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Hirosaki University Repository for Academic Resources
Title
Author(s)
説教節山椒大夫の成立 : 巫女の死と天皇の登場
安野, 眞幸
Citation
Issue Date
URL
Rights
Text version
1987-03-05
http://hdl.handle.net/10129/2070
本文データは日本エディタースクール出版部の許諾に
基づき複製したものである。
publisher
http://repository.ul.hirosaki-u.ac.jp/dspace/
説経節 山板太夫 の成立
2
9
- 垂女 の死と天皇 の登場-
安野星章 (
中
世
史
)
前進座公演,戯曲 「さん しよう太夫」(
国立小
劇場,1
9
7
7年 より).
税敬称 山繊 太夫
奥 州 五四郡 の
こう む り、 筑紫 へ流 さ れた。 安
主、 岩城 判官 正氏 は帝 の勘気 を
寿 と厨 子 王 の姉 弟 は父 を慕 い、
母 や乳 母とと も に京 へ向 け て族
失 わ れた額地 を回復 す るた め に、
立 つ。 し かし途中 越後 の直江 津
で人買 いの山 岡太 夫 に母 は佐渡
が島 へ、姉 弟 は丹後 国由 良 の山
坂 太夫 に売 ら れ る. 姉 は潮 汲 に'
弟 は しぼ刈 りと慣 れ ぬ仕 事 に帯
けを逃 がし、 自分 は火責 め の刑
便 された。姉 は初 山 の日 に弟 だ
の聖 にかくま われ、 ま た金 虎 地
にあ って殺 され る。 弟 は国分寺
裁 の霊験 によ って、 追 手 を逃 れ、
上洛 す る こと が でき た。 や が て
都 の梅 津院 の養 子 とな り、 帝 よ
り所領 を安堵 され、 もと の奥 州
五四郡 の主 に返 り咲 く。
絵 解き (
えと き) ス- 1リ Iを
もち、 宗 教的背 景 のあ る絵 画 も
しく は、 これをわ かり やす く解
説 す る こと。 イ ンド に起源 をも
ち、 中 国 を経 て日本 に伝 えら れ、
れ る。熊 野信仰 を広 めた熊 野 比
室 町時 代 には絵解 き法師 も現 わ
丘尼 によ るも のは有名 であ る。
内容 は次第 と世俗化 ・芸能化 し
て い った。
はしがき
﹄
に関 す る考察 であ る。 柳 田国男 の言 -通 り この説 経節 ﹃山坂 太夫﹄
V
=E
E
S
本稿 は説経節 ﹃山坂 太 夫
の成 立 の前提 には、 口東文 芸 と し ての 「山板 太夫」 伝説 が存 在 し'物 語 り が 「
自由 に趣 向 を立
て」 る こと の出来 た世界 が存在 し て いた のであ る。 この説 経節 と伝 説 の両者 の比較 を通 じ て、
社会 の下層 民達 の担 って いた世界観 の変 化 を明 ら か にす る こと や、 説経節 成立当時 の世界観 を
明 ら か にす る こと が出来 ると思 われ る。 これ こそ が本稿 の目的 な のであ る。
私 は これま で下人 に ついて幾 つか の考察 を行 って来 た。 そ の中 で特 に、(
祭 り等 の日、下人達
(
2)
は主 人 の支 配 から自由 にな る)と いう 「
時 間 のアジ - ル 」に注 目し てき た。 このよ- な関 心 のも
あんじゆ づし おう
はつ
やま
安 寿 と 厨 子 王 の姉 弟 が (初 山 の日だ か
と で、 この ﹃山板 太夫﹄の物語 り にお いて注 目 した のが、
「別
ら逃 げ よう)と相談 す る場面 であ る。 姉 弟 は正月 を 目前 にした師 走 の大 晦 日 の日 から、 山坂 太
べちや
屋 」 に いれら れ て いた のであ る。 さら に この
夫 の屋敷内 の 「三 の木 戸 のわき」 に作 ら れた
「初 山 の日」 に注 目 し て い- と' この日は正月 十 六日 で薮 入 り の日 であ った こと がわ か った。
-
韮女達 が 「地 獄変 相 図」 を携 え、 絵 解
全 国各 地 の安 寿 塚等 で の安 寿祭 り の日 が薮 入 り の日と近接 し て いる こと から、 この日はもと
米
き等 を行 って いた と も考 え
もと 「安 寿 の日」 で' 安 寿
ら れ る. つま り山坂 太夫伝 説、 就 中安 寿伝 説 は、 この祭 り の日 に盛女 の語 る絵 解 き の物語 り が
膨 ら ん で出来 たも のではあ るま いか。 説経節 ﹃山坂 太夫﹄ も ま た、 この祭 り の日 の出来 事 を中
核 と し て形 成 されたも ので、 そ- だ から こそ物 語 り の転 換点 をなす この日 の出来事 には数多 -
の言葉 を必要 と し、 密 度 の高 い描 写 とな って いる のであろう。
(
3)
私 は既 に拙稿 「薮 入 り の 源 流 」の中 で、 「時 間 のアジ - ル」には御 霊信仰 が関係 し ており、 中
3
0
御 霊信 仰 と祖霊信 仰
御 霊 も祖
霊 も共 に死者 の霊魂 であ るが、
前者 は杷 ら ぬも のに巣 り をなす
恐 ろ し いも のであ った のに対 し、
}
爪
世 にお け る下 人達 の信 仰 は祖 霊信仰 と は対 立 す る御 霊 信 仰 であ ると し てき た。 1万 柳 田 は ﹃妹
(
4)
「考 へて見 れば 正 月 七月 の十 」
ハ日 を釜 の蓋 の開 く 日と し、 又 は小僧 の休 日と す
の 力 ﹄ にお いて
る こと な ど も、 地 獄 に於 て の沙 汰 と は思 は れ ぬ。 や は り大 昔 から の姥 神 の信 仰 を、 中 間 に置 い
て弘 -観 察 しな け れば、 真 の理由 は判 明 し きう にも無 い のであ る」 と述 べ て いる。 本稿 では、
う
ば
姥 神 」 つま り 「母 子神 信 仰 」 や 「
大地
この 「
時 間 のアジ - ル」 を支 え る信仰 を、 柳 田 の いう 「
母神 崇 拝 」 にま で遡 り つ つ考 察 した。 祖 霊 信仰 が 日本 的 な も のと し て理解 さ れ ると す れば、 こ
の 「
大 地 母神 崇 拝 ・母 子神 信仰 」 は、 民 族 ・文化 を越 え て人 類 の歴史 と共 に古 く から あ る、 普
仰 の否定 と新 たな祖 先 崇 拝 への水 路付 け が行 わ れ た時 代 であ り、 説 経 節 ﹃山坂 太夫﹄ の世 界 こ
し かしま た 一万 、 二の説 経 節 ﹃山坂 太夫 ﹄ の成 立 した近 世初 頭 は、 下 人達 に対 し て旧来 の信
遍 的 な信 仰 のよ- に思 わ れ る。
これが自 分 の属 す範 囲 (
共 同体 )
の内 ・外 を示す 日本 語 の 「- ち
り福 をもたらす も のであ った。
後 者 は子孫 の繁 栄 を康 し-見守
(
内 ・家)
」と 「そと (
外)
」・ 「よ
そ は下 人達 を祖 霊 信 仰 や家 世 界 に水 路付 け るも のであ った。 一般 に中 世 の下人 は近 世 に入 ると
柳 田 国 男 と ﹃お岩 木 様 一代 記 ﹄
る が、 柳 田国男 の場合 は、 浄 瑠璃 の ﹃山坂 太夫 ﹄ によ って この物 語 り に つ いて の考察 を進 め て
現 在 の我 々は諸 先 学 のお陰 で、 容 易 に説 経 節 ﹃山坂 太夫 ﹄ のテ キ ス-を手 にす る こと が出来
-
一 山板 太 夫 伝 説
込 みを も意 味 し て いたと思 わ れ る。
解 放 さ れ、 奉 公 人 と な ると か、 単婚 小家 族 を形 成 す ると言 わ れ てき た が、 中 世 の 「全 き家 」 か
(
5)
取り
ら の解 放 は、 一方 では国家 によ る新 た な支 配 を意 味 し 、 他方 では新 し い世界 観 のも と への.
そ(
他所)
」 の観 念 と結 び付 き、
祖霊 は内神 1 氏神 とな った のに
対 し'御 霊 は墓 の神 ・市神 ・橋
神 ・都 市神等 にな ったと思 わ れ
る。 堀 一郎 は'御 霊信仰 と 「れ びと」 と の関係 に注 目 し' こ
ち」 の世界 を時 たま訪 れ る 「ま
れを入神 (ひと が み)信仰 と し て
捉 え、 ここで いう御 霊信仰 と祖
い-言葉 で考 え て いる。 下 人は
霊信仰 を入神 信仰 と氏神 信仰 と
「-ち」 に属 す と は いえ、 血 縁
こと から' 祖霊信仰 から排 除 さ
家族 の正式 な メ ン.
ハ- ではな い
れ' む しろ 「- ち」 の中 の 「よ
そ者」 と し て' 御 霊信仰 と強 結 び付 いて いたと思 わ れ る。
説経節山坂太夫 の成立
3
1
イタ コ 東 北地方 の特 に北部 を
中 心とし てみられ る垂女. 多 は盲 目 の女性 であり師 に つい て
の修業 を経 て 1人前 とな る。 死
者 や行方 不明 の人間 の 口寄 せ を
行 な い、 そ の言葉 を伝 え たり、
オ シラ様 と いう家 の神 を条 記 し
たりす る。
安東 氏 古代東 北 の覇者、 浮 囚
の上 帝 であ った安倍 氏 の滅 亡後 、
そ の末商 が津軽 の藤崎 に土着 し
た こと から安藤 氏 を名 乗 ったと
いい、 一族 は藤崎 から岩木 川 を
下 り十 三 (
と さ)
湊 、 さら には津
本(
ひ のもと)
将 軍」 を名 乗 った。
軽海峡、道南 にま で発 展 し、「日
戦 国期 に至 り'特 に道南 に勢 力
が及ばな-な った頃、 逆 に東奥
の覇者 とし ての自覚 から安東 氏
を名 乗 る に至 った。 安東 氏 は秋
田 から福島 県 の三春 に移 り、 江
戸時 代 を通 じ三春藩 と し て存 続
した。 安東 氏 は、 神 武 天皇東 征
の折' 天皇 に立 ち向 った安 日長
〝火
″
の意 )
彦 を祭 神 と す る神
歴彦 の子孫 であ ると いう特 異 な
系 図 を も ち、 安 日 (アイ ヌ語 で
社 は 津軽 には多 い。
一岩木 山遠望。
いる。 柳 田が この ﹃山坂 太夫﹄ に ついて述 べたも のを数 え ると、 主 な も ので次 の四 つを数 えあ
Ⅰ 「山荘 太夫考」
大 正 七年 五月
大 正 四年 四月
「
山荘太夫」
,新潮社 ﹃日本文学大 臥 射 ﹄
.
