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オーバードース・スペクタークル――それ即ち生

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オーバードース・スペクタークル――それ即ち生
オーバードース・スペクタークル――それ即ち生(ЖИ
ВОТ)―― 月影鼠
タテ書き小説ネット Byヒナプロジェクト
http://pdfnovels.net/
注意事項
このPDFファイルは﹁小説家になろう﹂で掲載中の小説を﹁タ
テ書き小説ネット﹂のシステムが自動的にPDF化させたものです。
この小説の著作権は小説の作者にあります。そのため、作者また
は﹁小説家になろう﹂および﹁タテ書き小説ネット﹂を運営するヒ
ナプロジェクトに無断でこのPDFファイル及び小説を、引用の範
囲を超える形で転載、改変、再配布、販売することを一切禁止致し
ます。小説の紹介や個人用途での印刷および保存はご自由にどうぞ。
︻小説タイトル︼
オーバードース・スペクタークル︱︱それ即ち生︵ЖИВОТ︶
︱︱ ︻Nコード︼
N5100CS
︻作者名︼
月影鼠
私には致命的な癖がある。
︻あらすじ︼
それは、ものを考えすぎることだ。これは、ある種の人にとっ
ては羨望を受けることかも知れないが、殊に私にとっては枷であっ
た。
私はこのような癖に苦しみ、いつしか気がおかしくなっていた。
私が思考の沼に沈殿する間に、時は移り、旧知の友人は幸せな
1
結婚もしていた。私の初恋の憧憬が、音を立てて崩れた。
ものを考えすぎること︱︱それは、本当に枷だろうか?私は、
この枷を外そうともがいていた。
私はまだ年若い青年であり、人生を仕舞っていくことを考える
には若すぎる。自分の人生がなんであるかの総括をするには早いと
は分かっていても、私はいつも人生の意味を考えずにはおれない。
これは1つの真理だ。理性が本能を完全に打ち消してしまった
人間は生きにくい。
2
ラザリ・アントーノヴィチ・カラシニコフの陰鬱
まず事始めに、幼少期の私に、自己紹介を依頼しよう。
ラザリ・アントーノヴィチ・カラシニコフ。これが僕の名前だ
︱︱難しい名前だって?ロシアではこれが普通だろう。1980年
まれ、歳は12歳。ウラル山脈の麓の町、ペルミにて出生。他に、
何か言うことがあるだろうか。
僕が、12歳にしてはかなり大人びていると言われる。なりた
くてこうなった訳じゃないんだよ。というか、分からないよね。僕
とそのごく少ない同年代の友人たちが、どれだけ精神的に熟達して
いるのか、誰も数値化出来ないんだから。誰が大人びて見えていて、
誰が子供らしく見えるか︱︱それは全て、みんなそれぞれの主観に
委ねられる問題だ。
客観的な指標としては、体つきとか、顔つきが挙げられるかも
知れない。僕の身体的特徴について説明しておこう。頭は亜麻色で、
スラヴ人にはよくある色だと思う。それには、ゆったりと波打つよ
うなウェーブがかかっているけれど、よほど髪を長くしなければそ
れは分からない。つまり僕の髪は長くはない。一般的なロシア男児
としては、長い方には入るだろうけどね。
次に顔だ。目は薄い青︱︱ちょうど、空のような色をしている。
あまり大きくはない。細い方だし、目尻も上がっている方だ。たぶ
ん、よくアジア的風貌と言われるそれだ。鼻はあまり高くないけど、
変に曲がっている訳でも、反っている訳でもない。高すぎて悩んで
いる人がいるようだから、まぁ納得はしている。唇は分厚くないし、
大きさもさして大きくはない。つまり、ごく平均的といえる。
思い描いてみてほしい。総じて、特筆すべき特徴はないと言え
3
そうだ。僕自身、顔に関して何も誉められたことはない。
最後に、体躯について。身長は同級生の中では高い方だ。背が
クラスで一番低い友人のピョーチャより、僕は頭一つ分は大きい。
しかし痩せていて、ただ頭の中身だけが日々肥えていっている。つ
まり、僕はものを考えすぎる。
以上は、幼い私が10年前の1992年3月に書いたノートの
断片である︱︱幼少期からずっと使っていた机から出てきたのだ。
私はそのノートを閉じ、また目の前の白い壁を見ることに没頭した。
紫の染み⋮⋮ブドウジュースだ。黒い染み⋮⋮インクだ。それ
以外の細かい傷⋮⋮。
私はこれをしていると、気が付けば時間が経つようになってい
た。私の職業を問うものもいるだろう。私は大学を出たばかりだ︱
︱だから、働いているべき年齢になっている。
私は働いていない。しかし収入はある。すこし依頼されてくる
翻訳業の、ほんの少ない給料で切り詰めた生活をしている。あとは、
半分勘当された遠方の両親が、血縁からくる情けで仕方なく送って
くるたまの仕送りだけだ。
同級生が職を探す中、私は何もしなかった。何のために人間が
働いているのか、不思議だったからだ。言っておくが、私の家は全
く裕福ではない。ただ、納得するまで行動できない、私の頑固な性
分が妨げとなった。
だが今も、まともに働いていないことに後悔はしていない。
しかし最近は、別のことで頭を悩ませている。今、私がなんと
はなしに部屋の白壁を眺めても何も退屈しないことが異常性の証明
であり、その悩みは、確実に私の精神を蝕んでいるのだろう。
そしてその悩みの正体を、私は掴むことができない。考えてい
4
たら、なにか答えが出そうに思う。例えば、さっきフランス語をう
まく訳すことができずに頭を悩ませた。ドイツ語の不勉強ぶりを嘆
いた。女性に対して自信のないこと、そればかりか、私自身が男で
あるという確証がないこと︱︱考え始めれば、きりがないくらいに
色んな問題が思い付く。
しかしそれが解決したとて、根本的な問題が解決するわけでは
なかった。例えば、ドイツ語が不勉強だからドイツ語の勉強をして
上達したとしたら、私の悩みは消えるかもしれない。女性とデート
に行けば、私の悩みは消えるかもしれない。しかし、実際にやって
みても、どれも私の心にかかる濃霧を振り払ってはくれなかった。
私は、一時間もすればさすがに白壁には﹁飽きた﹂。次にベッ
ドに寝転んで、天井を見上げた。すぐに分かったことは、目が悪く
なったということだ。眼鏡が合わなくなってきている。なぜなら、
以前は鮮明に見えた壁の小さな傷や汚れが、ぼんやりとして見えな
くなっていたからだ。それで、少し天井には興醒めした。だから、
枕に顔を伏せた。眠るかも知れない。今は、夕方の16時になって
いる。私は今モスクワにいる。そして今は夏だ︱︱おそらく7月2
1日だったと思う。したがって、今の時期は白夜だ。
まだ明るい時間に起きられたら構わない。そう思いながら、私
は空虚な心を何かで満たそうという努力もせずに、意識を薄れさせ
ていった。
目が覚めると、暗くなりかけていた。時計を見ると、0時を回
りつつあった。
私は、何も口にしていなかった。翻訳して、飽きては白壁を見
て、また翻訳して、飽きて白壁を見て、そして眠っただけの一日だ
った。さすがに、体が窮乏を訴えているのを感じた。耳から聞こえ
る、耳下の脈が弱い気がした。
5
私は死にたいとはまだ思わなかった。死ぬのは恐ろしかった。
近所に食糧を調達する方法などいくらでもあるのに餓死するという
のは、あまりに間抜けな気がした。それでも外に出ようと決心する
までに、半時間は要したように思う。
このように、私は腑抜け野郎だった。
6
ピョーチャとヤーナについて
次の日、私は昼過ぎに目を覚ました。
大学時代︱︱私は哲学を専攻していた︱︱は、こんな時間に目
覚めた自分に嫌悪感を抱いたものだが、すっかり腐りきった私は、
そんな感覚を忘れてしまっていた。
起きた直後は、どうも胸の辺りが重く感じる。遅くに飲食した
のが悪かったのだろうが、胃もたれまで起こしているらしい。私は
ベッドに横たわったまま大きく息を吸ったり吐いたりした。
空気が体の中で置換する感覚がない。いつもそんな感覚を持っ
ている人こそ少なかろうが、それでも、空気が入ってきた爽快感の
少しはあるだろう。それが、一つもない。
体もどうにも重かった。
私は無理に起きて、机の上にある翻訳作業用のコンピュータと、
ロシア語に翻訳せねばならないフランス語の研究文献、それに辞書
の前に腰を下ろした。
しかし、数分もたたぬうちに、私はため息混じりに呟くことに
なった。
﹁⋮⋮これではどうにもいけない﹂
仏語の本を開いてみて、せめて一文だけでも訳そうと試みた。
しかし、目が滑って、なにも頭に入らなかった。今まで不勉強であ
ったからできない、という訳ではない。約半年前、大学で卒業研究
をしたとき、私はフランス語の文献も比較的巧く読みこなせたはず
だ。
明らかに、私の精神が弱っているのが分かった。経験則では、
精神薄弱になればなるほど、様々な仕事に手をつけられなくなる。
やろうとしても恐ろしく能率は低く、しかも胸が苦しくなり、結局
投げ出すことになる。
7
私は諦めて、ふと思い立ったので、久々にメールボックスを開
いた。最後に開いたのはいつだったか、もはや覚えてはいない。
未読メールを見ると、すでにその件数は134件にのぼってい
た。
見るのも億劫なほどに宣伝メールばかりであったが、その中に
一通懐かしい名前を見かけた。私は反射的に彼からのメールを開い
た。
﹁ピョーチャ﹂
ピョートル・マルコヴィチ・ベルデンニコフ︱︱私の古い、初
等学校の頃からの友人だ。クラスで一番背が低く、一番私と仲の良
かったあいつだ。
開くと、そこには次のように記されていた。
旧知の、親愛なるラザリ・アントーノヴィチ
お前が大学に入ってから一度も会っていないが、元気にしてい
るか。
俺はこの度、お前もよく知っているヤーナ・イーゴレヴナと結
婚することになった。もうすぐ、新しい命も誕生することになって
いる。結婚式の予定は、6月22日で、俺たちの故郷の教会で挙式
する。
ぜひ来てほしい。久々に酒を呑みたい。
ピョートル・マルコヴィチ・ベンデルニコフ
﹁ヤーナ﹂
私はこのメールを見て、言い様のない複雑な気持ちに襲われ、
しばらく思考が停止していた。
8
まず第一にかけるべき言葉は、﹁おめでとう﹂であろう。しか
し私には、その前に思考の整理が必要だった。
まず、ヤーナというのはピョーチャと私の幼馴染みで、一つ歳
上の女の子だった。彼女は幼い頃に病気がちだったために一年小学
校への入学が遅れていたから、私たちと一緒に学校に通っていた。
彼女は大人しかったが、一人でいる時間が長かったためか内面
は驚くほどしっかりしていて、ときどきお姉さんらしい一面も覗か
せた。何より彼女はとても美しかった。
髪は黒く、目も黒かった。タタールの血を引いていた。線が細
く、しなやかな体をしていた。
モスクワ大学に進学する直前まで、私は彼女が好きだった。大
学の進学について悩んでいた頃、ほんの一度だけ、相談に乗ってく
れた彼女と一夜を過ごしたこともある。
私がモスクワで学生をしている間、彼女とピョーチャがそのよ
うな関係になっていたということを私は知らなかった。ピョーチャ
は少年時代こそ背が低かったが、顔立ちは均整がとれていた。遅い
成長期を経て、中等学校を出る頃には確かに﹁いい男﹂に成長して
いた。あいつが、ヤーナを射止めていたというのか。
私はヤーナのことを忘れかけていた。私は両親とはうまくいっ
ていなかったから、4年の間ろくにペルミの実家には帰っていなか
った。彼女とは、やはり4年と少し会っていない。
忘れかけていたとはいえ、いまこのメールを開いた私は、ぽっ
かりと心に穴が空いたような気がした。
それは、男としての劣等感に似ていたかも知れない。とはいえ、
彼らを祝福したい気持ちもあった。初等学校から中等学校の間、1
2年も、3人で一緒に過ごしたのだから。
﹁6月、か﹂
しかし、結婚式はどうやらすでに終わっている。ちょうど一ヶ
月前に、彼らは夫婦になったらしい。
私は、彼らに会いに行くべきかどうか悩んだ。おそらくこのメ
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ールに返信すれば、ピョーチャは返事をくれるだろう。
私は小一時間悩んだ。今の無様な姿を、彼ら二人に晒せるかど
うかという葛藤があった。
10
射抜くような黒い目
私は結局のところ、震える手で送信ボタンを押した。数秒かか
って、メールが[送信完了]したという文字を確認できた。ピョー
