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直弼/象山/忠震! - 滋賀大学 経済学部
直弼/象山/忠震! 3 1) 直弼/象山/忠震! ――競争する記念碑―― 阿 Ⅰ はじめに――問題の所在―― Ⅱ 銅像を説く,像主を語る Ⅲ 銅像の時代 Ⅳ 開港に直接尽瘁せしものたち(以上,本号) Ⅴ 横浜開港の先覚者(以下,本誌2 0 0 8年発行号掲載予定) Ⅵ 横浜開港之首唱者 Ⅶ 履歴の競争 Ⅷ おわりに ! 部 安 成 はじめに――問題の所在―― 彦根市役所のホームページで[彦根市観光ガイド]→[観光マップ]とすす むとダウンロードできる「彦根城と彦根市内中心部の観光地図」には,イラス トの「井伊直弼大老像」が描かれ,直弼の銅像が彦根のどこにあるのかがわか 2) るようになっている 。さらに,そのページの[観光スポット]から[井伊直 弼大老像]へとうつると,そこには, 開国の英雄井伊直弼は,1 1代藩主直中の1 4男として生まれました。/安政5年(1 85 8年) 〔ママ〕 4月,幕府の大老となった直弼は同年6月「日米友好通商条約」に調印して開国を断行し 〔ママ〕 ました。/しかし,偉業を成し遂げた直弼も,大老の信条を組むことのできなかった人々 によって万延元年(1 8 6 0年)3月3日桜田門外で春雪に血を染めて横死しました。ときに 〔 マ マ 〕 4 6歳でした。/この銅像は,最後の官職だった正四位上左近衛中将の正装をうつしたもの です。 1)本稿は2007年度滋賀大学経済学部学術後援基金を受けた研究題目「表象としての井伊直 弼」の研究成果の1つである。 2)http://www.hikoneshi.com/sightseeing/download/map.pdf(20 07年1 2月1日 時 点) 。こ の 地 図 は現物を彦根市内の観光案内所などで入手できる(A3判見開き2つ折り) 。 4 彦根論叢 第37 0号 平成2 0 (2 0 0 8) 年1月 と記されている。 この文章には,彦根の金亀公園の銅 像まえにいまある案内板とほぼおなじ 記述や似た箇所がある。案内板をみれ ばわかるとおり,これは「井伊直弼」 の説明である。案内板説明の末尾にあ 〔ママ〕 る,「この銅像は,井伊直弼が最後の 〔 マ マ 〕 官職であった正四位左近衛中将の正装 をうつしたものである」の箇所だけが 銅像について書かれてあるのであって,それ以外は銅像の像主である直弼の主 要な履歴を提示している。しかも案内板の英語版説明では,銅像について記す 3) この末尾が削除されている。銅像は像主あっての「肖像彫刻」なのだから , 説明文を書くものは,そこに像主について多くを記すことは当然と主張するに ちがいない。 では,この直弼銅像のばあい,それは彼の正装姿をあらわすだけなのか。建 てられた記念碑としての銅像それ自体は,いったいなにをあらわしているのだ ろうか。本稿では,彦根で「開国の英雄」と讃えられる井伊直弼の記念碑をめ ぐる歴史批評をおこなう。現在,直弼の銅像は彦根と横浜にそれぞれあり,と もに再建された銅像である。記念碑としての銅像がつくられたことによりどの ような歴史があらわれたのかを論述することとなる。 ! 銅像を説く,像主を語る 銅像が立つ地元の彦根で書かれた歴史書に,直弼銅像がどのように記されて きたのかをみよう。『彦根市史』下冊(中村直勝編,彦根市役所,1 9 6 4年)で は「大老井伊直弼の顕彰」という節が,近代と現代それぞれの「文教」の章の なかにある。そこでは,初代銅像をめぐっては彦根よりもさきに横浜に建てら 3)木下直之「殿様の銅像」 (長岡龍作編『講座日本美術史』第4巻造形の場,東京大学出 版会,20 05年)。 直弼/象山/忠震! 5 れたそれだけがとりあげられ,二代めについては,彦根ではその建立の経緯が, 4) 横浜では建立時のようすが記されている 。「昭和二十四年十一月小林〔郁―― 引用者による。以下同〕彦根市長の発起で,市民の寄付と市費を投じて,沙々 〔ママ〕 那美神社境内〔滋賀県護国神社〕に正四位右林中将井伊掃部頭直弼朝臣の銅像 が出来上った」のが彦根,「それより一〇年後の三十三年五月,横浜開港百年 の記念式典に掃部山に大老銅像が大きく再建された。その除幕式には明治四十 二年の五〇周年の時とは大いに異り,皇族を始め朝野の顕紳が列席してその偉 業を礼讃した」と,彦根よりも多い字数で横浜の記念建造物としての銅像につ いて略記された。文字数を多く用いながらもこの市史は,横浜で1 9 5 4年に開国 百年を記念して再建された銅像の履歴をまちがえている。 彼の郷里である彦根と,そして開港場の横浜にもその銅像が顕彰や記念のし るし(かたち)としてつくられた井伊直弼をめぐって,郷土の近代以降の歴史 書である『彦根市史』下冊は直弼自身ではなく,大老にまでなった彼の没後に おこなわれた「顕彰」の展開を(横浜の動向もとりあげながら) ,郷土史の一 場面として描いていた。しかしここでは,顕彰行為としての銅像建立は重要視 されていない。『新修彦根市史』にも「井伊直弼の顕彰」 (近代1の巻)や「彦 根城と井伊大老」 (現代の巻)という節が設けられたものの,彦根の初代銅像 の史料は横浜のそれよりも少ししか,また二代めにおいては史料がまったく掲 5) 載されていない 。『新修彦根市史』が「彦根城と井伊大老」の主題で収録し た直弼にかかわる史料は,「井伊家文書が新たに整理されていると報じ」た新 聞記事(1 9 4 9年。史料3 4 3)と,「井伊大老の業績をしのぶ大老開国百年祭」の 広報記事(1 9 6 0年。史料3 4 7)の2点のみとなる。 4)横浜の直弼銅像については,阿部安成「横浜開港五十年祭の政治文化―都市祭典と歴史 意識」( 『歴史学研究』第69 9号,19 9 7年7月) ,同「横浜歴史という履歴の書法―〈記念す ること〉の歴史意識」 (同ほか編『記憶のかたち―コメモレイションの文化史』柏書房,1 99 9 年) ,同「記憶から歴史へ/歴史から記憶へ」 (同ほか『浮遊する「記憶」 』青弓社,2 00 5 年)を参照。