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初期人物描画プロセスの一考察
愛知教育大学 幼児教育研究 第16号 初期人物描画プロセスの一考察 愛知教育大学非常勤講師 水野 道子 1 .はじめに 小中学校における美術(図画工作)教育、幼稚園や保育所における造形表現教育は幼児・児童・生 徒が健全にトータルに成長、発達するための援助・支援をする一手段であり、一側面である。したがっ て、指導するうえにおいては子どもの心身の機能の特性の把握や、その発達過程の理解が基礎となり、 出発点となるべきと考えられる。 ところで、一般に私たちが考えがちなのは、芸術活動が非凡な才能をもつある特殊な人が行うもの との認識である。しかし、すべての人々は生まれながらに感じたものを表現するという本能を持って いて、とりわけ幼児期、児童期の子どもは芸術家に例えられるほど表現活動に意欲的であり、さらに その能力は心身の成長にともなって発達していくと考えられている。描画は、子どもの遊びや生活に 深く浸透し、認知発達や人格形成に多大な影響を与えているのである。これまでの描画発達研究を概 観すると、従来は、描画成立以後の年長幼児や小学校児童を中心に進められてきた。(Thomas&Silk, 1990; Bremner, 1996; Luquet, 1927)描画成立以前の 3 歳ごろまでの初期描画に関してはほとんど研 究が進んでいないものの、山形(1999)のシンボル形成と描画の結びつきを調べた縦断的研究は、 示唆に富むものである。水野は本研究のスタートとなる調査を既に行っており本研究において新しく 得られた結果と合わせて分析していくことにした。また Lowenferd(1947)によって提唱された描画 発達理論は、美術教育分野において広く影響を与え続けてきた理論であるが、初期描画に関して新た に再検討することも視野に入れて研究を進めている。 年少幼児までの初期描画発達段階は、シンボルの萌芽が生まれてそれを実際に具現化し始める興味 ある段階であり、初期描画発達の解明によって年少幼児の描画発達の基礎を理解することのできる機 会でもある。子どもの発達初期の描画の成立にどのような要因が関与するのか、子どもの描画表現が どのような知覚や感覚に依拠するのかを調べていくことはきわめて重要な問題であり、有意義な研究 であると考えられる。 2 .問題 幼児はなぐり描きから、次に、物の形を描く段階へと移っていく。その最初に描く人物は、まるい 頭だけの人物だが、次に足を描き加えて、頭・足表現へと移行する。これは、社会や地域に関係なく どの子どもにも見られる一般的な変化と考えられている。しかしここで疑問になってくるのは、なぜ 足であって、手や胴体ではないのかという点である。 子どもの描画発達の研究におけるこれまでの仮説を見てみると、絵画表現の発達過程は文化や性別 に関係なく普遍性を伴うと指摘されている。 (Arnheim 1983)また、ピアジェも子どもの認知の普遍 的傾向は文化圏や国に関わらず質的に違いはなく段階移行するとしている。 (Piaget 1952 1969)子 どものどの年齢段階までにこうした普遍性が当てはまるか子細の検討は別にして、このベースに立脚 して幼児の初期描画に焦点を合わせると、描画上に表現として表れる造形処理の仕方は子どもの認識 − 83 − 初期人物描画プロセスの一考察 の発達に因るものであり、幼児の描く絵に一般的に足が出てくるというのは、そこに幼児の認識の発 達上のひとつの法則(特質、特徴)があるからであると考えられる。 人類は四足歩行から、直立、二足歩行の能力を獲得してきた。子どもは一人一人の個人的な成長や 発達の過程の中で直立、二足歩行を個人史的に繰り返し獲得してきていることになる。ハイハイをし、 つかまり立ち、伝い歩きをし、よちよち歩きが始まる。立ってはころび、ころんでは立ち、そしてま た歩く。全力を注ぎこんで歩くという能力を獲得していく。そこでは、立つ、歩くという足の機能が 最も重要となり、こうした経験の中で子どもは足に対して特に大きな意識を抱くのではないだろうか。 手も大切な機能には違いないが、これは乳児が横になっている時期つまり意識以前の段階から無意識 的に使い続けてきているので、特別な存在、特別な機能として子どもにそれを意識させる機会がなかっ たのではないだろうか。一つの時期に、歩行開始という大事業を成し遂げた足の存在とでは意識のさ れ方が異なっているのではないだろうか。そこで物の形を描き始めた幼児が人物を描くとすれば、ま るい頭の次に意識が強く働いている足が描かれることになる。 したがって、本研究においては次のような仮説を立て実証を試みることにした。 「幼児が描く初期人物画いわゆる頭足人表現にみられる足の描出は、歩行という実際の体験に起 因するものである。」 仮説が正しいとすれば、歩行の困難な肢体不自由児の初期の描画では、頭・足表現は、希薄なので はないかと考えられる。肢体不自由児の初期描画作品を調べて足が描出されていなければ、歩行可能 な子どもの頭・足表現は歩行という経験が基になっていることが証明されることになる。 