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江戸時代には幕府によって日本人の海外渡 航が禁じられてい

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江戸時代には幕府によって日本人の海外渡 航が禁じられてい
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漂流記の奥書
[徳兵術珊之趣聞取書
西今町野々口屋佐一郎」とある
一
一
1
−
−
今回発見された徳兵衛の漂流記毅助の後、サンフランシスコに入港したとの記述箇所
江戸時代には幕府によって日本人の海外渡
航が禁じられていたため、一般の庶民が異国
や異文化と接する機会は乏しい状況でした。
けれども、海運の発達によって船舶の航行が
増加したことから、海難・漂流の機会も増え、
その結果として異国人と交流した人々も少な
からずいました。
ここに紹介する資料は輪嘉永3年︵1850︶
かこ
に海難事故で漂流し、アメリカ船に救助され
て帰郷した備中出身の水主・徳兵衛が語った
漂流体験を、津山城下西今町の野々口屋佐一
郎が聞き取って書き留めた﹁漂流記﹂です。
この時、徳兵術と共に漂流した人物として有
名なのは、ジョセフ・ピコの異名で知られる
播磨出身の彦蔵です。
徳兵衛の漂流記としては、郷里で聞き書き
された﹁漂客夢物語﹂が既に知られています
が、この資料は市史編さんに伴う近世部会員
の資料調査で新たに発見されました。聞き取
りの経緯までは記されていないため、野々口
屋佐一郎と徳兵衛との接点は不明ですが、ペ
リー来航・日本開国の衝撃によって、津山の
町人の間でも異国への関心が高まっていたこ
とをうかがわせる貴重な資料です。︵小島︶
軍
︵部会長”狩野委員、副部会長“今津委員︶
◆古代部会
し、u月犯・羽日には巡見を行い、美作国
8月四日於郷土博物館研修室
正が協議されました。その中で、新しい市史
の官道沿いの白鳳寺院跡や郡簡の跡などを
剛勇麗第丁回
まず、7月から新しい任期を迎え、いずれ
のタイトルは、古い市史との混同を避けて﹁新
皿月に部会を開いて資料編について協議
も留任された委員の皆さんに教育長から委嘱
1
弓
現地調査しています。今後も資料編出版に
弓
修津山市史﹂とすることが決まりました。
︵部会長函三好委員、副部会長恥久野委員︶
引き続き関係各所の資料調査を実施して
います。7月別日には、古代・近現代部会
古代部会での巡見の様子
状を交付し、正・副委員長を選出しました。
雫一で悪圃■厚一
◆中世部会
●
向け、資料調査・整理を実施します。
部会通信
︵部会長恥河本委員、副部会長亜可児委員︶
◆自然風土・考古部会
考古資料編の掲載遺跡を、編集方針に基
づき時代や地域性を考慮して、旧石器時代
から近世まで239遺跡︵旧石器罪皿遺
跡、縄文”9遺跡、弥生”弱遺跡、古墳︾
100遺跡、古代”羽遺跡、中世“恥遺跡、
近世函舶遺跡︶に絞り込み、執筆担当も決
定しました。これら時代別の遺跡数から、
本市では旧石器・縄文時代が少なく、弥牛
時代から遺跡数が増加し、古墳時代がほと
んどを占めることがわかります。資料編は
平成羽年度、通史編は釦年度刊行に向けて
作業に取り組んでいます。
2
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また、掲載資料の筆耕要領や本文の仕様につ
雪
その後、率務局から事業の進捗状況が報告さ
﹄一
二
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雪
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いては継続審議となりました。
一
与毎
I
霧
れ、事業の進展に伴う編さん計画の若干の修
煙:
と合同で、美作一宮である中山神社の調杏
を行い、神社所蔵の中世文書を確認しまし
た。廻月6日には部会を開き、資料編につ
いて協議しています。
◆近世部会
︵部会長亜前原委員、副部会長“安倉氏︶
◆民俗部会
編さん事業の経過︵平成刀年7月∼︶
8月8日第5回考古部会
