間接的統制へ転換する措置が採られたが,それは結
局失敗に終わり,60年代末には旧体制への復帰がなされた。
次に73年からWO G(大経済組織)の導入を柱とする改革が行われた。 WO
Gは自立的な経済単位であり,これに対する国家の干渉は経済的パラメータ
ーによって間接的に行われ,利潤や賃金の決定は自主的に決定でき,資金は
銀行から調達できるものとされた。だが,この改革も管理社会主義の枠内で
行われたため失敗し,またもや旧体制への復帰がなされた。
民主化運動が高まった1980年以降管理社会主義の原則から離脱するような
新しい動きが生じた。当時の改革プランによれば所有面では国有,協同組合
所有および個人所有に同等の権利が認められ,上下調整方式の面では指令方
式の放棄と誘導方式(国家による企業の間接的誘導)の導入が予定されていた。
しかし,これも計画倒れに終わってしまった。
88年以降政府は市場社会主義への移行を開始した。プランによれば,所有
方式の多様化(国有企業,協同組合,私企業,合弁企業,100%外資企業などの容
認),相互調整方式の面での市場経済の導入(財市場,金融市場,資本市場,労
働市場の導入,価格の自由化),上下調整方式の面での誘導方式の導入が目指さ
れた。こうした改革は88年から実際に開始されたが,滑り出しは好調とは言
えず,とりわけ価格の自由化によって猛烈なインフレが生じた。今後のゆく
えは楽観はできないが,ともあれポーランドが管理社会主義からテイクオフ
して市場社会主義へ移行し始めたことは確かである。
⑤ソ連では1965年のコスイギン改革が開始されたが,それはほとんど成果
を見ないままに終わってしまった。70年代末に二度ほど改革が行われたがい
ずれも部分的修正であり,管理社会主義は80年代半ばまで保持されてきた。
80年代後半になると,ソ連の経済改革は新しい段階を迎えた。85年から2
年の準備期間を経て87年後半から上下調整方式の改革が行われた。すなわち,
国有企業に対する国家規制の緩和と企業の自立化一完全経済計算制,資金の
ソ連・東欧における政治・経済体制の変動 39
自己調達,経常活動の自主決定,従業員による企業長の選出 が88年から実施
された。しかし,他方で企業に対する国家の直接規制が温存されたこと,企
業の自立に必要な環境整備(価格の自由化,生産財市場の導入など)が行われな
かったことなどによりこの改革はかえって国民生活にマイナスの影響(イン
フレ,物不足)を与えた。このためゴルバチョフ政権は89年秋ごろから改革の
徹底の必要に迫られ,市場社会主義への移行を余儀なくされた。
(5)一方,体制改変的改革の道を選択したのは,チェコスロヴァキアと
ハンガリーであった。両国は1968年前ら市場社会主義への移行を開始した。
ところが,チェコスロヴァキアの改革は政治の民主化をも射程に入れていた
ためソ連の武力介入を受け,わずか1年で挫折してしまった。この国ではそ
の後70年代後半に一度,80年代前半に二度ほど改革が行われたが,いずれも
部分的修正であり,80年代末まで管理社会主義が保持されてきた。
3)
(6)ハンガリーは,「誘導市場モデル」(Guided Market Model)と呼ばれ
る経済改革プランを基に68年目ら今日までの23年間にわたって市場社会主義
の建設を行ってきた。80年代末の時点のハンガリーの市場社会主義の基本構
4)
造を簡単に示しておくと,次のごとくである。
①所有方式については多様な所有形態が導入されている。すなわち,国有
国営企業,国有自主管理企業,国有民営企業(国有資産のリース制),協同組
合,私企業(従業員500人まで),合弁企業,100%外資企業など。
②相互調整方式の面では中央管理経済が廃止され市場経済が導入された。
市場の種類には,財市場(消費財市場生産財市場),金融市場(国立銀行と商
業銀行),資本市場(株式市場,債券市場)および労働市場がある。市場の円滑
な機能化のため価格改革が行われ,公定価格(固定価格,最高価格,ゾーン価格)
と自由価格から成る混合価格制が導入された。
③上下調整方式の面では指令方式が廃止され誘導方式が導入された。これ
によって国家の経済計画は指示的計画に転換された。また,企業が自立した。
3)誘導市場モデルについては次の文献が詳しい。Csap6〔4〕,
4)ハンガリーの市場社会主義の細目については福田〔9〕第3章を参照されたい。
