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楊守敬、 字幅吾、 号隣蘇、 湖北宜都人。 清 ・ 道光十九年
『隣蘇 園蔵 書 目録 』 及 び其 の研 究 唐 剛 卯 湖北省博物館 楊 守 敬 、 字 惺 吾 、 号 隣 蘇 、 湖 北 宜 都 人 。 清 ・道 光 十 九 年(1839)に (1915)に 生 まれ、民 国 四年 亡 くな っ た 。 著 名 な歴 史 地 理 学 者 、 古 籍 版 本 学 者 、 書 家 、 蔵 書 家 で あ る。 著 書 は 『日本 訪 書 志 』、 『 留 真 譜 』、 『水 経 注 疏 』、 『歴 代輿 地 図 』 な ど。 『古 逸 叢 書 』 の 出 版 編 集 を主 宰 し た こ と もあ る。 『隣 蘇 園 蔵 書 目録 』 は湖 北 省 博 物 館 の 蔵 品 で 、 全 部 で 十 冊 あ り、 線 装 墨 書 の 抄 本 で あ る。 長 さ29.5セ ンチ 、 幅18セ ンチ 。 用 紙 は 隣 蘇 園専 用 の 印刷 用 紙 で 、 紙 に赤 い枠 が 印刷 さ れ 、 上 下 に分 か れ て 、全 部 で 八 枠 で あ る 。 枠 の 長 さ は20セ ンチ 、 総 幅16セ ンチ 、枠 幅 は1.9セ ンチ 。 目録 に は 編 纂 者 の 名前 は 明 記 さ れ て い な く、筆 跡 か ら見 る と、楊 守 敬 の書 い た もの で は な い が 、 少 量 の楊 守 敬 の 注 釈 も見 られ る。 原 稿 用 紙 は 「隣 蘇 園」 の 原 稿 用 紙 を使 っ た こ と か ら、 編 纂 者 は楊 氏 の 弟 子 また は家 族 で あ る こ とは 推 測 で き る。 目録 の 内容 に は具 体 的 に 「前 楼 」 や、「 柏 木箱 」 と記 録 して い る こ とか ら、 目録 の 整 理 、登 録 は湖 北 黄 崗 に務 め た時 の 楊 氏 家 宅 、 即 ち 隣 蘇 園 で あ る こ とが わ か る。 こ の 園 名 は 「唐 宋 八 大 家 」 の一 人 蘇 東 坡 が 黄 州 に流 され た と き に作 っ た 「赤 壁 賦 」 の 東 坡 赤 壁 に 隣 接 す る こ とか ら由 来 した もの で 、 楊 氏 は晩 年 この 名 前 を使 って 、 自 ら 「隣蘇 老 人」 とい う号 を使 った 。 『隣 蘇 園 蔵 書 目録 』 は書 籍 部 、 仏 経 部 、 字 画 部 、 法 帖 部 な ど の 部 分 に分 か れ るが 、 編 集 し た と き に完 全 に こ の分 類 を使 っ た わ け で は なか っ た。 例 え ば 書 籍 部 は 経 、 史 、 子 、 集 の 分類 で編 目す る よ う努 め た が 、 元 々保 存 す る と き は経 、 史 、 子 、 集 の分 類 で置 い て い な か っ た為 、 具体 的 に 目録 編 成 の 際 は、 保 存 す る場 所 に よ っ て分 類 、整 理 を行 い 、 や む を得 ず 某 楼 、 某 箱 の形 式 で 登 録 す る よ う に な っ た 。 こ う して 、 経 、 史 、 子 、 集 に よ っ て 分 類 す る方 法 はそ れ ぞ れ個 別 的 に行 っ た り、 千 字 文 に よっ て 番 号 を付 け た り、 体 裁 上 大 きな 問 題 を残 して い る。 内 容 も屡 々修 正 され た こ とか ら、 こ の 目録 は 草 稿 で あ る こ と も窺 え、 そ の 目的 は 、 蔵 書 の 日常 使 用 の 上 で 便 利 さ の 為 に整 理 す る と こ ろ に あ る。 この 目録 は 書 籍 の 出 入 り帖 の 性 質 を持 ち、 この 点 は 目録 の な か に見 られ る 多 くの 符 号 か ら伺 うこ とが で き る。 例 え ば 、 「、」 「0」、 又 は 朱 色 の 「、」 「0」 な どで照 合 す る こ と を示 した り、 大 量 の 注 釈 を加 え た りす る。 また 第 一 冊 の 書 籍 部 を例 に してみ れ ば、 「己 賣 」(売 却 済 み)、 「取 来 」(取 って きた)、 「劇 光典 借 去 」(鯏 光 典 氏 が 借 りて い った)、 「己帯 京 」(北 京 に持 っ て い った)、 「辛 亥(1911)冬 月(ll月)賣 於 傅 涜 叔60元 」(辛 亥 冬 月60元 で傅 涜 叔 に売 っ た)な どの 注 釈 が 見 られ る 。 49 唐 剛 卯 あ る 本 の 重 要 性 或 い は特 徴 を 強 調 す る た め 、 『隣 蘇 園 蔵 書 目録 」 は 「古 抄 本 」、 「初 印 本 」、 「宋 本 」、 「元 本 」、 「足 本 」、 「明 刊 本 」、 「明 倣 宋 本 」 な どの 木 印 を使 い 、 朱 印 を捺 した 。 そ の 中 に 「日本 古 刻 本 」、 「日本 古 抄 本 」 の 二 顆 は 日本 か ら収 集 した 殆 どの 図 書 の条 目に捺 さ れ て い た 。 と こ ろが 、 こ れ らの 印 を実 際 使 用 す る際 、 捺 印 す べ き書 籍 に全 部 捺 印 した わ け で は な か っ た。 例 え ば 第 一冊 書籍 部 の あ る条 目 に は、 墨 書 で 「元 至 順 槧 玉 篇 」、 「元 槧 玉 篇 」 な どを 明 記 した に もか か わ らず 、 「元 本 」 の 印 は捺 され なか っ た 。 注 釈 文 の 中 に 明確 に年 代 を記 録 して い る。 最 も早 い の は例 えば 「己酉(1909)虫 文 斎 」(己 酉 虫 月 に萃 文斎 に 賣 る)が あ り、 最 も遅 い の は 例 え ば 「送 賣 於 甘 翰 臣 十 月刀(初)一 」(甘 翰 臣 に賣 る 壬 子 十 月刀(初)一)が 月賣 於 萃 壬 子(1912) あ る。 こ の年 代 か ら、 こ の 目録 の 編 撰 年 代 は己 酉 年 、 即 ち1909年 よ り早 い こ と と、少 な く と も1912年 に まだ 使 用 中 で あ る こ と が わか る。 一 楊氏蔵書の経歴 楊 守敬 の蔵 書 家 と して の 活 動 は、 清 ・光 緒 六 年(1880)四 月 に清 政 府 駐 日本 公 使 館 の 随 員 と して 日本 の東 京 に滞 在 した期 間 か ら始 ま っ た 。 当 時 の 日本 は 明 治維 新 で 、 古 代 文 化 が 重 要 視 さ れ な い とい う社 会 環 境 に あ っ た 。 こ う し た な か 、 各 種 類 の古 籍 は 日本 の 市 場 に 充 満 し、 安 く販 売 され て い た。 楊 守 敬 は 『日本 訪 書 志 』 の 縁 起 で 次 の よ う に述 べ た 。 日本 維 新 之 際 、頗 欲 廃 漢 学 、 故 家 旧蔵 、 幾 於 論 斤 估 値 。 日本維 新 の 際 に 、 強 く漢 学 を廃 し よ う と した。 故 に家 の 旧蔵 漢 籍 は、 重 さで 計 っ て 売 られ る ぐ らい だ っ た。 また 、 袁 同礼 は 『 観 海 堂 書 目序 』 で 次 の よ う に述べ て い る 。 (日本)挙 国士 大 夫 、 棄 古書 如 敝 屐 。 (日本 の)全 国の 士 大 夫 は、皆 古 書 を破 れ た草 履 の よ う に捨 て て い た 。 こ う し た状 況 で 、 同年 の 十 二 月 楊 氏 は友 人 李 縄 客 の 手 紙 に こ の よ うに言 っ て い た。 「日本 古 籍 甚 多 、所 見 有 唐 人本 『玉 篇 』、 又 有 釈 慧 琳 『一 切 経 音 義 』、 隋 杜 台 卿 『玉 燭 宝 典 』、 皆 鈔 本 、 其 餘 秘 笈 尚夥 。 隋唐 以 下 金石 文字 、 亦 美 不 勝 収 。 彼 国 自撰 之書 、 与 中土 可 互 証 者 尤 多 」(日 本 の 古 籍 は 甚 だ 多 い。 私 が 見 た 中 で 、 唐 人 の 『玉篇 』、 釈 慧 琳 の 『一 切 経 音 義 』、 隋 の 杜 台 卿 の 『玉 燭 宝 典 』 な どが あ り、 皆 鈔 本 で あ る。 そ の他 の秘 笈 は また お び た だ しい。 隋唐 以後 の 金 石 文 字 も、 素 晴 ら しい もの が 多 す ぎて 、 鑑 賞 し きれ ない 。 日本 人 が 書 い た 書 籍 の 中 に、 中 国 と お 互 い に照 合 しあ う もの は 尤 も多 い)。 楊 守 敬 は 遂 に 中 国 古 代 の散 逸 した 書籍 を収 集 す る よ う に志 した 。 当時 中 国 の 文 人 学 者 は この 言 葉 を 聞 き、 李 慈 銘 の よ う に 「聞 之 神 往 、 有 懐 鉛 浮 海 之 思 」(こ れ を聞 い て 憧 れ はす るが 、砲 丸 を抱 い て 海 に飛 び込 む よ うな 思 い だ)と 述 べ た 人 も 『 隣蘇園蔵書 目録』及び其 の研究 い た が 、 これ を 聞 い て 激 励 の 言葉 を 述 べ た 人 も い る。 例 え ば 黄 遵 憲 は 『日本 雑 事 詩 亅 の 注 に 次 の よ う に書 い た 。 「先 是 、 先 生 初 至 日本 、 嘉 応 黄 公 度 方 任 使 館 参 賛 、告 以 中 土 珍 本古 籍 、 唐 抄 宋 刻 、 時 復 邂 逅 相 遇 、勧 其 留 意 捜 輯 、 先 生 因有 日本 訪 書 之 学 」(こ の前 、 先 生(楊 氏)が 初 め て 日本 に 来 た と き、 嘉 応 黄 公 度 は使 館 参 賛 に任 命 さ れ た ば か りで 、 唐 、宋 の 抄 本 、 刻 本 な ど 中 国 の 珍 本 古 籍 が あ る こ と を告 げ た 。 あ る 時 、 偶 然 に会 っ た と き に、 先 生 に留 意 し て収 集 す る よ う勧 め た。 故 に 先 生 は 日本 訪 書 の 学 を著 した)。 楊 氏 自撰 の 年 譜 に 、 当 時 の様 子 に つ い て 、楊 守 敬 は 次 の よ う に述べ た。 先 是 、 余 初 到 日本 。 遊 於 市 上 、 睹 書 店 中 書 、 多 所 未 見 、 雖 不 能購 、 而 心 識 之 。 幸 所 携 漢 魏 六朝 碑 版 、 亦 多 日本 人 未 見;又 古 銭 古 印 為 日本 人所 羨 、 以 有 易 無 、 遂 盈 筐 筴 。 及 黎 公 有 刻 書 之 議 、 則 日 日物 色 之 、 又 得 日人 森 立 之 『 経 籍 訪 古 志 」 抄 本 。 其 時 立 之 尚存 、 乃 按 目索 之 、 其 能 購 者 、 不 惜 重 値 、遂 已 十 得 八 九 、 且 有 為 立 之 所 不 載 者 数 百 種 、 大 抵 医 書 類 為 多 、 小 学 類 次 之 。 