とりわけ横浜の二代め直弼銅像については,阿部安成「二代めの肖像と履歴― 1 95 4年開国百年の横浜における井伊直弼の銅像」 ( 『滋賀大学経済学部研究年報』第1 4巻, 20 07年11月)で詳述した。 彦根での初代銅像建立に到る経緯は本誌次号掲載の論考を参照。 5)彦根市史編集委員会編『新修彦根市史』第8巻史料編近代1(彦根市,2 0 03年) 。同編 『新修彦根市史』第9巻史料編近代2・現代(彦根市,2 00 5年) 。 6 彦根論叢 第37 0号 平成2 0 (2 0 0 8) 年1月 前者は,『朝日新聞』1 9 4 9年6月1 9日付の記事,「日米通商条約が調印されて からちようど九十年に当る」その日に発信された,条約調印を記念する報道で 6) ある 。この記事の伝えることがらは,井伊家文書が「はじめて整理公開の途」 についたことである。それは,「井伊大老をめぐるかつての官製歴史の再検討 を要求する数々の秘録〔中略〕貴重な史料」にほかならない。これを彦根で結 成された「井伊大老史実研究会」が整理を始めた。彦根市も補助金をだして「力 こぶを入れ」ているこの整理がすすみ文書が公開されれば,「安政大獄の真相」 や「開国初期の幕末外交関係,中でも日米国交についていろんな新事実の発見 が期待」できると記事はいう。なぜいままで公開できなかったのか。その理由 は,「井伊大老に反対の尊王攘夷派,薩長両藩が明治政府の実権をにぎり,幕 末,明治維新の歴史を彼らに都合よく飾りたて,それを是正する史料はすべて しりぞけたからだといわれる」 。さらに,「何しろ,井伊大老の開国の功績が認 められてからでも,その銅像建立や顕彰会の計画には必ず内務省の横ヤリが入 つた,そこでわずかに開国についての大老の苦しい立場を証する一部分の史料 7) のみが,世に出されたにとどまつていた」というのだから ,文書史料の公開 だけでなく顕彰活動も円滑にはおこなわれなかったとなる。記事にいう直弼の 開国の功績が認められたとは,「井伊掃部頭直弼伝」の副題がついた島田三郎 執筆の『開国始末』 (輿論社,1 8 8 8年)の公刊を,内務省の横槍とは,1 9 0 0年 の内務省令第1 8号「形像取締規則」の発令などを指している。この1 9 4 9年のと きに,多くの人びとはほぼ5 0年以上もまえのそれらの過去を忘れていたことだ ろう。記事も書名や法令名を記してはいない。しかし直弼をめぐる文書史料の 整理着手とあわせて,具体相はともかくも,直弼の顕彰にかかわる過去の紛議 や悶着があらためて示されたのだった。 6)引用は以下においても『朝日新聞滋賀版』 (マイクロフィルム)からおこなった。出典 は A490 6 19と略記する。 7)こののち1 9 53年に東京日本橋三越で開催された「開国百年記念井伊大老展」 (主催朝日 新聞社,協賛日本開国百年記念事業中央委員会・井伊大老史実研究会, 1 0月2 0日∼2 5日) では「公用方秘録」が展示され,展示図録には安政5年6月1 9日の条が引用され直弼の決 意が示されることとなる。 「公用方秘録」のその箇所はすでに島田の『開国始末』でも参 照されていた。 直弼/象山/忠震" 7 この1 9 4 9年は,彦根では彦根観光博覧会(4月1 0日から2 0日間。A4 9 0 4 1 0) が開催され,また直弼の二代め銅像が竣工した年だった。「十一月十日の大老 誕生祭」に除幕式がおこなわれることとなるその銅像について, 『朝日新聞』 は記事を4回掲載して,鋳造着手(0 9 1 5) ,建設費寄附金額(1 1 0 3) ,銅像完成 (1 1 0 9) ,除幕式挙行(1 1 1 2)の順で銅像建立の経緯を伝え,直弼を「講和会 議を目前に日米親善の先駆者」 ,あるいは「開国の先覚」と讃えていた。報道 はいずれも短文の簡素な内容となっている。それゆえかどうかは不明ながらも, これらの記事は,彦根市の史誌にはとりあげられていない。市の歴史編纂は, 二代め直弼銅像につれない素振りなのだ。 『朝日新聞』報道にいう,銅像建立や顕彰計画が円滑におこなえなかった事 8) 態とはなんだろうか 。これについては『彦根市史』下冊の記述を参照しよう。 そこでの論調は,「維新史は,旭日昇天の勢いにある藩閥政府の功績碑として !ばれ,彼等の過去の政敵はことごとく悪逆視される感があった」なかで,「大 老井伊直弼の顕彰」はうまくできなかった,となる。『彦根市史』は直弼顕彰 の頓挫を記したのだった。「大老雪冤の先駆として大いに評価されねばならな い」著書として『開国始末』が刊行されはしたものの,そののち,「同〔明治〕 二十四年頃,旧臣の間に大老銅像建碑委員会が設けられ,その功績を顕彰しよ うとして貴・衆両院に働きかけたときは内務大臣の反対に遭い葬られてしまっ た」 ことがあった。この時期の内務大臣は,山県有朋,西郷従道,品川弥二郎, 松方正義などがつとめた。ついで,「同三十二年,日比谷公園内に建像計画を 立て,東京府知事に出願したが,にわかに東京府内の銅像建設には,内務大臣 の許可を要すという内務省令形像取締規則が出て却下された」という。豊原基 臣ほか8名による直弼紀念碑建立の出願が東京市長から東京府知事に宛てられ たのが1 8 9 9年4月6日,内務省令が1 9 0 0年5月1 9日発令だから,これを「にわ かに」とはいえないだろう。さらにその結果として,「結局内務大臣の管轄外 の神奈川県横浜は開港場として大老ゆかりの地であるので,横浜市開港五十年 8)19 09年に横浜に銅像が建立されるまえの経緯については,わたしもひとまず「形像とし ての井伊直弼」(滋賀大学経済学部 Working Paper No. 9 1, 200 7年7月)で論じた。前掲彦根 市史編集委員会編『新修彦根市史』第8巻史料編近代1にも関連史料が収録されている。 8 彦根論叢 第37 0号 平成2 0 (2 0 0 8) 年1月 祭を期して除幕式を行なうこと」となったところ,「 「記念すべきわが国開港記 念式典に違勅の臣の祭典を織り込むとは何事ぞ」という政府部内の有力者の反 対のために除幕式と記念式典と切りはなし,まったく私的の行事として行なわ れ,神奈川県知事を始めとして一切の公式人の参列をとりやめ,銅像は鉄柵を もって囲まれてしまった」との憤慨が記されている。