チャに、結婚式に出られなかったことを詫び、会いに行きたいとい
う旨を伝えた。祝福の言葉は、二人を目の前にしたときでいいだろ
う。
私はコンピューターを閉じると、今日は何をすべきか考えた。
明らかなことは、今週末に締め切りが迫ったフランス語の翻訳を終
わらせるのが先決だと言うことだ。
昨日はどうにも頭が回らなかったからすぐにやめてしまったが、
今日は集中できるかも知れない。あと15頁あり、今日は火曜なの
で、一日に5頁訳せば終わる計算になる。私はテキストを開いた。
こんなに乗り気でないのは、やはりどこか私がおかしくなってしま
ったからだろう。
アナログ時計の秒針がチクチクと動くのが聞こえる。今日は厭
に静かだ。
今日の成果は7頁だ。
私はテキストを閉じて、翻訳作業をやめた。すでに19時にな
っていて、腹が空いているのが分かった。今日は何も口にしていな
い。
どっと疲れていた。集中の糸が切れたためだろうが、こんなに
疲れたのは久しぶりだ。体が浮いているような錯覚。生きているの
が、非常に不思議に思えた。
﹁外に出よう﹂
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どうやら、晴れている。白夜の時期だから、経験則だとあと三
時間くらいは明るいだろう。家に籠っていては精神によくないのは
分かっていたのに、私の体は相当なスロースターターになってしま
った。
私は重い体を引きずって、玄関を経由して外に出た。焼けつく
ような夏の匂いがした。
体が浮いているように感じるという割には、体が重いという形
容も間違いではない。足が地に付いているように感じない、という
のが最も正しい表現かも知れない。
この感覚を、私はもっと幼い頃に経験している気がする。それ
はいつだったか︱︱
ビュン
﹁⋮⋮!﹂
通りに出ると、ずいぶん速度を出した車が私の目の前を通過し
た。私はしばしの間戦慄した。
今車が前を通りすぎた瞬間、確かに私の心の中に﹁飛び込もう
か﹂という思いがにわかに沸き上がったのを感じたからだった。
私は、今生きているという感覚がなかった︱︱今なら死ぬこと
も全くいとわないだろう。このままではまずいと思ったが、今の私
にはどうすることもできない。
私は近くに見つけた居酒屋に吸い込まれるように入った。何と
なくいかがわしいように見えて、近所にあるのに一度も入ったこと
がなかった。あまり一人で外にいては、判断のつかないまま死ぬか
も知れないということと、吐き気を催しはじめて、体が極限状態に
あることを感じたためだ。
﹁一人ですか﹂
12
﹁はい⋮⋮﹂
愛想の悪そうな主人が出てきた。私のただならぬ気配を感じた
のか、その初老の店主はやや怪訝そうな表情を浮かべていた。その
顔に、私はやるせない気持ちに苛まれながら、一番隅の席に倒れ込
むようにして座った。
なけなしの金だ。居酒屋に来たのに酒は飲まず、酒のつまみを
いくつか頼むことにした。
部屋に戻るのが億劫だったから、私はその席でずっと時間を潰
し続けた。腹が満たされるに連れて、意識がはっきりしてきた。
そのうち常連客がやってきて、店は混み始めた。大酒飲みの親
父さんが何人もいるらしく、乱ちき騒ぎの様相になっている。店主
は常連客には愛想もよいらしかった。余所者の私はその輪の中に決
して入る気はなく、遠巻きに彼らの様子を見ていた。
親父さんのうちの一人のカミさんがやってきて、怒鳴り始めた。
﹁あんた、やっぱりここにいたんだね!あーあ、泥酔じゃないかい
!﹂
﹁おっ、ターニャ!お前も飲むか、あぁん?﹂
﹁冗談じゃない!これ以上酒でうちの金を食い潰さないでおくれ
よ!あんた、帰るよ!﹂
﹁おいおい、そりゃあないぜ﹂
﹁奥さん、そう言わずに飲んできゃいいだろ!﹂
﹁お断り!﹂
あの家はかかあ天下らしい。カミさんは、夫の服をむんずと掴
むと、どこからそんな力が出るのか、巨体をひきずるようにして店
から夫を連れ出して行った。
私はその様子を少し興味を持って見ていたが、騒乱が落ち着く
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とまた空虚な気持ちが戻ってきた。
このままここにいるのもどうか、そう思い始めたとき、騒いで
いた人たちの中から一番若そうな女性がこちらに近付いてきた。歳
は私とあまり変わらないように見える。私は思わず身構えてしまっ
た。人と話すのは久しぶりで、まして相手が女性となると、どんな
顔をしたらいいのか分からなかった。
﹁お兄さん学生さん?﹂
﹁あ⋮⋮いや、余計者みたいなものです﹂
﹁よけいもの?何それ﹂
﹁ロシア文学の登場人物の類型﹂
女性はしばらくしかめ面をして立ったまま私を見つめていたが、
急に隣に腰を下ろした。
﹁名前は?﹂
﹁ラザリ・アントーノヴィチ・カラシニコフ﹂
﹁私はスヴェータ﹂
スヴェータは持っていたワインを机に置いた。私は何も話すべ
きことが思い浮かばず、どぎまぎしながら口を拭いた。
彼女は割合遊び人の方なのか、かなり露出の多い格好をしてい
る。黄色のタンクトップを着て、青のショートパンツを履いていた。
細く形のよい脚が露になっていた。私は目のやり場にさえ困ること
になった。
私が黙っているのに痺れを切らしたのだろう、スヴェータは私
の顔を覗き込んできた。
﹁あなた、大学は出たの﹂
﹁ええ﹂
﹁そう。あぁ、あれでしょ。МГУ︵エム・ゲー・ウー︶っていう
⋮⋮﹂
モスクワ国立大学。いかにもそれは、昨年まで私が通っていた
大学だった。
﹁そうです、よく分かりましたね﹂
14
﹁分かるわよ、あなたすごく賢そうで、しかも堅苦しそうだからね﹂
﹁堅苦しそう、ですか⋮⋮参ったな﹂
その評価は、昔からよくされてきたから慣れていた。しかし、
彼女のように初対面で言ってくるようなのは珍しかった。おそらく、
かなり男慣れした女性なのだろう。
﹁私、そういう男嫌いじゃないわ﹂
﹁は、はぁ﹂
この人は何を言っているんだろう。私は反応に困っていた。情
けない話だが、私は彼女に目を合わせることも出来ずに、ぎこちな
い苦笑いを浮かべるので精一杯だった。
彼女がワインを飲み干す喉を、私は一瞥した。細くて白い喉が
二、三回動いた。彼女の目は黒く、髪は艶のあるブルネットだった。
﹁なに、あなた私に興味があるの?﹂
﹁は?何を言っているんですか⋮⋮そんなこと、ないですよ﹂
﹁チラチラ見てくるんだもの。それならまだ、じっと見た方がいい
んじゃない?﹂
﹁じっと見た方が?﹂
﹁そうよ、目を見た方がいいわ︱︱そう思わない?﹂
言いながら、彼女は私をまっすぐに見つめた。黒い瞳は、私を
射抜くようだった。私は何も答えられなかった。
﹁君が何を考えてるか、私には分からない⋮⋮帰る﹂
﹁あら。また来るんでしょ?﹂
﹁さぁ﹂
私は、席を立った。大人の振りをするのが︱︱できていたかど
うかは分からないが︱︱、そろそろ限界だった。
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4年越しの帰郷
帰ってきてからの記憶があまりない。
目が覚めると、私は自室の床の上に寝転がっていた。体は汗に
まみれて気持ちが悪かった。シャワーをしたほうがいい。そう思う
のだが、どうしても起き上がれずにグズグズしていた。
まだ外は暗そうだ。時計を見ると、3時半である。あとしばら
くは暗いだろう。
その後、どうにか起き上がってシャワー室に入るには半時間を
要してしまった。この狭い部屋を往来するのにすらエネルギーを使
うとは、情けないことだ。
シャワーから出たらもう一眠りして、起きたら翻訳の続きをし
ないといけない。そうやって皮算用するのだけは忘れなかった。
シャワーを出ると、コップに水を汲んで飲み干した。そうして、
今度はベッドに横になった。
⋮⋮⋮⋮⋮
﹁朝か﹂
ベッドの中で、私は久々に喉を震わせた。ときどき意図的に言
葉を発しないと、気が狂う気がするからだ。とっくに目は覚めてい
たが、何か口に出さないと起きる気になれなかった。
近くにあったビスケットを朝食にしようと摘まんだが、随分と
湿気っていた。もう封を開けてから幾日も経っていたようだ。それ
が顎に噛み砕かれるにぶい音が、私の脳に意味もなく響いている。
今日も外は晴れているようだ。こんな憂鬱な日なのに、脳味噌
まで溶かしにかかる。
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緩慢な動きで、どうにかパソコンに手を伸ばして起動した。私
はメールボックスを開いた。奴からの返事があるかも知れない。そ
れを少しだけ期待していた。
﹁お、ピョーチャ⋮⋮﹂
豆なやつだ。私なら一週間かかって返信したらまだ早いほう。
下手したら忘れるというのに。昨日の今日で返事を寄越すのか。見
上げたものだ⋮⋮。
そうか、今は二人でペルミに住んでいるのだそうだ。ヤーナは
もう臨月で、ここ数日のうちに産まれそうだということだ。それで、
夫であるピョーチャはしばらく仕事を休んで、彼女に掛かりきり、
と⋮⋮。
﹁ふん⋮⋮﹂
幸せそうにしているじゃないか。
私はなんの気なしに鼻をすすった。この動作は、あとあと考え
れば自嘲に他ならなかった。
﹁いつでも来てくれて構わない。帰郷のついでに。ヤーナも、身
重だがお前に会いたがっている。出産に立ち会うようなタイミング
になってもいい。むしろ、それも一興じゃないか。俺たちは、お前
から連絡があって、ほんとうに嬉しかったのだからな﹂とまあ、ピ
ョーチャらしい弾んだ文面が並んでいる。
﹁そうか﹂
パソコンの画面に向かって、無意味に返事をする。ピョーチャ、
ヤーナ。生憎、ここ最近は体が重くて、いうことを聞かないんだ。
どうにか、外に出よう。決断したら、あとは早いほうがいい。
経験上、躊躇ったときに限って、あとで後悔することになるのだ。
さいわい今は身ひとつだ。ピョーチャのように、身重の伴侶を抱え
ているわけでもない。ただ、フロッピーと本と辞書さえあれば、私
の仕事は済むわけだ。
予想外に、私の決断と行動とは早かった。
脳のなかの血流が急に増したようになって、私はせっせと荷造
17
りを始めていた。これは、どうしたことだろう。だが、動けるとき
に動いた方がいい。動けないときのロスを取り戻す最大の好機であ
るから。
帰郷しよう。
4年ぶりだ。ペルミの実家の者たち、少ない友人たち。彼らは、
おそらく身も心も変わり果てた私を見て、どんな顔をするのだろう
か。考えただけで、愉快だった。しかし、この愉快さは、純粋なも
のでなく、どこかまた、自嘲的なものであった。
モスクワの夏は暑い。夕刻になっても、まったく日は、引っ込
もうという慎ましさすら見せない。
私はヤロスラフ駅のキオスクで非常食のようなごく簡単な食料
を買い、私は長い列車旅に身を投じる用意をした。電車が入ってく
るずいぶん前に並んでおかなくては、座席の確保に難儀するだろう。
夏休み中の学生が、地方に帰るためにごった返す時期だ。大学生の
ころに、一度も私がやらなかったことでもあった。
右には、無理に染めてダメージを受けた金髪の女学生が、どう
やらボーイフレンドらしい平凡な亜麻色の髪の男と共に電車を待っ
ている。左には、彼らよりもう少し若いだろう初々しい、頬を暑さ
でリンゴのように染めた素朴な男子学生が、大荷物を抱えて帰省す
るところだ。彼はおそらく一年生だろう。
私は22歳だ。右のアベックの学生たちは、おそらく私よりひ
とつふたつ若いだけなのに。
私はなんと、老け込んだことだろう。彼らの話が、すべて稚拙
に聞こえた。それにひきかえ︱︱入ってきた電車の窓に映る私の顔
は、まだ少年のような面影を残している。下手すると、顔だけは、
左の、まだおそらく一年生だろう若者と大差がないのだ。
見た目と中身の乖離︱︱なんと恐ろしいことだろう。
18
プシュー⋮⋮ドアの開く音だ。
そうだ、私はこの電車に乗らなければならないのだった。
19
理知とは
ゴトン、ゴトン
電車が揺れている。私には十分に金がないから、もっとも粗野
な席に座っている。モスクワからペルミ⋮⋮この行程だと、20時
間と少しかかる。無駄に広い国土、というと、おそらく私はピョー
トル・ヴェリーキイやエカチェリーナ、それにニコライ1世方に怒
られるだろう。彼らが、我らがロシア国家を暖かい国として繁栄さ
せるために、如何なる腐心と、人身の犠牲を払ったことか!