﹃
史料としての伝説﹄ 所 収 。
﹃
物語と語り物﹄ 所 収 。
(
7)
﹃雪国 の春﹄ 所 収 。
(
6)
H 「津軽 の旅 」
大 正十 二年 五月
げ る こと が出来 る。
m 「比 丘尼 石 の話」
昭和 七- 十年
(
8)
Ⅳ 辞 書 解 説 原稿
ⅣはⅠ の要 約 であ るが、 山坂 太夫 に関 す る柳 田 の見解 と し ては 「最 初 あ の話 を語 ってあ る い
た伎 芸負 が、 或 算所 の太夫 であ った のが、 い つの世 にか曲 の主人 公 の名 と誤解 せら れた のであ
(
0
1
)
山坂 太夫 =散所 の長
る」と いうⅠ の結 論 ば かり が有名 で、この柳 田説 を受 け て林 屋辰 三 郎 氏 が (
者 )説 を展開 した こと を以 って、研究史 の纏 めとす る こと さえ行 われ'そ の結 果、 口裏文 芸 と し
}
小
て の山坂 太夫 伝 説 に関 す る柳 田 の議 論 は これま で余 り注 目 され てき て いな いが、 再検 討 に価 す
ると思 わ れ る。
今 私達 が柳 田 のH、 m の仕 事 を見 て発 見 す る こと は' 柳 田は青森 県 のイ タ コ達 の語 り伝 え て
3
服把
き た ﹃お岩 木様 一代 記 ﹄自身 の存 在 は知 らな か ったが' 「
岩 木 山 の旧話」と か 「
岩 木富 士 の神 話」
と いう形 で' これを ほ ぼ正確 に想定 し、 か つこれを ﹃山坂 太夫﹄ の ル ーツと し ており' さら に
ん
い
はJL
) はんぐ わ
城 の 判 官 正 氏」 1
家を 「
岩 木 一族」 と呼 び' こち ら の一
方 を物 語 り の主 人 公 と し' 物 語 り の
「岩
語 り手 も岩 木 山 と関係 の深 い女達 とす る等' -と は異 な る考 え の成立 す る可能 性 を述 べ て いる
こと であ る。
東
事 実 この ﹃山坂 太夫﹄ の物 語 りは 「
奥 州 日 の本将 軍 ・岩 城 の判官 正氏」 一家 の流浪 の物 語 り
とさ ふなと
と し て始 ま るが、 この 「奥 州 日 の本将 軍」 と は中 世 の陸奥 十 三湊 を中 心と し て栄 え た津軽 の蒙
(
2
1
)
米
氏 」 の こと を指 し て いると思 わ れ、 「
岩城 の
族で 「
蝦夷管 領職」を名乗 った北条 氏 の被官 「安
3
2
判官 」 の 「
岩 城」 も また津軽 の 「岩木 山」 を思 い起 こさ せ る こと から、 説経節 の作者達 の記憶
の中 には (
安 寿 は岩 木 山 の山 の神 )と か' (
岩 城 一族 は津軽 から出 た)とす る考 え の残 って いた可
能 性 があ る。
津軽 に関 す る記事 を詳 細 に検 討 す ると' - では 「北 奥 の青 森 県 では彼 (
岩城 の判官)は津 軽 か
ら出 た人 と伝 へ」て いると し'「弘前 の人 の話 に--安 寿姫 は--岩木 山 に入 り山 の主 にな った
と 云 ふ」 と も述 べ て、津軽 地方 には浄 瑠璃 と は異質 な伝 説 の存 在す る こと を記 し て いる。 し か
しH で初 め て 「姉 の安 寿 は後 に来 て此 山 の神 にな った によ って' 丹後 一国 の船 は永 -津軽 の浦
に入 る こと を許 さ れな か つたと い- こと も'宴 に来 てあ の御岳 の神 々し い姿 に対 す る迄 は' 明
ら か に其 由来 を理解 し得 な か った」 と述 べ て、 この伝説 と津軽 と の特 別 な繋 がり に確 信 を持 っ
た こと を記 し' ま た この伝 説 を語 り伝 え た漂泊 の女連 の存 在 を次 のよう に述 べ て いる。
越後 佐渡 から京 西国 にかけ て、 珍 し-広 い舞 台 を持 つこの人買 ひ船 の ロー マンスは' 要
す る に十 三 の湊 の風待 ち の徒 然 に'遊 女 な ど の歌 の曲 から聴 き覚 えたも のに相違 な い。 さ
- し て其感 動 を新 た に花 や かな言 の葉 に装 - て、 次 々に語 り伝 へた女 たち も、 亦 久 し-国
中 を漂泊 し て居 た のであ った。
う
ばい
し
m にお いては 「
岩木 山 の姥 石」 に つ いて述 べた あと、 越後直 江津 の 「うば たけ」 明神 に つい
て 「
察 す る に この語 り物 が自由 に趣 向 を立 てた当時' 既 に日本海 の船乗 り等 の間 には知 れ渡 っ
た岩木 山 の旧話 があ って、 乳 母 が石 に成 ったと言 ふ奇妙 な 一条 が其中 にあ った ので、 丸 々 これ
(
13)
を無 視 し て浄 瑠璃 も' 作 る こと が出来 な か ったも のであら-」 と述 べ て いる。
ま た m で、 「津軽富 士 の神話 」 は 「
浄 瑠璃 な ど で泣 -分 は土地 の話 と大 ち が ひ で」「姉弟 共 に
還 って来 て' 大坊 の鎮守 熊 野権 現 の獅 子桶 を見物 し' 弟 が疲 れ て仮寝 を し て居 る間 に' 姉 の姫
窺 か に先 づ登 って' この山 の神 と成 った」と あ り'「これを 一つの事 件 の裏 表 と見 る こと は、殆
説経節山坂太夫の成立
3
3
一安寿 (
右)と厨子王(
左)の彩色
像(
長勝寺)
。
ど 不可能 かと思 は れ る にも拘 らず、 強 ひ て融 合 さ せ て今 では岩 木 山 の女神 が、 骨 て世 に在 って
由 良 で苦 し め ら れ たも のと解 釈 し、 丹後 の船 が十 三 の湊 に来 て繁 ると、 天気 が荒 れ るな ど と言
ふ俗 信 ま で出来 た」 と述 べ て いる。
「岩 木 山 の旧話」 「岩 木 富 士 の神 話 」を ﹃山板 太夫 ﹄ の ル ー ツと す ると い- この柳 田 の見 通 し
-
1
」
-
を さら に深 め ら れた のが、酒向 伸 行 氏 の 「﹃お岩 木 様 一代 記 ﹄の成 立 - 説 経 節 ﹃さ ん せ- 太 夫 ﹄
4)
(
5
1)
(
と 「山坂 太夫 伝 説 の成 立 - 安 寿 の問 題 を中 心 と し て
」 であ る。
と の関連 にお いて
氏 は こ こで津 軽 、 丹後 由 良 に伝 わ る安 寿 伝 説 ・厨 子 王伝 説 を発 掘 さ れ た は か、 ま た佐渡 にお い
ても安 寿 伝 説 にま つわ る地名 雷 を発 掘 さ れ、 説 経 節 成 立 前 に存 在 した ロ東文 芸 と し て の山板 太
夫 伝 説 の世 界 に スポ ッ- ・ライ ー を当 て ておら れ る。
な お江 戸 時 代 の津 軽 では、 天気 の不順 を 「丹後 日和」と 言 い、 「丹後 船 が十 三 の湊 に つな が る
と 天気 が荒 れ る」 な ど と いう 「俗信 」 に つ いては、 現実 に津 軽 藩 によ って丹後 船 ・丹後 者 の詮
索 がな さ れ た こと から、 藩 権 力 が深 -関与 し て いた こと は間違 いな いが、 多 - の論 者 の言 わ れ
る よう に、 一般 的 に他 国者 の排 除 ・排斥 を目論 ん だも の ではな -、 新 た に説 経 節 や浄 瑠璃 と い
う形 で入 ってき たも のと、 旧来 の 「
岩 木 富 士 の神 話」 と の対 立 葛藤 が直 接 の原 因 であ り、 津軽
藩 は イ タ コの保 護 の立 場 から、 丹後 者 の弾 圧 を積 極的 に行 ったと 思 わ れ る。
江 戸 時 代 の岩 木 山神 社 には安 寿 と 厨 子 王 の彩 色像 が 五百羅漢 と共 に安 置 さ れ て いたと い-0
これ が明治 三年 の神 仏 分離 令 の折、 神 社 の脇 の古沢 寺 に移 さ れ、 さら に現 在 では津 軽 家 の菩 提
寺 であ る弘 前 の長勝 寺 に保 た れ て いるが、 この こと は丹後 者 の排斥 を行 な った津 軽藩 も 日本 中
に流布 し て いた ﹃山坂 太夫 ﹄ の物 語 りを受 け入 れざ るを得 な か った こと、 安 寿 と厨 子 王 の物 語
りと岩 木 山 の山 の神 と の結 び付 き を意 識 し て いた こと を示 し て いる。
青 森 県 のイ タ コ達 の語 り伝 え てき た ﹃お岩 木 様 一代 記 ﹄ は、 イ タ コが神 懸 り し、 安寿 の霊 が
3
4
地蔵信仰 六道 の輪 廻 から の救
済 をう けも つ菩薩。 平安 時 代 に
は末 法 思想 に伴 う地款 への恐怖
から地裁 への信仰 が盛 んと な る。
今 昔物 語 には地裁 の働 き によ り
蘇 る話 が収 め ら れ て いる。 辛 の
河原 に立 つ こと から' 村 のはず
れを河原 にみた て安置 す る風 が
あ り' 道祖神 と の結 び つき が み
ら れる。 縁 日は毎 月 二十 四 日。
新築前 の川倉 地裁 堂。
一
乗 り移 って語 り だす 「口寄 せ」 の形 を取 ってお り、 私=安 寿 と い- 一人称 で、 岩 木 山 の山 の神
にな った安 寿 の身 の上 話 を物 語 るも の であ る。 こ こから (
イ タ コ=安 寿 -お岩 木 様 )と い-等 式
が成立 す る。 こ こでは弟 の厨 子 王 の代 わ り に兄 の 「つそ- 丸」、 ま た新 た に姉 の 「お ふじ」が登
場 し、「あ ん じ ゅ」は末 っ子 であ る. し かし物 語 り は あく ま でも安 寿 を中 心 に展 開 し、兄 ・姉 は
物 語 り の最 初 と最 後 に登 場 す る にす ぎ な い。
ま た この ﹃お岩 木 様 一代 記﹄ では、 (
安 寿 =イ タ コ)であ ると し ても、 盲 は安 寿 ではな く 母 の
「お さ だ」であり、 「
情 の強 い」父親 によ って離 散 し た 一家 は、 安 寿 の働 き で再 び団 ら んを取 り
信 仰
し
戻 し、 そ の後 安 寿 は岩木 山 の山 の神 にな ったと い- お話 であ る。 さら に兄 の 「つそ- 丸」 は駿
こ
、
つ
一
J
り
河 の富 士 山 の山 の神 に、 姉 の 「お ふじ」 は小 栗 山 の山 の神 にな ったと あ り、 特 に後 者 は津 軽 地
(
16)
方 の多 - の伝 東 に見 ら れ る小 栗 山 と岩 木 山 と の信仰 圏 を巡 る対 立 に基 づ- も のと思 わ れ る。
(
に
)
身 の上 話 し が終 わ り、安 寿 から イ タ コ自身 に戻 ったと ころ で、「
神 様 ねな るた て、 これ位 も苦
んこ (よ-もちいて)
よ - も ぢ ひ で呉 れ る べ し」
し みを受 けな いば、 神 ね な る事 出 来 な いし、 人 間様 だち も、 神
と 語 ら れ て終 わ ってお り、 人 が神 にな る こと が高 ら か に宣 言 さ れ て いると と も に、 安 寿 が乗 り
越 え る べき多 - の苦 難 に託 し て、 イ タ コの修 業 の苦 し さが語 ら れ た物 語 り であ る こと がわ かる。
と も あ れ この ﹃お岩 木 様 一代 記﹄は、 ﹃山坂 太 夫﹄ の物 語 り の成立 ・原形 を考 え る上 で決 定 的
に重 要 な も のと な って いる こと だ け は確 か であろ-。 ま た現 在 イ タ コの 口寄 せ で有 名 な 下北 半
「金
島 にあ る霊 場 ・恐 山 や青 森 県 金 木 町 の川倉 地蔵 堂 な ど は、 いず れも 六月 二十 四日 の地蔵 菩 薩 の
W
u
縁 日 に盛 大 な祭 礼 を催 す が、 これら が皆 「地 蔵 講」 と呼 ば れ、 イ タ コと地 蔵 信 仰 と の特 別 な結
かな やさ
焼 地 蔵 の御 本 地 を尋 ね る」 と い合 を確 認 す る こと が出来 る。 この こと と ﹃山板 太 夫 ﹄ が
形 で始 ま る こと と の間 には発 想 の上 で滑 ら かな連 続 性 を認 め る こと が出来 る。
前 述 し た酒向 氏 の 「山坂 太 夫 伝 説 の成 立 」 によ れば、 佐 渡 外 海 府 の海 岸 に沿 った村 々には、
説経節 山坂太夫 の成立
3
5
山坂 太 夫 伝説 が地名 と密 着 し て伝 東 さ れ て いると いう。 そ の中 の 「
達 者」 村 には、A ・安 寿 姫
化 粧 石」、C ・目 の開 いた
の母 を背 負 って下 が った 「オ リザ カ」、B ・母 の腰 かけ た 「腰 掛 石」 「
母 が着 物 を着 換 え た 「き ゃ坂」「き かえ坂」「化 粧 坂」、D ・安 寿 と 母 が姿 を写 し た 「姿見 の井 戸」
等 が あ る他、E ・ 「目洗 い地蔵」 があ り、 安 寿 の母 は この地 蔵 の前 で目 を洗 い、 目 が開 いたと
さ れ、 現 在 でも 「め」 と い-字 を自 分 の年 の数 だ け紙 に書 いて、 この地 蔵 に張 っておく と 目 が
治 ると あ る。 こ こからも安 寿 と地 蔵 と の強 い結 び付 き を確 認 す る こと が でき よう。
津 軽 に いて、 この川倉 地 蔵 堂 から岩 木 山 を眺 め ると、 手 前 にサイ の河 原 が あ り、 そ の向 う に
森 が続 き、 遠 - に祖 霊 の山 ・岩 木 山 が そ びえ ると いう絵 のよ- に美 し い景 色 であ る。 こ こに立
って後 述 す るご と - (
安 寿 が身 代 り地 蔵 にな った)と い- こと を考 え て いると、 イ タ コ ・安 寿 も
み こ がみ
地 蔵 菩 薩 も と も に この世 と あ の世 と の貨 に位 す るも の であ る こと に思 い至 る。
2 「
御 子神」 と 安 寿 伝 説
説 経 節 ﹃山坂 太 夫﹄と ﹃お岩木 様 一代 記﹄、 あ る いは佐 渡 ・丹後 等 の安 寿 伝 説 に共 通 し て いる
も のは、 (
子供 を失 い悲 し み の余 り目 を泣 き つぶ し て盲 と な った 母親 )の姿 であ り、 ま た子供 が
母 を尋 ね る哀 れな物 語 り であ る。 こ の母 の姿、 鳥 追 いと な った盲 目 の狂 女 の姿 ほ ど 八
子 を思 う
母 の盲 目的 な愛 )を象 徴 的 に示 し て いる も のはな い の では あ るま いか。 特 に前 二者 に共 通 し て
いる、 この母御 の歌 -鳥 追 い の歌 「つし 王恋 し や、 ほ- やれ。 安 寿 の姫恋 し やな。 う わ た き恋
し ゃ、 ほ- やれ」 には' こ の物 語 り の底 を流 れ る悲 し い調 べがあ る。
も っと も ﹃お岩 木 様 1代 記﹄ におけ る母 「お きだ」 と 「あ ん じ ゅ姫」 と の再会 の場面 には,
子 を失 って嘆 - 母 と、 口寄 せ垂女 のイ タ コと の対 面 の場 面 が投 影 さ れ て いるよう にも思 わ れ る.
