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その原作者の問題について Author 相内, 武千雄(Ainai, Muchio)

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その原作者の問題について Author 相内, 武千雄(Ainai, Muchio)
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Palazzo Pitti : その原作者の問題について
相内, 武千雄(Ainai, Muchio)
慶應義塾大学文学部藝文学会
藝文研究 (The geibun-kenkyu : journal of arts and letters). Vol.1, (1951. 12) ,p.91- 105
Journal Article
http://koara.lib.keio.ac.jp/xoonips/modules/xoonips/detail.php?koara_id=AN00072643-00010001
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ーその原作者の問題につ いて
内
)は‘ブィレンツェが誇る幾多のルネサンス時代のルスティカ官版のうち、最も一録証なものとし
相
て世に著れてゐる。肢に夙く)グァサ lリは「之以上見るべき債値があって抗麗なものは、トスlカ
ナ地方の建物のなかでは見出すこ
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Nは一四三C年代、漸く勢力を増してゆき、殊に一四五八年のフィレシツェの市政改
を凌がうと志したことは、少しも疑を容れないところである。コシモの勢力に鈎して、ルヵはこの建物の宏大を以て、益々
殿の工を起したことは、マキアグェルリの記す如くである。この建築について、アム
ミは
ラ「彼がその宮殿を以て、コシモの宮殿
1ト
(四}
革以後は、その聾望日に増し騰り、透にコシモデメディチを眠時到する権勢を振ふに至ったのである。彼がこの時に首って、彼の宮
建築主ルカピヅティ(
る詞を以でしたのである。窪にこの詞は車なる形努ではなく、そのいふ如くであった。
ピヅティを一評するに「私人の治管が世に顛示した最大の野心」な
も、私人の名響心の建築迭管に現れたものの維として、パラザツォ
(一一一}
プコ
ルプ
クハルト
は、他のどれよりも麓かに宏大」であったと記してゐる。こればかりではない。近くは、ルネサンスの大司祭、ヤ
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とが出来ない」程であるとなし、叉‘彼と同時代の史家マキアグェルリも「この首時迄に一介の私人によって建てられたもののなかで
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ポプルネレスキの作に師してゐるが、プルネレスキは僅かに束の翼屋を附したに過ぎない曹とされてゐる。又パラッツオピッテイ
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ピ了アィがこの宮殿を如何なる謹術家に依頼したかは、文献に明らかではない。叉、この建築が何時始められたかも、同様に
影響されてゐる如くである。
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もプルネレスキの作とするととり出来ないととは、後ちに私の説く如くである。
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宵殿は、彼が同じ注文主の震に、フィレンツェ市内に建て始めて、第二帯目の窓の列迄、誰もトスカ1ナの建物心うちで、とれ以上に見るべき償
寸サン一一コロ刊の外、ルチアlノと呼ぷ小邑にフイリッポ(ブルネレスキ)は疋にルカピッ一アイO
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肢を廷でた。がしかし、と心
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グァサlリも亦同様にとのこつの建物に言及してゐ2る
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。私人によってその常時迄に建てられたもりの他のどれよりも、進かに宏大でありL
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の工を始めるに至った。その一りはフイレシヅエ市にあって、他はルス
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アあった。二つながら豪宕であったが、市内にあるもりの方が、一介
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マキアグエルリは一四五八年の改革を紋した後ちに、次の如く報じてゐる。「彼(ルカ)の専横振りは、とれが錦に噌大していって、還にこ宇の
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於いてはプルネレスキの名は見えない。司与江H
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喝未完成)の記述の後ちにし、前ほこの記述の前には、宜現するに至ら