茫漠と彼方に見渡せる、青々とした針葉樹を見ていると、すべ
てどうでもよく感じられるような気がした。彼ら大帝たちの偉業の
数々は、この広大な自然を見ていれば、誉め称えたくもなるし、逆
に無意味な気もしてくる。
このような議論を頭のなかで続けるのがいかにまさしく無意味
であることか気がついたころには、私はすっかり睡魔に襲われてい
た。次に起きるころには、夏の短い夜が明ける頃ではないだろうか。
本当に、たまには闇が恋しくなるものだ。引きずり込まれて、出ら
れなくなるという懸念を差し置いても。
さきほどの予告通り、私はよく眠っていた。
目を覚ますと、同じパーテーションの中の
斜め前に、中年のひとの良さそうな女性が座っているのに気がつい
た。年のころは、私の母と同じくらいに思える。典型的なロシア人
の顔立ちをしていた。少し前まで在任していた大統領Eに、目許が
よく似ている。
どういう顔をして座っていようか。迷っていると、彼女は私に
20
声をかけてきた。
﹁おはようございます、あなた学生さん?﹂
﹁は⋮⋮いいえ、学生ではなくなりました﹂
﹁あらそうなの。息子と同じくらいに見えたから。今から、郷里に
?﹂
﹁ええ、ペルミに帰ります﹂
﹁あら、そう。私はエカテリンブルクよ。近いわね⋮⋮ウラルを挟
んで、お隣ね﹂
あぁ⋮⋮こんなに他愛のない、本当に普通の会話は久々だ。私
はまごついた。どんな調子で受け答えするものか、すっかり忘れて
いたのだ。
女性は言葉を継いでくれた。ありがたかった。
﹁あなた、すっかりお疲れのようね。お仕事は、何をしているの?﹂
﹁恥ずかしながら⋮⋮それほどのことはしていません。翻訳業を細
々としているだけで。その日暮らしの貧乏人ですよ﹂
﹁あらあら、翻訳業を。立派じゃありませんか。お勉強ができるひ
とでないと、できないことですよ。あなた、大学はМГУでしょう﹂
まただ。また、見破られる。私にとって、もうその大学名はお
荷物でしかないのに。
あの、酒場の黒い目の女性だって︱︱。
﹁ええ、一応そこを出てはいますが⋮⋮どうして、分かるのです﹂
﹁話し方ですわ。話の隅々が、どこか理知的でいらっしゃるものね﹂
﹁理知的、ですか﹂
貴女にとっては他意のない受け答えだろう。だから、私が勝手
に厭な気になっただけだ。
しかし、この﹁理知的﹂という他人から言われる私の特性が、
どうしても私には邪魔なものに感じられる。邪魔、というか、それ
を言われると、内実と違うことを言われたときの何とも言えない不
満が、頭をもたげる。
21
諸君の中に、この気持ちの正体を詳らかにできる者はおありか。
私はそう聞いてみたいのだ。
﹁マダム、変なことをお聞きするかも知れませんが、お許し願えま
すか﹂
﹁ええ﹂
﹁理知的、というと、それは男性にとって︱︱いや、男性を見定め
る女性の審美眼には、どう映るのですか﹂
﹁あらあら、そんなことを﹂
女性は、そうねぇ、と言いながら頬杖をついて見せた。本当に、
変なことを聞いてしまったのだろうか。
﹁そうねぇ、これは私の考えだけれど﹂
﹁⋮⋮はい﹂
、﹂と彼女は言葉を繋ぎ、次のような持
﹁理知的、っていうのは、女性から見たらとても魅力的ではあると
思うわ﹂
このあと、﹁でもね
論を展開してくれた。
女性が男性に求める理知と、男性が女性に求める理知は異なっ
ている。男がいう﹁賢い女﹂というのは、身持ちの堅い、自分以外
とは深い関係にならない女だ。
他方で、女がいう﹁賢い男﹂とは、もちろんいわゆる﹁頭がキ
レる﹂こと、﹁勉強ができる﹂こと、﹁難しい理論を理解できる﹂
ことである。しかし、彼女たちは、往々にして男に、別の種類の賢
さも求めている。それは、﹁女である自分の人生の機微をさとく理
解し、適切に優しさを表現できる﹂ことだ。
総じて、男の方がより単純であり、女の方がより要求は複雑で
ある。
﹁⋮⋮成る程、たしかにそれは一理あるかも知れません。よく、分
かりました⋮⋮しかし﹂
22
﹁あらあら、ごめんなさい。お恥ずかしいわ、こんなつまらない持
論を話しちゃうなんてね﹂
女性は恥じらいを示すために、首を横に数回振った。
﹁いえ⋮⋮その洞察を、貴女はいったいどこから手に入れたのです
か﹂
﹁そうねぇ⋮⋮やっぱり、だてにあなたより長く生きていないから。
色んな人と付き合ってみて、思ったことよ﹂
﹁そう、ですか﹂
私は考えを整理せねばならなかった。
まず、なぜ﹁理知的﹂という特性に、私がここまで拘らなけれ
ばならなかったのか。それから、この女性が話してくれた﹁理知的﹂
であることへの男女の認識のずれ、というものを、私はどう咀嚼し
ようかということを。
私が思案して黙っているうちに、斜め前のマダムは舟を漕ぎ始
めていた。
電車は、相も変わらずゴトンゴトンと揺れながら、ウラルを目
指している。
23
故郷の家
ペルミ・ドゥヴァ駅︵ペルミ第2駅︶。
眠りこけていた私は、危うく乗り過ごすところだった。斜め前
にいたあの女性が起こしてくれなければ、私は少なくとも、ウラル
の裏側のエカテリンブルクまで電車に揺られ続けただろう。感謝し
て、私は車外に出た。
改札を出て、ふと気がついたのだが、私は郷里の誰にも知らせ
ずにここまでやってきたのだった。時刻は、ちょうど昼だった。モ
スクワよりは低い気温が心地よかった。
荷物はずっしり重かった。20時間も電車の粗悪な席に座って
いた体は、相当鈍っていた。それに、思えばなにも口にしていなか
った。
よく倒れずにいるものだ。
﹁どうしようか⋮⋮﹂
私は側にあった公衆電話に近寄った。今そらで思い出せるのは、
実家の電話番号だけだった。もう何年も帰らないし、連絡もろくに
寄越さなかったのに、今さら虫がいい気がするが、ほかに当てはな
かった。
意気地がない私は、数十秒、いや、もしかすると数分間立ち尽
くしていたが、受話器を取ってカードを入れた。
﹃はい、こちらカラシニコフです﹄
﹁⋮⋮母さん﹂
この声は母だ。
﹃⋮⋮ラザリかい?お前なのかい﹄
﹁そうです、ラザリ・アントーノヴィチです。貴女の息子です﹂
﹃そうかい⋮⋮﹄
しばらく、双方黙っていた。私は何度か口火を切ろうとしたが、
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その度になぜか憚られて口をつぐんだ。
そうしているうちに、母の声がした。
﹃あんた、今どこにいるの。相変わらずモスクワにいるの﹄
﹁いえ、今ペルミ・ドゥヴァに来ているのです﹂
﹃おやまぁ﹄
﹁そちらに向かってもよろしいですか。ほかには当てもないので﹂
﹃当たり前じゃないか⋮⋮あんた、うちの子だろ?﹄
﹁はぁ。まぁ、そうですけど﹂
﹃どうやって来るんだい。バスの駅は覚えてるかい?﹄
﹁ええ﹂
﹃なら、バスで来なさいね⋮⋮今ちょうど昼なのよ。お前の分も選
り分けとくから﹄
﹁どうも、ありがとう﹂
﹃それじゃ、待ってるからね﹄
﹁ありがとう﹂
チン、と電話の切れる音がした。うちの電話は買い換えてない
らしい。懐かしい音だった。
これなら、
ロシアの交通機関は、基本的に時間を守らない。ペルミは大し
た交通量もない筈なのに、私は一時間近く待たされた。
歩いた方がまだ早かったではないか。
思えば、モスクワから乗った急行は珍しく優秀だった。ほぼ時
間通りだ。
バスはカマ川を渡った。私の家は、この川を越えた先にある。
幼い頃は、この川でよくピョーチャと遊んだものだった。静かな水
面は、あの頃となにも変わっていなかった。私と、おそらくピョー
チャも変わり果ててしまったのだけれど。
あっという間にバスは橋を渡りきってしまったが、私は相も変
わらずカマ川での思い出を振り替えって、夢想していた。夏だ。ピ
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ョーチャと遊んだのは夏だった。ヤーナは川の中には入らずに、私
たちが泳いだり、水をかけてはしゃぐ様子を興味深そうに見ていた。
彼女が水に入らないのを見て、当時たぶん10歳そこそこだっ
た私は、彼女が女の子であることをはじめて鮮明に意識したような
気がする。女の子は、あのくらいの歳から、むやみやたらと水に入
って男友達と遊ぶことをはしたないと感じ始めるものらしかった。
橋を渡ると、間もなくだ。むなしい思い出し笑いをやめて、私
は降車ベルを鳴らした。
バスを降りた私の目には、100mほど先、懐かしい緑屋根と
白い壁が映った。庭には、以前と変わらない様子で向日葵が咲いて
いる。
この向日葵の背丈を、私が一番早くに追い越し、中学を出る頃
にはピョーチャが追い越した。ヤーナはついに追い越すことがなか
った。
私は玄関先のチャイムを鳴らした。実家といえど、もう何年も
帰っていないのだから、いきなり入るのは不躾だと思った。
﹁お帰り﹂
﹁⋮⋮ええ、お久しぶりです﹂
思いの外、母が顔を出すのが早かった。私は心の準備がなく、
顔をろくに見られなかった。母の肌には、私が大学に行くために上
京したときにはなかった皺が刻まれていた。母は、もう40も後半
に差し掛かったのだ。
﹁⋮⋮他の人たちは﹂
﹁父さんは仕事。サーシャは外に遊びに行ってるよ﹂
﹁そう﹂
よかった、離婚はしていなかったのか。
﹁いいから、早くお入り。あんた随分やつれてるね﹂
やつれた私を、母は呆れたように眺めていた。この呆れ顔は、
忘れもしない。母が心配しているときの顔だった。
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私には、10も歳が離れた弟がいる。先刻母の口から出たサー
シャというのがそうだ。もう4年とすこし顔を見ていない。サーシ
ャが7歳か8歳かのときに私は上京したから、今は12歳くらいに
なっているだろう。彼が順調に修学していれば、いま6年生だ。サ
ーシャも今は夏休みなのだ。
﹁ああ﹂
部屋に入ると、ずいぶん黄色くなった紙が壁に画鋲で止めてあ
るのが目に入った。拙い字で﹁お兄ちゃん﹂と書いてあり、その下
には、かろうじて人の顔と分かるような鉛筆画。これは、たしかサ
