...

No.11を見る

by user

on
Category: Documents
11

views

Report

Comments

Transcript

No.11を見る
地に落ちた観があります。寧ろ今日
千代田教会燭火礼拝(12/24)
では他人のほうが恐い存在だと言え
るかも知れません。
「 地震、雷、火事、
「天に栄光、地に平和」
他人」です。
ルカ福音書2章8−20節
クリスマスの物語には何度もこの
「恐れるな」という言葉が出てきま
説教
四竃
揚
牧師
す。主イエスの道備えをしたバプテ
スマのヨハネの誕生の時、彼の父ザ
カリヤが聞いた天使の言葉の第一声
§1,恐ろしいこと
は「恐れるな」でした。おとめマリ
ベツレヘムの野原で羊飼いが野宿
ヤが神の子の受胎告知を受けたとき
して羊の番をしていた夜はどんな夜
も天使の第一声は「マリアよ、恐れ
だったでしょうか。恐らく地上は真
ることはない」でした。そしてこの
っ暗闇で空に星が降るように瞬いて
ベツレヘムの野辺で夜羊飼いが聞い
いるような夜だったと思います。羊
た天使のみ告げも同じように「恐れ
飼いは貧しい人々でしたが無責任な
るな」という言葉で始まっています。
人たちではありませんでした。夜通
クリスマスのメッセージは神さまの
し交代で寝ずの番をして自分たちの
語られるこの「恐れるな」という言
羊を狼や盗人達から守らねばなりま
葉を聞くことから始まります。
せんでした。自分の飼っている羊を
わたし達が日頃の生活の中で恐れ
一匹一匹名前をつけて愛情を持って
ることはどんなことでしょうか。そ
育てるのが羊飼いでした。
れは例えば次のような場面です。あ
その夜彼らは一面に輝くばかりの
いにくその日は携帯も持っていなく
主の栄光の中で天使達が告げる言葉
て、暗い夜道を一人で歩いていたり
を聞くのです。天使の第一声は「恐
する時です。もしもその時電柱の影
れるな」でした。
から人影が現れたとき等はぎょっと
日本には古来から「地震、雷、火
します。あるいは自分の家に帰って
事、親父」という言葉がありました。
来て自分の部屋に入った時、誰もい
新潟の中越地震の被害にあった人達
ないと思っていた部屋に誰かがいた
はいつまでも続く余震に怯えさせら
というような場合です。つまりたっ
れたようですし、突然襲うという点
た一人でいるとき、すぐ近くに誰か
では雷でも火事にしても恐ろしいも
知らない人がいる、というような時
のであるには違いありません。この
に私たちは恐怖を感じます。すぐ近
中では一番恐くないものは親父です。
くに見知らぬ人がいる、その人が近
特に最近は父親の権威はどの家でも
くにいればいるほど私たちは不安と
1
恐怖を覚えます。
にいる、というだけで自殺でもする
私は三鷹にある東京神学大学で学
のか、と心配になります。自分はこ
びました。今は ICUの隣のキャン
れから牧師になる身だからと、自分
パスですが私の時の神学校は玉川上
にいい聞かせて、何か事情でも聞け
水の近くの「牟礼」というところに
るかも知れない、何か助けることが
ありました。現在
できるかも知れない。
東京女子大学のキ
と思い切って少しそ
ャンパスになって
の人の所に近づいて
いる場所です。当
行きました。すると
時、私は築地の聖
すぐ近くに来たと思
路加病院の近くの
った途端にその人は
ある家で家庭教師
見えなくなってしま
をしていました。
ったのです。まだ青
かなり離れていま
二才だった私は急に
す。従って夜遅く
姿が見えなくなった
学校の寮に帰って
ために急に恐くなっ
くることが屡々で
てしまいました。少
した。吉祥寺まで
し探しましたが見つ
帰ってくると大抵深夜になりました。
かりません。やっぱりあれは幽霊だ
井の頭公園駅に最終電車で降りて神
ったのかと思い始めると今度はどこ
学校の寮までは15分くらいお茶畑
かからひょいとその影が現れるよう
の間の細い道を歩いて帰らなければ
な気がしてすっかり恐くなってしま
なりませんでした。しかも学校のす
いました。肩を掴まれて「もし、若
ぐ下を玉川上水が流れているのです。
い人、私と一緒に死んでください。」
玉川上水は小説家の太宰治が自殺し
等と言われたらどうしようなどと考
た上水として有名でした。私はある
え始めるとすっかり恐くなってしま
夏の夜お茶畑からこの玉川上水への
いました。姿が見えていた時はそう
道に出た途端に少し遠方の小さな橋
ではなかったのですが、その人が消
の袂にじっとしている人影に吃驚し
えてしまうと俄然恐くなってしまっ
ました。その人は浴衣を着た女性で
たのです。その人に事情を聞くどこ
長い黒髪が特徴でした。橋の袂に白
ろではない、びくびくしながらその
い浴衣の長い黒髪の女性、といえば
