Comments
Description
Transcript
1974年10月10日逮捕
インドネシアの 独立と発展 120781086 中村槙太郎 はじめに a)現在の大統領 ジョコ・ウィドド 1961年ジャワ島中部出身 大学卒業→家業の家電販売へ就職 2005年市長に就任 →2012年ジャカルタ州知事に就任 b)ユドヨノからジョコ政権 2014年7月22日投票結果→ウィドドが当選 プラボウォ・スビアントと対決 プラボウォ・スビアント イスラム保守派の代表 安全と秩序を主張 軍部出身の政治家 ア)選挙間の対立 ウィドド側の主張 ウィドド票がゼロの地域が出現 スビアント側の主張 架空の有権者の投票 結果:ウィドドが勝利 c)ジョコ政権 2014年10月20日から始動 主な活動 2015年1月 ガソリン補助金撤廃 →ユドヨノ政権からの問題に着手 2015年10月26日 TPP参加意思表明 2015年12月 OPEC復帰 第1章 インドネシアの概要 第1節 インドネシアとは a)インドネシア=ギリシャ語でインドの島々 →3000ほどの島々で形成 ア)5大島→スマトラ、ジャワ、カリマンタン スラウェシ、イリアン=ジャヤ (ニューギニア島の半分) イ)その他諸島 →ヌサ=トゥンガラ、マルク諸島など ウ)総面積→192万㎡ エ)総人口→約2.49億人(2013年) オ)首都→ジャカルタ カ)都市人口と宗教人口比率 ⅰ)ジャカルタ→997万人 ⅱ)イスラム教:89.9% キリスト教:5.9% ヒンドゥー教:1.9% 仏教:0.7% 儒教:0.7% その他:0.2% →世界最大のイスラム教国家 キ)民族:大半がマレー系 →ジャワ、スンダ等約300種族 ク)言語:インドネシア語 ケ)在日インドネシア人:28,649人 (2013年10 月) コ)在留邦人数:16,296人(2013年10月) b)1945年8月17日に独立宣言 →正式な国号「インドネシア共和国」 ア)1928年の「青年の誓い」 →名称が一般化 c)政体 大統領制・共和制 d)主要産業と輸出入 ア)主要産業 →製造業23.7%、農林水産業14.4%、 商業14.3%、鉱業11.2%、建設9.9% イ)日本への輸出入 輸出:石油・天然ガス、機械機器、銅鉱、 エビ、天然ゴム、合板など 輸入:一般機械、電気機器、輸送用機器など ウ)輸出入国 輸出国:日本、中国、シンガポール 輸入国:中国、シンガポール、日本 エ)貿易額 対日輸出:28,172億円(2013年) 対日輸入:16,621億円(2013年) e)GDP、経済成長率、為替レート GDP:8.696億ドル 一人当たりGDP:3500ドル 経済成長率:5.0% 為替レート:1ドル=12.264ルピア (2014年12月1日) 第2節 オランダによるインドネシア支配 a)オランダの植民地支配 ア)19世紀初頭オランダは植民地政策 →ジャワ島、スマトラ、マルク諸島など ⅰ)アチェ、バリなどはオランダと抗争 →オランダに敗北 b)オランダの政治関与 ア)マタラム(ジャワ島)の内政関与 バンテン王国の王位継承の内紛に関与 ジャワ島西端北海岸コショウ生産 16~18世紀スマトラなど東西貿易で繁栄 →オランダが王国を統治 イ)1830年ジャワ戦争オランダ勝利 →ジョグジャカルタ王家3人流刑 ウ)オランダと農民 「アダムの教え」→中核農民 →「無償。不虚言。不窃盗。不姦 淫す。不忍耐。侮辱 沈黙厳守。金銭・食物を不貰受。 