40 彦根論叢 第267号
すなわち,投入・産出・販売の決定権は企業自体に付与され,利潤最大化が
企業の目的関数となった。企業管理の民主化も実現した。すなわち,国有企
業の約半数に労働者自主管理が導入され,残りの部分にも労使協議制が導入
された。さらに破産法と失業手当が制定され,企業に対する市場経済的環境
が一段と整備された。
(7)60年代から80年代までのソ連・東欧諸国の体制動向は,要するに多様
化をもって特徴づけられるが,これをグループ化すると,管理社会主義の堅
持(東ドイツ,ルーマニア,チェコスロヴァキア),市場社会主義への志向(ブル
ガリア,ポーランド,ソ連)および市場社会主義の制度化(ハンガリー)に区別
することができる。
筆者は,このような体制動向を踏まえて東側の一部が西側の経済体制,つ
5)
まり誘導資本主義へ接近しつつあることを主張してきた。すなわち,ハンガ
リーとユーゴスラヴィアがことに中・長期の経済計画を制度化したフランス
出品導雷本主義に,相互調整方式(市場経済)と上下調整方式(誘導方式)の
両面で,接近しつつあることを唱えてきた。しかし,そのさい筆者は両国は
誘導資本主義へ全面移行しつつあるのではないことに注意を促した。という
のは,両国の市場社会主義と誘導資本主義は所有方式の面で決定的に異なっ
ていたからである。前者は共有を,後者は私有を基本としていたのである。
III.現在の経済体制の動向
東欧革命以後,ソ連・東欧諸国の経済体制に新しい動きが生じた。
(1)まず特筆すべきは,ついユ年ほど前まで最も保守的な道を歩んでき
た東ドイツが西ドイツ型の誘導資本主義への移行を決定したことである。こ
れは,両ドイツの統一の決定によって自動的に招来されたのであるが,もし
も総選挙で社会主義統一党が過半数を制するか,または東ドイツが社会主義
陣営に留まる決定を行ったとすれば,東ドイツはハンガリー型市場社会主義
の道を選択した公算が大きかったように思われる。というのは,昨年まで管
5)福田〔9〕第3章参照。
ソ連・東欧における政治・経済体制の変動 41
理社会主義堅持の論陣を張っていた社会主義統一党系の経済理論誌Wirts−
chaftswissenschaftは,今年になると,一転してハンガリー型市場社会主義擁
護のキャンペーンを開始したからである。たとえば,エトル(W.Ettl)やユン
ガー(J.JUnger)やワルター(D.Walter)は,所有の多様化+市場経済の導入
+誘導方式の制度化という基本においてハンガリーと同様の市場社会主義の
6)
建設を提案している。しかし,両ドイツの統一が決定された今ではこのよう
な提案は反故になってしまった。
(2)次に注目すべきはソ連の動きである。89年秋から芽生えていた市場
社会主義への移行の動きは,今年に入ると一層はっきりとしてきた。それは,
90年2月の共産党の政治綱領「人間的で民主的な社会主義」における「計画
的市場経済」構想,2月の「農地法」,5月の「所有権法」および5月の「国
家経済[青墨と調整された市場経済移行への基本構想」において具体的に示さ
れている。筆者なりにこれらを整理すると,ゴルバチョフ政権が理想とする
経済体制は,要するに市場社会主義である。その名称は2月段階では「計画
的市場経済」であったが,5月には「調整された市場経済」に変更され,国
家経済計画の役割が後退している。「調整された市場経済」の基本構造は,所
有の多様化(国有,協同組合所有,市民的所有),市場経済(財市場,金融市場,
資本市場の導入,価格の自由化)および誘導方式(省の役割の産業全体の調整への
変更)から成る。筆者の解釈によれば,この「調整された市場経済」は細部の
点では違いがあるものの,基本構造の面ではハンガリー型市場社会主義モデ
ルと一致する。ソ連は明らかにハンガリーの後追いを開始した。もっとも,
「調整された市場経済」への移行は緒に着こうとしている段階であり,それ
が構想どおりに制度化されるかどうかは予断を許さない。ともあれ,確かな
ことはソ連は管理社会主義かち離脱し始めたことである。
(3)チェコスロヴァキアは今年になると,非共産勢力の連立政権の登場
に伴い,管理社会主義から市場社会主義への転換を目指すような動きを示す
ようになった。つまり,所有の多様化,市場経済の制度化およびチェコ経済
6) Ettl, et al. (6).
