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ちょっとした手違いで - タテ書き小説ネット

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ちょっとした手違いで - タテ書き小説ネット
ちょっとした手違いで
西都涼
タテ書き小説ネット Byヒナプロジェクト
http://pdfnovels.net/
注意事項
このPDFファイルは﹁小説家になろう﹂で掲載中の小説を﹁タ
テ書き小説ネット﹂のシステムが自動的にPDF化させたものです。
この小説の著作権は小説の作者にあります。そのため、作者また
は﹁小説家になろう﹂および﹁タテ書き小説ネット﹂を運営するヒ
ナプロジェクトに無断でこのPDFファイル及び小説を、引用の範
囲を超える形で転載、改変、再配布、販売することを一切禁止致し
ます。小説の紹介や個人用途での印刷および保存はご自由にどうぞ。
︻小説タイトル︼
ちょっとした手違いで
︻Nコード︼
N9931BU
︻作者名︼
西都涼
︻あらすじ︼
目が覚めれば病院のベッドの上で、生死の境を彷徨っていたこと
と前世の記憶があることに気付いた相良瑞姫。そして、自分を取り
heaven﹄の設定によく似ていることに驚いた。自分の
巻く環境がかつて手に入れたものの仕方なしにやった﹃seven
th
役回りは残念な主人公﹃東條凛﹄のライバル役であり完璧なお嬢様。
だがしかし。よくよく見れば、ゲームとわずかに違うことがいくつ
もある。
1
完璧なお嬢様と呼ばれた瑞姫は完璧な王子様と呼ばれる男装の麗人
になっており、1歳上の兄が、実は5歳年上になっていた。
ならば残念主人公を迎え撃たずに我が道を歩もうとルートに沿わず、
テキトウ人生を選び始めた瑞姫だが。
え? あれ? 何でこんなことに?
ちょっとした手違いで望んでない方向に転がり始めてしまった彼女
の明日はどっち?
2
1
柔らかな光が降り注ぐ、優しげな春の初め。
大講堂から静かに姿を現したのは、胸に花を飾り、卒業証書を手
にした卒業生たち。
一様に晴れやかな表情を浮かべているが、感極まって涙を浮かべ
ている生徒はほとんどいない。
それもそうだろう。
ここは幼稚舎から大学部まで一貫した教育システムを持つ私立校
なのだから。
余程のことがなければ中学卒業で他の高校へ外部受験する生徒は
いない。
また来月、否、数週間後には同じ顔ぶれで高等部への入学式を執
り行うのだから。
だが、見送る者はそうもいかないようだ。
女子生徒は数人が固まって、肩を抱き合い涙している。
それらを苦笑を浮かべて見守る卒業生たち。
去年の自分たちもそうだったなどと思っているのかもしれない。
私にはわからない感情だが。
私こと相良瑞姫は所謂、﹃前世の記憶﹄というものがある。
自覚したのは中等部1年の秋。
とある事故に巻き込まれ、生死の境を彷徨い、何とか一命を取り
留めて意識が戻った時だ。
名前は伏せておこう。
もう、私は﹃彼女﹄ではないのだから。
私の知る限りでは、﹃彼女﹄はきちんと4年制大学を卒業し、就
職をして無事に2年目をクリアしたところまでの記憶がある。
3
そのあとどのような経緯で﹃私﹄になったのかは、わからない。
一般的なライノベでは死因と転生までの経緯を覚えていることが
多いようだが。
そこまでライノベにのめり込んで読んでいたわけではないので、
断言はできない。
目を覚ました時、傍にいた家族らしき人々がすべて見知らぬ人で
あったということに対し、私はパニックを起こさなかった。
何故なら、寝起きでボケていたこともあり、夢を見ているのだと
思い込んでいたからだ。
病院のベッドで何度寝起きしても、周囲の状況は変わらない。
ようやく何かがおかしいと思い始めたとき、ベッドの柵に掛けて
あった自分の名前に気付いて驚愕した。
﹃相良瑞姫﹄
私はこの名前に見覚えがあった。
そして、見知らぬ人だと思っていた家族のうちの一人、年近い兄
の顔にも見覚えがあった。
やはり名前も知っていた。
相良八雲という名前の兄は、本来ならば私の一つ上になるはずだ
が、何故か5歳も年が離れていることに驚き、違うと叫びそうにな
った。
徐々に混濁していた記憶が整理され、愕然とした。
相良瑞姫が知っていることと、﹃彼女﹄が知っていることが似通
っていて、そうして全く違っていることに。
前世の私の記憶では、今、私が生きているこの状況が、乙女ゲー
ムの﹃セブンスヘブン﹄の設定とそっくりであり、ところどころ違
っているということ。
そこそこゲームヲタクで、声フェチであった彼女は、好きな声優
さんとイラストレータのキャラデザであるこのセブンスヘブンに期
4
待して、わざわざ予約までして買ったのだ。
ところが開けて黄昏た。
主人公が残念すぎるのだ。ストーリーに無理があり過ぎ、主人公
の性格が酷評されるという悲しきゲームであった。
それでもフルコンプしてしまったのは、主人公を除くキャラ設定
がなかなかであり、好きなイラストレータさんであり丼飯5杯はイ
ケそうな演技上手な声優さんのためであった。
ちなみに、これには第2弾がある。タイトルは﹃セブンスゲート﹄
だ。
あまりにも残念すぎたため、これは買わなかった。
噂ではゲートをフルコンプすると8番目の扉が開くそうだ。
気にはなるが、主人公が変わってなかったので諦めた。そう、己
の精神安定のために。
どういうゲームかというと、主人公東條凛は高1の冬に事故で両
親を失い、母方の祖父母に引き取られ所謂﹃お嬢様﹄となった。
なんでも両親は駆け落ちしていたらしい。
母親が名家である東條家の娘で、父親は使用人の子供という実に
ベタな話だ。
娘の死を知った東條家の当主が、残された凛を引き取り、東條家
の令嬢として相応しい教育を施すために東雲学園に転校させること
になる。
東雲学園には学園七騎士と呼ばれるイケメンが揃っており、トラ
ブル吸引体質である凛は彼らと知り合い、心を通わせていくという
これまたありがちな設定だ。
その学園七騎士と呼ばれるイケメンたちと私、相良瑞姫は非常に
縁深く、凛の当て馬的存在なのだ。
凛の酷評とは反対に、瑞姫の評価は非常に高かった。
彼女が主人公であればよかったという声が出るほどだ。
だが、瑞姫の設定はどこをどう見ても当て馬でしかない。
何故なら、王道ツートップのひとり、相良八雲の妹だったからだ。
5
完璧なお嬢様と名高い相良瑞姫であったが、現在の私とはかけ離
れた存在だ。
何故なら、現在の私は、非常に残念なことに学園七騎士の一人で
あり、完璧な王子様という評判をいただいてしまっているからだ。
現在、中等部を卒業したばかりの私だが、気持ちはゲーム開始で
ある2年後の始業式を戦々恐々としている。
どうか女の私が攻略対象になっていませんように。
切実たる願いである。
6
2
﹁瑞姫様が卒業されるなんて寂しいですわ﹂
感慨に耽っていたら、いつの間にか卒業式に出席していた下級生
たちに取り囲まれていた。
﹁高等部の敷地は隣だからね、いつでも会えるでしょう?﹂
苦笑し、そう窘める。
﹁そう、ですわね。会えなくなるわけでは⋮⋮あ⋮⋮﹂
同意しようと頷きかけた一人が口許を手で覆い隠す。
明らかに自分の失言に気付いた仕種だ。
2年前の事故を無意識に言いかけたらしい。
水を差してしまった少女に批難の視線が降り注ぐ。
これは少々まずいかもしれない。
回避した方がいいだろうと、私はちょっと笑う。
﹁おや? どうやら君は私をスイスの寄宿舎に入れたいようだね?﹂
﹁いいえっ!! そんなことは!! 絶対にありませんわ!﹂
冗談めかして言えば、真っ赤になって少女たちが首を横に振る。
スイスの寄宿舎というと有名どころはいくつもあるが、彼女たち
にとっては花嫁修業学校と有名なとある学校を思い浮かべるのだろ
う。
実際、ある程度の名家の娘は婚約が決まると、式の数年前にそち
らに通うものが多い。
年頃の少女たちにほんのりと色めいた話題を提供すれば、恋バナ
に興じ始めるのは出自には関係ないらしい。
ひっそりと気配を殺して眺めやり、頃合を見計らってそっとその
場を立ち去る。
孤高の人を気取っていたわけじゃないが、名家中の名家であり生
7
徒会役員でもあった私に声を掛ける者は少ない。
黄色い声を上げる御嬢さん方は例外だが、異端者でもある私には
何やら威圧感を感じると言う者もいた。
2年前、巻き込まれた事故は、偶然でもあり、必然でもあった。
ゲームに関係するが、シナリオには関係ない事件ともいえる。
兄八雲と同じく王道ツートップの片割れ、今年一緒に卒業した生
徒会長の諏訪伊織に関係している。
諏訪伊織には、彼が恋い焦がれる年上の従姉妹がいる。
初等部の時から片思いを続け9年目だ。
シナリオから言うと、この春休み、その従姉妹に振られ、1年間
も女々しくも失恋を引き摺って、その後、主人公とその件に関し口
論した挙句に惚れてしまうという微妙な話が待っている。
奴はMか!? と、叫びたくなるが、どちらかというと俺様Sタ
イプの帝王様だ。
少々粘着質なのだろうか、ストーカーのようにその従姉妹に付き
まとい、あらゆる危険を排除していたつもりの諏訪は、あの時ばか
りは役立たずであったようだ。
彼の従姉妹である諏訪詩織様が彼の目の前で誘拐されそうになっ
ていたのだ。
高等部の裏門近くで男数人に捕えられ、ワゴン車に連れ込まれそ
うになっていた詩織様と、無謀にもそれを阻止しようと一人で立ち
向かう諏訪を偶然私は目撃した。
成人男性4人に対し、中学1年のまだ小柄で華奢としか言いよう
のない体格の少年が立ち向かうなど、まさに無謀。
しかも、諏訪は特に武芸に秀でているわけではない。
同じ地族と言っても諏訪家は代々神官の家系であり、豪族から大
名になった武官の相良とは育て方が違う。
8
すでに段持ちである私ですら成人男性4人の相手を一手に引き受
けるのは難しいと一瞬で判断できたのに、恋とは恐ろしいものだと
ぞっとする。
ここはひとつ、あるべきところに連絡を入れるのが正しい対処法
だと、持たされた携帯で数か所に連絡を入れる。
GPS機能付きで特殊なアプリを入れてあるから、こういう時は
便利だ。
金持ちというのは無駄に危機管理が完璧だ。
すでに警察と学園の警備部が動き始めたはずだとホッとしたとこ
ろで詩織様が私に気付いた。
﹃瑞姫さん!? 駄目、逃げて!!﹄
誘拐されるときの心得を無視しきった叫び声に、確かに私は舌打
ちした。
﹃相良!? おまえ⋮⋮﹄
ああ、ここにも馬鹿がもう一人いたよ、とか、完璧なお嬢様らし
からぬことを考えても仕方ないだろう。
﹃⋮⋮ッ!! 相良? あのガキ、相良家の娘か!﹄
余計なことを言うから見つかった挙句に出自がばれたじゃないか
と、むっとしてもいいだろうか。
ふたりぐらいなら、何とかなるだろう。
警備部が駆けつけてくれたら。
ならば、ここは囮になった方が得策だ。
だから私は、わざと手にした携帯を見せる。
﹃すでに警察と警備部には連絡した。間もなく駆け付けてくる。逃
げた方がいいよ、オジサンたち﹄
もっとも、彼らの姿はちゃんと撮影しているが。
﹃なんだと!? おい、逃げるぞ﹄
﹃だが、獲物だけでも⋮⋮﹄
﹃詩織を放せっ!!﹄
往生際が悪いのか、ワゴン車へ詩織様を連れ込もうとする男に諏
9
訪が飛びつく。
世話の焼ける⋮⋮と思いつつ、私はカメラを起動し、シャッター
音を響かせる。
﹃撮られた!? くそっ! 待て!!﹄
シャッター音を聞いた男は諏訪を突き飛ばし、くるりと背を向け
て走り出した私を追いかけてくる。
かかった!
3秒ほど待ち、くるりと背を向けて走り出す。
そう、学園の警備部が姿を現すだろうルートを選んで。
だが、ここで誤算が起きた。
ひとり目の男に肩を掴まれ、その反動を利用して後ろにいったん
倒れながら相手に頭突きをかまし、相手が怯んだすきに腕を取ると
姿勢を低くして後ろに下がって背中に相手の上体を乗せて投げ飛ば
す。
所謂背負い投げというものだ。
自分の体が相手よりも小さいことと、動きが素早いこと、そうし
て基礎がきっちりわかっているからこそできる技だ。
素人であれば、こんなことはできない。
そうして、痛みに呻く男の首を踏み、気道を圧迫したついでに鳩
尾も踏みつけてさらに走り出す。
追い駆けてきているのはもう一人いる。
少しでも離れないと挟み撃ちにあうからだ。
﹃このチビ、待てっ!﹄
今度は肩を捕まえられる前に振り返る。
背中まで伸ばした髪を掴まれないようにするためだ。
﹃不審者発見!﹄
背後で声が聞こえる。
それと、複数の足音だ。
やっと来た。
そう思った時、どんっと鈍い音がした。
10
ジェットコースターに乗った時のように急激に宙に体を放り投げ
られる感覚が私を襲う。
がつんと何かに叩き付けられる。
全身が熱くなる。
熱湯の中に頭から投げ込まれたかのような感覚に、これは﹃痛み﹄
なのだと頭が理解する。
何故なのかは、感情が全く追いつかない。
視界を占めるのは赤。
色んな赤がぼとぼとと視界を染めていく。
﹃⋮⋮⋮⋮⋮⋮﹄
たくさんの人の声が遠くに聞こえる。
なのに、体が動かない。
徐々に意識が頭を押さえつけられるように下へ奥へと埋められて
いく。
眠ってはいけないと思っているのに、意識がどこかへ吸い込まれ
ていく。
そうして、奈落へ落ちるように私は意識を失った。
再び目覚めたとき、私が﹃相良瑞姫﹄で、知人を仕方なしに救う
ために巻き込まれ、車に轢かれたのだと理解した。
本当に、誤算だった。
車に乗って逃げるとばかり思っていた相手が、仲間ごと私を轢き
殺そうとして途中まで成功し、私の連絡でやって来た警備部にその
場を目撃され、取り押さえられ、そうしてその後やって来た警察に
現行犯逮捕されたということを、後日、見舞いに来てくれた兄に聞
かされた。
もちろん、説教付きで。
私がした対応は、ある意味正しいものだった。
だけれど、間違いでもある。
そう言われ、そのツケを自分の身体で払う羽目になったのだ。
11
それこそ九死に一生を得た私の身体は、本当にズタボロ状態で一
生残る傷が大小合わせて数えきれないほど刻まれたのだ。
駆けつけた諏訪家の一族と我が相良家で最高の形成外科医に傷が
残らないように治療するように頼み込み、何度も手術を受けさせら
れた。
動かない手足を普段の生活ができるまで機能回復させるために苦
しいということができないほどつらいリハビリを受けることにもな
った。
自分の考えが甘かったせいだと、最初は我慢して手術を受けてい
た。
だが、度重なる手術と、そのたびに動きが鈍くなる手足、長引く
リハビリに耐えかねて私は形成の手術を嫌だと叫んだ。
母がこれは私のためだと何度も説き伏せようとしたけれど、もう
限界だった。
体力的にも精神的にも。
諏訪家が新たな整形外科医を連れてきたが、それも断った。
担当医も、新たな形成外科医もそれを了承してくれた。
何故なら、私がまだ子供だったからだ。
しかも成長期の子供だ。
形成手術をしなくても、成長期の子供の身体なら自然治癒でかな
りの部分が回復できるだろうという専門家の見立てである。
逆に手術を重ねていけば、私の成長が止まってしまい、体に負担
がかかってしまうと両親や諏訪家の当主を説得してくれた。
定期的に傷を診て、ある程度成長が止まり、そうして体力も完全
に回復したのち、残っている傷を綺麗にした方がよいと説いてくれ
た。
普段の生活の注意点として、傷口を陽に晒さないこと、機能回復
のために基礎運動をし続けること、傷が痛むときは無茶をしないこ
とということを約束させられて退院許可が出た。
事件が起きて半年後のことである。
12
貴重な中等部1年の後半を病院暮らしで潰されたのである。
出席日数が足りないのに無事に進級できたのは、日ごろの成績が
良かったおかげである。
入院中もレポートや簡単な試験を受けることで出席扱いとし、留
年を免れた。
入院していた理由が人助けであるから、ある意味、当然の処置な
のかもしれない。
傷跡を人目に曝さないためにも、私は父にお願いをした。
女子の制服では足や腕の傷が見えてしまう。
なので、男子の制服と夏場の長袖着用、及び体育の授業でのジャ
ージ着用の許可がほしいと。
末っ子のお願いに父は即座に動いてくれた。
学園側の警備の穴を指摘したりとか、色々心臓に悪いことを告げ
たりしたわけではないと願いたい。
意識が戻った後も、その後、リハビリに励んでいた間も、私は家
族以外の見舞いを受け付けなかった。
詩織様と諏訪が何度も見舞いたいと言ってきていたようだが、ひ
たすら拒否した。
あのゲーム通り、諏訪家は鬼門なのだと思っていたわけではない。
己の怪我は己の慢心が原因という相良家の訓えが理由だった。
ひたすらリハビリに耐えて退院したのち、純和風の家の一角に洋
風の離れができていたことに驚いた。
怪我をした私が和式の建築での生活が辛いだろうという当主判断
だと聞いたときに名家の剛毅さに呆れるしかなかった。
家、一軒建てるか、普通!?
庶民ならそう突っ込むところだろう。
前世は正統派庶民であった私も速攻ツッコミを入れそうになって
言葉を飲み込んだ。
13
自室の改装だけでいいんじゃないのかと。
そういうわけで、現在に至っても私は別棟にぼっちで暮らしてい
る。
相良家は大家族だから、プライバシーの面からしてひとりの方が
落ち着くのは確かだ、なんて家族の前では言えないが。
男子用制服を着用するうえで、私は髪を伸ばさないことにした。
中等部に入学した時には、背中を覆う程度の長さがあったが、事
故にあった時にばっさりと切られた。
手術のために仕方がなかったのだと後で説明を受けたが、髪を切
られたことよりもザンバラになっていた髪型のほうにショックを受
けた。
頭を怪我していたから髪が邪魔だったというのはわかる。
だからと言って、長さがバラバラになって整えようもないほどに
なっていたというのは衝撃だ。
どうせなら全部潔く丸刈りにしてくれてた方がまだ衝撃が少ない
ような気がする。
均等に伸びるから。
ついでにウィッグも被れるし。
長さがバラバラだと揃え辛いようだ。
入院中、私の髪を気にした母が担当の美容師さんを呼び、私の髪
を目にしたときの彼女の表情が忘れられない。
夜叉がいると思うくらいにものすごい形相だった。
彼女には申し訳ないことをしたと謝罪したが、﹃いいえ。悪いの
は犯人と髪を切った看護師です!﹄ときっぱりと断じられてしまっ
たので、それ以上謝りようがなく困ってしまった。
この髪を詩織様に見せたら、またとんでもないことになりそうな
気がして、面会を断ったということもある。
14
半年経ち、髪もある程度揃い、学園復帰にこぎつけたときに美容
師さんに相談したのだ。
﹃男子用の制服だから、このまま髪を伸ばすのもどうかと思って。
制服に似合う髪型にしてほしい﹄
この際、ベリーショートでも構わない。
そういう気持ちで問いかけたら、色々な髪型を試すのも若さの特
権ですからねと柔らかく笑って、そうしてできたのが現在の髪型だ。
正直なところ、意外なほどに似合いすぎて逆に困っている。
身長が伸びすぎたこともあり、何処から見ても立派な男子生徒に
しか見えない。
高等部でも男子用制服での申請が許可されているから、もうしば
らくはこの髪型とお友達だ。
だが、王子様扱いはやめてほしい。
男装趣味でもなく、女の子を愛でる趣味もない。
自分がイケメンであることに何の感慨も抱けないのだから。
これ以上、中等部にいる意味はない。
セレブ校では卒業後にクラスメイトとカラオケ打ち上げなんてこ
とはありえない。
むしろ、カラオケの存在を知る者の方が少ないだろう。
何せごく普通に男子生徒が株価の話題を口にし、女子生徒はクラ
シックコンサートやオペラ、パーティの情報交換や、それに着てい
くドレスなどしか話題がない。
別世界、異次元、そんな言葉しか思いつかない異様な空間だ。
多少は勉強の話をしようよと思っても、御稽古事などを優先させ
るセレブにとって勉強は力を入れるべきことではないのだ。
そんな中で私や諏訪、大神などは異色としか言いようがないだろ
う。
15
まあ、諏訪たちはいずれそれぞれの家の当主になるために必要な
ことだと学んでいるようだが。
私の場合は、完全に異色だろう。
形成手術を受けても傷が消えなかった場合を想定しての行動だ。
相良家は大家族だ。
しかも私は末っ子だ。
相良家の特徴として娘を嫁にほしいという家は沢山ある。
まだ成人してもいない、中学生であった私にもそういった申し入
れがあった。
当主である祖父がすべて一喝して断ったけれど。
いくら、私が相良の娘だからと言って、あまりにも無残な傷を目
の前にして怯まない者はいないだろう。
特に女性よりも男性の方がそういった傷に弱い。
事実、肉親と医師以外の男性で私の傷を直視できた人は皆無だ。
女性の場合は傷を見てしばらく硬直するけれど、すぐに我に返り、
痛ましげな表情になる。
お嬢様のイメージとして、惨いものを見ると悲鳴をすぐにあげそ
うだが、実際は少し違う。
本当に育ちがいい方は悲鳴を上げれば相手が傷つくことを理解し、
決して声を上げない。そしてすぐに私が生きていてよかったと言っ
てくれる。
悲鳴を上げるのはきちんとした上層階級の教育を受けていない成
り上がり成金と呼ばれる家の出だ。
人が見せたくないと言っているのに無理やり見て、悲鳴を上げて
気を失ったふりをして、繊細でか弱い自分を演出しつつ人を貶めよ
うと計算しているらしいが、ここではそういった輩は相手にされず、
そのうち存在すら無視されてあえなく自主退学していく者もいるら
しい。
氏より育ちというけれど、東雲学園では氏も育ちも超一流の名家
の子弟を育て上げることを旨としている。
16
だからこそ、私が彼らの試金石に選ばれたのだと気付いたのは、
随分後のことだった。
講堂からいったん校舎に入り、荷物を取ると降車場へと向かう。
もうそろそろ抜け出す頃だろうと、相良家の車が待っているだろ
う。
﹁相良﹂
そんな私の背中にかかる声。
﹁⋮⋮諏訪様、ごきげんよう﹂
たくさんの花束を抱えた諏訪伊織であった。
その隣には大神紅蓮の姿もある。
前生徒会長とその副だ。
﹁もう、帰るのか?﹂
一応、私も前生徒会書記である。
別に字が上手だからというわけではない。
議事録はすべてパソコンにデータを保存している。
﹁ええ。中等部にもう用はありませんから﹂
﹁⋮⋮相変わらず醒めているな。もし、用がないのなら⋮⋮﹂
﹁中等部には用がありませんが、これから私用があります。卒業式
の時くらい、家族で食事でもと父に言われましたので﹂
﹁⋮⋮そ、そうか﹂
誘いの言葉を即座に切り捨てると、諏訪は戸惑ったように頷く。
﹁諏訪は、今から詩織様のところですか﹂
隣に立つ大神が、視線だけで話しかけてやってと言ってきたので、
ウンザリしながら言葉を続ける。
﹁ああ。詩織が相良に会いたいと言っていたから⋮⋮﹂
﹁申し訳ありませんが、予定にない行動は慎むようにしております。
詩織様とはまたの機会に﹂
あの事件後、詩織様とは数回しか会っていない。
女子生徒の憧れのお姉さまである詩織様は、私を格別気にかけて
いるという態度を取っているが、実際には自分本位な頼みごとがあ
17
るので会いたがっているだけだということを私は知っている。
いいように使われている諏訪の純情が気の毒になってくるほどだ。
つまり、従弟で幼馴染である諏訪のことを弟にしか思えないため、
諦めさせてほしいということと、自分の結婚相手に私の兄、相良八
雲を望んでいるため、取り持ってほしいということだ。
諏訪分家からの申し入れを兄は即座に断った。
何故なら、あの事故から今まで、詩織様の両親は私への謝罪をし
に相良家へ一度も来ていないからだ。
諏訪本家は当主夫妻にその息子である伊織の両親も事故直後に謝
罪に来たが、それで済んだと分家は思っているらしい。
済んだことと水を流して、兄の許嫁に詩織様をと申し入れてきた
のだ。
私が車にはねられたのは、確実に詩織様の失態のせいだ。
それ故に相良の家は分家に至るまで詩織様を許せないでいる。
誘拐された時の対処の一つとして、誰かが近くにいた場合、決し
て犯人には悟られず、その者をそこから逃がして助けを求めてもら
うというものがある。
それは、東雲学園で初等部の時にきっちりと教え込まれているこ
とだった。
そういった現場に行き合わせた者も、必ずこっそりその場から離
れて学園の警備部や警察、または自宅へと助けを求めることとなっ
ていた。
あの時、詩織様はわざと私の名を呼んだ。
あれは相良家の方が諏訪家よりも格上の家柄だと判断していたか
らだ。
相手が身代金目的なら、諏訪家よりも相良家の方が搾り取られる
はずだと計算して、自分ではなく私を襲うはずと思ったらしい。
だが、あれは確実に詩織様本人を狙っていた。
でなければ、私を殺そうとは思わないはずだ。
運よく私は生き延びることができた。
18
だから、詩織様の罪悪感は半減してしまったのだ。
あの時の兄の憤りはすごかった。
八雲の上の兄や姉たちも、諏訪の分家をどういう目にあわせよう
かと身も凍るような笑顔で真剣に話し合っていた。
私が詩織様と接触すれば、兄姉たちは再びあの笑顔を浮かべて本
当に計画を実行することだろう。
﹁⋮⋮そうか。詩織が残念がるな﹂
御遣いが果たせなかった諏訪は、肩を落として残念そうに呟く。
﹁諏訪もあまり詩織様の傍に侍らぬ方が良いかと思いますが﹂
君の失恋はカウントダウンが始まっているからな。
﹁何故だ!?﹂
﹁入学式の翌日は学力試験です。外部生も入ることですし、順位を
落とすことは避けた方が良いかと﹂
事実だけを告げる。
﹁そんなことか﹂
﹁ええ、そんなことですが、外部生は受験を勝ち抜いてきた優秀な
方ばかりです。外を知らぬ我々と異なり、プレッシャーにも強い。
慢心は身を滅ぼすとも言いますし、身を引き締めて首位を守って内
部生の実力を見ていただくべきだと思います﹂
﹁伊織。僕は相良さんの意見に賛成だよ﹂
穏やかな笑みを作り、大神が私の言葉に同意する。
まさか大神が私の意見に賛同するとは思わなかったらしい。
﹁紅蓮まで。おまえたちなら、勉強せずとも十分に首位を取れるだ
ろう?﹂
﹁内部性の実力がどれほどのものか、努力を怠らず見せるのも我々
の役目だと思うよ﹂
﹁諏訪がその気なら、今度の実力テストは私と大神が主席と次席だ
ということでしょうか。今から結果が楽しみです。では、失礼﹂
ごきげんようとは言わずに、そのまま立ち去ろうとする。
﹁相良さん﹂
19
大神がにこやかな笑顔のまま呼び止める。
﹁なんでしょうか?﹂
﹁勉強、わからないところがあったら、メールしてもいいかな?﹂
﹁⋮⋮ご随意に。私が答えきれるかどうかはわかりませんが﹂
﹁ありがとう。気を付けて﹂
大神の言葉に送られて、私は迎えの車の許へゆっくりと歩いて行
った。
20
3
春休み。
それは、園遊会開始の合図である。
桜の花がほころび始めたとの案内状が送られてくるようになると、
そちらのお庭の桜も素敵でしょうねぇなどと誘い待ちの話題を振る
人も増えてくる。
いかにオリジナリティ溢れたお茶会、夜宴にするか、悩ましいと
零す家も出てくる。
広大な日本庭園を持つ相良家であるが、梅はあっても桜はない。
なので、この時期に園遊会を開くことはない。
質実剛健を地で行く家でよかったと、この時ばかりはホッとする。
園遊会のお誘いは、専ら祖父母や両親、兄姉たちがほとんどで、
私に来ることは滅多にない。
来るとしたら、東雲学園の関係か下心あり系ぐらいだろう。
下心あり系は即座に切り捨てるが、東雲学園の関係だと相手をよ
く調べてからの返事になる。
返事をするのは私自身ではなく、何故か兄の八雲だが。
heaven﹄の設定で氏族というのがある。
今回の春休みは、とりあえずのところ勉強と道場での稽古がすべ
てだ。
﹃seventh
東雲学園に通う生徒たちの名字についてだ。
名家は名字でわかるという考え方だ。
21
神・皇・天・地・外・他と6つに分けられる。
天孫降臨にまで遡ると言われる由緒正しき名字の分け方だ。
神が、文字通り神族。つまり、高天原から地に降り立った神の子
たち。
皇は皇族から臣下に降った時に天皇から与えられた名字。
天は天族と呼ばれる瓊瓊杵尊に付き従った神々の子孫。
地は地族と呼ばれる天孫降臨以前からこの地にあった有力豪族た
ち。
外は外つ国、つまり大陸や朝鮮半島から渡ってきた外国人たちの
子孫。
他は明治以降に与えられた名字である。
この他に葉族と言ってそれぞれの家からの分家筋にあたり本家と
は別の名字を与えられた者を示すが、本家の括りに入れられるので
明記されることはない。
この葉族というのはゲームで作られた設定だが、結局のところ、
これらの区別は全くもって設定倒れに終わっている。
名家と呼ばれる人々は、神・皇・天・地の4族に入る名字であり、
この中での上下は曖昧だ。
ただはっきりとわかっているのは、直系が永く続いている家ほど
格が高いということだ。
この設定で行くと、我が相良家が皇族や神族を引き離してダント
ツに格上の名家となっている。
家系図で遡って正確にわかっているだけでも1600年直系が続
いている。
その間、一度たりとも分家筋から当主を招き入れたことはない。
相良家は多産系で一代につき少なくて5人の子供が生まれている。
多いときは16人ほどだが、それはすべて正室からであり、側室は
持たなかったらしい。
どんだけらぶらぶ⋮⋮っつーか、奥さん大変だな!というのが、
家での教育で学ばされた時の感想だ。
22
つまり、相良の家に生まれた者は、相手にその時代相応の問題が
なければ恋愛結婚OKだったようだ。
身分違いでも、養子縁組という抜け道で娶るという方法がありま
すからねー。えぇ、16人の方ですけど。
相良家に嫁げば、絶対に浮気なしで大事にされるということから、
婿候補としては垂涎の的なんだとか。
ちなみに娘の場合もさらにお得感があるので嫁候補に大人気だ。
多産系ということで最低3人以上は男女合わせて出産する上に、
福の神特典もつくらしい。つまり、相良の娘が嫁いだ先は栄えると
いう神話があるのだ。
もちろん、これには条件がある。
相思相愛であること、娘とその子供を大事にすること、だ。
浮気をすればそこでおしまい。
相良は必ず娘とその子供を引き取り、きっちりと縁を切る。
そこから先は相手の家は転落の一途だ。
福の神は紙一重で禍つ神となる。
そのことを知らずに欲得三寸で婚約の申し込みをすれば、門前払
いを食らうだけ。
まだ未成年である私にすら婚約の申し込みが来ているというのは、
そういうことだ。
まぁ、もちろん、相良の娘が福の神であるという神話にはそれな
りの理由はある。
ひと財産稼げるだけの教育を受けていると言えば分りやすいか。
身を守るために一通りの武術は教え込まれているが、それとは別
にそれぞれに合った才能を伸ばす教育を施されているのだ。
昔であれば、治水術などの土木に関する知識だとか、高額商品に
なりやすい機織りだとか、茶匠の技術だったり。
女子に学は必要がないと言われていた時代でも、それなりの教育
を与えていたところがすごいと思う。
私の場合は、絵だ。
23
とはいっても絵画でも漫画でもない。
友禅の下絵だ。
前世で友人の薄い自主出版な本の背景を描いていた私は花や木を
描くのが好きだった。
手のリハビリがてらに絵を描いてみますかと渡されたスケッチブ
ックに懐かしくなって花を描いていたところ、その絵を見た母に着
物の柄のようだと言われ、そこから父や祖母が色々と手配をかけて、
今では友禅作家として少しずつ動き出している。
相良瑞姫にそんな設定はなかったから、これはどういうことなの
かとちょっと動揺している。
まぁ、もちろん、あの事件自体がゲームにはない設定なので、ど
う判断していいのか迷うところだが。
とりあえず、私は、私だ。
ゲーム通りに動く必要もないだろう。
本当に東條凛が来年現れるとも限らないし。
そう思うことで、今、生きている私がいる。
相良家の敷地内にある武道場。
己の鍛錬の為に時間があるときは稽古をするというのが相良家の
人間の習性のようなもの。
かくいう私も現在、気分転換がてらに稽古中である。
入院中に完全に体がなまったと思い、退院したのちに道場に来て
みて愕然とした。
右大腿骨と右上腕部の複雑骨折、及び他にもいろいろ単純骨折や
らヒビが入ったり内臓に傷がついてたりしてたのだから、仕方がな
いことだと思う。
生き延びたこと自体が奇跡なのだから、自分を責めてはいけない
とリハビリの先生にも言われている。
24
だけど、膝が曲がらずに正座ができないという己の状況に以前の
自分の感覚が馴染めなくて違和感を感じても仕方ないだろう。
そういえば病院ではベッドと椅子の生活だった。
痛みと不自由さの戦いで気付かなかったが、それはこういうこと
だったのだろう。
それから入念に柔軟体操で関節やら筋肉やらをほぐすことをはじ
め、正座ができるようになった。
正座ができる時間を伸ばすようにして、1時間できるようになっ
てから古武道の型を訓練するようになった。
ひとつひとつクリアをしていくことを決め、それを実行する私は、
大人たちから同じ年の子と比べ我慢強いとか、理性的だと褒められ
たが、それは当たり前のことだ。
前世では少なくとも24年間生きていたのだ。社会人としての経
験が刻まれている私にとって、物事がうまく進まないからと癇癪を
起こす気力はない。
今現在の稽古内容は演舞で滑らかに動くことだ。
組手はまだできない。
相手の動きに対応しての素早い動きにまだ身体が追い付かないの
だ。
演舞自体もまだ納得のいく動きはできていない。
元々の基礎体力や筋力量で普通より治りは早いと言われているが、
思うようにいかないのは歯痒い。
少しずつでも改善できていることが、今現在の救いだ。
ゆったりと呼吸をしながら気を全身に廻らせる。
手足の動き、体重移動をチェックしながら型に合わせて動いてい
く。
滑らかに、力強く。
一連の動きを終え、呼吸を整えた。
﹁すごいな。綺麗な動きだったよ、瑞姫﹂
25
ほっと息を吐いたとき、背後から声がかかる。
﹁⋮⋮疾風。来ていたのか?﹂
同じ年の幼馴染でもある岡部疾風が壁に背を預けてこちらを見て
笑っていた。
﹁うん。母屋に行ったら、八雲様が瑞姫は道場にいるからって仰っ
たから﹂
岡部家は相良家の随身の家系だ。
同じ地族であり、相良の第一の家臣であることを由とし常に付き
従うということを代々伝えているらしい。
本来なら、疾風は八雲の傍付になるはずだった。
なぜか八雲が5歳も年が離れたせいで疾風は私についている。
2年前のあのとき、疾風は風邪をひいて、しかも肺炎をこじらせ
かけていたため学校を休み、私の傍についていなかった。
ついていればあんな目に合わせなかったと後悔しているらしく、
入院中も毎日病院に通ってきていた。
元々岡部は文官を多く輩出している家だが、武官も少なくはない。
相良に沿う者は文武両道に秀でた者だけと決めてあるらしく、疾
風は特に優秀だ。
私に二度と怪我をさせないという一念でそこまで頑張ったのだか
ら驚いた。
﹁兄上は帰ってこられていたのか。最近、父の会社の仕事を勉強す
るようになってお会いしていない﹂
﹁あ。いや⋮⋮ごめん﹂
ちょっと拗ねたように言えば、疾風は慌てたように視線を泳がせ
る。
﹁ん?﹂
﹁八雲様、俺と入れ違いに出て行かれた⋮⋮﹂
しょぼんと項垂れて申し訳なさそうに告げる。
おっきなわんこのようだ。
﹁ごめん﹂
26
﹁別に疾風のせいじゃないだろう?﹂
﹁だけど、俺だけ会って、瑞姫が会えないなんて⋮⋮﹂
170cmも身長がある私よりもさらに10cm以上高い大柄な
疾風がしょぼんと肩を落とす姿は何やら可愛らしい。
何だか可笑しくなってくすくす笑いながら疾風の頭を撫でる。
柔らかなくせ毛でさわり心地が非常にいい。
一度触ると癖になるので、結構撫でていたりする。
﹁疾風のせいじゃない。兄上に会いたければ、メールをしておくし﹂
﹁ん﹂
嫌がるかと思ったけれど、疾風も頭を撫でられるのは好きらしく、
微妙に機嫌がいい。
本物の犬だったら尻尾がゆらゆら揺れている状態だろうな。
﹁それで、何か用だったのか?﹂
そう問いかけると、少し照れたように笑う。
﹁在原と橘が、もしよければ気分転換に出かけないかと瑞姫に聞い
てくれと﹂
﹁在原と橘が?﹂
聞き慣れた名前にきょとんとする。
在原静稀と橘誉、共に皇族の名家出身である。
これに私と疾風、諏訪と大神に天族の菅原千景を合わせて学園七
騎士と呼ばれているらしい。
在原と橘は疾風と仲が良く、授業ではよく組んでいるようだ。
この2人とは初等部の時に同じクラスになったことはあるが、そ
こまで親しく話したことはない。
それゆえ、今日いきなり誘われて驚いている。
﹁何故その2人が私を誘うんだ? 疾風﹂
﹁んー⋮⋮﹂
困ったように疾風が視線を泳がせる。
﹁お茶会やらなんやらの誘いがうるさくて、逃げ出したいから誰も
が黙るような口実がほしいと⋮⋮﹂
27
﹁それで、私か﹂
﹁うっ⋮⋮ごめん﹂
﹁いや、いいよ﹂
気持ちは非常にわかる。
これから高等部に上がるとなれば、学生とはいえそこそこ家同士
の付き合いを求められはじめる。
どこの家の子息と友人だということは、案外大人たちは把握して
いるのだ、表面的なものだが。
諏訪家は広範囲に渡って企業を持っているようで、2年前の事件
以降、相良と微妙な関係になったためその業績に陰りが出ていると
聞く。
仕方あるまい、諏訪の衰退は詩織様とその両親である諏訪分家の
せいだ。
早晩諏訪の両親はその原因に気付くだろう。
その時、分家を切り離すかどうかが再建のカギだ。
それより、在原と橘の件だ。
﹁疾風が大丈夫だと判断したんだな?﹂
聞きたいことはその一点。
相良の娘を道具とみなさず、一人の人間として扱えるかどうか。
普通ではありえない考え方だが、ここでは仕方がない。
﹁うん。あ、でも、瑞姫に勉強を教えてもらいたいとは言っていた﹂
一度、はっきりと頷いた後でちょっと小首を傾げて考え込むと、
困ったように告げる。
同級生に勉強を教えてもらいたいと考えるのは、相手を利用しよ
うということになるのかもと、妙なところで生真面目な疾風は判断
に迷ったらしい。
﹁勉強を教えてもらいたいというのは、いいことだと思うよ。私が
得意な科目であることを願うけどね﹂
﹁わかった。じゃあ、大丈夫だ﹂
嬉しそうに頷いた疾風がそう断言する。
28
﹁出かける場所と時間、それに待ち合わせ場所を知らせるように伝
えてくれ。私はあまり人混みが得意ではないともな﹂
﹁うん。伝えておく。瑞姫に無理はさせない。そこは俺が約束する﹂
私の両親に頼まれているせいか、少しばかり出不精の私を外に連
れ出したい疾風がしっかりと請け負う。
膠着していた何かが微妙な方向へと動き出したことに、この時私
は全く気付かなかった。
29
4
待ち合わせは午前9時。
場所は自然公園でピクニック。
指定された内容に、私は少しばかり驚いた。
男3人で何を考えて﹃ピクニック﹄という言葉が出て来たのだろ
う。
この場合、お弁当についてはどう考えているのか。
私か!? 私が作るのか!!
よかろう。その挑戦、受けて立とうではないか。
これでも前世では一人暮らしをしていたのだ。
社食やコンビニランチではなく、お弁当派だったのだ。
自炊上等! な生活をしていた。
ある程度の知識はあるから、作れるだろう⋮⋮多分。
運ぶのは、食べる人間が運べばいい。
そう結論付けて、我が家の料理長にピクニック用のメニューを書
いて見せ、自分で作りたいので重箱に詰めるのを手伝ってほしいと
お願いした。
相良家の人間は、使用人に至るまで末っ子に甘いという現実を今
更ながらに知る結果となった。
4人分のお弁当を疾風に持ってもらって、自然公園の入り口に辿
り着くと、そこには人目を惹く少年が2人、立っていた。
﹁⋮⋮すまない、遅れてしまっただろうか?﹂
そう声を掛けると、驚いたように振り返った在原と橘が、疾風を
30
見てさらにぎょっとする。
﹁岡部、何その荷物?﹂
﹁何って、ピクニックと聞いたが、お弁当はいらなかったのか?﹂
﹁⋮⋮弁当⋮⋮﹂
初めてそのことに気が付いたと、在原と橘が顔を見合わせる。
まぁ、得てして男というモノはこういうモノだと、姉なら言うだ
ろうな。
﹁瑞姫がわざわざ朝早くから作ってくれたんだ。当然⋮⋮﹂
﹁もちろん、食べる!!﹂
﹁運ぶよな?﹂
疾風の言葉を遮るように慌てて答えた在原の言葉と疾風の言葉が
すれ違う。
﹁⋮⋮あー⋮⋮﹂
非常に痛い光景に、目を覆った橘が呻く。
﹁すみません、相良さん。わざわざお弁当まで作ってくださって。
改めておはようございます﹂
爽やかな外見を裏切ってそそっかしい在原を苦笑して宥めた橘が、
朝の挨拶から仕切りなおす。
﹁おはよう。瑞姫と呼んでくれて構わない。友達として遊びに来た
のだろう?﹂
﹁重ね重ね申し訳ない。こちらの都合を押し付けるようで﹂
﹁おはよう、相良さん。ごめんなさい﹂
ぺこりと頭を下げる在原静稀は、この愉快な言動から想像しづら
いが、学年5位の成績優秀者である。
﹁気にしないでいい。こういうのは気が付いた者がするものだ﹂
﹁在原、瑞姫の作ったお弁当、食べなくてもいいぞ。お前の分は、
俺が食べるから。瑞姫の料理はとても美味い﹂
﹁いや、食べる!! いただきます!!﹂
﹁遠慮しろ﹂
疾風が全力でからかいにいっているとは珍しい。
31
そう思って見てみれば、納得するほどに面白い掛け合い漫才が繰
り広げられている。
﹁疾風、そのくらいにしてやれ﹂
﹁⋮⋮瑞姫がそう言うのなら﹂
﹁ちょっ! ひどくない、それ!? 岡部、酷いよ!!﹂
からかわれたということに今頃気づいた在原が、抗議を申し入れ
ているが、疾風は知らん顔をしている。
﹁この先に、あまり人が来ないちょっとした滝があるんだ。そこに
案内したくて⋮⋮ああ、足場はきちんと整備されているから、無理
なく歩けるよ﹂
彼らを無視して橘が私に説明する。
﹁そうか。では楽しみに歩こう﹂
私が頷けば、橘も嬉しそうに頷く。
﹁俺のことも誉と呼んでくれると嬉しい。細かいことを歩きながら
説明させてほしいし﹂
﹁あ、僕も静稀と呼んでくれ。相良さん⋮⋮瑞姫とは以前から話を
してみたいと思っていたんだ﹂
﹁そうなのか?﹂
私と話をしてみたいとは、妙なことを言い出すものだと首を傾げ
たくなる。
﹁そうだよ。大神や諏訪が近寄らせてくれないものだから、なかな
か話しかけることができなくてね。岡部が承諾してくれてよかった
よ﹂
﹁諏訪や大神の件はよくわからないが、疾風は一定条件をクリアし
ていれば、問題なく頷くと思うよ﹂
﹁条件?﹂
私の言葉に橘誉が首を傾げる。
﹁そう。内容については秘密。私は疾風の目を信用しているという
意味にとってもらって構わない﹂
ゆっくりと歩き出しながら話を続ける。
32
﹁わかった。俺たちはそれなりに岡部にお墨付きをもらえたという
わけだ﹂
﹁そう考えてもらっても大丈夫だ。しかし、諏訪や大神のことは、
私は知らなかった﹂
﹁牽制というか、威嚇というか⋮⋮それこそ見当違いなところで君
の傍に誰も近づけさせまいと躍起になっていたよ。まぁ、彼らも岡
部のように君の傍に控えることを許されてはいなかったようだけど
ね﹂
﹁え?﹂
﹁俺たちは、諏訪に少々思うところがある、というわけだ。もちろ
ん、岡部もね﹂
ちょっと笑った橘は、在原に視線を向ける。
﹁もうへばったのか、静稀。そのくらいでは荷物持ちの役には立た
ないぞ﹂
﹁だけど、重い!!﹂
﹁荷物の半分以上を岡部が持っているように見えるけど﹂
私以外、それぞれが荷物を持っている状態だが、嵩張っているの
は疾風の荷物、しかしながらコンパクトな在原の荷物が一番重いこ
とを私は知っている。
あれは水筒だ。
持ちやすさを重視しているが、中身はお茶がずっしりと詰まって
いる。
重くて当たり前だろう。
余程、在原のことが気に入っているんだな、疾風は。
﹁静稀、貸してくれないか? 私が持とう﹂
﹁え?﹂
在原の方へ手を差し出すと、当然のことながら在原が戸惑う。
﹁持ち方にコツがあるんだ。手にぶら下げるのではなく、抱え込む
ように持った方が重さが半減するし、運びやすい﹂
だから私が持つと、もう一度催促すれば、在原は慌てる。
33
﹁大丈夫! 僕が持つよ。女の子に重い荷物は持たせられないから
ね﹂
﹁私の方が力があると思うぞ。男女関係なく、適性がある方が引き
受ければいい﹂
﹁⋮⋮その考え方は、ある意味、非常に魅力的なんだけど。やはり、
男の面子というモノがあるから⋮⋮﹂
﹁そうか。では、在原に任せる。もうじき着くのだろう?﹂
笑顔を作って、あっさり引けば、在原が目を瞠る。
﹁あっ! やられたっ!! 瑞姫は人を扱うのが上手いな﹂
苦笑を浮かべて天を仰ぎ、唸った在原は、肩をすくめてボヤく。
﹁最初からわかっていたことだろう。生徒会を務めあげた人間に敵
うわけないだろうが﹂
橘が笑いながら告げる。
﹁さて、目的地に着いたことだし、まずはのんびりと寛ぐことにし
ようか﹂
その言葉で、滝の存在に気付き、私は目を細めてそれを見上げた。
剥き出しの岩肌。
高い位置にあるはずなのに、切り立った崖から迫り来るように身
を乗り出してくる木々。
それらの隙間から、思い切りよく宙へ身を躍らせる水龍。
岩へと躰をぶつけ飛沫を上げると、陽に身を曝し、虹となる。
そうして空中散歩を楽しんだ後は、淵へと身を沈める。
滝は水龍が遊ぶ姿なんだよと、幼い頃、2番目の兄、蘇芳が私に
言ったことがある。
八雲は3番目の兄。
私には3人の兄と2人の姉がいる。つまり、6人兄弟だ。
幼心に2番目の兄の頭は大丈夫だろうかとちょっと不安に思った
34
が、今ならわかる。
蘇芳はファンタジー好きだったのだ。
剣道や居合を学ぶ兄や姉とは趣を異にして、蘇芳は両手剣を学ぶ
ことを好んでいた。
諸刃の両手剣、つまり中世欧州やファンタジーで言う大剣だ。
残念ながら蘇芳を勇者召喚してくれる異世界はなかったようで、
現在、ごく普通に相良グループの情報系を扱う会社の社長に就任し
ており、新婚さんだ。
蘇芳が言っていた滝に似ているそこは、そんなに大きなものでは
ないが、水龍を思い浮かべるよりも神域といった張り詰めた空気の
方がよく似合う。
不浄のモノを押し流す力強さと、潔癖さ、そうして清浄なものを
愛でる大らかさを感じさせる。
マイナスイオンとかパワースポットとかよく言われるが、滝の傍
でボーっとしているのは確かに心が和む気がする。
滝壷に水が流れ落ちる音やせせらぎなどで周囲に人がいたとして
も話し声は聞こえてもその内容までは聞こえない。
今は私たち以外には誰もいないが、いたとしても大丈夫だろう。
景色を堪能するよりも、育ち盛りは胃袋を満たす方が重要なよう
だ。
よく躾けられた上品な仕種でがっつりと食事を摂る少年たちに思
わず見とれてしまう。
マナーを守りながらも、会話を楽しみ、それ以上に食事を楽しん
でいる。
作った甲斐があるというモノだ。
彼らに比べればさほど量を必要としない私は、別の意味で満腹で
あった。
heaven﹄の世界とよく似た現実。
好きな声優さんのために買ったと言っても過言でもないゲームで
あった﹃seventh
35
ここに攻略キャラのうちの3人がいる。
実に耳が幸せである。
これでBL好きならば、さらに別の意味で萌えるのだろうが、私
はそこに萌えポイントはおいてない。
おいてないが、滾りそうになる何かはある。
彼らを攻略する気はないが、ぜひとも全員と友人関係になって彼
らの会話に耳を傾け、声フェチ煩悩を滾らせたいなとは正直思う。
﹁瑞姫? さっきから静かだけど、疲れたのかい?﹂
﹁⋮⋮え?﹂
橘に顔を覗き込まれ、我に返る。
﹁瑞姫、大丈夫か?﹂
心配そうな表情で秋田犬じゃなかった疾風が問いかけてくる。
﹁ああ、大丈夫だ。静稀と誉の声が耳に心地よくて、ちょっと聞き
惚れていたところだよ。実にいい声だな、ふたりとも﹂
﹁⋮⋮⋮⋮⋮⋮﹂
疾風に頷いた後に、正直に答える。
その直後、在原と橘が目を逸らし在らぬ方を見る。
片や真っ赤、もう片方はうっすらと頬を染め上げ恥らっているよ
うだ。
﹁何かまずいことでも言ったのか、私は?﹂
乙女なのか、彼らは?
何故声を褒めて恥らうんだろう。
﹁いや。顔を褒められたことはあるけど、声は初めてだったから、
ちょっと照れた⋮⋮﹂
実に恥ずかしそうに在原が答える。
﹁そうか。だが、顔より声がいい方が得だと思うぞ? 政治家にし
ろ、企業トップにしろ、人前で話すことが多いだろう? 耳に心地
よい声というのは、それだけで話を聞いてもらえる。最初から最強
の武器を手に入れたという点で、誰よりも優位に立てているという
ことだ﹂
36
﹁顔より声とは、想像の斜め上をいくな。相良は天然だというのは、
案外本当のことかもしれん﹂
ぶつぶつと橘が呟いている。
﹁瑞姫は決して人を出自や見栄えで判断しない。きちんと中身を見
て判断する。すごいと思う﹂
﹁疾風、それ、絶対に買い被りとか色眼鏡とか、そういった類だか
ら。まぁ、顔はね、性格や表情の作り方や化粧で変わるから、見た
目で判断はしないけどね﹂
﹁顔だけで判断しないと言える人は少ないから、そこは助かるけど
⋮⋮﹂
﹁⋮⋮そこまで冷静に判断されると、すごく困るな﹂
微妙な表情で話す彼らに、私はのんびりと滝を見上げて聞き流し
たのであった。
37
5
人がいれば、それなりに事情というモノが生まれてくる。
その事情も他人から見れば大したものではないが、本人にとって
最悪にしか思えないようなこともある。
在原と橘の事情もそういうモノだった。
﹁⋮⋮ストーカーまがいのお嬢様⋮⋮がっつり肉食系のようだが、
いるものだねぇ⋮⋮﹂
困り切っている様子の在原の説明に、私はいたく感動した。
﹁それこそ、作り話の中にしかいないと思っていたよ﹂
つい最近、招待された園遊会で挨拶をした御嬢さんの1人が、在
原を自分の婚約者として紹介されたのだと思い込んでしまったらし
い。
翌日から家に押しかけてくる、結納の日取りや形式、結婚式の予
定や招待客の選定、新居について話し合うべきだと控えめを装いな
がら訴えてくるらしい。
痛い勘違いだが、本人は自分の容姿や家柄が在原と釣り合うと言
い切り、自分以外の婚約者はありえないだろうと主張しているよう
だ。
﹁ちなみにその梅香様は、僕より7歳年上の22歳、今年23歳に
なられる方だ⋮⋮﹂
もはやダメージが強すぎて正気を保てないのか、遠くを眺めて茫
然としている在原がぼそりと呟く。
﹁⋮⋮ありえない⋮⋮﹂
その呟きに橘も苦笑しながら頷いている。
﹁まぁ、俺達、15歳だし。あちらが手を出して来たら犯罪だよね﹂
﹁あちらが男性で、こちらが15歳の少女なら完全に犯罪と言い切
38
れるのに、逆だと微妙に迷うのは何故だろうか﹂
橘の言葉に頷きかけて、途中で首を捻ってしまった私は己の疑問
を率直に告げてしまう。
﹁大学卒業した時点で婚約者がいないというのがそもそもおかしい
と思うんだけど﹂
一番まっとうな問題点を指摘したのは疾風だった。
﹁本人を見れば、いないということをすぐに納得できると思うよ。
速攻で断られてるはずだ。日本語を話しているはずなのに、言葉が
通じない。先方には何度も連絡を入れているのに、一向に態度が改
まることがない。仕方がないので、主催者の方にもクレームをつけ
ることになってしまった。引き合わせた方が主催者だったからね﹂
﹁⋮⋮⋮⋮⋮⋮﹂
なんと不憫な。
思わず在原の肩をポンポンと叩いて宥めてしまった。
﹁力になれずにすまないな﹂
﹁え!? お願い、助けて! 知恵貸してください!!﹂
必死の形相で在原は私の腕を掴む。
﹁え? 知恵?﹂
﹁瑞姫、年の離れたお姉さんがいるよね!? 扱い方のコツとか教
えて!!﹂
﹁⋮⋮え、そっち?﹂
てっきり相良の名前を使う方向かと思っていたら、もっと初歩的
なことを聞かれて驚いてしまった。
疾風が大丈夫だと言っていたのを思い出し、納得する。
﹁ちなみに、今日、うまく逃げ出せたのは、俺と出かける約束があ
るからと前もって言ってあるからなんだ。確か﹃妻たる者、夫の交
友関係に口を挟むような真似は致しませんわ﹄とか言ってたし。婚
約もしてないのに、妻って、ねぇ⋮⋮﹂
苦笑を浮かべた橘が肩をすくめて告げる。
﹁おまけに、﹃静稀様はお若いのですからいくらでも浮気をなさっ
39
てもかまいませんわ﹄とかも言ってた。さすがにあれはぞっとした
な﹂
﹁⋮⋮うわぁ⋮⋮﹂
疾風が完全に血の気を失っている。
﹁何だか昭和の臭いがする考え方だな。高校生に芸者遊びをけしか
けてるようにも聞こえるが﹂
﹁あ、やっぱり? うちの父がお座敷好きで、俺も連れて行っても
らったことがあるけど、あれは本当に歌や舞の芸を披露してくれる
席であって、愛人の座を狙ってるような御姐さんは全然いないよね﹂
﹁確かに!﹂
﹁やっぱり、瑞姫もお座敷に行ったことがあるんだ?﹂
﹁ああ。お祖父様が屋形をひとつ、後援しているんだ。古くからの
知り合いだそうだ。たまに茶席に連れて行ってくださる﹂
﹁⋮⋮瑞姫は御姐さん方にもてそうだよね﹂
﹁まぁ、それなりに可愛がってはもらっていると思う。お祖父様か
ら引き継いで私が後援することになりそうだから﹂
﹁ちょっとー、ナニ盛り上がってるの!? 僕を放って楽しそうに
お座敷の話とかしないでほしいんだけど﹂
橘とお座敷の話で盛り上がろうとした矢先に在原が不機嫌そうに
割って入る。
いや、だって。ドン引きしそうな痛々しい人の話より、楽しい話
の方が面白いし。
﹁悪かった。気分転換しないと、普通に聞けない話だし﹂
橘があっさりと謝罪したと思ったら、フォローしようもないこと
を言っている。
﹁年の離れた姉がいる人って知っている限りじゃ瑞姫しかいないん
だ﹂
﹁年の離れた従姉妹なら、諏訪も条件に入ると思うんだが﹂
﹁あの悪女モドキに振り回されてる諏訪になんて、絶対に嫌だ﹂
似たような条件を持つ諏訪を進めてみれば、実に嫌そうな表情で
40
在原は答える。
この数時間で思ったが、在原は表情豊かだな。
﹁悪女モドキ? 詩織様のことか?﹂
﹁諏訪は言ってはなんだけど、盲目的になり過ぎて趣味が悪いと思
う。女子生徒の憧れの諏訪詩織様なんて呼ばれ方、今はほとんどし
てないんだぞ﹂
﹁そうなのか?﹂
意外なことを聞いた。
淑やかで儚げな容姿の詩織様は、とりあえず一通りの御稽古を修
めているらしいので、憧れ的存在だと先輩方は言っていたような気
がするのだが。
﹁瑞姫を犠牲にして自分だけは助かろうとした我儘で傲慢な姫君と
いうのが、僕たちより下の詩織嬢の評価だ。知らなかったのかい?﹂
﹁まったく﹂
﹁挙句の果てには、八雲先輩の婚約者の座を狙っているしたたかさ
を披露してくださっているからな。瑞姫がぜひ姉になってほしいと
言ったとか吹いてるし﹂
﹁⋮⋮言った覚えはないな﹂
﹁うん、知ってる。相良家が、諏訪分家に対して相当な怒りを持っ
ているというのは有名な話だしね。瑞姫が個人的に詩織嬢と会わな
いのも知られているよ。それなのに諏訪伊織は詩織嬢を慕っている
というのだから情けない話だ﹂
﹁諏訪が詩織様を慕っているのは、それこそ初等部の頃からだ。こ
こ数年のことでそう簡単に想いを断ち切れるわけがないだろう﹂
庇うつもりはないが、人の気持ちというのは複雑すぎてそう簡単
にはいかないものだということくらい言ってもいいだろう。
﹁瑞姫は優しすぎるんだ。分家の娘など、潰してしまえばいいのに﹂
﹁疾風!﹂
詩織様に対して、超辛口な疾風を窘める。
﹁だけど!﹂
41
﹁私は当事者だ。だから、口を挟まないだけだ。一族の総意に従う。
それでいいだろう?﹂
﹁⋮⋮納得いかない﹂
﹁終わったことだ。そして、私は生きている。一族の者が望まない
ので、詩織様とは公式の場以外で会うことも話すこともない。この
立場は守る。納得しなくていいから、理解だけはしていてくれ﹂
むすりとしたままの疾風を宥め、私は在原に視線を向ける。
﹁これからずっと、私は詩織様とは無関係だ。そこだけ覚えていて
ほしい。私は彼女に対して何も思わない﹂
﹁⋮⋮無関係というより無関心、だね。詩織嬢のような人にとって、
無関心はきつい罰になるだろうね。わかったよ﹂
﹁ありがとう。では、その代わりに姉に頼んで梅香様の件、手を打
ってみよう﹂
﹁え!? いいのか? いや。そこまでは望んでないぞ、本当に﹂
本当に嫌だったのだろう。
梅香様のことを切り出せば、在原の顔色が輝き、そうして慌てて
首を横に振る。
﹁構わない。姉はそういった情報操作が上手い。面白がって情報収
集して動いてくれるだろう﹂
﹁非常にありがたいです。だけど、まさか話がそう転ぶとは思わな
かった﹂
少し困惑したように首を横に振りながら呟く在原。
﹁しばらくの間は、こちらも情報収集が必要だから我慢してくれ。
新学期になったら、学校で話せるだろう﹂
﹁ちょっと逃げ出すかもしれないけど、我慢できそう。僕、頑張る
よ﹂
そこでこの話は打ち切り、今度は高等部での話が始まる。
思う存分親睦を図り、アドレスを交換し、その日は夕方で解散し
た。
42
そして、入学式。
クラス編成を見て教室に向かった私は、その教室の一角で予定通
りに詩織様に振られ、澱んだ空気を漂わせる諏訪の姿を見つけた。
爽やかな初日を台無しにする暗く濁った背景を背負う新入生代表
に、その親友も引き攣った表情を隠せないでいた。
明日の実力テストはひとり勝ちだな。
諏訪を心配するでもなく、実に晴れやかに私はそう思った。
43
6
実力試験の結果は、私の一人勝ちだった。
東雲の内部生にお受験はないけれど、勉強してよかった。
これなら、八雲を見習って東雲の大学部ではなく外部受験で国公
立を目指すのもいいかもしれないと少しばかり調子に乗ってみる。
高等部では外部生が増え、1学年150人になる。
30人ほど、狭き門をくぐり抜けて東雲の名声に花を添えるのだ。
掲示板に張り出された順位表は1位から50位までが載っている。
この中に、今年合格した外部生30人の名前が全員入っているは
ずだ。
ここから転落したら、悲しいことに彼らの場合は退学となる。
優雅な校風と言われる東雲の例外的存在なのだ。
彼らは当然1位を狙っていたはずだが、追従を許さない点数で私
がいただきましたとも。
全教科満点。完璧だ。
オレ様に死角はないと言ってみたいけれど、恥ずかしいので無表
情を装ってみる。
2位は大神だけど、点数的に10点ほど差があった。
そして、諏訪の名前は50人の中にはなかった。
﹁相良様、お見事ですわ﹂
﹁素晴らしい点数ですわね。感服いたしましたわ﹂
あちこちから声がかかる。
見知った相手には会釈で応える。
﹁うっわー⋮⋮やっぱり負けちゃったよ。つけ入る隙があるかなと
思ってたのに、死角なし!?﹂
賑やかな声がし、振り返れば、在原が立っていた。
﹁つけ入るとは、張り合っていたのか?﹂
44
ふと疑問に思って問いかければ、明るい笑顔が返ってくる。
﹁当然ですとも、お嬢様。せっかく、瑞姫の勉強を近くで見るチャ
ンスがあったのに﹂
﹁だが、順位も点数も上がっているだろう?﹂
在原は今回3位だった。
点数も私と12点差で、2位の大神とは2点差。
挽回のチャンスはあるポジションだ。
﹁そうだね。ま、次を狙うか﹂
にっこりと笑う在原が私と並ぶ。
﹁⋮⋮瑞姫様﹂
傍にいた女子生徒が恐る恐る私に声を掛けてくる。
﹁瑞姫様は在原様と親しかったのですか? 中等部ではそのように
見受けられませんでしたが⋮⋮﹂
﹁疾風が彼らと仲が良いのですよ﹂
﹁まあ、岡部様⋮⋮えぇ、確かに同じクラスでいらっしゃいました
ものね﹂
疾風経由だと告げればあちこちで納得する声が上がる。
﹁では、これから在原様たちとご一緒されることもあるのですね﹂
﹁目の保養ですわ﹂
さざめくような笑い声とともに気になる一言が。
ナニが目の保養?
深くは考えまい。
女子の会話はその場の気分次第と相場は決まっている。
私とは別に、秘かに話題をさらっている者もいた。
﹁⋮⋮諏訪様が載ってないですわね。何があったのかしら?﹂
﹁御存知なかったのですか? 諏訪は⋮⋮﹂
ひそひそと小声で話される内容は、予想通りのモノだった。
教室へ戻ろうとする私と肩を並べ、在原が耳打ちしてくる。
﹁諏訪が詩織嬢に振られたと噂になっているね。詩織嬢の評価は地
に落ちたよ﹂
45
﹁詩織様が?﹂
ちらりと視線だけで先を促す。
﹁2年前の事件の真相が今頃明らかになったんだ。詩織嬢を狙って
の怨恨だ。君と諏訪はその被害者だというのに、助けてもらって感
謝もしない詩織嬢は、こともあろうか本家筋の諏訪を振って傷付け
た。その理由もまた自分勝手だとかで地に落ちた。ほとぼりが冷め
るまで留学するしかないよね﹂
﹁⋮⋮そうか﹂
﹁驚かないの?﹂
表情も変えずに頷いたことを在原は意外に思ったのか、問いかけ
てくる。
﹁何を?﹂
﹁事件の真相とか、諏訪を振ったとか﹂
﹁真相については、怨恨だということは最初から分かっていた﹂
﹁え?﹂
﹁金が目的なら、詩織様が私の名を呼んだ時に鞍替えしているはず
だ。あの時、そうではなく、詩織様に固執し、そうして目撃者で邪
魔者だった私を殺そうとした。一人殺すも二人殺すも同じことだと
いう考え方だ、あれは﹂
﹁瑞姫を呼んだ?﹂
﹁知らなかったのか? 警察には話しているから、知っているもの
だと思っていたが。あの時、詩織様は私の姿に気付いて、わざと私
の名を呼んだんだ。逃げてと言いつつな﹂
﹁⋮⋮⋮⋮⋮⋮﹂
在原の表情があからさまに変わる。
なんだ、知らなかったのか。
情報操作をしたものがいるというわけか。
﹁⋮⋮僕は、詩織嬢のことはそこまで好きじゃなかったけれど、今
の話で考えを改めたよ。過大評価していた。下方修正しなくてはい
けないな﹂
46
﹁え?﹂
﹁いや、逆だな。瑞姫がいかに男前でカッコいいかということを改
めて再認識したというか﹂
﹁⋮⋮褒め言葉なのか、それは?﹂
﹁もう、絶賛中。瑞姫なら嫁に行ってもいいくらい惚れたね﹂
﹁そうか﹂
褒められた気がしないのは何故だろう。
﹁だが、断る。嫁も婿もいらない。欲しいのは自由と平穏だ﹂
﹁⋮⋮瑞姫のクラス、暗雲立ち込めてるからなぁ﹂
﹁可視化まで状況は悪化しているのか、奴は﹂
疾風がからかって遊びたがるのが納得できるほど、在原との会話
は面白い。
そして頭がいいので、こちらがはっきりと言葉にしなくてもニュ
アンスを読み取って軽く返してくれるのだ。
﹁抜け殻になっているし、なんか一人で呟いてるし。諏訪の御曹司
じゃなければ、通報されてるかもよ?﹂
﹁直接的に人に迷惑かけているわけではないだろう? いや、迷惑
は掛かってるな﹂
連日のごとく、腑抜けになった諏訪に恐れをなして私にどうにか
しろと言ってくる者が増えつつある。
対岸の火事は見物する以外にどうしようもないと思うのだが。
﹁あー⋮⋮まぁ、頑張って?﹂
何故か疑問形で、在原が激励してくれる。
﹁何をがんばれと⋮⋮﹂
﹁んー⋮⋮いろいろ?﹂
﹁在原。正直に言おう。鬱陶しいから嫌だ!﹂
すっぱり本音を語ると、小気味いいほど気持ちよく吹き出してく
れる。
﹁鬱陶しいで終わっちゃうんだ! さすが! 本気で惚れそうだよ﹂
﹁恋文なら原稿用紙10枚以内に収めて郵送してくれ。兄が添削し
47
てくれるだろう﹂
﹁いや、もう、最高!! 嫁にして!!﹂
げらげらと大笑いする在原を置いて自分の教室へと足を踏み入れ
る。
窓の外には桜。
なのに、教室の中は極寒のシベリア寒気団只中だ。
どよどよどよんと澱んだ空気を作り出す人型低気圧が机にべった
り張り付いて溜息を量産している姿に、正直なところうんざりした。
クラス委員や各委員選出をするにあたって、担任も生徒たちもな
ぜか私の顔色をうかがう。
私が役付きになることはないとわかっていても、クラス委員か何
かをさせたかったことは明白だ。
そうして、諏訪の面倒を見させようと思っていることもわかって
いる。
いまだに病院通いをし、さらには急に学校を休むこともある私に、
委員会出席は難しい。
表面上はよくなっているように見えても、梅雨の時期や気温変化、
気圧の変化が大きいときには、傷が非常に痛むのだ。
息をするのも苦しいと思うほどに全身が痛い。
そんな状況に陥った時に迷惑がかかるから委員会は難しいと先に
告げている。
一応、その状況は納得してもらったので、何も言われないのだが、
視線が裏切っている。
諏訪を何とかして欲しいと、訴えてくるのだ。
それに気付かないふりをして、のらりくらりとかわしている。
日を追うごとに諏訪の状況は悪化し、完全シャットアウトしてい
る私以外、胃痛を訴える生徒が続出している。
48
繊細な人というのは、時に可哀想だ。
すでに一度、社会人を経験し、使えない同僚や後輩、話の分から
ない上司などの取扱説明書を書けるほど図太い神経の持ち主になっ
た私には、諏訪の亜空間ごときに怯むことはない。
だからこそ、何とかしてほしいと思っているクラスメイト達の醸
し出す空気など、簡単に流せる。
しかしながら、鬱陶しいと思う気持ちに嘘はない。
これが1年間続くと想像すると、諏訪を蹴り飛ばしたくなる。
さてどうしたモノかと考えた矢先に大神に捕まった。
﹁こんなことを君に頼むのは筋違いだと思っているんだけれど﹂
﹁では、頼まないでください﹂
﹁それができれば苦労はしない。諏訪は、相良さんの言葉には素直
に従うんだ。君に頼るしかもう方法は残ってないんだ﹂
何くれと世話を焼いていた大神の心労はいかばかりか。
同情はしよう。
だが、同情だけだ。
﹁初恋は実らないというけれど、あんな振られ方をしていい男でも
ない。何でもいいから、一言でもいい。諏訪に言葉をかけて、立ち
直らさせてくれないか?﹂
困ったような表情で、大神が頭を下げてくる。
﹁立ち直るのは、本人の自覚だよ。諏訪は自分の傷口に浸っている
だけだ。声を掛けたところで、心に響く言葉なんてない﹂
そう言って断ったが、大神は諦めなかった。
5月の大型連休が終わり、スポーツを楽しむ初夏がやってきても、
教室内の暗雲が晴れることはなかった。
普通であれば、1ヶ月半も澱んだ空気に室内を占領されても、何
とか折り合いをつけていくものが増える。
さらにもう少しで、中間試験が始まる。
このままでは確かにまずい。
49
そう思って、私は諏訪を呼び出すことにした。
50
7
セレブ校にしては珍しく、東雲学園にはソサエティがない。
お金持ちの御嬢様が特権振りかざして我儘し放題、ということ発
想がないのだ。
それは、非常に品のないこととして目を背けられてしまうのだ。
何故か不思議なことにサロン自体はあるのだ。
よくよく考えてみれば、ソサエティがあれば、﹃seventh
heaven﹄の主人公、東條凛が攻略キャラと絡めなくなって
しまうからだ。
東條家は葉族だ。
神・皇・天・地の四族ではない。
設定に基づいた考え方だと、ソサエティに所属できるのは四族だ
けなのだ。
しかも、普通に考えれば、初等部から東雲に通う子弟だけが入れ
る条件になるのだから、どうあがいても凛には無理だ。
だからソサエティが存在しなかったのだろうという結論に辿り着
く。
サロンは、一応、誰でも来ていいことになっている。
ローズ・ガーデンと呼ばれる総硝子張りの温室をサロンとして開
放しているのだ。
そこに置かれている調度類は、非常に値が張るものだと一目でわ
かる。
外部生は興味津々で覗きに来て、あまりにも高価な家具が点在し
ていることに恐怖を覚え、二度と来ない。
内部生でも、家の格が違えば、やはり高価な家具は恐ろしく映る
らしく、なかなか寄ってこない。
必然的に普段から使い慣れている者のみが使用することになる。
51
色とりどり、様々な薔薇を植え、根を傷つけないように人が歩く
ための板張りの通路を作り、さらにちょっとした東屋風のテーブル
セットを点在させている。
四季咲きの薔薇をアーチにし、その薔薇の門の奥に私専用の場所
がある。
心配性の八雲兄が傷が痛んだ時に人目を気にせずに休める場所を
と、入口からも外側からも見えにくい薔薇に囲まれた一角にイタリ
ア製のカウチとソファセットを用意した。
気になるところは、これらのセットは私が卒業した時に撤収させ
るのだろうか、それともそのまま放置するのだろうかということだ。
大神にサロンに行くからと告げ、用事を済ませてからローズ・ガ
ーデンに向かう。
いつも通り、傍には疾風がいる。
在原と橘もサロンで待ち合わせだ。
温室の扉を開けると、馥郁とした香りが漂う。
強すぎないその香りは、野薔薇から品種改良したものだろう。
かかる声に会釈で返し、奥へと向かう。
﹁ああ、相良さん﹂
さも偶然だと言いたげに大神が声を掛けてくる。
﹁ごきげんよう。ご一緒しても?﹂
諏訪への説教タイムは、呼び出して頭ごなしに言うよりも、ごく
自然にした方がいいのではないかという大神の言葉に従い、茶番を
演じることになった。
﹁ええ、どうぞ。いいよね、伊織?﹂
﹁⋮⋮⋮⋮⋮⋮﹂
頬杖をつき、茫洋と遠くを見ている諏訪は何も聞いていない。
あまりにも腑抜けたその様子に、大神も溜息を吐く。
ゲームではこれが1年間続くのか。
52
よくもまあ、友達続けたな、大神よ。
心底感心した私は、爆弾を落とすことにした。
﹁おめでとう、諏訪。詩織様に振られたそうだな﹂
私の一言に、諏訪だけでなく、声が聞こえた人達全員の顔色が変
わる。
﹁お前に何がわかるっ!!﹂
腑抜けていた諏訪の表情に生気が戻り、だんっとテーブルを叩く
と私に向かって怒鳴りつける。
﹁⋮⋮わからないな﹂
﹁だったら!﹂
﹁せっかく、詩織様が下さった最大のチャンスを、何故活かそうと
はしないんだ?﹂
﹁⋮⋮は?﹂
あまりの衝撃に正気に戻ったはいいが、今度は私が言っている言
葉の意味が理解できずにきょとんとしている。
間抜け顔も以外に可愛いじゃないか、このイケメンめ!
﹁詩織様に振られたからといって、何故、失恋に繋がるんだ?﹂
あのゲームをしていて、実に疑問だったことをぶつけてみる。
﹁詩織が、俺を弟だと⋮⋮﹂
﹁そこだ。詩織様が言ったから、諦めるのか? 実際、諦めきれて
ないだろう? そもそも、詩織様を慕う気持ちはお前自身のものだ
ろう? だったら、人に何か言われたくらいでブレるな﹂
﹁俺は⋮⋮﹂
﹁詩織様が何を言おうと、お前の気持ちはお前のものだ。自由に想
っていて構わないはずだ﹂
﹁⋮⋮いいのか? 俺は、詩織を好きでいても⋮⋮﹂
﹁例え詩織様でも、お前の気持ちをとやかく言う筋合いはないな﹂
私の言葉に、光明を見出したとばかりに表情を輝かせる諏訪と、
53
何を言い出すんだと顔を顰める大神。
言いたいことはわかるが、私に頼んだ時点で己の判断ミスを悟る
がいい。
私が大神に頼まれたのは、諏訪を正気に戻して元気になるよう仕
向けることだ。
内容に関しては、別に指示されたわけじゃないし。
﹁そう、か⋮⋮そうか!﹂
瞳に輝きが戻り、頬に血の気がさす。
かつての諏訪に近づきつつある。
﹁しかしな、ここで問題がある﹂
﹁え?﹂
﹁詩織様と両想いになれるか、という問題だ﹂
問題点を指摘すれば、即座に萎れる諏訪。
なんか、こういうおもちゃが相当昔にあったような気がする。
前世の父親がお花の形の動くおもちゃを持っていたが、踊るのと
萎れるのと動くパターンがあった記憶がある。
﹁当然、このままでは無理だが、ヒントは詩織様自身が下さっただ
ろう? 弟としか思えない、と﹂
﹁⋮⋮弟⋮⋮﹂
﹁一般的に弟の定義は何だと思う? 血の繋がりがあり、常に傍に
いる年下の男、だろう?﹂
私が訪ねると、諏訪が悔しげに私を睨む。
言い返せないだけに悔しいらしい。
﹁諏訪は、詩織様の傍にいすぎたんだ。卒業式の時に言っただろう
? あまり傍に侍るなと﹂
﹁っ!? あれは、そういうことだったのか!﹂
﹁無駄に終わったようだが、そういうことだ。それだからこそ、活
かせることがある﹂
目を瞠った諏訪が、今度は顔を顰める。
私の言った言葉の意味に気付かなかった己の不甲斐無さを省みて
54
いるらしい。
今更無駄なことだが。
﹁諏訪、自分の想いを諦める気はないのだろう?﹂
﹁もちろんだ﹂
﹁では、私の言うとおりに動けるか?﹂
﹁そうすれば、俺は詩織の隣に立てるのか?﹂
﹁絶対に、とは言えない。想いが届かないこともあるだろうし、諏
訪自身の気持ちが萎んでしまう可能性も否定できないからな。だが、
このまま何もしないよりかは、確実に確率が上がるとは言える﹂
﹁相良の言うとおりに動く﹂
﹁わかった。まず、諏訪の情報を完全に詩織様に伝わらないように
コントロールしろ。詩織様から諏訪伊織という人間の存在を一度、
完全に消してしまうんだ﹂
﹁詩織から、俺を、消す!?﹂
﹁弟だった諏訪伊織を消す。それと同時に、詩織様が知らない諏訪
伊織という人間を育て上げるんだ、自分自身でな﹂
﹁俺自身で俺を育てる⋮⋮具体的には?﹂
﹁過去の諏訪伊織は、詩織様しかいない盲目的なところがあった。
だから、広い視野を持って、誰にでも平等に接することができる大
人の男を作り上げる。諏訪には父君といういいお手本がおられるだ
ろう? 諏訪家当主として相応しいふるまいをなさる父君から色々
学ぶべきことがある。もちろん、女性の扱い方も覚えるべきだ﹂
﹁だが、俺は⋮⋮﹂
﹁他の女性と接することで、詩織様の素晴らしさを再認識できるぞ﹂
﹁⋮⋮やるっ!﹂
決意に満ちた表情で即答する。
簡単に乗せられるとは、意外と犬気質だったんだな、諏訪は。
ゲームでは俺様キャラだったから、ここまで犬だとは思わなかっ
た。
﹁相良!﹂
55
がしっと私の手を両手で握りしめ、諏訪が私の名を呼ぶ。
﹁これからはお前のことを師匠と呼ばせてくれ﹂
﹁嫌だと言っても呼ぶつもりでしょう?﹂
﹁ああ。誰も諦めろとしか言わなかった。お前だけが俺の気持ちを
認めてくれた。お前は本当にすごい人間だ。相良の助言は、俺に必
要なものばかりだ。何でも言ってくれ。俺が成長するためにも、お
前に従おう﹂
言うんじゃなかった⋮⋮。
ゲームでうじうじしてるし、今もうじってたから、鬱陶しくなっ
て言ったけど、言ったら言ったで暑苦しくて鬱陶しさが倍増した。
後悔先に立たずってこのことか!
﹁⋮⋮では、今ひとつ。タイムリミットは2年後だ。今年20歳に
なられる詩織様の婚約は大学卒業とほぼ同時だろう。それまでに隣
に立てるまで成長しなければ意味がない﹂
﹁わかった。具体的に何をすればいいのか、父を見てこようと思う。
今日はこれで失礼させてもらうが、また相談に乗ってくれ。じゃ﹂
おまけにぎゅっと手を握りしめた諏訪は、慌ただしくサロンから
去って行った。
微妙な沈黙があたりを支配する。
諏訪の豹変具合に誰もついていけなかったようだ。
だが、私は清々しい気持ちで諏訪を見送ることができた。
決して鬱陶しい存在がサロンから消えたからではない。
﹁⋮⋮相良さん⋮⋮﹂
どうしてくれるのと言いたげな声がかけられる。
﹁条件は満たしたのですが、何か問題でも?﹂
﹁問題だらけでしょう!? 伊織をあの人から引き離したかったの
に、何故﹂
﹁引き離しましたが?﹂
56
﹁思い切るように言わずに、彼の想いを肯定したじゃないですか?﹂
﹁肯定しなければ、諏訪は早晩壊れましたよ。それは誰も望んでは
いない結果だと思いますが﹂
私の指摘に大神は言葉に詰まる。
﹁ですが、他の方法が⋮⋮彼女に思いを残されては⋮⋮﹂
﹁近いうちに、諏訪の想いは醒めます。硝子のようにヒビが入った
想いを衝撃に任せて割ってしまえば、心は壊れる。だけど、一度、
真綿にくるんで衝撃を殺してしまえば、ゆっくりと欠片が零れ落ち
ても心が壊れることはない。諏訪は詩織様以外の人を受け入れるこ
とを選んだ。詩織様しかいなかった世界に他の人を徐々に受け入れ
ていけば、そのことに対応することに追われ、壊れた欠片に気付く
ことはない。気が付けば、良き思い出になっているでしょう﹂
﹁⋮⋮そこまで考えていたんですか﹂
茫然としたように大神が呟く。
今思いついたことであって、別にそこまで考えていないのが事実
だ。
だが、都合がいいので黙っておこう。
﹁私の引き受けた役目は終わりました。あとはそちらで﹂
立ち上がり、大神にすべてを丸投げする。
この立ち上がるという動作が、存外難しいのだ。
ことさらゆっくり動かねば、皮膚が突っ張って痛い思いをする。
立ち上がってから歩き出すのも少しばかり苦労する。
それを知っている疾風が、いつものように傍に近づき腕を差し出
す。
最初の一歩のための杖代わりだ。
﹁静稀、誉。待たせてすまない。ここでの用は終わったので、帰る
ことにしよう﹂
一歩、足を動かし、声を掛ける。
﹁そうだね、帰ろうか﹂
在原が頷き、橘が疾風とは反対側に立つと、私の腕を取る。
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﹁せっかくだから、車寄せまでエスコートさせてもらおうかな﹂
冗談っぽく言いながら、手助けをしてくれる。
それに笑い返しながら、私は彼らと共に歩き出した。
58
8
面倒臭い問題がひとつ解決して、学生生活は晴れやかになった。
諏訪が落ち着きを取り戻してくれたことで、ようやく日常的な平
穏が取り戻せたような気がする。
中間試験も無事終わり、今回も1位を取れた。
さすがに満点は無理だけど。
家でしっかり勉強してますとも。
所謂チートなんてありえないし。
一度勉強したところで、何度も復習していくと、抜け落ちていた
部分が補足されてよりわかりやすくなってくると言えばいいのか。
前世の時は全然わからなかったとこも、今なら説明聞いて納得で
きるし。
なんで繰り返し復習しなかったんだ、前世の自分! そうしたら、
もうちょっといい大学に入れたかもしれないのに!! と、今頃に
なって思ってる。
後悔先に立たずって、ホントだよね。
諏訪も本調子に戻って、今回は2位に返り咲き。
前回の成績は、真剣な表情で聞かないでほしいと頼まれた。
聞いてみたい気もするけれど、聞いたら聞いたで心臓が痛いこと
になりそうなので、聞かないと約束した。
梅雨に入り、少しばかり体調が悪い。
古傷になった事故の後遺症というべきか、全身がずくずくと鈍く
痛む。
顔色が悪いと、事情を知る人たちが心配して声を掛けてくるので、
そうそう具合が悪い様子を見せられないし。
なるべく学校は休みたくないので、少しばかり困ってしまう。
59
心配してくれるのは非常にありがたいのだが、声を掛けられる度
に諏訪と疾風がつらそうな表情になるのでどう対応していいのかわ
からなくなってしまうのだ。
そんな梅雨空のある日、一通の招待状が手渡された。
﹁⋮⋮諏訪、これはどういうことでしょうか?﹂
真っ白な、純白とか雪白とか言ってもいいほど白い封筒が手の中
にある。
手渡してきたのは諏訪であり、送り主は諏訪の母君だ。
﹁ぜひ母が相良と話をしたいので、お茶を飲みに来てくれと言って
いる﹂
﹁全力でお断りしたいと思います﹂
自分に正直に答えると、諏訪はむっとした表情を浮かべる。
﹁お茶ぐらいいいだろう?﹂
﹁甘いな、と言ってもいいですか?﹂
たかがお茶会、されどお茶会。
有閑マダムはお茶会でとんでもないことを企画し、実行している
のだ。
お茶会をなめてはいけないと言っておこう。
﹁だが!﹂
﹁言っておくが、諏訪。お茶会とは魑魅魍魎が跋扈する恐ろしいモ
ノなのだというのは認識していますか? うっかりお茶会などに出
て、その場で君の婚約者に私が決まってしまったらどうするつもり
か?﹂
親というモノは、子供の希望というモノの斜め下を走り抜けて勝
手に現実を押し付ける存在だ。
ついうっかりは命とりなのだ。
﹁それは、困る!﹂
﹁ならば金輪際持ってくるな。全力で拒否って粉砕してしまえと申
し上げましょう﹂
60
﹁相良の言葉は全く持って正しいと今更ながら再認識した。やはり、
師匠だな。お前の言葉に従おう﹂
はたから見れば、何のコントかと思ってしまうが、本人たちは至
って真面目だ。
﹁⋮⋮これ、どうしようか⋮⋮﹂
諏訪が私の手の中にある招待状に視線を落とす。
﹁もらってしまったものは仕方がない。今回は出席するしかないで
しょう。とりあえず、母君の言葉に迂闊に反発しないことをお勧め
します。全部聞き流しておくように。あからさまに聞き流している
という態度を貫いてください。私が対処します﹂
﹁わかった。肝に銘じる﹂
真面目な表情で会話を続けた後、2人揃って白い封筒を眺め、深
く溜息を吐く。
やはり御大が出て来たか。
一筋縄ではいかない諏訪の御母堂をどうするか、ほんの少し、唇
をかみしめ考え込んだ。
***************
数日後、私は指定された時間に諏訪本家の御屋敷に伺った。
本日のお召し物は、江戸小紋。つまり、御着物である。
正式な外出の際は和装にしているのだ。
通学では男子用の制服だが、本来女性がパンツ姿というのは公式
では認められない。
かといって、あの傷を人目に曝すのはいくら私でもかなりの勇気
がいる。
61
正装として認められ、なおかつ無理なく傷を隠せる姿というのが、
考えた末に着物に辿り着いたというわけだ。
好都合なことに、現在私は駆け出しの友禅デザイナーである。
自分がデザインした着物を人前で着る事に不自然な点はない。
それ以外の着物を着ても、おかしいものでもない。
なぜなら、私はまだデザイナーとしては駆け出して、作品数はわ
ずかだ。
それに、相良は代々続いた旧家である。年代物の着物など、それ
こそ博物館をひらいてもいいほどにある。
着物であれば、ゆっくりとした動作に見咎める人はいない。
本来ならばひとりで着ることができる着物だが、いまだに不自由
な右手の為に帯を結ぶのを手伝ってもらっている。
催しごとに着物にもルールはある。
華やかな場には華やかな色合いや柄の着物がよく、地味な柄や色
合いはちょっとした訪問に向いている、など。また、帯の結び方も
いろいろと種類があり、季節ごと、年齢ごと、または格式の程度や
着物の柄によって結ぶ形が変わってくる。
未成年である私は、色々と遊べる結び方があるので、ワザと型
を崩して結んだりすることもある。
襦袢や裾除けなども、場に応じて色や柄物などを選べたりする。
着付けは大変だが、着物というのは大変奥が深く、楽しいもので
あるとここに明言しよう。
本当は道着や袴の方が楽で好きだけど。
﹁まあ、まあ! ようこそおいてくださいました、瑞姫様。素敵な
御着物ですこと﹂
瀟洒な洋館である諏訪家の玄関で出迎えてくださったのは、諏訪
の御母堂であった。
本来ならば待合の部屋に通され、そのあとに茶会の会場へ案内さ
れ、亭主つまりホスト役の挨拶を受けるという流れになる場合が多
62
いのだが、無駄嫌いで有名な律子様は直接出迎えに来られたという
わけだ。
﹁今日はお招きくださいましてありがとうございます。律子様にお
かれましてはご機嫌麗しゅう⋮⋮﹂
﹁固い挨拶はなしね。無礼を承知で瑞姫様をお招きしましたこと、
お許しくださいな。さあ、参りましょう﹂
人の挨拶を途中で封じた律子様は、私の腕を取ると奥へと誘う。
諏訪本家の人々は、人の上に立つことをよく知っている人たちだ
と思う。
傍若無人とも思える振る舞いをしつつも、それが不快感を呼び起
こさせない。
洋館であるがゆえに草履を脱がずに済むのは、私としては非常に
助かる。
誘われるままに律子様に従い奥へと進む。
案内されたのは、陽当たりの良い小応接間、所謂サロンだ。
お茶会だと伺っていたのに、他のお客様の姿は見えない。
謀られたのだろう。
予想はしていたけれど。
﹁こちらにお座りになってね。寒くはない? 大丈夫かしら﹂
﹁お気遣いなく。何も問題はございません﹂
アルカイックスマイルを浮かべ、ソファに腰掛ける。
手土産はすでに渡している。
誰にかというと、メイドさんにだ。
律子様のお好みで、こちらに勤めておられる方の中で女性たちは
所謂メイド服を着ている。
白と黒のお仕着せは、萌えや浪漫を掻き立てることだろう。
前世の友人なら、彼女たちの姿を見て丼飯3杯は少なくともイケ
るだろう。
共に薄い本を作ってきた友人たちは今どうしているのだろうか。
気にしても仕方がないことだが、メイドさんを見てちょっと萌え
63
ながら思ってしまった。
うん。滾るより萌えだ、メイド服は。
メイドさんが用意したティーセットで律子様が紅茶を淹れる。
一杯目は主催者が。
それ以降は執事や使用人がお茶を用意するというのが、お茶会の
ルールのひとつにあるらしい。
お茶会は出されるお茶の種類によって作法が変わるため、理論よ
り身体で覚えろと言われる部類だ、私にとっては。
﹁大変良い香りですね。これは⋮⋮﹂
お茶の銘柄と原産国などを口にすれば、律子様は驚いたように目
を瞠る。
﹁香りだけでおあてになるとは、本当にすごいですわね。相良の末
姫様はお茶に通じていらっしゃるという噂は本当ですのね﹂
﹁お恥ずかしい限りです。幼い頃、兄の執事になるのだと張り切っ
てお茶の勉強をいたしましたもので﹂
大好きな兄の傍に一番長く居られる方法として、執事が最適だと
思いこみ、幼少時にお茶の猛勉強をした瑞姫は、割と極端な性格を
していると自分でも思う。
前世の記憶が戻った今、それ以前のこともきちんと自分のことと
認識はしているが、たまに他人事のような感覚に陥ることもある。
知識は知識として、きちんと身についてはいるのだが。
﹁皆様、大変仲が宜しいと伺っておりますわ﹂
﹁いえ、普通だと思います﹂
私の兄姉は破天荒な性格をしている。
姉2人は上から女帝・女王と陰で呼ばれているし、兄たちは氷結・
苛烈・冷徹な貴公子と二つ名で呼ばれている。
彼らが末っ子に非常に甘いというのは割と有名な話であるため、
非常に仲が良いと思われている。
そのあたりを差っ引けば、ごく普通の兄弟だと思う。
諏訪の御母堂、律子様は、当たり障りのない話題を振り、こちら
64
の反応を見定めている。
それをのらりくらりとかわして煙に巻きながら、逆に律子様の反
応を眺めやる。
﹁ああ、そう。先日から元気がなかった伊織が急に元気になって、
聞けばあなたのおかげとか﹂
にこやかに、晴れやかに、見事な笑みを作った律子様が本題に入
る。
﹁心当たりがありませんが﹂
﹁ふふふっ ごまかしても無駄ですわ。ぜひとも主人共々お礼を申
し上げなくてはと思っておりましたの﹂
笑顔のまま律子様が戸口へと視線を向ける。
全く嫌な予感しかしないのは何故だろう。
扉が開き、スーツ姿の男性が入ってくる。
すらりと背の高い、英国紳士風な男性は、DNAを調べなくても
諏訪とよく似ていた。
諏訪がよく似ている、が、正解なのだろうが。
血の繋がりとは非常に厄介で怖いモノである。
さて、どうしたものかと考えながら、私は挨拶をするためにゆっ
くりとソファから立ち上がった。
65
8︵後書き︶
週末は、ムーン様の方の作品をあげるため、更新をお休みします。
感想を書いてくださった皆様、ありがとうございます。
読ませていただいておりますが、お返事が追い付かず申し訳ありま
せん。
話を進ませることを優先させておりますので、なかなか時間が取れ
ないのが現状です。
お許しくださいませ。
66
9
私にとっては突然の、先方にとっては予定通りの、諏訪の父君の
登場に動揺を隠し、平常心で立ち上がる。
﹁本日はお招きくださいましてありがとうございます、諏訪様﹂
フルネームは何と言ったか⋮⋮。
諏訪家の名前は、﹃織﹄の一文字が入ることになっている。
詩織様と諏訪伊織がそうだ。
律子様は嫁いでこられた方だから、この限りではない。
ああ、そうだ。
斗織で﹃とおる﹄様とお呼びするのだった。
名前を間違えるのは相手を認識していないということで、失礼に
あたるというより、侮辱と取られることもある。
パーティに出席する場合は、出席者の顔と名前を完全に一致させ
て行かないと、大変なことになる。
御呼ばれした場合も同じだ。
思い出してよかったよ。でも、呼ばないけどな!
﹁いや、こちらこそ。予定もお伺いせず、直接お招きして悪かった
ね﹂
悪いとは当然思っていないにこやかな表情で父君は頷くと、私に
座るように促す。
家に送られた招待状なら、家長判断でお断りできるのだが、直接
本人に手渡された招待状だと他の者がお断りできないルールがある。
そして、送った本人が招く相手よりも立場が上の場合、都合が悪
くても断れない。
こちらが家の格で同格、もしくはそれ以上だとしても、相手が当
主で目上ならば、未成年の私には断る術がない。
なんせ、招待状を渡したのが次期当主の諏訪伊織だし。
67
なので、形ばかりの謝罪を父君はしたのだ。
父君の言葉に私は曖昧に笑って濁す。
普通なら﹃そんなことはありませんわ、光栄です﹄とか、﹃ご招
待を嬉しく思っております﹄とか答えるんだろうけど、別にそんな
こと思ってないし。
何も答えない私に父君は苦笑する。
彼らに私を咎めることはできない。
私の都合も聞かずに強引に招いたという一点で。
﹁諏訪伊織様のご両親が、私に何のご用でしょうか? 親しい者を
招いての気の置けないお茶会を開くとまで仰って﹂
私を招く理由も嘘つきましたよねーとにこやかに笑ってみる。
私がしっかり怒っていることを悟ったご両親は、実に微妙な表情
を浮かべて笑みを浮かべた。
﹁あら、まあ、素敵。予想以上でしたわ﹂
﹁⋮⋮だから、言っただろう? 瑞姫嬢は一筋縄ではいかないと﹂
夫婦で何やら意味不明な会話を交わしている。
どうやら、私が何も知らずに招待されると思っていた律子様と、
そうではなくあらかたの予想をつけてやってくると思っていた斗織
様とで話し合いがなされていたとみるべきか。
﹁すまないね。君と直接話をするためには、この方法しか思いつか
なくて﹂
﹁パーティでお招きしようと思っても、相良様は即座にお断りなさ
るんですもの。伊織は悪くないのよ?﹂
﹁伊織様のことはわかっております。祖父の判断もそれが正しいと
理解しております。今、この時期に私と接触する必要が何故あるの
でしょう?﹂
素直に謝罪した方が良いと判断した父君と母君は理由らしきこと
を言いながらこちらの表情を窺っている。
面接・尋問、そんな雰囲気だ。
何を知りたいのかわからないが、そちらがそのつもりなら受けて
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立つしかないだろう。
背筋を伸ばし、ふたりにまっすぐ視線を向ける。
視線を逸らさない強さで、逆に相手のしぐさからすべてを読み取
るつもりで、まっすぐに。
不躾だろうがなんだろうが、構わない。
手の内を明かすつもりがないのなら、わずかな情報から読み取っ
てやるともさ。
社会人経験者を舐めるなよ。
﹁まずは、うちの分家のことだ。君が相良を抑えてくれているのだ
ろう?﹂
﹁心当たり在りませんが。何のことでしょうか?﹂
微笑むのではなく、きょとんとした表情を作る。
﹁そう来るのか。君が分家に対して無関心を貫いてくれているおか
げで、実際、私たちは助かっている。あの時の相良家の怒りはすご
かったからね﹂
﹁何度謝っても謝り足りないと、そう思っているの。年頃の御嬢さ
んにあんな酷い傷跡を⋮⋮うちの愚息に責任取らせて⋮⋮というこ
とでは到底無理だということも承知しているわ﹂
気丈な諏訪の母君は、事故当時、一番に駆けつけて私の怪我を見
ている。
あの怪我を見て私は助からないと思い、諏訪と詩織様を打ち据え
て、私が亡くなったら一緒に死になさいとまで言ったらしい。
手術が終わるまで手術室の前で微動だにせず、握りしめた掌は爪
で傷付けられ血塗れになっていたと後から兄たちに聞いた。
あの律子様を見ているから、諏訪本家への怒りは治まり、何の対
応もなかった諏訪分家へと怒りが向けられた。
とりわけ相良分家は、主家を守るために存在する分家が本家を矢
面に曝し、さらに他家の本家の娘にすべてを肩代わりさせようとし
たと、それこそ根絶やしにしたいと諏訪分家憎しを顕わにしていた。
事実、取引があったところはすべて手を引き、他の会社へと移行
69
し、また、取引会社へも手を引くように耳打ちしていったらしい。
諏訪本家にはそのままで、分家への制裁を行ったため、分家のみ
一気に業績悪化したがそれを隠そうと奔走して粉飾して誤魔化して
いるため、今までそのことに本家が気づかなかったのかもしれない。
これも兄に聞いたことだが。
﹁そのお話を持ち出されると、私としては非常に困るのですが⋮⋮
とりあえず、普通の生活ができるようになりましたし。伊織様も良
き学友でございますし﹂
普通の生活ができるようになっても、傷は完全に癒えてはいない。
できれば思い出したくないのだと、言外に匂わせれば、わずかに
律子様の視線が落ちる。
﹁相良の者が何かご迷惑をおかけしているのでしたら、申し訳ござ
いません。祖父に申して、次第を確かめて対処させていただきます﹂
﹁いや、それは大丈夫だ。相良家に瑕疵はない。あるのはこちらの
方だから。羨ましいほどに相良家は一族の統率がなされているね。
いや、分家に慕われぬ本家が悪いんだろうが﹂
自嘲した斗織様の言葉に、私は引っ掛かった。
分家の対応。
分家は常に本家を立てる。
それでいながら、本家のスペアであることを要求され続ける。
本家を守りながら、代わりに立てる者を育て続けなければいけな
い。
それは、どの家でも同じことだ。
本家の子供は、何をおいても守らねばならないと訓えられて育つ。
おそらく、詩織様もそうやって育てられたはずだ。
諏訪が詩織様に恋心を抱いたのは、詩織様が常に諏訪を一番に考
え、理解し、守ろうとしてきたからなのかもしれない。
だとしたら、あの時、詩織様の行動は⋮⋮。
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諏訪御夫妻の会話は、私の耳を素通りしていく。
何を言われ、何を応えたのか、記憶に刻めない。
今、私が考えているのは、2年前のあの当時の詩織様の行動だ。
何故あの時、詩織様はわざと私の名前を呼んだのか。
てっきり、自分から私へ標的を変えさせるためだと思っていたけ
れど、あれは違うのかもしれない。
傍にいた諏訪から私へあの男たちの意識を逸らすためだったとし
たら?
それならば、完全に成功した。
男たちは諏訪を突き飛ばし、私を追いかけた。
諏訪も無傷とは言えなかったが、せいぜい打ち身と擦り剥いたく
らいで、怪我ともいえないほどの軽傷で済んだ。
自分を守るために私を犠牲にしたというより、諏訪を守るために
私を犠牲にしたと考える方が、淑女の見本と言われた詩織様の行動
としては納得がいく。
高校生は、それ以下の子供が思っているほど大人ではない。
社会経験はないし、視野も狭い。
知っているのは画面越しの世界だけだ。
人との駆け引きなど、せいぜい学校の中だけで、海千山千の大人
たちとやりあえるほどの経験など積めるはずもない。
大学生になった今としても、さほど差はない。
男であれば会社経営の経験を積まされるが、女であればそれはむ
しろ避けられる。
その中で、分家の娘として本家の諏訪を守るつもりであれば、自
分の名を落とすしかないだろう。
それと同時に、私への罪滅ぼしをするつもりであれば、相良に入
ろうと思うかもしれない。
諏訪も私も同時に守ろうとして、あの手を取ったのなら、とんだ
世間知らずの悪手だ。
それこそ、捨て身で諏訪を守りたかったのだろうが、詩織様が名
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を落とせば傷付けられるのは詩織様ではなく諏訪だ。
詩織様を守りたくて仕方がない諏訪が、心身ともにズタボロにな
る。
自分から遠ざけようとして、あえて振った詩織様は、そのあと諏
訪がどうなるかなど一切考えなかったのだろう。
詩織様を守れずに、拒絶された諏訪は、それでも守る方法を探し
てああなった。
うん。やっぱり面倒臭い。
諏訪家は私にとって鬼門だな。決定した。
他人の恋愛ごとに巻き込まれるのは、無駄に体力を消耗する。
結論づいたところで、意識を諏訪御夫妻に戻す。
話題は今どうなっているのだろうか。
﹁⋮⋮ところで、ひとつ聞いてみたいのだが﹂
あ。ちょうど話題が変わったところか、ありがたい。
﹁何でしょう?﹂
﹁あのどん底まで落ち込んでいた愚息を立ち直らせた方法をね、聞
いてみたいと思って﹂
楽しげに笑いながら、斗織様が言葉を紡ぐ。
﹁今では学校が終わると会社に直行して、私の仕事ぶりを見ている
のだよ。本当に熱心に。面白くて、仕事を1つ任せたら、これが割
と使える。もちろん、高校生にしてみればという意味でだが、しか
も、私のやっていることをそっくり真似しているしね﹂
﹁⋮⋮そうですか﹂
﹁まあ、これから先、私の真似では使い物にはならないがね。今の
段階でなら、これで十分すぎるほど優秀だと言える。だから、あの
落ち込み具合を一気に引き上げて、ここまでにした君の手腕を聞か
せてもらえないかと﹂
﹁そうなの。私の用事も進んで引き受けるようになって、助かって
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いるのよ。どんな魔法を使ったのか、教えてくださる?﹂
﹁大したことは何も。大神様に、詩織様に振られて落ち込んでいる
ので何とかしてほしいと頼まれましたので、詩織様に認めてもらえ
るような大人の男になればいいと申し上げただけです。幸い、伊織
様にはお父様といういいお手本がいらっしゃいますし。女性の扱い
方に関しては、お母様の御傍で勉強させてもらえばよいと﹂
とりあえず当たり障りのないところを正直に答える。
まさか本当に答えるとは思っていなかったのだろう。
そして、その内容が意外過ぎたのか、おふたり揃ってぽかんと口
を開け私を見た。
ふ。勝った!
表情を崩さないまま、私は優越感に浸る。
諏訪御夫妻を呆然とさせるなど、そうそうできる事ではないだろ
う。
先手を取った気分だ。
﹁⋮⋮⋮⋮⋮⋮く⋮⋮﹂
斗織様が顔を歪ませる。
その一瞬後、斗織様も律子様も弾けるように笑い出した。
涙を滲ませての大笑いだ。
ここまで笑えば、気分爽快だろうと思えるほどに気分よく笑って
いる。
﹁見事だな! ここまで簡単にあの子を手玉に取れるなんて﹂
﹁あの子が、瑞姫様はすごいと言っていた意味がよくわかりました
わ!﹂
大受けだ。
いや、そんなに褒めないでくれ、照れるじゃないか。
内心で冗談を言いつつ、ふたりの反応を見守る。
﹁いやしかし、こう言ってはなんだが、瑞姫嬢と話をするのは非常
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に楽しいな。息子と同年代の女の子と話をしているというより、我
々と同年代の女性と話をしているようだ﹂
楽しげなその一言で、私はしまったと唇を噛みしめる。
そうして、気が付いた。
前世24年+今生15年=39歳
アラフォーかっ!!
確かに大サバ読んで同年代だ⋮⋮。
思わずよろりとよろめいて、ソファの座面に片手をつき、身体を
支える。
衝撃の事実だった。
落ち着いて見えるというのは、言葉通り老けて見えるだったとは!
﹁あなた! 高校生の女の子に、それはいくらなんでも失礼ですわ。
瑞姫様は凛然としていらっしゃいますけれど、可愛らしい御嬢様で
すわよ﹂
律子様が即座に窘めてくださったが、目の前の事実に立ち直れそ
うにもない。
年相応の振る舞いというのはどうすればいいのかわからない自分
が哀しい。
﹁あ⋮⋮すまない。決してそんなつもりでは!! 瑞姫嬢?﹂
常に泰然としている斗織様とは思えないほど慌てふためき、おろ
おろとしながら私の様子を窺っているが、悄然と項垂れて無視して
やる。
そこへノックの音がし、扉が開いた。
﹁こちらに父がいると聞いたが⋮⋮相良!?﹂
驚いたような声と共に諏訪が駆け寄ってくる。
﹁どうしたんだ、相良? 傷が痛むのか?﹂
私の肩に手をかけ、床に膝をついて顔を覗き込んでくる。
﹁いや、傷が痛んでいるわけでは⋮⋮少々、立ち直れないことを聞
いてしまって⋮⋮﹂
痛むのは心だと匂わせば、諏訪が両親を振り返る。
74
﹁相良に何を言ったんですか!? どちらですか!?﹂
意外なほどにものすごい剣幕だ。
﹁父か! 俺の師匠に何を言ったんです!?﹂
どうやら律子様が斗織様に視線を送ったらしい。
それで諏訪が斗織様の方に怒りを向けているようだ。
﹁すみません。気分がすぐれませんので、今日はこれで失礼させて
いただきます﹂
ちょうどいいタイミングで諏訪が入ってきてくれた助かった。
これ以上、諏訪の当主夫妻と腹の探り合いをするのは難しい。
﹁え、ええ。本当にごめんなさいね、瑞姫様﹂
諏訪の剣幕に驚きながらも律子様が了承してくれる。
おそらく諏訪の激情家なところは、律子様の血だ。
この母子はよく似ている。
﹁いえ。では、失礼いたします﹂
ソファから立ち上がり、一礼すると、扉に向かって歩き出す。
﹁相良! 送っていく!﹂
父親への怒りよりも、私を優先することにしたらしい諏訪が、私
を追いかけてくる。
小応接間を出て扉を閉めた私は、ほっと息を吐く。
﹁大丈夫か? 父が何を言ったのかはわからないが、済まないこと
をした﹂
﹁いや、諏訪のせいではない。が、少々傷ついたのは確かなので、
しばらくはお招きがあっても辛くて出席できないと思う﹂
﹁わかった。両親にはきつく言っておく。申し訳ない﹂
実に素直に謝罪してくる諏訪に、懐かれたものだとふと思う。
誰に似たんだろう、この犬気質。
そして、アラフォーは転んでもただで起きないというのは確かに
言葉通りだと納得してしまう。
﹁ここでいい。では、また学校で﹂
そう言って、私は諏訪本邸を後にする。
75
詩織様に確認しなくてはいけないことができたと思いながら。
76
10
誰でも一度は己の存在意義について考えたことはあるだろう。
何故、自分という自我があるのか。
何故、自分は自分なのか。
何のために、生きているのか。
これの方向性を間違えば厨ニ病まっしぐらだけれど。
私は今現在、その答えを探している。
何故、瑞姫の意識の中から﹃私﹄が現れたのか。
何故、前世の記憶が必要だったのか。
答えはまだ見つからない。
見つからない答えというモノは、世の中にはごまんとある。
何故なら、物事というのは両側面あるからだ。
側面じゃないな、多方面から見ることができる。
たった一つの出来事なのに、いくつもの視点からいくつもの答え
が出てきて、結局何が正しいのかわからなくなる。
何を言っているのかというと、詩織様のことだ。
詩織様の行動の意図は、詩織様本人にしかわからない。
だけれど、傍から見ればいくつもの捉え方ができる。
彼女を慕う者からの見方、私に同情する者からの見方、どちらに
も組しない者の見方。
諏訪本家に招かれてわかったことがいくつかある。
77
私の盲点だった分家の考え方、本家から分家への意思。
詩織様がいい人かいい人でないかなど、私にとってはどうでもい
いことだ。
彼女が何を考えて行動したかというほうが重要だ。
彼女の行動の結果、今の私の状況がある。
それに対して諏訪本家が重い腰を動かした、というのが先程の招
待の意味だろう。
私を見て、分家をどうするか決めるという。
もうすでに動いたのか、それともまだなのか。
八雲に会いたいとメールを送り、急いで相良本邸へ戻る。
﹁八雲兄上!!﹂
車寄せから玄関に入ると、迎えに出て来た八雲の姿を捉える。
﹁何をそんなに慌てているんだい? 僕のお姫様は﹂
﹁姫という冗談は後にしてください。諏訪家は動きましたか?﹂
のんびりと穏やかに笑う兄が差し出した手を掴み、間近で問いか
ける。
﹁⋮⋮そんな情報はまだ入ってないけど。動くと読んだのかい?﹂
﹁先程まで諏訪家に招かれていました。当主御夫妻がお茶会と謀っ
て私と直接接触してきました﹂
﹁何だって?﹂
穏やかに笑っていた八雲の表情が瞬時に凍える。
﹁おそらく、私を見て、分家の扱いを決めるのかと⋮⋮﹂
﹁それで?﹂
﹁途中で逃げ出してきました。兄上たちが掴んでいることを喋らさ
れてはたまりませんからね﹂
﹁まったく⋮⋮瑞姫の野生のカンには驚かされるね﹂
凍っていた表情が再び柔らかなものへと変わる。
78
﹁おいで。僕の部屋で話そう﹂
﹁あ。着替えてきますので、少々お待ちください﹂
﹁そのままでいいじゃないか。瑞姫の着物姿なんて滅多に見れない
し、似合ってて綺麗なんだから﹂
﹁兄上、そのシスコンは改めていただきたい。兄上と婚約してくれ
る奇特な女性が現れても妹を最優先するような男では、即座に見捨
てられますよ﹂
﹁僕以上に瑞姫を優先してくれる人を選ぶから大丈夫。蘇芳兄さん
がいい例だろう?﹂
私をがっつり抱え込むと、八雲はそのまま歩き出す。
﹁兄上!!﹂
﹁お兄ちゃんと呼んでくれなきゃ、お姫様抱っこで運んで、そのま
ま膝の上に座らせてあげてもいいんだけど?﹂
﹁断固抗議いたします。兄とも呼びません﹂
﹁まったく強情なんだから⋮⋮可愛い妹を可愛がる兄は正義なんだ
よ?﹂
﹁ただの変態です﹂
勝負は我にあり。
さすがに変態には堕ちたくなかったのか、八雲兄はあっさりと手
を放してくれた。
﹁残念だけど、時間がそこまで取れないんだ。ごめんね、瑞姫。お
まえの話次第では、すぐに動かなければならないだろうし﹂
﹁わかりました。では、このままで失礼させていただきます﹂
襖を開け、八雲兄の部屋に入る。
純和風の畳の部屋にパソコンなどが置かれているのが少々異様だ
が、広い部屋だ。
﹁ところで、何で友禅作家が自分がデザインした友禅じゃなくて江
戸小紋を着てるの? お茶会の御呼ばれだよね?﹂
私の為に座椅子を用意しながら八雲が着物を見て不思議そうに首
を傾げる。
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﹁⋮⋮お茶会なのに﹂
華やかな手描き友禅は、晴れやかな場によいが、小さな模様を染
める江戸小紋は落ち着いた雰囲気があり、訪問着にはよいがあまり
人が多いお茶会などには着ていかないものだ。
﹁この小紋、曾祖母様の若かりし頃のお着物だそうです。お祖母様
が以前、蔵に入っていたものを虫干しするときにそのまま出して私
にくださったんです﹂
﹁へえ。そんなに年季が入ってるようには見えないな⋮⋮って、話
を逸らさない﹂
きちんとセッティングした後、私が座りやすいように手を貸しな
がら釘もさす。
﹁招待状、諏訪の奥方様の手書きだったんです﹂
﹁ん? 普通、招待状はそうだよね﹂
﹁いえ。無駄がお嫌いな律子様は、面倒なこともお嫌いで、人が多
いお茶会の招待状は印刷か、他の者に代筆を頼まれるんです﹂
﹁なるほど。それは、わかりやすいね﹂
﹁ええ。招かれたのが私ひとりだというのは、すぐにわかりました﹂
﹁だから、江戸小紋?﹂
﹁そうです。ちょっとした嫌がらせです﹂
わかる人にはわかる、地味な嫌がらせ。
和装をなさらない律子様にはわからなかったようだが、ご当主の
斗織様はすぐにわかったようだ。
﹁さすがにご当主まで出てこられるとは、その時はわかりませんで
したが﹂
﹁なるほどね。だから、諏訪が動くと思ったんだ﹂
﹁はい。あちらの動き如何では、兄上たちが調べられたことを御祖
父様に⋮⋮﹂
﹁ちょうど先程渡してきたところだよ。瑞姫が諏訪家に呼ばれたこ
とは御存知だったから、中身確かめられたら動かれるかもしれない
な﹂
80
納得顔の八雲兄は、視線を庭へと流す。
﹁瑞姫には詳しく教えてなかったけど、酷い内容だったよ。事件が
起きる数年前から諏訪分家筆頭の当主は自分が任された会社の利益
を横領していたり、そのうち相良が手を引いて赤字転落したら粉飾
決済を始めたり、その間、ギャンブルにそのお金をつぎ込んだりし
ている。それから、詩織さん以外の子供が外にいるらしい。認知は
できないよね、あの当主は婿養子なんだし﹂
綺麗と評するに相応しい整った顔は、繊細でいても女性的ではな
い。
私とよく似ているという評判なので、私の顔は女性的ではないと
いうことか。
﹁ギャンブルでも大損で借金を抱え込んで、その負債を昇華するた
めに相良と縁づくことを考えたらしい。つまり、詩織さんを僕に宛
がおうと、ね。僕から相良の金を引き出して、負債に充てようとい
う考えだったようだ。まあ、詩織さんが僕のことを好きだというこ
とは昔から知ってたけど、勉強はそこそこできても頭が悪い子には
興味ないし﹂
何だろう。
﹃冷徹な貴公子﹄とか呼ばれてる兄が鬼畜に見える。
実は、冷徹じゃなくて鬼畜な貴公子だったのではないだろうか。
﹁ここで、普通の神経している御嬢さんなら、自分が傷つけた子の
お兄さんの婚約者になんか、到底なろうなんて思わないよね?﹂
ちらりと八雲兄が私に視線を流す。
色気ある眼差しと騒ぐ人もいるだろうが、正体を知っていればこ
れが色気だとは思わない。
八雲の正体は、ただのシスコン。
ゲームでのあの爽やかで穏やかでカッコいい八雲のイメージが今
はもう微塵もない。
私の純情を返してほしい。
かつての私なら、きっとそう思うだろう。
81
﹁ところがあの子は、本当に吹聴してるんだよねぇ⋮⋮瑞姫の姉に
なるのは自分だと。おかしいでしょう? 僕の妻じゃなくて、瑞姫
の姉だよ?﹂
﹁⋮⋮私もその件については色々噂を耳にしているが﹂
﹁自分が矢面に立って、瑞姫を守るつもりでいるらしい。僕の妹を、
加害者がだよ?﹂
思わず八雲の顔から目を逸らす。
見てはいけないものを見てしまった。
酷薄そうなとか残虐なとかいう言葉が似合いそうな笑みを浮かべ
るイケメンって迫力がすご過ぎる。
ぞっと身の毛のよだつ表情だった。
どんだけ詩織様が嫌いなんですか!?