いず れ にも せ よ、 このよ- 空 目目的 な 母親 の愛 情 を前 提 にし て始 め て、 イ タ コ連 の 口寄 せ の世
3
6
一奉 納 さ れ た花 嫁 人 形 (
青森
県 ・弘法寺人形堂)
0
界 も ま た成 立 し て いる の であ ろ-。 現 在 の津軽 の州倉 地 蔵 堂等 に奉 納 さ れ て いる彩 し いお地 蔵
さま や花 嫁 人形 等 々には、 今 流 行 し て いる水 子 地蔵 と共 通 す る (
母な るも の)のおど ろ おど ろ し
い表 現 があ る。
柳 田国男 の学 問 の 一つの特 徴 と し て 「母 の面 影」 を追 い求 め つ つ、 一般 的 に (
母 な るも の)杏
学 問 の世 界 で追 及 す ると い- こと が あげ ら れ よ-。 柳 田 は H では次 のよ- に述 べ て いる。 「母
から昔 聴 いた山 荘 太 夫 の物 語、 安 寿恋 し や厨 子 王丸 の歌 言葉 が、 図 らず も幼 い頃 の悲 し みを呼
び帰 した」。 Ⅰ でも ま た次 のよ- に述 べ て いる。 この部 分 には柳 田 の母 を思 -気 持 が よ-露 れ
て いる。 「自 分 幼 少 の折 の実 験 を以 って推 せば、山荘 太夫 の話 の中 で最 も身 に氾 む のは、盲 目 の
あ ん じ ゅ恋 し やほ
1ら ほ い
つし王 こひし やは
ゝら ほ い」
。
母親 が鳥 を追 ふ 一段 であ る. 今 も耳 に通 って居 る唄 の文 句 は、 六段 の浄 瑠璃 にあ るも のと少 々
の相 違 が あ る。
今 後 の討 究 を期 す」 と しな がら も 「ア ンジと 言 ふ語 に' 若 宮 と
と ころ で柳 田 はⅠ にお いて 「
み こがふ
か 御 子 神 と か言 ふ や- な、 神 の子 が神 を祭 る の意 味 が含 ま れ て居 た の では無 から- か」 と い い、
「事 によ ると 人貫 を し たと 云 ふ山 岡太夫 な ど も、 或 ひは岩 木 山 の御 子神 信 仰 を丹後 辺 ま で運 搬
した、 現 在 の太 夫 筋 の先祖 であ った のかも知 れ ぬ」 と述 べ て、 安 寿 を 「
御 子神 」 と し て いる。
し かし 「
岩 木 山 の御 子神 」と三
苧 っと、「母 な る神 」と し て岩 木 山 の山 の神 があ り、安 寿 は そ の 「子
な る神 」 と な ろ-。 こ-考 え ると' 安 寿 が山 の神 にな った こと は 母神 と 子神 の合 一と い- こと
にな る。
こ
若 宮 ・御 子神 信 仰 と は (
若 宮 ・御 子神 が非 業 の死 を遂 げ た た め、 御 霊 と な って人 々に災 いを
7
1)
(
も た ら し巣 る)と い- 丞女 の託 宣 を も と に神 を祭 る に至 った も のな の.LJ
から、 柳 田 が安 寿 を こ
のよ- な 「御 子神 」 と捉 え て いたとす ると、 安 寿 は (
死 す べきも の)であ った こと がわ か る。
の こと と、 前 述 し た (
母な るも の)と は、 柳 田 のな か では対 応 し て いた のでは あ るま いか。 この
説経節山坂太夫の成立
3
7
地獄 の釜 の蓋 の開 く日
死者 の
魂 が この世 を訪 れ る日。 「死」
の襲 ってく る日。
安 寿 と 母親 と の関 係 はち 上- ど大 地 の豊 島 を 司 る母神 と冥府 の女 王 の取 合 せ であ る古 代 ギ - シ
8
1)
(
ヤのデ メテ ルと そ の娘 ベ ル セ フ ォネ の場合 と似 て い る 。 日本 神 話 におけ る 「いざ な み」 が この
両側 面 を持 って いる こと は有 名 であ る が、 安 寿 と 母 の関 係 も ま た' これと 同様 冥府 の女 神 と大
地 母神 と し て捉 え る こと が でき よ-0
佐 波 の山板 太 夫 伝 説 ・安 寿 伝 説 を採 訪 し た酒向 伸 行 氏 によ れば、 外海 府 の村 々の地名 にま つ
わ る伝 承 では'鳥 追 いと な った のは安 寿 自 身 であ る場 合 も あり、 ま た泣 いた涙 が毒 とな って川
下 の人 々を苦 しめ た ・殺 し たと も あ る。 ま た外 海 府 鹿 之浦 の安 寿 塚 は 「鹿 之 浦 鎮守 」 と も 「田
の神 様 」 と も言 わ れ て いると い-。 こ こから 一方 では安 寿 伝 説 と鉱 山 と の関 係 が出 て- る の で
は あ る が、 こ こで の母 は古 代 ギ - シ ャのデ メテ ルの如 - (
怒 る母)であ り、 ま たイ ンド の鬼 子 母
神 のよ- に人 を苦 し め る (
恐怖 の母)と いう側 面 を も つ大 地 母神 であ る可能 性 があ る。
安 寿 を祭 る安 寿 塚 は この外海 府 の鹿 之 浦 の外、 佐 渡 では畑 野 町 にも そ の存 在 が知 ら れ て いる。
ま た外 海 府 の小 川 の極 楽寺 には安 寿 が携 え てき た蓮 の糸 で織 った掛 け軸 三幅 と数 珠 が伝 わ って
お り、 正 月 十 五 日、 十 六 日と盆 の十 六 日 に開 帳 し て いたと いう。 一方 丹後 の由 良 では、 安 寿 が
わえ
しJひ
がし
和 江 村 の南 、 中 山 と 下 束 の間 の 「
か つえ坂」 でか つえ て死 ん だ ので、 人 々は下東 の武 部 山 のふ
(
9
1)
事 鏡 」
によ れば、 正月 十 五 日 が忌 日と あ るが、 酒向 氏 の調 査 に依 れば、 毎年 七月 十 四日 が
も と に安 寿 塚 を作 って祭 ったと さ れ'幕 末 から明治期 に かけ て の当 地 の伝 東 「山庄 略 由来 」「三
庄略
祭 日 であ ると い-0
これら安 寿 塚 の祭 り の日 が いず れも薮 入 り の日と近接 し て いる こと に注意 をす べき であろう。
X
薮 入 り の日 が 「地 鉄 の釜 の蓋 の開 - 日」であ る こと から、 安 寿 は冥府 の女 王、 (
死 ん でま た蘇 る
も の)な の では あ るま いか。 事実 ﹃お岩 木様 一代 記 ﹄ では安 寿 は 一度 「つし子 にあ わ ぬ」 こと を
理由 に土 の中 に埋 め ら れ、 象 徴 的 に死 ん でま た蘇 った こと にな って いる。 イ タ コ達 も ま た、 死
3
8
T長勝寺 の地款絵 図 から 「
三途
の川 で楕銭 を取 る書衣姿」。
と 再 生 の儀 礼 を 経 て
一人 前
のイ タ コと な った の で あ る 。 ま
った と 思 わ れ
る。
た盲 の人 は この世 の中 が見
え な いだ
け' あ の世 が よ く 見 え ると 一般 に 信 じ ら れ て い た の で あ る から 、 イ タ コ =安 寿 と 冥府 と の結 び
(
20)
付 き は ご -自 然 で あ
い う 。 また
イ タ コと よ く似 た 「あ るき 韮女 」・熊 野 比 丘 尼達 は 「地 獄変 相 図」を携 え、 絵 解 き ・占 い ・御
(
21)
一般 に正 月 十 五' 十 六 日 や お盆 の十 六 日 にお寺 で御 開
払 い等 を し て漂 泊 し て いた と
帳 と な れば' そ れ は 「地 獄変 相 図 」と 考 え ら れ る。 そ れ ゆ え 小 川 の極 楽 寺 の掛 け軸 の絵 は' 「地
獄 絵 」 であ る可能 性 が大 き い。 今 も し この想 像 が許 さ れ るな ら' 説 経 節 ﹃山板 太 夫 ﹄ の物 語 り
の中 で安 寿 が正 月 十 六 日 に折 鑑 さ れ殺 さ れ た のは' この安 寿 祭 り の際 に掲 げ ら れ る 「地 獄変 相
図」 や絵 解 き の モチ ー フから来 て いると す る こと が でき よ-。 つま り 「子 な る神 」 であ る安 寿
は(
子 供 の死 を嘆 き'怒 る)「母神 」に対 し て二 死 ん でま た蘇 るも の)(
地 獄 の苦 し み に遭 - も の)
へ
苦 し む神 )な の であ る。
参 り と似
さ ら にま た デ メ テ ルを祭 る エレウ シ ス の秘 儀 は奴 隷 を含 む男 女 の信 者 達 に開 か れ て いた と い
(
2
2)
て いる点 を指 摘
う。 奴 隷 達 の祭 りと いう 点 で' 江 戸 時 代 の奉 公 人 た ち の祭 であ る闇 魔
す る こと が出 来 よう。 以 上 の如 き考 え が許 さ れ ると す れば' 江 戸 時 代 の闇 魔 参 り に先 立 って、
中 世 に お いて薮 入 り の日 を安 寿 の命 日 と し て祭 る風 習 が' 少 な く と も 日本 海 沿 岸 地 方 に存 在 し
て いた こと にな る。 柳 田 が安 寿 の こと を 「
岩 木 山 の御 子 神 」 と述 べた のは' こ- し た文 脈 にお
いてな の では な かろ う か。
柳 田国 男 は ﹃盛 女 考 ﹄ にお い て、 比 丘 尼達 によ って地 方 に運 ば れ た 「母神 」 に つ いて 「地 蔵
だつ
えば
菩 薩 の信 仰 が最 も 民 間 に盛 ん であ った結 果 ' 其 像 に か し づ いた比 丘 尼 から所 謂 三途 河 の奪 衣婆
の堂 と 称 す るも のが、 多 く官 道 の路 傍 に起 った。 併 し所 謂 霊姥 伝 説 の及 ぶ所 は決 し て地 蔵 の崇
敬 に限 ら れ ては居 ら ぬ。 山 に登 っては山姥 や融 の姥 、 里 に住 ん では咳 の叔 母様 や関 寺 小 町 と な
説経節 山坂太夫 の成立
3
9
「
死と再生」の象徴
るま で に' 種 々雑多 の神 仏 と縁 を結 ん で居 る」 と述 べ、 ま た ﹃妹 の力﹄ にお いて 「考 へて見 れ
ば 正月 七月 の十 六 日を釜 の蓋 の開 - 日と し、 又 は小僧 の休 日とす る ことな ども、 地 獄 に於 で の
あ る 」と あ り、 「
母神」をむ しろ地 獄 と関係 の深
沙汰 と は思 は れ ぬ。 やはり大昔 から の姥 神 の信仰 を、 中 間 に置 いて弘 -観察 しな け れば、 真 の
3
2
)
(
い奪 衣婆 と し て
理由 は判 明 し さう にも無 いので
いる。
と ころ で説 経節 ﹃山坂 太夫﹄ と ﹃お岩木 様 一代 記﹄ と佐渡 の安 寿伝 説 と に共 通 し て いるも の
は' 盲 とな った母親 の目 が子供 と再会後 「開 いた」 と いう こと であ る。 この 一度 「
盲 とな った
目 が開 -」 こと は 「死 と再生」 の象 徴 と見 る こと が出来 る。 とな ると 「母」 こそ が (
死 ん で蘇 る
も の)とな ろ-。 和 辻 哲郎 が ﹃埋 も れ た 日本 - キ リ シタ ン渡 来 時 代 前後 にお け る日本 の思 想
4
2)
(
情 況 - ﹄ にお いて 「この時 代 の物 語 りを読 ん で行 - と、 時 々あ っと驚 - よう な内 容 のも のに
突 き当 た る。 中 でも最 も驚 いた のは、 苦 しむ神、 蘇 り の神 を主題 と したも のであ った」 と し て
﹃熊 野 の本 地﹄ ﹃厳 島 の縁 起﹄ を あげ て いるが、 ここでも (
死 ん で蘇 る)(
苦 しむ神 )は共 に 「母」
であ る。
(
25)
柳 田 が ﹃桃太郎 の誕 生﹄ 等 で述 べた この 「御 子神」 を (
母子神 )と し て捉 え返 し、 さら に これ
(
26)
を比較 民族 学 の立 場 から大 き-発 展 さ せたも のに石 田英 一郎 の ﹃桃太郎 の母﹄ があ る。 石 田 に
ょれば、 この 「子供 を失 い嘆 - 母神像 」 は後 期 旧石器時 代 のオ ー- ニャ ック文化 以来連 綿 と し
てそ の崇 拝 の痕跡 を残 す (
ヴ ィーナ ス像 )、 新 石器時 代 の (
母神像 )と連 な る存在 で、古 代 エジブ
- のホ ル スの屍 を抱 -女神 イ シ スの像 等 々の如 -I(
年 毎 にそ の死 が嘆 かれ ては'また草 木 と共
に年 毎 に復 活 し、 母な る大地 の女神 を妊 ま し め る)小男 神 と共 にあ る大 地 母神 と し て理解 さ れ
て いる。
これら大 地 の恵 を讃 え る信仰 圏 と真 っ向 から対 決 した ユダ ヤ教 の中 から生 れた キ リ ス-教 に
4
0
舌 代 エジ プ ト の ホ ル スの屍 を
■
ンジ ェロのピ エタ像 (
下)
。
上 )と ,
、
、ケ ラ
抱 く女 神 イ シ ス(
:
お いても へ
我 が子 キ - ス- の亡骸 を抱 いて嘆 き悲 しむ 聖 母 マ- ア)の 「ピ エタ」 像 と し て、 こ れ
ら オ - エン- から地 中 海 にかけ て存 在 し た小 男 神 を抱 -大 女神 の像 が復 活 し た こと を指 摘 す る
こと が出 来 る。 し かし母 子神 信 仰 は大 母神 と小男 神 と いう取 合 せと ば かり は言 え な いよ- で、
前 述 し たギ - シ ャの母神 デ メ テ ルと 娘 ベ ル セ フ ォネ の他 、 日本 にお い ても柳 田 の挙 げ て いる
(
28 )
「小 さ子」物 語 り には かぐ や姫、 瓜 子姫、 一寸 法師、 桃 太郎 等 々と あ り、 「小 さ子」は男 と 限 っ
7
2)
(
てい な い 。
岩 崎 武 夫 氏 は この石 田 の考 え を受 け て、 説 経 には女 性 の占 め る割 合 が 一般 的 に大 き いと し て、
おとひわ
﹃ま つら長者 ﹄ のさ よ姫、 ﹃さ ん せ-太 夫 ﹄ の安 寿、 ﹃小 栗 判 官 ﹄ の照手、 ﹃し んと -丸 ﹄ の 乙 姫
な ど を 「作 品 を動 かす 原動 力 と な って いる女 性」と し、 「づ し王 に対 す る安 寿、 小 栗 に対 す る照
手、 し んと -丸 に対 す る乙姫 には、 通常 の姉 弟 愛 や夫 婦愛 と も や や異 な るも のがあ る」 と し、
そ れ を 「母 と 子 の庇 護 と被庇 護 を下 地 にし た つな が り であ る」と述 べ、 さ ら に (
大 地 母神 崇 拝 -
_
説経節山坂太夫 の成立
4
1
キリシタンの発展
母 子神 信 仰-説 経 の女 性 像 と いう系 譜 )を あ げ てお ら れ る。 そ れ ゆ え岩 崎 氏 にお いては、 安 寿
と 厨 子 王 の関 係 も原 則 的 には 「母 子神 信仰 」 と し て理解 さ れ る こと にな る。
と も あ れ説 経 節 ﹃山坂 太 夫 ﹄にお いて厨 子 王 を世 にだす た め に犠 牲 とな った安 寿 の 「
代 受 苦」
には、 キ - スト と よく似 た (
苦 しむ神 )「
偉 い主」 「救 い主 」の面 影 があ る。 周知 の如 - キ - スト
教 にお いては 「母 ・子」神 ではな -、 「父 ・子」神 と いう関 係 に置 き換 え ら れ て.