ーシャが小学校に入ったばかりのころに出された夏休みの宿題だっ
た。家族全員の似顔絵を描けというものだったか。
下には、もう二枚の紙が釣り下がっている。﹁とうさん﹂﹁か
あさん﹂と書いてある。
私は笑いがこみ上げた。よく見ると、意外と特徴を捉えている
ではないか。母や父の顔は笑っているのに、私の顔だけ笑っていな
い。あいつは意外と、よく見ていたのかも知れない。
そのとき、時計が3回鳴った。私は、モスクワから翻訳の仕事
を持ってきたことを思い出した。故郷のぬるい空気に、私はなけな
しの収入源を、危うく忘れてしまうところだった。道理で、私の鞄
は重かったのだ。
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家族のスケッチ
私がパソコンに向かっていると、慌ただしく廊下を走る音がし
た。サーシャが帰ってきたのだろう。時計を見ると、針は6時を指
していた。相変わらず、門限は6時なのか。律儀に守っているのだ
な。
﹁兄ちゃんが帰ってきた!?﹂
扉の向こうからそういう声が聞こえた。変声期なのか、記憶し
ているのより少し声が低いようだ。そういえば、私も6年生の頃に
低くなり始めたはずだ。そんなことを考えているうちに、足音は近
づいてきた。
﹁⋮⋮﹂
しかし、なかなか扉を開ける気配はない。ノックもしてこない。
いったい、どうしたというのだろう。
私は立って、扉を少し開いた。
﹁わ!﹂
﹁⋮⋮あ、ああ、やっぱり、サーシャだったのか﹂
などと、私は分かりきっていることを、今さら確認して驚くよ
うな演技をした。こういうときに口下手だからいけない。普通の人
︱︱そう、たとえばピョーチャがこの子の兄ならば、もっと陽気に
出迎え、﹁ただいま!﹂などと明るく声を出すに違いない。
﹁う、うん﹂
﹁⋮⋮ただいま﹂
﹁おかえり。ずっと帰ってこなかったね﹂
﹁背、ずいぶん伸びたな﹂
﹁もう12だよ、8歳からひとつも伸びてなかったら、病気かなに
かだよ﹂
﹁そうに違いない﹂
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﹁兄ちゃんは⋮⋮あんまり変わらないね﹂
﹁そうか﹂
進歩がない。逆に退化したとも言える。私と同じ色の髪が頬の
右で跳ねているのを見ながら、私は心の中でそう付け足しておいた。
﹁うん⋮⋮﹂
気の利いた、兄らしいことを云おう。
﹁宿題は終わったのか⋮⋮夏休みの﹂
﹁終わってる⋮⋮わけないじゃん﹂
﹁だと思った﹂
私には、宿題を終わらせろという資格はない。私もサーシャく
らいのころ、宿題が煩雑で仕方がなくて、いつも教師に怒られない
ギリギリまでサボっていたから。その代わり、自分の興味があるこ
とを調べている方が何倍も面白かった。
﹁兄ちゃんは、宿題終わらせろって怒らないんだ﹂
﹁なんだ、誰かに怒られるのか﹂
﹁父ちゃんがね﹂
﹁そうか、あの人、俺には怒らなかったけどな⋮⋮﹂
﹁兄ちゃんは賢いからさ。僕はアホだからさ。だから、父ちゃんは
怒らなかったんだ﹂
﹁そういうものか﹂
﹁うん?﹂
父は、私にはあまり興味がないようだったからな。だから、何
をしても無関心だったように思う。ただ、学校に通わせる、仕送り
をする、などの親としての義務を果たしているだけのように感じる。
サーシャについては違ったか。
﹁どうしたの。ボーッとして﹂
﹁いや、大丈夫だ﹂
﹁あっ﹂
サーシャは私の返事を聞くか聞かないかのうちに、にっと笑っ
た。
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﹁そうそう。兄ちゃん。ご飯だってさ﹂
そういえばずいぶん前から、夕飯の匂いが漂ってきていた。う
ちの台所からだった。
父が帰ってきたのは、私達が夕飯を終えた頃だった。父はロシ
ア人にしては珍しく働き者で、ペルミの石油会社に勤めている。勤
続20年を越えて、出世もしているようだ。
﹁お、靴がひとつ多いと思ったら⋮⋮ラザリか﹂
父は私の姿を認めると、一瞬青い目を丸くして、作ったように
笑った。口の端がぎこちなく上がった。
﹁父さん、ご無沙汰です﹂
﹁調子はどうだ。翻訳者をしてるんだろ﹂
﹁まぁ⋮⋮それなりに、仕事はしていますが。給料はあまり﹂
申し訳なくて私が俯いていると、父は煙草に火を点けながら鼻
をすすった。
私の見立てでは、父が鼻をすする場合は、﹁気にするな﹂とい
う意思表示だ。
﹁そのうち、もっと多く稼いで、仕送りが要らなくなったら言いな
さい。それまでは、しばらく仕送りを続けてもいい﹂
﹁情けなく存じます﹂
﹁いや⋮⋮﹂
気にすることはない、と言おうとしているのだろう。父の挙動
を、私はしげしげと見つめた。私は、父に似てきているらしい。
私はふぅと息を吐くと、玄関から外に出た。庭先の夜の匂いは、
昔と同じだった。
おそらく、父は私に無関心だ。私がそう考える理由が、今なん
となく分かった気がした。父と私が似ている。見た目だけではない、
言葉遣いも、虚無主義的な傾向があるところも。それから、私自身
が、他人のことにあまり興味を持たないタイプだ。それもそのはず
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だ。家族に興味があれば、私はもっと頻繁に、少なくともクリスマ
スと新年くらいは規制したはずなのだから。
これらの事情から、父が私に篤く関心を寄せているとは私には
思われなかった。もっとも、この論理には致命的な欠陥がある。父
の内面をさほど知らない私が、父のことを分かっている前提で考え
ているからだ。ただ、自分の傾向を、どうやら似ているところがる
と思われる父に重ね合わせたにすぎない。
﹁⋮⋮いけない﹂
これではいけない。また私は、どうでもいい思考の中に沈殿し
ていっていた。昔からの悪い癖なのだ。
おそらく私のこの考えすぎる性格が、私を文字通り﹁生き難く﹂
しているに違いない。そのことには、とうの昔から︱︱とは言って
も、大学時代の途中ごろから︱︱気がついていた。しかし、やめら
れないのだ。あの、モスクワでやっていた、白壁を眺め続けるだけ
の忌まわしい儀式と同じだった。
私は踵を返して、また家に入った。明日は、ピョーチャに連絡
を取って、かれら二人に会いに行くことにしよう。
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ひとり再会す
ピョーチャから連絡があったのは、3日もあとになった。その
間、私は翻訳の仕事を終わらせて、出版社にデータを送ることがで
きた。
なぜそれだけ待つことになったかというと、ヤーナの出産とい
う一大事があったからだった。ピョーチャは私の実家に直接電話を
くれて、弾んだ声でそれを報告してくれた。
そういうわけで、私は市の中心部にある病院を訪れることにな
った。思っていたのと違う再開になったからか、私は妙に緊張して
いる。
このペルミ総合病院には、私も幼い頃に喘息で通院していたが、
もう10年ばかり経過しており、心なしか、あの頃より建物が古く
なったような気がした。まだ私はそんな歳ではないのに。
﹁産婦人科に入院中のヤーナ・ベルデンニコヴァに面会したいので
すが﹂
﹁はい、どうぞ。彼女の病室は216号室です﹂
来院者であることを示すバッジを渡されて、私はそれを胸ポケ
ットに付けた。産婦人科など、一生縁がないだろうと思っていたか
らいい機会だ。私はやや自嘲しながら、階段を上った。
しかし、言われた通りの番号プレートのかかった病室の前に来
て、私はうじうじと立ち尽くしてしまった。
どんな顔をして会ったらよいのだろうか。あの頃とは、私たち
の関係性は変わってしまった。おめでとう、と言えばいいだろう。
笑みを浮かべて、心底嬉しそうにそう言えばいいのだ。
次の行動を取ったとき、私は恥ずかしい人間だ、と思わず呆然
とした。便意がある訳ではないのに便所に入ってしまった。いつか
らこんなに臆病になったのだろうか。私はそれだけ社会から隔絶さ
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れていただろうか。薄暗い便所。産婦人科の便所は男からの需要は
ないからなのか、やけに狭い。
そんなことはどうでもいいのだが⋮⋮私は柄にもなく、﹁糞野
郎﹂と呟いていた。
それから、何度か吐こうかどうか迷った。自分の劣悪さに反吐
が出るかと思ったから。
﹁⋮⋮いや、行こう﹂
私は演技じみた口ぶりでそう洩らすと、また病室のドアと対峙
した。ノックする︱︱よし、順調にいった。
ぼけたガラスのあちら側に、人影が見えた。
﹁ラザリ、久しぶりだな﹂
顔を見るまでもなく、現れたピョーチャは抱擁してきた。私は
遅れてその広い肩に腕を回して、彼が私の背中を叩くのと同じくら
い強く、彼の背中を掌で打った。
﹁ああ、久しぶり﹂
もどかしい。
私はどんな顔をしているんだろうか。
ピョーチャを真っ直ぐに見ることができなかった。
﹁お前、少し痩せたんじゃないか﹂
﹁そうか、痩せたかな⋮⋮ピョーチャは、ずいぶん立派になったん
じゃないか﹂
﹁そうか、そりゃ良かったよ﹂
﹁⋮⋮ヤーナは﹂
﹁そうだな、さっきまで寝ていたんだが⋮⋮お、起きてる﹂
私は部屋の中に入った。ヤーナがベッドの上にいる。彼女は変
わらない笑顔をこちらに向けた。私はたぶんぎこちないだろう笑み
を返した。
﹁ヤーナ、おめでとう﹂
﹁ラザリ。あなた、くたびれてるんじゃない?﹂
﹁どうして?君の方がくたびれてるんじゃないか﹂
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﹁だって、やつれたように見えるわ﹂
﹁やっぱり、やつれたか。さっき、ピョーチャにも痩せたって言わ
れた。散々な評価だな﹂
実際、あのモスクワでの酷い生活で、私の体はずいぶん窮乏し
ていた。無理はない。
ヤーナは心配そうに私を見上げていた。お産で疲れたように見