リはその著可美術家列倖』に於ける「プルネレスキ」の章に於いて、この建物について語り、之をサ
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て紹介されてゐる。
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分の邸をミケロごノォをして語らしめた時、プルネレスキの計聾を用ゐなかったことを悔いたといふのである。この
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ァ話
サは、
の思惑を健一れて、質現を中止するに至った。プルネレスキは憤強遺り万なく、そのモデルを微塵に砕いてしまった。後年、コシモは自
その年来の構却を立減なモデルに趨め上げた。然るに、ゴシモは、この建物の宏斑華麗に過ぎることを想凡し、竣工の践に於ける世間
ってゐるとをのこと、プルネレスキはコシ一
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メディチからの依頼を受け、その宮殿を遺ることになった。彼は一切を放脚即して、
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オディチに針するモデルのことに言及してゐる。印ち、未だサシ ロレシタォ寺院の建築に携は
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を唱へ(ロ2088
アシチェルリ(戸g己司自のOEEω。ーにゆ印)がこの工に首ったとなすのである。このプルネレスキ読は永く維持され、プルクハルトも之
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プルネレスキを原作者となす設は最も早く〉oロ
lリは之に従ったもの正岡山はれる。常時のその他。文献に
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註
る近似を持ち、且つ、前者は後者よりも登山達した形式を有すると嘗て考へられたところから、パラヅツォピゴアィの製作年代を
ぽ‘ファプリッチの如く、プルネレスキにとっては、彼がフィレシヅエ岡家の第一人者の篤に作ることを担まれたものを、計蓋し‘そ
するに営って常にパラッツォメディチ Hリカルディとの関聯が考へられ、これに際して陰かな力を働かしてゐたやうに見える。例へ
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れを一部なりとも如づから出現さすことが、他のもう一人の権門の鰐に興へられることになったといふときQ
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頁)、彼は明らかにこの影響の内にあったといふぺく、叉、フォルネジクスがプルネレスキ説を否定し‘この設を以て、総べて穎
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のを過去の偉人に蹄せようとするグァサlリ並びにその時代の著しい風潮の故であるとしながらも、向ほ、パ一フピ
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)。甚だしいのは.フランクルであって、様式的にはプルネレスキにいれるよりも.寧ろミ
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中世の建築意向を模した遅れ咲をの不細工な花とするやうなのは.同様に停統的h
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。建築資硯の最初の楽器を捨ふものであるが、その設計並ぴに建築の具位化に首つ
の俸記にいれる方がよいと註したのである 25己内目前損害、二四瓦、註一一)。かくの如くにしミ
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リカルディは恐らくは、近代的形式の
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ては、それ以前に完成されたプルネレスキのモデルに負ふところ多大とあるとされ(
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建物の記載に闘する最も信透すべき文書であり、日一つ、一四四二年を除いては、一四三三年以後、彼の生涯の納叫べての年次に亙って
ルネレスキを原作者とナることは甚だしく困難である。建築主ルカピ
てゐるのである。一四五八年といへば、プルネレスキの死後、既に十二年の歳月が流れてゐるのであって、それ故、これによれば、プ
年代はマキアグェルリの記述と著しく具る。既に記した如く、彼は一四五八年に、ルカピ γ一アィが己の建物のエを起したことを議ぺ
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ヅ一アィの構想の具位化は略々一四
四と推定される所以である。この推定
一四五九年頃であるからして、以上の故に、パラヅツ
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したに相違ないとされたのである(司
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ィのモデルを完成
竺アィの手本なくしては考へられないのであるから、少くとも‘その工事以前に‘プルネレスキはパ一フ