いるが、 天 に居
る 「父 な る神 」 に対 し て、 父 によ って こ の世 に遣 わ さ れ、 肉 をも って この世 に現 れ た 「子 な る
神 」 であ るイ エス ・キ - スト は、 人 々 の代 わ り に人 々 の罪 を償 い、 十字 架 の苦 し みを引 き受 け
ら れた 「
償 い主」 「救 い主」 であ り (
苦 しむ神 )な の であ る。 この ﹃山坂 太夫 ﹄ の成 立 した近 世初
頭 と は、 キ - シタ ンの教 え が爆 発 的 に人 々 の心 を捉 え た時 期 であ り' ま た和 辻 の述 べ るご と -
この時 代 には (
苦 しむ神 )が さまざ ま な形 で現 れ た のであ る から' この物 語 り には キ- シタ ンの
発 展 と共 通 す る時 代 背 景 を見 る こと が でき る。
本 地 雷 と 物 語 り の構 成
二 物 語 り の分析
ほ
ん
じたん
1
金
そも そ も説 経 節 と は、 説 経師 が教 養 の無 い奉 公人 や下人達 等 に仏 教 信仰 を勧 め る べ-' 諸 仏
ご ほんじ
が昔 人 間 であ った と き の姿 であ る 「御 本 地」 を語 ったも の = 「本 地 諾」 と し て始 ま ったと思 わ
たんご
れ る が、 そ の代 表 作 ﹃山坂 太 夫 ﹄ の始 ま り も ま た 「た だ今 語 り申 す御 物 語、 国 を申 さば 丹後 の
かな やJLI
国、
「 一度
焼 地 蔵 の御 本 地 を、 あ ら あ ら説 き た て広 め申 す に- -」 と あ り、 人 々を丹後 の国 の金 焼
ひとたび
は人 間 に てお は します」 「金 焼地 蔵 の御 本 地」 を尋 ね
地 蔵 の信仰 に誘 う こと を 目的 と し、
4
2
「
御本地」は誰か
る本 地苦 の形式 を取 って いる。
は
だ Nば
この物 語 り に即 し て考 え る限 り' 誰 も が認 め るご と-金 焼地蔵 は 「
膚 の守 り の地蔵菩 薩」 で
あり、 この厨 子 に入 った膚 の守 り の小 さな菩薩 像 は母1姉 1弟 と手渡 され、 物 語 り の最後 で姉
安 寿 を迎 え に来 た弟 厨 子 王 により、 火責 め の刑 にあ って死 んだ姉 の菩 提 を弔う ため に丹後 の国
に安 置 されたと あ る。 問葛 は膚 の守 り の この 「金 焼地蔵」 の菩薩像 と物 語 り の登 場人物 と を い
か に結 び付 け て 「本地 弄」とす る か、 金焼地蔵 が人間 であ ったとき の姿 ・「
御 本地」を この物 語
り から いか に読 み取 る かと いう こと であ る。
この物 語 り が本 地弄 であ るとす れば、 物 語 り の中 心 は この地蔵菩薩 が下人達 の守 護者 と し て
ど れほど の霊能 を持 って いるかを語 る こと にあ った。A ・太夫 の三男 ・三郎 によ って当 てら れ
た焼金 の跡 を、膚 の守 り の地蔵菩 薩 が姉弟 の身 代 わ りとな って受 け取 って- れた こと、B ・国
分寺 に逃 げ込 み、 皮寵 の内 に隠 れ て いた厨 子王を、 金 色 の光 を放 って太夫 たち追 手 から救 って
。
く れた こと、 さら にC ・両眼 を泣 き潰 した母 の日 に厨 子 王 が この地蔵菩薩 を当 てると、潰 れ て
久 し い両眼 が開 いた こと等 は、 この地 蔵菩 薩 の霊能 を直 接表 現 したも のであ る
れ る 。
こ こから、 前述 した酒向 伸行 氏 は 「説経節 山坂 太夫 は、 「かな やきぢ ぞう﹄の本地 雷と いう よ
(
9
2
)
しかし この議 論 は 「これ
り は霊 験 貢 と し て の性格 が濃 いと いう こと にな る」 と し ておら
れ る 。
も 一度 は人間 にておは します」 (
金 焼地蔵 の御 本 地 は何 か)と いう問 いに答 え て いな い議 論 であ
(
30)
,,
し かし現在 ま で のと ころ、 この物 語 り の 「
御本 地」 は誰 か に ついて、 研究者 の
ると思 わ
間 にお いて未 だ統 一した見解 が生 れ て いな い。
諸説 を あげ ると次 の如 - な る. H 山坂 太 夫 研究 に新 時 代 を画 し た岩崎 武 夫 氏 の 「安 寿」 説.
(
も っと も これを 「
御 本地 =安 寿」説 と纏 め る こと は、 多 - の ニ ュア ン スを切 り捨 てる こと にな
るが、 と り あえず こ-纏 め る こと が許 されよう.) さら に' 3
3 語 り物 の研究者 ・宝 木弥 太郎 氏
説経節山坂太夫 の成立
4
3
の 「正 氏」 説 。 この他 、 この物 語 り から成 り立 つと思 わ れ るも のに' 日 「厨 子 王」 説。 し かし
造 」 の中 で
(31)
「
鉄 焼 地 蔵 の御 本 地 を語 ると いう形 では
注 目す べき は、 榊 伊藤 1郎 氏 の説 か れ た (こ の物 語 り は本 地 弄 ではな い)と の説 が登 場 し た こ
岩 崎 武 夫 氏 は 「﹃さ ん せう 太夫 ﹄ の 構
と であ る。 これら を順 に述 べ て い こう。
H
じま る のが ﹃さ ん せう 太夫 ﹄ であ る。 鉄 焼 地 蔵 と は' 実 は死 んだ安 寿 の霊 の形 代 であ る。 この
お
語 り出 し の特 徴 は' 死 ん で冥界 に浮 遊 す る安 寿 の霊 を鉄 焼 地 蔵 と いう形 代 に托 し て、 招 ぎ寄 せ
ると ころ にあ る」 と述 べ' ま た 「死 ん だ安 寿 の霊 を、 慰 め' 愛 惜 す ると いう こと から この作 品
は語 り は じ め ら れ る。 この愛 惜 の念 は、 単 に語 り手 や聴 き手 のも のだ け ではな -、 作 中 の主 人
公' づ し 王 のも の でも あ る」 と し て いる。
弟 の逃 亡 ・再生 と引 替 え に、 姉 の安 寿 が丹後 国由 良 の山坂 太夫 の下 で殺 さ れた時 点 で' 姉 が
事 実 上 御 本 地 と し て の身 代 わ り地蔵 にな った、 (
安 寿 =身 代 わ り地 蔵 )と考 え ると、 古 代 日本 や
沖 縄 等 々 の世 界 に存 在 した (
姉妹 の霊 能 によ って兄弟 が守 護 さ れ る)と いう、 同 母 の兄弟 姉 妹 間
の血 縁 紐 帯 の観 念 ・「オ ナ リ神 信仰 」主 刑操 と しな がら、古 - から知 ら れ て いた姉 妹 の霊能 と い
ぅ も の によ って、 地 蔵 の霊 能 と いう未 知 な るも のが、 人 々に説 明 さ れ て い った こと にな る。 こ
れ は説 経 節 の本 地 青 の主 旨 に最 も適 合 的 な も の であ る。
し かし この 「安 寿 」 説 の難 点 は、a ・この物 語 り の中 に 「
御 本 地」 を安 寿 とす る説 明 がな い
こと。b ・﹃か る か や﹄の親 子 と は異 な り、安 寿 は この物 語 り の途 中 で物 語 り の世 界 の外 へ旅 立
ってしま う こと。 さら にC ・安 寿 が身 代 わ り地 蔵 にな る前 に、 膚 の守 り の地 蔵 菩 薩 が既 に存 在
し てお り、 理論 的 には (
安 寿 =地 蔵 菩 薩 )と いう等 号 は成 り立 たな い こと であ る。 特 に この Cか
にな る。
ら は、 伊 藤 一郎 氏 が榊 で述 べ る如 -、 この物 語 り のす べ て の登 場 人物 が御 本 地 にな れな い こと
4
4
顧 みれば岩 崎 武 夫 氏 は、 金 焼 地蔵 を 「死 ん だ安 寿 の霊」 の 「形 代」 と い い 「招 ぎ寄 せ る」 と
も述 べ て いた し、 伊 藤 1郎 氏 も ま た 「悉 依」 と い- 言葉 を使 い' 地蔵 菩 薩 が 「そ の霊 力 を発 拝
す る こと の確 信 は、彼 女 (
安寿)自身 がそ れ (
地蔵菩薩)を潰 依 さ せ て、同様 に大 悲 代 受 苦 の力 を発
現 し- る こと の自 覚 を促 す」 と述 べた後 で、 (この意 味 でだ け、 安 寿 =金 焼 地 蔵 であ る)と し て
室 木 弥 太郎 氏 は ﹃新潮 日本古 典 集 成 ・説
経 集 ﹄
おら れ る。 このよ- な形 式 主 義 を超 え た と ころ に本 地 貢 があ ると す べき な の であ ろ- か。
2
3
)
(
の頭 注 にお いて、 この物 語 り では いき な
自
り 「岩 城 の判 官 」 1家 の流浪 の物 語 り に入 って い- が、 この部 分 が ﹃か る か や﹄ の最 初 の部 分
と 同 一であ る こと から、 問題 の 「御 本 地」を 「岩 城 の判官 正 氏」と し、 「この地蔵 は正 氏 の子供
の危 機 を救 -身 代 り地蔵 」と し ておら れ る。 し かし、 ﹃か る か や﹄ にお け る父親 の 「重 民」と 異
この物 語 り の中 で 1か所 だ け問題 の 「
金 焼 地蔵」 が登 場 す る場面 が あ る. そ れ は厨 子 王
な り、 この物 語 り におけ る父親 正 氏 の影 は薄 -存 在感 は希 薄 で、 この類 推 は無 理 であ ると思 わ
れ る。
日
が山板 太 夫 の追 及 を逃 れ て国分寺 よ り逃 げ出 す た め に、 厨 子 王 を つづ ら に いれ て和 尚 が背 負 っ
て い-際 の和 尚 の次 の言葉 と し て であ る。 こ こから は (
厨 子 王 =金 焼 地蔵 )と い-等 号 が成 り立
さん せ- 太 夫
- な らば さし てと がむ る者 はあ るま い。
伊藤 一郎 氏 は 「物 語 り の原 動 力 -
3
粗爪
考 」 にお いて
「本 地物 と し て の冒頭 ・
焼 地 蔵 でご ざ あ るが、 余 り に古 びたま- た によ り、 都 へ上 り、 仏 師 に彩 色 L に上 る」 と言
つと し ても、 これま た厨 子 王 を御 本地 と す る こと には無 理 が あ ると思 わ れ る。
]k
ちや
町 屋 関 屋 関 々で 「
聖 の背 中 はな ん ぞ」と、 人 が問 ふ折 は、 「これ は丹後 の国、 国分寺 の金
的
結 尾 の形 式 が、 単 に物 語 り の ﹃開 き﹄ と ﹃閉 じ﹄ を明 示す るだ け で、 本筋 の物 語 と関 係 な く悪
意 的 であ る」と し 「﹃を ぐ り﹄ の諸本 のよ- に、 転 生 した神 が作 品 によ って変 わ って いても、 物
説経節山坂太夫 の成立
4
5
物蔑りの主人公は誰か
語 全体 に破綻 を与 えな い」 例 を挙 げ' さら に 「冒 頭 ・結尾 の形式 は」' 「取 り外 し付 け替 え自 由
の ユニ ッ-部 分 にな って いる のだ」 と断 言 し ておら れ る。
さら にま た' 説経節 が本地罪 と し て始 ま った こと は事実 であ ると し ても'浄 瑠璃 への発 展 の
過 程 で本地 貢 と し て の形式 を脱 ぎ捨 てて行 - こともま た よ-知 ら れ て いる。 この説経節 ﹃山坂
太夫﹄ も始 め の部 分 に こそ本地 貢 の形 を取 って いるが、 これは単 な る形式 ・飾 り にすぎず '内
容 はも っと別 な と ころ にあ った可能 性 が あ る。 な お この物 語 り が本 地苦 であ るため には' 物語
り の主 人 公 が同時 に御 本 地 であ る こと が必要 であ ると思 わ れ る ので' 次 に この物 語 り の主 人 公
主 人 公 と物 語 り の題 名
は誰 かと い-問 題 に ついて考 え てみた い。
2
「情
柳 田国男 が 「山荘 太夫 考」 で述 べ て いるご と-、 この物 語 りは 「岩城 の判官 正氏」 の 一家 (
岩
じや
・
つ
の こわ い」た め に筑 紫 へ流 罪 と な った後 ' 母 は蝦夷 が
城 一族)を中 心 に考 え ると' 父 正氏 が
島 へ'姉 弟 は丹後 の山坂 太夫 の下 へそ れぞれ下人 と し て売 ら れ' 一家 は離 散 し' 厨子 王 が これ
を再興す る へ一家 の没落 と再興 の物 語 り)と な る。 ま た 一方 丹後 由 良 の 「山坂 太夫」 の 一家 を中
心 に考 え ると'下人 の惨 い取扱 いで昔 の下人 から復 讐 さ れ'大 き-栄 え て いた家 が没落 す る (
長
者 没落 の物 語 り)とな る。
柳 田は当 然 この物 語 り を へ
長者 没落 讃)と し て捉 え て いるが' この場合 には' 厨 子 王 は マレビ
「対
ーと し て' 始 め は膿 し い下人 とな って山坂 太夫 の いる由 良 の世界 に現 れ'後 に再 び国司とな っ
つ
し
おうよる
王 丸 の不思議 な出 世 談」
へ
御 家再
て現 れ' 山坂 太夫 を滅 ぼし' 立 ち去 った こと にな る。 一方
興 雷)と し て捉 え る ことも 可能 で' 事実 江 戸時 代 には ﹃津志 王﹄と い-名前 で この物 語 り を表 し
(
4
3)
て いる場合 も あ る 。 この場合 この物 語 り の中 心 は貴 種流離 寮 や天 王寺 ・清 水寺等 の霊験帯 から
4
6
な って いる こと にな る。
こ こから この物 語 り の主 人 公 は誰 か、 岩 城 一族、 就 中 「厨 子 王」 か、 そ れと も 「山坂 太 夫 」
か。 あ る いは この物 語 り の名 前 はな ぜ 「安 寿 と 厨 子 王」ではな -、 「山坂 太 夫 」な のか。 あ る い
はま た、 山坂 太 夫 と は だ れ の こと か等 々 の疑 問 が生 れ て- る。 こう した疑 問 に答 え るた め に研
究 史 を振 り返 って み ると、 まず 最 初 に取 り上 げ るべき も のは、 前 述 した柳 田国男 の 「山 荘 太 夫
考」 であ る。 こ こで柳 田は 「
最 初 あ の話 し を語 ってあ る いた伎 芸負 が、 或 算 所 の太夫 であ った
のが、 い つの世 に か曲 の主 人 公 の名 と誤解 せら れ た の であ る」 と説 かれ た。
この柳 田 の (
山荘 太 夫 =算 所 の太 夫 )説 には、 物 語 り の主 人 公 は誰 か、 ま た物 語 り を語 って い
た人 は誰 かと いう 二 つ の疑 問 に対 す る答 が含 ま れ て いる。 そ の後 柳 田 が 「
算 所 」 と記 し た のは、
正 し - は 「散 所 」と あ るべき だと の森 末 義彰 氏 の指 摘 等 を受 け て、 「
散 所」論 の深 化 を背 景 に現
(
35)
れ た のが林 屋 辰 三郎 氏 の 「山坂 太 夫 の原像 」 で あ る 。 これ は物 語 り の主 人 公 を山板 太夫 と す る
と いう点 でも、 ま た着 想 の点 でも柳 田 に多 - を負 っており、 柳 田 が当 時 明 ら か にしえな か った
