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恐れるな、信頼し続けよ - えりにか・織田 昭・聖書講解ノート

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恐れるな、信頼し続けよ - えりにか・織田 昭・聖書講解ノート
恐れるな、信頼し続けよ
マルコによる福音 20
恐れるな、信頼し続けよ
5:35-43
主題は 36 節にあるイエスのお言葉、
「恐れることはない。ただ信じなさい」
です。最初の言葉
は日本語の訳文でも英訳でも、「恐れるな」
“Don't be afraid.”としか訳せないでしょうが、原文の響きは、「もう恐れ
ることはない」と、恐れて不安な人に慰めを与える言葉です。「恐れるのを
止めよ。私が来た以上、恐れる必要はない。」
その後の“Just believe.”は、「ただ信ぜよ」と訳しますと、何でも良い
から、分かっても分からなくても信ぜよ……と、一部の宗教家がアジるよう
な意味に受け取られ兼ねませんけれども、ここは、そういう意味ではありま
せん。マルコが使っている表現
は、「そのまま信頼しつづ
けるだけでよい」「信仰を止めてはならない」と励ます言葉なのです。会堂
長のヤイロの心にあったイエスへの信頼が、このとき揺らぎかけていたこと
を暗示します。
前回は、会堂長ヤイロの家へ向かうイエスの一行が、大勢の群衆に囲まれ
て押し合いながら道を進むうち、一人の病気の女性が後ろからイエスの服に
触った話を読みました。その前の切り出しに戻ります。
22.会堂長の一人でヤイロという名の人が来て、イエスを見ると足もとにひ
れ伏して、 23.しきりに願った。「わたしの幼い娘が死にそうです。どうか、
おいでになって手を置いてやってください。そうすれば、娘は助かり、生き
るでしょう。」 24.そこで、イエスはヤイロと一緒に出かけて行かれた。
その途中で、私たちが前回に読んだ出来事が起こります。一刻を争う時に
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恐れるな、信頼し続けよ
ヤイロの心中はいかばかり……と想像するのですが、イエスは足を止めてそ
の女性に声をかけたばかりか、病気が治ったことを確認させてから、彼女に
は生涯忘れられないあの言葉を、親しくお掛けになりました。「あなたを救
うことになったのは、あなたの信仰なのだ。」
この場合、病気は一応治ったわけですから、そのまま、ちょっと彼女に一
瞥を与えるだけで道を進んでも良かった……そう考えた人もいたはずです。
でも、イエスは、そこでその人と直接の人格的な触れ合いをしないで去るこ
とは、なさらなかったのです。「シャローム(平和)を持ってお帰りなさい。
もう病気はあなたを苦しめないから。」
米国の聖書学者ウィリアムソン Lamar Williamson の本は、
ここの箇所で、
この物語の主要主題ではないにしても、この箇所から受ける感動の一つは、
「イエスの行く道をさえぎるものがいた場合、その人をどう扱われたかを示
している」ことだと言います。著者は、ある牧師の言葉として、「私は自分
の仕事が妨げられる度に、生涯不平を言い続けてきました。そして、ようや
くわかったのです。私が妨げられるということは私の仕事であることを」と
書いています。
若い時の自分を鏡で見るような言葉でしたが、私みたいな我がままで勝手
な人間でもやはり、長い時間をかけて同じことを学んだと思います。昔は自
分の計画とかスケジュールが、まるで片町線の時刻表みたいに大切で、これ
を遅らせたり、取り消しを作ったりするのは始末書ものだと考えていました
が、そうでもないこと―必要な時には時間を割いて、一対一で人と触れ合
いをして、それで自分も祝福されて大人になる―そういうことを、少しは
学んだと思います。ですから、どうか必要以上に気をお使いにならめように
……「お忙しいのに済みません、済みません」と、あまりおっしゃらないで
頂ければ幸いです。私のしていることで、中断してはいけないほど、そんな
に大事な価値あることというのは、本当は無いのです。
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ところで、この時は、会堂長ヤイロの恐れていたことが現実になりました。
イエスの足を病気の女が止めている間に、危篤の娘が死んだのです。以下、
イエスの三つの言葉を見出しにして、話を進めます。
1.「そのまま信頼を持ち続けよ。」(36) :35-37.