この記述の正当性に対し ても,銅像除幕式には大隈重信が出席したこと,銅像を鉄柵で囲む例は東京の 大村益次郎銅像でもみられること,なにより彦根の直弼初代銅像がそうだった こと,をわたしたちは指摘できる。銅像除幕式に公式人の参列があったのだし, 直弼銅像の鉄柵には「井」のマークがデザインに組み入れられているので,そ う詰られることでもない。こうなると『彦根市史』下冊での,直弼顕彰につい ての記述をめぐる正しさはゆらいでしまう。 彦根より1年とはいえさきに横浜に建てられた直弼銅像のいわば披露の場と なった横浜開港五十年祭は,『彦根市史』にとっては,「開港五十年記念はその 開国が行なわれた安政五年を起点としながら,それを断行した責任者井伊大老 は違勅の臣として顕彰せしめないという,まことに奇妙な出来事であった」と まとめられてしまった。だが,横浜での開港五十年祭は,安政5年=1 8 5 8年の 条約調印を起点としたのではなく,条約によって横浜に港が開かれた安政6年 =1 8 5 9年を横浜の歴史の始まりとしていた。そこからかぞえて5 0年となる1 9 0 9 年に開かれた横浜開港五十年祭において,直弼の肖像はしばしば M. C. ペリー のそれとならんで,絵葉書や挿絵などのかたちで横浜の市街に登場した。銅像 除幕式は延期されたとはいえ,この横浜の祭典をとおして直弼の事績が顕彰さ れたといってよい。横浜では直弼は「開港の恩人」 (『横浜貿易新報』0 9 0 6 1 7) となったのだ。 開港五十年祭が開催されている横浜では,直弼銅像の除幕式延期という,た しかに「奇妙な」といってよい出来事があった。他方で,直弼の顕彰は銅像建 立という多くの人びとの目にみえるかたちをもって,ともかく実現したのであ る。横浜開港五十年祭は,横浜の開港はすなわち日本の開国であった,とロー カルな出来事をナショナルな賞賛の場へと審級させる機会だった。そのとき横 直弼/象山/忠震" 9 浜で「開港の恩人」としていわば再発見された直弼は,旧彦根藩士たちにとっ ては「開国」を実現した郷土の偉人にほかならなかった。そうなればこそ, 『彦 根市史』下冊は,横浜開港五十年祭の起点を,より国事としての意味あいが強 い日米修好通商条約調印の安政5=1 8 5 8年にまで溯らせてしまったのだ。『彦 根市史』下冊に書かれた憶測とみられる横浜での「大老井伊直弼の顕彰」の考 察は,その節の末尾近くに置かれた,「これは維新以後における大老評価の一 例にすぎないが,このような大老の評価が彦根人に対する,また同時に彦根人 自体が抱いたコンプレックスに外ならないのである」という感慨と呼応してい る。彦根において「大老井伊直弼の顕彰」を書くとき,そこには直弼をめぐる 「彦根人」の複雑な心象があらわれてしまうのである。さきに『彦根市史』下 冊にみた,「一切の公式人の参列をとりやめ,銅像は鉄柵をもって囲まれてし まった」との無根の,あるいは過剰な記述はその一例としてみずから書き留め たこととなる。 その横浜の直弼銅像も二代めは,開国百年記念として盛大に挙行された都市 祭典の記念として建造され,その除幕式も祭典の1つの行事として挙行された。 一方の彦根の二代めも,その再建を博覧会開催とかかわらせる計画があったよ うだ。1 9 4 9年1月の時点では,「市長〔小林郁〕は市会に於て井伊大老銅像の 再建を待ち,本年秋には是非とも停とん中の博覧会計画の実現を公約したが, 時期は秋より春の方が好適というので,早速小規模でも今春断行すること」に なったというのだから,直弼銅像の建立よりも観光博覧会開催が優先されたこ ととなる。こうした「沿革」も記した観光博覧会の公式写真アルバムといって よい『記念 彦根観光博覧会』 (長坂寛二編,滋賀新聞彦根支社,1 9 4 9年。近江 八幡市立図書館所蔵)は7月1日の発行なので,当然のことそこに再建された 9) 直弼銅像の写真は掲載されていない 。銅像竣工を待たずに,観光博覧会の記 録とその公刊がさきにおこなわれたのである。 9)近江八幡市立図書館所蔵の同書は彦根市役所から近江兄弟社図書館へ贈呈された1冊 だった(図書館での登録名は『彦根観光博覧会記念写真帖』 )。この本には「彦根観光博覧 会アルバム贈呈について」という1 9 4 9年7月1 2日付のガリ版刷り文書が添付されている。 なおこの史料は前掲彦根市史編集委員会編『新修彦根市史』第9巻史料編近代2・現代に! 10 彦根論叢 第37 0号 平成2 0 (20 0 8) 年1月 そのつぎの彦根での祭典となる「井伊大老開国百年祭」は,1 9 6 0年1 0月1日 から5日にかけておこなわれた。この年は,「日米修好百年の記念すべき年で ありますと同時に,修好条約締結の責任者であつた直弼公が桜田門外で殉難し てから丁度百年目にも当り,旧彦根藩である本市にとりましても誠に記念すべ き,又意義深い年でございます」と意味づけられると彦根市長井伊直愛によっ 1 0) て披露された 。1 9 6 0年は直弼が亡くなった1 8 6 0年から「丁度百年」と数え られるが,日米修好通商条約調印の1 8 5 8年からでは1 0 0年をこえてしまう。彦 根では現在も直弼を顕彰するときに,彼の事績を「開国」としてとりあげ,直 弼に「開国の英雄」 との賛辞をおくる。ここにいう開国とは横浜開港ではなく, 1 1) 1 8 5 8年の条約調印を指している 。しかし,彦根で二代めの直弼銅像が建立 された1 9 4 9年は,正しくは横浜開港から9 0年となる。他方で井伊大老開国百年 祭が彦根でおこなわれた1 9 6 0年は,直弼没後1 0 0年であって,開港から1 0 1年, 条約調印からは1 0 2年となってしまう年である。 「日米修好百年の記念すべき年」 とはいえない。 このささやかなずれはなんだろうか。また彦根の二代め銅像は大老生誕祭に あわせて1 1月1 0日にその除幕式がおこなわれたのだが,なぜ井伊大老開国百年 祭はひと月待って1 1月におこなわなかったのだろうか。