Comments
Description
Transcript
「心の在処」
2015 年度 7 月 5 日 麻生教会主日礼拝説教 「心の在処」 ルカによる福音書12章22節~34節 久保哲哉牧師 1.御言葉から慰めを得る必要性 先週の月曜日、教会員であるSさんが天に召されました。麻生教会に赴任してから2年 と3ヶ月をすぎた所ですが、9回の葬儀を司式しました。教会員ではない方もおりました から、赴任してから現住陪餐会員の約1割の方々を天へと送ったことになります。愛する 兄弟姉妹を天へと送るたびに、教会は本当の悲しみで覆われることを感じます。 葬儀の際、麻生教会に来てから、牧師は3回、説教を準備をするようになりました。3 回の説教で1本の説教というか、1本の説教を3分割するというか。ともかく3回語るよ うになりました。 まず、遺体を棺に納める際に、納棺式を行います。ここでは本来、祈りだけで済ませる こともできるのですが、麻生に赴任してから、ここでも、慰めの説教を語る必要性を感じ まして、ここで御言葉に聞く機会を作っています。ここではキリスト教式の葬儀の説明と、 天に召された者の人生が祝福の内にあったことを悲しみの中にある遺族と共に分かち合い ます。そして前夜式では天に召された方の信仰と生涯をひもときながら、主キリストの十 字架による罪の赦しと復活の希望の御言葉が語られます。故人と守る最後の礼拝ですから、 手は抜けません。気を引き締めて望みます。 そして3度目は出棺前の告別の葬儀式。すでに福音は前夜式で語り終えていますから、 御言葉を語るというよりも、故人の証が礼拝の中で御言葉として語られることで、主の栄 光が現されること。さらにそれが聖霊の働きによって復活の希望として語りなおされ、悲 しむものの慰めとなること。そして、信仰者にとっては愛する家族が同じ信仰を持つこと が最大の願いですから、故人の証によって、残された遺族が信仰の扉を開くきっかけとな ることを願って行います。 しかしながら、それだけでは足りないと、私たちには4回目の御言葉が必要だと最近思 わされています。それは、葬儀を終えた翌週の日曜の主日説教、つまり今日の御言葉です。 ここでは、遺族が挨拶のために礼拝に来ることが多いということもあるのですけれども、 信仰の友の死は教会をも揺らすのです。主の慰めの御言葉がなければ私たちは立ち上がる ことができません。教会でも公の礼拝としてやはり慰めが語られる必要があると思わされ -1- ています。 葬儀では色々な不思議なことが起こります。これが聖霊の働きかと思わされることや、 中には神の国の宣教を阻むための悪霊の働きにしか思えないようなことや、色々なことを 経験します。その中で、今回起こった不思議な経験。それは、この度の葬儀に出席された 方はすでにお気づきかもしれませんけれども、今日の聖書箇所についてです。先日の葬儀 ではマタイによる福音書6章25節以下が読まれました。これは遺族から指定があったも のですけれども、その記事のルカ版が今日の説教箇所に当たっているのです。 私たちの教会の説教箇所は皆さん講解説教、つまりルカによる福音書を順番に読んでい ますから完全に偶然です。こういう不思議な巡り合わせに出会うと主なる神は今も生きて 働いておられるとの信仰が新たにされるのを感じます。多くの方々は今日読まれたこの箇 所はマタイ福音書の山上の説教で覚えておられると思います。マタイ版にはない言葉に、 パウロと共に宣教した医者ルカの強調点があると思いますから、そこに目を向けたいと思 います。 2.「小さな群れよ、恐れるな」 まずは 32 節。ここには「小さな群れよ、恐れるな。あなたがたの父は喜んで神の国を くださる。」とあります。マタイにはない恵みの御言葉です。 「恐れるな」という御言葉はルカ福音書ではよく見かける言葉です。 ルカ福音書はその初め、1章において不安と恐怖に襲われた祭司ザカリアに天使が「恐れ ることはない。あなたの願いは聞き入れられた」と福音を語り始めました。また、2章。 