嫌いっていう言葉が可愛らしく思えるほど憎悪しちゃってますか。
﹁いい加減、眺めてるだけも厭きたし。どうしてやろうかな﹂
﹁八雲兄上、一言、言いたいのだが﹂
﹁このこと、兄さんも姉さんも全員知ってるからね﹂
にっこりと穏やかで爽やかな笑顔を浮かべて八雲兄が言う。
﹁アナタ方、どんだけ末っ子が好きなんですか?﹂
﹁そうだね。瑞姫のためなら法律変えていいくらい大好きだよ﹂
なかなかに不穏な発言をさらりとしてくれたぞ。
﹁現法遵守でお願いします。違法行為を合法にしては困ります!﹂
﹁瑞姫はカンがいいね﹂
苦笑した八雲兄が私の頭をそっと撫でる。
﹁さて、もうそろそろ行かないと。瑞姫は部屋で休んでいなさい。
顔色が悪いよ﹂
﹁大丈夫です﹂
﹁ダーメ! 諏訪家でストレス抱えて来たんだろ? 今のおまえに
はストレスは厳禁だ。せっかく閉じた傷口が開いたらどうする?﹂
ちょっ!
今の﹃ダーメ!﹄は萌えを振り切って滾りそうになったっ!!
82
何で妹相手にそんな甘い声で言うんだ、兄よ!
滾ったおかげでストレス解消したって言ってもいいかな?
﹁東雲の女子の制服、よく似合ってたのに、ワザと男子用を着てる
のは、傷を見せないっていうよりもストッキングやレギンスなんか
で傷に負荷をかけないのと、傷口が開いたときに対処しやすいよう
に、でしょ? 姉さんから聞いてるよ﹂
﹁や、その⋮⋮﹂
﹁素直に言うこと聞かないと、運ぶよ?﹂
﹁わかりました。休みます﹂
脅迫されて、しぶしぶ頷けば、八雲兄の表情が渋くなる。
﹁抱き上げて運ぶのが罰になるなんて⋮⋮﹂
シスコン退散、であります。
﹁詳しいことがわかったら、メールでもいいので知らせてください﹂
﹁わかったよ。兄さんたちにも伝えておく﹂
﹁ありがとうございます。では﹂
パズルのピースを埋めていくように情報を少しずつ集める作業は
嫌いではない。
だけど、分析をするというところになると、やはり兄たちには到
底及ばない。
末っ子を猫可愛がりしてくれる甘い兄姉をありがたいと思いつつ、
私は自分の部屋に戻った。
本当に今日はとても疲れる1日だった。
83
11
今年の梅雨は長引くようで、今日も微妙に身体が重い。
降車場に並ぶ車の列もいつもより間隔がくっついているような気
もする。
車の乗り降りは、実はひとりですることがほとんどない。
大抵の場合は疾風が一緒に乗って、ドアを開けて降りる介助をし
てくれる。
雨の日であれば、誰かが大きめの傘で濡れないように扉付近に差
し掛けてくれ、車から降りれば別の傘を手渡してくれる。
実に至れり尽くせりである。
ありがたい話だが、それは時に苦痛でもある。
瑞姫には当たり前のことでも、﹃私﹄には異常なことであるから
だ。
いまだに﹃私﹄は、瑞姫が置かれた環境に慣れずにいる。
今日も車の扉が開けられ、傘が差し掛けられる。
なるべく早く降りなければ、相手も雨に濡れるし、風邪をひいて
しまうかもしれない。
そんな思いで鞄を手にし、車から脚を下ろす。
﹁おはよう、相良さん﹂
﹁⋮⋮大神様? おはようございます⋮⋮﹂
傘をさしかけていたのは、相良の人間ではなく、何故か大神紅蓮
だった。
﹁ああ、傘はいいよ。僕のに一緒に入っていけばいいから﹂
傘を差し出す手を何故か大神が断り、私の腕を軽く引き、自分の
傘の中に収めてしまう。
﹁君が濡れてしまいます﹂
﹁だが、こちらの方が安心するから。岡部もいないことだし﹂
84
そう言って、大神は私の歩調に合わせるようにゆっくりと校舎に
向かって歩き出す。
﹁相良さんとはいろいろ、ゆっくり話をしなければと思っていたん
だ。時間をもらえないだろうか?﹂
﹁必要ならば、予定を開けます﹂
﹁そう。ありがとう﹂
静かな声が降りてくる。
これが大神と小柄な女子生徒なら絵になるのかもしれないが、男
子用制服姿の長身の私ではどうにもBL方向に走っているような気
がする。
何しろ、熱い視線が送られてくるのはほとんどが女子生徒、それ
もお姉さま方からだ。
﹁⋮⋮諏訪の御宅に呼ばれたと聞いたけれど、どんなお話をされた
のか、伺ってもいいかな?﹂
ふと大神が話題を振る。
﹁律子様にサロンに案内された後、ご当主が来られて⋮⋮諏訪の話
を伺った。会社でいくつか仕事を任されたようですね﹂
﹁それだけ?﹂
﹁ええ。概ね、そのような話ばかりでしたが﹂
何を聞きたいのだろうか、大神は。
﹁八雲様と詩織嬢の婚約とか、諏訪と君の婚約に関する話は出なか
った?﹂
﹁いいえ。そのような話が出るわけないでしょう。相良が許すはず
がない﹂
﹁⋮⋮そう、か﹂
﹁大神様は何を気にされておられるのでしょうか? 私は今のとこ
ろ、どなたとも縁付くつもりはございませんし、兄は条件を付けて
精査している最中です﹂
﹁君は、誰かを好きになったりしないの?﹂
﹁⋮⋮⋮⋮誰を?﹂
85
何故、雨の中、大神と同じ傘に入って恋愛について論じなければ
ならないのだろうか。
目を眇め、大神を睨むように眺めやれば、こちらに視線を向けて
いた大神が視線を逸らす。
﹁大神様はどなたを好きになればよいとお考えですか? 私には、
友を愛することはできますが、誰かに恋することはできそうにあり
ません。そういう意味では、相良の者として失格ですね﹂
大神が答えを言い淀む間に、私は自分の答えを告げる。
﹁感情よりも理性が先行するタイプだから、かな? 諏訪とは真逆
だね﹂
﹁いえ。常に感覚が先行しております。兄には野生のカンで生きて
いるとまで言われましたよ﹂
﹁相良さんが? 野生のカン? 見えないけど⋮⋮﹂
余程驚いたのか、逸らされていた大神の視線が今度は凝視してい
ると言っていいほど据えられる。
﹁あの事故の時も、無意識に受け身の体勢を取っていたらしく、そ
のおかげで助かったと言われました。野生の感覚だと医師にも⋮⋮﹂
不本意な事実を告げると、大神が盛大に噴出した。
﹁ご、ごめん。全然見えないんだけど、野生なんだ﹂
懸命に笑いをこらえようとする姿は紳士的だが、こらえきれてな
いところが減点だ。
昇降口まで笑い続ける大神と共に歩き、ようやく屋根の下へと入
った途端、ちょうど胃のあたりに衝撃が走った。
﹁瑞姫ちゃん、おっはよーっ!!﹂
ミニマムサイズな少女が突撃してきたのだ。
﹁いたっ! いたたたたっ おはよう、千瑛。突撃したあと人の身
体を揉むのはやめてもらいたい﹂
﹁えー、やだよぉ。女の子の身体は揉むためにあるんだから!﹂
きっぱりと言い切る小柄な美少女の名前は、菅原千瑛。
学園七騎士の菅原千景の双子の姉だ。
86
可愛らしい外見とは裏腹に、かなりのオヤジが入っている。
おっさんではない、オヤジだ。
﹁菅原さん、人前でそういう発言はちょっと⋮⋮﹂
苦笑した大神が千瑛をやんわりと窘める。
﹁どういう発言? 女の子の身体は、男と違って筋力弱いから、負
荷がかかりやすいのでよく揉み解してあげないといけないんだよ﹂
私に抱き着いたまま、千瑛はきょとんとしたような表情を作って
大神を見上げる。
聞き手によって、どういう意味にでもとれる言葉を口にしては相
手をからかって遊んでいるのだ。
相手が大神や諏訪だとしても千瑛は怯まない。
むしろ嬉々としてやるだろう。
現に、大神は千瑛の言葉で絶句している。
﹁瑞姫ちゃん、私、なんか変なこと言った?﹂
言ってないよねーと大きな瞳が私を見上げ、同意を求めてくる。
﹁充分変だっ! ほら、瑞姫から離れろ。このオヤジめ!!﹂
追いついてきた千瑛と同じ顔の少年がぐいっと姉の襟を掴んで後
ろに引く。
﹁いたーっ!! ちーちゃん、乱暴! お姉ちゃんに何てことする
のー!!﹂
﹁誰がお姉ちゃんだ!? たまたま早く下界に降りただけだろう!﹂
幼さがまだ抜けない丸みを帯びた顔立ちの少年は、千瑛から弟扱
いされることと他人から可愛いと子ども扱いされることを極端に嫌
っている。
人見知りというよりも人嫌いの千景は、ゲーム中でも攻略の難易
度が高かった。
ゲーム設定では双子ではなかったし。
﹁おはよう、千景﹂
﹁おはよう。朝からこの莫迦がすまないな﹂
﹁いや。今日も朝から元気でつらいほどだ﹂
87
妙に千瑛に懐かれたことで、千景は私には普通に話してくれる。
むしろ、好意的だ。
なんせ鉄砲玉の姉を回収するには私の傍にいればいいと学んだか
らだ。
もしかしたら、自分と同じ被害者だという意識があるのかもしれ
ない。
今も同情的なまなざしを送ってくれている。
﹁大体な、何でいつも瑞姫を見たら突進していくんだ!? そして、
何故、抱き着く!?﹂
﹁だって瑞姫ちゃんがひとりなんだもん。それに柔らかくてあった
かくて気持ちいいんだもん。千景はそう思わない?﹂
﹁⋮⋮最初の言葉には頷いてやれるが、後半は無理だ!﹂
姉弟の微妙な会話が繰り広げられていく。
私がひとりって、大神が一緒にいるんだが、彼は無視か?
存在をあえて消しているのか?
﹁千景、すまないが先に行く。またあとで﹂
﹁おう﹂
ここでじっとしているわけにもいかないだろうと、千景に声を掛
ければ、頷く少年。
そしてふと気が付いた。
千瑛と千景の立つ位置が、大神の進路を阻んでいる。
大神が動けば、千瑛と千景も喧嘩しながら動いている。
私と引き離したいのか。
まさかな。
とりあえず、大神にも先に行くと声を掛け、そのまま教室へと向
かった。
教室に辿り着き、席に着けば、疾風がやってくる。
88
﹁今日は遅かったが、道が混んでたのか?﹂
私に異常がないか、ざっと視線を走らせ、心配そうに尋ねる。
﹁下で千瑛に捕まった。千景が回収していったと思うが⋮⋮﹂
﹁また抱き着かれたのか。菅原姉は何であんなに突進してくるんだ
?﹂
そう、まさに突進。
疾風の言葉は実に的確だ。
﹁そこに私がいるからだ、と、この間、言われた。今日は、私がひ
とりだからと﹂
﹁ひとりだったのか?﹂
﹁大神様に傘に入れてもらった。断れなかったので、仕方なく﹂
﹁⋮⋮わかった。雨の日は、部活の朝練は休むことにする。いや、
朝練自体出席するのはやめよう﹂
柔道部に所属している疾風は、週に2回、朝練に出るため登校が
別になる。
そんなときはこうやって部活が終わってから私の教室へやってき
て何事もなかったかを確かめるのだ。
すでに段持ちで、私の警護についている疾風は、部活にしかたな
く所属しているが試合に出ることはない。
疾風がやっているのはスポーツではないからだ。
だが、乞われて初心者に型を教えたりしている。
﹁部活動を行うのも学生の特権だぞ。私に左右されず、きちんと学
生生活を楽しめ﹂
﹁瑞姫の傍にいるのが、俺の一番大事なことだ。頼まれたからとい
って部活に入らなくてもよかった﹂
﹁⋮⋮疾風﹂
大型犬が拗ねると実に面倒臭い。
じっとりと恨めしそうな視線を投げかけてくる。
﹁もうじき1学期の期末試験だな。部活も休みになるから、しばら
くは一緒に行けるじゃないか﹂
89
﹁そうだな。瑞姫は今度も主席を狙うのか?﹂
もうじき試験で部活が休みだということを告げれば、嬉しそうな
表情に戻り問いかけてくる。
﹁狙ってはいない。ミスをなくす努力をするつもりだけど﹂
﹁そうか。在原がまた勉強を一緒にしたいって言っていたが、どう
する?﹂
﹁都合が合えばと答えておいてくれ﹂
﹁わかった。じゃあ、何かあればすぐに呼べよ﹂
授業の合間の休憩時間になれば必ず人の教室へやってくる男は、
上機嫌で自分の教室へ向かっていった。
疾風と入れ替わりに教室に入ってきたのは諏訪だった。
表情がやや暗い。
入学当初の再演かと、気付いた者たちがざわりとざわめく。
だが、今回はあの怨念めいた暗い空気は背負ってはいなかった。
﹁諏訪様、おはようございます﹂
何人かの女子生徒が諏訪に声を掛ける。
挨拶は大事だと思うが、あの諏訪に声を掛けるとは勇者の称号を
進呈したいほどだ。
﹁ああ。はやいな﹂
まるで重役出勤の返しに、ちょっとツッコミたくなってしまう。
あの時は、まるっと無視していたが、今回は答える余裕があるら
しい。
そのことにホッとした空気が漂っている。
真剣な表情で何か考え事をしているらしい諏訪は、自分の席に着
くなりノートを取り出すと何やら書き込んでいる。
思いついたことを書き連ねていく諏訪の表情がいよいよ険しくな
っていく。
そのたびごとにちらちらと、私を見る視線が増えてくる。
また、私に何とかしろと訴えたいのだろう。
90
本人が何も言わない限り、知らない顔をしたいのだが、いかがな
ものか。
ノートを閉じ、おもむろに立ち上がった諏訪が、まっすぐに私の
ところへとやってくる。
﹁相良、相談に乗ってほしい﹂
真剣な表情の諏訪と、興味津々な空気を隠せないでいるクラスメ
イト達。
﹁もうじき授業だ。合間の休憩では時間が足らないのだろう? 昼
休みなら応じよう﹂
﹁わかった。助かる﹂
ほっとしたように笑みを滲ませた諏訪は、先程とは違い余裕を取
り戻し席に戻る。
何の相談なのかわからないが、とりあえず聞くだけは聞いた方が
よさそうだ。
授業の準備をはじめながら、私は手短に昼食を摂る方法を考えた。
91
12
東雲学園の昼食は、家から持ってくるお弁当、カフェテリア、リ
ストランテがある。
もちろん、リストランテと言っても正式なものではないが。
学園内での支払いはすべて学生証で行う。
校内に現金の持ち込みは禁止されている。
何故かと言うと、コインや紙幣は雑菌だらけで不衛生だからとい
う理由だ。
誰が触ったかもわからないようなものを学園内に持ち込んではい
けないという驚くべき考え方に愕然としたものだ。
まあ、基本的にここに通っている坊ちゃん嬢ちゃんはカード払い
の方が慣れているので、違和感はないのだろうが、いやはや驚いた。
学生証にICチップが埋め込まれ、月締めで請求が家へと送られ
るのだ。
ちなみに、何故フレンチレストランではなくリストランテかとい
うと、授業の中に週1でマナー講座があるのだが、月1回は必ず食
事のマナーがあり、フレンチは年2回ほどは正式なものを食べさせ
られるので、食堂で食べなくてもいいだろうという方針なのだ。
羨ましいと思うことなかれ。
あれは、非常に苛酷な授業だ。
まず、好き嫌いは許されない。そして、残すことも許されない。
食物アレルギーを持つ人は、具材を変えて見た目はほとんど同じ
ものを出されるので、条件は一緒だと付け加えておこう。
一番恐ろしいのは、マナーが完璧になるまで、何度でも同じもの
を食べさせられるということだ。
懐石料理ならまだ何とかなるが、洋食系は一品の量が多い。
マナー完璧な人なら、すべて1回ずつで終わるから何てことはな
92
い。
﹃今日も美味しゅうございましたわ﹄とにっこり笑って生温かい
視線を周囲に向ければいい。
だが、何度やってもマナーが身につかない人は、もう駄目だと思
ってもテーブルに料理が置かれるのだ。
最初の内は面白がっていた外部生も、6月の3回目の授業ともな
れば料理を見た瞬間に涙目になり、9月の5回目を過ぎたころには
魂が半分遊離していくような表情になる。
食事のマナーも本格フレンチの他に、和食や中華、地中海料理や
北欧系もあれば、立食パーティなどもいろいろなパターンに合わせ
て用意されている。
食べることが苦行になるとは誰も思うまい。
まあ、そういう理由で、普段の昼食はそこまで重いものではなく、
気軽に楽しめるものにしておこうということでそれが選ばれたわけ
だ。
早く食べて教室に戻ろうと思った私が選んだのは、カフェのサン
ドウィッチである。
種類も豊富だし、天気がいい日はボックスに詰めて中庭で食べる
こともできるので、人気のメニューだ。
雨の中、そんな酔狂はやらないが。
疾風と共にカフェテリアへ行けば、先に来ていた在原たちが手を
上げて席が空いていることを教えてくれる。
トレイにコーヒーとサンドウィッチを乗せて彼らの対面へ座る。
﹁瑞姫、それだけで足りるのかい?﹂
乗せられた皿に視線を落とした橘が心配そうに問う。
﹁ああ、うん。これでも多いかなと⋮⋮﹂
﹁ダイエットが必要ないのに、その量は少なすぎると思うよ。せめ
てもう一品、サラダとかスープでもいいからつけておいでよ﹂
貴様は私のおかんか!? と、言いたいところだが、曖昧に頷く。
93
﹁あまり時間がなくてな。これからちょっと用がある﹂
﹁ねえ、それって大神と相合傘してたのとつながりある? 随分噂
になってるけど﹂
在原が不愉快そうに告げる。
﹁いや、ない。相合傘ってナニ? 車から降りようとしたら大神が
待ち受けてて同じ傘に入れられただけだが。どんな噂になってる?﹂
﹁⋮⋮ああ、そういうことか。いや、大丈夫。すぐに消える程度だ
ろうね。そのあとの菅原姉の突撃の方が話題になってるから﹂
濡れた手拭で手を拭いて、パンを摘まもうとした手が止まった。
元々なかった食欲が減退してしまった。
﹁千瑛のこと、悪く言われたりはしてなかった?﹂
﹁概ね好意的。というか、羨ましすぎるという方向性で⋮⋮抱き着
いて、しかも揉んだって聞いたけど﹂
﹁脇腹をね﹂
﹁⋮⋮そっちかぁ!﹂
残念そうに在原が唸る。
女子はBLが好きだが、男は百合が好きというのはあながち嘘で
はないようだ。
もちろん、二次元に限るが。
﹁セクハラ退散なのよ? 瑞姫ちゃんはもうちょっとお肉ついてふ
くよかになってもいいとは思うんだけど﹂
小さな手が伸びてきて、私のサンドウィッチを摘まむとしゃりっ
とレタスを噛む音がする。
﹁⋮⋮千瑛﹂
﹁うん。毒味完了。まあまあってとこかしら。食べても大丈夫よ、
瑞姫ちゃん﹂
にっこりと笑ったミニマム美少女が、2つめのサンドウィッチに
手を伸ばす。
﹁千瑛!! 人のを食べるな! 自分のがあるだろ、この食欲魔人
!!﹂
94
またしても千瑛の襟首を掴んでテーブルから引きはがした千景が
双子の姉を睨みつける。
﹁だって、瑞姫ちゃんがなかなか食べないから、毒殺を心配してる
のかと思って﹂
悪びれずに千瑛が弟に主張する。
一体、私はどういう世界に生きているんだろうか。
毒殺って普通ないはずだけど。
﹁悪い、瑞姫。またこの莫迦が迷惑をかけたな﹂
姉の不始末を潔く謝った千景が、自分のトレイからポタージュス
ープのカップを私のトレイへと乗せかえる。
﹁これは詫びだ。遠慮なく受け取ってくれ﹂
千景、できる子。
千瑛が絶対に何かやらかすと悟ってのオーダーなのか!?
どんだけ迷惑かけれらてきたんだ、不憫な子。
だが、食欲減退中の私にとってサンドウィッチよりもポタージュ
スープの方が胃が受け付けやすい。
まさかふたりしてそれを狙っていたというわけじゃないよな。
﹁ありがとう、千景。よかったら、ここで食事を摂っていかないか
?﹂
ポタージュスープを受け取るという形で、千瑛の行動を水に流す。
これが対外的に問題が少ないだろうことは明白だ。
﹁ん﹂
﹁苦しゅうない。隣に座ることを許すぞ、千景﹂
ちょっと躊躇う千景に、ちゃっかり私の隣に座った千瑛がぽんぽ
んと自分の隣の席を叩く。
﹁許さんでいい。むしろ、お前がこっちに座れ。瑞姫に迷惑かける
な、莫迦!﹂
むっとした様子で千景が千瑛を叱りつける。
このやり取りを在原と橘がぽかんとした表情で見ていた。
﹁や⋮⋮聞きしに勝る苦労ぶりだね⋮⋮﹂
95
人嫌いの千景というよりも奇行に走る姉を世話する苦労性の弟と
いう目で見る橘に、千景がばつの悪そうな表情になる。
﹁苦労は金を払ってでも経験した方がいいんだよ。橘君は知ってい
た?﹂
その苦労の元凶がけろりとした表情で問う。
﹁ことわざとしては知っているけど、苦労の内容は選びたいよね﹂
﹁確かにね。毒殺は嫌だもんねー﹂
苦笑した橘の答えに、全く見当違いのことを返す千瑛。
﹁君の中で私の毒殺説は決定事項なのかな、千瑛?﹂
一応、訂正しておかないと、また変な方向へ噂が転がってはたま
らない。
﹁瑞姫ちゃんを毒殺したら、全人類的損失だと思うけどねー。あ、
瑞姫ちゃん、いい匂いがする! それって、お香? ほら、千景も
匂い嗅いでみて!﹂
エステティシャンを目指す千瑛は、香りに敏感だ。
癒しの香りを探すのに夢中なのだと自分で言っている通り、他人
が纏う香りに即座に反応する。
それは、双子の弟である千景も似たようなものだ。
千瑛の言葉に誘われ、私の鎖骨付近へと顔を寄せる。
﹁ほんとだ。ミントとユーカリ? それから、ネロリかな?﹂
ミントとユーカリは殺菌と鎮静の効果がある。
あと、表面温度を下げ、体内温度を上げる効果も。
つまりは痛み止めだ。
﹁アロマだよ。じめじめして気分が億劫になるからね、気分転換に
いいかと思って﹂
﹁へえ、そうなんだ﹂
私の言い訳を千景は納得したように頷いてくれる。
相手が敢えて隠したいことを暴くような真似はしない。
﹁お香に興味があるなら、香席に参加してみるか? 祖母がたまに
香の席を開いているんだが﹂
96
﹁はいはーい! 行ってみたいです﹂
﹁素人でも参加させてもらえるのなら、興味はある﹂
菅原の双子は香席に興味を示す。
﹁わかった。祖母に聞いておこう。もしかしたら、席ではなくて稽
古という形で招待してくれるかもしれないな﹂
﹁わーいっ!! 瑞姫ちゃん、大好きー﹂
嬉しそうに笑う千瑛に、よかったねと無表情に千景が言う。
それを微笑みながら眺め、ポタージュスープを飲み干す。
時間も丁度良い。
﹁すまない。用があるので、今日は先に失礼する。皆はゆっくりし
ていってくれ﹂
そういうと、空いた皿を自分のトレイに乗せて席を立つ。
﹁瑞姫!﹂
﹁疾風も食べていなさい。ついてこなくても大丈夫だから﹂
慌てた疾風を引き留め、トレイを返すとカフェを出た。
教室に戻れば、自分の席で難しい表情をしている諏訪がいる。
﹁待たせてしまっただろうか?﹂
謝罪も兼ねて声を掛ければ、諏訪の表情が一変する。
﹁いや。こちらこそ無理を言った﹂
﹁どこで話をする?﹂
﹁ここでは迷惑になるか。廊下でいいだろうか?﹂
立ち上がった諏訪が廊下の窓を示す。
﹁了解した﹂
頷いて教室から廊下へと場を移す。
廊下を通る者はそう多くはなく、そして、騒がしいわけでもない。
人が話をする分にはもってこいだ。
諏訪は、廊下の外窓を開け、中庭の景色を眺める。
97
雨音がある程度の声を消してくれる。
﹁さて。用件を聞こうか﹂
窓の桟に凭れ掛かり、穏やかそうな表情を作って問いかける。
﹁父の会社で、今、ある程度の仕事を任されているというのは、聞
いているか?﹂
﹁ああ。諏訪のご当主に聞いた﹂
﹁そうか。なら、話は早い。そこで、納得のいかない資料を見つけ
た。詳しくは言えないが、不正に関するものだと思う。相良、おま
えならどうする?﹂
私に向けられたまっすぐな視線は葛藤で微妙に揺れている。
あくまで疑惑の段階で、証拠を掴んではいないのだろう。
そうして、その書類はわざと諏訪のご当主が紛れさせたものだと
推測する。
息子が、次期当主が、どう判断を下すか、試すつもりなのだろう。
﹁諏訪。その前に、明確にしておかなければならないことがある﹂
かつてやったことのあるゲームを思い出し、私は諏訪を見る。
﹁おまえが、諏訪の次期当主として、守りたいものはなんだ?﹂
﹁守りたいもの?﹂
﹁グループの体面か? それとも、利益か? グループで働く従業
員とその家族か?﹂
たった1つのことでも、見る角度によって対応も変わる。
自分の立ち位置を明確にしなければ、答えは変わる。
父の後を継ぎ、頂点に君臨することを義務付けられた諏訪は、そ
れが最も顕著となることを自覚しなければならない。
﹁⋮⋮諏訪で働く者たちだ﹂
やや間があったものの、諏訪が答える声に迷いはなかった。
その間に、不正が何であるのかを予測する。
一番ひどい現実を我が子に突き付けたのだろう、あの当主は。
﹁そうか。不正というのは厄介だ。まず、確実に証拠を集めなけれ
ばならない。不正が行われたという事実をな。次に、誰が行ったの
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か、というのが大事だ。調べていれば、絶対に誰か疑惑のある者が
浮かび上がる。だが、その人物がダミーである可能性も捨てがたい。
ここが、重要だ。不正は何時かはバレる。その時に、不正をした人
物を偽装しかねないということだ。誰もがある程度、そのことを予
想し、自分に疑惑が向かないように山羊を用意することがある﹂
﹁生贄の山羊か﹂
﹁そうだ﹂
目を瞠った諏訪に、私は頷く。
﹁慎重に慎重を重ねて、絶対的な証拠を集めたのち、報告する先も
留意しなければならない。諏訪は従業員を守りたいと言ったな? では、決して諏訪の体面を守りたい者にその情報を渡してはならな
い﹂
﹁何故だ?﹂
﹁わかっているだろう? 握り潰されるからだ。当主の子供という
のは、他のもが思うほどに握っている力は少ない。だから、会社の
体面を気にせず、公平に判断できるものにその証拠と情報を手渡さ
なければならない﹂
架空の都市の市長になるゲームをもとに開発された財閥当主のゲ
ームは、実に現実に即していながら大変なゲームだった。
信頼する部下に裏切られたり、突然天災に見舞われたり、次から
次へと問題が発生するのだ。
私がそのゲームをしたのは初等部の時。
すでに成人している兄や、学生でありながらある程度会社の仕事
を任されている姉兄たちと張り合うことなど、土台無理。
その無理を承知で、私は強制的にゲームに参加させられ、結果は
惨敗。
それでも最低位ではなかったことが救いだ。
一番不利な状況で始めたゲームだが、負けず嫌いが災いした。
知識不足、経験不足。
それらを十分承知でも、負けたくなかった。
99
ちなみに最低位は蘇芳兄上だった。
﹁そうか。それで、犯人とその家族はどうすればいい?﹂
﹁そこも状況次第だ。見込みがあるようであれば、家族は犯人と切
り離す方がいいだろう。犯人に関しては、罪状によりけりだ。刑事
責任を負わせるか、内々に済ますか、おまえの考え方ひとつだな﹂
﹁⋮⋮⋮⋮⋮⋮そうか﹂
真面目な表情で考え込んだ諏訪は、ゆっくりと頷く。
﹁参考になった、ありがとう﹂
﹁不正の証拠を集めるにあたって、忠告を1つしよう。決して、決
めつけるな。その人が不正をしているに違いない。または、まさか
するわけがない。そういう考えを持っていれば、証拠集めにばらつ
きが出る。中身を考えずに淡々と集めるのが一番だ﹂
﹁⋮⋮そう、だな。重ね重ね、すまない﹂
一瞬、言葉に詰まった諏訪が泣き出しそうな表情で頭を下げる。
﹁本当に助かった。相良はそういう経験があるのか?﹂
﹁⋮⋮ゲームでな﹂
問いかけられ、正直に答える。
﹁ゲーム?﹂
﹁ある程度、年齢が達したら、当主が子供たちの資質を確かめるた
めに経営者のゲームをさせるんだ。すぐ上の兄とも5歳の年齢差が
ある私が、他の兄姉たちと一緒に経営ゲームができると思うか? 結果は惨敗だった。かろうじて最下位ではなかったがな﹂
﹁それは、激しく悔しいな﹂
﹁予想している数倍は悔しいぞ。絶対に一矢報いねば、悔しくて夜
眠れないくらいにはな﹂
﹁そんなにか!﹂
﹁私に経営の才能がないというのは、あの時よくわかった。そして、
年齢差があることに腹が立った。今なら、多少、取るべき対応が変
わってくるだろうが﹂
そう答えた私に、諏訪が驚きの視線を向けてくる。
100
﹁本当に参考になった。慎重に対応しようと思う﹂
礼を言った諏訪が頭を下げ、すべての会話を打ち切る。
話が終わったのだと理解した私は、頷き返すとふらりと歩き出す。
この間から、ストレスが溜まりすぎた。
このまま放置していれば、絶対に倒れるなと思いつつ、私はすで
に手遅れであることに気付く。
右腕に感じた違和感。
閉じていた傷口がぶつりと口を開く。
痛みよりも先に血の気が失せる。
ヤバいと思うよりも先に、身体が重くなる。
身体のコントロールが効かないことに焦りが生じる。
だが、それを口にする前に、私は意識を手放した。
101
13 ︵岡部疾風視点︶︵前書き︶
疾風視点です。
途中、瑞姫の怪我に関する痛い表現がありますので、苦手な方は飛
ばしてお読みください。
102
13 ︵岡部疾風視点︶
﹁ごめん、やっぱり俺、先に行く﹂
カフェで食事を強引に終えた俺は、在原と橘に声を掛ける。
﹁岡部、過保護過ぎない?﹂
苦笑して在原が言うが、首を横に振って否定する。
﹁過保護すぎるくらいでもまだ足りない。瑞姫は誰にも言わずに抱
え込みすぎるんだ﹂
﹁⋮⋮まぁ、確かにそうだけど﹂
﹁今日はいつにもまして食欲がなかったようだ。結局ポタージュだ
けしか口にしてない﹂
橘は、細かいところまでよく気が付くやつだ。
普段の瑞姫と先程の瑞姫の違いがはっきりわかったようだ。
﹁⋮⋮⋮⋮さっきは黙ってたんだけど﹂
菅原双子の弟がぽつりと言う。
﹁ミントとユーカリってさ、鎮静効果があるんだよね。痛み止めを
使わずに、痛みを誤魔化そうとしてたんじゃない?﹂
﹁瑞姫ちゃん、朝からつらそうなのに、頑張って学校に来てるんだ
もん。それを気付かないやつが当たり前のように瑞姫ちゃんの傍に
いるのって、むーかーつーくー!﹂
﹁⋮⋮大神のことか﹂
今朝の襲撃を思い出し、橘が掌で顔を覆う。
﹁菅原姉が瑞姫の事を好きだというのはよくわかった。今朝のこと
は恩に着る。その件については、またあとで﹂
必ず言えと言ったのに、また瑞姫は痛みを我慢していたのか。
たまらなくなって、やや乱暴にトレイを返すと、瑞姫の教室へと
向かう。
廊下は走らないなんて規則に構っていられるか。
103
俺は全力で走り出した。
東雲学園は無駄に敷地が広い。
食堂は中等部と高等部一緒なので、移動が面倒だ。
回廊はすべて屋根付きなので、雨の日でも濡れる心配がないだけ
ましだが。
雨。
天気が変わる直前、気圧が変わると傷が痛むと瑞姫が以前言って
いた。
痛むからと言って、鎮静剤を飲むのも逆に身体に負担が来ると言
って我慢してしまうことも知っていた。
なのに何で俺は気が回らないんだろう。
ある程度の対処法は覚えているのに、それを活かすことをしない。
用事があると言っていたが、何の用事だったんだろう。
聞いておけばよかったと、いつもあとから思う。
瑞姫の教室の近くにつき、速度を緩める。
廊下の窓の近くに瑞姫がいることに気付き、声を掛けようとして
嫌な奴を見つけた。
諏訪伊織。
あいつが瑞姫の用事の相手か。
瑞姫も人が好すぎる。
諏訪と関わると碌なことがないというのに。
顔を顰めそうになる俺の視線の先で、話が終わったらしい瑞姫が
ふらりと歩き出す。
だが、何かおかしい。
104
そう思った瞬間、瑞姫の上体がぐらりと揺れ、崩れ落ちた。
﹁相良!﹂
﹁瑞姫に触るな!!﹂
床に倒れた瑞姫に手を伸ばそうとした諏訪に俺は怒鳴りつける。
その声にびくりとして諏訪が振り返る。
﹁おまえが、瑞姫に触れることは、絶対に許さない﹂
瑞姫が死にかけた責任の一端を負うやつに触らせるものか。
諏訪を睨みつけながら、俺は瑞姫の傍に行くと膝をつき、上体を
起こして俺に寄り掛からせた。
ぐったりと目を閉じた瑞姫の意識はない。
顔色は青白く、ヒンヤリとしている。
右腕のシャツがほんの少し、じわりと赤く染まっている。
皮膚が破れたか。
﹁相良は、大丈夫なのか?﹂
心配そうな諏訪の声。
﹁おまえが気にする必要はない﹂
瑞姫がどう思おうとも、俺たち相良に属するものは瑞姫が諏訪に
かかわることを厭う。
俺の声に諏訪が怯んだのがわかった。
瑞姫を抱き上げ、立ち上がる。
倒れた瑞姫を気にしていた者たちが、廊下の端に寄り道を開けて
くれる。
なるべく揺らさないようにゆっくりと、俺は保健室へ向かって歩
き出す。
こういう時、不謹慎だと思うが、瑞姫がスカートじゃなくてよか
ったと注がれる視線に正直思った。
瑞姫の怪我は少々どころか厄介だ。
105
本来なら、とっくの昔に完治しているはずだ。
かなり惨い傷跡となって。
紙一重で助かった怪我は、それこそ想像を絶するものだった。
普通なら、こんな風に歩き回ることはできなかっただろう。
半身不随とか、それこそ植物状態に陥っていてもおかしくはない。
無意識化のとっさの判断が明暗を分けたと後から聞いた。
受け身を取っていたため、頭を打ち付けることがなかった。
身体を横にして丸めていたため、背骨を折ることがなかった。
その代り、右腕と右脚は骨が粉々になっていたけれど。
粉々になった骨を集め、つなぎ合わせ、ボルトで固定し、当座を
しのぐ。
他にも折れた肋骨や、傷ついた内臓を何とかする手術は、相当な
時間がかかったと聞く。
昏睡状態の瑞姫は、何度も危ない状態に陥り、今度こそ駄目だと
思った時に目を開けた。
奇跡という一言では軽すぎる。
それこそ、楽になるはずの死を選ばず、生きることを選んでくれ
た瑞姫に感謝するほどに。
でも、それこそが瑞姫にとって地獄の日々だといえるだろう。
入院していたのは、たった半年。
だが、その半年の中で手術をしたのは片手どころか両手の指でも
足りないほどの回数だった。
こういう事故の場合、1度の手術ですべてが治るわけではなく、
何度も繰り返し手術をしなければならないそうだ。
それに加え、次期当主夫人が瑞姫の身体に傷を残すことを良しと
せず、形成手術を受けさせた。
これによって、残るはずだった傷跡のいくつかが綺麗になったの
はよかったが、瑞姫の体力がついていかなかった。
弱っていた身体は匂いに敏感になり、香水はもちろんだが、洗濯
106
洗剤の香りや花の香りが駄目になり、俺には全くわからなかったが、
病院食の食器を洗う洗剤や消毒液の匂いまでを嗅ぎ取り嘔吐した。
固形物を食べることができなくなり、もっぱら点滴で栄養を補う
しかなかった。
流動食も消毒液や洗剤の香りがするスプーンや皿を使わねばなら
ないからだ。
胃ろうの処置は取ることはなかった。
それでも次期当主夫人は瑞姫に形成手術を受けさせた。
瑞姫が手術室の扉の向こうに消えるたび、戻ってこないのではな
いかと不安になった。
だけど、手術をやめてほしいと言えなかった。
瑞姫が頑張っているのに、俺が怖いからという理由でやめてくれ
なんて言えるわけがない。
ようやく瑞姫が手術を受けたくないと言い出したのは、入院して
4か月目が過ぎたころだった。
夫人はそれこそ狂ったように瑞姫を説得した。
だげど、今まで素直に従ってきた瑞姫が、今度ばかりは頑として
頷かなかった。
﹁もう嫌だ!﹂
その一言を言ったきり、黙り込んでしまった瑞姫に、俺は驚いた。
瑞姫の意志が固く、どうしても頷かないことを悟った夫人は、俺
に説得するように頼み込んできた。
その言葉にどうしても従うことができなくて困った俺を助けてく
れたのは、お館様と呼ばれる当代様の奥方様、瑞姫の祖母にあたる
方だった。
﹁瑞姫の身体は治りたがっているのだから、しばらくの間、休ませ
てあげなさい﹂
﹁ですが、お義母様! 傷を完全に消さないと! 瑞姫がつらい思
いをしてしまいます﹂
泣きながら奥方様に訴える夫人の言葉に、俺は驚いた。
107
﹁あの子は何も悪くないのに、何でこんな目に合わなきゃいけない
のかと、傷を見るたびに思っては可哀想すぎます。あんな惨い傷と
これから一生付き合っていかなければならないなんて。女の子なん
ですよ、瑞姫は!! 私が代わってあげられるのなら、どんなによ
かったか⋮⋮﹂
﹁それはね、私もそう思いましたよ。この婆の命と引き換えになる
なら、いつでも代わってやるのにとね。でもね、頼子さん。母親な
ら何があっても揺るがず構えていなさい。母親が揺れれば、子供は
不安でしょうがない。瑞姫は今まで頼子さん、あなたを安心させる
ために頑張って手術を受けて来たんですよ。その瑞姫がこれ以上は
もう駄目だと言ってるんです。今度はあなたが受け止めなきゃ﹂
﹁お義母様⋮⋮申し訳⋮⋮﹂
﹁はいはい、もう泣かないの。母親なんだから。それにね、瑞姫は
﹃今はもう嫌﹄って言ってるんですから、後からはいいってことな
んですよ。先生と今後のことを話し合った方が泣くよりよほどいい
ですよ﹂
そう言って、おふたりは病室の付添室から出て行ってしまわれた。
そのあと、どういう話し合いがなされたのかはわからない。
だけど、形成の手術は身体がしっかりするまでしないという方針
に変わって、本当にほっとした。
でも安心するのはまだ早かった。
上腕部と大腿骨を支えていたボルトを外す手術が瑞姫を待ってい
た。
本来ならば、これも大変だが難しい手術ではなかったはずだ。
抵抗力をほとんど失ってしまった身体は、あり得ないことに感染
症を引き当ててしまった。
場所は右上腕部。
縫い合わせた糸を切り、壊死していく肉を削ぎ落とす治療が毎日
行われた。
傷が閉じかけたら、再度切り開き、菌に侵された部分を取り除き、
108
洗い、消毒する。
それを繰り返していくうちに、瑞姫の腕の皮膚は非常に薄くなっ
てしまった。
血液検査で菌がなくなったと確認され、中の肉が盛り上がり、表
面がケロイド状に傷を覆い隠して、傷が完全にくっついたかのよう
に見えた。
だが、それは見えるだけだ。
傷が閉じても切り開かれるということを身体が覚えてしまったた
め、腕の皮膚だけが分厚く見えても薄い皮一枚の状態になってしま
ったのだ。
瑞姫が極度に疲れたり、ストレスを溜めたりすると、その部分の
皮膚が破れどろりとした血が滲む。
ここだけは、どうしても身体がそのことを忘れる時間が必要とな
り、数年かかるでしょうと、形成外科医の説明があった。
いつになったら忘れるのだろう。
そう思っても、まだ2年しか経っていないのだ。
普段は、大丈夫なんだ。
最近では、本当に滅多なことでは傷口が開くなんてことはなかっ
たのに。
ストレスの原因が悪い。
つまり、諏訪だ。
絶対に接触させないようにしよう。
瑞姫が怒ってもかまわない。
そう決めて、俺は保健室の扉をスライドさせた。
東雲の保険医は女医だ。
名前を相良茉莉という。
109
相良家の長女で、瑞姫の姉である。
女帝と呼ばれるに相応しい美貌と貫禄がある。
﹁待っていたわ、疾風。そちらのベッドに瑞姫を寝かせて﹂
どうやらすでに瑞姫が倒れたという情報を手に入れて準備をされ
ていたらしい。
あの事件の時にすでに医師であった茉莉様は、瑞姫の手術の時に
執刀医の助手として手術に立ち会っている。
相良家の中で一番瑞姫の怪我について詳しい方なので、安心して
瑞姫を預けられる。
防水シートを敷いたベッドの上に瑞姫をそっと寝かせれば、茉莉
様は遠慮なくシャツのボタンをはずしにかかる。
いや、俺がいるんですけど!
ちょっと待ってくださいよ。
慌てて後ろを向こうとすると、茉莉様から声がかかる。
﹁疾風、助手しなさい!﹂
﹁え!?﹂
﹁瑞姫の手当の助手よ。あなた、瑞姫の傷を見ても大丈夫でしょ?﹂
﹁それは、もちろんです!﹂
それ以前の問題は無視されるようだ。
嫁入り前の娘の肌を、いくら傍付とはいえ男に見せていかがなも
のかと言いたいところだが、茉莉様は容赦ないからな。
瑞姫の肩を曝し、腕の傷が現れる。
そこにあった傷口は思ってたよりも小さい。
﹁この傷跡を見て顔色変えないどころか、ほっとした様子を見せる
のは、疾風くらいよね﹂
﹁この傷は、瑞姫が生きることを選んだ証ですし。思ったより傷が
小さくてよかったなと﹂
﹁いい子ね。そのトレイみたいなの、傷の下あたりに押さえつける
ように固定して持ってて。傷を洗うから﹂
銀色の深い豆型の皿のようなトレイを渡され、言われた場所に固
110
定する。
精製水で傷口を洗い流した茉莉様は、さらにその周辺を消毒し、
傷の内側も念入りに消毒する。
そうして軟膏のようなものをそこに詰め込み、滅菌ガーゼを当て
サージカルテープで止める。
無駄のない流れるような作業だ。
﹁はい、おわり。ありがとう、疾風﹂
﹁いえ。お役にたてたのなら、それで﹂
片づけを始める茉莉様に答えながら、俺は少し迷う。
﹁あの、茉莉様。瑞姫の着替えを⋮⋮﹂
﹁そうね。させないといけないわね。ちゃんとあるわよ、一式﹂
どういう方法で校医になったのかはわからないが、茉莉様が保険
医であるということは、非常に助かっている。
﹁やっぱり、まだ駄目なのね﹂
﹁⋮⋮はあ﹂
何が駄目なのかというと、瑞姫の事だ。
あんな目に合えば、トラウマのひとつやふたつ、あって当たり前
だと思うし、克服する努力も今はいらないと思っている。
瑞姫のトラウマは2つ。
ワゴン車を目にすると気分が悪くなってしまうことと、赤だ。
血を連想させるような赤が駄目になってしまった。
赤信号の赤とか、薔薇の赤とか、普段目にするものはそこまで極
度な反応はしないけれど、血のような赤は無理だ。
自分で描く絵にも赤は乗せられないらしい。
血の滲んだシャツなどもってのほかだ。
﹁じゃあ⋮⋮﹂
﹁ちょっと待ちなさい﹂
午後の授業が始まるからと、教室に戻ろうとした俺を茉莉様が引
き止める。
﹁私一人で着替えさせられるはずないでしょう? 手伝いなさい﹂
111
﹁え!? いや、ちょっ⋮⋮それは⋮⋮﹂
﹁何のための守役よ? 瑞姫の身体を起こして支えてなさい﹂
﹁いやいやいや! 茉莉様、さすがにそれはまずいかと!!﹂
﹁姉で医者の私が許可してるのよ。いいに決まってるじゃない。さ
っさとして!﹂
茉莉様と次女の菊花様に勝てる気がしない。
そして、何より怖いのが、意識があったとしても瑞姫は全く気に
しないだろうということだ。
﹁もう少し警戒してください。バレたら八雲様に殺されそうですよ、
俺⋮⋮﹂
﹁八雲ごとき、怖がってどうするの! ヘタレよヘタレ!! そん
なんじゃ、瑞姫をあげないわよ﹂
﹁いや、だから。俺は随身であって⋮⋮選ぶのは瑞姫の意志ですか
ら﹂
言われるままに瑞姫を抱き起し、視線を逸らす。
絶対に八雲様にだけはバレないようにしなければ。
そう心に誓いながら、茉莉様に従う俺だった。
112
14
目を開けると、顔があった。
﹁⋮⋮⋮⋮⋮⋮﹂
驚きのあまりに、ちょっと硬直する。
いや、見慣れた顔でも、状況わからずに傍にあれば、誰でも驚く
と思うよ?
ねえ、そうでしょ?
﹁目、覚めた⋮⋮﹂
今にも泣き出しそうな表情をしていた疾風が、嬉しそうに笑って
呟く。
ああ、心配していたのか。
私が目覚めないと思って。
申し訳ないという気持ちになって、手を伸ばし、疾風の頭にポン
と乗せる。
そのままわしゃわしゃとかき混ぜるように撫でてみたら、目を細
めて笑みを深くする。
嬉しいのか。
そうか、そんなに嬉しいのか。
で、ここ、どこ?
天井に視線を向け、ついでに周囲にも視線を走らせ、白い仕切り
カーテンを見つける。
﹁保健室?﹂
﹁ん﹂
﹁疾風が運んでくれた?﹂
﹁ん﹂
113
私の手を頭に乗せたまま、こくこくと頷く疾風。
何故にこうも犬っぽいんだ。
とりあえず、黙っていれば極上イケメンなのに。
﹁それはすまなかったな。心配をかけた﹂
﹁瑞姫。痛むなら、ちゃんと痛いと言ってくれ。瑞姫の痛みは瑞姫
にしかわからない。言ってもらえなければ、俺は何もできない﹂
﹁すまない。まだ大丈夫だと思ってたんだ。私の考えが甘かっただ
けだ。疾風は悪くない﹂
謝罪がてら頭を撫でてみたが、今度は浮上してくれない。
しまった。
心配かけ過ぎたか。
﹁今は、何時ごろ? 授業はどうなってる?﹂
﹁もう放課後。茉莉様から職員室へ連絡を入れてもらったから、大
丈夫だ。そのまま帰っていいって﹂
﹁しまった。期末試験、もうすぐなのに⋮⋮﹂
最近、テスト勉強が楽しくなっているのだ。
授業もそのせいか、面白くて仕方がない。
いっそのこと、資格試験マニアにでもなろうかと考える今日この
頃だったりする。
﹁勉強より身体が大事だって﹂
じっとりと疾風が睨んでくる。
拗ねてるっぽい。
﹁ああ、うん。今日は大人しく休む。で? 茉莉姉上は?﹂
﹁巴が来て、外にいる﹂
﹁巴が? 病院で何かあったのかな?﹂
巴とは、岡部巴で岡部家の分家筋の女性で、茉莉姉上の随身、片
腕となる人だ。
彼女も茉莉姉上と同じく医師免許を持っている。
普通、岡部家が相良本家に添えさせる随身は、同性の場合が多い。
特に相良の娘の場合、岡部の中でも最も優秀な人材を選りすぐっ
114
て送り込む。
私と疾風の場合は、たまたま私と歳が近い岡部の娘がいなかった
ことと、同世代の少年の中で疾風が最も優秀だったことでこうなっ
た。
随身が疾風でなかったなら、3つ下の疾風の弟の颯希が選ばれる
予定になっていたらしい。
常に傍にいられるように、職業や資格も一緒になるよう定められ
ているらしい。
﹁病院は何もない。瑞姫のストレスのことだ﹂
﹁⋮⋮私の⋮⋮﹂
う∼ん。バレてるか。仕方ないな。
八雲も上の兄や姉には隠し事しないからな。
﹁瑞姫のストレス解消に何かいい方法がないかって、茉莉様が巴を
呼びつけた﹂
﹁あちゃー⋮⋮すまぬー巴!!﹂
後で巴に平謝りで謝っておこう。
女帝様の面倒を見てるだけでも大変なのに、私の件までとは申し
訳なさすぎる。
﹁瑞姫の好きなこと言って。俺がストレス溜めすぎないようにちゃ
んとする﹂
むすくれた表情で疾風が言う。
そうか。
私が倒れると、世話をする疾風が岡部から何か言われる可能性が
あるんだ。
﹁んー⋮⋮疾風、起き上がってもいい?﹂
﹁あ、うん。わかった。ちょっと待って﹂
何も知らない疾風は素直に私を起こしてくれる。
﹁背もたれあった方がいい? きつくないか?﹂
﹁大丈夫。疾風、ちょっとこっち﹂
﹁ん?﹂
115
世話を焼こうとする疾風を呼びつけ、頭を引き寄せ髪の毛に頬擦
りする。
﹁柔らかくて気持ちいい。癒される﹂
ふわふわなくせ毛って憧れるよねー。
あと、モップ並に毛の長い犬とかもふっとしてて気持ち良さそう
で。
﹁み、みずき⋮⋮﹂
かちんこちんに固まった疾風を無視してもふりを心行くまで堪能
する。
﹁ストレス解消、無事完了﹂
﹁え?﹂
瞬きを繰り返す疾風が何やら可愛らしい。
イケメンで可愛いとは何事ぞ。
﹁先にこうしておけばよかったんだ。悪かったな、疾風﹂
﹁い、いや。瑞姫の気が済むなら、別にかまわないけど⋮⋮﹂
訳がわかってないらしい疾風は、挙動不審になりつつがくがくと
頷く。
﹁じゃあ、帰ろう。ストレス解消法もわかったことだし、明日は買
い物に付き合ってくれるか?﹂
﹁全然かまわないけど、何処に行くんだ?﹂
﹁⋮⋮⋮⋮⋮⋮どこに売ってるんだろう⋮⋮クラフトショップか?﹂
誰か教えてください。
兎の毛玉って、この時期、どこで売ってるものなんでしょうか。
ネットか、知ってそうな人に後で聞こうと思い直し、とりあえず
家に帰ることにした私であった。
何とか家に辿り着いた私を待っていたのは、またしても招待状で
あった。
116
﹁大伴様から夏の宴に誘われましてね、あちらの七海さまは大層瑞
姫のファンでいらっしゃるから﹂
おっとりと仰ったのは招待状を持ってきたお祖母様だった。
大伴家の当主夫人である七海様は、お祖母様の年下の友人だ。
小さい頃から私を可愛がってくださった方だが、少々夢見がちな
万年少女という愉快すぎる方だ。
それこそ幼稚舎あたりの幼い頃は私の壮大な光源氏計画を妄想し、
紫の上設定の私を育てるお兄様はどなたでしょうとかうっとりして
仰っていたが、近年それは別の計画へと挿げ変わった。
学び舎と私的の場では男装する私に、男装の麗人ね☆と最初に言
い出し、お祖母様に対し、名前を芳子にするべきだったとか、背が
高いから軍服もお似合いねとか仰って、別の世界に入られてしまっ
た。
お幾つになられても少女めいて嫌味のない方なので、何を言われ
ても笑って答えられるが、まさか大伴家のパーティに招かれるとは
思わなかった。
﹁⋮⋮ですが﹂
﹁ちょうど夏休みに開催される予定ですし、趣向を凝らしてあるの
で出席しても問題はないと思いますよ﹂
﹁お祖母様﹂
﹁面白い趣向ですよ。仮装するのですって﹂
﹁⋮⋮コスプレですか?﹂
﹁え?﹂
きょとんと私を見上げるお祖母様の表情が可愛らしい。
﹁何ですか、そのこ、こす⋮⋮﹂
﹁コスチュームプレイです。普段とは違う衣装を楽しむという意味
ですよ﹂
117
﹁ええ、そのようですね﹂
意味が通じたお祖母様は、ゆったりと頷いて笑う。
﹁それで、お題はなんでしょう? ハロウィンには早すぎますし﹂
﹁お題?﹂
﹁ええ。仮装するにあたって、普通ならばどういう仮装をしましょ
うという方向性を決めるのが普通なんですよ。普段と違う衣装とい
うのは、いろんなものがありますからね﹂
﹁そういうものなのかしら?﹂
﹁そういうものです﹂
﹁瑞姫はそのコスプレとやらに詳しいのね﹂
﹁いえ。それほどでも。若者の常識というモノです。以前、メイド
喫茶なるものが流行りましたでしょう?﹂
﹁ああ、そういえば。不思議なものが流行するのですね、世の中と
いうものは﹂
感心したように頷くお祖母様に、ちょっとばかり良心が痛む。
私がコスプレを知っているのは、その昔、薄い本の売り子をして
いたからです。
現世の瑞姫は知る由もありません。
﹁七海さまはそのままでの仮装をと仰っていましたけれど、詳しく
聞いてみましょうかね﹂
﹁ちょっと待ってください、お祖母様。七海さまは、そのままでの
仮装と仰ったのですか?﹂
﹁ええ﹂
頷いたお祖母様は、私を見上げて微妙な笑顔になった。
﹁あらま。七海さまったらどうしても瑞姫をお呼びしたかったのね﹂
﹁普段通りの男装のまま来なさいっていう意味ですね、これは﹂
苦笑するほかない。
大伴家の夏の宴は、割と有名だ。
招かれることで家のステータスが決まると言われるほど、厳選し
て客を招く。
118
勿論、相良は毎年呼ばれている。
以前は私は幼すぎるということでお断りしていたが、今年からは
出席しないといけないだろうとはお祖父様から聞いてはいた。
私が来やすいようにと、七海さまは趣向を凝らすという名目でコ
スプレを選ばれたのだろう。
﹁そのようよ。お友達も呼ぶようにと添えられてたもの、あなたの
招待状だけ﹂
﹁あははははは⋮⋮﹂
学生の交友関係まで詳しく調べるわけにもいかないから、そう書
き加えてくださったのだろう。
﹁わかりました。その友人たちとお揃いになるよう、ちょっと考え
てみます﹂
﹁目立たず地味に、でも華やかにね﹂
いたずらっぽく笑ったお祖母様の言葉に、私は巻き込む友人たち
の顔を思い浮かべた。
119
15
期末試験までのスケジュールは、かなりハードだ。
試験の後には夏休みが待っている。
それゆえ、その夏休みが持つ危険性を生徒たちに十分知らしめな
いといけないからだ。
東雲学園の生徒というだけで、外部からの一般生徒にも危険があ
るのだ。
東雲は有名なセレブ校のひとつだ。
そこに通っているということだけで、セレブと間違えられる可能
性は非常に高い。
むしろ、車で送り迎えをしてもらわない彼らの方が狙われやすい
のだ。
体育の授業は簡単な護身術の授業へ代わり、男女別から男女合同
へと変更される。
普段は男女別であるがゆえに、女子も男子も微妙にそわそわとテ
ンションが高い。
﹁それでは、本日の授業内容は、簡単な護身術ということで、もし
襲われた時にはどのように対処すればよいのかを学んでいただきま
す﹂
女性教諭が淡々と説明を口にする。
﹁特に女子のみなさん、この時期から変質者、誘拐犯、または強引
な手口で交際を取り付けようとする方々が増えてまいりますので、
必ずマスターしてください﹂
その言葉に小さな悲鳴を上げる女子生徒が出る。
﹁まあ、どうしましょう。恐ろしいですわ、瑞姫様﹂
私の周囲にいた女子生徒たちが心持ち身を寄せてくる。
あはははは⋮⋮王子様役を割り振られたか。
120
周囲の男共の嫉妬の眼差しがちょっとばかり心地良いぞ。
﹁大丈夫ですよ、水瀬様。なるべく集団で行動するということを心
掛けていらっしゃれば﹂
﹁そうですわね。人が多ければ、手出しはしにくいものですものね。
もしその時に瑞姫様がいてくだされば、守ってくださいますか?﹂
﹁ええ、もちろん﹂
理想の王子様ならこのぐらいのことはにっこり笑って答えなけれ
ばならないだろう。
八雲兄の穏やかな笑みを思い出しながら微笑んでみせると、女子
生徒たちの頬が赤く染まる。
なかなか楽しいかも、これ。
今日の体育は2クラス合同だ。
私たちのクラスと疾風たちのクラス。
在原と橘も疾風と同じクラスだった。
体育服と短パンの集団の中でただひとり、ジャージ姿の異質さに
驚く在原と、いつも通り悪戯っぽい笑みを浮かべる橘に笑って応え
ると、同じクラスの女子生徒たちがうっとりとした溜息をもらす。
﹁瑞姫様の笑顔なんて⋮⋮﹂
﹁羨ましすぎて憎い限りですわ、在原様と橘様が!!﹂
何故、あの2人が憎まれる!?
﹁瑞姫!﹂
少し遅れてやって来た疾風が、私の姿を見つけるなり駆け寄って
くる。
﹁教室にいないから、ちょっと焦った。リストバンド、渡そうと思
ったのに﹂
﹁疾風?﹂
疾風が手にしているのは、学園指定のジャージと同じオフホワイ
121
トのリストバンド。
手首から肘近くまでをサポートする長めのものだ。
﹁これは?﹂
﹁そのままだと暑いだろ? ジャージを袖まくりできるように考え
て作らせてきた。そんなに強いゴムじゃないから、傷跡には負荷は
掛からないと思う﹂
その言葉にリストバンドを受け取ろうとして伸ばした手を疾風に
取られる。
﹁俺がつけるから、こっちに来て﹂
集まっている輪から外れ、体育館の隅へと連れてこられ、彼らに
背を向ける位置に疾風が立つ。
腕を晒すから、人に見られないように気を使ってくれたのか。
﹁ありがとう、疾風﹂
﹁ん。これなら、俺にできる事だから﹂
ちょっと得意げに笑った疾風は、腕を出すように告げ、慎重な手
つきでリストバンドをはめてくれる。
パイル地のリストバンドは、非常に肌触りがよく、まったく肌を
締め付けない。
手首と肘のあたりにあるマジックテープで外れないように調整す
るつくりだ。
この間倒れたあたりから、疾風の様子が変わった。
部活は完全に辞めてしまったらしく、登校と下校は常に傍にいる
ようになった。
そして、身の回りのことも、ひとりでできる事は自由にさせてく
れるが、少しでも不自由さを感じるようなことは前もって手を打つ
ようになった。
岡部家の方で何か言われたのかと聞いたが、それはないと答える
ばかりだ。
﹁着替えの方に不便はない?﹂
ふいに問われた言葉に、一瞬、きょとんとする。
122
﹁え? あ、ああ。大丈夫だ。女子更衣室は、中は個室になってい
るから気兼ねなく着替えられるし﹂
男子の更衣室がどうなっているのかは知らないが、女子更衣室は
シャワーブースのように個室になっている。
しかも、人数分きちんとあるので慌てて順番取りをしなくてもい
い。
恥ずかしがり屋さんでも安心して着替えられるのだ。
さすがにひとりで着替えられないという御嬢様はいないようだ。
﹁ちょっと手を動かしてみて﹂
﹁うん﹂
疾風に促され、右手を動かす。
﹁見た目は大丈夫そうだけど、締め付け加減とかは瑞姫的に問題な
い?﹂
﹁大丈夫だ。サポーターとかはあの締め付けが逆に皮膚を傷めるん
じゃないかと思って怖くてつけれなかったけど、これなら安心して
つけられる。ありがとう、疾風﹂
﹁それならよかった。今日は護身術って言ってたから、瑞姫が前に
立たされるだろうと思って﹂
﹁まあ、そうだね。以前なら怪我を前提に断ってたけど、もう大丈
夫だしな﹂
相良家が武道に秀でているのは周知の事実であるため、こういう
時に前に立って実際に動きを見せる役を任せられるのはいつものこ
となのだ。
上の兄姉たちも経験してきたことなので、私だけがそれを外され
るということはありえない。
﹁身体の調子は?﹂
﹁すごくいい。あ、先生が来られた﹂
まだチャイムはなっていないが、教諭の姿が見えたため、輪に戻
ることを疾風に促す。
﹁無理はしないように。少しでもおかしかったら、俺が止めるから﹂
123
﹁はいはい。心配性だな、文句はないけど﹂
﹁瑞姫!﹂
笑いながら皆のところへ戻り、整列に加わる。
チャイムが鳴り響き、授業が始まった。
教諭の説明の後、実際にどのようにして対処するかを実演する。
﹁相良さん、お願いできますか?﹂
私に襲われた女子生徒役をやれるかと尋ねられ、私は一瞬、間を
取る。
﹁はい、できます﹂
﹁では前に来てください﹂
﹁はい﹂
何故、教諭自身が実演しないかというと、説明する人がいなくな
るからである。
それと同時に、いくら体育教諭だからと言って、必ずしも武道経
験者であるとは限らない。
つまり、人ひとりを簡単に投げ飛ばす技術を持っているとは言え
ないわけだ。
私が前に出ると、教諭は男子生徒を見渡す。
﹁暴漢役を誰かにお願いしましょうね。相良さんと組んでいたのは
⋮⋮﹂
﹁俺です﹂
諏訪が名乗り出る。
授業はすべて名前順で割り当てていくので、同じサ行の諏訪が私
と組むことになる。
﹁では、諏訪君に﹂
﹁いえ。先生、岡部君にお願いできますか?﹂
私は教諭の言葉を遮り、疾風を指名する。
124
﹁相良! おまえの相手は俺だろう!?﹂
むっとした様子で諏訪が主張する。
﹁それは知っているが、実演するなら受け身ができる疾風の方がい
い。投げ飛ばされる役も受け身の仕方を見て覚えないと怪我をする﹂
私の答えに諏訪の動きが止まる。
﹁諏訪は武道経験がないだろう? 受け身ができないのに危険なこ
とをさせられない﹂
﹁いやん。瑞姫ちゃんってば格好良すぎる!﹂
顔を上げて何かを言おうとする諏訪を遮る形で在原が茶化すよう
に声を挟む。
﹁やっぱり僕をお嫁さんにして!﹂
どこまで本気なのか、場を和ませるふざけた声に笑いが起こる。
﹁考えておこう﹂
そのおふざけに乗っかる形で私も重々しく頷いて見せると、さら
に場が湧き上がる。
﹁だが、その前に橘を倒して、疾風と交換日記から始めてもらおう
か﹂
﹁それ無理っ!! 何で交換日記を岡部と僕がするわけ!?﹂
私の提案は一瞬にして蹴られた。
いい考えだと思ったのだが、あたりは爆笑の渦に飲み込まれてい
た。
﹁瑞姫の嫁になるなら、相良のしきたりを全部覚えてもらわないと
困るから当たり前だろう?﹂
ごんっと在原の頭に拳を落とした疾風が前に出てくる。
﹁先生、相良さんとはよく組んで稽古をしていますから、俺でいい
でしょう?﹂
穏やかな表情で疾風が教諭に許可を求める。
﹁ええ、そうね。岡部君は部活でも指導していた腕前だと先生も聞
いています。そちらの方がより安全ですからね﹂
身を守る訓練をするのに怪我をしては本末転倒だと頷いた教諭に
125
疾風が嬉しそうに笑って礼を言う。
﹁ありがとうございます!﹂
﹁え、ええ。お願いね、岡部君﹂
ほんのりと、頬を染める体育教諭。
疾風よ、おまえのことは年上キラーと命名してやろう。
教諭の説明の下、地味に拘束を外す技をいくつか見せる。
相手の動きを封じ、逃げるための時間を作るものだけに派手な動
きも力も必要ない。
あまりにも地味すぎて、ただ見るだけでは厭きてしまう。
そのため、厭きた空気が漂いそうになると少し派手な動きを取り
入れて空気を引き締める。
﹁今までの動きをきちんとマスターすると、背後から襲われた時に
相手を投げ飛ばすということもできます﹂
最後の大技を見せろと促され、肩越しに背後を振り返り、いつで
もいいぞと疾風に合図を送る。
頷き返した疾風が前を向いた私の背中から襲いかかる。
数人の女子が息を飲んだり、悲鳴を上げたりしているが、他の生
徒たちは声も出せないようだった。
大柄な疾風の素早い動きに意識を呑まれてしまったのだろう。
それでも普段よりは格段にスピードを落としているため、一緒に
稽古をしている私には相手を捉えることが容易かった。
捕まれそうになった手首を打ち据え、撥ね上げた後、襟元を掴ん
で脛を蹴り上げ、投げ飛ばす。
タイミングを合わせて自分から疾風が飛んでくれたから、実に綺
麗に投げが決まった。
いや、ほんと。
投げるのって、体格差や体重差が如実に出ちゃうんだよね。
嫌がって抵抗する人を投げるのは、本当に重い。
相手の隙を見て、一瞬で投げを打たないと自分が崩れ落ちてしま
126
う。
疾風が自分から飛んでくれたから、ふわりと軽く投げなれた。
まあ、自分から飛ぶと、受け身も取りやすいし、投げられた衝撃
も見た目と違ってはるかに軽い。
だんっと派手な音を立てて背中から落ちるふりをした疾風はその
ままころりと横に転がって起き上がる。
一瞬後、歓声が湧き起こる。
﹁はい、説明はこれで終了です。では、実際にやってみましょう﹂
無情に教諭の声が次の指示をだし、中途半端に空気が断ち切られ
る。
﹁相良さん、岡部君、あなた方は指導の方へ入っていただけますか
?﹂
﹁承知しました﹂
稽古に参加しなくてもよいというお墨付きを頂いた私と疾風は生
徒たちの中へと戻っていった。
﹁諏訪﹂
興奮冷めやらぬ生徒たちの中をかいくぐり、諏訪の傍へと行く。
﹁綺麗な動きだな﹂
珍しく目許を和ませた諏訪が柔らかな声で告げる。
﹁ありがとう。だが、本来の動きには程遠い。相手の動きを封じる
くらいなら充分だろうが。すまないが、諏訪、あちらの丹生様と組
んでくれないか?﹂
疾風と組むはずだった令嬢を示し、私は頼む。
﹁え? 俺の相手はお前のはずだが﹂
﹁私は練習には参加しない。私は加減ができないからな、諏訪を怪
我させてしまう。それに、丹生様は疾風を怖がってしまっている。
あれでは練習できないだろう﹂
丹生家の令嬢は大人しやかな方だ。
先程の疾風を見てしまっては恐ろしくて技を出せないだろう。
127
内気な令嬢というのは、庇護欲をそそるが、それ以上に排他的で
厄介だ。
良かれと思ってやったことがすべて裏目に出てしまう。
怖がられてしまえば、何もすることができない。
丹生様には諏訪すらも恐ろしいだろうが、疾風よりはましだ。
﹁それとも、諏訪は私を投げ飛ばすか?﹂
指導の立場に立った私は、技をかける方ではなく掛けられる方に
なる。
私とコンビを組むことに執着するなら、当然諏訪は女子生徒と同
じく技をかける方になる。
﹁それは御免被る! 女子にそんな真似できるか!﹂
当然のことながら、女子に紛れることを良しとできなかった諏訪
が反発する。
﹁では、丹生様をよろしく頼む﹂
﹁⋮⋮わかった﹂
不承不承頷いた諏訪は、溜息ひとつ零すと、列を離れて丹生様の
方へと歩いていく。
それを目で追っていた私は、声を掛けた諏訪が丹生様に怖がられ
ている姿に吹き出しそうになった。
同じ年頃の女子生徒は、諏訪の姿を見かけると声を掛けたがり、
近付いてくることが普通だ。
諏訪自身もそれが当たり前だと思っているフシがある。
怖がられて避けられるという経験は諏訪にはない。
怯える丹生様を宥めるようにと、諏訪と疾風の視線が注がれる。
それに笑って頷いた私は、気になる動きをしている生徒たちに少
し注意の言葉を告げながらそちらへ移動した。
128
16
﹁お願いがあるのだが、話だけでも聞いてもらえないだろうか?﹂
期末試験最終日の放課後、疾風たちのクラスを訪れた私は、疾風
と在原、橘に声を掛けた。
﹁うん、いいよ。なになに?﹂
﹁瑞姫からのお願いなら何でも叶えるよ﹂
在原と橘はいつもの調子で気軽に頷いて私を見る。
﹁ありがとう。実は、これなんだ﹂
私は七海様からの招待状を差し出す。
﹁⋮⋮大伴様からの招待状?﹂
受け取った橘が封筒を裏返し、差出人の名前を確認して表を眺め
る。
﹁瑞姫宛だね﹂
﹁私の祖母が当主夫人の七海さまと懇意にしているので、毎年招待
状がくるんだ。今まではまだ幼いからという理由で祖父がお断りし
ていたのだけれど、今年は高等部に上がったからね、そろそろ相良
の人間としての役目を果たす勉強を始めないといけないようだ。中
身を見てもらってもかまわない﹂
﹁ああ、うん。じゃあ、失礼して﹂
封筒からカードを取り出し開く橘。
それを両脇から疾風と在原が覗き込んで文面を眺めている。
﹁友達と一緒にって書いてある﹂
きらきらと瞳を輝かせて在原が私と招待状を交互に見比べる。
﹁うん、そうだね﹂
﹁友達って⋮⋮僕、瑞姫と一緒に出席していいってこと?﹂
﹁お願いしてもいいか?﹂
﹁行く!! 瑞姫と一緒に出席する﹂
129
﹁ありがとう、静稀﹂
﹁もちろん、俺も出席させてもらうよ。言ったろ? 瑞姫からのお
願いなら何でも叶えるって﹂
﹁誉もありがとう﹂
招待状の件を切り出すのは、私にとっても一種の賭けに近い。
大伴家からの夏の宴の招待状は、ある種のステイタスだ。
招待状をもらえない家にとっては羨望のカードであり、家自体に
送ってもらえても私のように個人宛で未成年に送られない者には微
妙な蟠りが生じることもある。
﹁嬉しいなぁ。瑞姫の友達って﹂
にこにこと嬉しそうに笑いながら在原が告げる。
﹁ん?﹂
﹁個人宛に招待状が送られてくるより、絶対こっちの方が価値があ
る。瑞姫の友達括りでの招待だもんなー﹂
﹁⋮⋮えーっと?﹂
何がそんなに嬉しいのだろうか。
﹁瑞姫はもうちょっと自分がどう評価されているか知っていた方が
いいと思うよ﹂
くすくすと笑いながら橘が言う。
﹁う∼ん。評価⋮⋮武道莫迦とか? いや、疾風よりは弱いからそ
れはないか⋮⋮八雲兄上の妹?﹂
自分の評価など気にする者はほとんどいないだろう。
大体、そういうものは本人の耳には入らないようになっているも
のだ。
﹁まぁいいや、なんでも。仮装パーティだから、衣装を揃えようと
思っているので、うちで仕立てさせてほしい。それから、静稀﹂
あっさり評価に関しての考えを捨てた私は、重要なことを在原に
伝える。
﹁なーにー?﹂
﹁そのパーティには﹃梅香様﹄も招待されている。藤原梅香様、だ﹂
130
呑気に喜んでいた在原の表情が強張る。
自称婚約者の梅香様を苦手としている在原は、彼女の名前だけで
拒否反応を起こす。
﹁大丈夫か?﹂
﹁う、うん⋮⋮瑞姫に迷惑がかからないならいいんだけど⋮⋮﹂
悄然と肩を落とし、在原が呟く。
﹁今は、学校があるからと言って、うちに来ないようにお願いして
るけど、夏休みに入ったら⋮⋮夏休みなんて永遠に来なくてもいい
かも﹂
一瞬で元気をなくした在原の肩を慰めるように橘が軽く叩く。
﹁姉から色々と情報をもらった。うまくすればパーティで片が付く
かもしれない。梅香様が私に興味を示して、話しかけてくるチャン
スがあれば、だが﹂
﹁え!? そんな都合のいい話があるわけ!?﹂
﹁都合がいいわけじゃないけどな。二番目の姉、菊花姉上だが、ち
ょっと腹黒いことを考え付いたらしく⋮⋮﹂
﹃ストーカーにはストーカー返しよね﹄と、実に悪辣な笑顔を浮
かべた女王様がげっそりするような表情と共にある作戦を齎してく
れたのだ。
そこにはさっき橘が言った私の評価というものが関係しているら
しい。
菊花姉上の話の内容を知っている疾風も不機嫌そのものの表情を
している。
﹁大丈夫だ、在原。菊花様の考えは正しい。必ず上手くいく﹂
﹁なんで岡部はそんなに不機嫌そうなのさ!?﹂
不穏な空気を嗅ぎ取ったのか、在原が恐る恐る問いかける。
﹁気にするな。菊花様の策を実行すれば、何の問題もない﹂
﹁あはははは⋮⋮梅香様ほどじゃないけどね、私にもストーカーモ
ドキがいたらしい。年齢だけで言えば、ロリコンだな﹂
﹁ロリ⋮⋮﹂
131
在原が絶句する。
﹁と、言うと。年が離れている相手?﹂
橘が何とも言えない表情で問う。
﹁大体、ひと回りぐらい上かな? 何度断ってもしつこく申し込ん
でくる家があってな、一番上の柾兄上が直接本人に会って話をした
そうだ。家の意向で本人の意思を無視しているのかもしれないと思
ったらしい﹂
﹁それで?﹂
﹁本人が、望んでいると答えたそうだ﹂
﹁それ、いつの話?﹂
﹁去年﹂
﹁今まで放置してたわけ?﹂
﹁いや。機会を窺っていたらしい。効果的に諦めてもらえるよう虎
視眈々と﹂
﹁⋮⋮⋮⋮⋮⋮﹂
さすがの橘もその答えに顔を引き攣らせていた。
うん、そうだと思うよ。
ロリコン疑惑な相手も嫌だが、相手が一番嫌がる方法で仕返しし
ようとする兄姉も何だか嫌だ。
疾風の機嫌が悪いのも、その話を聞かされず、報復も許されなか
ったせいだ。
車で送り迎えが許されている東雲学園だからこそ、登下校の途中
を狙って連れ去られることもなく済んだようなものだったらしい。
中学生相手に二十代後半のアラサーな男が嫁に欲しいって真面目
に言うんだから、ドン引きだよね、確かに。
しかも、傷跡残ってることを承知で、他に嫁に欲しいというとこ
ろがないだろうから自分がもらう的発言をしたのだから、それこそ
兄姉たちは激怒したらしい。
申し込みがあって、一度断った時に素直に引いた家の殆どは、適
齢期になった時に本人たちを引き合わせてもらえるかと聞いてきた
132
そうだ。
機会があればその時の状況によってと答えると、それまで待つと
大人しく引き下がったようだ。
相良の家の特徴を知っていればの対応なので、そういう家に対し
ては兄姉もとやかく思うことはないようだ。
﹁や、あの⋮⋮梅香様も悪い人じゃないんだから、ちょっと思い込
み激しくて迷惑だけど、あまり、その⋮⋮﹂
﹁うん。それはわかってる。梅香様には悪いようにはしないよ。そ
このところは姉も常識は持ってる⋮⋮はずだ、うん﹂
﹁その間が微妙なんだけどー﹂
困ったように告げる在原に、冗談だと笑って答え、我が家で昼食
ついでに採寸のお誘いを掛ける。
笑顔で応じてくれた在原と、在原の反応にくすくす笑う橘と共に
学園を後にした。
衣装が出来上がり、試着をしてもらおうと声を掛ける日に期末試
験の成績が発表された。
今回は1点差で2位。
まあ、色々あったので仕方がない。
次の休み明け試験で挽回すればいいか。
そう思って振り返ると、ぶすくれた表情の在原がいた。
﹁なんでまた4位かなぁ!?﹂
憎々しげに成績表を睨みつけている。
﹁や。去年より順位上げてるし、点数だって上がってるじゃないか﹂
その表情の凄まじさに、ちょっと引きながら去年と比較して答え
てみる。
﹁それはいいんだけど! ちくしょう! 悔しい。まずは大神と諏
訪を引き摺り下ろすところから始めないとダメか﹂
133
﹁え? 大神と諏訪? 何で?﹂
﹁瑞姫とサシで勝負するにはあの2人、邪魔だから﹂
最近、在原の思考回路がよくわからない。
私に成績で勝負を挑んでいたのだろうか。
﹁在原、くどいようだが、学業とは人と競うものではないのだが﹂
﹁知ってる! でも、僕にとっては必要なの!﹂
﹁必要なのか⋮⋮そうか。じゃあ、頑張れ?﹂
﹁瑞姫ーっ!! 心がこもってない∼っ!!﹂
何を言えばいいのかわからず、とりあえず言ってみたら、すぐに
抗議が来た。
﹁じゃあ、答案が返ってきたら、何処を間違ったのか、答え合わせ
をしようか?﹂
﹁うん﹂
心がこもった言葉というのがよくわからず、無難な回答を口にす
れば、在原が嬉しそうに笑う。
﹁己の力量もわきまえず、邪魔とはよく言う﹂
﹁⋮⋮諏訪﹂
私たちの会話をどこから聞いていたのか、在原の背後に立った諏
訪が在原を睨む。
﹁努力すれば俺に勝てるなど、陳腐なことを考えているのか?﹂
売られた喧嘩は粉砕するタイプか、諏訪。
﹁え? 勝ってるけど?﹂
順位表を見て、私が答える。
﹁相良は別だ!﹂
むすっとしていた諏訪は、私に視線を向けると黙ってろとばかり
に告げる。
﹁いや、あれ。在原、諏訪よりいい点とってる教科、あるけど?﹂
総合成績とは別に、教科別に上位者10位までが張り出されてい
る。
その中の国語を示して私は言う。
134
国語の古文の点数は2位が在原で4位が諏訪だった。
その差5点。
諏訪は理系教科が得意だが、在原は文系なのだ。
それぞれの得意教科で上下が入れ替わっている。
﹁ほーんとだ、勝ってるねぇ﹂
にしゃりと在原が笑う。
諏訪の表情が険しくなった。
﹁ちなみに私も努力型だな。得意科目がない代わりに苦手な科目も
ない﹂
﹁相良は特別だ!﹂
﹁いや、私は普通だよ。コツコツ積み上げるしか能がない﹂
積み上げた年季が違っただけだ。
﹁諏訪は自分の世界を2つに分ける癖をなくした方がいい。自分が
認めるものと認めないものだけじゃないんだ、世の中は。在原も相
手を挑発しすぎるな、事なかれ主義の平穏無事が一番面倒なくてい
い﹂
﹁達観しているね、相良さんは﹂
バツの悪そうな相良と在原の後ろから大神が苦笑して言う。
﹁さっきも言ったけれど、勉強っていうものは争うためのものじゃ
ない。身体を維持するために食事をするように、脳の栄養の為に知
識を与えるんだ。そこを間違えると勉強は楽しいモノじゃなくなる
んだよ﹂
﹁至言だね﹂
苦笑を深くしながら諏訪に視線を向けた大神が彼の肩に手を置く。
﹁とりあえず、在原君に謝罪をした方がいいよ﹂
﹁必要ない﹂
嫌そうな表情を浮かべる諏訪の目の前で、在原が一刀両断する。
﹁瑞姫、夏休みさ、瑞姫のとこに遊びに行ってもいいか?﹂
これは、諏訪に対する腹いせだろうか。
諏訪にちらりと視線を走らせた在原が得意そうな表情で問いかけ
135
てくる。
﹁来てもいいが、屋敷に私はいないぞ﹂
﹁え!? 南半球で避暑とか言わないよね?﹂
﹁いや。移動時間が無駄にしか思えないのでそんなところにはいか
ない﹂
何時間も飛行機に乗っているのは性に合わないので、海外にはい
かないのだ。
それよりかつての領地へ遊びに行った方が随分と楽しい。
小京都と呼ばれる風情ある場所だし、盆地だが朝晩は涼しい。
水が美味しいのでお茶や郷土料理も非常に美味しい。
のんびりできる事、請け合いだ。
だが、今年の夏はそこに行くわけではない。
﹁じゃあ、何処に行くのさ?﹂
﹁病院に入院してくるだけだ﹂
﹁⋮⋮あ⋮⋮﹂
何のための入院か察した一同の顔色が変わる。
﹁じゃあ、僕、お見舞いに行ってもいい?﹂
﹁疾風に聞いてくれ。疾風が許可したら、来てくれて構わない。病
院だからもてなしはできないがな﹂
﹁⋮⋮相良、俺も⋮⋮﹂
﹁諏訪と大神は遠慮して欲しい。友人ではない者に見舞いに来られ
ると家の者が対応に困ります﹂
諏訪が言いかけた言葉を先回りして断る。
友人ではないという言葉に諏訪はいたく傷ついた表情を浮かべる。
その言葉通り、諏訪とは友人関係を築いたことは今まで一度たり
ともない。
生徒会の役員だったという関係はあるが、それは生徒会長と書記
という上下関係だけだ。
会社の同僚は友達ではないということと同じことだ。
律子様には学友という言葉を使ったが、あれは同じ学園に在籍す
136
るものという意味でしかない。
大神についても全く同様だ。
﹁在原、行こう。橘も捜さないと﹂
﹁うん。多分、岡部と一緒だと思うけどな﹂
私が促すと、在原は頷いて一緒に歩き出す。
見送るような諏訪の視線をずっと背中に感じていたが、それは今
のところは一切無視することにした。
137
17
大伴家の夏の宴当日。
疾風たちに衣装を着てもらい、それに必要な小物も確認する。
衣装とは言っても、単なる三つ揃えのスーツだけど。
正装だから、ちゃんとジャケット付きです。
夏だから、もちろん暑い。
それでもクーラーの下に入ることだし、招かれたご挨拶をしに行
かなきゃいけないのに砕けた格好はできない。
いくら、仮装パーティと銘打ったとしても、年少者だからね、我
々は。
﹁在原、ネクタイ歪んでるぞ﹂
﹁えー? マジで? 締め直せばいい? それとも、最初から?﹂
疾風の指摘に在原がネクタイを疾風に見せる。
これは、アレだ。
腐女子が喜ぶ定番だ。
思わずガン見しかけた私に橘から声がかかる。
﹁瑞姫、似合うね。細身のスーツがここまで似合うとは思わなかっ
たよ。ネクタイはまだなんだね。俺が結ぼうか?﹂
いや、私の方か!!
手にしていたネクタイの端を橘が摘まみ、するりと抜き取る。
﹁自分で⋮⋮﹂
﹁俺、上手いよ?﹂
にっこりと微笑む橘の襟元を飾るネクタイは、とても形良い。
制服のネクタイもそういえば崩れていることを見たことがない。
結んでもらった方がよさそうだけど、他人様にネクタイを結んで
もらうとは情けない。
﹁うー⋮⋮﹂
138
考え込む私をくすくすと笑いながら、橘がネクタイを襟の下へと
くぐらせる。
﹁動かないでね、瑞姫﹂
﹁うえっ!?﹂
﹁あ、いーな、瑞姫! 誉にネクタイ結んでもらってさー﹂
何気に羨ましそうに在原が言う。
いいのか。
結んでもらうのはありなのか。
悩んでいる間にも器用に橘がネクタイを結び終わってしまった。
﹁はい、出来上がり。制服もいいけど、こっちもいいね。ダンスに
は誘えないけどさ﹂
﹁ワルツは無理かも。でも、チャールストンぐらいならいけるんじ
ゃない?﹂
﹁いや、踊らないから﹂
朝からはしゃいでいる在原に、釘をさす。
﹁えー!? もったいない﹂
﹁元々、ダンスは下手なんだ。授業で習ったくらいしか踊ったこと
ないし﹂
﹁嘘っ!? 相良の御嬢様が、ダンスしないの!?﹂
﹁この身長だと、相手になってくれる人が殆どいないしね﹂
既成服を買わないから不便に感じることはないけれど、同級生の
男子の殆どが同じ目線という長身は、こういう時不便でもあり、便
利でもある。
踊らない言い訳になるからだ。
﹁静稀たちは今日、疾風のところに泊まるのか?﹂
﹁うん。純和風武家屋敷を堪能するんだ﹂
﹁⋮⋮ん、まあ、色々と堪能できるよね。夏だと特に﹂
楽しそうに笑う在原を見て、疾風に視線を向けて言う。
﹁まあ、色々と、な﹂
疾風も笑いをかみ殺し、視線を彷徨わせながら頷く。
139
﹁何!? 色々って何!?﹂
﹁楽しみにしておけばいいじゃないか、静稀。夏の風物詩が幽霊だ
ったりしても、それはそれで貴重な経験だし﹂
橘までもがからかう方に参加する。
﹁貴重だけどっ! それ、貴重だけど、なんかいやだ!!﹂
真夏の幽霊体験は御免被ると叫ぶ在原を無視して、今回の為に揃
えたキューをボックスの中に収めていく。
今回のコスプレは、ハスラーなのだ。
わかる人にはわかる地味な仮装。
﹁じゃ、行こうか﹂
ぱちんと音を立てて金具を閉じ、ボックスを手に持とうとすると、
疾風が先にそれを掬い上げる。
﹁早めに行って、早めに戻ろう。今回はお披露目のようなものだか
らな、簡単でいい﹂
﹁うん﹂
疾風の言葉に頷いて、私たちは離れから母屋へと移動し、車寄せ
で待っていた車に乗り込んだ。
***************
大伴家の御屋敷は、古びた瀟洒な洋館だ。
庭の設えとも相まって、欧州貴族の館の趣がある。
夏の宴は、昼から始まり夜中まで続く。
昼間訪れるのは若者組で、夕方心から徐々に大人組というか格式
が上がってくる。
私たちも軽めの昼食を摂ってからの参加で、宵の口あたりに切り
140
上げようという予定だ。
その間、ホスト役の大伴家の人々はずっと出ずっぱりだから大変
だといえよう。
﹁まずは七海様にご挨拶をしてから、そこら辺を散策しようか。菅
原双子も来ることになっているそうだし﹂
千瑛と千景はどんな仮装なのかとキューを片手に車から降りて話
す私たちの前に諏訪とよく似た青年が立つ。
﹁ごきげんよう、瑞姫さん。久しくお会いしておりませんでいたが、
お元気そうで何よりです﹂
諏訪とは違い、物腰柔らかい対応と優しげな微笑みの青年は、諏
訪分家の1人だ。
諏訪や詩織様の従兄という関係だ。
﹁諏訪珂織さま、ご無沙汰しておりました。この通り、元気にして
おります﹂
同じ諏訪分家筋でも珂織さまの家とは良好の関係を築いている。
事件の知らせを受けて即座に駆けつけて諏訪本家の補佐に入った
家でもある。
珂織さまは当時、東雲とは違う学園に通われていたが、足繁く見
舞いに来てくださったようだ。
八雲兄と同じ年で、わりと話しやすい方だという印象を持ってい
る。
﹁遠目からあなたの笑顔を見れて、ほっとしました﹂
﹁そうでしたか。その節はご心配をおかけしました﹂
﹁いえ。あの件は全面的に私共に非がありますので﹂
視線を落とした珂織さまが、再び顔を上げて私を見る。
﹁以前、私が婚約の申し込みをいたしましたこと、覚えていらっし
ゃいますでしょうか?﹂
﹁はい。保留とさせていただいておりますが、もう少しお時間をい
ただきたいと⋮⋮﹂
﹁いえ。その件を撤回させたいただきたいと、このような場で不躾
141
ではありますが、直接、瑞姫さんにお願いしに参りました﹂
﹁⋮⋮え?﹂
意外なことを聞いた私は、珂織さまの顔を見上げる。
私の右脇に立つ疾風が私に視線を送る。
後ろに立つ在原や橘も何も言わない。
﹁どこか、場所を移しますか?﹂
﹁いえ、ここで。すぐに済む話ですし。私の婚約が決まったのです。
次期当主の指示で﹂
﹁諏訪が⋮⋮﹂
﹁ええ。現在の分家筆頭は潰されることとなり、当主と当主夫人は
離縁されることになりました。現当主夫人佐織さまは半年後に別の
分家の後添いになることが決まっております﹂
﹁では、あなたの婚約者というのは⋮⋮﹂
﹁御察しの通り、詩織です。とは申しましても、形ばかりですが。
私に詩織が婚約することで、我が家が分家筆頭となります。ですが、
私は詩織と結婚することはありません。詩織は養子縁組で父の子と
なり、その後、放逐されることになりました﹂
﹁それを私に? 何故?﹂
﹁間もなく公になりますが、分家筆頭当主の離反が明らかになりま
した。刑事責任を追及するために家を潰し、権限を取り上げるとい
う判断が下されました。佐織さまと詩織も同罪ですが、離反には関
与しておりませんでしたので、佐織さまは分家の監視下に、詩織は
一般人として生活できる知識を学ばせたのち、諏訪から切り離すこ
とになったのです。今のままでは普通の生活というものができませ
んから﹂
﹁そうですか﹂
色々とる方法はあったと思う。
分家筆頭を他家に譲り、家族そのまま海外に出してしまうことも、
縁を切り、業務上横領で財産没収という方法も。
今回、諏訪が取った方法は、確かに甘い手ではある。
142
しかしながら、諏訪家としてみれば痛手は少なくなる。
守るべきものを守って、少々欲張りではあるものの被害を少なく
するという点では間違っていない。
諏訪としては、身を切る思いをしただろう。
あれだけ慕っていた詩織様を他の男と婚約するように指示し、そ
の間、一般社会の知識を学ばせ、そうして同じ世界で二度と会わな
いと決めたのだから。
﹁あなたには、我が諏訪家の思惑で散々ご迷惑をおかけいたしまし
た。相良家のお怒りも承知しております。ですが、恥を承知で分家
の内情をあなたにお知らせしようと思いました﹂
﹁それが、新たな諏訪分家筆頭の意思ですか﹂
﹁はい﹂
頷く珂織さまを見て、疾風に視線を送る。
﹁疾風。連なるものとして、どう考える?﹂
﹁新たな分家筆頭の誠意は受け取りましょう。ですが、今後二度と
旧筆頭との接触は断ります﹂
﹁そうか。珂織さま、聞いての通りです。諏訪家としての意思は当
主である祖父がなさるでしょうから、私から申し上げることはござ
いません。ご婚約の件も、おめでとうとは申しません﹂
﹁ありがとうございます。私もあなたにその言葉をかけてほしいと
は思いません。では、私はこれで﹂
そう言って頭を下げた珂織さまは、私たちと入れ違いに屋敷を出
ていこうとする。
﹁珂織さま? 参加されないのですか?﹂
﹁ええ。招待されましたが、今回の目的はあなたにお会いすること
のみです。中にいる者たちには会いたくない。大人げないとお思い
になりますか?﹂
複雑な笑みを浮かべた珂織さまは、首を横に振って帰る意思を伝
えてくる。
そうか。
143
中にいるのか、あの人たちが。
﹁いえ。お気をつけてお帰りください。では﹂
﹁失礼します﹂
再度頭を下げ、珂織さまは車に向かった。
何とも言えない空気が漂う。
﹁あの男が、本家の息子なら、まだよかったんだけどな﹂
疾風が忌々しげに呟く。
﹁確かにー。あの人なら、詩織嬢に恋なんて絶対にしないよね。完
全に瑞姫狙いだったし﹂
﹁そうか? 昔からあの人は、わりと面倒良くて、年下の子供たち
に本を読んでくれたりとかしてな。その延長だったから全然気づか
なった﹂
﹁瑞姫ーっ!! 女子力ないぞー﹂
がっつりと私の肩を掴んだ在原が揺さ振るように訴える。
﹁瑞姫は女子力あると思うぞ。料理が美味いし。服のセンスもいい
し。化粧は⋮⋮しなくても充分すぎるほど美人だし﹂
﹁そうだね。高校生で化粧してる子見るのは、ちょっと引くよね。
化粧落とすと別人顔なんて、ね﹂
﹁化粧は、女子にとっての戦闘服のようなものだからね。少しは大
目に見てやってくれ。それに、この格好に化粧だと変だろう、私の
場合﹂
コスプレなら、眉を凛々しくとか彫り深くとかで化粧するのかも
しれないけど、普段の姿ならあまり必要ないものだ。
﹁さて。七海さまのところに行こうか﹂
気を取り直してエントランスへ入る。
どこかで生演奏の音が聞こえる。
﹁後で庭に出るのもよさそうだね﹂
橘がそう耳打ちしてくる。
そうか。
144
生演奏は庭で行っているのか。
﹁ここ、遊戯室ってあるのかな? ビリヤードできると嬉しいけど﹂
せっかくハスラーコスなんだしと在原も囁いてくる。
どちらも楽しそうだ。
とにかく七海さまへの挨拶が先だけど。
奥へと進もうとする私たちの耳にある言葉が届けられる。
﹁まあ、なんて地味なお姿かしら! ああ、ドラキュラなのね。同
じ化け物ならフランケンシュタインの方がお似合いなのに﹂
﹁⋮⋮っ!﹂
疾風が物凄い勢いで声がした方を睨む。
身を乗り出しかけたので、腕を掴んで遮る。
私と、在原と橘の3人で。
階段近くに二十歳前後の女性が集団で立っていた。
こちらを向いて、笑いながら。
その中に見知った顔を見つけて溜息を吐く。
どうやらそう簡単に七海さまのところには行けないようだと思い
ながら。
145
18
エントランスの奥に木製の大階段がある。
よく磨きこまれた手すりは、とても良い艶を放ち、下地や木目が
なければ鏡のようにきれいに姿を映しだしそうだ。
そんな見事な階段の近くに二十歳前後の女性の集団がある。
よく見ると、それは一塊ではなく、いくつかの小集団に分けられ
ているようだ。
その中のひとつに、わりと見知った姿を見つけた。
﹁ごきげんよう、詩織様。あなたも招待されていたのですね﹂
まさか私から声を掛けるとは思ってもいなかったようで、詩織様
の瞳が揺れる。
﹁あ⋮⋮ごきげんよう、瑞姫様﹂
﹁ちょっと! わたくしを無視しないでくださいません?﹂
詩織様の挨拶を遮るような金切り声。
先程の﹃フランケンシュタイン﹄発言の女性のようだ。
﹁どなたに声を掛けているのかと思っていましたが、あれは私のこ
とですか? そもそも、あなたは何方でしょうか? 相良とお付き
合いのある方なら皆様、覚えておりますが﹂
困惑したふりをして言えば、くすくすと笑い声がさざめく。
﹁私たちの姿を見て、ドラキュラだと思う方はまずいないので、勘
違いをしてしまいました、申し訳ありません﹂
﹁何よ。どう見てもドラキュラじゃない、その格好!﹂
﹁いいえ﹂
おかしげに笑う声が響く中、詩織様がそっと告げる。
﹁あれはどう見てもハスラーですわ。だって、キューをお持ちなん
ですもの﹂
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キューを収めるボックスを手にする疾風とステッキのようにキュ
ーを持つ在原を示し、何でもないことのように言う詩織様の言葉に
笑い声が大きくなる。
﹁それに、あなた、根本的な間違いをなさっているわ﹂
﹁し、詩織様?﹂
間違いを指摘された女性は、まさか自分がそんなことを言われる
とは思ってもみなかったようで詩織様と私の顔を見比べる。
﹁ええ。そんな間違いをなさる方がいらっしゃるとは思わなかった
ので、本当に驚きました﹂
目つきが悪くなっていく疾風を橘に預け、その女性の方へつかつ
かと歩み寄る。
﹁なによ!?﹂
﹁フランケンシュタインとは、継接ぎの人造人間を作り上げた博士
の名前です。化け物ではありませんよ。それに﹂
彼女目の前に立った私は、前髪をかき上げ額を晒す。
﹁顔には傷ひとつありません。どうです? 綺麗なものでしょう。
ですから、彼の作品にはなりえないのですよ、私は﹂
にっこり笑って追い詰めてみる。
﹁なによ! 被害者面して詩織様を悪者に仕立てた性悪女のくせに
!!﹂
﹁なっ!﹂
﹁岡部っ!﹂
女性の叫び声と、疾風の声、制止する橘の声と同時に、何かが破
裂するような音がした。
﹁⋮⋮詩織様!? 何故⋮⋮﹂
﹁瑞姫様に対する無礼もいい加減になさいませ! 瑞姫様に謝罪し
たらその場で出てお行きなさい。あなたの顔も見たくありません﹂
女性の頬を打ったのは、詩織様だった。
怒りをたたえた厳しい表情でその女性をまっすぐに見ている。
﹁私は詩織様の為に⋮⋮﹂
147
﹁無用なことです。瑞姫様は、愚かな真似をした私の被害者です。
責めを負うべきは私なのに、瑞姫様を悪く言う方がいると耳にしま
したが、それはあなた方だったのですね﹂
﹁だって、だってそうじゃない!? 大怪我して生き残って、健気
に生きてますって顔をして!! さっさと死んじゃえばいいのよ!
! 誰も彼もあなたのことばかり気にして!﹂
上ずった声が醜悪な言葉を生み続ける。
心の奥底で小さな塊が冷たく凍えるのを感じた。
ああ、そうか。
何故私が目覚めたのか⋮⋮。
その言葉を聞きたくなかったからなのか。
瑞姫は弱い心を封じるために、私を起こしたのか。
死ねばよかったと言われくなかったのか。
誰でも言われたいとは思わないだろうが、死ぬわけにはいかない
理由があるのに、生き残ったことを否定されるのは確かにつらい。
呆れたような溜息を深々と吐いた私は、打たれた頬に手を当てわ
めく女性を冷ややかに見下ろす。
﹁健気になんて生きてませんが? 私は相良の人間です。己の役目
を放棄して死を選ぶことが許されない立場だからこそ、何としても
生きることを選んだだけです。私が死を許されるのは、己の役目を
果たしてしまってから、です。あなたにそのような役目は与えられ
ていないのですね。ああ、そんな能力がないからこそ、誰もあなた
のことを相手にしないんですね﹂
可哀想にと囁けば、喚き散らして赤かった顔が一瞬で青褪める。
﹁悪意をまき散らせば、その数倍になって己に返ってくることくら
い、誰でも知っていることをやっているあなたに、誰が気を留める
でしょうか?﹂
﹁何よ、偉そうに! このくらい、誰だって⋮⋮ねえ! 言ってた
148
じゃない!!﹂
彼女の傍にいた女性たちは波が引いたかのように、いつの間にか
後ろに下がっていた。
誰も同意しないことに初めて気づいたその人は、後ろを振り返り
問い詰めようとする。
認めるわけ、ないじゃない。
私がここにいるってことは、相良の人間が後から来るってことだ
ものね。
それに、在原家と橘家の子息もいる。
珍しく私が怒っているのに、煽るような真似をすれば自分の家が
危ないと誰でもわかることだ。
﹁⋮⋮ところで、あなたはどちらの家の方でしょうか? 大伴家に
招待される方なら私も知っているはずですけれど。七海さまには可
愛がってもらっていますから﹂
﹁⋮⋮っ!?﹂
招待状を直接もらえない人間が、招待客に喧嘩を売ればどんなこ
とになるのかわかっているのかと匂わせたとき、奥からざわめきが
聞こえた。
﹁まあまあ! ようこそ、瑞姫様。まあ、素敵! なんてハンサム
なハスラーなんでしょう﹂
豪華なレースの襟が立てられたドレスの女性が両手を広げて近寄
ってくる。
この特徴的な襟!
間違いなくイングランド女王陛下だ。
﹁お招きありがとうございます、エリザベス一世陛下﹂
149
すごいな、七海さま。
全然違和感ない。むしろ本物かと思うほどよく似てて、似合って
る。
﹁お久しぶりですこと! 顔をよく見せてくださいな。まあ、背も
伸びて﹂
私をハグした七海さまは、両手で私の顔を包んでにっこりと笑う。
﹁七海さま? 確か、2週間前にお会いいたしましたよね?﹂
﹁何を仰るの! 2週間も会えませんでしたのよ? お若い方は1
日会わなかっただけでもずいぶん変わってしまうものですもの﹂
﹁背は伸びてませんよ﹂
﹁そうかしら? でも、ハンサムぶりは上がってましてよ﹂
悪戯っぽく笑った七海さまは、私の頬を撫でる。
﹁七海さま、お伺いしてもよろしいですか?﹂
﹁ええ、どうぞ﹂
﹁七海さまがエリザベス一世陛下でしたら、おじさまはどのような
お姿になられているのでしょうか?﹂
﹁夫はフェリペ二世よ﹂
にっこりと楽しそうに答える七海さま。
そうきたかぁ!
何でライバルを夫婦でやるんだ、この人たちは。
﹁ああ! 何てこと! わたくしったら!!﹂
私の問いかけに答えた七海さまは、何かに気が付いたように悔し
げにご自分を詰る。
﹁瑞姫様がこんなにハンサムさんなら、ドン・ファンをお願いすれ
ばよかったわ!﹂
﹁あ、あははははは⋮⋮﹂
それは、年齢的に無理でーす。
女ったらしの代名詞的存在で知られているドン・ファンは、フェ
リペ二世の腹違いの弟だ。
本国から離れた飛び地の領地の総督を務めたこともある文武両道
150
の英才だった。
軍の指揮官としての才能は特に素晴らしく、スペインの繁栄の一
端を担った人物でもある。
年の離れた弟の美貌と才能を愛したフェリペだったが、同時にそ
れらが疎ましく、ついには弟を死に追いやってしまう。
歌劇の題材にもなっている有名な美男をやれと言われても、さす
がに困る。
﹁冬にも仮装パーティを開こうかしら?﹂
まさか、そうまでしてドン・ファンを見たいとおっしゃるのか。
﹁冬でしたら、アンナ・カレーニナはいかがでしょう?﹂
冬=ロシアでついトルストイを思いついた私は、ぽろっと余計な
ことを言ってしまう。
﹁まあ、素敵! 貴族の将校ヴロンスキーね﹂
私の配役はもう決まったのか!?
﹁じゃあ、あなた方がヴロンスキーの同僚である青年将校たちにな
るのね﹂
笑顔のエリザベス陛下は、背後に立つハスラー諸君に声を掛ける。
彼らの役どころも決定か。
﹁七海さま、ご存じだとは思いますが、紹介させていただけますか
?﹂
﹁ええ。瑞姫様のお友達として改めて伺いたいわ﹂
にこやかなホステス役の表情になった七海さまに疾風はもちろん、
在原と橘を紹介する。
大伴夫人に私の友人として彼らを紹介する意味は重い。
何かあった時に、彼らを私と同じように扱ってほしいと願い出る
事なのだ。
その私の願いに足る人物かどうか、これから七海さまが精査して
いく。
不足と結果が出れば、引き離され、言葉を交わすことも許されな
くなる。
151
勿論、そんな心配は全くしていないけれど。
﹁さて、ハンサムさんたち、こんな入口ではなく、中の方で楽しん
でいってくださいな。遊戯室でぜひビリヤードの腕前を披露してく
ださると嬉しいわ﹂
﹁よろこんで、女王陛下﹂
橘が恭しく一礼する。
﹁綺麗な仕種ね。よい教育を受けられているのね﹂
﹁ありがとうございます﹂
﹁遊戯室の方へ案内しましょう⋮⋮あら?﹂
七海さまの視線が橘から例の女性へと移る。
﹁あなた、どなたかしら?﹂
怪訝そうな表情で頬に手を当てる。
﹁何方のお連れかしら? 今までに到着した方で御挨拶に来られた
方の中にはいらっしゃいませんでしたわね﹂
おっとりとした口調で女性に問うが、その視線は冷ややかだ。
誰かの連れだとしても、必ず一番最初に主催者に挨拶に行かなく
てはいけないのが慣例だ。
七海さまが知らないとはっきり言っているということがどういう
ことなのか、理解すれば呆れるばかりだ。
﹁あの、七海様! わたくし⋮⋮﹂
﹁やめてちょうだい! わたくしの名前を勝手に呼ばないでくださ
る?﹂
進み出た女性の言葉に七海さまの態度が一変した。
まさに女王の威厳というべきか。
﹁わたくしの大切な名前は、わたくしが許した大切なお友達しか呼
べないの。名前も顔も知らないあなたが呼べる名前じゃないのよ?
お衣裳もそぐわないし。帰ってくださらないかしら﹂
﹁え?﹂
﹁あなたをお連れした方も同罪ね。二度とわたくしと顔を合わせな
いようにしていただきましょう﹂
152
手にしていた駝鳥の羽扇子をぱちりと音を立てて閉じる。
奥へと繋がる扉の傍に立っていた礼服の男性が音もなく現れると、
その女性を柔らかい物腰でしかしながら抵抗を許さずに連れ出して
しまう。
そう。
エントランスホールまでは、誰でも入れるのだ。
ここから先には礼服の誰かに招待状を見せなければならない。
そこへ向かおうとした私たちを足止めした騒ぎに、彼らの1人が
七海さまを呼びに行ったのだろう。
ちなみに、七海さまのお名前の由来は、この方の生家にある。
ご実家は海運業で栄える名家で、まあ、所謂海運王とも呼ばれて
いるわけだ。
男系のお家で有名だが、先代様は女の子が欲しかったらしい。
待望の女児がお生まれになった時、﹃七つの海をまたにかける美
貌と才能の娘になるように﹄との願いを込めて﹃七海﹄と名付けら
れたそうだ。
先代夫人に七海は男の子の名前じゃないですかと、かなりしつこ
く怒られたらしい。
名前通りに育ったかどうかは、見ればわかるというものだ。
私が﹃七海さま﹄と呼ぶのを許されたのは、﹃おばさま﹄と呼ば
れたくなかったという理由だ。
微妙な女心には逆らわない方が身のためだ。
しかし、今更だが、本当にあの人は誰だったのだろう。
私の疑問に答えてくれる人はいないようだ。
微妙な空気が流れる中、詩織様が前に出られる。
﹁大伴様、騒ぎを起こしてしまい、申し訳ございませんわ﹂
﹁中で起きなかっただけ、よしと致しましょう。詩織さんもご婚約
が決まりましたから、この宴は今回で最後になりますし。ゆっくり
153
と楽しんでらして?﹂
﹁ありがとうございます﹂
すでに挨拶を済ませて、ここにいたらしい詩織様の言葉に、七海
さまが彼女を呼んだ理由を悟る。
﹁七海さま﹂
﹁なあに?﹂
﹁知人を見かけましたので、ご挨拶に伺いたいと思います。友人た
ちを遊戯室までお願いできますか?﹂
﹁ええ、もちろん。学校での瑞姫様のご様子をぜひとも伺いながら
案内させていただくわ﹂
﹁ありがとうございます﹂
お互いににっこりと笑いあうと、その場を離れる七海さまを見送
るように私はその場に立ち尽くす。
﹁瑞姫!﹂
﹁大丈夫だ、疾風。先に行っててくれ。すぐに追いつく﹂
心配する疾風の背を押し、席を外すように促す。
﹁遅ければ、迎えに行くからな﹂
﹁ああ﹂
これだけは譲れないと告げる疾風に頷いて見送ると、私は詩織様
を振り返った。
﹁私を待っていらしたのでしょう?﹂
そう声を掛ければ、詩織様の肩がびくりと跳ねる。
﹁私、祖母とよく七海さまのところへ遊びに来るので、こちらの御
屋敷には詳しいのですよ。お庭にとても綺麗な場所があるのです、
いかがですか?﹂
私の誘いに意を決したような表情を浮かべた詩織様が小さく頷く。
﹁では、こちらにどうぞ﹂
そう言って、ゆっくり歩き出す。
エントランスにいた女性たちが付いてくる様子はない。
詩織様だけが私の後を追う。
154
屋敷からテラスを抜けて庭に出る。
そうして人気のないところへと私は歩いて行った。
155
19
白い屋根の東屋へと続く道を歩く。
少々頼りないガリなハスラーの後に続くのは、大正時代あたりの
女学生。
着物と丈の短い袴にブーツ姿の御嬢様。
決して軟派な男が幼気なお嬢様を誑かして誘い出している図では
ありませんから!
先程の七海さまが追い返した女性のいでたちは、非常に似合って
いない夜の蝶でした。
あれって、ハミ出てなんぼなドレスなのに、全然はみ出てないし、
質の悪さと安っぽさが前面に出てる場末のキャバドレスっぽかった。
何となく懐かしい感じのドレスなんだよ。
高校の文化祭なんかで女装カフェとかやったときに予算の関係な
んかで一着夏目先生一枚なドレス。
いいなあ、文化祭。
東雲学園ってば文化祭ないからな、残念だ。
何で文化祭がないのかというと、残念主人公が﹃文化祭をしよう﹄
イベントを発生させるためにないんだ、ゲーム上では。
実際には、警備上の問題とかで外部から人が入ってくるのは望ま
しくないという理由だ。
チケット制にしても、外部生が他の高校に行った友人にチケット
を渡したりして、他校生が入ってきたりするので問題視されるのだ
とか。
話がそれた。
七海さまが出されたお題に全く合格していないわけで、不合格通
知を受け取っての退場は至極当然なわけだ。
私がハスラーなのも、もちろんお題に沿ってのことだ。
156
ああ。早く用件済ませて遊戯室に行きたい!!
