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ちょっとした手違いで - タテ書き小説ネット

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ちょっとした手違いで - タテ書き小説ネット
ちょっとした手違いで
西都涼
タテ書き小説ネット Byヒナプロジェクト
http://pdfnovels.net/
注意事項
このPDFファイルは﹁小説家になろう﹂で掲載中の小説を﹁タ
テ書き小説ネット﹂のシステムが自動的にPDF化させたものです。
この小説の著作権は小説の作者にあります。そのため、作者また
は﹁小説家になろう﹂および﹁タテ書き小説ネット﹂を運営するヒ
ナプロジェクトに無断でこのPDFファイル及び小説を、引用の範
囲を超える形で転載、改変、再配布、販売することを一切禁止致し
ます。小説の紹介や個人用途での印刷および保存はご自由にどうぞ。
︻小説タイトル︼
ちょっとした手違いで
︻Nコード︼
N9931BU
︻作者名︼
西都涼
︻あらすじ︼
目が覚めれば病院のベッドの上で、生死の境を彷徨っていたこと
と前世の記憶があることに気付いた相良瑞姫。そして、自分を取り
heaven﹄の設定によく似ていることに驚いた。自分の
巻く環境がかつて手に入れたものの仕方なしにやった﹃seven
th
役回りは残念な主人公﹃東條凛﹄のライバル役であり完璧なお嬢様。
だがしかし。よくよく見れば、ゲームとわずかに違うことがいくつ
もある。
1
完璧なお嬢様と呼ばれた瑞姫は完璧な王子様と呼ばれる男装の麗人
になっており、1歳上の兄が、実は5歳年上になっていた。
ならば残念主人公を迎え撃たずに我が道を歩もうとルートに沿わず、
テキトウ人生を選び始めた瑞姫だが。
え? あれ? 何でこんなことに?
ちょっとした手違いで望んでない方向に転がり始めてしまった彼女
の明日はどっち?
2
1
柔らかな光が降り注ぐ、優しげな春の初め。
大講堂から静かに姿を現したのは、胸に花を飾り、卒業証書を手
にした卒業生たち。
一様に晴れやかな表情を浮かべているが、感極まって涙を浮かべ
ている生徒はほとんどいない。
それもそうだろう。
ここは幼稚舎から大学部まで一貫した教育システムを持つ私立校
なのだから。
余程のことがなければ中学卒業で他の高校へ外部受験する生徒は
いない。
また来月、否、数週間後には同じ顔ぶれで高等部への入学式を執
り行うのだから。
だが、見送る者はそうもいかないようだ。
女子生徒は数人が固まって、肩を抱き合い涙している。
それらを苦笑を浮かべて見守る卒業生たち。
去年の自分たちもそうだったなどと思っているのかもしれない。
私にはわからない感情だが。
私こと相良瑞姫は所謂、﹃前世の記憶﹄というものがある。
自覚したのは中等部1年の秋。
とある事故に巻き込まれ、生死の境を彷徨い、何とか一命を取り
留めて意識が戻った時だ。
名前は伏せておこう。
もう、私は﹃彼女﹄ではないのだから。
私の知る限りでは、﹃彼女﹄はきちんと4年制大学を卒業し、就
職をして無事に2年目をクリアしたところまでの記憶がある。
3
そのあとどのような経緯で﹃私﹄になったのかは、わからない。
一般的なライノベでは死因と転生までの経緯を覚えていることが
多いようだが。
そこまでライノベにのめり込んで読んでいたわけではないので、
断言はできない。
目を覚ました時、傍にいた家族らしき人々がすべて見知らぬ人で
あったということに対し、私はパニックを起こさなかった。
何故なら、寝起きでボケていたこともあり、夢を見ているのだと
思い込んでいたからだ。
病院のベッドで何度寝起きしても、周囲の状況は変わらない。
ようやく何かがおかしいと思い始めたとき、ベッドの柵に掛けて
あった自分の名前に気付いて驚愕した。
﹃相良瑞姫﹄
私はこの名前に見覚えがあった。
そして、見知らぬ人だと思っていた家族のうちの一人、年近い兄
の顔にも見覚えがあった。
やはり名前も知っていた。
相良八雲という名前の兄は、本来ならば私の一つ上になるはずだ
が、何故か5歳も年が離れていることに驚き、違うと叫びそうにな
った。
徐々に混濁していた記憶が整理され、愕然とした。
相良瑞姫が知っていることと、﹃彼女﹄が知っていることが似通
っていて、そうして全く違っていることに。
前世の私の記憶では、今、私が生きているこの状況が、乙女ゲー
ムの﹃セブンスヘブン﹄の設定とそっくりであり、ところどころ違
っているということ。
そこそこゲームヲタクで、声フェチであった彼女は、好きな声優
さんとイラストレータのキャラデザであるこのセブンスヘブンに期
4
待して、わざわざ予約までして買ったのだ。
ところが開けて黄昏た。
主人公が残念すぎるのだ。ストーリーに無理があり過ぎ、主人公
の性格が酷評されるという悲しきゲームであった。
それでもフルコンプしてしまったのは、主人公を除くキャラ設定
がなかなかであり、好きなイラストレータさんであり丼飯5杯はイ
ケそうな演技上手な声優さんのためであった。
ちなみに、これには第2弾がある。タイトルは﹃セブンスゲート﹄
だ。
あまりにも残念すぎたため、これは買わなかった。
噂ではゲートをフルコンプすると8番目の扉が開くそうだ。
気にはなるが、主人公が変わってなかったので諦めた。そう、己
の精神安定のために。
どういうゲームかというと、主人公東條凛は高1の冬に事故で両
親を失い、母方の祖父母に引き取られ所謂﹃お嬢様﹄となった。
なんでも両親は駆け落ちしていたらしい。
母親が名家である東條家の娘で、父親は使用人の子供という実に
ベタな話だ。
娘の死を知った東條家の当主が、残された凛を引き取り、東條家
の令嬢として相応しい教育を施すために東雲学園に転校させること
になる。
東雲学園には学園七騎士と呼ばれるイケメンが揃っており、トラ
ブル吸引体質である凛は彼らと知り合い、心を通わせていくという
これまたありがちな設定だ。
その学園七騎士と呼ばれるイケメンたちと私、相良瑞姫は非常に
縁深く、凛の当て馬的存在なのだ。
凛の酷評とは反対に、瑞姫の評価は非常に高かった。
彼女が主人公であればよかったという声が出るほどだ。
だが、瑞姫の設定はどこをどう見ても当て馬でしかない。
何故なら、王道ツートップのひとり、相良八雲の妹だったからだ。
5
完璧なお嬢様と名高い相良瑞姫であったが、現在の私とはかけ離
れた存在だ。
何故なら、現在の私は、非常に残念なことに学園七騎士の一人で
あり、完璧な王子様という評判をいただいてしまっているからだ。
現在、中等部を卒業したばかりの私だが、気持ちはゲーム開始で
ある2年後の始業式を戦々恐々としている。
どうか女の私が攻略対象になっていませんように。
切実たる願いである。
6
2
﹁瑞姫様が卒業されるなんて寂しいですわ﹂
感慨に耽っていたら、いつの間にか卒業式に出席していた下級生
たちに取り囲まれていた。
﹁高等部の敷地は隣だからね、いつでも会えるでしょう?﹂
苦笑し、そう窘める。
﹁そう、ですわね。会えなくなるわけでは⋮⋮あ⋮⋮﹂
同意しようと頷きかけた一人が口許を手で覆い隠す。
明らかに自分の失言に気付いた仕種だ。
2年前の事故を無意識に言いかけたらしい。
水を差してしまった少女に批難の視線が降り注ぐ。
これは少々まずいかもしれない。
回避した方がいいだろうと、私はちょっと笑う。
﹁おや? どうやら君は私をスイスの寄宿舎に入れたいようだね?﹂
﹁いいえっ!! そんなことは!! 絶対にありませんわ!﹂
冗談めかして言えば、真っ赤になって少女たちが首を横に振る。
スイスの寄宿舎というと有名どころはいくつもあるが、彼女たち
にとっては花嫁修業学校と有名なとある学校を思い浮かべるのだろ
う。
実際、ある程度の名家の娘は婚約が決まると、式の数年前にそち
らに通うものが多い。
年頃の少女たちにほんのりと色めいた話題を提供すれば、恋バナ
に興じ始めるのは出自には関係ないらしい。
ひっそりと気配を殺して眺めやり、頃合を見計らってそっとその
場を立ち去る。
孤高の人を気取っていたわけじゃないが、名家中の名家であり生
7
徒会役員でもあった私に声を掛ける者は少ない。
黄色い声を上げる御嬢さん方は例外だが、異端者でもある私には
何やら威圧感を感じると言う者もいた。
2年前、巻き込まれた事故は、偶然でもあり、必然でもあった。
ゲームに関係するが、シナリオには関係ない事件ともいえる。
兄八雲と同じく王道ツートップの片割れ、今年一緒に卒業した生
徒会長の諏訪伊織に関係している。
諏訪伊織には、彼が恋い焦がれる年上の従姉妹がいる。
初等部の時から片思いを続け9年目だ。
シナリオから言うと、この春休み、その従姉妹に振られ、1年間
も女々しくも失恋を引き摺って、その後、主人公とその件に関し口
論した挙句に惚れてしまうという微妙な話が待っている。
奴はMか!? と、叫びたくなるが、どちらかというと俺様Sタ
イプの帝王様だ。
少々粘着質なのだろうか、ストーカーのようにその従姉妹に付き
まとい、あらゆる危険を排除していたつもりの諏訪は、あの時ばか
りは役立たずであったようだ。
彼の従姉妹である諏訪詩織様が彼の目の前で誘拐されそうになっ
ていたのだ。
高等部の裏門近くで男数人に捕えられ、ワゴン車に連れ込まれそ
うになっていた詩織様と、無謀にもそれを阻止しようと一人で立ち
向かう諏訪を偶然私は目撃した。
成人男性4人に対し、中学1年のまだ小柄で華奢としか言いよう
のない体格の少年が立ち向かうなど、まさに無謀。
しかも、諏訪は特に武芸に秀でているわけではない。
同じ地族と言っても諏訪家は代々神官の家系であり、豪族から大
名になった武官の相良とは育て方が違う。
8
すでに段持ちである私ですら成人男性4人の相手を一手に引き受
けるのは難しいと一瞬で判断できたのに、恋とは恐ろしいものだと
ぞっとする。
ここはひとつ、あるべきところに連絡を入れるのが正しい対処法
だと、持たされた携帯で数か所に連絡を入れる。
GPS機能付きで特殊なアプリを入れてあるから、こういう時は
便利だ。
金持ちというのは無駄に危機管理が完璧だ。
すでに警察と学園の警備部が動き始めたはずだとホッとしたとこ
ろで詩織様が私に気付いた。
﹃瑞姫さん!? 駄目、逃げて!!﹄
誘拐されるときの心得を無視しきった叫び声に、確かに私は舌打
ちした。
﹃相良!? おまえ⋮⋮﹄
ああ、ここにも馬鹿がもう一人いたよ、とか、完璧なお嬢様らし
からぬことを考えても仕方ないだろう。
﹃⋮⋮ッ!! 相良? あのガキ、相良家の娘か!﹄
余計なことを言うから見つかった挙句に出自がばれたじゃないか
と、むっとしてもいいだろうか。
ふたりぐらいなら、何とかなるだろう。
警備部が駆けつけてくれたら。
ならば、ここは囮になった方が得策だ。
だから私は、わざと手にした携帯を見せる。
﹃すでに警察と警備部には連絡した。間もなく駆け付けてくる。逃
げた方がいいよ、オジサンたち﹄
もっとも、彼らの姿はちゃんと撮影しているが。
﹃なんだと!? おい、逃げるぞ﹄
﹃だが、獲物だけでも⋮⋮﹄
﹃詩織を放せっ!!﹄
往生際が悪いのか、ワゴン車へ詩織様を連れ込もうとする男に諏
9
訪が飛びつく。
世話の焼ける⋮⋮と思いつつ、私はカメラを起動し、シャッター
音を響かせる。
﹃撮られた!? くそっ! 待て!!﹄
シャッター音を聞いた男は諏訪を突き飛ばし、くるりと背を向け
て走り出した私を追いかけてくる。
かかった!
3秒ほど待ち、くるりと背を向けて走り出す。
そう、学園の警備部が姿を現すだろうルートを選んで。
だが、ここで誤算が起きた。
ひとり目の男に肩を掴まれ、その反動を利用して後ろにいったん
倒れながら相手に頭突きをかまし、相手が怯んだすきに腕を取ると
姿勢を低くして後ろに下がって背中に相手の上体を乗せて投げ飛ば
す。
所謂背負い投げというものだ。
自分の体が相手よりも小さいことと、動きが素早いこと、そうし
て基礎がきっちりわかっているからこそできる技だ。
素人であれば、こんなことはできない。
そうして、痛みに呻く男の首を踏み、気道を圧迫したついでに鳩
尾も踏みつけてさらに走り出す。
追い駆けてきているのはもう一人いる。
少しでも離れないと挟み撃ちにあうからだ。
﹃このチビ、待てっ!﹄
今度は肩を捕まえられる前に振り返る。
背中まで伸ばした髪を掴まれないようにするためだ。
﹃不審者発見!﹄
背後で声が聞こえる。
それと、複数の足音だ。
やっと来た。
そう思った時、どんっと鈍い音がした。
10
ジェットコースターに乗った時のように急激に宙に体を放り投げ
られる感覚が私を襲う。
がつんと何かに叩き付けられる。
全身が熱くなる。
熱湯の中に頭から投げ込まれたかのような感覚に、これは﹃痛み﹄
なのだと頭が理解する。
何故なのかは、感情が全く追いつかない。
視界を占めるのは赤。
色んな赤がぼとぼとと視界を染めていく。
﹃⋮⋮⋮⋮⋮⋮﹄
たくさんの人の声が遠くに聞こえる。
なのに、体が動かない。
徐々に意識が頭を押さえつけられるように下へ奥へと埋められて
いく。
眠ってはいけないと思っているのに、意識がどこかへ吸い込まれ
ていく。
そうして、奈落へ落ちるように私は意識を失った。
再び目覚めたとき、私が﹃相良瑞姫﹄で、知人を仕方なしに救う
ために巻き込まれ、車に轢かれたのだと理解した。
本当に、誤算だった。
車に乗って逃げるとばかり思っていた相手が、仲間ごと私を轢き
殺そうとして途中まで成功し、私の連絡でやって来た警備部にその
場を目撃され、取り押さえられ、そうしてその後やって来た警察に
現行犯逮捕されたということを、後日、見舞いに来てくれた兄に聞
かされた。
もちろん、説教付きで。
私がした対応は、ある意味正しいものだった。
だけれど、間違いでもある。
そう言われ、そのツケを自分の身体で払う羽目になったのだ。
11
それこそ九死に一生を得た私の身体は、本当にズタボロ状態で一
生残る傷が大小合わせて数えきれないほど刻まれたのだ。
駆けつけた諏訪家の一族と我が相良家で最高の形成外科医に傷が
残らないように治療するように頼み込み、何度も手術を受けさせら
れた。
動かない手足を普段の生活ができるまで機能回復させるために苦
しいということができないほどつらいリハビリを受けることにもな
った。
自分の考えが甘かったせいだと、最初は我慢して手術を受けてい
た。
だが、度重なる手術と、そのたびに動きが鈍くなる手足、長引く
リハビリに耐えかねて私は形成の手術を嫌だと叫んだ。
母がこれは私のためだと何度も説き伏せようとしたけれど、もう
限界だった。
体力的にも精神的にも。
諏訪家が新たな整形外科医を連れてきたが、それも断った。
担当医も、新たな形成外科医もそれを了承してくれた。
何故なら、私がまだ子供だったからだ。
しかも成長期の子供だ。
形成手術をしなくても、成長期の子供の身体なら自然治癒でかな
りの部分が回復できるだろうという専門家の見立てである。
逆に手術を重ねていけば、私の成長が止まってしまい、体に負担
がかかってしまうと両親や諏訪家の当主を説得してくれた。
定期的に傷を診て、ある程度成長が止まり、そうして体力も完全
に回復したのち、残っている傷を綺麗にした方がよいと説いてくれ
た。
普段の生活の注意点として、傷口を陽に晒さないこと、機能回復
のために基礎運動をし続けること、傷が痛むときは無茶をしないこ
とということを約束させられて退院許可が出た。
事件が起きて半年後のことである。
12
貴重な中等部1年の後半を病院暮らしで潰されたのである。
出席日数が足りないのに無事に進級できたのは、日ごろの成績が
良かったおかげである。
入院中もレポートや簡単な試験を受けることで出席扱いとし、留
年を免れた。
入院していた理由が人助けであるから、ある意味、当然の処置な
のかもしれない。
傷跡を人目に曝さないためにも、私は父にお願いをした。
女子の制服では足や腕の傷が見えてしまう。
なので、男子の制服と夏場の長袖着用、及び体育の授業でのジャ
ージ着用の許可がほしいと。
末っ子のお願いに父は即座に動いてくれた。
学園側の警備の穴を指摘したりとか、色々心臓に悪いことを告げ
たりしたわけではないと願いたい。
意識が戻った後も、その後、リハビリに励んでいた間も、私は家
族以外の見舞いを受け付けなかった。
詩織様と諏訪が何度も見舞いたいと言ってきていたようだが、ひ
たすら拒否した。
あのゲーム通り、諏訪家は鬼門なのだと思っていたわけではない。
己の怪我は己の慢心が原因という相良家の訓えが理由だった。
ひたすらリハビリに耐えて退院したのち、純和風の家の一角に洋
風の離れができていたことに驚いた。
怪我をした私が和式の建築での生活が辛いだろうという当主判断
だと聞いたときに名家の剛毅さに呆れるしかなかった。
家、一軒建てるか、普通!?
庶民ならそう突っ込むところだろう。
前世は正統派庶民であった私も速攻ツッコミを入れそうになって
言葉を飲み込んだ。
13
自室の改装だけでいいんじゃないのかと。
そういうわけで、現在に至っても私は別棟にぼっちで暮らしてい
る。
相良家は大家族だから、プライバシーの面からしてひとりの方が
落ち着くのは確かだ、なんて家族の前では言えないが。
男子用制服を着用するうえで、私は髪を伸ばさないことにした。
中等部に入学した時には、背中を覆う程度の長さがあったが、事
故にあった時にばっさりと切られた。
手術のために仕方がなかったのだと後で説明を受けたが、髪を切
られたことよりもザンバラになっていた髪型のほうにショックを受
けた。
頭を怪我していたから髪が邪魔だったというのはわかる。
だからと言って、長さがバラバラになって整えようもないほどに
なっていたというのは衝撃だ。
どうせなら全部潔く丸刈りにしてくれてた方がまだ衝撃が少ない
ような気がする。
均等に伸びるから。
ついでにウィッグも被れるし。
長さがバラバラだと揃え辛いようだ。
入院中、私の髪を気にした母が担当の美容師さんを呼び、私の髪
を目にしたときの彼女の表情が忘れられない。
夜叉がいると思うくらいにものすごい形相だった。
彼女には申し訳ないことをしたと謝罪したが、﹃いいえ。悪いの
は犯人と髪を切った看護師です!﹄ときっぱりと断じられてしまっ
たので、それ以上謝りようがなく困ってしまった。
この髪を詩織様に見せたら、またとんでもないことになりそうな
気がして、面会を断ったということもある。
14
半年経ち、髪もある程度揃い、学園復帰にこぎつけたときに美容
師さんに相談したのだ。
﹃男子用の制服だから、このまま髪を伸ばすのもどうかと思って。
制服に似合う髪型にしてほしい﹄
この際、ベリーショートでも構わない。
そういう気持ちで問いかけたら、色々な髪型を試すのも若さの特
権ですからねと柔らかく笑って、そうしてできたのが現在の髪型だ。
正直なところ、意外なほどに似合いすぎて逆に困っている。
身長が伸びすぎたこともあり、何処から見ても立派な男子生徒に
しか見えない。
高等部でも男子用制服での申請が許可されているから、もうしば
らくはこの髪型とお友達だ。
だが、王子様扱いはやめてほしい。
男装趣味でもなく、女の子を愛でる趣味もない。
自分がイケメンであることに何の感慨も抱けないのだから。
これ以上、中等部にいる意味はない。
セレブ校では卒業後にクラスメイトとカラオケ打ち上げなんてこ
とはありえない。
むしろ、カラオケの存在を知る者の方が少ないだろう。
何せごく普通に男子生徒が株価の話題を口にし、女子生徒はクラ
シックコンサートやオペラ、パーティの情報交換や、それに着てい
くドレスなどしか話題がない。
別世界、異次元、そんな言葉しか思いつかない異様な空間だ。
多少は勉強の話をしようよと思っても、御稽古事などを優先させ
るセレブにとって勉強は力を入れるべきことではないのだ。
そんな中で私や諏訪、大神などは異色としか言いようがないだろ
う。
15
まあ、諏訪たちはいずれそれぞれの家の当主になるために必要な
ことだと学んでいるようだが。
私の場合は、完全に異色だろう。
形成手術を受けても傷が消えなかった場合を想定しての行動だ。
相良家は大家族だ。
しかも私は末っ子だ。
相良家の特徴として娘を嫁にほしいという家は沢山ある。
まだ成人してもいない、中学生であった私にもそういった申し入
れがあった。
当主である祖父がすべて一喝して断ったけれど。
いくら、私が相良の娘だからと言って、あまりにも無残な傷を目
の前にして怯まない者はいないだろう。
特に女性よりも男性の方がそういった傷に弱い。
事実、肉親と医師以外の男性で私の傷を直視できた人は皆無だ。
女性の場合は傷を見てしばらく硬直するけれど、すぐに我に返り、
痛ましげな表情になる。
お嬢様のイメージとして、惨いものを見ると悲鳴をすぐにあげそ
うだが、実際は少し違う。
本当に育ちがいい方は悲鳴を上げれば相手が傷つくことを理解し、
決して声を上げない。そしてすぐに私が生きていてよかったと言っ
てくれる。
悲鳴を上げるのはきちんとした上層階級の教育を受けていない成
り上がり成金と呼ばれる家の出だ。
人が見せたくないと言っているのに無理やり見て、悲鳴を上げて
気を失ったふりをして、繊細でか弱い自分を演出しつつ人を貶めよ
うと計算しているらしいが、ここではそういった輩は相手にされず、
そのうち存在すら無視されてあえなく自主退学していく者もいるら
しい。
氏より育ちというけれど、東雲学園では氏も育ちも超一流の名家
の子弟を育て上げることを旨としている。
16
だからこそ、私が彼らの試金石に選ばれたのだと気付いたのは、
随分後のことだった。
講堂からいったん校舎に入り、荷物を取ると降車場へと向かう。
もうそろそろ抜け出す頃だろうと、相良家の車が待っているだろ
う。
﹁相良﹂
そんな私の背中にかかる声。
﹁⋮⋮諏訪様、ごきげんよう﹂
たくさんの花束を抱えた諏訪伊織であった。
その隣には大神紅蓮の姿もある。
前生徒会長とその副だ。
﹁もう、帰るのか?﹂
一応、私も前生徒会書記である。
別に字が上手だからというわけではない。
議事録はすべてパソコンにデータを保存している。
﹁ええ。中等部にもう用はありませんから﹂
﹁⋮⋮相変わらず醒めているな。もし、用がないのなら⋮⋮﹂
﹁中等部には用がありませんが、これから私用があります。卒業式
の時くらい、家族で食事でもと父に言われましたので﹂
﹁⋮⋮そ、そうか﹂
誘いの言葉を即座に切り捨てると、諏訪は戸惑ったように頷く。
﹁諏訪は、今から詩織様のところですか﹂
隣に立つ大神が、視線だけで話しかけてやってと言ってきたので、
ウンザリしながら言葉を続ける。
﹁ああ。詩織が相良に会いたいと言っていたから⋮⋮﹂
﹁申し訳ありませんが、予定にない行動は慎むようにしております。
詩織様とはまたの機会に﹂
あの事件後、詩織様とは数回しか会っていない。
女子生徒の憧れのお姉さまである詩織様は、私を格別気にかけて
いるという態度を取っているが、実際には自分本位な頼みごとがあ
17
るので会いたがっているだけだということを私は知っている。
いいように使われている諏訪の純情が気の毒になってくるほどだ。
つまり、従弟で幼馴染である諏訪のことを弟にしか思えないため、
諦めさせてほしいということと、自分の結婚相手に私の兄、相良八
雲を望んでいるため、取り持ってほしいということだ。
諏訪分家からの申し入れを兄は即座に断った。
何故なら、あの事故から今まで、詩織様の両親は私への謝罪をし
に相良家へ一度も来ていないからだ。
諏訪本家は当主夫妻にその息子である伊織の両親も事故直後に謝
罪に来たが、それで済んだと分家は思っているらしい。
済んだことと水を流して、兄の許嫁に詩織様をと申し入れてきた
のだ。
私が車にはねられたのは、確実に詩織様の失態のせいだ。
それ故に相良の家は分家に至るまで詩織様を許せないでいる。
誘拐された時の対処の一つとして、誰かが近くにいた場合、決し
て犯人には悟られず、その者をそこから逃がして助けを求めてもら
うというものがある。
それは、東雲学園で初等部の時にきっちりと教え込まれているこ
とだった。
そういった現場に行き合わせた者も、必ずこっそりその場から離
れて学園の警備部や警察、または自宅へと助けを求めることとなっ
ていた。
あの時、詩織様はわざと私の名を呼んだ。
あれは相良家の方が諏訪家よりも格上の家柄だと判断していたか
らだ。
相手が身代金目的なら、諏訪家よりも相良家の方が搾り取られる
はずだと計算して、自分ではなく私を襲うはずと思ったらしい。
だが、あれは確実に詩織様本人を狙っていた。
でなければ、私を殺そうとは思わないはずだ。
運よく私は生き延びることができた。
18
だから、詩織様の罪悪感は半減してしまったのだ。
あの時の兄の憤りはすごかった。
八雲の上の兄や姉たちも、諏訪の分家をどういう目にあわせよう
かと身も凍るような笑顔で真剣に話し合っていた。
私が詩織様と接触すれば、兄姉たちは再びあの笑顔を浮かべて本
当に計画を実行することだろう。
﹁⋮⋮そうか。詩織が残念がるな﹂
御遣いが果たせなかった諏訪は、肩を落として残念そうに呟く。
﹁諏訪もあまり詩織様の傍に侍らぬ方が良いかと思いますが﹂
君の失恋はカウントダウンが始まっているからな。
﹁何故だ!?﹂
﹁入学式の翌日は学力試験です。外部生も入ることですし、順位を
落とすことは避けた方が良いかと﹂
事実だけを告げる。
﹁そんなことか﹂
﹁ええ、そんなことですが、外部生は受験を勝ち抜いてきた優秀な
方ばかりです。外を知らぬ我々と異なり、プレッシャーにも強い。
慢心は身を滅ぼすとも言いますし、身を引き締めて首位を守って内
部生の実力を見ていただくべきだと思います﹂
﹁伊織。僕は相良さんの意見に賛成だよ﹂
穏やかな笑みを作り、大神が私の言葉に同意する。
まさか大神が私の意見に賛同するとは思わなかったらしい。
﹁紅蓮まで。おまえたちなら、勉強せずとも十分に首位を取れるだ
ろう?﹂
﹁内部性の実力がどれほどのものか、努力を怠らず見せるのも我々
の役目だと思うよ﹂
﹁諏訪がその気なら、今度の実力テストは私と大神が主席と次席だ
ということでしょうか。今から結果が楽しみです。では、失礼﹂
ごきげんようとは言わずに、そのまま立ち去ろうとする。
﹁相良さん﹂
19
大神がにこやかな笑顔のまま呼び止める。
﹁なんでしょうか?﹂
﹁勉強、わからないところがあったら、メールしてもいいかな?﹂
﹁⋮⋮ご随意に。私が答えきれるかどうかはわかりませんが﹂
﹁ありがとう。気を付けて﹂
大神の言葉に送られて、私は迎えの車の許へゆっくりと歩いて行
った。
20
3
春休み。
それは、園遊会開始の合図である。
桜の花がほころび始めたとの案内状が送られてくるようになると、
そちらのお庭の桜も素敵でしょうねぇなどと誘い待ちの話題を振る
人も増えてくる。
いかにオリジナリティ溢れたお茶会、夜宴にするか、悩ましいと
零す家も出てくる。
広大な日本庭園を持つ相良家であるが、梅はあっても桜はない。
なので、この時期に園遊会を開くことはない。
質実剛健を地で行く家でよかったと、この時ばかりはホッとする。
園遊会のお誘いは、専ら祖父母や両親、兄姉たちがほとんどで、
私に来ることは滅多にない。
来るとしたら、東雲学園の関係か下心あり系ぐらいだろう。
下心あり系は即座に切り捨てるが、東雲学園の関係だと相手をよ
く調べてからの返事になる。
返事をするのは私自身ではなく、何故か兄の八雲だが。
heaven﹄の設定で氏族というのがある。
今回の春休みは、とりあえずのところ勉強と道場での稽古がすべ
てだ。
﹃seventh
東雲学園に通う生徒たちの名字についてだ。
名家は名字でわかるという考え方だ。
21
神・皇・天・地・外・他と6つに分けられる。
天孫降臨にまで遡ると言われる由緒正しき名字の分け方だ。
神が、文字通り神族。つまり、高天原から地に降り立った神の子
たち。
皇は皇族から臣下に降った時に天皇から与えられた名字。
天は天族と呼ばれる瓊瓊杵尊に付き従った神々の子孫。
地は地族と呼ばれる天孫降臨以前からこの地にあった有力豪族た
ち。
外は外つ国、つまり大陸や朝鮮半島から渡ってきた外国人たちの
子孫。
他は明治以降に与えられた名字である。
この他に葉族と言ってそれぞれの家からの分家筋にあたり本家と
は別の名字を与えられた者を示すが、本家の括りに入れられるので
明記されることはない。
この葉族というのはゲームで作られた設定だが、結局のところ、
これらの区別は全くもって設定倒れに終わっている。
名家と呼ばれる人々は、神・皇・天・地の4族に入る名字であり、
この中での上下は曖昧だ。
ただはっきりとわかっているのは、直系が永く続いている家ほど
格が高いということだ。
この設定で行くと、我が相良家が皇族や神族を引き離してダント
ツに格上の名家となっている。
家系図で遡って正確にわかっているだけでも1600年直系が続
いている。
その間、一度たりとも分家筋から当主を招き入れたことはない。
相良家は多産系で一代につき少なくて5人の子供が生まれている。
多いときは16人ほどだが、それはすべて正室からであり、側室は
持たなかったらしい。
どんだけらぶらぶ⋮⋮っつーか、奥さん大変だな!というのが、
家での教育で学ばされた時の感想だ。
22
つまり、相良の家に生まれた者は、相手にその時代相応の問題が
なければ恋愛結婚OKだったようだ。
身分違いでも、養子縁組という抜け道で娶るという方法がありま
すからねー。えぇ、16人の方ですけど。
相良家に嫁げば、絶対に浮気なしで大事にされるということから、
婿候補としては垂涎の的なんだとか。
ちなみに娘の場合もさらにお得感があるので嫁候補に大人気だ。
多産系ということで最低3人以上は男女合わせて出産する上に、
福の神特典もつくらしい。つまり、相良の娘が嫁いだ先は栄えると
いう神話があるのだ。
もちろん、これには条件がある。
相思相愛であること、娘とその子供を大事にすること、だ。
浮気をすればそこでおしまい。
相良は必ず娘とその子供を引き取り、きっちりと縁を切る。
そこから先は相手の家は転落の一途だ。
福の神は紙一重で禍つ神となる。
そのことを知らずに欲得三寸で婚約の申し込みをすれば、門前払
いを食らうだけ。
まだ未成年である私にすら婚約の申し込みが来ているというのは、
そういうことだ。
まぁ、もちろん、相良の娘が福の神であるという神話にはそれな
りの理由はある。
ひと財産稼げるだけの教育を受けていると言えば分りやすいか。
身を守るために一通りの武術は教え込まれているが、それとは別
にそれぞれに合った才能を伸ばす教育を施されているのだ。
昔であれば、治水術などの土木に関する知識だとか、高額商品に
なりやすい機織りだとか、茶匠の技術だったり。
女子に学は必要がないと言われていた時代でも、それなりの教育
を与えていたところがすごいと思う。
私の場合は、絵だ。
23
とはいっても絵画でも漫画でもない。
友禅の下絵だ。
前世で友人の薄い自主出版な本の背景を描いていた私は花や木を
描くのが好きだった。
手のリハビリがてらに絵を描いてみますかと渡されたスケッチブ
ックに懐かしくなって花を描いていたところ、その絵を見た母に着
物の柄のようだと言われ、そこから父や祖母が色々と手配をかけて、
今では友禅作家として少しずつ動き出している。
相良瑞姫にそんな設定はなかったから、これはどういうことなの
かとちょっと動揺している。
まぁ、もちろん、あの事件自体がゲームにはない設定なので、ど
う判断していいのか迷うところだが。
とりあえず、私は、私だ。
ゲーム通りに動く必要もないだろう。
本当に東條凛が来年現れるとも限らないし。
そう思うことで、今、生きている私がいる。
相良家の敷地内にある武道場。
己の鍛錬の為に時間があるときは稽古をするというのが相良家の
人間の習性のようなもの。
かくいう私も現在、気分転換がてらに稽古中である。
入院中に完全に体がなまったと思い、退院したのちに道場に来て
みて愕然とした。
右大腿骨と右上腕部の複雑骨折、及び他にもいろいろ単純骨折や
らヒビが入ったり内臓に傷がついてたりしてたのだから、仕方がな
いことだと思う。
生き延びたこと自体が奇跡なのだから、自分を責めてはいけない
とリハビリの先生にも言われている。
24
だけど、膝が曲がらずに正座ができないという己の状況に以前の
自分の感覚が馴染めなくて違和感を感じても仕方ないだろう。
そういえば病院ではベッドと椅子の生活だった。
痛みと不自由さの戦いで気付かなかったが、それはこういうこと
だったのだろう。
それから入念に柔軟体操で関節やら筋肉やらをほぐすことをはじ
め、正座ができるようになった。
正座ができる時間を伸ばすようにして、1時間できるようになっ
てから古武道の型を訓練するようになった。
ひとつひとつクリアをしていくことを決め、それを実行する私は、
大人たちから同じ年の子と比べ我慢強いとか、理性的だと褒められ
たが、それは当たり前のことだ。
前世では少なくとも24年間生きていたのだ。社会人としての経
験が刻まれている私にとって、物事がうまく進まないからと癇癪を
起こす気力はない。
今現在の稽古内容は演舞で滑らかに動くことだ。
組手はまだできない。
相手の動きに対応しての素早い動きにまだ身体が追い付かないの
だ。
演舞自体もまだ納得のいく動きはできていない。
元々の基礎体力や筋力量で普通より治りは早いと言われているが、
思うようにいかないのは歯痒い。
少しずつでも改善できていることが、今現在の救いだ。
ゆったりと呼吸をしながら気を全身に廻らせる。
手足の動き、体重移動をチェックしながら型に合わせて動いてい
く。
滑らかに、力強く。
一連の動きを終え、呼吸を整えた。
﹁すごいな。綺麗な動きだったよ、瑞姫﹂
25
ほっと息を吐いたとき、背後から声がかかる。
﹁⋮⋮疾風。来ていたのか?﹂
同じ年の幼馴染でもある岡部疾風が壁に背を預けてこちらを見て
笑っていた。
﹁うん。母屋に行ったら、八雲様が瑞姫は道場にいるからって仰っ
たから﹂
岡部家は相良家の随身の家系だ。
同じ地族であり、相良の第一の家臣であることを由とし常に付き
従うということを代々伝えているらしい。
本来なら、疾風は八雲の傍付になるはずだった。
なぜか八雲が5歳も年が離れたせいで疾風は私についている。
2年前のあのとき、疾風は風邪をひいて、しかも肺炎をこじらせ
かけていたため学校を休み、私の傍についていなかった。
ついていればあんな目に合わせなかったと後悔しているらしく、
入院中も毎日病院に通ってきていた。
元々岡部は文官を多く輩出している家だが、武官も少なくはない。
相良に沿う者は文武両道に秀でた者だけと決めてあるらしく、疾
風は特に優秀だ。
私に二度と怪我をさせないという一念でそこまで頑張ったのだか
ら驚いた。
﹁兄上は帰ってこられていたのか。最近、父の会社の仕事を勉強す
るようになってお会いしていない﹂
﹁あ。いや⋮⋮ごめん﹂
ちょっと拗ねたように言えば、疾風は慌てたように視線を泳がせ
る。
﹁ん?﹂
﹁八雲様、俺と入れ違いに出て行かれた⋮⋮﹂
しょぼんと項垂れて申し訳なさそうに告げる。
おっきなわんこのようだ。
﹁ごめん﹂
26
﹁別に疾風のせいじゃないだろう?﹂
﹁だけど、俺だけ会って、瑞姫が会えないなんて⋮⋮﹂
170cmも身長がある私よりもさらに10cm以上高い大柄な
疾風がしょぼんと肩を落とす姿は何やら可愛らしい。
何だか可笑しくなってくすくす笑いながら疾風の頭を撫でる。
柔らかなくせ毛でさわり心地が非常にいい。
一度触ると癖になるので、結構撫でていたりする。
﹁疾風のせいじゃない。兄上に会いたければ、メールをしておくし﹂
﹁ん﹂
嫌がるかと思ったけれど、疾風も頭を撫でられるのは好きらしく、
微妙に機嫌がいい。
本物の犬だったら尻尾がゆらゆら揺れている状態だろうな。
﹁それで、何か用だったのか?﹂
そう問いかけると、少し照れたように笑う。
﹁在原と橘が、もしよければ気分転換に出かけないかと瑞姫に聞い
てくれと﹂
﹁在原と橘が?﹂
聞き慣れた名前にきょとんとする。
在原静稀と橘誉、共に皇族の名家出身である。
これに私と疾風、諏訪と大神に天族の菅原千景を合わせて学園七
騎士と呼ばれているらしい。
在原と橘は疾風と仲が良く、授業ではよく組んでいるようだ。
この2人とは初等部の時に同じクラスになったことはあるが、そ
こまで親しく話したことはない。
それゆえ、今日いきなり誘われて驚いている。
﹁何故その2人が私を誘うんだ? 疾風﹂
﹁んー⋮⋮﹂
困ったように疾風が視線を泳がせる。
﹁お茶会やらなんやらの誘いがうるさくて、逃げ出したいから誰も
が黙るような口実がほしいと⋮⋮﹂
27
﹁それで、私か﹂
﹁うっ⋮⋮ごめん﹂
﹁いや、いいよ﹂
気持ちは非常にわかる。
これから高等部に上がるとなれば、学生とはいえそこそこ家同士
の付き合いを求められはじめる。
どこの家の子息と友人だということは、案外大人たちは把握して
いるのだ、表面的なものだが。
諏訪家は広範囲に渡って企業を持っているようで、2年前の事件
以降、相良と微妙な関係になったためその業績に陰りが出ていると
聞く。
仕方あるまい、諏訪の衰退は詩織様とその両親である諏訪分家の
せいだ。
早晩諏訪の両親はその原因に気付くだろう。
その時、分家を切り離すかどうかが再建のカギだ。
それより、在原と橘の件だ。
﹁疾風が大丈夫だと判断したんだな?﹂
聞きたいことはその一点。
相良の娘を道具とみなさず、一人の人間として扱えるかどうか。
普通ではありえない考え方だが、ここでは仕方がない。
﹁うん。あ、でも、瑞姫に勉強を教えてもらいたいとは言っていた﹂
一度、はっきりと頷いた後でちょっと小首を傾げて考え込むと、
困ったように告げる。
同級生に勉強を教えてもらいたいと考えるのは、相手を利用しよ
うということになるのかもと、妙なところで生真面目な疾風は判断
に迷ったらしい。
﹁勉強を教えてもらいたいというのは、いいことだと思うよ。私が
得意な科目であることを願うけどね﹂
﹁わかった。じゃあ、大丈夫だ﹂
嬉しそうに頷いた疾風がそう断言する。
28
﹁出かける場所と時間、それに待ち合わせ場所を知らせるように伝
えてくれ。私はあまり人混みが得意ではないともな﹂
﹁うん。伝えておく。瑞姫に無理はさせない。そこは俺が約束する﹂
私の両親に頼まれているせいか、少しばかり出不精の私を外に連
れ出したい疾風がしっかりと請け負う。
膠着していた何かが微妙な方向へと動き出したことに、この時私
は全く気付かなかった。
29
4
待ち合わせは午前9時。
場所は自然公園でピクニック。
指定された内容に、私は少しばかり驚いた。
男3人で何を考えて﹃ピクニック﹄という言葉が出て来たのだろ
う。
この場合、お弁当についてはどう考えているのか。
私か!? 私が作るのか!!
よかろう。その挑戦、受けて立とうではないか。
これでも前世では一人暮らしをしていたのだ。
社食やコンビニランチではなく、お弁当派だったのだ。
自炊上等! な生活をしていた。
ある程度の知識はあるから、作れるだろう⋮⋮多分。
運ぶのは、食べる人間が運べばいい。
そう結論付けて、我が家の料理長にピクニック用のメニューを書
いて見せ、自分で作りたいので重箱に詰めるのを手伝ってほしいと
お願いした。
相良家の人間は、使用人に至るまで末っ子に甘いという現実を今
更ながらに知る結果となった。
4人分のお弁当を疾風に持ってもらって、自然公園の入り口に辿
り着くと、そこには人目を惹く少年が2人、立っていた。
﹁⋮⋮すまない、遅れてしまっただろうか?﹂
そう声を掛けると、驚いたように振り返った在原と橘が、疾風を
30
見てさらにぎょっとする。
﹁岡部、何その荷物?﹂
﹁何って、ピクニックと聞いたが、お弁当はいらなかったのか?﹂
﹁⋮⋮弁当⋮⋮﹂
初めてそのことに気が付いたと、在原と橘が顔を見合わせる。
まぁ、得てして男というモノはこういうモノだと、姉なら言うだ
ろうな。
﹁瑞姫がわざわざ朝早くから作ってくれたんだ。当然⋮⋮﹂
﹁もちろん、食べる!!﹂
﹁運ぶよな?﹂
疾風の言葉を遮るように慌てて答えた在原の言葉と疾風の言葉が
すれ違う。
﹁⋮⋮あー⋮⋮﹂
非常に痛い光景に、目を覆った橘が呻く。
﹁すみません、相良さん。わざわざお弁当まで作ってくださって。
改めておはようございます﹂
爽やかな外見を裏切ってそそっかしい在原を苦笑して宥めた橘が、
朝の挨拶から仕切りなおす。
﹁おはよう。瑞姫と呼んでくれて構わない。友達として遊びに来た
のだろう?﹂
﹁重ね重ね申し訳ない。こちらの都合を押し付けるようで﹂
﹁おはよう、相良さん。ごめんなさい﹂
ぺこりと頭を下げる在原静稀は、この愉快な言動から想像しづら
いが、学年5位の成績優秀者である。
﹁気にしないでいい。こういうのは気が付いた者がするものだ﹂
﹁在原、瑞姫の作ったお弁当、食べなくてもいいぞ。お前の分は、
俺が食べるから。瑞姫の料理はとても美味い﹂
﹁いや、食べる!! いただきます!!﹂
﹁遠慮しろ﹂
疾風が全力でからかいにいっているとは珍しい。
31
そう思って見てみれば、納得するほどに面白い掛け合い漫才が繰
り広げられている。
﹁疾風、そのくらいにしてやれ﹂
﹁⋮⋮瑞姫がそう言うのなら﹂
﹁ちょっ! ひどくない、それ!? 岡部、酷いよ!!﹂
からかわれたということに今頃気づいた在原が、抗議を申し入れ
ているが、疾風は知らん顔をしている。
﹁この先に、あまり人が来ないちょっとした滝があるんだ。そこに
案内したくて⋮⋮ああ、足場はきちんと整備されているから、無理
なく歩けるよ﹂
彼らを無視して橘が私に説明する。
﹁そうか。では楽しみに歩こう﹂
私が頷けば、橘も嬉しそうに頷く。
﹁俺のことも誉と呼んでくれると嬉しい。細かいことを歩きながら
説明させてほしいし﹂
﹁あ、僕も静稀と呼んでくれ。相良さん⋮⋮瑞姫とは以前から話を
してみたいと思っていたんだ﹂
﹁そうなのか?﹂
私と話をしてみたいとは、妙なことを言い出すものだと首を傾げ
たくなる。
﹁そうだよ。大神や諏訪が近寄らせてくれないものだから、なかな
か話しかけることができなくてね。岡部が承諾してくれてよかった
よ﹂
﹁諏訪や大神の件はよくわからないが、疾風は一定条件をクリアし
ていれば、問題なく頷くと思うよ﹂
﹁条件?﹂
私の言葉に橘誉が首を傾げる。
﹁そう。内容については秘密。私は疾風の目を信用しているという
意味にとってもらって構わない﹂
ゆっくりと歩き出しながら話を続ける。
32
﹁わかった。俺たちはそれなりに岡部にお墨付きをもらえたという
わけだ﹂
﹁そう考えてもらっても大丈夫だ。しかし、諏訪や大神のことは、
私は知らなかった﹂
﹁牽制というか、威嚇というか⋮⋮それこそ見当違いなところで君
の傍に誰も近づけさせまいと躍起になっていたよ。まぁ、彼らも岡
部のように君の傍に控えることを許されてはいなかったようだけど
ね﹂
﹁え?﹂
﹁俺たちは、諏訪に少々思うところがある、というわけだ。もちろ
ん、岡部もね﹂
ちょっと笑った橘は、在原に視線を向ける。
﹁もうへばったのか、静稀。そのくらいでは荷物持ちの役には立た
ないぞ﹂
﹁だけど、重い!!﹂
﹁荷物の半分以上を岡部が持っているように見えるけど﹂
私以外、それぞれが荷物を持っている状態だが、嵩張っているの
は疾風の荷物、しかしながらコンパクトな在原の荷物が一番重いこ
とを私は知っている。
あれは水筒だ。
持ちやすさを重視しているが、中身はお茶がずっしりと詰まって
いる。
重くて当たり前だろう。
余程、在原のことが気に入っているんだな、疾風は。
﹁静稀、貸してくれないか? 私が持とう﹂
﹁え?﹂
在原の方へ手を差し出すと、当然のことながら在原が戸惑う。
﹁持ち方にコツがあるんだ。手にぶら下げるのではなく、抱え込む
ように持った方が重さが半減するし、運びやすい﹂
だから私が持つと、もう一度催促すれば、在原は慌てる。
33
﹁大丈夫! 僕が持つよ。女の子に重い荷物は持たせられないから
ね﹂
﹁私の方が力があると思うぞ。男女関係なく、適性がある方が引き
受ければいい﹂
﹁⋮⋮その考え方は、ある意味、非常に魅力的なんだけど。やはり、
男の面子というモノがあるから⋮⋮﹂
﹁そうか。では、在原に任せる。もうじき着くのだろう?﹂
笑顔を作って、あっさり引けば、在原が目を瞠る。
﹁あっ! やられたっ!! 瑞姫は人を扱うのが上手いな﹂
苦笑を浮かべて天を仰ぎ、唸った在原は、肩をすくめてボヤく。
﹁最初からわかっていたことだろう。生徒会を務めあげた人間に敵
うわけないだろうが﹂
橘が笑いながら告げる。
﹁さて、目的地に着いたことだし、まずはのんびりと寛ぐことにし
ようか﹂
その言葉で、滝の存在に気付き、私は目を細めてそれを見上げた。
剥き出しの岩肌。
高い位置にあるはずなのに、切り立った崖から迫り来るように身
を乗り出してくる木々。
それらの隙間から、思い切りよく宙へ身を躍らせる水龍。
岩へと躰をぶつけ飛沫を上げると、陽に身を曝し、虹となる。
そうして空中散歩を楽しんだ後は、淵へと身を沈める。
滝は水龍が遊ぶ姿なんだよと、幼い頃、2番目の兄、蘇芳が私に
言ったことがある。
八雲は3番目の兄。
私には3人の兄と2人の姉がいる。つまり、6人兄弟だ。
幼心に2番目の兄の頭は大丈夫だろうかとちょっと不安に思った
34
が、今ならわかる。
蘇芳はファンタジー好きだったのだ。
剣道や居合を学ぶ兄や姉とは趣を異にして、蘇芳は両手剣を学ぶ
ことを好んでいた。
諸刃の両手剣、つまり中世欧州やファンタジーで言う大剣だ。
残念ながら蘇芳を勇者召喚してくれる異世界はなかったようで、
現在、ごく普通に相良グループの情報系を扱う会社の社長に就任し
ており、新婚さんだ。
蘇芳が言っていた滝に似ているそこは、そんなに大きなものでは
ないが、水龍を思い浮かべるよりも神域といった張り詰めた空気の
方がよく似合う。
不浄のモノを押し流す力強さと、潔癖さ、そうして清浄なものを
愛でる大らかさを感じさせる。
マイナスイオンとかパワースポットとかよく言われるが、滝の傍
でボーっとしているのは確かに心が和む気がする。
滝壷に水が流れ落ちる音やせせらぎなどで周囲に人がいたとして
も話し声は聞こえてもその内容までは聞こえない。
今は私たち以外には誰もいないが、いたとしても大丈夫だろう。
景色を堪能するよりも、育ち盛りは胃袋を満たす方が重要なよう
だ。
よく躾けられた上品な仕種でがっつりと食事を摂る少年たちに思
わず見とれてしまう。
マナーを守りながらも、会話を楽しみ、それ以上に食事を楽しん
でいる。
作った甲斐があるというモノだ。
彼らに比べればさほど量を必要としない私は、別の意味で満腹で
あった。
heaven﹄の世界とよく似た現実。
好きな声優さんのために買ったと言っても過言でもないゲームで
あった﹃seventh
35
ここに攻略キャラのうちの3人がいる。
実に耳が幸せである。
これでBL好きならば、さらに別の意味で萌えるのだろうが、私
はそこに萌えポイントはおいてない。
おいてないが、滾りそうになる何かはある。
彼らを攻略する気はないが、ぜひとも全員と友人関係になって彼
らの会話に耳を傾け、声フェチ煩悩を滾らせたいなとは正直思う。
﹁瑞姫? さっきから静かだけど、疲れたのかい?﹂
﹁⋮⋮え?﹂
橘に顔を覗き込まれ、我に返る。
﹁瑞姫、大丈夫か?﹂
心配そうな表情で秋田犬じゃなかった疾風が問いかけてくる。
﹁ああ、大丈夫だ。静稀と誉の声が耳に心地よくて、ちょっと聞き
惚れていたところだよ。実にいい声だな、ふたりとも﹂
﹁⋮⋮⋮⋮⋮⋮﹂
疾風に頷いた後に、正直に答える。
その直後、在原と橘が目を逸らし在らぬ方を見る。
片や真っ赤、もう片方はうっすらと頬を染め上げ恥らっているよ
うだ。
﹁何かまずいことでも言ったのか、私は?﹂
乙女なのか、彼らは?
何故声を褒めて恥らうんだろう。
﹁いや。顔を褒められたことはあるけど、声は初めてだったから、
ちょっと照れた⋮⋮﹂
実に恥ずかしそうに在原が答える。
﹁そうか。だが、顔より声がいい方が得だと思うぞ? 政治家にし
ろ、企業トップにしろ、人前で話すことが多いだろう? 耳に心地
よい声というのは、それだけで話を聞いてもらえる。最初から最強
の武器を手に入れたという点で、誰よりも優位に立てているという
ことだ﹂
36
﹁顔より声とは、想像の斜め上をいくな。相良は天然だというのは、
案外本当のことかもしれん﹂
ぶつぶつと橘が呟いている。
﹁瑞姫は決して人を出自や見栄えで判断しない。きちんと中身を見
て判断する。すごいと思う﹂
﹁疾風、それ、絶対に買い被りとか色眼鏡とか、そういった類だか
ら。まぁ、顔はね、性格や表情の作り方や化粧で変わるから、見た
目で判断はしないけどね﹂
﹁顔だけで判断しないと言える人は少ないから、そこは助かるけど
⋮⋮﹂
﹁⋮⋮そこまで冷静に判断されると、すごく困るな﹂
微妙な表情で話す彼らに、私はのんびりと滝を見上げて聞き流し
たのであった。
37
5
人がいれば、それなりに事情というモノが生まれてくる。
その事情も他人から見れば大したものではないが、本人にとって
最悪にしか思えないようなこともある。
在原と橘の事情もそういうモノだった。
﹁⋮⋮ストーカーまがいのお嬢様⋮⋮がっつり肉食系のようだが、
いるものだねぇ⋮⋮﹂
困り切っている様子の在原の説明に、私はいたく感動した。
﹁それこそ、作り話の中にしかいないと思っていたよ﹂
つい最近、招待された園遊会で挨拶をした御嬢さんの1人が、在
原を自分の婚約者として紹介されたのだと思い込んでしまったらし
い。
翌日から家に押しかけてくる、結納の日取りや形式、結婚式の予
定や招待客の選定、新居について話し合うべきだと控えめを装いな
がら訴えてくるらしい。
痛い勘違いだが、本人は自分の容姿や家柄が在原と釣り合うと言
い切り、自分以外の婚約者はありえないだろうと主張しているよう
だ。
﹁ちなみにその梅香様は、僕より7歳年上の22歳、今年23歳に
なられる方だ⋮⋮﹂
もはやダメージが強すぎて正気を保てないのか、遠くを眺めて茫
然としている在原がぼそりと呟く。
﹁⋮⋮ありえない⋮⋮﹂
その呟きに橘も苦笑しながら頷いている。
﹁まぁ、俺達、15歳だし。あちらが手を出して来たら犯罪だよね﹂
﹁あちらが男性で、こちらが15歳の少女なら完全に犯罪と言い切
38
れるのに、逆だと微妙に迷うのは何故だろうか﹂
橘の言葉に頷きかけて、途中で首を捻ってしまった私は己の疑問
を率直に告げてしまう。
﹁大学卒業した時点で婚約者がいないというのがそもそもおかしい
と思うんだけど﹂
一番まっとうな問題点を指摘したのは疾風だった。
﹁本人を見れば、いないということをすぐに納得できると思うよ。
速攻で断られてるはずだ。日本語を話しているはずなのに、言葉が
通じない。先方には何度も連絡を入れているのに、一向に態度が改
まることがない。仕方がないので、主催者の方にもクレームをつけ
ることになってしまった。引き合わせた方が主催者だったからね﹂
﹁⋮⋮⋮⋮⋮⋮﹂
なんと不憫な。
思わず在原の肩をポンポンと叩いて宥めてしまった。
﹁力になれずにすまないな﹂
﹁え!? お願い、助けて! 知恵貸してください!!﹂
必死の形相で在原は私の腕を掴む。
﹁え? 知恵?﹂
﹁瑞姫、年の離れたお姉さんがいるよね!? 扱い方のコツとか教
えて!!﹂
﹁⋮⋮え、そっち?﹂
てっきり相良の名前を使う方向かと思っていたら、もっと初歩的
なことを聞かれて驚いてしまった。
疾風が大丈夫だと言っていたのを思い出し、納得する。
﹁ちなみに、今日、うまく逃げ出せたのは、俺と出かける約束があ
るからと前もって言ってあるからなんだ。確か﹃妻たる者、夫の交
友関係に口を挟むような真似は致しませんわ﹄とか言ってたし。婚
約もしてないのに、妻って、ねぇ⋮⋮﹂
苦笑を浮かべた橘が肩をすくめて告げる。
﹁おまけに、﹃静稀様はお若いのですからいくらでも浮気をなさっ
39
てもかまいませんわ﹄とかも言ってた。さすがにあれはぞっとした
な﹂
﹁⋮⋮うわぁ⋮⋮﹂
疾風が完全に血の気を失っている。
﹁何だか昭和の臭いがする考え方だな。高校生に芸者遊びをけしか
けてるようにも聞こえるが﹂
﹁あ、やっぱり? うちの父がお座敷好きで、俺も連れて行っても
らったことがあるけど、あれは本当に歌や舞の芸を披露してくれる
席であって、愛人の座を狙ってるような御姐さんは全然いないよね﹂
﹁確かに!﹂
﹁やっぱり、瑞姫もお座敷に行ったことがあるんだ?﹂
﹁ああ。お祖父様が屋形をひとつ、後援しているんだ。古くからの
知り合いだそうだ。たまに茶席に連れて行ってくださる﹂
﹁⋮⋮瑞姫は御姐さん方にもてそうだよね﹂
﹁まぁ、それなりに可愛がってはもらっていると思う。お祖父様か
ら引き継いで私が後援することになりそうだから﹂
﹁ちょっとー、ナニ盛り上がってるの!? 僕を放って楽しそうに
お座敷の話とかしないでほしいんだけど﹂
橘とお座敷の話で盛り上がろうとした矢先に在原が不機嫌そうに
割って入る。
いや、だって。ドン引きしそうな痛々しい人の話より、楽しい話
の方が面白いし。
﹁悪かった。気分転換しないと、普通に聞けない話だし﹂
橘があっさりと謝罪したと思ったら、フォローしようもないこと
を言っている。
﹁年の離れた姉がいる人って知っている限りじゃ瑞姫しかいないん
だ﹂
﹁年の離れた従姉妹なら、諏訪も条件に入ると思うんだが﹂
﹁あの悪女モドキに振り回されてる諏訪になんて、絶対に嫌だ﹂
似たような条件を持つ諏訪を進めてみれば、実に嫌そうな表情で
40
在原は答える。
この数時間で思ったが、在原は表情豊かだな。
﹁悪女モドキ? 詩織様のことか?﹂
﹁諏訪は言ってはなんだけど、盲目的になり過ぎて趣味が悪いと思
う。女子生徒の憧れの諏訪詩織様なんて呼ばれ方、今はほとんどし
てないんだぞ﹂
﹁そうなのか?﹂
意外なことを聞いた。
淑やかで儚げな容姿の詩織様は、とりあえず一通りの御稽古を修
めているらしいので、憧れ的存在だと先輩方は言っていたような気
がするのだが。
﹁瑞姫を犠牲にして自分だけは助かろうとした我儘で傲慢な姫君と
いうのが、僕たちより下の詩織嬢の評価だ。知らなかったのかい?﹂
﹁まったく﹂
﹁挙句の果てには、八雲先輩の婚約者の座を狙っているしたたかさ
を披露してくださっているからな。瑞姫がぜひ姉になってほしいと
言ったとか吹いてるし﹂
﹁⋮⋮言った覚えはないな﹂
﹁うん、知ってる。相良家が、諏訪分家に対して相当な怒りを持っ
ているというのは有名な話だしね。瑞姫が個人的に詩織嬢と会わな
いのも知られているよ。それなのに諏訪伊織は詩織嬢を慕っている
というのだから情けない話だ﹂
﹁諏訪が詩織様を慕っているのは、それこそ初等部の頃からだ。こ
こ数年のことでそう簡単に想いを断ち切れるわけがないだろう﹂
庇うつもりはないが、人の気持ちというのは複雑すぎてそう簡単
にはいかないものだということくらい言ってもいいだろう。
﹁瑞姫は優しすぎるんだ。分家の娘など、潰してしまえばいいのに﹂
﹁疾風!﹂
詩織様に対して、超辛口な疾風を窘める。
﹁だけど!﹂
41
﹁私は当事者だ。だから、口を挟まないだけだ。一族の総意に従う。
それでいいだろう?﹂
﹁⋮⋮納得いかない﹂
﹁終わったことだ。そして、私は生きている。一族の者が望まない
ので、詩織様とは公式の場以外で会うことも話すこともない。この
立場は守る。納得しなくていいから、理解だけはしていてくれ﹂
むすりとしたままの疾風を宥め、私は在原に視線を向ける。
﹁これからずっと、私は詩織様とは無関係だ。そこだけ覚えていて
ほしい。私は彼女に対して何も思わない﹂
﹁⋮⋮無関係というより無関心、だね。詩織嬢のような人にとって、
無関心はきつい罰になるだろうね。わかったよ﹂
﹁ありがとう。では、その代わりに姉に頼んで梅香様の件、手を打
ってみよう﹂
﹁え!? いいのか? いや。そこまでは望んでないぞ、本当に﹂
本当に嫌だったのだろう。
梅香様のことを切り出せば、在原の顔色が輝き、そうして慌てて
首を横に振る。
﹁構わない。姉はそういった情報操作が上手い。面白がって情報収
集して動いてくれるだろう﹂
﹁非常にありがたいです。だけど、まさか話がそう転ぶとは思わな
かった﹂
少し困惑したように首を横に振りながら呟く在原。
﹁しばらくの間は、こちらも情報収集が必要だから我慢してくれ。
新学期になったら、学校で話せるだろう﹂
﹁ちょっと逃げ出すかもしれないけど、我慢できそう。僕、頑張る
よ﹂
そこでこの話は打ち切り、今度は高等部での話が始まる。
思う存分親睦を図り、アドレスを交換し、その日は夕方で解散し
た。
42
そして、入学式。
クラス編成を見て教室に向かった私は、その教室の一角で予定通
りに詩織様に振られ、澱んだ空気を漂わせる諏訪の姿を見つけた。
爽やかな初日を台無しにする暗く濁った背景を背負う新入生代表
に、その親友も引き攣った表情を隠せないでいた。
明日の実力テストはひとり勝ちだな。
諏訪を心配するでもなく、実に晴れやかに私はそう思った。
43
6
実力試験の結果は、私の一人勝ちだった。
東雲の内部生にお受験はないけれど、勉強してよかった。
これなら、八雲を見習って東雲の大学部ではなく外部受験で国公
立を目指すのもいいかもしれないと少しばかり調子に乗ってみる。
高等部では外部生が増え、1学年150人になる。
30人ほど、狭き門をくぐり抜けて東雲の名声に花を添えるのだ。
掲示板に張り出された順位表は1位から50位までが載っている。
この中に、今年合格した外部生30人の名前が全員入っているは
ずだ。
ここから転落したら、悲しいことに彼らの場合は退学となる。
優雅な校風と言われる東雲の例外的存在なのだ。
彼らは当然1位を狙っていたはずだが、追従を許さない点数で私
がいただきましたとも。
全教科満点。完璧だ。
オレ様に死角はないと言ってみたいけれど、恥ずかしいので無表
情を装ってみる。
2位は大神だけど、点数的に10点ほど差があった。
そして、諏訪の名前は50人の中にはなかった。
﹁相良様、お見事ですわ﹂
﹁素晴らしい点数ですわね。感服いたしましたわ﹂
あちこちから声がかかる。
見知った相手には会釈で応える。
﹁うっわー⋮⋮やっぱり負けちゃったよ。つけ入る隙があるかなと
思ってたのに、死角なし!?﹂
賑やかな声がし、振り返れば、在原が立っていた。
﹁つけ入るとは、張り合っていたのか?﹂
44
ふと疑問に思って問いかければ、明るい笑顔が返ってくる。
﹁当然ですとも、お嬢様。せっかく、瑞姫の勉強を近くで見るチャ
ンスがあったのに﹂
﹁だが、順位も点数も上がっているだろう?﹂
在原は今回3位だった。
点数も私と12点差で、2位の大神とは2点差。
挽回のチャンスはあるポジションだ。
﹁そうだね。ま、次を狙うか﹂
にっこりと笑う在原が私と並ぶ。
﹁⋮⋮瑞姫様﹂
傍にいた女子生徒が恐る恐る私に声を掛けてくる。
﹁瑞姫様は在原様と親しかったのですか? 中等部ではそのように
見受けられませんでしたが⋮⋮﹂
﹁疾風が彼らと仲が良いのですよ﹂
﹁まあ、岡部様⋮⋮えぇ、確かに同じクラスでいらっしゃいました
ものね﹂
疾風経由だと告げればあちこちで納得する声が上がる。
﹁では、これから在原様たちとご一緒されることもあるのですね﹂
﹁目の保養ですわ﹂
さざめくような笑い声とともに気になる一言が。
ナニが目の保養?
深くは考えまい。
女子の会話はその場の気分次第と相場は決まっている。
私とは別に、秘かに話題をさらっている者もいた。
﹁⋮⋮諏訪様が載ってないですわね。何があったのかしら?﹂
﹁御存知なかったのですか? 諏訪は⋮⋮﹂
ひそひそと小声で話される内容は、予想通りのモノだった。
教室へ戻ろうとする私と肩を並べ、在原が耳打ちしてくる。
﹁諏訪が詩織嬢に振られたと噂になっているね。詩織嬢の評価は地
に落ちたよ﹂
45
﹁詩織様が?﹂
ちらりと視線だけで先を促す。
﹁2年前の事件の真相が今頃明らかになったんだ。詩織嬢を狙って
の怨恨だ。君と諏訪はその被害者だというのに、助けてもらって感
謝もしない詩織嬢は、こともあろうか本家筋の諏訪を振って傷付け
た。その理由もまた自分勝手だとかで地に落ちた。ほとぼりが冷め
るまで留学するしかないよね﹂
﹁⋮⋮そうか﹂
﹁驚かないの?﹂
表情も変えずに頷いたことを在原は意外に思ったのか、問いかけ
てくる。
﹁何を?﹂
﹁事件の真相とか、諏訪を振ったとか﹂
﹁真相については、怨恨だということは最初から分かっていた﹂
﹁え?﹂
﹁金が目的なら、詩織様が私の名を呼んだ時に鞍替えしているはず
だ。あの時、そうではなく、詩織様に固執し、そうして目撃者で邪
魔者だった私を殺そうとした。一人殺すも二人殺すも同じことだと
いう考え方だ、あれは﹂
﹁瑞姫を呼んだ?﹂
﹁知らなかったのか? 警察には話しているから、知っているもの
だと思っていたが。あの時、詩織様は私の姿に気付いて、わざと私
の名を呼んだんだ。逃げてと言いつつな﹂
﹁⋮⋮⋮⋮⋮⋮﹂
在原の表情があからさまに変わる。
なんだ、知らなかったのか。
情報操作をしたものがいるというわけか。
﹁⋮⋮僕は、詩織嬢のことはそこまで好きじゃなかったけれど、今
の話で考えを改めたよ。過大評価していた。下方修正しなくてはい
けないな﹂
46
﹁え?﹂
﹁いや、逆だな。瑞姫がいかに男前でカッコいいかということを改
めて再認識したというか﹂
﹁⋮⋮褒め言葉なのか、それは?﹂
﹁もう、絶賛中。瑞姫なら嫁に行ってもいいくらい惚れたね﹂
﹁そうか﹂
褒められた気がしないのは何故だろう。
﹁だが、断る。嫁も婿もいらない。欲しいのは自由と平穏だ﹂
﹁⋮⋮瑞姫のクラス、暗雲立ち込めてるからなぁ﹂
﹁可視化まで状況は悪化しているのか、奴は﹂
疾風がからかって遊びたがるのが納得できるほど、在原との会話
は面白い。
そして頭がいいので、こちらがはっきりと言葉にしなくてもニュ
アンスを読み取って軽く返してくれるのだ。
﹁抜け殻になっているし、なんか一人で呟いてるし。諏訪の御曹司
じゃなければ、通報されてるかもよ?﹂
﹁直接的に人に迷惑かけているわけではないだろう? いや、迷惑
は掛かってるな﹂
連日のごとく、腑抜けになった諏訪に恐れをなして私にどうにか
しろと言ってくる者が増えつつある。
対岸の火事は見物する以外にどうしようもないと思うのだが。
﹁あー⋮⋮まぁ、頑張って?﹂
何故か疑問形で、在原が激励してくれる。
﹁何をがんばれと⋮⋮﹂
﹁んー⋮⋮いろいろ?﹂
﹁在原。正直に言おう。鬱陶しいから嫌だ!﹂
すっぱり本音を語ると、小気味いいほど気持ちよく吹き出してく
れる。
﹁鬱陶しいで終わっちゃうんだ! さすが! 本気で惚れそうだよ﹂
﹁恋文なら原稿用紙10枚以内に収めて郵送してくれ。兄が添削し
47
てくれるだろう﹂
﹁いや、もう、最高!! 嫁にして!!﹂
げらげらと大笑いする在原を置いて自分の教室へと足を踏み入れ
る。
窓の外には桜。
なのに、教室の中は極寒のシベリア寒気団只中だ。
どよどよどよんと澱んだ空気を作り出す人型低気圧が机にべった
り張り付いて溜息を量産している姿に、正直なところうんざりした。
クラス委員や各委員選出をするにあたって、担任も生徒たちもな
ぜか私の顔色をうかがう。
私が役付きになることはないとわかっていても、クラス委員か何
かをさせたかったことは明白だ。
そうして、諏訪の面倒を見させようと思っていることもわかって
いる。
いまだに病院通いをし、さらには急に学校を休むこともある私に、
委員会出席は難しい。
表面上はよくなっているように見えても、梅雨の時期や気温変化、
気圧の変化が大きいときには、傷が非常に痛むのだ。
息をするのも苦しいと思うほどに全身が痛い。
そんな状況に陥った時に迷惑がかかるから委員会は難しいと先に
告げている。
一応、その状況は納得してもらったので、何も言われないのだが、
視線が裏切っている。
諏訪を何とかして欲しいと、訴えてくるのだ。
それに気付かないふりをして、のらりくらりとかわしている。
日を追うごとに諏訪の状況は悪化し、完全シャットアウトしてい
る私以外、胃痛を訴える生徒が続出している。
48
繊細な人というのは、時に可哀想だ。
すでに一度、社会人を経験し、使えない同僚や後輩、話の分から
ない上司などの取扱説明書を書けるほど図太い神経の持ち主になっ
た私には、諏訪の亜空間ごときに怯むことはない。
だからこそ、何とかしてほしいと思っているクラスメイト達の醸
し出す空気など、簡単に流せる。
しかしながら、鬱陶しいと思う気持ちに嘘はない。
これが1年間続くと想像すると、諏訪を蹴り飛ばしたくなる。
さてどうしたモノかと考えた矢先に大神に捕まった。
﹁こんなことを君に頼むのは筋違いだと思っているんだけれど﹂
﹁では、頼まないでください﹂
﹁それができれば苦労はしない。諏訪は、相良さんの言葉には素直
に従うんだ。君に頼るしかもう方法は残ってないんだ﹂
何くれと世話を焼いていた大神の心労はいかばかりか。
同情はしよう。
だが、同情だけだ。
﹁初恋は実らないというけれど、あんな振られ方をしていい男でも
ない。何でもいいから、一言でもいい。諏訪に言葉をかけて、立ち
直らさせてくれないか?﹂
困ったような表情で、大神が頭を下げてくる。
﹁立ち直るのは、本人の自覚だよ。諏訪は自分の傷口に浸っている
だけだ。声を掛けたところで、心に響く言葉なんてない﹂
そう言って断ったが、大神は諦めなかった。
5月の大型連休が終わり、スポーツを楽しむ初夏がやってきても、
教室内の暗雲が晴れることはなかった。
普通であれば、1ヶ月半も澱んだ空気に室内を占領されても、何
とか折り合いをつけていくものが増える。
さらにもう少しで、中間試験が始まる。
このままでは確かにまずい。
49
そう思って、私は諏訪を呼び出すことにした。
50
7
セレブ校にしては珍しく、東雲学園にはソサエティがない。
お金持ちの御嬢様が特権振りかざして我儘し放題、ということ発
想がないのだ。
それは、非常に品のないこととして目を背けられてしまうのだ。
何故か不思議なことにサロン自体はあるのだ。
よくよく考えてみれば、ソサエティがあれば、﹃seventh
heaven﹄の主人公、東條凛が攻略キャラと絡めなくなって
しまうからだ。
東條家は葉族だ。
神・皇・天・地の四族ではない。
設定に基づいた考え方だと、ソサエティに所属できるのは四族だ
けなのだ。
しかも、普通に考えれば、初等部から東雲に通う子弟だけが入れ
る条件になるのだから、どうあがいても凛には無理だ。
だからソサエティが存在しなかったのだろうという結論に辿り着
く。
サロンは、一応、誰でも来ていいことになっている。
ローズ・ガーデンと呼ばれる総硝子張りの温室をサロンとして開
放しているのだ。
そこに置かれている調度類は、非常に値が張るものだと一目でわ
かる。
外部生は興味津々で覗きに来て、あまりにも高価な家具が点在し
ていることに恐怖を覚え、二度と来ない。
内部生でも、家の格が違えば、やはり高価な家具は恐ろしく映る
らしく、なかなか寄ってこない。
必然的に普段から使い慣れている者のみが使用することになる。
51
色とりどり、様々な薔薇を植え、根を傷つけないように人が歩く
ための板張りの通路を作り、さらにちょっとした東屋風のテーブル
セットを点在させている。
四季咲きの薔薇をアーチにし、その薔薇の門の奥に私専用の場所
がある。
心配性の八雲兄が傷が痛んだ時に人目を気にせずに休める場所を
と、入口からも外側からも見えにくい薔薇に囲まれた一角にイタリ
ア製のカウチとソファセットを用意した。
気になるところは、これらのセットは私が卒業した時に撤収させ
るのだろうか、それともそのまま放置するのだろうかということだ。
大神にサロンに行くからと告げ、用事を済ませてからローズ・ガ
ーデンに向かう。
いつも通り、傍には疾風がいる。
在原と橘もサロンで待ち合わせだ。
温室の扉を開けると、馥郁とした香りが漂う。
強すぎないその香りは、野薔薇から品種改良したものだろう。
かかる声に会釈で返し、奥へと向かう。
﹁ああ、相良さん﹂
さも偶然だと言いたげに大神が声を掛けてくる。
﹁ごきげんよう。ご一緒しても?﹂
諏訪への説教タイムは、呼び出して頭ごなしに言うよりも、ごく
自然にした方がいいのではないかという大神の言葉に従い、茶番を
演じることになった。
﹁ええ、どうぞ。いいよね、伊織?﹂
﹁⋮⋮⋮⋮⋮⋮﹂
頬杖をつき、茫洋と遠くを見ている諏訪は何も聞いていない。
あまりにも腑抜けたその様子に、大神も溜息を吐く。
ゲームではこれが1年間続くのか。
52
よくもまあ、友達続けたな、大神よ。
心底感心した私は、爆弾を落とすことにした。
﹁おめでとう、諏訪。詩織様に振られたそうだな﹂
私の一言に、諏訪だけでなく、声が聞こえた人達全員の顔色が変
わる。
﹁お前に何がわかるっ!!﹂
腑抜けていた諏訪の表情に生気が戻り、だんっとテーブルを叩く
と私に向かって怒鳴りつける。
﹁⋮⋮わからないな﹂
﹁だったら!﹂
﹁せっかく、詩織様が下さった最大のチャンスを、何故活かそうと
はしないんだ?﹂
﹁⋮⋮は?﹂
あまりの衝撃に正気に戻ったはいいが、今度は私が言っている言
葉の意味が理解できずにきょとんとしている。
間抜け顔も以外に可愛いじゃないか、このイケメンめ!
﹁詩織様に振られたからといって、何故、失恋に繋がるんだ?﹂
あのゲームをしていて、実に疑問だったことをぶつけてみる。
﹁詩織が、俺を弟だと⋮⋮﹂
﹁そこだ。詩織様が言ったから、諦めるのか? 実際、諦めきれて
ないだろう? そもそも、詩織様を慕う気持ちはお前自身のものだ
ろう? だったら、人に何か言われたくらいでブレるな﹂
﹁俺は⋮⋮﹂
﹁詩織様が何を言おうと、お前の気持ちはお前のものだ。自由に想
っていて構わないはずだ﹂
﹁⋮⋮いいのか? 俺は、詩織を好きでいても⋮⋮﹂
﹁例え詩織様でも、お前の気持ちをとやかく言う筋合いはないな﹂
私の言葉に、光明を見出したとばかりに表情を輝かせる諏訪と、
53
何を言い出すんだと顔を顰める大神。
言いたいことはわかるが、私に頼んだ時点で己の判断ミスを悟る
がいい。
私が大神に頼まれたのは、諏訪を正気に戻して元気になるよう仕
向けることだ。
内容に関しては、別に指示されたわけじゃないし。
﹁そう、か⋮⋮そうか!﹂
瞳に輝きが戻り、頬に血の気がさす。
かつての諏訪に近づきつつある。
﹁しかしな、ここで問題がある﹂
﹁え?﹂
﹁詩織様と両想いになれるか、という問題だ﹂
問題点を指摘すれば、即座に萎れる諏訪。
なんか、こういうおもちゃが相当昔にあったような気がする。
前世の父親がお花の形の動くおもちゃを持っていたが、踊るのと
萎れるのと動くパターンがあった記憶がある。
﹁当然、このままでは無理だが、ヒントは詩織様自身が下さっただ
ろう? 弟としか思えない、と﹂
﹁⋮⋮弟⋮⋮﹂
﹁一般的に弟の定義は何だと思う? 血の繋がりがあり、常に傍に
いる年下の男、だろう?﹂
私が訪ねると、諏訪が悔しげに私を睨む。
言い返せないだけに悔しいらしい。
﹁諏訪は、詩織様の傍にいすぎたんだ。卒業式の時に言っただろう
? あまり傍に侍るなと﹂
﹁っ!? あれは、そういうことだったのか!﹂
﹁無駄に終わったようだが、そういうことだ。それだからこそ、活
かせることがある﹂
目を瞠った諏訪が、今度は顔を顰める。
私の言った言葉の意味に気付かなかった己の不甲斐無さを省みて
54
いるらしい。
今更無駄なことだが。
﹁諏訪、自分の想いを諦める気はないのだろう?﹂
﹁もちろんだ﹂
﹁では、私の言うとおりに動けるか?﹂
﹁そうすれば、俺は詩織の隣に立てるのか?﹂
﹁絶対に、とは言えない。想いが届かないこともあるだろうし、諏
訪自身の気持ちが萎んでしまう可能性も否定できないからな。だが、
このまま何もしないよりかは、確実に確率が上がるとは言える﹂
﹁相良の言うとおりに動く﹂
﹁わかった。まず、諏訪の情報を完全に詩織様に伝わらないように
コントロールしろ。詩織様から諏訪伊織という人間の存在を一度、
完全に消してしまうんだ﹂
﹁詩織から、俺を、消す!?﹂
﹁弟だった諏訪伊織を消す。それと同時に、詩織様が知らない諏訪
伊織という人間を育て上げるんだ、自分自身でな﹂
﹁俺自身で俺を育てる⋮⋮具体的には?﹂
﹁過去の諏訪伊織は、詩織様しかいない盲目的なところがあった。
だから、広い視野を持って、誰にでも平等に接することができる大
人の男を作り上げる。諏訪には父君といういいお手本がおられるだ
ろう? 諏訪家当主として相応しいふるまいをなさる父君から色々
学ぶべきことがある。もちろん、女性の扱い方も覚えるべきだ﹂
﹁だが、俺は⋮⋮﹂
﹁他の女性と接することで、詩織様の素晴らしさを再認識できるぞ﹂
﹁⋮⋮やるっ!﹂
決意に満ちた表情で即答する。
簡単に乗せられるとは、意外と犬気質だったんだな、諏訪は。
ゲームでは俺様キャラだったから、ここまで犬だとは思わなかっ
た。
﹁相良!﹂
55
がしっと私の手を両手で握りしめ、諏訪が私の名を呼ぶ。
﹁これからはお前のことを師匠と呼ばせてくれ﹂
﹁嫌だと言っても呼ぶつもりでしょう?﹂
﹁ああ。誰も諦めろとしか言わなかった。お前だけが俺の気持ちを
認めてくれた。お前は本当にすごい人間だ。相良の助言は、俺に必
要なものばかりだ。何でも言ってくれ。俺が成長するためにも、お
前に従おう﹂
言うんじゃなかった⋮⋮。
ゲームでうじうじしてるし、今もうじってたから、鬱陶しくなっ
て言ったけど、言ったら言ったで暑苦しくて鬱陶しさが倍増した。
後悔先に立たずってこのことか!
﹁⋮⋮では、今ひとつ。タイムリミットは2年後だ。今年20歳に
なられる詩織様の婚約は大学卒業とほぼ同時だろう。それまでに隣
に立てるまで成長しなければ意味がない﹂
﹁わかった。具体的に何をすればいいのか、父を見てこようと思う。
今日はこれで失礼させてもらうが、また相談に乗ってくれ。じゃ﹂
おまけにぎゅっと手を握りしめた諏訪は、慌ただしくサロンから
去って行った。
微妙な沈黙があたりを支配する。
諏訪の豹変具合に誰もついていけなかったようだ。
だが、私は清々しい気持ちで諏訪を見送ることができた。
決して鬱陶しい存在がサロンから消えたからではない。
﹁⋮⋮相良さん⋮⋮﹂
どうしてくれるのと言いたげな声がかけられる。
﹁条件は満たしたのですが、何か問題でも?﹂
﹁問題だらけでしょう!? 伊織をあの人から引き離したかったの
に、何故﹂
﹁引き離しましたが?﹂
56
﹁思い切るように言わずに、彼の想いを肯定したじゃないですか?﹂
﹁肯定しなければ、諏訪は早晩壊れましたよ。それは誰も望んでは
いない結果だと思いますが﹂
私の指摘に大神は言葉に詰まる。
﹁ですが、他の方法が⋮⋮彼女に思いを残されては⋮⋮﹂
﹁近いうちに、諏訪の想いは醒めます。硝子のようにヒビが入った
想いを衝撃に任せて割ってしまえば、心は壊れる。だけど、一度、
真綿にくるんで衝撃を殺してしまえば、ゆっくりと欠片が零れ落ち
ても心が壊れることはない。諏訪は詩織様以外の人を受け入れるこ
とを選んだ。詩織様しかいなかった世界に他の人を徐々に受け入れ
ていけば、そのことに対応することに追われ、壊れた欠片に気付く
ことはない。気が付けば、良き思い出になっているでしょう﹂
﹁⋮⋮そこまで考えていたんですか﹂
茫然としたように大神が呟く。
今思いついたことであって、別にそこまで考えていないのが事実
だ。
だが、都合がいいので黙っておこう。
﹁私の引き受けた役目は終わりました。あとはそちらで﹂
立ち上がり、大神にすべてを丸投げする。
この立ち上がるという動作が、存外難しいのだ。
ことさらゆっくり動かねば、皮膚が突っ張って痛い思いをする。
立ち上がってから歩き出すのも少しばかり苦労する。
それを知っている疾風が、いつものように傍に近づき腕を差し出
す。
最初の一歩のための杖代わりだ。
﹁静稀、誉。待たせてすまない。ここでの用は終わったので、帰る
ことにしよう﹂
一歩、足を動かし、声を掛ける。
﹁そうだね、帰ろうか﹂
在原が頷き、橘が疾風とは反対側に立つと、私の腕を取る。
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﹁せっかくだから、車寄せまでエスコートさせてもらおうかな﹂
冗談っぽく言いながら、手助けをしてくれる。
それに笑い返しながら、私は彼らと共に歩き出した。
58
8
面倒臭い問題がひとつ解決して、学生生活は晴れやかになった。
諏訪が落ち着きを取り戻してくれたことで、ようやく日常的な平
穏が取り戻せたような気がする。
中間試験も無事終わり、今回も1位を取れた。
さすがに満点は無理だけど。
家でしっかり勉強してますとも。
所謂チートなんてありえないし。
一度勉強したところで、何度も復習していくと、抜け落ちていた
部分が補足されてよりわかりやすくなってくると言えばいいのか。
前世の時は全然わからなかったとこも、今なら説明聞いて納得で
きるし。
なんで繰り返し復習しなかったんだ、前世の自分! そうしたら、
もうちょっといい大学に入れたかもしれないのに!! と、今頃に
なって思ってる。
後悔先に立たずって、ホントだよね。
諏訪も本調子に戻って、今回は2位に返り咲き。
前回の成績は、真剣な表情で聞かないでほしいと頼まれた。
聞いてみたい気もするけれど、聞いたら聞いたで心臓が痛いこと
になりそうなので、聞かないと約束した。
梅雨に入り、少しばかり体調が悪い。
古傷になった事故の後遺症というべきか、全身がずくずくと鈍く
痛む。
顔色が悪いと、事情を知る人たちが心配して声を掛けてくるので、
そうそう具合が悪い様子を見せられないし。
なるべく学校は休みたくないので、少しばかり困ってしまう。
59
心配してくれるのは非常にありがたいのだが、声を掛けられる度
に諏訪と疾風がつらそうな表情になるのでどう対応していいのかわ
からなくなってしまうのだ。
そんな梅雨空のある日、一通の招待状が手渡された。
﹁⋮⋮諏訪、これはどういうことでしょうか?﹂
真っ白な、純白とか雪白とか言ってもいいほど白い封筒が手の中
にある。
手渡してきたのは諏訪であり、送り主は諏訪の母君だ。
﹁ぜひ母が相良と話をしたいので、お茶を飲みに来てくれと言って
いる﹂
﹁全力でお断りしたいと思います﹂
自分に正直に答えると、諏訪はむっとした表情を浮かべる。
﹁お茶ぐらいいいだろう?﹂
﹁甘いな、と言ってもいいですか?﹂
たかがお茶会、されどお茶会。
有閑マダムはお茶会でとんでもないことを企画し、実行している
のだ。
お茶会をなめてはいけないと言っておこう。
﹁だが!﹂
﹁言っておくが、諏訪。お茶会とは魑魅魍魎が跋扈する恐ろしいモ
ノなのだというのは認識していますか? うっかりお茶会などに出
て、その場で君の婚約者に私が決まってしまったらどうするつもり
か?﹂
親というモノは、子供の希望というモノの斜め下を走り抜けて勝
手に現実を押し付ける存在だ。
ついうっかりは命とりなのだ。
﹁それは、困る!﹂
﹁ならば金輪際持ってくるな。全力で拒否って粉砕してしまえと申
し上げましょう﹂
60
﹁相良の言葉は全く持って正しいと今更ながら再認識した。やはり、
師匠だな。お前の言葉に従おう﹂
はたから見れば、何のコントかと思ってしまうが、本人たちは至
って真面目だ。
﹁⋮⋮これ、どうしようか⋮⋮﹂
諏訪が私の手の中にある招待状に視線を落とす。
﹁もらってしまったものは仕方がない。今回は出席するしかないで
しょう。とりあえず、母君の言葉に迂闊に反発しないことをお勧め
します。全部聞き流しておくように。あからさまに聞き流している
という態度を貫いてください。私が対処します﹂
﹁わかった。肝に銘じる﹂
真面目な表情で会話を続けた後、2人揃って白い封筒を眺め、深
く溜息を吐く。
やはり御大が出て来たか。
一筋縄ではいかない諏訪の御母堂をどうするか、ほんの少し、唇
をかみしめ考え込んだ。
***************
数日後、私は指定された時間に諏訪本家の御屋敷に伺った。
本日のお召し物は、江戸小紋。つまり、御着物である。
正式な外出の際は和装にしているのだ。
通学では男子用の制服だが、本来女性がパンツ姿というのは公式
では認められない。
かといって、あの傷を人目に曝すのはいくら私でもかなりの勇気
がいる。
61
正装として認められ、なおかつ無理なく傷を隠せる姿というのが、
考えた末に着物に辿り着いたというわけだ。
好都合なことに、現在私は駆け出しの友禅デザイナーである。
自分がデザインした着物を人前で着る事に不自然な点はない。
それ以外の着物を着ても、おかしいものでもない。
なぜなら、私はまだデザイナーとしては駆け出して、作品数はわ
ずかだ。
それに、相良は代々続いた旧家である。年代物の着物など、それ
こそ博物館をひらいてもいいほどにある。
着物であれば、ゆっくりとした動作に見咎める人はいない。
本来ならばひとりで着ることができる着物だが、いまだに不自由
な右手の為に帯を結ぶのを手伝ってもらっている。
催しごとに着物にもルールはある。
華やかな場には華やかな色合いや柄の着物がよく、地味な柄や色
合いはちょっとした訪問に向いている、など。また、帯の結び方も
いろいろと種類があり、季節ごと、年齢ごと、または格式の程度や
着物の柄によって結ぶ形が変わってくる。
未成年である私は、色々と遊べる結び方があるので、ワザと型
を崩して結んだりすることもある。
襦袢や裾除けなども、場に応じて色や柄物などを選べたりする。
着付けは大変だが、着物というのは大変奥が深く、楽しいもので
あるとここに明言しよう。
本当は道着や袴の方が楽で好きだけど。
﹁まあ、まあ! ようこそおいてくださいました、瑞姫様。素敵な
御着物ですこと﹂
瀟洒な洋館である諏訪家の玄関で出迎えてくださったのは、諏訪
の御母堂であった。
本来ならば待合の部屋に通され、そのあとに茶会の会場へ案内さ
れ、亭主つまりホスト役の挨拶を受けるという流れになる場合が多
62
いのだが、無駄嫌いで有名な律子様は直接出迎えに来られたという
わけだ。
﹁今日はお招きくださいましてありがとうございます。律子様にお
かれましてはご機嫌麗しゅう⋮⋮﹂
﹁固い挨拶はなしね。無礼を承知で瑞姫様をお招きしましたこと、
お許しくださいな。さあ、参りましょう﹂
人の挨拶を途中で封じた律子様は、私の腕を取ると奥へと誘う。
諏訪本家の人々は、人の上に立つことをよく知っている人たちだ
と思う。
傍若無人とも思える振る舞いをしつつも、それが不快感を呼び起
こさせない。
洋館であるがゆえに草履を脱がずに済むのは、私としては非常に
助かる。
誘われるままに律子様に従い奥へと進む。
案内されたのは、陽当たりの良い小応接間、所謂サロンだ。
お茶会だと伺っていたのに、他のお客様の姿は見えない。
謀られたのだろう。
予想はしていたけれど。
﹁こちらにお座りになってね。寒くはない? 大丈夫かしら﹂
﹁お気遣いなく。何も問題はございません﹂
アルカイックスマイルを浮かべ、ソファに腰掛ける。
手土産はすでに渡している。
誰にかというと、メイドさんにだ。
律子様のお好みで、こちらに勤めておられる方の中で女性たちは
所謂メイド服を着ている。
白と黒のお仕着せは、萌えや浪漫を掻き立てることだろう。
前世の友人なら、彼女たちの姿を見て丼飯3杯は少なくともイケ
るだろう。
共に薄い本を作ってきた友人たちは今どうしているのだろうか。
気にしても仕方がないことだが、メイドさんを見てちょっと萌え
63
ながら思ってしまった。
うん。滾るより萌えだ、メイド服は。
メイドさんが用意したティーセットで律子様が紅茶を淹れる。
一杯目は主催者が。
それ以降は執事や使用人がお茶を用意するというのが、お茶会の
ルールのひとつにあるらしい。
お茶会は出されるお茶の種類によって作法が変わるため、理論よ
り身体で覚えろと言われる部類だ、私にとっては。
﹁大変良い香りですね。これは⋮⋮﹂
お茶の銘柄と原産国などを口にすれば、律子様は驚いたように目
を瞠る。
﹁香りだけでおあてになるとは、本当にすごいですわね。相良の末
姫様はお茶に通じていらっしゃるという噂は本当ですのね﹂
﹁お恥ずかしい限りです。幼い頃、兄の執事になるのだと張り切っ
てお茶の勉強をいたしましたもので﹂
大好きな兄の傍に一番長く居られる方法として、執事が最適だと
思いこみ、幼少時にお茶の猛勉強をした瑞姫は、割と極端な性格を
していると自分でも思う。
前世の記憶が戻った今、それ以前のこともきちんと自分のことと
認識はしているが、たまに他人事のような感覚に陥ることもある。
知識は知識として、きちんと身についてはいるのだが。
﹁皆様、大変仲が宜しいと伺っておりますわ﹂
﹁いえ、普通だと思います﹂
私の兄姉は破天荒な性格をしている。
姉2人は上から女帝・女王と陰で呼ばれているし、兄たちは氷結・
苛烈・冷徹な貴公子と二つ名で呼ばれている。
彼らが末っ子に非常に甘いというのは割と有名な話であるため、
非常に仲が良いと思われている。
そのあたりを差っ引けば、ごく普通の兄弟だと思う。
諏訪の御母堂、律子様は、当たり障りのない話題を振り、こちら
64
の反応を見定めている。
それをのらりくらりとかわして煙に巻きながら、逆に律子様の反
応を眺めやる。
﹁ああ、そう。先日から元気がなかった伊織が急に元気になって、
聞けばあなたのおかげとか﹂
にこやかに、晴れやかに、見事な笑みを作った律子様が本題に入
る。
﹁心当たりがありませんが﹂
﹁ふふふっ ごまかしても無駄ですわ。ぜひとも主人共々お礼を申
し上げなくてはと思っておりましたの﹂
笑顔のまま律子様が戸口へと視線を向ける。
全く嫌な予感しかしないのは何故だろう。
扉が開き、スーツ姿の男性が入ってくる。
すらりと背の高い、英国紳士風な男性は、DNAを調べなくても
諏訪とよく似ていた。
諏訪がよく似ている、が、正解なのだろうが。
血の繋がりとは非常に厄介で怖いモノである。
さて、どうしたものかと考えながら、私は挨拶をするためにゆっ
くりとソファから立ち上がった。
65
8︵後書き︶
週末は、ムーン様の方の作品をあげるため、更新をお休みします。
感想を書いてくださった皆様、ありがとうございます。
読ませていただいておりますが、お返事が追い付かず申し訳ありま
せん。
話を進ませることを優先させておりますので、なかなか時間が取れ
ないのが現状です。
お許しくださいませ。
66
9
私にとっては突然の、先方にとっては予定通りの、諏訪の父君の
登場に動揺を隠し、平常心で立ち上がる。
﹁本日はお招きくださいましてありがとうございます、諏訪様﹂
フルネームは何と言ったか⋮⋮。
諏訪家の名前は、﹃織﹄の一文字が入ることになっている。
詩織様と諏訪伊織がそうだ。
律子様は嫁いでこられた方だから、この限りではない。
ああ、そうだ。
斗織で﹃とおる﹄様とお呼びするのだった。
名前を間違えるのは相手を認識していないということで、失礼に
あたるというより、侮辱と取られることもある。
パーティに出席する場合は、出席者の顔と名前を完全に一致させ
て行かないと、大変なことになる。
御呼ばれした場合も同じだ。
思い出してよかったよ。でも、呼ばないけどな!
﹁いや、こちらこそ。予定もお伺いせず、直接お招きして悪かった
ね﹂
悪いとは当然思っていないにこやかな表情で父君は頷くと、私に
座るように促す。
家に送られた招待状なら、家長判断でお断りできるのだが、直接
本人に手渡された招待状だと他の者がお断りできないルールがある。
そして、送った本人が招く相手よりも立場が上の場合、都合が悪
くても断れない。
こちらが家の格で同格、もしくはそれ以上だとしても、相手が当
主で目上ならば、未成年の私には断る術がない。
なんせ、招待状を渡したのが次期当主の諏訪伊織だし。
67
なので、形ばかりの謝罪を父君はしたのだ。
父君の言葉に私は曖昧に笑って濁す。
普通なら﹃そんなことはありませんわ、光栄です﹄とか、﹃ご招
待を嬉しく思っております﹄とか答えるんだろうけど、別にそんな
こと思ってないし。
何も答えない私に父君は苦笑する。
彼らに私を咎めることはできない。
私の都合も聞かずに強引に招いたという一点で。
﹁諏訪伊織様のご両親が、私に何のご用でしょうか? 親しい者を
招いての気の置けないお茶会を開くとまで仰って﹂
私を招く理由も嘘つきましたよねーとにこやかに笑ってみる。
私がしっかり怒っていることを悟ったご両親は、実に微妙な表情
を浮かべて笑みを浮かべた。
﹁あら、まあ、素敵。予想以上でしたわ﹂
﹁⋮⋮だから、言っただろう? 瑞姫嬢は一筋縄ではいかないと﹂
夫婦で何やら意味不明な会話を交わしている。
どうやら、私が何も知らずに招待されると思っていた律子様と、
そうではなくあらかたの予想をつけてやってくると思っていた斗織
様とで話し合いがなされていたとみるべきか。
﹁すまないね。君と直接話をするためには、この方法しか思いつか
なくて﹂
﹁パーティでお招きしようと思っても、相良様は即座にお断りなさ
るんですもの。伊織は悪くないのよ?﹂
﹁伊織様のことはわかっております。祖父の判断もそれが正しいと
理解しております。今、この時期に私と接触する必要が何故あるの
でしょう?﹂
素直に謝罪した方が良いと判断した父君と母君は理由らしきこと
を言いながらこちらの表情を窺っている。
面接・尋問、そんな雰囲気だ。
何を知りたいのかわからないが、そちらがそのつもりなら受けて
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立つしかないだろう。
背筋を伸ばし、ふたりにまっすぐ視線を向ける。
視線を逸らさない強さで、逆に相手のしぐさからすべてを読み取
るつもりで、まっすぐに。
不躾だろうがなんだろうが、構わない。
手の内を明かすつもりがないのなら、わずかな情報から読み取っ
てやるともさ。
社会人経験者を舐めるなよ。
﹁まずは、うちの分家のことだ。君が相良を抑えてくれているのだ
ろう?﹂
﹁心当たり在りませんが。何のことでしょうか?﹂
微笑むのではなく、きょとんとした表情を作る。
﹁そう来るのか。君が分家に対して無関心を貫いてくれているおか
げで、実際、私たちは助かっている。あの時の相良家の怒りはすご
かったからね﹂
﹁何度謝っても謝り足りないと、そう思っているの。年頃の御嬢さ
んにあんな酷い傷跡を⋮⋮うちの愚息に責任取らせて⋮⋮というこ
とでは到底無理だということも承知しているわ﹂
気丈な諏訪の母君は、事故当時、一番に駆けつけて私の怪我を見
ている。
あの怪我を見て私は助からないと思い、諏訪と詩織様を打ち据え
て、私が亡くなったら一緒に死になさいとまで言ったらしい。
手術が終わるまで手術室の前で微動だにせず、握りしめた掌は爪
で傷付けられ血塗れになっていたと後から兄たちに聞いた。
あの律子様を見ているから、諏訪本家への怒りは治まり、何の対
応もなかった諏訪分家へと怒りが向けられた。
とりわけ相良分家は、主家を守るために存在する分家が本家を矢
面に曝し、さらに他家の本家の娘にすべてを肩代わりさせようとし
たと、それこそ根絶やしにしたいと諏訪分家憎しを顕わにしていた。
事実、取引があったところはすべて手を引き、他の会社へと移行
69
し、また、取引会社へも手を引くように耳打ちしていったらしい。
諏訪本家にはそのままで、分家への制裁を行ったため、分家のみ
一気に業績悪化したがそれを隠そうと奔走して粉飾して誤魔化して
いるため、今までそのことに本家が気づかなかったのかもしれない。
これも兄に聞いたことだが。
﹁そのお話を持ち出されると、私としては非常に困るのですが⋮⋮
とりあえず、普通の生活ができるようになりましたし。伊織様も良
き学友でございますし﹂
普通の生活ができるようになっても、傷は完全に癒えてはいない。
できれば思い出したくないのだと、言外に匂わせれば、わずかに
律子様の視線が落ちる。
﹁相良の者が何かご迷惑をおかけしているのでしたら、申し訳ござ
いません。祖父に申して、次第を確かめて対処させていただきます﹂
﹁いや、それは大丈夫だ。相良家に瑕疵はない。あるのはこちらの
方だから。羨ましいほどに相良家は一族の統率がなされているね。
いや、分家に慕われぬ本家が悪いんだろうが﹂
自嘲した斗織様の言葉に、私は引っ掛かった。
分家の対応。
分家は常に本家を立てる。
それでいながら、本家のスペアであることを要求され続ける。
本家を守りながら、代わりに立てる者を育て続けなければいけな
い。
それは、どの家でも同じことだ。
本家の子供は、何をおいても守らねばならないと訓えられて育つ。
おそらく、詩織様もそうやって育てられたはずだ。
諏訪が詩織様に恋心を抱いたのは、詩織様が常に諏訪を一番に考
え、理解し、守ろうとしてきたからなのかもしれない。
だとしたら、あの時、詩織様の行動は⋮⋮。
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諏訪御夫妻の会話は、私の耳を素通りしていく。
何を言われ、何を応えたのか、記憶に刻めない。
今、私が考えているのは、2年前のあの当時の詩織様の行動だ。
何故あの時、詩織様はわざと私の名前を呼んだのか。
てっきり、自分から私へ標的を変えさせるためだと思っていたけ
れど、あれは違うのかもしれない。
傍にいた諏訪から私へあの男たちの意識を逸らすためだったとし
たら?
それならば、完全に成功した。
男たちは諏訪を突き飛ばし、私を追いかけた。
諏訪も無傷とは言えなかったが、せいぜい打ち身と擦り剥いたく
らいで、怪我ともいえないほどの軽傷で済んだ。
自分を守るために私を犠牲にしたというより、諏訪を守るために
私を犠牲にしたと考える方が、淑女の見本と言われた詩織様の行動
としては納得がいく。
高校生は、それ以下の子供が思っているほど大人ではない。
社会経験はないし、視野も狭い。
知っているのは画面越しの世界だけだ。
人との駆け引きなど、せいぜい学校の中だけで、海千山千の大人
たちとやりあえるほどの経験など積めるはずもない。
大学生になった今としても、さほど差はない。
男であれば会社経営の経験を積まされるが、女であればそれはむ
しろ避けられる。
その中で、分家の娘として本家の諏訪を守るつもりであれば、自
分の名を落とすしかないだろう。
それと同時に、私への罪滅ぼしをするつもりであれば、相良に入
ろうと思うかもしれない。
諏訪も私も同時に守ろうとして、あの手を取ったのなら、とんだ
世間知らずの悪手だ。
それこそ、捨て身で諏訪を守りたかったのだろうが、詩織様が名
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を落とせば傷付けられるのは詩織様ではなく諏訪だ。
詩織様を守りたくて仕方がない諏訪が、心身ともにズタボロにな
る。
自分から遠ざけようとして、あえて振った詩織様は、そのあと諏
訪がどうなるかなど一切考えなかったのだろう。
詩織様を守れずに、拒絶された諏訪は、それでも守る方法を探し
てああなった。
うん。やっぱり面倒臭い。
諏訪家は私にとって鬼門だな。決定した。
他人の恋愛ごとに巻き込まれるのは、無駄に体力を消耗する。
結論づいたところで、意識を諏訪御夫妻に戻す。
話題は今どうなっているのだろうか。
﹁⋮⋮ところで、ひとつ聞いてみたいのだが﹂
あ。ちょうど話題が変わったところか、ありがたい。
﹁何でしょう?﹂
﹁あのどん底まで落ち込んでいた愚息を立ち直らせた方法をね、聞
いてみたいと思って﹂
楽しげに笑いながら、斗織様が言葉を紡ぐ。
﹁今では学校が終わると会社に直行して、私の仕事ぶりを見ている
のだよ。本当に熱心に。面白くて、仕事を1つ任せたら、これが割
と使える。もちろん、高校生にしてみればという意味でだが、しか
も、私のやっていることをそっくり真似しているしね﹂
﹁⋮⋮そうですか﹂
﹁まあ、これから先、私の真似では使い物にはならないがね。今の
段階でなら、これで十分すぎるほど優秀だと言える。だから、あの
落ち込み具合を一気に引き上げて、ここまでにした君の手腕を聞か
せてもらえないかと﹂
﹁そうなの。私の用事も進んで引き受けるようになって、助かって
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いるのよ。どんな魔法を使ったのか、教えてくださる?﹂
﹁大したことは何も。大神様に、詩織様に振られて落ち込んでいる
ので何とかしてほしいと頼まれましたので、詩織様に認めてもらえ
るような大人の男になればいいと申し上げただけです。幸い、伊織
様にはお父様といういいお手本がいらっしゃいますし。女性の扱い
方に関しては、お母様の御傍で勉強させてもらえばよいと﹂
とりあえず当たり障りのないところを正直に答える。
まさか本当に答えるとは思っていなかったのだろう。
そして、その内容が意外過ぎたのか、おふたり揃ってぽかんと口
を開け私を見た。
ふ。勝った!
表情を崩さないまま、私は優越感に浸る。
諏訪御夫妻を呆然とさせるなど、そうそうできる事ではないだろ
う。
先手を取った気分だ。
﹁⋮⋮⋮⋮⋮⋮く⋮⋮﹂
斗織様が顔を歪ませる。
その一瞬後、斗織様も律子様も弾けるように笑い出した。
涙を滲ませての大笑いだ。
ここまで笑えば、気分爽快だろうと思えるほどに気分よく笑って
いる。
﹁見事だな! ここまで簡単にあの子を手玉に取れるなんて﹂
﹁あの子が、瑞姫様はすごいと言っていた意味がよくわかりました
わ!﹂
大受けだ。
いや、そんなに褒めないでくれ、照れるじゃないか。
内心で冗談を言いつつ、ふたりの反応を見守る。
﹁いやしかし、こう言ってはなんだが、瑞姫嬢と話をするのは非常
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に楽しいな。息子と同年代の女の子と話をしているというより、我
々と同年代の女性と話をしているようだ﹂
楽しげなその一言で、私はしまったと唇を噛みしめる。
そうして、気が付いた。
前世24年+今生15年=39歳
アラフォーかっ!!
確かに大サバ読んで同年代だ⋮⋮。
思わずよろりとよろめいて、ソファの座面に片手をつき、身体を
支える。
衝撃の事実だった。
落ち着いて見えるというのは、言葉通り老けて見えるだったとは!
﹁あなた! 高校生の女の子に、それはいくらなんでも失礼ですわ。
瑞姫様は凛然としていらっしゃいますけれど、可愛らしい御嬢様で
すわよ﹂
律子様が即座に窘めてくださったが、目の前の事実に立ち直れそ
うにもない。
年相応の振る舞いというのはどうすればいいのかわからない自分
が哀しい。
﹁あ⋮⋮すまない。決してそんなつもりでは!! 瑞姫嬢?﹂
常に泰然としている斗織様とは思えないほど慌てふためき、おろ
おろとしながら私の様子を窺っているが、悄然と項垂れて無視して
やる。
そこへノックの音がし、扉が開いた。
﹁こちらに父がいると聞いたが⋮⋮相良!?﹂
驚いたような声と共に諏訪が駆け寄ってくる。
﹁どうしたんだ、相良? 傷が痛むのか?﹂
私の肩に手をかけ、床に膝をついて顔を覗き込んでくる。
﹁いや、傷が痛んでいるわけでは⋮⋮少々、立ち直れないことを聞
いてしまって⋮⋮﹂
痛むのは心だと匂わせば、諏訪が両親を振り返る。
74
﹁相良に何を言ったんですか!? どちらですか!?﹂
意外なほどにものすごい剣幕だ。
﹁父か! 俺の師匠に何を言ったんです!?﹂
どうやら律子様が斗織様に視線を送ったらしい。
それで諏訪が斗織様の方に怒りを向けているようだ。
﹁すみません。気分がすぐれませんので、今日はこれで失礼させて
いただきます﹂
ちょうどいいタイミングで諏訪が入ってきてくれた助かった。
これ以上、諏訪の当主夫妻と腹の探り合いをするのは難しい。
﹁え、ええ。本当にごめんなさいね、瑞姫様﹂
諏訪の剣幕に驚きながらも律子様が了承してくれる。
おそらく諏訪の激情家なところは、律子様の血だ。
この母子はよく似ている。
﹁いえ。では、失礼いたします﹂
ソファから立ち上がり、一礼すると、扉に向かって歩き出す。
﹁相良! 送っていく!﹂
父親への怒りよりも、私を優先することにしたらしい諏訪が、私
を追いかけてくる。
小応接間を出て扉を閉めた私は、ほっと息を吐く。
﹁大丈夫か? 父が何を言ったのかはわからないが、済まないこと
をした﹂
﹁いや、諏訪のせいではない。が、少々傷ついたのは確かなので、
しばらくはお招きがあっても辛くて出席できないと思う﹂
﹁わかった。両親にはきつく言っておく。申し訳ない﹂
実に素直に謝罪してくる諏訪に、懐かれたものだとふと思う。
誰に似たんだろう、この犬気質。
そして、アラフォーは転んでもただで起きないというのは確かに
言葉通りだと納得してしまう。
﹁ここでいい。では、また学校で﹂
そう言って、私は諏訪本邸を後にする。
75
詩織様に確認しなくてはいけないことができたと思いながら。
76
10
誰でも一度は己の存在意義について考えたことはあるだろう。
何故、自分という自我があるのか。
何故、自分は自分なのか。
何のために、生きているのか。
これの方向性を間違えば厨ニ病まっしぐらだけれど。
私は今現在、その答えを探している。
何故、瑞姫の意識の中から﹃私﹄が現れたのか。
何故、前世の記憶が必要だったのか。
答えはまだ見つからない。
見つからない答えというモノは、世の中にはごまんとある。
何故なら、物事というのは両側面あるからだ。
側面じゃないな、多方面から見ることができる。
たった一つの出来事なのに、いくつもの視点からいくつもの答え
が出てきて、結局何が正しいのかわからなくなる。
何を言っているのかというと、詩織様のことだ。
詩織様の行動の意図は、詩織様本人にしかわからない。
だけれど、傍から見ればいくつもの捉え方ができる。
彼女を慕う者からの見方、私に同情する者からの見方、どちらに
も組しない者の見方。
諏訪本家に招かれてわかったことがいくつかある。
77
私の盲点だった分家の考え方、本家から分家への意思。
詩織様がいい人かいい人でないかなど、私にとってはどうでもい
いことだ。
彼女が何を考えて行動したかというほうが重要だ。
彼女の行動の結果、今の私の状況がある。
それに対して諏訪本家が重い腰を動かした、というのが先程の招
待の意味だろう。
私を見て、分家をどうするか決めるという。
もうすでに動いたのか、それともまだなのか。
八雲に会いたいとメールを送り、急いで相良本邸へ戻る。
﹁八雲兄上!!﹂
車寄せから玄関に入ると、迎えに出て来た八雲の姿を捉える。
﹁何をそんなに慌てているんだい? 僕のお姫様は﹂
﹁姫という冗談は後にしてください。諏訪家は動きましたか?﹂
のんびりと穏やかに笑う兄が差し出した手を掴み、間近で問いか
ける。
﹁⋮⋮そんな情報はまだ入ってないけど。動くと読んだのかい?﹂
﹁先程まで諏訪家に招かれていました。当主御夫妻がお茶会と謀っ
て私と直接接触してきました﹂
﹁何だって?﹂
穏やかに笑っていた八雲の表情が瞬時に凍える。
﹁おそらく、私を見て、分家の扱いを決めるのかと⋮⋮﹂
﹁それで?﹂
﹁途中で逃げ出してきました。兄上たちが掴んでいることを喋らさ
れてはたまりませんからね﹂
﹁まったく⋮⋮瑞姫の野生のカンには驚かされるね﹂
凍っていた表情が再び柔らかなものへと変わる。
78
﹁おいで。僕の部屋で話そう﹂
﹁あ。着替えてきますので、少々お待ちください﹂
﹁そのままでいいじゃないか。瑞姫の着物姿なんて滅多に見れない
し、似合ってて綺麗なんだから﹂
﹁兄上、そのシスコンは改めていただきたい。兄上と婚約してくれ
る奇特な女性が現れても妹を最優先するような男では、即座に見捨
てられますよ﹂
﹁僕以上に瑞姫を優先してくれる人を選ぶから大丈夫。蘇芳兄さん
がいい例だろう?﹂
私をがっつり抱え込むと、八雲はそのまま歩き出す。
﹁兄上!!﹂
﹁お兄ちゃんと呼んでくれなきゃ、お姫様抱っこで運んで、そのま
ま膝の上に座らせてあげてもいいんだけど?﹂
﹁断固抗議いたします。兄とも呼びません﹂
﹁まったく強情なんだから⋮⋮可愛い妹を可愛がる兄は正義なんだ
よ?﹂
﹁ただの変態です﹂
勝負は我にあり。
さすがに変態には堕ちたくなかったのか、八雲兄はあっさりと手
を放してくれた。
﹁残念だけど、時間がそこまで取れないんだ。ごめんね、瑞姫。お
まえの話次第では、すぐに動かなければならないだろうし﹂
﹁わかりました。では、このままで失礼させていただきます﹂
襖を開け、八雲兄の部屋に入る。
純和風の畳の部屋にパソコンなどが置かれているのが少々異様だ
が、広い部屋だ。
﹁ところで、何で友禅作家が自分がデザインした友禅じゃなくて江
戸小紋を着てるの? お茶会の御呼ばれだよね?﹂
私の為に座椅子を用意しながら八雲が着物を見て不思議そうに首
を傾げる。
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﹁⋮⋮お茶会なのに﹂
華やかな手描き友禅は、晴れやかな場によいが、小さな模様を染
める江戸小紋は落ち着いた雰囲気があり、訪問着にはよいがあまり
人が多いお茶会などには着ていかないものだ。
﹁この小紋、曾祖母様の若かりし頃のお着物だそうです。お祖母様
が以前、蔵に入っていたものを虫干しするときにそのまま出して私
にくださったんです﹂
﹁へえ。そんなに年季が入ってるようには見えないな⋮⋮って、話
を逸らさない﹂
きちんとセッティングした後、私が座りやすいように手を貸しな
がら釘もさす。
﹁招待状、諏訪の奥方様の手書きだったんです﹂
﹁ん? 普通、招待状はそうだよね﹂
﹁いえ。無駄がお嫌いな律子様は、面倒なこともお嫌いで、人が多
いお茶会の招待状は印刷か、他の者に代筆を頼まれるんです﹂
﹁なるほど。それは、わかりやすいね﹂
﹁ええ。招かれたのが私ひとりだというのは、すぐにわかりました﹂
﹁だから、江戸小紋?﹂
﹁そうです。ちょっとした嫌がらせです﹂
わかる人にはわかる、地味な嫌がらせ。
和装をなさらない律子様にはわからなかったようだが、ご当主の
斗織様はすぐにわかったようだ。
﹁さすがにご当主まで出てこられるとは、その時はわかりませんで
したが﹂
﹁なるほどね。だから、諏訪が動くと思ったんだ﹂
﹁はい。あちらの動き如何では、兄上たちが調べられたことを御祖
父様に⋮⋮﹂
﹁ちょうど先程渡してきたところだよ。瑞姫が諏訪家に呼ばれたこ
とは御存知だったから、中身確かめられたら動かれるかもしれない
な﹂
80
納得顔の八雲兄は、視線を庭へと流す。
﹁瑞姫には詳しく教えてなかったけど、酷い内容だったよ。事件が
起きる数年前から諏訪分家筆頭の当主は自分が任された会社の利益
を横領していたり、そのうち相良が手を引いて赤字転落したら粉飾
決済を始めたり、その間、ギャンブルにそのお金をつぎ込んだりし
ている。それから、詩織さん以外の子供が外にいるらしい。認知は
できないよね、あの当主は婿養子なんだし﹂
綺麗と評するに相応しい整った顔は、繊細でいても女性的ではな
い。
私とよく似ているという評判なので、私の顔は女性的ではないと
いうことか。
﹁ギャンブルでも大損で借金を抱え込んで、その負債を昇華するた
めに相良と縁づくことを考えたらしい。つまり、詩織さんを僕に宛
がおうと、ね。僕から相良の金を引き出して、負債に充てようとい
う考えだったようだ。まあ、詩織さんが僕のことを好きだというこ
とは昔から知ってたけど、勉強はそこそこできても頭が悪い子には
興味ないし﹂
何だろう。
﹃冷徹な貴公子﹄とか呼ばれてる兄が鬼畜に見える。
実は、冷徹じゃなくて鬼畜な貴公子だったのではないだろうか。
﹁ここで、普通の神経している御嬢さんなら、自分が傷つけた子の
お兄さんの婚約者になんか、到底なろうなんて思わないよね?﹂
ちらりと八雲兄が私に視線を流す。
色気ある眼差しと騒ぐ人もいるだろうが、正体を知っていればこ
れが色気だとは思わない。
八雲の正体は、ただのシスコン。
ゲームでのあの爽やかで穏やかでカッコいい八雲のイメージが今
はもう微塵もない。
私の純情を返してほしい。
かつての私なら、きっとそう思うだろう。
81
﹁ところがあの子は、本当に吹聴してるんだよねぇ⋮⋮瑞姫の姉に
なるのは自分だと。おかしいでしょう? 僕の妻じゃなくて、瑞姫
の姉だよ?﹂
﹁⋮⋮私もその件については色々噂を耳にしているが﹂
﹁自分が矢面に立って、瑞姫を守るつもりでいるらしい。僕の妹を、
加害者がだよ?﹂
思わず八雲の顔から目を逸らす。
見てはいけないものを見てしまった。
酷薄そうなとか残虐なとかいう言葉が似合いそうな笑みを浮かべ
るイケメンって迫力がすご過ぎる。
ぞっと身の毛のよだつ表情だった。
どんだけ詩織様が嫌いなんですか!?
嫌いっていう言葉が可愛らしく思えるほど憎悪しちゃってますか。
﹁いい加減、眺めてるだけも厭きたし。どうしてやろうかな﹂
﹁八雲兄上、一言、言いたいのだが﹂
﹁このこと、兄さんも姉さんも全員知ってるからね﹂
にっこりと穏やかで爽やかな笑顔を浮かべて八雲兄が言う。
﹁アナタ方、どんだけ末っ子が好きなんですか?﹂
﹁そうだね。瑞姫のためなら法律変えていいくらい大好きだよ﹂
なかなかに不穏な発言をさらりとしてくれたぞ。
﹁現法遵守でお願いします。違法行為を合法にしては困ります!﹂
﹁瑞姫はカンがいいね﹂
苦笑した八雲兄が私の頭をそっと撫でる。
﹁さて、もうそろそろ行かないと。瑞姫は部屋で休んでいなさい。
顔色が悪いよ﹂
﹁大丈夫です﹂
﹁ダーメ! 諏訪家でストレス抱えて来たんだろ? 今のおまえに
はストレスは厳禁だ。せっかく閉じた傷口が開いたらどうする?﹂
ちょっ!
今の﹃ダーメ!﹄は萌えを振り切って滾りそうになったっ!!
82
何で妹相手にそんな甘い声で言うんだ、兄よ!
滾ったおかげでストレス解消したって言ってもいいかな?
﹁東雲の女子の制服、よく似合ってたのに、ワザと男子用を着てる
のは、傷を見せないっていうよりもストッキングやレギンスなんか
で傷に負荷をかけないのと、傷口が開いたときに対処しやすいよう
に、でしょ? 姉さんから聞いてるよ﹂
﹁や、その⋮⋮﹂
﹁素直に言うこと聞かないと、運ぶよ?﹂
﹁わかりました。休みます﹂
脅迫されて、しぶしぶ頷けば、八雲兄の表情が渋くなる。
﹁抱き上げて運ぶのが罰になるなんて⋮⋮﹂
シスコン退散、であります。
﹁詳しいことがわかったら、メールでもいいので知らせてください﹂
﹁わかったよ。兄さんたちにも伝えておく﹂
﹁ありがとうございます。では﹂
パズルのピースを埋めていくように情報を少しずつ集める作業は
嫌いではない。
だけど、分析をするというところになると、やはり兄たちには到
底及ばない。
末っ子を猫可愛がりしてくれる甘い兄姉をありがたいと思いつつ、
私は自分の部屋に戻った。
本当に今日はとても疲れる1日だった。
83
11
今年の梅雨は長引くようで、今日も微妙に身体が重い。
降車場に並ぶ車の列もいつもより間隔がくっついているような気
もする。
車の乗り降りは、実はひとりですることがほとんどない。
大抵の場合は疾風が一緒に乗って、ドアを開けて降りる介助をし
てくれる。
雨の日であれば、誰かが大きめの傘で濡れないように扉付近に差
し掛けてくれ、車から降りれば別の傘を手渡してくれる。
実に至れり尽くせりである。
ありがたい話だが、それは時に苦痛でもある。
瑞姫には当たり前のことでも、﹃私﹄には異常なことであるから
だ。
いまだに﹃私﹄は、瑞姫が置かれた環境に慣れずにいる。
今日も車の扉が開けられ、傘が差し掛けられる。
なるべく早く降りなければ、相手も雨に濡れるし、風邪をひいて
しまうかもしれない。
そんな思いで鞄を手にし、車から脚を下ろす。
﹁おはよう、相良さん﹂
﹁⋮⋮大神様? おはようございます⋮⋮﹂
傘をさしかけていたのは、相良の人間ではなく、何故か大神紅蓮
だった。
﹁ああ、傘はいいよ。僕のに一緒に入っていけばいいから﹂
傘を差し出す手を何故か大神が断り、私の腕を軽く引き、自分の
傘の中に収めてしまう。
﹁君が濡れてしまいます﹂
﹁だが、こちらの方が安心するから。岡部もいないことだし﹂
84
そう言って、大神は私の歩調に合わせるようにゆっくりと校舎に
向かって歩き出す。
﹁相良さんとはいろいろ、ゆっくり話をしなければと思っていたん
だ。時間をもらえないだろうか?﹂
﹁必要ならば、予定を開けます﹂
﹁そう。ありがとう﹂
静かな声が降りてくる。
これが大神と小柄な女子生徒なら絵になるのかもしれないが、男
子用制服姿の長身の私ではどうにもBL方向に走っているような気
がする。
何しろ、熱い視線が送られてくるのはほとんどが女子生徒、それ
もお姉さま方からだ。
﹁⋮⋮諏訪の御宅に呼ばれたと聞いたけれど、どんなお話をされた
のか、伺ってもいいかな?﹂
ふと大神が話題を振る。
﹁律子様にサロンに案内された後、ご当主が来られて⋮⋮諏訪の話
を伺った。会社でいくつか仕事を任されたようですね﹂
﹁それだけ?﹂
﹁ええ。概ね、そのような話ばかりでしたが﹂
何を聞きたいのだろうか、大神は。
﹁八雲様と詩織嬢の婚約とか、諏訪と君の婚約に関する話は出なか
った?﹂
﹁いいえ。そのような話が出るわけないでしょう。相良が許すはず
がない﹂
﹁⋮⋮そう、か﹂
﹁大神様は何を気にされておられるのでしょうか? 私は今のとこ
ろ、どなたとも縁付くつもりはございませんし、兄は条件を付けて
精査している最中です﹂
﹁君は、誰かを好きになったりしないの?﹂
﹁⋮⋮⋮⋮誰を?﹂
85
何故、雨の中、大神と同じ傘に入って恋愛について論じなければ
ならないのだろうか。
目を眇め、大神を睨むように眺めやれば、こちらに視線を向けて
いた大神が視線を逸らす。
﹁大神様はどなたを好きになればよいとお考えですか? 私には、
友を愛することはできますが、誰かに恋することはできそうにあり
ません。そういう意味では、相良の者として失格ですね﹂
大神が答えを言い淀む間に、私は自分の答えを告げる。
﹁感情よりも理性が先行するタイプだから、かな? 諏訪とは真逆
だね﹂
﹁いえ。常に感覚が先行しております。兄には野生のカンで生きて
いるとまで言われましたよ﹂
﹁相良さんが? 野生のカン? 見えないけど⋮⋮﹂
余程驚いたのか、逸らされていた大神の視線が今度は凝視してい
ると言っていいほど据えられる。
﹁あの事故の時も、無意識に受け身の体勢を取っていたらしく、そ
のおかげで助かったと言われました。野生の感覚だと医師にも⋮⋮﹂
不本意な事実を告げると、大神が盛大に噴出した。
﹁ご、ごめん。全然見えないんだけど、野生なんだ﹂
懸命に笑いをこらえようとする姿は紳士的だが、こらえきれてな
いところが減点だ。
昇降口まで笑い続ける大神と共に歩き、ようやく屋根の下へと入
った途端、ちょうど胃のあたりに衝撃が走った。
﹁瑞姫ちゃん、おっはよーっ!!﹂
ミニマムサイズな少女が突撃してきたのだ。
﹁いたっ! いたたたたっ おはよう、千瑛。突撃したあと人の身
体を揉むのはやめてもらいたい﹂
﹁えー、やだよぉ。女の子の身体は揉むためにあるんだから!﹂
きっぱりと言い切る小柄な美少女の名前は、菅原千瑛。
学園七騎士の菅原千景の双子の姉だ。
86
可愛らしい外見とは裏腹に、かなりのオヤジが入っている。
おっさんではない、オヤジだ。
﹁菅原さん、人前でそういう発言はちょっと⋮⋮﹂
苦笑した大神が千瑛をやんわりと窘める。
﹁どういう発言? 女の子の身体は、男と違って筋力弱いから、負
荷がかかりやすいのでよく揉み解してあげないといけないんだよ﹂
私に抱き着いたまま、千瑛はきょとんとしたような表情を作って
大神を見上げる。
聞き手によって、どういう意味にでもとれる言葉を口にしては相
手をからかって遊んでいるのだ。
相手が大神や諏訪だとしても千瑛は怯まない。
むしろ嬉々としてやるだろう。
現に、大神は千瑛の言葉で絶句している。
﹁瑞姫ちゃん、私、なんか変なこと言った?﹂
言ってないよねーと大きな瞳が私を見上げ、同意を求めてくる。
﹁充分変だっ! ほら、瑞姫から離れろ。このオヤジめ!!﹂
追いついてきた千瑛と同じ顔の少年がぐいっと姉の襟を掴んで後
ろに引く。
﹁いたーっ!! ちーちゃん、乱暴! お姉ちゃんに何てことする
のー!!﹂
﹁誰がお姉ちゃんだ!? たまたま早く下界に降りただけだろう!﹂
幼さがまだ抜けない丸みを帯びた顔立ちの少年は、千瑛から弟扱
いされることと他人から可愛いと子ども扱いされることを極端に嫌
っている。
人見知りというよりも人嫌いの千景は、ゲーム中でも攻略の難易
度が高かった。
ゲーム設定では双子ではなかったし。
﹁おはよう、千景﹂
﹁おはよう。朝からこの莫迦がすまないな﹂
﹁いや。今日も朝から元気でつらいほどだ﹂
87
妙に千瑛に懐かれたことで、千景は私には普通に話してくれる。
むしろ、好意的だ。
なんせ鉄砲玉の姉を回収するには私の傍にいればいいと学んだか
らだ。
もしかしたら、自分と同じ被害者だという意識があるのかもしれ
ない。
今も同情的なまなざしを送ってくれている。
﹁大体な、何でいつも瑞姫を見たら突進していくんだ!? そして、
何故、抱き着く!?﹂
﹁だって瑞姫ちゃんがひとりなんだもん。それに柔らかくてあった
かくて気持ちいいんだもん。千景はそう思わない?﹂
﹁⋮⋮最初の言葉には頷いてやれるが、後半は無理だ!﹂
姉弟の微妙な会話が繰り広げられていく。
私がひとりって、大神が一緒にいるんだが、彼は無視か?
存在をあえて消しているのか?
﹁千景、すまないが先に行く。またあとで﹂
﹁おう﹂
ここでじっとしているわけにもいかないだろうと、千景に声を掛
ければ、頷く少年。
そしてふと気が付いた。
千瑛と千景の立つ位置が、大神の進路を阻んでいる。
大神が動けば、千瑛と千景も喧嘩しながら動いている。
私と引き離したいのか。
まさかな。
とりあえず、大神にも先に行くと声を掛け、そのまま教室へと向
かった。
教室に辿り着き、席に着けば、疾風がやってくる。
88
﹁今日は遅かったが、道が混んでたのか?﹂
私に異常がないか、ざっと視線を走らせ、心配そうに尋ねる。
﹁下で千瑛に捕まった。千景が回収していったと思うが⋮⋮﹂
﹁また抱き着かれたのか。菅原姉は何であんなに突進してくるんだ
?﹂
そう、まさに突進。
疾風の言葉は実に的確だ。
﹁そこに私がいるからだ、と、この間、言われた。今日は、私がひ
とりだからと﹂
﹁ひとりだったのか?﹂
﹁大神様に傘に入れてもらった。断れなかったので、仕方なく﹂
﹁⋮⋮わかった。雨の日は、部活の朝練は休むことにする。いや、
朝練自体出席するのはやめよう﹂
柔道部に所属している疾風は、週に2回、朝練に出るため登校が
別になる。
そんなときはこうやって部活が終わってから私の教室へやってき
て何事もなかったかを確かめるのだ。
すでに段持ちで、私の警護についている疾風は、部活にしかたな
く所属しているが試合に出ることはない。
疾風がやっているのはスポーツではないからだ。
だが、乞われて初心者に型を教えたりしている。
﹁部活動を行うのも学生の特権だぞ。私に左右されず、きちんと学
生生活を楽しめ﹂
﹁瑞姫の傍にいるのが、俺の一番大事なことだ。頼まれたからとい
って部活に入らなくてもよかった﹂
﹁⋮⋮疾風﹂
大型犬が拗ねると実に面倒臭い。
じっとりと恨めしそうな視線を投げかけてくる。
﹁もうじき1学期の期末試験だな。部活も休みになるから、しばら
くは一緒に行けるじゃないか﹂
89
﹁そうだな。瑞姫は今度も主席を狙うのか?﹂
もうじき試験で部活が休みだということを告げれば、嬉しそうな
表情に戻り問いかけてくる。
﹁狙ってはいない。ミスをなくす努力をするつもりだけど﹂
﹁そうか。在原がまた勉強を一緒にしたいって言っていたが、どう
する?﹂
﹁都合が合えばと答えておいてくれ﹂
﹁わかった。じゃあ、何かあればすぐに呼べよ﹂
授業の合間の休憩時間になれば必ず人の教室へやってくる男は、
上機嫌で自分の教室へ向かっていった。
疾風と入れ替わりに教室に入ってきたのは諏訪だった。
表情がやや暗い。
入学当初の再演かと、気付いた者たちがざわりとざわめく。
だが、今回はあの怨念めいた暗い空気は背負ってはいなかった。
﹁諏訪様、おはようございます﹂
何人かの女子生徒が諏訪に声を掛ける。
挨拶は大事だと思うが、あの諏訪に声を掛けるとは勇者の称号を
進呈したいほどだ。
﹁ああ。はやいな﹂
まるで重役出勤の返しに、ちょっとツッコミたくなってしまう。
あの時は、まるっと無視していたが、今回は答える余裕があるら
しい。
そのことにホッとした空気が漂っている。
真剣な表情で何か考え事をしているらしい諏訪は、自分の席に着
くなりノートを取り出すと何やら書き込んでいる。
思いついたことを書き連ねていく諏訪の表情がいよいよ険しくな
っていく。
そのたびごとにちらちらと、私を見る視線が増えてくる。
また、私に何とかしろと訴えたいのだろう。
90
本人が何も言わない限り、知らない顔をしたいのだが、いかがな
ものか。
ノートを閉じ、おもむろに立ち上がった諏訪が、まっすぐに私の
ところへとやってくる。
﹁相良、相談に乗ってほしい﹂
真剣な表情の諏訪と、興味津々な空気を隠せないでいるクラスメ
イト達。
﹁もうじき授業だ。合間の休憩では時間が足らないのだろう? 昼
休みなら応じよう﹂
﹁わかった。助かる﹂
ほっとしたように笑みを滲ませた諏訪は、先程とは違い余裕を取
り戻し席に戻る。
何の相談なのかわからないが、とりあえず聞くだけは聞いた方が
よさそうだ。
授業の準備をはじめながら、私は手短に昼食を摂る方法を考えた。
91
12
東雲学園の昼食は、家から持ってくるお弁当、カフェテリア、リ
ストランテがある。
もちろん、リストランテと言っても正式なものではないが。
学園内での支払いはすべて学生証で行う。
校内に現金の持ち込みは禁止されている。
何故かと言うと、コインや紙幣は雑菌だらけで不衛生だからとい
う理由だ。
誰が触ったかもわからないようなものを学園内に持ち込んではい
けないという驚くべき考え方に愕然としたものだ。
まあ、基本的にここに通っている坊ちゃん嬢ちゃんはカード払い
の方が慣れているので、違和感はないのだろうが、いやはや驚いた。
学生証にICチップが埋め込まれ、月締めで請求が家へと送られ
るのだ。
ちなみに、何故フレンチレストランではなくリストランテかとい
うと、授業の中に週1でマナー講座があるのだが、月1回は必ず食
事のマナーがあり、フレンチは年2回ほどは正式なものを食べさせ
られるので、食堂で食べなくてもいいだろうという方針なのだ。
羨ましいと思うことなかれ。
あれは、非常に苛酷な授業だ。
まず、好き嫌いは許されない。そして、残すことも許されない。
食物アレルギーを持つ人は、具材を変えて見た目はほとんど同じ
ものを出されるので、条件は一緒だと付け加えておこう。
一番恐ろしいのは、マナーが完璧になるまで、何度でも同じもの
を食べさせられるということだ。
懐石料理ならまだ何とかなるが、洋食系は一品の量が多い。
マナー完璧な人なら、すべて1回ずつで終わるから何てことはな
92
い。
﹃今日も美味しゅうございましたわ﹄とにっこり笑って生温かい
視線を周囲に向ければいい。
だが、何度やってもマナーが身につかない人は、もう駄目だと思
ってもテーブルに料理が置かれるのだ。
最初の内は面白がっていた外部生も、6月の3回目の授業ともな
れば料理を見た瞬間に涙目になり、9月の5回目を過ぎたころには
魂が半分遊離していくような表情になる。
食事のマナーも本格フレンチの他に、和食や中華、地中海料理や
北欧系もあれば、立食パーティなどもいろいろなパターンに合わせ
て用意されている。
食べることが苦行になるとは誰も思うまい。
まあ、そういう理由で、普段の昼食はそこまで重いものではなく、
気軽に楽しめるものにしておこうということでそれが選ばれたわけ
だ。
早く食べて教室に戻ろうと思った私が選んだのは、カフェのサン
ドウィッチである。
種類も豊富だし、天気がいい日はボックスに詰めて中庭で食べる
こともできるので、人気のメニューだ。
雨の中、そんな酔狂はやらないが。
疾風と共にカフェテリアへ行けば、先に来ていた在原たちが手を
上げて席が空いていることを教えてくれる。
トレイにコーヒーとサンドウィッチを乗せて彼らの対面へ座る。
﹁瑞姫、それだけで足りるのかい?﹂
乗せられた皿に視線を落とした橘が心配そうに問う。
﹁ああ、うん。これでも多いかなと⋮⋮﹂
﹁ダイエットが必要ないのに、その量は少なすぎると思うよ。せめ
てもう一品、サラダとかスープでもいいからつけておいでよ﹂
貴様は私のおかんか!? と、言いたいところだが、曖昧に頷く。
93
﹁あまり時間がなくてな。これからちょっと用がある﹂
﹁ねえ、それって大神と相合傘してたのとつながりある? 随分噂
になってるけど﹂
在原が不愉快そうに告げる。
﹁いや、ない。相合傘ってナニ? 車から降りようとしたら大神が
待ち受けてて同じ傘に入れられただけだが。どんな噂になってる?﹂
﹁⋮⋮ああ、そういうことか。いや、大丈夫。すぐに消える程度だ
ろうね。そのあとの菅原姉の突撃の方が話題になってるから﹂
濡れた手拭で手を拭いて、パンを摘まもうとした手が止まった。
元々なかった食欲が減退してしまった。
﹁千瑛のこと、悪く言われたりはしてなかった?﹂
﹁概ね好意的。というか、羨ましすぎるという方向性で⋮⋮抱き着
いて、しかも揉んだって聞いたけど﹂
﹁脇腹をね﹂
﹁⋮⋮そっちかぁ!﹂
残念そうに在原が唸る。
女子はBLが好きだが、男は百合が好きというのはあながち嘘で
はないようだ。
もちろん、二次元に限るが。
﹁セクハラ退散なのよ? 瑞姫ちゃんはもうちょっとお肉ついてふ
くよかになってもいいとは思うんだけど﹂
小さな手が伸びてきて、私のサンドウィッチを摘まむとしゃりっ
とレタスを噛む音がする。
﹁⋮⋮千瑛﹂
﹁うん。毒味完了。まあまあってとこかしら。食べても大丈夫よ、
瑞姫ちゃん﹂
にっこりと笑ったミニマム美少女が、2つめのサンドウィッチに
手を伸ばす。
﹁千瑛!! 人のを食べるな! 自分のがあるだろ、この食欲魔人
!!﹂
94
またしても千瑛の襟首を掴んでテーブルから引きはがした千景が
双子の姉を睨みつける。
﹁だって、瑞姫ちゃんがなかなか食べないから、毒殺を心配してる
のかと思って﹂
悪びれずに千瑛が弟に主張する。
一体、私はどういう世界に生きているんだろうか。
毒殺って普通ないはずだけど。
﹁悪い、瑞姫。またこの莫迦が迷惑をかけたな﹂
姉の不始末を潔く謝った千景が、自分のトレイからポタージュス
ープのカップを私のトレイへと乗せかえる。
﹁これは詫びだ。遠慮なく受け取ってくれ﹂
千景、できる子。
千瑛が絶対に何かやらかすと悟ってのオーダーなのか!?
どんだけ迷惑かけれらてきたんだ、不憫な子。
だが、食欲減退中の私にとってサンドウィッチよりもポタージュ
スープの方が胃が受け付けやすい。
まさかふたりしてそれを狙っていたというわけじゃないよな。
﹁ありがとう、千景。よかったら、ここで食事を摂っていかないか
?﹂
ポタージュスープを受け取るという形で、千瑛の行動を水に流す。
これが対外的に問題が少ないだろうことは明白だ。
﹁ん﹂
﹁苦しゅうない。隣に座ることを許すぞ、千景﹂
ちょっと躊躇う千景に、ちゃっかり私の隣に座った千瑛がぽんぽ
んと自分の隣の席を叩く。
﹁許さんでいい。むしろ、お前がこっちに座れ。瑞姫に迷惑かける
な、莫迦!﹂
むっとした様子で千景が千瑛を叱りつける。
このやり取りを在原と橘がぽかんとした表情で見ていた。
﹁や⋮⋮聞きしに勝る苦労ぶりだね⋮⋮﹂
95
人嫌いの千景というよりも奇行に走る姉を世話する苦労性の弟と
いう目で見る橘に、千景がばつの悪そうな表情になる。
﹁苦労は金を払ってでも経験した方がいいんだよ。橘君は知ってい
た?﹂
その苦労の元凶がけろりとした表情で問う。
﹁ことわざとしては知っているけど、苦労の内容は選びたいよね﹂
﹁確かにね。毒殺は嫌だもんねー﹂
苦笑した橘の答えに、全く見当違いのことを返す千瑛。
﹁君の中で私の毒殺説は決定事項なのかな、千瑛?﹂
一応、訂正しておかないと、また変な方向へ噂が転がってはたま
らない。
﹁瑞姫ちゃんを毒殺したら、全人類的損失だと思うけどねー。あ、
瑞姫ちゃん、いい匂いがする! それって、お香? ほら、千景も
匂い嗅いでみて!﹂
エステティシャンを目指す千瑛は、香りに敏感だ。
癒しの香りを探すのに夢中なのだと自分で言っている通り、他人
が纏う香りに即座に反応する。
それは、双子の弟である千景も似たようなものだ。
千瑛の言葉に誘われ、私の鎖骨付近へと顔を寄せる。
﹁ほんとだ。ミントとユーカリ? それから、ネロリかな?﹂
ミントとユーカリは殺菌と鎮静の効果がある。
あと、表面温度を下げ、体内温度を上げる効果も。
つまりは痛み止めだ。
﹁アロマだよ。じめじめして気分が億劫になるからね、気分転換に
いいかと思って﹂
﹁へえ、そうなんだ﹂
私の言い訳を千景は納得したように頷いてくれる。
相手が敢えて隠したいことを暴くような真似はしない。
﹁お香に興味があるなら、香席に参加してみるか? 祖母がたまに
香の席を開いているんだが﹂
96
﹁はいはーい! 行ってみたいです﹂
﹁素人でも参加させてもらえるのなら、興味はある﹂
菅原の双子は香席に興味を示す。
﹁わかった。祖母に聞いておこう。もしかしたら、席ではなくて稽
古という形で招待してくれるかもしれないな﹂
﹁わーいっ!! 瑞姫ちゃん、大好きー﹂
嬉しそうに笑う千瑛に、よかったねと無表情に千景が言う。
それを微笑みながら眺め、ポタージュスープを飲み干す。
時間も丁度良い。
﹁すまない。用があるので、今日は先に失礼する。皆はゆっくりし
ていってくれ﹂
そういうと、空いた皿を自分のトレイに乗せて席を立つ。
﹁瑞姫!﹂
﹁疾風も食べていなさい。ついてこなくても大丈夫だから﹂
慌てた疾風を引き留め、トレイを返すとカフェを出た。
教室に戻れば、自分の席で難しい表情をしている諏訪がいる。
﹁待たせてしまっただろうか?﹂
謝罪も兼ねて声を掛ければ、諏訪の表情が一変する。
﹁いや。こちらこそ無理を言った﹂
﹁どこで話をする?﹂
﹁ここでは迷惑になるか。廊下でいいだろうか?﹂
立ち上がった諏訪が廊下の窓を示す。
﹁了解した﹂
頷いて教室から廊下へと場を移す。
廊下を通る者はそう多くはなく、そして、騒がしいわけでもない。
人が話をする分にはもってこいだ。
諏訪は、廊下の外窓を開け、中庭の景色を眺める。
97
雨音がある程度の声を消してくれる。
﹁さて。用件を聞こうか﹂
窓の桟に凭れ掛かり、穏やかそうな表情を作って問いかける。
﹁父の会社で、今、ある程度の仕事を任されているというのは、聞
いているか?﹂
﹁ああ。諏訪のご当主に聞いた﹂
﹁そうか。なら、話は早い。そこで、納得のいかない資料を見つけ
た。詳しくは言えないが、不正に関するものだと思う。相良、おま
えならどうする?﹂
私に向けられたまっすぐな視線は葛藤で微妙に揺れている。
あくまで疑惑の段階で、証拠を掴んではいないのだろう。
そうして、その書類はわざと諏訪のご当主が紛れさせたものだと
推測する。
息子が、次期当主が、どう判断を下すか、試すつもりなのだろう。
﹁諏訪。その前に、明確にしておかなければならないことがある﹂
かつてやったことのあるゲームを思い出し、私は諏訪を見る。
﹁おまえが、諏訪の次期当主として、守りたいものはなんだ?﹂
﹁守りたいもの?﹂
﹁グループの体面か? それとも、利益か? グループで働く従業
員とその家族か?﹂
たった1つのことでも、見る角度によって対応も変わる。
自分の立ち位置を明確にしなければ、答えは変わる。
父の後を継ぎ、頂点に君臨することを義務付けられた諏訪は、そ
れが最も顕著となることを自覚しなければならない。
﹁⋮⋮諏訪で働く者たちだ﹂
やや間があったものの、諏訪が答える声に迷いはなかった。
その間に、不正が何であるのかを予測する。
一番ひどい現実を我が子に突き付けたのだろう、あの当主は。
﹁そうか。不正というのは厄介だ。まず、確実に証拠を集めなけれ
ばならない。不正が行われたという事実をな。次に、誰が行ったの
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か、というのが大事だ。調べていれば、絶対に誰か疑惑のある者が
浮かび上がる。だが、その人物がダミーである可能性も捨てがたい。
ここが、重要だ。不正は何時かはバレる。その時に、不正をした人
物を偽装しかねないということだ。誰もがある程度、そのことを予
想し、自分に疑惑が向かないように山羊を用意することがある﹂
﹁生贄の山羊か﹂
﹁そうだ﹂
目を瞠った諏訪に、私は頷く。
﹁慎重に慎重を重ねて、絶対的な証拠を集めたのち、報告する先も
留意しなければならない。諏訪は従業員を守りたいと言ったな? では、決して諏訪の体面を守りたい者にその情報を渡してはならな
い﹂
﹁何故だ?﹂
﹁わかっているだろう? 握り潰されるからだ。当主の子供という
のは、他のもが思うほどに握っている力は少ない。だから、会社の
体面を気にせず、公平に判断できるものにその証拠と情報を手渡さ
なければならない﹂
架空の都市の市長になるゲームをもとに開発された財閥当主のゲ
ームは、実に現実に即していながら大変なゲームだった。
信頼する部下に裏切られたり、突然天災に見舞われたり、次から
次へと問題が発生するのだ。
私がそのゲームをしたのは初等部の時。
すでに成人している兄や、学生でありながらある程度会社の仕事
を任されている姉兄たちと張り合うことなど、土台無理。
その無理を承知で、私は強制的にゲームに参加させられ、結果は
惨敗。
それでも最低位ではなかったことが救いだ。
一番不利な状況で始めたゲームだが、負けず嫌いが災いした。
知識不足、経験不足。
それらを十分承知でも、負けたくなかった。
99
ちなみに最低位は蘇芳兄上だった。
﹁そうか。それで、犯人とその家族はどうすればいい?﹂
﹁そこも状況次第だ。見込みがあるようであれば、家族は犯人と切
り離す方がいいだろう。犯人に関しては、罪状によりけりだ。刑事
責任を負わせるか、内々に済ますか、おまえの考え方ひとつだな﹂
﹁⋮⋮⋮⋮⋮⋮そうか﹂
真面目な表情で考え込んだ諏訪は、ゆっくりと頷く。
﹁参考になった、ありがとう﹂
﹁不正の証拠を集めるにあたって、忠告を1つしよう。決して、決
めつけるな。その人が不正をしているに違いない。または、まさか
するわけがない。そういう考えを持っていれば、証拠集めにばらつ
きが出る。中身を考えずに淡々と集めるのが一番だ﹂
﹁⋮⋮そう、だな。重ね重ね、すまない﹂
一瞬、言葉に詰まった諏訪が泣き出しそうな表情で頭を下げる。
﹁本当に助かった。相良はそういう経験があるのか?﹂
﹁⋮⋮ゲームでな﹂
問いかけられ、正直に答える。
﹁ゲーム?﹂
﹁ある程度、年齢が達したら、当主が子供たちの資質を確かめるた
めに経営者のゲームをさせるんだ。すぐ上の兄とも5歳の年齢差が
ある私が、他の兄姉たちと一緒に経営ゲームができると思うか? 結果は惨敗だった。かろうじて最下位ではなかったがな﹂
﹁それは、激しく悔しいな﹂
﹁予想している数倍は悔しいぞ。絶対に一矢報いねば、悔しくて夜
眠れないくらいにはな﹂
﹁そんなにか!﹂
﹁私に経営の才能がないというのは、あの時よくわかった。そして、
年齢差があることに腹が立った。今なら、多少、取るべき対応が変
わってくるだろうが﹂
そう答えた私に、諏訪が驚きの視線を向けてくる。
100
﹁本当に参考になった。慎重に対応しようと思う﹂
礼を言った諏訪が頭を下げ、すべての会話を打ち切る。
話が終わったのだと理解した私は、頷き返すとふらりと歩き出す。
この間から、ストレスが溜まりすぎた。
このまま放置していれば、絶対に倒れるなと思いつつ、私はすで
に手遅れであることに気付く。
右腕に感じた違和感。
閉じていた傷口がぶつりと口を開く。
痛みよりも先に血の気が失せる。
ヤバいと思うよりも先に、身体が重くなる。
身体のコントロールが効かないことに焦りが生じる。
だが、それを口にする前に、私は意識を手放した。
101
13 ︵岡部疾風視点︶︵前書き︶
疾風視点です。
途中、瑞姫の怪我に関する痛い表現がありますので、苦手な方は飛
ばしてお読みください。
102
13 ︵岡部疾風視点︶
﹁ごめん、やっぱり俺、先に行く﹂
カフェで食事を強引に終えた俺は、在原と橘に声を掛ける。
﹁岡部、過保護過ぎない?﹂
苦笑して在原が言うが、首を横に振って否定する。
﹁過保護すぎるくらいでもまだ足りない。瑞姫は誰にも言わずに抱
え込みすぎるんだ﹂
﹁⋮⋮まぁ、確かにそうだけど﹂
﹁今日はいつにもまして食欲がなかったようだ。結局ポタージュだ
けしか口にしてない﹂
橘は、細かいところまでよく気が付くやつだ。
普段の瑞姫と先程の瑞姫の違いがはっきりわかったようだ。
﹁⋮⋮⋮⋮さっきは黙ってたんだけど﹂
菅原双子の弟がぽつりと言う。
﹁ミントとユーカリってさ、鎮静効果があるんだよね。痛み止めを
使わずに、痛みを誤魔化そうとしてたんじゃない?﹂
﹁瑞姫ちゃん、朝からつらそうなのに、頑張って学校に来てるんだ
もん。それを気付かないやつが当たり前のように瑞姫ちゃんの傍に
いるのって、むーかーつーくー!﹂
﹁⋮⋮大神のことか﹂
今朝の襲撃を思い出し、橘が掌で顔を覆う。
﹁菅原姉が瑞姫の事を好きだというのはよくわかった。今朝のこと
は恩に着る。その件については、またあとで﹂
必ず言えと言ったのに、また瑞姫は痛みを我慢していたのか。
たまらなくなって、やや乱暴にトレイを返すと、瑞姫の教室へと
向かう。
廊下は走らないなんて規則に構っていられるか。
103
俺は全力で走り出した。
東雲学園は無駄に敷地が広い。
食堂は中等部と高等部一緒なので、移動が面倒だ。
回廊はすべて屋根付きなので、雨の日でも濡れる心配がないだけ
ましだが。
雨。
天気が変わる直前、気圧が変わると傷が痛むと瑞姫が以前言って
いた。
痛むからと言って、鎮静剤を飲むのも逆に身体に負担が来ると言
って我慢してしまうことも知っていた。
なのに何で俺は気が回らないんだろう。
ある程度の対処法は覚えているのに、それを活かすことをしない。
用事があると言っていたが、何の用事だったんだろう。
聞いておけばよかったと、いつもあとから思う。
瑞姫の教室の近くにつき、速度を緩める。
廊下の窓の近くに瑞姫がいることに気付き、声を掛けようとして
嫌な奴を見つけた。
諏訪伊織。
あいつが瑞姫の用事の相手か。
瑞姫も人が好すぎる。
諏訪と関わると碌なことがないというのに。
顔を顰めそうになる俺の視線の先で、話が終わったらしい瑞姫が
ふらりと歩き出す。
だが、何かおかしい。
104
そう思った瞬間、瑞姫の上体がぐらりと揺れ、崩れ落ちた。
﹁相良!﹂
﹁瑞姫に触るな!!﹂
床に倒れた瑞姫に手を伸ばそうとした諏訪に俺は怒鳴りつける。
その声にびくりとして諏訪が振り返る。
﹁おまえが、瑞姫に触れることは、絶対に許さない﹂
瑞姫が死にかけた責任の一端を負うやつに触らせるものか。
諏訪を睨みつけながら、俺は瑞姫の傍に行くと膝をつき、上体を
起こして俺に寄り掛からせた。
ぐったりと目を閉じた瑞姫の意識はない。
顔色は青白く、ヒンヤリとしている。
右腕のシャツがほんの少し、じわりと赤く染まっている。
皮膚が破れたか。
﹁相良は、大丈夫なのか?﹂
心配そうな諏訪の声。
﹁おまえが気にする必要はない﹂
瑞姫がどう思おうとも、俺たち相良に属するものは瑞姫が諏訪に
かかわることを厭う。
俺の声に諏訪が怯んだのがわかった。
瑞姫を抱き上げ、立ち上がる。
倒れた瑞姫を気にしていた者たちが、廊下の端に寄り道を開けて
くれる。
なるべく揺らさないようにゆっくりと、俺は保健室へ向かって歩
き出す。
こういう時、不謹慎だと思うが、瑞姫がスカートじゃなくてよか
ったと注がれる視線に正直思った。
瑞姫の怪我は少々どころか厄介だ。
105
本来なら、とっくの昔に完治しているはずだ。
かなり惨い傷跡となって。
紙一重で助かった怪我は、それこそ想像を絶するものだった。
普通なら、こんな風に歩き回ることはできなかっただろう。
半身不随とか、それこそ植物状態に陥っていてもおかしくはない。
無意識化のとっさの判断が明暗を分けたと後から聞いた。
受け身を取っていたため、頭を打ち付けることがなかった。
身体を横にして丸めていたため、背骨を折ることがなかった。
その代り、右腕と右脚は骨が粉々になっていたけれど。
粉々になった骨を集め、つなぎ合わせ、ボルトで固定し、当座を
しのぐ。
他にも折れた肋骨や、傷ついた内臓を何とかする手術は、相当な
時間がかかったと聞く。
昏睡状態の瑞姫は、何度も危ない状態に陥り、今度こそ駄目だと
思った時に目を開けた。
奇跡という一言では軽すぎる。
それこそ、楽になるはずの死を選ばず、生きることを選んでくれ
た瑞姫に感謝するほどに。
でも、それこそが瑞姫にとって地獄の日々だといえるだろう。
入院していたのは、たった半年。
だが、その半年の中で手術をしたのは片手どころか両手の指でも
足りないほどの回数だった。
こういう事故の場合、1度の手術ですべてが治るわけではなく、
何度も繰り返し手術をしなければならないそうだ。
それに加え、次期当主夫人が瑞姫の身体に傷を残すことを良しと
せず、形成手術を受けさせた。
これによって、残るはずだった傷跡のいくつかが綺麗になったの
はよかったが、瑞姫の体力がついていかなかった。
弱っていた身体は匂いに敏感になり、香水はもちろんだが、洗濯
106
洗剤の香りや花の香りが駄目になり、俺には全くわからなかったが、
病院食の食器を洗う洗剤や消毒液の匂いまでを嗅ぎ取り嘔吐した。
固形物を食べることができなくなり、もっぱら点滴で栄養を補う
しかなかった。
流動食も消毒液や洗剤の香りがするスプーンや皿を使わねばなら
ないからだ。
胃ろうの処置は取ることはなかった。
それでも次期当主夫人は瑞姫に形成手術を受けさせた。
瑞姫が手術室の扉の向こうに消えるたび、戻ってこないのではな
いかと不安になった。
だけど、手術をやめてほしいと言えなかった。
瑞姫が頑張っているのに、俺が怖いからという理由でやめてくれ
なんて言えるわけがない。
ようやく瑞姫が手術を受けたくないと言い出したのは、入院して
4か月目が過ぎたころだった。
夫人はそれこそ狂ったように瑞姫を説得した。
だげど、今まで素直に従ってきた瑞姫が、今度ばかりは頑として
頷かなかった。
﹁もう嫌だ!﹂
その一言を言ったきり、黙り込んでしまった瑞姫に、俺は驚いた。
瑞姫の意志が固く、どうしても頷かないことを悟った夫人は、俺
に説得するように頼み込んできた。
その言葉にどうしても従うことができなくて困った俺を助けてく
れたのは、お館様と呼ばれる当代様の奥方様、瑞姫の祖母にあたる
方だった。
﹁瑞姫の身体は治りたがっているのだから、しばらくの間、休ませ
てあげなさい﹂
﹁ですが、お義母様! 傷を完全に消さないと! 瑞姫がつらい思
いをしてしまいます﹂
泣きながら奥方様に訴える夫人の言葉に、俺は驚いた。
107
﹁あの子は何も悪くないのに、何でこんな目に合わなきゃいけない
のかと、傷を見るたびに思っては可哀想すぎます。あんな惨い傷と
これから一生付き合っていかなければならないなんて。女の子なん
ですよ、瑞姫は!! 私が代わってあげられるのなら、どんなによ
かったか⋮⋮﹂
﹁それはね、私もそう思いましたよ。この婆の命と引き換えになる
なら、いつでも代わってやるのにとね。でもね、頼子さん。母親な
ら何があっても揺るがず構えていなさい。母親が揺れれば、子供は
不安でしょうがない。瑞姫は今まで頼子さん、あなたを安心させる
ために頑張って手術を受けて来たんですよ。その瑞姫がこれ以上は
もう駄目だと言ってるんです。今度はあなたが受け止めなきゃ﹂
﹁お義母様⋮⋮申し訳⋮⋮﹂
﹁はいはい、もう泣かないの。母親なんだから。それにね、瑞姫は
﹃今はもう嫌﹄って言ってるんですから、後からはいいってことな
んですよ。先生と今後のことを話し合った方が泣くよりよほどいい
ですよ﹂
そう言って、おふたりは病室の付添室から出て行ってしまわれた。
そのあと、どういう話し合いがなされたのかはわからない。
だけど、形成の手術は身体がしっかりするまでしないという方針
に変わって、本当にほっとした。
でも安心するのはまだ早かった。
上腕部と大腿骨を支えていたボルトを外す手術が瑞姫を待ってい
た。
本来ならば、これも大変だが難しい手術ではなかったはずだ。
抵抗力をほとんど失ってしまった身体は、あり得ないことに感染
症を引き当ててしまった。
場所は右上腕部。
縫い合わせた糸を切り、壊死していく肉を削ぎ落とす治療が毎日
行われた。
傷が閉じかけたら、再度切り開き、菌に侵された部分を取り除き、
108
洗い、消毒する。
それを繰り返していくうちに、瑞姫の腕の皮膚は非常に薄くなっ
てしまった。
血液検査で菌がなくなったと確認され、中の肉が盛り上がり、表
面がケロイド状に傷を覆い隠して、傷が完全にくっついたかのよう
に見えた。
だが、それは見えるだけだ。
傷が閉じても切り開かれるということを身体が覚えてしまったた
め、腕の皮膚だけが分厚く見えても薄い皮一枚の状態になってしま
ったのだ。
瑞姫が極度に疲れたり、ストレスを溜めたりすると、その部分の
皮膚が破れどろりとした血が滲む。
ここだけは、どうしても身体がそのことを忘れる時間が必要とな
り、数年かかるでしょうと、形成外科医の説明があった。
いつになったら忘れるのだろう。
そう思っても、まだ2年しか経っていないのだ。
普段は、大丈夫なんだ。
最近では、本当に滅多なことでは傷口が開くなんてことはなかっ
たのに。
ストレスの原因が悪い。
つまり、諏訪だ。
絶対に接触させないようにしよう。
瑞姫が怒ってもかまわない。
そう決めて、俺は保健室の扉をスライドさせた。
東雲の保険医は女医だ。
名前を相良茉莉という。
109
相良家の長女で、瑞姫の姉である。
女帝と呼ばれるに相応しい美貌と貫禄がある。
﹁待っていたわ、疾風。そちらのベッドに瑞姫を寝かせて﹂
どうやらすでに瑞姫が倒れたという情報を手に入れて準備をされ
ていたらしい。
あの事件の時にすでに医師であった茉莉様は、瑞姫の手術の時に
執刀医の助手として手術に立ち会っている。
相良家の中で一番瑞姫の怪我について詳しい方なので、安心して
瑞姫を預けられる。
防水シートを敷いたベッドの上に瑞姫をそっと寝かせれば、茉莉
様は遠慮なくシャツのボタンをはずしにかかる。
いや、俺がいるんですけど!
ちょっと待ってくださいよ。
慌てて後ろを向こうとすると、茉莉様から声がかかる。
﹁疾風、助手しなさい!﹂
﹁え!?﹂
﹁瑞姫の手当の助手よ。あなた、瑞姫の傷を見ても大丈夫でしょ?﹂
﹁それは、もちろんです!﹂
それ以前の問題は無視されるようだ。
嫁入り前の娘の肌を、いくら傍付とはいえ男に見せていかがなも
のかと言いたいところだが、茉莉様は容赦ないからな。
瑞姫の肩を曝し、腕の傷が現れる。
そこにあった傷口は思ってたよりも小さい。
﹁この傷跡を見て顔色変えないどころか、ほっとした様子を見せる
のは、疾風くらいよね﹂
﹁この傷は、瑞姫が生きることを選んだ証ですし。思ったより傷が
小さくてよかったなと﹂
﹁いい子ね。そのトレイみたいなの、傷の下あたりに押さえつける
ように固定して持ってて。傷を洗うから﹂
銀色の深い豆型の皿のようなトレイを渡され、言われた場所に固
110
定する。
精製水で傷口を洗い流した茉莉様は、さらにその周辺を消毒し、
傷の内側も念入りに消毒する。
そうして軟膏のようなものをそこに詰め込み、滅菌ガーゼを当て
サージカルテープで止める。
無駄のない流れるような作業だ。
﹁はい、おわり。ありがとう、疾風﹂
﹁いえ。お役にたてたのなら、それで﹂
片づけを始める茉莉様に答えながら、俺は少し迷う。
﹁あの、茉莉様。瑞姫の着替えを⋮⋮﹂
﹁そうね。させないといけないわね。ちゃんとあるわよ、一式﹂
どういう方法で校医になったのかはわからないが、茉莉様が保険
医であるということは、非常に助かっている。
﹁やっぱり、まだ駄目なのね﹂
﹁⋮⋮はあ﹂
何が駄目なのかというと、瑞姫の事だ。
あんな目に合えば、トラウマのひとつやふたつ、あって当たり前
だと思うし、克服する努力も今はいらないと思っている。
瑞姫のトラウマは2つ。
ワゴン車を目にすると気分が悪くなってしまうことと、赤だ。
血を連想させるような赤が駄目になってしまった。
赤信号の赤とか、薔薇の赤とか、普段目にするものはそこまで極
度な反応はしないけれど、血のような赤は無理だ。
自分で描く絵にも赤は乗せられないらしい。
血の滲んだシャツなどもってのほかだ。
﹁じゃあ⋮⋮﹂
﹁ちょっと待ちなさい﹂
午後の授業が始まるからと、教室に戻ろうとした俺を茉莉様が引
き止める。
﹁私一人で着替えさせられるはずないでしょう? 手伝いなさい﹂
111
﹁え!? いや、ちょっ⋮⋮それは⋮⋮﹂
﹁何のための守役よ? 瑞姫の身体を起こして支えてなさい﹂
﹁いやいやいや! 茉莉様、さすがにそれはまずいかと!!﹂
﹁姉で医者の私が許可してるのよ。いいに決まってるじゃない。さ
っさとして!﹂
茉莉様と次女の菊花様に勝てる気がしない。
そして、何より怖いのが、意識があったとしても瑞姫は全く気に
しないだろうということだ。
﹁もう少し警戒してください。バレたら八雲様に殺されそうですよ、
俺⋮⋮﹂
﹁八雲ごとき、怖がってどうするの! ヘタレよヘタレ!! そん
なんじゃ、瑞姫をあげないわよ﹂
﹁いや、だから。俺は随身であって⋮⋮選ぶのは瑞姫の意志ですか
ら﹂
言われるままに瑞姫を抱き起し、視線を逸らす。
絶対に八雲様にだけはバレないようにしなければ。
そう心に誓いながら、茉莉様に従う俺だった。
112
14
目を開けると、顔があった。
﹁⋮⋮⋮⋮⋮⋮﹂
驚きのあまりに、ちょっと硬直する。
いや、見慣れた顔でも、状況わからずに傍にあれば、誰でも驚く
と思うよ?
ねえ、そうでしょ?
﹁目、覚めた⋮⋮﹂
今にも泣き出しそうな表情をしていた疾風が、嬉しそうに笑って
呟く。
ああ、心配していたのか。
私が目覚めないと思って。
申し訳ないという気持ちになって、手を伸ばし、疾風の頭にポン
と乗せる。
そのままわしゃわしゃとかき混ぜるように撫でてみたら、目を細
めて笑みを深くする。
嬉しいのか。
そうか、そんなに嬉しいのか。
で、ここ、どこ?