42 彦根論叢 第267号
の世界経済への開放を柱とする経済改革が構想されつつある。ただ,最終的
な構想はまだできておらず,今後具体的にどのような改革が展開されるか予
想はつかないが,チェコも市場社会主義を志向し始めたことは確かである。
(4)80年代末まで市場社会主義を志向してきたポーランドおよびブルガ
リアについては今のところ体制レベルの根本的な変化は生じていない。ただ,
ポーランドでは89年の価格の自由化によって一段とインフレが加速化され,
市場社会型義への移行にとってブレーキとなっているが,国内外の政治的経
済的状況に激変が起こらない限り,ポーランドは今後とも試行錯誤を重ねな
がら市場社会主義を制度化していくものと思われる。
(5)最:後にルーマニアでは複数政党制が導入されたものの,依然として
共産勢力が強く,また国民の間にデモクラシー・マインドがストックされて
いないことも手伝って,政治の民主化は低迷を続けている。このため,経済
面でも市場経済的要素の導入や民生重視の政策方針が打ち出されてはいるも
のの,経済体制の根本的な改革を実施するような動きは生じていない。現時
点ではルーマニアは管理社会主義に留まっていると言わねばならない。
(6)最後にハンガリーであるが,この国の状況は昨年と同様である。国
内外の政治的経済的環境に格別の変化が生じない限り,ハンガリーは市場社
会主義の道を歩んで行くものと思われる。ただ,気掛かりなのは最近の経済
実績が低迷していることである。この10年間の年成長率は3%を越えたこと
がなく,インフレも昂進して88年は15%,89年は16%を記録した。さらに対
外債務残高は88年には160億ドルにものぼった。現在,ハンガリー政府はこの
ような深刻な事態を経済の一層の市場化によって打開しようとしている。具
体的には,金融市場,資本市場および労働市場の拡充,「企業転換法」による
国有企業の民営化の促進,国民経済の世界市場(とくにEC市場)への開放な
どの措置が採られつつある。
注目すべきは,今後所有形態に占める私有の割合がどうなるかということ
である。筆者の考えでは,先にも触れたように,ハンガリーの市場社会主義
と誘導資本主義を分かっているのは所有方式である。つまり,前者では共有
ソ連・東欧における政治・経済体制の変動 43
(国有,集団的所有)が後者では私有が支配的な所有形態なのである。もし
も,ハンガリーで民営化が推進されて私有形態が優位に立つとハンガリーは
社会主義の国とは言えなくなる。現在のところは国有の占める割合が高く(89
年末で90%),しばらくは資本主義化の可能性はほとんどないと思われる。し
かし,今後経済に好転の兆しが見られず,ますます私有化が推進されるとす
ると,将来ハンガリーが誘導資本主義化されてしまうということも考えられ
る。
(7)以上を踏まえて現在のソ連・東欧諸国の経済体制の動向を総括して
おくと,次のごとくである。
筆者の考えでは,ソ連・東欧諸国は東ドイツとルーマニアを除いて市場社
会主義の道を歩みつつある。国によって遅速の差や細目面での違いはあるが,
どの国も共有の優位,市場経済および誘導方式の組合わせから成る市場社会