35.イエスがまだ話しておられるときに、会堂長の家から人々が来て言った。
「お嬢さんは亡くなりました。もう、先生を煩わすには及ばないでしょう。」
36.イエスはその話をそばで聞いて、「恐れることはない。ただ信じなさい」
と会堂長に言われた。 37.そして、ペトロ、ヤコブ、またヤコブの兄弟ヨハ
ネのほかは、だれもついて来ることをお許しにならなかった。
「恐れることはない」というお言葉は、娘を死なせた父の絶望と悲嘆をさ
して「恐れ」と言われたのでしょう。
「私に信頼し続けよ。それだけで良い。」
(“Just believe.”)これは、この時イエスへの信頼がグラついたかも知れ
ないヤイロへの、イエスの励ましのお言葉だったと思います。「すべてが終
わったのではない。私がいる。」
ヤイロはたった今、目の前でイエスの力を受けて清められた女性を見たば
かりです。「あなたの信頼があなたを救ったことを忘れるな。」そのお言葉
も耳に響いていました。それでも、娘が死んだという知らせを聞いた時は、
「イエスのお力も、わが子には間に合わなかった!」という悔いの方が大き
かったでしょぅ。イエスのお力を、果してヤイロはなお信じることができた
か……。
「アブラハムは、神が死者をさえ生かして返してくださると信じた」
(ヘブライ 11:19)と言いますが、そこまでの信頼をヤイロに、イエスはお
求めになったものか……。ヤイロは果してそれに応えたのか……。筆者はそ
れを読者の想像に任せて、今は死の支配する家に入って行かれるイエスを描
きます。お供をするのは三人の弟子、ペトロ、ヤコブ、ヨハネです。この三
人とヤイロ夫婦だけが、今から、この衝撃的な場面に立ち会います。
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恐れるな、信頼し続けよ
次の最初の場面は、中国や韓国の葬儀で「泣き女」の号泣を見た人には、
ある程度想像がつきます。私は、韓国は知りませんけれど、北京のお葬式は、
中学生の頃に何度も見る機会がありました。
2.死者は「死んだのではない。」(39)
:38-40a.
38.一行は会堂長の家に着いた。イエスは人々が大声で泣きわめいて騒いで
いるのを見て、 39.家の中に入り、人々に言われた。「なぜ、泣き騒ぐのか。
子供は死んだのではない。眠っているのだ。」 40.人々はイエスをあざ笑っ
た。
「なぜ、泣くのか」は、こういう場合の人間の自然の情を否定されたので
はないと思います。ヨハネ伝には、似たような場面で、「イエスは、涙を流
された」という言葉もあります。ここの場面では、プロの泣き屋のオーバー
な表現をたしなめられたものか……。あるいは、すぐにも、そのような演出
が不要になることを言外に言われたものか……。いずれにせよ、「子は死ん
だのではない。眠っているのだ」というお言葉は、人々の失笑を買いました。
「死の現実を否定できる者はいない。何を血迷って、ナザレの田舎ラビは、
意味もないことを口走るのか。」
死がすべての終わりでないこと。眠りの後に目覚めがあるように、新しい
命の夜明けが信じる者には来ること。それをイエスはこの言葉に込められま
した。ヤイロの家で今から起こることは、私たちの復活の序曲のような、シ
ンボルのような、一瞬の電光のような事件でした。「一瞬の電光」だという
意味は、この娘はここで、ほんのしばらくの間だけ命の延長を楽しませてい
ただいても、やがて、大きくなってオバアサンになって死ぬからです。ある
いは、オバアサンになる前に若くして病死したかも知れません。この時の甦
りは儚く、一時的なものです。その、一瞬の電光の背後に何が見えるか……
それが大事なのです。
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恐れるな、信頼し続けよ
昔のギリシャの信徒たちが作った美しい言葉で、「眠りの地」という意味
の「キミティリオン」
があります。死者を葬る墓地のことな
のですが、それが「永眠」の地ではなくて、「目覚め」を待つ短い「眠りの
地」だという所に、この言葉の重点があるのです。そうです。関西空港やシ
ンガポールのような大きい“ハブ空港”には、旅客が仮眠をとる「レストル
ーム」がありますが、キミティリオンという言葉から受ける感じは、それで
す。この「キミティリオン」は英語に訛りますと「セマテリー」cemetery
となって、これは(辞書の訳語は“墓地”です)ご存じの方も多いでしょう。
その一時の「眠りの地」で、新しい目覚めを与える主に自分を委ねること
を考えて、安心して生き、喜んで死ねるか。それは結局、このできごとを通
してイエスが何を主張しておられるか、その中心メッセージに触れるところ
から始まります。それはまたこの福音書の最後の章に何を読み取るかにもよ
るのですが。物語は最後の場面に移ります。
3.「少女よ、あなたに命じる、起きよ。」(41)
:40b-43.