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の新家屋一は、同様に、余及び余の家族の腐の住居なり」と。この記載は明らかに、パ一フヅ
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れが一四六九年には、向ほ建築中であったことを知り得る。これと関聯して、同じく一四五七年の土地購入の記載が注意されなければ
(二)
ならない。この哉、土地が購入されて、ルカの所有地は彼のこれ迄の敷地以上に著しく蹟大され、彼はこの地域を庭園の横張に使用し
たといふのである。ファプリヅチはこの記載を以て、既に建築中の建物に泊合する篤に、敷地の完成が行はれたとなす如くであるが、
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ピヅティの所在地は、以前にロツシ家(問ω。
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私は却って、ルカの身選、建築の機運いよノ\蛾になって、彼の壮大な構想を賓現すべく‘敷地の摘大を欲したものと解したい
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、四五三年及び一四五
館建築の意周が窺はれるばかりでなく、ルカ自身、再一8
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八年であることを思へば、右の解緯は員に幾いといへょうか。その上、敷地が高蚕の土地であり、必要な石材を産み出したことを思へ
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が、工事指導者としてルカ
ば、この頃から、新な建築の鰐の整地作業が行はれ始めたと解することも出来ようか。グlァ
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)を以て原作者に擬する方へ帯いてくれる。何とならば、プ
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がパラ汐ツォ ピッティの工事に営ったとするならば、それは何時頃のことであったらうか。ファシチェルC
lp の記す如く、若しフアシチェルリ
ファシチェルリの名をプルネレスキの活動に結びつけることは、不可能である。しかし、グァサ
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すれば、
チェルりはアルペルティの計置に従って、建築工事の監督に嘗ったのである。かくの如く、今日明らかになって
叉、マシトグァのサン セパスチア
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って‘師の工事指講者として現れてゐるのである。フィレンツェのサンチス
ばかりではない。建築史上に明らかなところでは、フアンチェルリはプルネレスキの施工者としてではなく、アルペルティの弟子であ
しても、プルネレスキの亡くなった頃は、これ程の建築指事をするには除りにも、年歯未だ熟してゐなかったといふべきである。それ
ルネレスキの在世時代には、フアンチェルリは向ほ少年であって、たとへ、ファプリ汐チの説く如く‘ルネサンス人の平熱の故を以
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チェルリの名を翠げてゐることは、我々をしてプルネレスキ読を否定さすばかりでなく、更に、他の偉大なルネサシス入、レオシ
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0のやうな最も完成された均衡美の作品を、遺すに至ったのである。これらの
聞に伍して異った形式設現を求めたものは、プルネレスキのパ一フ吋ノデ
ツィ
ォゲパル
ルフ
一ァ
ア(司巳-
し、パラッツォストロ
組の末に及んで、パラ γツォグァダ
KFE
宮 O
円/オ アシティノリ(司包-
円「区白吉岡田山富)から、首世
ディに始まるといってもよいであらうが、この形式は次いで、パγラ
デ汐
ィツ
チォH リカル
的形式特徴を共有してゐるやうに見える。ルネサシスに於けるフィレシツェ式ルス一アィカ宮殿建築は、パ一メフ
窓、粗面荒石積のルスティカ仕上げ 11 是の如き建物としてパ一フヅタオピ叫 yティもフィレンツェの停統的宮殿建築ファサ
1ドの一般
基暦の国頭アーチの開放された入口、その入口と入口の聞に均分に配置された小さな方形の窓、上同胞の同じように国頭形の背の高い
-
97 ー
に湖ることは出来なく、凡そ一四六O年頃の工と推定されることが明らかであるとすれば、首代のフィレンツェの停統的宮殿建築と様
る。私も亦、これら諸家の蹴尾に附して、アルペル一アィ読に左祖しようと欲する。この建物が年代からいって最大限、一四五八年以上
停。ロハ目。同S
国EEE に於いて、F 〉己
いて叙べたのであるが、者自自己片付 FOM
HE-o
EOEO-回
-pSNω
onwR日開店ロω己 R F
- R持。ロは向ほアルペル一アィ読に遼巡の色を示して、この作品をプルネレスキの項目に於
)。吋
50 -sg
ポl デもそのイタリア美術の読明のなかに、この読を採用したのである(当
回 25
亦、この建物をアルペルティの作となし(同己ω吉
めたのであるが、グィり
るであらう。ガイミユル一フーも、グァサIリ以来のプルネレスキ設の停統と史料とのディレシマから、その遁路をアルペルティに捜し求
.