主義を選択している。しかも,どの国も,意図的かどうかは別として,結果
においてハンガリー型の市場社会主義を志向している。この意味で90年代の
ソ連・東欧諸国の経済体制は,80年代に増して一層西側の誘導資本主義へ接
近して行くだろう。もとより,一口にソ連・東欧諸国と言っても国情はさま
ざまなので,どの国でもハンガリー型市場社会主義の移植が成功するかどう
かは予断を許さないが,低成長,インフレ,対外債務の累増,財政赤字,失
業に悩まされているこれらの国は,今後しばらくは市場社会主義の道を歩む
ことになろう。政治面の民主化が進行すればするほど,その可能性は高まる
だろう。
東欧革命はわれわれにマーケットとデモクラシーは相補の関係にあること
を教えてくれた。管理社会主義とオートクラシーは対になっていた。デモク
ラシーがある限り,管理社会主義への回帰はないであろう。
IV.経済体制論の課題
以上に見たソ連・東欧諸国の体制変動は,経済体制論に格好の考察材料を
提供している。とりわけ,経済体制変動論にとっては好機到来である。以下,
44 彦根論叢第267号
ソ連・東欧諸国の体制変動に関連づけっっ経済体制論の課題を試論風に指摘
しておくことにしたい。
(ユ)経済体制変動論の第ユの課題は,経済体制の変化傾向の把握である。
言うまでもなく,そのさいには変化傾向を事実に即しつつ客観的に把握しな
ければならない。客観的把握のためには研究者サイドにしかるべき分析枠組
がなければならない。つまり,研究者は自身の経済体制論を持たねばならな
い。ソ連・東欧諸国の体制動向の把握に従事している研究者の中には,体制
心なき体制論議を展開している者が往々にして見られる。そのような研究者
の論議は,事実の収集に終わるか,現実後追い的な散文的主張に終わってし
まい,学問的要求に応えられないケースが多い。
また,しかるべき分析枠組をもってソ連・東欧諸国の体制動向を追究して
いる研究者の中には,客観性の基準に合致しないような議論を展開している
者もいる。マルクス=レーニン主義者,新自由主義者,およびティンバーゲ
ン(J.Tinbergen)のような最適経済体制論者がそうである。これらの研究者
は,あらかじめ理想的な経済体制を措定しておいて現実に接近し,現実はそ
うした理想的体制へ動きつつあるという結論を導く傾向がある。
ソ連のブレゲル(E.Bregel)やレオンティエフ(L.Leontiev)や東ドイツの
マイスナー(H.Meissner)らのマルクス=レーニン主義者は,60年代以降の
ソ連・東欧諸国の体制変化は自由化ではなく,共産主義への移行を示すもの
7)
であると主張した。一方,新自由主義者ヘンゼル(K.P.Hense1)は「競争秩
序」という理想的体制を措定しておいてソ連・東欧諸国の経済体制は逆に市
8)
場経済へ全面的に移行しつつあるという結論を導き出した。筆者は,このよ
うなマルクス=レーニン主義者および新自由主義者の見解を移行論と呼んで
9)
きた。ティンバーゲンはあらかじめ理想とする経済体制として「最適体制」
7) Bregel (2), Leontiev (16), Meissner (!8).
8) Hensel (12) S. 174−181.