於 是 由 黎 公揮 取 付 梓 人 、 嘱 守 敬 一 人 任 之 。 守 敬 日与 刻 工 磋 擇磨 善 悪 、 又 応 接 日本 文 学 士 、 夜 則 校 書 、刻 無 寧 日、 日本 詫 為 万 夫 之 禀 、 且 上新 聞 報 中。 是 時 、 与 日本 文 人 往 来 最 密 者 厳 谷 修(六 一)、 日下部 東 作(鳴 鶴)、 岡千 仭(振 衣)。 こ の前 に 、 私 が 初 め て 日本 に着 き、 町 を ぶ らぶ ら した ら、 本屋 に お い て あ る本 の 多 くが 見 た こ との な い本 で あ る こ とに気 づ い た 。 買 え な い け れ ど、 内 心 とて も気 に入 っ た。 幸 い 自分 が 持 っ て い っ た 漢 、 魏 、 六 朝 の石 碑 版 本 の 多 くは 、 これ ま た 日本 人 が 見 た こ との な い もの で 、 ま た古 銭 、 古 印 な ど も、 日本 人 が 欲 しい もの で あ る。 お 互 い 持 って い る も の で 持 っ て い な い もの と交 換 し、 遂 に荷 物 が い っ ぱ い に な っ た 。 そ こで 黎 公 か ら本 を刻 印 す る提 案 が あ り、 これ を受 け て 日 々物 色 し、 又 森 立 之 の 『 経 籍 訪 古 志 』 の 抄 本 を手 に 入 れ た 。 其 の 時 目録 は まだ あ り、 目録 に従 っ て 書 籍 を求 め た 。 買 え る もの は 、 高 い お 金 を惜 しま ず に買 い、 遂 に 八 九 割 を手 に入 れ た 。 また 目録 に載 せ て い な い もの が 数 百 種 あ り、 た い て い医 書 類 が 多 く、小 学 が こ れ を次 ぐ。 そ れ で 、 黎公 に 出 版 者 を選 ん で も らい 、 す べ て の こ と を守 敬 一 人 に任 せ た 。 守 敬 は 昼 に刻 工 に切 磋 す る か た わ ら、 日本 の 学 者 を 応 対 し、 夜 は 書 籍 の校 正 に励 む 。 一 日で も休 む 暇 が なか っ た。 日本 で は こ の こ と につ い て 皆 の 好 評 を受 け、 新 聞 に も報 道 され た 。 こ の 時 に、 日本 の文 人 と交 友 関係 が 最 も親 密 で あ っ た 者 は 、厳 谷 修(六 一)、 日下 部 東 作(鳴 鶴)、 岡 千 仭(振 衣)で あ る 。 この 後 、 楊 守 敬 先 生 は 日本 で 古 籍 の 収 集 と 出版 に 力 を注 いだ 。 彼 は 『日本 訪 書 志 』 の縁 起 に この よ うに 書 い た 。 余 生僻 陬 。 家(尠)蔵 書 、 目録 之 学 、 素 無 淵 源 。 庚 辰 東 来 日本 、 念 欧 陽 公 百 篇 尚存 之 語 、 頗 有捜 羅 放 佚 之 志 、 茫 然 無 津 涯 、 未 知 佚 而 存 者 為 何 本 、 乃 日遊 市 上 凡版 已毀 壊 者皆 購 之 、 不 一年 、 遂有 三 万餘 巻 、其 中雖 無 秦 火 不焚 之籍 、 実 奮 然 未 献 之 書 。 私 は 生 ま れ な が らの 僻 み根 性 で 、 家 に蔵 書 は甚 だ 少 ない し、 更 に 目録 の 学 問 に つ い て は 淵 源 が な い。 庚 辰 に 日本 に 来 て 、 欧 陽 公 の 百 篇 は まだ 伝 存 して い る こ と を 聞 い て 、 散 逸 51 唐 剛 卯 した 書 籍 を収 集 す る気 持 ち は 強 か っ た。 が 、 茫 然 と して 当 て る と こ ろが な く、 散 逸 した もの で 伝 存 され た の は どん な もの か につ い て も分 か ら なか っ た。 そ れ で 毎 日街 をぶ らぶ ら して 、 版 が既 に壊 れ た もの が あ れ ば全 部 買 い 、 一 年 も満 た な い 問 に、 遂 に3万 巻 餘 り に な り、 其 の 中 に は秦 の 「焚 書 坑 儒 」 を免 れ た よ うな 古 い書 籍 は ない が 、 実 に 貴 重 な書 籍 ば か りで あ る。 楊 守 敬 は古 籍 を収 集 す る と同 時 に、 清 政 府 の 駐 日公 使 黎 庶 昌 の 指 示 で 、 古 籍 の整 理 、 出版 の 作 業 を進 め た 。 光 緒 十 年 に 、楊 守 敬 が 実 際 主 宰 した 『古 逸 叢 書 』 は 日本 で刻 印 を完 成 した。 日本 に伝 存 す る 中国 の古 籍 二 十 六 種 を含 め た 、 凡 そ 二 百 巻 の 叢 書 で あ る。 こ れ は 世 界 中 で 反 響 を起 こ した 。楊 氏 は 自分 で 書 い た 年 譜 で この よ うに書 い て い た。 「 古 逸叢 書 已成 、 督 印 百 部 、 黎 公 以 贈 当時 顕 者 、 皆 驚 為 精 絶 」(古 逸 叢 書 は既 に完 成 、 百 部 印刷 させ 、 黎 公 は これ を 当 時 の 名 士 に贈 った 、皆 そ の見 事 な こ と に驚 い た)。 また 金 武 祥 は 『粟 香三筆 』 で この よう に述 べ た。 「当 時 の 人 々 は 『 古 逸叢 書 』 を珍 しい もの と見 て 、 皆 こ れ を 欲 しが っ て い た 」。 後 に 、 楊 氏 は 日本 で の訪 書経 過 に よ っ て 『日本 訪 書 志 』 と 『續 志 亅 の 草 稿 を書 き始 め た。 こ の 間 に楊 氏 は 感 慨 に耽 っ た 。 『楊 惺 吾 先 生 年 譜 亅(呉 天 任撰 、 台 湾 藝 文 印 書 館 、1974年)に 引 用 した 容 肇 祖 の 『楊 守 敬 小伝 』 に所 載 の楊 守 敬 が 友 人黄 萼 宛 の手 紙 の 内 容 を転 引 す る。 学 問 一 事 、 敬 以 前 皆 毫 未 聞 。 自来 此 因縦 覧 数 万 巻 書 、 始 知 此 中 門径 、 所 刻 書 二 十 餘 部 、 又 為 日本 訪 書 志 廿 餘 巻 、 若 明 年 無 他 故 、 此 身必 当有 五 百年 之 称 、惜 未 得 与 仁 兄 朝 夕 相 見 、 同 此 楽 也 。 弟 現 在 所 蔵 書 已 幾 十 万 巻 、其 中秘 本 、 亦 幾 万 巻 、就 中有 宋 版 蔵 書 、 可 以 相 並 、 其 他 皆 不 足 言 也 。 自幸 此 身 有 此 奇 遇 、 故 一 切 富 貴 、 皆 漠 不 関懐 、 計 明 年 之 冬 、 当 返 国赴 黄 崗任 、他 日必 邀 仁 兄 一 賞 奇 也 。 学 問 の こ とは 、 私 は 今 ま で 少 し も分 か らな か った が 、 此 処 に 来 て か ら、 数 万 巻 の 書 物 を 縦 覧 す る こ とが あ って 始 め て この 道 を分 か り、 刻 印 した 書 籍 は 二 十 餘 部 あ り、 又 日本 訪 書 志 二 十 餘 巻 を書 い た 。 来 年 に 他 の 変 動 が なけ れ ば 、 こ れ は五 百 年 の 歴 史 に残 る よ うな 書 物 に な る。 惜 しい こ と に 、仁 兄 と朝 夕 会 う こ とが で きず 、 此 の 楽 しみ を共 に 享 受 す る こ とが で きな い。 私 が 現 在 所 蔵 す る書 籍 は 既 に 数 十 万 巻 に の ぼ り、 其 の 中 に秘 本 も幾 万 巻 に な る。 中 国 に は 宋 版 の蔵 書 は これ と比 べ る こ とが で きる が 、 其 の 他 の は皆 比 べ もの に な ら ない もの で あ る。 私 は 自 ら此 の 奇 遇 を最 も幸 運 に思 っ て い るの で 、 一切 の 富 貴 に は まっ た く関 心 を持 って い ない 。 恐 ら く来 年 の冬 に は 国 に帰 っ て 、黄 崗 に 赴任 に 行 くが 、 後 日必 ず仁 兄 に こ れ らの珍 しい書 籍 を見 せ た い。 手紙 の 中 に 、 「弟 現 在 所 蔵 書 已幾 十 万 巻 、 其 中 秘 本 、 亦 幾 万 巻 」 と書 い た こ とか ら、 楊 氏 が 日 本 で収 集 した 古籍 の 数 量 の 多 さ に驚 くだ ろ う。 光 緒 十 年(1884)、 楊 守 敬 「四 月差 満 、 五 月束 載 所 得 古 籍 帰 国」(四 月 に 任 期 満 了 、 五 月 に収 集 した 古 籍 を 載 せ て帰 国 した)。 帰 国 後 、 彼 は 湖 北 黄 崗 に戻 り、 教 諭 の 職 に つ い た 。 そ の 収 蔵 した 古 籍 も黄 崗 に運 送 さ れ た 。 光 緒 十 四 年 (1888)、 楊 氏 は黄 崗 に 、蔵 書 楼 を建 て た。 こ の こ とは楊 氏 自撰 の 年 譜 に 記 録 され て い る。 52 r隣蘇園蔵書目録亅及び其の研究 戊 子 、 五 十 歳 。 築 黄 州 「隣蘇 園 」 以 蔵 書 、 其 城 北 即 東 坡 赤 壁 、 故 以名 。 戊 子 年 、 五 十 歳 。 黄 州 に 蔵 書 の た め に 「隣 蘇 園 」 を建 て 、 其 の 城 北 は東 坡 の 赤 壁 で あ る 故 に、 この 命 名 を した 。 こ の後 楊 守 敬 は 自 ら隣蘇 老 人 と称 す る よ うに な る。 が 、 隣 蘇 園 内 の 蔵 書 楼 は別 に名 称 が あ り、 厂 広 文 書 楼 」 とい う。 陳 三 立 の 『宋 槧 黄 山谷 内外 集 題 辞 』 に この よ う に述 べ て い る。 光 緒 十 九 年 、 … …其 秋 、 遊 黄 州 諸 山、 遂 過 楊 惺 吾 広 文 書 楼 、 遍 覧 所 蔵 金 石 秘 籍 、 中 有 日 本 所 得 宋 槧 黄 山谷 内 外 集 、 為 任 淵 史 容 注 、 据 称 不 独 中 国未 経 見 、 於 日本 亦 孤 本 也 。 光 緒 十 九 年 、 … … 其 の 秋 に 、 黄 州 の 山 に 遊 び に行 き、 遂 に は楊 惺 吾 の 広 文 書 楼 に 寄 り、 そ の 金 石 秘 籍 の所 蔵 を遍 覧 した。 中 に は 日本 で 得 られ た 任 淵 史 容 注 釈 の宋 槧 黄 山谷 内 外 集 が あ り、 中 国で 見 た こ とが ない だ け で は な く、 日本 にお い て も孤 本 で あ る と云 う。 当 時 楊 守 敬 の蔵 書 規 模 は 「 三 百棚 」 と言 わ れ る ぐ らい 大 き い。 周 伯 晋 の 『過 黄 州 宿 楊 惺 吾 隣蘇 園書 楼 亅 の詩 か ら伺 う こ とが で きる 。 宋 槧唐 彫三百架、独専尤物時人罵。 興来堰 筆作 狂書、行歌乱石荒花下。西 山如客輯書楼 、 楼 上老儒無所求。