無償で金銭・食物を送配」 中核農民を指導者とし県単位で運動 c)オランダの積極的な政策 ア)1914年オランダ領東インドの領域確定 領域内で人種差異を設定 イ)植民地学校制度→現地人官吏の採用 →学校教職員や下級官吏商業活動など ⅰ)イスラーム同盟 民主主義運動史上初の大衆政党 「原住民」「民族」の概念獲得 ウ)抵抗勢力は弾圧、協力派は役職付与 協力派を獲得し勢力拡大を思惑 →抵抗運動で失敗 第3節 日本占領期 ア)1940年9月から1941年6月まで日蘭会商 石油輸入交渉失敗 イ)1941年7月28日日本軍のベトナム南部進駐 →アメリカの対日石油禁輸が原因 ウ)1942年3月9日日本の占領 日本が「アジア解放」を宣言 オランダ支配から指導者を解放 →初代大統領スカルノら対日協力 ⅲ)インドネシアへ連合軍の再攻撃皆無 ⅳ)最後まで日本軍政の継続 エ)1945年7月17日 →日本はインドネシアの独立を容認 オ)1945年8月17日独立宣言 「インドネシア民族は、インドネシアの独立 を。権力の委譲およびその他の事項は、慎 重な方法で最も短期間内に実施。インド ネシア民族の名において スカルノ・ハッタ」 スカルノ(1901~1970) フルネーム→スカルノ ジョグジャカルタ出生 小中大学を卒業後オランダへ留学 1927年にインドネシア国民同盟発足 (28年5月インドネシア国民党) インドネシア国民党→スカルノ発足 綱領:民族統一と団結、 政治的自由の制限撤廃など ハッタ(1902~1980) フルネーム→モハマッド・ハッタ 1922年にオランダ留学 インドネシア協会会長 →民族主義的宣伝活動 第2章 独立後のインドネシア 第1節 独立戦争 a)戦後事情 スタン・シャフリル(1911~1966) インドネシア社会党、反日派 1945年8月18日スカルノ 独立準備委員会作成 8月18,19,21日委員会開催 インドネシア共和国憲法制定 地方制度・内閣制度・中央国民委員会設置 11月1日「ハッタの政治宣言」 インドネシアはオランダの負債を支払義務 オランダの投資と外国人所有財産の返還 ア)「独立か死か」 9月29日オランダ軍 →ジャカルタ市内で挑発・射殺行為 スカルノの対応 10月5日人民治安軍編成 11月10日人民部隊の抵抗 →「独立か死か」と呼号し戦闘 近代装備のイギリスに敗北 イ)11月バンドゥン市人民治安軍と戦闘 植民地化目的でオランダ軍が戦闘 11月下旬市二分の停戦協定 ⅰ)停戦協定後も連合国は戦闘 インドネシア軍の抵抗 インドネシア人大量虐殺 ウ)1946年3月バンドゥン火の海事件 インドネシア軍→味方軍事施設を放火 オランダの拠点利用防止 街全体が焼却 第2節 オランダによる再植民地化 a)46年1月共産党指導者の抵抗 政党・軍・人民部隊を結集→ 七項目綱領 ⅰ)完全独立承認対立オランダ協議 ⅱ、ⅲ)人民政府と人民軍の設立 ⅳ)日本軍の武装解除 ⅴ)ヨーロッパ人捕虜の管理 ⅵ ⅶ)敵農園や企業の接収・管理 結果:圧力でシャフリル総辞職 ア)11月15日リンガルジャティ協定 オランダはインドネシアが各地域での権力 行使を承認 オランダ軍の占領地域は返還 妥協点:オランダ人の権利回復 オランダ人に財産返還 国民は不服 イ)第1次植民地戦争 47年6月28日オランダがインドネシアへ進軍 政府の対応:リンガルジャティ協定侵犯 国連に提訴 国連の対応 7月末に両軍を停戦 48年1月レンヴィル協定調印 内容:オランダはスラウェシ、 東部ジャワなど9自治領を獲得 →軍事的優位なオランダが有利 国民の不満増大 b)マディウン事件からのオランダの軍事行動 マディウン事件 48年9月18日共産党による市政権奪取 →インドネシア国軍が鎮圧 共産党の反乱でインドネシア戦力低下 ア)オランダ再植民地化へ行動 インドネシアの戦力低下→好機 レンヴィル協定破棄→ジョグジャカルタ占領 スカルノ、ハッタら共和国要人監禁 ハッタの対応:オランダの要人監禁を予測 共和国臨時政府を準備 →共和国軍がゲリラ戦 イ)第二次侵攻への国際反応 国連安全保障理事会:緊急理事会開催 スカルノら政府要人の釈放要求 オランダの対応:国際的批判にも抵抗 結果:アメリカの圧力 →5月7日ルム=ロイエン協定 ⅰ)ジョグジャカルタ返還 