-アィのパラザツォルチェライ(噌己・同goo--包)であって、角柱形式を以て壁面を分節し、以て石積の壁面に生彩を輿へょうと試み
3ngBZEPEg
-
E8 ・E パラヅツォ
ギラウド
H
--
25E
トルロ-一アWWE
A 0己
-
『 oEPEg
-
HUそ
O‘の如
たことは周知の如くであって、ゃうやく、営世紀の末に及んで盛行を見るに至った角柱形式によるルスティカファサード(例へば、
ローマのカシチェレリ ア
IF を有ナる限りに於いて、
ぎ)の先掘をなしたのであった。パラ汐ツオ ピヅティは、角柱形式を混へない単なるルス一アィカファサ
中世組以来の停統の上に立つパ一フッツ
メオ
ディチのやうなフィレシヅエ式宮殴建築と軌を一にするやうに思はれる。然し、その表現の
如何に本質的に異ることであらうか。年代的に最も近いものを求めるならば、バラックォメディチご四四四
年凡そ五九年三パ
ll
一フ汐帥ノオアシティノリ(一四六五年には向ほ建築中)、パ一フヅツォルチヱライ(一四四六年に着手され、工事は著しく進捗して一四
五五年には既一に窒内装備にLか
ってゐた)の如きを翠げることが出来る。前二者と最後のものとは、たとへ、最後のものから角柱形式
γ
γ
ツォ
ピッティに最も近いやうに感ぜられる。L然
・パ一フ
ティは明らかに、前者の一糸統にではなく、寧ろ、パ一フル
ヅテ
ツェ
ォライの系統に属する。これを分つところのものは何で
メディチがパラ
を取除いても‘本質的に表現を異にする。叉‘積石の切石の面の組さの感じからいへば‘ーーさうして、これが恐らくは、様式分析の
ピ
最初の過ちを犯させたものであらうが、 ll パ一フγ ツオ
wr
タオ
て、均合関係の美しさを稽へたものといってよいであらう。かういふ比
yw
例
のピ
法ヅ
則一
がア
、ィパ
/X
-
をラ
他のフィレシクェの停統的
その個々の要素を結び付け、纏め上げる比例関係の法別であった。ずァ
サのいふ高い惑術味も、正しく、この意味に於いてであっ
lリ
の基礎を置いてゐる豪班な石遺建築が出来上っていったといふとき、これらフィレンツェの宮殿建築の性格を特徴づけるものは、先
ネサシス人の好尚に投じて、貴紳の宮殿建築となり、ついで、漸次、嬰術的意圃が加はって、その使用する個々の要素の単純雄大に
叉‘屡ぺ多くの人々によって、この建物を支配する均合の美しきが賞讃されたのであった。切石積のフィレシヅエ式城塞建築が、ル
c・
?の
m
w-
しい或はこれよりも駐麗な建築を憶ひ泥べることは出来ない程、題術味の高いものであるとg。
〈♀znvodqωEMn・
R (
m
W
・530
グァサ lリはパラヲツオ ピさアィの建築について.失の如く‘嬰術的評債を述べてゐる。印ち、この建物のすべては‘これよりも美
あらうか。
-98 ー
ィチ
H
リカルディ、ストロ
ー、一
(
宮殿建築から別けてゐるのであって、卸ち、この場合、壁の開口面とそれを閤む壁面と
の均合闘係が注目されなければならない。ルネサシスの建築に於ける比例の問題につい
E吋
22VHF -。ち耳目g。ロ
宮内同R 〉REgrE 円(国自己ぴロの『品。
ては、〉居間口忠E叶
・ 〉円。
同色町 P 〈口・同州
WECL句
U”
件。}内仲良同〈”戸)の功績に負ふてゐるのであるが、プルクハルトが、これに従って説明し
問。ロ巴gm ロgE
go 〈RE -
Z50 )、宮殿建築に於いては、壁の開口面を園む壁面の均合が特に重要で
gの
nE各宮内同R
)てゐるところによれば、(
A
あって、この黙に於いても、 フィレシヅエは先駆者たるの範を垂れたのである。郎ち、
固頭アーチの窓の開口一回を方形に補って、きうして、割角線をひいてゆけば、その比例