9)福田〔9〕第2章参照。
ソ連・東欧における政治・経済体制の変動 45
(私有セクターと公有セクターから成る混合体制)を措定しておいて60年代以降
10)
のソ連・東欧諸国の経済体制はこの最適体制へ収束しつつあると論じた。テ
ィンバーゲン説は通常収敏説と呼ばれている。
以上の論者に共通しているのは,イデオロギー的判断である。このような
11)
判断が事実を歪める危険があることについてはすでに指摘した通りである。
筆者の「所有,相互・上下調整の三元論」は,脱イデオロギー的で客観的な
12)
分析を可能にしうる分析枠組を提供することを狙ったものである。その成否
については読者の判断を待つほかないが,ソ連・東欧諸国の体制動向につい
ては,上述の通り,客観的に把握できたと思っている。
(2)経済体制変動論の第2の課題は,経済体制の変動の誘因を確定する
ことである。筆者はまだ,この課題に応えうるほどの考えを持ち合わせてい
ない。したがってこれは筆者にとって文字通り今後の課題である。
ソ連・東欧諸国の経済体制の変動の誘因については,筆者の知る限り,従
来二つの説が展開されてきた。ひとつは,60年代の経済改革の時代に東側で
唱えられた説である。もうひとつは,新自由主義者ヘンゼルの説である。
60年代のソ連・東欧諸国で流行したのは,一種の発展段階説である。すな
わち,管理社会主義はもともと生産力の比較的低い段階(外延的発展段階)
に照応した体制であって,一定の生産力水準以上の発展段階(内包的発展段
階)には適合できないという説である。これは,もともと60年代の経済改革
を合理化すべく持ち出された説であるが,当時の改革派のエコノミストはほ
とんどこの説をベースにして管理社会主義の機能的欠陥を指摘し,その解決
策を提案し,かつ実践した。オタ・シク(Ota S ik)やコスタ(J.Kosta)や
セルツキ・一(R.SelckY)らのチェコの改革者,コルナイ(J.Kornai)やチコー
シュ=ナジ(B.Csik6s−Nagy)らのハンガリーの改革者は,この説を拠り所に
10) Tinbergen (21), (22).
11)福田〔9〕第3章参照。
12)福田〔8〕第6章,〔9〕第1章。
46 彦根論叢 第267号
13)
して管理社会主義を批判し,市場社会主義への移行を主張した。
このような発展段階説は要するに,経済体制の変動と生産力発展水準との
対応関係を軸にしたものであり,生産力の発展に伴い経済体制は変化せざる
をえないという考えに立っている。言い換えると,この説は経済体制の変動
の誘因を生産力の発展に見ている。それは,オーソドックスなマルクス主義
の公式,つまり生産諸力が生産関係(経済体制)を規定するという見解に基づ
くものである。
筆者の考えでは,発展段階説はある程度の説得力を持っていると思うが,
ただ,管理社会主義を制度化したすべての国の経済体制の変動を説明できる
かという疑問が湧いてくる。たとえば,1950年代にいち早く管理社会主義か
ら市場社会主義への転換に乗り出したユーゴスラヴィアのケースを発展段階
説で説明できるだろうか。ユーゴの代表的経済学者ホルバート(B.Horvat)
は,ソ連・東欧諸国では国民一人当りのGDPの額が1000ドルを越えると成
14)
長率が急降下するという興味深い指摘を行っている。この指摘が正しいとす
れば,一人当りGDP1000ドル以上が内包的発展段階ということになる。当
時のユーゴ経済はこの水準を超えていただろうか。また,中国も1970年代末
から市場経済化の方向での経済改革を開始したが,当時この国も1000ドル基
準をクリアーしていただろうか。経済発展の成熟度が必ずしも市場経済の導
入をもたらすとは限らない,というコスタの指摘は正鵠を射ているように思
15)
われる。発展段階説は,要するに,東側諸国の経済体制変動のすべてを説明
できないのである。
16)
次に,ヘンゼル説を見てみよう。かれは,ソ連・東欧諸国における経済体
制はその本質からして不安定であり,必然的に市場経済へと変型化せざるを
13)かれらの説についてはL6sch〔!7〕S.80−92が参考になる。なお,チコーシュ=ナ
ジは自ら,ハンガリーでは社会主義的市場経済の必要性を悟った最初の一人である,と
述べている。Csik6s−Nagy〔5〕p.216
14) Horvat (13) pp. 237−238.