まま寮に帰ったことを思い出します。
夏の怪談話の定番ですが、私は実際
私は自分の恐かった経験というとい
にその場面に出会って吃驚しました。
つもその事件を思い出します。週刊
こんな夜更けに女の人が川のほとり
誌やテレビなどで「私の一番恐かっ
2
たこと」等という特集をすることが
しゃるのではありません。わたし達
あります。皆さんもそれぞれに恐か
の世界の中に、この歴史の中に人と
った経験、と言うものはおありだろ
して降りたもうたのです。神が人と
うと思います。
なったということを神学用語では
ところが、先ほどの例で言えば、
「受肉」と言います。しかしこの受
もしも電柱の影から現れた人が自分
肉という言葉自身がまだ日本語とし
の帰りが遅いのを心配して迎えに来
てはこなれていない言葉です。尤も
てくれた父親やご主人だったとすれ
英語の INCARNATION という言葉
ばどうでしょうか。
「何だ、お父さん
も CONCRETENESS という言葉ほ
だったのか」とか「あなただったの」
どにはポピュラーではないと思いま
と分かった途端に安心して嬉しくな
す。
「 化身」という言葉もありますが、
ります。あるいは自分の留守中に部
「悪魔の化身」などと使いますから
屋にいた人が実は鍵を預けていた嫁
余りよいイメージはありません。カ
いだ娘だったと分かればわたし達は
トリック教会では「択身」という言
安心します。
葉を使います。受肉よりもまだまし
かも知れません。日本語では「権現」
2,恐れる必要はない
という言葉もありますが、これだと
クリスマスの出来事はわたし達の
徳川家康のイメージが強すぎます。
最も側近くわたし達を愛しておられ
本来は神が現実の現れたという意味
る神様がお降りになったという出来
ですから実は「権現」は「受肉」と
事なのです。自分の人生は結局たっ
いう言葉に近い言葉です。日本語で
た一人だ、と思っていた私の所に神
「受肉」を表す一番普通の言葉は「具
様が来てくださった、どんな時にも
体」と言うことです。神の愛は主イ
この私を愛し、支えてくださる主キ
エスキリストにおいて大変具体的に
リストがおいでになったということ
表わされたのです。愛ということは
なのです。クリスマスはわたし達が
決して観念的なことや抽象的なこと
ひとりぼっちだと思うようなときに、
ではなく、極めて具体的なことです。
「誰も声をかけてくれない」
「 誰もこ
口先だけで「しっかりしなさい」と
んな私を愛してくれない」と思って
か、
「がんばれ」と励ますのではなく
いるようなときに、そのような私の
て、実際に一緒に重い荷物を持って
許に、私の傍らに主キリストが立っ
あげたり、肩に掴まらせてあげたり
ていてくださるということを発見す
して具体的な助力をすることが愛の
る時なのです。神様は天にいまして
現れです。
「 お祈りするだけで何もし
わたし達を見守っていらっしゃいま
てくれない。」という人がありますが、
すが、単に抽象的に見守っていらっ
実はお祈りをするということも大変
3
具体的なことなのです。友のために
類・病気・あるいは自己自身を恐れ
時間をとって集中して祈ることは極
る代わりに、また運命や死を恐れる
めて具体的なことといわねばなりま
代わりに、むしろ神を恐れなければ
せん。ただわたし達が単に心の中だ
ならないと言う可能性がいつでも残
けで漠然と考えるとか念じるとかで
るのである。」と言っているのです。
終わってしまうならばその祈りは観
様々なものに怯え恐れているわたし
念的、抽象的なことで終わってしま
達ですが、本当は神様に対して恐れ
うことになります。実際にお祈りを
なければならないというバルトの言
すれば、葉書を書いて出そうとか、
葉は深いものがあります。
お見舞いに行こう、と更に具体的な
しかしながら、わたし達の人生の
行動が始まることが多いのです。
責任に対する恐れ、永遠なる神に対
する恐れ、神の臨在の近いことへの
§3,神への恐れ
恐れ、わたし達が立たされる裁きに
スイスの偉大な神学者カール・バ
対する恐れ、このような恐れは暗い
ルトという人は、あるクリスマスに
夜が生み出したものではありません。
「恐れるな」という説教をしていま
夜、主のみ使いがもたらしたものな
す。バルトはその中で「わたし達は
のです。私たちは本当に恐れなけれ
実に様々なものを恐れている。政治
ばならないお方を恐れないために何
的、経済的脅威、あるいは孤独や、
でもないような沢山のものに怯え、
老いることへの恐れ等様々なものを
それを恐れているのです。バルトの
恐れている。そしてわれわれすべて
言うようにわたし達が本当に神に対
が情け容赦もなく、どこかで我々を
する恐れを抱く時に、初めてこの天
待っている死の門を恐れている。」と