何須踝i瞹金門道 、得住高楼 吾既 休fl 以 上 述 べ て きた よ う に、 楊 守 敬 の 主 要 な 蔵 書 は 日本 か らの 収 集 で あ り、 そ の 収 集 の 過 程 は 前 述 した 通 りで あ る。 そ の 中 に、 中 国 か ら 日本 に流 入 した 中 国 で 印 刷 さ れ た 古 籍 もあ る し、 日本 で 印 刷 、又 は 写 した 中 国 と 日本 の 古 籍 もあ る。 楊 守敬 が 著 した 『日本 訪 書 志 亅 に は 次 の よ うに 述べ て い る。 余 在 日本 所 得 古 鈔 佛 経 不 下 六 七 百 巻 、 其 中 有 唐 人 書 写 者 、 有 日本 人伝 録 者 、 工 拙 不 一; 而 時 有 出於 高 麗 蔵 、 宋 蔵 、 元 明 蔵 之 外 、 有 島 田 □ □ □ 等 好 佛 書 、為 言:此 皆 其 日人 入 唐 求 法 僧所 国 者 。 私 は 日本 で 得 た古 鈔 佛 経 は六 、七 百 巻 を下 らな い、 其 の 中 に、 唐 人が 書 い た もの もあ り、 日本 人 が 伝 録 した もの もあ る。 印 刷 の 出来 は ば ら ば らで あ る。 時 に は高 麗 蔵 、 宋 蔵 、 元 明 蔵 の 他 に 、 島 田□ □ □ 等 の よ う な 佛 書 を好 む 人 も い る 。言 う:こ れ は皆 日本 人 が 唐 に 求 法 に行 った 僧 侶 が 刻 した もの 。 二 楊氏蔵書の行方 と散逸 楊 氏 の蔵 書 は清 の光 緒 十年(1884>に 、 楊 守 敬 は 「五 月束 載 所 得 古 籍 帰 国」(五 月 に得 た古 籍 を載 せ て 帰 国 した)。 そ の古i籍は 黄 崗 に運 送 され る。 前 述 した よ う に、 光 緒 十 四年(1888) 「築 黄 州 「隣 蘇 園 」 以 蔵 書 」(蔵 書 の た め 、 黄 州 の 「隣蘇 園」 を建 て た)。 こ こ は楊 氏 蔵 書 の 帰 唐 剛 卯 国後 の第 一 拠 点 で あ る。 また、 楊 氏 自撰 の年 譜 に よる と、 楊 氏 は光 緒 二 十 五 年(1899)、 当時 湖 廣 総 督 張 之 洞 の 要 請 を受 け、 黄 崗 を離 れ、 武 昌 の両 湖 書 院 に教 習 の 職 につ い た 。 光 緒 二 十 八 年(1902)、 この年に 書 院 は学 堂 に改 め られ 、 これ と別 に勤 成 学 堂 が 成 立 し た。 楊 氏 は 武 昌 勤 成 学 堂 の 総 教 長 に 命 じ られた 。 この 間 に、 楊 氏 蔵 書 は そ の量 が多 か った の と、住 居 も粗 末 な と ころ で あ った た め、 書 籍 は武 昌 に 運 ぶ こ とが で きな か っ た。 彼 の 年 譜 に こ の よ うに記 録 して い る。 … … 而 議築 学 堂 於 花 園 山 、余 因買 横 街 舗 屋 暫 居 。 九 月 、買 菊 湾 破 屋。 略 修 飾 而 移 居 焉 。 … … そ こ で花 園 山 に学 堂 を建 て る こ とを検 討 し、 私 はそ の た め街 の 舗 屋 を買 い 、 暫 く住 ん だ 。九 月 に菊 湾 で見 窄 ら しい家 を買 い 、 少 々修飾 して こ こ に移 住 した 。 住 居 の 条 件 は この よ う な もの な の で 、 楊 氏 蔵 書 は 武 昌 に運 搬 で きな か った 。 こ れ は彼 の 個 人研 究 に と っ て も、 本 の 収 蔵 に と っ て も大 き な不 便 を もた ら した 。 そ こで 、 光 緒 二 十 九 年 (1903)、 楊 氏 は菊 湾 で 書楼 を建 てた 。 この 書楼 が で きて か ら、 楊 氏 の 主 要 な蔵 書 は黄 崗 か ら 武 昌 に移 る はず で あ っ た 。 この 後 、 宣統 元年(1909)、 菊 湾 の家 を修 理 した 。 これ につ い て 楊 守 敬 は 年 譜 で多 少 言 及 した 。 「菊 湾 老 屋 朽 壊 将 傾 、 改作 至 十 二 月 成」(菊 湾 の 老屋 は朽 ち壊 れ 、 傾 こ う と した、 修 理 作 業 は 十 二 月 まで に完 成 した)。 い わ ゆ る老 屋 は前 買 っ た とい う 「菊 湾破 屋 」 を指 す が 、 そ れ に対 して新 屋 が あ るべ く、 つ ま り新 修 した書 楼 で あ る。 以 上 述 べ て きた よ うに、 楊 氏 の 蔵 書 は1903年 前 後 に 武 昌 菊 湾 に移 し、 こ こ は楊 氏 蔵 書 帰 国 後 の 第 二 の拠 点 で あ る。 1911年 武 昌 の 武 装 革 命 が 起 こ り、 武 昌 城 内 の秩 序 は混 乱 し始 め た 。 楊 氏 は 上 海 に避 け た の で 、 武 昌 の楊 氏 蔵 書 は人 に 保 管 を依 頼 せ ざる を得 なか っ た。 陳 三 立 『宜 都 楊 先 生墓 志 銘 亅 に は次 の よ う に書 い た。 「(楊守 敬)歳 辛 亥 、 武 昌禍 起 。跳 出走 上 海 、 鬻 書 為 活 」(辛 亥 年 間、 武 昌 で 革 命 が 起 こ り、 楊 守 敬 は上 海 に逃 げ 、本 を 売 っ て 生 計 を維 持 した)。 彼 は 自分 の 年 譜 に次 の よ う に詳 し く記 述 した。 武 昌 の 革 命 が 起 こっ て か ら 「有 勧 遠 避 者 、 … … 吾 書 籍 甚 多 、 萬 不 能遷 出;況 民 軍 示 文 、 秋 毫 不 犯 、 遂 堅 持 不 出城 主意 」(遠 くへ 避 け る よ う進 め られ た が 、 … … 私 の 蔵 書 が 多 す ぎて 、 こ れ を遷 移 す る こ とが で き ない 。 そ れ に民 軍 は 少 しも犯 さ な い と明 示 した の で 、遂 武 昌城 を出 な い こ と に決 意 した)。 しか し、 十 月 十二 日に楊 守敬 は銃 を持 った 悪 人 に遭 遇 したの で 、 や む を得 ず 急 い で 上 海 に逃 げ た 。 家 に あ る書 籍 の管 理 は 全 部 使 用 人 に任 せ た。 上 海 につ い て か ら始 め て 日本 の 寺 西 秀 武 氏 の 要 請 で 黎都 督 は既 に楊 守 敬 の 書 籍 を保 護 し よ う とい う告 示 を楊 宅 に貼 り、 室 内 に も封 印 の紙 を貼 っ た こ と を知 っ た 。 年 譜 に こ れ に つ いて この よ うに 記 録 した 。 照得文 明各 国、凡於本 国之典 章図籍 、罔不極 意保 存、 以為国家光 栄。茲査有 楊紳 守敬、 蔵 古 書 数 十 万 巻 、 凡 我 同 胞 、 均 応 竭 力 保 護 、 如 敢 有 意 図損 毀 及 盗 窃 者 、 一経 査 覚 、 立 即 拿 問 治 罪。 楊 紳 系 篤学 老 成 之氏 、 同胞 咸 當 愛 敬 、 共 尽 保 護 之 責 、 以 存 古 籍 而 重 郷 賢… … 各 文 明 国 を見 て 、 凡 そ 自国 の 典 章 図 籍 に 、極 意 に して 保 存 に務 め 、 こ れ を も って 国 家 の 『 隣蘇園蔵書 目録』 及び其 の研究 光 栄 と為 す 。 今 楊 紳 守 敬 が 、 古 書 を数 十 万 巻所 蔵 す る こ とが 分 か り、 我 が 同胞 は皆 力 を 尽 く して そ の 保 護 に務 め るべ き、所 蔵 書 籍 に 損 害 を与 え た り、 窃 盗 を し よ う と図 る もの が 居 れ ば 、 発 覚 す る次 第 、 直 ち に 罪 を 問 う。 楊 紳 は博 学 、 老 成 の 方 で 、 同 胞 は皆 敬 愛 を す べ く、 共 に古 籍 保 護 の 責 任 を果 た し、 こ れ を もっ て古 籍 を保 存 し、 郷 の 賢 士 を 大切 に す る… … 以 上 の 内容 か ら、 当 時 の 武 昌 軍 政 府 の 中 国 伝 統 文 化 に対 す る保 護 政 策 の 一 斑 が 窺 え る。 こ れ で楊 氏 の 蔵 書 は安 全 に居 られ た。 しか し当 時 南 北 軍 は武 漢 で 揚 子 江 を隔 て て対 峙 して い た 。 楊 守 敬 は これ につ い て大 変 心 配 し、 そ の 心 配 の気 持 ち は年 譜 か ら窺 え る。 … …吁1世 之蔵 書 者 、大 抵 席 豊 履 厚 、以 不甚 愛 惜 之 銭 財 、或 値 故 家 零 落 、以 賎 値梱 載 而 入 、 守 敬 則 自少壮 入都 、 日遊 市 上 、 節 衣 嗇 食 而 得;而 在 日本 、 則 以 所 携 古 碑 、 力 始能 入厨 者 。 天鑑 双 難 、 當 不 使 同 絳 雲 一 炬1若 長 此 不 靖 、 典 籍 散 佚 、 則 非 独 吾 之 不 幸 、 亦 天 下 後 世 之 不 幸 也 。 涕 零 書 此 、 知 我 者 、 其 勿 以 不 達 笑我 。 … … 世 の 蔵 書 者 た ち は、 大抵 お 金 持 ち で 、 惜 し まな い 金 で書 を買 うか 、 或 い は古 い 家 が 没 落 す る 時 に 、 そ の 家 の書 籍 を安 値 で 大 量 購 入 す る 。 守 敬 は若 い 時 に町 に行 き、 日 々町 にぶ らぶ ら して物 色 した 書 籍 は 、 皆 衣 食 を節 約 して 得 た もの で あ る;そ し て 日本 で は 、 持 っ て い る古 碑 で 交 換 した 。 そ の 収 集 の 難 しさ を神 様 が 察 知 して くれ る な ら、戦 火 に焼 却 す るの を免 れ て くだ さ る は ず 。 若 しこの 状 況 が 長 く続 くな ら、 典 籍が 散 逸 す る こ と は、 私 個 人 の不 幸 に止 ま らず 、 亦 天 下 、 後 世 の 不 幸 に な る。 涙 を流 し これ を書 き、 そ う い う 状 況 に な る場 合 、 私 を知 る者 は 、(書 籍 の保 存)が で き なか った こ と を笑 わ ない で くだ さ い 。 こ う して 、 楊 守 敬 の 蔵 書 は1912年 上 海 に 移 っ た 。 楊 氏 蔵 書 か ら見 る 限 り、 蔵 書 の 場 所 は 「 観 海 堂 」 と呼 ば れ る と こ ろ にあ る。 恐 ら く上 海 に居 た と きに書 籍 は こ こ に置 い て い た と思 わ れ る。 こ こ 「観 海 堂」 は楊 氏 蔵 書 帰 国 後 の 第 三 の拠 点 で あ る。 楊 氏 年 譜 に よ る と、 「 丙 午 、六 十 八 歳 四 月 至 上 海 、 寓居 甘 君 翰 臣家 。 時翰 臣為 怡 和 洋行 総 弁 、 酷 愛 余 書 法 」(丙 午 年 、 六 十八 歳 の 時 、 四 月 に上 海 に至 り、甘 君 翰 臣 の家 に寄 宿 して い た 。 