このように,彦根では 直弼をめぐる記念のとり方がまちまちである。像主の事績を顕彰する証として, 直弼の銅像を熱心に活用するようすもみられない。井伊大老開国百年祭を伝え る『広報ひこね』 の第1面に載せられた1 1葉の写真のなかに,直弼の銅像が写っ ! も「彦根観光博覧会記念冊子(抜粋) 」としてその一部が収録されている。彦根市立図書 館所蔵のそれは,近江八幡市立図書館所蔵本と同一だった。 10)「井伊市長挨拶」(『広報ひこね』彦根市役所,1 96 0年11月2 0日。彦根市立図書館所蔵) 。 なおこの史料は前掲彦根市史編纂委員会編『新修彦根市史』第9巻史料編近代2・現代に も抄録されているが,引用は原史料からおこなった。 11)2 007年の彦根でおこなわれた彦根城築城4 00年祭の一事業だった 「開国カンファレンス」 もその名にすでに直弼の顕彰の仕方があらわれていた。築城4 0 0年祭終幕近くになって翌 200 8年の開催が突如発表された日米修好通商条約1 5 0周年記念のイヴェントは,条約調印 150年を記念しつつおそらく直弼復権の一大顕彰祭典となるだろう(その後「井伊直弼と 開国150年祭」の名称となる) 。築城4 00年祭については,阿部安成「故伊井直弼「復権」 の文脈」(『研究紀要』滋賀大学経済学部附属史料館,第4 1号,2 00 8年3月刊行予定)を参 照。 直弼/象山/忠震! 11 ている1枚があるが,しかしそのキャプションは,「外人来賓」であって,銅 像はただの背景にすぎないのだ。ここにも彦根人のコンプレクスがあらわれて いる。彦根では,かつてのお城の殿さまを復権しようとしたりその偉業を顕彰 したりしようとして,だれにもみえる銅像というかたちを選んだのだが,それ にむきあう態度がどこか及び腰にみえるのである。 ! 銅像の時代 記念碑として,かつ肖像彫刻としての銅像は, いつから建てられるようになっ たのかをたどろう。東京市中では, 実在した人物の肖像彫刻としての銅像は1 8 9 3 年に建立された大村益次郎のそれに始まり,西郷隆盛(建立1 8 9 8年) ,楠木正 成(同1 9 0 0年) ,大隈重信(同1 9 0 7年,1 9 1 6年)などの銅像が続々と建てられ ていった。銅像建立の時代が始まったのである。こうしてみると,直弼の初代 銅像は,その竣工までに「内務省の横ヤリ」がはいったといわれながらも,銅 像の時代の始まりに建てられたこととなり,銅像としての建立はけして遅いほ うではなかった。この時期はまた,銅像を世に報せる媒体として,銅像の写真 集が刊行されたり,銅像の活用法があらわされたりしてゆく。その1つである, いしはらばんがく(石原磐岳)を著作者とする『東京銅像唱歌』 (文盛館,1 9 1 1 年。国立国会図書館近代デジタルライブラリー。以下 MDL と略記する)を参 照しよう。その冒頭の, 大君まします,九重の/雲ゐにかよふ, 二重橋。/凱旋道路のかたはらに/立てるは〔後略〕 との歌いだしは,「銅像唱歌」にふさわしく,銅像について歌っている。続く 歌詞が,「楠木正成公」 (1番終り)となり,そして「あゝ忠臣よ,楠公よ。/ 笠置の召に,奮ひ起ち」 (2番始まり)と歌われると,これはあくまで銅像唱 歌であっても,その像主楠木正成の略伝をみなで斉唱させようとする歌なので ある(3 5番まである歌詞のうち楠木は7番まで歌われる) 。 1 2) ここにとりあげられた1 5体の銅像のなかで ,謳われ方の唯一の例外が最 12)ここでは楠木に続いて,有栖川宮熾仁,大村益次郎,品川弥二郎,川上操六,北白川宮 能久,西郷従道,仁礼景範,山田顕義,後藤象二郎,広瀬武夫,杉野孫七,西郷隆盛,瓜 生岩,大隈があがっている。 12 彦根論叢 第37 0号 平成2 0 (20 0 8) 年1月 後に登場する大隈重信となる。彼については「大隈伯の銅像は」と,銅像を主 語として歌いだされた唱歌が,「立てり早稲田の構内に。/学の子らよ,君た ちも,/天晴身を立て,名を揚げて,/後の世朽ちぬ,銅像に/残らん程の人 となれ」と終わる(1番のみ) 。幕末維新の政治を主導し,新時代における大 隈外交の手腕,あるいは立憲改進党や東京専門学校(のちの早稲田大学)の創 設といった大隈の業績が1つひとつ数えあげられるのではなく,ここでは「大 隈伯の銅像」が歌われるのだった。これこそが銅像唱歌にふさわしい歌詞とい える。もとより大隈には数多くの讃えられるべき事績があったのだから, 「天 晴身を立て,名を揚げ」たと評価されて銅像になったわけだし,また銅像とし て立つことが立身と栄誉の証ともなる。将来に伝えるべき,またのちの世にも 彼の功績が薄れることはないと大隈を絶賛するとき,それが「後の世朽ちぬ, 銅像」として表現されたのである。建てられた銅像があることで,大隈の数あ る事績の列挙が省略されてしまい,銅像が主となった歌がつくられ,それを歌 い銅像を仰ぎみて,大隈のように栄達を遂げよと指示されたのだった。ここで の訓辞はもちろん,大隈の銅像になれ,ではなく,大隈のようになれ,ではあ る。このとき1 5体の銅像の像主のなかで,生存者は大隈ただひとりだった。存 命中の大隈ならば銅像を必要としなくてもよさそうだが,生身の身体ではなく, イメージ 早稲田の構内にゆけばだれでもいつでもみられる久遠に生きる銅体の像として 大隈が敬われ慕われるよう指示されたのである。この歌詞には,像主と銅像と が入れ代わろうとする,ぎりぎりの局面がみえているのだ。この歌集では銅像 が,その像主がみずからの身体をもって示した「誠忠」 (楠木正成)や「赤き 心」 (西郷隆盛) ,あるいは「大悲」 (瓜生岩)を,「児童教育」として子どもた ちに注入するための教材となったのである。 つぎに,『京浜所在銅像写真 附伝記』第1輯(人見幾三郎編,諏訪堂,1 9 1 0 年。MDL)をみよう。同書には,その目次に2 2人の名があがっている。彼ら 〔柱〕 と彼女はいずれも,「国家の桂石,偉人と謳はれたる人士」であり,その「全 身銅像」写真と像主たちの伝記がこの書に掲載されている。ここに載った人士 は,みなすべて故人となった。