時間が許す限り、あそこにこもるつもりだ。
視界に白い屋根が映り始める。
設えはすべて白だが、蔦を這わせ、緑と白の鳥かごのようにも見
える。
奥側はちょっとした斜面になっていて、そこを小さな小川が流れ
ていき、さらに小さな淵へと落ちる滝になっている。
軽やかなせせらぎは、夏の暑さを半減してくれる。
﹁どうぞ、詩織様。ここには何方も来ませんから﹂
﹁本当に綺麗な眺めですこと。風が涼しいわ﹂
この暑い中、わざわざここまで歩いたのは、見た目と反してここ
が涼しいからだ。
この涼しさを知らなければ、誰もここまで歩こうとは思わない。
だから、誰も来ないのだ。
﹁所謂、天然のクーラーというものでしょうか。お聞きになりたい
こと、お話になりたいこと、何でも承りましょう。ご婚約のお祝い
として﹂
﹁御存知でしたのね﹂
﹁つい先ほど、珂織さまからお伺いいたしました﹂
﹁かおる兄さま⋮⋮そう。兄さまは瑞姫様を慈しんでおられました
ものね。一時とはいえ、申し訳ないことをいたしましたわ﹂
肩を落としてベンチに座る詩織様。
﹁ひとつ、お伺いしてもよろしいかしら?﹂
﹁なんなりと﹂
﹁死ぬことを許されない理由とは何かしら?﹂
詩織様の質問に、私は笑う。
﹁生きて、役に立つこと、ですよ﹂
﹁え?﹂
﹁相良は地方の豪族です。とても小さな土地ですが、四方を山で囲
157
まれ、暴れ川と言われる急流を擁し、貧しい荒れた大地を所領とし
ておりました﹂
幼い頃に何度も聞かされた相良家の成り立ちだ。
﹁そんな貧しい土地でも、他の者から狙われる。大地が血で染まれ
ば、さらに土地が荒れる。ならば、その入り口を封じるように武を
得意とする者をおけばよい。河を御し、大地を潤し、豊潤な土地に
生まれ変わらせば良い。知恵者が指揮し、土地を改良する。武者と
知恵者、その双方の家が相良でした。相良の役目は、領地を豊かに
し、飢える者を出さぬこと。それは当主一人ではできぬこと。だか
ら、相良の血を引く者は平等にその役目を負うのです﹂
﹁昔のこと、ですよね?﹂
﹁いいえ。今もです﹂
詩織様の言葉を私は即座に否定する。
﹁領地というものは確かになくなりましたが、今は財閥というもの
に姿を変え、領民は社員となりました。私たちが相良の人間である
以上、社員とその家族を守る義務を負うことになるのです。私たち
が岡部家の者を傍におき、望む者と婚姻ができるのは、そのためで
す。岡部の者は、私が守る最初の者、彼らを幸せにできなければ、
他の者をどうして守ることができようかと訓えられるのです。心配
ばかりかけている私は、失格者ですけれど。岡部の者と伴侶が、私
たちの戒めになる﹂
﹁戒めだなんて⋮⋮﹂
﹁戒めです。疾風に恥じない自分でありたいと思うことで怠惰に逃
げる自分を制することができました。そうでなければ、私はいまだ
に入院していたでしょう。私の役目は、何かあった時の為に私財を
成すこと。会社経営に関しては、相良の大人たちが十分手腕を発揮
することでしょう。まだ子供でしかない私ができることはほとんど
ない。たまたま絵を描く才に恵まれたようで、それで一時的なもの
を得られているようですが、未熟であることは確かですし﹂
そこでちょっと苦笑する。
158
絵の技術は、以前も私のモノであって、瑞姫自身が手に入れたも
のではない。
あれを才能と呼ぶにはお粗末すぎると思っている。
﹁そんな。瑞姫様の手掛けられたお着物を手に入れようと思ってい
らっしゃる方は沢山いらっしゃるのですし、未熟であるとは何方も
⋮⋮﹂
﹁それはそれで役には立ちました。人脈というものを手に入れるこ
とができましたから﹂
﹁え?﹂
﹁手描き友禅を手に入れられる財力をお持ちの御婦人方と親しくさ
せていただけるというのは、何よりの財産です。あの方々は情報の
宝庫でいらっしゃいますから﹂
﹁瑞姫様?﹂
﹁私財というのは、何も金銭だけとは限らないのですよ?﹂
実際に友禅のデザインで手に入る金銭もそれなりにあるのだが、
顧客となっていただいた方々が持つ人脈、情報は菊花姉上が狂喜乱
舞するものだった。
金銭よりも+αの方に価値があると教えられた。
だが、役に立つという点では、少々足りない。
友禅デザイナーというのは、相良瑞姫という人間にとって将来の
職業にするには色々な点で不足があるのだ。
何より、相良の社員の役には立たない。
情報という利益は出せるが、それだけでは足りないのだ。
だから、将来的には別の職業に就くことになるだろう。
しかしデザイナーとして得られた人脈を手放すことはできない。
そこら辺を調整できる職業に就くべきだと考えている。
あの方々の持つ情報を相良に活かせるのなら、いくらでもさり気
なく引き出してみせようと思ってしまう私は、誰がどう見ても健気
ではないだろう。
この身に残る傷跡さえも、彼女たちの気を引けるのなら、いくら
159
でも利用してやろうと考えることができるのだから。
まあ、アラフォーが健気って、ドン引きするけどな。
﹁瑞姫様は、わたくしよりもいろんなことが見えていらっしゃるの
ですね﹂
﹁あなたの質問の答えになりましたでしょうか?﹂
﹁ええ。とても⋮⋮わたくし、イカロスですの﹂
ぽつりと、詩織様が告げる。
イカロス。
ギリシャ神話のイカロスだろうか。
太陽に焦がれ、翼を作って空高く舞い上がり、そうして太陽の傍
へ近づいたときに、その翼を失い落ちた若者。
ギリシャ神話は、神々があまりにも人間的過ぎて、それゆえ残酷
な物語が多い。
﹁あなたが焦がれた太陽は、諏訪伊織ですか?﹂
﹁ええ。あの子もそうです。わたくしが守りたい太陽。そして、も
う1つ。わたくしが焦がれた太陽は2つあるのです﹂
俯いたまま、詩織様が懺悔するように言う。
手の内にある太陽と、手の届かない太陽。
そういうニュアンスに取れる。
﹁わたくしは、同じ年の子達よりも何でもうまくやれると思ってい
ました。実際、そのように皆様が仰ってくださいましたし、自分で
も出来ているつもりでした。ところがそのわたくしよりもさらに素
晴らしいことができる方々がいらっしゃいました。わたくしよりも
小さな御子なのに、何一つ敵わないと思ってしまうのです。悔しい
と思うことすらありませんでしたわ、魅せられてしまって呆然とす
るばかりでしたから﹂
まあ、諏訪はやることなすこと派手だったから、そう思うのも仕
方がないだろう。
160
もうひとり?
八雲兄上なら年上だし、その当時、詩織様の傍にいた子供って誰
だろう?
いや、話の流れから推察すると、瑞姫の事かもしれない。
﹁何をやってもそつなくこなされる。落ち着いていて、慌てること
がほとんどない。かと思えば、笑顔は可愛らしく、人を惹きつけて
しまう。本当に太陽そのものですわ﹂
やっぱり、違うか。
そつなくこなすのは八雲の方だ。
私は手伝ってもらう立場だったし。
慌てても表情は変わりにくいから落ち着いて見えてるかもしれな
いが。
﹁両親の中が冷え切っていて、仮面の夫婦であるということは、初
等部の時に理解しておりました。父は家に帰ってくることはなく、
外に腹違いの弟がいるということは何となく知っていました。弟は
認知されることはなく、諏訪家も存在を否定していましたが。すで
にそのころには、父はギャンブルを好んで私財を投じていたという
ことは知っていました。その私財も尽き、借金を抱えているという
ことも気付いておりましたが、今の生活に変わりがなければそれで
いいと思っておりました﹂
ここのところは、調べたことを見たので知っている。
婿養子が、外で作った自分の子を分家とはいえ諏訪家に認知承諾
の申し入れをすることはできないだろう。
﹁我が子であるわたくしを顧みない父が憎かった。そうして、寂し
かった。だから余計に、わたくしを慕ってくれる伊織が愛しかった。
あの子が理想とするわたくしを演じるのが楽しかった﹂
あれだけ熱心に付きまとうのであれば、楽しいだろう。
それこそ伊織は詩織様を唯一のお姫様のように扱っていた。
﹁もうひとつの太陽は、そんなわたくしを一瞥すらせず、親しい方
を増やしながらわたくしには向けてくれない笑顔を見せて⋮⋮﹂
161
ものすごく居心地が悪いのは何故だろう。
ストーカーちっくな言葉のせいだろうか。
柱の陰からそっと見られていたら絶対に怖いよね。
﹁あの時、わたくしを襲ってきたのが、父の借金に関連すると悟っ
ておりました。わたくしを逃がそうとする伊織の姿に、とても怖く
なりました。本家唯一の嫡子である伊織に何かあれば、分家も生き
てはいけない。とにかく無事に逃がさねばと思っているときに、太
陽の姿を見つけました﹂
あー⋮⋮太陽って、やっぱり私ですか。
嫌だと全力で拒否りたい。
﹁伊織を太陽に託せば、大丈夫だと思ってしまったのです。あなた
を引き留めなければ、あなたが伊織を連れて行ってくれればと、わ
たくしは夢中でした。あなたの名前を呼んで、そうしてわたくしの
目の前で起こった出来事は悪夢でした﹂
涙をこらえるように唇を噛みしめ、瞬きをこらえている。
﹁あなたを轢き殺そうとするなんて、思ってもみなかったのです。
愚かであると思ったのは、律子様に頬を打たれてからのことでした﹂
懺悔だった。
己がしたことを思い返し、いかに愚かだったかを告げる懺悔大会。
彼女の狙いは、太陽による断罪だろう。
気付けば呆れてものが言えない。
今この期に及んでも、彼女の本心からの謝罪はない。
﹁話したかったのは、それだけですか?﹂
私は冷ややかな声を作って問いかける。
﹁いえ、他にも﹂
﹁そのあたりも承るべきだと思いますが、ちょっと聞き飽きてしま
いました﹂
諏訪から何度も聞いた話でもある。
聞き飽きない方がおかしい。
﹁詩織様、あなたは勘違いをなさっておられますと言われませんで
162
したか?﹂
﹁いいえ﹂
﹁なるほど。あの時、あなたが取るべき行動は、いくつもあります
がもっとも良い方法はなんであったかわかりますか?﹂
伊織を私に託すとしか思っていなかった彼女は、戸惑うように首
を傾げる。
﹁何もしないこと、です﹂
﹁何もしない? そんなこと⋮⋮﹂
﹁私があなたに声を掛けられ、車が私を轢くまでの時間、どのくら
いありましたか? ほんの数分ではありませんでしたか﹂
私の言葉に、詩織様は黙り込む。
﹁全員が助かる方法は、﹃何もしないこと﹄だったのです﹂
﹁そんな!﹂
﹁事実です。もう、結果論としか言えないことですが﹂
あの時、詩織様が何も言わなければ、もう少し時間が稼げた。
その間に警邏兵が到着し、私も助けられたはずだ。
犯人たちは殺されずに捕獲され、誰ひとり死ぬことなどなかった
だろう。
﹁あなたは選択を間違えた。それが、2人の人間を死に追いやり、
ひとりの子供を重傷にした﹂
淡々と語る私をじっと見つめる詩織様。
﹁あなたはこれからそのツケを払うことになる。ようやく、ね﹂
﹁わたくし﹂
﹁遅すぎる謝罪は、無意味なのです。私は太陽などではなくただの
人間だ。私個人を見なかったあなたに、告げる言葉を何も持たない。
また会うこともあるでしょうが、言葉を交わすことはないでしょう。
もはや、すべてどうでもいいことなんですよ。私にとってあなたは﹂
無関心ほどつらいことはない。
だからこそ、私はこの人に対して関心を持たなかった。
そうしてこれからも持つつもりはない。
163
救いなど、与えない。
私はその場に詩織様をおいて歩き出す。
﹁瑞姫様! 待って!!﹂
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
追い駆ける声がするが、詩織様は動かない。
自分が持つイメージだけで相手をどうこう決めつけるような考え
方をするつもりはないが、ここで私を引き留めるために追い駆けて
くるならば、まだよかったのに。
声だけでは、立ち止まるつもりはない。
何も聞こえなかったかのように、誰もいないかのように、私は庭
を歩き、母屋に向かう。
そうして、庭の出入り口付近でまたしても見知った顔に出会った。
164
20
あ、御曹司がいる。
そう思ってよく見たら、顔が諏訪で残念だった。
御曹司というのは、今流行ってるアニメの主役格のひとりの渾名
だ。
あのとぼけたキャラが結構好きなのに、諏訪だとはすこぶる残念
だ。
まあ、確かに御曹司だけどね!
半袖のYシャツにライトグレーのネクタイと同系色のパンツとい
う制服スタイル。
東雲の制服と色だけなら似ているけど、誰が作ったんだろう、こ
の制服。
現実逃避をしたいときは、大体、くだらないことを考えちゃうよ
ね、私って。
﹁姿を見かけて声を掛けようと思ったら、騒ぎが起きて⋮⋮割って
入ればよかったと思ったが。すまない﹂
落ち込んでいますというような表情と声で告げられて、何のこと
かと一瞬、考える。
﹁騒ぎ⋮⋮?﹂
﹁東條家分家の令嬢だ﹂
﹁東條? 聞き覚えのない家だな﹂
一瞬、東條凛の名が掠めたが、現時点では東條家と私の接点は何
もない。
考えるように小首を傾げ、首を横に振る。
﹁おまえは知らなくて当然だ。名家とは程遠い葉族の末端だからな﹂
﹁その、東條の分家の娘がなぜ私に?﹂
165
﹁東條本家には後継ぎがいない。分家も女ばかりだ。だから、本家
の当主にふさわしい男と婚約した娘を後継ぎにするという話が出た
らしい﹂
﹁それで?﹂
﹁下世話に言えば、男漁りというのか? パーティというパーティ
に顔をだし、名家の男に声を掛け、ことごとく振られているらしい﹂
だから、どうしてそこで私への悪意になるんだ?
視線で先を促せば、諏訪は言いたくなさそうに口を開いた。
﹁本家の当主にふさわしい名家の男と言われて、最上級クラスを狙
った阿呆だ。同じ葉族を狙えばよいものを、神皇天地狙えば、結果
は知れているだろう? 彼らは相良の娘に選んでほしいと願ってい
るのだから﹂
﹁⋮⋮は?﹂
女帝と女王の間違いでは?
たまに逆ハーレムな状態を見ることがあるけど。
女帝様の場合は、白衣で有名な巨塔状態ともいうが。
﹁もしかして、私の悪口を言いたてて詩織様につく振りをしていた
のは、おまえを取り込むためか?﹂
﹁俺は東雲で令嬢たちを見慣れているんだ。あんな品のない女を相
手にするか﹂
﹁また明後日な方向で攻め込んできたなー。この場合、気の毒にと
いうべきか?﹂
嫌そうに顔を顰める諏訪に視線を流して問いかける。
四族間での婚姻に何も問題は起こらないが、四族と葉族では四族
側が全く相手にしないという現状がある。
葉族は分家が独立した形で本家から切り離された家だ。
下手すると離反した家と取られることもある。
葉族でも藤原から独立した家は名家と呼ばれるものもあるが、そ
の実態を知るものからすれば失笑ものである。
戸籍貸しをして財を成した家があるからだ。
166
名家とは呼ばれない成り上がり商家は、商売をするうえで箔をつ
けるために彼らと養子縁組をするのだ。
縁組をしたことで商家は義親に謝礼を支払う。
そうやって維持する家に何の価値があるのかと。
四族は彼らを不快に思うのだ。
不快な存在にがっつり狙われていい気持などするはずがない。
特に諏訪など、詩織様以外に目をくれなかった男だ。
まとわりつかれれば最悪な機嫌になることだろう。
﹁だから、見かけたときに止めに入ろうと思った。だが、あの場に
詩織がいたし、何より、おまえなら俺よりもうまくあしらえるだろ
うと思った﹂
﹁そうか﹂
詩織様と顔を合わせづらかろう。
大目に見るとするか。
﹁さて、ここでの立ち話は暑いので場所を移したいのだが﹂
﹁すまない。怪我の具合は大丈夫か? 暑さで悪くなったりしない
のか?﹂
﹁古傷だ。暑さでは別に痛まない。と、いうか、暑さで傷が腐りそ
うな表現はやめてほしい﹂
私の指摘に諏訪が固まる。
ちょっと顔色が悪くなった。
どうやら傷が腐っていく様子を想像したらしい。
想像力が豊かなのは褒められるべき事柄だが、何を想像するかは
内容によりけりだと自戒すべきだと思うぞ。
﹁今までのことを色々と話したい。どこか人が少ないところを⋮⋮﹂
﹁私の部屋へ行くか? おじさまが私に用意してくださった部屋が
ある。2階だ﹂
﹁案内してくれ﹂
素直に頷く諏訪と連れ立って、奥へと向かう。
エントランスホールの階段は人目がありすぎるのであそこから2
167
階に上がる必要はない
客人に解放されたスペースからプライベートスペースへと移動す
る。
喧騒から隔離された静かな廊下を歩き、奥の階段から2階へと上
がる。
その階段の近く、中庭に面した部屋が、私に用意された部屋だ。
幼い頃からお祖母様に連れられて大伴家へ遊びに来ていた私が、
幼いゆえに疲れてすぐ寝入ってしまうので、ゆっくり眠れるように
とおじさまが用意してくださったのだ。
今は、七海さまのお供で遊びに行った帰りに泊まらせてもらって
いる。
淡い青と白の壁紙は静けさを感じさせる。
部屋の調度はその壁紙に合わせて整えられている。
あえて言うのなら、カントリー風だろうか。
赤毛のアンをイメージしたけれど、それだと私に合わないので色
を調整してみたと自慢げに仰っていた。
﹁意外だな﹂
部屋に入るなり、諏訪が目を瞠る。
﹁おじさまの趣味だ﹂
﹁⋮⋮あ、そうか﹂
ここが大伴の家であることを思い出し、諏訪は納得する。
﹁そちらのソファに座ってくれ。お茶を出せなくてすまないが﹂
﹁いや、大丈夫だ﹂
ソファに座った諏訪が、首を横に振る。
﹁友人ではないと言われて、ショックだった﹂
ひとしきり部屋を眺めた諏訪が、ぽつりと言った言葉がそれだっ
た。
168
﹁あれで、目が覚めた。今まで散々迷惑かけて、その上、助言まで
もらっていたのに、わかっていなかった﹂
ほう。やっと理解できたのか。
﹁俺が今までどれだけ己の立場に甘えて来たのか、気が付いた﹂
今まで見た中で、一番まともな表情だった。
スタート地点にようやく立ったのだと、その表情でわかる。
﹁まず、詩織のことだが、分家の跡継ぎの娘が本家の俺と婚約など
できるわけがない。そのことに気付かなかった俺もそうだが、詩織
もそれに気付かず、弟のように思っていると言ったことで分家の跡
継ぎの資格がないとわかった。そのことに気付いて初めて、他の家
の者たちが俺のことをどう思っているのか理解できた。さぞ、愚か
しいと嘲笑ったことだろう﹂
うん。笑ったとも。
分家の跡継ぎが本家に嫁ぐことはできない。
その一言を言えば、両者とも傷つくことなく諏訪は自分の想いを
諦めることを選べた。
それだけの頭と理性は持っている。
﹁あの事件も、詩織の一言で相良が轢き殺されかけたということに
重きを置いていなかった自分に呆れた。おまえに逃げろと言った詩
織は優しい人間だと思っていた。おかしな話だ。助けを求めるなら、
声を上げて危険を知らせても、傍にいる者の名前を呼ぶなと言い聞
かせられてきたはずなのに。あれは、相良をわざと狙わせる目的で
告げた一言だった。詩織がお前を殺そうとしたんだ。何の関係もな
い、ただ居合わせただけのおまえを﹂
自分が信じていたことを根底から覆されるのは、かなりつらい。
それこそ、自分という存在すら揺らぐことになる。
﹁俺たちに会いたくないと言ったお前の言葉は正しい。誰が自分を
殺そうとした人間に会いたいと思うものか。それなのに、見舞いを
許そうとはしないおまえを聞き分けのない奴だと思っていた。おま
えのリハビリを見るまでは﹂
169
﹁見たのか、あれを?﹂
何のフラグだ。
あんなもの、お坊ちゃんが見るモノじゃないぞ。
﹁父に連れられて、見た。リハビリがあんなにきついものだとは思
わなかった﹂
両手に顔を埋め、首を横に振る諏訪。
見たのは歩行訓練か。
脇の高さのバーが左右両方にあり、そこに掴まり、あるいは脇に
挟んで体を支えながら足にかかる負担を減らしただひたすら歩く訓
練だ。
ただし、いきなり歩くのはいろんな場所に負荷がかかるので、筋
肉をほぐすストレッチを行った後にやる。
萎えた足で歩くため、身体を支えてもまっすぐには歩けない。
しかも、足が上がらないため、よくこけるのだ。
こけても、基本的には助けてもらえない。
起き上がることもまた訓練だからだ。
歩くと同時に、身体に衝撃が少ないこけ方を学び、そうして諦め
ないことを学ぶ。
あの訓練は、ちょっと意地になるのだ。
派手にこけるため、近くでリハビリしていた人が助け起こそうと
手を差し出してくれるのだが、それを全部断り、自力で立とうとみ
っともなくもがいては何とか立ち上がる。
なにせ、片腕も見事に使えないのだ。
両手がつけないと、上体を起こすことも非常に難しい動作になる。
見る人がやきもきしてしまうので、それが伝わってストレスに感
じてしまうので、見られたくなかった。
﹁人それぞれだ。私はきついとは思わなかったぞ。うまく立ち上が
れたときは、得意絶頂になっていたな﹂
手足が思うように動かないことを嘆くよりも、先日より確実に動
けてることに喜びを感じていたため、実はリハビリは好きだった。
170
リハビリ担当医が思いっきり褒めてくれるのも好きな理由だった
けれど。
自分がきちんとしたことを褒めてもらえるのは非常にうれしい。
だから、リハビリを熱心にしていたのだ。
お手軽な性格と呼んでくれ。事実だから、これに関しては怒らな
いぞ。
﹁俺たちが、おまえをあんなつらい目に合わせたんだと、あの時思
った﹂
﹁もう過ぎたことだ﹂
﹁憎まれても仕方がないと思った。だが、実際には違ったんだな﹂
諏訪の視線は相変わらず足元に落ちている。
私の顔を見ることができないらしい。
﹁おまえが無関心を装うことで、俺や分家への報復を抑えてくれて
いたんだな﹂
﹁装ったんじゃない。どうでもよかったんだ。自分のことに対して
必死で﹂
﹁どちらでも構わない。だが、助かったのは事実だ﹂
諏訪グループは、あの事件直後、本当に屋台骨が揺らぎ、潰れる
のではないかと思われるほど業績悪化したのだ。
相良からの報復を予想した者たちが一気に手を引いたせいもある。
実際に相良が報復措置を取ったのは、諏訪分家筆頭のみである。
あれで借金が余計に膨らんだとか聞いたけど、聞かなかったこと
にした。
﹁先日、俺に渡された書類の中に紛れ込んでいた不正疑惑のメモは、
父がわざと入れていたものだとわかった。そして、集めた資料も思
った以上に簡単に集まった。相良で集めたものだと後から聞かされ
た﹂
息子への試練にしたのか、諏訪当主は。
息子を廃嫡にするかの見極めだったのかもしれない。
﹁俺が未熟であることが、あの資料集めひとつでもわかった。これ
171
では、おまえに認めてもらえなくても当然だ。あれらはおまえの指
示だったと聞いた﹂
﹁それは、違う。私ではない﹂
﹁いや、おまえだと確かに聞いた﹂
ようやく諏訪の視線が私に向かう。
﹁こんなに差があるのなら、友人ではないと言われても仕方がない
と理解できた﹂
はっきりとした眼差しでこちらを見る諏訪に、私は溜息を吐く。
これからの展開が鉄板なシナリオに向かうのではないかと、ちょ
っとうんざりした。
172
20︵後書き︶
昨日UPした19話は後程大幅改定いたします。
眠気と闘いながら書くと、書き落としが結構あるのです。
申し訳ないです。
おそらくいろいろと不思議に思う点があると思いますが、後々答え
合わせができると思いますので、ゆっくりお待ちください。
173
21
ゆっくりと部屋の中に沈黙が降りる。
私の言葉を待つ諏訪、何も言わない私。
どういう答えがほしいのか、考える事すら面倒だ。
﹁あの時も﹂
何も言わない私にしびれを切らしたのか、諏訪が話し始める。
﹁誰もが俺の想いを否定した中、おまえだけが認めてくれた。それ
がどんなに嬉しかったか⋮⋮なのに俺は﹂
﹁そのことについて、ひとつ、言っておこう。諏訪﹂
フラグは折るためにある。
断言しよう。
フラグは立てるものではなく、折るものだと。
﹁あの時の自分の精神状態をわかっていたか、諏訪? おまえは、
間違いなく壊れかけていた﹂
﹁⋮⋮あ⋮⋮﹂
﹁おまえは、精神的に弱すぎる。脆いと言った方が正しいか。想い
を捨てきれない自分と、他の者の言葉が正しいと思い従おうとする
自分とで揺れていた。その振幅が激しすぎるゆえ、精神に異常をき
たしかけていた。部屋で暴れて、中を壊しまくったそうじゃないか。
大神に聞いた﹂
﹁それは⋮⋮﹂
﹁誰も対処法を見つけられず、私に押し付けて来たんだ、何とかし
てくれと、な﹂
対処法なんて簡単だ、カウンセラーをつければいい。
それだけのことを体面を気にしてできないのか、思いつかないの
かわからないが、やらなかったということが諏訪サイドの基盤の弱
さだ。
174
挙句の果てが、被害者側である私に事態の収束を押し付ける。
呆れない方がおかしいというものだ。
﹁だから、何とかしてやっただけだ。認められずに壊れかけるのな
ら、認めてやればいい。それだけだろう?﹂
疾風が捜し回るかもしれない。
早く遊戯室に行かないと。
﹁⋮⋮相良﹂
﹁実際、おまえの詩織様に対する想いは、﹃恋﹄じゃない。異性に
向ける想いじゃなく、母親に向ける思慕だった。それが母親ではな
かったため、おまえは恋だと思い込んだ。独占欲は酷かったが、所
謂﹃欲﹄は一切なかった﹂
﹁なぜ、そんなことを⋮⋮﹂
﹁答えは簡単だ。詩織様に無理やり手を出そうとしたことは一度も
ないだろう? お行儀よく傍にいただけだ。普通なら、衝動的にな
るはずだ、おまえの性格上。そして、そんな話題は一切外には漏れ
たこともないし、おまえの態度が変わったこともなかった。非常に
わかりやすい﹂
﹁⋮⋮なっ!! なんてことを、おまえっ!!﹂
﹁正直に答えただけだが、気に食わなかったか?﹂
真っ赤になった諏訪が声を荒げるが、怒っているのではなく恥ら
っての言葉だった。
﹁私が認めただけで、おまえは落ち着いただろう? 誰でもいいん
だ、別に。自分の想いを認めてもらえれば。そうすれば、冷静に戻
れる。冷静になったおまえは、父親に試された。それが、分家筆頭
の横領問題だ。あれは、随分前からわかっていたことだ。相良の方
で調べたというのは本当だ。私の身を守るための切り札の一つだっ
たからな。それを祖父がおまえの父親に見せ、諏訪当主はおまえが
次期当主としてどういう判断を示すか、書類に紛れ込ませたという
わけだ。分家筆頭の処分を決めたとき、おまえは詩織様に対して罪
悪感は覚えたけれど、喪失感は感じなかっただろう? 自ら失恋を
175
決めたというのに、前回のような落ち込みを人に見せず、自分も感
じなかった。違うか?﹂
畳み掛けるように告げる私の言葉に、諏訪は呑まれている。
気分が高揚している時なら、気にもかけない言葉だろうが、下降
気味の時には他に圧倒されてしまうという不安定さ。
それを自覚して、コントロールできなければ当主としてはやって
いけないだろう。
﹁どうして、それを⋮⋮﹂
﹁言っただろう? おまえは、わかりやすい、と。人の上に立つ者
としては致命的な欠点だ。そもそも、2年前の事件で、一番莫迦な
ことをしたのは私の名を呼んだ詩織様ではなく、おまえだとういこ
とをわかっているのか?﹂
﹁⋮⋮え?﹂
茫然とした表情で私を見つめる諏訪。
やっぱりわかっていなかったか。
現当主は、この莫迦息子をどうするつもりなんだ?
人に教育まで押し付ける気か!?
もしそうだったら、全力で諏訪家をぶっ潰すぞ、マジで。
勿論、潰すだけの権力も何も持ってないので、兄姉に泣きつくこ
とになりそうだけど。
﹁ああ、わからないのか。簡単なことだろう? 襲われた時におま
えがスマホのSOSアプリに触れればそれだけでよかったんだ。そ
の時点で警備部に連絡がいく。同時にGPSでおまえたちの居場所
が警備部にわかるから、2分で辿り着けた。私が係る間もないうち
にすべてが終わる。どうだ?﹂
﹁そんな! 俺は⋮⋮﹂
﹁詩織様を解放しようと、無謀にも大人4人に対し、抵抗を試みて
いた。一見美談だが、あまりにも愚かな行為だ。子供が大人にかな
うわけがない。おまえが諏訪家の人間だったから金蔓の息子だから
殺さずに排除しようと向こうも手加減していただけだ。おまえのそ
176
のすぐに感情的になる癖を何とかしないと、本当に命取りになるぞ﹂
深々と溜息を吐いてみた。
﹁それに、学習しないという点も致命的だ。襲われて、抵抗しよう
として怪我をした。抵抗の仕方がわからなかったからだ。それなら、
自分の身を守り、周囲の者も守れるように護身術を学ぼうと思うく
らいのことは、普通、考えるはずだ。実際に襲われた経験があるな
ら。しかし、おまえはどうだ? 何もしなかった。つまり、何も学
ばなかったということだ、あの事件から﹂
以前とは違い、真剣に私の言葉を受け止めて咀嚼しようと宙を睨
みつける表情。
多少はマシになったが、まだ足りない。
﹁それでも、私に友人と認められたいか?﹂
﹁認められたい。相良と友人になりたい﹂
﹁では、私のメリットはなんだ?﹂
﹁え?﹂
意外なことを聞いたとばかりに、目を瞠った諏訪が私を見る。
﹁⋮⋮これも、か⋮⋮本当におめでたいな﹂
本心から呆れたぞ。
﹁名家と呼ばれる家の出で、友人関係を築くというのなら、お互い
にメリットがなければ意味がない。私の場合は、私の顧客という人
脈と、そこから齎される情報、そして私自身の解析力だ。まあ、尤
も、私の持つ解析力など姉たちに比べれば大したものではないがな。
他にも多少はあるが、大体、そんなものだ。在原と橘もすごいぞ。
在原もある程度の人脈を持っているが、彼の語学力は素晴らしい。
現時点で5ヶ国語を流暢に話せる。今、ラテン語を習得中だそうだ。
最低12ヶ国語を話せるようになりたいと言っていた。現地語で商
談ができるのなら、こちらに有利にまとめることができるからな。
静稀なら問題なく習得できるだろう﹂
﹁まさか!﹂
﹁本当だ。私ですら、3ヶ国語で精一杯だ。フランス語とイタリア
177
語まで何とかなって、あとドイツ語を覚えねばならんだろうが。お
まえは英語以外、何処の国の言葉を習得している?﹂
固まっている諏訪の顔を覗き込み、英語だけだと悟る。
まあね、予想はつく。
諏訪家は神巫の家系だ。
基本的に日本語さえというか、祝詞さえわかればいいという環境
の中で育っている。
グループ企業の中では珍しく、海外進出に消極的な一族だし。
﹁橘誉も独自の人脈を持っているし、その情報網も独特だ。それに、
なかなかの雑学王で博識だ。学問より知識に特化して学んだ結果だ
ろう﹂
ゲーム設定では、橘は橘家当主と芸者の息子だ。
そのことを揶揄されて鬱屈が溜まっていたのを残念主人公に慰め
られるという展開だったが、ここではちょっと違う。
橘家当主夫妻と誉の実母は幼馴染という鉄板設定だ。
夫人は生まれつき心臓が悪く、子供を産めない。
だけれど、当主の子供が欲しい。
代理母はこちらでもまだ許可が下りてないので代理出産は無理だ
った。
そこで、彼女は幼馴染に頼んだのだ、夫の子供を産んでほしい、
と。
惚れっぽくて気風がいいまさに芸者の見本のような誉の母親は、
わりとあっさり承知したのだ。
芸者の仕事をするには子供が邪魔だから引き取ってくれないかと、
生まれたての子を幼馴染の親友に託した。
普通、そこで実母は姿を消すのがお約束なのだが、彼らは実に大
らかだった。
隠しておくべきだろう事実をあっさり公表し、それどころか息子
を連れて生みの親のお座敷に行くのだ。
事実を公表しているのだから、他の芸者衆からの受けはいい。
178
客の情報を決して漏らしたりはしない芸者衆だが、母親に会いに
行く息子ならば気付くことがある。
そういったことで、橘はちょっと変わった情報収集ができるのだ。
ちなみに、私も橘のお母さんのお座敷に行ったことがある。
いい声をした三味線が上手な芸者さんであった。
カッコいい女性は好きだと、彼女を見るたびに思うのである。
﹁それで、諏訪。おまえが私にくれるメリットはなんだ?﹂
今のところ、デメリットしかないことはわかるだろ。
﹁詩織様に傾倒しすぎで、ろくに人脈を持たず、大した情報を得る
こともできず、感情的になりすぎて冷静な判断が下せない。それが、
現時点でのおまえだが、それでもメリットがあるのなら言ってみろ
?﹂
言っておくが、私は諏訪のことをそこまで憎んだりとか嫌いだっ
たりはしていない。
何故なら、いい声だからだ。
ゲームでは王道ルートの主役の1人だけあって、声優陣も相当張
り込んだらしく、美声で有名な人気声優が中の人であった。
他愛ないことを話す分には、いい声だけあって聞き惚れる。
声フェチにとって、好みの声というものは、それだけで価値があ
る。
中身がどれだけ残念だろうと、声が良ければ許される。
私と関係ないところで、好きなだけ喋ってくれとすら思っている。
聞くだけ聞くから! 聞き耳立てるから!!
だから、話しかけなくていいよ。
そう思う程度には諏訪の声が好きだ。
中身に価値を見出すことは今のところないが。
﹁まあいい。自分にメリットがあると思ったら、言いに来てくれ。
そこから考えよう。それまで諏訪伊織は、私にとって知人以下の存
在だということを理解していればそれでいい﹂
そこまで告げて、私は立ち上がる。
179
﹁では、夏休みが明けるまでさよなら﹂
そう言って、私は自分の部屋を後にする。
部屋を出たところでこちらに向かって歩いてくる疾風の姿を見つ
けた。
やっぱり、時間を食い過ぎたか。
﹁疾風!﹂
片手をあげて、合図すれば、疾風が走ってやってくる。
﹁瑞姫、こんなところで何をしていた﹂
﹁んー⋮⋮外に出て暑かったから、汗拭き?﹂
﹁⋮⋮ごめん。聞いた俺が馬鹿だった﹂
神経質になりすぎたと耳を赤くして告げる疾風に笑いが出る。
﹁遊戯室へ行こう!﹂
﹁ほんと、ビリヤード好きだよな、瑞姫は﹂
﹁おじさまに教えてもらったからね。勝負してやろうか?﹂
にやにや笑って答えれば、仕方なさそうに疾風が頷く。
﹁大伴様が初心者の在原にビリヤードの基礎を教えて特訓なさって
いる最中だ。在原はゲームするつもりらしい﹂
﹁いいね。楽しそうじゃないか!﹂
喜ぶ私に疾風が肩を落とす。
﹁ものすごく不安だ﹂
﹁大丈夫だって。手加減してあげないけどね﹂
そう言って笑うと、私たちは地階にある遊戯室へと向かった。
180
21︵後書き︶
週末はムーンさまの方の作品を更新する予定ですので、こちらの方
の更新が滞るかもしれません。
181
22
遊戯室への道のりで、私は非常に機嫌が良かった。
これでしばらくは諏訪に煩わされずに済む。
友人をメリットで選ぶわけないじゃないか、普通。
あれはただの付属物だ。
友人関係は、相手を信頼できるかどうか、だ。
その友人が困っているときに、自分が持っている何かで手助けで
きればいいという程度のものだ。
勿論、こういう世界に身を置く以上、困っているというレベルが
普通ではないことが多いので、手助けしたいと思う以上、かなりハ
イレベルな手持ちが必要であるというのは確かだ、
何であんな言い方をしたのかというと、諏訪の執着は病的だから
だ。
詩織様への執着具合からもわかる。
相手の全部を自分に向けないと気が済まないヤンデレっぽさがあ
る。
自分のメリットが何であるのか、またはメリットになるものを作
っていこうと考える以上、デメリットについても学ぶはずだ。
そこで異常ともいえる執着心に気付けばいい。
尤も、1年やそこいらでメリットが作れるわけもない。
東條分家の令嬢がここで出て来たということは、東條凛が現れる
可能性もまた捨てきれない。
来年の春、東雲に来たのなら、心より諏訪を進呈しよう。
そうすれば私の心の平穏が保たれる。
うん、いい考えだ。
私は他人の恋愛事情に巻き込まれるのは嫌だ。
182
﹁機嫌がいいな、瑞姫﹂
私の機嫌のよさに気付いた疾風が、何となく嬉しそうに言う。
5歳の時から傍にいる疾風は、私よりも私の感情に詳しいときが
ある。
それを言い当てられるときはちょっと癪に障るときもあるけれど、
こういう時は言わなくてもわかってもらえることが嬉しかったりす
る。
﹁うん。しばらく落ち着いて暮らせるかと思うと嬉しくてね﹂
﹁そうか。それならよかった。治療の方に専念できるな﹂
﹁またリハビリの日々かぁ﹂
﹁意外とリハビリ好きだもんな、瑞姫は。毎日行くから、退屈しな
いように﹂
﹁ありがとう。疾風が来てくれると助かるよ﹂
少し早いが、そろそろ将来のことも考えなければいけないだろう。
極秘に進路について決定しておかないと、学業の方向性を決めら
れない。
一緒の進路を希望すると言ってくれている疾風も困るだろうし。
何より、私には少しばかりやりたいことが見えてきたというのも
ある。
﹁必要なものがあれば、俺が用意するから、何でも言ってくれ﹂
﹁うん。ありがとう。その時は頼むよ﹂
笑みを浮かべて頷いた私は、階段のところで立ち止まる。
ひとつ、深呼吸。
そうして表情を変える。
瑞姫ではなく、相良家令嬢のものへと。
遊戯室は大体、屋敷の1階か、地階に作られていることが多い。
使用目的で場所が変わるということを聞いたことがある。
183
純和風の相良家本邸にはないものだけに、連れて来てもらって初
めて見たときには本当に驚いた。
1階に作られた遊戯室というのは、お客様もてなし用と考えられ
たものが多いとか、地階の場合はプライベート的要素が強いもので、
客人でも特に親しい者しか招かない方もいらっしゃるという。
大伴家の遊戯室は地階。
ほとんどプライベート用だ。
何故かというと、このご夫婦の趣味にある。
おじさまは映画好きで、奥方の七海さまは舞台好き。
行動派の七海さまはご自分の好きな舞台があると聞けば世界中ど
こでも駆けつけてご覧になっているのだ。
たまに私も強引に連れて行かれる時がある。
夏休みのような長期休暇の時に限るけれど。
先程の話題に出たドン・ファンもその舞台のことを指している。
有名なオペラや話題作はもちろんだが、マイナー路線の歌劇など
も七海さまの琴線に触れればチケットを手配されている。
私がイタリア語を何とか習得したのもそのおかげだ。
何を言っているのかわからなければ、せっかくの舞台が台無しに
なってしまうのだ、自分的に。それは絶対もったいないと思う。
おじさまの映画好きは、海外移動に関しては大人しい。
だがしかし、一度その映画にはまってしまうと、屋敷内の部屋を
改造して映画の一幕を再現してしまうという悪癖と七海さまが言う
癖がある。
私の部屋しかり、遊戯室しかり。
遊戯室は、ビリヤードを題材にした映画はもちろん、他にも演出
の一環で映し出された遊戯室を参考に、おじさまが理想の部屋を作
り出したご自慢のお部屋なのだ。
部屋の一面はバーカウンターがあり、そこもまた映画のワンシー
ンに出てきそうでカッコいい。
部屋の中央部分にビリヤード台が2台あり、奥にはビリヤードに
184
似たもう一回り大きな遊技台が置いてある。
なんでも﹃あっかんべー﹄とかいう意味のビリヤードに似たゲー
ムがあるらしく、その専用台なのだそうだ。
さすがにその名前は、私はわからない。
調べればわかるだろうが、今のところビリヤードが面白くて、そ
ちらまで気が向かないというのが正直なところだ。
ビリヤード台は、艶のある木材で細かい彫刻がなされている。
それだけで芸術品だという人もいる。
だげど、ビリヤード台はゲームをしてこそ、と、仰って、おじさ
まは特訓を重ねてプロ並みの腕前になられたとか。
あの台の美しさに目を奪われた幼い頃の私は、おじさまの餌食と
なり、ビリヤードを教え込まれた。
なにせ、子供ですから、身長は足りない、腕の長さも指の長さも、
何もかも足りない状況で、それでも徹底的に基礎を教え込まれ、キ
ューの握り方、球の突き方、ポケットへ落とすべき場所の狙い方、
それこそ色々と心理戦などの駆け引きの仕方まで、本当に何もかも
教え込まれたのだ。
私がビリヤード好きになったのは、おじさまが犯人であることは
間違いない。
そうして、いつかあの台で正装してゲームしてみたいと思ってい
た。
紳士の遊戯であるビリヤードは、その試合は第一級の正装でする
ことがルールとして決まっている。
私の場合、紳士じゃないですけど。淑女ですけど!! でも、紳
士の正装です。
七海さまの謎かけは、﹃友達を連れてビリヤードをしにいらっし
ゃい﹄という意味で間違いない。
私を迎えにきた七海さまは、キューを持っていない私にハスラー
さんだと声を掛けたことからも答えがあっていると思える。
キューを持っていたのは在原のみ。あとは疾風が持っていたキュ
185
ーボックスに全部入れていた。
あの場所で、私一人が詩織様の傍にいて、残りの3人は後ろにい
た。
キューも、キューボックスも七海さまから完全に見えていたのか
どうかはわからない。
だが、七海さまの言葉に迷いはなかった。
パーティに招きながらも、周囲に私が来たという印象を植え付け
ながら、遊戯室というおじさまの私的空間へ隔離するのは私と接触
するには大伴家が相手を見極める盾となるということを周囲に知ら
せるためでもある。
なおかつ、諏訪家の2人と私を会わせたのは、この件で大伴家も
介入する意思があると諏訪当主と相良家へ知らせるためだ。
仲介が必要なら、引き受ける用意がある。だが、その前に両者と
も今一度あの事件での自分たちの立場を思い出せと突きつけて来た
のだ。
これ以上わだかまりを残すような真似をすれば、上流社会の空気
がぎくしゃくして不穏すぎるため、きちんと清算しろと態度で示し
たのだろう。
発する言葉がすべてではない。
物事の表面を額面通りに受け止めるな。
すべての裏を読め。
相手の状況、性格、周囲の空気、何もかもを情報として受け取り、
その陰に隠された真実を導き出せ。
それが、大伴のおじさまに教えられたことだ。
ビリヤードを通して、私がいる世界との付き合い方を学ばせてく
れた。
そして、もうひとつ。
何か、言葉を発するときに、その言葉を放った後、どういう状況
になるのか、どの程度の影響が出るのか、それが己の求める結果と
一致するのか、それらすべてを考え、発せよと教えられた。
186
言葉は種と一緒だ。
種をまき、芽が出て育ち、花をつけ、実がなる。
言葉を発した後、どういう実がなるのか、それらを計算し、熟考
して口にせよという訓えは、私の中に根深く植えられた。
何気なく発する言葉ですら、どういう影響が出るのかを考え、相
手の言葉が示す意味を言外から読み取るようになった。
先程の詩織様と諏訪への言葉も、そうだ。
現実を捉え、見据える気があるのなら、私が言った言葉の意味、
言わなかった言葉も見えてくるだろう。
結果はどちらでも構わない。
私はすでに得難い友人たちを得ることができたのだから。
相良家の末の令嬢が人前に出るということは、ここ数年ほとんど
なかった。
岡部家の者を伴い、現れるということは、それなりの意味がある。
これ幸いと近付いてくる人々を笑顔でかわし、足を止めることな
く目的地を目指す。
なにしろ、死亡したことを隠しているとか、二目と見れない顔に
なったとか、四肢の損傷がひどくひとりで動くことができない身で
あるとか、様々な憶測や中傷が飛び交っている。
中には私が本物の相良瑞姫であるのかと疑っている者もいるだろ
う。
東雲に通う私が男子生徒用の制服を着ていることから、実際はよ
く似た男の子に影武者をさせているのではないかと思っている人も
いたとか。
こうやって歩いている姿を見ても、足を引き摺っているのではな
いかと、足許を見てくる人もいる。
上流社会というのは、複雑怪奇な世界だ。
187
綺麗なだけではやっていけないというのが、真相に近いだろう。
そんな人たちを笑顔で煙に巻いて、遊戯室へと向かう階段を下り
ていく。
木片と木片がぶつかるやや高めで乾いた音が響く。
そのあとに続く、がこんと何かが落ちた音。
﹁よっしゃーっ!! 落ちたぞ!﹂
﹁⋮⋮手玉がね﹂
テンション高く響く声の後、笑いをかみ殺した声が聞こえてくる。
もちろん、在原と橘だ。
﹁ええーっ!? マジかよ? 何で!?﹂
﹁静稀君。今は引き球を打たないといけないところだよ。君は少々、
詰めが甘い﹂
楽しげなおじさまの声がする。
﹁う∼ん。そっかー⋮⋮引き球⋮⋮苦手なんだよな﹂
手玉の突き方は、何種類かある。
状況に応じて瞬時にその突き方を決め、その球を突いたとき、ど
ういう結果になるのかを想像して、それから突く。
引き球の突き方自体、そこまで難しいものではないのだが、その
判断を下すという時に、よく戸惑いやすい。
球がポケットの手前で止まるのではないかと、距離と突く力を計
算し、思ってしまう時があるからだ。
在原が言った﹃苦手﹄とは、引き球を突くことでもあるし、それ
をどういう時に突くべきかと判断することでもあるのだろう。
﹁遅くなって済まない。待たせてしまったか?﹂
﹁瑞姫!!﹂
﹁おや、瑞姫ちゃん。七海が言った通り、可愛らしいハスラーさん
が来たね。うんうん、似合ってるね﹂
肖像画のフェリペ二世に激似の男性がにこやかに笑う。
﹁⋮⋮おじさま、お招きありがとうございます。ですが、何故、フ
ェリペ二世になられたのでしょうか?﹂
188
﹁うん。そこは私も疑問なのだが、まあ、七海の趣味と私が似てい
ると七海が主張するから、かな?﹂
にこにこと穏やかに笑みを浮かべて答えるおじさま。
﹁押し切られちゃったんですね﹂
﹁そうともいうね。七海が楽しいのなら、それでいいんだと思うよ。
この夏の宴は、七海の楽しみのひとつなのだから﹂
のんびりとした口調でおじさまが言う。
﹁私は有望な若人と出会える機会が増えるのが楽しいし﹂
そうか、おじさまは在原が気に入ったのか。
﹁瑞姫! 勝負だっ!!﹂
びしっと指を突き付けて在原が宣言する。
その指を橘が握る。
﹁こら、女の子に指を突き付けない。というか、人に向かって指を
さすなんて行儀悪いぞ﹂
﹁ポーズは決めないとな! それに、こんなことくらいで瑞姫が怒
るか﹂
﹁あはははは⋮⋮確かに怒る気もないね、私は﹂
ポーズが決まってよかったねーくらいは思うけど。
﹁ほら、言った通りだ。細かすぎるんだよ、誉は﹂
﹁おまえが大雑把すぎるんだ﹂
﹁別にいいだろ? 僕は瑞姫に嫁にもらってもらうんだし﹂
﹁瑞姫の予定を考えろ!? 家事が一切できない嫁なんて、まった
くいらないだろ、普通﹂
在原と橘の漫才が続けられる。
ちなみにこの場合の﹃家事﹄とは、家の中のことの采配を示す。
掃除洗濯料理などの主婦のお仕事的キーワードとは違うのだ。
掃除・洗濯・料理はそれぞれ専門の人間に任せればいいことなの
だ。
誰がどの仕事をして、それをいつまでにしあげるのかということ
を考えるのが家事の一部だ。
189
一点集中型の在原には、全体の流れを把握して、それぞれの細か
いところをチェックするということは苦手な箇所らしい。
﹁君たちは仲がいいねぇ﹂
感心したようにおじさまが笑う。
﹁そうですよ。仲がいいんです﹂
おじさまの言葉を真似して、私も笑う。
﹁それで、静稀。勝負って勝ち抜き戦でやるの? それとも他の方
法?﹂
﹁チーム戦! 僕と岡部が同じチームで、誉と瑞姫が同じチームだ﹂
﹁ふうん﹂
私は橘を見上げる。
﹁そうらしいよ。よろしく﹂
﹁うん。よろしく﹂
おじさまが稽古をつけていたのは在原だ。
橘にはしていないということは、橘はビリヤード経験者で、おじ
さまが教える必要なしと考える程度の実力があるということか。
﹁じゃあ、どっちが先行? 正式ルールと一緒の方法で決める?﹂
私の言葉に、在原が笑う。
﹁レディファーストで、瑞姫たちが先行でいいぞ﹂
﹁わかった。ありがとう、在原﹂
﹁どういたしまして﹂
この表情は、やっぱり聞かされていないらしい。
いいことしたという表情でにこにこ笑っているし。
﹁誉、ブレイクショットは?﹂
﹁瑞姫に譲るよ﹂
穏やかに微笑む橘の笑顔で、こちらは知っているのだと読み取る。
﹁そうか、では任された﹂
頷いて了承の意を示すと、向こう側で疾風が呆れた声で在原を怒
っていた。
﹁瑞姫は大伴様に師事したけど、今は師事していないって意味、ま
190
だ分かってなかったのかよ、おまえ!﹂
﹁えー? 今はビリヤード習ってないってことだよね﹂
﹁⋮⋮この莫迦⋮⋮﹂
がっくりと肩を落とした疾風が首を横に振る。
﹁じゃあ、始めようか?﹂
疾風とは対照的に上機嫌の私は彼らに声を掛ける。
この素晴らしいビリヤード台に敬意を表して、絶対に手抜きなん
てしないからね、在原。
覚悟してくれ。
ニヤリと、実にイイ笑顔を浮かべている自覚をしながら、私は自
分のキューへと手を伸ばした。
191
23
ゲームの始まりは、ブレイク・ショット。
きれいに並べられた球を手玉で崩し、散らす。
トップクラスのプロになれば、このブレイク・ショットでゲーム
が終わってしまうこともある。
ゲームはナインボール。
初心者の在原におじさまが教えたのがこちらだったからだ。
覚えやすいゲームだから、そうなさったのだろう。
自分のキューを手早く組み立て、先端にチョークをこすり付ける。
このキューの手入れの仕方も、おじさまに教わっている。
先端に粉をつけっぱなしにしてはいけないので、毎回、きちんと
拭き取って全体を磨いて片付けるようにしている。
準備を整え、台に向き合う。
﹁じゃあ、静稀、始めるよ?﹂
ゲーム経験のない在原に問いかける。
ナインボールとはいえ、ゲームを始める時は独特の緊張感が伴う。
その緊張感を覚え始めている在原の強張った表情に気が付いたか
らだ。
﹁お、おう﹂
案の定、がちがちに固まった在原が、がくがくっと音がしそうな
ほどぎこちなく頷いて返事する。
おじさまと橘が苦笑する姿が視界の隅に映る。
これは、確実に疾風の負担になるな。
﹁大丈夫だ、静稀。君の出番はないから﹂
ぽんっと肩を叩いて言えば、在原の表情が一転する。
﹁何だとーっ!? ちょっ! 瑞姫ちゃん、それ、ないんじゃない
?﹂
192
ありえないだろうと、よく変わる表情で訴えてくる。
緊張がほぐれたようだ。
﹁じゃあ、始めるから﹂
そう言って、台の上に身を乗り出す。
手玉から少し離れた位置に左手をつく。
人差し指で輪を作り、その間にキューの先端を招き入れる。
軽く何度か予備動作を行い、手玉を突く位置を決める。
台の上で身体が面に触れそうなほどに沈め、低い位置から打ち込
む一撃。
がつんという音の後、さらに音の連鎖が始まり、台の上を的玉が
勢いよく散らばっていく。
そしてがこがこっと鈍い音共に的玉がいくつかポケットに吸い込
まれて落ちていく。
﹁⋮⋮すっげー⋮⋮﹂
呆然と台を眺めていた在原が、突然くるりと疾風を振り返る。
﹁岡部! おまえ、瑞姫が上手いなんて一言も言わなかったじゃな
いか!!﹂
掴みかからんばかりの勢いで、文句を言い出す。
﹁大伴様が今は教えてないっていう意味、わかるか? って、言っ
ただろ!? もう教える必要が何もないからだってことだ!!﹂
疾風は疾風で在原が早とちりしたんじゃないかと応じる。
疾風は言葉が足りない時があるからな。
﹁1、2、4、6!﹂
おじさまが落ちた球のナンバーをコールする。
﹁9は落ちてないから、続行だね。瑞姫ちゃんからだ﹂
﹁はい。じゃあ、慎重に3だけ狙おうかな﹂
3番ボールの傍に行き、手玉の位置とその周辺の球の関係を確認
する。
手玉を突くというが、本当は撞くというのが正しい。
手玉を突く箇所は9点ある。
193
基本は中心を撞くセンターショットだ。
水平に撞かなければまっすぐに進まない。
センターショットが完璧にできるようになれば、ゲームの先行を
決めるバンキングを優位に進めることができる。
センターショットを覚え込まされたあと、他の8点の位置を正確
に撞けるようにこれまた特訓された。
ブリッジを作る人差し指が攣るんじゃないかとまだ短い指で思っ
たことが何度もある。
﹁これ、無理なんじゃない? 間に7番入ってるし﹂
センタースポットの近くに3番、少し間をあけて7番のボールが
あり、そしてさらにその手前に手玉がある。
空クッション、つまりクッションボールと言われるクッションに
当ててから3番に当てる方法を取ると楽なのだが、そのクッション
が遠い。
そして、クッションに当ててしまうとセンタースポットに落ちな
いで別の方向へ走り出してしまうだろう。
そのことを読み取った在原が難しい表情でテーブルを睨んでいる。
私がサーブを仕損じれば、次は在原の番だというのに、私が落と
す方法を案じている素直さ。
競い合うゲームだとわかっていても、撞く人間が成功することを
願うまっすぐな気性はこの世界では貴重で微笑ましい。
私や橘なら、仕損じた球がどこへ移動するのかを予測し、どうや
ってそれをポケットに落とすかを考えてしまうだろう。
疾風は私がこのポジションで失敗するとは思っていない。
だから、のんびりと見守っている。
﹁瑞姫、右と左、どっちで行く?﹂
﹁んー⋮⋮右!﹂
橘の問いかけに答え、私は台を回り込んで位置につく。
手玉の中心位置から水平に右側を撞けば右回り、左側を撞けば左
回りに曲がる。
194
あとは撞く力の強さを計算すれば、その半径が決まる。
ちなみに中心より上を撞けば押し玉といって、手玉がまっすぐ押
し出されるように進み、中心より下を撞けば引き球で手玉が手許へ
戻ってくる。
これに左右撞きを組み合わせてひねりの押し玉引き球ができる。
左右ひねりを撞く場合、テーブルの隅だとストロークできない場
合がある。
そんな時には垂直にキューを立てて撞くことがある。
曲打ちのように捉えられ、映画なんかの見せ場になったりするあ
の撞き方だ。
そしてブレイクショットの次のショットのことをサーブという。
サーブはミスショットしやすく、ここで勝敗が決まってしまうこ
ともある。
ミスショットはファールと呼ばれる。
手玉が的玉に当たらなかったり、違う番号の的玉にあたることを
いう。
ファールになれば、交代だ。
位置を決め、手玉を撞く。
﹁え!? 曲がった!? え? ええっ!?﹂
在原の素直で愉快な反応を楽しみながら、センタースポットに3
番が落ちていくのを眺める。
手玉はそのままクッションにぶつかり、テーブルの中央付近で止
まる。
﹁瑞姫﹂
橘が片手を上げる。
﹁次よろしく﹂
﹁了解﹂
ハイタッチでにこやかに笑いあうと橘に次を譲る。
﹁5番はどこかな?﹂
すでにどこに5番があるかなど把握しているくせに、おどけた様
195
子で5番を探した橘は、手玉の傍で構え、難なく5番を落とす。
私と交代し、7番を落とす。
﹁嘘⋮⋮マジで僕、出番なし?﹂
目の前であっさりポケットにボールが吸い込まれていく様子を見
た在原が、愕然とした呟きを漏らす。
﹁⋮⋮瑞姫、いい?﹂
的玉の配置を見た橘が、私にファールしてもよいかと聞いてくる。
﹁うん、構わないよ﹂
私は橘が言いたいことを察して頷く。
橘なら8番を落とすことなどわけないだろう。
だが、それだと在原が楽しくない。
1度でいいから手玉を撞かせてあげようといっているのだ。
もちろん、在原がこの配置でポケットに落とせるはずもない。
少しばかり8番の位置を変え、撞きやすいと在原が思う位置へと
移動させ、なおかつ手玉を少しばかり離れた位置に運ぶ。
多分、橘の考えはこうだろう。
そのあと、コンビネーションで8番と9番を私が一気に落とせば
いいと思っているはずだ。
何も触らずに終わってしまうより、1度でもいいから、失敗して
もいいから、手玉を撞くことができれば、在原の性格なら次の勝負
を挑んでくるはずだ。
橘は常に自分より周囲のことを考えている。
初心者である在原を楽しませたいのだろう。
その考え方は、私にはない。
ゲームをする以上、手を抜かずに相手をすることを一番に考える
からだ。
ただ、その時には3番ボールを落とした時のように、自分の持っ
てる技術を見せて在原がそれを覚えやすいように、どういう時にど
ういう判断をしているのか学びやすいように仕向けることくらいは
心掛けるが。
196
橘は私の考えを理解して、ワザと手玉を仕掛けやすい位置へと運
んでくれた。
今度は私が橘の考えに同意をする番だ。
﹁ありがとう﹂
にっこりと笑った橘が、手玉を撞き、8番を9番ボールの近くへ
と動かしてそこで止める。
手玉は引き球となってヘッドライン上で止まる。
﹁おーっ!! ファール!! 誉が失敗した。やりぃ!!﹂
はしゃぐ在原におじさまが苦笑する。
疾風は苦い顔だ。
橘が在原に譲ったことに気が付いて、それに気付かない在原に指
摘するかどうかを悩んでいるところなのだろう。
﹁疾風﹂
疾風を呼び、私は軽く首を横に振る。
﹁わかった﹂
疾風は言うなという私の指示に頷き、肩の力を抜く。
﹁何? 岡部﹂
﹁在原、おまえが撞け﹂
疾風の声に彼を振り返った在原が問いかける。
それに答えるような形で疾風が誤魔化してしまう。
﹁いいの?﹂
﹁構わん。落とせたなら、フォローする﹂
面倒見がいい疾風は、簡単にどこを狙って撞けばいいかをアドバ
イスする。
いいやつだよなぁ、疾風は。
私限定標準装備のおっきいわんこな性格ももちろんだが、友と認
めた相手にはとことん面倒見がよくなる。
197
手を貸し過ぎたりはしないが、相手をよく見て必要なときは相手
が何も言わなくても先回りして手を貸してしまうところとか。
橘は周囲の空気をよく見て、知り合いでなくても必要だと判断す
れば動くが、疾風は相手が友人かそうでないかで切り分ける。
場を大切にする橘と、友を大切にする疾風。
どちらが正しいのかなどは判定する必要などない。
あえて言うのなら、立場が違うだけ。
ちなみに、そういう場面で在原は気づかないので動かないことが
多いし、私はわかっていても動かない。
私が動けば、相手に迷惑がかかる。相良とは、そういう家なのだ。
今まで瑞姫がろくに友達を作らなかったのは、相手が身を守る術
を持たなければ危険にさらしてしまうことを教えられ、身をもって
体験したからだ。
友達を作って遊びたいという子供らしい欲求は、幼稚舎の時に打
ち砕かれた。
名家と呼ばれ、力ある財閥の子供として生まれた以上、ごく普通
の年相応の幼子として過ごすことは許されない。
私のわがままで相手の子供を傷つけ、死なせるわけにはいかない
からだ。
だからと言って孤独のまま幼少期を過ごせば、歪み過ぎた人間が
出来上がってしまう。
一緒にいても大丈夫な友達をと、岡部家が同じ年頃の子供を相良
の子供につけてくれたのだ。
疾風がいるから、私は同じ年頃の子供たちとの接し方を覚え、そ
うして距離を置くことを言われても寂しがらずに済んだ。
岡部家の子供は、相良の子供と一緒にいても、身を守る術がある。
だから安心して遊ぶことができるし、対等に喧嘩だってできる。
本当に幼い頃には、瑞姫は疾風と泣き喚いての大喧嘩をしたこと
があるのだ。
理由は些細なものだったが。
198
泣き止んだ後は、その前のことなどけろりと忘れて仲良く遊んだ
という微笑ましいものだ。
私が傍に寄せる友を作るということは、相良を標的にした悪意か
ら身を守ることができる相手という最低ラインの基準がある。
相良本家の中で未成年であるのは私一人だ。
つまり、外から見れば、私が相良家の弱点と思われやすい。
しかも2年前に生死を彷徨う大怪我をした身であることは調べれ
ばすぐにわかる。
加えて兄弟たちは私に甘いということは、社交界でも知れ渡って
いる。
ガードが固いであろう私自身を狙うより、私と親しい友人を狙う
方が容易いことだ。
付き合う人間を選べと言われる意味の中には、こういう意味も含
まれている。
大切な友人なら、傍目に親しいと思われないように接する方が望
ましいのだ。
その点、在原や橘は最低ラインをクリアしているので安心だ。
疾風も確認しているので、そこは信用できる。
同性の友人も欲しいところだが、今のところ千瑛しか合格ライン
がいない。
友達がいなくて寂しいなど子供じみたことを言えない立場なのだ。
疾風がいるので寂しいなどと思ったことは一度もないが。
人は、生まれた土地、時代、生家の財力などの基本的基盤により、
育てられ方が違う。
だから決して、自分の物差しだけで相手を判断してはいけないの
だと、訓えられた。
相手の基準を調べて、その物差しを変えて測る必要があるのだと。
この物差しは財力に関して、という意味だったが。
我が家が裕福なのは、それに見合った重い責任を課せられてきた
からである。
199
その責任をきちんと果たしてこそ、得られたものだ。
他の者たちはその身の丈に合った責任を果たして得られたものだ。
大多数を占める彼らは彼らの常識があり、我々には我々の常識が
ある。
決してそれを混同してはならない。
そうして驕るな、侮るな、己を律せよと訓えられる。
武と知で身を立て、人々を守ることを義務とした家の考え方だ。
これの対極に位置するのが諏訪家である。
諏訪は神に仕える一族だった。
昔、人々は神を敬うように、神に仕える諏訪一族を敬った。
もてはやされた一族は、己が神であるかのように驕った時期もあ
る。
だが、今は神が遠い時代だ。
諏訪一族は一部を除いて神域から外へ出て、人々に交じることを
選びながら、今でもなお神話の時代に生きている。
諏訪たちの考えがどこか甘いのは、そういう理由がある。
だからと言って、それを正当化はできないのだが。
私は、私の理由で動かない。
見守るだけに留めなければいけない。
そして、いつか、瑞姫が戻ってきてもいいように。
疾風のアドバイスを受け、在原がキューを構える。
その様子はなかなか様になっている。
おじさまの特訓がきいているのだろう。
おじさまも機嫌良さそうにそんな在原を眺めている。
もちろん、この後の展開は百も承知の上で。
﹁よっしゃ、いくぞ﹂
気合を入れた在原が、グリップを握りしめ、ストロークする。
200
がつんとキューが手玉を撞くが、センターからずれ、在原のスト
ロークの強さとは裏腹に手玉はひょろひょろっと力なく転がってい
く。
﹁あれ? なんで?﹂
手ごたえを感じていた在原は、思わぬ結果に首を傾げる。
手玉は8番ボールの手前で止まり、見事なファールだった。
﹁センターショットじゃないからだ。水平にキューが動いてなかっ
たし、中心からずれたところを撞いたから、力がうまく伝わらなか
った。ちゃんと、狙えって言ったろ?﹂
淡々と疾風が告げれば、がっくりと肩を落とす在原。
﹁じゃあ、次、瑞姫な﹂
苦笑しながら橘が告げる。
﹁ん﹂
頷いた私は遠慮なく手玉を撞く。
無造作に撞いた手玉は8番へぶつかり、その8番が9番にぶつか
る。
﹁え!?﹂
在原が驚いて目を瞠る中、2つのボールはそれぞれの方向へと転
がり、ポケットに落ちた。
しばらくの間、沈黙が降りる。
﹁瑞姫!! もう1回!! もう1回、頼む!﹂
がっつりと私の両腕を掴み、揺さ振るように在原が訴える。
﹁い、いいけど﹂
﹁やりっ! ありがと、瑞姫!﹂
ものすごく嬉しそうな表情でポケットから球を取出し、テーブル
の上に置いていく。
﹁じゃあ、ブレイク・ショットは静稀がやるといいよ﹂
ここまで喜ばれたら、とことん付き合ってやろうという気にはな
る。
201
そうして頷いた私は、在原の一点集中型な性格に唖然とすること
になる。
この後、﹃もう1回﹄が何度続いたか、数えるのが馬鹿らしくな
るくらいコールされたからだ。
202
24
大伴家の夏の宴より数日後、入院の日が来た。
今回の入院は、ケロイドを削るものらしい。
以前よりはかなり体力もついたし、身長も伸びたので、色々と細
かいところのチェックが必要なのだ。
なにせ、怪我した時から比べると、身長が20cm近くも伸びて
いるのだ。
身長が伸びているときは、傷跡が引き攣って痛かったよ、うん。
相良家の人々は、男女問わずに長身なのだ。
私もその例外ではないけれど、家族の中では一番小さい。
外では十分デカいはずなのに、家の中ではちびっこ扱いなのだ。
実に微妙な心地がいたします。
入院する部屋は、前回と同じ特別室。
警備上、大部屋なんてもってのほか。
他の皆様のご迷惑になってしまうから。
それと、許可もしてないのに勝手に見舞いに来ちゃう人が入れな
いようにするためもある。
親同士の付き合いとか、会社関係とか、色々あるんだろうけど、
それに子供は関係ないんじゃないかと思うんだけどね。
特に、会社関係は未成年関係ないだろう!!
面識もない人にいきなり部屋に突入されて、お父さんがどうのと
言われても、﹃は?﹄としか思わないよね、普通。
特別室なら、許可なく入れないし、面会謝絶も出しやすいという
ことだ。
金額については考えません。
恐ろしいから! 絶対、聞いたら後悔するから!
203
﹁瑞姫、荷物はこれだけでいいのか?﹂
病院に付き添う気満々の疾風が私の荷物を確認する。
﹁うん。着替えはこまめに持ってきてもらえるし、必要なのは勉強
道具と画材道具ぐらいだいね﹂
画材道具と言っても、スケッチブックと色鉛筆だけだ。
絵の具を使って色つけるほどの気力が湧かないことはわかってい
る。
だけど、絵は描きたいと思うだろうし、スケッチブックだけは持
っていく。
﹁入院に勉強道具持っていくって、真面目だよな﹂
呆れた様子で告げる疾風の表情は明るい。
病院と聞くだけで悲痛な表情になっていたあの頃の疾風はもうい
ないようだ。
﹁颯希が見舞いに来てもいいかと聞いていたが、大丈夫か?﹂
﹁さっちゃん? いいよ! 私と遊んでくれるなら、いつでも待っ
てると伝えてくれ﹂
颯希は3歳年下だから、今年中1だ。
友達との付き合いもあるんじゃないかと思うけれど、来てくれる
ならうれしい。
ゲーム上では、やはり3歳年下で瑞姫の随身という設定だった。
まあ、中坊だったのでゲームには登場しなかったけれど。
まだ身長が低いので、小さい頃の疾風を見ているようで可愛らし
いのだ。
﹁わかった。伝えておこう。俺は毎日に来るぞ﹂
﹁えー⋮⋮大変じゃない? あ。泊まり込むのは無しね。生死の危
険はないのに泊まり込む必要は見当たりません﹂
﹁何もなければ泊まるつもりはない﹂
やっぱり、何かあったら泊まるつもりか、このわんこは。
﹁兄上たちも毎日顔を出すと言っていたぞ﹂
﹁⋮⋮そ、そうか﹂
204
疾風の表情が微妙に引き攣る。
兄たちの随身は、疾風の兄や従兄だ。
会ったら最後、愛の説教が行われるのだろう。
女の子に対する配慮が足りないとか言われてるところを見たこと
がある。ぷぷっ。
﹁じゃあ、行くかな?﹂
洗面道具や基礎化粧品関連はすでに車のトランクに積んである。
後はちょっとしたものだけだ。
バッグを手にすると、疾風がそれを奪い取る。
﹁辞書は重いからな、俺が持つ﹂
﹁ありがとう﹂
肩を並べて歩き、別棟から本邸の車寄せへと向かう。
車寄せにはすでにピカピカに磨き上げられた車が待っていた。
﹁いってらっしゃいませ、瑞姫お嬢様﹂
相良に勤めている家政婦さん数人がそこで待ち受けていた。
﹁うん。行ってくるよ。あとの事はお願いします﹂
﹁はい、くれぐれもお気をつけて。御着替えなどは滝本があちらで
ご用意いたしますので﹂
﹁滝本さんが来てくれるんだ? ありがとう。皆も暑いから体調に
は気を付けてね﹂
手を振って車に乗り込む。
その隣に疾風が乗り込み、ドアが閉まる。
丁寧に頭を下げられ、見送られる中、車は静かに走り出した。
眩しい光の中、外の景色が後方へと流れていく。
﹁そういえば、あの時の女。東條分家の娘だったか、調べてみたぞ﹂
窓の外を眺めていたら、不意に疾風が切り出した。
﹁え? そうなんだ。早いね﹂
205
﹁今あちこちで問題になっているらしい。葉族のくせに思い上がっ
た分家筋とな﹂
﹁⋮⋮へぇ﹂
思い出すだけでも腹が立つらしい疾風の口調は苦々しい。
どこか吐き捨てるような物言いだ。
﹁尤も、大伴家のパーティで七海さまご本人に咎められたからな、
あの女は社交界から締め出されて、他の分家の娘も同じ憂き目にあ
ったそうだ。まあ、似たようなことをやってるということだったか
らな、責められるわけがない。東條本家は、自分たちには関係ない
ことだと分家を切り捨てたそうだ﹂
﹁ふぅん。分家在っての本家だろうに﹂
﹁後継ぎを分家から取る予定だったのをやめて、他の家か、縁を切
った娘を呼び戻すかのどちらかになるそうだ﹂
﹁⋮⋮分家が納得するかな? 下手すれば、消されるよ﹂
静かな車内の中に殺伐した空気が流れる。
そこで、ふと気づく。
東條凛の両親は、車の事故で亡くなっている。
ブレーキ事故だったはずだ。
﹁⋮⋮⋮⋮まさかな﹂
考え過ぎだ。
﹁え?﹂
﹁いや、何でもない。それで? あの品のないドレスは何の仮装だ
ったんだ?﹂
一番気になっていたのは、あの場末のキャバドレスだ。
一体、あれは何の衣装だったのか、気になる。
かつての記憶までも総動員したが、思い当たるものは何もない。
﹁あー⋮⋮あれか。何でも、随分昔に亡くなったアメリカの女優の
映画の衣装だったそうだ﹂
﹁映画? 女優? そんな映画あったかな? オレンジ色のドレス
で⋮⋮﹂
206
﹁かなり有名な美人女優なんだそうだ。独特の歩き方をすることか
ら、そのウォーキングに彼女の名前を付けたという話もあるらしい﹂
まさか、モンロー・ウォークの事か!?
確かに彼女は当時かなりの美女として名高かったし、露出の高い
ドレスを衣装に当てられていたが、あの形でオレンジ色のドレスは
なか⋮⋮
﹁白か!! 白のドレスのはずだ、あれはっ!﹂
思わず声を上げた私に疾風がびっくりする。
﹁え? 白? よく知ってるな、瑞姫。大伴様のコレクションの中
にあったのか?﹂
﹁あ⋮⋮うん。そう⋮⋮﹂
あったとしても、見せてもらえない類だ、今の私だと。
彼女の魅力は、あの見事な容姿ではなく内側から溢れる知性だと
言われるほど頭が良かった女性だが、残念なことにその知性を活か
した役はそんなに多くない。
もう少し後に生まれていたのなら、彼女にはもっと違った役が与
えられていただろうと一部で言われるほど、ヒット作は多くても貰
った賞が少ない女優だ。
﹁えっと、つまり。おじさまが映画好きだから、映画のキャラクタ
ーの衣装を間違ってるけど着てみたってことか?﹂
﹁⋮⋮そういうことになるだろうな﹂
﹁もっと自分に似合うものにしろっ!! 無謀だぞ!! むしろ、
映画ファンに対する冒涜だと思え!﹂
露出は高いが、あのドレスはそれなりに値が張るぞ。
あんな夏目先生数枚で買えそうな格安人工生地じゃない!
思わず憤ってしまったが、疾風の言葉で気になることがあったの
を思い出す。
﹁あのさ、その女優さんって、どのくらい昔に亡くなってるの?﹂
﹁かなり若くして亡くなってるそうだな、30代半ばぐらいで⋮⋮
大体100年近く前かな?﹂
207
﹁100年!?﹂
おかしい。
そんなに前じゃないはずだ。
﹁瑞姫?﹂
﹁あ。ごめん、何でもない﹂
心配そうにこちらを見つめる疾風に笑ってごまかす。
heaven﹄のゲームと同じ設定の
おかしいということは、前々からわかっていたはずだ。
ここは﹃seventh
世界だ。
私が知っていたかつての世界とは異なっているということは感じ
ていた。
大体、四族なんてなかったし、ましてや葉族なんて言葉も存在し
なかった。
相良藩があるというのは知っていたが、そこがずっと直系で続い
ていたなんてことはわかっていない。
一番変だったのは、アメリカの首都だ。
ワシントンがアメリカの首都だったはずなのに、ここではN.Y.
D.C.なのだ。
ニューヨーク!! 初等部の社会科のテストで各国の首都を書け
という問題で必ず出てくるミス回答。
なのに、ここではそのニューヨークが首都なのだ。
薄々わかってはいたんだよね。
ゲームで期末試験とかの無理やりミニゲームで、社会の三択問題
で何度アメリカの首都をワシントンと回答しても不正解になってい
た。
バグかと問い合わせた人がもらった回答は、﹃アメリカの首都は
ニューヨークです﹄だった。
阿呆か!? 今すぐ直せ、つか、間違い指摘されて開き直らず素
直に謝罪しろ! と、メーカーのブログが炎上した。
208
まさかここでそんなことはあるまいと思っていたが、そのままだ
ったので唖然とした。
そして、あのほぼ世界中の男性を虜にした美人女優の死亡時期が
100年前とは。
まだ妙な話はある。
さすがにそれを口にすると自分の中の何かが壊れていくような気
がするので、言いたくはない。
あれをなかったことにされると、世界史すべてがおかしなことに
なっていくはずなのに、誰も矛盾を感じてはいない。
どこか歪んだ世界だとは感じていたけれど、どうしても違和感を
感じて馴染めない。
それでも、私はここで生きていかなければならない。
重い気分になりそうだったので、疾風で気分転換をすることにし
た。
﹁疾風、その女優さんの写真、見た?﹂
﹁え? あ、うん﹂
﹁美人だっただろう? ナイスバディでさ﹂
﹁⋮⋮え⋮⋮﹂
にやにやと笑って言えば、疾風の顔がかぁっと赤く染まる。
﹁あ、や⋮⋮﹂
言葉にならず照れる姿が可愛らしい。
実にイイぞ、年頃の青少年が照れる姿とは。
初々しいな。
あと何年ぐらい、これでからかえるかはわからないが。
﹁あの美女が、アレだ。私の憤りがわかるか!?﹂
ぺったんすかすかなドレス姿の令嬢を思い浮かべた疾風が渋面に
なる。
﹁最低なことにドレスの色を間違え、しかもそれなりの家のはずな
のにあの安っぽい設え! そして、あの残念すぎるすかすかっぷり
209
! 冒涜しているとしか思えない﹂
﹁うん。瑞姫が正しいと思う﹂
素直に同意した疾風の肩に手を置く。
﹁しかもだぞ、あの女優さんは非常に頭がいい人だったんだ。疾風
はああいう感じの人を嫁にするといい﹂
﹁ちょっ!!﹂
﹁うん、いいな。頑張れ、疾風!﹂
﹁もうっ!! 瑞姫! オヤジすぎる⋮⋮﹂
真っ赤になった疾風は、ずるずるとシートに沈み込む。
やっぱり疾風はからかうと楽しいな。
引き際の見極めは難しいけれど。
笑みを浮かべた私の視界に、病院の建物が映り始めた。
210
25
﹁やっほーっ! 瑞姫ちゃん、元気?﹂
入院二日目にして見舞い客がやって来た。
﹁真季さん! こんにちは。見ての通り、元気ですよ﹂
艶やかな美貌の妙齢の女性。
妙齢という言葉は実に奥深い。
女性の年齢を隠すには実にうってつけだ。
いつもは和装でお会いしている人が、ごく一般的な洋装姿だと微
妙に違和感を抱く。
こちらが本来の姿なんだろうけれど、見慣れないために。
﹁あら、ホント。入院患者に元気って聞いちゃいけないって言われ
てたのに、ついうっかり言っちゃって拙かったかなーと思ったけど﹂
﹁あはははは⋮⋮でも、どうしてここが? 今回の入院は学校関係
者ぐらいしか言ってないのに﹂
﹁昨日のお座敷の素敵な旦那が教えてくださったのさ。暇を持て余
してるだろうから、顔でも見てやってくれってね﹂
﹁御祖父様か! ずるい! 御祖父様、おひとりで小槙姐さんのお
座敷に行ったんだ﹂
いつも小槙姐さんのお座敷の時は連れて行ってくれる祖父が、ひ
とりで言ったと知って悔しくなる。
真季さんは、小槙という源氏名を持つ芸者さんなのだ。
﹁あれ? 今日は三味線の御稽古じゃないの?﹂
特別室にあるソファセットへと真季さんを促して、座ってもらい、
お茶を入れようと茶器を手にしてふと思う。
何よりも稽古熱心な真季さんが、どうしてこんな時間にここに来
たのだろうかと。
﹁ああ、稽古はね、今日は中止。お師匠さんがぎっくり腰でねぇ、
211
病院に入院しちまってさ。さて、稽古に行こうかと思った矢先に連
絡が来ちまったもんだから予定が狂ってね、瑞姫ちゃんの顔も見た
かったからさ﹂
苦笑を浮かべた真季さんは、肩をすくめる。
唄も三味線も師範になれる域にすでに達しているくせに、そこで
良しとせずに先生について稽古を続ける真季さんは若手芸者さんた
ちの憧れの的だ。
こちらの世界での芸者というのは、伝統芸能の担い手という意味
合いの方が強い。
能や歌舞伎が大きな舞台、からくりなどの仕掛けがある場所でな
くては見せにくいというのに対し、芸者衆の唄や舞、楽などはお座
敷という小さな舞台で披露することができる。
小さな舞台、より客と近い距離感が、彼女たちの芸事への取り組
みをさらに熱心にしているという。
﹁ぎっくり腰って大変だって聞くから、早く良くなるといいね﹂
﹁そうさねぇ。あれは、一度やっちゃうと、一生の付き合いになる
からね﹂
﹁え!? 治らないの?﹂
﹁人それぞれってことさ。手術やらで治そうというお人もいるけど、
それとて絶対に治るって言えるもんでもないしねぇ﹂
﹁本当に大変なんだ﹂
困ったように笑う真季さんに、そんなに大変なものだとは知らな
かった私は青褪める。
﹁ああ、そうだ、真季さん。私、橘家の誉と友達になったよ﹂
私は、前回会った時に言い忘れていたことを告げる。
﹁そうだってね。橘の坊ちゃんが仰っていたよ。それで? 瑞姫ち
ゃんから見て、坊ちゃんはどんなお人だい?﹂
﹁んー⋮⋮そうだね。周りを大切にしすぎて、自分がおろそかにな
ってるように見える、かな?﹂
212
﹁おやおや、辛口だねぇ﹂
くすくすと楽しげに笑う真季さん。
真季さんが、橘誉の生みの親だ。
彼女について、色々と言われていることは知っている。
橘夫妻が、何故、誉が彼女の子供だと公表している理由も。
この世界、表に出ていることをそのまま素直に受け止めてはいけ
ないことは、すでに理解している。
大体、何処の世界に自分が産んだ子供を仕事の邪魔だからと捨て
る親がいる?
しかも、幼馴染に産んでと頼まれたから、妊娠するなんて、普通、
そんなことができるわけがない。
惚れていない男の子供を産もうと思う女性はいない。真季さんは、
橘家の御当主が好きだった、否、今でも想っていることを知ってい
る。
だけどおそらく真季さんは、誉を生むと決めたとき、同時に手放
すことを決めていたはずだ。
以前、御祖父様に聞いた話がある。
ある幼馴染同士が3人いたそうだ。
男が1人、女の子が2人。
女の子の1人が、非常に身体が弱く、寝たきりに近い状況で暮ら
しており、残る2人はそんな女の子の為に外で見聞きしたことを色
々語って聞かせていた。
彼らは非常に仲が良く、常に3人一緒にいたそうだ。
そうして彼らはそのまま育ち、年頃になり、男は周囲から結婚を
勧められるようになった。
だが、女の子2人からも、他の女性も彼は選ぼうとはしなかった。
そこで彼の親友が周囲に頼まれ、彼に何を考えているのかを尋ね
213
た。
﹁他の女性と結婚しようとは思わない。だが、1人は共に肩を並べ
て戦いたい相手、もう1人は何をおいても守りたい相手。どちらも
大切で、比べることはできない。だからどちらも選べない﹂
彼はそう答えたそうだ。
優柔不断と言えば、そうだろう。
だが、比較できないものを並べ、どちらがいいか選べと言われて
も、確かに困る。
偶然その話を聞いていた元気な娘が彼に言った。
﹁ずっと肩を並べて共に戦ってやるから、あの子を選びなよ﹂
そう言って、彼の背中を押してやり、身を引こうとした。
ところが身体の弱い娘は幼馴染たちの手を握って首を横に振った。
﹁私は長くは生きられない。こんなに弱い身体じゃ子供も産めない。
だから、2人が結婚して﹂
そこまで語った御祖父様は、私にこう聞いた。
﹁この状況、おまえだったら、どうするか?﹂
なんて面倒臭い状況で、それをまだ子供でしかない私に聞いちゃ
うかな、この人は。
正直なところ、当時の私はそう思った。
まあ、私の答えは簡単だ。
誰も選ばないか、他の人を探して結婚する、だ。
誰も選ばない場合、後継ぎは分家の中から血が近い者と養子縁組
をして据えればいい。
優柔不断だと言われようとも、義務を果たしたことになる。
それが駄目ならば、この状況で2人の幼馴染を受け入れるか、完
全に拒絶してくれる相手を政略結婚で迎え入れる。
相手に負担をかけてしまう方法だが、当主の血を継ぐ子供は作る
ことができる。
それ以外にも方法はあるだろうが、その当時の私が思いつくのは
せいぜいこのくらいだった。
214
この話は、男が身体が弱い女の子と結婚することでとりあえず落
ち着いた。
だが、話は終わりではない。
当然だ。彼らの人生はまだ途中なのだから。
身体の弱い女の子は、ごく普通の女の子の夢を持っていた。
大好きな人のお嫁さんになって、その人の子供を産んで育てるこ
と。
前者は叶えた。
では、後者はどうかというと、医者に固く禁じられた。
例え命がけでも産みたいと願う女の子に、医者は事実を突き付け
る。
例え命がけでも、胎児をあなたの身体で育むことはできません、
と。
母子ともに確実に危険な妊娠を、医者として許すわけにはいきま
せんと言われ、妻となった女の子は悩みに悩んだ。
愛する夫は、分家から養子を迎えればいいことだと穏やかに諭す
が、それでは納得ができない。
どうしても、夫の子供が欲しかった。
体調を崩すほどに悩んだ挙句、彼女は幼馴染を頼った。
﹁お願い! 私はもう長くないの。あの人と結婚して、あの人の子
供を産んで﹂
﹁馬鹿をお言いでないよ。そんなの御免被るさ﹂
一度どころか、何度頼まれてもその幼馴染は頷かなった。
いよいよ妻は弱り衰え、ベッドから起き上がることもできなくな
る。
それでも懇願を続ける彼女に、幼馴染は渋々ながら頷いた。
﹁そんなに言うのなら、わかったよ。1度だけ、1人だけ、産む。
ただし、アンタが死ぬ気なら産まない。生きて、子供の成長を見届
けるって約束しなきゃね﹂
そう言って、彼女は男を振り返った。
215
﹁アンタも覚悟をお決め。一緒に戦ってやるからさ﹂
その時、彼女が何を思ったのか、夫妻にはわからなかった。
その後彼女は男の子を生み、彼らに預けた。
そこまでが、御祖父様の話だった。
御祖父様の話は、表面的なものだけだ。
そこから、表面の下に隠れいている様々な事を探し当て、本来の
話がどういうものであったのか、見落としているモノを拾い上げ、
答えを導き出せという考え方の下、与えられた情報だ。
当時、当主夫妻も真季さんも相当叩かれたはずだ。
公表しなければ、奇跡的に夫人が子供を産んだとすれば、表向き
問題はなかったように思える。
だが、結果的には公表したことが橘家を守ったことになる。
事実を隠せばそれは弱みとみなされ、暴きにかかる者が必ず現れ
る。
秘密を知ったことをネタに嚇し、食い物にされる可能性が高い。
それは、夫人と真季さんの命を危険にさらすことにもなる。
しかしながら、公表してしまえば、いくら叩かれようとも当事者
たちが納得していることを他人が口出しすることではないと逆に圧
力をかけることができる。
誉は、嫡子ではないが、当主の実子である。
しかも婚約者最有力候補であった女性の子供なのだ。
その事実が、橘家と誉自身を守ることになった。
正直なところ、他人の家の事情など、私の知ったことではない。
たまにそれを罪のように言ってくる人がいるが、私に言うべきこ
とではないだろう。
私が友人だと認めた橘誉は、その背景ひっくるめての誉なのだか
216
ら。
誉本人が望んでそうなったわけではない。
それが罪だというのなら、負うべきは誉ではなく、彼が生まれて
くる状況を作った者たちだ。
彼の両親たちでもあり、その周囲でもある。
なので、私にわざわざご注進する人に、私はこう答える。
﹁それがどうした? どこに問題があるのだ?﹂
と。
くすくすと楽しげに笑う真季さんの瞳がわずかに揺れる。
楽しげを装いながら不安なのだろう。
私が彼ら親子について何を思っているのか。
﹁辛口、だろうか? ごく普通の感想だが﹂
心外だという表情を作れば、真季さんの表情に苦笑が滲む。
﹁だって、褒めてないし﹂
﹁褒める時は、本人に向かって褒めるのが私の主義ですが。聞かれ
たことに正直に答えただけだしね﹂
﹁可愛くないわね。これだから、恋を知らない小娘って言われるの
よ﹂
﹁別にそんなことくらいで怒るような私ではないよ﹂
拗ねたように言う真季さんに、私はにやりと笑う。
﹁事実は事実と受け止める。真季さんのようにそう簡単に相手に惚
れるって言えないだけかもしれないし?﹂
﹁あはははは⋮⋮あたしは惚れっぽいからねぇ﹂
﹁惚れた相手に最高の芸を見せたいって思うから、お座敷の相手に
惚れるんだって言ってたよね﹂
﹁よく覚えているね﹂
﹁そりゃあね。そういう考え方があるんだって驚いたから。本当に
217
プロなんだなぁって感動したって言った方がいいかな﹂
﹁小娘が。照れるじゃないか﹂
軽く笑った真季さんの眼差しは優しい。
﹁いや。プロであり続けるって難しいんだなと思っただけだよ﹂
そう言った私は、真季さんに見せたいものがあったことを思い出
し、スケッチブックを取り出すと、ゆっくりとページをめくった。
218
26
スケッチブックの中には、その時々に気になったものを乱雑に描
きとめたり、友禅の下絵の原図である元絵を描いていたりと、人に
見せるにはちょっと恥ずかしいものばかりだ。
それの中から1つの元絵を取出し、真季さんに差し出す。
﹁真季さん、これなんだけど﹂
﹁⋮⋮これは、椿かい?﹂
差し出した紙に描かれていたのは椿の一枝。
﹁太郎椿。真季さん、冬に1枚、着物を仕立てたいって言ってたよ
ね? これは、どうかなと思って﹂
武家では厭われる椿だが、芸者衆には好まれるモチーフだ。
芸者さんの名前を椿の名前で揃えているところもあるらしい。
﹁そりゃあ、すごくいいとは思うんだけど﹂
﹁色描きを若手作家に頼めば、値段はかなり下げられると思うんだ
けど。御祖母様が花見月のブランドで出してるお着物はそういう物
が多いし﹂
友禅デザイナーとして相良から売り出された私の作品は、大きく
分けて2つある。
1つは私が描く1点もの。
これは、そんなにたくさん描けないため、希少価値があるとかで
我が目を疑う値段がつけられている。
一度、値段を知った私は御祖母様に抗議したことがあるのだが、
色描きに私独自の技法とやらが使われているので適性なのだと反撃
を食らった。
独自の技法、というか、独自の画材を使ってますよ、そりゃ。
細かい線描きが筆ではしにくかったからさ、まだ腕の怪我が完治
してない状態で描いてたものだから、あることを思い出して、使っ
219
てみたんだ。
知っている人は知っている、﹃万能戦士爪楊枝様﹄の応用版。
爪楊枝って、本当にいろんなことに使えるんだよね。
細かい作業に最適というか。
だけど、絹に爪楊枝だと、どうにも破きそうで竹ひごを削って使
ってみたんだな、これが。
太さや削り面の形を変えたりと、いろいろ試しながらやってみた
ら、面白い線が描けるようになって、繊細な表現もできるし、と、
面白がっていたらその線の描き方が評価されるようになったようだ。
他にもやった人、いるんじゃないのかなと思ったんだけど、普通
に考えると邪道だしね。
とりあえず企業秘密という扱いになっているらしい。
それとは別に、私の描いた下絵を描きため、年に何回か、若手の
登竜門として下絵に色を付けるコンクールっぽいことをやっている
らしい。
私が乗せた色に近い色合いの人に、その下絵を預けて着物を作っ
てもらうということになっているようだ。
こちらは本当に新人さんがしている仕事なので、着物の値段自体
が抑えられてお手頃価格になるらしい。
友禅作家を目指す人たちが、自分の作品を世に出すチャンスはも
のすごく少ない。
なかなか芽が出せずに潰れて筆を折る人も少なくはない。
工房に入っても、伝統のモチーフを淡々と描き続ける仕事ばかり
で、自分のオリジナル作品を手掛ける暇もない人も多い。
私のデザインに色を付けることで、チャンスを得て、なおかつ運
が良ければスポンサーがつくかもしれないというシステムを御祖母
様が作っちゃったわけだ。
詳しくは、さすがに知らない。
だって、学生が本分なんだもん。
学業そっちのけで作家業を熱心にするわけにもいかないから、大
220
人たちに任せている。
たまに、最終審査をさせられることもあるけれど。
そのブランド名が瑞姫から取って、花見月という名前なんだそう
だ。
﹁私が描くには、ちょっと時間がかかりすぎるから、冬には間に合
わないかもしれないし﹂
﹁確かにね。学生さんだものねぇ﹂
﹁うん。学生さんだから、勉強もしないといけないので、時間制限
があると無理かもしれないのでお断りしちゃうのですよ﹂
うんうんと頷いて答えると、真季さんは首を傾げる。
﹁勉強ばかりしてると、ろくな大人になりゃしないって言ってやり
たいね﹂
﹁あははははは。でも、私が勉強しないと、困るのは私じゃなくて
他の人たちだからね。まあ、気に入ったのなら、こちらを花見月の
方に回すよ﹂
﹁そうだね。お願いしようか。いろいろ見せてもらったけど、なか
なかピンとくるものがなくてね、間に合わないかと思ってたところ
だよ﹂
真季さんが居る屋形で今年の冬にデビューする芸者さんがいる。
その子達をお姐さんである真季さんが自分のお座敷に連れまわす
のだ。
ご贔屓さんを作るためもあり、先輩御姐さんの仕事ぶりを間近で
見て勉強するためでもある。
余談だが、ご贔屓さんはあくまでもお座敷に呼んでくれるご贔屓
さんのことで、個人スポンサーは禁止されている。
前世では、確か、個人スポンサーがそれぞれ何人か必要だったり
とかいう話を聞いたことがあるけれど、ここではそれは禁止事項だ。
何故なら、個人スポンサーになってくれる人をなかなか掴まえら
れない子もいるからだ。
221
なのでこちらではスポンサーや屋形につくことになっている。
おかあさんもしくはおとうさんと呼ばれる屋形の主が、花代とは
別にそれぞれに応じて振り分けているらしい。
見習いの時期は、着物や帯、細々としたものは屋形の方で揃える
ことになっているが、それは借受していることを意味しているので
借金と同じだ。
給料の中の一部をそれらの返済に充て、そうして完済した時に一
人前に扱われるらしい。
無理なくコツコツと、着物の一部は先輩御姐さんの若かりし頃の
着物を譲ってもらって、その借金が少しでも少なくなるようにと工
面しているところもあるそうだ。
そんな中で、自分の蓄えで初めて買った着物は特別なのだと聞く。
だから着物作家は、特別に想ってもらえるような着物を作りたく
て頑張っているのだ。
どうやら真季さんに気に入ってもらえたらしい。
よかった。
そう思って、同じ椿のモチーフを真季さんの前に差し出す。
﹁ちょっと! 何さ、これ!!﹂
真季さんの表情が一気に変わる。
﹁これ、真季さんのものだよ﹂
同じ太郎椿の絵だが、こちらは先程の絵とは違い、かなり独特な
絵になっている。
友禅は、柔らかい色彩で描くことが多いが、こちらははっきりと
した色合いだ。
好き嫌いでわかれるだろうことは、描いた私が一番よく理解して
いる。
﹁どういう意味だい?﹂
﹁さっきのは、小槙姐さんに購入してもらいたい着物の図案。こっ
ちは真季さんしか着れない、真季さんのための着物﹂
222
﹁え?﹂
﹁あれ描いてる時に、思いついちゃったんだ。これは、真季さんの
ものだって。だから、これは私が描く。そして、真季さんにプレゼ
ントさせて﹂
完全に真季さんが凍りついた。
だろうなー。
私の描いた着物の値段を知っている普通の感覚の持ち主ならこう
なるはずだ。
﹁何言ってるんだい!? そんなのもらえるわけないだろう!!﹂
﹁今すぐ渡せるものじゃないしー。何年かかるかわかんないものだ
から、待っててほしいなーと思って﹂
﹁どんだけ値段がつくかわかってるのかい!? これなら、相当な
値段になるはずだよ!﹂
﹁んー⋮⋮じゃあ、花代。確か、この手の物納は大丈夫なんだよね
?﹂
花代は、何もお金で支払わなくてもいいらしい。
かんざしとか、宝石とか、売ってお金になるようなもので、花代
と同等の価値があると判断されたものに限り、物納できると聞いた。
なので、着物は反物でも仕立て上がりでもどちらでも受け取って
もらえる。
﹁ちょっとお待ち! 何回分の花代だと思って言ってるんだい?﹂
﹁んー⋮⋮よくわかんないけど、真季さんの唄と三味線が聞けるな
ら、安いものだと御祖父様なら言うと思うけど﹂
﹁金の卵って、自分の価値観がよくわからないって聞くけど、ここ
までとは思わなかったよ﹂
げっそりした様子で真季さんが天を仰ぐ。
﹁おやー? 天下の小槙姐さんが、ご自慢の唄と三味線がこの着物
に釣り合わないと? おまけに、この着物を着こなせないとおっし
ゃるわけだ﹂
﹁馬鹿をお言いでないよ! この小槙姐さんが例え人気があろうと
223
も新人作家の着物を着こなせないわけないじゃないか!﹂
はい、お約束ー!
売り言葉に買い言葉の典型だよね。
﹁じゃ、決まり。もらってね﹂
にっこりと笑って言えば、ハメられたことに気が付いた真季さん
がわなわなと震え出す。
﹁この、小娘ーっ!!﹂
﹁あははははは。真季さんだけだよ、私を小娘扱いできるのは﹂
小娘と呼ばれても、全然嫌な気がしないのも真季さんだけだ。
当代一、二を争う人気芸者の小槙姐さんも、先輩御姐さん達から
見れば、やはり小娘扱いされていることは知っている。
誉のお母さんだから、普通に考えてアラフォーって考えるだろう
けど、実際、真季さん、アラサーなんだよね。
幼馴染とはいっても、彼ら全員が同じ年っていうわけでもない。
真季さんは彼らの中で最年少だった。
誉の養母である橘夫人由美さんは、真季さんの腹違いの姉で7歳
年上だ。
こちらはちゃんとアラフォーだ。
何故か、ゲームの脚本を書いた人が橘誉の周辺の裏設定に熱心で、
かなり細かいことまで決めていた。
それがこちらの世界に適用されている。
その設定では、真季さんはベッドから離れられない由美さんを気
遣って高校へは行っておらず、家で家庭教師について勉強していた
そうだ。
まあ、その時一緒に芸者の稽古に励んでいたようだ。
そういう設定であって、実際はどうだったのかは知らないが。
さすが、残念な主人公設定が出来るだけあって、こういった設定
がデタラメなのも頷ける。
それ絶対無理だろう。橘氏、犯罪者になるじゃん!! とか、思
ったけど実際には言えません。
224
ゲームの設定でものを考えるのも、実際のことでものを考えるの
も、こういう恋愛ごとは難しいし無意味だ。
うん。やっぱり、他人の恋愛ごとに首を突っ込むものじゃありま
せん。
そのあとも、真季さんといくつか話をする。
真季さんは高等部の日常について聞きたがった。
その質問に答える形で答えていくと、いろんな指摘が返ってくる。
実は、諏訪の詩織様に対する想いが恋ではないと言ったのは、真
季さんだ。
中等部の時に、ある会話が私の目の前で繰り広げられたのだが、
それを聞いた真季さんがそう言ったのだ。
まだ私が体育の授業を出席できず、教室内で見学という形を取っ
ていた時に授業が終わり、着替え終えた諏訪とその周辺男子生徒が
教室に戻ってきて実にくだらない話をしたのだ。
言っておくが、私がそこにいることは、クラス全員が知っている
ことだ。
それなのに、私の存在を忘れて男同士の下世話な話を始めたのだ
から、聞いてしまった私に罪はない、と思う。
ゆっくりとしか動けなかった私は、彼らが来たからといって素早
くその場を立ち去ることはできない。
どうあがいても、やっぱり聞かされる羽目になる。
今のところ、あの話を口にする気には到底なれない。
育ちが良かろうと、年頃の男子はやはり年頃なのだという話題だ
ったからだ。
いくつか話が盛り上がって、結構長い間話したような気がする。
扉がノックされ、スライドした。
225
﹁おや、お客様がいらしてたのか。失礼しました﹂
白衣の男性が中に入ろうとして立ち止まる。
﹁桧垣先生﹂
主治医の桧垣医師だ。
茉莉姉上は副主治医に治まった。
だから、校医の仕事はどうなっているんだろう?
﹁おや、先生かい? じゃあ、あたしは帰ろうかねぇ﹂
真季さんが立ち上がる。
﹁あ、うん。今日はありがとう、真季さん﹂
﹁いいや。言ったろ? 顔が見たかっただけだって。じゃあ、また
ね﹂
艶やかに微笑んで、先生に会釈をした真季さんは帰って行った。
﹁⋮⋮ものすごい美人だな﹂
真季さんを見送った先生が驚いたように呟く。
﹁先生、今の人、私と同じ年の息子さんがいますよ?﹂
﹁え!? そんな年には見えないよ﹂
﹁先生が想像したお年とも違うことを断言してもいいですよ﹂
﹁じゃあ、真実は知らないに越したことはないな。さて、相良瑞姫
さん、今回の治療方針について説明させてもらってもいいでしょう
か?﹂
もうすでに両親に話をして、承諾を得たのだろう。
そうして、患者である私にも説明をする。
本当は一緒に聞く方がいいのかもしれないけれど、保護者である
両親の都合に合わせたのかもしれない。
﹁はい、お願いします﹂
ひとつ頷いて、私はベッドの方へと歩き出した。
226
27
検査と治療とリハビリの日々。
今回は右腕は触らないことになっている。
まだ皮膚の厚さが足りないせいだ。
右足を中心に治療とリハビリを行う予定だ。
複雑というか、粉砕骨折をした人ならわかると思うが、足の向き
を少し変えるだけでも痛みが走ることがある。
これは、相当長い間経ってもやっぱり痛むのだとか。
リハビリによる緩和ケアを適切に行っていかないといけないらし
い。
取り出したボルトとか、相当大きくて長かったからなぁ。
生きるか死ぬかを乗り越えた後だから、この痛みくらいは大した
ことないことだと思って耐えるしかないのだろう。
時々は、やっぱり痛いけど。
まあ、ずっと痛い状態から、時々痛いという状態に落ち着いただ
け、遥かにましだと思う。
急に動かなければ、大丈夫ということなんだから、普通の生活に
も支障はほとんどない。
リハビリの一環で、同じ怪我をした人の体験談を聞くというもの
がある。
日常のどういう動作に気をつけなければならないとか、リハビリ
がつらくて何度投げ出そうかと思ったとか、人それぞれ、いろんな
話が聞ける。
早く治りたいがために、無茶なリハビリをしかけてかえって症状
がひどくなったという人もいた。
うん。わかった。先生はこれを私に聞かせたかったんだな、きっ
と。
227
基本的に言われた通り淡々とリハビリをする私は、それがつらく
て逃げ出したいと思うことはない。
少しずつでも、身体のコントロールが戻ってきていると実感する
ことは嬉しい。
そうして、そのリハビリプログラムは、私の現状に合わせて、プ
ロが考えたものなのだ。
言われた通りコツコツとやるのが一番の近道だと、きちんとわか
っている。
だが、逆に医師たちとしては、思春期とか反抗期頃の子供が、文
句も言わずに淡々と言われたことをこなしている姿が不気味に見え
るらしい。
言うことを聞かない身体にストレスを感じ、感情を爆発させる子
供が多い中、静かに落ち着いて言うことを聞く私が奇異な存在だと
捉えているようだ。
そりゃ、そうだろう。
これでも中身はアラフォーなのだ。
否応でも分別はついている。
逆切れしたところで、余計に身体が痛いだけだ。
無駄なことはしない。
そんなことを考える子供はいないだろう。
だから、カウンセラーまでやって来たこともある。
あの時は何でカウンセリングを受ける必要があるのだろうかと思
いっきりきょとんとしてしまったため、カウンセラーも苦笑してい
た。
カウンセリングの結果としては問題なしだった。
状況判断に優れ、理性的に対処できているため、現在のところ、
問題なしというのが正確な診断結果だ。
ただ、前向きに、理性的にすべてを処理しようとするため、スト
レスを感じていてもそれを認識できないことがあるため要注意とも
言われた。
228
理性的でも感情的でもないんだけどなぁ。
このカウンセリングの結果、先生方の対応の仕方が少々変わった
ことは確かだ。
説明の仕方が大人対応になったからだ。
勿論、専門的過ぎる言葉は噛み砕いて、わかりやすい言葉に変え
て説明してくれるが、﹃今の状況は、こうなっています。最終目的
はこうです。こういう理由で、次はこれをします﹄的な全体の流れ
と細かい流れの両方をしてくれるようになった。
子供用の説明は、﹃次は何をする﹄というような目の前の細かい
流れしかないことが多い。
その説明に納得できれば、大人しく従うので扱いやすい子供に見
えてきたのだろう。
わからない時は、とことん喰らいついて聞くけど。
病院での生活は、主に午前中にいろんなことが集中している。
採血は週2回程度、起床時間前あたりに何本か取られる。
それと同時に、酸素の血中濃度とか体温も測られる。
起床時間になったら、朝の支度をして、朝食を摂る。
朝の支度中に、週1回、体重を測られる。
勿論、体重の計測結果は極秘事項です。
乙女の秘密ですから。
朝食が終わったら、本格始動。
検査やら治療やら、その日のスケジュールに基づいて動くことに
なる。
リハビリは、部屋で出来るものは基本、特別室の中で行う。
リハビリルームに行くときは、人が少ない時間帯を狙う。
私の存在が、リハビリを行う人たちのストレスになってはいけな
いからだ。
229
別に、黒服はボディガードを連れ歩いているわけじゃないけどね。
基本的にリハビリ中は、自分の世界に入り込んじゃっているわけ
だから、あまり人を気にしないと思うんだけど。
﹁はい、今日はここまでにしようか﹂
今日はリハビリルームでの訓練の日だった。
器具を使っての脚のストレッチで汗が滲みだしてきたころが、終
了の合図だ。
身体にかける負荷というものは、それぞれの訓練で決まっている
らしいが、基本的には汗がにじむ程度が一番効果があるらしい。
汗だくになるほどリハビリするのは、実は身体によくないらしい。
﹁はい。わかりました﹂
ストレッチしていた身体を起こし、深呼吸を1つする。
心拍数を一定にするため、リハビリは腹式呼吸や深呼吸が基本で、
自分の呼吸に注意するようにと常に言われた。
深く息を吐いて、吸う。
これだけで滲んでいた汗も引いてしまう。
息を吐かないと、息は吸えないから、必ず息を吐いてから吸いな
さいと、教え込まれた。
ついでに深呼吸はダイエット効果もあるんだよと、リハビリ専門
医が笑って教えてくれた。
よし、いいこと聞いた! いつか、実行してやる!!
﹁ちょっと今日は負荷が大きすぎたかな? なかなか汗が引かない
ね﹂
タオルで汗を拭いてもまだ額に滲む汗に気付いた先生が困ったよ
うに呟く。
今日は新しいストレッチをしていたのだ。
ゆっくりと足の向きを変えて股関節付近の筋力を鍛えるというも
のだそうだ。
筋肉フェチじゃないので、筋肉の名前には詳しくありません。
230
なので、どの筋肉を鍛える運動なのかはさっぱりです。
﹁そうですね。ちょっと右足がいつもより痛かったです﹂
﹁そうか。じゃあ、休ませた方がいいね。帰りは車いすで帰る?﹂
﹁歩きます。歩行が一番のリハビリだと仰ったのは先生です。ゆっ
くりでも歩いて戻ります﹂
車いすは嫌いだ。
リノリウムの床と車いすの組み合わせは、妙な不安に駆られてし
まう。
だから、断固拒否してしまう。
それに、車いすの数には限りがある。
私が使ってしまえば、それを今必要としている人が使えなくなっ
てしまうではないか。
﹁わかりました。相良さんの意思を尊重しましょう。だけど、杖を
使おう。右足を休ませてあげた方がいいのは確かだから﹂
﹁先生の言葉に従います﹂
妥協案を告げられ、素直に頷く。
意地を張るつもりは毛頭ない。
﹁じゃあ、用意するから少しだけ待っていて﹂
﹁はい﹂
担当医が松葉杖を用意する間、私はタオルで汗を拭きとりながら、
暑そうな外の風景を眺めていた。
病院という場所は、ちょっとした休憩箇所がかなりある造りにな
っている。
小さな個人病院だとそうはいかないだろうが、大きな総合病院で
は待合室自体がかなり広い。
受付窓口がいくつもあり、初診や再診が別々の窓口にわけられて
いたり、診察終了窓口と、会計処理窓口に支払窓口、処方箋受け渡
し窓口と、やたらと窓口が多い。
ずらりと受付の前に置かれたソファには100人くらいは軽く座
231
れそうだ。
そして、ぞれぞれの診療窓口の前にやはり相当数のソファが置い
てある。
トイレ付近にも横になれる長さのソファが必ず2つは置いてある。
他にも付添いの人たちが待つための椅子があちこちに設置してあ
る。
特にリハビリルームから受付窓口までの道のりにあるソファの数
は非常に多い。
リハビリ後に体調崩す人とかも中に入るので、すぐに休めるよう
に置いているらしい。
他にも出窓風にして腰掛けられるように桟を大きく作っていたり
とか、アートなオブジェ風の椅子とかもある。
なので、リハビリに通う入院患者も外来患者も、どちらも安心し
てリハビリができるのだ。
病室に向かうには、一旦、ロビーへと出て専用エレベーターに乗
らなければならない。
リハビリルームは、受付から見ると一番奥にある。
病室に辿り着くまで、結構な距離を歩くことになる。
その途中に座る場所がなければ、私とて歩くなど言わずに素直に
車いすのお世話になっている。
休めるからこそ、歩く気になるのだ。
ゆったりとしたペースで松葉杖をつきながら、私は歩く。
もしものことがあるので、リハビリ中の患者には担当医や看護師
が付き添っている。
部屋まできちんと送り届けてくれるのだ。
これは、どの病院でも、どんな患者でも、リハビリ中なら同じこ
とをされるだろう。
のんびりと歩けるように、決して急かすようなことは言わない。
だからこそ、歩きやすいと言えるだろう。
﹁あれ?﹂
232
私についていた担当医が、ロビーに目をやり、不思議そうな表情
になる。
﹁相良さん、あの方、もしかしてお知り合いの方じゃないんですか
?﹂
そう言われて、ふとそちらの方を見やれば、小さなバスケットに
花束と何かを詰めた女性が何かを探すようにきょろきょろしている。
そうして、その女性は何かに気が付いたように受付の一番端にあ
る入院患者の受付の方へ歩いていく。
﹁う∼ん。なんでだろう?﹂
私はその女性を知っている。
ここに用があるとは思えない人だ。
何かを聞き終えたその人は、受付窓口の人に丁寧に頭を下げ、謝
意を表すと、受付の奥にあるエレベータに向かって歩き出す。
歩き出した直後、その人は私の姿を捉えた。
﹁あら、驚きましたわ﹂
おっとりとした口調で呟いた女性は、少しばかり首を傾げる。
﹁相良瑞姫様でいらっしゃいます?﹂
﹁ええ、そうですが。あなたは?﹂
一応礼儀として名前を聞かなければならない。
彼女が誰なのか、もちろん知っている。
知ってはいるが、会ったことがないので、初対面という言葉が正
しい。
﹁申し遅れました、わたくし、藤原梅香と申します﹂
にこやかに告げる梅香様に、私はどうしたものかと判断に迷った。
233
28
小さなバスケットを持った楚々とした日本美人。
艶やかな黒髪をゆるく編んで淡い色のリボンで束ね、清楚で涼し
げな雰囲気を作っている。
非常に暑そうな夏の空気が一転して、高原のそよ風のような爽や
かさを感じさせる。
美人とは汗をかかないのだろうか。
こんなに外は暑そうなのに、どうしてこの人は涼しげなんだろう
か。
思わぬところで遭遇してしまった藤原梅香様に対する感想がこれ
であった。
私と対するのが気恥ずかしいのか、視線をやや下げながらも頬は
ほんのりと染まっている。
周囲の男性陣からの視線が痛い。
何故、見知らぬ男共から見当はずれの嫉妬まみれの視線を受け止
めねばならんのだ。
しかし、本当にどうしたものか。
このままここに留まるのは、病室まで送ってくれる予定の担当医
に迷惑をかけてしまう。
彼にもこの後予定というものがあるのだから。
﹁藤原様、今日は何方かのお見舞いですか?﹂
にこやかに穏やかの声を掛ける。
在原が困っていた通り、この方は非常に好い性格の方なのだ。
少々夢見がちな乙女なだけで。
なので、あまり礼を失した態度を取ることはできない。
﹁ええ。静稀様に瑞姫様が⋮⋮あ、ごめんなさい。勝手にお名前を
234
呼んでしまって⋮⋮静稀様がそう仰っていたものですから﹂
﹁構いませんよ。この病院には姉も務めておりますので、相良では
どちらかわかりませんからね﹂
﹁ありがとうございます。嬉しいですわ。あ、そうそう。その、静
稀様に瑞姫様がこちらにご入院なさっていると伺いまして、お見舞
いをさせていただこうと⋮⋮﹂
﹁そうでしたか。それは、ありがとうございます。このような見苦
しい姿で申し訳ありません。よろしければ、病室へご案内しましょ
う﹂
この場でさよならという手は取れなかったか。
在原め。
何故、私がここに入院しているなどと話したんだ。
多分会話が続かなかったんだろうな。
橘と違って、さして親しくない相手との会話が苦手な在原のこと
だ、会話のネタに困ったことだろう。
仕方ないと諦めて、梅香様を部屋に誘う。
担当医に申し訳ないと頭を下げれば、柔らかな笑顔が返ってくる。
松葉杖をつきながらゆっくりと歩き出せば、梅香様と先生がその
あとからついてくる。
﹁静稀様のお話では、普通に歩かれていると思っておりましたわ﹂
﹁ええ、そうですよ。先程までリハビリをしておりましたので、こ
れは疲れた脚を労わるためです。少しの距離なら走れるようになり
ました﹂
嬉しそうな笑顔を作って話せば、ほっとしたように梅香様も笑み
を浮かべられる。
﹁それはようございましたわ。わたくし、運動はとても苦手で、走
っていても歩いているのと変わりないのですわ。きっと走っている
瑞姫様はとてもお速くて素敵なのでしょうね﹂
うっとりとした表情で梅香様が言う。
梅香様の脳内で颯爽と走る私の姿が思い描かれているのだろう。
235
それは脚色であって、事実ではないと思う。
そして、担当医よ。素直に笑え!