使の「恐れるな」という言葉は私た
のべた後で、
「 しかしこのベツレヘム
ちの真の力になるのです。なぜなら
の羊飼いたちが恐れたのは暗い夜の
その神がわたし達の最も身近な所に
ためではなく、主のみ使いが語り、
私たちと共にいます方としてお生ま
主の栄光が周りを照らしたからであ
れになったのですから。
る。主の栄光が周りを照らした、こ
§4,さあ行こう
の大きな恐れに対してみ使いは「恐
れるな」と言ったのである。」と述べ
ベツレヘムの羊飼いは「今日ダビ
ています。
デの町であなた方のために救い主が
更にバルトは「我々が恐れている
お生まれになった。」という天使のみ
ときは、本当は、恐ろしい経済的将
告げを聞きました。
来やら、政治的イデオロギーやら近
私はクリスマスになるとある説教
代の無信仰を恐れる代わりに、人
を思い出し、それをよく読み直しま
4
す。
指摘なのです。主イエス・キリスト
「暗い夜道を歩いていると、すぐ
がこの世界に来られる前の世界も暗
前の家の戸が開きました。すると、
い闇が覆っていました。人々は戦争
真っ暗であったところに、急に、家
に次ぐ戦争、様々な争いと憎しみの
の中の明るい光が輝いてくるのです。
中で「救い主」の現れるのを待ち望
その光の中で、はじけるような、家
んでいました。あの最初のクリスマ
の中の楽しい笑い声が聞こえてきま
スの時には、イエス・キリストの誕
す。誰かを送り出そうというのであ
生とその生涯はごく一部の人々しか
りましょう。やがて、一人の人が出
その意義が解りませんでしたが眞の
て来ます。家の中からは、この人を
光が輝いたのです。ところが暫くす
見送る賑やかな挨拶が聞こえてくる
ると世界全体は結局もとの闇に包ま
のです。すると、戸が閉じられます。
れてしまったみたいです。 主イエス
道は、また、もとのままの暗さに帰
の生まれる前も、お生まれになって
ってしまいます。出て来た人も、闇
から後の2千年の歩みも考えてみれ
の中に呑まれてしまって、あたりは
ばすっぽりと闇の中に包まれている、
前と同じようになってしまうのであ
と言ってもよいかもしれません。ま
ります。」これは元東京神学大学学長
さにクリスマスの出来事、ベツレヘ
であり、吉祥寺教会の牧師でもあっ
ムの歌声は一瞬の輝けるひと時にす
た竹森満佐一先生のあるクリスマス
ぎなかったみたいです。
メッセージの冒頭の一部です。竹森
しかし突然天の軍勢が現れ神を賛
先生は私の卒論の指導教授ですが、
美する歌声を聞いたとき、羊飼いは
私は神学校の時この説教を聞きまし
神様がこの世界でなさった大きな出
た。後に説教集に収録された説教で
来事の意味を受け止めることができ
す(わが主よ、わが神よⅠ)。先生は
ました。
「恐れるな」という呼びかけ
クリスマスとは一瞬輝き渡ったこの
と共に羊飼い達のおそれは消え、主
夜のように私たちに輝く光が示され
のなしてくださったみ業にお答えす
た時だと語っておられるのです。
る道だけが示されていました。み使
竹森先生はこの説教の中でベツレ
い達の「いと高きところには、栄光、
ヘムの野辺で羊飼い達が聴いた天使
神にあれ、地には平和、御心に適う
の合唱と讃美はこの急に光り輝いた
人にあれ」という讃美はベツレヘム
先ほどの家の状態とよく似ている、
の野辺にとどろきました。この輝き
と述べておられます。つまりこの世
に接した羊飼い達はお互いに「主が
に救い主が誕生したという驚くべき
知らせてくださったその出来事を見
告知はその輝きが終わるとまた闇の
てこようではないか」と励まし合っ
中に包まれてしまったのだ、という
てベツレヘムに出かけていくのです。
5
確かに天使達の歌声は一時の輝ける
闇の一こまだったみたいに思われま
す。しかしこのクリスマスのメッセ
ージを聴いた羊飼い達は行動を開始
しました。クリスマスは友達に声を
かけるときです。
「さあ、行ってみて
こようではないか」と友達を親を、
夫や妻を、子供達や孫達に対しても
「さあ、行ってみてこようではない
か」とアピールするときです。その
働きをしているのが教会です。天に
は栄光があってもこの地上に平和は
なかなか来ないように見えます。し
かしクリスマスのメッセージを聴い
た人達はそこから歩みだしているの
です。神様がなさった不思議なこと
をわたし達は教会で聖書を通して告
げられているのです。
この世界は決してわたし達がひと
りぼっちで歩む世界ではありません。
この世界は神様がその一人子をお与
えになったほど、愛し支えてくださ
る世界です。今年のクリスマスを迎
えたわたし達は新たな喜びをもって
それぞれの人生を歩みましょう。
「天
に栄光、地に平和」なのです。クリ
スマスの喜びを周りの人々に伝える
歩みをしたいと願ってやみません。
6
Fly UP