幼い日のマリアに主イエスの誕生が予告される場面でのこと。天使は戸惑うマリアに告げ ました「マリア。恐れることはない。あなたは神から恵みをいただいた」。そして今日は 「小さな群れよ、恐れるな。」との御声に聞くことができます。 ここでいう「小さな群れ」とはペトロたち主イエスの弟子たちに向けられた言葉ですが、 これを私たち教会に向けられた言葉としてとることは許されるでしょう。このルカ福音書 が編集された時代、多くの迫害の中にあった小さな群れの教会はこの御言葉に力と勇気を 与えられたに違いありません。 ここでいう「小さな」という言葉は「mikro,j ミクロス」という言葉が使われています。 ミクロですから、本当に小さい群れが念頭に置かれているのでしょう。また、この群れは 「信仰の薄い者たちよ」と呼びかけられています。新共同訳では「信仰の薄い」と訳され ていますが、もともとの言葉は「ovligo,pistoj オリゴ・ピスティス」という言葉です。 「ピ スティス」とは信仰。「オリゴ」は小さいという意味です。オリゴ糖のオリゴです。通常 -2- の糖類よりも分子の数が少ないからオリゴ糖と呼ばれます。反対語は「メガ」です。信仰 が大きければ、主なる神が共におられるとの信頼が大きければ、恐れはありません。思い 悩むこともありません。主が生きて働いておられる。神が養ってくださる。そのことを忘 れてしまうときに、私たちは恐れ、また思い煩います。主イエスはここで「恐れぬ信仰」 を求めています。主なる神を信頼し「思い煩うことのない篤い信仰」を求めておられるの です。 3.「お金さえあれば」とのバアル信仰からの脱却 その中で、マタイ版と異なる部分にもう一度触れましょう。マタイ版では「空の鳥をよ からす く見なさい」とありますが、ルカは「 烏 のことをよく考えなさい」となっています。 からす からす 最近、教会の近くでは 烏 が多くて困っています。 烏 はとても賢い鳥です。オウムのよ うに人間の言葉すら真似ると言われます。でも、嫌われている鳥です。ゴミをちらして歩 いているその姿と、時折見せる白い目を見ると、困ったものだと思っています。 からす 烏 は雑食性で何でも食べますから、旧約聖書でもこの烏は汚れたものを食べるので、 からす 悪いイメージが持たれていたといいます。旧約聖書の中で 烏 と言えば、列王記上の17 章1節以下が思い浮かびます。次のような箇所です。旧約聖書561頁。17章1節以下 です。 列王記上 17:1-7「ギレアドの住民である、ティシュベ人エリヤはアハブに言った。『わた しの仕えているイスラエルの神、主は生きておられる。わたしが告げるまで、数年の間、 露も降りず、雨も降らないであろう。』主の言葉がエリヤに臨んだ。『ここを去り、東に向 かい、ヨルダンの東にあるケリトの川のほとりに身を隠せ。その川の水を飲むがよい。わ たしは烏(からす)に命じて、そこであなたを養わせる。』エリヤは主が言われたように直 からす ちに行動し、ヨルダンの東にあるケリトの川のほとりに行き、そこにとどまった。数羽の 烏 が彼に、朝、パンと肉を、また夕べにも、パンと肉を運んで来た。水はその川から飲んだ。 しばらくたって、その川も涸れてしまった。雨がこの地方に降らなかったからである。」 預言者エリヤの物語です。当時のイスラエルの王、アハブは主の目に悪とされることを 様々行い、色々な所にバアルの神殿を建てていました。当時、偶像神バアルに従ってしま ったイスラエルのために、悔い改めを求め、まことの神へ立ち返るように厳しく語るのが 預言者の大きな務めでした。偶像神バアルとは、ある牧師によれば、「雨が降ればいい、 ただ雨さえ降ればいい。農作物の収穫も豊かになる、という信仰で、今の時代に合わせる と、『お金さえあれば、お金さえあれば』ということになるでしょうか」と説明されてい ました。主なる神を忘れ、「お金」「富」のために奔走する現代と似た時代です。 -3- そのような中、預言者エリヤはイスラエルの王に「お金に執着してはいけない」と裁き の言葉を語るわけですから、彼は住む場所を追われ、神の言葉に従って人里離れた所に逃 からす げます。その先で主は「わたしは 烏 に命じてそこであなたを養わせる」と語りました。 からす エリヤは神の言葉を信じ、 烏 が運んできた食べ物によって過ごしました。通常の状態 からす では、そんなもの食べません。 烏 が運んできたものなど、食べるのはいやです。けれど も、主なる神がお命じになったからこそ、エリヤは食べて生き延びました。恐れずに、神 の言葉に聞き従うまことの信仰がここにあります。 しかし、そんなエリヤも、18章でバアルの預言者を根絶やしにし、いよいよ自分の命 が危なくなると、直ちに逃げます。それが列王記の19章1節以下です。旧約聖書の56 5頁です。 「アハブは、エリヤの行ったすべての事、預言者を剣で皆殺しにした次第をすべてイゼベ ルに告げた。イゼベルは、エリヤに使者を送ってこう言わせた。「わたしが明日のこの時 刻までに、あなたの命をあの預言者たちの一人の命のようにしていなければ、神々が幾重 にもわたしを罰してくださるように。」それを聞いたエリヤは恐れ、直ちに逃げた。ユダ のベエル・シェバに来て、自分の従者をそこに残し、彼自身は荒れ野に入り、更に一日の 道のりを歩き続けた。彼は一本のえにしだの木の下に来て座り、自分の命が絶えるのを願 って言った。「主よ、もう十分です。わたしの命を取ってください。わたしは先祖にまさ る者ではありません。」彼はえにしだの木の下で横になって眠ってしまった。」 窮地に陥ったエリヤは「主よ、もう十分です。わたしの命を取ってください」と願いま した。思い煩いと恐れに取り付かれ、主が養ってくださることを忘れています。まことの 信仰はどこかに潜んでしまいました。エリヤもそうなのですからいつでも「思い煩うこと のない篤い信仰」を持つことができるものなどいないということを思わされます。 その中で思い出すのはある絵画にまつわる伝説についてです。ある牧師の例話で知りま したが、レオナルド・ダ・ヴィンチがイタリア・ミラノのサンタ・マリア・デッレ・グラ ツィエ修道院のために描いた「最後の晩餐」にまつわる伝説です。伝説ですから、本当の ことかはわかりませんが、考えさせられるエピソードです。改めて、内容を簡単に紹介す ると、修道院からレオナルドに絵を描いてほしいという依頼がありまして、ダ・ヴィンチ はその仕事を引き受け、絵のモデルとなる人物を探すことになります。イエス様にふさわ しいような顔立ちをした人、ペトロのような年齢の人、そして、ユダのような人。当然の ことですが、あの絵にはそれぞれモデルがいるのです。 しかし、どうしてもユダのモデルとなるような人が見つかりません。あなたはユダに似 ているなどと言われたら、中々引き受けてもらうのも難しいかと思うものですけれども、 -4- ともかく、モデルがいないと書き始めることができませんから、絵の完成も遅れてしまう こととなります。 数年後、レオナルドはある日、もしかしたら、町外れの酒場にでかければユダのモデル が見つかるかもしれないと思い、出かけてみると、まさにイメージ通りの人物と出会いま した。それで「最後の晩餐」は完成を見ることとなります。 ただし、レオナルドは何か心にひっかかるものがあったのです。レオナルドは、ユダの イメージにぴったりであったその人に、モデルとしての謝礼を渡しながら言うのです。 「私 はずっと気になっていたのだけれど、どこかであなたと合っていたような気がするのです が・・・」するとその男はこういったそうです。「そうです。先生。先生がこの絵をお描き始 めになられましたとき、イエスさまのモデルだった者です」と答えたのでした。 4.恐れ、逃げたくなる人間 この主イエスとユダのモデルであった人の名は「ペトロ・バンヂネリ」といわれますが、 彼はおそらく、人生が順風満帆に言っていたときは輝かしい顔をしていたのでしょう。そ のときは主イエスのモデルとしてふさわしい顔立ちをしていた。