天井に視線を向け、ついでに周囲にも視線を走らせ、白い仕切り
カーテンを見つける。
﹁保健室?﹂
﹁ん﹂
﹁疾風が運んでくれた?﹂
﹁ん﹂
113
私の手を頭に乗せたまま、こくこくと頷く疾風。
何故にこうも犬っぽいんだ。
とりあえず、黙っていれば極上イケメンなのに。
﹁それはすまなかったな。心配をかけた﹂
﹁瑞姫。痛むなら、ちゃんと痛いと言ってくれ。瑞姫の痛みは瑞姫
にしかわからない。言ってもらえなければ、俺は何もできない﹂
﹁すまない。まだ大丈夫だと思ってたんだ。私の考えが甘かっただ
けだ。疾風は悪くない﹂
謝罪がてら頭を撫でてみたが、今度は浮上してくれない。
しまった。
心配かけ過ぎたか。
﹁今は、何時ごろ? 授業はどうなってる?﹂
﹁もう放課後。茉莉様から職員室へ連絡を入れてもらったから、大
丈夫だ。そのまま帰っていいって﹂
﹁しまった。期末試験、もうすぐなのに⋮⋮﹂
最近、テスト勉強が楽しくなっているのだ。
授業もそのせいか、面白くて仕方がない。
いっそのこと、資格試験マニアにでもなろうかと考える今日この
頃だったりする。
﹁勉強より身体が大事だって﹂
じっとりと疾風が睨んでくる。
拗ねてるっぽい。
﹁ああ、うん。今日は大人しく休む。で? 茉莉姉上は?﹂
﹁巴が来て、外にいる﹂
﹁巴が? 病院で何かあったのかな?﹂
巴とは、岡部巴で岡部家の分家筋の女性で、茉莉姉上の随身、片
腕となる人だ。
彼女も茉莉姉上と同じく医師免許を持っている。
普通、岡部家が相良本家に添えさせる随身は、同性の場合が多い。
特に相良の娘の場合、岡部の中でも最も優秀な人材を選りすぐっ
114
て送り込む。
私と疾風の場合は、たまたま私と歳が近い岡部の娘がいなかった
ことと、同世代の少年の中で疾風が最も優秀だったことでこうなっ
た。
随身が疾風でなかったなら、3つ下の疾風の弟の颯希が選ばれる
予定になっていたらしい。
常に傍にいられるように、職業や資格も一緒になるよう定められ
ているらしい。
﹁病院は何もない。瑞姫のストレスのことだ﹂
﹁⋮⋮私の⋮⋮﹂
う∼ん。バレてるか。仕方ないな。
八雲も上の兄や姉には隠し事しないからな。
﹁瑞姫のストレス解消に何かいい方法がないかって、茉莉様が巴を
呼びつけた﹂
﹁あちゃー⋮⋮すまぬー巴!!﹂
後で巴に平謝りで謝っておこう。
女帝様の面倒を見てるだけでも大変なのに、私の件までとは申し
訳なさすぎる。
﹁瑞姫の好きなこと言って。俺がストレス溜めすぎないようにちゃ
んとする﹂
むすくれた表情で疾風が言う。
そうか。
私が倒れると、世話をする疾風が岡部から何か言われる可能性が
あるんだ。
﹁んー⋮⋮疾風、起き上がってもいい?﹂
﹁あ、うん。わかった。ちょっと待って﹂
何も知らない疾風は素直に私を起こしてくれる。
﹁背もたれあった方がいい? きつくないか?﹂
﹁大丈夫。疾風、ちょっとこっち﹂
﹁ん?﹂
115
世話を焼こうとする疾風を呼びつけ、頭を引き寄せ髪の毛に頬擦
りする。
﹁柔らかくて気持ちいい。癒される﹂
ふわふわなくせ毛って憧れるよねー。
あと、モップ並に毛の長い犬とかもふっとしてて気持ち良さそう
で。
﹁み、みずき⋮⋮﹂
かちんこちんに固まった疾風を無視してもふりを心行くまで堪能
する。
﹁ストレス解消、無事完了﹂
﹁え?﹂
瞬きを繰り返す疾風が何やら可愛らしい。
イケメンで可愛いとは何事ぞ。
﹁先にこうしておけばよかったんだ。悪かったな、疾風﹂
﹁い、いや。瑞姫の気が済むなら、別にかまわないけど⋮⋮﹂
訳がわかってないらしい疾風は、挙動不審になりつつがくがくと
頷く。
﹁じゃあ、帰ろう。ストレス解消法もわかったことだし、明日は買
い物に付き合ってくれるか?﹂
﹁全然かまわないけど、何処に行くんだ?﹂
﹁⋮⋮⋮⋮⋮⋮どこに売ってるんだろう⋮⋮クラフトショップか?﹂
誰か教えてください。
兎の毛玉って、この時期、どこで売ってるものなんでしょうか。
ネットか、知ってそうな人に後で聞こうと思い直し、とりあえず
家に帰ることにした私であった。
何とか家に辿り着いた私を待っていたのは、またしても招待状で
あった。
116
﹁大伴様から夏の宴に誘われましてね、あちらの七海さまは大層瑞
姫のファンでいらっしゃるから﹂
おっとりと仰ったのは招待状を持ってきたお祖母様だった。
大伴家の当主夫人である七海様は、お祖母様の年下の友人だ。
小さい頃から私を可愛がってくださった方だが、少々夢見がちな
万年少女という愉快すぎる方だ。
それこそ幼稚舎あたりの幼い頃は私の壮大な光源氏計画を妄想し、
紫の上設定の私を育てるお兄様はどなたでしょうとかうっとりして
仰っていたが、近年それは別の計画へと挿げ変わった。
学び舎と私的の場では男装する私に、男装の麗人ね☆と最初に言
い出し、お祖母様に対し、名前を芳子にするべきだったとか、背が
高いから軍服もお似合いねとか仰って、別の世界に入られてしまっ
た。
お幾つになられても少女めいて嫌味のない方なので、何を言われ
ても笑って答えられるが、まさか大伴家のパーティに招かれるとは
思わなかった。
﹁⋮⋮ですが﹂
﹁ちょうど夏休みに開催される予定ですし、趣向を凝らしてあるの
で出席しても問題はないと思いますよ﹂
﹁お祖母様﹂
﹁面白い趣向ですよ。仮装するのですって﹂
﹁⋮⋮コスプレですか?﹂
﹁え?﹂
きょとんと私を見上げるお祖母様の表情が可愛らしい。
﹁何ですか、そのこ、こす⋮⋮﹂
﹁コスチュームプレイです。普段とは違う衣装を楽しむという意味
ですよ﹂
117
﹁ええ、そのようですね﹂
意味が通じたお祖母様は、ゆったりと頷いて笑う。
﹁それで、お題はなんでしょう? ハロウィンには早すぎますし﹂
﹁お題?﹂
﹁ええ。仮装するにあたって、普通ならばどういう仮装をしましょ
うという方向性を決めるのが普通なんですよ。普段と違う衣装とい
うのは、いろんなものがありますからね﹂
﹁そういうものなのかしら?﹂
﹁そういうものです﹂
﹁瑞姫はそのコスプレとやらに詳しいのね﹂
﹁いえ。それほどでも。若者の常識というモノです。以前、メイド
喫茶なるものが流行りましたでしょう?﹂
﹁ああ、そういえば。不思議なものが流行するのですね、世の中と
いうものは﹂
感心したように頷くお祖母様に、ちょっとばかり良心が痛む。
私がコスプレを知っているのは、その昔、薄い本の売り子をして
いたからです。
現世の瑞姫は知る由もありません。
﹁七海さまはそのままでの仮装をと仰っていましたけれど、詳しく
聞いてみましょうかね﹂
﹁ちょっと待ってください、お祖母様。七海さまは、そのままでの
仮装と仰ったのですか?﹂
﹁ええ﹂
頷いたお祖母様は、私を見上げて微妙な笑顔になった。
﹁あらま。七海さまったらどうしても瑞姫をお呼びしたかったのね﹂
﹁普段通りの男装のまま来なさいっていう意味ですね、これは﹂
苦笑するほかない。
大伴家の夏の宴は、割と有名だ。
招かれることで家のステータスが決まると言われるほど、厳選し
て客を招く。
118
勿論、相良は毎年呼ばれている。
以前は私は幼すぎるということでお断りしていたが、今年からは
出席しないといけないだろうとはお祖父様から聞いてはいた。
私が来やすいようにと、七海さまは趣向を凝らすという名目でコ
スプレを選ばれたのだろう。
﹁そのようよ。お友達も呼ぶようにと添えられてたもの、あなたの
招待状だけ﹂
﹁あははははは⋮⋮﹂
学生の交友関係まで詳しく調べるわけにもいかないから、そう書
き加えてくださったのだろう。
﹁わかりました。その友人たちとお揃いになるよう、ちょっと考え
てみます﹂
﹁目立たず地味に、でも華やかにね﹂
いたずらっぽく笑ったお祖母様の言葉に、私は巻き込む友人たち
の顔を思い浮かべた。
119
15
期末試験までのスケジュールは、かなりハードだ。
試験の後には夏休みが待っている。
それゆえ、その夏休みが持つ危険性を生徒たちに十分知らしめな
いといけないからだ。
東雲学園の生徒というだけで、外部からの一般生徒にも危険があ
るのだ。
東雲は有名なセレブ校のひとつだ。
そこに通っているということだけで、セレブと間違えられる可能
性は非常に高い。
むしろ、車で送り迎えをしてもらわない彼らの方が狙われやすい
のだ。
体育の授業は簡単な護身術の授業へ代わり、男女別から男女合同
へと変更される。
普段は男女別であるがゆえに、女子も男子も微妙にそわそわとテ
ンションが高い。
﹁それでは、本日の授業内容は、簡単な護身術ということで、もし
襲われた時にはどのように対処すればよいのかを学んでいただきま
す﹂
女性教諭が淡々と説明を口にする。
﹁特に女子のみなさん、この時期から変質者、誘拐犯、または強引
な手口で交際を取り付けようとする方々が増えてまいりますので、
必ずマスターしてください﹂
その言葉に小さな悲鳴を上げる女子生徒が出る。
﹁まあ、どうしましょう。恐ろしいですわ、瑞姫様﹂
私の周囲にいた女子生徒たちが心持ち身を寄せてくる。
あはははは⋮⋮王子様役を割り振られたか。
120
周囲の男共の嫉妬の眼差しがちょっとばかり心地良いぞ。
﹁大丈夫ですよ、水瀬様。なるべく集団で行動するということを心
掛けていらっしゃれば﹂
﹁そうですわね。人が多ければ、手出しはしにくいものですものね。
もしその時に瑞姫様がいてくだされば、守ってくださいますか?﹂
﹁ええ、もちろん﹂
理想の王子様ならこのぐらいのことはにっこり笑って答えなけれ
ばならないだろう。
八雲兄の穏やかな笑みを思い出しながら微笑んでみせると、女子
生徒たちの頬が赤く染まる。
なかなか楽しいかも、これ。
今日の体育は2クラス合同だ。
私たちのクラスと疾風たちのクラス。
在原と橘も疾風と同じクラスだった。
体育服と短パンの集団の中でただひとり、ジャージ姿の異質さに
驚く在原と、いつも通り悪戯っぽい笑みを浮かべる橘に笑って応え
ると、同じクラスの女子生徒たちがうっとりとした溜息をもらす。
﹁瑞姫様の笑顔なんて⋮⋮﹂
﹁羨ましすぎて憎い限りですわ、在原様と橘様が!!﹂
何故、あの2人が憎まれる!?
﹁瑞姫!﹂
少し遅れてやって来た疾風が、私の姿を見つけるなり駆け寄って
くる。
﹁教室にいないから、ちょっと焦った。リストバンド、渡そうと思
ったのに﹂
﹁疾風?﹂
疾風が手にしているのは、学園指定のジャージと同じオフホワイ
121
トのリストバンド。
手首から肘近くまでをサポートする長めのものだ。
﹁これは?﹂
﹁そのままだと暑いだろ? ジャージを袖まくりできるように考え
て作らせてきた。そんなに強いゴムじゃないから、傷跡には負荷は
掛からないと思う﹂
その言葉にリストバンドを受け取ろうとして伸ばした手を疾風に
取られる。
﹁俺がつけるから、こっちに来て﹂
集まっている輪から外れ、体育館の隅へと連れてこられ、彼らに
背を向ける位置に疾風が立つ。
腕を晒すから、人に見られないように気を使ってくれたのか。
﹁ありがとう、疾風﹂
﹁ん。これなら、俺にできる事だから﹂
ちょっと得意げに笑った疾風は、腕を出すように告げ、慎重な手
つきでリストバンドをはめてくれる。
パイル地のリストバンドは、非常に肌触りがよく、まったく肌を
締め付けない。
手首と肘のあたりにあるマジックテープで外れないように調整す
るつくりだ。
この間倒れたあたりから、疾風の様子が変わった。
部活は完全に辞めてしまったらしく、登校と下校は常に傍にいる
ようになった。
そして、身の回りのことも、ひとりでできる事は自由にさせてく
れるが、少しでも不自由さを感じるようなことは前もって手を打つ
ようになった。
岡部家の方で何か言われたのかと聞いたが、それはないと答える
ばかりだ。
﹁着替えの方に不便はない?﹂
ふいに問われた言葉に、一瞬、きょとんとする。
122
﹁え? あ、ああ。大丈夫だ。女子更衣室は、中は個室になってい
るから気兼ねなく着替えられるし﹂
男子の更衣室がどうなっているのかは知らないが、女子更衣室は
シャワーブースのように個室になっている。
しかも、人数分きちんとあるので慌てて順番取りをしなくてもい
い。
恥ずかしがり屋さんでも安心して着替えられるのだ。
さすがにひとりで着替えられないという御嬢様はいないようだ。
﹁ちょっと手を動かしてみて﹂
﹁うん﹂
疾風に促され、右手を動かす。
﹁見た目は大丈夫そうだけど、締め付け加減とかは瑞姫的に問題な
い?﹂
﹁大丈夫だ。サポーターとかはあの締め付けが逆に皮膚を傷めるん
じゃないかと思って怖くてつけれなかったけど、これなら安心して
つけられる。ありがとう、疾風﹂
﹁それならよかった。今日は護身術って言ってたから、瑞姫が前に
立たされるだろうと思って﹂
﹁まあ、そうだね。以前なら怪我を前提に断ってたけど、もう大丈
夫だしな﹂
相良家が武道に秀でているのは周知の事実であるため、こういう
時に前に立って実際に動きを見せる役を任せられるのはいつものこ
となのだ。
上の兄姉たちも経験してきたことなので、私だけがそれを外され
るということはありえない。
﹁身体の調子は?﹂
﹁すごくいい。あ、先生が来られた﹂
まだチャイムはなっていないが、教諭の姿が見えたため、輪に戻
ることを疾風に促す。
﹁無理はしないように。少しでもおかしかったら、俺が止めるから﹂
123
﹁はいはい。心配性だな、文句はないけど﹂
﹁瑞姫!﹂
笑いながら皆のところへ戻り、整列に加わる。
チャイムが鳴り響き、授業が始まった。
教諭の説明の後、実際にどのようにして対処するかを実演する。
﹁相良さん、お願いできますか?﹂
私に襲われた女子生徒役をやれるかと尋ねられ、私は一瞬、間を
取る。
﹁はい、できます﹂
﹁では前に来てください﹂
﹁はい﹂
何故、教諭自身が実演しないかというと、説明する人がいなくな
るからである。
それと同時に、いくら体育教諭だからと言って、必ずしも武道経
験者であるとは限らない。
つまり、人ひとりを簡単に投げ飛ばす技術を持っているとは言え
ないわけだ。
私が前に出ると、教諭は男子生徒を見渡す。
﹁暴漢役を誰かにお願いしましょうね。相良さんと組んでいたのは
⋮⋮﹂
﹁俺です﹂
諏訪が名乗り出る。
授業はすべて名前順で割り当てていくので、同じサ行の諏訪が私
と組むことになる。
﹁では、諏訪君に﹂
﹁いえ。先生、岡部君にお願いできますか?﹂
私は教諭の言葉を遮り、疾風を指名する。
124
﹁相良! おまえの相手は俺だろう!?﹂
むっとした様子で諏訪が主張する。
﹁それは知っているが、実演するなら受け身ができる疾風の方がい
い。投げ飛ばされる役も受け身の仕方を見て覚えないと怪我をする﹂
私の答えに諏訪の動きが止まる。
﹁諏訪は武道経験がないだろう? 受け身ができないのに危険なこ
とをさせられない﹂
﹁いやん。瑞姫ちゃんってば格好良すぎる!﹂
顔を上げて何かを言おうとする諏訪を遮る形で在原が茶化すよう
に声を挟む。
﹁やっぱり僕をお嫁さんにして!﹂
どこまで本気なのか、場を和ませるふざけた声に笑いが起こる。
﹁考えておこう﹂
そのおふざけに乗っかる形で私も重々しく頷いて見せると、さら
に場が湧き上がる。
﹁だが、その前に橘を倒して、疾風と交換日記から始めてもらおう
か﹂
﹁それ無理っ!! 何で交換日記を岡部と僕がするわけ!?﹂
私の提案は一瞬にして蹴られた。
いい考えだと思ったのだが、あたりは爆笑の渦に飲み込まれてい
た。
﹁瑞姫の嫁になるなら、相良のしきたりを全部覚えてもらわないと
困るから当たり前だろう?﹂
ごんっと在原の頭に拳を落とした疾風が前に出てくる。
﹁先生、相良さんとはよく組んで稽古をしていますから、俺でいい
でしょう?﹂
穏やかな表情で疾風が教諭に許可を求める。
﹁ええ、そうね。岡部君は部活でも指導していた腕前だと先生も聞
いています。そちらの方がより安全ですからね﹂
身を守る訓練をするのに怪我をしては本末転倒だと頷いた教諭に
125
疾風が嬉しそうに笑って礼を言う。
﹁ありがとうございます!﹂
﹁え、ええ。お願いね、岡部君﹂
ほんのりと、頬を染める体育教諭。
疾風よ、おまえのことは年上キラーと命名してやろう。
教諭の説明の下、地味に拘束を外す技をいくつか見せる。
相手の動きを封じ、逃げるための時間を作るものだけに派手な動
きも力も必要ない。
あまりにも地味すぎて、ただ見るだけでは厭きてしまう。
そのため、厭きた空気が漂いそうになると少し派手な動きを取り
入れて空気を引き締める。
﹁今までの動きをきちんとマスターすると、背後から襲われた時に
相手を投げ飛ばすということもできます﹂
最後の大技を見せろと促され、肩越しに背後を振り返り、いつで
もいいぞと疾風に合図を送る。
頷き返した疾風が前を向いた私の背中から襲いかかる。
数人の女子が息を飲んだり、悲鳴を上げたりしているが、他の生
徒たちは声も出せないようだった。
大柄な疾風の素早い動きに意識を呑まれてしまったのだろう。
それでも普段よりは格段にスピードを落としているため、一緒に
稽古をしている私には相手を捉えることが容易かった。
捕まれそうになった手首を打ち据え、撥ね上げた後、襟元を掴ん
で脛を蹴り上げ、投げ飛ばす。
タイミングを合わせて自分から疾風が飛んでくれたから、実に綺
麗に投げが決まった。
いや、ほんと。
投げるのって、体格差や体重差が如実に出ちゃうんだよね。
嫌がって抵抗する人を投げるのは、本当に重い。
相手の隙を見て、一瞬で投げを打たないと自分が崩れ落ちてしま
126
う。
疾風が自分から飛んでくれたから、ふわりと軽く投げなれた。
まあ、自分から飛ぶと、受け身も取りやすいし、投げられた衝撃
も見た目と違ってはるかに軽い。
だんっと派手な音を立てて背中から落ちるふりをした疾風はその
ままころりと横に転がって起き上がる。
一瞬後、歓声が湧き起こる。
﹁はい、説明はこれで終了です。では、実際にやってみましょう﹂
無情に教諭の声が次の指示をだし、中途半端に空気が断ち切られ
る。
﹁相良さん、岡部君、あなた方は指導の方へ入っていただけますか
?﹂
﹁承知しました﹂
稽古に参加しなくてもよいというお墨付きを頂いた私と疾風は生
徒たちの中へと戻っていった。
﹁諏訪﹂
興奮冷めやらぬ生徒たちの中をかいくぐり、諏訪の傍へと行く。
﹁綺麗な動きだな﹂
珍しく目許を和ませた諏訪が柔らかな声で告げる。
﹁ありがとう。だが、本来の動きには程遠い。相手の動きを封じる
くらいなら充分だろうが。すまないが、諏訪、あちらの丹生様と組
んでくれないか?﹂
疾風と組むはずだった令嬢を示し、私は頼む。
﹁え? 俺の相手はお前のはずだが﹂
﹁私は練習には参加しない。私は加減ができないからな、諏訪を怪
我させてしまう。それに、丹生様は疾風を怖がってしまっている。
あれでは練習できないだろう﹂
丹生家の令嬢は大人しやかな方だ。
先程の疾風を見てしまっては恐ろしくて技を出せないだろう。
127
内気な令嬢というのは、庇護欲をそそるが、それ以上に排他的で
厄介だ。
良かれと思ってやったことがすべて裏目に出てしまう。
怖がられてしまえば、何もすることができない。
丹生様には諏訪すらも恐ろしいだろうが、疾風よりはましだ。
﹁それとも、諏訪は私を投げ飛ばすか?﹂
指導の立場に立った私は、技をかける方ではなく掛けられる方に
なる。
私とコンビを組むことに執着するなら、当然諏訪は女子生徒と同
じく技をかける方になる。
﹁それは御免被る! 女子にそんな真似できるか!﹂
当然のことながら、女子に紛れることを良しとできなかった諏訪
が反発する。
﹁では、丹生様をよろしく頼む﹂
﹁⋮⋮わかった﹂
不承不承頷いた諏訪は、溜息ひとつ零すと、列を離れて丹生様の
方へと歩いていく。
それを目で追っていた私は、声を掛けた諏訪が丹生様に怖がられ
ている姿に吹き出しそうになった。
同じ年頃の女子生徒は、諏訪の姿を見かけると声を掛けたがり、
近付いてくることが普通だ。
諏訪自身もそれが当たり前だと思っているフシがある。
怖がられて避けられるという経験は諏訪にはない。
怯える丹生様を宥めるようにと、諏訪と疾風の視線が注がれる。
それに笑って頷いた私は、気になる動きをしている生徒たちに少
し注意の言葉を告げながらそちらへ移動した。
128
16
﹁お願いがあるのだが、話だけでも聞いてもらえないだろうか?﹂
期末試験最終日の放課後、疾風たちのクラスを訪れた私は、疾風
と在原、橘に声を掛けた。
﹁うん、いいよ。なになに?﹂
﹁瑞姫からのお願いなら何でも叶えるよ﹂
在原と橘はいつもの調子で気軽に頷いて私を見る。
﹁ありがとう。実は、これなんだ﹂
私は七海様からの招待状を差し出す。
﹁⋮⋮大伴様からの招待状?﹂
受け取った橘が封筒を裏返し、差出人の名前を確認して表を眺め
る。
﹁瑞姫宛だね﹂
﹁私の祖母が当主夫人の七海さまと懇意にしているので、毎年招待
状がくるんだ。今まではまだ幼いからという理由で祖父がお断りし
ていたのだけれど、今年は高等部に上がったからね、そろそろ相良
の人間としての役目を果たす勉強を始めないといけないようだ。中
身を見てもらってもかまわない﹂
﹁ああ、うん。じゃあ、失礼して﹂
封筒からカードを取り出し開く橘。
それを両脇から疾風と在原が覗き込んで文面を眺めている。
﹁友達と一緒にって書いてある﹂
きらきらと瞳を輝かせて在原が私と招待状を交互に見比べる。
﹁うん、そうだね﹂
﹁友達って⋮⋮僕、瑞姫と一緒に出席していいってこと?﹂
﹁お願いしてもいいか?﹂
﹁行く!! 瑞姫と一緒に出席する﹂
129
﹁ありがとう、静稀﹂
﹁もちろん、俺も出席させてもらうよ。言ったろ? 瑞姫からのお
願いなら何でも叶えるって﹂
﹁誉もありがとう﹂
招待状の件を切り出すのは、私にとっても一種の賭けに近い。
大伴家からの夏の宴の招待状は、ある種のステイタスだ。
招待状をもらえない家にとっては羨望のカードであり、家自体に
送ってもらえても私のように個人宛で未成年に送られない者には微
妙な蟠りが生じることもある。
﹁嬉しいなぁ。瑞姫の友達って﹂
にこにこと嬉しそうに笑いながら在原が告げる。
﹁ん?﹂
﹁個人宛に招待状が送られてくるより、絶対こっちの方が価値があ
る。瑞姫の友達括りでの招待だもんなー﹂
﹁⋮⋮えーっと?﹂
何がそんなに嬉しいのだろうか。
﹁瑞姫はもうちょっと自分がどう評価されているか知っていた方が
いいと思うよ﹂
くすくすと笑いながら橘が言う。
﹁う∼ん。評価⋮⋮武道莫迦とか? いや、疾風よりは弱いからそ
れはないか⋮⋮八雲兄上の妹?﹂
自分の評価など気にする者はほとんどいないだろう。
大体、そういうものは本人の耳には入らないようになっているも
のだ。
﹁まぁいいや、なんでも。仮装パーティだから、衣装を揃えようと
思っているので、うちで仕立てさせてほしい。それから、静稀﹂
あっさり評価に関しての考えを捨てた私は、重要なことを在原に
伝える。
﹁なーにー?﹂
﹁そのパーティには﹃梅香様﹄も招待されている。藤原梅香様、だ﹂
130
呑気に喜んでいた在原の表情が強張る。
自称婚約者の梅香様を苦手としている在原は、彼女の名前だけで
拒否反応を起こす。
﹁大丈夫か?﹂
﹁う、うん⋮⋮瑞姫に迷惑がかからないならいいんだけど⋮⋮﹂
悄然と肩を落とし、在原が呟く。
﹁今は、学校があるからと言って、うちに来ないようにお願いして
るけど、夏休みに入ったら⋮⋮夏休みなんて永遠に来なくてもいい
かも﹂
一瞬で元気をなくした在原の肩を慰めるように橘が軽く叩く。
﹁姉から色々と情報をもらった。うまくすればパーティで片が付く
かもしれない。梅香様が私に興味を示して、話しかけてくるチャン
スがあれば、だが﹂
﹁え!? そんな都合のいい話があるわけ!?﹂
﹁都合がいいわけじゃないけどな。二番目の姉、菊花姉上だが、ち
ょっと腹黒いことを考え付いたらしく⋮⋮﹂
﹃ストーカーにはストーカー返しよね﹄と、実に悪辣な笑顔を浮
かべた女王様がげっそりするような表情と共にある作戦を齎してく
れたのだ。
そこにはさっき橘が言った私の評価というものが関係しているら
しい。
菊花姉上の話の内容を知っている疾風も不機嫌そのものの表情を
している。
﹁大丈夫だ、在原。菊花様の考えは正しい。必ず上手くいく﹂
﹁なんで岡部はそんなに不機嫌そうなのさ!?﹂
不穏な空気を嗅ぎ取ったのか、在原が恐る恐る問いかける。
﹁気にするな。菊花様の策を実行すれば、何の問題もない﹂
﹁あはははは⋮⋮梅香様ほどじゃないけどね、私にもストーカーモ
ドキがいたらしい。年齢だけで言えば、ロリコンだな﹂
﹁ロリ⋮⋮﹂
131
在原が絶句する。
﹁と、言うと。年が離れている相手?﹂
橘が何とも言えない表情で問う。
﹁大体、ひと回りぐらい上かな? 何度断ってもしつこく申し込ん
でくる家があってな、一番上の柾兄上が直接本人に会って話をした
そうだ。家の意向で本人の意思を無視しているのかもしれないと思
ったらしい﹂
﹁それで?﹂
﹁本人が、望んでいると答えたそうだ﹂
﹁それ、いつの話?﹂
﹁去年﹂
﹁今まで放置してたわけ?﹂
﹁いや。機会を窺っていたらしい。効果的に諦めてもらえるよう虎
視眈々と﹂
﹁⋮⋮⋮⋮⋮⋮﹂
さすがの橘もその答えに顔を引き攣らせていた。
うん、そうだと思うよ。
ロリコン疑惑な相手も嫌だが、相手が一番嫌がる方法で仕返しし
ようとする兄姉も何だか嫌だ。
疾風の機嫌が悪いのも、その話を聞かされず、報復も許されなか
ったせいだ。
車で送り迎えが許されている東雲学園だからこそ、登下校の途中
を狙って連れ去られることもなく済んだようなものだったらしい。
中学生相手に二十代後半のアラサーな男が嫁に欲しいって真面目
に言うんだから、ドン引きだよね、確かに。
しかも、傷跡残ってることを承知で、他に嫁に欲しいというとこ
ろがないだろうから自分がもらう的発言をしたのだから、それこそ
兄姉たちは激怒したらしい。
申し込みがあって、一度断った時に素直に引いた家の殆どは、適
齢期になった時に本人たちを引き合わせてもらえるかと聞いてきた
132
そうだ。
機会があればその時の状況によってと答えると、それまで待つと
大人しく引き下がったようだ。
相良の家の特徴を知っていればの対応なので、そういう家に対し
ては兄姉もとやかく思うことはないようだ。
﹁や、あの⋮⋮梅香様も悪い人じゃないんだから、ちょっと思い込
み激しくて迷惑だけど、あまり、その⋮⋮﹂
﹁うん。それはわかってる。梅香様には悪いようにはしないよ。そ
このところは姉も常識は持ってる⋮⋮はずだ、うん﹂
﹁その間が微妙なんだけどー﹂
困ったように告げる在原に、冗談だと笑って答え、我が家で昼食
ついでに採寸のお誘いを掛ける。
笑顔で応じてくれた在原と、在原の反応にくすくす笑う橘と共に
学園を後にした。
衣装が出来上がり、試着をしてもらおうと声を掛ける日に期末試
験の成績が発表された。
今回は1点差で2位。
まあ、色々あったので仕方がない。
次の休み明け試験で挽回すればいいか。
そう思って振り返ると、ぶすくれた表情の在原がいた。
﹁なんでまた4位かなぁ!?﹂
憎々しげに成績表を睨みつけている。
﹁や。去年より順位上げてるし、点数だって上がってるじゃないか﹂
その表情の凄まじさに、ちょっと引きながら去年と比較して答え
てみる。
﹁それはいいんだけど! ちくしょう! 悔しい。まずは大神と諏
訪を引き摺り下ろすところから始めないとダメか﹂
133
﹁え? 大神と諏訪? 何で?﹂
﹁瑞姫とサシで勝負するにはあの2人、邪魔だから﹂
最近、在原の思考回路がよくわからない。
私に成績で勝負を挑んでいたのだろうか。
﹁在原、くどいようだが、学業とは人と競うものではないのだが﹂
﹁知ってる! でも、僕にとっては必要なの!﹂
﹁必要なのか⋮⋮そうか。じゃあ、頑張れ?﹂
﹁瑞姫ーっ!! 心がこもってない∼っ!!﹂
何を言えばいいのかわからず、とりあえず言ってみたら、すぐに
抗議が来た。
﹁じゃあ、答案が返ってきたら、何処を間違ったのか、答え合わせ
をしようか?﹂
﹁うん﹂
心がこもった言葉というのがよくわからず、無難な回答を口にす
れば、在原が嬉しそうに笑う。
﹁己の力量もわきまえず、邪魔とはよく言う﹂
﹁⋮⋮諏訪﹂
私たちの会話をどこから聞いていたのか、在原の背後に立った諏
訪が在原を睨む。
﹁努力すれば俺に勝てるなど、陳腐なことを考えているのか?﹂
売られた喧嘩は粉砕するタイプか、諏訪。
﹁え? 勝ってるけど?﹂
順位表を見て、私が答える。
﹁相良は別だ!﹂
むすっとしていた諏訪は、私に視線を向けると黙ってろとばかり
に告げる。
﹁いや、あれ。在原、諏訪よりいい点とってる教科、あるけど?﹂
総合成績とは別に、教科別に上位者10位までが張り出されてい
る。
その中の国語を示して私は言う。
134
国語の古文の点数は2位が在原で4位が諏訪だった。
その差5点。
諏訪は理系教科が得意だが、在原は文系なのだ。
それぞれの得意教科で上下が入れ替わっている。
﹁ほーんとだ、勝ってるねぇ﹂
にしゃりと在原が笑う。
諏訪の表情が険しくなった。
﹁ちなみに私も努力型だな。得意科目がない代わりに苦手な科目も
ない﹂
﹁相良は特別だ!﹂
﹁いや、私は普通だよ。コツコツ積み上げるしか能がない﹂
積み上げた年季が違っただけだ。
﹁諏訪は自分の世界を2つに分ける癖をなくした方がいい。自分が
認めるものと認めないものだけじゃないんだ、世の中は。在原も相
手を挑発しすぎるな、事なかれ主義の平穏無事が一番面倒なくてい
い﹂
﹁達観しているね、相良さんは﹂
バツの悪そうな相良と在原の後ろから大神が苦笑して言う。
﹁さっきも言ったけれど、勉強っていうものは争うためのものじゃ
ない。身体を維持するために食事をするように、脳の栄養の為に知
識を与えるんだ。そこを間違えると勉強は楽しいモノじゃなくなる
んだよ﹂
﹁至言だね﹂
苦笑を深くしながら諏訪に視線を向けた大神が彼の肩に手を置く。
﹁とりあえず、在原君に謝罪をした方がいいよ﹂
﹁必要ない﹂
嫌そうな表情を浮かべる諏訪の目の前で、在原が一刀両断する。
﹁瑞姫、夏休みさ、瑞姫のとこに遊びに行ってもいいか?﹂
これは、諏訪に対する腹いせだろうか。
諏訪にちらりと視線を走らせた在原が得意そうな表情で問いかけ
135
てくる。
﹁来てもいいが、屋敷に私はいないぞ﹂
﹁え!? 南半球で避暑とか言わないよね?﹂
﹁いや。移動時間が無駄にしか思えないのでそんなところにはいか
ない﹂
何時間も飛行機に乗っているのは性に合わないので、海外にはい
かないのだ。
それよりかつての領地へ遊びに行った方が随分と楽しい。
小京都と呼ばれる風情ある場所だし、盆地だが朝晩は涼しい。
水が美味しいのでお茶や郷土料理も非常に美味しい。
のんびりできる事、請け合いだ。
だが、今年の夏はそこに行くわけではない。
﹁じゃあ、何処に行くのさ?﹂
﹁病院に入院してくるだけだ﹂
﹁⋮⋮あ⋮⋮﹂
何のための入院か察した一同の顔色が変わる。
﹁じゃあ、僕、お見舞いに行ってもいい?﹂
﹁疾風に聞いてくれ。疾風が許可したら、来てくれて構わない。病
院だからもてなしはできないがな﹂
﹁⋮⋮相良、俺も⋮⋮﹂
﹁諏訪と大神は遠慮して欲しい。友人ではない者に見舞いに来られ
ると家の者が対応に困ります﹂
諏訪が言いかけた言葉を先回りして断る。
友人ではないという言葉に諏訪はいたく傷ついた表情を浮かべる。
その言葉通り、諏訪とは友人関係を築いたことは今まで一度たり
ともない。
生徒会の役員だったという関係はあるが、それは生徒会長と書記
という上下関係だけだ。
会社の同僚は友達ではないということと同じことだ。
律子様には学友という言葉を使ったが、あれは同じ学園に在籍す
136
るものという意味でしかない。
大神についても全く同様だ。
﹁在原、行こう。橘も捜さないと﹂
﹁うん。多分、岡部と一緒だと思うけどな﹂
私が促すと、在原は頷いて一緒に歩き出す。
見送るような諏訪の視線をずっと背中に感じていたが、それは今
のところは一切無視することにした。
137
17
大伴家の夏の宴当日。
疾風たちに衣装を着てもらい、それに必要な小物も確認する。
衣装とは言っても、単なる三つ揃えのスーツだけど。
正装だから、ちゃんとジャケット付きです。
夏だから、もちろん暑い。
それでもクーラーの下に入ることだし、招かれたご挨拶をしに行
かなきゃいけないのに砕けた格好はできない。
いくら、仮装パーティと銘打ったとしても、年少者だからね、我
々は。
﹁在原、ネクタイ歪んでるぞ﹂
﹁えー? マジで? 締め直せばいい? それとも、最初から?﹂
疾風の指摘に在原がネクタイを疾風に見せる。
これは、アレだ。
腐女子が喜ぶ定番だ。
思わずガン見しかけた私に橘から声がかかる。
﹁瑞姫、似合うね。細身のスーツがここまで似合うとは思わなかっ
たよ。ネクタイはまだなんだね。俺が結ぼうか?﹂
いや、私の方か!!
手にしていたネクタイの端を橘が摘まみ、するりと抜き取る。
﹁自分で⋮⋮﹂
﹁俺、上手いよ?﹂
にっこりと微笑む橘の襟元を飾るネクタイは、とても形良い。
制服のネクタイもそういえば崩れていることを見たことがない。
結んでもらった方がよさそうだけど、他人様にネクタイを結んで
もらうとは情けない。
﹁うー⋮⋮﹂
138
考え込む私をくすくすと笑いながら、橘がネクタイを襟の下へと
くぐらせる。
﹁動かないでね、瑞姫﹂
﹁うえっ!?﹂
﹁あ、いーな、瑞姫! 誉にネクタイ結んでもらってさー﹂
何気に羨ましそうに在原が言う。
いいのか。
結んでもらうのはありなのか。
悩んでいる間にも器用に橘がネクタイを結び終わってしまった。
﹁はい、出来上がり。制服もいいけど、こっちもいいね。ダンスに
は誘えないけどさ﹂
﹁ワルツは無理かも。でも、チャールストンぐらいならいけるんじ
ゃない?﹂
﹁いや、踊らないから﹂
朝からはしゃいでいる在原に、釘をさす。
﹁えー!? もったいない﹂
﹁元々、ダンスは下手なんだ。授業で習ったくらいしか踊ったこと
ないし﹂
﹁嘘っ!? 相良の御嬢様が、ダンスしないの!?﹂
﹁この身長だと、相手になってくれる人が殆どいないしね﹂
既成服を買わないから不便に感じることはないけれど、同級生の
男子の殆どが同じ目線という長身は、こういう時不便でもあり、便
利でもある。
踊らない言い訳になるからだ。
﹁静稀たちは今日、疾風のところに泊まるのか?﹂
﹁うん。純和風武家屋敷を堪能するんだ﹂
﹁⋮⋮ん、まあ、色々と堪能できるよね。夏だと特に﹂
楽しそうに笑う在原を見て、疾風に視線を向けて言う。
﹁まあ、色々と、な﹂
疾風も笑いをかみ殺し、視線を彷徨わせながら頷く。
139
﹁何!? 色々って何!?﹂
﹁楽しみにしておけばいいじゃないか、静稀。夏の風物詩が幽霊だ
ったりしても、それはそれで貴重な経験だし﹂
橘までもがからかう方に参加する。
﹁貴重だけどっ! それ、貴重だけど、なんかいやだ!!﹂
真夏の幽霊体験は御免被ると叫ぶ在原を無視して、今回の為に揃
えたキューをボックスの中に収めていく。
今回のコスプレは、ハスラーなのだ。
わかる人にはわかる地味な仮装。
﹁じゃ、行こうか﹂
ぱちんと音を立てて金具を閉じ、ボックスを手に持とうとすると、
疾風が先にそれを掬い上げる。
﹁早めに行って、早めに戻ろう。今回はお披露目のようなものだか
らな、簡単でいい﹂
﹁うん﹂
疾風の言葉に頷いて、私たちは離れから母屋へと移動し、車寄せ
で待っていた車に乗り込んだ。
***************
大伴家の御屋敷は、古びた瀟洒な洋館だ。
庭の設えとも相まって、欧州貴族の館の趣がある。
夏の宴は、昼から始まり夜中まで続く。
昼間訪れるのは若者組で、夕方心から徐々に大人組というか格式
が上がってくる。
私たちも軽めの昼食を摂ってからの参加で、宵の口あたりに切り
140
上げようという予定だ。
その間、ホスト役の大伴家の人々はずっと出ずっぱりだから大変
だといえよう。
﹁まずは七海様にご挨拶をしてから、そこら辺を散策しようか。菅
原双子も来ることになっているそうだし﹂
千瑛と千景はどんな仮装なのかとキューを片手に車から降りて話
す私たちの前に諏訪とよく似た青年が立つ。
﹁ごきげんよう、瑞姫さん。久しくお会いしておりませんでいたが、
お元気そうで何よりです﹂
諏訪とは違い、物腰柔らかい対応と優しげな微笑みの青年は、諏
訪分家の1人だ。
諏訪や詩織様の従兄という関係だ。
﹁諏訪珂織さま、ご無沙汰しておりました。この通り、元気にして
おります﹂
同じ諏訪分家筋でも珂織さまの家とは良好の関係を築いている。
事件の知らせを受けて即座に駆けつけて諏訪本家の補佐に入った
家でもある。
珂織さまは当時、東雲とは違う学園に通われていたが、足繁く見
舞いに来てくださったようだ。
八雲兄と同じ年で、わりと話しやすい方だという印象を持ってい
る。
﹁遠目からあなたの笑顔を見れて、ほっとしました﹂
﹁そうでしたか。その節はご心配をおかけしました﹂
﹁いえ。あの件は全面的に私共に非がありますので﹂
視線を落とした珂織さまが、再び顔を上げて私を見る。
﹁以前、私が婚約の申し込みをいたしましたこと、覚えていらっし
ゃいますでしょうか?﹂
﹁はい。保留とさせていただいておりますが、もう少しお時間をい
ただきたいと⋮⋮﹂
﹁いえ。その件を撤回させたいただきたいと、このような場で不躾
141
ではありますが、直接、瑞姫さんにお願いしに参りました﹂
﹁⋮⋮え?﹂
意外なことを聞いた私は、珂織さまの顔を見上げる。
私の右脇に立つ疾風が私に視線を送る。
後ろに立つ在原や橘も何も言わない。
﹁どこか、場所を移しますか?﹂
﹁いえ、ここで。すぐに済む話ですし。私の婚約が決まったのです。
次期当主の指示で﹂
﹁諏訪が⋮⋮﹂
﹁ええ。現在の分家筆頭は潰されることとなり、当主と当主夫人は
離縁されることになりました。現当主夫人佐織さまは半年後に別の
分家の後添いになることが決まっております﹂
﹁では、あなたの婚約者というのは⋮⋮﹂
﹁御察しの通り、詩織です。とは申しましても、形ばかりですが。
私に詩織が婚約することで、我が家が分家筆頭となります。ですが、
私は詩織と結婚することはありません。詩織は養子縁組で父の子と
なり、その後、放逐されることになりました﹂
﹁それを私に? 何故?﹂
﹁間もなく公になりますが、分家筆頭当主の離反が明らかになりま
した。刑事責任を追及するために家を潰し、権限を取り上げるとい
う判断が下されました。佐織さまと詩織も同罪ですが、離反には関
与しておりませんでしたので、佐織さまは分家の監視下に、詩織は
一般人として生活できる知識を学ばせたのち、諏訪から切り離すこ
とになったのです。今のままでは普通の生活というものができませ
んから﹂
﹁そうですか﹂
色々とる方法はあったと思う。
分家筆頭を他家に譲り、家族そのまま海外に出してしまうことも、
縁を切り、業務上横領で財産没収という方法も。
今回、諏訪が取った方法は、確かに甘い手ではある。
142
しかしながら、諏訪家としてみれば痛手は少なくなる。
守るべきものを守って、少々欲張りではあるものの被害を少なく
するという点では間違っていない。
諏訪としては、身を切る思いをしただろう。
あれだけ慕っていた詩織様を他の男と婚約するように指示し、そ
の間、一般社会の知識を学ばせ、そうして同じ世界で二度と会わな
いと決めたのだから。
﹁あなたには、我が諏訪家の思惑で散々ご迷惑をおかけいたしまし
た。相良家のお怒りも承知しております。ですが、恥を承知で分家
の内情をあなたにお知らせしようと思いました﹂
﹁それが、新たな諏訪分家筆頭の意思ですか﹂
﹁はい﹂
頷く珂織さまを見て、疾風に視線を送る。
﹁疾風。連なるものとして、どう考える?﹂
﹁新たな分家筆頭の誠意は受け取りましょう。ですが、今後二度と
旧筆頭との接触は断ります﹂
﹁そうか。珂織さま、聞いての通りです。諏訪家としての意思は当
主である祖父がなさるでしょうから、私から申し上げることはござ
いません。ご婚約の件も、おめでとうとは申しません﹂
﹁ありがとうございます。私もあなたにその言葉をかけてほしいと
は思いません。では、私はこれで﹂
そう言って頭を下げた珂織さまは、私たちと入れ違いに屋敷を出
ていこうとする。
﹁珂織さま? 参加されないのですか?﹂
﹁ええ。招待されましたが、今回の目的はあなたにお会いすること
のみです。中にいる者たちには会いたくない。大人げないとお思い
になりますか?﹂
複雑な笑みを浮かべた珂織さまは、首を横に振って帰る意思を伝
えてくる。
そうか。
143
中にいるのか、あの人たちが。
﹁いえ。お気をつけてお帰りください。では﹂
﹁失礼します﹂
再度頭を下げ、珂織さまは車に向かった。
何とも言えない空気が漂う。
﹁あの男が、本家の息子なら、まだよかったんだけどな﹂
疾風が忌々しげに呟く。
﹁確かにー。あの人なら、詩織嬢に恋なんて絶対にしないよね。完
全に瑞姫狙いだったし﹂
﹁そうか? 昔からあの人は、わりと面倒良くて、年下の子供たち
に本を読んでくれたりとかしてな。その延長だったから全然気づか
なった﹂
﹁瑞姫ーっ!! 女子力ないぞー﹂
がっつりと私の肩を掴んだ在原が揺さ振るように訴える。
﹁瑞姫は女子力あると思うぞ。料理が美味いし。服のセンスもいい
し。化粧は⋮⋮しなくても充分すぎるほど美人だし﹂
﹁そうだね。高校生で化粧してる子見るのは、ちょっと引くよね。
化粧落とすと別人顔なんて、ね﹂
﹁化粧は、女子にとっての戦闘服のようなものだからね。少しは大
目に見てやってくれ。それに、この格好に化粧だと変だろう、私の
場合﹂
コスプレなら、眉を凛々しくとか彫り深くとかで化粧するのかも
しれないけど、普段の姿ならあまり必要ないものだ。
﹁さて。七海さまのところに行こうか﹂
気を取り直してエントランスへ入る。
どこかで生演奏の音が聞こえる。
﹁後で庭に出るのもよさそうだね﹂
橘がそう耳打ちしてくる。
そうか。
144
生演奏は庭で行っているのか。
﹁ここ、遊戯室ってあるのかな? ビリヤードできると嬉しいけど﹂
せっかくハスラーコスなんだしと在原も囁いてくる。
どちらも楽しそうだ。
とにかく七海さまへの挨拶が先だけど。
奥へと進もうとする私たちの耳にある言葉が届けられる。
﹁まあ、なんて地味なお姿かしら! ああ、ドラキュラなのね。同
じ化け物ならフランケンシュタインの方がお似合いなのに﹂
﹁⋮⋮っ!﹂
疾風が物凄い勢いで声がした方を睨む。
身を乗り出しかけたので、腕を掴んで遮る。
私と、在原と橘の3人で。
階段近くに二十歳前後の女性が集団で立っていた。
こちらを向いて、笑いながら。
その中に見知った顔を見つけて溜息を吐く。
どうやらそう簡単に七海さまのところには行けないようだと思い
ながら。
145
18
エントランスの奥に木製の大階段がある。
よく磨きこまれた手すりは、とても良い艶を放ち、下地や木目が
なければ鏡のようにきれいに姿を映しだしそうだ。
そんな見事な階段の近くに二十歳前後の女性の集団がある。
よく見ると、それは一塊ではなく、いくつかの小集団に分けられ
ているようだ。
その中のひとつに、わりと見知った姿を見つけた。
﹁ごきげんよう、詩織様。あなたも招待されていたのですね﹂
まさか私から声を掛けるとは思ってもいなかったようで、詩織様
の瞳が揺れる。
﹁あ⋮⋮ごきげんよう、瑞姫様﹂
﹁ちょっと! わたくしを無視しないでくださいません?﹂
詩織様の挨拶を遮るような金切り声。
先程の﹃フランケンシュタイン﹄発言の女性のようだ。
﹁どなたに声を掛けているのかと思っていましたが、あれは私のこ
とですか? そもそも、あなたは何方でしょうか? 相良とお付き
合いのある方なら皆様、覚えておりますが﹂
困惑したふりをして言えば、くすくすと笑い声がさざめく。
﹁私たちの姿を見て、ドラキュラだと思う方はまずいないので、勘
違いをしてしまいました、申し訳ありません﹂
﹁何よ。どう見てもドラキュラじゃない、その格好!﹂
﹁いいえ﹂
おかしげに笑う声が響く中、詩織様がそっと告げる。
﹁あれはどう見てもハスラーですわ。だって、キューをお持ちなん
ですもの﹂
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キューを収めるボックスを手にする疾風とステッキのようにキュ
ーを持つ在原を示し、何でもないことのように言う詩織様の言葉に
笑い声が大きくなる。
﹁それに、あなた、根本的な間違いをなさっているわ﹂
﹁し、詩織様?﹂
間違いを指摘された女性は、まさか自分がそんなことを言われる
とは思ってもみなかったようで詩織様と私の顔を見比べる。
﹁ええ。そんな間違いをなさる方がいらっしゃるとは思わなかった
ので、本当に驚きました﹂
目つきが悪くなっていく疾風を橘に預け、その女性の方へつかつ
かと歩み寄る。
﹁なによ!?﹂
﹁フランケンシュタインとは、継接ぎの人造人間を作り上げた博士
の名前です。化け物ではありませんよ。それに﹂
彼女目の前に立った私は、前髪をかき上げ額を晒す。
﹁顔には傷ひとつありません。どうです? 綺麗なものでしょう。
ですから、彼の作品にはなりえないのですよ、私は﹂
にっこり笑って追い詰めてみる。
﹁なによ! 被害者面して詩織様を悪者に仕立てた性悪女のくせに
!!﹂
﹁なっ!﹂
﹁岡部っ!﹂
女性の叫び声と、疾風の声、制止する橘の声と同時に、何かが破
裂するような音がした。
﹁⋮⋮詩織様!? 何故⋮⋮﹂
﹁瑞姫様に対する無礼もいい加減になさいませ! 瑞姫様に謝罪し
たらその場で出てお行きなさい。あなたの顔も見たくありません﹂
女性の頬を打ったのは、詩織様だった。
怒りをたたえた厳しい表情でその女性をまっすぐに見ている。
﹁私は詩織様の為に⋮⋮﹂
147
﹁無用なことです。瑞姫様は、愚かな真似をした私の被害者です。
責めを負うべきは私なのに、瑞姫様を悪く言う方がいると耳にしま
したが、それはあなた方だったのですね﹂
﹁だって、だってそうじゃない!? 大怪我して生き残って、健気
に生きてますって顔をして!! さっさと死んじゃえばいいのよ!
! 誰も彼もあなたのことばかり気にして!﹂
上ずった声が醜悪な言葉を生み続ける。
心の奥底で小さな塊が冷たく凍えるのを感じた。
ああ、そうか。
何故私が目覚めたのか⋮⋮。
その言葉を聞きたくなかったからなのか。
瑞姫は弱い心を封じるために、私を起こしたのか。
死ねばよかったと言われくなかったのか。
誰でも言われたいとは思わないだろうが、死ぬわけにはいかない
理由があるのに、生き残ったことを否定されるのは確かにつらい。
呆れたような溜息を深々と吐いた私は、打たれた頬に手を当てわ
めく女性を冷ややかに見下ろす。
﹁健気になんて生きてませんが? 私は相良の人間です。己の役目
を放棄して死を選ぶことが許されない立場だからこそ、何としても
生きることを選んだだけです。私が死を許されるのは、己の役目を
果たしてしまってから、です。あなたにそのような役目は与えられ
ていないのですね。ああ、そんな能力がないからこそ、誰もあなた
のことを相手にしないんですね﹂
可哀想にと囁けば、喚き散らして赤かった顔が一瞬で青褪める。
﹁悪意をまき散らせば、その数倍になって己に返ってくることくら
い、誰でも知っていることをやっているあなたに、誰が気を留める
でしょうか?﹂
﹁何よ、偉そうに! このくらい、誰だって⋮⋮ねえ! 言ってた
148
じゃない!!﹂
彼女の傍にいた女性たちは波が引いたかのように、いつの間にか
後ろに下がっていた。
誰も同意しないことに初めて気づいたその人は、後ろを振り返り
問い詰めようとする。
認めるわけ、ないじゃない。
私がここにいるってことは、相良の人間が後から来るってことだ
ものね。
それに、在原家と橘家の子息もいる。
珍しく私が怒っているのに、煽るような真似をすれば自分の家が
危ないと誰でもわかることだ。
﹁⋮⋮ところで、あなたはどちらの家の方でしょうか? 大伴家に
招待される方なら私も知っているはずですけれど。七海さまには可
愛がってもらっていますから﹂
﹁⋮⋮っ!?﹂
招待状を直接もらえない人間が、招待客に喧嘩を売ればどんなこ
とになるのかわかっているのかと匂わせたとき、奥からざわめきが
聞こえた。
﹁まあまあ! ようこそ、瑞姫様。まあ、素敵! なんてハンサム
なハスラーなんでしょう﹂
豪華なレースの襟が立てられたドレスの女性が両手を広げて近寄
ってくる。
この特徴的な襟!
間違いなくイングランド女王陛下だ。
﹁お招きありがとうございます、エリザベス一世陛下﹂
149
すごいな、七海さま。
全然違和感ない。むしろ本物かと思うほどよく似てて、似合って
る。
﹁お久しぶりですこと! 顔をよく見せてくださいな。まあ、背も
伸びて﹂
私をハグした七海さまは、両手で私の顔を包んでにっこりと笑う。
﹁七海さま? 確か、2週間前にお会いいたしましたよね?﹂
﹁何を仰るの! 2週間も会えませんでしたのよ? お若い方は1
日会わなかっただけでもずいぶん変わってしまうものですもの﹂
﹁背は伸びてませんよ﹂
﹁そうかしら? でも、ハンサムぶりは上がってましてよ﹂
悪戯っぽく笑った七海さまは、私の頬を撫でる。
﹁七海さま、お伺いしてもよろしいですか?﹂
﹁ええ、どうぞ﹂
﹁七海さまがエリザベス一世陛下でしたら、おじさまはどのような
お姿になられているのでしょうか?﹂
﹁夫はフェリペ二世よ﹂
にっこりと楽しそうに答える七海さま。
そうきたかぁ!
何でライバルを夫婦でやるんだ、この人たちは。
﹁ああ! 何てこと! わたくしったら!!﹂
私の問いかけに答えた七海さまは、何かに気が付いたように悔し
げにご自分を詰る。
﹁瑞姫様がこんなにハンサムさんなら、ドン・ファンをお願いすれ
ばよかったわ!﹂
﹁あ、あははははは⋮⋮﹂
それは、年齢的に無理でーす。
女ったらしの代名詞的存在で知られているドン・ファンは、フェ
リペ二世の腹違いの弟だ。
本国から離れた飛び地の領地の総督を務めたこともある文武両道
150
の英才だった。
軍の指揮官としての才能は特に素晴らしく、スペインの繁栄の一
端を担った人物でもある。
年の離れた弟の美貌と才能を愛したフェリペだったが、同時にそ
れらが疎ましく、ついには弟を死に追いやってしまう。
歌劇の題材にもなっている有名な美男をやれと言われても、さす
がに困る。
﹁冬にも仮装パーティを開こうかしら?﹂
まさか、そうまでしてドン・ファンを見たいとおっしゃるのか。
﹁冬でしたら、アンナ・カレーニナはいかがでしょう?﹂
冬=ロシアでついトルストイを思いついた私は、ぽろっと余計な
ことを言ってしまう。
﹁まあ、素敵! 貴族の将校ヴロンスキーね﹂
私の配役はもう決まったのか!?
﹁じゃあ、あなた方がヴロンスキーの同僚である青年将校たちにな
るのね﹂
笑顔のエリザベス陛下は、背後に立つハスラー諸君に声を掛ける。
彼らの役どころも決定か。
﹁七海さま、ご存じだとは思いますが、紹介させていただけますか
?﹂
﹁ええ。瑞姫様のお友達として改めて伺いたいわ﹂
にこやかなホステス役の表情になった七海さまに疾風はもちろん、
在原と橘を紹介する。
大伴夫人に私の友人として彼らを紹介する意味は重い。
何かあった時に、彼らを私と同じように扱ってほしいと願い出る
事なのだ。
その私の願いに足る人物かどうか、これから七海さまが精査して
いく。
不足と結果が出れば、引き離され、言葉を交わすことも許されな
くなる。
151
勿論、そんな心配は全くしていないけれど。
﹁さて、ハンサムさんたち、こんな入口ではなく、中の方で楽しん
でいってくださいな。遊戯室でぜひビリヤードの腕前を披露してく
ださると嬉しいわ﹂
﹁よろこんで、女王陛下﹂
橘が恭しく一礼する。
﹁綺麗な仕種ね。よい教育を受けられているのね﹂
﹁ありがとうございます﹂
﹁遊戯室の方へ案内しましょう⋮⋮あら?﹂
七海さまの視線が橘から例の女性へと移る。
﹁あなた、どなたかしら?﹂
怪訝そうな表情で頬に手を当てる。
﹁何方のお連れかしら? 今までに到着した方で御挨拶に来られた
方の中にはいらっしゃいませんでしたわね﹂
おっとりとした口調で女性に問うが、その視線は冷ややかだ。
誰かの連れだとしても、必ず一番最初に主催者に挨拶に行かなく
てはいけないのが慣例だ。
七海さまが知らないとはっきり言っているということがどういう
ことなのか、理解すれば呆れるばかりだ。
﹁あの、七海様! わたくし⋮⋮﹂
﹁やめてちょうだい! わたくしの名前を勝手に呼ばないでくださ
る?﹂
進み出た女性の言葉に七海さまの態度が一変した。
まさに女王の威厳というべきか。
﹁わたくしの大切な名前は、わたくしが許した大切なお友達しか呼
べないの。名前も顔も知らないあなたが呼べる名前じゃないのよ?
お衣裳もそぐわないし。帰ってくださらないかしら﹂
﹁え?﹂
﹁あなたをお連れした方も同罪ね。二度とわたくしと顔を合わせな
いようにしていただきましょう﹂
152
手にしていた駝鳥の羽扇子をぱちりと音を立てて閉じる。
奥へと繋がる扉の傍に立っていた礼服の男性が音もなく現れると、
その女性を柔らかい物腰でしかしながら抵抗を許さずに連れ出して
しまう。
そう。
エントランスホールまでは、誰でも入れるのだ。
ここから先には礼服の誰かに招待状を見せなければならない。
そこへ向かおうとした私たちを足止めした騒ぎに、彼らの1人が
七海さまを呼びに行ったのだろう。
ちなみに、七海さまのお名前の由来は、この方の生家にある。
ご実家は海運業で栄える名家で、まあ、所謂海運王とも呼ばれて
いるわけだ。
男系のお家で有名だが、先代様は女の子が欲しかったらしい。
待望の女児がお生まれになった時、﹃七つの海をまたにかける美
貌と才能の娘になるように﹄との願いを込めて﹃七海﹄と名付けら
れたそうだ。
先代夫人に七海は男の子の名前じゃないですかと、かなりしつこ
く怒られたらしい。
名前通りに育ったかどうかは、見ればわかるというものだ。
私が﹃七海さま﹄と呼ぶのを許されたのは、﹃おばさま﹄と呼ば
れたくなかったという理由だ。
微妙な女心には逆らわない方が身のためだ。
しかし、今更だが、本当にあの人は誰だったのだろう。
私の疑問に答えてくれる人はいないようだ。
微妙な空気が流れる中、詩織様が前に出られる。
﹁大伴様、騒ぎを起こしてしまい、申し訳ございませんわ﹂
﹁中で起きなかっただけ、よしと致しましょう。詩織さんもご婚約
が決まりましたから、この宴は今回で最後になりますし。ゆっくり
153
と楽しんでらして?﹂
﹁ありがとうございます﹂
すでに挨拶を済ませて、ここにいたらしい詩織様の言葉に、七海
さまが彼女を呼んだ理由を悟る。
﹁七海さま﹂
﹁なあに?﹂
﹁知人を見かけましたので、ご挨拶に伺いたいと思います。友人た
ちを遊戯室までお願いできますか?﹂
﹁ええ、もちろん。学校での瑞姫様のご様子をぜひとも伺いながら
案内させていただくわ﹂
﹁ありがとうございます﹂
お互いににっこりと笑いあうと、その場を離れる七海さまを見送
るように私はその場に立ち尽くす。
﹁瑞姫!﹂
﹁大丈夫だ、疾風。先に行っててくれ。すぐに追いつく﹂
心配する疾風の背を押し、席を外すように促す。
﹁遅ければ、迎えに行くからな﹂
﹁ああ﹂
これだけは譲れないと告げる疾風に頷いて見送ると、私は詩織様
を振り返った。
﹁私を待っていらしたのでしょう?﹂
そう声を掛ければ、詩織様の肩がびくりと跳ねる。
﹁私、祖母とよく七海さまのところへ遊びに来るので、こちらの御
屋敷には詳しいのですよ。お庭にとても綺麗な場所があるのです、
いかがですか?﹂
私の誘いに意を決したような表情を浮かべた詩織様が小さく頷く。
﹁では、こちらにどうぞ﹂
そう言って、ゆっくり歩き出す。
エントランスにいた女性たちが付いてくる様子はない。
詩織様だけが私の後を追う。
154
屋敷からテラスを抜けて庭に出る。
そうして人気のないところへと私は歩いて行った。
155
19
白い屋根の東屋へと続く道を歩く。
少々頼りないガリなハスラーの後に続くのは、大正時代あたりの
女学生。
着物と丈の短い袴にブーツ姿の御嬢様。
決して軟派な男が幼気なお嬢様を誑かして誘い出している図では
ありませんから!
先程の七海さまが追い返した女性のいでたちは、非常に似合って
いない夜の蝶でした。
あれって、ハミ出てなんぼなドレスなのに、全然はみ出てないし、
質の悪さと安っぽさが前面に出てる場末のキャバドレスっぽかった。
何となく懐かしい感じのドレスなんだよ。
高校の文化祭なんかで女装カフェとかやったときに予算の関係な
んかで一着夏目先生一枚なドレス。
いいなあ、文化祭。
東雲学園ってば文化祭ないからな、残念だ。
何で文化祭がないのかというと、残念主人公が﹃文化祭をしよう﹄
イベントを発生させるためにないんだ、ゲーム上では。
実際には、警備上の問題とかで外部から人が入ってくるのは望ま
しくないという理由だ。
チケット制にしても、外部生が他の高校に行った友人にチケット
を渡したりして、他校生が入ってきたりするので問題視されるのだ
とか。
話がそれた。
七海さまが出されたお題に全く合格していないわけで、不合格通
知を受け取っての退場は至極当然なわけだ。
私がハスラーなのも、もちろんお題に沿ってのことだ。
156
ああ。早く用件済ませて遊戯室に行きたい!!
時間が許す限り、あそこにこもるつもりだ。
視界に白い屋根が映り始める。
設えはすべて白だが、蔦を這わせ、緑と白の鳥かごのようにも見
える。
奥側はちょっとした斜面になっていて、そこを小さな小川が流れ
ていき、さらに小さな淵へと落ちる滝になっている。
軽やかなせせらぎは、夏の暑さを半減してくれる。
﹁どうぞ、詩織様。ここには何方も来ませんから﹂
﹁本当に綺麗な眺めですこと。風が涼しいわ﹂
この暑い中、わざわざここまで歩いたのは、見た目と反してここ
が涼しいからだ。
この涼しさを知らなければ、誰もここまで歩こうとは思わない。
だから、誰も来ないのだ。
﹁所謂、天然のクーラーというものでしょうか。お聞きになりたい
こと、お話になりたいこと、何でも承りましょう。ご婚約のお祝い
として﹂
﹁御存知でしたのね﹂
﹁つい先ほど、珂織さまからお伺いいたしました﹂
﹁かおる兄さま⋮⋮そう。兄さまは瑞姫様を慈しんでおられました
ものね。一時とはいえ、申し訳ないことをいたしましたわ﹂
肩を落としてベンチに座る詩織様。
﹁ひとつ、お伺いしてもよろしいかしら?﹂
﹁なんなりと﹂
﹁死ぬことを許されない理由とは何かしら?﹂
詩織様の質問に、私は笑う。
﹁生きて、役に立つこと、ですよ﹂
﹁え?﹂
﹁相良は地方の豪族です。とても小さな土地ですが、四方を山で囲
157
まれ、暴れ川と言われる急流を擁し、貧しい荒れた大地を所領とし
ておりました﹂
幼い頃に何度も聞かされた相良家の成り立ちだ。
﹁そんな貧しい土地でも、他の者から狙われる。大地が血で染まれ
ば、さらに土地が荒れる。ならば、その入り口を封じるように武を
得意とする者をおけばよい。河を御し、大地を潤し、豊潤な土地に
生まれ変わらせば良い。知恵者が指揮し、土地を改良する。武者と
知恵者、その双方の家が相良でした。相良の役目は、領地を豊かに
し、飢える者を出さぬこと。それは当主一人ではできぬこと。だか
ら、相良の血を引く者は平等にその役目を負うのです﹂
﹁昔のこと、ですよね?﹂
﹁いいえ。今もです﹂
詩織様の言葉を私は即座に否定する。
﹁領地というものは確かになくなりましたが、今は財閥というもの
に姿を変え、領民は社員となりました。私たちが相良の人間である
以上、社員とその家族を守る義務を負うことになるのです。私たち
が岡部家の者を傍におき、望む者と婚姻ができるのは、そのためで
す。岡部の者は、私が守る最初の者、彼らを幸せにできなければ、
他の者をどうして守ることができようかと訓えられるのです。心配
ばかりかけている私は、失格者ですけれど。岡部の者と伴侶が、私
たちの戒めになる﹂
﹁戒めだなんて⋮⋮﹂
﹁戒めです。疾風に恥じない自分でありたいと思うことで怠惰に逃
げる自分を制することができました。そうでなければ、私はいまだ
に入院していたでしょう。私の役目は、何かあった時の為に私財を
成すこと。会社経営に関しては、相良の大人たちが十分手腕を発揮
することでしょう。まだ子供でしかない私ができることはほとんど
ない。たまたま絵を描く才に恵まれたようで、それで一時的なもの
を得られているようですが、未熟であることは確かですし﹂
そこでちょっと苦笑する。
158
絵の技術は、以前も私のモノであって、瑞姫自身が手に入れたも
のではない。
あれを才能と呼ぶにはお粗末すぎると思っている。
﹁そんな。瑞姫様の手掛けられたお着物を手に入れようと思ってい
らっしゃる方は沢山いらっしゃるのですし、未熟であるとは何方も
⋮⋮﹂
﹁それはそれで役には立ちました。人脈というものを手に入れるこ
とができましたから﹂
﹁え?﹂
﹁手描き友禅を手に入れられる財力をお持ちの御婦人方と親しくさ
せていただけるというのは、何よりの財産です。あの方々は情報の
宝庫でいらっしゃいますから﹂
﹁瑞姫様?﹂
﹁私財というのは、何も金銭だけとは限らないのですよ?﹂
実際に友禅のデザインで手に入る金銭もそれなりにあるのだが、
顧客となっていただいた方々が持つ人脈、情報は菊花姉上が狂喜乱
舞するものだった。
金銭よりも+αの方に価値があると教えられた。
だが、役に立つという点では、少々足りない。
友禅デザイナーというのは、相良瑞姫という人間にとって将来の
職業にするには色々な点で不足があるのだ。
何より、相良の社員の役には立たない。
情報という利益は出せるが、それだけでは足りないのだ。
だから、将来的には別の職業に就くことになるだろう。
しかしデザイナーとして得られた人脈を手放すことはできない。
そこら辺を調整できる職業に就くべきだと考えている。
あの方々の持つ情報を相良に活かせるのなら、いくらでもさり気
なく引き出してみせようと思ってしまう私は、誰がどう見ても健気
ではないだろう。
この身に残る傷跡さえも、彼女たちの気を引けるのなら、いくら
159
でも利用してやろうと考えることができるのだから。
まあ、アラフォーが健気って、ドン引きするけどな。
﹁瑞姫様は、わたくしよりもいろんなことが見えていらっしゃるの
ですね﹂
﹁あなたの質問の答えになりましたでしょうか?﹂
﹁ええ。とても⋮⋮わたくし、イカロスですの﹂
ぽつりと、詩織様が告げる。
イカロス。
ギリシャ神話のイカロスだろうか。
太陽に焦がれ、翼を作って空高く舞い上がり、そうして太陽の傍
へ近づいたときに、その翼を失い落ちた若者。
ギリシャ神話は、神々があまりにも人間的過ぎて、それゆえ残酷
な物語が多い。
﹁あなたが焦がれた太陽は、諏訪伊織ですか?﹂
﹁ええ。あの子もそうです。わたくしが守りたい太陽。そして、も
う1つ。わたくしが焦がれた太陽は2つあるのです﹂
俯いたまま、詩織様が懺悔するように言う。
手の内にある太陽と、手の届かない太陽。
そういうニュアンスに取れる。
﹁わたくしは、同じ年の子達よりも何でもうまくやれると思ってい
ました。実際、そのように皆様が仰ってくださいましたし、自分で
も出来ているつもりでした。ところがそのわたくしよりもさらに素
晴らしいことができる方々がいらっしゃいました。わたくしよりも
小さな御子なのに、何一つ敵わないと思ってしまうのです。悔しい
と思うことすらありませんでしたわ、魅せられてしまって呆然とす
るばかりでしたから﹂
まあ、諏訪はやることなすこと派手だったから、そう思うのも仕
方がないだろう。
160
もうひとり?
八雲兄上なら年上だし、その当時、詩織様の傍にいた子供って誰
だろう?
いや、話の流れから推察すると、瑞姫の事かもしれない。
﹁何をやってもそつなくこなされる。落ち着いていて、慌てること
がほとんどない。かと思えば、笑顔は可愛らしく、人を惹きつけて
しまう。本当に太陽そのものですわ﹂
やっぱり、違うか。
そつなくこなすのは八雲の方だ。
私は手伝ってもらう立場だったし。
慌てても表情は変わりにくいから落ち着いて見えてるかもしれな
いが。
﹁両親の中が冷え切っていて、仮面の夫婦であるということは、初
等部の時に理解しておりました。父は家に帰ってくることはなく、
外に腹違いの弟がいるということは何となく知っていました。弟は
認知されることはなく、諏訪家も存在を否定していましたが。すで
にそのころには、父はギャンブルを好んで私財を投じていたという
ことは知っていました。その私財も尽き、借金を抱えているという
ことも気付いておりましたが、今の生活に変わりがなければそれで
いいと思っておりました﹂
ここのところは、調べたことを見たので知っている。
婿養子が、外で作った自分の子を分家とはいえ諏訪家に認知承諾
の申し入れをすることはできないだろう。
﹁我が子であるわたくしを顧みない父が憎かった。そうして、寂し
かった。だから余計に、わたくしを慕ってくれる伊織が愛しかった。
あの子が理想とするわたくしを演じるのが楽しかった﹂
あれだけ熱心に付きまとうのであれば、楽しいだろう。
それこそ伊織は詩織様を唯一のお姫様のように扱っていた。
﹁もうひとつの太陽は、そんなわたくしを一瞥すらせず、親しい方
を増やしながらわたくしには向けてくれない笑顔を見せて⋮⋮﹂
161
ものすごく居心地が悪いのは何故だろう。
ストーカーちっくな言葉のせいだろうか。
柱の陰からそっと見られていたら絶対に怖いよね。
﹁あの時、わたくしを襲ってきたのが、父の借金に関連すると悟っ
ておりました。わたくしを逃がそうとする伊織の姿に、とても怖く
なりました。本家唯一の嫡子である伊織に何かあれば、分家も生き
てはいけない。とにかく無事に逃がさねばと思っているときに、太
陽の姿を見つけました﹂
あー⋮⋮太陽って、やっぱり私ですか。
嫌だと全力で拒否りたい。
﹁伊織を太陽に託せば、大丈夫だと思ってしまったのです。あなた
を引き留めなければ、あなたが伊織を連れて行ってくれればと、わ
たくしは夢中でした。あなたの名前を呼んで、そうしてわたくしの
目の前で起こった出来事は悪夢でした﹂
涙をこらえるように唇を噛みしめ、瞬きをこらえている。
﹁あなたを轢き殺そうとするなんて、思ってもみなかったのです。
愚かであると思ったのは、律子様に頬を打たれてからのことでした﹂
懺悔だった。
己がしたことを思い返し、いかに愚かだったかを告げる懺悔大会。
彼女の狙いは、太陽による断罪だろう。
気付けば呆れてものが言えない。
今この期に及んでも、彼女の本心からの謝罪はない。
﹁話したかったのは、それだけですか?﹂
私は冷ややかな声を作って問いかける。
﹁いえ、他にも﹂
﹁そのあたりも承るべきだと思いますが、ちょっと聞き飽きてしま
いました﹂
諏訪から何度も聞いた話でもある。
聞き飽きない方がおかしい。
﹁詩織様、あなたは勘違いをなさっておられますと言われませんで
162
したか?﹂
﹁いいえ﹂
﹁なるほど。あの時、あなたが取るべき行動は、いくつもあります
がもっとも良い方法はなんであったかわかりますか?﹂
伊織を私に託すとしか思っていなかった彼女は、戸惑うように首
を傾げる。
﹁何もしないこと、です﹂
﹁何もしない? そんなこと⋮⋮﹂
﹁私があなたに声を掛けられ、車が私を轢くまでの時間、どのくら
いありましたか? ほんの数分ではありませんでしたか﹂
私の言葉に、詩織様は黙り込む。
﹁全員が助かる方法は、﹃何もしないこと﹄だったのです﹂
﹁そんな!﹂
﹁事実です。もう、結果論としか言えないことですが﹂
あの時、詩織様が何も言わなければ、もう少し時間が稼げた。
その間に警邏兵が到着し、私も助けられたはずだ。
犯人たちは殺されずに捕獲され、誰ひとり死ぬことなどなかった
だろう。
﹁あなたは選択を間違えた。それが、2人の人間を死に追いやり、
ひとりの子供を重傷にした﹂
淡々と語る私をじっと見つめる詩織様。
﹁あなたはこれからそのツケを払うことになる。ようやく、ね﹂
﹁わたくし﹂
﹁遅すぎる謝罪は、無意味なのです。私は太陽などではなくただの
人間だ。私個人を見なかったあなたに、告げる言葉を何も持たない。
また会うこともあるでしょうが、言葉を交わすことはないでしょう。
もはや、すべてどうでもいいことなんですよ。私にとってあなたは﹂
無関心ほどつらいことはない。
だからこそ、私はこの人に対して関心を持たなかった。
そうしてこれからも持つつもりはない。
163
救いなど、与えない。
私はその場に詩織様をおいて歩き出す。
﹁瑞姫様! 待って!!﹂
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
追い駆ける声がするが、詩織様は動かない。
自分が持つイメージだけで相手をどうこう決めつけるような考え
方をするつもりはないが、ここで私を引き留めるために追い駆けて
くるならば、まだよかったのに。
声だけでは、立ち止まるつもりはない。
何も聞こえなかったかのように、誰もいないかのように、私は庭
を歩き、母屋に向かう。
そうして、庭の出入り口付近でまたしても見知った顔に出会った。
164
20
あ、御曹司がいる。
そう思ってよく見たら、顔が諏訪で残念だった。
御曹司というのは、今流行ってるアニメの主役格のひとりの渾名
だ。
あのとぼけたキャラが結構好きなのに、諏訪だとはすこぶる残念
だ。
まあ、確かに御曹司だけどね!
半袖のYシャツにライトグレーのネクタイと同系色のパンツとい
う制服スタイル。
東雲の制服と色だけなら似ているけど、誰が作ったんだろう、こ
の制服。
現実逃避をしたいときは、大体、くだらないことを考えちゃうよ
ね、私って。
﹁姿を見かけて声を掛けようと思ったら、騒ぎが起きて⋮⋮割って
入ればよかったと思ったが。すまない﹂
落ち込んでいますというような表情と声で告げられて、何のこと
かと一瞬、考える。
﹁騒ぎ⋮⋮?﹂
﹁東條家分家の令嬢だ﹂
﹁東條? 聞き覚えのない家だな﹂
一瞬、東條凛の名が掠めたが、現時点では東條家と私の接点は何
もない。
考えるように小首を傾げ、首を横に振る。
﹁おまえは知らなくて当然だ。名家とは程遠い葉族の末端だからな﹂
﹁その、東條の分家の娘がなぜ私に?﹂
165
﹁東條本家には後継ぎがいない。分家も女ばかりだ。だから、本家
の当主にふさわしい男と婚約した娘を後継ぎにするという話が出た
らしい﹂
﹁それで?﹂
﹁下世話に言えば、男漁りというのか? パーティというパーティ
に顔をだし、名家の男に声を掛け、ことごとく振られているらしい﹂
だから、どうしてそこで私への悪意になるんだ?
視線で先を促せば、諏訪は言いたくなさそうに口を開いた。
﹁本家の当主にふさわしい名家の男と言われて、最上級クラスを狙
った阿呆だ。同じ葉族を狙えばよいものを、神皇天地狙えば、結果
は知れているだろう? 彼らは相良の娘に選んでほしいと願ってい
るのだから﹂
﹁⋮⋮は?﹂
女帝と女王の間違いでは?
たまに逆ハーレムな状態を見ることがあるけど。
女帝様の場合は、白衣で有名な巨塔状態ともいうが。
﹁もしかして、私の悪口を言いたてて詩織様につく振りをしていた
のは、おまえを取り込むためか?﹂
﹁俺は東雲で令嬢たちを見慣れているんだ。あんな品のない女を相
手にするか﹂
﹁また明後日な方向で攻め込んできたなー。この場合、気の毒にと
いうべきか?﹂
嫌そうに顔を顰める諏訪に視線を流して問いかける。
四族間での婚姻に何も問題は起こらないが、四族と葉族では四族
側が全く相手にしないという現状がある。
葉族は分家が独立した形で本家から切り離された家だ。
下手すると離反した家と取られることもある。
葉族でも藤原から独立した家は名家と呼ばれるものもあるが、そ
の実態を知るものからすれば失笑ものである。
戸籍貸しをして財を成した家があるからだ。
166
名家とは呼ばれない成り上がり商家は、商売をするうえで箔をつ
けるために彼らと養子縁組をするのだ。
縁組をしたことで商家は義親に謝礼を支払う。
そうやって維持する家に何の価値があるのかと。
四族は彼らを不快に思うのだ。
不快な存在にがっつり狙われていい気持などするはずがない。
特に諏訪など、詩織様以外に目をくれなかった男だ。
まとわりつかれれば最悪な機嫌になることだろう。
﹁だから、見かけたときに止めに入ろうと思った。だが、あの場に
詩織がいたし、何より、おまえなら俺よりもうまくあしらえるだろ
うと思った﹂
﹁そうか﹂
詩織様と顔を合わせづらかろう。
大目に見るとするか。
﹁さて、ここでの立ち話は暑いので場所を移したいのだが﹂
﹁すまない。怪我の具合は大丈夫か? 暑さで悪くなったりしない
のか?﹂
﹁古傷だ。暑さでは別に痛まない。と、いうか、暑さで傷が腐りそ
うな表現はやめてほしい﹂
私の指摘に諏訪が固まる。
ちょっと顔色が悪くなった。
どうやら傷が腐っていく様子を想像したらしい。
想像力が豊かなのは褒められるべき事柄だが、何を想像するかは
内容によりけりだと自戒すべきだと思うぞ。
﹁今までのことを色々と話したい。どこか人が少ないところを⋮⋮﹂
﹁私の部屋へ行くか? おじさまが私に用意してくださった部屋が
ある。2階だ﹂
﹁案内してくれ﹂
素直に頷く諏訪と連れ立って、奥へと向かう。
エントランスホールの階段は人目がありすぎるのであそこから2
167
階に上がる必要はない
客人に解放されたスペースからプライベートスペースへと移動す
る。
喧騒から隔離された静かな廊下を歩き、奥の階段から2階へと上
がる。
その階段の近く、中庭に面した部屋が、私に用意された部屋だ。
幼い頃からお祖母様に連れられて大伴家へ遊びに来ていた私が、
幼いゆえに疲れてすぐ寝入ってしまうので、ゆっくり眠れるように
とおじさまが用意してくださったのだ。
今は、七海さまのお供で遊びに行った帰りに泊まらせてもらって
いる。
淡い青と白の壁紙は静けさを感じさせる。
部屋の調度はその壁紙に合わせて整えられている。
あえて言うのなら、カントリー風だろうか。
赤毛のアンをイメージしたけれど、それだと私に合わないので色
を調整してみたと自慢げに仰っていた。
﹁意外だな﹂
部屋に入るなり、諏訪が目を瞠る。
﹁おじさまの趣味だ﹂
﹁⋮⋮あ、そうか﹂
ここが大伴の家であることを思い出し、諏訪は納得する。
﹁そちらのソファに座ってくれ。お茶を出せなくてすまないが﹂
﹁いや、大丈夫だ﹂
ソファに座った諏訪が、首を横に振る。
﹁友人ではないと言われて、ショックだった﹂
ひとしきり部屋を眺めた諏訪が、ぽつりと言った言葉がそれだっ
た。
168
﹁あれで、目が覚めた。今まで散々迷惑かけて、その上、助言まで
もらっていたのに、わかっていなかった﹂
ほう。やっと理解できたのか。
﹁俺が今までどれだけ己の立場に甘えて来たのか、気が付いた﹂
今まで見た中で、一番まともな表情だった。
スタート地点にようやく立ったのだと、その表情でわかる。
﹁まず、詩織のことだが、分家の跡継ぎの娘が本家の俺と婚約など
できるわけがない。そのことに気付かなかった俺もそうだが、詩織
もそれに気付かず、弟のように思っていると言ったことで分家の跡
継ぎの資格がないとわかった。そのことに気付いて初めて、他の家
の者たちが俺のことをどう思っているのか理解できた。さぞ、愚か
しいと嘲笑ったことだろう﹂
うん。笑ったとも。
分家の跡継ぎが本家に嫁ぐことはできない。
その一言を言えば、両者とも傷つくことなく諏訪は自分の想いを
諦めることを選べた。
それだけの頭と理性は持っている。
﹁あの事件も、詩織の一言で相良が轢き殺されかけたということに
重きを置いていなかった自分に呆れた。おまえに逃げろと言った詩
織は優しい人間だと思っていた。おかしな話だ。助けを求めるなら、
声を上げて危険を知らせても、傍にいる者の名前を呼ぶなと言い聞
かせられてきたはずなのに。あれは、相良をわざと狙わせる目的で
告げた一言だった。詩織がお前を殺そうとしたんだ。何の関係もな
い、ただ居合わせただけのおまえを﹂
自分が信じていたことを根底から覆されるのは、かなりつらい。
それこそ、自分という存在すら揺らぐことになる。
﹁俺たちに会いたくないと言ったお前の言葉は正しい。誰が自分を
殺そうとした人間に会いたいと思うものか。それなのに、見舞いを
許そうとはしないおまえを聞き分けのない奴だと思っていた。おま
えのリハビリを見るまでは﹂
169
﹁見たのか、あれを?﹂
何のフラグだ。
あんなもの、お坊ちゃんが見るモノじゃないぞ。
﹁父に連れられて、見た。リハビリがあんなにきついものだとは思
わなかった﹂
両手に顔を埋め、首を横に振る諏訪。
見たのは歩行訓練か。
脇の高さのバーが左右両方にあり、そこに掴まり、あるいは脇に
挟んで体を支えながら足にかかる負担を減らしただひたすら歩く訓
練だ。
ただし、いきなり歩くのはいろんな場所に負荷がかかるので、筋
肉をほぐすストレッチを行った後にやる。
萎えた足で歩くため、身体を支えてもまっすぐには歩けない。
しかも、足が上がらないため、よくこけるのだ。
こけても、基本的には助けてもらえない。
起き上がることもまた訓練だからだ。
歩くと同時に、身体に衝撃が少ないこけ方を学び、そうして諦め
ないことを学ぶ。
あの訓練は、ちょっと意地になるのだ。
派手にこけるため、近くでリハビリしていた人が助け起こそうと
手を差し出してくれるのだが、それを全部断り、自力で立とうとみ
っともなくもがいては何とか立ち上がる。
なにせ、片腕も見事に使えないのだ。
両手がつけないと、上体を起こすことも非常に難しい動作になる。
見る人がやきもきしてしまうので、それが伝わってストレスに感
じてしまうので、見られたくなかった。
﹁人それぞれだ。私はきついとは思わなかったぞ。うまく立ち上が
れたときは、得意絶頂になっていたな﹂
手足が思うように動かないことを嘆くよりも、先日より確実に動
けてることに喜びを感じていたため、実はリハビリは好きだった。
170
リハビリ担当医が思いっきり褒めてくれるのも好きな理由だった
けれど。
自分がきちんとしたことを褒めてもらえるのは非常にうれしい。
だから、リハビリを熱心にしていたのだ。
お手軽な性格と呼んでくれ。事実だから、これに関しては怒らな
いぞ。
﹁俺たちが、おまえをあんなつらい目に合わせたんだと、あの時思
った﹂
﹁もう過ぎたことだ﹂
﹁憎まれても仕方がないと思った。だが、実際には違ったんだな﹂
諏訪の視線は相変わらず足元に落ちている。
私の顔を見ることができないらしい。
﹁おまえが無関心を装うことで、俺や分家への報復を抑えてくれて
いたんだな﹂
﹁装ったんじゃない。どうでもよかったんだ。自分のことに対して
必死で﹂
﹁どちらでも構わない。だが、助かったのは事実だ﹂
諏訪グループは、あの事件直後、本当に屋台骨が揺らぎ、潰れる
のではないかと思われるほど業績悪化したのだ。
相良からの報復を予想した者たちが一気に手を引いたせいもある。
実際に相良が報復措置を取ったのは、諏訪分家筆頭のみである。
あれで借金が余計に膨らんだとか聞いたけど、聞かなかったこと
にした。
﹁先日、俺に渡された書類の中に紛れ込んでいた不正疑惑のメモは、
父がわざと入れていたものだとわかった。そして、集めた資料も思
った以上に簡単に集まった。相良で集めたものだと後から聞かされ
た﹂
息子への試練にしたのか、諏訪当主は。
息子を廃嫡にするかの見極めだったのかもしれない。
﹁俺が未熟であることが、あの資料集めひとつでもわかった。これ
171
では、おまえに認めてもらえなくても当然だ。あれらはおまえの指
示だったと聞いた﹂
﹁それは、違う。私ではない﹂
﹁いや、おまえだと確かに聞いた﹂
ようやく諏訪の視線が私に向かう。
﹁こんなに差があるのなら、友人ではないと言われても仕方がない
と理解できた﹂
はっきりとした眼差しでこちらを見る諏訪に、私は溜息を吐く。
これからの展開が鉄板なシナリオに向かうのではないかと、ちょ
っとうんざりした。
172
20︵後書き︶
昨日UPした19話は後程大幅改定いたします。
眠気と闘いながら書くと、書き落としが結構あるのです。
申し訳ないです。
おそらくいろいろと不思議に思う点があると思いますが、後々答え
合わせができると思いますので、ゆっくりお待ちください。
173
21
ゆっくりと部屋の中に沈黙が降りる。
私の言葉を待つ諏訪、何も言わない私。
どういう答えがほしいのか、考える事すら面倒だ。
﹁あの時も﹂
何も言わない私にしびれを切らしたのか、諏訪が話し始める。
﹁誰もが俺の想いを否定した中、おまえだけが認めてくれた。それ
がどんなに嬉しかったか⋮⋮なのに俺は﹂
﹁そのことについて、ひとつ、言っておこう。諏訪﹂
フラグは折るためにある。
断言しよう。
フラグは立てるものではなく、折るものだと。
﹁あの時の自分の精神状態をわかっていたか、諏訪? おまえは、
間違いなく壊れかけていた﹂
﹁⋮⋮あ⋮⋮﹂
﹁おまえは、精神的に弱すぎる。脆いと言った方が正しいか。想い
を捨てきれない自分と、他の者の言葉が正しいと思い従おうとする
自分とで揺れていた。その振幅が激しすぎるゆえ、精神に異常をき
たしかけていた。部屋で暴れて、中を壊しまくったそうじゃないか。
大神に聞いた﹂
﹁それは⋮⋮﹂
﹁誰も対処法を見つけられず、私に押し付けて来たんだ、何とかし
てくれと、な﹂
対処法なんて簡単だ、カウンセラーをつければいい。
それだけのことを体面を気にしてできないのか、思いつかないの
かわからないが、やらなかったということが諏訪サイドの基盤の弱
さだ。
174
挙句の果てが、被害者側である私に事態の収束を押し付ける。
呆れない方がおかしいというものだ。
﹁だから、何とかしてやっただけだ。認められずに壊れかけるのな
ら、認めてやればいい。それだけだろう?﹂
疾風が捜し回るかもしれない。
早く遊戯室に行かないと。
﹁⋮⋮相良﹂
﹁実際、おまえの詩織様に対する想いは、﹃恋﹄じゃない。異性に
向ける想いじゃなく、母親に向ける思慕だった。それが母親ではな
かったため、おまえは恋だと思い込んだ。独占欲は酷かったが、所
謂﹃欲﹄は一切なかった﹂
﹁なぜ、そんなことを⋮⋮﹂
﹁答えは簡単だ。詩織様に無理やり手を出そうとしたことは一度も
ないだろう? お行儀よく傍にいただけだ。普通なら、衝動的にな
るはずだ、おまえの性格上。そして、そんな話題は一切外には漏れ
たこともないし、おまえの態度が変わったこともなかった。非常に
わかりやすい﹂
﹁⋮⋮なっ!! なんてことを、おまえっ!!﹂
﹁正直に答えただけだが、気に食わなかったか?﹂
真っ赤になった諏訪が声を荒げるが、怒っているのではなく恥ら
っての言葉だった。
﹁私が認めただけで、おまえは落ち着いただろう? 誰でもいいん
だ、別に。自分の想いを認めてもらえれば。そうすれば、冷静に戻
れる。冷静になったおまえは、父親に試された。それが、分家筆頭
の横領問題だ。あれは、随分前からわかっていたことだ。相良の方
で調べたというのは本当だ。私の身を守るための切り札の一つだっ
たからな。それを祖父がおまえの父親に見せ、諏訪当主はおまえが
次期当主としてどういう判断を示すか、書類に紛れ込ませたという
わけだ。分家筆頭の処分を決めたとき、おまえは詩織様に対して罪
悪感は覚えたけれど、喪失感は感じなかっただろう? 自ら失恋を
175
決めたというのに、前回のような落ち込みを人に見せず、自分も感
じなかった。違うか?﹂
畳み掛けるように告げる私の言葉に、諏訪は呑まれている。
気分が高揚している時なら、気にもかけない言葉だろうが、下降
気味の時には他に圧倒されてしまうという不安定さ。
それを自覚して、コントロールできなければ当主としてはやって
いけないだろう。
﹁どうして、それを⋮⋮﹂
﹁言っただろう? おまえは、わかりやすい、と。人の上に立つ者
としては致命的な欠点だ。そもそも、2年前の事件で、一番莫迦な
ことをしたのは私の名を呼んだ詩織様ではなく、おまえだとういこ
とをわかっているのか?﹂
﹁⋮⋮え?﹂
茫然とした表情で私を見つめる諏訪。
やっぱりわかっていなかったか。
現当主は、この莫迦息子をどうするつもりなんだ?
人に教育まで押し付ける気か!?
もしそうだったら、全力で諏訪家をぶっ潰すぞ、マジで。
勿論、潰すだけの権力も何も持ってないので、兄姉に泣きつくこ
とになりそうだけど。
﹁ああ、わからないのか。簡単なことだろう? 襲われた時におま
えがスマホのSOSアプリに触れればそれだけでよかったんだ。そ
の時点で警備部に連絡がいく。同時にGPSでおまえたちの居場所
が警備部にわかるから、2分で辿り着けた。私が係る間もないうち
にすべてが終わる。どうだ?﹂
﹁そんな! 俺は⋮⋮﹂
﹁詩織様を解放しようと、無謀にも大人4人に対し、抵抗を試みて
いた。一見美談だが、あまりにも愚かな行為だ。子供が大人にかな
うわけがない。おまえが諏訪家の人間だったから金蔓の息子だから
殺さずに排除しようと向こうも手加減していただけだ。おまえのそ
176
のすぐに感情的になる癖を何とかしないと、本当に命取りになるぞ﹂
深々と溜息を吐いてみた。
﹁それに、学習しないという点も致命的だ。襲われて、抵抗しよう
として怪我をした。抵抗の仕方がわからなかったからだ。それなら、
自分の身を守り、周囲の者も守れるように護身術を学ぼうと思うく
らいのことは、普通、考えるはずだ。実際に襲われた経験があるな
ら。しかし、おまえはどうだ? 何もしなかった。つまり、何も学
ばなかったということだ、あの事件から﹂
以前とは違い、真剣に私の言葉を受け止めて咀嚼しようと宙を睨
みつける表情。
多少はマシになったが、まだ足りない。
﹁それでも、私に友人と認められたいか?﹂
﹁認められたい。相良と友人になりたい﹂
﹁では、私のメリットはなんだ?﹂
﹁え?﹂
意外なことを聞いたとばかりに、目を瞠った諏訪が私を見る。
﹁⋮⋮これも、か⋮⋮本当におめでたいな﹂
本心から呆れたぞ。
﹁名家と呼ばれる家の出で、友人関係を築くというのなら、お互い
にメリットがなければ意味がない。私の場合は、私の顧客という人
脈と、そこから齎される情報、そして私自身の解析力だ。まあ、尤
も、私の持つ解析力など姉たちに比べれば大したものではないがな。
他にも多少はあるが、大体、そんなものだ。在原と橘もすごいぞ。
在原もある程度の人脈を持っているが、彼の語学力は素晴らしい。
現時点で5ヶ国語を流暢に話せる。今、ラテン語を習得中だそうだ。
最低12ヶ国語を話せるようになりたいと言っていた。現地語で商
談ができるのなら、こちらに有利にまとめることができるからな。
静稀なら問題なく習得できるだろう﹂
﹁まさか!﹂
﹁本当だ。私ですら、3ヶ国語で精一杯だ。フランス語とイタリア
177
語まで何とかなって、あとドイツ語を覚えねばならんだろうが。お
まえは英語以外、何処の国の言葉を習得している?﹂
固まっている諏訪の顔を覗き込み、英語だけだと悟る。
まあね、予想はつく。
諏訪家は神巫の家系だ。
基本的に日本語さえというか、祝詞さえわかればいいという環境
の中で育っている。
グループ企業の中では珍しく、海外進出に消極的な一族だし。
﹁橘誉も独自の人脈を持っているし、その情報網も独特だ。それに、
なかなかの雑学王で博識だ。学問より知識に特化して学んだ結果だ
ろう﹂
ゲーム設定では、橘は橘家当主と芸者の息子だ。
そのことを揶揄されて鬱屈が溜まっていたのを残念主人公に慰め
られるという展開だったが、ここではちょっと違う。
橘家当主夫妻と誉の実母は幼馴染という鉄板設定だ。
夫人は生まれつき心臓が悪く、子供を産めない。
だけれど、当主の子供が欲しい。
代理母はこちらでもまだ許可が下りてないので代理出産は無理だ
った。
そこで、彼女は幼馴染に頼んだのだ、夫の子供を産んでほしい、
と。
惚れっぽくて気風がいいまさに芸者の見本のような誉の母親は、
わりとあっさり承知したのだ。
芸者の仕事をするには子供が邪魔だから引き取ってくれないかと、
生まれたての子を幼馴染の親友に託した。
普通、そこで実母は姿を消すのがお約束なのだが、彼らは実に大
らかだった。
隠しておくべきだろう事実をあっさり公表し、それどころか息子
を連れて生みの親のお座敷に行くのだ。
事実を公表しているのだから、他の芸者衆からの受けはいい。
178
客の情報を決して漏らしたりはしない芸者衆だが、母親に会いに
行く息子ならば気付くことがある。
そういったことで、橘はちょっと変わった情報収集ができるのだ。
ちなみに、私も橘のお母さんのお座敷に行ったことがある。
いい声をした三味線が上手な芸者さんであった。
カッコいい女性は好きだと、彼女を見るたびに思うのである。
﹁それで、諏訪。おまえが私にくれるメリットはなんだ?﹂
今のところ、デメリットしかないことはわかるだろ。
﹁詩織様に傾倒しすぎで、ろくに人脈を持たず、大した情報を得る
こともできず、感情的になりすぎて冷静な判断が下せない。それが、
現時点でのおまえだが、それでもメリットがあるのなら言ってみろ
?﹂
言っておくが、私は諏訪のことをそこまで憎んだりとか嫌いだっ
たりはしていない。
何故なら、いい声だからだ。
ゲームでは王道ルートの主役の1人だけあって、声優陣も相当張
り込んだらしく、美声で有名な人気声優が中の人であった。
他愛ないことを話す分には、いい声だけあって聞き惚れる。
声フェチにとって、好みの声というものは、それだけで価値があ
る。
中身がどれだけ残念だろうと、声が良ければ許される。
私と関係ないところで、好きなだけ喋ってくれとすら思っている。
聞くだけ聞くから! 聞き耳立てるから!!
だから、話しかけなくていいよ。
そう思う程度には諏訪の声が好きだ。
中身に価値を見出すことは今のところないが。
﹁まあいい。自分にメリットがあると思ったら、言いに来てくれ。
そこから考えよう。それまで諏訪伊織は、私にとって知人以下の存
在だということを理解していればそれでいい﹂
そこまで告げて、私は立ち上がる。
179
﹁では、夏休みが明けるまでさよなら﹂
そう言って、私は自分の部屋を後にする。
部屋を出たところでこちらに向かって歩いてくる疾風の姿を見つ
けた。
やっぱり、時間を食い過ぎたか。
﹁疾風!﹂
片手をあげて、合図すれば、疾風が走ってやってくる。
﹁瑞姫、こんなところで何をしていた﹂
﹁んー⋮⋮外に出て暑かったから、汗拭き?﹂
﹁⋮⋮ごめん。聞いた俺が馬鹿だった﹂
神経質になりすぎたと耳を赤くして告げる疾風に笑いが出る。
﹁遊戯室へ行こう!﹂
﹁ほんと、ビリヤード好きだよな、瑞姫は﹂
﹁おじさまに教えてもらったからね。勝負してやろうか?﹂
にやにや笑って答えれば、仕方なさそうに疾風が頷く。
﹁大伴様が初心者の在原にビリヤードの基礎を教えて特訓なさって
いる最中だ。在原はゲームするつもりらしい﹂
﹁いいね。楽しそうじゃないか!﹂
喜ぶ私に疾風が肩を落とす。
﹁ものすごく不安だ﹂
﹁大丈夫だって。手加減してあげないけどね﹂
そう言って笑うと、私たちは地階にある遊戯室へと向かった。
180
21︵後書き︶
週末はムーンさまの方の作品を更新する予定ですので、こちらの方
の更新が滞るかもしれません。
181
22
遊戯室への道のりで、私は非常に機嫌が良かった。
これでしばらくは諏訪に煩わされずに済む。
友人をメリットで選ぶわけないじゃないか、普通。
あれはただの付属物だ。
友人関係は、相手を信頼できるかどうか、だ。
その友人が困っているときに、自分が持っている何かで手助けで
きればいいという程度のものだ。
勿論、こういう世界に身を置く以上、困っているというレベルが
普通ではないことが多いので、手助けしたいと思う以上、かなりハ
イレベルな手持ちが必要であるというのは確かだ、
何であんな言い方をしたのかというと、諏訪の執着は病的だから
だ。
詩織様への執着具合からもわかる。
相手の全部を自分に向けないと気が済まないヤンデレっぽさがあ
る。
自分のメリットが何であるのか、またはメリットになるものを作
っていこうと考える以上、デメリットについても学ぶはずだ。
そこで異常ともいえる執着心に気付けばいい。
尤も、1年やそこいらでメリットが作れるわけもない。
東條分家の令嬢がここで出て来たということは、東條凛が現れる
可能性もまた捨てきれない。
来年の春、東雲に来たのなら、心より諏訪を進呈しよう。
そうすれば私の心の平穏が保たれる。
うん、いい考えだ。
私は他人の恋愛事情に巻き込まれるのは嫌だ。
182
﹁機嫌がいいな、瑞姫﹂
私の機嫌のよさに気付いた疾風が、何となく嬉しそうに言う。
5歳の時から傍にいる疾風は、私よりも私の感情に詳しいときが
ある。
それを言い当てられるときはちょっと癪に障るときもあるけれど、
こういう時は言わなくてもわかってもらえることが嬉しかったりす
る。
﹁うん。しばらく落ち着いて暮らせるかと思うと嬉しくてね﹂
﹁そうか。それならよかった。治療の方に専念できるな﹂
﹁またリハビリの日々かぁ﹂
﹁意外とリハビリ好きだもんな、瑞姫は。毎日行くから、退屈しな
いように﹂
﹁ありがとう。疾風が来てくれると助かるよ﹂
少し早いが、そろそろ将来のことも考えなければいけないだろう。
極秘に進路について決定しておかないと、学業の方向性を決めら
れない。
一緒の進路を希望すると言ってくれている疾風も困るだろうし。
何より、私には少しばかりやりたいことが見えてきたというのも
ある。
﹁必要なものがあれば、俺が用意するから、何でも言ってくれ﹂
﹁うん。ありがとう。その時は頼むよ﹂
笑みを浮かべて頷いた私は、階段のところで立ち止まる。
ひとつ、深呼吸。
そうして表情を変える。
瑞姫ではなく、相良家令嬢のものへと。
遊戯室は大体、屋敷の1階か、地階に作られていることが多い。
使用目的で場所が変わるということを聞いたことがある。
183
純和風の相良家本邸にはないものだけに、連れて来てもらって初
めて見たときには本当に驚いた。
1階に作られた遊戯室というのは、お客様もてなし用と考えられ
たものが多いとか、地階の場合はプライベート的要素が強いもので、
客人でも特に親しい者しか招かない方もいらっしゃるという。
大伴家の遊戯室は地階。
ほとんどプライベート用だ。
何故かというと、このご夫婦の趣味にある。
おじさまは映画好きで、奥方の七海さまは舞台好き。
行動派の七海さまはご自分の好きな舞台があると聞けば世界中ど
こでも駆けつけてご覧になっているのだ。
たまに私も強引に連れて行かれる時がある。
夏休みのような長期休暇の時に限るけれど。
先程の話題に出たドン・ファンもその舞台のことを指している。
有名なオペラや話題作はもちろんだが、マイナー路線の歌劇など
も七海さまの琴線に触れればチケットを手配されている。
私がイタリア語を何とか習得したのもそのおかげだ。
何を言っているのかわからなければ、せっかくの舞台が台無しに
なってしまうのだ、自分的に。それは絶対もったいないと思う。
おじさまの映画好きは、海外移動に関しては大人しい。
だがしかし、一度その映画にはまってしまうと、屋敷内の部屋を
改造して映画の一幕を再現してしまうという悪癖と七海さまが言う
癖がある。
私の部屋しかり、遊戯室しかり。
遊戯室は、ビリヤードを題材にした映画はもちろん、他にも演出
の一環で映し出された遊戯室を参考に、おじさまが理想の部屋を作
り出したご自慢のお部屋なのだ。
部屋の一面はバーカウンターがあり、そこもまた映画のワンシー
ンに出てきそうでカッコいい。
部屋の中央部分にビリヤード台が2台あり、奥にはビリヤードに
184
似たもう一回り大きな遊技台が置いてある。
なんでも﹃あっかんべー﹄とかいう意味のビリヤードに似たゲー
ムがあるらしく、その専用台なのだそうだ。
さすがにその名前は、私はわからない。
調べればわかるだろうが、今のところビリヤードが面白くて、そ
ちらまで気が向かないというのが正直なところだ。
ビリヤード台は、艶のある木材で細かい彫刻がなされている。
それだけで芸術品だという人もいる。
だげど、ビリヤード台はゲームをしてこそ、と、仰って、おじさ
まは特訓を重ねてプロ並みの腕前になられたとか。
あの台の美しさに目を奪われた幼い頃の私は、おじさまの餌食と
なり、ビリヤードを教え込まれた。
なにせ、子供ですから、身長は足りない、腕の長さも指の長さも、
何もかも足りない状況で、それでも徹底的に基礎を教え込まれ、キ
ューの握り方、球の突き方、ポケットへ落とすべき場所の狙い方、
それこそ色々と心理戦などの駆け引きの仕方まで、本当に何もかも
教え込まれたのだ。
私がビリヤード好きになったのは、おじさまが犯人であることは
間違いない。
そうして、いつかあの台で正装してゲームしてみたいと思ってい
た。
紳士の遊戯であるビリヤードは、その試合は第一級の正装でする
ことがルールとして決まっている。
私の場合、紳士じゃないですけど。淑女ですけど!! でも、紳
士の正装です。
七海さまの謎かけは、﹃友達を連れてビリヤードをしにいらっし
ゃい﹄という意味で間違いない。
私を迎えにきた七海さまは、キューを持っていない私にハスラー
さんだと声を掛けたことからも答えがあっていると思える。
キューを持っていたのは在原のみ。あとは疾風が持っていたキュ
185
ーボックスに全部入れていた。
あの場所で、私一人が詩織様の傍にいて、残りの3人は後ろにい
た。
キューも、キューボックスも七海さまから完全に見えていたのか
どうかはわからない。
だが、七海さまの言葉に迷いはなかった。
パーティに招きながらも、周囲に私が来たという印象を植え付け
ながら、遊戯室というおじさまの私的空間へ隔離するのは私と接触
するには大伴家が相手を見極める盾となるということを周囲に知ら
せるためでもある。
なおかつ、諏訪家の2人と私を会わせたのは、この件で大伴家も
介入する意思があると諏訪当主と相良家へ知らせるためだ。
仲介が必要なら、引き受ける用意がある。だが、その前に両者と
も今一度あの事件での自分たちの立場を思い出せと突きつけて来た
のだ。
これ以上わだかまりを残すような真似をすれば、上流社会の空気
がぎくしゃくして不穏すぎるため、きちんと清算しろと態度で示し
たのだろう。
発する言葉がすべてではない。
物事の表面を額面通りに受け止めるな。
すべての裏を読め。
相手の状況、性格、周囲の空気、何もかもを情報として受け取り、
その陰に隠された真実を導き出せ。
それが、大伴のおじさまに教えられたことだ。
ビリヤードを通して、私がいる世界との付き合い方を学ばせてく
れた。
そして、もうひとつ。
何か、言葉を発するときに、その言葉を放った後、どういう状況
になるのか、どの程度の影響が出るのか、それが己の求める結果と
一致するのか、それらすべてを考え、発せよと教えられた。
186
言葉は種と一緒だ。
種をまき、芽が出て育ち、花をつけ、実がなる。
言葉を発した後、どういう実がなるのか、それらを計算し、熟考
して口にせよという訓えは、私の中に根深く植えられた。
何気なく発する言葉ですら、どういう影響が出るのかを考え、相
手の言葉が示す意味を言外から読み取るようになった。
先程の詩織様と諏訪への言葉も、そうだ。
現実を捉え、見据える気があるのなら、私が言った言葉の意味、
言わなかった言葉も見えてくるだろう。
結果はどちらでも構わない。
私はすでに得難い友人たちを得ることができたのだから。
相良家の末の令嬢が人前に出るということは、ここ数年ほとんど
なかった。
岡部家の者を伴い、現れるということは、それなりの意味がある。
これ幸いと近付いてくる人々を笑顔でかわし、足を止めることな
く目的地を目指す。
なにしろ、死亡したことを隠しているとか、二目と見れない顔に
なったとか、四肢の損傷がひどくひとりで動くことができない身で
あるとか、様々な憶測や中傷が飛び交っている。
中には私が本物の相良瑞姫であるのかと疑っている者もいるだろ
う。
東雲に通う私が男子生徒用の制服を着ていることから、実際はよ
く似た男の子に影武者をさせているのではないかと思っている人も
いたとか。
こうやって歩いている姿を見ても、足を引き摺っているのではな
いかと、足許を見てくる人もいる。
上流社会というのは、複雑怪奇な世界だ。
187
綺麗なだけではやっていけないというのが、真相に近いだろう。
そんな人たちを笑顔で煙に巻いて、遊戯室へと向かう階段を下り
ていく。
木片と木片がぶつかるやや高めで乾いた音が響く。
そのあとに続く、がこんと何かが落ちた音。
﹁よっしゃーっ!! 落ちたぞ!﹂
﹁⋮⋮手玉がね﹂
テンション高く響く声の後、笑いをかみ殺した声が聞こえてくる。
もちろん、在原と橘だ。
﹁ええーっ!? マジかよ? 何で!?﹂
﹁静稀君。今は引き球を打たないといけないところだよ。君は少々、
詰めが甘い﹂
楽しげなおじさまの声がする。
﹁う∼ん。そっかー⋮⋮引き球⋮⋮苦手なんだよな﹂
手玉の突き方は、何種類かある。
状況に応じて瞬時にその突き方を決め、その球を突いたとき、ど
ういう結果になるのかを想像して、それから突く。
引き球の突き方自体、そこまで難しいものではないのだが、その
判断を下すという時に、よく戸惑いやすい。
球がポケットの手前で止まるのではないかと、距離と突く力を計
算し、思ってしまう時があるからだ。
在原が言った﹃苦手﹄とは、引き球を突くことでもあるし、それ
をどういう時に突くべきかと判断することでもあるのだろう。
﹁遅くなって済まない。待たせてしまったか?﹂
﹁瑞姫!!﹂
﹁おや、瑞姫ちゃん。七海が言った通り、可愛らしいハスラーさん
が来たね。うんうん、似合ってるね﹂
肖像画のフェリペ二世に激似の男性がにこやかに笑う。
﹁⋮⋮おじさま、お招きありがとうございます。ですが、何故、フ
ェリペ二世になられたのでしょうか?﹂
188
﹁うん。そこは私も疑問なのだが、まあ、七海の趣味と私が似てい
ると七海が主張するから、かな?﹂
にこにこと穏やかに笑みを浮かべて答えるおじさま。
﹁押し切られちゃったんですね﹂
﹁そうともいうね。七海が楽しいのなら、それでいいんだと思うよ。
この夏の宴は、七海の楽しみのひとつなのだから﹂
のんびりとした口調でおじさまが言う。
﹁私は有望な若人と出会える機会が増えるのが楽しいし﹂
そうか、おじさまは在原が気に入ったのか。
﹁瑞姫! 勝負だっ!!﹂
びしっと指を突き付けて在原が宣言する。
その指を橘が握る。
﹁こら、女の子に指を突き付けない。というか、人に向かって指を
さすなんて行儀悪いぞ﹂
﹁ポーズは決めないとな! それに、こんなことくらいで瑞姫が怒
るか﹂
﹁あはははは⋮⋮確かに怒る気もないね、私は﹂
ポーズが決まってよかったねーくらいは思うけど。
﹁ほら、言った通りだ。細かすぎるんだよ、誉は﹂
﹁おまえが大雑把すぎるんだ﹂
﹁別にいいだろ? 僕は瑞姫に嫁にもらってもらうんだし﹂
﹁瑞姫の予定を考えろ!? 家事が一切できない嫁なんて、まった
くいらないだろ、普通﹂
在原と橘の漫才が続けられる。
ちなみにこの場合の﹃家事﹄とは、家の中のことの采配を示す。
掃除洗濯料理などの主婦のお仕事的キーワードとは違うのだ。
掃除・洗濯・料理はそれぞれ専門の人間に任せればいいことなの
だ。
誰がどの仕事をして、それをいつまでにしあげるのかということ
を考えるのが家事の一部だ。
189
一点集中型の在原には、全体の流れを把握して、それぞれの細か
いところをチェックするということは苦手な箇所らしい。
﹁君たちは仲がいいねぇ﹂
感心したようにおじさまが笑う。
﹁そうですよ。仲がいいんです﹂
おじさまの言葉を真似して、私も笑う。
﹁それで、静稀。勝負って勝ち抜き戦でやるの? それとも他の方
法?﹂
﹁チーム戦! 僕と岡部が同じチームで、誉と瑞姫が同じチームだ﹂
﹁ふうん﹂
私は橘を見上げる。
﹁そうらしいよ。よろしく﹂
﹁うん。よろしく﹂
おじさまが稽古をつけていたのは在原だ。
橘にはしていないということは、橘はビリヤード経験者で、おじ
さまが教える必要なしと考える程度の実力があるということか。
﹁じゃあ、どっちが先行? 正式ルールと一緒の方法で決める?﹂
私の言葉に、在原が笑う。
﹁レディファーストで、瑞姫たちが先行でいいぞ﹂
﹁わかった。ありがとう、在原﹂
﹁どういたしまして﹂
この表情は、やっぱり聞かされていないらしい。
いいことしたという表情でにこにこ笑っているし。
﹁誉、ブレイクショットは?﹂
﹁瑞姫に譲るよ﹂
穏やかに微笑む橘の笑顔で、こちらは知っているのだと読み取る。
﹁そうか、では任された﹂
頷いて了承の意を示すと、向こう側で疾風が呆れた声で在原を怒
っていた。
﹁瑞姫は大伴様に師事したけど、今は師事していないって意味、ま
190
だ分かってなかったのかよ、おまえ!﹂
﹁えー? 今はビリヤード習ってないってことだよね﹂
﹁⋮⋮この莫迦⋮⋮﹂
がっくりと肩を落とした疾風が首を横に振る。
﹁じゃあ、始めようか?﹂
疾風とは対照的に上機嫌の私は彼らに声を掛ける。
この素晴らしいビリヤード台に敬意を表して、絶対に手抜きなん
てしないからね、在原。
覚悟してくれ。
ニヤリと、実にイイ笑顔を浮かべている自覚をしながら、私は自
分のキューへと手を伸ばした。
191
23
ゲームの始まりは、ブレイク・ショット。
きれいに並べられた球を手玉で崩し、散らす。
トップクラスのプロになれば、このブレイク・ショットでゲーム
が終わってしまうこともある。
ゲームはナインボール。
初心者の在原におじさまが教えたのがこちらだったからだ。
覚えやすいゲームだから、そうなさったのだろう。
自分のキューを手早く組み立て、先端にチョークをこすり付ける。
このキューの手入れの仕方も、おじさまに教わっている。
先端に粉をつけっぱなしにしてはいけないので、毎回、きちんと
拭き取って全体を磨いて片付けるようにしている。
準備を整え、台に向き合う。
﹁じゃあ、静稀、始めるよ?﹂
ゲーム経験のない在原に問いかける。
ナインボールとはいえ、ゲームを始める時は独特の緊張感が伴う。
その緊張感を覚え始めている在原の強張った表情に気が付いたか
らだ。
﹁お、おう﹂
案の定、がちがちに固まった在原が、がくがくっと音がしそうな
ほどぎこちなく頷いて返事する。
おじさまと橘が苦笑する姿が視界の隅に映る。
これは、確実に疾風の負担になるな。
﹁大丈夫だ、静稀。君の出番はないから﹂
ぽんっと肩を叩いて言えば、在原の表情が一転する。
﹁何だとーっ!? ちょっ! 瑞姫ちゃん、それ、ないんじゃない
?﹂
192
ありえないだろうと、よく変わる表情で訴えてくる。
緊張がほぐれたようだ。
﹁じゃあ、始めるから﹂
そう言って、台の上に身を乗り出す。
手玉から少し離れた位置に左手をつく。
人差し指で輪を作り、その間にキューの先端を招き入れる。
軽く何度か予備動作を行い、手玉を突く位置を決める。
台の上で身体が面に触れそうなほどに沈め、低い位置から打ち込
む一撃。
がつんという音の後、さらに音の連鎖が始まり、台の上を的玉が
勢いよく散らばっていく。
そしてがこがこっと鈍い音共に的玉がいくつかポケットに吸い込
まれて落ちていく。
﹁⋮⋮すっげー⋮⋮﹂
呆然と台を眺めていた在原が、突然くるりと疾風を振り返る。
﹁岡部! おまえ、瑞姫が上手いなんて一言も言わなかったじゃな
いか!!﹂
掴みかからんばかりの勢いで、文句を言い出す。
﹁大伴様が今は教えてないっていう意味、わかるか? って、言っ
ただろ!? もう教える必要が何もないからだってことだ!!﹂
疾風は疾風で在原が早とちりしたんじゃないかと応じる。
疾風は言葉が足りない時があるからな。
﹁1、2、4、6!﹂
おじさまが落ちた球のナンバーをコールする。
﹁9は落ちてないから、続行だね。瑞姫ちゃんからだ﹂
﹁はい。じゃあ、慎重に3だけ狙おうかな﹂
3番ボールの傍に行き、手玉の位置とその周辺の球の関係を確認
する。
手玉を突くというが、本当は撞くというのが正しい。
手玉を突く箇所は9点ある。
193
基本は中心を撞くセンターショットだ。
水平に撞かなければまっすぐに進まない。
センターショットが完璧にできるようになれば、ゲームの先行を
決めるバンキングを優位に進めることができる。
センターショットを覚え込まされたあと、他の8点の位置を正確
に撞けるようにこれまた特訓された。
ブリッジを作る人差し指が攣るんじゃないかとまだ短い指で思っ
たことが何度もある。
﹁これ、無理なんじゃない? 間に7番入ってるし﹂
センタースポットの近くに3番、少し間をあけて7番のボールが
あり、そしてさらにその手前に手玉がある。
空クッション、つまりクッションボールと言われるクッションに
当ててから3番に当てる方法を取ると楽なのだが、そのクッション
が遠い。
そして、クッションに当ててしまうとセンタースポットに落ちな
いで別の方向へ走り出してしまうだろう。
そのことを読み取った在原が難しい表情でテーブルを睨んでいる。
私がサーブを仕損じれば、次は在原の番だというのに、私が落と
す方法を案じている素直さ。
競い合うゲームだとわかっていても、撞く人間が成功することを
願うまっすぐな気性はこの世界では貴重で微笑ましい。
私や橘なら、仕損じた球がどこへ移動するのかを予測し、どうや
ってそれをポケットに落とすかを考えてしまうだろう。
疾風は私がこのポジションで失敗するとは思っていない。
だから、のんびりと見守っている。
﹁瑞姫、右と左、どっちで行く?﹂
﹁んー⋮⋮右!﹂
橘の問いかけに答え、私は台を回り込んで位置につく。
手玉の中心位置から水平に右側を撞けば右回り、左側を撞けば左
回りに曲がる。
194
あとは撞く力の強さを計算すれば、その半径が決まる。
ちなみに中心より上を撞けば押し玉といって、手玉がまっすぐ押
し出されるように進み、中心より下を撞けば引き球で手玉が手許へ
戻ってくる。
これに左右撞きを組み合わせてひねりの押し玉引き球ができる。
左右ひねりを撞く場合、テーブルの隅だとストロークできない場
合がある。
そんな時には垂直にキューを立てて撞くことがある。
曲打ちのように捉えられ、映画なんかの見せ場になったりするあ
の撞き方だ。
そしてブレイクショットの次のショットのことをサーブという。
サーブはミスショットしやすく、ここで勝敗が決まってしまうこ
ともある。
ミスショットはファールと呼ばれる。
手玉が的玉に当たらなかったり、違う番号の的玉にあたることを
いう。
ファールになれば、交代だ。
位置を決め、手玉を撞く。
﹁え!? 曲がった!? え? ええっ!?﹂
在原の素直で愉快な反応を楽しみながら、センタースポットに3
番が落ちていくのを眺める。
手玉はそのままクッションにぶつかり、テーブルの中央付近で止
まる。
﹁瑞姫﹂
橘が片手を上げる。
﹁次よろしく﹂
﹁了解﹂
ハイタッチでにこやかに笑いあうと橘に次を譲る。
﹁5番はどこかな?﹂
すでにどこに5番があるかなど把握しているくせに、おどけた様
195
子で5番を探した橘は、手玉の傍で構え、難なく5番を落とす。
私と交代し、7番を落とす。
﹁嘘⋮⋮マジで僕、出番なし?﹂
目の前であっさりポケットにボールが吸い込まれていく様子を見
た在原が、愕然とした呟きを漏らす。
﹁⋮⋮瑞姫、いい?﹂
的玉の配置を見た橘が、私にファールしてもよいかと聞いてくる。
﹁うん、構わないよ﹂
私は橘が言いたいことを察して頷く。
橘なら8番を落とすことなどわけないだろう。
だが、それだと在原が楽しくない。
1度でいいから手玉を撞かせてあげようといっているのだ。
もちろん、在原がこの配置でポケットに落とせるはずもない。
少しばかり8番の位置を変え、撞きやすいと在原が思う位置へと
移動させ、なおかつ手玉を少しばかり離れた位置に運ぶ。
多分、橘の考えはこうだろう。
そのあと、コンビネーションで8番と9番を私が一気に落とせば
いいと思っているはずだ。
何も触らずに終わってしまうより、1度でもいいから、失敗して
もいいから、手玉を撞くことができれば、在原の性格なら次の勝負
を挑んでくるはずだ。
橘は常に自分より周囲のことを考えている。
初心者である在原を楽しませたいのだろう。
その考え方は、私にはない。
ゲームをする以上、手を抜かずに相手をすることを一番に考える
からだ。
ただ、その時には3番ボールを落とした時のように、自分の持っ
てる技術を見せて在原がそれを覚えやすいように、どういう時にど
ういう判断をしているのか学びやすいように仕向けることくらいは
心掛けるが。
196
橘は私の考えを理解して、ワザと手玉を仕掛けやすい位置へと運
んでくれた。
今度は私が橘の考えに同意をする番だ。
﹁ありがとう﹂
にっこりと笑った橘が、手玉を撞き、8番を9番ボールの近くへ
と動かしてそこで止める。
手玉は引き球となってヘッドライン上で止まる。
﹁おーっ!! ファール!! 誉が失敗した。やりぃ!!﹂
はしゃぐ在原におじさまが苦笑する。
疾風は苦い顔だ。
橘が在原に譲ったことに気が付いて、それに気付かない在原に指
摘するかどうかを悩んでいるところなのだろう。
﹁疾風﹂
疾風を呼び、私は軽く首を横に振る。
﹁わかった﹂
疾風は言うなという私の指示に頷き、肩の力を抜く。
﹁何? 岡部﹂
﹁在原、おまえが撞け﹂
疾風の声に彼を振り返った在原が問いかける。
それに答えるような形で疾風が誤魔化してしまう。
﹁いいの?﹂
﹁構わん。落とせたなら、フォローする﹂
面倒見がいい疾風は、簡単にどこを狙って撞けばいいかをアドバ
イスする。
いいやつだよなぁ、疾風は。
私限定標準装備のおっきいわんこな性格ももちろんだが、友と認
めた相手にはとことん面倒見がよくなる。
197
手を貸し過ぎたりはしないが、相手をよく見て必要なときは相手
が何も言わなくても先回りして手を貸してしまうところとか。
橘は周囲の空気をよく見て、知り合いでなくても必要だと判断す
れば動くが、疾風は相手が友人かそうでないかで切り分ける。
場を大切にする橘と、友を大切にする疾風。
どちらが正しいのかなどは判定する必要などない。
あえて言うのなら、立場が違うだけ。
ちなみに、そういう場面で在原は気づかないので動かないことが
多いし、私はわかっていても動かない。
私が動けば、相手に迷惑がかかる。相良とは、そういう家なのだ。
今まで瑞姫がろくに友達を作らなかったのは、相手が身を守る術
を持たなければ危険にさらしてしまうことを教えられ、身をもって
体験したからだ。
友達を作って遊びたいという子供らしい欲求は、幼稚舎の時に打
ち砕かれた。
名家と呼ばれ、力ある財閥の子供として生まれた以上、ごく普通
の年相応の幼子として過ごすことは許されない。
私のわがままで相手の子供を傷つけ、死なせるわけにはいかない
からだ。
だからと言って孤独のまま幼少期を過ごせば、歪み過ぎた人間が
出来上がってしまう。
一緒にいても大丈夫な友達をと、岡部家が同じ年頃の子供を相良
の子供につけてくれたのだ。
疾風がいるから、私は同じ年頃の子供たちとの接し方を覚え、そ
うして距離を置くことを言われても寂しがらずに済んだ。
岡部家の子供は、相良の子供と一緒にいても、身を守る術がある。
だから安心して遊ぶことができるし、対等に喧嘩だってできる。
本当に幼い頃には、瑞姫は疾風と泣き喚いての大喧嘩をしたこと
があるのだ。
理由は些細なものだったが。
198
泣き止んだ後は、その前のことなどけろりと忘れて仲良く遊んだ
という微笑ましいものだ。
私が傍に寄せる友を作るということは、相良を標的にした悪意か
ら身を守ることができる相手という最低ラインの基準がある。
相良本家の中で未成年であるのは私一人だ。
つまり、外から見れば、私が相良家の弱点と思われやすい。
しかも2年前に生死を彷徨う大怪我をした身であることは調べれ
ばすぐにわかる。
加えて兄弟たちは私に甘いということは、社交界でも知れ渡って
いる。
ガードが固いであろう私自身を狙うより、私と親しい友人を狙う
方が容易いことだ。
付き合う人間を選べと言われる意味の中には、こういう意味も含
まれている。
大切な友人なら、傍目に親しいと思われないように接する方が望
ましいのだ。
その点、在原や橘は最低ラインをクリアしているので安心だ。
疾風も確認しているので、そこは信用できる。
同性の友人も欲しいところだが、今のところ千瑛しか合格ライン
がいない。
友達がいなくて寂しいなど子供じみたことを言えない立場なのだ。
疾風がいるので寂しいなどと思ったことは一度もないが。
人は、生まれた土地、時代、生家の財力などの基本的基盤により、
育てられ方が違う。
だから決して、自分の物差しだけで相手を判断してはいけないの
だと、訓えられた。
相手の基準を調べて、その物差しを変えて測る必要があるのだと。
この物差しは財力に関して、という意味だったが。
我が家が裕福なのは、それに見合った重い責任を課せられてきた
からである。
199
その責任をきちんと果たしてこそ、得られたものだ。
他の者たちはその身の丈に合った責任を果たして得られたものだ。
大多数を占める彼らは彼らの常識があり、我々には我々の常識が
ある。
決してそれを混同してはならない。
そうして驕るな、侮るな、己を律せよと訓えられる。
武と知で身を立て、人々を守ることを義務とした家の考え方だ。
これの対極に位置するのが諏訪家である。
諏訪は神に仕える一族だった。
昔、人々は神を敬うように、神に仕える諏訪一族を敬った。
もてはやされた一族は、己が神であるかのように驕った時期もあ
る。
だが、今は神が遠い時代だ。
諏訪一族は一部を除いて神域から外へ出て、人々に交じることを
選びながら、今でもなお神話の時代に生きている。
諏訪たちの考えがどこか甘いのは、そういう理由がある。
だからと言って、それを正当化はできないのだが。
私は、私の理由で動かない。
見守るだけに留めなければいけない。
そして、いつか、瑞姫が戻ってきてもいいように。
疾風のアドバイスを受け、在原がキューを構える。
その様子はなかなか様になっている。
おじさまの特訓がきいているのだろう。
おじさまも機嫌良さそうにそんな在原を眺めている。
もちろん、この後の展開は百も承知の上で。
﹁よっしゃ、いくぞ﹂
気合を入れた在原が、グリップを握りしめ、ストロークする。
200
がつんとキューが手玉を撞くが、センターからずれ、在原のスト
ロークの強さとは裏腹に手玉はひょろひょろっと力なく転がってい
く。
﹁あれ? なんで?﹂
手ごたえを感じていた在原は、思わぬ結果に首を傾げる。
手玉は8番ボールの手前で止まり、見事なファールだった。
﹁センターショットじゃないからだ。水平にキューが動いてなかっ
たし、中心からずれたところを撞いたから、力がうまく伝わらなか
った。ちゃんと、狙えって言ったろ?﹂
淡々と疾風が告げれば、がっくりと肩を落とす在原。
﹁じゃあ、次、瑞姫な﹂
苦笑しながら橘が告げる。
﹁ん﹂
頷いた私は遠慮なく手玉を撞く。
無造作に撞いた手玉は8番へぶつかり、その8番が9番にぶつか
る。
﹁え!?﹂
在原が驚いて目を瞠る中、2つのボールはそれぞれの方向へと転
がり、ポケットに落ちた。
しばらくの間、沈黙が降りる。
﹁瑞姫!! もう1回!! もう1回、頼む!﹂
がっつりと私の両腕を掴み、揺さ振るように在原が訴える。
﹁い、いいけど﹂
﹁やりっ! ありがと、瑞姫!﹂
ものすごく嬉しそうな表情でポケットから球を取出し、テーブル
の上に置いていく。
﹁じゃあ、ブレイク・ショットは静稀がやるといいよ﹂
ここまで喜ばれたら、とことん付き合ってやろうという気にはな
る。
201
そうして頷いた私は、在原の一点集中型な性格に唖然とすること
になる。
この後、﹃もう1回﹄が何度続いたか、数えるのが馬鹿らしくな
るくらいコールされたからだ。
202
24
大伴家の夏の宴より数日後、入院の日が来た。
今回の入院は、ケロイドを削るものらしい。
以前よりはかなり体力もついたし、身長も伸びたので、色々と細
かいところのチェックが必要なのだ。
なにせ、怪我した時から比べると、身長が20cm近くも伸びて
いるのだ。
身長が伸びているときは、傷跡が引き攣って痛かったよ、うん。
相良家の人々は、男女問わずに長身なのだ。
私もその例外ではないけれど、家族の中では一番小さい。
外では十分デカいはずなのに、家の中ではちびっこ扱いなのだ。
実に微妙な心地がいたします。
入院する部屋は、前回と同じ特別室。
警備上、大部屋なんてもってのほか。
他の皆様のご迷惑になってしまうから。
それと、許可もしてないのに勝手に見舞いに来ちゃう人が入れな
いようにするためもある。
親同士の付き合いとか、会社関係とか、色々あるんだろうけど、
それに子供は関係ないんじゃないかと思うんだけどね。
特に、会社関係は未成年関係ないだろう!!
面識もない人にいきなり部屋に突入されて、お父さんがどうのと
言われても、﹃は?﹄としか思わないよね、普通。
特別室なら、許可なく入れないし、面会謝絶も出しやすいという
ことだ。
金額については考えません。
恐ろしいから! 絶対、聞いたら後悔するから!
203
﹁瑞姫、荷物はこれだけでいいのか?﹂
病院に付き添う気満々の疾風が私の荷物を確認する。
﹁うん。着替えはこまめに持ってきてもらえるし、必要なのは勉強
道具と画材道具ぐらいだいね﹂
画材道具と言っても、スケッチブックと色鉛筆だけだ。
絵の具を使って色つけるほどの気力が湧かないことはわかってい
る。
だけど、絵は描きたいと思うだろうし、スケッチブックだけは持
っていく。
﹁入院に勉強道具持っていくって、真面目だよな﹂
呆れた様子で告げる疾風の表情は明るい。
病院と聞くだけで悲痛な表情になっていたあの頃の疾風はもうい
ないようだ。
﹁颯希が見舞いに来てもいいかと聞いていたが、大丈夫か?﹂
﹁さっちゃん? いいよ! 私と遊んでくれるなら、いつでも待っ
てると伝えてくれ﹂
颯希は3歳年下だから、今年中1だ。
友達との付き合いもあるんじゃないかと思うけれど、来てくれる
ならうれしい。
ゲーム上では、やはり3歳年下で瑞姫の随身という設定だった。
まあ、中坊だったのでゲームには登場しなかったけれど。
まだ身長が低いので、小さい頃の疾風を見ているようで可愛らし
いのだ。
﹁わかった。伝えておこう。俺は毎日に来るぞ﹂
﹁えー⋮⋮大変じゃない? あ。泊まり込むのは無しね。生死の危
険はないのに泊まり込む必要は見当たりません﹂
﹁何もなければ泊まるつもりはない﹂
やっぱり、何かあったら泊まるつもりか、このわんこは。
﹁兄上たちも毎日顔を出すと言っていたぞ﹂
﹁⋮⋮そ、そうか﹂
204
疾風の表情が微妙に引き攣る。
兄たちの随身は、疾風の兄や従兄だ。
会ったら最後、愛の説教が行われるのだろう。
女の子に対する配慮が足りないとか言われてるところを見たこと
がある。ぷぷっ。
﹁じゃあ、行くかな?﹂
洗面道具や基礎化粧品関連はすでに車のトランクに積んである。
後はちょっとしたものだけだ。
バッグを手にすると、疾風がそれを奪い取る。
﹁辞書は重いからな、俺が持つ﹂
﹁ありがとう﹂
肩を並べて歩き、別棟から本邸の車寄せへと向かう。
車寄せにはすでにピカピカに磨き上げられた車が待っていた。
﹁いってらっしゃいませ、瑞姫お嬢様﹂
相良に勤めている家政婦さん数人がそこで待ち受けていた。
﹁うん。行ってくるよ。あとの事はお願いします﹂
﹁はい、くれぐれもお気をつけて。御着替えなどは滝本があちらで
ご用意いたしますので﹂
﹁滝本さんが来てくれるんだ? ありがとう。皆も暑いから体調に
は気を付けてね﹂
手を振って車に乗り込む。
その隣に疾風が乗り込み、ドアが閉まる。
丁寧に頭を下げられ、見送られる中、車は静かに走り出した。
眩しい光の中、外の景色が後方へと流れていく。
﹁そういえば、あの時の女。東條分家の娘だったか、調べてみたぞ﹂
窓の外を眺めていたら、不意に疾風が切り出した。
﹁え? そうなんだ。早いね﹂
205
﹁今あちこちで問題になっているらしい。葉族のくせに思い上がっ
た分家筋とな﹂
﹁⋮⋮へぇ﹂
思い出すだけでも腹が立つらしい疾風の口調は苦々しい。
どこか吐き捨てるような物言いだ。
﹁尤も、大伴家のパーティで七海さまご本人に咎められたからな、
あの女は社交界から締め出されて、他の分家の娘も同じ憂き目にあ
ったそうだ。まあ、似たようなことをやってるということだったか
らな、責められるわけがない。東條本家は、自分たちには関係ない
ことだと分家を切り捨てたそうだ﹂
﹁ふぅん。分家在っての本家だろうに﹂
﹁後継ぎを分家から取る予定だったのをやめて、他の家か、縁を切
った娘を呼び戻すかのどちらかになるそうだ﹂
﹁⋮⋮分家が納得するかな? 下手すれば、消されるよ﹂
静かな車内の中に殺伐した空気が流れる。
そこで、ふと気づく。
東條凛の両親は、車の事故で亡くなっている。
ブレーキ事故だったはずだ。
﹁⋮⋮⋮⋮まさかな﹂
考え過ぎだ。
﹁え?﹂
﹁いや、何でもない。それで? あの品のないドレスは何の仮装だ
ったんだ?﹂
一番気になっていたのは、あの場末のキャバドレスだ。
一体、あれは何の衣装だったのか、気になる。
かつての記憶までも総動員したが、思い当たるものは何もない。
﹁あー⋮⋮あれか。何でも、随分昔に亡くなったアメリカの女優の
映画の衣装だったそうだ﹂
﹁映画? 女優? そんな映画あったかな? オレンジ色のドレス
で⋮⋮﹂
206
﹁かなり有名な美人女優なんだそうだ。独特の歩き方をすることか
ら、そのウォーキングに彼女の名前を付けたという話もあるらしい﹂
まさか、モンロー・ウォークの事か!?
確かに彼女は当時かなりの美女として名高かったし、露出の高い
ドレスを衣装に当てられていたが、あの形でオレンジ色のドレスは
なか⋮⋮
﹁白か!! 白のドレスのはずだ、あれはっ!﹂
思わず声を上げた私に疾風がびっくりする。
﹁え? 白? よく知ってるな、瑞姫。大伴様のコレクションの中
にあったのか?﹂
﹁あ⋮⋮うん。そう⋮⋮﹂
あったとしても、見せてもらえない類だ、今の私だと。
彼女の魅力は、あの見事な容姿ではなく内側から溢れる知性だと
言われるほど頭が良かった女性だが、残念なことにその知性を活か
した役はそんなに多くない。
もう少し後に生まれていたのなら、彼女にはもっと違った役が与
えられていただろうと一部で言われるほど、ヒット作は多くても貰
った賞が少ない女優だ。
﹁えっと、つまり。おじさまが映画好きだから、映画のキャラクタ
ーの衣装を間違ってるけど着てみたってことか?﹂
﹁⋮⋮そういうことになるだろうな﹂
﹁もっと自分に似合うものにしろっ!! 無謀だぞ!! むしろ、
映画ファンに対する冒涜だと思え!﹂
露出は高いが、あのドレスはそれなりに値が張るぞ。
あんな夏目先生数枚で買えそうな格安人工生地じゃない!
思わず憤ってしまったが、疾風の言葉で気になることがあったの
を思い出す。
﹁あのさ、その女優さんって、どのくらい昔に亡くなってるの?﹂
﹁かなり若くして亡くなってるそうだな、30代半ばぐらいで⋮⋮
大体100年近く前かな?﹂
207
﹁100年!?﹂
おかしい。
そんなに前じゃないはずだ。
﹁瑞姫?﹂
﹁あ。ごめん、何でもない﹂
心配そうにこちらを見つめる疾風に笑ってごまかす。
heaven﹄のゲームと同じ設定の
おかしいということは、前々からわかっていたはずだ。
ここは﹃seventh
世界だ。
私が知っていたかつての世界とは異なっているということは感じ
ていた。
大体、四族なんてなかったし、ましてや葉族なんて言葉も存在し
なかった。
相良藩があるというのは知っていたが、そこがずっと直系で続い
ていたなんてことはわかっていない。
一番変だったのは、アメリカの首都だ。
ワシントンがアメリカの首都だったはずなのに、ここではN.Y.
D.C.なのだ。
ニューヨーク!! 初等部の社会科のテストで各国の首都を書け
という問題で必ず出てくるミス回答。
なのに、ここではそのニューヨークが首都なのだ。
薄々わかってはいたんだよね。
ゲームで期末試験とかの無理やりミニゲームで、社会の三択問題
で何度アメリカの首都をワシントンと回答しても不正解になってい
た。
バグかと問い合わせた人がもらった回答は、﹃アメリカの首都は
ニューヨークです﹄だった。
阿呆か!? 今すぐ直せ、つか、間違い指摘されて開き直らず素
直に謝罪しろ! と、メーカーのブログが炎上した。
208
まさかここでそんなことはあるまいと思っていたが、そのままだ
ったので唖然とした。
そして、あのほぼ世界中の男性を虜にした美人女優の死亡時期が
100年前とは。
まだ妙な話はある。
さすがにそれを口にすると自分の中の何かが壊れていくような気
がするので、言いたくはない。
あれをなかったことにされると、世界史すべてがおかしなことに
なっていくはずなのに、誰も矛盾を感じてはいない。
どこか歪んだ世界だとは感じていたけれど、どうしても違和感を
感じて馴染めない。
それでも、私はここで生きていかなければならない。
重い気分になりそうだったので、疾風で気分転換をすることにし
た。
﹁疾風、その女優さんの写真、見た?﹂
﹁え? あ、うん﹂
﹁美人だっただろう? ナイスバディでさ﹂
﹁⋮⋮え⋮⋮﹂
にやにやと笑って言えば、疾風の顔がかぁっと赤く染まる。
﹁あ、や⋮⋮﹂
言葉にならず照れる姿が可愛らしい。
実にイイぞ、年頃の青少年が照れる姿とは。
初々しいな。
あと何年ぐらい、これでからかえるかはわからないが。
﹁あの美女が、アレだ。私の憤りがわかるか!?﹂
ぺったんすかすかなドレス姿の令嬢を思い浮かべた疾風が渋面に
なる。
﹁最低なことにドレスの色を間違え、しかもそれなりの家のはずな
のにあの安っぽい設え! そして、あの残念すぎるすかすかっぷり
209
! 冒涜しているとしか思えない﹂
﹁うん。瑞姫が正しいと思う﹂
素直に同意した疾風の肩に手を置く。
﹁しかもだぞ、あの女優さんは非常に頭がいい人だったんだ。疾風
はああいう感じの人を嫁にするといい﹂
﹁ちょっ!!﹂
﹁うん、いいな。頑張れ、疾風!﹂
﹁もうっ!! 瑞姫! オヤジすぎる⋮⋮﹂
真っ赤になった疾風は、ずるずるとシートに沈み込む。
やっぱり疾風はからかうと楽しいな。
引き際の見極めは難しいけれど。
笑みを浮かべた私の視界に、病院の建物が映り始めた。
210
25
﹁やっほーっ! 瑞姫ちゃん、元気?﹂
入院二日目にして見舞い客がやって来た。
﹁真季さん! こんにちは。見ての通り、元気ですよ﹂
艶やかな美貌の妙齢の女性。
妙齢という言葉は実に奥深い。
女性の年齢を隠すには実にうってつけだ。
いつもは和装でお会いしている人が、ごく一般的な洋装姿だと微
妙に違和感を抱く。
こちらが本来の姿なんだろうけれど、見慣れないために。
﹁あら、ホント。入院患者に元気って聞いちゃいけないって言われ
てたのに、ついうっかり言っちゃって拙かったかなーと思ったけど﹂
﹁あはははは⋮⋮でも、どうしてここが? 今回の入院は学校関係
者ぐらいしか言ってないのに﹂
﹁昨日のお座敷の素敵な旦那が教えてくださったのさ。暇を持て余
してるだろうから、顔でも見てやってくれってね﹂
﹁御祖父様か! ずるい! 御祖父様、おひとりで小槙姐さんのお
座敷に行ったんだ﹂
いつも小槙姐さんのお座敷の時は連れて行ってくれる祖父が、ひ
とりで言ったと知って悔しくなる。
真季さんは、小槙という源氏名を持つ芸者さんなのだ。
﹁あれ? 今日は三味線の御稽古じゃないの?﹂
特別室にあるソファセットへと真季さんを促して、座ってもらい、
お茶を入れようと茶器を手にしてふと思う。
何よりも稽古熱心な真季さんが、どうしてこんな時間にここに来
たのだろうかと。
﹁ああ、稽古はね、今日は中止。お師匠さんがぎっくり腰でねぇ、
211
病院に入院しちまってさ。さて、稽古に行こうかと思った矢先に連
絡が来ちまったもんだから予定が狂ってね、瑞姫ちゃんの顔も見た
かったからさ﹂
苦笑を浮かべた真季さんは、肩をすくめる。
唄も三味線も師範になれる域にすでに達しているくせに、そこで
良しとせずに先生について稽古を続ける真季さんは若手芸者さんた
ちの憧れの的だ。
こちらの世界での芸者というのは、伝統芸能の担い手という意味
合いの方が強い。
能や歌舞伎が大きな舞台、からくりなどの仕掛けがある場所でな
くては見せにくいというのに対し、芸者衆の唄や舞、楽などはお座
敷という小さな舞台で披露することができる。
小さな舞台、より客と近い距離感が、彼女たちの芸事への取り組
みをさらに熱心にしているという。
﹁ぎっくり腰って大変だって聞くから、早く良くなるといいね﹂
﹁そうさねぇ。あれは、一度やっちゃうと、一生の付き合いになる
からね﹂
﹁え!? 治らないの?﹂
﹁人それぞれってことさ。手術やらで治そうというお人もいるけど、
それとて絶対に治るって言えるもんでもないしねぇ﹂
﹁本当に大変なんだ﹂
困ったように笑う真季さんに、そんなに大変なものだとは知らな
かった私は青褪める。
﹁ああ、そうだ、真季さん。私、橘家の誉と友達になったよ﹂
私は、前回会った時に言い忘れていたことを告げる。
﹁そうだってね。橘の坊ちゃんが仰っていたよ。それで? 瑞姫ち
ゃんから見て、坊ちゃんはどんなお人だい?﹂
﹁んー⋮⋮そうだね。周りを大切にしすぎて、自分がおろそかにな
ってるように見える、かな?﹂
212
﹁おやおや、辛口だねぇ﹂
くすくすと楽しげに笑う真季さん。
真季さんが、橘誉の生みの親だ。
彼女について、色々と言われていることは知っている。
橘夫妻が、何故、誉が彼女の子供だと公表している理由も。
この世界、表に出ていることをそのまま素直に受け止めてはいけ
ないことは、すでに理解している。
大体、何処の世界に自分が産んだ子供を仕事の邪魔だからと捨て
る親がいる?
しかも、幼馴染に産んでと頼まれたから、妊娠するなんて、普通、
そんなことができるわけがない。
惚れていない男の子供を産もうと思う女性はいない。真季さんは、
橘家の御当主が好きだった、否、今でも想っていることを知ってい
る。
だけどおそらく真季さんは、誉を生むと決めたとき、同時に手放
すことを決めていたはずだ。
以前、御祖父様に聞いた話がある。
ある幼馴染同士が3人いたそうだ。
男が1人、女の子が2人。
女の子の1人が、非常に身体が弱く、寝たきりに近い状況で暮ら
しており、残る2人はそんな女の子の為に外で見聞きしたことを色
々語って聞かせていた。
彼らは非常に仲が良く、常に3人一緒にいたそうだ。
そうして彼らはそのまま育ち、年頃になり、男は周囲から結婚を
勧められるようになった。
だが、女の子2人からも、他の女性も彼は選ぼうとはしなかった。
そこで彼の親友が周囲に頼まれ、彼に何を考えているのかを尋ね
213
た。
﹁他の女性と結婚しようとは思わない。だが、1人は共に肩を並べ
て戦いたい相手、もう1人は何をおいても守りたい相手。どちらも
大切で、比べることはできない。だからどちらも選べない﹂
彼はそう答えたそうだ。
優柔不断と言えば、そうだろう。
だが、比較できないものを並べ、どちらがいいか選べと言われて
も、確かに困る。
偶然その話を聞いていた元気な娘が彼に言った。
﹁ずっと肩を並べて共に戦ってやるから、あの子を選びなよ﹂
そう言って、彼の背中を押してやり、身を引こうとした。
ところが身体の弱い娘は幼馴染たちの手を握って首を横に振った。
﹁私は長くは生きられない。こんなに弱い身体じゃ子供も産めない。
だから、2人が結婚して﹂
そこまで語った御祖父様は、私にこう聞いた。
﹁この状況、おまえだったら、どうするか?﹂
なんて面倒臭い状況で、それをまだ子供でしかない私に聞いちゃ
うかな、この人は。
正直なところ、当時の私はそう思った。
まあ、私の答えは簡単だ。
誰も選ばないか、他の人を探して結婚する、だ。
誰も選ばない場合、後継ぎは分家の中から血が近い者と養子縁組
をして据えればいい。
優柔不断だと言われようとも、義務を果たしたことになる。
それが駄目ならば、この状況で2人の幼馴染を受け入れるか、完
全に拒絶してくれる相手を政略結婚で迎え入れる。
相手に負担をかけてしまう方法だが、当主の血を継ぐ子供は作る
ことができる。
それ以外にも方法はあるだろうが、その当時の私が思いつくのは
せいぜいこのくらいだった。
214
この話は、男が身体が弱い女の子と結婚することでとりあえず落
ち着いた。
だが、話は終わりではない。
当然だ。彼らの人生はまだ途中なのだから。
身体の弱い女の子は、ごく普通の女の子の夢を持っていた。
大好きな人のお嫁さんになって、その人の子供を産んで育てるこ
と。
前者は叶えた。
では、後者はどうかというと、医者に固く禁じられた。
例え命がけでも産みたいと願う女の子に、医者は事実を突き付け
る。
例え命がけでも、胎児をあなたの身体で育むことはできません、
と。
母子ともに確実に危険な妊娠を、医者として許すわけにはいきま
せんと言われ、妻となった女の子は悩みに悩んだ。
愛する夫は、分家から養子を迎えればいいことだと穏やかに諭す
が、それでは納得ができない。
どうしても、夫の子供が欲しかった。
体調を崩すほどに悩んだ挙句、彼女は幼馴染を頼った。
﹁お願い! 私はもう長くないの。あの人と結婚して、あの人の子
供を産んで﹂
﹁馬鹿をお言いでないよ。そんなの御免被るさ﹂
一度どころか、何度頼まれてもその幼馴染は頷かなった。
いよいよ妻は弱り衰え、ベッドから起き上がることもできなくな
る。
それでも懇願を続ける彼女に、幼馴染は渋々ながら頷いた。
﹁そんなに言うのなら、わかったよ。1度だけ、1人だけ、産む。
ただし、アンタが死ぬ気なら産まない。生きて、子供の成長を見届
けるって約束しなきゃね﹂
そう言って、彼女は男を振り返った。
215
﹁アンタも覚悟をお決め。一緒に戦ってやるからさ﹂
その時、彼女が何を思ったのか、夫妻にはわからなかった。
その後彼女は男の子を生み、彼らに預けた。
そこまでが、御祖父様の話だった。
御祖父様の話は、表面的なものだけだ。
そこから、表面の下に隠れいている様々な事を探し当て、本来の
話がどういうものであったのか、見落としているモノを拾い上げ、
答えを導き出せという考え方の下、与えられた情報だ。
当時、当主夫妻も真季さんも相当叩かれたはずだ。
公表しなければ、奇跡的に夫人が子供を産んだとすれば、表向き
問題はなかったように思える。
だが、結果的には公表したことが橘家を守ったことになる。
事実を隠せばそれは弱みとみなされ、暴きにかかる者が必ず現れ
る。
秘密を知ったことをネタに嚇し、食い物にされる可能性が高い。
それは、夫人と真季さんの命を危険にさらすことにもなる。
しかしながら、公表してしまえば、いくら叩かれようとも当事者
たちが納得していることを他人が口出しすることではないと逆に圧
力をかけることができる。
誉は、嫡子ではないが、当主の実子である。
しかも婚約者最有力候補であった女性の子供なのだ。
その事実が、橘家と誉自身を守ることになった。
正直なところ、他人の家の事情など、私の知ったことではない。
たまにそれを罪のように言ってくる人がいるが、私に言うべきこ
とではないだろう。
私が友人だと認めた橘誉は、その背景ひっくるめての誉なのだか
216
ら。
誉本人が望んでそうなったわけではない。
それが罪だというのなら、負うべきは誉ではなく、彼が生まれて
くる状況を作った者たちだ。
彼の両親たちでもあり、その周囲でもある。
なので、私にわざわざご注進する人に、私はこう答える。
﹁それがどうした? どこに問題があるのだ?﹂
と。
くすくすと楽しげに笑う真季さんの瞳がわずかに揺れる。
楽しげを装いながら不安なのだろう。
私が彼ら親子について何を思っているのか。
﹁辛口、だろうか? ごく普通の感想だが﹂
心外だという表情を作れば、真季さんの表情に苦笑が滲む。
﹁だって、褒めてないし﹂
﹁褒める時は、本人に向かって褒めるのが私の主義ですが。聞かれ
たことに正直に答えただけだしね﹂
﹁可愛くないわね。これだから、恋を知らない小娘って言われるの
よ﹂
﹁別にそんなことくらいで怒るような私ではないよ﹂
拗ねたように言う真季さんに、私はにやりと笑う。
﹁事実は事実と受け止める。真季さんのようにそう簡単に相手に惚
れるって言えないだけかもしれないし?﹂
﹁あはははは⋮⋮あたしは惚れっぽいからねぇ﹂
﹁惚れた相手に最高の芸を見せたいって思うから、お座敷の相手に
惚れるんだって言ってたよね﹂
﹁よく覚えているね﹂
﹁そりゃあね。そういう考え方があるんだって驚いたから。本当に
217
プロなんだなぁって感動したって言った方がいいかな﹂
﹁小娘が。照れるじゃないか﹂
軽く笑った真季さんの眼差しは優しい。
﹁いや。プロであり続けるって難しいんだなと思っただけだよ﹂
そう言った私は、真季さんに見せたいものがあったことを思い出
し、スケッチブックを取り出すと、ゆっくりとページをめくった。
218
26
スケッチブックの中には、その時々に気になったものを乱雑に描
きとめたり、友禅の下絵の原図である元絵を描いていたりと、人に
見せるにはちょっと恥ずかしいものばかりだ。
それの中から1つの元絵を取出し、真季さんに差し出す。
﹁真季さん、これなんだけど﹂
﹁⋮⋮これは、椿かい?﹂
差し出した紙に描かれていたのは椿の一枝。
﹁太郎椿。真季さん、冬に1枚、着物を仕立てたいって言ってたよ
ね? これは、どうかなと思って﹂
武家では厭われる椿だが、芸者衆には好まれるモチーフだ。
芸者さんの名前を椿の名前で揃えているところもあるらしい。
﹁そりゃあ、すごくいいとは思うんだけど﹂
﹁色描きを若手作家に頼めば、値段はかなり下げられると思うんだ
けど。御祖母様が花見月のブランドで出してるお着物はそういう物
が多いし﹂
友禅デザイナーとして相良から売り出された私の作品は、大きく
分けて2つある。
1つは私が描く1点もの。
これは、そんなにたくさん描けないため、希少価値があるとかで
我が目を疑う値段がつけられている。
一度、値段を知った私は御祖母様に抗議したことがあるのだが、
色描きに私独自の技法とやらが使われているので適性なのだと反撃
を食らった。
独自の技法、というか、独自の画材を使ってますよ、そりゃ。
細かい線描きが筆ではしにくかったからさ、まだ腕の怪我が完治
してない状態で描いてたものだから、あることを思い出して、使っ
219
てみたんだ。
知っている人は知っている、﹃万能戦士爪楊枝様﹄の応用版。
爪楊枝って、本当にいろんなことに使えるんだよね。
細かい作業に最適というか。
だけど、絹に爪楊枝だと、どうにも破きそうで竹ひごを削って使
ってみたんだな、これが。
太さや削り面の形を変えたりと、いろいろ試しながらやってみた
ら、面白い線が描けるようになって、繊細な表現もできるし、と、
面白がっていたらその線の描き方が評価されるようになったようだ。
他にもやった人、いるんじゃないのかなと思ったんだけど、普通
に考えると邪道だしね。
とりあえず企業秘密という扱いになっているらしい。
それとは別に、私の描いた下絵を描きため、年に何回か、若手の
登竜門として下絵に色を付けるコンクールっぽいことをやっている
らしい。
私が乗せた色に近い色合いの人に、その下絵を預けて着物を作っ
てもらうということになっているようだ。
こちらは本当に新人さんがしている仕事なので、着物の値段自体
が抑えられてお手頃価格になるらしい。
友禅作家を目指す人たちが、自分の作品を世に出すチャンスはも
のすごく少ない。
なかなか芽が出せずに潰れて筆を折る人も少なくはない。
工房に入っても、伝統のモチーフを淡々と描き続ける仕事ばかり
で、自分のオリジナル作品を手掛ける暇もない人も多い。
私のデザインに色を付けることで、チャンスを得て、なおかつ運
が良ければスポンサーがつくかもしれないというシステムを御祖母
様が作っちゃったわけだ。
詳しくは、さすがに知らない。
だって、学生が本分なんだもん。
学業そっちのけで作家業を熱心にするわけにもいかないから、大
220
人たちに任せている。
たまに、最終審査をさせられることもあるけれど。
そのブランド名が瑞姫から取って、花見月という名前なんだそう
だ。
﹁私が描くには、ちょっと時間がかかりすぎるから、冬には間に合
わないかもしれないし﹂
﹁確かにね。学生さんだものねぇ﹂
﹁うん。学生さんだから、勉強もしないといけないので、時間制限
があると無理かもしれないのでお断りしちゃうのですよ﹂
うんうんと頷いて答えると、真季さんは首を傾げる。
﹁勉強ばかりしてると、ろくな大人になりゃしないって言ってやり
たいね﹂
﹁あははははは。でも、私が勉強しないと、困るのは私じゃなくて
他の人たちだからね。まあ、気に入ったのなら、こちらを花見月の
方に回すよ﹂
﹁そうだね。お願いしようか。いろいろ見せてもらったけど、なか
なかピンとくるものがなくてね、間に合わないかと思ってたところ
だよ﹂
真季さんが居る屋形で今年の冬にデビューする芸者さんがいる。
その子達をお姐さんである真季さんが自分のお座敷に連れまわす
のだ。
ご贔屓さんを作るためもあり、先輩御姐さんの仕事ぶりを間近で
見て勉強するためでもある。
余談だが、ご贔屓さんはあくまでもお座敷に呼んでくれるご贔屓
さんのことで、個人スポンサーは禁止されている。
前世では、確か、個人スポンサーがそれぞれ何人か必要だったり
とかいう話を聞いたことがあるけれど、ここではそれは禁止事項だ。
何故なら、個人スポンサーになってくれる人をなかなか掴まえら
れない子もいるからだ。
221
なのでこちらではスポンサーや屋形につくことになっている。
おかあさんもしくはおとうさんと呼ばれる屋形の主が、花代とは
別にそれぞれに応じて振り分けているらしい。
見習いの時期は、着物や帯、細々としたものは屋形の方で揃える
ことになっているが、それは借受していることを意味しているので
借金と同じだ。
給料の中の一部をそれらの返済に充て、そうして完済した時に一
人前に扱われるらしい。
無理なくコツコツと、着物の一部は先輩御姐さんの若かりし頃の
着物を譲ってもらって、その借金が少しでも少なくなるようにと工
面しているところもあるそうだ。
そんな中で、自分の蓄えで初めて買った着物は特別なのだと聞く。
だから着物作家は、特別に想ってもらえるような着物を作りたく
て頑張っているのだ。
どうやら真季さんに気に入ってもらえたらしい。
よかった。
そう思って、同じ椿のモチーフを真季さんの前に差し出す。
﹁ちょっと! 何さ、これ!!﹂
真季さんの表情が一気に変わる。
﹁これ、真季さんのものだよ﹂
同じ太郎椿の絵だが、こちらは先程の絵とは違い、かなり独特な
絵になっている。
友禅は、柔らかい色彩で描くことが多いが、こちらははっきりと
した色合いだ。
好き嫌いでわかれるだろうことは、描いた私が一番よく理解して
いる。
﹁どういう意味だい?﹂
﹁さっきのは、小槙姐さんに購入してもらいたい着物の図案。こっ
ちは真季さんしか着れない、真季さんのための着物﹂
222
﹁え?﹂
﹁あれ描いてる時に、思いついちゃったんだ。これは、真季さんの
ものだって。だから、これは私が描く。そして、真季さんにプレゼ
ントさせて﹂
完全に真季さんが凍りついた。
だろうなー。
私の描いた着物の値段を知っている普通の感覚の持ち主ならこう
なるはずだ。
﹁何言ってるんだい!? そんなのもらえるわけないだろう!!﹂
﹁今すぐ渡せるものじゃないしー。何年かかるかわかんないものだ
から、待っててほしいなーと思って﹂
﹁どんだけ値段がつくかわかってるのかい!? これなら、相当な
値段になるはずだよ!﹂
﹁んー⋮⋮じゃあ、花代。確か、この手の物納は大丈夫なんだよね
?﹂
花代は、何もお金で支払わなくてもいいらしい。
かんざしとか、宝石とか、売ってお金になるようなもので、花代
と同等の価値があると判断されたものに限り、物納できると聞いた。
なので、着物は反物でも仕立て上がりでもどちらでも受け取って
もらえる。
﹁ちょっとお待ち! 何回分の花代だと思って言ってるんだい?﹂
﹁んー⋮⋮よくわかんないけど、真季さんの唄と三味線が聞けるな
ら、安いものだと御祖父様なら言うと思うけど﹂
﹁金の卵って、自分の価値観がよくわからないって聞くけど、ここ
までとは思わなかったよ﹂
げっそりした様子で真季さんが天を仰ぐ。
﹁おやー? 天下の小槙姐さんが、ご自慢の唄と三味線がこの着物
に釣り合わないと? おまけに、この着物を着こなせないとおっし
ゃるわけだ﹂
﹁馬鹿をお言いでないよ! この小槙姐さんが例え人気があろうと
223
も新人作家の着物を着こなせないわけないじゃないか!﹂
はい、お約束ー!
売り言葉に買い言葉の典型だよね。
﹁じゃ、決まり。もらってね﹂
にっこりと笑って言えば、ハメられたことに気が付いた真季さん
がわなわなと震え出す。
﹁この、小娘ーっ!!﹂
﹁あははははは。真季さんだけだよ、私を小娘扱いできるのは﹂
小娘と呼ばれても、全然嫌な気がしないのも真季さんだけだ。
当代一、二を争う人気芸者の小槙姐さんも、先輩御姐さん達から
見れば、やはり小娘扱いされていることは知っている。
誉のお母さんだから、普通に考えてアラフォーって考えるだろう
けど、実際、真季さん、アラサーなんだよね。
幼馴染とはいっても、彼ら全員が同じ年っていうわけでもない。
真季さんは彼らの中で最年少だった。
誉の養母である橘夫人由美さんは、真季さんの腹違いの姉で7歳
年上だ。
こちらはちゃんとアラフォーだ。
何故か、ゲームの脚本を書いた人が橘誉の周辺の裏設定に熱心で、
かなり細かいことまで決めていた。
それがこちらの世界に適用されている。
その設定では、真季さんはベッドから離れられない由美さんを気
遣って高校へは行っておらず、家で家庭教師について勉強していた
そうだ。
まあ、その時一緒に芸者の稽古に励んでいたようだ。
そういう設定であって、実際はどうだったのかは知らないが。
さすが、残念な主人公設定が出来るだけあって、こういった設定
がデタラメなのも頷ける。
それ絶対無理だろう。橘氏、犯罪者になるじゃん!! とか、思
ったけど実際には言えません。
224
ゲームの設定でものを考えるのも、実際のことでものを考えるの
も、こういう恋愛ごとは難しいし無意味だ。
うん。やっぱり、他人の恋愛ごとに首を突っ込むものじゃありま
せん。
そのあとも、真季さんといくつか話をする。
真季さんは高等部の日常について聞きたがった。
その質問に答える形で答えていくと、いろんな指摘が返ってくる。
実は、諏訪の詩織様に対する想いが恋ではないと言ったのは、真
季さんだ。
中等部の時に、ある会話が私の目の前で繰り広げられたのだが、
それを聞いた真季さんがそう言ったのだ。
まだ私が体育の授業を出席できず、教室内で見学という形を取っ
ていた時に授業が終わり、着替え終えた諏訪とその周辺男子生徒が
教室に戻ってきて実にくだらない話をしたのだ。
言っておくが、私がそこにいることは、クラス全員が知っている
ことだ。
それなのに、私の存在を忘れて男同士の下世話な話を始めたのだ
から、聞いてしまった私に罪はない、と思う。
ゆっくりとしか動けなかった私は、彼らが来たからといって素早
くその場を立ち去ることはできない。
どうあがいても、やっぱり聞かされる羽目になる。
今のところ、あの話を口にする気には到底なれない。
育ちが良かろうと、年頃の男子はやはり年頃なのだという話題だ
ったからだ。
いくつか話が盛り上がって、結構長い間話したような気がする。
扉がノックされ、スライドした。
225
﹁おや、お客様がいらしてたのか。失礼しました﹂
白衣の男性が中に入ろうとして立ち止まる。
﹁桧垣先生﹂
主治医の桧垣医師だ。
茉莉姉上は副主治医に治まった。
だから、校医の仕事はどうなっているんだろう?
﹁おや、先生かい? じゃあ、あたしは帰ろうかねぇ﹂
真季さんが立ち上がる。
﹁あ、うん。今日はありがとう、真季さん﹂
﹁いいや。言ったろ? 顔が見たかっただけだって。じゃあ、また
ね﹂
艶やかに微笑んで、先生に会釈をした真季さんは帰って行った。
﹁⋮⋮ものすごい美人だな﹂
真季さんを見送った先生が驚いたように呟く。
﹁先生、今の人、私と同じ年の息子さんがいますよ?﹂
﹁え!? そんな年には見えないよ﹂
﹁先生が想像したお年とも違うことを断言してもいいですよ﹂
﹁じゃあ、真実は知らないに越したことはないな。さて、相良瑞姫
さん、今回の治療方針について説明させてもらってもいいでしょう
か?﹂
もうすでに両親に話をして、承諾を得たのだろう。
そうして、患者である私にも説明をする。
本当は一緒に聞く方がいいのかもしれないけれど、保護者である
両親の都合に合わせたのかもしれない。
﹁はい、お願いします﹂
ひとつ頷いて、私はベッドの方へと歩き出した。
226
27
検査と治療とリハビリの日々。
今回は右腕は触らないことになっている。
まだ皮膚の厚さが足りないせいだ。
右足を中心に治療とリハビリを行う予定だ。
複雑というか、粉砕骨折をした人ならわかると思うが、足の向き
を少し変えるだけでも痛みが走ることがある。
これは、相当長い間経ってもやっぱり痛むのだとか。
リハビリによる緩和ケアを適切に行っていかないといけないらし
い。
取り出したボルトとか、相当大きくて長かったからなぁ。
生きるか死ぬかを乗り越えた後だから、この痛みくらいは大した
ことないことだと思って耐えるしかないのだろう。
時々は、やっぱり痛いけど。
まあ、ずっと痛い状態から、時々痛いという状態に落ち着いただ
け、遥かにましだと思う。
急に動かなければ、大丈夫ということなんだから、普通の生活に
も支障はほとんどない。
リハビリの一環で、同じ怪我をした人の体験談を聞くというもの
がある。
日常のどういう動作に気をつけなければならないとか、リハビリ
がつらくて何度投げ出そうかと思ったとか、人それぞれ、いろんな
話が聞ける。
早く治りたいがために、無茶なリハビリをしかけてかえって症状
がひどくなったという人もいた。
うん。わかった。先生はこれを私に聞かせたかったんだな、きっ
と。
227
基本的に言われた通り淡々とリハビリをする私は、それがつらく
て逃げ出したいと思うことはない。
少しずつでも、身体のコントロールが戻ってきていると実感する
ことは嬉しい。
そうして、そのリハビリプログラムは、私の現状に合わせて、プ
ロが考えたものなのだ。
言われた通りコツコツとやるのが一番の近道だと、きちんとわか
っている。
だが、逆に医師たちとしては、思春期とか反抗期頃の子供が、文
句も言わずに淡々と言われたことをこなしている姿が不気味に見え
るらしい。
言うことを聞かない身体にストレスを感じ、感情を爆発させる子
供が多い中、静かに落ち着いて言うことを聞く私が奇異な存在だと
捉えているようだ。
そりゃ、そうだろう。
これでも中身はアラフォーなのだ。
否応でも分別はついている。
逆切れしたところで、余計に身体が痛いだけだ。
無駄なことはしない。
そんなことを考える子供はいないだろう。
だから、カウンセラーまでやって来たこともある。
あの時は何でカウンセリングを受ける必要があるのだろうかと思
いっきりきょとんとしてしまったため、カウンセラーも苦笑してい
た。
カウンセリングの結果としては問題なしだった。
状況判断に優れ、理性的に対処できているため、現在のところ、
問題なしというのが正確な診断結果だ。
ただ、前向きに、理性的にすべてを処理しようとするため、スト
レスを感じていてもそれを認識できないことがあるため要注意とも
言われた。
228
理性的でも感情的でもないんだけどなぁ。
このカウンセリングの結果、先生方の対応の仕方が少々変わった
ことは確かだ。
説明の仕方が大人対応になったからだ。
勿論、専門的過ぎる言葉は噛み砕いて、わかりやすい言葉に変え
て説明してくれるが、﹃今の状況は、こうなっています。最終目的
はこうです。こういう理由で、次はこれをします﹄的な全体の流れ
と細かい流れの両方をしてくれるようになった。
子供用の説明は、﹃次は何をする﹄というような目の前の細かい
流れしかないことが多い。
その説明に納得できれば、大人しく従うので扱いやすい子供に見
えてきたのだろう。
わからない時は、とことん喰らいついて聞くけど。
病院での生活は、主に午前中にいろんなことが集中している。
採血は週2回程度、起床時間前あたりに何本か取られる。
それと同時に、酸素の血中濃度とか体温も測られる。
起床時間になったら、朝の支度をして、朝食を摂る。
朝の支度中に、週1回、体重を測られる。
勿論、体重の計測結果は極秘事項です。
乙女の秘密ですから。
朝食が終わったら、本格始動。
検査やら治療やら、その日のスケジュールに基づいて動くことに
なる。
リハビリは、部屋で出来るものは基本、特別室の中で行う。
リハビリルームに行くときは、人が少ない時間帯を狙う。
私の存在が、リハビリを行う人たちのストレスになってはいけな
いからだ。
229
別に、黒服はボディガードを連れ歩いているわけじゃないけどね。
基本的にリハビリ中は、自分の世界に入り込んじゃっているわけ
だから、あまり人を気にしないと思うんだけど。
﹁はい、今日はここまでにしようか﹂
今日はリハビリルームでの訓練の日だった。
器具を使っての脚のストレッチで汗が滲みだしてきたころが、終
了の合図だ。
身体にかける負荷というものは、それぞれの訓練で決まっている
らしいが、基本的には汗がにじむ程度が一番効果があるらしい。
汗だくになるほどリハビリするのは、実は身体によくないらしい。
﹁はい。わかりました﹂
ストレッチしていた身体を起こし、深呼吸を1つする。
心拍数を一定にするため、リハビリは腹式呼吸や深呼吸が基本で、
自分の呼吸に注意するようにと常に言われた。
深く息を吐いて、吸う。
これだけで滲んでいた汗も引いてしまう。
息を吐かないと、息は吸えないから、必ず息を吐いてから吸いな
さいと、教え込まれた。
ついでに深呼吸はダイエット効果もあるんだよと、リハビリ専門
医が笑って教えてくれた。
よし、いいこと聞いた! いつか、実行してやる!!