当 時 翰 臣氏 は怡 和 洋 行 の総 弁 を 務 め 、 私 の 書 を好 ん で い た)。 こ こか ら甘 翰 臣 と楊 守 敬 の交 友 関係 が窺 え る。 楊 氏 が 上 海 に行 っ た と き、 甘 家 に 泊 ま っ た に違 い な い。 但 し書 籍 は上 海 に つ い てか ら ど うな っ た のか 、 これ につ い て は今 後 の考 察 を待 と う。 民 国 が 成 立 して か ら、1914年 、 楊 守 敬 は 参 議 員 に な り、 北 京 に赴 任 した 。 呉 天 任 が 書 い た 『 楊 惺 吾 先 生 年 譜 』(台 湾 藝 文 印 書館 、1974)に よ る と: 先生常以名 山之業為念 、因将在滬蔵 書、次 第運京 、費用 由政府 資之。在京寓西城 南魏胡 同。 先生 は常 に名山の業 を念頭 にお き、上海 にある蔵 書 を、次 第に北京 に移 した。費用 は政 55 唐 剛 卯 府 が出資 して助 けた。蔵書 は北京西城の南魏胡 同に置いた。 楊 守 敬 の 蔵 書 は こ の と き政 府 の力 を借 りて 北 京 に移 り、 南 魏 胡 同 に置 い た こ とが 分 か る 。 こ こは楊 氏 蔵 書 の 第 四 の拠 点 に な る。 この 後 、1915年 、 楊 守敬 先 生 は逝 去 した。 前 引 の 年 譜 に よる と、1919年 先 生 が 逝 去 して 、 その 四年 後 に、 観 海 堂 の蔵 書 は 傅 玩 叔 の 仲 介 で 、政 府 に売 却 され た 。 この こ と につ い て 、何 澄 一 が 編纂 した 『故 宮 所 蔵 観 海 堂 書 目」(民 国21年 北 平 故 宮 博 物 院 図書 館 印 刷 発 行)に 載 せ た 、袁 同礼 の序 言 に 詳 し く記 録 され て い る。 我 国久佚之 書、頼楊氏 之力、復 見於 中土 、則楊氏 保存古籍 之功殊不 可没也 。民 国乙卯、 楊 氏 帰 道 山 、 享 年 七 十有 六 。 其 蔵 書 全 部 以 国 幣 三 万 五 千 元 鬻 諸 政 府 。 己未 、徐 総 統 以 一 部 分 撥 交 松 坡 図書 館 、所 餘 者 儲 於 集霊 囿 、 丙 寅 一 月 、 撥 帰 故 宮 博 物 院保 存 、 蔵 於 大 高 殿 、 為 故 宮 図書 館 分館 。 己 巳冬 移 於 壽 安 宮 、 専 室 皮 蔵 、 公 開 閲覧 。今 就 故 宮 所 蔵 者 由 何 君 澄 一編成簡 目 、 聊 備稽 考 而 己 。 窃 念 此 録 雖 非 観 海 堂 蔵 書 之 全 部 、 然 所 著 録 為其 他 書 目所 不 及 者 有 二:一 日:古 鈔 本 、 二 日:医 書 。 日本 所 傳 古 鈔 本 、 多 存 隋唐 之 旧、 其 価 値 當 出 宋 元 旧 刊 之 上 、 今 娼然 独 存 、 而 為 一 般 収 蔵 家 所 未 見 。 至 医 籍 秘 本 、 大 抵 皆 小 島 学 古 旧蔵 、 学 古 三 世 以 医 鳴 於 日本 、 蔵 書 之 富 、 罕 有 其 匹 。 今 観 其所 収 者 、 多 為 各 書 目所 未 載 、 寧 非 書 城 之 巨封 、文 苑 之 宝 蔵 耶? 我 が 国 が 久 し く散 逸 した 書 籍 が 、楊 氏 の 力 で 再 び 中 国 に 見 られ る よ う に な るの は 、 楊 氏 の古 籍 保 存 の 功 績 に 帰 す る。 民 国 乙 卯 年 に 、楊 氏 が 逝 去 し、 享 年 七 十 六 歳 。 其 の蔵 書 の 全 部 は 国 幣 三 万 五 千 元 で 政 府 に売 られ た 。 己 未 年 、 徐 総 統 は そ の 一 部 分 を松 坡 図書 館 に 交 付 し、 余 っ た部 分 は 集 霊 囿 に保 管 し、 丙 寅 年 一 月 に 、故 宮 博 物 院 に 交付 して 、 大 高殿 に保 存 し、 これ を故 宮 図 書館 の 分 館 と為 す 。 己 巳 年 の冬 に壽 安 宮 に移 り、専 門 の 個 室 に 保 存 し、 公 開 閲 覧 が 可 能 に な る。 今 、 故 宮 に所 蔵 す る古 籍 に つ い て 、 何 澄 一氏 は簡 単 な 目録 を編 成 し、 参 考 に備 え る ばか りで あ る。 此 の 目録 は観 海 堂 蔵 書 の 全 部 で は ない け れ ど、 其 の 記 録 の 内 容 に他 の書 目が 比 べ られ な い の は 二 つ あ る:一 つ は古 鈔 本 、 も う一 つ は 医 書 。 日本 に 伝 存 す る古 鈔 本 の 多 くは 、 隋 唐 の 旧 本 で あ り、其 の 価 値 は宋 元 の 旧 刊 よ り高 い はず 。 これ は今 良 い状 態 で 保 存 され て い る の は 、 恐 ら く一般 の 収 蔵 家 は見 た こ と の な い こ とで あ ろ う。 医籍 の 秘 本 に 関 して は 、 大 抵 皆 小 島 学 古 氏 の 旧 蔵 か らの もの で 、 学 古 氏 は 三 世 と も 日本 で は医 術 で 名 を知 られ て い る。 そ の 蔵 書 も他 に 匹 敵 す る もの が な い ぐ らい 多 い 。 今 そ の 収 集 した もの を み て 、 多 く は各 書 目 に載 せ て い な い も の で あ る。 こ れ は書 城 の 巨封 、 文 苑 の 宝 蔵 で は な い だ ろ うか 。 しか し、 楊 氏 蔵 書 は や は り完 全 に保 存 さ れ て い なか っ た。 そ の 一 部 分 は 「 松 坡図書館」 に 属 し、 こ の 部 分 は 当 時 の 学 者 た ちが 一 般 書 籍 と見 た もの だ ろ う。 も う一 部 分 は 故 宮 博 物 院 に 属 し、 最 初 は 「大 高殿 」 に 、 後 に 厂壽 安 宮 」 に保 存 し、 こ の部 分 は楊 氏 蔵 書 の 精 髄 と思 わ れ る。 建 国 前 に 、 故 宮 博 物 院 に所 蔵 した書 籍 は 台 湾 に 移 り、 現 在 台 北 故 宮 博 物 院 に保 存 され て い 『隣蘇園蔵書 目録 』及び其の研究 る。 松 坡 図 書館 の 書 籍 は 中 国 の 国 家 図 書 館 北 京 図 書 館 に帰 属 す る よ う に な り、 現 在 は 既 に各 類 の 図 書 の 中 に混在 して い る状 態 で あ る。 以 上 、 楊 氏 蔵 書 の 大 体 な動 き を述 べ て きたが 、 こ こで 特 別 に 指 摘 した い の は 、楊 守 敬 が 亡 く な って か ら、 楊 氏 の 後 代 は全 部 の 書 籍 を 当 時 の北 洋 政 府 に売 却 した わ け で は なか っ た。 楊 家 に 一 部 分 の 古 籍 が 残 さ れ て い た 。 特 に 巻 物 の 手 抄 本 古i籍と文 書 、 こ の 部 分 は1965年 以 前 に 既 に 流 出 が あ っ た が 、1965年 以 降 、楊 守 敬 先 生 の 孫 、楊 先梅 先 生 は 家 に保 存 して い る残 りの 古 籍 を全 部 湖 北 省 博 物 館 に寄 贈 した。 以上 述 べ て きて 分 か る よ う に、 楊 守 敬 先 生 の 蔵 書 は、 ま さ に彼 自身 が語 っ た よ うに 、 「一 切 富 貴 、皆 漠 不 関 懐 」、 「節 衣 嗇 食 而 得 」、 「天鑑 限難 」 で収 集 した 蔵 書 で あ る。 こ れ らの蔵 書 は 、 楊 守 敬 の 生 前 に既 に何 回 も遷 移 を経 歴 し、 戦 火 の 危 険 を冒 した 。 楊 氏 が 逝 去 した あ と も、 大 陸 、 台 湾 各 地 に散 在 して い る。 そ の 中 に散 逸 した もの の多 く は現 在 す で に見 る こ とが で き な い。楊 守敬 が 「涕零 書此 」(涙 を流 し此 を 書 い た)時 の気 持 ち を思 え ば、 思 わ ず 感慨 に耽 っ た 。 こ う して 、 楊 氏 蔵 書 の 詳 しい 状 況 を把 握 す るた め に は 、楊 氏 蔵 書 の書 目の 編 撰 が 当面 の 急 務 で あ る こ と は、 言 う まで も ない 。 三 楊氏蔵書 目録の編纂 楊 氏蔵 書 は最初 か ら注 目を浴 び て きた。 しか し、楊氏 蔵書 はこれ ほ ど豊富 だ った に もかか わ らず 、 未 だに満 足 で きる 目録 を編纂 、公 開 され た こ とが なか った。 その為 、楊 守 敬 の生前 には一般 の 人 は その 詳 しい事 情 は分 か らなか っ た。楊 氏 が逝 去 して か ら始め てそ の蔵 書 の 目録 を編 纂す るよ うに な った 。次 に楊 守敬 蔵書 目録 の編 纂状 況 につ い て述べ る。 現在 既 に公 開刊 行 した楊 氏蔵 書 の 目録 は次 の一種 しかな い。 袁 同礼序 、何澄 一・ 編 『 故宮所蔵観海 堂書 目亅 民 国21年北平故宮博物院図書館 印行 そ の他 に 関係 す る書 籍 は次 の ものが あ る。 1.『 古 逸叢 書 』 二 百 巻 2.『 日本 訪 書志 』 十 六 巻 光緒 十年(1884年) 光 緒 十年(1884年)成 3.『 留 真 譜 』 十 二 巻 、 『續 編 亅 十 二 巻 、 二 十七 年(1901年)刻 光 緒 二 十 七 年(1901年)刻 4.『 日本 訪 書志 補 』 王重 民 拠 故 宮 図書 館 蔵 輯(1930年)活 字印刷 以 上 述 べ て きた こ とか ら、 各 種 の 目録 は 様 々 な理 由で 、 完 全 な 目録 で は な い こ とが分 か る 。 例 え ば 『古 逸 叢 書 亅、 『日本 訪 書 志 』 の 中 に 載 っ て い る 相 当 の 数 の 古 籍 は 楊 守 敬 が 収 蔵 した も の で は な い;ま た 『留 真 譜 』 に 載 っ て い る書 籍 な どは 基 本 的 に楊 守 敬 の 所 蔵 で は あ る が 、 古 籍 が 少 ない 。 い ず れ に して も楊 氏 蔵 書 の 全 貌 を見 る こ とが で きな い 。 『 故 宮 所 蔵 観 海 堂 書 目』 の 場 合 は 、 わ り と全 面 的 で は あ る が 、 蔵 書 の す べ て を 反 映 した わ け で は な く、 松 坡 図書 館 の 一 部 は欠 け て い る し、 楊 家 に残 った 一 部 の古 籍 も含 まれ て い ない 。 57 唐 剛 卯 楊 氏 蔵 書 目録 を研 究 す る場 合 、 まず 最 初 に指 摘 す べ き事 は、 前 述 した よ う に 、楊 氏 が 目録 編 成 の 前 に 、 日本 で 既 に そ の 蔵 書 の 最 も主 要 な部 分 を 整 理 し、 そ れ を も と に 『日本 訪 書 志 』 等 の 原 稿 を書 い た こ とで あ る。 