関係は最も簡単に現れてくる。その場合、二個の隣接する窓の鞠角線が壁面の上方の界
一致するかであって(挿岡B)、第一の場合には、壁面が力柱たる壁の軸線によって二
A)、或は、下層の窓の封角線の延長が上同胞の窓の封角線と
線の下で一緒になるか(挿岡
L開
分されて、窓の開口面を等分に閤むことになり、第二の場合には、壁全陸がその
ま
γ テも
ィでの
あっ
てパ
、叉一
、多
一回口面を包むのである。第一の方式に従ふ
は
フご/オピ
プシディ、グァダ
I
11 かやうにしてパ一フごノオ
ニ等の諸宮殿建築である。
ピ γティは停統的な個
3出
一パシドルフィニ(司巴
・血色白巳)がきうである。第二の方式を守ってゐるものは、メデ
一り、弐いで、特にフLィシツェのパ一フγツォバルトリニ( E -・回ω円ZEE-パ一フγ吋/オ
1
の宮
建築
の大
分が之に従って居
/叶一少、精確にいかなくても、壁面のマ勝
っ殿て
ゐ
る部ロ
γ ツィ、
99 ー
-
々の形式を使用してゐるやうに見えながらも‘フィレンツェの倖統的宮殿建築とは全く異なった法則に基いてゐることを知ること
チオ
来る。叉、ラファエんロのプ一フシに従って建てらyれ
ノた
ォパ
パラ
シドルフィニや、これを範として諮ったといはれるγバ
w
~~
ヨロのパ一フγツオ
バルトリニが示してゐる知ぐ、この法則はパラヅツ
ピオ
ッティの時代には、営代を超えた先掘であったのである。
のはパラヅツオ
て
し
、
パッツィ(基暦)からパ一フヅツグ
ォェキヨへと湖り得るところ
メ
パ一フヅツォ ピヅティのルスティカは既にガイミユルラ
l及びグィリ γヒの注
-100 ー
めることは出来ない。彼は之を既にりミ-一のフ
サ一
ンフシチェスコ寺院以来、諸
,その性格を新しく創造することの出来た建築家は、アルペル一アィを
以の中葉に於いてl、
古建代
ロ遁じて、それを、その木質に於いて把握し・
マの
築に
一形式と和解しながら‘之を古代へ接近さ
せ
ていった
00
年代
M のルスティカ建造物に、範を求めたものであらうか。その際、彼は停統的な
内建物の構想を作るに首って、鴬時、人のあまり問ふところで1な
マかった古代ロ
て、初めてその震の由来を知り得るのであるIト
(潟
ア塁。恐らく、原作者は、この
AF
間壁(その一部は今日、アルコデパンタニに見ることが出来る)と較べてみ
遺蹟、なかでもカムパ一一ヤの野を貫く水l道
のフ
アォルム アウグスティの
チ、
目したところであるが、フィレンツェ的ではなくして、我々が1之
マを
の 古代ロ
,ξ ラッち' :t
の明らかに中世フィレンツェの城塞建築へと結び付くものを示してゐる。之に
\:."ッティ
ディチ(特に基層の)の石積と並べて見ても明瞭である。
γパ
ラ メディチ
ツオ
ティカそのものの取扱である。これについては‘最も近いと見えるパ一フヅツオ
比例の問題に・次いでこの建物をフィレシヅエ式から別っところのものは、ル
若し、首代に於いて之と一致するものを求めるとすれば、パラッツル
オチェライが同じ様式的基礎の上に立ってゐるといへるであら
う
ピ‘ノチィの窓
0
々の作品に於いて賓謹してきたばかりでなく、理論の面では、「建築
5 忠告白 SZEω 円FEU内に於いて、古代の文献、グィトルグィウスの建築論に深
マ古
建築
い理解を示した上に、これを範としながらもl、
代の
ロ遺蹟に劃する質
ツオピッティが上越の如く、フィレシツェの停統的宮殿建築の範鴎にはいる
際の組織的研究から得震
たに生きた理論を立てることが出来たのである。パラッ
が出来なく、ローマ風の様式的基盤の上に立ってゐると寸れば、アルペルティ