﹁ちょっと今日は負荷が大きすぎたかな? なかなか汗が引かない
ね﹂
タオルで汗を拭いてもまだ額に滲む汗に気付いた先生が困ったよ
うに呟く。
今日は新しいストレッチをしていたのだ。
ゆっくりと足の向きを変えて股関節付近の筋力を鍛えるというも
のだそうだ。
筋肉フェチじゃないので、筋肉の名前には詳しくありません。
230
なので、どの筋肉を鍛える運動なのかはさっぱりです。
﹁そうですね。ちょっと右足がいつもより痛かったです﹂
﹁そうか。じゃあ、休ませた方がいいね。帰りは車いすで帰る?﹂
﹁歩きます。歩行が一番のリハビリだと仰ったのは先生です。ゆっ
くりでも歩いて戻ります﹂
車いすは嫌いだ。
リノリウムの床と車いすの組み合わせは、妙な不安に駆られてし
まう。
だから、断固拒否してしまう。
それに、車いすの数には限りがある。
私が使ってしまえば、それを今必要としている人が使えなくなっ
てしまうではないか。
﹁わかりました。相良さんの意思を尊重しましょう。だけど、杖を
使おう。右足を休ませてあげた方がいいのは確かだから﹂
﹁先生の言葉に従います﹂
妥協案を告げられ、素直に頷く。
意地を張るつもりは毛頭ない。
﹁じゃあ、用意するから少しだけ待っていて﹂
﹁はい﹂
担当医が松葉杖を用意する間、私はタオルで汗を拭きとりながら、
暑そうな外の風景を眺めていた。
病院という場所は、ちょっとした休憩箇所がかなりある造りにな
っている。
小さな個人病院だとそうはいかないだろうが、大きな総合病院で
は待合室自体がかなり広い。
受付窓口がいくつもあり、初診や再診が別々の窓口にわけられて
いたり、診察終了窓口と、会計処理窓口に支払窓口、処方箋受け渡
し窓口と、やたらと窓口が多い。
ずらりと受付の前に置かれたソファには100人くらいは軽く座
231
れそうだ。
そして、ぞれぞれの診療窓口の前にやはり相当数のソファが置い
てある。
トイレ付近にも横になれる長さのソファが必ず2つは置いてある。
他にも付添いの人たちが待つための椅子があちこちに設置してあ
る。
特にリハビリルームから受付窓口までの道のりにあるソファの数
は非常に多い。
リハビリ後に体調崩す人とかも中に入るので、すぐに休めるよう
に置いているらしい。
他にも出窓風にして腰掛けられるように桟を大きく作っていたり
とか、アートなオブジェ風の椅子とかもある。
なので、リハビリに通う入院患者も外来患者も、どちらも安心し
てリハビリができるのだ。
病室に向かうには、一旦、ロビーへと出て専用エレベーターに乗
らなければならない。
リハビリルームは、受付から見ると一番奥にある。
病室に辿り着くまで、結構な距離を歩くことになる。
その途中に座る場所がなければ、私とて歩くなど言わずに素直に
車いすのお世話になっている。
休めるからこそ、歩く気になるのだ。
ゆったりとしたペースで松葉杖をつきながら、私は歩く。
もしものことがあるので、リハビリ中の患者には担当医や看護師
が付き添っている。
部屋まできちんと送り届けてくれるのだ。
これは、どの病院でも、どんな患者でも、リハビリ中なら同じこ
とをされるだろう。
のんびりと歩けるように、決して急かすようなことは言わない。
だからこそ、歩きやすいと言えるだろう。
﹁あれ?﹂
232
私についていた担当医が、ロビーに目をやり、不思議そうな表情
になる。
﹁相良さん、あの方、もしかしてお知り合いの方じゃないんですか
?﹂
そう言われて、ふとそちらの方を見やれば、小さなバスケットに
花束と何かを詰めた女性が何かを探すようにきょろきょろしている。
そうして、その女性は何かに気が付いたように受付の一番端にあ
る入院患者の受付の方へ歩いていく。
﹁う∼ん。なんでだろう?﹂
私はその女性を知っている。
ここに用があるとは思えない人だ。
何かを聞き終えたその人は、受付窓口の人に丁寧に頭を下げ、謝
意を表すと、受付の奥にあるエレベータに向かって歩き出す。
歩き出した直後、その人は私の姿を捉えた。
﹁あら、驚きましたわ﹂
おっとりとした口調で呟いた女性は、少しばかり首を傾げる。
﹁相良瑞姫様でいらっしゃいます?﹂
﹁ええ、そうですが。あなたは?﹂
一応礼儀として名前を聞かなければならない。
彼女が誰なのか、もちろん知っている。
知ってはいるが、会ったことがないので、初対面という言葉が正
しい。
﹁申し遅れました、わたくし、藤原梅香と申します﹂
にこやかに告げる梅香様に、私はどうしたものかと判断に迷った。
233
28
小さなバスケットを持った楚々とした日本美人。
艶やかな黒髪をゆるく編んで淡い色のリボンで束ね、清楚で涼し
げな雰囲気を作っている。
非常に暑そうな夏の空気が一転して、高原のそよ風のような爽や
かさを感じさせる。
美人とは汗をかかないのだろうか。
こんなに外は暑そうなのに、どうしてこの人は涼しげなんだろう
か。
思わぬところで遭遇してしまった藤原梅香様に対する感想がこれ
であった。
私と対するのが気恥ずかしいのか、視線をやや下げながらも頬は
ほんのりと染まっている。
周囲の男性陣からの視線が痛い。
何故、見知らぬ男共から見当はずれの嫉妬まみれの視線を受け止
めねばならんのだ。
しかし、本当にどうしたものか。
このままここに留まるのは、病室まで送ってくれる予定の担当医
に迷惑をかけてしまう。
彼にもこの後予定というものがあるのだから。
﹁藤原様、今日は何方かのお見舞いですか?﹂
にこやかに穏やかの声を掛ける。
在原が困っていた通り、この方は非常に好い性格の方なのだ。
少々夢見がちな乙女なだけで。
なので、あまり礼を失した態度を取ることはできない。
﹁ええ。静稀様に瑞姫様が⋮⋮あ、ごめんなさい。勝手にお名前を
234
呼んでしまって⋮⋮静稀様がそう仰っていたものですから﹂
﹁構いませんよ。この病院には姉も務めておりますので、相良では
どちらかわかりませんからね﹂
﹁ありがとうございます。嬉しいですわ。あ、そうそう。その、静
稀様に瑞姫様がこちらにご入院なさっていると伺いまして、お見舞
いをさせていただこうと⋮⋮﹂
﹁そうでしたか。それは、ありがとうございます。このような見苦
しい姿で申し訳ありません。よろしければ、病室へご案内しましょ
う﹂
この場でさよならという手は取れなかったか。
在原め。
何故、私がここに入院しているなどと話したんだ。
多分会話が続かなかったんだろうな。
橘と違って、さして親しくない相手との会話が苦手な在原のこと
だ、会話のネタに困ったことだろう。
仕方ないと諦めて、梅香様を部屋に誘う。
担当医に申し訳ないと頭を下げれば、柔らかな笑顔が返ってくる。
松葉杖をつきながらゆっくりと歩き出せば、梅香様と先生がその
あとからついてくる。
﹁静稀様のお話では、普通に歩かれていると思っておりましたわ﹂
﹁ええ、そうですよ。先程までリハビリをしておりましたので、こ
れは疲れた脚を労わるためです。少しの距離なら走れるようになり
ました﹂
嬉しそうな笑顔を作って話せば、ほっとしたように梅香様も笑み
を浮かべられる。
﹁それはようございましたわ。わたくし、運動はとても苦手で、走
っていても歩いているのと変わりないのですわ。きっと走っている
瑞姫様はとてもお速くて素敵なのでしょうね﹂
うっとりとした表情で梅香様が言う。
梅香様の脳内で颯爽と走る私の姿が思い描かれているのだろう。
235
それは脚色であって、事実ではないと思う。
そして、担当医よ。素直に笑え!
小刻みに肩が揺れているぞ。
﹁買い被らないでいただきたい。今の私は、さほど速くはないので
すよ。もどかしいと思うくらい、遅いのですから﹂
一応、聞こえてないとは思うが、訂正だけは入れておく。
エレベーターホールまでたどり着き、ボタンを押して、しばし待
つ。
軽やかな到着音と共に扉が開く。
その中に乗り込み、最上階のボタンを押し、扉が閉まるのを見つ
める。
独特な浮遊感と共に、エレベーターのゴンドラが上へと上がって
いく。
最上階へと到着すると、右側の部屋が私の部屋だ。
﹁先生、ありがとうございました﹂
いつも通り、部屋まで送っていただいたことにお礼を言う。
﹁はい。お部屋に到着ですね。今日はゆっくりと足を休めてくださ
いよ、相良さん﹂
﹁わかりました。そのようにいたします﹂
担当医に松葉杖を渡し、しっかりと頷く。
無茶は致しませんとも。
痛いのは、嫌ですから。
担当医を見送った後、梅香様を部屋へと促す。
﹁どうぞ、そちらのソファへお座りください。今、お茶を用意いた
しましょう﹂
そう告げ、ティーセットを取り出すと、紅茶の支度をする。
﹁まあ、瑞姫様が自らでございますか?﹂
﹁ええ。これでも兄の執事になろうと思って、お茶の淹れ方は特訓
したんですよ。うちは、他の家とは違って、質実剛健が旨ですので、
自分のことは自分でするのが普通なのです﹂
236
お茶の支度をしながら、梅香様に説明する。
場所が病院なだけに飲茶セットは用意できなかったが、中国茶は
一時期凝って、淹れ方は完璧にマスターしたのだ。
ぜひ披露したいところだが、披露できる相手がなかなかいなくて
残念だ。
ティーセットをテーブルの上に運び、時間を計ってティーポット
からカップへお茶を注ぐ。
﹁暑い中、お見えになられた方に冷たいものでなくて申し訳ありま
せん。体を冷やさないようにと言われておりますので、熱い紅茶で
お付き合いください﹂
そう声を掛ければ、梅香様が微笑む。
﹁わたくしの大好きなペルガモットの香りですわ。アールグレイは
大好きですの。嬉しいですわ﹂
そう言って、カップを手にして一口含む。
﹁まあ、本当に美味しいですわ。瑞姫様は何でもお出来になるのね﹂
﹁いいえ。これは、先程も申し上げましたように、兄の為に特訓し
た成果です。お気に召していただけたのなら、幸いです﹂
笑顔で答えれば、梅香様の頬がほんのりと染まる。
﹁わたくし、実は、大伴様のパーティで、お帰りになられる瑞姫様
をお見かけいたしましたのよ﹂
﹁そうでしたか。声を掛けけていただければよかったのに。在原も
一緒にいましたよ﹂
あの日、梅香様とは会えなかった。
だから作戦変更をすべきだと考えていた。
見られていたとは思わなかった。
﹁ええ。静稀様が、あのように屈託なく笑われている姿を目にした
のは、初めてでございました。お友達の前だと、あのような無邪気
な笑顔をなさるのですね、静稀様は﹂
何となく羨ましげな口調で梅香様が言う。
すみません、ごめんなさい。
237
あれが在原の標準装備な笑顔です。
つか、どんな顔をして笑ってたんだよ、在原!!
﹁私が見ているのは、いつもその顔なので、藤原様が御存知の在原
の笑顔というものがよくわからないのですが﹂
﹁瑞姫様と同じ笑い方をなさいますわ。それを見て、初めてわかり
ましたの。静稀様は本心から笑ったことがなかったということに﹂
何となくしょぼんとした様子で梅香様が呟く。
﹁それはどうでしょうか? 在原は、自分の感情に素直な男です。
笑いたくない場面で笑顔なんて見せませんよ。あなたと一緒にいた
ときに、笑っていたとすれば、間違いなく在原は笑っていたのでし
ょう﹂
少しばかり気の毒になって、本当のことを告げる。
﹁そうでしょうか?﹂
﹁もちろんです。在原は、自分の感情に素直な男ですから﹂
重ねて言えば、梅香様が嬉しそうに笑う。
﹁よかった。瑞姫様がそうおっしゃるのなら、本当の事ですわね﹂
そうですけど。そうなんですけどーっ!
少しは疑って。
﹁わたくし、女子高育ちで、引っ込み思案で、とにかく、親しい方
以外の人とお話しするのが苦手なんですの。それなのに、瑞姫様と
は普通に話せるので驚いておりますの﹂
﹁そうなんですか? それは光栄ですね﹂
自分もお茶を飲みながら、とりあえず答える。
﹁瑞姫様は、とても柔らかで優しい雰囲気を醸し出していらっしゃ
るから、つい、何でも話したくなってしまうのですね。静稀様も、
だから、瑞姫様と仲が良いのでしょう﹂
何か、納得したように話される女性に、私は注意深く彼女を見つ
める。
婚約者と親しくしている女性が気にならないという反応ではない。
どちらかというと、婚約者と親しい友人︵男︶という扱いだ。
238
﹁瑞姫様や岡部様のお話は、色々なところからお伺いしておりまし
たの。本当に、王子と騎士という言葉がぴったりな雰囲気で、素敵
でしたわ。信頼し合っているというのは、このようなことを言うの
だと見ていて思いましたの。そこに静稀様や橘様がご一緒されて、
一幅の絵のような光景に、わたくし、声がかけられなかったのです
わ﹂
どこかうっとりとしたような表情の梅香様。
お願いですから、BL展開はやめてくださいね?
そう正直に願ってしまう。
腐を知っている者は、腐を発酵させ、脳内で思うままに勝手に楽
しんでくれるので、その事実を知った時に戦慄が走った。
私は、例外中の例外ですから、一緒にしないでください!
そう思いながらふと気が付くと、梅香様は私の唇をじっと見つめ
ていた。
﹁瑞姫様﹂
﹁はい?﹂
私が聞いた話と全然異なる配置図だ。
﹁わたくし、静稀様に取り返しのつかないことをしてしまいました﹂
いきなりの言葉に、私は前のめりになる。
﹁どういうことでしょうか﹂
聞きたくないが、聞かなければならないことがある。
聞いたという事実が必要なのだ。
﹁わたくし、以前、別の宴で静稀様をお見かけしましたの﹂
そういう梅香様の表情は複雑そうなものだ。
﹁わたくしにとても親切にして下さった静稀様に、わたくし、ひと
めぼれをしてしまったと勘違いいたしましたわ﹂
﹁勘違い?﹂
﹁ええ。静稀様にはとても申し訳ないことをしえしまいました﹂
﹁静稀に?﹂
﹁そうですわ﹂
239
頷いた梅香様は、困ったように告げた。
﹁わたくし、大伴様のパーティで、恋をしてしまいましたの﹂
﹁⋮⋮はあ⋮⋮﹂
思いもかけないことに、私も困る。
﹁静稀様に何と切り出してよいものか⋮⋮﹂
﹁普通でよろしいのでしょうか﹂
何と答えればいいのかわからずに、曖昧に笑いながら言葉を返す。
﹁在原は実直な性格です。嘘が嫌いな男ですから、正直に伝えれば、
素直に受け入れる事でしょう﹂
私がそういえば、梅香様も素直に頷く。
﹁ありがとうございます。気が楽になりましたわ﹂
穏やかな微笑み。
しかし、何故私がこんなところでお悩み相談室をしなければなら
ないのだろう。
そう思いながら、私は梅香様の次の言葉を待った。
240
29
梅香様の話をまとめると、大伴家のパーティですれ違った私たち
を見送った後、私の姉、菊花に声を掛けられたらしい。
ちょっと特殊なプログラムを組む菊花姉上は、藤原家の仕事をし
たこともあるらしく、梅香様とも顔見知りなのだそうだ。
そこは私も初耳だった。
うちの女王様といくつか話をしていたところ、姉に声を掛けて来
た男性がいた。
それが問題の相手のようだ。
一条秀明。
かつて藤原家の分家であったものが、独立して一条の名を藤原当
主から与えられたのが一条家の始まりだ。
もう一つ、一条という名字を持つ家があるが、そちらとは全く別
の家だ。
同じ苗字なので混同されやすいのだが。
穏やかな雰囲気を持つ一条秀明の秀麗な顔立ちに視線を奪われた
梅香様は、彼に微笑みかけられて恋に落ちたそうだ。
うん。ベタだと思っても仕方ない。
恋を夢見るお嬢様だから、そういうこともあるんだろうね。
というより、梅香様の好みを用意周到に調べ上げて、それに該当
する人物をピックアップした菊花姉上の策略勝ちと言った方が、本
当は正しいだろう。
どういう状況が一番梅香様がときめくのかをシミュレートして、
最高のシーンを提供したのだろう、自分の目的の為に。
純粋無垢な梅香様は、知らずに引っ掛かってしまったのだ。
最初の予定では私がする役だったのを、おそらく、奪ったのだ、
241
菊花姉上が。
うちの兄姉は、末っ子の私に甘すぎるほどに甘い。
罪悪感に苛まれるような汚い役はさせたくなかったのだろう。
割と、平気で出来るけどな、私は。
だが、逆の立場に立てば、誰が大事な身内にそんな汚い役をさせ
られるかと思うだろう。
私だってそう思う。
すでに成人して、社会基盤というものを持っている菊花姉上は、
すべてを計算したうえで、やり遂げたのだ。
自分に優しく微笑みかけてくれた在原に、気持ちを高ぶらせ、お
伽噺のお姫様になった気分で押しかけ女房ならぬ押しかけ婚約者に
なってしまった梅香様。
それが恋ではなく、恋だと思い込んでしまったことに気が付いて、
在原に対して罪悪感を抱いている。
相談しようにも、自分の周囲には自分と似たような人しかおらず、
相談するべき相手を見つけきれずに途方に暮れていた。
そんな折、在原が私の話をした。
いろいろと相談に乗ってもらっている、と。
そこで梅香様も私に相談に乗ってもらおうと思い立ったそうだ。
純粋培養だからこその思考だろう。
相手がほぼ初対面の年下の女の子であることに気付かずに、頼っ
てしまうところとか。
だからこそ、菊花姉上に付け込まれてしまったのだ。
申し訳ないと内心思うが、それを口にするわけにはいかない。
姉がしたことは、私も同罪と言えるからだ。
一条秀明様は、姉が言う私のストーカーなのだそうだ。
私が大伴様のパーティに出席したということを聞いて、真偽を確
242
かめに菊花姉上に尋ねに来たそうだ。
まあ、私はまんまと大伴夫妻の掌の上に転がされてしまった結果、
ほとんど人と会わずに遊戯室でビリヤードに興じてしまっていたの
だし。
もしかしたら、それも菊花姉上の差し金だったのかもしれない。
大事な妹がストーカーに付きまとわれて、迷惑しているというこ
とを大伴夫妻に直談判することくらい、菊花姉上にとって他愛もな
い。
私が知らなくても、それは兄姉にとっては事実なのだから。
菊花姉上と一緒にいる女性が、本家筋のお嬢様だと知っている一
条様なら、彼女に対し、微笑むことくらいはするだろう。
分家にとって、本家は太陽のような存在だ。
本家がいるからこそ、自分たちは存在できると思っているところ
がある。
たとえそれが名字を与えられて、切り離されても、その思いは一
緒なのだと聞かされた。
一条様にとって、梅香様の機嫌を損ねることは罪にも等しい。
笑顔で挨拶することくらい、簡単なことだろう。
ただそれだけの軽い気持ちが、大事を引き起こすことになる。
在原の時にはさすがに強引に話を進めることができないであろう
藤原本家も、相手が一条家なら簡単だ。
在原静稀は15歳。一条秀明は25歳。そうして、22歳になる
梅香様のお相手にふさわしいのはどちらかかと考えれば、明白だ。
いくら在原家が名家でも、静稀が適齢期になるころには梅香様は
アラサーとなる。
完全に嫁き遅れとして名を馳せてしまうだろう不名誉を藤原家が
許すはずもない。
早く嫁ぐには構わないが、遅くなれば名誉にかかわると思う名家
のありようは、いささかどうであろうかと思ってしまう。
これは、私が一般人であったという記憶がそう思わせてしまうの
243
かもしれない。
一般人の常識というのは、セレブの非常識と一致することがある。
独身主義がその最たるものだ。
そして、浮気に関しても真逆に位置する。
一般的な感覚として、浮気は許されないものだが、セレブではゲ
ームのようなものとして、子供ができないのなら許されるという認
識がこちらではある。
その点に関しては、相良家は一般寄りだ。
たった一人の伴侶に固執してしまうからだ。
まあ、それはいいとして。藤原家は、梅香様の仄かな恋心を知れ
ば、一条家に圧力をかけることだろう。
主家の命を分家が断れるはずもない。
数日中に両家の婚約がなされるはずだ、梅香様が一言そういえば。
梅香様を宥め賺し、自分の気持ちを周囲に素直に告げることをア
ドバイスして、彼女と友達になることを約束する。
見舞いの品を受け取り、そうして彼女を送るために一緒にロビー
へと向かった。
ほぼ初対面であるのに、色々と醜態を晒したと恐縮する梅香様に
笑ってそれらを否定する。
藤原家の知名度は、相良家よりも遥かに高い。
そんな家を相手に喧嘩を売るなど、普通では考えないだろう。
血の気の多い兄姉なら、やるだろうが、私はしない。
基本的に私は事なかれ主義だ。
古き良き日本人の典型だと自慢して言えるだろう。
和を重んじることの方が、孤軍奮闘で戦うことよりも有意義だと
思える。
244
戦うこと自体は嫌いではないが、状況判断も必要であるという考
えは持っているつもりだ。
﹁本当に色々と、申し訳ありませんわ、瑞姫様﹂
恐縮しまくった梅香様が私に頭を下げてくる。
本人としては醜態を晒しまくったとしか思えないだろう。
﹁いいえ。いろいろとお話を伺えて楽しかったですよ﹂
にっこりと笑えば、梅香様が赤くなる。
この人、私の顔が好きらしい。
だけど八雲兄は苦手のようだ。
同じ兄弟でも微妙な個性で好みがわかれるらしい。
若干、男性恐怖症のきらいがある梅香様には、八雲兄はつらかろ
う。
いくら私とよく似た顔であるとはいえ、あちらは肉食系男子であ
る。
人見知りをする梅香様には恐怖の対象といえるかもしれない。
逆に言えば、私は草食系なのだろう。
恋愛に対して一切興味を示さないし、些細なことでは怒りを覚え
ることもない安定した性格なのだし。
その点で行けば、長兄も彼女にとっては苦手な相手の最たるもの
であろうが、実際はそこまで苦手ではないようだ。
すでに意中の相手がいる兄だし、他者に対してはそこまで気を使
うこともなければ、身の危険を感じることもない。
だから安心して付き合える相手だと思ったのも無理はないだろう。
ロビーまで歩いた私は、自動ドアから中へ飛び込んできた人物の
顔に驚いた。
﹁一条様﹂
245
私と一緒にいる梅香様の言葉に、秀明氏の表情が強張る。
私に何を言われるのかと、怯えていたようだ。
﹁瑞姫さん﹂
白い顔色で、言葉を紡ぐ。
﹁梅香様がお帰りになられるそうなのですが、お迎えに来ていただ
いたのですね?﹂
にっこりと、実ににっこりと、秀明氏に笑いかける。
﹁僕は、あの⋮⋮﹂
何かを言い出そうとした秀明氏は、そのまま口籠る。
菊花姉上にハメられたことに気付いたかもしれない。
それとも、私が梅香様の言葉を素直に信じているのだと思ったの
かもしれない。
今言い訳しても立場が悪くなるだけで、状況は好転しないと悟っ
たようだ。
﹁今日はありがとうございます、梅香様﹂
﹁こちらこそ、お話を聞いていただけてうれしかったですわ﹂
にこやかな笑みと会話を続ける二人に対し、秀明氏の顔色がます
ます悪くなる。
気が付いていても、かける言葉はないところが性格が悪いと思う。
﹁それでは、また﹂
笑顔のまま見送る私に、梅香様が嬉しそうに微笑む。
﹁ええ、またお会いしましょう﹂
名残惜しげに去っていく梅香様をエスコートしながら哀愁を漂わ
せる秀明氏に、器用だなとしか思わない私。
だが、菊花姉上には言っておかなければならないことがある。
二人の姿が扉の向こうに消えたのを確認し、私は二番目の姉に抗
議をするべく、自分に与えられた部屋へと戻っていった。
246
30
夏休み終盤、無事に退院した。
今回、トラブルらしきことがなくホッとした。
そう思って、ふと気づく。
どんだけトラブル体質なんだ、私っ!?
いや、私がトラブルを起こしてるわけじゃなくて、何故かトラブ
ルが持ち込まれてくると、思いたい。
地味に目立たなく、平穏に。
ただそれだけを思っているのだが。
夏休みの課題も、前半中にすべて終わっている。
コツコツやっていれば難しくはないというレベルしか、東雲は夏
の課題を出さない。
何せ、避暑を海外でというセレブが多い学園だ、課題ばかり出し
ていては父兄から文句が出ないとも限らない。
普通はもっと出せという文句が出るらしいが、ここは逆だ。
尤も、休み明けの実力テストでどれだけきちんと勉強していたか
は、はっきりわかるので遊び呆けていれば恥をかく。
疾風は入院中、宣言通り、毎日顔を出した。
そしてなぜか、弟の颯希もかなりの頻度でくっついてきた。
私としては嬉しい限りだ。
退院後も颯希は別棟の方へよく顔を出すようになった。
﹁瑞姫様、ご機嫌いかがですか?﹂
今日も疾風と一緒にやって来た颯希が元気よく挨拶をする。
﹁さっちゃん、今日も来てくれたのか? ありがとう。機嫌も気分
も上々だ﹂
247
可愛いなぁと思いながら、笑顔で挨拶を返す。
﹁瑞姫様! 僕のことはさっちゃんじゃなくて、さつきとお呼びく
ださい! 僕も瑞姫様付きにしていただいたのですから﹂
はきはきした口調で颯希が言う。
その後ろで憮然とした表情の疾風が立っている。
﹁颯希! 控えろ。まだ、おまえの役付きは決定していない﹂
﹁ほぼ決まったも同然です。僕は、瑞姫様にお仕えすると決めてい
たのですから!﹂
むっとした様子で颯希が疾風に言い返す。
﹁⋮⋮疾風、さっちゃん。岡部で何があった?﹂
御祖父様からも父からも、何も話はなかった。
当然、岡部の当主からもだ。
私が入院している間に、何があったのか。
﹁まだ何も﹂
疾風が淡々と返す。
﹁何か起こる前に、瑞姫様の警護を厚くする必要があると父は考え
ているようです﹂
まっすぐな視線で颯希が告げる。
﹁何故、私だけ? 姉たちはいつも通りだったが﹂
﹁大伴様のパーティの出席が話題になったようだ。あちこちから招
待状が届いて、少し問題が起こった﹂
憮然とした表情のまま、疾風が答える。
﹁お館様がそのすべてに、瑞姫の体調不良を理由に欠席を告げたら、
病院の方へ強引に来ようとした阿呆がいてな。岡部の方で止めるこ
とができたが、その件で、諏訪が動こうとした﹂
﹁諏訪が? 何のために?﹂
その問いかけに、疾風と颯希の表情が一気に歪む。
﹁疾風兄! 何で諏訪を潰さないんですか!? あんな家、厄災で
しかないのに!! 絶対に要らない!!﹂
颯希から紡ぎだされた言葉は、嫌悪と拒絶。
248
それも、生半可なものではない。
﹁あんな家でも、巨大企業だ。潰せばそこの従業員が路頭に迷う羽
目になる。経済界が破綻する。彼らに罪はない﹂
冷静に告げる疾風だが、そう自分に言い聞かせているようにしか
見えない。
﹁でもっ!! あいつらが元凶じゃないですか! 瑞姫様をつらい
目に合わせて! それなのに、きちんとした謝罪もせず、さらに問
題ばかり起こして!! あんな奴ら、いらない!!﹂
﹁さっちゃん!﹂
思わず手を伸ばし、颯希を抱きしめる。
それ以上の言葉を言わせたくなかった。
﹁⋮⋮瑞姫様﹂
﹁いい子だね。さっちゃんは、本当に優しい、いい子だ。ありがと
う。でも、それ以上は口にしちゃダメだよ﹂
耳許でそう囁き、ふかふかで柔らかな髪を撫でる。
﹁⋮⋮⋮⋮瑞姫様⋮⋮﹂
おずおずと伸ばされた腕が、ぎゅっとしがみついてくる。
﹁でも、僕、口惜しいです! 瑞姫様の髪、あんなに長くて綺麗だ
ったのに⋮⋮こんなに短くなって。それに、稽古だって。疾風兄を
投げ飛ばしてあんなに格好良かったのに、乱取りすらできなくなっ
て⋮⋮﹂
ちょっと、颯希君。
君の中の私のイメージって、一体⋮⋮!?
最初はいいけど、そのあとの疾風を投げ飛ばしって、どんだけ凶
暴認定されてるのっ!?
﹁あのね、さっちゃん。例え怪我してなくても、もう私は疾風を投
げ飛ばせないよ? どれだけ身長と体重差があると思ってるの? さすがに重いよ﹂
﹁重い⋮⋮﹂
疾風の顔が微妙なものになる。
249
いや、平均体重から考えれば、標準よりは筋肉質な分、重いだろ
う。
太っているっていう意味じゃないからね。
﹁さっちゃんならイケるかもしれないけど﹂
﹁瑞姫様っ! 僕、瑞姫様をお姫様抱っこぐらいできますよ!!﹂
むっとしたのか、颯希が至近距離から私の顔を覗き込んでくる。
﹁それと、さっちゃんじゃなくて、颯希です! これから颯希と呼
んでください。いいですね!﹂
﹁え? ああ、うん。ごめんね、そうしよう。颯希﹂
﹁はい﹂
にっこりと嬉しそうに笑った颯希は、私から離れる。
﹁それから、僕が瑞姫様をお嫁さんにしますから﹂
﹁颯希!﹂
颯希の嫁発言の直後、疾風の鉄拳が颯希に落ちる。
﹁いたっ!! 何で!?﹂
﹁当たり前だろう!! 自分の歳を考えろ! マセガキが。第一、
オヤジが許可するわけがない﹂
﹁でも絶対、あいつらには渡さないっ!﹂
何だろう、この兄弟喧嘩モドキは。
﹁疾風。詳細を言え﹂
目を眇め、疾風に問う。
﹁⋮⋮諏訪当主夫人が、瑞姫を貰い受けるのは諏訪だとどこかのパ
ーティで仰ったようだ。その真偽を問い質すこともあって一時、周
辺が騒がしくなった﹂
﹁律子様か⋮⋮﹂
多分、言い出すだろうとは思っていた。
私を傷物にしたという思いが律子様にはある。
その責任を取るのなら、私を諏訪伊織の妻に据えるのが最良だと
考えたのだろう。
普通、これが一般的な考え方なのだ、この世界では。
250
しかしながら、相良や岡部にとっては屈辱でしかない。
互いが想い合っていない婚姻など、不幸なだけだ。
そんな思いを誰が大事な子供にさせるモノかと、一族中が怒り狂
っているのが想像つく。
私とて、諏訪伊織の嫁よりも颯希の嫁の方が遥かに心穏やかに過
ごせるというものだ。
本当に小さい頃の疾風を見ているようで、さっちゃんは可愛いの
だ。
﹁疾風、皆に手を引くように伝えてくれ﹂
私の言葉に疾風が驚く。
﹁しかし!﹂
﹁御祖父様以外、黙るようにと。御祖父様にとりあえずのところは
お任せする。だがな、頃合を見計らって、私が直接、律子様にお仕
置きするつもりだと、な﹂
ゆっくりとした口調でそう告げれば、青褪めた疾風がぎこちなく
頷く。
颯希も押し黙ってしまった。
﹁⋮⋮だから、言っただろう。相良の中で一番怒らせたら恐ろしい
のは、瑞姫だって﹂
﹁疾風?﹂
颯希に耳打ちする疾風の言葉が引っ掛かり、名前を呼ぶ。
﹁うわっ!! はい!?﹂
﹁誰が、何だって?﹂
﹁何でもないっ! 何でもないって!!﹂
びくっと引き攣った疾風が慌てて誤魔化そうとする。
﹁まあ、いい。諏訪が動いたのなら、近々大神も動くはずだ。動向
に気を付けてくれ﹂
﹁大神⋮⋮わかった﹂
表情を改めて、疾風が頷く。
﹁颯希﹂
251
﹁はい!﹂
元気よく返事をする颯希の頭を思わず撫でる。
﹁瑞姫様!﹂
﹁ああ、ごめん。随身の件、岡部から打診があれば、受けようと思
う。ただし、疾風を外さないという条件でだ。それでいいか?﹂
﹁はい! 僕、精一杯、瑞姫様にお仕えしますから﹂
嬉しそうに頷く颯希の後ろで、疾風は複雑そうな表情だ。
それも仕方ないだろう。
疾風ひとりでは私の警護が間に合わないと判断されたのだから。
私としても不本意な状況になっているのだから、ここは疾風にも
妥協してもらわないと困る。
祖父も父もおそらくは私の外出時に警護の者をわからないように
つけるつもりなのだろうことが推察される。
彼らと密に連絡を取り、指揮を執るのが疾風の役目になる。
その間、私の近くに誰もいないということが、相手の狙い目にな
っては困るのだ。
﹁頼むぞ、疾風﹂
﹁承知した﹂
仕方ないと頷いた疾風に笑い返し、間もなく始まる2学期に思い
を馳せた。
試験、絶対にこの怒りをぶつけて1位を取ってやる。
***************
2学期が始まり、登校すると、教室内は騒然としていた。
﹁おはようございます、何事でしょうか?﹂
252
笑顔を作って問いかければ、教室内が静まり返る。
﹁どうしました?﹂
もう一度、ゆっくりと問い直せば、近くにいたひとりがおずおず
と話し出す。
﹁相良様のご婚約が決まったと噂が流れて⋮⋮﹂
﹁兄がひとり結婚しておりますが、それ以外はまだそのような話は
決まっておりませんが?﹂
首を傾げて疾風を見やれば、疾風も無言のまま頷いて見せる。
﹁そ、そうですか﹂
﹁ええ。ああ、兄のひとりが、近々婚約者となる女性を口説き落と
して連れてくるとは言っておりましたが⋮⋮どんな方なのか、今か
ら楽しみで﹂
くすくすと笑って言葉を重ねれば、何処か唖然としたような表情
で皆がこちらを見つめている。
﹁や、八雲様がですか?﹂
﹁いえ。長兄です。ひと回りほど年が離れておりますので、皆様に
は馴染ないと思いますが﹂
上品な笑顔を心掛けて言えば、ほっとしたような空気が漂う。
﹁ああ、もしかしたらその兄のことが噂になっていたのでしょうか
?﹂
﹁ええ! そうですね。きっとそうなのでしょう﹂
誘導するように仕向ければ、穏やかな空気が戻る。
これで諏訪本人が何かを言い出すまでは、押し通せるだろう。
自分の席まで移動し、鞄を机の上に置いたときだった。
﹁瑞姫っ!! 瑞姫ちゃーん!!﹂
バタバタと廊下を走る足音が響き渡り、教室に飛び込んできた少
年が私に抱き着く。
﹁もう大好き! 愛してるよっ!!﹂
﹁うわっ!! いたっ!!﹂
ぎゅうぎゅうと力一杯抱きしめられ、ぐりぐりと頬擦りされる。
253
﹁在原っ!! 離れろ! 瑞姫を放せ! 痛がってるから!!﹂
私が漏らした﹃痛い﹄という言葉に反応した疾風が、顔色を変え
て在原を引き離す。
﹁岡部、乱暴! 瑞姫への親愛表現を邪魔しないでほしいんだけど﹂
﹁瑞姫を抱き潰すのが親愛なら、俺がお前を蹴り潰してやるが?﹂
﹁え? 僕、潰してた?﹂
﹁潰しかけてた!﹂
﹁⋮⋮そこ、よそのクラスで漫才するのやめなさい﹂
疲れ果て、げっそりした表情で注意すれば、ふたりとも私を振り
返る。
﹁ごめん、瑞姫! 大丈夫だった?﹂
﹁⋮⋮本当に潰されるかと思ったよ﹂
﹁ごめん。本当に嬉しくて、想いが溢れかえっちゃった﹂
へらっと笑う在原に少々殺意が芽生えそうになる。
似たような身長とはいえ、相手は男子だ、力はある。
手加減なしで抱き着かれればさすがに苦しい。
﹁その様子だと、上手く収まったようだな﹂
﹁うん。瑞姫のおかげだよ。そう言ってた、向こうも﹂
﹁そうか。よかったな﹂
﹁うん﹂
本当に嬉しそうな笑顔で何度も頷く在原。
相手が悪い方ではなかったため、傷付けずに双方上手く収める方
法を探して悩んでいたから、本当によかったと思う。
﹁瑞姫のおかげだよ、本当に﹂
﹁いや。それは違う。少々姉が力技で押し切ってしまってな。申し
訳ないことをしたと思っていたんだ﹂
﹁そうなの? そんなこと、全然⋮⋮ああ。そうか﹂
首を横に振っていた在原が、ふと何かに気付いたように頷いた。
﹁確かに無茶振りと言えるかも。力関係考えると﹂
﹁そうなんだ。まあ、あの方の性格の一面以外は、非常に優秀な方
254
だから、受け入れる側としては宝を手に入れるようなものだと思う
んだけど﹂
年が離れすぎていなければ、在原も割り切って受け入れていたか
もしれない方だったのだ。
﹁そうだね。幸せになっていただきたいとは思ってるよ﹂
にこやかに笑って、在原がその話を締めくくる。
次にこの話をするときは、きっと公の場での祝福の時だろう。
そろそろ教室に戻るようにと促そうとした時だった。
扉がガタリと鳴る。
その異様な音に、教室内にいた者たちが一斉に扉を振り向く。
﹁⋮⋮あ⋮⋮﹂
そこには驚いたような表情の諏訪が立っていた。
諏訪の姿を認めた者たちの表情が一変する。
音の原因がわかってほっとしたような表情を浮かべ、再び自分た
ちの話に戻る者。
憧れの諏訪様の姿にうっとりと見惚れる者。
そうして、夏休みの間に起ったことを知っている者の表情は厳し
いものだった。
﹁静稀、疾風、そろそろ教室に戻れ﹂
﹁⋮⋮でも⋮⋮﹂
﹁新学期早々H.R.に遅刻か?﹂
冗談めかして言えば、仕方なさそうに肩をすくめ、その場を離れ
る。
諏訪とすれ違う際、疾風はしっかりと諏訪を睨んでいた。
大人げないぞ、疾風。
苦笑を浮かべた私は、そのまま諏訪の存在を無視して自分の席に
座る。
諏訪の表情など見なくてもわかっていた。
255
31 ︵諏訪伊織視点−前編︶︵前書き︶
諏訪伊織視点
回顧録ともいう
256
31 ︵諏訪伊織視点−前編︶
生まれたときから、俺は特別な存在だった。
諏訪家の次期当主、諏訪伊織。
それが、俺に与えられた名前だ。
諏訪家の次期当主として、誰よりも優れていなければならない。
そう訓えられ、そのように育てられてきた。
実際、同じ年頃の子供よりも俺は優秀だった。
狭い、とても狭い箱庭のような世界。
その中で俺は自分が世界の中心だと思っていた。
両親はとても忙しく、顔を見ない日の方が多かった。
その代り、父の妹である叔母と、その娘の詩織がいつもそばにい
た。
叔母は、幼い頃に分家の養女となり、分家の跡を継いだのだそう
だ。
詩織も分家の跡を継ぐという話を聞いた。
俺の知っている人間の中で、一番きれいで優しくて、とても暖か
い存在が詩織だった。
常に傍にいてくれる詩織が俺の世界のすべてだったと言ってもい
い。
少しずつ大きくなるにつれて、母親や叔母が俺と詩織をいろんな
場所へと連れて行った。
今思えば、それはお茶会の類だったのだろう。
257
その中でも俺は母と同年代ぐらいの女性たちに、賢いとか優秀と
かと言われてもてはやされた。
当然だ、俺は諏訪家の人間なのだ。
優秀で当たり前なのだ。
他の子供と一緒にするな。
そう思っていた。
だが、彼女たちの話をよく聞けば、俺を褒めた後で必ずこう言う。
﹃相良のお姫様は、とても聡明で、とても幼い子供のようには思
えないわ。きっと、八雲様やあのお姫様のような子を神童と言うの
でしょうね﹄と。
相良の姫と言う存在が、自分よりも優れていると聞かされて、俺
は正直憤った。
俺ほど優れた人間はいないというのに、俺よりもさらに優れてい
る人間がいるわけがないと。
その思いは、幼稚舎に上がった時に打ち砕かれた。
東雲学園の幼稚舎に通うようになってしばらく経った。
同じクラスに相良の姫と言う存在はいなかった。
やはり、自分より優れた人間はいないのだと思い直した頃、彼女
に出会った。
幼稚舎の周囲には季節ごとに収穫できる果物の木が植えられてい
る。
四季を通しての恵みを知ることで情緒豊かな子供に育つようにと
いう教育の一環だった。
だが、悪戯盛りの子供にとって、木やそれに生る果物は格好の遊
び道具だ。
まだ青い実しか生っていないリンゴの木を見上げ、俺は考えてい
た。
258
この木に登って、あの実を取れば、俺が優秀な人間だということ
の証明になるのではないかと。
そうしてリンゴの木に手を掛けたときだった。
﹁やめなさい、怪我をするよ﹂
やや高めの柔らかい声が俺を止めた。
振り返れば、髪の長い女の子が立っていた。
年は俺と同じくらいか少し下か。
まっすぐな黒髪で、目も大きくて黒く、そうして肌がとても白か
った。
俺が知っている中で一番きれいな人間は詩織だった。
そこに立っている少女は、その詩織よりもさらに綺麗だった。
﹁その木の表面は滑りやすい。青い実を食べれば、お腹を壊す。い
いことは何もない、やめた方がいい﹂
非難めいた言葉に、俺はむっとする。
詩織よりもきれいな人間が、何故俺を否定するのかと、怒りすら
感じた。
﹁俺にできないことはない!﹂
そう言ってやれば、そいつは醒めた目で俺を眺めた後、ふいっと
横を向き、その場を離れた。
﹁おい、待て!﹂
﹁忠告はした。それを聞かない莫迦は知らない﹂
莫迦と言われたのは、生まれて初めてのことだった。
何故、俺を認めない!?
絶対に認めさせてやると、半ば意地になって木登りをし、見事、
木の枝を折って、落ちた。
先生たちには怒られ、家に帰っても両親からも怒られた。
何故、俺が怒られなければならない。
俺は優秀で特別な存在なのに。
俺が木に登る前に俺を止めたやつが褒められ、それを無視して登
った俺は散々怒られた。
259
意気地なしのあいつが褒められて、勇気ある俺が怒られるなんて
おかしい話だ。
そう訴えたら、さらに怒られた。
詩織にも危ない真似はやめてと窘められ、ようやくそこで俺は反
省した。
詩織が心配するから、やつが俺を止めたのだと理解したからだ。
なかなか使えるやつじゃないか。
よし、俺の家来にしてやろうと、次に会った時に言ったら、﹃莫
迦は知らない﹄と冷めた目で言われて、それ以降、無視された。
詩織よりもきれいな顔をしているくせに、俺が何を言っても知ら
ん顔だ。
許せるわけがないと思った相手が、相良の姫だと知ったのは、そ
れからかなり経った後だった。
初等部に上がった後も、相良は俺の存在を無視をしないまでもそ
こら辺の軽いものとして扱った。
そうして、すべてにおいて優れていると言われる俺よりも、さら
にその上を行く優秀さを周囲に示しながらも淡々としていた。
相良はいつもひとりでいるか、岡部を連れているかのどちらかだ
った。
放っておいて欲しいと思っても誰彼群がってくる俺とは違い、あ
いつの周りには誰も近寄らない。
嫌われているわけではなく、近付きたいと思っていても、近寄ら
せない何かがあいつを取り巻いていた。
傍に置くのは岡部だけ。
屈託のない笑顔も、軽やかな笑い声も、すべて岡部にだけ、なの
だ。
他の奴らには微笑む程度。
260
俺に至っては無表情。微笑みすら見せない。
声を掛ければ答えるが、他の奴らとは違い嬉しそうではなく、鬱
陶しそうに義理程度に答えるだけ。
嫌われているわけでも好かれているわけでもない。
あれは一体、どういう態度なんだろうか。
だが何故か、詩織はあいつを気に掛ける。
相良の姫と呼ばれるあいつと、その兄の八雲の2人を。
詩織は俺だけを気にかけていればいい、そう言えば、詩織は笑っ
て頷く。
勿論、俺は特別なのだから、と。
やっぱり俺は特別なんだ。
だから皆、俺のことを気に掛ける。
なのになぜ相良は俺のことを全く気にしないんだろうか。
その疑問を抱えたまま、初等部を卒業し、中等部へと上がった。
その頃になると、俺は大神紅蓮とつるむようになった。
紅蓮の父と俺の父は親友同士で、よく出かけた場所で会うように
なったからかもしれない。
紅蓮は愛想良く微笑んでいるが、なかなかの毒舌で、頭もいい。
打てば響くように言葉を返してくるので、話すのが楽しい。
その紅蓮も相良のことが気になるようだった。
自分からは声を掛けず、ただじっと見ているだけだ。
見ているというより、観察しているようにも見える。
そんなに気になるのなら話しかければいいと言ってみれば、今は
データ集めの最中だからと、微妙にはっきりしない答えが返ってき
た。
中等部1年の2学期が始まって1ヶ月が経った頃、俺はいつもの
ように放課後、高等部へ詩織を迎えに行った。
年が離れているため、高等部にいる詩織が少々恨めしい。
詩織は俺だけを見ていればいいのに、高等部にいる間のことは俺
261
には全く分からないからだ。
ならば、授業が終われば、その後の時間は全部俺に使うべきだろ
うと迎えに行ったら、詩織は困ったように笑っただけだった。
今日は高等部で行われる10月のイベントのハロウィンについて
聞いてみようと思いながらいつもの場所へ行けば、詩織が見知らぬ
男4人に絡まれていた。
詩織は分家とはいえ、諏訪の人間だ。
誘拐なんかの危険もあるとふと気づき、俺は持っていた荷物を捨
てて詩織の方へ走って行った。
詩織を助けないといけない。
それだけしか、考えていなかった。
詩織を連れて行かせない、絶対に離れるものかと暴れていた時、
ふいに詩織の声が聞こえた。
それは、相良を呼ぶ声だった。
相良に逃げろと告げる声。
あいつが近くにいるのか!?
詩織の呼びかけの不自然さに、俺は全く気付かなかった。
振り返ってあいつの姿を見つければ、相良はものすごく不機嫌そ
うな表情でこちらを睨んでいた。
そして、手にはスマホ。
学園の警備部と警察へ連絡したと告げるその手際の良さに、俺は
驚く。
こんな時にまで、あいつは優秀だった。
そこからの事は、今でも夢に見る。
俺が必死に抵抗しても、どうにもならなかった男の1人を投げ飛
ばし、逃げながらも追い駆けるもう1人をどうにかしようと冷静に
相手の動きを見ていた。
その場面を身動きもできずにただ見ていた。
車が動き出し、仲間もろとも相良を轢き殺す様を。
小さな身体が宙を舞い、地面に叩き付けられ赤く染まっていくそ
262
の様子を。
俺は、ただ見ていただけだった。
こちらに駆けつけてくる警備員たちの姿に、俺は、相良に助けら
れたのだと、実感した。
救急車が到着し、相良と同じ病院に担ぎ込まれ、治療を受けた後、
母がいることに気が付き、迎えに来てくれたのだと思って近づけば、
思い切り頬を叩かれた。
﹁瑞姫様がもし亡くなられたら、おまえも責任とって一緒に死にな
さい!! 詩織もよ! 自分がやったことがわかっているの!?﹂
てっきり褒めてくれると思っていたのに、何故叱られるのかと母
を見上げれば、これ以上ないほどに激怒した母の姿があった。
﹁詩織、私は絶対におまえを許しませんからね。瑞姫様を殺そうと
したおまえを絶対に許さない。おまえがやったことは、諏訪を潰す
ことよ。本家はおまえを庇わない﹂
﹁詩織は、相良を逃がそうと!﹂
﹁黙りなさいっ!! 本当に逃がすつもりなら、黙っていればよか
ったの! 声を掛けた時点で殺意があったとみなされるわ。万が一
の時に、おまえたちの命だけで事が済めば安いものね﹂
その言葉に、本気で母は俺たちを殺すつもりなのだと悟った。
相良が死ねば、俺たちの命で謝罪するつもりなのだと。
それほどまでに恐ろしい相手なのだろうか、相良家とは。
大企業、財閥などと呼ばれる諏訪が潰されると本気で思っている
のだろうか、母は。
﹁もういいわ。帰りなさい。だけど、さっき言ったことは、本気で
すからね。瑞姫様のご無事を祈っていなさい﹂
低い声だった。
263
母は背を向け、こちらの言葉を聞くつもりはないようだった。
詩織は俺の手を取り、諏訪の分家へと連れて行った。
分家の家には、誰もいなかった。
叔父も、叔母も。
いつからだろう、ここがこんなに静かになったのは。
そして、その日から、詩織は本家へ踏み入れることは許されなく
なった。
相良の意識が戻ったと知らせが入ったのは、それから何日も経っ
た後だった。
264
32 ︵諏訪伊織視点−後編︶︵前書き︶
諏訪伊織視点
坊ちゃん大いに悩むの巻
265
32 ︵諏訪伊織視点−後編︶
相良の意識が戻ったと知らされ、すぐに病院に駆けつけた。
だが、親族以外は面会謝絶だった。
特に俺は、事件の記憶が呼びさまされ、取り乱す恐れがあるかも
しれないとかで、容体が安定し、精神的に落ち着いていると確認さ
れてからだと病室の入り口で止められた。
謝罪をしなければ、母に本当に殺されるかもしれないという恐怖
感から病院に向かった俺としては、いささか拍子抜けだった。
問題はそこから後だった。
容体が安定し、回復に向かい、ベッドから起き上がれるようにな
ったと聞かされながらも、俺は相良と会うことは許されなかった。
何度も病院に行き、相良に会わせろと言っても、誰も頷かない。
挙句の果てには口先だけの謝罪など、意味のないことに相良の時
間を取らせるつもりはないとまで言われた。
何故、謝罪させないのだと問えば、何について謝るつもりだ、謝
ってどうするつもりだ、何のために謝るつもりだと問い返される。
謝ればそれで済むと思っていた俺は、その問いに答えることは何
一つできなかった。
辛うじて最初の問いに、﹃事件に巻き込んでしまったことについ
て謝るつもりだ﹄とその次に会いに行った時に答えたら、深々と溜
息を吐かれてしまった。
皆が皆、俺は何もわかっていないと言う。
中等部でも、事件の事は知れ渡っており、俺が無事でよかったと
言ってくれる者もいれば、あからさまな非難の眼差しを送ってくる
者もいた。
あの事件の前後、数日間に渡って学校を休んでいた岡部が登校し
てきたとき、俺はやつから何か言われると思っていた。
266
俺だけではなく、他の奴らもそう思っていたらしい。
だが、岡部は俺に何も言わなかった。
いや。俺を存在しないものとして扱った。
すれ違っても俺の姿を映さない。
あの気性の荒さから、最低でも睨まれるとか、掴みかかって殴ら
れるとかされても仕方がないと思っていた。
何をされても甘んじて受け入れるべきだろうという頭は働いてい
た。
しかしながら完璧な無視と言うのは想定外の事だった。
リハビリをし始めたという噂を聞きつけ、それならばと病院に行
ったが、やはり面会許可は下りなかった。
何故わざわざ足を運んできてやっているのに、俺に会おうとしな
いんだ。
謝りにきてやっているのに、無礼だろう。
そう思っていたのは事実だ。
だが、母はそれを許してはくれなかった。
両親が全面的に相良の治療をバックアップすると申し出、医師の
手配や最新設備の投入などで本家へ向かう相良家の怒りを何とか収
めることができたと後から聞いた。
相良一族の結束は固く、大事な末姫の危機に怒り狂い、一時は諏
訪との取引を取りやめるという噂が飛び交い、それを本気にした他
の関連企業が一斉に諏訪から手を引き、諏訪の屋台骨が揺らぎ、煽
りを食らった端の会社が倒産したと聞かされ、ぞっとした。
その間、相良は今まで通りの取引をやっていたにもかかわらず、
ただの噂だけで諏訪へダメージを与えたのだ。
本気で撤退すれば、母が恐れていた通りに諏訪は立ち直れないほ
どの大打撃を受けることになる。
しかも、あいつに怪我を負わせた責任の一端がある俺は、諏訪の
次期当主だ。
267
俺が当主になった時に、このままであればもっとひどいことにな
るだろう。
それだけのことは、俺にも解った。
とにかく言葉だけでも謝らなければと、通いつめ、毎回、追い返
される始末。
どうすればいいのか、俺にも解らなくなってきた。
そんなある日、学校の帰りに病院に行った俺の前に立ったのは、
父だった。
あの事件以来、父とはほとんど顔を合わせてはいなかった。
﹁伊織、瑞姫さんに会わせてやろう。ただし、おまえは彼女に声を
掛けることはできない。ただ遠くから見るだけだ。いいな?﹂
それがどういう意味なのかはわからなかった。
とにかく、相良に会えるらしい。
ならば会うべきだと単純に考え、頷いた。
そして、俺は、そのことを後悔する。
総合病院の1階の一番奥。
そこにリハビリルームがある。
患者が人目を気にせず、自分のペースでリハビリできるようにと、
移動しやすい1階でありながら、奥まったところに作られている。
リハビリのみの外来なら、直接受け付けを通さずにこの部屋に来
れるシステムもあるらしい。
そういう説明を聞きながら、案内をする男の後ろを父と歩く。
﹁リハビリルームには関係者以外は立ち入り禁止です。ですので、
その隣にあるチェックルームからご覧いただくことになりますが、
決して大きな声を立てたり物音を立てたりしないでください。リハ
ビリの患者さんたちはとても神経質になっていらっしゃいますので、
ストレスを与えないようにお願いいたします﹂
268
それは、お願いという言葉を使った命令だった。
諏訪の人間に命令するとは何様のつもりかと思ったが、父が了承
する意思を伝えたので、何も言えなくなる。
リハビリルームを素通りし、その奥にある目立たないドアを開け、
そこへ案内される。
そこはある一面のみが硝子張りで、それ以外はすべてコンクリー
ト壁で囲まれた薄暗い部屋だった。
俺達が隣の部屋に入ってきたというのに、リハビリルームにいる
者は誰ひとり気付いた様子がない。
﹁もしかして、マジックミラーですか?﹂
父が声を抑えて問いかける。
﹁はい、そうです。ここから患者さん、おひとりおひとりの動きを
チェックしています。プライバシーにかかわりますので、ここで見
たことは口外しないお約束は必ずお守りください﹂
﹁もちろんです﹂
男の言葉に父が即答する。
﹁それで、相良は?﹂
ざっと部屋の中を眺めても、相良瑞姫らしき人物は見当たらない。
子供は2人いるが、どちらも男のようだ。
ひとりは車いすに座っている。
﹁瑞姫ちゃんなら、そこにいますよ﹂
男が示した先にいたのは、車いすに座っていた相良と似ても似つ
かない少年だった。
似ているのは、さらさらな髪質くらいで、あの長い髪でもなけれ
ばふっくらとした頬を持っているわけでもない。
栄養失調なのかと思うくらいに痩せこけた少年だ。
﹁嘘だ、あれは相良じゃない﹂
﹁いいえ。あれが、今の相良瑞姫ちゃんですよ﹂
否定する俺の言葉に、その男は何でもない事のように重ねて告げ
る。
269
﹁一週間以上も生死の境を彷徨い、生還した後も数日間は夢現の状
態で眠っている時間が長いのです。その間、食事はとれませんから、
栄養を点滴のみに頼れば、当然、痩せてしまいます。起き上がれる
ようになって、きちんとした食事ができるようになっても、傷を回
復させようと身体が栄養を欲しますから、食べた分は身にならず、
すべて傷の回復に当てられます。たくさん食べられればいいのです
が、長い間、口から栄養を摂取しないと、胃の動きが活動的ではな
くなり、食べるという行為そのものが苦痛になってしまう場合もあ
ります。そのため、少量ずつから体を慣らしていかないといけませ
ん﹂
この部屋の責任者なのか、それとも他の資格を持つ医師なのか。
男は相良の食事量の少なさを説明しだす。
﹁身体を動かすことによって、食事量の増加と、エネルギーの配分
を変える必要があるのです。寝たきりで衰えた筋肉を鍛えることで、
粉砕した骨への負担を減らすようにしていきます﹂
父への説明は淀みなく、何度も説明してきたかのような口ぶりに、
相良の家族にも同じ説明をしていたのだとわかる。
だが、俺の視線は相良から動かなくなった。
ゆっくりと車いすから立ち上がる。
もう1人の少年が、それを支えている。
岡部だ。
あいつ、こんなところまで一緒にいるんだ。
俺には会おうとはしないくせに、岡部だけは傍に置く。
そのことが無性に腹立たしい。
睨みつけるように相良と岡部を見ていたら、胸の高さくらいの手
摺のところへと2人は移動する。
ほんの数歩、相良の腕を支えた岡部は、手摺に相良の腕を乗せる。
何かを話した後、岡部は相良から離れて、その手摺の反対側の位
置に立つ。
270
俺のすぐそばで背中だけが見える。
相良の足元にはマットが敷かれている。
﹁あれは?﹂
俺は、あの2人が何をするつもりなのか聞いた。
﹁歩行訓練です。右の大腿骨の粉砕骨折という重傷なので、本来な
らばもう少し時間をかけたいところですが、時間をかけてはかえっ
て他への影響が大きいことから、歩行訓練を先日より始めています﹂
﹁ただ、歩くだけ?﹂
﹁そう。歩くだけ、です﹂
﹁それが訓練?﹂
歩くのがなぜ訓練になるのか、俺にはわからなかった。
歩くことくらい、わざわざ訓練しなくても普通にできるじゃない
か。
その思いが表情に表れていたのだろう、男が苦笑する。
﹁君は骨折したことがないようですね﹂
﹁ない﹂
﹁それは幸せだ。瑞姫ちゃんは、身体を支えるべき足の一番大きな
骨を砕いてしまったんです。人が二足歩行するために必要な骨が砕
け、筋肉も衰えたら、当然、立つことができません。瑞姫ちゃんは、
立つことすらできなかったんですよ﹂
﹁まさかっ!!﹂
即座にその言葉を否定する。
だが、俺の言葉は父によって打ち消される。
﹁そのまさかだ。おまえたちがしでかした結果が、これだ。よく見
ておきなさい﹂
﹁⋮⋮相良をあんな目に合わせたのは、俺じゃない。詩織をさらお
うとした犯人だ!﹂
﹁助けてくれた恩人を巻き込んだのはおまえたちだ。相良家の人々
がおまえを瑞姫さんに合わせようとしない理由をよく見ておきなさ
271
い﹂
有無を言わさず肩を掴まれ、前に押し出される。
相良が手すりに掴まりながらぎこちなく足を踏み出す。
ゆっくりとした動作だ。
颯爽と勢いよく歩いていた相良とは思えない動き。
そして、それも長くは続かない。
右足を出して、体重をかけようとした瞬間、相良の身体が崩れ落
ちる。
﹁あっ!!﹂
俺は、思わず声を上げる。
床に倒れた相良は、左手だけで上体を支えて身体を起こす。
岡部は、立った位置から動かない。
手摺を支える支柱に掴まり、相良は左手だけで立ち上がる。
それだけでかなりの時間を要していた。
肩で息をしている。
呼吸を整え、顔を上げた相良の表情は、気迫に満ちていた。
汗をかきながらも気に留めた様子もなく、歩き出しては倒れ、自
力で起き上がり、また歩く。
何度倒れても、岡部は助けようとはせず、同じ場所から動かない。
﹁なんで、手を貸さない、岡部!?﹂
リハビリルームには、他の患者もいる。
比較的軽症そうな人だっている。
誰もが相良が倒れても知らない顔をしている。
﹁訓練だから、ですよ﹂
穏やかな声が告げる。
﹁正直、このリハビリプログラムを瑞姫ちゃんができるとはスタッ
フの誰も、思っていませんでした。きっと、辛くて投げ出すだろう
と、想像していました。立てない、歩けない、思った通りに動かな
272
い。それがどれほど苦しいことか、なってみないとわかりません。
ましてや、瑞姫ちゃんは所謂お嬢様です。耐えられないだろうと、
思っていました。ところが、我々の想像を裏切って、一言も愚痴を
こぼさず、泣きもせず、ああやって何度でも立ち上がって訓練をこ
なしています。疾風君にしてもそうです。最初の一度だけ、瑞姫ち
ゃんを助け起こそうとしました。ですが瑞姫ちゃんが、手を貸すな、
見ていろと断ってから、ずっとあの位置で瑞姫ちゃんが歩いてくる
のを待っているんです。大した自制心ですよ、2人とも﹂
そこまで言って、男は父を振り返る。
﹁中学1年生とはいっても、まだ12歳の子供です。だがあの2人
は大人でも耐えれそうにないことをやると決めて、乗り越えようと
しています。友達を救って、大怪我をし、生死の境を彷徨い助かっ
た少女は、今、懸命にリハビリをしている。これを美談だと言って
取材に来た人がいました。あなたは、これを美談だと思いますか、
諏訪さん? 私にはとても美談には思えません。そんな生易しいも
のではないんです。運び込まれた血塗れの少女を見たとき、私は、
恥ずかしいことにこの子は助からないと思いました。もちろん、私
の持てるすべてで処置にあたりましたが、本当に運に任せるしかな
いという思いだったんです。ですが、瑞姫ちゃんは自分の意思で生
きることを選んだんです。そうして今も生きるために戦っているん
です。いい暮らしをしているお嬢様と呼ばれる子が、ですよ? 泥
臭く、懸命に足掻いて前に進もうとしている姿を、人々の娯楽のた
めに見せることができますか?﹂
﹁⋮⋮その記者の件は、諏訪が責任もって処分する﹂
﹁そう、願います﹂
ネームプレートに﹃桧垣﹄と書かれている男は、まっすぐに父を
見つめている。
記者の件で諏訪を脅すとはいい度胸をしているな、この男。
後で知ったが、この記者は相良をネタに記事を書こうとして病院
をかぎまわり、相良の不興を買って会社を潰された後、諏訪の分家
273
に転がり込んだらしい。
この男はそれを知って、父にその男の処理をするように迫ったよ
うだ。
何度も転んで、その都度起き上がっては歩いていた相良が、とう
とう端まで辿り着く。
得意そうな満面の笑みで岡部を見た瞬間、バランスを崩す。
今度は岡部が動いた。
差し出された腕が掬い上げるように相良を支える。
しっかりと抱きとめて顔を見合わせた瞬間、2人は声を上げて笑
い出した。
楽しそうに、おかしそうに。
俺の前では絶対に見せない表情。
笑いながらも岡部は手にしていたタオルで相良の汗を拭いてやる。
担当医なのだろうか、車いすを運んできた白衣の男がそれに相良
を座らせる。
そうして、彼女の前に膝をついて、何かを話しかけると、相良が
嬉しそうに笑い、岡部を見上げる。
左手で小さなガッツポーズを取った後、手を上げ、ハイタッチを
する。
そのあとは、担当医ともハイタッチをした。
相良の表情は明るい。
さっきの気迫に満ちた表情が嘘だったかのようだ。
笑顔のまま、3人はリハビリルームから出て行った。
チェックルームに残された俺は、言葉が出なかった。
とても遠い。
そうしてわかったことがある。
274
俺は、相良に謝れない。
何を謝ったって、言葉を尽くしたって、それは俺の自己満足にし
かならない。
言葉で謝ることが求められている謝罪ではないのだということに
気が付いた。
ならば、俺は、絶対に相良に謝らない。
俺は相良に認められる人間になって、助けてよかったと思われる
まで、謝る権利を持たないんだ。
そのことを理解させるために、父はここへ連れて来たんだ。
唇を噛みしめた俺は、病院を飛び出した。
***************
半年後、相良がようやく病院を退院した。
相良に認めてもらえるよう、俺は生徒会長に立候補し、そうして
副会長に紅蓮を、書記に相良を指名した。
生徒会役員は、副と書記のみ会長指名で、他は選挙となる。
断られるのを覚悟で、傍で俺を見てもらうために賭けのつもりで
指名した書記を、相良は引き受けてくれた。
俺を認めてくれたのだろうか。
そう思ったのも束の間、長期入院のための欠席を生徒会活動で補
填するよう先生に勧められたからだと紅蓮が教えてくれた。
生徒会での活動中、相良の指摘は常に俺の盲点をついていた。
ただ指摘するだけでなく、そこはどのようにすべきなのか、すべ
てに渡って相良の指示は適切だった。
俺の代の生徒会は過去に類を見ないほど支持率を誇り、実行力を
275
誇っていた。
それはすべて生徒会長の俺の成果のように言われたが、そのほと
んどが相良のフォローによって生まれた実績だった。
どうあがいても、相良にはかなわない。
何をやっても、認めてはもらえない。
それなのに、他の奴らは俺を褒め称える。
俺はどうすればいいのだろう。
中等部を卒業した春休み。
俺は、詩織に振られた。
告白すらしていないのに、﹃伊織は弟のような存在だから、私の
事は忘れて﹄と言われてしまったのだ。
何故そんなことを言われるのか、わからなかった。
何故好きでいてはいけないのか。
傍にいてほしいと思ってはいけないのか。
何故。
感情の収拾がつかないまま、高等部の新学期が始まり、俺は再び
驚く。
岡部しか傍に置かなかった相良が、在原と橘を傍に置くようにな
ったからだ。
何故、俺ではないのか。
どうして誰も俺を選んではくれないのか。
本当に努力をすれば、相良は認めてくれるのか。
相良の指摘はいつも正確で、身につまされるものばかりだ。
276
俺はどうすればいいのだろう。
答えは、見つからない⋮⋮。
277
33
何事にも全力で。
座右の銘はこれにしようか。
実力テストの最中に、ふと思いつく。
うん。懐かしい話、昔の私がそうだったんだよね。
そこそこ器用そうに見えてかなり不器用で、失敗ばかりしてたけ
ど手を抜くということができなかった。
今は?
ハイスペックな瑞姫のおかげで、手を抜くということもありだと
いうことは覚えました。
そうそう、全力といえば、もぐらたたきならぬG叩き!
悲鳴あげながら新聞紙とかハエ叩きとかでバシバシやってたなぁ
⋮⋮。
スリッパはやったことないですよ、もちろん。
後でそれを履かなきゃいけないってことをしっかり理解してたら、
絶対、スリッパでは叩けない。
ここじゃGという存在を見たことがない。
その名称も聞いたことがないので、存在するのか知らない。
まあ、あえて聞いて確かめたい存在ではないので、さっくり無視
しちゃってますけど。
解答欄をすべて埋め尽くして、溜息を1つ漏らす。
いくら、外見の瑞姫がハイスペックでも、中身は私なのだ。
問題が多すぎれば処理ができないし、難しい問題であれば逃げ出
したくなる。
ピタゴラスの定理のように、はっきりした理論が展開されている
278
ならば、公式にあてはめて問題を解けるのに。
私に降りかかる問題は、数学のように答えが簡単には導き出せな
いモノばかりだ。
テストを受けながら、しきりにこちらを気にしている諏訪とか。
昔から何考えているのかわからないタイミングで話しかけてくる
大神とか。
いや、大神の目的は、大体わかっている。
私に関するデータを集めているのだろう。
接触してくるのは、私の反応を見るためだ。
問題を提議し、どう処理をするのかを知るためだ。
それが解析のためのプログラムになる。
大神は、自分で描いたシナリオ通りに人を動かすことを得意とし
ている。
登場人物の性格などを細かく把握し、自分が持っていきたい結果
を導き出すためにはどう動かすか、常に考えているのだ。
親友である諏訪は、大神にとって格好の駒と言える。
目立つ存在であるため、陰に隠れるにはちょうどいい相手なのだ。
諏訪の感情すらもコントロールできると自負しているところがあ
ったが、春休みの詩織様に失恋したときの諏訪の荒れようは、完全
に彼の手綱から放れてしまったようだ。
それゆえ、私に丸投げしてきた。
諏訪を落ち着かせるには、私が適役だと判断したのだろうが、自
分が思っていた方向とは真逆に落ち着かせた私に警戒したようだ。
大神にとって、理詰めに動いているように見えて、実は感覚で動
いている私は一番苦手なタイプなのだ。
だから、常に慎重にこちらの動きを眺めている。
もうしばらくは、大神は泳がせておいても大丈夫だろう。
何か仕掛けてきたとしても、大神が一番嫌がる方法で封じること
は可能だ。
うん。我ながら性格が悪くなったな。
279
当面の大きな問題は、律子様だろう。
これもしばらくの間は御祖父様に任せておいて大丈夫だ。
むしろ、私が動かない方が律子様の動きを見極めるのにいい。
今は、放置が一番だな。
相良が動かないことに気付いて、徐々に怯えるだろうから。
感情で動くタイプって、相手のリアクションがないと、我に返っ
て怯える人が意外と多いんだよなー。
相良の人間は、殆ど自分のカンで動くタイプが多いから、人目を
気にしないというか、リアクション関係なく結果だしちゃうんだよ
ね。
これは、良いように見えて悪い点だ。
在原の件は、とりあえず片が付いた。
梅香様のことについては、あの後、菊花姉上をシめ⋮⋮厳重に抗
議しておいた。
あんな強引な手を使って、梅香様に万が一何かあったらどうして
くれるんだ。
一条の秀明さんが手の早い方でなかったからよかったものの、心
に傷を負わせる可能性だってないとは言えなかったのだ。
千瑛と千景は、相変わらずなのでいいとして。
橘は、どうするか。
本人がまだ何も口にしていないことだし、現状維持でいいことに
しよう。
自分の中での作戦会議を終えたところで、チャイムが鳴る。
解答用紙を後ろから集め、先生が回収し終える。
これで、テストは終わりだ。
筆記用具を片付け、鞄に入れる。
明日から通常授業が始まる。
280
多分、明日はお土産の嵐なんだろうなあ。
ふざけたことに、東雲の高等部はお菓子持込み可なのだ。
もちろん、コンビニ菓子など持ってくる者などいないのだが、高
級パティスリーのショコラとかマカロンとか、まあその手の類が配
られる。
小袋わけなど可愛らしいものではない、おひとり様ボックスで配
られるのだ。
サロンで優雅にティータイムをするときのお茶菓子はたいていそ
の戦利品だ。
私も疾風も、そこまで甘いものは得意ではないため、一応、あり
がたくいただくものの、たまに処分に困ったりする。
甘いもの大好きの在原がいてくれてよかった。
一緒にいただいたという形を作って、在原に全部食べてもらうの
もひとつの手段といえるだろう。
そのサロンに諏訪が居たら、在原が﹃瑞姫ちゃん、大好き!﹄と
叫んでハグしてくるだろうが。
あれは、在原なりの諏訪に対する嫌がらせのようだ。
まるでクマのぬいぐるみのようにぎゅうぎゅうと抱き締めてくる
ので、かなり苦しいが、甘んじねばなるまい。
あの嫌がらせ中の諏訪の表情が崩壊していて、結構楽しいのだ。
ゆっくりと帰り支度をしていたせいで、うっかり諏訪が近づいて
くる気配に気付かなかった。
﹁相良﹂
横に立った諏訪が、申し訳なさそうな表情で立っている。
﹁母が相良に対し、申し開きもできないことを言った。俺から、謝
罪する。すまない﹂
許せとは言わずに頭を下げる諏訪。
﹁⋮⋮何のことでしょうか? 私は夏の間、入院していましたので、
社交界の事は全く知らないのですが﹂
今回は見逃してやると言外に匂わせれば、諏訪は苦しげな表情に
281
なる。
﹁母は、相良を諏訪に貰い受けると言った。さすがにこればかりは
許されないと思う﹂
馬鹿正直に言いやがった、このど阿呆め!
見逃してやると言ってやったのに、自分で退路を断つな。
思わずため息をついた私は悪くないと思う。
律子様も売り言葉に買い言葉だったのではないかと思ったのだが、
違うのか?
いや、これは、布石の1つになるな。
ふと過った考えに、私はそれもありかと頷く。
お仕置き前に、息子の逆襲にあうのもいいかもしれないな。
いい具合に、教室の中にひと気はない。
諏訪が私に声を掛けたときに驚いたのか、それとも気を利かせた
のか、一斉に教室から出て行ってしまったのだ。
君たち、級友の危機を助けようという気はないのか?
ないんだろうなぁ。
﹁諏訪。律子様の言葉の意味をどのように理解しているのか、尋ね
てもいいか?﹂
取りようによっては、この解釈は非常に諏訪伊織という人間に過
酷なものだということを、多分、彼は理解していない。
その証拠に、諏訪は頬を染めて私から視線を逸らした。
こいつの頭の中は、お花畑か! おめでたい奴だな。
﹁その⋮⋮相良を俺の⋮⋮婚約者として⋮⋮﹂
やっぱり。
もう一度、深々と溜息を吐いた私は、絶対に悪くないと思う。
諏訪の根底が善良にできているのは、悪いことではないと思うが、
これでは無理だ。
﹁それも、考えられないことはないが、可能性としては低い方だぞ﹂
﹁え!?﹂
﹁⋮⋮わかっていなかったのか﹂
282
私の言葉に、思わずといったように振り返った諏訪に、私は憐み
の視線を向ける。
﹁文字通りの意味だとは、受け取れなかったのか?﹂
﹁それは、どいういう⋮⋮﹂
﹁君は、現在の諏訪家の数字を見ているだろう? 数年前の数字か
ら、どれだけ下がった? 率直に問おう。悪化した業績が回復する
見込みはあるのか?﹂
おそらく、現在の諏訪家の業績は、低空飛行だ。
辛うじて外枠を保てているといった数値しかないはずだ。
取引先は、常に相良の動向を気にしており、何かあれば前回同様
すぐに手を引く準備は整えている。
現当主の手腕はそれなりに大したものだが、回復させるための起
爆剤には欠けている。
そして、次代に至っては、能力的には問題ないだろうが、思考回
路がお粗末だ。
勘違いしている選民思考が矯正されない限り、ついてくる者など
ほとんどいないだろう。
﹁⋮⋮それは﹂
数字を思い浮かべた諏訪の表情が強張る。
無駄に頭はいいんだ、無駄に。
ちゃんと数字が理解できている。
感情を挟まなければ、経営者に向いていると言えるかもしれない。
﹁数字が下がって行っている原因も、わかっているな?﹂
﹁⋮⋮ああ﹂
﹁それを簡単に回復させる方法がある﹂
﹁あるのか!?﹂
﹁君を廃嫡して、私と養子縁組をし、私を次代当主に据える﹂
そうすれば、相良は全面的に諏訪をバックアップする。
当然、相良を敵にしたくない者たちは追従し、業績は一気に安定
化に向かうだろう。
283
実に簡単な話だ。
相良が許せば、の前提条件が付くが。
まあ、諏訪財閥を飲み込むつもりなら、頷くだろう。
私も、養子縁組をしたからと言って、諏訪の人間になるつもりは
ない。
﹁そんな馬鹿な!?﹂
﹁もうひとつ、あるぞ﹂
﹁何を⋮⋮﹂
﹁分家から養子をとり、その者を次代当主にする。そうしてその次
代の婚約者に私を迎える﹂
その言葉に、完全に諏訪の顔色が変わった。
該当者に心当たりがあるのだろう。
勿論、珂織さまだ。
諏訪の若手の中では確実に人望があり、能力に遜色なしというこ
とで注目されている人物だ。
そうして、諏訪家の中で、唯一私と懇意にしている人物でもある。
﹁まさか!?﹂
﹁その、まさかだ。私と養子縁組をするより、そちらの方が確かだ
な﹂
のんびりとした様子で告げれば、諏訪の表情が引き攣る。
﹁それで、君はそのままにしておいていいと思っているのか?﹂
﹁諏訪の後継ぎは、この俺だ!﹂
﹁そうだな。律子様は、あくまで当主夫人であって、諏訪の権限を
握っているわけではない。当主が次代の指名を覆さない限りは、な
いだろう﹂
だが、万が一ということもある。
私の視線を食い入るように受け止めた諏訪が顔を起こす。
﹁母の暴走の件、改めて謝罪に来る。少し時間をくれ﹂
﹁かまわない﹂
諏訪の言葉に頷けば、諏訪は自分の鞄を乱暴に握りしめ、教室を
284
出ていく。
さて。 律子様?
ご自分の息子からの逆襲を、どう防ぐおつもりかな。
まさか、息子から刺されるとは思うまい。
﹁⋮⋮本当に、性格悪くなったなぁ、私ってば﹂
がりがりと髪をかき乱しながらぼやいた私は、サロンで待ってい
るだろう友人たちにどう言い訳をしようかと考えながら、教室を飛
び出した。
285
34
東雲学園高等部の数少ないイベントがハロウィンだ。
お菓子持込み可なのは、このハロウィンイベントが少なからず影
響している。
もちろん、バレンタインディもある。
ただし、バレンタインは女の子が異性にチョコを贈るのではなく、
男女問わずプレゼント交換日のようになっている。
ちなみに、クリスマスは、敷地内にある礼拝堂で聖歌を歌うだけ
なので、イベントとしては盛り上がらない。
荘厳な雰囲気なので、私は好きだが。
ハロウィンのルールは簡単だ。
お菓子は手作り。
衣装は、校章及び制服の一部着用が義務だが、それ以外は華美に
なりすぎなければよい。
華美になりすぎなければ、というのは、凝りすぎた衣装や宝石の
類を身に着けないということや、剣などの小物は危険かどうかを判
断することという意味だ。
例年、何人かは金に飽かせてとんでもない衣装を作っちゃうのが
出てくるらしい。
ハロウィンは高等部だけなので、私も経験ないため詳しいことは
知らないのだ。
なので、かなり楽しみ。
いたずらは大がかりなものは当然駄目で、本当にちょっとした、
相手を傷つけない程度の可愛らしいものにすること。
これは、随分前に校庭に穴を掘ったやつが出たからこうなったら
しい。
286
校庭に穴って、暇だったのか!? どんだけ暇だったんだ!!
つか、誰も引っかからないだろう、そんな穴。
千瑛に誘われたのは、10月に入ってすぐの事だった。
あの事件から3年が過ぎたことになる。
﹁瑞姫ちゃん! お菓子作ろう!!﹂
単刀直入すぎて、何のお菓子かわからず、きょとんとしてしまっ
た私に罪はないはずだ。
﹁⋮⋮どのお菓子?﹂
﹁ハロウィンの!! 手作りなんだから、練習しないとね!!﹂
﹁⋮⋮張り切ってるね、千瑛﹂
手作りルールには、実は裏がある。
自分で作らなくても、手作りならOKなのだ。
つまり、家族やその家の料理人でも手作りの条件さえ満たせばい
いのである。
そんなのあり!? とか、一瞬思ったけど、男子生徒にお菓子作
れと言うのも酷な話ではある。
そうして、中には破壊の手と呼ばれる味覚が破壊された前衛的な
料理を作る人もいる。
危険な真似は許してはいけない。
お菓子をくださいと言えるのは、それが安全なお菓子を作った人
だとわかっている相手のみだ。
﹁ちなみに、どんなお菓子を作るつもりなのかな、千瑛は?﹂
﹁うんとね、ハバネロ入り生キャラメルとー、グミ入りクッキーに
ウォッカのボンボン﹂
﹁最後マズい! 最後の、めちゃくちゃマズい!! お酒は駄目だ
って! つか、それ、全部食べれるの!?﹂
私が突っ込む前に隣にいた在原が叫ぶ。
287
﹁在原、失礼ね! ちゃんと食べれるじゃない﹂
﹁もしかして、悪戯の方のお菓子だったりするのかな?﹂
憤慨する千瑛に、少々青褪めながら橘が問う。
﹁ううん。普通にとりっくおあとりーとって言われたらあげる方だ
よ﹂
﹁⋮⋮わかった。菅原姉弟には絶対に言わない﹂
最初から私も千瑛にだけは言うつもりなかったけど、正解だった
か。
﹁意気地がないのね、橘は。人を脅して食べ物を強奪しようとする
んだから、それなりのリスクがあって当然じゃないの!﹂
﹁ハロウィンってそういうイベントだったか!?﹂
在原が橘に問いかける。
疾風は我関せずで彼らの会話を聞き流している。
﹁瑞姫ちゃんは何を作るの?﹂
﹁んー? キャラメルのビターとスイート2種類と、キャンディ⋮
⋮ロリポップっていうんだっけ? あの、棒付きの小さなキャンデ
ィって﹂
本当は棒付きのアイスキャンディがロリポップだったと思うんだ
けど、普通のキャンディバーもロリポップって呼ばれてたよね。
間違ってもチェーンソーを振り回している御嬢さんの方ではない。
﹁へえ、そうなんだ?﹂
﹁何個かまとめてリボンで結んだら、花束みたいで可愛いかなぁと
思って﹂
﹁はいはいはーいっ!! 瑞姫! 僕、それ、欲しい﹂
﹁男は却下!﹂
手を挙げた在原に対し、突き放す。
﹁それに、私はお菓子を作ったことがないから、ちゃんとうちのパ
ティシエに協力を要請してるし﹂
﹁ま、妥当よねぇ﹂
うんうんと頷く千瑛。
288
﹁人の話を聞かないで超感覚のみで作る千瑛よりも遥かに上手く作
れると断言してあげるよ﹂
ぽんっと千景の手が私の肩に乗る。
﹁⋮⋮それ、褒めてるのかな? 私、喜んでもいい場面?﹂
褒められている気は全くしない。
﹁全身全霊で褒めてるつもりだけど? 君には人の話をきちんと聞
けるという実に基本的な常識がわりと身についているとね﹂
﹁⋮⋮わりと?﹂
やっぱり褒められてないじゃないか。
﹁⋮⋮瑞姫は頑固だからなぁ。人の話をきちんと聞けても、筋が通
らなかったら梃子でも動かないから﹂
疾風が苦笑して千景の言葉を後押ししている。
﹁お菓子作りは理科の実験と同じで、グラム数をきっちり量ってお
けば、そんなに大きな失敗はしないと聞いてるけど﹂
何故、私の言葉に、皆、微妙な表情になるんだ。
うちのパティシエがそう言ってたんだが。
﹁つまり、設計図をきちんと描いておけば失敗はしないってことね
!﹂
千瑛だけが納得したように大きく頷く。
﹁じゃあ、私もハバネロの量をきちんと量っておくべきね﹂
﹁⋮⋮私、味見は絶対にしないから﹂
これだけは、きちんと言っておかないと。
﹁あら、大丈夫よ。恐喝犯に渡すお菓子に味見なんて必要ないわ!﹂
じゃあ、何で練習しようと言い出したんだろうか。
尋ねようかと思ったが、千瑛の後ろで首を横に振る千景の姿に、
私は沈黙を守ることを決意した。
***************
289
お菓子作りの練習は、うちですることになった。
菅原の双子はもちろん、在原と橘、それに疾風も一緒に作るよう
だ。
疾風は誰かに作ってもらうのかと思ったけど、妙なところで律儀
だからな。
日にちと時間を決め、家に帰ってからその予定を厨房の方に伝え
る。
一応、場所は、厨房とは別に私が暮らしている別棟の中にも小さ
なキッチンがあるので、そちらを使うつもりだ。
道具が色々揃っている厨房は確かに便利だろうが、そこは料理人
たちの場所であって、私が使っていい場所ではない。
前回のお弁当も別棟のキッチンで作ったのだ。
女の子なら料理やお菓子作りに興味を持つかもしれない、だが、
厨房では彼らの邪魔になるから、そこそこ作れる場所をついでに作
っておこうと考えた御祖父様が別棟建設の時に組み込んでくれたの
だ。
大変ありがたいとは思うのだが、普段は全然使わないので、もっ
たいないような気もする。
厨房へ予定を伝えた後、自分の別棟へ戻ろうと廊下を歩いていた
ら、八雲兄と遭遇した。
﹁瑞姫、厨房に何しに行ってたの?﹂
用事もないのに立ち寄る場所ではないため、八雲兄は不思議そう
に私を見下ろす。
﹁ハロウィンのお菓子作りの助力を乞いに坂田さんのところへ行っ
てきた﹂
﹁ああ、もうそんな季節か。あれは、大変なイベントだからね﹂
自分の時のことを思い出したのか、八雲兄の表情がやや引き攣る。
290
﹁そんなに大変なイベントなのですか?﹂
﹁そりゃあね。自分が想定していた以上の人からお菓子を要求され
るんだから、手持ちがすぐになくなって、毎年、どれだけ用意すれ
ばいいのか、本当に悩んだよ﹂
そんなにか!?
思わずドン引きしそうになり、ふと気づく。
この兄が、お菓子を全部奪われるはずがない。
きっとうまく丸め込んで、悪戯回避する技があるはずだ。
﹁兄上、ちょっとご相談が⋮⋮﹂
﹁うん。可愛い妹からの相談なら、いつでもどうぞ﹂
にっこりと爽やかに笑って頷いた八雲兄が身をかがめる。
内緒話で相談を受け付けるということか。
八雲兄の耳許に顔を寄せ、こそこそっと相談事を告げる。
くすぐったそうにその話を聞いていた兄は、楽しげに頷き、その
回答を実演してくれた。
﹁⋮⋮なんと! そういう切り返しがあるとは﹂
﹁瑞姫なら、上手にできそうだね。期待しているよ﹂
﹁いや、しなくていいです。上手くできたらそれはそれで問題だと
思うので﹂
﹁女の子相手なら、いいんじゃないかな?﹂
兄上、そこが大問題だと思うのですよ。
久々に八雲兄から色々な情報を手に入れた私は、ご機嫌状態で別
棟へと戻っていった。
そして、数日後。
予定通りにお菓子作りを皆ですることになった。
291
35
八雲兄の言葉をヒントに、お菓子を量産することにした。
数を多くするために、1個の大きさを小指の爪ほどの大きさのキ
ャラメルとビー玉くらいの大きさのロリポップなんてどうだろうか。
キャラメルはカボチャ型とコウモリ型に入れて、固まったところ
を切っていく方法だ。
これはパティシエの坂田さんのアイディアだ。
最初はサイコロ型の方が初心者には安全だと思っていたけれど、
ハロウィン用の飴型があるからそれを使いましょうと言われ、型を
見せてもらってちょっとひと目惚れした。
飴細工はいろんな方法があるらしく、説明を聞くだけでわくわく
する。
坂田さんは初老のご婦人だ。
ほんわかとした優しい雰囲気を持つが、自分が作るスイーツには
絶対に妥協をしない職人さんだ。
坂田さんが作る飴細工は、本当に繊細で綺麗で魔法のようで、幼
い頃の私はお仕事中の坂田さんを少し離れたところから食い入るよ
うに見ていたらしい。
勿論、今でも坂田さんがお仕事している様子をまじまじと見てし
まうけれど。
料理人さんたちがお仕事しているときは、絶対に傍に近づかない
と幼い頃に約束させられた。
刃物を持っているということもあるし、お湯を扱うということも
ある。
それに、衛生管理という非常に難しい条件維持ということもある。
とにかく、彼らの仕事場には、子供にとって危険がいっぱいなの
だと、教わったのだ。
292
だから、そんなに甘くておいしそうな香りが漂っていても、彼ら
の許可が下りるまでは傍にはいかない。
約束をきちんと守ったら、美味しいご褒美があるからではない。
まあ、そういうわけで、厨房の皆様からの私の評価はそこそこ良
いので、こういうときにお願いがしやすいのだ。
練習日当日、それぞれが材料一式を持って別棟へと到着した。
もちろん、初心者なので、そう難しいお菓子を作れるはずがない。
当然、材料もほんのわずかだ。
﹁静稀、エプロンつけたら、ちゃんと手を石鹸で洗えよ﹂
橘がしっかりと在原に釘をさす。
﹁先にレシピを見やすいように広げてからだよ、静稀﹂
橘の言葉を継いで私も言う。
﹁あ! そっか。また手を洗わないといけなくなるからね﹂
それぞれが材料を乗せている簡易テーブルまで走って戻った在原
が、ネットからダウンロードしたレシピを丁寧に広げて並べた。
坂田さんは私たちのやり取りをにこにこと笑いながら見守ってい
る。
﹁岡部は、何作るの?﹂
疾風のところにだけレシピが置いていないことに気が付いた在原
が、不思議そうに問う。
﹁ん? カルメラ﹂
﹁え?﹂
﹁カルメラ。知らないのか?﹂
﹁カルメラって、キャラメルの親戚?﹂
カルメラを知らない在原が、盛大に首を傾げる。
﹁あら。疾風さんはカルメラですか。それは懐かしい味ですね﹂
ほっこりとほほ笑んだ坂田さんが目を細める。
﹁はい。祖母直伝です﹂
﹁まあ、それは素敵ですねぇ。ぜひ、後でお味見させてくださいね﹂
293
﹁はい﹂
﹁⋮⋮だーかーらーっ!! カルメラって、何!?﹂
足を踏み鳴らしそうな勢いで在原が問う。
﹁ザラメと重曹と卵白と水で作るんだ。ちょっとだけ昔のおやつだ
ったらしい。私も疾風のおばあ様に作っていただいたことがある。
甘くてさくっとして美味しかった﹂
なんというか、素朴で優しい味だった。
かなり昔に縁日の屋台にあったと聞いたことがある。
確かにこの世界じゃかなり珍しいものだろうな。
さすが疾風、盲点を狙ったな。
﹁⋮⋮ザラメ? ジュウソウ?﹂
在原、そこからか!?
﹁出来上がってからのお楽しみでいいだろう? ほら、手を洗って﹂
橘が在原を追いやる。
菅原双子が全く同じ表情で橘を眺めている。
﹁⋮⋮オカン?﹂
﹁千瑛、言葉を選んであげて。傷つきやすい年頃なんだから﹂
思わず千瑛を窘める。
私もそう思ったけど! そう思ったけど! 言ったら可哀想だと
思って言わなかったんだからね。
﹁千瑛はこの間聞いたけど、千景は何を作るの?﹂
﹁ミニドーナツ。僕にお菓子をくれなんて言う勇気があるやつって、
知り合い以外いないでしょ?﹂
神経質で気難しそうに見えるからなぁ、千景は。
﹁私はお菓子頂戴って、言ってもいいの?﹂
﹁もちろん。瑞姫はドーナツ好きでしょ?﹂
当然と言うように頷かれた。
ちょっと嬉しいかも。
﹁うん。プレーンタイプが一番好き﹂
﹁時間が経つと油が回っちゃうのが難点なんだけど。そこのアドバ
294
イスをもらえたらなと思ってさ﹂
千景はそういうと坂田さんの方に視線を送る。
なるほど。
ちゃんと考えてるんだ、すごいなぁ。
時間が経つと油が回って味が落ちるなんて、わかっていても気に
しないか、まったく気づかないかだろうな、私なら。
﹁ほら、早く作り始めよう? 時間が無くなっちゃうよ﹂
声を掛け合って、私たちはそれぞれ手を綺麗に洗った後、レシピ
とにらめっこしながらお菓子作りを始めた。
お菓子作りというものは、性格が如実に表れるものらしい。
慎重派と大胆派。
坂田さんは主に大胆派のフォローに回ってもらっている。
その場の思い付きで、本当にとんでもないことをいきなりはじめ
てしまうのだ。
在原はグミを作る予定で、色々とジュースを買ってきたのだが、
何故か鉄観音のグミを作り始めたりとか、グミの中に花を入れたら
いいかもしれないと言い出して、庭に咲いている花を取ろうとした
り。
それ、食用じゃないから! と、叫んで止めましたとも。
味はともかく、食用として育てられている花にしてほしい。
うちの花で食中毒でも起こされたら大変だ。
鉄観音については、紅茶にしてと頼みました。
私の心からの叫びを憐れに思ったのか、橘が在原にこんこんと説
教していたのが笑えました。
いや、本当に橘ってお母さんみたいだ。
前からちょっと思っていたけど、世話好きなんだろうね、この人。
疾風も千景も淡々と自分の作業に没頭していたので、在原の暴走
295
に完全無視だった。
つくづく君たちの性格が羨ましいと思うよ。
ようやく冷えたキャラメルを型から外し、切り分けていく。
ステンレススケッパーで慎重に断ち切る。
包丁の方が使いやすいかと思ったけれど、こっちの方が意外と綺
麗に切れたので驚きだ。
さすがプロが言うだけのことはある。
坂田さんもゴム製のスケッパーとステンレス製のスケッパーを使
い分けているそうだ。
非常に勉強になりました。
こういう実用的な知識って、教えてもらえると嬉しくなる。
ロリポップの型枠は100均で手に入れたものだ。
こっちの世界でも100均ってあるんだね。
初めて入って、記憶にあるところと似ていて感動しましたとも。
お店の名前とか、扱ってる商品とかは少し違っていたけれど、懐
かしい感じがした。
結構好きだったんだよ、100均の文房具とか。
特にミニノートとか付箋とか。
ボールペンはインクがすぐ固まって使えなくなるところが難点だ
ったけど。
あまりの懐かしさにしばし呆然としていたら、物珍しがっている
のだと坂田さんに勘違いされて笑われた。
値段が高いものでも安いものでも、耐用年数が同じなら安いもの
で充分なんだというのが、坂田さんの持論でした。
余程突出したメーカーがない限り、クオリティにあまり大きな差
はないのだそうだ。
本当にそうなのだろうか?
値段が高ければ、そちらの方が断然いいような気がするのだが。
もしかしたら、技術でカバーするとか、技術を身に着けるチャン
296
スだとか、そういう類の考え方なのだろうか。
反論する術を持たない私は、先生の言葉に素直に従うだけだ。
お菓子ができたら、試食会に雪崩れ込むのは当然だ。
お茶を片手に、互いが作ったお菓子の論評だ。
ちなみに、お茶は坂田さんではなく、私が淹れた。
こればかりは他の人の手に委ねるわけがない。
お茶淹れは私が唯一、人に誇れる技能なのだ。
ちゃんと基礎から勉強したから、自信を持って淹れることができ
る。
そのうち、お茶のブレンドの仕方もきちんとマスターしたいと思
っている。
大事な人に美味しいお茶を淹れてあげられるということは、私に
とっての癒しであるのかもしれない。
美味しそうに目を細めて飲んでくれている姿は、何より嬉しい。
ほっこりした気分で私は友人たちを眺めていた。
試食会で余ったお菓子は、それぞれで知人に贈ることに決めた。
そのお菓子がハロウィン用であることは、知らない人には秘密と
いうことで、素直に味だけ楽しんでもらうのもいいかもと思ったせ
いだ。
﹁疾風、こっちを颯希に渡してくれる?﹂
きちんとラッピングして、疾風にキャラメルを渡す。
﹁颯希にまで渡す必要はないぞ﹂
少々疾風は渋い顔だ。
﹁いいじゃないか。中等部の颯希は、ハロウィンはないんだから﹂
﹁甘すぎる!﹂
﹁だって、素直に喜んでくれるから﹂
最近、疾風は感情を表に出さなくなった。
だから、素直な颯希が余計に可愛く見える。
297
男の子に可愛いと言ったら、絶対に怒られることはわかっている
が。
﹁子供なだけだろ。感情を制御できなきゃ、俺たちはひとり立ちで
きないんだから﹂
つまり、半人前に気を掛けるなといいたいわけだ、疾風は。
疾風なりに颯希を可愛がっているんだな。
﹁自分に素直なのはいいことだと思うけど? まあ、あれだね。岡
部は瑞姫ちゃんが弟君に構うのが気に食わないわけだ﹂
にやりと笑った千瑛が疾風をからかう。
﹁別に。瑞姫が颯希をかまうのは昔からの事だしな。颯希が瑞姫の
重荷になるのなら、すぐに排除するつもりだけど﹂
淡々と答える疾風に、千瑛は面白くなさそうにそっぽを向く。
﹁千瑛、用が済んだなら帰るぞ﹂
これ以上、他人に迷惑をかけるなと、千景が声を挟む。
﹁はあい。じゃあ、瑞姫ちゃん。当日、楽しみに待っててね﹂
友チョコならぬ友菓子が千瑛の中ではあるらしい。
当日、親しいものだけに特別にごく普通のお菓子を用意してくれ
るようだ。
千瑛のごく普通という認定基準が気になるところだが、突っ込む
まい。
﹁当日、頑張ろうねー﹂
そう言って、菅原家の双子は仲良く帰宅した。
在原と橘も、きちんと片づけて帰っていく。
﹁坂田さん、今日はありがとうございました﹂
自分の仕事もあるだろうに、私たちのためにわざわざ時間を割い
てくれたパティシエに礼を言う。
﹁いいえ。私も楽しかったですよ。本番のお菓子が成功するといい
ですね﹂
﹁はい。次はもっと頑張って作ります﹂
後片付けがきちんと終わったか、隅々まで確認して、私は頷く。
298
そうして、ハロウィン前日、私たちは自分の為に、お菓子を作っ
たのであった。
299
35︵後書き︶
ムーン様の方の作品を仕上げるので、週末、もしかしたら掲載が滞
るかもしれません。
300
36
or
treat!﹂
the
the
the
fire
g
on
Lets
by
ha
Everyo
Everyone
to
its
time
door.
One
sky.
All
trick−or−treating
me!﹂
nice
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up
Halloween.
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scared
﹁Trick
﹁You
﹁Have
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﹁Happy
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Light
trick
works
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we
sweets
Now.
party.﹂
time
us
knock
e
a
good
gives
a
ne
s
have
廊下で英語が飛び交っている。
いつの間にここは英語圏になったんだろうか。
教室内は魔女やバンシー、吸血鬼に人狼がもそっと席についてい
る。
ハロウィンルールにはもうひとつあって、教室では声を掛けては
ならないことになっている。
つまり、教室は待避所ということだ。
参加したくなければ、教室にいればいい。
私といえば、自分の席に座って千瑛に髪をいじられている最中だ。
コスプレする気はまったくなかったので、いつも通りの男子用制
服姿だったのだが、教室へ遊びに来た千瑛が面白くないと言い出し
て、この時の為にと用意してきた髪飾りをつけているのだ。
面白がった他の女の子たちが鏡を持って私の前に立っている。
そこに髪飾りをつける千瑛の姿が映っている。
301
どうやら小さなシルクハットをピンで留めているようだ。
その小さなシルクハットのつばにはカボチャとカブのジャック・
オー・ランタンとコウモリが乗っている。
シルクハットということは、私は吸血鬼なのだろうか。
間違っても魔女やバンシーではないようだ。
﹁でーきたっ!﹂
満足そうに鏡の中の千瑛が笑う。
﹁まあ、可愛らしいですわ。もしかして、これは菅原様がお作りに
?﹂
千瑛の手先の器用さを知っている1人がわくわくした表情で尋ね
ている。
﹁うん、そう。絶対、瑞姫ちゃん、仮装なんてしないだろうから﹂
﹁勿体ないですわよねぇ﹂
どうしてそこで勿体ないという言葉が出てくるのか、とても不思
議だ。
女の子たちの仮装は、圧倒的に魔女やバンシーが多い。
ちなみに、さっき聞こえてきた会話はというと。
﹃御馳走くれないと、悪戯しちゃうぞ﹄
﹃脅かさないでよ!﹄
﹃キャンディ強奪、頑張ってね﹄
﹃それじゃあ、ちょっと行ってくるか。あとで戦利品でパーティ
しようね︵超意訳︶﹄
こんな感じかな。
ホントは、最後の言葉ってもう少し詩的な言い回しなんだけど、
言ってる意味は大体こんな感じ。
廊下は浮足立った空気が漂っているが、教室内はやや冷ややかな
感じ。
これを機に、気になっている方に声を掛けて親しくなろうと思っ
ている人たちは、その相手が教室にいるのを見つけては落胆して自
分の教室へ戻っているというパターンも多い。
302
どうやら私や諏訪もそのターゲットになっているらしく、廊下側
の窓からこちらをガン見している人が結構いるのだ。
身動きするたびに声が上がるので、少々居心地が悪い。
今日の授業は午前中までで、午後からはイベント一色になる。
講堂の方には生徒会主催の会場まで出来ているそうだ。
立食式で軽食やお菓子などが用意され、学年問わず交流できる場
を提供するという趣旨らしい。
クラスメイトの何人からか、ぜひ一緒に行こうと誘われたけれど、
平穏無事な学園生活の為に丁重にお断りさせてもらった。
何事も目立たないのが一番だ。
﹁瑞姫ちゃん、今日のお昼はどうするの?﹂
千瑛が問いかけてくる。
﹁んー? カフェでボックス買って、どこかで隠れて食べる﹂
食べる場所は言わない方がいい。
絶対に襲ってくる人が出てくるはずだ。
そう思って、千瑛に口止めしようと振り返ろうとしたとき、ちり
りりっと澄んだ音が聞こえる。
﹁え?﹂
頭を動かすと、ちりっと高い音。
鈴?
﹁ち∼あ∼き!﹂
﹁えへへへへ。ジャック・オー・ランタンの中に鈴入れちゃった。
瑞姫ちゃんに鈴だね﹂
﹁可愛いですわ、菅原様!! 素敵です﹂
﹁まあね!﹂
﹁まあねじゃない!!﹂
隠れててもうっかり身動きしたらすぐにばれるじゃないか!
あ。あとで疾風にはずしてもらえばいいか。
でもせっかく千瑛が作ってくれたのに。
微妙に葛藤してしまう。
303
﹁ああ、もうそろそろ時間だね。教室に戻ろうかなー﹂
壁に掛けられている時計を見上げ、千瑛が呟く。
﹁うん。気を付けてね、色々と﹂
こちらを見ている視線が気になり、千瑛に言うと、ツインテール
のミニマム美少女は素直に頷く。
﹁瑞姫ちゃんもね。特に生徒会関連には要注意だよ﹂
誰にも聞こえないように小さな声でこそっと告げた千瑛は、スカ
ートを翻し、駆け出す。
﹁じゃあ、またねー!﹂
元気よく手を振った美少女は、そのまま教室を飛び出した。
生徒会関連?
千瑛が去って行った廊下を見つめ、私は顔を顰める。
何故、生徒会が私にかかわってくるんだろう?
難しい表情になっていた私と、偶然教室へはいってきた諏訪と視
線が合う。
﹁⋮⋮⋮⋮ッ!﹂
睨まれたとでも思ったのか、諏訪が視線を落としどこか切なそう
な表情で自分の席に歩いていく。
﹁⋮⋮諏訪様の肩に乗っているのって何でしょうか? 顔が目玉の
小人⋮⋮?﹂
不思議そうに傍に立っていたクラスメイトが首を傾げて呟く。
あれは、妖怪の部類に入るのだろうか?
むしろ西洋のイベントで、何故日本の親父殿を肩に乗せているの
だろうか。
諏訪の感性がわからない。理解しようとも思わないが。
﹁人面瘡の方が面白いと思うんだがな﹂
肩につけたらわからないから、頬とか手の甲とか。
だが、あれだと仮装にはならないか。
残念だが、仮装ではないな、あれは。
304
﹁瑞姫様?﹂
﹁そろそろチャイムが鳴るよ。君たちも席に戻るといい﹂
﹁そうですわね。では、失礼しました﹂
にっこり笑った少女たちは、それぞれ自分の席に戻っていく。
午前中、私は教室から一歩も外には出なかった。
午前中の授業が終わり、昼休みになる。
ランチボックスは朝の時点で注文をしているので、受け取りに行
くだけなのだが、心配性の疾風がランチボックスの受け取りは自分
が行くから迎えに来るまで教室から出るなと念押しするので教室で
待機中だ。
最初の内は廊下でうろうろしていた生徒たちも、そのうち、自分
の昼食の為にその場から去っていく。
今は、ほとんど残っていない。
そのタイミングを見計らって、疾風が迎えに来てくれた。
﹁瑞姫﹂
﹁うん、今いく﹂
念の為にお菓子の入った小さなバッグを手にする。
どう見てもランチボックスにしか思えない形だ。
ここから先は、戦闘だ。
いかにこちらの手持ちのお菓子を減らさずに、相手の悪戯を躱す
かという。
さすがに保健室という絶対安全地域に逃げ込むつもりはない。
私が保健室に逃げ込むと想定して追い駆けた者は、女帝様の餌食
になるだろう。
子供のお遊びを拒否して、保護者のスカートの陰に隠れるような
怯懦は我が家では許されないことなのだ。
武闘派揃いだからなぁ、姉たちは。
305
そして、私を逃げ出すような人間だと思った者に対して遠慮なく
再教育を施すくらいやるだろう、あの姉ならば。
そりゃ逃げ出しますが、逃げ出す場所は保護者の許ではありませ
ん。
温室の奥です。
私専用のカウチが置いてある場所は、サロンを利用する人でもご
く一部しか知らない。
そして、私がそのカウチを利用するときは、具合が悪い時だと思
っている人が殆どなので気兼ねして近寄らないのだ。
教室を出て、ひと気の少ないルートを選び、サロンへと向かう。
or
treat!﹂
勿論、絶対に見つからないと思っているわけではない。
﹁さ、相良さん! Trick
背後から突然声を掛けられた。
しまった、見つかったか!
﹁瑞姫﹂
疾風が気遣わしげに私を見る。
聞き覚えのない声だから、知人ではない。
ならば、兄上直伝の撃退法で。
疾風に頷き返し、軽く深呼吸をすると背筋を伸ばす。
表情を消して、ゆっくりと振り返る。
そこにいたのは、見覚えのない顔だ。
校章の下にある名札には同じ1年であることを示す青いラインが
入っている。
名札は3年間使用するため、名字の上にラインが1本入っている
のだ。
今年の1年は青、2年は緑、3年が赤という色が与えられている。
3年生が卒業したあと、その赤は来年の1年生に与えられるのだ。
私と同じ位置に目線が来る少年は、緊張した面持ちで私を見てい
る。
そんなに緊張するなら声を掛けなければいいのにとつい思っても
306
仕方がないだろう。
﹁⋮⋮そう、か。私に、悪戯をする気か?﹂
無表情のまま、ゆっくりと話す。
なまじ顔が整っていると、無表情は作り物めいて恐怖感を覚える
のだと八雲兄が言っていた。
兄の言葉通り、その少年は無表情の私に多少怯えたようだ。
﹁え⋮⋮えっと⋮⋮﹂
﹁悪戯をする気、なんだな? この、私に﹂
唇の端を持ち上げるように、にいっと笑う。
相手をまっすぐ見つめたまま、口許だけ持ち上げて笑うって難し
いですよ、兄上!
﹁え、あ、あの⋮⋮ご、ごめんなさいぃっ!!﹂
慌てた少年は謝罪の言葉を残して一目散に走り去っていった。
﹁さすが兄上! 効果抜群だ﹂
あまりにも見事な遁走ぶりに、ちょっと感動したじゃないか。
私の感動をよそに、背後で大きな溜息が零れる。
﹁⋮⋮八雲様∼﹂
頭を抱えた疾風が唸っていた。
﹁ちゃんと追い払えただろう? 何か問題があるのか、疾風﹂
﹁お菓子ねだられた相手が悪戯返ししてどうするんだ!﹂
﹁千瑛も言っていただろう? お菓子を恐喝するんだ、それなりの
リスクがあってしかるべきだと﹂
あれは至言だと思う。
確かにそうだと納得したし。
﹁だから、そーゆーイベントじゃないって﹂
﹁兄上から教わった撃退法はあれだけじゃないぞ。全部試して兄上
に結果がどうだったか報告しないといけないんだ﹂
﹁八雲様∼っ!! 本当に何を教えたんですか﹂
呻くように言う疾風の目がちょっと据わっている。
これ以上、この話をしているのは危険かも。
307
﹁ほら、疾風! 早く行こう。お腹がすいたって﹂
ぱたぱたっと足を踏み鳴らして言えば、一瞬のうちに疾風の意識
も切り替わる。
﹁お腹空きすぎて貧血起こして倒れる前に、目的地へ行くか﹂
﹁貧血起こして倒れるはないから!!﹂
﹁どーだか。ま、その時は、俺がちゃんと運ぶけど﹂
﹁倒れない! けど、その点は信頼してますって﹂
軽口を叩きながら、その場から足早に移動を始める。
健康な胃袋を持つ身としては、食事の邪魔だけはされたくないと
思ってしまう。
先程以上に周囲に気を配り、私たちはサロンへと向かった。
308
37
サロンはいつもと違ってひと気がなかった。
カウチが置かれている場所まで行くと、すでに在原と橘がいた。
﹁やっほー! 瑞姫﹂
在原が手を振り、合図する。
﹁千瑛たちは?﹂
﹁知らない。来るか来ないか、僕は聞いてなかったし﹂
﹁そうだね。俺も聞いてない﹂
﹁そうか。またねと言ってたから、ここを探し当てるかと思ってい
たんだが﹂
問い質したいことがあったが、さすがにここでは聞けないだろう。
﹁まあいい。お腹が空いたから、食べようか﹂
私たちが到着するまで律儀に待っていてくれたのだ。
早く食べたいと思っているだろう。
疾風が2人分のランチボックスをテーブルに置き、一緒に頼んで
いたお茶も用意する。
﹁あ。その前に! お菓子頂戴! 悪戯しないから﹂
手を差し出した在原がお菓子を要求する。
その言葉に、思わず吹き出す。
﹁先に言っちゃうんだ? 悪戯しないって﹂
手にしていたボックスからキャラメルが入った小さな箱を取り出
して、在原の掌に落とす。
﹁うん。悪戯、するわけないでしょ? 僕、瑞姫の事大好きだし﹂
﹁そうか、ありがとう。じゃあ、私にもお菓子をくれるかな?﹂
在原の﹃好き﹄は友達の好きだ。
間違えることもない明確な感情に、安心して私も手を差し出す。
﹁うん、貰って﹂
309
在原から渡されたのは、可愛らしいピンク色のグミ。
﹁桃味だよ。だから、ピンク﹂
﹁可愛いね。まともで安心した﹂
﹁⋮⋮瑞姫用はね﹂
ラッピングした透明な袋の中に転がっているグミを透かして眺め
ていた私に、橘が呆れたような口調で告げる。
﹁私用だけ?﹂
﹁うん。他のはちょっと失敗しちゃって﹂
テヘペロと言い出しそうな表情で、在原が照れ笑いする。
彼が持っていたお菓子用の小さなバスケットの中には、原色なグ
ミが転がっている。
﹁見事な原色だね﹂
そう表現するしかない。
間違っても可愛いとか美味しそうとかいう感想は出ないだろう。
何故こんな原色に?
思わず首を捻っても仕方がないと思う。
﹁ほら、瑞姫がロリポップの色つけに食紅使ってただろ?﹂
﹁ああ、うん。そうだね﹂
﹁あれでね、僕も食紅使えば、綺麗な色が出るかなと思って﹂
﹁⋮⋮そうだね﹂
物凄く、後の展開が読める話だ。
﹁ちょこっと入れてみたら、色が出て面白くなっちゃって﹂
﹁ついつい入れ過ぎたと⋮⋮?﹂
﹁あたり!!﹂
やっぱり。
﹁それにちょっとゼラチンの量も間違えちゃって。成功したのは瑞
姫の分だけ﹂
﹁⋮⋮後のは?﹂
﹁固くてゴムみたいになっちゃった﹂
そんなの、食べたくない!!
310
何の罰ゲームだよ、それは。
成功した分を私に回してくれたのは嬉しいが、他の人が気の毒に
なってしまう。
﹁予想通りの展開で、笑うしかなかったんだけど。ま、在原だしね﹂
苦笑した橘が、私に手を差し出す。
﹁俺にもお菓子、くれるかな?﹂
﹁はいどうぞ﹂
橘と疾風にキャラメルを手渡す。
2人からもそれぞれクッキーとカラメルをもらい、食事を始める。
和やかな空気の中、昼食を摂る。
以前は疾風と2人で食べることが殆どだっただけに、4人ともな
れば賑やかで楽しい。
ここに千瑛と千景が加われば、騒がしいとしか言いようがないけ
れど、やはり楽しいと思える風景になる。
﹁食事が終わったところで、これからどうする?﹂
デザートがてらにもらったばかりのお菓子を食べながら、橘が聞
いてくる。
﹁そうだね。もう少しまったりしてからちょこっとだけ参加して、
それから引き上げようか﹂
今日の授業は午前中までなので、不参加表明の生徒たちはすでに
帰宅している。
いつでも帰っていい状態なのだ。
最後まで残ってもいいし、配るお菓子がなくなったところで帰っ
ても大丈夫だ。
千瑛と千景にお菓子を渡したら、後は気分次第でお菓子をばらま
いて帰ろうかとぐらいにしか考えてはいないけれど。
だが、世の中には無粋なやつがいて、こちらの予定など無視して
やってくるのだ。
311
迷いない足音が温室の中に響き渡る。
だんだんと近付いてくる足音に、疾風と在原が不快そうな表情を
浮かべる。
﹁やはり、ここだったか﹂
そう言って姿を現したのは諏訪だった。
﹁相良にこれを﹂
手にしていた袋を私の前に置く。
諏訪は、私以外の人間にまったく注意を払っていなかった。
いるということを認識していても、気にする必要は欠片もないと
思っているようだ。
﹁先日の件、分家から養子をとるつもりのようだった。教えてくれ
たことに礼を言う﹂
淡々とした声音、静かな表情。
何かを吹っ切ったかのような空気が漂っている。
その肩に乗っている親父殿さえいなければ、威厳に満ちた威圧感
さえ感じるかもしれない。
﹁そうか﹂
元々、義妹に息子の教育を任せて、自分は表に顔を出していた律
子様だ。
例え自分の息子でも後継ぎには不向きと思えば切り捨てることに
容赦はないだろう。
だが、その原因の一端が自分にあるとは思ってはいないようだ。
子供は母親が世界の全てだ。
愛情深く育てられれば、それなりにまっとうに育つ。
母親としての役割を果たさずに、問題を起こした息子をそのまま
切り捨てるというのはどうだろうか。
3年前の時は、律子様の顔を立て相良も一旦引き下がった。
だが次はない。
312
今回の事で、皆、牙を剝く気満々なのだ。
今は私が抑えているが、箍を外せば全力で襲い掛かるだろう。
﹁俺が諏訪の後継者だ。すべてを掌握して見せる﹂
きっぱりとした口調で諏訪が宣言する。
その表情は、今までの甘さをすべて削ぎ落とした厳しいものだっ
た。
ようやく、自分の足場の脆さを認識したようだ。
そうしてその足場を確固たるものにすべく動き出したのだろう。
無条件で守ってもらえるはずの母親が、最大の敵にまわっている
のだ。
諏訪の心理としてはかなり苦しいもののはずだ。
信じられるものは自分自身だけという状況に追い込まれているの
だから。
﹁俺は、諏訪を手に入れる。だから、見ていろ!﹂
﹃見ていてくれ﹄ではなく﹃見ていろ﹄か。
真っ直ぐにこちらに挑むような視線。
一見、俺様が復活したようにも見えるが、そうではない。
私が諏訪を見ないことを前提で命令ではなく要求しているのだ。
見た目も声もいい諏訪なので、こういう場面を他の女の子が見た
ら、きっとぽうっと頬を染め、熱を上げることだろう。
だが、残念だ。
その肩の親父殿がすべてを台無しにしている。
諏訪を見ようと思っても、必ず親父殿と視線が合ってしまうのだ。
笑いをこらえ、表情を保つことに必死になってしまって、諏訪の
言葉に答える気にもならない。
命令形にも聞こえる﹃見ていろ﹄発言で、橘までも嫌そうに表情
を歪めている。
誰も言葉を発しないのは、私が表情を動かさないからだ。
私のリアクションでこの均衡が崩れるだろう。
しかし、諏訪は私の答えを待つことはなかった。
313
言いたいことだけ言うと、くるりと背を向け歩き出す。
仕方ないな。
貰った物にはそれなりの対価を返さなくては。
バッグの中からお菓子を取り出す。
﹁諏訪!﹂
声を掛けてそれを投げれば、振り返った諏訪は驚いたようにそれ
を受け止め、手の中のお菓子と私を見比べる。
﹁お菓子の礼だ﹂
それだけ告げて、視線を疾風に移す。
動くなと宥めるように疾風の肩に手を添えれば、諏訪はそのまま
黙って去って行った。
諏訪の気配が消え、在原と橘が顔を見合わせる。
﹁瑞姫、諏訪に投げたのって、あれ⋮⋮﹂
﹁んー? ロリポップの花束﹂
笑いをこらえたような在原の問いかけに、素直に答える。
﹁あれって、女の子用って言ってたよな?﹂
﹁そうだよ﹂
﹁絶対、勘違いしているよな。激励されたと思って!﹂
﹁花束だしな﹂
吹き出したのは、誰が最初だっただろうか。
それが呼び水となって一斉に笑い出す。
どれぐらい笑っていただろうか、ようやく笑いが治まり、目尻に
溜まった涙を指先で拭う。
﹁ひどいな、瑞姫は。男前すぎる﹂
﹁格好良すぎて、比較されるやつが不憫になってくるよ﹂
﹁褒めてくれてありがとう!﹂
皆の言葉に、笑顔で礼を言う。
﹁褒めてないって!﹂
﹁それは残念だ。褒め言葉だと思ったのに﹂
314
その言葉に、笑いの発作が起きかける。
﹁本当に、諏訪は不憫だね。俺たちの前であんなことを言うなんて﹂
橘が苦笑しながら告げる。
家の恥を他人の前で言う莫迦がどこにいる。
それは弱みとなって、格好の餌食にされるだろう。
そう橘は言いたいのだろう。
私も同感だと思う。
人の前でそれを言えば、伝えたい相手以外の周囲の人間にもその
情報が伝わってしまう。
そのことに注意を払えない彼は、まだ未熟だと思われてしまうだ
ろう。
肩をすくめ、苦笑を浮かべていた私たちの前で、疾風が手を上げ
る。
静かに、誰か来る。
そう伝えるジェスチャーだった。
その直後、静かな足音がかすかに聞こえ、近付いてきた。
﹁ごきげんよう﹂
薔薇の葉陰から姿を現したのは、少しばかり見覚えのある顔だっ
た。
名札には緑のラインが入っている。
そうして、もうひとり、その後ろから現れた。
赤のラインが入った名札をつけるその顔は。
﹁⋮⋮生徒会長⋮⋮﹂
今季の生徒会長、その人であった。
315
38
穏やかな表情、優しげな笑み。
静かな眼差しが真っ直ぐにこちらを見つめている。
﹁ごきげんよう、相良瑞姫さん﹂
目を細め、笑みを深くした3年生が、私の名を呼ぶ。
﹁ごきげんよう、生徒会長と書記の御二方﹂
いきなりの大物登場で、在原も橘も息を詰めている。
疾風は相手の様子を静かに窺っているようだ。
相手の出方次第では、割って入るつもりなのだろう。
﹁役職ではなく、名前で呼んでくれないか?﹂
甘く響くバリトンが、柔らかく要求してくる。
うを。尾骶骨直下型の美声だな。
鳥肌が立ちそうになるのをこらえ、臨戦態勢を整える。
﹁藤堂先輩と二宮先輩とお呼びしてもよろしいでしょうか?﹂
相手の名前を呼ぶのは要注意だ。
どこに地雷が潜んでいるのかわからない。
手堅いところから探りを入れるべきか。
﹁下の名前はわからない?﹂
首を傾げ、藤堂生徒会長が訊ねる。
﹁存じ上げておりますが、許可をいただいてもお呼びすることはで
きかねます﹂
明らかな拒絶にも、藤堂生徒会長は笑みを崩さない。
それどころか、満足げな笑みを浮かべている。
﹁それはどうして? なんて言葉遊びをするつもりはないから安心
してくれるかな?﹂
316
﹁御用件をお願いいたします。本来ならば、生徒会長も書記の皆様
も講堂に詰めていなければならないはず。責任者としての責務を果
たされず、温室の奥まったところまでわざわざ足を運ぶほど大切な
用があるとは思えませんが﹂
1年生が4人、サロンで食事を終えて寛いでいるところに、用件
もなしで現れるはずはない。
厄介ごとを持ち込む気で探し当てたのだろう。
でなければ、千瑛が用心しろと言うわけがない。
一番忙しい今日でなく、明日でもよかったはずだ。
後片付けも終わって、時間的余裕も生まれているだろうに。
﹁大事な用だよ。とても、ね﹂
にっこりと藤堂生徒会長が笑う。
藤堂会長は、所謂万人受けするイケメンではない。
顔立ち自体は整ってはいるだろうが、好き嫌いが分かれる顔だ。
人によっては普通と言うかもしれない。
ただ、顔立ちよりも全体の雰囲気で印象に残るタイプだ。
穏やかそうに見えて、底知れない感じがする。
そういう印象を受けるのだ。
﹁用件は、僕ではなく、二宮が伝えるよ﹂
二宮先輩に頷き、発言を促す。
﹁相良瑞姫さん、あなたを来期生徒会書記の任に就くことを要請い
たします﹂
清潔感のある爽やかなイメージの二宮先輩が、力強い声で用件を
伝える。
﹁お断りいたします!﹂
間髪入れずに言葉を返す。
﹁え!?﹂
まさか即座に返されるとは思っていなかったらしく、二宮先輩の
317
目が瞠られる。
﹁断るって⋮⋮﹂
﹁ええ。お断りいたします﹂
千瑛が匂わせてくれていてよかった。
どこから仕入れたのかはわからないが、千瑛もはっきりしたこと
がわからなかったにも関わらず、忠告してくれていたおかげで、間
を置かずに返事できたし。
﹁よく考えてから、返事をしてほしい。君にとってマイナス要素は
ないと思うんだが﹂
﹁マイナス要素はあります。そして、プラス要素はありません。生
徒会書記は中等部の時に経験しましたので、充分です。二度とした
くないと思っております﹂
﹁そんな! 去年、中等部を盛り立てたのは君の手腕があってこそ
ということは、こちらでも調べている。ぜひその力を貸してほしい﹂
﹁では、私がなぜ、生徒会に所属したのかその理由は御存知でしょ
う? 幸いにも内申書の加点を今のところ必要としておりませんの
で﹂
取りつく島を作ってなるものか。
生徒会にはいい思い出などない。
思い出すのは書類の山だけだ。
﹁しかし!﹂
﹁二宮、退きなさい﹂
説得しようと言い募る二宮先輩を藤堂生徒会長が制する。
﹁会長!﹂
﹁少し、冷静さを失っているよ。相良さんの思う壷だ﹂
ち。ばれたか。
﹁率直に言おう。君に次の生徒会長を引き受けてもらいたいと思っ
ている﹂
やはり、その流れか。
生徒会長の判断で任命できる書記を下級生に任せるということは、
318
会長の仕事を近くで見て学ばせ、後任に据えるということだろう。
来期の生徒会選挙に二宮先輩が生徒会長として立候補する予定だ
ということは予想がついていた。
というか、ゲーム上では、二宮先輩から諏訪へ会長職が移ること
になっていた。
これもイベントで諏訪ルートの生徒会長選挙応援で成功させない
と先に進めない。
失敗して在原が生徒会長になったら、バッド・エンドとなる。
在原でなく、私が生徒会長か。
やっぱり話が変わっている。
あまりゲームにこだわる必要もないだろうが、生徒会長なんて雑
用係もいいところだ。
書類の山にうなされる毎日はもう嫌だ。
﹁お断りいたします﹂
﹁頑なだね﹂
苦笑を浮かべ、藤堂生徒会長が呟く。
﹁藤堂先輩、私に関する肝心なデータが抜け落ちていませんか?﹂
二宮先輩よりもやはりこちらの方が強敵だ。
﹁肝心なデータ?﹂
﹁私は、確かに東雲学園の生徒ですが、同時に商業活動もしている
デザイナーでもあるんですよ? 生徒会の人間が商業活動をしてい
てもいいのでしょうか?﹂
﹁⋮⋮あ!﹂
驚いた表情で声を上げたのは二宮先輩だった。
藤堂先輩は微笑んだままだ。
﹁やれやれ。本当に手強い。だが、こちらも引く気はないよ﹂
無駄に美声。
美声の低音ボイスって悪役系に多いよなー。
藤堂生徒会長が悪役ってことはないだろうけど。
﹁時間も押してきたことだし、そろそろ講堂に戻らないといけない
319
な﹂
ふと腕時計を見て、藤堂生徒会長が呟く。
﹁相良さん、持久戦で君に取り組むことにするよ。よろしくね﹂
﹁外堀埋めをしようとしても、無駄ですよ。籠城する気はないので、
外堀が埋まったところでそこに私がいるとは限りませんから﹂
﹁⋮⋮本当に、君は手強いね。じゃあ、また今度﹂
ひらっと軽く手を振って藤堂生徒会長が踵を返す。
﹁相良さん、君が何と言おうとも諦める気はありませんから﹂
二宮先輩も藤堂先輩と私とのやり取りの間に頭を冷やしたのだろ
う。
熱くなっていた感情を抑え込み、朗らかに笑って生徒会長の後に
続く。
﹁⋮⋮⋮⋮瑞姫、どーすんの? 藤堂さんとやりあう気?﹂
心配そうに在原が問いかけてくる。
﹁やりあう気はないけど、生徒会に興味はない。どうしてもという
のなら、どんな手段を使っても叩き壊すか、捻じ伏せる﹂
﹁もー、瑞姫ちゃんってば武闘派なんだから∼﹂
呆れたような笑みを浮かべ、在原が肩をすくめる。
﹁でも、向こうも本気みたいだから、覚悟しないといけないようだ
ね。俺達で力になれることがあったら、遠慮なく言って﹂
﹁うん、ありがとう。その時は遠慮なく頼らせてもらうよ﹂
橘の言葉に素直に礼を言う。
頼っていいと言われると、どうして照れ臭くなるんだろう。
﹁じゃあ、とりあえず、千瑛たちを探そうかな? 一緒に行ってく
れる?﹂
﹁了解﹂
笑いあって、テーブルを片付けた後、立ち上がる。
320
ふと、諏訪からもらった袋に視線が留まる。
さて。
諏訪はあのキャンディの花束の意味に気付くだろうか?
在原たちは気が付いてくれたけど。
ロリポップの花言葉。
君は知っているのだろうか。
***************
温室を出て、校舎へと戻る。
長身4人の集団は、いささか威圧感があるらしく、すれ違っても
声を掛けてくる勇者はいない。
疾風の機嫌が悪そうだからだろうか。
or
treat!﹂
そんな中、見知った顔が声を掛けて来た。
﹁瑞姫様! trick
﹁おや、小松の姫君﹂
クラスメイトの女の子だ。
今朝も千瑛が髪飾りをつける時に鏡を持っていてくれた子だ。
﹁お菓子を下さらないと、わたくし、悪戯してしまいますわよ?﹂
にこやかに、悪戯っぽくこちらを見上げてくる。
おや、これは。
挑まれているのだな?
君は私に挑んでいるのだね。
よろしい。
321
受けて立とうではないか。
幸い、ここは廊下で、壁の傍だ。
﹁瑞姫!! 駄目だって!﹂
笑顔を浮かべた私に、疾風が止めようと声を上げる。
だが、一足遅かった。
小松さんの耳の近くの壁に手をつき、身をかがめる。
乙女の胸キュン上位ランキング、﹃壁ドン!﹄だ。
私としては使い古された感があるんだけど。
八雲兄が一番最初に言った方法だし、やるべきだろう。
﹁私に悪戯をしてくださるんですか?﹂
手をついた方とは反対側の耳許で、そっと囁く。
﹁⋮⋮どんな?﹂
﹁∼∼∼∼∼∼っ!!﹂
真っ赤になった小松さんは耳を押さえて座り込む。
﹁⋮⋮あーっと⋮⋮﹂
﹁瑞姫、やりすぎ⋮⋮﹂
背後の男性諸君が一斉に顔を覆って溜息を吐く。
八雲兄上、これはやはり効きすぎのようです。
﹁ごめんなさい、小松の姫君。悪戯が過ぎたようです﹂
慌ててしゃがみこみ、小松さんにロリポップの花束を差し出す。
最初から素直に渡しておけばよかった。
反省。
﹁もう、口惜しいです!!﹂
真っ赤な顔をして、小松さんが言う。
﹁うん、ごめんなさい﹂
﹁瑞姫様が殿方でないなんて!! 本当に悔しいですわ!!﹂
﹁え? そっち!?﹂
憤慨された方向が予想外だったので、驚いて瞬きを繰り返す。
﹁今のが様になる殿方って、そうそういませんもの﹂
322
﹁あはははは⋮⋮いたら、気障ったらしくて逆に気持ち悪いんじゃ
ない?﹂
﹁それは、そうかもしれませんけれど。ああ口惜しいですわ﹂
ぷくっと頬を膨らませ、口惜しさを十分に表した小松さんは、私
の掌に小さなケーキボックスを乗せる。
﹁お返しですわ。それから、菅原様からの伝言です。中庭にいるの
で気が向いたら来てください、だそうですわ﹂
﹁ありがとう。じゃあ、気を付けて。よいハロウィンを﹂
小松さんに手を貸し、立ち上がらせると、手を振ってその場を離
れる。
﹁疾風、中庭だって﹂
﹁早くあの双子を回収して引き上げよう﹂
何故だろう。
疾風が言う回収するものが双子ではなくて私のような気がするの
は。
私たちは大急ぎで中庭に向かい、無事に2人と合流した後、少し
ばかりの情報交換をし、帰宅した。
323
39
ハロウィンが終わると、生徒会選挙が始まる。
藤堂生徒会長にとって、ハロウィンが最後の大仕事だったわけだ。
選挙に関しては、前会長は建前上は中立を保たねばならないため、
目立った動きをするわけにはいかない。
そのはずなのだが。
﹁おはよう、相良さん﹂
魅惑の低音ボイスが惜しげもなく私を呼ぶ。
これが、以前の私であれば、丼飯3杯はイケる! と喜ぶところ
だろう。
優しげに甘く響く声が、私の名を紡ぐのだから。
﹁おはようございます、生徒会長﹂
朝っぱらから、人の教室に日参するなと申し上げたいところだ。
3年生、しかも生徒会長自ら、1年生の教室に毎朝来ては挨拶し
て帰るのだ。
色んな憶測が飛び交っている。
その憶測や噂のいくつかは、現生徒会役員が流していることはわ
かっている。
﹁考えは変わらない?﹂
﹁変える必要は見当たりません﹂
穏やかに和やかに微笑みながらの会話。
だが、冷気が漂っている気がしているのだろう、クラスメイト達
の顔色がすこぶる悪い。
もしかしたら、諏訪が荒れていた時よりも空気が悪いかもしれな
い。
﹁どうしても?﹂
﹁疑問があるのですが﹂
324
藤堂会長の問いかけには答えず、逆に疑問を返す。
﹁何かな?﹂
﹁今年の1年は、人材の宝庫だと言われております﹂
﹁うん、そうだね﹂
﹁何故、彼らではなく、私だったのか。篩にかけた基準をぜひ、お
伺いしたいものです﹂
中等部の生徒会役員だったからという理由は、認めない。
暗に匂わせると、藤堂生徒会長の表情がわずかに動く。
﹁人の上に立つという教育を施されている者は、かなりの人数いる
はずです。逆に私は末子ですから、そういった教育とは無縁です。
そして、人の和を大切にするような人間でもない。適任者というカ
テゴリーの中から外れるはずですが。ああ、これは、単純な疑問で
すので、答えをもらったところで納得して引き受けるということは
ありません﹂
穏やかな声を作って告げる。
決して荒げることなく、柔らかな口調を心掛ける。
八雲兄の交渉術だ。
ここで二宮先輩ならぼろを出すはずだろう。
だが、藤堂生徒会長は難なく誤魔化すだろう。
それを見越して次の手を打ち、断続的に揺さ振りをかける。
相手がそうと思わないように、静かにこっそりと楔を打っていく。
﹁さすが、学年主席だけあって面白いところを狙うね。今年の1年
は4人で主席争いをしていると聞いているが、全員有望株だという
のはもちろん理解しているつもりだよ﹂
﹁得点だけ見れば、そうかもしれません。ですが、出る杭は打たれ
るといって本来の実力を隠している者もいるということはご存知で
すか?﹂
橘とか千瑛とか!
高得点取って注目浴びるの嫌だからと言って、手抜きでテストを
受けているやつだっているのだ。
325
千景も面倒臭がって、上位に入るけれど、目立たない位置を常に
キープしている。
他にもあげればきりがない。
成績優秀者として外部から入ってきた生徒を押さえる形で常に上
位は内部生なのだ、今年の1年は。
﹁彼らが本気になれば、主席争いをするのは10数名に膨れ上がる
でしょうね﹂
さすがにこれは知らなかったと見える。
笑みをたたえていた藤堂生徒会長の表情が抜け落ちた。
﹁⋮⋮私に固執すると、足許をすくわれますよ?﹂
さて、今から藤堂生徒会長は、もう一度1年生のデータを見直す
ことだろう。
﹁君も存外、人が悪いな。相良さん﹂
苦笑を浮かべ、藤堂生徒会長が告げる。
﹁旗頭というものは、その足許を隠すために存在するんですよ?﹂
にっこりと笑って見せれば、生徒会長の笑みがさらに苦く深くな
る。
﹁確かに。君は見事にその旗頭を演じているよ。やはり、僕として
は君に後を託すのが一番望ましい﹂
﹁私があなたの立場なら、決して私に後を任そうとは思いませんよ。
危険が大きすぎる﹂
本当にしつこいな。
一応、揺さ振られてはくれたようだ。
ここは一旦引いて、次の機をみるべきか。
﹁では、また﹂
にこやかな笑みを作り、藤堂生徒会長が教室から去っていく。
緊張していた空気が一気に緩んだ。
﹁瑞姫様∼っ!! 生徒会長様が直々に、一体何事なんですの? というより、どうしてあの方相手ににこやかにお話などできるので
すか!?﹂
326
女子生徒たちが一斉に泣きついてくる。
﹁ごめんね。怖がらせてしまったようだ。来期の生徒会入りとその
次の生徒会長の任に就くようにと言われたんだけれど、その気がな
いので断っているところなんだ﹂
﹁⋮⋮まあ﹂
おおよその見当はついていただろう彼女たちの反応は微妙なもの
だ。
﹁瑞姫様を後任にとお考えのところは、お目が高いと申し上げたい
ところですけれど﹂
﹁ん?﹂
﹁いくら会長様でもこればかりは許せませんわ﹂
﹁そうですわね﹂
﹁え?﹂
口々に言い合い、頷き合う。
一体、何!?
﹁ご安心ください、瑞姫様﹂
にっこりと小松さんが笑う。
﹁小松の姫君? それに、三輪の姫君も、何を?﹂
﹁1年女子、総力を挙げまして瑞姫様をお守りいたしますわ! え
え。決して嫌がる瑞姫様を生徒会長様になどさせませんわ!﹂
﹁そうですとも。王子様をお守りするのは姫の役目ですもの﹂
にこやかに晴れやかに笑って告げる女子一同に、私は目を瞠る。
﹁え?﹂
何故、姫が王子を守るの!?
王子って、誰? 私!?
ない! それはない!!
何で私が彼女たちに守られなきゃいけないの!
どうしてこうなった!?
私の思いを余所に、生徒会役員選挙は思わぬ方向へ転がっていっ
た。
327
﹁瑞姫ちゃん、モテモテね﹂
テラスでぼんやりと空を眺めていた私に、千瑛がくすくすと笑い
ながら言う。
﹁なんでこうなるのかが、わからない﹂
私が思っている以上に1年女子の結束は固かったようだ。
藤堂会長が教室に近づこうとすれば、二十重に取り巻いて、他の
クラスの女子までやってきて、彼の行く手を阻む。
そうして、﹃嫌がる女性に無理強いなさるなんて無粋ですわ﹄な
どとやんわりと詰るのだ。
これにはさすがの藤堂生徒会長も苦戦を強いられているようだ。
﹃嫌がる女性﹄って、一応、女性扱いしてくれてありがとう。
王子様と呼ばれてから男扱いされているのかとちょっと落ち込み
そうになったからね。
﹁女子だけじゃないから、大丈夫だよ﹂
相変わらず楽しげに笑う千瑛が意外なことを告げる。
﹁え?﹂
﹁男子も動いているの。二宮先輩不支持でね。だから、生徒会長の
後継者で断然有利なはずの二宮先輩は苦戦しているんだよ﹂
にっこりと意味ありげに笑う千瑛。
﹁千瑛! 君か!?﹂
戦略を練るという点で、千瑛は私より格段に上だ。
普段はあのとぼけた性格を前面に出しているため、ちょっと変わ
った御嬢さんで通っているが。
﹁くふふ。ちょっと言っただけよ? 生徒会長になろうって人が、
後輩の手腕と人気に頼って当選しようと思ってるなんて、どうかな
ーって﹂
絶対、それだけじゃないだろう。
328
もっとイロイロと言っているはずだ。
でなければ、千瑛の隣で千景が頭を抱えているはずがない。
﹁あ。それから! 書記には大神を推しておいたから。裏でこそこ
そ人を操ろうとせこいこと考えないように、表に引きづりだしちゃ
えばいいのよ﹂
﹁⋮⋮は?﹂
確かにそれは、私も考えたけれど、実行に移すかどうか迷ってい
た案だ。
﹁だって。今回の騒動、裏に絡んでるの、大神だよ﹂
けろりとした表情で千瑛が暴露する。
﹁大神が、動いた?﹂
﹁そ。まだ序の口のつもりらしいけど。隣のクラスに私がいるのに
気付かないで動くなんて、大神も割と注意力散漫よねぇ﹂
気付かないじゃなくて、気付かせなかったの間違いでは?
そう思ったが、口には出さない。
﹁そう、か﹂
想像していた以上に、事態が混迷化してきている。
千瑛が大神を表舞台に引き吊り出そうとするのなら、任せてみよ
うか。
少なくとも、多少、彼の動きを封じることはできるだろう。
私はごく普通の学生生活を送りたいだけであって、人の前に立つ
ことは本意ではない。
﹁平凡な人生って私には無理なのかな?﹂
思わずつぶやいた言葉に、千景が崩れ落ち、テーブルにおでこを
ぶつける。
﹁あら、瑞姫ちゃん。平凡って一番難しいのよ? だって、明確な
判断基準がないんだもの﹂
にっこりと笑って告げた千瑛の言葉に、思わずそうかと頷いてし
まった。
329
40
生徒会役員選挙は、混迷を極めていた。
どの陣営も大神を欲し、逆に私を忌避する。
当然だ、1年女子の現生徒会長に対しての鉄壁の守りを見て、あ
れを突破できる勇者などいないと思うだろう。
実際、1年女子だけでなく、2年や3年の女子も私の擁護に回っ
てくれた。
それでも二宮先輩は私への書記要請を撤回せず、ますます戦況が
悪化しているらしい。
二宮先輩の陣営も大神を引き入れるように説得しているが、二宮
先輩が頷かないため陣営内が対立している状況も伝わってくる。
立候補届け出から選挙まで、たかだか2週間。されど2週間。
いつもは穏やかな学園内も殺気立っている。
あまりにも騒がしい構内に嫌気がさして、逃避行に出る。
目的地はやはり図書室だろう。
ここはなかなか素晴らしい蔵書がある。
中には稀覯本もあり、それを目当てで通う生徒もいる。
稀覯本は、当然のことながら持ち出し禁止だからね。
閲覧は司書の許可があれば可能だ。
必ず司書の手から預かり、司書へ返さなければならないが。
私の目的は大体において歴史書である。
私がかつて知っていた世界史と、こちらでの歴史とに食い違いが
生じるところがあるので、そこをすり合わせているのだ。
まさかこういう落とし穴があるとは思わなかった私は、結構必死
で読み漁っている。
そして、歴史書というのは罠が多い。
330
結論をはっきり書かずにぼかしているものもあるので、結局どっ
ちなんだと頭を抱えるようなものもあるのだ。
時間があれば図書室に通っているので、図書室の住人だとか読書
好きという認識になっている。
まあ、本を読むのは好きですけど。
ライノベとか読めなくなってつらいなあと思ってます。
こんなところにライノベなんて置いてないし。
一般の図書館には通えないしなぁ。
通販も考えたけれど、届けられる荷物は必ず不審物がないかチェ
ックが入るので無理。
そういう意味での不審物ではないが、別の意味で思いっきり不審
物だもんな。
妄想に耽られる歴史書は結構読むのが楽しいので、これで我慢し
ているところもある。
今、ようやく民族大移動あたりまで確認したところ。
この後にカール大帝が出てくるんだっけ?
叙事詩ロランの歌のあたり。
ロランの歌は結構好きだったな。
最後はちょっとボロ泣きしたけど。
ロランよりもオリビエが好きだったりする。
こっちで話が変わってないといいな。
そんなことを思いながら、本棚から目当ての本を抜き取り、お気
に入りの場所へと移動する。
北側の窓際。
ここが私が決めた指定席。
明るさが一定だから目が疲れなくていいのだ。
ぱらりとページをめくり、読み始めたところで近くに人が立って
いることに気付く。
顔を上げると、そこに立っていたのは、大神紅蓮だった。
331
﹁やってくれましたね、相良さん﹂
笑顔魔人の大神が凄みを増した笑みでこちらを見下ろす。
﹁何の事でしょうか、大神様?﹂
知っているがとぼけることがお約束。
﹁生徒会役員の事ですよ。僕を推挙したのは、あなたですね?﹂
﹁いいえ。私ではありません。生徒会長には、主席を争う実力者は
十数人ほどいると伝えただけで、誰が相応しいなどは一切口にして
はおりません﹂
﹁嘘だ!﹂
﹁いいえ。私は、嘘をつきません⋮⋮そうですね?﹂
大神の言葉を封じ、まっすぐに彼を見上げる。
しばらく睨み合いのように見つめ合っていたが、根負けしたのは
大神だった。
﹁そうだったね。君は嘘をつかない﹂
﹁嘘をついたところで、バレれば一緒なら、最初から嘘をつかない
方がお得ですからね。無駄なことはしたくない﹂
﹁そうだね、君はそういう性格だ﹂
﹁わかっていただけて何より。誤解は解けましたか?﹂
﹁すみません。いささか頭に血がのぼっていました。少しお話して
もよいでしょうか?﹂
私の前の席を指さし、座ってもいいかと問いかける。
﹁他の方もいらっしゃらないようなので、どうぞ﹂
実際、私たち以外は図書室には誰もいない。
話したところで迷惑は掛からないだろう。
そう思い、頷く。
﹁失礼﹂
大神も普段の穏やかさを取り繕い、ゆったりとした仕種で椅子に
腰かける。
332
﹁先程は、失礼しました。申し訳ない﹂
﹁誤解だとわかればそれで構いません。それで、お話とは?﹂
本は読めないと悟り、閉じてテーブルの上に乗せる。
﹁僕を推挙した方をご存知ですか?﹂
﹁その場面を目撃したことはありませんので、私にはわかりません﹂
﹁君なら知っていると思ったのだけれど⋮⋮﹂
﹁残念ながら、私も自分の事に手一杯なもので。火種になるのは本
意ではないのですが、なかなか生徒会長が諦めてくださらないので﹂
﹁ああ。毎朝、大変そうですね﹂
﹁ええ。私ではなく、女子の皆様が﹂
﹁時折、2年生や3年生の女子生徒の姿も見受けられましたが﹂
﹁そのようです。さすがに、毎日、生徒会長が1年の教室に日参す
るのは外聞が悪いと窘めに来られているようですよ﹂
﹁⋮⋮会長のファンですか?﹂
﹁さあ? その方々と直接お話したことはありませんので﹂
嘘はつかないが、とぼけることはとぼけます。
﹁相良さんは生徒会長の地位には興味がないの?﹂
﹁ありません。生徒会はうんざりです﹂
本心からの言葉に、大神が笑みを見せる。
﹁あはははは⋮⋮本当に嫌そうだ。まあ、当然だよね、僕と彼の御
守役だったんだものね﹂
﹁意外と暴走される方たちだったので、驚きました。しかも、穴だ
らけの計画書など、悪夢としか言いようがありません﹂
﹁君に指摘されたから、多少は成長したつもりなんだけれど﹂
﹁そうですか? どのように成長されたのか、知る術はありません
ので、確認しようもありませんが﹂
﹁そこは、書記をやって証明すれば? って言う場面じゃないのか
な﹂
﹁やりたければどうぞ? ですが、生徒会の書類は表には出ません
ので、一般生徒の私には確認しようがないでしょう? 勧めません
333
し、唆しもしませんよ﹂
﹁⋮⋮⋮⋮⋮⋮うん。確かに、君じゃないな﹂
大神が納得したように頷く。
ここで素直にだまされる大神は、やはり詰めが甘い。
私は確かに嘘はつかないが、とぼける時は、徹底的にとぼけて相
手を騙すぞ。
そこのところの認識がなっていないのなら、まだまだ情報収集不
足だ。
﹁⋮⋮君は、本当にやる気がないね﹂
﹁やる気はありますが、興味のないことに対しては確かにそうです
ね﹂
誰でもそうだと思うのだが。
﹁君は、僕がどうすればいいかと思いますか?﹂
﹁お好きに? 書記になろうがなるまいが、会長に立候補しようが、
それは君の自由です。私を巻き込まないで頂けるのなら、陰ながら
応援しましょう﹂
正直な気持ちを素直に伝える。
大神の笑顔が苦笑に変わった。
﹁陰ながら、ですか。それでは応援していないことになりますね﹂
﹁表ばかりが総てではないでしょう。私が動けば、混乱が起こるこ
とは、君も知っているはずだ﹂
﹁そうですね。珍しく相良さんが意思表示をしたばかりに、1年女
子が反生徒会長に回ってしまいましたしね﹂
﹁望んではいない展開でしたが⋮⋮助かっていることは事実です﹂
正直ベースで答えれば、大神の苦笑が深くなる。
﹁女の子たちにとって、君は理想の王子様なのだそうですよ、相良
さん。女性に優しく穏やかで、だけど強い。自分を守ってくれると
わかる相手だからこそ、守りたいのだとうちのクラスの女子が言っ
ていましたよ﹂
﹁そうでしたか。買い被られても困りますが﹂
334
私という人間とは程遠い理想像に、困って言えば大神は首を傾げ
る。
﹁彼女たちの言っていることは、外れてはいないと思いますが? 君はどこか、生身の人間臭さが欠けているような気がします﹂
﹁どういうことでしょう?﹂
﹁お伽噺か、夢の中のような人に、時折見えます。手を伸ばしても
届かない気がして、確かめたくなる﹂
﹁⋮⋮無遠慮に確かめられても困ります。私は臆病な人間だ。今の
段階では、接する人間が少ないほど安全ですから﹂
言葉遊びはここまでだ。
これ以上は付き合う気がないと匂わせれば、そうと悟った大神が
肩の力を抜く。
﹁見当違いか。相良さんに接触すれば、誰か現れるかと思ったんで
すが﹂
﹁そのようですね。私としても思惑が知りたいところだったので、
誰か来ないかと思っていたんですが﹂
千瑛なら絶対に近づかないだろう。
わかっているから、正直に告げる。
﹁悔しいな。今回は僕を陥れた方の思惑に乗ることにしましょう。
ですが、来年は必ず引きずり出して見せますよ﹂
﹁そうですか。健闘をお祈りいたしましょう﹂
やる気のない私は、やる気のない言葉を返す。
﹁ところで、相良さん﹂
立ち上がった大神がふと私を見る。
﹁何方が生徒会長に当選すればよいとお考えですか?﹂
﹁⋮⋮それは、当選した方でしょう﹂
誰でも構わないと答えた私に、大神は苦笑する。
﹁君を本気にさせるのは、至難の業ですね﹂
﹁褒め言葉をありがとう﹂
手を伸ばし、本を手許へ引き寄せる。
335
表紙を眺め、ページをめくり、文字を追い出すと、大神が去って
いく気配を感じた。
とりあえず、大神を表舞台に引き吊り出すことには成功したよう
だ。
この後、千瑛はどう動くつもりなのか、考えを聞く必要がある。
だが、迂闊に接触はできないだろう。
私がここにいることを突き止めたということは、誰かに頼んで私
の動向を見守らせている可能性がある。
﹁あ! 違う!?﹂
本を読んでいた私の前に新たな事実が。
カール大帝=シャルルマーニュだったはずなのに、ただのシャル
ルになってる!!
たかが名前、されど名前だ。
昔読んでいたロランの歌のとんでも本ではシャルルマーニュが女
性だったというのがあった。
あれはあれで、かなり無茶振りで面白かった。
来年、図書委員になって、とんでも本を探して購入してもらうの
もいいかもしれない。
委員会に所属している人間は、生徒会役員にはなれないはずだ。
うん、これはいい考えかもしれない。
少しばかり上機嫌になって、私は読書に熱中した。
336
41
暗闇の中で泣いている迷子の女の子。
辛くて怖いことから逃げ出して、帰り道がわからなくなって泣い
ている。
探している人がいても、会いたい人がいても、みつからない。
暗い場所で途方に暮れて、泣いているのだ。
行く先がわからない、迷子の女の子。
ふと、女の子が泣き止み、立ち上がる。
何かを探すような素振りを見せ、走り出した。
そっちじゃない!
こっちに来なさい!!
そう叫んでも、届かない声。
君がいるべきところは、ここだよ。
﹁瑞姫⋮⋮﹂
ふわりと温かいものに包まれ、目が覚める。
﹁⋮⋮ん⋮⋮?﹂
私の視界に映ったのは、制服のジャケット。
もぞりと身動きすれば、目の縁から涙が零れ落ちる。
泣いていた女の子は、瑞姫だった。
﹁起きたのか?﹂
馴染んだ声がかけられる。
﹁あれ? 疾風? 私⋮⋮眠ってた?﹂
腕を枕にして突っ伏して眠っていたようだ。
周りの風景を確認して、首を傾げる。
337
図書室だ。
あのまま眠ってしまっていたのだろうか。
﹁瑞姫、何で泣いてるんだ?﹂
立ち上がって傍へやって来た疾風が、手を伸ばし、私の顔に触れ
る。
目の傍を指先がなぞる。
涙を拭っている仕種だ。
疾風はジャケットを羽織っておらず、白のベスト姿だ。
﹁泣いて⋮⋮?﹂
﹁まだ寝ぼけてるのか?﹂
﹁疾風の手が暖かくて気持ちがいい﹂
﹁⋮⋮⋮⋮寝ぼけてるんだな﹂
深々と溜息を吐いた疾風が、大きな掌で私の頬を包む。
﹁起きた。夢を見てたんだ、迷子の女の子の﹂
﹁夢?﹂
﹁うん。泣いてる女の子。帰り道がわからなくなって迷子になっち
ゃったんだ﹂
あんなに会いたがっているのに。
﹁そうか。早く帰り道がわかるといいな﹂
﹁そうだね﹂
疾風の掌に頬を預け、目を閉じて夢の残滓を振り払った私は、表
情を改める。
﹁もしかして、随分待たせてた?﹂
﹁いや。珍しく眠っていたから、疲れていたのか?﹂
﹁どうだろう? 疲れるようなことはしてないし。ああ、でも、早
く選挙が終わらないかなっては思ってる﹂
﹁ああ。あれは煩すぎるからな。瑞姫がわざわざ表に立つ必要はど
こにもない。それを勝手に思惑ばかり押し付ける方が悪い﹂
過保護な疾風は、自分たちの要求ばかりを押し付けてくると、生
徒会長や二宮先輩が気に入らないようだ。
338
誰だって、自分を中心に世界が回っている。
その世界の中心に自分を据えたとき、周囲が見えているか見えて
いないかで、対応が違う、それだけだ。
たまに、その自分の世界の中心に自分ではなく、他の人間を据え
てしまう人もいる。
小さな星々のように、太陽の周りを回ることで、自分らしく居ら
れると思っているのだろうか。
私の世界の中心は、私自身ではなく瑞姫だ。
あえて言えば、私は彗星のようなものだ。
ほんの一瞬、通り過ぎるただの記憶の欠片。
今は迷子になっている女の子に、この世界を返さなくてはいけな
い。
そのことは、誰も知らない。
すべてを欺き、裏切っても、悔いはない。
何を手放そうとも、願いが叶えばそれでいい。
もう少しですべてが片付くというのに、瑞姫だけが見つからない。
頬に触れていた疾風の掌がふわりと動く。
﹁少し、熱い。熱があるのか?﹂
額に当てられ、熱を測っているようだ。
﹁眠ってたからじゃない? 風邪をひくような季節でもないし﹂
﹁そうだといいが、まだ本調子とは言えないんだ。用心に越したこ
とはない﹂
﹁過保護すぎー!﹂
﹁何とでも言え! 俺は茉莉様が恐ろしいんだ﹂
﹁⋮⋮⋮⋮⋮⋮激しく納得いたしました。そして、同感であります﹂
長姉の名を持ち出されては、反論できない。
女帝様は恐ろしい。
﹁帰るぞ、瑞姫﹂
339
﹁うん﹂
本を片付け、図書室を後にする。
まばらにひと気が残る校舎内を疾風と2人、並んで歩く。
﹁疾風﹂
﹁うん﹂
﹁サカナが網に掛かった﹂
﹁そうか。どの網に掛かったのかが、問題だな﹂
大神が書記を受けるつもりになったことを告げれば、疾風がどの
陣営なのかを気にする。
﹁サカナ自ら決めた網か、それとも網を仕掛けた者が決めたのか﹂
会長職に誰が当選するのか、決まったならばその時にわかること
だろう。
私としては、どの網に掛かろうが、構わない。
ただ、先程の反応から、大神はまだ本気で動く気はないというこ
とだけ感じ取った。
自分が仕掛けるつもりで、逆に誰からか仕掛けられたことが不本
意だったのだろう。
﹁問題は、2年になってから、か⋮⋮﹂
ぽつりと呟いた疾風の言葉に、無言で頷く。
投票日まで、もう残りが少ない。
そう思いつつ、校舎を出て、迎えに来た車に乗り込んだ。
****************
翌日、大神が二宮先輩の下でなら書記になると、他の候補者たち
の前で宣言したそうだ。
340
朝からそのニュースが広まり、あちこちで話している声がする。
﹁君たちにはしてやられたよ﹂
久々に女子包囲網が解かれ、私の机までやって来た藤堂生徒会長
が苦笑しながら告げる。
﹁私は何も。私が動くと碌なことが起きませんので、傍観者役に徹
していたいと思っていますよ、いつも﹂
﹁大神君を動かしたのは、君だろう?﹂
﹁大神様は、大神様自身の意思で動く方です。私が何をやっても動
いてはくれませんよ﹂
﹁⋮⋮本当にそうだろうか?﹂
今日もバリトン美声だな。
バリトンもいいが、聞くだけならバスがいい。
超低音な声は、日本人では滅多に聞くことができない。
テノールあたりが一番多いのだろうか?
かすれ気味の声もそれなりに色気があってよいのだが、やはり艶
のある豊かな声量の声が好きだと思う。
﹁やはり、どうしても引き受けてはくれないのかい?﹂
﹁先程も申し上げましたように、私が動くと碌なことが起きません。
無駄な争いが起こるのなら、その原因を潰すしかないでしょう?﹂
﹁⋮⋮確かに、そうだね﹂
溜息交じりに同意する会長。
﹁まさか、たった一言でこうなるとは予想もしていなかったよ﹂
私が関わり合いになりたくないと告げた言葉が波紋となって、今
回の騒動になったのだと藤堂生徒会長は信じているようだ。
上辺だけ見れば、確かにそうだ。
私を守るために1年女子が動き、教室どころか廊下にさえ生徒会
長は近付くことが許されなかった。
二宮先輩は、本来最有力候補として悠然と構えていればいいだけ
の選挙活動が一変して、票獲得が非常に難しい立場へと追いやられ、
劣勢に陥った。
341
さらに状況をかき回すかのように、2年生から生徒会長に立候補
した生徒が数人出たのだ。
大体、1人か2人の候補者しか出馬しないはずなのに、1年生か
ら立候補したものを含め6人ほどの候補者が乱立したのだ。
本来なら対抗馬にさえ難しい者たちが、ある程度の票を獲得でき
たのは、嫌がる者を生徒会へ引き込もうとするのはいかがなものか
と訴えたからだ。
責任を自覚し、目的を持ってなりたい者が生徒会運営に携わるの
が正しいことだと訴えれば、確かにと納得もする。
そのうえで彼らは、それぞれの主張を告げたのだ。
藤堂生徒会長の後継者である二宮先輩が訴えたのは、藤堂先輩の
意思を引き継ぐということだけだった。
具体的に何をするとも言わず、ただ、自分の後に私を据えると言
ってしまったため、一時失墜したのだ。
今は、具体的なことを言っているらしいが、二宮先輩以外の候補
に投票することを決めている私は、聞いたところで自分の意思を撤
回するつもりはない。
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
予想はしていなかったが、予感はしていた。
言葉の影響力がどれだけあるのかを知っていれば。
﹁仕方がない。今回は君を諦めるよ。卒業していく身だ。綺麗に去
っていかねばならないからね﹂
穏やかに笑った藤堂生徒会長は、私に視線を落とす。
﹁大学で、君を待っている。次は諦めないから﹂
そう言って、藤堂生徒会長は自分の教室へと戻っていく。
ごめんなさい。
私は大学部へ進まず、外部の国公立大学に進みたいんです。
学びたいことが、ここの大学にはないので。
そう声に出して告げることができない私は、生徒会長の後姿を見
342
送るだけだった。
343
41︵後書き︶
一部、違う表現が混じっていましたので、修正しました。
344
42
生徒会選挙が終わって、学園内は一気に静まり返った。
旧生徒会から新生徒会へ引継ぎが迅速に行われる。
そうして旧生徒会役員が引退すると、12月が始まる。
12月のイベントといえば期末テストとクリスマスだ。
今年は生徒会選挙が白熱化したため、勉強が手につかずに疎かに
なって順位を下げたと嘆く人の姿をわりと見かける。
授業もある程度予定範囲まで辿り着いた教科から、名目自習とな
り聖歌の授業に割り当てられる。
東雲学園はキリスト教系の学校ではないのだが、何故か敷地内に
礼拝堂がある。
その建物自体、かなり古そうな感じなので、もしかしたら学園が
建設される前から在るものなのかもしれない。
ステンドグラスの薔薇窓も実に見事なもので、調べれば由緒など
わかるだろうか。
何故、キリスト教系列の学園でもないのに、クリスマスに聖歌を
礼拝堂で歌うのかなど疑問に思えばきりがない。
大体において、このクリスマスの行事と結婚式以外で礼拝堂が使
われることはあまりないらしいし。
そう、結婚式。
東雲学園の卒業生が、この礼拝堂で結婚式を行うことがあるのだ。
あの薔薇窓から差し込む光がとても綺麗で、ぜひにと申し込みが
あるという。
生徒がいない時間帯ならと許可が下りているのだ。
345
と、いうことは、礼拝堂を守る人がいるということだろう。
いつ行っても無人だったから、誰もいないのかと思っていた。
壁の一角にパイプオルガンが据えられているので、堂内の音響は
それなりに素晴らしい。
聖歌の伴奏は、このパイプオルガンで行われるのだ。
聖歌を歌うのも、ただ歌えばいいというものではないらしい。
必ず声の音域を計ってパートごとに分かれて歌わないといけない
ようだ。
初等部の時は、ただ歌ってただけだったんだが、高等部にもなる
とハーモニー重視になる。
ちなみに中等部の時はというと、1年の時は入院中、2年の時は
体力不足で歌えず、3年の時は生徒会役員として準備に奔走してい
たため参加できずで寂しいクリスマスを送っていた。
今年はようやく参加できるので楽しみだ。
しかしながらここで問題が。
私はそこまで歌がうまくない。
声もいい方ではないだろう。
自分が認める美声には程遠い。
話す声はアルトヴォイスなのに、歌うと少しばかり音域が高くな
るようだ。
パート分けの時にメゾソプラノと言われたので、そうなのだろう。
メゾソプラノのところに向かったら、意外そうな眼差しで見られ
たのが心に痛かった。
皆、私の声はアルトだと思っていたんだね。
﹁瑞姫様ならテナーでもいけるのかと思っていましたわ﹂
そう言われた時には、心が折れそうになりました。
さすがにそこまで低くはありません。
﹁他のパートに引き摺られて、音程が外れるんですけど、どうすれ
ばいいんでしょうか?﹂
346
他の音が気になり、どうしても自分が歌う箇所でミスってしまう
ことに萎れ、聞いてみる。
﹁耳で音を追っているからじゃないでしょうか?﹂
そう言われ、びっくりする。
﹁耳で音を拾うものでは?﹂
﹁音は身体で覚えるものですよ﹂
え! そうなんだ!?
ぱちくりと瞬きを繰り返しながら、首を傾げる。
﹁どうやって身体で音を覚えられるんです?﹂
その言葉に皆さん固まってしまった。
﹁こればかりは⋮⋮言葉で説明するのは難しいですわ﹂
﹁そうなんだ。どうにも自分の声が音を外すばかりで不満ばかり覚
えてしまって、なかなかうまく音を覚えられない﹂
﹁瑞姫様は耳がおよろしいのですわ、きっと﹂
﹁それならば、聖歌隊よりも楽器演奏の方がきっとうまくいくと思
いますわ﹂
﹁楽器、ですか? それこそ、ピアノぐらいしか習ったことがない
のですよ、私は﹂
とりあえず、母親のお付き合いか何かで幼稚舎の頃に少しばかり
かじった程度だ。
一般家庭のように習いに行くのではなく、先生が教えに来るとこ
ろが、少し違うだけで、教わる内容は全く一緒、当たり前か。
指の形は卵を軽く握るようにというところから始まって、後ろを
向いて音階当てゲームとかやって。
その頃までは楽しかったが、実際に弾き始めてCDの音と自分が
弾く音が違いすぎることに苛立って癇癪起こしかけたころ、ピアノ
を置いてある部屋で蘇芳兄上が遊びに夢中になって大暴れして、そ
のピアノを壊してしまったので、辞めてしまったのだ。
ちょうど10歳ほど年の離れた兄と、その随身は、木刀片手に大
暴れしたのだ、ピアノが置いてある部屋だけ防音だったため、音が
347
外に漏れないと大喜びして。
大破したピアノに愕然となったけれど、もう習わなくてもいいと
秘かに喜んだのは内緒だ。
﹁ピアノは楽器の王様ですもの、基礎がきちんとしていれば、どん
な曲も練習次第では弾きこなせますわ﹂
にこやかに微笑まれ、促され、いつの間にか私はメゾソプラノパ
ートから楽器担当の補欠要員になっていた。
またしても!
今回もまた、参加できないとは!!
まぁ、去年と違って特等席で聴けるからいいか。
聖歌隊の練習に参加しないでぼーっと椅子に座って聴いているだ
けの私の姿に気付いた疾風たちに、どうしたのかと聞かれ、事情を
説明したら、派手に笑われた。
別に音痴過ぎるから外されたわけではないんだからなっ!