小刻みに肩が揺れているぞ。
﹁買い被らないでいただきたい。今の私は、さほど速くはないので
すよ。もどかしいと思うくらい、遅いのですから﹂
一応、聞こえてないとは思うが、訂正だけは入れておく。
エレベーターホールまでたどり着き、ボタンを押して、しばし待
つ。
軽やかな到着音と共に扉が開く。
その中に乗り込み、最上階のボタンを押し、扉が閉まるのを見つ
める。
独特な浮遊感と共に、エレベーターのゴンドラが上へと上がって
いく。
最上階へと到着すると、右側の部屋が私の部屋だ。
﹁先生、ありがとうございました﹂
いつも通り、部屋まで送っていただいたことにお礼を言う。
﹁はい。お部屋に到着ですね。今日はゆっくりと足を休めてくださ
いよ、相良さん﹂
﹁わかりました。そのようにいたします﹂
担当医に松葉杖を渡し、しっかりと頷く。
無茶は致しませんとも。
痛いのは、嫌ですから。
担当医を見送った後、梅香様を部屋へと促す。
﹁どうぞ、そちらのソファへお座りください。今、お茶を用意いた
しましょう﹂
そう告げ、ティーセットを取り出すと、紅茶の支度をする。
﹁まあ、瑞姫様が自らでございますか?﹂
﹁ええ。これでも兄の執事になろうと思って、お茶の淹れ方は特訓
したんですよ。うちは、他の家とは違って、質実剛健が旨ですので、
自分のことは自分でするのが普通なのです﹂
236
お茶の支度をしながら、梅香様に説明する。
場所が病院なだけに飲茶セットは用意できなかったが、中国茶は
一時期凝って、淹れ方は完璧にマスターしたのだ。
ぜひ披露したいところだが、披露できる相手がなかなかいなくて
残念だ。
ティーセットをテーブルの上に運び、時間を計ってティーポット
からカップへお茶を注ぐ。
﹁暑い中、お見えになられた方に冷たいものでなくて申し訳ありま
せん。体を冷やさないようにと言われておりますので、熱い紅茶で
お付き合いください﹂
そう声を掛ければ、梅香様が微笑む。
﹁わたくしの大好きなペルガモットの香りですわ。アールグレイは
大好きですの。嬉しいですわ﹂
そう言って、カップを手にして一口含む。
﹁まあ、本当に美味しいですわ。瑞姫様は何でもお出来になるのね﹂
﹁いいえ。これは、先程も申し上げましたように、兄の為に特訓し
た成果です。お気に召していただけたのなら、幸いです﹂
笑顔で答えれば、梅香様の頬がほんのりと染まる。
﹁わたくし、実は、大伴様のパーティで、お帰りになられる瑞姫様
をお見かけいたしましたのよ﹂
﹁そうでしたか。声を掛けけていただければよかったのに。在原も
一緒にいましたよ﹂
あの日、梅香様とは会えなかった。
だから作戦変更をすべきだと考えていた。
見られていたとは思わなかった。
﹁ええ。静稀様が、あのように屈託なく笑われている姿を目にした
のは、初めてでございました。お友達の前だと、あのような無邪気
な笑顔をなさるのですね、静稀様は﹂
何となく羨ましげな口調で梅香様が言う。
すみません、ごめんなさい。
237
あれが在原の標準装備な笑顔です。
つか、どんな顔をして笑ってたんだよ、在原!!
﹁私が見ているのは、いつもその顔なので、藤原様が御存知の在原
の笑顔というものがよくわからないのですが﹂
﹁瑞姫様と同じ笑い方をなさいますわ。それを見て、初めてわかり
ましたの。静稀様は本心から笑ったことがなかったということに﹂
何となくしょぼんとした様子で梅香様が呟く。
﹁それはどうでしょうか? 在原は、自分の感情に素直な男です。
笑いたくない場面で笑顔なんて見せませんよ。あなたと一緒にいた
ときに、笑っていたとすれば、間違いなく在原は笑っていたのでし
ょう﹂
少しばかり気の毒になって、本当のことを告げる。
﹁そうでしょうか?﹂
﹁もちろんです。在原は、自分の感情に素直な男ですから﹂
重ねて言えば、梅香様が嬉しそうに笑う。
﹁よかった。瑞姫様がそうおっしゃるのなら、本当の事ですわね﹂
そうですけど。そうなんですけどーっ!
少しは疑って。
﹁わたくし、女子高育ちで、引っ込み思案で、とにかく、親しい方
以外の人とお話しするのが苦手なんですの。それなのに、瑞姫様と
は普通に話せるので驚いておりますの﹂
﹁そうなんですか? それは光栄ですね﹂
自分もお茶を飲みながら、とりあえず答える。
﹁瑞姫様は、とても柔らかで優しい雰囲気を醸し出していらっしゃ
るから、つい、何でも話したくなってしまうのですね。静稀様も、
だから、瑞姫様と仲が良いのでしょう﹂
何か、納得したように話される女性に、私は注意深く彼女を見つ
める。
婚約者と親しくしている女性が気にならないという反応ではない。
どちらかというと、婚約者と親しい友人︵男︶という扱いだ。
238
﹁瑞姫様や岡部様のお話は、色々なところからお伺いしておりまし
たの。本当に、王子と騎士という言葉がぴったりな雰囲気で、素敵
でしたわ。信頼し合っているというのは、このようなことを言うの
だと見ていて思いましたの。そこに静稀様や橘様がご一緒されて、
一幅の絵のような光景に、わたくし、声がかけられなかったのです
わ﹂
どこかうっとりとしたような表情の梅香様。
お願いですから、BL展開はやめてくださいね?
そう正直に願ってしまう。
腐を知っている者は、腐を発酵させ、脳内で思うままに勝手に楽
しんでくれるので、その事実を知った時に戦慄が走った。
私は、例外中の例外ですから、一緒にしないでください!
そう思いながらふと気が付くと、梅香様は私の唇をじっと見つめ
ていた。
﹁瑞姫様﹂
﹁はい?﹂
私が聞いた話と全然異なる配置図だ。
﹁わたくし、静稀様に取り返しのつかないことをしてしまいました﹂
いきなりの言葉に、私は前のめりになる。
﹁どういうことでしょうか﹂
聞きたくないが、聞かなければならないことがある。
聞いたという事実が必要なのだ。
﹁わたくし、以前、別の宴で静稀様をお見かけしましたの﹂
そういう梅香様の表情は複雑そうなものだ。
﹁わたくしにとても親切にして下さった静稀様に、わたくし、ひと
めぼれをしてしまったと勘違いいたしましたわ﹂
﹁勘違い?﹂
﹁ええ。静稀様にはとても申し訳ないことをしえしまいました﹂
﹁静稀に?﹂
﹁そうですわ﹂
239
頷いた梅香様は、困ったように告げた。
﹁わたくし、大伴様のパーティで、恋をしてしまいましたの﹂
﹁⋮⋮はあ⋮⋮﹂
思いもかけないことに、私も困る。
﹁静稀様に何と切り出してよいものか⋮⋮﹂
﹁普通でよろしいのでしょうか﹂
何と答えればいいのかわからずに、曖昧に笑いながら言葉を返す。
﹁在原は実直な性格です。嘘が嫌いな男ですから、正直に伝えれば、
素直に受け入れる事でしょう﹂
私がそういえば、梅香様も素直に頷く。
﹁ありがとうございます。気が楽になりましたわ﹂
穏やかな微笑み。
しかし、何故私がこんなところでお悩み相談室をしなければなら
ないのだろう。
そう思いながら、私は梅香様の次の言葉を待った。
240
29
梅香様の話をまとめると、大伴家のパーティですれ違った私たち
を見送った後、私の姉、菊花に声を掛けられたらしい。
ちょっと特殊なプログラムを組む菊花姉上は、藤原家の仕事をし
たこともあるらしく、梅香様とも顔見知りなのだそうだ。
そこは私も初耳だった。
うちの女王様といくつか話をしていたところ、姉に声を掛けて来
た男性がいた。
それが問題の相手のようだ。
一条秀明。
かつて藤原家の分家であったものが、独立して一条の名を藤原当
主から与えられたのが一条家の始まりだ。
もう一つ、一条という名字を持つ家があるが、そちらとは全く別
の家だ。
同じ苗字なので混同されやすいのだが。
穏やかな雰囲気を持つ一条秀明の秀麗な顔立ちに視線を奪われた
梅香様は、彼に微笑みかけられて恋に落ちたそうだ。
うん。ベタだと思っても仕方ない。
恋を夢見るお嬢様だから、そういうこともあるんだろうね。
というより、梅香様の好みを用意周到に調べ上げて、それに該当
する人物をピックアップした菊花姉上の策略勝ちと言った方が、本
当は正しいだろう。
どういう状況が一番梅香様がときめくのかをシミュレートして、
最高のシーンを提供したのだろう、自分の目的の為に。
純粋無垢な梅香様は、知らずに引っ掛かってしまったのだ。
最初の予定では私がする役だったのを、おそらく、奪ったのだ、
241
菊花姉上が。
うちの兄姉は、末っ子の私に甘すぎるほどに甘い。
罪悪感に苛まれるような汚い役はさせたくなかったのだろう。
割と、平気で出来るけどな、私は。
だが、逆の立場に立てば、誰が大事な身内にそんな汚い役をさせ
られるかと思うだろう。
私だってそう思う。
すでに成人して、社会基盤というものを持っている菊花姉上は、
すべてを計算したうえで、やり遂げたのだ。
自分に優しく微笑みかけてくれた在原に、気持ちを高ぶらせ、お
伽噺のお姫様になった気分で押しかけ女房ならぬ押しかけ婚約者に
なってしまった梅香様。
それが恋ではなく、恋だと思い込んでしまったことに気が付いて、
在原に対して罪悪感を抱いている。
相談しようにも、自分の周囲には自分と似たような人しかおらず、
相談するべき相手を見つけきれずに途方に暮れていた。
そんな折、在原が私の話をした。
いろいろと相談に乗ってもらっている、と。
そこで梅香様も私に相談に乗ってもらおうと思い立ったそうだ。
純粋培養だからこその思考だろう。
相手がほぼ初対面の年下の女の子であることに気付かずに、頼っ
てしまうところとか。
だからこそ、菊花姉上に付け込まれてしまったのだ。
申し訳ないと内心思うが、それを口にするわけにはいかない。
姉がしたことは、私も同罪と言えるからだ。
一条秀明様は、姉が言う私のストーカーなのだそうだ。
私が大伴様のパーティに出席したということを聞いて、真偽を確
242
かめに菊花姉上に尋ねに来たそうだ。
まあ、私はまんまと大伴夫妻の掌の上に転がされてしまった結果、
ほとんど人と会わずに遊戯室でビリヤードに興じてしまっていたの
だし。
もしかしたら、それも菊花姉上の差し金だったのかもしれない。
大事な妹がストーカーに付きまとわれて、迷惑しているというこ
とを大伴夫妻に直談判することくらい、菊花姉上にとって他愛もな
い。
私が知らなくても、それは兄姉にとっては事実なのだから。
菊花姉上と一緒にいる女性が、本家筋のお嬢様だと知っている一
条様なら、彼女に対し、微笑むことくらいはするだろう。
分家にとって、本家は太陽のような存在だ。
本家がいるからこそ、自分たちは存在できると思っているところ
がある。
たとえそれが名字を与えられて、切り離されても、その思いは一
緒なのだと聞かされた。
一条様にとって、梅香様の機嫌を損ねることは罪にも等しい。
笑顔で挨拶することくらい、簡単なことだろう。
ただそれだけの軽い気持ちが、大事を引き起こすことになる。
在原の時にはさすがに強引に話を進めることができないであろう
藤原本家も、相手が一条家なら簡単だ。
在原静稀は15歳。一条秀明は25歳。そうして、22歳になる
梅香様のお相手にふさわしいのはどちらかかと考えれば、明白だ。
いくら在原家が名家でも、静稀が適齢期になるころには梅香様は
アラサーとなる。
完全に嫁き遅れとして名を馳せてしまうだろう不名誉を藤原家が
許すはずもない。
早く嫁ぐには構わないが、遅くなれば名誉にかかわると思う名家
のありようは、いささかどうであろうかと思ってしまう。
これは、私が一般人であったという記憶がそう思わせてしまうの
243
かもしれない。
一般人の常識というのは、セレブの非常識と一致することがある。
独身主義がその最たるものだ。
そして、浮気に関しても真逆に位置する。
一般的な感覚として、浮気は許されないものだが、セレブではゲ
ームのようなものとして、子供ができないのなら許されるという認
識がこちらではある。
その点に関しては、相良家は一般寄りだ。
たった一人の伴侶に固執してしまうからだ。
まあ、それはいいとして。藤原家は、梅香様の仄かな恋心を知れ
ば、一条家に圧力をかけることだろう。
主家の命を分家が断れるはずもない。
数日中に両家の婚約がなされるはずだ、梅香様が一言そういえば。
梅香様を宥め賺し、自分の気持ちを周囲に素直に告げることをア
ドバイスして、彼女と友達になることを約束する。
見舞いの品を受け取り、そうして彼女を送るために一緒にロビー
へと向かった。
ほぼ初対面であるのに、色々と醜態を晒したと恐縮する梅香様に
笑ってそれらを否定する。
藤原家の知名度は、相良家よりも遥かに高い。
そんな家を相手に喧嘩を売るなど、普通では考えないだろう。
血の気の多い兄姉なら、やるだろうが、私はしない。
基本的に私は事なかれ主義だ。
古き良き日本人の典型だと自慢して言えるだろう。
和を重んじることの方が、孤軍奮闘で戦うことよりも有意義だと
思える。
244
戦うこと自体は嫌いではないが、状況判断も必要であるという考
えは持っているつもりだ。
﹁本当に色々と、申し訳ありませんわ、瑞姫様﹂
恐縮しまくった梅香様が私に頭を下げてくる。
本人としては醜態を晒しまくったとしか思えないだろう。
﹁いいえ。いろいろとお話を伺えて楽しかったですよ﹂
にっこりと笑えば、梅香様が赤くなる。
この人、私の顔が好きらしい。
だけど八雲兄は苦手のようだ。
同じ兄弟でも微妙な個性で好みがわかれるらしい。
若干、男性恐怖症のきらいがある梅香様には、八雲兄はつらかろ
う。
いくら私とよく似た顔であるとはいえ、あちらは肉食系男子であ
る。
人見知りをする梅香様には恐怖の対象といえるかもしれない。
逆に言えば、私は草食系なのだろう。
恋愛に対して一切興味を示さないし、些細なことでは怒りを覚え
ることもない安定した性格なのだし。
その点で行けば、長兄も彼女にとっては苦手な相手の最たるもの
であろうが、実際はそこまで苦手ではないようだ。
すでに意中の相手がいる兄だし、他者に対してはそこまで気を使
うこともなければ、身の危険を感じることもない。
だから安心して付き合える相手だと思ったのも無理はないだろう。
ロビーまで歩いた私は、自動ドアから中へ飛び込んできた人物の
顔に驚いた。
﹁一条様﹂
245
私と一緒にいる梅香様の言葉に、秀明氏の表情が強張る。
私に何を言われるのかと、怯えていたようだ。
﹁瑞姫さん﹂
白い顔色で、言葉を紡ぐ。
﹁梅香様がお帰りになられるそうなのですが、お迎えに来ていただ
いたのですね?﹂
にっこりと、実ににっこりと、秀明氏に笑いかける。
﹁僕は、あの⋮⋮﹂
何かを言い出そうとした秀明氏は、そのまま口籠る。
菊花姉上にハメられたことに気付いたかもしれない。
それとも、私が梅香様の言葉を素直に信じているのだと思ったの
かもしれない。
今言い訳しても立場が悪くなるだけで、状況は好転しないと悟っ
たようだ。
﹁今日はありがとうございます、梅香様﹂
﹁こちらこそ、お話を聞いていただけてうれしかったですわ﹂
にこやかな笑みと会話を続ける二人に対し、秀明氏の顔色がます
ます悪くなる。
気が付いていても、かける言葉はないところが性格が悪いと思う。
﹁それでは、また﹂
笑顔のまま見送る私に、梅香様が嬉しそうに微笑む。
﹁ええ、またお会いしましょう﹂
名残惜しげに去っていく梅香様をエスコートしながら哀愁を漂わ
せる秀明氏に、器用だなとしか思わない私。
だが、菊花姉上には言っておかなければならないことがある。
二人の姿が扉の向こうに消えたのを確認し、私は二番目の姉に抗
議をするべく、自分に与えられた部屋へと戻っていった。
246
30
夏休み終盤、無事に退院した。
今回、トラブルらしきことがなくホッとした。
そう思って、ふと気づく。
どんだけトラブル体質なんだ、私っ!?
いや、私がトラブルを起こしてるわけじゃなくて、何故かトラブ
ルが持ち込まれてくると、思いたい。
地味に目立たなく、平穏に。
ただそれだけを思っているのだが。
夏休みの課題も、前半中にすべて終わっている。
コツコツやっていれば難しくはないというレベルしか、東雲は夏
の課題を出さない。
何せ、避暑を海外でというセレブが多い学園だ、課題ばかり出し
ていては父兄から文句が出ないとも限らない。
普通はもっと出せという文句が出るらしいが、ここは逆だ。
尤も、休み明けの実力テストでどれだけきちんと勉強していたか
は、はっきりわかるので遊び呆けていれば恥をかく。
疾風は入院中、宣言通り、毎日顔を出した。
そしてなぜか、弟の颯希もかなりの頻度でくっついてきた。
私としては嬉しい限りだ。
退院後も颯希は別棟の方へよく顔を出すようになった。
﹁瑞姫様、ご機嫌いかがですか?﹂
今日も疾風と一緒にやって来た颯希が元気よく挨拶をする。
﹁さっちゃん、今日も来てくれたのか? ありがとう。機嫌も気分
も上々だ﹂
247
可愛いなぁと思いながら、笑顔で挨拶を返す。
﹁瑞姫様! 僕のことはさっちゃんじゃなくて、さつきとお呼びく
ださい! 僕も瑞姫様付きにしていただいたのですから﹂
はきはきした口調で颯希が言う。
その後ろで憮然とした表情の疾風が立っている。
﹁颯希! 控えろ。まだ、おまえの役付きは決定していない﹂
﹁ほぼ決まったも同然です。僕は、瑞姫様にお仕えすると決めてい
たのですから!﹂
むっとした様子で颯希が疾風に言い返す。
﹁⋮⋮疾風、さっちゃん。岡部で何があった?﹂
御祖父様からも父からも、何も話はなかった。
当然、岡部の当主からもだ。
私が入院している間に、何があったのか。
﹁まだ何も﹂
疾風が淡々と返す。
﹁何か起こる前に、瑞姫様の警護を厚くする必要があると父は考え
ているようです﹂
まっすぐな視線で颯希が告げる。
﹁何故、私だけ? 姉たちはいつも通りだったが﹂
﹁大伴様のパーティの出席が話題になったようだ。あちこちから招
待状が届いて、少し問題が起こった﹂
憮然とした表情のまま、疾風が答える。
﹁お館様がそのすべてに、瑞姫の体調不良を理由に欠席を告げたら、
病院の方へ強引に来ようとした阿呆がいてな。岡部の方で止めるこ
とができたが、その件で、諏訪が動こうとした﹂
﹁諏訪が? 何のために?﹂
その問いかけに、疾風と颯希の表情が一気に歪む。
﹁疾風兄! 何で諏訪を潰さないんですか!? あんな家、厄災で
しかないのに!! 絶対に要らない!!﹂
颯希から紡ぎだされた言葉は、嫌悪と拒絶。
248
それも、生半可なものではない。
﹁あんな家でも、巨大企業だ。潰せばそこの従業員が路頭に迷う羽
目になる。経済界が破綻する。彼らに罪はない﹂
冷静に告げる疾風だが、そう自分に言い聞かせているようにしか
見えない。
﹁でもっ!! あいつらが元凶じゃないですか! 瑞姫様をつらい
目に合わせて! それなのに、きちんとした謝罪もせず、さらに問
題ばかり起こして!! あんな奴ら、いらない!!﹂
﹁さっちゃん!﹂
思わず手を伸ばし、颯希を抱きしめる。
それ以上の言葉を言わせたくなかった。
﹁⋮⋮瑞姫様﹂
﹁いい子だね。さっちゃんは、本当に優しい、いい子だ。ありがと
う。でも、それ以上は口にしちゃダメだよ﹂
耳許でそう囁き、ふかふかで柔らかな髪を撫でる。
﹁⋮⋮⋮⋮瑞姫様⋮⋮﹂
おずおずと伸ばされた腕が、ぎゅっとしがみついてくる。
﹁でも、僕、口惜しいです! 瑞姫様の髪、あんなに長くて綺麗だ
ったのに⋮⋮こんなに短くなって。それに、稽古だって。疾風兄を
投げ飛ばしてあんなに格好良かったのに、乱取りすらできなくなっ
て⋮⋮﹂
ちょっと、颯希君。
君の中の私のイメージって、一体⋮⋮!?
最初はいいけど、そのあとの疾風を投げ飛ばしって、どんだけ凶
暴認定されてるのっ!?
﹁あのね、さっちゃん。例え怪我してなくても、もう私は疾風を投
げ飛ばせないよ? どれだけ身長と体重差があると思ってるの? さすがに重いよ﹂
﹁重い⋮⋮﹂
疾風の顔が微妙なものになる。
249
いや、平均体重から考えれば、標準よりは筋肉質な分、重いだろ
う。
太っているっていう意味じゃないからね。
﹁さっちゃんならイケるかもしれないけど﹂
﹁瑞姫様っ! 僕、瑞姫様をお姫様抱っこぐらいできますよ!!﹂
むっとしたのか、颯希が至近距離から私の顔を覗き込んでくる。
﹁それと、さっちゃんじゃなくて、颯希です! これから颯希と呼
んでください。いいですね!﹂
﹁え? ああ、うん。ごめんね、そうしよう。颯希﹂
﹁はい﹂
にっこりと嬉しそうに笑った颯希は、私から離れる。
﹁それから、僕が瑞姫様をお嫁さんにしますから﹂
﹁颯希!﹂
颯希の嫁発言の直後、疾風の鉄拳が颯希に落ちる。
﹁いたっ!! 何で!?﹂
﹁当たり前だろう!! 自分の歳を考えろ! マセガキが。第一、
オヤジが許可するわけがない﹂
﹁でも絶対、あいつらには渡さないっ!﹂
何だろう、この兄弟喧嘩モドキは。
﹁疾風。詳細を言え﹂
目を眇め、疾風に問う。
﹁⋮⋮諏訪当主夫人が、瑞姫を貰い受けるのは諏訪だとどこかのパ
ーティで仰ったようだ。その真偽を問い質すこともあって一時、周
辺が騒がしくなった﹂
﹁律子様か⋮⋮﹂
多分、言い出すだろうとは思っていた。
私を傷物にしたという思いが律子様にはある。
その責任を取るのなら、私を諏訪伊織の妻に据えるのが最良だと
考えたのだろう。
普通、これが一般的な考え方なのだ、この世界では。
250
しかしながら、相良や岡部にとっては屈辱でしかない。
互いが想い合っていない婚姻など、不幸なだけだ。
そんな思いを誰が大事な子供にさせるモノかと、一族中が怒り狂
っているのが想像つく。
私とて、諏訪伊織の嫁よりも颯希の嫁の方が遥かに心穏やかに過
ごせるというものだ。
本当に小さい頃の疾風を見ているようで、さっちゃんは可愛いの
だ。
﹁疾風、皆に手を引くように伝えてくれ﹂
私の言葉に疾風が驚く。
﹁しかし!﹂
﹁御祖父様以外、黙るようにと。御祖父様にとりあえずのところは
お任せする。だがな、頃合を見計らって、私が直接、律子様にお仕
置きするつもりだと、な﹂
ゆっくりとした口調でそう告げれば、青褪めた疾風がぎこちなく
頷く。
颯希も押し黙ってしまった。
﹁⋮⋮だから、言っただろう。相良の中で一番怒らせたら恐ろしい
のは、瑞姫だって﹂
﹁疾風?﹂
颯希に耳打ちする疾風の言葉が引っ掛かり、名前を呼ぶ。
﹁うわっ!! はい!?﹂
﹁誰が、何だって?﹂
﹁何でもないっ! 何でもないって!!﹂
びくっと引き攣った疾風が慌てて誤魔化そうとする。
﹁まあ、いい。諏訪が動いたのなら、近々大神も動くはずだ。動向
に気を付けてくれ﹂
﹁大神⋮⋮わかった﹂
表情を改めて、疾風が頷く。
﹁颯希﹂
251
﹁はい!﹂
元気よく返事をする颯希の頭を思わず撫でる。
﹁瑞姫様!﹂
﹁ああ、ごめん。随身の件、岡部から打診があれば、受けようと思
う。ただし、疾風を外さないという条件でだ。それでいいか?﹂
﹁はい! 僕、精一杯、瑞姫様にお仕えしますから﹂
嬉しそうに頷く颯希の後ろで、疾風は複雑そうな表情だ。
それも仕方ないだろう。
疾風ひとりでは私の警護が間に合わないと判断されたのだから。
私としても不本意な状況になっているのだから、ここは疾風にも
妥協してもらわないと困る。
祖父も父もおそらくは私の外出時に警護の者をわからないように
つけるつもりなのだろうことが推察される。
彼らと密に連絡を取り、指揮を執るのが疾風の役目になる。
その間、私の近くに誰もいないということが、相手の狙い目にな
っては困るのだ。
﹁頼むぞ、疾風﹂
﹁承知した﹂
仕方ないと頷いた疾風に笑い返し、間もなく始まる2学期に思い
を馳せた。
試験、絶対にこの怒りをぶつけて1位を取ってやる。
***************
2学期が始まり、登校すると、教室内は騒然としていた。
﹁おはようございます、何事でしょうか?﹂
252
笑顔を作って問いかければ、教室内が静まり返る。
﹁どうしました?﹂
もう一度、ゆっくりと問い直せば、近くにいたひとりがおずおず
と話し出す。
﹁相良様のご婚約が決まったと噂が流れて⋮⋮﹂
﹁兄がひとり結婚しておりますが、それ以外はまだそのような話は
決まっておりませんが?﹂
首を傾げて疾風を見やれば、疾風も無言のまま頷いて見せる。
﹁そ、そうですか﹂
﹁ええ。ああ、兄のひとりが、近々婚約者となる女性を口説き落と
して連れてくるとは言っておりましたが⋮⋮どんな方なのか、今か
ら楽しみで﹂
くすくすと笑って言葉を重ねれば、何処か唖然としたような表情
で皆がこちらを見つめている。
﹁や、八雲様がですか?﹂
﹁いえ。長兄です。ひと回りほど年が離れておりますので、皆様に
は馴染ないと思いますが﹂
上品な笑顔を心掛けて言えば、ほっとしたような空気が漂う。
﹁ああ、もしかしたらその兄のことが噂になっていたのでしょうか
?﹂
﹁ええ! そうですね。きっとそうなのでしょう﹂
誘導するように仕向ければ、穏やかな空気が戻る。
これで諏訪本人が何かを言い出すまでは、押し通せるだろう。
自分の席まで移動し、鞄を机の上に置いたときだった。
﹁瑞姫っ!! 瑞姫ちゃーん!!﹂
バタバタと廊下を走る足音が響き渡り、教室に飛び込んできた少
年が私に抱き着く。
﹁もう大好き! 愛してるよっ!!﹂
﹁うわっ!! いたっ!!﹂
ぎゅうぎゅうと力一杯抱きしめられ、ぐりぐりと頬擦りされる。
253
﹁在原っ!! 離れろ! 瑞姫を放せ! 痛がってるから!!﹂
私が漏らした﹃痛い﹄という言葉に反応した疾風が、顔色を変え
て在原を引き離す。
﹁岡部、乱暴! 瑞姫への親愛表現を邪魔しないでほしいんだけど﹂
﹁瑞姫を抱き潰すのが親愛なら、俺がお前を蹴り潰してやるが?﹂
﹁え? 僕、潰してた?﹂
﹁潰しかけてた!﹂
﹁⋮⋮そこ、よそのクラスで漫才するのやめなさい﹂
疲れ果て、げっそりした表情で注意すれば、ふたりとも私を振り
返る。
﹁ごめん、瑞姫! 大丈夫だった?﹂
﹁⋮⋮本当に潰されるかと思ったよ﹂
﹁ごめん。本当に嬉しくて、想いが溢れかえっちゃった﹂
へらっと笑う在原に少々殺意が芽生えそうになる。
似たような身長とはいえ、相手は男子だ、力はある。
手加減なしで抱き着かれればさすがに苦しい。
﹁その様子だと、上手く収まったようだな﹂
﹁うん。瑞姫のおかげだよ。そう言ってた、向こうも﹂
﹁そうか。よかったな﹂
﹁うん﹂
本当に嬉しそうな笑顔で何度も頷く在原。
相手が悪い方ではなかったため、傷付けずに双方上手く収める方
法を探して悩んでいたから、本当によかったと思う。
﹁瑞姫のおかげだよ、本当に﹂
﹁いや。それは違う。少々姉が力技で押し切ってしまってな。申し
訳ないことをしたと思っていたんだ﹂
﹁そうなの? そんなこと、全然⋮⋮ああ。そうか﹂
首を横に振っていた在原が、ふと何かに気付いたように頷いた。
﹁確かに無茶振りと言えるかも。力関係考えると﹂
﹁そうなんだ。まあ、あの方の性格の一面以外は、非常に優秀な方
254
だから、受け入れる側としては宝を手に入れるようなものだと思う
んだけど﹂
年が離れすぎていなければ、在原も割り切って受け入れていたか
もしれない方だったのだ。
﹁そうだね。幸せになっていただきたいとは思ってるよ﹂
にこやかに笑って、在原がその話を締めくくる。
次にこの話をするときは、きっと公の場での祝福の時だろう。
そろそろ教室に戻るようにと促そうとした時だった。
扉がガタリと鳴る。
その異様な音に、教室内にいた者たちが一斉に扉を振り向く。
﹁⋮⋮あ⋮⋮﹂
そこには驚いたような表情の諏訪が立っていた。
諏訪の姿を認めた者たちの表情が一変する。
音の原因がわかってほっとしたような表情を浮かべ、再び自分た
ちの話に戻る者。
憧れの諏訪様の姿にうっとりと見惚れる者。
そうして、夏休みの間に起ったことを知っている者の表情は厳し
いものだった。
﹁静稀、疾風、そろそろ教室に戻れ﹂
﹁⋮⋮でも⋮⋮﹂
﹁新学期早々H.R.に遅刻か?﹂
冗談めかして言えば、仕方なさそうに肩をすくめ、その場を離れ
る。
諏訪とすれ違う際、疾風はしっかりと諏訪を睨んでいた。
大人げないぞ、疾風。
苦笑を浮かべた私は、そのまま諏訪の存在を無視して自分の席に
座る。
諏訪の表情など見なくてもわかっていた。
255
31 ︵諏訪伊織視点−前編︶︵前書き︶
諏訪伊織視点
回顧録ともいう
256
31 ︵諏訪伊織視点−前編︶
生まれたときから、俺は特別な存在だった。
諏訪家の次期当主、諏訪伊織。
それが、俺に与えられた名前だ。
諏訪家の次期当主として、誰よりも優れていなければならない。
そう訓えられ、そのように育てられてきた。
実際、同じ年頃の子供よりも俺は優秀だった。
狭い、とても狭い箱庭のような世界。
その中で俺は自分が世界の中心だと思っていた。
両親はとても忙しく、顔を見ない日の方が多かった。
その代り、父の妹である叔母と、その娘の詩織がいつもそばにい
た。
叔母は、幼い頃に分家の養女となり、分家の跡を継いだのだそう
だ。
詩織も分家の跡を継ぐという話を聞いた。
俺の知っている人間の中で、一番きれいで優しくて、とても暖か
い存在が詩織だった。
常に傍にいてくれる詩織が俺の世界のすべてだったと言ってもい
い。
少しずつ大きくなるにつれて、母親や叔母が俺と詩織をいろんな
場所へと連れて行った。
今思えば、それはお茶会の類だったのだろう。
257
その中でも俺は母と同年代ぐらいの女性たちに、賢いとか優秀と
かと言われてもてはやされた。
当然だ、俺は諏訪家の人間なのだ。
優秀で当たり前なのだ。
他の子供と一緒にするな。
そう思っていた。
だが、彼女たちの話をよく聞けば、俺を褒めた後で必ずこう言う。
﹃相良のお姫様は、とても聡明で、とても幼い子供のようには思
えないわ。きっと、八雲様やあのお姫様のような子を神童と言うの
でしょうね﹄と。
相良の姫と言う存在が、自分よりも優れていると聞かされて、俺
は正直憤った。
俺ほど優れた人間はいないというのに、俺よりもさらに優れてい
る人間がいるわけがないと。
その思いは、幼稚舎に上がった時に打ち砕かれた。
東雲学園の幼稚舎に通うようになってしばらく経った。
同じクラスに相良の姫と言う存在はいなかった。
やはり、自分より優れた人間はいないのだと思い直した頃、彼女
に出会った。
幼稚舎の周囲には季節ごとに収穫できる果物の木が植えられてい
る。
四季を通しての恵みを知ることで情緒豊かな子供に育つようにと
いう教育の一環だった。
だが、悪戯盛りの子供にとって、木やそれに生る果物は格好の遊
び道具だ。
まだ青い実しか生っていないリンゴの木を見上げ、俺は考えてい
た。
258
この木に登って、あの実を取れば、俺が優秀な人間だということ
の証明になるのではないかと。
そうしてリンゴの木に手を掛けたときだった。
﹁やめなさい、怪我をするよ﹂
やや高めの柔らかい声が俺を止めた。
振り返れば、髪の長い女の子が立っていた。
年は俺と同じくらいか少し下か。
まっすぐな黒髪で、目も大きくて黒く、そうして肌がとても白か
った。
俺が知っている中で一番きれいな人間は詩織だった。
そこに立っている少女は、その詩織よりもさらに綺麗だった。
﹁その木の表面は滑りやすい。青い実を食べれば、お腹を壊す。い
いことは何もない、やめた方がいい﹂
非難めいた言葉に、俺はむっとする。
詩織よりもきれいな人間が、何故俺を否定するのかと、怒りすら
感じた。
﹁俺にできないことはない!﹂
そう言ってやれば、そいつは醒めた目で俺を眺めた後、ふいっと
横を向き、その場を離れた。
﹁おい、待て!﹂
﹁忠告はした。それを聞かない莫迦は知らない﹂
莫迦と言われたのは、生まれて初めてのことだった。
何故、俺を認めない!?
絶対に認めさせてやると、半ば意地になって木登りをし、見事、
木の枝を折って、落ちた。
先生たちには怒られ、家に帰っても両親からも怒られた。
何故、俺が怒られなければならない。
俺は優秀で特別な存在なのに。
俺が木に登る前に俺を止めたやつが褒められ、それを無視して登
った俺は散々怒られた。
259
意気地なしのあいつが褒められて、勇気ある俺が怒られるなんて
おかしい話だ。
そう訴えたら、さらに怒られた。
詩織にも危ない真似はやめてと窘められ、ようやくそこで俺は反
省した。
詩織が心配するから、やつが俺を止めたのだと理解したからだ。
なかなか使えるやつじゃないか。
よし、俺の家来にしてやろうと、次に会った時に言ったら、﹃莫
迦は知らない﹄と冷めた目で言われて、それ以降、無視された。
詩織よりもきれいな顔をしているくせに、俺が何を言っても知ら
ん顔だ。
許せるわけがないと思った相手が、相良の姫だと知ったのは、そ
れからかなり経った後だった。
初等部に上がった後も、相良は俺の存在を無視をしないまでもそ
こら辺の軽いものとして扱った。
そうして、すべてにおいて優れていると言われる俺よりも、さら
にその上を行く優秀さを周囲に示しながらも淡々としていた。
相良はいつもひとりでいるか、岡部を連れているかのどちらかだ
った。
放っておいて欲しいと思っても誰彼群がってくる俺とは違い、あ
いつの周りには誰も近寄らない。
嫌われているわけではなく、近付きたいと思っていても、近寄ら
せない何かがあいつを取り巻いていた。
傍に置くのは岡部だけ。
屈託のない笑顔も、軽やかな笑い声も、すべて岡部にだけ、なの
だ。
他の奴らには微笑む程度。
260
俺に至っては無表情。微笑みすら見せない。
声を掛ければ答えるが、他の奴らとは違い嬉しそうではなく、鬱
陶しそうに義理程度に答えるだけ。
嫌われているわけでも好かれているわけでもない。
あれは一体、どういう態度なんだろうか。
だが何故か、詩織はあいつを気に掛ける。
相良の姫と呼ばれるあいつと、その兄の八雲の2人を。
詩織は俺だけを気にかけていればいい、そう言えば、詩織は笑っ
て頷く。
勿論、俺は特別なのだから、と。
やっぱり俺は特別なんだ。
だから皆、俺のことを気に掛ける。
なのになぜ相良は俺のことを全く気にしないんだろうか。
その疑問を抱えたまま、初等部を卒業し、中等部へと上がった。
その頃になると、俺は大神紅蓮とつるむようになった。
紅蓮の父と俺の父は親友同士で、よく出かけた場所で会うように
なったからかもしれない。
紅蓮は愛想良く微笑んでいるが、なかなかの毒舌で、頭もいい。
打てば響くように言葉を返してくるので、話すのが楽しい。
その紅蓮も相良のことが気になるようだった。
自分からは声を掛けず、ただじっと見ているだけだ。
見ているというより、観察しているようにも見える。
そんなに気になるのなら話しかければいいと言ってみれば、今は
データ集めの最中だからと、微妙にはっきりしない答えが返ってき
た。
中等部1年の2学期が始まって1ヶ月が経った頃、俺はいつもの
ように放課後、高等部へ詩織を迎えに行った。
年が離れているため、高等部にいる詩織が少々恨めしい。
詩織は俺だけを見ていればいいのに、高等部にいる間のことは俺
261
には全く分からないからだ。
ならば、授業が終われば、その後の時間は全部俺に使うべきだろ
うと迎えに行ったら、詩織は困ったように笑っただけだった。
今日は高等部で行われる10月のイベントのハロウィンについて
聞いてみようと思いながらいつもの場所へ行けば、詩織が見知らぬ
男4人に絡まれていた。
詩織は分家とはいえ、諏訪の人間だ。
誘拐なんかの危険もあるとふと気づき、俺は持っていた荷物を捨
てて詩織の方へ走って行った。
詩織を助けないといけない。
それだけしか、考えていなかった。
詩織を連れて行かせない、絶対に離れるものかと暴れていた時、
ふいに詩織の声が聞こえた。
それは、相良を呼ぶ声だった。
相良に逃げろと告げる声。
あいつが近くにいるのか!?
詩織の呼びかけの不自然さに、俺は全く気付かなかった。
振り返ってあいつの姿を見つければ、相良はものすごく不機嫌そ
うな表情でこちらを睨んでいた。
そして、手にはスマホ。
学園の警備部と警察へ連絡したと告げるその手際の良さに、俺は
驚く。
こんな時にまで、あいつは優秀だった。
そこからの事は、今でも夢に見る。
俺が必死に抵抗しても、どうにもならなかった男の1人を投げ飛
ばし、逃げながらも追い駆けるもう1人をどうにかしようと冷静に
相手の動きを見ていた。
その場面を身動きもできずにただ見ていた。
車が動き出し、仲間もろとも相良を轢き殺す様を。
小さな身体が宙を舞い、地面に叩き付けられ赤く染まっていくそ
262
の様子を。
俺は、ただ見ていただけだった。
こちらに駆けつけてくる警備員たちの姿に、俺は、相良に助けら
れたのだと、実感した。
救急車が到着し、相良と同じ病院に担ぎ込まれ、治療を受けた後、
母がいることに気が付き、迎えに来てくれたのだと思って近づけば、
思い切り頬を叩かれた。
﹁瑞姫様がもし亡くなられたら、おまえも責任とって一緒に死にな
さい!! 詩織もよ! 自分がやったことがわかっているの!?﹂
てっきり褒めてくれると思っていたのに、何故叱られるのかと母
を見上げれば、これ以上ないほどに激怒した母の姿があった。
﹁詩織、私は絶対におまえを許しませんからね。瑞姫様を殺そうと
したおまえを絶対に許さない。おまえがやったことは、諏訪を潰す
ことよ。本家はおまえを庇わない﹂
﹁詩織は、相良を逃がそうと!﹂
﹁黙りなさいっ!! 本当に逃がすつもりなら、黙っていればよか
ったの! 声を掛けた時点で殺意があったとみなされるわ。万が一
の時に、おまえたちの命だけで事が済めば安いものね﹂
その言葉に、本気で母は俺たちを殺すつもりなのだと悟った。
相良が死ねば、俺たちの命で謝罪するつもりなのだと。
それほどまでに恐ろしい相手なのだろうか、相良家とは。
大企業、財閥などと呼ばれる諏訪が潰されると本気で思っている
のだろうか、母は。
﹁もういいわ。帰りなさい。だけど、さっき言ったことは、本気で
すからね。瑞姫様のご無事を祈っていなさい﹂
低い声だった。
263
母は背を向け、こちらの言葉を聞くつもりはないようだった。
詩織は俺の手を取り、諏訪の分家へと連れて行った。
分家の家には、誰もいなかった。
叔父も、叔母も。
いつからだろう、ここがこんなに静かになったのは。
そして、その日から、詩織は本家へ踏み入れることは許されなく
なった。
相良の意識が戻ったと知らせが入ったのは、それから何日も経っ
た後だった。
264
32 ︵諏訪伊織視点−後編︶︵前書き︶
諏訪伊織視点
坊ちゃん大いに悩むの巻
265
32 ︵諏訪伊織視点−後編︶
相良の意識が戻ったと知らされ、すぐに病院に駆けつけた。
だが、親族以外は面会謝絶だった。
特に俺は、事件の記憶が呼びさまされ、取り乱す恐れがあるかも
しれないとかで、容体が安定し、精神的に落ち着いていると確認さ
れてからだと病室の入り口で止められた。
謝罪をしなければ、母に本当に殺されるかもしれないという恐怖
感から病院に向かった俺としては、いささか拍子抜けだった。
問題はそこから後だった。
容体が安定し、回復に向かい、ベッドから起き上がれるようにな
ったと聞かされながらも、俺は相良と会うことは許されなかった。
何度も病院に行き、相良に会わせろと言っても、誰も頷かない。
挙句の果てには口先だけの謝罪など、意味のないことに相良の時
間を取らせるつもりはないとまで言われた。
何故、謝罪させないのだと問えば、何について謝るつもりだ、謝
ってどうするつもりだ、何のために謝るつもりだと問い返される。
謝ればそれで済むと思っていた俺は、その問いに答えることは何
一つできなかった。
辛うじて最初の問いに、﹃事件に巻き込んでしまったことについ
て謝るつもりだ﹄とその次に会いに行った時に答えたら、深々と溜
息を吐かれてしまった。
皆が皆、俺は何もわかっていないと言う。
中等部でも、事件の事は知れ渡っており、俺が無事でよかったと
言ってくれる者もいれば、あからさまな非難の眼差しを送ってくる
者もいた。
あの事件の前後、数日間に渡って学校を休んでいた岡部が登校し
てきたとき、俺はやつから何か言われると思っていた。
266
俺だけではなく、他の奴らもそう思っていたらしい。
だが、岡部は俺に何も言わなかった。
いや。俺を存在しないものとして扱った。
すれ違っても俺の姿を映さない。
あの気性の荒さから、最低でも睨まれるとか、掴みかかって殴ら
れるとかされても仕方がないと思っていた。
何をされても甘んじて受け入れるべきだろうという頭は働いてい
た。
しかしながら完璧な無視と言うのは想定外の事だった。
リハビリをし始めたという噂を聞きつけ、それならばと病院に行
ったが、やはり面会許可は下りなかった。
何故わざわざ足を運んできてやっているのに、俺に会おうとしな
いんだ。
謝りにきてやっているのに、無礼だろう。
そう思っていたのは事実だ。
だが、母はそれを許してはくれなかった。
両親が全面的に相良の治療をバックアップすると申し出、医師の
手配や最新設備の投入などで本家へ向かう相良家の怒りを何とか収
めることができたと後から聞いた。
相良一族の結束は固く、大事な末姫の危機に怒り狂い、一時は諏
訪との取引を取りやめるという噂が飛び交い、それを本気にした他
の関連企業が一斉に諏訪から手を引き、諏訪の屋台骨が揺らぎ、煽
りを食らった端の会社が倒産したと聞かされ、ぞっとした。
その間、相良は今まで通りの取引をやっていたにもかかわらず、
ただの噂だけで諏訪へダメージを与えたのだ。
本気で撤退すれば、母が恐れていた通りに諏訪は立ち直れないほ
どの大打撃を受けることになる。
しかも、あいつに怪我を負わせた責任の一端がある俺は、諏訪の
次期当主だ。
267
俺が当主になった時に、このままであればもっとひどいことにな
るだろう。
それだけのことは、俺にも解った。
とにかく言葉だけでも謝らなければと、通いつめ、毎回、追い返
される始末。
どうすればいいのか、俺にも解らなくなってきた。
そんなある日、学校の帰りに病院に行った俺の前に立ったのは、
父だった。
あの事件以来、父とはほとんど顔を合わせてはいなかった。
﹁伊織、瑞姫さんに会わせてやろう。ただし、おまえは彼女に声を
掛けることはできない。ただ遠くから見るだけだ。いいな?﹂
それがどういう意味なのかはわからなかった。
とにかく、相良に会えるらしい。
ならば会うべきだと単純に考え、頷いた。
そして、俺は、そのことを後悔する。
総合病院の1階の一番奥。
そこにリハビリルームがある。
患者が人目を気にせず、自分のペースでリハビリできるようにと、
移動しやすい1階でありながら、奥まったところに作られている。
リハビリのみの外来なら、直接受け付けを通さずにこの部屋に来
れるシステムもあるらしい。
そういう説明を聞きながら、案内をする男の後ろを父と歩く。
﹁リハビリルームには関係者以外は立ち入り禁止です。ですので、
その隣にあるチェックルームからご覧いただくことになりますが、
決して大きな声を立てたり物音を立てたりしないでください。リハ
ビリの患者さんたちはとても神経質になっていらっしゃいますので、
ストレスを与えないようにお願いいたします﹂
268
それは、お願いという言葉を使った命令だった。
諏訪の人間に命令するとは何様のつもりかと思ったが、父が了承
する意思を伝えたので、何も言えなくなる。
リハビリルームを素通りし、その奥にある目立たないドアを開け、
そこへ案内される。
そこはある一面のみが硝子張りで、それ以外はすべてコンクリー
ト壁で囲まれた薄暗い部屋だった。
俺達が隣の部屋に入ってきたというのに、リハビリルームにいる
者は誰ひとり気付いた様子がない。
﹁もしかして、マジックミラーですか?﹂
父が声を抑えて問いかける。
﹁はい、そうです。ここから患者さん、おひとりおひとりの動きを
チェックしています。プライバシーにかかわりますので、ここで見
たことは口外しないお約束は必ずお守りください﹂
﹁もちろんです﹂
男の言葉に父が即答する。
﹁それで、相良は?﹂
ざっと部屋の中を眺めても、相良瑞姫らしき人物は見当たらない。
子供は2人いるが、どちらも男のようだ。
ひとりは車いすに座っている。
﹁瑞姫ちゃんなら、そこにいますよ﹂
男が示した先にいたのは、車いすに座っていた相良と似ても似つ
かない少年だった。
似ているのは、さらさらな髪質くらいで、あの長い髪でもなけれ
ばふっくらとした頬を持っているわけでもない。
栄養失調なのかと思うくらいに痩せこけた少年だ。
﹁嘘だ、あれは相良じゃない﹂
﹁いいえ。あれが、今の相良瑞姫ちゃんですよ﹂
否定する俺の言葉に、その男は何でもない事のように重ねて告げ
る。
269
﹁一週間以上も生死の境を彷徨い、生還した後も数日間は夢現の状
態で眠っている時間が長いのです。その間、食事はとれませんから、
栄養を点滴のみに頼れば、当然、痩せてしまいます。起き上がれる
ようになって、きちんとした食事ができるようになっても、傷を回
復させようと身体が栄養を欲しますから、食べた分は身にならず、
すべて傷の回復に当てられます。たくさん食べられればいいのです
が、長い間、口から栄養を摂取しないと、胃の動きが活動的ではな
くなり、食べるという行為そのものが苦痛になってしまう場合もあ
ります。そのため、少量ずつから体を慣らしていかないといけませ
ん﹂
この部屋の責任者なのか、それとも他の資格を持つ医師なのか。
男は相良の食事量の少なさを説明しだす。
﹁身体を動かすことによって、食事量の増加と、エネルギーの配分
を変える必要があるのです。寝たきりで衰えた筋肉を鍛えることで、
粉砕した骨への負担を減らすようにしていきます﹂
父への説明は淀みなく、何度も説明してきたかのような口ぶりに、
相良の家族にも同じ説明をしていたのだとわかる。
だが、俺の視線は相良から動かなくなった。
ゆっくりと車いすから立ち上がる。
もう1人の少年が、それを支えている。
岡部だ。
あいつ、こんなところまで一緒にいるんだ。
俺には会おうとはしないくせに、岡部だけは傍に置く。
そのことが無性に腹立たしい。
睨みつけるように相良と岡部を見ていたら、胸の高さくらいの手
摺のところへと2人は移動する。
ほんの数歩、相良の腕を支えた岡部は、手摺に相良の腕を乗せる。
何かを話した後、岡部は相良から離れて、その手摺の反対側の位
置に立つ。
270
俺のすぐそばで背中だけが見える。
相良の足元にはマットが敷かれている。
﹁あれは?﹂
俺は、あの2人が何をするつもりなのか聞いた。
﹁歩行訓練です。右の大腿骨の粉砕骨折という重傷なので、本来な
らばもう少し時間をかけたいところですが、時間をかけてはかえっ
て他への影響が大きいことから、歩行訓練を先日より始めています﹂
﹁ただ、歩くだけ?﹂
﹁そう。歩くだけ、です﹂
﹁それが訓練?﹂
歩くのがなぜ訓練になるのか、俺にはわからなかった。
歩くことくらい、わざわざ訓練しなくても普通にできるじゃない
か。
その思いが表情に表れていたのだろう、男が苦笑する。
﹁君は骨折したことがないようですね﹂
﹁ない﹂
﹁それは幸せだ。瑞姫ちゃんは、身体を支えるべき足の一番大きな
骨を砕いてしまったんです。人が二足歩行するために必要な骨が砕
け、筋肉も衰えたら、当然、立つことができません。瑞姫ちゃんは、
立つことすらできなかったんですよ﹂
﹁まさかっ!!﹂
即座にその言葉を否定する。
だが、俺の言葉は父によって打ち消される。
﹁そのまさかだ。おまえたちがしでかした結果が、これだ。よく見
ておきなさい﹂
﹁⋮⋮相良をあんな目に合わせたのは、俺じゃない。詩織をさらお
うとした犯人だ!﹂
﹁助けてくれた恩人を巻き込んだのはおまえたちだ。相良家の人々
がおまえを瑞姫さんに合わせようとしない理由をよく見ておきなさ
271
い﹂
有無を言わさず肩を掴まれ、前に押し出される。
相良が手すりに掴まりながらぎこちなく足を踏み出す。
ゆっくりとした動作だ。
颯爽と勢いよく歩いていた相良とは思えない動き。
そして、それも長くは続かない。
右足を出して、体重をかけようとした瞬間、相良の身体が崩れ落
ちる。
﹁あっ!!﹂
俺は、思わず声を上げる。
床に倒れた相良は、左手だけで上体を支えて身体を起こす。
岡部は、立った位置から動かない。
手摺を支える支柱に掴まり、相良は左手だけで立ち上がる。
それだけでかなりの時間を要していた。
肩で息をしている。
呼吸を整え、顔を上げた相良の表情は、気迫に満ちていた。
汗をかきながらも気に留めた様子もなく、歩き出しては倒れ、自
力で起き上がり、また歩く。
何度倒れても、岡部は助けようとはせず、同じ場所から動かない。
﹁なんで、手を貸さない、岡部!?﹂
リハビリルームには、他の患者もいる。
比較的軽症そうな人だっている。
誰もが相良が倒れても知らない顔をしている。
﹁訓練だから、ですよ﹂
穏やかな声が告げる。
﹁正直、このリハビリプログラムを瑞姫ちゃんができるとはスタッ
フの誰も、思っていませんでした。きっと、辛くて投げ出すだろう
と、想像していました。立てない、歩けない、思った通りに動かな
272
い。それがどれほど苦しいことか、なってみないとわかりません。
ましてや、瑞姫ちゃんは所謂お嬢様です。耐えられないだろうと、
思っていました。ところが、我々の想像を裏切って、一言も愚痴を
こぼさず、泣きもせず、ああやって何度でも立ち上がって訓練をこ
なしています。疾風君にしてもそうです。最初の一度だけ、瑞姫ち
ゃんを助け起こそうとしました。ですが瑞姫ちゃんが、手を貸すな、
見ていろと断ってから、ずっとあの位置で瑞姫ちゃんが歩いてくる
のを待っているんです。大した自制心ですよ、2人とも﹂
そこまで言って、男は父を振り返る。
﹁中学1年生とはいっても、まだ12歳の子供です。だがあの2人
は大人でも耐えれそうにないことをやると決めて、乗り越えようと
しています。友達を救って、大怪我をし、生死の境を彷徨い助かっ
た少女は、今、懸命にリハビリをしている。これを美談だと言って
取材に来た人がいました。あなたは、これを美談だと思いますか、
諏訪さん? 私にはとても美談には思えません。そんな生易しいも
のではないんです。運び込まれた血塗れの少女を見たとき、私は、
恥ずかしいことにこの子は助からないと思いました。もちろん、私
の持てるすべてで処置にあたりましたが、本当に運に任せるしかな
いという思いだったんです。ですが、瑞姫ちゃんは自分の意思で生
きることを選んだんです。そうして今も生きるために戦っているん
です。いい暮らしをしているお嬢様と呼ばれる子が、ですよ? 泥
臭く、懸命に足掻いて前に進もうとしている姿を、人々の娯楽のた
めに見せることができますか?﹂
﹁⋮⋮その記者の件は、諏訪が責任もって処分する﹂
﹁そう、願います﹂
ネームプレートに﹃桧垣﹄と書かれている男は、まっすぐに父を
見つめている。
記者の件で諏訪を脅すとはいい度胸をしているな、この男。
後で知ったが、この記者は相良をネタに記事を書こうとして病院
をかぎまわり、相良の不興を買って会社を潰された後、諏訪の分家
273
に転がり込んだらしい。
この男はそれを知って、父にその男の処理をするように迫ったよ
うだ。
何度も転んで、その都度起き上がっては歩いていた相良が、とう
とう端まで辿り着く。
得意そうな満面の笑みで岡部を見た瞬間、バランスを崩す。
今度は岡部が動いた。
差し出された腕が掬い上げるように相良を支える。
しっかりと抱きとめて顔を見合わせた瞬間、2人は声を上げて笑
い出した。
楽しそうに、おかしそうに。
俺の前では絶対に見せない表情。
笑いながらも岡部は手にしていたタオルで相良の汗を拭いてやる。
担当医なのだろうか、車いすを運んできた白衣の男がそれに相良
を座らせる。
そうして、彼女の前に膝をついて、何かを話しかけると、相良が
嬉しそうに笑い、岡部を見上げる。
左手で小さなガッツポーズを取った後、手を上げ、ハイタッチを
する。
そのあとは、担当医ともハイタッチをした。
相良の表情は明るい。
さっきの気迫に満ちた表情が嘘だったかのようだ。
笑顔のまま、3人はリハビリルームから出て行った。
チェックルームに残された俺は、言葉が出なかった。
とても遠い。
そうしてわかったことがある。
274
俺は、相良に謝れない。
何を謝ったって、言葉を尽くしたって、それは俺の自己満足にし
かならない。
言葉で謝ることが求められている謝罪ではないのだということに
気が付いた。
ならば、俺は、絶対に相良に謝らない。
俺は相良に認められる人間になって、助けてよかったと思われる
まで、謝る権利を持たないんだ。
そのことを理解させるために、父はここへ連れて来たんだ。
唇を噛みしめた俺は、病院を飛び出した。
***************
半年後、相良がようやく病院を退院した。
相良に認めてもらえるよう、俺は生徒会長に立候補し、そうして
副会長に紅蓮を、書記に相良を指名した。
生徒会役員は、副と書記のみ会長指名で、他は選挙となる。
断られるのを覚悟で、傍で俺を見てもらうために賭けのつもりで
指名した書記を、相良は引き受けてくれた。
俺を認めてくれたのだろうか。
そう思ったのも束の間、長期入院のための欠席を生徒会活動で補
填するよう先生に勧められたからだと紅蓮が教えてくれた。
生徒会での活動中、相良の指摘は常に俺の盲点をついていた。
ただ指摘するだけでなく、そこはどのようにすべきなのか、すべ
てに渡って相良の指示は適切だった。
俺の代の生徒会は過去に類を見ないほど支持率を誇り、実行力を
275
誇っていた。
それはすべて生徒会長の俺の成果のように言われたが、そのほと
んどが相良のフォローによって生まれた実績だった。
どうあがいても、相良にはかなわない。
何をやっても、認めてはもらえない。
それなのに、他の奴らは俺を褒め称える。
俺はどうすればいいのだろう。
中等部を卒業した春休み。
俺は、詩織に振られた。
告白すらしていないのに、﹃伊織は弟のような存在だから、私の
事は忘れて﹄と言われてしまったのだ。
何故そんなことを言われるのか、わからなかった。
何故好きでいてはいけないのか。
傍にいてほしいと思ってはいけないのか。
何故。
感情の収拾がつかないまま、高等部の新学期が始まり、俺は再び
驚く。
岡部しか傍に置かなかった相良が、在原と橘を傍に置くようにな
ったからだ。
何故、俺ではないのか。
どうして誰も俺を選んではくれないのか。
本当に努力をすれば、相良は認めてくれるのか。
相良の指摘はいつも正確で、身につまされるものばかりだ。
276
俺はどうすればいいのだろう。
答えは、見つからない⋮⋮。
277
33
何事にも全力で。
座右の銘はこれにしようか。
実力テストの最中に、ふと思いつく。
うん。懐かしい話、昔の私がそうだったんだよね。
そこそこ器用そうに見えてかなり不器用で、失敗ばかりしてたけ
ど手を抜くということができなかった。
今は?
ハイスペックな瑞姫のおかげで、手を抜くということもありだと
いうことは覚えました。
そうそう、全力といえば、もぐらたたきならぬG叩き!
悲鳴あげながら新聞紙とかハエ叩きとかでバシバシやってたなぁ
⋮⋮。
スリッパはやったことないですよ、もちろん。
後でそれを履かなきゃいけないってことをしっかり理解してたら、
絶対、スリッパでは叩けない。
ここじゃGという存在を見たことがない。
その名称も聞いたことがないので、存在するのか知らない。
まあ、あえて聞いて確かめたい存在ではないので、さっくり無視
しちゃってますけど。
解答欄をすべて埋め尽くして、溜息を1つ漏らす。
いくら、外見の瑞姫がハイスペックでも、中身は私なのだ。
問題が多すぎれば処理ができないし、難しい問題であれば逃げ出
したくなる。
ピタゴラスの定理のように、はっきりした理論が展開されている
278
ならば、公式にあてはめて問題を解けるのに。
私に降りかかる問題は、数学のように答えが簡単には導き出せな
いモノばかりだ。
テストを受けながら、しきりにこちらを気にしている諏訪とか。
昔から何考えているのかわからないタイミングで話しかけてくる
大神とか。
いや、大神の目的は、大体わかっている。
私に関するデータを集めているのだろう。
接触してくるのは、私の反応を見るためだ。
問題を提議し、どう処理をするのかを知るためだ。
それが解析のためのプログラムになる。
大神は、自分で描いたシナリオ通りに人を動かすことを得意とし
ている。
登場人物の性格などを細かく把握し、自分が持っていきたい結果
を導き出すためにはどう動かすか、常に考えているのだ。
親友である諏訪は、大神にとって格好の駒と言える。
目立つ存在であるため、陰に隠れるにはちょうどいい相手なのだ。
諏訪の感情すらもコントロールできると自負しているところがあ
ったが、春休みの詩織様に失恋したときの諏訪の荒れようは、完全
に彼の手綱から放れてしまったようだ。
それゆえ、私に丸投げしてきた。
諏訪を落ち着かせるには、私が適役だと判断したのだろうが、自
分が思っていた方向とは真逆に落ち着かせた私に警戒したようだ。
大神にとって、理詰めに動いているように見えて、実は感覚で動
いている私は一番苦手なタイプなのだ。
だから、常に慎重にこちらの動きを眺めている。
もうしばらくは、大神は泳がせておいても大丈夫だろう。
何か仕掛けてきたとしても、大神が一番嫌がる方法で封じること
は可能だ。
うん。我ながら性格が悪くなったな。
279
当面の大きな問題は、律子様だろう。
これもしばらくの間は御祖父様に任せておいて大丈夫だ。
むしろ、私が動かない方が律子様の動きを見極めるのにいい。
今は、放置が一番だな。
相良が動かないことに気付いて、徐々に怯えるだろうから。
感情で動くタイプって、相手のリアクションがないと、我に返っ
て怯える人が意外と多いんだよなー。
相良の人間は、殆ど自分のカンで動くタイプが多いから、人目を
気にしないというか、リアクション関係なく結果だしちゃうんだよ
ね。
これは、良いように見えて悪い点だ。
在原の件は、とりあえず片が付いた。
梅香様のことについては、あの後、菊花姉上をシめ⋮⋮厳重に抗
議しておいた。
あんな強引な手を使って、梅香様に万が一何かあったらどうして
くれるんだ。
一条の秀明さんが手の早い方でなかったからよかったものの、心
に傷を負わせる可能性だってないとは言えなかったのだ。
千瑛と千景は、相変わらずなのでいいとして。
橘は、どうするか。
本人がまだ何も口にしていないことだし、現状維持でいいことに
しよう。
自分の中での作戦会議を終えたところで、チャイムが鳴る。
解答用紙を後ろから集め、先生が回収し終える。
これで、テストは終わりだ。
筆記用具を片付け、鞄に入れる。
明日から通常授業が始まる。
280
多分、明日はお土産の嵐なんだろうなあ。
ふざけたことに、東雲の高等部はお菓子持込み可なのだ。
もちろん、コンビニ菓子など持ってくる者などいないのだが、高
級パティスリーのショコラとかマカロンとか、まあその手の類が配
られる。
小袋わけなど可愛らしいものではない、おひとり様ボックスで配
られるのだ。
サロンで優雅にティータイムをするときのお茶菓子はたいていそ
の戦利品だ。
私も疾風も、そこまで甘いものは得意ではないため、一応、あり
がたくいただくものの、たまに処分に困ったりする。
甘いもの大好きの在原がいてくれてよかった。
一緒にいただいたという形を作って、在原に全部食べてもらうの
もひとつの手段といえるだろう。
そのサロンに諏訪が居たら、在原が﹃瑞姫ちゃん、大好き!﹄と
叫んでハグしてくるだろうが。
あれは、在原なりの諏訪に対する嫌がらせのようだ。
まるでクマのぬいぐるみのようにぎゅうぎゅうと抱き締めてくる
ので、かなり苦しいが、甘んじねばなるまい。
あの嫌がらせ中の諏訪の表情が崩壊していて、結構楽しいのだ。
ゆっくりと帰り支度をしていたせいで、うっかり諏訪が近づいて
くる気配に気付かなかった。
﹁相良﹂
横に立った諏訪が、申し訳なさそうな表情で立っている。
﹁母が相良に対し、申し開きもできないことを言った。俺から、謝
罪する。すまない﹂
許せとは言わずに頭を下げる諏訪。
﹁⋮⋮何のことでしょうか? 私は夏の間、入院していましたので、
社交界の事は全く知らないのですが﹂
今回は見逃してやると言外に匂わせれば、諏訪は苦しげな表情に
281
なる。
﹁母は、相良を諏訪に貰い受けると言った。さすがにこればかりは
許されないと思う﹂
馬鹿正直に言いやがった、このど阿呆め!
見逃してやると言ってやったのに、自分で退路を断つな。
思わずため息をついた私は悪くないと思う。
律子様も売り言葉に買い言葉だったのではないかと思ったのだが、
違うのか?
いや、これは、布石の1つになるな。
ふと過った考えに、私はそれもありかと頷く。
お仕置き前に、息子の逆襲にあうのもいいかもしれないな。
いい具合に、教室の中にひと気はない。
諏訪が私に声を掛けたときに驚いたのか、それとも気を利かせた
のか、一斉に教室から出て行ってしまったのだ。
君たち、級友の危機を助けようという気はないのか?
ないんだろうなぁ。
﹁諏訪。律子様の言葉の意味をどのように理解しているのか、尋ね
てもいいか?﹂
取りようによっては、この解釈は非常に諏訪伊織という人間に過
酷なものだということを、多分、彼は理解していない。
その証拠に、諏訪は頬を染めて私から視線を逸らした。
こいつの頭の中は、お花畑か! おめでたい奴だな。
﹁その⋮⋮相良を俺の⋮⋮婚約者として⋮⋮﹂
やっぱり。
もう一度、深々と溜息を吐いた私は、絶対に悪くないと思う。
諏訪の根底が善良にできているのは、悪いことではないと思うが、
これでは無理だ。
﹁それも、考えられないことはないが、可能性としては低い方だぞ﹂
﹁え!?﹂
﹁⋮⋮わかっていなかったのか﹂
282
私の言葉に、思わずといったように振り返った諏訪に、私は憐み
の視線を向ける。
﹁文字通りの意味だとは、受け取れなかったのか?﹂
﹁それは、どいういう⋮⋮﹂
﹁君は、現在の諏訪家の数字を見ているだろう? 数年前の数字か
ら、どれだけ下がった? 率直に問おう。悪化した業績が回復する
見込みはあるのか?﹂
おそらく、現在の諏訪家の業績は、低空飛行だ。
辛うじて外枠を保てているといった数値しかないはずだ。
取引先は、常に相良の動向を気にしており、何かあれば前回同様
すぐに手を引く準備は整えている。
現当主の手腕はそれなりに大したものだが、回復させるための起
爆剤には欠けている。
そして、次代に至っては、能力的には問題ないだろうが、思考回
路がお粗末だ。
勘違いしている選民思考が矯正されない限り、ついてくる者など
ほとんどいないだろう。
﹁⋮⋮それは﹂
数字を思い浮かべた諏訪の表情が強張る。
無駄に頭はいいんだ、無駄に。
ちゃんと数字が理解できている。
感情を挟まなければ、経営者に向いていると言えるかもしれない。
﹁数字が下がって行っている原因も、わかっているな?﹂
﹁⋮⋮ああ﹂
﹁それを簡単に回復させる方法がある﹂
﹁あるのか!?﹂
﹁君を廃嫡して、私と養子縁組をし、私を次代当主に据える﹂
そうすれば、相良は全面的に諏訪をバックアップする。
当然、相良を敵にしたくない者たちは追従し、業績は一気に安定
化に向かうだろう。
283
実に簡単な話だ。
相良が許せば、の前提条件が付くが。
まあ、諏訪財閥を飲み込むつもりなら、頷くだろう。
私も、養子縁組をしたからと言って、諏訪の人間になるつもりは
ない。
﹁そんな馬鹿な!?﹂
﹁もうひとつ、あるぞ﹂
﹁何を⋮⋮﹂
﹁分家から養子をとり、その者を次代当主にする。そうしてその次
代の婚約者に私を迎える﹂
その言葉に、完全に諏訪の顔色が変わった。
該当者に心当たりがあるのだろう。
勿論、珂織さまだ。
諏訪の若手の中では確実に人望があり、能力に遜色なしというこ
とで注目されている人物だ。
そうして、諏訪家の中で、唯一私と懇意にしている人物でもある。
﹁まさか!?﹂
﹁その、まさかだ。私と養子縁組をするより、そちらの方が確かだ
な﹂
のんびりとした様子で告げれば、諏訪の表情が引き攣る。
﹁それで、君はそのままにしておいていいと思っているのか?﹂
﹁諏訪の後継ぎは、この俺だ!﹂
﹁そうだな。律子様は、あくまで当主夫人であって、諏訪の権限を
握っているわけではない。当主が次代の指名を覆さない限りは、な
いだろう﹂
だが、万が一ということもある。
私の視線を食い入るように受け止めた諏訪が顔を起こす。
﹁母の暴走の件、改めて謝罪に来る。少し時間をくれ﹂
﹁かまわない﹂
諏訪の言葉に頷けば、諏訪は自分の鞄を乱暴に握りしめ、教室を
284
出ていく。
さて。 律子様?
ご自分の息子からの逆襲を、どう防ぐおつもりかな。
まさか、息子から刺されるとは思うまい。
﹁⋮⋮本当に、性格悪くなったなぁ、私ってば﹂
がりがりと髪をかき乱しながらぼやいた私は、サロンで待ってい
るだろう友人たちにどう言い訳をしようかと考えながら、教室を飛
び出した。
285
34
東雲学園高等部の数少ないイベントがハロウィンだ。
お菓子持込み可なのは、このハロウィンイベントが少なからず影
響している。
もちろん、バレンタインディもある。
ただし、バレンタインは女の子が異性にチョコを贈るのではなく、
男女問わずプレゼント交換日のようになっている。
ちなみに、クリスマスは、敷地内にある礼拝堂で聖歌を歌うだけ
なので、イベントとしては盛り上がらない。
荘厳な雰囲気なので、私は好きだが。
ハロウィンのルールは簡単だ。
お菓子は手作り。
衣装は、校章及び制服の一部着用が義務だが、それ以外は華美に
なりすぎなければよい。
華美になりすぎなければ、というのは、凝りすぎた衣装や宝石の
類を身に着けないということや、剣などの小物は危険かどうかを判
断することという意味だ。
例年、何人かは金に飽かせてとんでもない衣装を作っちゃうのが
出てくるらしい。
ハロウィンは高等部だけなので、私も経験ないため詳しいことは
知らないのだ。
なので、かなり楽しみ。
いたずらは大がかりなものは当然駄目で、本当にちょっとした、
相手を傷つけない程度の可愛らしいものにすること。
これは、随分前に校庭に穴を掘ったやつが出たからこうなったら
しい。
286
校庭に穴って、暇だったのか!? どんだけ暇だったんだ!!
つか、誰も引っかからないだろう、そんな穴。
千瑛に誘われたのは、10月に入ってすぐの事だった。
あの事件から3年が過ぎたことになる。
﹁瑞姫ちゃん! お菓子作ろう!!﹂
単刀直入すぎて、何のお菓子かわからず、きょとんとしてしまっ
た私に罪はないはずだ。
﹁⋮⋮どのお菓子?﹂
﹁ハロウィンの!! 手作りなんだから、練習しないとね!!﹂
﹁⋮⋮張り切ってるね、千瑛﹂
手作りルールには、実は裏がある。
自分で作らなくても、手作りならOKなのだ。
つまり、家族やその家の料理人でも手作りの条件さえ満たせばい
いのである。
そんなのあり!? とか、一瞬思ったけど、男子生徒にお菓子作
れと言うのも酷な話ではある。
そうして、中には破壊の手と呼ばれる味覚が破壊された前衛的な
料理を作る人もいる。
危険な真似は許してはいけない。
お菓子をくださいと言えるのは、それが安全なお菓子を作った人
だとわかっている相手のみだ。
﹁ちなみに、どんなお菓子を作るつもりなのかな、千瑛は?﹂
﹁うんとね、ハバネロ入り生キャラメルとー、グミ入りクッキーに
ウォッカのボンボン﹂
﹁最後マズい! 最後の、めちゃくちゃマズい!! お酒は駄目だ
って! つか、それ、全部食べれるの!?﹂
私が突っ込む前に隣にいた在原が叫ぶ。
287
﹁在原、失礼ね! ちゃんと食べれるじゃない﹂
﹁もしかして、悪戯の方のお菓子だったりするのかな?﹂
憤慨する千瑛に、少々青褪めながら橘が問う。
﹁ううん。普通にとりっくおあとりーとって言われたらあげる方だ
よ﹂
﹁⋮⋮わかった。菅原姉弟には絶対に言わない﹂
最初から私も千瑛にだけは言うつもりなかったけど、正解だった
か。
﹁意気地がないのね、橘は。人を脅して食べ物を強奪しようとする
んだから、それなりのリスクがあって当然じゃないの!﹂
﹁ハロウィンってそういうイベントだったか!?﹂
在原が橘に問いかける。
疾風は我関せずで彼らの会話を聞き流している。
﹁瑞姫ちゃんは何を作るの?﹂
﹁んー? キャラメルのビターとスイート2種類と、キャンディ⋮
⋮ロリポップっていうんだっけ? あの、棒付きの小さなキャンデ
ィって﹂
本当は棒付きのアイスキャンディがロリポップだったと思うんだ
けど、普通のキャンディバーもロリポップって呼ばれてたよね。
間違ってもチェーンソーを振り回している御嬢さんの方ではない。
﹁へえ、そうなんだ?﹂
﹁何個かまとめてリボンで結んだら、花束みたいで可愛いかなぁと
思って﹂
﹁はいはいはーいっ!! 瑞姫! 僕、それ、欲しい﹂
﹁男は却下!﹂
手を挙げた在原に対し、突き放す。
﹁それに、私はお菓子を作ったことがないから、ちゃんとうちのパ
ティシエに協力を要請してるし﹂
﹁ま、妥当よねぇ﹂
うんうんと頷く千瑛。
288
﹁人の話を聞かないで超感覚のみで作る千瑛よりも遥かに上手く作
れると断言してあげるよ﹂
ぽんっと千景の手が私の肩に乗る。
﹁⋮⋮それ、褒めてるのかな? 私、喜んでもいい場面?﹂
褒められている気は全くしない。
﹁全身全霊で褒めてるつもりだけど? 君には人の話をきちんと聞
けるという実に基本的な常識がわりと身についているとね﹂
﹁⋮⋮わりと?﹂
やっぱり褒められてないじゃないか。
﹁⋮⋮瑞姫は頑固だからなぁ。人の話をきちんと聞けても、筋が通
らなかったら梃子でも動かないから﹂
疾風が苦笑して千景の言葉を後押ししている。
﹁お菓子作りは理科の実験と同じで、グラム数をきっちり量ってお
けば、そんなに大きな失敗はしないと聞いてるけど﹂
何故、私の言葉に、皆、微妙な表情になるんだ。
うちのパティシエがそう言ってたんだが。
﹁つまり、設計図をきちんと描いておけば失敗はしないってことね
!﹂
千瑛だけが納得したように大きく頷く。
﹁じゃあ、私もハバネロの量をきちんと量っておくべきね﹂
﹁⋮⋮私、味見は絶対にしないから﹂
これだけは、きちんと言っておかないと。
﹁あら、大丈夫よ。恐喝犯に渡すお菓子に味見なんて必要ないわ!﹂
じゃあ、何で練習しようと言い出したんだろうか。
尋ねようかと思ったが、千瑛の後ろで首を横に振る千景の姿に、
私は沈黙を守ることを決意した。
***************
289
お菓子作りの練習は、うちですることになった。
菅原の双子はもちろん、在原と橘、それに疾風も一緒に作るよう
だ。
疾風は誰かに作ってもらうのかと思ったけど、妙なところで律儀
だからな。
日にちと時間を決め、家に帰ってからその予定を厨房の方に伝え
る。
一応、場所は、厨房とは別に私が暮らしている別棟の中にも小さ
なキッチンがあるので、そちらを使うつもりだ。
道具が色々揃っている厨房は確かに便利だろうが、そこは料理人
たちの場所であって、私が使っていい場所ではない。
前回のお弁当も別棟のキッチンで作ったのだ。
女の子なら料理やお菓子作りに興味を持つかもしれない、だが、
厨房では彼らの邪魔になるから、そこそこ作れる場所をついでに作
っておこうと考えた御祖父様が別棟建設の時に組み込んでくれたの
だ。
大変ありがたいとは思うのだが、普段は全然使わないので、もっ
たいないような気もする。
厨房へ予定を伝えた後、自分の別棟へ戻ろうと廊下を歩いていた
ら、八雲兄と遭遇した。
﹁瑞姫、厨房に何しに行ってたの?﹂
用事もないのに立ち寄る場所ではないため、八雲兄は不思議そう
に私を見下ろす。
﹁ハロウィンのお菓子作りの助力を乞いに坂田さんのところへ行っ
てきた﹂
﹁ああ、もうそんな季節か。あれは、大変なイベントだからね﹂
自分の時のことを思い出したのか、八雲兄の表情がやや引き攣る。
290
﹁そんなに大変なイベントなのですか?﹂
﹁そりゃあね。自分が想定していた以上の人からお菓子を要求され
るんだから、手持ちがすぐになくなって、毎年、どれだけ用意すれ
ばいいのか、本当に悩んだよ﹂
そんなにか!?
思わずドン引きしそうになり、ふと気づく。
この兄が、お菓子を全部奪われるはずがない。
きっとうまく丸め込んで、悪戯回避する技があるはずだ。
﹁兄上、ちょっとご相談が⋮⋮﹂
﹁うん。可愛い妹からの相談なら、いつでもどうぞ﹂
にっこりと爽やかに笑って頷いた八雲兄が身をかがめる。
内緒話で相談を受け付けるということか。
八雲兄の耳許に顔を寄せ、こそこそっと相談事を告げる。
くすぐったそうにその話を聞いていた兄は、楽しげに頷き、その
回答を実演してくれた。
﹁⋮⋮なんと! そういう切り返しがあるとは﹂
﹁瑞姫なら、上手にできそうだね。期待しているよ﹂
﹁いや、しなくていいです。上手くできたらそれはそれで問題だと
思うので﹂
﹁女の子相手なら、いいんじゃないかな?﹂
兄上、そこが大問題だと思うのですよ。
久々に八雲兄から色々な情報を手に入れた私は、ご機嫌状態で別
棟へと戻っていった。
そして、数日後。
予定通りにお菓子作りを皆ですることになった。
291
35
八雲兄の言葉をヒントに、お菓子を量産することにした。
数を多くするために、1個の大きさを小指の爪ほどの大きさのキ
ャラメルとビー玉くらいの大きさのロリポップなんてどうだろうか。
キャラメルはカボチャ型とコウモリ型に入れて、固まったところ
を切っていく方法だ。
これはパティシエの坂田さんのアイディアだ。
最初はサイコロ型の方が初心者には安全だと思っていたけれど、
ハロウィン用の飴型があるからそれを使いましょうと言われ、型を
見せてもらってちょっとひと目惚れした。
飴細工はいろんな方法があるらしく、説明を聞くだけでわくわく
する。
坂田さんは初老のご婦人だ。
ほんわかとした優しい雰囲気を持つが、自分が作るスイーツには
絶対に妥協をしない職人さんだ。
坂田さんが作る飴細工は、本当に繊細で綺麗で魔法のようで、幼
い頃の私はお仕事中の坂田さんを少し離れたところから食い入るよ
うに見ていたらしい。
勿論、今でも坂田さんがお仕事している様子をまじまじと見てし
まうけれど。
料理人さんたちがお仕事しているときは、絶対に傍に近づかない
と幼い頃に約束させられた。
刃物を持っているということもあるし、お湯を扱うということも
ある。
それに、衛生管理という非常に難しい条件維持ということもある。
とにかく、彼らの仕事場には、子供にとって危険がいっぱいなの
だと、教わったのだ。
292
だから、そんなに甘くておいしそうな香りが漂っていても、彼ら
の許可が下りるまでは傍にはいかない。
約束をきちんと守ったら、美味しいご褒美があるからではない。
まあ、そういうわけで、厨房の皆様からの私の評価はそこそこ良
いので、こういうときにお願いがしやすいのだ。
練習日当日、それぞれが材料一式を持って別棟へと到着した。
もちろん、初心者なので、そう難しいお菓子を作れるはずがない。
当然、材料もほんのわずかだ。
﹁静稀、エプロンつけたら、ちゃんと手を石鹸で洗えよ﹂
橘がしっかりと在原に釘をさす。
﹁先にレシピを見やすいように広げてからだよ、静稀﹂
橘の言葉を継いで私も言う。
﹁あ! そっか。また手を洗わないといけなくなるからね﹂
それぞれが材料を乗せている簡易テーブルまで走って戻った在原
が、ネットからダウンロードしたレシピを丁寧に広げて並べた。
坂田さんは私たちのやり取りをにこにこと笑いながら見守ってい
る。
﹁岡部は、何作るの?﹂
疾風のところにだけレシピが置いていないことに気が付いた在原
が、不思議そうに問う。
﹁ん? カルメラ﹂
﹁え?﹂
﹁カルメラ。知らないのか?﹂
﹁カルメラって、キャラメルの親戚?﹂
カルメラを知らない在原が、盛大に首を傾げる。
﹁あら。疾風さんはカルメラですか。それは懐かしい味ですね﹂
ほっこりとほほ笑んだ坂田さんが目を細める。
﹁はい。祖母直伝です﹂
﹁まあ、それは素敵ですねぇ。ぜひ、後でお味見させてくださいね﹂
293
﹁はい﹂
﹁⋮⋮だーかーらーっ!! カルメラって、何!?﹂
足を踏み鳴らしそうな勢いで在原が問う。
﹁ザラメと重曹と卵白と水で作るんだ。ちょっとだけ昔のおやつだ
ったらしい。私も疾風のおばあ様に作っていただいたことがある。
甘くてさくっとして美味しかった﹂
なんというか、素朴で優しい味だった。
かなり昔に縁日の屋台にあったと聞いたことがある。
確かにこの世界じゃかなり珍しいものだろうな。
さすが疾風、盲点を狙ったな。
﹁⋮⋮ザラメ? ジュウソウ?﹂
在原、そこからか!?
﹁出来上がってからのお楽しみでいいだろう? ほら、手を洗って﹂
橘が在原を追いやる。
菅原双子が全く同じ表情で橘を眺めている。
﹁⋮⋮オカン?﹂
﹁千瑛、言葉を選んであげて。傷つきやすい年頃なんだから﹂
思わず千瑛を窘める。
私もそう思ったけど! そう思ったけど! 言ったら可哀想だと
思って言わなかったんだからね。
﹁千瑛はこの間聞いたけど、千景は何を作るの?﹂
﹁ミニドーナツ。僕にお菓子をくれなんて言う勇気があるやつって、
知り合い以外いないでしょ?﹂
神経質で気難しそうに見えるからなぁ、千景は。
﹁私はお菓子頂戴って、言ってもいいの?﹂
﹁もちろん。瑞姫はドーナツ好きでしょ?﹂
当然と言うように頷かれた。
ちょっと嬉しいかも。
﹁うん。プレーンタイプが一番好き﹂
﹁時間が経つと油が回っちゃうのが難点なんだけど。そこのアドバ
294
イスをもらえたらなと思ってさ﹂
千景はそういうと坂田さんの方に視線を送る。
なるほど。
ちゃんと考えてるんだ、すごいなぁ。
時間が経つと油が回って味が落ちるなんて、わかっていても気に
しないか、まったく気づかないかだろうな、私なら。
﹁ほら、早く作り始めよう? 時間が無くなっちゃうよ﹂
声を掛け合って、私たちはそれぞれ手を綺麗に洗った後、レシピ
とにらめっこしながらお菓子作りを始めた。
お菓子作りというものは、性格が如実に表れるものらしい。
慎重派と大胆派。
坂田さんは主に大胆派のフォローに回ってもらっている。
その場の思い付きで、本当にとんでもないことをいきなりはじめ
てしまうのだ。
在原はグミを作る予定で、色々とジュースを買ってきたのだが、
何故か鉄観音のグミを作り始めたりとか、グミの中に花を入れたら
いいかもしれないと言い出して、庭に咲いている花を取ろうとした
り。
それ、食用じゃないから! と、叫んで止めましたとも。
味はともかく、食用として育てられている花にしてほしい。
うちの花で食中毒でも起こされたら大変だ。
鉄観音については、紅茶にしてと頼みました。
私の心からの叫びを憐れに思ったのか、橘が在原にこんこんと説
教していたのが笑えました。
いや、本当に橘ってお母さんみたいだ。
前からちょっと思っていたけど、世話好きなんだろうね、この人。
疾風も千景も淡々と自分の作業に没頭していたので、在原の暴走
295
に完全無視だった。
つくづく君たちの性格が羨ましいと思うよ。
ようやく冷えたキャラメルを型から外し、切り分けていく。
ステンレススケッパーで慎重に断ち切る。
包丁の方が使いやすいかと思ったけれど、こっちの方が意外と綺
麗に切れたので驚きだ。
さすがプロが言うだけのことはある。
坂田さんもゴム製のスケッパーとステンレス製のスケッパーを使
い分けているそうだ。
非常に勉強になりました。
こういう実用的な知識って、教えてもらえると嬉しくなる。
ロリポップの型枠は100均で手に入れたものだ。
こっちの世界でも100均ってあるんだね。
初めて入って、記憶にあるところと似ていて感動しましたとも。
お店の名前とか、扱ってる商品とかは少し違っていたけれど、懐
かしい感じがした。
結構好きだったんだよ、100均の文房具とか。
特にミニノートとか付箋とか。
ボールペンはインクがすぐ固まって使えなくなるところが難点だ
ったけど。
あまりの懐かしさにしばし呆然としていたら、物珍しがっている
のだと坂田さんに勘違いされて笑われた。
値段が高いものでも安いものでも、耐用年数が同じなら安いもの
で充分なんだというのが、坂田さんの持論でした。
余程突出したメーカーがない限り、クオリティにあまり大きな差
はないのだそうだ。
本当にそうなのだろうか?
値段が高ければ、そちらの方が断然いいような気がするのだが。
もしかしたら、技術でカバーするとか、技術を身に着けるチャン
296
スだとか、そういう類の考え方なのだろうか。
反論する術を持たない私は、先生の言葉に素直に従うだけだ。
お菓子ができたら、試食会に雪崩れ込むのは当然だ。
お茶を片手に、互いが作ったお菓子の論評だ。
ちなみに、お茶は坂田さんではなく、私が淹れた。
こればかりは他の人の手に委ねるわけがない。
お茶淹れは私が唯一、人に誇れる技能なのだ。
ちゃんと基礎から勉強したから、自信を持って淹れることができ
る。
そのうち、お茶のブレンドの仕方もきちんとマスターしたいと思
っている。
大事な人に美味しいお茶を淹れてあげられるということは、私に
とっての癒しであるのかもしれない。
美味しそうに目を細めて飲んでくれている姿は、何より嬉しい。
ほっこりした気分で私は友人たちを眺めていた。
試食会で余ったお菓子は、それぞれで知人に贈ることに決めた。
そのお菓子がハロウィン用であることは、知らない人には秘密と
いうことで、素直に味だけ楽しんでもらうのもいいかもと思ったせ
いだ。
﹁疾風、こっちを颯希に渡してくれる?﹂
きちんとラッピングして、疾風にキャラメルを渡す。
﹁颯希にまで渡す必要はないぞ﹂
少々疾風は渋い顔だ。
﹁いいじゃないか。中等部の颯希は、ハロウィンはないんだから﹂
﹁甘すぎる!﹂
﹁だって、素直に喜んでくれるから﹂
最近、疾風は感情を表に出さなくなった。
だから、素直な颯希が余計に可愛く見える。
297
男の子に可愛いと言ったら、絶対に怒られることはわかっている
が。
﹁子供なだけだろ。感情を制御できなきゃ、俺たちはひとり立ちで
きないんだから﹂
つまり、半人前に気を掛けるなといいたいわけだ、疾風は。
疾風なりに颯希を可愛がっているんだな。
﹁自分に素直なのはいいことだと思うけど? まあ、あれだね。岡
部は瑞姫ちゃんが弟君に構うのが気に食わないわけだ﹂
にやりと笑った千瑛が疾風をからかう。
﹁別に。瑞姫が颯希をかまうのは昔からの事だしな。颯希が瑞姫の
重荷になるのなら、すぐに排除するつもりだけど﹂
淡々と答える疾風に、千瑛は面白くなさそうにそっぽを向く。
﹁千瑛、用が済んだなら帰るぞ﹂
これ以上、他人に迷惑をかけるなと、千景が声を挟む。
﹁はあい。じゃあ、瑞姫ちゃん。当日、楽しみに待っててね﹂
友チョコならぬ友菓子が千瑛の中ではあるらしい。
当日、親しいものだけに特別にごく普通のお菓子を用意してくれ
るようだ。
千瑛のごく普通という認定基準が気になるところだが、突っ込む
まい。
﹁当日、頑張ろうねー﹂
そう言って、菅原家の双子は仲良く帰宅した。
在原と橘も、きちんと片づけて帰っていく。
﹁坂田さん、今日はありがとうございました﹂
自分の仕事もあるだろうに、私たちのためにわざわざ時間を割い
てくれたパティシエに礼を言う。
﹁いいえ。私も楽しかったですよ。本番のお菓子が成功するといい
ですね﹂
﹁はい。次はもっと頑張って作ります﹂
後片付けがきちんと終わったか、隅々まで確認して、私は頷く。
298
そうして、ハロウィン前日、私たちは自分の為に、お菓子を作っ
たのであった。
299
35︵後書き︶
ムーン様の方の作品を仕上げるので、週末、もしかしたら掲載が滞
るかもしれません。
300
36
or
treat!﹂
the
the
the
fire
g
on
Lets
by
ha
Everyo
Everyone
to
its
time
door.
One
sky.
All
trick−or−treating
me!﹂
nice
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up
Halloween.
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scared
﹁Trick
﹁You
﹁Have
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﹁Happy
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Light
trick
works
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we
sweets
Now.
party.﹂
time
us
knock
e
a
good
gives
a
ne
s
have
廊下で英語が飛び交っている。
いつの間にここは英語圏になったんだろうか。
教室内は魔女やバンシー、吸血鬼に人狼がもそっと席についてい
る。
ハロウィンルールにはもうひとつあって、教室では声を掛けては
ならないことになっている。
つまり、教室は待避所ということだ。
参加したくなければ、教室にいればいい。
私といえば、自分の席に座って千瑛に髪をいじられている最中だ。
コスプレする気はまったくなかったので、いつも通りの男子用制
服姿だったのだが、教室へ遊びに来た千瑛が面白くないと言い出し
て、この時の為にと用意してきた髪飾りをつけているのだ。
面白がった他の女の子たちが鏡を持って私の前に立っている。
そこに髪飾りをつける千瑛の姿が映っている。
301
どうやら小さなシルクハットをピンで留めているようだ。
その小さなシルクハットのつばにはカボチャとカブのジャック・
オー・ランタンとコウモリが乗っている。
シルクハットということは、私は吸血鬼なのだろうか。
間違っても魔女やバンシーではないようだ。
﹁でーきたっ!﹂
満足そうに鏡の中の千瑛が笑う。
﹁まあ、可愛らしいですわ。もしかして、これは菅原様がお作りに
?﹂
千瑛の手先の器用さを知っている1人がわくわくした表情で尋ね
ている。
﹁うん、そう。絶対、瑞姫ちゃん、仮装なんてしないだろうから﹂
﹁勿体ないですわよねぇ﹂
どうしてそこで勿体ないという言葉が出てくるのか、とても不思
議だ。
女の子たちの仮装は、圧倒的に魔女やバンシーが多い。
ちなみに、さっき聞こえてきた会話はというと。
﹃御馳走くれないと、悪戯しちゃうぞ﹄
﹃脅かさないでよ!﹄
﹃キャンディ強奪、頑張ってね﹄
﹃それじゃあ、ちょっと行ってくるか。あとで戦利品でパーティ
しようね︵超意訳︶﹄
こんな感じかな。
ホントは、最後の言葉ってもう少し詩的な言い回しなんだけど、
言ってる意味は大体こんな感じ。
廊下は浮足立った空気が漂っているが、教室内はやや冷ややかな
感じ。
これを機に、気になっている方に声を掛けて親しくなろうと思っ
ている人たちは、その相手が教室にいるのを見つけては落胆して自
分の教室へ戻っているというパターンも多い。
302
どうやら私や諏訪もそのターゲットになっているらしく、廊下側
の窓からこちらをガン見している人が結構いるのだ。
身動きするたびに声が上がるので、少々居心地が悪い。
今日の授業は午前中までで、午後からはイベント一色になる。
講堂の方には生徒会主催の会場まで出来ているそうだ。
立食式で軽食やお菓子などが用意され、学年問わず交流できる場
を提供するという趣旨らしい。
クラスメイトの何人からか、ぜひ一緒に行こうと誘われたけれど、
平穏無事な学園生活の為に丁重にお断りさせてもらった。
何事も目立たないのが一番だ。
﹁瑞姫ちゃん、今日のお昼はどうするの?﹂
千瑛が問いかけてくる。
﹁んー? カフェでボックス買って、どこかで隠れて食べる﹂
食べる場所は言わない方がいい。
絶対に襲ってくる人が出てくるはずだ。
そう思って、千瑛に口止めしようと振り返ろうとしたとき、ちり
りりっと澄んだ音が聞こえる。
﹁え?﹂
頭を動かすと、ちりっと高い音。
鈴?
﹁ち∼あ∼き!﹂
﹁えへへへへ。ジャック・オー・ランタンの中に鈴入れちゃった。
瑞姫ちゃんに鈴だね﹂
﹁可愛いですわ、菅原様!! 素敵です﹂
﹁まあね!﹂
﹁まあねじゃない!!﹂
隠れててもうっかり身動きしたらすぐにばれるじゃないか!
あ。あとで疾風にはずしてもらえばいいか。
でもせっかく千瑛が作ってくれたのに。
微妙に葛藤してしまう。
303
﹁ああ、もうそろそろ時間だね。教室に戻ろうかなー﹂
壁に掛けられている時計を見上げ、千瑛が呟く。
﹁うん。気を付けてね、色々と﹂
こちらを見ている視線が気になり、千瑛に言うと、ツインテール
のミニマム美少女は素直に頷く。
﹁瑞姫ちゃんもね。特に生徒会関連には要注意だよ﹂
誰にも聞こえないように小さな声でこそっと告げた千瑛は、スカ
ートを翻し、駆け出す。
﹁じゃあ、またねー!﹂
元気よく手を振った美少女は、そのまま教室を飛び出した。
生徒会関連?
千瑛が去って行った廊下を見つめ、私は顔を顰める。
何故、生徒会が私にかかわってくるんだろう?
難しい表情になっていた私と、偶然教室へはいってきた諏訪と視
線が合う。
﹁⋮⋮⋮⋮ッ!﹂
睨まれたとでも思ったのか、諏訪が視線を落としどこか切なそう
な表情で自分の席に歩いていく。
﹁⋮⋮諏訪様の肩に乗っているのって何でしょうか? 顔が目玉の
小人⋮⋮?﹂
不思議そうに傍に立っていたクラスメイトが首を傾げて呟く。
あれは、妖怪の部類に入るのだろうか?
むしろ西洋のイベントで、何故日本の親父殿を肩に乗せているの
だろうか。
諏訪の感性がわからない。理解しようとも思わないが。
﹁人面瘡の方が面白いと思うんだがな﹂
肩につけたらわからないから、頬とか手の甲とか。
だが、あれだと仮装にはならないか。
残念だが、仮装ではないな、あれは。
304
﹁瑞姫様?﹂
﹁そろそろチャイムが鳴るよ。君たちも席に戻るといい﹂
﹁そうですわね。では、失礼しました﹂
にっこり笑った少女たちは、それぞれ自分の席に戻っていく。
午前中、私は教室から一歩も外には出なかった。
午前中の授業が終わり、昼休みになる。
ランチボックスは朝の時点で注文をしているので、受け取りに行
くだけなのだが、心配性の疾風がランチボックスの受け取りは自分
が行くから迎えに来るまで教室から出るなと念押しするので教室で
待機中だ。
最初の内は廊下でうろうろしていた生徒たちも、そのうち、自分
の昼食の為にその場から去っていく。
今は、ほとんど残っていない。
そのタイミングを見計らって、疾風が迎えに来てくれた。
﹁瑞姫﹂
﹁うん、今いく﹂
念の為にお菓子の入った小さなバッグを手にする。
どう見てもランチボックスにしか思えない形だ。
ここから先は、戦闘だ。
いかにこちらの手持ちのお菓子を減らさずに、相手の悪戯を躱す
かという。
さすがに保健室という絶対安全地域に逃げ込むつもりはない。
私が保健室に逃げ込むと想定して追い駆けた者は、女帝様の餌食
になるだろう。
子供のお遊びを拒否して、保護者のスカートの陰に隠れるような
怯懦は我が家では許されないことなのだ。
武闘派揃いだからなぁ、姉たちは。
305
そして、私を逃げ出すような人間だと思った者に対して遠慮なく
再教育を施すくらいやるだろう、あの姉ならば。
そりゃ逃げ出しますが、逃げ出す場所は保護者の許ではありませ
ん。
温室の奥です。
私専用のカウチが置いてある場所は、サロンを利用する人でもご
く一部しか知らない。
そして、私がそのカウチを利用するときは、具合が悪い時だと思
っている人が殆どなので気兼ねして近寄らないのだ。
教室を出て、ひと気の少ないルートを選び、サロンへと向かう。
or
treat!﹂
勿論、絶対に見つからないと思っているわけではない。
﹁さ、相良さん! Trick
背後から突然声を掛けられた。
しまった、見つかったか!
﹁瑞姫﹂
疾風が気遣わしげに私を見る。
聞き覚えのない声だから、知人ではない。
ならば、兄上直伝の撃退法で。
疾風に頷き返し、軽く深呼吸をすると背筋を伸ばす。
表情を消して、ゆっくりと振り返る。
そこにいたのは、見覚えのない顔だ。
校章の下にある名札には同じ1年であることを示す青いラインが
入っている。
名札は3年間使用するため、名字の上にラインが1本入っている
のだ。
今年の1年は青、2年は緑、3年が赤という色が与えられている。
3年生が卒業したあと、その赤は来年の1年生に与えられるのだ。
私と同じ位置に目線が来る少年は、緊張した面持ちで私を見てい
る。
そんなに緊張するなら声を掛けなければいいのにとつい思っても
306
仕方がないだろう。
﹁⋮⋮そう、か。私に、悪戯をする気か?﹂
無表情のまま、ゆっくりと話す。
なまじ顔が整っていると、無表情は作り物めいて恐怖感を覚える
のだと八雲兄が言っていた。
兄の言葉通り、その少年は無表情の私に多少怯えたようだ。
﹁え⋮⋮えっと⋮⋮﹂
﹁悪戯をする気、なんだな? この、私に﹂
唇の端を持ち上げるように、にいっと笑う。
相手をまっすぐ見つめたまま、口許だけ持ち上げて笑うって難し
いですよ、兄上!
﹁え、あ、あの⋮⋮ご、ごめんなさいぃっ!!﹂
慌てた少年は謝罪の言葉を残して一目散に走り去っていった。
﹁さすが兄上! 効果抜群だ﹂
あまりにも見事な遁走ぶりに、ちょっと感動したじゃないか。
私の感動をよそに、背後で大きな溜息が零れる。
﹁⋮⋮八雲様∼﹂
頭を抱えた疾風が唸っていた。
﹁ちゃんと追い払えただろう? 何か問題があるのか、疾風﹂
﹁お菓子ねだられた相手が悪戯返ししてどうするんだ!﹂
﹁千瑛も言っていただろう? お菓子を恐喝するんだ、それなりの
リスクがあってしかるべきだと﹂
あれは至言だと思う。
確かにそうだと納得したし。
﹁だから、そーゆーイベントじゃないって﹂
﹁兄上から教わった撃退法はあれだけじゃないぞ。全部試して兄上
に結果がどうだったか報告しないといけないんだ﹂
﹁八雲様∼っ!! 本当に何を教えたんですか﹂
呻くように言う疾風の目がちょっと据わっている。
これ以上、この話をしているのは危険かも。
307
﹁ほら、疾風! 早く行こう。お腹がすいたって﹂
ぱたぱたっと足を踏み鳴らして言えば、一瞬のうちに疾風の意識
も切り替わる。
﹁お腹空きすぎて貧血起こして倒れる前に、目的地へ行くか﹂
﹁貧血起こして倒れるはないから!!﹂
﹁どーだか。ま、その時は、俺がちゃんと運ぶけど﹂
﹁倒れない! けど、その点は信頼してますって﹂
軽口を叩きながら、その場から足早に移動を始める。
健康な胃袋を持つ身としては、食事の邪魔だけはされたくないと
思ってしまう。
先程以上に周囲に気を配り、私たちはサロンへと向かった。
308
37
サロンはいつもと違ってひと気がなかった。
カウチが置かれている場所まで行くと、すでに在原と橘がいた。
﹁やっほー! 瑞姫﹂
在原が手を振り、合図する。
﹁千瑛たちは?﹂
﹁知らない。来るか来ないか、僕は聞いてなかったし﹂
﹁そうだね。俺も聞いてない﹂
﹁そうか。またねと言ってたから、ここを探し当てるかと思ってい
たんだが﹂
問い質したいことがあったが、さすがにここでは聞けないだろう。
﹁まあいい。お腹が空いたから、食べようか﹂
私たちが到着するまで律儀に待っていてくれたのだ。
早く食べたいと思っているだろう。
疾風が2人分のランチボックスをテーブルに置き、一緒に頼んで
いたお茶も用意する。
﹁あ。その前に! お菓子頂戴! 悪戯しないから﹂
手を差し出した在原がお菓子を要求する。
その言葉に、思わず吹き出す。
﹁先に言っちゃうんだ? 悪戯しないって﹂
手にしていたボックスからキャラメルが入った小さな箱を取り出
して、在原の掌に落とす。
﹁うん。悪戯、するわけないでしょ? 僕、瑞姫の事大好きだし﹂
﹁そうか、ありがとう。じゃあ、私にもお菓子をくれるかな?﹂
在原の﹃好き﹄は友達の好きだ。
間違えることもない明確な感情に、安心して私も手を差し出す。
﹁うん、貰って﹂
309
在原から渡されたのは、可愛らしいピンク色のグミ。
﹁桃味だよ。だから、ピンク﹂
﹁可愛いね。まともで安心した﹂
﹁⋮⋮瑞姫用はね﹂
ラッピングした透明な袋の中に転がっているグミを透かして眺め
ていた私に、橘が呆れたような口調で告げる。
﹁私用だけ?﹂
﹁うん。他のはちょっと失敗しちゃって﹂
テヘペロと言い出しそうな表情で、在原が照れ笑いする。
彼が持っていたお菓子用の小さなバスケットの中には、原色なグ
ミが転がっている。
﹁見事な原色だね﹂
そう表現するしかない。
間違っても可愛いとか美味しそうとかいう感想は出ないだろう。
何故こんな原色に?
思わず首を捻っても仕方がないと思う。
﹁ほら、瑞姫がロリポップの色つけに食紅使ってただろ?﹂
﹁ああ、うん。そうだね﹂
﹁あれでね、僕も食紅使えば、綺麗な色が出るかなと思って﹂
﹁⋮⋮そうだね﹂
物凄く、後の展開が読める話だ。
﹁ちょこっと入れてみたら、色が出て面白くなっちゃって﹂
﹁ついつい入れ過ぎたと⋮⋮?﹂
﹁あたり!!﹂
やっぱり。
﹁それにちょっとゼラチンの量も間違えちゃって。成功したのは瑞
姫の分だけ﹂
﹁⋮⋮後のは?﹂
﹁固くてゴムみたいになっちゃった﹂
そんなの、食べたくない!!
310
何の罰ゲームだよ、それは。
成功した分を私に回してくれたのは嬉しいが、他の人が気の毒に
なってしまう。
﹁予想通りの展開で、笑うしかなかったんだけど。ま、在原だしね﹂
苦笑した橘が、私に手を差し出す。
﹁俺にもお菓子、くれるかな?﹂
﹁はいどうぞ﹂
橘と疾風にキャラメルを手渡す。
2人からもそれぞれクッキーとカラメルをもらい、食事を始める。
和やかな空気の中、昼食を摂る。
以前は疾風と2人で食べることが殆どだっただけに、4人ともな
れば賑やかで楽しい。
ここに千瑛と千景が加われば、騒がしいとしか言いようがないけ
れど、やはり楽しいと思える風景になる。
﹁食事が終わったところで、これからどうする?﹂
デザートがてらにもらったばかりのお菓子を食べながら、橘が聞
いてくる。
﹁そうだね。もう少しまったりしてからちょこっとだけ参加して、
それから引き上げようか﹂
今日の授業は午前中までなので、不参加表明の生徒たちはすでに
帰宅している。
いつでも帰っていい状態なのだ。
最後まで残ってもいいし、配るお菓子がなくなったところで帰っ
ても大丈夫だ。
千瑛と千景にお菓子を渡したら、後は気分次第でお菓子をばらま
いて帰ろうかとぐらいにしか考えてはいないけれど。
だが、世の中には無粋なやつがいて、こちらの予定など無視して
やってくるのだ。
311
迷いない足音が温室の中に響き渡る。
だんだんと近付いてくる足音に、疾風と在原が不快そうな表情を
浮かべる。
﹁やはり、ここだったか﹂
そう言って姿を現したのは諏訪だった。
﹁相良にこれを﹂
手にしていた袋を私の前に置く。
諏訪は、私以外の人間にまったく注意を払っていなかった。
いるということを認識していても、気にする必要は欠片もないと
思っているようだ。
﹁先日の件、分家から養子をとるつもりのようだった。教えてくれ
たことに礼を言う﹂
淡々とした声音、静かな表情。
何かを吹っ切ったかのような空気が漂っている。
その肩に乗っている親父殿さえいなければ、威厳に満ちた威圧感
さえ感じるかもしれない。
﹁そうか﹂
元々、義妹に息子の教育を任せて、自分は表に顔を出していた律
子様だ。
例え自分の息子でも後継ぎには不向きと思えば切り捨てることに
容赦はないだろう。
だが、その原因の一端が自分にあるとは思ってはいないようだ。
子供は母親が世界の全てだ。
愛情深く育てられれば、それなりにまっとうに育つ。
母親としての役割を果たさずに、問題を起こした息子をそのまま
切り捨てるというのはどうだろうか。
3年前の時は、律子様の顔を立て相良も一旦引き下がった。
だが次はない。
312
今回の事で、皆、牙を剝く気満々なのだ。
今は私が抑えているが、箍を外せば全力で襲い掛かるだろう。
﹁俺が諏訪の後継者だ。すべてを掌握して見せる﹂
きっぱりとした口調で諏訪が宣言する。
その表情は、今までの甘さをすべて削ぎ落とした厳しいものだっ
た。
ようやく、自分の足場の脆さを認識したようだ。
そうしてその足場を確固たるものにすべく動き出したのだろう。
無条件で守ってもらえるはずの母親が、最大の敵にまわっている
のだ。
諏訪の心理としてはかなり苦しいもののはずだ。
信じられるものは自分自身だけという状況に追い込まれているの
だから。
﹁俺は、諏訪を手に入れる。だから、見ていろ!﹂
﹃見ていてくれ﹄ではなく﹃見ていろ﹄か。
真っ直ぐにこちらに挑むような視線。
一見、俺様が復活したようにも見えるが、そうではない。
私が諏訪を見ないことを前提で命令ではなく要求しているのだ。
見た目も声もいい諏訪なので、こういう場面を他の女の子が見た
ら、きっとぽうっと頬を染め、熱を上げることだろう。
だが、残念だ。
その肩の親父殿がすべてを台無しにしている。
諏訪を見ようと思っても、必ず親父殿と視線が合ってしまうのだ。
笑いをこらえ、表情を保つことに必死になってしまって、諏訪の
言葉に答える気にもならない。
命令形にも聞こえる﹃見ていろ﹄発言で、橘までも嫌そうに表情
を歪めている。
誰も言葉を発しないのは、私が表情を動かさないからだ。
私のリアクションでこの均衡が崩れるだろう。
しかし、諏訪は私の答えを待つことはなかった。
313
言いたいことだけ言うと、くるりと背を向け歩き出す。
仕方ないな。
貰った物にはそれなりの対価を返さなくては。
バッグの中からお菓子を取り出す。
﹁諏訪!﹂
声を掛けてそれを投げれば、振り返った諏訪は驚いたようにそれ
を受け止め、手の中のお菓子と私を見比べる。
﹁お菓子の礼だ﹂
それだけ告げて、視線を疾風に移す。
動くなと宥めるように疾風の肩に手を添えれば、諏訪はそのまま
黙って去って行った。
諏訪の気配が消え、在原と橘が顔を見合わせる。
﹁瑞姫、諏訪に投げたのって、あれ⋮⋮﹂
﹁んー? ロリポップの花束﹂
笑いをこらえたような在原の問いかけに、素直に答える。
﹁あれって、女の子用って言ってたよな?﹂
﹁そうだよ﹂
﹁絶対、勘違いしているよな。激励されたと思って!﹂
﹁花束だしな﹂
吹き出したのは、誰が最初だっただろうか。
それが呼び水となって一斉に笑い出す。
どれぐらい笑っていただろうか、ようやく笑いが治まり、目尻に
溜まった涙を指先で拭う。
﹁ひどいな、瑞姫は。男前すぎる﹂
﹁格好良すぎて、比較されるやつが不憫になってくるよ﹂
﹁褒めてくれてありがとう!﹂
皆の言葉に、笑顔で礼を言う。
﹁褒めてないって!﹂
﹁それは残念だ。褒め言葉だと思ったのに﹂
314
その言葉に、笑いの発作が起きかける。
﹁本当に、諏訪は不憫だね。俺たちの前であんなことを言うなんて﹂
橘が苦笑しながら告げる。
家の恥を他人の前で言う莫迦がどこにいる。
それは弱みとなって、格好の餌食にされるだろう。
そう橘は言いたいのだろう。
私も同感だと思う。
人の前でそれを言えば、伝えたい相手以外の周囲の人間にもその
情報が伝わってしまう。
そのことに注意を払えない彼は、まだ未熟だと思われてしまうだ
ろう。
肩をすくめ、苦笑を浮かべていた私たちの前で、疾風が手を上げ
る。
静かに、誰か来る。
そう伝えるジェスチャーだった。
その直後、静かな足音がかすかに聞こえ、近付いてきた。
﹁ごきげんよう﹂
薔薇の葉陰から姿を現したのは、少しばかり見覚えのある顔だっ
た。
名札には緑のラインが入っている。
そうして、もうひとり、その後ろから現れた。
赤のラインが入った名札をつけるその顔は。
﹁⋮⋮生徒会長⋮⋮﹂
今季の生徒会長、その人であった。
315
38
穏やかな表情、優しげな笑み。
静かな眼差しが真っ直ぐにこちらを見つめている。
﹁ごきげんよう、相良瑞姫さん﹂
目を細め、笑みを深くした3年生が、私の名を呼ぶ。
﹁ごきげんよう、生徒会長と書記の御二方﹂
いきなりの大物登場で、在原も橘も息を詰めている。
疾風は相手の様子を静かに窺っているようだ。
相手の出方次第では、割って入るつもりなのだろう。
﹁役職ではなく、名前で呼んでくれないか?﹂
甘く響くバリトンが、柔らかく要求してくる。
うを。尾骶骨直下型の美声だな。
鳥肌が立ちそうになるのをこらえ、臨戦態勢を整える。
﹁藤堂先輩と二宮先輩とお呼びしてもよろしいでしょうか?﹂
相手の名前を呼ぶのは要注意だ。
どこに地雷が潜んでいるのかわからない。
手堅いところから探りを入れるべきか。
﹁下の名前はわからない?﹂
首を傾げ、藤堂生徒会長が訊ねる。
﹁存じ上げておりますが、許可をいただいてもお呼びすることはで
きかねます﹂
明らかな拒絶にも、藤堂生徒会長は笑みを崩さない。
それどころか、満足げな笑みを浮かべている。
﹁それはどうして? なんて言葉遊びをするつもりはないから安心
してくれるかな?﹂
316
﹁御用件をお願いいたします。本来ならば、生徒会長も書記の皆様
も講堂に詰めていなければならないはず。責任者としての責務を果
たされず、温室の奥まったところまでわざわざ足を運ぶほど大切な
用があるとは思えませんが﹂
1年生が4人、サロンで食事を終えて寛いでいるところに、用件
もなしで現れるはずはない。
厄介ごとを持ち込む気で探し当てたのだろう。
でなければ、千瑛が用心しろと言うわけがない。
一番忙しい今日でなく、明日でもよかったはずだ。
後片付けも終わって、時間的余裕も生まれているだろうに。
﹁大事な用だよ。とても、ね﹂
にっこりと藤堂生徒会長が笑う。
藤堂会長は、所謂万人受けするイケメンではない。
顔立ち自体は整ってはいるだろうが、好き嫌いが分かれる顔だ。
人によっては普通と言うかもしれない。
ただ、顔立ちよりも全体の雰囲気で印象に残るタイプだ。
穏やかそうに見えて、底知れない感じがする。
そういう印象を受けるのだ。
﹁用件は、僕ではなく、二宮が伝えるよ﹂
二宮先輩に頷き、発言を促す。
﹁相良瑞姫さん、あなたを来期生徒会書記の任に就くことを要請い
たします﹂
清潔感のある爽やかなイメージの二宮先輩が、力強い声で用件を
伝える。
﹁お断りいたします!﹂
間髪入れずに言葉を返す。
﹁え!?﹂
まさか即座に返されるとは思っていなかったらしく、二宮先輩の
317
目が瞠られる。
﹁断るって⋮⋮﹂
﹁ええ。お断りいたします﹂
千瑛が匂わせてくれていてよかった。
どこから仕入れたのかはわからないが、千瑛もはっきりしたこと
がわからなかったにも関わらず、忠告してくれていたおかげで、間
を置かずに返事できたし。
﹁よく考えてから、返事をしてほしい。君にとってマイナス要素は
ないと思うんだが﹂
﹁マイナス要素はあります。そして、プラス要素はありません。生
徒会書記は中等部の時に経験しましたので、充分です。二度とした
くないと思っております﹂
﹁そんな! 去年、中等部を盛り立てたのは君の手腕があってこそ
ということは、こちらでも調べている。ぜひその力を貸してほしい﹂
﹁では、私がなぜ、生徒会に所属したのかその理由は御存知でしょ
う? 幸いにも内申書の加点を今のところ必要としておりませんの
で﹂
取りつく島を作ってなるものか。
生徒会にはいい思い出などない。
思い出すのは書類の山だけだ。
﹁しかし!﹂
﹁二宮、退きなさい﹂
説得しようと言い募る二宮先輩を藤堂生徒会長が制する。
﹁会長!﹂
﹁少し、冷静さを失っているよ。相良さんの思う壷だ﹂
ち。ばれたか。
﹁率直に言おう。君に次の生徒会長を引き受けてもらいたいと思っ
ている﹂
やはり、その流れか。
生徒会長の判断で任命できる書記を下級生に任せるということは、
318
会長の仕事を近くで見て学ばせ、後任に据えるということだろう。
来期の生徒会選挙に二宮先輩が生徒会長として立候補する予定だ
ということは予想がついていた。
というか、ゲーム上では、二宮先輩から諏訪へ会長職が移ること
になっていた。
これもイベントで諏訪ルートの生徒会長選挙応援で成功させない
と先に進めない。
失敗して在原が生徒会長になったら、バッド・エンドとなる。
在原でなく、私が生徒会長か。
やっぱり話が変わっている。
あまりゲームにこだわる必要もないだろうが、生徒会長なんて雑
用係もいいところだ。
書類の山にうなされる毎日はもう嫌だ。
﹁お断りいたします﹂
﹁頑なだね﹂
苦笑を浮かべ、藤堂生徒会長が呟く。
﹁藤堂先輩、私に関する肝心なデータが抜け落ちていませんか?﹂
二宮先輩よりもやはりこちらの方が強敵だ。
﹁肝心なデータ?﹂
﹁私は、確かに東雲学園の生徒ですが、同時に商業活動もしている
デザイナーでもあるんですよ? 生徒会の人間が商業活動をしてい
てもいいのでしょうか?﹂
﹁⋮⋮あ!﹂
驚いた表情で声を上げたのは二宮先輩だった。
藤堂先輩は微笑んだままだ。
﹁やれやれ。本当に手強い。だが、こちらも引く気はないよ﹂
無駄に美声。
美声の低音ボイスって悪役系に多いよなー。
藤堂生徒会長が悪役ってことはないだろうけど。
﹁時間も押してきたことだし、そろそろ講堂に戻らないといけない
319
な﹂
ふと腕時計を見て、藤堂生徒会長が呟く。
﹁相良さん、持久戦で君に取り組むことにするよ。よろしくね﹂
﹁外堀埋めをしようとしても、無駄ですよ。籠城する気はないので、
外堀が埋まったところでそこに私がいるとは限りませんから﹂
﹁⋮⋮本当に、君は手強いね。じゃあ、また今度﹂
ひらっと軽く手を振って藤堂生徒会長が踵を返す。
﹁相良さん、君が何と言おうとも諦める気はありませんから﹂
二宮先輩も藤堂先輩と私とのやり取りの間に頭を冷やしたのだろ
う。
熱くなっていた感情を抑え込み、朗らかに笑って生徒会長の後に
続く。
﹁⋮⋮⋮⋮瑞姫、どーすんの? 藤堂さんとやりあう気?﹂
心配そうに在原が問いかけてくる。
﹁やりあう気はないけど、生徒会に興味はない。どうしてもという
のなら、どんな手段を使っても叩き壊すか、捻じ伏せる﹂
﹁もー、瑞姫ちゃんってば武闘派なんだから∼﹂
呆れたような笑みを浮かべ、在原が肩をすくめる。
﹁でも、向こうも本気みたいだから、覚悟しないといけないようだ
ね。俺達で力になれることがあったら、遠慮なく言って﹂
﹁うん、ありがとう。その時は遠慮なく頼らせてもらうよ﹂
橘の言葉に素直に礼を言う。
頼っていいと言われると、どうして照れ臭くなるんだろう。
﹁じゃあ、とりあえず、千瑛たちを探そうかな? 一緒に行ってく
れる?﹂
﹁了解﹂
笑いあって、テーブルを片付けた後、立ち上がる。
320
ふと、諏訪からもらった袋に視線が留まる。
さて。
諏訪はあのキャンディの花束の意味に気付くだろうか?