7月加日市史講座︵講演会︶
して、執筆者の安倉氏を中心に阿波民具展
8月皿日第1回編さん委員会
市内各所を回っての聴き取り調査と並行
示館や加茂町歴史民俗資料館の民具調査も
8月
の項目案を提出し、その集約結果をたたき
7月末を期限として部会員全員が通史編
に関する調査も進んでいます。民話につい
行いました。そのほか、祭礼調査や﹁食︲
で旧めぐみ荘︵民具展示室︶の民具調査を
u月1.賜日近世部会巡見
Ⅲ月即日近現代部会資料調査︵勝北︶
皿月皿日第2回古代部会
9月釦日近現代部会資料調査︵勝北︶
9月型∼恥日京都府立大生民俗調査
9月別日第2回近世部会
﹁市史だより﹂第3号発行
進めています。9月型日∼妬日には、京都
台として、9月の部会で全体の大まかな内
ては、大井西、倭文、阿波、綾部などで調
府立大学の東昇氏と学生4名が、泊りがけ
容構成と森家時代の執筆分担を決めまし
査を行いました。
︵部会長︾定兼委員、副部会長”在間委員︶
た。n月には、津山の旧城下町エリアで巡
n月銘・羽日古代部会巡見
,=
見を行い、町割の概要や重要施設の所在な
四月5日近現代部会資料調査︵久米︶
廻月6日第1回中世部会
︵敬称略︶
Q
ど、実地を歩きながら確認しました。今後
は、館蔵未整理文書や個人所蔵文書の調査
を進めていきます。
︵部会長︾在間委員、副部会長叩香山委員︶
◆近現代部会
部会全体としては、9∼Ⅲ月に勝北歴史
ます。
※各部会の執筆者として、新たに左の
方々が加わりましたので、ご紹介し
アシスタント・コンサヴァター
平松里美絵画修復スタジオ○富国
秋田麻早子美術史研究家
民俗
○
民俗資料館の保管資料を2回に分けて調査
しました。今後も、久米歴史民俗資料館な
ど、各資料館保管資料の調査を続けます。
各執筆者も個別に、津山町議会議事録の調
査・撮影、堂尾地区での自由民権関連聴き
取り調査などを行っています。当面の目標
である資料編の編さん・刊行に向けて、着々
と準備を進めています。
京都府立大学生による民具調査の様子
l津山市史関連研究からI
②第副国
加月四日
いかだ
吉井川の筏
前岡山県立記録資料館館長
在間宣久氏
︵編さん委員/近世・近現代担当︶
でのはて幕がれた在ら:妾害跨を喋湖脅皇窪
まちさく
し運な明で例都
津山の城下町と町作
燕蕊議鍵蝋謎:
離職灘撚加測馴?常男
津山市教委︵生涯学習課︶・美作大学共催
E
毎回好評でしたありがとうございました
8月四日
郷士博物館館長尾島治
︵編さん室職員/近世担当︶
まず、古い市史での﹁町作﹂
﹁作人﹂に関する記述を確か
め、作人が零細だというのは
本当なのか?との問題を提起
〆﹄﹄
4
しました。
そのうえで、津山の城下町
における作人の分布や町作と
作人の関係を分析し、作人が
全て零細なのではなく、また
町作地の所有者は作人だけで
なかったことを明らかにしま
した。
そして、町作地・作人の支
配系統が複雑だったため、年
貢収納をめぐる混乱が生じた
事例を紹介したうえで、まと
めとして町作とは城下町居住
者が耕地を所有して耕作を行
うことであると確認しまし
す勝い起府錨ま両と筏にまにと大ら降ため津
・訴ずこ領綜当し者、流触と調そを正、のかて川ま
でれりとし時たの吉しれま査し確り筏新を、やず
終も、津ての。紛井と、つさて認昭流聞説ど木筏
美作学講座
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岡山県内においては、口縁部形態よりも鉢部と
覆部の形成過程の方がより顕著な特徴差が認めら
8
耳
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体部
9
面
5
1-1縁部
1
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突帯
●資料紹介
な近と関代器どこにる〈日市て極と部半土
変畿、す以のがと煤が、常内お端しかかす
イヒ地鉢る降本あかが、出的でりにたららる
が方部論で格るら付具土には、少近関古時
明をと考あ的。、着体状使、例な縦東噛期
ら中覆がりな火し的況用現外い地地時が
か心部多、研をてになさ在的が方方代短
に(二とい現究焚いはどれまに、にに前〈
れるため、これをもとに分類と時期区分が提示さ