多分、そうであることを祈りたい。
****************
11月の終わりごろから、急激に気温が下がってきた。
普段はここまで急激な変化はないのに、今年の気温の変化はあま
りにも大きすぎる。
﹁いつっ!!﹂
ぴりっと走った痛みに、思わず声を上げてしまう。
﹁瑞姫!?﹂
﹁あ。大丈夫。平気、だから﹂
心配そうな表情の疾風に、言葉を返す。
348
梅雨時はじくじくと痛んでいた傷跡が、今は鋭い痛みが走ってい
る。
急激な寒さに身体がついていけないのかもしれない。
今もきりきりと右脚が痛んでいるが、夏場に比べれば大したこと
はない。
だが、痛みを恐れた身体が庇うようにゆっくりとした動きを望ん
でいる。
﹁ちょっと、冷えただけだろう﹂
﹁寒さは大敵なんだろう? もっと暖かいコートを選べ﹂
そう言って、疾風が自分のコートを脱いで私の肩にかける。
﹁疾風も寒いだろう! 自分のコートをきちんと着てくれ﹂
﹁俺は、寒くない。寒くなれば、身体を動かせばいいだけだし﹂
﹁駄目だ! 風邪をひく﹂
﹁引かない。きちんと体調管理をしている。もう二度と、風邪なん
か引くものか﹂
風邪をこじらせ、肺炎を引き起こしかけて学校を休んだ時に、私
が事件に遭遇したため、疾風はことさら自分の体調管理に気を使う
ようになった。
常に完全な体調で、私の傍にいるために。
﹁疾風が風邪を引いたら、私が世話をしてやろう﹂
﹁絶対に引かない!!﹂
ぎょっとしたような表情で、疾風が拒否する。
そこまで嫌がらなくてもいいじゃないか。
いくら私でも傷つくぞ。
﹁コートかぁ⋮⋮ダウンを着るのは早いだろうな﹂
﹁いいんじゃないか。別に、校則違反っていうわけでもないし﹂
﹁⋮⋮コートに関しては、東雲は緩いよね﹂
﹁まあな。それで助かってる面もあるし﹂
校舎内は完全快適暖房だが、通学に関しては個人で暖を取るしか
ないため、冬の装いとしてのコートには、細かい指定があまりない。
349
色は黒・灰・白・ベージュ・茶と地味な色を選ぶこと。
毛皮など、学生らしからぬ素材でなければそこまでめくじらを立
てられることもない。
今私が来ているのは、グレーのハーフコートだ。
ロングにしていれば、足は痛まなかっただろう。選び方を間違え
た。
一方、疾風が着ていたのは、ベンチコートだった。
体温が高いから、そこまで寒さを感じないと言う疾風は、冬場で
もそこまできっちりと防寒しないことが多い。
マフラーさえあれば大丈夫だと平然とした顔で言い切る。
その疾風がわざわざベンチコートを用意していたとなると、やは
り私のためか。
困ったな。
疾風の過保護ぶりが板につきすぎている。
心配をかけ過ぎているということか。
﹁クリスマスが過ぎれば、一気に正月だな﹂
﹁年末は行事が多すぎて困る。在原たちの誘いを受けることもでき
ない﹂
話題を変えれば、渋面が返ってくる。
﹁神職系の家じゃないだけましだろう?﹂
この寒いのに、禊だのなんだの言って、冷たい水に浸かる沐浴と
かしなくてはいけないしきたりがあるらしい。
その話を聞いたときには、神職系の家に生まれなくてよかったと、
本気で思った。
身を清める必要があるのなら、塩で清めてもいいだろうとか思う
のだが、それではいけないのだろうか。
宗像家は海水に浸かると言っていたな。
くれぐれも心臓麻痺を起こさないでほしいと真剣に告げたら、そ
れをやるのは男だけだから大丈夫よとにこやかな返事が来た。
巫女を重視する家系と神巫を重視する家系とで、多少異なるらし
350
い。
クラスメイトが過酷な状況に置かれているわけではないと知り、
ちょっとホッとした。
ちなみに我が家では、年末の大掃除は男が行い、その間女性はお
節料理作りに精を出す。
たかがお節料理とは言えない。
種類もさることながら、人数が半端ではない。
おそらくは300名分ほどは最低でも作っているはずだ。
挨拶に来る分家や、岡部家など、かつて家臣であった家々、それ
に会社関係などの人々をもてなすためだ。
業者を使えばいいじゃないかという考え方もあろう。
系列のホテルなどの料理人を集め、作らせれば簡単なのかもしれ
ない。
それでは、我が家に仕えてくれている人々に感謝の気持ちを伝え
られないではないかと代々の当主が言うため、こればかりは本家女
性の仕事になった。
去年までは私は手伝いには入れなかったが、今年からお手伝い要
員だ、下っ端だけど。
皆のおかげでこれだけ蓄えることができた、それを存分に味わっ
てほしい。そして、また今年一年、力を貸してほしいという意味が
あるため、家政婦さんたちのお手伝いもなしなのだ。
﹁包丁で指切るなよ﹂
疾風がからかうように告げる。
﹁大丈夫、包丁は使わないから﹂
﹁何するわけ?﹂
﹁んー? 栗きんとんの裏ごし要員⋮⋮腕がこわりそうだ﹂
若者には体力及び力勝負の仕事が割り振られる。
他にも真薯の裏ごしとかも言われた。
﹁⋮⋮クリスマスが終わったら、そのまま翌日3学期でもいいとお
もう﹂
351
﹁だな﹂
そのあとから始まる恐怖に、珍しく疾風も同意する。
今年はクリスマスプレゼントを渡す人が増えたから、選ぶのが大
変だ。
でも、選ぶのは楽しい。
そう思いながら、2人肩を並べてゆっくりと歩いていた。
352
43
クリスマスプレゼントは、疾風にマフラー、在原はひざ掛け、橘
に手袋、千瑛にイヤーマフで、千景には何故かブックカバーになっ
てしまった。
本人をイメージしてのプレゼントとか思って選んだつもりが、何
でかこういうことに。
千景とはよく図書室で会うからだろうか。
ぜひとも本も虫同盟を発足したいものだ。
千瑛は、ツインテールをしたときにイヤーマフが似合いそうだと
思ったせいだ。
もふっと暖かそうなイヤーマフは可愛いと思うのだが、喜んでく
れるだろうか。
在原は寒がりなので、勉強するときに使ってもらおうと思った。
橘は、何故かいつも手袋をしていないので、つい気になってしま
って買ったのだ。
なんか理由があって手袋していないのなら、失敗したけどまあ、
いいか。
受け取ってはもらえるだろう。
疾風はすぐ私にコートをよこしてくるので、せめてマフラーだけ
は死守してもらおうとこれにした。
聖歌が終わったら、プレゼントをサクッと渡して引き上げよう。
礼拝堂近辺でうろうろしていたら、いろんな人に掴まって、クリ
スマスから新年にかけてのイベントに誘われてしまうので、お断り
するのも気が引けるため即行で逃げる。
一応、聖歌が終わったら集合場所を決めて、そこに集まるように
したので、無事に逃げられるはずだ。
353
楽器演奏の補欠要員というのは、本当に名ばかりで、眺めている
だけの役だった。
あ、でも! パイプオルガンを少しだけ弾かせてもらった!!
足のペダルが複雑で、鍵盤もすごく重い。
これを同時進行で操るなんて、いや、本当にすごい。
エレクトーンのような感じだけど、実際の感覚はハープに近いん
じゃないかな?
足のペダルで音を変えつつ、メロディを両手で奏でるわけだし。
エレクトーンの足のペダルはリズム系で、音を変えるのは手許の
レバーだったような気がするし。
何人か、試に弾かせてもらったけれど、そのほとんどが音すら出
なかった。
私の場合、音は出たけど、気の抜けた音だった。
パイプオルガンというのは、日本でもかなり珍しい楽器で、あま
り多くはないらしい。
一番古くて大きいパイプオルガンが九州の私立大学の礼拝堂にあ
るそうだ。
ぜひ見てみたいものだが、そう簡単に見せてもらえそうにないの
が残念だ。
とりあえず、パイプオルガンを普通に弾けるには数年がかりの根
気が必要だということだけは理解した。
ピアノを兄に破砕されたことで断念した私には到底無理だという
ことだろう。
しかしながら、パイプオルガンの音というのは、光を浴びている
ときの感覚に似ている。
降り注ぐ音と降り注ぐ光。
雅楽で言えば、笙の音だ。
すごく気持ちがいい。
そう言うと、耳がいいと言われた。
やはり同じ感性勝負でも、音楽は私には難しいようだ。
354
終業式の翌日、クリスマスの午前中に東雲の礼拝堂へ集まる。
クリスマスイブにやたらと盛り上がる日本人だが、ミサが行われ
るのはイブではなくクリスマスだ。
クリスマスパーティと呼ばれる催しは、数日前からあちこちで行
われている。
祖父が私は体調不良で欠席と断っているが、ごめんなさい、わり
と元気です。
寒さでちょっときしんで痛いけど。
ストレスさえ溜まらなければ弱い皮膚も頑張ってくれてるし。
まあ、以前よりは多少強くなってきているから、もうちょっと頑
張れば元に戻るんじゃないかなーと思ってる。
右側の筋力は、以前よりも上がってるしね。
砕かれた骨をカバーするために筋肉が発達してくれたのだ。
今は、骨も完治しているので、とはいっても、以前の骨よりも太
くなっているので、全体的に左側より右側の腕の方が太い。
一応女の子なので、そこは気にしてます。
バランス悪いし、やっぱり多少はほっそりした腕には憧れるし。
肉振袖とは縁のない腕だけど。
そういうわけで、ちょっとドレスは着辛いものがある。
着物はそう言ったところを上手に誤魔化してくれるので、着付け
した直後はちょっと苦しいけれど、全体のバランスとしてはうまく
誤魔化せるので助かるのです。
とは言っても、クリスマスに着物というのも何となく浮いている
ような気がして、パーティには参加しづらい気もするし。
気にし過ぎと言われれば、それまでだけど。
御祖父様の判断には、私個人としては非常に助かってます。
355
疾風と一緒に礼拝堂へ訪れたときには、かなりの人数が集まって
いた。
中等部も高等部も3年生は自由参加だ。
外部受験を控えている者は、そちらに非常を傾けなければいけな
いからだ。
内部受験でほぼ確定している者たちは、のんびりとしているため
参加している者が多い。
疾風と別れ、パイプオルガンの傍の所定の位置につくと、ミサら
しきものが始まる。
らしきものというのは、うちはしっかり仏教徒なのでキリスト教
のミサに参加したことはないので、よく知らないからだ。
しかも、仏教もキリスト教もそれぞれ宗派というものが存在する
ため、その宗派というもので細かいしきたりが異なってくるせいで
余計にわからない。
知らないことは無難に済ませたいと思ってしまう事なかれ主義を
誰が責められようか。
とりあえず、毎年の流れが滞りなく行われたところで聖歌に移る。
パイプオルガンの荘厳な響きが堂内に反響し、それを覆うように
様々なパートの歌声が響き始める。
参加すよりも聴き手に回っている方が耳が幸せだ。
少なくとも、自分の残念な歌声を聴かずに済む。
空から降り注ぐようなパイプオルガンの音色と歌声に目を細め、
余韻に浸っているうちに一連の行事が終わったようだ。
ざわざわとした気配が漂い始め、退出する者、他の席に移動する
者が出てくる。
それに紛れ、私も礼拝堂から外へと移動した。
あまり人が来ない集合場所へ荷物を持って向かった。
中庭の一角で、今は水が止められた噴水がある。
そこのベンチに座って待てば、徐々に集まって来た人たちの顔ぶ
356
れに顔も綻ぶ。
さくっとプレゼント交換をして、年末年始のお互いの予定を確認
し合う。
皆、国内にいる予定だが、それぞれの家の行事で大忙しだそうだ。
﹁じゃあ、やっぱり3学期にならないと会えないわけだ﹂
わかっていたが、残念なこともある。
﹁ま、仕方がない。3学期は短いうえに、イベントごとも多くはな
いし。すぐに2年になるな﹂
﹁そうだね。今度は一緒のクラスになれるといいけれど﹂
そんなことを言い合って、﹃良い年を﹄と締めくくり、わかれる。
やはり、最後まで一緒にいたのは疾風だった。
﹁マフラー、ありがとう。手触りがいいな﹂
嬉しそうに笑ってすでに首に巻いている。
選んだのは、シルク混のカシミヤ素材のマフラーだ。
ストールではよくある素材だが、マフラーではそこまで見かけな
い。
見た目が非常に薄いので、色合いによっては寒そうに見えるが保
温性は抜群だ。
何より手触りがいい。
薄くて軽くて暖かいという優れものであるから選んだのだ。
﹁厳選したから、当然だな﹂
ちょっと偉そうに言ってみると、疾風が笑う。
﹁タオルもそうだけど、肌触りにこだわるよな、瑞姫は﹂
﹁そりゃ、気持ちいい方が絶対いいじゃないか!﹂
﹁そうだけど。昼寝用の枕とか、ブランケットとか、妙なところで
こだわってるし﹂
﹁妥協は許しません! もふもふとふわふわは正義です! 気持ち
いいのは幸せだしね﹂
﹁そういうもの?﹂
﹁そういうものです!﹂
357
肌触りって大事だと思うわけですよ。
気持ちいいとうっとりしてリラックスできるし。
﹁すごく気に入ったから、疾風にも同じものをと思ってね﹂
﹁そっか﹂
嬉しそうに笑ってくれるから、贈った甲斐があったというものだ。
こういうプレゼントって自己満足かもしれないけど。
気に入ってもらえたら、本当に嬉しいものだ。
﹁年末は、疾風も忙しいのだろう? 無理に顔を出さなくても大丈
夫だから。私も家から出る予定はないし﹂
﹁いいのか?﹂
﹁兄も姉も皆、家にいるのに、私が外に出られるわけがないだろう
? ものすごい重さの子泣き爺になりそうな蘇芳兄上がいるし﹂
﹁⋮⋮蘇芳様は相変わらずか﹂
﹁深雪義姉様と仲が良いのはいいことだけれど、2人して構ってこ
られるからなぁ⋮⋮﹂
深雪義姉様は蘇芳兄上のお嫁さんで、小柄で可愛らしい方なのだ
が、小さな見た目と違ってパワフルだ。
ぽややんとした印象とは異なり、全力で私に構ってくださる。
そこが蘇芳兄上の気に入ったツボだったと後から聞いたが。
﹁ま、頑張れ﹂
笑う疾風と一緒に車に乗り込み、学校を後にした。
****************
﹁さあ、瑞姫! 左腕の鍛錬よーっ!!﹂
﹁ちゃんとボウルを支えてあげるから、頑張りなさい!﹂
358
冬休みが始まり、今年は平穏に新年を迎えられるだろうと思って
いた矢先、人型台風が襲撃した。
﹁や。左腕って⋮⋮右腕、使えるようになってますよ、私﹂
むしろ、右腕の鍛錬をさせてくださいと茉莉姉上に言う。
﹁わかってないわね、瑞姫。あなたの右腕は詳しく知らない人間か
ら見れば、立派な弱点よ。そうして、左手一本で何ができると侮ら
れるわ。だからこそ、その左腕一本で返り討ちにしてみせるのよ!﹂
拳を握り、突き上げての茉莉姉上の宣言に、私は溜息を漏らす。
﹁いや、戦うつもりはありませんので﹂
﹁人生は常に戦いよ。戦いに負ければ、そこで終わりなの。あなた
も諦めずに最後の最後まで全力で戦いなさい。例え、相手が雑兵や
小者であっても﹂
﹁そうよ。茉莉姉さんの言うとおり! 瑞姫は左腕をきっちり鍛え
上げなさい。右腕も、ちゃんとリハビリしてるのなら、そうそう衰
えすぎることはないのだし﹂
﹁左腕もきちんと鍛えてますよ、私は!﹂
それこそ、右腕が二度と使えなくなるのではないかという恐怖と
戦いながら、ちゃんと左腕の訓練はしましたとも。
万年筆を持って文字を書く練習をしたし、お箸もちゃんと持てる
ようになったし。
文字を書くだけなら、シャープペンで練習すればそれなりに読め
るようになった。
だけど、余計な力が入ってしまうので、わざと万年筆で練習する
ようになったのだ。
万年筆は余計な力が入っていれば、インクが掠れて書けなかった
り、滲んだりして読みづらくなる。
お箸の訓練も、正しい握り方を基礎からきっちりやったあとに、
豆を挟んで並べたり、米粒を摘まんで移動させたりと、実にイライ
ラするリハビリをやりました。
そのおかげで、左手でも不自由なく大体の事ができるようになっ
359
たし。
まあ、やはり、力加減は右側の方が上手くいくけれど。
﹁裏ごしを馬鹿にしちゃいけないわ、瑞姫。力任せにすればいいっ
てものじゃないの。絶妙な力加減で繰り返しすることが、滑らかな
舌触りの裏ごしを仕上げることになるのよ﹂
﹁⋮⋮⋮⋮はあ﹂
真面目な表情で言っているけれど、絶対、私で遊ぼうとしている
な。
﹁特に栗きんとんは、お節料理の中でも人気が高いの! 丁寧に美
味しく仕上げなきゃ﹂
基礎だけど、大事なお仕事なのよーと訴えてくる姉2人に、ちょ
っと呆れてしまう。
この人たち、見た目や性格はかなりギャップがあるけれど、料理
の腕前は予想に反してかなり上手だ。
普段は絶対にしないけれど、こういう時はその実力をしっかり発
揮している。
ただ、2人揃って非常にお遊びが好きなのだ。
﹁茉莉、菊花! 食べ物と瑞姫で遊ばないのよ﹂
はしゃぐ2人に母が釘をさす。
﹁はーい! 食べ物は無駄にしませんから﹂
否定しなかったぞ。
私で遊んでいたのか、やっぱり。
﹁瑞姫。疲れたのなら無理をせず休みなさい。料理はその時の気分
で味が決まりますからね。疲れて楽しくない時は、我慢ぜずにやめ
なさい。料理を召し上がる方に対して失礼ですからね﹂
﹁はい、母様﹂
思わぬ母の一言に、素直に頷く。
そうか。
料理って、食べる人のために作るから、義務感だけで作っちゃダ
メなんだ。
360
当たり前のことに気付かされて、苦笑する。
昔は、単に自分が食べるためだけに作ってたから、そんなこと全
然考えなかったしな。
特にうちの御節は、振る舞い料理だから余計にそうなんだろう。
そう思いながら、真面目に裏ごしに励みました。
結果、見事に筋肉痛になりました。
何故背中がこわるのか、ちょっと不思議です。
361
44
傍から見ても御節作りは大変だと思っていたけれど、実際手伝っ
てみて、本当に大変だと実感した。
美味しい料理でないといけないから、絶対に殺気立っちゃダメな
んだけど、戦場のごとき忙しさってこーゆーのだろうと思わせるほ
どに秒刻みで動かないといけない。
総監督であり、自ら率先して働いている御祖母様の動きの優雅な
こと。
総蒔絵の御重箱に出来上がった料理を詰めていく様子は、本当に
楽しそうだ。
新年のご挨拶に来てくださった方に召し上がっていただく御重な
ので、味はもちろんだけれど、見た目もさらに重視される。
それぞれの御重に入るものはしきたり通りだけれど、どのように
飾るかは、その時々で変えるのだそうだ。
毎年来てくださる方に、毎年同じ飾り方では失礼だし、厭きてし
まわれるだろう、確かに。
私たちもお土産用のお持ち帰り御重に御祖母様のお手本を真似し
て詰めていく。
入れるのはいいのだが、問題は蓋がきちんと納まるかということ
だ。
空気に触れてしまえば、せっかくのお料理のお味が落ちてしまう。
御重もプラスチック材ではなく木箱だ。
作りがきちんとしていれば、何度でも使ってもらえるし、捨てる
時も焼却ゴミになるか、再利用できる資源として扱ってもらえるか
らだそうだ。
当主夫人というのは、そういう細やかな部分もきちんと心配りし
ないといけないのか。
362
他人事のように大変だなと思ってしまう。
まあ、実際、嫁にいこうがいくまいが、この部分は瑞姫の仕事で
はないから、気が楽だ。
この飾りつけのところで、ひとつお仕事をもらって嬉しかったの
が、ピックのデザインを任されたこと。
銀杏や甘露煮などを取り易いように竹楊枝を差しているのだが、
その楊枝の柄に少しばかり洒落っ気を出したいと御祖母様が仰って、
お正月らしいおめでたい模様を調べてデザインしてみた。
オーソドックスな扇とか、干支やかるたなどもあれば、反物や松
竹梅などもある。
家族内採用なピックは、御祖父様や父の顔をデフォルメしたもの
だ。
これは自分専用のものとひと目でわかるので、家族全員分作った
らと大笑いした茉莉姉上に言われた。
次回からは、先にデザインして、うちの注文を受けている職人さ
んに作ってもらおうかという話も出た。
なんにせよ、私でも役に立てることがあるというのは嬉しいこと
だ。
お持ち帰り用の御重に蓋を乗せ、きちんと納まったら、ポリ系の
シートで包み、汁零れがないように確認した後、相良家の家紋が入
った風呂敷に包んでいく。
手触りからすると、やはり絹だろうか。
あまり深くは考えないことにしよう。
家紋は長剣梅鉢の方だ。
六つ瓜に七つ引もうちの家紋。
2つ家紋があるのです。
使ってた時代が違うだけで。
本来の家紋が長剣梅鉢の方で、戦国以降に六つ瓜に七つ引になっ
たんだそうだ。
これに女紋といって、嫁いだ夫人の紋が加わるので、相良家の娘
363
たちが使う紋は複雑怪奇になる。
娘が一人だったら、母親の紋を受け継げばいいんだけど、複数人、
必ずいるので、区別をするために祖母や曾祖母、あるいは数代前の
方の紋を受け継ぐことになるのも珍しくはない。
茉莉姉上は、母の揚羽蝶の紋を受け継ぎ、菊花姉上は下り藤の紋
だ。
これは三代前の当主夫人の紋ということだ。
私は御祖母様の丸に中陰唐団扇の紋だ。
丸の中にお相撲の行司さんが持つ軍配のような紋が入っている珍
しいものだ。
御祖母様は相良の分家である西家から嫁いでこられたので、西家
の家紋だということだ。
ちなみに、私と御祖母様の区別は、相良家の家紋の隣に同じ大き
さの紋が並ぶと御祖母様、小さな紋であれば私となる。
嫁いできた方と、その家で生まれた娘との違いなのだそうだ。
他の家でも同じことをしているのかは、さすがにわからない。
これは我が家独特のしきたりのようだとは聞いているが。
何とか御重の準備が終わったころ、分家の方々が遠方から年跨ぎ
の挨拶に来られる。
大晦日に来て、元日の挨拶が終わったら、三箇日まで本家の手伝
いをしてくれるのだ。
﹁こまかひいさん、元気ぃしちょったんかの?﹂
分家筆頭の大叔父が御祖父様への挨拶を終えて、庫裡に顔を出す。
﹁あ。大叔父様、お久しぶりです。この通り、元気ですよ。大叔父
様もお変わりなく?﹂
祖父の弟で分家に移った大叔父は、かつての領地にある本家の家
を管理している方だ。
南九州であるせいか、あちらに住んでいる分家の方たちはのんび
りした性格の方が多い。
364
だが、情が強いため、一度怒らせると決して相手を許さない苛烈
さも持ち合わせている。
年に何度も顔を合わせているので、向こうの方言を聞き慣れてし
まい、私も普通に使って、時々皆に笑われることがある。
片付けることをなおすとか言ってしまうのだ。
筋肉痛などの凝りをこわるというのも方言だ。
どうにも可愛らしい表現に聞こえるようだ。
﹃こまかひいさん﹄というのは﹃小さい姫様﹄という意味だ。
﹃こまか﹄というのは﹃小さい﹄という意味と﹃若い・幼い・年
下﹄という意味も含まれている。
現在、本家で一番年若い女子という意味で私のことをそう言うの
だそうだ。
蘇芳兄上のところに子供ができたら、この呼び名はその子に移る
はずだ⋮⋮と、思う。うん、そうなればいい。
幼い頃から、﹃ひいさん﹄と呼ばれているので、﹃姫君﹄とか﹃
お姫様﹄と呼ばれるとちょっと抵抗を感じてしまう。
それこそ4歳までは、﹃ひいなさん﹄と呼ばれていた。
﹃雛様﹄という意味で、無事に育つようにという意味が込められ
ているらしい。
そこの頃までは、家族以外から名前を呼ばれたことがなかったと、
記憶している。
実にかすかな記憶だが。
﹁うんうん。元気にしとうよ。元気んなかのは川のほうやけど。水
かさのうて、いろいろ問題やて﹂
﹁川が? ああ、大事な観光資源ですもんね。急流で清流ですから﹂
﹁ほうかて若いもんが色々と考えちょうとが、一時のもんやし。ダ
ムさぁ、こさえるけんがいかんがね﹂
難しい表情になって、大叔父が唸る。
ああ。そのことを御祖父様に相談しに来たんだな、今回は。
地元の事で問題が上がれば、自治体やその上の関係機関への調整
365
をお願いしに来るのが大叔父のお仕事のひとつだ。
大叔父が地元にいるので御祖父様も安心してこちらでお仕事がで
きると仰っていた。
﹁ダム、ですか﹂
﹁ああええ。御上や学者先生方が気張ってダムさぁ、こしらえたん
はええが。わっちら、むかぁしからあの川さ、つきおうとうんじゃ
けん、あのままがよかぁさ﹂
ああ、なるほど。
急流でたまに氾濫する川を治水しようと上流側にダムを作ったら、
色々と問題が起こったわけか。
昔から氾濫する川だと知っているから、周辺に住宅を作らなかっ
たり、人工的に支流を作って多すぎる水を他へ流して水量を調整し
たりとかしていたのに、ダムができたせいでそこらへんがうまく機
能しなくなってきたのか。
急流で清流ということであれば、清流の女王である鮎が豊富で味
も良いと評判になる。
それを目当てに観光客が来るわけで。
まあ、温泉や焼酎蔵なんていうのもあるんだけど。
その鮎が取れなくなってきたら、地元としては死活問題だ。
あそこで食べた鮎のせごしは絶品だった。
珍味のうるかも美味である。
早く焼酎を片手に味わえる日が来ないかと日々うっとりして待っ
ているのだ。
あと5年の辛抱だけど。
3月生まれなので、まだまだ先だ。ああ、待ち遠しい。
﹁今年は私、お節料理のお手伝いしたんですよ﹂
﹁なんばこさえたんかいね?﹂
﹁栗きんとんの裏ごしと、真薯のうらごしとまるめたの。あと、盛
366
り付けも﹂
﹁そりゃ、大事したね。なら、きんとんはようけ味わって食べんと
いかんばいね﹂
にこにこと人の好さそうな笑みを浮かべて大きく頷く大叔父。
親戚の中でも特に私を可愛がってくれているので、ちょこっとし
たことでも大げさに驚いたり、喜んだりしてくれる。
つまり、私が大怪我した時に大激怒したのはこの大叔父なのだ。
多分、諏訪家が一番怖がっているのもこの人だろう。
諏訪家の斗織様に当主の資格なしと会うなり一喝したのだから。
私が瀕死の怪我を負った直接の原因は詩織様をさらおうとした犯
人が車で撥ねたせいだが、そもそもの原因が分家当主の多額の負債
だ。
浪費癖のある男を分家の婿養子に据え、それを事件が起こるまで
知らなかった本家当主があっていいものかと、当主の役目を何と心
得るかと怒鳴ったのだ。
確かに大叔父の言うことにも一理ある。
本家当主は分家を管理するのも当然の役目だ。
斗織様がきっちり管理してさえいれば、事件そのものが全く起こ
らなかったと考えれば、犯人よりも諏訪家憎しのうちの分家の考え
方もある意味理解できる。
おこってしまったものは仕方がないことだし、私は私がやれるこ
とをするしかないので、大人たちの対応はそれぞれに任せるしかな
いのだが。
﹁たくさん作ったから、いっぱい食べてね﹂
﹁ひいさんは、ほんなこつあいらしかな﹂
上機嫌で大叔父は私の頭を撫で倒して、御祖母様にも簡単に挨拶
した後、客間の方へと去って行った。
﹁⋮⋮⋮⋮⋮⋮鬼の寿一が、見た? あのデレよう!?﹂
﹁私たちには厳しいのに、何で瑞姫には大甘なのよ、あの人は! て、いうか、ホントにあれが鬼の寿一!?﹂
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茉莉姉上と菊花姉上が顔を見合わせて、大叔父の態度について話
し合っている。
大叔父の名前は、相良寿一だ。
﹃鬼の寿一﹄と呼ばれるように、自分にも他人にも厳しい人だそ
うだ。
私にも八雲兄にも、先程のように人の好い好々爺然とした態度で
接してくれるので、全然怖い人だと思ったことはないが。
﹁まぁ、仕方ないか。瑞姫だもんね﹂
﹁そうよね。瑞姫だもん、当たり前か﹂
私を見た姉たちが、妙に納得してしまった。
ここでは、末っ子マジックが妙な方向に転がっているような気が
するのだが、気のせいだろうか。
﹁ほらほら、あなたたち。これからお仕事が待ってるわよ。ちゃん
と身支度を整えて!﹂
御祖母様がチェックをし終え、姉たちに声を掛ける。
﹁瑞姫はちゃんと暖かくしてもう休みなさい﹂
いくら本家の娘といえど、未成年に割り振られる仕事は少ない。
これから姉たちは、祖父母や両親、兄たちと、年末年始の挨拶に
来る親族たちを出迎える仕事が待っている。
夜間業務は子供に振り分けるつもりはないと、きっちりしている。
遅くまで別棟の電気が点いていたら、夜更かしするなと怒られる
ほどだ。
﹁はい、御祖母様﹂
ここは素直に頷いて、部屋に戻るのが得策だ。
成人すれば、否応なしに姉たちと一緒にお出迎えの仕事が待って
いるのだから、それまではのんびりさせてもらおう。
それか、昼間にきっちり働けばいいことだ。
﹁瑞姫、ネットもほどほどにね﹂
菊花姉上が、釘を刺してくる。
﹁疾風にメールするのは!?﹂
368
バレてるけど、これだけは譲れない。
﹁疾風かぁ⋮⋮まぁ、あの子なら仕方ないわね。あんまり長いこと
メール打って、迷惑かけないのよ﹂
﹁うん!﹂
疾風にだけは必ず近況報告をするためにメールを入れている。
﹁あ。さっちゃんは?﹂
颯希も最近は頻繁にメールをするようになっている。
明日も、2人揃ってうちに来ることだろう。
﹁颯希もまだ小さいんだから、返事は明日って書いて送るのならい
いわ。じゃないと、あの心配性は返事がなければ電話しそうだしね
ぇ﹂
あはははは。菊花姉上、鋭いです。
一度、颯希にメールした後、寝落ちして、返信メールに気付かな
かったら、返事がないと颯希が岡部で大騒ぎしたことがあるらしい。
本家に電話するとか、自分が会いに行って確かめるとか言ってパ
ニック起こしている颯希に、疾風が叱りつけたそうだ。
時間的に考えて眠っている私を起こす気かと。
それで私が眠っているかもしれないということにようやく気付い
た颯希は、落ち着いたそうだ。
主大事な性格は好ましいが、もう少し余裕がないと困ると疾風が
ぼやいていた。
眠ってしまった私が悪いんだけど。
﹁あ⋮⋮うん。そうします。じゃあ、おやすみなさい﹂
そう言って、別棟の方へ引き上げる。
部屋に戻って疾風と颯希にメールを入れた後、明日着る着物を出
し、帯を合わせて気付く。
﹁あ。しまった! 帯結ぶの手伝ってって言うの、忘れてた⋮⋮﹂
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まあ、何とかなるか。
三箇日は、晴れるといいな。
別棟の灯りを消し、ベッドにもぐりこんだ私は、昼間の疲れから、
あっさりと眠りに落ちた。
370
45
元日の朝は、穏やかな晴天だった。
心地良い爽やかな目覚めの後、身支度を手早く整える。
母は一般家庭からの輿入れだったので、乳母もばあやもいません。
自分の事は自分でやるという質実剛健な家だしね。
名家、旧家には執事や家令がいるというイメージが強いようだが、
英国ではあるまいし、日本の旧家で執事を雇うところはそう多くな
い。
元々執事という制度がなかったせいだ。
勿論、家令がいる家は割とある。
こちらは制度としてあったせいだ。
文官武官、両方を輩出していた家だけに、相良家は極度に身の回
りの世話をされることを厭う傾向がある。
戦場で寝首をかかれないためだ。
岡部家は家臣で、一蓮托生の随身の家系であるため、傍に置くこ
とに躊躇いはないが、他の者だとまず信用しない。
領地・領民を守るために、周囲の状況を見極め、時に上司を裏切
り、仲間を裏切り、敵を味方に引き入れ生き延びてきたからだ。
周囲に強国があるための、弱小国の宿命と言えないこともない。
どんなことをしても領地と民を侵されることだけは赦すわけには
いかなかったからだ。
今はそんなことはないとわかっていても、DNAに刻まれている
のか、岡部の人間以外に世話を焼かれることは、思っている以上に
苦痛だった。
371
だからこそ、自分の事は自分でやるという、旧名家にあるまじき
独立独歩な気質が叩き込まれている。
帯を結び、姿見で確認する。
晴れ着とはいえ、振袖ではない。
長すぎる袖は邪魔だ。
料理を取り分けたりといったお仕事が待っているのだから。
﹁よし! 行くか﹂
まずは家長に新年の挨拶をしてから、両親、兄姉の順で挨拶して、
庫裡の仕事を手伝って、それから分家の皆さんの挨拶を受けつつ、
席に案内して、と。
本日のお仕事を確認しながら、別棟から本邸へと移動する。
祖父がいるであろう書院へ向かい、声を掛ける。
﹁⋮⋮御祖父様、瑞姫です﹂
﹁はいりなさい﹂
襖の向こうから祖父の声が聞こえる。
﹁失礼いたします﹂
所作通りに襖を開け、中に入り、襖を閉めてその場で手をついて
一礼する。
﹁こちらに来なさい﹂
﹁はい﹂
手招きされて、少しだけ近づく。
そこで新年の挨拶を告げる。
毎年行われる型通りの言葉に、祖父は目を細めてこちらを見てい
る。
﹁瑞姫、寒うはないか?﹂
傷を気遣っての言葉を掛ける祖父に、私は頷く。
﹁はい、大丈夫です﹂
372
﹁そうか。今日は身内だけだ。皆、おまえのことを案じているから、
その姿が辛ければ楽な格好に改めても咎めぬぞ﹂
﹁ありがとうございます。辛くなれば、我慢せずに着替えます﹂
あらかじめ許可しておけば、私が気兼ねなく着替えるだろうと思
ってのことだろう。
意地っ張りな性格を読まれている。
﹁今年一年、無理なく励め﹂
﹁はい﹂
祖父からの言葉に、頭を下げる。
家長への挨拶はこれで終わりだ。
静かに部屋を退出して、祖母と両親がいる部屋へと向かった。
純和風武家屋敷にそれがあるというのも変な感じだが、子供部屋
と呼ばれる南側に面した座敷がある。
庭に面した縁側には雪見障子が設えられ、明かりを得やすいよう
に考えられている。
この部屋の雪見障子や障子にはめ込んである硝子、畳も、幼い頃
に何度も取り替えられていた。
元気いっぱい、遊びたい盛りだった蘇芳兄上が暴れまわって、壊
しまくったせいだ。
この部屋だけでなく、ピアノ室まで壊したため、蘇芳兄上には壮
絶な罰が下されたと聞いたことがある。
だが、私は知っている。
子供部屋の障子が叩き割られたうちの半分の犯人は八雲兄上であ
るということを。
年が近いので、一番下の私の面倒を見ていたのは八雲兄上だった。
当時から超弩級のシスコンであった八雲兄上は、この部屋で私の
面倒を甲斐甲斐しく見てくれていた。
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大して癇癪も起こさず、何が楽しいのか、常にきゃっきゃと笑う
私の面倒を飽きもせずに見ていた八雲兄上は、この部屋で暴れる蘇
芳兄上が実は大嫌いだった。
理由は、私が強がって泣くからだそうだ。
手加減なしに暴れる蘇芳兄上が鬱陶しくなると、八雲兄上は問答
無用で実の兄を蹴り飛ばしていた。
これが、障子が壊れる理由である。
普段は大人しく聞き分けの良い子供である八雲兄上が、暴れん坊
の蘇芳兄上を蹴り飛ばすなど、当時、大人たちは想像すらしていな
かったのだろう。
したがって、子供部屋が荒らされた原因のすべては蘇芳兄上にな
ってしまっていた。
例え、蘇芳兄上が八雲兄上がやったと言ったとしても、姉上たち
が八雲兄上の味方になるので、結局怒られるのは蘇芳兄上なのだ。
多少蘇芳兄上が不憫だと思わないでもないが、自業自得の感は多
分にある。
両親たちへの挨拶が終わったら、子供部屋へと足を運ぶ。
本当はひとりひとりの部屋に挨拶に行くのが礼儀なのだろうが、
多分、皆、子供部屋の方へ集まっているはずだ。
確かあの部屋は掘りごたつだったはずだ。
夏場は畳敷きになっているが、冬になると畳を外して掘りごたつ
へと姿を変える。
実に趣のある部屋だ。
渋く囲炉裏でもいいが、囲炉裏がある部屋は庫裡の隣の座敷だけ
だ。
声を掛け、襖を開ければ、中にはすでに兄姉たちの姿がある。
﹁あけましておめでとうございます﹂
祖父母や両親の時のようにきっちりとした挨拶ではなく、略式で
挨拶すると、兄や姉たちも笑って挨拶を返してくれる。
374
﹁今年は、瑞姫も高2になるのよねー。進路、決める時期になった
わけだ﹂
しみじみとした表情で菊花姉上が告げる。
﹁八雲も法曹の試験、現役合格だって? 弁護士になるつもりなの
?﹂
﹁概ね、そのつもりです。まだ、勉強しなければならないことも多
いですし⋮⋮どこか、弁護士事務所に就職できればいいのですが﹂
﹁自分で事務所構えるつもりじゃないんだ?﹂
﹁この世界、そう甘いものではないんですよ。経験値を積むことが
最重要課題です﹂
﹁そっか。ちゃんと考えてるんだねー⋮⋮瑞姫は? このまま、デ
ザイナーになるつもりなの?﹂
にこにこと菊花姉上が問いかけてくる。
﹁いえ。しばらくはデザイナーを続けますが、学びたいこと、職業
にしたいものは別のものなので。疾風にもまだ相談していませんし﹂
﹁まだ相談してないの? 何故?﹂
茉莉姉上も、兄たちも不思議そうにこちらを見ている。
﹁どの大学のどの学部に行って、何を学ぶのか、まだしっかりとし
たビジョンがなくて。説得するだけの材料がないから﹂
﹁そうね。デザイナーなら、瑞姫にかかる負担は少ないだろうと疾
風が考えてるのはわかってるものね﹂
﹁私のも、国家資格だし⋮⋮就職先とかも考えないといけないんだ
ろうと思ってるし﹂
﹁それでも、その仕事につきたいのね?﹂
﹁はい﹂
﹁じゃ、頑張んなさいな。可愛いお嫁さんが許される家じゃないし
ね、うちは﹂
﹃役に立つこと﹄が課せられた家で、花嫁修業をしていればいい
なんてことは許されない。
そう言って笑った菊花姉上は、八雲兄上に視線を向ける。
375
﹁八雲もそのうち、彼女連れて来てよね﹂
﹁⋮⋮姉さんたちの婚約が調ったらですね﹂
その切り返し、危険なのでは!?
地雷、ぐりっと踏んづけそうなんだけど。
﹁言ってくれるわね! でも、冗談じゃないわよ。八雲ったら何で
も秘密主義なんだし﹂
ぷうっと頬を膨らませ、菊花姉上が言う。
﹁確かにね。初恋の相手とか、全然わからないし﹂
﹁⋮⋮隠してませんよ?﹂
茉莉姉上の言葉に、心外そうに八雲兄上が告げる。
﹁え?﹂
﹁ほら、ここに﹂
八雲兄上が、隣に座る私の頬をぷにっと摘まむ。
﹁う?﹂
﹁え!?﹂
ぷにぷにと突かれ、小動物を撫でるかのように指先で私の頬を辿
る。
﹁まさか﹂
﹁ええ、そのまさかです。納得できるでしょう? こんなに可愛い
生物、他にはいないですし﹂
にこやかに告げる八雲兄上。
﹁ひゃっ! あにうえ!! くすぐったいです﹂
﹁ああ、ごめん、ごめん﹂
くすくす笑いながら、八雲兄上が私の頭を撫でる。
﹁瑞姫がようやく喋れるようになったころに、僕のことを﹃にーに﹄
と呼んでくれた時に、射抜かれましたねぇ。何コレ、この可愛い生
物は! とね﹂
﹁⋮⋮昔っから劇甘に大甘なのは、そーゆーことだったの!?﹂
菊花姉上が声を上げる。
﹁隠してないでしょう?﹂
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﹁いや、隠してないけど、奨励しないわよ﹂
﹁いやだなぁ。分別はありますよ。瑞姫は可愛い妹ですって﹂
笑顔のまま、八雲兄上は頷いている。
﹁シスコンも充分に変態なので、分別という言葉に対して謝ってく
ださい!﹂
ぎょっとした私は、ばしばしと八雲兄上の腕を叩いてみる。
﹁はいはい、そこまで。そろそろ広間の方へ行くわよ﹂
茉莉姉上の言葉に、抗議をとりあえず飲み込んだ私は、ゆっくり
と立ち上がる。
賑やかな三箇日になりそうだ。
377
46
新年2日目になると、あちらこちらから挨拶に来られる。
本日のお仕事は、案内係だ。
分家の従姉妹たちに交じって、お客様を案内する。
一番難しいのは、お客様をお待たせしないことなんだよねー。
こればかりは挨拶を受ける祖父や父の手腕なんだけど。
﹁瑞姫さん、岡部家の皆様が⋮⋮﹂
菊花姉上のところにお客様を案内して、玄関に戻ろうとしたとこ
ろへ声を掛けられる。
﹁はい、今いきます!﹂
疾風たちが来たのか。
裾が乱れないように気をつけながら、なるべく早く歩く。
﹁⋮⋮あ﹂
﹁これは、瑞姫お嬢様﹂
玄関からちょうど上がってこられた岡部のおじさま⋮⋮つまり、
疾風のお父さんだった。
﹁岡部のおじさま、あけましておめでとうございます。寒い中、よ
うこそおいでくださいました﹂
端に寄り、膝をついて挨拶をする。
﹁あけましておめでとうございます、瑞姫お嬢様。これはまた、艶
やかなお姿ですな。お館様も次代様も目を細めておいででしょう。
うちの莫迦息子どもがご迷惑をおかけしておりませぬか?﹂
﹁いえ、疾風にも颯希にも助けてもらっています。本当にいつもあ
りがたいと思っているんですよ﹂
﹁そうですか。疾風も颯希も瑞姫お嬢様に差し上げましたので、存
分に扱き使ってください。それが、これらの為にもなるでしょう﹂
378
﹁ありがとうございます。祖父のところにご案内いたします﹂
正月だけに、いつもと違って形式ばった会話をしつつ、岡部家の
方々を御祖父様のところへと案内する。
御祖父様への挨拶が終わるまでは、他の方と気軽にお話はできな
いのだ。
家長が最優先だから。
御挨拶が終わって、広間の方へ案内したら、普段通りにお話がで
きる。
岡部家の皆様が来たら、私の案内係はお役御免だ。
そのまま岡部家のおもてなし係になるからだ。
本家の娘がもてなすことで、これまでと変わらず岡部家を大切な
家だと思っていることを示すのだそうだ。
それもしきたりなので、あまり深く考えたことはなかったが、お
客様を広間まで案内し、そこにいる一族の女性に託すと、あからさ
まに落胆の表情を浮かべるお客様が中にはいるので、それなりに意
味があることなのだろう。
祖父の居る部屋まで案内し、中で控えている大叔母に託すと、私
は廊下に座って待つ。
正座ができるようになったから、この役目も苦ではなくなった。
椅子に座る生活が主流になってきたとはいえ、やはり日本人は畳
の上に正座が一番だと思う。
藺草の香りがふわりとすると、ものすごく落ち着くし、和むのだ。
道場の畳はちょっと汗臭いけど。
あれ、定期的にちゃんと干してるのになぁ。
ちなみに私が座っている廊下も畳敷きだ。
本邸の廊下は板張りと畳敷きの2種類がある。
これは、一種の境界線のようなものだ。
ごく一般的なお客様だと、板張りの廊下までにある座敷にお通し
するけれど、お正月などの特別な場合と、大切なお客様は畳敷きの
廊下にある座敷へご案内するのだ。
379
もちろん、畳敷きの廊下に気付いて質問してくるお客様には笑顔
でスルーだ。
自分がどのランクの客なのか、知らない方が幸せというものだ。
岡部家の人間は当然ながらフリーパスだ。
どの部屋でも、自由に出入りできる。
まあ、個人使用の部屋であれば、当人の許可はとりあえず必要だ
けど。
私がいる別棟は1階部分はフリーパスで、2階以上は疾風と颯希
のみ自由に出入りできる。
一言声を掛けてもらえれば、全然構わないという程度なのだが、
一応、随身とそうでない岡部の人間とを区別しているだけだ。
のんびり考え事をしているうちに挨拶が終わったのだろう。
すっと襖が開き、大叔母が顔を見せ、小さく頷く。
それに頷き返し、私は立ち上がる。
﹁では、どうぞこちらへ。広間の方へご案内いたします﹂
にこやかな笑顔を作って、斜め前に立ち、案内係を務める。
そんなことをしなくても、場所は知ってるし、勝手に行っても大
丈夫な人たちなんだけど、他のお客様の手前もあるし。
でも、何だか不思議な感じがする。
岡部のおじさまは通常運転で穏やかに微笑んでいるけど、疾風の
お母さんであるおばさまは微笑ましそうに私を見つめている。
疾風の2人のお兄さんは、にこにこと、それはもうイイ笑顔で私
を見ているし、疾風はどういう表情をしたらいいのかわからないと
いった風によそ見している。
颯希はじいっと何故か、私の帯を見ていた。
何故、帯!?
形、崩れてないけど。
ちょっと気になるところだが、お仕事中なので、広間についたら
聞いてみよう。
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広間につき、中へ入る。
岡部家の方々の席は、下座のお客さま方とは違い、きちんと席が
決まっている。
不慣れな私でも、席次は覚えているので案内は楽だ。
もちろん、毎年同じ席なので、彼ら自身、どの席かを知っている
というのもあるのだが。
中で給仕を手伝ってくれている分家筋の女性たちが、おしぼりや
ら飲み物の準備を整え、慣れた様子で配っていく。
﹁ささやかではございますが、どうぞお召し上がりくださいませ﹂
準備が整ったら、今日足を運んでいただいたお礼と、料理を勧め
る口上を述べて、本日のお仕事終わり。
はふっと息を吐いたら、皆に笑われた。
﹁お嬢、可愛いー! 八雲が萌え萌えしてたんじゃない?﹂
颯馬さんがくつくつと笑いながら言う。
﹁⋮⋮萌え萌えって⋮⋮﹂
﹁あの妹馬鹿、スマホにお嬢の写真集つくってるんだよ? お嬢に
会えないとずーっとスマホ眺めてんの﹂
﹁それはイヤ! 颯馬さん、私が許します。その写真、消去でお願
いします。出来れば、スマホに入ってる私の写真、全部消しちゃっ
てください。肖像権の侵害です!﹂
﹁だよねー。それは、やっちゃうけど。多分、データのコピー、取
ってると思うよ? 用意周到で執念深い性質だから﹂
自分の写真が、兄とはいえ他の人のスマホにあるなんてこと、と
てもじゃないが耐えられない。
八雲兄上に嫁の来てがあるか、心底心配になってきた。
﹁年が離れているから、可愛いんだよ。それに、その着物もよく似
合ってるし。帯の結び方も変わってて可愛いね﹂
伊吹さんが穏やかに笑う。
﹁瑞姫様、その帯、どうやって結んだんですか?﹂
381
伊吹さんの言葉に颯希が興味津々になって問いかけてくる。
そうか。帯の結び方が気になっていたのか。
﹁花結び。ふくら雀という帯の結び方の変形版。人の帯だったら結
べるけど、自分では無理だから、これは結んでもらったの。基本の
ふくら雀なら1人でも大丈夫なんだけど﹂
昨日は、文庫結びだったけど、今日はお客様のお相手をするから
と、華やかに見えるように姉たちに結んでもらったのだ。
もちろん今日は振袖だ。
﹁花結び⋮⋮﹂
颯希の表情からすると、これは帰ってから調べる気だな。
だけどね、いくら君が私の傍付きだからといって、着物の帯を結
べとは言わないからね。
そのぐらい、自分でやるから。
疾風にだってさせたことないんだからね。
﹁瑞姫、筋肉痛は大丈夫か?﹂
ずっと気になっていたのか、疾風が問いかけてくる。
﹁もう大丈夫! 治った﹂
﹁筋肉痛? 瑞姫ちゃん、筋肉痛って何をやったの?﹂
伊吹さんが心配そうに顔を覗き込んでくる。
岡部家の人たちも大概心配性だ。
世話好きな性格が多いため、こういったところでそれが遺憾なく
発揮される。
﹁左腕の鍛錬と銘打って、きんとんの裏ごしをさせられました﹂
心配されるより笑いを取ろう。
そう思って正直に告げれば、一瞬吹き出しそうになったものの、
とっさにそれを呑みこみ、微妙な表情になる。
うん、優しいなぁ。
うちの兄姉なら、長兄を除いて全員大爆笑だ。
﹁⋮⋮左腕⋮⋮そうですか。では、栗きんとんは心していただきま
しょう﹂
382
穏やかに微笑んだ岡部のおじさまが言う。
何故右腕を使わなかったのか、おじさまにはわかったらしい。
﹁お嬢、お嬢! 他には? 何を手伝ったの?﹂
颯馬さんが食べる気満々で問いかけてくる。
﹁真薯の裏ごしと、まるめたの。他には⋮⋮﹂
ローストビーフの紐掛けとか、海老の殻むきとか、初心者でも大
丈夫! 的な初お手伝いの中身を羅列していく。
栗の殻むきは、結構大変だった。
﹁⋮⋮お嬢、頑張ったね。確かに筋肉痛にもなるよ﹂
お手伝いの内容を聞いた颯馬さんがしみじみと言う。
労ってくれてありがとう。
美味しく食べてもらえたらもっと嬉しいです。
﹁では明日は、疾風を差し向けましょう﹂
おじさまがさらりとそう仰ったので、思わずおじさまを見て驚く。
三箇日だけでも家族と過ごすようにと、代々の取り決めで岡部の
者が主の許へ侍ることはない。
﹁ですが、おじさま⋮⋮﹂
﹁お館様の許可はいただいております。どうぞ、存分に使ってくだ
さい﹂
﹁⋮⋮助かります﹂
もう決まったことなのだと言われ、戸惑いながらも礼を言う。
彼らが何を警戒していたのか、それを知るのはかなりあとの事だ
った。
383
46︵後書き︶
アレルギー発作と風邪とを併発してしまいました。
明日の体調により更新をお休みするかもしれません。
384
47
3日目は、朝食時に祖父に今日は客人対応をしなくてもよいと言
われた。
何かしたっけか、私?
昨日1日を振り返り、失敗らしきことがなかったかをざっと思い
出してみたが、思い当たることはなかった。
﹁今日は岡部の者たちも入るから、手は間に合っている。瑞姫は部
屋で仕事をしているか、疾風と遊んでいなさい﹂
父からも言われ、盛大に首を捻る。
何か、おかしい。
私を表に出したくないみたいだ。
﹁何方がお見えになられる予定なのですか?﹂
私に来客対応をさせたくない相手が来るということなのかも。
そう思って、問いかければ、実にイイ笑顔が返ってきた。
﹁⋮⋮言いたくないということですか。わかりました。これ以上は
訊ねません。疾風と別棟で遊んでます﹂
ちょっとばかり拗ね加減で言えば、顔色を変えるのは兄たちだ。
﹁瑞姫! 時間が空いたら、何か持って遊びに行ってやるからな!
!﹂
蘇芳兄上がここぞとばかりに声を掛けてくる。
﹁蘇芳兄上は真面目にお仕事をしてください﹂
きっぱりと拒絶すれば、ショックを受けて固まる。
﹁瑞姫の様子なら、僕が見るから、兄上は心配なさらないでくださ
い﹂
﹁八雲兄上も結構です。もし、私の部屋に来られるというのなら、
まず、スマホの私の写真データをすべて消去してからにしてくださ
い。肖像権の侵害を訴えます﹂
385
﹁もしかして、それ、颯馬に聞いた!?﹂
愕然とした表情を浮かべた八雲兄が、心当たりの名前を告げる。
﹁私のニュースソースがひとつであるわけがないでしょう? 確認
を取れる方は複数名いらっしゃいます﹂
あれからちゃんと調べて確認を取ったのだ。
そして、犯人の1人を突き止めた。
﹁ごめーん、八雲! 頼まれて送ったデータがあるの、ばれちゃっ
た﹂
にこやかな笑みを浮かべた茉莉姉上が片手をあげて軽く謝罪する。
﹁茉莉姉さん!?﹂
﹁盗撮は犯罪です﹂
にっこりと笑って告げれば、茉莉姉上が首をすくめる。
﹁だって、瑞姫が怒ると怖いんだもの。分が悪いし﹂
おほほほほ。
理詰めで説教しましたとも。
ちゃんと刑法とか刑事訴訟法とか、民事訴訟法とかを調べて、裁
判の結果も調べて、淡々と説明しましたし。
医者が盗撮したとなったら、盗撮した中身にかかわらずどのよう
な噂が立って、どういう影響が出るかも想定して。
想像力を掻き立てられるように、丁寧にお話をさせていただきま
したとも。
だんだん顔色が悪くなっていく茉莉姉上の様子を無表情で眺めま
した。
﹁弁護士を目指す八雲兄上が、まさか犯罪履歴があるとなったら⋮
⋮﹂
﹁! ごめんなさい。すぐ消します!!﹂
本気でやるよ? と、にこやかに笑えば、八雲兄上は白旗を掲げ
た。
よし。勝った!
﹁本当に、あなたたちは仲がいいこと﹂
386
私たちのやり取りを眺めていた御祖母様が口許に手を添えておっ
とりと笑う。
﹁本当に平和ですわね﹂
母もにこやかな笑みを浮かべている。
そうか、これは仲が良いで済んじゃうレベルなのか。
﹁母様、お昼御飯、2人分確保したいのですが、よろしいでしょう
か?﹂
﹁ええいいわよ。御節も厭いたでしょう? 何か、簡単に作って持
って行ってあげましょうね﹂
﹁ありがとうございます!﹂
ラッキー!!
母の手料理って滅多に食べれないから、言ってみるものだ。
得した気分。
お行儀よく解散の合図を待って、それから部屋に戻った。
その日1日、別棟で大人しく過ごしました。
とりあえず何も問題は起こらず、平和だった。
そして、後から気づく。
どうせなら、道場に行く許可貰っておけばよかった。
かなりの時間潰しができたものを!
三箇日が終わると、日常が戻ってくる。
3学期が始まる前に定期検査を受ける予定になっている。
指定された日時に病院に行き、血液検査などを受ける。
炎症反応とかを調べるそうだ。
血液だけで、いろんなことわかるって不思議だなぁ。
検査の結果が出てから診察なので、時間がかかるのは仕方ない。
名前を呼ばれて診察室に入ると、PCの前に座った桧垣先生が穏
387
やかな笑顔で迎えてくれた。
﹁検査結果が出ましたけれど、特に問題なしですね。まぁ、ちょっ
と貧血気味だけど、これは深刻なレベルではないので、食事で気を
つければ十分かな﹂
お。炎症反応なしですか!
たまに引っ掛かるときもあるけど、これならしばらくは検査受け
なくて済むようだ。
﹁2学期の間は、皮膚が破れたりしなかった?﹂
2学期中も定期検査は受けていて何度も同じことを聞かれたな。
﹁⋮⋮そう言えば、夏休みに入る前の6月に1度、ちょっぴり破け
た後は全然⋮⋮快挙ですね!﹂
こんなに長い間、何もなかったのは初めてだ。
﹁大分、腕の皮膚も強くなってきつつあるようですね。でも、油断
してはいけませんよ?﹂
﹁はい。ストレス溜めないように気をつけます﹂
嬉しくてにこにこしていたら、傍に控えていた看護師さんたちも
良かったですねと言ってくれる。
﹁ありがとうございます。早いところ、面の皮並に腕の皮膚も厚く
なるといいんですけどねー﹂
しみじみとそう言ったら、我慢できなかったらしい看護師さんた
ちが吹き、笑い出す。
え? ココ、笑うとこ?
﹁瑞姫ちゃん、面の皮、厚いんだ?﹂
桧垣先生まで笑っている。
﹁え? 普通に厚いですよ? 笑顔貼り付けて、裏ではいろいろや
らないと余計なことを押し付けられちゃいますし﹂
﹁面白いよね、さすが、相良先生の妹さんだ﹂
それって、どういう評価でしょうか?
絶対、褒められてないよね。
茉莉姉上、病院で何やってるんですか、アナタ。
388
﹁さてと、次回の予約は3月で大丈夫ですね。春休みの予定はどう
なってるの? 都合のいい日にちはある?﹂
﹁春休みの予定は、勉強のみです。いつでも大丈夫ですので、先生
にお任せします﹂
﹁⋮⋮勉強って⋮⋮﹂
桧垣先生が微妙な表情になる。
﹁学生さんなんだから、勉強するのはいいことなんだけど。でもそ
れだけって⋮⋮﹂
﹁主席、取りたいじゃないですか。全科目制覇とか、全部満点とか
狙うのも楽しいですし。1人で勉強するんじゃなくて、友達も一緒
ですし﹂
﹁そうなのか。お友達も一緒なら、確かに勉強するのも楽しいね﹂
妥協点を見出したのか、無理やり納得したような表情で桧垣先生
は頷く。
﹁じゃあ、この日はどうかな?﹂
3月の予約状況を確認した桧垣先生が、カレンダーから日時を示
す。
﹁構いません﹂
﹁じゃあ、予約しておきますね﹂
PCの予約システムに私の名前を打ち込んでいく。
机の上にあるプリンタから予約票が印刷されて出て来た。
検査結果や受診票などと一緒に予約票も手渡される。
﹁会計受付の方へ行ってください。お大事に﹂
看護師さんが今日の診察は終わりだと告げる。
﹁はい。ありがとうございました﹂
﹁瑞姫さん、くれぐれも無理はしないようにね﹂
﹁はい。承知しました﹂
先生に念押しされてしまった。
そこまで信用ないのか、私!
診察室を出て、疾風と合流する。
389
﹁瑞姫、どうだった?﹂
﹁ばっちり! 腕の皮膚も厚くなってきてるって﹂
﹁そうか、よかったな﹂
結果を聞いて、疾風がホッとしたように笑う。
﹁あらあら。仲の良いご兄妹だこと﹂
診察を待っているらしい老婦人が微笑ましそうに私たちに声を掛
ける。
﹁優しいお兄様ですねぇ﹂
心配かけちゃだめよとおっとりと話すご婦人に、私も笑顔を返す。
﹁はい。では、失礼します﹂
軽く会釈をして、疾風を促し、受付に向かって歩き出す。
﹁疾風、お兄様だって?﹂
﹁う⋮⋮まぁ、誕生日は俺の方が早いし。兄と言えば、兄かもしれ
ないけど⋮⋮﹂
﹁顔、似てるかなぁ?﹂
同じ学年なのに、兄妹に見られたことを不思議に思いながらひた
すら歩く。
顔ではなく、仕種が似ていると指摘されるまで、私たちの間では
そのことが疑問として残っていた。
390
47︵後書き︶
症状があまり芳しくないため、明日より数日間、入院することにな
りました。
そのため、更新が数日間滞ります。
詳しくは活動報告に記しますので、そちらの方をご覧ください。
391
48
3学期が始まる。
久々の学園は、ひやりとした空気が漂っていた。
短い間とはいえ、人がいなかったせいだろう。
人が増えるたびに、学園内の空気が温かく解けていく。
この刻々と変わっていく空気を眺めるのが、私は好きだった。
人の気配がこうまで空気を変えるのかと、温かな驚きを感じるの
だ。
だから、始業日が一番好きだ。
お正月を暖かい海外で過ごしてた方から大量のお土産をいただく。
実にありがたい。
そして、すみませぬ。
うちは日本から移動しないので、お渡しできるものがないのです
よ。
大叔父に頼んで、地元の特産品でも送ってもらうか?
焼酎が送られてきそうな気がするから駄目だ。
うん、焼酎最中も駄目だ。美味しいけど、アルコール少し入って
るし。
キジ車とか花手箱なんかはいいかも。
本来は子供のおもちゃなんだそうだが、あれはすでに工芸品の域
に入ってるし。
椿のデザインが華やかで可愛らしいのだ。
そういえば、あのデザインで羽子板があるって言ってたな。
それも可愛いかも。
392
お土産くれるの女の子が多いしね。
帰ったら相談してみよう。
そんなことを考えながら、彼女たちのお土産話に相槌を打つ。
夏冬に海外脱出をしないせいで、私が海外に行ったことがないと
思っているお嬢さんも割と多いが、一応、行ったことはあるのです
よ?
七海さまに拉致られて、御祖母様と一緒にとかでイタリアやフラ
ンスあたりの劇場限定ですが。
なので、オペラ座の内装には詳しくなった。
歌舞伎もそうだけど、舞台装置とか見るのが楽しいんだよね。
御祖母様は歌舞伎もお好きなので、よくお供します。
歌舞伎の衣装は、生地が本当に素晴らしいものを使っているもの
が多くて、色の組み合わせとか、勉強になるし。
一生懸命にお土産話をしてくれるクラスメイト達を可愛いなぁと
思って眺めていたら、彼女たちがはたっと表情を改める。
﹁瑞姫様が聞き上手なので、ついつい話し込んでしまいましたけれ
ど、つまらなくありませんでした?﹂
﹁いいえ。とても興味深くお聞きしていますよ﹂
﹁わたくし、普段、ここまでお喋りじゃありませんのよ?﹂
一生懸命弁解する様子は、本当に可愛らしい。
﹁私に聞かせようと思って、話してくださっているんですよね﹂
わかっているとも。
にこにこ笑って聞いてくれる人には、熱弁を奮いたくなってしま
うしまうんだよね。
滾る気持ちを抑えきれずに語っちゃうんだよね。
﹁⋮⋮瑞姫様はずるいですわ﹂
頬を染め、拗ねたように告げるクラスメイト。
﹁おや、どうして?﹂
﹁つまらないことでも笑顔で聞いてくださるので、ついつい話し過
393
ぎてしまいますもの﹂
﹁つまらないことはないですよ。とても興味深いし、参考になりま
す﹂
特に、食べ物系の話はありがたいよね。
海外での食事って、気になるところだし。
私が海外に行くときは、殆ど七海さまが取り仕切っているのであ
まり自分の意見を言うことはないけれど、たまに、本当にたまに、
お願いしたいことがあるのだ。
七海さまはあの通り、茶目っ気たっぷりで冒険家なところがある
ので、気になったちょっと変わった料理を出すお店に私たちを連れ
ていくことがある。
一度、足を運んで気に入ったから、ということはまずない。
話を聞いて、ちょっと気になったから行ってみましょうよと、私
たちにまで冒険を課すのだ。
七海さま、お願いです。ゲテモノ系と呼ばれる料理を出すお店に
は私たちを連れて行かないでください。
精神的に食べれない料理というか、食材というのは、確かに存在
するのですから。
出された料理を食べないというのは、マナー違反なので頑張りま
すけど、胃と精神にダメージが与えられますので、食材だけは確認
してください。
まぁ、そういう時に、クラスメイト達から聞いたお店が私の助け
手になるのだ。
七海さまの気を逸らし、美味しい食事にありつくための。
ですから、皆さま、もっと詳しくたくさん聞かせてください。
わりと切実です。
始業式が始まるまでの間、教室でまったりと時間を潰す。
394
もうそろそろ放送が入るころだろうかと時計を見上げたとき、机
の横に誰かが立った。
見覚えのない顔の男子生徒だ、誰だろ?
ふと首を傾げ、目を瞠る。
見覚えがないわけがない。
充分あるだろう!?
諏訪伊織じゃないか。
随分と雰囲気が変わって、そのせいで顔立ちまで違っているよう
に見えたのかもしれない。
パーツは確かに、見覚えがある。
﹁休んでいなくて大丈夫なのか?﹂
こちらを気遣うような口調で見下ろしてくる諏訪の顔は、大人び
て見える。
﹁⋮⋮え?﹂
何のことだと首を傾げれば、わずかに諏訪が笑う。
﹁3日、両親がそちらへ挨拶に向かった。おまえに会わせてほしい
と頼んだら、休ませているからと断られたと言っていた﹂
﹁⋮⋮ああ。翌日が病院で検査があるので、疲れないように大事を
取っていたんだ﹂
﹁そうか。それなら、当然だな﹂
少しばかり嘲笑うような色が滲み出る。
﹁諏訪は来なかったのか?﹂
﹁⋮⋮行けるわけがない。両親のことは、止めたが、愚かなことに
大丈夫だと言って人の忠告を聞かずに出かけたがな。表面上、赦さ
れている態度を真に受け、本邸に伺うなど、我が親ながら、呆れて
しまったぞ。去年、どれだけのことを相良にやったのか、理解して
いないらしい﹂
去年の秋ごろから、諏訪に何があったのか。
今見る限りでは、色々削ぎ落とされて、シンプルになっていると
いう感じを受ける。
395
俺様なところは微妙に空気が残っているが、まあ、それがなくな
れば諏訪ではない気がするので、仕方がないところだが。
それ以外のところでは、常識的な判断を下している気がする。
相良の本邸に行けないと思うところとか、両親を止めたというと
ころとか。
表面上、赦されていると理解しているところも意外だった。
以前の諏訪なら、本当に許されているのだと思っていてもおかし
くはない。
﹁⋮⋮今、家を出て、先代⋮⋮祖父のところに身を寄せている。そ
こで、祖父に一から鍛え直してもらっている。今まで理解できなか
ったことが、少しずつわかりだした。己がどれほど愚かだったのか
も、情けないことにな﹂
﹁⋮⋮⋮⋮⋮⋮﹂
先代は、斗織様に家督を譲られて悠々自適のご隠居生活を送って
いるという話だが、諏訪家で一番恐ろしいのは先代であることは間
違いない。
今まで何も動かれなかったのは、ご自分の役目を決めておられた
からなのか。
諏訪老は、諏訪家を飛躍的に発展させた方だ。
名家としてはトップクラスの歴史を持つが、財閥としては中堅の
上といったところから大財閥へと押し上げた逸材で、財界には今で
も影響力を持っている。
もし、3年前の事件の時に諏訪老が指揮を執っていたら、今、こ
んなことにはなっていなかっただろう。
あの時、諏訪老が当主であったなら、そもそもあの事件すら起こ
らなかっただろうと簡単に想像できる。
それこそ陰で諏訪老は退陣の時期を誤ったとすら言われたほどに。
だがそれもif話だ。
すべては仮定であり、諏訪老が動かなかったことで相良が有利に
396
動けたということもある。
諏訪の面差しが変わったという理由には充分すぎるほどだ。
﹁己が愚かだとわかることは、本当に恐ろしく、そして恥ずかしい
ことだろう?﹂
ある程度、年を取れば、若い頃の己を思い返して黒歴史認定した
くなることがある。
薄っぺらい割にはやたら高額な本を大量に買い込んで鼻息荒く読
んでいたとか。
あの本、どうなったんだろう?
私が死んだあと、誰かに見つかってるだろうなぁ。
友人たちが察して引き取ってくれていると助かるが、親が遺品整
理で見つけたとしたら⋮⋮ごめんなさいとしか言えない。
それよりも、私の死因が事件性に関わることだとして、警察がマ
ンションを調べたらとか考えると、もういたたまれない。
死んでてよかったと別の意味で思ってしまう。
過去を憂いて思わず呟けば、意外そうに諏訪が目を瞠る。
﹁相良にもそう思うことがあるのか?﹂
﹁⋮⋮私を何だと思ってる? 完璧な人間などいない。自分が至ら
ぬ人間だと知っているからこそ、常に何が最良かを考えている。そ
れでも失敗して、己の愚かさに反省しているが﹂
﹁相良に迷うことなどないのかと思っていた﹂
﹁迷いはあるが、それを悟られてどうする? 迷う姿を見せれば、
時として信頼を失いかねないこともある。気弱な姿を見せれば、そ
こを攻められる。自分の為だけでなく、守らねばならないものの為
にも迷いない姿を見せ続けなければならない世界に生きているのだ
ろう。君も、私も﹂
﹁⋮⋮⋮⋮先代と同じことを言う。そうか。相良はそう考えて立っ
ているんだな﹂
諏訪の声に、驚き以外の別の色が滲む。
397
﹁俺が相良に追いつくのは、相当時間がかかるということだけはよ
くわかった﹂
追いつく?
何のことだろう。
何を考えている?
﹁いつか、必ずお前に追いつく。そして、その時、今までのこと全
てを謝罪する。そこから対等の関係を作り上げる﹂
淡々と決意表明をする諏訪。
ちょっと待て!
何のフラグだ、それは!?
ここでフラグを立てるつもりなら、﹃勝手にしろ﹄とか答えちゃ
うんだろうけど。
嫌だ。
それは絶対にいや。
フラグは立てたくないぞ。
﹁⋮⋮いつ、誰が、追いついたと判断するんだ?﹂
フラグは折るものだろう、絶対。
﹁それは⋮⋮﹂
﹁判断基準がないものを目標にしたところで、納得することはない。
そして、何の謝罪だ? 誰が受け入れればそれは終わると思ってい
るんだ?﹂
私は過去の記憶の残滓のようなものだ。
諏訪が本当に謝るべきは、瑞姫本人だ。
その瑞姫は、いない。
諏訪が答えようとしたその瞬間、放送を知らせる音が鳴り響く。
そうして、講堂へ集まるように指示する声が教室にいた生徒たち
を廊下へと促す。
私も立ち上がり、廊下へと向かう。
諏訪からの答えは、聞こえなかった。
398
48︵後書き︶
無事、退院してきました。
詳しくは活動報告に記しています。
入院中、PCも携帯も扱えないのが苦痛でした。
ノート持ち込んで下書きはしてましたけど︵笑︶
399
49
闇の中、戸惑うようにあたりを見回す迷子の女の子。
優しげな顔立ちは、心細げだ。
長い髪を揺らし、あちらこちらを見渡しては、おそるおそると足
を踏み出す。
進まなければならない。
その意志だけは感じ取れる。
もはや、それが使命となってしまった女の子。
何処に進むのか。
何をしたかったのか。
それすらもわからなくなっている。
ただ懸命に、前に進もうとしている少女に、声を掛けずにはいら
れなくなる。
瑞姫、こっちだ。
こちらにおいで。
反対側に行こうとする少女に思わず出た声。
その声に反応するかのように、少女は足を止めた。
︵誰? どこにいるの?︶
か細い声が応じる。
私は、もうひとりの君だ。
私は君が行きたい場所にいる。
だから、君は私の声がする方へ歩くんだ。
私の声に戸惑うように、少女は頭を廻らせる。
400
︵どの方向か、わからないの︶
あまりにも声が遠すぎるのか、方向を掴めない様子で迷子の女の
子は途方に暮れた声を出す。
わかった。
後ろを向いて。
そう、その方向だ。
真っ直ぐ、その方向に向かって歩いて。
慌てなくていい。
必ず辿り着けるから。
そう声を掛ければ、意を決したように少女が歩き出す。
ゆっくりと、だが、しっかりとした足取りで。
君が会いたい人達が、君を待っている。
だから、怖がる必要はない。
迷う必要もない。
必ず、皆と会えるから。
そう話しかけながら、急速に意識が白い光の中へと吸い込まれて
いく。
ああ、目覚めるんだなと、そう思いながら、私は光に身を委ねた。
***************
目が覚めると、ベッドの中だった。
401
﹁⋮⋮夢、か⋮⋮﹂
あまりにリアルな夢で、どこまで信用すべきか判断に困る。
瑞姫の意識が目覚めてくれるのなら、今、ここにいる私は必要な
くなる。
元々それを望んでいた。
トータルでいけばアラフォーだけれど、私の精神年齢は24歳の
ままで止まっている。
社会人としての記憶があるせいで、学生として過ごすことの違和
感は半端ない。
実に不自然な存在だ。
この身体は瑞姫のものだ。
そして、今、私が生きているこの人生も、瑞姫のものだ。
早く入れ替わらねば。
その前に、片付けなければならない問題もある。
3学期が始まって、新年の浮かれたムードが落ち着きを取り戻し
ても、短い学期のためどこか気の抜けた空気が漂っている。
2年になればクラス替えがある。
今のクラスメイト達ともあと少ししか一緒の時間がない。
そう思っているのか、皆でお茶会だとか、絵画鑑賞に行こうだと
か、声を掛けあっている姿が見受けられる。
私も声を掛けてもらっているが、何故か疾風が過敏なまでに反応
しているので、お断りしている状況だ。
以前とは違い、普段通りの生活も苦ではなくなっているし、私を
誘拐しようとか思う輩も少なくなっているだろうから、出歩いても
大丈夫だとは思うのだが。
登下校も颯希がぴったりと寄り添い、疾風が周囲を警戒している
ので、私に知らせずに何か問題を処理しようと思っているのかもし
402
れない。
こういう時、私の家族も岡部家も結託して、私をのけ者にしよう
とする。
危険から遠ざけたいという理由で無知を奨励するのは問題ありだ
と思う。
危険があるときは先に知らせておけと言っているにもかかわらず
にだ。
私が無謀な動きをして、警護の者を危険に曝す可能性を高めては
駄目だろうと、そう思うのだが。
その日、授業は午前中までだった。
家に戻り、着替えを済ませたところで疾風が別棟にいないことに
気が付いた。
﹁颯希、疾風は?﹂
そこに控えていた颯希に問いかければ、微妙に困ったような表情
になる。
﹁颯希!﹂
﹁⋮⋮兄は、瑞姫様宛の荷物を受け取りに行っています﹂
さらに促せば、渋々とした表情で答える。
﹁私宛の荷物?﹂
普通に考えて、おかしな話だ。
私宛に荷物が届くなど、滅多にある話ではない。
ましてやそれを疾風が受け取りに行くなど。
﹁颯希、ついておいで﹂
﹁瑞姫様!?﹂
﹁それから、ここに戻ってくるまで、決して私の名前を呼ばないこ
と﹂
﹁は、はい!﹂
嫌な予感というほどのことではないが、妙な気配がする。
後で叱られる覚悟で、それでも最低限の警戒をしていたという証
403
拠のために颯希を連れ、なおかつ名前を呼ばないことを約束させて
歩き出す。
ぴったりと、私の右側半歩遅れで颯希がついて歩く。
疾風から言われているのだろう。
私の弱点でもある右側を補い、なおかつ隣ではなく半歩遅れてつ
くようにと。
実際、そこの定位置は疾風のものだ。
その位置ならば、前でも後ろでもすぐに反応して動ける。
半歩遅れてついて歩くため、私と疾風が﹃王子と騎士﹄と言われ
ている理由だそうだ。
侍従なら半歩ではなく一歩遅れ、ついて歩くからと聞いた。
それが本当かどうかは侍従がいないため、確認しようがないが。
颯希を従え、玄関ではなく通用口へと向かう。
門から玄関までの距離がかなりあるため、客ではない限り通用口
から出入りするのが普通だ。
こちらの門は特に警備上、出入りのチェックがしやすく、有事に
対応しやすい。
念の為、スマホを取出し、敷地内の警備室を呼び出す。
﹁瑞姫です。今、私宛に荷物が届いているということで、岡部の者
が受け取りに行っているのですが、念の為、そちらの方へ向かって
もらえますか? ええ。2人ほどで構いません。はい、じゃ、よろ
しくお願いします﹂
用件だけ伝えると、すぐに切り、今度は疾風にメールを送る。
今からそちらに行くが、私の名前を呼ばないこととだけ書く。
﹁これは、どういうことでしょうか?﹂
颯希が私を見上げ、問いかける。
﹁⋮⋮念の為、だよ。妙な感じがする。疾風がここまで受け取りに
手間取るはずがないのに﹂
﹁⋮⋮⋮⋮ッあ!﹂
送り主の名前を確かめ、相手如何で受け取り拒否をするだけに、
404
ここまで時間がかかるはずがないのだ。
宅配業者が荷物の受け取りに関して揉めなければ。
そのことに気付いた颯希が声を上げ、そうして表情を改める。
﹁部屋へ、お戻りくださいっ!!﹂
私を守ろうと、前へ進み出、行く手を阻もうと手を広げる。
﹁どうか、お部屋へお戻りを﹂
﹁どきなさい、颯希。すでに手は打った。心配することはない﹂
﹁ですが!﹂
﹁颯希! 主命だ。従え!﹂
私の言葉にびくりと肩を揺らした颯希が横にずれ、道を明け渡す。
﹁そのままついてきなさい。そして、よく見ておきなさい、君の兄
を﹂
それだけ告げると、私は歩き出し、通用口への手前で立ち止まっ
た。
﹁ですから! ご本人にお渡しすることとなっておりますので﹂
﹁渡す必要はない。受け取り拒否をします﹂
﹁ご本人引き渡しとなっている商品ですから﹂
﹁送り主の名前がないものは受け取り拒否だと言っている。受け取
り拒否をされたものは速やかに持ち帰るというのがそちらの仕事だ﹂
﹁それも、ご本人の意思を確認しないとお受けできません﹂
﹁俺が本人の意思を確認している。問題はないはずだ﹂
典型的な押し問答。
本来ならば、こんな会話が成り立つはずもない。
そこへ、小鳥の鳴き声が聞こえてくる。
高く澄んだそれは、実は小鳥の鳴き声を模した指笛だ。
警備室から派遣された警備員が所定の位置についたという合図だ。
わかったという合図の指笛を今度は私が鳴らす。
私の到着を知った疾風がさり気なさを装って、指を動かす。
それは、自分の後ろに立てというサインだった。
405
つまり、出てきてもいいということだ。
﹁⋮⋮瑞姫宛の荷物が届いたと聞いたが?﹂
そう言いながら、姿を現す。
立ち止まった位置は、疾風からきっちり5歩離れた場所だ。
﹁こちらに受け取りのサインをお願いします﹂
宅配業者の男が、私を見て荷物を差し出す。
﹁何故?﹂
私はそう切り返す。
﹁受け取りにはご本人のサインが必要ですから﹂
﹁だから、何故?﹂
﹁⋮⋮は?﹂
意味が解らなかったらしい。
きょとんとした顔で私を見る。
語るに落ちたな。
間抜けにもほどがある。
﹁何故、私がサインをしなければならない?﹂
﹁ご本人様でしょう!?﹂
﹁何故、私が瑞姫だと知っている?﹂
﹁え?﹂
﹁私は一言も名乗らなかったはずだ。瑞姫宛の荷物が届いていると
聞いたとしか告げていないはずだ﹂
﹁ですから、それであなたが⋮⋮﹂
﹁そのくらい、家族なら誰でも問いかける程度の言葉だ。私が瑞姫
だと確証できるはずもない。その場合、ご本人様ですか? と、尋
ねるのが普通だ﹂
﹁それは⋮⋮﹂
﹁私の顔を見て、受け取りのサインをしろと言ったということは、
あらかじめ私の顔を知っていた、ということだ﹂
男の表情が険しくなっていく。
﹁私を近くに呼び寄せて、どうするつもりだったんだ? その隠し
406
てあるもので殺すつもりか?﹂
﹁!! くそっ!!﹂
荷物を放り投げ、ジーンズの後ろポケットに手を回し、そこから
銀色に光るものを取り出す男。
そのままそれを手に握りしめ、私に駆け寄ろうとして、足をもつ
れさせた。
彼の敗因は、一瞬でも疾風の存在を忘れたことだろう。
刃物を持っていようが、相手の動きを綺麗に捉えられる動体視力
を持つ疾風の前では、何の脅威でもない。
足を引っ掛け、体勢を崩しかけたところを手首を押さえ、男の肘
を脇に抱え込んで動きを封じた後、遠慮なくその右肩を己の体重を
乗せて壁にぶつける。
何とも形容しがたい音が響いた後、男の絶叫が遅れて放たれた。
﹁⋮⋮肩の骨を外されたくらいで、情けない⋮⋮﹂
女性の身体は痛みに強いが、男性の身体はその逆だ。
頑丈そうに見えて痛みには滅法弱くできている。
喚きながら目から涙、口から涎を溢れさせ、冷や汗を滲ませ、顔
から血の気が失せたかと思うと、白目をむいて気絶した。
嫌そうに顔を顰めて見下ろしていた疾風が、仕方なしに今度は外
れた骨をはめ直してやる。
だが、男は悲鳴を上げても意識は戻らなかった。
余程痛かったのか、それとも恐ろしかったのか。
﹁いやはや、見事なお手並みですな。我々の仕事がありませんでし
たよ﹂
困った様子で陰から出て来た警備員が苦笑する。
﹁いや、来てくれただけで助かった。証拠はきちんと撮れてる?﹂
通用口にある監視カメラと、音声は確実な証拠としての価値があ
るのか、問いかける。
﹁大丈夫です。傷害未遂ではなく、殺人未遂として立件できるでし
407
ょう。岡部君の方も正当防衛の範囲内ですし﹂
﹁お手本のように見事な捕縛術でしたので、最後の関節外しは偶然
に起こったと捉えてもらえるでしょうし﹂
﹁あはははは⋮⋮それはよかった﹂
にっこりと笑って誤魔化す。
確実に狙ってたのバレてるよ、疾風!!
﹁では、警察に通報いたしますので、現状維持でそのままお待ちく
ださい﹂
監視室の方へ連絡を入れ、警察への要請を頼み、万が一、男が気
が付いて暴れないようにと後ろ手に縄をかける。
一般市民にも逮捕権はあるので、現行犯逮捕の場合のみ、こうい
う措置は合法になる。
手錠をかければ違法だけどね。手錠が持てるのは、警察官だけだ
から。
例えおもちゃでも駄目なんだって。
﹁すまない、瑞姫。結局巻き込んだ﹂
しゅんと項垂れる疾風。
﹁いや。巻き込んだというのはおかしいだろう? 最初から私を狙
っていたのだから。この様子だと、前から色々とあったな?﹂
﹁⋮⋮う⋮⋮﹂
﹁私に心配かけるなとか言われて、黙っていたな?﹂
﹁あ、そ、それは⋮⋮﹂
私に睨まれ、疾風の顔が引きつる。
﹁それらごと、全部ひっくるめて警察に引き渡せ。殺人教唆犯を警
察に逮捕させてやれ﹂
﹁だが、殺人教唆ぐらいでは大した罪にはならないぞ﹂
﹁大した罪にはならなくても、身内から殺人に関係した犯罪者が出
たというだけでも大ダメージだろう? 株価は値下がり確実だ。そ
こに追い打ちをかけてやればいい﹂
﹁さすが、瑞姫! やることが容赦ない﹂
408
感心したような眼差しが私に注がれる。
﹁いや。私が考え付いたわけではなく、何かやらかしそうな人たち
がやらかしそうな内容を考えただけだ﹂
そう言って、肩を落とした私が、主犯の名前を聞こうとした時に、
警察が到着した。
409
50
いつもは静かな屋敷内も、警察車両の到着で騒然としていた。
騒がしいのは警察だけ。
我が家の人々は通常運転だ。
刑事ドラマとかでよくやってる指紋採取の白い粉。
実際は銀色っぽい粉で、指紋採取した後、拭き取ってくれないん
だと初めて知った。
そして、それがちょっとやそっとでは落ちないということも。
警察というか、鑑識の人たちが帰った後、掃除をしようと張り切
っていた家政婦さんたちが悲痛な叫び声をあげ、怒り狂っていた時
にその事実を知った。
思わずごめんなさいと謝ると、悪いのは嫌がらせをしたり、私を
殺そうとした犯人であって、私ではないからと一生懸命に慰めてく
れたので、さらに申し訳なくなった。
犯人が悪いと言いつつも、鑑識の人が憎いとも唸っていたしなぁ。
お仕事だから仕方ないとは思うんだけど、後片付けはしてほしい
よね。
どういう洗剤使ったら、きちんと落ちるのかだけでも教えてほし
かったよ。
だって、家政婦さんたち、目が据わって怖いんだから。
通用口に現れた男とその場所の警備員との会話や中に入った経緯
など、監視カメラと音声がしっかり拾っていた。
これはきちんとした証拠になるらしい。
普通、監視カメラって映像だけだが、何故音声まであるのかと聞
かれたら、人の記憶はあてにならないので、会話もきっちり録音し
410
た方が何かあった時の為になるだろうと、警備の責任者が答えてい
た。
それに、ちゃんと通用口のところにカメラ作動の文字を表記して
いるし、プライバシーに配慮して、問題ないと判断されたものは消
していっていると言葉を添えていた。
それとは別に、事情聴取もされた。
何度も同じことを聞かれると、ムカついてくるのは何故だろう。
いや、何故、何度も聞かれるか、理由はわかってるけれど。
やっぱり、イラっとしてくるものだな。
心当たりを聞かれると、実に困る。
何が原因で恨まれるかわからないし、自分ではなく親兄弟関係か
もしれない。
尋ねられて、そう答えれば、﹃御嬢様というのも大変ですね﹄と、
実に心無い言葉が返ってきた。
口先だけの言葉はいりません。
結果を出してくださいね。
そう言えたら、きっと気分がいいだろう。
おそらく、岡部はもう犯人の目星をつけているはずだ。
警察が帰ったら、疾風を締め上げよう。
翌日、教室に足を踏み入れた途端、女の子たちが駆け寄ってきた。
﹁瑞姫様! 御無事でしたか﹂
﹁ようございましたわ。わたくし、知らせを聞いて、気が気ではな
く⋮⋮﹂
﹁瑞姫様の御命を狙うなんて、何て卑劣なことをするのでしょう!
!﹂
一瞬にして取り囲まれ、自分のことのように憤る少女たちの姿に、
呆気にとられてしまう。
411
何というか、情報速いな、君たち。
一応、報道規制はかけていたのだよ?
襲われたのが未成年であることを理由に。
明日ぐらいには、知られるかと思っていたが、昨日の今日だ。
﹁ああ、御心配をおかけして申し訳ありません。この通り、私は無
事ですよ﹂
にこやかな笑みをたたえて少女たちを宥める。
﹁本当によかったですわ﹂
﹁犯人は捕まったそうですね?﹂
﹁ええ。実行犯は逮捕されていますよ﹂
笑顔のまま、頷く。
一瞬、きょとんとした少女たちの顔色が変わる。
﹁瑞姫様っ!! 大変ではないですか!? 何故、しばらくお休み
されませんの!﹂
﹁どこにいても一緒だからですよ。それに、疾風がついてくれてい
ますしね﹂
﹁ああ、岡部様。それでは安心ですわね﹂
おや、疾風の名前を出しただけで、安堵の表情を浮かべる御嬢さ
ん方が多いこと。
信頼されているようだな、疾風は。
﹁ええ。ですから、私はいつも通り過ごせるのです﹂
にこやかに告げれば、安心した少女たちが道を開けてくれる。
自分の席まで移動したところで、来客があった。
﹁相良さん、ちょっといいかな?﹂
声を掛けて来たのは、大神だ。
﹁おや、珍しい方が。おはようございます、大神様﹂
笑顔を作って挨拶をし、荷物を片付けた後、廊下へ出る。
﹁何かご用でしょうか?﹂
﹁ええ。怪我はない様子で安心しました﹂
﹁これまた、耳が早い。どなたからお聞きになられましたか?﹂
412
﹁父からですが、今朝は学園中、あなたのニュースでもちきりです﹂
複雑そうな表情の大神が、廊下の窓の外に視線を落とし、中庭を
見つめる。
登校途中の生徒たちが、数人固まって何かを話している様子がこ
ちらからもはっきりとわかる。
﹁隠してはいませんが、一応、報道規制は掛かっているのですよ。
不思議ですね?﹂
のんびりとした口調で告げれば、大神の目が細くなる。
﹁内部の犯行だと?﹂
﹁いいえ。情報を漏らした人間はいるでしょうが、利用されたのか、
面白がってしたのか、どちらかでしょうね﹂
﹁何故、そのように?﹂
﹁昨日は、学校側の事情で午前中までの授業でした。直前にならな
ければ、私の行動は把握できないでしょう﹂
﹁そうですね﹂
﹁それにもかかわらず、帰宅して着替えている間に、宅配業者を装
って実行犯が来たんですよ。私がいると確信して、ね﹂
﹁つまり、誰かが真犯人にあなたの予定を教えたということですね
?﹂
﹁私の予定なのか、学校の予定なのかはわかりませんが、教えた可
能性は高いですね﹂
世間話でもしているかのように、のんびりとした口調と表情で私
と大神は昨日の事件について話す。
﹁わかりました。生徒会として動きましょう。そのように提案して
みます﹂
﹁私個人の為に動くのはやめた方がいい。情報を与えた人物に悪気
がない、つまり、利用されただけという場合も考えられるので﹂
﹁あなたは自分の命を軽く考えすぎる。いつもだ! 生徒会として
は、たったひとりでも命を脅かされたという事実があれば、生徒を
守るために動くものです﹂
413
﹁情報を漏らした人物を掴まえて、どうするつもりですか?﹂
﹁それは、その人物を特定してから考えましょう。状況に応じて、
冷静に対応することは約束します﹂
真面目な表情で告げる大神に、私は渋々頷く。
﹁それから、学園内の警備を強化することを学園側に申し入れるよ
うに、会長に提案してきました。間もなく、会長が理事の方へその
旨をお願いしに行かれます﹂
﹁⋮⋮そこは、仕方ありませんね。私の事情ですが、他の生徒に被
害が出てはいけませんし﹂
溜息を吐きながら呟けば、大神はわずかに顔を顰める。
﹁学園周辺で、不審な人物が数名いるようです﹂
﹁それは、刑事では? 私、張り込みされているようですよ?﹂
﹁何故ですか!? あなたは被害者でしょう?﹂
﹁だからです。犯人が接触すると思っていらっしゃるのかも﹂
﹁なるほど。馬鹿げた理由ですね。人を介して犯罪を犯すものが、
直接接触すると思いますか?﹂
皮肉気に笑みを浮かべた大神は、視線を天井へと向ける。
何かを考えているような眼差しは、すぐに私に据えられる。
﹁つまり、あなたを囮にしているというわけですね﹂
冷ややかな声。
どうやら大神は怒っているらしい。
笑顔で怒れるとはうちの姉のように器用だ。
﹁彼らも排除の対象としましょう。二宮会長が戻られたら、相談し
ます﹂
相談という名の強制だろうが。
そう思ったが、口にはしない。
﹁それで、心当たりは?﹂
﹁八つ当たりとか、逆恨みも含めますと、ありすぎて﹂
犯人がもうわかっているのだろうと言いたげな大神に、とぼけて
みせる。
414
できれば、早いところ封じたい相手であったというのは、決して
悟られるわけにはいかない。
逃がすわけにはいかない相手だ。
犯人の特定をした岡部家の手柄だが、それを警察に直接伝えるわ
けにもいかず、どうリードするかが現在の問題だ。
大人たちが考えているところに首を突っ込むわけにもいかない。
そこが、もどかしい。
﹁そろそろ、教室に戻った方がいいですよ。大神様﹂
にこやかな笑みで別れを告げて、廊下に大神を置いて私は教室へ
と戻った。
415
51
その知らせが届いたのは、帰宅直後だった。
こちらから提出していた嫌がらせなどの証拠品から、犯人と思し
き人物の指紋が出て特定できた、と。
指紋が出た?
何たる間抜け!!
あ。いかん。
ちょっと正直すぎた。
正確に言えば、伝票番号と指紋の組み合わせで誰が出したのかが
わかったということだ。
犯人は予想通り、東條分家。
しかも、1人ではなく、複数犯。
最初は地味に嫌がらせをしていただけらしいが、一向に効果が上
がらず、それならばと誘拐やら何やら画策しても失敗続き。
誘拐の後に続くのは身代金目当てではなく、女の子が一番ダメー
ジを受ける方法を考えていたらしい。
実に無駄な考えだ。
相手の力量を考えれば、できるはずもないことを理解できないお
粗末さ。
誰に頼んでも全く成功しないことに腹を立て、今度は殺すことを
計画したらしい。
誘拐できないのなら、相良の本邸で殺してしまえばいいと。
自分たちがどんなに声を掛けても、誰も相手にせず、しかも本家
416
から切り捨てられたのはすべて私のせいだと主張しているらしい。
その裏付けを嫌々ながらしていた警察は、もう呆れ顔で報告して
くれた。
実際に声を掛けられた男性の許へ行って、話を聞いたとは、お疲
れ様だと言ってもいいのだろうか?
礼儀知らずの身の程知らず。
皆、口を揃えてそう言ったそうだ。
そうして、私のせいだと言っているのも単なる思い込みの逆恨み
で、根拠の欠片もないと答えたそうだ。
大伴家の方にも足を運び、夏のパーティの件を七海さまに質問し
たところ、七海さまは近くで見ていた者を呼び集め、それぞれに説
明させたそうだ。
そのうえで、にこやかな笑みをたたえた七海さまは、﹃招待をさ
れていないのに、勝手に敷地内に入りしかもエントランスに留まっ
ていたのよ。今からでも不法侵入で訴えることができるのかしら?﹄
とお尋ねになったそうです。
余罪追加と微妙な表情で刑事さんが呟いていた。
うん。どうやら、調べまわっていると、あちこちでその話が上が
ってたそうだ。
招待していないパーティに勝手に来て、品のないふるまいをして
いったので訴えることはできるだろうかと。
不法侵入自体はそう大きな罪には問われないけれど、件数が多い
と刑の中でも一番重いものが適用されるはずだ。
しかも、中には器物損壊罪が適用されるようなこともやっている
らしい。
﹁名家っていうのもいろいろあるんですな﹂
呆れたように告げる刑事さんに、同席していた八雲兄上が冷やや
かな視線を向けた。
﹁葉族と四族を一緒にしないでいただきたい。あれは、葉族の中で
も最低ランクの家だ。我々四族はそう認識している。一般家庭で育
417
った方のほうがよほど常識があるし、品もいい﹂
﹁⋮⋮はあ。それは、尤もだと思います﹂
一般家庭でというくだりで刑事さんの表情が微妙に変わる。
名家を皆、選民思想の塊だと思うのはやめていただきたいと正直
思う。
あれは、ごく一部だ。
自分が優れた存在だ、なんて、イマドキ、そんな笑っちゃうよう
なことを考えているようなヤツなんてほとんどいないから。いたら、
天然記念物指定されちゃうよ?
﹁それで、私のせいと主張されたことは、証明されたわけですか?﹂
呆れたような表情と声音で問いかければ、苦笑を浮かべた刑事さ
んは首を横に振る。
﹁事実無根の証明ならされました。名誉棄損で訴えられますよ﹂
﹁兄と相談して、後日、その件についての結果を出します﹂
名誉棄損って、訴えられた方が証明しないといけないんだっけ?
警察が調べて事実無根という結果なら、事実の証明なんて無理だ
ということだけど。
﹁それから、もう1つ。本来ならお伝えすることは任務上差し障り
があるのですが、もうニュースでも流れていますしね﹂
そう前置きして告げられたのは、東條本家の娘婿の事故死を装っ
た殺人であった。
﹁⋮⋮殺人、ですか? 私のように? 一般人を⋮⋮﹂
やられた! と、一瞬、その思いが過る。
そして、同時に、違う、とも。
﹁東條家の一人娘であった瞳さんと、そのご主人、そしておふたり
の娘さんの三人暮らしをしておられたのですが、最近になって勘当
した娘夫婦に戻ってくるように東條夫妻が連絡を取られたというこ
とです﹂
﹁⋮⋮⋮⋮大伴家のパーティの後、そのような話を聞いたような記
憶はあります﹂
418
﹁おふたりは断られたそうです。勘当された身で、今頃になってそ
れを取り消されたところで、すでに自分たちの生活があるから、と﹂
﹁それは、当然の答えでしょう﹂
八雲兄が頷く。
﹁それでも、再三、連絡をし、家に戻るようにと、それが嫌なら孫
娘だけでも寄越せと言ってきたそうです﹂
﹁勝手な話だ﹂
﹁確かに。正式に断るためにご主人が東條家に向かう途中、ブレー
キ事故が起こりました﹂
思わず顔をそむける。
﹁現場検証、及び事故車両の調査で、ブレーキ関連の部品がが故意
に緩められていたことがわかりました。そして、その車に細工をし
たらしい人物も目撃されています﹂
﹁そうまでして継ぎたいのか!?﹂
上を見たらきりがないと言えるほど、東條家は名家の中でも最低
ランクに近い、それどころか一般出の会社社長の方が業績を誇って
いるだろう。
誰が見ても、大したことないと断言してしまうほどの小さな家だ。
それでも跡目争いを繰り広げてしがみつかねばならないのか。
﹁我々としてもそう思いますが、人それぞれですからね。まあ、こ
んなことになれば、家も潰れることになるんでしょうかね?﹂
どこか面白そうに告げる刑事さんの言葉に、首を横に振ってしま
う。
﹁再興するつもりはあるんでしょう。その、お嬢さんとお孫さんを
強引に連れ戻して﹂
﹁やはり、そうなりますか!?﹂
﹁彼女たちが家に戻ってくる条件として、お嬢さんのご主人が邪魔
だったでしょうし﹂
私の言葉に、刑事さんたちが微妙な表情になる。
﹁それはつまり、御本家がそのように唆したと考えられますか?﹂
419
﹁そこまではわかりませんが、本家の対応に煽られたのは事実でし
ょうし﹂
子供の言葉に、なぜそこまで反応するんだ、この人たちは。
﹁実はですね、本当なら、お嬢さんとそのご主人の2人が東條家に
向かう予定だったのを、お2人の娘さんが体調不良を訴えてその看
病のためにお嬢さんが家に残ることになり、ご主人がおひとりで出
かけられたということなんですよ﹂
﹁⋮⋮はあ﹂
だから、何だというのだろう?
かなり不自然さは感じるが、今ここで何かを判断するには情報そ
のものが足りなさすぎる。
面倒臭いという表情を張り付けて相槌を打てば、苦笑された。
﹁妹を疑っているのでしょうか? それとも、相良でしょうか?﹂
冷ややかに八雲兄が問う。
﹁それでしたら、見当違いもいいところですよ。犯罪に手を染める
ような愚かな真似は致しません。我々には守らなければならない者
がたくさんいますので﹂
﹁申し訳ありませんね。これも仕事柄ってやつで。時期が一致する
といろいろ疑い始めてきりがないというか⋮⋮﹂
﹁被害者が実は加害者だったという定番ですか? 捜査の協力は致
しますが、それこそ見当違いの捜査を始められるのでしたら、名誉
棄損であなた方を訴えることになりますよ? と、これまた定番の
陳腐な嚇しを告げるべきでしょうか﹂
八雲兄上、笑顔作っても笑ってないから!
ちゃんと笑って!!
というか、脅さないで上げて。
刑事さんの顔色、本当に悪いから!
﹁いや、すみません。その点に関しては疑ってはいませんから。た
だ、本当に色々と腑に落ちないことが多すぎて﹂
慌てて腰を上げた刑事さんがそのまま逃げの体勢に入る。
420
﹁そうですか。納得できる答えが見つかるといいですね﹂
完全に棒読みで八雲兄上が答える。
刑事さんたちはそのまま屋敷を後にし、入れ違いに客が来た。
それは、今、最も会いたくない相手だった。
421
52
﹁不本意だが、同席するように﹂
父に呼ばれ、書斎に顔を出せば、実に不機嫌そうな表情でそう言
われた。
﹁父様がそう仰るのでしたら⋮⋮何方がお見えなのですか?﹂
普段は飄々としている父がここまで不機嫌そうな顔を隠さないの
は珍しい。
余程嫌な相手なのかと思えば、出て来た名前に納得した。
﹁東條だ。追い返そうとしたが、しつこい。謝罪に来たと言ってい
るが、謝罪に来た態度ではないな﹂
むすりとした顔で告げる父に、同席していた八雲兄が目を眇める。
﹁僕も同席してよろしいでしょうか?﹂
﹁許す! あと2人の息子も同席すると言って聞かぬからな。瑞姫
は父の傍に座るがいい﹂
﹁私が上座に座ってもよろしいのですか?﹂
我が家は年功序列だ。
最年少の私は下座と決まっている。
上座など、御祖父様の膝の上が指定席であったおむつ時代以来だ。
ほとんど記憶がないということだ。
﹁かまわん。八雲も威圧してもいいぞ﹂
父様、ご立腹。
そりゃ、そうだよなー。
逆恨みの八つ当たりで娘を殺されそうになったんだもん、怒らな
い親はいないだろう。
﹁ちなみに、父様、姉上たちは?﹂
﹁別室にて待機だ。菊花は玩具で遊ぶと言っていたが﹂
﹁⋮⋮盗聴と盗撮とか、言いませんよね? まさか、自分の家でそ
422
んなことは⋮⋮﹂
父の視線が微妙に泳いだ。
許可したのか!?
﹁もしかして、蘇芳兄上が手を貸してるとか⋮⋮﹂
﹁なかなかの洞察力だ﹂
認めちゃったよ。
﹁⋮⋮あまり、ことを大きくなさらないでほしいのですが﹂
﹁それは、相手の出方次第だな。結果は同じだと思うが﹂
潰す気満々ですか。
私でもそうするだろうとは思いますが。
諏訪と東條では規模が違いすぎる。
諏訪が潰れれば経済界へのダメージが大きい。
だが、東條が潰れたところで、ほとんど影響はない。
会社ごと取り込み、東條の首だけを切り離せば済むので、失業者
が増えるという心配もない。
むしろ、業績改善などを行い、無駄を省いて経営機能を強化させ
れば、今現在、東條グループで働いている社員の給料のベースアッ
プも可能だ。
それをするか、もしくは同じ葉族のハイエナと呼ばれる者たちの
前に投げ出せば、勝手に食らいついて片付けてくれることだろう。
そう父は考えているのだ。
﹁では、行くか﹂
仕方なさそうな声音で私たちを促した父の後について、客間へと
向かった。
玄関近くの板廊下から入る座敷に案内されて入ってきたのは、東
條夫妻。
初老の夫婦は案内されるまま、座卓の前の座布団に座った。
423
﹁⋮⋮⋮⋮⋮⋮﹂
ひくりと目許を引き攣らせる蘇芳兄上。
だが、隣に座る長兄の半眼に窘められ、無言を貫く。
その間、両家どちらも言葉を発しない。
それを確認して父が襖を開き、座敷へ入る。
その後に八雲兄、私と続き、襖を閉めた私は、言われた通り父の
斜め前の上座へと座る。
父の隣にはすでに母が座して待っていた。
﹁⋮⋮⋮⋮⋮⋮﹂
家政婦さんがお茶を配り、部屋を出る。
誰も何も言わない。
沈黙が重くのしかかる。
本来ならば、訪れた客人に声を掛け、歓迎を示すのが当主や次代
の役目だが、今回ばかりは招かれざる客だ。
誰もが視線を合わさず、ただ沈黙を守る。
どれぐらい時間が経っただろうか。
少なくとも20分は過ぎた。
普段は陽気で賑やかすぎるほどというよりも騒がしい蘇芳兄上も、
こういう時は沈黙を守ることを厭わない。
むしろ、精悍な顔立ちなだけに黙り込むと威圧感を増し、ちょっ
とした迫力がある。
うん。蘇芳兄上は黙っていた方が格好いいよ。
骨格しっかりして筋肉もきっちりついてるから、彫像っぽくて格
好いいんだ、じっとして黙っていれば。
動き出して、一言喋るととてつもなく残念に感じるのは何故だろ
う?
﹁⋮⋮⋮⋮お帰り願おうか﹂
ちょっとばかり退屈しかかって、脳内で現実逃避を仕掛けたとき、
父がぽつりと告げた。
これに反応したのは東條夫妻のみ。
424
母も兄たちも表面上はぴくりとも動かない。
﹁いきなり何を!?﹂
﹁⋮⋮いきなり? いきなりはそちらだろう? 押しかけてきてお
いて、何も言わず座るだけ。何しに来たのか、用件も言わねば、こ
ちらも対応しかねるが?﹂
淡々とした表情で父が言う。
用件言わずに会わせろ、じゃ、確かに何も言わないよなー。
﹁それは⋮⋮!﹂
﹁用がないのなら、お帰り願おう。我々は暇ではないのだ。無駄な
時間を取らせた詫びでも言われるか?﹂
父の態度は、少しばかり高圧的だ。
家勢の格差だ。
葉族は分家筋の末の家系だ。
分家から姓を与えられ、切り離された存在だ。
本家から見れば、末端もいいところ。
そんな他家の葉が来たところで、地族の中でも上位の相良本家が
まともに対応するはずもない。
対等に扱われることを期待する方が愚かだ。
ちなみに、来客したのが一般の人だった場合、対応はかなり丁重
なものになる。
通される座敷は中座敷で、用件によっては当主自ら対応すること
もある。
つまり、葉族は一般人よりも対応が下になるのだ、他家筋になる
と。
しかも東條は私を害そうとした者を分家から幾人も出している。
まともに対応するつもりなど毛頭ないということは明らかだ。
﹁いえ! この度のことを謝罪させていただきたく﹂
父を怒らせたと思ったのだろう、東條家当主が慌てて切り出す。
﹁⋮⋮謝罪?﹂
不快そうな表情を浮かべ、眺める父。
425
﹁分家の者どもが大変申し訳ないことを⋮⋮﹂
一気に話し出した東條家当主の話の内容は、実に意味のない内容
だった。
謝罪ではなく、言い訳と言った方が正しいだろう。
自分たちは知らなかった、分家が勝手にしたことだ。
そういったことを羅列していく。
しかも、しめくくりが、私を害そうとした者たちは逮捕されたの
で、これから何も起こらないはずだというものだ。
それらの言葉を座布団の上でつらつらと語ったのだ、東條家当主
は。
﹁⋮⋮それで?﹂
面白くなさそうに蘇芳兄上が横から差す。
﹁は?﹂
﹁それで、どうするつもりかと聞いたのだが?﹂
呆れたような表情で、蘇芳兄上も上から目線で問いかける。
﹁分家のしたこと、で、すまされるおつもりか?﹂
﹁それは⋮⋮分家の者がしたことですから﹂
﹁本家は関係ないと?﹂
﹁私共もまた被害者です! 娘の夫を殺されました﹂
﹁⋮⋮被害者、ねぇ⋮⋮﹂
胡乱な視線で流し見る蘇芳兄上の態度は剣呑だ。
﹁分家あっての本家。本家あっての分家というのが、本来の関係で
は? 分家をあおり、暴走させた責任は取らないと、そう仰ってい
るわけだな?﹂
じろりと睨めつけた蘇芳兄上が纏う空気が変わる。
闘気、とでも言えばいいか。
怒りを抑えず、そのまま東條家当主へと気を向けている。
殺気とは違う押し潰されそうなほどに重い空気。
圧迫感を感じ、呼吸ができずに口をパクパクさせている。
﹁それで、謝罪とは、笑わせてくれるものだな﹂
426
にやりと口許を歪ませて笑みを作るが、笑っていない。
獲物を甚振って遊ぶ虎のような笑みだ。
蘇芳兄上、楽しそうだなー。
座ってるだけって退屈だな。
思わず、ふわあっと欠伸が出かかり、指先で口許を覆い隠す。
﹁おや、失礼。あまりにも退屈で﹂
蘇芳兄上の闘気など、私にとってはないも同じ。
のんびりした口調で形ばかりの非礼を詫びる。
﹁み、瑞姫様! 瑞姫様からもどうか御口添えを!!﹂
必死の形相で東條家当主が私を見て訴える。
莫迦だろ?
謝罪もせずに被害者に口添えを願うやつがどこにいる。
恥知らずという言葉も裸足で逃げ出しそうだ。
﹁⋮⋮何のために?﹂
感情のこもらぬ視線を東條家当主に向ける。
その視線を受け止めた初老の男性はびくりと顔を引き攣らせる。
瑞姫の無表情は恐怖心を煽るらしい。
生きている人間と対峙しているような心地がしないのだとか。
失礼な!
だが、利用させてもらおう。
瑞姫を守るためなら、どんな手段でも躊躇う必要性を感じない。
﹁言い訳は聞きました。謝罪はない、対応策もない。それで、何を
言えと?﹂
﹁ですから、逮捕されましたので⋮⋮﹂
﹁裁判が行われて罪が確定したとしても、大した罪にはならないで
しょう。数年で社会復帰です。それで、そのあとは? また逆恨み
するでしょう? 私のせいで逮捕されたと﹂
﹁それは⋮⋮さすがに、それは﹂
﹁ないと断言できる根拠はありますか? 何の関係もなかった私に
勝手に恨みをぶつけるような人たちですが﹂
427
私の言葉に完全に黙り込んだ。
反論はできないだろう。
﹁それに関しては、一筆書いていただきましょうか﹂
﹁え?﹂
﹁東條の血を引くすべてのものは、今後一切、私に関わらないと。
もし、関わった場合はそれ相応の対応を取られてもかまわないと﹂
私の言葉に、東條家当主は目を瞠る。
﹁それだけでよろしいのですか?﹂
﹁今後の対応という点では、それで構いません。ですが、謝罪とは
別の話です。私は殺されかけたわけですから、それなりの対応とい
うものがあるのでしょう?﹂
そう言って父を見れば、当たり前だと頷く父の姿がある。
﹁事の発端は、東條家の跡継ぎ問題でしょう? 僕も彼女たちの被
害にあってますよ﹂
今まで黙っていた八雲兄上までもがトドメとばかりに参戦してく
る。
その言葉に、当主夫妻はぎょっとしたような表情になった。
﹁実にバカバカしい、そして醜い人たちでしたね。そうまでして後
を継ぎたいような家ですか? 東條家というのは﹂
半眼になった八雲兄の視線にさらされ、狼狽える。
﹁それは、その⋮⋮﹂
﹁戻ってきたら、またそれが繰り返されるわけですよね? 例え、
正式に跡継ぎを決めたところで、娘さんの旦那様を殺害したように、
その後継ぎも殺害すればよいと考えるのではありませんか?﹂
八雲兄の指摘に、彼らは顔色を失った。
せっかく、邪魔者が消えて、手に入れた後継ぎを再び失うという
ことに気が付いたからだろう。
今度失えば、もう二度と手に入れることはできないのだ。
﹁いりませんよね、そんな家。あなた方の代でお終いにしたらいか
がでしょうか?﹂
428
にっこりと告げた言葉は、提案のように聞こえて、決定だった。
勿論、東條家は足掻くだろう。
だがしかし、それは相良家が決定したことだ。
覆すことはできない。
何故なら、それが我々が望んだ謝罪の一環だからだ。
促されるままに、2通、同じ文章を書いた東條家当主は、そのま
ま帰された。
これは、後日、弁護士に目を通してもらい、正式な公文書にして
もらう。
1通は東條家へ送り、もう1通は相良で保管する。
これが保険であることは言うまでもない。
そうして、このコピーを数枚作ってもらい、その1通を学園側に
提出しておいてもいいかと、父に相談した。
その考えにあっさり頷いて許可を出した父は、コピーができたら
提出しておこうと言ってくれた。
これが使われる日が来なければいい。
それが正直な願いだった。
429
53
1月が終わり、2月が始まると、世間はバレンタイン一色となる。
好きな人への告白イベントと捉えた一昔前と違い、友チョコやら
ご褒美チョコなどが一般的となっているそうだ。
それもなかなか楽しそうで羨ましいが、ここではチョコのやり取
りはない。
プレゼントの贈り合い的な発想だけは一緒だが。
何方に何を差し上げるのか、それを考えるのが一番難しいところ
だ。
もちろん、何方からプレゼントが来るのかもわからないので、余
裕を持って用意すべきだろうという考え方もある。
﹁う∼ん。どうしようか?﹂
床に胡坐をかいて膝にノートパソコンを乗せて何やら作業してい
る疾風の背中にこてんと倒れ掛かり、問いかければ、疾風が肩越し
に振り返る。
﹁何が?﹂
﹁バレンタイン。何をプレゼントしようかと思って﹂
そう言って、のそのそと疾風の手許を覗き込む。
﹁何してるの?﹂
﹁んーお遊び?﹂
再び画面に視線を移した疾風が、何やら操作をし始める。
波打つグラフ。
何かの変動値だ。
﹁⋮⋮株?﹂
﹁ん﹂
短く頷いた疾風の視線は画面から動かない。
東雲に通う男子学生の一部では、ネットで株をしている者がいる。
430
リスクがどれくらいでと仲間内で声高に話している姿を何度か見
たことがある。
それなりにというか、そこそこ儲けているようだ。
だが、疾風は彼らとは違う。
滅多に株をすることはないが、やるときは徹底的に稼ぐ。
それこそ、会社を乗っ取る気か!? と、聞きたくなるほどに。
常に私の傍にいて、武術に通じているため、武道馬鹿と思われが
ちだが、疾風の株に対する知識とその手の打ち方は専門家も顔色を
変えるほどだ。
本人としては遊び感覚だから、質が悪い。
意外な才能と、岡部家ではからかわれているらしい。
そんな疾風が、私を放って株に勤しむのも少しばかり奇妙だ。
よくよく画面を眺めてみれば、気付くことがある。
﹁⋮⋮これ、東條家の研究所の株じゃないか!?﹂
﹁そ。買収しようと思って。瑞姫の使う染料の研究してもらおうか
なーと﹂
疾風が遊んでいる会社は、東條家の傘下にある染料の研究所であ
った。
﹁何で?﹂
﹁⋮⋮いらないだろ?﹂
色々端折っての疾風の言葉に、がっくりと肩を落とす。
東條家には必要ないから、岡部が貰い受けると言っているのだ。
﹁もう少しで終わるから、ちょっと待ってて﹂
まるで構ってほしい子猫を宥めるような言い方に、そのまま床に
倒れ込む。
﹁いや、もう、好きに遊んでてください﹂
多分、他にも似たようなことをやってる人たちがいるんだろうな
ぁ、うちの分家や岡部でも。
嬉々とした表情で東條の持ち株を減らしていっているんだろう。
後継ぎがいてもいなくても、どちらにせよ存続できない状況へ追
431
い込むつもりで。
﹁よし。買収終わり。これ、俺から瑞姫へのバレンタインのプレゼ
ント﹂
にっこりと笑って告げる疾風の言葉の語尾にハートマークがつい
てそうな気がした。
﹁あんなにがっつり目立って働いてたのに、やっぱり怒ってたのか
!? 地味にしっかり怒っていたのか!?﹂
実行犯に関節外しとかやらかして、地味にストレス発散していた
のに、まだ怒っていたのか。
意外としつこいな!
﹁当たり前だろ? 瑞姫を害する者は、絶対に許さない。息の根止
めるだけじゃ、物足りない。存在ごとなかったことにしてやるよ﹂
﹁もしもしー? 何か、すごく怖いことを聞いたような気がするん
ですけどー?﹂
﹁当たり前のことだから、気にしなくていい﹂
あっさりと告げて笑う疾風の表情はいつもの疾風のものだ。
﹁気にするよ。疾風に危ないことをやってほしくはない﹂
﹁ちゃんと合法的な手段に則ってるから大丈夫。あんな奴らの為に
犯罪犯す気にはなれないから。それに、俺にそんな方法取らせたく
ないなら、瑞姫はもっと自分を大切にしろよ﹂
何故私が逆に説教を食らう羽目に!?
﹁充分大切にしてるとも﹂
﹁俺から見れば、全然足りない。自分を軽んじてる。瑞姫に何かあ
った時に、俺たちがどう思うのか、もっとよく考えて﹂
その言葉は、ちょっと堪えた。
効率だけを考えて動く癖を突かれてしまえば、反論することがで
きない。
﹁俺、瑞姫からのバレンタインのプレゼントは、甘いものがいい。
ハロウィンの時のキャラメル、美味しかったから﹂
話を変えるかのように、先程の質問に答えた疾風は、照れ隠しの
432
ように視線を彷徨わせている。
﹁疾風、甘いもの苦手じゃなかったっけ?﹂
ええい、突っ込んでやる!
﹁⋮⋮瑞姫が作ったのなら、大丈夫だ﹂
﹁何その理屈!? 意味が分かんないけど?﹂
﹁何でもいいだろ? とりあえず、小腹が満たされる系の甘いもの
がいい﹂
﹁⋮⋮カステラとか?﹂
一瞬、スポンジケーキが思い浮かんだが、それよりもさらにカス
テラの方が美味しそうに思えた。
あの、そこに埋もれてるザラメがいいんだよね。
カステラの底にザラメがないのは、カステラとは認めない!
﹁カステラ? 俺、端っこが好き﹂
﹁切り落としの?﹂
﹁うん。ばーさまが味見させてくれて、美味かったんだよな﹂
﹁疾風のおばあ様は、和菓子とか駄菓子系のおやつを作られるのが
お上手だからなぁ﹂
小さな子供には手作りおやつを与えるのがいいと、幼い頃、よく
疾風のおばあ様が作られたお菓子をいただいていた。
素朴で控えめな甘さのおやつに実に夢中になって食べたものだ。
もちろん、どっちが大きいという子供ならではの喧嘩もやったけ
ど。
心温まる懐かしい記憶だ。
﹁じゃあ、そっち方向で考える。他にも、もう少し何かないか、考
えてみようかな⋮⋮﹂
頷きながら、視界に入った疾風の制服の袖口を見る。
あ、あれがいいかも。
一度やってみたかったし、大量に作れるみたいだし。
ふと思いついたものに笑みを浮かべた私は、疾風が帰った後、早
速注文し、翌日届いたものでそれらを作り始めた。
433
何か1つでも特技があるというのはいいことだ。
特技と言っても、他の人と比べて突出している必要はない。
自分の中で、これは得意と思ってるだけで充分。
まあ、そんなレベルの特技だけれど。
バレンタインのプレゼントはちっちゃなカステラと私のお気に入
りのショップのストラップ、そして量産したお返し用のとあるもの。
ついつい楽しくなっちゃって、調子に乗って作りすぎたんだけど、
結構、反響がいい。
作り方をネット動画で確認してたら、感動するようなものまであ
って驚いた。
奥が深いよね、手作りって。
まあ、基本的に私は短気だから、何日も時間をかけてゆっくり作
っていくというのが実は性に合わない。
イメージとしては、コツコツやっているように思われているらし
いのだが、実際は短期集中型だ。
なので、短時間で作れるコレは、私の好みに合っていた。
そして面白くなって、気付けばかなりの数ができていたという。
今に思えば、あれだけ作って助かったと言える。
何故か今年は沢山もらって、お返しが間に合わないんじゃないか
とちょっぴりハラハラしている最中なのだ。
予定外だったのが男子だ。
いつも女の子からもらうことが多かったので、その分を考えて作
ってたわけなんだけど、疾風たちにもあげようと思って男子用のそ
れを作って、意外によくできたから面白がって大量生産したのが役
に立った。
東雲じゃ、ホワイトデイがないので貰ったその場でお返ししない
434
と、後からお返しすることができないのだ。
ついでに言うと、直接貰っちゃうので、名前がわかる人はいいけ
れど、あまり親しくない人だと、後々誰にもらったのかわからなく
なるのだ。
カードがあればいいのだけれど、カードを入れてない場合が多い
し。
何かをもらって、お返ししないと、どうにも落ち着かない根っか
らの日本人であり庶民でございます。
廊下を歩いているだけで呼び止められ、何かしらいただいてしま
う本日は、ある意味、非常に表情筋酷使の日だろう。
常に笑顔を湛えていなければならない。
そして傍には常に疾風が控えている。
ごめんよ、疾風。荷物持ちさせて。
ちょっと心が痛むのは、疾風も結構貰っているので、重さを想像
したくないぐらいありそうだからだ。
﹁⋮⋮なんかさ、ハロウィンの時より呼び止められる回数、多くな
い?﹂
疾風が持つ荷物を眺め、少しばかり青褪めながら問いかけてみる。
﹁瑞姫の作ったキャラメルが美味かったからだろ?﹂
﹁そーゆー理由? いや、でも。ハロウィンとバレンタインってそ
もそも趣旨が全く違うし! お菓子もらえるハロウィンと違って、
バレンタインはお菓子じゃなくてもいいんだし﹂
﹁んー? じゃあ、瑞姫が人気者で俺は嬉しい﹂
首を傾げた疾風が微妙な回答を寄越す。
その仕種は可愛いけど!!
大きさからいくと颯希の方が似合ってて可愛いと思う。
﹁棒読みはやめなさい。嬉しくないと言ってるようだから﹂
﹁カステラは美味かった﹂
﹁もう食べたの!? え!? いつ!!﹂
435
﹁1個だけ。残りは家で食べる。在原も食べて、絶賛してた﹂
﹁ふうん。それはよかった﹂
在原は私と同じくらいの身長なのに、よく食べるからなぁ。
なんであれだけ食べて太らないのか、実に謎だ。
私が太らないのは、身体を動かしているおかげだ。
メンテナンスのためのストレッチや演舞で結構消費するようだ。
つまり、それらをやめれば一直線に増加する⋮⋮。
うん、絶対にやめない。
運動大事。
そういえば、年を取って体重が増えるのって、運動不足による筋
肉量の低下が底辺にあるからだと聞いたことがある。
いくら食事減量のダイエットをしても、付け焼刃の運動ダイエッ
トをしても、根本の筋肉量が減ってしまっているから難しくなるら
しいというのは、本当だろうか。
だとしたら、このまま運動を続けることを書きつけておかないと
だめだな。
もし瑞姫と入れ替わった時に、このことを知らない瑞姫が運動を
しなくなって体重が一直線に加速ということになったら、私が哀し
すぎる。
引継ぎ条項の上位に入れるべきだろう。
﹁⋮⋮相良﹂
聞き慣れた声が私を呼び止め、振り返れば、諏訪が立っている。
疾風、そんなに怖い表情で諏訪を睨まない。
とは言っても、以前なら疾風の睨みで表面上は平静を保っていて
もかなり怖がっていた諏訪が、今は堪えられるようになっていた。
どうやら諏訪老の許での修行で、多少なりとも耐性ができたらし
い。
﹁バレンタインのプレゼントだ。受け取ってもらえるか?﹂
手にしていた細長い箱を私に差し出して言う。
もう少し長ければペンダントやネックレスのケースのサイズだが、
436
それより長さが足りない。
パッと見に思い浮かぶのは万年筆やボールペンのケースだろう。
﹁⋮⋮私に、か?﹂
﹁ああ。受け取ってもらえると嬉しい﹂
ほんのりと目許を赤く染め、こちらが受け取るのをじっと待って
いる。
ここで貰う理由がないと突っぱねるのも大人げないだろう。
見知らぬ人からでも貰ってしまっているのだから。
﹁ありがたくいただこう﹂
そう言って受け取ると、バッグの中からお返し用のアレを取り出
す。
﹁では、諏訪にお返しを﹂
﹁俺に?﹂
﹁拙いもので申し訳ないが、私の手作りなのでな﹂
手で握りしめられるほど小さなボックスを差し出すと、掌でそれ
を受け止めた諏訪が固まる。
﹁相良の、手作り⋮⋮﹂
何故か妙に感動しているようだが、脳内でどんな妄想が繰り広げ
られているのだろうか。
覗いてみたいところだろうが、覗くと後悔しそうな気もする。
何事も知らぬが仏とか、後悔先に立たずとか、先達のありがたい
言葉に逆らってはいけないということをよく理解しているつもりだ。
好奇心に殺されてはかなわない。
ここは諏訪の脳内妄想についてはすっぱりと諦めよう。
﹁あ、いたいた! 相良さん﹂
生徒会書記という役職についた笑顔魔人がこちらへと片手を振っ
てやってくる。
﹁はい、プレゼント﹂
私の掌に、ひょいっと小さな立方体のボックスを乗せる。
﹁ありがとう。では、お返しを﹂
437
大神にも小さなボックスを手渡す。
﹁お返し? 律儀だね。開けてもいいの?﹂
くすくすと笑いながら受け取った大神は、掌の上のボックスに視
線を向ける。
﹁私の手作りだから拙いが、気に入ったのなら使ってくれ﹂
﹁そうなんだ。へえ﹂
興味深そうに箱を開けた大神の表情が驚きに彩られる。
﹁カフスボタン? これを作ったの?﹂
﹁制服用だ。カフスボタンについては規定がないからな、うちは。
それなら使ってもらえるかと思って﹂
﹁⋮⋮すごいな。花が立体的だ。竜胆?﹂
カフスボタンを摘まみ上げ、飾釦をしげしげと眺めた大神が呟く。
UVレジンと言って、特殊なエポキシ材を用いて紫外線で硬化さ
せるアクセサリーだ。
﹁うん。花は、全部違うんだが、立体的に見えるように何層にも重
ねて描いているんだ﹂
﹁見事だね。これなら、どこにでもつけていきたいよ﹂
﹁それは、男子用。女子用はスカーフタイのタイピンなんだ﹂
﹁⋮⋮相良さん、質問なんだけど。一体いくつ作ったの?﹂
にこにこと笑顔で質問してくる大神。
﹁う∼ん⋮⋮覚えてない。100個は軽く超えたかな? 一度に1
0個近くはライトあてて作れるから﹂
﹁実は暇だったとか?﹂
﹁1回の照射が2分程度で充分な大きさだからね。そんなに時間は
かかってないよ﹂
短気な私がイライラせずに楽しく作れただけある。
ライトをあててる間に次の分の絵を描いてればいいので、流れ作
業だ。
﹁あ。ごめん、双子たちと会う約束があるんだ、この辺で﹂
﹁ああ。引き留めてごめんね。カフスボタン、ありがとう。じゃあ﹂
438
互いに手を挙げ、背を向け歩き出す。
﹁⋮⋮あれ? 居たの、伊織。何でしょんぼり肩落としてるんだい
?﹂
背後から大神の声が聞こえた。
諏訪、まだいたのか。
大神との会話で諏訪の存在をすっかり忘れていたことに気が付い
た私は、その場に諏訪が留まっていたことを意外に思う。
ま、いいか。
別に用事はないと思い直し、振り返ることなく菅原双子と約束し
ている場所へと疾風と2人で向かった。
439
53︵後書き︶
名前のルビ打ちをしてほしいと仰る方が多いのですが、申し訳あり
ませんが、今後もするつもりはありません。
何故かと申しますと、ネタバレになるからです。
中には気付かれた方もいらっしゃいますが、名前にある一定の法則
があります。
名前も伏線の一部となっておりますので、それを含めて楽しんでく
ださいませ。
440
54
こちらへ向かって歩く女の子。
でもまだその姿は遠い。
大丈夫、このまま真っ直ぐこちらへ歩いて来て。
迎えに行けなくてごめん。
でも、待ってるから。
私の声が聞こえると、ほっとしたように微笑む少女。
必ず会えるから。
皆、君を待っている。
嬉しそうに頷く女の子に私も笑みを浮かべながら、浮上する意識
をその流れに委ねる。
まだ、彼女の姿はあんなに遠い。
いつになれば、辿り着けるのだろう。
かすかに抱く不安を押し隠し、私は瞼を持ち上げた。
***************
441
校舎から3年生の姿が消え、少しばかり淋しさを感じる。
バレンタインの時ばかりは、自由登校であるにもかかわらず殆ど
の3年生が登校していた。
あれはプレゼントを配るためなのだろうか、それとも貰うためな
のだろうか。
ちょっと胡乱なことを考えてしまう。
間もなく始まる期末テストに向けて、万全の態勢を整える。
1年間学んだことが総てテスト範囲となる。
どこがでるか、わからない。
だからこそ、万遍に知識が偏らず身についているかを確認しなけ
ればならない。
バレンタインの諏訪からのプレゼントは万年筆だった。
おそらく、限定ものか特注品だ。
筆身に細かな螺鈿細工がしてある工芸品のような繊細な美しさを
持つ一品だ。
学生が、学生に贈るような品ではない。
中身がなんであるかを知っていたら、確実に突き返していただろ
う。
贅沢すぎて受け取れるわけがない。
でも、受け取ったものを返すわけにはいかないので、一応、父と
祖父には報告しておいた。
品物を見るなり、メーカー名を呟いた父の表情は忘れられない。
万年筆をこよいなく愛する父は、こういった文具には詳しい。
100均文具なら私も詳しいが、値の張るものには疎い。
そんな私でさえ知っている有名な名前だった。
聞いた瞬間、ぎょっとしてガクブルしそうになった。
カートリッジも使えるタイプだったので、安心したけれど、通常
442
ならインク壺のみで書くランクのものらしい。
握り方や書き方を誤ると、インクで指先が染まってしまうので敬
遠されがちだが、私は万年筆が好きだ。
しかし、諏訪はどこからそんなことを調べ上げたのか。
実際に書き心地を確かめたい気もするが、筆身の細工が恐ろしく
て触れる事すら躊躇われる。
一方、大神がくれたのは意外過ぎるものだった。
小さな手のひらサイズのテディベア。
しかも、とてもよい香りがするのだ。
テディベアが持っている蜜壺の中にアロマオイルが入っており、
そこからとベア本体から同じ香りが漂ってくる。
今、そのテディベアは枕の上にちょこんと座っている。
そこが彼の定位置だ。
安眠できる香りを身に纏っているので、そこが彼の仕事場となっ
たのだ。
そこで頑張って働いて、私を安眠へと誘ってくれ。
眠ることほど幸せなことはないからな。
大神が贈ったものだから、中に盗聴器とかが入っているんじゃな
いのかと疾風が胡散臭そうな表情でテディベアを眺めていたが、ベ
ッドルームで独り言を言う癖はないし、寝言じゃ真実かどうかの整
合性は取れないし、盗聴器って近距離でしか集音できないと聞いて
るし、一番の問題はこのテディベア、アロマオイルに浸して香りを
保たせるタイプなので、オイルの中に浸かったら機械は壊れるよね。
全然問題ないだろう。
皆、色々と趣向を凝らしたプレゼントで、パッケージを開けるの
がとても楽しかった。
まぁ、もちろん、中にはドン引きしたものもある。
高級ランジェリー一式というやつだ。
443
贈り主は島津斉昭という。
同じ学年で、未成年だというのに女性の扱いに非常に長けている
やつだ。
成績は中の下あたりを彷徨っていて、真面目とは対極の位置にい
る。
そこそこ人気はあるようだが、できれば近付きたくない相手だ。
しかしながら、私の意見とは全く逆の意見を彼は持っており、疾
風たちがいない時を見計らって絡んで来ようとするのだ、ありがた
くないことに。
ちなみに島津家とは犬猿の仲なので、無視しても全く問題なしと
いうお言葉を祖父からいただいている。
そりゃね、エロ系なランジェリー一式をプレゼントされてドン引
きしない女性は少ないだろう。
可愛らしい透け感のあるピンクの生地に黒のレースをふんだんに
使っており、ブラとショーツ、ベビードールとガーターベルトにガ
ーターストッキング。ショーツはタンガだった。
同じ年だとはいえ、高1の女の子に夜な下着を贈ってどーする気
よ?
おっさん臭いんだが、島津!!
さすがにこれは、父と祖父には言えなかった。
気の毒なことに、これを開けたときに疾風がいた。
一応、プレゼントに危険物がないか確認するために、疾風が立ち
あっていたんだけど。
可哀想にがっつり固まっちゃってましたとも、真っ赤になって。
そして一番悲しいことに、サイズが合ってたんだよ。
どこからサイズを仕入れたんだ!?
さすがに疾風でも私のサイズは知らないぞ。
勿論兄たちもだ。
これは、殴ってもいいレベルだよなー。
よし。
444
今度、島津が何か仕掛けたときは、遠慮なく殴ろう。
そうしようっと。
3学期になって、昼休みなどの空き時間は殆ど温室であるサロン
で過ごすようになった。
あそこが一番暖かいからだ。
放課後も、迎えが来るまでの間、サロンでお茶をしながら試験勉
強対策をしている。
それを知った千瑛と千景も、今までなかなか足を向けなかったサ
ロンに来るようになった。
﹁足の具合はどう?﹂
私の脚に掛けられた膝掛を見た千瑛が問いかけてくる。
﹁調子は悪くないよ。膝掛は予防措置だから﹂
﹁そう。でも、冷えると調子悪くなるのよね?﹂
﹁まぁ、ね。傷口を締め付けるのはあまりよくないから、ストッキ
ングやタイツが使えないからねー﹂
﹁摩擦でケロイドが広がる恐れがあるしね。冷えると、血流が悪く
なるから、筋肉も委縮していくし﹂
﹁⋮⋮あれ? 千瑛って、医科志望?﹂
ふと思いついて問いかけてみる。
﹁そうね。瑞姫ちゃんを見て、医者になるのも悪くないかもと思っ
たわ。第一志望はエステの方だけど。あれも人の身体に詳しくない
と駄目だしね﹂
﹁千瑛のマッサージは気持ちいいよ。資格試験、合格するといいね﹂
﹁ありがとう。頑張るつもりだけど。医学の知識も、正確に欲しい
気もしてるのよねー﹂
珍しく悩んでいる様子の千瑛に、私は驚く。
人前で悩むような性格の子じゃないだけに、意外に思ったからだ。
445
﹁必要な知識なら、遠回りしても手に入れるべきだと思うけれど、
決めるのは千瑛自身だから﹂
﹁そうね。もう少し考えてみるわ。あと少しだけ、時間的余裕はあ
るものね﹂
頷く千瑛の隣で頬杖をついた千景が私を眺めている。
﹁そういう瑞姫は、もう進路決めた顔をしているよね? 教えてく
れないの?﹂
﹁やりたいことはあるんだけど、まだ、カードが揃ってないんだ﹂
千景の言葉に私は正直に話す。
﹁ふぅん。前から思ってたけど、瑞姫って、肝心なところで秘密主
義になるんだよね。そんなに周りの人間を巻き込むのが怖いの?﹂
﹁そりゃあ、怖いよ。自分の置かれた立場を考えればね。我儘だと
思われないか、余計な争いの種にならないか、きちんと見極めない
と前に進めない臆病なんだよ、私は﹂
﹁水臭いって言われるだけでも?﹂
﹁完全に安全だとわからないうちは、見切り発車はしないよ﹂
﹁そっか。それも仕方ないね。でも関わるつもりはあるからね。覚
悟してよ﹂
﹁そーそー! 千景も私も、瑞姫ちゃんのこと大好きなんだもん。
覚悟してよね﹂
双子たちは、笑みを浮かべてそう告げる。
﹁わかった、覚悟しておくよ﹂
2人の言葉に頷いて、私は開いていた教科書を閉じた。
446
55
高1最後の期末試験は、何とか僅差で有終の美を飾ることができ
た。
パーフェクトは無理だったけれど。
この頃になると、諏訪の容姿が変わってきつつあることに気付い
た御嬢様方がひそやかに熱い視線を送り始めた。
一度は地に落ちた人気も本人に変化の兆しが見え始めれば、緩や
かに回復していくものらしい。
しかしながら、詩織様一筋の時と同じく今の諏訪も女性嫌いなの
かと思うほど、周囲に女性を寄せ付けない。
話しかけられても必要最低限度しか応じず、時には無視さえする。
ヤツの嗜好がホモでもヘテロでも私としては一切関係ないのだが、
素っ気ない態度を取られた女の子たちは、何故か次に私のところへ
訴えてくるのだ。
それは非常に迷惑だ。
何故私が諏訪のフォローをしなければならない?
あいつの面倒を見るのは大神だろう。
たまにそう言ってみるが、誰もが首を横に振る。
﹃大神様の言葉でも、諏訪様は聞いてくださいませんもの﹄と言
うのだ。
ならば、諦めろと言いたいところだが、実際言ってみたりもした
のだが、彼女たちの答えはいつも同じだった。
﹃諏訪様が自ら声を掛けられ、会話をし、助言を聞き入れる女子
生徒は相良様だけですから﹄と。
諏訪とは関わり合いになりたくないという私の意思をいい加減、
受け入れてほしいものだ。
まあ、いい。
447
あと1ヶ月もしないうちに、春休みに入って、クラスもわかれる
はずだ。
それまでの辛抱だ。
そんなことを思いつつ、3年生は卒業式を迎え、高等部の校舎か
ら去って行った。
大学の敷地は、道路挟んで向こう側なだけに、春休みが明けたら
私服姿になった先輩たちの姿を見ることになるのだろう。
サロン通いをする私の姿を追って、サロンへ足を運ぶ生徒の姿が
増えたとコンシェルジュがお茶の用意をしながら教えてくれた。
さすがに最奥まで足を運ぶような強心臓の生徒はいないようだが。
カウチで寛いでいると、たまに寝落ちしてしまうことがある。
日向ぼっこしながらのお昼寝は何故こんなに気持ちがいいのだろ
うか。
外はまだ寒いけれど。
膝掛を掛けて、カウチの上に足を延ばしてのんびりしていたら、
いつの間にか眠っていたようだ。
目が覚めて、まず視界に映ったのは制服のグレーのパンツ。
枕はどうやら誰かの膝らしい。
硬いから、男か。
うぬぅ、残念!
膝枕は女の子に限るのに。
眉間に皺をよせ、心の中で盛大に文句を垂れる。
で、誰の膝だろう?
半分寝惚け状態の私に羞恥心はない。
誰かの膝で目覚めて、きゃあ、恥ずかしい。なんてことは思わな
い。
人の寝顔をタダで見やがって! とは、思うけど。
﹁瑞姫、起きたの?﹂
降ってきた声で誰の膝かがわかった。
448
﹁⋮⋮誉?﹂
身動きして、甘い香りが漂い、それが橘だと確信する。
橘が気に入っているらしいブランドのボディソープの香りだ。
バニラビーンズにも似た甘い香りがする。
仄かにしか香らないため、近距離でないとわからない。
﹁誰もいない時に眠っちゃだめだよ、瑞姫。不用心すぎる﹂
﹁ごめんなさい﹂
橘の注意に素直に謝る。
言い訳をすれば、馴染んだ気配以外では人が近づけば目が覚める
のだけれど。
﹁でも、何で膝枕?﹂
﹁近くをうろついているやつがいてね。神族だったけど。岡部もい
ないし、ま、牽制ってとこかな?﹂
﹁ふぅん。そうか、それは悪かった。だが、寝心地は悪かった﹂
起き上がり、髪を手櫛で整えながら正直に言えば、橘が微妙な表
情になる。
﹁どうにも男の膝は硬くて高くて枕に不向きだな。木の根の方が高
さに関してはちょうどいいぐらいだ﹂
﹁何故、木の根っこと比較する!? それより、何で男の膝枕で眠
った経験がたくさんありそうなんだい?﹂
﹁兄たちが枕になりたがるんだ。縁側で眠ってると、たまに父も枕
になってる﹂
﹁そっちか! それより瑞姫、どこででも眠るのはやめた方がいい
と思うよ、本当に﹂
﹁⋮⋮家の中なんだけど、駄目か?﹂
﹁やめておきなさい﹂
﹁⋮⋮わかった﹂
何故だか真面目な表情で橘が言い聞かせてくるので、仕方なく頷
く。
﹁このところ、よく眠ってる姿を見かけるけど、調子悪いの?﹂
449
心配そうな表情で問いかけてくる友人に、私は首を横に振る。
﹁いいや。むしろ、調子いい。眠いときは、身体が睡眠を欲してい
る時だから、逆らわずに眠れと言われてるけど﹂
﹁え?﹂
﹁表面ではわからない傷とか内側のヤツとか、癒そうとすると無駄
な体力を消費しないように眠くなるらしい。よくわからないけど﹂
﹁そうなんだ﹂
﹁うん。身体が治ろうという方向に向かって走っている最中なんだ
ろうな。何段階かに分けて、身体が負担なく治ろうとするらしい﹂
たまに、昼間でも意識が朦朧とするほど睡魔が襲ってくることが
ある。
夜更かしはしていないので、睡眠不足ではない。
そのまま睡魔に身を任せて眠ってしまえば、目覚めたときに身体
が軽く感じることが多い。
なので、その説明を受けて納得した。
﹁それじゃ、春休みはあまり予定を入れない方がいいかな?﹂
私の説明を聞いた橘が、難しそうな表情で問いかけてくる。
﹁いや。大丈夫だと思う。寝落ちしたら放置してくれると助かるけ
ど﹂
大体、移動中とかは確実に眠ってるな、最近。
疾風がいないと、こういった場面で非常に困ることになる。
﹁出かけるのは控えた方がいいみたいだね﹂
放置という言葉に顔を顰めた橘が、そう結論付ける。
﹁お任せします﹂
こういう時は、私が大丈夫と言い張っても誰も信用しないだろう。
ただ眠いだけなのに、妙に心配するのだから。
﹁春休みか⋮⋮1年経つんだな﹂
ぽつりと橘が呟く。
﹁そうだね﹂
相槌を打ち、近くの薔薇の花を眺める。
450
﹁1年、か⋮⋮﹂
何を考えているのだろうか、遠い目で橘が記憶を辿っているよう
だ。
本当にいろんなことがあった1年間だけに、思い返すのも面倒だ。
カウチの端と端に座り、それぞれの方向を眺めて思いに耽る。
次の1年がどんな年になるのか、のんびりと思いを馳せた。
451
56
﹁瑞姫、デートしようか﹂
春休みに入り、いつものように別棟に集まっての勉強会で、突然、
橘が笑顔でこう言い出した。
﹁⋮⋮は?﹂
ぎょっとしたように在原が真っ赤になって固まっている。
﹁うん、いいよー﹂
あっさりと頷いた私に、錆びついたロボットのようにぎぎぎっと
首をぎこちなく動かした在原が、ぱくぱくと口を動かす。
﹁み、みみみみ瑞姫っ!! デートって! デートって!?﹂
﹁うるさいよ、静稀﹂
橘が在原をいなす。
﹁聞いてないよ! 誉と瑞姫が付き合ってるなんて!!﹂
﹁⋮⋮付き合ってないよ、ねえ?﹂
﹁友達としては付き合ってるけどね﹂
テーブルをバンバン叩きながら声を上げる在原に、私と橘は顔を
見合わせて頷き合う。
﹁⋮⋮へ?﹂
きょとんとした在原は、瞬きを繰り返し、私と橘を交互に見る。
﹁でも、デートって⋮⋮﹂
﹁友達と約束して出かけることをデートって言うよ?﹂
﹁うん。女の子はそういう風に言うんだって﹂
私の言葉を裏付けるかのように、橘は頷き、疾風が呆れたように
肩をすくめている。
452
﹁え? じゃ、じゃあ⋮⋮﹂
﹁単に遊びに行こうよっていうお誘い?﹂
だよね? と、橘に同意を求めれば、うんと頷く姿が視界に映る。
﹁ここの所、瑞姫、外に出かけられてないからね。気分転換になれ
ばと思って﹂
﹁ああ、そうか!﹂
ここ最近の一連の騒ぎを知っている在原も、橘の言いたいことを
悟って頷く。
﹁俺達と一緒なら、何とか出掛けられるかもしれないな﹂
護衛の数や、出かける場所やらを考慮すれば、可能になると在原
も計算したようだ。
﹁ちょっとした施設なら、貸切にしてもらえるだろうし﹂
﹁うん。だからね、瑞姫の時間を3日ほどもらえるかなと思ってさ﹂
﹁⋮⋮3日? 何故、3日?﹂
デートなら1日で充分だろうと首を傾げる私に、橘は笑う。
﹁俺プロデュースのデートが1日、岡部が1日、在原が1日で計3
日。そのくらいの余裕はあるでしょ?﹂
そう言われ、私は疾風に視線を向ける。
時間的余裕は確かにあるが、警備の方はわからない。
いきなり言われても、迷惑がかかるようなことはできないし。
﹁プランを立てたモノを提出してもらえるのなら、日程調整してや
れないことはないな﹂
行く場所を事前に下調べして安全かどうかを確認したりするから
か。
そのことを知っているから、私が出かけることを躊躇うのだと疾
風は知っている。
さっき、あっさり返事したのは1日だけだと思ったからこそ。
3回も出かけるのなら、やっぱり躊躇う。
﹁疾風⋮⋮﹂
﹁大丈夫だ。少しぐらい我儘言えって。閉じこもってばっかりだと、
453
かえって健康に悪い。遊びに行きたいって言えよ﹂
珍しく疾風が外に出ることを促す。
﹁橘も、言い出したからには、ある程度考えているんだろ?﹂
﹁まぁね。とりあえず、色々とプラン考えて、それから了承貰って、
実行に移すまでに最低でも1週間はかかるかなって思ってたんだけ
ど﹂
﹁⋮⋮妥当だな。3日でプラン出せるか? それを検討して、修正
をしてもらうかもしれないし、そのまま実行できるとしても、場所
を押さえる必要もあるし、そのくらいはかかるな﹂
てきぱきと流れを説明する疾風の隣で、在原が難しい表情を浮か
べる。
﹁ちょっと待って! プラン出す前に、それぞれのコンセプトを言
っておかないと、行く場所が被ったりしたら面白くないよね?﹂
﹁あ。そこは、重要だな、確かに﹂
頷き合った彼らは、私から離れた位置へと移動して、ぼそぼそと
何やら話し合っている。
私は仲間はずれか。
ちょっとばかり淋しいぞ!
話がまとまったのか、こちらに戻ってきた在原が、ごぞごそと勉
強していた教科書やノートを片付け始める。
﹁静稀?﹂
﹁デートプラン、ちゃんと練ってくるから、今日はここまでな。楽
しみにしてろよ、瑞姫﹂
にこにこと満足げな笑みで告げる在原は、バッグの中に荷物を入
れ込むと、別棟を後にした。
﹁あ! 静稀⋮⋮﹂
声を掛ける間もなく去って行った在原に、私は呆然とする。
﹁さてと。今日は俺も、ここで引き上げるとするか﹂
橘も荷物をまとめて立ち上がる。
﹁誉? あの、さ⋮⋮﹂
454
﹁楽しみに待っててよ。それとね、瑞姫﹂
笑みを湛えた橘が、私の顔を覗き込む。
﹁瑞姫は何も悪くないんだ。君が我慢する必要はない。警護の者だ
って、それを充分理解しているし、我儘を言わない君を案じている
ってことを知るべきだ﹂
﹁しかし﹂
﹁仕事をさせてもらえないなんて、彼らにとっては屈辱かもしれな
いよ? 雇い主に信用されていないなんて、不名誉なことだしね﹂
﹁信用していないわけじゃない。彼らが仕事しやすいようにここに
いた方が﹂
﹁瑞姫!﹂
私の言葉を橘が遮る。
﹁よく眠れてないような顔をして、そんなことを言うものじゃない
よ。君がはしゃいでよく眠れるのなら、遊園地を貸切にしたってい
いくらいだと思ってる人がたくさんいることを忘れては駄目だよ?﹂
﹁眠れてないような顔?﹂
寝不足ではない、断じて。
﹁きちんと眠っているぞ﹂
﹁じゃあ、悩み事でもあるのかい?﹂
﹁⋮⋮悩みのない人間なんていないだろう、普通に考えても﹂
﹁誤魔化さない﹂
ぴしゃりと言われ、返事に困る。
﹁誤魔化すつもりなど毛頭ないが。そう見えたのなら、すまない﹂
﹁うん。とにかく、瑞姫は何も考えずに楽しめばいい。そういうわ
けで、プランができるまで、俺も静稀もちょっとバタバタしてると
思うから﹂
﹁ああ、わかった。気を付けて﹂
そういうしか、ないわけで。
私は疾風と肩を並べて橘を見送った。
455
57 ︵橘誉視点︶︵前書き︶
橘誉視点
456
57 ︵橘誉視点︶
橘家嫡男。
それが、俺に与えられた役割だった。
自分という存在が、どこか歪なものであることに気付いたのは、
物心がついて間もなくのことだった。
母が2人いるということが、どういう意味を持つのか、教えられ
たのは名も知らぬ他人からだ。
名家という立場にありながら、賤しい存在だと蔑まれ、手をあげ
られたこともある。
母は身体の弱い人で、一日中、ベッドの上で過ごしていた。
会えるのは、1ヶ月に数度。
その間、俺はただ一人、部屋で過ごす。
親の愛というものには恵まれていると理解している。
母は、それこそ惜しみない愛情を注いでくれた。
﹁誉が笑っていることが、私の一番の幸せよ﹂
そう言って微笑む母がいるから、俺は笑顔でいることを選らんだ。
世の中には要らぬことを声高に告げる人がいるもので、己が正義
だと言いたげに、俺が父の愛人の子だと言って、賤しい子供だとひ
と目がなければ暴力をふるうやつもいた。
457
その頃には、俺が正妻である由美子夫人の子供ではなく、彼女の
腹違いの妹の子であることは理解していた。
どういう理由で母が俺を産んだのかはわからない。
だが、俺は望まれて生まれたのだということは由美子夫人から言
われ続けたため、己の出生などに価値を求めるような子供ではなく
なっていた。
俺の役目は、橘家を繋ぐこと。
それだけだ。
誰に何を言われようと、それは揺るがない。
俺は俺に振られた役割を果たすだけだ。
そう思う、醒めた一面を持つ子供に育っていった。
東雲学園に就学し、初等部に進んで間もなくの頃だったか、橘家
でパーティを催し、俺は両親に挟まれるように立ち、客に挨拶をし
ていた。
ほとんど、招待客が揃ったところでタイムスケジュール通りにイ
ベントが進んでいく。
その頃になると、子供である俺の役目はほとんどない。
自由に動いていいという許可をもらい、パーティ会場から離れる。
自分の住む屋敷の中だ、動いたところで迷子にはならない。
だが、会場で刺さる好奇の視線を避けるために逃げ出したのが、
仇となった。
母と同じ年ぐらいの女性と遭遇し、いきなり頬を打たれたのだ。
﹁汚らわしい! 賤しい子供が何故こんなところに!?﹂
嫌悪もあらわに俺を蔑む表情は、実に醜い。
﹁自分の家だから﹂
俺は笑って答える。
一応、暮らしているが、この家が自分の居場所だと思ったことは
458
一度もない。
育ての母が俺の家だと言うから、居るだけだ。
何をどう頑張っても子供でしかない俺が、この家を出て一人で暮
らすことなど不可能だ。
家の借り方などわからないし、第一、借りるためのお金などどう
やって得るのかも知らない。
食事をするために、調理をしなければならないというのは辛うじ
てわかるが、どうやってするのかなどさっぱりだ。
だが、厚化粧のその女は、俺の言葉が気に入らなかったらしく、
手を再び上げた。
ぱんと乾いた音が鳴り響く。
予想していた痛みは訪れなかった。
﹁ひっ!! 相良様!?﹂
女の蒼白な表情と、俺の前に立つ少女の姿。
どうやら女は俺ではなく、目の前に立つ少女を叩いてしまったよ
うだ。
ガタガタと震える女を少女は冷ややかな目で見上げている。
﹁も、申し訳も⋮⋮﹂
﹁自分が何をしているのか、わかっているのか?﹂
少女の言葉は冷静だった。
そうして、女よりも絶対的に上の立場であることを前提に問いか
けていた。
﹁わ、わたしは⋮⋮﹂
﹁大人が子供を手に掛けるという意味を知っていて、やったのか?﹂
淡々とした口調。
﹁私が、このまま人前に出て、何があったのかを言えば、どうなる
かわかっているのか?﹂
﹁それは!! お許しください、相良様!! わたくしはただ、そ
の賤しい子供を⋮⋮﹂
﹁賤しい子供なら、打ってもよくて、私なら駄目なのか? 意味が
459
解らないな﹂
愛らしい顔立ちの少女が、凄みのある笑みを浮かべる。
﹁見ていたが、彼に非があるようには見えない。彼が何者が知って
いて手を挙げたと⋮⋮?﹂
﹁そうですわ!! そんな賤しい子供、相良様が気に留めるような
ものではありませんもの﹂
我が意を得たりとばかりに表情を変えた女に、少女の表情が変わ
る。
﹁⋮⋮賤しいと言うのは、何を差して言う?﹂
﹁それは、もちろん、その子供の母親のことですわ! 愛人の子供
の分際で⋮⋮﹂
﹁彼の母親、いや、その、祖母は葛城の姫だということを知ってい
てそう言えるのか? 不世出の巫女姫と名高かった方だそうだ。彼
の母親は、その方の娘で、橘氏の婚約者だ。愛人の子供ではないな﹂
俺と同じ年にしか見えないが、どう見ても女よりも年上のように
振る舞う少女は、全く俺を振り返ろうとはせず、その背で俺を庇っ
ている。
女の子に庇ってもらうなど、初めてのことだった。
﹁葛城の⋮⋮土蜘蛛!?﹂
少女の言葉に、女の表情がさらに恐怖に彩られた。
土蜘蛛が何を意味しているのか、全く分からないが、あまりいい
評判を得ているようには見えない。
﹁あなたは、葛城を敵に回した、そういうことだ。それと、私の母
は一般人だ。母の身分を言うのなら、私の方が幾段も低いというこ
とだが、それでも私より彼の方が賤しいと言うのか?﹂
肩にかかった長い髪を手で払いながら、のんびりとした口調で問
いかける。
人の悪い笑みを浮かべながら。
﹁さて。人を賤しいと言う、あなたのその考え方こそ人として恥ず
べきだと私は思うが、他の方はどう思うか、人を呼んで尋ねてみよ
460
うか? この頬の手形を含めて﹂
にっこりと空々しい笑みを浮かべて告げる少女のひとり勝ちだっ
た。
その場に崩れ落ちた女を冷めた視線で見下ろした少女は、俺の手
を掴むと歩き出す。
彼女が向かった先は、控室として用意された客間だった。
ドアを閉め、さらにその奥へと姿を消した少女を茫然と眺める俺。
彼女の顔に見覚えはあった。
同じ東雲学園の初等部に通う生徒だ。
名前は、確か、相良瑞姫と言ったはずだ。
その相良が奥の部屋から戻ってくると、無造作に何かを突き出し
た。
﹁冷やすといい。見ていて痛々しい﹂
自分も赤い頬をしていながら、そんなことを言う相良に、俺は首
を横に振る。
﹁君が先に使って。庇ってくれてありがとう。でも、いつものこと
だから﹂
﹁いつものことだからと受け流すな、馬鹿者! 流していいことと
ならないことの区別くらいつけろ!﹂
きつい声で言われ、驚く。
﹁だけど、本当のことだから﹂
﹁どこが本当だ!? 母親を貶められて黙る莫迦がどこにいる!?
憤るのは子供の特権だぞ!﹂
﹁えーっと⋮⋮?﹂
﹁⋮⋮笑いたくないのに、無理に笑わなくていいんだ﹂
そう言われ、俺は驚く。
何でわかったんだろう?
母が笑っていてほしいと言っていたから、笑っていたということ
に。
本当は、笑いたくなんてなかった。
461
でも、笑うと喜んでくれるから、笑顔を作っていただけだ。
﹁あの⋮⋮土蜘蛛って、何?﹂
俺は先程の会話で気になっていたことを聞く。
﹁土蜘蛛、か? 聞くと不愉快になるから、聞かない方がいい﹂
﹁どうして?﹂
﹁葛城という家は、代々、不思議な力を持つ者が生まれるらしい。
それが他の者にとってとても恐ろしく映るため、そういう呼び方が
生まれたと聞いている。それ以上は、もう少し経ってから、自分で
調べるといい﹂
先程の表情とは打って変わって、少しばかり困ったような表情で
答える少女に、俺はほっとした。
凛然とした表情は、あまりにも大人びていて、相良が実は触れた
ら壊れるガラス細工のような脆さをどこかで感じていたせいもある。
この少女は、ちゃんと生きている生身の人間なんだと、理解でき
て嬉しかった。
﹁わかった。自分で調べるよ﹂
自力で調べた方がいいと、そう思って言えば、相良はゆったりと
頷く。
﹁あの。相良、瑞姫さん、だよね? 俺、あ、僕、橘誉といいます﹂
名乗っていなかったことを思い出し、慌てて名乗る。
少女が初めて年相応の笑みを浮かべた。
その柔らかな笑顔に、一瞬、目を奪われる。
﹁それで、あの。よかったら、友達になってくれませんか?﹂
生まれて初めて言った言葉だった。
誰かと友達になりたいなんて、思ったこともなかった。
橘という名前の下に寄って来る人間は多かったが、俺自身を見て
くれる人は誰もいなかった。
父の親友だと言う人の息子は、例外と言えるかもしれないが、あ
れは、親が友人だという条件があってこそ、だ。
それ以外の人では、初めてのことだった。
462
俺の言葉に、その人は笑みを深くする。
受け入れてくれると思った。
でも、返ってきたのは真逆の言葉だった。
﹁すまないが、今は断る﹂
﹁どうして!?﹂
﹁誤解のないように言うが、君が嫌いだからという理由ではないか
らな? 私の家族が言うには、私は狙われやすい立場にいるらしい。
そんな私と友人になるには、自分の身を守れるものでないとダメな
んだそうだ。だから、今は断る﹂
﹁自分の身を守れるようになれば、いいんだ?﹂
﹁そうだ﹂
﹁うん。わかった。じゃあ、今は諦める﹂
相良瑞姫に関する噂というのは、常に学園内で耳にする。
誰に何を言われても友達を作ろうとはしないというものと、物々
しいほどの警護の者が送り迎えをしているということ。
誘拐など日常茶飯事に狙われているからだと聞いている。
母も可哀想にと言っていた。
可哀想な子供ではないことくらい、見ればわかる。
だから、今は、諦めることにした。
やっと見つけた、自分の居場所。
彼女の傍が、自分が自分らしく居られる場所だということに気が
付いた。
だから、その場所を得るために努力した。
随分長い時間を費やしたけれど、やっと手に入れたその場所は、
とても居心地のいいものだ。
相変わらず、家というものは歪な場所だという認識が取れないが、
それでも学校や彼女の家で過ごす時間は何よりも得難いものだ。
463
だからこそそれを手放すことはできない。
瑞姫を守ることは、岡部に任せている。
彼以上の適任はいないからだ。
俺にできる事は、別のことだ。
俺が俺の居場所を見つけたように、瑞姫も自分の居心地のいい居
場所を見つけられるといい。
そのために、俺ができる事は何でもしようと思う。
どこか疲れた表情を覗かせる瑞姫のために、気晴らしになるプラ
ンを考えながら、俺は思う。
瑞姫が心から笑える1日を作ってやりたいと。
何も考えずに、楽しめるような、思い出に残るような1日を作り
たい。
それがどんな思いから生まれてくるのか、まだ考えもしないけれ
ど、それでも彼女の為に俺は相良家に無茶を通した。
464
58
ぽかんと口を開け、こちらを見ている在原。
何故そこまで驚く必要がある? と、尋ねたくなるほど、呆然と
している。
﹁うわああ⋮⋮スカートだぁ!!﹂
感動したように呟く在原だが、この姿を指定したのは彼自身だ。
どういう理由でかは知らないが、デートを企画した橘に、何かす
ることはないかと尋ねたら、自分たちが指定した格好でデートして
くれと言われた。
在原が指定したのはスカートだった。
いつもパンツスタイルだから、見たいと言われれば、頷くほかは
ない。
脚の傷も、膝下はかなり消えかかって来たので、ロングスカート
なら穿けないことはない。
ただし、タイツやストッキングが穿けないので、脚が冷えて傷が
痛みだすため、常にスカートは無理だ。
もうしばらく、辛抱が必要だ。
疾風の指定は温かい格好で、橘の指定は動きやすい格好だった。
この2人は何を私にさせたいのだろうか。
その点、在原はわかりやすい。
在原は女の子は女性らしい姿をすることを好んでいる。
例えば、ふわりと揺れるフレアスカートだとか、ファーがついた
ニットのワンピースだとか。
自分に正直な在原なので、視線や表情ですぐにわかるのだ。
身体のラインがはっきり出るような服はあまり好きではないらし
465
い。
いくら可愛くてもミニスカートだったりすると眉間に皺が寄って
いる。
絶対領域には萌えないのか。
ちょっと意外だ。
﹁在原の指定だっただろうが﹂
自分の姿を見下ろし、そう言うと、在原は嬉しそうに頷く。
﹁我儘言ってごめんな? 久々に見たかったんだよな、瑞姫のスカ
ート姿って。そろそろ温かくなってきたから、短い時間ならいいか
なと思って﹂
﹁静稀がオヤジすぎる発言してる﹂
﹁こいつ、元々オヤジだろ?﹂
橘と疾風が嫌そうな表情で在原にツッコミを入れている。
﹁オヤジの前にスケベが入っていないだけ、マシだと思った方がい
いのか?﹂
そんな2人に私は真顔で問いかける。
﹁ちょっ!! 瑞姫ちゃん! 真顔で言わないでっ! 邪な目で見
てるわけじゃないし!!﹂
﹁女子にスカート穿けと言う時点で邪だと思うが?﹂
﹁ちょっ! 岡部、酷いよ!!﹂
今日も在原は疾風にいじられている。
通常運転だな。
﹁でも、瑞姫、その姿、似合ってるよ﹂
橘が笑顔で告げる。
﹁ん。ありがとう。姉の見立てだ﹂
橘は人を褒めるのが上手だ。
半分ぐらいで聞くのがちょうどいい。
つまり、普通だと思うのがいいというわけだ。
今穿いているのは足首までのフレアスカートだ。
クラシカルスタイルで上はジャケットとブラウスで合わせている。
466
フレアスカートもそのまま広がるタイプではなく、膝のあたりに
共布で作られた花がつけられ、それがスカートが広がりすぎないよ
うに押さえているのだ。
足許はローファーだ。
本当はショートブーツが良かったのだが、持ってるブーツはヒー
ルがあるので、履くと在原より背が高くなるので踵が低いローファ
ーにしたのだ。
余計にクラシカルなイメージになったけれど。
﹁じゃ、お手をどうぞ。お嬢様﹂
にっと笑った在原が手を差し出し、気取って言う。
これが﹃お姫様﹄だったら、笑い出してたところだろうが、お嬢
様だったので許容範囲だ。
在原の手を借り、車に乗り込み、そうして私たちは目的地へと向
かった。
目的地は、中心街からやや離れたところにある植物園。
まるで公園のような設えだが、れっきとした植物園なのだ。
そして、一般的な植物を集めているのではなく、主にハーブを中
心とした香りと癒しをテーマにしている。
イングリッシュガーデンのように整えられている場所もあれば、
野原のようにどう見ても自然まかせになっているような場所もある。
温室の中で東屋のような場所を設け、そこでハーブティなどを楽
しむこともできるようになっている。
体験型を謳っており、ハーブを用いたコサージュやポプリ作り、
アロマオイルを用いての石鹸作りやボディローション、ハンドクリ
ームなども作れる。
在原が申し込んでいたのは、マイフレグランスというコースだっ
た。
467
自分用のフレグランス、トワレやパヒュームを作るらしい。
レシピを完成させたら、定期的に注文すれば作って送ってくれる
ということだ。
自分だけの香りというのは、やはり少しばかり憧れるものはある。
歩いた痕がわかるほど香りが漂うのは敬遠するが、すれ違った時
に仄かに香るというのはわりといいのではないかと思う。
私がアロマに興味を持っていると知っているため、こういうチョ
イスになったのだろうか。
ハーブ園と言っていいのだろうか、洗練されたデザインの温室の
中に、ハーブが趣向を凝らして植えられている。
﹁うわあ、いい香り﹂
爽やかな草の香りに在原が目を丸くしている。
自分で選んでおいて、意外そうな表情をしているな。
そんな様子の在原を見やり、橘が苦笑している。
﹁うわぁ⋮⋮季節無視だな﹂
植えられた植栽に、思い切り違和感を感じ、私は笑う。
冬に摘み取り時期を迎えるハーブたちと、夏に盛りを迎えるハー
ブが同時に咲き乱れているというのは微妙な心地がする。
元々、ハーブは一年中、摘み取り時期だという種類も少なくはな
い。
その丈夫さ、手軽さゆえ、ハーブを育ててみようと思う人も多い
らしい。
いつでもフレッシュハーブティがいただけるのなら、確かに育て
る人も出てくるだろう。
私もできる事ならやってみたいが、まず、難しいだろう。
兄や姉たちにプランタに水を遠慮なく注がれ、水枯れしそうな気
がしてならない。
水をかけてくれるのはありがたいが、ちゃんと土の状態を確認し
てからにしてほしいと願うのは贅沢なのだろうか。
468
そもそも、水遣りをするのは、たった一人で充分なのだ。
﹁瑞姫、この花はなんだ?﹂
白い菊のような親指の爪ぐらいの大きさの花を見て、ハーブの効
能を聞こうとする疾風。
﹁これが有名なカモミールだよ。リンゴのような香りがするだろ?﹂
﹁⋮⋮う∼ん。﹂
微妙な表情で疾風が唸る。
薫りを認めても、リンゴのような香りとは言いにくいと感じたよ
うだ。
こればかりは感覚の問題なので、この香り全体のどこら辺がリン
ゴのようだと判断しづらいようだ。
﹁瑞姫はこの香り、好きか?﹂
今度は在原が問う。
﹁うん、単体なら好きだよ。だけど、他の香りと混ざると気分が悪
くなる﹂
﹁組み合わせ、かあ﹂
難しい表情で唸っていた在原が、表情を変える。
ゆったりと散策をしながら時折足を止め、そこにあるハーブにつ
いて色々と説明書きを読む。
ハーブの効能というのは、実に色々とあるようだ。
一般的に知られた効能以外にも隠されたものがあるそうだ。
その効能の意外性に驚きの声を上げる。
リラックス効果が有名なものが実は毛生え薬として珍重されてい
たとか。
割と知らなかった効能が書かれてあったりと知識を満たすには充
分すぎるほどだ。
香りというものは、実に奥が深い。
そして種類も多い。
ハーブというものは一体どれほどの数があるのかと、気が遠くな
りそうだ。
469
温室を廻り終わり、別の建物へと移動する。
そこが体験コーナーだった。
﹁誉、岡部! 勝負だっ!!﹂
フレグランスのコーナーに辿り着いた在原が、2人に向かって勝
負を挑む。
⋮⋮一体、何をする気なんだろうか。
張り切る在原に、私は目を丸くした。
470
58︵後書き︶
昨日は残業で午前様となり、話が書けませんでした。
翌日打ち合わせだというのに、資料のチェックをせずに現場に行っ
た若手の助っ人で半徹でした。
471
59
在原プロデュースのデート。
マイフレグランスの体験コーナーでいきなり在原たちが勝負する
と言い出し、私は唖然とした。
何故、いきなり、勝負という言葉が出てくる!?