光 緒 二 十 三 年(1897)五 十 九 歳 の 時 に、 楊 氏 は 再 びそ の 蔵 書 の整 理 作 業 を始 め、 こ れ も楊 氏 の 年 譜 に記 録 され て い る。 六 月、帰 黄 州 『隣 蘇 園 』。 … … 自是 又 理 旧 業 、検 点 蔵 書 、擬i刻 『日本 訪 書 志 』 及 『留 真 譜 』。 六 月 、黄 州 の 『隣 蘇 園』 に帰 る。 … … こ こ か ら また 旧業 を始 め、 蔵 書 を検 点 し、 『日本 訪 書志』 と 『 留 真 譜 』 の刻 印 を準 備 す る。 帰 国 して 十 三 年 後 に、 楊 氏 は 始 め て正 式 に 書 籍 を整 理 す る余 裕 が で きた。 この作 業 は又 四 年続 き、清 光緒 二 十 七 年(1901)に 『日本 訪 書 志 』 の 刻 印 が完 成 した 。 『留 真 譜 」 も同 じ年 に 刻 印 、 出版 した 。 但 し、 楊 氏 蔵 書 は依 然 と して 完 全 な 目録 を編 纂 で き なか っ た 。 後 に、 書 籍 の 一 部 を売 る 為 に 、 蔵 書 目録 の編 集 を始 め たが 、 これ は楊 守 敬 が 繆 筌 孫(藝 風 堂)宛 の 手 紙 か ら伺 う こ とが で きる 。 ・ … 再 敝 処 書 籍 、 去 冬 香 帥 欲購 之 、 嘱 抄 目録 。 因敝 処 書 凌 雑 之 甚 、 嘱 人 検 理 、 竟 不 得端 緒 、 故 至 今 己 抄 得 両 分 、其 中重 複 缺 漏 、皆 不 可 用 。 此 非 守 敬 親 自費 数 月 之 功 、 不 能 清 楚 。 今 香 帥 雖 入 都 、 其 作 罷 論 否 、 尚無 明 諭 。 昨 日午 帥 信 来 、 亦 言 及 欲 購 我 書 、 但 目録 未 成 、 万 難議 価 。 唯有 宋 槧全 蔵 六 千 余 冊 、 是 特 別 皮閣 。 (『 藝 風 堂 友 朋 書 札 』上 海古 籍 出版 社) … … また 私 の 処 の 書 籍 は 、去 年 の 冬 に香 帥 は こ れ を買 い た い と言 い 、 目録 を作 る よ うに 言 わ れ た 。 私 の 処 の 書 籍 は 極 め て 乱 雑 な の で 人 に 整 理 して も らお う と した が 、 目鼻 が つ か ない 状 態 だ っ た 。 故 に今 二 部 抄 録 した が 、 其 の 中 の 重 複 欠 落 は 多 く、 皆 使 え な い。 こ れ は 守敬 自 ら数 カ月 をか け て や ら な い と、 整 理 は で き な い と思 う。 今 香 帥 は都 に入 っ て い るけ れ ど、 この 話 は まだ続 くか ど う か は っ き り分 か らな い が 、 昨 日午 帥 か ら手 紙 が 来 て 、 や は り私 の 書 籍 を買 う こ と を言 及 した 。 但 し 目録 は未 完 成 で あ る か ぎ り、 値 段 の 相 談 は で きな い。 宋 槧全 蔵 の六 千 余 冊 だ け は、 特 別 扱 い に して い る。 (『 藝 風 堂 友朋 書 札 亅上 海古 籍 出 版社1980年) この 手 紙 の 中 に 「香 帥」 は 張 之 洞(香 涛)を 指 し、 「午 帥 」 は端 方(午 橋)を 指す。二人 と も都 督 な の で 、 清 人 の 習慣 で 「帥 」 と呼 ぶ 。 この 手 紙 を書 い た 年 代 は 、 手 紙 に 「今 香 帥 雖 入 都 」 が あ る こ とか ら、 清 光 緒 三 十 三 年(1907)張 之 洞 入 閣 の 年 だ と分 か る。 こ の前 年 或 い は 少 し前 に楊 氏 は 始 め て書 籍 を整 理 して も らい 、 目録 を編 集 し、 二 部 を抄 録 した 。 但 し、 この 目録 に楊 守 敬 は 満 足 で き なか っ た。 こ れ は 手 紙 の 中 に 「 其 中 重 複 缺 漏 、 皆 不 可 用 」、 「 此 非守 敬 親 自費 数 月 之 功 、 不 能清 楚 」 と書 い て あ る こ とか ら察 知 で き る。 実 際 楊 守敬 が 時 間 を か け て蔵 書 目録 を編 集 した か につ い て は 考 察 で きな い が 、 光 緒 三 十 三 年(1907)に 既 に一 部 の 目 録 が 存 在 した こ と は 明 らか で あ る。 しか も この 目録 の 編 纂 は 武 昌 で 完 成 した と思 わ れ る 。 と 『隣蘇 園蔵書 目録』及 び其 の研究 い うの は 、 こ の 時 に楊 氏 は既 に 武 昌 の菊 湾 に 移 住 し、 書楼 も建 て られ た か らだ。 楊 守 敬 の 年 譜 に よ る と、 楊 氏 は光 緒 二 十 五 年(1899)に 当 時 湖廣 総 督 張 之 洞 の 要 請 を受 け、 黄 崗 を 離 れ 、 武 昌 に 両 湖 書 院 の教 習 に 就 任 した 。 光 緒 二 十 八 年(1902)、 書 院 は学 堂 に 改 め 、 別 に勤 成 学 堂 を 成 立 した。 楊 守敬 は武 昌 勤 成 学 堂 の 総 教 長 に就 任 した 。 しか し、 この 期 間 に 楊 氏 蔵 書 の 数 の 多 さ と、 武 昌 で の 住 居 が 荒 け ず りだ っ た の で 、 年 譜 に も次 の よ うに 書 い て あ る 、 「而 議 築 学 堂 於 花 園 山 、 余 因 買 横 街 舗 屋 暫 居 。 九 月 、 買 菊 湾 破 屋 。 略 修 飾 而 移 居 焉 」(… そ こ で 花 園 山 に学 堂 を建 て る こ とを 検 討 し、 私 はそ の た め 街 の 舗 屋 を買 い 、 暫 く住 ん だ 。 九 月 に菊 湾 で 見 窄 ら しい家 を買 い、少 々修 飾 して こ こに移 住 した)。 この よ う な居 住 の 条 件 で は、 楊 氏 蔵 書 は 武 昌 に は 運搬 で きな か っ た 。 こ れ は 彼 の 個 人研 究 に と っ て も、 本 の 収 蔵 に と って も大 き な不 便 を もた ら した。 そ れ で 、光 緒 二 十 九 年(1903)、 楊 氏 は菊 湾 で 書楼 を建 て た 。 こ の 書 楼 が で きて か ら、楊 氏 の主 要 な 蔵 書 は黄 崗 か ら武 昌 に 移 る はず で あ っ た 。 この 後 、 宣 統 元 年(1909)、 菊 湾 の 家 を修 理 した 。 こ れ に つ い て楊 守 敬 は 年 譜 で 多 少 言 及 した 。 「菊 湾 老屋 朽 壊 将 傾 、 改 作 至 十 二 月 成 」(菊 湾 の 老 屋 は朽 ち壊 れ 、 傾 こ う と した 、 修 理 作 業 は 十 二 月 まで に完 成 した)。 い わ ゆ る老屋 は前 買 っ た とい う 厂菊 湾 破 屋 」 を指 す が 、 そ れ に対 して新 屋 が あ るべ く、 つ ま り新 修 した 書 楼 で あ る 。 勿 論 、 書 籍 が 遷 移 す る 際 に 目録 の編 纂 をす る事 は非 常 に便 利 で あ る 。 よ っ て この 時 に楊 氏 が 人 に頼 ん で 書 籍 目録 の編 纂 をす る可 能 性 は 非 常 に大 き い 。 しか も、 この 目録 の編 纂 は黄 崗 の 隣 蘇 園 か ら始 ま り、 武 昌 の 菊 湾 楼 で完 成 す る可 能 性 も 非常 に 大 きい。 以 上 述 べ て きた なか 、 楊 氏 蔵 書 は1907年 に 既 に蔵 書 目録 が あ った こ と、 こ れ は楊 氏 が 人 に 頼 ん で 編 纂 した こ と、 ま た楊 氏 自 ら 目を 通 して こ れ を気 に入 らな か った こ と と、湖 北 省 博 物 館 所 蔵 の 『隣蘇 園 蔵 書 目録 』 の 明確 な紀 年 は1909年 で あ る こ と な ど現 在 把 握 して い る 資 料 か ら、 この 時 期 に完 成 した蔵 書 目録 は確 か に 現 在 湖 北 省 博:物館 所 蔵 の 『隣蘇 園 蔵 書 目録 』 で あ る こ とが 言 え る。 この 目録 の編 纂 は 満 足 す る よ う な もの で は な か っ た に して も、 今 日に お い て そ の価 値 は極 め て重 要 で あ る。 とい う の は 、現 存 す る楊 氏 蔵 書 の 目録 で 、 これ が 最 も基 本 的 な もの で あ り 完 全 な もの だか らで あ る。 内容 が 完 全 で あ る こ と は 、他 の 目録 とは比 べ られ な い し、 これ を 通 じて 楊 氏 蔵書 の全 貌 を把 握 す る こ とが で きる 。 一 方 で は、 この 目録 の編 纂 時期 は最 も早 く、 楊 氏 が 日本 か ら持 っ て 帰 っ た書 籍 の 数 量 に つ い て よ く把 握 で き る。 こ の他 、 この 目録 か ら楊 氏 蔵 書 の 散 逸 の状 況 も多 少 窺 え る 。 例 え ば 某 氏 に売 却 した な どの 注 釈 。 前 述 した、 楊 氏 蔵 書 の 一 部 分 は既 に各 地 に散 逸 した が 、 そ の 中 の 日本 の経 籍 文 書 の 行 方 に つ い て の 調 査 も この 目 録 に頼 る しか な い。 結 語 楊 守 敬 が 書 籍 を収 集 した 時 期 は 、 ち ょ う ど 日本 の 明 治維 新 期 に当 た る。 楊 氏 は この 時期 に 日本 か ら こ ん な に も大 量 の 中 国古 籍 を収 集 して 、 中 国 に持 っ て 帰 った こ とは 、 そ の 功 績 は い う まで もな い 。 楊 守 敬 先 生 か ら始 ま った 、 日本 に流 入 す る 中 国 古 籍 に対 す る研 究 は、 現 在 も 59 唐 剛 卯 続 け られ新 しい 成 果 を挙 げ た 。 中 国 に流 入 す る 日本 の 古 籍 に 関 す る研 究 も中 国 で 行 わ れ 、 あ る程 度 の 成 果 を挙 げ て い る 。 今 ま で 、 一 般 的 に楊 守 敬 が 日本 か ら中 国 古 籍 を持 って 帰 っ た こ と は認 識 され て い る が 、楊 守 敬 は 日本 か ら散 逸 した 日本 の古 籍 を も収 集 し、特 に 日本 の 巻 物 の 経 籍 、 文 書 を:収集 した こ と は あ ま り知 られ て い な い 。 こ の 意 味 か ら言 え ば 、 楊 守 敬 先 生 が 中 国文 化 だ けで は な く、 日本 文 化 を も保 存 した とい え る。 楊 氏 蔵 書 の 散 逸 は 、 楊 守 敬 自身 の 言 葉 で い う と、 典 籍 散 佚 、 則 非 独 吾 之 不 幸 、 亦 天 下 後 世 之 不幸 也 。 