えるのに、なお私を気遣う。
﹁生まれた赤ちゃんは?﹂
﹁新生児室にいるのよ。明日には出てくるわ⋮⋮こんなに小さくて﹂
﹁あぁ、そうだ。男の子だったの、女の子だったの﹂
﹁女の子だったわ。黒い髪に、ブラウンの目をしていたわ。ねぇ、
ピョーチャ﹂
ピョーチャはにんまりとした笑みを浮かべた。今まで、私はこ
んな彼の顔は見たことがない。父の顔というのは、こういうものか
もしれない。
﹁そうだな、ヤーナにそっくりの美人になるだろうな﹂
﹁そうかしら。ピョーチャに似るかもしれないわ、女の子はお父さ
んに似るわよ﹂
私は二人のやり取りをここまで見ていて、急に居心地が悪くな
ってきた。もともと、今日は挨拶程度で素早く暇するつもりでいた
が。
私はこの場に必要だろうか。
﹁⋮⋮新生児室って、覗けるのかい﹂
﹁ええ、この人、何回も見に行っているのよ。ラザリを連れていっ
てあげて﹂
﹁行くか?﹂
﹁ああ、行きたいな⋮⋮﹂
新しい命が生まれたことを祝福しなければな。しかし同時に、
私の心の底では、早く帰りたいと言う声が聞こえていた。
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新生児室。
眠っている赤子達は、どれだけ祝福されて生まれてきたのだろ
うか。よく見ると、一人一人違う顔をして、違う頭の形をしていた。
﹁⋮⋮ああ、あの子が君たちの赤ちゃんだね﹂
﹁よく分かったな﹂
左から3番目に、目を閉じて口をもぐもぐと動かしているのが
そうだろう。私には言われる前に分かった。まだ少し薄い茶色だが、
髪の黒さがヤーナのそれだった。それに、鼻が少し上に向いている
ところは、ピョーチャのそれだ。
皮肉なもので、私にはすぐに分かった。幼馴染み二人の、使い
古された言葉でいう﹁愛の結晶﹂というものが。
﹁赤ちゃんか⋮⋮かわいいものだな﹂
﹁そうだな、かわいい。我が子となるとなおさらだ。ラザリ、お前
はどうするんだ﹂
﹁え?﹂
﹁結婚相手、できそうなのか﹂
私は不意討ちにあったように驚いてしまった。
﹁⋮⋮さぁ、まだ全然分からない﹂
﹁相変わらず、お堅いのかな﹂
お堅いのか私は。ピョーチャから見たら、私はそう思うのか。
そういえば、昔から君にはそう言われてきた。
﹁お堅くは⋮⋮ないさ。もっと、別のなにかだ﹂
﹁なぁんだ、それは?﹂
﹁それは私にも分からない。分かってたら、淋しい一人身なんてや
ってないさ﹂
﹁⋮⋮そうか、野暮なこと聞いたかな﹂
ピョーチャはガラス越しに我が娘を見つめながら、少し遠い目
をして呟いていた。
私は、そろそろ帰ることにしよう。とりあえず、一頻りすべき
35
挨拶は済んだ。
﹁いや、いいんだ。ピョーチャ、私は帰るよ﹂
﹁そうか。もう少しゆっくり話せたら良かったんだがな﹂
﹁ヤーナと赤ん坊が退院したら、また会おう。そのときは、酒盛り
をすればいい⋮⋮﹂
﹁そうだな﹂
業とらしく手を振り、踵を返した。
私は病院内はゆっくりと歩き、病院を出ると足早に帰った。
36
都に戻る
﹁えぇ、もう帰るの?﹂、﹁あらあら、もっとゆっくりしていけば
いいのに﹂。
弟と母親の残念そうな声を背後に聞きつつ、私は靴箱から靴を
取り出していた。ピョーチャとヤーナに再会した次の日、私はモス
クワに戻ることにしたのだ。もうしばらく、ここには戻らないだろ
う。
彼らの幸せそうな顔を見ていると、私の居場所はもうここには
ないという気がした。尤も、人情深いピョーチャなどは﹁そんなこ
とはない、また3人で楽しくやろう﹂と言うだろうが、私はあいつ
のように楽観主義者ではない。
生まれながらのペシミストだから、私にはもう、ピョーチャの
見違えるようにしっかりした面がまえも、ヤーナの相変わらず美し
い横顔が母親としての美を備え始めている様子も、すべてが幼少期
に彼らと笑い合った私へのレクイエムと思えてしまう。
﹁それじゃ、私は帰るよ⋮⋮ありがとう。サーシャ、しっかりやれ
よ﹂
﹁うん⋮⋮兄ちゃん、つぎ帰ってくるのはいつ?﹂
﹁分からない。もしかしたら、お前が私くらいに背が伸びる頃かも
しれないな﹂
サーシャの背は、私の肩にまで迫ってきた。成長期を迎えれば
すぐに追いついてくるだろう。私はわざとあいまいな言い方をした。
いつ帰る気になるかは、どうせ今から考えてもおぼつかない。
﹁元気でね﹂
﹁はい、母さん﹂
私はぎこちなく、恭しく手を振って生家を後にした。次帰って
きたら、サーシャはもう素っ気なくなっているかも知れない。少年
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から青年に移行するとき、男子は身内にいやに素っ気なくなるもの
だから。
私は間髪入れないで到着したバスに乗って、ペルミ第2駅へと
向かった。来た時は昔のことを思い出して感慨にふけったカマ川の
さざ波を見ても、故郷との訣別につきものの寂寥感はやって来なか
った。ただ、モスクワに戻ったらまた翻訳の仕事を貰って、明日は
どうやって飯を食えばよいか考える。そのような日常が再開するの
だろう、とぼんやり考えていた。
まったく、私の人生には幸福感というものはないらしい。人生
行く先々で持ち前の悲観主義が顔を出し、常に何かを悲観せねばや
っていられない性分のようだ。これ以上塞ぎの虫にやられてしまう
といけないから、私は目を閉じて、バスの振動と雑音を感じること
だけに集中した。
私は上りの電車の中で夢を見た。
起きたときにはモスクワに着く直前になっていたが、私は驚く
ほど汗に濡れていた。夢の中で私は説明しがたい不安感に襲われて
いた。何を思ったのか識らないが脈絡もなく電柱によじ登り、最も
上まで上がったかと思うと、そのまま飛び降りた。
確かに自由落下する感覚があった。幼い頃行った遊園地のジェ
ットコースターが墜ちるときの感覚と似ていた。私はあれがひどく
苦手だ。体が千切れるような錯覚を覚えるのだ。
地面に叩きつけられる直前に、私は素っ頓狂な声を上げて目を
覚ました。自分でも驚いて、心臓がドクドク鳴っていた。幸いにも、
周囲に人は乗り合わせていなかった。
夢でよかった。
昔からこの類の夢をよく見る。電柱に上っては飛び降りる。そ
して、叩きつけられる直前に悲鳴を上げて目を覚ますのだ。この夢
は何度も見ているが、いつまで経っても慣れない。何度見ても気持
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ち悪くなるし、生きていることへの不安が増大してしまう。
モスクワに着いたので、私は体を引きずるようにして外に出な
ければならなかった。
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突然思い立ち、教会に行く
モスクワに戻ってから、私はまたしても不眠に悩まされた。
﹁暑い⋮⋮﹂
生きている。
暑いということは、私が生きているということだ。こんなにも
思考を飛躍させながら、私は窓の外が明るくなっているのをぼんや
りと眺めていた。
﹁日曜か﹂
珍しく、眠れずに朝を迎えているのに目も頭も冴えている。
いつもは頭痛がしてきたり、目が痛くなってくるのだが。今日が日
曜日であることに思い至り、私はふと、教会にいくことを思いつい
た。
最後に行ったのは、あれは確か大学の2年の時だったから、も
う3年も前だ。何のために行ったのだっただろうか。もちろん父な
る神と子なるイイスス・ハリストス、それに聖霊への信仰のため、
と言ってしまえばそうなのだが、人間が宗教心を持つときというの
は、たいていが何かに苦しんでいるときなのだ。
体がいやに軽かった。私はベッドから普段よりも勢いよく跳ね
起きて、礼拝の時間には早すぎるというのに、歩いて30分程度の
ところにある比較的小さな正教会へ向かうことにした。
たしかあそこにいる人たちは、3年前に私が行ったとき、みな
優しかった。篤信の人たちはたいがいみな慈悲深い。私のような落
伍者にも優しいのだ。私はそれを憶えていたから、彼らの優しさに
触れたいような気持ちがあるのかも知れない。時計を見ると朝の6
時だった。外は完全に明るく、犬を散歩させている人、ジョギング
やウォーキングに勤しむ人、新聞配達の青年などがせっせと一日の
活動を始めている。
40
私は生まれて間もなくにペルミの聖堂で洗礼を受けている。イ
ウスティンという洗礼名をもらっているが、現代ではあまり耳慣れ
ない名前だから俗名のラザリの方が気に入っている。ラザリ自体も
洗礼名として使われることの多い名だから、たしか教会でもそのま
まラザリと名乗っていた。私の家族は教会が家の近くにないことも
あり、あまり熱心に教会に通う方ではなかった。重要な祭日に出か
けるくらいだった。
だから、教会という場所は私にとっては非日常を現出してくれ
るのだ。
教会に着くと、私はみながしているように敷地に入る前に十字
を切る。私は、少し錆びている金色の玉葱型をした屋根をぼんやり
と眺めていた。
﹁おはようございます﹂
﹁あ⋮⋮はい、おはようございます﹂
教会堂の中から、司祭服をまとった長い髭の初老の男性が出て
きた。たしかこの顔は、この教会の神父だ。私は突然挨拶をされて
少し怯んでしまった。あまり人に会わないから、挨拶すらもドギマ
ギするようになってしまった。
﹁まだ聖体礼儀︵注:ミサのこと︶には早いですが、1時課という
早朝の祈りがあります。中に入られますか?﹂
﹁えぇ⋮⋮そうですね、入れていただけるのなら﹂
﹁そうですか、それではぜひ入ってください。あなたはいつもいら
っしゃる方ではないですね?﹂
神父は私に入ってくるように促しながら、私の身元に探りを入
れてくるつもりらしい。
﹁はい⋮⋮3年ほどまえになんどかお伺いしましたが、それきりに
なっていまして﹂
﹁おやまぁ、そうですか。よくぞまたおいで下さいましたね﹂
教会堂の中は思った以上に暗かった。先に1人男性が入ってい
て、祭服を着てなにやらウロウロしている。蝋燭の炎が細々と揺ら