驚く私を余所に、3人はやたらと盛り上がっている。
完全に仲間外れ状態にぽつんとしていたら、私の担当になってく
れた女性がにっこりと微笑みかけてくれた。
﹁皆さん、仲がよろしいのですね﹂
﹁ええ。こういう展開は初めてですけれど﹂
﹁まあ、そうなんですか?﹂
﹁⋮⋮はあ﹂
曖昧に頷くしか、私に残された道はない。
﹁では、とっておきの一品を作って、後で自慢しましょうね﹂
その言葉に、私は頷く。
﹁はい。よろしくお願いします﹂
﹁こちらこそ﹂
にこやかに微笑んだ女性の指導の下、私は自分の香水作りに没頭
した。
﹁今回は5mlのパヒュームを作っていただきます﹂
472
しっとりと落ち着いた声で説明が始まる。
﹁アロマオイルからなるエッセンシャルオイルの濃度は15%を限
度にしてくださいね。香水の持続時間は、使用したエッセンシャル
オイルによって異なりますが、パヒュームの場合、大体3∼4時間
程度、香ります。次にノートについてですが、トップノート、ミド
ルノート、ベースノートの3種類があります。トップノートは、香
りの立ちが早く、持続性も短いという特徴があります。香りの第一
印象になりますので、華やかな香りを選ばれるといいでしょう。次
にミドルノートは、つけてから数分後から香りはじめ、ゆっくりと
広がる穏やかな香りで、全体のバランスを整えます。最後のベース
ノートは、持続性があり、数時間後まで香りを安定させます﹂
貰ったペーパーに目を通しながら、その説明を聞く。
バランスが大事なので、似たようなグループから選ぶといいのか。
﹁5mlだと、エッセンシャルオイルは15滴程度だと覚えていた
だくといいでしょう﹂
なるほどー。
ペーパーにはトップ、ミドル、ベースそれぞれに適したアロマオ
イルがグループ分けされ書かれている。
この中から好きな香りを選べばいいのか。
﹁では次に、香りを確かめてみましょうか。まずはベースを決めま
しょう﹂
ベース用のアロマオイルを気になったものから試験紙に落として
香りを確かめていく。
﹁あ。これがいいかも﹂
白檀の香りも捨てがたいが、乳香の香りも気に入った。
一応、候補としてこの2つを選んでおく。
その次にミドルノートになる香りを選ぶ。
トップはもう決めていたので、これを選べばほぼ終わり。
さんざん悩んだ挙句、フローラル系にする。
バランス重視なので無難な方向に向かってます。
473
最後のトップはスイートオレンジにした。
オレンジの精油瓶を選び、手に取ろうとしたら、同じくオレンジ
を選んだらしい橘と指が触れあう。
﹁あ﹂
まさかここでぶつかるとは思わなかった橘が、驚いたように声を
上げ、私を見て笑みを浮かべる。
﹁瑞姫もオレンジを選んだの? 気が合うね﹂
にこやかな笑みを湛えながら、もう1つあったオレンジの瓶に手
を伸ばす。
橘がオレンジ。
ふと過ったことがツボにはまり、笑い出す。
﹁瑞姫!?﹂
﹁い、いや。ごめん!! 何でもないからっ!!﹂
みかんがオレンジという言葉がぐるぐると脳裏を廻り、どうにも
笑いが止まらない。
悪いとは思いつつも、やっぱりおかしい。
スイートオレンジの精油瓶を握り締めながら、自分のブースに戻
れば、私の担当をしてくれている女性が怪訝そうに首を傾げる。
﹁どうかなさいましたか?﹂
﹁いえ。橘が、オレンジ選んだのがおかしくて⋮⋮﹂
﹁⋮⋮タチバナ⋮⋮ああ!!﹂
私の拙い説明に、それでもピンときたのか、納得した表情を浮か
べ、同じく吹き出しかけ、慌てて表情を引き締める。
﹁ええっとでは、配合を決めていきましょうか。大体のところの数
量がこちらの紙に書いてありますけれど、若干少なめに入れて、香
りを確認しながら作ると失敗はしにくいですよ﹂
﹁あ、はい。少な目、ですね﹂
基本、自分の好みで分量を決めていいらしいが、ある程度の目安
があれば、失敗はし辛いのも確かだ。
﹁エッセンシャルオイルを作るコツは、オイルを調合した後になじ
474
ませるために1日置いた方が本当はいいです。無水エタノールに溶
かしていきますが、アルコールが肌に合わない方はオイルでも大丈
夫ですよ﹂
﹁そうなんですか﹂
﹁ええ。オイルの場合は容器をロールオンにするといいですね。あ
と、これはできるだけ早く使い切ってください。目安は1ヶ月程度
です﹂
﹁そんなに早くですか?﹂
﹁ええそうです。ですから、量を少なめに作っていく方がいいんで
すよ。まあ、動物性オイルを使っている市販のパヒュームだと日持
ちはしますが、重ね付けはお勧めできません。でも、こちらだと、
数時間おきの重ね付けはできますから、意外と早く使い切ることが
できますよ﹂
なるほどな。
納得だ。
お仕事なんだろうけど、親切な人にあたってよかった。
エッセンシャルオイルの調合も色々とアドバイスをしてくれて、
ほんわかと和む香りができた。
これを分量通りに量った無水エタノールと合わせ、ゆっくりと混
ぜていく。
﹁これを最低1週間、1日1回ゆっくりと混ぜて馴染ませます。3
週間置けば、香りが馴染んで完成です。そのあと、1ヶ月以内に使
い切ることを忘れないでくださいね﹂
﹁はい﹂
出来上がったばかりのパヒュームを試験紙に吹きかけ、香りを確
かめる。
なかなかいい感じだ。
﹁いい香りですね。これだと馴染むともっといい感じになるでしょ
うね。はい、こちらが今回のレシピです。控えは取っておきました
ので、同じものがほしいときは、ご注文していただければ、こちら
475
で作成してお送りすることもできますよ﹂
﹁わかりました。ありがとうございます。ぜひ、お願いします﹂
自分だけのオリジナルレシピってちょっと嬉しい。
パーティとかに出席すると、大人の女性たちはほぼ皆、香水を纏
っている。
外国製の香水が殆どだから、ちょっと違和感感じる時もあるのだ
よね。
まあ、好みの問題だから仕方がないのだけれど。
未成年である私には、これが最上だろう。
さすがに学校にはしていけないけれど、家で楽しむにはいいだろ
う。
エタノールをオイルに変えればアロマランプとかでも使えるらし
いし。
アトマイザーに詰めてもらって、にこにこしていたら、作り終わ
ったらしい在原たちが作品を私に差し出してきた。
﹁瑞姫、どれが一番好き?﹂
期待に満ちた視線が私に突き刺さる。
﹁え?﹂
﹁瑞姫の好みはどれか、選んでよ﹂
﹁私が選ぶのか!?﹂
﹁当然だろ!﹂
当たり前だと言いたげに告げる在原に、私は戸惑う。
﹁彼女が審査委員なんですか?﹂
私を担当していた女性が笑顔で問いかける。
﹁だって、今月、彼女の誕生日なんですよ。だから、プレゼントし
ようって﹂
﹁まあ! おめでとうございます。素敵なプレゼントですね﹂
﹁え!?﹂
笑いかけられて、私は驚く。
﹁瑞姫!! 自分の誕生日くらい、ちゃんと覚えてろよ﹂
476
﹁まあ、瑞姫だからしょうがないよ﹂
呆れたように言う在原を宥めるように橘が言う。
なんですか!? その、残念な子のような言い方は!!
自分の誕生日くらい、ちゃんと知ってますって。
家族には祝ってもらいましたから。
﹁自分の誕生日くらい、ちゃんと知ってるって!! 予想外だった
から、驚いただけ﹂
むっとして言えば、生温かい視線が刺さる。
﹁友達なんだから、祝って当然だろ? 瑞姫だってちゃんと僕たち
の誕生日プレゼントくれたじゃないか﹂
﹁いや。本気で予想外だった。祝いたいから祝っただけだから、自
分がそれに返ってくるなんて想像してなかったし﹂
アトマイザーを3本、突きつけられ、半ば固まる。
何だろう、この恥ずかしい展開は。
アドバイザーな人たちの生温かい視線がこれほどつらいとは!
﹁まあ、静稀が何作ろうが、俺の一人勝ちなのは確定しているから
いいけどね﹂
話題をすり替えるように橘が言い出す。
﹁何を!?﹂
﹁俺、トップノートは瑞姫と同じオレンジ選んだから﹂
﹁何ですとっ!? ずるいぞ、誉!! 何でそれを言わないんだ!﹂
目の色を変えた在原が、橘の服を掴んで言う。
﹁何で俺が敵に塩を送らなきゃならないんだ?﹂
﹁敵!? 今、敵って言った!? 誉、僕のこと、敵認定したな!
? よし! 受けて立とう。と、ゆーわけで、ぜひ、俺のを選んで
ね、瑞姫﹂
くるっと私の方に顔を向けて、にこりと笑って唆してくる。
﹁⋮⋮おまえら、底が浅いな。俺は、瑞姫の好みなんて熟知してい
るぞ。絶対、俺のを選ぶに決まってる﹂
ふっと鼻で笑った疾風が私にアトマイザーを差し出す。
477
﹁ええっと。とりあえず、お茶しようか? それから、香りを確か
めてもいい?﹂
ここは、有耶無耶にして誤魔化そう。
誰を選んでも、在原は絶対、いじられることは決まっていそうだ
し。
それを考えると、ちょっとかわいそうな気もしないではない。
﹁あの、ありがとうございました﹂
彼らにくるっと背を向け、フレグランスコーナーの人たちにお礼
を言う。
﹁他にもいろいろありますから、またいらしてくださいね﹂
そう言われ、笑顔で頷いて会計を済ませると、その場を後にする。
それに続いて在原たちも移動し始める。
さて。
香りを確かめないと、何とも言えないが、本当に困ったぞ。
自分が作ったのが一番だと言っちゃ、駄目だろうか。
478
60
﹁きゃーっ!! さむいさむいさむいーっ!!﹂
天気は快晴。
風、強し。
気温、暖かいんだろうけど、強風のせいで非常に寒いです。
ちなみに場所は、海の上。
疾風がプロデュースしたデートは、海釣り公園だった。
何故海釣りなのかというと、私がやったことのないものだったか
らだそうだ。
だから、暖かい格好をしろと言ったのかー!!
激しく納得。
そして、寒い。
若者にあるまじきカイロを装着中ですが、それが何か? と言い
たくなるくらい、風は冷たい。
ちなみに、寒いのは顔だけなので、傷は大丈夫、痛くない。
どれだけもこもこよ!? と、言いたいけど、背に腹は代えられ
ない。
ファッションよりも暖かさ重視ですとも。
﹁ほら! マフラー、ちゃんと巻いてろ﹂
首許を緩く取り巻いていたマフラーを解いた疾風が、ぐるぐる巻
きにしてくる。
﹁疾風さん、疾風さん! 苦しいです! 息できませーんっ!!﹂
鼻のあたりまでマフラーに埋もれそうになり、慌てて疾風の腕を
479
タップする。
﹁前見えないしっ!! 加減してっ! 加減してー!!﹂
﹁岡部が母親みたいだ!﹂
﹁⋮⋮くっ!﹂
在原と橘が私たちから視線を逸らし、肩を揺らして笑っている。
海釣り公園という名前がついているが、海上釣堀なんだそうだ。
足場は金網なので、下が綺麗に覗ける。
ちょっと落ちそうで怖いので、誰かの服を掴んでないと歩けない。
もちろん、それは感覚的な問題で、実際は安全なんだけど。
﹁釣竿は、これを使え。仕掛けはもうきちんとしてあるから、後は
餌をつけるだけだ﹂
管理釣り場とか釣堀って、竿とかもレンタルできるらしい。
疾風はちゃんと持ってきてたけど。
﹁疾風って、釣りするの?﹂
いつも一緒にいたせいか、釣りをするというイメージがなくて、
首を傾げてしまう。
﹁ん、まあな。兄貴たちと暇ができたときに行くって感じ? 趣味
って程じゃないが、嫌いでもない﹂
颯真さんたちとのコミュニケーション的な役割なのか、釣りって。
伊吹さんと釣りって、イメージ湧かないけど。
﹁静稀と誉は釣りしたことあるの?﹂
疾風の提案を受け入れたということは、それなりに経験があるの
だろうか。
﹁あ。僕、初めてなんだ。だから、楽しみでさー﹂
にこにこと在原が笑いながら言う。
﹁俺は、父と何度かある。父は渓流釣りの方が好きみたいで、フラ
480
イフィッシングが多いけれどね﹂
﹁フライって聞いたことがある。針に羽みたいなのをぐるぐる巻き
つけてるやつでしょ?﹂
﹁そうそう。小さな羽虫を模してあるんだ。糸自体もこういう海釣
り用のよりも投げるのに特化してあるから重さがあってね﹂
楽しそうに橘が説明してくれる。
珍しいな。
あまりこう言ったことを話したがらない橘にしては、本当に珍し
く、詳しく説明をしてくれるなんて。
きっと、渓流釣りは橘にとってお父さんとの楽しい思い出のひと
つなんだろう。
﹁夏になったら、渓流釣りもしてみない? 管理釣り場なら、初心
者でも釣れるから﹂
﹁あ、うん。やってみようかな? 今回、きちんと釣れたなら﹂
﹁そうだね﹂
くすくすと笑って頷く橘が、疾風に視線を向ける。
﹁岡部、責任重大だよ?﹂
﹁どうかな? 釣りは本当は男より女の人の方が向いてるんだけど
な﹂
﹁へ? そうなの?﹂
﹁ああ。細かい当たりとかは、感覚が鋭い女の人の手の方が拾いや
すいんだ。まあ、大物釣りはさすがに力が足りないから、引き込ま
れそうになって危険だけど﹂
﹁大物ってマグロとか?﹂
﹁それもあるけど、GTとかシーラも引きが強いし。ここは大丈夫
だけど、船だとサメとか食いついてくることあるからな﹂
﹁サメ!? サメまで釣れちゃうの!?﹂
﹁生餌を使えば、食ってくる﹂
﹁うわあ⋮⋮﹂
サメは怖いな。
481
釣ったところで食べられないし。
あれ? いや、モダマとか言ってサメ食べてるところあるって聞
いたぞ。
食べれるのか!?
人間の雑食ぶりには驚くな。
﹁それで、これが餌﹂
﹁ふうん⋮⋮っきゃああああああっ!!﹂
餌が入っている餌箱を覗き、遠慮なく悲鳴を上げる。
人は、足が多いのが嫌と言う人と、足がないのが嫌と言う人に分
かれるらしい。
俗に言う蜘蛛嫌いと蛇嫌いだ。
私は蜘蛛も蛇もそこまで嫌いではないが、ムカデは嫌だ。
餌箱に入っていたのは、﹃青虫﹄と呼ばれるやたらと足が多い虫
だった。
これまでの人生で、ここまで大きな声で悲鳴を上げたのは初めて
かもしれない。
それほどまでに、このうにょっと動くもぞもぞした生き物に嫌悪
感を抱く。
﹁疾風! それいやっ!!﹂
見たくなくて、近くにあった手頃なものにしがみつき、目を瞑る。
﹁⋮⋮だって。岡部、意地悪しないで、疑似餌を出してやりなよ﹂
宥めるように背中を叩く優しい手の持ち主が、疾風を窘める。
橘か。
ほっとして肩の力を抜くが、まだ目は開けられない。
あれは何度も見れるような生き物ではない。
﹁ほら、岡部。瑞姫が怖がってる﹂
﹁⋮⋮ミミズは平気なのに﹂
何とも言えない疾風の声。
482
﹁ミミズとそれは違う∼っ!!﹂
全身全霊でもって訴える。
﹁同じと思うけど﹂
﹁ミミズに足はない!﹂
﹁え、そこ!?﹂
指摘した箇所が疾風の想定外だったのか、意外そうな声で驚いて
いる。
﹁岡部﹂
再び橘の窘める声。
あ。ちょっと耳が幸せ。
いい声だなぁ。
﹁せっかく用意したのに﹂
残念そうな疾風の声がして、片付ける物音が聞こえる。
ぽんぽんと橘が私の背中を軽く撫でた。
﹁もう目を開けても大丈夫だよ。片付けてるから、安心して﹂
耳許で囁かれ、ちょっとぞわりとする。
いい声は時に危険だ。
思わずぎゅっと服を握りしめてしまったじゃないか。
恐る恐る目を開け、そうっと顔を上げる。
こちらを心配そうに見下ろしている橘と目があい、ちょっと照れ
臭くて笑う。
﹁ごめんなさい。ありがとう﹂
﹁本当に怖かったんだね、涙目になってるよ﹂
可哀想にと呟かれ、いたたまれなくなる。
あう∼、恥ずかしい∼!
年甲斐もなく大騒ぎしてしまいました。
﹁あれは、岡部が悪い。だから、瑞姫は気にしなくていいよ﹂
﹁でも﹂
﹁苦手なものを目の前に出されて、動揺しない方がおかしいんだか
ら﹂
483
よしよしと頭を撫でられ、ちょっとホッとする。
いや、和んでる場合じゃないんだけど。
﹁瑞姫、あれじゃなくて、こっちを使って﹂
ちょっと拗ねた感じの疾風が、別の箱を差し出す。
﹁⋮⋮⋮⋮⋮⋮﹂
箱を開けるのが怖いと言ったら、疾風が傷つくだろうか。
そんなことを考えている間に、疾風が箱をサクッと開ける。
それは、箱型というより本型といった方が正しい表現だった。
ページをめくるようにそれをめくれば、中には様々な色合いの魚
を模したプラスティックの疑似餌が入っていた。
所謂、これはルアーと呼ばれているやつだろうか。
しげしげとそれを見ていたら、疾風と橘がくすっと笑う。
﹁こっちは大丈夫そうだな﹂
﹁その青虫は、俺たちが使うよ。じゃあ、そろそろ始めようか﹂
橘の言葉に疾風が頷き、私たちは釣りを開始する。
気分だけは釣り師なんだけど、上手く釣れるだろうか。
仕掛けを直してくれる疾風を眺めながら、私はそんなことを考え
ていた。
484
61
春の海。
蒼天の下、波が陽の光に反射して煌めく。
実にのどかな風景だ。
﹁仕掛けは、中央あたりにぽとんと落とす感じで。投げなくていい
から﹂
疾風先生指導の下、初釣り挑戦中です。
﹁落とす? 釣りって、竿のしなりを利用して遠くに仕掛けを飛ば
すものじゃないの?﹂
﹁それは、バス釣りとか、キス釣りとかの遠投の場合。ヒラメやカ
レイも砂浜から狙うなら投げるけど。特にシーバス釣りはピンポイ
ントを狙うから、まずは投げる練習から始めなきゃいけないけど、
今日はその必要ないから﹂
﹁⋮⋮シーバスって何?﹂
﹁スズキ﹂
﹁ああ! 白身魚の!! って、普通に釣竿で釣れるんだ!?﹂
気になったことをすぐに聞いてしまう私に、疾風は嫌な顔一つせ
ず、丁寧に説明してくれる。
﹁割と河口付近から海岸近くでも大物が釣れやすい魚のひとつだな。
あと、アイナメなんかも釣れる﹂
﹁⋮⋮へえ!﹂
世の中には知らないことばかりだと、実感する一瞬。
魚の名前や形は知っていても、どんなところでどういう風に釣れ
485
るのかは、まったく知らなかった。
﹁で? ここの釣堀では、何が釣れるの?﹂
﹁鯛とか見えてるな。鯛は春先から釣りが楽しめるんだ。大体、船
釣りが多いけど﹂
﹁ふぅん。じゃあ、餌は本当に海老なわけ?﹂
﹁うん、そう。海老も餌にする﹂
マジですか!?
じゃあ、何で青虫を餌に選んだわけ!?
断固抗議しちゃうぞ、私は!
じっとりと睨みつければ、苦笑する疾風。
﹁あれは、一般的な餌なんだ。五目釣りするときは、アレを餌にし
ておけば、大抵のものは釣れる万能選手なんだぞ﹂
﹁ミミズの方がマシ﹂
﹁⋮⋮意外だったよな。瑞姫が青虫が苦手なんて。まあ、今まで確
認しようがなかったから気付かなかった俺も悪いんだけど﹂
﹁生まれて初めて見たけど、すごく気持ち悪かった。夢に魘された
らどうしよう⋮⋮﹂
﹁そこまでか!﹂
なんか、釣りの餌ってミミズのイメージが強かったけど、ミミズ
を餌にすること自体、今はほとんどないんだと。
青虫とかゴカイとか足がたくさんある細長い虫が餌に選ばれる率
が高い。
あとは、アサリガイのむき身とか、イカを短冊切りにしたりとか、
イクラとか。
何たる贅沢!!
撒き餌とかも釣り番組とかでよくやってるけど、あれは海を汚す
こともあるので、あんまりやっちゃいけないとか、そういうことも
教えてもらった。
特に釣堀なんかでは、全然必要ない上に、逆に堀の中の魚たちが
病気になったりするかもしれないので、禁止されているところの方
486
が多いとか。
それから、地域独特の釣り方とかもあるので、どれが正しい釣り
の仕方だというのはないそうだ。
釣り番組とかは道具の宣伝の為に行っているので、それこそあて
にしちゃいけないんだと熱弁を奮われた。
一体、何があったんだ、疾風?
道具一式をつられて買ったとか?
突っ込んでみたかったけど、聞いたらまずいような気もするので、
そこはスルーしよう。
﹁あのさ、釣り糸垂らしたら、そのままでいいわけ?﹂
誤魔化しついでに話を進めたら、疾風の表情が真面目なものに変
わる。
﹁そのままでも構わないけど、普通は誘いをかける。しゃくりとか
言うこともあるけど﹂
﹁⋮⋮どうするの?﹂
﹁疑似餌の場合は、特に、餌が生きているように見せかけるために、
糸を操るんだ﹂
私が手にしていた釣竿の仕掛けをぽいっと海の中に放り投げ、錘
が底に着いたとわかるとリールのハンドルを私に握らせ、その上か
ら疾風もハンドルを握って回しだす。
﹁底を取ったら、今度は棚を取る。棚って言うのは、獲物の居る場
所のことだ。テグスの色で大体何m水深があるかがわかるようにな
っているんだ。まあ、船釣り用のいい電動リールなら、魚影や水深
や棚もわかるようになってるけど。こうやって、竿を上下に動かし
た後、リールを一定のスピードで巻き上げて、止める。これをしゃ
くりというんだ﹂
竿先を立てるようにして上下に振り、止める寸前にリールをひと
巻する。
しばらくそのままにしたあと、再び竿を上下に動かし、リールを
巻く。
487
三度目のしゃくりを終えた後、こつんというわずかな振動を手に
感じた。
﹁あ。疾風?﹂
もしかして、魚が餌に食いついた?
顔を上げ、疾風の顔を覗き込むと、疾風がにっと笑う。
﹁まだまだ﹂
﹁えー?﹂
﹁これは、様子見だ。慌てるな﹂
疾風の言葉を証明するかのように、また、こつこつと振動が伝わ
ってくる。
﹁これも?﹂
﹁ああ。疑似餌を突いて確かめてるんだ。次、くるぞ﹂
そう言った瞬間、ぐんっと竿が引き込まれそうなくらい引っ張ら
れた。
﹁竿先を立てろ!﹂
言われるままに竿を引き上げる。
﹁慌てずに、一定のスピードでリールを巻くんだ﹂
急いでリールを巻こうとしたのを制され、数えながら巻き始める。
それでも竿を引かれる。
﹁糸を緩めたら、バレるから。ああ、外れるんだ。だから、竿を持
って行かれても、竿を立ててリールを巻き続ける﹂
言われるがまま、懸命にハンドルを回す。
竿を疾風が支えてくれるので、何とかハンドルが動かせる。
何が何だかわからないまま、ぐるぐるとハンドルを動かし、リー
ルを巻きとっていると、海の中で仄かに桜色の魚が不自然な動きを
しているのが見えた。
﹁見えた。もう少し頑張れ!﹂
﹁あ、うん!﹂
片手で竿を支えるだけで、決してリールを巻くのを手伝ってくれ
ない疾風の声に促され、唇を噛みしめながらただハンドルを動かす。
488
ふいに抵抗がなくなった。
重さは感じるけれど、魚が動いて暴れている感覚が消えたのだ。
﹁よし、もういいぞ。そのままじっとして﹂
片手網を手にした疾風が海の中にそれを差し入れ、引き上げる。
﹁うわぁ! 鯛だ!! 大きい?﹂
口から尻尾の先まで、およそ30cm近くもある。
お正月や祝いの席で用意される雌雄鯛は50cm以上のものが用
意されている。
あの天然物の鯛は普通ではないことはもちろん理解している。
だからこそ、今ここで釣った鯛は普通に考えればかなり大きいの
ではないかと思い、疾風に聞いてみる。
﹁ん。良型の尺だな。この時期ならなかなかのサイズだ﹂
﹁尺? 尺ってあの⋮⋮?﹂
﹁そ。一尺、二尺の尺。大体30cmっていうのが、釣りでも目安
になってるんだ。尺鮎とかいうだろ?﹂
﹁鯛も一尺より大きいといいの?﹂
﹁時期にもよるけど。ちょうど、これから大きくなっていく頃だか
ら、この時期の尺っていうのはちょっとしたサイズってことだ﹂
そっかー。
自慢していいサイズなんだ。
でも、釣堀の中だし、どうなんだろう?
﹁まあ、これが船釣りだったら間違いなくラッキーだけどな﹂
﹁⋮⋮あ。やっぱり⋮⋮﹂
ネットで区切ってプールされている中に用意された魚だけに、手
放しで喜んでいいわけじゃないだろう。
初心者にとって、場所はどこであれ、1枚は1枚だしな!
﹁瑞姫∼っ!! ナイス!!﹂
対面側に移動していた在原が、親指を立て褒めてくれる。
﹁在原も頑張れ∼っ!!﹂
﹁おうっ!﹂
489
手を振って応えれば、大きく頷く在原が仕掛けを投げ入れる。
釣った魚は、足許のゲージの中に針を外して入れるらしい。
この中から欲しい魚を自分のクーラーボックスに移し替えて、持
って帰れるようだ。
この場合、重さを計っての買い取りになるみたいだ。
2枚までが無料で、3枚目から計量していくらしい。
大物を釣り上げれば、その分、金額も可愛くない値段になってい
くので、大物釣りはあくまで引きを楽しみ、そのあと再びいけすに
返す人が多いようだ。
﹁疾風、この疑似餌っていつ交換すればいいの?﹂
青虫とかは、なくなったら交換すればいいんだろうけど、疑似餌
の場合は食べられないからずっとこのままだ。
たまにがじがじ齧られて、ぼろぼろになってしまうようだけど。
﹁見た目が悪くなったら交換すればいい。あと、釣れなくなってき
たら、だな﹂
﹁そんなので大丈夫なわけ?﹂
﹁そう。これも表面を研ぎ出し、色を塗り替えれば、捨てずにまた
使えるようになる。あと、時間によって魚が好む色が変わってくる
から、釣れなくなってきたら、色を変えたり形を変えたりするんだ。
今はまだこのままでも大丈夫だ﹂
竿を手渡され、素直に受け取る。
﹁隣にいるから、わからなくなったり、釣れて身動きできなくなっ
たら呼んで。1人でやろうとは思わないこと﹂
﹁はい、先生﹂
疾風の注意を聞き、ちょっぴり茶化すと睨まれた。
それでも、私のやる気に水を差すつもりはなかったようで、自分
の竿を用意すると、私から離れて釣りの準備を始める。
﹁⋮⋮それじゃ、ちょっと頑張ってみるかな?﹂
教えてもらったことを復習しながらやってみるか。
490
疑似餌を眺め、ぽいっといけすへ向かって投げ入れると、私は手
の感覚を頼りに先程、教わった通りに釣りを始めた。
体験型って、やってみてすぐにわかる。
釣りって、釣れるとめちゃくちゃ楽しい!
逆に、ずっと待ってても釣れない時は面白くない。
単純なことなんだけど、シンプルだから際立つ。
結論として、釣りにハマりました!
1人で釣りに行こうとは思わないし、行けないと思うけれど、面
白い。
疾風に頼んで連れて行ってもらうという方法もあるけれど、無理
強いはしたくないし。
でも楽しかったので、次は渓流釣りをやってみたいと正直に言っ
てみることにした。
実際に釣りをした時間というのは、3時間程度だった。
それでも、ヒラマサ1本と鯛3枚、カレイ1枚とアイナメが釣れ
ました。
潮の変わり目前後で釣れたり釣れなかったりするらしい。
だから、釣りというのは短時間勝負だったりすると言われて驚い
た。
イメージ的に、何時間もその場にじっくり座って釣ってるような
気がしたからね。
釣れなかったら、即座に場所替えするのが普通なんだと。
﹁おー! すげえ。何気にビギナーズラックってやつで釣れた?﹂
私の釣果を確かめて在原が言う。
491
﹁そういう在原は?﹂
﹁はっはっはっは! 鯛1枚だ。恐れ入ったか!﹂
無駄に笑った在原が、鯛を示して言う。
15cm位の小さな鯛だ。
﹁ある意味、すごい才能だよね﹂
呆れたように橘が告げる。
﹁橘は?﹂
﹁アジ2匹に鯛3枚ってとこだよ﹂
﹁アジもいたんだ!﹂
色んな種類の魚がいるんだ。
しかも、いけすから逃げないし。
﹁これ、どうするの?﹂
釣った魚を持ち帰るべきなのか、このままここで戻すべきなのか、
判断つかずに疾風を見る。
﹁とりあえず、写真撮ったら、返すか? 持って帰ってもいいけど、
厨房の迷惑になるだろうしな﹂
﹁ああ、そうだね﹂
疾風の言葉に頷いて、スマホで写真を撮った後、魚たちを釣堀の
いけすの中に網ですくって返す。
きちんと片づけを終えて、荷物をまとめた私たちは、迎えの車が
来るまで、海釣り公園の前にあるカフェでお茶することにした。
492
62 ︵在原静稀視点︶
在原家は天皇の血筋の四族の一翼、皇族だ。
僕はそう教えられて育った。
先祖に、名に恥じないように努力しなければならないと。
最近、クラスのやつらによく聞かれることがある。
﹃男女間の友情はありえるのか?﹄と。
僕には仲の良い友達がいる。
1人は、橘誉。
父親同士が友人で、幼馴染の親友だ。
父が僕を誉に会わせるから、何となく話をするようになり、その
まま友達になったという何とも言い難い理由だが。
もう1人が岡部疾風。
実は、岡部が何を考えているのか、僕にはさっぱりわからない。
想像できるのは、いつも瑞姫が快適に過ごせることを重要視して
いるだろうということだけ。
それから、意外と冗談が好きで、よく僕をからかって遊んでいる
らしい。
これは誉と瑞姫が言うので、そうなんだろう。
493
最後に、相良瑞姫。
彼女を一言で言うのなら、﹃特別﹄だ。
僕とは真逆で、先の先を読み、気遣いが上手な男前。
女の子だけど。
僕が苦手な女子ではなく、男が男に惚れるという形容がぴったり
というかしっくりくる実に男らしい一面を持つ。
なので、﹃男女間の友情はあり得るのか?﹄と聞かれると、ひど
く戸惑ってしまう。
瑞姫は確かに友達だ。
だから、﹃あり得る﹄と断言できるけど、そう答えると皆が信じ
てくれないのだ。
仕方ないから、皆が納得しやすいように表現を変えて答えている。
﹃お互いが努力しあうことで成り立つ﹄って。
これって、普通に男同士の友情でも同じだろう?
お互いに、お互いを補うようにして関係を確立していくんだから
さ。
表現を変えるだけで、同じ意味をさす言葉を使っても誰もが納得
してしまうんだから、不思議な話だ。
瑞姫は学園内でも上位クラスの有名人だ。
おそらく、瑞姫を知らない生徒はいないだろうと言えるほど。
僕も、幼稚舎から東雲に通っていたので、瑞姫の存在は知ってい
た。
知っていただけ、だ。
彼女の存在を気にかけ始めたのはいつだろうか?
思い返すと、誉に行きあたる。
初等部の頃からか、誉がよく瑞姫を見ている姿に気が付くように
なった。
494
誉は瑞姫が好きなのかと思って聞いてみれば、﹃友達になりたい
んだ﹄という答えが返ってきた。
じゃあ、何で声を掛けないんだと重ねて問えば、﹃理由があって、
断られた﹄と笑顔で告げる誉の姿があった。
何で断られて嬉しそうなんだろう?
微妙な心地で誉を眺めた僕は、悪くない、と思う。
﹃条件クリアしたら、友達づきあいしてくれる約束したから、今
はそれでいいんだ﹄と言った誉から、その条件を聞いて納得した。
傍から見るのと大違いで、誠実な性格をしているらしい。
それなら僕も友達になってみたいと思って、それから瑞姫を見る
ようになったんだ。
瑞姫を眺めるようになって気付いたことがある。
彼女によく突っかかってくる諏訪伊織だが、従姉が好きだと公言
しているのだが、誰がどう見ても瑞姫の事が好きだろ、と呆れてし
まいたくなる。
何よりも、瑞姫の行動を絶えず気にして、その気配を追っている
姿は、どうにもストーカー一歩手前だ。
笑えることに瑞姫は完全にそれらをスルーしているけど。
どうやら瑞姫は恋愛感情というものにとことん疎くできているら
しい。
まあ、傍に岡部がいれば、そうなるのも必然と言えるかも。
諏訪は岡部が苦手らしい。
俺様な態度を崩さない諏訪も、岡部が瑞姫の傍で威圧していると
きは挙動不審になっている。
そりゃあ、怖いだろう。
普段は無骨ながらも穏やかな岡部だが、瑞姫が絡むと人が変わる。
底冷えがするような威圧感は本物だ。
瑞姫の傍に誰も近づけまいとする岡部が周囲を威圧しているとき、
平然としているのは瑞姫と誉くらいなものだ。
495
誉もああ見えて相当豪胆なやつだからな。
かくいう僕もあまり怖くはない。
簡単な話だ、瑞姫を害そうとは思っていないからだ。
岡部とはよく同じクラスになり、話をする機会も増え、大体の性
格も把握した。
瑞姫が絡まない時の岡部は、実にイイやつだ。
のんびりと寛ぐ大型犬のようなやつだ。
岡部が大事にしている瑞姫もきっといいやつなんだろうと思って
いた。
確認できたのは、わりと後になってからだけど。
瑞姫と仲良くなって、一番に感じたことは、瑞姫の傍はとても居
心地がいいということだった。
正直言うと、僕は女の子がとても苦手だ。
何を考えているのかわからない。
ちょっとしたことで盛り上がって、大勢でたった一人を非難した
りとか、反論すればすぐに泣くとか。
自分が悪い時でも泣いて有耶無耶にしてしまうとか、それどころ
か正しい相手に罪をなすりつけてしまうとか。
それはもう嫌になるほど見て来たからだ。
人が忙しいときに、勝手に話しかけてきて、それどころじゃない
から返事をしなかったら怒りだすという自己陶酔型なやつもいた。
そういう女の子ばかりじゃないということも知っているけど、こ
ちらから用があるから話しかけたのに、怯えて返事もしないという
のもいたし。
理解できない鬱陶しい存在、それが僕の周囲にいる女子だ。
ところが瑞姫は全く違う。
瑞姫の周囲を取り巻く女の子たちも、やはり僕の知る女の子たち
496
と違うようだし。
まず、瑞姫は自分を飾らない。
とてもシンプルだ。
それが男らしいとか男前という評価に繋がっているんだけど。
男子用制服を着ていて、あのシンプルな性格のせいか、王子様扱
いされているようだけれど、所作は綺麗だ。
武術を嗜んでいるせいか、動きに無駄がない。
ガサツな面は見当たらない。
男っぽいわけでもない。
頭はすごく切れる。
相手の対応次第で自分の立ち位置を変えることができる器用さも
持っているし。
不意に何か言われた時に、咄嗟に返す言葉も気が利いている。
瑞姫が陰で﹃完璧な王子様﹄と呼ばれていることを知って、ちょ
っと納得したしな。
弱点らしき弱点も見当たらない、本当に完璧な人間がいるわけな
いとわかっていても、瑞姫はそう思わせる何かがある。
冗談で嫁にしてくれと言っても、笑って受け流す度量の持ち主だ
し。
こいつなら、僕という人間を預けてもいいやと思える相手を見つ
けて、すごく楽しくなった。
多分、誉も同じ気持ちなんだろうと思う。
その瑞姫が、意外にも足が多い長虫が苦手だとは想像もしなかっ
た。
餌箱の中で動くそれを見た瞬間、悲鳴を上げて誉にしがみつく瑞
姫を見て、僕はちょっとホッとした。
誉がずっと心配していたからだ。
最近、瑞姫が声を上げて笑うことがない、僕たちに見せる感情は
表面上、作られたものだと言って。
確かにそうだと思った。
497
誉がデートを企画したのも、瑞姫が自然に自分の感情を出せる場
所を作るためだ。
岡部も誉も、瑞姫を笑わせるものを企画したから、僕は困らせる
方向にした。
1番手の僕が困らせておけば、そのあとは感情の発露が楽になる
からだ。
体験型のハーブ園を選んだのは、そのためだ。
フレグランスなんて、僕たちにはあまり馴染がないし、興味もわ
かないものだ。
だけど、瑞姫はハーブが好きそうだし、実際、アロマオイルを使
っていろいろしていると聞いていたから、興味を持つだろうと考え
た。
瑞姫の誕生日プレゼントにもちょうどいいし、ついでに思いっき
り困ってもらおうとプレゼントした香水の中で一番気に入ったもの
を選んでと言ったのだ。
﹁う∼ん。迷うなぁ⋮⋮﹂
アトマイザーを眺め、真剣に悩む瑞姫。
オレンジの輪切りが入った硝子のティーポットから湯気が消えつ
つある。
瑞姫はオレンジが好きだというのは今日初めて知った。
﹁誉のトップのオレンジはやっぱり好きなんだけど、疾風のミドル
のラベンダーもいいし。静稀のティーツリーもあっさりして好きな
んだよなぁ﹂
﹁⋮⋮あれ? 岡部、調合、言った?﹂
誉がオレンジ使ったのは、瑞姫も知っているけど、僕の調合でテ
ィーツリーを使ったことも岡部がラベンダーを使ったことも、瑞姫
には言ってないはずだ。
﹁聞いてないけど、香りでわかるよ。静稀のベースはブラックペッ
パーでしょ?﹂
498
﹁何でわかったの!?﹂
﹁だから、香りでわかるって。量まではわからないけど。静稀のは
多少癖はあるけどさっぱりしてて好きなんだよね。疾風のはグリー
ンノートで落ち着くし。誉のは華やかだよね。作った人の性格出て
るなあって思ってて⋮⋮﹂
くすくすと笑いながら瑞姫が言う。
﹁んー⋮⋮難しい、選べない!!﹂
頭を抱えてテーブルに沈む瑞姫。
﹁全部好きで、赦してあげたら、静稀﹂
見かねたのか、誉が横から助け舟を出す。
﹁まあ、いいか。プレゼントだからね。使ってくれる?﹂
﹁それは、もちろん!﹂
﹁じゃ、仕方がないから許してあげる﹂
偉そうに上から目線で言えば、ほっとしたように笑う瑞姫の姿が
ある。
後続の岡部に誉。
ちゃんと、瑞姫を楽しませて、笑わせてやりなよ?
そう思いながら、岡部にバトンを渡したつもりだったんだけど。
怖がらせてどーする!?
しかも、泣かせてさ!!
ちょっともやもやする気持ちを抱えながら、場所移動して釣り始
めたけれど、瑞姫の竿がよくしなっているのが見えた。
完璧な王子様は、釣りの腕前も完璧だった。
今日一番の釣果は、間違いなく瑞姫だった。
先生役のはずの岡部の顔が引きつっていたから笑えたけれど。
次は、誉の番だな。
頑張れよ。
499
63
えーっと、これは一体⋮⋮。
何をどう反応すればいいのでしょうか?
3回目のデートは、橘プロデュースだ。
橘のイメージからかけ離れた場所に、私は呆然と見上げる。
賑やかな音楽に、あちこちに点在するショーケース。
階段があり、その上からもさらに賑やかな音が。
﹁⋮⋮誉、ここ⋮⋮?﹂
﹁ああ。やっぱり、瑞姫は初めてなんだ? アミューズメントパー
クだよ﹂
にっこり笑って告げる橘の笑顔が眩しい。
いや、知ってますけど!
かつてというか、前世で友達と通い詰めたことがありますけど!!
ええ。クレーンゲームの中に大好きなキャラの人形があったんで、
欲しくて欲しくて通ったんですけど。
こんなちゃちな人形にどんだけ大金注ぎ込むんだよ! というレ
ベルまで行っても取れなかったので、別の場所で邪道にも買っちゃ
いましたが。
まさか、今生でも来るとは思いもよりませんでした。
まさに住む世界が違ってたし。
﹁えっと⋮⋮何をするの?﹂
500
クレーンゲームは、私にはハードルが高すぎます!!
前世で懲りました。
今はクレーンでほしいものって、知らないから何もないし。
﹁ローラーブレードのコースがあるんだ、ここ。ボウリングなんか
もあるけど、あれは瑞姫には向かないからね﹂
ちょっと苦い笑みになる橘。
ボウリングは、確かにこの腕じゃ無理だ。
爪が割れる心配もあるし。
基本的に爪は丈夫だけど、万が一を考えておかないと。
﹁ローラーブレードがあるんだ﹂
ちょっとハードだけど、ブレードはやったことがある。
﹁アイススケートの方も。でも、ちょっと寒すぎるから﹂
言葉を濁す橘の言いたいことはわかっている。
傷が冷えて、痛みだすといけないし、私がスケートを得意なのか
苦手なのかもわからないからだ。
ブレードならガードをつけてすることができるけれど、スケート
の場合はガードをつけるのはいいがかえって動きづらくて強打して
しまうこともあるし。
その微妙な判断で寒くない方を選んだのだろう。
気を遣ってくれてありがとう。
﹁⋮⋮⋮⋮クレーンゲームが気になってるの?﹂
私の視線を追った在原が、きょとんとした表情で尋ねてくる。
﹁クレーンゲーム⋮⋮﹂
気にはなりますとも。
何が入ってるのかは、チェックしたいよね。
でも、取れないからなー。
﹁あれは、コインを入れて、手許のコントローラーで中にあるクレ
ーンを動かして、欲しいものを取るゲームなんだ﹂
橘が瑞姫は知らないと思って説明してくれる。
知っているとは言えないな。
501
﹁欲しいものがあれば、後で取ってあげるよ﹂
なんですとっ!?
﹁見たいっ!! 取ってるところ、見せて!!﹂
思わずわくっとなっちゃったよ。
上手いのか!? 橘、クレーンゲームが上手いのかっ!?
おぼっちゃまのくせして、何でクレーンゲームが上手いんだっ!!
私の剣幕に、橘が笑い出す。
﹁うん、わかった。見せてあげるよ。静稀も結構、上手いんだよ﹂
なんとっ!!
期待に満ちた視線を在原に向けると、びくっと肩を揺らした在原
が、困ったように視線を揺らす。
これは、照れてる時の癖だ。
﹁静稀﹂
﹁⋮⋮えーっと⋮⋮﹂
﹁静稀。見たい。お願い!﹂
﹁そんなに期待に満ちた目で見られると、照れるんですけどー⋮⋮﹂
﹁見たいです﹂
﹁⋮⋮うっ⋮⋮わかった﹂
﹁やった!﹂
クレーンゲームって、自分が下手だとわかっているだけに、自分
がやるより人がやるのを見る方が楽しいんだよね。
﹁じゃあ、早めに上がって、ゲームを少しやるのもいいね﹂
笑いながら言う橘に礼を言って、階段を上がる。
受付を済ませてブレードを借りると、荷物をロッカーに預ける。
靴をはき替えたら、リンクに降りる。
春休みの割には、人は少ない。
ぶつかってきそうな人がいないことを確かめて、足馴らしで一周
回る。
﹁へえ。瑞姫、上手いじゃん﹂
感心したように在原が言う。
502
﹁前に進むくらいなら、何とかね﹂
﹁他に人がいるから、競争とかはできないな﹂
ちょっと悔しそうに呟いて、在原はリンクを眺める。
さすがにここで競争しようとか言い出したら、いくら私でも注意
はするしね。
﹁ここって、内側の方がスピード出してもいいみたいだね﹂
そんなに大きくないリンクだけど、二重に取り巻いている。
外側には初心者が多いようで、転んだりしている姿が見受けられ
る。
逆に内側は、ある程度のスピードを出してぐるぐるとまわってい
る人が多いようだ。
﹁じゃあ、内側に行くか﹂
人がさほどいない内側の方がいいだろうと話し合い、そちらへ向
かった。
今日は始終、声を上げて笑っていたような気がする。
約束通り、クレーンゲームも見せてもらった。
コイン3枚で目的のモノを手に入れられるとは、見ていて滾りま
した。
ふかふかなぬいぐるみをもらいました。
手触りいいのって、すごく幸せな気分になるよね。
ぬいぐるみを抱きしめて、ふと思った。
もう、思い残すこと、ないなぁ⋮⋮。
それほど楽しかったんだ。
友達と遊ぶってこと、社会人になってからほとんどなかったし。
ここでは瑞姫は友達を作ることを拒んでいたし。
503
本来ならば、ここにいるのは瑞姫で、私ではない。
そういう点では瑞姫に悪い気がする。
そう思っていても、とても楽しくて幸せだと思った。
色んなゲームを見せてもらって、たまに手ほどきを受けてやって
みてというのを繰り返し、そろそろお開きの時間が迫ってきた。
﹁静稀、誉、疾風。ありがとう。楽しかった﹂
3回のデートは、それぞれ、本当に楽しかった。
それぞれ趣向を凝らして考えてくれて。
友達と普通に遊べる楽しさを思い出せた。
笑って礼を言う私とは真逆に、私の言葉を聞いた3人の表情が抜
け落ちる。
﹁⋮⋮⋮⋮瑞姫⋮⋮?﹂
﹁新学期が始まると、なかなか遊びに行けないからなあ﹂
そう言いながら窓の外に視線を向ければ、迎えの車が近づいてき
ていることに気付く。
﹁ああ。車が来たね。戻ろうか﹂
車に向かって歩き出す私の後をやや遅れて3人がついてくる。
だから、私は、彼らがどんな表情をして私を見ていたのか、全く
気付かなかったのだ。
504
64
春休みが終わり、新学年が始まる。
あの日以来、何故か皆がいつも以上の頻度で別棟に顔を出すよう
になった。
特に用事があるわけではないらしい。
私の顔を見ると、何故か安心したように微笑うのだ。
心配させるようなことをしたっけか?
思い当たるようなことは何もない。
﹃ありがとう﹄と礼を言っただけだ。
してもらって当たり前という考え方は持っていないから、何かし
てもらったらありがとうと礼を言うのは普通だと思う。
別に気にかけるようなことじゃないよね?
何を気にしているんだろうか。
気にしているといえば、夢の話だが、瑞姫がこちらに近づいて来
てくれている。
もう少しで辿り着くような感じだ。
まあ、夢の話なので、実際にどうってことはないのだが。
505
***************
人だかりができている掲示板に近づけば、新学年のクラス分けが
掲示されていた。
﹁今年は同じクラスになってるといいね、疾風﹂
傍にいた疾風に声を掛けながら、掲示板を眺める。
実は、疾風と同じクラスになったことが今までないのだ。
ここまで来ると作為的だが、まあ、仕方がない。
そんなことを考えつつ、掲示板を眺めて事実を確認する。
やっぱり、作為的だった。
﹁⋮⋮疾風、同じクラスでよかったね⋮⋮﹂
﹁そうだな﹂
単純に嬉しそうな疾風とは異なり、私の視線は他の所に釘付けだ。
隣のクラスに、東條凛がいた。
そのクラスには諏訪伊織の名前がある。
私のクラスには、疾風のほかに、在原静稀、大神紅蓮、そして菅
原千瑛の名前があった。
次のクラスには、菅原千景と橘誉の名がある。
ゲームと同じ展開なら、今年も私は諏訪と同じクラスになるはず
だった。
それが隣のクラスということは、学校側に提出している東條家の
書類が効いているというわけか。
東條凛自体は、私への嫌がらせや殺人未遂には全く関与していな
506
い。
だが、それを行った東條家の人間だ。
当然、学校側も色々と警戒しているはずで、その警戒の中、私と
東條凛を同じクラスにするという選択肢はなかったのだろう。
そうして学校側の目が届きにくいところで事が起こった場合、即
座に対応できる人間を傍に配置したのが、今回のクラス割だと考え
られる。
私の傍付である疾風と、生徒会役員である大神を傍につけるとい
うことは。
それ以前に、入学を許可するということは、何か思惑があったの
かもしれない。
大人の思惑など、子供に手が出せようはずもない。
﹁疾風、教室へ行こうか﹂
そう声を掛け、人混みから外れたとき、こちらへと近付いてくる
大神の姿に気が付いた。
穏やかな笑みを湛える好青年な印象を与える大神は、私の手前で
立ち止まる。
﹁相良さん、少しばかり話してもいいかな?﹂
許可を求めているようで、拒否を認めない強引な誘い。
こちらを興味津々な表情で眺めてくる生徒たちの姿を見れば、こ
の場から立ち去った方がいいだろう。
﹁ここではなんだから、少し移動しようか﹂
了承の言葉代わりに場所移動を提案すれば、大神は黙って頷き、
踵を返す。
﹁岡部君も一緒に話を聞いてほしいので、同行してくれますか?﹂
肩越しに声を掛け、誘う。
﹁わかった﹂
507
返す疾風の声は硬い。
生徒たちを避けながら、中庭付近まで移動する。
﹁ここでなら、大丈夫でしょう﹂
周囲に人がいないことを確認して、大神が振り返る。
﹁東條家の人間が、転校してきました。伊織と同じクラスです﹂
その言葉に、疾風の表情が険しくなる。
﹁学校側から生徒会の方に、相良家から提出された東條家の念書を
見るようにと指示が出たので、目を通しています﹂
大神は、仔細を知っていると頷きながら説明をする。
﹁本来なら、入学を申し込むことがあの念書に抵触することくらい
わかりそうなものですが。あの書類を盾に、学校側も一度は入学拒
否を考えたそうです﹂
﹁⋮⋮許可した理由は?﹂
唸るような声音で、疾風が問う。
﹁理事会の決定だそうです。ちなみに、東條さんの入学試験結果は
散々だそうで、入学許可できるレベルに達していないそうですよ﹂
くつりと人の悪い笑みを浮かべた大神が、暴露する。
﹁何故それで入学許可が下りる?﹂
﹁理事会の思惑が絡むからです。彼らは、相良家からの書類を利用
して、東條家を潰そうと考えたようです。実際、試験結果を理由に
入学許可できない旨を告げて反応を見たところ、慌てた東條家は入
学金を積んだそうです﹂
﹁金を積んだ? 何を考えてるんだ﹂
不機嫌そうな疾風の言葉に、私も頷く。
﹁東雲学園に相良さんが通っていることを知っているのかいないの
か、そこは計りかねますが、孫娘の我儘に振り回されている様子が
伺えたと聞いています﹂
大神の言葉に、思わず顔を顰める。
強引に祖父母が東雲行きを決定するのがゲーム冒頭のシーンだが、
孫娘が東雲へ行きたいと彼らを振り回しているのか?
508
奇妙な違和感を感じる。
﹁校長からの伝言です。理事会の思惑など気にせずに、学園生活を
存分に楽しんでください、とのことでした。どうやら、理事会と職
員側とで温度差があるようですね﹂
その言葉に、思わず納得してしまう。
経営側と教育者たちとでは、意識が全く異なって当たり前だ。
生徒が大事な教育者たちは、優等生である私の安全を守ろうとい
う意見が出ても不思議ではない。
もちろん、東條凛が何をできるかなんて、考えもしないだろうが。
﹁理事会のことは留意しておこう﹂
彼らの手駒になるつもりなど毛頭ない。
もちろん、学園側に対してもそうだ。
﹁生徒会としては、東條さんより君の安全を取ることにもとより決
定している。だから、そのつもりでいてほしい﹂
﹁具体的には何をするつもりかな?﹂
﹁まあ、一番地味な方法として、東條さんが君に接触できないよう
に、君のガードをするということかな﹂
﹁⋮⋮目立たないように頼んでもいいかな? 目立てば、余計に相
手がエスカレートする場合もあるし﹂
﹁そうだね。その点は考慮するよ﹂
とりあえず、打つべきところに釘を刺し、視線を空へと向ける。
﹁教室へ行こうか﹂
今この時点で話せることはないと判断し、教室へ行くことを促し
た。
新しい教室には、生徒の数が半分ほど揃っていた。
全員揃ったところで、始業式が始まるのだろう。
いつものように、放送が入るまで適当な場所へ座って歓談しなが
509
ら待つ。
講堂へと足を運ぶようにという放送が入り、教室を出た者たちが
廊下である程度の隊列を作り、歩き出す。
ぞろぞろと講堂へ向かった私たちは、中で整列する。
そうして生徒たちが揃ったところで、始業式が始まった。
校長が長々と話をする。
それを聞き流しながら、私は何かが近づいてくるような感覚を覚
えていた。
ゆっくりゆっくりそれは近付き、何かを探している。
この気配は⋮⋮
﹁見つけた!﹂
自分の内側にある気配を捉え、自分の意識がそちらへと向かって
いくことを感じる。
身体から意識が剥離していく。
意識を保っていられない。
近くで悲鳴が上がった。
何が起きているのかも、全く把握できない。
驚愕に満ちた表情でこちらを振り返った疾風の顔を認識する。
﹁⋮⋮疾風⋮⋮あとを、頼⋮⋮む⋮⋮⋮⋮﹂
疾風にこの声が届いたかどうかはわからない。
だけれど、自分の顔が笑みを浮かべていることだけは、理解でき
る。
伝えたいことはまだあったけれど、もう声が出ない。
遠ざかる意識。
そのまま私は暗闇に意識を吸い込まれた。
510
65
暗闇の中、対峙する2人の少女。
どちらも同じ顔をしている。
片方が小柄で幼さを残しており、もう片方は背が高く少しばかり
大人びている。
客観的な視点と、自分の意識から見た視点。
その2つの視点を違和感なく受け止めながら、私は彼女の腕を掴
んだ。
先程まで、確かに講堂で始業式の校長講和を聞いていたはずだっ
た。
あの最中、何かの気配を感じ、見つけたと思った。
そうしてその気配を追って、気が付けばこんなところにいた。
ここ、どこでしょう?
似たようなことを考えているらしい瑞姫も、困ったように周囲を
見回している。
まだ12歳の少女だ、困りもするだろう。
でも、どうにかしないとね。
そう腹を括った私は瑞姫に声を掛ける。
511
﹁瑞姫﹂
その声に、瑞姫はびくりと肩を揺らして私を見る。
﹁あ⋮⋮私⋮⋮?﹂
私の顔を見て、それが自分であることに気が付いたようだ。
﹁そうだよ。16歳の瑞姫の姿だ﹂
それだけ長い間、瑞姫はこの暗闇の中、彷徨っていたんだ。
﹁16歳⋮⋮﹂
﹁そう、16歳だ。君は3年半ほど私の中で行方不明になっていた
んだ﹂
﹁⋮⋮あ⋮⋮﹂
逃げ出したことを思い出したのか、バツの悪そうな表情になる。
﹁そのことで君を責めるつもりはない。それは、君にとって必要な
ことだったんだから﹂
時に逃げることも大切だ。
そうしなければ、心が壊れる。
ただ、瑞姫の場合、逃げ出したのはいいけれど、そのあと、盛大
に迷子になって、戻ってくるのに時間がかかりすぎたんだ。
おかしいな。私はそこまで方向音痴じゃなかったはずなのに。
ちょっとむくれたくなるけれど、それは後でやればいい。
﹁だけど、君が行方不明になったことで、この身体が生きていけな
くなりかけた。心がなければ、身体はうまく機能できない。でも、
身体は生きたがっていた。だから、残った欠片を集めて、私が目覚
めた。瑞姫の身体を生かし、動かすものとして﹂
前世の記憶の欠片である私が目覚めたのは、本来あるべき心がい
なくなってしまったからだ。
そう仮説を立てれば、辻褄が合う。
でなければ、今生での瑞姫の記憶を私が取り込むことができない
からだ。
記憶の欠片である私に前世の記憶の封印を解き、自我を甦らせた。
欠片でしかない私は、本体の前では無力だ。
512
瑞姫が戻れば、今いる場所を受け渡すしかない。
未練などは感じてはいないけれど。
そう、不思議と未練はない。
まあ、瑞姫にこの場を渡しても、私自身が死ぬわけではないから
だ。
記憶は瑞姫に引き渡され、私は眠りにつくのだろう。
﹁瑞姫、これから先は、君が生きなさい。君の大切なものを君に返
すよ﹂
その言葉に瑞姫の顔色が変わる。
﹁それじゃ!!﹂
﹁元々が君のものだった。私は少しの間、代役を果たしていただけ
だ﹂
﹁それでも!! あなたが生きていた間、それはあなた自身のもの
だ﹂
﹁いや。間違えてはいけない。私は君の一部だ。本来、君が経験す
ることを私が代行していたに過ぎない。君が本来の場所に戻れば、
私が経験してきた記憶は君へ引き継がれる。だから、何も心配する
ことはない﹂
私の言葉に瑞姫は硬い表情を浮かべたままだ。
﹁それでは、入れ替わった後、あなたはどうなる!?﹂
思いもよらぬ激しい口調。
﹁私? どうなると思う?﹂
﹁ふざけないでっ!! 真面目に聞いている!﹂
﹁正直に言うと、死ぬわけではない。それはわかっている﹂
﹁⋮⋮え?﹂
﹁君が死なない限り、私も死なない。入れ替われば、記憶はメイン
になっている方に引き継がれる。それは、確かだ。私もそうやって
君の記憶を引き継いだから﹂
笑みを浮かべたまま、正直に答えれば、瑞姫が戸惑いの表情を浮
かべる。
513
﹁では、あなたは⋮⋮﹂
﹁役目は終わった。だから、眠ろうと思う﹂
﹁眠るって⋮⋮﹂
﹁その言葉通りの意味だ。君がいなくなったから目覚めた。戻って
きたのなら、起きている必要はないだろう? 1人の人間に自我が
2つも必要ないし。その状態を二重人格というのだろう? やはり
それは問題だと思う﹂
説明を聞きながら、納得しつつも納得できないと言いたげに私を
見上げている。
﹁私という自我が眠りにつけば、おそらく、君に融合するんじゃな
いのかな? 私は君の中で、君が体験することを夢現で見守れると
いうことだね﹂
﹁⋮⋮本当に?﹂
﹁さあ? 私にもわからない。何せ、この状態自体がイレギュラー
だ。本来起こるべきことではなかった﹂
きゅっと唇を噛みしめ、自分を責めている様子の瑞姫の頭を撫で
る。
﹁さあ、もう往きなさい。疾風たちが君を待っているよ﹂
﹁え? 今、どうなって⋮⋮?﹂
きょとんと瞬きをして、瑞姫が問う。
﹁さあ? 高2の春、始業式の最中だったことは確かだ。君を見つ
けて私も意識を飛ばしちゃったからね、今頃、いきなり倒れた私を
見て疾風たちが慌ててるころだろうなあ﹂
﹁ええええええええっ!?﹂
﹁起きたら、きっと怒られるだろうなぁ。うわあ、嫌だな﹂
﹁あれで結構、疾風は怒ると怖いからな﹂
ふたりで同じ結論に辿り着き、うんうんと頷き合う。
﹁潔く疾風に怒られてきなさい、瑞姫﹂
﹁ええ!?﹂
﹁それで3年半の迷子はチャラだ。大丈夫、皆が君を助けてくれる。
514
それにね、起きたらわかると思うけど、机の引き出しに日記と資料
が入っている。それを見れば、これからのことが多少わかるだろう。
誰にも見つからないように、それを見て、対応策を考えるといい﹂
するりと立ち位置を変え、瑞姫の肩を掴む。
﹁対応策?﹂
﹁そう。これから起こりうる可能性があることを書き記している。
東條凛という女の子が転校してきてから、彼女が起こすだろうこと
を書いているんだ。まあ、随分状況が変わってきているから、その
通りに彼女が行動を起こすかどうかはちょっとばかり疑問はあるけ
れど。とりあえず、乗り切れる打開策にはなると思うよ﹂
細かい説明をしたいところだが、もう時間はないらしい。
眠りの時間が近づいてきたようだ。
緩やかに意識が遠のいていく。
恐怖を誘う闇が、心地良い眠りへ誘う闇へと変化していく。
そうか、ここで私は眠りについて、彼女の中へ同化していくのか。
﹁詳し事はそれに書いてあるから﹂
そう言って、私は笑った。
﹁3年半、私はとても楽しかった。これからは、君が楽しむ番だ﹂
瑞姫の肩をそのまま後ろへと押し上げる。
﹁え!?﹂
ふわりと瑞姫が浮上する。
慌てたように少女が私を見つめる。
彼女とは反対に、私の身体は闇に絡め取られ、ゆっくりと後ろへ
倒れ込んでいく。
﹁待ってっ!!﹂
浮き上がりながら焦ったように瑞姫が手を伸ばす。
闇に墜ちていく意識の中、彼女が私の手首を掴んだ。
途端に覚醒する意識。
﹁えっ! ちょっと待って!!﹂
どちらが叫んだのかわからない。
515
白い光があたりを照らし出し、私の意識は呑みこまれた。
516
66
視界に白い天井が移り込む。
それが天井だと認識して、自分が目が覚めたのだと気付く。
見慣れない天井。
否、記憶にある天井だ。
そう思い直し、唐突に理解する。
これは自分の記憶ではなく、﹃彼女﹄の記憶なのだと。
自分の記憶の最後は、赤い視界だった。
見えていたモノがすべて赤に塗り潰されていく。
その赤が、黒にとって代わり、唐突に切れた。
その後は闇の中だ。
どれだけ彷徨っていたのかはわからない。
彼女の言葉だと3年半ということだが。
声を上げても、何処にも届かず、光もなく、行く先もわからず。
蹲って泣いていたこともある。
それが変化したのはつい最近だ。
闇の中、声が聞こえた。
凛とした張りのある厳しい声。
でも、すべてを包み込むような優しい声。
その声が、私の行く道を教えてくれた。
何も見えなくても、あの声が聞こえる限り大丈夫だと思えた。
517
一歩一歩、ゆっくりと歩き、辿り着いたところに彼女がいた。
記憶していた自分の顔よりもやや大人びた顔で、背も高かった。
聞けば16歳の私だという。
そうか。
16歳の私はこんな顔をしているのか。
納得するというよりも、感心した。
私がそのまま過ごして16歳になったよりも遥かにカッコいい気
がしたからだ。
短くなってしまった髪には驚いたけれど、それは仕方のないこと
なのだと理解している。
それに、背が高くなった私にはよく似合っている。
きっと、この人はモテるのだろう。
穏やかに微笑むだけで、何だか優しい気持ちになれるような空気
を持っている人だから。
だけど、話をすれば、大人だけれどやっぱり自分で、そこが少し
驚いた。
疾風が怒ると怖いって、こんなに大人になってもやっぱり思っち
ゃうんだと笑いが出そうになる。
私がこんなに大きくなっているということは、疾風も大人びたん
だろうな。
色々と考え込んでいるうちに、身体の感覚が徐々に戻ってくる。
多少、違和感がある。
右側が少し動きづらいし、感覚が鈍い。
事故の影響なのだろうか。
だとしたら、本当に申し訳ないことをあの人にはしてしまったこ
とになる。
ここまでになる間、相当な痛みと戦っていたことになるのだから。
そう言えば、あの時、咄嗟に手首を掴んでしまったのだけれど、
518
あの人はどうなってしまったのだろう。
確かにしっかり掴んでいたはずなのに、気付けばこの身体には私
の意識が繋がってしまっている。
︵本当にね。何の手違いで⋮⋮︶
えっ!?
不意に、耳許で告げられたかのように、鮮明な声が自分の内側か
ら聞こえて驚く。
︵予定では、あのまま眠りつくはずだったのに︶
残念そうな声音で告げられるその口調は、あの暗闇の中で聞いた
ものと同じものだ。
ええっと⋮⋮もしかして?
︵そうだよ。何故か私も覚醒したまま、君の意識にリンクしちゃっ
てるんだよ︶
呆れたような口調で告げられる言葉に、私は目を剝く。
まさか、そんなことが!?
︵そのまさか、だ。ま、もっとも、意識だけで、身体は自由にでき
ないから、安心して︶
いや、安心してとか、ないと思う。
元々私の代わりに瑞姫として過ごしていたのだから、自由に使わ
れても別にいいというか。
519
︵本体が何を言ってるんだ!? 本体なら本体らしく、付属の私に
口出しさせないようにしゃっきり意識を保ちなさい!︶
びしりと言われ、瞬きを繰り返す。
やっぱり格好いいなと思ってしまう。
ふと気が付けば、これまでの記憶が無理なく私の中に納まってい
た。
思っていた以上に過酷な病院生活だった。
これを乗り切ってしまった人に脱帽してしまう。
ええっとこれからどうすればいいと思う?
︵起きたことを知らせて、疾風に怒られる︶
やっぱりそれが最初か。
むしろそれしか選択肢がない。
仕方なく、ゆっくりと起き上がる。
上体を起こし、ベッドの下へ足をおろし、縁に腰を掛ける形で身
体の動きを確かめる。
何とか思い通りに動いている。
そう安心した時、仕切られていたカーテンがいきなり開けられた。
﹁うわっ!?﹂
﹁瑞姫っ!!﹂
飛び込んできた疾風に肩を掴まれたかと思うと、熱やら脈やらを
てきぱきと見られる。
﹁吐き気とか、頭痛とか、気分が悪いとかないのか!?﹂
﹁だ、大丈夫⋮⋮﹂
疾風の有無を言わさぬ迫力に押され、引き気味に答えれば、ほっ
520
としたように疾風の表情が緩む。
﹁⋮⋮いきなり倒れるから、焦った⋮⋮﹂
﹁ごめん﹂
﹁大体何で体調悪いとか、気分が悪いとか、先に言わないんだ! 言っていたら俺だって対処のしようがあるのに!!﹂
﹁⋮⋮ごもっとも﹂
怒る疾風に逆らうな。
これが、私と彼女の共通の意見だ。
絶対に正しいと思う。
﹁で? 何で言わなかった?﹂
﹁⋮⋮気付かなかったから﹂
﹁は?﹂
﹁だって、体調悪いとか全然わからなかった。何で倒れたのかもわ
からない﹂
﹁⋮⋮⋮⋮⋮⋮﹂
あ。
怒ってる。
めちゃくちゃ怒ってる。
内心、びくびくしながら疾風を見上げ、本当に大きくなったなあ
と感心する。
精悍というか、剽悍な顔立ち。
無駄を削ぎ落としたしなやかな体躯。
背が高く、きっちりと筋肉もついているのに、無駄な威圧感を感
じないのはそのせいだろう。
だけれど取り巻く気配はその時々で異なるのだろう。
﹁⋮⋮瑞姫、何考えてる?﹂
地を這うような低い声が怒りを抑え問い詰めてくる。
﹁疾風、身長伸びたなぁ⋮⋮って考えてた﹂
正直に答えれば、がくりと疾風が肩を落とした。
﹁それはない。伸びてないから﹂
521
﹁え? まだ伸びそうな感じがするけど﹂
﹁そりゃ、まだ伸びるとは思うけど。あんまり伸びると服がないか
らな﹂
﹁そうかな? でも、疾風、服はオーダーでしょ?﹂
﹁さすがに普段着は既製品を買ってる。自分の服くらいに無駄買い
したくないし﹂
疾風を取り巻いていた空気が和らぐ。
それどころか、力尽きた感じがする。
﹁そうなのか。既製品か⋮⋮﹂
﹁瑞姫は駄目だからな。生地はいいものを選ばないと肌を傷める﹂
﹁それは、うん。でも、疾風が服買うの付き合ってもいい? どう
いうのがあるのか、見てみたい﹂
吊るしてある服を買うということは、まったく経験がない。
定期的に契約している数人のデザイナーに、欲しい服のイメージ
を伝え、生地を選んで、デザインして貰ったものを見て、それを手
直ししてから作ってもらうというのがいつものパターンだ。
知識として、ショップやデパートなどに既製品が吊るしてあり、
それを見てサイズを合わせて買うということが一般的であるという
ことは知っている。
知っているが、自分がそうやって買ったことはないし、誰かが買
っているというところを見たこともない。
興味を持っても不思議ではないだろう。
そもそも、お店に行って買い物をするということすら、私はした
ことがないのだ。
彼女の方はあるみたいだけれど。
﹁あら、瑞姫? 本当に目が覚めたのね﹂
のんびりとした声が響き、この部屋の主が顔を出す。
﹁茉莉姉上﹂
﹁ん。貧血じゃなさそうね。体温も通常通り。脈拍も⋮⋮平常域。
問題ないようね﹂
522
疾風と同じ手順であちこち調べた後、茉莉姉上のお墨付きをもら
う。
﹁もう、教室に戻っても?﹂
﹁そうね。大丈夫かしら⋮⋮自分で倒れた心当たりはある?﹂
﹁まったくないです﹂
﹁寝不足も?﹂
﹁ありえない。しっかり眠ってるし﹂
﹁そうよねぇ。原因がわからないっていうのが一番怖いのよね。帰
ってからもう一度診るから、母屋に顔を出してちょうだい?﹂
﹁わかった﹂
素直に、従順に。
やましいことがなければ、それが一番いい対処法だ。
あっさりと頷けば、茉莉姉上はカルテに何やら書き込む。
そこに、バタバタと複数の足音が響く。
がらりと扉が開き、中に飛び込む人の気配。
﹁瑞姫!!﹂
﹁やかましいっ!!﹂
いくつもの声が私の名前を呼び、茉莉姉上が一喝する。
女帝様、健在だ。
その声に、私は戻ってきたのだとようやく実感した。
523
67
﹁瑞姫! 倒れたって!?﹂
茉莉姉上の一喝にも負けずに飛び込んできた在原、橘、千景に私
は驚く。
﹁瑞姫ちゃん、大丈夫!?﹂
それに少し遅れた千瑛と、大神。
こんなにも彼女を心配してきてくれたのか。
﹁大丈夫。心配かけてごめん﹂
﹁心配ならいくらでもするけど!! 瑞姫が大丈夫ならそれでいい﹂
泣きそうな表情で立ち止まる在原と千瑛、千景。
﹁原因は? 寝不足? 貧血?﹂
わずかに表情を曇らせ、大神が問う。
﹁どちらも違う。まだ、原因不明﹂
理由はわかっている。
私と彼女が入れ替わるためだ。
だが、これは秘匿情報であって、口にしていいことではない。
﹁瑞姫⋮⋮良かった、無事で﹂
ふらりと近付いてきた橘が、私の目の前で立ち止まると手を伸ば
し、ぎゅっと抱き締めてきた。
﹁⋮⋮誉?﹂
﹁よかった。目が覚めて⋮⋮﹂
ああ、そうか。
誉の養母は身体が弱い。
倒れると、いつもこれで体力が尽きるのではないかと心配してい
524
るのだろう。
彼女と私が重なってしまったのか。
﹁⋮⋮瑞姫⋮⋮﹂
ぎゅうぎゅうと抱き締めてくる力はとても強い。
というか、さらに強まってきている感じだ。
だけど橘は震えている。
怖がらせてしまったのか。
﹁大丈夫だ、大したことではないから﹂
ぽんぽんと動く左手で、橘の右腕を軽く叩いて宥める。
﹁そうやって、すぐに無理をするから倒れるんだ﹂
震える橘は、抱きしめるというよりもしがみついてくる感じだ。
﹁う∼ん。何というか、スイッチが切り替わった感じ? 本当に大
したことじゃないから。もう倒れないし﹂
確証はないけれど、橘を宥めないことには放してもらえない。
助けてもらおうと疾風を見れば、眉間に皺を寄せて入口を睨みつ
けている疾風の姿がある。
﹁疾風?﹂
首を傾げれば、また足音が聞こえてきた。
﹁失礼します! 相良さんが倒れてこちらへ運ばれてきたと聞きま
したが⋮⋮﹂
諏訪の声だった。
その瞬間、目の前が暗くなり、車に撥ねられる直前のことが過る。
途端に苦しくなる呼吸。
﹁瑞姫っ!?﹂
橘と疾風の声が耳を打ち、普通に呼吸ができるようになった。
﹁どうした! 瑞姫!?﹂
﹁あ⋮⋮大丈夫。何でも⋮⋮﹂
︵フラッシュバックね︶
﹁フラッシュバック⋮⋮?﹂
もう一人の瑞姫の声に、ぽつりと呟く。
525
フラッシュバックって、何だっけ⋮⋮?
深呼吸を繰り返しながらぼんやり考えていれば、橘が押しのけら
れ、茉莉姉上が私の顔を両手で挟むように固定する。
﹁瑞姫! もっとゆっくり息をしなさい! そう、ゆっくり⋮⋮﹂
その声に誘導されるように、ゆっくりと呼吸を繰り返す。
緩やかな呼吸は眠気を誘い、再び意識が遠のいていく。
﹁茉莉⋮⋮姉、上⋮⋮﹂
﹁いいわよ、そのまま眠っても。大丈夫、ゆっくり休みなさい﹂
ああ、茉莉姉上が許可してくれたから、眠っても大丈夫なんだ。
そう思うと、気が楽になり、途端に眠気が押し寄せてくる。
そのまま気を失うように、私は眠りに身を委ねた。
***************
﹁あっちゃー⋮⋮やっぱりこうなったか﹂
気が付けば、額に手を当て溜息を吐くあの人がいた。
﹁えーっと⋮⋮?﹂
何がどうなったのか、よくわからない。
周囲を見渡せば、あの闇の中ではなくて、今度は蒼い世界。
海の青なのか、空の青なのかはわからないが、あの闇よりも遥か
に居心地がいい。
この人が感じている世界が、あの暗い闇の中じゃなくて本当によ
かったと思う。
﹁あの⋮⋮﹂
思わず私は呼びかける。
﹁ん? 何かな?﹂
526
首を傾げるその人に、私は現時点で困っていることを告げる。
﹁あなたのことを何てお呼びすればいいんでしょうか?﹂
﹁ああ。そうか。本体と記憶の欠片じゃ味気ないしね﹂
﹁ええっ!? そんな呼び方、できませんっ!﹂
﹁う∼ん。以前の名前は確かに憶えているけど。あれは﹃私﹄の名
前じゃないしねー﹂
彼女も困ったように首を傾げている。
﹁好きに呼んでくれて構わないけど?﹂
﹁年上の方にそれでは失礼ですし﹂
﹁いやいやいや。根本的に、一緒なのよ? 私と君は。同じ瑞姫な
んだから﹂
﹁⋮⋮じゃあ、瑞姫さんでいいでしょうか?﹂
恐る恐る問いかければ、苦笑して頷く瑞姫さんの姿がある。
﹁それで構わないけれど、君が本体なんだからもっと堂々としてれ
ばいいのに﹂
﹁いえ。あなたには礼を尽くすべきだと思いますし。あの、それで。
瑞姫さんに色々お伺いしたいのですが、よろしいでしょうか?﹂
﹁私がわかる範囲内であれば、正直に答えるけれど。ああ、立ち話
もなんだし、座る?﹂
そう言って、彼女が示した先には向かい合ったソファセットがあ
る。
﹁え!? いつの間に?﹂
﹁まあ、夢の中なんだし。そういうのもありじゃない?﹂
﹁⋮⋮ありなんですか⋮⋮﹂
のんびりと、というよりも、鷹揚に構える瑞姫さんの大物ぶりに
私は感心する。
物事に動じない方だと言われている私よりも格段に上だ、この人。
瑞姫さんは場所をあっさりとソファに移して手招きすると、向か
い側のソファを勧めてくる。
﹁それで、何が聞きたいの?﹂
527
﹁まずは、﹃やっぱりこうなったか﹄と仰った言葉の意味です﹂
この人には率直に尋ねた方がいい。
正直に答えると言ってくれる人に遠回しに言葉を選ぶ必要はない。
﹁んー⋮⋮意味は2つある﹂
ちょっと考え込みながら、瑞姫さんは答えた。
﹁2つ?﹂
﹁1つは、君がここにきちゃったこと。もう1つは諏訪が来た時の
君の反応﹂
﹁あ! フラッシュバックって言っていたこと?﹂
﹁そう。本当はフラッシュバックでも何でもないけど。だって、瑞
姫には事件直後ってことだから。諏訪の姿を見て、事件直後の記憶
が繋がり、あそこから続きを始めようとしただけだから﹂
﹁⋮⋮⋮⋮⋮⋮あ﹂
わかった。
そういうことなのか。
車に撥ねられた直後、私は気を失った。
そこから瑞姫さんが﹃瑞姫﹄になったのだけど、私がそこからや
り直そうとしたのなら確かに痛いとか苦しいとか、そういう感情に
囚われることになる。
だけど、瑞姫の身体にとって、それはも済んでしまったことなの
だから、フラッシュバックと呼ばれる現象に似てしまうんだ。
だから瑞姫さんはフラッシュバックと言って、周囲を納得させる
言葉を告げたのか。
﹁諏訪の件はわかりました。では、もう1つのこちらに来たことと
は?﹂
理解したことを頷くことで示し、もう1つの件について尋ねる。
その言葉に、瑞姫さんはちょっと考えるそぶりを見せた。
﹁まだ、君が身体に馴染んでないというか⋮⋮私がいることで馴染
めてないというか⋮⋮まあ、そういうこと、かな?﹂
﹁だったら!﹂
528
﹁こらこらこら! 勘違いするんじゃありませんっ!!﹂
私が何かを言い出す前に、瑞姫さんがきちっと制してくる。
﹁いい? もう一度、はっきり言っておくけれど。瑞姫、君が生ま
れてから12年半、この身体をコントロールしてきたんだ。私は君
がいなくなってからの3年半、君に代わってこの身体を生かしてき
た。どちらが主か、問答無用でわかるだろう?﹂
きつい眼差し。
反論は許されない。
余地がない。
それでいて、私が逃げ出した理由を問わない優しさ。
﹁一度離れた心が、身体と結びつくまで時間がかかるのは、ある意
味、仕方がない。そのための繋ぎとして私がまだ意識を保っている
のかもしれない。すべては仮定だ。神様が総てを説明してくれない
限り、何もわからない。いるのだとしたら、ね?﹂
にっこりと笑う瑞姫さんの笑顔は迫力がある。
きっと神様がいたとしても、彼女の笑顔の前には怖がって出てこ
れないだろう。
怒っていることがはっきりわかる笑顔なのだから。
﹁まあ、しばらくの間は、ここで私と瑞姫が情報交換するのも悪く
ないかもね﹂
仕方なさそうな笑顔で、瑞姫さんが告げる。
その一言に、私は純粋に喜んだ。
﹁まだ起きていてくれるの?﹂
﹁これだけ意識が覚醒してるんだから、本当にもう仕方ない。乗り
かかった船っていう諺通りにコメンテーターになりますとも﹂
苦笑して頷く瑞姫さんとしては、本当に不本意なんだろう。
﹁さあ、もう一度、戻りなさい。今度は家に帰ってから会おう。じ
ゃないと、安心して会話ができない﹂
﹁はいっ!﹂
瑞姫さんに促され、前回とは異なり喜び勇んでその場を離れる。
529
また会ってくれる。
その言葉が嬉しくて、私は覚醒することへの恐怖を克服できた。
530
68
怖い。
とにかく、怖い。
普段穏やかな人が怒るのは、これほどまでに怖いのか、実感した
次第であります。
﹁⋮⋮何がもう大丈夫だって?﹂
穏やかに微笑む橘が静かに問いかける。
一度、眠りについて、短い睡眠の後覚醒すれば、橘と疾風のお説
教が待っていた。
疾風に怒られるのはいつものことなので覚悟はしていたけれど、
橘は予想外だった。
自分の中で、瑞姫さんも苦笑しているから、やっぱり予想外だっ
たのだろう。
諦めろという気配がひしひしと伝わってくるのがもっと嫌だ。
﹁だから、えっと⋮⋮あれは、不意打ちだし⋮⋮﹂
意気地なしと言われても、今だけは素直に受け入れます。
怖いです、橘。
本気で怖い。
﹁まあ、あれは仕方がない。あの場面であいつが来るとは誰も思わ
なかったし。フラッシュバックがいつ起こるかなんて、瑞姫にだっ
てわかるはずもない﹂
しょぼんと肩を落としていたら、疾風が絆されてくれた。
こういうところが優しいんだよな、疾風って。
531
﹁それは、まあ⋮⋮だけど﹂
﹁俺としては、いつまでも瑞姫の周りをうろうろするあいつが気に
入らないんだけど? 絞めに行っていいならいつでも喜んでいくけ
どなー﹂
﹁岡部。今回の件は、瑞姫よりも諏訪の方がダメージ深いから、追
い打ちはやめておけ。大神が対処できなくなるだろ?﹂
﹁東條と一緒に諏訪も東雲から退場させられるなら一番手っ取り早
いんだけど﹂
疾風の表情が怖い。
橘と違う方向で疾風も怒っていたのか。
今現在、保健室にいます。
目が覚めたばかりというのが正しいか。
どうやらあれから20分ばかり眠っていたようです。
意外と早く戻れたことに驚きだ。
これなら教室に戻ってもいいと思うのだけど。
高等部の教室がどうなっているのか、この目で見たいという好奇
心が抑えられない。
瑞姫さんの記憶は引き継いでいるけど、やっぱり、自分の目で確
かめて、ちょっとした差異を楽しむのもいいかなと。
﹁瑞姫? まだ、気分が悪いのか?﹂
2人のやり取りを黙って聞いていたら、疾風が心配そうに顔を覗
き込んできた。
﹁いや、大丈夫! 話の邪魔をするのも悪いかと思って⋮⋮﹂
﹁⋮⋮瑞姫。分が悪いから、話題が変わるまで大人しくしていよう
とか思ってたんだろ?﹂
くすっと笑った橘が、私の頭を撫でる。
﹁む。それはない! その東條さんにはまだ会っていないから、今
の段階で何も言うことはできないなとしか⋮⋮﹂
﹁会わなくていいから!!﹂
532
疾風と橘が異口同音でぴたりと口調を揃えて言う。
﹁アタマの悪い変な女が入ってきたと、話題もちきりだ﹂
﹁え!? 今日、始業式だよ? 今日が転入第一日目なのに、そん
な話がもう上がってるの!?﹂
驚いてそう言えば、疾風と橘が深々と溜息を吐く。
そうして、もう1つ、私の内側でも溜息が漏れた。
︵東條凛なら、ありえる。あれほど残念な女はいないから⋮⋮︶
会ったことのない人のことをここまではっきり言えるのは、瑞姫
さんが持っているという前世の記憶とやらが関係しているのだろう。
残念ながら、瑞姫さんの前世の記憶は、私には見えないのでわか
らないのだ。
﹁とにかく気持ちが悪いと言っているのをさっき聞いてきたばかり
だ﹂
橘が顔を顰めて言う。
これは、珍しい。
橘は他人のことを悪しざまに言うことなどほとんどない。
誰に何を言われようとも、気にせず流してしまうのが、彼の性格
なのに。
﹁ふうん⋮⋮って、あれ? 誉!? H.R.はどうしたの!? 君、隣のクラスだよね!?﹂
﹁⋮⋮サボった。菅原弟が良いって言ったから﹂
﹁千景が!? あの、真面目な千景が!! うわあ⋮⋮明日、天変
地異が起こるかも﹂
驚いて言えば、ぺちりと橘がおでこを叩いた。
﹁それだけ心配してたんだって。彼がそこまで気にかけるのって、
菅原姉以外には瑞姫しかいないんだから﹂
﹁あー⋮⋮うん。あとで謝っておく﹂
﹁そこは、心配してくれてありがとうだろ?﹂
﹁そうか。じゃあ、誉も疾風もありがとう﹂
素直にお礼を言えば、2人揃って頭をぐしゃぐしゃになるまで撫
533
でられた。
何でだ?
﹁茉莉姉上、もう教室に戻ってもいいでしょうか?﹂
一応、主治医になる茉莉姉上に問いかければ、くつくつと笑いな
がら姉上が頷く。
﹁瑞姫、髪の毛、はねてる﹂
﹁うわっ! どこどこ!? きちんと梳かしたのにっ!!﹂
ぐしゃぐしゃになった髪を櫛で梳かして整えていたはずなのに、
指摘されて慌てる。
﹁疾風。瑞姫の面倒を見るのはあなたの仕事でしょ?﹂
﹁申し訳ありません、茉莉様﹂
壁に掛けられた鏡を覗き込み、はねてる箇所を探す私の後ろで、
茉莉姉上と疾風が話している。
﹁大丈夫だよ、瑞姫。綺麗になってるから﹂
橘がとんとんと肩を叩いて言うが、本当だろうか?
思わず見上げて視線で問えば、橘はにっこり笑って頷いている。
﹁⋮⋮茉莉姉上∼っ!?﹂
からかったな。
﹁引っ掛かる方が悪いのよ? というより、原因を作った方ね。疾
風と橘君?﹂
にこやかに微笑む茉莉姉上が、2人を流し見れば、首をすくめる
2人の姿が。
﹁瑞姫が可愛いからって、構いすぎるのはどうかと思うのよ?﹂
今、可愛いからが面白いからと聞こえたような気がするのは何故
だろう。
玩具扱いですか、私は。
反論するのも面倒臭いので、ここは流して教室へ戻るとしよう。
534
3人をその場において、戸口へと向かう。
﹁瑞姫?﹂
﹁教室へ戻ります﹂
がらりと扉を開けて、一礼して保健室を出ると、血相を変えた疾
風と橘が追い駆けて来た。
教室へと向かう廊下。
中等部の校舎よりもやや古めかしい建物だが、設備は中等部より
も充実している。
ここが高等部か。
初めてではないが、あまり馴染ない校舎を歩きながら、私は緩く
目を細める。
﹁瑞姫! 置いていくなんてひどいじゃないか﹂
疾風が抗議してくるが、知らん顔だ。
﹁瑞姫! 1人で歩いて大丈夫なのかい? また立ちくらみとかす
る可能性もあるから、保健室で横になっていた方が⋮⋮﹂
﹁大丈夫﹂
橘の言葉にそう答えたとき、チャイムが鳴り響く。
﹁あ。今日のH.R.ってもう終わり?﹂
初日から来ているのに欠席というのも問題児かもしれない、私。
思わず振り返って2人に問えば、顔を見合わせた2人が首を横に
振る。
﹁あと1時限あるはず。役員決めとか今日する予定たっだし﹂
﹁⋮⋮今、何時だろう?﹂
思わずそう呟いて、腕時計を眺める。
まだ午前中だ。11時になるかならないか。
瑞姫さんの記憶と照らし合わせ、今日の予定を確認する。
そうか。
535
さほど長い時間、倒れていたわけではないようだ。
瑞姫さんは図書委員になりたがっていたから、私も図書委員にな
ろうかな。
軽い気持ちで考え、それがいい考えのような気になる。
﹁ああ、そうだ。疾風、私、図書委員になろうかと思う﹂
委員は各クラス2名選出が基本だ。
これは、男女問わず2名出ればいい。
﹁そうか。じゃ、俺も立候補しよう﹂
あっさりと疾風が頷く。
ゆっくりとした歩調で2年の教室近くまでやって来た時だった。
﹁ねぇねぇ! そんなに落ち込まなくてもいいんだよ! 失恋なん
て誰だって1度や2度経験することなんだからっ!!﹂
すごく明るい声が廊下に響き渡る。
﹁は? 何言ってるんだ、おまえ?﹂
意味が解らないと言いたげな声は諏訪のもの。
諏訪の姿が廊下に現れた途端、疾風と橘が私の前に出る。
さっきのフラッシュバックもどきを気にしているのだと、その態
度でわかる。
﹁疾風、誉、大丈夫だから。もう、さっきのようなことは起こらな
い﹂
2人の腕を軽く叩いて2人の間から私が前に出る。
﹁瑞姫﹂
﹁さっき、諏訪も心配して保健室に来ていただろう? 一応、礼を
言うべきだと思うしね﹂
そう言って歩き出す。
近付く私の姿に気付いた諏訪が、一瞬だけ表情を強張らせたが、
平然と近づく私にホッとしたように表情を緩めた。
﹁強がらなくていいんだよ? 私、知ってるんだから。でもね、失
恋って新しい恋をすれば癒されるんだから。私が傍にいてあげるし﹂
話しかけようとこちらに近付こうとした諏訪を遮るように声を掛
536
けてくる少女。
先程の場違いなまでの大きな声は、この子か。
思わず瞬きをした私の目の前で、その子は無遠慮に諏訪の腕に自
分の腕を絡めようとした。
︵うわーっ! 聞きしに勝る残念振りだな。全然空気が読めてない︶
瑞姫さんが物凄く嫌そうな声を上げる。
まるで彼女が誰か知っているような口振りだ。
︵あの子が、東條凛だよ。ゲームの東條凛とは微妙に違うみたいだ
けど︶
そう説明してくれるが、嫌悪感に彩られている。
無理もない。
諏訪伊織は失恋していない。仮に、そのことが事実だとしても、
自分で決めたことで吹っ切っているはずだ。
彼女の言葉は一方的な思い込みで彩られているとしか傍目からは
見えないのだ。
そうして、許可もなく、相手に触れるのはよほど親しい相手でな
ければ許されない行為だ。
今日が転校1日目である彼女が、面識のない諏訪と親しい間から
だとは決して言えないだろう。
それを証拠に、諏訪が嫌悪の表情を浮かべて彼女の腕を振り払っ
た。
﹁俺に触れるなっ!!﹂
完全な拒絶。
男の腕力で振り払われれば、いかな彼女とてよろめくだろう。
近距離にいた私は、仕方なく彼女を支えてすぐに手を離す。
﹁前にも言っているだろう、諏訪? 女性は丁重に扱うように、と﹂
﹁相良!!﹂
困惑したような表情の諏訪とは対照的に、少女の方は私を見て喜
色を浮かべる。
﹁八雲先輩!?﹂
537
﹁⋮⋮は?﹂
その瞬間、空気が凍りついた。
うん。
瑞姫さんが言ったことは正しい。
空気が読めてないし、人の名前を間違えるとは、残念な人だ。
私の東條凛への第一印象はこれで決まった。
538
69
見ず知らずの女の子に、﹃八雲先輩!?﹄と兄の名前を呼ばれて
しまった。
空気が凍りついた、居たたまれない、主に私が。
︵うあーっ!! 最っ悪! こいつ、記憶持ちの転生組だわ。それ
でこの性格か!! 性質が悪いったら︶
瑞姫さんの叫び声で、はっと我に返る。
まるで、私の中でごろごろと床を転がっているような彼女の声に、
大丈夫なのだろうかと心配してしまう。
そうして、問題の東條凛を見れば、彼女は彼女で何やらぶつぶつ
呟いている。
﹁おっかしいなぁ。八雲先輩とのイベントは、確か中庭の読書中が
最初だったはず。でも早く会えれば、その分、攻略しやすくてラッ
キーかも?﹂
うん。私には意味が解らない。
諏訪も気味が悪いものを見ているような視線を彼女に向けている。
だから、諏訪。女の子は丁重に扱うべきだと何度も言っているの
だが。さすがにその視線は失礼だと思うよ。
﹁失礼だが、君は何故兄の名前を知っているのかな?﹂
この場の打開策は、私が何か言うべきなのだろう。
わかっているが、あまり話したくない相手でもある。
539
疾風たちが言っていた意味が何となくわかった。
﹁え? 兄!?﹂
﹁八雲は、私の兄だ。そして、5歳ほど年上であるから、当然なが
ら高等部にはいない。そうして、私と兄を間違えるような者は、こ
の学園には誰ひとりとしていない。君は、何故、兄の名前を知って
いる?﹂
私と八雲兄上の顔の見分けがつかないのに、兄上の名前を勝手に
呼ぶとは失礼極まりない。
それ以前に、八雲兄上の名前を知っていたということだけで、相
良家に対し含むところがあると他の者に思われても仕方がないとこ
ろだろう。
仇為す者なのか、阿る者なのか、見極めなければそれなりのリス
クを背負うことになるだろう。
﹁何故知ってるって、皆、知ってるでしょう!?﹂
﹁この学園にいる者の多くは知っているな。兄の顔と一緒に。だが、
知らない者もいる。外部生の殆どは兄の顔も名前も知らない。君は
外部生だろう?﹂
皆が知っているから自分も知っているは通用しない。
そう言えば、目を瞠り、そうして落ち着きなく視線を左右に振っ
ている。
﹁じゃあ、あなた、誰よ!?﹂
彼女が口にした言葉に、周囲の気配が悪化した。
﹁⋮⋮君に名乗る名前はないようだ。今後、君に関わるつもりもな
い﹂
人の名前を尋ねる時は、まず自分の名前を告げてから。
その最低条件も守れぬ相手に名前を乞われても答える者はいない
だろう。
そのことに気付かない彼女の態度も周囲の評価を下げる結果とな
っている。
﹁⋮⋮行こうか﹂
540
疾風と橘に声を掛け、彼女の隣を通り過ぎる。
﹁ちょっと待ってよ!! 疾風君も誉君も!! 私、あなたたちの
味方よ!﹂
叫びにも似た声に、疾風も橘も嫌悪を浮かべる。
マナーがなっていない。
私の溜息を周囲の者が捉えたようだ。
﹁⋮⋮相良﹂
一瞬、本気で嫌そうな表情を浮かべた諏訪が、その直後、私に向
き直り、声を掛けてくる。
﹁ああ、諏訪。先程はすまなかった。心配してきてくれたのだろう
? 体調はこの通り、何ともない。君には悪いことをしてしまった
な﹂
足を止め、諏訪の言葉に謝罪と謝意を告げれば、彼はホッとした
ように首を横に振る。
﹁いや。あれは場を読まぬ俺が悪かった。体調が悪い時に俺と会え
ばどうなるか、きちんと考えればわかることだった。すまない﹂
そう言って頭を下げる。
矜持の高い彼が人前で私に頭を下げるとは誰も思わなかったのだ
ろう。
あちこちで息を飲む音が聞こえる。
﹁頭を上げてくれ。謝罪は必要ない﹂
そう言えば、おずおずと諏訪が顔を上げる。
﹁何かあれば、俺にも言ってくれ。手を打てることがあれば、何で
もしよう﹂
﹁その言葉だけで充分だ。ありがとう﹂
そう言った私の言葉で、この場は一旦収まる。
東條凛という存在を無視した形で。
今の私には、彼女にどう対応していいのかわからない。
これは早く家に帰って、瑞姫さんが残してくれた日記と資料を見
541
る必要があるな。
﹁ちょっとちょっと! これ、何のイベントよ!! BLじゃない
んだから、ヒロインを無視しないでよね﹂
意味の分からない言葉が響き渡る。
びーえるって何だろう?
︵瑞姫、今の言葉は即刻忘れなさい。耳が穢れる。というか、彼女
が発する言葉全部、気にする必要ないからっ!!︶
瑞姫さんが激しい口調で怒りをあらわにしてくる。
多分、隣にいたら、耳を塞がれていたかもしれないほど、憤って
いることは確かだ。
わ、わかった。忘れるし、意味も問わないから、落ち着いて⋮⋮
︵おや? おかしなことを言うね、瑞姫。私は落ち着いているとも︶
にこやかに、だけど怒りに満ちた声音で帰ってきた言葉に、私は
沈黙を守ることにした。
次のH.R.は予定通り、委員決めだった。
まずはクラス委員を決める。
在原と女子からひとりが選出された。
この2人の司会で、委員を選び出していく。
﹁次、図書委員だけど、立候補者はいますか?﹂
在原の問いかけに、私と疾風が手を上げる。
﹁あれ? 瑞姫、図書委員、やるの!?﹂
意外そうな表情で在原が言う。
﹁うん。本は好きだしね﹂
﹁ああ、そだねー。図書館での遭遇率、高いよね。ちょうど2人だ
から、決定﹂
有無を言わさず黒板に名前を書き込み、次の委員の立候補を募る。
542
意外と簡単に決まったことに、ほっとする。
図書委員は大体において本好きが立候補することが多いので、地
味に決まるのが早い。
委員会活動と称して、公然と読書に勤しむのだ。
本好きにはたまらない魅惑の委員会だ。
すべてが出揃ったところで、初めての委員会の日付とそれぞれの
場所を告げ、必ず出席することを念押しして、今日の予定をすべて
終えた。
***************
屋敷に戻り、別棟へと向かう。
記憶では、退院後からここで生活をしている。
1階の共有スペースを通り抜け、2階のプライベートゾーンに向
かう。
飾り気のない、シンプルだけど落ち着きのある部屋が私を待って
いた。
これが彼女の好みか。
きちんと整えられた部屋を見渡し、感心する。
彼女が言う﹃元は同じ﹄の意味がわかった気がする。
実に私好みの誂えだ。
すぐに制服から部屋着に着替え、勉強部屋へと移る。
この机の引き出しに、例の物が入っている。
引出しを開け、鍵のついたノートを2冊、取り出す。
鍵のありかは、引き継がれた記憶の中にちゃんとある。
543
﹁さてと。どちらから読むべきか﹂
片方が日記、もう片方が資料だろう。
やはり、日常の齟齬をなくすために日記が先だろうな。
︵資料を先に読んでくれないか?︶
ふいに瑞姫さんの声が聞こえた。
﹁資料から?﹂
︵そう。先に東條凛対策をしておこう。疾風と誉の名前を呼んでい
たということは、記憶持ちの可能性が高い︶
﹁記憶持ち?﹂
︵確証はない。が、今までの情報から見ると、前世の記憶を持って
いると考えると、あの子の行動の違和感が納得できる︶
﹁違和感?﹂
奇妙だとは思うが、何を持って違和感だと言っているのかがわか
らない。
表面的な記憶は引き継げたけれど、前世の記憶だとか、感覚的な
ところまでは引き継げず、そうして今も瑞姫さんが考えていること
はわからない。
彼女を一個人として考えれば、当たり前のことなのだけれど、自
分の一部として考えると少しばかり不便と感じるだろう。
私にとって瑞姫さんは、瑞姫さんというひとりの人間なので、こ
ればかりは仕方ないと諦められる。
︵まず最初にね、東條凛は両親を車の事故で失い、東條家の祖父母
に引き取られるはずだった。ところが、事故で亡くなったのは父親
だけ。母親は凛本人が引き止めている︶
﹁それが?﹂
︵東條家に戻る際に、父親がいると確かに不便なんだけれど、母親
にはお嬢様としても知識を与えてもらうために必要だったとも考え
られるし、他にも理由がいくつか考えられる︶
﹁それは、どんな理由だろう?﹂
確かに一般社会で育っていたなら、お嬢様としての所作や常識な
544
ど誰かに教えてもらわないと馴染めないだろう。
パーティに招待された時の衣装の選び方など、実に独特だ。
相手に合わせ、季節に合わせ、様々な条件を重ね合わせて選び抜
かなければならないのだから、招待されても速攻でお断りしたいと
いうのが本心だ。
︵それはね、まだ言えない。それこそいろんな理由があるし、中に
はとてもひどいものもある。まさかと思うような理由だから、情報
を集めてからじゃないと言いたくない︶
真摯な口調。
瑞姫さんは広い視野を持っている。
ありとあらゆる可能性を考えて、そこから集めた事実と照らし合
わせて答えを導き出すようだ。
﹁わかった。じゃあ、まず、資料に目を通すから、その後で質問さ
せてください﹂
そう言って、私は鍵を開け、資料に目を通しだす。
それは、私にとって衝撃的な事実であった。
545
70
私が今、生きて、生活しているこの世界が、ゲームによく似た世
界だと書かれてあった。
そのゲームの名前、登場人物、彼らの設定。
確かによく似ている。
もちろん、違うところもかなりある。
だからゲームの中ではないと結論付けたとも補足されている。
正直に言って、その補足を目にして止まりかけた呼吸が吐き出さ
れ、落ち着いた。
それほどまでに衝撃的だった。
もし、これがゲームの中だとしたら、一体、私は何なのだろうと
誰かに問いかけたくなる。
だから違ってよかった、と、本当にそう思った。
資料の中には、それぞれの登場人物の生い立ちや性格などの公式
設定とそれ以外の裏設定とにわかれ、丁寧に書き込まれていた。
瑞姫さんが知る限りの記憶に基づいているので、あやふやな箇所
もあるとは添えてあるが、読み解く分にはかなりの精度のように思
える。
そうして、先に進んでいけば、各人物の攻略方法やイベント発生
条件とやらが書かれていた。
546
そうか、あの時、東條さんが言っていた﹃イベント﹄って、この
ことだったのか。
つまりあの場違いなまでの発言は、彼女にとっては場違いではな
く、決められたセリフだったのか。
それが、あのセリフ。
もし、自分が失恋してても、あんなことを言われて傍にいてほし
いとは到底思えない。
始業式は、イベント尽くしで、特に諏訪とのイベントが目白押し
だと書いてある。
ということは、諏訪は朝からあの調子で彼女との会話に付き合わ
されていたのか。
さすがに気の毒に思う。
だから、諏訪はあんなにイラついていたのか。
本来ならば、同じクラスになっていた私が見かねて注意を促すら
しいのだが、生憎私は隣のクラスで、しかも保健室で気を失ってい
たわけだし。
ステイタスというもので、相手の感情がどのくらいなのかを計る
ことができるらしいのだが、これにもいくつかの条件があるそうだ。
疾風の場合は、ゲーム内では八雲兄上の随身で、八雲兄上の好感
度に合わせて上下するらしい。
今回の場合は私の好感度だろうか?
だとしたら、決して上がることはないので、ゼロのままか、それ
ともあの時の疾風の反応からするとマイナスだろうな。
橘も割と条件が難しいらしい。
﹃あなたの味方﹄という言葉がキーワードらしいのだが、これが
諸刃の剣なのだそうだ。
使ってはいけない場面で口にすると、てき面に下がる。
うん、下がっていた。確かに、下がっていた!!
547
あとは千景か。
とりあえず、他のキャラクターの好感度を一定以上、上げておか
ないと登場しないし、好感度も上がらないということだ。
結構、過酷なゲームのようだ。
というより、本当にこのゲーム、面白いのだろうか?
ゲームをしていた瑞姫さんには申し訳ないが、どうにもこの資料
を読む限り、私にはなじめそうにない。
︵あ? 面白くなかったよ、ゲームとしては。なんたって、主人公
が最悪だったもの︶
瑞姫さんが溜息交じりに告げる。
ゲームとしては?
ゲームじゃなかったら面白かったの?
︵ああ、うん。声優さんがねー! 最っ高!! に、いい仕事して
いてね。さすがプロだわーって思ったほど、良かったんだよ︶
へ、へえ?
︵いい声って、聴くだけで幸せになれるんだよね︶
瑞姫さんは、人の声が好きなのか。
︵今、ドン引きしたでしょ!? 昔の話だからね!? 今は、そう
でもなくなったから︶
瑞姫さんの言う﹃昔の話﹄という言葉に、胸がちくりとする。
彼女がここにいるということは、ゲームをしていた﹃瑞姫さん﹄
は、もう亡くなってしまっているということなのだから。
ゲームの中の私は、どんな感じだったのだろう?
︵瑞姫? 瑞姫はねぇ⋮⋮そうね。12歳の時の瑞姫がそのまま1
6歳になった感じだよ。髪が長くて、女の子らしい体形で、身長も
そこまで高くなかったし︶
﹁すみません!! ガリガリに痩せてて高身長で、全然女の子らし
くなくて!﹂
思わず声に出して言ってから、慌てて手で口を押える。
︵ああ、それはね、仕方ないよね。身長が高くなれば、その分肩幅
548
も広くなっちゃうし、それに武術をしているんだもの、どうしても
骨太になるしね︶
⋮⋮ごめんなさい。そんなつもりじゃ⋮⋮
︵傷を癒す方が先だから、どうしても栄養面はそっちに向かっちゃ
うし。まあ、男子の制服を着て、まったく違和感なく美少年になる
とは私も驚いたけど︶
美少年⋮⋮美少年は千景だと思うのですよ。
︵瑞姫の方が美少年だって。傷跡を無理なく隠すためには、男子の
制服の方が都合がいいから、女の子っぽい体形で違和感ありまくり
よりも断然いいしね。それにね︶
苦笑して、瑞姫さんが言葉を切る。
︵男子用の制服を着なくて済む頃になれば、徐々に必要箇所に必要
なだけふっくらしてくるから大丈夫。まあ、上2人のような迫力美
人になるかどうかは断言できないけど︶
私も、姉上たちのような迫力系は無理だと思います。
︵だよねー⋮⋮性格的に無理だよね︶
2人揃って空笑い。
時間が解決することを、今、気にしても仕方がない。
そう考えてそのことはもう気にしないことにする。
︵大体のところは、把握したようだね? じゃ、作戦会議に移ろう
か︶
その一言で、空気が締まる。
この後、わずか数分間だけれど、作戦会議が開かれた。
***************
549
母屋にある子供部屋へと疾風を伴って向かう。
茉莉姉上がいつ帰ってくるのかを確認しにだ。
未婚の子供たちの予定は、常にここに記すというのが我が家の決
まり事だ。
私の場合、学校と帰宅予定時刻を書き記すだけなので、月曜から
金曜日までは全部一緒だけれど。
からりと襖を開けると、中に八雲兄上と菊花姉上がいた。
﹁うわあ!! 八雲兄上と菊花姉上、帰ってらしたんですか!?﹂
いつもは遅くまで帰ってこない2人がいるのが珍しくて、私は思
わず声を上げる。
﹁うん、まあね﹂
そう返す八雲兄上の表情は微妙なものだった。
﹁⋮⋮瑞姫。東條の孫が転校してきたって、本当かい?﹂
﹁何故それを!?﹂
﹁本当のようだね﹂
東雲ではなく、国公立大学に通っているはずの兄と、れっきとし
た社会人である姉が、何故高等部の事情を知っているのだろうか。
いや、姉の職業は知っている。
知っているが、法に触れていないか、時々心配になる。
﹁みーずき! 何固まってるの! 茉莉姉さんに聞いたんだってば﹂
﹁あ。茉莉姉上か﹂
ごめんなさい、菊花姉上。
ちょっとだけ疑いました。
﹁僕は、後輩からのメールだけどね﹂
八雲兄上、いまだに高等部に勢力をお持ちですか。
どれだけの影響力を持ってるんだろう、この方は。
﹁東條の孫が、瑞姫を僕と間違えたんだって?﹂
爽やかな笑顔なのに、何かが滲み出ているような気がする。
これは、あれだ。
550
笑顔が黒いというやつだな。
﹁何故か、八雲兄上を3年生だと思い込んでいたようです﹂
﹁ふうん⋮⋮﹂
首を傾げ、何かを考えるようなそぶりを見せる。
﹁いっそのこと、学園の株を買って、理事になろうかな?﹂
ふと漏らした視線の先に疾風がいる。
疾風は必死に視線を合わせまいと違う場所を見ている。
うん、それが懸命だと思うよ。
視線合わせちゃだめだからね。
﹁ね、それで? その東條の孫ってどんなだった?﹂
興味津々といった様子で菊花姉上が私に身を乗り出して問いかけ
る。
﹁⋮⋮そうですね。大勢の前で独り芝居をしているような印象を受
けました﹂
正直にそう答えれば、背後で吹き出す気配がする。
振り返れば、疾風が肩を揺らしている。
﹁疾風。素直に笑っていいよ﹂
﹁ご、ごめん⋮⋮﹂
手で口を押え、それでも笑いをこらえようとしているが、こらえ
きれていない。
﹁なるほどねぇ﹂
私と疾風の反応で、何かを感じ取ったらしい菊花姉上が感心した
ように呟く。
﹁こちらでも、色々と調べることにするから、瑞姫はあまり接触し
ないようにしなさいね﹂
そう言って、菊花姉上は子供部屋を出て行ってしまった。
﹁⋮⋮前回は表に出てこれなかったから、心配してたんだよ、あれ
でもね﹂
苦笑を浮かべ、八雲兄上が言う。
﹁そうですか﹂
551
頷いて襖を見るが、もう開けられることはない。
久しぶりに会った姉兄は、やはりいつも通り過保護なのだと感心
した。
552
71
ここ数日ほど、穏やかな日々が過ごせている。
そう、思いたいのに⋮⋮。
新学期2日目の実力テストの結果が掲示板に貼り出される。
その結果に私は驚いた。
2位だ。
一応、1年の時の教科書とノートを開いて、瑞姫さんに要点を教
えてもらってはいた。
日記を読むつもりにしていたけれど、実力テストがあることを思
い出して、慌てて教科書を開いたのだ。
中等部の後半から高等部1年までの授業を受けてはいない。
それは瑞姫さんが受けていたので、記憶としては残っているもの
の、あやふやな点が多いのだ。
いきなり成績を落としては、注目を浴びてしまう。
今は目立ちたくないのだ。
瑞姫さんと入れ替わって、時間もほとんど経っていない。
彼女との差異を違和感として捉えられては困るのだ。
たった数時間でどれほどのことができるのだろうかと思っていた
が、誰もが怪しまない順位を保てたのでほっとした。
だが、驚いたのは、私の成績ではない。
今この時期なのに、すでに赤点を取った者がいたのだ。
553
それも、全種目赤点、しかも、2人。
東雲は未来の経営者を育てるということもあり、レベルはかなり
高い。
だからこそ、外部生たちも狭き門だと知りつつも東雲を目指すの
だ。
ちなみに授業料などの料金は、外部生に限り、私立にしては割と
安いらしい。
寄付金という形で幼稚舎から通う内部生の保護者が外部生の授業
料などを一部負担しているらしい。
優秀な人材なら、きちんと育て上げて社会に貢献できるようにと
いう考え方なのだろう。
元々、内部生というのは四族出身者が殆どだ。
寄付金を積むくらい、さほどの負担にはならないはずだ。
それはさておき、内部生も外部生も、東雲の名を汚さぬようにと
日頃から勉学に励む者が多いのだが、驚くべきことに例外がいたよ
うだ。
﹃以下の者、課題提出後、再試とする﹄と書かれた文字の下、2
人の名前が書き記されていた。
その名前を見て、脱力してしまう。
﹃島津斉昭・東條凛﹄
そのどちらも、現在の私にとって厄災のような名前だ。
東條凛は、まあ、始業式の日に会っただけで、あとは会わないよ
うに気を付けているけれど。
島津の方は、運が悪いことに同じクラスだ。
島津と相良は大大名と小大名という歴然とした力関係が、その昔、
存在していた。
さらに領地を欲する島津は、事あるごとに相良へ兵を進めようと
し、その度にご先祖様が追い返していたという。
554
一度たりとも領地を奪われたことがない。
それが、相良の誇りでもある。
つまりは、領地を奪われまいとして、様々なことをやらかしたと
も言い換えることができる。
島津にとって相良はまさに目の上のタンコブというものだ。
中央へ攻め入るための拠点としてどうしても欲しい領地であるが、
そこにある相良と阿蘇に毎回阻まれるのだから。
しかも、相良の姫を嫁に貰い、婚姻関係を結ぼうと持ちかけても、
絶対に頷かないのだ、誰ひとりとして。
二重の意味でプライドを傷つけられた島津家は、相良家を敵視し
ていたわけで、相良としても実に面倒臭い相手に愛想を売りたくな
いので両家は犬猿の仲だった。
これは、何百年も昔の話だけれど。
そして、現代。
直系で続いてきた相良家は、名家として名を馳せ、分家から養子
を迎え入れて家を繋いできた島津家はその相良家よりも家勢に翳り
がある。
今度は別の意味で、犬猿の仲になっていた。
祖父たちの仲は、最悪なまでに悪い。
父たちは、一言も口をきいたことがないらしい。
その子供たちの代はというと、島津斉昭は中等部のあたりからよ
からぬ遊びを好んで行っており、その筋の女性からは異様にモテて
いるわけで。
そこまでは、中等部に通う身でありながら父親にならなくて済ん
でよかったねという一言で切り捨てられるのだが、どこでどう間違
ったのか、瑞姫さんに言い寄るようになった。
それが現在進行形で私にまで及んでいる。
外見上は同一人物なのだから、当たり前だけれど、嫌悪感は半端
ない。
爽やかな朝だというのに、﹃相良、イイコトしない?﹄と挨拶も
555
せずに話しかけてくるのだ。
こういうことが3日も続けば、疾風が問答無用で声を掛けた瞬間
に床に沈めるようになった。
風紀を乱す言葉を発しているため、疾風の実力行使は大目に見て
もらえているようだ。
怪我をさせるわけではなく、単に取り押さえているだけなので。
そのあと、風紀委員がどこかへ連れ去っていくという連係プレー
も生まれている。
毎朝のことなので、大神もどうにかすると言ってくれたし。
﹁相良っ!﹂
にこやかな笑顔と共に、問題の島津が手を振って近付いてきた。
﹁俺、赤点取っちゃったんだけど、勉強、教えて? その後で、俺
と別のベンキョウを一緒にし⋮⋮﹂
﹁島津斉昭君。担任の先生が生徒指導室でお待ちです。そのあと、
風紀委員会の方へお越しください﹂
島津の背後から、彼の肩をポンと叩いて告げたのは大神だった。
﹁えー!?﹂
﹁おや、ご不満ですか? では、さらに追加して、生徒会室へもお
越しください。ご両親をお呼びして、現状を説明させていただきま
しょう﹂
﹁ちょっ!! ちょっと待って!! それなしっ!! それ、なし
の方向で!!﹂
さすがに慌てた島津が、生徒会室への呼び出しを拒否する。
生徒会室に呼ばれ、しかも保護者呼び出しとなれば、その後待っ
ているのは校長室あるいは理事長室への呼び出しの後、何らかの処
分言い渡しだ。
謹慎、あるいは停学、または退学を言い渡されれば、家の面子を
守るために処分保留にして転校手続きを取るしかない。
家の体面を守らなければならない名家は、少しの瑕疵も許されな
556
いと考える家も多いせいだ。
島津はこれまでにも何度か問題を起こしているらしい。
私には一切関係のないことなので、どんな問題を起こしたのかは
まったく知らない。
﹁では、すぐに生徒指導室へ行ってください﹂
﹁えーっ!? 俺、だって、相良に⋮⋮﹂
﹁相良さんは関係ありません。君の生活態度が問題となっているの
ですから、改めるまで風紀委員会も生徒会も君に付き合ってあげま
すよ﹂
にっこりと笑顔を深め、大神が告げる。
うん。聞くだけで怖いよね、何だか。
案の定、青褪めた島津は諦めたらしく、とぼとぼと肩を落として
生徒指導室へと向かいだす。
﹁また妙な輩が出てくる前に、教室へ戻りませんか、相良さん?﹂
笑顔魔人が柔らかな人当たりの良い笑みを浮かべて誘い掛ける。
﹁⋮⋮そうだな。見るべきは見たので、もうここにいる必要はない
な﹂
傍にいた疾風を見上げ、教室へ戻ることを伝える。
先程、島津の発言を疾風が遮らなかったのは、大神が来るのが見
えていたからのようだ。
あの場で疾風が島津を取り押さえるよりも、大神が追い払ってく
れた方が周囲への被害は少ないのは確かだ。
精神面への負荷は考慮に入れていないので、実際どれほど被害が
出ているのかはわからない。
﹁島津君は、ちょっとまずいことになっていましてね。それで、呼
ばれたんですよ﹂
教室への道のりを歩きながら、大神が苦笑しながら掻い摘んで説
明する。
﹁それを私に話しても大丈夫なのか?﹂
557
﹁中身については、確かにまずいのですが、どうせ、数日しないう
ちに噂が回るでしょう。彼の日頃の行いの結果というべきことです
から﹂
﹁日頃の行い、か⋮⋮﹂
頷いてみたものの、さっぱりわからない。
わかるつもりもないので、噂が出回ったらわかることだろう。
そこまで考えて、ふと気がついた。
また、一言も発することなく島津の姿が消えたようだ。
父たちは言葉を発したことがないと言っていたが、私の場合も、
似たようなものだ。
絡んでくる島津に対し、私は一言も発する間もなく彼を見送って
いる。
話すことなど何もないので、まったく問題だと感じたことはない。
教室に辿り着き、もう一つのことに気付く。
そういえば、いつもは掲示板の前で諏訪の姿を見かけるが、今日
は見ていない。
そういうこともあるんだなと、のんびり考えていたら、休み時間
に飛び交う噂に驚くことになった。
558
72
諏訪老の下に移ってから、諏訪の人気は急上昇中だというのは知
っていた。
それこそ基礎的なところから再教育を受けていると、本人が言っ
ていたのだから、人当たりが変われば元がいい諏訪ならば、確かに
人気も上がるだろう。
人としての教育と、上に立つ者としての教育、さらに経営学など、
諏訪家随一の実力者直々の教育だ。
ほんの数ヶ月で顔つきやら雰囲気やらがかなり変わっていたので、
それなりの成果が出始めている頃なのかもしれない。
律子様譲りの激情家なところさえ理性で抑え込めるようになれば、
かなり変わるだろう。
今は、私との接触を極力控えようとしているらしいが、始業式の
時のように私が倒れたとか不測の事態に陥れば、感情的に突っ走っ
てしまうところがまだ治っていないようだ。
それでも、クラスが離れた私と顔を合わせないように頑張ってい
るらしいと、大神が笑いながら言っていた。
まだ、完全に自分の身体と瑞姫さんの記憶とに馴染んでいないた
め、接触する人が少ないと私としては助かるのだが。
その諏訪に関する噂が一気に駆け巡ったのは、昼休みに入ってか
らだ。
カフェでテイクアウトしたボックスランチを中庭でのんびり食べ
て、教室へ戻ってきたときのことだった。
559
﹁瑞姫様!! 聞きまして? 諏訪様が⋮⋮﹂
教室にいくつかのグループに分かれて固まっていた集団のひとつ
が、私が戻るなり声を掛けて来た。
﹁諏訪様がどうかなさいましたか?﹂
本人に対して苗字を呼び捨てにしていても、人前では様付けで呼
んでしまう奇妙な礼儀正しさが自分でもおかしいと思ってしまう。
そして、自慢にもならないが、私は噂に疎い。
周囲が全員知っていても私ひとりがその噂を知らないということ
はざらだ。
細かいことは気にしないおおらかな性格なのだと、クラスメイト
の皆はフォローしてくれているが、実際において、興味ないことに
は一切関知しないという困った性格のせいだ。
とりあえず直そうかとは思っているが、必要なことなら疾風が教
えてくれるので、まあいいかと思ってしまうのが敗因だろう。
私の性格を思い出したのか、声を掛けてきた少女は苦笑を浮かべ
て頷くと、素直に教えてくれた。
﹁諏訪様が、あの転校生と婚約をするという噂がありますのよ﹂
﹁あら? わたくしは、纏わりつく転校生に怒った諏訪様が、今後
一切近付くなと怒鳴りつけたということを耳にしましたわ﹂
別の集団からそういう声が出てくる。
﹁私は、諏訪様が財閥を引き継ぐために学校をお辞めになられると
いう話を伺いましたわ﹂
﹁まあ、そんな!﹂
もっともらしい表情で、それぞれのグループから色々な諏訪に関
する話が飛び交う。
つまり、どれが本当のことなのかを私に尋ねたいということか。
﹁申し訳ないが、今の話はすべて初めて聞いたことばかりだ。なの
で、もう少し詳しく話を聞かせてほしいが、よいだろうか?﹂
そう言えば、ほっとしたような表情を浮かべて詰めかけてくる。
﹁こんなところでは迷惑になるだろうから、席に着いてからでいい
560
だろうか?﹂
あちこちから一斉に近付いてきたので、ちょっと驚いていたら、
疾風が声を挟んでくる。
﹁あ、あら。申し訳ございませんわ、岡部様。そうですわね、入口
では、皆様のご迷惑ですわね﹂
ぽっと頬を染め、謝罪した御嬢様方は、道を開けてくれる。
それに軽く会釈して礼を言い、自分の席に向かうと、彼女たちも
ついてくる。
椅子に座ったところで、他の人たちも近くの席に座ったり、椅子
を引き寄せてきたりとして集まりつつ、それぞれが順番を追って説
明を始めた。
彼女たちの話を聞いてまず思ったことは、諏訪の噂は多すぎる。
目を引く容姿、明晰な頭脳、堂々とした態度、それらに加え、華
やかな気配と人目を奪う要素が多いせいだろうか。
瑞姫さんに言わせると、ご先祖様に感謝な容姿と頭脳に、俺様過
ぎる態度、もう少し謙虚になれということだが。
人によって、色々の見方ができるという一例なのだろう。
疾風はというと、ウンザリしたようにあさっての方向を見て退屈
そうにしている。
在原はというと、スマホを片手に何かを検索している。
それが何かなのは、大体予想はついている。
まず、諏訪と東條凛との婚約話は、その意外性について皆囚われ
てしまっているが、肝心なところを見落としていた。
﹁婚約発表はいつ頃かという話は、何方か聞いていらっしゃいます
か?﹂
﹁え? いいえ。そう言えば、婚約が決まったという話は伺いまし
たが、いつ頃発表するかなんて⋮⋮﹂
561
﹁婚約披露パーティについても、噂は出回っていないようですね﹂
﹁そう言えば⋮⋮﹂
私の言葉に皆が一斉に頷く。
一般的に考えて、誰とかと誰とかが婚約したという噂が立てば、
披露パーティがいつ頃、どのホテルで行われるという情報も一緒に
流れるものだ。
付け加えるならば、いつごろ結婚する予定だとかも。
それがないというと、外堀埋めな情報操作ということになる。
だが、この場合は社交界に一気に流すのが原則だ。
相手方に否定をさせる隙を与えずに、一瞬で広範囲に流す。
そうして相手に拒否できぬように状況を固めてしまうというのが、
この手のやり方だ。
だが、今回の場合、話が回っているのは学園内だけだ。
もし外でその噂が出回っているのなら、兄や姉たちが何か言って
くるはずだ。
それと。
﹁静稀、ホテル見つかった?﹂
スマホをいじる在原に問いかける。
﹁んー⋮⋮ないね。半年先まで予約が入っているか検索掛けてみた
けど、諏訪系列のホテルで一切、そう言った予約は入っていない﹂
画面を眺めながら、在原が答える。
先程から在原がスマホをいじっていたのは、諏訪系列のホテルで
婚約披露パーティの予約が入っているかどうかを確かめていたから
だ。
婚約披露パーティとなれば、諏訪家の嫁を披露するということに
なるので、諏訪系列のホテルなどで開催するに決まっている。
半年先まで検索してないということであれば、それはまず予定が
ないということだ。
在原の言葉に、話を聞いていた少女たちは一斉に目を瞠る。
﹁瑞姫様、これは⋮⋮?﹂
562
﹁どうやら、根も葉もないというものらしい。外堀埋めてというに
は、かなりお粗末な結果のようですね﹂
私の予測に彼女たちも察したのだろう。
殆どが半眼になってあらぬ場所を睨んでいる。
ちょっと怖いよ、その表情。
なまじ顔立ちが整っている分、無表情っぽくなるとおっかないで
す。
﹁つまり、それは、諏訪様の方ではなくあちらが勝手に流した噂と
いうことですわね﹂
﹁断言はできませんが。彼女は諏訪の好みではなさそうですしね﹂
その言葉に、一斉に頷く少女たち。
彼女たちの脳裏には、おそらく詩織様の姿が浮かんでいることだ
ろう。
儚げな美女である詩織様と、まったく普通の東條凛とでは比べる
のが酷だというくらい顔立ちに差がある。
東雲は両家の子女たちが通う学び舎である。
つまり、代々選りすぐりの容姿を持つ両親から生まれた子供たち
が通っているわけで、顔立ち云々に関しては瑞姫さんに言わせれば
眼福クラスがごろごろしている状態なのだ。
幼い頃からそれに慣れていれば、メンクイというものに育ち、美
意識も格段に成長してしまうそうだ。
ごく普通が、ここでは格段に劣るというランクになってしまうほ
どに。
加えて、基本的にメンクイではあるが、人の顔立ちよりも表情に
重きを置いてしまう我々にとって、東條凛の喜怒哀楽がはっきりし
すぎた表情は大変醜く感じてしまうのだ。
喜怒哀楽がはっきりしすぎるのは、本来、悪いことではない。
それに伴う表情の作り方が問題なのだ。
どちらかというと喜びと楽しさがはっきりと出てしまう我々の表
情の作り方とは異なり、東條凛の場合は怒りが殆どなのだ。
563
剥き出しの怒りというのは、あまりにもきつすぎて、近付きたく
ないと思ってしまう。
そう言った理由で、東條凛に対して友達になろうと話しかける生
徒はまったくいない。
外部生ですら、彼女を敬遠しているのだ。
﹁⋮⋮言われてみれば、何てお粗末な⋮⋮﹂
誰が言ったのかわからないが、ぽつりと漏らされた言葉に皆がそ
れぞれ頷いている。
﹁四族と葉族の婚約なんて、あり得ない話ですものね﹂
﹁ましてや、犯罪者を出した家ですもの。常識があれば、そのよう
な家から妻を迎えたいとは思いませんもの。知り合いと少し話した
だけで、相手を傷つけるかもしれないという危険性を持つ妻なんて
必要ないと思うのが常識ですもの﹂
口々に言い合い、納得してしまう。
いきなり沸き起こった噂は、1日も持たなかった。
噂を流すなら、もっともらしく作るべきだろう。
でも、ちょっと不思議だ。
瑞姫さんが書いた資料には、転入して1週間くらいで婚約の噂が
流れるなんてことは書いてなかったはずだ。
あとから確認しなおそう。
﹁では、瑞姫様。諏訪様が転入生を怒鳴りつけたというのは?﹂
﹁⋮⋮可能性は否定できない。何方かその場面に遭遇した方がいら
っしゃるかもしれないね。その方にお尋ねした方がいいだろう﹂
噂は、誰が発したのか、辿るのは難しい。
だがしかし、誰から聞いたというのを遡るのは、割とスムーズに
いくものだ、途中までなら。
ある程度まで遡れれば、誰かがそれを見ていたということも割り
出せるはずだ。
﹁諏訪様が学園を辞められるというのはいかがでしょう?﹂
564
﹁私としては、ありえない話だと思います﹂
普通に考えれば、ありえない。
諏訪は未成年だ。
未成年が巨額を動かすには、まず、保護者の承認が必要になって
くる。
諏訪が権力を奪う相手は両親だ。
どう考えてもこの場合、許可は下りない。
つまり、後を継ぐというのは、今ではないということだ。
﹁例え、後を継いだとしても、学歴はどうしても必要です。いえ、
財閥の頂点に立つ者ならば、必ず大学卒という肩書は必要になって
くるでしょう。現時点で高校中退なんてことは考えられません。そ
れに、元々諏訪様が財閥を引き継ぐことは決まっていますし、慌て
る必要はないでしょう﹂
分家に優秀な人材はいるだろうが、直系で唯一の男子というのは
かなりの強味だ。
その上に、諏訪伊織は成績優秀者でもある。
東雲で成績優秀者という栄誉をそう簡単に投げ出すメリットは見
当たらない。
デメリットなら、たくさん見つかるが。
﹁そう、ですね。では、瑞姫様と諏訪様のご婚約が調ったという噂
も嘘なんですね﹂
﹁ええそれはもう。我が一族は、諏訪家と島津家とは婚姻関係にな
りたくないと言っておりますし﹂
﹁島津さまは、確かに⋮⋮聞きました? 島津さま、とうとうお子
さんができたと仰る女性が現れたそうですよ﹂
﹁自業自得ということですの?﹂
﹁財産目当てということも考えられますけれど﹂
﹁それでいて、毎朝、瑞姫様にあのご様子ですもの、赦せませんわ
!!﹂
島津に子供⋮⋮本当にできたのか、狂言なのか。
565
実に微妙なところだ。
今朝、大神が言っていたことは、このことだったのだろう。
日頃の行いとは、こういうことなのか。
﹁諏訪様が転校生のことをどう思っているのか、すぐにわかります
し﹂
ふと、誰かが呟く。
﹁ご自分に正直な方ですもの﹂
﹁この手の噂は、鵜呑みにせずに潰しに掛かった方がよいというこ
とですか﹂
なにやら納得した様子で頷き合った少女たちはにこりと微笑む。
﹁噂に惑わされず、詳細を確かめ、即座によからぬ噂は潰すことに
いたしますわ﹂
﹁そ、そう? 頑張って⋮⋮﹂
それ以外、何と答えればいいのだろうか。
私の後ろで、深々と溜息を吐く疾風の気配に私は視線を彷徨わせ
た。
566
72︵後書き︶
本日仕事納め。
そのはずですが、年末年始、出社命令が下りました。
私の仕事は全部前倒しで終わっているのですが⋮⋮。
そして、大陸から流れてくる汚染物質のせいで、相変わらず体調不
良です。
皮膚に湿疹があちこち出始めました。
かゆみはないですが、ざらついて気になります。
ステロイドが使えないからなぁ⋮⋮。
567
73 ︵東條凛視点︶︵前書き︶
東條凛視点。
568
73 ︵東條凛視点︶
あたしの名前は、東條凛。
ママの実家に戻ってこの名字になった。
それ以前の名前は安倍凛。
地味な名前よね。
あたしに前世の記憶があるって気が付いたのは、高1の夏の終わ
りごろ。
ママと買い物に出かけたとき、目の前に黒い高級車が止まって、
そこから老夫婦が出て来た時だった。
この人たち、知ってる!!
そう思った時、何もかも思い出した。
ママのお父さんとお母さん、つまり、あたしのおじいちゃんとお
ばあちゃんって人たちは、あたしを迎えに来たんだとわかった。
あたしの前世、あたしは高校生で車に轢かれて死んだ。
カレシはまだいなかったけど、いつかできるんだと思ってた。
だからその日を夢見て、乙女ゲームってやつをやってたんだけど。
あたしの周囲はそんなことを理解してくれなかった。
キモい、暗い、地味子って散々陰口をたたかれた。
本当のあたしを誰ひとりわかってはくれなかった。
それは仕方ない。
569
だって、あたしを理解できるのは、あんたたちじゃないもの。
王子様なんていやしない。
あたしの王子様は、あたしが掴まえるのよ。
当然じゃない! だって、あたし、結構可愛いのよ。
地味子なんて呼ばれてるけど、あれは単なる僻みだもの。
学校のランク低い男共にモテたって仕方がないじゃない、だから
わざと地味にしてただけ。
休みの日は、うんと着飾って1人で街を歩いてたら、結構ナンパ
にもあったし。
もちろん、付き合ってなんてあげなかったけど。
hea
そんなカンジで街に出てた時に車に轢かれちゃったんだけどね。
その頃、あたしがハマってたゲームが﹃seventh
ven﹄だった。
結構、難易度があって難しかったのよね。
だってさ、逆ハー狙いじゃないのに途中までは攻略対象の好感度
をある一定のレベルまで全員引き上げなきゃならないんだもの。
そこから先は、攻略したい相手だけでいいんだけど。
やっぱり玉の輿度が高い八雲先輩と伊織君はダントツ人気だった
わ。
あたしもこのふたりが大好きだったもの。
でもねー、八雲先輩は美人過ぎてスチルを見るのがつらかったわ
ね。
主人公よりもきれいなんだもの。
だから、どちらかというと伊織君オシなのよね、あたし。
その2人の次は、疾風君かな?
寡黙で守ってくれる男の子ってかっこいいじゃない?
八雲様の好感度を上げないと疾風君は攻略できないんだけど、八
雲様を上げ過ぎるとすぐに彼のルートに入っちゃって疾風君が攻略
しにくくなるのよね。
570
他の人たちもそれぞれお金持ちだし、カッコいいし。
甲乙つけがたいってこういうことなんだってカンジ。
その世界にあたしが転生してるって知って、それこそ有頂天にな
った。
パパもママもおじいちゃんたちの申し出を素直に受け入れればい
いのにさ。
猛反発しちゃって大人げないんだってば。
このままいくと、2人とも交通事故で死んじゃうのよ?
まあ、パパは怒ってばっかりだから別にいらないけど。
でもママは必要よね。
何でかって? そりゃ、伊織君ルートに進んだ時に東條分家から
あたしが狙われちゃうからよ。
ママがいれば、あいつら、あたしじゃなくてママを狙うでしょ?
だって、ママがおじいちゃんたちの娘なんだもの。
あたしって賢いでしょ?
だからあの日、具合が悪い振りしてママを引き留めた。
何も疑わずママは残って、パパはブレーキ事故で死んじゃった。
仕方ないよね、そういう運命なんだもん。
助けてあげたんだからさ、ママはあたしに感謝して、ちゃんと役
目を果たしてよね。
パパのお葬式の時、立派な身なりのおじさんたちが参列した。
式の後、あたしたちの所に来て、パパのお兄さんだって言い出し
た。
ママは知ってたみたいだったけど、これってどういうこと?
よくよく聞いてみれば、ママの家よりもパパの家の方が雲泥の差
でお金持ちだということがわかった。
嘘っ!! パパの家に引き取ってもらった方が優雅な暮らしがで
きたわけ!?
でも待って。
571
ここはあたしのための世界なのよ?
東條凛で暮らした方が、あたしは素敵な彼氏と一緒にもっと優雅
な暮らしができるはず。
そうよね。きっとそう。
だって、あたしが東條凛なんだもの。
葬儀が終わって、東條家に行ってみたら、話が全く違っていた。
これって、どういうこと!?
ゲームで見ていた家とは違って、何かものすごくさびれていた。
そうして、あんなに強硬にママに戻ってこいとか、あたしだけで
も来ればいいとか言っていたのに、母娘2人で暮らしたいならそれ
でもいいとか言い出しちゃって。
話が違うじゃない!!
そう思っていたら、おじいちゃんがぽつりと言った。
莫迦な分家が手を出しちゃいけない人に手を出して、ほぼ全員、
刑務所送りになっちゃったんだって。
あら、いい傾向じゃない。
あたしの邪魔をする人がいないってことよね?
でも、それならどうしてここまで貧乏臭くなってるのかしら?
半年前に会った時には、おじいちゃんもおばあちゃんもお金持ち
っぽかったのに、今は何だか普通の人っぽいし。
そこをはっきり聞いちゃったらまずいのかしら?
首を傾げてたあたしに気付いたのか、おばあちゃんが苦笑して説
明してくれた。
ちょっと! 東條家が終わったってどういうこと!?
これもやっぱり分家のせいなの!!
本当に役立たずな人達よね!!
それに、おじいちゃんとおばあちゃんもだらしないわよ。
572
会社の株を誰かに一気に買われて、会社を手放す羽目になっちゃ
うなんて!
あたしに贅沢させてくれるんじゃなかったの!?
仕方ないわね。
東雲学園に行って、伊織君が八雲様を落としてくるわよ。
そうすれば、あたしはずっと贅沢して暮らせるわけでしょ?
こんな家、いらないし。
だって、あたしがこの世界の中心なんだもの。
進学校じゃないのに、東雲学園の試験はちょっとだけ難しかった。
でも大丈夫! 絶対通るから。
そう思ってたら、やっぱり通ってた。
クラスもゲーム通りに伊織君と一緒だった。
これならゲーム通りに攻略進めれば伊織君とエンディングを迎え
られるわね。
あたしとラブラブになれる伊織君ってば、ハッピーよね。
そう思いながら伊織君に声を掛けてあげれば、何よ、この態度。
失恋を慰めてあげたのに、酷いじゃない。
ああ、そっか。
人前だから、照れてるのね。
ツンデレなんだから。
そう思ってたら、伊織君に手を振り払われてよろけてしまう。
危ないと思ったら、あたしを助けてくれた人は八雲様だった。
ゲームで見てた顔だけど、現実はもっと美人!!
素敵素敵!
こんなカレシがいたら、自慢できるわ。
ゲームじゃできなかったけれど、現実なら両手に花も不可能じゃ
ないかも。
そう思ってたら、この人、八雲様じゃないとか言い出したし。
誰よ、じゃあ!
573
そう言えば、同じクラスになるはずの八雲様の妹の瑞姫はいなか
ったわね。
この世界、あたしの邪魔な人はいないように神様が作ってくれた
のね。
やるじゃん、神様。
結局、八雲様の弟は、名前を教えてくれず、伊織君と話し出す。
ちょっと待ってよ。
伊織君、なんでそんなに嬉しそうなの!?
その人、どんなに美人でも男の子なのよ?
だって胸ないんですもの。
まさかのBL展開なんて言わないでよね!!
それより、ヒロインのあたしを無視して話を進めないで!
疾風君も誉君も、何でそんな目であたしを見るのよ。
あなたたちはあたしのカレシ候補なのよ、一応だけど。
クラスの女の子たちは、問題外。
誰が仲良くしてあげるものですか。
伊織君は、あたしのものなんだから、物欲しそうな目で見ないで
よね。
その伊織君は、ゲームよりもかなりの照れ屋さんみたいで、話し
かけても目も合わせてくれない。
でも、いいのよ?
だって、すぐにあたしの魅力の前にひれ伏すことになるんだから。
八雲様の弟君も気になるところだけど、あれから全然会わないし、
何処にいるのかしら?
ゲームじゃないから新キャラっていうのも変だけど、八雲様より
攻略しやすいでしょうから、いつでも会いに来ていいのに。
それとも、伊織君に遠慮してるのかしら?
574
そう言えば、紅蓮君も静稀君も千景君にも会ってないわね。
出会いイベントを起こさないといけないのよね、確か。
条件はわかってるし。
あたしが実力テストでいきなり10位以内に入って、話題をさら
うってイベントだった。
あら、そろそろ結果が出るころじゃない?
あたしは伊織君のお嫁さんになるんだってことも、牽制として女
の子たちに言っておかないとね。
掲示板を見に行ったら、皆があたしを注目していた。
そうでしょ、そうでしょ!?
そりゃ驚くわよね。
転校生がいきなり10位以内に入ってるんですもの。
⋮⋮⋮⋮⋮⋮あら、名前がないわ?
って、ちょっとーっ!!!
全教科赤点って何!?
あたしの書いた答えのどこが間違っているのよ!!
あたしが、この世界の主役なのよっ!!
575
73 ︵東條凛視点︶︵後書き︶
この人書くのは、非常にツライです。
色々と勘違いしている最中なのです、今。
576
74
目の前に広がる長い廊下。
手には雑巾。
陸上の選手のスタートのように、雑巾を広げ、その上に両手をつ
いて腰を上げれば、一気に駆け抜けるしかないだろう。
ダダダダダッっとカッコよく走り抜けられたらいいのだが、残念
なことに右脚の感覚がまだ馴染めていないようだ。
途中でころりと転がってしまうのがご愛嬌。
でも、大丈夫。
受け身は熟練だから。
気分転換をしたいときは、この雑巾がけが一番だ。
うちの廊下はやたらと長い。
そして、年季の入った木造建築だ。
当然のことながら、こういった家を守るにはレトロな方法が一番
なのだ。
水拭きの雑巾がけと、ぬか雑巾。
水拭きの水には決して洗剤は入れないし、使わない。
洗剤を使うと逆に板を傷めてしまうから。
イタをイタめるってオヤジギャグとかじゃないです。
今、私の中で瑞姫さんが爆笑中。
ちょっと凹みました。
気分転換するつもりだったのに、酷いです、瑞姫さん。
︵ごめんごめん! 瑞姫でもオヤジギャグ飛ばすのかと思って意外
577
でさ。ギャグじゃなくて天然だっただけね︶
天然?
︵ああ、こっちのこと。いや、雑巾がけ、いいよね。私も好きだよ。
これだけ廊下が長いと思い切りできて気分がいいし︶
そうですよね! 気持ちいいですよね。
同意が得られたことで、気分が浮上。
水拭きの後は乾拭き。
水拭きで汚れを拭き取り、乾拭きで水分を拭き取る。
必ず水分を拭き取らなくちゃ、意味がない。
この後待っているのが、ぬか雑巾だ。
米ぬかを綿素材の袋に入れているだけの単純な作り。
うちではさらしを巾着型に縫って、その中に炒った米ぬかを入れ
てます。
米ぬかを炒るのは、虫が付きにくいようにするためなんだと御祖
母様が仰っていました。
米ぬかの在庫を管理するのは、御祖母様の管轄だから。
御祖母様お手製のぬか漬けに必要な糠床のため、ある一定量の在
庫を屋敷内に置いているのです。
その一部がぬか雑巾になるのです。
屋敷のお掃除は、相良家の嫁の大切なお仕事なので、今は家政婦
さんたちに一部お任せしているけれど、こういったところは未だに
相良の女たちの大事な仕事になっている。
何でかっていうと、相良家の嫁って一般人が割合的に多いので、
手っ取り早い自信つけって言えばわかりやすいかな?
由緒正しい名家の嫁って、なったはいいが、何をしていいのかわ
からないっていうお嫁さんが、これなら自分にできるとすぐに自信
を持てる仕事のひとつがお掃除だったらしい。
昔から掃除と料理は女の仕事って言ってたから、雑巾がけなんて
彼女たちにとっては当たり前のお仕事だったんだろう。
578
できることから少しずつお仕事を覚えていって、そうして相良家
の嫁として少しずつ自信を持ちなさいという配慮だったようだ。
今ではこんな木造住宅なんて少なくなってしまったから、ぬか雑
巾を知っている少なくなっているんだろうと御祖母様が嘆いていた。
ぬか雑巾は、和製ワックスのようなもので、一気にツヤツヤには
ならないけれど、何か月も何十年も毎日続けるとそれはもう素晴ら
しい艶を生み出してうっとりしてしまうのだ。
水拭きのように駆け抜けるのではなく、きゅっきゅっと音を立て、
少しずつ進んでいくので、筋肉痛になることもある。
屋敷内は、大体そんなカンジで手入れをしているのだが、唯一例
外的な場所もある。
それが当主のお部屋。
御祖父様の居室は漆塗りの柱や板と黒漆喰の壁に格天井だ。
一番格の高い部屋だから黒漆喰なんだそうだけど、実はもう一部
屋いいお部屋があるのだ。
こちらも漆塗りの柱に白漆喰なんだけど、通常の白漆喰ではなく
中に貝粉が混ぜられているので、陽が当たると壁がきらきら光って
とても綺麗。
このお部屋に通される方は、おそらくもういない。
当主よりも上の位にあたる方に過ごしていただくための部屋だと
かで、皇室の方々と徳川家当主のみ使用できる。
この部屋の掃除は、代々当主が行うため、私も部屋の外から眺め
ただけで中に入ることは許されなかった。
当主の部屋は当主夫人が掃除の責任者になるけれど、お掃除は相
良家の人間ならしてもいいので、私も掃除を手伝ったことがある。
数十年おきに漆の塗り替えが行われるので、専門の職人さんたち
にお願いしているそうだ。
少しずつぬか雑巾で廊下を磨いていく。
無心になって鏡のように姿が映る板面を磨くのはとても楽しい。
きゅっきゅと音を立てながら廊下を磨いていたら、すっと障子が
579
開いた。
﹁精が出るの、瑞姫﹂
﹁⋮⋮御祖父様﹂
声を掛けられて顔を上げれば、そこに御祖父様がいた。
﹁瑞姫、口をお開け﹂
着物の懐に手を入れた御祖父様が、何やら懐紙入れか財布のよう
な物を取り出すと、そこから黄金色の透き通った何かを摘まむ。
言われた通り、あーんと口を開けると、御祖父様がそれをぽいっ
と口の中に入れてくださった。
﹁⋮⋮美味しいです﹂
小さな蜂蜜飴だった。
この味は、知ってる。
初等部の時、甘党の御祖父様へ敬老の日のお祝いで差し上げたも
のだ。
人工的な甘みが苦手な私が、何とか甘くても食べられるのが蜂蜜
と水飴だ。
和三盆の和菓子にしようか、何にしようかとさんざん悩んだ挙句、
普通のキャンディーの半分以下の大きさであるこの蜂蜜飴なら、会
議中とかでも誰にも気づかれずに食べれるかもと、子供の浅知恵で
選んだ飴玉なのだ。
ちなみに、水飴なら、小倉藩御用達の豪商水飴屋の水あめが至上
だと思う。
普通の水飴は無色透明だけれど、あちらの水あめは蜂蜜かとうっ
かり思ってしまうような黄金色なのだ。
とても綺麗な透き通った金色に、飴色の本来の色を知ったような
気がした。
ちなみにこれは壺入りで、結構なお値段だ。
いくら私でも、これを簡単に幾つもは購入できない。
1年に1個、自分へのご褒美のようなつもりで買っている。
しかし、小さな頃の贈り物だった品を今でも食べていただけてい
580
たとは驚きだ。
目を瞠って御祖父様を見上げれば、御祖父様はにっこりと笑って
私の頭を撫でた。
﹁精神の鍛錬もいいが、時に何もしないことも重要じゃ。それが終
わったら、少し休みなさい﹂
﹁はい﹂
御祖父様の言葉に、頷いて答えれば、御祖父様が私の頭をもう一
度撫でて、その場を去っていかれた。
ストレス解消ってバレてるような気がする。
でも、やってもいいという意味だよね、あれは。
終わったら休めってことで。
よし。続きしよう!
どうせ、あと少しだし。
そう思って、私はぬか雑巾を手に、廊下を磨きだした。
無心になるというのは、実に爽快だ。
そして、何かをやり遂げるという充足感は、何度経験しても気分
がいい。
ようやく廊下の端へと辿り着き、満足できる仕上がりに笑みを浮
かべたら、視界に足が映った。
﹁⋮⋮え?﹂
﹁⋮⋮⋮⋮⋮⋮ようやく気が付いたか﹂
呆れたように告げたのは、疾風だった。
﹁疾風、いたの? 声を掛けてくれればよかったのに﹂
私の言葉に、疾風は呆れ果てたといった風に溜息を吐く。
﹁5回﹂
﹁え?﹂
﹁時間をおいて、5回、声を掛けた。だが、瑞姫は全然気づかなか
581
った﹂
﹁え? あははははは⋮⋮ごめんなさい﹂
気付かなかったと言われれば、確かにそうかもしれない。
夢中になりすぎると、外から何を言われようとも、気付かないこ
とが多い。
もう一度、横を向いて溜息を吐いた疾風は、何かを諦めたようだ
った。
﹁東條凛について調べいたんだけど、ある程度のことがわかったか
ら、報告に来た﹂
﹁東條⋮⋮ああ! あの、ちょっと変わった人﹂
﹁⋮⋮モノは言い様だな﹂
疾風はどうやら彼女を毛嫌いする対象にしてしまったらしい。
一度、嫌い認定をしてしまったら、疾風の場合、滅多なことでは
その認識を変えない頑固者だ。
今のところ、敵認定ではないらしい。
敵認定をされているのは島津と諏訪だ。
ファイリングされた資料を私に差し出す疾風が、そんなことを言
う。
﹁周囲の反応を見ないなんて、変わってるとしかいいようないでし
ょ? これが、その資料か﹂
廊下にぺったり座ったままでファイルを受け取り、中を捲る。
データは、本人のプロフィールから同学年の生徒たちの調書、そ
れから、両親についても書かれてある。
﹁父親が安倍家!?﹂
瑞姫さん、知ってる?
思わず、私は瑞姫さんに問いかけた。
︵いや、知らない。父親については、一般人で、車の事故で死亡っ
てことくらいしか、データはなかった︶
ありがとうございますと、彼女の言葉に礼を述べ、データとにら
めっこする。
582
﹁瑞姫は、安倍家のことを知ってるのか?﹂
疾風が意外そうな表情で問いかけてくる。
﹁その表情だと、疾風は調べきれなかったんだね﹂
確認の為に問えば、疾風はバツの悪そうな表情で頷く。
﹁まあ、しかたないよ。安倍家だから﹂
﹁そういうもの?﹂
﹁そんなものです。あそこは、名前だけが有名で、中身がわかるの
はあまりいらっしゃらない。私だって七海さまに教えていただいた
から知ってるようなものだし﹂
﹁七海さま、ね⋮⋮﹂
ああと納得したように頷く疾風の表情は渋い。
大伴家は、古い家で、常に中央にいた家柄だから、情報として手
に入れるではなく、元々知っている当たり前のことというものが多
い。
歴史の表舞台から消えているように見えて、常に朝廷の中央部に
ひっそりといたのだ。
﹁安倍家は、ちょっと特殊でね、長子が神官職について、次子が財
閥の後継者、三子は上2人の控えということで、男女問わずに役目
が決まっているんだ。4番目以降は好きにして構わないっていう家
だから、それ以降は割と自由に育ってるんだ。当代様の4番目のお
子様は、ものすごく自由な方で冒険者になったと聞いている。そう
か、東條凛の父親は5番目だったのか﹂
﹁離縁はしていなかったから、何でこんなことになっているのか、
わからないんだが﹂
﹁そうだよね。安倍家の直系男子が娘婿になることを喜ばない東條
家ではないからね。ああ、わかった﹂
ファイルを眺め、ある仮説を思いつく。
おそらくは、それが事実に近いであろうことも予想がつく。
この間、この屋敷まで押し掛けたあの東條夫妻なら、多分そうだ。
﹁安倍のかたは、多分、ご自分の出生を仰らなかったのだろう。東
583
條夫妻は、彼のことを調べず、一般人と思い込んだ。だから、結婚
を許さなかったんだ。東條家から見れば、あの2人は駆け落ちした
ように見えるけれど、安倍のほうでは5番目の方が選んだ人に文句
はないので、自由にさせていたということだろう﹂
﹁⋮⋮は?﹂
﹁安倍家は5番目以降の人生には干渉しないんだ。必要だと言われ
たら手を貸す程度なんだ。元々、あの家は自分の力であそこまで上
り詰めたという矜持があるからね﹂
﹁なるほどな。言われてみれば、確かに。世間知らずの御嬢様が駆
け落ちしたにしては、質のいい暮らしをしているしな﹂
﹁自家用車を持っている程度には、というよりも、一戸建ての家で
暮らしているにしては、ってことだね?﹂
﹁うん。一戸建ての家と自家用車って、あの年代では結構な収入が
必要だと思う。ローンを組むにしたってね。ところが、あの家は完
済している。安倍氏の就職先も、安倍家の系列の会社だった。つま
り、安倍家からは特に反対されていないってことだな、確かに﹂
がしがしと髪を掻き毟るように乱暴な仕種を見せた疾風は、胡乱
な目つきになる。
﹁じゃあ、何で東條凛は安倍家の親族からの申し出を蹴って東條家
へ身を寄せるようにしたんだ? 母親はそれを望んでいなかったに
も関わらず﹂
当然の疑問が疾風の口から洩れる。
﹁⋮⋮⋮⋮⋮⋮見極める必要があるということだね﹂
私が言えることはそれだけだった。
瑞姫さんが残してくれた資料と、疾風が調べてくれた資料、そし
て、東條凛本人の動きをつぶさに見ることで、これから何が起こる
のか見極めなければならない。
彼女の思惑とは別方向で、私が望んだ道に進むためにも。
﹁あ。疾風、部屋に行ってて。後片付けしてくるから﹂
そう言って、私は掃除道具一式を片付けるために座り込んでいた
584
廊下から立ち上がった。
585
75
安倍家は四族と間違いやすいが外族だ。
外津国と呼ばれる大陸から、いつの頃かやってきて、己の実力の
みで台頭し、現在の地位を築き上げた。
安倍家についてはしばし不可思議な記述がある。
魑魅魍魎の類を妻に迎えた等がその筆頭だ。
おそらくは、いずこからか渡ってきた外国人を妻に迎えたのだろ
うと考えられている。
国籍を与えられるような表ルートではなく、漂着したとか、本国
にはおられず命懸けで渡って来たとか、そういった正規ではない方
法でやって来た外国人が鬼や妖怪などと呼ばれた時代もあるらしい。
それゆえに安倍家は異端視され、また謎めいた一族と思われてき
たようだ。
東條凛の父親が、その安倍家出身とは驚いた。
5番目の子供とはいえ、外族もまた葉族に比べれば相当に格上だ。
何故、彼は葉族に就職したのだろう?
そう。﹃就職﹄なのだ。
東條家の使用人ではなく、東條家が経営する会社に就職したのだ。
たまたま東條家当主が彼を気に入り、傍に置くようになったのだ
が、そこらへんのいきさつが非常に曖昧でよくわからないのだが東
條凛の母親と知り合い、恋仲になり、彼女を連れて出て行ったらし
い。
当然、仕事はそこで退職しており、籍を入れてから安倍家の系列
586
の会社に再就職しているようだ。
それと少し気になったのが、その頃、東條家の屋敷勤めの使用人
で丁度彼らと同じ年頃の青年がひとり死亡している。
こちらも交通事故らしい。
深く考えない方がいいだろう、これは。
どちらが父親であろうと、東條凛が存在する。
それがすべてだ。
東條家のことはさておき、部屋に戻った私は、掃除をしていて汚
れた服を着替えるついでに汗を流そうと着替えを手にバスルームへ
向かう。
疾風を待たせているので手早く済まそうと服を脱ぎ去り、鏡に映
った自分に一瞬どきりとする。
身体に幾重にも走る白い線と、右腕と右脚に太く残るケロイド。
何度見ても見慣れないそれに一瞬息を止め、そうして吐き出す。
こんなことで怖がっていては、もっとひどい時期を過ごした瑞姫
さんに申し訳が立たない。
これは随分と良くなった上に、これ以上酷くはならず、少しずつ
消えていくのだから。
そう自分に言い聞かせ、鏡の中の自分を見据える。
もう二度と逃げ出さない。
そう決めたから、戻って来たんだ。
怖がるな。
大丈夫だ。
目を閉じ、深呼吸をして心を落ち着ける。
うん、大丈夫。
もう平気だ。
587
バスルームへ入ると、シャワーコックを捻り、頭からお湯を被っ
た。
﹁瑞姫、髪が湿ってる! ちゃんとよく拭いて﹂
着替えを済ませ、疾風が待つリビングへ向かえば、渋面の疾風が
タオルを持ってくると私の髪を拭き始める。
﹁え? 大丈夫! 風邪ひかないし﹂
﹁そう言うやつに限って、風邪をひくんだ。瑞姫の大丈夫はあてに
しない﹂
手つきは丁寧だけれど、口調は結構酷い。
これは、今までの流れから来ているな。
瑞姫さん、何やったんですか、あなた!?
思わず恨みがましい声が出そうになったけれど、瑞姫さんは知ら
んぷりをしている。
まったく反応がない。
これは、迂闊に返事をすれば藪蛇になると思っての無反応だろう。
﹁大丈夫だって。あんまりドライヤーをあてたくないし﹂
﹁だったら、きちんとタオルで水分を拭き取れ﹂
お母さんみたいなことを言う。
勿論、これを口にすれば、絶対に怒られるから言わないけど。
﹁⋮⋮瑞姫?﹂
﹁え!? な、なに!?﹂
﹁今、良からぬことを考えただろう?﹂
﹁良からぬ事って!?﹂
何でバレちゃったんだろう?
﹁口許、微妙にヒクついてた﹂
ぷにっと口の横あたりを摘まんで言う疾風。
﹁そんなことないだろう﹂
588
﹁いや。自分で考えたことがおかしくて我慢してた顔だぞ﹂
﹁笑ってないから!!﹂
﹁⋮⋮瑞姫?﹂
促すように名前を呼ばれ、私は知らん顔をする。
根競べなら負けない。
﹁⋮⋮⋮⋮⋮⋮﹂
しばらくの間、無言の駆け引きが続く。
そうして、諦めた疾風が溜息を吐いた。
﹁もういい。負けた﹂
﹁疾風?﹂
﹁東條の書類、いつ使うつもりだ?﹂
話題を変えるように、疾風が問いかけてくる。
﹁わからない。今はまだ使うつもりはない﹂
﹁いいのか?﹂
﹁うん。今はね。向こうから近付いてこなければ、放っておく﹂
ゲームに似た世界だからと言って、そのシナリオ通りに動く必要
はないはずだ。
私は、私だ。
自分の人生を自分で決めて生きていこうと考えることは、悪いこ
とではないはずだ。
もちろん、1人で生きていくことはできないので、色々と手助け
が必要になってしまうのは、不甲斐無いところではあるが。
瑞姫さんもずっと考えていた、﹃誰かの役に立ちたい﹄という願
い。
それが、今のところ、私の将来の目標でもある。
﹁おまえがそれでいいのなら、俺は従うが。近付いてこないとは言
い切れないぞ。おまえを八雲様と間違えた挙句、おそらく八雲様の
弟だと思い込んでるぞ﹂
﹁⋮⋮弟⋮⋮いや、もう、どうでもいい。調べればわかることだし、
それ﹂
589
﹁まあな﹂
疾風は頷いて答えるけれど、相手はそんなことを調べるはずもな
いと思っているようだ。
私も、多分調べないだろうなとは思う。
﹁瑞姫、そう言えば、柾様が話をしたいと言っていたぞ﹂
﹁柾兄上が?﹂
長兄殿が私に何の用だろう?
﹁兄上のご都合に合わせるからと伝えておいてくれないか?﹂
﹁承知した﹂
同腹の兄妹だというのに、予定を伝えるのは本人ではなくて人を
介してというのがこの世界のおかしなところだと、瑞姫さんに言わ
れたことがある。
指摘されて初めて気付く歪み。
言葉を交わすことなく、メールでやり取りする家もあるらしい。
普通というものがどういうものなのか、少しだけ気になった。
590
76︵前書き︶
新年一作目です。
本日は、わざと時間帯をずらしました。
0時を待っていた皆様、申し訳ありません。
お待たせしました。
591
76
﹁大変ですわ、瑞姫様!!﹂
教室へ入ってくるなりクラス副委員長が私に訴えかけて来た。
﹁何事ですか?﹂
騒々しいとは思っていないので首を傾げるにとどまる。
﹁大変なんです! マナーの授業、諏訪様のクラスと合同なんです
の!!﹂
その一言で、クラスがパニック状態に陥る。
﹁何てこと!! 先生に抗議申し上げねば!﹂
﹁そうですわ!! 決してあの者に瑞姫様を会わせるわけには参り
ませんもの﹂
凛々しい表情で告げる彼女たちに感謝はするが、決まったことを
覆すのは難しいだろう。
﹁気持ちはありがたいと思うが、闇雲に反発するだけでは先生方も
受け入れてはくださらないだろう﹂
﹁ですが、瑞姫様⋮⋮﹂
﹁私も好んで彼女と関わりを持とうとは思わないが、かといって逃
げを打つのはどうかと思う。私に疚しいことはないのだから﹂
その言葉に、同意したのは、女子ではなく男子であった。
﹁そうだよな。あの無礼極まりない者に非があっても、相良さんに
は瑕疵はないし。まあ、まずはあの無礼な者が本人の許可もなく相
良さんの名前を勝手に呼ぶ機会を与えないことが一番だと思う﹂
﹁それは、そうですね。瑞姫様のことはしばらくの間、相良様とお
呼びすることにいたしますわ。他のクラスの皆様にも、このことは
592
周知しておきましょう﹂
﹁それは良い考えですわ!﹂
上品に手を打って、同意した女の子たちは、他のクラスの友人た
ちに知らせに走る。
﹁普通に調べれば、わかることでは?﹂
諏訪や同じクラスの女子に聞けば、私がどのクラスにいて、フル
ネームは何であるかなど、すぐにわかることだ。
ついでに言えば、性別も、何故このような姿なのかも、聞けばわ
かることだ。
一切、何も隠してはいないのだから。
﹁あら? どなたにお聞きになるのかしら?﹂
副委員長がにこやかに微笑む。
﹁あちらでは、諏訪様以外を無視なさっていらっしゃるとかで、い
まだにご友人の1人もいらっしゃらないんですよ? 外部生同士、
普通は声を掛けあい、仲良くなる方も多いというのに﹂
﹁まあ、通常の外部生であれば、成績が50位以内に入ることに対
して相当な努力をなさっていらっしゃる勤勉な方たちですもの。全
教科赤点なんて方と仲良くなりたいとは思われないでしょう、さす
がに﹂
全教科赤点というのは、さすがに効いているようだ。
﹁2名も全教科赤点というのは、前代未聞でしたね﹂
島津はあれ以来、学校を休んでいる。
どうやら、噂は半分事実だったようで、子供ができたと言う女性
が現れたのは本当のことだが、その子供が島津の子供かどうかは今、
調査中ということだ。
子供ができたということ自体、偽りである可能性があるという噂
もある。
つまり、学校側の処分ではなく、島津家の都合で休んでいるとい
うことだ。
東條凛の方はというと、これまた色々な噂が飛び交っている。
593
﹁確かに前代未聞だとは思いましたが、それ以上に、あちらの方が
先生方に食って掛かったというのは、本当に驚きましたわ﹂
﹁わたくしも聞きました﹂
﹁ああ、それなら、僕も聞いたよ。先生方に、﹃あたしの答えが間
違っているなんてことが、間違っているのよ!﹄と言ったそうだ﹂
男子の1人が呆れたように笑いながら告げる。
﹁何でしょう、それは?﹂
思わず驚いて呟く。
﹁自分が書く答えが、この世界の真理なんだそうだ。変わっている
というより、思い込みが激しすぎて、心療科を勧めたい気になった
よ﹂
﹁まったくですわ﹂
あちこちで大きく頷く姿が見受けられる。
﹁⋮⋮ということは、一切勉強しなかったということですね?﹂
頭痛い。
瑞姫さんの資料には、いきなり10位以内に入って、話題をさら
うというイベントがあると書かれていた。
これにも条件があるらしい。
諏訪と八雲兄の好感度が少しでも上がっていれば、というものだ。
八雲兄の代わりが私ならば、好感度は0のままだ。
そして、あの態度を見る限り、諏訪の好感度も0かマイナスだろ
う。
瑞姫さんは、﹃私、意外とデータを取るタイプなんだよね。いや、
データを取るという使命がなければ、途中で止めたくなるほどだっ
たんだけど﹄とボヤいていたっけ。
これまでのことを見る限り、どうやら彼女は瑞姫さんとは正反対
のタイプらしい。
普通だったら、10位に入るとわかっていても、勉強はするだろ
う。
そうして、より上位に食い込もうと思うだろう。
594
一切勉強しないなんてことは、ありえない。
ましてや、入学試験が圏外だったことを知っていれば、10位以
内に入れるわけがないと思うはずだ。
ちらりと、自分の席に座っている大神に視線をやれば、それに気
付いた大神が苦笑を浮かべ首を横に振っている。
彼の情報では勉強はしていないということか。
そして、気になるところは、入学試験、合格目安点よりどれだけ
得点差があったのかということだ。
彼らの会話を聞いていて、ふと気づく。
誰も、東條凛のことを名字で呼ぶ人がいない。
自己紹介をしておらず、また、どう呼んでほしいかも言わない彼
女に対し、呼ぶ名がないため呼ばないという建前を振りかざしつつ、
真実は彼女の名前を呼ぶことすら拒否したいという私情を思い切り
前面に出しての対応のようだ。
気持ちは非常にわかる。
兄の名を呼ばれた時、私自身、怒りが沸いた。
兄の名を勝手に呼ぶなと、言いたくなった。
そんな相手に自分の名前を親しげに呼ばれたくなどない。
自分勝手と言われようが、我儘と言われようが、嫌なものは嫌な
のだ。
友に名前を呼ばれるのとはわけが違う。
生徒会役員を共に果たした諏訪や大神に未だ、名前を呼ばせない
のと多少意味は異なるが、それでも名前を呼ばれるということはそ
れだけで特別な意味を持つ。
自分が認めた相手でないと、名前を呼ばれたくないし、呼びたく
もない。
彼女はそのことにいつ気が付くのだろうか。
595
***************
結局のところ、先生方に抗議に行く者は現れず、私を名前で呼ば
ないという取り決めを周知させるだけに留まった。
2年になって最初のマナーの授業は、ダンスであった。
基本中の基本、ワルツだ。
それを聞いた瞬間、暗澹たる思いに囚われる。
こういった学校は、得てして男子よりも女子の方がわずかに人数
が多い。
進学校で理系よりであれば、男子が多いという具合に、ある程度
の傾向がある。
東雲の場合、ほんのわずか、クラスの半分より1人、2人、女子
が多いのだ。
私はダンスが好きではない。
間違いなく、この身長と男子用制服のおかげで男子パートに振り
分けられるからだ。
男子パートに振り分けられるという点で、多少なりとも利点はあ
る。
自分のパートナーを誰よりも先に選ぶことができるということだ。
授業の中で、ダンスの自分のパートナーを選ぶ優先権は、男子に
ある。
ダンスをリードするのは男子パートの方なので、自分がリードし
やすい女の子にパートナーをお願いしに行けるというわけだ。
ちなみに、ダンスのパートナーを選ぶとき、私は実にモテる。
選ぶのは男子パートを踊る女子と、男子生徒にあるのだが、女の
子同士の方が踊りやすいからと殺到してくるのだ。
この時ばかりは諏訪や橘を押さえて私が一番人気となる。
596
背が高すぎる疾風は人気がない。
首が痛くなるからというのが理由だ。
マナールームと呼ばれるマナーの授業専用の教室へ向かうと、隣
のクラスの生徒たちも半ば集まっていた。
﹁相良!﹂
珍しくすでに教室に来ていた諏訪が、私の到着と同時に声を掛け
てくる。
﹁頼みがあるのだが﹂
女子生徒に囲まれていた諏訪は、彼女たちの包囲網を突破すると、
私の前に立つ。
﹁俺のパートナーになってくれないだろうか?﹂
恐る恐るといった風に、私の顔色を窺いながらパートナーの申し
込みをしてくる。
それに気付いた女子生徒たちから諦めや失望の表情が浮かんだ。
私に言うとわかっていて、それでも希望を持っていたのだろう。
﹁諏訪、申し訳ないが、お断りさせていただく﹂
﹁もう、決まっているのか?﹂
﹁いや。誤解しているようなので、訂正しておこう。私は、男子パ
ートを踊ることになっている﹂
﹁⋮⋮⋮⋮そう、か﹂
一瞬、目を瞠った諏訪が、何故か嬉しそうに笑った。
何故そんなに嬉しそうなんだ!?
どこに嬉しく思うことがある!?