しかし、イエスは皆を外に出し、子供の両親と三人の弟子だけを連れて、
子供のいる所へ入って行かれた。 41.そして、子供の手を取って、「タリタ、
クム」と言われた。これは、「少女よ、わたしはあなたに言う。起きなさい」
という意味である。 42.少女はすぐに起き上がって、歩きだした。もう十二
歳になっていたからである。それを見るや、人々は驚きのあまり我を忘れた。
43.イエスはこのことをだれにも知らせないようにと厳しく命じ、また、食べ
物を少女に与えるようにと言われた。
「だれにも知らせるな」という、この沈黙命令の意図は、ちょっと分かり
にくいようです。娘が生きて顔を出せば、葬儀はもちろん中止となりましょ
う。イエスがその部屋に入って何かがあったことは、両親としても語らない
訳には行きますまい。イスラエルの故事としては二つだけ列王記に、エリヤ
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恐れるな、信頼し続けよ
とエリシャを通して主がなさったことが記されています。イエスは、そのエ
リヤの再来と騒がれるかもしれません。その軽薄な騒ぎを、阻止なさったの
でしょうか。それにしても、「だれにも知らせるな」の意味と意図は、どこ
にあったのでしょう?
鍵になる言葉としては 9 章に、「今見たことはだれにも話すな。人の子が
死人の中から復活するまでは決して」とあるお言葉(9:9)の後半分がヒン
トを与えています。どんなに言葉少なに語っても、事実は知れたに違いあり
ません。ただ、そこに起こったことの意味と理由。この方が本当はどんなお
方であるのかは、福音書の最後の章で起こる最も神聖な出来事を見るまでは、
ヤコブやヨハネでさえ、シモン・ペトロその人でさえ、説明がつかなかった
し、語れなかったのです。すべてはイエス自身が死んで、死を征服してから、
輝き出るのです。
イエスが少女に言われた言葉は、アラム語の短い文句です。「タリタ・ク
ム」(「少女よ、起きなさい」)今のヘブライ語でも、「アバ」(お父さん)
とか、「イマ」(お母さん)というようなアラム語の外来語が、ヘブライ語
の中に組み入れられて、ヘブライ語として使われています。今のギリシャ語
にトルコ語の単語がたくさんあるようにです。ギリシャ料理店でトルコ語の
“ムサカ”を食べて、イタリア語の“ウゾ”を飲んで、それで「ギリシャ料
理を食べた」と言うようにです。
聖書の研究家たちの間では、ごく最近まで、イエスの時代にはアラム語が
日常語だったというのが、通説でした。本当は“ムサカ”の入ったギリシャ
料理と同じで、アラム語の単語や表現をふんだんに取り入れてはいたものの、
基本的にはヘブライ語を話していたことが、最近のイスラエルの学者の研究
で明らかになっています。私にこういう資料を送ってくれるのは、今はエル
サレムにいる枚方の古い友人、L.ミングズさん Mr.L.Mings です。ここに出
ている「タリタ・クム」も、ヘブライ語の中に取り入れられたアラム語だっ
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恐れるな、信頼し続けよ
たのでしょう。
イエスは、「少女よ、起きよ」と言われました。「起きる」「起こす」「起
こされる」―
,
は、死者の復活の意味に福音書で使
われるだけでなく、ローマ書でもコリント書でもパウロが使っている表現で
す。その「死者よ、生きよ」という言葉が、イエスの口から語られて、しか
も、「お前に命じる。起きよ!」(:41)と権威をもって命令されているの
に注目してください。これは、死んだ者に命を吹きいれて死人を生かす力を
持つ方の命令なのです。
《 結 び 》
マルコ福音書を書いた著者は、これを読む人の中に、「こんなベラボウな