ⅱ)スカルノら要人釈放 ⅲ)ハーグ円卓会議 7月7日スカルノら釈放 8月3日停戦 ウ)49年8月~11月ハーグ円卓会議 ⅰ)オランダはインドネシアに完全主権委譲 (西部ニューギニアは除外) オランダのほうが軍事的優位のため ⅱ)オランダ=インドネシア連合結成 完全独立を基礎に友好関係 (オランダ女王が象徴的役割) ⅲ)オランダ軍撤退→蘭領東インド軍解体 一部インドネシア連邦国に軍編入 ⅳ)インドネシアがオランダの負債支払い オランダや他国の企業操業開始を承認 協定結果:49年12月27日主権移譲 インドネシア連邦共和国 首都→ジャカルタとして成立 大統領:スカルノ就任 副大統領:ハッタ就任 第3節 政治統一後のインドネシア a)統一後のインドネシア事情 ア)50年8月15日 インドネシア共和国暫定憲法が公布 →インドネシア人による統一国家誕生 イ)オランダの干渉 50年1月ジャカルタ侵攻→失敗 西部ニューギニアをオランダが当時占領 →そこからの侵攻 ウ)マシュミ党の影響力 マシュミ党:新オランダ派イスラム教徒集団 ジャワ島以外で勢力 マシュミ党の出現により政治的不安定 52年10月17日「10月17日事件」 親オランダ派がデモ活動 外島(ジャワ以外の島)の政治的抵抗 マシュミ党内の混乱 →保守派イスラム教徒との分裂 ナフダトゥル=ウラマ党結成 保守派の村落イスラム教徒らの団体 エ)インドネシア共産党事情 50年ソブシ(全インドネシア労働者中央機 構) 人民青年団などを再建・組織 52年党員数10万以上の大政党に復活 53年9月バリサン=タニ再編 (インドネシア農民戦線) のちの農地改革に貢献 オ)1955年9月第一回国会総選挙 選挙結果4大政党に票が集中 インドネシア国民党、インドネシア共産党 マシュミ党、ナフダトゥル=ウラマ党、 4大政党の見比べ ⅰ)インドネシア国民党、共産党 中部ジャワ、東部ジャワ、バリで投票獲得 理由:水田地域、社会主義傾向 ⅱ)マシュミ党 ナフダトゥル=ウラマ党 西部ジャワ、スマトラで投票獲得 理由:イスラム政党支持者多数 b)政治と軍事 ア)ハッタ辞任による混乱 1955年12月 共和国憲法制定のための制憲議会の選挙開始 政党争い激化 56年12月副大統領ハッタ辞任 原因:スカルノ→アメリカ、ソ連 東欧諸国、中国を訪問 社会主義に傾倒したため →反スカルノ派の批判 スマトラ、スラウェシで軍事反乱 共和国行政権の強奪 イ)西部ニューギニア(西イリアン)奪還 57年4月西イリアン奪還を軸に内閣誕生 ⅰ)各地方政党軍有力人物の国民協議会発足 ⅱ)国内正常化 ⅲ)オランダとのハーグ円卓会議破棄 友好関係解約 ⅳ)西イリアン返還闘争 ⅴ)インドネシア企業の建設推進 西イリアンは円卓会議でも保留 →オランダ系銀行、オランダ商社 オランダ企業、農園などを接収 57年12月13日 完全にオランダがインドネシア撤退 エ)ナサコム 58年3月 スマトラ、スラウェシで反乱軍平定作戦 政府軍が反乱軍を容易に平定 59年7月5日スカルノ新内閣発足 スカルノ自身が首相 スカルノ自身が首相 ⅰ)制憲議会の解散 ⅱ)50年暫定憲法の停止 ⅲ)45年インドネシア共和国憲法復帰 ⅳ)45年憲法主軸に暫定国民協議会 最高諮問会議の設置 以上を布告 8月17日独立記念日の演説 スカルノ 「45年憲法復帰が民族革命発展」だと説明 →独立は民族の権利、植民地主義は一掃 59年12月31日政党法施行 政党は国家体制の民族団結以外は活動禁止 60年3月国会解散 ゴトン=ロヨン国会発足 ゴトン=ロヨン国会とは 法案の審議・協賛権のみ 130名の政党代表と軍人の153名 社会職能グループの代表 61年政党法の政党簡素化 →小政党は解散し10政党のみに 国民党インドネシア党など4つの民族主義党 カトリック党などの5宗教政党 共産党 以上の10政党に 民族主義・宗教・共産主義の均衡状態 →ナサコム 政党間の連合体 c)農地改革 ア)58年末村落調査 地主による土地の独占 農民の多大な地代負担 イ)バリサン=タニ(インドネシア農民戦線) 「6・4」運動→農民の収穫が6 59年11月収穫分配契約法が国会通過 →分配比率「5・5」に修正 ウ)1960年8月17日独立記念演説 スカルノ「農地改革こそ重要」と説明 60年11月総合開発八ヵ年計画 ⅰ)人口密度ごとに土地所有上限を設定 ⅱ)国家買収の土地→保障 帝国主義、革命反対者の土地→没収 ⅲ)再配分→当該耕地の小作民優先 農民の権利を保護 エ)62年9月西部ジャワで農地解放 最初の過剰地再分配 63年東部ジャワ西部ジャワバリなど農地解放 →土地が少量で農民は実力で土地獲得 唯一の抵抗「農民の一方的行為」 →大統領令により禁止 d)9月30日事件 →共産党によるクーデター ア)1965年9月29日共産党幹部を軸に会議 ⅰ)将軍連行(抵抗すれば殺害) ⅱ)首都制圧 ⅲ)基地防衛 イ)65年10月1日 午前3時少将准将ら6人死亡 共産党員らによる暗殺 →将校らが政治の実権掌握を陰謀と判断 午前7時20分共産党幹部が軍事行動 中央放送局から「9月30日運動宣言」 午前7時30分スハルトが行動開始 →臨時陸軍司令官 首都の奪還、放送局郵便局などの奪還 午後8時放送局からクーデター鎮圧を報告 スハルト→共産党排除を声明 反共運動が全国に浸透 ウ)65年10月2日 民兵掃討戦→鎮圧 「9月30日運動」制圧 エ)9月30日事件の謎 ⅰ)共産党幹部→サムという偽名 事件後失踪→不逮捕、行方不明 共産党幹部ではない可能性 ⅱ)スハルトの対応速度 10分で臨時陸軍司令官 「9月30日運動宣言」=共産党と判断 →反共運動、異常な速度での対応 スハルト フルネーム→スハルト 第2大統領 軍事政権として32年間大統領 第3章 スハルト政権 第1節 9月30日事件から政権誕生まで a)9月30日事件後 ジャカルタで反共運動 ア)10月末から2月まで レンジャー部隊が共産党狩り レンジャー部隊 イスラム学生などから支持 イ)スカルノの対応 反共デモ対応 →1966年3月11日スハルトに大統領権限委譲 第2節 スハルト体制下のゴルカル a)スハルト体制 権威主義体制の総選挙方式 b)ゴルカル 公務員は強制加盟の集票獲得組織 1971年のスハルト政権初総選挙で63%の得票率 ア)コルプリ 1979年村落行政法 村長を公務員化、ゴルカルの下請け組織 第3節 スハルト体制の歩み a)資本主義経済へ変化 経済の自由化、雇用・農業・工業化を重視 b)69年に第一次開発五ヵ年計画 農業→「ビマス計画」実施 内容:農民に後払いで肥料や農薬を貸す 結果:収穫量増加、味、害虫、干害× 高コスト c)学生運動 1971年から学生運動が多発 1974年1月15日マラリ事件発生 内容:学生が日本やアメリカの経済支配反感 対応:在来のインドネシア人雇用を増加 1976年スハルトは総選挙で勝利 →反対学生運動が活発化 対応 1978年学内政治活動禁止令 →学生運動低下 1980年 学校や公務員試験にパンチャシラの義務化 元政治家らが反対→報道の禁止の措置 パンチャシラ →唯一神の信仰、人道主義 インドネシアの統一、民主主義 社会的公正 d)好景気 1983年構造調整政策開始 内容:工業主体、民主導、輸出指向へ変化 1988年金融の自由化 民間企業が公共事業へ参入 1990年政治の文民化 軍人を減少、娘を後釜へと計画 1993年スハルト長女をゴルカル副総裁 e)スハルト政権崩壊 1996年「7月27日事件」 スカルノ長女メガワティ・スカルノプトリ →対立 メガワティ支持者が暴動 1998年1月アジア通貨危機でルピア70%下落 →失業と貧困が増加 1998年5月 デモ学生射殺事件 →学生や宗教者らが改革要求運動 1998年5月21日ハビビが大統領就任 