﹁とても残念だが、それなら仕方あるまい。大人しく引き下がろう。
だが、どなたを誘えばいいか⋮⋮﹂
あっさりと引き下がりながら、困ったように呟く。
﹁君のクラスには阿蘇の姫がいらしたな? 彼女にお願いするとい
いだろう﹂
﹁足を踏まれそうだ﹂
597
少しばかり嫌そうに諏訪が言う。
それはそうだろう。
阿蘇家は相良寄りだ。
外戚と言っていいほど、数代おきに婚姻関係を結んでいる。
﹁私が口添えすれば引き受けてくれる。彼女は、そこまで意地悪は
しないよ﹂
神職系の家系である阿蘇家と同じ神職系の諏訪家は、仕える神が
異なるので、そういった面でも仲が悪い。
だから余計に周囲が誤解せずに済む相手でもあるのだ。
﹁それならいいが⋮⋮﹂
困惑した表情を崩さずに、諏訪は頷く。
苦手な相手でも妥協できるほど、精神的に落ち着いてきたようだ。
これはいい傾向だろう。
﹁早く申し込んでおいた方がいいだろう。彼女は人気者だ﹂
ダンスの相手としては、非常に申し分のない相手だけに、阿蘇家
の姫は数人同時に申し込みが来るなどこういう授業ではよく見る光
景だ。
諏訪に付き合って、阿蘇の姫の許に向かい、口添えをした後、私
は自分の相手を何方に頼もうかと考える。
﹁やはり、千瑛が一番かな? どう思う? 疾風﹂
半歩ほど下がった位置に立つ疾風に声を掛けたとき、ねっとりし
た声が私を呼んだ。
﹁あーっ!! 八雲様の弟君!! 隣のクラスだったんだね﹂
その声に、周囲の者たちの表情にも嫌そうな色が浮かんでは消え
る。
表情を取り繕えるというのは、便利でもあり、不便でもある。
﹁ダンスの相手を探しているんでしょう!? あたし、なってあげ
てもいいのよ?﹂
私に近付き、触れようとしてきたので、するりと躱す。
﹁あん、もう!! 恥ずかしがり屋さんなんだから!﹂
598
空を切った手に、東條凛は私が恥ずかしがって避けたのだと思っ
たらしい。
﹁でも、あたし、恥ずかしがり屋さんには慣れてるから大丈夫よ。
遠慮なんかしなくてもいいし﹂
﹁あら。遠慮なんてしないわよ? それに、恥ずかしがやり屋さん
でもないから﹂
私の胸許あたりで千瑛の声がする。
探しに行こうと思っていたら、本人が来てくれたようだ。
だけど、がっしりと抱き着いてくるのはちょっとやめてほしかっ
た。
少しばかり息苦しいです、千瑛さん。
﹁だって、パートナーは私だもの。ねぇ?﹂
下から覗き込んでくる千瑛に、笑って頷く。
﹁お願いしてもいいかな、千瑛?﹂
﹁もちろんよ﹂
にっこり笑った千瑛は、ちらりと東條凛を見てせせら笑う。
﹁一度、鏡見てきたらどうなの?﹂
鏡を見ろというのは、自分の態度を見直せという意味だ。
決して、顔が不細工だということに気付けということではない。
だが、東條凛は後者だと勘違いしたようだ。
﹁何よ! あんただって大したことないじゃない!? あたしはか
わ⋮⋮﹂
﹁可愛いって顔じゃないわねー普通以下でしょ、ここじゃ。その年
で化粧してるあなたと化粧要らずの私たちの顔立ちとじゃ雲泥の差
があるってことよね。特に、年取ってから!﹂
にやりと笑う千瑛の顔は、確かに可愛らしい。
なのに、何故か千瑛は私の顔を差した。
﹁どう? すっぴんでこの顔の隣に並べる? 見劣りするって辛い
わよねー﹂
何故、私の顔がここで出てくるんだ。
599
﹁あんただって!!﹂
﹁見劣りしてるかしら?﹂
にこやかな千瑛の笑顔。
楽しんでいるというのが、よくわかる。
黒く先が鏃のように尖った尻尾が機嫌よくゆらゆらと揺れている
ような幻覚を見たような気がした。
千景とそっくりな千瑛の顔は、小柄な身長と相まって非常に可愛
らしく見える。
瑞姫さんは黒ゴスが似合いそうと千瑛を見るたびに呟くほどだ。
︵見事だね、千瑛。女の戦いを熟知してるねー︶
ふと、呆れたように瑞姫さんの声が聞こえた。
女の戦いって⋮⋮。
思わず脱力しそうになる。
︵どうあがいても、千瑛の勝利は間違いなしだから、移動しなさい︶
了解しました、瑞姫さん。
私は千瑛の肩を軽く叩く。
﹁千瑛、疾風、行こうか﹂
そう2人に声を掛ける。
東條凛には声を掛けない。
最初からいないものとして扱っているからだ。
何せ、いまだに名乗りもしないのだ。
知人ですらないものをどうやって扱えというのか。
﹁そうだな。行くぞ、菅原﹂
疾風が千瑛に引き上げろと声を掛ける。
﹁菅原!? 千景君が女の子!?﹂
どうやら今頃になって、千瑛の顔が千景とそっくりであることに
気が付いたようだ。
そうして、別の勘違いをしている。
︵うわーっ!! ここでその間違いをするかな!?︶
600
私の中で瑞姫さんが大爆笑をしている。
残念な人という言葉の意味を、私は何となくだけれど、理解し始
めていた。
601
77
ワルツの調べに乗って踊る男女。
それを優雅に眺める私たち。
マナーの授業って、一度クリアしたら非常に楽だということを初
めて知った。
千瑛も千景も何でもそつなくこなすタイプだから、ダンスもかな
り上手かった。
ペアを組んだ相手が上手だと、はっきり言ってとても楽。
一度でクリアを言い渡され、それからずっと教室の隅でのんびり
と過ごしている。
﹁あのね、瑞姫ちゃん﹂
千瑛は前を向いたまま、のんびりとした口調で私に話しかけてく
る。
﹁あの転入生、疑問に思ったことない?﹂
﹁疑問? 疑問だらけだけど﹂
﹁どんなところ?﹂
﹁初対面にも拘らず、誉や疾風の名前を間違えもせずに呼んだこと。
それなのに、私を八雲兄上と間違えたこと。おかしなことだらけだ﹂
正直に言えば、千瑛はふうんと気のない素振りで頷く。
﹁まあ、そこのところは調べればわかると普通なら思うところだけ
どね。瑞姫ちゃんを瑞姫ちゃんのお兄さんと間違えた上に、1つ上
だと思い込んでたところがおかしいよね﹂
﹁そうだね。5歳も違う兄をどうして1つ違いだと思ったりしたの
か⋮⋮調べたらわかっていたことなのに、何を間違えてるんだろう
602
と不思議に思うよ﹂
﹁確かにね。それと、あまりにも目的が明確化しすぎて、奇妙なん
だよね﹂
﹁奇妙?﹂
﹁物語のヒロインにでもなってるつもりみたい﹂
千瑛、鋭い。
先を促すように、私は千瑛に視線を流す。
﹁主人公は自分。その他は自分を引き立てるモブやサブキャラ扱い。
だから、構う必要はない。そう言ってるみたいで、気分が悪いわ﹂
仰る通りです。
千瑛の言葉に私は驚く。
瑞姫さんから資料をもらっていなければ、私だって同じことを考
えていた。
彼女の言動はあまりにも型通りだ。
ここぞという時に限って、シナリオ通りのセリフを読んでいるよ
うにしか見えない。
多分、それが、瑞姫さんの言うゲームのセリフなんだろう。
今のところ、彼女が喋るたび、反発心を覚える人が増えるだけな
のだが。
ちなみに、誰にも誘われず、たった1人残った彼女は、パートナ
ーがいないということで先生がパートナーになって踊っているが、
まともに踊れず、確実に落第が決まっている。
葉族なら、ワルツを踊れて当たり前なのだが、彼女は春休みの最
中、努力とは無縁の生活を送っていたらしい。
先生の足を踏むたび、先生の眉間のしわが深く刻まれていく。
それに気付かず、何故誰も自分を誘わなかったのかと、東條凛は
不満ばかり零している。
何故、だれも根本的なことを教えてやろうとは思わないのだろう
603
か。
東條家に言ってやりたい。
鏡を見ろと何故言ってやらないのかと。
自分の足を踏まれるとわかっていて、誰がダンスに誘うものか。
絶対嫌だと思うに決まっているのに、何故、本人だけが気づかな
いのか。
これは、母親の教育の仕方が間違っていると、そう思われる。
東條凛が自分の考えにこだわっている限り、彼女の考えに賛同す
る者など現れない。
結局のところ、最後までクリアできなかったのは、東條凛、ただ
ひとりであった。
史上最悪の落ち零れというレッテルを張られたことに気付かない
のも本人だけである。
そうして、翌日から、東條凛の隣のクラス訪問が始まったのも、
この授業のせいであることは否めない。
***************
もう間もなく、GWが始まろうとしているこの時期、あちこちか
らお誘いの声がかかってくる。
春の園遊会は無事にパスできたから、何ともなかったのだが、G
Wともなれば、割としつこくなってくる。
どこで調べたのか、予定がないから大丈夫ですよねとか言ってく
604
る輩も多いのだ。
私の場合、家長に尋ねよと言えば大体のことは収まるので、それ
で済ませている。
島津斉昭の件は、子供はいなかったということで収まったらしい。
あれほど遊びまくっていたから、言えば何とかなるだろうという
浅はかさで出て来た女性のようだ。
本当に子供ができたのか調べられ、できていればその子供のDN
Aを調べると言われ、素直に白状したらしい。
玉の輿を狙うのなら、もう少し頭を使うべきだという風潮がクラ
ス内に漂った。
いや。私も少しは思ったけど。
嘘で子供ができたと言えば、いろいろ調べられるということは、
頭に入れておくべきではないのだろうかと。
多分、女性にしてみれば、非常に屈辱的な検査を受けさせられる
はずだ。
子供が本当にできていて、父親が彼ならば、それなりに耐えられ
るかもしれないが、嘘であれば絶対に無理だと思うほど過酷な検査
が羅列する。
あわよくばと思わせた島津に罪があると、私は思う。
元々、クラス内での評価は低かった島津は、地に堕ちた状態で復
帰した。
彼が私に話しかける前に、クラスメイトによって阻止されるとい
う光景はほぼ定着してしまった。
それを私は気の毒だとは思わない。
自分のしてきたツケが、今、自分に回ってきたということだと思
うからだ。
605
﹁瑞姫、GWはどうするつもり?﹂
もうすぐGWだと皆が浮かれはじめる頃、在原が私に尋ねてきた。
﹁家で創作活動﹂
問われれば、簡潔に答える。
瑞姫さんに教わりながら、友禅の下絵を描くつもりだ。
絵に関しては、それなりに知識はあったはずだが、彼女の持つ知
識は独特だ。
教わって損はしない。
それに、筆が主流の友禅に、竹筆という新しい画材を持ち込んだ
彼女はすごいと素直に思う。
師匠としては、本当に申し分がない。
時々、意味がわからない言葉を言われるけれど。
﹁それって、友禅?﹂
首を傾げながら、在原が問いかける。
﹁うん、そうだよ。新しい下絵を描かないといけないし。個展を開
けと言われているし﹂
今までのことは、すべて瑞姫さんの実力だけれど、表面上は同一
人物である私は、常に新作を求められる立場にいる。
彼女のクオリティを崩さずに、求められるままに描かねばならな
いというのは、非常に難しいものだ。
画集や写真集を眺め、デッサンする毎日が続いている。
そんな中、何故か個展を開くことを求められた。
今まで瑞姫さんが描いていた作品でそれらをまかなえそうなのだ
が、それでも新作は必要なのだとか。
いくつか下絵を描いてみたのだけれど、自分的にしっくりとくる
ものが無くて困っている最中なのだ。
﹁個展かぁ⋮⋮それって、僕も行ってもいい?﹂
興味を示した在原が、個展を開く場所や日時について尋ねてくる。
﹁来てもらってもかまわないが、多分、退屈だと思うぞ?﹂
ただの絵画鑑賞とはわけが違う。
606
絵画と着物の両方の知識を持たなければ、結構つらいものがある。
瑞姫さんも最初はそうだったと言っていたので、多分、間違いは
ない。
それと、もう1つ、大事なことがある。
﹁それに、私が個展会場に行くのは1回限りだし﹂
﹁え!? そうなの?﹂
﹁まだ未成年だからな。色々と制約があるようだ﹂
﹁大変だねぇ﹂
感心したような在原の言葉に、笑いが零れる。
﹁それより私は、皆と一緒に遊びに行く方が楽しいと思う﹂
素直にそう言えば、在原が照れたように笑う。
﹁瑞姫の期待は裏切らないから、安心して﹂
﹁じゃあ、盛大に期待する!﹂
軽口を言い合える友がいるということは、とても幸せなことだ。
東條凛もそのことに気付けばいいのに。
私はうっすらそんなことを考えた。
607
77︵後書き︶
420万PVと82.6万ユニーク、ありがとうございます。
608
78 ︵東條凛視点︶︵前書き︶
東條凛視点
609
78 ︵東條凛視点︶
この世界は、あたしのためのもの。
そうわかっていたけれど、何かがおかしい。
何であたしの思った通りにならないの?
この学校はマナーの授業なんてものが月1回ある。
ミニゲームであったから、知ってるけど。
講師は、有名なダンスの先生を招いているなんて言ってたけど、
きっと大したことないわ。
生まれてこの方、ダンスなんて習ったことないけど、あたしには
簡単だもの!
そう思って、マナーの授業がある教室に行ったら、八雲様の弟君
がいた。
こんなところにいたのね!
じゃあ、このダンスの授業の相手は弟君なんだわ。
あらでもどうして誘いに来ないのかしら?
伊織君が弟君に話しかけて、弟君が軽く首を横に振っている。
そのあとも何やら会話を続けて、伊織君ってばものすごく嬉しそ
うに笑ってる。
だから! BL展開はいらないの!!
2人で女の子の所へ行って、何やら話しかけている。
その女の子と弟君がすごく親しげなのが気に食わないけれど、弟
君だけがその場を離れていく。
疾風君も一緒だけど。
610
あの2人、いつも一緒みたいな感じね。
最初に会った時もそうだったけど。
あ、でも。これってチャンスじゃない?
あたしに気付かなかっただけなら、あたしが傍に行って話しかけ
てあげれば、誘うでしょ?
レディを無視するような子じゃなさそうだしね。
そう思って声を掛けてあげたのに、何よ、あの小さい子!!
自分が美人だと思ってるのね!
ま、まぁ。確かにちょっとは可愛いけど。
弟君も少しは嫌がりなさいよ!!
パートナー申し込みがないけど、どうしたのよ!?
何であたしを誘わないの!!
ま、まあ。未来の諏訪夫人を前に怖気づいちゃったのね。
それなら仕方ないわ。
この際、下手なやつより、先生の方がマシだもの。
ポルカにカドリーユ、ワルツ、レントラー!?
ワルツは知ってるけど、他は何!?
全部、ダンスですって?
ワルツが何種類もある!?
ちょっと待ってよ、そんなのゲームじゃ言わなかったわよ。
ステップがなんですって?
ナチュラルターン↓フォワードのチェンジステップ↓リバースタ
ーン↓フォワードのチェンジステップ↓ナチュラルターンって意味
がわかんないんだけど!
先生のリードも最悪だった!!
これが有名な講師!?
611
何であたしが行く方向と逆へ行こうとするの!
はあ? あたしが逆!? 間違ってるですって?
冗談じゃないわよ!! あんたが間違えてるのに、あたしが悪い
って言うの!?
踏みやすいところに足を置いてるあんたが悪いんじゃないのよ!!
神様に言って、あんたなんかこの世から抹消してやるから!
大体、神様も神様よ。
どうしてシナリオ通りに話を進めてくれないのよ。
それに何でステイタスをポップアップにしてくれないのかしら?
好感度がどのくらいなのか、確認したいのに。
今回は諦めて、2周目以降に期待した方がいいのかしら?
どうやったらキャンセルできるのかしら。
本当に不便よね。
あたしが悪戦苦闘してるっていうのに、次々とクリアして部屋の
隅で寛ぎだす生徒たち。
弟君とちびっこは1番だった。
まあ、弟君は、八雲様の弟だけあって綺麗な身のこなしをしてい
るもの、当然よね。
次はあたしを誘いなさいよ!
伊織君も同じクラスの女子と早々にクリアしてた。
ああ、もう!
何であたしを誘わないかな。
イライラするったら!
最後まで意地悪莫迦講師はあたしを合格させなかった。
しかも、合格するまで補講ですって!?
冗談じゃないわ!!
612
その日、1日イライラしながら過ごし、東條の屋敷に戻ってあた
しはママに問いかけた。
﹁ママ! ダンスレッスンがあるなんて言わなかったじゃない!?﹂
﹁まあ、ダンスのレッスンがあったの? 懐かしいわぁ﹂
根っからの御嬢様のママはほんわかと懐かしそうに笑う。
保母として働いていたママは、子供たちに大の人気だった。
この御嬢様らしい笑顔が好かれる理由なのは知っている。
だけど、あたしはこの笑顔が大嫌い。
あたしが笑ったところで、誰も好きにはなってくれなかったわ。
それなのに、ママはあたしの母親なのに、何で他の子たちが好き
になるの!
あたしはママの職業も、職場の子供たちも大嫌い。
﹁懐かしいじゃないわよ! 教えてくれてもいいじゃない!!﹂
﹁そうね。ポルカとワルツはデビュタントに必要だから、皆、熱心
に練習しているものねぇ。カドリーユはこちらにいい先生がいない
から、東雲のレッスンで初めて習う子が多いから、何とかなるでし
ょう﹂
﹁そんなに覚えるの!? ウンザリよ﹂
﹁うふふふふ⋮⋮ワルツは特に難しいもの。ウインナワルツは普通
のワルツと違って逆回りだし﹂
﹁逆回り?﹂
﹁そうよ。18歳になったらデビュタントできるから、皆、こぞっ
てウインナワルツを覚えるの﹂
にこにこと笑いながらママは言う。
﹁デビュタントって何?﹂
﹁簡単に言うと、社交界にデビューしますっていうお披露目のダン
スパーティのことかしら? 有名なのはウィーン国立歌劇場のデビ
ュタントかしら? 他の場所でもデビュタントはあってるのだけど、
デビュタントというとウィーンの国立歌劇場を思い浮かべる人が多
いわね。あちらは左回りのウインナワルツを踊るから﹂
613
﹁だから逆なのね⋮⋮﹂
なんだ。
あの先生、間違ってなかったのね。
ワルツに種類があるって言ったところから、面倒になっちゃって
話聞いてなかったわ。
﹁ママもワルツは苦手だったのよ。宮廷のワルツとか、ウインナワ
ルツとか、社交ダンスのワルツとか、競技ダンスのワルツとか、全
部微妙にステップが違うんだもの。今自分が何を踊っているのかわ
かってないと足の置く位置を間違えて、ついリードしてくれる子の
足を踏んでたわ﹂
﹁へえ、そうなの?﹂
﹁あと、民衆が踊ってたっていうワルツもあってね、もう、全部一
緒でいいじゃない! って、思ったわ。ほら、だって! 競技ダン
スなんて、関係ないじゃない? 社交ダンスは、おじいさまたちの
お仕事のお付き合いで出たときに誘われるから、覚えておいた方が
いいけれど。踊るのが一番楽なのは、宮廷のワルツね。あれは基本
のステップはあるんだけど、音楽に乗っていて美しく優雅に踊って
いれば多少ステップ間違えても大丈夫って言われたし。ドレスで足
許見えないから﹂
くすくすと可愛らしく笑うママ。
﹁そうね。デビュタントは無理だけど、ワルツは踊れた方がいいも
のね。先生を探して習った方がいいわね。おじいさまに相談してみ
ましょうね﹂
﹁じゃあ、ママも一緒に習う?﹂
あたしは半分意地悪でママにそう言ってみる。
東條の家に来て思ったことは、おじいちゃんもおばあちゃんもあ
たしのことがいらなかったということだ。
今、おじいちゃんもおばあちゃんも、ママに再婚を勧めている。
事業の助けをしてくれるようなお金持ちのおじさんを選んで、マ
マに若いんだからもう一度結婚したらって言っているのだ。
614
あたしのためにママを助けたのに、あたしじゃなくてママを必要
とするなんてひどい話よね。
だから、あたしはおじいちゃんたちを助けてはあげない。
あたしは、あたしの持ってる記憶と使えるものを使って、自力で
幸せになるんだから。
ママはあたしが使える駒だもの。おじいちゃんたちにはあげない
わ。
もちろん、ママもパパを亡くしたばかりだからそんな気には絶対
にならないって怒って断ってるんだもの、おじいちゃんたちの言い
なりにはならないわよね。
﹁ママはいいわ。だって、踊りたい人がいないんですもの﹂
拗ねたような表情で唇を尖らせ言うママは、ちょっと寂しそうに
見えた。
ダンスの先生の件は、わりと簡単に話が決まった。
ママが習っていた先生にお願いしたって言ってたっけ。
その先生が作った予定表を見てあたしは驚いた。
ちょっと!! GWが潰れるじゃない!!
イベントあるのよ! どうしてくれるの!
ああでも、ダンスが上手じゃないと伊織君と八雲様の好感度が下
がるのよね。
これって、究極の選択っていうのかしら?
615
78 ︵東條凛視点︶︵後書き︶
人の話は、最後までしっかり聞けと説教したくなる凛ちゃんです。
616
79 ︵岡部疾風視点︶︵前書き︶
岡部疾風視点
617
79 ︵岡部疾風視点︶
どうやら、東條凛は諏訪伊織を諦めたらしい。
そんな噂が微妙に広まった。
原因は、隣のクラスに日参するようになったからだ。
﹁弟君、おっはよーっ!! って、あら、いない?﹂
がらっと教室の扉を開けて、東條凛が声を掛け、教室を見回して
首を傾げる。
﹁ねえちょっと! 八雲様の弟君、このクラスなんでしょ!?﹂
ちょうど教室に入ってきた女子を呼び止め、問い質す。
質問の形を取っているが、とても他人にモノを尋ねる態度ではな
い。
﹁何方のことを仰っているのか、わかりかねますわ。このクラスに、
八雲様の弟君という方はいらっしゃいません﹂
きっぱりとした口調で応じた女子は、そのまま彼女を無視して自
分の席に向かう。
﹁嘘よ!! マナーの授業の時にいたじゃない!!﹂
﹁それは、何方のことを仰っているのでしょうか?﹂
副委員長が凄みのある笑みを浮かべて問いかける。
﹁当クラスに、相良八雲様の弟様はいらっしゃいません。嘘偽りご
ざいませんわ﹂
﹁じゃあ、あの子は誰よ!?﹂
﹁何方のことを仰っているのか、わかりかねます。それから、他ク
ラスへ勝手な出入りは禁止されております。立ち去ってくださいな﹂
﹁他人のクラスに用事がある場合は、扉の外から声を掛ける決まり
618
になっている。勝手に足を踏み入れることはマナーに反する恥ずべ
きことだと入学前の説明会で話があったはずだけど?﹂
外部生の男子が彼女の背後から教室内に足を踏み入れ、冷ややか
な声音で注意する。
﹁そんなの、知らないわ!﹂
﹁君のひとりの態度が俺達外部生の立場を悪くしているということ
を自覚しろ! いい加減、迷惑なんだよ、その君の態度は﹂
﹁一般人が何言ってるの? あたしは、葉族よ!﹂
﹁それが何?﹂
ひやりとする声がその場を支配する。
小柄ながら、その存在感はかなりのものだ。
﹁ちびっこ!﹂
﹁誰のことかしら? ケバくて普通以下の容姿の人﹂
﹁何ですって!?﹂
菅原千瑛の言葉に、周囲からかすかに噴出す声が漏れる。
それに気付いた東條凛が、目を吊り上げて周囲を睨めつけた。
だが、睨まれたくらいで怖がるような者はいない。
﹁葉族だから、ナニ? 私たちは四族よ? 葉族は、四族の分家の
分家よ。主家からも分家からも切り離された厄介者だけど、知って
いて自慢しているの? 己の愚かさを自慢するって、どんな気分な
のかしら?﹂
にこやかに微笑む菅原は、菅家の直系だ。
神族の中でもかなり厄介な存在であることを知らない者は四族で
はいない。
﹁あら、あなた。﹃恥知らずの葉族﹄は石よりも劣るってことを理
解していないのね。勿論、﹃常識を理解している葉族﹄は沢山いる
けれど、残念ね﹂
﹁はあ!?﹂
﹁愚かなあなたに教えてあげる。権力は、自分よりも立場の弱い者
たちを守るためにあるものなのよ? 決して、自分を優位に保つた
619
めのものじゃないわ。理解できてもできなくてもかまわないから、
自分の教室に戻りなさいな。あなたの愛しの諏訪伊織様がお見えよ
?﹂
くつりと笑った菅原姉が、ついっと手を上げ指先で隣の教室を示
す。
﹁⋮⋮ふんっ!﹂
つんっとそっぽを向いて東條凛は足音高く教室を出て行った。
﹁⋮⋮⋮⋮⋮⋮イマドキ、﹃ふんっ!﹄って言う人がいるなんて⋮
⋮﹂
ぼそりと、平坦な声音で菅原姉が呟く。
その一言で教室内が爆笑の渦に巻き込まれた。
﹁菅原さん、ありがとう﹂
東條凛に注意をしていた外部生の男が礼を言う。
菅原は彼を守るために割って入ったのだと、彼は気づいたようだ。
﹁あら、何のこと? 私はあのケバい女がまき散らす不快な空気を
吸いたくなかっただけよ﹂
つんっとそっぽを向いた菅原姉と俺の視線が合った。
﹁⋮⋮何でここにいるの、岡部くん?﹂
わざと﹃くん﹄付けときた。
瑞姫を1人にしたと怒ってるな、これは。
﹁俺がここにいた方が都合がいいからだ﹂
何の都合かは言わない。
こいつの頭なら、すぐに理解できるからだ。
﹁⋮⋮なるほどね。確かに都合がいいわ﹂
ほら、な。
﹁で、あいつがいなくなったから、今から迎えに行くところ﹂
﹁あっそ﹂
こいつは潔い。
瑞姫以外に愛想を売らないところとか。
だから信用できる。
620
﹁さっきは助かった。おまえが出なきゃ、俺が出ようと思ってたと
ころだから﹂
﹁あんな小者、出なくていいわよ。せいぜい吠えさせていなさい﹂
あっさりとした口調で今年の問題児を叩き斬る。
﹁自分がやってることの意味がわからないなんて。せいぜい、口を
滑らせて自滅するだけよ﹂
﹁それならそれでありがたいが、瑞姫の負担にならないといい﹂
﹁岡部のその瑞姫ちゃん莫迦なところ、わりと気に入ってるんだけ
ど。そう思ってるんだったら、片時も離れないようにしなさいよ﹂
﹁それじゃ、瑞姫の息が詰まるだろ? 息抜きも必要だ﹂
﹁⋮⋮前言撤回してあげる。よく考えてるのね。確かに息抜きは必
要だわ﹂
﹁褒められたと思って、迎えに行ってくる﹂
そう言って、俺は立ち上がる。
﹁王子様は、例の場所?﹂
﹁そ。今はあそこが一番安全だから﹂
﹁確かにね﹂
菅原姉がわずかに表情を和らげた。
ここはこいつに任せても大丈夫だろう。
あの問題児が何度来てもこいつひとりで撃退できるはずだ。
微妙に女嫌いの在原や、腹黒い大神に任せても安心できないが、
菅原姉は間違いない。
俺は、瑞姫がいる場所へ向かった。
***************
621
図書室には﹃木漏れ日の王子様﹄なる者が存在するらしい。
そう言う噂を知ったのは、図書室から浮かれたように出てくる下
級生たちが話していた会話を漏れ聞いたからだ。
何のことだと首を傾げて図書室に入ってみて、すぐに納得した。
窓際で本を読んでいた瑞姫の姿があったからだ。
一年中、図書室には光が直接入らないようにという配慮がなされ
ている。
例えば南側に樹を植えているとか、西日が差さないように窓自体
に角度を与えているとか。
本好きの司書が、本の為に設計士にあれこれと注文を付けて設計
してもらった部屋だとか。
普段、瑞姫は光量が一定である北側の窓辺を好んでそちら側に座
っているが、入口に近いため、今はあえて南側に座る位置を変えて
いる。
その南側に立つ樹が光を遮りつつ、木漏れ日を部屋に差し込ませ
ている。
木漏れ日を受けながら、柔らかな表情で読書に励む瑞姫は、彼女
たちにとって夢の王子様なのだろう。
八雲様によく似た整った顔立ちは、どちらかというと中性的で硬
質だ。
瑞姫が着ている男子用の制服も、実は俺と同じように見えて少し
だけ作りが違っている。
男物でも女の子が着るのだ、一緒にしては窮屈だろう。
それに、あまりにもピッタリに作りすぎては瑞姫の傷に差し支え
る。
おまけに成長期でもある、少し余裕を持たせないといけない場所
もあるだろう。
そういう配慮から、パッと見にはわからないが、ややゆったり目
に作られている。
今のところその配慮は無駄になっているようだが。
622
瑞姫は華奢ではないが、細すぎる。
ちゃんと筋肉も綺麗についているので病的に痩せているようには
見えないところが救いだが、それでも細い。
クラスメイトである女子たちは、瑞姫の細さを羨ましがっている
ようだが、本人はもう少し肉をつけたがっていることも知っている。
どこら辺? と在原が突っ込んでいたら、手首という答えが返っ
てきた。
確かに手首は俺の親指と中指で輪を作って掴んでも相当余る。
親指と人差し指どころか、親指と小指で輪っかを作っても余裕の
細さだ。
幼い頃から武術で鍛えているせいで骨が太い瑞姫だが、他の女子
と同じくらいの骨の太さだったら、どれだけ細い手首になっていた
かと思うとぞっとする。
もちろん、粉砕骨折で済まなかった可能性だってある。
医者であるしずかに他の子よりも遅い成長期だと思えと諭されな
ければ、今頃、怒り狂って諏訪の分家を壊しに行っていたかもしれ
ない。
こればかりは瑞姫に止められても無視して突っ走っていただろう。
彼女たちの言う﹃木漏れ日の王子様﹄は、読書好きの中の極上の
秘密として外に出回ることはない。
だから、図書室に寄り付きもしないあいつに瑞姫の居場所を悟ら
れる心配もない。
図書室に着くと、俺は迷うことなくカウンターの奥の司書室の扉
をノックする。
ここに入ることができるのは、図書委員だけである。
﹁岡部です、失礼します﹂
そう声を掛け、ドアを開けると、司書の先生方数名と瑞姫がいた。
623
﹁あ。疾風!﹂
﹁本の修復を教えてもらっていたのか﹂
﹁うん、そうだよ。難しいけれど、楽しいね﹂
背表紙がはがれた本の修復をしていたらしい瑞姫がきらきらと瞳
を輝かせて笑う。
瑞姫は手先がとても器用だ。
何かを作るということが好きだということも知っている。
どんなに大切に扱っていても、時間に伴い本も傷んでしまうとい
うことを知っている瑞姫には、この本の修復は確かに楽しい作業だ
ろう。
﹁疾風も今度、先生に教えてもらうといいよ﹂
﹁そうしよう﹂
瑞姫の言葉に俺が頷くと、先生方は不思議そうな表情を浮かべた。
﹁やだな、先生! 疾風は私よりも器用ですよ﹂
イメージが違いすぎると思いますけど、と笑う瑞姫。
それはちょっと俺に対して失礼じゃないのか?
胡乱な表情を浮かべて瑞姫を睨めば、舌を出して笑っている。
﹁H.R.が始まるので、迎えに来ました﹂
このままだと埒が明かない。
そう判断して言葉を挟めば、一斉に時計を見て驚いている。
﹁あら、もうこんな時間?﹂
﹁集中すると時間が経つのは早いですからねぇ﹂
おっとりとした口調で司書の先生方が瑞姫を庇い始める。
この人たちの中で俺のイメージはどうなっているのだろうか。
そんな人たちの言葉の意味に気付かずに瑞姫は丁寧に後片付けを
していく。
﹁先生、これでよろしいですか?﹂
﹁はい、結構ですよ。相良さんは当番でない時も熱心に通ってくだ
さるので助かります﹂
初老の司書の先生が穏やかに頷く。
624
それほど年を取っていないだろうに、彼はすでに白髪だ。
若白髪だったのものを染めもせずにそのままいたので、さほどか
からず総白髪になったのだと言っていた。
だが、その白髪頭が彼の容貌と相まってとても穏やかな雰囲気を
醸し出している。
瑞姫が一番懐いている先生だ。
﹁岡部君も昼休みや放課後にはきちんと手伝ってくださるので、い
つも感心していますよ﹂
﹁いえ。委員ですから当然です﹂
﹁いえいえ。当然なんてことは、ないんですよ。そうしようと思う
その心が行動を生み出すわけですから﹂
﹁⋮⋮はあ﹂
イマイチ納得がいかない俺の様子に、先生は笑みをこぼす。
﹁では、おふたりともまた来てください。お待ちしておりますよ﹂
﹁はい﹂
教室に戻ることを促され、頷いた俺たちはその場を後にする。
廊下には、生徒の姿はまばらになってきている。
この時間帯ならあの東條も教室から出てくることはない。
﹁疾風、大丈夫だった?﹂
こっそりと瑞姫が聞いてくる。
何を聞きたがっているのかは、わかっている。
﹁菅原姉が追い返したから、大丈夫だ。被害は出てない﹂
﹁そっか。千瑛⋮⋮すごいな﹂
﹁⋮⋮俺は、あいつだけは敵に回したいとは思わない﹂
﹁だね﹂
何を想像したのか、くすくすと笑う瑞姫の半歩後ろを歩く。
何としても瑞姫のために、あの東條をこの学園から追い出したい
ところだが、まだ何も手出しが許されていないところがもどかしい。
まだ新学期が始まってから1ヶ月も経っていないのに、俺は東條
625
という存在にうんざりしていた。
626
80
静まり返った部屋。
生徒指導室という私とは縁のない場所で、生徒数人の前に対し小
さくなっている指導員というのはどういう光景なのだろうか。
﹁私たちを呼び出した理由についてお尋ねしているだけですが、何
故、先生はそのように俯いていらっしゃるのでしょうか?﹂
私とて意地悪したいわけではない。
理由を聞きたいだけなのだ。
なのに、理由を尋ねただけでビクつかなくてもいいではないか。
事の始まりは、やはり問題児の問題行動であった。
いつものことなので、またかという気持ちもある。
例の朝の日参だ。
何度注意を受けても構わずに勝手に教室に入ってきては、私がい
ないと叫ぶらしい。
該当者がいないのだから諦めて勝手に教室に入るなと、外部生の
女の子が注意したところ、怒りに任せて彼女を突き飛ばしたのだ。
たまたまその時、登校した在原が彼女を受け止めたものの、その
子は捻挫をしてしまったというのが今朝の出来事。
そうして何故か、生徒指導室に私たちが呼び出されたというのが、
今現在。
627
﹁何の理由で、私たちが呼ばれたのか、その理由を仰っていただき
たい。この部屋に呼ばれる理由が見当たらないので、教えていただ
きたいと思うのは、それほどまでにいけないことなのでしょうか?﹂
椅子を勧められたので座っているが、まっすぐに教師を見つめて
問うのもいけなかっただろうか?
私の視線は少々強すぎるらしい。
人の目を見て話すのは悪いことではないが、強すぎる視線は時に
圧力にもなると兄にも諭されたことがある。
﹁⋮⋮今朝の事件について、御存知ですか?﹂
﹁今朝の事件? ああ、逢坂さんが怪我をなさったということでし
ょうか? その場にはいませんでしたから、話だけですね﹂
私の回答に、先生はがっくりと肩を落とす。
﹁そうでしたか⋮⋮﹂
﹁病院に連れて行かれたということでしたが、診断はどのように?
連絡はあったのでしょう?﹂
﹁ええ。全治1週間の捻挫という診断でした﹂
﹁骨には異常ないのですね?﹂
﹁そのような話は聞いておりません﹂
﹁それは、不幸中の幸いでした。逢坂さんには非はないはずです。
不当な暴力行為によっての負傷ですから、当然、その暴力行為を働
いた方に相応の処罰が下されるはずですね?﹂
﹁1週間の謹慎処分を決定する予定です﹂
﹁それは、何とも軽い処分ですね。在原君が受け止めなかったら、
黒板か壁に頭をぶつけていたかもしれないんですよ? それと、診
療代及び治療費の負担も、当然加害者側が支払うことを了承してい
るんですよね?﹂
﹁それはまだ⋮⋮﹂
628
教諭の言葉に、ざわりと怒りの空気が渦巻く。
﹁先生﹂
私は真っ直ぐに教師を見据える。
﹁彼女がやったことは、傷害罪です。医師に診断書を書いていただ
き、それに沿って必要な治療費を加害者に負担させるというのが、
当然の結果では? それをしなければ、学校側の監督不行き届きや
何やらで学校の名誉も傷付けられると思われないのですか?﹂
何もかも正直に突きつけることが美徳ではないことは知っている。
だが、言わなくてはいけないことも確かにある。
このまま有耶無耶にしては、学校側が逢坂さんの家族から訴えら
れる可能性だってあるのだ。
その可能性を消すには、学校側が仲介者として加害者側から誠意
ある態度を引き出すことだ。
﹁それは⋮⋮﹂
﹁では、最初に質問に戻ります。何故、その場にいなかった無関係
なものまでもこの場に呼び出した理由をお聞かせください﹂
この言葉に、教師は心が折れたようにがっくりと項垂れた。
ぽつぽつと話し出したその理由は、実に情けないものだった。
﹁理事会との板挟みは、仕方ないものだと思いますが、それを1生
徒に押し付けるおつもりですか?﹂
呆れてものが言えないという言葉は、とうに通り越した。
﹁事実と異なる状況を作り出すことは、学校側の名誉に関わるでし
ょう? 何方のお考えかはわかりませんが、止めておいた方が無難
です﹂
私がその場にいたという偽の事実を作り出し、私が迷惑を被った
という形を作り出して、東條凛を退学へと持っていきたかったらし
い。
629
だが、理事会は東條凛の処分を軽くし、他の生徒たちの不満を募
らせ、そうして更なる問題を起こさせようと画策しているようだ。
彼らは、相良家が東條家から引き出した念書の正確な中身を知ら
ない。
学校側に提出しているので、そのこと自体は知っているけれど、
どんな内容なのかは知らないはずだ。
相良がどのような使い方をしようと思っているのかも、憶測でし
かない。
あの念書が無くても、相良家ならば簡単に東條家を潰すことは可
能だ。
現に、東條家は相良と岡部の両家からの秘かな動きで、持ってい
た大半の株を失い、会社を手放し、急激に失速している最中だ。
すべて合法的に動いているため、ちょっと調べれば犯人はどこか
などすぐわかる。
だが、調べないのなら、何が起こっているのかわからないだろう。
実際に、何が起こっているのか全く把握していない東條家は、す
べて後手に回り、持っていた株を失った後買い戻すこともできず、
会社を手放した後も何もしていない。
東條家は潰えることはもうすでに確定されていることだ。
悪足掻きをしていることも、把握している。
﹁しかし⋮⋮﹂
﹁加害者側の母親を呼び出して、詳細を伝え、どうするか尋ねれば
いいではありませんか?﹂
東條凛の保護者責任は、母親にある。
決して、東條家当主夫妻ではない。
そのことを伝えれば、教師は目を瞠った。
﹁母親⋮⋮﹂
﹁保護者は母親でしょう? 何故、母親を呼び出さないんですか﹂
﹁東條家のご当主夫妻が⋮⋮﹂
﹁祖父母に保護者責任があると仰いますか? 母親がいるにもかか
630
わらず? それは、どのような理由なのでしょうか﹂
淡々と問いかければ、教師の言葉が詰まった。
﹁感情のままに他者を傷つけるというのは、初等部の児童並の身勝
手さです。高等部に進学している身でそのようなことが理解できな
いということ自体が問題です。母親の監督責任を問うてもおかしく
ないのでは?﹂
﹁た、確かに⋮⋮﹂
頷く教師に、話は終わったと私は立ち上がる。
﹁相良さん!?﹂
﹁私たちを呼び出す前に、為すべきことをなさってください。今の
段階で、先生は私の質問に何一つ答えてくださらないし、肝心の要
件も仰らない。これでは話すことも何もできません。私たちが指導
室へ呼ばれたことを保護者である両親が知れば、どのようなことを
言ってくるのか、そのあたりも考えての行動であれば、もっとよろ
しかったのですが﹂
ここにいる生徒は全員が四族だ。
しかも、規模の大きい家ばかりだ。
生徒指導室に呼ばれ、しかもどういう呼び出しだったのかがわか
らないと子供たちが言えば、保護者が学校側に理由を問いかけるの
は当たり前だろう。
しかも、この呼び出しは、相良家動けと圧力をかけたようなもの
だ。
相良家が従うはずもない。
下手すれば、逆に東雲側に相良が圧力をかけることにもつながる
だろう。
﹁次回、お話することがあれば、実りある内容であることを期待し
ます﹂
交渉決裂と告げ、指導室の外へ出れば、呼び出されていた生徒た
ちも続いて出ていく。
残されたのは、呆然自失になった教師だけであった。
631
﹁あそこまで、短絡的に手を出す性分だとは思わなかったよ。僕の
落ち度だね﹂
たまたまあの場にいたらしい大神が、肩を落として呟く。
﹁確かにそうね。瑞姫ちゃん以外は守らないつもりだったのかしら、
生徒会って?﹂
堂々と本人に皮肉を言うのは千瑛のいいところなのか悪いところ
なのか。
﹁そんなことはないよ。生徒会は公平な態度で﹂
﹁後手に回るのね﹂
ぴしゃりと大神の言葉を封じ、千瑛は千景を見る。
﹁ちーちゃん、理事会の名簿、手に入るかしら?﹂
﹁そりゃあ、簡単に手に入ると思うよ。HPに載ってるし﹂
﹁ふぅん﹂
にやりと千瑛が笑う。
絶対に何かを企んでいる笑顔だ。
﹁それって、理事たちは間抜けってことかしら? 自分の情報を全
世界に公開してるなんて﹂
﹁悪用するようなことを考え付くのは千瑛だけだから﹂
千景の言葉は、妙に納得してしまう。
﹁危機管理がなっていないってことが問題だと思うのよ。ちょっと
だけ別行動するわね、瑞姫ちゃん﹂
にっこりと笑った千瑛は、千景を伴い、別方向へと歩き出す。
﹁僕は生徒会室へ行きましょう。あちらでも情報収集しているでし
ょうし﹂
大神も、生徒会室に向かって去っていく。
﹁⋮⋮瑞姫、どうする?﹂
疾風がわかりきっているのに、形ばかりの質問をしてくる。
632
﹁決まっている。逢坂さんのお見舞いだ。原因は私なのだから、謝
罪する必要があるだろう﹂
﹁瑞姫は悪くないだろう!?﹂
﹁加害者でないから悪くないとは言えないだろう? 逢坂さんがお
休みする間の授業のノートとかもあるだろうし。その辺のことも相
談した方がいいと思う﹂
学生にとって授業のノートというのはとても重要だ。
特に、外部生である逢坂さんにとっては何より価値があるものだ。
成績を落とせば退学の可能性もある外部生なのだから。
2回、50位以下の成績を取れば、退学となる。
これは、東條凛も葉族であっても外部生であるため、1学期まで
は通学できるが2学期以降の運命はわからないということだ。
実力テストは、この2回の中には入らない。
あくまで、中間と期末のテスト結果だ。
逢坂さんが通学できない間、当然授業も受けられない。
この間の保証も、本来ならば東條家がしなくてはいけないことな
のだ。
その交渉を学校側がきちんと果たせれば、という注釈つきだ。
逢坂さんなら、授業のノートさえあれば、何とかなるだろう。
学校側が何もできなかった時のことを考えれば、私がクラスメイ
トとしてノートを持っていくのはそこまで不思議な話ではないはず
だ。
﹁⋮⋮俺も行くから﹂
仕方なさそうに頷く疾風に、悪いと思いつつ笑いながら頷き、私
たちは一度教室へと戻った。
633
81
﹁逢坂さん、足の具合はいかがでしょうか?﹂
一度、家に戻り、支度を整えて逢坂さんが一時入院されている病
院へやって来た。
﹁相良様! それに岡部様も。ええっ!?﹂
ベッドの上に足を延ばして座り、参考書を読んでいた逢坂さんは
驚いたように声を上げる。
そのまま逢坂さんの表情は笑顔に変わった。
よかった、迷惑ではなかったようだ。
﹁お見舞いに来ました。これを、どうぞ﹂
小さなボックス仕立てのアレンジの花籠を疾風が差し出し、私は
プチケーキの詰め合わせのボックスを差し出す。
﹁うわあ⋮⋮可愛い! ありがとう!!﹂
疾風の花籠に視線が釘付けだった逢坂さんは、ケーキのボックス
を受け取って喜色満面になった。
﹁お母さん、お母さん!! どうしよう!! 見てみて!! ケー
キが可愛い﹂
大きな声で呼ばれた母親らしい女性は、私たちの姿を見て驚いた
表情を浮かべたものの、すぐににこやかに笑って挨拶をしてくれた。
﹁あらあら、お友達? お見舞いに来てくださったんですか? あ
りがとう﹂
﹁いえ。もとはと言えば、私が原因だったのですから⋮⋮本当に、
申し訳ありませんでした﹂
自己満足と言われればお終いだけど、きちんと謝罪をすべきとこ
634
ろで頭を下げなければ、自分が許せない。
﹁やめてください、相良様! 相良様が悪いわけじゃないですから
ねっ!!﹂
逢坂さんが慌てて私に向かって手を差し出す。
﹁ですが⋮⋮﹂
﹁あの女が悪いんです! 決められた規則を守ろうとしないどころ
か、注意されて暴力をふるうなんて最低です!! 相良様は皆に迷
惑がかからないように登校されて教室から離れていらっしゃったこ
とは、誰だって知ってます。もし、教室にいらっしゃったら、あの
女、調子に乗ってもっと見苦しいことやらかしますからね。その点
では、相良様は被害者なんですから、全然気にしなくていいんです。
まぁ、私の場合、あの態度にムカついちゃって、ちょっと失敗した
だけだから﹂
﹁でも、痛かったでしょう? こんなに腫れて⋮⋮﹂
足首を動かさないために、ぐるぐると幾重にも巻かれた包帯は分
厚く、余計に痛々しく見えてしまうことは知っているが、それでも
普通の女の子だ、痛かっただろう。
余計な争いを避けようと思って、その場にいなかったことが悔や
まれる。
﹁大丈夫ですよ、大袈裟に巻いてるだけですからって⋮⋮相良様の
方がよくご存知でしたね。茉莉先生の妹さんですし﹂
﹁相良先生の! あらまあ、妹さんっ!?﹂
逢坂さんのお母様は、私を見て驚いたように声を上げる。
よく似た反応はやはり母娘だからだろうか。
﹁ええ。わけあって男子用の制服を着用しておりますが、戸籍上も
生物学上の間違いなく女性になっています﹂
﹁そうでしょうねぇ。男の子にしては綺麗すぎるもの﹂
感心したように逢坂さんのお母様は呟く。
﹁兄が、いるんですけどね。それはもう、ひどくて⋮⋮﹂
くすくす笑いながら、逢坂さんが説明してくれる。
635
﹁身嗜みがとても綺麗だっていう意味なんですよ。岡部様も在原様
も、もちろん、身嗜みは整っていらっしゃいますが、女の子ですか
ら﹂
男子と女子とでは、整え方が違うのだとそう言っているらしい。
﹁在原様と言えば、倒れたときに支えてくださったんですが、すご
くいい香りがして⋮⋮男の子なのに、四族の方はお洒落ですよねぇ﹂
感心したように逢坂さんが告げる。
﹁橘家もそうですが、在原家も男子は香道を嗜むように教育されて
いますから。自分の持ち物には、自分の香を焚き染めるようになっ
ているそうですよ﹂
﹁うわあ⋮⋮そうなんですか。すごい⋮⋮﹂
﹁それは表向きで、香は防虫効果がありますから、特に衣類にはほ
んのり薫る程度には焚き染めているらしいですよ﹂
﹁防虫剤代わり!? ええっ! 面白すぎるっ!!﹂
華やかな明るい笑い声を響かせて、逢坂さんが大笑いしてくれる。
よかった、笑ってくれて。
怪我をしたショックはそれほどひどく残っていないようだ。
﹁ああ、じゃなくって! お母さん、相良様からケーキ、岡部様か
らお花をいただいたの!! どうしよう! 可愛らしすぎてケーキ、
食べられないよう﹂
本題に戻った逢坂さんは、お母様にケーキを見せてはしゃいでい
る。
﹁ううぅっ!! もったいない。でも、美味しそう。写メってもい
いかなぁ﹂
﹁それほどまでに喜ばれたら、パティシエもきっと喜びますね。今
度はうちのパティシエ自慢のケーキを持ってきましょう﹂
﹁はうっ!! 一生の自慢になりそうです、それはっ!!﹂
キラキラとした表情で言うクラスメイトが可愛らしくて、思わず
笑みが零れた。
﹁ああ。そうだ。大切なものを忘れるところでした。本日の授業の
636
ノートです。どうぞ﹂
鞄の中からクリアファイルを取出し、そのまま差し出す。
中にはルーズリーフに今日の授業の板書及び先生が仰った言葉を
添え書きしている。
﹁え? いいんですか?﹂
﹁当然です。本来ならば、逢坂さんが受けているはずのものですか
ら。私のノートの写しなので物足りないかもしれませんが﹂
﹁そんなっ!! 学年主席様のノートを見れるなんて、ものすごい
勉強になります! ありがとうございますっ!!﹂
﹁明日もお休みされるでしょうから、私のノートでよろしければ、
届けに参りますが、ご迷惑ではありませんか?﹂
﹁いえいえとんでもないっ!! めちゃくちゃ助かります!!﹂
一番気になっていたことだったのだろう、逢坂さんの表情が先程
よりも華やぐ。
﹁明後日からは、通学されますか?﹂
﹁その予定です﹂
﹁では、ご自宅までお迎えに上がりますね﹂
﹁⋮⋮は?﹂
私の言葉に、逢坂さんはきょとんとする。
﹁その足で距離を歩くのは無理ですよ。姉からの指示もありますの
で、送り迎えをさせてください﹂
﹁えええええええっ!? そんな、もったいない!﹂
﹁今週だけでもさせてください﹂
﹁⋮⋮ええっと、どうしよう⋮⋮?﹂
逢坂さんはちらりとお母様に視線を投げかける。
﹁お受けしたらいいじゃない。お母さんも、いつも通りに通学する
のは難しいなって思ってたところだもの。送ってくださるのなら、
ホントに助かるわ﹂
にこにこと笑って応じるお母様は、わりと度胸のある方のようだ。
﹁うちの娘ねぇ、お上品なセレブ校に通って上手くやっていけてる
637
のかと心配してたのよ。この性格だし? 相良さんが来てくださっ
て、安心したわ﹂
﹁お母さんっ! 相良様に失礼なこと言わないでよね!! 相良様
が一番の御嬢様なんだから!!﹂
﹁いや、私は⋮⋮﹂
﹁あら、知ってますよ、そのくらい﹂
肯定されてしまった、違うのに。
﹁あ。これ以上長居をしては傷に障りますね。私はこれで⋮⋮﹂
失礼させていただこうと口上を述べていたら、逢坂さんがはしっ
と私の手を掴んだ。
﹁ちょっと待って! もう少し! もう少しだけ、お話しませんか
!?﹂
﹁え?﹂
﹁だって、相良様、学校じゃあまり皆とお話しされない方ですし。
私、いっつももっとお喋りしたいなって思ってても声かけられない
しで⋮⋮色々と聞きたいこともありますし﹂
好奇心旺盛な方なのだろう。
にこにこと笑いながら話しかけてくる。
﹁⋮⋮疾風?﹂
時間や警備関係は大丈夫かと、視線で問いかければ、ゆっくりと
頷いて了承してくれる疾風。
﹁では、少しだけ。傷に障らないようにお話いたしましょう。聞か
れたいことは何でしょうか?﹂
質問タイムに覚悟を決めて、私はそう告げた。
逢坂さんの質問は多岐に渡っていた。
上流社会の生活という珍しいものに触れる学生生活を送っている
ため、興味が尽きないのは当たり前のことかもしれない。
638
﹁この間のマナーの授業でウインナワルツ習ったけど、あれってデ
ビュタントで踊る以外でもやっぱり踊ることあるの?﹂
﹁ありますよ。オーストリアではワルツと言ったらウインナワルツ
のことを差しますし。踊れて当たり前という感覚ですね﹂
﹁そうなんだー。相良様もデビュタントされるんですか?﹂
﹁いいえ﹂
最近、あちらこちらで聞かれる言葉だ。
私がデビュタントするかどうかを、何故か気にされるようだ。
﹁え!? しないんですか!?﹂
﹁ええ、しません﹂
﹁どうやったら、デビュタントできるんですか?﹂
﹁デビュタントができるボールは決まっています。年に1度か2度、
それぞれの場所で決まっているのですが、デビュタントしたいと申
し込める場所もあれば、開催者が招待状を送った方でないと参加で
きないというところもありますね﹂
﹁へえ。相良様にも招待状、届きました?﹂
﹁え?﹂
﹁届いてたよ﹂
私たちの会話に、疾風が初めて口を挟む。
﹁やっぱり!!﹂
﹁疾風、知ってたのか?﹂
何故か嬉しそうな逢坂さんと憮然とした表情の疾風が対照的で、
ちょっとおかしい。
﹁デ パリから届いてた。お館様が悩んでいらした﹂
デ パリなら、ドレスはモード系で白のドレスでなくて構わない。
だが、未婚の若い娘が着るドレスとなれば、大体の型は決まって
いる。
今の私には、非常に着る勇気が必要となるデザインだ。
肩が露わになれば引き攣れた大きなケロイドや他の傷跡が他の方
の目に触れることになる。
639
デビュタントは、適齢期を迎えた者たちを披露し、婚約者探しを
するという側面を持っている。
その際、家柄や物腰はもちろんのこと、容姿は大きな判断材料に
なるのも確かだ。
身体中に傷が走っている私には大きなデメリットだ。
海外の名家と婚姻関係を結ぼうと思っているならば、だが。
﹁我が家は海外との結びつきを必要とする事業はそれほど持ってい
ないので、デビュタントする必要性はないのですよ。あとは本人の
好み次第ということで﹂
逢坂さんにそう取り繕うと、彼女は納得したように頷く。
﹁ああ、そうですよね。デビュタントに必死な方って、商社系の方
が多かったようですし。それに、相良様はドレスもお似合いでしょ
うが、着物姿の方が凛々しくて好きですよ。特に、袴姿は格好良か
ったですし﹂
﹁袴? ああ、去年のマナーの仕舞のときですね。それは、お目汚
しを﹂
﹁いやいやいや! 所作がすごくきれいで、勉強させてもらいまし
た! 仕舞なんて初めてだったから、外部生は皆、相良様の所作を
真似させてもらってたんですよ﹂
﹁そうだったんですか。ああいうモノは、人の真似をすることから
所作を覚えるのは当たり前のことなので、お役に立てて幸いです﹂
﹁能楽とか、見るのもするのも初めてですもん。先生の説明で足り
ないところを四族の方が教えてくれるのでホント、ありがたいです﹂
﹁⋮⋮我々は、恵まれた環境にいますから、専属で教えてくださる
方もいらっしゃいますし。知識があって当然というものもその家々
でありますから、仰っていただければ、答えられることも多少なり
ともあるかと﹂
﹁うん、そうですよねー。尋ねれば、あっさり教えてくれるので、
驚きましたよ、最初は﹂
感心したように逢坂さんが何度も頷く。
640
﹁え?﹂
﹁知ってて当たり前なことを知らないで聞く人間がいるってことに
驚かないで、馬鹿にしないで教えてくれるって、聞く側にとっては
びっくりですよ﹂
﹁そういうモノですか? 少なくとも、聞くということは、学ぶ気
があるということですから、知っていることをお教えすることに否
やはないですよ﹂
﹁それが育ちがいいってことなんですかねー? そんなことも知ら
ないのかと言われるかと、最初は思っていました﹂
苦笑した逢坂さんの表情から、四族が葉族に向ける態度を言って
いるのだと察する。
﹁東雲の内部生は、外部生の皆さんのことを尊敬している者が多い
のですよ。狭き門をくぐり抜け、上位成績を保ち続ける努力を惜し
まない。見下す要素はそこにはありません。恵まれた立場にいなが
ら努力を怠り、己よりも立場の弱いものを見下す。そういった者を
不快に思ってはおりますが﹂
﹁ああ、なーるーほーど! 激しく納得です。うんうん﹂
大きく何度も頷く逢坂さんから、四族に対する嫌悪感がないこと
にほっとする。
﹁質問はもうよろしいですか? これ以上は傷に障りますから、今
日はここでお暇を申し上げましょう。明日、また、寄らせてくださ
い﹂
疾風に頷いて、暇乞いを告げる。
﹁また、明日!﹂
嬉しそうに笑って送ってくれる逢坂さんとお母様に会釈をして病
室を出る。
﹁思ったよりショックが無くてよかった﹂
思わず告げた言葉に、疾風が私の頭を撫でる。
﹁元気でよかったな﹂
﹁そうだね。茉莉姉上にお願いしておこう﹂
641
﹁それがいいな﹂
それと、坂田さんにお見舞いのケーキを焼いてくれるようにお願
いしないと。
相手が負担にならないお見舞いの品はどういうものがあるのだろ
うか。
雑誌もいいと聞いたが、どんな雑誌なんだろうか。
八雲兄上に相談してみよう。
それとも、瑞姫さんの方がいいだろうか。
そんなことを考えながら、車の方へ向かって歩いた。
642
82
私たちが逢坂さんの入院する病院から帰った直後、東條凛の母親
が謝罪に来たらしい。
娘は伴わなかったのは賢明な判断だというべきなのか。
入院費用や治療費などの件もきちんと話して全額負担となったよ
うだ。
非常にまともな対応だったそうだ。
ただ、妙なことは言っていたらしい。
こんなことをするような子ではないというのは、どの親でも同じ
ことを言うだろう。
ただし、祖父母と会ってから人が変わったようだと悄然として零
したそうだ。
人が変わる、と、聞くと、ぎくりとしてしまう。
私も瑞姫さんと入れ替わったからだ。
まさかと思うが、彼女も誰かと入れ替わったとかないだろうな。
︵入れ替わる理由がないから、そこは考えにくいな︶
ぽそっと瑞姫さんが呟く。
では、何故、人が変わったと言われるほど、激変できるのだろう
か。
︵トリガーがあるんだ。おそらく、今までの安倍凛は、普通に両親
に愛された娘だった。ところが引き金を引いた何かが、今までの安
倍凛を打ち消すほどの衝撃を与え、以前の記憶を呼び覚ましてしま
った⋮⋮瑞姫の様に自分を守るために逃げ出したんじゃなく、押し
643
潰された感じがするね︶
押し潰された⋮⋮
それが、もし、本当ならば、何てことだろう。
彼女の中で本来の安倍凛は、父親と共に死亡してしまったことに
なる。
以前の彼女の友人たちは、今の彼女をどう思うだろう。
︵瑞姫! 何とかしてあげたいなんて思っちゃだめだよ︶
ぴしりと瑞姫さんが私を制する。
だけど!
︵今、安倍凛に戻ってどうするんだ? 彼女は東條凛がしてきたこ
とを全く知らないのに、東條凛の尻拭いをしなければならなくなる。
東條凛が負うべきことを安倍凛が負ってはならない︶
それは、確かにそうだけど⋮⋮。
何も知らないうちに押し潰されてしまうなんて。
︵気の毒だなんて、思っちゃだめだよ。確固たる自我があれば、安
倍凛は残っているはずだ。今の私と瑞姫の様に︶
そうか。
どのみち、心の内側の問題を外からどうこうできる事はない。
安倍凛を助けたくても、手段がないのなら、手出しはできない。
︵そうそう。東條凛はどうなっても構わないなーと冷たく思っちゃ
うけど、今、安倍凛に変わっちゃうと、いろいろ彼女が困るからや
めた方がいいという方向で割り切って︶
わかりました。
とりあえず、彼女の言葉に納得して、東條凛の問題は手放すこと
にする。
東條凛の母親が、東條家の中で唯一と言っていいのかわからない
が、ごく普通の感覚の持ち主であることが判明したのは幸いだった。
学校側は交渉相手を東條家当主夫妻ではなく、保護者である彼女
の母親と定めて話し合いを持つ方針になったようだ。
644
東條凛は謹慎処分となり、大量の課題を与えられた。
謹慎期間は一週間だが、課題を終えるまで謹慎は解かれないと伝
えられた。
東雲の平均的な学生であれば、一週間で終わる程度の課題だが、
史上最低の落ち零れ記録保持者の東條凛なら、どのくらいかかるか
わからないということだ。
翌日、坂田さんのタルトタタンとオレンジタルトを手土産に、退
院した逢坂さんのご自宅へお邪魔した。
﹁ごきげんよう、逢坂さん。お加減はいかがですか?﹂
逢坂さんのお母様の案内で、彼女のお部屋へお邪魔すると、机の
脇に松葉杖を立てかけて、予習をする逢坂さんが私たちを迎えた。
﹁相良様、岡部様、ありがとうございます﹂
立ち上がろうとする逢坂さんを押しとどめ、タルトが入った箱を
差し出す。
﹁うちのパティシエ渾身の作なんですよ。きっと気に入ってくださ
ると思います﹂
﹁うわあ!! 昨日のケーキも美味しかったのに、今日もですか!
?﹂
嬉しそうに受け取った逢坂さんが箱を開けて絶句した。
タルトタタンは見た目こそ普通だが、味は絶品だ。
問題はオレンジタルトだ。
私が幼い頃、夢中で眺めた繊細な飴細工がオレンジタルトを飾っ
ているのだ。
﹁⋮⋮⋮⋮⋮⋮えええええっ!! うそぉ⋮⋮綺麗!! 金色の王
冠が乗ってるーっ!! これ、食べられるの!?﹂
光を受けてキラキラと輝く飴色の細工は、小さな王冠。
光の加減では本物の金に見える。
645
もし食べられなくても、充分に美しいそれはいつまででも眺めて
いられるが、食べられるとなったら、逆に勿体なくて絶対に食べら
れない。
﹁食べられますよ。甘くて美味しいです﹂
﹁ええっ!? 食べちゃうの⋮⋮勿体ない⋮⋮﹂
わかります。
究極の選択になっちゃうよね。
﹁一応、日持ちはしますから﹂
つい、言葉を添えてしまう。
﹁賞味期限、ぎりぎりまで眺めます!!﹂
﹁ではもうひとつご忠告を。くれぐれもご家族の方に、いつ食べる
のかをお伝えください﹂
﹁だよねー! 絶対、お兄ちゃんなんか、勝手に食べちゃうもん﹂
ぷくりと頬を膨らませ、かつてあったことを思い出したのか、怒
りを滲ませ告げる。
﹁相良様の所もケーキがあれば、皆が食べちゃったりするの? ご
兄弟が多いんでしょ?﹂
﹁ええ、私が末っ子の六人兄弟ですね。年が離れておりますので、
兄や姉がケーキを買ってきては私に食べろという時の方が多いです﹂
﹁そうなんですか。ああ、年が離れると喧嘩なんかしなくなるって
聞きますからね﹂
﹁そうですね。対等に喧嘩はできないようですよ﹂
微妙に引き攣りながら答える。
﹁⋮⋮疾風。声を殺して笑わなくていいんだけど?﹂
﹁や、悪い!﹂
相良家の真実を知っている疾風は、横を向いて声を殺して笑って
いた。
﹁え? 岡部様?﹂
﹁瑞姫の兄と姉は、超が付くシスコンで、ものすごく瑞姫を可愛が
ってるんだ。末っ子の奪い合いで喧嘩してる﹂
646
いや、そこ、暴露するところじゃないって!!
﹁えーっと⋮⋮つまり、相良様とは喧嘩しなくても、他のお兄様と
お姉様たちの間で喧嘩をなさっているということですか?﹂
疾風の暴露で内情を悟った逢坂さんは、見てみたいと言い出す始
末。
﹁頭痛や眩暈を覚える光景が広がっているので、お勧めできません
から﹂
﹁きっと、相良様のことが可愛いんでしょうねぇ⋮⋮すごく意外で
す﹂
逢坂さん、ちょっと傷つきましたよ、私。
今日の授業のノートを渡し、説明をした後、明日の送り迎えの件
について相談する。
﹁ここからだと、学校まで車で10分程度で到着できると思います。
いつ頃、学校に到着すれば良いですか?﹂
ここからの通学時間と、逢坂さんが学校に到着したい時間を聞い
て、逆算して迎えの時間を割り出しましょうと問いかける。
﹁相良さんの都合に合わせますけど?﹂
﹁いいえ。私はいつでも構わないのです。逢坂さんは松葉杖をつく
でしょう? いつもよりも動作が鈍くなってしまいますから、そち
らを重視して考えた方がいいですよ﹂
﹁ああ、そうか﹂
私の言葉に、逢坂さんは納得したようだ。
﹁意外と松葉杖は歩きにくいですからね。慣れていないうえに、サ
イズがきちんとあっているわけでもないですから﹂
﹁そうなんですよね。想像してたのと違って、歩きにくくて、車で
送ってもらえると本当に助かるって思いました﹂
﹁しばらくの間ですから。用心して、癖にならないように気をつけ
ましょう﹂
捻挫は、きちんと完治させないと、再び同じ場所を捻挫してしま
647
うというのはよく聞く。
こればかりは、腫れが引いて、痛みが取れたからもう大丈夫と思
うのは早計なのだそうだ。
逢坂さんのお母様とも相談し、迎えの時間を決めてから、暇乞い
をする。
今日は引きとめられても長居はできない。
迎えの車を路上駐車させるわけにはいかないのだ。
渋々とだが、納得してもらえて助かった。
車に乗り込んだ時、逢坂さんとよく似た風貌の男性が車の横を通
り過ぎた。
あれがお兄さんだろうかと眺めれば、案の定、逢坂家の玄関へ躊
躇なく足を運んでいた。
***************
逢坂さんの送り迎えは思っていたよりもスムーズに行えている。
車寄せで疾風がドアを開け、松葉杖を差し出すと逢坂さんがうち
の車から降りたという光景に、一部悲鳴が聞こえたというまことし
やかなデマが流れていたが。
幸運なことにそれを聞いて、問題行動を起こしそうな人は現在登
校していない。
東條凛が登校したのは、GWが終わってしまった後、実に3週間
の謹慎となっていた。
648
82︵後書き︶
今週水曜日から週末まで、出張となりました。
現場視察及び打合せに行ってこいとの部長命令⋮⋮。
研究畑の技術者にフロントに立てって、自分の業務なら納得します
が、何故他の班の業務で出張なんでしょうか。
疑問が積もっている最中ですが、その間、更新が滞ります。
申し訳ありません。
649
83
GWは、ふと思い立って郷へ戻ることにした。
﹃戻る﹄という言い方はおかしいけれど、その表現の方がしっく
りとくる。
今住んでいる場所よりも、あちらの空気の方が遥かに肌に馴染む
のだ。
短い日程だけど、行きたいと思ってしまった自分がいる。
疾風にそのことを告げ、色々と手配しようとしたら、疾風に止め
られた。
﹁俺がやる。在原たちや菅原を誘うか?﹂
ふと問われ、思わずコクコクと頷く。
﹁皆の予定が空いているのなら。無理強いはしたくないけれど﹂
﹁了解。あいつら、瑞姫がいればそれでいいって言うぞ。予定詰ま
ってても無理やり空けそう﹂
﹁まさか!﹂
﹁認識が甘いな﹂
笑う疾風に、そんなことはないだろうと言えば、逆に諭される。
自分の予定を入れ替えてまで、私に付き合うのはおかしいだろう
と思っていたら、後から本当に予定を入れ替えたと聞いて驚いた。
君たち、友より自分の予定を優先させなさい。
後日、彼らを前にそう説教するハメになるとは、思ってもみなか
った。
650
***************
四方を山と急流で挟まれた小さな盆地。
小京都と呼ばれるその地は、交通の便が発達した今でも、行くの
に相当な時間がかかる。
だが、旅とは情緒だ。
車で移動、なんて野暮はせずに、飛行機と新幹線を乗り継いだ後、
SLに乗り込んだ。
観光列車として、1日1往復、観光シーズンは2往復のみの運行
だが、元々本数が少ない地域なだけに、あまり問題はない。
全シート予約なので、ちょっとばかりひやひやしたが、運よく確
保できた。
﹁うっわーっ!! SLだよ、SL!! すっげー⋮⋮ぴかぴかじ
ゃん﹂
男の子は列車が好きと相場が決まっているが、例に洩れず在原が
SLの車体に夢中になっている。
﹁⋮⋮⋮⋮静稀、記念撮影する?﹂
時間はさほどないが、記念撮影をするくらいの余裕はある。
全席予約制というのは、こういう時、便利だ。
﹁えっ!? いいの?﹂
﹁⋮⋮他の方も撮影しているし、大丈夫だと思うよ。乗り遅れさえ
しなければ﹂
実にイイ笑顔で橘が告げる。
喜色満面だった在原の顔が青ざめる。
﹁まさかと思うけど、忘れたふりして僕を置いて行ったりしないよ
651
ね!?﹂
﹁さあ、どうだろう?﹂
﹁視界に入らなければ、忘れるよな、普通﹂
恐る恐る確かめる在原に、橘と疾風が真面目な表情でからかう。
﹁ふたりとも、からかわない! 意地悪するやつは置いていくぞ﹂
小さい子供に対するような言葉を言う羽目になろうとは。
呆れたような表情で言えば、2人とも首をすくめている。
﹁静稀、写すなら、早くしよう﹂
そう声を掛ければ、在原が嬉しそうに頷く。
﹁ありがとう、瑞姫! 瑞姫が一番優しいな﹂
﹁そうか? 多分、違うと思うぞ。ちなみに、SLの内装も可愛ら
しい﹂
この中で、一番優しい性格をしているのは、間違いなく誉だ。
そして、疾風。
私の方が容赦ない性格であることは、私が一番よく自覚している。
記念撮影を終え、車内に入り、座席に着いても在原のテンション
は上がりっぱなしだった。
﹁うわあ、汽笛が何か可愛い! 座席が木製でレトロだし、デザイ
ンがお洒落だよな﹂
わくわくそわそわと実に嬉しそうだ。
それが最高潮に達したのは、ワゴンサービスの案内放送が入った
時だった。
﹁特製アイス!? しかも、焼酎アイス!? 食べたいっ!! 駄
目かなぁ⋮⋮?﹂
アルコールは駄目だと思うが、上目遣いでこちらを見ないでくれ。
あと数年したら食べられるのだから、私は普通のアイスで今は十
分だ。
とは言っても、このアイスも充分特製だしな。
﹁⋮⋮在原、アルコールがもたらす未成年への悪影響について、語
ってあげましょうか?﹂
652
ひやりとするような冷ややかな声で千瑛が告げる。
﹁いやっ!! いい!! 我慢するからっ!!﹂
慌てて首を横に振って拒否する在原の様子に笑いながら、菅原家
の双子が揃っていないことを残念に思う。
﹁千景が一緒じゃなくて、残念だったな﹂
﹁そう? ちーちゃん、いつもふらっといなくなるから、全然気に
する必要ないのに﹂
﹁ふらっといなくなったら、問題だろう!?﹂
﹁放っておくのもまた教育の一環よ﹂
けろりとして言う千瑛の言葉は絶対に嘘だ。
居たら、ガミガミ怒られると思っての発言だ。
﹁それで、千景は今、何処にいるんだ?﹂
少しばかり気になって、千景の居場所を問いかける。
﹁お父様と一緒に、中近東あたりかしら? それか、エジプトとか﹂
﹁⋮⋮何故に?﹂
﹁香油の勉強してくるって﹂
けろっとした表情で答えた千瑛の言葉に、私は呆気にとられた。
千景よ、何が君を駆り立てた?
何故、アジアではいけなかったのだ?
疑問に思ったところで、答える者はいない。
﹁そうか。成果が得られるといいな⋮⋮﹂
それ以上、私に言えることはなかった。
SLの旅は、実にゆったりとしていて、楽しいものだった。
滾っていたのは在原1人で、他の者は、のんびりと寛ぐことがで
きたようだ。
目的地へ着いたときには、在原1人が疲れていた。
653
﹁あら。意外とこじんまりしたところなのね?﹂
駅に着くなり、千瑛が漏らした感想は、誰もが思うものだった。
さびれているわけではない、活気があるわけでもない。
玄関口ともいえる駅前は不思議と落ち着いて、淡々とした街なの
だ、ここは。
﹁市とは言っても、端から端まで歩いていけるほど小さいからね、
ここは﹂
笑って言えば、珍しくバツの悪そうな表情を浮かべる千瑛。
正直レベルが上限に達し、毒舌と言われても仕方がないほどすっ
ぱりと言う千瑛だが、言っていいことと悪いことの区別はついてい
る。
そうして、根はかなり善良にできているのだ。
悪意に対して容赦はないが、善意に対しては免疫がないのかどう
対応していいのかわからない時があるらしい。
﹁ようおざったな﹂
駅前の広場に立つ私たちに声がかけられたのは、その時だった。
﹁大叔父様!﹂
車から降り立つ大柄な老人が、にこにこと笑いながら近寄ってく
る。
姉たちに﹃鬼の寿一﹄と言われる大叔父だが、私には幼い頃から
優しい人だ。
﹁御無沙汰しております、寿一さま﹂
直立不動になった疾風が、大叔父に頭を下げる。
﹁おお、岡部んとこの。ひいさんが世話になっとるのう﹂
大らかに笑った大叔父様は、目を細めて疾風を見る。
﹁いえ。あまりお役には立てず﹂
﹁それはなか。こまかひいさんを見りゃ、ようわかる。健やかなん
はおまえさんがよう努めとうからじゃ。礼を言う﹂
大叔父様の言葉に、疾風は返す言葉を見つけられず、ただ頭を下
げる。
654
ちなみに、大叔父様は、疾風の武術のお師匠様になる。
こう見えて大叔父様は、一族随一の使い手なのだ。
ふらりと道場に現れては、見込みのありそうな子供を鍛え上げる
という趣味をお持ちだそうで、その際、一切の手加減をなさらない
ので﹃鬼の寿一﹄という名前が付いたそうだ。
私の師匠も大叔父様なのだが、厳しいと感じたことは一度もなか
った。
﹁大叔父様、お忙しいのでは?﹂
何でこんなところに来たのだろうと、首を傾げて問えば、不満そ
うな表情を浮かべた大叔父様が恨めしげに私を見る。
﹁ひいさんがこっちに来るのに、迎えに出んことはなかろう? 本
家に泊まりゃあいいものをわざわざ旅館に泊まるなんぞ﹂
﹁滞在期間が短いですから﹂
本家ではなく、旅館にしたのは理由がある。
それを知っている大叔父様は、仕方なさそうな笑みを浮かべる。
﹁まあ、しゃあないな。あれは確かに旅館の方がいいやろ。わっち
の名前で予約ば入れとるけん、行けばぁわかる﹂
﹁ありがとうございます﹂
﹁なんの。こまかひいさんの頼みじゃけん、引き受けねばわっちの
名がなくね﹂
子供だけで旅館の予約をするわけにはいかないので、大叔父様に
お願いしておいたのだ。
子供と言うのは時に不便なものだ。
﹁そいで、宿にチェックインするまであちこち見やるやろ? 荷物
が邪魔やろうけんが、先に宿に届けておこうかと思ってな﹂
わざわざ荷物を受け取りに来てくださったのか。
ありがたいが、申し訳ないような気もしてくる。
﹁いいのですか?﹂
﹁わるかりゃ来んけん、気にせんといてもいいんやが﹂
﹁ありがとうございます﹂
655
大叔父様にお礼を言って、それから一緒にいる友人たちを紹介す
る。
頷いて彼らの挨拶を受けていた大叔父様が、千瑛を見て目を丸く
する。
﹁ひいさんの友達かいの。こりゃあ、よかおなごじゃ。別嬪さんや
なぁ﹂
ミニマム美少女の千瑛だからというわけではないらしい。
大叔父様は、見目に重きを置かないことでも知られている。
どうやら千瑛の中身を察して別嬪と言っているらしい。
﹁あの⋮⋮﹂
見た目ではなく、別の個所からそういう見解に達したと悟った千
瑛が、面食らったように瞬きを繰り返している。
﹁ひいさんをお頼申します、こまか別嬪さん﹂
そう言われ、千瑛は頷く。
﹁それは、もう。あの⋮⋮﹂
﹁さて。重か荷物はわっちに預けて、ひいさんと散策してきたらえ
えのう﹂
車のトランクにキャリーバックを入れるように指示を出しながら、
大叔父様は散策を勧めてくる。
﹁じゃあ、まずはお茶と蔵めぐりでもしてこようかな﹂
背伸びをしながらそう言うと、大叔父様が何度も頷く。
﹁それがええ。工房の方は逃げやせん。ゆっくり見りゃあいい﹂
﹁わかりました。じゃあ、行ってきますね﹂
厚意に甘え、最低限の荷物だけを持った私たちは、大叔父様に見
送られ、街の散策という名の観光に向かうことになった。
656
83︵後書き︶
ただいまです。
いや、実に寒かった。
それが今回の出張の感想です。
現場は野外と決まっているので、それなりの対策はしていってます
が、寒いものは寒いのだと思いました。南国ですけど!!
ムーン様の方の作品も連休中に仕上げるつもりです。
657
84
小さな、とても小さな町。
それこそ、小京都と呼ばれていても、その細い路地が示す通り、
戦国の世の名残を色濃く残す町並みだ。
町名が昔の区画を教えてくれる。
大工町、紺屋町と名付けられた町は、職人を集め、相良家が何を
考えて街作りをしていたのかを考えさせる貴重な資料ともいえる。
鍛冶屋町はそれこそ鍛冶屋さんが集められて、刀鍛冶が盛んだっ
た地域だ。
今はわずか数件しか残っておらず、農器具や包丁などが主である。
包丁の切れ味はとても素晴らしく、今年の誕生日に私用に誂えて
もらったほどだ。
今度、魚のおろし方を教えてもらおうと思っていたりする。
温泉や焼酎が有名であるが、もう1つ、盆地の特徴である朝霧が
齎す特産物がある。
それがお茶だ。
山の斜面に作られた茶畑は、朝霧に包まれ、たっぷりの水と寒暖
の差、いくつもの条件が重なって、非常に美味なお茶を味わえる。
これは余所へ出荷していないため、銘茶として名を馳せることは
ないが、名産地のお茶に比べても遜色ないだろう。
焼酎は芋ではなく、米が原料だ。
つまり、ここは名水があり、米も美味しいのだ。
ちなみに、温泉はアルカリ性で珍しいらしい。
どういうことかというと、島津家は中央へ出る拠点としか考えて
658
はいなかったが、というか、知る由もなかったのだが、ここは余所
の人間が思っている以上に豊かな土地だったのだ。
一長一短ではなく、長い年月をかけて育て上げた土地だからだ。
何が言いたいかというと、酒好き美食家にとって、この地はただ
の田舎ではなく聖地に準じる地だと言えるらしい。
瑞姫さんがそう言っていたので、そうなのだろう。
何せ、急流には鮎だけではなく天然の川鰻がいたりするのだ。
もちろん、天然の川鰻は非常に珍しく、それを食せるのはここだ
けだ。
知る人ぞ知る的な、地味な土地だが、知らなくてもいいと思える
ことも確かだ。
下手に奇妙な観光地化されて、この地が持つ良さが損なわれてし
まっては嫌だと思う。
友人たちを案内しながら、時が止まったかのような街並みに、私
は笑みをこぼした。
﹁ごめんください。こんにちは﹂
一軒のお茶屋さんの暖簾をくぐり、声を掛ける。
なぜ、﹃ごめんください﹄と声を掛けるのか、いつも不思議に思
うのだが、そういうものだと割り切って習った通りの言葉を口にす
る。
﹁いらっしゃいませ⋮⋮あらまあ、ひいさま!﹂
奥から現れた中年の女性が私の顔を見て驚いたような声を掛ける。
﹁まあまあ、お帰りやしたの!?﹂
﹁ええ。アイスクリーム、いただけますか?﹂
ここの抹茶じゃなく煎茶のアイスが私のお気に入りだ。
それを皆に食べてもらおうと、案内したわけだが、もうひとつ、
ここに来た理由がある。
659
﹁はいはい、そちらに座ってくださいな。今、用意しますけん﹂
おかみさんはお店の人にアイスの用意を告げると、奥へと声を掛
ける。
﹁ばあちゃん! ばあちゃん!! 相良のひいさまがお見えですよ
! はらはら、ばあちゃん!!﹂
ここの地域の掛け声は、微妙に独特だ。
﹃ほらほら﹄と普通言いそうなのに、ここでは﹃はらはら﹄と言
う。
特に年配の方がその掛け声を使うことが多く、聞いていてとても
可愛らしい。
奥からちんまりとした御老女がゆったりとした動作で現れる。
﹁あんれ、ひいさま。よかおごじょにになりやしたなぁ﹂
泥染めの地味な着物姿の御老女は、私を見上げ柔らかく微笑む。
﹁御無沙汰しております、お元気でいらっしゃいましたか?﹂
この御老女は、御祖母様と私の針の師匠だ。
おそらく80歳は越していらっしゃるだろうが、それでも針仕事
ではこの地域随一の腕前で、今でも着物を仕立てていらっしゃるそ
うだ。
﹁この通り。年は取って多少は足腰弱うなりもうしたが、畑には出
ておりやすよ﹂
にこにこと機嫌よく笑って私の手を握る。
﹁はら、敦子。ひいさまにお茶と漬物、お出しや﹂
御老女は、おかみさんにそう声を掛ける。
ここでの最高のおもてなしがお茶と漬物だ。
各家で漬けるお漬物が違うのだ。
自分が漬けたお漬物を持ち寄って、茶飲み話に花を咲かせるのが
こちらの主婦の昔からのお楽しみ。
だから、お茶とお漬物のもてなしは、何時間でもうちにいて楽し
んでくださいという歓待の意味だ。
これが男性の場合だと、漬物は一緒だが、お茶ではなく焼酎がも
660
てなしになるようだ。
この焼酎にも作法があるのだが、まだ教えてもらってはいない。
だが、わりと聞く﹃駆けつけ三杯﹄という言葉は、この地が発祥
なのだそうだ。
この地のおもてなしは、慣れていないと実に恐ろしい目に合う。
次から次へと御茶請けを出され、そうして頃合を見計らって暇乞
いをすれば、お土産攻撃を受けるのだ。
純粋な厚意だとわかるだけに、お断りするのが心苦しい。
うっかりありがとうなんて言おうものなら、手に持てないほどど
っさりと持って帰らされるのだから。
人が好すぎるのも、時に罪なのだと、幼い頃に学ばされた。
御先祖様は、さぞかしこの人たちの人の好さに危機感を持ったの
だろう。
相手に尽くそうと思う気持ちはとても嬉しいものだが、逆に物凄
く心配してしまう時がある。
全力で守ろうと思っても無理はない。
﹁煎茶のアイスって初めて食べるけど、美味しい!!﹂
在原が嬉しそうに言う。
﹁お口にあったようでようございましたな。そんなら、もう1つ、
いかがやろ?﹂
にこにことおかみさんが笑いながら声を掛けてくる。
意味がわからなかった在原が、きょとんとして私を見る。
これは、マズい。
﹁アイスクリームは1つで充分ですよ。次も回らねばなりませんか
らね﹂
にこにこと笑って答えれば、おかみさんは何度も頷く。
﹁ええああ、そうやねぇ。ひいさま、次はどこに行かれますの? 車でお送りしましょうか?﹂
﹁うん。ありがとう。でも、お隣だから﹂
﹁はら! 隣やったら、車はいらんね。ほんなら、ちょっと声かけ
661
てきましょうか﹂
﹁あははははは⋮⋮いや、いいよ。驚かせたいし﹂
声を掛けたら最後、いろいろ用意して待ち受けられてしまうから。
それなら悪戯すると笑えば、面白がって引き下がってくれる。
﹁ほんに、いくつになっても落ち着きないな、敦子は。ひいさま、
申し訳のうて﹂
御老女が呆れたように娘を叱り、私に頭を下げる。
﹁いや。いつ来ても仲が良いですね。ああそうだ。今度、浴衣の縫
い方、教えてください﹂
﹁ほ。浴衣ですかね? ええですよ。いつでもお呼びくだされば、
本家にお伺いしますによって﹂
﹁教わるんですから、私が伺います。約束ですよ?﹂
﹁はいはい。約束、ですな。承知仕りましたわ﹂
にこにこと笑いながら小さな約束をする。
夏休みになったら伺いますと告げて暇乞いをする。
見送られながら次へと移り、それを繰り返す。
﹁⋮⋮すごいな、瑞姫⋮⋮﹂
在原が感心したように呟く。
﹁ん?﹂
﹁会う人、皆、知り合いだし﹂
﹁そりゃ、小さな町だからね﹂
﹁話がすぐに合うし、いろいろ覚えているし﹂
﹁小さな頃から出入りしているから、当たり前のことなんだよ﹂
﹁約束して、ちゃんと果たしてるし﹂
﹁大きな約束はしてないからね﹂
領地を持っていた家とそうでない家の違いだ。
名家と言えど、様々な成り立ちがある。
皇族の在原、橘と、地族の相良、岡部では全く意味合いが違うの
だ。
我々の当たり前が、彼らとかけ離れていても当然だ。
662
﹁可愛がってもらっているから、顔を出して喜んでもらえるなら、
いくらでも顔を出すし。話を聞いて、必要なことを祖父や父に伝え
ることなら、私にもできるだろ?﹂
本当はそれくらいしかできないけれど、小さな話が重要なときも
ある。
父たちに話せないことを、私になら話せることだってあるだろう。
そう考えて、祖母は幼い頃から私を連れて、このあたりを歩いて
いた。
本家一族の中で私に課せられたことは、年上の皆とかなり違うこ
とは幼いながらわかっていた。
﹁それが瑞姫の仕事なんだ?﹂
柔らかな笑みを湛えた橘が、そう問いかけてくる。
﹁そうだ。父たちができない細かなところに目を向けるのが私の仕
事だ﹂
﹁そうか。勉強になったよ﹂
﹁まあ、ここでのお仕事は、瑞姫ちゃんに合ってるみたいだから。
学校だとストレス溜めまくってるのに、ここはリラックスしてるし
ねー﹂
ほうじ茶アイスを舐めながら、千瑛が言う。
﹁そうかな?﹂
﹁そうよ。顔色良いし、のんびりできてるみたいだし。食べ物も美
味しいし﹂
﹁うん。美味しいけど、千瑛、良く入るね?﹂
煎茶のアイスから始まって、ずっと千瑛は食べ通しだ。
在原もかなり食べ続けているけれど、千瑛には負けるだろう。
この小さな身体にどれだけ入るのか、考えるのが恐ろしいくらい
だ。
﹁だって。歩いて運動してるもの。いくらでも入るわよ﹂
﹁⋮⋮もしかして、燃費悪い?﹂
﹁若さの特権よ。瑞姫ちゃんが普通すぎるのよ﹂
663
﹁⋮⋮普通は普通であって、すぎないと思うんだけど⋮⋮﹂
納得がいかずに呟けば、橘が横を向いて吹き出している。
﹁瑞姫は小食なんだ。もう少し食べればいいのに﹂
﹁岡部! 瑞姫は普通だと思うよ。俺らと比べる方が間違ってる﹂
﹁そうだ、必要量はきちんと食べてるぞ。丼飯なんて無理だ!﹂
この際だからはっきり言ってやる。
成長期真っ只中の男子の食事の量と一緒にするな。
橘の助成を受けてきっちりと言ってやれば、疾風は憮然とした表
情で橘を睨んでいる。
﹁さすがに丼飯はないわよねー﹂
千瑛も大きく頷く。
﹁憧れの王子様な瑞姫ちゃんの前に、丼飯が置かれてたら、嘆き悲
しむ女の子が一体どれだけいるかしら﹂
え? そっち!?
﹁私のイメージの話なのか!?﹂
﹁瑞姫ちゃん、さらっさらの髪だから、着流し似合いそう。親衛隊
な軍服とかも。あと日向とか陽だまりでぼーっと立ってるのも似合
うよね﹂
﹁⋮⋮何故、ぼーっと立ってるんだろう、私は⋮⋮﹂
千瑛が考えていることはよくわからない。
とりあえず橘に助けを求めるように視線を向ければ、苦笑された。
そうか、君にも解らないか。
ならば仕方がない、理解することは諦めよう。
﹁そろそろ宿に向かおうか。温泉にゆっくり浸かって夕食摂ったら、
川沿いを散策してもいいし﹂
時刻はそろそろ夕方だ。
明日は川下りをして鍾乳洞を探索してもいいし、城跡へ行っても
いい。
そんなことを話しながら、旅館へと向かった。
664
***************
旅館で用意された部屋は、離れであった。
あらかじめ、大叔父様には言っておいたが、私と千瑛、そして男
子組の2部屋だ。
未成年者に個室などありえない。
一般的に考えれば当たり前のことだが、ここは相良の本拠地だ。
気を利かせてとんでもないことをしでかされることに否定できな
いところが悲しい。
現に、離れに案内されるときも、仲居さん達に一番いい部屋じゃ
なくていいのか、1人ずつじゃなくていいのかと、何度も聞かれた
のだ。
離れの別棟というだけでも、充分特別扱いなので、それ以上はい
いと答えたのだが、イマイチ納得してもらえてないようだ。
何せ、この別棟、それぞれの部屋に露天風呂がある。
何たる贅沢! と、思ってしまうが、助かることも事実だ。
部屋に案内され、キャリーバッグから荷物を取り出す。
﹁千瑛! 先にお風呂に入っておいでよ﹂
﹁瑞姫ちゃんは?﹂
浴衣やら何やらチェックをしていた千瑛が私を振り返って問う。
﹁うん。あとから入る﹂
そう答えたときだった。
︵瑞姫! 逃げて∼っ!!︶
笑い含みの瑞姫さんの声が突然響いた。
﹁え?﹂
思わず振り返れば、手をワキワキさせて実にイイ笑顔の千瑛が立
665
っている。
﹁うふふふふ⋮⋮そんなこと、私が許すとでも!?﹂
﹁ち、千瑛?﹂
﹁もちろん、一緒に入るわよねー!?﹂
︵に∼げ∼て∼っ!!︶
げらげらと笑う瑞姫さん。
﹁え!? ちょっ!! 千瑛サン?﹂
女の子に手荒な真似はできないけれど、逃げなければと本能的に
悟る。
﹁瑞姫ちゃんが気にしてる傷跡、私、どうってことないからね! さあ、一緒に入るわよ!! そして、私にマッサージさせなさい!﹂
高らかに宣言した千瑛に、私は困窮する。
﹁ちょっ! ちょっと待って!!﹂
﹁フェミニストなのが瑞姫ちゃんの最大の欠点よねぇ。女の子に手
荒な真似ができないなんて。同性なんだから、遠慮しなくてもいい
のにね﹂
慌てふためく私の服を、器用に剥ぎ取っていく小柄な少女。
そこからあとの事は、思い出したくもありません。
***************
夕食は、別棟の中の囲炉裏がある部屋に用意されていた。
こちらで食事を摂る間に、それぞれの部屋に布団が敷かれるのだ
そうだ。
ごっそりと体力気力を削ぎ落とされた私が千瑛に引き摺られてそ
666
の部屋に行くと、すでに集まっていた3人の表情が物凄く微妙なも
のになっていた。
在原は真っ赤になってこちらを向こうとはしないし、疾風も視線
を彷徨わせている。
橘は苦笑を浮かべて彼らを眺め、肩をすくめている。
﹁あら、聞いてたの? 修行が足りないわよ﹂
そんな彼らを一瞥した千瑛が、さらりと告げる。
﹁なっ!! 聞いてたんじゃなくて聞こえたんだっ!﹂
反駁した在原は、私を見るなりまた赤くなり、片手で顔を隠して
しまう。
﹁や、ちょっ⋮⋮ごめん⋮⋮﹂
﹁たかがマッサージなのに﹂
千瑛がそんなことを言うと、橘が笑う。
﹁いや、お年頃だからね﹂
﹁まあ、大変ねぇ﹂
何だかこの2人の会話、井戸端会議のおばさんみたいだ。
﹁そんな在原にいいこと教えてあげる。瑞姫ちゃんのお肌、つるつ
るすべすべで気持ちいいわよぅ∼っ! 陽に当ててないから色白い
し、柔らかいし﹂
﹁やっ! 頼むからやめて⋮⋮﹂
何だか泣きそうな在原の声。
一体何があったのか、よくわからないが疲れ果てた私には、千瑛
を止める気力がない。
半ばよろけるように囲炉裏端に座り込むと、疾風が心配そうに身
を寄せてくる。
﹁大丈夫か、瑞姫?﹂
﹁⋮⋮いろいろ、疲れた⋮⋮﹂
もうそれしか言えない。
﹁⋮⋮そうだろうな﹂
なぜか納得してしまった疾風に、不思議な気がしたが、もう問い
667
詰める気も湧かない。
﹁お食事、お運びしますね﹂
部屋付きの仲居さんが声を掛け、料理を運び入れる。
御膳の中に、私の好物を見つけ、ようやく気力が復活した。
668
85
御膳に乗った小鉢。
ほんの少量、形良く盛られたそれは、とても貴重なものだ。
金色のそれは、塩漬けにされた後、丁寧に塩抜きされ、その後、
味付けされる。
実に手の込んだ逸品なのだ。
鮎のうるかという名前で、珍味中の珍味としてあげられる。
もちろん、知らない人の方が多いだろう。
高価なのは、数に稀少性もあるが、その後の調理法に非常に手が
かかることも挙げられるからだ。
これが好きだと言えば、必ず酒好きと評されるほどに、酒の肴に
は最適らしい。
鮎は、解禁日が決まっているので、それ以前に食べることは叶わ
ない。
食べられるのは、前年度に取った鮎を冷凍保存しているものだけ
だ。
それゆえに、保存食のひとつとして伝えられたうるかは、貴重な
ものなのだ。
本家に泊まらず、わざわざ旅館に宿を取ったのは、このうるかの
ためだ。
うるかの塩抜きには、日にちがかかる。
常に宿泊客に提供できるよう処理している旅館ならいざ知らず、
本家でそれを食べたいなど我儘言うわけにはいかないのだ。
669
いくら大好物でも、その所はわきまえているつもりだ。
予想通りに小鉢に盛られたうるかに、隠せぬ笑みがこぼれる。
﹁⋮⋮瑞姫、ん﹂
私の御膳に、小鉢がもう一つ増える。
うるかが大好物と知っている疾風からだ。
山の幸と川の幸で彩られた御膳の中に、燦然と輝く鮎の卵。
好き嫌いの少ない疾風だが、唯一、魚卵の類が苦手であることを
私は知っている。
ある意味、give&takeなのかもしれないが、上手く自分
の苦手なものを誤魔化しているところがずるいと思うのは駄目だろ
うか。
貰えて嬉しいので、ツッコミ辛いものがあるが。
﹁いいのか?﹂
一応、確認の為に尋ねてみれば、こくっと頷いて八寸に手を伸ば
す疾風。
こちらを流し見る目は、何も言うなよと告げている。
そうか、魚卵が苦手だということを知られたくないのか。
何でだろう?
﹁ありがとう﹂
礼を告げて、小鉢を手に取り、うるかを味わう。
うん、美味しい。
この塩抜きの加減と、味付けがすごく難しくて、瓶詰で売ってい
るものを買ってもなかなか家で調理を頼みづらいのだ。
中には、うるかの瓶詰をそのまま食べてしまう人もいるらしいが。
あんなにしょっぱいものをよくそのままで食べれるものだと感心
してしまう。
あれ? もしかして、うにの瓶詰とかと同じように考えていると
か?
それなら間違えて食べてても、頷ける。
670
それにしても、やっぱり美味しい。
ちまちまと箸で摘まんで食べていたら、何故か視線を感じて顔を
上げる。
﹁⋮⋮⋮⋮⋮⋮?﹂
在原と橘がこちらをじっと見ていた。
﹁⋮⋮何かな?﹂
何でそんなに見てるんだろう。
食事している人を注視するのはマナー違反だぞ。
﹁瑞姫、それ、もしかして大好物?﹂
在原が不思議なものを見たような表情で問いかけてくる。
﹁うん。滅多に食べれないから、特に好き﹂
﹁すごい、食べ方が可愛いんですけどっ!!﹂
何かツボにはまったらしい在原が、くつくつと笑い出す。
﹁瑞姫、僕のもあげる!﹂
﹁え? いいよ。静稀、うるかは食べたことないんだろ? 珍味だ
から、味わってよ﹂
﹁や。それより、珍しいもの見たし! 瑞姫を餌付けできるチャン
スなんて滅多にないし﹂
⋮⋮餌付け⋮⋮?
珍しいって、私は珍獣と言うことなのだろうか。
疾風を見て、在原を見て、小鉢を見る。
よくわからない。
首を傾げて見た先に橘がいた。
﹁誉、何で静稀は笑っているんだ?﹂
聞いてみようと思って問いかける。
﹁ん∼⋮⋮まあ、そうだね。瑞姫が可愛いからだよ﹂
﹁は?﹂
やっぱり意味がよくわからない。
﹁よっぽど好きなんだね、それ。小さな子みたいな表情で食べてて
可愛かったんだ﹂
671
え!? バレた!?
小さな子って⋮⋮でも、これでも12歳なんだけどな。
﹁これ食べてる時の瑞姫は、いっつもこんな感じだぞ﹂
肩をすくめて疾風が言う。
そうなんだ。じゃあ、私と瑞姫さんが入れ替わったことがバレた
わけじゃないのか。
﹁ギャップがすごすぎ。餌付けしたいんだけど、僕﹂
﹁餌付けはしなくていい。欲張らないから﹂
何事も程々が一番。
塩抜きしても、うるかは塩分が高いから、あんまりたくさん食べ
ちゃダメなんだ。
ほんの少しで充分。
囲炉裏を囲んでの食事は、とても美味しかった。
こちらの本家の屋敷には囲炉裏があるので、私や疾風にとって馴
染があるものだけれど、他の人たちには珍しかったらしく、自在鍵
を眺めたり、炭をいじろうとして灰を降らせたりと大騒ぎをしてい
た。
翌朝、いつもの癖でかなり早い時間に目が覚める。
千瑛がまだ眠っているから起こさないように気をつけながら、部
屋付きの露天風呂の方へ向かう。
お湯に浸かったところで隣の部屋の露天から水音が聞こえてくる
ことに気付いた。
﹁⋮⋮おはよう?﹂
とりあえず、声を掛けてみる。
﹁瑞姫か? 早いな﹂
返ってきた声は疾風のものだった。
﹁あれ? 疾風だけ?﹂
﹁うん。在原は撃沈してる。橘はそろそろ起きるころだろう。そっ
672
ちは?﹂
﹁千瑛はまだ眠ってる。隣だからか、声、よく聞こえるねー﹂
さほど大きな声を出しているわけではないのに、とてもよく聞こ
える。
﹁⋮⋮ん。まぁな⋮⋮﹂
途端に、疾風の答えが鈍る。
﹁⋮⋮あのな、瑞姫﹂
﹁ん?﹂
﹁昨日、そこで菅原姉からマッサージ受けてたろ?﹂
﹁ああ、うん﹂
そう言えば、そうだったな。
﹁大丈夫だったか? 痛くなかったのか?﹂
﹁んー⋮⋮ちょっと痛かったけど、大丈夫だったよ。傷じゃなくて、
反対側の方が妙な具合に筋肉使ってたらしくって、ちょっと痛めか
けてたみたいだったのを解してもらったし﹂
﹁⋮⋮そうか﹂
ちょっとホッとしたような声が返ってくる。
﹁昨日、ちょっと痛そうな声が聞こえてたから、在原が心配してた
んだよ﹂
﹁あ。そうなんだ? だから、昨日、静稀が少し変だったんだー﹂
でも、顔が赤かったのは何でだろう?
﹁それと。マッサージしてもらうんだったら、外じゃなくて室内で
してもらえ﹂
﹁うん、わかった﹂
疾風の言葉に頷いて、空を見上げる。
川霧が上がってきて、あたりは真っ白の世界だ。
川と地表の温度さが、夏と冬とその両方で結構な差があるため、
霧が発生しやすいのだ。
霧が出ている間は、外に出ないように言われている。
車のライトすら厚い霧に覆われて見えないために、とても危険な
673
のだ。
本家に泊まっていたときに、庭を散歩していて足を踏み外して池
にハマるということをかなりの頻度でやらかした幼少期の黒歴史が
ある。
普段からも池の方には近寄るなと言われていたが、朝霧のおかげ
で全く見えず、方向を見失って彷徨った挙句にやらかしたため、こ
ちらでの早朝散歩は一切禁止されたのだ。
霧が出る日は、大体快晴になることが多い。
きっと、散策日和になるだろう。
﹁さてと。今日はどこへ行こうかな﹂
暑くなるなら、川下りして鍾乳洞探索で涼もうかな。
ストレッチ代わりに体を温めながら、私はそう思案した。
674
86
GW明け。
待ちに待ったこの日がやって来た。
初めてのお土産配りなのです。
以前だったら、長距離移動は駄目だとか、タイトなタイムスケジ
ュールでお土産買う暇がないとか、色々あってお土産を買うという
ことに縁がなかったのだけど。
今回は心行くまでお土産選びをしたとも。
職人さんともじかにお話しする機会ができてちょっと楽しかった。
千瑛や瑞姫さんにもアドバイス貰って、選び抜きました。
教室のあちこちから華やかな笑い声と共にプレゼント交換のよう
にお土産配りが行われている。
﹁瑞姫様はどちらに行かれましたの?﹂
お土産を配っていた子が、私に問いかけてくる。
﹁ああ、本拠地の方へ戻っていました﹂
﹁まあ。それは遠かったのでは?﹂
﹁ええそうですね。SLに乗って行きましたしね﹂
﹁SL! それは素敵ですわね﹂
SLという言葉に反応して、あちこちから人が集まってくる。
﹁あの、石炭で動くという列車ですよね? SLって﹂
﹁そうですよ﹂
﹁じゃあ、トンネルで窓を開けるというのは、本当ですか!?﹂
﹁いえ。窓は開かない仕様になっています。渓谷沿いを通りますの
で、危険ですから﹂
675
トンネルで窓を開けたら、煤が入ってきて、顔が真っ黒になると
いうお約束のアレか!?
誰だろう、そんなことを教えた人は。
在原とかやってみたいとか言い出しそうだ。
言わなかったけど。
﹁あちらはとても良いところだと伺っておりますわ﹂
﹁ええ。鄙びていてとても良いところですよ。ぜひ、一度お越しく
ださい。お土産です﹂
やっとこの時が来た。
お土産を配るときが!
やー楽しいな。
疾風の生温かい視線が気に食わないが、まあ、よしとしよう。
いそいそと配っていたら、当然のことながら大神にあたる。
﹁⋮⋮僕もいただけるのですか?﹂
意外そうな表情で大神が問いかける。
﹁ご迷惑ですか?﹂
瑞姫さん直伝の切り返し。
首を傾げて、ちょっと上目遣い。
相手が背が高いと、上目遣いはやりやすいな。
大神は言葉遊びを仕掛けてくるタイプなので、真面目にというか、
実直にというか、誠実に返すと意外に対応に困るらしい。
大神を見た後、手にしていたお土産に視線を落とす。
﹁瑞姫ちゃんの心尽くしを拒否するなんて、どういうつもりかしら。
ねぇ、大神君?﹂
千瑛が私の背後から大神に脅しを掛けている。
﹁人の好意を無にするような冷血漢なんて気にしちゃだめよ、瑞姫
ちゃん!﹂
慰めているような言葉だが、思いっきり人の悪い笑みを浮かべて
る千瑛がいた。
﹁まあ、大神様が⋮⋮﹂
676
ひそひそと大神を詰る声が聞こえてくる。
あ、あれ?
﹁菅原さん! 人聞きの悪いことを言わないでくれる?﹂
これには大神も多少慌てたようだ。
﹁あら? 本当のことじゃない!? 瑞姫ちゃんがお土産渡そうと
したら、自分の分もあったのかなんて嫌味を言うし。しょんぼりし
ちゃった瑞姫ちゃんを慰めるわけでもないし。どうみても瑞姫ちゃ
んをいじめてるじゃない﹂
きっぱりとした口調で断言する千瑛が大神をいじめてるんじゃな
いのかな?
そう言えば、以前から千瑛は大神相手だと容赦がないし。
﹁いいよ、千瑛。受け取ってもらえないのなら、仕方がない﹂
しょんぼりと肩を落として千瑛を宥める方へ回る。
﹁先日から迷惑をかけているから、せめてと思ったのだけれど⋮⋮﹂
﹁え? あの、相良さん!?﹂
本気で焦り出す大神も珍しい。
﹁泣いちゃだめよ、瑞姫ちゃん。繊細な瑞姫ちゃんを傷つけるなん
て!!﹂
繊細な瑞姫ちゃんって、一体誰のことだろう?
私ではないことは確かだな。
納得したところで大神の手にお土産を落とす。
﹁ノルマだ、受け取れ﹂
﹁⋮⋮ノルマ⋮⋮何だろう、僕の方が傷ついた感がする﹂
私の言葉に大神が苦笑する。
﹁人の厚意を先に無にしたのは、君の方だろう? 言葉遊びに付き
合うつもりはない﹂
﹁確かに先程の言葉は言い方が悪かった。ありがたく頂戴するよ。
それで、これ、伊織の分はあるの?﹂
﹁何故?﹂
クラスメイト用のお土産なのに、何故、諏訪の分まで用意する必
677
要があるのだろうか。
隣のクラスに行くつもりは全くない。
反対側のクラスなら、橘と千景がいるから、いつでも行こうと思
うけれど。
﹁いや。伊織が悔しがるなと思って﹂
﹁思わないだろう? 人からもらったと吹聴しなければ、隣のクラ
スの人間にそのことが知れるわけがない。知らなければ、口惜しが
ることはない﹂
いつも思うが、大神は妙な発想をするな。
その場にいない人間や、関係のない人間をあたかもその場に居合
わせたような言い方をする。
そうやって相手に誤認識させたり、誘導したりするのだろうが、
明確に状況を判断すれば、それらに引っ掛かることはない。
﹁あ。千瑛。今日、千景はお昼一緒できるかな?﹂
旅行に一緒に行けなかった千景には、クラスの皆とは別にお土産
を用意しているのだ。
多分、気に入ってもらえるだろうから、ぜひとも渡したい。
﹁うん、大丈夫。ちーちゃんも瑞姫ちゃんに会いたがってたしね﹂
にこにこと笑顔を作って千瑛が答える。
2人揃って大神から離れ、自分たちの席に向かう。
﹁⋮⋮瑞姫ちゃん、理事の件、わかったわよ﹂
大神から充分離れたところで、千瑛がぽつりと言う。
﹁うん﹂
﹁⋮⋮島津の父親﹂
その言葉に、私は千瑛に視線を向ける。
﹁お昼の時に、詳細を話すわね﹂
﹁⋮⋮中庭がいいかな?﹂
﹁そうね﹂
何事もなかったかのようにそれぞれの席に着き、いつも通りに過
ごす。
678
いつもより、昼休みの到来が待ち遠しかった。
679
87
両手に菅原。
何てことはないはずなのに、何故か先程から注目を浴びている気
がする。
中庭へお昼ご飯を食べに行く途中、合流した千景と千瑛に挟まれ、
歩いているのだが、視線が突き刺さる。
﹁⋮⋮どうかしたの? 瑞姫ちゃん﹂
﹁んー⋮⋮何で見られてるんだろうかなって思って﹂
﹁珍しいものなんてないと思うな﹂
﹁⋮⋮だよね﹂
まあ、6人もぞろぞろ歩けば目立つだろうけど。
﹁いや、珍しいと思うよ﹂
後ろを歩いていた橘が笑いながら言う。
﹁あまり人前に出ない菅原弟が瑞姫の隣に陣取っているんだからね﹂
﹁え? わりといつものことだよね﹂
千景が人前に出ないというのは、微妙なところだが、隣に陣取る
のは、わりとよくあることだ。
そう思って言えば、橘は首を横に振る。
﹁人前では、そうないよ。いつも、サロンや中庭とか、カフェとか、
あまり人がいないところで隣に座ることはあってもね﹂
﹁そうだっけ?﹂
﹁んー⋮⋮気にしてないから﹂
首を傾げて千景に問えば、千景も首を傾げて答える。
﹁そうだね﹂
680
千景は他人があまり好きではないが、人目を気にする方でもない。
ただ千瑛が暴走するのを止めようという気だけは、とりあえず持
っているようだ。
GWを過ぎると、日差しも随分強くなってくる。
外で食べられるのも、あと少しだろう。
梅雨が待っていることだし。
お昼御飯を食べ終え、のんびりと寛ぎの時間に入る。
﹁あ、そうだ。千景にお土産﹂
ランチボックスと一緒に持ってきていたお土産の袋を千景に差し
出す。
﹁ありがとう。じゃあ、僕から瑞姫にお土産﹂
﹁交換だね﹂
ふたり、顔を見合わせ、笑いあった後、手にしたものをそれぞれ
中身を取り出して眺める。
﹁うわあ! 香油瓶だ!!﹂
箱の中に香油瓶が3本入っている。
掌サイズだが、薔薇色に金があしらわれている見事なものだ。
そうして、瓶の中にゆらりと揺れるものが。
﹁その香油、僕が作ったんだ﹂
﹁へえ⋮⋮﹂
ちょっと得意げに笑った千景が箱の中に入っていた香油瓶の一本
を取り出す。
蓋を開けて差し出されたので、手で扇いで香りを確かめる。
﹁あ。いい香りだね﹂
﹁よかった。瑞姫の好みの香りだったか﹂
ほっとしたように言った千景は、私に腕を出すように告げる。
左腕を差し出せば、手際よく袖を捲られた。
どうしてこの姉弟は、こうも手際よく人の服を脱がそうとするの
だろうか。
681
一瞬、そんな考えが過ったが、考え過ぎだと笑って見逃す。
自分の掌に香油を落とし、その熱で温めた後、千景が私の左腕を
マッサージし始める。
﹁千景?﹂
﹁大丈夫、シャツは汚さないから﹂
いや、そういう話ではなくて。
何故今マッサージをしているのだろうかという、単純な疑問なの
だが。
﹁⋮⋮んっ! 千景、ちょっと待って⋮⋮﹂
﹁少しだけ、試させてよ﹂
﹁ちょっ! あっあのね⋮⋮気持ちいいんだけどっ! 何か、これ、
温かく感じるのは、何で!?﹂
人肌に温められたオイルが、それ以上、ぽかぽかしているのに驚
いて、思わず問いかける。
﹁体を温めるためのオイルだから﹂
﹁そんなの、あるんだ⋮⋮﹂
﹁うん、あるんだよ。本来の用途はちょっと違うんだけど⋮⋮マッ
サージ用であることは間違いないけどね。瑞姫にも使えるだろうと
思って﹂
﹁へえ⋮⋮﹂
そんなものがあるんだと感心していれば、何故か在原が盛大に噴
き出していた。
﹁静稀?﹂
﹁ちょっと!! 本来の用途って、何!? 菅原弟!! 妙なモノ
を瑞姫に使ってるんじゃないよね!?﹂
何故か妙に焦った様子で、在原が千景に問い詰めている。
﹁妙なモノ? 僕が、瑞姫に? そんな真似、するわけないだろ?
きちんと学んできたんだから﹂
﹁どこで何を学んだわけ!?﹂
鬱陶しそうに顔を顰める千景に、在原がまだ問いかけている。
682
﹁あ。わかった! コレ、ボディビルダーさんたちがつけてるやつ
とか?﹂
微量をつけたにも関わらずツヤツヤと輝く皮膚を眺め、記憶を探
り、正解ではないかと思ったことを口にしてみる。
﹁ほぼ正解。彼らはこれを改良したものを塗ってるんだ。これは、
言わばその基本オイルのようなものだよ﹂
﹁⋮⋮ボディビルダー⋮⋮﹂
何故か呆然とした表情で在原が呟く。
﹁筋肉冷えたら困るからねー、彼らは﹂
﹁うん、そういうこと﹂
私に頷いた千景は、酷く冷めた表情を在原に向ける。
﹁⋮⋮で? 君は一体何を想像してたんだ?﹂
びくっとした在原は、視線を彷徨わせる。
﹁いや、それは、その⋮⋮﹂
﹁そこら辺りで手を打ってくれないかな? 瑞姫に聞かせたい話で
もないんだろう?﹂
橘が割って入る。
﹁ちーちゃん、お遊びはそこらで切り上げよう。マッサージは続け
ていいから﹂
千瑛が宥め、目を眇めて在原を一瞥した後、バッグの中から紙を
取り出した。
﹁これが、今現在、東雲の理事会のメンバーよ﹂
ネットで調べたと告げて、テーブルの上に乗せる。
中庭の奥にはちょっとしたテーブルセットがいくつか点在してい
て、周囲の植栽に溶け込んでいるため、パッと見にはそこにテーブ
ルがあるようには見えないのだ。
それぞれが身を乗り出し、そこに書いてある理事の名前を読み取
る。
知っている名前と知らない名前。
それなりの人数の理事がいるが、知っている名前の方がやはり多
683
い。
﹁東條の孫娘を転入させたのは、この男﹂
とんとんと指先で叩いて示した名前が、島津の父親だった。
﹁目的は何だ?﹂
即座に反応したのは、疾風だ。
疾風もいろいろ調べていたらしい。
だが、千瑛ほど迅速に、そして詳細まで調べられてはいなかった
ようだ。
﹁目的? わかるでしょ。瑞姫ちゃんよ﹂
﹁私?﹂
﹁一族の悲願になってることよ。瑞姫ちゃんを嫁にしたいんだって﹂
﹁⋮⋮誰の?﹂
橘が険しい表情で聞いてくる。
誰のと聞いたのにはわけがある。
島津には兄弟がいるし、その父親も離婚して現在独身だ。
離婚した理由と言うか原因が、また微妙だ。
あまりにも遊びが過ぎるので愛想を尽かされて離婚を突き付けら
れたのだ。
それでも懲りずに、花の独身だと喜んでさらに遊んでいるらしい。
今のところ、島津斉昭に腹違いの兄弟は出現していないようだが。
﹁つまり、東條との問題を煽って、それを上手く解決して恩を売ろ
うというハラかな?﹂
険しい表情が一転して、笑顔を作って問う橘だが、その笑顔が怖
い。
橘の言葉を聞いた瞬間、疾風が呆れたように溜息を吐き、視線を
彷徨わせる。
﹁⋮⋮無駄なことを﹂
私が思ったのは、その一言だけだった。
﹁うふふふふ∼ 私、何であの一族が今まで相手にされてこなかっ
たのか、わかっちゃった!﹂
684
千瑛がとてもイイ笑顔になる。
﹁ムリよね!﹂
きっぱりと断言した声に迷いはない。
﹁自力で解決できるのに、人の手を借りようなんて思わないものね
ーっていうか、色々詰んじゃってるし、東條家も島津家も﹂
﹁他の理事は?﹂
島津家だけではごり押しはできないだろう。
そう思って、念の為に問いかける。
﹁やっぱり気付いちゃった? だから、瑞姫ちゃんって大好きなの
よね﹂
にこやかに笑う千瑛に、私は再び溜息を吐くことになった。
685
88
千瑛が言った、理事会の他の理事の思惑。
それは、様々だ。
理事に名を連ねる者たちの名を見て、想像できることはある。
相良を取り込みたいと思う者、そうして、島津の力を削ぎたいと
思う者。
今回の場合、おそらく後者だ。
島津家は、常に中央を脅かす存在だった。
脅かす存在であって、入れ替わったことは一度たりともない。
つまり、それだけの存在でしかないというのが現実なのだが、脅
威であるということも事実だ。
その力は侮れない。
つけ入る隙があるのなら、それにつけ入って力を削ごうと思うの
が、この世界の醜いところだ。
いくつもスキャンダルを起こしても、それに揺らがない強さが島
津にはある。
だが、島津が思ってもいないところで、楔となることがあれば彼
らは容赦なくそこから喰らいつき、引き裂くつもりなのだろう。
虎視眈々と狙っていたところに、その楔を島津が己が身に打って
しまった。
ならば、従う振りして時期を見計らい、牙を磨こうと思っている
のだろう。
︵ま、無駄な努力よね︶
686
あっさりとした口調で瑞姫さんが断じた。
うん、私もそう思う。
これは、相良と東條の問題だ。
他の家が介入する余地などない。
つまり、島津は墓穴を掘っただけなのだ。
︵瑞姫の理解力もすごいけど、千瑛の調査力もすごいよね。理事会
のメンバーまでなら私でも何とかなると思うけど、その思惑まで調
べ上げるのは、流石としか言いようがないな︶
白旗掲げちゃうよと告げる瑞姫さんに、私は別の意味で驚く。
相手の能力を認めるのは、ある程度のことなら誰でも何とかなる
けれど、自分の限界をあっさり認めるのは難しいことだ。
特に、この世界、プライドが邪魔をすることが多々ある。
矜持というものは必要だけれど、時としてそれが最大の敵となる。
自覚できればいいが、自覚できていなければ、とてもじゃないが
醜い存在だ。
幼い頃の諏訪がいい例だ。
幼稚舎の頃、無謀を通り越して単なる無茶で林檎の木の枝を折っ
て落ちたアレは、武勇伝でも何でもない。
いまだに恥ずべき行為として幼稚舎で先生方が生徒たちを諭す例
として告げているそうだ。
本人は黒歴史から逃れられないのだから、悪夢もいいところだろ
う。
今の諏訪なら、もうしないだろうが。
︵甘いって、瑞姫! そりゃね、瑞姫から注意されたら諏訪は木登
りなんてしないだろうけど、注意したのが疾風なら、絶対登るから︶
何故!?
︵諏訪が男で、疾風も男だからって言っても、瑞姫にはわからない
かー⋮⋮ま、それこそ、男の矜持ってやつに邪魔されるんだよ︶
687
うん、意味が全くわからない。
わからなくても、まったく気にならない。
︵いいんだよ、わからないことが気にならなくても。そう言えば、
東條凛はいつまで謹慎処分なわけ?︶
苦笑した瑞姫さんが話を変える。
そう言えば、そうだな。
﹁千瑛、謹慎中の人は、いつ、処分が解かれるのか知ってる?﹂
この中で一番知ってそうな千瑛に尋ねれば、生温い笑みが返って
きた。
﹁さあ、知らない? 一応、謹慎処分の期間は過ぎてるんだけどね。
課題が終わってないみたいで、許可が下りないんだって﹂
ぷぷっと笑いながら答える。
﹁⋮⋮⋮⋮課題って、見せてもらったアレ?﹂
GWに入る前、教師に東條凛に課された課題の内容を見せてもら
った。
授業の代わりに解くべき課題だ。
つまり、1日中真面目に机に向かっていれば、1週間で終わらせ
ることができる内容になっている。
私だと3日あれば充分だ。
授業に沿っており、教科書を見ていれば、それなりに解けるもの
ばかりなのだ。
難易度としては、東雲の平均値で出されているため、そこまで難
しいとは思わなかった。
そう、東雲が必要とする学力を持ち合わせていればという条件付
きだ。
東雲に来る前に東條凛が通っていた高校は、一応、公立高校だが
ランクとしては中の下だ。
一方、東雲は上の上。
基礎学力に問題があるのは当然だろう。
688
島津も無茶をする。
﹁⋮⋮今思ったんだけど、中間テストに間に合うんだろうか?﹂
月末には中間テストが始まる。
それまでに謹慎処分が解けなければ、中間テストが受けられない。
学園側の規定では、考慮すべき事由がなければ、公式試験の再試
験は認められないとなっていたはずだ。
つまり、謹慎処分を受けている最中であれば、考慮されないとい
うことだ。
病気療養や身内の不幸、部活動などの公式試合等であれば、当然
のことながら考慮されるが、謹慎は罰だ。
しかも、本来の処分期間は終えている。
どう考えても自業自得で受けられないという結末が待っているだ
ろう。
きちんと課題を終え、反省の意を見せ、それで自ら試験を受けさ
せてほしいと嘆願すれば、道が開かれる可能性はあると思うが。
﹁さあ? 無理なんじゃないのかしら。まあ、本人にしてみれば、
試験受けずにいられてラッキーってとこかしら?﹂
くすくすと笑って告げる千瑛は無邪気に見える。
言ってる内容は全然無邪気じゃないけれど。
﹁瑞姫ちゃんが気にすることじゃないわ。すべては本人が決める事
よ⋮⋮って、何してるのかしら、在原君?﹂
笑っていた千瑛が、ものすごく冷たい目で在原を見ている。
﹁え? 瑞姫の餌付け?﹂
在原がデザートに頼んでいたフルーツの盛り合わせの中からカッ
トしたオレンジをフォークに刺して私に差し出しているところだっ
た。
﹁瑞姫、オレンジ好きだって言ってたし﹂
﹁うん、好きだよ﹂
正直に頷けば、嬉しそうに笑った在原がオレンジを私の口許へと
近付ける。
689
﹁静稀、やめろ﹂
珍しく橘が注意する。
﹁え? 何で?﹂
﹁多分、おまえが後悔する﹂
﹁は?﹂
きょとんとした在原の手がぶれ、オレンジが私の唇に触れる。
﹁⋮⋮あ﹂
疾風が嫌そうに在原を睨む。
口に触れてしまったものを食さないわけにはいかない。
マナーに反するが、食べ物を無駄にするなと言う教育が染みつい
ている身にとって、それを放置するわけにもいかない。
フォークに触れないように気をつけながら、ぱくりとオレンジを
銜える。
歯を立てないように気を付けていたが、果汁が唇を濡らした。
﹁⋮⋮んっ⋮⋮﹂
オレンジを咀嚼しながら、行儀が悪いが指先で唇を拭う。
﹁ほら、瑞姫、手!﹂
どこから出したのか、疾風がウェットティッシュを取出し、それ
で私の指を拭き取る。
﹁ありがとう、疾風﹂
お礼を言った瞬間、ごちんという音が響いた。
﹁⋮⋮静稀?﹂
音の正体は、在原がテーブルに額をぶつけた音だった。
ものすごく痛そうな音だったが、何故、撃沈しているのだろう。
﹁簡単すぎるっ! ついでに無防備すぎるっ!!﹂
悔しそうな表情で、在原が誰かに向かって訴えている。
﹁だから言っただろう? 後悔するって﹂
溜息を吐きながら、橘が告げる。
﹁何を後悔するんだ?﹂
今一つ、意味がわからずに問えば、橘は苦笑して首を横に振った
690
だけだった。
﹁瑞姫ちゃんはそれでいいのよ。悪いのは在原なんだから﹂
千瑛がすっぱりと切り捨てる。
﹁ああ、そうだね。食べ物を無駄にするような真似をしてはいけな
いね﹂
あれが途中で落ちたらどうするつもりだったのだろう。
商品として出荷するまで、農家の人たちは相当な努力をしている
と聞く。
せっかくのものを無駄にするような真似はしたくない。
﹁さすが瑞姫。思いっきりズレてる﹂
何故か感心したような疾風の言葉。
﹁ずれてるって、何が? それより、静稀。餌付けしてどうするつ
もりだったんだ? あまり、ああいう真似は感心できないぞ﹂
﹁給餌行動の意味を瑞姫が知るわけないか⋮⋮まあ、在原も理解し
てないだろうけどね﹂
呆れたように千景までが呟く。
給餌行動?
鳥の親が雛にしているやつか。
それぐらいなら知っているぞ。
そう言おうとして口を開こうとしたら、疾風に睨まれた。
﹁チャイムが鳴る前に教室に戻ろう﹂
促され、立ち上がる。
確かに授業に遅れるわけにはいかないな。
教室に向かいながら、ふと私は気になる。
島津斉昭をどう扱うべきか。
今まで通り、総無視というわけにはいかなくなるかもしれないな。
あとで誰かに相談しよう。
相談相手は誰がいいだろう。
相談すべき相手がたくさんいることはいいことだが、相手を選ば
691
なければならないことは果たしてどうだろうか。
微妙な葛藤を抱きながら、私は教室に向かって歩いた。
692
89 ︵島津斉昭視点︶︵前書き︶
島津斉昭視点
693
89 ︵島津斉昭視点︶
島津家の三男として生まれた俺は、何もかも中途半端な存在だっ
た。
物心ついたときには、一族の悲願とやらを押し付けられ、叩き込
まれていた。
ひとつは、血を絶やさぬこと。
何でも、本家の血を何度か絶やし、今、本家と言われている俺た
ちは、分家筋の子孫だというわけだ。
なので子供は多い方がいい。
特に女は一族総出で可愛がられる。
何故なら、女は政治的道具として有効活用できるからだ。
俺が生まれたとき、女じゃなくて相当がっかりされたようだ。
今でもその態度は変わらない。
男は2人目までは喜ばれるが、3人目になると何故女じゃなかっ
たのかと思われるらしい。
別にかまわないけどな。
ふたつめは、相良の女を嫁にすることだ。
俺の知る限りでは、相良家の女は確かに美人揃いだ。
本家はもちろん、分家に至るまで、ありとあらゆる系統の美人が
揃っている。
本家の娘は3人。
694
上2人は気性が荒く、到底手出しは無理だと言われている。
最後の1人は、俺と同じ年。
上に比べれば気性は穏やか、そして尤も相良らしい女だと言われ
ている。
兄貴や親父に至るまで、その相良の末娘を狙っている。
ロリコンかよと突っ込みたくなるところだが、あいつはどこか醒
めていて大人びている。
同じ年の俺が一番有利だと言われているが、親父達同様相手にさ
れていない。
それでも、そう、俺は、あいつに惚れていた。
島津の家系は、女好きの家系と揶揄されるように、幼い頃からそ
の手解きを受けさせられる。
俺の初体験の相手は、家庭教師をしていた女子大生だった。
中学に入ってすぐの頃、教えてあげると言われて押し倒された。
その女子大生の家庭教師は、親父の愛人の1人だった。
うちではよくある話だ。
知っていて困ることではないため、最初の頃はなされるままだっ
たが、そのうち厭きてきた。
親父のオンナなんて、所詮、金と権力に目が眩んだだけで相手が
誰だろうと構わないのだろう。
まあ、金で左右されるならば、後腐れが無くて便利だ。
そう思って遊んでいたころ、思ってもみないことが起こった。
諏訪のやつを庇って、相良瑞姫が重傷を負って入院した。
それは、俺たちにとって大ニュースだった。
半年後、退院した相良は、俺が知っていたやつとは全く違う人間
のようだった。
695
綺麗な顔は以前のまま。
だが、身に纏う男子用の制服のせいか、本当に男のように見えた。
傍に寄せるのは相変わらず岡部だけ。
ゆったりとした動作に隠されたぎこちない動き。
顔以外、全身傷だらけだという噂は、そのいでたちが裏付けして
いるようだった。
喜んだのは女だけで、男の大半は失望したように思えた。
俺も、傷だらけの女なんて、いくら美人でも嫌だと思い、興味を
失った。
そのはずだった。
あれは、中2の夏のことだった。
体育の授業が早めに終わり、着替えを終えて教室に戻る途中のこ
とだった。
妙に落ち込んでいる諏訪を気にした1人が声を掛けたのが発端だ
ったと思う。
﹁詩織が俺を見てくれない﹂
何とも馬鹿げた悩みだった。
自分を見ない女なんて必要ないだろう。
そう思うが、からかってやろうという考えが過る。
﹁女の扱いなんて簡単だろう? 押し倒して、キセイジジツってや
つを作ればいいじゃん﹂
どういう反応が返ってくるか、笑って眺めていたら、意外な反応
が返ってきた。
﹁汚らわしいことを言うな!!﹂
思っていた以上に潔癖な答えだった。
﹁えー? だって、惚れてるんだろ? ヤればいいじゃん﹂
教室の中に入り、そう言いながら机に腰かける。
696
﹁冗談じゃないっ!﹂
今度の拒絶は、嫌悪だった。
あんなに気持ちイイことを嫌がるやつがいることも、俺は知って
いるが、これは極端だ。
潔癖すぎてそういう行為が嫌なのかと諏訪を見れば、どうやら違
うようだ。
﹁詩織はそういう対象じゃない﹂
神聖視しすぎているのか、他に理由があるのか、突いてやろうか
と思った時だった。
カタンと窓際で音がした。
ぎょっとしてそっちを見れば、相良が立ち上がった音だった。
手には次の授業の道具一式がある。
相良は体育の授業は出席せずに教室で待機が許されていたことを
思い出す。
今までの会話を全部聞かれたことに気付き、マジでヤバいとそう
思った。
何を言われるかわからない。
糾弾されて仕方がないことを話していたことは事実だ。
だが、相良はゆっくりとした動作で教室を出ていくために歩くだ
け。
緊迫した空気の中に閉じ込められた俺達とは違い、あいつを取り
巻く空気は涼やかだ。
﹁⋮⋮相良⋮⋮﹂
誰かがあいつの名前を呼んだ。
その声に反応するかのように、相良がこちらを振り向く。
振り向いたが、その瞳に俺たちの姿は映っていなかった。
見えているだろうが、その扱いは机やいすと一緒のようだ。
その瞳に俺を映し出してほしい。
ふと、そう思った。
そしてぞくりと背筋を這い上がる馴染のある感覚。
697
あいつを手に入れたい。
俺という存在を刻み込みたい。
今まで感じたことのない欲求だった。
何も意味あるものは見いだせなかったと言いたげな表情で、ふい
っと相良の顔が前を向く。
金縛りにあっていたかのような感覚から解き放たれ、ほっとする
間もなく俺は諏訪の表情に気付く。
熱に浮かされたような、あるいは酩酊したような表情だった。
何だ、あいつ。
詩織とかいう従姉に惚れてるんじゃなかったのかよ。
惚れてるのは相良の方かよ。
無性にムカついた。
惚れてる女に死なせるような大怪我負わせて、その表情かよ。
絶対に、邪魔しちゃる。
まあ、親父も相良と諏訪の情報を欲しがってたから、チクってや
れば喜んで動くだろう。
あいつを手に入れるのは、この俺だ。
ゆっくりとその場を離れ、自分の席に戻る。
次の授業は移動選択だ。
早く行けば、いい席が取れる。
そう思い、俺は教科書とノート、筆記用具を手にすると、相良の
後を追うように教室を出た。
運命ってやつは、ままならぬようで、俺はその後、相良と同じク
ラスになかなかなれなかった。
ようやく同じクラスになれたのは高2になってから。
だけど、その間に邪魔なやつが増えていた。
698
菅原の双子と在原に橘。
特に橘は俺の敵だ。
気に入った女の子に声を掛ければ、たいていが橘の方がいいとそ
っぽを向かれる。
そして、最大の敵が相良本人だった。
中性的というのか、男とか女とかいう性別を感じさせない顔立ち
に女子にしてはかなりの高身長。
すっきりとした身のこなしに、すっきりしすぎた体形。
女だよな? 本当に、おまえ、女だよな?
そう言いたくなるほどすっきりしすぎている。
性格もすっきりしすぎて男前。
ついたあだ名が﹃完璧な王子様﹄だ。
確かに、女が好きそうなタイプだろう。
頭が良くて美形、背も高くて見た目すっきりでフェミニスト。
しかも、優男に見えて文武両道とくりゃ、確かに惚れる。
何で俺、こいつに惚れちゃったんだろう。つか、未だに厭きてな
いんだろう?
てゆーか、俺の目には王子様が可愛い女に見えてるんだろう。
毎回、不思議に思いながら声を掛けては岡部に床に沈められる。
身動きできないくらいに固められてるけど、かなり手加減されて
いることは型をキメられてよくわかる。
痛いと言っても本当はそこまで痛くない。
こいつは有段者で練士だと聞いたことがある。
つまりは素手でも人が殺せるやつなんだろう。
しかも、相良が絡めば躊躇いはない。
声を掛ける程度なら構わない。それが不快レベルだと沈められる
ようだ。
そのあと、風紀委員に連れられて、説教を受けるという一連の流
れができてしまった。
699
そんな時、俺の子を孕んだという女が出て来た。
見れば、1、2回、遊んだことのある女だ。
もとはといえば、親父の愛人候補だった女で、親父のオンナを見
て自分じゃ駄目だと思って兄貴に乗り換えようとして拒否られ、俺
のところに来たやつだ。
勿論、俺も面倒だからすぐに切ったけど。
相良が手に入れば、他のオンナはいらないが、未だ手に入らない
のだからとりあえずは必要だ。
だからと言って、子供ができるようなアホな真似はやらかさない。
教え込まれた時に、そこはきつく言い聞かされたからな。
だから俺に腹違いの弟はいない。
子供を産ませるのは、本妻だけだから。
さて。
こいつの処理は親父と兄貴に任せて、俺はのんびり自宅待機とい
こうか。
相良の周りをちょろちょろしようとする馬鹿な女もいることだし。
あいつを手に入れるには、まだ時期尚早ってことだ。
どうやってあいつに近付くか。
いろんなパターンを妄想しながら、俺は目を閉じた。
700
89 ︵島津斉昭視点︶︵後書き︶
数日前からアレルギーで体調を崩しています。
なかなか回復しないので、しばらくの間、掲載が数日おきになりそ
うです。
入院だけは避けようと思っているので、しばらくの間、お待たせす
るかもしれません。
申し訳ありません。
701
90
中間試験が終わって間もなくのことだった。
その日、何の前触れもなく、橘が欠席した。
そして昼過ぎ頃に八雲兄上からメールが入る。
橘誉の義母であり、橘家当主夫人である由美子さまの訃報だった。
明日が通夜で、その翌日が法要、所謂お葬式になる予定だとか。
私に、通夜に出るかどうかの確認する内容だった。
﹁瑞姫、どうした?﹂
疾風がメールを眺める私に声を掛ける。
黙ってその画面を差し出せば、疾風の顔から表情が消えた。
﹁そうか﹂
短い返事。
疾風なりに心配していたのだろう。
理由がわかってほっとしたのと、母親を亡くした橘の気持ちを慮
っての憂いと、今現在、橘が置かれているだろう状況とで複雑な心
境に陥っているのだろう。
私も同じだ。
子供である私にできる事は、本当に少ない。
今、傍にいてやりたいと、そう願ったとしても、学生である身に
はそれは不可能だ。
由美子さまがいなくなれば、橘の存在が微妙なものになる。
おそらく、当主に次の縁談が持ち込まれることになるだろう。
不愉快なことに、御遺体の前でその話が持ち上がる可能性はかな
り高い。
702
そうして、新しい夫人との間にできた子供を橘家の次代当主に据
えろという話になるのは間違いない。
あの人は決して葬儀の場に現れることもなければ、由美子さまの
遺言でも次の当主夫人になることもないだろう。
葛城家の血を引く男子であることを公表すれば、おそらく、彼を
排斥しようとしていた者たちの態度は豹変するだろうが。
﹁帰ったら、喪服の用意をしておこう﹂
ぽつりと疾風が呟く。
﹁そうだな﹂
その言葉に、私も頷く。
本来なら、学生服は冠婚葬祭に着用してもよいとされているのだ
が、東雲の制服は白とグレーが基本色だ。
色合いが少しどころか、かなり浮いてしまう。
暗い灰色であれば何とかなるだろうが、あまりにも明るいライト
グレーなのだ。
結婚式ならいざ知らず、葬儀では居たたまれない思いをしてしま
うだろう。
微妙な空気を抱えて、その日、1日を過ごした。
***************
橘家の通夜は、思っていたよりも随分とこじんまりしたものだっ
た。
由美子さまが社交界へ顔を出されていなかったことも、その理由
のひとつだろう。
通夜には御祖父様と出席することになった。
703
疾風も岡部家の方に同行するらしい。
﹁ふむ。これは、なんとも⋮⋮﹂
エントランスに足を踏み入れた御祖父様が、気難しい表情を浮か
べる。
そこには当主代理として、弔問客に対応している橘の姿があった。
本来ならば、当主である彼の父がそこにいなければならない。
そうして、親族として分家筋の者が彼の指示に従い、色々と動い
ていることだろう。
だが実際は、誰がどう見ても、その場を取り仕切っているのは当
主ではなく、その息子である誉であった。
弔問客に挨拶をしながら、葬儀の式場関係者と打ち合わせをする
姿は彼が喪主であるかのように見える。
愛妻を失った当主が、悲しみのあまりに茫然自失に陥り、その息
子が彼に代わって動いていると好意的に見る者もいるだろうが、よ
く見ればそうではないようだ。
いまだに通夜の会場である部屋の扉は閉じられたまま。
スタッフも扉付近で困ったような表情をして立ち竦んでいる。
中で何かが起こっているわけだ。
﹁まったく、仕方がないの﹂
呆れたような声音で呟いた御祖父様が動き出す。
私もその後に従い、歩く。
﹁瑞姫! 来てくれたのか﹂
私に気付いた橘が、こちらへ足早に近づいてくる。
橘の向かう先に御祖父様の姿があることに気付いた者たちが、わ
ずかに驚きの声を上げる。
まさか、橘家当主夫人の通夜に御祖父様が参列するとは思わなか
ったのだろう。
﹁誉、この度は⋮⋮﹂
﹁挨拶は⋮⋮来てくれてありがとう。義母も喜んでいることだろう﹂
私の挨拶を遮り、首を横に振った橘は、目許だけで微笑む。
704
いつも通り、静かで穏やかな橘だが、疲労が滲んでいる。
﹁相良様もわざわざ足を運んでいただき、ありがとうございます﹂
﹁覚悟はしていても、辛かったの﹂
ぽんと橘の肩に手を乗せ、御祖父様が告げる。
﹁年寄りには、己よりも若い者が逝くことが何より堪える。誰であ
ろうと、順番通り年寄りを見送ってから旅路についてほしいものだ
と﹂
御祖父様の言葉に、橘がわずかに目を瞠る。
そうして、何も言わずに橘は深々と御祖父様に向かって頭を下げ
た。
今までの弔問客が橘に何を言ったのかは知らない。
だけど、橘の心を打ったのは、御祖父様の言葉だったのだろう。
深く頭を下げることで言葉にならない感謝を伝えることができる。
それと同時に、自分の表情を隠すこともできる。
涙をこらえ、感情を整えるには充分な時間が作れる。
﹁時に、お若いの﹂
充分時間をおいて、顔を上げるようにと肩を叩いて合図した御祖
父様が、橘に声を掛ける。
﹁うちの孫が必要かの?﹂
何気ない言葉。
その言葉を深読みして、慌てふためいているのは周囲の者たちだ。
私としては、孫を勝手にレンタルしないでほしいというのが正直
な気持ちだ。
そう、御祖父様は、﹃孫﹄としか言っていない。
この場にいるのは私1人だが、御祖父様の孫は、2桁いってます。
そして、相良の人間は、それぞれ一芸を持っているので、必要に
応じて必要な能力を持ってる孫を貸してやろうという意味だったり
する。
本当なら﹃能力﹄であって﹃芸﹄ではないのだが、持ってる本人
にしてみれば、﹃芸﹄としか言い様がないものだったりする。
705
ちなみにこの状況で﹃孫が必要か?﹄と聞かれれば、私を嫁にす
るかと聞いていると思われるようだ。
顔を上げた橘は、周囲の反応を無視して微笑む。
﹁いえ。まだ、大丈夫です﹂
自分の足で立ち、自分ができるだけのことをすると答えた橘に、
御祖父様は満足げに頷く。
﹁そうか。末の孫が世話になっておるからの。できる限りのことは
させてもらおう﹂
﹁ありがとうございます。お言葉だけで充分です﹂
﹁そうか。では、お経が始まる前に故人にご挨拶をさせてくれぬか
の?﹂
﹁義母を御存知なのですか?﹂
ほとんど表に出てこなかった由美子さまを祖父が知っていること
に気付いた橘がほんの少し驚きを滲ませて問う。
﹁お嬢がこまかときにの。あれは、そう、おまえさんの母御が生ま
れたときか⋮⋮妹ができたと大はしゃぎで声を上げて笑っておった。
あの時が、お嬢にとって一番いい時だったのかもしれん﹂
御祖父様の言葉に、橘の肩がわずかに揺らぐ。
﹁⋮⋮義母の所へご案内いたします﹂
表情を改めた橘が、御祖父様に告げる。
﹁誉さん、大丈夫ですか?﹂
親戚筋の方らしき人が、気遣わしげに橘に問いかけてくる。
﹁どのみち、もうじき時間になる。開場しなければならないだろう。
誰かが開けなければならないんだ、俺が行くよ﹂
穏やかな表情を作り、答える橘に、扉の中で何が起こっているの
かを悟る。
﹁相良の御大には見苦しいところをお目にかけてしまいますが、そ
れでも義母に会っていただきたいと思います﹂
﹁何の、気にせんよ﹂
にやりと笑った御祖父様は、私を連れてさらに奥に向かって歩き
706
出した。
707
91
ホールいっぱいに並べられた花籠。
会場に入りきれなかった花たちをホールに飾っているのだろう。
淡い色彩を基調とした花たちは、抑え目ながらも瑞々しい香りを
放っている。
その花たちが守る扉の前に橘が立つ。
こちらの会場のスタッフたちが心配そうな表情で橘の傍に近付く。
﹁御導師様がもう間もなく到着されると連絡が入りましたが⋮⋮﹂
﹁ありがとうございます。到着なさいましたら、予定通り、父とご
挨拶に伺いますのでまた声を掛けていただけますか?﹂
穏やかに対応する橘に、彼らはホッとした様子で後ろへ下がる。
ドアノブに手を掛けた橘が、それを引き開ける。
﹁何度言ったらわかるんだ!? 当主夫人が不在だということが問
題なんだと言ってるんじゃないかっ!!﹂
ヒートアップしすぎて、殆ど怒声と変わらない大声で橘家当主に
言い寄る男性。
﹁何の問題もありませんよ。妻はここに眠っています﹂
﹁死んだ人間に何の価値があるんだっ!?﹂
﹁お話し中、申し訳ありませんが、もうじき時間ですので、弔問に
来られた皆様をお通ししてもよろしいでしょうか?﹂
穏やかな声音で橘が割って入る。
﹁おお、誉君! 君からもお父さんに言ってやってくれないか? 新しいお母さんが来て、弟ができれば、君は次期当主から解放され
るんだよ﹂
708
﹁⋮⋮⋮⋮あなたで5人目です﹂
﹁は?﹂
﹁父に再婚話を持ち掛けたのは、あなたで5人目だと申し上げまし
た。どなたも、それなりに申し分ない候補者をお連れくださいまし
たが﹂
﹁何だとっ!?﹂
冷静すぎる橘の言葉に、当主に詰め寄っていた男性の顔色が変わ
る。
﹁それで、そいつらは⋮⋮﹂
﹁外にいらっしゃいますよ。それから、私の意見を申し上げれば、
父が再婚するのは反対しません。ですが、今現在、義母の通夜も済
んでいないこの状況で再婚の話を持ち込み、義母の死を悼んでくだ
さらない方が薦める方を義母とお呼びすることはありません﹂
﹁妾の子が生意気なっ!!﹂
どうやら少々認識が甘い方のようだ。
この時点でも橘の資質を見誤っているとは、残念すぎる。
ここは、どう動くのが最良か。
扉を全開にして、野次馬でも呼び込むか。
ああ、それだと橘が守りたいものを傷つけてしまうな。
では個別撃破で、あの2人を封じるか。
御祖父様がいらっしゃるが、仕方がない。
潔く後程説教を受けよう。
私が爪先をほんの少し動かした時だった。
﹁愚かよの。己が見たいものしか見ぬ者は﹂
のんびりとした声だった。
だが、身内だからわかる。
この声音は、御祖父様が激怒した時のモノだ。
﹁相良様っ!﹂
橘の後ろに御祖父様がいらっしゃることに気付かなかったらしい
彼らは、顔色を変える。
709
﹁いらっしゃるとは気付かず、申し訳ありません﹂
﹁よいよい、橘の。おまえさんにゃ後からじっくり話をさせてもら
うからの。その前に、おんしじゃ、分家の。次期殿の血筋を知って
の言葉かの?﹂
にこやかな笑みは迫力がありすぎて、何故か無関係な者までも冷
や汗をかいてしまいそうだ。
﹁は? 芸者風情の子供が、ですか?﹂
﹁その、芸者じゃ。小槙は、お嬢の腹違いの妹じゃが、その母御は
どの家の出身か知っておるのかと聞いておる﹂
﹁⋮⋮は⋮⋮﹂
﹁知らぬのか、情けないのう﹂
首を横に振った御祖父様は、憐れむように男性を眺める。
﹁おんしの言葉は、先方には伝わっておろうの。覚悟が必要じゃが、
まあ、仕方がない。己が不備じゃ。葛城じゃよ。おんしの望みは半
分叶うであろうな。葛城が次期殿を迎えに来るじゃろうからな﹂
﹁葛城っ! まさか、そんなっ!! 誉は男だぞ!﹂
﹁だから、迎えに来ると言っておる。お嬢がいなくなれば、枷はな
いと判断するだろうよ。その時、おんしの身はどうなっておるかは
知らんがな﹂
﹁ひっ!! そんな⋮⋮何とか、何とかなりませんか、相良様っ!
!﹂
﹁知らんの。母を亡くしたばかりの息子の前で、よくもまあ、言い
たいことを言ったの。聞いていて儂の方が恥ずかしかったわ。次期
殿とどちらが大人かわかりゃせんわ﹂
御祖父様はそういうと横を向く。
いや、御祖父様、それ、ちょっと子供っぽいというか、大人げな
いですから。
ツッコミ入れたいけれど、場が崩れるので言えないもどかしさ。
仕方ないので、橘の背を軽く叩いて慰めてみる。
表情を凍らせていた橘は、ほんの少し驚いたように振り向いて、
710
柔らかく笑って頷いた。
うん、こっちも大丈夫そうだ。
だけど、この状況で息子を庇わない父親というのも、相当問題あ
りだな。
目の前で実の息子を蔑まれて、憤らない親がいるとは不思議とし
か言いようがない。
御祖父様がいるから怒れないのかもしれないが、それでも息子に
声を掛けるくらいはするだろう。
親子関係は悪くないと聞いていたが、それは間違いだったという
のだろうか。
私がそう考えているときだった。
﹁相良の御嬢様! 御嬢様からとりなしをしてはいただけませんか
!?﹂
分家の男性が誰かに向かって訴える。
お嬢様って、誰だろう?
私以外に女性がいたかな?
ふとそう思って、視線を走らせかけたが、それが私だということ
に思い当たって少しばかり驚く。
随分とムシのいいことを言う人だな。
﹁誰に何をとりなせと仰るのか、わかりませんが?﹂
私は相手の手落ちをつつく。
﹁それはもちろん!﹂
﹁誉は私の友人です。その友人に対して暴言を吐いた方に、何をす
ると?﹂
私はこれでもしつこい性格をしている。
自分に対して言われたことは、意外と気にならないし忘れてしま
うが、それが周囲の大切な人たちなら話は別だ。
絶対に赦しは与えない。
﹁ああ、そうそう。葛城の方がエントランスの所にいらっしゃるの
をお見かけしましたよ﹂
711
にこやかな笑みを浮かべて告げる。
息を呑みこむような音共に、男性はがくんとしりもちをつく。
﹁あ、ああああああ⋮⋮﹂
﹁ご自分でなんとかするべきですね﹂
そう言えば、目を瞠った男性は、床を這いながらその場から逃げ
出した。
﹁⋮⋮葛城の方って、瑞姫、よく知ってるね﹂
感心したように橘が呟く。
﹁そりゃ知ってるよ。君のおばあさまだよ﹂
﹁⋮⋮あ。いらしてたな、確かに﹂
嘘は言ってません。
どうだと、胸を張って見上げれば、苦笑を浮かべた橘が軽く首を
横に振る。
﹁その機転の早さには脱帽するよ﹂
褒められた気がしないのは何故だろう?
むっと顔を顰めれば、御祖父様に頭を撫でられた。
﹁ありがとうございます、相良様﹂
ご当主が御祖父様に頭を下げる。
﹁礼を言うにはまだ早いぞ、橘の。儂はおまえさんが気に入らんか
らの﹂
わずかに目を眇めた御祖父様の表情は実に冷たいものだった。
﹁橘の、おまえさん、企業トップとしてはそれなりじゃがの。男と
しても父親としても失格じゃな。わかっておるか?﹂
御祖父様の説教タイムが始まったようだ。
この場合、橘を立ち会わせるのはどうかと思うのだが。
部屋を出ようかと橘に合図を送るが、彼は首を横に振る。
当事者として立ち会うつもりか。
712
﹁至らぬと常々思っております﹂
殊勝な言葉を口にするが、そもそもその言葉自体が間違いだとい
うことに気が付いていない。
﹁至らぬというのは、単なる逃げ口上よ。おまえさんは絶対にその
言葉を口にしてはならん。自分の立場を自覚しておるのならな﹂
﹁自覚は⋮⋮﹂
﹁しておらぬじゃろう? 小槙に愛想を尽かされたのもわからぬよ
うだしの﹂
﹁それは!?﹂
﹁お座敷以外で、小槙に会うたことはあるか? 真季として、会え
たかの?﹂
御祖父様、それ、ストレートすぎますよ。
息子の前でそれ言っちゃダメだって。
﹁仕事以外で会わぬのなら、それは見限られたということじゃ。ま
あ、さもありなん。おまえさんは最初から間違えたのじゃからな﹂
﹁何を仰いますか! いくら相良様でも⋮⋮﹂
面と向かって間違いを指摘されれば、流石に誰でも怒るだろう。
だが、誰にでもわかる間違いなのだから、その次の言葉はない。
﹁そもそも、おまえさんは小槙を選ぶべきじゃった。さすれば、何
の問題も起こらなんだ。数年待って、小槙を妻とし、その子が生ま
れれば次期殿は誰にも認められる嫡子じゃ。お嬢とて、何の気兼ね
なく甥っ子を溺愛できるじゃろう。お嬢は小槙から子を奪ってしま
ったことを後悔しておったからの﹂
﹁そんな⋮⋮そんなことは一言も⋮⋮﹂
﹁たわけっ!! 言うわけなかろうがっ! 世間知らずの若い娘が、
己の我儘のせいで大切な妹の人生を変え、その子にも苦難を強いて、
後悔したところで己の脆弱な身では何もできぬと思えば、口を閉ざ
してすべてを受け止め続けるしかなかろうがっ!! 気付かぬおま
えさんが愚かだというのがわからぬか!﹂
大喝だった。
713
思わずびくっと身を竦めそうになるくらい、大きな叱り声。
耐性のある私でもそうなのだから、聞き慣れない当主であれば恐
怖を覚えるだろう。
言われているのが自分であるということも含めて。
﹁もう1つ、言うてやろう。その昔、孫の1人がおまえさん主催の
パーティで頬を腫らして帰ってきおった。その兄姉から事情を聴け
ば、次期殿を庇って打たれたという。次期殿はのう、父や母を思い
やって、何一つ言わなんだが、幼い頃から謂れのないそれこそ八つ
当たりのような非難を浴び、暴力を赤の他人から受けておったのじ
ゃよ﹂
﹁相良様! それはっ!!﹂
はっとしたように御祖父様を振り返った橘が制止の声を上げる。
﹁今ですら、このように言うなと出来の悪い父を庇おうとする子を、
おまえさん、何を見ておったんじゃ?﹂
﹁誉、本当に?﹂
言われたことが真実かどうかを問われ、橘は唇を噛み、無言を貫
く。
嘘だと言って事実を曲げることは、御祖父様の前ではできないだ
ろう。
だが、決して肯定することができない橘は、無言を貫くという選
択肢を選ぶしかない。
﹁先程もそうじゃ。あの木偶と愚かな言い争いを繰り返す父の代わ
りに、弔問客に挨拶をして、その合間に打ち合わせをしてと、親の
庇護を受けるべき未成年が親以上に働いておったぞ。己の不甲斐無
さを恥ずかしいとは思わぬのか?﹂
﹁相良様、父は、義母がすべてだったのです。どうぞ、ご容赦くだ
さいますよう⋮⋮﹂
御祖父様と父親の間に割って入った橘が、頭を下げて頼み込む。
それが、すべてだった。
﹃子供に庇われる親﹄という立場に立って、初めてご当主は己の
714
不甲斐無さを自覚したようだった。
﹁誉⋮⋮﹂
﹁そろそろ時間じゃろうて。己が親と、お嬢の夫と思うなら、今度
こそ間違わずに己の仕事をしてくるとよい。いつまで客を放ってお
くつもりじゃ?﹂
﹁申し訳も⋮⋮﹂
﹁謝罪よりも動け。言葉で尽くしたところで、誰も納得はせん。儂
はここでお嬢と話をするでは﹂
御祖父様の言葉に、ご当主は微妙な表情になる。
﹁そうそう。次期殿は、本人が望むなら、儂が貰う。相良の名の下
に、次期殿が望む人生を歩ませよう。おまえさんは当主として新し
い家族を作るがいい﹂
﹁⋮⋮ッ!?﹂
すっかり悪役気取りだなぁ、御祖父様。
ちょっと不謹慎だと思うけれど、それは橘にとって最良の選択の
ひとつかもしれないので、とりあえずは沈黙を守ろう。
うちは、名持ちの分家の数も多いし、私の友人ならばと喜んで受
け入れる家も多いだろう。
本家筋でも否やはないと思うし。
うちが盾になれば、葛城も事を構える気にはならないだろうしな。
﹁ここを開場しよう。御導師様に御挨拶にも行かないといけないし﹂
橘がご当主を促す。
﹁誉、おまえ⋮⋮﹂
﹁話は後だよ。しなければならないことを1つ1つ済ませていこう﹂
そう言って、御祖父様に一礼した橘は、ご当主の背を押し、歩き
出す。
すれ違いざま、私が差し出した手に軽く自分の手を触れ、そうし
て穏やかな笑顔を作った橘に、彼の覚悟を知る。
この場で一番大人なのは、橘なのだと理解した瞬間だった。
715
92
通夜は静かに、滞りなく終わった。
元々、由美子さまの友人知人は殆どいらっしゃらず、ご当主の仕
事関係が出席者の殆どであれば、厳かな雰囲気は保っていても悲し
みに暮れるといった風情はなく、何処か事務的な空気が流れている。
これも、ご当主が由美子さまを妻に望んだことによる弊害の1つ
かもしれない。
静まり返った会場とは裏腹に、エントランスホールは通夜の席だ
というにも関わらず商談の花が咲いている。
企業人というのは、そういうモノだと知っているが、少しなりと
も故人を悼めと苦く思う。
客を見送る役目の橘家当主も、その中に入っていると知れば、苛
立ちは募る。
だが、この中に橘はいない。
御遺体の傍についているのだろう。
出棺までの間、線香の火を絶やすことはない。
誰かが必ず火の番をしなくてはならないのだ。
踵を返し、一度出た会場へ再び足を踏み入れれば、思った通り、
誉が棺の傍の椅子に座っていた。
﹁誉﹂
どこかぼんやりした様子の橘に声を掛ければ、ゆっくりと橘が振
り返る。
﹁⋮⋮俺、おかしいのかな? いや、薄情なんだろうな。義母が亡
716
くなったというのに、全然哀しくない﹂
ぽつりと呟いた橘は天井を仰ぐ。
﹁大切な方が亡くなったイコール悲しいということには、必ずしも
ならないぞ。これ以上、病気で苦しむことはないんだと思ってほっ
とすることもある﹂
死を願ったわけではないが、それでもこれ以上の闘病生活を続け
なくて済むのかと安堵することは、決して悪いことではないはずだ。
少なくとも、橘はもうこれ以上、義母の容体に心を揺さ振られず
に済む。
﹁うちの通夜は賑やかだぞ。なんせ、笑いが絶えないからな。故人
が生まれてからこちら、ありとあらゆる失敗談や笑い話を披露して、
皆で大笑いするんだ。怒って起き出すんじゃないかって思うほど、
大騒ぎになる﹂
﹁それは、楽しそうだな⋮⋮﹂
﹁楽しいぞ。個体の死は、決して存在の死には繋がらない。誰かが
覚えている限り、その存在は﹃生きている﹄ことになるんだからな。
自分が持っている記憶を語って、誰かに引き継いでもらうことで、
長い時を生きていくことになる。君はまだ、由美子さまを覚えてい
るだろう? だから、この方はまだ亡くなってはいないんだ﹂
そう話しながら、橘の傍へ立つ。
﹁そう、か。俺は、自分がどこか壊れた人間なんだと思ってた﹂
座ったまま、橘の腕が私へと伸びる。
﹁ごめん、少しの間だけ﹂
そう言うと、囲い込むように私を引き寄せ、お腹のあたりに額を
つける。
﹁壊れた人間は、自分が壊れていると自覚はしない﹂
壊れた人間ほど、自分は正常だと思い込む。
正常な人間は、人と比べ、己が普通の範疇に入っているのかと思
い悩むものだと聞いた。
その意味では、間違いなく橘は正常な感覚を持つ人間だ。
717
決して慰めなどではなく、真実そう思っていることを伝えるとい
うことは難しい。
そう思いながら、橘の髪を撫でる。
さらさらのふわふわで羨ましいな。
私の髪はさらさらの範疇だが、ふわふわとは縁がない。
すとんと落ちて、ぺしょっとしている。
直毛人種にとって、癖毛人種は非常に羨ましい、憧れだ。
その、ふわっとした手触りを楽しむべく、もふもふと指先だけで
かき混ぜてみる。
うん、本当に楽しい。
羨ましいぞ、橘。
﹁⋮⋮瑞姫、髪が乱れる﹂
不満そうな橘の声が上がる。
﹁男が髪が乱れたくらいで文句を言うな。もっと大切なことがある
だろう!?﹂
﹁大切なこと?﹂
不満そうだった橘の声音が変わる。
﹁今夜は眠れそうか?﹂
私が問いかければ、橘がひどく動揺した。
﹁あ、いや。今夜は、ここで寝ずの番だから⋮⋮﹂
﹁寝ずの番は交代でするものだ。君の睡眠時間も確保すべきだろう
?﹂
﹁⋮⋮瑞姫がいてくれたら、眠れるかも﹂
﹁私は、枕になる気はないぞ﹂
橘の頬を引っ張って言う。
﹁あいたたたっ! 痛いよ、瑞姫!!﹂
﹁冗談を言う元気が戻ってよかったな、誉﹂
﹁空元気も元気の内だって言うからね。御大に、感謝しますと伝え
てくれるかな?﹂
私を手放した橘が、髪を整えながら告げる。
718
﹁俺を引き受けると言っていただいて、嬉しかった。早く大人にな
って、家を出たかった。橘とは無関係なところで生きたかった。そ
う思っていた俺に、御大の言葉は救いだ。俺にもまだ行ける場所が
あるんだと思えるのは、本当に嬉しいことだよ。父に家族ができれ
ば、俺はもうこの家にいる必要がないからな﹂
そう、言葉を紡ぐ橘の表情は明るく、落ち着いていた。
﹁葛城は、俺を迎えに来ると思う?﹂
﹁十中八九。葛城は女系だ。男が生まれる確率は、本当に低い。葛
城の血を持ち生まれた男子がいれば、それが大巫女の血筋ならば、
必ず迎えに来て当主に据えるはずだ﹂
﹁望まれて生まれたというのは、嬉しいことだろうけど、有無を言
わさずというのは癪に障るな。俺は、自分の意思で自分の人生を決
めたい﹂
﹁そうだな。自分の生きる道は、自分で決めるべきだろう。当主が
宣言した通り、相良は誉を迎え入れる用意がある。必要ならば、遠
慮なく利用してくれ﹂
﹁ありがとう﹂
﹁なんの。先程は、祖父が済まなかった。誉が言ってほしくないこ
とを暴露してしまった﹂
御祖父様は橘を傷つけるつもりはなかった。
それだけは言える。
だが、言われたくないことをあえて言ったことに対しては、償わ
なければいけないだろう。
﹁その後に、赦してほしいとは言わないんだ?﹂
﹁赦さなくていいと思っているからな。それをネタに我々を脅せば
いい﹂
﹁⋮⋮あのね、瑞姫⋮⋮﹂
呆れたように橘が溜息を吐く。
﹁感謝している相手をどうして脅すわけ?﹂
﹁ん? そっちの方が気兼ねなくいろいろ言えるだろう?﹂
719
﹁瑞姫の中で、俺がどれだけ悪役なのか、ちょっと気になったよ⋮
⋮﹂
がっくりと肩を落として呟く橘に、私は笑う。
﹁悪役じゃないから、言ってるんだよ。利用しろってね﹂
そう言えば、橘は首を横に振った。
﹁充分だよ。これ以上は、瑞姫に依存してしまいそうになる﹂
﹁それが必要なら、すればいい。何も依存することがすべて悪では
ないだろう?﹂
﹁例えそうだとしても、俺は、自分の足できちんと立ちたい。そう
でないと、俺が自分を赦せなくなる﹂
﹁誉は真面目だな。思うとおりにするといい。誉が私を必要とする
限り、私は傍にいよう﹂
以前はできなかった約束を口にする。
それに気付いた橘が、目を瞠る。
﹁⋮⋮瑞姫、男前すぎ。俺を誑し込んでどうするつもり?﹂
﹁さて、どうしよう?﹂
誑し込むつもりもなければ、そのあとどうするかなんて考えたこ
ともない。
友は友だ。
必要とされるなら、自分の持てるすべてで応えようと思うだけだ。
﹁今週は休むのだろう? 千景が授業のノートを取ってくれている。
ゆっくり休め。来週、学校で会おう﹂
そう言えば、橘が頷く。
柔らかな笑顔だ。
鎧のように作られた穏やかな表情ではない。
由美子さまを失ったことで、橘は2人の母親を失った。
生みの母と育ての母。
真季さんは小槙姐さんとしても、ご当主のお座敷には二度と上が
らないだろう。
ご当主が下手に動けば、置屋を抜けて姿を隠すかもしれない。
720
それぐらいは楽にやってのける人だ。
橘はもう、橘家が自分の居場所ではないと悟ってしまった。
これから先は、自分の足場を作って家を出るつもりなのは間違い
ない。
力を貸したいと思っている友がいることを忘れないでほしいと願
うのみだ。
﹁では、またな﹂
﹁うん。また﹂
笑い合って、別れる。
ただそれだけ、当たり前のこと。
そんな、何気ないことが橘の心を慰めてくれるといい。
そう思いながら、私は由美子さまの棺に一礼して、その場を立ち
去った。
721
93
久々に夢の中。
気が付いたら、目の前でソファに腰かけ寛ぐ瑞姫さんの姿があっ
た。
﹁久しぶりだね、瑞姫﹂
優しい笑顔の人は、私と同じ顔をしているとは思えないほど大人
びていてカッコいい。
﹁お久し振りです﹂
﹁そんなところに立ってないで、座るといい。ティーセットもある
し、お茶でも飲みながらってとこかな﹂
くすくすと笑いながらテーブルを示す瑞姫さん。
﹁あ。ホントだ。いつの間に⋮⋮﹂
﹁ここで味覚があるのかとか、空腹感が満たされるのかとか、疑問
に思うところだけどね。まあ、いいや、何でも﹂
テーブルの上に乗ったティーセットを眺めていれば、瑞姫さんが
笑いながら言う。
こういうところ、似てるなぁと思うと、少し嬉しくなる。
いそいそとソファに座り、ティーポットを手にしようとすれば、
私を制した瑞姫さんがポットを手に取り、紅茶を淹れてくれた。
﹁はい、どうぞ﹂
﹁ありがとうございます﹂
にこにこと笑う瑞姫さんに勧められ、カップを手にし、そっと一
口。
722
﹁美味しい。味覚、ありますね﹂
美味しいと感じたことが嬉しくて、そう言えば、よかったねと微
笑んでくれる。
ほっこりと和んだところで、何を話そうかと悩みだす。
聞いてほしいことは沢山ある。
聞きたいことも、もちろんだ。
どれから整理して話すべきかと考えていれば、瑞姫さんの方が話
題を振ってくれた。
﹁由美子さまは、残念だったね﹂
﹁はい。誉が予想以上にショックを受けてました。多分、ショック
が大きすぎて自分の感情を感じ取れなくなっているというか、麻痺
しちゃっているというか⋮⋮﹂
﹁うん、そんなカンジだった。ゲーム進行で行くとね、由美子さま
は秋頃に亡くなられるはずだったんだ。設定よりかなり早い展開だ。
まあ、現実とゲームが一緒のわけがないから、それに振り回される
のもどうかとは思うけれどね﹂
少しばかり沈んだ表情で瑞姫さんが言う。
﹁秋頃と、夏前⋮⋮確かに早い﹂
﹁東條凛が、誉と親しければ、葬儀に参列して誉を慰めるっていう
イベントになるんだけれど。それ以前だったね﹂
﹁はあ。彼女、まだ課題が終わってないようです﹂
﹁⋮⋮⋮⋮⋮⋮﹂
私の言葉に、瑞姫さんは視線を逸らし、無言を貫く。
コメントはないが、言いたいことは言葉にするよりも遥かに伝わ
る。
癇癪起こして真面目に課題に取り組んでないんだろうな。
教科書をよく読めば、大体のヒントは書いてあるのに。
頭の良し悪しじゃなくて、真面目に取り組もうと思うか否かの問
題だ。
﹁まあ、この調子じゃ、学期末のテストも赤だろうね。その時点で
723
彼女の望むストーリーは断たれるってことに気付けばいいけれど﹂
まず無理だろうという言葉がその言葉の裏から読み取れる。
私は彼女が努力できない人間だとは思わない。
毎日、私を探すために隣の教室へ通っていた人だ。
普通であれば、一度行っていなかったら諦めるだろう。
ところが毎日通っていたのだ。
だから、私は彼女が努力できない人ではないと思う、ただ、努力
する方向性が著しく間違っているだけなのだ。
そう言えば、瑞姫さんは﹃確かにね﹄と笑ってくれた。
瑞姫さんと話すことは、本当に飽きないというか、勉強になると
いうか。
興味が尽きないことばかりだ。
私が聞きたいことに対しての答えも、直接わかりやすく説明して
答えてくれる時もあれば、自分で考えるようにとヒントしかくれな
い時もある。
まるで学校の先生のようだと言えば、﹃新人研修の手伝いをした
ことがあるからだよ﹄と教えてくれた。
会社の新人研修は、自分で答えを導き出すことから始まるらしい。
どの会社もそうだというわけではなく、瑞姫さんが所属していた
ところはそうだったということだ。
会社か。
八雲兄上から時々様子を聞くことがあるけれど、私には実に謎な
場所だ。
私も時期が来れば、足を踏み入れる場所なのだろう。
その時まで楽しみに待っていよう。
﹁でも、この時期に瑞姫と入れ替わることができて良かったよ﹂
ふと、瑞姫さんがそんなことを言い出した。
﹁瑞姫の身体が成長しきる前で良かった﹂
﹁え?﹂
724
どういうことだろう?