様式を積極的に語るものをこの建築は持ってゐるであらうか。我々は
式を措いても、とりわけ、窓の意匠に注意しなければならぬ。これに
にプルネレスキ設を守る諸家、ファプリッチ、プルクハルト、フ一フシ
ルテェライとの一致が認
しく語ると
’ ころであって、アルペル一アィのパラヅツオ
められるのである。(闘版参照)
ピヅティの窓を検するならば、窓の腹に角柱の脇桂がある
とが、首初、目論まれたものであることを物語ってゐる。同時に‘我々は、
建築に於けると同じく、之に相躍した小園柱によって、窓の関口面を二
ことを知る。之は明らかに、こムに於いても亦‘他のフィレシヅエの停統
目、パラッツオ
A7
-101-
脇桂の柱頭の上に、邸ち、迫の
持弧がちょうどその上から始まるところに、
、
ルパ
チ一
ェフ
ラグ
イツ
のォ
窓に於けるやうに、無目が小園柱の上を走って、
の斗の如、雪、乃至は、構材の切端の如きものを見る。これは
. ルテェライの窓
ライ
拘か
ヅチ
ツェオ
や?な意匠の一致ばかりでは
なく
くの知き窓として之を補った上で、パ一フル
回、不明である。然しながら、η
右
開口面と欄間とを分けてゐた筈であったに外ならない。何故に之が取挽はれたか、原作者自身に
種
ツフ
ォピ汐一アィの方が大いさに於いてその倍ではあるが、同じ比例が用ゐられて
のと並べてみるならば、縦横の同じ均合、勿論、パγ一
ゐることに驚かされるのである(ML)。小園桂によって窓を二分する仕方は、中世記以来の侍統であって、首代の宮殿建築が殆んど一
l
ノがパラ汐ツオ
ピコロミ
様に採用したところであった。この際、脇柱として角柱か或は固柱が採用されたのである。然し、水平材をいれて窓と同形装飾の欄間
ロスセリ
色。
BEC に於いて之を模したのを見るのみである。パラγツォルチェライの工事に常った
とを仕切ることは、アルペルティのパラご/オルチヱライに始まるのみであって、ペルナルド
l
l
ノは恐らく、師の新様を誇ったものであらう。思ふに、アルペル一アィはIロ
マ建築の軌範に従って、アーチを直接、園柱の
g司
gE
一一(ピエシツァ及ぴシエナ)(
包R
ロスセリ
上に置くことを欲しなかったが故である。か〈の如くして、パラγツォピッ一アィは明らかにアルペルティの作品のなかに入れらるべき
111
ルスティカ切石、建物の腰まはりの石のペシチ、細い胴蛇腹の上に規則正しい間隔で並置された小岡柱の二分する周到形の大き
であらう。アルペルティはこの場合に於いても、パラγツォルチェライの設計に於けるやうに、トスカ lナの貴紳の邸宅の倖統的な約
束
1
マの重層建築の型式が念頭に泥ぴ上り、恐らくは、コロセオが範となって、階層の角柱による分節が行ばれたのであらう。こ
ぺ二
お一
じ一
も早
のが
べたところであるが、窓が壁との関係に於いて全睦の表現に如何に興ってゐるかについては、更に
司ある。ミケロγ ツオ
J
かった蛇腹の上に直接、窓がくるといふ軽率を避けることが出来たのである。窓の意匠や比例、叉、窓と壁との資比については既に述
柑侠って、如何に軽快にして雄大な作用をなしてゐるではないか。勾欄を置くことによって、アルペル一アィは他の宮殿建築が怪しま
の暦を分つ胴蛇腹は、一見、停統的なそれと異るところがないもののやうである。しかしその上に置かれたイオ一一ヤ式小国柱の勾欄と
の交互配列によって、パラγツオ ルチェライに於けると同じ一定のリズムが維持されたことである。次ぎには、階層の聞に在って各々
アルペルティの作品としてこの建物を眺めるとき、更に、二一一一の黙に気がつ〈。第一には、初貯に於いて、入口と小さ仕方形の窓と
るのである。