底部
てあぶりがたどき
・分部形9手いのいさ数さてる報出県・代次
空類の技7陪うも。れがらい・告土を九後に
間法形法0形説あ内て少にる津さ数中州期、
的が態に年土なる部いな、。山れが心北後出
れている。形成過程は大きく3つに分けられ、一
3
宮崎絢子
u縁端部
津山市内の手賠形土器について
般的にダルマ型と呼ばれる鉢部と覆部が一体化し
5
たもの、いったん鉢を完成させてから覆部を形成
(高橋一夫「手陪型土器の研究』六一書房1998より)
するもの、皿もしくは浅鉢状の底部を作り、その
7
本稿では平成巧年に寄贈を受けた手陪形土器と
現代の手陪火鉢の例(上)と手陪形土器の部分名称
上端に立ち上がりをもたせた鉢を完成させてから
覆部
称する土器について紹介し、併せて津山市内の手
2
覆部を形成するものである。
開口部
賠形土器を概観したい。あまりなじみのない土器
6
であると思われるので、まずは土器の概要を説明
鉢部
する。
1手焔形土器の概要
手陪形土器とは弥生土器の一種であり、現代の
手陪用火鉢に似た形であることからこの名前がつ
けられた。おおむね鉢形土器の口縁部に円錐形な
いし半球形の覆いをつけ、覆いの一側面に半円形
めん
に切り取られた開口部がある。器高及び口径は過
∼加皿程度である。
まず、この土器のもつ特徴的な部位として、面
いI〕にと態め用変か祭べ2い3地阪まる
つ着接そ点さたもだら土の土’11いら前ら
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と耳がある。面は、覆部側の開口部の口縁で、拡
張したり装飾が加えられたりする。耳は、開口部
両端付近の口縁部から覆部にかけての部分に貼り
付けられた小さな耳状の突起である。面はどの手
陪形土器にもあるが、耳は付けられるものと付け
られないものがある。
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高橋谷遺跡出士の手陪形土器トレース図(左)と写真
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不 鉢 付 て 貼 に な 共 紐 で 上 方 ず つ 内 頂 時 期 井 谷 、
明 形 著 つ I う し つ に を あ 部 向 か か 行 か 代 か 戸 遺 高
であるが、弥生時代後期末から古墳時代初頭のも
のと推定される。
3津山市内の手賠形土器の特徴
先ほど紹介した高橋谷遺跡のものに加え、津山
市内で出土した2点の手陪形土器を紹介し、市内
の手陪形土器の特徴について簡単にまとめてみた
い。
・天神原遺跡出土品
天神原遺跡は津山市河辺地内の古墳や集落を含
む遺跡である。手陪形土器は住居杜の壁溝から出
土した。籾部の一部を除いておおよそのかたちが
復元できる状態である。
鉢部は平底で、浅鉢状の底部の上端に垂直の立
ち上がりをもたせた形である。底部と覆部の接合
箇所が突帯状になっており、刻み目が施される。
外面調整は目の粗いタテハケ後横方向のミガキ
が、内面にはハヶメが認められる。覆部は外面に
目の粗いハヶメが、内而には密なハケメが施され
る。面は外側へL字状に折り返して拡張し、刻み
目で装飾される。鉢部口縁の内面を接合而とし、
接合後口縁部を覆うように突帯をめぐらせ、刻み
目を施す。また、種部中央に焼成前穿孔がなされ、
全而が丹塗りされている。焼成は良好で、二次的
に焼けた部分や煤の付着は認められない。時期は
,
6
弥生時代後期末である。
後横方向のミガキが、内面はハヶ調
ちである.丸底で、外面はハヶ調整
いるため、ダルマ型に含まれるかた
中する南部においては、通常使われている鉢形土
のでもある。岡山県内でも手陪形土器の出土が集
通常使われている鉢形土器のかたちとは異なるも
また、鉢の形状はこの時期の津山市内において
浅鉢状の底部と覆部が一体化して
形整後ミガキが施される。覆部は内
器に覆いをつけた手賠形土器も出土しているが、
器
土
手面にハケメとナデが、外而にはハケ
津山市内の手陪形土器はそれとは異なり、いずれ
の
陪
土調整後ミガキが施され、装飾として
もはじめから手陪形土器を作る目的でつくられて
焼成は良好で、二次的に焼けた部分