そこで子どもの描画をその場で描いてもらう機会をお願いできる愛知県内の肢体不自由養護学校を 各所当たった結果、好意的に受け入れていただける養護学校があり、この研究をすることが可能となっ た。全国的にも数少ない幼児在籍の幼稚部付設の養護学校である。 3 .文献研究 藤江(1983)によれば、最も早い時期に子どもの描いた頭・足表現に着目した人々の中の一人に、 心理学者の J・サリー(1842 ∼ 1923)がいる。その著書 Studies of Childhood(1895)において、 「頭 と足だけで胴体のない人物像」として指摘し、胴体を省略することを「表現の抽象的様式」と呼んで いる。 その後、児童画研究で高名なH・エングは、その著書『児童の描画心理学』 (1931)の中で「ドイ ツの児童心理学者が、この原始的な形の人間画について述べている。頭と脚だけでできているので頭 足類」と記述している。 二十世紀初頭においては、人物の頭・足表現という年少幼児独特の描画表現の形式があることに気 づき、指摘された時期であった。しかしまだなぜこのような描画表現形式がとられるのかについての 検討は、試みられていなかった。 この解明が文献上にあらわれてきたのは G・H・リュケ(1876 ∼ 1965)の頃である。しかしリュ ケは頭・足表現そのものについては、直接触れてはいないが、「たいていの子どもたちの人物画を見 ると、初期にはずっと衣服がついていない」、 「たいていの子どもたちの人物画には長い間、腕がない」、 「大きさという点から言えば見逃すということは考えることもできない胴体の部分を、はじめのうち はずっと無視し続け、注意されてもいっこうに直そうとしないのは、疑いもなくその有用性がわかっ − 84 − 愛知教育大学 幼児教育研究 第16号 ていないからである」と著作『子供の絵』(1927)の中で述べており、胴体が出てこないのは、その 有用性が子どもにわからないからだと解釈している。 R・アルンハイムは、その大著『美術と視覚』 (1954)において、この頭・足表現についてかなり のページ数を割き、推論を試みている。 「写実的偏見に基く誤解がおそらく最もはっきりしているの はオタマジャクシ的人物の場合である。これはフランス語では homnes têtards(頭だけの人) 、ドイ ツ語では kopffüssler(頭足類)といわれる。通俗的にはこの非常によく見られる絵は、子どもが胴 体を描くのを忘れて手を間違って頭や脚にくっつけたのだとする。これが 4 歳児の描いた絵である (図は省略)。(中略)しかし発生のプロセスを見るならば、このような説が正しくないことがわかる。 (中略)次の 2 つの型がある。円が頭と胴体の未分化な表現である。したがって、子どもがそれに手 足をつけるのは全く筋が通っている。 (中略)もうひとつの型は(中略) 2 本のタテの平行線が胴体 と脚の未分化な表現であり、円は頭に限られる」以上がアルンハイムの所説である。ここでは、頭・ 足表現における足は「未分化な総合体」であるとの見解のもとに、幼児の表現は未分化であるために 区別が十分に描き表されていないとしている。 アルンハイムの表現未分化説に近い考え方は J・Goodnow(1977)、鬼丸(1981) 、加藤義信(1991) の研究にも見られる。しかし、大人と比較して幼児の思考や表現が未分化であるとしても何故そこに 「足」が出てくるのかという疑問に答えるものではなく、さらにまた足と胴体が一緒になった未分化 な表現であるとするならばそのことを、実際に証明していく必要があると考えられる。 以上見てきたように、 「頭・足」表現に関する研究は、初期の段階ではそうした描画表現が幼児の絵 に見られることへの発見と指摘にとどまっていたが、次の段階では、なぜ「頭・足」表現が出てくるの かへの解釈が試みられるようになってきていることがわかる。こうしたなか、今後は幼児の「頭・足表 現」を推論するうえで、現実の事象に照らし合わせて実証していく時期に入っていると考えられる。 4 .方法 対象児 女児N・I( 5 歳)愛知県在住児を対象児とした。下肢は誕生時から不自由で日常自立歩 行は不可能である。座った状態での直立の姿勢の保持は、しっかりしていている。上肢については特 に問題は見られず、クレヨンやペンを用いて一人で描くことができる。知的な大きな遅れは見られな い。対象児の条件としては、 1 .肢体不自由の中でも、足に不自由があって歩行が困難である、 2 . 知的には、なぐりがきから物の形を描く段階へ移行してきている、 3 .形を描くうえで、養育者が大 人の知識や概念を教え込んでいない、以上三点が挙げられるが、障がいの重度重複傾向で12名の在 籍園児の中で条件に合致するのは 1 名のみである。 実施期間 平成21年 7 月 9 日、 9 月29日、いずれも午前中に実施した。 手続き 保育室の中、対象児は椅子に座った状態で小テーブルの上で、好きな人( 7 月は母親を、 次に兄、各先生とつづく、複数の人物、 9 月は母親と担任)を線描で描く。用紙は幼稚部での保育に 用いている画用紙(B 4 )及び調査者が用意したスケッチブック(A 4 横大)を使用した。筆記用具は、 サインペン及びクレヨンで好きな色を選ばせた。調査者は 1 名、及び養護学校教員( 7 月は 2 名、 9 月は 3 名)も見守る形で参加していただく。 