思わず瑞姫さんをまっすぐ見つめて首を傾げれば、ちょっと苦い
笑みが返ってきた。
﹁だってね。12歳の女の子が、成長しきったナイスバディな身体
に戻ってきたら、違和感感じて自分の身体じゃないような気がして
拒絶反応起こしちゃうかもしれないだろう?﹂
﹁あ⋮⋮そう言えば、そうかも﹂
この身体に戻ってきて最初の頃、視線の高さに違和感を感じた。
だけど、それはすぐに治まった。
事故の前はちょうど身長が伸びかけの頃で、気が付いたら目線の
位置が変わっていて身長が伸びてたんだなと思ってた頃だったから、
いきなり高くなっていても、﹃ああ、身長がここまで伸びたんだな﹄
としか思わなかった。
体形は、悲しいと思うべきか、あの頃とそこまで変わっていない
ような気がしていたから、そこまで違和感を感じなかったんだ。
まあ、よくよく見れば、もちろん変わっていたんだけど。
戻って来た当初に、すでに姉上たちみたいなプロポーションだっ
たら、絶対に自分の身体じゃないって思ってただろう。
それを言えば、確かに瑞姫さんの言うとおりだ。
﹁瑞姫の身体は、成長が遅れている。これは、事故の傷のせいだと
言っても過言じゃない。茉莉姉上も仰っていたからね。傷の回復期
と安定期、それに身体の成長期が交互に来るんだそうだ。この間ま
でが安定期で、また回復期に入る。その後に安定期が来るか、身体
の成長期が来るかのどちらかだろう。違和感を感じずに身体の成長
に心がついていければ何の問題も起こらないからね﹂
﹁そう、ですね﹂
回復期か。
ケロイドの所がむずむずと時々むず痒くなるのは、そのせいなの
かもしれないな。
たまに掻き毟りたくなるほど痒くなって困るのだ。
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掻いちゃ駄目だ! と、自分に言い聞かせなきゃいけないので、
実に戸惑うのだ。
だって、何で痒くなるのかよくわからなかったから。
ついうっかりケロイドに手が伸びかけると、疾風が慌てて止めて
くれるので助かっている。
まあ、痒いからって、かゆみ止めの薬を塗るわけにもいかないけ
れど。
﹁ああ、そうそう。これから梅雨に入って、体調を崩しやすくなる
から気を付けて。少しでも申告が遅くなれば、疾風が怖いから﹂
﹁えっ!? そっち!?﹂
気を付けるのが、体調不良じゃなくて疾風への申告なんだ。
﹁だって、疾風、ものすごーっく! 怖いんだよ。何で少しでも気
になった時に言わないんだっ! って、目を吊り上げてね﹂
﹁うわぁ⋮⋮予想がつくだけに恐ろしい﹂
﹁でしょう!? 実際、想像するよりも遥かに恐ろしいんだ﹂
ぷるぷるとわざとらしく震えてみせる瑞姫さんに、どれだけ疾風
の地雷を踏みぬいたのか、ちょっと興味が湧いてしまった。
でも、聞いてはいけないことだとわかっている。
聞いたら最後、私が泣き叫びそうだ。
﹁雨が降るとか、天候が大きく変わる前、じくじくと古傷が痛むん
だ。気圧の関係らしい。よくわからないけど﹂
感覚の問題だから説明しづらいのか、少しばかり困ったような表
情で瑞姫さんが説明してくれる。
﹁アレは本当に不快なんだ。派手に痛いのなら、何とかなるんだけ
ど。鈍∼く! 地味∼っに、疼くように痛いんだよ。そしてたまに
ぎゅーっと痛くなる。これは、気圧が急激に変わるときみたいだ。
鈍い痛みだから、何となく、何とかなるんじゃないかなって思って
申告せずにいたら、動けなくなるほど痛くなって疾風にしこたま怒
られたことがあってねー⋮⋮あの時思ったよ。些細なことでも疾風
には正直に言っておかないと、降臨した般若と対峙しないといけな
726
くなるんなら絶対に速攻で言ってやるって﹂
﹁⋮⋮般若、ですか⋮⋮﹂
鬼女の面を思い浮かべ、あの壮絶な表情に恐怖を覚える。
基本的に、疾風は静かに怒るタイプだが、私に対しては瞬間的に
がっと感情を見せて怒るのだ。
自分が悪いとわかっていても、反発したくなる時がある。
そういう時に疾風が、がっつりと怒るのだ。
あれを般若というのは、実にもって正しいと言えるだろう。
しかも、怒っていてもというか、怒っているからこそなのかもし
れないが、疾風の怒り方は感情に任せてではなく、理詰めでこんこ
んと説教しながら怒るのだ。
感情を見せても感情任せではないところがとても恐ろしい。
理詰めでこちらの反論を見事に封じてくれるので、実にきつい。
だから、毎回思うのだ。もう二度と、疾風を怒らせるまい、と。
そう決心しても何度も怒らせてしまうところが成長できてないと
いうか、何処に地雷があるのかいまだに把握できていない未熟さゆ
えか。
瑞姫さんですら疾風を怒らせているのだから、私が怒らせても仕
方がないと思う。
﹁まあ、いいか。で、済ませちゃ駄目だからね! 疾風に関しては、
それは般若の予感なんだから!﹂
﹁肝に銘じます!﹂
素直に瑞姫さんの言葉に従い、頷く。
経験者の言葉は実に重い。
ふと気づけば、周囲がきらきらと淡く輝きを放っていた。
﹁ああ、もうじき目覚めるんだね﹂
その光に気付いた瑞姫さんがゆったりと笑う。
﹁もっと、お話したい﹂
﹁うん。また今度ね﹂
727
私の我儘を、我儘と窘めずに次回にと受け流す。
こういうところが、瑞姫さんが大人なんだと思うところだ。
また次があると、私に教えてくれることで、安心して目覚めるよ
うにと促してくれるのだ。
﹁約束ですよ﹂
﹁わかった。約束だね﹂
目を細め、柔らかく笑う瑞姫さん。
まだ眠らずに起きていてくれるんだと安堵して、私は光に身を委
ねた。
728
93︵後書き︶
更新しようとして、なかなかネットに繋がらずに焦りました。
どうやら周辺でアクセスが集中して繋がりにくい状況に陥っていた
もよう。
物理的に設定を見直した貴重な時間を返してほしいとちょっと思い
ました。
729
94
﹁瑞姫!﹂
週が明け、橘が登校してきた。
こちらへやってくる足取りは軽く、湛えた笑みも柔らかい。
どこかほっとしたような様子は、家よりも学び舎の方が橘にとっ
て居心地がいい場所だからかもしれない。
﹁瑞姫、久し振り。その前に、おはよう、か﹂
近付きながら橘が両手を広げる。
む。これは、ハグをしようというわけか。
﹁おはよう、誉。元気そうでよかった⋮⋮うわっ!﹂
ハグならば、返さなくてはと思っていたが、どうやら違ったよう
だ。
ぎゅーっとぬいぐるみのように抱き締められてしまった。
今のところ、力加減は絶妙だけれど、潰さないでください、苦し
いのは苦手ですから。
﹁橘、長すぎる!﹂
黙って見ていた疾風が、口を挟む。
﹁もう少し! 先週から会ってないんだ、瑞姫が足りないからチャ
ージ中なんだ﹂
﹁私が足りないって、どういう意味なんだ⋮⋮?﹂
苦しくない程度にむぎゅむぎゅされながら、首を捻る。
﹁瑞姫は本人だから、わからないと思う﹂
﹁そうなのか?﹂
﹁そういうモノなんだ﹂
730
よくわからないので、疾風に視線を向ける。
﹁疾風はわかる?﹂
﹁俺にはわからないな。そもそも、ずっと傍にいるから、瑞姫が足
りないってことはまず起こらない﹂
﹁そっか﹂
淡々とした口調で返されてしまった。
いや、待てよ?
何となくわかってるような口ぶりだったぞ。
﹁じゃあ、疾風とも会ってなかったから、疾風も足りないんだ? 次は疾風とハグする?﹂
﹁絶対、嫌だ!!﹂
橘と疾風が異口同音で拒絶した。
何故だ?
こんなに息があっているのに!?
納得いかないぞ。
﹁男は嫌だ。潤いがない﹂
きっぱりとした口調で橘が言う。
﹁なるほど。確かにそれは納得できる⋮⋮﹂
﹁納得されると複雑な気分だが。ごつごつしてるのよりは柔らかい
方が何倍も嬉しい﹂
続いて疾風も言う。
﹁うんうん。それは言えるな! 柔らかいと気持ちいいし﹂
犬も可愛いが、ごつい犬よりもしなやかな猫を抱きしめるのは気
持ちがいいものな。
私がそう答えると、橘も疾風も複雑そうな表情で私を見た。
﹁絶対、何か、違うこと考えての答えだと思うけど⋮⋮﹂
﹁間違いなく違うことを考えてるけど、方向性は間違ってないから
怖いんだよな、瑞姫の場合﹂
﹁え?﹂
﹁⋮⋮いや﹂
731
何のことを言っているのだろうかと2人を見上げれば、2人とも
私から視線を逸らす。
そこへ、賑やかな声が響き渡った。
﹁ずっるーいっ!! 誉ばかりずるいぞ!!﹂
在原が駆け寄ってきて橘に抗議を申し入れている。
﹁ああ! そうだな。私が悪かった! 在原、代わろう﹂
いまだに私に抱き着いている橘を在原の方へと押しやる。
﹁瑞姫?﹂
﹁静稀も久し振りだったのだろう? 思い切り誉をハグするといい﹂
﹁違ぁーうっ!! ハグするなら瑞姫の方だって!! 男は嫌だ!﹂
これまた先程の2人と同じことを言う。
﹁なるほど。同性同士が嫌なのか⋮⋮﹂
そう結論付けようとして、ふと思う。
﹁いや、待てよ? 別に同性が嫌というわけじゃないよな﹂
女の子同士でハグするのはよくあることだ。
別に嫌でも何でもない。
勢いよく抱き着かれるのはさすがに嫌だが、そうでなければさほ
ど問題はない。
﹁⋮⋮そりゃあ、瑞姫は女の子だからさ﹂
﹁女の子ってよくハグしてるよね。仲の良い子達だと。あれは目の
保養だな﹂
微妙な表情の在原に橘が言う。
﹁女同士なら目に楽しいが、男同士だと視覚の暴力だよな﹂
しみじみとした様子で疾風が告げる。
﹁なるほど。男同士だというのが問題だったんだな﹂
うん、納得した。
﹁⋮⋮瑞姫。問題解決したのはいいんだけど、何について考察して
たんだ?﹂
げっそりした表情で在原が問う。
732
﹁ハグする相手についてだ。3人とも﹃男は嫌だ﹄と即答してたか
らな﹂
﹁いや、考えなくてもわかるでしょ、それ?﹂
﹁ちなみに私の感覚だと、ある一定レベル以上は親しい相手以外は
嫌だ、になるな﹂
呆れたように告げる在原に対して、自分の考えを述べれば、一瞬、
3人が固まった。
﹁ある一定レベル⋮⋮? 知人とかそういう線引きかな?﹂
﹁知り合いでもハグできる人とできない人がいるってことか?﹂
ぼそぼそと顔を寄せ合って相談している。
相変わらず仲が良いな、彼らは。
そう言えば、今日はまだ千瑛と千景の姿を見ていないな。
そう思って視線を巡らせて、思わぬ人物と視線が合った。
﹁早い時間なのに賑やかだと思えば、君達でしたか﹂
穏やかな表情を作ってこちらに近寄ってきたのは、大神紅蓮だっ
た。
﹁しかも、廊下の真ん中でハグとは⋮⋮羨ましいですね﹂
にこやかな笑顔。
﹁誉と久々に会ったから、挨拶していたところだよ﹂
﹁ああ、そうでしたか。僕とは挨拶していただけないんですか、相
良さん?﹂
にこにこと人好きのする笑顔で問いかけてくる大神。
これは、企んでいるな。
私がどう反応するのか、読んで試すつもりなんだろう。
時々、こうやって人の反応を試すのは、大神の悪い癖だ。
シナリオ通りに人が動くものだと思っている。
﹁挨拶か﹂
﹁ええ、挨拶です﹂
ここで私が﹃おはよう﹄と告げれば彼の読み通りになるんだろう。
733
無視をするという選択肢もあるはずだ。
疾風たちが乱入するということも考えられる。
実際、じわりと疾風から不機嫌そうな感情が揺らぎ始めている。
﹁そうか、挨拶か﹂
私に挨拶を求めるからには、それ相応の覚悟があるというわけだ。
ならば、受けて立とうではないか。
正面撃破が望ましい。
大神と私ではそんなに身長差がない。
実に好都合だ。
﹁瑞姫! 無茶をやらかすな!﹂
大神に向かって歩き出した私に、ぎょっとしたように疾風が制止
の声を掛ける。
無茶じゃないが、やらかしますとも。
誰でもそうだろうが、私は試されるのが好きではない。
相手が心底後悔する方法で徹底的に打ち砕くべきだろう。
七海さま直伝の庶民ハグを実践して見せようではないか!
一般的に、ハグは軽く肩を抱き合いながら互いの頬を交互にくっ
つけあうのだそうだ。
余程親しくない限り、キスはしないのだそうだ。
まあ、これも、各国や地方によりけりで、どれが正しいというわ
けでもないようだ。
頬にキスをするにせよ、ちゅっとリップ音を立てるのは上流界で
は下品とされることが多いようだ。
確かに、マナーの授業でリップ音は立てないことと習ったし。
ところが世界は広い。
とあるところでは、ハグをしたときにキスではなく頬をつけるだ
けなのに、わざとリップ音を立てるという挨拶をする。
何故そんなことをするのか、ちょっとばかり疑問に思ったが、昔
からだからという一言で疑問は解明できなかった。
気になるところだが、悪戯するにはこれがいいだろう。
734
無表情のままで大神の前に立てば、大神が初めて戸惑うような表
情を浮かべる。
﹁相良さん?﹂
その呼びかけをまるっと無視して手を差し伸べる。
ぎょっとした大神が、一歩、後ろへ引いた。
それと同時に私が前に出たので、距離は変わらず。
そのまま首の後ろへ腕を回し、大神の左頬へ私の右頬をあて、ち
ゅっとリップ音を立ててやれば、がちっと大神が固まった。
調子に乗って今度は右頬へ左頬をあて、同じくリップ音を小さく
響かせる。
そのあと、すっと後ろに下がって大神を見ればまだ固まっていた。
﹁おーい? 大神様? 意識在りますか?﹂
目の前で手を振ってみたが、大神は動かない。
﹁挨拶しろと言ったから、挨拶をしたのに、返さないとは失礼なや
つだな﹂
これを聞けば、皮肉や嫌味の1つでも言いたくなるだろう言葉を
言ってみたが、やはり凍っている。
﹁⋮⋮⋮⋮疾風、これ、どうしよう?﹂
振り返って疾風に相談してみたら、深々と溜息を吐かれてしまっ
た。
﹁だから、無茶をやらかすなと⋮⋮﹂
﹁無茶はやってないぞ。挨拶しただけだ。要求されたからな!﹂
胸を張って言えば、また溜息が返ってくる。
﹁岡部、言っても無駄だよ。瑞姫に悪気は一片もないからね﹂
諦めたかのような口調で橘が言う。
﹁悪気⋮⋮悪戯心ならあったけど﹂
正直に言っておこう。
どうせ、言わなかったらさらに怒られるに決まっている。
﹁いや、瑞姫は悪くない。だけど、この手の悪戯は、相手を選ぼう
ね﹂
735
小さな子に言うような口調で橘に窘められてしまった。
﹁相手を選ぶ⋮⋮大神は駄目だったということか。誰ならいい?﹂
﹁⋮⋮う∼ん。難しいところだね、それは﹂
苦笑する橘の表情は、確かに複雑な色合いを湛えている。
﹁一番の問題は岡部だから、仕方ないしね﹂
﹁疾風?﹂
﹁そ。岡部が瑞姫の傍にいたから、あんまり男に対して恐怖心や警
戒心を持ち合わせてないのが問題なんだ﹂
﹁警戒心は持っているぞ﹂
﹁うん。瑞姫が考えている警戒心とは違う方面だから、この場合﹂
﹁そうか。なら、持っていないのかもしれないな﹂
よくわからないが、橘がそういうのなら、そうなのかもしれない。
頷いたところで、ようやく大神が息を吹き返した。
顔を赤く染め、耳まで真っ赤になっている。
そうしてそのまま座り込んでしまった。
﹁⋮⋮参った⋮⋮﹂
ぼそりと告げて、膝の上に乗せた腕に顔を埋めて隠してしまう。
﹁この場合、おまえの自業自得だからな﹂
大神と私との間に立った疾風が、大神を見下ろしてそう告げる。
﹁自業自得、確かに。行動が読めない相手にすべきことじゃなかっ
たな﹂
反省しきりの大神だが、何だか私が悪者になった気分だ。失敬な!
﹁女性に挨拶を強要したこと自体が、問題行動だよ、大神君?﹂
橘も冷ややかな声音を作って大神に告げる。
そう! そうなんだ!
問題は、そこなんだ。
撃破できたようだから、これ以上は気にしないでもいいかと思っ
たんだけど。
そこまで親しくもないのに、自分にも挨拶しろと言うのはどうか
と思うんだ。
736
挨拶してほしかったら、自分から声を掛ければ相手は返すだろう。
それだけでいいのに、何故、相手を不快にさせる方法を取るのか。
﹁二度目はないと思え﹂
疾風がそう言うと、教室へ戻るようにと皆を促す。
﹁疾風、あれは?﹂
とりあえず、自分がやったことなので責任は取るべきかと大神を
指して問う。
﹁言ったろう? 自業自得だ。捨て置いていい﹂
﹁そうか。わかった﹂
捨てていいのか。
何となく釈然としないものがあるが、まあ、いいか。
あとで千瑛にでも聞けば、教えてくれるだろう。
そんなことを考えて、教室へと向かった。
737
95
梅雨に入った。
ある程度覚悟していた鈍い痛みがじわりと襲ってくる。
思っていたほど痛くはない。
きっと、時間が癒してくれたからだろう。
逆を言えば、今まで瑞姫さんは相当痛い思いをしてきたというこ
とだ。
それを思うと自分の不甲斐無さを情けなく思う。
自分の心に負けて、逃げ出したりしたから、瑞姫さんに要らぬ苦
労を背負わせてしまった。
申し訳ないと思う気持ちが、逆にこれくらいのことで弱音を吐く
ことを良しとせず、つい我慢してしまった結果、疾風にしこたま怒
られる羽目になった。
あれだけ瑞姫さんに言われていたにもかかわらず、やらかしてし
まったのだ。
つまり、痛いと思っても、これくらい大丈夫だと思い込んで、貧
血起こして倒れてしまった。
うん、疾風が怒るのも無理はない。
私が全面的に悪い。
瑞姫さんの忠告をきちんと実行しなかったことが敗因だ。
さらに、貧血ごときで保健室に行くなんてとごねて、サロンのカ
ウチで休憩中。
正直に言います。
茉莉姉上が怖かった。
738
疾風がここまで怒るからには、本職はもっと怒るに違いない。
そう思ったら、とても保健室へ行くなんて言えません。
我儘だとわかっていたけれど、保健室へ行かないと言い張り、疾
風にサロンに連れてこられてしまいました。
きちんと休めと説教されて、大人しくカウチに横になっている最
中だ。
気を聞かせてくれたコンシェルジュが温かいお茶と膝掛を用意し
てくれたのが、さらに居たたまれない。
﹁恵みの雨と申しますが、やはり雨が続きますと気が滅入ってきま
す。そうなると体調にも影響が出てきて、どうしても崩れやすくな
るものです﹂
ホットジンジャーティをテーブルにセットしてくれながら、コン
シェルジュが話しかけてくれる。
私が疾風に怒られて、かなり落ち込んでいたから気を遣ってくれ
たのだろう。
﹁ところが、温かいものを飲むと、身体がポカポカと温まって気分
がゆったりとして何となく気分も上向きになってきます﹂
優しい言葉に、素直に頷く。
﹁どうぞ、これを召し上がって、ゆっくりと休まれてください。し
ばらくの間、こちらは人払いしておきましょう﹂
﹁ありがとう﹂
彼の申し出に、礼を述べ、カップに手を伸ばす。
程よい温かさを保つそれは、心穏やかになる良い香りがする。
いつの間にかコンシェルジュの姿は見えなくなり、彼が定位置に
ついていることに気付く。
プロというものはすごいな。
このサロンを利用する生徒の好みをきちんと覚えているのだから。
彼の気遣いに感謝しつつ、お茶を飲み干してカップをテーブルの
上に戻すと、大判の膝掛を肩口まで引き上げ、身体を冷やさないよ
うに気をつけながら目を閉じた。
739
思っていた以上に、眠りはあっさりと訪れた。
うつらうつらと夢現。
優しい手が私の頭を撫でる。
髪を弄ぶように指が触れ、梳かしては離れる。
どこかで嗅いだ事のある爽やかで甘い香りが鼻腔をくすぐる。
穏やかで落ち着く香りだ。
ふと柔らかな感触が頬をかすめた。
何かが頬に触れた。
何だろう?
いや、誰だろう?
不思議な想いが沸き起こる。
何故、こんなに大切そうに触れてくるのだろう?
一体、何故。
取り留めもなく浮かび上がる疑問に答える声もなく、再び意識が
闇にのまれる。
そこにいるのが誰なのか。
目覚めると同時に忘れ去りそうなかすかな疑問と共に、私は眠り
に誘われた。
ふと気付けば目が開いていた。
視界に映るのは、曇天と薔薇の葉の緑。
温室だということは、サロンで眠っていたわけだ。
と、いうと。
さっきのは夢だったのだろうか。
誰かが頭を撫でてくれていたような気がしたのだが。
740
﹁瑞姫、起きたのか?﹂
疾風の声がして、一気に意識がはっきりしてくる。
﹁ん﹂
短く返事をして起き上がると、向かい側のソファに疾風と橘が座
っていた。
﹁あれ? ふたりとも⋮⋮﹂
いつ来たんだ?
不思議に思って首を傾げれば、苦笑が返ってくる。
﹁よく眠ってた。コンシェルジュがいたせいもあるだろうが、少し
無防備すぎるぞ﹂
疾風の御小言が早速始まる。
﹁瑞姫、体調はどうだ? 痛みは酷いのかい?﹂
心配そうな表情で橘が問いかけてくる。
﹁ん。大分いい。去年よりも痛みが薄れてるせいか、嬉しくてやら
かしたようだ﹂
﹁調子に乗るからだ﹂
御小言は諦めたらしい疾風が溜息交じりに呟く。
﹁だって、疾風。もう一年も皮膚が破れてないんだぞ。快挙だと思
わないか!?﹂
瑞姫さんの黒歴史と呼ぶものの中に、皮膚が破れて倒れた去年の
記憶がある。
それ以来、皮膚が破れたことはない。
瑞姫さんに言わせれば、感動ものだそうだ。
私の言葉に、疾風は反論を封じられ、橘はほっとしたように表情
を和らげる。
﹁去年のアレは、確かに岡部の反応がすごかったし。諏訪を怒鳴り
つけていたと後から聞いたよ﹂
﹁あれは⋮⋮当然だろう? 皮膚が破けたのは、あいつが原因だ﹂
むすりとした疾風がそう断じる。
本当にそうだったのかと言われれば、私にはよくわからない。
741
ストレスが原因であることは知っているが、記憶の中では定かで
はないのだ。
﹁あー⋮⋮誉? その、手にしているスケッチブックはなんだ?﹂
あからさまに話題を変えようとして、何かを描いていたらしい橘
の手にあるスケッチブックに目が行く。
﹁ああ、これ? うん。これね、瑞姫に見てもらおうと思ってたん
だ﹂
そう言って、私に見せてくれたスケッチブックには、アクセサリ
ーのデザイン画が描かれていた。
﹁これは⋮⋮すごいな﹂
色石をふんだんに使った洗練されたデザインに、視線が釘付けに
なる。
これがそのまま作られたら、間違いなく売れるだろう。
石も、色をそのままに半貴石にすれば、手頃な値段に抑えられる
から、買い手はもっと幅広くなるはずだ。
そう言えば、嬉しそうに笑った橘がバッグの中から一通の封筒を
取出し、差し出してきた。
﹁義母が、生前に俺のデザインを若手のコンペに送っていたらしく
て。この間、その結果が送られてきたんだ﹂
そう説明して、封筒の中身を見るように促され、受け取って中の
書類を見て驚く。
﹁特別賞か!﹂
金賞ではなく、特別賞というところに若干の不満を持つが、賞を
取れたことに対して純粋に嬉しく思う。
﹁すごいな。おめでとう!﹂
﹁ありがとう。まさか、賞を取れるとは思わなかったから、本当に
驚いたよ。でも、これで、腹が決まった﹂
﹁ん?﹂
﹁俺、ね。ずっとこういった宝飾デザインをやってみたかったんだ。
一応、見様見真似でここまできたんだけど、本格的にデザインの勉
742
強をしようと思って﹂
﹁そうか﹂
﹁義母が俺にこの道に進んでいいと手紙を残してくれていたんだ、
コンペの手続きをしてくれた時に書かれてたものみたいで、この間、
遺品整理をしていて見つけた﹂
﹁由美子さまが⋮⋮やはり、母親なんだな﹂
子供が進みたいと思っている道に気付き、後押ししようとしてい
たのか。
﹁うん。義母が俺を大切に思っていてくれたことを疑ったことはな
いよ。父もね、それなりに愛情があったことは知ってる﹂
苦笑しながら告げる橘は、子供の頃から割り切っていたのだろう。
己の立場というものに。
﹁まあ、これを盾に橘の家と離れることもできるからね。父が何か
を言えば﹂
﹁まだうだうだ言ってるのか﹂
ウンザリしたように疾風が呟く。
﹁仕方がない。こればかりはね。俺は、嫡子ではないけれど唯一の
子供だし﹂
さっぱりとした表情で答える橘は、これから先のことをすでに見
据えているのだろう。
﹁デザインの勉強をするために、東雲の大学へは進まないことにし
た。自分の実力がどこまで通用するか、惜しまず努力したいと思う﹂
﹁そうか。やりたいことが見つかったということは、誉にとって幸
運だな。応援する﹂
﹁ありがとう。それで、瑞姫にお願いがあるんだけど﹂
嬉しそうに笑いながら橘が首を傾げる。
﹁私に?﹂
﹁そう。瑞姫に。俺のデザインのモデルになってほしいんだ﹂
﹁は?﹂
﹁瑞姫に似合うものをデザインしたいと思ってる﹂
743
えーっと⋮⋮この場合、どう答えればいいのだろうか?
思わず疾風に視線を向ければ、少しばかり思案顔の疾風がゆっく
りと頷いた。
﹁モデルが瑞姫だということを公開しなければ、別にかまわないと
思う﹂
本当にそれでいいのだろうかとまじまじと疾風を見てしまう。
﹁いいの?﹂
﹁イメージモデルが必要なら、引き受けても構わないと思う。ただ、
それが瑞姫だと決して口外しないこと。それ以外は特にこちらから
つける注文はないな﹂
﹁瑞姫は?﹂
﹁疾風がいいというのなら、私も大丈夫だ。誉に必要なだというの
なら、引き受けよう。友の申し出だ﹂
﹁ありがとう﹂
嬉しそうに笑った橘に、引き受けてよかったと思う。
﹁それで、イメージモデルって何をするんだ?﹂
とりあえずわからないことを質問すれば、疾風も橘も弾けるよう
に笑い出した。
﹁うん、やっぱり瑞姫だよね﹂
絶対、褒めてない。
むくれた私に気付いた疾風も橘も、慌ててご機嫌取りをし始めた
けれど、暫くの間、むくれることにした。
形ばかりに機嫌を直して、自宅へ戻った時、御祖父様に呼ばれて、
意外な話を聞かされるまで、とりあえず私の機嫌は本当は良かった
ことは内緒である。
744
96
﹁諏訪の隠居が動きよったわ﹂
家に帰ってすぐに御祖父様に呼ばれて開口一番がこれだった。
﹃諏訪の隠居﹄とは、先代のことだろう。
﹁諏訪伊織のおじいさまが、ですか?﹂
念の為、確認してみれば、そうだと頷かれる。
﹁⋮⋮今頃、ですか?﹂
もっと早くに動けば色々と良かったはずなのに。
つまりは、動くつもりが一切なかったご隠居様が動く必要が出て
来たということだ。
﹁⋮⋮理由は2つ、ですか?﹂
﹁そうだ﹂
苦笑を浮かべて御祖父様が頷く。
﹁明日、そのまま本社へ来れるか? 会長室へ直接通すように話を
しておく﹂
﹁承知いたしました。家長命令に従いましょう﹂
普通であれば諏訪家の申し出など、素気無く切って捨てる御祖父
様が、ご隠居の申し出を受けるのにはわけがある。
御隠居様が動けば、話が早かったという所以もそこにある。
まあ、だからこそ、ご隠居様が動かなかったという理由も納得で
きるけれど。
了承した私は、部屋に戻り、明日の予定変更を疾風に伝えた。
745
翌日、迎えの車に乗り、相良の本社ビルへと向かう。
到着後、迎えに出て来たのは疾風のおじいさまだった。
﹁ひいさま、わざわざ足をお運びいただき、申し訳もございません﹂
恭しく頭を下げる岡部家の当主に、通り過ぎる人々が一瞬ぎょっ
としたようにこちらを振り向いたが、私が誰だかわかったらしくそ
のまま行ってしまう。
創業者の一族とはいえ、まだ未成年であるがゆえに会社とは無関
係だ、会社に顔を出すこともあるだろうが無視してよいと言われて
いるのだろう。
でないと、大変なことになる。
私とて、傅かれたいなどとは思ってもいない。
仕事の邪魔になりたくはないので、無視してもらった方がちょう
どいい。
﹁いや。時間に間に合ったつもりだが、お客様はもう到着されただ
ろうか?﹂
待ち合わせの時間はきっちり守るのが当たり前のことと教育され
ている身としては、そこが一番気にかかる。
﹁いえ、大丈夫でございますよ。疾風、おまえはここでひいさまを
お待ち申し上げよ﹂
﹁承服いたしかねます!﹂
家長の命に平然と疾風が楯突いた。
﹁疾風!﹂
﹁俺の主は瑞姫だ。いかなる時でも傍から離れるものか﹂
諌めようとしたところで、意地になっている疾風が聞くわけがな
いことを知っている疾風のおじいさまは、厳しい表情を見せる。
﹁ならば、任を解こうか﹂
﹁解いたところで変わらない。俺の主は瑞姫ひとりだ﹂
今日会う客人が諏訪家の人間でなければ、疾風もここまで意地を
張ることはなかっただろう。
746
疾風は私の傍を離れたから、事故が起こった時に私を庇いきれな
かったことを今でも悔いている。
それを知っていて、無碍に扱うことはできない。
﹁今回の件は、相良と諏訪の話だ。疾風は同席できない、それはわ
かっているな?
甘いと思うが、確認を取る。
ぐっと拳を握りしめた疾風が、無言で頷く。
﹁どんな話でも、口を挟むことは許されない﹂
﹁理解、している﹂
﹁私が戻るまで、隣室に控えて待っていろ﹂
﹁瑞姫!﹂
﹁私ができる譲歩はそこまでだ。何があろうとも、部屋から一歩た
りとも出るな。そこで私を待て﹂
私が疾風の手綱を握れていなければ、問答無用で引き離されるこ
とをわかっている疾風は、顎を引くように頷く。
﹁承知﹂
反駁していた表情を消し、私の譲歩に素直に応じる疾風に頷き返
し、岡部の当主に向き直る。
﹁未だに周囲がきな臭いので、連れて行きたいのだが、良いだろう
か?﹂
﹁確かに。話は聞き及んでおります。本社内で何事が起きるものか
と断言することもできますまい。疾風、ひいさまをしっかとお守り
せよ﹂
﹁無論﹂
実の祖父を睨みつけるように頷く疾風。
さすがにそれは態度が悪いと思うのだが。
疾風はおばあちゃんっこだが、おじいさまと仲が悪いわけでもな
いはずなのだが、何でだろう。
今、聞くべきことでもないしな。
意識を切り替え、案内の為に先に立つ岡部家の当主の後に続いた。
747
本社ビルの最上階は社員食堂が入っている。
その下は、プレゼンや会議に使うための部屋。
勿論、その部署ごとに各階に会議室は用意されているが、大きな
会議をするときの為にそういった部屋が用意されているのだそうだ。
社長や会長、他の役員たちのための部屋は、ビルの中腹あたりに
ある。
秘書課の人たちが動きやすいようにあまり高いところはやめた方
がいいのではないだろうかということらしい。
それがどういう意味なのか、秘書の仕事をよく理解していない私
にはわからないが、他の部署と連携を取るために必要な処置なのだ
ろうか。
同じ階に総務部があるということなのだから、秘書課は総務部に
属しているのだろうか。
ちなみに、疾風のおじいさまは秘書ではなく役員の方だ。
イメージ的にはうちの御祖父様の秘書が似合いそうだが、生憎と
岡部家が経営する会社の会長でもあるので非常勤の役員なのだ。
なので疾風がごねたら最初から自分の部屋に押し込むつもりだっ
たようだ。
それだと絶対に疾風は暴れると思うので、それは賛成できないけ
れど。
会長室の隣にある秘書の控室に疾風は待機してもらうことになっ
た。
会長室に入ると、仕事をしていた御祖父様が顔を上げ、ソファに
座るように促す。
﹁なんぞ、茶菓子でも用意させるかの?﹂
ぽつんとソファに座った私を眺め、御祖父様が呟く。
748
﹁お客様が来られる前にテーブルを汚すのもなんですし﹂
いやいやいや! お茶してる最中に来られたら、片付けるの見ら
れちゃうことになりますって!
孫に甘いという評判を立てられるのはまずいでしょう。
﹁アレは客とは言えん。構わんよ﹂
﹁私が構います!﹂
思わず全力で拒否った私に、お茶の用意をしていた秘書の方が笑
い声を響かせる。
﹁申し訳ございません。相変わらず仲がおよろしいので和んでしま
いました﹂
父様くらいの年齢のダンディという言葉が似合いそうなおじさま
だ。
﹁爺に甘えもせん孫だがの。いいか、滝野。孫は甘えてくるから可
愛いものだぞ﹂
拗ねた御祖父様がご自分の秘書に訴える。
﹁そのくらいに、御祖父様。あんまり仰いますと、御祖母様に言い
つけますよ﹂
﹁ぬ。可愛くない!﹂
﹁会長、お言葉と表情が一致しておりませんよ。ああ、お客様がお
見えのようです﹂
笑いを収めて指摘した滝野さんは、ノックの音に動いた。
﹁おお! イイ女に育ったじゃないか、瑞姫ちゃん!!﹂
ドアが開くなり、聞こえた声に私は視線を泳がす。
声の持ち主は、諏訪家先代当主だ。
当代の斗織様とは全くと言っていいほど似ていない豪放磊落な性
質の方だ。
顔立ちは似ているので、ものすごく違和感を感じるのだ、いつも。
勝手知ったる何とやらで、案内の方に気安く礼を言い、部屋に入
ってくると定位置のように私の向かいのソファに座る。
749
その後ろで、そんな祖父の姿に驚く諏訪伊織の姿があった。
﹁伊織! そんなところに固まらずに、早く座れ! 迷惑だろうが﹂
思わず誰の迷惑なのか、突っ込みたくなってしまったが表面上の
平静を保つことに成功する。
﹁おじいさま、御挨拶もせずに⋮⋮﹂
﹁ああ? 口上なんてな、時間の無駄だ。やることだけを押さえて
おけばいい﹂
窘めようとする諏訪をご隠居が切って捨てる。
うん。どう見てもご隠居って言葉が似合わない方だな。
﹁人のところに押しかけて、口上が時間の無駄とはどういう了見か
の?﹂
呆れたように御祖父様がぼやく。
実はこの2人、あまり知る方はいないが、昔馴染みで仲が良い。
この方があの事件の時に出てきて、頭を下げたのなら、相良は強
く出ることができなかっただろう。
許さざるを得なかった状況を作ってしまっていたはずだ。
それがわかっていたからこそ、前面に出なかったのかもしれない。
﹁ジジイな口調が似合うようになったなー。まあ、瑞姫ちゃんがこ
こまで別嬪に育ったのなら、おまえがジジイになるのもあたりまえ
か﹂
滝野さんが差し出すお茶を当たり前のように受け取りながら、軽
口を叩くご隠居。
﹁しっかし、本当にイイ女になって。うちのがいなきゃ、後添えに
迎えたいくらいだな﹂
﹁おじいさまっ!!﹂
顔色を変えて声を荒げる諏訪。
﹁いつもながら、盛大な惚気をありがとうございます、ご隠居。亡
くなられてもそうやって惚気ていただけるのなら、大刀自様も喜ん
でおられるでしょう﹂
それこそ聞き飽きたと言いたくなる惚気を聞かされ、呆れ加減に
750
言えば、諏訪が驚いたように私を見ている。
﹁いやあ、バレちゃってるわ。普通、御嬢さん方はこう言うと喜ん
でくれるんだけどなぁ﹂
苦笑を浮かべ、首を捻るご隠居に諏訪が困ったように顔を顰めて
いる。
いまだ衰えることのない容貌と女性を喜ばせることを至上とする
性格のため無類の女好きと誤解されやすい方だが、亡くなられた大
刀自様一筋の方なのだ。
諏訪家中興の祖と言われる方は、諏訪家の歴史において異端すぎ
る性格の持ち主だ。
それゆえ、そこまで諏訪家を大きくできたと言いかえることもで
きるだろう。
﹁うちの女房がいなきゃと言われて、惚気だと気付かずに喜べるほ
ど駆け引きに長けてはいないようです﹂
﹁ああ。そこで、うちの孫じゃなくてうちの女房と変換しちゃうあ
たり、強者だねぇ。誰に似たんだか﹂
﹁間違いなく、ご隠居の親友ですね﹂
﹁なんて勿体ない!﹂
言いたい放題とはこのことだろう。
御祖父様のこめかみに青筋が浮き出ている。
諏訪は祖父同士が仲が良いということを知らなかったのだろう。
思いもよらぬ展開に呆然としている。
﹁うちの孫で遊ぶな! 用がないなら追い返すぞ、諏訪の﹂
﹁冗談じゃねぇか。融通きくようできかねぇんだから﹂
どこまで本気で話しているのかわからない2人は、お互い、ソフ
ァにふんぞり返る。
﹁さて、冗談はさておき、本題に入るかね﹂
一瞬で態度を改めたご隠居は、居住まいを正し、私と御祖父様を
見据えた。
751
97
ひたりと据えられた視線。
目に力があるというのは、この方のことを言うのだろう。
その視線を受け止めるには力がいる。
主に胆力といわれるものだ。
見つめられるだけで、何か情報を引き出されているのではないか
と思う恐怖心と戦い続けなければならない。
だが、逆に開き直ってしまえば楽だ。
どれだけ知られようが、私は私だ。
私の行動を決めるのは、私自身でなければならない。
だから、何を知られようが構わない、と。
真っ直ぐにその目を見返せば、柔らかく眇められる。
そうして驚いたことにご隠居は深く頭を下げられた。
﹁すまなかった﹂
ただ一言。
それだけの謝罪だが、込められた想いは伝わる。
﹁顔を上げてください。もう済んだことです﹂
諏訪家の誰からもらった謝罪よりも、この一言の方が重い。
この謝罪を受けて、怒りを持続できる人間はそれほどいないだろ
う。
だから、ご隠居は前面に出なかったのだろう。
ご自分が与える影響力というものをよく御存じの方だ。
怒りの矛先が己の子や孫に向かうとわかっていても、それが正当
なものだと思えばあえて遮ろうなどと思わなかったのかもしれない。
752
﹁そう言えるのは、瑞姫ちゃんが生きていてくれたからこそだ。今
だからこそ言うが、瑞姫ちゃんにもしものことがあれば、孫どもの
命じゃ釣り合わねぇから俺の首出そうと思ってた﹂
﹁おじいさまっ!?﹂
﹁やめてください。老い先短いご隠居の命頂いたところで私は生き
返ったりしないんですから。無駄に命を散らすなんて、冗談じゃな
い﹂
顔を顰めて答えれば、ご隠居は声を上げて笑い出す。
﹁さすが、こいつの孫だけある。俺に老い先短いなんてぬかすのは、
瑞姫ちゃんぐらいだな﹂
﹁私に比べれば短いのは事実です! そして、誰の命もいらない﹂
﹁そうだな。俺が悪かった﹂
肩を揺らし、苦笑したご隠居は、困ったような表情を浮かべる。
﹁まあ、これは一度きちんと謝罪しておかないとと思ってたからな
ぁ。ホント、不詳の孫どももそうだが、息子と娘夫婦も迷惑かけち
まって﹂
﹁孫については謝罪は受け取りますが、イイ年した中年に対する責
任までご隠居が引き受けることはないかと。成人するまで、確かに
親が責任を持たねばなりませんが、結婚して子供を育てている年代
になってまで、その子供の責任を親が取る必要性はまったく感じま
せんが? むしろ、その年になっても親に責任を取ってもらうなん
て恥を知れと言いますよ、私﹂
﹁うわぁ⋮⋮ぐっさりきちゃったよ。俺の硝子のハートが粉々に砕
けそう。情けなくて申し訳ないってカンジだわ﹂
がっくりと肩を落とすご隠居を見やり、諏訪が固まっている。
随分と長い間、ご隠居とはお会いしていなかったが、相変わらず
な方だと思ってしまう反面、諏訪たちはこんな顔を見たことなかっ
たのだろうと推測してしまう。
冗談と無茶無鉄砲に破天荒を練り込んで、悪戯心をコーティング
して焼き上げたら、きっとこんな人になるに違いないというのがご
753
隠居なのだが、知らなかったのだろう。
これを大器と呼ぶのなら、絶対に大器にならなくていいと思わせ
る方だ。
﹁これ言っちゃったら、完全に砕かれるな。完膚なきまでに叩き壊
されそう﹂
言いたくなさそうにご隠居の視線が彷徨う。
﹁早く言え。見当はついておるわ﹂
御祖父様がウンザリした様子で促す。
﹁うわっ! 厭なジジイだな﹂
﹁おまえもジジイだろうが!﹂
高齢者同士の擦り合いが始まりそうな気配に、溜息を吐く。
﹁⋮⋮本題に入るのではなかったのでしょうか?﹂
指摘すれば、老人組が固まる。
﹁もしかして、瑞姫ちゃんも見当ついちゃってる?﹂
﹁はい﹂
﹁うん、ごめん﹂
深々と溜息を吐いたご隠居は、情けなさそうに笑うと、ソファの
背もたれに背を預ける。
﹁ムシのいい話で申し訳ない﹂
﹁やはりそうでしたか。諏訪、おめでとうと言った方がいいか?﹂
﹁あっ⋮⋮いや﹂
先程からまともに会話に加われずにいた諏訪が、慌てて首を横に
振る。
そうだろうな。
めでたいことではあるが、実際、めでたくはない。
﹁次の誕生日は、来月だったか? そこで17歳にして家督を譲り
受け、当主に座るのだろう?﹂
﹁知っていたのか!?﹂
﹁見当がついていると言っただろう? 君がご隠居の許へ行ったと
言っていたから、ご隠居なら必ず近いうちにそう動くだろうと思っ
754
た﹂
﹁斗織は駄目だ。伊織が生まれたから家督を譲ってくれと言われて、
まあ、こっちもそろそろ引退してぇなと思っていたから譲ったけど
よ、なっちゃいねぇ。女房の尻に敷かれるのは家の中のことだけで、
それ以外で口出しさせるのは家長じゃねえからな﹂
﹁諏訪家が斗織様の代で潰れようが構わないと思っていらしたので
は?﹂
今までの態度からすると、諏訪家を大きくしたけれど、それを維
持することにそれほどまでのこだわりを持っていらっしゃるように
は見受けられなかった。
﹁潰すなら、潰し方ってぇもんがある。潰れてもいいが、あの女房
のせいで潰すのはいただけねぇ﹂
不満そうに告げる方は、私の言葉を全く否定しないどころか肯定
した。
そうか、あれほど大きな家を潰すことに否やがないのか。
﹁それで、ご隠居が後見に立つと仰るのですね? それを相良に黙
認しろと﹂
﹁その通りだ﹂
あっさりと認めたご隠居は、私と御祖父様を眺める。
﹁儂は構わんよ。誰が当主になろうと他家のことじゃ。相良には関
係ないの﹂
﹁家長の言葉に従います。他家の事情に興味はありません﹂
御祖父様がのんびりとした口調で答え、それに私が同意する。
﹁⋮⋮なんだよ。全部、バレバレ?﹂
御祖父様と私の言葉からご隠居はある程度のことを察したようだ。
顔を引き攣らせながら、ぎこちない笑みを浮かべる。
﹁諏訪の誕生パーティを欠席しろと仰ろうとしていることでしょう
か?﹂
﹁うわあ⋮⋮バレてるーっ!! しかも、かなりお怒り?﹂
﹁律子様が、私をパーティに招待して、うっかり出席したら、息子
755
の婚約者ですと発表しようと画策しているということですか?﹂
﹁うっわー! 笑顔が怖い!! しかもバレてるし。どんだけ阿保
だよ、息子の嫁は﹂
﹁ちなみに、近いうちに律子様自ら、私をどこかの宝飾店へ誘い、
エンゲージリングを押し付けようと計画中であるということくらい、
情報は掴んでいますよ﹂
﹁マジか!!﹂
調べてくれたのは、千瑛だけど。
そのことは諏訪も知らなかったらしく、目を瞠って驚いている。
﹁うわぁ⋮⋮うちのがいなくてよかったわ。これ知ったら、激怒し
て嫁を締めるぞ﹂
﹁大刀自様⋮⋮﹂
諏訪のおばあさまに関しては、あまり記憶がないが、楚々とした
日本美人であったような気がする。
間違っても激怒して息子の嫁を締め上げるような御無体を働くよ
うな女性ではなかったはずだ。
まさかと思って顔を顰めれば、ご隠居が首を横に振る。
﹁騙されちゃいけねぇ。うちのは見た目で得するタイプでな、俺よ
りも手が早い﹂
真顔で言うご隠居の言葉に、御祖父様がうんうんと首を縦に振っ
て頷いている。
﹁ま、とりあえず、そこまでバレてるんだったら、嫁が何言ってき
ても無視してくれ﹂
﹁それができれば、そうしますが。もちろん、パーティの方は欠席
させていただきます﹂
直接来られたら、無視できずに誘いに乗るほかない。
そのことを仄めかせば、ご隠居は渋い表情になる。
﹁本当にすまねぇな﹂
あのバカ息子とぼやくご隠居に肩をすくめて見せた私は、とりあ
えずの問題が浮き彫りにされたことに溜息を吐きたくなった。
756
98
﹃諏訪のご隠居﹄、あるいは﹃諏訪の御大﹄と呼ばれ、表舞台か
ら一時期姿を消していた方は、いまだ健在であった。
喜ばしいと思うべきか、それとも衰えぬその影響力を嘆くべきか。
諏訪伊織を諏訪家の当主へと据え、その後見役として睨みを利か
せるというのなら、これからの諏訪家は足元が固まるということだ。
律子様の件で諏訪家の力を削ごうと思っていた者たちにはとんだ
肩透かしとなる。
ご隠居相手では手が出せないと、誰もが思うだろう。
ここまで聞くに、ご隠居は律子様の考え方が気に入らないという
ことは明白だ。
﹁ん? どうした?﹂
目を細め、優しげな笑顔でご隠居が私を促す。
︵チョイ悪エロ親父。無駄に色気がありすぎるじーさまだよな、ま
ったく︶
私の中で瑞姫さんが呆れたように呟いている。
思わず同意しそうになった。
ご隠居の華やかな存在感は、確かに色気と呼ばれるモノに変換で
きる。
そうか、これが﹃無駄に色気がある﹄とか﹃フェロモン垂れ流し﹄
とか言われる人なんだ。
﹁いや。ちょっと納得したところです﹂
素直に感動しながら正直に答えれば、ご隠居は一瞬固まった。
﹁⋮⋮⋮⋮⋮⋮瑞姫ちゃん? ちょっと待て! 今、何思った!?﹂
757
﹁ご隠居はモテるんだろうなと﹂
さすがに先程思ったことを口に出すのは憚れるので、変換して答
えれば、隣で御祖父様が爆笑しだす。
﹁こやつがモテるだと!? 口先だけのヘタレが!!﹂
﹁おいこら、ジジイ! 表出ろ! 暴露するんじゃねぇ!!﹂
笑い続ける御祖父様に、ご隠居が喧嘩を売る。
大刀自様か、ご隠居をヘタレと呼んだのは。
御祖父様はそれを聞いて知っていたというのが、ここの流れのよ
うだ。
そうか。ご隠居はヘタレだったのか。
つい、視線が諏訪の方へと流れる。
ヘタレとは遺伝するものなのか。
恐ろしいものだな。
目を伏せ、溜息を吐けば、喧騒が静まる。
﹁そう言えば、ご隠居は律子様が画策しておられる私と諏訪の婚約
には乗り気ではないようですが﹂
ふと疑問に思って、そう問いかける。
﹁当たり前だろう?﹂
それ以外の言葉はないと言いたげに、ご隠居が頷く。
﹁自分の嫁を何で母親に決めてもらわなくちゃならねぇんだ? 惚
れた女を口説くのは、男の特権だろうが﹂
こともなげに断言するご隠居に、御祖父様も頷く。
口説くのが特権なのか。
そういうもの?
首を傾げる私に、ご隠居はにやりと笑う。
﹁自分に惚れてもらうために、口説くのは当然だろうが。口説く言
葉に照れた様子を見せたりすれば、たまんねぇしなぁ! 照れる姿
を隠そうとするのも可愛いし。あの一瞬は役得だと思うな﹂
楽しげな様子は何やら思い出しているからだろう。
﹁意地張って、突っ撥ねてた女が堕ちてくれたら最高だろうがよ。
758
もちろん、運よく惚れてもらえても全力で口説き続けるがな﹂
顎に手をやり、にやにやと楽しげに笑う様子は、瑞姫さんが言う
﹃無駄な色気﹄に溢れている⋮⋮ような気がする。
極上の華やかな気配の人だと思うけれど、色気とやらは私にはま
だ理解できないようだ。
﹁ま、そんなわけで。伊織が瑞姫ちゃんに惚れてるんだったら、全
力で自分自身の力で口説けと、俺は言う。瑞姫ちゃんを傷物にした
から責任取るなんて理由は、瑞姫ちゃんを馬鹿にしているだろう?
瑞姫ちゃんは、あの嫁が言う﹃傷物﹄とやらじゃねぇしな。滅多
に見ない﹃極上品﹄だ。極上のオンナを手に入れるために努力しね
ぇ男になんか渡せるわけねぇだろ?﹂
華やかで柔らかな笑顔。
年齢というものを感じさせない若々しい空気を身に纏い、こちら
を見つめて目を細めている。
﹁それは⋮⋮そうですね。私の価値が容姿にしかないと言われれば、
確かに腹は立ちます。律子様の﹃傷物﹄という言葉は、そういう意
味に取れてしまう。私には、それは許しがたい﹂
瑞姫さんの今までの努力を無にする発言は絶対に赦せない。
友禅作家なんて、そう簡単になれるものではない。
絵を描く才能があったとしても、そこから先は弛まぬ努力と幾ば
くかの運が必要だ。
運には確かに恵まれていた、そういう環境に生まれついたからだ。
だが、瑞姫さんは努力を怠らなかった。
それが今に繋がっている。
そのことを無視しての発言は、誰が相手だろうとも決して赦さな
い。
﹁俺は、思っていない!! 相良の容姿が優れているのは確かだが、
それ以上におまえはすべてにおいて努力家だ! 俺はそこを尊敬し
ているんだ﹂
慌てたように諏訪が言葉を挟む。
759
﹁そうか? だが、努力するだけで結果が残せないのなら意味がな
いと、私はそう思う﹂
人によっては厳しいと思われるかもしれないが、ある意味、結果
がすべての世の中だ。
結果が評価できなければ、努力したと思われないことも事実だ。
その点では瑞姫さんは素晴らしいと思う。
疾風も橘も、在原や千瑛と千景もその努力に見合う結果を出して
きた。
私も彼らに負けないようにしないといけない。いつも、そう思っ
ている。
﹁瑞姫ちゃんの言うとおりだな。結果が出せなきゃ、意味がない。
瑞姫ちゃんはその結果を出してきた。だが、あの嫁はそれを見落と
している。だから俺はあの嫁を認められねぇ﹂
大体、押しかけ女房なんて男の名折れだからなと、ご隠居が嘯く。
この言い方からすると、過去にも律子様は何かやらかしたような
気がする。
私には関係ないが。
﹁伊織についてもそうだ。瑞姫ちゃんを口説く資格は、今はねぇな。
口説いたところで気付いてもらえねぇのがオチだろ﹂
﹁おじいさま!?﹂
﹁今のおまえは、それこそ俺と似た容姿ぐらいしか褒められたとこ
ろがない。学校の成績が良くても、それを応用できなければ意味が
ねぇ。それに加えて瑞姫ちゃんは友禅作家として名を馳せている実
力がある。おまえのどこに、その瑞姫ちゃんと肩を並べられる取り
柄がある? それ以上の何かがないと、女は興味を持ってくれねぇ
ぞ。そこんところは、かなりシビアな生き物だからよ、女って。そ
いつの子供を産んでやってもいいかと思わねぇのなら、見向きもさ
れねぇぞ﹂
抗議の声を上げる諏訪に、ご隠居は鼻で笑う。
︵よく御存知で︶
760
くすりと笑って瑞姫さんが呟く。
やっぱりこれって、経験値とかいうものだろうか?
︵さぁね。大刀自様を口説き落とされるのに、相当苦労したってこ
とだろうね︶
まあ、大刀自様を娶られるのは、確かに苦労しただろう。
うちの御祖母様や七海さまとは別の意味で芯の強い方だという記
憶がある。
﹁一族の総意として、おんし以外の諏訪は瑞姫には近づけさせない
つもりだがの﹂
御祖父様が、ご隠居にそう告げる。
﹁だってよ、伊織? おまえ、資格なしだと。諦めろ﹂
ご隠居からそう言われ、諏訪の表情が変わる。
悔しげな、だが、挑むようなものに。
﹁すまねぇが、瑞姫ちゃんにもうちょこっと話があるんだ。その前
に、この莫迦、下に連れて行ってくれねぇか?﹂
下とは、ロビーのことだろうか。
エントランスまで案内すれば、おそらく諏訪が自分でなんとかす
るだろう。
はいと頷けば、御祖父様が付け加える。
﹁瑞姫、疾風を伴え﹂
近づけさせないという意思を貫くおつもりなのか。
確かに、疾風がいれば私も安心だ。
いや、社屋で迷子になるとか、そういうことは考えていないが!
﹁承知いたしました。しばらく席を外します。諏訪、下まで案内し
よう﹂
そう言って、私は立ち上がる。
渋々と立ち上がった諏訪は、御祖父様に挨拶をして私に続く、会
長室を出たところで左腕を掴まれた。
左腕を掴む力は強くはない。
761
だが、何かを訴えようと緩む気配は全くない。
﹁諏訪、手を放せ﹂
忠告だけはしておかなないと。
﹁話を、聞いてほしい﹂
耳許で告げる苦しげな声。
﹁手を放せば、聞こう。下に行く道すがらにでもな﹂
﹁それでは駄目だ!﹂
切羽詰まった声で否定した諏訪は、手を放したと同時に背後から
私を抱きすくめた。
﹁母が、勝手に暴走しているのを止めなかったことを許してほしい﹂
できれば、耳許で話さないでほしいのだが。
無意識に投げ飛ばしたくなる自分を押さえるのに苦労をしている
ことを察してほしい。
﹁それを理由に家長の座を剥奪するためなのだろう? ご隠居が考
えたことに否やを言うつもりはない﹂
﹁おじいさま、か⋮⋮﹂
口惜しげな声が耳許をかすめる。
首筋に生温かい感触が。
そんなところに顔を埋めるなと言ってもいいだろうか。
﹁相良、俺は⋮⋮﹂
﹁⋮⋮疾風!﹂
がつんと痛そうな音が響き、背後から諏訪の気配が消えた。
それと同時に背中に馴染んだ気配が現れる。
ああ。止めたのに間に合わなかったか。
振り返ろうとした私を疾風が阻む。
﹁瑞姫に触れるなと言っておいたはずだ﹂
ひやりと身を竦めたくなるほど冷たい声。
﹁おまえには関係ない﹂
﹁は! よく言うな。おまえが瑞姫にしたことを、俺たちは決して
忘れないぞ。そして、瑞姫が赦したとしても、俺たちは赦さない。
762
俺から瑞姫という存在を奪おうとしたおまえを、俺は一生赦さない﹂
そこに込められたものは、怒りではない。
憎しみでもない。
そして、嫌悪ですらなかった。
﹁おまえがどう思おうと、関係ない﹂
立ち上がりながらそう告げる諏訪に、疾風が笑う。
﹁瑞姫の気持ちも関係ないんだろ?﹂
その言葉に諏訪が固まる。
﹁自分の気持ちだけを押し付けて、瑞姫の気持ちも考えないで、今、
何をするつもりだった? ええ? 言ってみろよ﹂
冷ややかな声に圧力が加わる。
﹁諏訪のご隠居に試されたこともわからなかったのか? これが諏
訪の次期なら、ご隠居の望み通り諏訪は潰えるな﹂
﹁疾風!!﹂
言ってはならないことを口にした疾風を制する。
﹁諏訪、私の随身が済まなかった。下に案内する﹂
疾風の前に出て謝罪の言葉を口にする。
﹁相良、俺は⋮⋮﹂
﹁直通のエレベータはこちらだ﹂
諏訪に背を向け歩き出せば、その後ろに疾風が続く。
私と諏訪を接触させないように壁になるつもりがありありとわか
る。
エレベータへと案内すれば、実に気まずい空間に押し込められる
ことになった。
私を気にする諏訪と、諏訪を威嚇する疾風。
私は始終無言を貫く。
沈黙が重いが、この場を打開するつもりもない。
電子音と共に扉が開き、1F到着したことを知らせる。
車寄せの方に黒塗りの車が停まっていた。
あれが、ご隠居が乗ってきた車なのだろう。
763
﹁案内は、ここまでだ。あとはひとりで構わないな?﹂
自分の仕事はここまでだと告げれば、諏訪の瞳が揺れる。
﹁相良!﹂
﹁ではな﹂
何か言いたそうな諏訪を置いて、私は彼に背を向ける。
諏訪もこんなところで醜態を晒すつもりはないのだろう。
﹁また明日、学校で﹂
私の背に声を掛けると、車に向かって歩き出す。
﹁⋮⋮⋮⋮⋮⋮﹂
諏訪を睨んでいた疾風が私の背を追いかけてくる。
﹁瑞姫、大丈夫だったか? 何か、気持ち悪いことされなかったか
?﹂
やや好戦的な声音で問う疾風に、これはマズイと思う。
ご隠居の話を聞かせるわけにはいかないだろう。
﹁結局、諏訪が何を言いたかったのか、まったくわからなかった﹂
口説くつもりだったのだろうか。
まあ、なんでもいいが。
荒れた気配を漂わせる疾風を宥める役目を誰か引き受けてくれな
いだろうか。
今、私の一番の問題は、そこであった。
764
99
朝から降っていた雨は、昼頃には小雨になり放課後には止んでい
た。
先日のご隠居との対面はあんなに堂々としたものだったのに、ど
ういった方法なのか見事に履歴を消されていた。
つまり、私はご隠居とも諏訪とも、あの日、会っていないことに
なっているのだ。
そうまでして存在を消したのは、目的のためだ。
現当主を排斥するためには、それ相応の準備が必要なのだろう。
傑物と言われたご隠居相手に、斗織様が太刀打ちできるはずもな
いが、ご隠居とて身内の恥を晒したいわけではない。
最近、とみに前に出だした律子様の足許をすくうために私へある
依頼があったのが、諏訪を下へ案内した後のことだ。
そこから数日後、何も知らない律子様はそろそろ動き始めるので
はないだろうか。
物事は、普通、計画通りにいかないものだ。
特に相手が人である場合、ある程度の予測は立てられても、確実
に実行できるわけではないことを踏まえて計画を立てておくべきだ
と教えられて育ってきた。
ある程度の余白、あるいは遊びと呼ばれる余裕をおいて、練られ
た計画を聞かされ、私は呆れるしかなかった。
﹁瑞姫、そろそろ帰るぞ﹂
疾風が私に声を掛けてくる。
765
迎えの車がそろそろ到着するのだろう。
疾風の言葉に頷いて、荷物を持って車寄せへと向かう。
そこで待っていたのは、我が家の車と、諏訪家の車であった。
﹁ごきげんよう、瑞姫様﹂
にこやかに微笑む律子様。
︵どのツラさげて来やがった!?︶
あ。瑞姫さん、ガラが悪いですよ。
あまりにもご隠居の読み通りで笑いをこらえるのに精一杯になっ
ていた私とは対照的に、瑞姫さんの機嫌は下降中のようだ。
背後の疾風の機嫌もやはり下降中だ。
﹁お久し振りです、律子様。伊織様をお迎えに?﹂
白々しくとぼけて微笑むと、会釈をして我が家の車の方へと足を
向ける。
﹁お待ちになって? わたくし、瑞姫様をお誘いに参りましたの。
ええ、ちょっとしたショッピングなんですの﹂
﹁そのようなお話は伺っておりませんが? 申し訳ございませんが、
私にも予定がありますので﹂
お断り路線で答えれば、車から降りた律子様が私の前に立つ。
﹁ほんのちょっとのお時間をいただけませんかしら? ええ、そう
ね。1時間ほど。わたくし、伊織しか子供がいませんでしょう? 一度、娘と買い物をしたいとずっと思っていましたの。わたくしの
我儘にお付き合いいただけないかしら?﹂
﹁岡部家の者を同席させますが、よろしいでしょうか?﹂
ちらりと疾風に視線を向けて、わざと言う。
﹁瑞姫様だけがよろしいの。女同士のお買い物をしたいの﹂
﹁お言葉ですが、疾風は私の随身です。いついかなる時も、片時も
離れず傍にいると交わしております。この約定は、片方が亡くなる
ときまで有効です。つまり、わたしが嫁いだとしても、疾風は私と
共に婚家に行くということです。ですから、ただの買い物でも傍に
いるのは当たり前のことですが?﹂
766
﹁嫁ぎ先にも!?﹂
一瞬、律子様の表情に嫌悪が浮かぶ。
﹁それは、問題ね。嫁ぎ先に護衛を連れて行くなんて、愛人を連れ
込んだと思われましてよ?﹂
﹁異なことを仰います。私は相良の人間です。例え嫁ごうとも相良
の人間であることには変わらない。相良の人間が随身を傍に置くこ
とは、何方でも御存知のこと。それを護衛だの、愛人だのと耳を疑
うような言葉が律子様から出てくるとは思いもよりませんでした﹂
冷ややかに応じれば、マズイと思ったのだろう、律子様が慌てて
取り繕う。
﹁ああ、いいえ! わたくしがそう思っているのではなくて、万が
一にもそう思う方がいらっしゃるのではないかと⋮⋮﹂
﹁そのような方がいらっしゃる所には嫁ぎませんので、何の心配も
いりませんね﹂
冷ややかな態度のまま、笑みを浮かべれば、さすがに﹃そのよう
な方﹄に自分が該当すると理解したのだろう、目を瞠ったまま凍り
つき、そうして打開策を見つけようと瞳を揺らす。
﹁瑞姫様! わたくし、その⋮⋮﹂
﹁律子様。突然、何のお約束もなく学園まで押し掛けて、予定があ
ると言っている人間に自分の都合の身を押し付けるのは、さすがに
非礼だと思われませんか?﹂
穏やかな笑顔を保ちつつ、そう告げれば、色を失くした律子様の
顔色がさらに悪くなる。
自分が迎えに行けば受け入れられると思っているあたり、我儘な
お嬢様のままなのだろう。
そのことを咎めだてするような人間が周囲にいなかったのか。
なまじ、中途半端に有能だったから、まかり通ってしまったのか
もしれない。
嫁いだ相手が諏訪家だったのも、その要因の1つだろう。
諏訪家は強者だ。
767
衰退している今では、相良の敵ではないけれど。
つまり、相手を見ないで喧嘩を売ればどうなるか、まったく考え
付いていないということだ。
想像力が枯渇していると、大変だな。
﹁それは、その⋮⋮﹂
﹁それとも、諏訪家は我が相良家に何やら含みがあるとでも?﹂
受けて立ちましょうと言外に匂わせれば、死人のような色合いに
なった。
まあ、数年前のことを思い出せば、顔色も悪くなって当然だろう。
分家だけが動いてあれだけのダメージを与えたわけだし、次に相
良本家が動けば息の根が止まることは予想つくだろう。
ご隠居が、この嫁のせいで諏訪が潰れるのは嫌だと言ったわけが
わかったような気がした。
息子が馬鹿だったというのなら、これは親の責任だ。
甘んじなければならないだろう。
ところが押しかけ女房である嫁が家を潰すのなら、赦せるわけが
ない。
絆された息子に腹が立つが、それ以上に押しかけて来たのなら家
を栄えることくらいやって見せろと言いたくなる。
おまけに孫も上手に育てているとは言えない状況だし。
どうにも斗織様の考えがわからないな。
表面上では夫婦仲は悪いようには見えない。
何故、当主として自分の妻を窘めないのか。
何か考えがあるのか。
まあ、いい。
色々な面で派手な父親を持ってしまった斗織様としても考えがあ
るのだろう。
ご隠居は越えるにはあまりにも高すぎる障害だ。
さて、と。
少しばかり律子様をいじめすぎたか。
768
ここでとやかく言ったところで、律子様は狼狽えるのはほんの一
瞬のことだ。
完全に心を折れとというのがご隠居の要望だ。
真正面からの真っ向勝負で撃破してやれと、無茶なことを仰るも
のだ。
言われたからにはやるけれど。
﹁1時間﹂
﹁え?﹂
私がぽんと言った言葉に、律子様は何を言われたのかわからなか
ったようだ。
﹁1時間だけ、お付き合いしましょう。ただし、私に普通の御嬢様
の反応を求めないでください。望まれたような反応を返すのは無理
ですから﹂
まあ、1時間も付き合う気はないが。
私にとっては律子様の息の根を止める1時間。
律子様には起死回生を狙う1時間。
どちらに軍配が上がるのか。
ま、軍配は私の女紋だから私が有利に決まっている。
﹁え、ええ! もちろん、そんな些細なこと、気にされなくてもい
いですわ。きっと、瑞姫様も気に入ってくださるに決まっています
もの﹂
喜色を浮かべた律子様は、歓迎の意を表すかのように手を広げる。
﹁疾風﹂
そんな律子様を無視する形で私は疾風を呼ぶと相良の車の方へ向
かう。
﹁私の指示通りに動いてほしい。頼めるか?﹂
﹁もちろんだ。まずは諏訪の御大への連絡か?﹂
意地の悪い笑みを浮かべた疾風が律子様には聞こえないほどの音
量で囁く。
﹁ああ、それも頼む。それから⋮⋮﹂
769
私が出す指示に、疾風が人の悪い笑みを浮かべだす。
﹁わかった。楽しんで来い﹂
言葉通りに受け止めていいのか、それとも裏読みすべきなのか戸
惑うような言葉を投げかけた疾風が車に乗り込む。
ドアが閉まり、相良の車が先に動き出す。
疾風を見送った私は、律子様を振り返る。
﹁さあ、行きましょうか?﹂
戦いに挑むような高揚感と共に、私は律子様に向かって微笑みな
がら声を掛けた。
770
100
狭い車の中、上機嫌で滔々と語る中年女性。
いくら、見た目年齢が若かろうと、括りで言えば中年。
そのことに気付かずにスキンケアの話から、嫁の心得なんかをご
機嫌に語っている。
車窓の景色を眺めて碌に相槌すら打たない私の態度に気付いてい
ないようだ。
果ては、疾風を連れ歩く私に対する注意まで言ってきた。
︵相手のことなんざろくに知らないババアが言ってるんじゃねぇよ
!︶
不機嫌そのものの瑞姫さんがぼそりと呟く。
ですから、瑞姫さん。先程からガラが悪いですって!
とりあえずのところ、取り繕ってください。
︵だって、そのオバさん、私、大っ嫌いなんだよ︶
全面的に同意してもいいですから、聞き流す方向で。
あとで心折れというご隠居の指示に従いますので。
何故か、不機嫌な瑞姫さんを宥め賺すのに必死になっている私が
いる。
﹁いくら、護衛でも異性を傍に置くのはどうかと思うのですわ。間
違いが起こっては困りますもの﹂
疾風は護衛じゃなくて随身なんだということをこの人は理解する
ことを知らないのだろうか。
おまけに、﹃間違い﹄とは、随分私たちを見縊っているというこ
とだ。
771
ちなみに随身とはいえ、疾風は私の夫候補の1人でもある。
基本的に同性を随身として寄越す岡部家だが、たまに異性を差し
出す場合、その相良の子供を貰い受けたいという意味もあるのだ。
本人たちの意思次第だが、家としてそうなった場合、了承すると
いう答えが随身としてその子供を認めるという対応に出る。
つまり、御祖父様から疾風は認められたということになるのだ。
傍に寄せないと言われた諏訪は、私の夫候補としては役不足のた
めに認めないと答えたことになる。
相良には独特なルールがあるが、そのルールはわかりやすいよう
に隠してなどいないのだ。
随身にどういう意味があるのか、伴侶をどのような基準で選んで
いるのか、相良は一切隠していない。
少しばかり調べればすぐにわかることを、律子様は調べようとは
しなかったのだろう。
あれほど随身だと言っているにも拘らず、疾風を﹃護衛﹄と呼ん
でいるのだ。
愚かだと、つい思ってしまっても無理はないだろう。
﹁疾風は護衛ではなく、随身と何度申し上げればご理解いただける
のでしょうか?﹂
さすがにかちんときた私は、優しげな声音を作って律子様に言う。
少しばかり上から目線になったところで、誰も咎めることはでき
ないだろう。
私が相良瑞姫で、この方が諏訪律子である限り。
﹁護衛、でしょう? あのぼうやは﹂
﹁疾風が護衛にしか見えないというところが不思議ですが? 相良
本家の者にはすべて岡部家出身の随身が付くというのは、普通、殆
どの者は誰でも知っているのですよ。我々は隠してなどおりません
し、随身の役目もオープンにしておりますから。律子様が御存知な
いということの方が意外ですね﹂
冷ややかに応じれば、意味がわからないなりにもまずいことを言
772
ったと薄々理解したようだ。
そうして、私が物凄く不機嫌であるということにも。
﹁ですが、嫁ぎ先にも連れて行くということは⋮⋮﹂
﹁何の問題もありません。今までそのようにしておりましたが、問
題になったことは一度もありません﹂
殆どの場合、随身は同性だから。
﹁そうなのですか? それは、喜ばしいことですわね。ですが、お
買い物にまで連れ歩くのはどうかと⋮⋮ええ。返されて正解ですわ﹂
私が本当に疾風を返したと思っているのか。
普通なら、ここは深読みする場面だろうに。
﹁本当にそう思われますか?﹂
私が言った言葉に、律子様がまさかという表情になる。
﹁先に車を出されましたでしょう? まさかわたくしがどこにいく
かなどわかるはずもないのに﹂
﹁本当に?﹂
意地が悪いと思いつつ、即座に追い打ちをかける。
﹁私は相良の人間だと申し上げましたでしょう? 常に傍に置くの
は疾風ひとりですが、護衛は私の安全を図るために、目的地周辺の
安全確保を怠ることはありませんよ﹂
﹁まさか、そんなことは⋮⋮﹂
﹁律子様。律子様は私を安全が確保されていない場所へ案内なさる
つもりなのですか? 自分が訪れたことがあり、何もなかったから
という理由だけで、この私を?﹂
まさかそんな馬鹿なことはしないだろうと言外に滲ませて言えば、
律子様の顔色が悪くなる。
やっぱりな。
自分が何もなかったから大丈夫だなんて、気軽に考えての行動か。
﹁律子様。ご自分と、私を一緒に考えないでください。まあ、私を
買物に誘うくらいですから、何も考えていらっしゃらないだろうと
先に手を打って正解でしたが﹂
773
﹁相良様はそんなに恨まれていらっしゃいますの?﹂
またこの人は⋮⋮。
どこまで墓穴を掘れば気が済むんだろう。
一矢報いた気か、愚かな。
﹁恨まれない者はいないでしょう? ですが、恨みで私に危害を加
えようとするよりも、私を利用しようと思う人間の数の方が遥かに
多い。私が相良の弱点だと思い込んでいる人々が多いでしょうから﹂
﹁違うと、仰る?﹂
﹁弱点をあえて晒すような真似をすると思われますか? 弱点では
ないからこそ、弱点のように見せるのが、戦略というものでは?﹂
祖父母もそうだが、兄も姉も私には甘い。
末っ子で年が離れているからだが、弱点ではない。
私が窮地に陥ったとしても、1人で何とか凌げる、あるいはそれ
を逆手にとって攻勢に出ることくらいわけないという信頼は得てい
る。
彼らに言われているのは、被害は最小限度に留めろということと、
多少法律違反を起こしたところで相手側の攻撃回避のためにやむな
くといった状況を作り上げておけば何とでもしてやるということだ。
私が疾風を傍から外すのは作戦上のことで、一定距離以上は決し
て離れず、また、合流した後の相手側の被害は甚大だということだ
けが家族の悩みの種なのだ。
つまり、私は相良家の弱点などではなく、攻撃の基点になってい
るのだ。
現在も私はGPS機能で疾風に位置を知らせているし、車内での
会話も録音させている。
律子様は、ご自分がどれだけ危険なことを喋ったのか、気付いて
はいない。
多分、今頃、疾風は激怒していることだろう。
救いと言えば、私が傷1つ負っていないということくらいか。
私が傷を負っていなければ、疾風は冷静でいてくれる。
774
こちらの意図をきちんと受け止めて、言葉で指示しなくても私の
考え通りに動いてくれる。
私に代わって、他への指示も完璧にこなしてくれる。
疾風が文武に渡って非常に優秀な人材なのだということを見抜け
ないようでは、私は相手にしないことにしている。
つまり、律子様は最初から私にとって重きを置く人物ではないと
いうことだ。
﹁私を連れ歩くと仰るのなら、本家の方にその旨を伝えて、目的地
周辺の安全を確保しておかなければ、その方は相良から切り捨てら
れるということです。律子様は今後一切、私と接触できないという
ことです。おわかりですか?﹂
﹁え?﹂
﹁私が諏訪家へ嫁ぐ可能性は全く途絶えたということであり、律子
様は私と会うことは今日以降、二度とないということです﹂
くすっと笑って言えば、律子様の表情が抜け落ちた。
﹁あれほど、申し上げましたのに、すべて無視なさって強引に事を
進めようとなさるからです。いわば、自業自得ですね。これ以上の
ことがないことをお祈り申し上げるだけです﹂
これ以上のことがあるのを知っている確信犯ですが、それが何か?
勿論、これで終わりではなく、ここからが始まりというわけだ。
正面撃破で心を折って差し上げよう。
﹁嫁ぐのは、瑞姫様が納得されればよろしいのでしょう?﹂
﹁ええ。でも、諏訪家はありません﹂
﹁そんなことはないでしょう? 伊織はお買い得だと思いますの﹂
﹁どこら辺がでしょう? 特筆すべきものが何かありますか?﹂
﹁責任がありますもの、わたくしどもは瑞姫様に⋮⋮﹂
﹁ああ、あなたが仰る﹃傷物﹄ですか? そんなことを仰るのは律
子様だけですよ? 御存知在りませんか? 姉を差し置いて、私を
妻にと望んでくださる方々の多いことを。皆さま、一言もそんなこ
とを仰いませんよ? 私が成人するまで待つので、親しくお付き合
775
いする機会を設けてほしいと仰っていただきました。その傷自体も、
成人する頃にはほとんど消えるでしょうから、何の問題もありませ
んしね。ああ、どうやら到着したようですよ﹂
車の速度が落ちたことに気付き、そう告げる。
﹁律子様。私は友禅作家としての地位をこの手で築きました。私の
友人たちもすでにいくつかの会社の社長の地位を得ていたり、何か
しらの資格や賞を取っていたりと、常に己を磨くことに、精進する
ことに全力を尽くしています。あなたが仰ることは、その私たちを
常に見下していらっしゃる。ですから、私はあなたに問います。諏
訪家当主夫人という地位以外であなたは何をご自分の力で得ました
か?﹂
﹁⋮⋮それは⋮⋮﹂
﹁諏訪家当主夫人という土台を抜きにして、律子様ご自身の努力で
何をなさいましたか? その上でのお言葉でしたら、私たちも納得
いたしましょう。ですが、あなたのお言葉はいつも当主夫人という
地位をもってしてのものです。それでは誰も納得いたしませんよ﹂
車が停まり、ドアが開けられる。
私は車から降り立ち、律子様を振り返る。
この時点で完全に立場は逆転していた。
﹁このショップは、わたくしが支援しているの。デザイナーも、若
いけれど才能溢れた方ですのよ﹂
さすが立ち直りが早い律子様は、店内に足を踏み入れるなり威厳
を取り戻した。
店内を軽く眺め、店のランクを測る。
店内の客は若い女性。10代後半から20代あたりがターゲット
だろう。
つまり、手頃な値段設定。
776
そこから考えるに、質は推して図るべしと言ったところか。
間違っても有閑マダム的律子様が身に着けられるような質はない
だろう。
勿論、私の趣味でもなさそうだ。
﹁最近、ブライダルの方にも展開しようかということで、いくつか
取り揃えることになりましたよの﹂
にこやかに説明し始める律子様を、私は冷ややかに眺める。
そうやって、私に指輪を薦めて、プレゼントしましょうとなって、
婚約指環か。
馬鹿馬鹿しい展開だ。
﹁これは、諏訪様! お嬢様も、ようこそお越しくださいました﹂
奥からオーナーらしき男性がにこやかな笑顔で出てくる。
実に白々しい笑みだ。
演技が下手だな、この人。
﹁こちらは、相良家の瑞姫様。お綺麗な方でしょう?﹂
満面の笑みで律子様が私を紹介する。
﹁ええ、実に美しい⋮⋮﹂
﹁凛々しい少年のようだと皆に言われております﹂
空々しい賞賛の言葉など聞きたくはないので、クラスメイトに言
われる言葉を告げれば、律子様もオーナーも固まった。
﹁そんなことは⋮⋮﹂
﹁私の渾名は﹃王子﹄なんだそうですよ? 友人が笑って教えてく
れました﹂
王子と呼ばれることは苦痛ではない。
なので、私にとっては笑い話だが、相手にとってはそうとも限ら
ない。
そのことを知っているがゆえに、ワザと相手が困ることを言って
みた。
つまり、諏訪家の嫁候補などではないという意思表示だ。
この姿を取らせるようになったのは、諏訪家が発端だということ
777
をもう一度、律子様に認識してもらわないといけない。
﹁ええ、そのお姿もよくお似合いです﹂
﹁こちらの律子様の御子息と姪御様が起こした事故でこのような姿
をしております﹂
にこやかに事実を告げる。
オーナーは驚いたように律子様を見た。
﹁数年前のことですが、新聞にも載ったそうですよ。その頃の私は
生死の境を彷徨っておりましたので、まったく知りませんが﹂
﹁瑞姫様!﹂
﹁おや、違いましたか? 兄からそのように聞きましたが﹂
非難めいた律子様の声を笑顔で封じる。
事故のことは決して赦しはしないという意思表示だ。
主導権は渡さない。
矜持の高い律子様のことだ、事故のことを言われるのが一番嫌な
ことだというのはわかっている。
それを四族ではなく一般人の前で言われることほど屈辱的だとい
うことも。
﹁新作を見せていただけるかしら?﹂
表情を歪ませた律子様は、すぐに気を取り直すと、オーナーに声
を掛ける。
︵第二段階、上出来だよ、瑞姫︶
くすくすと笑いながら瑞姫さんが声を掛けてくる。
︵次も抜かりなく、ね︶
了解いたしましたとも。
店舗の奥側へと案内され、ショーケースの前に置かれた椅子に腰
かければ、販売クルーにお茶を勧められる。
にこやかに礼を告げたが、お茶には手をつけなかった。
ほどなくして、クルーがいくつかのデザインリングをケースごと
運んできた。
778
濃紺のトレイの上にリングを並べて置くクルーの横で、対応にあ
たるらしいオーナーが満足げに笑っている。
そのリングを眺め、私はげっそりした。
﹁キャストですか﹂
ひと目でわかる機械作りの品の粗さ。
これをブライダル用にするとはあまりいい店ではないらしい。
キャストと呼ばれる機械作りと、職人が手掛ける手作りとでは、
工賃に相当な差額が出る。
利益を上げるのなら、キャストだ。
作品に矜持を掛けるのなら、当然手作りだろう。
そこで差が出る。
オーナーは一瞬目を瞠り、そうして探るように私を見る。
一方、律子様は何のことかわからなかったらしく、私をきょとん
としたような表情で見ている。
﹁瑞姫様、これなんか、如何かしら? 1.5カラットですけれど、
品が良いでしょう?﹂
﹁カラーはDランク、クラリティはFLでございます﹂
最高級品だと言いたいわけか。
﹁マーキスですか⋮⋮そちらは、プリンセスカットにラウンドです
ね﹂
ダイヤのカットはオーソドックスだが、デザインが野暮ったい。
一般的なデザインと言うか、どこかで見たようなデザインと言う
か。
橘の繊細優美なデザイン画を見た後では、ウンザリしてしまうよ
うな重さがある。
﹁素敵でしょう?﹂
﹁どうぞ、お手に取って付け心地をお試しください﹂
﹁⋮⋮これをデザインしたデザイナーは?﹂
﹁生憎と工房にこもっておりまして。呼びましょうか?﹂
オーナーは私の言葉に嬉々として応じる。
779
﹁それには及ばない。手に取ってもよろしいのですか?﹂
ダイヤを見た瞬間に感じた違和感を確かめるために、そう問いか
ければ、オーナーも律子様も表情を輝かせる。
私が指輪に興味を持ったとでも思ったか。
残念なことだが、持った興味は逆方向だ。
﹁ええ、どうぞ﹂
にこやかに応じるオーナー。
﹁では、失礼して﹂
私は自分の鞄からメモ帳を取り出した。
純白の紙を一枚破り取り、ガラスケースの上に置く。
そうして、リングを摘まみ上げ、白色球の傍で眺めた後、メモの
上に乗せた。
﹁ダイヤはどちらで仕入れられておられるのですか?﹂
ダイヤモンド・シンジケートで有名な会社が世界で産出されるダ
イヤの原石の7割を取扱い、供給量や価格を決めている。
ここの名を告げれば、ある程度の信用を得ることができる。
それほどまでに大きなシンジケートだ。
しかし。
﹁ダイヤモンドは直接バイヤーが現地に買い付けに行っておりまし
て⋮⋮﹂
﹁では、どこの産地のモノを?﹂
﹁それは⋮⋮申し上げることはできかねます。企業秘密というもの
ですから﹂
にこやかに誤魔化すオーナーに、私は笑った。
﹁瑞姫様?﹂
﹁律子様、私が友禅作家ということを覚えていらっしゃいますか?﹂
﹁え、ええ。もちろん﹂
いきなり切り出した私に、律子様は戸惑ったようだ。
﹁下絵は日本画の手法で、岩絵の具を使っております。岩絵の具を
ご存知ですか?﹂
780
﹁岩絵の具?﹂
﹁ええ。原材料は鉱石、つまり色石です。有名な鉱石は瑠璃、つま
りラピスラズリですね。つまり、宝石と呼ばれる貴石や、半貴石を
材料としているのですよ﹂
﹁え、ええ。それが?﹂
﹁私、これでも宝石を見慣れておりまして、大体の色で産地や等級
がわかるのですが。残念なことに、この中でまともなダイヤはあり
ません。これは一体どういうことでしょう?﹂
その言葉に、オーナーも咄嗟に反論できなかったようだ。
傍に控えていた販売クルーも目を丸くしている。
﹁プリンセスカット、これはダブレットですね。表面だけが本物で、
下はガラスを張り合わせた処理石です。そして、こちらのマーキス
とラウンドは人工ダイヤです﹂
﹁人工ダイヤ? あの、ジルコニアとかいう?﹂
﹁いいえ。人工的に作るダイヤモンドにもいくつか種類があるので
すよ。これはジルコニアではありません。ですから、人工ダイヤと
呼ぶのですが﹂
﹁お待ちください、お客様! これが偽物と呼ぶのでしたら、それ
相応の証拠が御有りなのでしょうね!?﹂
さすがに怒ったらしいオーナーが私に詰め寄る。
私は、メモを指先で突いて見せた。
﹁証拠は、これですが?﹂
﹁は?﹂
﹁あなたは、先程、DランクのFLだと仰った。Dランクは無色透
明。ここに映る影は、当然無色でなければならない。何色に見えま
すか? この影は﹂
淡いが、はっきりとした灰色の影が映っている。
﹁律子様。クリスタルガラスの最高級品の影は何色かご存知ですか
?﹂
﹁え? それは、もちろん、透明でしょう?﹂
781
﹁いいえ。クリスタルガラスは、鉛の濃度でランクが変わります。
最高級は鉛の濃度が大きくなりますので、当然色はグレーが濃くな
ります。逆に、ダイヤは純度が命ですから無色が一番尊ばれる、つ
まり、影はほぼ出ない。しかし、この紙に映った影はグレー。つま
り、透明に見えても不純物が混じっている人工物ということです。
それから、この地金は、プラチナではなくホワイトゴールドですよ。
色が違います。プラチナの色はこちら﹂
私は自分のシャツの袖からカフスボタンを取り外し、リングの隣
に置いた。
﹁中に、刻印があるでしょう? プラチナの純度を示す刻印と、金
の純度を示す刻印、表示が異なるんですよ。これがこのリングがホ
ワイトゴールドであるもう一つの証拠です﹂
懇切丁寧に説明すれば、律子様の顔色が変わる。
﹁それから、ラウンドの表面にスクラッチがあります。高度10の
ダイヤの表面にスクラッチがあるとはどういうことでしょう? そ
してそれがFLとは?﹂
その言葉に、律子様がラウンドカットのリングを摘まみ上げ、表
面に浮かぶひっかき傷に表情を変えた。
﹁これは、どういうことなのかしら!?﹂
﹁私の見立てとしては、ブライダルには使えませんが、ファッショ
ンリングとしては充分だと思いますよ。まあ、値段はデザイン料を
どのくらい取るかはわかりませんけれど、せいぜい高くても10万
以下でしょうね﹂
﹁⋮⋮10万﹂
律子様がぼそりと呟く。
これは、そうとう値段を吹っ掛けられたな。
﹁デザインも斬新なものではなく、どこかで見たような野暮ったさ
が抜けていませんし。これをブライダルとして推し進めたとしても、
見向きもされないでしょうね﹂
﹁野暮ったいとは心外です! 彼は新人デザイナー登竜門のコンペ
782
で特別賞を受賞したと⋮⋮﹂
﹁それは、奇遇ですね。私の友人もその登竜門で特別賞を受賞して
おりますよ﹂
変な話だな。
私はそれを後からネットで検索して橘の名前を確かに見つけた。
だが、特別賞の名前は橘1人しかなかった。
だから私は、個人用のスマホを取出しそのページを探し出すと、
オーナーに見せる。
﹁これが、私の友人の名前です。他に特別賞の方の名前は見当たり
ませんが?﹂
にこやかに告げた後、私は立ち上がる。
﹁律子様には失望いたしました﹂
﹁瑞姫様! わたくしは⋮⋮﹂
﹁その身を飾る宝石がガラス玉だとしても、律子様は見抜けないと
いうことなのですね。その方が薦めるリングを誰が受け取りましょ
うか?﹂
﹁瑞姫様!!﹂
﹁二度とお会いすることはございませんが、さようなら﹂
カフスボタンを留め直して立ち上がると、私は振り返りもせずに
出口へ向かう。
途中、OLさんらしき女性たちが私を見てぽかんとしたあと、肘
をつつき合って何かを囁いている。
﹁瑞姫様! お待ちになって!!﹂
私を追いかける律子様の声。
﹁やだ、何? あのオバサン! あんな高校生を追いかけるなんて
気持ち悪ーい!﹂
今のは彼女たちの声だろうか。
聞こえるように言うあたり、度胸がある。
︵確かに、オバサンだからね、律子様は︶
くっくと意地悪く笑う瑞姫さんが切り捨てる。
783
︵一般人から見れば、イケメン高校生を追いかけて言い寄る若作り
のオバサンだからねー︶
世の中というものは厳しいな。
律子様の声を無視して店の外へと出れば、そこに疾風が待ってい
た。
﹁終わったか?﹂
﹁うん。終わり﹂
﹁年寄りの相手は疲れただろう? 早く帰って休もう﹂
迎えの車へと誘う疾風と一緒に歩けば、背後で悲鳴に似た嬌声が
あがる。
﹁何だろう?﹂
﹁⋮⋮気にしない方がいい﹂
微妙な沈黙の後、疾風は首を横に振る。
﹁そうか。ご隠居に報告することがたくさんあるな﹂
車に乗り込み、シートに身を預けると、私は目を閉じて呟く。
車は相良家へと向かって静かに発進した。
784
101
自宅に戻ると、諏訪が来ていた。
車から降りたところを迎えに出てくれた家政婦さんから告げられ
たのだ。
離れの応接室へとお通ししてますと。
さくっと見た玄関には来客を示す客人の靴はない。
つまり、庭から直接洋館の方へ案内したのか。
それがどういう意味を持つのか、諏訪は気づかないだろうな、う
ん。
和の家に住む人間なら、すぐにわかるだろうが、諏訪は洋館で育
っているからなぁ。
母屋にあげずに靴を脱がなくていい場所へ通すのは、歓迎なんて
しないから早く帰れという意味なんだが。
﹁疾風、このまま直接離れに戻る﹂
私がそう言えば、疾風も家政婦さんたちも嫌そうな表情になる。
﹁瑞姫お嬢様、母屋の方へあがられて、手洗いなど済まされてから
の方がよろしいかと﹂
﹁そうだぞ、瑞姫。帰宅の挨拶が済んでないじゃないか﹂
少しでも諏訪に会う時間を遅れさせようと、結託し始める。
﹁客人に早くお帰りいただくには、用件を伺うに限るのではないだ
ろうか?﹂
そう指摘すれば、視線を彷徨わせていた人達は渋々と頷く。
﹁まったく⋮⋮瑞姫は人が好いな⋮⋮﹂
785
呆れたように溜息交じりに呟く疾風に、家政婦さんたちがうんう
んと頷いて同意している。
﹁私は、できることなら前倒しで物事を終わらせたいんだ。早く片
付けば、そのあと、ゆっくりできるだろう?﹂
こう説明すれば、大抵、引き下がってくれる。
まだちょっとこの時期は、わずかだけれども痛みが走るので、用
心して動作がゆっくりとなってしまう。
そのことを懸念して少しでも早く終わらせようと余裕を持って動
くようにしているので、その辺りは素直に納得してくれるのだ。
﹁行こう、疾風﹂
﹁⋮⋮仕方ないな、わかった﹂
不本意と、文字が見えなくても顔に書いてそうな疾風が、渋々と
私に従う。
﹁ご隠居の御遣いだろうが、さすが、ご隠居だな。打つ手が早い﹂
私がそういうと、疾風が纏う空気が変わる。
﹁⋮⋮ご隠居⋮⋮そうか﹂
そう呟いて、ぷくっと吹き出す。
﹁はじめてのおつかい、じゃないんだから﹂
どうやら疾風の脳裏には幼児が母親からおつかいを頼まれて、懸
命にこなす姿が浮かび上がっているらしい。
それは、﹃おつかい﹄違いじゃないだろうかと思ったが、ニュア
ンスが同じに思えたのも仕方がないことなので黙っておく。
大丈夫! 例え、諏訪の前でそれを思い出してぷくっと笑いたく
なったとしても、無表情には定評があるから!
︵そこ、自慢すること?︶
瑞姫さんのツッコミも気にしない。
庭から離れへとまわり、扉を開けてしばし絶句した。
786
ある程度の予測はしていた。
招かれざるであろうとも、客人を部屋に通してそのまま放置とい
うことはありえない。
相手によっては家人が対応するべきだということも。
﹁⋮⋮何で八雲兄上がいるかな?﹂
ソファセットの片方に、諏訪のアコガレの人物であると推定され
る八雲兄上がいた。
﹁おや、お帰り、瑞姫。大変だったね﹂
立ち上がった八雲兄上が両手を広げる。
これは、多分諏訪への嫌がらせをやるつもりなのだろう、という
か、羨ましがらせるのか。
もとより、諏訪と話すには兄上の隣に座るしかないので、あの場
所へ行かなければならないことは確かだ。
非常に行きたくないという気持ちが勝ちそうでちょっと困るが。
﹁ただ今戻りました、兄上﹂
仕方なく、本当に仕方なく兄上の傍へ行くと、満面の笑みで私を
ぎゅーっと抱き締めながら八雲兄上は頬擦りしてくる。
ああ、視線が痛い。
諏訪よ、羨ましそうに見るな。
本人は喜んでなんかいないんだからな。
疾風は兄上相手なので何も言わずに我慢しているようだが、ぎり
ぎりときつい視線を背中に感じる。
あれは少しは抵抗しろという意味だろう。
いつもなら抵抗をするが、今はいろんな意味で無理だ。
﹁詳しい話はあとでゆっくり聞くとするけれど、諏訪家からのお客
様だよ﹂
﹁遅くなって済まなかった﹂
いつもならもうしばらくは堪能するだろう兄上は、今日はあっさ
りと開放して、諏訪を示す。
予定外とはいえ、客を待たせたということは私の失態だ。
787
少々偉そうに謝罪を口にする。
﹁いや、こちらこそいきなりの訪問で申し訳ない。祖父から俺がこ
ちらへの使者に立つようにと命じられて、その挨拶がてら謝罪に来
た。今日は、母が申し訳ないことを﹂
立ち上がった諏訪が私に向かって頭を下げる。
﹁いや、元々、こちらも入手していた情報だったから、謝罪される
ような事はなかった﹂
あの店を割り出していたのは、千瑛と、千景の2人だ。
あの店のデザイナーは、確かにいくつかの賞を取ってはいたよう
だ。
ただし、橘が特別賞を取ったコンペではなく、もっと規模の小さ
い地方的なものや中規模宝石商が企画する若手新人の発掘的なもの
だ。
見栄を張りたくなって、あんなことを言ったのか、それとも詐欺
を狙っていたのかは定かではないが。
千景が下見して、﹃実に安っぽいデザインだった。それから客の
好みを把握しようとも思わず、自分の好みを押し付ける店員で男女
の区別もつかない節穴だった﹄という感想を聞いたが、どうやら千
景を女の子と思い込んで接客していたらしい。
律子様が事前に連れて行く者が女性だと言っていなければ、私も
男扱いされていたかもしれないということだ。
﹁それで、ご隠居が君をこちらへ差し向けた用事は何だろう? 疾
風が送った音声データの件か?﹂
私と律子様の会話は、スマホを通して録音されている。
疾風が保存したデータは、そのままご隠居の方へ送るように指示
していたので、それを聞いたご隠居が即座に動いたと予想はつく。
﹁ああ。あの店は、母が関わっていたということを徹底的に消し去
ってから潰すことにした。人造ダイヤを本物と偽って売っていたと
いうだけでも罪が問えるからな﹂
そう言いながら、諏訪はソファの横に置いていた封筒を手に取る
788
と、その中に入っていたファイルを取出し、私の方へと差し出した。
﹁これが、あの店のデザイナーだ﹂
顔を顰めながら示した写真に八雲兄上と疾風が息を飲む。
私は、その写真の人物の顔に違和感を感じた。
﹁不自然な顔だな﹂
﹁え!?﹂
兄上と疾風が驚いたように私を見る。
﹁不自然? いや、他人の空似もここまで来ると確かに不自然だろ
うけど⋮⋮﹂
﹁似ている? 誰に?﹂
兄上の言葉に私は首を傾げる。
﹁誰にって、伊織君の父上の斗織様だけれど⋮⋮﹂
﹁これが? 全然違う顔だけれど?﹂
どこをどう見ても不自然すぎる顔で、斗織様とは似ていない。
ご隠居と斗織様と諏訪伊織、この3人は間違えようもなくそっく
りだ。
こういう風に年を取っていくのだなと思わせる共通するモノがあ
る。
だが、写真の男にはそれがない。
所謂その血筋独特の雰囲気とか、特徴というものだろうか。
わかりやすく言えば、育ちの良さというものか。
﹁似てると思うんだが⋮⋮﹂
﹁似てない! あ。目の下に傷跡がある。整形か!﹂
普通であれば見落とすであろうわずかな影。
だが、身体中に走る傷跡を見慣れている私には、それが浮かび上
がって見えた。
﹁そのようだ。これが、この男の本来の顔だ﹂
もう一枚、諏訪が写真を取り出してテーブルに置く。
最初の写真とは似ても似つかない平凡な顔立ちの男がいた。
きっと、町ですれ違っても気付かないだろう普通さ。
789
﹁この顔が、コレ、ねぇ⋮⋮﹂
八雲兄上が写真を摘まみ上げ、しげしげと眺める。
﹁間違いなく、律子様狙いだな﹂
﹁こんなマガイモノに引っかかりますかね? 本物を毎日眺めて暮
らしているんですよ?﹂
疾風が不思議そうに首を傾げる。
﹁気を引くには充分だと思うけれど? 律子様は斗織様の顔にひと
め惚れしたのは有名な話だからね﹂
﹁⋮⋮ご隠居の方が顔立ちがいいと思うけどな﹂
﹁瑞姫。何でこの顔を不自然だと思ったんだい?﹂
斗織様とご隠居。
顔だけ見ればそっくりだけれど、醸し出す雰囲気はまったく異な
る。
一切の曇りがないご隠居とわずかに影が滲む斗織様。
斗織様にはご隠居のような勢いがないのだ。
そうして、この写真の男は存在感も生気もまったく感じられない。
﹁んー⋮⋮何となく?﹂
聞かれると非常に困るのだが、答えようが他にない。
この男の場合、パーツ自体が似ていないのだ。
だから、私はこの男を斗織様に似ているとは一切感じなかった。
美容整形のことには詳しくないが、写真を持って行って﹃この人
と同じ顔にしてください﹄というのはどう考えても犯罪っぽいので
無理だろうと推測する。
そうするとイメージで告げるわけで、そのイメージが伝われば、
斗織様そっくりの顔が出来上がるだろうが、微妙なニュアンスが通
じなければ、似ていない顔になる。
私の感覚的に、後者なのだが、男性陣は前者に思えたようだ。
この写真から感じ取れる男の雰囲気と顔立ちが一致しなかったの
で違和感を感じたというのが、私の感覚を言葉に表現するとこう表
すしかない。
790
﹁⋮⋮相変わらずの野生児か﹂
苦笑した八雲兄上が、肩を竦める。
﹁僕らが調べつくして、これしかないと掴んだ真実を、瑞姫は感覚
ひとつで見抜いてしまうのだから、困るよね﹂
﹁ごめんなさい?﹂
兄上が困るのは、私も困るので謝ってみたが、自分でもよくわか
っていないことを謝るのは難しい。
そして私の兄弟は末っ子に甘々というか、劇甘なので、結果はわ
かっている。
﹁可愛いから許す!! なんでうちの妹はこんなに可愛いんだろう
ねぇ。そう思わないかい、伊織君?﹂
そこで諏訪に同意を求めるのはどうかと思うのですが。
﹁⋮⋮相良はカッコいいと思います﹂
いや、そこで真面目な意見はいらないから。
﹁うん、伊織君は修行が足りないね。瑞姫がカッコいいと思える間
は無理だね﹂
﹁精進します﹂
いや、しなくていいから!
﹁まあ、その男。その顔に整形したあたりで律子様に近付く気があ
ったというのは疑いようもないけれど、誰がそれを指示したか、と
いうことが問題だね﹂
﹁それは、諏訪の方で調べます﹂
﹁そうだね。諏訪の恥だからね﹂
意気込んだ諏訪を兄上が軽くいなす。
そこでふと疑問が浮かんだ。
﹁⋮⋮諏訪は何故、ひとりっこなんだろう?﹂
﹁え?﹂
一斉に皆が私を見る。
﹁あ、いや。押しかけ女房とか言われて律子様から強引に諏訪家へ
嫁いでこられた割には、諏訪に兄弟がいないことが不思議だなぁと
791
⋮⋮﹂
﹁そういえば、そうだね﹂
穏やかに笑う八雲兄上に、何か知っていると直感する。
だが、本人がいる前で話すことはないだろう。
おそらく知っていても、八雲兄上は話さない。
何となく、そのことが今回のことに関係しているような気がして
ならないが、ここで直接聞いても答えが貰えないのなら、別口で調
べればいいことだ。
﹁ああ、そろそろ会社に戻らないといけない頃合だな﹂
私からの追及を逃れるために、八雲兄上がそう切り出す。
﹁あ。つい長居をしてしまって申し訳ない。また、調べて分かった
ことがあれば、知らせに来る﹂
諏訪も腰を浮かせて退席の挨拶を始める。
﹁そうか。疾風、諏訪をお送りしてくれ﹂
私が玄関まで送ると言っても誰も許してくれないだろう。
だから、疾風にそう声を掛ける。
﹁僕がご隠居のところまで送ろう。そちらの方が目立たなくていい
からね﹂
﹁申し訳ありません。お言葉に甘えます﹂
書類を片付けた諏訪は、八雲兄上の誘いを素直に受ける。
﹁瑞姫は上にあがって休みなさい。疲れたのだろう? 顔色が悪い
よ﹂
兄上からの牽制が来た。
﹁わかりました。休ませていただきます﹂
﹁部屋で休むのが嫌なら、リビングでいいから。すぐ戻る﹂
疾風も私を気遣う振りして諏訪の傷口を抉る。
3人を見送りながら、あまりにも事が多すぎることに溜息を吐く
しかない私であった。
792
101︵後書き︶
PM2.5が急増したので、見事に反応してのどがヒューヒュー鳴
ってます。
薬が効かないなんて、なんでだ!? 眠気と闘ってるのに。
花粉症の方も、花粉の飛散でアレルギー症状と闘っておられるかと
思います。
お大事になさってください。
793
102
着替えを済ませ、2階のリビングへと降りる。
ソファに腰をおろし、天井を見上げて思う。
とても、静かだと。
外から直接入れる1階の応接室とは異なり、リビングは下足禁止
の一般的な日本家屋だ。
洋館作りではなく、和洋折衷家屋になっているのだ。
3階の私室には畳を入れてもらった。
母屋の部屋に戻ってもいいと思っているのだが、御祖父様も父様
も首を縦に振ってはくれないのだ。
四六時中、畳に正座で座るという行為が、私の脚に負担になると
でも思っているのだろう。
肯定したくないが、否定もできない。
しかし、こう見上げてみると、天井が高い。
思わずソファの上に足を引き上げ、両手で抱え込む。
母屋もそうだが、この離れも実は基本的な日本家屋とサイズが違
う。
武家の出というか、武将の血が濃く出ているのか、直系の特に男
衆はやたらと背が高く、筋骨逞しいというか、しなやかな体型に見
えても、無駄なく鍛えられた肉体保持者が多い。
一般的なサイズの家屋では、鴨居に額をぶつけるお約束は免れな
い。
794
まあ、相当な重量がある鎧兜を身に着けて、戦場で刀や槍を振り
回して涼しい顔をし続ける一族の末裔だ。
自然とそれらに対応した筋力を持った人種へと発達していくのだ
ろう。
重い甲冑を着なくていいとなれば、その負荷は外れ、身長が伸び
る傾向にあったのかもしれない。
もちろん、中には女武者も相当数いたというのだから、直系の娘
たちも相応に背が高くなったようだ。
私とて、軟弱な筋肉になってしまったとはいえ、左手一本で真剣
を握ることは可能だ。
立ち合いは許してもらえないが、真剣を持っての稽古は許可され
ている。
つまり、筋肉が落ちたとか痩せすぎだと言われても、それはうち
が基準であって、一般的な女の子に比べれば十分すぎるほどに筋肉
質だということだ。
背が高い分、相当痩せて見えるようだけれど。
小柄な人が我が家を訪ねてくると、巨人の家に迷い込んだような
印象を受けるのだとか。
多少は誇張したイメージだろうが自分たちが慣れ親しんだサイズ
よりもひと回り以上は確実に大きいだろう。
そういう意味で、私たちも屋敷から離れ、他の方の家や店やホテ
ルなどに足を踏み入れたときに、天井が低いとか部屋が狭いとか感
じてしまうこともある。
だが、こうやって見ると、本当にこの家は大きいのだと思ってし
まう。
とても天井が高い。
そして、静かだ。
先程まで疾風はもちろんのこと、八雲兄上や諏訪など、人の気配
を感じていたせいもあるかもしれない。
膝を抱えたまま、天井を眺めていた私は、そのままぽてんと横に
795
倒れる。
ソファのクッション性は無駄に高いようで、数回、バウンドした
後、ふんわりと私の身体を受け止めた。
この部屋、こんなに広くて大きかったんだ。
初めて覚えた感覚に、私は少し戸惑う。
静かな部屋というのはいつものことだ。
どちらかというと賑やかよりも静寂の方を私は好む。
であるからして、この静けさは好ましいもののはずだ。
それなのに、なんだか、ぽっかり感がある。
ソファに転がりながら見上げる部屋は、まるで他人の部屋のよう
だ。
色々と考えなければならないことがある。
自分のことはもちろんのことだが、当面の課題は諏訪家の問題だ
ろう。
巻き込まれたくないことに巻き込まれてしまったが、これは仕方
がない。
しかし、諏訪がご隠居の代理になったとは、少々困った。
まあ、これは、あれだ。
ご隠居の、﹃惚れた女は自分で口説け﹄という方針で代理になっ
たと諏訪は思っているのだろう。
だから諏訪はあんなに嬉しそうだったのだ。
自惚れる気はないが、前回のことがあれば否が応でも気付く。
瑞姫さんも言っていたし。
どうやら諏訪が自覚したようだと。
しかしながら、ご隠居の意思は諏訪の思惑とは違うようだ。
ご隠居は御祖父様の考えを尊重する。
つまり、ご隠居の考えは諏訪に引導を渡せ、ということだ。
796
どうしても甘い考えを捨てきれない諏訪に、何度でも拒絶して現
実を見せてやれと仰っているのだろう。
希望を持つのは自由だが、どんなに想っても叶わないことがある
ということを知らなければ、人の上に立つことはできない。
そう思っていらっしゃるのだろう。
自分に甘い考え方は、命取りになる。
だから、諏訪が一番傷つく方法でそれを思い知らせようと企んで
いらっしゃるのだろう。
それほどまでに人を傷つけるのであれば、傷付ける方もまた深い
傷を負う。
そのことを知らぬご隠居ではない。
あえてその役を私に振ったということは、私がその傷に耐えられ
ると信頼してこそ。
高く買っていただいたものだと思う。
ご期待に添えることができればいいのだが、こればかりは上手く
いくかはわからない。
過去に瑞姫さんが諏訪にやらかした1件があるからだ。
アレを覚えている限り、諏訪は諦めないかもしれない。
まあ、何とかなるだろう。
﹁瑞姫?﹂
リビングの扉が開き、不思議そうな表情の疾風と視線が合う。
﹁⋮⋮⋮⋮⋮⋮﹂
ソファの上に膝を抱いたまま転がる私は、さぞかし疾風から見れ
ば奇行に走っていることだろう。
しまった。
しかしこの体勢では、すぐに起き上がるのは難しい。
﹁⋮⋮⋮⋮瑞姫。そうか、寂しかったのか﹂
797
私を見て、何やら納得した疾風がこちらへと歩いてくる。
寂しい? 私が?
首を捻りかけて、納得した。
疾風が来た途端、広かった部屋がいつもの見慣れた部屋に戻った
からだ。
そうか。私は寂しかったのか。
理由がついて納得した私をふわりと起こした疾風が、そのまま隣
に座って寄りかからせてくれる。
今気が付いたけど、疾風の手が私の古傷に触れることはほとんど
ない。
どこに傷があるのか、どういう風に触れれば痛くないのか、熟知
しているようだ。
つまりそれは、疾風との付き合いの長さを示していると同時に、
どれだけ疾風が私を心配してきたかということだ。
ぽんぽんと大きな手が私の頭を撫でる。
﹁⋮⋮何で寂しいと思ったんだ?﹂
ふと疑問に思って問いかける。
私ですらわからなかったことをどうして察することができるんだ
ろう。
﹁ん? だって、瑞姫、寂しくなると昔から、小さくなって転がる
癖があるだろ?﹂
﹁あるかな?﹂
﹁ある! 部屋の隅に行ってないだけマシだけど﹂
﹁そうか。そういう癖があるのか﹂
知らなかったぞ。
﹁おい、感心するな。で? 何で急に寂しくなったんだ?﹂
798
﹁わからない﹂
疾風に言われるまで、寂しいとすら自覚できなかったのだから。
﹁んー⋮⋮じゃあ、我儘言っていいぞ﹂
ちょっと考え込んだ疾風は、そんなことを言い出す。
﹁我儘?﹂
﹁今日は頑張ったから、ご褒美だ﹂
まさかの一言にわくっとなる。
﹁しきりっ!! 疾風のしきりが見たい!!﹂
﹁うわっ! ⋮⋮即答だな﹂
ご褒美もらえるのなら、これしかないとばかりに言えば、その勢
いに押されたのか、仰け反った疾風が苦笑する。
﹁⋮⋮⋮⋮駄目?﹂
しまった。
調子に乗りすぎたか?
おねだりも相手のことを考えて言わないと駄目だとあれほど八雲
兄上に言われて育ったのに、嬉しくてつい無茶を言ってしまったの
だろうか。
少しばかり反省していると、ぽんっと頭に疾風の手が乗った。
﹁わかった。道場、行くか?﹂
﹁うんっ!!﹂
﹁いい返事。なら、行くぞ﹂
ひょいっと疾風に抱え上げられ、床に立つように促される。
いつもだったらこのまま抱えられて道場まで運ばれるのだが、今
日は私の意思を尊重してくれるらしい。
ウキウキしながら私は疾風の腕を取って道場へと向かった。
敷地内に設けられた道場は、我が家の鍛錬のためのものであるた
めさほど大きなものではない。
799
それでも数人が鍛錬するには十分な広さはある。
部屋の隅で正座して待っていると、道着に着替えた疾風が帯を気
にしながら道場へと入ってくる。
﹁本当に好きだな、おまえ﹂
わくわくしながら待っていたのがわかったのか、疾風の苦笑が深
くなる。
﹁だって、疾風のしきり、綺麗だから見るの好きだよ。大叔父様も
褒めてらしたし﹂
うちの古武術の頭を務める大叔父様は、非常に厳しい方だ。
その達人クラスの腕前を持つ大叔父様が疾風のしきりは見事だと
褒めていたのだから、間違いはない。
﹁綺麗だからって大したことない。師匠にまだまだ敵わないんじゃ、
意味がないし﹂
技の研鑽に余念がない疾風は、自分の実力に満足することはない。
おそらく颯真さん達よりも実力は上になっているだろうが、それ
でも常に上を見ている。
﹁じゃあ、始めるからな﹂
﹁うん、お願いします﹂
軽く身体を温めた疾風が私に声を掛ける。
それと同時に、疾風の表情が真剣なものへと切り替わった。
800
102︵後書き︶
この週末は久々にムーン様の方の作品を書いてます。
今月はイベントだらけでなかなか書く時間が取れず、ハンカチギリ
ギリしてます。
書きたいものがあるから、書かせてよと思わず言ってしまいそうに
なるのを我慢中。
801
103
﹃しきり﹄とは、言葉で言えば方言だ。
﹃型をしきる﹄ということで、一般的な武術用語で言えば﹃演武﹄
のことだ。
それぞれの武術における型を追っていくのだが、実戦式な型なの
で非常に荒々しい動きでスピードがある。
この演武を競技化したものもあるそうだが、うちの﹃しきり﹄は
これに該当しない。
何故なら、古武術とはスポーツではないからだ。
熟練度を測る﹃段﹄や帯の色なんてものは存在しない。
競技化されたものならば、熟練度をひと目でわかるように階級を
必要としている。
本来の武術は人を殺めるためのものだから、どの程度の腕前なの
かは相手に分からない方が望ましい。
読み取れる人間にのみ、読み取れるものだ。
なので、うちの場合、帯の色は本人が好きな色を使う。
疾風は深い青だ。
私の帯は新緑。
同じ色は使わないのが基本だ。
何故かというと、帯の色で相手を見分けることができるからだ。
私が鍛錬している演舞は、﹃しきり﹄のひとつだが、動きが全く
違う。
﹃演舞﹄という言葉通りに舞うように緩やかな優美な動きが特徴
だ。
802
これは武術舞というものと同じものに見られやすいが、根本的な
ところが全く違う。
動きとしては武術舞よりももっと動きはゆっくりだが、威力自体
は桁違いにある。
つまり、﹃演舞﹄という名前を持っていても、人を殺すためのも
のだ。
今現在、古武術と呼ばれるモノは、生き抜くために編み出された
ものだ。
その発祥は様々だが、うちの場合は戦場で得物を失っても生きて
戻るために編み出された。
敵から得物を奪い取る、あるいは素手で立ち向かうといった様々
な状況を設定して作られた。
綺麗事を言ったところで結果は同じ。
自分が生き残るために相手の命を奪い取るということだ。
それゆえ、幼い頃、古武術を習う時から厳しく言われる。
この道を続けるならば、人の命を殺める時が来ても躊躇ってはい
けない、そうして己の命を絶ってはいけない。
己が奪った命の重みを受け止め、足掻き苦しんでも生き続けろ、
と。
それができなければ、武術から手を引き、すべてを忘れろ。
そう訓えられてきたのに、私は逃げ出してしまった。
だらりと両腕を下げていた疾風がだんっと大きな音を立て、床を
蹴り上げ、そうして反対側の足で空を蹴る。
そのまま上体を後ろへと逸らし、片手を床についてそのままくる
りと一回転。
低い姿勢を保ち、足払いをする。
型の多くは足技が多い。
相手の重心を狂わせることが目的だからだ。
803
鎧は重い。
少しでも重心が狂えば、隙が生まれる。
どんなに強い相手でも隙が生じれば、勝機が見えることもある。
それは、自分も同じこと。
己の重心が狂わないように、強靭な肉体と低く重心を保つことが
基本姿勢だと覚え込まされる。
あの時、私は、2人なら何とかできると愚かにも判断した。
動きを封じて隙を作り、時間稼ぎをすればよいと、そう思ったの
だ。
それが間違いであったことは、結果が教えてくれた。
犯人は4人。
2人を封じても、2人、残る。
その残った2人のことを私は全く考慮していなかった。
それ故に起こった惨劇。
残った犯人の内の1人が、仲間ごと私を轢き殺そうとした。
私があの2人の動きを封じなければ、2人の命は助かったかもし
れない。
仲間に轢き殺された犯人たち。
その原因を作ったのは、この私だ。
私が、あの2人を殺したも同然だ。
赤く染まる視界の中、奇妙な形に折れ曲がった人形のようなモノ
を見て、私は恐怖を覚えた。
私が奪った命。
こんなモノを背負って、生きてなんていけない。
だから、私は逃げ出した。
幼い頃に何度も言われた言葉。
804
﹃強く、賢くあれ﹄
守るべきものがあれば、それを守り続けられるよう、強く、賢く
あらねばならない。
一日でも長く生き抜かねば、それらを守り通すことができないか
らだ。
そのために、他者の命を摘むことになろうとも動揺した様子を他
の者に見せてはならないと。
その言葉の意味を実感するような日が来ようとは思ってもみなか
った。
現代において、その言葉は形骸化してしまっているものだと疑い
すらしなかったのだ。
間接的に、己の判断が2人の人間の命を奪ってしまったことで、
私はようやくその恐ろしさを知った。
私は被害者で、彼らが加害者であることは明白で、私の口封じの
ためにそれは起こったのであって、責任の一端も私にはないと、誰
もが言う。
だが、それが事実だとしても、私が彼らの動きを封じてしまった
ために逃げることもかなわずに轢き殺されてしまったことも事実だ。
彼らの肉親に恨み言のひとつやふたつ、言われても仕方がない。
耐えなければいけないことを耐えれなかった。
私が逃げ出したことで、瑞姫さんが目覚め、私の代わりにすべて
を背負うことになってしまった。
私はあのふたりと、瑞姫さんに負債を抱えたことになる。
本来であれば瑞姫さんは私と入れ替わった時に眠りにつくはずだ
った。
それを引き留めたのは私だ。
あのまま瑞姫さんが眠ってしまっては、嫌なことを引き受けただ
けになってしまう。
瑞姫さんが引き受けたものを私がきちんと受け止めて、ちゃんと
立っていけることを見てもらい、安心して眠ってもらいたいと思っ
805
たのだ。
勿論それは、私の我儘だ。
瑞姫さんが私のために残してくれた友人と共に過ごす穏やかな日
々と、自分のやったことに対する責任を果たす姿を見て納得しても
らいたい。
いつかまた、瑞姫さんに出会えた時によく頑張ったと褒めてもら
えるように。
それが、瑞姫さんと入れ替わった時に私が考えたことだ。
今度こそ間違えない、と。
素早く腕を前に突き出すたびに、ひゅんっと風を切る音がする。
相手に攻撃し、そうして相手の攻撃を防ぐ。
疾風の動きは目に見えぬもうひとりの相手がそこにいるような気
にさせる。
姿が見えない相手がどのように動いているのか、疾風が形を取る
たびに見えるような気がしてしまう。
大叔父様が疾風のしきりを褒めていたのは、そこだった。
見えぬ相手との真剣勝負。
だからこそ、その動きのひとつひとつに破壊力があるのだ。
どれだけ激しく動いたところで、疾風は汗をかかない。
汗をかけば、視界は妨げられ、手足が滑ってしまうからだ。
腕が上がれば、そういった身体の反応も無意識に制御できるよう
になるらしい。
移動する際はふわりと動き、体重を感じさせないが、蹴りひとつ
ひとつには重みがある。
相手の動きを見切り、型を追い覚えるためには、自分の気配を消
し去り、見つめ続けるという修行もある。
私に疾風の動きを真似することは、まず無理だ。
806
体格や体力、色々な条件が異なりすぎているからだ。
だけれど、背中合わせで戦う時に呼吸を合わせることが容易くな
る。
相良本家の末娘。
それが、他の兄姉たちよりも私の身に降りかかる危険だ。
身内を大事にする相良家だからこそ、末子の私を盾に取れば、大
抵のことは操れると思う輩が現れる。
そのためにつけられたのが随身だ。
通常、疾風は私の身を守るために傍にいる。
だが一度事が起こり、私が相良に害をなすことになれば、疾風は
私の命を絶つ死神になる。
その後、疾風は周囲を巻き込んで己の命を絶つことになる。
常に疾風に求められているのは、私の命を絶つための強さだ。
私の命を絶てるだけの強さがあれば、私を守ることなど造作もな
いということだ。
逆に私に求められているのは、疾風を死神にせず、その生を全う
させる強さだ。
疾風を幸せにすること、すなわち、私が生き続けること、だ。
私が弱い人間であることは、散々思い知らされた。
強くありたい。
今、願うことは、それだけだ。
悲しませたくないと思う人間が沢山いるということは、人として
とても幸せなことなのだと思う。
その強さを、学ばねばならない。
どれだけ真剣に疾風の動きを見つめていたのだろうか。
不意に背後に人の気配がした。
807
ぎょっとしたときには遅かった。
﹁うきゃっ!!﹂
ふわりと身体が持ち上がる。
思わずあがった微妙な悲鳴に疾風の動きが止まる。
﹁柾様っ!?﹂
振り返った疾風が困ったように私の背後にいる人の名を呼ぶ。
﹁うん、久し振りだな、疾風﹂
何事もなかったかのように長兄が疾風に声を掛ける。
﹁あの∼⋮⋮柾兄上?﹂
意を決して私は兄上に問いかける。
﹁ん?﹂
﹁何故私は、兄上の膝の上に座っているのでしょうか?﹂
私を背後から抱き上げた兄上は、胡坐をかいた自分の膝の上に私
を座らせているのだ。
私の問いかけに、柾兄上は端正な顔に極上の笑みを浮かべて私を
見下ろした。
808
104
相良柾⋮⋮相良次期当主の長男で、長子である。
個性的過ぎる相良兄妹のまとめ役ということでも知られている。
実際、蘇芳兄上に対しては殴る蹴るの暴行、もとい親愛行動に出
る茉莉姉上も菊花姉上も、柾兄上の言葉には素直に従う。
貫禄が違いすぎるからと菊花姉上の言葉だが、私には﹃蘇芳兄上
が残念すぎるから﹄という副声音が聞こえてしまった。
幼い頃は八雲兄上とまとめて面倒を見てくれていた柾兄上に、私
が逆らうような行動を取ることはない。
ひと回りも違えば、相手が大人すぎてどうにも対応に困るのが実
情だ。
そうして、今はとある理由で同じ場所にいるということは稀だ。
柾兄上が結婚されて、子供が生まれるまで、私は公の場で柾兄上
と一緒にいることができないのだ。
尤も、柾兄上の仕事が忙しすぎて、一緒に居れない理由以前に家
の中でも顔を合わせることが滅多にないという寂しさ。
寂しいからといって、構ってほしいとは絶対に言えない。
言ったら最後、仕事を休んで構い倒してくれることだろう。
兄姉をびしっとまとめる長兄は、他の兄姉たち以上に私に甘かっ
た。
私を膝の上に乗せ、非常に上機嫌な柾兄上は、疾風にも近くに座
809
るようにと手招きする。
﹁伊織君が、こちらへ来たと聞いたから、そろそろ頃合かなと思っ
てね﹂
のんびりとした口調で告げる柾兄上の言葉に、私は顔を上げる。
﹁兄上?﹂
﹁うん。この話をするのは誰が適任かを考えていたのだけれど、私
が一番適任のようだ﹂
苦笑を浮かべた兄上に、私はそうだろうと納得してしまう。
姉たちは、自分の感情が一番だ。
勿論、有事には自分の感情を押さえて必要とされることを行うだ
けの自制心はある。
だがそれ以外の時には、﹃嫌なことをわざわざしてどうするの!
?﹄という思わず納得してしまいそうになる理論を振りかざして拒
否してしまう。
蘇芳兄上も似たようなものだ。
楽しくないからやりたくないの一言で終わりだ。
説明下手なことも手伝って、誰もあえて蘇芳兄上にはそういった
ことはさせない。
弁が立つ八雲兄上なら、確かにこういう場面で説明をする役を任
されることは考えられるが、柾兄上がそれを託すような内容ではな
いらしい。
信頼はしていても、末の弟や妹に負担をかけることを良しとしな
い性格なのだ。
矢面に立つのは自分1人でいいと考えてしまうような責任感が強
すぎる面がある。
そんな時は、まだ兄の役に立てない自分が悔しくてしようがない。
負担だと思われてしまうくらい、まだまだ力が伴っていないのだ
と自覚してしまうからだ。
﹁もうじき4年になるな、あの事件から﹂
頭を撫でられ、痛ましげに目を眇める兄上はあの時の傷だらけの
810
私の姿を思い浮かべているのだろう。
﹁その件で、いくつか疑問があるのですが。主に律子様のことで﹂
﹁やはりそう来たか﹂
苦笑した柾兄上が大きく頷く。
﹁答えられることならば、答えよう。言ってみなさい﹂
促されて、ほっとする。
本当はあまり聞いてはいけないことだと思うけれど、どうしても
気になってしまったことがある。
﹁1つは、律子様は﹃押しかけ女房﹄だと言われてるけれど、そう
すると以前にもしかして、斗織様には決まった方がいらっしゃった
のではないですか? それから、2つめですが、私が病院に運ばれ
た時に、律子様が私が死んだら諏訪たちも死になさいと仰ったそう
ですが、それに免じて本家が諏訪家への手出しを控えたと聞きまし
た。この相良の対応に、私は納得できないのですが、何故、母親が
庇うべき子供に死ねと言えて、それを相良が是としたのでしょうか
?﹂
2つ目の対応は、瑞姫さんから聞かされた時に、ものすごく違和
感を感じたことだった。
瑞姫さん自身はさほど疑問を抱かなかったようだけれど、私にと
っては不思議でしょうがなかった。
母親から死ねと言われて、諏訪が傷つかないと思わなかったのだ
ろうか、律子様は。
そのことが、どれほどの傷になっているのか、気にもかけなかっ
たのだろうか。
母親は、どんな時でも我が子を庇うものだと、私は母を見て思っ
ていた。
蘇芳兄上がとんでもない悪戯をしでかして、御祖父様や父様に怒
られそうになった時、母様が必ず間に入って蘇芳兄上を庇っていた。
そうして、蘇芳兄上に何故そんなことをしたのかを説明させて、
それから蘇芳兄上が素直に謝罪できる場を作っていた。
811
それが母親なのだと思っていた。
私が知る母親像と律子様とはあまりにもかけ離れていた。
子供を庇わない母親、逆に罪を責め、追い込む律子様に、私は、
詩織様を理想の母親として慕った諏訪の気持ちがある意味自然なこ
とのように思えた。
そういう環境で育ったからこそ、律子様の対応を是として引き下
がったのだと聞かされて、納得できなかったのだ。
﹁傍から見れば、そのように映っただろうね﹂
﹁え?﹂
﹁伊織君に死になさいと言った律子さんの母親らしからぬ態度に、
私たちは彼女を切り捨てたんだよ。交渉相手は、彼女ではない、と
ね。そもそも、斗織さんかご隠居が交渉相手であって、律子さんは
嫁の立場だ。伊織君の母親として表に出るなら、彼女と交渉したか
もしれないけれど、律子さんは自分が諏訪の代表のように振る舞っ
た。だから、私たちは律子さんも斗織さんも諏訪本家として認めな
いと決めた。交渉相手は、ご隠居、ただひとり。彼が動くまで、ど
れだけでも待つ、とね﹂
﹁⋮⋮は!?﹂
この話は、どうやら疾風も知らなかったらしい。
目を瞠って、柾兄上を凝視している。
﹁そう。ご隠居が動かなかったのも、そこだったんだ。根競べをし
ていたんだよ、実は﹂
狸爺2匹で腹の探り合いしてたんだよと、苦笑しながら告げる柾
兄上に、呆気にとられる。
﹁伊織君がご両親を見限ってご隠居の所に駆け込んでくれて助かっ
たよ。それでご隠居が動かざるを得ない場面が出来てしまったから
ね﹂
﹁⋮⋮⋮⋮あ⋮⋮﹂
そのきっかけを作ったのは、瑞姫さんだ。
だけれど、どうして斗織様は律子様を制止しようとはなさらない
812
のだろう。
表面上は仲の良いご夫妻のように見える。
いや、そう装っているように見える、というのが正解だろう。
確かに律子様は斗織様に惚れ込んでいらっしゃる様子が伺えるが、
斗織様にはその熱が感じられない。
そんな場面が瑞姫さんの記憶の中で何度かあった。
﹁話を最初に戻そうか。律子さんが﹃押しかけ女房﹄と言われる理
由だね。律子さんには、双子のようにそっくりと言われる従姉妹が
いた。その方が、斗織さんの婚約者だったんだ﹂
穏やかに、冷静に、そう努めている様子で柾兄上が切り出した。
﹁斗織さんと彼女は東雲学園に通っていた先輩と後輩だった。一方、
律子さんは別の学園に通われていて、面識は一切なかった。律子さ
んが斗織さんと初めて会ったのが、彼女との婚約発表のパーティだ
ったと聞いている。そのパーティで律子さんは斗織さんにひと目惚
れ。事あるごと、それこそ、彼らのデートにまでくっついていく始
末で、一部では問題になったそうだ。婚約発表した者たちの仲を裂
くような真似をするのは、褒められたことではないからね。しかも、
その片方が血縁者だ﹂
﹁一部ではなく、社交界においてと言った方がよいように思えます
が⋮⋮﹂
恋は盲目とよく言うが、それでもやっていいことと悪いことがあ
るような気がする。
それとも、やはり綺麗ごとを言ってはいけない世界なのだろうか。
恋愛なんてよくわからない。
﹁ところが、結婚を目前にして、婚約者の女性は突然、自殺を図っ
た。はっきりした理由は伝えられなかったが、﹃斗織さんに申し訳
が立たない﹄という遺書があったそうだ。そうして、彼女のおなか
には赤ちゃんがいたそうだ。DNA鑑定の結果、その子は斗織さん
の子供だったそうだ。つまり、伊織君のお兄さんだね。その子が生
まれていれば、伊織君は次男だったということだ﹂
813
その言葉に、私は引っ掛かる。
言葉通りに受け止めれば、確かにそうなのだけれど、何故か気に
なる。
﹁柾様、斗織様に申し訳が立たないという遺書が残されていたとす
れば、その方はもしかして⋮⋮﹂
青ざめた表情で疾風が問う。
﹁言っただろう、疾風。はっきりとした理由は伝えられていない。
疾風が想像していることが本当の理由だとしても、故人の名誉のた
めに口にしてはいけない。一番悔しかったのは、彼女なのだから﹂
﹁⋮⋮犯人は律子様だという噂は立たなかったのですか、兄上?﹂
婚約、及び結婚を破棄させるには、斗織様ではなく婚約者の方に
瑕疵があったとしなければ、大手を振って律子様が嫁ぐことなどで
きないだろう。
その瑕疵が故意に作られたとして、その方が自ら死を選ばれるよ
うな屈辱的な方法を考え付くのは、やはり女性だろう。
そうなれば、疑いが持たれるのは律子様をおいて他にいないと、
思われる可能性は高い。
﹁当時、律子さんは語学留学をなさっていたそうだ﹂
﹁それって、2人の邪魔をするなという理由で飛ばされていたとか
?﹂
眉根を寄せて、疾風が呟く。
﹁メール一本ですべてが行える時代ですよ、今は。それこそ、海外
なら証拠隠滅は持って来いじゃないですか。裏サイトの掲示板に書
き込むとか、捨アドで指示を出すとか、楽に行えますよね﹂
瑞姫さんが持つ知識から、ふとそれを思いついて口にすれば、疾
風が激しく慄いた。
﹁女って怖い⋮⋮﹂
﹁もちろん、警察もそのことを基本通りに疑って、マニュアル通り
に調べたそうだ。そして、何も出なかった﹂
やけに含みのある言い方だ。
814
つまり、証拠が出なかったので、疑わしきは罰せずという理論の
下、立件できなかったと考えていらっしゃるのだろうか。
﹁留学先から戻ってこられた律子さんは、従姉妹の変わり果てた姿
に号泣したそうだ。そのあと、ふさぎ込んでいた斗織さんを慰める
という名目で留学を打ち切り、そうしてそのまま諏訪家の嫁に納ま
ったというのが﹃押しかけ女房﹄の真相だ﹂
兄上の説明を聞きながら、私は最悪のことを想像する。
もし、斗織様が、婚約者を死に追いやった犯人が律子様だと想定
していたら、どうなるのだろう。
そうして今でも婚約者を想っているならば、諏訪がひとりっ子だ
という理由に裏付けが出来てしまう。
諏訪家は最低でも子供が2人必要だ。
企業を継ぐ者と、神職に就く者と、だ。
いやだ。
これ以上の詮索は必要ない。
震え出す身体を押さえようと、両手で肩を握りしめる。
﹁瑞姫、この件については、これ以上、何も考えなくていい。おま
えが生まれる前のことだ。どうあがいても何もできない。そうだろ
う? 相良であるおまえが、他家のことを気に留める必要はどこに
もない。もう、なるようにしかならないのだから﹂
宥めるように背中を軽く叩いてあやされ、そう告げられる。
こうなることを見越して、膝の上に乗せたのだろうか、この人は。
﹁瑞姫? 柾様?﹂
私が想像したことは、疾風には想像できないことだったようだ。
不思議そうに首を傾げる疾風に、私はホッとする。
﹁さて。では、別の話をしようか﹂
そう切り出した柾兄上の言葉に、私は深呼吸をした。
815
105
髪を撫でる大きな手。
優しく丁寧に指先で梳くように、ゆったりとした仕種で動いてい
る。
その手が襟足付近に近付くと、戸惑ったようにぴたりと止まる。
そうして少しためらった後、再び上へと戻っていくのだ。
小さい頃、寝る前と朝起きたときの髪を梳る役目は、柾兄上のも
のだった。
初等部に入ったころには、自分のことは自分でできるようになっ
たため、兄上の手を煩わせることはなくなっていた。
それでも、八雲兄上や柾兄上は、好んで私の髪を弄っていた。
お出かけするときなどは、凝った髪形にしようと、2人で櫛の奪
い合いをするほどだ。
そんな2人を余所に、疾風が私の髪を整えていたことも今では懐
かしい思い出だ。
中等部に入ったころには腰まであった髪は、今では後襟につくか
どうかという短さだ。
これを言ってはなんだが、髪を洗ったり乾かしたり、梳ったりと
いう場面で、非常に楽になった。
着物に合わせて整える時が少々不便だが、普段は髪型を整えると
いう手間が最低限で済むようになり、時間短縮になっている。
以前は、髪が短い自分というものが想像できなかったが、今では
髪が長い自分というものが不自然に感じられるほどだ。
816
だが、長い髪の私のイメージが今でも色濃く残っている柾兄上や
八雲兄上は、うなじあたりから髪が削いでまとめられていることに
違和感があるようだ。
私の髪を撫でるたび、戸惑う気配を漂わせる。
﹁どこから話せばいいか⋮⋮瑞姫にとっては、辛い記憶だろうし﹂
少しばかり考え込むような様子を見せた柾兄上が、ふと顔を上げ
る。
﹁詩織さんを襲った犯人は4人いた。これは、覚えているかい?﹂
私の記憶はところどころ欠けている。
事故のショックによるものだと聞いている。
記憶喪失とは異なるものだ。
一連の流れをビデオのように記憶していながら、欠けたところが
あると認識している。
普通であれば、ショックで記憶が欠けたとしても、辻褄合わせで
記憶が欠けていると思わないように記憶が挿げ替えられることが多
い。
間違った記憶を正しいものだと思い込んだりする場合もあるよう
だ。
ところが私の場合、辻褄合わせをせず、ある区間の記憶が途切れ
ているが意識はあったという認識をしているのだ。
妙に律儀な海馬に呆れてしまうこともある。
﹁そこは、覚えています。疾風の見舞いに行こうと車寄せではなく、
駐車場に向かって歩いていた時に遭遇したと。顔までは、はっきり
覚えていないと思います﹂
あやふやな記憶。
鮮明な記憶。
思い出したくはないと、繰り返し見る夢に悪態を吐きたくなるこ
817
ともある。
あり得ない方向にねじまがったモノが記憶の最後と言える。
そこから記憶が途切れている。
だから、気を失ったのだと思う。
実際はタイムラグがあり、救急車が到着して運び込まれるわずか
な間、救急救命士の声掛けに反応し、質問に答えているらしい。
そこの記憶は一切ない。
それを知っているからこそ、柾兄上も躊躇うのだろう。
失った、あるいは忘れ去った記憶を思い出させていいのだろうか
と。
﹁私は大丈夫です。知るべきことでしたら、仰ってください﹂
﹁⋮⋮⋮⋮そう、だな。これは、瑞姫に関係していることだ。瑞姫
は知って、判断しなければならないことだ﹂
覚悟を決めたと表情で語った柾兄上は、私と疾風に話し出した。
私が遭遇した犯人は4人だった。
そのうち、2人を私が動きを封じ、1人が私を轢き殺そうと車に
飛び乗り、仲間ごと撥ね上げた。
轢かれた1人は即死、残る1人も数日間、ICUに入っていたが
体力が尽きて死亡。
取り押さえられた2人は警察に引き渡されたとまで聞いていた。
彼らは、諏訪分家当主に恨みを抱いていた。
詩織様をさらって、恨みを晴らそうとするほどまでに憎んでいた。
そこまでは、同情の余地があるというのが、世間一般の反応だっ
たらしい。
だが、無関係な私を殺そうとしたことで、同情が非難に変わった
らしい。
同級生を救おうとしたまだ幼い少女を、自分たちの計画を目撃し
818
たことで死に至らしめようと考えた残酷で身勝手な犯行という司法
判断も下されたということだ。
そう。
捕まった犯人のうち、私を殺そうとした男は、今でも裁判で全面
的に争っているらしい。
自分は悪くない、あの場に来て、通報しようとした私が悪いのだ
と言っているそうだ。
その主張を踏まえて、彼の弁護人は心神喪失状態でまともな判断
が下させない状況にあったため、罪を償える状態ではないというい
ささか苦しい理論展開をしているようだ。
一方、私を捉えるでもなく、車に乗って轢き殺そうともしなかっ
た犯人の1人は、全面的に罪を認めて裁判結果を受け入れ、上告も
せずに刑に服しているらしい。
こんなはずではなかったと計画について、素直に全部話した。
拘置所にいる間、ICUに入っていた仲間が死亡したと聞き、何
度も自殺未遂を衝動的に起こし、その後、私が助かったと聞いて、
号泣したそうだ。
無関係の人間を殺そうとする仲間を止めることもできず、ただ見
ていることしかできなかった自分に嫌気がさしたと残し、首を吊ろ
うとし、舌を噛もうとしていた男は、知らせを聞いて相当長い間、
声を上げて泣いていたらしい。
そうしてようやく涙を拭いた後、この世と縁を切ると言って、出
家願いを切り出し、そうして事情を聞いたある寺院の僧侶が得度を
与えたそうだ。
﹁今現在、服役中だから、僧侶としての修行はしていないようだけ
れど、出所したらそのまま修行の道に進むそうだ﹂
柾兄上の言葉に、私は相槌を打ち、先を促す。
﹁それで、その方がどうされたのですか?﹂
﹁服役中の人たちがどういう生活をしているか、知っているかな?﹂
﹁いえ。不勉強で申し訳ありません。服役というのですから、何か
819
罪に応じて仕事をしているのだろうかと想像するくらいで⋮⋮﹂
﹁そうだね、正解とは言い難いが、間違いでもない。その罪に応じ
て収監され、禁固刑だったり懲役刑だったりと色々な刑に服すわけ
だけれど、死刑や無期懲役でない限り、彼らは社会復帰しなければ
ならない。けれど、刑務所を出てすぐに生活なんて無理だから、刑
務所にいる間に手に職をつけるための職業訓練などを受け、それら
に対する報酬をもらい、出所後の生活に使えるお金を蓄えるんだよ﹂
﹁⋮⋮ああ、そうですね。住むところが無かったり、もちろん、就
職先や食べるものや服なんてないですからね﹂
言われてみれば、納得する。
だけど、その話がどういう意味を持っているのだろうか?
私が考えていることがわかったのだろう。
兄上は小さく笑うと、私の髪を撫でた。
﹁出家をした身では、お金は必要ない。それでも服役中の身でそれ
らを拒絶することはできない。そうして、彼は償うべきことがある
と言って、毎月、働いたお金を、瑞姫、おまえ宛に弁護士を通じて
送っているんだ。金額は、ほんのわずかなものだ。おまえが下絵を
一枚描いた金額と比べることもできないほどの少額だが、それでも
コツコツと働いて貯めて、送ってくる。どんなに身を粉にして働い
ても、慰謝料どころか入院費用にも満たないとわかっていても、自
分にできる事だからと、謝罪の言葉の代わりに送ってくるんだ﹂
﹁⋮⋮普通の方、だったんですね﹂
本来、犯罪を犯すような人ではなかったようだ、この話を聞く限
り。
偶然だったとはいえ、私を巻き込んでしまったことでさぞ罪悪感
に苛まれてしまったことだろう。
どこでどう道を外してしまったのか。
﹁そうだな、普通の人だ。罪を償おうと、自分なりに必死に考えて
実行している人だ。詩織さんの父君と関わらねば、今も普通に暮ら
していただろうに﹂
820
仮定の話をした柾兄上は、小さく笑う。
﹁それで、送ってきているお金はどうなさるおつもりなのですか?﹂
﹁瑞姫はどうしたい? 彼は瑞姫への賠償金と慰謝料のつもりで送
ってきているんだよ﹂
﹁今まで受け取ってこられたのは、その方の意思を尊重するためで
すか?﹂
﹁そうだね。彼は確かに罪を犯した。だがそれは、瑞姫に対してで
はない。私は彼に対して、特に思うことはない。許せないと思う相
手ではないんだ﹂
兄上の声に感情の乱れはない。
確かにそう思っているのだろう。
﹁私は、ね、瑞姫。おまえを轢き殺そうとした者を決して赦すこと
はしない。己がやったことを省みず、あの場におまえがいたことが
悪いと言い張るような輩を世に出すつもりはない。不満不平を言い
続け、それでも外に出られず、いつか突如として行われる刑の執行
に怯えながら、絶望の中で日々を過ごせばいいと思っている。だが、
彼は違う。己がやったことに恐怖を覚えた。そこから反省し、償う
ことを選んだ。だから、私たちも赦すという道を選ぶことができる﹂
兄上が紡ぐ言葉に、この人は人の上に立つことを選んだ人なのだ
と思う。
相手が反省をしたからといって赦せるかと言えば、否だ。
感情というものは、そんな単純なものではない。
その感情を捻じ伏せて、必要だと思われる道を選ぶことを当たり
前のようにやれるのだ。
だから兄上は凄いと、素直に思う。
﹁これは、私たちの判断だ。だが、瑞姫、おまえは当事者であり、
被害者だ。どうしたいのか、正直な気持ちで答えていい立場だ。彼
の考えは、2つ。微々たる金額でしかないが、送っているお金を受
け取ってほしい。それと、出所したら、おまえに会って、直接謝り
たい。そう、彼の弁護士から聞いている﹂
821
﹁⋮⋮柾様、それは、お金は受け取らない。会いたくないと答えて
も大丈夫だということなのでしょうか?﹂
疾風が真っ直ぐに兄上を見つめ、問いかける。
私が何と答えてもいいように、先回りして最悪の答えを質問とい
う形で口にする。
﹁もちろん、構わない。相手もその覚悟はある﹂
柾兄上はゆったりとした仕種で疾風の質問に頷く。
﹁お金は、ひとまず受け取りましょう。出所された時に、そのお祝
いとしてそのお金を差し上げてください﹂
気持ちを送っているのなら、気持ちは受け取らなければならない
と思う。
私がそのお金を受け取ろうが受け取るまいが、彼を赦すのは彼の
心だ。
きっと、これからもっと苦しむことになるのだろう、罪の意識は
人それぞれだが時間と共に重くなるものだと聞く。
それが軽くなるのは、それこそ、ある日突然なのだとか。
それまで、誰がどう言おうともつらく苦しいものなのだろう。
刑期を終え、無事に出所したとしても、ここに来れるかどうかも
わからない。
謝罪したくてもできないほどに恐ろしい存在に、彼の中の私はな
っているかもしれない。
だから、謝罪しに来たのなら、自分の心に勝ったお祝いを差し上
げてもいいのではないかと思ってしまう。
﹁それで、いいのかな?﹂
﹁はい。例え僧侶になられるとしても、やはりお金は必要でしょう。
日常生活での細々としたモノを揃えなければならないでしょうし﹂
﹁ああ、そうだね。女の子はそういうところに目が行き届くものだ
な。失念していた﹂
一瞬、戸惑った様子を見せた兄上は、ちょっと目を瞠って、苦笑
する。
822
﹁一般の方よりもそういった方々の方が身嗜みに細かくチェックが
入りそうです﹂
私のイメージとしては、仏門に入られた方は非常に身嗜みに気を
遣っている感じなのだ。
身なりを整え、清く保ち、修行を行われている。
全然関係ないことだが、僧侶の方にも給料はあるのだろうか?
そこまで取り留めもなく考えて、そうしてもうひとつの答えを告
げていないことを思い出す。
﹁それと、会うかどうかは、今はお答えできないです。その時にな
ってみないと⋮⋮﹂
きちんと正面から向き合わなければいけないとは思う。
そう思うけれど、諏訪と会った時にフラッシュバックを起こした
私が、犯人の1人と会って起こさないとは限らない。
もっと強くならないと駄目だと思う。
答えはそれから見つけるべきだ。
﹁⋮⋮そうだな。答えを急ぎ過ぎるのはよくない。瑞姫の言うとお
りにもう少し時間をおくべきだな﹂
納得した兄上が、了承したとばかりに私の頭を撫でる。
﹁あの、兄上⋮⋮﹂
これで話は終わったと思った私は切り出す。
﹁ん?﹂
﹁そろそろおろしていただいても⋮⋮﹂
さすがに高校生にもなって、御膝に抱っこというのは恥ずかしい
と思います。
﹁だめ﹂
﹁え!? 何故ですかっ!? もう、用事は終わったのでしょう!﹂
﹁用事は終わってないよ。実に重要な用事だからね﹂
﹁は? どんな用事がまだ⋮⋮?﹂
まだほかにどんな用事があるのだろうか。
﹁久々に会った妹を堪能する。重要だろう?﹂
823
にっこりと笑った柾兄上が、私の頭に頬擦りする。
﹁重要ではないと思います、兄上⋮⋮﹂
何故、私を堪能する必要があるのだろうか。
﹁私の存在意義に関わる重要な用事だよ﹂
﹁いえまったく﹂
このシスコンぶりをドン引きせずに笑って付き合ってくれるお嫁
さんが見つかってくれるだろうか。
少しばかり遠い目になりながら、私はそう思った。
824
105︵後書き︶
納期数件と服用する薬の副作用とでダウンしておりました。
時間がかかって申し訳ないです。
825
106︵相良八雲視点︶︵前書き︶
相良八雲視点
826
106︵相良八雲視点︶
相良八雲、そう名付けられて20年が経つ。
生まれてから数年間、そう、物心がつくかつかない頃まで僕は相
良家の末っ子だった。
末っ子という存在が、女の子ならまだしも、男だとものすごく理
不尽な扱いを受けるのだと気付いたとき、その理不尽を強いる次兄
が仮想敵となった。
体力も知力もまだ敵わないが、絶対に負かしてやろうと思える存
在が、僕という人間を変えた。
それと同時に、自分の下の兄弟がほしくなった。
できれば、女の子。
男は鬱陶しいから嫌だと蘇芳を見て思っていた。
﹁八雲、クリスマスプレゼントは何が欲しいの?﹂
3歳のクリスマス前に母がそう尋ねてきた。
クリスマスプレゼントは両親からもらうもの。
サンタクロースからはカードが贈られる。
それが、僕のクリスマスのイメージだ。
この時ばかりは遠慮なくプレゼントをねだってもいい。
だから、この時、何もわからずに僕は素直に欲しいものを口にし
た。
﹁妹がほしい﹂
﹁八雲? あのね⋮⋮﹂
﹁弟はいらない。妹がいい﹂
827
僕のお願いは兄と姉もその場で賛同した。
戸惑う母を余所に父までもが多いに頷いた。
あの晴れやかなまでに嬉しそうな笑顔は未だかつて見たことがな
い。
﹁そうだな、妹、欲しいよな﹂
この笑顔の意味に気付いたのは、割と最近のことだ。
相良の男は、﹃嫁命、子煩悩﹄がDNAに細かく刻みこまれてい
るようだ。
﹁あのね、八雲。赤ちゃんは神様のプレゼントだから、いつもらえ
るのかも、男の子か、女の子かもわからないの﹂
実に困ったような表情で母が僕を諭す。
﹁⋮⋮妹がいい﹂
普段は聞き分けがいいと言われる僕だが、この時ばかりは我儘を
押し通した。
蘇芳のような弟はいらない。
茉莉や菊花のような妹もできれば避けたいところだが、それでも
蘇芳よりはマシだ。
姉たちは、蘇芳よりも僕に対しての方が手加減してくれることは
知っている。
このクリスマスプレゼントは年を大きく越した5歳の春間近に贈
られた。
病院のベッドで身を起こした母の腕の中に、白い布に包まれた小
さな小さな何か。
﹁八雲、あなたの妹よ。大切にしてね﹂
ベッドの傍にあった椅子によじ登り、母の傍に近付けば、そう言
って腕の中のものを見せてくれる。
828
覗き込んだ僕は、何度も瞬きを繰り返した。
﹁⋮⋮赤ちゃん。すごく小さいね﹂
街中で見かけたことがある赤ん坊よりもはるかに小さい。
﹁そうね。生まれたばかりだからね。いっぱい眠って、いっぱいミ
ルクを飲んだら、大きくなるのよ﹂
﹁ミルク⋮⋮僕があげてもいいの?﹂
動物園のふれあい広場で子ヤギにミルクを飲ませるという体験を
脳裏に思い浮かべ、そう尋ねる。
僕が何を考えていたのかがわかったのか、微妙な表情になった母
は、穏やかな笑みを作る。
﹁そうね、もう少し大きくなってからね。たくさん飲めるようにな
るまで、ほんの少しだけ待ってあげて﹂
﹁うん﹂
母の言葉に頷いた僕は、どうしても気になっていたモノに手を伸
ばす。
﹁手もちっちゃいけど、爪もちっちゃい﹂
どこか作り物めいたその小ささに驚きながら突いてみると、しっ
かりと握りしめられていた手が開き、僕の指を握った。
思っていたよりも強い力。
温かい。
﹁お母さん! 僕のゆびを握ったよ!﹂
﹁そうね。お兄ちゃん、よろしくねっていうごあいさつね﹂
﹁僕、お兄ちゃん?﹂
﹁そうよ。八雲はこの子のお兄ちゃんなの﹂
柔らかく微笑む母と、僕の指を握ったまま眠り続ける小さな小さ
な妹。
自分が、この子の兄なのだという自覚が生まれたのは、多分、こ
の時だった。
829
瑞姫と名付けられた妹は、実に可愛らしかった。
何をするにも僕の後をついて来て、手を差し伸べて無邪気に笑う。
何でも僕の真似をしようとする。
こんなに可愛い生物がこの世の中に存在するとは思わなかった。
﹁みずき、おにーちゃんって言ってみて?﹂
﹁だーあっ? あー!﹂
﹁おにーちゃんだよ、みずき﹂
﹁あーっ!!﹂
ご機嫌に手をぶんぶんと振って笑う小さな瑞姫に家族中が夢中に
なった。
﹁八雲∼っ!! もうそろそろお父さんにも瑞姫を貸してくれない
かなー?﹂
﹁みずきのお世話は僕がするの!﹂
﹁あーう﹂
﹁お父さん、起きてる瑞姫となかなか会えないんだし﹂
はっきり言って、この時の父ほど情けない姿をさらしたことはな
かっただろう。
今でこそ、相良の次期様と一目置かれているが、僕が幼い頃の父
は、それこそ子供に構いたがる子煩悩という言葉だけでは表現が足
りないようなデレ甘な姿を見せていた。
﹁八雲、ちょっとだけ!!﹂
﹁そこまでにしてください、父さん。八雲も。瑞姫と一緒にお昼寝
の時間だろ?﹂
間に入って諭すのは、長兄の柾だ。
中等部にあがった柾は、慣れた様子で僕を小脇に抱え、瑞姫を抱
き上げる。
﹁だぁー?﹂
こてんと首を傾げた瑞姫が柾を見上げる。
﹁おひるね、だよ、瑞姫。ねむねむしよう﹂
830
﹁あーっ! あーっ!!﹂
お昼寝の意味がわかった瑞姫は、僕の頭をぽんぽんと叩く。
﹁そうだね、お昼寝だ。瑞姫は賢いな﹂
﹁あーっ!﹂
得意げに笑った瑞姫は、何度も何度も僕の頭をぽんぽんと叩く。
どうやら皆が、瑞姫を寝かしつける時に背中なんかをぽんぽんと
叩いてあやしていたため、その仕種を覚えてしまったらしい。
何度もその仕種を見せていた妹は、ことんと柾の肩口に倒れ込む。
﹁う∼ん⋮⋮眠れとあやす方が先に眠るとは⋮⋮瑞姫は間違いなく
うちの家系だな﹂
苦笑した柾がお昼寝用に敷いてあった小さな布団の上にそっと瑞
姫と僕を下す。
﹁眠っちゃったね﹂
﹁瑞姫は眠るのが仕事だからな。おまえも瑞姫と一緒に眠ってろ。
ここにいるから﹂
そう言われては仕方がない。
もぞもぞと布団の中にもぐりこみ、隣で眠る瑞姫を眺める。
お日様の香りがするふかふかな布団の中で、妹の顔を眺めながら
いつの間にか僕も眠っていた。
小さな小さな僕の妹。
大切に見守ってきた。
誰よりも大切だからこそ、大事に見守ってきた。
必要なときには手を貸して、何事も起こらぬように先回りして。
そうして、いつものように瑞姫に喜んでもらえるようなことを考
えていた僕は、病院にすぐに来いと呼びつけられて愕然とした。
﹁覚悟? 何の覚悟をしろと仰るんですか、先生?﹂
831
事件に巻き込まれ、重態に陥ったと聞かされ、感情が凍りついた。
打てる手はすべて打った。
あとは瑞姫の生きる気力がすべてだと言われ、浮かんだ感情は怒
りだった。
茶番を繰り広げる諏訪夫人。
己の子供に死ねとは、よく言うと笑みがこぼれる。
ああ、己の子供ではなかったか。
諏訪家の嫡男を自分の道具としか認識していない出来の悪い策略
家気取り。
瑞姫を傷つけた罪は重い。
相手が誰であろうとも、決して赦しはしない。
それが兄弟の総意だった。
だから、僕は事の次第をつぶさに調べ尽くした。
832
107︵相良八雲視点︶︵前書き︶
相良八雲視点
833
107︵相良八雲視点︶
何度緊急呼び出しをされたことだろう。
授業なんて、この際どうでもいい。
呼び出されて告げられる言葉は毎回同じ。
﹃覚悟をしてください﹄
この言葉を聞くたびに、感情が冷えていく。
何度言われようが、覚悟なんてできない。したくない。
覚悟なんてするわけがない。
それと同時に、瑞姫にもうこれ以上頑張らなくていいと言ってし
まいたい自分がいる。
もう苦しまなくていい。楽になってしまえ。
そう思いながらも、瑞姫の屈託のない笑顔をもう一度見たいと思
う。
目を開けて、笑ってくれれば、それだけでいい。
どんなことでもする。甘やかしてあげるから。
だから、目を開けて。
硝子越しの瑞姫の横顔は日に日に白さを増していく。
ふっくらしていた頬はすでに肉が削げ落ち、痩せている。
ガラスの向こうでは医師と看護師がせわしなく動き回っているの
に対し、心拍音を示す機械音が徐々に間延びしていく。
いつ途切れてしまうのか。
何もできない自分が苦しくてたまらない。
こんな時にさえ、諏訪家は誰一人としてここには来ない。
834
もし来たとしても、決して瑞姫に会わせはしないが。
ぎゅっと手を握りしめると、掌に爪が食い込む。
何度もこうした場面に同じことを繰り返しているせいで、掌には
爪の形がくっきりと刻まれてしまった。
﹁八雲、落ち着け﹂
ぽんと肩に手が置かれ、振り返れば柾がこちらを見下ろしている。
﹁落ち着いて、います。でも、覚悟はしません、絶対に﹂
﹁うん。それでいい。瑞姫はまだ頑張っている。瑞姫があきらめな
い限り、あの子は大丈夫だ﹂
﹁蘇芳兄さんと疾風を鎮めないと。ここで暴れては迷惑になります
よ﹂
﹁疾風は大丈夫だけど、蘇芳は注意しておこう。疾風は瑞姫につい
ていくつもりのようだ﹂
﹁それは⋮⋮あの子は岡部に返さないと、瑞姫が⋮⋮﹂
﹁うん。そうだね。だけど、もう決めてしまったようだ。今までと
表情も何もかもが違う。まだ12年しか生きていない子供たちに惨
いことを突き付けてしまった﹂
柾の表情が曇る。
﹁だけど僕は、瑞姫についていける疾風が羨ましい﹂
﹁まだそうと決まったわけじゃない。瑞姫がそれを赦すわけもない
だろう? だから、大丈夫だ。瑞姫は疾風の為にも生きることを選
ぶさ﹂
柾の言葉に被ってピッという電子音がひときわ高く響いた。
﹁っ!?﹂
一瞬の沈黙。
そうして心拍音が力強さを取り戻す。
硝子の向こうでも動きが変わった。
主治医が何か新たに指示を出し、そうして部屋を出て来た。
﹁⋮⋮危機を脱しました。瑞姫ちゃんを褒めてあげてください﹂
疲れを滲ませながらも明るい表情で告げてくる。
835
その言葉で、僕は悟った。
この医師は、瑞姫が相良の娘だから最善を尽くしたのではなく、
たった12歳の少女だから、全力を尽くしてくれたのだと。
﹁先生、ありがとう、ございます﹂
気付けば深々と頭を下げていた。
﹁いや。私も、瑞姫ちゃんに助けられているようなものです。瑞姫
ちゃんもお兄さんたちが大好きだから頑張っているんでしょう。い
いご家族で羨ましいです﹂
そう言って、医師はその場から立ち去って行った。
﹁ほら。瑞姫は生きることを選んだだろう?﹂
泣きそうになるのをこらえる表情で柾が告げる。
﹁⋮⋮柾兄さん﹂
﹁ん?﹂
﹁僕は何があっても諏訪家が赦せません。潰してもいいですか?﹂
つぶさに調べてあちらの内情はわかった。
どうしてこんなことになったのかも、おそらく警察よりも詳しく
調べ上げれただろうと思う。
だからといって関係のない瑞姫を巻き込んだことを許せるはずも
ない。
一人残らず息の根を止めて根絶やしにしてしまいたい。
﹁駄目だ﹂
﹁どうしてですか!?﹂
﹁最初の一撃は、瑞姫が下すべきだろう。我々はただの傍観者だ。
当事者は瑞姫だ。そこを間違えるな﹂
柾の言葉に、兄がどれだけ怒りを押し殺しているのかようやく悟
る。
﹁ですが、瑞姫は優しすぎる。あの子は伊織君を赦してしまうでし
ょう!?﹂
僕の懸念に柾は笑う。
﹁罪を憎んで⋮⋮というやつだな。瑞姫は兄妹のなかで一番、度量
836
が広いからな。確かに赦しを与えるだろう﹂
﹁兄さん!﹂
﹁だがね、八雲﹂
ゆるりと柾は笑みを深める。
﹁どう足掻いても、瑞姫は伊織君が欲しがるものを与えることはな
いだろう。それが、伊織君にとって最大の罰になるんじゃないのか
?﹂
﹁⋮⋮あ⋮⋮﹂
思い当たることがあった。
伊織君が欲しがって、瑞姫が決して与えないもの。
﹃瑞姫﹄という名を与えられた妹が、己の存在意義を誰よりも理
解している者が、諏訪家の次期当主にそれを与えるわけがない。
伊織君が次期当主であるがゆえに、瑞姫は彼を切り捨てる。
相良という家を知っているのなら、簡単に予想はつくはずだ。
そうして、伊織君が諏訪家の人間であるということを自覚してい
れば、己の出生が異常であることも理解できるはず。
﹁柾兄さん﹂
﹁理解できたようだな。賢い弟で兄としては嬉しいよ﹂
柾の笑みが実に人の悪いものへと変化する。
決して、瑞姫の前では浮かべない笑みだ。
﹁今は諏訪家としても下手に動けまい。動けば相良に討たれるとわ
かっていればこそ。だが、瑞姫の容態が安定し、普通の生活に戻れ
て数年後に動き出すだろう﹂
﹁福の神、ですか?﹂
相良の娘は昔から婚家に福をもたらす嫁だと喜ばれ、﹃福の神﹄
という渾名がつけられている。
何処の家よりも、まず最初に年が合えば嫁に欲しいと望まれるの
はその為だ。
そうして、現在直系の娘は3人。
上2人の気性の荒さに対し、末っ子の瑞姫は実に性格がいいと評
837
判だ。
今現在ですら嫁に欲しいと打診があるほどに。
﹁瑞姫の身体に消せない傷を残した責任を取ると言い出すわけです
か?﹂
胸糞悪いというのはこういうことなのだろう。
冗談ではない。
瑞姫の価値はそんなものではない。
誰が諏訪家に嫁にやるものか。
﹁やはり、潰しましょう﹂
﹁まて。ご隠居を引きずり出してからだ。当主では無意味だ。理由
はわかっているな?﹂
﹁⋮⋮はい﹂
﹁次代は瑞姫の獲物だ。おまえは手を出すな﹂
﹁納得しましたが、非常に悔しいです。一矢どころか十矢は報いた
いです﹂
﹁俺なんか、歴史ごと存在ごと消し去りたいくらいだ﹂
憮然と表情を今初めて浮かべた柾に、僕はホッとする。
﹁兄さんより僕の方が優しいですね。負けましたよ﹂
﹁当たり前だ。俺には弟と妹を守る義務がある。それを違えられた
んだ、その存在を赦せるわけがないだろう﹂
﹁相当お怒りですね。兄さんが自分のことを﹃私﹄ではなく﹃俺﹄
と言うくらいには、感情を乱しているのですから﹂
﹁だからこそ、今は堪えるんだ。あいつらが忘れたころに、全力で
喰らいつくための力を蓄えるために﹂
﹁長兄に従います。まずは、瑞姫の回復が先ですね。諏訪家などに
関わっている暇などないですね。元気になったら、瑞姫をどれだけ
でも甘やかせてやりますとも﹂
過保護と言われようとも、傍にいて甘やかしてやろう。
瑞姫がやることを褒めてやろう。
あのはにかむような笑みを見せてくれるのなら、どんなことでも
838
してみせる。
﹁⋮⋮⋮⋮八雲﹂
﹁はい?﹂
﹁程々にしておけよ。瑞姫が困るだろ﹂
僕が何を考えているのかがわかったのだろう。
実に微妙な表情で告げる兄。
﹁いいんですよ。瑞姫が笑ってくれるのなら﹂
﹁本当に瑞姫にだけは甘いな、おまえ﹂
﹁兄さんに言われたくありませんね﹂
こうも軽口が叩けるのは、瑞姫がいてこそ。
僕たちは笑顔を作りながら、そう思った。
+++++++++++++++
車寄せで待っていた運転手に予定変更を告げる。
﹁諏訪の御大の御屋敷によってから、会社に向かってくれないかな
?﹂
僕の言葉に運転手は表情を隠すように頭を下げる。
﹁承知、いたしました﹂
丁重な態度と慇懃無礼の際で伊織君は全く気付かなかったらしい。
僕が先にシートに座ってから、伊織君が続いて座る。
そわそわとした態度はそのままだ。
そんなに相良の屋敷へ来れたことが嬉しいのだろうか。
未だに御大の考えに気付いていないところが残念だ。
﹁そのっ! 八雲様﹂
﹁何だろう?﹂
839
﹁彼女は⋮⋮どのようなものを好まれるのでしょうか? あの、甘
いものとか、花とか⋮⋮﹂
意を決したような表情で問いかけてくる内容といえば、これか。
同じ学年で、同じクラスになったこともあるというのに、相手の
好みを把握できないとは何事か。
﹁瑞姫はね、甘いものは食べれるけれど、そこまで好きじゃない。
飴細工は好きだけれど、食べるより眺める方だね﹂
﹁そう、なんですか⋮⋮﹂
﹁そうだよ。あと、花は季節折々のものを好んでいるかな? あり
のままが一番だとね﹂
﹁つまりそれって⋮⋮﹂
﹁切り花は、そこまで好きじゃないってことだね﹂
﹁そう、ですか⋮⋮﹂
見るからに萎れる若者に、笑いを隠せない。
僕が本当のことを言うと思っているのなら、相当素直な性格をし
ている。
勿論、今言ったことは本当のことだ。
本当のことを言った方が、この場合、効果的だからね。
﹁じゃあ、ぬいぐるみとか、そういったものは⋮⋮﹂
﹁あれはダニの温床になるだろう? 万が一、傷に障りでもしたら
困るから、そういったモノは部屋から排除するように指示している。
ハウスダストなどのアレルギーの原因になるしね﹂
﹁それは、そうですね﹂
﹁ああ、あれは、好きだよね﹂
﹁何ですかっ!?﹂
﹁古武術でね、他人の型を見るのが好きで、それこそ1日中でも道
場に籠って誰かしら稽古をしているのを眺めているよね﹂
意気込んで問う伊織君に意地悪を仕掛ける。
﹁古武術⋮⋮﹂
﹁うちは武将の家系だからね。己を鍛えるということにおいて、男
840
女問わず余念がないんだよ。弱い自分というものが一番許せないか
らね﹂
その言葉に、伊織君の表情は引き攣った。
ここで表情を変えるだけ、まだマシか。
﹁ところで、伊織君﹂
﹁はい﹂
﹁君は1人っ子だったよね?﹂
﹁ええ、そうです﹂
﹁不思議に思ったことはないかい?﹂
﹁は?﹂
きょとんとした表情で僕を見上げる彼に、苦笑が漏れる。
﹁君のお父さんは何人兄弟?﹂
﹁ふたりです﹂
﹁おじいさんは?﹂
﹁⋮⋮2人です﹂
﹁曾おじいさんは?﹂
﹁3人と聞いています﹂
﹁では、何故、君は1人っ子なんだろう?﹂
おかしいよねと笑いかければ、伊織君は固まった。
﹁⋮⋮え?﹂
﹁そうだろう? 諏訪家は、神職と企業トップ兼家長とを直系から
出しているだろう? 君、神職の勉強、した?﹂
﹁いえ﹂
﹁律子様は、健康体にしか見えないから、もう1人、産めないとい
うことはなかっただろうにね﹂
瑞姫が最初の一撃を与えるのなら、僕はそれが効果的な一撃にな
るために楔を打っておこう。
﹁君は本当に、1人っ子なのかな? 長男であっているのかな?﹂
﹁まさか、父が⋮⋮﹂
﹁それこそまさか、だよね。斗織さんはたったひとりを想う一途な
841
方のようにお見受けするからね﹂
変わっていた顔色が元に戻る。
それにしても、情けない。
本来ならば他人に言われる前に気付くだろうに。
能力は諏訪家嫡子に相応しい程度にはあるのに、それを活かせな
いとは。
いらぬ者を排除してから育てるつもりだったとしたら、それは時
期をすでに見失ってしまっていることになる。
何を考えているのだろう。
﹁ああ、どうやらついたようだ﹂
車がスピードを落としたことに気付き、外の様子を眺めてそう声
を掛ける。
﹁あ、はい。ありがとうございました﹂
慌てて礼を言う伊織君に穏やかそうな表情を作って頷く。
﹁当主就任、頑張って﹂
そう言って、伊織君を送り出す。
斗織さんが最後の当主になるのか、それとも伊織君か。
はたまた生き延びることができるのか。
手腕を見せてもらうよ。
静かに滑り出した車の中で、シートに背を預け、僕はそう呟いた。
842
108
翌日、私は熱を出した。
どうやらキャパシティを上回ってしまったらしい。
目を覚ましたはいいが、体がだるくて持ち上がらず、起き上がる
ことができなかったので、枕許に置いていたスマホに何とか手を伸
ばし、茉莉姉上にSOSを出した。
こういう時、身内に医療関係者がいるというのは実に心強いもの
だと思う。
多少と言うより、相当荒っぽいけれど、腕は確かだし。
ベッドの上でぐったりしている私の許へ駆けつけてくれた茉莉姉
上は、本当に頼り甲斐がある姉だと思う。
ただ、本当に荒っぽかった。
﹁ストレスによる発熱のようね。まあ、仕方ないわ。昨日は色々あ
ったようだしね﹂
体温計を眺めた茉莉姉上は、溜息を吐きながら呟く。
﹁⋮⋮まったく。母子揃って面倒な﹂
眉間に皺を寄せて内心を駄々漏れさせる姉の表情は極悪だ。
整った顔立ちというものは、その表情を両極端なまでに魅せるよ
うだ。
思わず視線を彷徨わせてしまうほどに、恐ろしかった。
相手が律子様でなければ、﹃逃げてーっ!﹄と叫んでいただろう。
ごめんなさいと呟けば、茉莉姉上は表情を和らげた。
﹁瑞姫のせいではないわ。このところ、頑張りすぎたのも発熱の原
843
因よ。身体が休みなさいと言っているのだから、少しは怠けなさい﹂
﹁でも、全然努力が足りてないと思う⋮⋮﹂
﹁比較対象が間違ってるの! 柾兄さんと自分を比べる方がおかし
いの!! いい!? 柾兄さんは瑞姫とひと回り違うの! 経験値
が圧倒的に足りないのに、追いつくわけないでしょうが!!﹂
あう。がつんと怒られた。
﹁だけど⋮⋮﹂
﹁言っておくけど、柾兄さんも私も、16歳の時に瑞姫ほど賢くも
優秀でもなかったわ。私はTOP10に入る程度だったし、兄さん
だって競い合うような相手がいなかったわ。瑞姫の代は相当優秀な
人材が揃っているようね。その中で主席争いを続けてるのだもの、
充分すぎるほどよ。瑞姫が競うのは柾兄さんじゃなくて、同じ学年
の子たちでしょう﹂
﹁でも、私は本家の子供なのだから⋮⋮﹂
﹁年相応でいいの。自分を騙して頑張りすぎても長続きしないわよ。
誰もそんな無理を望んだりしないわ。瑞姫が元気で笑っていれば、
私たちはそれでいいの。それ以外のことは望んでないの﹂
そう言われれば、返す言葉もない。
﹁東雲には私から連絡をしておくわ。疾風にもね。ああ、見舞いは
断るように疾風に伝えておくから。弱っているところは見られたく
ないんでしょう?﹂
﹁う⋮⋮はい﹂
﹁解熱剤を使った方が、早く楽になるけれど、風邪ではないのだか
らこのままの方が実際、身体にかかる負担は少ないの。ひと眠りし
なさい、それからもう一度状態を確認して処方を決めるわ﹂
専門家の判断に否やはない。
こくりと頷けば、表情を和らげた茉莉姉上は私の頭を撫でる。
﹁授業に遅れるからって言って、起きて勉強なんてしちゃだめよ。
わかってるわね?﹂
なんでわかった!?