スハルト政権が崩壊 第4章スハルト体制後の政治 第1節 民主化・地方分権化による影響 a)民主化改革 1999年民主的選挙制度の総選挙が実施 →49の政党が参加 ゴルカルが衰退 ア)1999年地方行政基本法を制定 行政権限が地方政府に移動 →公共事業、教育、労働など 汚職・癒着が増加 イ)1999年中央・地方財政均衡法を制定 →地方自治が天然資源の利益を分与 第2節 スハルト体制後 a)ハビビ バハルディン・ユスフ・ハビビ スハルトの側近政治家 1936年6月25日スラウェシ出身 バンドン工科大学中退後 ドイツで航空工学を勉強 74年から帰国し国家技術開発で活躍 ア)活動経歴 1999年地方行政基本法 1999年中央・地方財政均衡法 出版物発行許可証制度の廃止 デモ・集会の自由化 →政治的自由化に着手 イ)ハビビ政権崩壊 民主化を形にした →東ティモール問題で政権交代 ⅰ)東ティモール問題 国軍が介入し激化した内戦 約10万人の難民、約1000人の死者 b)ワヒド政権 アブドゥルラフマン・ワヒド 1940年8月ジャワ出身イスラム教政治家 祖父はナフダトゥル・ウラマ党創設者 71年まではドイツ・イラクで遊学 98年1月に脳卒中で失明 ア)1999年10月国民協議会にて大統領に選出 2000年2月東ティモール問題を解決 →犯人を逮捕 イ)ワヒド政権崩壊 不正資金疑惑 →7月23日ワヒドを罷免 メガワティが大統領に選出 c)メガワティ メガワティ・スカルノプトリ 1947年ジョグジャカルタ出身 スカルノの娘 スカルノ失脚後は一時空軍パイロットの主婦 飛行機事故で夫が死亡 二人目の夫と結婚し政治活動を開始 ア)メガワティ政権 2002年5月19日アチェ州全域に軍事作戦 →2004年までアチェ支配 2002年10月のバリ島爆弾事件 →ユドヨノが操作し有名に 12月のアチェ和平の際もユドヨノが貢献 →ユドヨノは直接選挙を意識 2003年1月ガソリン燃料費の値上げ →国民と対立 国民:アチェ、バリ島、ガソリンと連鎖し メガワティ派が減少しユドヨノ優勢 2004年9月20日 直接選挙でユドヨノが勝利 第3節 史上初の直接選挙 a)ユドヨノ スシロ・バンバン・ユドヨノ 1949年9月9日ジャワ出身軍人一家の息子 国軍士官学校を首席で卒業 アメリカで経営学修士取得 農業経営学博士号も取得 現地での呼び名「SBY」 初の直接選挙での大統領 b)ユドヨノ政権 ア)自由アチェ運動終結 2004年12月26日スマトラ地震で終結 地震の被害→地域復興を優先 2005年8月自由アチェ運動終結 中央政府への政治参加 アチェ州で政党結成承認 イ)労働法 2006年に改正を計画→失敗 2003年の労働法 →退職金、長期休暇日数が含有 2011年に健康保険、年金保険とセット 労働法改正に成功 ウ)投資環境の改善 2007年新投資法を制定 →2010年企業の登記手続きが47日に減少 輸出入の所要日数も短縮 エ)外交 2009年5月第一回世界海洋会議開催 →資源乱獲などでの海洋環境悪化を保護 2010年サンパウロ・ラウンド →ブラジルやインドなど11か国の新興国参加 内容:関税撤廃ではない 全貿易品目関税70%→20% 2013年中国と通貨スワップ協定 通貨スワップ協定 →金融市場の緊急時に資金を相互援助 インドネシアは金融市場の安定化を計画 オ)ユドヨノ政権交代 ジョコ・ウィドドVS プラボウォ・スビアント 2014年7月22日投票結果ウィドド勝利 ⅱ)2014年10月20日 ユドヨノからウィドドへ 第5章 今後の展望 第1節 インドネシアの成長条件 a)現状 労働人口の増加→失業者貧困者増加 対策:工業化→雇用機会の増加 問題:森林破壊や排気ガスで環境悪化 第2節 考察 a)穏当な工業化 集中的な工業化→中国のような環境問題浮上 雇用機会の増加と環境問題への対応が必要