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2013 年 12 月 22 日 八ヶ岳伝道所 降誕祭 主日礼拝 NO.788 説 教 『 言

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2013 年 12 月 22 日 八ヶ岳伝道所 降誕祭 主日礼拝 NO.788 説 教 『 言
2013 年 12 月 22 日
説
聖
八ヶ岳伝道所
降誕祭 主日礼拝
NO.788
教 『 言なるキリストの宿り 』 山本 護 牧師
書 イザヤ書 7:10~14/ヨハネによる福音書 1:14~18
「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独
り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた(ヨハネ1:14)」
。
「言」とは何であろうか。初めに神と共に在り、同時に神でもある「言」(1:1)。宇宙も、世も、
動植物も、私たちもまた、
「万物は言によって成った(1:3)」
。全ての存在に通底する言、全ての生
命の内に息づく言。信仰の有無を問わず、人は皆、否応なく、「言であるキリスト」によって在
る。
肉として宿り、そこに満ちている「恵みと真理」とは何であろうか。恵みは人を生かしめる命
か(1:4)、真理は命によって人間に注がれる光か(1:4)。私たちは、恵みを、真理を、命を、光を見
る(1:14)。見えうるもの、感じうるもの、触れうるものとして「言は肉となって、わたしたちの
間に宿られた(1:14)」
。
言の、命の、光の受肉。ただ一度だけ歴史の中に現れた奇跡。しかしクリスマスは、誰にでも
明明白白なわけではない。この奇跡に遭遇したのは誰だったか。東方の占星術学者(マタイ2:11)と、
野宿する羊飼い(ルカ2:16)。異邦の知識人と、最貧の文盲者だ。学者らは星を目当てに闇の中を旅
し(マタイ2:2)、羊飼いらは真夜中(ルカ2:8)ただちに出立した(2:15~16)。彼らの決断は、知識によるも
のか、経験や性格か、あるいは宗教的な気質のせいなのか。否、条件の類は、彼らにまるで当て
はまらない。
世は闇に覆われ、全ての民もまたその内に居た。学者と羊飼いらは、闇に輝く光(ヨハネ1:5)に注
目し、その夜の深みへ旅立った。羊飼いらは「非常に恐れた(ルカ2:9)」
。学者らも同じであったろ
う。だが天使の「恐れるな(2:10)」という言葉が彼らを決断させた。それ以前、マリア(1:30)とヨ
セフ(マタイ1:20)もこの言葉を聞いて決断した。私たちもまた、闇がいっそう深まる気配の中でこの
言葉を聞くだろう。
「いまだかつて、神を見た者はいない(ヨハネ1:18)」
。しかし「わたしたちはその栄光を見た(1:14)」。
「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた(1:14)」からだ。この「わたしたち」には、
「宿ら
れている」可能性と、
「栄光を見る」実際とがある。洗礼を受け、「言」に従う決断をしたキリス
ト者は後者であろうが、「見る」ための資質や条件を満たしているわけではない。どういう具合
か分らないが、私たちは「恐れるな」という励ましに触れ、歩き始め、「肉となった言」の栄光
に遭遇している。
「父のふところにいる独り子である神、この方が神を示された(1:18)」クリスマス。預言で言
い換えれば「主が御自ら、あなたたちにしるしを与えられる。見よ、おとめが身ごもって男の子
を産み、その名をインマヌエルと呼ぶ(イザヤ7:14)」
。今、この場で、神が私たちと共におられる(マ
タイ1:23)というこの「しるし」。
「主なるあなたの神に、しるしを求めよ。深く陰府の方に、あるい
は高く天の方へ(イザヤ7:10)」。暗い夜の、そのただ中で遭遇するクリスマスのしるしは、陰府と天
の果てに及び、神の永遠に及ぶ。陰府の支配も天の眩さも恐れない。キリストが共におられるか
ら、どこへでも行こう。
★
【おまけのひとこと】
闇は依然 深い それどころか 光に導かれて旅するほどに闇は深まる ここで どれほどの闇を
身に帯びるか 浅く堕ち浅く救われる 深く堕ち深く救われる いずれにせよ 偶然に見える招き
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