接合部を突帯のようにつくりだす。
丸く収める。鉢の端部を接合而とし、
小さな突帯が1条貼り付けられてい
浬唱
出
︺
右
く
跡
部
上
び
や煤の付着は認められない。時期は
今回は形成過程や器面調整を中心に手陪形土器
原いて簡単にまとめたい。
跡以上3点の手陪形土器の特徴にっ
についてなどまだまだわからないことが多い。こ
やって知り、どうして作ったのか、またその用途
ないと思われる種類の土器を当時の人々がどう
を紹介した。日常的には使わず、この地域には元々
天手陪形土器は全国的にみても同じ
れらの点については、﹃津山市史﹂編さんを通じ
弥生時代後期末である。
規格で作られているものが少なく、
て当時の津山の人々について学び、改めて考えた
神
連哩
1つ1つの個性が強いという特徴が
いと思う。
よ
お
j
左
く
4おわりに
いるという点も共通した大きな特徴といえる。
ゐ
る。面は端部をわずかに肥厚させて
い
あるが、津山市内のものも同様であ
る。3点それぞれの形成過程や面のつくりが異な
るため、近い時期に近い場所で作られた同じ種類
の土器とは思えないほど個体差がある。しかしな
がら、鉢部口径が恥、前後とどれも同じくらいの
ガキが施されるなど、鉢部については共通点が多
上部遺跡は津山市草加部地内の集落遺跡であ
部から複部の下半までが復元可能である。
大きさであることや、鉢部の調整では横方向のミ
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る。手陪形土器は住居杜の床面から出土した。底
。上部遺跡出土品
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1
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ロ
向ノー
可司互
芦fl皇
講師︾愛知学院大学准教授劉作勝氏
津山藩主森長継の生母・渓花院の卵回忌供養のため、
しげ
皇
昼
F
△
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里 茎
マベヨ
塞ぎ
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卜
第4号綱集:津山市史緬
〒7
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室
022岡111県津11川iIlI下92津111郷土博物館内
聖
I
、
津山市史だより発行:平成27年l2jllll
⑦津山市史講座︵講演会︶7月邪日開催
会場の様子
隠元が近世の日本に与えた影響l書道文化を中心にI
、
戸
聯0
#
Ih
寛文4年︵1664︶に長継が隠元に依頼して書かれた
■
ノ
詩偶が、倉敷の龍白白院で見つかり、郷土博物館に寄託さ
れました。この資料を鑑定した劉作勝氏を講師にお迎え
して、近世初期に日本に渡来した隠元はじめ黄梁僧たち
による文化的な影響についてご講演いただきました。
劉氏は中国大連市のお生まれで、平成9年に来Hして
大学で書道教育や美術史の研究を重ねられました。隠元
はじめ黄蕊僧の来日前後の中国・日本の書道文化へのご
造詣が深く、またご自身でも幼少期から害をたしなみ、
響の作品での受賞歴も多数お持ちです。
ご講演では、まず隠元来日の経緯からひも解かれ、当
凸●岨
(
8
)
幻
時の日本で単に黄壁宗が広まっただけでなく、インゲン
豆や煎茶、原稿用紙や明朝体など、さまざまな中国の文
物が受容されたことを紹介されました。そのうえで、隠
元の諜の特徴や源流を明らかにしながら、n本の書道界
に与えた影響の大きさを力説されました。
お話はとても流暢で、時には研究上のこぼれ話もユー
モアを交えて紹介され、終始なごやかな雰囲気でした.
会場をほぼ満たした㈹名の聴講者の皆さんは熱心に聴き
』
入り、質疑応答でも多くの質問が出され、盛況な講演会
となりました。
ク
TEL:0868-22-5820FAX:0868-23-9874Eメール:tsu-haku@tvtnejP
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