15) Kosta (14) S. 137.
16)ヘンゼル説については次の文献参照。Hensel〔11〕,福田〔10〕。
ソ連・東欧における政治・経済体制の変動 47
えないことを証明しようとした。ヘンゼルによれば,ソ連・東欧諸国の経済
体制は,一箇の中央計画機関による需給の調整を柱とする中央管理経済であ
る。中央計画機関は,物財バランスの方法で需給の均衡を図るが,現実には
数百万もの財の需給を均衡化することはできない。事実,ソ連・東欧諸国の
物財バランスの数は影壁から数千であった。これでは中央計画機関が国民経
済を完全に計画したりコントロールしたりすることはできない。そこで円滑
な資源配分を行うには個別経済に,とくに企業にある程度の活動の自由を認
めざるをえなくなる。そうすると中央計画機関と企業との間に利害対立が発
生し,資源配分も合理的でなくなる。これらの問題に対処するには絶えず計
画組織や管理組織や統制システムを改変せざるをえない。
こうして中央管理経済は,絶えず変化に晒されることになる。ヘンゼルは
17)
その変化の方向を市場経済に見ている。その論理を解釈すると,こうである。
中央管理経済の安定性の要件は一箇の中央計画機関が経済の全体を完全にコ
ントU一ルしうることである。この要件を欠くと,したがって個別経済に自
主性を認めると,自由が自由を呼んで結局は中央管理経済の崩壊と市場経済
への全面移行が生ぜざるをえない,こういう考えがヘンゼルにある。
ヘンゼル説は最近のソ連・東欧諸国の体制変動の考察にひとつの視点を提
供していると言える。
(3)発展段階説は,経済体制の変動の誘因を経済体制の外にある生産力
の発展に求めている。この意味で,外生変数が体制の誘因と考えられている。
これに対し,ヘンゼル説では経済体制の中核をなす相互調整方式 中央管
理経済の需給調整システムの不完全さ一が体制変動の誘因と考えられている。
この意味で内生変数が誘因となっている。
筆者は,最:近のソ連・東欧諸国の激動を見るにつけ経済体制の変動に果た
す政治の役割を軽視することはできないと思うようになった。政治の変化が
経済体制の変動を誘発することもあるのではないか。
その典型は東ドイツである。1年前までかたくなに管理社会主義を保持し
17) Hensel (12) Kap. 4.
48 彦根論叢第267号
ていたこの国が,ゴルバチョフ・ショックによるデモクラシーへの移行によ
って西ドイツ型誘導資本主義への全面転換を選択したのである。振り返って
見ると,東ドイツの管理社会主義はもともと政治体制の変化によって生み出
されたことが思い出される。この国では共産政権のオートクラシー体制の成
立を待って1949年以降管理社会主義の建設が開始されたのである。東ドイツ
の40年の歴史は,管理社会主義がオートクラシーによって成立し,デモクラ
シーによって終焉したことを如実に物語っている。
東ドイツと同様のことは他のソ連・東欧諸国にも当てはまるかもしれない。
ソ連の管理社会主義は30年代のスターリン体制によって生み出されたものだ
し,東欧諸国の管理社会主義も人民民主主義革命の後に成立した共産党独裁
のもとで建設されたものである。また,ポーランドやチェコスロヴァキアや
ブルガリアの市場社会主義への志向は,東欧革命によって誘発あるいは加速
されたものである。ソ連における最近の市場社会主義の志向も上述のような
政治の民主化によって触発されたと言える。ルーマニアが依然として管理社
会主義に留まっているのは,デモクラシーへの移行が遅れていることからく
る。
ついでに言っておくと,ユーゴスラヴィアが50年代の初頭に市場社会主義
へ移行し始めた背景にも政治の変化があった。つまり,ユーゴ共産主義者同
盟がソ連との対立から政治路線をスターリン主義からチトー主義へ転換した
ことが,管理社会主i義の放棄と市場社会主義の導入に決定的に与っている。