物 語 り の歴史 的 な背 景 を解 明 した こと に大 き な功 績 があ る。
林 屋 氏 は 「散 所 民 によ って伝 播 さ れ た物 語 は決 し て安 寿 と 厨 子 王 の物 語 ば かり ではな い ので
あ る から、 この物 語 のみ にそ の名 が附 せら れた とす る こと に、 一つの難 点 が横 た わ る」 と し て
(
山坂 太 夫 =散 所 の長者 )説 を展 開 さ れ た。 し かし、 語 り物 ・説 経 節 研究 の立 場 から は、 この物
(
6
3)
い る。
氏 であ る。 氏 は
(
37)
語 り の名 前 は 「さ ん せう太 夫 」であ って、 「さ ん じ ょ」と濁 ら な い こと が、 大 きな難 点 であ ると
され て
一方 、 へこの物 語 り の主 人 公 は誰 か)の問題 に明快 に答 え ら れた のが伊 藤 一郎
(
主 人 公 )を 「そ の意 図 が物 語 の軸 を構 成 す る登 場 人物 」と定 義 し た上 で 「﹃さ ん せう 太夫 ﹄と い
う物 語 り は、 つし王と いう 登 場 人物 を中 心 と し て、 そ の意 図 に味 方 す る者 と、 そ の実 現 を妨 げ
説経節山坂太夫 の成立
4
7
韮女 ‖安寿の物弄り
厨子 王の物語り
曽我物音 鎌倉後期-室町初期
に成立。建久四年 (一一九 三)五
月 二十 八 日 に' 十 郎 祐 成 (
すけ
る老 と で でき て いる。 発端 で言 明 され る彼 の意 図 の実 現 に向 か って物 語 は導 かれ、 そ の実 現 に
ょ って物 語 が終息 す る」と述 べ て、 「厨子 王」を この物 語 り の主人 公 と された。 ま た 「物 語 の中
で特 に活 躍 し注 目 され る登場人物」 を (
主役)と呼 ぶと、 「主役 は安 寿 と つし王 の二人 と いえ る」
と レ、 柳 田 の言 う 「山坂 太夫」 を物 語 り の 一部 にし か登 場 しな い (
敵 役)であ ると し て、 柳 田 の
考 え を根 本的 に批判 された。
以 上 から (
韮女 =安 寿 の物 語 り に取 材 し て これを換 骨 奪 胎 し て厨 子 王 の物 語 りと し て作 り直
したと ころ に説 経節 ﹃山坂 太夫﹄の成立 があ る)と言 う こと が出来 よう。 し かし説 経節 ﹃山坂 太
夫﹄ がも は や本 地 苦 ではな いと し ても、岩崎 武 夫 氏 の言 わ れ るご と- 「死 んだ安 寿 の霊 を慰 め
愛 惜 す る」 こと は 「
作 中 の主 人 公 づし王 のも ので」 あ る のみな らず、 この物 語 り の語 り手 や聞
き手達 す べ て のも のでも あ った。 こ こに物 語 り自身 の世界 と'物 語 り の産 み出 した感 動 の世界
と の間 にギ ャ ップ が存 在 した こと にな る のであ る。
そ れ では何故 この物 語 り の題名 が 「山坂 太夫」 な のかと い-疑 問 に答 え ておき た い。 この物
語 り の終 わ り の方 で、 丹後 の国 司とな った厨子 王 が山坂 太夫 と 三郎 の首 を それ ぞれ竹 の鋸 で挽
いて殺 させ た後、 太夫 の長男 ・太郎 と次男 ・次郎 と を呼 ん で、 そ れぞ れ丹後 八百 八町 を 二人 に
剃
千
り落 し、 国分寺 にす わ り つつ、 姉御 の菩提 を弔 ひ、 ま た太夫 の跡 も問 いた
半 分ず つ与 え るが、 そ の際、 慈悲第 一の次郎 は丹後 の国 の地 頭 ・ 一色 氏 の祖 と な ったと あ り、
他方 「太郎 は髪 を
ま ふ」 と あ る。
「太夫 の跡 を問 いたま ふ」 と あ る こと は 「太夫 の後生 を弔 った」 と解 釈す る こと も出来 るけ
この所 は ﹃曽 我物
(
す け つね)を討 ちと るま で の経
な り)・五郎 時 致 (
と き む ね)兄
弟 が苦 労 を重 ね父 の散 工藤 祐 経
述 べ て いる のであ る。 この部 分 に注 目す る限 り、 太郎 の 一族 はそ の後 「山坂 太夫」 を称 し、 現
れども、 こ こはむ しろ太郎 が 「太夫 の跡 を取 った」 と 理解 す べき であ ると思 わ れ る。 つま り こ
8
3
)
x
(
語 ﹄ の 「
虎 御 前 」 のよう に、 太郎 の 一族 には体 験談 を語 る資 格 があ る こと を
後 日談 に上り構 成 さ れ て いる。
過 と'大 礎 の宿 (
L や-)の遊 女
虎 御前 が兄弟 の善 果 をと む らう
4
8
税教師自身の由来を罷る
場 に立 ち あ った当 事 者 の 一員 と し て、 国分寺 を拠 点 に安 寿 の菩 提 を弔 い、 金 焼 地蔵 の霊 験
な こと を人 々に述 べ伝 え る ぺく説 経 節 を語 って いた と見 る こと が出来 る の であ る。
灼
か
あら た
し かも注 目す べき は太郎 に所 領 が与 え ら れ た理由 が、 国分寺 の和 尚 の言 - こと を聴 いて厨 子
王 を逃 そう と し た点 にあ る こと であ る。 「国 分寺 にす わ り つ つ、姉 御 の菩 提 を弔 ひ、ま た太夫 の
跡 も問 ひた ま ふ」 と あ る こと と、 この国分寺 の和 尚 の言 - こと を聴 いて所 領 が貰 え た こと と を
考 え合 せ ると、 こ こには散 所 の民 であ る説 経 師 達 が、 国 分 寺 に いた 恐 ら -律 宗 西大 寺 流 の僧
9
3)
(
の支 配 下 にあ った こと が投 影 さ れ て いると見 る こと が許 さ れ よ-。 さら に想像 を た- ま し
侶 達
く す れば、 こ の物 語 り は散 所 の民 が散 所 の長老 の支 配 下 から解 放 さ れ、 国分寺 の僧 侶 達 の支 配
下 に置 か れ る に至 った事 を暗 示 し て いると見 る こと も出来 よ-0
と もあ れ (
許 されざ るも の)罪 人 の 一族 と し て、 自 己 の先祖 を語 ると い- この物 語 り のあり方
から見 え て- る説 経師 達 の姿 には、 ど- し ても ︿差 別﹀ の影 を見 な いわ け には いかな い。 こ の
点 で この山坂 太 夫 と被 差 別部 落 と の関 係 を指 摘 さ れ た林 星辰 三郎 氏 の目 の付 け処 には誠 に鋭 い
も のが あ ると 言 う べき であ ろう。 つま り (
許 さ れざ るも の)と し て の山坂 太夫 には 二面 性 が あ り、
1万 では林 産 氏 の言 わ れ る 「
散 所 の長老 」 と し て の太夫 であ り、 ま た 1万 では被 差別 民 と し て
の説 経 語 り自 身 な の であ る。
そ れゆ え説 経 節 ﹃山坂 太 夫﹄ の物 語 り は、 l面 では岩 城 1族、 就 中 「安寿 と 厨 子 王」 な いし
「厨 子 王」の物 語 り であ り、 他 面、 散 所 の民 であ る説 経 語 り自身 の 「制 外 老」へ
許 さ れざ るも の)
と し て の由 来 を物 語 るも の でも あ り、 この こと から この名 が付 け ら れ たと 理解 す る こと が出来
る の であ る。 今 も し この物 語 り の題名 に意 味 が あ るとす れば、 こ- し た説 経師 自身 の来 歴 ・被
差 別 の由 来 を語 る物 語 り と い-側 面 の存 在 を あげ る こと が出来 よう。
以 上 から ﹃山坂 太夫﹄ を語 る人 の多 - いた丹後 の国分寺 近 辺 に、 この物 語 りと の関 係 の深 い
説経節山坂太夫の成立
4
9
複数 の厨子王伝税
名 所 旧跡 が存 在 し て いる のは当 然 の こと とな ろ-。 この地方 の伝 東 と し て由良 の石浦 には 「山
坂 太 夫 の屋敷 跡」 や 「石 の水船」 「
物 見 台」 が、 由 良 川 の中 州 には 「
亭」 や 「馬駈 け場」、 北 国
街 道 の七曲 八峠 には 「柴 勧 進 の場」 「首 挽 松」 等 々と い った名 所 旧跡 が多 -存 在 し て いると い
-。 も っと も この地方 の伝 東 には金焼地蔵 の信仰 は殆 ど認 めら れず、 山坂 太夫 と 厨 子王 を中 心
す ると い-0
と したも のであ ると言 -。 酒向伸行 氏 によれば由 良 地方 には、 山坂 太夫 の配 下 であ りな がら厨
0
4
)
(
子 王 を山坂 太 夫 のもと から逃 した 「ハ ッチ ョウ モ ン」 と言 われ る人 々の伝 東 が存 在
この こと は、 厨 子 王伝 説 が説経節 ﹃山坂 太 夫﹄ 成立 の基礎 とな ったも の以外 にも複数 存在 し て
いた こと を示 し て いる。
3 「初 山 の日 」 と 安 寿 の古 層
正月 十 六日 の初 山 の日、 厨子 王 は逃 亡 を決行 し、 安 寿 は この日を限 り地蔵菩薩 にな ったとす
れば、 この日は物 語 り の上 で大 きな転 換点 をなす特 別 の日 であ った こと にな る。 ま た伊藤 一郎
氏 の指摘 された通 り、 この物 語 り にお いて (この日 を物 語 る文 字 量 は由 良 を舞 台 と し た ほ か の
日 々よりも多 -、 写実 の密 度 も高 い)
。 この こと は山坂 太 夫 伝 説 の ル ー ツが安 寿 祭 り に際 し て
ろう。
丞女 の携 え てき た 「地 款変 相 園」 や 「
絵 解 き」 の モチ ー フにあ った こと によ って いる から であ
この日は古 代 ギ - シ ャの エレウ シ スの祭 り や江 戸時代 の闇魔参 り の日 のご と- 「地 獄 の釜 の
れ
る
。
蓋 の開 - 日」、 「死」 の襲 って- る日 であ り、 奴隷達 や下人 ・奉 公人達 の祭 り の日 であ ったと考
(
41)
(
42)
劇 作 家 のふじた あ さ や氏 は、 劇 ﹃山坂 太夫﹄ では この日を 「め でた い年 明 け の初仕
えら
事 」「
年 占 」と し、事実 上 (
下人達 の祭 り の日)と解 釈 し、下人達 が手 に手 を取 って踊 り の輪 を作
り、 歌 い興 じ て いる。 この解 釈 は森 鴎 外 の小説 ﹃山板 太 夫﹄ にも見 ら れな いが、 極 め て正確 な
5
0
薮入りのルーツ
解 釈 であ ると私 は思 -。 つま り、﹃山坂 太 夫﹄の物 語 り の世 界 にお いて、正月 十 六 日 の日 は山板
太夫 の屋 敷内 に住 む 下人達 にと っても特 別 な (
自 由 な 日)を意味 し て いた の であ る。
弟 の逃 亡 を見 届 け'何 食 わ ぬ顔 で 一人帰 って来 た安 寿 は'太 夫 に見 巻 め ら れ て' (
弟 は自 分 と
や‡うど
分 かれ て 「里 の山人 たち と打 ち連 れ立 ち て」山 に行 った)と - そを つ- が' 姉 弟 が里 の山人 と共
に山 に行 け た こと自体 が重 大 問 題 であ った。 既 に太 夫 は' 由 良 千軒 に (
姉 弟 に対 す る柴 勧 進 等
の助 力 を禁 ず る)旨 の命 令 を 「
触 れ申」 し て いた の であ る から、 こ の日 は太 夫 の命 令 が力 を失
い' 由 良 千 軒 の人 々や下人達 が共 に太 夫 の支 配 から解 放 さ れ る (
自 由 の日)であ った こと にな る。
さら に、 弟 の逃 亡 を見 届 け た安 寿 が' 僅 かば かり の柴 を束 ね、 頭上 に載 せ て太 夫 の屋 敷 に戻
り'庭 で責 め殺 さ れ た のが 「四 つの終 り (
午前十 一時)
」と あ る こと から、 この日は労働 の休 み の
日 であり' 初 刈 り の柴 は宗 教行 事 に用 いら れたと思 わ れ る。 ま た' 山 頂 で姉 弟 は柏 の葉 で水杯
し
しみち
を交 わす のだ が'そ の際 「酒 も さ かな も あら ば こそ」と あ る のは' この兄弟 が皆 と離 れ'「
獣 道」
を通 るな ど の別 行 動 を し て いた から で' この日 はむ しろ下 人達 が酒 や餅 にあ り つけ る特 別 な 日
であ った こと を 示唆 し て いる。
民俗 学 の調 査 によ れば' 現 在残 さ れ て いる習俗 と し て の初 山 の日 は正月 七' 八日 であ ると い
-。 そ れゆ え 正 月 十 六 日を 「
初 山」 の日と しな け れば な らな い積 極 的 な 理由 を見 出 す こと は で
きな いが、 む しろ江 戸時 代 の闇魔 参 り の日 に先立 って' この安 寿 の命 日 を下人 ・奉 公人達 の祭
り の日と す る風 習 が' 日本海 地方 には古 - から存 在 し ており、 そ れ に基 づ いて この物 語 り が作
成 さ れた と考 え る こと が出来 よ-。 このよ- な想像 が許 さ れ るとす れば、 薮 入 り の ル ー ツは中
世 の この安 寿 祭 り にま で遡 ら せ る こと が でき る。
正月 十 六 日 の初 山 の日 に至 るま で のあ り方 を見 ると' 正 月 を前 に姉 弟 が 「別 屋」 に' さら に
「松 の木 湯 船 」 に いれら れ る。 森 鴎 外 は この 「初 山」を (
成年 式 )と 理解 し たた め' 「別 屋」入 り
説経節山坂太夫の成立
5
1
他界の者に忌龍りをさせる
を新 た に下 人 と な った姉 弟 の、 下人 仲 間 への (
仲 間 入 り)の儀 式 と し て いる。 し か し物 語 り では
L
ば い
ほり
「あ れ ら き ゃ- だ い の者 ど も を ば、 三 の木 戸 のわ き に、 柴 の庵 を作 って、 年 を取 ら せ い」 と あ
り、姉 弟 も ま た、嘆 い て次 のよ- に述 べ る。 「こと し の年 の取 り所 、柴 の庵 で年 を取 る。 我 れ ら
が国 の習 ひ には、 忌 み や忌 ま る る者 を こそ、 別 屋 に置 - と は聞 い てあ れ、 忌 みも 忌 ま れも せ ぬ
の神 ﹄
も のを、 これ は 丹 後 の習 ひ か や。」
3
4)
(
では 「一日 一日 と 送 るほ ど に、 は や年 の夜 にな ってご ざ る。 毎 年 福 天
例 え ば 狂 言 ﹃福
のお前 で、 年 を取 り ま す る」 と あ り、 参 寵 し て 「
年 を取 る」 習 慣 のあ った事 が知 ら れ る。 そ れ
故 「別 屋 」 に入 る こと は、 (
新 年 を 迎 え る行 事 )と関 係 が あ り、 「忌 み や忌 ま る る」と 世 俗 的 な刑
罰 を思 わ せ る言葉 の背 後 に宗 教 的 な 「忌寵 り」が隠 さ れ て いる の であ る。 し か し姉 弟 は (
正月 も
お-がた や.N
なか
奥 方 、 山 中 の者 な れ ば 」
)と いう こと で 「別 屋」 に入 れ ら れ た の であ る。
知 ら な い 「これ よ り も