在原たちは気が付いてくれたけど。
ロリポップの花言葉。
君は知っているのだろうか。
***************
温室を出て、校舎へと戻る。
長身4人の集団は、いささか威圧感があるらしく、すれ違っても
声を掛けてくる勇者はいない。
疾風の機嫌が悪そうだからだろうか。
or
treat!﹂
そんな中、見知った顔が声を掛けて来た。
﹁瑞姫様! trick
﹁おや、小松の姫君﹂
クラスメイトの女の子だ。
今朝も千瑛が髪飾りをつける時に鏡を持っていてくれた子だ。
﹁お菓子を下さらないと、わたくし、悪戯してしまいますわよ?﹂
にこやかに、悪戯っぽくこちらを見上げてくる。
おや、これは。
挑まれているのだな?
君は私に挑んでいるのだね。
よろしい。
321
受けて立とうではないか。
幸い、ここは廊下で、壁の傍だ。
﹁瑞姫!! 駄目だって!﹂
笑顔を浮かべた私に、疾風が止めようと声を上げる。
だが、一足遅かった。
小松さんの耳の近くの壁に手をつき、身をかがめる。
乙女の胸キュン上位ランキング、﹃壁ドン!﹄だ。
私としては使い古された感があるんだけど。
八雲兄が一番最初に言った方法だし、やるべきだろう。
﹁私に悪戯をしてくださるんですか?﹂
手をついた方とは反対側の耳許で、そっと囁く。
﹁⋮⋮どんな?﹂
﹁∼∼∼∼∼∼っ!!﹂
真っ赤になった小松さんは耳を押さえて座り込む。
﹁⋮⋮あーっと⋮⋮﹂
﹁瑞姫、やりすぎ⋮⋮﹂
背後の男性諸君が一斉に顔を覆って溜息を吐く。
八雲兄上、これはやはり効きすぎのようです。
﹁ごめんなさい、小松の姫君。悪戯が過ぎたようです﹂
慌ててしゃがみこみ、小松さんにロリポップの花束を差し出す。
最初から素直に渡しておけばよかった。
反省。
﹁もう、口惜しいです!!﹂
真っ赤な顔をして、小松さんが言う。
﹁うん、ごめんなさい﹂
﹁瑞姫様が殿方でないなんて!! 本当に悔しいですわ!!﹂
﹁え? そっち!?﹂
憤慨された方向が予想外だったので、驚いて瞬きを繰り返す。
﹁今のが様になる殿方って、そうそういませんもの﹂
322
﹁あはははは⋮⋮いたら、気障ったらしくて逆に気持ち悪いんじゃ
ない?﹂
﹁それは、そうかもしれませんけれど。ああ口惜しいですわ﹂
ぷくっと頬を膨らませ、口惜しさを十分に表した小松さんは、私
の掌に小さなケーキボックスを乗せる。
﹁お返しですわ。それから、菅原様からの伝言です。中庭にいるの
で気が向いたら来てください、だそうですわ﹂
﹁ありがとう。じゃあ、気を付けて。よいハロウィンを﹂
小松さんに手を貸し、立ち上がらせると、手を振ってその場を離
れる。
﹁疾風、中庭だって﹂
﹁早くあの双子を回収して引き上げよう﹂
何故だろう。
疾風が言う回収するものが双子ではなくて私のような気がするの
は。
私たちは大急ぎで中庭に向かい、無事に2人と合流した後、少し
ばかりの情報交換をし、帰宅した。
323
39
ハロウィンが終わると、生徒会選挙が始まる。
藤堂生徒会長にとって、ハロウィンが最後の大仕事だったわけだ。
選挙に関しては、前会長は建前上は中立を保たねばならないため、
目立った動きをするわけにはいかない。
そのはずなのだが。
﹁おはよう、相良さん﹂
魅惑の低音ボイスが惜しげもなく私を呼ぶ。
これが、以前の私であれば、丼飯3杯はイケる! と喜ぶところ
だろう。
優しげに甘く響く声が、私の名を紡ぐのだから。
﹁おはようございます、生徒会長﹂
朝っぱらから、人の教室に日参するなと申し上げたいところだ。
3年生、しかも生徒会長自ら、1年生の教室に毎朝来ては挨拶し
て帰るのだ。
色んな憶測が飛び交っている。
その憶測や噂のいくつかは、現生徒会役員が流していることはわ
かっている。
﹁考えは変わらない?﹂
﹁変える必要は見当たりません﹂
穏やかに和やかに微笑みながらの会話。
だが、冷気が漂っている気がしているのだろう、クラスメイト達
の顔色がすこぶる悪い。
もしかしたら、諏訪が荒れていた時よりも空気が悪いかもしれな
い。
﹁どうしても?﹂
﹁疑問があるのですが﹂
324
藤堂会長の問いかけには答えず、逆に疑問を返す。
﹁何かな?﹂
﹁今年の1年は、人材の宝庫だと言われております﹂
﹁うん、そうだね﹂
﹁何故、彼らではなく、私だったのか。篩にかけた基準をぜひ、お
伺いしたいものです﹂
中等部の生徒会役員だったからという理由は、認めない。
暗に匂わせると、藤堂生徒会長の表情がわずかに動く。
﹁人の上に立つという教育を施されている者は、かなりの人数いる
はずです。逆に私は末子ですから、そういった教育とは無縁です。
そして、人の和を大切にするような人間でもない。適任者というカ
テゴリーの中から外れるはずですが。ああ、これは、単純な疑問で
すので、答えをもらったところで納得して引き受けるということは
ありません﹂
穏やかな声を作って告げる。
決して荒げることなく、柔らかな口調を心掛ける。
八雲兄の交渉術だ。
ここで二宮先輩ならぼろを出すはずだろう。
だが、藤堂生徒会長は難なく誤魔化すだろう。
それを見越して次の手を打ち、断続的に揺さ振りをかける。
相手がそうと思わないように、静かにこっそりと楔を打っていく。
﹁さすが、学年主席だけあって面白いところを狙うね。今年の1年
は4人で主席争いをしていると聞いているが、全員有望株だという
のはもちろん理解しているつもりだよ﹂
﹁得点だけ見れば、そうかもしれません。ですが、出る杭は打たれ
るといって本来の実力を隠している者もいるということはご存知で
すか?﹂
橘とか千瑛とか!
高得点取って注目浴びるの嫌だからと言って、手抜きでテストを
受けているやつだっているのだ。
325
千景も面倒臭がって、上位に入るけれど、目立たない位置を常に
キープしている。
他にもあげればきりがない。
成績優秀者として外部から入ってきた生徒を押さえる形で常に上
位は内部生なのだ、今年の1年は。
﹁彼らが本気になれば、主席争いをするのは10数名に膨れ上がる
でしょうね﹂
さすがにこれは知らなかったと見える。
笑みをたたえていた藤堂生徒会長の表情が抜け落ちた。
﹁⋮⋮私に固執すると、足許をすくわれますよ?﹂
さて、今から藤堂生徒会長は、もう一度1年生のデータを見直す
ことだろう。
﹁君も存外、人が悪いな。相良さん﹂
苦笑を浮かべ、藤堂生徒会長が告げる。
﹁旗頭というものは、その足許を隠すために存在するんですよ?﹂
にっこりと笑って見せれば、生徒会長の笑みがさらに苦く深くな
る。
﹁確かに。君は見事にその旗頭を演じているよ。やはり、僕として
は君に後を託すのが一番望ましい﹂
﹁私があなたの立場なら、決して私に後を任そうとは思いませんよ。
危険が大きすぎる﹂
本当にしつこいな。
一応、揺さ振られてはくれたようだ。
ここは一旦引いて、次の機をみるべきか。
﹁では、また﹂
にこやかな笑みを作り、藤堂生徒会長が教室から去っていく。
緊張していた空気が一気に緩んだ。
﹁瑞姫様∼っ!! 生徒会長様が直々に、一体何事なんですの? というより、どうしてあの方相手ににこやかにお話などできるので
すか!?﹂
326
女子生徒たちが一斉に泣きついてくる。
﹁ごめんね。怖がらせてしまったようだ。来期の生徒会入りとその
次の生徒会長の任に就くようにと言われたんだけれど、その気がな
いので断っているところなんだ﹂
﹁⋮⋮まあ﹂
おおよその見当はついていただろう彼女たちの反応は微妙なもの
だ。
﹁瑞姫様を後任にとお考えのところは、お目が高いと申し上げたい
ところですけれど﹂
﹁ん?﹂
﹁いくら会長様でもこればかりは許せませんわ﹂
﹁そうですわね﹂
﹁え?﹂
口々に言い合い、頷き合う。
一体、何!?
﹁ご安心ください、瑞姫様﹂
にっこりと小松さんが笑う。
﹁小松の姫君? それに、三輪の姫君も、何を?﹂
﹁1年女子、総力を挙げまして瑞姫様をお守りいたしますわ! え
え。決して嫌がる瑞姫様を生徒会長様になどさせませんわ!﹂
﹁そうですとも。王子様をお守りするのは姫の役目ですもの﹂
にこやかに晴れやかに笑って告げる女子一同に、私は目を瞠る。
﹁え?﹂
何故、姫が王子を守るの!?
王子って、誰? 私!?
ない! それはない!!
何で私が彼女たちに守られなきゃいけないの!
どうしてこうなった!?
私の思いを余所に、生徒会役員選挙は思わぬ方向へ転がっていっ
た。
327
﹁瑞姫ちゃん、モテモテね﹂
テラスでぼんやりと空を眺めていた私に、千瑛がくすくすと笑い
ながら言う。
﹁なんでこうなるのかが、わからない﹂
私が思っている以上に1年女子の結束は固かったようだ。
藤堂会長が教室に近づこうとすれば、二十重に取り巻いて、他の
クラスの女子までやってきて、彼の行く手を阻む。
そうして、﹃嫌がる女性に無理強いなさるなんて無粋ですわ﹄な
どとやんわりと詰るのだ。
これにはさすがの藤堂生徒会長も苦戦を強いられているようだ。
﹃嫌がる女性﹄って、一応、女性扱いしてくれてありがとう。
王子様と呼ばれてから男扱いされているのかとちょっと落ち込み
そうになったからね。
﹁女子だけじゃないから、大丈夫だよ﹂
相変わらず楽しげに笑う千瑛が意外なことを告げる。
﹁え?﹂
﹁男子も動いているの。二宮先輩不支持でね。だから、生徒会長の
後継者で断然有利なはずの二宮先輩は苦戦しているんだよ﹂
にっこりと意味ありげに笑う千瑛。
﹁千瑛! 君か!?﹂
戦略を練るという点で、千瑛は私より格段に上だ。
普段はあのとぼけた性格を前面に出しているため、ちょっと変わ
った御嬢さんで通っているが。
﹁くふふ。ちょっと言っただけよ? 生徒会長になろうって人が、
後輩の手腕と人気に頼って当選しようと思ってるなんて、どうかな
ーって﹂
絶対、それだけじゃないだろう。
328
もっとイロイロと言っているはずだ。
でなければ、千瑛の隣で千景が頭を抱えているはずがない。
﹁あ。それから! 書記には大神を推しておいたから。裏でこそこ
そ人を操ろうとせこいこと考えないように、表に引きづりだしちゃ
えばいいのよ﹂
﹁⋮⋮は?﹂
確かにそれは、私も考えたけれど、実行に移すかどうか迷ってい
た案だ。
﹁だって。今回の騒動、裏に絡んでるの、大神だよ﹂
けろりとした表情で千瑛が暴露する。
﹁大神が、動いた?﹂
﹁そ。まだ序の口のつもりらしいけど。隣のクラスに私がいるのに
気付かないで動くなんて、大神も割と注意力散漫よねぇ﹂
気付かないじゃなくて、気付かせなかったの間違いでは?
そう思ったが、口には出さない。
﹁そう、か﹂
想像していた以上に、事態が混迷化してきている。
千瑛が大神を表舞台に引き吊り出そうとするのなら、任せてみよ
うか。
少なくとも、多少、彼の動きを封じることはできるだろう。
私はごく普通の学生生活を送りたいだけであって、人の前に立つ
ことは本意ではない。
﹁平凡な人生って私には無理なのかな?﹂
思わずつぶやいた言葉に、千景が崩れ落ち、テーブルにおでこを
ぶつける。
﹁あら、瑞姫ちゃん。平凡って一番難しいのよ? だって、明確な
判断基準がないんだもの﹂
にっこりと笑って告げた千瑛の言葉に、思わずそうかと頷いてし
まった。
329
40
生徒会役員選挙は、混迷を極めていた。
どの陣営も大神を欲し、逆に私を忌避する。
当然だ、1年女子の現生徒会長に対しての鉄壁の守りを見て、あ
れを突破できる勇者などいないと思うだろう。
実際、1年女子だけでなく、2年や3年の女子も私の擁護に回っ
てくれた。
それでも二宮先輩は私への書記要請を撤回せず、ますます戦況が
悪化しているらしい。
二宮先輩の陣営も大神を引き入れるように説得しているが、二宮
先輩が頷かないため陣営内が対立している状況も伝わってくる。
立候補届け出から選挙まで、たかだか2週間。されど2週間。
いつもは穏やかな学園内も殺気立っている。
あまりにも騒がしい構内に嫌気がさして、逃避行に出る。
目的地はやはり図書室だろう。
ここはなかなか素晴らしい蔵書がある。
中には稀覯本もあり、それを目当てで通う生徒もいる。
稀覯本は、当然のことながら持ち出し禁止だからね。
閲覧は司書の許可があれば可能だ。
必ず司書の手から預かり、司書へ返さなければならないが。
私の目的は大体において歴史書である。
私がかつて知っていた世界史と、こちらでの歴史とに食い違いが
生じるところがあるので、そこをすり合わせているのだ。
まさかこういう落とし穴があるとは思わなかった私は、結構必死
で読み漁っている。
そして、歴史書というのは罠が多い。
330
結論をはっきり書かずにぼかしているものもあるので、結局どっ
ちなんだと頭を抱えるようなものもあるのだ。
時間があれば図書室に通っているので、図書室の住人だとか読書
好きという認識になっている。
まあ、本を読むのは好きですけど。
ライノベとか読めなくなってつらいなあと思ってます。
こんなところにライノベなんて置いてないし。
一般の図書館には通えないしなぁ。
通販も考えたけれど、届けられる荷物は必ず不審物がないかチェ
ックが入るので無理。
そういう意味での不審物ではないが、別の意味で思いっきり不審
物だもんな。
妄想に耽られる歴史書は結構読むのが楽しいので、これで我慢し
ているところもある。
今、ようやく民族大移動あたりまで確認したところ。
この後にカール大帝が出てくるんだっけ?
叙事詩ロランの歌のあたり。
ロランの歌は結構好きだったな。
最後はちょっとボロ泣きしたけど。
ロランよりもオリビエが好きだったりする。
こっちで話が変わってないといいな。
そんなことを思いながら、本棚から目当ての本を抜き取り、お気
に入りの場所へと移動する。
北側の窓際。
ここが私が決めた指定席。
明るさが一定だから目が疲れなくていいのだ。
ぱらりとページをめくり、読み始めたところで近くに人が立って
いることに気付く。
顔を上げると、そこに立っていたのは、大神紅蓮だった。
331
﹁やってくれましたね、相良さん﹂
笑顔魔人の大神が凄みを増した笑みでこちらを見下ろす。
﹁何の事でしょうか、大神様?﹂
知っているがとぼけることがお約束。
﹁生徒会役員の事ですよ。僕を推挙したのは、あなたですね?﹂
﹁いいえ。私ではありません。生徒会長には、主席を争う実力者は
十数人ほどいると伝えただけで、誰が相応しいなどは一切口にして
はおりません﹂
﹁嘘だ!﹂
﹁いいえ。私は、嘘をつきません⋮⋮そうですね?﹂
大神の言葉を封じ、まっすぐに彼を見上げる。
しばらく睨み合いのように見つめ合っていたが、根負けしたのは
大神だった。
﹁そうだったね。君は嘘をつかない﹂
﹁嘘をついたところで、バレれば一緒なら、最初から嘘をつかない
方がお得ですからね。無駄なことはしたくない﹂
﹁そうだね、君はそういう性格だ﹂
﹁わかっていただけて何より。誤解は解けましたか?﹂
﹁すみません。いささか頭に血がのぼっていました。少しお話して
もよいでしょうか?﹂
私の前の席を指さし、座ってもいいかと問いかける。
﹁他の方もいらっしゃらないようなので、どうぞ﹂
実際、私たち以外は図書室には誰もいない。
話したところで迷惑は掛からないだろう。
そう思い、頷く。
﹁失礼﹂
大神も普段の穏やかさを取り繕い、ゆったりとした仕種で椅子に
腰かける。
332
﹁先程は、失礼しました。申し訳ない﹂
﹁誤解だとわかればそれで構いません。それで、お話とは?﹂
本は読めないと悟り、閉じてテーブルの上に乗せる。
﹁僕を推挙した方をご存知ですか?﹂
﹁その場面を目撃したことはありませんので、私にはわかりません﹂
﹁君なら知っていると思ったのだけれど⋮⋮﹂
﹁残念ながら、私も自分の事に手一杯なもので。火種になるのは本
意ではないのですが、なかなか生徒会長が諦めてくださらないので﹂
﹁ああ。毎朝、大変そうですね﹂
﹁ええ。私ではなく、女子の皆様が﹂
﹁時折、2年生や3年生の女子生徒の姿も見受けられましたが﹂
﹁そのようです。さすがに、毎日、生徒会長が1年の教室に日参す
るのは外聞が悪いと窘めに来られているようですよ﹂
﹁⋮⋮会長のファンですか?﹂
﹁さあ? その方々と直接お話したことはありませんので﹂
嘘はつかないが、とぼけることはとぼけます。
﹁相良さんは生徒会長の地位には興味がないの?﹂
﹁ありません。生徒会はうんざりです﹂
本心からの言葉に、大神が笑みを見せる。
﹁あはははは⋮⋮本当に嫌そうだ。まあ、当然だよね、僕と彼の御
守役だったんだものね﹂
﹁意外と暴走される方たちだったので、驚きました。しかも、穴だ
らけの計画書など、悪夢としか言いようがありません﹂
﹁君に指摘されたから、多少は成長したつもりなんだけれど﹂
﹁そうですか? どのように成長されたのか、知る術はありません
ので、確認しようもありませんが﹂
﹁そこは、書記をやって証明すれば? って言う場面じゃないのか
な﹂
﹁やりたければどうぞ? ですが、生徒会の書類は表には出ません
ので、一般生徒の私には確認しようがないでしょう? 勧めません
333
し、唆しもしませんよ﹂
﹁⋮⋮⋮⋮⋮⋮うん。確かに、君じゃないな﹂
大神が納得したように頷く。
ここで素直にだまされる大神は、やはり詰めが甘い。
私は確かに嘘はつかないが、とぼける時は、徹底的にとぼけて相
手を騙すぞ。
そこのところの認識がなっていないのなら、まだまだ情報収集不
足だ。
﹁⋮⋮君は、本当にやる気がないね﹂
﹁やる気はありますが、興味のないことに対しては確かにそうです
ね﹂
誰でもそうだと思うのだが。
﹁君は、僕がどうすればいいかと思いますか?﹂
﹁お好きに? 書記になろうがなるまいが、会長に立候補しようが、
それは君の自由です。私を巻き込まないで頂けるのなら、陰ながら
応援しましょう﹂
正直な気持ちを素直に伝える。
大神の笑顔が苦笑に変わった。
﹁陰ながら、ですか。それでは応援していないことになりますね﹂
﹁表ばかりが総てではないでしょう。私が動けば、混乱が起こるこ
とは、君も知っているはずだ﹂
﹁そうですね。珍しく相良さんが意思表示をしたばかりに、1年女
子が反生徒会長に回ってしまいましたしね﹂
﹁望んではいない展開でしたが⋮⋮助かっていることは事実です﹂
正直ベースで答えれば、大神の苦笑が深くなる。
﹁女の子たちにとって、君は理想の王子様なのだそうですよ、相良
さん。女性に優しく穏やかで、だけど強い。自分を守ってくれると
わかる相手だからこそ、守りたいのだとうちのクラスの女子が言っ
ていましたよ﹂
﹁そうでしたか。買い被られても困りますが﹂
334
私という人間とは程遠い理想像に、困って言えば大神は首を傾げ
る。
﹁彼女たちの言っていることは、外れてはいないと思いますが? 君はどこか、生身の人間臭さが欠けているような気がします﹂
﹁どういうことでしょう?﹂
﹁お伽噺か、夢の中のような人に、時折見えます。手を伸ばしても
届かない気がして、確かめたくなる﹂
﹁⋮⋮無遠慮に確かめられても困ります。私は臆病な人間だ。今の
段階では、接する人間が少ないほど安全ですから﹂
言葉遊びはここまでだ。
これ以上は付き合う気がないと匂わせれば、そうと悟った大神が
肩の力を抜く。
﹁見当違いか。相良さんに接触すれば、誰か現れるかと思ったんで
すが﹂
﹁そのようですね。私としても思惑が知りたいところだったので、
誰か来ないかと思っていたんですが﹂
千瑛なら絶対に近づかないだろう。
わかっているから、正直に告げる。
﹁悔しいな。今回は僕を陥れた方の思惑に乗ることにしましょう。
ですが、来年は必ず引きずり出して見せますよ﹂
﹁そうですか。健闘をお祈りいたしましょう﹂
やる気のない私は、やる気のない言葉を返す。
﹁ところで、相良さん﹂
立ち上がった大神がふと私を見る。
﹁何方が生徒会長に当選すればよいとお考えですか?﹂
﹁⋮⋮それは、当選した方でしょう﹂
誰でも構わないと答えた私に、大神は苦笑する。
﹁君を本気にさせるのは、至難の業ですね﹂
﹁褒め言葉をありがとう﹂
手を伸ばし、本を手許へ引き寄せる。
335
表紙を眺め、ページをめくり、文字を追い出すと、大神が去って
いく気配を感じた。
とりあえず、大神を表舞台に引き吊り出すことには成功したよう
だ。
この後、千瑛はどう動くつもりなのか、考えを聞く必要がある。
だが、迂闊に接触はできないだろう。
私がここにいることを突き止めたということは、誰かに頼んで私
の動向を見守らせている可能性がある。
﹁あ! 違う!?﹂
本を読んでいた私の前に新たな事実が。
カール大帝=シャルルマーニュだったはずなのに、ただのシャル
ルになってる!!
たかが名前、されど名前だ。
昔読んでいたロランの歌のとんでも本ではシャルルマーニュが女
性だったというのがあった。
あれはあれで、かなり無茶振りで面白かった。
来年、図書委員になって、とんでも本を探して購入してもらうの
もいいかもしれない。
委員会に所属している人間は、生徒会役員にはなれないはずだ。
うん、これはいい考えかもしれない。
少しばかり上機嫌になって、私は読書に熱中した。
336
41
暗闇の中で泣いている迷子の女の子。
辛くて怖いことから逃げ出して、帰り道がわからなくなって泣い
ている。
探している人がいても、会いたい人がいても、みつからない。
暗い場所で途方に暮れて、泣いているのだ。
行く先がわからない、迷子の女の子。
ふと、女の子が泣き止み、立ち上がる。
何かを探すような素振りを見せ、走り出した。
そっちじゃない!
こっちに来なさい!!
そう叫んでも、届かない声。
君がいるべきところは、ここだよ。
﹁瑞姫⋮⋮﹂
ふわりと温かいものに包まれ、目が覚める。
﹁⋮⋮ん⋮⋮?﹂
私の視界に映ったのは、制服のジャケット。
もぞりと身動きすれば、目の縁から涙が零れ落ちる。
泣いていた女の子は、瑞姫だった。
﹁起きたのか?﹂
馴染んだ声がかけられる。
﹁あれ? 疾風? 私⋮⋮眠ってた?﹂
腕を枕にして突っ伏して眠っていたようだ。
周りの風景を確認して、首を傾げる。
337
図書室だ。
あのまま眠ってしまっていたのだろうか。
﹁瑞姫、何で泣いてるんだ?﹂
立ち上がって傍へやって来た疾風が、手を伸ばし、私の顔に触れ
る。
目の傍を指先がなぞる。
涙を拭っている仕種だ。
疾風はジャケットを羽織っておらず、白のベスト姿だ。
﹁泣いて⋮⋮?﹂
﹁まだ寝ぼけてるのか?﹂
﹁疾風の手が暖かくて気持ちがいい﹂
﹁⋮⋮⋮⋮寝ぼけてるんだな﹂
深々と溜息を吐いた疾風が、大きな掌で私の頬を包む。
﹁起きた。夢を見てたんだ、迷子の女の子の﹂
﹁夢?﹂
﹁うん。泣いてる女の子。帰り道がわからなくなって迷子になっち
ゃったんだ﹂
あんなに会いたがっているのに。
﹁そうか。早く帰り道がわかるといいな﹂
﹁そうだね﹂
疾風の掌に頬を預け、目を閉じて夢の残滓を振り払った私は、表
情を改める。
﹁もしかして、随分待たせてた?﹂
﹁いや。珍しく眠っていたから、疲れていたのか?﹂
﹁どうだろう? 疲れるようなことはしてないし。ああ、でも、早
く選挙が終わらないかなっては思ってる﹂
﹁ああ。あれは煩すぎるからな。瑞姫がわざわざ表に立つ必要はど
こにもない。それを勝手に思惑ばかり押し付ける方が悪い﹂
過保護な疾風は、自分たちの要求ばかりを押し付けてくると、生
徒会長や二宮先輩が気に入らないようだ。
338
誰だって、自分を中心に世界が回っている。
その世界の中心に自分を据えたとき、周囲が見えているか見えて
いないかで、対応が違う、それだけだ。
たまに、その自分の世界の中心に自分ではなく、他の人間を据え
てしまう人もいる。
小さな星々のように、太陽の周りを回ることで、自分らしく居ら
れると思っているのだろうか。
私の世界の中心は、私自身ではなく瑞姫だ。
あえて言えば、私は彗星のようなものだ。
ほんの一瞬、通り過ぎるただの記憶の欠片。
今は迷子になっている女の子に、この世界を返さなくてはいけな
い。
そのことは、誰も知らない。
すべてを欺き、裏切っても、悔いはない。
何を手放そうとも、願いが叶えばそれでいい。
もう少しですべてが片付くというのに、瑞姫だけが見つからない。
頬に触れていた疾風の掌がふわりと動く。
﹁少し、熱い。熱があるのか?﹂
額に当てられ、熱を測っているようだ。
﹁眠ってたからじゃない? 風邪をひくような季節でもないし﹂
﹁そうだといいが、まだ本調子とは言えないんだ。用心に越したこ
とはない﹂
﹁過保護すぎー!﹂
﹁何とでも言え! 俺は茉莉様が恐ろしいんだ﹂
﹁⋮⋮⋮⋮⋮⋮激しく納得いたしました。そして、同感であります﹂
長姉の名を持ち出されては、反論できない。
女帝様は恐ろしい。
﹁帰るぞ、瑞姫﹂
339
﹁うん﹂
本を片付け、図書室を後にする。
まばらにひと気が残る校舎内を疾風と2人、並んで歩く。
﹁疾風﹂
﹁うん﹂
﹁サカナが網に掛かった﹂
﹁そうか。どの網に掛かったのかが、問題だな﹂
大神が書記を受けるつもりになったことを告げれば、疾風がどの
陣営なのかを気にする。
﹁サカナ自ら決めた網か、それとも網を仕掛けた者が決めたのか﹂
会長職に誰が当選するのか、決まったならばその時にわかること
だろう。
私としては、どの網に掛かろうが、構わない。
ただ、先程の反応から、大神はまだ本気で動く気はないというこ
とだけ感じ取った。
自分が仕掛けるつもりで、逆に誰からか仕掛けられたことが不本
意だったのだろう。
﹁問題は、2年になってから、か⋮⋮﹂
ぽつりと呟いた疾風の言葉に、無言で頷く。
投票日まで、もう残りが少ない。
そう思いつつ、校舎を出て、迎えに来た車に乗り込んだ。
****************
翌日、大神が二宮先輩の下でなら書記になると、他の候補者たち
の前で宣言したそうだ。
340
朝からそのニュースが広まり、あちこちで話している声がする。
﹁君たちにはしてやられたよ﹂
久々に女子包囲網が解かれ、私の机までやって来た藤堂生徒会長
が苦笑しながら告げる。
﹁私は何も。私が動くと碌なことが起きませんので、傍観者役に徹
していたいと思っていますよ、いつも﹂
﹁大神君を動かしたのは、君だろう?﹂
﹁大神様は、大神様自身の意思で動く方です。私が何をやっても動
いてはくれませんよ﹂
﹁⋮⋮本当にそうだろうか?﹂
今日もバリトン美声だな。
バリトンもいいが、聞くだけならバスがいい。
超低音な声は、日本人では滅多に聞くことができない。
テノールあたりが一番多いのだろうか?
かすれ気味の声もそれなりに色気があってよいのだが、やはり艶
のある豊かな声量の声が好きだと思う。
﹁やはり、どうしても引き受けてはくれないのかい?﹂
﹁先程も申し上げましたように、私が動くと碌なことが起きません。
無駄な争いが起こるのなら、その原因を潰すしかないでしょう?﹂
﹁⋮⋮確かに、そうだね﹂
溜息交じりに同意する会長。
﹁まさか、たった一言でこうなるとは予想もしていなかったよ﹂
私が関わり合いになりたくないと告げた言葉が波紋となって、今
回の騒動になったのだと藤堂生徒会長は信じているようだ。
上辺だけ見れば、確かにそうだ。
私を守るために1年女子が動き、教室どころか廊下にさえ生徒会
長は近付くことが許されなかった。
二宮先輩は、本来最有力候補として悠然と構えていればいいだけ
の選挙活動が一変して、票獲得が非常に難しい立場へと追いやられ、
劣勢に陥った。
341
さらに状況をかき回すかのように、2年生から生徒会長に立候補
した生徒が数人出たのだ。
大体、1人か2人の候補者しか出馬しないはずなのに、1年生か
ら立候補したものを含め6人ほどの候補者が乱立したのだ。
本来なら対抗馬にさえ難しい者たちが、ある程度の票を獲得でき
たのは、嫌がる者を生徒会へ引き込もうとするのはいかがなものか
と訴えたからだ。
責任を自覚し、目的を持ってなりたい者が生徒会運営に携わるの
が正しいことだと訴えれば、確かにと納得もする。
そのうえで彼らは、それぞれの主張を告げたのだ。
藤堂生徒会長の後継者である二宮先輩が訴えたのは、藤堂先輩の
意思を引き継ぐということだけだった。
具体的に何をするとも言わず、ただ、自分の後に私を据えると言
ってしまったため、一時失墜したのだ。
今は、具体的なことを言っているらしいが、二宮先輩以外の候補
に投票することを決めている私は、聞いたところで自分の意思を撤
回するつもりはない。
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
予想はしていなかったが、予感はしていた。
言葉の影響力がどれだけあるのかを知っていれば。
﹁仕方がない。今回は君を諦めるよ。卒業していく身だ。綺麗に去
っていかねばならないからね﹂
穏やかに笑った藤堂生徒会長は、私に視線を落とす。
﹁大学で、君を待っている。次は諦めないから﹂
そう言って、藤堂生徒会長は自分の教室へと戻っていく。
ごめんなさい。
私は大学部へ進まず、外部の国公立大学に進みたいんです。
学びたいことが、ここの大学にはないので。
そう声に出して告げることができない私は、生徒会長の後姿を見
342
送るだけだった。
343
41︵後書き︶
一部、違う表現が混じっていましたので、修正しました。
344
42
生徒会選挙が終わって、学園内は一気に静まり返った。
旧生徒会から新生徒会へ引継ぎが迅速に行われる。
そうして旧生徒会役員が引退すると、12月が始まる。
12月のイベントといえば期末テストとクリスマスだ。
今年は生徒会選挙が白熱化したため、勉強が手につかずに疎かに
なって順位を下げたと嘆く人の姿をわりと見かける。
授業もある程度予定範囲まで辿り着いた教科から、名目自習とな
り聖歌の授業に割り当てられる。
東雲学園はキリスト教系の学校ではないのだが、何故か敷地内に
礼拝堂がある。
その建物自体、かなり古そうな感じなので、もしかしたら学園が
建設される前から在るものなのかもしれない。
ステンドグラスの薔薇窓も実に見事なもので、調べれば由緒など
わかるだろうか。
何故、キリスト教系列の学園でもないのに、クリスマスに聖歌を
礼拝堂で歌うのかなど疑問に思えばきりがない。
大体において、このクリスマスの行事と結婚式以外で礼拝堂が使
われることはあまりないらしいし。
そう、結婚式。
東雲学園の卒業生が、この礼拝堂で結婚式を行うことがあるのだ。
あの薔薇窓から差し込む光がとても綺麗で、ぜひにと申し込みが
あるという。
生徒がいない時間帯ならと許可が下りているのだ。
345
と、いうことは、礼拝堂を守る人がいるということだろう。
いつ行っても無人だったから、誰もいないのかと思っていた。
壁の一角にパイプオルガンが据えられているので、堂内の音響は
それなりに素晴らしい。
聖歌の伴奏は、このパイプオルガンで行われるのだ。
聖歌を歌うのも、ただ歌えばいいというものではないらしい。
必ず声の音域を計ってパートごとに分かれて歌わないといけない
ようだ。
初等部の時は、ただ歌ってただけだったんだが、高等部にもなる
とハーモニー重視になる。
ちなみに中等部の時はというと、1年の時は入院中、2年の時は
体力不足で歌えず、3年の時は生徒会役員として準備に奔走してい
たため参加できずで寂しいクリスマスを送っていた。
今年はようやく参加できるので楽しみだ。
しかしながらここで問題が。
私はそこまで歌がうまくない。
声もいい方ではないだろう。
自分が認める美声には程遠い。
話す声はアルトヴォイスなのに、歌うと少しばかり音域が高くな
るようだ。
パート分けの時にメゾソプラノと言われたので、そうなのだろう。
メゾソプラノのところに向かったら、意外そうな眼差しで見られ
たのが心に痛かった。
皆、私の声はアルトだと思っていたんだね。
﹁瑞姫様ならテナーでもいけるのかと思っていましたわ﹂
そう言われた時には、心が折れそうになりました。
さすがにそこまで低くはありません。
﹁他のパートに引き摺られて、音程が外れるんですけど、どうすれ
ばいいんでしょうか?﹂
346
他の音が気になり、どうしても自分が歌う箇所でミスってしまう
ことに萎れ、聞いてみる。
﹁耳で音を追っているからじゃないでしょうか?﹂
そう言われ、びっくりする。
﹁耳で音を拾うものでは?﹂
﹁音は身体で覚えるものですよ﹂
え! そうなんだ!?
ぱちくりと瞬きを繰り返しながら、首を傾げる。
﹁どうやって身体で音を覚えられるんです?﹂
その言葉に皆さん固まってしまった。
﹁こればかりは⋮⋮言葉で説明するのは難しいですわ﹂
﹁そうなんだ。どうにも自分の声が音を外すばかりで不満ばかり覚
えてしまって、なかなかうまく音を覚えられない﹂
﹁瑞姫様は耳がおよろしいのですわ、きっと﹂
﹁それならば、聖歌隊よりも楽器演奏の方がきっとうまくいくと思
いますわ﹂
﹁楽器、ですか? それこそ、ピアノぐらいしか習ったことがない
のですよ、私は﹂
とりあえず、母親のお付き合いか何かで幼稚舎の頃に少しばかり
かじった程度だ。
一般家庭のように習いに行くのではなく、先生が教えに来るとこ
ろが、少し違うだけで、教わる内容は全く一緒、当たり前か。
指の形は卵を軽く握るようにというところから始まって、後ろを
向いて音階当てゲームとかやって。
その頃までは楽しかったが、実際に弾き始めてCDの音と自分が
弾く音が違いすぎることに苛立って癇癪起こしかけたころ、ピアノ
を置いてある部屋で蘇芳兄上が遊びに夢中になって大暴れして、そ
のピアノを壊してしまったので、辞めてしまったのだ。
ちょうど10歳ほど年の離れた兄と、その随身は、木刀片手に大
暴れしたのだ、ピアノが置いてある部屋だけ防音だったため、音が
347
外に漏れないと大喜びして。
大破したピアノに愕然となったけれど、もう習わなくてもいいと
秘かに喜んだのは内緒だ。
﹁ピアノは楽器の王様ですもの、基礎がきちんとしていれば、どん
な曲も練習次第では弾きこなせますわ﹂
にこやかに微笑まれ、促され、いつの間にか私はメゾソプラノパ
ートから楽器担当の補欠要員になっていた。
またしても!
今回もまた、参加できないとは!!
まぁ、去年と違って特等席で聴けるからいいか。
聖歌隊の練習に参加しないでぼーっと椅子に座って聴いているだ
けの私の姿に気付いた疾風たちに、どうしたのかと聞かれ、事情を
説明したら、派手に笑われた。
別に音痴過ぎるから外されたわけではないんだからなっ!
多分、そうであることを祈りたい。
****************
11月の終わりごろから、急激に気温が下がってきた。
普段はここまで急激な変化はないのに、今年の気温の変化はあま
りにも大きすぎる。
﹁いつっ!!﹂
ぴりっと走った痛みに、思わず声を上げてしまう。
﹁瑞姫!?﹂
﹁あ。大丈夫。平気、だから﹂
心配そうな表情の疾風に、言葉を返す。
348
梅雨時はじくじくと痛んでいた傷跡が、今は鋭い痛みが走ってい
る。
急激な寒さに身体がついていけないのかもしれない。
今もきりきりと右脚が痛んでいるが、夏場に比べれば大したこと
はない。
だが、痛みを恐れた身体が庇うようにゆっくりとした動きを望ん
でいる。
﹁ちょっと、冷えただけだろう﹂
﹁寒さは大敵なんだろう? もっと暖かいコートを選べ﹂
そう言って、疾風が自分のコートを脱いで私の肩にかける。
﹁疾風も寒いだろう! 自分のコートをきちんと着てくれ﹂
﹁俺は、寒くない。寒くなれば、身体を動かせばいいだけだし﹂
﹁駄目だ! 風邪をひく﹂
﹁引かない。きちんと体調管理をしている。もう二度と、風邪なん
か引くものか﹂
風邪をこじらせ、肺炎を引き起こしかけて学校を休んだ時に、私
が事件に遭遇したため、疾風はことさら自分の体調管理に気を使う
ようになった。
常に完全な体調で、私の傍にいるために。
﹁疾風が風邪を引いたら、私が世話をしてやろう﹂
﹁絶対に引かない!!﹂
ぎょっとしたような表情で、疾風が拒否する。
そこまで嫌がらなくてもいいじゃないか。
いくら私でも傷つくぞ。
﹁コートかぁ⋮⋮ダウンを着るのは早いだろうな﹂
﹁いいんじゃないか。別に、校則違反っていうわけでもないし﹂
﹁⋮⋮コートに関しては、東雲は緩いよね﹂
﹁まあな。それで助かってる面もあるし﹂
校舎内は完全快適暖房だが、通学に関しては個人で暖を取るしか
ないため、冬の装いとしてのコートには、細かい指定があまりない。
349
色は黒・灰・白・ベージュ・茶と地味な色を選ぶこと。
毛皮など、学生らしからぬ素材でなければそこまでめくじらを立
てられることもない。
今私が来ているのは、グレーのハーフコートだ。
ロングにしていれば、足は痛まなかっただろう。選び方を間違え
た。
一方、疾風が着ていたのは、ベンチコートだった。
体温が高いから、そこまで寒さを感じないと言う疾風は、冬場で
もそこまできっちりと防寒しないことが多い。
マフラーさえあれば大丈夫だと平然とした顔で言い切る。
その疾風がわざわざベンチコートを用意していたとなると、やは
り私のためか。
困ったな。
疾風の過保護ぶりが板につきすぎている。
心配をかけ過ぎているということか。
﹁クリスマスが過ぎれば、一気に正月だな﹂
﹁年末は行事が多すぎて困る。在原たちの誘いを受けることもでき
ない﹂
話題を変えれば、渋面が返ってくる。
﹁神職系の家じゃないだけましだろう?﹂
この寒いのに、禊だのなんだの言って、冷たい水に浸かる沐浴と
かしなくてはいけないしきたりがあるらしい。
その話を聞いたときには、神職系の家に生まれなくてよかったと、
本気で思った。
身を清める必要があるのなら、塩で清めてもいいだろうとか思う
のだが、それではいけないのだろうか。
宗像家は海水に浸かると言っていたな。
くれぐれも心臓麻痺を起こさないでほしいと真剣に告げたら、そ
れをやるのは男だけだから大丈夫よとにこやかな返事が来た。
巫女を重視する家系と神巫を重視する家系とで、多少異なるらし
350
い。
クラスメイトが過酷な状況に置かれているわけではないと知り、
ちょっとホッとした。
ちなみに我が家では、年末の大掃除は男が行い、その間女性はお
節料理作りに精を出す。
たかがお節料理とは言えない。
種類もさることながら、人数が半端ではない。
おそらくは300名分ほどは最低でも作っているはずだ。
挨拶に来る分家や、岡部家など、かつて家臣であった家々、それ
に会社関係などの人々をもてなすためだ。
業者を使えばいいじゃないかという考え方もあろう。
系列のホテルなどの料理人を集め、作らせれば簡単なのかもしれ
ない。
それでは、我が家に仕えてくれている人々に感謝の気持ちを伝え
られないではないかと代々の当主が言うため、こればかりは本家女
性の仕事になった。
去年までは私は手伝いには入れなかったが、今年からお手伝い要
員だ、下っ端だけど。
皆のおかげでこれだけ蓄えることができた、それを存分に味わっ
てほしい。そして、また今年一年、力を貸してほしいという意味が
あるため、家政婦さんたちのお手伝いもなしなのだ。
﹁包丁で指切るなよ﹂
疾風がからかうように告げる。
﹁大丈夫、包丁は使わないから﹂
﹁何するわけ?﹂
﹁んー? 栗きんとんの裏ごし要員⋮⋮腕がこわりそうだ﹂
若者には体力及び力勝負の仕事が割り振られる。
他にも真薯の裏ごしとかも言われた。
﹁⋮⋮クリスマスが終わったら、そのまま翌日3学期でもいいとお
もう﹂
351
﹁だな﹂
そのあとから始まる恐怖に、珍しく疾風も同意する。
今年はクリスマスプレゼントを渡す人が増えたから、選ぶのが大
変だ。
でも、選ぶのは楽しい。
そう思いながら、2人肩を並べてゆっくりと歩いていた。
352
43
クリスマスプレゼントは、疾風にマフラー、在原はひざ掛け、橘
に手袋、千瑛にイヤーマフで、千景には何故かブックカバーになっ
てしまった。
本人をイメージしてのプレゼントとか思って選んだつもりが、何
でかこういうことに。
千景とはよく図書室で会うからだろうか。
ぜひとも本も虫同盟を発足したいものだ。
千瑛は、ツインテールをしたときにイヤーマフが似合いそうだと
思ったせいだ。
もふっと暖かそうなイヤーマフは可愛いと思うのだが、喜んでく
れるだろうか。
在原は寒がりなので、勉強するときに使ってもらおうと思った。
橘は、何故かいつも手袋をしていないので、つい気になってしま
って買ったのだ。
なんか理由があって手袋していないのなら、失敗したけどまあ、
いいか。
受け取ってはもらえるだろう。
疾風はすぐ私にコートをよこしてくるので、せめてマフラーだけ
は死守してもらおうとこれにした。
聖歌が終わったら、プレゼントをサクッと渡して引き上げよう。
礼拝堂近辺でうろうろしていたら、いろんな人に掴まって、クリ
スマスから新年にかけてのイベントに誘われてしまうので、お断り
するのも気が引けるため即行で逃げる。
一応、聖歌が終わったら集合場所を決めて、そこに集まるように
したので、無事に逃げられるはずだ。
353
楽器演奏の補欠要員というのは、本当に名ばかりで、眺めている
だけの役だった。
あ、でも! パイプオルガンを少しだけ弾かせてもらった!!
足のペダルが複雑で、鍵盤もすごく重い。
これを同時進行で操るなんて、いや、本当にすごい。
エレクトーンのような感じだけど、実際の感覚はハープに近いん
じゃないかな?
足のペダルで音を変えつつ、メロディを両手で奏でるわけだし。
エレクトーンの足のペダルはリズム系で、音を変えるのは手許の
レバーだったような気がするし。
何人か、試に弾かせてもらったけれど、そのほとんどが音すら出
なかった。
私の場合、音は出たけど、気の抜けた音だった。
パイプオルガンというのは、日本でもかなり珍しい楽器で、あま
り多くはないらしい。
一番古くて大きいパイプオルガンが九州の私立大学の礼拝堂にあ
るそうだ。
ぜひ見てみたいものだが、そう簡単に見せてもらえそうにないの
が残念だ。
とりあえず、パイプオルガンを普通に弾けるには数年がかりの根
気が必要だということだけは理解した。
ピアノを兄に破砕されたことで断念した私には到底無理だという
ことだろう。
しかしながら、パイプオルガンの音というのは、光を浴びている
ときの感覚に似ている。
降り注ぐ音と降り注ぐ光。
雅楽で言えば、笙の音だ。
すごく気持ちがいい。
そう言うと、耳がいいと言われた。
やはり同じ感性勝負でも、音楽は私には難しいようだ。
354
終業式の翌日、クリスマスの午前中に東雲の礼拝堂へ集まる。
クリスマスイブにやたらと盛り上がる日本人だが、ミサが行われ
るのはイブではなくクリスマスだ。
クリスマスパーティと呼ばれる催しは、数日前からあちこちで行
われている。
祖父が私は体調不良で欠席と断っているが、ごめんなさい、わり
と元気です。
寒さでちょっときしんで痛いけど。
ストレスさえ溜まらなければ弱い皮膚も頑張ってくれてるし。
まあ、以前よりは多少強くなってきているから、もうちょっと頑
張れば元に戻るんじゃないかなーと思ってる。
右側の筋力は、以前よりも上がってるしね。
砕かれた骨をカバーするために筋肉が発達してくれたのだ。
今は、骨も完治しているので、とはいっても、以前の骨よりも太
くなっているので、全体的に左側より右側の腕の方が太い。
一応女の子なので、そこは気にしてます。
バランス悪いし、やっぱり多少はほっそりした腕には憧れるし。
肉振袖とは縁のない腕だけど。
そういうわけで、ちょっとドレスは着辛いものがある。
着物はそう言ったところを上手に誤魔化してくれるので、着付け
した直後はちょっと苦しいけれど、全体のバランスとしてはうまく
誤魔化せるので助かるのです。
とは言っても、クリスマスに着物というのも何となく浮いている
ような気がして、パーティには参加しづらい気もするし。
気にし過ぎと言われれば、それまでだけど。
御祖父様の判断には、私個人としては非常に助かってます。
355
疾風と一緒に礼拝堂へ訪れたときには、かなりの人数が集まって
いた。
中等部も高等部も3年生は自由参加だ。
外部受験を控えている者は、そちらに非常を傾けなければいけな
いからだ。
内部受験でほぼ確定している者たちは、のんびりとしているため
参加している者が多い。
疾風と別れ、パイプオルガンの傍の所定の位置につくと、ミサら
しきものが始まる。
らしきものというのは、うちはしっかり仏教徒なのでキリスト教
のミサに参加したことはないので、よく知らないからだ。
しかも、仏教もキリスト教もそれぞれ宗派というものが存在する
ため、その宗派というもので細かいしきたりが異なってくるせいで
余計にわからない。
知らないことは無難に済ませたいと思ってしまう事なかれ主義を
誰が責められようか。
とりあえず、毎年の流れが滞りなく行われたところで聖歌に移る。
パイプオルガンの荘厳な響きが堂内に反響し、それを覆うように
様々なパートの歌声が響き始める。
参加すよりも聴き手に回っている方が耳が幸せだ。
少なくとも、自分の残念な歌声を聴かずに済む。
空から降り注ぐようなパイプオルガンの音色と歌声に目を細め、
余韻に浸っているうちに一連の行事が終わったようだ。
ざわざわとした気配が漂い始め、退出する者、他の席に移動する
者が出てくる。
それに紛れ、私も礼拝堂から外へと移動した。
あまり人が来ない集合場所へ荷物を持って向かった。
中庭の一角で、今は水が止められた噴水がある。
そこのベンチに座って待てば、徐々に集まって来た人たちの顔ぶ
356
れに顔も綻ぶ。
さくっとプレゼント交換をして、年末年始のお互いの予定を確認
し合う。
皆、国内にいる予定だが、それぞれの家の行事で大忙しだそうだ。
﹁じゃあ、やっぱり3学期にならないと会えないわけだ﹂
わかっていたが、残念なこともある。
﹁ま、仕方がない。3学期は短いうえに、イベントごとも多くはな
いし。すぐに2年になるな﹂
﹁そうだね。今度は一緒のクラスになれるといいけれど﹂
そんなことを言い合って、﹃良い年を﹄と締めくくり、わかれる。
やはり、最後まで一緒にいたのは疾風だった。
﹁マフラー、ありがとう。手触りがいいな﹂
嬉しそうに笑ってすでに首に巻いている。
選んだのは、シルク混のカシミヤ素材のマフラーだ。
ストールではよくある素材だが、マフラーではそこまで見かけな
い。
見た目が非常に薄いので、色合いによっては寒そうに見えるが保
温性は抜群だ。
何より手触りがいい。
薄くて軽くて暖かいという優れものであるから選んだのだ。
﹁厳選したから、当然だな﹂
ちょっと偉そうに言ってみると、疾風が笑う。
﹁タオルもそうだけど、肌触りにこだわるよな、瑞姫は﹂
﹁そりゃ、気持ちいい方が絶対いいじゃないか!﹂
﹁そうだけど。昼寝用の枕とか、ブランケットとか、妙なところで
こだわってるし﹂
﹁妥協は許しません! もふもふとふわふわは正義です! 気持ち
いいのは幸せだしね﹂
﹁そういうもの?﹂
﹁そういうものです!﹂
357
肌触りって大事だと思うわけですよ。
気持ちいいとうっとりしてリラックスできるし。
﹁すごく気に入ったから、疾風にも同じものをと思ってね﹂
﹁そっか﹂
嬉しそうに笑ってくれるから、贈った甲斐があったというものだ。
こういうプレゼントって自己満足かもしれないけど。
気に入ってもらえたら、本当に嬉しいものだ。
﹁年末は、疾風も忙しいのだろう? 無理に顔を出さなくても大丈
夫だから。私も家から出る予定はないし﹂
﹁いいのか?﹂
﹁兄も姉も皆、家にいるのに、私が外に出られるわけがないだろう
? ものすごい重さの子泣き爺になりそうな蘇芳兄上がいるし﹂
﹁⋮⋮蘇芳様は相変わらずか﹂
﹁深雪義姉様と仲が良いのはいいことだけれど、2人して構ってこ
られるからなぁ⋮⋮﹂
深雪義姉様は蘇芳兄上のお嫁さんで、小柄で可愛らしい方なのだ
が、小さな見た目と違ってパワフルだ。
ぽややんとした印象とは異なり、全力で私に構ってくださる。
そこが蘇芳兄上の気に入ったツボだったと後から聞いたが。
﹁ま、頑張れ﹂
笑う疾風と一緒に車に乗り込み、学校を後にした。
****************
﹁さあ、瑞姫! 左腕の鍛錬よーっ!!﹂
﹁ちゃんとボウルを支えてあげるから、頑張りなさい!﹂
358
冬休みが始まり、今年は平穏に新年を迎えられるだろうと思って
いた矢先、人型台風が襲撃した。
﹁や。左腕って⋮⋮右腕、使えるようになってますよ、私﹂
むしろ、右腕の鍛錬をさせてくださいと茉莉姉上に言う。
﹁わかってないわね、瑞姫。あなたの右腕は詳しく知らない人間か
ら見れば、立派な弱点よ。そうして、左手一本で何ができると侮ら
れるわ。だからこそ、その左腕一本で返り討ちにしてみせるのよ!﹂
拳を握り、突き上げての茉莉姉上の宣言に、私は溜息を漏らす。
﹁いや、戦うつもりはありませんので﹂
﹁人生は常に戦いよ。戦いに負ければ、そこで終わりなの。あなた
も諦めずに最後の最後まで全力で戦いなさい。例え、相手が雑兵や
小者であっても﹂
﹁そうよ。茉莉姉さんの言うとおり! 瑞姫は左腕をきっちり鍛え
上げなさい。右腕も、ちゃんとリハビリしてるのなら、そうそう衰
えすぎることはないのだし﹂
﹁左腕もきちんと鍛えてますよ、私は!﹂
それこそ、右腕が二度と使えなくなるのではないかという恐怖と
戦いながら、ちゃんと左腕の訓練はしましたとも。
万年筆を持って文字を書く練習をしたし、お箸もちゃんと持てる
ようになったし。
文字を書くだけなら、シャープペンで練習すればそれなりに読め
るようになった。
だけど、余計な力が入ってしまうので、わざと万年筆で練習する
ようになったのだ。
万年筆は余計な力が入っていれば、インクが掠れて書けなかった
り、滲んだりして読みづらくなる。
お箸の訓練も、正しい握り方を基礎からきっちりやったあとに、
豆を挟んで並べたり、米粒を摘まんで移動させたりと、実にイライ
ラするリハビリをやりました。
そのおかげで、左手でも不自由なく大体の事ができるようになっ
359
たし。
まあ、やはり、力加減は右側の方が上手くいくけれど。
﹁裏ごしを馬鹿にしちゃいけないわ、瑞姫。力任せにすればいいっ
てものじゃないの。絶妙な力加減で繰り返しすることが、滑らかな
舌触りの裏ごしを仕上げることになるのよ﹂
﹁⋮⋮⋮⋮はあ﹂
真面目な表情で言っているけれど、絶対、私で遊ぼうとしている
な。
﹁特に栗きんとんは、お節料理の中でも人気が高いの! 丁寧に美
味しく仕上げなきゃ﹂
基礎だけど、大事なお仕事なのよーと訴えてくる姉2人に、ちょ
っと呆れてしまう。
この人たち、見た目や性格はかなりギャップがあるけれど、料理
の腕前は予想に反してかなり上手だ。
普段は絶対にしないけれど、こういう時はその実力をしっかり発
揮している。
ただ、2人揃って非常にお遊びが好きなのだ。
﹁茉莉、菊花! 食べ物と瑞姫で遊ばないのよ﹂
はしゃぐ2人に母が釘をさす。
﹁はーい! 食べ物は無駄にしませんから﹂
否定しなかったぞ。
私で遊んでいたのか、やっぱり。
﹁瑞姫。疲れたのなら無理をせず休みなさい。料理はその時の気分
で味が決まりますからね。疲れて楽しくない時は、我慢ぜずにやめ
なさい。料理を召し上がる方に対して失礼ですからね﹂
﹁はい、母様﹂
思わぬ母の一言に、素直に頷く。
そうか。
料理って、食べる人のために作るから、義務感だけで作っちゃダ
メなんだ。
360
当たり前のことに気付かされて、苦笑する。
昔は、単に自分が食べるためだけに作ってたから、そんなこと全
然考えなかったしな。
特にうちの御節は、振る舞い料理だから余計にそうなんだろう。
そう思いながら、真面目に裏ごしに励みました。
結果、見事に筋肉痛になりました。
何故背中がこわるのか、ちょっと不思議です。
361
44
傍から見ても御節作りは大変だと思っていたけれど、実際手伝っ
てみて、本当に大変だと実感した。
美味しい料理でないといけないから、絶対に殺気立っちゃダメな
んだけど、戦場のごとき忙しさってこーゆーのだろうと思わせるほ
どに秒刻みで動かないといけない。
総監督であり、自ら率先して働いている御祖母様の動きの優雅な
こと。
総蒔絵の御重箱に出来上がった料理を詰めていく様子は、本当に
楽しそうだ。
新年のご挨拶に来てくださった方に召し上がっていただく御重な
ので、味はもちろんだけれど、見た目もさらに重視される。
それぞれの御重に入るものはしきたり通りだけれど、どのように
飾るかは、その時々で変えるのだそうだ。
毎年来てくださる方に、毎年同じ飾り方では失礼だし、厭きてし
まわれるだろう、確かに。
私たちもお土産用のお持ち帰り御重に御祖母様のお手本を真似し
て詰めていく。
入れるのはいいのだが、問題は蓋がきちんと納まるかということ
だ。
空気に触れてしまえば、せっかくのお料理のお味が落ちてしまう。
御重もプラスチック材ではなく木箱だ。
作りがきちんとしていれば、何度でも使ってもらえるし、捨てる
時も焼却ゴミになるか、再利用できる資源として扱ってもらえるか
らだそうだ。
当主夫人というのは、そういう細やかな部分もきちんと心配りし
ないといけないのか。
362
他人事のように大変だなと思ってしまう。
まあ、実際、嫁にいこうがいくまいが、この部分は瑞姫の仕事で
はないから、気が楽だ。
この飾りつけのところで、ひとつお仕事をもらって嬉しかったの
が、ピックのデザインを任されたこと。
銀杏や甘露煮などを取り易いように竹楊枝を差しているのだが、
その楊枝の柄に少しばかり洒落っ気を出したいと御祖母様が仰って、
お正月らしいおめでたい模様を調べてデザインしてみた。
オーソドックスな扇とか、干支やかるたなどもあれば、反物や松
竹梅などもある。
家族内採用なピックは、御祖父様や父の顔をデフォルメしたもの
だ。
これは自分専用のものとひと目でわかるので、家族全員分作った
らと大笑いした茉莉姉上に言われた。
次回からは、先にデザインして、うちの注文を受けている職人さ
んに作ってもらおうかという話も出た。
なんにせよ、私でも役に立てることがあるというのは嬉しいこと
だ。
お持ち帰り用の御重に蓋を乗せ、きちんと納まったら、ポリ系の
シートで包み、汁零れがないように確認した後、相良家の家紋が入
った風呂敷に包んでいく。
手触りからすると、やはり絹だろうか。
あまり深くは考えないことにしよう。
家紋は長剣梅鉢の方だ。
六つ瓜に七つ引もうちの家紋。
2つ家紋があるのです。
使ってた時代が違うだけで。
本来の家紋が長剣梅鉢の方で、戦国以降に六つ瓜に七つ引になっ
たんだそうだ。
これに女紋といって、嫁いだ夫人の紋が加わるので、相良家の娘
363
たちが使う紋は複雑怪奇になる。
娘が一人だったら、母親の紋を受け継げばいいんだけど、複数人、
必ずいるので、区別をするために祖母や曾祖母、あるいは数代前の
方の紋を受け継ぐことになるのも珍しくはない。
茉莉姉上は、母の揚羽蝶の紋を受け継ぎ、菊花姉上は下り藤の紋
だ。
これは三代前の当主夫人の紋ということだ。
私は御祖母様の丸に中陰唐団扇の紋だ。
丸の中にお相撲の行司さんが持つ軍配のような紋が入っている珍
しいものだ。
御祖母様は相良の分家である西家から嫁いでこられたので、西家
の家紋だということだ。
ちなみに、私と御祖母様の区別は、相良家の家紋の隣に同じ大き
さの紋が並ぶと御祖母様、小さな紋であれば私となる。
嫁いできた方と、その家で生まれた娘との違いなのだそうだ。
他の家でも同じことをしているのかは、さすがにわからない。
これは我が家独特のしきたりのようだとは聞いているが。
何とか御重の準備が終わったころ、分家の方々が遠方から年跨ぎ
の挨拶に来られる。
大晦日に来て、元日の挨拶が終わったら、三箇日まで本家の手伝
いをしてくれるのだ。
﹁こまかひいさん、元気ぃしちょったんかの?﹂
分家筆頭の大叔父が御祖父様への挨拶を終えて、庫裡に顔を出す。
﹁あ。大叔父様、お久しぶりです。この通り、元気ですよ。大叔父
様もお変わりなく?﹂
祖父の弟で分家に移った大叔父は、かつての領地にある本家の家
を管理している方だ。
南九州であるせいか、あちらに住んでいる分家の方たちはのんび
りした性格の方が多い。
364
だが、情が強いため、一度怒らせると決して相手を許さない苛烈
さも持ち合わせている。
年に何度も顔を合わせているので、向こうの方言を聞き慣れてし
まい、私も普通に使って、時々皆に笑われることがある。
片付けることをなおすとか言ってしまうのだ。
筋肉痛などの凝りをこわるというのも方言だ。
どうにも可愛らしい表現に聞こえるようだ。
﹃こまかひいさん﹄というのは﹃小さい姫様﹄という意味だ。
﹃こまか﹄というのは﹃小さい﹄という意味と﹃若い・幼い・年
下﹄という意味も含まれている。
現在、本家で一番年若い女子という意味で私のことをそう言うの
だそうだ。
蘇芳兄上のところに子供ができたら、この呼び名はその子に移る
はずだ⋮⋮と、思う。うん、そうなればいい。
幼い頃から、﹃ひいさん﹄と呼ばれているので、﹃姫君﹄とか﹃
お姫様﹄と呼ばれるとちょっと抵抗を感じてしまう。
それこそ4歳までは、﹃ひいなさん﹄と呼ばれていた。
﹃雛様﹄という意味で、無事に育つようにという意味が込められ
ているらしい。
そこの頃までは、家族以外から名前を呼ばれたことがなかったと、
記憶している。
実にかすかな記憶だが。
﹁うんうん。元気にしとうよ。元気んなかのは川のほうやけど。水
かさのうて、いろいろ問題やて﹂
﹁川が? ああ、大事な観光資源ですもんね。急流で清流ですから﹂
﹁ほうかて若いもんが色々と考えちょうとが、一時のもんやし。ダ
ムさぁ、こさえるけんがいかんがね﹂
難しい表情になって、大叔父が唸る。
ああ。そのことを御祖父様に相談しに来たんだな、今回は。
地元の事で問題が上がれば、自治体やその上の関係機関への調整
365
をお願いしに来るのが大叔父のお仕事のひとつだ。
大叔父が地元にいるので御祖父様も安心してこちらでお仕事がで
きると仰っていた。
﹁ダム、ですか﹂
﹁ああええ。御上や学者先生方が気張ってダムさぁ、こしらえたん
はええが。わっちら、むかぁしからあの川さ、つきおうとうんじゃ
けん、あのままがよかぁさ﹂
ああ、なるほど。
急流でたまに氾濫する川を治水しようと上流側にダムを作ったら、
色々と問題が起こったわけか。
昔から氾濫する川だと知っているから、周辺に住宅を作らなかっ
たり、人工的に支流を作って多すぎる水を他へ流して水量を調整し
たりとかしていたのに、ダムができたせいでそこらへんがうまく機
能しなくなってきたのか。
急流で清流ということであれば、清流の女王である鮎が豊富で味
も良いと評判になる。
それを目当てに観光客が来るわけで。
まあ、温泉や焼酎蔵なんていうのもあるんだけど。
その鮎が取れなくなってきたら、地元としては死活問題だ。
あそこで食べた鮎のせごしは絶品だった。
珍味のうるかも美味である。
早く焼酎を片手に味わえる日が来ないかと日々うっとりして待っ
ているのだ。
あと5年の辛抱だけど。
3月生まれなので、まだまだ先だ。ああ、待ち遠しい。
﹁今年は私、お節料理のお手伝いしたんですよ﹂
﹁なんばこさえたんかいね?﹂
﹁栗きんとんの裏ごしと、真薯のうらごしとまるめたの。あと、盛
366
り付けも﹂
﹁そりゃ、大事したね。なら、きんとんはようけ味わって食べんと
いかんばいね﹂
にこにこと人の好さそうな笑みを浮かべて大きく頷く大叔父。
親戚の中でも特に私を可愛がってくれているので、ちょこっとし
たことでも大げさに驚いたり、喜んだりしてくれる。
つまり、私が大怪我した時に大激怒したのはこの大叔父なのだ。
多分、諏訪家が一番怖がっているのもこの人だろう。
諏訪家の斗織様に当主の資格なしと会うなり一喝したのだから。
私が瀕死の怪我を負った直接の原因は詩織様をさらおうとした犯
人が車で撥ねたせいだが、そもそもの原因が分家当主の多額の負債
だ。
浪費癖のある男を分家の婿養子に据え、それを事件が起こるまで
知らなかった本家当主があっていいものかと、当主の役目を何と心
得るかと怒鳴ったのだ。
確かに大叔父の言うことにも一理ある。
本家当主は分家を管理するのも当然の役目だ。
斗織様がきっちり管理してさえいれば、事件そのものが全く起こ
らなかったと考えれば、犯人よりも諏訪家憎しのうちの分家の考え
方もある意味理解できる。
おこってしまったものは仕方がないことだし、私は私がやれるこ
とをするしかないので、大人たちの対応はそれぞれに任せるしかな
いのだが。
﹁たくさん作ったから、いっぱい食べてね﹂
﹁ひいさんは、ほんなこつあいらしかな﹂
上機嫌で大叔父は私の頭を撫で倒して、御祖母様にも簡単に挨拶
した後、客間の方へと去って行った。
﹁⋮⋮⋮⋮⋮⋮鬼の寿一が、見た? あのデレよう!?﹂
﹁私たちには厳しいのに、何で瑞姫には大甘なのよ、あの人は! て、いうか、ホントにあれが鬼の寿一!?﹂
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茉莉姉上と菊花姉上が顔を見合わせて、大叔父の態度について話
し合っている。
大叔父の名前は、相良寿一だ。
﹃鬼の寿一﹄と呼ばれるように、自分にも他人にも厳しい人だそ
うだ。
私にも八雲兄にも、先程のように人の好い好々爺然とした態度で
接してくれるので、全然怖い人だと思ったことはないが。
﹁まぁ、仕方ないか。瑞姫だもんね﹂
﹁そうよね。瑞姫だもん、当たり前か﹂
私を見た姉たちが、妙に納得してしまった。
ここでは、末っ子マジックが妙な方向に転がっているような気が
するのだが、気のせいだろうか。
﹁ほらほら、あなたたち。これからお仕事が待ってるわよ。ちゃん
と身支度を整えて!﹂
御祖母様がチェックをし終え、姉たちに声を掛ける。
﹁瑞姫はちゃんと暖かくしてもう休みなさい﹂
いくら本家の娘といえど、未成年に割り振られる仕事は少ない。
これから姉たちは、祖父母や両親、兄たちと、年末年始の挨拶に
来る親族たちを出迎える仕事が待っている。
夜間業務は子供に振り分けるつもりはないと、きっちりしている。
遅くまで別棟の電気が点いていたら、夜更かしするなと怒られる
ほどだ。
﹁はい、御祖母様﹂
ここは素直に頷いて、部屋に戻るのが得策だ。
成人すれば、否応なしに姉たちと一緒にお出迎えの仕事が待って
いるのだから、それまではのんびりさせてもらおう。
それか、昼間にきっちり働けばいいことだ。
﹁瑞姫、ネットもほどほどにね﹂
菊花姉上が、釘を刺してくる。
﹁疾風にメールするのは!?﹂
368
バレてるけど、これだけは譲れない。
﹁疾風かぁ⋮⋮まぁ、あの子なら仕方ないわね。あんまり長いこと
メール打って、迷惑かけないのよ﹂
﹁うん!﹂
疾風にだけは必ず近況報告をするためにメールを入れている。
﹁あ。さっちゃんは?﹂
颯希も最近は頻繁にメールをするようになっている。
明日も、2人揃ってうちに来ることだろう。
﹁颯希もまだ小さいんだから、返事は明日って書いて送るのならい
いわ。じゃないと、あの心配性は返事がなければ電話しそうだしね
ぇ﹂
あはははは。菊花姉上、鋭いです。
一度、颯希にメールした後、寝落ちして、返信メールに気付かな
かったら、返事がないと颯希が岡部で大騒ぎしたことがあるらしい。
本家に電話するとか、自分が会いに行って確かめるとか言ってパ
ニック起こしている颯希に、疾風が叱りつけたそうだ。
時間的に考えて眠っている私を起こす気かと。
それで私が眠っているかもしれないということにようやく気付い
た颯希は、落ち着いたそうだ。
主大事な性格は好ましいが、もう少し余裕がないと困ると疾風が
ぼやいていた。
眠ってしまった私が悪いんだけど。
﹁あ⋮⋮うん。そうします。じゃあ、おやすみなさい﹂
そう言って、別棟の方へ引き上げる。
部屋に戻って疾風と颯希にメールを入れた後、明日着る着物を出
し、帯を合わせて気付く。
﹁あ。しまった! 帯結ぶの手伝ってって言うの、忘れてた⋮⋮﹂
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まあ、何とかなるか。
三箇日は、晴れるといいな。
別棟の灯りを消し、ベッドにもぐりこんだ私は、昼間の疲れから、
あっさりと眠りに落ちた。
370
45
元日の朝は、穏やかな晴天だった。
心地良い爽やかな目覚めの後、身支度を手早く整える。
母は一般家庭からの輿入れだったので、乳母もばあやもいません。
自分の事は自分でやるという質実剛健な家だしね。
名家、旧家には執事や家令がいるというイメージが強いようだが、
英国ではあるまいし、日本の旧家で執事を雇うところはそう多くな
い。
元々執事という制度がなかったせいだ。
勿論、家令がいる家は割とある。
こちらは制度としてあったせいだ。
文官武官、両方を輩出していた家だけに、相良家は極度に身の回
りの世話をされることを厭う傾向がある。
戦場で寝首をかかれないためだ。
岡部家は家臣で、一蓮托生の随身の家系であるため、傍に置くこ
とに躊躇いはないが、他の者だとまず信用しない。
領地・領民を守るために、周囲の状況を見極め、時に上司を裏切
り、仲間を裏切り、敵を味方に引き入れ生き延びてきたからだ。
周囲に強国があるための、弱小国の宿命と言えないこともない。
どんなことをしても領地と民を侵されることだけは赦すわけには
いかなかったからだ。
今はそんなことはないとわかっていても、DNAに刻まれている
のか、岡部の人間以外に世話を焼かれることは、思っている以上に
苦痛だった。
371
だからこそ、自分の事は自分でやるという、旧名家にあるまじき
独立独歩な気質が叩き込まれている。
帯を結び、姿見で確認する。
晴れ着とはいえ、振袖ではない。
長すぎる袖は邪魔だ。
料理を取り分けたりといったお仕事が待っているのだから。
﹁よし! 行くか﹂
まずは家長に新年の挨拶をしてから、両親、兄姉の順で挨拶して、
庫裡の仕事を手伝って、それから分家の皆さんの挨拶を受けつつ、
席に案内して、と。
本日のお仕事を確認しながら、別棟から本邸へと移動する。
祖父がいるであろう書院へ向かい、声を掛ける。
﹁⋮⋮御祖父様、瑞姫です﹂
﹁はいりなさい﹂
襖の向こうから祖父の声が聞こえる。
﹁失礼いたします﹂
所作通りに襖を開け、中に入り、襖を閉めてその場で手をついて
一礼する。
﹁こちらに来なさい﹂
﹁はい﹂
手招きされて、少しだけ近づく。
そこで新年の挨拶を告げる。
毎年行われる型通りの言葉に、祖父は目を細めてこちらを見てい
る。
﹁瑞姫、寒うはないか?﹂
傷を気遣っての言葉を掛ける祖父に、私は頷く。
﹁はい、大丈夫です﹂
372
﹁そうか。今日は身内だけだ。皆、おまえのことを案じているから、
その姿が辛ければ楽な格好に改めても咎めぬぞ﹂
﹁ありがとうございます。辛くなれば、我慢せずに着替えます﹂
あらかじめ許可しておけば、私が気兼ねなく着替えるだろうと思
ってのことだろう。
意地っ張りな性格を読まれている。
﹁今年一年、無理なく励め﹂
﹁はい﹂
祖父からの言葉に、頭を下げる。
家長への挨拶はこれで終わりだ。
静かに部屋を退出して、祖母と両親がいる部屋へと向かった。
純和風武家屋敷にそれがあるというのも変な感じだが、子供部屋
と呼ばれる南側に面した座敷がある。
庭に面した縁側には雪見障子が設えられ、明かりを得やすいよう
に考えられている。
この部屋の雪見障子や障子にはめ込んである硝子、畳も、幼い頃
に何度も取り替えられていた。
元気いっぱい、遊びたい盛りだった蘇芳兄上が暴れまわって、壊
しまくったせいだ。
この部屋だけでなく、ピアノ室まで壊したため、蘇芳兄上には壮
絶な罰が下されたと聞いたことがある。
だが、私は知っている。
子供部屋の障子が叩き割られたうちの半分の犯人は八雲兄上であ
るということを。
年が近いので、一番下の私の面倒を見ていたのは八雲兄上だった。
当時から超弩級のシスコンであった八雲兄上は、この部屋で私の
面倒を甲斐甲斐しく見てくれていた。
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大して癇癪も起こさず、何が楽しいのか、常にきゃっきゃと笑う
私の面倒を飽きもせずに見ていた八雲兄上は、この部屋で暴れる蘇
芳兄上が実は大嫌いだった。
理由は、私が強がって泣くからだそうだ。
手加減なしに暴れる蘇芳兄上が鬱陶しくなると、八雲兄上は問答
無用で実の兄を蹴り飛ばしていた。
これが、障子が壊れる理由である。
普段は大人しく聞き分けの良い子供である八雲兄上が、暴れん坊
の蘇芳兄上を蹴り飛ばすなど、当時、大人たちは想像すらしていな
かったのだろう。
したがって、子供部屋が荒らされた原因のすべては蘇芳兄上にな
ってしまっていた。
例え、蘇芳兄上が八雲兄上がやったと言ったとしても、姉上たち
が八雲兄上の味方になるので、結局怒られるのは蘇芳兄上なのだ。
多少蘇芳兄上が不憫だと思わないでもないが、自業自得の感は多
分にある。
両親たちへの挨拶が終わったら、子供部屋へと足を運ぶ。
本当はひとりひとりの部屋に挨拶に行くのが礼儀なのだろうが、
多分、皆、子供部屋の方へ集まっているはずだ。
確かあの部屋は掘りごたつだったはずだ。
夏場は畳敷きになっているが、冬になると畳を外して掘りごたつ
へと姿を変える。
実に趣のある部屋だ。
渋く囲炉裏でもいいが、囲炉裏がある部屋は庫裡の隣の座敷だけ
だ。
声を掛け、襖を開ければ、中にはすでに兄姉たちの姿がある。
﹁あけましておめでとうございます﹂
祖父母や両親の時のようにきっちりとした挨拶ではなく、略式で
挨拶すると、兄や姉たちも笑って挨拶を返してくれる。
374
﹁今年は、瑞姫も高2になるのよねー。進路、決める時期になった
わけだ﹂
しみじみとした表情で菊花姉上が告げる。
﹁八雲も法曹の試験、現役合格だって? 弁護士になるつもりなの
?﹂
﹁概ね、そのつもりです。まだ、勉強しなければならないことも多
いですし⋮⋮どこか、弁護士事務所に就職できればいいのですが﹂
﹁自分で事務所構えるつもりじゃないんだ?﹂
﹁この世界、そう甘いものではないんですよ。経験値を積むことが
最重要課題です﹂
﹁そっか。ちゃんと考えてるんだねー⋮⋮瑞姫は? このまま、デ
ザイナーになるつもりなの?﹂
にこにこと菊花姉上が問いかけてくる。
﹁いえ。しばらくはデザイナーを続けますが、学びたいこと、職業
にしたいものは別のものなので。疾風にもまだ相談していませんし﹂
﹁まだ相談してないの? 何故?﹂
茉莉姉上も、兄たちも不思議そうにこちらを見ている。
﹁どの大学のどの学部に行って、何を学ぶのか、まだしっかりとし
たビジョンがなくて。説得するだけの材料がないから﹂
﹁そうね。デザイナーなら、瑞姫にかかる負担は少ないだろうと疾
風が考えてるのはわかってるものね﹂
﹁私のも、国家資格だし⋮⋮就職先とかも考えないといけないんだ
ろうと思ってるし﹂
﹁それでも、その仕事につきたいのね?﹂
﹁はい﹂
﹁じゃ、頑張んなさいな。可愛いお嫁さんが許される家じゃないし
ね、うちは﹂
﹃役に立つこと﹄が課せられた家で、花嫁修業をしていればいい
なんてことは許されない。
そう言って笑った菊花姉上は、八雲兄上に視線を向ける。
375
﹁八雲もそのうち、彼女連れて来てよね﹂
﹁⋮⋮姉さんたちの婚約が調ったらですね﹂
その切り返し、危険なのでは!?
地雷、ぐりっと踏んづけそうなんだけど。
﹁言ってくれるわね! でも、冗談じゃないわよ。八雲ったら何で
も秘密主義なんだし﹂
ぷうっと頬を膨らませ、菊花姉上が言う。
﹁確かにね。初恋の相手とか、全然わからないし﹂
﹁⋮⋮隠してませんよ?﹂
茉莉姉上の言葉に、心外そうに八雲兄上が告げる。
﹁え?﹂
﹁ほら、ここに﹂
八雲兄上が、隣に座る私の頬をぷにっと摘まむ。
﹁う?﹂
﹁え!?﹂
ぷにぷにと突かれ、小動物を撫でるかのように指先で私の頬を辿
る。
﹁まさか﹂
﹁ええ、そのまさかです。納得できるでしょう? こんなに可愛い
生物、他にはいないですし﹂
にこやかに告げる八雲兄上。
﹁ひゃっ! あにうえ!! くすぐったいです﹂
﹁ああ、ごめん、ごめん﹂
くすくす笑いながら、八雲兄上が私の頭を撫でる。
﹁瑞姫がようやく喋れるようになったころに、僕のことを﹃にーに﹄
と呼んでくれた時に、射抜かれましたねぇ。何コレ、この可愛い生
物は! とね﹂
﹁⋮⋮昔っから劇甘に大甘なのは、そーゆーことだったの!?﹂
菊花姉上が声を上げる。
﹁隠してないでしょう?﹂
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﹁いや、隠してないけど、奨励しないわよ﹂
﹁いやだなぁ。分別はありますよ。瑞姫は可愛い妹ですって﹂
笑顔のまま、八雲兄上は頷いている。
﹁シスコンも充分に変態なので、分別という言葉に対して謝ってく
ださい!﹂
ぎょっとした私は、ばしばしと八雲兄上の腕を叩いてみる。
﹁はいはい、そこまで。そろそろ広間の方へ行くわよ﹂
茉莉姉上の言葉に、抗議をとりあえず飲み込んだ私は、ゆっくり
と立ち上がる。
賑やかな三箇日になりそうだ。
377
46
新年2日目になると、あちらこちらから挨拶に来られる。
本日のお仕事は、案内係だ。
分家の従姉妹たちに交じって、お客様を案内する。
一番難しいのは、お客様をお待たせしないことなんだよねー。
こればかりは挨拶を受ける祖父や父の手腕なんだけど。
﹁瑞姫さん、岡部家の皆様が⋮⋮﹂
菊花姉上のところにお客様を案内して、玄関に戻ろうとしたとこ
ろへ声を掛けられる。
﹁はい、今いきます!﹂
疾風たちが来たのか。
裾が乱れないように気をつけながら、なるべく早く歩く。
﹁⋮⋮あ﹂
﹁これは、瑞姫お嬢様﹂
玄関からちょうど上がってこられた岡部のおじさま⋮⋮つまり、
疾風のお父さんだった。
﹁岡部のおじさま、あけましておめでとうございます。寒い中、よ
うこそおいでくださいました﹂
端に寄り、膝をついて挨拶をする。
﹁あけましておめでとうございます、瑞姫お嬢様。これはまた、艶
やかなお姿ですな。お館様も次代様も目を細めておいででしょう。
うちの莫迦息子どもがご迷惑をおかけしておりませぬか?﹂
﹁いえ、疾風にも颯希にも助けてもらっています。本当にいつもあ
りがたいと思っているんですよ﹂
﹁そうですか。疾風も颯希も瑞姫お嬢様に差し上げましたので、存
分に扱き使ってください。それが、これらの為にもなるでしょう﹂
378
﹁ありがとうございます。祖父のところにご案内いたします﹂
正月だけに、いつもと違って形式ばった会話をしつつ、岡部家の
方々を御祖父様のところへと案内する。
御祖父様への挨拶が終わるまでは、他の方と気軽にお話はできな
いのだ。
家長が最優先だから。
御挨拶が終わって、広間の方へ案内したら、普段通りにお話がで
きる。
岡部家の皆様が来たら、私の案内係はお役御免だ。
そのまま岡部家のおもてなし係になるからだ。
本家の娘がもてなすことで、これまでと変わらず岡部家を大切な
家だと思っていることを示すのだそうだ。
それもしきたりなので、あまり深く考えたことはなかったが、お
客様を広間まで案内し、そこにいる一族の女性に託すと、あからさ
まに落胆の表情を浮かべるお客様が中にはいるので、それなりに意
味があることなのだろう。
祖父の居る部屋まで案内し、中で控えている大叔母に託すと、私
は廊下に座って待つ。
正座ができるようになったから、この役目も苦ではなくなった。
椅子に座る生活が主流になってきたとはいえ、やはり日本人は畳
の上に正座が一番だと思う。
藺草の香りがふわりとすると、ものすごく落ち着くし、和むのだ。
道場の畳はちょっと汗臭いけど。
あれ、定期的にちゃんと干してるのになぁ。
ちなみに私が座っている廊下も畳敷きだ。
本邸の廊下は板張りと畳敷きの2種類がある。
これは、一種の境界線のようなものだ。
ごく一般的なお客様だと、板張りの廊下までにある座敷にお通し
するけれど、お正月などの特別な場合と、大切なお客様は畳敷きの
廊下にある座敷へご案内するのだ。
379
もちろん、畳敷きの廊下に気付いて質問してくるお客様には笑顔
でスルーだ。
自分がどのランクの客なのか、知らない方が幸せというものだ。
岡部家の人間は当然ながらフリーパスだ。
どの部屋でも、自由に出入りできる。
まあ、個人使用の部屋であれば、当人の許可はとりあえず必要だ
けど。
私がいる別棟は1階部分はフリーパスで、2階以上は疾風と颯希
のみ自由に出入りできる。
一言声を掛けてもらえれば、全然構わないという程度なのだが、
一応、随身とそうでない岡部の人間とを区別しているだけだ。
のんびり考え事をしているうちに挨拶が終わったのだろう。
すっと襖が開き、大叔母が顔を見せ、小さく頷く。
それに頷き返し、私は立ち上がる。
﹁では、どうぞこちらへ。広間の方へご案内いたします﹂
にこやかな笑顔を作って、斜め前に立ち、案内係を務める。
そんなことをしなくても、場所は知ってるし、勝手に行っても大
丈夫な人たちなんだけど、他のお客様の手前もあるし。
でも、何だか不思議な感じがする。
岡部のおじさまは通常運転で穏やかに微笑んでいるけど、疾風の
お母さんであるおばさまは微笑ましそうに私を見つめている。
疾風の2人のお兄さんは、にこにこと、それはもうイイ笑顔で私
を見ているし、疾風はどういう表情をしたらいいのかわからないと
いった風によそ見している。
颯希はじいっと何故か、私の帯を見ていた。
何故、帯!?
形、崩れてないけど。
ちょっと気になるところだが、お仕事中なので、広間についたら
聞いてみよう。
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広間につき、中へ入る。
岡部家の方々の席は、下座のお客さま方とは違い、きちんと席が
決まっている。
不慣れな私でも、席次は覚えているので案内は楽だ。
もちろん、毎年同じ席なので、彼ら自身、どの席かを知っている
というのもあるのだが。
中で給仕を手伝ってくれている分家筋の女性たちが、おしぼりや
ら飲み物の準備を整え、慣れた様子で配っていく。
﹁ささやかではございますが、どうぞお召し上がりくださいませ﹂
準備が整ったら、今日足を運んでいただいたお礼と、料理を勧め
る口上を述べて、本日のお仕事終わり。
はふっと息を吐いたら、皆に笑われた。
﹁お嬢、可愛いー! 八雲が萌え萌えしてたんじゃない?﹂
颯馬さんがくつくつと笑いながら言う。
﹁⋮⋮萌え萌えって⋮⋮﹂
﹁あの妹馬鹿、スマホにお嬢の写真集つくってるんだよ? お嬢に
会えないとずーっとスマホ眺めてんの﹂
﹁それはイヤ! 颯馬さん、私が許します。その写真、消去でお願
いします。出来れば、スマホに入ってる私の写真、全部消しちゃっ
てください。肖像権の侵害です!﹂
﹁だよねー。それは、やっちゃうけど。多分、データのコピー、取
ってると思うよ? 用意周到で執念深い性質だから﹂
自分の写真が、兄とはいえ他の人のスマホにあるなんてこと、と
てもじゃないが耐えられない。
八雲兄上に嫁の来てがあるか、心底心配になってきた。
﹁年が離れているから、可愛いんだよ。それに、その着物もよく似
合ってるし。帯の結び方も変わってて可愛いね﹂
伊吹さんが穏やかに笑う。
﹁瑞姫様、その帯、どうやって結んだんですか?﹂
381
伊吹さんの言葉に颯希が興味津々になって問いかけてくる。
そうか。帯の結び方が気になっていたのか。
﹁花結び。ふくら雀という帯の結び方の変形版。人の帯だったら結
べるけど、自分では無理だから、これは結んでもらったの。基本の
ふくら雀なら1人でも大丈夫なんだけど﹂
昨日は、文庫結びだったけど、今日はお客様のお相手をするから
と、華やかに見えるように姉たちに結んでもらったのだ。
もちろん今日は振袖だ。
﹁花結び⋮⋮﹂
颯希の表情からすると、これは帰ってから調べる気だな。
だけどね、いくら君が私の傍付きだからといって、着物の帯を結
べとは言わないからね。
そのぐらい、自分でやるから。
疾風にだってさせたことないんだからね。
﹁瑞姫、筋肉痛は大丈夫か?﹂
ずっと気になっていたのか、疾風が問いかけてくる。
﹁もう大丈夫! 治った﹂
﹁筋肉痛? 瑞姫ちゃん、筋肉痛って何をやったの?﹂
伊吹さんが心配そうに顔を覗き込んでくる。
岡部家の人たちも大概心配性だ。
世話好きな性格が多いため、こういったところでそれが遺憾なく
発揮される。
﹁左腕の鍛錬と銘打って、きんとんの裏ごしをさせられました﹂
心配されるより笑いを取ろう。
そう思って正直に告げれば、一瞬吹き出しそうになったものの、
とっさにそれを呑みこみ、微妙な表情になる。
うん、優しいなぁ。
うちの兄姉なら、長兄を除いて全員大爆笑だ。
﹁⋮⋮左腕⋮⋮そうですか。では、栗きんとんは心していただきま
しょう﹂
382
穏やかに微笑んだ岡部のおじさまが言う。
何故右腕を使わなかったのか、おじさまにはわかったらしい。
﹁お嬢、お嬢! 他には? 何を手伝ったの?﹂
颯馬さんが食べる気満々で問いかけてくる。
﹁真薯の裏ごしと、まるめたの。他には⋮⋮﹂
ローストビーフの紐掛けとか、海老の殻むきとか、初心者でも大
丈夫! 的な初お手伝いの中身を羅列していく。
栗の殻むきは、結構大変だった。
﹁⋮⋮お嬢、頑張ったね。確かに筋肉痛にもなるよ﹂
お手伝いの内容を聞いた颯馬さんがしみじみと言う。
労ってくれてありがとう。
美味しく食べてもらえたらもっと嬉しいです。
﹁では明日は、疾風を差し向けましょう﹂
おじさまがさらりとそう仰ったので、思わずおじさまを見て驚く。
三箇日だけでも家族と過ごすようにと、代々の取り決めで岡部の
者が主の許へ侍ることはない。
﹁ですが、おじさま⋮⋮﹂
﹁お館様の許可はいただいております。どうぞ、存分に使ってくだ
さい﹂
﹁⋮⋮助かります﹂
もう決まったことなのだと言われ、戸惑いながらも礼を言う。
彼らが何を警戒していたのか、それを知るのはかなりあとの事だ
った。
383
46︵後書き︶
アレルギー発作と風邪とを併発してしまいました。
明日の体調により更新をお休みするかもしれません。
384
47
3日目は、朝食時に祖父に今日は客人対応をしなくてもよいと言
われた。
何かしたっけか、私?
昨日1日を振り返り、失敗らしきことがなかったかをざっと思い
出してみたが、思い当たることはなかった。
﹁今日は岡部の者たちも入るから、手は間に合っている。瑞姫は部
屋で仕事をしているか、疾風と遊んでいなさい﹂
父からも言われ、盛大に首を捻る。
何か、おかしい。
私を表に出したくないみたいだ。
﹁何方がお見えになられる予定なのですか?﹂
私に来客対応をさせたくない相手が来るということなのかも。
そう思って、問いかければ、実にイイ笑顔が返ってきた。
﹁⋮⋮言いたくないということですか。わかりました。これ以上は
訊ねません。疾風と別棟で遊んでます﹂
ちょっとばかり拗ね加減で言えば、顔色を変えるのは兄たちだ。
﹁瑞姫! 時間が空いたら、何か持って遊びに行ってやるからな!
!﹂
蘇芳兄上がここぞとばかりに声を掛けてくる。
﹁蘇芳兄上は真面目にお仕事をしてください﹂
きっぱりと拒絶すれば、ショックを受けて固まる。
﹁瑞姫の様子なら、僕が見るから、兄上は心配なさらないでくださ
い﹂
﹁八雲兄上も結構です。もし、私の部屋に来られるというのなら、
まず、スマホの私の写真データをすべて消去してからにしてくださ
い。肖像権の侵害を訴えます﹂
385
﹁もしかして、それ、颯馬に聞いた!?﹂
愕然とした表情を浮かべた八雲兄が、心当たりの名前を告げる。
﹁私のニュースソースがひとつであるわけがないでしょう? 確認
を取れる方は複数名いらっしゃいます﹂
あれからちゃんと調べて確認を取ったのだ。
そして、犯人の1人を突き止めた。
﹁ごめーん、八雲! 頼まれて送ったデータがあるの、ばれちゃっ
た﹂
にこやかな笑みを浮かべた茉莉姉上が片手をあげて軽く謝罪する。
﹁茉莉姉さん!?﹂
﹁盗撮は犯罪です﹂
にっこりと笑って告げれば、茉莉姉上が首をすくめる。
﹁だって、瑞姫が怒ると怖いんだもの。分が悪いし﹂
おほほほほ。
理詰めで説教しましたとも。
ちゃんと刑法とか刑事訴訟法とか、民事訴訟法とかを調べて、裁
判の結果も調べて、淡々と説明しましたし。
医者が盗撮したとなったら、盗撮した中身にかかわらずどのよう
な噂が立って、どういう影響が出るかも想定して。
想像力を掻き立てられるように、丁寧にお話をさせていただきま
したとも。
だんだん顔色が悪くなっていく茉莉姉上の様子を無表情で眺めま
した。
﹁弁護士を目指す八雲兄上が、まさか犯罪履歴があるとなったら⋮
⋮﹂
﹁! ごめんなさい。すぐ消します!!﹂
本気でやるよ? と、にこやかに笑えば、八雲兄上は白旗を掲げ
た。
よし。勝った!
﹁本当に、あなたたちは仲がいいこと﹂
386
私たちのやり取りを眺めていた御祖母様が口許に手を添えておっ
とりと笑う。
﹁本当に平和ですわね﹂
母もにこやかな笑みを浮かべている。
そうか、これは仲が良いで済んじゃうレベルなのか。
﹁母様、お昼御飯、2人分確保したいのですが、よろしいでしょう
か?﹂
﹁ええいいわよ。御節も厭いたでしょう? 何か、簡単に作って持
って行ってあげましょうね﹂
﹁ありがとうございます!﹂
ラッキー!!
母の手料理って滅多に食べれないから、言ってみるものだ。
得した気分。
お行儀よく解散の合図を待って、それから部屋に戻った。
その日1日、別棟で大人しく過ごしました。
とりあえず何も問題は起こらず、平和だった。
そして、後から気づく。
どうせなら、道場に行く許可貰っておけばよかった。
かなりの時間潰しができたものを!
三箇日が終わると、日常が戻ってくる。
3学期が始まる前に定期検査を受ける予定になっている。
指定された日時に病院に行き、血液検査などを受ける。
炎症反応とかを調べるそうだ。
血液だけで、いろんなことわかるって不思議だなぁ。
検査の結果が出てから診察なので、時間がかかるのは仕方ない。
名前を呼ばれて診察室に入ると、PCの前に座った桧垣先生が穏
387
やかな笑顔で迎えてくれた。
﹁検査結果が出ましたけれど、特に問題なしですね。まぁ、ちょっ
と貧血気味だけど、これは深刻なレベルではないので、食事で気を
つければ十分かな﹂
お。炎症反応なしですか!
たまに引っ掛かるときもあるけど、これならしばらくは検査受け
なくて済むようだ。
﹁2学期の間は、皮膚が破れたりしなかった?﹂
2学期中も定期検査は受けていて何度も同じことを聞かれたな。
﹁⋮⋮そう言えば、夏休みに入る前の6月に1度、ちょっぴり破け
た後は全然⋮⋮快挙ですね!﹂
こんなに長い間、何もなかったのは初めてだ。
﹁大分、腕の皮膚も強くなってきつつあるようですね。でも、油断
してはいけませんよ?﹂
﹁はい。ストレス溜めないように気をつけます﹂
嬉しくてにこにこしていたら、傍に控えていた看護師さんたちも
良かったですねと言ってくれる。
﹁ありがとうございます。早いところ、面の皮並に腕の皮膚も厚く
なるといいんですけどねー﹂
しみじみとそう言ったら、我慢できなかったらしい看護師さんた
ちが吹き、笑い出す。
え? ココ、笑うとこ?
﹁瑞姫ちゃん、面の皮、厚いんだ?﹂
桧垣先生まで笑っている。
﹁え? 普通に厚いですよ? 笑顔貼り付けて、裏ではいろいろや
らないと余計なことを押し付けられちゃいますし﹂
﹁面白いよね、さすが、相良先生の妹さんだ﹂
それって、どういう評価でしょうか?
絶対、褒められてないよね。
茉莉姉上、病院で何やってるんですか、アナタ。
388
﹁さてと、次回の予約は3月で大丈夫ですね。春休みの予定はどう
なってるの? 都合のいい日にちはある?﹂
﹁春休みの予定は、勉強のみです。いつでも大丈夫ですので、先生
にお任せします﹂
﹁⋮⋮勉強って⋮⋮﹂
桧垣先生が微妙な表情になる。
﹁学生さんなんだから、勉強するのはいいことなんだけど。でもそ
れだけって⋮⋮﹂
﹁主席、取りたいじゃないですか。全科目制覇とか、全部満点とか
狙うのも楽しいですし。1人で勉強するんじゃなくて、友達も一緒
ですし﹂
﹁そうなのか。お友達も一緒なら、確かに勉強するのも楽しいね﹂
妥協点を見出したのか、無理やり納得したような表情で桧垣先生
は頷く。
﹁じゃあ、この日はどうかな?﹂
3月の予約状況を確認した桧垣先生が、カレンダーから日時を示
す。
﹁構いません﹂
﹁じゃあ、予約しておきますね﹂
PCの予約システムに私の名前を打ち込んでいく。
机の上にあるプリンタから予約票が印刷されて出て来た。
検査結果や受診票などと一緒に予約票も手渡される。
﹁会計受付の方へ行ってください。お大事に﹂
看護師さんが今日の診察は終わりだと告げる。
﹁はい。ありがとうございました﹂
﹁瑞姫さん、くれぐれも無理はしないようにね﹂
﹁はい。承知しました﹂
先生に念押しされてしまった。
そこまで信用ないのか、私!
診察室を出て、疾風と合流する。
389
﹁瑞姫、どうだった?﹂
﹁ばっちり! 腕の皮膚も厚くなってきてるって﹂
﹁そうか、よかったな﹂
結果を聞いて、疾風がホッとしたように笑う。
﹁あらあら。仲の良いご兄妹だこと﹂
診察を待っているらしい老婦人が微笑ましそうに私たちに声を掛
ける。
﹁優しいお兄様ですねぇ﹂
心配かけちゃだめよとおっとりと話すご婦人に、私も笑顔を返す。
﹁はい。では、失礼します﹂
軽く会釈をして、疾風を促し、受付に向かって歩き出す。
﹁疾風、お兄様だって?﹂
﹁う⋮⋮まぁ、誕生日は俺の方が早いし。兄と言えば、兄かもしれ
ないけど⋮⋮﹂
﹁顔、似てるかなぁ?﹂
同じ学年なのに、兄妹に見られたことを不思議に思いながらひた
すら歩く。
顔ではなく、仕種が似ていると指摘されるまで、私たちの間では
そのことが疑問として残っていた。
390
47︵後書き︶
症状があまり芳しくないため、明日より数日間、入院することにな
りました。
そのため、更新が数日間滞ります。
詳しくは活動報告に記しますので、そちらの方をご覧ください。
391
48
3学期が始まる。
久々の学園は、ひやりとした空気が漂っていた。
短い間とはいえ、人がいなかったせいだろう。
人が増えるたびに、学園内の空気が温かく解けていく。
この刻々と変わっていく空気を眺めるのが、私は好きだった。
人の気配がこうまで空気を変えるのかと、温かな驚きを感じるの
だ。
だから、始業日が一番好きだ。
お正月を暖かい海外で過ごしてた方から大量のお土産をいただく。
実にありがたい。
そして、すみませぬ。
うちは日本から移動しないので、お渡しできるものがないのです
よ。
大叔父に頼んで、地元の特産品でも送ってもらうか?
焼酎が送られてきそうな気がするから駄目だ。
うん、焼酎最中も駄目だ。美味しいけど、アルコール少し入って
るし。
キジ車とか花手箱なんかはいいかも。
本来は子供のおもちゃなんだそうだが、あれはすでに工芸品の域
に入ってるし。
椿のデザインが華やかで可愛らしいのだ。
そういえば、あのデザインで羽子板があるって言ってたな。
それも可愛いかも。
392
お土産くれるの女の子が多いしね。
帰ったら相談してみよう。
そんなことを考えながら、彼女たちのお土産話に相槌を打つ。
夏冬に海外脱出をしないせいで、私が海外に行ったことがないと
思っているお嬢さんも割と多いが、一応、行ったことはあるのです
よ?
七海さまに拉致られて、御祖母様と一緒にとかでイタリアやフラ
ンスあたりの劇場限定ですが。
なので、オペラ座の内装には詳しくなった。
歌舞伎もそうだけど、舞台装置とか見るのが楽しいんだよね。
御祖母様は歌舞伎もお好きなので、よくお供します。
歌舞伎の衣装は、生地が本当に素晴らしいものを使っているもの
が多くて、色の組み合わせとか、勉強になるし。
一生懸命にお土産話をしてくれるクラスメイト達を可愛いなぁと
思って眺めていたら、彼女たちがはたっと表情を改める。
﹁瑞姫様が聞き上手なので、ついつい話し込んでしまいましたけれ
ど、つまらなくありませんでした?﹂
﹁いいえ。とても興味深くお聞きしていますよ﹂
﹁わたくし、普段、ここまでお喋りじゃありませんのよ?﹂
一生懸命弁解する様子は、本当に可愛らしい。
﹁私に聞かせようと思って、話してくださっているんですよね﹂
わかっているとも。
にこにこ笑って聞いてくれる人には、熱弁を奮いたくなってしま
うしまうんだよね。
滾る気持ちを抑えきれずに語っちゃうんだよね。
﹁⋮⋮瑞姫様はずるいですわ﹂
頬を染め、拗ねたように告げるクラスメイト。
﹁おや、どうして?﹂
﹁つまらないことでも笑顔で聞いてくださるので、ついつい話し過
393
ぎてしまいますもの﹂
﹁つまらないことはないですよ。とても興味深いし、参考になりま
す﹂
特に、食べ物系の話はありがたいよね。
海外での食事って、気になるところだし。
私が海外に行くときは、殆ど七海さまが取り仕切っているのであ
まり自分の意見を言うことはないけれど、たまに、本当にたまに、
お願いしたいことがあるのだ。
七海さまはあの通り、茶目っ気たっぷりで冒険家なところがある
ので、気になったちょっと変わった料理を出すお店に私たちを連れ
ていくことがある。
一度、足を運んで気に入ったから、ということはまずない。
話を聞いて、ちょっと気になったから行ってみましょうよと、私
たちにまで冒険を課すのだ。
七海さま、お願いです。ゲテモノ系と呼ばれる料理を出すお店に
は私たちを連れて行かないでください。
精神的に食べれない料理というか、食材というのは、確かに存在
するのですから。
出された料理を食べないというのは、マナー違反なので頑張りま
すけど、胃と精神にダメージが与えられますので、食材だけは確認
してください。
まぁ、そういう時に、クラスメイト達から聞いたお店が私の助け
手になるのだ。
七海さまの気を逸らし、美味しい食事にありつくための。
ですから、皆さま、もっと詳しくたくさん聞かせてください。
わりと切実です。
始業式が始まるまでの間、教室でまったりと時間を潰す。
394
もうそろそろ放送が入るころだろうかと時計を見上げたとき、机
の横に誰かが立った。
見覚えのない顔の男子生徒だ、誰だろ?
ふと首を傾げ、目を瞠る。
見覚えがないわけがない。
充分あるだろう!?
諏訪伊織じゃないか。
随分と雰囲気が変わって、そのせいで顔立ちまで違っているよう
に見えたのかもしれない。
パーツは確かに、見覚えがある。
﹁休んでいなくて大丈夫なのか?﹂
こちらを気遣うような口調で見下ろしてくる諏訪の顔は、大人び
て見える。
﹁⋮⋮え?﹂
何のことだと首を傾げれば、わずかに諏訪が笑う。
﹁3日、両親がそちらへ挨拶に向かった。おまえに会わせてほしい
と頼んだら、休ませているからと断られたと言っていた﹂
﹁⋮⋮ああ。翌日が病院で検査があるので、疲れないように大事を
取っていたんだ﹂
﹁そうか。それなら、当然だな﹂
少しばかり嘲笑うような色が滲み出る。
﹁諏訪は来なかったのか?﹂
﹁⋮⋮行けるわけがない。両親のことは、止めたが、愚かなことに
大丈夫だと言って人の忠告を聞かずに出かけたがな。表面上、赦さ
れている態度を真に受け、本邸に伺うなど、我が親ながら、呆れて
しまったぞ。去年、どれだけのことを相良にやったのか、理解して
いないらしい﹂
去年の秋ごろから、諏訪に何があったのか。
今見る限りでは、色々削ぎ落とされて、シンプルになっていると
いう感じを受ける。
395
俺様なところは微妙に空気が残っているが、まあ、それがなくな
れば諏訪ではない気がするので、仕方がないところだが。
それ以外のところでは、常識的な判断を下している気がする。
相良の本邸に行けないと思うところとか、両親を止めたというと
ころとか。
表面上、赦されていると理解しているところも意外だった。
以前の諏訪なら、本当に許されているのだと思っていてもおかし
くはない。
﹁⋮⋮今、家を出て、先代⋮⋮祖父のところに身を寄せている。そ
こで、祖父に一から鍛え直してもらっている。今まで理解できなか
ったことが、少しずつわかりだした。己がどれほど愚かだったのか
も、情けないことにな﹂
﹁⋮⋮⋮⋮⋮⋮﹂
先代は、斗織様に家督を譲られて悠々自適のご隠居生活を送って
いるという話だが、諏訪家で一番恐ろしいのは先代であることは間
違いない。
今まで何も動かれなかったのは、ご自分の役目を決めておられた
からなのか。
諏訪老は、諏訪家を飛躍的に発展させた方だ。
名家としてはトップクラスの歴史を持つが、財閥としては中堅の
上といったところから大財閥へと押し上げた逸材で、財界には今で
も影響力を持っている。
もし、3年前の事件の時に諏訪老が指揮を執っていたら、今、こ
んなことにはなっていなかっただろう。
あの時、諏訪老が当主であったなら、そもそもあの事件すら起こ
らなかっただろうと簡単に想像できる。
それこそ陰で諏訪老は退陣の時期を誤ったとすら言われたほどに。
だがそれもif話だ。
すべては仮定であり、諏訪老が動かなかったことで相良が有利に
396
動けたということもある。
諏訪の面差しが変わったという理由には充分すぎるほどだ。
﹁己が愚かだとわかることは、本当に恐ろしく、そして恥ずかしい
ことだろう?﹂
ある程度、年を取れば、若い頃の己を思い返して黒歴史認定した
くなることがある。
薄っぺらい割にはやたら高額な本を大量に買い込んで鼻息荒く読
んでいたとか。
あの本、どうなったんだろう?
私が死んだあと、誰かに見つかってるだろうなぁ。
友人たちが察して引き取ってくれていると助かるが、親が遺品整
理で見つけたとしたら⋮⋮ごめんなさいとしか言えない。
それよりも、私の死因が事件性に関わることだとして、警察がマ
ンションを調べたらとか考えると、もういたたまれない。
死んでてよかったと別の意味で思ってしまう。
過去を憂いて思わず呟けば、意外そうに諏訪が目を瞠る。
﹁相良にもそう思うことがあるのか?﹂
﹁⋮⋮私を何だと思ってる? 完璧な人間などいない。自分が至ら
ぬ人間だと知っているからこそ、常に何が最良かを考えている。そ
れでも失敗して、己の愚かさに反省しているが﹂
﹁相良に迷うことなどないのかと思っていた﹂
﹁迷いはあるが、それを悟られてどうする? 迷う姿を見せれば、
時として信頼を失いかねないこともある。気弱な姿を見せれば、そ
こを攻められる。自分の為だけでなく、守らねばならないものの為
にも迷いない姿を見せ続けなければならない世界に生きているのだ
ろう。君も、私も﹂
﹁⋮⋮⋮⋮先代と同じことを言う。そうか。相良はそう考えて立っ
ているんだな﹂
諏訪の声に、驚き以外の別の色が滲む。
397
﹁俺が相良に追いつくのは、相当時間がかかるということだけはよ
くわかった﹂
追いつく?
何のことだろう。
何を考えている?
﹁いつか、必ずお前に追いつく。そして、その時、今までのこと全
てを謝罪する。そこから対等の関係を作り上げる﹂
淡々と決意表明をする諏訪。
ちょっと待て!
何のフラグだ、それは!?