死してなおその偉業が讃えられる像主たちの伝 直弼/象山/忠震! 13 記とその銅像の写真は,「教育上の資料として学校又は家庭に之を備へ」るな らば,「其の児童青年を裨益すること決して鮮少にあらざるべきを信ずると共 に,風教上有益なる好書」となるとの効果が期待されるといい,またそれは果 たされたにちがいないとも示されたのだった(序) 。この書に序を寄せた鈴木 1 3) 光愛は,東京府女子師範学校と東京府立第二高等女学校の校長である 。例 言で,「聊か教育上の資料に供せんとして作成した」と編者もいう本書は, 「尚 ほ一,二の全身像ありと雖も,伝記の材料蒐集に困難なるを以て,本編には記 載せず,其他各所に工事中のものあり,是等は追て増補せんとす」と続巻が予 定されていた(だが第2輯が刊行された形跡はない) 。像主の伝記は表題誌で は附けたりとなってはいたものの,それがなければ掲載しなかったというのだ から,銅像の写真だけでは学校や家庭での児童のための教材にはふさわしくな いとなる。文字による,そして論理をふまえた説明が必要ということだ。 1 9 1 0年3月に竣工したばかりの銅像も収録した本書では,直弼の銅像も最新 の部類に入る。とりあげる銅像所在の範囲を京浜にひろげながらも,横浜の銅 像は直弼のそれだけとなると,京浜という範囲の提示はあえて直弼銅像をとり あげる狙いがあったのかと穿った見方をさせてしまう。この銅像写真集で直弼 の伝記はどのように記されたのだろうか。 ここでの直弼は2 0番めの登場となる。彼の銅像の位置は「横浜掃部山」 ,「主 1 4) 唱者/相馬永胤外数名」 ,原型鋳造は「藤田文蔵/岡崎雪声」 ,「起工及竣工 /自明治三十六年至同四十二年六月」 ,「象丈/一丈二尺」 ,除幕式が「明治四 十二年七月」となる。銅像の丈およそ3. 6m は,2 2体のなかで標準といってよ い。「略伝」にいう,「近江彦根の城主直中の第十四男なり」に始まり,「万延 13)とりたてて鈴木に固有の考えではないが,彼は「人格修養の方便は種々あれども,就中 過去に於ける偉人に接して冥々裡に其感化を受くるを最も有効なりとす」と述べた人物で ある( 「野州に於ける模範的人物」初出1 9 0 3年,鈴木光勤編『鈴木光愛誌』鈴木光勤,1 93 1 年,所収。宇都宮大学附属図書館所蔵) 。 14)相馬は旧彦根藩士の長男で1 8 5 0年生まれ。横浜正金銀行取締役,専修学校(のちの専修 大学)校長(森田忠吉編『開港五十年紀念横浜成功名誉鑑』横浜商況新報社,1 91 0年) 。 なお『開港五十年紀念横浜成功名誉鑑』には「井伊侯銅像建設発起人」として旧彦根藩士 松居十三郎の名があがっている。 14 彦根論叢 第37 0号 平成2 0 (20 0 8) 年1月 元年三月三日,水戸の浪士〔中略〕大吹雪に乗じ朝臣の登城を桜田門外に要し て之を馘し,自首して刑に就く」というところまでは,直弼の生涯をめぐる記 述としてはほぼ型どおりとなっている(ただしここでは桜田門外での出来事は 水戸の浪士が主語) 。末尾近くで,「朝臣の大老たるや内憂外患交々起り,勅許 〔て〕 の期すべからざるを知り,責を一身に負ひ□断然仮条約を結び,親藩公卿を幽 し安政の大獄を起したるは,或は果断苛酷の咎なきに非ずと雖,亦施政実行に 於て勢已むを得ざるなり,要するに匆忙多難の時に方りて,能く国是を収め国 体を全うしたるは,卓見英邁の士と謂ふべきなり」と直弼を評価する。教材と してとりあげるにふさわしい事績をもつ人物となれば,「果断過酷の咎」で責 められるばかりとなってはまずいのであって,それは「已むを得ざるなり」と 免責されて,国事遂行にあたっての優秀さが賞賛されるのだった。直弼には, 京浜あるいは彦根という地域性を超えてナショナルな領域での栄誉が与えられ たのである。 ここではまた,直弼自身の記した文書が参考資料として引用されている。こ うしたとりあげ方はほかの銅像にはみられない。それは老中の「間部氏に送れ る信書」で,その「関東の御所置御国体を厚く思召候」などのくだりが,直弼 が「国体を全うしたるは,卓見英邁の士」であることの証左として用いられて 1 5) いる 。こういう直弼にだけみられる書法をみると,さきに穿ったとしたわ たしの見方も,そうまちがっていないのかもしれない。 ここでもう1つ後年に刊行された,その名も『偉人の俤』 (新居房太郎編, 二六新報社,1 9 2 9年第二版,初版1 9 2 8年。滋賀県立大学附属図書館所蔵)をみ 15)これは安政5年9月10日付「大老井伊直弼掃部頭書状 老中間部詮勝下総守宛(案) 」で ある(東京大学史料編纂所編『大日本維新史料 類纂之部 井伊家史料 十』東京大学,1 9 7 7 年) 。この書状は島田三郎『開国始末』では「蓋し直弼が厳に反対の謀士を処するの心, 此に至りて決せるが如し」と述べる史料に用いられている( 『開国始末』は続日本史籍協 会叢書復刻版によった) 。のちの吉田常吉『安政の大獄』 (吉川弘文館,1 99 1年)ではこの 書状によって「君側の悪謀方を取り除くために,ついに奸賊の一網打尽を命じた〔中略〕 ここに至って直弼は,水戸藩への密勅の降下以来,心中にわだかまっていた同家に対する 疑念は,長野主膳,あるいは長野を通じての島田左近〔中略〕の潤色した諜報に惑わされ, ついに一切の禍根は斉昭にありと信じるようになった」と述べている。安政の大獄へいた る局面の転換をあらわす史料とされたのだった。 直弼/象山/忠震" 15 ておこう。「全国的に亙つて,銅像と名のつく程のものは殆ど残す処ない迄に 蒐集し」た本書に収録された銅像は,その数「実に六百五十像」となる(凡例) 。 本書には,「他日版を重ぬるに従つて拾遺し,補!して謂はゞ日本の銅像全集 として間然する処のない完璧なものたらしめんと期する」決意が述べられてい た(初版でも同じ) 。ここでの銅像の要件とはなにか。すなわち,「偉人傑士の 像は精彩奕々として,髣髴人に迫るの概あるを要す」る,像主の業績を顕彰す る肖像彫刻なのである。