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めいていて、壁にかかった何枚ものイコン画を照らしている。お香
の香りが漂っていた。そうだ、私はこの香りが何となく好きだった
のだ。
﹁まもなくお祈りを始めるので、そちらに⋮⋮そう、そのあたりに
いてください。疲れたら椅子もございますから。あぁ、あなたのお
名前をお聞きしてもいいですか﹂
﹁ラザリです﹂
﹁それは、洗礼名で?﹂
﹁いいえ、これは俗名です。洗礼名はイウスティンといいます﹂
﹁そうですか、イウスティンさん。あなたは歌が歌えますか?楽譜
は読めますか﹂
﹁楽譜、ですか﹂
﹁ええ、楽譜です。礼拝では聖歌を歌いますね?どうせなら、こち
らを歌っていただけると嬉しいのですが。ああもちろん歌うのはあ
なただけではありません、あちらの副輔祭も歌います﹂
この神父はどうもマシンガントークする方らしい。私は有無を
言わさずに楽譜を渡された。
﹁あっ、どうも﹂
奥の方で蝋燭に火をつけていた先客が話題にされたのに気がつ
いてこちらにやってきた。この若い男が副輔祭という役目を任され
ているらしい。私と歳の頃はあまり変わらないようだった。
﹁まぁ、私の息子ですがね﹂
﹁ミハイルです﹂
﹁あ、ラザリ⋮⋮洗礼名はイウスティンです﹂
ミハイルと名乗った青年は、息子というだけあって確かに神父
と目鼻立ちがよく似ていた。遺伝的に比較的色黒の方らしく、2人
とも黒髪に黒い目だった。どことなく、コーカサス地方の人間の面
影がある。
﹁イウスティンさんですね。よろしくお願いします﹂
﹁あ、はい。よろしく⋮⋮﹂
42
﹁おやおやっ⋮⋮もう7時になりそうだね、お祈りしないと。じゃ、
準備して﹂
私が﹁お願いします﹂まで言う暇もなく、神父の一声で慌ただ
しく礼拝に移行することになった。私は比較的歌うのが好きな方だ
が、こうしていきなり楽譜を渡され初見で歌う羽目になるとは思っ
てもいなかった。
ミハイル氏は隣で、慣れた様子でスタンバイしていた。
正午まで私は教会にいたが、さすがに寝ていない体で4時間も
聖歌隊に混じって歌い続けるのは体に堪えた。
礼拝後に教会堂の隣にある集会所で信徒たちはパンを食べてい
た。私も勧められるままに一つつまんでいる。
﹁イウスティンさん、大丈夫かい?なんだかすごく疲れているよう
に見えるけど﹂
ミハイル氏は年齢が近いこともあってか割に馴れ馴れしく話し
かけてくる。馴れ馴れしい、とはいっても、私がよそよそしすぎる
だけで、こういう風に構われるのは厭ではない。
﹁あぁ⋮⋮最近、ろくに眠れないので﹂
﹁イウスティンさんって学生?﹂
﹁いや、去年大学を卒業したが﹂
﹁ふーん。僕と同じ大学かな。僕は今年卒業です﹂
となると、彼はおそらく私より1つくらい年下なのだろう。
﹁МГУですか?それなら同じですが﹂
﹁そうそう、МГУですよ。学部はどこです⋮⋮あぁ、当ててしん
ぜよう﹂
﹁はぁ、どこでしょう﹂
﹁うーん。物理学﹂
﹁違います﹂
﹁工学﹂
﹁それも、違いますね⋮⋮だいぶ違う。行ってくるほどちがう﹂
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﹁行ってくるほどですか⋮⋮では、生物学﹂
﹁そもそも私は理科系ではありません﹂
﹁おや、そりゃ意外だった。それじゃあ、あとは文科系で当てずっ
ぽうに行くしかないのか⋮⋮﹂
﹁正解は哲学﹂
﹁あぁ、言わないでくださいよ、当てたかったのに﹂
変わった人だ。ミハイル氏は残念そうに眉をハの字にして見せ
た。こういう馴れ合いじみた会話、私はあまり慣れていない。小学
生のとき以来していないのではないか。あるいは、小学生である弟
の相手をするときくらいだ。
そうか、父上の影響か。こういう種類の会話は、彼の父である
神父なら得意そうである。
﹁僕の学部を当ててくださいよ﹂
﹁芸術学﹂
﹁えぇ﹂
﹁⋮⋮なんです?正解でしたか﹂
﹁そうです、一発で当てられるなんて⋮⋮悔しい!﹂
﹁その中でも、音楽学では﹂
﹁なぜ﹂
﹁さっき、一緒に歌っていたから想像がつきますね﹂
﹁侮れない推理力っ⋮⋮ごほっごふっ!﹂
ミハイル氏は頬張ったパンを飲み込もうとして噎せていた。話
し終えてから食べればいいのに、こういう行き当たりばったりにな
るところも父上譲りか。
﹁ぜえぜえ。はい、そうですね、僕は聖歌について研究するつもり
で進学したので、はい⋮⋮﹂
﹁そうですか、そりゃあ父上孝行ですね﹂
ミハイル氏は父上によく似た唇の端をぐいっと上げた。口には
またパンを入れている。今回はそのジェスチュアだけにしたのは、
さっき噎せた反省からなのだろう。
44
ともかく、私はこの青年やその父上である神父と関わっている
と気が紛れそうなので、これからも定期的にここに訪れる気がして
いた。
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甘美な恐怖
その後、教会から暇したのは午後2時頃だった。ミハイル氏が
私に興味を持ったらしく、メールアドレスを訊いてきたので教えて
おいた。まぁ私から連絡することはあまりないだろうが、大学を出
てからずっと動きのなかった私の交友関係が広がったのは嬉しいこ
とだ。
﹁イウスティン﹂
私はこの洗礼名について深く考えたことはあまりなかった。単
にその聞きなれない響きから、理由もなく忌避していたのだ。私の
守護聖人なのだから、そんな無粋な態度を取るのもいかがなものか。
﹁さすがに、無理だな﹂
そういうわけでイウスティンについて大学図書館まで出向いて
調べようかと思ったものの、ほぼ丸一日起き続けた脳は限界を迎え
たらしく、この睡魔を押してまで出掛けるほどの欲求ではなかった。
私はベッドに倒れた。
⋮⋮⋮⋮⋮⋮
どうやら半日寝ていたようで、残念ながら私が目を覚ましたの
は真夜中だった。これでは、不規則な生活は正せそうにない。今か
ら寝ようにも、もう一度眠るにも心身の力を使わねばならない。あ
んな時間に寝たのがそもそも間違いであった。
外は白夜の関係で仄かに明るかった。ペルミに行って、ピョー
チャとヤーナのことで情けない思いをしたものの、やはり少しは気
分転換になったらしい。私は以前より随分活動的になっていた。外
に出ることに決めた。
外に出て、夜の散歩と行こうか。さすがにこんな夜中ともなる
と、夜のまだ早い時間ほどの活気はないようだった。それでも学生
や柄の悪い若者などはところどころで屯している。
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﹁ん⋮⋮まだ、やっているのか﹂
すでに午前1時だが、煌々と灯りの漏れている居酒屋があった。
私が帰郷する直前に初めて入ったあの店だ。そういえば、あの黒い
瞳の女はどうしているだろうか。私は不意に彼女の黒い瞳が挑発的
に私を見据えていたのを思い出し、心がざわついた。
あのとき、私は情けない思いがした。女性への自身のなさを如
実に感じることになり、いま思い出してもそれは小さなトラウマに
なっている。だから、彼女がいてはいけないから、私はあの居酒屋
にはもう入らないでおこう、それなのに、なぜ私は近づいて、店の
中を窓から覗くのだろう。
⋮⋮
カラン
﹁いらっしゃい。おや、どーも﹂
なんてこった。
私は店に入ってしまった。持ち合わせは⋮⋮まぁ確かにある。
が、それよりも問題は、もう人もまばらにしかいない深夜のバーの
奥の席に、彼女の姿を認めたということだった。
﹁⋮⋮お客さん、前も来たね﹂
﹁えっ、あぁ、はい。以前も﹂
無愛想に見えた店主だが、客の顔をすぐ覚える方らしい。こう
いう商売においてそれは美徳だろう。すぐに覚えられて悪い気はし
ない。
﹁1人だね﹂
﹁ええ﹂
私は以前と同じ席に座ろうかと思ったが、例の女から私が見え
てしまう角度であるのに気がついて、ちょうど死角にあたる席を見
付けて腰を下ろした。
私はなにをやっているのだろう。
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確かに、12時間ほど寝ていたのだから腹は減っている。店の
中の時計を見ると、その横に午前3時まで、と書いてある。あと2
時間くらいは開店しているのだろう。19時くらいに店を開けて、
27時までやっているということらしい。
あのブルネットの女⋮⋮名前は、確かスヴェータとかなんとか
言っていたと思う。スヴェータは今日は黒いノースリーブのワンピ
ースを着ている。背中が半分ほど露わになって、かなり露骨に男に
アピールしてくるようななりだ。
﹁お客さん、注文は﹂
﹁あ、あぁ⋮⋮決めていませんでした﹂
私としたことが、女性を見ていて目の前にあるメニューを見る
ことを忘れてしまっていた。気がおかしくなったのではないか?
﹁あんた、そういやМГУの学生なんだって?﹂
﹁いえ、卒業しましたが﹂
﹁そうだったか。そうだったかも知れん。じゃあ、文学がどうとか、
そういう研究だろ?﹂
﹁確かに文学も触りましたが、専攻は哲学ですよ﹂
﹁そうだったか。いや実はな、そこの娘がいるだろ。知っているか
?スヴェータだ﹂
私はギクリとした。この店長は、いったいなにを企んでこんな
話を私にはしてくるのだろう。確かに私は動揺しているが、努めて
冷静に答えなければならない。
﹁ええ、以前顔を合わせたとは思いますが﹂
店長はスヴェータに顔を向けた。まさかとは思ったが。
﹁おい、スヴェータ!お前のお気に入りの男だぞ﹂
﹁⋮⋮は?﹂
私は思い切り顰め面をした。なんだというのだ。なぜ私がその
ように呼ばれるのだ。混乱しているうちに、あれよと言う間に彼女
はこちらを振り向いて、しなやかな動きでこちらに近づいてきた。
確かに彼女だ。
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しかし、私は彼女となにを話せると言うのだろう。満足させら
れるとでも?私は目を合わせることができず、ちら、と彼女の顔を
見るので精一杯なのに?