事があるか!」と憤慨する向きもあるのを承知で、ペトロから聞いたままを
ここに記しました。ペトロは、この時その部屋に入って神聖な出来事を見た
三人の弟子のひとりでした。彼は後にゴルゴタまで行ってイエスの死に立ち
会った人です。そのイエス自身が、父の手で死者の中から「起こされて」
生きている事実に触れたのもその同じシモン・ペトロでした。
「そ
の日までは、見たことの意味を語るな」と沈黙命令を受けた彼でしたが、イ
エス御自身が命の主である事実に触れた今、彼は弟子のマルコにそれを口述
して、後世に伝えさせる決心がついたのでした。
果してこの途方もない物語が、あなたにイエスの本質をヒントするほど重
みを持つか。それは結局、あなたが死を知る人かどうかにかかっています。
「死を知る人」というのは、単に肉の命の限界とその儚さを知るに止まりま
せん。聖書はこれを「罪を持つ人」という言葉でも表しましたが、憎しみと
腐れとを自分の中に見て、「主よ、助けてください」と叫ぶ人が「死を見た
人」です。
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恐れるな、信頼し続けよ
私たちはこの憎しみの深さを、たとえばユーゴのサラエボをめぐる終わり
のない戦いを見て知るのです。その憎しみは宗教をもってしても、キリスト
教をもってさえ癒せないくらい、深いものです。こんな言葉は聖書の説教ら
しくないと思いますか? 私の言う意味は、人間がイエス・キリストがもたら
した宝を一つの枠組の宗教制度としてしまえば……たとえば同じ民族や一
つの文化グループが共通の宗教習慣でつながるような組織を後生大事に守り
始めるなら、キリスト教でさえ、人間の憎しみを増幅する道具にしかならな
いという意味です。この主題は、ここ三年ほど、毎年十二月の会で繰り返し
てきました。
私たちがイエスから受けるべきものは、西洋のどの国のキリスト教の枠組
でもありません。もちろん、それは米国の「キリストの教会」派の伝統でも
ないのです。私たちの中からその憎しみと死を根こそぎにするために死なれ
たイエスを、あなたも私も、一個の個人として仰ぐこと。復活したイエスの
命で、この死んでいる私を生かしていただくこと。そして、私たちを縛るキ
リスト教社会の伝統や習慣はなるべく最小限にゼロに近くして御勘弁願う
こと―これが、キリスト教という宗教の罠にはまらない秘訣であり、また、
キリストの福音だけを大事にし、キリストの復活の命を無駄にせずに 100%
生かして受ける道だと、私は信じています。そして、私たちがもし「キリス
ト教」とか「キリスト教文化」という、古いお仕着せのユニフォームをかな
ぐり捨てて、裸でイエスを主と仰ぐ生きた人間になれたら、その時こそ「キ
リスト教徒」ではなく、「キリスト信仰の人」が生まれます。「恐れるな。
信頼し続けよ」という主のお言葉が、本当に力を発揮するのは、そのような
人になのです。
世には、「何々じるしのキリスト教」と言えるものが、馬に食わせるほど
氾濫しています。古いもの……新しいもの……。例えば、ギリシャ流に香を
焚いて礼拝し、きらびやかな衣装を纏った主教が二千年の伝統を誇る儀式を
執り行う「キリスト教」もあります。「大草原の小さな家」さながら、アメ
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恐れるな、信頼し続けよ
リカ開拓時代の古き良き習慣を保存する、懐かしい保守的な「キリスト教」
もあります。進化論を頭から罵倒して痛快がらせてくれる?「キリスト教」
さえあるのです。
最先端の神学で優越感をくすぐる知的な「キリスト教」もあれば、聖人た
ちの日を守り、祝祭日で暦をカラー刷りにしてくれる「キリスト教」もあり