そうなると,「偶々技術の精巧を欠かば却て英風を汚 して,崇敬の念を減殺するを免かれざるなり」と稚拙な技術では像主を適切に 表現できず,「建像の事たる亦難しと謂ふべ」きとなるのである( 「 『偉人の俤』 発刊の趣旨」 ) 。ただしここでも,像主の伝記が「添付」されている。この書で は,「偉人の銅像を主体」としているとまずはいう。そのうえで,銅像に添え られた「伝記は逸事挿話に筆端を駛らせて,偉蹟の迫真力を強調し,黙々たる 銅容をして紙上に生動せしめん料に供したのである」とその効力を特記するの である(凡例) 。ただしここには,「伝記にのみ登載して,銅像写真の無きは, 目下建設中に属するものと,凡ゆる手段を尽せしも撮影の不可能なりしもの」 もあるという。主体は銅像であり,その物体が偉蹟を表現する迫真力を強める, 寡黙な像を紙上で生けるがごとくに動かせしむる,いわば駆動力として伝記が あるといわれたにもかかわらず,やむをえず,その銅像の写真なしの伝記のみ の事例もあるのだ。銅像写真全集でありながら,ここには,肖像というかたち と,伝記としての記述との反転があらわれている。伝記のない像主の銅像は, 収録されないのである。 では,この『偉人の俤』のなかで,直弼はどのようにあらわされているのだ ろうか。直弼銅像は,所在地は横浜市中区戸部町掃部山公園内,建設年月は1 9 0 9 年7月,原型作者が藤田文蔵で,鋳造者が岡崎雪声,建設者は相馬永胤となる。 銘記としてなにも記されていないので,この初代直弼銅像には碑文がなかった とみてよい。直弼の略伝は,「尊王攘夷の諸説紛々,雪紛々の裡に桜田門外の 花と散つた井伊大老は,何と謂つても維新史上の大立物たるを失はぬ」と書き 出される。ついで,「藩主としての治績は余り一般化されてゐない」のでそれ 16 彦根論叢 第37 0号 平成2 0 (20 0 8) 年1月 1 6) らが示され ,伝聞によって知られるという,長野主膳義言に「内々情報を 探らしてゐた」ことをもって,「この細心と遠慮とがあつたればこそ,直弼が 大老の材幹を遺憾なく発揮し得たのである」と評価された。そして,将軍「継 嗣問題」を「難なく裁断した手腕は実に鮮かなもので,その功績に依つて彼は 安政五年四月大老の職を与へられた」との業績を,また「外交問題」――それ は「明治維新を!き起した」と解釈される政治課題については,「一国の運命 を背負つて起つた彼の意気は,宛ら沛然たる驟雨に屹立する松樹の如き感なし としない」と,ひとまずは讃美される。 だが,すぐに続けて,「この時の彼の態度に就ては,喧々囂々,殆ど収捨す べからざるものがあり,後世の史家も毀誉褒貶相半ばする有様であるが,彼は 断乎として異議を斥けた,そして自己の信ずる処に向つて邁進したのである」 と,直弼の意気と決意があらわされながらも,それについての後世の,つまり はこの『偉人の俤』が刊行された現時に至るまでの直弼評は,「喧々囂々」 「毀 誉褒貶相半ばする」というのである。「邁進」と表現された彼の行為は, 「先づ 井上信濃守〔清直〕 ,岩瀬肥後守〔忠震〕を遣はして直接米使ハリスとの"俎 折衝に当らしめ,条約調印の延期を申込んだ」こと,それは「彼の衷情は勅許 を尊重する」ことにあったから,しかし「周囲の情勢から推して,彼は開国の 已むなきを看取し,遂に敢然と開国説を称へるやうに」なったと示された。こ れを評して,「開国論側たる幕府当面の責任者として,直弼の執つた態度は当 然のことゝ云はねばならぬ」との肯定が,『偉人の俤』の直弼論となったので ある。 「開国調印の大役」を果たした直弼は,ついで「幕府要路の改革に着手」す る,勅許を得ない条約調印断行は「尊王家の一派」を「東西相呼応して反噬の 鋒尖を〔直弼に〕向け」させることとなり,それへの「自衛上,彼等に一大弾 圧を加へ」 ,さらにそれが「猛然と苛辣なる反動を生んだ」と, 「安政の大疑獄」 16)それは「民意を聴き常に弊風を矯めて,領内の廓清に努めたことは一再に止まらない。 例へば専売制度の弊,売笑婦の弊等を徹底的に剿滅したことである」といい,つまりは近 代化を推進したと評価するのである。 直弼/象山/忠震! 17 から「桜田門外に於ける事変」までがこの略伝では説かれる。「皚々たる白雪 は,忽ち淋漓たる鮮血に彩られ,この不撓の魂魄を永遠に印したのである」と の結語が示されたのだから,直弼の「不撓の魂魄」が銅の体をもって現実の世 に顕現したこととなろう。 直弼の銅像は1 9 0 9年に横浜に,翌1 9 1 0年に彦根に建てられた。どちらの銅像 も太平洋戦争のさなかの金属回収で供出され,その後,それぞれに二代めの銅 像が建てられていまに到っている。『偉人の俤』が刊行されたとき,そこにと りあげられた直弼銅像は,横浜に立つそれだった。彦根に建てられた直弼銅像 は,横浜の立像にくらべるとひっそりと目立たずにあるといえるが,他方でな にかべつな記念碑と競合するようすもなく,「開国を断行」した功績者として の顕彰が脅かされずに,郷土出身の偉人の銅像となっている。銅像としてはい わば双子の兄にあたる横浜の直弼銅像は,現在その周囲に3つの碑文が配備さ れている。開国1 0 0年を記念した再建時に台座に嵌め込まれた碑文(1 9 5 4年) , 開港1 3 0年を記念して銅像脇に建てられた記念碑の碑文(1 9 8 9年) ,そして銅像 が横浜市地域史跡となったことを伝える説明文(1 9 9 4年。これは開国1 4 0年と もかぞえられる)の3つはすべて,像主よりも初代や二代の銅像の略歴を教え る記述に多くの字数が用いられている。2つの碑文は,横浜に立つ初代直弼銅 像が容易には建てられなかったことを暗に示している。銅像は,記念碑あるい は顕彰碑としてそれが建立されるばあい,その像主をめぐる記念や顕彰に疑義 や異議や反対がむけられると,その人物の肖像彫刻としての銅像が建てられな くなることがある。記念碑あるいは顕彰碑としての銅像は,その像主をめぐる 記念や顕彰の内実とその建立地とがうまく結びつかなくてはならない。横浜が 郷土ではなく(東京も) ,横浜に来たこともない直弼にとって,そこが銅像の 立つ場所としてふさわしいかが問われたのである。 