典 籍 の散 逸 は、 私 個 人 の 不 幸 に止 ま らず 、 天 下 、後 世 の 不 幸 に も な る。 近 世 以 来 、 世 界 的 に近 代 化 に進 む 過 程 の 中 、 東 方 の 国 々 に と っ て 、伝 統 文 化 は 強 く衝 撃 を 受 け た こ と に もな る。 中 国が そ うで あ り、 日本 もそ う で あ る。 東 方 の 各 民 族 、 国家 の た くさ ん の 文 物 典 籍 は この よ う な大 きな衝 撃 の 背 景 下 に各 地 に 流 失 し た。 こ れ につ い て調 査 す る こ とは 極 め て 重 要 な 、有 意 義 な仕 事 で あ る と同 時 に、 各 国 の 学 者 が 協 力 しあ っ て進 むべ き仕 事 で もあ る。 主要参考文献 1.r隣 蘇 老 人 年 譜 亅、湖 北 人 民 出 版 社 『楊 守 敬 集 亅、 楊 守 敬 編 纂 、1911年11月11日 。1915年1月9日 氏 逝 去 した あ と熊会 貞が これ を続 け て完 成 し、 同 月26日 完 成 、 刊 行 印刷 す る 。 2.r楊 60 惺吾 先 生 年 譜 』 、 呉 天任 編 纂 、1974年 、 台 湾 藝 文 印 書 館 出版 。 楊 《部 芳 國藏 蔦 目隶 》及 其研 究 唐 剛 卯 湖北省博物愴 楊 守 敬,字 惺 吾,号 (1915年)。 部 券,湖 北 宜 都 人 。 生於 清 ・道 光 十 九 年(1839年)卒 於 民国 四年 是 著 名 的 房 史 地 理 学 家 、古 籍 版 本 学 家 、需 法 家 、藏 お 家 。著 有 《日本 坊 需 志 》、 《留 真 譜 》 、 《水 経 注 疏 》 、 《房 代 輿:地圏 》 等;主 持 迂 《古 逸 巫 需 》 的 出版 編 輯 工 作. 《部 菰 國 藏 需 目隶 》共 十 册 。湖 北 省 博 物 棺 藏 品 。残 装 墨 需 手 抄 本,長29.5厘 厘 米 。 所 用 力 郭 芳 國 寺 用 印 刷 稿 紙,毎 紙 印有 紅 格,分 16厘 米 。格 寛1。9厘 米 。 目隶 未 注 明 編 撰 者,毟 用 力"郛 亦 囮"稿 紙 分 析,編 上 下 兩馗,共 米,寛18 八 格 。税 長20厘 米,寛 迹 非 栃 守 敬 所 需,但 有 少 量 栃 氏 批 注 。 从 所 撰 者 庖 力 栃 氏 学 生 、 家 人 。 从 お 中体 例 按 具 体 的 楼 如`前 楼 り; 按 具 体 的 桓 如u柏 木 桓 芳端 写 的 情 况,可 知 清 点 、登ti己 的 原始地 点是在湖北 黄 図任取吋 的栃 氏 宅 邸,即 部 亦 國 。此 國 因 部 近 唐 宋 八 大 家 之 称 芳 軾 貶 居 黄 州 吋 吟 涌 《赤 壁 賦 》的 奈 坡 赤 壁 而 得 名 。栃 氏 由 于 此 國 之 故,晩 年 又 号 力"部 菰 老 人'。 《郛 芳 囲 藏 需 目隶 》全 需 分 殉 譌 籍 部 、佛 経 部 、字 画 部 、法 帖 部 等 各 部 分.但 在 編 輯 中 又 没 有 完 全 按 照 迭 个 体 例 編 目 。其 中 如 需 籍 部 量 力 圏 按 経 、史 、子 、集 分 美 編 目,但 由 于 需 籍 原 来 末 按i、 史 子 、集 四 部 存 放,而 具 体 繃 目吋 是 按 存 放 地 点,分 升 来 整 理 的,只 能 以 某 楼 、某 桓 、某 箱 迸 行 登 隶 。迭 祥,按 四 部 分 癸 的 方 法,又:不 得 不 各 行 其 事,按 千 字 文 加 以 編 号 。所 以 在 体 例 上,存 在 很 大 向 題 。从 其 中 内 容 屡 有 修 改 而 吉,悦 明 此 力 底 稿 本 。編 輯 的 目的,在 於 清 理 藏 毛,以 便 于 日常 使 用 。目隶 具 有 需 籍 出 人 帳 的 性 貭,此 点 可 以 从 目隶 中森 多 的 祀 号:u・ "O"或 u取 来" 60元"等 朱u" 、uO"示 意 核 対 以 及 大 量 加 注 中 看 出 。 又 如 第 一 册 需 籍 部 中 有:畠 、"鯏 光 典 借 去"、u已 注文 帯 京 芳 、"辛 亥(庖 指1911年)冬 本"、"足 古 刻 本"、"日 已 妻"、 于 傅:玩叔 。 力 強 凋 某 お 的 重 要 或 特 点,《 郛 菰 國 藏 お 目隶 》寺 冂 刻 有"古 本"、u元 月(11月)妻 り、 本"、"明 本 古 紗 本"丙 刊 本"、"明 彷 宋 本"等 鈔 本"、u初 印本 り 、u宋 木 圏 章 分 別 朱 印 加 盖 。其 中"日 本 方 木 圏 章 寺 冂 対 来 自 日本 的 刻 本 或 抄 本 加 盖 朱 印 。但 実 隊 使 用 中 并 未 対 庖 垓 加 盖 的 鵠 籍 全 部 加 盖 。如 第 一 册 お 籍 部 有 的 量 然 墨 需 注 明"元 至 順 槧 玉 篇'、"元 槧 玉 篇"等,但 未 加 盖u元 本"朱 注 文 中杵 多 有 明 礁 彡巳年,最 最 晩`送 冥 于甘翰臣 年,即1909年,而 印。 早 如"己 酉(庖 指1909年)虫 壬 子(11指1912年)十 至 少 在1912年 月 刀(初)一r.表 月 羮 于 萃 文 畜"(此 注 丙 兄)、 明其編 撰年代泣 早於 己酉 仍在 使用 。 61 唐 剛 卯 、揚氏藏需 的径 房 揚 氏 作 力 藏 需 家 升 始 於 清 ・光 猪 六 年(1880年)四 月作 力 清 政 府 駐 日使 棺 随 員 赴 日本 奈 京 任 取 期 囘 。当吋 日本 正 値 明 治 鮭 新 吋 期,由 于 当 吋 日本 的 社 会 凩 气 対 于 本 国 古 代 文 化 不 甚 重 視,因 此 各 神 古 籍 充 盈 于 日本 市 場,賎 价 出 售 。 如 栃 氏 在 所 撰 《日本 坊 お 志 》 嶽 起 中 所 述: 日本 維 新 之 阮,頗 欲 慶 双 学,故 家 旧 藏,几 於 槍 斤 估 値 。 又 如 袁 同 礼 《規 海 堂 需 目序 》 中 所 述: (日 本)挙 国 士 大 夫,弃 古需 如敵展 。 在 此 情 形 之 下,同 年 十 二 月 栃 氏在 致 友 人 李 豌 客 的 需 信 中 悦 到`日 本 古 籍 甚 多,所 兄 有 唐 人 写 本 《玉 篇 》,又 有 釋 慧 琳 《一 切 径 音 文 》,隋 杜 台 卿 《玉 煙 宝 典 》,皆 鈔 本,其 徐 秘 笈 尚 夥.隋 唐 以下 金 石 文 字,亦 美 不 牲 收 。彼 国 自 撰 之 お,一r7中 土 可 互 証 者 尤 多"。 遂 有 志 於 捜 集 中 国 古 吋 逸 佚 之 鵠 。当 吋 中 国 文 人 学 士 同 其 言,如 李 慈 銘 自述"圍 之 神 往,有 坏 錯 浮 海 之 思"。 同 吋 又 有 向 其 言 而 加 以鼓 励 者,如 日本,嘉11黄 輯,先 黄 遵 究 《日本 奈 事 恃 》 自注:"先 公 度 方 任 使 棺 参 贊,告 生 因 有 日本 坊 毛 之 学"。 先 是,余 於 市 上,覩 双 魏 六 朝 碑 版 亦 多 日本 人 未 兄,又 及 黎 公 有 刻 禰 之 扠,則 医 お 美 力 多,小 古 銭 古 印 力 日本 人 所 羨,以 惜 重 値,遂 則 校 弗,刻 与 日本 文 人 往 来 最 密 者 再 谷 修(一 有 易 无,遂 心1A之 。幸 所 携 盈 筐篋 。 得 森 立 之 《径 籍 坊 古 志 》 抄 本 。 其 吋 立 之 尚 存, 已 十 得 八 九,且 学 次 之 。 於 是 由 黎 公 揮 取 付 梓 人,嘱 又 座 接 日本 文 学 士,夜 至 守 敬 先 生 回 悒: 店 中 お 多 所 未 見 者 量 不 能 殉,而 日 日物 色 之,又 乃 按 目索 之 。 其 能 殉 者,不 栃 氏)初 以 中 土 珍 本 古 籍,唐 抄 宋 刻,吋 夏 邂 遁 相 遇,幼 其 留 意 捜 在 栃 氏 自撰 年ia中,栃 初 到 日本,游 是,先 生(指 有 力 立 之 所 不 載 者 数 百 神,大 守 敬 一 人 任 之,守 无 守 日,日 本 琵 力 万 夫 之 禀,且 六)、 日下 部 奈 作(鳴 鶴)、 抵 敬 日与 刻 工 磋, 上 新 同 披 中 。是 吋, 図 千 仞(振 衣)。 此后,栃 守敬 先 生即在 日本将 主 要精力 投人於 古籍的收 藏以及 出版 工作 。他 在所撰 《日本坊 お 志 》壕 起 中写道: 余 生 僻 陬,家(尠)藏 篇 尚存 之 沼,頗 有 捜 罪放 佚 之 志,茫 已毀 坏 者 皆 駒 之,不 62 需,目 隶 之 学,素 一 年,遂 然 无 津 涯,未 有 三 万 徐 巻,其 无 渊 源,庚 辰 奈 来 日本,念 知 佚 而 存 者ifJ何本,乃 欧 阻公 百 日游 市 上 凡 板 中 量 无 秦 火 不 焚 之i籍,実 喬 然 未 献 之 お 。 《郛赤國藏 需 目隶》及其 研究 楊 守 敬 在 多 方 捜 集 古 籍 的 同 吋 在 清 朝 政 府 駐 日本 公 使 黎 庶 昌 的 支 持 下 迸 行 了 古 籍 的 整 理 出版 工 作 。光 猪 十 年 由他 実 阮 主 持 的 《古 逸 从 鵠 》在 日本 刊 刻 完 成,包 括 保 存 於 日本 的 中 国 古 籍 二 十 六 神,凡 二 百 巻,在 海 内 外 引 起 叢 劫 。如 栃 氏 自撰 年 譜 所 述"古 逸 巫 需 已 成,督 印 百 部, 黎 公 以 贈 当 吋 豆 者,皆 悚 力 精 絶".又 見 金 武 祥 《粟 香 三 毟 》所 述:当 吋 対 《古 逸 埜 需 》視 之 "竟 无 殊 於 奇 珍 昇 物 ,必 得 而 后 已".后 栃 氏 又据 在 日坊 需 経 房,升 始 撰 写 《日本 坊 需 志 》与 《須 志 》 的 底 稿 本 。 在 此 期 囘 栃 氏 感 吸 万 千,据 湾 芝 文 印 需 嬉 出 版)轄 以 前 皆 毫 未 同,自 二 十 徐 部,又iEJ日 本 坊 需 志 廿 徐 巻,若 仁 兄 朝 夕 相 見,同 明 年 无 他 故,此 返 国 赴 黄 図 任,他 知 此 中 冂 径,所 身 必 当 有 五 百 年 之 称,惜 中 秘 本,亦 他 皆 不 足 言 也 。 自幸 此 身 有 此 奇 遇,故 台 几 万 巻,就 一 切 富 貴,皆 刻需 未 得 一r7 中有宋 漠 不 美 坏, 日必 邀 仁 兄 一 賞 奇 也 。 信 中 所 悦u弟 現 在 所 藏 需 己 几 十 万 巻,其 中秘 本,亦 几 万 巻".可 已是 数 量 悚 人 。 至 光 猪 十 年(1884年)栃 后,返 来 此 因射 覧 数 万 巻 需,始 此 朱 也 。弟 現 在 所 藏 需 已 几 十 万 巻,其 以 相 并,其 汁 明 年 之 冬,当 天 任 撰 写1974年 引 容 肇 祖 《栃 守 敬 小 倍 》 中 所 載 給 友 人 黄 萼 的 令 信 中 栃 氏 写 道: 学 向 一 事,敬 板 藏 需,可 《栃 惺 吾 先 生 年ia》(昊 守 敬"四 月差 溝,五 兄 栃 氏 在 日本 所 搜 集 的 古 籍 月束 載 所 得 古 籍 旧 国 労.