ここでフラグを立てるつもりなら、﹃勝手にしろ﹄とか答えちゃ
うんだろうけど。
嫌だ。
それは絶対にいや。
フラグは立てたくないぞ。
﹁⋮⋮いつ、誰が、追いついたと判断するんだ?﹂
フラグは折るものだろう、絶対。
﹁それは⋮⋮﹂
﹁判断基準がないものを目標にしたところで、納得することはない。
そして、何の謝罪だ? 誰が受け入れればそれは終わると思ってい
るんだ?﹂
私は過去の記憶の残滓のようなものだ。
諏訪が本当に謝るべきは、瑞姫本人だ。
その瑞姫は、いない。
諏訪が答えようとしたその瞬間、放送を知らせる音が鳴り響く。
そうして、講堂へ集まるように指示する声が教室にいた生徒たち
を廊下へと促す。
私も立ち上がり、廊下へと向かう。
諏訪からの答えは、聞こえなかった。
398
48︵後書き︶
無事、退院してきました。
詳しくは活動報告に記しています。
入院中、PCも携帯も扱えないのが苦痛でした。
ノート持ち込んで下書きはしてましたけど︵笑︶
399
49
闇の中、戸惑うようにあたりを見回す迷子の女の子。
優しげな顔立ちは、心細げだ。
長い髪を揺らし、あちらこちらを見渡しては、おそるおそると足
を踏み出す。
進まなければならない。
その意志だけは感じ取れる。
もはや、それが使命となってしまった女の子。
何処に進むのか。
何をしたかったのか。
それすらもわからなくなっている。
ただ懸命に、前に進もうとしている少女に、声を掛けずにはいら
れなくなる。
瑞姫、こっちだ。
こちらにおいで。
反対側に行こうとする少女に思わず出た声。
その声に反応するかのように、少女は足を止めた。
︵誰? どこにいるの?︶
か細い声が応じる。
私は、もうひとりの君だ。
私は君が行きたい場所にいる。
だから、君は私の声がする方へ歩くんだ。
私の声に戸惑うように、少女は頭を廻らせる。
400
︵どの方向か、わからないの︶
あまりにも声が遠すぎるのか、方向を掴めない様子で迷子の女の
子は途方に暮れた声を出す。
わかった。
後ろを向いて。
そう、その方向だ。
真っ直ぐ、その方向に向かって歩いて。
慌てなくていい。
必ず辿り着けるから。
そう声を掛ければ、意を決したように少女が歩き出す。
ゆっくりと、だが、しっかりとした足取りで。
君が会いたい人達が、君を待っている。
だから、怖がる必要はない。
迷う必要もない。
必ず、皆と会えるから。
そう話しかけながら、急速に意識が白い光の中へと吸い込まれて
いく。
ああ、目覚めるんだなと、そう思いながら、私は光に身を委ねた。
***************
目が覚めると、ベッドの中だった。
401
﹁⋮⋮夢、か⋮⋮﹂
あまりにリアルな夢で、どこまで信用すべきか判断に困る。
瑞姫の意識が目覚めてくれるのなら、今、ここにいる私は必要な
くなる。
元々それを望んでいた。
トータルでいけばアラフォーだけれど、私の精神年齢は24歳の
ままで止まっている。
社会人としての記憶があるせいで、学生として過ごすことの違和
感は半端ない。
実に不自然な存在だ。
この身体は瑞姫のものだ。
そして、今、私が生きているこの人生も、瑞姫のものだ。
早く入れ替わらねば。
その前に、片付けなければならない問題もある。
3学期が始まって、新年の浮かれたムードが落ち着きを取り戻し
ても、短い学期のためどこか気の抜けた空気が漂っている。
2年になればクラス替えがある。
今のクラスメイト達ともあと少ししか一緒の時間がない。
そう思っているのか、皆でお茶会だとか、絵画鑑賞に行こうだと
か、声を掛けあっている姿が見受けられる。
私も声を掛けてもらっているが、何故か疾風が過敏なまでに反応
しているので、お断りしている状況だ。
以前とは違い、普段通りの生活も苦ではなくなっているし、私を
誘拐しようとか思う輩も少なくなっているだろうから、出歩いても
大丈夫だとは思うのだが。
登下校も颯希がぴったりと寄り添い、疾風が周囲を警戒している
ので、私に知らせずに何か問題を処理しようと思っているのかもし
402
れない。
こういう時、私の家族も岡部家も結託して、私をのけ者にしよう
とする。
危険から遠ざけたいという理由で無知を奨励するのは問題ありだ
と思う。
危険があるときは先に知らせておけと言っているにもかかわらず
にだ。
私が無謀な動きをして、警護の者を危険に曝す可能性を高めては
駄目だろうと、そう思うのだが。
その日、授業は午前中までだった。
家に戻り、着替えを済ませたところで疾風が別棟にいないことに
気が付いた。
﹁颯希、疾風は?﹂
そこに控えていた颯希に問いかければ、微妙に困ったような表情
になる。
﹁颯希!﹂
﹁⋮⋮兄は、瑞姫様宛の荷物を受け取りに行っています﹂
さらに促せば、渋々とした表情で答える。
﹁私宛の荷物?﹂
普通に考えて、おかしな話だ。
私宛に荷物が届くなど、滅多にある話ではない。
ましてやそれを疾風が受け取りに行くなど。
﹁颯希、ついておいで﹂
﹁瑞姫様!?﹂
﹁それから、ここに戻ってくるまで、決して私の名前を呼ばないこ
と﹂
﹁は、はい!﹂
嫌な予感というほどのことではないが、妙な気配がする。
後で叱られる覚悟で、それでも最低限の警戒をしていたという証
403
拠のために颯希を連れ、なおかつ名前を呼ばないことを約束させて
歩き出す。
ぴったりと、私の右側半歩遅れで颯希がついて歩く。
疾風から言われているのだろう。
私の弱点でもある右側を補い、なおかつ隣ではなく半歩遅れてつ
くようにと。
実際、そこの定位置は疾風のものだ。
その位置ならば、前でも後ろでもすぐに反応して動ける。
半歩遅れてついて歩くため、私と疾風が﹃王子と騎士﹄と言われ
ている理由だそうだ。
侍従なら半歩ではなく一歩遅れ、ついて歩くからと聞いた。
それが本当かどうかは侍従がいないため、確認しようがないが。
颯希を従え、玄関ではなく通用口へと向かう。
門から玄関までの距離がかなりあるため、客ではない限り通用口
から出入りするのが普通だ。
こちらの門は特に警備上、出入りのチェックがしやすく、有事に
対応しやすい。
念の為、スマホを取出し、敷地内の警備室を呼び出す。
﹁瑞姫です。今、私宛に荷物が届いているということで、岡部の者
が受け取りに行っているのですが、念の為、そちらの方へ向かって
もらえますか? ええ。2人ほどで構いません。はい、じゃ、よろ
しくお願いします﹂
用件だけ伝えると、すぐに切り、今度は疾風にメールを送る。
今からそちらに行くが、私の名前を呼ばないこととだけ書く。
﹁これは、どういうことでしょうか?﹂
颯希が私を見上げ、問いかける。
﹁⋮⋮念の為、だよ。妙な感じがする。疾風がここまで受け取りに
手間取るはずがないのに﹂
﹁⋮⋮⋮⋮ッあ!﹂
送り主の名前を確かめ、相手如何で受け取り拒否をするだけに、
404
ここまで時間がかかるはずがないのだ。
宅配業者が荷物の受け取りに関して揉めなければ。
そのことに気付いた颯希が声を上げ、そうして表情を改める。
﹁部屋へ、お戻りくださいっ!!﹂
私を守ろうと、前へ進み出、行く手を阻もうと手を広げる。
﹁どうか、お部屋へお戻りを﹂
﹁どきなさい、颯希。すでに手は打った。心配することはない﹂
﹁ですが!﹂
﹁颯希! 主命だ。従え!﹂
私の言葉にびくりと肩を揺らした颯希が横にずれ、道を明け渡す。
﹁そのままついてきなさい。そして、よく見ておきなさい、君の兄
を﹂
それだけ告げると、私は歩き出し、通用口への手前で立ち止まっ
た。
﹁ですから! ご本人にお渡しすることとなっておりますので﹂
﹁渡す必要はない。受け取り拒否をします﹂
﹁ご本人引き渡しとなっている商品ですから﹂
﹁送り主の名前がないものは受け取り拒否だと言っている。受け取
り拒否をされたものは速やかに持ち帰るというのがそちらの仕事だ﹂
﹁それも、ご本人の意思を確認しないとお受けできません﹂
﹁俺が本人の意思を確認している。問題はないはずだ﹂
典型的な押し問答。
本来ならば、こんな会話が成り立つはずもない。
そこへ、小鳥の鳴き声が聞こえてくる。
高く澄んだそれは、実は小鳥の鳴き声を模した指笛だ。
警備室から派遣された警備員が所定の位置についたという合図だ。
わかったという合図の指笛を今度は私が鳴らす。
私の到着を知った疾風がさり気なさを装って、指を動かす。
それは、自分の後ろに立てというサインだった。
405
つまり、出てきてもいいということだ。
﹁⋮⋮瑞姫宛の荷物が届いたと聞いたが?﹂
そう言いながら、姿を現す。
立ち止まった位置は、疾風からきっちり5歩離れた場所だ。
﹁こちらに受け取りのサインをお願いします﹂
宅配業者の男が、私を見て荷物を差し出す。
﹁何故?﹂
私はそう切り返す。
﹁受け取りにはご本人のサインが必要ですから﹂
﹁だから、何故?﹂
﹁⋮⋮は?﹂
意味が解らなかったらしい。
きょとんとした顔で私を見る。
語るに落ちたな。
間抜けにもほどがある。
﹁何故、私がサインをしなければならない?﹂
﹁ご本人様でしょう!?﹂
﹁何故、私が瑞姫だと知っている?﹂
﹁え?﹂
﹁私は一言も名乗らなかったはずだ。瑞姫宛の荷物が届いていると
聞いたとしか告げていないはずだ﹂
﹁ですから、それであなたが⋮⋮﹂
﹁そのくらい、家族なら誰でも問いかける程度の言葉だ。私が瑞姫
だと確証できるはずもない。その場合、ご本人様ですか? と、尋
ねるのが普通だ﹂
﹁それは⋮⋮﹂
﹁私の顔を見て、受け取りのサインをしろと言ったということは、
あらかじめ私の顔を知っていた、ということだ﹂
男の表情が険しくなっていく。
﹁私を近くに呼び寄せて、どうするつもりだったんだ? その隠し
406
てあるもので殺すつもりか?﹂
﹁!! くそっ!!﹂
荷物を放り投げ、ジーンズの後ろポケットに手を回し、そこから
銀色に光るものを取り出す男。
そのままそれを手に握りしめ、私に駆け寄ろうとして、足をもつ
れさせた。
彼の敗因は、一瞬でも疾風の存在を忘れたことだろう。
刃物を持っていようが、相手の動きを綺麗に捉えられる動体視力
を持つ疾風の前では、何の脅威でもない。
足を引っ掛け、体勢を崩しかけたところを手首を押さえ、男の肘
を脇に抱え込んで動きを封じた後、遠慮なくその右肩を己の体重を
乗せて壁にぶつける。
何とも形容しがたい音が響いた後、男の絶叫が遅れて放たれた。
﹁⋮⋮肩の骨を外されたくらいで、情けない⋮⋮﹂
女性の身体は痛みに強いが、男性の身体はその逆だ。
頑丈そうに見えて痛みには滅法弱くできている。
喚きながら目から涙、口から涎を溢れさせ、冷や汗を滲ませ、顔
から血の気が失せたかと思うと、白目をむいて気絶した。
嫌そうに顔を顰めて見下ろしていた疾風が、仕方なしに今度は外
れた骨をはめ直してやる。
だが、男は悲鳴を上げても意識は戻らなかった。
余程痛かったのか、それとも恐ろしかったのか。
﹁いやはや、見事なお手並みですな。我々の仕事がありませんでし
たよ﹂
困った様子で陰から出て来た警備員が苦笑する。
﹁いや、来てくれただけで助かった。証拠はきちんと撮れてる?﹂
通用口にある監視カメラと、音声は確実な証拠としての価値があ
るのか、問いかける。
﹁大丈夫です。傷害未遂ではなく、殺人未遂として立件できるでし
407
ょう。岡部君の方も正当防衛の範囲内ですし﹂
﹁お手本のように見事な捕縛術でしたので、最後の関節外しは偶然
に起こったと捉えてもらえるでしょうし﹂
﹁あはははは⋮⋮それはよかった﹂
にっこりと笑って誤魔化す。
確実に狙ってたのバレてるよ、疾風!!
﹁では、警察に通報いたしますので、現状維持でそのままお待ちく
ださい﹂
監視室の方へ連絡を入れ、警察への要請を頼み、万が一、男が気
が付いて暴れないようにと後ろ手に縄をかける。
一般市民にも逮捕権はあるので、現行犯逮捕の場合のみ、こうい
う措置は合法になる。
手錠をかければ違法だけどね。手錠が持てるのは、警察官だけだ
から。
例えおもちゃでも駄目なんだって。
﹁すまない、瑞姫。結局巻き込んだ﹂
しゅんと項垂れる疾風。
﹁いや。巻き込んだというのはおかしいだろう? 最初から私を狙
っていたのだから。この様子だと、前から色々とあったな?﹂
﹁⋮⋮う⋮⋮﹂
﹁私に心配かけるなとか言われて、黙っていたな?﹂
﹁あ、そ、それは⋮⋮﹂
私に睨まれ、疾風の顔が引きつる。
﹁それらごと、全部ひっくるめて警察に引き渡せ。殺人教唆犯を警
察に逮捕させてやれ﹂
﹁だが、殺人教唆ぐらいでは大した罪にはならないぞ﹂
﹁大した罪にはならなくても、身内から殺人に関係した犯罪者が出
たというだけでも大ダメージだろう? 株価は値下がり確実だ。そ
こに追い打ちをかけてやればいい﹂
﹁さすが、瑞姫! やることが容赦ない﹂
408
感心したような眼差しが私に注がれる。
﹁いや。私が考え付いたわけではなく、何かやらかしそうな人たち
がやらかしそうな内容を考えただけだ﹂
そう言って、肩を落とした私が、主犯の名前を聞こうとした時に、
警察が到着した。
409
50
いつもは静かな屋敷内も、警察車両の到着で騒然としていた。
騒がしいのは警察だけ。
我が家の人々は通常運転だ。
刑事ドラマとかでよくやってる指紋採取の白い粉。
実際は銀色っぽい粉で、指紋採取した後、拭き取ってくれないん
だと初めて知った。
そして、それがちょっとやそっとでは落ちないということも。
警察というか、鑑識の人たちが帰った後、掃除をしようと張り切
っていた家政婦さんたちが悲痛な叫び声をあげ、怒り狂っていた時
にその事実を知った。
思わずごめんなさいと謝ると、悪いのは嫌がらせをしたり、私を
殺そうとした犯人であって、私ではないからと一生懸命に慰めてく
れたので、さらに申し訳なくなった。
犯人が悪いと言いつつも、鑑識の人が憎いとも唸っていたしなぁ。
お仕事だから仕方ないとは思うんだけど、後片付けはしてほしい
よね。
どういう洗剤使ったら、きちんと落ちるのかだけでも教えてほし
かったよ。
だって、家政婦さんたち、目が据わって怖いんだから。
通用口に現れた男とその場所の警備員との会話や中に入った経緯
など、監視カメラと音声がしっかり拾っていた。
これはきちんとした証拠になるらしい。
普通、監視カメラって映像だけだが、何故音声まであるのかと聞
かれたら、人の記憶はあてにならないので、会話もきっちり録音し
410
た方が何かあった時の為になるだろうと、警備の責任者が答えてい
た。
それに、ちゃんと通用口のところにカメラ作動の文字を表記して
いるし、プライバシーに配慮して、問題ないと判断されたものは消
していっていると言葉を添えていた。
それとは別に、事情聴取もされた。
何度も同じことを聞かれると、ムカついてくるのは何故だろう。
いや、何故、何度も聞かれるか、理由はわかってるけれど。
やっぱり、イラっとしてくるものだな。
心当たりを聞かれると、実に困る。
何が原因で恨まれるかわからないし、自分ではなく親兄弟関係か
もしれない。
尋ねられて、そう答えれば、﹃御嬢様というのも大変ですね﹄と、
実に心無い言葉が返ってきた。
口先だけの言葉はいりません。
結果を出してくださいね。
そう言えたら、きっと気分がいいだろう。
おそらく、岡部はもう犯人の目星をつけているはずだ。
警察が帰ったら、疾風を締め上げよう。
翌日、教室に足を踏み入れた途端、女の子たちが駆け寄ってきた。
﹁瑞姫様! 御無事でしたか﹂
﹁ようございましたわ。わたくし、知らせを聞いて、気が気ではな
く⋮⋮﹂
﹁瑞姫様の御命を狙うなんて、何て卑劣なことをするのでしょう!
!﹂
一瞬にして取り囲まれ、自分のことのように憤る少女たちの姿に、
呆気にとられてしまう。
411
何というか、情報速いな、君たち。
一応、報道規制はかけていたのだよ?
襲われたのが未成年であることを理由に。
明日ぐらいには、知られるかと思っていたが、昨日の今日だ。
﹁ああ、御心配をおかけして申し訳ありません。この通り、私は無
事ですよ﹂
にこやかな笑みをたたえて少女たちを宥める。
﹁本当によかったですわ﹂
﹁犯人は捕まったそうですね?﹂
﹁ええ。実行犯は逮捕されていますよ﹂
笑顔のまま、頷く。
一瞬、きょとんとした少女たちの顔色が変わる。
﹁瑞姫様っ!! 大変ではないですか!? 何故、しばらくお休み
されませんの!﹂
﹁どこにいても一緒だからですよ。それに、疾風がついてくれてい
ますしね﹂
﹁ああ、岡部様。それでは安心ですわね﹂
おや、疾風の名前を出しただけで、安堵の表情を浮かべる御嬢さ
ん方が多いこと。
信頼されているようだな、疾風は。
﹁ええ。ですから、私はいつも通り過ごせるのです﹂
にこやかに告げれば、安心した少女たちが道を開けてくれる。
自分の席まで移動したところで、来客があった。
﹁相良さん、ちょっといいかな?﹂
声を掛けて来たのは、大神だ。
﹁おや、珍しい方が。おはようございます、大神様﹂
笑顔を作って挨拶をし、荷物を片付けた後、廊下へ出る。
﹁何かご用でしょうか?﹂
﹁ええ。怪我はない様子で安心しました﹂
﹁これまた、耳が早い。どなたからお聞きになられましたか?﹂
412
﹁父からですが、今朝は学園中、あなたのニュースでもちきりです﹂
複雑そうな表情の大神が、廊下の窓の外に視線を落とし、中庭を
見つめる。
登校途中の生徒たちが、数人固まって何かを話している様子がこ
ちらからもはっきりとわかる。
﹁隠してはいませんが、一応、報道規制は掛かっているのですよ。
不思議ですね?﹂
のんびりとした口調で告げれば、大神の目が細くなる。
﹁内部の犯行だと?﹂
﹁いいえ。情報を漏らした人間はいるでしょうが、利用されたのか、
面白がってしたのか、どちらかでしょうね﹂
﹁何故、そのように?﹂
﹁昨日は、学校側の事情で午前中までの授業でした。直前にならな
ければ、私の行動は把握できないでしょう﹂
﹁そうですね﹂
﹁それにもかかわらず、帰宅して着替えている間に、宅配業者を装
って実行犯が来たんですよ。私がいると確信して、ね﹂
﹁つまり、誰かが真犯人にあなたの予定を教えたということですね
?﹂
﹁私の予定なのか、学校の予定なのかはわかりませんが、教えた可
能性は高いですね﹂
世間話でもしているかのように、のんびりとした口調と表情で私
と大神は昨日の事件について話す。
﹁わかりました。生徒会として動きましょう。そのように提案して
みます﹂
﹁私個人の為に動くのはやめた方がいい。情報を与えた人物に悪気
がない、つまり、利用されただけという場合も考えられるので﹂
﹁あなたは自分の命を軽く考えすぎる。いつもだ! 生徒会として
は、たったひとりでも命を脅かされたという事実があれば、生徒を
守るために動くものです﹂
413
﹁情報を漏らした人物を掴まえて、どうするつもりですか?﹂
﹁それは、その人物を特定してから考えましょう。状況に応じて、
冷静に対応することは約束します﹂
真面目な表情で告げる大神に、私は渋々頷く。
﹁それから、学園内の警備を強化することを学園側に申し入れるよ
うに、会長に提案してきました。間もなく、会長が理事の方へその
旨をお願いしに行かれます﹂
﹁⋮⋮そこは、仕方ありませんね。私の事情ですが、他の生徒に被
害が出てはいけませんし﹂
溜息を吐きながら呟けば、大神はわずかに顔を顰める。
﹁学園周辺で、不審な人物が数名いるようです﹂
﹁それは、刑事では? 私、張り込みされているようですよ?﹂
﹁何故ですか!? あなたは被害者でしょう?﹂
﹁だからです。犯人が接触すると思っていらっしゃるのかも﹂
﹁なるほど。馬鹿げた理由ですね。人を介して犯罪を犯すものが、
直接接触すると思いますか?﹂
皮肉気に笑みを浮かべた大神は、視線を天井へと向ける。
何かを考えているような眼差しは、すぐに私に据えられる。
﹁つまり、あなたを囮にしているというわけですね﹂
冷ややかな声。
どうやら大神は怒っているらしい。
笑顔で怒れるとはうちの姉のように器用だ。
﹁彼らも排除の対象としましょう。二宮会長が戻られたら、相談し
ます﹂
相談という名の強制だろうが。
そう思ったが、口にはしない。
﹁それで、心当たりは?﹂
﹁八つ当たりとか、逆恨みも含めますと、ありすぎて﹂
犯人がもうわかっているのだろうと言いたげな大神に、とぼけて
みせる。
414
できれば、早いところ封じたい相手であったというのは、決して
悟られるわけにはいかない。
逃がすわけにはいかない相手だ。
犯人の特定をした岡部家の手柄だが、それを警察に直接伝えるわ
けにもいかず、どうリードするかが現在の問題だ。
大人たちが考えているところに首を突っ込むわけにもいかない。
そこが、もどかしい。
﹁そろそろ、教室に戻った方がいいですよ。大神様﹂
にこやかな笑みで別れを告げて、廊下に大神を置いて私は教室へ
と戻った。
415
51
その知らせが届いたのは、帰宅直後だった。
こちらから提出していた嫌がらせなどの証拠品から、犯人と思し
き人物の指紋が出て特定できた、と。
指紋が出た?
何たる間抜け!!
あ。いかん。
ちょっと正直すぎた。
正確に言えば、伝票番号と指紋の組み合わせで誰が出したのかが
わかったということだ。
犯人は予想通り、東條分家。
しかも、1人ではなく、複数犯。
最初は地味に嫌がらせをしていただけらしいが、一向に効果が上
がらず、それならばと誘拐やら何やら画策しても失敗続き。
誘拐の後に続くのは身代金目当てではなく、女の子が一番ダメー
ジを受ける方法を考えていたらしい。
実に無駄な考えだ。
相手の力量を考えれば、できるはずもないことを理解できないお
粗末さ。
誰に頼んでも全く成功しないことに腹を立て、今度は殺すことを
計画したらしい。
誘拐できないのなら、相良の本邸で殺してしまえばいいと。
自分たちがどんなに声を掛けても、誰も相手にせず、しかも本家
416
から切り捨てられたのはすべて私のせいだと主張しているらしい。
その裏付けを嫌々ながらしていた警察は、もう呆れ顔で報告して
くれた。
実際に声を掛けられた男性の許へ行って、話を聞いたとは、お疲
れ様だと言ってもいいのだろうか?
礼儀知らずの身の程知らず。
皆、口を揃えてそう言ったそうだ。
そうして、私のせいだと言っているのも単なる思い込みの逆恨み
で、根拠の欠片もないと答えたそうだ。
大伴家の方にも足を運び、夏のパーティの件を七海さまに質問し
たところ、七海さまは近くで見ていた者を呼び集め、それぞれに説
明させたそうだ。
そのうえで、にこやかな笑みをたたえた七海さまは、﹃招待をさ
れていないのに、勝手に敷地内に入りしかもエントランスに留まっ
ていたのよ。今からでも不法侵入で訴えることができるのかしら?﹄
とお尋ねになったそうです。
余罪追加と微妙な表情で刑事さんが呟いていた。
うん。どうやら、調べまわっていると、あちこちでその話が上が
ってたそうだ。
招待していないパーティに勝手に来て、品のないふるまいをして
いったので訴えることはできるだろうかと。
不法侵入自体はそう大きな罪には問われないけれど、件数が多い
と刑の中でも一番重いものが適用されるはずだ。
しかも、中には器物損壊罪が適用されるようなこともやっている
らしい。
﹁名家っていうのもいろいろあるんですな﹂
呆れたように告げる刑事さんに、同席していた八雲兄上が冷やや
かな視線を向けた。
﹁葉族と四族を一緒にしないでいただきたい。あれは、葉族の中で
も最低ランクの家だ。我々四族はそう認識している。一般家庭で育
417
った方のほうがよほど常識があるし、品もいい﹂
﹁⋮⋮はあ。それは、尤もだと思います﹂
一般家庭でというくだりで刑事さんの表情が微妙に変わる。
名家を皆、選民思想の塊だと思うのはやめていただきたいと正直
思う。
あれは、ごく一部だ。
自分が優れた存在だ、なんて、イマドキ、そんな笑っちゃうよう
なことを考えているようなヤツなんてほとんどいないから。いたら、
天然記念物指定されちゃうよ?
﹁それで、私のせいと主張されたことは、証明されたわけですか?﹂
呆れたような表情と声音で問いかければ、苦笑を浮かべた刑事さ
んは首を横に振る。
﹁事実無根の証明ならされました。名誉棄損で訴えられますよ﹂
﹁兄と相談して、後日、その件についての結果を出します﹂
名誉棄損って、訴えられた方が証明しないといけないんだっけ?
警察が調べて事実無根という結果なら、事実の証明なんて無理だ
ということだけど。
﹁それから、もう1つ。本来ならお伝えすることは任務上差し障り
があるのですが、もうニュースでも流れていますしね﹂
そう前置きして告げられたのは、東條本家の娘婿の事故死を装っ
た殺人であった。
﹁⋮⋮殺人、ですか? 私のように? 一般人を⋮⋮﹂
やられた! と、一瞬、その思いが過る。
そして、同時に、違う、とも。
﹁東條家の一人娘であった瞳さんと、そのご主人、そしておふたり
の娘さんの三人暮らしをしておられたのですが、最近になって勘当
した娘夫婦に戻ってくるように東條夫妻が連絡を取られたというこ
とです﹂
﹁⋮⋮⋮⋮大伴家のパーティの後、そのような話を聞いたような記
憶はあります﹂
418
﹁おふたりは断られたそうです。勘当された身で、今頃になってそ
れを取り消されたところで、すでに自分たちの生活があるから、と﹂
﹁それは、当然の答えでしょう﹂
八雲兄が頷く。
﹁それでも、再三、連絡をし、家に戻るようにと、それが嫌なら孫
娘だけでも寄越せと言ってきたそうです﹂
﹁勝手な話だ﹂
﹁確かに。正式に断るためにご主人が東條家に向かう途中、ブレー
キ事故が起こりました﹂
思わず顔をそむける。
﹁現場検証、及び事故車両の調査で、ブレーキ関連の部品がが故意
に緩められていたことがわかりました。そして、その車に細工をし
たらしい人物も目撃されています﹂
﹁そうまでして継ぎたいのか!?﹂
上を見たらきりがないと言えるほど、東條家は名家の中でも最低
ランクに近い、それどころか一般出の会社社長の方が業績を誇って
いるだろう。
誰が見ても、大したことないと断言してしまうほどの小さな家だ。
それでも跡目争いを繰り広げてしがみつかねばならないのか。
﹁我々としてもそう思いますが、人それぞれですからね。まあ、こ
んなことになれば、家も潰れることになるんでしょうかね?﹂
どこか面白そうに告げる刑事さんの言葉に、首を横に振ってしま
う。
﹁再興するつもりはあるんでしょう。その、お嬢さんとお孫さんを
強引に連れ戻して﹂
﹁やはり、そうなりますか!?﹂
﹁彼女たちが家に戻ってくる条件として、お嬢さんのご主人が邪魔
だったでしょうし﹂
私の言葉に、刑事さんたちが微妙な表情になる。
﹁それはつまり、御本家がそのように唆したと考えられますか?﹂
419
﹁そこまではわかりませんが、本家の対応に煽られたのは事実でし
ょうし﹂
子供の言葉に、なぜそこまで反応するんだ、この人たちは。
﹁実はですね、本当なら、お嬢さんとそのご主人の2人が東條家に
向かう予定だったのを、お2人の娘さんが体調不良を訴えてその看
病のためにお嬢さんが家に残ることになり、ご主人がおひとりで出
かけられたということなんですよ﹂
﹁⋮⋮はあ﹂
だから、何だというのだろう?
かなり不自然さは感じるが、今ここで何かを判断するには情報そ
のものが足りなさすぎる。
面倒臭いという表情を張り付けて相槌を打てば、苦笑された。
﹁妹を疑っているのでしょうか? それとも、相良でしょうか?﹂
冷ややかに八雲兄が問う。
﹁それでしたら、見当違いもいいところですよ。犯罪に手を染める
ような愚かな真似は致しません。我々には守らなければならない者
がたくさんいますので﹂
﹁申し訳ありませんね。これも仕事柄ってやつで。時期が一致する
といろいろ疑い始めてきりがないというか⋮⋮﹂
﹁被害者が実は加害者だったという定番ですか? 捜査の協力は致
しますが、それこそ見当違いの捜査を始められるのでしたら、名誉
棄損であなた方を訴えることになりますよ? と、これまた定番の
陳腐な嚇しを告げるべきでしょうか﹂
八雲兄上、笑顔作っても笑ってないから!
ちゃんと笑って!!
というか、脅さないで上げて。
刑事さんの顔色、本当に悪いから!
﹁いや、すみません。その点に関しては疑ってはいませんから。た
だ、本当に色々と腑に落ちないことが多すぎて﹂
慌てて腰を上げた刑事さんがそのまま逃げの体勢に入る。
420
﹁そうですか。納得できる答えが見つかるといいですね﹂
完全に棒読みで八雲兄上が答える。
刑事さんたちはそのまま屋敷を後にし、入れ違いに客が来た。
それは、今、最も会いたくない相手だった。
421
52
﹁不本意だが、同席するように﹂
父に呼ばれ、書斎に顔を出せば、実に不機嫌そうな表情でそう言
われた。
﹁父様がそう仰るのでしたら⋮⋮何方がお見えなのですか?﹂
普段は飄々としている父がここまで不機嫌そうな顔を隠さないの
は珍しい。
余程嫌な相手なのかと思えば、出て来た名前に納得した。
﹁東條だ。追い返そうとしたが、しつこい。謝罪に来たと言ってい
るが、謝罪に来た態度ではないな﹂
むすりとした顔で告げる父に、同席していた八雲兄が目を眇める。
﹁僕も同席してよろしいでしょうか?﹂
﹁許す! あと2人の息子も同席すると言って聞かぬからな。瑞姫
は父の傍に座るがいい﹂
﹁私が上座に座ってもよろしいのですか?﹂
我が家は年功序列だ。
最年少の私は下座と決まっている。
上座など、御祖父様の膝の上が指定席であったおむつ時代以来だ。
ほとんど記憶がないということだ。
﹁かまわん。八雲も威圧してもいいぞ﹂
父様、ご立腹。
そりゃ、そうだよなー。
逆恨みの八つ当たりで娘を殺されそうになったんだもん、怒らな
い親はいないだろう。
﹁ちなみに、父様、姉上たちは?﹂
﹁別室にて待機だ。菊花は玩具で遊ぶと言っていたが﹂
﹁⋮⋮盗聴と盗撮とか、言いませんよね? まさか、自分の家でそ
422
んなことは⋮⋮﹂
父の視線が微妙に泳いだ。
許可したのか!?
﹁もしかして、蘇芳兄上が手を貸してるとか⋮⋮﹂
﹁なかなかの洞察力だ﹂
認めちゃったよ。
﹁⋮⋮あまり、ことを大きくなさらないでほしいのですが﹂
﹁それは、相手の出方次第だな。結果は同じだと思うが﹂
潰す気満々ですか。
私でもそうするだろうとは思いますが。
諏訪と東條では規模が違いすぎる。
諏訪が潰れれば経済界へのダメージが大きい。
だが、東條が潰れたところで、ほとんど影響はない。
会社ごと取り込み、東條の首だけを切り離せば済むので、失業者
が増えるという心配もない。
むしろ、業績改善などを行い、無駄を省いて経営機能を強化させ
れば、今現在、東條グループで働いている社員の給料のベースアッ
プも可能だ。
それをするか、もしくは同じ葉族のハイエナと呼ばれる者たちの
前に投げ出せば、勝手に食らいついて片付けてくれることだろう。
そう父は考えているのだ。
﹁では、行くか﹂
仕方なさそうな声音で私たちを促した父の後について、客間へと
向かった。
玄関近くの板廊下から入る座敷に案内されて入ってきたのは、東
條夫妻。
初老の夫婦は案内されるまま、座卓の前の座布団に座った。
423
﹁⋮⋮⋮⋮⋮⋮﹂
ひくりと目許を引き攣らせる蘇芳兄上。
だが、隣に座る長兄の半眼に窘められ、無言を貫く。
その間、両家どちらも言葉を発しない。
それを確認して父が襖を開き、座敷へ入る。
その後に八雲兄、私と続き、襖を閉めた私は、言われた通り父の
斜め前の上座へと座る。
父の隣にはすでに母が座して待っていた。
﹁⋮⋮⋮⋮⋮⋮﹂
家政婦さんがお茶を配り、部屋を出る。
誰も何も言わない。
沈黙が重くのしかかる。
本来ならば、訪れた客人に声を掛け、歓迎を示すのが当主や次代
の役目だが、今回ばかりは招かれざる客だ。
誰もが視線を合わさず、ただ沈黙を守る。
どれぐらい時間が経っただろうか。
少なくとも20分は過ぎた。
普段は陽気で賑やかすぎるほどというよりも騒がしい蘇芳兄上も、
こういう時は沈黙を守ることを厭わない。
むしろ、精悍な顔立ちなだけに黙り込むと威圧感を増し、ちょっ
とした迫力がある。
うん。蘇芳兄上は黙っていた方が格好いいよ。
骨格しっかりして筋肉もきっちりついてるから、彫像っぽくて格
好いいんだ、じっとして黙っていれば。
動き出して、一言喋るととてつもなく残念に感じるのは何故だろ
う?
﹁⋮⋮⋮⋮お帰り願おうか﹂
ちょっとばかり退屈しかかって、脳内で現実逃避を仕掛けたとき、
父がぽつりと告げた。
これに反応したのは東條夫妻のみ。
424
母も兄たちも表面上はぴくりとも動かない。
﹁いきなり何を!?﹂
﹁⋮⋮いきなり? いきなりはそちらだろう? 押しかけてきてお
いて、何も言わず座るだけ。何しに来たのか、用件も言わねば、こ
ちらも対応しかねるが?﹂
淡々とした表情で父が言う。
用件言わずに会わせろ、じゃ、確かに何も言わないよなー。
﹁それは⋮⋮!﹂
﹁用がないのなら、お帰り願おう。我々は暇ではないのだ。無駄な
時間を取らせた詫びでも言われるか?﹂
父の態度は、少しばかり高圧的だ。
家勢の格差だ。
葉族は分家筋の末の家系だ。
分家から姓を与えられ、切り離された存在だ。
本家から見れば、末端もいいところ。
そんな他家の葉が来たところで、地族の中でも上位の相良本家が
まともに対応するはずもない。
対等に扱われることを期待する方が愚かだ。
ちなみに、来客したのが一般の人だった場合、対応はかなり丁重
なものになる。
通される座敷は中座敷で、用件によっては当主自ら対応すること
もある。
つまり、葉族は一般人よりも対応が下になるのだ、他家筋になる
と。
しかも東條は私を害そうとした者を分家から幾人も出している。
まともに対応するつもりなど毛頭ないということは明らかだ。
﹁いえ! この度のことを謝罪させていただきたく﹂
父を怒らせたと思ったのだろう、東條家当主が慌てて切り出す。
﹁⋮⋮謝罪?﹂
不快そうな表情を浮かべ、眺める父。
425
﹁分家の者どもが大変申し訳ないことを⋮⋮﹂
一気に話し出した東條家当主の話の内容は、実に意味のない内容
だった。
謝罪ではなく、言い訳と言った方が正しいだろう。
自分たちは知らなかった、分家が勝手にしたことだ。
そういったことを羅列していく。
しかも、しめくくりが、私を害そうとした者たちは逮捕されたの
で、これから何も起こらないはずだというものだ。
それらの言葉を座布団の上でつらつらと語ったのだ、東條家当主
は。
﹁⋮⋮それで?﹂
面白くなさそうに蘇芳兄上が横から差す。
﹁は?﹂
﹁それで、どうするつもりかと聞いたのだが?﹂
呆れたような表情で、蘇芳兄上も上から目線で問いかける。
﹁分家のしたこと、で、すまされるおつもりか?﹂
﹁それは⋮⋮分家の者がしたことですから﹂
﹁本家は関係ないと?﹂
﹁私共もまた被害者です! 娘の夫を殺されました﹂
﹁⋮⋮被害者、ねぇ⋮⋮﹂
胡乱な視線で流し見る蘇芳兄上の態度は剣呑だ。
﹁分家あっての本家。本家あっての分家というのが、本来の関係で
は? 分家をあおり、暴走させた責任は取らないと、そう仰ってい
るわけだな?﹂
じろりと睨めつけた蘇芳兄上が纏う空気が変わる。
闘気、とでも言えばいいか。
怒りを抑えず、そのまま東條家当主へと気を向けている。
殺気とは違う押し潰されそうなほどに重い空気。
圧迫感を感じ、呼吸ができずに口をパクパクさせている。
﹁それで、謝罪とは、笑わせてくれるものだな﹂
426
にやりと口許を歪ませて笑みを作るが、笑っていない。
獲物を甚振って遊ぶ虎のような笑みだ。
蘇芳兄上、楽しそうだなー。
座ってるだけって退屈だな。
思わず、ふわあっと欠伸が出かかり、指先で口許を覆い隠す。
﹁おや、失礼。あまりにも退屈で﹂
蘇芳兄上の闘気など、私にとってはないも同じ。
のんびりした口調で形ばかりの非礼を詫びる。
﹁み、瑞姫様! 瑞姫様からもどうか御口添えを!!﹂
必死の形相で東條家当主が私を見て訴える。
莫迦だろ?
謝罪もせずに被害者に口添えを願うやつがどこにいる。
恥知らずという言葉も裸足で逃げ出しそうだ。
﹁⋮⋮何のために?﹂
感情のこもらぬ視線を東條家当主に向ける。
その視線を受け止めた初老の男性はびくりと顔を引き攣らせる。
瑞姫の無表情は恐怖心を煽るらしい。
生きている人間と対峙しているような心地がしないのだとか。
失礼な!
だが、利用させてもらおう。
瑞姫を守るためなら、どんな手段でも躊躇う必要性を感じない。
﹁言い訳は聞きました。謝罪はない、対応策もない。それで、何を
言えと?﹂
﹁ですから、逮捕されましたので⋮⋮﹂
﹁裁判が行われて罪が確定したとしても、大した罪にはならないで
しょう。数年で社会復帰です。それで、そのあとは? また逆恨み
するでしょう? 私のせいで逮捕されたと﹂
﹁それは⋮⋮さすがに、それは﹂
﹁ないと断言できる根拠はありますか? 何の関係もなかった私に
勝手に恨みをぶつけるような人たちですが﹂
427
私の言葉に完全に黙り込んだ。
反論はできないだろう。
﹁それに関しては、一筆書いていただきましょうか﹂
﹁え?﹂
﹁東條の血を引くすべてのものは、今後一切、私に関わらないと。
もし、関わった場合はそれ相応の対応を取られてもかまわないと﹂
私の言葉に、東條家当主は目を瞠る。
﹁それだけでよろしいのですか?﹂
﹁今後の対応という点では、それで構いません。ですが、謝罪とは
別の話です。私は殺されかけたわけですから、それなりの対応とい
うものがあるのでしょう?﹂
そう言って父を見れば、当たり前だと頷く父の姿がある。
﹁事の発端は、東條家の跡継ぎ問題でしょう? 僕も彼女たちの被
害にあってますよ﹂
今まで黙っていた八雲兄上までもがトドメとばかりに参戦してく
る。
その言葉に、当主夫妻はぎょっとしたような表情になった。
﹁実にバカバカしい、そして醜い人たちでしたね。そうまでして後
を継ぎたいような家ですか? 東條家というのは﹂
半眼になった八雲兄の視線にさらされ、狼狽える。
﹁それは、その⋮⋮﹂
﹁戻ってきたら、またそれが繰り返されるわけですよね? 例え、
正式に跡継ぎを決めたところで、娘さんの旦那様を殺害したように、
その後継ぎも殺害すればよいと考えるのではありませんか?﹂
八雲兄の指摘に、彼らは顔色を失った。
せっかく、邪魔者が消えて、手に入れた後継ぎを再び失うという
ことに気が付いたからだろう。
今度失えば、もう二度と手に入れることはできないのだ。
﹁いりませんよね、そんな家。あなた方の代でお終いにしたらいか
がでしょうか?﹂
428
にっこりと告げた言葉は、提案のように聞こえて、決定だった。
勿論、東條家は足掻くだろう。
だがしかし、それは相良家が決定したことだ。
覆すことはできない。
何故なら、それが我々が望んだ謝罪の一環だからだ。
促されるままに、2通、同じ文章を書いた東條家当主は、そのま
ま帰された。
これは、後日、弁護士に目を通してもらい、正式な公文書にして
もらう。
1通は東條家へ送り、もう1通は相良で保管する。
これが保険であることは言うまでもない。
そうして、このコピーを数枚作ってもらい、その1通を学園側に
提出しておいてもいいかと、父に相談した。
その考えにあっさり頷いて許可を出した父は、コピーができたら
提出しておこうと言ってくれた。
これが使われる日が来なければいい。
それが正直な願いだった。
429
53
1月が終わり、2月が始まると、世間はバレンタイン一色となる。
好きな人への告白イベントと捉えた一昔前と違い、友チョコやら
ご褒美チョコなどが一般的となっているそうだ。
それもなかなか楽しそうで羨ましいが、ここではチョコのやり取
りはない。
プレゼントの贈り合い的な発想だけは一緒だが。
何方に何を差し上げるのか、それを考えるのが一番難しいところ
だ。
もちろん、何方からプレゼントが来るのかもわからないので、余
裕を持って用意すべきだろうという考え方もある。
﹁う∼ん。どうしようか?﹂
床に胡坐をかいて膝にノートパソコンを乗せて何やら作業してい
る疾風の背中にこてんと倒れ掛かり、問いかければ、疾風が肩越し
に振り返る。
﹁何が?﹂
﹁バレンタイン。何をプレゼントしようかと思って﹂
そう言って、のそのそと疾風の手許を覗き込む。
﹁何してるの?﹂
﹁んーお遊び?﹂
再び画面に視線を移した疾風が、何やら操作をし始める。
波打つグラフ。
何かの変動値だ。
﹁⋮⋮株?﹂
﹁ん﹂
短く頷いた疾風の視線は画面から動かない。
東雲に通う男子学生の一部では、ネットで株をしている者がいる。
430
リスクがどれくらいでと仲間内で声高に話している姿を何度か見
たことがある。
それなりにというか、そこそこ儲けているようだ。
だが、疾風は彼らとは違う。
滅多に株をすることはないが、やるときは徹底的に稼ぐ。
それこそ、会社を乗っ取る気か!? と、聞きたくなるほどに。
常に私の傍にいて、武術に通じているため、武道馬鹿と思われが
ちだが、疾風の株に対する知識とその手の打ち方は専門家も顔色を
変えるほどだ。
本人としては遊び感覚だから、質が悪い。
意外な才能と、岡部家ではからかわれているらしい。
そんな疾風が、私を放って株に勤しむのも少しばかり奇妙だ。
よくよく画面を眺めてみれば、気付くことがある。
﹁⋮⋮これ、東條家の研究所の株じゃないか!?﹂
﹁そ。買収しようと思って。瑞姫の使う染料の研究してもらおうか
なーと﹂
疾風が遊んでいる会社は、東條家の傘下にある染料の研究所であ
った。
﹁何で?﹂
﹁⋮⋮いらないだろ?﹂
色々端折っての疾風の言葉に、がっくりと肩を落とす。
東條家には必要ないから、岡部が貰い受けると言っているのだ。
﹁もう少しで終わるから、ちょっと待ってて﹂
まるで構ってほしい子猫を宥めるような言い方に、そのまま床に
倒れ込む。
﹁いや、もう、好きに遊んでてください﹂
多分、他にも似たようなことをやってる人たちがいるんだろうな
ぁ、うちの分家や岡部でも。
嬉々とした表情で東條の持ち株を減らしていっているんだろう。
後継ぎがいてもいなくても、どちらにせよ存続できない状況へ追
431
い込むつもりで。
﹁よし。買収終わり。これ、俺から瑞姫へのバレンタインのプレゼ
ント﹂
にっこりと笑って告げる疾風の言葉の語尾にハートマークがつい
てそうな気がした。
﹁あんなにがっつり目立って働いてたのに、やっぱり怒ってたのか
!? 地味にしっかり怒っていたのか!?﹂
実行犯に関節外しとかやらかして、地味にストレス発散していた
のに、まだ怒っていたのか。
意外としつこいな!
﹁当たり前だろ? 瑞姫を害する者は、絶対に許さない。息の根止
めるだけじゃ、物足りない。存在ごとなかったことにしてやるよ﹂
﹁もしもしー? 何か、すごく怖いことを聞いたような気がするん
ですけどー?﹂
﹁当たり前のことだから、気にしなくていい﹂
あっさりと告げて笑う疾風の表情はいつもの疾風のものだ。
﹁気にするよ。疾風に危ないことをやってほしくはない﹂
﹁ちゃんと合法的な手段に則ってるから大丈夫。あんな奴らの為に
犯罪犯す気にはなれないから。それに、俺にそんな方法取らせたく
ないなら、瑞姫はもっと自分を大切にしろよ﹂
何故私が逆に説教を食らう羽目に!?
﹁充分大切にしてるとも﹂
﹁俺から見れば、全然足りない。自分を軽んじてる。瑞姫に何かあ
った時に、俺たちがどう思うのか、もっとよく考えて﹂
その言葉は、ちょっと堪えた。
効率だけを考えて動く癖を突かれてしまえば、反論することがで
きない。
﹁俺、瑞姫からのバレンタインのプレゼントは、甘いものがいい。
ハロウィンの時のキャラメル、美味しかったから﹂
話を変えるかのように、先程の質問に答えた疾風は、照れ隠しの
432
ように視線を彷徨わせている。
﹁疾風、甘いもの苦手じゃなかったっけ?﹂
ええい、突っ込んでやる!
﹁⋮⋮瑞姫が作ったのなら、大丈夫だ﹂
﹁何その理屈!? 意味が分かんないけど?﹂
﹁何でもいいだろ? とりあえず、小腹が満たされる系の甘いもの
がいい﹂
﹁⋮⋮カステラとか?﹂
一瞬、スポンジケーキが思い浮かんだが、それよりもさらにカス
テラの方が美味しそうに思えた。
あの、そこに埋もれてるザラメがいいんだよね。
カステラの底にザラメがないのは、カステラとは認めない!
﹁カステラ? 俺、端っこが好き﹂
﹁切り落としの?﹂
﹁うん。ばーさまが味見させてくれて、美味かったんだよな﹂
﹁疾風のおばあ様は、和菓子とか駄菓子系のおやつを作られるのが
お上手だからなぁ﹂
小さな子供には手作りおやつを与えるのがいいと、幼い頃、よく
疾風のおばあ様が作られたお菓子をいただいていた。
素朴で控えめな甘さのおやつに実に夢中になって食べたものだ。
もちろん、どっちが大きいという子供ならではの喧嘩もやったけ
ど。
心温まる懐かしい記憶だ。
﹁じゃあ、そっち方向で考える。他にも、もう少し何かないか、考
えてみようかな⋮⋮﹂
頷きながら、視界に入った疾風の制服の袖口を見る。
あ、あれがいいかも。
一度やってみたかったし、大量に作れるみたいだし。
ふと思いついたものに笑みを浮かべた私は、疾風が帰った後、早
速注文し、翌日届いたものでそれらを作り始めた。
433
何か1つでも特技があるというのはいいことだ。
特技と言っても、他の人と比べて突出している必要はない。
自分の中で、これは得意と思ってるだけで充分。
まあ、そんなレベルの特技だけれど。
バレンタインのプレゼントはちっちゃなカステラと私のお気に入
りのショップのストラップ、そして量産したお返し用のとあるもの。
ついつい楽しくなっちゃって、調子に乗って作りすぎたんだけど、
結構、反響がいい。
作り方をネット動画で確認してたら、感動するようなものまであ
って驚いた。
奥が深いよね、手作りって。
まあ、基本的に私は短気だから、何日も時間をかけてゆっくり作
っていくというのが実は性に合わない。
イメージとしては、コツコツやっているように思われているらし
いのだが、実際は短期集中型だ。
なので、短時間で作れるコレは、私の好みに合っていた。
そして面白くなって、気付けばかなりの数ができていたという。
今に思えば、あれだけ作って助かったと言える。
何故か今年は沢山もらって、お返しが間に合わないんじゃないか
とちょっぴりハラハラしている最中なのだ。
予定外だったのが男子だ。
いつも女の子からもらうことが多かったので、その分を考えて作
ってたわけなんだけど、疾風たちにもあげようと思って男子用のそ
れを作って、意外によくできたから面白がって大量生産したのが役
に立った。
東雲じゃ、ホワイトデイがないので貰ったその場でお返ししない
434
と、後からお返しすることができないのだ。
ついでに言うと、直接貰っちゃうので、名前がわかる人はいいけ
れど、あまり親しくない人だと、後々誰にもらったのかわからなく
なるのだ。
カードがあればいいのだけれど、カードを入れてない場合が多い
し。
何かをもらって、お返ししないと、どうにも落ち着かない根っか
らの日本人であり庶民でございます。
廊下を歩いているだけで呼び止められ、何かしらいただいてしま
う本日は、ある意味、非常に表情筋酷使の日だろう。
常に笑顔を湛えていなければならない。
そして傍には常に疾風が控えている。
ごめんよ、疾風。荷物持ちさせて。
ちょっと心が痛むのは、疾風も結構貰っているので、重さを想像
したくないぐらいありそうだからだ。
﹁⋮⋮なんかさ、ハロウィンの時より呼び止められる回数、多くな
い?﹂
疾風が持つ荷物を眺め、少しばかり青褪めながら問いかけてみる。
﹁瑞姫の作ったキャラメルが美味かったからだろ?﹂
﹁そーゆー理由? いや、でも。ハロウィンとバレンタインってそ
もそも趣旨が全く違うし! お菓子もらえるハロウィンと違って、
バレンタインはお菓子じゃなくてもいいんだし﹂
﹁んー? じゃあ、瑞姫が人気者で俺は嬉しい﹂
首を傾げた疾風が微妙な回答を寄越す。
その仕種は可愛いけど!!
大きさからいくと颯希の方が似合ってて可愛いと思う。
﹁棒読みはやめなさい。嬉しくないと言ってるようだから﹂
﹁カステラは美味かった﹂
﹁もう食べたの!? え!? いつ!!﹂
435
﹁1個だけ。残りは家で食べる。在原も食べて、絶賛してた﹂
﹁ふうん。それはよかった﹂
在原は私と同じくらいの身長なのに、よく食べるからなぁ。
なんであれだけ食べて太らないのか、実に謎だ。
私が太らないのは、身体を動かしているおかげだ。
メンテナンスのためのストレッチや演舞で結構消費するようだ。
つまり、それらをやめれば一直線に増加する⋮⋮。
うん、絶対にやめない。
運動大事。
そういえば、年を取って体重が増えるのって、運動不足による筋
肉量の低下が底辺にあるからだと聞いたことがある。
いくら食事減量のダイエットをしても、付け焼刃の運動ダイエッ
トをしても、根本の筋肉量が減ってしまっているから難しくなるら
しいというのは、本当だろうか。
だとしたら、このまま運動を続けることを書きつけておかないと
だめだな。
もし瑞姫と入れ替わった時に、このことを知らない瑞姫が運動を
しなくなって体重が一直線に加速ということになったら、私が哀し
すぎる。
引継ぎ条項の上位に入れるべきだろう。
﹁⋮⋮相良﹂
聞き慣れた声が私を呼び止め、振り返れば、諏訪が立っている。
疾風、そんなに怖い表情で諏訪を睨まない。
とは言っても、以前なら疾風の睨みで表面上は平静を保っていて
もかなり怖がっていた諏訪が、今は堪えられるようになっていた。
どうやら諏訪老の許での修行で、多少なりとも耐性ができたらし
い。
﹁バレンタインのプレゼントだ。受け取ってもらえるか?﹂
手にしていた細長い箱を私に差し出して言う。
もう少し長ければペンダントやネックレスのケースのサイズだが、
436
それより長さが足りない。
パッと見に思い浮かぶのは万年筆やボールペンのケースだろう。
﹁⋮⋮私に、か?﹂
﹁ああ。受け取ってもらえると嬉しい﹂
ほんのりと目許を赤く染め、こちらが受け取るのをじっと待って
いる。
ここで貰う理由がないと突っぱねるのも大人げないだろう。
見知らぬ人からでも貰ってしまっているのだから。
﹁ありがたくいただこう﹂
そう言って受け取ると、バッグの中からお返し用のアレを取り出
す。
﹁では、諏訪にお返しを﹂
﹁俺に?﹂
﹁拙いもので申し訳ないが、私の手作りなのでな﹂
手で握りしめられるほど小さなボックスを差し出すと、掌でそれ
を受け止めた諏訪が固まる。
﹁相良の、手作り⋮⋮﹂
何故か妙に感動しているようだが、脳内でどんな妄想が繰り広げ
られているのだろうか。
覗いてみたいところだろうが、覗くと後悔しそうな気もする。
何事も知らぬが仏とか、後悔先に立たずとか、先達のありがたい
言葉に逆らってはいけないということをよく理解しているつもりだ。
好奇心に殺されてはかなわない。
ここは諏訪の脳内妄想についてはすっぱりと諦めよう。
﹁あ、いたいた! 相良さん﹂
生徒会書記という役職についた笑顔魔人がこちらへと片手を振っ
てやってくる。
﹁はい、プレゼント﹂
私の掌に、ひょいっと小さな立方体のボックスを乗せる。
﹁ありがとう。では、お返しを﹂
437
大神にも小さなボックスを手渡す。
﹁お返し? 律儀だね。開けてもいいの?﹂
くすくすと笑いながら受け取った大神は、掌の上のボックスに視
線を向ける。
﹁私の手作りだから拙いが、気に入ったのなら使ってくれ﹂
﹁そうなんだ。へえ﹂
興味深そうに箱を開けた大神の表情が驚きに彩られる。
﹁カフスボタン? これを作ったの?﹂
﹁制服用だ。カフスボタンについては規定がないからな、うちは。
それなら使ってもらえるかと思って﹂
﹁⋮⋮すごいな。花が立体的だ。竜胆?﹂
カフスボタンを摘まみ上げ、飾釦をしげしげと眺めた大神が呟く。
UVレジンと言って、特殊なエポキシ材を用いて紫外線で硬化さ
せるアクセサリーだ。
﹁うん。花は、全部違うんだが、立体的に見えるように何層にも重
ねて描いているんだ﹂
﹁見事だね。これなら、どこにでもつけていきたいよ﹂
﹁それは、男子用。女子用はスカーフタイのタイピンなんだ﹂
﹁⋮⋮相良さん、質問なんだけど。一体いくつ作ったの?﹂
にこにこと笑顔で質問してくる大神。
﹁う∼ん⋮⋮覚えてない。100個は軽く超えたかな? 一度に1
0個近くはライトあてて作れるから﹂
﹁実は暇だったとか?﹂
﹁1回の照射が2分程度で充分な大きさだからね。そんなに時間は
かかってないよ﹂
短気な私がイライラせずに楽しく作れただけある。
ライトをあててる間に次の分の絵を描いてればいいので、流れ作
業だ。
﹁あ。ごめん、双子たちと会う約束があるんだ、この辺で﹂
﹁ああ。引き留めてごめんね。カフスボタン、ありがとう。じゃあ﹂
438
互いに手を挙げ、背を向け歩き出す。
﹁⋮⋮あれ? 居たの、伊織。何でしょんぼり肩落としてるんだい
?﹂
背後から大神の声が聞こえた。
諏訪、まだいたのか。
大神との会話で諏訪の存在をすっかり忘れていたことに気が付い
た私は、その場に諏訪が留まっていたことを意外に思う。
ま、いいか。
別に用事はないと思い直し、振り返ることなく菅原双子と約束し
ている場所へと疾風と2人で向かった。
439
53︵後書き︶
名前のルビ打ちをしてほしいと仰る方が多いのですが、申し訳あり
ませんが、今後もするつもりはありません。
何故かと申しますと、ネタバレになるからです。
中には気付かれた方もいらっしゃいますが、名前にある一定の法則
があります。
名前も伏線の一部となっておりますので、それを含めて楽しんでく
ださいませ。
440
54
こちらへ向かって歩く女の子。
でもまだその姿は遠い。
大丈夫、このまま真っ直ぐこちらへ歩いて来て。
迎えに行けなくてごめん。
でも、待ってるから。
私の声が聞こえると、ほっとしたように微笑む少女。
必ず会えるから。
皆、君を待っている。
嬉しそうに頷く女の子に私も笑みを浮かべながら、浮上する意識
をその流れに委ねる。
まだ、彼女の姿はあんなに遠い。
いつになれば、辿り着けるのだろう。
かすかに抱く不安を押し隠し、私は瞼を持ち上げた。
***************
441
校舎から3年生の姿が消え、少しばかり淋しさを感じる。
バレンタインの時ばかりは、自由登校であるにもかかわらず殆ど
の3年生が登校していた。
あれはプレゼントを配るためなのだろうか、それとも貰うためな
のだろうか。
ちょっと胡乱なことを考えてしまう。
間もなく始まる期末テストに向けて、万全の態勢を整える。
1年間学んだことが総てテスト範囲となる。
どこがでるか、わからない。
だからこそ、万遍に知識が偏らず身についているかを確認しなけ
ればならない。
バレンタインの諏訪からのプレゼントは万年筆だった。
おそらく、限定ものか特注品だ。
筆身に細かな螺鈿細工がしてある工芸品のような繊細な美しさを
持つ一品だ。
学生が、学生に贈るような品ではない。
中身がなんであるかを知っていたら、確実に突き返していただろ
う。
贅沢すぎて受け取れるわけがない。
でも、受け取ったものを返すわけにはいかないので、一応、父と
祖父には報告しておいた。
品物を見るなり、メーカー名を呟いた父の表情は忘れられない。
万年筆をこよいなく愛する父は、こういった文具には詳しい。
100均文具なら私も詳しいが、値の張るものには疎い。
そんな私でさえ知っている有名な名前だった。
聞いた瞬間、ぎょっとしてガクブルしそうになった。
カートリッジも使えるタイプだったので、安心したけれど、通常
442
ならインク壺のみで書くランクのものらしい。
握り方や書き方を誤ると、インクで指先が染まってしまうので敬
遠されがちだが、私は万年筆が好きだ。
しかし、諏訪はどこからそんなことを調べ上げたのか。
実際に書き心地を確かめたい気もするが、筆身の細工が恐ろしく
て触れる事すら躊躇われる。
一方、大神がくれたのは意外過ぎるものだった。
小さな手のひらサイズのテディベア。
しかも、とてもよい香りがするのだ。
テディベアが持っている蜜壺の中にアロマオイルが入っており、
そこからとベア本体から同じ香りが漂ってくる。
今、そのテディベアは枕の上にちょこんと座っている。
そこが彼の定位置だ。
安眠できる香りを身に纏っているので、そこが彼の仕事場となっ
たのだ。
そこで頑張って働いて、私を安眠へと誘ってくれ。
眠ることほど幸せなことはないからな。
大神が贈ったものだから、中に盗聴器とかが入っているんじゃな
いのかと疾風が胡散臭そうな表情でテディベアを眺めていたが、ベ
ッドルームで独り言を言う癖はないし、寝言じゃ真実かどうかの整
合性は取れないし、盗聴器って近距離でしか集音できないと聞いて
るし、一番の問題はこのテディベア、アロマオイルに浸して香りを
保たせるタイプなので、オイルの中に浸かったら機械は壊れるよね。
全然問題ないだろう。
皆、色々と趣向を凝らしたプレゼントで、パッケージを開けるの
がとても楽しかった。
まぁ、もちろん、中にはドン引きしたものもある。
高級ランジェリー一式というやつだ。
443
贈り主は島津斉昭という。
同じ学年で、未成年だというのに女性の扱いに非常に長けている
やつだ。
成績は中の下あたりを彷徨っていて、真面目とは対極の位置にい
る。
そこそこ人気はあるようだが、できれば近付きたくない相手だ。
しかしながら、私の意見とは全く逆の意見を彼は持っており、疾
風たちがいない時を見計らって絡んで来ようとするのだ、ありがた
くないことに。
ちなみに島津家とは犬猿の仲なので、無視しても全く問題なしと
いうお言葉を祖父からいただいている。
そりゃね、エロ系なランジェリー一式をプレゼントされてドン引
きしない女性は少ないだろう。
可愛らしい透け感のあるピンクの生地に黒のレースをふんだんに
使っており、ブラとショーツ、ベビードールとガーターベルトにガ
ーターストッキング。ショーツはタンガだった。
同じ年だとはいえ、高1の女の子に夜な下着を贈ってどーする気
よ?
おっさん臭いんだが、島津!!
さすがにこれは、父と祖父には言えなかった。
気の毒なことに、これを開けたときに疾風がいた。
一応、プレゼントに危険物がないか確認するために、疾風が立ち
あっていたんだけど。
可哀想にがっつり固まっちゃってましたとも、真っ赤になって。
そして一番悲しいことに、サイズが合ってたんだよ。
どこからサイズを仕入れたんだ!?
さすがに疾風でも私のサイズは知らないぞ。
勿論兄たちもだ。
これは、殴ってもいいレベルだよなー。
よし。
444
今度、島津が何か仕掛けたときは、遠慮なく殴ろう。
そうしようっと。
3学期になって、昼休みなどの空き時間は殆ど温室であるサロン
で過ごすようになった。
あそこが一番暖かいからだ。
放課後も、迎えが来るまでの間、サロンでお茶をしながら試験勉
強対策をしている。
それを知った千瑛と千景も、今までなかなか足を向けなかったサ
ロンに来るようになった。
﹁足の具合はどう?﹂
私の脚に掛けられた膝掛を見た千瑛が問いかけてくる。
﹁調子は悪くないよ。膝掛は予防措置だから﹂
﹁そう。でも、冷えると調子悪くなるのよね?﹂
﹁まぁ、ね。傷口を締め付けるのはあまりよくないから、ストッキ
ングやタイツが使えないからねー﹂
﹁摩擦でケロイドが広がる恐れがあるしね。冷えると、血流が悪く
なるから、筋肉も委縮していくし﹂
﹁⋮⋮あれ? 千瑛って、医科志望?﹂
ふと思いついて問いかけてみる。
﹁そうね。瑞姫ちゃんを見て、医者になるのも悪くないかもと思っ
たわ。第一志望はエステの方だけど。あれも人の身体に詳しくない
と駄目だしね﹂
﹁千瑛のマッサージは気持ちいいよ。資格試験、合格するといいね﹂
﹁ありがとう。頑張るつもりだけど。医学の知識も、正確に欲しい
気もしてるのよねー﹂
珍しく悩んでいる様子の千瑛に、私は驚く。
人前で悩むような性格の子じゃないだけに、意外に思ったからだ。
445
﹁必要な知識なら、遠回りしても手に入れるべきだと思うけれど、
決めるのは千瑛自身だから﹂
﹁そうね。もう少し考えてみるわ。あと少しだけ、時間的余裕はあ
るものね﹂
頷く千瑛の隣で頬杖をついた千景が私を眺めている。
﹁そういう瑞姫は、もう進路決めた顔をしているよね? 教えてく
れないの?﹂
﹁やりたいことはあるんだけど、まだ、カードが揃ってないんだ﹂
千景の言葉に私は正直に話す。
﹁ふぅん。前から思ってたけど、瑞姫って、肝心なところで秘密主
義になるんだよね。そんなに周りの人間を巻き込むのが怖いの?﹂
﹁そりゃあ、怖いよ。自分の置かれた立場を考えればね。我儘だと
思われないか、余計な争いの種にならないか、きちんと見極めない
と前に進めない臆病なんだよ、私は﹂
﹁水臭いって言われるだけでも?﹂
﹁完全に安全だとわからないうちは、見切り発車はしないよ﹂
﹁そっか。それも仕方ないね。でも関わるつもりはあるからね。覚
悟してよ﹂
﹁そーそー! 千景も私も、瑞姫ちゃんのこと大好きなんだもん。
覚悟してよね﹂
双子たちは、笑みを浮かべてそう告げる。
﹁わかった、覚悟しておくよ﹂
2人の言葉に頷いて、私は開いていた教科書を閉じた。
446
55
高1最後の期末試験は、何とか僅差で有終の美を飾ることができ
た。
パーフェクトは無理だったけれど。
この頃になると、諏訪の容姿が変わってきつつあることに気付い
た御嬢様方がひそやかに熱い視線を送り始めた。
一度は地に落ちた人気も本人に変化の兆しが見え始めれば、緩や
かに回復していくものらしい。
しかしながら、詩織様一筋の時と同じく今の諏訪も女性嫌いなの
かと思うほど、周囲に女性を寄せ付けない。
話しかけられても必要最低限度しか応じず、時には無視さえする。
ヤツの嗜好がホモでもヘテロでも私としては一切関係ないのだが、
素っ気ない態度を取られた女の子たちは、何故か次に私のところへ
訴えてくるのだ。
それは非常に迷惑だ。
何故私が諏訪のフォローをしなければならない?
あいつの面倒を見るのは大神だろう。
たまにそう言ってみるが、誰もが首を横に振る。
﹃大神様の言葉でも、諏訪様は聞いてくださいませんもの﹄と言
うのだ。
ならば、諦めろと言いたいところだが、実際言ってみたりもした
のだが、彼女たちの答えはいつも同じだった。
﹃諏訪様が自ら声を掛けられ、会話をし、助言を聞き入れる女子
生徒は相良様だけですから﹄と。
諏訪とは関わり合いになりたくないという私の意思をいい加減、
受け入れてほしいものだ。
まあ、いい。
447
あと1ヶ月もしないうちに、春休みに入って、クラスもわかれる
はずだ。
それまでの辛抱だ。
そんなことを思いつつ、3年生は卒業式を迎え、高等部の校舎か
ら去って行った。
大学の敷地は、道路挟んで向こう側なだけに、春休みが明けたら
私服姿になった先輩たちの姿を見ることになるのだろう。
サロン通いをする私の姿を追って、サロンへ足を運ぶ生徒の姿が
増えたとコンシェルジュがお茶の用意をしながら教えてくれた。
さすがに最奥まで足を運ぶような強心臓の生徒はいないようだが。
カウチで寛いでいると、たまに寝落ちしてしまうことがある。
日向ぼっこしながらのお昼寝は何故こんなに気持ちがいいのだろ
うか。
外はまだ寒いけれど。
膝掛を掛けて、カウチの上に足を延ばしてのんびりしていたら、
いつの間にか眠っていたようだ。
目が覚めて、まず視界に映ったのは制服のグレーのパンツ。
枕はどうやら誰かの膝らしい。
硬いから、男か。
うぬぅ、残念!
膝枕は女の子に限るのに。
眉間に皺をよせ、心の中で盛大に文句を垂れる。
で、誰の膝だろう?
半分寝惚け状態の私に羞恥心はない。
誰かの膝で目覚めて、きゃあ、恥ずかしい。なんてことは思わな
い。
人の寝顔をタダで見やがって! とは、思うけど。
﹁瑞姫、起きたの?﹂
降ってきた声で誰の膝かがわかった。
448
﹁⋮⋮誉?﹂
身動きして、甘い香りが漂い、それが橘だと確信する。
橘が気に入っているらしいブランドのボディソープの香りだ。
バニラビーンズにも似た甘い香りがする。
仄かにしか香らないため、近距離でないとわからない。
﹁誰もいない時に眠っちゃだめだよ、瑞姫。不用心すぎる﹂
﹁ごめんなさい﹂
橘の注意に素直に謝る。
言い訳をすれば、馴染んだ気配以外では人が近づけば目が覚める
のだけれど。
﹁でも、何で膝枕?﹂
﹁近くをうろついているやつがいてね。神族だったけど。岡部もい
ないし、ま、牽制ってとこかな?﹂
﹁ふぅん。そうか、それは悪かった。だが、寝心地は悪かった﹂
起き上がり、髪を手櫛で整えながら正直に言えば、橘が微妙な表
情になる。
﹁どうにも男の膝は硬くて高くて枕に不向きだな。木の根の方が高
さに関してはちょうどいいぐらいだ﹂
﹁何故、木の根っこと比較する!? それより、何で男の膝枕で眠
った経験がたくさんありそうなんだい?﹂
﹁兄たちが枕になりたがるんだ。縁側で眠ってると、たまに父も枕
になってる﹂
﹁そっちか! それより瑞姫、どこででも眠るのはやめた方がいい
と思うよ、本当に﹂
﹁⋮⋮家の中なんだけど、駄目か?﹂
﹁やめておきなさい﹂
﹁⋮⋮わかった﹂
何故だか真面目な表情で橘が言い聞かせてくるので、仕方なく頷
く。
﹁このところ、よく眠ってる姿を見かけるけど、調子悪いの?﹂
449
心配そうな表情で問いかけてくる友人に、私は首を横に振る。
﹁いいや。むしろ、調子いい。眠いときは、身体が睡眠を欲してい
る時だから、逆らわずに眠れと言われてるけど﹂
﹁え?﹂
﹁表面ではわからない傷とか内側のヤツとか、癒そうとすると無駄
な体力を消費しないように眠くなるらしい。よくわからないけど﹂
﹁そうなんだ﹂
﹁うん。身体が治ろうという方向に向かって走っている最中なんだ
ろうな。何段階かに分けて、身体が負担なく治ろうとするらしい﹂
たまに、昼間でも意識が朦朧とするほど睡魔が襲ってくることが
ある。
夜更かしはしていないので、睡眠不足ではない。
そのまま睡魔に身を任せて眠ってしまえば、目覚めたときに身体
が軽く感じることが多い。
なので、その説明を受けて納得した。
﹁それじゃ、春休みはあまり予定を入れない方がいいかな?﹂
私の説明を聞いた橘が、難しそうな表情で問いかけてくる。
﹁いや。大丈夫だと思う。寝落ちしたら放置してくれると助かるけ
ど﹂
大体、移動中とかは確実に眠ってるな、最近。
疾風がいないと、こういった場面で非常に困ることになる。
﹁出かけるのは控えた方がいいみたいだね﹂
放置という言葉に顔を顰めた橘が、そう結論付ける。
﹁お任せします﹂
こういう時は、私が大丈夫と言い張っても誰も信用しないだろう。
ただ眠いだけなのに、妙に心配するのだから。
﹁春休みか⋮⋮1年経つんだな﹂
ぽつりと橘が呟く。
﹁そうだね﹂
相槌を打ち、近くの薔薇の花を眺める。
450
﹁1年、か⋮⋮﹂
何を考えているのだろうか、遠い目で橘が記憶を辿っているよう
だ。
本当にいろんなことがあった1年間だけに、思い返すのも面倒だ。
カウチの端と端に座り、それぞれの方向を眺めて思いに耽る。
次の1年がどんな年になるのか、のんびりと思いを馳せた。
451
56
﹁瑞姫、デートしようか﹂
春休みに入り、いつものように別棟に集まっての勉強会で、突然、
橘が笑顔でこう言い出した。
﹁⋮⋮は?﹂
ぎょっとしたように在原が真っ赤になって固まっている。
﹁うん、いいよー﹂
あっさりと頷いた私に、錆びついたロボットのようにぎぎぎっと
首をぎこちなく動かした在原が、ぱくぱくと口を動かす。
﹁み、みみみみ瑞姫っ!! デートって! デートって!?﹂
﹁うるさいよ、静稀﹂
橘が在原をいなす。
﹁聞いてないよ! 誉と瑞姫が付き合ってるなんて!!﹂
﹁⋮⋮付き合ってないよ、ねえ?﹂
﹁友達としては付き合ってるけどね﹂
テーブルをバンバン叩きながら声を上げる在原に、私と橘は顔を
見合わせて頷き合う。
﹁⋮⋮へ?﹂
きょとんとした在原は、瞬きを繰り返し、私と橘を交互に見る。
﹁でも、デートって⋮⋮﹂
﹁友達と約束して出かけることをデートって言うよ?﹂
﹁うん。女の子はそういう風に言うんだって﹂
私の言葉を裏付けるかのように、橘は頷き、疾風が呆れたように
肩をすくめている。
452
﹁え? じゃ、じゃあ⋮⋮﹂
﹁単に遊びに行こうよっていうお誘い?﹂
だよね? と、橘に同意を求めれば、うんと頷く姿が視界に映る。
﹁ここの所、瑞姫、外に出かけられてないからね。気分転換になれ
ばと思って﹂
﹁ああ、そうか!﹂
ここ最近の一連の騒ぎを知っている在原も、橘の言いたいことを
悟って頷く。
﹁俺達と一緒なら、何とか出掛けられるかもしれないな﹂
護衛の数や、出かける場所やらを考慮すれば、可能になると在原
も計算したようだ。
﹁ちょっとした施設なら、貸切にしてもらえるだろうし﹂
﹁うん。だからね、瑞姫の時間を3日ほどもらえるかなと思ってさ﹂
﹁⋮⋮3日? 何故、3日?﹂
デートなら1日で充分だろうと首を傾げる私に、橘は笑う。
﹁俺プロデュースのデートが1日、岡部が1日、在原が1日で計3
日。そのくらいの余裕はあるでしょ?﹂
そう言われ、私は疾風に視線を向ける。
時間的余裕は確かにあるが、警備の方はわからない。
いきなり言われても、迷惑がかかるようなことはできないし。
﹁プランを立てたモノを提出してもらえるのなら、日程調整してや
れないことはないな﹂
行く場所を事前に下調べして安全かどうかを確認したりするから
か。
そのことを知っているから、私が出かけることを躊躇うのだと疾
風は知っている。
さっき、あっさり返事したのは1日だけだと思ったからこそ。
3回も出かけるのなら、やっぱり躊躇う。
﹁疾風⋮⋮﹂
﹁大丈夫だ。少しぐらい我儘言えって。閉じこもってばっかりだと、
453
かえって健康に悪い。遊びに行きたいって言えよ﹂
珍しく疾風が外に出ることを促す。
﹁橘も、言い出したからには、ある程度考えているんだろ?﹂
﹁まぁね。とりあえず、色々とプラン考えて、それから了承貰って、
実行に移すまでに最低でも1週間はかかるかなって思ってたんだけ
ど﹂
﹁⋮⋮妥当だな。3日でプラン出せるか? それを検討して、修正
をしてもらうかもしれないし、そのまま実行できるとしても、場所
を押さえる必要もあるし、そのくらいはかかるな﹂
てきぱきと流れを説明する疾風の隣で、在原が難しい表情を浮か
べる。
﹁ちょっと待って! プラン出す前に、それぞれのコンセプトを言
っておかないと、行く場所が被ったりしたら面白くないよね?﹂
﹁あ。そこは、重要だな、確かに﹂
頷き合った彼らは、私から離れた位置へと移動して、ぼそぼそと
何やら話し合っている。
私は仲間はずれか。
ちょっとばかり淋しいぞ!
話がまとまったのか、こちらに戻ってきた在原が、ごぞごそと勉
強していた教科書やノートを片付け始める。
﹁静稀?﹂
﹁デートプラン、ちゃんと練ってくるから、今日はここまでな。楽
しみにしてろよ、瑞姫﹂
にこにこと満足げな笑みで告げる在原は、バッグの中に荷物を入
れ込むと、別棟を後にした。
﹁あ! 静稀⋮⋮﹂
声を掛ける間もなく去って行った在原に、私は呆然とする。
﹁さてと。今日は俺も、ここで引き上げるとするか﹂
橘も荷物をまとめて立ち上がる。
﹁誉? あの、さ⋮⋮﹂
454
﹁楽しみに待っててよ。それとね、瑞姫﹂
笑みを湛えた橘が、私の顔を覗き込む。
﹁瑞姫は何も悪くないんだ。君が我慢する必要はない。警護の者だ
って、それを充分理解しているし、我儘を言わない君を案じている
ってことを知るべきだ﹂
﹁しかし﹂
﹁仕事をさせてもらえないなんて、彼らにとっては屈辱かもしれな
いよ? 雇い主に信用されていないなんて、不名誉なことだしね﹂
﹁信用していないわけじゃない。彼らが仕事しやすいようにここに
いた方が﹂
﹁瑞姫!﹂
私の言葉を橘が遮る。
﹁よく眠れてないような顔をして、そんなことを言うものじゃない
よ。君がはしゃいでよく眠れるのなら、遊園地を貸切にしたってい
いくらいだと思ってる人がたくさんいることを忘れては駄目だよ?﹂
﹁眠れてないような顔?﹂
寝不足ではない、断じて。
﹁きちんと眠っているぞ﹂
﹁じゃあ、悩み事でもあるのかい?﹂
﹁⋮⋮悩みのない人間なんていないだろう、普通に考えても﹂
﹁誤魔化さない﹂
ぴしゃりと言われ、返事に困る。
﹁誤魔化すつもりなど毛頭ないが。そう見えたのなら、すまない﹂
﹁うん。とにかく、瑞姫は何も考えずに楽しめばいい。そういうわ
けで、プランができるまで、俺も静稀もちょっとバタバタしてると
思うから﹂
﹁ああ、わかった。気を付けて﹂
そういうしか、ないわけで。
私は疾風と肩を並べて橘を見送った。
455
57 ︵橘誉視点︶︵前書き︶
橘誉視点
456
57 ︵橘誉視点︶
橘家嫡男。
それが、俺に与えられた役割だった。
自分という存在が、どこか歪なものであることに気付いたのは、
物心がついて間もなくのことだった。
母が2人いるということが、どういう意味を持つのか、教えられ
たのは名も知らぬ他人からだ。
名家という立場にありながら、賤しい存在だと蔑まれ、手をあげ
られたこともある。
母は身体の弱い人で、一日中、ベッドの上で過ごしていた。
会えるのは、1ヶ月に数度。
その間、俺はただ一人、部屋で過ごす。
親の愛というものには恵まれていると理解している。
母は、それこそ惜しみない愛情を注いでくれた。
﹁誉が笑っていることが、私の一番の幸せよ﹂
そう言って微笑む母がいるから、俺は笑顔でいることを選らんだ。
世の中には要らぬことを声高に告げる人がいるもので、己が正義
だと言いたげに、俺が父の愛人の子だと言って、賤しい子供だとひ
と目がなければ暴力をふるうやつもいた。
457
その頃には、俺が正妻である由美子夫人の子供ではなく、彼女の
腹違いの妹の子であることは理解していた。
どういう理由で母が俺を産んだのかはわからない。
だが、俺は望まれて生まれたのだということは由美子夫人から言
われ続けたため、己の出生などに価値を求めるような子供ではなく
なっていた。
俺の役目は、橘家を繋ぐこと。
それだけだ。
誰に何を言われようと、それは揺るがない。
俺は俺に振られた役割を果たすだけだ。
そう思う、醒めた一面を持つ子供に育っていった。
東雲学園に就学し、初等部に進んで間もなくの頃だったか、橘家
でパーティを催し、俺は両親に挟まれるように立ち、客に挨拶をし
ていた。
ほとんど、招待客が揃ったところでタイムスケジュール通りにイ
ベントが進んでいく。
その頃になると、子供である俺の役目はほとんどない。
自由に動いていいという許可をもらい、パーティ会場から離れる。
自分の住む屋敷の中だ、動いたところで迷子にはならない。
だが、会場で刺さる好奇の視線を避けるために逃げ出したのが、
仇となった。
母と同じ年ぐらいの女性と遭遇し、いきなり頬を打たれたのだ。
﹁汚らわしい! 賤しい子供が何故こんなところに!?﹂
嫌悪もあらわに俺を蔑む表情は、実に醜い。
﹁自分の家だから﹂
俺は笑って答える。
一応、暮らしているが、この家が自分の居場所だと思ったことは
458
一度もない。
育ての母が俺の家だと言うから、居るだけだ。
何をどう頑張っても子供でしかない俺が、この家を出て一人で暮
らすことなど不可能だ。
家の借り方などわからないし、第一、借りるためのお金などどう
やって得るのかも知らない。
食事をするために、調理をしなければならないというのは辛うじ
てわかるが、どうやってするのかなどさっぱりだ。
だが、厚化粧のその女は、俺の言葉が気に入らなかったらしく、
手を再び上げた。
ぱんと乾いた音が鳴り響く。
予想していた痛みは訪れなかった。
﹁ひっ!! 相良様!?﹂
女の蒼白な表情と、俺の前に立つ少女の姿。
どうやら女は俺ではなく、目の前に立つ少女を叩いてしまったよ
うだ。
ガタガタと震える女を少女は冷ややかな目で見上げている。
﹁も、申し訳も⋮⋮﹂
﹁自分が何をしているのか、わかっているのか?﹂
少女の言葉は冷静だった。
そうして、女よりも絶対的に上の立場であることを前提に問いか
けていた。
﹁わ、わたしは⋮⋮﹂
﹁大人が子供を手に掛けるという意味を知っていて、やったのか?﹂
淡々とした口調。
﹁私が、このまま人前に出て、何があったのかを言えば、どうなる
かわかっているのか?﹂
﹁それは!! お許しください、相良様!! わたくしはただ、そ
の賤しい子供を⋮⋮﹂
﹁賤しい子供なら、打ってもよくて、私なら駄目なのか? 意味が
459
解らないな﹂
愛らしい顔立ちの少女が、凄みのある笑みを浮かべる。
﹁見ていたが、彼に非があるようには見えない。彼が何者が知って
いて手を挙げたと⋮⋮?﹂
﹁そうですわ!! そんな賤しい子供、相良様が気に留めるような
ものではありませんもの﹂
我が意を得たりとばかりに表情を変えた女に、少女の表情が変わ
る。
﹁⋮⋮賤しいと言うのは、何を差して言う?﹂
﹁それは、もちろん、その子供の母親のことですわ! 愛人の子供
の分際で⋮⋮﹂
﹁彼の母親、いや、その、祖母は葛城の姫だということを知ってい
てそう言えるのか? 不世出の巫女姫と名高かった方だそうだ。彼
の母親は、その方の娘で、橘氏の婚約者だ。愛人の子供ではないな﹂
俺と同じ年にしか見えないが、どう見ても女よりも年上のように
振る舞う少女は、全く俺を振り返ろうとはせず、その背で俺を庇っ
ている。
女の子に庇ってもらうなど、初めてのことだった。
﹁葛城の⋮⋮土蜘蛛!?﹂
少女の言葉に、女の表情がさらに恐怖に彩られた。
土蜘蛛が何を意味しているのか、全く分からないが、あまりいい
評判を得ているようには見えない。
﹁あなたは、葛城を敵に回した、そういうことだ。それと、私の母
は一般人だ。母の身分を言うのなら、私の方が幾段も低いというこ
とだが、それでも私より彼の方が賤しいと言うのか?﹂
肩にかかった長い髪を手で払いながら、のんびりとした口調で問
いかける。
人の悪い笑みを浮かべながら。
﹁さて。人を賤しいと言う、あなたのその考え方こそ人として恥ず
べきだと私は思うが、他の方はどう思うか、人を呼んで尋ねてみよ
460
うか? この頬の手形を含めて﹂
にっこりと空々しい笑みを浮かべて告げる少女のひとり勝ちだっ
た。
その場に崩れ落ちた女を冷めた視線で見下ろした少女は、俺の手
を掴むと歩き出す。
彼女が向かった先は、控室として用意された客間だった。
ドアを閉め、さらにその奥へと姿を消した少女を茫然と眺める俺。
彼女の顔に見覚えはあった。
同じ東雲学園の初等部に通う生徒だ。
名前は、確か、相良瑞姫と言ったはずだ。
その相良が奥の部屋から戻ってくると、無造作に何かを突き出し
た。
﹁冷やすといい。見ていて痛々しい﹂
自分も赤い頬をしていながら、そんなことを言う相良に、俺は首
を横に振る。
﹁君が先に使って。庇ってくれてありがとう。でも、いつものこと
だから﹂
﹁いつものことだからと受け流すな、馬鹿者! 流していいことと
ならないことの区別くらいつけろ!﹂
きつい声で言われ、驚く。
﹁だけど、本当のことだから﹂
﹁どこが本当だ!? 母親を貶められて黙る莫迦がどこにいる!?
憤るのは子供の特権だぞ!﹂
﹁えーっと⋮⋮?﹂
﹁⋮⋮笑いたくないのに、無理に笑わなくていいんだ﹂
そう言われ、俺は驚く。
何でわかったんだろう?
母が笑っていてほしいと言っていたから、笑っていたということ
に。
本当は、笑いたくなんてなかった。
461
でも、笑うと喜んでくれるから、笑顔を作っていただけだ。
﹁あの⋮⋮土蜘蛛って、何?﹂
俺は先程の会話で気になっていたことを聞く。
﹁土蜘蛛、か? 聞くと不愉快になるから、聞かない方がいい﹂
﹁どうして?﹂
﹁葛城という家は、代々、不思議な力を持つ者が生まれるらしい。
それが他の者にとってとても恐ろしく映るため、そういう呼び方が
生まれたと聞いている。それ以上は、もう少し経ってから、自分で
調べるといい﹂
先程の表情とは打って変わって、少しばかり困ったような表情で
答える少女に、俺はほっとした。
凛然とした表情は、あまりにも大人びていて、相良が実は触れた
ら壊れるガラス細工のような脆さをどこかで感じていたせいもある。
この少女は、ちゃんと生きている生身の人間なんだと、理解でき
て嬉しかった。
﹁わかった。自分で調べるよ﹂
自力で調べた方がいいと、そう思って言えば、相良はゆったりと
頷く。
﹁あの。相良、瑞姫さん、だよね? 俺、あ、僕、橘誉といいます﹂
名乗っていなかったことを思い出し、慌てて名乗る。
少女が初めて年相応の笑みを浮かべた。
その柔らかな笑顔に、一瞬、目を奪われる。
﹁それで、あの。よかったら、友達になってくれませんか?﹂
生まれて初めて言った言葉だった。
誰かと友達になりたいなんて、思ったこともなかった。
橘という名前の下に寄って来る人間は多かったが、俺自身を見て
くれる人は誰もいなかった。
父の親友だと言う人の息子は、例外と言えるかもしれないが、あ
れは、親が友人だという条件があってこそ、だ。
それ以外の人では、初めてのことだった。
462
俺の言葉に、その人は笑みを深くする。
受け入れてくれると思った。
でも、返ってきたのは真逆の言葉だった。
﹁すまないが、今は断る﹂
﹁どうして!?﹂
﹁誤解のないように言うが、君が嫌いだからという理由ではないか
らな? 私の家族が言うには、私は狙われやすい立場にいるらしい。
そんな私と友人になるには、自分の身を守れるものでないとダメな
んだそうだ。だから、今は断る﹂
﹁自分の身を守れるようになれば、いいんだ?﹂
﹁そうだ﹂
﹁うん。わかった。じゃあ、今は諦める﹂
相良瑞姫に関する噂というのは、常に学園内で耳にする。
誰に何を言われても友達を作ろうとはしないというものと、物々
しいほどの警護の者が送り迎えをしているということ。
誘拐など日常茶飯事に狙われているからだと聞いている。
母も可哀想にと言っていた。
可哀想な子供ではないことくらい、見ればわかる。
だから、今は、諦めることにした。
やっと見つけた、自分の居場所。
彼女の傍が、自分が自分らしく居られる場所だということに気が
付いた。
だから、その場所を得るために努力した。
随分長い時間を費やしたけれど、やっと手に入れたその場所は、
とても居心地のいいものだ。
相変わらず、家というものは歪な場所だという認識が取れないが、
それでも学校や彼女の家で過ごす時間は何よりも得難いものだ。
463
だからこそそれを手放すことはできない。
瑞姫を守ることは、岡部に任せている。
彼以上の適任はいないからだ。
俺にできる事は、別のことだ。
俺が俺の居場所を見つけたように、瑞姫も自分の居心地のいい居
場所を見つけられるといい。
そのために、俺ができる事は何でもしようと思う。
どこか疲れた表情を覗かせる瑞姫のために、気晴らしになるプラ
ンを考えながら、俺は思う。
瑞姫が心から笑える1日を作ってやりたいと。
何も考えずに、楽しめるような、思い出に残るような1日を作り
たい。
それがどんな思いから生まれてくるのか、まだ考えもしないけれ
ど、それでも彼女の為に俺は相良家に無茶を通した。
464
58
ぽかんと口を開け、こちらを見ている在原。
何故そこまで驚く必要がある? と、尋ねたくなるほど、呆然と
している。
﹁うわああ⋮⋮スカートだぁ!!﹂
感動したように呟く在原だが、この姿を指定したのは彼自身だ。
どういう理由でかは知らないが、デートを企画した橘に、何かす
ることはないかと尋ねたら、自分たちが指定した格好でデートして
くれと言われた。
在原が指定したのはスカートだった。
いつもパンツスタイルだから、見たいと言われれば、頷くほかは
ない。
脚の傷も、膝下はかなり消えかかって来たので、ロングスカート
なら穿けないことはない。
ただし、タイツやストッキングが穿けないので、脚が冷えて傷が
痛みだすため、常にスカートは無理だ。
もうしばらく、辛抱が必要だ。
疾風の指定は温かい格好で、橘の指定は動きやすい格好だった。
この2人は何を私にさせたいのだろうか。
その点、在原はわかりやすい。
在原は女の子は女性らしい姿をすることを好んでいる。
例えば、ふわりと揺れるフレアスカートだとか、ファーがついた
ニットのワンピースだとか。
自分に正直な在原なので、視線や表情ですぐにわかるのだ。
身体のラインがはっきり出るような服はあまり好きではないらし
465
い。
いくら可愛くてもミニスカートだったりすると眉間に皺が寄って
いる。
絶対領域には萌えないのか。
ちょっと意外だ。
﹁在原の指定だっただろうが﹂
自分の姿を見下ろし、そう言うと、在原は嬉しそうに頷く。
﹁我儘言ってごめんな? 久々に見たかったんだよな、瑞姫のスカ
ート姿って。そろそろ温かくなってきたから、短い時間ならいいか
なと思って﹂
﹁静稀がオヤジすぎる発言してる﹂
﹁こいつ、元々オヤジだろ?﹂
橘と疾風が嫌そうな表情で在原にツッコミを入れている。
﹁オヤジの前にスケベが入っていないだけ、マシだと思った方がい
いのか?﹂
そんな2人に私は真顔で問いかける。
﹁ちょっ!! 瑞姫ちゃん! 真顔で言わないでっ! 邪な目で見
てるわけじゃないし!!﹂
﹁女子にスカート穿けと言う時点で邪だと思うが?﹂
﹁ちょっ! 岡部、酷いよ!!﹂
今日も在原は疾風にいじられている。
通常運転だな。
﹁でも、瑞姫、その姿、似合ってるよ﹂
橘が笑顔で告げる。
﹁ん。ありがとう。姉の見立てだ﹂
橘は人を褒めるのが上手だ。
半分ぐらいで聞くのがちょうどいい。
つまり、普通だと思うのがいいというわけだ。
今穿いているのは足首までのフレアスカートだ。
クラシカルスタイルで上はジャケットとブラウスで合わせている。
466
フレアスカートもそのまま広がるタイプではなく、膝のあたりに
共布で作られた花がつけられ、それがスカートが広がりすぎないよ
うに押さえているのだ。
足許はローファーだ。
本当はショートブーツが良かったのだが、持ってるブーツはヒー
ルがあるので、履くと在原より背が高くなるので踵が低いローファ
ーにしたのだ。
余計にクラシカルなイメージになったけれど。
﹁じゃ、お手をどうぞ。お嬢様﹂
にっと笑った在原が手を差し出し、気取って言う。
これが﹃お姫様﹄だったら、笑い出してたところだろうが、お嬢
様だったので許容範囲だ。
在原の手を借り、車に乗り込み、そうして私たちは目的地へと向
かった。
目的地は、中心街からやや離れたところにある植物園。
まるで公園のような設えだが、れっきとした植物園なのだ。
そして、一般的な植物を集めているのではなく、主にハーブを中
心とした香りと癒しをテーマにしている。
イングリッシュガーデンのように整えられている場所もあれば、
野原のようにどう見ても自然まかせになっているような場所もある。
温室の中で東屋のような場所を設け、そこでハーブティなどを楽
しむこともできるようになっている。
体験型を謳っており、ハーブを用いたコサージュやポプリ作り、
アロマオイルを用いての石鹸作りやボディローション、ハンドクリ
ームなども作れる。
在原が申し込んでいたのは、マイフレグランスというコースだっ
た。
467
自分用のフレグランス、トワレやパヒュームを作るらしい。
レシピを完成させたら、定期的に注文すれば作って送ってくれる
ということだ。
自分だけの香りというのは、やはり少しばかり憧れるものはある。
歩いた痕がわかるほど香りが漂うのは敬遠するが、すれ違った時
に仄かに香るというのはわりといいのではないかと思う。
私がアロマに興味を持っていると知っているため、こういうチョ
イスになったのだろうか。
ハーブ園と言っていいのだろうか、洗練されたデザインの温室の
中に、ハーブが趣向を凝らして植えられている。
﹁うわあ、いい香り﹂
爽やかな草の香りに在原が目を丸くしている。
自分で選んでおいて、意外そうな表情をしているな。
そんな様子の在原を見やり、橘が苦笑している。
﹁うわぁ⋮⋮季節無視だな﹂
植えられた植栽に、思い切り違和感を感じ、私は笑う。
冬に摘み取り時期を迎えるハーブたちと、夏に盛りを迎えるハー
ブが同時に咲き乱れているというのは微妙な心地がする。
元々、ハーブは一年中、摘み取り時期だという種類も少なくはな
い。
その丈夫さ、手軽さゆえ、ハーブを育ててみようと思う人も多い
らしい。
いつでもフレッシュハーブティがいただけるのなら、確かに育て
る人も出てくるだろう。
私もできる事ならやってみたいが、まず、難しいだろう。
兄や姉たちにプランタに水を遠慮なく注がれ、水枯れしそうな気
がしてならない。
水をかけてくれるのはありがたいが、ちゃんと土の状態を確認し
てからにしてほしいと願うのは贅沢なのだろうか。
468
そもそも、水遣りをするのは、たった一人で充分なのだ。
﹁瑞姫、この花はなんだ?﹂
白い菊のような親指の爪ぐらいの大きさの花を見て、ハーブの効
能を聞こうとする疾風。
﹁これが有名なカモミールだよ。リンゴのような香りがするだろ?﹂
﹁⋮⋮う∼ん。﹂
微妙な表情で疾風が唸る。
薫りを認めても、リンゴのような香りとは言いにくいと感じたよ
うだ。
こればかりは感覚の問題なので、この香り全体のどこら辺がリン
ゴのようだと判断しづらいようだ。
﹁瑞姫はこの香り、好きか?﹂
今度は在原が問う。
﹁うん、単体なら好きだよ。だけど、他の香りと混ざると気分が悪
くなる﹂
﹁組み合わせ、かあ﹂
難しい表情で唸っていた在原が、表情を変える。
ゆったりと散策をしながら時折足を止め、そこにあるハーブにつ
いて色々と説明書きを読む。
ハーブの効能というのは、実に色々とあるようだ。
一般的に知られた効能以外にも隠されたものがあるそうだ。
その効能の意外性に驚きの声を上げる。
リラックス効果が有名なものが実は毛生え薬として珍重されてい
たとか。
割と知らなかった効能が書かれてあったりと知識を満たすには充
分すぎるほどだ。
香りというものは、実に奥が深い。
そして種類も多い。
ハーブというものは一体どれほどの数があるのかと、気が遠くな
りそうだ。
469
温室を廻り終わり、別の建物へと移動する。
そこが体験コーナーだった。
﹁誉、岡部! 勝負だっ!!﹂
フレグランスのコーナーに辿り着いた在原が、2人に向かって勝
負を挑む。
⋮⋮一体、何をする気なんだろうか。
張り切る在原に、私は目を丸くした。
470
58︵後書き︶
昨日は残業で午前様となり、話が書けませんでした。
翌日打ち合わせだというのに、資料のチェックをせずに現場に行っ
た若手の助っ人で半徹でした。
471
59
在原プロデュースのデート。
マイフレグランスの体験コーナーでいきなり在原たちが勝負する
と言い出し、私は唖然とした。
何故、いきなり、勝負という言葉が出てくる!?
驚く私を余所に、3人はやたらと盛り上がっている。
完全に仲間外れ状態にぽつんとしていたら、私の担当になってく
れた女性がにっこりと微笑みかけてくれた。
﹁皆さん、仲がよろしいのですね﹂
﹁ええ。こういう展開は初めてですけれど﹂
﹁まあ、そうなんですか?﹂
﹁⋮⋮はあ﹂
曖昧に頷くしか、私に残された道はない。
﹁では、とっておきの一品を作って、後で自慢しましょうね﹂
その言葉に、私は頷く。
﹁はい。よろしくお願いします﹂
﹁こちらこそ﹂
にこやかに微笑んだ女性の指導の下、私は自分の香水作りに没頭
した。
﹁今回は5mlのパヒュームを作っていただきます﹂
472
しっとりと落ち着いた声で説明が始まる。
﹁アロマオイルからなるエッセンシャルオイルの濃度は15%を限
度にしてくださいね。香水の持続時間は、使用したエッセンシャル
オイルによって異なりますが、パヒュームの場合、大体3∼4時間
程度、香ります。次にノートについてですが、トップノート、ミド
ルノート、ベースノートの3種類があります。トップノートは、香
りの立ちが早く、持続性も短いという特徴があります。香りの第一
印象になりますので、華やかな香りを選ばれるといいでしょう。次
にミドルノートは、つけてから数分後から香りはじめ、ゆっくりと
広がる穏やかな香りで、全体のバランスを整えます。最後のベース
ノートは、持続性があり、数時間後まで香りを安定させます﹂
貰ったペーパーに目を通しながら、その説明を聞く。
バランスが大事なので、似たようなグループから選ぶといいのか。
﹁5mlだと、エッセンシャルオイルは15滴程度だと覚えていた
だくといいでしょう﹂
なるほどー。
ペーパーにはトップ、ミドル、ベースそれぞれに適したアロマオ
イルがグループ分けされ書かれている。
この中から好きな香りを選べばいいのか。
﹁では次に、香りを確かめてみましょうか。まずはベースを決めま
しょう﹂
ベース用のアロマオイルを気になったものから試験紙に落として
香りを確かめていく。
﹁あ。これがいいかも﹂
白檀の香りも捨てがたいが、乳香の香りも気に入った。
一応、候補としてこの2つを選んでおく。
その次にミドルノートになる香りを選ぶ。
トップはもう決めていたので、これを選べばほぼ終わり。
さんざん悩んだ挙句、フローラル系にする。
バランス重視なので無難な方向に向かってます。
473
最後のトップはスイートオレンジにした。
オレンジの精油瓶を選び、手に取ろうとしたら、同じくオレンジ
を選んだらしい橘と指が触れあう。
﹁あ﹂
まさかここでぶつかるとは思わなかった橘が、驚いたように声を
上げ、私を見て笑みを浮かべる。
﹁瑞姫もオレンジを選んだの? 気が合うね﹂
にこやかな笑みを湛えながら、もう1つあったオレンジの瓶に手
を伸ばす。
橘がオレンジ。
ふと過ったことがツボにはまり、笑い出す。
﹁瑞姫!?﹂
﹁い、いや。ごめん!! 何でもないからっ!!﹂
みかんがオレンジという言葉がぐるぐると脳裏を廻り、どうにも
笑いが止まらない。
悪いとは思いつつも、やっぱりおかしい。
スイートオレンジの精油瓶を握り締めながら、自分のブースに戻
れば、私の担当をしてくれている女性が怪訝そうに首を傾げる。
﹁どうかなさいましたか?﹂
﹁いえ。橘が、オレンジ選んだのがおかしくて⋮⋮﹂
﹁⋮⋮タチバナ⋮⋮ああ!!﹂
私の拙い説明に、それでもピンときたのか、納得した表情を浮か
べ、同じく吹き出しかけ、慌てて表情を引き締める。
﹁ええっとでは、配合を決めていきましょうか。大体のところの数
量がこちらの紙に書いてありますけれど、若干少なめに入れて、香
りを確認しながら作ると失敗はしにくいですよ﹂
﹁あ、はい。少な目、ですね﹂
基本、自分の好みで分量を決めていいらしいが、ある程度の目安
があれば、失敗はし辛いのも確かだ。
﹁エッセンシャルオイルを作るコツは、オイルを調合した後になじ
474
ませるために1日置いた方が本当はいいです。無水エタノールに溶
かしていきますが、アルコールが肌に合わない方はオイルでも大丈
夫ですよ﹂
﹁そうなんですか﹂
﹁ええ。オイルの場合は容器をロールオンにするといいですね。あ
と、これはできるだけ早く使い切ってください。目安は1ヶ月程度
です﹂
﹁そんなに早くですか?﹂
﹁ええそうです。ですから、量を少なめに作っていく方がいいんで
すよ。まあ、動物性オイルを使っている市販のパヒュームだと日持
ちはしますが、重ね付けはお勧めできません。でも、こちらだと、
数時間おきの重ね付けはできますから、意外と早く使い切ることが
できますよ﹂
なるほどな。
納得だ。
お仕事なんだろうけど、親切な人にあたってよかった。
エッセンシャルオイルの調合も色々とアドバイスをしてくれて、
ほんわかと和む香りができた。
これを分量通りに量った無水エタノールと合わせ、ゆっくりと混
ぜていく。
﹁これを最低1週間、1日1回ゆっくりと混ぜて馴染ませます。3
週間置けば、香りが馴染んで完成です。そのあと、1ヶ月以内に使
い切ることを忘れないでくださいね﹂
﹁はい﹂
出来上がったばかりのパヒュームを試験紙に吹きかけ、香りを確
かめる。
なかなかいい感じだ。
﹁いい香りですね。これだと馴染むともっといい感じになるでしょ
うね。はい、こちらが今回のレシピです。控えは取っておきました
ので、同じものがほしいときは、ご注文していただければ、こちら
475
で作成してお送りすることもできますよ﹂
﹁わかりました。ありがとうございます。ぜひ、お願いします﹂
自分だけのオリジナルレシピってちょっと嬉しい。
パーティとかに出席すると、大人の女性たちはほぼ皆、香水を纏
っている。
外国製の香水が殆どだから、ちょっと違和感感じる時もあるのだ
よね。
まあ、好みの問題だから仕方がないのだけれど。
未成年である私には、これが最上だろう。
さすがに学校にはしていけないけれど、家で楽しむにはいいだろ
う。
エタノールをオイルに変えればアロマランプとかでも使えるらし
いし。
アトマイザーに詰めてもらって、にこにこしていたら、作り終わ
ったらしい在原たちが作品を私に差し出してきた。
﹁瑞姫、どれが一番好き?﹂
期待に満ちた視線が私に突き刺さる。
﹁え?﹂
﹁瑞姫の好みはどれか、選んでよ﹂
﹁私が選ぶのか!?﹂
﹁当然だろ!﹂
当たり前だと言いたげに告げる在原に、私は戸惑う。
﹁彼女が審査委員なんですか?﹂
私を担当していた女性が笑顔で問いかける。
﹁だって、今月、彼女の誕生日なんですよ。だから、プレゼントし
ようって﹂
﹁まあ! おめでとうございます。素敵なプレゼントですね﹂
﹁え!?﹂
笑いかけられて、私は驚く。
﹁瑞姫!! 自分の誕生日くらい、ちゃんと覚えてろよ﹂
476
﹁まあ、瑞姫だからしょうがないよ﹂
呆れたように言う在原を宥めるように橘が言う。
なんですか!? その、残念な子のような言い方は!!
自分の誕生日くらい、ちゃんと知ってますって。
家族には祝ってもらいましたから。
﹁自分の誕生日くらい、ちゃんと知ってるって!! 予想外だった
から、驚いただけ﹂
むっとして言えば、生温かい視線が刺さる。
﹁友達なんだから、祝って当然だろ? 瑞姫だってちゃんと僕たち
の誕生日プレゼントくれたじゃないか﹂
﹁いや。本気で予想外だった。祝いたいから祝っただけだから、自
分がそれに返ってくるなんて想像してなかったし﹂
アトマイザーを3本、突きつけられ、半ば固まる。
何だろう、この恥ずかしい展開は。
アドバイザーな人たちの生温かい視線がこれほどつらいとは!
﹁まあ、静稀が何作ろうが、俺の一人勝ちなのは確定しているから
いいけどね﹂
話題をすり替えるように橘が言い出す。
﹁何を!?﹂
﹁俺、トップノートは瑞姫と同じオレンジ選んだから﹂
﹁何ですとっ!? ずるいぞ、誉!! 何でそれを言わないんだ!﹂
目の色を変えた在原が、橘の服を掴んで言う。
﹁何で俺が敵に塩を送らなきゃならないんだ?﹂
﹁敵!? 今、敵って言った!? 誉、僕のこと、敵認定したな!
? よし! 受けて立とう。と、ゆーわけで、ぜひ、俺のを選んで
ね、瑞姫﹂
くるっと私の方に顔を向けて、にこりと笑って唆してくる。
﹁⋮⋮おまえら、底が浅いな。俺は、瑞姫の好みなんて熟知してい
るぞ。絶対、俺のを選ぶに決まってる﹂
ふっと鼻で笑った疾風が私にアトマイザーを差し出す。
477
﹁ええっと。とりあえず、お茶しようか? それから、香りを確か
めてもいい?﹂
ここは、有耶無耶にして誤魔化そう。
誰を選んでも、在原は絶対、いじられることは決まっていそうだ
し。
それを考えると、ちょっとかわいそうな気もしないではない。
﹁あの、ありがとうございました﹂
彼らにくるっと背を向け、フレグランスコーナーの人たちにお礼
を言う。
﹁他にもいろいろありますから、またいらしてくださいね﹂
そう言われ、笑顔で頷いて会計を済ませると、その場を後にする。
それに続いて在原たちも移動し始める。
さて。
香りを確かめないと、何とも言えないが、本当に困ったぞ。
自分が作ったのが一番だと言っちゃ、駄目だろうか。
478
60
﹁きゃーっ!! さむいさむいさむいーっ!!﹂
天気は快晴。
風、強し。
気温、暖かいんだろうけど、強風のせいで非常に寒いです。
ちなみに場所は、海の上。
疾風がプロデュースしたデートは、海釣り公園だった。
何故海釣りなのかというと、私がやったことのないものだったか
らだそうだ。
だから、暖かい格好をしろと言ったのかー!!
激しく納得。
そして、寒い。
若者にあるまじきカイロを装着中ですが、それが何か? と言い
たくなるくらい、風は冷たい。
ちなみに、寒いのは顔だけなので、傷は大丈夫、痛くない。
どれだけもこもこよ!? と、言いたいけど、背に腹は代えられ
ない。
ファッションよりも暖かさ重視ですとも。
﹁ほら! マフラー、ちゃんと巻いてろ﹂
首許を緩く取り巻いていたマフラーを解いた疾風が、ぐるぐる巻
きにしてくる。
﹁疾風さん、疾風さん! 苦しいです! 息できませーんっ!!﹂
鼻のあたりまでマフラーに埋もれそうになり、慌てて疾風の腕を
479
タップする。
﹁前見えないしっ!! 加減してっ! 加減してー!!﹂
﹁岡部が母親みたいだ!﹂
﹁⋮⋮くっ!﹂
在原と橘が私たちから視線を逸らし、肩を揺らして笑っている。
海釣り公園という名前がついているが、海上釣堀なんだそうだ。
足場は金網なので、下が綺麗に覗ける。
ちょっと落ちそうで怖いので、誰かの服を掴んでないと歩けない。
もちろん、それは感覚的な問題で、実際は安全なんだけど。
﹁釣竿は、これを使え。仕掛けはもうきちんとしてあるから、後は
餌をつけるだけだ﹂
管理釣り場とか釣堀って、竿とかもレンタルできるらしい。
疾風はちゃんと持ってきてたけど。
﹁疾風って、釣りするの?﹂
いつも一緒にいたせいか、釣りをするというイメージがなくて、
首を傾げてしまう。
﹁ん、まあな。兄貴たちと暇ができたときに行くって感じ? 趣味
って程じゃないが、嫌いでもない﹂
颯真さんたちとのコミュニケーション的な役割なのか、釣りって。
伊吹さんと釣りって、イメージ湧かないけど。
﹁静稀と誉は釣りしたことあるの?﹂
疾風の提案を受け入れたということは、それなりに経験があるの
だろうか。
﹁あ。僕、初めてなんだ。だから、楽しみでさー﹂
にこにこと在原が笑いながら言う。
﹁俺は、父と何度かある。父は渓流釣りの方が好きみたいで、フラ
480
イフィッシングが多いけれどね﹂
﹁フライって聞いたことがある。針に羽みたいなのをぐるぐる巻き
つけてるやつでしょ?﹂
﹁そうそう。小さな羽虫を模してあるんだ。糸自体もこういう海釣
り用のよりも投げるのに特化してあるから重さがあってね﹂
楽しそうに橘が説明してくれる。
珍しいな。
あまりこう言ったことを話したがらない橘にしては、本当に珍し
く、詳しく説明をしてくれるなんて。
きっと、渓流釣りは橘にとってお父さんとの楽しい思い出のひと
つなんだろう。
﹁夏になったら、渓流釣りもしてみない? 管理釣り場なら、初心
者でも釣れるから﹂
﹁あ、うん。やってみようかな? 今回、きちんと釣れたなら﹂
﹁そうだね﹂
くすくすと笑って頷く橘が、疾風に視線を向ける。
﹁岡部、責任重大だよ?﹂
﹁どうかな? 釣りは本当は男より女の人の方が向いてるんだけど
な﹂
﹁へ? そうなの?﹂
﹁ああ。細かい当たりとかは、感覚が鋭い女の人の手の方が拾いや
すいんだ。まあ、大物釣りはさすがに力が足りないから、引き込ま
れそうになって危険だけど﹂
﹁大物ってマグロとか?﹂
﹁それもあるけど、GTとかシーラも引きが強いし。ここは大丈夫
だけど、船だとサメとか食いついてくることあるからな﹂
﹁サメ!? サメまで釣れちゃうの!?﹂
﹁生餌を使えば、食ってくる﹂
﹁うわあ⋮⋮﹂
サメは怖いな。
481
釣ったところで食べられないし。
あれ? いや、モダマとか言ってサメ食べてるところあるって聞
いたぞ。
食べれるのか!?
人間の雑食ぶりには驚くな。
﹁それで、これが餌﹂
﹁ふうん⋮⋮っきゃああああああっ!!﹂
餌が入っている餌箱を覗き、遠慮なく悲鳴を上げる。
人は、足が多いのが嫌と言う人と、足がないのが嫌と言う人に分
かれるらしい。
俗に言う蜘蛛嫌いと蛇嫌いだ。
私は蜘蛛も蛇もそこまで嫌いではないが、ムカデは嫌だ。
餌箱に入っていたのは、﹃青虫﹄と呼ばれるやたらと足が多い虫
だった。
これまでの人生で、ここまで大きな声で悲鳴を上げたのは初めて
かもしれない。
それほどまでに、このうにょっと動くもぞもぞした生き物に嫌悪
感を抱く。
﹁疾風! それいやっ!!﹂
見たくなくて、近くにあった手頃なものにしがみつき、目を瞑る。
﹁⋮⋮だって。岡部、意地悪しないで、疑似餌を出してやりなよ﹂
宥めるように背中を叩く優しい手の持ち主が、疾風を窘める。
橘か。
ほっとして肩の力を抜くが、まだ目は開けられない。
あれは何度も見れるような生き物ではない。
﹁ほら、岡部。瑞姫が怖がってる﹂
﹁⋮⋮ミミズは平気なのに﹂
何とも言えない疾風の声。
482
﹁ミミズとそれは違う∼っ!!﹂
全身全霊でもって訴える。
﹁同じと思うけど﹂
﹁ミミズに足はない!﹂
﹁え、そこ!?﹂
指摘した箇所が疾風の想定外だったのか、意外そうな声で驚いて
いる。
﹁岡部﹂
再び橘の窘める声。
あ。ちょっと耳が幸せ。
いい声だなぁ。
﹁せっかく用意したのに﹂
残念そうな疾風の声がして、片付ける物音が聞こえる。
ぽんぽんと橘が私の背中を軽く撫でた。
﹁もう目を開けても大丈夫だよ。片付けてるから、安心して﹂
耳許で囁かれ、ちょっとぞわりとする。
いい声は時に危険だ。
思わずぎゅっと服を握りしめてしまったじゃないか。
恐る恐る目を開け、そうっと顔を上げる。
こちらを心配そうに見下ろしている橘と目があい、ちょっと照れ
臭くて笑う。
﹁ごめんなさい。ありがとう﹂
﹁本当に怖かったんだね、涙目になってるよ﹂
可哀想にと呟かれ、いたたまれなくなる。
あう∼、恥ずかしい∼!
年甲斐もなく大騒ぎしてしまいました。
﹁あれは、岡部が悪い。だから、瑞姫は気にしなくていいよ﹂
﹁でも﹂
﹁苦手なものを目の前に出されて、動揺しない方がおかしいんだか
ら﹂
483
よしよしと頭を撫でられ、ちょっとホッとする。
いや、和んでる場合じゃないんだけど。
﹁瑞姫、あれじゃなくて、こっちを使って﹂
ちょっと拗ねた感じの疾風が、別の箱を差し出す。
﹁⋮⋮⋮⋮⋮⋮﹂
箱を開けるのが怖いと言ったら、疾風が傷つくだろうか。
そんなことを考えている間に、疾風が箱をサクッと開ける。
それは、箱型というより本型といった方が正しい表現だった。
ページをめくるようにそれをめくれば、中には様々な色合いの魚
を模したプラスティックの疑似餌が入っていた。
所謂、これはルアーと呼ばれているやつだろうか。
しげしげとそれを見ていたら、疾風と橘がくすっと笑う。
﹁こっちは大丈夫そうだな﹂
﹁その青虫は、俺たちが使うよ。じゃあ、そろそろ始めようか﹂
橘の言葉に疾風が頷き、私たちは釣りを開始する。
気分だけは釣り師なんだけど、上手く釣れるだろうか。
仕掛けを直してくれる疾風を眺めながら、私はそんなことを考え
ていた。
484
61
春の海。
蒼天の下、波が陽の光に反射して煌めく。
実にのどかな風景だ。
﹁仕掛けは、中央あたりにぽとんと落とす感じで。投げなくていい
から﹂
疾風先生指導の下、初釣り挑戦中です。
﹁落とす? 釣りって、竿のしなりを利用して遠くに仕掛けを飛ば
すものじゃないの?﹂
﹁それは、バス釣りとか、キス釣りとかの遠投の場合。ヒラメやカ
レイも砂浜から狙うなら投げるけど。特にシーバス釣りはピンポイ
ントを狙うから、まずは投げる練習から始めなきゃいけないけど、
今日はその必要ないから﹂
﹁⋮⋮シーバスって何?﹂
﹁スズキ﹂
﹁ああ! 白身魚の!! って、普通に釣竿で釣れるんだ!?﹂
気になったことをすぐに聞いてしまう私に、疾風は嫌な顔一つせ
ず、丁寧に説明してくれる。
﹁割と河口付近から海岸近くでも大物が釣れやすい魚のひとつだな。
あと、アイナメなんかも釣れる﹂
﹁⋮⋮へえ!﹂
世の中には知らないことばかりだと、実感する一瞬。
魚の名前や形は知っていても、どんなところでどういう風に釣れ
485
るのかは、まったく知らなかった。
﹁で? ここの釣堀では、何が釣れるの?﹂
﹁鯛とか見えてるな。鯛は春先から釣りが楽しめるんだ。大体、船
釣りが多いけど﹂
﹁ふぅん。じゃあ、餌は本当に海老なわけ?﹂
﹁うん、そう。海老も餌にする﹂
マジですか!?
じゃあ、何で青虫を餌に選んだわけ!?
断固抗議しちゃうぞ、私は!
じっとりと睨みつければ、苦笑する疾風。
﹁あれは、一般的な餌なんだ。五目釣りするときは、アレを餌にし
ておけば、大抵のものは釣れる万能選手なんだぞ﹂
﹁ミミズの方がマシ﹂
﹁⋮⋮意外だったよな。瑞姫が青虫が苦手なんて。まあ、今まで確
認しようがなかったから気付かなかった俺も悪いんだけど﹂
﹁生まれて初めて見たけど、すごく気持ち悪かった。夢に魘された
らどうしよう⋮⋮﹂
﹁そこまでか!﹂
なんか、釣りの餌ってミミズのイメージが強かったけど、ミミズ
を餌にすること自体、今はほとんどないんだと。
青虫とかゴカイとか足がたくさんある細長い虫が餌に選ばれる率
が高い。
あとは、アサリガイのむき身とか、イカを短冊切りにしたりとか、
イクラとか。
何たる贅沢!!
撒き餌とかも釣り番組とかでよくやってるけど、あれは海を汚す
こともあるので、あんまりやっちゃいけないとか、そういうことも
教えてもらった。
特に釣堀なんかでは、全然必要ない上に、逆に堀の中の魚たちが
病気になったりするかもしれないので、禁止されているところの方
486
が多いとか。
それから、地域独特の釣り方とかもあるので、どれが正しい釣り
の仕方だというのはないそうだ。
釣り番組とかは道具の宣伝の為に行っているので、それこそあて
にしちゃいけないんだと熱弁を奮われた。
一体、何があったんだ、疾風?