さて,論題に掲げた3名は,井伊直弼(1 8 1 5―1 8 6 0年) ,佐久間象山(1 8 1 1― 1 8 6 4年) ,岩瀬忠震(1 8 1 8―1 8 6 1年)である。現在,順にそれぞれの郷里である 滋賀県彦根,長野県松代,愛知県新城では,いずれも郷土の偉人として知られ る人物である。この三者はなぜいっしょにならべられるのか。その理由は,彼 18 彦根論叢 第37 0号 平成2 0 (20 0 8) 年1月 らの記念碑がいま横浜にあり,〈横浜開港の恩人〉と讃えられていることにあ る。だが,彼らの顕彰は同じように,均しくおこなわれていたのではなかった。 横浜開港の記念と顕彰をめぐって,だれがそれにふさわしいのかの競争が始ま るのである。 ! 開港に直接尽瘁せしものたち 初代直弼銅像が建てられた1 9 0 9年の横浜では,開港5 0年を記念する建物の建 設が企画されていた。大規模な建造物となると容易には建てられず,その起工 は1 9 1 4年,竣工は1 9 1 7年6月3 0日,その翌日7月1日の開港記念日に,開港記 念横浜会館と名づけられた建物が開館した。時計をそなえた塔屋がついたレン ガ造2階建ての1階には公会堂がある。その「正面高壇大「アーチ」 」の「左 右には,開港に直接尽瘁せし井伊掃部頭〔直弼〕 ,堀田備中守〔正睦〕 ,水野筑 後守〔忠徳〕 ,永井玄蕃頭〔尚志〕 ,井上信濃守〔清直〕 ,堀織部正〔利熙〕 ,岩 1 7) 瀬肥後守〔忠震〕 ,村垣淡路守〔範忠〕等の紋所を石膏を以て鏤め」てあった 。 このときすでに横浜の掃部山に立っていた直弼の銅像は,旧彦根藩士たちが名 をつらねた故井伊直弼銅像建設委員の主導により建てられた,私設の記念碑 だった。建立まえから予定されていた横浜市への寄附は,ようやく1 9 1 4年に実 現した。一方この開港記念横浜会館は,横浜市の公物である。コンペティショ ンでデザインを決めたこの公会堂内の意匠では,直弼が筆頭になっているとは いえ,横浜開港にむけてこころを尽くして努力したと顕彰されたひとは,ひと りではなかったのだ。 直弼の大老在任は安政5(1 8 5 8)年4月2 3日から万延1(1 8 6 0)年3月3 0日 (ただし安政7年3月3日没)まで,堀田正睦は安政2年1 0月9日から同5年 6月2 3日まで老中に就き,外国奉行としては安政5年7月8日に水野忠徳,永 井尚志,井上清直,堀利熙,岩瀬忠震がその職を襲い,退任は岩瀬が安政5年 9月5日,永井と井上が同6年2月2 4日,水野が同年7月2 8日,堀が万延1年 17)「開港記念横浜会館建築工事説明書」 ( 『開港記念横浜会館図譜』清水組横浜支店,1 9 1 7 年。神奈川県立図書館かながわ資料室所蔵) 。 直弼/象山/忠震! 19 1 1月2 0日,村垣範忠はその職に安政5年1 0月9日に就任して文久3(1 8 6 3)年 6月2 5日に退任した。岩瀬忠震は嘉永7(1 8 5 4)年1月2 2日に目付,海岸防御 用筋取扱,安政3年1 0月2 0日には外国貿易取調掛となったものの,横浜開港後 の安政6年8月1 6日に永蟄居に処せられた。いわゆる安政の大獄による処罰で ある。堀田の老中罷免も直弼による。安政6年6月1 9日の時点でみれば,直弼 =大老,堀田=辞職,水野=外国奉行,永井=軍艦奉行,井上=小普請奉行, 堀=外国奉行,岩瀬=作事奉行,村垣=外国奉行となる。 石膏の紋所をちりばめるとは,それぞれに開港にかかわったとみなしたひと びとを按配よくならべたデザインということなのだろう。だが,肖像の絵画で もレリーフでもない家紋のデザインは,どれがだれの紋所なのかがわからなけ れば,だれをもあらわしていないこととなってしまう。開港を記念した市の公 会堂を,開港に尽瘁したひとの顕彰として装飾しようとしたところ,その該当 者を複数あげてしまえば,紛議がおこる可能性は少なくなるが,他方で,だれ の事績を顕彰するのかが曖昧になってしまったのだ。横浜開港五十年祭の1 9 0 9 年には,直弼をめぐって,彼は業績が褒賞される英傑なのか,依然として糾弾 されるべき悪なのかが問われ,それがたとえば新聞紙上で議論され,一方で銅 像除幕式の延期と他方での除幕式の盛況さという結実をみた。賛否はあれ,こ のとき「開港の恩人」として記念碑が建造された人物は(日本人では)直弼ひ とりといってよいのだが,それから数年経たときに竣工した開港記念横浜会館 では,それにみあう人物が複数,しかし曖昧に提示されたのだった。 溯ると,開港五十年祭が開催された1 9 0 9年の横浜で,開港をめぐって讃えら れるべき人物にかかわる議論が暴力を惹き起こした事件があった。 「彦根の人 が集つて彦根の藩主を祀るといふ意味なら異論はないが,横浜開港記念として 銅像を建てるのは歴史上から見て私は反対だ」との演説をおこなった弁士の伊 藤痴遊(仁太郎)目掛けて,「石を投込まれ,警察署から巡査が来て非常線を 張つて私の宅まで送つてくれた」という事件となった,と彼自身がのちに回顧 している。「生意気なことを言ふ,伊井大老に傷をつけるといふ訳で,非常な 非難を受け,石などを投げられてそれは酷い目に遭つた」ことを「横浜開港に 20 彦根論叢 第37 0号 平成2 0 (20 0 8) 年1月 因んだ一つの逸話として」示したのだった。痴遊は,「少くとも歴史上縁りの ある銅像として建てる場合には,佐久間〔象山〕と水野〔忠徳〕の記念碑を建 てゝから後に井伊の銅像を建てたら宜からう」と直弼銅像建立反対の理由を主 1 8) 張した 。さきの開港記念横浜会館の意匠では幕府の要職に就いたものがあ げられ,そこに水野もいた。痴遊はその水野と,紋所のレリーフにとりあげら れなかった象山を推したのだった。 ここで痴遊の新講談の評判をきいてみよう。 1 9 0 9年3月に京都南座で痴遊は, 「爆裂弾事件の内憲法発布当日の悲劇と言ふ話」をかけた。二晩続けて痴遊を 聞いたものは,「成程巧いものだ,其読物と言ひ其読み口と言ひ,全く旧式の 講談と型を離れた一種独特真似手のない天下の珍品だ,否芸ばかりでなく政治 家兼帯の講釈屋さんと言ふ,当人それ自身が既に天下の珍品であるのだ」と絶 賛した。