リ ヨ国 回 湖 北 黄 図 担 任 教愉 一 取 。其 所 藏 古 籍 也 這 抵 黄 図 。光 猪 十 四年(1888年)栃 氏在 黄 図寺 冂 修 筑 藏 需 楼 。此 事 見 於 其 自撰 年 譜: 戊 子 、 五 十 夛 。筑 黄 州[郛 菰 國]以 藏 需,其 城 北 即 奈 坡 赤 壁,故 以名。 此 后 栃 守 敬 自号 郭 菰 老 人 。但 郭 菰 國 内所 修 藏 需 楼 男 有 名 号,称 殉"广 文 お 楼",兄 隊 三 立 《宋 槧 黄 山 谷 内外 集 題 辞 》: 光 緒 十 九 年,… … 其 秋,游 黄 州 渚 山,遂 中 有 日本 所 得 宋 槧 黄 山谷 内外 集,殉 迂 栃 惺 吾 广 文 鵠 楼,遍 任 渊 史 容 注,据 覧 所 藏 金 石 秘 籍, 称 不 独 中 国 未 径 見,於 日本 亦 孤 本 也。 而 当 吋 栃 氏 其 藏 お 的 規 模 有"三 百 架 り之 称,足 兄 其 藏 譌 規 模 。兄 周 伯 晋 《迂 黄 州 宿 栃 惺 吾 郛 亦 國 需 楼 》 恃: 宋 槧 唐雕 三 百 架,独 客 揖 弗 楼,楼 寺 尤 物 吋 入 蜀 。 異 来 偃 毟 作 狂 需,行 歌 乱 石 荒 花 下 。西 山 如 上 老 儒 无 所 求,何 須 躁 蹕 金 冂 道,得 住 高 楼 吾 既 休 。 63 唐 剛 卯 寡 上 所 述,栃 守 敬 先 生 藏 鵠 主 要 来 自 日本 。其 径 遣 已 略 述 如 前,其 中 有 从 中 国 流 人 日本 的 中 国 印 刷 的 古 籍,但 也 有 日本 印 制 或抄 写 的 中 国古 籍 与 本iEJ日本 的 古 籍 。如 栃 守 敬 撰 《日本 坊 お 志 》: 余 在 日本 所 得 古 鈔 佛 経:不下 六 七 百 巻,其 中 有 唐 人 鵠 写 者,有 不 一 室而 吋 有 出 於 高 萠 藏 、 宋 藏 、元 明 藏 之 外,有 島田 日本 人 侍 隶 者,工 等 好 佛 需,力 言:此 拙 皆其 日 人 人唐求法 僧所 国者 。 二、栃 氏藏 お的流 向匂 流散 栃 氏 藏 唱 在 清 光 緒 十 年(1884年)楊 図 。光 緒 十 四年(1888年)"筑 守 敬"五 月束 載 所 得 古 籍 リ ヨ国".所 黄州[郛 菰 囮]以 藏 お"已 藏 古籍這 抵黄 見前述 。此力栃 氏藏譌 リ ヨ国 后 的 第 一 処地 点 。 又 据 栃 氏 自撰 年 譜,栃 氏 在 光 猪 二 十 五 年(1899年)u当 吋 湖 广 恵 督 張 之 洞 的 邀 清,肉 升 黄 図鞍 赴 武 昌 任 丙湖 需 院 教 Σ1。光 猪 二 十 八 年(1902年)"是 勤 成 学 堂 。遂 駿 任 武 昌 勤 成 学 堂 忌 教 長 。 但 在 此 期 囘,栃 年,改 需 院 力 学 堂,而 別立 氏 藏 お 因数 量 太 多,加 上 居 屋 筒 陋, 自然 无 法 将 お 籍 這 至 任 所 一 武 昌 。 如 自 撰 年 譜 所 述= ''''"而 IX筑 学 堂 於 花 囮 山,余 因契 横 街 捕 屋 暫 居 。九 月,契 菊 湾 破 屋 。略 修 旆 而 移居 焉 。 在 此 居 住 条 件 下,栃 猪 二 十 九年(1903年)栃 氏 藏 鵠 无 法 這 至 武 昌,対 氏 在"菊 湾 起 需 楼".此 其 个 人 研 究 与 收 藏 都 帯 来:不便 。于 是 在 光 お 楼 盖 成 后,栃 章 由 黄 図竣 往 武 昌 收 藏 。此 后 在 宣 統 元 年(1909年)又 略 述 其 事,所 渭"菊 湾 老 屋 朽 坏 将 傾,改 而 相 対 而 吉 必 有 新 楼 即 新 修"需 忌 上 所 述,栃 氏的主 要藏お 便庖順 理成 対 菊 湾 房 屋 迸 行 了 修 繕 。其 自撰 年 譜 作 至 十 二 月成".所 渭 老屋 当指 原 殉"菊 湾 破 屋 莎, 楼"。 氏 藏 需 已在1903年 前 后,輳 這 至 武 昌 菊 湾 收 藏 。此 力 楊 氏 藏 需 リ ヨ国 后 的 第 二処地 点 。 1911年 武 昌 起 文,武 昌城 内 秩 序 出 現 混 乱 。栃 氏 出 行 上 海,武 保 管 。 据 隊 三 立 《宜 都 栃 先 生 墓 志 銘 》:(栃 力 活 鯵 。而 其 自 撰 年 譜 有 較 洋iz述:云:武 守 敬)"夛 辛 亥,武 昌 起 文 岌 生 后,"有 万 不 能 迂 出;况 民 軍 示 文,秋 毫 不 犯,遂 堅 持 不 出城 主 意".但 昌栃 氏藏お 只得托人 代力 昌 禍 起,跳 出 走 上 海,鬻 需 幼 近 避 者,… … 吾 需 籍 甚 多, 十 月 十 二 日即 遭 持 槍 歹 徒 肋 迫 銭 財 。遂 不 得 已 食 促 逃 往 上 海 。u而 以 家 中 お 籍 、衣 物 等 件 交 付 旧 仆 数 人 看 守 労.及 抵 上 海"乃 知 日本 寺 西 秀 武 清 於 黎 都 督,已 有 保 枦 吾 家 需 籍 告 示 粘 貼 冂 首,并 加 封 条 於 室 内'.茲 将 年.la 《郭赤 國藏弔 目隶》及其研 究 所 祀 此 告 示 文 字(部 分)附1己 如 下: 照 得 文 明 各 国,凡 於 本 国 之 典 章 圏 籍,罔 守 敬 藏 古 需 数 十 万 巻,凡 不 板 意 保 存,以 我 同 胞 均 庖 竭 力 保 枦,如 立 即 拿 向 治 罪 。栃 紳 系 筥 学 老 成 之 士,同 力 国 家 光 茱 。茲 査 有 栃 紳 敢 有 意 圏 損 毀 及 盗 窃 者,一 胞 咸 当 爰 敬,共 尽 保 枦 之 責,以 祭 査 覚, 存 古籍而 重 彡 rl又貝 ●。'●'。 。 由上 可知 当吋武 昌軍 政府対 于 中国 侍銃文 化的保 枦政 策 。因此而栃 氏 藏毛得 以无 恙 。但 其吋南 、北二軍 在武 双隔 江対皇 。栃 氏対此深 力忱 慮,其 感 吸之 吉見於 自撰年ia: … … 吁!世 之 藏 需 者 ,大 抵 席 羊 履 厚,以 梱 載 而 人,守 敬 則 自少 壮 人 都,日 始 能 人 厨 者 。天 崟 垠 淮,当 游 市 上,市 于 是 楊 氏 藏 需 在1912年"并 能 在 沖 上 吋,栃 忌 亦,酷 爰 余 令 法".可 景 如何?侍 我 者,其 長 此 不 靖,典 賎値 以所 携 古 碑 、力 籍 散 佚,則 非 独 吾 之 不 幸, 勿 以 不 迭笑 我 。 将 所 藏 圏 籍 一 切 這 沖".藏 鵠 地 点 从栃 氏 藏 需 又 有"規 海 堂" 氏 藏 需 度 藏 於 上 海 的 召魂 海 堂"。 処 地 点 。据 栃 氏 自撰 年 譜:u丙 値 故 家 零 落,以 衣 音 食 而 得;其 在 日本,則 不 使 同 絳 云 一 炬1若 亦 天 下 后 世 之 不 幸 也 。 涕 零 鵠 此,知 之 称 来 看,可 不 甚 爰 惜 之 銭 財,或 此力栃 氏藏需 旧国后 的 第三 午 、六 十 八 夛 四 月至 上 海,寓 甘 君 翰 臣 家 。吋 翰 臣 殉 恰 和 洋 行 知 甘 翰 臣 与 栃 氏 美 系 。栃 氏 到 沖,定 是 住 在 甘 家 无 疑 。但 鵠 籍 到 后 情 考。 民 国建 立 之 后,1914年 栃 守 敬 任 参 扠 員 到 京 。据 昊 天 任 撰 写 的 《栃 惺 吾 先 生 年 譜 》(1974 年 台 湾 芝 文 印 唱 棺 出版): 先 生 常 以 名 山 之 並 力 念,因 将 在 沖 藏 お,次 第 這 京,費 用 由政 府 資 之.在 京 寓西 城 南 魏胡同 。 可 知 栃 氏 藏 お 此 吋 在 当 吋 政 府 的 幇 助 下,這 お 的 第 四 个 地 点 。此 后,1915年 在1919先 抵 北 京 。度 藏 於u南 魏 胡 同 分 。此 力 栃 氏 藏 栃守敬 先 生去世 。 生 卒 后 四 年.据 前 引年,la:u先 此 事 何 澄 一 編 撰 的 《故 官 所 藏 規 海 堂 お 目 》(民 生 之 規 海 堂 藏 需,以 傅 洗 叔 之 介,鬻 渚 政 府 。" 国21年 北 平 故 官 博 物 院 圏 需 愴 印 行)所 載袁 同 礼 的 序 言 中有 較 祥 細 的 叙 述: 我 国 久 佚 之 需,頼 国 乙 卯,栃 栃 氏 之 力,夏 氏リ ヨ道 山,享 兄 於 中 土,則 栃 氏 保 存 古 籍 之 功,殊 不 可 没 也.民 年 七 十 有 六 。其 藏 需 全 部 以 国 市三 万 五 千 元 鬻 渚 政 府 。 己 未, 徐 忌 統 以 一 部 价 拔 交 松 坡 圏 需 館,所 徐 者 儲 於 集 災 囿,丙 寅一 月,拔 リ ヨ故 官 博 物 院 保 存, 65 唐 剛 卯 藏 於 大 高 殿,力 故 官 團 需 棺 分 循 。 己 巳 冬 移 於 寿 安 官,寺 室 度 藏,公 升 鬩覧 。今就 故 官 所 藏 者 由 何 君 澄 一 編 成 筒 目,聊 各 稽 考 而 已 。窃 念 此 隶 量 非 規 海 堂 藏 お 之 全 部,然 隶 力 其 他 お 目所 不 及 者 有 二:一 之 旧,其 日:古 紗 本,二 价 値 当 出宋 元 旧 刊 之 上,今 大 抵 皆 小 島 学 古 旧 藏,学 多 力 各 需 目所 未 載,守 墨 然 如 此,栃 日;医 譌 。 日本 所 佶 古 鈔 本,多 存隋唐 坩 然 独 存,而iEJ一 般 收 藏 家 所 未 兄 。 至 医 籍 秘 本, 古 三 世 以 医 鳴 於 日本,藏 非 お 城 之 巨 封,文 わ 之 富,罕 有 其 匹 。今 規 其 所 收 者, 苑 之 宝 藏 耶? 氏 藏 需 并 末 能 得 到 完 整 保 存 。一 部 价 リ ヨ於"松 是 当吋 学 者 所 圦 力 的 一 般 唱 籍 所著 坡 圏 お 棺 り,迭 一 部 扮 座 垓 男 一 部 价 旧 於 故 官 博 物 院,原 在"大 高 殿 労,后 在"寿 安 官 労 。 迭 一 部 价 当是 栃 氏 藏 需 的 精 隼 所 在 。 解 放 前 夕,原 度 藏 於 故 官 博 物 院 的 需 籍 這 往 台 湾,現 藏 於 台 北 故 官 博 物 院 。松 坡 圏 需 棺 的 需籍 リ ヨ於 中 国的 国 家 圏 需 愴 一 一 北 京 圏 菊 棺 。但 据 了 解,現 已分 散 於 各 神 分 羮 之 中 了 。 以 上 所 述 力 栃 氏 藏 需 的 大 体 流 向 。 需 要 特 別 指 出 的 一 点 是,在 栃 氏 迂 世 之 后,栃 氏后 人 并 末 将 栃 氏 藏 需 的 全 部 妻 給 当 吋 的 北 洋 政 府,実 阮 上 家 中 仍 保 留 了 部 价 古 籍,特 別 是 手 抄 巻 子 本 古 籍 与 文 お 。送 一 部 扮 在1965年 前 已有 流 出 。至1965年 后,栃 守 敬 先 生 的 弥 子 楊 先 梅 先 生 将 家 中所 存 的 其 徐 古 籍 全 部 捐 贈 給 了 湖 北 省 博 物 愴 。 