山 中 他 界 観 を前 提 と す る限 り この 「山 中 の老 」 と は 「他 界 の者 」 と な ろ -。 つま り、 「別 屋 」 に
入 る こと は 「忌寵 り」 を意 味 し、 (
他 界 の者 に忌寵 り を さ せ る)のが太 夫 の家 の正月 を迎 え る や
り方 であ った こと にな る。
と ころ で こ の 「別 屋 」 にお い て、 姉 弟 は逃 亡 の相 談 を し、 そ れ を 三郎 に聞 か れ てし ま -。 そ
こで 「いづ - の浦 ば にあ り と ても、 太 夫 が譜 代 下 人 と 呼 び使 ふ や- に、 印 を せ よ」 と て、 姉 弟
共 に焼 金 が当 てら れ、 さ ら に 「松 の木 湯 船 のそ の下 で年 を取 ら せ い。 食 事 も - れ るな、 た だ 干
し殺 せ」 と命 ぜ ら れ る。 この 「松 の木 湯 船」 と は、 製 塩 のた め の道 具 のよう に思 わ れ る が、 忌
篭 り の場 所 は 「別 屋」 から 「松 の木 湯 船 」 へと小 さ - な り、 象 徴 的 な 「死」 から現 実 的 な 「干
し殺 し」 へと変 化 し て- る。 こ こで姉 は弟 にす が り つき次 のよ- に述 べ る。 「や あ、いか に つし
つ
も
ごり
なごし はら
王 丸。 我 ら が 国 の習 ひ には、 六月 晦 日 に、 夏 越 の戒 ひ の輪 に入 ると は聞 いてあ れ、 これ は 丹後
の習 ひ か や。 さ ら ば食 事 を も賜 らず 、 干 し殺 す か や、 悲 し や。」
5
2
(
44)
一方 、 青 森 のイ タ コ達 の修 行 は つら-、 (
即身 仏 の修 行 と同 じ であ った)と伝 え ら れ て いる こ
と から' 一人前 のイ タ コにな る修 行 の最 後 の 「神 付 け」に際 し ては、 断 食 の修 行 が行 わ れ、 「死
と 再生 のイ テ ンエイ シ ョン」が行 わ れ た こと は確 実 であ り、 ﹃お岩 木 様 一代 記﹄でも生 れたば か
り の 「あ ん じ ゅが姫 」 は 「つしご にあ はな い」 こと を理由 に砂 の中 に埋 め ら れ る. そ れ故 この
「別 屋 」 から 「松 の木 湯 船 」 への場 面 は (
丞女達 の断食 の苦 行 )に取 材 した も のと考 え る こと が
出 来 よ-0
ま た この 「別 屋 」 「松 の木 湯 船 」 に入 る こと は' 「夏 越 の戒 ひ」 と の比較 から も明 ら かな よ-
に、 古 - は宮 中 で行 わ れ て いた 「大 成 」' 近 - は江 戸 時 代 の大 晦 日 の 「
竜 蔽 い ・荒 神 蔽 い」等 と
関 係 が あ ろ-。 つま り、 半 年 の間 に積 も り積 も った罪 事 をす っかり疎 い清 め清 浄 の心身 を も っ
あがもの
て新 年 を迎 え よ- と した の であ る。 た だ飯 の際 には'「
贋 物 」と い-罪事 を- っつけ た戒 具 ・成
種 を 差 出 す こと を必要 と し、 これ が藁 や紙 で作 った人形 ではな - 「アガ チ コ」 と い- 丞女 自身
(
45)
で あ る場 合 も あ ったと い- 0
例 えば漢 民 族 の世 界 では、 厄 神 であ る竃 の神 を祭 る のは 一家 の主 人 の行 - 正月 を迎 え る大事
な仕 事 であ った。 これ に対 し 日本 では狂 言 の ﹃粟焼 き﹄ で下 人 の太郎 冠 者 が竃 の神 と親 し-会
話 を交 わ し たと あ る よ- に、 主 人 は専 ら歳 神 に のみ関 係 を持 ち、 厄 神 に関 す る いやな こと は下
(
46)
人 に押 し っけ ると い-分 業 関 係 が生 れ て いた よ- に思 わ れ る。
現 在 の津 軽 地 方 のイ タ コ達 の仕 事 には恐 ら-大 晦 日 の竃 疎 い ・荒 神成 いが あ ると思 わ れ る が、
江 戸 時 代 では これ ら の仕 事 は 1般 に山 伏 ・丞女等 の、 さら に中 世 では 「県 丞女 」 の仕 事 であ っ
たと思 わ れ る。 つま り 一方 ではイ エ世界 内 部 の余 所 者 であ る下人 に、 ま た 一方 では他 界 の者 で
あ る宗 教 的 霊 能 者 (=丞女 )にケ ガ レた仕 事 を押 し っけ る こと によ り、 主 人達 の間 にはケ ガ レ無
い清 浄 な 世 界 が生 れ る こと にな った の であ る。
説経節山淑太夫の成立
5
3
「
大童」とな った安寿
さら に正 月 十 六日 の初 山 の日' 安 寿 は太夫 の家 におけ る性 の分 業 の錠 に逆 ら って、 弟 と と も
「大
「
県 査女」 「アガ チ コ」 と いう古 層 が隠 され て い
垂女 そ のも のの姿 と見 る こと が出来 る のであ るO つま り
に 「山 へな ら ば 山 へ、 浜 へな らば浜 へ' 一つにや ってた ま は れ」 と希 望 す る。 この希 望 は' 安
おお
わらわ
童 」 と な る事 と引 香 に叶 え ら れ る が' この 「
大 童」 と い- (
ざ んば ら髪 )の姿
寿 が様 を変 え
こそ l般 的 な 「異 類 異形 」 ではな く
安 寿 には家 々の汚 れ を 1身 に引 き受 け て歩 く
る の であ り' 安 寿 は岩 城 の判官 一家 を再興 に導 -影 の力 にな って いる のと 同時 に、 山坂 太 夫家
にと っても正月 を迎 え るた め の守護 霊 的 人身 御 供 的 な働 き をす る こと が命 じら れ て いる のであ
る。
し かし ここでも太夫 は 「あ ふ、 そ れ人 の- ち には、 笑 ひぐ さと で' 一人 な - てかな は ぬも の
よ。 姉 だ に山 へゆ かう と言 はば' 大童 にな いて山 へやれ。 三郎 いか に」 と述 べ て' 大 童 とな っ
た安 寿 を下 人 に対 す る刑罰 の 一種 と し て の 「
笑 いぐ さ」道 化 と見 な し' 「き ゃ- だ い の 口説 きご
と こそ哀 れな れ」 と結 ん で いる。 下 人 が 一般 に主 人 の気 晴 ら し のた め の道化 と し て の役 割 を担
って いた こと は 「狂 言」 の太 郎 冠者 から窺 - こと が出 来 る。
﹃お岩 木様 一代 記﹄ では 「人 が神 にな る こと」 は誇 ら しげ に宣 言 さ れ て いる のに' この ﹃山
坂 太夫 ﹄ では アガ チ コであ る安 寿 の人身 御 供 に至 る流 れと し て存 在 し' し かも 「忌 み や忌 ま る
る者 を こそ」 と世俗 的 な 刑罰 と し て表 現 さ れ て いる物 語 り の表 層 に注 目す べき であ ると思 わ れ
る。 この こと と' 山 の神 にな る べき安 寿 を物 語 り の中 で殺 し てしま - ことと は同 一思想 の表 れ
と見 る こと が出来 よう。 近 世 にな って確 立 したと思 わ れ る我 が国 の祖 霊 信 仰 には、 東 南 アジ ア
にお いて広 -見 ら れ る 「
巣 る神」 「恐 ろ し い神 」と い-側 面 が欠落 し て いる。 これ は これま で明
ら か にし てき た厄 神 の祭 り を社 会 的 な 分業 関 係 の中 で行 - と い- あり方 と強 -係 わ って いる の
では あ るま いか。
5
4
安寿伝悦-日本海周辺
厨子王伝税-京都周辺
三 物語 り の成立
柳 田国男 は この ﹃山坂 太 夫﹄ を 口承文 芸 と し て捉 え' 説 経 節 と し て の成 立 以 前 に 「自 由 に趣
向 を立 てる」 こと が でき た時 代 を考 え ておら れ るが' そ の時 この物 語 り の核 と な って いた部 分
は'○○神 の本 地 雷 と し て の安 寿 の物 語 り であ ったと思 わ れ る。 芸 能 の徒 で 「地 獄変 相 図」 を
持 ち'絵 解 き ・占 い ・御 払 い等 を行 って いた 「あ るき丞女」・熊 野比 丘尼 と よ-似 た津軽 のイ タ
コや白 山 の丞女達 によ って この安 寿 伝 説 は語 り継 がれ て いた の であろ-.
し かし な がら' 説 経 節 ﹃山坂 太 夫 ﹄ の成 立 に際 し ては、 厨 子 王伝 説 が決 定 的 に重 要 な位 置 を
占 め てお り' この物 語 り の表 層 は あ- ま でも 厨 子 王 を主 人 公 とす る物 語 り であ る。 この厨 子 王
伝 説 の世 界 は安 寿 伝 説 が日本 海 沿岸 を舞 台 と し て いる のに対 し て' 京 都 周辺 を中 心 と し' 多 -
武
夫
4
善
彦
の寺 院 の霊 験 請 や厨 子 王 の不思議 な 出 世 講 から出来 てお り' これ は ﹃御 伽草 子﹄ の 「一寸 法師 」
7)
(
48)
(
・網 野
両 氏 の言 わ れ るご と - これは恐 ら -塩 売 り の担 って い
等 と よ-似 て いる。 岩 崎
た物 語 り を背 景 にし て いる の であ ろ-0
一方 これま で述 べ てき た こと から 明 ら かなご と -' この説 経 節 ﹃山坂 太 夫﹄ の物 語 り の世界
と この物 語 り の産 み出 し た感 動 の世 界 と の問 には大 き なギ ャ ップ があ り' 意 識化 さ れた言 語 世
界 ・物 語 り の世 界 が本 地 雷 と し て の内 実 を失 い'「対 王丸 の不思議 な出 世 談」と な って いる の に
対 し て'人 々 に暗 黙 の- ち に了解 さ せ る ・感 動 の世 界 は あ- ま でも 「
安 寿 の本 地 弄」な いし 「金
焼 地蔵 の霊 験 弄」 であ った。 次 に このよ- な 二重 性 が持 って いた社 会 的 な意味 に ついて考 え て
おき た い。
この説 経 節 ﹃山板 太 夫﹄ の物 語 り の受 取 手達 が'暗 黙 の- ち に了解 し た も のは (
姉 の安 寿 は
説経節 山坂太夫の成立
5
5
人 々の背 後 にあ って人 々を守 護 す る霊 能 者 と し て存 在 し、 彼 女 に見守 ら れ て弟 厨 子 王 は物 語 り
を先 へ先 へと進 行 さ せ てゆ -。 物 語灯 の展開 の最 先端 に厨 子 王 が存 在 す るとす れば、 そ の展開
の エネ ルギ ーは安 寿 によ って お り、 む し ろ厨 子 王 は受 動 的 な主 体 にす ぎ な い)と いう こと では
あ るま いか。 ま た そ の限 り にお いて、 この安 寿 の中 に前 述 した 「オ ナ -神 信仰 」 や柳 田国男 の
言う 「
妹 の力」 を見 る こと が出来 ると思 わ れ る。
し かし厨 子 王 の姉 ・安 寿 に対 す る哀 惜 の念 が如 何 に大 き - と も、 この物 語 り の世界 にお いて
は、 安 寿 は厨 子 王 を世 に出す た め の単 な る犠 牲 者 にす ぎず 、 厨 子 王 の出 世 「
御 家 再 興」 は安 寿
の代 受苦 を掠 め取 る形 で遂行 さ れ る。 つま り 「
御 家 再 興 弄」と は現実 の世界 に 「オ ナ -神 信 仰 」
や 「
妹 の力」 の持 ち主 の存 在 を前 提 にしな いと成 り立 たず、 し かも彼 等 の献身 を掠 め取 り、 搾
取 す る こと によ って始 め て可能 にな るも のな の であ る。 母 や姉 等 「母な るも の」 の犠 牲 の上 に
息 子 や弟 達 の数 々の出 世 雷 が築 か れ ると いう こと は、 江 戸 時 代 から 明治 ・大 正 ・昭 和 にか け て、
多 - の家 々に見 ら れ たと ころ であ る。
暗 黙 の世界 では そ の存 在 が偉 大 であ る のに、物 語 り の世 界 では、排 除 ・抹 殺 さ れ、例 え ば 「
安
寿 の蘇 り」 等 の形 で登 場 しな い こと は、 物 語 り の語 ら れ て いる現実 の世 界 におけ る座女 =安 寿
に対 す る ︿差 別﹀ を この物 語 り は表 現 し て いる こと にな る。 つま り この物 語 り は、 宗 教 的 霊 能
者 に対 す る ︿差 別﹀ を内 容 と し た物 語 りと な って いる のであ る。 この点 は、 山坂 太 夫 を名 乗 る
説 経 語 り が この物 語 り の中 で自 ら の由 来 を (
許 さ れざ るも の)と し て語 る こと と よ-似 て いる。
この ﹃山坂 太 夫﹄ の物 語 り にお いて、 岩 城 の判 官 一家 は 母親 と 子供達 の秤 によ って のみ支 え
ら れ ており、 父親 正 氏 の影 は薄 く、 存 在感 は希 薄 であ るo この点 は ﹃お岩 木 様 1代 記﹄ と全 -
同 じ で、 情 の強 い父親 によ って家庭 が崩 壊 し、 一家 が離 散 す ると いう ﹃お岩 木 様 一代 記﹄ の モ
チ ー フが そ のま ま生 かさ れ て いる。 他方 五人 の子供 を持 つと い- 山坂 太 夫 の家 には女 気 が全 -
5
6
感 じら れな い。確 か に太夫 の家 にも慈 悲第 7の次郎 や信 心深 い太郎 が存在 す るが、 これは歌舞
伎 で言 えば 「赤 面」 の太夫 や 三郎 と の対比 のな か で彼等 を引 き立 た せ るため に登場 し て いる の
であり、 総 じ て この太夫 の家 には (
優 し さ)と い った女 性原 理 は見 ら れな い。 つま り、 前 者 には
女 性原 理、 後 者 には男 性原 理 と いう対比 が見 ら れ る のであ る。
そ れゆ え ﹃お岩木 様 一代記﹄ におけ る家庭 の悲劇 を 二 つに分割 し、 父親 が惨 く子供達 を折鑑
す る場面 と、 父親 を失 った母子家庭 ・欠 損家庭 の悲惨 さ の場面 の二 つを それぞ れ独立 さ せ、 前
者 からは山坂 太夫 の屋敷内 で の下人 折在 の物 語 りを、 後 者 から は岩城 の判官 1家 の流浪 の物 語
よ
う
4
O
りを作 り上 げ る こと によ り、 物 語 りは空 間的 な広 がりと膨 ら みを持 つこと に成功 したと考 え る
(
9)
つま り、 垂女 =安 寿 の物 語 り に取材 し て これを換骨奪 胎 し て厨 子王 の物 語 り
こと が出来
と し て作 り直 したと ころ に説 経節 ﹃山坂 太夫﹄ の成立 があ る のであ って、 丞女 の物 語 り の替 わ
こ
り に山坂 太夫 の家 を舞 台 にした、 恐 ろ し い主人 と いた いけな下人 の物 語 り が大 きく ク ローズ ア
.i
)てしのよ
う し て物 語 りは奥 州伊達 信夫 の荘 1直江津 1 由良1 天 王
ップ され る こと とな った のであ る。
寺 等 々 へと空 間的 な広 がりをもち、 厨子 王は物 語 りを先 へ先 へと進 め て行 -.