道具一式をつられて買ったとか?
突っ込んでみたかったけど、聞いたらまずいような気もするので、
そこはスルーしよう。
﹁あのさ、釣り糸垂らしたら、そのままでいいわけ?﹂
誤魔化しついでに話を進めたら、疾風の表情が真面目なものに変
わる。
﹁そのままでも構わないけど、普通は誘いをかける。しゃくりとか
言うこともあるけど﹂
﹁⋮⋮どうするの?﹂
﹁疑似餌の場合は、特に、餌が生きているように見せかけるために、
糸を操るんだ﹂
私が手にしていた釣竿の仕掛けをぽいっと海の中に放り投げ、錘
が底に着いたとわかるとリールのハンドルを私に握らせ、その上か
ら疾風もハンドルを握って回しだす。
﹁底を取ったら、今度は棚を取る。棚って言うのは、獲物の居る場
所のことだ。テグスの色で大体何m水深があるかがわかるようにな
っているんだ。まあ、船釣り用のいい電動リールなら、魚影や水深
や棚もわかるようになってるけど。こうやって、竿を上下に動かし
た後、リールを一定のスピードで巻き上げて、止める。これをしゃ
くりというんだ﹂
竿先を立てるようにして上下に振り、止める寸前にリールをひと
巻する。
しばらくそのままにしたあと、再び竿を上下に動かし、リールを
巻く。
487
三度目のしゃくりを終えた後、こつんというわずかな振動を手に
感じた。
﹁あ。疾風?﹂
もしかして、魚が餌に食いついた?
顔を上げ、疾風の顔を覗き込むと、疾風がにっと笑う。
﹁まだまだ﹂
﹁えー?﹂
﹁これは、様子見だ。慌てるな﹂
疾風の言葉を証明するかのように、また、こつこつと振動が伝わ
ってくる。
﹁これも?﹂
﹁ああ。疑似餌を突いて確かめてるんだ。次、くるぞ﹂
そう言った瞬間、ぐんっと竿が引き込まれそうなくらい引っ張ら
れた。
﹁竿先を立てろ!﹂
言われるままに竿を引き上げる。
﹁慌てずに、一定のスピードでリールを巻くんだ﹂
急いでリールを巻こうとしたのを制され、数えながら巻き始める。
それでも竿を引かれる。
﹁糸を緩めたら、バレるから。ああ、外れるんだ。だから、竿を持
って行かれても、竿を立ててリールを巻き続ける﹂
言われるがまま、懸命にハンドルを回す。
竿を疾風が支えてくれるので、何とかハンドルが動かせる。
何が何だかわからないまま、ぐるぐるとハンドルを動かし、リー
ルを巻きとっていると、海の中で仄かに桜色の魚が不自然な動きを
しているのが見えた。
﹁見えた。もう少し頑張れ!﹂
﹁あ、うん!﹂
片手で竿を支えるだけで、決してリールを巻くのを手伝ってくれ
ない疾風の声に促され、唇を噛みしめながらただハンドルを動かす。
488
ふいに抵抗がなくなった。
重さは感じるけれど、魚が動いて暴れている感覚が消えたのだ。
﹁よし、もういいぞ。そのままじっとして﹂
片手網を手にした疾風が海の中にそれを差し入れ、引き上げる。
﹁うわぁ! 鯛だ!! 大きい?﹂
口から尻尾の先まで、およそ30cm近くもある。
お正月や祝いの席で用意される雌雄鯛は50cm以上のものが用
意されている。
あの天然物の鯛は普通ではないことはもちろん理解している。
だからこそ、今ここで釣った鯛は普通に考えればかなり大きいの
ではないかと思い、疾風に聞いてみる。
﹁ん。良型の尺だな。この時期ならなかなかのサイズだ﹂
﹁尺? 尺ってあの⋮⋮?﹂
﹁そ。一尺、二尺の尺。大体30cmっていうのが、釣りでも目安
になってるんだ。尺鮎とかいうだろ?﹂
﹁鯛も一尺より大きいといいの?﹂
﹁時期にもよるけど。ちょうど、これから大きくなっていく頃だか
ら、この時期の尺っていうのはちょっとしたサイズってことだ﹂
そっかー。
自慢していいサイズなんだ。
でも、釣堀の中だし、どうなんだろう?
﹁まあ、これが船釣りだったら間違いなくラッキーだけどな﹂
﹁⋮⋮あ。やっぱり⋮⋮﹂
ネットで区切ってプールされている中に用意された魚だけに、手
放しで喜んでいいわけじゃないだろう。
初心者にとって、場所はどこであれ、1枚は1枚だしな!
﹁瑞姫∼っ!! ナイス!!﹂
対面側に移動していた在原が、親指を立て褒めてくれる。
﹁在原も頑張れ∼っ!!﹂
﹁おうっ!﹂
489
手を振って応えれば、大きく頷く在原が仕掛けを投げ入れる。
釣った魚は、足許のゲージの中に針を外して入れるらしい。
この中から欲しい魚を自分のクーラーボックスに移し替えて、持
って帰れるようだ。
この場合、重さを計っての買い取りになるみたいだ。
2枚までが無料で、3枚目から計量していくらしい。
大物を釣り上げれば、その分、金額も可愛くない値段になってい
くので、大物釣りはあくまで引きを楽しみ、そのあと再びいけすに
返す人が多いようだ。
﹁疾風、この疑似餌っていつ交換すればいいの?﹂
青虫とかは、なくなったら交換すればいいんだろうけど、疑似餌
の場合は食べられないからずっとこのままだ。
たまにがじがじ齧られて、ぼろぼろになってしまうようだけど。
﹁見た目が悪くなったら交換すればいい。あと、釣れなくなってき
たら、だな﹂
﹁そんなので大丈夫なわけ?﹂
﹁そう。これも表面を研ぎ出し、色を塗り替えれば、捨てずにまた
使えるようになる。あと、時間によって魚が好む色が変わってくる
から、釣れなくなってきたら、色を変えたり形を変えたりするんだ。
今はまだこのままでも大丈夫だ﹂
竿を手渡され、素直に受け取る。
﹁隣にいるから、わからなくなったり、釣れて身動きできなくなっ
たら呼んで。1人でやろうとは思わないこと﹂
﹁はい、先生﹂
疾風の注意を聞き、ちょっぴり茶化すと睨まれた。
それでも、私のやる気に水を差すつもりはなかったようで、自分
の竿を用意すると、私から離れて釣りの準備を始める。
﹁⋮⋮それじゃ、ちょっと頑張ってみるかな?﹂
教えてもらったことを復習しながらやってみるか。
490
疑似餌を眺め、ぽいっといけすへ向かって投げ入れると、私は手
の感覚を頼りに先程、教わった通りに釣りを始めた。
体験型って、やってみてすぐにわかる。
釣りって、釣れるとめちゃくちゃ楽しい!
逆に、ずっと待ってても釣れない時は面白くない。
単純なことなんだけど、シンプルだから際立つ。
結論として、釣りにハマりました!
1人で釣りに行こうとは思わないし、行けないと思うけれど、面
白い。
疾風に頼んで連れて行ってもらうという方法もあるけれど、無理
強いはしたくないし。
でも楽しかったので、次は渓流釣りをやってみたいと正直に言っ
てみることにした。
実際に釣りをした時間というのは、3時間程度だった。
それでも、ヒラマサ1本と鯛3枚、カレイ1枚とアイナメが釣れ
ました。
潮の変わり目前後で釣れたり釣れなかったりするらしい。
だから、釣りというのは短時間勝負だったりすると言われて驚い
た。
イメージ的に、何時間もその場にじっくり座って釣ってるような
気がしたからね。
釣れなかったら、即座に場所替えするのが普通なんだと。
﹁おー! すげえ。何気にビギナーズラックってやつで釣れた?﹂
私の釣果を確かめて在原が言う。
491
﹁そういう在原は?﹂
﹁はっはっはっは! 鯛1枚だ。恐れ入ったか!﹂
無駄に笑った在原が、鯛を示して言う。
15cm位の小さな鯛だ。
﹁ある意味、すごい才能だよね﹂
呆れたように橘が告げる。
﹁橘は?﹂
﹁アジ2匹に鯛3枚ってとこだよ﹂
﹁アジもいたんだ!﹂
色んな種類の魚がいるんだ。
しかも、いけすから逃げないし。
﹁これ、どうするの?﹂
釣った魚を持ち帰るべきなのか、このままここで戻すべきなのか、
判断つかずに疾風を見る。
﹁とりあえず、写真撮ったら、返すか? 持って帰ってもいいけど、
厨房の迷惑になるだろうしな﹂
﹁ああ、そうだね﹂
疾風の言葉に頷いて、スマホで写真を撮った後、魚たちを釣堀の
いけすの中に網ですくって返す。
きちんと片づけを終えて、荷物をまとめた私たちは、迎えの車が
来るまで、海釣り公園の前にあるカフェでお茶することにした。
492
62 ︵在原静稀視点︶
在原家は天皇の血筋の四族の一翼、皇族だ。
僕はそう教えられて育った。
先祖に、名に恥じないように努力しなければならないと。
最近、クラスのやつらによく聞かれることがある。
﹃男女間の友情はありえるのか?﹄と。
僕には仲の良い友達がいる。
1人は、橘誉。
父親同士が友人で、幼馴染の親友だ。
父が僕を誉に会わせるから、何となく話をするようになり、その
まま友達になったという何とも言い難い理由だが。
もう1人が岡部疾風。
実は、岡部が何を考えているのか、僕にはさっぱりわからない。
想像できるのは、いつも瑞姫が快適に過ごせることを重要視して
いるだろうということだけ。
それから、意外と冗談が好きで、よく僕をからかって遊んでいる
らしい。
これは誉と瑞姫が言うので、そうなんだろう。
493
最後に、相良瑞姫。
彼女を一言で言うのなら、﹃特別﹄だ。
僕とは真逆で、先の先を読み、気遣いが上手な男前。
女の子だけど。
僕が苦手な女子ではなく、男が男に惚れるという形容がぴったり
というかしっくりくる実に男らしい一面を持つ。
なので、﹃男女間の友情はあり得るのか?﹄と聞かれると、ひど
く戸惑ってしまう。
瑞姫は確かに友達だ。
だから、﹃あり得る﹄と断言できるけど、そう答えると皆が信じ
てくれないのだ。
仕方ないから、皆が納得しやすいように表現を変えて答えている。
﹃お互いが努力しあうことで成り立つ﹄って。
これって、普通に男同士の友情でも同じだろう?
お互いに、お互いを補うようにして関係を確立していくんだから
さ。
表現を変えるだけで、同じ意味をさす言葉を使っても誰もが納得
してしまうんだから、不思議な話だ。
瑞姫は学園内でも上位クラスの有名人だ。
おそらく、瑞姫を知らない生徒はいないだろうと言えるほど。
僕も、幼稚舎から東雲に通っていたので、瑞姫の存在は知ってい
た。
知っていただけ、だ。
彼女の存在を気にかけ始めたのはいつだろうか?
思い返すと、誉に行きあたる。
初等部の頃からか、誉がよく瑞姫を見ている姿に気が付くように
なった。
494
誉は瑞姫が好きなのかと思って聞いてみれば、﹃友達になりたい
んだ﹄という答えが返ってきた。
じゃあ、何で声を掛けないんだと重ねて問えば、﹃理由があって、
断られた﹄と笑顔で告げる誉の姿があった。
何で断られて嬉しそうなんだろう?
微妙な心地で誉を眺めた僕は、悪くない、と思う。
﹃条件クリアしたら、友達づきあいしてくれる約束したから、今
はそれでいいんだ﹄と言った誉から、その条件を聞いて納得した。
傍から見るのと大違いで、誠実な性格をしているらしい。
それなら僕も友達になってみたいと思って、それから瑞姫を見る
ようになったんだ。
瑞姫を眺めるようになって気付いたことがある。
彼女によく突っかかってくる諏訪伊織だが、従姉が好きだと公言
しているのだが、誰がどう見ても瑞姫の事が好きだろ、と呆れてし
まいたくなる。
何よりも、瑞姫の行動を絶えず気にして、その気配を追っている
姿は、どうにもストーカー一歩手前だ。
笑えることに瑞姫は完全にそれらをスルーしているけど。
どうやら瑞姫は恋愛感情というものにとことん疎くできているら
しい。
まあ、傍に岡部がいれば、そうなるのも必然と言えるかも。
諏訪は岡部が苦手らしい。
俺様な態度を崩さない諏訪も、岡部が瑞姫の傍で威圧していると
きは挙動不審になっている。
そりゃあ、怖いだろう。
普段は無骨ながらも穏やかな岡部だが、瑞姫が絡むと人が変わる。
底冷えがするような威圧感は本物だ。
瑞姫の傍に誰も近づけまいとする岡部が周囲を威圧しているとき、
平然としているのは瑞姫と誉くらいなものだ。
495
誉もああ見えて相当豪胆なやつだからな。
かくいう僕もあまり怖くはない。
簡単な話だ、瑞姫を害そうとは思っていないからだ。
岡部とはよく同じクラスになり、話をする機会も増え、大体の性
格も把握した。
瑞姫が絡まない時の岡部は、実にイイやつだ。
のんびりと寛ぐ大型犬のようなやつだ。
岡部が大事にしている瑞姫もきっといいやつなんだろうと思って
いた。
確認できたのは、わりと後になってからだけど。
瑞姫と仲良くなって、一番に感じたことは、瑞姫の傍はとても居
心地がいいということだった。
正直言うと、僕は女の子がとても苦手だ。
何を考えているのかわからない。
ちょっとしたことで盛り上がって、大勢でたった一人を非難した
りとか、反論すればすぐに泣くとか。
自分が悪い時でも泣いて有耶無耶にしてしまうとか、それどころ
か正しい相手に罪をなすりつけてしまうとか。
それはもう嫌になるほど見て来たからだ。
人が忙しいときに、勝手に話しかけてきて、それどころじゃない
から返事をしなかったら怒りだすという自己陶酔型なやつもいた。
そういう女の子ばかりじゃないということも知っているけど、こ
ちらから用があるから話しかけたのに、怯えて返事もしないという
のもいたし。
理解できない鬱陶しい存在、それが僕の周囲にいる女子だ。
ところが瑞姫は全く違う。
瑞姫の周囲を取り巻く女の子たちも、やはり僕の知る女の子たち
496
と違うようだし。
まず、瑞姫は自分を飾らない。
とてもシンプルだ。
それが男らしいとか男前という評価に繋がっているんだけど。
男子用制服を着ていて、あのシンプルな性格のせいか、王子様扱
いされているようだけれど、所作は綺麗だ。
武術を嗜んでいるせいか、動きに無駄がない。
ガサツな面は見当たらない。
男っぽいわけでもない。
頭はすごく切れる。
相手の対応次第で自分の立ち位置を変えることができる器用さも
持っているし。
不意に何か言われた時に、咄嗟に返す言葉も気が利いている。
瑞姫が陰で﹃完璧な王子様﹄と呼ばれていることを知って、ちょ
っと納得したしな。
弱点らしき弱点も見当たらない、本当に完璧な人間がいるわけな
いとわかっていても、瑞姫はそう思わせる何かがある。
冗談で嫁にしてくれと言っても、笑って受け流す度量の持ち主だ
し。
こいつなら、僕という人間を預けてもいいやと思える相手を見つ
けて、すごく楽しくなった。
多分、誉も同じ気持ちなんだろうと思う。
その瑞姫が、意外にも足が多い長虫が苦手だとは想像もしなかっ
た。
餌箱の中で動くそれを見た瞬間、悲鳴を上げて誉にしがみつく瑞
姫を見て、僕はちょっとホッとした。
誉がずっと心配していたからだ。
最近、瑞姫が声を上げて笑うことがない、僕たちに見せる感情は
表面上、作られたものだと言って。
確かにそうだと思った。
497
誉がデートを企画したのも、瑞姫が自然に自分の感情を出せる場
所を作るためだ。
岡部も誉も、瑞姫を笑わせるものを企画したから、僕は困らせる
方向にした。
1番手の僕が困らせておけば、そのあとは感情の発露が楽になる
からだ。
体験型のハーブ園を選んだのは、そのためだ。
フレグランスなんて、僕たちにはあまり馴染がないし、興味もわ
かないものだ。
だけど、瑞姫はハーブが好きそうだし、実際、アロマオイルを使
っていろいろしていると聞いていたから、興味を持つだろうと考え
た。
瑞姫の誕生日プレゼントにもちょうどいいし、ついでに思いっき
り困ってもらおうとプレゼントした香水の中で一番気に入ったもの
を選んでと言ったのだ。
﹁う∼ん。迷うなぁ⋮⋮﹂
アトマイザーを眺め、真剣に悩む瑞姫。
オレンジの輪切りが入った硝子のティーポットから湯気が消えつ
つある。
瑞姫はオレンジが好きだというのは今日初めて知った。
﹁誉のトップのオレンジはやっぱり好きなんだけど、疾風のミドル
のラベンダーもいいし。静稀のティーツリーもあっさりして好きな
んだよなぁ﹂
﹁⋮⋮あれ? 岡部、調合、言った?﹂
誉がオレンジ使ったのは、瑞姫も知っているけど、僕の調合でテ
ィーツリーを使ったことも岡部がラベンダーを使ったことも、瑞姫
には言ってないはずだ。
﹁聞いてないけど、香りでわかるよ。静稀のベースはブラックペッ
パーでしょ?﹂
498
﹁何でわかったの!?﹂
﹁だから、香りでわかるって。量まではわからないけど。静稀のは
多少癖はあるけどさっぱりしてて好きなんだよね。疾風のはグリー
ンノートで落ち着くし。誉のは華やかだよね。作った人の性格出て
るなあって思ってて⋮⋮﹂
くすくすと笑いながら瑞姫が言う。
﹁んー⋮⋮難しい、選べない!!﹂
頭を抱えてテーブルに沈む瑞姫。
﹁全部好きで、赦してあげたら、静稀﹂
見かねたのか、誉が横から助け舟を出す。
﹁まあ、いいか。プレゼントだからね。使ってくれる?﹂
﹁それは、もちろん!﹂
﹁じゃ、仕方がないから許してあげる﹂
偉そうに上から目線で言えば、ほっとしたように笑う瑞姫の姿が
ある。
後続の岡部に誉。
ちゃんと、瑞姫を楽しませて、笑わせてやりなよ?
そう思いながら、岡部にバトンを渡したつもりだったんだけど。
怖がらせてどーする!?
しかも、泣かせてさ!!
ちょっともやもやする気持ちを抱えながら、場所移動して釣り始
めたけれど、瑞姫の竿がよくしなっているのが見えた。
完璧な王子様は、釣りの腕前も完璧だった。
今日一番の釣果は、間違いなく瑞姫だった。
先生役のはずの岡部の顔が引きつっていたから笑えたけれど。
次は、誉の番だな。
頑張れよ。
499
63
えーっと、これは一体⋮⋮。
何をどう反応すればいいのでしょうか?
3回目のデートは、橘プロデュースだ。
橘のイメージからかけ離れた場所に、私は呆然と見上げる。
賑やかな音楽に、あちこちに点在するショーケース。
階段があり、その上からもさらに賑やかな音が。
﹁⋮⋮誉、ここ⋮⋮?﹂
﹁ああ。やっぱり、瑞姫は初めてなんだ? アミューズメントパー
クだよ﹂
にっこり笑って告げる橘の笑顔が眩しい。
いや、知ってますけど!
かつてというか、前世で友達と通い詰めたことがありますけど!!
ええ。クレーンゲームの中に大好きなキャラの人形があったんで、
欲しくて欲しくて通ったんですけど。
こんなちゃちな人形にどんだけ大金注ぎ込むんだよ! というレ
ベルまで行っても取れなかったので、別の場所で邪道にも買っちゃ
いましたが。
まさか、今生でも来るとは思いもよりませんでした。
まさに住む世界が違ってたし。
﹁えっと⋮⋮何をするの?﹂
500
クレーンゲームは、私にはハードルが高すぎます!!
前世で懲りました。
今はクレーンでほしいものって、知らないから何もないし。
﹁ローラーブレードのコースがあるんだ、ここ。ボウリングなんか
もあるけど、あれは瑞姫には向かないからね﹂
ちょっと苦い笑みになる橘。
ボウリングは、確かにこの腕じゃ無理だ。
爪が割れる心配もあるし。
基本的に爪は丈夫だけど、万が一を考えておかないと。
﹁ローラーブレードがあるんだ﹂
ちょっとハードだけど、ブレードはやったことがある。
﹁アイススケートの方も。でも、ちょっと寒すぎるから﹂
言葉を濁す橘の言いたいことはわかっている。
傷が冷えて、痛みだすといけないし、私がスケートを得意なのか
苦手なのかもわからないからだ。
ブレードならガードをつけてすることができるけれど、スケート
の場合はガードをつけるのはいいがかえって動きづらくて強打して
しまうこともあるし。
その微妙な判断で寒くない方を選んだのだろう。
気を遣ってくれてありがとう。
﹁⋮⋮⋮⋮クレーンゲームが気になってるの?﹂
私の視線を追った在原が、きょとんとした表情で尋ねてくる。
﹁クレーンゲーム⋮⋮﹂
気にはなりますとも。
何が入ってるのかは、チェックしたいよね。
でも、取れないからなー。
﹁あれは、コインを入れて、手許のコントローラーで中にあるクレ
ーンを動かして、欲しいものを取るゲームなんだ﹂
橘が瑞姫は知らないと思って説明してくれる。
知っているとは言えないな。
501
﹁欲しいものがあれば、後で取ってあげるよ﹂
なんですとっ!?
﹁見たいっ!! 取ってるところ、見せて!!﹂
思わずわくっとなっちゃったよ。
上手いのか!? 橘、クレーンゲームが上手いのかっ!?
おぼっちゃまのくせして、何でクレーンゲームが上手いんだっ!!
私の剣幕に、橘が笑い出す。
﹁うん、わかった。見せてあげるよ。静稀も結構、上手いんだよ﹂
なんとっ!!
期待に満ちた視線を在原に向けると、びくっと肩を揺らした在原
が、困ったように視線を揺らす。
これは、照れてる時の癖だ。
﹁静稀﹂
﹁⋮⋮えーっと⋮⋮﹂
﹁静稀。見たい。お願い!﹂
﹁そんなに期待に満ちた目で見られると、照れるんですけどー⋮⋮﹂
﹁見たいです﹂
﹁⋮⋮うっ⋮⋮わかった﹂
﹁やった!﹂
クレーンゲームって、自分が下手だとわかっているだけに、自分
がやるより人がやるのを見る方が楽しいんだよね。
﹁じゃあ、早めに上がって、ゲームを少しやるのもいいね﹂
笑いながら言う橘に礼を言って、階段を上がる。
受付を済ませてブレードを借りると、荷物をロッカーに預ける。
靴をはき替えたら、リンクに降りる。
春休みの割には、人は少ない。
ぶつかってきそうな人がいないことを確かめて、足馴らしで一周
回る。
﹁へえ。瑞姫、上手いじゃん﹂
感心したように在原が言う。
502
﹁前に進むくらいなら、何とかね﹂
﹁他に人がいるから、競争とかはできないな﹂
ちょっと悔しそうに呟いて、在原はリンクを眺める。
さすがにここで競争しようとか言い出したら、いくら私でも注意
はするしね。
﹁ここって、内側の方がスピード出してもいいみたいだね﹂
そんなに大きくないリンクだけど、二重に取り巻いている。
外側には初心者が多いようで、転んだりしている姿が見受けられ
る。
逆に内側は、ある程度のスピードを出してぐるぐるとまわってい
る人が多いようだ。
﹁じゃあ、内側に行くか﹂
人がさほどいない内側の方がいいだろうと話し合い、そちらへ向
かった。
今日は始終、声を上げて笑っていたような気がする。
約束通り、クレーンゲームも見せてもらった。
コイン3枚で目的のモノを手に入れられるとは、見ていて滾りま
した。
ふかふかなぬいぐるみをもらいました。
手触りいいのって、すごく幸せな気分になるよね。
ぬいぐるみを抱きしめて、ふと思った。
もう、思い残すこと、ないなぁ⋮⋮。
それほど楽しかったんだ。
友達と遊ぶってこと、社会人になってからほとんどなかったし。
ここでは瑞姫は友達を作ることを拒んでいたし。
503
本来ならば、ここにいるのは瑞姫で、私ではない。
そういう点では瑞姫に悪い気がする。
そう思っていても、とても楽しくて幸せだと思った。
色んなゲームを見せてもらって、たまに手ほどきを受けてやって
みてというのを繰り返し、そろそろお開きの時間が迫ってきた。
﹁静稀、誉、疾風。ありがとう。楽しかった﹂
3回のデートは、それぞれ、本当に楽しかった。
それぞれ趣向を凝らして考えてくれて。
友達と普通に遊べる楽しさを思い出せた。
笑って礼を言う私とは真逆に、私の言葉を聞いた3人の表情が抜
け落ちる。
﹁⋮⋮⋮⋮瑞姫⋮⋮?﹂
﹁新学期が始まると、なかなか遊びに行けないからなあ﹂
そう言いながら窓の外に視線を向ければ、迎えの車が近づいてき
ていることに気付く。
﹁ああ。車が来たね。戻ろうか﹂
車に向かって歩き出す私の後をやや遅れて3人がついてくる。
だから、私は、彼らがどんな表情をして私を見ていたのか、全く
気付かなかったのだ。
504
64
春休みが終わり、新学年が始まる。
あの日以来、何故か皆がいつも以上の頻度で別棟に顔を出すよう
になった。
特に用事があるわけではないらしい。
私の顔を見ると、何故か安心したように微笑うのだ。
心配させるようなことをしたっけか?
思い当たるようなことは何もない。
﹃ありがとう﹄と礼を言っただけだ。
してもらって当たり前という考え方は持っていないから、何かし
てもらったらありがとうと礼を言うのは普通だと思う。
別に気にかけるようなことじゃないよね?
何を気にしているんだろうか。
気にしているといえば、夢の話だが、瑞姫がこちらに近づいて来
てくれている。
もう少しで辿り着くような感じだ。
まあ、夢の話なので、実際にどうってことはないのだが。
505
***************
人だかりができている掲示板に近づけば、新学年のクラス分けが
掲示されていた。
﹁今年は同じクラスになってるといいね、疾風﹂
傍にいた疾風に声を掛けながら、掲示板を眺める。
実は、疾風と同じクラスになったことが今までないのだ。
ここまで来ると作為的だが、まあ、仕方がない。
そんなことを考えつつ、掲示板を眺めて事実を確認する。
やっぱり、作為的だった。
﹁⋮⋮疾風、同じクラスでよかったね⋮⋮﹂
﹁そうだな﹂
単純に嬉しそうな疾風とは異なり、私の視線は他の所に釘付けだ。
隣のクラスに、東條凛がいた。
そのクラスには諏訪伊織の名前がある。
私のクラスには、疾風のほかに、在原静稀、大神紅蓮、そして菅
原千瑛の名前があった。
次のクラスには、菅原千景と橘誉の名がある。
ゲームと同じ展開なら、今年も私は諏訪と同じクラスになるはず
だった。
それが隣のクラスということは、学校側に提出している東條家の
書類が効いているというわけか。
東條凛自体は、私への嫌がらせや殺人未遂には全く関与していな
506
い。
だが、それを行った東條家の人間だ。
当然、学校側も色々と警戒しているはずで、その警戒の中、私と
東條凛を同じクラスにするという選択肢はなかったのだろう。
そうして学校側の目が届きにくいところで事が起こった場合、即
座に対応できる人間を傍に配置したのが、今回のクラス割だと考え
られる。
私の傍付である疾風と、生徒会役員である大神を傍につけるとい
うことは。
それ以前に、入学を許可するということは、何か思惑があったの
かもしれない。
大人の思惑など、子供に手が出せようはずもない。
﹁疾風、教室へ行こうか﹂
そう声を掛け、人混みから外れたとき、こちらへと近付いてくる
大神の姿に気が付いた。
穏やかな笑みを湛える好青年な印象を与える大神は、私の手前で
立ち止まる。
﹁相良さん、少しばかり話してもいいかな?﹂
許可を求めているようで、拒否を認めない強引な誘い。
こちらを興味津々な表情で眺めてくる生徒たちの姿を見れば、こ
の場から立ち去った方がいいだろう。
﹁ここではなんだから、少し移動しようか﹂
了承の言葉代わりに場所移動を提案すれば、大神は黙って頷き、
踵を返す。
﹁岡部君も一緒に話を聞いてほしいので、同行してくれますか?﹂
肩越しに声を掛け、誘う。
﹁わかった﹂
507
返す疾風の声は硬い。
生徒たちを避けながら、中庭付近まで移動する。
﹁ここでなら、大丈夫でしょう﹂
周囲に人がいないことを確認して、大神が振り返る。
﹁東條家の人間が、転校してきました。伊織と同じクラスです﹂
その言葉に、疾風の表情が険しくなる。
﹁学校側から生徒会の方に、相良家から提出された東條家の念書を
見るようにと指示が出たので、目を通しています﹂
大神は、仔細を知っていると頷きながら説明をする。
﹁本来なら、入学を申し込むことがあの念書に抵触することくらい
わかりそうなものですが。あの書類を盾に、学校側も一度は入学拒
否を考えたそうです﹂
﹁⋮⋮許可した理由は?﹂
唸るような声音で、疾風が問う。
﹁理事会の決定だそうです。ちなみに、東條さんの入学試験結果は
散々だそうで、入学許可できるレベルに達していないそうですよ﹂
くつりと人の悪い笑みを浮かべた大神が、暴露する。
﹁何故それで入学許可が下りる?﹂
﹁理事会の思惑が絡むからです。彼らは、相良家からの書類を利用
して、東條家を潰そうと考えたようです。実際、試験結果を理由に
入学許可できない旨を告げて反応を見たところ、慌てた東條家は入
学金を積んだそうです﹂
﹁金を積んだ? 何を考えてるんだ﹂
不機嫌そうな疾風の言葉に、私も頷く。
﹁東雲学園に相良さんが通っていることを知っているのかいないの
か、そこは計りかねますが、孫娘の我儘に振り回されている様子が
伺えたと聞いています﹂
大神の言葉に、思わず顔を顰める。
強引に祖父母が東雲行きを決定するのがゲーム冒頭のシーンだが、
孫娘が東雲へ行きたいと彼らを振り回しているのか?
508
奇妙な違和感を感じる。
﹁校長からの伝言です。理事会の思惑など気にせずに、学園生活を
存分に楽しんでください、とのことでした。どうやら、理事会と職
員側とで温度差があるようですね﹂
その言葉に、思わず納得してしまう。
経営側と教育者たちとでは、意識が全く異なって当たり前だ。
生徒が大事な教育者たちは、優等生である私の安全を守ろうとい
う意見が出ても不思議ではない。
もちろん、東條凛が何をできるかなんて、考えもしないだろうが。
﹁理事会のことは留意しておこう﹂
彼らの手駒になるつもりなど毛頭ない。
もちろん、学園側に対してもそうだ。
﹁生徒会としては、東條さんより君の安全を取ることにもとより決
定している。だから、そのつもりでいてほしい﹂
﹁具体的には何をするつもりかな?﹂
﹁まあ、一番地味な方法として、東條さんが君に接触できないよう
に、君のガードをするということかな﹂
﹁⋮⋮目立たないように頼んでもいいかな? 目立てば、余計に相
手がエスカレートする場合もあるし﹂
﹁そうだね。その点は考慮するよ﹂
とりあえず、打つべきところに釘を刺し、視線を空へと向ける。
﹁教室へ行こうか﹂
今この時点で話せることはないと判断し、教室へ行くことを促し
た。
新しい教室には、生徒の数が半分ほど揃っていた。
全員揃ったところで、始業式が始まるのだろう。
いつものように、放送が入るまで適当な場所へ座って歓談しなが
509
ら待つ。
講堂へと足を運ぶようにという放送が入り、教室を出た者たちが
廊下である程度の隊列を作り、歩き出す。
ぞろぞろと講堂へ向かった私たちは、中で整列する。
そうして生徒たちが揃ったところで、始業式が始まった。
校長が長々と話をする。
それを聞き流しながら、私は何かが近づいてくるような感覚を覚
えていた。
ゆっくりゆっくりそれは近付き、何かを探している。
この気配は⋮⋮
﹁見つけた!﹂
自分の内側にある気配を捉え、自分の意識がそちらへと向かって
いくことを感じる。
身体から意識が剥離していく。
意識を保っていられない。
近くで悲鳴が上がった。
何が起きているのかも、全く把握できない。
驚愕に満ちた表情でこちらを振り返った疾風の顔を認識する。
﹁⋮⋮疾風⋮⋮あとを、頼⋮⋮む⋮⋮⋮⋮﹂
疾風にこの声が届いたかどうかはわからない。
だけれど、自分の顔が笑みを浮かべていることだけは、理解でき
る。
伝えたいことはまだあったけれど、もう声が出ない。
遠ざかる意識。
そのまま私は暗闇に意識を吸い込まれた。
510
65
暗闇の中、対峙する2人の少女。
どちらも同じ顔をしている。
片方が小柄で幼さを残しており、もう片方は背が高く少しばかり
大人びている。
客観的な視点と、自分の意識から見た視点。
その2つの視点を違和感なく受け止めながら、私は彼女の腕を掴
んだ。
先程まで、確かに講堂で始業式の校長講和を聞いていたはずだっ
た。
あの最中、何かの気配を感じ、見つけたと思った。
そうしてその気配を追って、気が付けばこんなところにいた。
ここ、どこでしょう?
似たようなことを考えているらしい瑞姫も、困ったように周囲を
見回している。
まだ12歳の少女だ、困りもするだろう。
でも、どうにかしないとね。
そう腹を括った私は瑞姫に声を掛ける。
511
﹁瑞姫﹂
その声に、瑞姫はびくりと肩を揺らして私を見る。
﹁あ⋮⋮私⋮⋮?﹂
私の顔を見て、それが自分であることに気が付いたようだ。
﹁そうだよ。16歳の瑞姫の姿だ﹂
それだけ長い間、瑞姫はこの暗闇の中、彷徨っていたんだ。
﹁16歳⋮⋮﹂
﹁そう、16歳だ。君は3年半ほど私の中で行方不明になっていた
んだ﹂
﹁⋮⋮あ⋮⋮﹂
逃げ出したことを思い出したのか、バツの悪そうな表情になる。
﹁そのことで君を責めるつもりはない。それは、君にとって必要な
ことだったんだから﹂
時に逃げることも大切だ。
そうしなければ、心が壊れる。
ただ、瑞姫の場合、逃げ出したのはいいけれど、そのあと、盛大
に迷子になって、戻ってくるのに時間がかかりすぎたんだ。
おかしいな。私はそこまで方向音痴じゃなかったはずなのに。
ちょっとむくれたくなるけれど、それは後でやればいい。
﹁だけど、君が行方不明になったことで、この身体が生きていけな
くなりかけた。心がなければ、身体はうまく機能できない。でも、
身体は生きたがっていた。だから、残った欠片を集めて、私が目覚
めた。瑞姫の身体を生かし、動かすものとして﹂
前世の記憶の欠片である私が目覚めたのは、本来あるべき心がい
なくなってしまったからだ。
そう仮説を立てれば、辻褄が合う。
でなければ、今生での瑞姫の記憶を私が取り込むことができない
からだ。
記憶の欠片である私に前世の記憶の封印を解き、自我を甦らせた。
欠片でしかない私は、本体の前では無力だ。
512
瑞姫が戻れば、今いる場所を受け渡すしかない。
未練などは感じてはいないけれど。
そう、不思議と未練はない。
まあ、瑞姫にこの場を渡しても、私自身が死ぬわけではないから
だ。
記憶は瑞姫に引き渡され、私は眠りにつくのだろう。
﹁瑞姫、これから先は、君が生きなさい。君の大切なものを君に返
すよ﹂
その言葉に瑞姫の顔色が変わる。
﹁それじゃ!!﹂
﹁元々が君のものだった。私は少しの間、代役を果たしていただけ
だ﹂
﹁それでも!! あなたが生きていた間、それはあなた自身のもの
だ﹂
﹁いや。間違えてはいけない。私は君の一部だ。本来、君が経験す
ることを私が代行していたに過ぎない。君が本来の場所に戻れば、
私が経験してきた記憶は君へ引き継がれる。だから、何も心配する
ことはない﹂
私の言葉に瑞姫は硬い表情を浮かべたままだ。
﹁それでは、入れ替わった後、あなたはどうなる!?﹂
思いもよらぬ激しい口調。
﹁私? どうなると思う?﹂
﹁ふざけないでっ!! 真面目に聞いている!﹂
﹁正直に言うと、死ぬわけではない。それはわかっている﹂
﹁⋮⋮え?﹂
﹁君が死なない限り、私も死なない。入れ替われば、記憶はメイン
になっている方に引き継がれる。それは、確かだ。私もそうやって
君の記憶を引き継いだから﹂
笑みを浮かべたまま、正直に答えれば、瑞姫が戸惑いの表情を浮
かべる。
513
﹁では、あなたは⋮⋮﹂
﹁役目は終わった。だから、眠ろうと思う﹂
﹁眠るって⋮⋮﹂
﹁その言葉通りの意味だ。君がいなくなったから目覚めた。戻って
きたのなら、起きている必要はないだろう? 1人の人間に自我が
2つも必要ないし。その状態を二重人格というのだろう? やはり
それは問題だと思う﹂
説明を聞きながら、納得しつつも納得できないと言いたげに私を
見上げている。
﹁私という自我が眠りにつけば、おそらく、君に融合するんじゃな
いのかな? 私は君の中で、君が体験することを夢現で見守れると
いうことだね﹂
﹁⋮⋮本当に?﹂
﹁さあ? 私にもわからない。何せ、この状態自体がイレギュラー
だ。本来起こるべきことではなかった﹂
きゅっと唇を噛みしめ、自分を責めている様子の瑞姫の頭を撫で
る。
﹁さあ、もう往きなさい。疾風たちが君を待っているよ﹂
﹁え? 今、どうなって⋮⋮?﹂
きょとんと瞬きをして、瑞姫が問う。
﹁さあ? 高2の春、始業式の最中だったことは確かだ。君を見つ
けて私も意識を飛ばしちゃったからね、今頃、いきなり倒れた私を
見て疾風たちが慌ててるころだろうなあ﹂
﹁ええええええええっ!?﹂
﹁起きたら、きっと怒られるだろうなぁ。うわあ、嫌だな﹂
﹁あれで結構、疾風は怒ると怖いからな﹂
ふたりで同じ結論に辿り着き、うんうんと頷き合う。
﹁潔く疾風に怒られてきなさい、瑞姫﹂
﹁ええ!?﹂
﹁それで3年半の迷子はチャラだ。大丈夫、皆が君を助けてくれる。
514
それにね、起きたらわかると思うけど、机の引き出しに日記と資料
が入っている。それを見れば、これからのことが多少わかるだろう。
誰にも見つからないように、それを見て、対応策を考えるといい﹂
するりと立ち位置を変え、瑞姫の肩を掴む。
﹁対応策?﹂
﹁そう。これから起こりうる可能性があることを書き記している。
東條凛という女の子が転校してきてから、彼女が起こすだろうこと
を書いているんだ。まあ、随分状況が変わってきているから、その
通りに彼女が行動を起こすかどうかはちょっとばかり疑問はあるけ
れど。とりあえず、乗り切れる打開策にはなると思うよ﹂
細かい説明をしたいところだが、もう時間はないらしい。
眠りの時間が近づいてきたようだ。
緩やかに意識が遠のいていく。
恐怖を誘う闇が、心地良い眠りへ誘う闇へと変化していく。
そうか、ここで私は眠りについて、彼女の中へ同化していくのか。
﹁詳し事はそれに書いてあるから﹂
そう言って、私は笑った。
﹁3年半、私はとても楽しかった。これからは、君が楽しむ番だ﹂
瑞姫の肩をそのまま後ろへと押し上げる。
﹁え!?﹂
ふわりと瑞姫が浮上する。
慌てたように少女が私を見つめる。
彼女とは反対に、私の身体は闇に絡め取られ、ゆっくりと後ろへ
倒れ込んでいく。
﹁待ってっ!!﹂
浮き上がりながら焦ったように瑞姫が手を伸ばす。
闇に墜ちていく意識の中、彼女が私の手首を掴んだ。
途端に覚醒する意識。
﹁えっ! ちょっと待って!!﹂
どちらが叫んだのかわからない。
515
白い光があたりを照らし出し、私の意識は呑みこまれた。
516
66
視界に白い天井が移り込む。
それが天井だと認識して、自分が目が覚めたのだと気付く。
見慣れない天井。
否、記憶にある天井だ。
そう思い直し、唐突に理解する。
これは自分の記憶ではなく、﹃彼女﹄の記憶なのだと。
自分の記憶の最後は、赤い視界だった。
見えていたモノがすべて赤に塗り潰されていく。
その赤が、黒にとって代わり、唐突に切れた。
その後は闇の中だ。
どれだけ彷徨っていたのかはわからない。
彼女の言葉だと3年半ということだが。
声を上げても、何処にも届かず、光もなく、行く先もわからず。
蹲って泣いていたこともある。
それが変化したのはつい最近だ。
闇の中、声が聞こえた。
凛とした張りのある厳しい声。
でも、すべてを包み込むような優しい声。
その声が、私の行く道を教えてくれた。
何も見えなくても、あの声が聞こえる限り大丈夫だと思えた。
517
一歩一歩、ゆっくりと歩き、辿り着いたところに彼女がいた。
記憶していた自分の顔よりもやや大人びた顔で、背も高かった。
聞けば16歳の私だという。
そうか。
16歳の私はこんな顔をしているのか。
納得するというよりも、感心した。
私がそのまま過ごして16歳になったよりも遥かにカッコいい気
がしたからだ。
短くなってしまった髪には驚いたけれど、それは仕方のないこと
なのだと理解している。
それに、背が高くなった私にはよく似合っている。
きっと、この人はモテるのだろう。
穏やかに微笑むだけで、何だか優しい気持ちになれるような空気
を持っている人だから。
だけど、話をすれば、大人だけれどやっぱり自分で、そこが少し
驚いた。
疾風が怒ると怖いって、こんなに大人になってもやっぱり思っち
ゃうんだと笑いが出そうになる。
私がこんなに大きくなっているということは、疾風も大人びたん
だろうな。
色々と考え込んでいるうちに、身体の感覚が徐々に戻ってくる。
多少、違和感がある。
右側が少し動きづらいし、感覚が鈍い。
事故の影響なのだろうか。
だとしたら、本当に申し訳ないことをあの人にはしてしまったこ
とになる。
ここまでになる間、相当な痛みと戦っていたことになるのだから。
そう言えば、あの時、咄嗟に手首を掴んでしまったのだけれど、
518
あの人はどうなってしまったのだろう。
確かにしっかり掴んでいたはずなのに、気付けばこの身体には私
の意識が繋がってしまっている。
︵本当にね。何の手違いで⋮⋮︶
えっ!?
不意に、耳許で告げられたかのように、鮮明な声が自分の内側か
ら聞こえて驚く。
︵予定では、あのまま眠りつくはずだったのに︶
残念そうな声音で告げられるその口調は、あの暗闇の中で聞いた
ものと同じものだ。
ええっと⋮⋮もしかして?
︵そうだよ。何故か私も覚醒したまま、君の意識にリンクしちゃっ
てるんだよ︶
呆れたような口調で告げられる言葉に、私は目を剝く。
まさか、そんなことが!?
︵そのまさか、だ。ま、もっとも、意識だけで、身体は自由にでき
ないから、安心して︶
いや、安心してとか、ないと思う。
元々私の代わりに瑞姫として過ごしていたのだから、自由に使わ
れても別にいいというか。
519
︵本体が何を言ってるんだ!? 本体なら本体らしく、付属の私に
口出しさせないようにしゃっきり意識を保ちなさい!︶
びしりと言われ、瞬きを繰り返す。
やっぱり格好いいなと思ってしまう。
ふと気が付けば、これまでの記憶が無理なく私の中に納まってい
た。
思っていた以上に過酷な病院生活だった。
これを乗り切ってしまった人に脱帽してしまう。
ええっとこれからどうすればいいと思う?
︵起きたことを知らせて、疾風に怒られる︶
やっぱりそれが最初か。
むしろそれしか選択肢がない。
仕方なく、ゆっくりと起き上がる。
上体を起こし、ベッドの下へ足をおろし、縁に腰を掛ける形で身
体の動きを確かめる。
何とか思い通りに動いている。
そう安心した時、仕切られていたカーテンがいきなり開けられた。
﹁うわっ!?﹂
﹁瑞姫っ!!﹂
飛び込んできた疾風に肩を掴まれたかと思うと、熱やら脈やらを
てきぱきと見られる。
﹁吐き気とか、頭痛とか、気分が悪いとかないのか!?﹂
﹁だ、大丈夫⋮⋮﹂
疾風の有無を言わさぬ迫力に押され、引き気味に答えれば、ほっ
520
としたように疾風の表情が緩む。
﹁⋮⋮いきなり倒れるから、焦った⋮⋮﹂
﹁ごめん﹂
﹁大体何で体調悪いとか、気分が悪いとか、先に言わないんだ! 言っていたら俺だって対処のしようがあるのに!!﹂
﹁⋮⋮ごもっとも﹂
怒る疾風に逆らうな。
これが、私と彼女の共通の意見だ。
絶対に正しいと思う。
﹁で? 何で言わなかった?﹂
﹁⋮⋮気付かなかったから﹂
﹁は?﹂
﹁だって、体調悪いとか全然わからなかった。何で倒れたのかもわ
からない﹂
﹁⋮⋮⋮⋮⋮⋮﹂
あ。
怒ってる。
めちゃくちゃ怒ってる。
内心、びくびくしながら疾風を見上げ、本当に大きくなったなあ
と感心する。
精悍というか、剽悍な顔立ち。
無駄を削ぎ落としたしなやかな体躯。
背が高く、きっちりと筋肉もついているのに、無駄な威圧感を感
じないのはそのせいだろう。
だけれど取り巻く気配はその時々で異なるのだろう。
﹁⋮⋮瑞姫、何考えてる?﹂
地を這うような低い声が怒りを抑え問い詰めてくる。
﹁疾風、身長伸びたなぁ⋮⋮って考えてた﹂
正直に答えれば、がくりと疾風が肩を落とした。
﹁それはない。伸びてないから﹂
521
﹁え? まだ伸びそうな感じがするけど﹂
﹁そりゃ、まだ伸びるとは思うけど。あんまり伸びると服がないか
らな﹂
﹁そうかな? でも、疾風、服はオーダーでしょ?﹂
﹁さすがに普段着は既製品を買ってる。自分の服くらいに無駄買い
したくないし﹂
疾風を取り巻いていた空気が和らぐ。
それどころか、力尽きた感じがする。
﹁そうなのか。既製品か⋮⋮﹂
﹁瑞姫は駄目だからな。生地はいいものを選ばないと肌を傷める﹂
﹁それは、うん。でも、疾風が服買うの付き合ってもいい? どう
いうのがあるのか、見てみたい﹂
吊るしてある服を買うということは、まったく経験がない。
定期的に契約している数人のデザイナーに、欲しい服のイメージ
を伝え、生地を選んで、デザインして貰ったものを見て、それを手
直ししてから作ってもらうというのがいつものパターンだ。
知識として、ショップやデパートなどに既製品が吊るしてあり、
それを見てサイズを合わせて買うということが一般的であるという
ことは知っている。
知っているが、自分がそうやって買ったことはないし、誰かが買
っているというところを見たこともない。
興味を持っても不思議ではないだろう。
そもそも、お店に行って買い物をするということすら、私はした
ことがないのだ。
彼女の方はあるみたいだけれど。
﹁あら、瑞姫? 本当に目が覚めたのね﹂
のんびりとした声が響き、この部屋の主が顔を出す。
﹁茉莉姉上﹂
﹁ん。貧血じゃなさそうね。体温も通常通り。脈拍も⋮⋮平常域。
問題ないようね﹂
522
疾風と同じ手順であちこち調べた後、茉莉姉上のお墨付きをもら
う。
﹁もう、教室に戻っても?﹂
﹁そうね。大丈夫かしら⋮⋮自分で倒れた心当たりはある?﹂
﹁まったくないです﹂
﹁寝不足も?﹂
﹁ありえない。しっかり眠ってるし﹂
﹁そうよねぇ。原因がわからないっていうのが一番怖いのよね。帰
ってからもう一度診るから、母屋に顔を出してちょうだい?﹂
﹁わかった﹂
素直に、従順に。
やましいことがなければ、それが一番いい対処法だ。
あっさりと頷けば、茉莉姉上はカルテに何やら書き込む。
そこに、バタバタと複数の足音が響く。
がらりと扉が開き、中に飛び込む人の気配。
﹁瑞姫!!﹂
﹁やかましいっ!!﹂
いくつもの声が私の名前を呼び、茉莉姉上が一喝する。
女帝様、健在だ。
その声に、私は戻ってきたのだとようやく実感した。
523
67
﹁瑞姫! 倒れたって!?﹂
茉莉姉上の一喝にも負けずに飛び込んできた在原、橘、千景に私
は驚く。
﹁瑞姫ちゃん、大丈夫!?﹂
それに少し遅れた千瑛と、大神。
こんなにも彼女を心配してきてくれたのか。
﹁大丈夫。心配かけてごめん﹂
﹁心配ならいくらでもするけど!! 瑞姫が大丈夫ならそれでいい﹂
泣きそうな表情で立ち止まる在原と千瑛、千景。
﹁原因は? 寝不足? 貧血?﹂
わずかに表情を曇らせ、大神が問う。
﹁どちらも違う。まだ、原因不明﹂
理由はわかっている。
私と彼女が入れ替わるためだ。
だが、これは秘匿情報であって、口にしていいことではない。
﹁瑞姫⋮⋮良かった、無事で﹂
ふらりと近付いてきた橘が、私の目の前で立ち止まると手を伸ば
し、ぎゅっと抱き締めてきた。
﹁⋮⋮誉?﹂
﹁よかった。目が覚めて⋮⋮﹂
ああ、そうか。
誉の養母は身体が弱い。
倒れると、いつもこれで体力が尽きるのではないかと心配してい
524
るのだろう。
彼女と私が重なってしまったのか。
﹁⋮⋮瑞姫⋮⋮﹂
ぎゅうぎゅうと抱き締めてくる力はとても強い。
というか、さらに強まってきている感じだ。
だけど橘は震えている。
怖がらせてしまったのか。
﹁大丈夫だ、大したことではないから﹂
ぽんぽんと動く左手で、橘の右腕を軽く叩いて宥める。
﹁そうやって、すぐに無理をするから倒れるんだ﹂
震える橘は、抱きしめるというよりもしがみついてくる感じだ。
﹁う∼ん。何というか、スイッチが切り替わった感じ? 本当に大
したことじゃないから。もう倒れないし﹂
確証はないけれど、橘を宥めないことには放してもらえない。
助けてもらおうと疾風を見れば、眉間に皺を寄せて入口を睨みつ
けている疾風の姿がある。
﹁疾風?﹂
首を傾げれば、また足音が聞こえてきた。
﹁失礼します! 相良さんが倒れてこちらへ運ばれてきたと聞きま
したが⋮⋮﹂
諏訪の声だった。
その瞬間、目の前が暗くなり、車に撥ねられる直前のことが過る。
途端に苦しくなる呼吸。
﹁瑞姫っ!?﹂
橘と疾風の声が耳を打ち、普通に呼吸ができるようになった。
﹁どうした! 瑞姫!?﹂
﹁あ⋮⋮大丈夫。何でも⋮⋮﹂
︵フラッシュバックね︶
﹁フラッシュバック⋮⋮?﹂
もう一人の瑞姫の声に、ぽつりと呟く。
525
フラッシュバックって、何だっけ⋮⋮?
深呼吸を繰り返しながらぼんやり考えていれば、橘が押しのけら
れ、茉莉姉上が私の顔を両手で挟むように固定する。
﹁瑞姫! もっとゆっくり息をしなさい! そう、ゆっくり⋮⋮﹂
その声に誘導されるように、ゆっくりと呼吸を繰り返す。
緩やかな呼吸は眠気を誘い、再び意識が遠のいていく。
﹁茉莉⋮⋮姉、上⋮⋮﹂
﹁いいわよ、そのまま眠っても。大丈夫、ゆっくり休みなさい﹂
ああ、茉莉姉上が許可してくれたから、眠っても大丈夫なんだ。
そう思うと、気が楽になり、途端に眠気が押し寄せてくる。
そのまま気を失うように、私は眠りに身を委ねた。
***************
﹁あっちゃー⋮⋮やっぱりこうなったか﹂
気が付けば、額に手を当て溜息を吐くあの人がいた。
﹁えーっと⋮⋮?﹂
何がどうなったのか、よくわからない。
周囲を見渡せば、あの闇の中ではなくて、今度は蒼い世界。
海の青なのか、空の青なのかはわからないが、あの闇よりも遥か
に居心地がいい。
この人が感じている世界が、あの暗い闇の中じゃなくて本当によ
かったと思う。
﹁あの⋮⋮﹂
思わず私は呼びかける。
﹁ん? 何かな?﹂
526
首を傾げるその人に、私は現時点で困っていることを告げる。
﹁あなたのことを何てお呼びすればいいんでしょうか?﹂
﹁ああ。そうか。本体と記憶の欠片じゃ味気ないしね﹂
﹁ええっ!? そんな呼び方、できませんっ!﹂
﹁う∼ん。以前の名前は確かに憶えているけど。あれは﹃私﹄の名
前じゃないしねー﹂
彼女も困ったように首を傾げている。
﹁好きに呼んでくれて構わないけど?﹂
﹁年上の方にそれでは失礼ですし﹂
﹁いやいやいや。根本的に、一緒なのよ? 私と君は。同じ瑞姫な
んだから﹂
﹁⋮⋮じゃあ、瑞姫さんでいいでしょうか?﹂
恐る恐る問いかければ、苦笑して頷く瑞姫さんの姿がある。
﹁それで構わないけれど、君が本体なんだからもっと堂々としてれ
ばいいのに﹂
﹁いえ。あなたには礼を尽くすべきだと思いますし。あの、それで。
瑞姫さんに色々お伺いしたいのですが、よろしいでしょうか?﹂
﹁私がわかる範囲内であれば、正直に答えるけれど。ああ、立ち話
もなんだし、座る?﹂
そう言って、彼女が示した先には向かい合ったソファセットがあ
る。
﹁え!? いつの間に?﹂
﹁まあ、夢の中なんだし。そういうのもありじゃない?﹂
﹁⋮⋮ありなんですか⋮⋮﹂
のんびりと、というよりも、鷹揚に構える瑞姫さんの大物ぶりに
私は感心する。
物事に動じない方だと言われている私よりも格段に上だ、この人。
瑞姫さんは場所をあっさりとソファに移して手招きすると、向か
い側のソファを勧めてくる。
﹁それで、何が聞きたいの?﹂
527
﹁まずは、﹃やっぱりこうなったか﹄と仰った言葉の意味です﹂
この人には率直に尋ねた方がいい。
正直に答えると言ってくれる人に遠回しに言葉を選ぶ必要はない。
﹁んー⋮⋮意味は2つある﹂
ちょっと考え込みながら、瑞姫さんは答えた。
﹁2つ?﹂
﹁1つは、君がここにきちゃったこと。もう1つは諏訪が来た時の
君の反応﹂
﹁あ! フラッシュバックって言っていたこと?﹂
﹁そう。本当はフラッシュバックでも何でもないけど。だって、瑞
姫には事件直後ってことだから。諏訪の姿を見て、事件直後の記憶
が繋がり、あそこから続きを始めようとしただけだから﹂
﹁⋮⋮⋮⋮⋮⋮あ﹂
わかった。
そういうことなのか。
車に撥ねられた直後、私は気を失った。
そこから瑞姫さんが﹃瑞姫﹄になったのだけど、私がそこからや
り直そうとしたのなら確かに痛いとか苦しいとか、そういう感情に
囚われることになる。
だけど、瑞姫の身体にとって、それはも済んでしまったことなの
だから、フラッシュバックと呼ばれる現象に似てしまうんだ。
だから瑞姫さんはフラッシュバックと言って、周囲を納得させる
言葉を告げたのか。
﹁諏訪の件はわかりました。では、もう1つのこちらに来たことと
は?﹂
理解したことを頷くことで示し、もう1つの件について尋ねる。
その言葉に、瑞姫さんはちょっと考えるそぶりを見せた。
﹁まだ、君が身体に馴染んでないというか⋮⋮私がいることで馴染
めてないというか⋮⋮まあ、そういうこと、かな?﹂
﹁だったら!﹂
528
﹁こらこらこら! 勘違いするんじゃありませんっ!!﹂
私が何かを言い出す前に、瑞姫さんがきちっと制してくる。
﹁いい? もう一度、はっきり言っておくけれど。瑞姫、君が生ま
れてから12年半、この身体をコントロールしてきたんだ。私は君
がいなくなってからの3年半、君に代わってこの身体を生かしてき
た。どちらが主か、問答無用でわかるだろう?﹂
きつい眼差し。
反論は許されない。
余地がない。
それでいて、私が逃げ出した理由を問わない優しさ。
﹁一度離れた心が、身体と結びつくまで時間がかかるのは、ある意
味、仕方がない。そのための繋ぎとして私がまだ意識を保っている
のかもしれない。すべては仮定だ。神様が総てを説明してくれない
限り、何もわからない。いるのだとしたら、ね?﹂
にっこりと笑う瑞姫さんの笑顔は迫力がある。
きっと神様がいたとしても、彼女の笑顔の前には怖がって出てこ
れないだろう。
怒っていることがはっきりわかる笑顔なのだから。
﹁まあ、しばらくの間は、ここで私と瑞姫が情報交換するのも悪く
ないかもね﹂
仕方なさそうな笑顔で、瑞姫さんが告げる。
その一言に、私は純粋に喜んだ。
﹁まだ起きていてくれるの?﹂
﹁これだけ意識が覚醒してるんだから、本当にもう仕方ない。乗り
かかった船っていう諺通りにコメンテーターになりますとも﹂
苦笑して頷く瑞姫さんとしては、本当に不本意なんだろう。
﹁さあ、もう一度、戻りなさい。今度は家に帰ってから会おう。じ
ゃないと、安心して会話ができない﹂
﹁はいっ!﹂
瑞姫さんに促され、前回とは異なり喜び勇んでその場を離れる。
529
また会ってくれる。
その言葉が嬉しくて、私は覚醒することへの恐怖を克服できた。
530
68
怖い。
とにかく、怖い。
普段穏やかな人が怒るのは、これほどまでに怖いのか、実感した
次第であります。
﹁⋮⋮何がもう大丈夫だって?﹂
穏やかに微笑む橘が静かに問いかける。
一度、眠りについて、短い睡眠の後覚醒すれば、橘と疾風のお説
教が待っていた。
疾風に怒られるのはいつものことなので覚悟はしていたけれど、
橘は予想外だった。
自分の中で、瑞姫さんも苦笑しているから、やっぱり予想外だっ
たのだろう。
諦めろという気配がひしひしと伝わってくるのがもっと嫌だ。
﹁だから、えっと⋮⋮あれは、不意打ちだし⋮⋮﹂
意気地なしと言われても、今だけは素直に受け入れます。
怖いです、橘。
本気で怖い。
﹁まあ、あれは仕方がない。あの場面であいつが来るとは誰も思わ
なかったし。フラッシュバックがいつ起こるかなんて、瑞姫にだっ
てわかるはずもない﹂
しょぼんと肩を落としていたら、疾風が絆されてくれた。
こういうところが優しいんだよな、疾風って。
531
﹁それは、まあ⋮⋮だけど﹂
﹁俺としては、いつまでも瑞姫の周りをうろうろするあいつが気に
入らないんだけど? 絞めに行っていいならいつでも喜んでいくけ
どなー﹂
﹁岡部。今回の件は、瑞姫よりも諏訪の方がダメージ深いから、追
い打ちはやめておけ。大神が対処できなくなるだろ?﹂
﹁東條と一緒に諏訪も東雲から退場させられるなら一番手っ取り早
いんだけど﹂
疾風の表情が怖い。
橘と違う方向で疾風も怒っていたのか。
今現在、保健室にいます。
目が覚めたばかりというのが正しいか。
どうやらあれから20分ばかり眠っていたようです。
意外と早く戻れたことに驚きだ。
これなら教室に戻ってもいいと思うのだけど。
高等部の教室がどうなっているのか、この目で見たいという好奇
心が抑えられない。
瑞姫さんの記憶は引き継いでいるけど、やっぱり、自分の目で確
かめて、ちょっとした差異を楽しむのもいいかなと。
﹁瑞姫? まだ、気分が悪いのか?﹂
2人のやり取りを黙って聞いていたら、疾風が心配そうに顔を覗
き込んできた。
﹁いや、大丈夫! 話の邪魔をするのも悪いかと思って⋮⋮﹂
﹁⋮⋮瑞姫。分が悪いから、話題が変わるまで大人しくしていよう
とか思ってたんだろ?﹂
くすっと笑った橘が、私の頭を撫でる。
﹁む。それはない! その東條さんにはまだ会っていないから、今
の段階で何も言うことはできないなとしか⋮⋮﹂
﹁会わなくていいから!!﹂
532
疾風と橘が異口同音でぴたりと口調を揃えて言う。
﹁アタマの悪い変な女が入ってきたと、話題もちきりだ﹂
﹁え!? 今日、始業式だよ? 今日が転入第一日目なのに、そん
な話がもう上がってるの!?﹂
驚いてそう言えば、疾風と橘が深々と溜息を吐く。
そうして、もう1つ、私の内側でも溜息が漏れた。
︵東條凛なら、ありえる。あれほど残念な女はいないから⋮⋮︶
会ったことのない人のことをここまではっきり言えるのは、瑞姫
さんが持っているという前世の記憶とやらが関係しているのだろう。
残念ながら、瑞姫さんの前世の記憶は、私には見えないのでわか
らないのだ。
﹁とにかく気持ちが悪いと言っているのをさっき聞いてきたばかり
だ﹂
橘が顔を顰めて言う。
これは、珍しい。
橘は他人のことを悪しざまに言うことなどほとんどない。
誰に何を言われようとも、気にせず流してしまうのが、彼の性格
なのに。
﹁ふうん⋮⋮って、あれ? 誉!? H.R.はどうしたの!? 君、隣のクラスだよね!?﹂
﹁⋮⋮サボった。菅原弟が良いって言ったから﹂
﹁千景が!? あの、真面目な千景が!! うわあ⋮⋮明日、天変
地異が起こるかも﹂
驚いて言えば、ぺちりと橘がおでこを叩いた。
﹁それだけ心配してたんだって。彼がそこまで気にかけるのって、
菅原姉以外には瑞姫しかいないんだから﹂
﹁あー⋮⋮うん。あとで謝っておく﹂
﹁そこは、心配してくれてありがとうだろ?﹂
﹁そうか。じゃあ、誉も疾風もありがとう﹂
素直にお礼を言えば、2人揃って頭をぐしゃぐしゃになるまで撫
533
でられた。
何でだ?
﹁茉莉姉上、もう教室に戻ってもいいでしょうか?﹂
一応、主治医になる茉莉姉上に問いかければ、くつくつと笑いな
がら姉上が頷く。
﹁瑞姫、髪の毛、はねてる﹂
﹁うわっ! どこどこ!? きちんと梳かしたのにっ!!﹂
ぐしゃぐしゃになった髪を櫛で梳かして整えていたはずなのに、
指摘されて慌てる。
﹁疾風。瑞姫の面倒を見るのはあなたの仕事でしょ?﹂
﹁申し訳ありません、茉莉様﹂
壁に掛けられた鏡を覗き込み、はねてる箇所を探す私の後ろで、
茉莉姉上と疾風が話している。
﹁大丈夫だよ、瑞姫。綺麗になってるから﹂
橘がとんとんと肩を叩いて言うが、本当だろうか?
思わず見上げて視線で問えば、橘はにっこり笑って頷いている。
﹁⋮⋮茉莉姉上∼っ!?﹂
からかったな。
﹁引っ掛かる方が悪いのよ? というより、原因を作った方ね。疾
風と橘君?﹂
にこやかに微笑む茉莉姉上が、2人を流し見れば、首をすくめる
2人の姿が。
﹁瑞姫が可愛いからって、構いすぎるのはどうかと思うのよ?﹂
今、可愛いからが面白いからと聞こえたような気がするのは何故
だろう。
玩具扱いですか、私は。
反論するのも面倒臭いので、ここは流して教室へ戻るとしよう。
534
3人をその場において、戸口へと向かう。
﹁瑞姫?﹂
﹁教室へ戻ります﹂
がらりと扉を開けて、一礼して保健室を出ると、血相を変えた疾
風と橘が追い駆けて来た。
教室へと向かう廊下。
中等部の校舎よりもやや古めかしい建物だが、設備は中等部より
も充実している。
ここが高等部か。
初めてではないが、あまり馴染ない校舎を歩きながら、私は緩く
目を細める。
﹁瑞姫! 置いていくなんてひどいじゃないか﹂
疾風が抗議してくるが、知らん顔だ。
﹁瑞姫! 1人で歩いて大丈夫なのかい? また立ちくらみとかす
る可能性もあるから、保健室で横になっていた方が⋮⋮﹂
﹁大丈夫﹂
橘の言葉にそう答えたとき、チャイムが鳴り響く。
﹁あ。今日のH.R.ってもう終わり?﹂
初日から来ているのに欠席というのも問題児かもしれない、私。
思わず振り返って2人に問えば、顔を見合わせた2人が首を横に
振る。
﹁あと1時限あるはず。役員決めとか今日する予定たっだし﹂
﹁⋮⋮今、何時だろう?﹂
思わずそう呟いて、腕時計を眺める。
まだ午前中だ。11時になるかならないか。
瑞姫さんの記憶と照らし合わせ、今日の予定を確認する。
そうか。
535
さほど長い時間、倒れていたわけではないようだ。
瑞姫さんは図書委員になりたがっていたから、私も図書委員にな
ろうかな。
軽い気持ちで考え、それがいい考えのような気になる。
﹁ああ、そうだ。疾風、私、図書委員になろうかと思う﹂
委員は各クラス2名選出が基本だ。
これは、男女問わず2名出ればいい。
﹁そうか。じゃ、俺も立候補しよう﹂
あっさりと疾風が頷く。
ゆっくりとした歩調で2年の教室近くまでやって来た時だった。
﹁ねぇねぇ! そんなに落ち込まなくてもいいんだよ! 失恋なん
て誰だって1度や2度経験することなんだからっ!!﹂
すごく明るい声が廊下に響き渡る。
﹁は? 何言ってるんだ、おまえ?﹂
意味が解らないと言いたげな声は諏訪のもの。
諏訪の姿が廊下に現れた途端、疾風と橘が私の前に出る。
さっきのフラッシュバックもどきを気にしているのだと、その態
度でわかる。
﹁疾風、誉、大丈夫だから。もう、さっきのようなことは起こらな
い﹂
2人の腕を軽く叩いて2人の間から私が前に出る。
﹁瑞姫﹂
﹁さっき、諏訪も心配して保健室に来ていただろう? 一応、礼を
言うべきだと思うしね﹂
そう言って歩き出す。
近付く私の姿に気付いた諏訪が、一瞬だけ表情を強張らせたが、
平然と近づく私にホッとしたように表情を緩めた。
﹁強がらなくていいんだよ? 私、知ってるんだから。でもね、失
恋って新しい恋をすれば癒されるんだから。私が傍にいてあげるし﹂
話しかけようとこちらに近付こうとした諏訪を遮るように声を掛
536
けてくる少女。
先程の場違いなまでの大きな声は、この子か。
思わず瞬きをした私の目の前で、その子は無遠慮に諏訪の腕に自
分の腕を絡めようとした。
︵うわーっ! 聞きしに勝る残念振りだな。全然空気が読めてない︶
瑞姫さんが物凄く嫌そうな声を上げる。
まるで彼女が誰か知っているような口振りだ。
︵あの子が、東條凛だよ。ゲームの東條凛とは微妙に違うみたいだ
けど︶
そう説明してくれるが、嫌悪感に彩られている。
無理もない。
諏訪伊織は失恋していない。仮に、そのことが事実だとしても、
自分で決めたことで吹っ切っているはずだ。
彼女の言葉は一方的な思い込みで彩られているとしか傍目からは
見えないのだ。
そうして、許可もなく、相手に触れるのはよほど親しい相手でな
ければ許されない行為だ。
今日が転校1日目である彼女が、面識のない諏訪と親しい間から
だとは決して言えないだろう。
それを証拠に、諏訪が嫌悪の表情を浮かべて彼女の腕を振り払っ
た。
﹁俺に触れるなっ!!﹂
完全な拒絶。
男の腕力で振り払われれば、いかな彼女とてよろめくだろう。
近距離にいた私は、仕方なく彼女を支えてすぐに手を離す。
﹁前にも言っているだろう、諏訪? 女性は丁重に扱うように、と﹂
﹁相良!!﹂
困惑したような表情の諏訪とは対照的に、少女の方は私を見て喜
色を浮かべる。
﹁八雲先輩!?﹂
537
﹁⋮⋮は?﹂
その瞬間、空気が凍りついた。
うん。
瑞姫さんが言ったことは正しい。
空気が読めてないし、人の名前を間違えるとは、残念な人だ。
私の東條凛への第一印象はこれで決まった。
538
69
見ず知らずの女の子に、﹃八雲先輩!?﹄と兄の名前を呼ばれて
しまった。
空気が凍りついた、居たたまれない、主に私が。
︵うあーっ!! 最っ悪! こいつ、記憶持ちの転生組だわ。それ
でこの性格か!! 性質が悪いったら︶
瑞姫さんの叫び声で、はっと我に返る。
まるで、私の中でごろごろと床を転がっているような彼女の声に、
大丈夫なのだろうかと心配してしまう。
そうして、問題の東條凛を見れば、彼女は彼女で何やらぶつぶつ
呟いている。
﹁おっかしいなぁ。八雲先輩とのイベントは、確か中庭の読書中が
最初だったはず。でも早く会えれば、その分、攻略しやすくてラッ
キーかも?﹂
うん。私には意味が解らない。
諏訪も気味が悪いものを見ているような視線を彼女に向けている。
だから、諏訪。女の子は丁重に扱うべきだと何度も言っているの
だが。さすがにその視線は失礼だと思うよ。
﹁失礼だが、君は何故兄の名前を知っているのかな?﹂
この場の打開策は、私が何か言うべきなのだろう。
わかっているが、あまり話したくない相手でもある。
539
疾風たちが言っていた意味が何となくわかった。
﹁え? 兄!?﹂
﹁八雲は、私の兄だ。そして、5歳ほど年上であるから、当然なが
ら高等部にはいない。そうして、私と兄を間違えるような者は、こ
の学園には誰ひとりとしていない。君は、何故、兄の名前を知って
いる?﹂
私と八雲兄上の顔の見分けがつかないのに、兄上の名前を勝手に
呼ぶとは失礼極まりない。
それ以前に、八雲兄上の名前を知っていたということだけで、相
良家に対し含むところがあると他の者に思われても仕方がないとこ
ろだろう。
仇為す者なのか、阿る者なのか、見極めなければそれなりのリス
クを背負うことになるだろう。
﹁何故知ってるって、皆、知ってるでしょう!?﹂
﹁この学園にいる者の多くは知っているな。兄の顔と一緒に。だが、
知らない者もいる。外部生の殆どは兄の顔も名前も知らない。君は
外部生だろう?﹂
皆が知っているから自分も知っているは通用しない。
そう言えば、目を瞠り、そうして落ち着きなく視線を左右に振っ
ている。
﹁じゃあ、あなた、誰よ!?﹂
彼女が口にした言葉に、周囲の気配が悪化した。
﹁⋮⋮君に名乗る名前はないようだ。今後、君に関わるつもりもな
い﹂
人の名前を尋ねる時は、まず自分の名前を告げてから。
その最低条件も守れぬ相手に名前を乞われても答える者はいない
だろう。
そのことに気付かない彼女の態度も周囲の評価を下げる結果とな
っている。
﹁⋮⋮行こうか﹂
540
疾風と橘に声を掛け、彼女の隣を通り過ぎる。
﹁ちょっと待ってよ!! 疾風君も誉君も!! 私、あなたたちの
味方よ!﹂
叫びにも似た声に、疾風も橘も嫌悪を浮かべる。
マナーがなっていない。
私の溜息を周囲の者が捉えたようだ。
﹁⋮⋮相良﹂
一瞬、本気で嫌そうな表情を浮かべた諏訪が、その直後、私に向
き直り、声を掛けてくる。
﹁ああ、諏訪。先程はすまなかった。心配してきてくれたのだろう
? 体調はこの通り、何ともない。君には悪いことをしてしまった
な﹂
足を止め、諏訪の言葉に謝罪と謝意を告げれば、彼はホッとした
ように首を横に振る。
﹁いや。あれは場を読まぬ俺が悪かった。体調が悪い時に俺と会え
ばどうなるか、きちんと考えればわかることだった。すまない﹂
そう言って頭を下げる。
矜持の高い彼が人前で私に頭を下げるとは誰も思わなかったのだ
ろう。
あちこちで息を飲む音が聞こえる。
﹁頭を上げてくれ。謝罪は必要ない﹂
そう言えば、おずおずと諏訪が顔を上げる。
﹁何かあれば、俺にも言ってくれ。手を打てることがあれば、何で
もしよう﹂
﹁その言葉だけで充分だ。ありがとう﹂
そう言った私の言葉で、この場は一旦収まる。
東條凛という存在を無視した形で。
今の私には、彼女にどう対応していいのかわからない。
これは早く家に帰って、瑞姫さんが残してくれた日記と資料を見
541
る必要があるな。
﹁ちょっとちょっと! これ、何のイベントよ!! BLじゃない
んだから、ヒロインを無視しないでよね﹂
意味の分からない言葉が響き渡る。
びーえるって何だろう?
︵瑞姫、今の言葉は即刻忘れなさい。耳が穢れる。というか、彼女
が発する言葉全部、気にする必要ないからっ!!︶
瑞姫さんが激しい口調で怒りをあらわにしてくる。
多分、隣にいたら、耳を塞がれていたかもしれないほど、憤って
いることは確かだ。
わ、わかった。忘れるし、意味も問わないから、落ち着いて⋮⋮
︵おや? おかしなことを言うね、瑞姫。私は落ち着いているとも︶
にこやかに、だけど怒りに満ちた声音で帰ってきた言葉に、私は
沈黙を守ることにした。
次のH.R.は予定通り、委員決めだった。
まずはクラス委員を決める。
在原と女子からひとりが選出された。
この2人の司会で、委員を選び出していく。
﹁次、図書委員だけど、立候補者はいますか?﹂
在原の問いかけに、私と疾風が手を上げる。
﹁あれ? 瑞姫、図書委員、やるの!?﹂
意外そうな表情で在原が言う。
﹁うん。本は好きだしね﹂
﹁ああ、そだねー。図書館での遭遇率、高いよね。ちょうど2人だ
から、決定﹂
有無を言わさず黒板に名前を書き込み、次の委員の立候補を募る。
542
意外と簡単に決まったことに、ほっとする。
図書委員は大体において本好きが立候補することが多いので、地
味に決まるのが早い。
委員会活動と称して、公然と読書に勤しむのだ。
本好きにはたまらない魅惑の委員会だ。
すべてが出揃ったところで、初めての委員会の日付とそれぞれの
場所を告げ、必ず出席することを念押しして、今日の予定をすべて
終えた。
***************
屋敷に戻り、別棟へと向かう。
記憶では、退院後からここで生活をしている。
1階の共有スペースを通り抜け、2階のプライベートゾーンに向
かう。
飾り気のない、シンプルだけど落ち着きのある部屋が私を待って
いた。
これが彼女の好みか。
きちんと整えられた部屋を見渡し、感心する。
彼女が言う﹃元は同じ﹄の意味がわかった気がする。
実に私好みの誂えだ。
すぐに制服から部屋着に着替え、勉強部屋へと移る。
この机の引き出しに、例の物が入っている。
引出しを開け、鍵のついたノートを2冊、取り出す。
鍵のありかは、引き継がれた記憶の中にちゃんとある。
543
﹁さてと。どちらから読むべきか﹂
片方が日記、もう片方が資料だろう。
やはり、日常の齟齬をなくすために日記が先だろうな。
︵資料を先に読んでくれないか?︶
ふいに瑞姫さんの声が聞こえた。
﹁資料から?﹂
︵そう。先に東條凛対策をしておこう。疾風と誉の名前を呼んでい
たということは、記憶持ちの可能性が高い︶
﹁記憶持ち?﹂
︵確証はない。が、今までの情報から見ると、前世の記憶を持って
いると考えると、あの子の行動の違和感が納得できる︶
﹁違和感?﹂
奇妙だとは思うが、何を持って違和感だと言っているのかがわか
らない。
表面的な記憶は引き継げたけれど、前世の記憶だとか、感覚的な
ところまでは引き継げず、そうして今も瑞姫さんが考えていること
はわからない。
彼女を一個人として考えれば、当たり前のことなのだけれど、自
分の一部として考えると少しばかり不便と感じるだろう。
私にとって瑞姫さんは、瑞姫さんというひとりの人間なので、こ
ればかりは仕方ないと諦められる。
︵まず最初にね、東條凛は両親を車の事故で失い、東條家の祖父母
に引き取られるはずだった。ところが、事故で亡くなったのは父親
だけ。母親は凛本人が引き止めている︶
﹁それが?﹂
︵東條家に戻る際に、父親がいると確かに不便なんだけれど、母親
にはお嬢様としても知識を与えてもらうために必要だったとも考え
られるし、他にも理由がいくつか考えられる︶
﹁それは、どんな理由だろう?﹂
確かに一般社会で育っていたなら、お嬢様としての所作や常識な
544
ど誰かに教えてもらわないと馴染めないだろう。
パーティに招待された時の衣装の選び方など、実に独特だ。
相手に合わせ、季節に合わせ、様々な条件を重ね合わせて選び抜
かなければならないのだから、招待されても速攻でお断りしたいと
いうのが本心だ。
︵それはね、まだ言えない。それこそいろんな理由があるし、中に
はとてもひどいものもある。まさかと思うような理由だから、情報
を集めてからじゃないと言いたくない︶
真摯な口調。
瑞姫さんは広い視野を持っている。
ありとあらゆる可能性を考えて、そこから集めた事実と照らし合
わせて答えを導き出すようだ。
﹁わかった。じゃあ、まず、資料に目を通すから、その後で質問さ
せてください﹂
そう言って、私は鍵を開け、資料に目を通しだす。
それは、私にとって衝撃的な事実であった。
545
70
私が今、生きて、生活しているこの世界が、ゲームによく似た世
界だと書かれてあった。
そのゲームの名前、登場人物、彼らの設定。
確かによく似ている。
もちろん、違うところもかなりある。
だからゲームの中ではないと結論付けたとも補足されている。
正直に言って、その補足を目にして止まりかけた呼吸が吐き出さ
れ、落ち着いた。
それほどまでに衝撃的だった。
もし、これがゲームの中だとしたら、一体、私は何なのだろうと
誰かに問いかけたくなる。
だから違ってよかった、と、本当にそう思った。
資料の中には、それぞれの登場人物の生い立ちや性格などの公式
設定とそれ以外の裏設定とにわかれ、丁寧に書き込まれていた。
瑞姫さんが知る限りの記憶に基づいているので、あやふやな箇所
もあるとは添えてあるが、読み解く分にはかなりの精度のように思
える。
そうして、先に進んでいけば、各人物の攻略方法やイベント発生
条件とやらが書かれていた。
546
そうか、あの時、東條さんが言っていた﹃イベント﹄って、この
ことだったのか。
つまりあの場違いなまでの発言は、彼女にとっては場違いではな
く、決められたセリフだったのか。
それが、あのセリフ。
もし、自分が失恋してても、あんなことを言われて傍にいてほし
いとは到底思えない。
始業式は、イベント尽くしで、特に諏訪とのイベントが目白押し
だと書いてある。
ということは、諏訪は朝からあの調子で彼女との会話に付き合わ
されていたのか。
さすがに気の毒に思う。
だから、諏訪はあんなにイラついていたのか。
本来ならば、同じクラスになっていた私が見かねて注意を促すら
しいのだが、生憎私は隣のクラスで、しかも保健室で気を失ってい
たわけだし。
ステイタスというもので、相手の感情がどのくらいなのかを計る
ことができるらしいのだが、これにもいくつかの条件があるそうだ。
疾風の場合は、ゲーム内では八雲兄上の随身で、八雲兄上の好感
度に合わせて上下するらしい。
今回の場合は私の好感度だろうか?
だとしたら、決して上がることはないので、ゼロのままか、それ
ともあの時の疾風の反応からするとマイナスだろうな。
橘も割と条件が難しいらしい。
﹃あなたの味方﹄という言葉がキーワードらしいのだが、これが
諸刃の剣なのだそうだ。
使ってはいけない場面で口にすると、てき面に下がる。
うん、下がっていた。確かに、下がっていた!!
547
あとは千景か。
とりあえず、他のキャラクターの好感度を一定以上、上げておか
ないと登場しないし、好感度も上がらないということだ。
結構、過酷なゲームのようだ。
というより、本当にこのゲーム、面白いのだろうか?
ゲームをしていた瑞姫さんには申し訳ないが、どうにもこの資料
を読む限り、私にはなじめそうにない。
︵あ? 面白くなかったよ、ゲームとしては。なんたって、主人公
が最悪だったもの︶
瑞姫さんが溜息交じりに告げる。
ゲームとしては?
ゲームじゃなかったら面白かったの?
︵ああ、うん。声優さんがねー! 最っ高!! に、いい仕事して
いてね。さすがプロだわーって思ったほど、良かったんだよ︶
へ、へえ?
︵いい声って、聴くだけで幸せになれるんだよね︶
瑞姫さんは、人の声が好きなのか。
︵今、ドン引きしたでしょ!? 昔の話だからね!? 今は、そう
でもなくなったから︶
瑞姫さんの言う﹃昔の話﹄という言葉に、胸がちくりとする。
彼女がここにいるということは、ゲームをしていた﹃瑞姫さん﹄
は、もう亡くなってしまっているということなのだから。
ゲームの中の私は、どんな感じだったのだろう?
︵瑞姫? 瑞姫はねぇ⋮⋮そうね。12歳の時の瑞姫がそのまま1
6歳になった感じだよ。髪が長くて、女の子らしい体形で、身長も
そこまで高くなかったし︶
﹁すみません!! ガリガリに痩せてて高身長で、全然女の子らし
くなくて!﹂
思わず声に出して言ってから、慌てて手で口を押える。
︵ああ、それはね、仕方ないよね。身長が高くなれば、その分肩幅
548
も広くなっちゃうし、それに武術をしているんだもの、どうしても
骨太になるしね︶
⋮⋮ごめんなさい。そんなつもりじゃ⋮⋮
︵傷を癒す方が先だから、どうしても栄養面はそっちに向かっちゃ
うし。まあ、男子の制服を着て、まったく違和感なく美少年になる
とは私も驚いたけど︶
美少年⋮⋮美少年は千景だと思うのですよ。
︵瑞姫の方が美少年だって。傷跡を無理なく隠すためには、男子の
制服の方が都合がいいから、女の子っぽい体形で違和感ありまくり
よりも断然いいしね。それにね︶
苦笑して、瑞姫さんが言葉を切る。
︵男子用の制服を着なくて済む頃になれば、徐々に必要箇所に必要
なだけふっくらしてくるから大丈夫。まあ、上2人のような迫力美
人になるかどうかは断言できないけど︶
私も、姉上たちのような迫力系は無理だと思います。
︵だよねー⋮⋮性格的に無理だよね︶
2人揃って空笑い。
時間が解決することを、今、気にしても仕方がない。
そう考えてそのことはもう気にしないことにする。
︵大体のところは、把握したようだね? じゃ、作戦会議に移ろう
か︶
その一言で、空気が締まる。
この後、わずか数分間だけれど、作戦会議が開かれた。
***************
549
母屋にある子供部屋へと疾風を伴って向かう。
茉莉姉上がいつ帰ってくるのかを確認しにだ。
未婚の子供たちの予定は、常にここに記すというのが我が家の決
まり事だ。
私の場合、学校と帰宅予定時刻を書き記すだけなので、月曜から
金曜日までは全部一緒だけれど。
からりと襖を開けると、中に八雲兄上と菊花姉上がいた。
﹁うわあ!! 八雲兄上と菊花姉上、帰ってらしたんですか!?﹂
いつもは遅くまで帰ってこない2人がいるのが珍しくて、私は思
わず声を上げる。
﹁うん、まあね﹂
そう返す八雲兄上の表情は微妙なものだった。
﹁⋮⋮瑞姫。東條の孫が転校してきたって、本当かい?﹂
﹁何故それを!?﹂
﹁本当のようだね﹂
東雲ではなく、国公立大学に通っているはずの兄と、れっきとし
た社会人である姉が、何故高等部の事情を知っているのだろうか。
いや、姉の職業は知っている。
知っているが、法に触れていないか、時々心配になる。
﹁みーずき! 何固まってるの! 茉莉姉さんに聞いたんだってば﹂
﹁あ。茉莉姉上か﹂
ごめんなさい、菊花姉上。
ちょっとだけ疑いました。
﹁僕は、後輩からのメールだけどね﹂
八雲兄上、いまだに高等部に勢力をお持ちですか。
どれだけの影響力を持ってるんだろう、この方は。
﹁東條の孫が、瑞姫を僕と間違えたんだって?﹂
爽やかな笑顔なのに、何かが滲み出ているような気がする。
これは、あれだ。
550
笑顔が黒いというやつだな。
﹁何故か、八雲兄上を3年生だと思い込んでいたようです﹂
﹁ふうん⋮⋮﹂
首を傾げ、何かを考えるようなそぶりを見せる。
﹁いっそのこと、学園の株を買って、理事になろうかな?﹂
ふと漏らした視線の先に疾風がいる。
疾風は必死に視線を合わせまいと違う場所を見ている。
うん、それが懸命だと思うよ。
視線合わせちゃだめだからね。
﹁ね、それで? その東條の孫ってどんなだった?﹂
興味津々といった様子で菊花姉上が私に身を乗り出して問いかけ
る。
﹁⋮⋮そうですね。大勢の前で独り芝居をしているような印象を受
けました﹂
正直にそう答えれば、背後で吹き出す気配がする。
振り返れば、疾風が肩を揺らしている。
﹁疾風。素直に笑っていいよ﹂
﹁ご、ごめん⋮⋮﹂
手で口を押え、それでも笑いをこらえようとしているが、こらえ
きれていない。
﹁なるほどねぇ﹂
私と疾風の反応で、何かを感じ取ったらしい菊花姉上が感心した
ように呟く。
﹁こちらでも、色々と調べることにするから、瑞姫はあまり接触し
ないようにしなさいね﹂
そう言って、菊花姉上は子供部屋を出て行ってしまった。
﹁⋮⋮前回は表に出てこれなかったから、心配してたんだよ、あれ
でもね﹂
苦笑を浮かべ、八雲兄上が言う。
﹁そうですか﹂
551
頷いて襖を見るが、もう開けられることはない。
久しぶりに会った姉兄は、やはりいつも通り過保護なのだと感心
した。
552
71
ここ数日ほど、穏やかな日々が過ごせている。
そう、思いたいのに⋮⋮。
新学期2日目の実力テストの結果が掲示板に貼り出される。
その結果に私は驚いた。
2位だ。
一応、1年の時の教科書とノートを開いて、瑞姫さんに要点を教
えてもらってはいた。
日記を読むつもりにしていたけれど、実力テストがあることを思
い出して、慌てて教科書を開いたのだ。
中等部の後半から高等部1年までの授業を受けてはいない。
それは瑞姫さんが受けていたので、記憶としては残っているもの
の、あやふやな点が多いのだ。
いきなり成績を落としては、注目を浴びてしまう。
今は目立ちたくないのだ。
瑞姫さんと入れ替わって、時間もほとんど経っていない。
彼女との差異を違和感として捉えられては困るのだ。
たった数時間でどれほどのことができるのだろうかと思っていた
が、誰もが怪しまない順位を保てたのでほっとした。
だが、驚いたのは、私の成績ではない。
今この時期なのに、すでに赤点を取った者がいたのだ。
553
それも、全種目赤点、しかも、2人。
東雲は未来の経営者を育てるということもあり、レベルはかなり
高い。
だからこそ、外部生たちも狭き門だと知りつつも東雲を目指すの
だ。
ちなみに授業料などの料金は、外部生に限り、私立にしては割と
安いらしい。
寄付金という形で幼稚舎から通う内部生の保護者が外部生の授業
料などを一部負担しているらしい。
優秀な人材なら、きちんと育て上げて社会に貢献できるようにと
いう考え方なのだろう。
元々、内部生というのは四族出身者が殆どだ。
寄付金を積むくらい、さほどの負担にはならないはずだ。
それはさておき、内部生も外部生も、東雲の名を汚さぬようにと
日頃から勉学に励む者が多いのだが、驚くべきことに例外がいたよ
うだ。
﹃以下の者、課題提出後、再試とする﹄と書かれた文字の下、2
人の名前が書き記されていた。
その名前を見て、脱力してしまう。
﹃島津斉昭・東條凛﹄
そのどちらも、現在の私にとって厄災のような名前だ。
東條凛は、まあ、始業式の日に会っただけで、あとは会わないよ
うに気を付けているけれど。
島津の方は、運が悪いことに同じクラスだ。
島津と相良は大大名と小大名という歴然とした力関係が、その昔、
存在していた。
さらに領地を欲する島津は、事あるごとに相良へ兵を進めようと
し、その度にご先祖様が追い返していたという。
554
一度たりとも領地を奪われたことがない。
それが、相良の誇りでもある。
つまりは、領地を奪われまいとして、様々なことをやらかしたと
も言い換えることができる。
島津にとって相良はまさに目の上のタンコブというものだ。
中央へ攻め入るための拠点としてどうしても欲しい領地であるが、
そこにある相良と阿蘇に毎回阻まれるのだから。
しかも、相良の姫を嫁に貰い、婚姻関係を結ぼうと持ちかけても、
絶対に頷かないのだ、誰ひとりとして。
二重の意味でプライドを傷つけられた島津家は、相良家を敵視し
ていたわけで、相良としても実に面倒臭い相手に愛想を売りたくな
いので両家は犬猿の仲だった。
これは、何百年も昔の話だけれど。
そして、現代。
直系で続いてきた相良家は、名家として名を馳せ、分家から養子
を迎え入れて家を繋いできた島津家はその相良家よりも家勢に翳り
がある。
今度は別の意味で、犬猿の仲になっていた。
祖父たちの仲は、最悪なまでに悪い。
父たちは、一言も口をきいたことがないらしい。
その子供たちの代はというと、島津斉昭は中等部のあたりからよ
からぬ遊びを好んで行っており、その筋の女性からは異様にモテて
いるわけで。
そこまでは、中等部に通う身でありながら父親にならなくて済ん
でよかったねという一言で切り捨てられるのだが、どこでどう間違
ったのか、瑞姫さんに言い寄るようになった。
それが現在進行形で私にまで及んでいる。
外見上は同一人物なのだから、当たり前だけれど、嫌悪感は半端
ない。
爽やかな朝だというのに、﹃相良、イイコトしない?﹄と挨拶も
555
せずに話しかけてくるのだ。
こういうことが3日も続けば、疾風が問答無用で声を掛けた瞬間
に床に沈めるようになった。
風紀を乱す言葉を発しているため、疾風の実力行使は大目に見て
もらえているようだ。
怪我をさせるわけではなく、単に取り押さえているだけなので。
そのあと、風紀委員がどこかへ連れ去っていくという連係プレー
も生まれている。
毎朝のことなので、大神もどうにかすると言ってくれたし。
﹁相良っ!﹂
にこやかな笑顔と共に、問題の島津が手を振って近付いてきた。
﹁俺、赤点取っちゃったんだけど、勉強、教えて? その後で、俺
と別のベンキョウを一緒にし⋮⋮﹂
﹁島津斉昭君。担任の先生が生徒指導室でお待ちです。そのあと、
風紀委員会の方へお越しください﹂
島津の背後から、彼の肩をポンと叩いて告げたのは大神だった。
﹁えー!?﹂
﹁おや、ご不満ですか? では、さらに追加して、生徒会室へもお
越しください。ご両親をお呼びして、現状を説明させていただきま
しょう﹂
﹁ちょっ!! ちょっと待って!! それなしっ!! それ、なし
の方向で!!﹂
さすがに慌てた島津が、生徒会室への呼び出しを拒否する。
生徒会室に呼ばれ、しかも保護者呼び出しとなれば、その後待っ
ているのは校長室あるいは理事長室への呼び出しの後、何らかの処
分言い渡しだ。
謹慎、あるいは停学、または退学を言い渡されれば、家の面子を
守るために処分保留にして転校手続きを取るしかない。
家の体面を守らなければならない名家は、少しの瑕疵も許されな
556
いと考える家も多いせいだ。
島津はこれまでにも何度か問題を起こしているらしい。
私には一切関係のないことなので、どんな問題を起こしたのかは
まったく知らない。
﹁では、すぐに生徒指導室へ行ってください﹂
﹁えーっ!? 俺、だって、相良に⋮⋮﹂
﹁相良さんは関係ありません。君の生活態度が問題となっているの
ですから、改めるまで風紀委員会も生徒会も君に付き合ってあげま
すよ﹂
にっこりと笑顔を深め、大神が告げる。
うん。聞くだけで怖いよね、何だか。
案の定、青褪めた島津は諦めたらしく、とぼとぼと肩を落として
生徒指導室へと向かいだす。
﹁また妙な輩が出てくる前に、教室へ戻りませんか、相良さん?﹂
笑顔魔人が柔らかな人当たりの良い笑みを浮かべて誘い掛ける。
﹁⋮⋮そうだな。見るべきは見たので、もうここにいる必要はない
な﹂
傍にいた疾風を見上げ、教室へ戻ることを伝える。
先程、島津の発言を疾風が遮らなかったのは、大神が来るのが見
えていたからのようだ。
あの場で疾風が島津を取り押さえるよりも、大神が追い払ってく
れた方が周囲への被害は少ないのは確かだ。
精神面への負荷は考慮に入れていないので、実際どれほど被害が
出ているのかはわからない。
﹁島津君は、ちょっとまずいことになっていましてね。それで、呼
ばれたんですよ﹂
教室への道のりを歩きながら、大神が苦笑しながら掻い摘んで説
明する。
﹁それを私に話しても大丈夫なのか?﹂
557
﹁中身については、確かにまずいのですが、どうせ、数日しないう
ちに噂が回るでしょう。彼の日頃の行いの結果というべきことです
から﹂
﹁日頃の行い、か⋮⋮﹂
頷いてみたものの、さっぱりわからない。
わかるつもりもないので、噂が出回ったらわかることだろう。
そこまで考えて、ふと気がついた。
また、一言も発することなく島津の姿が消えたようだ。
父たちは言葉を発したことがないと言っていたが、私の場合も、
似たようなものだ。
絡んでくる島津に対し、私は一言も発する間もなく彼を見送って
いる。
話すことなど何もないので、まったく問題だと感じたことはない。
教室に辿り着き、もう一つのことに気付く。
そういえば、いつもは掲示板の前で諏訪の姿を見かけるが、今日
は見ていない。
そういうこともあるんだなと、のんびり考えていたら、休み時間
に飛び交う噂に驚くことになった。
558
72
諏訪老の下に移ってから、諏訪の人気は急上昇中だというのは知
っていた。
それこそ基礎的なところから再教育を受けていると、本人が言っ
ていたのだから、人当たりが変われば元がいい諏訪ならば、確かに
人気も上がるだろう。
人としての教育と、上に立つ者としての教育、さらに経営学など、
諏訪家随一の実力者直々の教育だ。
ほんの数ヶ月で顔つきやら雰囲気やらがかなり変わっていたので、
それなりの成果が出始めている頃なのかもしれない。
律子様譲りの激情家なところさえ理性で抑え込めるようになれば、
かなり変わるだろう。
今は、私との接触を極力控えようとしているらしいが、始業式の
時のように私が倒れたとか不測の事態に陥れば、感情的に突っ走っ
てしまうところがまだ治っていないようだ。
それでも、クラスが離れた私と顔を合わせないように頑張ってい
るらしいと、大神が笑いながら言っていた。
まだ、完全に自分の身体と瑞姫さんの記憶とに馴染んでいないた
め、接触する人が少ないと私としては助かるのだが。
その諏訪に関する噂が一気に駆け巡ったのは、昼休みに入ってか
らだ。
カフェでテイクアウトしたボックスランチを中庭でのんびり食べ
て、教室へ戻ってきたときのことだった。
559
﹁瑞姫様!! 聞きまして? 諏訪様が⋮⋮﹂
教室にいくつかのグループに分かれて固まっていた集団のひとつ
が、私が戻るなり声を掛けて来た。
﹁諏訪様がどうかなさいましたか?﹂
本人に対して苗字を呼び捨てにしていても、人前では様付けで呼
んでしまう奇妙な礼儀正しさが自分でもおかしいと思ってしまう。
そして、自慢にもならないが、私は噂に疎い。
周囲が全員知っていても私ひとりがその噂を知らないということ
はざらだ。
細かいことは気にしないおおらかな性格なのだと、クラスメイト
の皆はフォローしてくれているが、実際において、興味ないことに
は一切関知しないという困った性格のせいだ。
とりあえず直そうかとは思っているが、必要なことなら疾風が教
えてくれるので、まあいいかと思ってしまうのが敗因だろう。
私の性格を思い出したのか、声を掛けてきた少女は苦笑を浮かべ
て頷くと、素直に教えてくれた。
﹁諏訪様が、あの転校生と婚約をするという噂がありますのよ﹂
﹁あら? わたくしは、纏わりつく転校生に怒った諏訪様が、今後
一切近付くなと怒鳴りつけたということを耳にしましたわ﹂
別の集団からそういう声が出てくる。
﹁私は、諏訪様が財閥を引き継ぐために学校をお辞めになられると
いう話を伺いましたわ﹂
﹁まあ、そんな!﹂
もっともらしい表情で、それぞれのグループから色々な諏訪に関
する話が飛び交う。
つまり、どれが本当のことなのかを私に尋ねたいということか。
﹁申し訳ないが、今の話はすべて初めて聞いたことばかりだ。なの
で、もう少し詳しく話を聞かせてほしいが、よいだろうか?﹂
そう言えば、ほっとしたような表情を浮かべて詰めかけてくる。
﹁こんなところでは迷惑になるだろうから、席に着いてからでいい
560
だろうか?﹂
あちこちから一斉に近付いてきたので、ちょっと驚いていたら、
疾風が声を挟んでくる。
﹁あ、あら。申し訳ございませんわ、岡部様。そうですわね、入口
では、皆様のご迷惑ですわね﹂
ぽっと頬を染め、謝罪した御嬢様方は、道を開けてくれる。
それに軽く会釈して礼を言い、自分の席に向かうと、彼女たちも
ついてくる。
椅子に座ったところで、他の人たちも近くの席に座ったり、椅子
を引き寄せてきたりとして集まりつつ、それぞれが順番を追って説
明を始めた。
彼女たちの話を聞いてまず思ったことは、諏訪の噂は多すぎる。
目を引く容姿、明晰な頭脳、堂々とした態度、それらに加え、華
やかな気配と人目を奪う要素が多いせいだろうか。
瑞姫さんに言わせると、ご先祖様に感謝な容姿と頭脳に、俺様過
ぎる態度、もう少し謙虚になれということだが。
人によって、色々の見方ができるという一例なのだろう。
疾風はというと、ウンザリしたようにあさっての方向を見て退屈
そうにしている。
在原はというと、スマホを片手に何かを検索している。
それが何かなのは、大体予想はついている。
まず、諏訪と東條凛との婚約話は、その意外性について皆囚われ
てしまっているが、肝心なところを見落としていた。
﹁婚約発表はいつ頃かという話は、何方か聞いていらっしゃいます
か?﹂
﹁え? いいえ。そう言えば、婚約が決まったという話は伺いまし
たが、いつ頃発表するかなんて⋮⋮﹂
561
﹁婚約披露パーティについても、噂は出回っていないようですね﹂
﹁そう言えば⋮⋮﹂
私の言葉に皆が一斉に頷く。
一般的に考えて、誰とかと誰とかが婚約したという噂が立てば、
披露パーティがいつ頃、どのホテルで行われるという情報も一緒に
流れるものだ。
付け加えるならば、いつごろ結婚する予定だとかも。
それがないというと、外堀埋めな情報操作ということになる。
だが、この場合は社交界に一気に流すのが原則だ。
相手方に否定をさせる隙を与えずに、一瞬で広範囲に流す。
そうして相手に拒否できぬように状況を固めてしまうというのが、
この手のやり方だ。
だが、今回の場合、話が回っているのは学園内だけだ。
もし外でその噂が出回っているのなら、兄や姉たちが何か言って
くるはずだ。
それと。
﹁静稀、ホテル見つかった?﹂
スマホをいじる在原に問いかける。
﹁んー⋮⋮ないね。半年先まで予約が入っているか検索掛けてみた
けど、諏訪系列のホテルで一切、そう言った予約は入っていない﹂
画面を眺めながら、在原が答える。
先程から在原がスマホをいじっていたのは、諏訪系列のホテルで
婚約披露パーティの予約が入っているかどうかを確かめていたから
だ。
婚約披露パーティとなれば、諏訪家の嫁を披露するということに
なるので、諏訪系列のホテルなどで開催するに決まっている。
半年先まで検索してないということであれば、それはまず予定が
ないということだ。
在原の言葉に、話を聞いていた少女たちは一斉に目を瞠る。
﹁瑞姫様、これは⋮⋮?﹂
562
﹁どうやら、根も葉もないというものらしい。外堀埋めてというに
は、かなりお粗末な結果のようですね﹂
私の予測に彼女たちも察したのだろう。
殆どが半眼になってあらぬ場所を睨んでいる。
ちょっと怖いよ、その表情。
なまじ顔立ちが整っている分、無表情っぽくなるとおっかないで
す。
﹁つまり、それは、諏訪様の方ではなくあちらが勝手に流した噂と
いうことですわね﹂
﹁断言はできませんが。彼女は諏訪の好みではなさそうですしね﹂
その言葉に、一斉に頷く少女たち。
彼女たちの脳裏には、おそらく詩織様の姿が浮かんでいることだ
ろう。
儚げな美女である詩織様と、まったく普通の東條凛とでは比べる
のが酷だというくらい顔立ちに差がある。
東雲は両家の子女たちが通う学び舎である。
つまり、代々選りすぐりの容姿を持つ両親から生まれた子供たち
が通っているわけで、顔立ち云々に関しては瑞姫さんに言わせれば
眼福クラスがごろごろしている状態なのだ。
幼い頃からそれに慣れていれば、メンクイというものに育ち、美
意識も格段に成長してしまうそうだ。
ごく普通が、ここでは格段に劣るというランクになってしまうほ
どに。
加えて、基本的にメンクイではあるが、人の顔立ちよりも表情に
重きを置いてしまう我々にとって、東條凛の喜怒哀楽がはっきりし
すぎた表情は大変醜く感じてしまうのだ。
喜怒哀楽がはっきりしすぎるのは、本来、悪いことではない。
それに伴う表情の作り方が問題なのだ。
どちらかというと喜びと楽しさがはっきりと出てしまう我々の表
情の作り方とは異なり、東條凛の場合は怒りが殆どなのだ。
563
剥き出しの怒りというのは、あまりにもきつすぎて、近付きたく
ないと思ってしまう。
そう言った理由で、東條凛に対して友達になろうと話しかける生
徒はまったくいない。
外部生ですら、彼女を敬遠しているのだ。
﹁⋮⋮言われてみれば、何てお粗末な⋮⋮﹂
誰が言ったのかわからないが、ぽつりと漏らされた言葉に皆がそ
れぞれ頷いている。
﹁四族と葉族の婚約なんて、あり得ない話ですものね﹂
﹁ましてや、犯罪者を出した家ですもの。常識があれば、そのよう
な家から妻を迎えたいとは思いませんもの。知り合いと少し話した
だけで、相手を傷つけるかもしれないという危険性を持つ妻なんて
必要ないと思うのが常識ですもの﹂
口々に言い合い、納得してしまう。
いきなり沸き起こった噂は、1日も持たなかった。
噂を流すなら、もっともらしく作るべきだろう。
でも、ちょっと不思議だ。
瑞姫さんが書いた資料には、転入して1週間くらいで婚約の噂が
流れるなんてことは書いてなかったはずだ。
あとから確認しなおそう。
﹁では、瑞姫様。諏訪様が転入生を怒鳴りつけたというのは?﹂
﹁⋮⋮可能性は否定できない。何方かその場面に遭遇した方がいら
っしゃるかもしれないね。その方にお尋ねした方がいいだろう﹂
噂は、誰が発したのか、辿るのは難しい。
だがしかし、誰から聞いたというのを遡るのは、割とスムーズに
いくものだ、途中までなら。
ある程度まで遡れれば、誰かがそれを見ていたということも割り
出せるはずだ。
﹁諏訪様が学園を辞められるというのはいかがでしょう?﹂
564
﹁私としては、ありえない話だと思います﹂
普通に考えれば、ありえない。
諏訪は未成年だ。
未成年が巨額を動かすには、まず、保護者の承認が必要になって
くる。
諏訪が権力を奪う相手は両親だ。
どう考えてもこの場合、許可は下りない。
つまり、後を継ぐというのは、今ではないということだ。
﹁例え、後を継いだとしても、学歴はどうしても必要です。いえ、
財閥の頂点に立つ者ならば、必ず大学卒という肩書は必要になって
くるでしょう。現時点で高校中退なんてことは考えられません。そ
れに、元々諏訪様が財閥を引き継ぐことは決まっていますし、慌て
る必要はないでしょう﹂
分家に優秀な人材はいるだろうが、直系で唯一の男子というのは
かなりの強味だ。
その上に、諏訪伊織は成績優秀者でもある。
東雲で成績優秀者という栄誉をそう簡単に投げ出すメリットは見
当たらない。
デメリットなら、たくさん見つかるが。
﹁そう、ですね。では、瑞姫様と諏訪様のご婚約が調ったという噂
も嘘なんですね﹂
﹁ええそれはもう。我が一族は、諏訪家と島津家とは婚姻関係にな
りたくないと言っておりますし﹂
﹁島津さまは、確かに⋮⋮聞きました? 島津さま、とうとうお子
さんができたと仰る女性が現れたそうですよ﹂
﹁自業自得ということですの?﹂
﹁財産目当てということも考えられますけれど﹂
﹁それでいて、毎朝、瑞姫様にあのご様子ですもの、赦せませんわ
!!﹂
島津に子供⋮⋮本当にできたのか、狂言なのか。
565
実に微妙なところだ。
今朝、大神が言っていたことは、このことだったのだろう。
日頃の行いとは、こういうことなのか。
﹁諏訪様が転校生のことをどう思っているのか、すぐにわかります
し﹂
ふと、誰かが呟く。
﹁ご自分に正直な方ですもの﹂
﹁この手の噂は、鵜呑みにせずに潰しに掛かった方がよいというこ
とですか﹂
なにやら納得した様子で頷き合った少女たちはにこりと微笑む。
﹁噂に惑わされず、詳細を確かめ、即座によからぬ噂は潰すことに
いたしますわ﹂
﹁そ、そう? 頑張って⋮⋮﹂
それ以外、何と答えればいいのだろうか。
私の後ろで、深々と溜息を吐く疾風の気配に私は視線を彷徨わせ
た。
566
72︵後書き︶
本日仕事納め。
そのはずですが、年末年始、出社命令が下りました。
私の仕事は全部前倒しで終わっているのですが⋮⋮。
そして、大陸から流れてくる汚染物質のせいで、相変わらず体調不
良です。
皮膚に湿疹があちこち出始めました。
かゆみはないですが、ざらついて気になります。
ステロイドが使えないからなぁ⋮⋮。
567
73 ︵東條凛視点︶︵前書き︶
東條凛視点。
568
73 ︵東條凛視点︶
あたしの名前は、東條凛。
ママの実家に戻ってこの名字になった。
それ以前の名前は安倍凛。
地味な名前よね。
あたしに前世の記憶があるって気が付いたのは、高1の夏の終わ
りごろ。
ママと買い物に出かけたとき、目の前に黒い高級車が止まって、
そこから老夫婦が出て来た時だった。
この人たち、知ってる!!
そう思った時、何もかも思い出した。
ママのお父さんとお母さん、つまり、あたしのおじいちゃんとお
ばあちゃんって人たちは、あたしを迎えに来たんだとわかった。
あたしの前世、あたしは高校生で車に轢かれて死んだ。
カレシはまだいなかったけど、いつかできるんだと思ってた。
だからその日を夢見て、乙女ゲームってやつをやってたんだけど。
あたしの周囲はそんなことを理解してくれなかった。
キモい、暗い、地味子って散々陰口をたたかれた。
本当のあたしを誰ひとりわかってはくれなかった。
それは仕方ない。
569
だって、あたしを理解できるのは、あんたたちじゃないもの。
王子様なんていやしない。
あたしの王子様は、あたしが掴まえるのよ。
当然じゃない! だって、あたし、結構可愛いのよ。
地味子なんて呼ばれてるけど、あれは単なる僻みだもの。
学校のランク低い男共にモテたって仕方がないじゃない、だから
わざと地味にしてただけ。
休みの日は、うんと着飾って1人で街を歩いてたら、結構ナンパ
にもあったし。
もちろん、付き合ってなんてあげなかったけど。
hea
そんなカンジで街に出てた時に車に轢かれちゃったんだけどね。
その頃、あたしがハマってたゲームが﹃seventh
ven﹄だった。
結構、難易度があって難しかったのよね。
だってさ、逆ハー狙いじゃないのに途中までは攻略対象の好感度
をある一定のレベルまで全員引き上げなきゃならないんだもの。
そこから先は、攻略したい相手だけでいいんだけど。
やっぱり玉の輿度が高い八雲先輩と伊織君はダントツ人気だった
わ。
あたしもこのふたりが大好きだったもの。
でもねー、八雲先輩は美人過ぎてスチルを見るのがつらかったわ
ね。
主人公よりもきれいなんだもの。
だから、どちらかというと伊織君オシなのよね、あたし。
その2人の次は、疾風君かな?
寡黙で守ってくれる男の子ってかっこいいじゃない?
八雲様の好感度を上げないと疾風君は攻略できないんだけど、八
雲様を上げ過ぎるとすぐに彼のルートに入っちゃって疾風君が攻略
しにくくなるのよね。
570
他の人たちもそれぞれお金持ちだし、カッコいいし。
甲乙つけがたいってこういうことなんだってカンジ。
その世界にあたしが転生してるって知って、それこそ有頂天にな
った。
パパもママもおじいちゃんたちの申し出を素直に受け入れればい
いのにさ。
猛反発しちゃって大人げないんだってば。
このままいくと、2人とも交通事故で死んじゃうのよ?
まあ、パパは怒ってばっかりだから別にいらないけど。
でもママは必要よね。
何でかって? そりゃ、伊織君ルートに進んだ時に東條分家から
あたしが狙われちゃうからよ。
ママがいれば、あいつら、あたしじゃなくてママを狙うでしょ?
だって、ママがおじいちゃんたちの娘なんだもの。
あたしって賢いでしょ?
だからあの日、具合が悪い振りしてママを引き留めた。
何も疑わずママは残って、パパはブレーキ事故で死んじゃった。
仕方ないよね、そういう運命なんだもん。
助けてあげたんだからさ、ママはあたしに感謝して、ちゃんと役
目を果たしてよね。
パパのお葬式の時、立派な身なりのおじさんたちが参列した。
式の後、あたしたちの所に来て、パパのお兄さんだって言い出し
た。
ママは知ってたみたいだったけど、これってどういうこと?
よくよく聞いてみれば、ママの家よりもパパの家の方が雲泥の差
でお金持ちだということがわかった。
嘘っ!! パパの家に引き取ってもらった方が優雅な暮らしがで
きたわけ!?
でも待って。
571
ここはあたしのための世界なのよ?
東條凛で暮らした方が、あたしは素敵な彼氏と一緒にもっと優雅
な暮らしができるはず。
そうよね。きっとそう。
だって、あたしが東條凛なんだもの。
葬儀が終わって、東條家に行ってみたら、話が全く違っていた。
これって、どういうこと!?
ゲームで見ていた家とは違って、何かものすごくさびれていた。
そうして、あんなに強硬にママに戻ってこいとか、あたしだけで
も来ればいいとか言っていたのに、母娘2人で暮らしたいならそれ
でもいいとか言い出しちゃって。
話が違うじゃない!!
そう思っていたら、おじいちゃんがぽつりと言った。
莫迦な分家が手を出しちゃいけない人に手を出して、ほぼ全員、
刑務所送りになっちゃったんだって。
あら、いい傾向じゃない。
あたしの邪魔をする人がいないってことよね?
でも、それならどうしてここまで貧乏臭くなってるのかしら?
半年前に会った時には、おじいちゃんもおばあちゃんもお金持ち
っぽかったのに、今は何だか普通の人っぽいし。
そこをはっきり聞いちゃったらまずいのかしら?
首を傾げてたあたしに気付いたのか、おばあちゃんが苦笑して説
明してくれた。
ちょっと! 東條家が終わったってどういうこと!?
これもやっぱり分家のせいなの!!
本当に役立たずな人達よね!!
それに、おじいちゃんとおばあちゃんもだらしないわよ。
572
会社の株を誰かに一気に買われて、会社を手放す羽目になっちゃ
うなんて!
あたしに贅沢させてくれるんじゃなかったの!?
仕方ないわね。
東雲学園に行って、伊織君が八雲様を落としてくるわよ。
そうすれば、あたしはずっと贅沢して暮らせるわけでしょ?