の度は角柱分節は断念された。代って、古代ロl マのルスティカ建治物、なかでも‘雄大な水道がその構想の基となったことと思はれ
古代ロ
な窓、鶴屋根、又は、女堵屋根1l に制約されながらも、之を採り入れながら古代建築への接近を計ったのではないか。前の場合には、
-102 ー
J
のパ-フwywォ
ストロヅツィに至る迄の多くのルスティカ
yツ
メディチは本より、後ちのパ一
フオ プシ
ディ、 パ一フγツォ
宮殿建築に於いては、窓はそれの周闘をとりまく一つの枠の
なかにいれられて、壁面の装飾文様の如く取扱ほれ、それを
ピ yティに於いては
園む壁の壁躍としての機能の表現を妨げてゐるのを意に介し
WJ/
Wオ
なかったかのやうである。 パ一フ
かういふ平面装飾的な取扱は全然、排された。窓の簡素な形
式と相倹って、壁はカ柱として壁践の機能を十分に護揮する
に至ったのである。かやうにして、パラ汐ツオピさアィの雄
大宏確な表現は、フォルネジグスのいふやうな中世期の遅咲
オ
ywJ
-103 ー
理代
にロ
従って‘
る建築として、パ一フご/オピ叫ごアィはアルペルティの他の作品の如く、殊に彼の最も晩年の
1マ
作の
、原古
hA
性をば、後年バロ γグ及び古典主義の時代が、この建物の改装と蹟大を目論んだ際に、利用することが出来たのである。
ることが出来なかった。十六世犯のみ二フy
シ
クルネサシスがこのトルツを完成さすことが出来たのである。この故にか、かふる可能
-
それは異った意向、盛期ルネサシスのそれから生れ出たものといはなければならぬ。個々の細部形式をよろこぶ営代の建築は之を解す
o
趨った一段としての空間の構成を目指したマントグァのサシアンドレア寺院と同じく、同時代の他の建築からは全くかけ離れてゐた
ある。か
な表現が求められたものといはなければならぬ。その際、袋飾をすべて排して、規模の雄大と単純な比例の力がその基礎となったので
中世組的なものから抜け出たところのものを持ってゐるのでもない。古代
ロの建築の基礎の上に立って、簡素にして重々しく雄大
1マ
キヨとの聯想とは全く類を異にする。そこには中世期的なものとのつながりはなく、叉、ルネサシス開始の首初に於いて有したやうな、
きの花でもなく‘ ファプリ yチの読くやうなパラ
.
:
r
.
グ
{一)
我々は今日、現存のパラッツオピ γ一アィに封ずるとき、この建物に於けるバロヅク以後の附加物を忘れ勝ちである。営初は中央の
己g
γ
ピ、
己の素描(十六世記末)(市臨)及ぴ
テパ
ィとラ
ウフヅ
ィ ツオ
個の入口と上馬問、七列の窓を有ずる成五九米、一両さ三八米の略々黄金律の正面を有する建物にナぎなか
っ建た
λる
物。
とか
して‘十七
世紀の初に至る迄、略全日初の姿を残してゐたことは、回gE
ω 某資姉人保(十七世和初の作と推定される)の背景に絢描かれたパ一フッ
γ一
チとを結ぶ廊下に掲ってゐる Z 円・HHUの
ピツ
オアィの闘に
{一一}
ES
Eす
明らかである(胤願)。これらの岡のB一
不
く個、
にの〉
-如
は三
の肢
入口
うち中央のみを残して、他を窓に改装し、叉、上暦の
gE
窓の意匠の縫ってゐるのを知ることが出来る。軒の上の列杭臨も彼の冠するところであるといふ
。巳
国gt の素描に見える雨翼の
増築物は堕に計萱にのみ終ったのであるが、既に後ちの前庭を考慮しての横大への機運が見られる。か
Lる蹟大による鑓貌は一六二
O
l
一八二一九年に、南北の突出翼廊が附加さ
年に行ばれた。最上層に於いて、左右に窓軸で二一列づ\下府に於いて同じく左右に入列づヘ横大され、中央部一O六米半、雨翼を
(一一一)
含めて二 O 一米といふ略々、今日の姿をとるに至った。更に、一七六四年、及び一七八三!
