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倫理学特別演習 2010/05/21 『倫理学の諸方法』要約 利己的快楽主義は
倫理学特別演習 2010/05/21 『倫理学の諸方法』要約 利己的快楽主義は功利主義(普遍的快楽主義)よりも一般的には受け入れやすく感じられている が、抽象的には両者には共通した問題があり、利己主義に優越性はない。功利主義に対する「何 故私の幸福を、別の人のより大きな幸福の犠牲にするべきなのか」という問題は、利己主義に対し ては「何故現在の私の幸福を、未来の私のより大きな幸福の犠牲にするべきなのか」という問題とし て立ち現れてくる。ヒュームのように恒常的同一性を持つ『私』とは事実ではなく単なるフィクション であると考えると、利己主義には『ある時点での「エゴの一連の感情」が、別の時点での「一連の感 情」を、同時点の別の誰かの「一連の感情」よりも優先するのは何故か?』という疑問が生じる。 しかし、今はこの問題は置いておき、ここで問題とするのは功利主義者が、敵対する直覚主義と 利己主義に対して何を証明すれば正当性を示せるかである。功利主義の第一原理(最大多数の 最大幸福)を証明することは不可能である。功利主義が行える証明は、直覚主義と利己主義が義 務と考えている格律を、より包括的に説明することである。しかし同時に、直覚主義と利己主義とが 有効な道徳理論でなければ、この証明は成り立たない。この『功利主義を証明するために、直覚主 義と利己主義とを正当化する』というジレンマを克服するには、次のような議論が必要となる。それ は、一方では既に受け入れられている格律がある程度の有効性を持つことを認め、もう一方ではそ れが絶対的な有効性は持たず、包括的な原則によるコントロールが必要であると示すという議論で ある。 解説 最初の段落の「一連の感情 series of feelings」という概念装置を説明するために、シジウィックが 持ち出したデイヴィッド・ヒューム[David Hume 1711-1776]による説明を引用するのが適切だろう。 ヒューム曰く 人間とは、思いも及ばない速さで次々に継起する・久遠の流転と動きの内にある・様々な知覚の 束ないし集合にすぎない、とあえて断言しよう。(中略)心とは一種の劇場である。そこでは、いく つもの知覚が次々に出現する。そしてそれらは通り過ぎ、舞い戻り、走り去り、更にまた混雑して 無限に多様な情勢及び状況を作り出す。どれほど我々が心の単純性と同一性とを想像する偏 癖を自然に有するとはいえ、正しく言えば、ある一つの時における単純性も、異なる時における 同一性も心には存在しない。(T.1.4.6) 「現在の私」と「未来の私」とが同じ「私」ならば、どのような意味で「同じ」なのか。この同一性の問題 は古代ギリシャの時代から知られており、『ヘラクレイトスの川』や『テセウスの船』のパラドックスとし て、古代から問題となっていた。これは現代でも解決されていない哲学的難問の一つであり、利己 主義や功利主義を真剣に考えるならば、避けて通れないものである。現代の倫理学者ではデレク・ パーフィット[Derek Perfit 1947-]などが、この同一性問題が持つ道徳的含意を考察している。 次に問題となるのが功利主義の「証明」をどのように行うかである。シジウィックが言うように功利主 義の第一原理の証明がある意味で不可能なことは、例えば J.S.ミル[John Stuart Mill 1807-1873]に よっても指摘されていた。ミル曰く 究極目的の問題は、普通の意味では証明できない。推理による証明ができないというのは、全 ての第一原理に共通のことであり、知識の第一前提にとっても、行動の第一前提にとってもそう である。(U.4.1) これに続けてミルはシジウィック同様に功利主義の「普通の意味ではない証明」を行うのだが、ミル の証明はシジウィックのそれとは全く異なる方法を用いており、別の箇所でシジウィックはミルの証 明を批判している(Book.iii.Chap.xiii.§5)。さて、肝心のシジウィックの「証明」であるが、これはシジ ウィックの研究が「功利主義」の研究ではなく「倫理学の諸方法」の研究であるが故に可能な力技 である。シジウィックは、倫理学の規範論をまず大きく三つに分類し、この第四篇に至るまでに長大 な分量を割いて「利己主義」と「直覚主義」の倫理学の妥当性を検討してきた。そして、それらに一 定の評価を与えてきたからこそ出来る証明なのである。このような視点は、ベンサムやミル(両者とも 直覚主義を非常に激しく攻撃していたことで知られる)にはない、シジウィックの独自性であると言 えるだろう。