ぬし
この物 語 り の最 初 で 「岩城 一族」 は 「
奥 州 五十 四郡 の主」 と し て登場 し、 これが物 語 り のゴ
ー ルを決定 し て いる。 し かし直江津 で山 岡太夫 にかど わ かされ、 下人 と し て売 ら れ てしまう ま
「膝
で の岩城 一族 には 「
旅 の浪 人」 と いう こと で、 漂泊 の非人連 の面影 があ る。 また丹後 由良 の湊
い
ぎり
行 ・
乞 食 ・非 人」 であ り
から国分寺 の和 尚 に助 け ら れ て、 天 王寺 に至 る厨 子 王 の有 様 は、
「逃 亡下人 の非 人化」 を示 し て いる。 し かし網 野善 彦 氏 が ﹃無 縁 ・公界 ・楽﹄ にお いて 「原始
の自 由 人」 と高 く評価 さ れた 「無縁 の人」 た る 「非 人」 にな る こと は、 この物 語 り にお いては
ゴ ー ルではな -、 あ-ま でも 一つの過渡形 態 にすぎ な い。
む しろ御 家 再興 によ る 「下 人 の貴 族化」 こそ が厨 子 王 の目指 す 目標 な のであ る。 「貴族化 」と
説経節山坂太夫の成立
5
7
下人達 の 「
解放 への道」
は即ち天皇 に近 づ- こと。 それゆえ天 王寺 に至 った厨 子王 は貴 族 の梅津 院 に見 出 され、 彼 の養
し'L
JL
)
JNつ
くり
子 とな り、 さら に天皇 に 「
膚 の守 り の 信 太 玉 造 の系 図 の巻物 」 を奉 り、 奥 州 五十 四郡 の主 に帰
り咲 き物 語 り は終 る。 こ- した厨 子 王 の軌 跡 を 「寺 社 への走 り入 り」1 「天皇 への訴 訟」1 「
御
申 状 ﹄
(50 )
から は、
家 再 興」 と纏 め る こと が出来 るとす れば、 こ- した道筋 自身 は中 世前期 の下人連 にと ってかな
り 一般的 であ った 「解 放 への道」 を示 し て いると思 わ れ る。
例 えば、 寛 正 二年 (1四六 1)八月 四 日付 の ﹃東 寺 領 播 磨 国矢 野庄 内 田所 家 盛
「あち や」 と い-名 の下女 の半生 が窺 われ る。 七、八歳 の時 に捨 子 とな り、 この田所 に拾 われ、
この十年 の問譜代 下人 と し て召し使 われ てき た が、 先 の御 代官 の従者 「小物」 と結 婚 した。 し
かし昨年 の十月 十 三日御 代官 が替 わり上洛 した ので、 彼 の小物 は この下女 に 「いとま を いた し
す て」 た。 そ こで彼 女 は再 び田所 の下人 と な った。 こ このと ころを 田所 は 「我 々が譜代 に て候
間、 め し っか い候」と あ る。 し かし この 「いと ま」 「す て る」と い-表 現 から、 彼 女 の婚姻 は当
時 一般 的 であ った妻 方 同居 ではな-、 彼 の小物 の下 への嫁 入姫 であ り、 婚姻 に際 し 田所 は正式
な放 状 は与 えな いも の の、譜 代 下人 の身 分 から の解 放 を約束 したと思 われ る。
そ こで翌十 一月 十 五日 に、 下女 は逃 亡 し 「
他 所 に 二十 日あま り候」 とな る。 下女 「あち や」
は この 「他 所」 にお いて、 田所 と対立 関係 にあ った国方 に訴 え たら しく、 国方 は田所 を 「く せ
事」 と言 い、 国方 より 「村 岡方 内藤 殿 両便使 節 入部 」 とな る のであ る。 この 「
申 状」 の眼 目 は、
国方 の使節 が田所 に課 した 「
御 公事」 の不当 性 を東寺 に訴 え る こと にあり、 そ の原 因 と し て の
下人 の帰属 問題 には無 いのだ から、 以上 のよ- な事柄 を補 って考 え るべき であろ-。 それゆえ
1
5)
(
文 書 から は、 鎌 倉 中 期 近江 の国 にお いて、 僧 信 西 の
下女 は使 節 入部 と共 に解 放 されたと思 わ れ る。
さら に ﹃中 山法華 経寺 文 書﹄ 所収 の紙背
相 伝 の下人 「
鏡 楽 次郎 」 な る人物 が主人 のもと を逃 れ て延 暦寺 の寛 質実 野律師 のもと に宮 仕 え
5
8
近世社会のコスモロジー
し、 重代 の由緒 が発覚後 連 れ戻 され、 そ の後 さら に郡守護代 西行 房御 宿所 へ逃 げ 入 り、 重代 の
下人 にあらず と訴 え たと いう事実 がわ かる。 この裁判 の結果 いず れが勝 った かは わ からな いが、
こ こから 「地 頭 ・郡代官」 等 の屋敷 への 「
走 り入 り」 1 「訴訟」 1 「
身 分 の解放」 が中 世前期
の下人達 の抱 いた 「解 放 への道」 であ った こと だけは確 か であろう0
し かし戟 国期 に入 れば、 このよう な 「解 放 への道」 は閉 ざ され、 人返 し法 が l投法 ・国法 と
(
2
5)
し て表 れ て く る 。 下人達 の日常 性 の中 で奪 わ れた分 だけ フィク シ ョンが大 き-膨 ら み' それが
天皇 と の対 面 と いう場面 を可能 にさせたと考 え るべきな のであろう か。 と も あ れ、 この物 語 り
は御 家 再興、「下人 の貴 族 化」と いう ゴ ー ルに向 け て進 展 し て・
い-. この こと は歪女 =安 寿 が死
に、 「人 が神 にな る こと」 が否定 された こと と表裏 一体 の関係 にあ る0
拙稿 「薮 入 り の源 流」 で明 ら か にしたご と-、 下人達 の信仰 を御 霊信仰 と名付 け るとす れば、
これはま た 「
大 地 母神崇拝 ・母子神信仰」 へと遡 る こと が出来 る のであ る から、 ﹃お岩木様 一代
記﹄ から ﹃山坂 太夫﹄ への変 化 の中 に母子神 信仰 ・御 霊信仰 から氏神 信仰 へと いう世界観 の大
転 換 を見 て取 る こと が出来 よう。 さら に、 非 人化 ではな -貴 族化 を目指 した こと から、物 語 り
には弘法 大師 ではな -天皇 が登場す る こと にな る。宗 教的 霊能 者 の賎 民化、「人 が神 と な る」こ
と の否定、 下人 の氏神信仰、 こう した仕 組 を支 え るも のと し て の天皇 の登場、 こ こに近 世社会
の コス モ ロジ ーが先取 りされ て いると見 て取 る こと が出来 る のでは あるま いか。
あ と が き - 残 された謎
この物 語 り の成 立 の背後 に、 近 世的 な世界観 の存 在 を確 かめ る こと が出来 ると し ても、 残 さ
説経節山坂太夫 の成立
5
9
∫
.
日 の本
柳 田 の言 - よ- に、 単 に 「人買 い船 の ロー マン ス」 であ っても よ いの に、 何 故 この物 語 り の登
れ た謎 の大 き い こと に気 付 かな いわ け には いかな い。 思 い付 くと ころ を記 せば、 この物 語 り は
今 の北東 北 の地方 を、
現在 のわ れわ れと は方 位 ・地理
感 覚 の異 な る昔 の人 は、 アズ マ
場 人物 は 「岩 城 の判 官 正 氏」 一家 な のか、 何 故 厨 子 王 は他 な ら ぬ 「
奥 州 日 の本将 軍」 家 の御 家
本 」
略 人 は行 わ れ た のかも知 れな い。 も し そ- であ ると
説 経 節 山坂 太夫 には 「安 東 氏 」の御 家 再 興 の呼 び掛 けと い- 隠 さ れ た意 図 が考 え ら れ る。 「
安東
*
氏 」 自 身 、 安 東 船 ・安 東 水 軍 で有 名 な よ- に日本 海 航 路 に活 躍 の舞 台 を求 め て いた の であ る か
の滅 亡後 、 津 軽 氏 が この地 の支 配 権 を奪 った と い-津 軽 地方 の歴史 等 を考 え合 わ せ ると、 この
T,ら にま た津 軽 藩 が丹後 者 を厳 し- 取 り締 ま った こと、津軽 の正統 な支 配 者 であ る 「安 東 氏」
す ると、 異 国 の空 で故 郷 を思 う 下層 民 達 に この物 語 り は強 - アピ ー ルし た も のと思 わ れ る。
おら れ るが、 北方 にお いても奴隷 狩 り ー
な る場合 の方 が事 実 と し ては多 か った のでは あ るま いか。 牧 英 正 氏 は 「倭 遠 の略 人 」 を あげ て
と 同様 、 僻 地 の子供達 が都 に憧 れ て上京 し た り、 あ る いは僻 地 から都 に売 ら れ た り し て下人 と
中 世 の謡 曲 等 では 「人商 人 」 が都 の子供 達 を かど わ かす こと が テ ー マと な って いる が、 現在
てく る。
の本 」 と は やは り津軽 の こと で、 下人連 の母な る国 は この津軽 ではな いかと の思 いが強 -湧 い
し かし今 津 軽 に居 て、毎 日岩 木 山 を眺 めな がら、 この小 論 を書 いて居 る立 場 からす れば、「日
人達 が、 自 分達 の帰 る べき 「母な る国」 と し て幻 の国 の名 を挙 げ たと解 釈 す る こと も出来 る。
と は 日本 列島 上 に存 在 し た かも しれな い幻 の 「も- 一つの国」を指 し、 「山中 の老 」と さ れ た下
物 によ っては この 「日 の本将 軍」 の後 に 「将 門 の御 孫 」 と あ る場 合 も あ る こと から、 「日 の本」
る 「日 の
も しも こ こに当 時 の下層 民 の歴史 意 識 が隠 さ れ て いると す れば、 現 在 学 界 で問 題 と な って い
米
と い- 国名 が何 故 こ こに登 場 す る のかが改 め て問 題 と な って こよ-。 浄 瑠 璃 等 で
再 興 を果 た す こと にな って いた のかと い- こと であ る。
のオ ク、東 奥 と考 えた。 そ こで、
この東 奥 が太陽 の出 る場所 「日
の本」 とな った。 北東 北 を 「日
の本」 と呼 ぶ こと は秀 吉 の 「北
は奥州 ・日 の本 ま で」 と いう用
例 から も窺 う こと が でき る。 尚、
今 でも津軽地方 を東奥 と呼 ぶ こ
一口に津軽 と言 って
とはあり、「
東奥義塾 」と いう学
校 と か、「
東奥 日報」と いう新聞
があ る。
安東水 軍
も、 弘前市 や黒 石市 のあ る山付
き の中 (
津軽)
郡 ・南 郡 と、 半 島
部 の海寄 り の西郡 ・北郡 と では、
風土 ・歴史 に大 きな違 いが あ る。
弘前 から黒 石 に行 -途中 の垂 柳
れ は中部 以東 に稲作 が及 ぶ以前
(
たれ やなぎ)遺跡 は弥 生早期 の
水 田遺構 とし て有 名 であ る。 こ
に早 - も津軽 で稲作 が始 ま った
こと を意味 し、 日本海 交 易 の問
題等 興味 深 い。 一般 に この地 の
稲作 は鎌倉期 に遡 ると いわ れ、
現在 も稲作 地帯 であ る。 中 でも
黒 石米 は 一等 米 ・献 上 米 と し て
有名 であ る。 これ に対 し後 者 は、
た地帯 で、今 でも夏 の 「やま せ」
近世 に新 田開発 によ って開 かれ
6
0
﹃御 影 史 学 論集 ﹄ こ ち、 一九 七 二年 、 所収 。
﹃御 影史 学 論 集 ﹄ 三号、 一九 七 六年 ' 所収 。
「岩 木 山 と小 栗 山」 に つ いては酒向 伸 行 「rお岩 木 様 一代 記 ﹄ の成 立」(
前注 (
14)
参 照)が あ る。
説経節 山坂太夫 の成立
6
1
による冷害 に悩まされている。 ら 、 こ の説 経 節 山 坂 太 夫 の ル ー ツと な った安 寿 伝 説 の分 布 域 が安 東 氏 の活 躍 し た 地 域 と 深 - 結
こ-した風土 の違 いが'中世 で
は「
内 三郡」と 「
外三部」と い び付 い て いた こと は 当 然 の こと の よ- にも 思 わ れ る。
-政治的な区別として表われ、
安東氏は この津軽外三部 の外、
これと風土 の似 ている下北半島、
(
-) 宝 木 弥 太郎 校 注 ﹃説 経集 ﹄(
﹃新 潮 日本古 典 集 成﹄ 1九 七 七年 )'荒 木 繋 ・山本 吉 左 右菊 江 ﹃説 経節 ﹄(
平
蝦夷 が島を支配した。 それ故'
凡 社 東 洋文 庫 、 一九 七 三年 )。 本稿 の引 用 は凡 て前 著 によ った。
安東氏は日本列島北辺 の海民 の
王と考えられる。 一般 に海民等
(
2) 「太 郎 冠者 論 - 狂 言 におけ る下人 - 」、 弘前 大 学 教養 部 ﹃文 化 紀 要﹄ 第 二 二号、 一九 八五年 。
の非農業民が日本国家 に統合さ
(
3
)
「薮 入 り の源 流 - も う 一つの 「
魂 の行方 」 I 」、 ﹃文 化 紀 要﹄ 第 二三号' 1九 八 六午 .