ただ,筆者の政治誘因説はハンガリーの68年以降の市場社会主義化を説得
的に説明できないうらみがある。それはオートクラシーのもとで行われたか
らである。あえて政治にこだわれば,当時のハンガリー社会主義労働者党の
政治路線が現実主義・プラグマティズム・協調主義を特色とするカダール主
義へ転換していたことが,市場経済の導入に与ったと考えられる。
以上の政治誘因説はまだ思い付きの域を出ていない。事実に即して体系化
する必要があろう。筆者の今後の課題である。
(4)政治誘因説は,発展段階説と同様に外生変数説の部類に属する。筆
ソ連・東欧における政治・経済体制の変動 49
者はまた,管理社会主i義の中核を成す内生変数にも体制変動の誘因を探って
みたいとも考えている。
筆者は,経済体制の基本的構成要素として所有方式,相互調整方式および
上下調整方式の三つを考えてきた。上に紹介したヘンゼルの説は,筆者の説
に引きつけて解釈すると,ソ連型経済体制の相互調整方式および上下調整方
式の不完全さと不安定さを問題にしたものであった。
筆者は,管理社会主義の体制変動には所有方式も与っているのではないか
と考えている。管理社会主義は全人民所有つまり国有を中核とするものであ
った。ところが,この所有形態が国民経済的規模でネットワークされると,
種々の不都合が生じてくることがソ連・東欧諸国の経験から明らかとなった。
国有方式は時間が経過するにつれて効率とイノベーションの壁にぶっからざ
るをえない。ドイツの新自由主義者リュストウ(A.Rttstow)がいみじくも指
摘したように,国有は形式的には全人民所有だが,実質的には「万人のもの
は誰のものでもなく,むしろ万人の名において所有権を行使する少数者のも
18)
のである」。つまりは必然的に官僚支配をもたらすと同時に大多数の国民から
所有者意識や所;有者機能を奪い去ってしまう。ブラウン(D.M.Brown)の言葉
19)
を借りると,「万人が国家の賃金取得者」となってしまうのである。こうなる
と生産現場たる企業では,働く人々はすべてサラリーマン化してしまうのだ
20)
から,経済的関心や危険負担の気構えが失われ,その結果「集団的無責任」
(kollektive Unverantwortlichkeit)がはびこることになる。官僚支配と生産
現場での集団的無責任,これが管理社会主義の低効率や低イノベーションや
西側とのテクノロジー・ギャップをもたらした根因のひとつであることは聞
違いない。ソ連・東欧諸国での近年の経済改革でどの国も所有の多様化政策
を展開せざるをえなくなったゆえんである。国民総サラリーマン化社会では
企業心や冒険心や進取の気性に富んだ企業家は育たない。企業家を育成する
18)この文章はEucken〔7〕S.139から引用した。
19) Brown [3) p. I15.
20) Ettl, et al. C6) S. 166.
50 彦根論叢 第267号
21)
ためには人々に対してプロパティ・インセンチィヴを与えると同時に,人々
に対して等しく所有者機能を営めるようなチャンスを与える所有方式の導入
が必要となる。所有の多様化政策の背後には,このような考えがあるように
思われる。
国有方式は,国民経済的規模で制度化したばあい,一定水準以上の効率を
維持するためにある時点から非国有方式(私有,協同組合所有など)の導入を
必然化すると言えないだろうか。もしもこれがソ連・東欧諸国の経験に即し
て論証されるならば,所有方式が管理社会主義の変動の有力な誘因としての
地位を占めることになろう。こうした設問が妥当かどうか,妥当だとすれば
いかに論証するか,考察すべき論点は多々あるようである。今後の研究課題
としたい。
参 照 文 献
C1) Antal, L.: About the Property lncentive, in:Acta Oeconomica, vol.34(3−4),
1985.