忌 上 所 述,栃 食 而 得","天 守 敬 先 生 的 藏 お,即 如 栃 氏 自述 的"一 切 富 貴,皆 漠 不 美 坏","市 衣嗇 筌ヌ 艮淮"所 捜 集 的 藏 お,在 栃 氏 在 世 吋 曽 房 経 迂 徙 、哉 火 之 除,藏 お 地 点 四 易 其 地 。在 栃 氏 迂 世 之 后,二 分 於 丙 岸 各 地,而 其 中散 失 者 又 有 忤 多 今 已 不 可 見 。感 慨 之 情 皀 不 如 楊 氏 所 云1"涕 恵 之,有 零 弗此勢 。 崟 於 以 上 情 市,対 於 了 解 栃 氏 藏 需 之 洋 情 亟 待 於 栃 氏 藏 需 之 需 目的 錦 撰,自 不 待言。 三 、 栃 氏 藏 需 目隶 的 編 撰 尽 管 栃 氏 藏 需 从 一 升 始 便 受 到 世 人 矚 目,但 栃 氏 藏 お 墨 羊,却 一 直 未 能 編 成 自 己 能 夥 満 意 的 目隶,更 未 公 布 。因 此 在 栃 氏 在 世 吋 一 般 人 不 得 其 洋 。在 栃 氏 迂 世 之 后 始 有 人 得 窺 奥 堂,着 手 編 著 目隶 。茲 将 栃 氏 藏 需 目隶 的 編 撰 情 形 叙 述 如 下: 目前 已公 升 刊 行 栃 氏 藏 需 目隶 仮 一 神: 袁 同礼序,何 澄 一編 《故官所 藏規 海堂お 目》 民 国21年 北平故 官博 物院 圏需棺 印行 或可管 中窺豹 的其 它需籍有 如下 几神: 66 《郛1赤國藏需 目隶 》及其研 究 1. 《古 逸 埜 需 》 二 百 巻 。 光 緒 十 年(1884年) 2. 《日本 坊 需 志 》 十 六 巻 。 光 猪 十 年(1884年)成,二 3. 《留 真1竅t 十 二 巻 、 《須 編 》 十 二 巻 、 光 猪 二 十 七 年(1901年)刻 4. 《日本 坊 需 志 朴 》 王 重 民 据 故 官 圏 需 棺 藏輯(1930年)鉛 象 上 所 述,渚 目隶 因各 狆 原 因 均 非 完 整,如 十 七 年(1901年)刻 印 《古 逸 从 譌 》,《 日本 坊 譌 志 》中 可 能 有 一 定 数 量 的 古 籍 并 非 属 栃 氏所 藏;又 如 《留 真.h》 等 可 基 本 上 肯 定 属 于 栃 氏所 藏,但 所 載 古 籍 数 量 很 少 。忌 之,均 无 法 窺 児 栃 氏 藏 需 全 豹 。而 《故 官 所 藏 規 海 堂 需 目》量 然 比 較 全 面,但 部 藏 お;并 不 包 括 藏 於 松:坡圏 需 棺 的 那 一 部 价,而 亦非 全 且也 不可能 包括栃 氏家中 末出售的部 价 。 在 研 究 栃 氏 藏 お 目隶 吋,首 先 需 要 指 出 的 一 点 是 栃 氏 在 目隶 未 端 之 前,在 日本 肘 已 径 対 其 藏 唱 的 最 主 要 部 分 迸 行 整 理,撰 写 出 了 《日本 坊 需 志 》等 需 稿 本,己 兄 前 述 。到 了 光 猪 二 十 三 年(1897年)五 十 九 夛 吋,栃 六 月,旧 氏 又 重 操u旧 並",升 始 対 其 藏 需 迸 行 整 理 。 見 其 自 撰 年i普: 黄 州 【部 芳 国】 。 … … 自是 又 理 旧 並,栓 点 藏 需,拡 刻 《日本 坊 需 志 》 及 《留真 譜 》 。 在 他 旧 国 后13年,栃 (1901年)《 氏 方 有 暇 正 式 升 始 清 理 藏 需 。 此 項 工 作 又 房 祭 四年,至 日本 坊 需 志 》 刻 成 。 《留 真ia》 清光 緒二十 七年 也 在 同 年 刻 印 出版 。但 栃 氏 藏 わ 仍 然 未 編 成 完 整 目隶 。后 来,由 于 希 望 将 需 実 出 之 故,升 始 編 輯 藏 需 目隶 。見 栃 守 敬 致 鏐 薹 弥(芝 風 堂)需: … … 再 敵 処 需 籍 ,去 冬 香 呻 欲 殉 之,嘱 竟 不 得 端 堵,故 至 今 已抄 得 兩分,其 不 能 清 楚 。 今 香 リ巾量 人 都,其 但 目隶 未 成,万 淮 波 价,唯 抄 目乗 。 因 敵 処 需 凌 奈 之 甚,嘱 入 栓 理, 中 重 夏 缺 漏,皆 不 可 用 。此 非 守 敬 来 自費 数 月 之 功, 作 署 沱 否,尚 无 明 愉 。昨 日午 抻 信 来,亦 言 及 欲 胸 我 わ, 有 宋 槧 全 藏 六 千 余 册,是 特 別 皮 鬧 。 (《 芝 凩 堂 友 朋 需 札 》 上 海 古 籍 出版 社) 信 中"香 卿"是 取,清 指 張 之 洞(香 人 刃 俗 称 之 力 つ巾".写 十 三 年(1907年)張 涛),"午 呻"是 指 端 方(午 桃),因 力 他佃都担 任都 督一 此 信 的 吋 囘,据 信 中"今 香 リ巾量 人 都 り珸,可 之 洞 人 商 当 年 。在 迭 一 年 或 稍 前 栃 氏 始u嘱 知庖 力清光 猪三 人栓 理"編 輯 目隶,并"已 抄 得 兩 分".但 此 目隶 并 不 能 使 栃 守 敬 満 意,如 信 中 所 述"其 中 重 夏 缺 漏,皆 不 可 用".又 云: "此 非 守 敬 来 自費 数 月 之 功 ,不 能 清 楚r。 美 于 楊 氏 是 否"費 数 月之 功"編 撰 其 藏 需 目隶 已 不 可 考 。但 在 光 緒 三 十 三 年(1907年)已 成 庖 是 在 武 昌,因 有 了 一 部 目隶 則 是 十 分 清 楚 的 。而 迭 部 目隶 的 編 写 完 力 此 吋 栃 氏 早 已 移 居 武 昌 菊 湾,并 据 栃 氏 自撰 年ia,栃 已盖有 需楼 。 氏 在 光 猪 二 十 五 年(1899年)已 経!立当吋 湖 广 恵 督 張 之 洞 的 邀 清, 寓 升黄 図 轄 赴 武 昌任 丙 湖 需 院 教 Σi。光 猪 二 十 八 年(1902年)u是 年,改 需 院 力 学 堂,而 67 別 唐 剛 卯 立 勤 成 学 堂 。遂 輳 任 武 昌 勤 成 学 堂 恵 教 長 。但 此 期 囘,栃 自 撰 年1a所 述:u而 氏 藏 需 数 量 太 多,加 上 居 屋 筒 陋,如 扠 筑 学 堂 於 花 國 山,余 因 冥 横 街 捕 屋 暫 居 。九 月,冥 菊 湾 破 屋 。略 修 旆 而 移 居 焉 。"在 此 居 住 条 件 下,栃 氏 当然 无 法 将 需 全 部 這 至 武 昌,因 而 対 其 个 人 之 研 究 与 收 藏 帯 来 不 便 。 于 是 在 光 堵 二 十 九 年(1903年)栃 氏 在u菊 湾 起 唱=楼".此 需 楼 盖 成 后,栃 要 藏 需 便 庖ll匝 理 成 章 由 黄 図轄 往 武 昌收 藏 。此 后 在 宣 統 元 年(1909年)又 氏 的主 対菊 湾房 屋迸行 修 葺 。其 自撰 年 譜 略 述 其 事,所 渭u菊 湾 老 屋 朽 坏 将 傾,改 作 至 十 二 月成 り.所.ョh老 屋 当 指 原 胸 u菊 湾 破 屋" ,而 相 対 而 言 必 有 新 楼 即 新 修 砺需 楼".在 需 籍 迸 行 撮迂 之 阮,対 於 編 写 目 隶 当 然 非 常 有 利 。因 此 在 此 吋 由 栃 氏委 托 人 迸 行 需 籍 目隶 的 可 能 非 常 之 大 。而 且 始 於 黄 図 之 郛 菰 國, 完成 於 武昌菊湾 需楼的可 能亦 非常之 大 。 恵 上 所 述,从 栃 氏 在1907年 人 編 撰 完 成 的,并 已有 了 藏 需 目隶 而 言;从 栃 氏 前 面 所 悦 的 迭 是 一 本 由 栃 氏 托 由栃 氏 来 自 迂 目而 不 能 令 人 満 意 的 目隶 而 吉 。再 則,从 湖 北 省 博 物 棺 藏 《部 亦 國 藏 毛 目隶 》 中 的 明礁 彡巳年 力1909年 力 最 早 而 言;从 迭 本 《部 券 國 藏 毛 目隶 》中 甚 至 于 可 兄 整 面 被 刻 上,批 迭 本 目隶 曽令 規 看 者 非 常 的 不 満 意, 注u拆 姓 汚"之 羮 的 活 而 言;起 肩 从 目 前 所 掌 握 的 資 料 而 言 。均 非 湖 北 省 博 物 棺 藏 本 《郭 菰 國 藏 需 目隶 》莫 属 。 量 然 迭 本 目隶 的 編 撰 不 能 叫 人 満 意,但 其 价 値 在 今 天 仍 然 十 分 重 要 。 因力 据 目前 所 知, 栃 氏 藏 唱 的 迭 本 目隶 乃 最 力 原 始,最 力 全 面 的 一 部 。迭 狆 意X的 一 方 面 是 内 容 全 面,力 其 它 目 隶 所 无 法 比 捌,因 此 从 中 可 以 得 知 栃 氏 藏 お 的 全 貌 。迭 神 意 文 的 男 一 方 面 在 於 迭 部 目隶 的 編 輯 吋 向 最 早,从 中可 以 了 解,栃 氏 从 日本 所 帯 来 的 需 籍 数 量 。此 外,目 隶 対 栃 氏 藏 需 的 散 失 情 况 有 所 反 映,如 妻 給 某 人 之 美 。如 前 所 述 的 栃 氏 藏 わ 中 的 一 部 价 已 経 散 失 於 各 地,有 的 日本 経 籍 文 需 有 等 於 迭 本 目隶 査 尋 。 拮 栃 氏 藏 需 之 阮 正 当 日本 明 治 推 新 吋 期,栃 悟 氏 在 此 之 吋 从 日本 捜 集 了 如 此 数 量 的 中 国 古 籍 リ ヨ国,其 功 豊 如 山 。 由楊 守 敬 先 生 升 始 的 対 中 国 古 籍 流 人 日本 的 研 究,在 今 天 仍 然 有 人 在 做, 并 取 得 了 新 的 成 就 。対 于 日本 流 人 中 国 的 古 籍 的 相 美 研 究 在 今 天 中 国也 有 人 在 做,也 取 得 了 一 些 成 就 。在 述 去,一 般 人 只 知 楊 守 敬 先 生 从 日本 帯 回 了 中 国古 籍,而 并 不 知 栃 守 敬 先 生 也 从 日 本 市 場 上 殉 冥 了 日本 散 失 於 市 的 日本 古 籍,特 別 是 日本 巻 子 本 的 経 籍 文 需 。 从 迭 个 意 文 上 悦, 栃 守 敬 先 生 所 保 存 的 不 仮 是 中 国 文 化,也 保 存 了 日本 文 化 。但 栃 氏 藏 需 的 散 失 如 栃 氏在 所 藏 需 籍 有 虞 之 吋 所 言: 典 籍 散 佚,則 非 独 吾 之 不 幸,亦 天 下 后 世 之 不 幸 也 。 近 世 以 来,在 世 界 走 向 現 代 化 的 迸 程 中,対 于 奈 方 国 家 而 言,侍 統 文 化 受 到 了 強 烈 的 冲 古, 《郭 芬国藏お 目最》及其研 究 中 国 如 此,日 本 也 是 如 此 。奈 方 各 个 民 族 、国 家 的 忤 多 文 物 典 籍 在 迭 冲 缶 的 大 背 景 下 流 散 各 地. 対 此 迸 行 凋 査,是 一 項 重 要 的 工 作,一 項 非 常 有 意 文 工 作 。同 吋 也 是 一 項 需 要 各 国 学 者 共 同 迸 行 的工 作。 主要 参 考 文 献 1.《 部 芳 老 入 年潛 》湖 北人 民出 版 社 《栃 守 敬 集 》栃 守 敬 自撰 於 辛 亥(1911年)十 成 於1915年 一 月十 一 日。熊 会 貞 簍 一 月九 日 栃 氏 作 古 后 同 月二 十六 日,并 刊 印 。 2.《 栃 惺 吾 先 生年 譜 》昊夭 任 撰 写1974年 台 湾 芝:文印需 愴 出版 。 69