れるあり方としては、網野幸彦
(
4) ﹃定 本 柳 田国男 集 ﹄第 九 巻 (
筑 摩書 房、 1九 七 二年 )一六 六頁.
によ って神社 の神人とな る方式
(
5) 「下人 と 犯罪」' ﹃文 化 紀 要 ﹄ 第 二四号' 一九 八 六年 。
が考えられているが、外三部 の
住民 の場合、鎌倉幕府 の支配下
(
6) ﹃定 本柳 田国男 集 ﹄ 第 七巻 (筑摩 書 房 )所 収。
で'北条氏得宗家 の被官 ・御内
(
7) 同第 二巻 所 収o l 二 一I 1 l五頁O
人となると いう コースがあ った
(
8) 同第 四巻 所 収 。 二七 三 、 四頁。
と思われる。 西国 で活躍した安
(
9) 同第 二六巻 所収 。
東蓮聖もその 一族と推定 されて
おり、彼等は海運 ・流通 ・金融
(
0
1) 「r
山坂 太 夫 J の原像 」(
﹃舌 代 国家 の解 体﹄ 東 京 大 学出 版会 、 7九 五 五年 )。
等 々の方面 で活拝し、安東水軍
au的 ﹃日本庶 民生 活 史 料 集 成﹄ 三 一書 房、 十 七巻 へ 五来 重 編 「説 教 祭 文」 所 収。
として知られている。若狭 の国
(12) 遠 藤 巌 「中 世国 家 の東 夷 成敗 権 に ついて」(
﹃松 前藩 と松前 ﹄ 九 号、 一九 七 六年 )。
小浜 の羽賀 (
はが)
寺を永享八年
(
13) 恐 ら - この考 え を受 け て であ ろうO 室 木 弥 太 郎 氏 は ﹃説 経集 ﹄ の 「解 説 」 にお いて (
(一四 三 六)四月 に 「
奥州十 三
江 戸時 代 初 期 に
(
-サ)
湊日之本 (ヒノモ-)
将軍
正本 の刊 行 さ れた 「さ ん せう太 夫 」 は' 日本 海 沿岸 を歩 - 垂女 の語 り物 に取 材 し て' これを脚 色 ・改
安倍康季(
やすすえ)
」 が再建 し
作 し て出来 た も の)であ り、 (
﹃お岩 木 様 一代 記 ﹄ は この原作 に近 いも の)と想像 し て おら れ る。 特 に母
た(
「羽賀寺縁起」)とある ことは'
親 の 「お き だ」 が加賀 の国 の出身 であ る こと から、 この物 語 を語 り伝 え た垂 女 は白 山 の丞女 とす る こ
彼等 の活躍を示すも のの 一つで
ある。
と が でき る の であろう か。
1
61
51
4
平凡社 ﹃大 百科事典﹄。
デ メテ ルと ベ ルセ フォネ については吉 田敦彦 「デ メテ ルと ア マテラ ス」(
﹃ギ - シ ャ神話 と 日本神話﹄ 62
みすず書 房、 一九 七 四年、所収)参 照。
宮 本 正章 「あ る rさんせう太夫」伝説 に ついて﹄(
﹃
近畿 民俗﹄ 六 二号、 l九 七 四年)
0
荒木 博之 「
盲僧 の伝 曇 茶能」(
五来 重他編 ﹃
講座 日本 の民俗宗 教7 民間宗 教文 芸﹄弘文 堂、 1九 七九
林雅 彦 「
熊 野比 丘尼 の絵解 き」(
﹃月刊百科﹄ 二二三号)
参 照。林 氏 は ここで、絵解 き が正月十 六日 に
年、 所収)では 「
盲僧 を生 と死 の境界 の鋲魂 者」 と し ている。
は、 折 口信夫 「
古代 研究」(
﹃全集 三﹄所収)
、 石川純 一郎 「韮女 の伝 曇 万能 - 東 北 日本」(
﹃講座 日本 の
行 な われた例 を い- つもあげ ておられ る. な お東 北 日本 の口寄 せ韮女と熊 野比 丘尼と の関係 に ついて
民俗宗 教7﹄ 所収)
参 照。
(
22) 前 注(
3)参 照。 この間魔参 り の日 には、寺 の門前 の闇魔堂等 に 「地獄変 相 図」 がかけられた。 現在
でも この日 「地獄絵」 を かけ、 一般 に公開す る寺 は多 い。
(
23) ﹃定本柳 田国男集﹄第 九巻 (
4)参 照)、 二七 一、 一六六貢。
前 注(
(
2
4) ﹃和辻 全集﹄第 三巻所収。
(
5
2) ﹃定本柳 田国男集﹄第 八巻所収。
(
26) 旧題 ﹃1寸法師﹄ 弘文 堂 (アテネ文庫)、 1九 四八年、 講談社名著 シ- 1ズ再版、 1九 六六年。
(
27) 日本 にお いても、 この 「ヴ ィーナ ス像」 から直接影響 を受 けた 「土偶」 が存在 し、 これを大地 母神
はご く例外的 で、亀 が岡文化 におけ る遮光 器土偶 と いう目 に特徴 のあ る女神像 がむ しろ特徴的 であ る
とす る考 えは大方 の賛 成 を得 て いるよう に思 われ るが、 日本 にお いては大地 母神1 母子神 と いう発 展
と思 われ る. 米 田耕之助 氏 が ﹃土偶﹄(ニ ュI ・サイ エンス社、 1九 八四年)で述 べ ておら れ るご とく、
今 も し この日 が 「死者 の日を表現 したも の」 で、 土偶 の出土状況 からも 「土偶 が死者 と深 く かかわ っ
て いた」とす れば、「冥界 下り」を行 う シ ュメ ー ルの女神 イ ナ ンナ、 ア ッシ- ア の女神 イ シ ュタ ル或 は
ギ リ シ ャの女神 ベ ルセ フ ォネ等 と共 通す る性格 を見出す こと が でき、土偶 からイ タ コ へと いう 母神崇
拝 の流 れを認 め る こと が でき る のではあ るま いか。
(
28) 「在地 の語 り物 と漂泊 の文学」 五 「大地 の神 々と韮女」(
﹃さんせう太夫考﹄ 平凡社選書、 T九 七 三年、
所収 )
。
荒木繁 もま た 「
説経節 とそ の語 り物 に ついて」(
﹃前進座﹄三号、 一九七九年 )にお いて 「rn,
んせう太
「山坂 太夫伝説 の成立」(
前注 (
15)参 照)
0
すぎな い」 とし ておられる。
夫L は実質 は金焼 き地蔵 の霊験談 であり縁起物 な のであ って、形式 とし て本 地語 り の体裁 を取 った に
前注 (
28)
参 照)
所収。
(
31) ﹃さんせう太夫考﹄(
(
33) ﹃文学﹄ 一九 八〇年 十月号。 七 四五。
5
2,
.
.
(
酌 新潮社、 1九 七七年.
王' 石塔九 なり」 とある。荒木繋 ﹃説経節﹄(
平凡社'東 洋文庫 S:
)「解説 ・解題」参 照。
浄瑠璃通鑑」(
安永 三年序)には 「
其 五説経 とは信 田妻、墨 田川、愛護、津志
(
34) ﹃済生堂 五部雑餐﹄ の 「
10)
参 照。
(
35) 前注 (
沖浦和光 ﹃日本 の聖 と購 中 世篇﹄(
人文書院' 1九 八五年)でも取 り上げ て いるよう に中世 には散所 で
前注 (
Nc
y
,
)参 照︺解説。 な お柳 田国男 が 「山荘太夫考」の中 で' また野間宏 .
(
36) 室木弥 太郎 ﹃説経集﹄ ︹
の長官 の名前 で'散所 とは直接関係 がな いこと にな る。
あ った土佐 の赤 岡部落 には 「さんし ょ-太夫」と呼ば れた陰陽師 が いた のだ から、「山坂 太夫」は散所
石井進 ﹃
中 世武士団﹄(
小学館 版 ﹃日本 の歴史 12﹄' 一九 七 四年)
。
前掲論文 ︹
前注 (
33)
参 照︺特 に'「二趣向 - 拷問弄」 の注(
3)参 照。
網野幸彦 「
芸能 の担 い手 と享受 の場」(
小学館 ﹃日本民俗文化体系7 演者 と観客﹄所収' 二〇 五貢)
0
「山坂 太夫伝説 の成立」(
前注 (
10)
参 照)
。
薮 入りと エレウ シ スの祭 り の特徴 であるオ ルギ アと の関係 に ついては拙稿、 前掲 「
薮 入り の源流」
戯曲 「さんし ょ-太夫」(
﹃
前進座﹄第 三号)
。
-'参 照。
朝 日新聞 ・青森 版 ・昭和 六十 7年 二月 二十 日付 「津軽鉄道物語 4 川倉」には'現在賓 の河原委員長
﹃
狂言集 上﹄(
岩波書店 ﹃日本古典文学大系 42﹄
)
0
を務 め'寿 の川原 の歴史 研究 やイ タ コの聞 き取 り調査 をし てきた工藤与右衛門氏 の談 が載 って いる。
説経節 山坂太夫 の成立
6
3
( ( ( ( (
41 )
40 )
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3
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こ こで氏 は (
「
神 つけ の式」 の四週間前 から行 に入 り 三度 の食 事 は茶碗 7杯 の御 坂 と な り' 1週間前 か
ら は断食 に入 り行者 小 屋 で経文 を唱 え つづけ る。 「
気 が狂 いそ- にな り' 逃 げ出 そ- と思 った こと も
あ った」と話 す イ タ コも いた)と あ る。 な お 「即身 仏 の修 業」に ついては内藤 正敏 ﹃ミイ ラ信仰 の研究﹄
上井 久義 「
女 性 司祭 の伝統」(
小学館 ﹃日本 民俗文化 大系 4 神 と仏﹄、 一九 八 三年 、 所収 )。
(
大 和書 房、 一九 七 四年)
参 照。
昭和 六十年 一月 三 目付 け の朝 日新聞 「
声 」 欄 には仙台 市 に住 む橋 川衛 左美 氏 が 「
伊達 藩 の風 習継 ぎ
は今 でも継 東 され て いると は いえ、 昔気質 の老 人 の いる旧家 以外 では' ほと んど影 を ひそめ てしま っ
三十 日 に年 越 し行事」 と題 し て投稿 されたも のがあ る。 「
仙 台 市 は伊達 の城 下 町 であ る から そ の風 習
た。 (
中略 )こ- した手数 を終 えた年 越 し の晩 は神 棚' 床脇 、 台 所 の神 棚 (
竜 神、 水神 )、 屋敷 内 の明神
ま でま こと に見事 で、 ど の部 屋 も飾 り付 け で正月気 分 を かも し出 す情 景 は、 他 の地方 ではち 上 つと見
ら れな いと思 -。 これも そ の家 の主 人 がす る習慣 にな って いる から、年 越 し の晩 は、 コマネズ - のよ
「さん せ-太夫 におけ る (堤)
」(
﹃
続 さんせ-太夫 考﹄ 平凡社 選書、 一九 七 八年、 所収 )
。
- に働 かな け れば な らな い。 (
後略 )
」
子供達 が お菓 子 の家 の魔 法使 いの御婆 さん
これはグ - ム童話 ﹃ヘンゼ ルと グ レ ーテ ル﹄にお いて、 (
前注 (
39)
参 照。
家 分 け第 十 東 寺文 書 之 二﹄ 六〇九 五、東 寺 百合文 書 ・は ・九 二。
化 紀要﹄ 二四号、 一九 八六年。
藤 木 久志 ﹃
戦 国社会史 論﹄(
東 京大 学 出版会、 一九 七 四年 )。拙稿 「下人 と犯罪」'弘前 大 学教養 部 ﹃文
双紙要 文 紙背 文 書 十 二 - 十 三紙' ﹃鎌倉 遺文﹄ 十巻、 七 二六七号。
﹃大 日本古 文 書
り の膨 ら みを可能 と させた ことと似 て いる。
って いた)と あ る こと が、 継 母 によ る恐 ろ し い子殺 し の場面 を 「お菓 子 の家」に置 き直 した こと で物 語
を殺 し て、 宝物 を持 って家 に帰 ると、 継 母 は死 ん で いな -な っており、 優 し い父親 が 二人 の帰 りを待
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