( 2 ) Bregel, E. : Die Theorie von der Konvergenz der beiden Wirtschaftssysterne, in :
Sowietswissenschaft : Gesellschaftswissenschaftliche Beitrdge, 5, Mai, 1968.
(3) Brown, D. M.: Towards a Radical Democracy, The ]Political Economy of the
BudaPest School, London 1988.
( 4 ) Csap6, L : Central Planning in a Guided Market Model, in : Acta Oeconomica,
vol. 1966.
(5) Csik6s−Nagy, B. : Personal Comments on the Socialist Market Economy, in :
Acta Oeconomica, vol. 40(3−4), 1989.
( 6 ) Ettl, W., J. JUnger, D. Walter : Grundlagen einer Wirtschaftsreform in der DDR
Thesen zur Diskussion, in: Wirtschaftswissenschaft, 38, 1990.
( 7 ) Eucken, W. : Grundsntze der WirtschaftsPolitik, 4. unvertinderte Auflage, Ttibin−
gen, ZUrich 1968.
〔8〕福田敏浩『比較経済体制論原理 形態論的アプローチ 』晃洋書房,1986年。
〔9〕福田敏浩『現代の経済体制論』=晃洋書房,1990年。
〔10〕福田敏浩「ソ旧型経済体制の体制変動」『彦根論叢』,第266号,1990年。
(11) Hense!, K. P.: Der Systemzwang zum wirtschaftspolitischen Experiment in
zentral gelenkten Wirtschaften, in : /ahrbdr’cher fde’r Nationalb’konomie ttnd Statis一
21)ハンガリーではプロパティ・インセンチィヴに関する論議が盛んとなっている。これ
についてはAntal〔1〕およびTardos〔20〕を参照されたい。
ソ連・東欧における政治・経済体制の変動 51
tik, Bd. 184, 1970.
(12) Hensel, K. P.: Gntndformen der Wirtschaftsordnung: Marktwinschaft
Zentralverwaltungswirtschaft, Mdnchen 1972.
(13) Horvat, B.:Contemporary Socialist Systems and the Trends in Systemic
Reforms Worldwide, in:S. Gomulka, et al.(eds.):Economic Refonus in the
Socialist World, London 1989.
(14) Kosta, J.: Wirtschaftssysteme des realen So2ialismus: Probleme und A lter−
nativen, K61n 1984.
(15] Koziolek, H., O. Reinhold : Plan und Markt im System unserer sozialistischen
Planwirtschaft, in : Einheit, 1, 1989.
(16) Leontiev, L.: Myth about the “Rapprochement” of the Two Systems, in: J.S.
Prybyla(ed.) : ComParative Economic Systems, New York 1969.
(17) L6sch, D.: So2ialistische PVirtschaftswissenschaft, Die PVirtschaftstheon’e im
So2ialismus und ihre Bedeutung ftz’r die PVirtschaftsPolitile, Hamburg 1987.
(18) Meissner, H.: Marxismus und Konvergenztheorie, in: VVirtschaftswissenschaft,
Jg. 16, 1968.
(19) Mittag, G. : Hohe Leistung aller Kombinate auf dem Weg zum XII. Parteitag,
in: Einheit, 4, 1989.
(20) Tardos, M.: Economic Organizations and Ownership, in: Acta Oeconomica,
voL 40(1−2), 1989.
C21) Tinbergen, J.: Do Communist and Free Economies Show a Converging Pat−
tern ?, in: Soviet Studies, vol. XII, no. 4, 1961.
(22) Tinbergen, J. : Die Rolle der Pianungstechnik bei einer Annaherung in Ost und
West, in: E. Boettcher(Hrsg.) : WirtschaftsPlanung im Ostblocle, Beginn einer
Liberalisieneng ?, Stuttgart, Berlin, Kdln, Mainz 1966.
1990 ・ 9 ・ 11
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