対象児は乞うままにつぎつぎに知っている人を描いたが対象児が描くことに興味を失った場合には 全く強制はしなかった。いつもの慣れた保育室の中で行うことや、無理なく描画に取り掛かることが できるよう教員と協力して対象児に対し言葉掛けをした。描画はデジタルカメラも用いて撮った。対 象児が描いた一枚目は写真で、二枚目は実物を持ち帰って検討した。 − 85 − 初期人物描画プロセスの一考察 5 .分析結果 第 1 図は、平成21年 7 月に描いた描画。クレヨン で大好きなママを描く。一番に丸を描き、つぎに顔の 部分を描き、向って右側の腕と指とバッグ、向って左 側の腕と指の順番に描く。担任教師によると、朝の送 りの時に、担任と母親は母親が持参していた新しいハ ンドバッグについて対象児の前で会話をしたことを覚 えていたのではないかと話した。このように詳しく描 く一方で母親の足は全く描かなかった。次に右下に兄、 左に担任の先生を描くが疲れてきたのか頭のみ。手や 図1 足は描かなかった。 第 2 図は、第 1 図と同日引き続いて別紙に描画材 を選びなおし描いたものである。サインペンで右側に 主事先生、左側に調査者を描いた。頭の輪郭を描いた のち顔の部分を描く。人を描いているうちにだんだん 頭の大きさが小さくなってきたため、顔の細かい作り を描きにくくなってきた様子であるがそれでも顔の部 分は必ず描いている。手や足は一切描かなかった。疲 れてきた様子もありここで終了した。描画時間は全体 図2 で約10分である。 第 3 図は、 2 ヶ月後の 9 月に 7 月と同じ手続きで人 物画を描いたその一枚目である。前回と同じ大好きな ママを好きな色のサインペンを選ばせて描いた。B 4 の画用紙に描く。前回よりも大きく頭を描いている為、 顔の部分をはっきり描くことができた。まるい頭の両 側から手を描き、指を五本描いている。そこで、ペン のふたを閉める動作に入り描き終えた。 2 分で描く。 図3 第 4 図は、第 3 図を描いた後、今度は、A 4 スケッ チブックにサインペンの色を変えて描く。担任のO先 生を描いた。この絵も大きく頭の輪郭をとった。その ため、目や口を大きく描くことができた。手を大きく 描く。指も描くものの、足には全く関心がないのか、 描くことはなかった。 2 分で描き、やはりペンのふた を自分で閉じた。 図4 − 86 − 愛知教育大学 幼児教育研究 第16号 6 .考察 過去の調査(竹内・水野 1985)では、小学部に在籍している子どもたちの描画を対象にしていた。 年齢からみれば実際には初期描画の範疇に当てはまりにくい部分も存在する。調査対象児童の年齢が 九歳、十歳でありながら選ばれているのは、肢体不自由児の中には知的発達の遅れのある者もあり、 知的発達が遅い場合その表現活動にも遅れが見られると判断して実施したからである。しかし厳密に 考えると知的発達に遅れのある子どもたちに特有の状態があるのではないかの見極め、吟味をする必 要があった。また、下肢に不自由がある子どもたちには上肢の麻痺も重複して顕れる場合があり、腕 で描く描画ではうまくペンをコントロールし難い可能性がある。結果、下肢に不自由があるから必ず 足の表現が希薄であると言い切るには難しい側面があったことは、否めない。 一方、新たに行った今回の調査では、対象児の知的発達は、ほぼ通常のレベルであり、描画を行う 上での困難さは特に見られなかった。描画の産出は三次元対象を二次元表示に変換して表す操作であ る。知的発達に遅れがある場合、表現がしばしば固定化することがある。今回第一回目の調査( 7 月) では手だけでなく手にハンドバッグを持たせるなどして身近な日常に体験したことを併せて描いてお り、表現に柔軟性があり固定化は見られない。本児には生活への興味や関心の広がりが見られた。そ れにも拘らず、足を全く描かなかったことについては考慮する必要がある。また今まで担任の先生方 も気づくことがなかった事実であるらしく、一様に驚かれていた。対象幼児は他の障がいも併せ持つ 為、健康面、治療面に比重を置いた生活であったと考えられる。これまで絵を描く頻度は家庭におい ても、幼稚部においても少なかったとのことで、ようやく絵を描けるような生活ができるようになっ てきた模様である。 7.まとめ 本研究は子どもの描画に働くメカニズムの中で、特に初期描画のなぐり描きに続く段階、物の形を 描きだす上で意識の中で運動感覚、歩行が大きく関わっている結果を得た。幼児の「頭・足」表現は、 仮説通り足を主体とした直立、歩行という発達上重要な体験に基づいて描出されたものであるという ことが強く示唆された。事例数、データとしては少ないが、さらに事例を積み上げ検討していくもの である。ところで今回の研究課題に該当するような対象幼児を広く探していくには様々な点で困難さ を伴うが多くの描画事例にあたり検討を加えたいと考えている。 文献 Arnheim, R. 1956 Art and visual perception: A psychology of the creative eye. 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