こんな家、いらないし。
だって、あたしがこの世界の中心なんだもの。
進学校じゃないのに、東雲学園の試験はちょっとだけ難しかった。
でも大丈夫! 絶対通るから。
そう思ってたら、やっぱり通ってた。
クラスもゲーム通りに伊織君と一緒だった。
これならゲーム通りに攻略進めれば伊織君とエンディングを迎え
られるわね。
あたしとラブラブになれる伊織君ってば、ハッピーよね。
そう思いながら伊織君に声を掛けてあげれば、何よ、この態度。
失恋を慰めてあげたのに、酷いじゃない。
ああ、そっか。
人前だから、照れてるのね。
ツンデレなんだから。
そう思ってたら、伊織君に手を振り払われてよろけてしまう。
危ないと思ったら、あたしを助けてくれた人は八雲様だった。
ゲームで見てた顔だけど、現実はもっと美人!!
素敵素敵!
こんなカレシがいたら、自慢できるわ。
ゲームじゃできなかったけれど、現実なら両手に花も不可能じゃ
ないかも。
そう思ってたら、この人、八雲様じゃないとか言い出したし。
誰よ、じゃあ!
573
そう言えば、同じクラスになるはずの八雲様の妹の瑞姫はいなか
ったわね。
この世界、あたしの邪魔な人はいないように神様が作ってくれた
のね。
やるじゃん、神様。
結局、八雲様の弟は、名前を教えてくれず、伊織君と話し出す。
ちょっと待ってよ。
伊織君、なんでそんなに嬉しそうなの!?
その人、どんなに美人でも男の子なのよ?
だって胸ないんですもの。
まさかのBL展開なんて言わないでよね!!
それより、ヒロインのあたしを無視して話を進めないで!
疾風君も誉君も、何でそんな目であたしを見るのよ。
あなたたちはあたしのカレシ候補なのよ、一応だけど。
クラスの女の子たちは、問題外。
誰が仲良くしてあげるものですか。
伊織君は、あたしのものなんだから、物欲しそうな目で見ないで
よね。
その伊織君は、ゲームよりもかなりの照れ屋さんみたいで、話し
かけても目も合わせてくれない。
でも、いいのよ?
だって、すぐにあたしの魅力の前にひれ伏すことになるんだから。
八雲様の弟君も気になるところだけど、あれから全然会わないし、
何処にいるのかしら?
ゲームじゃないから新キャラっていうのも変だけど、八雲様より
攻略しやすいでしょうから、いつでも会いに来ていいのに。
それとも、伊織君に遠慮してるのかしら?
574
そう言えば、紅蓮君も静稀君も千景君にも会ってないわね。
出会いイベントを起こさないといけないのよね、確か。
条件はわかってるし。
あたしが実力テストでいきなり10位以内に入って、話題をさら
うってイベントだった。
あら、そろそろ結果が出るころじゃない?
あたしは伊織君のお嫁さんになるんだってことも、牽制として女
の子たちに言っておかないとね。
掲示板を見に行ったら、皆があたしを注目していた。
そうでしょ、そうでしょ!?
そりゃ驚くわよね。
転校生がいきなり10位以内に入ってるんですもの。
⋮⋮⋮⋮⋮⋮あら、名前がないわ?
って、ちょっとーっ!!!
全教科赤点って何!?
あたしの書いた答えのどこが間違っているのよ!!
あたしが、この世界の主役なのよっ!!
575
73 ︵東條凛視点︶︵後書き︶
この人書くのは、非常にツライです。
色々と勘違いしている最中なのです、今。
576
74
目の前に広がる長い廊下。
手には雑巾。
陸上の選手のスタートのように、雑巾を広げ、その上に両手をつ
いて腰を上げれば、一気に駆け抜けるしかないだろう。
ダダダダダッっとカッコよく走り抜けられたらいいのだが、残念
なことに右脚の感覚がまだ馴染めていないようだ。
途中でころりと転がってしまうのがご愛嬌。
でも、大丈夫。
受け身は熟練だから。
気分転換をしたいときは、この雑巾がけが一番だ。
うちの廊下はやたらと長い。
そして、年季の入った木造建築だ。
当然のことながら、こういった家を守るにはレトロな方法が一番
なのだ。
水拭きの雑巾がけと、ぬか雑巾。
水拭きの水には決して洗剤は入れないし、使わない。
洗剤を使うと逆に板を傷めてしまうから。
イタをイタめるってオヤジギャグとかじゃないです。
今、私の中で瑞姫さんが爆笑中。
ちょっと凹みました。
気分転換するつもりだったのに、酷いです、瑞姫さん。
︵ごめんごめん! 瑞姫でもオヤジギャグ飛ばすのかと思って意外
577
でさ。ギャグじゃなくて天然だっただけね︶
天然?
︵ああ、こっちのこと。いや、雑巾がけ、いいよね。私も好きだよ。
これだけ廊下が長いと思い切りできて気分がいいし︶
そうですよね! 気持ちいいですよね。
同意が得られたことで、気分が浮上。
水拭きの後は乾拭き。
水拭きで汚れを拭き取り、乾拭きで水分を拭き取る。
必ず水分を拭き取らなくちゃ、意味がない。
この後待っているのが、ぬか雑巾だ。
米ぬかを綿素材の袋に入れているだけの単純な作り。
うちではさらしを巾着型に縫って、その中に炒った米ぬかを入れ
てます。
米ぬかを炒るのは、虫が付きにくいようにするためなんだと御祖
母様が仰っていました。
米ぬかの在庫を管理するのは、御祖母様の管轄だから。
御祖母様お手製のぬか漬けに必要な糠床のため、ある一定量の在
庫を屋敷内に置いているのです。
その一部がぬか雑巾になるのです。
屋敷のお掃除は、相良家の嫁の大切なお仕事なので、今は家政婦
さんたちに一部お任せしているけれど、こういったところは未だに
相良の女たちの大事な仕事になっている。
何でかっていうと、相良家の嫁って一般人が割合的に多いので、
手っ取り早い自信つけって言えばわかりやすいかな?
由緒正しい名家の嫁って、なったはいいが、何をしていいのかわ
からないっていうお嫁さんが、これなら自分にできるとすぐに自信
を持てる仕事のひとつがお掃除だったらしい。
昔から掃除と料理は女の仕事って言ってたから、雑巾がけなんて
彼女たちにとっては当たり前のお仕事だったんだろう。
578
できることから少しずつお仕事を覚えていって、そうして相良家
の嫁として少しずつ自信を持ちなさいという配慮だったようだ。
今ではこんな木造住宅なんて少なくなってしまったから、ぬか雑
巾を知っている少なくなっているんだろうと御祖母様が嘆いていた。
ぬか雑巾は、和製ワックスのようなもので、一気にツヤツヤには
ならないけれど、何か月も何十年も毎日続けるとそれはもう素晴ら
しい艶を生み出してうっとりしてしまうのだ。
水拭きのように駆け抜けるのではなく、きゅっきゅっと音を立て、
少しずつ進んでいくので、筋肉痛になることもある。
屋敷内は、大体そんなカンジで手入れをしているのだが、唯一例
外的な場所もある。
それが当主のお部屋。
御祖父様の居室は漆塗りの柱や板と黒漆喰の壁に格天井だ。
一番格の高い部屋だから黒漆喰なんだそうだけど、実はもう一部
屋いいお部屋があるのだ。
こちらも漆塗りの柱に白漆喰なんだけど、通常の白漆喰ではなく
中に貝粉が混ぜられているので、陽が当たると壁がきらきら光って
とても綺麗。
このお部屋に通される方は、おそらくもういない。
当主よりも上の位にあたる方に過ごしていただくための部屋だと
かで、皇室の方々と徳川家当主のみ使用できる。
この部屋の掃除は、代々当主が行うため、私も部屋の外から眺め
ただけで中に入ることは許されなかった。
当主の部屋は当主夫人が掃除の責任者になるけれど、お掃除は相
良家の人間ならしてもいいので、私も掃除を手伝ったことがある。
数十年おきに漆の塗り替えが行われるので、専門の職人さんたち
にお願いしているそうだ。
少しずつぬか雑巾で廊下を磨いていく。
無心になって鏡のように姿が映る板面を磨くのはとても楽しい。
きゅっきゅと音を立てながら廊下を磨いていたら、すっと障子が
579
開いた。
﹁精が出るの、瑞姫﹂
﹁⋮⋮御祖父様﹂
声を掛けられて顔を上げれば、そこに御祖父様がいた。
﹁瑞姫、口をお開け﹂
着物の懐に手を入れた御祖父様が、何やら懐紙入れか財布のよう
な物を取り出すと、そこから黄金色の透き通った何かを摘まむ。
言われた通り、あーんと口を開けると、御祖父様がそれをぽいっ
と口の中に入れてくださった。
﹁⋮⋮美味しいです﹂
小さな蜂蜜飴だった。
この味は、知ってる。
初等部の時、甘党の御祖父様へ敬老の日のお祝いで差し上げたも
のだ。
人工的な甘みが苦手な私が、何とか甘くても食べられるのが蜂蜜
と水飴だ。
和三盆の和菓子にしようか、何にしようかとさんざん悩んだ挙句、
普通のキャンディーの半分以下の大きさであるこの蜂蜜飴なら、会
議中とかでも誰にも気づかれずに食べれるかもと、子供の浅知恵で
選んだ飴玉なのだ。
ちなみに、水飴なら、小倉藩御用達の豪商水飴屋の水あめが至上
だと思う。
普通の水飴は無色透明だけれど、あちらの水あめは蜂蜜かとうっ
かり思ってしまうような黄金色なのだ。
とても綺麗な透き通った金色に、飴色の本来の色を知ったような
気がした。
ちなみにこれは壺入りで、結構なお値段だ。
いくら私でも、これを簡単に幾つもは購入できない。
1年に1個、自分へのご褒美のようなつもりで買っている。
しかし、小さな頃の贈り物だった品を今でも食べていただけてい
580
たとは驚きだ。
目を瞠って御祖父様を見上げれば、御祖父様はにっこりと笑って
私の頭を撫でた。
﹁精神の鍛錬もいいが、時に何もしないことも重要じゃ。それが終
わったら、少し休みなさい﹂
﹁はい﹂
御祖父様の言葉に、頷いて答えれば、御祖父様が私の頭をもう一
度撫でて、その場を去っていかれた。
ストレス解消ってバレてるような気がする。
でも、やってもいいという意味だよね、あれは。
終わったら休めってことで。
よし。続きしよう!
どうせ、あと少しだし。
そう思って、私はぬか雑巾を手に、廊下を磨きだした。
無心になるというのは、実に爽快だ。
そして、何かをやり遂げるという充足感は、何度経験しても気分
がいい。
ようやく廊下の端へと辿り着き、満足できる仕上がりに笑みを浮
かべたら、視界に足が映った。
﹁⋮⋮え?﹂
﹁⋮⋮⋮⋮⋮⋮ようやく気が付いたか﹂
呆れたように告げたのは、疾風だった。
﹁疾風、いたの? 声を掛けてくれればよかったのに﹂
私の言葉に、疾風は呆れ果てたといった風に溜息を吐く。
﹁5回﹂
﹁え?﹂
﹁時間をおいて、5回、声を掛けた。だが、瑞姫は全然気づかなか
581
った﹂
﹁え? あははははは⋮⋮ごめんなさい﹂
気付かなかったと言われれば、確かにそうかもしれない。
夢中になりすぎると、外から何を言われようとも、気付かないこ
とが多い。
もう一度、横を向いて溜息を吐いた疾風は、何かを諦めたようだ
った。
﹁東條凛について調べいたんだけど、ある程度のことがわかったか
ら、報告に来た﹂
﹁東條⋮⋮ああ! あの、ちょっと変わった人﹂
﹁⋮⋮モノは言い様だな﹂
疾風はどうやら彼女を毛嫌いする対象にしてしまったらしい。
一度、嫌い認定をしてしまったら、疾風の場合、滅多なことでは
その認識を変えない頑固者だ。
今のところ、敵認定ではないらしい。
敵認定をされているのは島津と諏訪だ。
ファイリングされた資料を私に差し出す疾風が、そんなことを言
う。
﹁周囲の反応を見ないなんて、変わってるとしかいいようないでし
ょ? これが、その資料か﹂
廊下にぺったり座ったままでファイルを受け取り、中を捲る。
データは、本人のプロフィールから同学年の生徒たちの調書、そ
れから、両親についても書かれてある。
﹁父親が安倍家!?﹂
瑞姫さん、知ってる?
思わず、私は瑞姫さんに問いかけた。
︵いや、知らない。父親については、一般人で、車の事故で死亡っ
てことくらいしか、データはなかった︶
ありがとうございますと、彼女の言葉に礼を述べ、データとにら
めっこする。
582
﹁瑞姫は、安倍家のことを知ってるのか?﹂
疾風が意外そうな表情で問いかけてくる。
﹁その表情だと、疾風は調べきれなかったんだね﹂
確認の為に問えば、疾風はバツの悪そうな表情で頷く。
﹁まあ、しかたないよ。安倍家だから﹂
﹁そういうもの?﹂
﹁そんなものです。あそこは、名前だけが有名で、中身がわかるの
はあまりいらっしゃらない。私だって七海さまに教えていただいた
から知ってるようなものだし﹂
﹁七海さま、ね⋮⋮﹂
ああと納得したように頷く疾風の表情は渋い。
大伴家は、古い家で、常に中央にいた家柄だから、情報として手
に入れるではなく、元々知っている当たり前のことというものが多
い。
歴史の表舞台から消えているように見えて、常に朝廷の中央部に
ひっそりといたのだ。
﹁安倍家は、ちょっと特殊でね、長子が神官職について、次子が財
閥の後継者、三子は上2人の控えということで、男女問わずに役目
が決まっているんだ。4番目以降は好きにして構わないっていう家
だから、それ以降は割と自由に育ってるんだ。当代様の4番目のお
子様は、ものすごく自由な方で冒険者になったと聞いている。そう
か、東條凛の父親は5番目だったのか﹂
﹁離縁はしていなかったから、何でこんなことになっているのか、
わからないんだが﹂
﹁そうだよね。安倍家の直系男子が娘婿になることを喜ばない東條
家ではないからね。ああ、わかった﹂
ファイルを眺め、ある仮説を思いつく。
おそらくは、それが事実に近いであろうことも予想がつく。
この間、この屋敷まで押し掛けたあの東條夫妻なら、多分そうだ。
﹁安倍のかたは、多分、ご自分の出生を仰らなかったのだろう。東
583
條夫妻は、彼のことを調べず、一般人と思い込んだ。だから、結婚
を許さなかったんだ。東條家から見れば、あの2人は駆け落ちした
ように見えるけれど、安倍のほうでは5番目の方が選んだ人に文句
はないので、自由にさせていたということだろう﹂
﹁⋮⋮は?﹂
﹁安倍家は5番目以降の人生には干渉しないんだ。必要だと言われ
たら手を貸す程度なんだ。元々、あの家は自分の力であそこまで上
り詰めたという矜持があるからね﹂
﹁なるほどな。言われてみれば、確かに。世間知らずの御嬢様が駆
け落ちしたにしては、質のいい暮らしをしているしな﹂
﹁自家用車を持っている程度には、というよりも、一戸建ての家で
暮らしているにしては、ってことだね?﹂
﹁うん。一戸建ての家と自家用車って、あの年代では結構な収入が
必要だと思う。ローンを組むにしたってね。ところが、あの家は完
済している。安倍氏の就職先も、安倍家の系列の会社だった。つま
り、安倍家からは特に反対されていないってことだな、確かに﹂
がしがしと髪を掻き毟るように乱暴な仕種を見せた疾風は、胡乱
な目つきになる。
﹁じゃあ、何で東條凛は安倍家の親族からの申し出を蹴って東條家
へ身を寄せるようにしたんだ? 母親はそれを望んでいなかったに
も関わらず﹂
当然の疑問が疾風の口から洩れる。
﹁⋮⋮⋮⋮⋮⋮見極める必要があるということだね﹂
私が言えることはそれだけだった。
瑞姫さんが残してくれた資料と、疾風が調べてくれた資料、そし
て、東條凛本人の動きをつぶさに見ることで、これから何が起こる
のか見極めなければならない。
彼女の思惑とは別方向で、私が望んだ道に進むためにも。
﹁あ。疾風、部屋に行ってて。後片付けしてくるから﹂
そう言って、私は掃除道具一式を片付けるために座り込んでいた
584
廊下から立ち上がった。
585
75
安倍家は四族と間違いやすいが外族だ。
外津国と呼ばれる大陸から、いつの頃かやってきて、己の実力の
みで台頭し、現在の地位を築き上げた。
安倍家についてはしばし不可思議な記述がある。
魑魅魍魎の類を妻に迎えた等がその筆頭だ。
おそらくは、いずこからか渡ってきた外国人を妻に迎えたのだろ
うと考えられている。
国籍を与えられるような表ルートではなく、漂着したとか、本国
にはおられず命懸けで渡って来たとか、そういった正規ではない方
法でやって来た外国人が鬼や妖怪などと呼ばれた時代もあるらしい。
それゆえに安倍家は異端視され、また謎めいた一族と思われてき
たようだ。
東條凛の父親が、その安倍家出身とは驚いた。
5番目の子供とはいえ、外族もまた葉族に比べれば相当に格上だ。
何故、彼は葉族に就職したのだろう?
そう。﹃就職﹄なのだ。
東條家の使用人ではなく、東條家が経営する会社に就職したのだ。
たまたま東條家当主が彼を気に入り、傍に置くようになったのだ
が、そこらへんのいきさつが非常に曖昧でよくわからないのだが東
條凛の母親と知り合い、恋仲になり、彼女を連れて出て行ったらし
い。
当然、仕事はそこで退職しており、籍を入れてから安倍家の系列
586
の会社に再就職しているようだ。
それと少し気になったのが、その頃、東條家の屋敷勤めの使用人
で丁度彼らと同じ年頃の青年がひとり死亡している。
こちらも交通事故らしい。
深く考えない方がいいだろう、これは。
どちらが父親であろうと、東條凛が存在する。
それがすべてだ。
東條家のことはさておき、部屋に戻った私は、掃除をしていて汚
れた服を着替えるついでに汗を流そうと着替えを手にバスルームへ
向かう。
疾風を待たせているので手早く済まそうと服を脱ぎ去り、鏡に映
った自分に一瞬どきりとする。
身体に幾重にも走る白い線と、右腕と右脚に太く残るケロイド。
何度見ても見慣れないそれに一瞬息を止め、そうして吐き出す。
こんなことで怖がっていては、もっとひどい時期を過ごした瑞姫
さんに申し訳が立たない。
これは随分と良くなった上に、これ以上酷くはならず、少しずつ
消えていくのだから。
そう自分に言い聞かせ、鏡の中の自分を見据える。
もう二度と逃げ出さない。
そう決めたから、戻って来たんだ。
怖がるな。
大丈夫だ。
目を閉じ、深呼吸をして心を落ち着ける。
うん、大丈夫。
もう平気だ。
587
バスルームへ入ると、シャワーコックを捻り、頭からお湯を被っ
た。
﹁瑞姫、髪が湿ってる! ちゃんとよく拭いて﹂
着替えを済ませ、疾風が待つリビングへ向かえば、渋面の疾風が
タオルを持ってくると私の髪を拭き始める。
﹁え? 大丈夫! 風邪ひかないし﹂
﹁そう言うやつに限って、風邪をひくんだ。瑞姫の大丈夫はあてに
しない﹂
手つきは丁寧だけれど、口調は結構酷い。
これは、今までの流れから来ているな。
瑞姫さん、何やったんですか、あなた!?
思わず恨みがましい声が出そうになったけれど、瑞姫さんは知ら
んぷりをしている。
まったく反応がない。
これは、迂闊に返事をすれば藪蛇になると思っての無反応だろう。
﹁大丈夫だって。あんまりドライヤーをあてたくないし﹂
﹁だったら、きちんとタオルで水分を拭き取れ﹂
お母さんみたいなことを言う。
勿論、これを口にすれば、絶対に怒られるから言わないけど。
﹁⋮⋮瑞姫?﹂
﹁え!? な、なに!?﹂
﹁今、良からぬことを考えただろう?﹂
﹁良からぬ事って!?﹂
何でバレちゃったんだろう?
﹁口許、微妙にヒクついてた﹂
ぷにっと口の横あたりを摘まんで言う疾風。
﹁そんなことないだろう﹂
588
﹁いや。自分で考えたことがおかしくて我慢してた顔だぞ﹂
﹁笑ってないから!!﹂
﹁⋮⋮瑞姫?﹂
促すように名前を呼ばれ、私は知らん顔をする。
根競べなら負けない。
﹁⋮⋮⋮⋮⋮⋮﹂
しばらくの間、無言の駆け引きが続く。
そうして、諦めた疾風が溜息を吐いた。
﹁もういい。負けた﹂
﹁疾風?﹂
﹁東條の書類、いつ使うつもりだ?﹂
話題を変えるように、疾風が問いかけてくる。
﹁わからない。今はまだ使うつもりはない﹂
﹁いいのか?﹂
﹁うん。今はね。向こうから近付いてこなければ、放っておく﹂
ゲームに似た世界だからと言って、そのシナリオ通りに動く必要
はないはずだ。
私は、私だ。
自分の人生を自分で決めて生きていこうと考えることは、悪いこ
とではないはずだ。
もちろん、1人で生きていくことはできないので、色々と手助け
が必要になってしまうのは、不甲斐無いところではあるが。
瑞姫さんもずっと考えていた、﹃誰かの役に立ちたい﹄という願
い。
それが、今のところ、私の将来の目標でもある。
﹁おまえがそれでいいのなら、俺は従うが。近付いてこないとは言
い切れないぞ。おまえを八雲様と間違えた挙句、おそらく八雲様の
弟だと思い込んでるぞ﹂
﹁⋮⋮弟⋮⋮いや、もう、どうでもいい。調べればわかることだし、
それ﹂
589
﹁まあな﹂
疾風は頷いて答えるけれど、相手はそんなことを調べるはずもな
いと思っているようだ。
私も、多分調べないだろうなとは思う。
﹁瑞姫、そう言えば、柾様が話をしたいと言っていたぞ﹂
﹁柾兄上が?﹂
長兄殿が私に何の用だろう?
﹁兄上のご都合に合わせるからと伝えておいてくれないか?﹂
﹁承知した﹂
同腹の兄妹だというのに、予定を伝えるのは本人ではなくて人を
介してというのがこの世界のおかしなところだと、瑞姫さんに言わ
れたことがある。
指摘されて初めて気付く歪み。
言葉を交わすことなく、メールでやり取りする家もあるらしい。
普通というものがどういうものなのか、少しだけ気になった。
590
76︵前書き︶
新年一作目です。
本日は、わざと時間帯をずらしました。
0時を待っていた皆様、申し訳ありません。
お待たせしました。
591
76
﹁大変ですわ、瑞姫様!!﹂
教室へ入ってくるなりクラス副委員長が私に訴えかけて来た。
﹁何事ですか?﹂
騒々しいとは思っていないので首を傾げるにとどまる。
﹁大変なんです! マナーの授業、諏訪様のクラスと合同なんです
の!!﹂
その一言で、クラスがパニック状態に陥る。
﹁何てこと!! 先生に抗議申し上げねば!﹂
﹁そうですわ!! 決してあの者に瑞姫様を会わせるわけには参り
ませんもの﹂
凛々しい表情で告げる彼女たちに感謝はするが、決まったことを
覆すのは難しいだろう。
﹁気持ちはありがたいと思うが、闇雲に反発するだけでは先生方も
受け入れてはくださらないだろう﹂
﹁ですが、瑞姫様⋮⋮﹂
﹁私も好んで彼女と関わりを持とうとは思わないが、かといって逃
げを打つのはどうかと思う。私に疚しいことはないのだから﹂
その言葉に、同意したのは、女子ではなく男子であった。
﹁そうだよな。あの無礼極まりない者に非があっても、相良さんに
は瑕疵はないし。まあ、まずはあの無礼な者が本人の許可もなく相
良さんの名前を勝手に呼ぶ機会を与えないことが一番だと思う﹂
﹁それは、そうですね。瑞姫様のことはしばらくの間、相良様とお
呼びすることにいたしますわ。他のクラスの皆様にも、このことは
592
周知しておきましょう﹂
﹁それは良い考えですわ!﹂
上品に手を打って、同意した女の子たちは、他のクラスの友人た
ちに知らせに走る。
﹁普通に調べれば、わかることでは?﹂
諏訪や同じクラスの女子に聞けば、私がどのクラスにいて、フル
ネームは何であるかなど、すぐにわかることだ。
ついでに言えば、性別も、何故このような姿なのかも、聞けばわ
かることだ。
一切、何も隠してはいないのだから。
﹁あら? どなたにお聞きになるのかしら?﹂
副委員長がにこやかに微笑む。
﹁あちらでは、諏訪様以外を無視なさっていらっしゃるとかで、い
まだにご友人の1人もいらっしゃらないんですよ? 外部生同士、
普通は声を掛けあい、仲良くなる方も多いというのに﹂
﹁まあ、通常の外部生であれば、成績が50位以内に入ることに対
して相当な努力をなさっていらっしゃる勤勉な方たちですもの。全
教科赤点なんて方と仲良くなりたいとは思われないでしょう、さす
がに﹂
全教科赤点というのは、さすがに効いているようだ。
﹁2名も全教科赤点というのは、前代未聞でしたね﹂
島津はあれ以来、学校を休んでいる。
どうやら、噂は半分事実だったようで、子供ができたと言う女性
が現れたのは本当のことだが、その子供が島津の子供かどうかは今、
調査中ということだ。
子供ができたということ自体、偽りである可能性があるという噂
もある。
つまり、学校側の処分ではなく、島津家の都合で休んでいるとい
うことだ。
東條凛の方はというと、これまた色々な噂が飛び交っている。
593
﹁確かに前代未聞だとは思いましたが、それ以上に、あちらの方が
先生方に食って掛かったというのは、本当に驚きましたわ﹂
﹁わたくしも聞きました﹂
﹁ああ、それなら、僕も聞いたよ。先生方に、﹃あたしの答えが間
違っているなんてことが、間違っているのよ!﹄と言ったそうだ﹂
男子の1人が呆れたように笑いながら告げる。
﹁何でしょう、それは?﹂
思わず驚いて呟く。
﹁自分が書く答えが、この世界の真理なんだそうだ。変わっている
というより、思い込みが激しすぎて、心療科を勧めたい気になった
よ﹂
﹁まったくですわ﹂
あちこちで大きく頷く姿が見受けられる。
﹁⋮⋮ということは、一切勉強しなかったということですね?﹂
頭痛い。
瑞姫さんの資料には、いきなり10位以内に入って、話題をさら
うというイベントがあると書かれていた。
これにも条件があるらしい。
諏訪と八雲兄の好感度が少しでも上がっていれば、というものだ。
八雲兄の代わりが私ならば、好感度は0のままだ。
そして、あの態度を見る限り、諏訪の好感度も0かマイナスだろ
う。
瑞姫さんは、﹃私、意外とデータを取るタイプなんだよね。いや、
データを取るという使命がなければ、途中で止めたくなるほどだっ
たんだけど﹄とボヤいていたっけ。
これまでのことを見る限り、どうやら彼女は瑞姫さんとは正反対
のタイプらしい。
普通だったら、10位に入るとわかっていても、勉強はするだろ
う。
そうして、より上位に食い込もうと思うだろう。
594
一切勉強しないなんてことは、ありえない。
ましてや、入学試験が圏外だったことを知っていれば、10位以
内に入れるわけがないと思うはずだ。
ちらりと、自分の席に座っている大神に視線をやれば、それに気
付いた大神が苦笑を浮かべ首を横に振っている。
彼の情報では勉強はしていないということか。
そして、気になるところは、入学試験、合格目安点よりどれだけ
得点差があったのかということだ。
彼らの会話を聞いていて、ふと気づく。
誰も、東條凛のことを名字で呼ぶ人がいない。
自己紹介をしておらず、また、どう呼んでほしいかも言わない彼
女に対し、呼ぶ名がないため呼ばないという建前を振りかざしつつ、
真実は彼女の名前を呼ぶことすら拒否したいという私情を思い切り
前面に出しての対応のようだ。
気持ちは非常にわかる。
兄の名を呼ばれた時、私自身、怒りが沸いた。
兄の名を勝手に呼ぶなと、言いたくなった。
そんな相手に自分の名前を親しげに呼ばれたくなどない。
自分勝手と言われようが、我儘と言われようが、嫌なものは嫌な
のだ。
友に名前を呼ばれるのとはわけが違う。
生徒会役員を共に果たした諏訪や大神に未だ、名前を呼ばせない
のと多少意味は異なるが、それでも名前を呼ばれるということはそ
れだけで特別な意味を持つ。
自分が認めた相手でないと、名前を呼ばれたくないし、呼びたく
もない。
彼女はそのことにいつ気が付くのだろうか。
595
***************
結局のところ、先生方に抗議に行く者は現れず、私を名前で呼ば
ないという取り決めを周知させるだけに留まった。
2年になって最初のマナーの授業は、ダンスであった。
基本中の基本、ワルツだ。
それを聞いた瞬間、暗澹たる思いに囚われる。
こういった学校は、得てして男子よりも女子の方がわずかに人数
が多い。
進学校で理系よりであれば、男子が多いという具合に、ある程度
の傾向がある。
東雲の場合、ほんのわずか、クラスの半分より1人、2人、女子
が多いのだ。
私はダンスが好きではない。
間違いなく、この身長と男子用制服のおかげで男子パートに振り
分けられるからだ。
男子パートに振り分けられるという点で、多少なりとも利点はあ
る。
自分のパートナーを誰よりも先に選ぶことができるということだ。
授業の中で、ダンスの自分のパートナーを選ぶ優先権は、男子に
ある。
ダンスをリードするのは男子パートの方なので、自分がリードし
やすい女の子にパートナーをお願いしに行けるというわけだ。
ちなみに、ダンスのパートナーを選ぶとき、私は実にモテる。
選ぶのは男子パートを踊る女子と、男子生徒にあるのだが、女の
子同士の方が踊りやすいからと殺到してくるのだ。
この時ばかりは諏訪や橘を押さえて私が一番人気となる。
596
背が高すぎる疾風は人気がない。
首が痛くなるからというのが理由だ。
マナールームと呼ばれるマナーの授業専用の教室へ向かうと、隣
のクラスの生徒たちも半ば集まっていた。
﹁相良!﹂
珍しくすでに教室に来ていた諏訪が、私の到着と同時に声を掛け
てくる。
﹁頼みがあるのだが﹂
女子生徒に囲まれていた諏訪は、彼女たちの包囲網を突破すると、
私の前に立つ。
﹁俺のパートナーになってくれないだろうか?﹂
恐る恐るといった風に、私の顔色を窺いながらパートナーの申し
込みをしてくる。
それに気付いた女子生徒たちから諦めや失望の表情が浮かんだ。
私に言うとわかっていて、それでも希望を持っていたのだろう。
﹁諏訪、申し訳ないが、お断りさせていただく﹂
﹁もう、決まっているのか?﹂
﹁いや。誤解しているようなので、訂正しておこう。私は、男子パ
ートを踊ることになっている﹂
﹁⋮⋮⋮⋮そう、か﹂
一瞬、目を瞠った諏訪が、何故か嬉しそうに笑った。
何故そんなに嬉しそうなんだ!?
どこに嬉しく思うことがある!?
﹁とても残念だが、それなら仕方あるまい。大人しく引き下がろう。
だが、どなたを誘えばいいか⋮⋮﹂
あっさりと引き下がりながら、困ったように呟く。
﹁君のクラスには阿蘇の姫がいらしたな? 彼女にお願いするとい
いだろう﹂
﹁足を踏まれそうだ﹂
597
少しばかり嫌そうに諏訪が言う。
それはそうだろう。
阿蘇家は相良寄りだ。
外戚と言っていいほど、数代おきに婚姻関係を結んでいる。
﹁私が口添えすれば引き受けてくれる。彼女は、そこまで意地悪は
しないよ﹂
神職系の家系である阿蘇家と同じ神職系の諏訪家は、仕える神が
異なるので、そういった面でも仲が悪い。
だから余計に周囲が誤解せずに済む相手でもあるのだ。
﹁それならいいが⋮⋮﹂
困惑した表情を崩さずに、諏訪は頷く。
苦手な相手でも妥協できるほど、精神的に落ち着いてきたようだ。
これはいい傾向だろう。
﹁早く申し込んでおいた方がいいだろう。彼女は人気者だ﹂
ダンスの相手としては、非常に申し分のない相手だけに、阿蘇家
の姫は数人同時に申し込みが来るなどこういう授業ではよく見る光
景だ。
諏訪に付き合って、阿蘇の姫の許に向かい、口添えをした後、私
は自分の相手を何方に頼もうかと考える。
﹁やはり、千瑛が一番かな? どう思う? 疾風﹂
半歩ほど下がった位置に立つ疾風に声を掛けたとき、ねっとりし
た声が私を呼んだ。
﹁あーっ!! 八雲様の弟君!! 隣のクラスだったんだね﹂
その声に、周囲の者たちの表情にも嫌そうな色が浮かんでは消え
る。
表情を取り繕えるというのは、便利でもあり、不便でもある。
﹁ダンスの相手を探しているんでしょう!? あたし、なってあげ
てもいいのよ?﹂
私に近付き、触れようとしてきたので、するりと躱す。
﹁あん、もう!! 恥ずかしがり屋さんなんだから!﹂
598
空を切った手に、東條凛は私が恥ずかしがって避けたのだと思っ
たらしい。
﹁でも、あたし、恥ずかしがり屋さんには慣れてるから大丈夫よ。
遠慮なんかしなくてもいいし﹂
﹁あら。遠慮なんてしないわよ? それに、恥ずかしがやり屋さん
でもないから﹂
私の胸許あたりで千瑛の声がする。
探しに行こうと思っていたら、本人が来てくれたようだ。
だけど、がっしりと抱き着いてくるのはちょっとやめてほしかっ
た。
少しばかり息苦しいです、千瑛さん。
﹁だって、パートナーは私だもの。ねぇ?﹂
下から覗き込んでくる千瑛に、笑って頷く。
﹁お願いしてもいいかな、千瑛?﹂
﹁もちろんよ﹂
にっこり笑った千瑛は、ちらりと東條凛を見てせせら笑う。
﹁一度、鏡見てきたらどうなの?﹂
鏡を見ろというのは、自分の態度を見直せという意味だ。
決して、顔が不細工だということに気付けということではない。
だが、東條凛は後者だと勘違いしたようだ。
﹁何よ! あんただって大したことないじゃない!? あたしはか
わ⋮⋮﹂
﹁可愛いって顔じゃないわねー普通以下でしょ、ここじゃ。その年
で化粧してるあなたと化粧要らずの私たちの顔立ちとじゃ雲泥の差
があるってことよね。特に、年取ってから!﹂
にやりと笑う千瑛の顔は、確かに可愛らしい。
なのに、何故か千瑛は私の顔を差した。
﹁どう? すっぴんでこの顔の隣に並べる? 見劣りするって辛い
わよねー﹂
何故、私の顔がここで出てくるんだ。
599
﹁あんただって!!﹂
﹁見劣りしてるかしら?﹂
にこやかな千瑛の笑顔。
楽しんでいるというのが、よくわかる。
黒く先が鏃のように尖った尻尾が機嫌よくゆらゆらと揺れている
ような幻覚を見たような気がした。
千景とそっくりな千瑛の顔は、小柄な身長と相まって非常に可愛
らしく見える。
瑞姫さんは黒ゴスが似合いそうと千瑛を見るたびに呟くほどだ。
︵見事だね、千瑛。女の戦いを熟知してるねー︶
ふと、呆れたように瑞姫さんの声が聞こえた。
女の戦いって⋮⋮。
思わず脱力しそうになる。
︵どうあがいても、千瑛の勝利は間違いなしだから、移動しなさい︶
了解しました、瑞姫さん。
私は千瑛の肩を軽く叩く。
﹁千瑛、疾風、行こうか﹂
そう2人に声を掛ける。
東條凛には声を掛けない。
最初からいないものとして扱っているからだ。
何せ、いまだに名乗りもしないのだ。
知人ですらないものをどうやって扱えというのか。
﹁そうだな。行くぞ、菅原﹂
疾風が千瑛に引き上げろと声を掛ける。
﹁菅原!? 千景君が女の子!?﹂
どうやら今頃になって、千瑛の顔が千景とそっくりであることに
気が付いたようだ。
そうして、別の勘違いをしている。
︵うわーっ!! ここでその間違いをするかな!?︶
600
私の中で瑞姫さんが大爆笑をしている。
残念な人という言葉の意味を、私は何となくだけれど、理解し始
めていた。
601
77
ワルツの調べに乗って踊る男女。
それを優雅に眺める私たち。
マナーの授業って、一度クリアしたら非常に楽だということを初
めて知った。
千瑛も千景も何でもそつなくこなすタイプだから、ダンスもかな
り上手かった。
ペアを組んだ相手が上手だと、はっきり言ってとても楽。
一度でクリアを言い渡され、それからずっと教室の隅でのんびり
と過ごしている。
﹁あのね、瑞姫ちゃん﹂
千瑛は前を向いたまま、のんびりとした口調で私に話しかけてく
る。
﹁あの転入生、疑問に思ったことない?﹂
﹁疑問? 疑問だらけだけど﹂
﹁どんなところ?﹂
﹁初対面にも拘らず、誉や疾風の名前を間違えもせずに呼んだこと。
それなのに、私を八雲兄上と間違えたこと。おかしなことだらけだ﹂
正直に言えば、千瑛はふうんと気のない素振りで頷く。
﹁まあ、そこのところは調べればわかると普通なら思うところだけ
どね。瑞姫ちゃんを瑞姫ちゃんのお兄さんと間違えた上に、1つ上
だと思い込んでたところがおかしいよね﹂
﹁そうだね。5歳も違う兄をどうして1つ違いだと思ったりしたの
か⋮⋮調べたらわかっていたことなのに、何を間違えてるんだろう
602
と不思議に思うよ﹂
﹁確かにね。それと、あまりにも目的が明確化しすぎて、奇妙なん
だよね﹂
﹁奇妙?﹂
﹁物語のヒロインにでもなってるつもりみたい﹂
千瑛、鋭い。
先を促すように、私は千瑛に視線を流す。
﹁主人公は自分。その他は自分を引き立てるモブやサブキャラ扱い。
だから、構う必要はない。そう言ってるみたいで、気分が悪いわ﹂
仰る通りです。
千瑛の言葉に私は驚く。
瑞姫さんから資料をもらっていなければ、私だって同じことを考
えていた。
彼女の言動はあまりにも型通りだ。
ここぞという時に限って、シナリオ通りのセリフを読んでいるよ
うにしか見えない。
多分、それが、瑞姫さんの言うゲームのセリフなんだろう。
今のところ、彼女が喋るたび、反発心を覚える人が増えるだけな
のだが。
ちなみに、誰にも誘われず、たった1人残った彼女は、パートナ
ーがいないということで先生がパートナーになって踊っているが、
まともに踊れず、確実に落第が決まっている。
葉族なら、ワルツを踊れて当たり前なのだが、彼女は春休みの最
中、努力とは無縁の生活を送っていたらしい。
先生の足を踏むたび、先生の眉間のしわが深く刻まれていく。
それに気付かず、何故誰も自分を誘わなかったのかと、東條凛は
不満ばかり零している。
何故、だれも根本的なことを教えてやろうとは思わないのだろう
603
か。
東條家に言ってやりたい。
鏡を見ろと何故言ってやらないのかと。
自分の足を踏まれるとわかっていて、誰がダンスに誘うものか。
絶対嫌だと思うに決まっているのに、何故、本人だけが気づかな
いのか。
これは、母親の教育の仕方が間違っていると、そう思われる。
東條凛が自分の考えにこだわっている限り、彼女の考えに賛同す
る者など現れない。
結局のところ、最後までクリアできなかったのは、東條凛、ただ
ひとりであった。
史上最悪の落ち零れというレッテルを張られたことに気付かない
のも本人だけである。
そうして、翌日から、東條凛の隣のクラス訪問が始まったのも、
この授業のせいであることは否めない。
***************
もう間もなく、GWが始まろうとしているこの時期、あちこちか
らお誘いの声がかかってくる。
春の園遊会は無事にパスできたから、何ともなかったのだが、G
Wともなれば、割としつこくなってくる。
どこで調べたのか、予定がないから大丈夫ですよねとか言ってく
604
る輩も多いのだ。
私の場合、家長に尋ねよと言えば大体のことは収まるので、それ
で済ませている。
島津斉昭の件は、子供はいなかったということで収まったらしい。
あれほど遊びまくっていたから、言えば何とかなるだろうという
浅はかさで出て来た女性のようだ。
本当に子供ができたのか調べられ、できていればその子供のDN
Aを調べると言われ、素直に白状したらしい。
玉の輿を狙うのなら、もう少し頭を使うべきだという風潮がクラ
ス内に漂った。
いや。私も少しは思ったけど。
嘘で子供ができたと言えば、いろいろ調べられるということは、
頭に入れておくべきではないのだろうかと。
多分、女性にしてみれば、非常に屈辱的な検査を受けさせられる
はずだ。
子供が本当にできていて、父親が彼ならば、それなりに耐えられ
るかもしれないが、嘘であれば絶対に無理だと思うほど過酷な検査
が羅列する。
あわよくばと思わせた島津に罪があると、私は思う。
元々、クラス内での評価は低かった島津は、地に堕ちた状態で復
帰した。
彼が私に話しかける前に、クラスメイトによって阻止されるとい
う光景はほぼ定着してしまった。
それを私は気の毒だとは思わない。
自分のしてきたツケが、今、自分に回ってきたということだと思
うからだ。
605
﹁瑞姫、GWはどうするつもり?﹂
もうすぐGWだと皆が浮かれはじめる頃、在原が私に尋ねてきた。
﹁家で創作活動﹂
問われれば、簡潔に答える。
瑞姫さんに教わりながら、友禅の下絵を描くつもりだ。
絵に関しては、それなりに知識はあったはずだが、彼女の持つ知
識は独特だ。
教わって損はしない。
それに、筆が主流の友禅に、竹筆という新しい画材を持ち込んだ
彼女はすごいと素直に思う。
師匠としては、本当に申し分がない。
時々、意味がわからない言葉を言われるけれど。
﹁それって、友禅?﹂
首を傾げながら、在原が問いかける。
﹁うん、そうだよ。新しい下絵を描かないといけないし。個展を開
けと言われているし﹂
今までのことは、すべて瑞姫さんの実力だけれど、表面上は同一
人物である私は、常に新作を求められる立場にいる。
彼女のクオリティを崩さずに、求められるままに描かねばならな
いというのは、非常に難しいものだ。
画集や写真集を眺め、デッサンする毎日が続いている。
そんな中、何故か個展を開くことを求められた。
今まで瑞姫さんが描いていた作品でそれらをまかなえそうなのだ
が、それでも新作は必要なのだとか。
いくつか下絵を描いてみたのだけれど、自分的にしっくりとくる
ものが無くて困っている最中なのだ。
﹁個展かぁ⋮⋮それって、僕も行ってもいい?﹂
興味を示した在原が、個展を開く場所や日時について尋ねてくる。
﹁来てもらってもかまわないが、多分、退屈だと思うぞ?﹂
ただの絵画鑑賞とはわけが違う。
606
絵画と着物の両方の知識を持たなければ、結構つらいものがある。
瑞姫さんも最初はそうだったと言っていたので、多分、間違いは
ない。
それと、もう1つ、大事なことがある。
﹁それに、私が個展会場に行くのは1回限りだし﹂
﹁え!? そうなの?﹂
﹁まだ未成年だからな。色々と制約があるようだ﹂
﹁大変だねぇ﹂
感心したような在原の言葉に、笑いが零れる。
﹁それより私は、皆と一緒に遊びに行く方が楽しいと思う﹂
素直にそう言えば、在原が照れたように笑う。
﹁瑞姫の期待は裏切らないから、安心して﹂
﹁じゃあ、盛大に期待する!﹂
軽口を言い合える友がいるということは、とても幸せなことだ。
東條凛もそのことに気付けばいいのに。
私はうっすらそんなことを考えた。
607
77︵後書き︶
420万PVと82.6万ユニーク、ありがとうございます。
608
78 ︵東條凛視点︶︵前書き︶
東條凛視点
609
78 ︵東條凛視点︶
この世界は、あたしのためのもの。
そうわかっていたけれど、何かがおかしい。
何であたしの思った通りにならないの?
この学校はマナーの授業なんてものが月1回ある。
ミニゲームであったから、知ってるけど。
講師は、有名なダンスの先生を招いているなんて言ってたけど、
きっと大したことないわ。
生まれてこの方、ダンスなんて習ったことないけど、あたしには
簡単だもの!
そう思って、マナーの授業がある教室に行ったら、八雲様の弟君
がいた。
こんなところにいたのね!
じゃあ、このダンスの授業の相手は弟君なんだわ。
あらでもどうして誘いに来ないのかしら?
伊織君が弟君に話しかけて、弟君が軽く首を横に振っている。
そのあとも何やら会話を続けて、伊織君ってばものすごく嬉しそ
うに笑ってる。
だから! BL展開はいらないの!!
2人で女の子の所へ行って、何やら話しかけている。
その女の子と弟君がすごく親しげなのが気に食わないけれど、弟
君だけがその場を離れていく。
疾風君も一緒だけど。
610
あの2人、いつも一緒みたいな感じね。
最初に会った時もそうだったけど。
あ、でも。これってチャンスじゃない?
あたしに気付かなかっただけなら、あたしが傍に行って話しかけ
てあげれば、誘うでしょ?
レディを無視するような子じゃなさそうだしね。
そう思って声を掛けてあげたのに、何よ、あの小さい子!!
自分が美人だと思ってるのね!
ま、まぁ。確かにちょっとは可愛いけど。
弟君も少しは嫌がりなさいよ!!
パートナー申し込みがないけど、どうしたのよ!?
何であたしを誘わないの!!
ま、まあ。未来の諏訪夫人を前に怖気づいちゃったのね。
それなら仕方ないわ。
この際、下手なやつより、先生の方がマシだもの。
ポルカにカドリーユ、ワルツ、レントラー!?
ワルツは知ってるけど、他は何!?
全部、ダンスですって?
ワルツが何種類もある!?
ちょっと待ってよ、そんなのゲームじゃ言わなかったわよ。
ステップがなんですって?
ナチュラルターン↓フォワードのチェンジステップ↓リバースタ
ーン↓フォワードのチェンジステップ↓ナチュラルターンって意味
がわかんないんだけど!
先生のリードも最悪だった!!
これが有名な講師!?
611
何であたしが行く方向と逆へ行こうとするの!
はあ? あたしが逆!? 間違ってるですって?
冗談じゃないわよ!! あんたが間違えてるのに、あたしが悪い
って言うの!?
踏みやすいところに足を置いてるあんたが悪いんじゃないのよ!!
神様に言って、あんたなんかこの世から抹消してやるから!
大体、神様も神様よ。
どうしてシナリオ通りに話を進めてくれないのよ。
それに何でステイタスをポップアップにしてくれないのかしら?
好感度がどのくらいなのか、確認したいのに。
今回は諦めて、2周目以降に期待した方がいいのかしら?
どうやったらキャンセルできるのかしら。
本当に不便よね。
あたしが悪戦苦闘してるっていうのに、次々とクリアして部屋の
隅で寛ぎだす生徒たち。
弟君とちびっこは1番だった。
まあ、弟君は、八雲様の弟だけあって綺麗な身のこなしをしてい
るもの、当然よね。
次はあたしを誘いなさいよ!
伊織君も同じクラスの女子と早々にクリアしてた。
ああ、もう!
何であたしを誘わないかな。
イライラするったら!
最後まで意地悪莫迦講師はあたしを合格させなかった。
しかも、合格するまで補講ですって!?
冗談じゃないわ!!
612
その日、1日イライラしながら過ごし、東條の屋敷に戻ってあた
しはママに問いかけた。
﹁ママ! ダンスレッスンがあるなんて言わなかったじゃない!?﹂
﹁まあ、ダンスのレッスンがあったの? 懐かしいわぁ﹂
根っからの御嬢様のママはほんわかと懐かしそうに笑う。
保母として働いていたママは、子供たちに大の人気だった。
この御嬢様らしい笑顔が好かれる理由なのは知っている。
だけど、あたしはこの笑顔が大嫌い。
あたしが笑ったところで、誰も好きにはなってくれなかったわ。
それなのに、ママはあたしの母親なのに、何で他の子たちが好き
になるの!
あたしはママの職業も、職場の子供たちも大嫌い。
﹁懐かしいじゃないわよ! 教えてくれてもいいじゃない!!﹂
﹁そうね。ポルカとワルツはデビュタントに必要だから、皆、熱心
に練習しているものねぇ。カドリーユはこちらにいい先生がいない
から、東雲のレッスンで初めて習う子が多いから、何とかなるでし
ょう﹂
﹁そんなに覚えるの!? ウンザリよ﹂
﹁うふふふふ⋮⋮ワルツは特に難しいもの。ウインナワルツは普通
のワルツと違って逆回りだし﹂
﹁逆回り?﹂
﹁そうよ。18歳になったらデビュタントできるから、皆、こぞっ
てウインナワルツを覚えるの﹂
にこにこと笑いながらママは言う。
﹁デビュタントって何?﹂
﹁簡単に言うと、社交界にデビューしますっていうお披露目のダン
スパーティのことかしら? 有名なのはウィーン国立歌劇場のデビ
ュタントかしら? 他の場所でもデビュタントはあってるのだけど、
デビュタントというとウィーンの国立歌劇場を思い浮かべる人が多
いわね。あちらは左回りのウインナワルツを踊るから﹂
613
﹁だから逆なのね⋮⋮﹂
なんだ。
あの先生、間違ってなかったのね。
ワルツに種類があるって言ったところから、面倒になっちゃって
話聞いてなかったわ。
﹁ママもワルツは苦手だったのよ。宮廷のワルツとか、ウインナワ
ルツとか、社交ダンスのワルツとか、競技ダンスのワルツとか、全
部微妙にステップが違うんだもの。今自分が何を踊っているのかわ
かってないと足の置く位置を間違えて、ついリードしてくれる子の
足を踏んでたわ﹂
﹁へえ、そうなの?﹂
﹁あと、民衆が踊ってたっていうワルツもあってね、もう、全部一
緒でいいじゃない! って、思ったわ。ほら、だって! 競技ダン
スなんて、関係ないじゃない? 社交ダンスは、おじいさまたちの
お仕事のお付き合いで出たときに誘われるから、覚えておいた方が
いいけれど。踊るのが一番楽なのは、宮廷のワルツね。あれは基本
のステップはあるんだけど、音楽に乗っていて美しく優雅に踊って
いれば多少ステップ間違えても大丈夫って言われたし。ドレスで足
許見えないから﹂
くすくすと可愛らしく笑うママ。
﹁そうね。デビュタントは無理だけど、ワルツは踊れた方がいいも
のね。先生を探して習った方がいいわね。おじいさまに相談してみ
ましょうね﹂
﹁じゃあ、ママも一緒に習う?﹂
あたしは半分意地悪でママにそう言ってみる。
東條の家に来て思ったことは、おじいちゃんもおばあちゃんもあ
たしのことがいらなかったということだ。
今、おじいちゃんもおばあちゃんも、ママに再婚を勧めている。
事業の助けをしてくれるようなお金持ちのおじさんを選んで、マ
マに若いんだからもう一度結婚したらって言っているのだ。
614
あたしのためにママを助けたのに、あたしじゃなくてママを必要
とするなんてひどい話よね。
だから、あたしはおじいちゃんたちを助けてはあげない。
あたしは、あたしの持ってる記憶と使えるものを使って、自力で
幸せになるんだから。
ママはあたしが使える駒だもの。おじいちゃんたちにはあげない
わ。
もちろん、ママもパパを亡くしたばかりだからそんな気には絶対
にならないって怒って断ってるんだもの、おじいちゃんたちの言い
なりにはならないわよね。
﹁ママはいいわ。だって、踊りたい人がいないんですもの﹂
拗ねたような表情で唇を尖らせ言うママは、ちょっと寂しそうに
見えた。
ダンスの先生の件は、わりと簡単に話が決まった。
ママが習っていた先生にお願いしたって言ってたっけ。
その先生が作った予定表を見てあたしは驚いた。
ちょっと!! GWが潰れるじゃない!!
イベントあるのよ! どうしてくれるの!
ああでも、ダンスが上手じゃないと伊織君と八雲様の好感度が下
がるのよね。
これって、究極の選択っていうのかしら?
615
78 ︵東條凛視点︶︵後書き︶
人の話は、最後までしっかり聞けと説教したくなる凛ちゃんです。
616
79 ︵岡部疾風視点︶︵前書き︶
岡部疾風視点
617
79 ︵岡部疾風視点︶
どうやら、東條凛は諏訪伊織を諦めたらしい。
そんな噂が微妙に広まった。
原因は、隣のクラスに日参するようになったからだ。
﹁弟君、おっはよーっ!! って、あら、いない?﹂
がらっと教室の扉を開けて、東條凛が声を掛け、教室を見回して
首を傾げる。
﹁ねえちょっと! 八雲様の弟君、このクラスなんでしょ!?﹂
ちょうど教室に入ってきた女子を呼び止め、問い質す。
質問の形を取っているが、とても他人にモノを尋ねる態度ではな
い。
﹁何方のことを仰っているのか、わかりかねますわ。このクラスに、
八雲様の弟君という方はいらっしゃいません﹂
きっぱりとした口調で応じた女子は、そのまま彼女を無視して自
分の席に向かう。
﹁嘘よ!! マナーの授業の時にいたじゃない!!﹂
﹁それは、何方のことを仰っているのでしょうか?﹂
副委員長が凄みのある笑みを浮かべて問いかける。
﹁当クラスに、相良八雲様の弟様はいらっしゃいません。嘘偽りご
ざいませんわ﹂
﹁じゃあ、あの子は誰よ!?﹂
﹁何方のことを仰っているのか、わかりかねます。それから、他ク
ラスへ勝手な出入りは禁止されております。立ち去ってくださいな﹂
﹁他人のクラスに用事がある場合は、扉の外から声を掛ける決まり
618
になっている。勝手に足を踏み入れることはマナーに反する恥ずべ
きことだと入学前の説明会で話があったはずだけど?﹂
外部生の男子が彼女の背後から教室内に足を踏み入れ、冷ややか
な声音で注意する。
﹁そんなの、知らないわ!﹂
﹁君のひとりの態度が俺達外部生の立場を悪くしているということ
を自覚しろ! いい加減、迷惑なんだよ、その君の態度は﹂
﹁一般人が何言ってるの? あたしは、葉族よ!﹂
﹁それが何?﹂
ひやりとする声がその場を支配する。
小柄ながら、その存在感はかなりのものだ。
﹁ちびっこ!﹂
﹁誰のことかしら? ケバくて普通以下の容姿の人﹂
﹁何ですって!?﹂
菅原千瑛の言葉に、周囲からかすかに噴出す声が漏れる。
それに気付いた東條凛が、目を吊り上げて周囲を睨めつけた。
だが、睨まれたくらいで怖がるような者はいない。
﹁葉族だから、ナニ? 私たちは四族よ? 葉族は、四族の分家の
分家よ。主家からも分家からも切り離された厄介者だけど、知って
いて自慢しているの? 己の愚かさを自慢するって、どんな気分な
のかしら?﹂
にこやかに微笑む菅原は、菅家の直系だ。
神族の中でもかなり厄介な存在であることを知らない者は四族で
はいない。
﹁あら、あなた。﹃恥知らずの葉族﹄は石よりも劣るってことを理
解していないのね。勿論、﹃常識を理解している葉族﹄は沢山いる
けれど、残念ね﹂
﹁はあ!?﹂
﹁愚かなあなたに教えてあげる。権力は、自分よりも立場の弱い者
たちを守るためにあるものなのよ? 決して、自分を優位に保つた
619
めのものじゃないわ。理解できてもできなくてもかまわないから、
自分の教室に戻りなさいな。あなたの愛しの諏訪伊織様がお見えよ
?﹂
くつりと笑った菅原姉が、ついっと手を上げ指先で隣の教室を示
す。
﹁⋮⋮ふんっ!﹂
つんっとそっぽを向いて東條凛は足音高く教室を出て行った。
﹁⋮⋮⋮⋮⋮⋮イマドキ、﹃ふんっ!﹄って言う人がいるなんて⋮
⋮﹂
ぼそりと、平坦な声音で菅原姉が呟く。
その一言で教室内が爆笑の渦に巻き込まれた。
﹁菅原さん、ありがとう﹂
東條凛に注意をしていた外部生の男が礼を言う。
菅原は彼を守るために割って入ったのだと、彼は気づいたようだ。
﹁あら、何のこと? 私はあのケバい女がまき散らす不快な空気を
吸いたくなかっただけよ﹂
つんっとそっぽを向いた菅原姉と俺の視線が合った。
﹁⋮⋮何でここにいるの、岡部くん?﹂
わざと﹃くん﹄付けときた。
瑞姫を1人にしたと怒ってるな、これは。
﹁俺がここにいた方が都合がいいからだ﹂
何の都合かは言わない。
こいつの頭なら、すぐに理解できるからだ。
﹁⋮⋮なるほどね。確かに都合がいいわ﹂
ほら、な。
﹁で、あいつがいなくなったから、今から迎えに行くところ﹂
﹁あっそ﹂
こいつは潔い。
瑞姫以外に愛想を売らないところとか。
だから信用できる。
620
﹁さっきは助かった。おまえが出なきゃ、俺が出ようと思ってたと
ころだから﹂
﹁あんな小者、出なくていいわよ。せいぜい吠えさせていなさい﹂
あっさりとした口調で今年の問題児を叩き斬る。
﹁自分がやってることの意味がわからないなんて。せいぜい、口を
滑らせて自滅するだけよ﹂
﹁それならそれでありがたいが、瑞姫の負担にならないといい﹂
﹁岡部のその瑞姫ちゃん莫迦なところ、わりと気に入ってるんだけ
ど。そう思ってるんだったら、片時も離れないようにしなさいよ﹂
﹁それじゃ、瑞姫の息が詰まるだろ? 息抜きも必要だ﹂
﹁⋮⋮前言撤回してあげる。よく考えてるのね。確かに息抜きは必
要だわ﹂
﹁褒められたと思って、迎えに行ってくる﹂
そう言って、俺は立ち上がる。
﹁王子様は、例の場所?﹂
﹁そ。今はあそこが一番安全だから﹂
﹁確かにね﹂
菅原姉がわずかに表情を和らげた。
ここはこいつに任せても大丈夫だろう。
あの問題児が何度来てもこいつひとりで撃退できるはずだ。
微妙に女嫌いの在原や、腹黒い大神に任せても安心できないが、
菅原姉は間違いない。
俺は、瑞姫がいる場所へ向かった。
***************
621
図書室には﹃木漏れ日の王子様﹄なる者が存在するらしい。
そう言う噂を知ったのは、図書室から浮かれたように出てくる下
級生たちが話していた会話を漏れ聞いたからだ。
何のことだと首を傾げて図書室に入ってみて、すぐに納得した。
窓際で本を読んでいた瑞姫の姿があったからだ。
一年中、図書室には光が直接入らないようにという配慮がなされ
ている。
例えば南側に樹を植えているとか、西日が差さないように窓自体
に角度を与えているとか。
本好きの司書が、本の為に設計士にあれこれと注文を付けて設計
してもらった部屋だとか。
普段、瑞姫は光量が一定である北側の窓辺を好んでそちら側に座
っているが、入口に近いため、今はあえて南側に座る位置を変えて
いる。
その南側に立つ樹が光を遮りつつ、木漏れ日を部屋に差し込ませ
ている。
木漏れ日を受けながら、柔らかな表情で読書に励む瑞姫は、彼女
たちにとって夢の王子様なのだろう。
八雲様によく似た整った顔立ちは、どちらかというと中性的で硬
質だ。
瑞姫が着ている男子用の制服も、実は俺と同じように見えて少し
だけ作りが違っている。
男物でも女の子が着るのだ、一緒にしては窮屈だろう。
それに、あまりにもピッタリに作りすぎては瑞姫の傷に差し支え
る。
おまけに成長期でもある、少し余裕を持たせないといけない場所
もあるだろう。
そういう配慮から、パッと見にはわからないが、ややゆったり目
に作られている。
今のところその配慮は無駄になっているようだが。
622
瑞姫は華奢ではないが、細すぎる。
ちゃんと筋肉も綺麗についているので病的に痩せているようには
見えないところが救いだが、それでも細い。
クラスメイトである女子たちは、瑞姫の細さを羨ましがっている
ようだが、本人はもう少し肉をつけたがっていることも知っている。
どこら辺? と在原が突っ込んでいたら、手首という答えが返っ
てきた。
確かに手首は俺の親指と中指で輪を作って掴んでも相当余る。
親指と人差し指どころか、親指と小指で輪っかを作っても余裕の
細さだ。
幼い頃から武術で鍛えているせいで骨が太い瑞姫だが、他の女子
と同じくらいの骨の太さだったら、どれだけ細い手首になっていた
かと思うとぞっとする。
もちろん、粉砕骨折で済まなかった可能性だってある。
医者であるしずかに他の子よりも遅い成長期だと思えと諭されな
ければ、今頃、怒り狂って諏訪の分家を壊しに行っていたかもしれ
ない。
こればかりは瑞姫に止められても無視して突っ走っていただろう。
彼女たちの言う﹃木漏れ日の王子様﹄は、読書好きの中の極上の
秘密として外に出回ることはない。
だから、図書室に寄り付きもしないあいつに瑞姫の居場所を悟ら
れる心配もない。
図書室に着くと、俺は迷うことなくカウンターの奥の司書室の扉
をノックする。
ここに入ることができるのは、図書委員だけである。
﹁岡部です、失礼します﹂
そう声を掛け、ドアを開けると、司書の先生方数名と瑞姫がいた。
623
﹁あ。疾風!﹂
﹁本の修復を教えてもらっていたのか﹂
﹁うん、そうだよ。難しいけれど、楽しいね﹂
背表紙がはがれた本の修復をしていたらしい瑞姫がきらきらと瞳
を輝かせて笑う。
瑞姫は手先がとても器用だ。
何かを作るということが好きだということも知っている。
どんなに大切に扱っていても、時間に伴い本も傷んでしまうとい
うことを知っている瑞姫には、この本の修復は確かに楽しい作業だ
ろう。
﹁疾風も今度、先生に教えてもらうといいよ﹂
﹁そうしよう﹂
瑞姫の言葉に俺が頷くと、先生方は不思議そうな表情を浮かべた。
﹁やだな、先生! 疾風は私よりも器用ですよ﹂
イメージが違いすぎると思いますけど、と笑う瑞姫。
それはちょっと俺に対して失礼じゃないのか?
胡乱な表情を浮かべて瑞姫を睨めば、舌を出して笑っている。
﹁H.R.が始まるので、迎えに来ました﹂
このままだと埒が明かない。
そう判断して言葉を挟めば、一斉に時計を見て驚いている。
﹁あら、もうこんな時間?﹂
﹁集中すると時間が経つのは早いですからねぇ﹂
おっとりとした口調で司書の先生方が瑞姫を庇い始める。
この人たちの中で俺のイメージはどうなっているのだろうか。
そんな人たちの言葉の意味に気付かずに瑞姫は丁寧に後片付けを
していく。
﹁先生、これでよろしいですか?﹂
﹁はい、結構ですよ。相良さんは当番でない時も熱心に通ってくだ
さるので助かります﹂
初老の司書の先生が穏やかに頷く。
624
それほど年を取っていないだろうに、彼はすでに白髪だ。
若白髪だったのものを染めもせずにそのままいたので、さほどか
からず総白髪になったのだと言っていた。
だが、その白髪頭が彼の容貌と相まってとても穏やかな雰囲気を
醸し出している。
瑞姫が一番懐いている先生だ。
﹁岡部君も昼休みや放課後にはきちんと手伝ってくださるので、い
つも感心していますよ﹂
﹁いえ。委員ですから当然です﹂
﹁いえいえ。当然なんてことは、ないんですよ。そうしようと思う
その心が行動を生み出すわけですから﹂
﹁⋮⋮はあ﹂
イマイチ納得がいかない俺の様子に、先生は笑みをこぼす。
﹁では、おふたりともまた来てください。お待ちしておりますよ﹂
﹁はい﹂
教室に戻ることを促され、頷いた俺たちはその場を後にする。
廊下には、生徒の姿はまばらになってきている。
この時間帯ならあの東條も教室から出てくることはない。
﹁疾風、大丈夫だった?﹂
こっそりと瑞姫が聞いてくる。
何を聞きたがっているのかは、わかっている。
﹁菅原姉が追い返したから、大丈夫だ。被害は出てない﹂
﹁そっか。千瑛⋮⋮すごいな﹂
﹁⋮⋮俺は、あいつだけは敵に回したいとは思わない﹂
﹁だね﹂
何を想像したのか、くすくすと笑う瑞姫の半歩後ろを歩く。
何としても瑞姫のために、あの東條をこの学園から追い出したい
ところだが、まだ何も手出しが許されていないところがもどかしい。
まだ新学期が始まってから1ヶ月も経っていないのに、俺は東條
625
という存在にうんざりしていた。
626
80
静まり返った部屋。
生徒指導室という私とは縁のない場所で、生徒数人の前に対し小
さくなっている指導員というのはどういう光景なのだろうか。
﹁私たちを呼び出した理由についてお尋ねしているだけですが、何
故、先生はそのように俯いていらっしゃるのでしょうか?﹂
私とて意地悪したいわけではない。
理由を聞きたいだけなのだ。
なのに、理由を尋ねただけでビクつかなくてもいいではないか。
事の始まりは、やはり問題児の問題行動であった。
いつものことなので、またかという気持ちもある。
例の朝の日参だ。
何度注意を受けても構わずに勝手に教室に入ってきては、私がい
ないと叫ぶらしい。
該当者がいないのだから諦めて勝手に教室に入るなと、外部生の
女の子が注意したところ、怒りに任せて彼女を突き飛ばしたのだ。
たまたまその時、登校した在原が彼女を受け止めたものの、その
子は捻挫をしてしまったというのが今朝の出来事。
そうして何故か、生徒指導室に私たちが呼び出されたというのが、
今現在。
627
﹁何の理由で、私たちが呼ばれたのか、その理由を仰っていただき
たい。この部屋に呼ばれる理由が見当たらないので、教えていただ
きたいと思うのは、それほどまでにいけないことなのでしょうか?﹂
椅子を勧められたので座っているが、まっすぐに教師を見つめて
問うのもいけなかっただろうか?
私の視線は少々強すぎるらしい。
人の目を見て話すのは悪いことではないが、強すぎる視線は時に
圧力にもなると兄にも諭されたことがある。
﹁⋮⋮今朝の事件について、御存知ですか?﹂
﹁今朝の事件? ああ、逢坂さんが怪我をなさったということでし
ょうか? その場にはいませんでしたから、話だけですね﹂
私の回答に、先生はがっくりと肩を落とす。
﹁そうでしたか⋮⋮﹂
﹁病院に連れて行かれたということでしたが、診断はどのように?
連絡はあったのでしょう?﹂
﹁ええ。全治1週間の捻挫という診断でした﹂
﹁骨には異常ないのですね?﹂
﹁そのような話は聞いておりません﹂
﹁それは、不幸中の幸いでした。逢坂さんには非はないはずです。
不当な暴力行為によっての負傷ですから、当然、その暴力行為を働
いた方に相応の処罰が下されるはずですね?﹂
﹁1週間の謹慎処分を決定する予定です﹂
﹁それは、何とも軽い処分ですね。在原君が受け止めなかったら、
黒板か壁に頭をぶつけていたかもしれないんですよ? それと、診
療代及び治療費の負担も、当然加害者側が支払うことを了承してい
るんですよね?﹂
﹁それはまだ⋮⋮﹂
628
教諭の言葉に、ざわりと怒りの空気が渦巻く。
﹁先生﹂
私は真っ直ぐに教師を見据える。
﹁彼女がやったことは、傷害罪です。医師に診断書を書いていただ
き、それに沿って必要な治療費を加害者に負担させるというのが、
当然の結果では? それをしなければ、学校側の監督不行き届きや
何やらで学校の名誉も傷付けられると思われないのですか?﹂
何もかも正直に突きつけることが美徳ではないことは知っている。
だが、言わなくてはいけないことも確かにある。
このまま有耶無耶にしては、学校側が逢坂さんの家族から訴えら
れる可能性だってあるのだ。
その可能性を消すには、学校側が仲介者として加害者側から誠意
ある態度を引き出すことだ。
﹁それは⋮⋮﹂
﹁では、最初に質問に戻ります。何故、その場にいなかった無関係
なものまでもこの場に呼び出した理由をお聞かせください﹂
この言葉に、教師は心が折れたようにがっくりと項垂れた。
ぽつぽつと話し出したその理由は、実に情けないものだった。
﹁理事会との板挟みは、仕方ないものだと思いますが、それを1生
徒に押し付けるおつもりですか?﹂
呆れてものが言えないという言葉は、とうに通り越した。
﹁事実と異なる状況を作り出すことは、学校側の名誉に関わるでし
ょう? 何方のお考えかはわかりませんが、止めておいた方が無難
です﹂
私がその場にいたという偽の事実を作り出し、私が迷惑を被った
という形を作り出して、東條凛を退学へと持っていきたかったらし
い。
629
だが、理事会は東條凛の処分を軽くし、他の生徒たちの不満を募
らせ、そうして更なる問題を起こさせようと画策しているようだ。
彼らは、相良家が東條家から引き出した念書の正確な中身を知ら
ない。
学校側に提出しているので、そのこと自体は知っているけれど、
どんな内容なのかは知らないはずだ。
相良がどのような使い方をしようと思っているのかも、憶測でし
かない。
あの念書が無くても、相良家ならば簡単に東條家を潰すことは可
能だ。
現に、東條家は相良と岡部の両家からの秘かな動きで、持ってい
た大半の株を失い、会社を手放し、急激に失速している最中だ。
すべて合法的に動いているため、ちょっと調べれば犯人はどこか
などすぐわかる。
だが、調べないのなら、何が起こっているのかわからないだろう。
実際に、何が起こっているのか全く把握していない東條家は、す
べて後手に回り、持っていた株を失った後買い戻すこともできず、
会社を手放した後も何もしていない。
東條家は潰えることはもうすでに確定されていることだ。
悪足掻きをしていることも、把握している。
﹁しかし⋮⋮﹂
﹁加害者側の母親を呼び出して、詳細を伝え、どうするか尋ねれば
いいではありませんか?﹂
東條凛の保護者責任は、母親にある。
決して、東條家当主夫妻ではない。
そのことを伝えれば、教師は目を瞠った。
﹁母親⋮⋮﹂
﹁保護者は母親でしょう? 何故、母親を呼び出さないんですか﹂
﹁東條家のご当主夫妻が⋮⋮﹂
﹁祖父母に保護者責任があると仰いますか? 母親がいるにもかか
630
わらず? それは、どのような理由なのでしょうか﹂
淡々と問いかければ、教師の言葉が詰まった。
﹁感情のままに他者を傷つけるというのは、初等部の児童並の身勝
手さです。高等部に進学している身でそのようなことが理解できな
いということ自体が問題です。母親の監督責任を問うてもおかしく
ないのでは?﹂
﹁た、確かに⋮⋮﹂
頷く教師に、話は終わったと私は立ち上がる。
﹁相良さん!?﹂
﹁私たちを呼び出す前に、為すべきことをなさってください。今の
段階で、先生は私の質問に何一つ答えてくださらないし、肝心の要
件も仰らない。これでは話すことも何もできません。私たちが指導
室へ呼ばれたことを保護者である両親が知れば、どのようなことを
言ってくるのか、そのあたりも考えての行動であれば、もっとよろ
しかったのですが﹂
ここにいる生徒は全員が四族だ。
しかも、規模の大きい家ばかりだ。
生徒指導室に呼ばれ、しかもどういう呼び出しだったのかがわか
らないと子供たちが言えば、保護者が学校側に理由を問いかけるの
は当たり前だろう。
しかも、この呼び出しは、相良家動けと圧力をかけたようなもの
だ。
相良家が従うはずもない。
下手すれば、逆に東雲側に相良が圧力をかけることにもつながる
だろう。
﹁次回、お話することがあれば、実りある内容であることを期待し
ます﹂
交渉決裂と告げ、指導室の外へ出れば、呼び出されていた生徒た
ちも続いて出ていく。
残されたのは、呆然自失になった教師だけであった。
631
﹁あそこまで、短絡的に手を出す性分だとは思わなかったよ。僕の
落ち度だね﹂
たまたまあの場にいたらしい大神が、肩を落として呟く。
﹁確かにそうね。瑞姫ちゃん以外は守らないつもりだったのかしら、
生徒会って?﹂
堂々と本人に皮肉を言うのは千瑛のいいところなのか悪いところ
なのか。
﹁そんなことはないよ。生徒会は公平な態度で﹂
﹁後手に回るのね﹂
ぴしゃりと大神の言葉を封じ、千瑛は千景を見る。
﹁ちーちゃん、理事会の名簿、手に入るかしら?﹂
﹁そりゃあ、簡単に手に入ると思うよ。HPに載ってるし﹂
﹁ふぅん﹂
にやりと千瑛が笑う。
絶対に何かを企んでいる笑顔だ。
﹁それって、理事たちは間抜けってことかしら? 自分の情報を全
世界に公開してるなんて﹂
﹁悪用するようなことを考え付くのは千瑛だけだから﹂
千景の言葉は、妙に納得してしまう。
﹁危機管理がなっていないってことが問題だと思うのよ。ちょっと
だけ別行動するわね、瑞姫ちゃん﹂
にっこりと笑った千瑛は、千景を伴い、別方向へと歩き出す。
﹁僕は生徒会室へ行きましょう。あちらでも情報収集しているでし
ょうし﹂
大神も、生徒会室に向かって去っていく。
﹁⋮⋮瑞姫、どうする?﹂
疾風がわかりきっているのに、形ばかりの質問をしてくる。
632
﹁決まっている。逢坂さんのお見舞いだ。原因は私なのだから、謝
罪する必要があるだろう﹂
﹁瑞姫は悪くないだろう!?﹂
﹁加害者でないから悪くないとは言えないだろう? 逢坂さんがお
休みする間の授業のノートとかもあるだろうし。その辺のことも相
談した方がいいと思う﹂
学生にとって授業のノートというのはとても重要だ。
特に、外部生である逢坂さんにとっては何より価値があるものだ。
成績を落とせば退学の可能性もある外部生なのだから。
2回、50位以下の成績を取れば、退学となる。
これは、東條凛も葉族であっても外部生であるため、1学期まで
は通学できるが2学期以降の運命はわからないということだ。
実力テストは、この2回の中には入らない。
あくまで、中間と期末のテスト結果だ。
逢坂さんが通学できない間、当然授業も受けられない。
この間の保証も、本来ならば東條家がしなくてはいけないことな
のだ。
その交渉を学校側がきちんと果たせれば、という注釈つきだ。
逢坂さんなら、授業のノートさえあれば、何とかなるだろう。
学校側が何もできなかった時のことを考えれば、私がクラスメイ
トとしてノートを持っていくのはそこまで不思議な話ではないはず
だ。
﹁⋮⋮俺も行くから﹂
仕方なさそうに頷く疾風に、悪いと思いつつ笑いながら頷き、私
たちは一度教室へと戻った。
633
81
﹁逢坂さん、足の具合はいかがでしょうか?﹂
一度、家に戻り、支度を整えて逢坂さんが一時入院されている病
院へやって来た。
﹁相良様! それに岡部様も。ええっ!?﹂
ベッドの上に足を延ばして座り、参考書を読んでいた逢坂さんは
驚いたように声を上げる。
そのまま逢坂さんの表情は笑顔に変わった。
よかった、迷惑ではなかったようだ。
﹁お見舞いに来ました。これを、どうぞ﹂
小さなボックス仕立てのアレンジの花籠を疾風が差し出し、私は
プチケーキの詰め合わせのボックスを差し出す。
﹁うわあ⋮⋮可愛い! ありがとう!!﹂
疾風の花籠に視線が釘付けだった逢坂さんは、ケーキのボックス
を受け取って喜色満面になった。
﹁お母さん、お母さん!! どうしよう!! 見てみて!! ケー
キが可愛い﹂
大きな声で呼ばれた母親らしい女性は、私たちの姿を見て驚いた
表情を浮かべたものの、すぐににこやかに笑って挨拶をしてくれた。
﹁あらあら、お友達? お見舞いに来てくださったんですか? あ
りがとう﹂
﹁いえ。もとはと言えば、私が原因だったのですから⋮⋮本当に、
申し訳ありませんでした﹂
自己満足と言われればお終いだけど、きちんと謝罪をすべきとこ
634
ろで頭を下げなければ、自分が許せない。
﹁やめてください、相良様! 相良様が悪いわけじゃないですから
ねっ!!﹂
逢坂さんが慌てて私に向かって手を差し出す。
﹁ですが⋮⋮﹂
﹁あの女が悪いんです! 決められた規則を守ろうとしないどころ
か、注意されて暴力をふるうなんて最低です!! 相良様は皆に迷
惑がかからないように登校されて教室から離れていらっしゃったこ
とは、誰だって知ってます。もし、教室にいらっしゃったら、あの
女、調子に乗ってもっと見苦しいことやらかしますからね。その点
では、相良様は被害者なんですから、全然気にしなくていいんです。
まぁ、私の場合、あの態度にムカついちゃって、ちょっと失敗した
だけだから﹂
﹁でも、痛かったでしょう? こんなに腫れて⋮⋮﹂
足首を動かさないために、ぐるぐると幾重にも巻かれた包帯は分
厚く、余計に痛々しく見えてしまうことは知っているが、それでも
普通の女の子だ、痛かっただろう。
余計な争いを避けようと思って、その場にいなかったことが悔や
まれる。
﹁大丈夫ですよ、大袈裟に巻いてるだけですからって⋮⋮相良様の
方がよくご存知でしたね。茉莉先生の妹さんですし﹂
﹁相良先生の! あらまあ、妹さんっ!?﹂
逢坂さんのお母様は、私を見て驚いたように声を上げる。
よく似た反応はやはり母娘だからだろうか。
﹁ええ。わけあって男子用の制服を着用しておりますが、戸籍上も
生物学上の間違いなく女性になっています﹂
﹁そうでしょうねぇ。男の子にしては綺麗すぎるもの﹂
感心したように逢坂さんのお母様は呟く。
﹁兄が、いるんですけどね。それはもう、ひどくて⋮⋮﹂
くすくす笑いながら、逢坂さんが説明してくれる。
635
﹁身嗜みがとても綺麗だっていう意味なんですよ。岡部様も在原様
も、もちろん、身嗜みは整っていらっしゃいますが、女の子ですか
ら﹂
男子と女子とでは、整え方が違うのだとそう言っているらしい。
﹁在原様と言えば、倒れたときに支えてくださったんですが、すご
くいい香りがして⋮⋮男の子なのに、四族の方はお洒落ですよねぇ﹂
感心したように逢坂さんが告げる。
﹁橘家もそうですが、在原家も男子は香道を嗜むように教育されて
いますから。自分の持ち物には、自分の香を焚き染めるようになっ
ているそうですよ﹂
﹁うわあ⋮⋮そうなんですか。すごい⋮⋮﹂
﹁それは表向きで、香は防虫効果がありますから、特に衣類にはほ
んのり薫る程度には焚き染めているらしいですよ﹂
﹁防虫剤代わり!? ええっ! 面白すぎるっ!!﹂
華やかな明るい笑い声を響かせて、逢坂さんが大笑いしてくれる。
よかった、笑ってくれて。
怪我をしたショックはそれほどひどく残っていないようだ。
﹁ああ、じゃなくって! お母さん、相良様からケーキ、岡部様か
らお花をいただいたの!! どうしよう! 可愛らしすぎてケーキ、
食べられないよう﹂
本題に戻った逢坂さんは、お母様にケーキを見せてはしゃいでい
る。
﹁ううぅっ!! もったいない。でも、美味しそう。写メってもい
いかなぁ﹂
﹁それほどまでに喜ばれたら、パティシエもきっと喜びますね。今
度はうちのパティシエ自慢のケーキを持ってきましょう﹂
﹁はうっ!! 一生の自慢になりそうです、それはっ!!﹂
キラキラとした表情で言うクラスメイトが可愛らしくて、思わず
笑みが零れた。
﹁ああ。そうだ。大切なものを忘れるところでした。本日の授業の
636
ノートです。どうぞ﹂
鞄の中からクリアファイルを取出し、そのまま差し出す。
中にはルーズリーフに今日の授業の板書及び先生が仰った言葉を
添え書きしている。
﹁え? いいんですか?﹂
﹁当然です。本来ならば、逢坂さんが受けているはずのものですか
ら。私のノートの写しなので物足りないかもしれませんが﹂
﹁そんなっ!! 学年主席様のノートを見れるなんて、ものすごい
勉強になります! ありがとうございますっ!!﹂
﹁明日もお休みされるでしょうから、私のノートでよろしければ、
届けに参りますが、ご迷惑ではありませんか?﹂
﹁いえいえとんでもないっ!! めちゃくちゃ助かります!!﹂
一番気になっていたことだったのだろう、逢坂さんの表情が先程
よりも華やぐ。
﹁明後日からは、通学されますか?﹂
﹁その予定です﹂
﹁では、ご自宅までお迎えに上がりますね﹂
﹁⋮⋮は?﹂
私の言葉に、逢坂さんはきょとんとする。
﹁その足で距離を歩くのは無理ですよ。姉からの指示もありますの
で、送り迎えをさせてください﹂
﹁えええええええっ!? そんな、もったいない!﹂
﹁今週だけでもさせてください﹂
﹁⋮⋮ええっと、どうしよう⋮⋮?﹂
逢坂さんはちらりとお母様に視線を投げかける。
﹁お受けしたらいいじゃない。お母さんも、いつも通りに通学する
のは難しいなって思ってたところだもの。送ってくださるのなら、
ホントに助かるわ﹂
にこにこと笑って応じるお母様は、わりと度胸のある方のようだ。
﹁うちの娘ねぇ、お上品なセレブ校に通って上手くやっていけてる
637
のかと心配してたのよ。この性格だし? 相良さんが来てくださっ
て、安心したわ﹂
﹁お母さんっ! 相良様に失礼なこと言わないでよね!! 相良様
が一番の御嬢様なんだから!!﹂
﹁いや、私は⋮⋮﹂
﹁あら、知ってますよ、そのくらい﹂
肯定されてしまった、違うのに。
﹁あ。これ以上長居をしては傷に障りますね。私はこれで⋮⋮﹂
失礼させていただこうと口上を述べていたら、逢坂さんがはしっ
と私の手を掴んだ。
﹁ちょっと待って! もう少し! もう少しだけ、お話しませんか
!?﹂
﹁え?﹂
﹁だって、相良様、学校じゃあまり皆とお話しされない方ですし。
私、いっつももっとお喋りしたいなって思ってても声かけられない
しで⋮⋮色々と聞きたいこともありますし﹂
好奇心旺盛な方なのだろう。
にこにこと笑いながら話しかけてくる。
﹁⋮⋮疾風?﹂
時間や警備関係は大丈夫かと、視線で問いかければ、ゆっくりと
頷いて了承してくれる疾風。
﹁では、少しだけ。傷に障らないようにお話いたしましょう。聞か
れたいことは何でしょうか?﹂
質問タイムに覚悟を決めて、私はそう告げた。
逢坂さんの質問は多岐に渡っていた。
上流社会の生活という珍しいものに触れる学生生活を送っている
ため、興味が尽きないのは当たり前のことかもしれない。
638
﹁この間のマナーの授業でウインナワルツ習ったけど、あれってデ
ビュタントで踊る以外でもやっぱり踊ることあるの?﹂
﹁ありますよ。オーストリアではワルツと言ったらウインナワルツ
のことを差しますし。踊れて当たり前という感覚ですね﹂
﹁そうなんだー。相良様もデビュタントされるんですか?﹂
﹁いいえ﹂
最近、あちらこちらで聞かれる言葉だ。
私がデビュタントするかどうかを、何故か気にされるようだ。
﹁え!? しないんですか!?﹂
﹁ええ、しません﹂
﹁どうやったら、デビュタントできるんですか?﹂
﹁デビュタントができるボールは決まっています。年に1度か2度、
それぞれの場所で決まっているのですが、デビュタントしたいと申
し込める場所もあれば、開催者が招待状を送った方でないと参加で
きないというところもありますね﹂
﹁へえ。相良様にも招待状、届きました?﹂
﹁え?﹂
﹁届いてたよ﹂
私たちの会話に、疾風が初めて口を挟む。
﹁やっぱり!!﹂
﹁疾風、知ってたのか?﹂
何故か嬉しそうな逢坂さんと憮然とした表情の疾風が対照的で、
ちょっとおかしい。
﹁デ パリから届いてた。お館様が悩んでいらした﹂
デ パリなら、ドレスはモード系で白のドレスでなくて構わない。
だが、未婚の若い娘が着るドレスとなれば、大体の型は決まって
いる。
今の私には、非常に着る勇気が必要となるデザインだ。
肩が露わになれば引き攣れた大きなケロイドや他の傷跡が他の方
の目に触れることになる。
639
デビュタントは、適齢期を迎えた者たちを披露し、婚約者探しを
するという側面を持っている。
その際、家柄や物腰はもちろんのこと、容姿は大きな判断材料に
なるのも確かだ。
身体中に傷が走っている私には大きなデメリットだ。
海外の名家と婚姻関係を結ぼうと思っているならば、だが。
﹁我が家は海外との結びつきを必要とする事業はそれほど持ってい
ないので、デビュタントする必要性はないのですよ。あとは本人の
好み次第ということで﹂
逢坂さんにそう取り繕うと、彼女は納得したように頷く。
﹁ああ、そうですよね。デビュタントに必死な方って、商社系の方
が多かったようですし。それに、相良様はドレスもお似合いでしょ
うが、着物姿の方が凛々しくて好きですよ。特に、袴姿は格好良か
ったですし﹂
﹁袴? ああ、去年のマナーの仕舞のときですね。それは、お目汚
しを﹂
﹁いやいやいや! 所作がすごくきれいで、勉強させてもらいまし
た! 仕舞なんて初めてだったから、外部生は皆、相良様の所作を
真似させてもらってたんですよ﹂
﹁そうだったんですか。ああいうモノは、人の真似をすることから
所作を覚えるのは当たり前のことなので、お役に立てて幸いです﹂
﹁能楽とか、見るのもするのも初めてですもん。先生の説明で足り
ないところを四族の方が教えてくれるのでホント、ありがたいです﹂
﹁⋮⋮我々は、恵まれた環境にいますから、専属で教えてくださる
方もいらっしゃいますし。知識があって当然というものもその家々
でありますから、仰っていただければ、答えられることも多少なり
ともあるかと﹂
﹁うん、そうですよねー。尋ねれば、あっさり教えてくれるので、
驚きましたよ、最初は﹂
感心したように逢坂さんが何度も頷く。
640
﹁え?﹂
﹁知ってて当たり前なことを知らないで聞く人間がいるってことに
驚かないで、馬鹿にしないで教えてくれるって、聞く側にとっては
びっくりですよ﹂
﹁そういうモノですか? 少なくとも、聞くということは、学ぶ気
があるということですから、知っていることをお教えすることに否
やはないですよ﹂
﹁それが育ちがいいってことなんですかねー? そんなことも知ら
ないのかと言われるかと、最初は思っていました﹂
苦笑した逢坂さんの表情から、四族が葉族に向ける態度を言って
いるのだと察する。
﹁東雲の内部生は、外部生の皆さんのことを尊敬している者が多い
のですよ。狭き門をくぐり抜け、上位成績を保ち続ける努力を惜し
まない。見下す要素はそこにはありません。恵まれた立場にいなが
ら努力を怠り、己よりも立場の弱いものを見下す。そういった者を
不快に思ってはおりますが﹂
﹁ああ、なーるーほーど! 激しく納得です。うんうん﹂
大きく何度も頷く逢坂さんから、四族に対する嫌悪感がないこと
にほっとする。
﹁質問はもうよろしいですか? これ以上は傷に障りますから、今
日はここでお暇を申し上げましょう。明日、また、寄らせてくださ
い﹂
疾風に頷いて、暇乞いを告げる。
﹁また、明日!﹂
嬉しそうに笑って送ってくれる逢坂さんとお母様に会釈をして病
室を出る。
﹁思ったよりショックが無くてよかった﹂
思わず告げた言葉に、疾風が私の頭を撫でる。
﹁元気でよかったな﹂
﹁そうだね。茉莉姉上にお願いしておこう﹂
641
﹁それがいいな﹂
それと、坂田さんにお見舞いのケーキを焼いてくれるようにお願
いしないと。
相手が負担にならないお見舞いの品はどういうものがあるのだろ
うか。
雑誌もいいと聞いたが、どんな雑誌なんだろうか。
八雲兄上に相談してみよう。
それとも、瑞姫さんの方がいいだろうか。
そんなことを考えながら、車の方へ向かって歩いた。
642
82
私たちが逢坂さんの入院する病院から帰った直後、東條凛の母親
が謝罪に来たらしい。
娘は伴わなかったのは賢明な判断だというべきなのか。
入院費用や治療費などの件もきちんと話して全額負担となったよ
うだ。
非常にまともな対応だったそうだ。
ただ、妙なことは言っていたらしい。
こんなことをするような子ではないというのは、どの親でも同じ
ことを言うだろう。
ただし、祖父母と会ってから人が変わったようだと悄然として零
したそうだ。
人が変わる、と、聞くと、ぎくりとしてしまう。
私も瑞姫さんと入れ替わったからだ。
まさかと思うが、彼女も誰かと入れ替わったとかないだろうな。
︵入れ替わる理由がないから、そこは考えにくいな︶
ぽそっと瑞姫さんが呟く。
では、何故、人が変わったと言われるほど、激変できるのだろう
か。
︵トリガーがあるんだ。おそらく、今までの安倍凛は、普通に両親
に愛された娘だった。ところが引き金を引いた何かが、今までの安
倍凛を打ち消すほどの衝撃を与え、以前の記憶を呼び覚ましてしま
った⋮⋮瑞姫の様に自分を守るために逃げ出したんじゃなく、押し
643
潰された感じがするね︶
押し潰された⋮⋮
それが、もし、本当ならば、何てことだろう。
彼女の中で本来の安倍凛は、父親と共に死亡してしまったことに
なる。
以前の彼女の友人たちは、今の彼女をどう思うだろう。
︵瑞姫! 何とかしてあげたいなんて思っちゃだめだよ︶
ぴしりと瑞姫さんが私を制する。
だけど!
︵今、安倍凛に戻ってどうするんだ? 彼女は東條凛がしてきたこ
とを全く知らないのに、東條凛の尻拭いをしなければならなくなる。
東條凛が負うべきことを安倍凛が負ってはならない︶
それは、確かにそうだけど⋮⋮。
何も知らないうちに押し潰されてしまうなんて。
︵気の毒だなんて、思っちゃだめだよ。確固たる自我があれば、安
倍凛は残っているはずだ。今の私と瑞姫の様に︶
そうか。
どのみち、心の内側の問題を外からどうこうできる事はない。
安倍凛を助けたくても、手段がないのなら、手出しはできない。
︵そうそう。東條凛はどうなっても構わないなーと冷たく思っちゃ
うけど、今、安倍凛に変わっちゃうと、いろいろ彼女が困るからや
めた方がいいという方向で割り切って︶
わかりました。
とりあえず、彼女の言葉に納得して、東條凛の問題は手放すこと
にする。
東條凛の母親が、東條家の中で唯一と言っていいのかわからない
が、ごく普通の感覚の持ち主であることが判明したのは幸いだった。
学校側は交渉相手を東條家当主夫妻ではなく、保護者である彼女
の母親と定めて話し合いを持つ方針になったようだ。
644
東條凛は謹慎処分となり、大量の課題を与えられた。
謹慎期間は一週間だが、課題を終えるまで謹慎は解かれないと伝
えられた。
東雲の平均的な学生であれば、一週間で終わる程度の課題だが、
史上最低の落ち零れ記録保持者の東條凛なら、どのくらいかかるか
わからないということだ。
翌日、坂田さんのタルトタタンとオレンジタルトを手土産に、退
院した逢坂さんのご自宅へお邪魔した。
﹁ごきげんよう、逢坂さん。お加減はいかがですか?﹂
逢坂さんのお母様の案内で、彼女のお部屋へお邪魔すると、机の
脇に松葉杖を立てかけて、予習をする逢坂さんが私たちを迎えた。
﹁相良様、岡部様、ありがとうございます﹂
立ち上がろうとする逢坂さんを押しとどめ、タルトが入った箱を
差し出す。
﹁うちのパティシエ渾身の作なんですよ。きっと気に入ってくださ
ると思います﹂
﹁うわあ!! 昨日のケーキも美味しかったのに、今日もですか!
?﹂
嬉しそうに受け取った逢坂さんが箱を開けて絶句した。
タルトタタンは見た目こそ普通だが、味は絶品だ。
問題はオレンジタルトだ。
私が幼い頃、夢中で眺めた繊細な飴細工がオレンジタルトを飾っ
ているのだ。
﹁⋮⋮⋮⋮⋮⋮えええええっ!! うそぉ⋮⋮綺麗!! 金色の王
冠が乗ってるーっ!! これ、食べられるの!?﹂
光を受けてキラキラと輝く飴色の細工は、小さな王冠。
光の加減では本物の金に見える。
645
もし食べられなくても、充分に美しいそれはいつまででも眺めて
いられるが、食べられるとなったら、逆に勿体なくて絶対に食べら
れない。
﹁食べられますよ。甘くて美味しいです﹂
﹁ええっ!? 食べちゃうの⋮⋮勿体ない⋮⋮﹂
わかります。
究極の選択になっちゃうよね。
﹁一応、日持ちはしますから﹂
つい、言葉を添えてしまう。
﹁賞味期限、ぎりぎりまで眺めます!!﹂
﹁ではもうひとつご忠告を。くれぐれもご家族の方に、いつ食べる
のかをお伝えください﹂
﹁だよねー! 絶対、お兄ちゃんなんか、勝手に食べちゃうもん﹂
ぷくりと頬を膨らませ、かつてあったことを思い出したのか、怒
りを滲ませ告げる。
﹁相良様の所もケーキがあれば、皆が食べちゃったりするの? ご
兄弟が多いんでしょ?﹂
﹁ええ、私が末っ子の六人兄弟ですね。年が離れておりますので、
兄や姉がケーキを買ってきては私に食べろという時の方が多いです﹂
﹁そうなんですか。ああ、年が離れると喧嘩なんかしなくなるって
聞きますからね﹂
﹁そうですね。対等に喧嘩はできないようですよ﹂
微妙に引き攣りながら答える。
﹁⋮⋮疾風。声を殺して笑わなくていいんだけど?﹂
﹁や、悪い!﹂
相良家の真実を知っている疾風は、横を向いて声を殺して笑って
いた。
﹁え? 岡部様?﹂
﹁瑞姫の兄と姉は、超が付くシスコンで、ものすごく瑞姫を可愛が
ってるんだ。末っ子の奪い合いで喧嘩してる﹂
646
いや、そこ、暴露するところじゃないって!!
﹁えーっと⋮⋮つまり、相良様とは喧嘩しなくても、他のお兄様と
お姉様たちの間で喧嘩をなさっているということですか?﹂
疾風の暴露で内情を悟った逢坂さんは、見てみたいと言い出す始
末。
﹁頭痛や眩暈を覚える光景が広がっているので、お勧めできません
から﹂
﹁きっと、相良様のことが可愛いんでしょうねぇ⋮⋮すごく意外で
す﹂
逢坂さん、ちょっと傷つきましたよ、私。
今日の授業のノートを渡し、説明をした後、明日の送り迎えの件
について相談する。
﹁ここからだと、学校まで車で10分程度で到着できると思います。
いつ頃、学校に到着すれば良いですか?﹂
ここからの通学時間と、逢坂さんが学校に到着したい時間を聞い
て、逆算して迎えの時間を割り出しましょうと問いかける。
﹁相良さんの都合に合わせますけど?﹂
﹁いいえ。私はいつでも構わないのです。逢坂さんは松葉杖をつく
でしょう? いつもよりも動作が鈍くなってしまいますから、そち
らを重視して考えた方がいいですよ﹂
﹁ああ、そうか﹂
私の言葉に、逢坂さんは納得したようだ。
﹁意外と松葉杖は歩きにくいですからね。慣れていないうえに、サ
イズがきちんとあっているわけでもないですから﹂
﹁そうなんですよね。想像してたのと違って、歩きにくくて、車で
送ってもらえると本当に助かるって思いました﹂
﹁しばらくの間ですから。用心して、癖にならないように気をつけ
ましょう﹂
捻挫は、きちんと完治させないと、再び同じ場所を捻挫してしま
647
うというのはよく聞く。
こればかりは、腫れが引いて、痛みが取れたからもう大丈夫と思
うのは早計なのだそうだ。
逢坂さんのお母様とも相談し、迎えの時間を決めてから、暇乞い
をする。
今日は引きとめられても長居はできない。
迎えの車を路上駐車させるわけにはいかないのだ。
渋々とだが、納得してもらえて助かった。
車に乗り込んだ時、逢坂さんとよく似た風貌の男性が車の横を通
り過ぎた。
あれがお兄さんだろうかと眺めれば、案の定、逢坂家の玄関へ躊
躇なく足を運んでいた。
***************
逢坂さんの送り迎えは思っていたよりもスムーズに行えている。
車寄せで疾風がドアを開け、松葉杖を差し出すと逢坂さんがうち
の車から降りたという光景に、一部悲鳴が聞こえたというまことし
やかなデマが流れていたが。
幸運なことにそれを聞いて、問題行動を起こしそうな人は現在登
校していない。
東條凛が登校したのは、GWが終わってしまった後、実に3週間
の謹慎となっていた。
648
82︵後書き︶
今週水曜日から週末まで、出張となりました。
現場視察及び打合せに行ってこいとの部長命令⋮⋮。
研究畑の技術者にフロントに立てって、自分の業務なら納得します
が、何故他の班の業務で出張なんでしょうか。
疑問が積もっている最中ですが、その間、更新が滞ります。
申し訳ありません。
649
83
GWは、ふと思い立って郷へ戻ることにした。
﹃戻る﹄という言い方はおかしいけれど、その表現の方がしっく
りとくる。
今住んでいる場所よりも、あちらの空気の方が遥かに肌に馴染む
のだ。
短い日程だけど、行きたいと思ってしまった自分がいる。
疾風にそのことを告げ、色々と手配しようとしたら、疾風に止め
られた。
﹁俺がやる。在原たちや菅原を誘うか?﹂
ふと問われ、思わずコクコクと頷く。
﹁皆の予定が空いているのなら。無理強いはしたくないけれど﹂
﹁了解。あいつら、瑞姫がいればそれでいいって言うぞ。予定詰ま
ってても無理やり空けそう﹂
﹁まさか!﹂
﹁認識が甘いな﹂
笑う疾風に、そんなことはないだろうと言えば、逆に諭される。
自分の予定を入れ替えてまで、私に付き合うのはおかしいだろう
と思っていたら、後から本当に予定を入れ替えたと聞いて驚いた。
君たち、友より自分の予定を優先させなさい。
後日、彼らを前にそう説教するハメになるとは、思ってもみなか
った。
650
***************
四方を山と急流で挟まれた小さな盆地。
小京都と呼ばれるその地は、交通の便が発達した今でも、行くの
に相当な時間がかかる。
だが、旅とは情緒だ。
車で移動、なんて野暮はせずに、飛行機と新幹線を乗り継いだ後、
SLに乗り込んだ。
観光列車として、1日1往復、観光シーズンは2往復のみの運行
だが、元々本数が少ない地域なだけに、あまり問題はない。
全シート予約なので、ちょっとばかりひやひやしたが、運よく確
保できた。
﹁うっわーっ!! SLだよ、SL!! すっげー⋮⋮ぴかぴかじ
ゃん﹂
男の子は列車が好きと相場が決まっているが、例に洩れず在原が
SLの車体に夢中になっている。
﹁⋮⋮⋮⋮静稀、記念撮影する?﹂
時間はさほどないが、記念撮影をするくらいの余裕はある。
全席予約制というのは、こういう時、便利だ。
﹁えっ!? いいの?﹂
﹁⋮⋮他の方も撮影しているし、大丈夫だと思うよ。乗り遅れさえ
しなければ﹂
実にイイ笑顔で橘が告げる。
喜色満面だった在原の顔が青ざめる。
﹁まさかと思うけど、忘れたふりして僕を置いて行ったりしないよ
651
ね!?﹂
﹁さあ、どうだろう?﹂
﹁視界に入らなければ、忘れるよな、普通﹂
恐る恐る確かめる在原に、橘と疾風が真面目な表情でからかう。
﹁ふたりとも、からかわない! 意地悪するやつは置いていくぞ﹂
小さい子供に対するような言葉を言う羽目になろうとは。
呆れたような表情で言えば、2人とも首をすくめている。
﹁静稀、写すなら、早くしよう﹂
そう声を掛ければ、在原が嬉しそうに頷く。
﹁ありがとう、瑞姫! 瑞姫が一番優しいな﹂
﹁そうか? 多分、違うと思うぞ。ちなみに、SLの内装も可愛ら
しい﹂
この中で、一番優しい性格をしているのは、間違いなく誉だ。
そして、疾風。
私の方が容赦ない性格であることは、私が一番よく自覚している。
記念撮影を終え、車内に入り、座席に着いても在原のテンション
は上がりっぱなしだった。
﹁うわあ、汽笛が何か可愛い! 座席が木製でレトロだし、デザイ
ンがお洒落だよな﹂
わくわくそわそわと実に嬉しそうだ。
それが最高潮に達したのは、ワゴンサービスの案内放送が入った
時だった。
﹁特製アイス!? しかも、焼酎アイス!? 食べたいっ!! 駄
目かなぁ⋮⋮?﹂
アルコールは駄目だと思うが、上目遣いでこちらを見ないでくれ。
あと数年したら食べられるのだから、私は普通のアイスで今は十
分だ。
とは言っても、このアイスも充分特製だしな。
﹁⋮⋮在原、アルコールがもたらす未成年への悪影響について、語
ってあげましょうか?﹂
652
ひやりとするような冷ややかな声で千瑛が告げる。
﹁いやっ!! いい!! 我慢するからっ!!﹂
慌てて首を横に振って拒否する在原の様子に笑いながら、菅原家
の双子が揃っていないことを残念に思う。
﹁千景が一緒じゃなくて、残念だったな﹂
﹁そう? ちーちゃん、いつもふらっといなくなるから、全然気に
する必要ないのに﹂
﹁ふらっといなくなったら、問題だろう!?﹂
﹁放っておくのもまた教育の一環よ﹂
けろりとして言う千瑛の言葉は絶対に嘘だ。
居たら、ガミガミ怒られると思っての発言だ。
﹁それで、千景は今、何処にいるんだ?﹂
少しばかり気になって、千景の居場所を問いかける。
﹁お父様と一緒に、中近東あたりかしら? それか、エジプトとか﹂
﹁⋮⋮何故に?﹂
﹁香油の勉強してくるって﹂
けろっとした表情で答えた千瑛の言葉に、私は呆気にとられた。
千景よ、何が君を駆り立てた?
何故、アジアではいけなかったのだ?
疑問に思ったところで、答える者はいない。
﹁そうか。成果が得られるといいな⋮⋮﹂
それ以上、私に言えることはなかった。
SLの旅は、実にゆったりとしていて、楽しいものだった。
滾っていたのは在原1人で、他の者は、のんびりと寛ぐことがで
きたようだ。
目的地へ着いたときには、在原1人が疲れていた。
653
﹁あら。意外とこじんまりしたところなのね?﹂
駅に着くなり、千瑛が漏らした感想は、誰もが思うものだった。
さびれているわけではない、活気があるわけでもない。
玄関口ともいえる駅前は不思議と落ち着いて、淡々とした街なの
だ、ここは。
﹁市とは言っても、端から端まで歩いていけるほど小さいからね、
ここは﹂
笑って言えば、珍しくバツの悪そうな表情を浮かべる千瑛。
正直レベルが上限に達し、毒舌と言われても仕方がないほどすっ
ぱりと言う千瑛だが、言っていいことと悪いことの区別はついてい
る。
そうして、根はかなり善良にできているのだ。
悪意に対して容赦はないが、善意に対しては免疫がないのかどう
対応していいのかわからない時があるらしい。
﹁ようおざったな﹂
駅前の広場に立つ私たちに声がかけられたのは、その時だった。
﹁大叔父様!﹂
車から降り立つ大柄な老人が、にこにこと笑いながら近寄ってく
る。
姉たちに﹃鬼の寿一﹄と言われる大叔父だが、私には幼い頃から
優しい人だ。
﹁御無沙汰しております、寿一さま﹂
直立不動になった疾風が、大叔父に頭を下げる。
﹁おお、岡部んとこの。ひいさんが世話になっとるのう﹂
大らかに笑った大叔父様は、目を細めて疾風を見る。
﹁いえ。あまりお役には立てず﹂
﹁それはなか。こまかひいさんを見りゃ、ようわかる。健やかなん
はおまえさんがよう努めとうからじゃ。礼を言う﹂
大叔父様の言葉に、疾風は返す言葉を見つけられず、ただ頭を下
げる。
654
ちなみに、大叔父様は、疾風の武術のお師匠様になる。
こう見えて大叔父様は、一族随一の使い手なのだ。
ふらりと道場に現れては、見込みのありそうな子供を鍛え上げる
という趣味をお持ちだそうで、その際、一切の手加減をなさらない
ので﹃鬼の寿一﹄という名前が付いたそうだ。
私の師匠も大叔父様なのだが、厳しいと感じたことは一度もなか
った。
﹁大叔父様、お忙しいのでは?﹂
何でこんなところに来たのだろうと、首を傾げて問えば、不満そ
うな表情を浮かべた大叔父様が恨めしげに私を見る。
﹁ひいさんがこっちに来るのに、迎えに出んことはなかろう? 本
家に泊まりゃあいいものをわざわざ旅館に泊まるなんぞ﹂
﹁滞在期間が短いですから﹂
本家ではなく、旅館にしたのは理由がある。
それを知っている大叔父様は、仕方なさそうな笑みを浮かべる。
﹁まあ、しゃあないな。あれは確かに旅館の方がいいやろ。わっち
の名前で予約ば入れとるけん、行けばぁわかる﹂
﹁ありがとうございます﹂
﹁なんの。こまかひいさんの頼みじゃけん、引き受けねばわっちの
名がなくね﹂
子供だけで旅館の予約をするわけにはいかないので、大叔父様に
お願いしておいたのだ。
子供と言うのは時に不便なものだ。
﹁そいで、宿にチェックインするまであちこち見やるやろ? 荷物
が邪魔やろうけんが、先に宿に届けておこうかと思ってな﹂
わざわざ荷物を受け取りに来てくださったのか。
ありがたいが、申し訳ないような気もしてくる。
﹁いいのですか?﹂
﹁わるかりゃ来んけん、気にせんといてもいいんやが﹂
﹁ありがとうございます﹂
655
大叔父様にお礼を言って、それから一緒にいる友人たちを紹介す
る。
頷いて彼らの挨拶を受けていた大叔父様が、千瑛を見て目を丸く
する。
﹁ひいさんの友達かいの。こりゃあ、よかおなごじゃ。別嬪さんや
なぁ﹂
ミニマム美少女の千瑛だからというわけではないらしい。
大叔父様は、見目に重きを置かないことでも知られている。
どうやら千瑛の中身を察して別嬪と言っているらしい。
﹁あの⋮⋮﹂
見た目ではなく、別の個所からそういう見解に達したと悟った千
瑛が、面食らったように瞬きを繰り返している。
﹁ひいさんをお頼申します、こまか別嬪さん﹂
そう言われ、千瑛は頷く。
﹁それは、もう。あの⋮⋮﹂
﹁さて。重か荷物はわっちに預けて、ひいさんと散策してきたらえ
えのう﹂
車のトランクにキャリーバックを入れるように指示を出しながら、
大叔父様は散策を勧めてくる。
﹁じゃあ、まずはお茶と蔵めぐりでもしてこようかな﹂
背伸びをしながらそう言うと、大叔父様が何度も頷く。
﹁それがええ。工房の方は逃げやせん。ゆっくり見りゃあいい﹂
﹁わかりました。じゃあ、行ってきますね﹂
厚意に甘え、最低限の荷物だけを持った私たちは、大叔父様に見
送られ、街の散策という名の観光に向かうことになった。
656
83︵後書き︶
ただいまです。
いや、実に寒かった。
それが今回の出張の感想です。
現場は野外と決まっているので、それなりの対策はしていってます
が、寒いものは寒いのだと思いました。南国ですけど!!
ムーン様の方の作品も連休中に仕上げるつもりです。
657
84
小さな、とても小さな町。
それこそ、小京都と呼ばれていても、その細い路地が示す通り、
戦国の世の名残を色濃く残す町並みだ。
町名が昔の区画を教えてくれる。
大工町、紺屋町と名付けられた町は、職人を集め、相良家が何を
考えて街作りをしていたのかを考えさせる貴重な資料ともいえる。
鍛冶屋町はそれこそ鍛冶屋さんが集められて、刀鍛冶が盛んだっ
た地域だ。
今はわずか数件しか残っておらず、農器具や包丁などが主である。
包丁の切れ味はとても素晴らしく、今年の誕生日に私用に誂えて
もらったほどだ。
今度、魚のおろし方を教えてもらおうと思っていたりする。
温泉や焼酎が有名であるが、もう1つ、盆地の特徴である朝霧が
齎す特産物がある。
それがお茶だ。
山の斜面に作られた茶畑は、朝霧に包まれ、たっぷりの水と寒暖
の差、いくつもの条件が重なって、非常に美味なお茶を味わえる。
これは余所へ出荷していないため、銘茶として名を馳せることは
ないが、名産地のお茶に比べても遜色ないだろう。
焼酎は芋ではなく、米が原料だ。
つまり、ここは名水があり、米も美味しいのだ。
ちなみに、温泉はアルカリ性で珍しいらしい。
どういうことかというと、島津家は中央へ出る拠点としか考えて
658
はいなかったが、というか、知る由もなかったのだが、ここは余所
の人間が思っている以上に豊かな土地だったのだ。
一長一短ではなく、長い年月をかけて育て上げた土地だからだ。
何が言いたいかというと、酒好き美食家にとって、この地はただ
の田舎ではなく聖地に準じる地だと言えるらしい。
瑞姫さんがそう言っていたので、そうなのだろう。
何せ、急流には鮎だけではなく天然の川鰻がいたりするのだ。
もちろん、天然の川鰻は非常に珍しく、それを食せるのはここだ
けだ。
知る人ぞ知る的な、地味な土地だが、知らなくてもいいと思える
ことも確かだ。
下手に奇妙な観光地化されて、この地が持つ良さが損なわれてし
まっては嫌だと思う。
友人たちを案内しながら、時が止まったかのような街並みに、私
は笑みをこぼした。
﹁ごめんください。こんにちは﹂
一軒のお茶屋さんの暖簾をくぐり、声を掛ける。
なぜ、﹃ごめんください﹄と声を掛けるのか、いつも不思議に思
うのだが、そういうものだと割り切って習った通りの言葉を口にす
る。
﹁いらっしゃいませ⋮⋮あらまあ、ひいさま!﹂
奥から現れた中年の女性が私の顔を見て驚いたような声を掛ける。
﹁まあまあ、お帰りやしたの!?﹂
﹁ええ。アイスクリーム、いただけますか?﹂
ここの抹茶じゃなく煎茶のアイスが私のお気に入りだ。
それを皆に食べてもらおうと、案内したわけだが、もうひとつ、
ここに来た理由がある。
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﹁はいはい、そちらに座ってくださいな。今、用意しますけん﹂
おかみさんはお店の人にアイスの用意を告げると、奥へと声を掛
ける。
﹁ばあちゃん! ばあちゃん!! 相良のひいさまがお見えですよ
! はらはら、ばあちゃん!!﹂
ここの地域の掛け声は、微妙に独特だ。
﹃ほらほら﹄と普通言いそうなのに、ここでは﹃はらはら﹄と言
う。
特に年配の方がその掛け声を使うことが多く、聞いていてとても
可愛らしい。
奥からちんまりとした御老女がゆったりとした動作で現れる。
﹁あんれ、ひいさま。よかおごじょにになりやしたなぁ﹂
泥染めの地味な着物姿の御老女は、私を見上げ柔らかく微笑む。
﹁御無沙汰しております、お元気でいらっしゃいましたか?﹂
この御老女は、御祖母様と私の針の師匠だ。
おそらく80歳は越していらっしゃるだろうが、それでも針仕事
ではこの地域随一の腕前で、今でも着物を仕立てていらっしゃるそ
うだ。
﹁この通り。年は取って多少は足腰弱うなりもうしたが、畑には出
ておりやすよ﹂
にこにこと機嫌よく笑って私の手を握る。
﹁はら、敦子。ひいさまにお茶と漬物、お出しや﹂
御老女は、おかみさんにそう声を掛ける。
ここでの最高のおもてなしがお茶と漬物だ。
各家で漬けるお漬物が違うのだ。
自分が漬けたお漬物を持ち寄って、茶飲み話に花を咲かせるのが
こちらの主婦の昔からのお楽しみ。
だから、お茶とお漬物のもてなしは、何時間でもうちにいて楽し
んでくださいという歓待の意味だ。
これが男性の場合だと、漬物は一緒だが、お茶ではなく焼酎がも
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てなしになるようだ。
この焼酎にも作法があるのだが、まだ教えてもらってはいない。
だが、わりと聞く﹃駆けつけ三杯﹄という言葉は、この地が発祥
なのだそうだ。
この地のおもてなしは、慣れていないと実に恐ろしい目に合う。
次から次へと御茶請けを出され、そうして頃合を見計らって暇乞
いをすれば、お土産攻撃を受けるのだ。
純粋な厚意だとわかるだけに、お断りするのが心苦しい。
うっかりありがとうなんて言おうものなら、手に持てないほどど
っさりと持って帰らされるのだから。
人が好すぎるのも、時に罪なのだと、幼い頃に学ばされ