しかし、その後、彼は何 らかの原因で失脚し、現実から逃れ、町外れの酒場へと逃げていました。何を恐れたのか はわかりませんが、人生においてはよくある話なのではないでしょうか。 同じ人物が主イエスのような聖なる顔をすることもあれば、月日がたち、ユダのような顔 になることがある。そのことをわたしたちは知っています。そのような恐れのただ中にあ り、現実から逃げてしまいそうになっている者に、主イエスは語るのです。「小さな群れ よ、恐れるな」と。 「恐れる(fobe,w フォベオー)」という言葉。それは本来「逃げる」という意味の言葉で あったといいます。恐ろしい目にあっているときには逃げたくなるのは人間の本能です。 けれども、主は「恐れるな」つまり「逃げるな」と私たちにお語りです。私たちの主なる 神は勝ち目や可能性なしに「逃げるな」と命令される方ではありません。恐れの中におい てもよく忍耐し、主イエスの道に留まる仕方があるのです。その主イエスの道に、神の愛 によって守られた平安の道に留まるためにはどうしたらよいのでしょう。それは、先ほど のエリヤの物語の後半に答えがあります。 旧約聖書565頁。列王記上19章4節以下です。 「主よ、もう十分です。わたしの命を取ってください。わたしは先祖にまさる者ではあり ません。」彼はえにしだの木の下で横になって眠ってしまった。御使いが彼に触れて言っ た。「起きて食べよ。」見ると、枕もとに焼き石で焼いたパン菓子と水の入った瓶があった -5- ので、エリヤはそのパン菓子を食べ、水を飲んで、また横になった。主の御使いはもう一 度戻って来てエリヤに触れ、 「起きて食べよ。この旅は長く、あなたには耐え難いからだ」 と言った。エリヤは起きて食べ、飲んだ。その食べ物に力づけられた彼は、四十日四十夜 歩き続け、ついに神の山ホレブに着いた。」 エリヤは耐えがたい困難と恐れの中にいましたが、主の声に聞き従い、用意された神の 食事を食べました。そしてその食べ物に力づけられた彼は御心である目的地に辿り着くこ とができました。私たちもこれより、主に命じられた聖餐の食事に与ります。この聖餐の 食卓は、主のパンをたべ、主の杯を飲むことで、御子、イエス・キリストとの絆をいよい よ深く悟らせ、罪の赦しと永遠の命を約束を心に刻み、神の国を嗣ぐ望みをいよいよ新た にする食事です。信じないものにとってはただのパン切れとぶどうジュースですが、信じ る者にとっては命を新たにされる食事です。困難のある人生において、その苦難をよく忍 耐し、希望に向かって歩むためには主イエスが用意してくださった聖餐の食事が必要です。 この聖餐に与るためには洗礼を受け、信仰を告白しなければなりません。 洗礼を受けるということ。それは私たちの全存在が神と結びあわされるということです。 主なる神を忘れ、思い煩いと恐れに取り付かれてしまうことの多い、信仰の薄く、小さな 私たちですけれども、洗礼を受けた瞬間から、私たちは目には見えない所で神の方を向か されるということです。 中々聞く耳を持つことができない愚かな私たち、そして目には見えない部分ですでに変 えられていることを忘れてしまう私たちのために、目に見えるしるしとして主は聖餐を制 定されました。主イエスの身体を食し、主キリストの血潮をこの身体に招き入れることで、 わたしたちは「恐れ」「思い煩い」の根本原因である「神を忘れる罪」から解放され、主 が生きて働いておられる現実をすでに味わっています。主が生きて働いて、私たちをとら えてくださっているのですから、私たちが逃げようが、どこへ行こうが、主の恵みは生涯、 私たちを追い、私たちを主の恵みによって養ってくださるのです。 「小さな群れよ、恐れるな。あなたがたの父は喜んで神の国をくださる」 この信頼と信仰に生きるとき、わたしたち小さな群れは「喜び、祈り、感謝する教会」と して本当の意味で生きることができます。主なる神が私たちの朽るべき身体に主キリスト を着せ神の国にふさわしく「装ってくださる」のです。この恵みに感謝して、新しい一週 間を歩み始めたいと思います。 -6-