しかも「未だ普ねく人の知らぬ裏面の秘密迄遠慮会釈なく素破抜き, 縦横無尽に解剖し批評する」かとおもうと,「肩の張るやうな政治的事変を極 く柔らかくして,それを演劇的小説的の絵の具で彩つたもの」 にしてしまうと, 痴遊が語るその技巧も好まれたようだ(『京都日出新聞』0 9 0 3 0 7) 。南座での新 講談上演は,痴遊の肖像写真入りで予告報道されていた(同前0 9 0 3 0 2) 。政治 家にして講釈屋による政治の裏面の暴露というスキャンダルが,それにふさわ しい話芸によって伝えられるとき,ひとびとはそれに飛びつくのだった。 横浜開港五十年祭は,その「準備をなさゞるものは横浜市民にあらず」との 呼びかけが地元新聞の『横浜貿易新報』紙上(0 9 0 6 1 3)でおこなわれるほどに, ひとまとまりとなった市民によって挙行される祭典として,あらかじめ指示さ れていた。そうした雰囲気や情勢のなかで,直弼を賞賛する市民としての一体 性を脅かす邪魔者に対しては,投石という(小さいかもしれないが)暴力で対 抗するということなのだ。 痴遊はのち1 9 3 3年に,「安政の大獄」の題でラジオ放送の「連続新講談」を 演じる。新聞に掲載された講談の概要をみると,第1回の演題は「井伊の弾圧 18)伊藤仁太郎「横浜開港の思ひ出」( 『開港記念大講演会講演集』横浜市,1 9 38年。横浜市 中央図書館所蔵)。 直弼/象山/忠震! 21 政策」で,そこで痴遊は,「徳川の天下が,二百余年も続いてゐる間に,一番 に大きい疑獄はどれであるかといへば,安政五年の秋,時の大老井伊掃部頭が, 〔中略〕百余名の人々を,獄に投じ,非常な暴政をもつて一世を震駭したいは ゆる安政の大疑獄なるものが,それである」 (『大阪朝日新聞』3 3 0 9 2 7―2 9)と 1 9) 表現した 。「大老の職権を振翳して〔中略〕水戸派に対して加へた井伊の弾 圧政策は可成りひどかつたのである〔中略〕井伊の憎まれたことは,一と通り でなく,遂に桜田の兇変が起つたのであるから,疑獄についての真相を,一と 通り述べることにした」という痴遊にすれば,直弼は安政大獄(そして将軍継 嗣問題)の当事者として,1 9 3 0年代の時世においても依然として弾劾されなく てはならない人物だった。 2 0) 痴遊の全集には「佐久間象山/吉田松陰」の一編が収録されている 。そ のなかの一章が「安政疑獄」と題され,松下村塾を開いたあとから江戸伝馬町 の牢に入れられるまでの松陰について描かれている。この編で, 「此時代に, 日本全国を通じて,所謂儒傑とも,証す可き人物が,僅に三人在つた」と紹介 された人物が,横井小楠,藤田東湖,そして佐久間象山だった。その象山の「教 へをうけて」 「海外へ密航」をくわだてるまでになったのが松陰である。彼に ついては,「門人を集めて,教訓を布いたのは,二十八歳から三十歳迄,僅に 二年の間であつた。教訓を受けた門人と,いふた所で,二,三百人に上らなか つた。頭数からいへば,僅少なものであつたが,その大多数が,皆な立派な人 物で,明治政府の大官に,なつたものも,頗る多いのだから,以て,松陰の人 格が,どれまでに,人を感化する力を,有つて居たか,といふ事が,思はれる」 とその評価は高い。 つづく「安政疑獄」の章には,直弼も登場する。 「松陰の名は,日を逐ふて, 広く人に知ら」るようになる一方で,「井伊が,大老になつてからは,今迄と 違つて,専断の事が多く,〔中略〕何も彼も,井伊の思ふ通りに,行はれてゆ 20)伊藤仁太郎『伊藤痴遊全集』第6巻(平凡社,1 9 2 9年)所収。 19)ただし痴遊はその原因として条約調印をめぐる直弼の「専断」があるが, 「実をいへば, その問題よりも,将軍継嗣のことの方が深い根を以てゐた」とも述べている。 22 彦根論叢 第37 0号 平成2 0 (20 0 8) 年1月 く」との対照であらわされる。世にいう「安政の疑獄で,捕へられたものは, 殆ど百名に上つた。啻に男子ばかりでなく,婦人に迄及んだのだから,如何に, その羅識の甚だしかつたか,といふ事が思はれる」との大事だったのだ。ひと を罪におとしいれるその度合いがひどかったと,直弼は糾弾されるのである。 直弼は松陰に対して,死一等を減じるどころか反対に一等をくわえて「松陰を 死罪にしたのであるから,実に怪しからぬ事で,伊藤〔博文〕 ,井上〔馨〕 ,山 県〔有朋〕の連中が,明治になつてからも,頻に,井伊掃部頭に,辛く当つた のは全く之が為であつた」とその後についても記される。明治になって直弼が 生きていたわけはないので,これは直弼顕彰にさいしても伊藤たちが「辛く当 つた」ということだ。〈その後〉の直弼について痴遊は,こののちもくりかえ し持論を述べる。「幕末側面史」と題された全集の続編に収録された「安政疑 2 1) 獄」では , 明治の時代になつて,井伊大老に対する,長州出身の人達が,悪い感情を懐いて,何か につけて,当り散らす,といふのは,度量からいふたら,小さい事かも知れないが,人情 の上から云ふたらば,固よりさう有りさうな事だらう,と思ふ。併し,横浜の銅像一件は, いづれにしても,双方の為る事が,感心の出来ない事ばかりであつた。 というときには,いくぶん長州閥に対してもそのやり口が大人気ないというよ うだが,直弼への風当たりの強さは「人情」で得心されてしまい,横浜の直弼 銅像も容認されはしないのである。あるいは, 横浜開港の恩人は,佐久間象山である,ともいへる。井伊大老は,単に条約に,判を捺 した,といふだけの事であつた。而も,それは,神奈川といふので,判を捺したのである。 横浜論を主張したのは,象山が,元祖であるから,象山を以て,横浜開港の神様と,する のが,当然の事であるのに,さうした事情を構はず,井伊の銅像で,あんな騒ぎをしたの は,実に変な事だ,と思ふ22)。 ともいい,横浜開港をめぐってはその「神様」がいるのだから,直弼の銅像建 立ていどで騒ぐのは「実に変な事」であって,論じるまでもなかったのに,と の口吻である。 21)伊藤仁太郎『伊藤痴遊全集』続第1巻(平凡社,1 9 3 0年)所収。 22)伊藤仁太郎「安藤対馬守」 (同前書所収) 。 (つづく)