﹁こんばんは、お兄さん。私待っていたの﹂
﹁は、はぁ。スヴェータさん﹂
﹁あら、覚えていてくれたのね?嬉しい。ラザリさん﹂
﹁⋮⋮貴女も、覚えてくれていらっしゃると。光栄です﹂
彼女は私の隣に腰掛けた。何か花のような香水の匂いが鼻を掠
めた。彼女に似合った香りだと思ったが、同時に私の体はますます
硬直した。
﹁ねぇなんて呼んだらいいかしら?﹂
﹁え?﹂
﹁あなたのこと﹂
﹁⋮⋮そうですね、ラザリ・アントーノヴィチと呼んでください﹂
﹁あら、そしたら私はスヴェトラーナ・ウリヤーノヴナと呼んでく
ださいな、って言わなきゃならないじゃない。堅苦しい﹂
﹁それでは、なんて呼んでいただけるのですか﹂
﹁そうね、ラザリでいいじゃないの﹂
﹁そうですか、それではそのように﹂
﹁ねぇ、じゃあ私のことはなんて呼んでくれるの?﹂
﹁スヴェトラーナ・ウリヤーノヴナ﹂
ここで彼女はムッとして、私を見上げるように覗き込んだ。そ
の呼び方では不満ということなのだろう。
女というのはかくも面倒なものか。
﹁それでは、なんて呼べばよろしいのですか﹂
﹁スヴェータ﹂
﹁スヴェータ、でいいのですね﹂
﹁ふふっ﹂
彼女は不意に微笑した。その微笑の仕方といったら、まるで男
が1番魅力的に思うくらいの無邪気さと慎ましさの加減を知ってい
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るかのようだった。
﹁ラザリ。もう少し、肩の荷を降ろして頂戴﹂
﹁⋮⋮肩の荷なんて、ありません﹂
あるのは、人生の重苦しさだけだ。私はそう言いかけてやめた。
出会ったばかりの若い女性に話せるような言葉ではなかった。
﹁そう、ないのね﹂
﹁⋮⋮っ?なにを﹂
彼女の指が私の背筋をなぞった。ぎょっとした。この女は、私
をからかっているのだろう。私が女に慣れていないことを見抜かれ
ているに違いない。
﹁夜中に男と女が出会うなんて、こういうものよ﹂
﹁⋮⋮私にはそんなつもり毛頭ありませんでしたがね﹂
﹁あら、そう。そうだと思っていたわ。知ってる﹂
﹁そうやって、あなたは色んな男を誑かして、面白がっているんで
しょう﹂
﹁面白がってなんかいないわ。いつも真剣よ⋮⋮人と出逢うときは
いつも真面目だわ﹂
彼女は私の背中に宛てがっていた指をすっと下に下ろして、私
から少し離れて見せた。私はあなたを捕食するつもりはない、とい
うパフォーマンスなのだろう。
私はなにを話したらいいのか見当も付かなかったから、墓穴を
掘らないように彼女に手綱を握っていてもらうことにした。
﹁⋮⋮私があなたに声をかけた理由、分かる?﹂
﹁さぁ、ちっとも﹂
﹁ちょっと遊んであげようか、って思ってると思ってるでしょ?﹂
﹁⋮⋮まぁ、少しは﹂
彼女はくすくすと笑った。この人が笑うたびに、私は何かの沼
に沈んでいくような気持ちがする。
﹁そうね、そんなことは少しは思っているわ、私も⋮⋮でもそれよ
りは、もっとちゃんとした理由があるのよ﹂
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﹁はぁ⋮⋮どんな理由でしょうか﹂
貴女と話すのが、私はそろそろ恐ろしくなってきたのですが。
それでも気持ちとは裏腹に、私は意外なほどに冷静に話を引き出そ
うとした。口が勝手に動いていった。
﹁あなたが、私の知らないことをいろいろ知っていると思ったの。
それに、私はあなたの知らないことを知っている。それだから、お
近づきになりたかったのよ﹂
彼女の識っている世界を知ることが、私になんのメリットをも
たらすだろうか。逆に、私の後ろ暗い世界を識ったところで、彼女
にいいことなんかあるのか。
﹁どうかしら、お友達になってくれる?﹂
﹁⋮⋮ここにはしょっちゅういらっしゃるので?﹂
﹁ええ、ほとんど毎日いるわ﹂
﹁じゃあ⋮⋮返事は後日﹂
﹁あら、どうして今ではないの?お友達になるのってそんなに難し
いこと?﹂
違うのだ。
貴女については、私は腰を据えて考える必要がある。私は気付
き始めた。私が貴女を畏れているのに、貴女の姿を見た瞬間にこの
店にさっき入ってしまったというところから。貴女の一挙一動に尊
大な意味を与えようと思案してしまうところから。
私は貴女を女性として、異性として強く意識している。
﹁難しいことです、私にとって、女性と友人になるのは難しいこと
なのです﹂
﹁あら、そう。今時珍しい方ね。まぁ、知っていたけれど﹂
そうやって、飄々と私のことをからかっていきながら、全く嫌
な気がしない。恐ろしい女だ⋮⋮。
彼女は私の存在意義を根底から揺り動かすかも知れない、それ
がいい影響か悪い影響かは未知のことだが、それを予感していた。
彼女が早く帰ってくれないだろうか、と私は願い始めた。同時
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に、なんとなく早く帰らないで欲しいという矛盾した思いも頭を擡
げていた。その相反する感情を冷静に俯瞰しつつ、私はこう総括し
た。
私は彼女がおそろしい。それは甘美な恐怖だ。
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むなしい自己弁護
﹁スヴェータ⋮⋮さん﹂
﹁何よ、えらく呼びづらそうにするじゃない﹂
私は彼女からひとまず退避したい。精神力に仮に数値が設定され
ているとしたら、私の精神的耐久力はすでに底を尽きかけていた。
﹁私は少し集中して考えたいことがあります。つまり、一人になら
せてもらってもよろしいですか﹂
﹁まぁ、そんなこと﹂、こう言って彼女は呆気なく席を立ってくれ
た。そして言葉をつづけた。﹁いちいち許可を取るのね。ほんと、
不思議なひと⋮⋮トモダチの件、約束よ﹂
私は彼女のハイヒールがコツ、コツと音を鳴らしつつ遠ざかるの
を聞きながら、一呼吸、二呼吸とたっぷり息をした。やはり、女性
があんなに近くにいるという状況が私には苦手のようだ。
次にこの店に顔を出すのは、私がその﹁友達の案件﹂について自
分の中で整理できてからの方がよさそうだ。現時点ではこれ以上の
ことは言えない。
結局、閉店間際まで私は居酒屋にいた。そして、スヴェータは私
よりもう少し長くいるつもりのようだった。店主を介して彼女に別
れの挨拶をさせてもらって、私は店を後にした。
空はほのかに明るいが、まだ少し薄暗い。私は少しぶらぶら界隈
を散歩してから部屋に戻ることにした。向こうにある大通りのあた
りから、ゴロツキがバイクを唸らせて轟音をまきちらしながら走行
する音が聞こえたが、以前の私ならば苛々して仕方の
ないものだったが、なぜかいまは平静な気持でやりすごすことがで
きた。心が不思議と穏やかであるのは、あるいは神の教会に珍しく
足を運んだことによる効能かもしれない。私はいつになく非科学的
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なことを考えていたが、それもまたいいものだと思え
た。
私の部屋のある建物の裏側には公園があり、そういう場所には、
学生のアベックだとか中学生の不良などが遊び場にしているのが常
だ。一瞥するとやはり、若い男女がベンチの上で愛をささやき合っ
ている様子が確認できた。私はそういう色恋沙汰には
ほとんど縁がなく生きてきて、その上︵あるいは、そのため︶潔癖
なところがあるので、こういう光景には﹁破廉恥である﹂などとい
う辛辣な評価を与えがちだが、今日の男女アベックは慎ましやかだ
った。初々しい、という形容がよくあてはまる。あの
ような様子を見ると、恋も実は悪いものではないのか、と思える。
恋だとか異性だとか言えば、今の私の脳裏には2人の女性の顔が
思い浮かぶようになっている。一人はもちろん長年そこに君臨して
きたヤーナであるわけだが、いまやどうしたことか、同じくらいの
インパクトで彼女の顔が浮かんでしまう。
浮かんでしまうのだ。
﹁あぁ、やはり⋮⋮いや、そんなことはあってはならない﹂
私は首を横に振った。潔癖症もここまできたら酷いものである。
私はあのスヴェトラーナ・ウリヤーノヴナという女に心を奪われて
いるというのだろうか。嘘だと言ってほしい。誤解をされてはなら
ないから断っておかねばならないが、﹁彼女だから﹂駄目であると
か、﹁彼女に非がある﹂というわけではない。至極単純に、私には
色恋沙汰と言うものが恐ろしく感じられるのだ。それどころか、そ
れは異形の怪物のように思われてならない。
実のところ私は、自分の身体が嫌いだ。異形の怪物、それは私の
身体があの忌まわしい生理反応を示した時に感じる嫌悪感の擬人化
である。私が最初にそいつの存在を知ったのは小学5年だか6年だ
かの頃だった。
思い出したくないが、いま、私がこの異形の怪物に再び苛まれる
可能性がある状況に到ったので、その対策として一通り思いだして
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おこうと思った。私はそうと決めて、公園のベンチに腰を下ろした。
あの男女アベックからは死角に入るように気を付
けながら。
いまさら言うまでもないが、私の初恋の女性が誰かと問われれ
ば、ヤーナであると答えるほかはない。他に、少年にありがちなこ
とだが、歳上の女性に憧れたことも数回はある。小学校の担任の女
教師、それから13歳頃まで習っていたピアノの先生などだ。
一般的な男がどのようにして大人に脱皮するのか私は知らない。
正しい大人のなり方は習った覚えはないし、そんなこと真には誰も
知らないのだろう。私は幼い頃から随分大人びていたが、それは男
とか女とかを超越した﹁人間﹂としての領域の話で、男として大人
であるかと問われれば、ほんの子供、下手したら赤子のときから何
の成長もしていないのではないかとすら思う。
以下は私の持論なのでほんの瑣末な事なのだが、一応確認して
おこう。人間が他の動物と明確な差異で線引きされる、そんな基準
があるのだとすれば、それは理性の有無に他ならない。つまり私は
理性があるゆえに人間であり、人間であるゆえに理性を持つとも云
える。しかし、男だとか女だとかいう概念は生殖という野性的な、
本能的な営みのためにのみ存在しているのだと思う。人間が理性の
権化だとすれば、性差というのは本能の権化である。﹁人間である﹂
ということと﹁男である、女である﹂ということの間には本質的な
矛盾が横たわっていると私は考えている。
私は頭でっかちな人間で、本能に比して理性が随分先行する。
であるから、私にとって﹁人間である﹂というのは似つかわしい特
徴だが、﹁男である﹂という特徴はどうだろうか。私には全くこの
属性がピンとこないのである。
⋮⋮ということをくどくど講じたところで、これは私が自らの
男性性を認められないことに関する単なる逃げ口上でしかない可能
性もあるのだ。私は変に偏屈な人間だから、こうやって御託を並べ
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てそれらしい議論のように見せる事が出来るが、多くの場合それは
ハッタリだ。実際は単なる、大人の男になるのが怖いだけの臆病者
かもしれないのだ。
私は女性を抱くチャンスを一度、いやもしかしたら二度くらい
はもらっているが、フイにした。
一度目は17歳頃、私が大学進学について悩んでいた折、ヤー
ナに夜通し慰めてもらったときだ。場所は中等学校の教室だった。
夜中に忍び込んで、看守の目を盗んで潜伏して、そのまま夜明かし
したのだ。彼女と私の距離は非常に近かった。ヤーナは私の手に触
れた。彼女の言葉の端々からは私への好意が感じられたし、それは
私の勘違いではなかったと思う。あのまま私も彼女に歩み寄ればも
しかしたら、今頃彼女の隣にいたのはピョーチャではなかったのか
も知れないーーいや、こんなことを考えるのは虚しい。それどころ
か滑稽だった。
﹁ーーはは﹂
私は乾いた笑い声を上げながら、自分の考えを記憶からなかっ
た事にするために首を横に振った。
二度目は、大学時代のことだ。あれは私が夜中に眠れなくて街