既に治初から滅されてゐたといへるのではあるまいか。超人は誰あらう、アルペルティにいはるぺをか。
のは、明らかに、今日の往物に閲してゐるのであって、かような表現のモメシトばパロヅクの作家の利用したところであったとはいへ
0る
88
て、これ科の塊封が一制り振るには、誰か超人的な人が計算を行ったとでもいふやうな感情を起さRせ
(ロ ロO)、と記してゐる
に、その唯一の大ぎな竣化、印ち、最上層を中央部に限ったといふことが、それだけでもう‘コロッサァルの効呆を護揮するのであっ
このやうな手段を川ゐて慣なる美とか快感から逸脱しようとした不遜な巨人は一脱誰だらうかと、尋ねてみたくなると説ぎ進み‘最後
に闘して、それは木質的には然し、この規模に封して、殆んど援化のない同じ形式が反覆されてゐるといふ関係に基いてゐるのである。
るといふことと、その木口に大ぎな規模とがこの印象を強めるのに都合がよいと説き起して、弐いで、この建物そのものの建築的効呆
そのどれよりも、この既場は今日迄にうけた宏抗の印象の最も高いものを持ってゐる。この建物が琵りになってゐる丘の上に位してゐ
設問慨は敷地と建物との関聯に先づ前日して、この地上の有らゆる私人の建物のうちで、それにはこれよりも遥かに大きいものもあるが‘
れたのである。かやうにして、今日の建物には、原作者の武闘しなかった意味が附加されたといはなければなるまい。プルクハルトの
-104 ー
問。32
が彼心意回心佳に完成された
Oである。(一五五八
O年。擁大工事
l 七O年)。一六二
FOE--区が大公コシモ二世心命をうけて行はれたのであって、その後憐者プエルデイナン
ω治
ド下
二に
世於いてパリギO息、
〉E500 命
邑M
一言RnF20 切 03mw
が冨 ω20F
ーを了一一了三
l
AU
F
D
E5 ・河口 mm目。ュ ο計書一主指導。下に附け加へられ、次いで大公
O戸
EH
。が
。之
匂に相臆する北O翼廊を一七八一二年に着工し、之を
32 ・3nng
口広が一八三九年に至ワて竣工したもりである。
によって建築家
kPR88によって一六一三年完成された。突出翼廊は最初、一七六四年に南の部R
n即
rs
zo
分
ちg〈
はアムナテイの明 白 己
ο
かくして、アンマナティ O改装が施され、同時にそ
死し
後、
は殆
年コシモ公一世の妃エレオノl ラ 2 ずに移り、
であるが、建物。工事は話められてゐたゃうである。O然
彼んど中止の歩感心催、一五O五
は、殆んど完成に近かった心ではあるまいか左考へられる。ルカピッティは一四六六年以後次第に勢力を失墜してゆき、晩年を落塊の裡に終
リが
。第二番目。窓心列迄といふ説言に徴して(グlア
サ「列博 Lを出版した一五五O年に於いては向ほ常初の佳であった筈である)、外観に於いて
I エ
リ 烏敵聞及びグア
三常初の建物がど心科度迄話捗してゐたかについては、精確なところは不明である。但し、十五世紀末と考へられるフイレンツ
に鹿止されて、今日。やうな軒を冠ナるに至った。
はに
明ら
でが
あ存
るが
後と
ちに、一六二
O年。撰大 O とき
柱廊を有しないで、普通り帳尾根になってゐる。兎も角、アンマナティのE時
はか之
し、た
定末
されるフイレシツエ烏敵園に見えるοと
ξ推
建物は列
年に存してゐるといってゐるが、十宜世
粗
O八
と ο列柱廊についてはヴィリッヒは既に一四
八米やり長さを有ナる。とOやうな E石を使用ずるととり出来たりは、背後が石切揚として役立ったからである。
上陸心窓は窓軸の間隔八米、その大いきは、幅に於いては初両国心入口と同じく、高さに於いては、それより柏々低い。使用された石材
O米
ヘ口は高さ八・O
七米、幅三・八
O米、
第・
一王
一、第三庖は共に一一
・で
五あった。初層2 ニ伺01
各層問。逓減比は比較的少く、初白♀口刊さO
一米
一、二
詰
Fly UP