ます。復活祭の二日前にエルサレムのゴルゴタまで十字架の行列を見せてく
れる「キリスト教」もあれば、ボスニアへ義勇軍を送って回教徒に一千年の
恨みを晴らそうという「キリスト教」もあります。総動員で大衆伝道を企画
し、総動員で訪問する「キリスト教」、政治の世界にまで団体で圧力をかけ
て社会を変えようとする「キリスト教」、初代教会の素朴な組織と慣例を保
存して「最も聖書的」であることを売り物にする「キリスト教」等々……。
でも、私自身はそのどれからも距離を保ってイエス・キリストだけにしが
みついていたいのです。1986 年の江坂以来、「キリストの教会」の全国大会
にさえ、私がシラケきったままで(もちろん感謝をこめて)参加しているの
は、ご存じの方もいらっしゃることでしょう。
「マタイによる福音」の本の中に書いたあのキザな言葉は、今も私の座右
の銘となっています。いわく、「わてはキリスト教はやりまへん。キリスト
だけやってまんねん。」
(1994/10/09)
《研究者のための注》
1. 冒頭で述べたイエスのお言葉(36)のニュアンスは、「恐れるな」の方は現在命令法
の否定形
で、これは「恐れるのを止めよ」の意味を表します。これに対し、
「ただ信ぜよ」の方は現在命令法で、
は「そのまま信じ続けよ」「信
じることを止めるな」の意味を表すものです。外にアオリスト命令法の肯定形とアオ
リスト接続法の否定形が、また別の表現内容をもちますが、詳しくは、織田昭「新約
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恐れるな、信頼し続けよ
聖書ギリシャ語文法」§242 の 6,§247 の 1b,§273 の 1a,b を参照。
2. 「その話をそばで聞いて」
(:36)は、「そばで聞き取る」意味のほか、
「無視して」取り合わなかった意味にも理解できます。
3. 「大声で泣きわめいて」(38)の背景として、「イスラエルにおける最も貧しい人で
も、少なくとも二人の笛吹きと一人の泣き女を(葬儀に)やとう」ことを Billerbeck
は指摘しています。
4. 「タリタ・クミ」が新共同訳では、マルコのギリシャ文字による綴りに合わせて「タ
リタ・クム」に変わっています。本来は女性への命令形は「クミ」
ymiWq
なのですが、
「クム」~Wq が言わば間投詞のように使われた(Abbott-Smith)と説明され、また東
方アラム語では女性に対しても「クミ」と言わず「クム」と言ったことが知られてお
り、マルコの
が間違いではないことが確かめられます。U.B.S.訳は
が、Lindsey 訳は片仮名部分の綴りを
ymiWq
~Wq,aj'ylij. とし、ギリシャ文からの訳は ymiWq
としています。なお U.B.S.4 版脚注によれば、片仮名部分のギリシャ文字を
する写本は、B,a ,C,ほか、
5. 「起きなさい」
です
と
とする写本は A,f13 その他です。
に使われている動詞
は、「イエスは……わたしたちが
義とされるために復活させられた」(ローマ 4:25
から復活した」(1コリント 15:20
)や「キリストは死人の中
)で使徒パウロが使っている語と同じ
です。
6. 「十二歳になっていたからである」(:42)という断り書きは、「少女」と訳した語
が当時の習慣としては、子供から大人になりかけの女子を言ったので、こ
の言を補足して付記されたものと思われます。
7. 「食べ物を少女に与えるようにと言われた」は、イエスの温かい配慮を示すもので、
「この十二歳の少女はひとりの患者ではなく、ひとりの少女であった」と Williamson
は付記しています。
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