をブラブラしていたときだ。あの辺りは確かこの近辺でも治安が悪
く、風俗の店も多く、あたりに肌を露骨に露出した娼婦がゴロゴロ
といるような場所だった。なぜそんな所に行ったのだったかはあま
り覚えていない。単なる好奇心か何かだっただろう。あのとき私は
眠れないがゆえに気分がやけに高揚していたから、普段なら汚らわ
しいと感じるはずの彼女たちを見ても何も嫌悪感を持たず、むしろ
気が大きくなっていた。娼婦の一人二人でも買い上げていくような
有閑の青年を気取っていたと思う。全くお買い上げする勇気も欲望
もなかったのに。物珍しそうにキョロキョロしているのを勘付かれ
ないように、むしろ娼婦たちを吟味するかのようなフリをしていた
私は、一人の娼婦とバッチリと目が合った。その女はまだ少女、と
いっても差し支えないような童顔で、本当に体を売るような商売を
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しているのだろうかと訝しく思うほどだった。確かもともとブラウ
ンの髪をブロンドに染めた女だった。彼女は私に近づいてきて話し
かけた。少し訛っていた。おそらく田舎から出てきたのだろうと思
う。
﹁お兄さん、私は最近始めたばっかり。だから、いろいろ教えて欲
しいんだ﹂と言う彼女を、私は少し蔑んでいたのかも知れない。今
思えば、よくあのときあんな返答をできたものだ。
﹁それじゃあ、君はまだ傷物ではないのかい﹂
﹁傷物?なーにそれ﹂
﹁傷物というのは、純潔を失った女性のことですよ﹂と答えた私は、
今思うとなんと女性蔑視的な発言をしていたのだろうか。
彼女はやや物分りが悪い方らしく、ますます首を傾げていた。
﹁わかんない。そういうことも、教えてほしいんだけど﹂
彼女は私を誘うつもりらしかった。私の腕を掴んで、顔に似合
わず豊満な胸にグッと寄せたのだ。私はどきりとした。恥ずかしい
ことかも知れないが、私にとってそれは初めての乳房の感覚だった
のだ。
それと、同時にーーあまり思い出したくないことだがーー私は
自分の下半身で、意思とは裏腹に欲望に突き動かされる怪物が確か
に動いたのを感じた。つまり、男性の生理反応というものが、確か
に私に現れたのである。
﹁ねぇお兄さん、私あそこのホテル行ってみたいの﹂
﹁⋮⋮君は、もっと自分を大事にしなさい﹂
私は冷や汗をダラダラと流しながら、どうにか絞り出すような
声でそれだけ言って、彼女の腕を振り切って足早に去った。もとい、
彼女から逃げた。
いま思い出しても意気地が無い。こんな恥ずかしい話、誰にも
話すことができそうにない。
一目散に自室に戻って、私はなぜあんな下町に行ったのかと後
悔していた。自分の思い切りのなさと、主人の意思に反して反応し
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てしまった怪物に憤りを覚えて、しばらく気が漫ろな日々を送った
のだった。
そして、私はいま三度目の﹁チャンス﹂を迎えつつあるのかも
知れない。おそらく今回もフイにするだろう。
ーーいや、フイに﹁しなければならない﹂。
はて、私はなぜそうまで考えてしまうのか。その答えまでは思
い浮かんでこなかった。
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躁鬱に振り回されて
帰ってきた。私はコンピューターの電源を入れて、届いたばか
りの仕事に取り掛かろうとする。
﹁ん⋮⋮なんだ、彼か﹂
新着メールの2番目に、教会で知り合ったミハイル氏の名があ
った。何かと思って開いたら、意外にも明晰で丁寧な文章が目に飛
び込んできた。
イウスティン・ラザリ・アントーノヴィチさま
今日は神のお導きによって、あなたと知り合うことができて非
常に嬉しく思いました。睡眠不足とのことだったので、お休みにな
っている頃でしょう。あまり無理はなさらないで下さいね。
あなたの歌声でピンときたのですが、もしお嫌ではなければで
よろしいのですが、私たちの聖歌隊に入りませんか。あなたのよう
に素晴らしく歌える若者︵とくに男声!︶は少ないので、参加して
くださったら百人力なのですが。
もしご協力いただけるのならば、来週からもぜひいらしてくだ
さい。別に今朝のように早朝からいつも駆り出したりはいたしませ
んからご安心を。
ご検討いただければ幸いです。
ミハイル・コンスタンティン・モデス
これからも善き神のお導きがありますよう。
神の僕であなたの友人
トヴィチより
﹁聖歌隊ね⋮⋮﹂
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私の幼い頃の趣味は音楽だった。13歳までピアノを習ってい
たし、あのピアノの先生は私が歌うのを好きだということを見抜い
て、しょっちゅう歌を教えてくれた。中等学校に進学した頃には幼
い頃に特有の無鉄砲さを完全に失ってしまい、私は塞ぎの虫に取り
憑かれてしまった。とうてい音楽をする気にはなれなくなり、ピア
ノも辞めてしまった。
昨日は久々に歌った。歌い始めてしばらくはぎこちなかったが、
そのうち、昔無邪気に歌を楽しんでいた頃の感覚が蘇った。だから
ミハイル氏の誘いは悪い話ではない。また来週、私の気持ちが向い
たなら行くことにしよう。
メールを見るのをやめて、傍に置いてあったハードカバーの本
を手にする。新しく来た仕事は、フランスで出版されてベストセラ
ーになっているこの小説のロシア語訳である。どうやら恋愛物らし
く、パラパラと捲るだけでも恥ずかしい気持ちがした。
﹁貴女無しでは生きていけない﹂
貴女無しでは生きていけない。そういう文句が目に入った。主
人公の男が、意中の女にそう言うらしい。男が言うのだ。女が言う
方が、まだありそうなものだが。
そんなこと、一度だけでいいから言ってみたいものだ。私がそ
んな台詞を息を吐くように容易く言ってのけられるような男だった
ら、今頃は全く違う人生だっただろうに。だが、今更そんな男にな
どなりたくてもなれない。こういう性分は生まれつきなのだから。
たとえばミハイル氏なら、案外サラッと言ってしまいそうな台
詞だ。そして、女性に一笑に付されて玉砕してしまう⋮⋮私は新し
い友人に対して、なんと失礼なことを考えるのだろう。
最初のページからひとまず読んでみることにした。主人公はラ
ウールという男だそうで、どうせ私とは正反対のタイプだろう。そ
の予感は3ページくらいも読めば、見事に的中したことがわかった。
前回の仕事は研究文献だったが、今回は文学作品だ。意外なこ
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とに、こちらの方が作業が滞った。
私が自分の男としての資質に疑問だからか、主人公の男の感情
があまり理解できず、それゆえに訳語に迷うのだ。どういう語を充
てれば、この男の人となりを鮮やかに表現できるかに腐心した。
ジゼルという女が出てきた。ラウールはこの女に瞬く間に夢中
になっていっている。確かに魅力的なのだ、どこか危うい女という
のは。しかも男というのは馬鹿なもので︵これについては私も同様
の謗りを免れない︶、堅実な女よりもそういう女が気になって堪ら
ないということがある。ラウールなど、ジゼルに出会ったその瞬間
から彼女に鮮烈な印象を覚えてしまって、取り憑かれたように脳裏
に彼女のことがちらつくようになる。
⋮⋮まるで、今の私のようではないか。
﹁なんだこれは⋮⋮まるで当てつけだな﹂
そういえば私は彼女との間に、ひとつ約束をしているのだった。
あの時は、私にしては言葉がやけにすらすら出て、びっくりした。
ほとんど毎日来ていると言っていたから、彼女と友達になるか
どうかについての結論はそんなに急ぐこともないだろう。私はまだ
考えたい。この仕事を早く片付けよう。片付けてからにしよう。
⋮⋮⋮⋮
泥のように眠っていた。そして私の体はまだ泥の中に埋もれて
いる感じがする。
﹁あぁ⋮⋮﹂
私は何とはない調子でそう呟いた。ベッドの上にいる。外はカ
ラッと晴れている。時計を見ると、昼を随分過ぎていた。
昼夜逆転したのが悪かった。仕事には3日ばかり集中していた
が、あっという間に糸が切れてしまった。まさかとは思うが、ペル
ミから戻ってきて数日間の調子の良さは、躁状態だったのではある
まいな。そして、また鬱状態が舞い戻ってきた、そんな状況ではな
61
いか⋮⋮私はいつものように冷静に分析していた。
情けない。
私の目には天井の細かい傷が見えている。
じっと見つめていると、瞬きもしないから視力が一時的に低下
して、離れていた小さな傷が合体してしまった。目を閉じた。
どうも眠いのだ。3日間、集中していてほとんど寝なくても大
丈夫だった。それが異常だったのであって、いま堰を切ったように
眠気に襲われているのはむしろ正常かも知れないが。このまま寝続
けて、起きるのにまともな朝方に起きられれば成功だ。
私は何度か起きたが、次の日の朝4時まで眠り続けた。金曜日
の朝だった。
体が硬い。寝返りを打とうとすると、コキコキと首がなった。
﹁⋮⋮あ﹂
声を出すのも久しぶりで、随分調子が狂っていることがわかっ
た。私は考えた。最後にものを食べたのはいつだったろうか⋮⋮?
思い出せない。
お腹と背中がくっつくという感覚もない。だが動けないのは、
やはり窮乏しているからなのだ。
﹁うっ⋮⋮﹂
起き上がろうとすると、目の前が真っ暗になった。貧血状態の
ようだ。
私は次の瞬間、ベッドから落ちていた。
記憶がない。
﹁あっ、イウスティンさん、起きたね﹂
なぜ、ミハイル氏がここにいるのか。彼はビニール袋を提げて
屈託なくニコニコ笑っている。
﹁どうしたんですか、食べ物、持ってきましたけど﹂
62
﹁⋮⋮は。なぜ﹂
彼は説明してくれた。
私はメールを送っていたらしい。食べ物が欲しい、動けない、
と。通りの名前と、マンション名だけ書いていた。
﹁大家さんがね、特別に鍵を開けてくれましたよ。イウスティンさ
んの部屋番号は、大家さんに聞いたんです。ただごとではないと思
いましたよ、あなたがまさかあんなに支離滅裂なメールをくれると
は思わなかったので、これは本当に倒れているんだろうなって﹂
﹁どうも⋮⋮ありがとう⋮⋮かたじけない⋮⋮﹂
﹁どうぞ、母が作ったもの、タッパーに入れてきただけだけど﹂
﹁ああ、ありがたい⋮⋮お恥ずかしい﹂
ミハイル氏が私に食べるように促してきた。私はそれを見て、
本当に神はいるものだろうなと思っていた。
あぁ、突然の刺激に唾液腺がツンと痛くなった。
美味しかった。
なんの変哲もない家庭料理だったが、体に染み込んでいくよう
な。
﹁お水もあります、ガス入りの方が多分、胃腸にいいですよね﹂
﹁かたじけない⋮⋮﹂
﹁それにしても、覚えていなかったのですね。それだと、本当に神
があなたに、私にメールを送るように仕向けたということでしょう。
これは救いですよ﹂
いかにも、そうだろうな。
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PDF小説ネット発足にあたって
http://ncode.syosetu.com/n5100cs/
オーバードース・スペクタークル――それ即ち生(ЖИ
ВОТ)―― 2016年7月15日04時42分発行
ット発の縦書き小説を思う存分、堪能してください。
たんのう
公開できるようにしたのがこのPDF小説ネットです。インターネ
うとしています。そんな中、誰もが簡単にPDF形式の小説を作成、
など一部を除きインターネット関連=横書きという考えが定着しよ
行し、最近では横書きの書籍も誕生しており、既存書籍の電子出版
小説家になろうの子サイトとして誕生しました。ケータイ小説が流
ビ対応の縦書き小説をインターネット上で配布するという目的の基、
PDF小説ネット︵現、タテ書き小説ネット︶は2007年、ル
この小説の詳細については以下のURLをご覧ください。
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