844
﹁たった、1日や2日、勉強しなくったって死にはしないの!﹂
﹁でも来週から期末試験だし﹂
﹁日頃きちんと勉強していれば、別に問題は生じないでしょう?﹂
﹁何か見落としてたりしていたら⋮⋮﹂
﹁⋮⋮瑞姫⋮⋮﹂
﹁うっ⋮⋮はい。ちゃんと寝てます﹂
見事な笑顔で脅迫され、私は長いものに巻かれろと方向転換を決
めた。
﹁それだけ元気が出れば、今日1日で回復するわよ、若いしね。明
日の為に、今日は休みなさい。いいわね、瑞姫﹂
﹁はい﹂
そう言われ、私は素直に頷いた。
私の返事に満足した茉莉姉上は、ベッドルームを去っていく。
扉が閉まり、茉莉姉上の気配が消えて、私は深々と溜息を吐いた。
﹃瑞姫﹄、それが、私の名前だ。
相良の子供たちにつけられる名前は自然及び自然現象を素にして
いる。
名には意味がある。
重要なのは、﹃呼び名﹄なのか﹃個人名﹄なのかは、その生まれ
落ちた順番や性別で異なっている。
男子の場合は﹃個人名﹄だが、娘の場合は上2人は﹃呼び名﹄で
あって、それ以降は﹃個人名﹄だ。
茉莉姉上と菊花姉上の呼び名は﹃壱き姫﹄と﹃津の姫﹄だ。
元々は﹃一の姫﹄と﹃二の姫﹄と呼ばれたのだろうが、それが訛
って省略されて﹃いつきひめ﹄と﹃ふたつひめ﹄から﹃つのひめ﹄
と呼ばれるようになった。
﹃壱き姫﹄の﹃き﹄は﹃椿﹄の字をあてられることもある。
845
それは、茉莉姉上が治める領地を示しており、また﹃壱番槍﹄の
意味もある。
変事が起きた時に、まず任された土地の安全を確保すること、そ
うして誰よりも先に変事の元へ駆けつけること。
それが﹃壱き姫﹄の役目なのだ。
さらに古い呼び名があるのだが、これを年寄り以外に言われると
茉莉姉上は激怒する。
まあ、茉莉姉上だけでなく、普通は怒るだろう。
それが﹃猪の姫﹄だ。
これは真っ直ぐに駆けつけるという意味なのだが、猪突猛進とも
取れるので、歴代の長女も嫌がったようだ。
菊花姉上の﹃津の姫﹄はわかりやすい。
﹃津﹄とは港のことだ。
海や川での舟の寄港地だ。
これは、かつての相良の領地に急流があったことに由来する。
川に関することに対して采配を揮えという意味がひとつ。
他には、他家に嫁いで拠点となれという意味がある。
今までの次女は、やむをえぬ事情がない限り、ほぼ必ずと言って
いいほど他家に嫁いでいる。
つまりは、相良の﹃福の神﹄伝説の殆どは歴代の次女が積み上げ
てきたようなものだ。
勿論、それより下の娘たちも他家に嫁いでいるので、福の神と呼
ばれたのが全員次女だったというわけではない。
嫁ぎ先でも彼女たちはやはり相良の娘だ。
福の神の恩恵を与えながら、婚家の情報を相良へと送っていたり
する。
つまり、彼女たちの﹃福の神﹄という恩恵は最大のカモフラージ
ュ的な要素だったのだ。
2人の姉はどちらも茉莉に菊花と可愛らしい花の名前を与えられ
ている。
846
羨ましい限りだ。
﹃ミズキ﹄という名を聞いて、思い浮かべるのは何か。
それが﹃アメリカハナミズキ﹄であれば、とても可愛らしいくて
嬉しいと思うが、実際はそうではない。
﹃ミズキ﹄とは、本来、﹃水城﹄や﹃瑞来﹄という漢字をあてら
れる。
人の名前であれば、﹃瑞希﹄が多いだろう。
私に与えられたのは﹃希﹄ではなく﹃姫﹄という字だった。
これにはいくつもの意味が込められている。
﹃姫﹄は、女の臣と書く。
平時であれば、分家を作る娘の意だ。つまり、乱となれば、姫の
名を持つ者が後を継ぐ。
娘が産んだ子であれば、必ず相良の血を引いているからだ。
郭公の真似など許すわけにはいかぬという意味がある。
夫以外の子を孕んだ嫁が、夫を殺害し、子供を後継ぎに据えると
いうようなことは、乱世にはよくあったことだ。
そのため、相良の当主が死した時は、たとえ妻に子が宿っていた
としても、後継ぎにはせず、もとより内々に決めてあった次の子へ
当主の座を譲り渡してきたのだ。
兄弟仲が他家と異なり、非常にというか、異常に良好な相良だか
らこそ家督争いも碌に起こらず問題なく継承が行われてきた。
これに異を唱えた者は、文字通り切り捨てられる。
もちろん、これは過去のことであり、今現在では切り捨てられる
ことはない。あって、離縁ぐらいだろう。
つまり、柾兄上に何かあった時、後を継ぐのは他の兄姉を差し置
いて私だと他の兄弟たちが同意しているというか、彼らの総意でそ
う決まっているのだ。
それが﹃姫﹄に与えられた意味だ。
﹃ミズキ﹄の意味は、災害だ。
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﹃洪水による氾濫地﹄、それが﹃ミズキ﹄だ。﹃ミスキ﹄と呼ぶ
こともある。
何か事があった時に、すべてを巻き込んで押し流し、無に帰す者。
それが私の役目だ。
これは相良に限ってのことではない。
私の周囲、私に関わろうとした者であれば、その災害に見舞われ
るということだ。
今、その災害に見舞われようとしている家は4家ある。
1家は友人を守るため、残る3家は私に害を及ぼそうとしたため、
だ。
このうち1家は確実に押し流されることが決まっている。
私が決めたわけではなく、周囲がそう定めてしまっているのだ。
彼らの場合、私に悪意を持って害をなそうとしたということで殲
滅一択になった。
恭順の意を示そうが、反省しようが関係ない。
相手を見誤った、という理由で充分なのだそうだ。
私がとりなそうと思っても無駄なのだ。とりなすつもりもないけ
れど。
茉莉姉上や菊花姉上が﹃福の神﹄ならば、私は﹃禍つ神﹄なのだ。
私自身には何の力もないけれど、力を持つ者たちへの引き金に充
分なりうるということは幼い頃から理解している。
兄姉たちは、末子である私を溺愛しているのは、私が柾兄上のス
ペアだからではないことは熟知している。
望んで生まれた末っ子だから、と反応に困惑するような状況で何
度も聞かされている。
大事にされればされるほど、私が彼らの足枷になるのではないか
という恐怖に駆られたこともある。
だけれども、﹃ミズキ﹄という名前を手放すことはできなかった。
私が瑞姫であることが、彼らの支えになることだと知ったゆえに。
私は、﹃瑞姫﹄を務めているのだろうか⋮⋮。
848
優しい手が私を撫でる。
労わるように、愛しむように。
いつの間にか、本当に眠っていたらしい。
ふと目を開ければ、母様が私の前髪辺りを撫でていた。
﹁⋮⋮母様﹂
﹁目が覚めたようね。気分はどう?﹂
柔らかく微笑む母に、私は自分の体調を探ってみる。
﹁⋮⋮身体がだるかったのが取れて、随分楽になりました﹂
﹁そう。よかったわ﹂
穏やかな表情で頷いた母は、少しばかり考えるそぶりを見せる。
﹁母様?﹂
﹁あのね、瑞姫。何か食べれるかしら? あなた、朝から何も口に
していないわ﹂
そう言われてみれば、確かにそうだ。
﹁スープがいいです﹂
﹁わかったわ。んー、じゃあ、御夕食は何が食べたい?﹂
何故、朝昼をすっ飛ばして夕食のメニューなんだろうか?
そもそも、今は何時なんだろう。
まだかなり明るいから午前中のように思っていたけれど。
﹁⋮⋮母様のロールキャベツ﹂
今食べたいものを考えろと言われると、これしか思い浮かばない。
﹁瑞姫。それはちょーっと、季節はずれかもよ?﹂
﹁和風なので問題ないかと⋮⋮﹂
﹁今の時期、キャベツあったかしら? まあ、あるでしょうけれど﹂
頬に手を当て考え込む母様を見上げる。
シェフが作るロールキャベツと違って、母様の作るロールキャベ
849
ツはそれこそ一般家庭の母の味だ。
中身自体が全然違うので、ロールキャベツの括りに入れていいの
かどうかも疑問が残るが、キャベツにくるんであるのでロールキャ
ベツと断言しよう。
中身はひき肉にちくわと糸こんにゃくを細かく刻んで炒めたもの
だ。
これをキャベツでくるみ、かんぴょうでぐるりと縛ると醤油ベー
スの和風だしでコトコト煮込むのだ。
母方の祖母が考案したもので、砂遊びをしたがる子供が手につい
た砂を食べたりするので砂出しをするために子供の好きなロールキ
ャベツを装って、こんにゃくを無理なくたくさん食べれるようにし
たと聞いた。
実際、このだしが絶品で、通常のロールキャベツよりも食べやす
いのだ。
料理上手な祖母の家には、常に近所の奥様方が料理を習いに来て
いる。
シェフたちの料理はもちろん、とても美味しいのだが、母や祖母
の作る家庭料理のほんわかとした優しい味も好きなのだ。
﹁食欲があるようで安心したわ。厨房の方に聞いて、作れるようだ
ったら作るわね。ああ、疾風ちゃんたちが来たら、ここに通しても
いいの?﹂
﹁はい、構いません。母様、疾風と颯希を﹃ちゃん﹄付けで呼んだ
ら怒りますよ? さっちゃんと呼んだら、颯希に散々怒られました
から、私﹂
﹁あらあら。さっちゃんってば可愛らしいこと。男の子ですものね
ぇ。﹃ちゃん﹄付けはやっぱり嫌よね、お年頃だから﹂
くすくすと笑いながら、母様は受け流す。
﹁じゃあ、枕許に特製ドリンクを置いてますからね。喉が乾いたら
いつでもたくさん飲みなさい﹂
﹁はい﹂
850
頷けば、頭を撫でられる。
母が部屋を出ていくのを見送りながら、私の瞼はとろりとおりた。
ふと意識がはっきりとする。
また眠っていたようだ。
部屋の中は少しばかり翳っていた。
夕方というほどでもないが、そこそこ日が翳りだす時刻なのか。
﹁疾風?﹂
部屋の中に馴染んだ気配がある。
声を掛ければ、人が動く気配がした。
﹁目が覚めたのか?﹂
ベッドの傍まで疾風が近づいてくる。
﹁うん。心配かけたか? すまない﹂
﹁いや。大して⋮⋮呼吸も安定しているし、顔色もいいからな。熱
も、もう治まったか?﹂
私を見下ろす疾風の表情は柔らかい。
怖がっている素振りもないので、言葉通りなのだろう。
疾風は私以上に、私の容体に敏感だ。
その疾風がここまで落ち着いているのだから、もう大したことは
ないのかもしれない。
それにしても、よく眠っていたな。
夜、眠れるだろうか。
﹁暑くも寒くもないし、だるさもないし。治まったと思うけど⋮⋮﹂
﹁そうか。良かったな﹂
﹁うん﹂
頷いたところで、起き上がろうかと思ったが、怒られると怖いの
で大人しく横になったままだ。
﹁今日は何かあった?﹂
851
学園でのことを尋ねてみる。
諏訪の動きなどもきちんと把握しておかなければ、これからどう
対応するのかも微妙に調整できないだろうし。
そう思って尋ねたのだが、疾風の表情は微妙なものだった。
﹁疾風?﹂
一体何があったんだろう。
﹁⋮⋮⋮⋮⋮⋮東條が復帰した﹂
﹁え?﹂
東條って、﹃東條凛﹄のことか!
瑞姫さん曰く、﹃残念な主人公﹄って人だ。
﹁⋮⋮瑞姫?﹂
﹁あはははは⋮⋮ごめん。忘れてたよ。そう言えば、いたよね、そ
んな人﹂
私の正直な告白に、疾風と私の内側の瑞姫さんがほぼ同時に吹き
出した。
852
109
期末試験が始まった。
1学期の成績が、これで確定する大事な試験だ。
手を抜くなど、私の辞書には存在しない。
絶対に負けられないのだ。
自分自身にもだが、諏訪にもだ。
本来、諏訪のスペックは私と比べようもないほど高い。
かなり突出した能力の持ち主なのだ、本当に。
だが、その能力を十全に出し切ることなく阻んでいるのが、本人
の性格だ。
こればかりは本人が自覚しないとどうしようもないのだが、そこ
に付け込ませてもらっているというのが事実だ。
自分より格上の相手と対等以上に渡りあうのであれば、それなり
に戦略が必要だ。
相手の欠点、弱点に付け込むのは当然の戦法だ。
卑怯だとか姑息だとか言える立場ではない。
勝てば官軍なのだ。
今は、力で捻じ伏せたように魅せる必要があるのだ。
そうでなければ、周囲を抑えることができなくなる。
私は弱い。
しかし、弱いことを周囲に悟られてはならない立場にいる。
だからこそ、誰もが強いと思っている相手を余裕で捻じ伏せてい
るように見せ、周囲を魅了しなければ生き残れないのだ。
853
︵本当に面倒臭い世界だな。でもまあ、瑞姫はよくやっていると思
うよ︶
私の中で瑞姫さんが告げる。
格上の者を捻じ伏せるには気力体力を根こそぎ削る。
私では務まらないと何度も思ったが、とりあえずのところは皆、
騙されてくれているらしい。
︵大丈夫だって。演技がバレている相手は、瑞姫の事を守りたがっ
ている人ばかりだからねー︶
のんびりとした口調で話す人に、私は困惑する。
本当は、その人たちを騙さないといけないのでは?
兄姉だったり、大切な友人だったり。
過保護すぎる人たちだから、大丈夫だと見せなければいけないの
に。
︵いいんだよ。多少隙がある方が、あの人たちも安心するんだから。
瑞姫に隙がなくなったら、かえってあの人たちは警戒するよ?︶
そういうものなのだろうか?
︵そうそう。無理をしていないと安心させるために、ボケてなさい︶
ボケ⋮⋮それはいくらなんでもひどいのでは。
がっくりと肩を落としたくなるような一言に、私は空を仰ぐ。
︵あ。そーだっ! あの東條凛は、課題提出クリアしたわけ?︶
興味津々といった様子で、瑞姫さんが聞いてくる。
課題提出はしたようだけれど、クリアはしていないというのが事
実だ。
854
しかしながら、期末テストを受けさせないというわけにもいかな
いので、一旦、これで終了ということになったらしい。
ここで学校側の思惑が透けて見える。
理事会側の東條凛を復学させろという圧力に屈したように見せか
けて、期末試験を受けてもらい、規則に法って退学せしめるという
わけだ。
授業を受けていない東條凛が50位以内に入ることはありえない
との判断が働いているのだろう。
普通に考えれば、確かにそうだ。
そうして、これ以上は理事会側の思惑に従うことは学園運営に支
障をきたすので出来ないと判断を下したのだろう。
千瑛の情報によれば、近々株主総会で理事の入れ替えが提案され
るらしい。
随分と根回しが進んでいるとのことだった。
私の記憶を表面に浮き上がらせるようにして、瑞姫さんに事の次
第を伝える。
︵なるほどねぇ⋮⋮そして、総会前に決定打を打つわけだ︶
私の記憶を読み取った瑞姫さんが、ひとりごちる。
にやりと笑うような気配がした。
学園側の思惑と、現理事会の思惑を察したのだろう。
︵それはそうと、疾風たちは遅いねー︶
のんびりとした声音に戻って、瑞姫さんが呟く。
今、私がいるのは教室だ。
試験期間ということで、生徒たちは早々に帰宅しているので、教
室内には私一人しかいない。
疾風は在原と職員室に行っている。
期末試験で試験科目に入っていない授業の課題を提出しに行って
いるのだ。
東雲ならではの特別科目である礼儀作法や芸術鑑賞等の授業は課
題提出で単位をもらうことになっている。
855
内部生にとっては、単位をもらうためだけの簡単な課題だが、外
部生にとっては非常に難しい課題らしい。
なので、この課題はグループ課題となっている。
レポート形式でまとめて、それぞれの班で提出するという内容だ。
班長が課題を提出することになっているので、疾風と在原が一緒
に提出しに行ったのだ。
私にここで待つようにと言い残して。
﹁んーっ!! さすがに、退屈になってきたなぁ﹂
大きく伸びをして呟いたその時だった。
廊下で人の気配がした。
馴染んだそれではない。
そうして、聴こえてきた言葉に驚いた。
﹁期末試験、油断してたら痛い目に合うんだから気を付けてね☆﹂
きゃぴりとした甲高い声が驚きの内容を告げる。
気配は2つ、声は1人。
︵うっわー! イタい。痛すぎる︶
厭そうな声が私の内側から響く。
耳に馴染んではないが、記憶にはある声。
おそらく、東條凛の声だ。
よくもまあ、ここまで自信たっぷりに言えるものだな。
それが、私の正直な感想だった。
授業も受けずに、主席発言とも取れることを口にするとは、すご
い自信だ。
︵あー⋮⋮瑞姫、あれね。シナリオのセリフなんだわ︶
瑞姫さんが、呆れ果てたような声音で告げる。
856
は?
︵実力試験で上位に入って、中間試験でTOP10に入った場合、
期末試験でのイベントフラグ立ての3択でね、諏訪伊織の興味を引
くセリフなんだよ︶
苦笑も出ないといったような乾いた声で、ぼそりと紡ぐ言葉に私
は驚く。
中間で、TOP10⋮⋮受けてないのに?
いや、あれ、最下位のALL0点扱いだったはずでは?
状況が状況だけに、当たり前だけれど、東雲初の珍事に教員が大
慌てしていたのは記憶に新しい。
そもそも、瑞姫さんの言った条件には全く当て嵌まっていないと
思うのだが。
︵あそこまでイタいといっそ清々しい気分にもなるよね、道化すぎ
て︶
何というか、彼女は状況把握という言葉を知っているのだろうか
という気になってくる。
︵現実とゲームの区別が未だについていないなんて、残念の一言じ
ゃもう片付けられないよね︶
まったくもってその通りです。
自分が置かれた立場というか、状況というものを冷静に判断しよ
うという気がないのだろうか。
外部生は基本的に寄付金というものがないが、その代わりに優秀
な成績を修めることが必須条件だ。
試験結果の上位50位以内というのは、内部生の保護者たちが支
払う馬鹿高い寄付金を彼ら、外部生が使うための理由のようなモノ
だ。
優秀な人材育成のため、彼らが東雲学園でかかる費用の一部負担
857
が内部生の家から出る寄付金で賄っているのだ。
東條凛は葉族だが、外部生である。
実際、試験には合格できない成績だったらしいが、寄付金積んだ
上に理事会の後押しを受けて無理やり合格した。
だがしかし、学籍を置く以上は東雲の規則に従わねばならない。
つまり、外部生として、上位50位以内に入り続けなければなら
ないわけだ。
実力試験で前代未聞のすべて赤点の最下位を叩き出した後、中間
試験は出席せずの最下位。
今回、50位に入らなければ、自動的に退学だ。
そのことをわかっているのだろうか、果たして。
︵わかってないと思うよー。というか、諏訪、いるのにまるっと無
視してるね︶
くくっと笑いながら瑞姫さんが言う。
確かに。
気配はするが、声がするのは東條凛だけで、もうひとりは全くの
無言だ。
諏訪は彼女の存在を認めていないということなのだろう。
もう少し、体裁というものを考えろと大神が言って聞かせ続ける
ほど、諏訪は好き嫌いが激しい。
今は随分改善されつつあるようだが、それでも嫌いな女性に対す
る態度は酷いものだ。
今度、諏訪の当主になるのだから、愛想というものを学ぶべきで
はないのだろうか。
︵⋮⋮瑞姫が言えば、多少は改善されると思うけれど? 主に、瑞
姫に対して︶
私に対して改善されても困るのだが。
一般的に他人に対して、それなりに対応できるようにならないと。
そう思っていた時だった。
858
賑々しく1人で喋っていた東條凛の声音が一段と高くなる。
﹁あっそーだっ!! 大伴家のパーティ! 私、パートナーになっ
てあげるね﹂
どうだ、嬉しいだろうと言いたげな口調で爆弾が落とされた。
︵うっわー⋮⋮上から目線。パートナー申し込みの仕方が逆じゃな
いか。最悪すぎる⋮⋮︶
目の前に瑞姫さんが居たら、おそらく掌で目を覆っていたことだ
ろう。
そんなリアクションが想像できるような声だった。
大伴家のパーティって⋮⋮もしかして?
瑞姫さんの記憶の中にあったそれを思い浮かべ、私は呟く。
東條家はもちろんだが、諏訪家も出入り禁止になったやつじゃ⋮
⋮多分、そうだったはずだ。
︵ああ、うん。そう。東條家は無期限で禁止。諏訪家も当分はとい
う形で招かないことを通告してたね︶
七海さま、あの騒ぎを相当お怒りだったし。
そう告げる瑞姫さんの声音は胡乱な響きを含んでいる。
まさかと思うけれど。
︵この分じゃ、シナリオ通りに出席できると思い込んでるよねぇ。
分家が起こしたことは、本家が責任取るのが筋だってこと、理解し
てないし︶
そこは一般人だったから仕方がないかもしれないけれど、普通、
出入り禁止になっていることくらい、当主が伝えているべきではな
いだろうか?
﹁諏訪家は、大伴家の夏のパーティに招待されていない。東條家の
人間は、一切、大伴家の敷地内に立ち入ることを禁じられている。
859
そんなことも知らずによく莫迦なことが言えたな﹂
冷ややかな声が耳を打つ。
諏訪の声だ。
こんな声も出せるのかと、感心するほど低く冷たい声だ。
﹁え?﹂
﹁大伴家のパーティにおまえを誘う者など、何処をどう捜しても現
れることはない。いや、どの家のパーティでも東條を招く者はいな
いだろう。諏訪も然り。犯罪者を出した家の末路はそんなものだ﹂
﹁え? 犯罪!?﹂
きょとんとした声だ。
とても父親を殺された子の反応ではない。
分家に父を殺されたというのに、犯罪者を出した家と言われて己
の家を思い浮かべることができないのも奇妙な反応だ。
やはり、現実とゲームの区別がついていないのかもしれない。
﹁伊織君!? ちょっとー!! ねえ、待ってよ!!﹂
遠ざかる諏訪の気配と、慌てたように追いかける東條凛の声。
気配が消えて、溜息が出た。
ここはゲームの世界なんかではない。
私にとっての現実だ。
その現実を遊び感覚で過ごす彼女の態度にむっとしてしまう。
随分と迷惑を被ったことだし、そろそろ態度をはっきりさせた方
がいいかもしれない。
ようやく戻ってきた疾風と合流して、家に向かいながら、私はそ
う考え始めていた。
860
110 ︵東條凛視点︶︵前書き︶
東條凛視点
861
110 ︵東條凛視点︶
どうしてなのかな?
シナリオ通り、思うとおりに事が運ばない。
ちょっと怪我したくらいなのに、何であたしが謹慎処分になるの
!?
怪我する方が悪いんじゃない!
あら、もしかして、これもイベントかしら?
﹃会えない時間が二人の愛を育む﹄って言葉があったモノね。
きっとそうよ!
じゃあ、頑張って時間稼ぎをしないとね。
中間試験とか、メンドーだしさぼっちゃえ。
そんなことを考えていたんだけど、大体どのくらいの時間が必要
なのか、全然わからないことに気が付いた。
この世界、あたしが主役で世界の中心のはずなのに、仕様が不親
切なのよね。
パラメータとか表示させてくれればいいのに。
大体、このゲームって元から難易度高いんだから、もう少し考え
てくれてもいいと思うのよ。
課題はテキトーに終わらせたけどね。
だって、そうでしょ?
あたしが主役なんだもの。
課題を済まそうが終わってないだろうが、時間が来れば呼ばれる
862
に決まってるわ。
多分、重要なのは﹃家から出ない﹄ってことなのよ。
色んな乙ゲーやった私だからわかるのよ。
例え、シナリオにないイベントだって、経験値で予測可能なんだ
から。
きっと退屈なのを我慢して、じっと家の中にいれば、伊織君との
愛が深まるのよ。
八雲様の弟君や他の攻略キャラとのパラがどうなるのかが微妙だ
けれど。
まあ、いいわ。
今回は仕方がないと諦めてあげる。
伊織君ルート攻略が今回のミッションにするわ。
でも、千景君に未だに会えないのが残念だけれど。
ほんっと、彼ってば隠しキャラ並に難しいのよねー。
そうやって頑張った2ヶ月近く。
ようやく学校側から連絡があった。
課題提出して、期末試験を受けるようにって。
ちょっとー! 遅いじゃないのさ。
普通は1ヶ月ぐらいでしょ、謹慎って。
ホントに無駄に難易度あげちゃってさー、きちんとシナリオ通り
に動いてよね。
次の伊織君のイベントは、期末試験だったわね。
あたしが彼を差し置いて主席になるやつだったわ。
うふふふふ⋮⋮伊織君、すごく驚いて、あたしを見直すの。
それから夏の大伴家のパーティのパートナーで選んだ相手の攻略
ルートのシナリオが2学期以降から展開されるんだっけ?
んー⋮⋮ちょっとそこのところが曖昧だなー⋮⋮肝心なところな
のに。
まあ、いいわ。
863
どうにでもなるしね。
だって、私が主役なんだもの。
復帰したあたしを待っていたのは、想像とは全く違う展開だった。
歓迎されるはずのあたしの復帰は、完全無視だった。
目を合わせる人はいない。
当然話しかけてくる人も。
いなくて当たり前の人だという認識になっているということがわ
かった。
何なのよ、これ!?
どういうつもりなのかしら、神様ってば。
伊織君までもがあたしを無視する。
おかしいでしょ!?
あなたの恋人はあたしなのよ!
八雲様の弟君の姿もないし。
その疑問は、ようやくわかる。
期末試験があるからだって。
そりゃ、仕方がないわね。
いい成績を取らないといけないものねー。
あたしみたいに、書けば正解なんて主人公補正があるわけでもな
し。
せいぜい無駄な努力をしてなさいって。
八雲様の弟君は、どうやら病弱なようね。
今日は休みだって心配そうに誰かが言っていたのを聞いたし。
だから疾風君たちが過保護になってるみたいだわ。
864
儚い美少年ってことかしら?
新キャラとしては成り立つパターンよね。
隠しキャラなのかもしれないけれど。
情報が少ないから、最後に攻略すればいいわね、あの子は。
とりあえずは、伊織君が1番よね。
試験問題は、ナニコレ? なモノばかりだった。
ミニゲームの内容とは全然違うじゃない。
でも、いいわ。
あたしには﹃主人公補正﹄っていうモノがあるんだし。
テキトーでも何とかなるしね。
試験が終われば、伊織君とのお話タイム。
ホント、伊織君ってばツンデレよねー。
あたしが話しかけてあげてるっていうのに、まともに返事しない
んだもの。
その分、デレたときのギャップが激しいのね、わかるわ。
いつでもデレてちょうだい。
あ、その前に、少しは次の手を打っておかないとね。
﹁あっそーだっ!! 大伴家のパーティ! 私、パートナーになっ
てあげるね﹂
さあ、いつでも誘いなさいな。
詩織なんてババアにいつまでも血迷っていないで、若くてかわい
いあたしに声を掛けるべきよ。
そう思っていたあたしの耳に届いた言葉はありえないものだった。
﹁諏訪家は、大伴家の夏のパーティに招待されていない。東條家の
人間は、一切、大伴家の敷地内に立ち入ることを禁じられている。
そんなことも知らずによく莫迦なことが言えたな﹂
﹁え?﹂
﹁大伴家のパーティにおまえを誘う者など、何処をどう捜しても現
れることはない。いや、どの家のパーティでも東條を招く者はいな
865
いだろう。諏訪も然り。犯罪者を出した家の末路はそんなものだ﹂
﹁え? 犯罪!?﹂
一体、何のことよ?
大伴家の敷地内に立ち入り禁止って、パーティに行けないってこ
と!?
冗談じゃないわよ!!
あれがないと、攻略ルートがっ!!
﹁伊織君!? ちょっとー!! ねえ、待ってよ!!﹂
諏訪家が招待されてないって、どういうこと!?
それじゃ、伊織君攻略できないってことじゃないの。
あたしを置いて行く伊織君の後を追い駆けたけれど、伊織君は振
り返りもせずにそのままどこかへ行ってしまった。
一体どういうことなのか、確かめなきゃ。
早く家に帰らないと。
そう思って、あたしは東條の家に急いで帰った。
﹁どーゆーことか、説明してよ!! 何であたしが大伴家のパーテ
ィに行けないの!? ううん、他の家のパーティに招かれないって、
何なの!?﹂
あたしの質問に、おじいちゃんは溜息を吐いた。
﹁分家だ﹂
﹁は?﹂
﹁分家が刑事事件で逮捕されているから、その余波が本家に及んで
いるんだ﹂
﹁あら、あなた。民事事件でも検挙されていますわ。本当に役に立
たない分家だこと。まあ、あなたの親族だから仕方がないことです
けれど﹂
866
おじいちゃんの説明におばあちゃんが言い添える。
つかおばあちゃん、ちょっと辛辣じゃない?
﹁また、分家!? ホント、マジやめてよね! 居なくなってもあ
たしの邪魔ばっかりして!!﹂
ホント、ムカつく!
あたしの役に立たない存在なんて、この世に必要ないわ。
まあ、モブはあたしの引き立て役とかあたしの栄光を見守る役と
していてもいいけど。
観客がないと、せっかくのLLEDが引き立たないしね。
﹁何なのよ、もう。せっかくのチャンスを潰しまくる分家って。な
んできっちり管理しておかないのよ!﹂
﹁ホントにねぇ。だから、勝ち目のない喧嘩を売って、逆に潰され
ることになったんだわ﹂
忌々しげにおばあちゃんが同意する。
﹁葉族だからって、馬鹿にされ続けることになったのも、元はと言
えば、あなたがしっかり分家を管理しておかないからよ﹂
﹁そういうおまえこそ! いい加減に四族だった時のことを忘れる
んだな!! 四族で貰い手がなくて仕方なくその葉族に嫁いだのだ
ろう!? まあ、四族といっても分家の下枝だがな﹂
﹁なんですって!?﹂
﹁そういうおまえだからこそ、娘の教育に失敗して、家出などされ
たのだろうが!!﹂
﹁そういうあなたこそっ!﹂
あれ?
夫婦喧嘩勃発?
﹁大体、あなたが女にだらしないからいけないんですわ! メイド
なんかに手を付けて、孕ませたりするからこそ、あの子が愛想を尽
かせて出て行ったんじゃありませんか!?﹂
﹁男を産まないおまえが悪いんだろうが!!﹂
あたしそっちのけで、莫迦な喧嘩始めちゃってさ。
867
あーあ⋮⋮馬鹿みたい、ホント。
﹁どこの馬の骨ともわからない下賤の女に産ませた子にこの東條を
継がせるというのなら、最初からわたくしを買わなければよかった
のですわ! おかげでわたくしは3人も始末をしなければならなか
ったのですから﹂
﹁⋮⋮おまえかっ!? おまえが17年前、あれらを⋮⋮﹂
﹁そこまでにしていただけませんか? お父様、お母様。子供の教
育上、かなり不適切な表現が混じっていますわ﹂
いつの間にやって来たのか、扉に寄りかかるようにしてママが立
っていた。
ちょうどいいところだったのに、リアル昼ドラでさ。
﹁凛ちゃん、期末試験中なんでしょう? お部屋に戻ってお勉強し
なさい。東雲は外部生は50位に入らなければ退学になっちゃうの
よ﹂
﹁へ?﹂
﹁だって、そうでしょう? あなた、中間試験受けてないんですも
の。期末試験で50位に入らなければ、校則で退学になってるのよ
? 頑張らないとね﹂
にっこりと笑うママの笑顔は実に無邪気だ。
﹁大丈夫よ、ママ。だって、あたし﹂
﹁あのね、凛ちゃん。東雲学園の試験、あなた、落ちてたんですっ
て﹂
﹁は!?﹂
﹁ママ、この間、学校に呼ばれて初めて聞いたわ。学力足りなくて
落ちてたのをおじいさまが寄付金積んで、あと、理事の皆さまが後
押ししてくださったから、強引に合格名簿に名前を載せることがで
きたんですって。ママ、それ聞いて、とっても恥ずかしかったわ。
無理しないで今まで通っていた学校に戻った方がいいんじゃないの
かしら? お友達もいることだし﹂
柔らかな笑顔で告げる言葉は、初めて聞くことだ。
868
﹁あたしが、試験、落ちてた?﹂
﹁ええ。まあ、当然だと思うわ。凛ちゃんの通ってた公立高校と東
雲じゃ、ランク、かなり違うんですもの。受かるわけがないのよ﹂
ちょっと⋮⋮自分の娘にひどくない!?
﹁それを無理やりお金を積んで合格させろだなんて、恥ずかしくて
⋮⋮これだから葉族はって言われても仕方がないことしてますわね、
お父様﹂
思わず背筋がぞくりとするような、冷ややかな声でおじいちゃん
を睨むママ。
﹁私から子供を奪い去ろうとしたこと、いくら我が親でも一生赦し
ませんからね﹂
ママからおじいちゃんたちが子供を奪い去ろうとした⋮⋮あたし
のこと?
まあ、確かにそうなるかもね、ママから見れば。
﹁大体、妙な欲を出して、凛を引き取ろうと言い出さなければ、あ
の人だって巻き込まれずに済んだのに。すべてはお父様方の自業自
得です。分家のせいじゃないわ﹂
﹁親に向かって何を言う!?﹂
﹁一度縁を切ったからには親子ではないと仰ったのはお父様でしょ
う? 正式に相続放棄の手続きも完了しましたし、私、今度こそ、
この家を出ることにしますわ﹂
せいせいしたと言いたげなママの晴れ晴れとした表情。
﹁あとは、凛ちゃんね。あなたはどうしたいの? あなたの戸籍は
今、パパとママの所からおじいちゃんの所へ移されてるの、養女と
して。それこそ、あなたやママの意思を無視してね﹂
﹁ママ?﹂
﹁おばあちゃんが、あなたのママになってるのよ﹂
﹁は!? おばあちゃんが!? いつの間に!!﹂
﹁ほーんと、いつの間にって言いたいわよね。ママも手続してる時
に、弁護士さんに教えてもらって初めて知ったの。当事者抜きに勝
869
手に戸籍を動かすなんて﹂
﹁それは、おまえたちの為を想って⋮⋮﹂
﹁没落した家が何を仰るやら。しかも、当代限りと決まっているに
も拘らず。悪足掻きをしたところで好転するどころか、さらに落下
の一途しか道は残されていないのに﹂
ママの言葉がおじいちゃんを追い詰めてるって感じがした。
もう後がないっていうのは、はっきりとわかる。
ついでに言うと、おじいちゃんに当主としての才能がまるっきり
ないことも。
﹁凛ちゃん、自分でよく考えなさい。もう高校生だものね、自分の
進むべき道くらい、自分で選ばないといけないものね﹂
そう言ったママはまるで知らない人のようだった。
そうして、数日後、あたしはもっとひどい現実と向き合うことに
なる。
870
110 ︵東條凛視点︶︵後書き︶
凛の攻略知識は完全に間違ってます。
思い込みの残念知識で進んでいます。
871
111
﹁ねえ、瑞姫ちゃん。ちょっと気になったから調べてみたんだけど、
面白いことがわかっちゃったの﹂
ようやく期末試験が終わった日、学園内のカフェで千瑛が楽しげ
に笑いながらそう言った。
﹁何が気になったんだ?﹂
そう問いかけたのは在原だ。
﹁これ、見て? あの勘違い娘の家のこと﹂
くすくすと無邪気に笑ってクリアファイルから取り出した紙を広
げてみせる千瑛。
仕種は可愛らしいが、やっていることは相当可愛くないと千景が
横を向いてぼやいている。
﹁東條か? それなら俺も調べたけど⋮⋮﹂
疾風が呟きながらその紙を手にする。
目を通した後で、ちらりと千瑛に視線を流し、深々と溜息を吐い
た。
﹁どこからこれだけのこと調べ上げた?﹂
﹁あら? それぐらい、普通でしょ﹂
にこにこと笑顔を作って応える千瑛。
つまり、普通じゃないことまで調べ上げたんだな。
そう理解して、疾風の手から紙を受け取る。
﹁⋮⋮⋮⋮⋮⋮これは⋮⋮﹂
あり得ないことが書かれていた。
872
それは、17年前の日付が書かれたもの。
2人の人間の死亡について記載がある。
東條家に関わっていた人物だ。
1人は男性、もう1人は女性。
男性の方は、以前、疾風が調べたものにも書かれていた人だ。
東條凛の母親が、安倍家の子息と東條家を出て行った少し前に亡
くなっている。
病死と聞いていたが、実際は事故死⋮⋮否、どう見ても殺人事件
のようだ。
彼の母親もまた、東條家にメイドとして勤めていた。
彼女もすでにこの世にはいない。
そうして、父親は、東條家当主だ。
女性の方も東條家のメイドとして雇われていたようだ。
死亡時期は、東條氏の婚外子である青年と同日。
彼女には生まれたばかりの娘がいた。
その赤ん坊が今、どうなっているのか記載はない。
赤ん坊の父親もまた、東條氏のようだ。
後継ぎになる男子を欲した東條氏は、手当たり次第というか、自
分の想い通りになる立場の弱い女性に次々手を出していたようだ。
娘1人しか出産できなかった夫人は、怒り狂っていたらしいが、
男子を産めなかった引け目から強くは言えなかったらしい。
そうして、東條氏が息子を後継ぎにすると口にしたとき、夫人が
暴挙に出たのではないかと、この紙面からは読み取れる。
夫人の娘、東條凛の母親である瞳さんが、このことを知っていた
のかどうかはわからないが、この直後、東條家から出た。
これが、瞳さんの駆け落ちの真実だ。
もう一枚、テーブルに伏せられていた紙を手にし、私は数秒間、
絶句した。
﹁⋮⋮千瑛ぃ∼っ!!﹂
873
﹁ほーっほほほほっ!! 高笑いしちゃっていいかなぁ?﹂
わざとらしく高笑いをした千瑛が、にやりと笑う。
﹁どうしたの、これ!? 下手すれば、犯罪行為になりかねないよ
っ!﹂
﹁大丈夫。ちゃんと弁護士さんに頼んだもの、うちの母親が﹂
﹁は!?﹂
﹁雇用契約における身辺調査の一環としてねー﹂
方便ですか。
確かに合法の範囲には入るだろう、本人の許諾があれば。
そこにあったのは、安倍瞳、旧姓東條瞳の戸籍であった。
﹁ちょっと待って、何コレ!? 彼女には娘が2人いた? しかも、
妹の方は生後間もなく養子に出してるんだ、安倍家に﹂
そして、安倍凛も養子に出ていた。
東條夫妻のところへ。
︵ちょっと待て、瑞姫︶
不意に瑞姫さんの声が響いた。
︵姉の方の届け出と、妹の方の届け出をよく見てごらん?︶
﹁⋮⋮え?﹂
出生届の日付。
言われてよくよく見れば、計算が合わない。
妹の方が早産だったと言われれば、納得するが、それでもやはり
疑問に残る。
それを解消する考え方とすれば、やはりひとつしかない。
﹁東條凛が死亡した女性の子供だったとか⋮⋮﹂
行方不明になった赤ん坊。
そうして、出生日計算が合わない姉妹。
生後間もなく養子に出された妹。
強引かもしれないが、ある程度の説明がつく。
︵⋮⋮瑞姫。妹の方の名前⋮⋮︶
﹁安倍、彬⋮⋮りんと読むのか、この子も﹂
874
2人の安倍りん。
どちらも﹃東條りん﹄となる少女たち。
︵まさか、東條りんが2人いたとはね︶
呆れたような瑞姫さんの口調が、やけに心に残った。
***************
いつもの通り、図書室で仕事をする。
返却された本をチェックし、元の場所へと戻す作業だ。
簡単な作業のように見えて、結構骨が折れる作業であることは一
度やったことがある者ならわかるだろう。
本をカートに乗せて書棚の中を移動する。
その際、高い棚にある本を元の場所へ収めるというのが、一番の
難関だ。
幸い、ある程度身長があるおかげで、踏み台を必要とすることは
少ない。
だが、一冊ずつしか持てないので、一度に数冊を片付けることが
できないところが不便だ。
﹁そろそろ閉めないといけない時刻か﹂
時計を見て、時間を確認する。
試験が終わったばかりだからか、図書室の中にいる生徒の数は少
ない。
彼らも、時間を確認して退出し始めている。
その中で何やら熱心にノートに字を書きつけている少女がいた。
リボンタイの色から1年生だと知れる。
見知った顔ではないから、外部生だろう。
875
あまりにも集中しているため、完全に時間を忘れているようだ。
一度、促しておいた方がいいだろう。
そう思って、彼女の傍に近付き、声を掛ける。
﹁⋮⋮君﹂
まったく気づかない。
見事な集中力だ。
仕方がない、ちょっとマナー違反だが大目に見てもらうとしよう。
コンコンと机を指先で叩く。
こういった仕種は図書室ではやってはいけないことだが、他人の
身体に触れる事よりは遥かにマシだろう。
﹁⋮⋮っ!﹂
功を奏してと言っていいのか、やっと傍に人がいるということに
気付いた少女は、びくりと肩を揺らして、悲鳴を呑みこんだ。
﹁驚かせてすまない。そろそろ下校時間になるので、片付けてもら
ってもよいだろうか?﹂
﹁⋮ゃっ! 王子様!!﹂
﹁⋮⋮⋮⋮⋮⋮は?﹂
王子って誰?
思わずきょとんとしてしまった私と、真っ赤になって固まった少
女は顔を見合わせたままだ。
﹁誰かと間違えているようだが⋮⋮いや、それはどうでもいいが、
そろそろ退出してもらわないと、司書の方々も作業ができずに困る
から﹂
生徒がいれば、利用者を優先しなければいけないため、彼らの作
業ができないものがある。
図書委員は司書の手伝いをしつつ、利用者である生徒に利用時間
の厳守を促す役目も担っているのだ。
司書が促すよりも、同じ生徒が促す方が問題が起こりにくいとい
う利点がある。
876
﹁あ、はい! 申し訳ありませんっ!!﹂
ノートをばさっと閉じ、慌てふためいて後片付けをした少女は勢
い良く立ち上がる。
その顔に、何となく見覚えがあった。
訂正。
誰かに似ていると、感じたのだ。
﹁あのっ!! 私、安倍彬といいますっ! あの、先輩は⋮⋮﹂
勢いよく名前を告げた後、おそるおそる問いかけてくる。
﹁ああ、私か? 私は、相良瑞姫だ﹂
﹁相良先輩⋮⋮﹂
噛みしめるように呟く少女の名前に、渋面になりそうな表情を保
つのに苦労する。
誰かに似ていると思ったのは正解だ。
東條凛の血縁者なのだから。
﹁早く下校しなさい。君が出ないと、私もここから出られない﹂
﹁す、すみません⋮⋮あの﹂
恐縮しながらも、安倍彬は私を見つめている。
﹁⋮⋮何かな?﹂
﹁また、来てもいいですか?﹂
﹁図書室は、規則さえ守れば生徒なら誰でも利用可能だ。誰に尋ね
ることもいらない﹂
なぜ、私にそんなことを尋ねるのだろうか。
そう思いながら答えれば、少女は頬を染めたまま恥ずかしそうに
俯く。
﹁そうですね。あの、失礼します﹂
まとめた荷物を手にして、少女は図書室を出て行った。
﹁⋮⋮何だったんだ、今のは﹂
私の呟きに、内側で瑞姫さんが吹き出した。
︵いや、面白かったねー︶
のんびりとした口調で告げた瑞姫さんが、ふと口調を改める。
877
︵どっちが本物なんだろうね︶
その問いに、私は答えるすべを持たなかった。
878
112
図書室の中に生徒が残っていないことを確かめて、その旨を司書
の方々に報告した後、私も図書室を後にする。
何というか、呆然自失に近い感じ。
まさか、いきなり遭遇するとは思わなかった。
気持ちふらふらしながらサロンへ向かえば、皆が待っていた。
﹁⋮⋮どうしたの、瑞姫ちゃん? 何だか幽霊にでも会ったような
表情よ﹂
千瑛が怪訝そうに問いかけてくる。
﹁幽霊⋮⋮﹂
ある意味、的を得てるような表現だな。
﹁瑞姫?﹂
﹁幽霊に近いかも。安倍彬に会った﹂
その言葉に、皆が目を丸くする。
﹁あら。瑞姫ちゃん、実はくじ運悪いタイプ?﹂
﹁確かに。くじ運強そうに見えて、ここぞとばかりの時に妙なの引
くよな﹂
ものすごく納得したような表情で言わないでほしい、疾風君。
﹁瑞姫のくじ運はいいと思うよ。それで、どんな子だったの? ど
ういう出会い方をしたのかな?﹂
柔らかく微笑んでフォローをしてくれた橘が、隣に座るようにと
場所を示しながら問いを口にする。
﹁図書室で何かを熱心にノートに書き込んで、集中している様子だ
ったから、退室を促すために声を掛けたんだ﹂
879
記憶を辿り、状況説明をする。
﹁それで?﹂
﹁見事な集中力でね、声を掛けても気付かなかったから、机を軽く
叩いて注意を引いてようやく気が付いてくれたんだけれど﹂
﹁⋮⋮へー﹂
促され、相槌を打たれながら、先へと言葉を紡ぐ。
﹁悲鳴を上げられそうになって、呑みこんだ次の言葉が﹃王子様﹄
だった﹂
その瞬間、在原が盛大に噴き出し、千景が在原の頭を叩いて黙ら
せる。
ありがとう、千景。
一瞬、傷ついた心が、慰められたような気がしたよ。
﹁まあ、確かに。見た目は女の子の理想の王子様だからね、瑞姫は﹂
橘、それは褒めてくれたのだろうか?
何だか、心が抉られたような気がするけれど。
﹁⋮⋮そのあと、自己紹介をしてきて、その時、安倍彬だと初めて
知った。それから、名前を尋ねられたから答えて、退室してもらっ
て終わり﹂
﹁何ていうか⋮⋮普通だね﹂
﹁まともな反応というか、ごく普通に躾けられたことをきちんとで
きる子だってことだね﹂
橘の言葉に、千景が同意する。
﹁姉の方が異常であって、普通に考えれば、当たり前の対応を取る
のがそれこそ当たり前だってことじゃないのか?﹂
疾風が彼らの認識を正す。
﹁僕としては、東條の血を引いている人間は皆、ああなのかと思っ
ちゃうけどね﹂
在原が頬杖をつきながら、呟く。
﹁まあ、確かに﹂
﹁あら、でも、母親の方はまともだったわよ? 社会人として働い
880
ていたからかもしれないけれど﹂
﹁保育士の資格を持ってるみたいだね﹂
千瑛の言葉に千景が言葉を添える。
﹁とりあえず、安倍彬の方は忘れていよう。彼女は、自分に姉がい
ることを知っているのかすら、今現在の情報はないことだし﹂
橘の言葉に、私は頷いて同意する。
﹁あ、でも。図書室にまた来ていいかと聞かれた﹂
﹁ナニそれ? 何狙ってるの!?﹂
﹁え?﹂
千瑛の言葉に、私は意味がわからず首を傾げる。
﹁その子、瑞姫だと認識して、そう尋ねたの?﹂
﹁ああ、そうだね。名前を言った後だ﹂
﹁ふうん。その、何かを書きつけていたノートっていうのも気にな
るわね。何か含みがあるのなら、多分、向こうから接触してくるで
しょうね。瑞姫ちゃん、王子様対応で上手に線引きしつつ情報を入
手してね、本人から﹂
﹁王子様対応!? 何、その高度な技術は!﹂
どうやればいいんだろう、そんなこと。
瑞姫さんに聞けば、わかるかな?
﹁んー? 普段の瑞姫ちゃんの対応ってことよ。私たち相手じゃな
くて、クラスメイトとか後輩の女の子たちに対する対応の仕方、ま
るっきり王子様だから﹂
のんびりした口調で千瑛が答えてくれた。
そうして、ものすごく微妙な空気が漂う。
﹁まあ、瑞姫だから。フェミニストとはちょっと違うようだけれど、
相手に礼を尽くすからな﹂
疾風が溜息交じりに笑って言う。
﹁自分より弱い相手に対し、平時においては守ること。それが決ま
りだからな。あ、ちなみに、弱いというのは、戦闘能力という意味
であって、精神力とか意思とか内面じゃないから。どんな相手でも
881
初対面であれば敬意を払えって言われてるし﹂
﹁⋮⋮戦闘能力!? え!? じゃあ、僕も瑞姫より弱いという認
識!?﹂
在原がぎょっとしたように問いかけてくる。
﹁ん。この中で私より強いのは、疾風だけだ。それは、当然なんだ
けど。家の教育方針だから。武に秀でるか、文を貴ぶか、その違い。
今の世の中、武に秀でることなど必要ないし。知略を巡らせるほう
が、よりよく家を富ませるという社会だしな﹂
そうやって知略を巡らせて、幼い子供を誘拐しようという輩がい
るせいで、私は身を守る術を叩きこまれたわけだが。
︵まあ、どこでも悪いことを考えるやつって、独創性に欠けるよね
ぇ︶
私の考えを読み取った瑞姫さんが呟く。
いや、犯罪行為が個性的過ぎたら、それはそれで対応に困ると思
うのだが。
﹁まあ、確かに。悔しければ僕が瑞姫より強くなればいいって話だ
もんねー﹂
﹁どう足掻いても、それは無理だと思うな﹂
在原の言葉を千景が叩き折る。
千景は心を許した相手には容赦ない。
さっきも手を出していたし。
千瑛は親しかろうがそうでなかろうが、全く構わず手加減はしな
い。
だがそれ以上に、自分に厳しいけれど。
﹁理屈としては、在原の言うとおりだけれど、実行するとなれば難
しいわよねぇ。物心ついた時から弛まぬ努力というか鍛錬を続けて
きた瑞姫ちゃんの倍以上の稽古をしなければ、到底追いつかないし。
物理的にも精神的にも、不可能に近いわね。それ以前に、在原には
体格差が瑞姫ちゃんと殆どないしねー﹂
﹁それを言うなら、菅原弟だってないだろっ!!﹂
882
﹁⋮⋮僕は、瑞姫に張り合おうなんて思わないし。瑞姫が僕を守っ
てくれるのなら、僕は別の方面で瑞姫を守ればいいと考えるから、
問題ないよ﹂
﹁ねー﹂
在原の言葉に双子は顔を見合わせて頷き合う。
確かに、情報戦において菅原家の双子には敵わないことはわかっ
ている。
気難しい双子が、私のどこを気に入ったのかはわからないが、傍
にいてくれて助かることばかりだ。
﹁話はそれたけど、あの問題児と妹がどう動くか、お手並み拝見し
ましょうよ﹂
にこやかに笑って告げる千瑛の笑顔が、妙に姉上たちと被って恐
ろしく見えた。
883
113
試験結果が発表されるまでの数日間、通常授業に戻り、いつも通
りの学園生活を送る。
そう。表面上はいつも通りの生活だ。
相も変わらず東條凛は、周囲にとって不可解な行動を取っている。
千瑛によると、昼休みや放課後に、校内のあちらこちら、特に特
別棟辺りをうろついて、﹃誰もいないって何でーっ!?﹄と叫んで
いる姿を目撃されているということだ。
本当にわけがわからない人だ。
︵瑞姫、あれはね。ゲームのパラ上げ及びフラグ立て行動だよ︶
その理由を教えてくれたのは、やはり瑞姫さんだ。
だが、言っている意味がさっぱりわからない。
パラ上げはパラメータを上げるという意味だということは辛うじ
てわかったが、フラグ立てというのも謎だ。
︵親密度を上げて、イベントを起こすために、攻略キャラがいる場
所に行って、会話をするというのが、ゲームの主要行動なんだ︶
瑞姫さんが書いていてくれたゲームの内容をまとめたノートにも
確かにイベントについて書かれていたっけ。
イベントを起こすために、キャラに会う。
︵未だに現実だとわかっていないようだな︶
なんて残念と、冷ややかに笑う気配がする。
攻略キャラが特定の場所で昼休みや放課後を過ごしているところ
に偶然を装って遭遇⋮⋮何というか、三文芝居にも劣るとはこのこ
884
とだろうか。
大衆芸能に対して失礼な言葉だと思うが、まあ、あまりにも稚拙
な行動だと傍目に映ることだろう。
第一、特別棟は授業以外では特に用がないので、昼休みや放課後
にわざわざ足を運ぶことはない。
︵ああ、部活なんて、あってなきがごとしな学校だからねー︶
苦笑しながら呟く瑞姫さん。
そう、一応、部活動はあるが、特に所属して何かをしようとする
生徒は少ない。
四族であれば、放課後は殆ど御稽古事に通う者が多いので、学校
に遅くまで残るという考えはほとんどない。
つまり、部活動に所属している生徒というのは、圧倒的に外部生
が多いのだ。
そうしてたまに、何かに秀でている内部生が、乞われて部活に所
属するということがある。
疾風がいい例だ。もう、部活はやめてしまったけれど。
図書室でいつものように委員の仕事をしていると、視界に安倍彬
の姿が映る。
また、ノートにものすごい勢いで何やら書き込んでいる。
数ページ書き込んだ後、ふと手を止め、ノートを前に繰り、読み
返している。
何度も読み返し、何やらうっとりした様子だ。
姉も妙だが、妹も奇行に走っている。
迷惑を被らないという点では、妹の方が常識的だと思えるが、や
はり近付きたい相手ではないようだ。
だが、一体何をしているんだろう?
︵⋮⋮何となく、何書いているのか、わかったような気がする⋮⋮︶
ものすごく微妙な声音で瑞姫さんが呟いた。
わかったんですか!? すごいです!
885
︵いや、何となくだけど。やっぱり残念な子だけど、姉に比べてそ
の残念さが一部に激しく共感を呼べる分だけ、マシかなぁ?︶
残念なんですか。
でも、共感呼べるんですか?
わからない。
︵瑞姫には、わからないと思うよ。私は、まだ理解できるけれど︶
私にはわからなくて、瑞姫さんには理解できる?
経験の差とかいうやつだろうか。
︵経験、といえば、確かに経験だろうけど。まぁ、瑞姫が考えてい
る経験とは違うものだよね︶
やっぱりよくわからない。
だが、彼女も瑞姫さんや東條凛と同じくゲームの記憶を持ってい
る人なのだろうか。
︵⋮⋮そこは、ね。まだ、わからない。だけど、今の時点で接触し
てきてないとなると、可能性は低いよね︶
その言葉に私は納得する。
こういった﹃記憶持ち﹄と呼ばれる人たちの行動パターンは二極
すると瑞姫さんのノートに書かれていたからだ。
自分が知る未来、所謂シナリオをそっくりそのまま踏襲して攻略
? を行わなければ気が済まない人やフラグを叩き折ることに専念
するという人と、攻略キャラと呼ばれる人たちとの接触を極端に厭
い、遭遇することを避け、目立たなく生きようとする人に分かれる
らしい。
東條凛は前者であり、今の時点で安倍彬はそのどちらでもなかっ
た。
何故なら、安倍彬は自分から私の名前を訊ねてきたからだ。
瑞姫さんに言わせると、攻略キャラよりもライバルキャラの方が
面倒臭いので、さらに接触しようとは思わないらしい。
つまり、ある程度、名前や顔が知られている私に、見る限り常識
人である安倍彬が名を訊ねるなど愚を犯すような真似はしないだろ
886
うということだ。
今のところ、安倍彬がゲームについて知っている可能性は、低い
だろう。
だが問題は、安倍彬が、所謂本物の﹃東條凛﹄の可能性があると
いうことだ。
戸籍上、東條凛と安倍彬の歳の差は8ヶ月と記されていた。
これは安倍瞳の戸籍で確認している。
東條凛が実子であるとすれば、安倍彬は確実に早産であり、安倍
瞳は産み月近くで駆け落ちしたということになる。
婚姻届は、東條凛が生まれる2ヶ月前となっていたのだから。
この仮説は、絶対に無理ではないが、かなり難しいと思う。
死亡した女性の赤ん坊を引き取ることにし、出生日と両親の欄に
虚偽を記載したという方が納得しやすい。
出生届というやつは、うっかりミスで事実と異なることを書きこ
んでしまう書類の代表格ともいえるらしい。
実際、疾風の弟の颯希は、女の子として届け出をして、その1週
間後に書類申請の為に戸籍を取って、その間違いに気付いて慌てて
訂正してもらったという逸話がある。
可哀想に、さっちゃんは幼い頃に散々その話を聞かされて、トラ
ウマになってしまったらしく、女の子に間違えられると箍が外れて
しまうのだ。
小さい頃は本当に可愛らしかったので、からかわれては怒って大
暴れしていた。
いや、それはどうでもいいが。
意外とこういうものは虚偽がバレにくいことがあるらしい。
届け出をした子供との親子関係を証明するためにDNA鑑定結果
を提出するというようなことは一切ないのだから。
だが、もし。
もしも、東條凛が、己がゲームの主人公である﹃東條凛﹄でなか
ったと知ったら、どうなるのだろうか。
887
ゲームでないとしたら、どんなに不満でもこれから先、﹃東條凛﹄
として生きていかねばならない。
今まで生きてきた安倍凛の意識を乗っ取った責任を負わねばなら
ないのだ。
厭きた、不満だと思っても、やり直しができない世界は、彼女に
とってつらく厳しい世界になることだろう。
これも仮定の話だが。
閉室の時間になっても、安倍彬はノートに向かって何やら書きつ
けている。
実に熱心なことだ。
だが、規則がある限り、閉室の時間は守ってもらわねばならない。
私が言わねばならないのか。
深々と溜息を吐き、安倍彬の傍に立つ。
﹁⋮⋮失礼、安倍の姫。時間が来たので、退出していただけないだ
ろうか?﹂
﹁えっ!? もうそんな時間っ!! あ、相良先輩!!﹂
今日は声を掛けただけで気が付いてもらえた。
これは、喜ぶべきだろうか。
﹁御機嫌よう。何やら熱心に励んでおられたようだが⋮⋮﹂
規則は守ってくれと言おうとした瞬間、安倍彬は全開に笑った後、
勢いよく立ち上がる。
﹁御機嫌ようって言うんですね!! さすが、王子様です!! あ。
学園七騎士って呼ばれているんでしたっけ?﹂
﹁⋮⋮一体、誰のことだろう?﹂
本人に向かって言われているわけではないので、非公式だ。
無論、認めるわけがない。
﹁私は王子でも騎士でもない。ただの生徒だ﹂
888
﹁ああ。そっかー! そうですね。本人に向かってそんなこと、普
通、言いませんよね。失礼しました﹂
1人で納得した安倍彬は、ぺこりと頭を下げる。
﹁いや﹂
﹁相良先輩は、乙ゲーって、知ってます? 私、中学の時に友達に
教えてもらって始めたんですけれど﹂
﹁は?﹂
にじり寄るように迫ってくる安倍彬に、半歩下がって距離を取る。
﹁すごく面白いんですっ! あんな恋愛が出来るなんて⋮⋮って思
って。実際はそんなにうまくいかないんですけど﹂
にこにこと上機嫌で、しかも勢いと迫力を持って訴えてくる。
﹁それで、私、思ったんです。実際の恋愛はそう簡単にできないけ
れど、お話は書けるんじゃないかって!! ゲームのシナリオは難
しいかもしれないけれど、頑張れば小説家にはなれるんじゃないか
って思ったんです!!﹂
﹁そ、そう⋮⋮?﹂
にじり寄る安倍彬に、私は思わずさらに距離を取る。
﹁父や伯父の勧めでこの学園に来て良かったです! 話のネタにな
りそうな素敵な先輩が沢山いるんですもの﹂
ノートを抱きしめ、じたじたと足を踏み鳴らして告げる安倍彬に、
図書室では静かにするよう告げるかどうか迷う。
多分、言っても、聞こえないだろう。
完全に自分の世界に入っている。
︵あはははははっ!! やっぱりそうかーっ!!︶
私の内側では瑞姫さんが大笑いしている。
この展開を予想していたような笑いっぷりだ。
﹁特に相良先輩が秀逸です! もう、滾りますっ!! 皆が憧れる
学園七騎士の1人で筆頭であり、高貴で優雅な物腰の王子様! で
も実は、繊細可憐な乙女って、もう、もうっ!!﹂
総毛立つというか、何というか。
889
鳥肌立ちました。
思いっきり距離を取り、得体のしれない存在となってしまった少
女を眺める。
そうか、これが﹃ドン引き﹄というやつか。
言葉は知っていたけれど、実際に理解するに至ったのは、これが
初めてだろう。
確かに無意識に距離を取りたくなるな、これは。
姉の東條凛とはまた違った方向で、理解不能だ。
これが﹃残念﹄の意味か。
姉よりも顔立ちが引き立っている分、その﹃残念﹄さ加減が際立
つ。
人に迷惑をかけない分、姉よりもましだろうが、巻き込まれた者
は精神的負荷が半端ないような気がする。
さて、どうしたものか。
退出させたいが、正直言って、声を掛けたくない。
困ったなと思ったところに、人影が差した。
私を追い越すような形で安倍彬の前に立つ背。
﹁⋮⋮君、1年生だね? 図書室では静かにするというのは、小学
生でも知っていると思うけれど?﹂
そう声を掛けたのは、同じ学年でやはり図書委員の男子生徒だっ
た。
﹁え? あれ?﹂
我に返った安倍彬は周囲の様子をきょろきょろと見渡して確かめ
る。
﹁すでに閉室の時間だ。他の生徒は立ち去った。君も出て行ってく
れないか?﹂
きっぱりとした口調で扉を示す。
﹁す、すみません∼っ!!﹂
大慌てで荷物を纏め、安倍彬は走り出す。
﹁走らないっ!!﹂
890
﹁ごめんなさいっ!!﹂
怒られて、反射的に謝罪したものの図書室を走り去る。
﹁⋮⋮⋮⋮⋮⋮何なんだ、一体⋮⋮﹂
忌々しげに呟かれた一言に、私は大きく頷く。
﹁まったくだ﹂
﹁災難でしたね、相良さん﹂
﹁すまない。手間を取らせてしまった﹂
﹁いえ。彼女には、苦情というほどでもないですが、少しばかり色
々と声が上がっていたので、気を付けていたのですが。相良さんに
お知らせしなければならなかったところを伝えそびれていた僕にも
手落ちがありました。申し訳ありません﹂
﹁いや。間に入ってもらえて助かった。ありがとう﹂
彼は、確か、外部生だったな。
それほど親しくはないが、ここではよく見かける顔なので、相当
な本好きであることは間違いない。
﹁もう少し、早く間に入ればよかったと⋮⋮﹂
﹁君はカウンターの当番だったから。だが、本当に助かったよ、佐
藤君﹂
﹁次からは僕が注意に回りますので、相良さんは彼女に声を掛けな
くても大丈夫です﹂
﹁重ね重ね、申し訳ない。ありがとう﹂
﹁いえ。まぁ、実際、彼女の言い分も多少はわかりますけれど。だ
からといって、あれは、ないでしょう﹂
私にはわからなかった彼女の言い分は、彼にはわかるのか。
だが、﹃ない﹄と断言されてしまったぞ、安倍彬。
﹁そうか、ないのか﹂
﹁趣味は自分の中だけで抑えておくものであって、人にあのように
告げるものではないでしょう。自分の思い込みや理想を人に押し付
けるのは、褒められた行為ではありませんし﹂
﹁⋮⋮申し訳ないと思ったが、鳥肌が立った﹂
891
﹁普通の反応ですから、それ﹂
﹁⋮⋮そうなのか﹂
今日は何だか色々と学んだような気がする。
﹁もう、時間ですし、相良さんはこのまま退出してください。後片
付けは、僕が当番ですから﹂
﹁しかし、手伝うくらいはすべきだろう?﹂
﹁大丈夫です。いつも、当番でない時も、後片付けされているんで
すから、多少は﹂
﹁厚意に甘えさせてもらおう。ありがと﹂
実際、もう、気力があまり残っていない。
ここは彼の厚意に甘えて後をお願いすることにした。
本当に、穏やかな時間を過ごしたいものだと、そう思いながら、
図書室を後にし、廊下を歩いていたら、迎えに来てくれたらしい疾
風と遭遇する。
﹁瑞姫? どうした? 顔色が悪いぞ﹂
私の顔を見た疾風が、足早に近づいてくる。
﹁気分が悪くなったのか? それとも、傷が痛むのか?﹂
熱を測るように私の額に右手を当て、左手は頬に添えられる。
﹁いや、大丈夫だ。ちょっと、精神的な衝撃を受けただけで⋮⋮﹂
﹁⋮⋮何があった?﹂
声をひそめた疾風は、かがみこんで私の目を覗き込む。
その直後、どさりと何かが落ちる音がした。
﹁ん?﹂
2人揃ってそちらの方へ顔を向けると、目を瞠り、顔色を変えた
諏訪がいた。
﹁⋮⋮⋮⋮⋮⋮﹂
暫く、何事かと思って諏訪を眺めていたが、何故だか泣きそうな
表情を浮かべた諏訪が、落とした鞄を拾い上げ、そのまま踵を返し
て立ち去った。
892
﹁⋮⋮⋮⋮何だろう、あれ?﹂
﹁さあ?﹂
何だか今日は、意味がわからない行動を取る人物が多すぎて、精
神的疲労を感じてしまった。
﹁早く帰ろう。今日は何だか疲れてしまった﹂
﹁そうか、わかった。もう、車も来ている。このまま帰るか﹂
疾風が頷き、添えられた手が離れる。
そうして2人並んで、いつものように下校した。
893
113︵後書き︶
次回は、ムーン様の方の連載を更新いたしますので、少し時間が空
きます。
なるべく早く仕上げようとは思いますが。少々お待たせいたします。
894
114
期末試験の結果が発表された。
掲示板の方へと歩いて行けば、人だかりが割れ、道を譲ってくれ
る。
﹁おめでとうございます、瑞姫様。今回も素晴らしい成績ですわ﹂
そうやって声を掛けてくださる方々で、今回の成績もまあそれな
りの成績が取れたことを知る。
礼を言いつつ掲示板の前に立つ背中に気付く。
千景だ。
珍しく呆然とした表情を浮かべている。
どうしたことかと掲示板を見上げ、納得した。
千景の名前が、私の隣にあった。
点数は私と一緒。
つまり、首位。
失敗したのだと、すぐに悟る。
菅家の者たちは、己の実力を対外的に隠す傾向がある。
﹃能ある鷹は﹄ではなく、﹃出る杭は﹄の方だ。
御先祖様の無念を教訓にしたのか、よほど親しい者にしか己の実
力を見せようとはしないのだ。
私は運よくというべきか、この双子は惜しみなくその能力を使っ
てくれるが。
千瑛はいつも通りの成績なので、千景が何かに気を取られて点を
895
調整することを失敗したのだろう。
あとから千瑛にからかわれることがわかっているからこそ、その
未来を想像して呆然自失に陥っているのかもしれない。
﹁⋮⋮千景?﹂
ちょっと気になって声を掛ければ、のろのろとどこか恨めしげな
表情で千景が振り返る。
﹁何があった?﹂
こういうことは単刀直入に聞くに限る。
下手に言葉を選べば、はぐらかされるか、傷口を抉ってしまうか
のどちらかだ。
﹁いや⋮⋮ちょっと⋮⋮﹂
言葉を濁した千景の視線が泳いでいる。
﹁千景?﹂
さらに名を紡げば、千景が項垂れる。
﹁うっかりミスだ。株式操作をしてたせいで﹂
﹁株式?﹂
﹁うちの﹂
端的に答える千景の言葉が意味する株式とは、おそらく菅家のも
のではない。
そのぐらいのことで千景がミスをするはずもない。
つまりは、東雲の株式ということだろう。
﹁⋮⋮合法だろうな?﹂
周囲を見渡し、こちらに注意を払っている者がいないと確認して
から声をひそめて問う。
﹁勿論、法に則っているよ。ただ、岡部ほど上手にできないから、
気を取られてしまった﹂
﹁そうか﹂
合法と聞けば、それっきり興味を失ってしまう。
悪い癖なのかもしれないが、問題がなければそれでいいと思って
しまうのだ。
896
﹁⋮⋮聞かないの?﹂
千景が不思議そうに問いかけてくる。
﹁別に。法に則って問題なければ、それでいい。千景が言いたくな
いことを聞く気はない﹂
﹁相変わらず、男前﹂
苦笑した千景は、すぐに表情を変える。
﹁さっき、あの問題児がここに来たんだけど﹂
その言葉で、思わず顔を顰める。
問題児や転入生、あるいは外部生などと、決して名前を呼ばれる
ことがない女子生徒。
彼女はそのことに気が付いてるのだろうか。
﹁そうか﹂
﹁掲示板見て、何であの女の名前がここにあるのよーって叫んで、
走り去った。あの女って、瑞姫の事だよね?﹂
﹁可能性としては、捨てきれないな。だが、私のことだとは思って
いないと思う﹂
﹁ああ。八雲様の弟君だっけ? 馬鹿だよね。男と女の子じゃ、い
くら見分けがつかないと思うようでも、見分けられる箇所はかなり
あるけれど?﹂
﹁そうか? 私はよく間違えられるが⋮⋮﹂
﹁ちゃんと女の子に見えるよ、纏う空気が違うし、男より線が細い﹂
﹁そうなのか? 自分ではよくわからないところだな﹂
﹁⋮⋮自分じゃね。でも、違う。きちんと見ていれば、仕種や視線
の向け方なんかでも違いがあるし﹂
笑って答える千景に、首を捻りながらも頷く。
私ではわからないが、千景にはその違いがはっきりと判るのだろ
う。
﹁大体、男がこんなにいい香りなんてしないから﹂
﹁⋮⋮誉や静稀は、良い香りがするぞ﹂
﹁充分、男臭いぞ。あいつらも﹂
897
顔を顰めて告げる千景に、過去に何かあったのだろうかと勘繰り
たくなる。
が、しかし。
ここで追及しては恐ろしい結果になりかねないと、自分に言い聞
かせ、肩を竦める程度にとどめる。
﹁⋮⋮話がそれた﹂
ふと我に返った千景が、首を横に振り、自省する。
﹁とりあえず、僕が言いたいのは、あの問題児、感情に任せて何か
やらかすと思うってことだ﹂
﹁⋮⋮そうか﹂
﹁そろそろ頃合なんじゃない? まあ、瑞姫が動かなくても、時間
の問題だと思うし﹂
そう言って、千景が指差した先には今回の最下位者名。
燦然と輝くと言っては語弊があるが、実に想像通りの人物の名が
書き記されていた。
正直に言えば、どうやったらこんな点数が取れるんだろうと首を
捻りたくなるような点数だ。
予想はしているだろうが、先生方も頭を抱えたくなるとか、天を
仰ぎたくなるだろうなと思ってしまう。
﹁このまま放置でもいいと思うけれど、それじゃつまらないでしょ
? さんざん、余計なまでに迷惑かけられたんだから、利子は返し
てもらわないと﹂
﹁わかった。考えておこう﹂
効果的な場面を作り出せと唆す千景に、やはり千瑛と双子だなと
思う。
頷いて、同意した私は、黙って成り行きを見守っていた疾風と連
れ立って教室へと向かった。
898
2年の成績を貼り出した掲示板から少し離れたところに1年の成
績を出す掲示板がある。
﹁瑞姫﹂
疾風に促され、見上げた先には安倍彬の名前があった。
﹁おや、これは﹂
名前が書かれている場所は一番端。
つまり、1位だ。
﹁⋮⋮あまり大したことはないな﹂
そう呟く疾風の視線の先には点数が書かれている。
まあ、2年の上位者と1年の上位者では、色々と差があってしか
るべきだろう。
我々のようにしのぎを削るといった殺伐とした空気が漂うことも
ない。
だから、当然のように点数に開きがあってもおかしなことではな
いはずだ。
私はそう思うのだが、疾風としては別の意見があるらしい。
﹁あまり手厳しいことを言うな、疾風。何を求めて勉学に励むかは、
人それぞれだろう?﹂
﹁それは、そうだが⋮⋮﹂
﹁疾風とて、人のことは言えまい? 勉強すればそれなりの成績を
取れるはずなのに、稽古に励むことを最優先させるから最低限で止
めているだろう﹂
こちらを気にしている1年生に、あまりきつい言葉を聞かせるわ
けにもいかないので、それ以上、口を開かないようにとの意味を込
めて牽制する。
私の意図を察したのだろう。
疾風は肩をすくめて黙り込む。
︵瑞姫︶
その時、不意に瑞姫さんが内側から声を掛けてきた。
︵外部生の安倍彬が、他を抑えての主席だね︶
899
確かにそうなので、思わず頷きそうになるのを堪える。
︵諏訪とは接触していないようだが、イベントフラグだ︶
その言葉に、瑞姫さんが残してくれたノートの内容を思い出し、
ハッとする。
では、安倍彬の方が?
︵あーっ!! もう!!︶
いきなり瑞姫さんが声を荒げたので、びくりと肩を揺らしそうに
なった。
︵あまりの残念さで続編、手を出さなかったのが悔やまれる!! あれもフルコンプしていたら、もう少し情報が手に入っていたのに︶
口惜しげに唸る瑞姫さんに、私は何だか微笑ましくなる。
ゲームだろうと何だろうと、何かに熱中できる人生を歩んできた
彼女がとても羨ましい。
そういったモノから得た知識で、誰かの役に立てることなど、本
当に滅多にあることではない。
それを知っているからこそ、瑞姫さんは色々とアドバイスをくれ
たり、私の判断材料になるようにといくつかの知識を落としてくれ
る。
だけれど、ある一定以上の区切りからはこちらに踏み込むことは
ない。
もどかしいだろうに、私が答えを選ぶまで、自分の判断を押し付
けることも主権を奪い取ることも一切しない。
大人の対応を取り続ける彼女がこれほどまでに悔しがる様子が、
妙に可愛らしく感じてしまった。
︵ごめん、瑞姫。私が安倍彬に対する情報を少しでも持っていたら
よかったね︶
しゅんと凹んだような声音で告げる瑞姫さん。
大丈夫ですよ。今までのことでも瑞姫さんのおかげで随分と助か
っています。
900
これ以上、頼ってしまっては、罰が当たるんですよ、きっと。
多分、安倍彬は、私に対する課題のようなものなんですね。
そう心の中で答えれば、苦笑するような気配が伝わってきた。
︵瑞姫、カッコよすぎ︶
瑞姫さんには負けますよ。
そう言い合い、歩き出した私に、瑞姫さんがそっと声を掛ける。
︵瑞姫︶
はい?
︵⋮⋮何か、イヤな予感、しない?︶
そう言われて、ハタと気付く。
今まで瑞姫さんとの会話で誤魔化してきたが、先程から奇妙な焦
燥感を味わっていたのだ。
それが、﹃イヤな予感﹄と言われれば、確かにと頷くしかない。
︵疾風に言って、ちょっと対応作取ろうか?︶
その言葉に、私は否応なく頷いた。
﹁疾風﹂
ひと気が少なくなってきたところで足を止め、疾風に声を掛ける。
﹁どうした、瑞姫?﹂
﹁何だか、すごく嫌な予感がするんだけど﹂
﹁マジかよ﹂
私の言葉に、ボソッと呟いた疾風が視線を逸らせる。
﹁瑞姫の﹃嫌な予感﹄って、ホント、ロクなことが起こらないから
な﹂
﹁それは、悪かった﹂
﹁いや。逆に、助かるさ。なんせ、はずれ無しの見事な的中率だか
らな。警戒を先にできていれば、被害は最小限度に止められるし。
901
で? どこらへんがイヤなんだ?﹂
そう問いかけてくれる疾風に、私は今感じている奇妙な焦燥感に
ついて手短に説明した。
902
115 ︵東條凛視点︶︵前書き︶
東條凛視点
903
115 ︵東條凛視点︶
何よ、何よ、何よっ!!
おかしいじゃない、コレ!?
絶対、何か間違えてるわよ!!
あたしは掲示板を見上げてそう思った。
何であいつの名前があるのよ、あたしの名前があるべきところに。
この世界にはいないはずの、﹃相良瑞姫﹄の名前が。
この世界はあたしのための世界よ。
いらないはずのあいつが、何でいるのよ!?
おかしいじゃないの!
主役はあたしなのに、何で⋮⋮。
あたしのための世界なのに、何であたしの思う通りに進んでいか
ないの?
どうして誰もがあたしの邪魔をするのよ。
何で!?
そもそも、八雲様が1歳年上じゃなくて、5歳年上というのも変
な話よね。
攻略キャラが同じ学園内にいないなんて。
その代りに現れたのが、八雲様によく似た弟君。
904
名前は、知らない。
だって、教えてくれないんだもの。
つか、接触する機会が極端に少ない。レアキャラよね。
八雲様がいないってことは、当然、御付だった疾風君は弟君の御
付に変更。
噂によれば、相当な過保護らしい。
まあ、弟君が病弱なら、仕方がないわよね。
そういうわけで疾風君も接触できずにいる。
誉君のお母さんは、この間死んじゃったって聞いた。
これも話が違うわよ!
秋頃に亡くなって、あたしが慰めてあげるってことになってたの
に。
静稀君も、婚約者がいなくなってた。
そもそも婚約なんてしていないってことで、奪略愛ができないの
もつまんない。
千景君は、いるってことはわかってるのよ!
だけど、パラが上がんないから会えないし。
あのクソ生意気なちびっこが双子だってこと、初めて知ったわ。
そんな設定、あったっけ?
それに、紅蓮君も変よ!
本来、生徒会に入ってたのは静稀君で紅蓮君じゃないわ。
絶対におかしい!!
そうして、一番おかしいのは、伊織君よ!!
あの従姉妹に失恋してないって変じゃないの!?
高校入学前の春休みに失恋して、グッタグタになってるはずなの
に、妙に爽やかだし。
伊織君っていったら、オレ様な性格が魅力なんじゃないの。
なのに、全然オレ様じゃなくて、単に孤高の人っぽいスタンス保
905
ってるだけ。
ちなみに、あの詩織ババアに失恋してないなんて言ったのは本人
だから。
強がりかと思ったら、そうじゃないみたいで、本当にそう思って
るようだった。
﹃詩織は俺にとって母親のようなものだった。それを恋と勘違いし
ていただけだ。ただそれだけのことだ﹄
なんて、清々しい表情で言ってくれちゃって。
それを気付かせるのがあたしの役目だってーの!
どうして、皆、シナリオ通りに動かないの!?
それと、一番の疑問は、何で主人公補正が効いていないのよ?
今回、あたしがトップを取らないと、イベント始まらないのに。
ああ、そうよ。
シナリオは、あたしが動かせばいいんだわ。
イベント起こして、フラグを立てればいいんだ。
なによ、簡単じゃない。
大伴家のパーティに行けないのは痛手だけど、別のイベントを起
こして代用すればいいのよ。
それに2学期はイベントだらけだし。
まずは文化祭イベントとハロウィンだったかしら?
それに生徒会選挙活動。
伊織君を生徒会長にしてあげないとね。
夏休みのイベントは、パーティだけだったけど、お金持ちって別
荘持ってて避暑に行くんでしょ?
だったら、お呼ばれされてあげるわよ。
伊織君のところの別荘ってどこにあるのかしら?
906
名字が地名になってるんだし、やっぱりあそこよね。
あら? 名字が地名? 地名が名字?
ま、どっちでも同じことだからいいか。
早速伊織君を見つけなきゃ。
伊織君と紅蓮君はほぼ一緒に行動するから、一緒にパラ上げ出来
るしね。
ラッキーじゃないのって思いながら、あたしは伊織君を探した。
*************** *****
**********
学校の中って、案外情報の宝庫だってことは、あたしだって知っ
ている。
ここにきて知ったことじゃなくて、向こうの世界で気付いたこと
だけど。
例え、お育ちが良くってもさ、結局は同じ人間じゃん? 友達と
いろいろ話すわよね。
誰が聞いているのかも、結構、気にせずに、ホントにぺろっと喋
ってたりね。
だからあたしは知らん顔をして耳を澄ますの。
周囲に人がいることを承知で喋ってる方が馬鹿なのよ。
まあ、男子の話は殆ど役には立たないけどね。
株とかナントカの相場とか、爺臭い話ばっかりだし。
廊下を走るようなガキは殆どいないし、ゲームの話をするような
人もいない。
ホント、つまんないガッコだこと。
907
ゲームの世界じゃなきゃ、東雲学園なんて絶対に来なかったわよ。
ここの生徒たちは、簡単に見分けがつく。
四族の中でも特に上位の本家筋は、品よくおっとりという言葉が
よく似合う。
廊下は走らないし、常に穏やかだし、極上の人間って言葉の意味
が何となくわかる。
とても静かでつまらないモブキャラよね。
それ以外の四族は、まだ普通に近いけど、あたしを完全無視して
る。
あたしの立ち位置が妬ましいクセに、喧嘩を売ることもなく無視
という形で嫉妬を隠せない莫迦。
葉族はそれ以下。
無視するのは同じだけど、こっちを見てこそこそと何か話してる。
カンジ悪って言ってやろうかと思ったけれど、所詮負け犬なんだ
もの、大目に見てやるわ。
やたらと絡んでくる奴らが、外部生ってわけ。
ホント、ウザいんだから。
背景にも描かれないモブ以下なのに、生意気よね。
あたしは、あんたたちと違うんだから! 一緒にしないでよね。
あ、伊織君、見つけたっ!!
あたしを夏休みの間、独占させてあげるんだから、ちゃんと別荘
に誘ってよね。
絶対に相良瑞姫には邪魔させないから!
あたしは伊織君の方へと駆け出した。
908
思えばこれが、悪夢への序曲ってやつだったのかもしれない。
909
115 ︵東條凛視点︶︵後書き︶
現在、資格試験勉強中。
社会人になってからの方が勉強するってナニゴト
910
116
階段を一段登るたびに、不快感が増す。
これ以上先に進むなと、勘が告げる。
だが、進まねばならないとも告げている。
﹁疾風﹂
私の右斜め後ろを歩く半身ともいえるべき随身に声を掛ける。
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
私の声に、疾風が私の視界に入るように立ち位置を変える。
﹁再度、告げる。東條家の念書、おまえに使い方を任せる﹂
﹁瑞姫﹂
前々から何度も言っていたけれど、もう一度、改めて告げる。
なるべく穏便に済ませたいとは思っていたが、どうもそうはいか
ないようだ。
姉たちに﹃野生のカン﹄と笑われている説明しがたい予感が、東
條家からの念書を使う時機が到来したと言っているのだ。
しかも、それを使うのは私ではなく、疾風らしい。
馬鹿馬鹿しいと笑い飛ばしたくなるところだが、この勘が外れた
ことは今まで一度もない。
それを証拠に、今、私は生きている。
それならそれで、その勘を信じて自分の感覚のままに行動する方
がいい。
だから、その感覚が示すまま、疾風に告げる。
﹁あの踊り場の先からはひとりで行った方がいいようだ。疾風はそ
911
こで待っていてくれ。上の階から姿が見えない位置で﹂
﹁⋮⋮上から問題児の金切り声が聞こえる。わかった。見えない場
所で待機している。が、何かあったらすぐに打って出るぞ﹂
顔を顰めた疾風の言葉に、私は驚く。
﹁⋮⋮良く聞こえるな﹂
流石に声まで聞こえなかった私は、思わず感心して呟く。
﹁聞こえなかったのか?﹂
﹁さすがにまだ聞こえる範囲ではないな﹂
断じて私の聴力は悪くない。
普通より少しいい方だ。
﹁そうか﹂
にやりと自慢げに笑った疾風がちょっとむかつく。
﹁俺もさすがに会話の内容までは聞こえないが、あんまりいい感じ
ではないことは確かだ。頭に血がのぼってなんかやらかしそうだな﹂
すぐに難しい表情になった疾風は、私に上に向かうなと言いたげ
な表情を浮かべる。
﹁誰を相手にしているか、わかるか? 諏訪だろうと思うが﹂
﹁声は殆ど聞こえない。だが、気配からすれば、諏訪だろうな﹂
ふと溜息を洩らした疾風が応じる。
﹁あいつ、本気でシメたいんだけど﹂
﹁まだ、駄目だ。ご隠居の真意がわからない﹂
﹁わかってるんだろ、瑞姫には。確証が持てないだけで﹂
﹁⋮⋮千瑛が、気になることを言ってた。ご隠居が表舞台から消え
た理由⋮⋮あれがわかれば、動ける。わからないうちは、足下を掬
われるかもしれない﹂
そこまで話をして、言葉を切る。
行きたくないが、本当に行きたくないが、行かねばならないよう
だ。
﹁⋮⋮後を頼む﹂
骨は拾ってくれと言ってしまいそうになるが、言ったら最後、疾
912
風が般若顔になりそうなので、呑みこんで一段、踏み出す。
その後に続いた疾風は、階段の踊り場手前で立ち止まる。
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
気を付けてという言葉が、聞こえたような気がしたが、疾風は何
も言わずに私を見ている。
安心させることはできないだろうが、ひとつ頷いて、私はひとり、
折り返し階段を上って行った。
﹁嘘よっ!! 八雲様に弟がいないっ!? じゃあ、あの子は誰よ
っ! 親戚とか他人の空似のレベルじゃないわよっ!!﹂
けたたましい声が響き渡る。
あー⋮⋮私のことか。
今頃、というか、ようやくそこに辿り着いたのか。
遅かったな。
﹁あんなに八雲様に似てるんだもの、絶対に攻略対象でしょう!?﹂
﹁⋮⋮は? 攻略⋮⋮?﹂
どこか呆然としたような諏訪の声。
﹁おまえごときが彼らの名を勝手に口にするな、汚らわしい﹂
すぐに諏訪が冷ややかに告げる。
﹁あら、伊織君ったらやきもちやいちゃって。かーわいいっ!﹂
﹁許可もなく、勝手に人の名を呼ぶ無礼者に持ち合わせる感情は侮
蔑だけだな。鬱陶しい﹂
ウンザリしたような声音で紡ぐ言葉は、傲慢そのものだ。
いつもながらに言葉が足りてない。
そして、双方向な会話が成り立っていない。
913
ああ、なるほど。読めた。
ここで諏訪が私の正体を暴露して、怒り狂う東條凛の前に最悪の
タイミングで私が登場するという場面を作り上げればいいのか。
疾風に視線を流せば、嫌そうな表情でこちらに頷いて見せる。
そうか。疾風もそう思うのか。
まったく迎合していないが、やむなしといったところなんだろう
な。
廊下には彼ら以外の気配があるが、階段にはなぜか誰もいない。
証人はいくらでもいるし、だけれど私に巻き込まれて怪我をする
人はいないという状況だろうな。
運がいいのか悪いのか、どこか作為的なものを感じる。
誰の作為かは、この際、置いて。
乗るしかないだろうな、忌々しいが。
感情的になった人間が取るだろう行動のいくつかを想定し、自分
がそれに対応できるのかを考える。
何とか、なるだろう。
疾風がいることだし。
誰よりも信頼している相手が、私を渋々ながらも送り出したとい
うことは、何があっても対応できると断言できるからだ。
そうでなければ、過保護で心配性の疾風が私の野生のカンを信用
するはずもないだろう。
最高のタイミング、言いかえれば最悪のタイミングを狙って姿を
現すために、私は耳を澄ます。
一方通行な会話は、相手の態度を読み取ろうともせずに進んでい
く。
﹁大体において、相良家が東條の人間を気にかけるはずもなかろう。
今、辛うじて存続しているのは、手を下すことすら面倒だからに決
914
まっている﹂
﹁分家のことなんか、知らないわよ。あたしが来る前のことなんて
関係ないし﹂
﹁諏訪とて相良に睨まれて無事では済まなかった。指一本、動かし
ていないにも拘らず﹂
﹁関係ないこと言われても困るのよねー。それより、あの子、誰な
のかしら? 病弱だってことはわかったんだけど﹂
これは、本当に会話なのだろうか。
かみ合っているようでかみ合っていないことは明白だが、とりあ
えず違和感なく進んでいるようだ。
﹁おまえが言っている人間が彼女のことなら、彼女は八雲様の妹だ﹂
うんざりした様子で諏訪が告げる。
﹁はあ!? 男の子よ! 妹のわけがないわ﹂
﹁おまえが弟と呼んでいる者は、八雲様の妹の相良瑞姫嬢だ。正真
正銘、相良家の姫だ﹂
﹁冗談でしょっ! 女の子が何で男の格好をしてるのよ!? 気持
ち悪いったら!﹂
その言葉に、諏訪の表情が強張る。
﹁⋮⋮あの姿は⋮⋮俺の⋮⋮﹂
﹁やめてよね! イマドキ流行んないんだから! 男子校に男装し
てもぐりこむとかは定番だけど、共学で男装なんて馬鹿みたい!﹂
﹁貴様っ!!﹂
相手の背景など気にもかけない偏見に満ちた言葉に諏訪が憤る。
ああ。
諏訪の一番嫌な記憶を無造作に抉ったな。
当事者でありながら、どこか他人事のように思っていた自分の事
故のことを思い浮かべ、それが諏訪にとってどんなものかを想像し
てしまった私は、思わず顔を顰める。
長かった髪を切り、傷を隠すために男子用の制服に身を包む私の
姿は、今の諏訪にとって罪の意識を苛むモノだ。
915
その私の姿を﹃男装なんて馬鹿みたい﹄と断じた東條凛の言葉が
赦せなかったというのは、まあ、理解できた。
その言葉を聞いた瞬間、疾風が凄まじい殺気を放ったからだ。
さすがの私でも、ヒヤリとした。
だが、直接姿を見て放たれていなかったからか、諏訪も東條凛も
気付かなかったようだ。
その鈍感さが、ちょっと羨ましい。
﹁あんな子なんてどうでもいいわ。ねえ、伊織君⋮⋮﹂
﹁俺に触れるなっ!!﹂
どかっと何かが激しくぶつかる音がした。
小さな悲鳴も上がる。
どうやら、頃合のようだ。
階段を上がり、最後のステップをのぼりきる。
﹁⋮⋮何の騒ぎだ?﹂
見れば、壁際に倒れ込んだ東條凛の姿がある。
そこから数歩離れた所に憮然として立つ諏訪の姿も。
一目瞭然という形だ。
﹁⋮⋮諏訪。女性の扱いは、あれほど丁重にするようにと言ってお
いたはずだが﹂
相手が誰であれ、状況がどうであれ、最低限守らなければならな
いことがある。
強きモノは弱きモノに対し、常に加減をしなければならないとい
うことだ。
﹃ま、そうだよね。獲物は鮮度が命だからねー。甚振るにしろ、手
加減は大事だよね﹄
や。瑞姫さん、それ、違いますから。
どうみても、無作法に諏訪に触れようとした東條凛が、諏訪に振
り払われ、勢い余って壁に激突して倒れ込んだ図だ。
916
とりあえずの正義は諏訪にあるのかもしれないが、見た目が悪い。
男たるもの、相手の性格がどうであれ、女性に対し力を振るって
は駄目なのだ。
そう、八雲兄上も橘も常に言っている。
八雲兄上の場合、﹃女性は肉体的な痛みに対しては、男よりも遥
かに耐性があるから痛めつけるという目的なら、肉体よりも精神の
方が効果的だと思うんだけど﹄と、とんでもないことを言っていた。
ちなみに、男性は、肉体も精神も共に痛みに対して耐性がないの
で割とヘタレるのが早いとも言っていた。
本当だろうか?
疾風も橘もかなり耐性ありそうに思えるから、すべてそうだとは
言えないと思うけどな。
それよりも、この場を何とかしないといけないことは確かだろう。
まずい場面を見られたと、顔を顰めている諏訪は、開き直ったよ
うに傲然と顔を上げる。
﹁俺は、いきなり掴み掛ってきた手を振り払っただけだ。丁重とか
いう以前の問題だな、相手の突然の無礼に丁重に応じる暇などなか
った﹂
そうか?
私が周囲に視線を向ければ、うんうんというよりもがくがくと首
を上下に振って同意する者が殆どだ。
女性であるにもかかわらず、東條凛を庇おうという者は、どこに
もいない。
﹁それでもだ。上位者は、常に、そう。いかなる時でも、力なきも
のに配慮せねばならないと習っただろう? 初等部の時に﹂
ちょっと突っ込んでみたら顔色を変える者が殆どだ。
今頃思い出しても遅いぞ。
これは、その言葉通りの意味じゃない。
権力の優位性を説いたようでありながら、実はその裏側の言葉だ。
力を持つ者は、自分が不利になるような真似をするなという方向
917
の。
﹁誰か、彼女を保健室へ連れて行ってくれないか﹂
私はこの男を説教するから。
そう匂わせて告げれば、弾かれたように顔を上げ、見合わせる者
たち。
誰が連れて行く? と、視線で問い合わせているようだ。
本気で関わり合いになりたくないのなら、この場を立ち去ればい
いことなのに、結末を見届けないと気が済まないらしい。
視線の話し合いは、結果を待たずして終了した。
ゆらりと東條凛が立ち上がったからだ。
﹁あんたのせいよ。何もかも! いっつも邪魔しちゃってさ!!﹂
憎々しげに睨みつけた先には私がいる。
﹁君に会ったのは、これで3度目ほどだが?﹂
ひとりの人間に対し、男か女かでこれほどまでに態度を変える人
物がいるとは驚きだ。
ここまで態度を豹変させれば、彼女の言葉に信憑性は全くないと
誰もが思うだろう。
﹁あんたの存在自体が邪魔なのよ! どっかへ行っちゃってよ!!
そうよ、死んじゃえばいいんだわ﹂
鬼気迫る表情というには今一つ迫力に欠けている。
どちらかというと、自分の演技に酔っている感じだ。
それゆえ、周囲の者は彼女を取り押さえるかどうか迷っている。
私にどうするかと視線を向けてくる者たちに、軽く首を横に振る。
﹁やめておけ。相良を害しようがしまいが、貴様の退学は決まって
いる﹂
﹁うそよっ!!﹂
諏訪⋮⋮だから!
﹁うそようそようそよっ!! 間違ってるわ!! ここはあたしの
世界なのよ! あたしが主役なんだから!! バグを修正すればい
いだけよね﹂
918
どうやら東條凛は最悪のルートを選び取ったようだ。
これが現実だと、認識するつもりはないらしい。
私は半歩、足を後ろに引く。
段鼻の滑り止めに靴の踵が当たる。
視界の隅に大神の姿が映った。
こちらへと向かってきている。
その後ろには生徒会長の姿も見える。
誰かが彼らの連絡を入れたようだ。
役者が揃ったということだろうか。
﹁世界は誰のものでもない。ただあるだけだ。現実をどう受け止め
るかは、個人の自由だが、それが他の人間に受け入れられるかも彼
らの自由だ。君は、現実を認識しているのか?﹂
ならば、引き金を引こう。
これが﹃ゲーム世界﹄だと思い込んでいる憐れな夢の住人に、夢
の終わりを告げてやろう。
﹁うるさいうるさいっ!! 死ねぇ!!!﹂
﹁相良っ!!﹂
私の足許は階段。
ほんの少し、力任せに押せばどうなることか、誰にでもわかる。
証人は充分すぎるほど。
すべてがスローモーションのようだった。
私を突き落そうと駆け込む東條凛。
それに遅れて彼女を止めようと動き、手を伸ばす諏訪。
﹃力無き者に配慮する﹄という言葉の本当の意味を見せてあげよ
うじゃないか、諏訪伊織。
一分の隙もなく相手の非を作り上げるということを。
919
東條凛の指先が私の鎖骨の下あたりに触れる。
突き落とそうという形が作られた。
その勢いに合わせ、私は上体を後ろに反らす。
滑り止めに掛けていた方の足とは反対の方の足で、段鼻を蹴り、
宙に身を任せる。
﹁⋮⋮疾風﹂
踊り場の階下で待機していた疾風を呼ぶ。
あちこちで悲鳴が上がる。
﹁相良っ!!﹂
﹁相良さん!﹂
悲痛な声が私の名を呼ぶ。
﹁瑞姫っ!﹂
疾風の声が聞こえた。
ああ、大丈夫だ。
これは位置についたという呼びかけだ。
ほどなくして私は疾風にがっちりと受け止められる。
﹁疾風﹂
ありがとうと言葉を紡ごうとし、疾風に視線だけで止められた。
﹁そのまま目を閉じてろ。あとは俺が処理する﹂
小声で告げられた内容に、私は素直に応じて目を閉じる。
私の身体を抱きとめた疾風は、そのまま抱え直し、立ち上がった。
920
116︵後書き︶
試験前の身ですが、やっちゃいました。
ストレス解消で書いちゃいました。
悔いはない。が、誤字見直しができてなくてたくさんありそうです。
921
117
凍り付いていた時間が緩む。
誰もがそう思った瞬間だった。
﹁⋮⋮また、おまえが発端か、諏訪﹂
怒りを孕んだ低い声が、疾風から発せられる。
﹁岡部⋮⋮相良は?﹂
諏訪の沈んだ声が聞こえてくる。
謝罪の言葉はない。
それが、答えだ。
己の至らなさを自覚した諏訪は、言葉による謝罪というモノを一
切やめたようだ。
口先だけの謝罪と、本心からの謝罪。
どうやって見分ければいいのかと不思議に思うだろうが、あれは
意外と簡単に見分けられるものだ。
視線・仕種・表情、そういった態度から真摯な態度というものは
感じ取れる。
それと同時に、悪かったと思い込んでいるという表面的な罪悪感
も何となくわかるものだ。
謝意を表すのは何も言葉だけではない。
むしろ、言葉を尽くした方が嘘臭く感じられることの方が多い。
そう気付けば、言葉に頼らぬ謝罪の方が相手に気持ちを伝えられ
ると結論付けられるのだろうか。
以前よりは好ましくなったと、その態度から思えることができる。
﹁⋮⋮俺が傍にいて、瑞姫が怪我をするとでも?﹂
922
見縊られては困ると疾風が唸るように告げる。
﹁そう、か。そうだな﹂
明らかにホッとした様子で諏訪の声音が変わる。
﹁これはまた、とんでもない場面に居合わせてしまったようだね﹂
不意に呆れたような声が割り込む。
大神だ。
﹁紅蓮君っ!!﹂
東條凛の声が明るく大神の名を呼ぶ。
﹁皆、酷いのよ! 聞いて⋮⋮﹂
﹁許可もなく人の名前を気安く呼ばないでください。それから、一
部始終、見ていましたよ。君がやったことは殺人未遂です﹂
あっさりとした口調で東條凛の言葉を遮り、淡々と告げる。
多分、あのいつもの穏やかな笑みを浮かべたままなんだろうな。
﹁は?﹂
意味がわかってないらしい東條凛のきょとんとしたような声。
﹁大神﹂
疾風が大神を呼ぶ。
﹁はい﹂
﹁相良家一の臣である岡部の代表として言う。東條家の念書の執行
を希望する。相良瑞姫を害したその女を東雲から除籍しろ﹂
﹁承知いたしました。もとよりそのつもりです。東雲学園から犯罪
者を出すわけにはいきませんから。学籍剥奪の上、放逐いたします﹂
﹁外部生規律の2回連続50位以下になったこともあり、生徒会及
び学園側双方にて退学ということは決定していたので、当然の結果
と思ってくれ﹂
二宮生徒会長の声に、やはりそうかと納得する。
理事会が何と言っても、学生生活の根底となる規則に反しては生
徒会の判断が最優先される。
これを待っていたのだと、予想を裏づけされ、笑みが零れそうに
なる。
923
東條凛は一度、学園内で傷害事件を起こしている。
これは表沙汰にはしなかったが、当然二度目はないということは
誰でもわかるだろう。
そうしてその二度目が殺人未遂。
階段から突き落とせば、落ちて死亡する可能性が高いというのは、
一般的に判断できる。
しかも、彼女は私に﹃死ね﹄と言っている。
殺意があったのは明白だ。
﹁ちょっ!? 何のことよ!? 学籍剥奪って何!?﹂
話が理解できなかったのか、東條凛のわめき声が聞こえる。
﹁学生は、学籍というものを持っていることは当然知っているでし
ょう?﹂
何を言っているんだと言いたげな大神の声。
﹁その学校に所属しているという履歴です。それを剥奪されるとい
うことは、不名誉極まり無いことですが、それ以前に、君は学生で
はないということになります。つまり、君は、今後、警察に引き渡
され、裁判を受け、それ相応の罰を受けた後、学生として復帰でき
ないということになります。当然ですが﹂
﹁は? アンタ、馬鹿じゃない? 未成年は罪に問われないわよ!﹂
﹁⋮⋮それは、いつの話ですか? 我々が生まれる前の話ですよ。
例え、未成年であっても、それを罪と判っていて行った場合は、そ
れに相応する処罰を受けることになっていますが?﹂
﹁何よそれ!? 嘘でしょ!!﹂
東條凛のわめき声に、白けた空気が漂う。
何故、こんな基本的なことを知らないんだ?
私の疑問はすぐに解決する。
﹃少年法自体、違うってことをあの子、知らなかったんだろうね﹄
瑞姫さん?
﹃自分に都合よく考えていたんだろうけれど、私が生きていた世界
924
はね、未成年者は保護されるべき存在として、犯した罪も成人と比
べて軽い処罰にしかならなかったんだよ﹄
そういうものなんですか?
﹃まあ、それを見越して犯罪を犯す未成年者が増えて来たから、改
正されつつはあったようだけれど。それすらも知らない子供なのか
もしれないね、彼女は﹄
そう、なんですか。
子供。
確かに、彼女の行動を見れば﹃子供﹄だ。
年齢を嵩に、また立場を嵩に、それが赦されるものだと思っての
感情に任せた行動ばかりだ。
自分が世界の中心だなんて、誰がそんなことを思うものだろうか。
ゲームの世界だから、主役の自分がこの世界の中心。
そういう考えが生まれること自体、おかしな話だ。
自分が関知しない場所でごく普通に生活している人々がいるとい
うことに疑問を抱かないのだろうか。
ごく普通にインターネットやTVで世界各地の情報を目にしてい
るはずなのに。
﹁話はついたようだな。俺はこれで失礼させてもらおう﹂
まだ何か喚いている東條凛を無視し、疾風が大神たちに声を掛け
た。
﹁岡部君、ですが⋮⋮﹂
﹁瑞姫を保健室へ連れて行く。何か、問題が?﹂
気を失っているふりをしている私に視線が集中しているようだ。
バレそうなので、あまりじっくり見ないでほしいのだが。
﹁ああ、そうですね。きちんと休ませてあげた方がいいでしょう﹂
925
﹁ちょっと待ってよ! 疾風君っ!! その女に騙されてるんだっ
てば!! あたし、わかってるの。その女が疾風君を縛り付けてる
んだって!﹂
甲高い声が告げるその言葉に、私は溜息を吐きそうになった。
底冷えするような空気が疾風から滲みだす。
ああ、やってしまった⋮⋮。
そんな言葉が過る。
わずかに疾風が身動きした。
その途端に、ひっと息を飲みこむような悲鳴が漏れる。
﹁⋮⋮誰が、誰に騙されているだと?﹂
怒っているというレベルではないな、これは。
激怒という言葉も生易しい。
﹁だから⋮⋮﹂
﹁何を以ってそう断言するのか、根拠を聞かせてもらおうか﹂
気付いていないんだろうな。
東條凛は、疾風の存在そのものを全否定したということに。
岡部は幼少期に随身として相良の子供と対面させるが、主を選ぶ
自由を与えているのだ。
私は、いつ、疾風が私の随身になることを決めたのかは知らない
が、疾風が自分で決めたのだ。
そうして、私が主たり得ないと判断すれば、疾風はいつでも随身
を外れることができる。
それを私は引き止めることはできない。
つまり、風を留めることができないのと同じように、私が疾風を
縛り付けることは不可能なのだ。
﹁それから、俺の主を侮辱するような言動を取ったことへの制裁を
受けてもらうぞ﹂
これは無理だ。
止められない。
温厚とは言えないが、相手を敵認定しない限りは無害である疾風
926
をここまで怒らせてしまえば、私の言葉でも聞かないだろう。
止める気もないが、体面的には穏便に済ませてほしいと願うのみ
だ。
疾風があたりにまき散らしている気配は、殺気ではない。闘気だ。
殺気よりも明確で濃厚な気配は息苦しいと思うほどの重圧感を生
み出している。
これでは身動きするのもつらいだろう。
当然のことながら、闘気と無縁の暮らしをしている者には恐怖心
しか感じられないだろう。
カチカチカチと歯が鳴る音が聞こえてくる。
言葉を発するのも不可能なほどの恐怖心に縛られて、東條凛は何
を思っているだろうか。
﹁答えられないようだな。口先だけのでまかせで人の気を害する愚
かな真似をするならば、こちらもそれ相応のことを取らせてもらお
う﹂
今度こそ、その場を離れようと向きを変えた疾風がイラっとした
空気を漂わせた。
階段を上ってくる足音。
﹁あっれー? 相良じゃん。ナニナニ? どーしたの? あ、保健
室? 俺が運んでやるよ﹂
場を読まない軽薄な声。
島津だ。
﹁触れるな﹂
がたんと何かが倒れる音。
﹁え?﹂
疾風はまったく動いていない。
﹁今の、何?﹂
﹁⋮⋮これは、おまえの父親が馬鹿な真似をした結果だ﹂
﹁は?﹂
﹁面倒臭いから泳がせておいたが、それも面倒になった。岡部はこ
927
れより島津を潰す。二度と瑞姫の前に姿を現せないようにな﹂
おい、疾風。
さすがにそれは拙いだろう。
そう突っ込みたいが、それすらできない気を失ったふりの不便さ
を実感する。
﹁は!? 何言ってんだ!? おまえごときが島津を潰せるはずな
いだろう!﹂
﹁馬鹿か。業績落ち目の島津を岡部はとっくの昔に抜き去ってるぞ。
今、おまえたちが潰れたところで問題はない﹂
家の内情も知らなかったのか、この男は。
末子だからというのは、理由にはならない。
経営に興味を持たないということは、行く末は決まったようなも
のだ。
そのことに島津が気付くときは来るのだろうか。
私の疑問を余所に、すでに興味を失った疾風が歩き出す。
危なげない足取りで階段を下りていく疾風に、私は目を開けても
いいかと合図する。
﹁保健室に行くまでは駄目﹂
そうですか。
ひと目が気になるんですけど。
﹁誰もいないから大丈夫﹂
って、目を開けても問題ないじゃないか!!
私の訴えは、最後まで聞き届けられなかった。
928
118
第2保健室へ私を運び入れるなり、﹁ちょっとそこで待っていろ﹂
と言い置いて、疾風はどこかへ消えてしまった。
﹁あの、姉上。これはですね⋮⋮﹂
いきなりのことで、状況を説明しなくてはと焦る私に、茉莉姉上
はにやりと人の悪い笑みを浮かべる。
﹁ライブ中継で見てたわよ﹂
﹁は?﹂
﹁ふふっ 世の中の人は、あれを﹃いい気味﹄と言うのかしら?﹂
何やらご機嫌な姉上の言葉に、私は首を傾げる。
﹁姉上?﹂
﹁ん?﹂
﹁見てたって⋮⋮﹂
﹁一部始終を動画で送ってくれた生徒がいてね﹂
﹁⋮⋮姉上のファンですか⋮⋮﹂
﹁瑞姫のよ。持つべきは、同性にもてる妹よね。ちゃんと保存して
るから、警察への証拠提出にもできるわよね﹂
﹁ちょっと待ってください。誰がそんな⋮⋮﹂
そう言いかけて、私は不審に思う。
﹁茉莉姉上、何故、今、ここにいるのでしょうか?﹂
成績発表の今日は、午前中1時限目は職員会議で自習になるのが
通例だ。
つまり、この時ばかりは保健医である茉莉姉上も会議に出席する
のがあたりまえなのだ。
929
﹁私が関係者の身内だから、辞退したのよ﹂
﹁え?﹂
﹁東條凛という名の生徒の退学に関する決議があるので、相良であ
る私は私情を挟んだと思われては困るので欠席すると連絡入れてね﹂
﹁サボったんですね﹂
﹁まあ、ね。私の仕事は医師であって、学校に籍を置いていても生
徒の進退に関わることは違うと思うのよ。あくまでも、生徒の健康
を守るのが私の仕事﹂
実に立派な心掛けですが、それは建前であって、会議が面倒臭か
ったんですよね、姉上。
すでに退学が決定しているのに、形式上の会議をする学校側の茶
番に付き合いたくなかったということなんですね。
にこやかに笑う姉上に、私は溜息を吐きたくなる。
﹁会議の間に、学生に急病人が発生したらどうなるのよ? まあ、
今回はけが人だけどね、瑞姫﹂
にこにこと笑う姉上。
﹁全然怪我をしていない推定怪我人ですけれどね﹂
﹁でも、あれはいい判断だったわ。足許映ってないから、誰がどう
見ても、突き落とされたようにしか見えないから﹂
﹁姉上にはわかったでしょう?﹂
﹁もちろんよ。相良の人間があんな脆弱な人間に突き落とされるわ
けがないじゃない。それを知っている人間は、全員、口を噤むしね﹂
ものすごく上機嫌だ。
﹁ちゃんと兄さんたちにもさっきの映像、送っておいたから、今頃、
東條家は⋮⋮ふふっ﹂
あーねーうーえーっ!!
何やっちゃったんですか!!
いや、兄上たちか!
止めるつもりは毛頭ないけれど、手加減はしておかないと。
﹁疾風も相当怒ってるし。この分じゃ、島津も数日内に堕ちるわね﹂
930
﹁怖いことを言わないでください﹂
﹁知らないって怖いわよねー。岡部もね、相良と同じで瑞姫至上主
義なのよね。疾風が岡部に事の次第を連絡したら、全力猛攻で絶対
島津当主の首、獲るわよね﹂
はーやーてーっ!!
それこそ、島津の当主は自業自得だから仕方がないと思うが、嬉
々としてやっちゃってる人々の顔を思い浮かべると天を仰ぎたくな
る。
﹁ま、これも﹃みずき﹄の定めよね﹂
﹁⋮⋮軽く仰らないでください。好き好んで騒動の目になっている
わけではないのですから﹂
﹁そりゃそうよ。代々の﹃みずき﹄も、温厚な性質を持っていたと
記述されてるもの。私が﹃みずき﹄だと仮定した時に起こる騒動よ
りも遥かに大人しい結果になってるわ﹂
胸を張って騒ぎを大きくするからと仰らないでください、心臓に
悪いですから。
それよりも、今後のことを考えるにあたって、気になることはい
くつもある。
どうしたものかと考えていると、ふと、姉上の机の上に置きっぱ
なしになっていたタブレットが目に留まる。
﹁⋮⋮茉莉姉上、そのタブレットPCを貸していただけないでしょ
うか?﹂
﹁いいわよ。調べもの?﹂
﹁はい﹂
無造作に机の上のタブレットを掴んだ茉莉姉上は、私にそれを手
渡してくれる。
起動させて、ネット上であるキーワードを打ち込む私に、茉莉姉
上は何でもない事のようにとあることを暴露した。
﹁あ、そうそう。私が会議を蹴った理由ね。あの、東條凛という生
徒、昨日付ですでに退学になっているの。書類の処理も終わってい
931
るわ。だから、でなかったのよ﹂
﹁は?﹂
﹁とんだ茶番でしょ? すでに退学扱いになってるのに、退学にす
るかどうかの会議よ? まあ、今頃、議題は学籍剥奪と警察対応に
代わってるだろうけど﹂
﹁姉上?﹂
﹁当然でしょ? 退学になった元生徒が、無関係の生徒に殺人未遂
ですもの。というか、学籍剥奪したら、在学してた履歴も削除だか
ら、どこの誰とも知れない人間が紛れ込んでの殺人未遂ね。まあ、
学園側の警備の不備を指摘されるかもしれないけれど、被害者は無
傷で、犯人は取り押さえられているんだもの、大した傷にもならな
いわね﹂
﹁学園側はその方針で?﹂
﹁ええ。さっき、メールで連絡が来たわ。保健医としては、学園側
の決定に従うと返信したけれど﹂
保健医としては、と、仰いましたけれど、相良茉莉としては従う
つもりはないとでも言いたいのでしょうか?
映し出された文字を目で追いながら、私は取り留めのないことを
考える。
今調べているのは、諏訪のご隠居のことだ。
表舞台に出ていなかった時期、あの方が何をしていたのか。
わかっていたが、簡単には出てこない。
キーワードを変えてみたら、どうだろうか。
ご隠居ではなく、大刀自様とか?
そうやって色々と検索内容を変え、絞って、とある結果に辿り着
く。
そういうことですか、ご隠居様。
ようやく見つけ出した内容に、私は溜息を吐く。
これが、ご隠居様の謝罪方法とやらですか。
確かにこれなら、私は納得してしまうだろう。
932
年の功というのか、経験の差というのか。
ご隠居様のすることにはソツがない。
そして、そのことに気付くのは、私以外にはいないだろう。
私以外、誰が調べても辿り着けないご隠居様の数年間の動向。
ご隠居は、これをいつ公表するつもりなのかと、ふと思う。
おそらくは、私がこれを暴くであろうことを想定しての行動だ。
だが、無遠慮に暴いてしまっては味気ない。
所謂無粋の極みになってしまう。
本当に困った方だ。
多分、このほかにもまだ色々とやっているはずだ。
それを全部調べ上げなくては、突き詰めることもできない。
思わず深々と溜息を吐いたとき、ようやく疾風が戻ってきた。
保健室へ戻ってきた疾風の手には、鞄が2つ。
疾風の分と、私の分だ。
﹁⋮⋮疾風。早退する気はないぞ?﹂
いくらなんでもこのくらいで早退してたまるかと、つい思ってし
まったが、過保護は何を考えるかわからない。
﹁早退じゃなくて、放校だ。臨時職員会議のため、生徒は下校とい
う指示が出た﹂
﹁そういうことか﹂
﹁瑞姫には、ここで待っていてほしいと伝言を預かっている。警察
の事情聴取があるそうだ﹂
﹁ここで?﹂
﹁階段から突き落とされて、殺されかけたからな。保健室で安静に
していて当然だろ? 茉莉様もいらっしゃるし﹂
﹁臨時の保護者よね﹂
にやりと笑う茉莉姉上。
933
臨戦状態ですね、敵は警察ではないでしょうに。
﹁それと、よくわからなかったんだが、あの問題児、自分の父親が
殺されることを知っていて黙っていたらしいということで、殺人幇
助の疑いもかかっているようだ﹂
﹁殺人幇助﹂
﹁ああ、父親というか、養父だな。DNA鑑定で死亡した安倍氏と
親子関係ではないことが判明したそうだ﹂
﹁母親は?﹂
﹁東條家当主の娘ではないようだ。血縁関係にあるが、母娘ではな
いとの結果が出た。母親は不明だが、父親は東條家当主で間違いな
いそうだ﹂
疑ってはいないが、やはり千瑛が調べたことがあたっていたとい
うことか。
﹁安倍? そう言えば、1年生に安倍の御嬢さんがいたわね﹂
ふと思い出したように茉莉姉上が呟く。
全校生徒の名前と病歴を覚えることくらい、茉莉姉上には造作も
ない。
﹁東條の娘になるより、安倍の娘になる方がよほどいい暮らしがで
きたでしょうに。そちらを好むような子に見えたけれどね、東條凛
という生徒は﹂
﹁知らなかったのでしょう? 引き取られる前までは、一般人とし
て暮らしていたようですから﹂
﹁⋮⋮葉族と知って、目が眩んだ。と、いうわけね。四族の血を引
くとわかったら、即座に母親の実家と言えど蹴り落としそうだし﹂
﹁どうでしょうか﹂
ゲームの主人公として生きることを選んだのであれば、絶対に東
條にこだわると確信できる。
あの狂乱が証拠だ。
少しばかり首を傾げたものの、茉莉姉上は何も言わずに話を元に
戻す。
934
﹁父親が東條だとしたら、母親は誰なのかしらね? 夫人ではない
ことは確かのようだし。あの様子では、夫人が何かしら圧力をかけ
たと思っても不思議ではないわね﹂
以前、東條夫妻が本邸に押しかけて来た時のことを言っているの
だろう。
瑞姫さんの記憶にあった、あの己を省みない自分本位な人たちな
ら、確かにそう思える。
﹁⋮⋮そうなると、東條凛という女子生徒が警察に引き渡されたな
ら、東條夫妻なら、警察に向かわずにうちに押しかける可能性が高
いわね﹂
﹁姉上?﹂
﹁相良の力で取り下げてほしいとか、馬鹿げたことを言いそうよ。
また、瑞姫に、あなたから口添えをお願いいたしますなんて馬鹿な
ことを言うわね﹂
﹁そこまで馬鹿じゃないでしょう?﹂
被害者相手に謝罪せずにそんな真似をすれば、代々積み上げてき
た名誉も地に堕ちる。
普通なら、矜持が邪魔をしてそんなことをしないはずだ。
だが、それも数時間後に茉莉姉上の考えが正しかったことが証明
された。
保健室で、茉莉姉上と疾風同席のもと、警察の事情聴取が執り行
われた。
すでに生徒会から動画が証拠として提出されているということで、
殆ど内容は確認のようなもので、それほど時間は取らなかった。
﹁ところで、あなたは、加害者がどうなればいいと思いますか?﹂
最後の締めくくりのように、その質問が私に向けられる。
﹁どうなれば、というのは実に曖昧な問いかけですね﹂
935
私はそう切り返す。
途端に、彼らはバツの悪そうな表情を浮かべ、苦笑いする。
﹁すみませんね。どうにも、勝手が違うのでこちらも対応に困って
⋮⋮﹂
未成年刑事事件担当の警察官だと最初に名乗った彼らは、相手を
子供扱いすべきなのか、それとも大人として対応すべきなのか、未
だに迷っているようだ。
東條凛の後で私の所に来たのなら、そうなるのも当然だろう。
四族であれば、例え未成年だろうとも大人として対応しても問題
ない。
そのように教育されているのだから。
だが、葉族であれば、一般人と同じく未成年は未成年でしかない。
その落差に戸惑いを覚えるのは仕方がない。
﹁正直に答えましょう﹂
思わずくすりと笑った私は、まっすぐに彼らを見る。
その途端、彼らの背筋が伸びる。
﹁法に則って、公正に裁かれるべきだと思います。その後は、二度
と私と関わらないようにと思います﹂
﹁⋮⋮その理由を伺っても?﹂
﹁前者については、理由は明白でしょう? 後者については、相良
の名は大きすぎるということです。私を害そうとしたということは、
東條に明日はないということを意味します。相良が手を下さなくて
も、相良と取引関係にある他の家が、一斉に東條から手を引けば、
取引先を失い、資金源を失った企業がどうなるかは想像するに容易
いことでしょう。例え奔走しようとも、彼らを助けようとする者は
いない。助ければ、己も二の舞になりますからね﹂
﹁それは⋮⋮だが、東條に勤める人たちのことは可哀想だと思いま
せんか?﹂
﹁私が思ったところで、どうにもなりません。手を下すのは私では
なく、私とは関係のない大人たちですから。私が何を言ったところ
936
で、自分たちの利益のための行動ですから止められるはずもないで
しょう﹂
私は疾風のように株を扱いもしなければ、諏訪のように会社経営
に手出しもしていない。
つまり、直接の影響力は何も持っていないということだ、表向き。
他の方法でなら、働きかけることはできる。
それを彼らに教える必要はない。
﹁わかりました。事情聴取はこれで終わります。後程、またお伺い
することもありますが、その時はよろしくお願いします﹂
茉莉姉上にそう言って、終了を告げた彼らは、保健室を後にする。
﹁⋮⋮瑞姫、帰るぞ﹂
それまで黙っていた疾風が鞄を手にすると私を促す。
﹁そうね。いつまでもいる必要はないわね。家に戻りなさい﹂
茉莉姉上も帰宅を促す。
﹁わかりました﹂
反対する理由は全くないので、素直に従い、疾風と連れ立って車
寄せまで向かう。
我が家の車が最後の一台だったようだ。
横付けされた後部座席の扉の所に運転手である東さんが立ってい
た。
﹁東さん。何故、あなたが迎えに?﹂
東さんは長兄の専属だ。
私には専属の運転手はおらず、その時に手が空いている人が送り
迎えをしてくれることになっている。
忙しい東さんが迎えに来ることなど、滅多にないと断言してもい
い。
﹁柾様から迎えに行くよう、指示されました。御屋敷の前に招かれ
ざるお客人がいらしゃっておりますので﹂
﹁招かれざる⋮⋮?﹂
﹁東條とか⋮⋮瑞姫様に会わせろと。実に礼儀を損なった方々のよ
937
うで﹂
穏やかに告げる東さんの口調に微妙な棘がある。
﹁他にも周囲にひっそりと潜んだ方もお見かけいたしました﹂
もしかしてと、視線を上げれば、東さんは静かに頷く。
警察か。
現行犯逮捕をしたのちに、別件逮捕を狙っているという線も考え
られる。
つまり、柾兄上は、確実に私が無事に戻れるように東さんを寄越
してくれたのだろう。
﹁ありがとうございます。よろしくお願いいたします﹂
﹁はい、承知いたしました。安全運転に務めます﹂
にこりと笑った東さんは扉を開け、中に入るように促してくる。
それに従い、疾風と乗り込んだ私は、家までの道のりを無言で過
ごした。
いつもは、到着と同時に開けられる門扉が、厳めしさを伴って閉
じられている。
そうして、その門扉の前に立つ初老の男女。
男性の方は、扉を無遠慮に拳で叩き、何やら叫んでいた様子だが、
こちらに車が近づいているとわかると、車の前に飛び出してきた。
最初から予想がついていた東さんだからこそ、スピードを落とし、
すぐに停まることができたが、これが咄嗟であれば、相手に怪我を
させていたかもしれない。
あまりにも危険な真似をする。
思わず顔を顰めると、相手は後部座席の窓を叩き始めた。
何かを叫んでいる様子だが、防音防弾の窓ガラスでは無意味だ。
邪魔だとばかりに東さんがクラクションを鳴らす。
形式的な警告だが、これが重要なのだそうだ。
938
屋敷に戻ることができず、妨害されている。
その事実が重要だと説明された。
傷害未遂だとか、器物損壊あたりが適応されて、警察が彼らを逮
捕する予定なのだとか。
クラクションを鳴らしていた東さんが手を止めた。
﹁お出ましですよ﹂
そう声を掛けられ、窓の外を眺めやれば、背広姿のいかつい人々
が東條夫妻を抑え込み、手錠をかけているところだった。
手首に手錠をはめられたところで、呆然と動きを止め、大人しく
なる。
一種のショック状態に陥るのだろう。
門扉が開けられ、悠然と車が発進する。
敷地内をゆったりとしたスピードで進んだ車は、車寄せで止まる。
そこには柾兄上が立っていた。
﹁お帰り、瑞姫﹂
兄上自ら扉を開け、私を迎えてくれる。
﹁ただ今戻りました、柾兄上﹂
﹁驚かせてしまったかな?﹂
﹁⋮⋮茉莉姉上が予想していましたので﹂
﹁ああ、なるほどね﹂
納得したと頷いた兄上は、私の頭を撫でる。
﹁東條家の問題は、そう時間が掛からずに片付くだろう。あちらは
色々と後ろ暗いことがあるようだからね﹂
﹁そうですか﹂
何となく、予想がつくが、今は口を閉ざしていた方がいいだろう。
﹁それよりももうじき夏休みだね。予定を立てたのかな?﹂
明るい話題を出す兄上に、私も疾風も乗ることに決め、車から降
りた。
939
118︵後書き︶
本日、試験日です。
この話がUPされる頃に試験が終了するでしょう。
夏季の試験はあと残り1つですが。
つまり、試験勉強も楽しいけどストレスも溜まるということで。
見逃してくださいぃ∼っ!!
940
119 ︵大神紅蓮視点︶︵前書き︶
大神紅蓮視点。
941
119 ︵大神紅蓮視点︶
先日の職員会議の結果を受けて、生徒会室で処理を行っていた時
だった。
緊急呼び出しのメールの着信音が高らかに鳴り響く。
それも、複数同時に。
﹁⋮⋮一体、何が⋮⋮?﹂
生徒会長が不思議そうにスマホを取出し、メールを確認する。
それにつられて自分のメールも確認し、思わず立ち上がった。
﹃緊急
問題発生。
至急、来られたし﹄
簡素な内容と共に添付された写真は、諏訪伊織と、今、処理を行
っていた東條凛が映っていた。
その写真を見ただけで、マズイ状況だとわかる。
東條さんはどうでもいいが、伊織の表情が最悪だ。
諏訪家の人間であるにもかかわらず、嘘がつけない伊織の表情は
嫌悪と怒りに満ちている。
早く止めなければ、最悪の状況が待っていることは間違いない。
この場合の最悪というのは、本当に最悪な状況だ。
伊織が下手を打つ時は、大抵、相良さんを巻き込んでいるからだ。
厄介ごとにものすごく好きな子を巻き込んでしまうなんて、どん
だけ莫迦なんだと毎回思うけれど、まったく自覚なしの伊織は、毎
942
回のごとく相良さんを被害者にしてしまう。
馬鹿だろうとは思うけれど、フォローはしない。
僕だって、相良さんには非常に興味があるんだ。
親同士が仲が良かったために諏訪家と近しい家として相良家に疎
んじられてしまっている現状に不満を抱けるほどに。
確かに、親同士は親友だ。そのため伊織とも幼い頃から親しかっ
た。
だが、それとこれとは別だと思う。
僕は伊織ではない。
相良さんと親しくしたいと思って、そのように行動しても別に咎
められるはずがない。
それなのに、相良さんは僕を忌避した。
その理由は、今は理解している。
大神家の跡取りである僕を危険に曝さないためだ。
つまり、彼女の目から見て、僕は自分の身を守れないと判断され
たからだ。
実に正しい判断だ。
未だに僕は、自分の身を自分自身の手で守れる程の技量はない。
それは、僕につけられた護衛の仕事だ。
僕にできる事は、手に入れた知識と周囲をつぶさに観察すること
で、状況や相手の性格や行動を把握し、自分で作り上げたシナリオ
に沿って動かしていくことだ。
伊織ですら、僕の思う通りに動いてくれる。
だけれども中には全くシナリオと違う行動を取る者たちがいる。
相良さんがその筆頭だ。
彼女の考えは、殆ど読めない。
何も考えていないのではないかと思うほどに、無秩序に感じるこ
ともある。
しかし、後から気づけば、恐ろしく繊細なまでに行動を組み立て
ている。
943
いきなり巻き込まれたことに対しても、即座に対応できる能力の
高さは普通ではない。
伊織は毎回、相良さんを巻き込んでしまっていること自体はおそ
らく偶然だろう。
だが、巻き込まれた相良さんが悉く瑕疵のない被害者になってい
るのは、その場面で素早く状況を読み取って自分の優位に動くよう
にと彼女が己の行動を選び取っているからに違いない。
今回も、もし、伊織と東條凛のいさかいに彼女が巻き込まれたな
ら、諏訪家も東條家も最悪の事態が待っているだろう。
止めなければならない。
東條家は本当にどうでもいいが、諏訪家に影響が出れば、大神も
無傷ではいられない。
そろそろ、父に諏訪家との関係を考えるように進言すべきだろう
か。
めまぐるしく考えながらも、無意識に立ち上がり、生徒会室を後
にする。
二宮会長が一緒に部屋を出たことは意識の片隅で理解していた。
廊下は走らないと誰でも知っていることだが、今回だけは大目に
見てほしい。
急がないと大変なことになるのだから。
そう、自分に言い訳しつつ、写真の場所へと向かう。
予想通りの金切り声、そうして悲鳴。
ようやく見えたその場所で何が起こっているのかといえば、伊織
が東條凛を振り払って、彼女が倒れ込んだところだ。
ああ、本当に莫迦だよ、伊織。
これじゃ、彼女が万が一怪我をしていたとしたら、責任逃れがで
きないじゃないか。
944
舌打ちしたい気持ちで、その場へ向かう気が削がれ、足取りが重
くなる。
そうして、深々と溜息を吐きたくなった。
どうして、この場面に出くわすのかな、相良さん。
餌食になりに来たようなものじゃないか。
そう思って、彼女を見てふと、考えが変わった。
これは、彼女にとっての好機なのかもしれない。
余計な者を排除するための、絶好の場面。
だから敢えて現れたのかもしれない。
そうすると、相手は伊織ではない。
諏訪も大神も命拾いしたようだ。
だが、排除するのは東條家の他にどこだろう?
たかだか東條家だけを排除するために、彼女がわざわざ動くわけ
がない。
余計な争いを好まない彼女は、今まで東條凛から姿を隠していた
のが証拠だ。
様子を見つつ、便乗するのが得策だろう。
動いたからには、この手の便乗を見越しているに違いない。
一体、どの家を排するつもりなのかと思いつつ、騒ぎを眺めてい
る生徒たちの中に意外な人物がいることに気付いた。
生徒会、会計。
3年の松平美奈子先輩だ。
相良さん信奉者としても有名だ。
前生徒会長に、相良さんを今期生徒会役員に入れたいという話を
聞いて、会計に立候補した数字の勇者。
進路としては、特に親の言うとおりに動かねばならない立場では
ないため、数学者になりたいと夢を語る理数系好きの先輩だ。
945
彼女が何故、そこにいるのか。
考えるだけ愚かしい。
相良さんがそこに遭遇すると予測したからだ。
おそらく、松平先輩が緊急メールの送り主だろう。
間違いなく、そうだ。
今現在、松平先輩が何をしているのかというと、スマホで動画を
撮っている。
彼女一人だけが、そこにいる生徒たちとは違う動きをしているの
で、一目瞭然というやつだろう。
証拠写真ならぬ証拠動画を撮って、何かあった時のための対応と
考えているんだろうな。
松平先輩にとって、諏訪は悪き敵であり、東條さんは忌々しい毛
虫なのだそうだ。
つまり、東條さんの位置づけは、目障りだけれど踏み潰せば済む
不様な存在らしい。
四族と葉族の差が歴然とした感想だ。
松平家にとって、格上の諏訪家は如何ともしがたい存在で、相良
家が事を構えない間は静観する立場を貫かねばならないところがも
どかしいのだろう。
変わり者と評判の松平先輩が、殆ど興味すら抱かない生徒会に入
ったのは、相良さんを陰ながらサポートするためだと思う。
相良さんが生徒会入りをするかどうかは問題ではない。入りたく
ないのなら周囲を徹底妨害し、入るのなら負担がないようにと心配
りするためのものだったようだ。
前生徒会長が相良さんに生徒会入りを打診するために日参しよう
として、全学年の女子生徒から妨害されたというあの大混乱の裏側
には松平先輩の姿があったと言われている。
おそらくは、彼女一人ではないだろうが、裏側から扇動したひと
りであることは確かだ。
946
相良さんが、あそこまで支持されるのは、何も彼女の呼び名にな
っている﹃王子様﹄という容姿のせいではないだろう。
すべてにおいて完璧であろうと努力する人だからだと思う。
努力している姿は見たことがない。
すべてを淡々とこなし、それが人並み以上というよりも完璧に近
いという状態に持っていける完成度は、才能だけでは足りないこと
を僕たちは知っている。
ここはそういう学園だからだ。
常に人より優れていることを求められる。
そこで上位にいる、しかも普段からすべてにおいてという異常性
は、普通に考えれば想像を絶する努力をしているということだ。
もちろん、それを本人が努力していると思っていないのかもしれ
ない。
穏やかでゆったりとした性格で、他人を優先させる余裕があると
いうのは、なかなかもって難しい。
だからこそ、彼女を尊敬する人間は多い。
松平先輩もそのひとりということだ。
僕が松平先輩の姿に気を取られている間に、多少話は進んだよう
だ。
演技ともいえない芝居じみた様子を見せる東條さんとは対照的に、
相良さんは落ち着いていた。
そう。落ち着いて、彼女を煽っていた。
その間、伊織は失言を繰り返し、そうして呆然と彼女の動きを見
守っている。
きっとあの伊織の様子を失言大王とか木偶の坊とか言うんだろう
な。
救いようもない。
947
そんな彼の目の前で、東條さんに相良さんが突き飛ばされた。
ああ、上手いな。
あれを見た瞬間、そう思った。
女の子に突き飛ばされたくらいで、体勢を崩すような相良さんじ
ゃない。
巧妙に立ち位置を変え、触れられたと同時にステップを蹴って上
体を後ろに反らしたんだろう。
ちらりとこちらを見た相良さんは確かに微笑んでいた。
あとは託してくれるということなのか。
それともまだ秘策とやらがあるのだろうか。
だが、存在を確信されているのだから、出ていかないわけにはい
かない。
お見事としか言いようもない程、上手に相良さんを受け止めた岡
部君に、流石だと思う。
日頃、どんな訓練をしているのか聞きたいほどだ。
そうして岡部君から発せられる怒りに、苦笑が滲む。
どこまでが本気で、どこからが演技なのか。
少なくとも東條さんよりも遥かに演技は上手いな。
そう思いつつ、僕は前に出た。
相良さんが狙っていたのは、島津だったのか。
まあ、確かに確執はあるだろう、島津が一方的に。
親子揃って相良さんを狙っているという、実にバカバカしい骨肉
の争いをしているという噂を聞いていたが、あれは本当だったのか。
そうして、そのダシにされていたのが東條さん。
うん。
948
島津家の考え方は、はっきり言って莫迦だろう。
キャストを間違えている。
それと、相良家の力を侮っている。
相手に情報が漏れていることを気付かずに策士気取りをしていた
島津が愚かなのだ。
多分、諏訪も、大神も同レベルなのだろう。
どうやら諏訪の現当主ですら、相良家は相手にしていないようだ。
伊織と相良さんの婚約を躍起になって画策していた律子夫人は、
相良さん本人の迎撃にあって失墜したと聞いた。
律子夫人については、微妙な憶測が飛び交っている。
正夫人ではなく、後妻だという噂だとか。
いつだったか、父が酔って妙なことを言っていた。
律子夫人は伊織を誕生させるためだけ存在で、そもそも妻ですら
ないと。
どういう意味なのか、今の僕にはわからない。手を出せる領域で
はないが、相良さんなら知っているのかもしれない。
諏訪家の正妻の条件は、男子を2人産むことだ。
女子は子として数えない。
何故なら、女子は嫁ぐからだ。
律子夫人は、正妻の条件を満たしていないことは確かだ。
だが、正妻である女性の姿は見えない。
しかしながら、あの律子夫人を手玉に取るような相良さんの傍に
いる岡部なら、島津家封じもそう難しいことではないような気がし
てきた。
傍系が本家となり替わった島津家とは違い、相良家は直系が絶え
たことがない。
そうして、岡部家もそうだが、西家や愛甲家といった分家が本家
を支えようと層厚く守っているのだ。
家の在り方が、根本から違う。
これに対抗できるのは、藤原家ぐらいなものだろう。
949
下手に突けば、押し流されるのはどう考えてもこちらの方だ、分
が悪い。
こういう場合は突くよりもうまく同調し、利を得た方が良い。
出過ぎなければ、そういった面に関して驚くほど融通を聞かせて
くれる相手でもある。
打つ手を間違いさえしなければ、大人しい相手なのだ。
素早く手を考え、元々、案として出ていた学籍剥奪を告げ、何と
か岡部君が納得する処遇に落とし込む。
学園側にも恩を売れるだろうことは、間違いない。
僕が、ではなく、相良家が握る念書の存在が、である。
ただの退学と、学籍剥奪とでは雲泥の差がある。
今のままではただの退学だった。
念書を使うと岡部君が言ったことで、案としては挙がっていたが
到底使える手ではないと諦めていた学籍剥奪という手段を手に入れ
た。
退学であれば、学校側の責任が問われることになるけれど、学籍
剥奪であれば、東雲に在籍していたという事実自体が消えるため、
学校側に責任はない。
むしろ、堂々と被害者を名乗れるというわけだ。
これはもちろん、対外的なことだ。
対理事会には、別の手段を用いることができる。
本来ならば入学できない者を理事会が圧力かけて無理を押し通し
た結果、刑事事件に発展したということは大きい。
何せ、殺人未遂だ。
相手が生きていたからいいという問題ではない。
明確な殺意があったということ、そうして、一番の問題は、葉族
ごときが四族に刃を向けたことだ。
これが一般人だったら、罪は軽かっただろう。
彼らは守られるべき存在だからだ。
950
だが、葉族は、四族があっての存在だ。決して裏切ることを許さ
れぬものなのだ。
それが主家であれば、罪は重い。だがそれ以上に他家のしかも本
家直系の人間にということであれば、相応の覚悟が必要になる。
法の下の平等というものは四族や葉族にはない。
四族や葉族への戒めは、一般人と異なり非常に重いものなのだ。
権力、所謂力を持つ者は、それに応じて科せられるものも大きく
なくてはならないのだから。
力というものを封じるという点では、法の下の平等と言えるのか
もしれないが、ある同じ罪を犯したからといって、罰が一緒という
わけではないという意味では確かに平等ではない。
社会への損失というものに重点を置いているからだそうだ。
この場合、﹃相良瑞姫﹄を仮に失ったとした時の損失は、今から
未来を計算して、計り知れないものだという結果になるだろう。
実際、相良さんはすでに友禅作家としての名前があるし、彼女が
手掛けた作品は驚くほどの値段がつけられている。
それに比べといってはなんだが、葉族としての東條さんの価値は
まったくない。むしろ、マイナス方向だ。
今もなお、わけのわからないことを喚く彼女に辟易しながら、学
園側と警察への対応を生徒会長にお願いする。
会長だから、当然の仕事だと言える。
本音を言えば、東條さんを彼に任せて僕が学園側と警察の対応を
したかった。
彼女の綴る言葉は実に気味が悪い。
妄想と現実の区別がついていないというか、ああ、これが、噂に
聞くゲーム脳というものか。
よくよく聞けば、彼女の言っている言葉の内容は辻褄が合わない
ものの何かのシナリオ通りに事が運ばないことを呪っているものだ。
その原因をバグといい、そのバグが相良さんだと言っているよう
だ。
951
ならば、対応のしようはあるというものだ。
彼女が信じる世界を打ち砕き、破壊することを口にすればいい。
これ以上、彼女に煩わされる時間がもったいないし、僕や伊織を
不利な状況に追い込むかもしれない存在をこのまま放置するわけに
もいかない。
どのみち、東條さんが進むべき道は破滅しかない。
ならば今ここで引導を渡したところで、何の問題もないだろう。
その結果、彼女が壊れたところで僕たちには何の影響もない。む
しろ自業自得だろう。
﹁君は、相良さんが要らない存在だと言いましたね﹂
不意にかけた声に、東條さんがぴたりと言葉を止め、僕の方を見
る。
そうして、嬉しそうに笑った。
﹁やっとわかってくれたの!? そうよ、あの女がいなければ!!﹂
﹁その前に、大事なことを確認しましょう。シナリオ通りに行かな
かったのは、本当に彼女のせい?﹂
﹁⋮⋮え?﹂
きょとんとした少女は、徐々に表情が凍り付いていく。
﹁相良さんと君が出会う前にシナリオ以外のことをしなかったのか
い?﹂
﹁そ、それは⋮⋮﹂
思い当たる節があるのか、明らかに挙動不審になる。
﹁だって! だって、あいつらは邪魔になるし⋮⋮狙ってるのはマ
マだし⋮⋮﹂
母親、ね。
父親は自動車で事故死となっていたな。
本当なら、母親も同行するはずだったとも。
つまり、この子は事故ではなく事故に見せかけた他殺だと知って
いて父親を行かせ、母親は引き止めた、と。
952
そのことについて何の罪悪感も感じていないとは、あまりにも身
勝手すぎるだろう。
﹁シナリオ通りに動かなかった﹂
﹁でも、それはっ!!﹂
﹁主人公がシナリオ通りに動かなかったら、どうなるだろうね﹂
にっこりと笑って問えば、顔色を失う。
﹁その時点で、主役交代だ。君は、最初から主人公じゃなかったっ
てことだね﹂
﹁嘘よっ!!﹂
﹁わかりきっていたことじゃないか。バグは相良さんじゃなくて、
君本人だよ﹂
﹁嘘よっ! うそ⋮⋮いやぁあああああああああああああああああ
っ!!﹂
何も聞きたくないと言いたげに両手で耳を覆い、叫び声をあげる。
ああ、うるさい。
ひとしきり叫んだ東條さんは、そのままぱたりと倒れた。
﹁気を失えるとは、便利だな﹂
﹁やりすぎでしょう?﹂
松平先輩が嫌そうに顔を顰め、そう告げる。
﹁静かになったのは結構ですけれど、使い物にならなかったら罪を
償えないでしょう。瑞姫様に害をなそうとしたこと、贖っていただ
かないと﹂
﹁⋮⋮そこですか、あなたが気になさるのは﹂
﹁当たり前です。それ以外の価値が、この娘にあるとでも?﹂
﹁いや、ありませんけどね。最初から何も期待していませんでした
し﹂
正直な話、そこにいる人たちをモブ扱いするような人間に見出す
価値などほとんどない。
953
それは松平先輩も同じことだろう。
﹁いいじゃありませんか。彼女、余罪がありそうですし、罪を償っ
て世間に戻った時には、完全に何もかも失っているんですから﹂
﹁何もかも?﹂
﹁ええ。家も、家族も、おそらく友人も。そうして一番大事な若さ
も、ね﹂
﹁若さ?﹂
﹁ええ、そうです。どうやら、自分はゲームの主人公だと思い込ん
でいるようでしたからね。塀の向こうからこちらへ戻ってきたとき
には、彼女にとって一番価値がある女子高生ではない、というわけ
です﹂
﹁ああ、そういうこと。あらあら、残念ね。まあ、存在自体が残念
だということは最初から分かっていましたけれど﹂
くすりと笑った松平先輩は、ゆったりと微笑みを浮かべる。
扇子を持たせたら似合いそうだと、ふと関係のないことを思う。
﹁余罪なら、私にも心当たりがありますわ。警察の方に情報提供を
いたしましょう﹂
上品に微笑んではいるが、どこか肉食獣のような獰猛さを連想さ
せる。
見た目と中身がそぐわない方であることは間違いないようだ。
生徒会長が生徒会室に警察の方を案内して姿を現した時、正直僕
はホッとした。
これで厄介ごとから逃れられると、そう思って。
もちろん、それは、次の出来事の序章であることは承知していた
けれど。
954
120
ふと気が付けば、いつもの青い空間にいた。
目の覚めるような青。
これは海と空の、どちらの青なのだろうか。
まあ、この際、どちらでも構わない。
瑞姫さんが居るこの場所が暗く、寂しい場所でさえなければ。
いつものソファへ目をやれば、瑞姫さんの姿がどこにも見当たら
ない。
そのことに私は驚いた。
瑞姫さんが、ここにいない。
何故!?
それだけで、不安に心が揺れる。
だが、次の瞬間、あるものを目にして落ち着いた。
小さなベッドだ。
それが一般的な大きさなのだと聞いて驚いた、シングルベッド。
今は洋館にベッドで暮らしているが、以前は母屋で敷布団だった
私にはあまり馴染のない大きさだ。
やたらと頑丈な武将の家系というのは、色々と一般的なサイズか
らははみ出てしまうことが多いのだと姉上に諭されたことがある。
あまり可愛らしいモノというものに興味を持たなかった私と違っ
955
て、小さくて可愛らしいモノが大好きであった菊花姉上は色々と諦
めねばならないことが多く、一時期、とても絶望したらしい。
笑い話になっているが、艶冶な美女である菊花姉上と可愛らしい
モノは、今の時点でも意外性のある組み合わせなので、彼女の好み
は主に自分ではなく周囲に向けられている、そう、八雲兄上あたり
とか、私とかにだが。
可愛らしい小さなベッドに憧れていた姉上は、己の身長という越
えられないモノに阻まれ断念せざるを得なかった。
その、姉上憧れのベッドがここにある。
ベッドの主は瑞姫さんだった。
深い眠りについている瑞姫さんは、私が近付いても気付かずに穏
やかな表情のままだ。
その寝顔に、よかった、と、思う。
瑞姫さんにはとても申し訳ないことをしていることは承知してい
る。
罪悪感など抱いてはいけないほどに。
本来ならば眠りについていなければならないはずの彼女を引き留
めたのは、私の我儘だ。
それを笑って赦してくれる彼女に、私は何度救われたことか。
だからこそ、次に眠りにつくと彼女が言ったとき、私は心細さを
我慢しても見送らなければいけないと思う。
間違えてはいけない。
瑞姫さんを失うということではないのだから。
自分にそう言い聞かせたところで、ふと気が付く。
眠っている瑞姫さんを見たのは初めてだということに。
こうやって見ると、やはり私よりも年上に見える。
蘇芳兄上と同じくらいだろうか。
蘇芳兄上よりも落ち着いて見えるけれど、柾兄上ほどではない。
956
菊花姉上も蘇芳兄上より落ち着いて見えるので、蘇芳兄上か菊花
姉上くらいだろうと思う。
茉莉姉上よりも年上かという点では、判断に困るところだ。
何せ、相手は女帝様だ。
見た目も中身も⋮⋮いや、何でもない。
迂闊なことは言わぬ方が身のためだ。
その辺りまで年上に見える瑞姫さんは、普段、私の負担にならな
いように軽やかに振る舞っているのかもしれない。
多分、いや、きっとそうだ。
私よりも私らしく振舞ってきた彼女のことだ、そのぐらいのこと
は容易くやってのけるだろう。
私が瑞姫さんにしてあげられることはほとんどない。
今は、この眠りを守ることぐらいだろう。
そう思って、上掛けを掛け直そうと伸ばした手が瑞姫さんに触れ
る。
その途端、色々な映像や記憶が私に流れ込んできた。
見たこともない景色。
似ているようでまったく異なる常識。
これは⋮⋮。
驚いて手をひっこめると、流れ込んできたものが途絶える。
四族が存在しない世界⋮⋮これは、瑞姫さんの記憶なのか。
もし、そうなら。
何てことだ。
よく、ここで独りきり、耐えられたものだ。
似ているからこそ、その些細な差異にものすごく違和感を感じる。
それゆえ感じる孤独というものに、よくも耐えられたものだと思
う。
957
そうか。
これが、瑞姫さんが眠りたい理由の1つでもあるんだな。
私は瑞姫さんから離れた。
﹁⋮⋮ごめんなさい。ありがとう﹂
気付けば、私は深々と瑞姫さんに頭を下げていた。
言える言葉は、この2つしか思い浮かばない。
これ以上の言葉は見つからない。
周囲の景色が薄れていき、気付けば私はソファの上で横になって
いた。
転寝をしていたと疾風に見つかれば、間違いなく怒られる。
ソファから立ち上がり、伸びをしつつ窓際に立つ。
東條凛が捕縛されてから今日で3日目。
そろそろ証拠が固まり、正式に逮捕されるらしい。
聞くところによると、あの東條凛が抜け殻のように大人しくなっ
ているそうだ。
てっきりいつものように理解不能な言葉を声高に叫んでいるのか
と思っていたが。
罪をきちんと償うことを願うだけだ。
本来の﹃東條凛﹄の意識を押し潰した﹃罪﹄を。
東條家当主夫妻については、色々と驚くべき真相が浮かび上がっ
てきているそうだ。
それについても裏付け捜査がなされ、容疑が固まったら立件とい
う流れになるらしい。
こちらも早く片付くことを願うのみだ。
958
そう言えば、今日は諏訪の誕生日パーティの日だったな。
今頃、当主交代でも発表しているのだろうか。
ご隠居の企みというか、償いの一部については、ようやく尻尾を
掴めたが、全体像はまだ把握できていない。
尻尾から見るに、かなり壮大な計画のようだ。
傑物と言われるだけあって普通ではない。
おそらくこれならば、うちの親族も納得するだろう。
正確に言えば、納得せざるを得ない内容を用意された、だ。
これを出される前に咬みつかなければならないというわけか。
御祖父様とご隠居は友人同士のはずだが、咬みついても大丈夫な
のだろうかと心配になってしまう。
どちらかというと、あの事件が起こった時に、すでに納得済みの
ような気もするが。
﹁⋮⋮ん?﹂
何やら、屋敷内の気配がおかしい。
慌ただしいという感じだ。
何か、あったのか?
様子を確かめようと扉に向かえば、タイミングよく疾風がやって
くる。
﹁瑞姫﹂
﹁⋮⋮何があった?﹂
﹁諏訪のパーティでひと悶着あった﹂
簡潔すぎる答えだな、疾風。
﹁律子夫人がお気に入りにしていた偽物デザイナーが乱入して、諏
訪伊織を刺した。その伊織を庇って、父親の斗織氏も重傷を負った
そうだ。救急車で病院に運ばれている﹂
﹁⋮⋮それで?﹂
﹁犯人は取り押さえられて、律子夫人も錯乱して病院へ運ばれてい
る。御大は無事だ﹂
959
﹁そうか﹂
私はひとつ頷いた。
﹁瑞姫?﹂
﹁今はまだ動く気はない。情報が足りないからな﹂
怪訝そうに首を傾げる疾風にそう答える。
だが、大体の想像がついていた。
斗織様の復讐が結実するときが来たのだろうと。
960
121 ︵諏訪伊織視点︶︵前書き︶
諏訪伊織視点
961
121 ︵諏訪伊織視点︶
めまぐるしく過ぎたこの1ヶ月。
つい先日は、本当に最悪な日だった。
またしても相良が俺に関連する事件に巻き込まれ、名前も知らな
い女に階段から突き落とされる羽目になった。
運よく岡部が彼女を抱き留め、事なきを得たが、あれ以来、彼女
に会っていない。
会ったのは紅蓮だけだ。
相良の様子を聞けば、紅蓮は軽く笑っただけだ。
﹁本当に伊織は相良さんが好きなんだねー﹂
感心したような声音は、はっきり言って莫迦にされているような
気がする。
﹁そんなことはどうでもいい! また、俺の⋮⋮﹂
﹁大丈夫だよ。岡部君がいて、無事でないはずがないだろう? と
いうより、あれは、わざと巻き込まれたんだから、伊織が気にする
必要はないよ﹂
﹁は? それは⋮⋮﹂
一体、どういう意味だ?
﹁顔、近すぎる。あんまりにじり寄らないでほしいんだけど﹂
厭そうに顔を顰めるな!
聞かれたことに答えろ。
俺がそう言えば、溜息交じりに紅蓮は肩を竦める。
﹁学園の空気が悪くなっているのを気にしたんだろうね。手っ取り
早く東條さんを退学にする口実を作ってくれたんだよ。それと、彼
女が東雲に在籍するような状況を作り上げ、それを良しとした理事
962
会を排除するためにね﹂
﹁理事会?﹂
﹁⋮⋮君。ホント、興味がないことは一切無視してしまうよね。情
報ぐらい、手に入れておくべきだと思うけれど?﹂
完全に呆れた口調だった。
これは、4年近く前に嫌味たらたら言われた記憶と重なる。
ものすごく、不機嫌なときにしか出ない癖だ。
﹁必要ないと判断した﹂
﹁それが、この結果?﹂
溜息を吐かれ、目を逸らされる。
﹁紅蓮!﹂
﹁決定的な証拠がない限り、例え校則に反することだろうが、理事
会は50位落ちどころか最下位の東條さんをさらに在籍させるつも
りだったんだよ﹂
﹁何だと!?﹂
﹁前途有望な学生の未来を摘むような非人道的なことをしてよいの
か、なんて理由をつけてね。でも、殺人未遂なら、庇えないよね﹂
助かったよと、穏やかに笑う紅蓮。
﹁短絡的に殺人行為を罪とも思わず選び取るような者をはたしてど
こまで庇えるのか。元々、一切の資格がない者を合格とし、事ある
ごとにあるはずのない権力を振りかざして強引に学園側に無理強い
してきた理事会に、今回の責任がないと言えるのかな?﹂
にこやかな笑顔は、何処までも相良を褒め称えている。
﹁次の理事会は、理事のメンバー一掃ってことになりそうだな﹂
﹁まさか、相良がそこまで計算しているとは⋮⋮﹂
﹁しているのかしていないのか、問題はそこじゃない。彼女が動け
ば、結果が出る。だから、相良さんは普段、あれだけ動こうとはし
ないんだ。今回、動いたからにはどんな結果が出ても受け止めるつ
もりだと思ったんだろうね。見事な演出だったよ。岡部君の一言で、
相良さんを害そうとしたのは東條さんだけでなく裏で理事会が絡ん
963
でいたとあの場にいた生徒たちにもちゃんと伝わったしね﹂
﹁はっ!? ちょっと待て!! それって⋮⋮﹂
﹁経済界も顔ぶれが一新するね。閉塞感がなくなっていいかもしれ
ない﹂
だんだん、紅蓮の本質の嘘臭い笑顔に変わってきている。
これは本気で感心しているんだな。
だが、相良がここまで考えて動いているなんてまったく想像して
もいなかったぞ。
本当に手が届かないほど高みにいるやつだな。
﹁それより、準備は終わってるのかい? そろそろ出番だろう﹂
俺の姿を爪先から頭までじっくりと視線を這わせた紅蓮は肩をす
くめる。
﹁もう、そんな時間か﹂
﹁主役だろ? しっかりしろよ。相良さんが来ないからって気を抜
くと、誰かが絶対に彼女に伝えるよ﹂
楽しげな表情で扉の向こうに視線を向ける。
﹁招待客の中に、彼女と親しい人物がいないとは限らないんだから
ね﹂
その言葉に納得し、背筋を伸ばす。
相良が来ないのは、当たり前だ。
祖父が止めたからだ。
いや、そうしなくても、出席しないことは明白だ。
だからといって、気が抜けた態度を取るわけにはいかない。
俺は今日、諏訪家の当主となる。
今日以降、決して恥ずべき態度を取ることは許されない。
相良に認めてもらい、隣に立てるまで、俺は立ち止まらないと決
めたのだから。
964
そろそろ時間だと告げられ、客を迎え入れるべくエントランスへ
と向かう。
そこから悪夢が始まるとも知らずに。
はっきり言って、パーティやそれらに類似するイベントは大嫌い
だ。
仕事と割り切ってはいるが、好んで出席しようという人間の気が
しれない。
値踏みされるような視線やなれなれしく触れてくる輩をどうして
機嫌よく対峙できるのか。
今回ばかりは我慢しろと、偉大なる祖父殿に言われれば従うほか
はない。
じじい、覚えてろよ。
本人に向かって言ってみたが、笑い飛ばされて終わりだった。
尽きることのない挨拶。
それでようやく17歳になったのだと実感する。
相良とは半年以上、そう、8ヶ月も年上だ。
その事実に、少しばかり、いや、かなり浮かれてしまう。
俺の方が年上か。
うん、悪くない。
今度会った時に、おめでとうと言ってもらえるだろうか。
プレゼントが欲しいとは思わない。
ただ、言葉を交わせることが嬉しい。
そういう気持ちがあることを、相良は知っているのだろうか。
多分、知っているだろう。
彼女は人に好かれるからな。
名字などではなく、名前で呼んでみたい。
965
名前を呼ぶことを許してほしい。
そう思いつつ、乾杯の前の挨拶をし、予定通り祖父が、いや、進
行上では予定外であった諏訪家当主交代を宣言する。
突然のことにざわめきが大きくなる。
知っていたのか、それとも予感がしていたのか、父は落ち着いた
ままだ。
しかし母は狼狽えている。
﹁お義父さま! 伊織はまだ子供なのですよ!?﹂
﹁それが何かな? 斗織は健在だが、移動中の事故で早世すること
もありえた。子供だから当主は務まらないなど、あってはならんこ
とだろう? 諏訪の家に生まれたのであれば、いつ、当主として立
ってもおかしくはないと思うべきだがね。そのように教育するのが
親の務めだ﹂
のんびりとした口調で祖父が母を封じる。
迂闊なことを言えば、親の務めを放棄していたことを自ら暴露す
ることになるからだ。
そのくらいのことはわかったようで、母は表面上、穏やかな笑み
を湛えて祖父の言葉に同意した。
﹁私もそうやって代替わりしたしな。ちゃんと後を継げるという自
覚と実力があれば、何歳であってもかまわないだろう﹂
父が小さく頷く。
先代の意思に従うと告げた父の言葉で会場は和やかな空気を取り
戻した。
いや、先程よりもお祝いムードが漂い、賑やかになり始める。
皆、気付いているのだろうか。
父は一度も社長業を辞するとは言っていない。当主を交代するだ
けだ。
つまり、現状は何も変わらないということを。
母から向けられる厳しい眼差し。
薄々気が付いていたが、母は俺に興味がない。
966
表面上は取り繕っているようだが、父の息子という価値しかない
ようだ。
父そっくりな容姿が唯一俺の美点であるような態度を見せること
もある。
これは、両親と離れてわかったことだ。
今まで普通だと思っていたことは、まったく普通ではなく、他家
の方々からかけられた言葉の方が事実だったのだ。
母にとって、当主ではなくなった父というのはどういう価値があ
るのだろうか。
所謂大財閥の次期当主であった父と結婚し、その後、当主の妻と
してさまざまに活動し、今後、前当主の妻としてどうするつもりな
のか。
現当主の母という役割は、彼女の中にはないだろう。それは明白
だ。
相良を引き込み、思い通りに操ろうとして悉く失敗していること
は俺でも知っている。
常々比較され、俺より優秀と誰もが評価する相良を相手に子供扱
いしているから、そのような目に合うんだ。
相良は、あの﹃相良家﹄が一番大事にしている子供だ。俺たちの
ように普通の四族の未成年者であるわけがない。
以前は革新的な当主の妻と持て囃されていた母だが、今では愚か
な女と見做されているのも当然だと思う。
大体、当主よりも前に出ようとする妻などいないだろう。
当主という頭がいるからこそ、それを引き立てるため、支えるた
めの存在が必要になる。
当主よりも目立とうとする存在は必要ない。
当主の座を脅かすのは、前当主のみだというのに、母は何を考え
ている。
祖父はそれを心得ていて、父に当主の座を譲った後は表舞台から
消えた。
967
そして、祖父が今回、俺の後見につくのは、先々代当主が支える
ため今代は大丈夫だと周囲に知らせるためだ。
そう。そこに、先代である両親、特に母の存在は必要ないと言っ
ているようなものだ。
今思えば、父は、母に甘いと思っていたその考えは間違っていた
のかもしれない。
疑問を抱けば、湧いてくる疑惑。
父が母を傍においていたのは、監視に近かったのではないか。
問題がなければ放置、問題があるようであれば気を逸らす。
そこで重要視されていたのは、諏訪家の利益ではないようだ。
でなければ、俺がやらかした相良への失態の時に、俺も母も放逐
されていてもおかしくはないはずだ。
父は、確かに俺を庇ってくれていた。
俺の間違った考えを言葉ではなく、現実を見せることで正そうと
したように。
母は、一体何のためにいる?
祖父は相良を可愛がっているが、母にそのような視線を向けたこ
とは一度もない。
息子の嫁なら義理の娘で可愛いだろうに。
叔父の嫁には、相良に向けるのと同じような笑顔を浮かべている
のに、母にはそんな表情を向けたことはない。
バーティの最中だというのに考え込んでいる俺の耳に騒ぎが飛び
込んできた。
会場と外を隔てる扉の向こうからだ。
何が起こった!?
そちらへ顔を向けたとき、父の表情が視界に映った。
騒ぎが起こっているというのに、満足そうな笑顔だった。
968
徐々に騒ぎが大きくなり、扉が開くと男が飛び込んできた。
手にはナイフが握られている。
それを振り回し、周囲を威嚇している。
﹁死にたくなければ、ここから出て行けっ!!﹂
脅す声は、やけっぱちのようにも聞こえる。
あちこちで悲鳴が上がり、立ち竦む女性の姿が見えた。
﹁速やかに避難誘導を﹂
ちらりと男の背後を見た祖父が、落ち着いた様子で声を掛ける。
何故だろう。
何か、違和感を覚えた。
施設の警備関係者と思われる人々が、招待客を誘導して非難させ
る。
この場合、見届けなければならないのが、主催者の役目なのだが、
あまりにもおかしい。
この程度のことを対処できずにホールへ乱入されるなんて、普通
に考えてあり得ない。
わざと入れるように指示をしたのではないかと思える不審さ。
﹁⋮⋮あー⋮⋮﹂
俺は侵入者の顔を見て、思わず呆れたような声を上げた。
どこかで見たような顔と思えば、諏訪の顔に似せて整形した偽デ
ザイナーじゃないか。
普段、祖父や父の顔を見慣れていれば、作られた顔の不自然さが
よくわかる。
整形の良し悪しではなく、遺伝子情報からなる自然さと、それを
捻じ曲げて作り上げた不自然さというべきか。
そんな違和感があの男にはある。
﹁おまえのせいだ! おまえが連れてきたあのガキのせいで、俺は
⋮⋮全部、おまえのせいだっ!!﹂
ナイフの切っ先を母に向け、男がわめく。
あのガキとは、相良のことか。
969
無礼だな。
本物を見慣れている相良には、紛い物はすぐに見分けがついただ
けだろう。
それを知らずに高をくくったやつが悪いに決まっている。
そして、それを人は自業自得と呼ぶ。
同情の余地もない。
男がこちらに刃を向けている間に、招待客の殆どが避難していっ
た。
これで問題がなくなったと考えてもいいな。
余計なギャラリーがいなくなったと共に足枷もなくなったわけだ。
これで随分と動きやすくなる。
そう判断した時だった。
﹁⋮⋮随分と質の悪い⋮⋮律子。君の趣味がこの程度だったとは、
失望したよ﹂
淡々とした父の声が割り込んできた。
﹁あなたっ!?﹂
﹁遊び相手にしても、質が悪い﹂
﹁ち、違うっ! わたくしは⋮⋮っ!﹂
母が顔色を変え、首を横に振る。
ああ、そういうことか。
母はこの男と浮気をしていたのか。
確かに趣味が悪い。
母親に裏切られたという気持ちも湧かない。
俺は、幼い頃にすでに母に捨てられていたと薄々悟っていたのか
もしれない。
父と見比べて格段に落ちる男を選ぶ母の気がしれないとは思うが。
﹁なにカッコつけてやがんだよ! ジブンのオンナ、寝取られて口
970
惜しいか!?﹂
ゲラゲラと壊れたように笑う男。
穏やかな表情を浮かべる父。
実に対照的に見えるが、共にその笑顔に悪意が見える。
﹁寝取られるも何も、その女は私と薔子の子を産むための胎なだけ
であって、それ以上の価値はない。つまり、無意味な優越感という
わけだな﹂
﹁あなた!?﹂
母、いや。母親だったと思っていた女性から、悲鳴に似た声が上
がる。
﹁私が知らないと思っていたのか、律子? 君が私の妻に何をした
か。警察と違って、強引に調べる手などいくらでもあることくらい
知っているだろう?﹂
﹁嘘よっ! 嘘! わたくしは知らないっ!! だって、あの時、
日本にいなかった!!﹂
﹁日本にいないから、それが何の理由になる? 君がやったことす
べて、すでに裏が取れている。薔子を死に追いやったその原因から
方法、何もかも﹂
父の言葉に、俺はふと八雲様も言葉を思い出す。
諏訪家は男子2人が必要だ。
その子供は、正妻にしか生ませない。
薔子という名の女性が俺の母なら、もう1人、兄弟がいるはずだ。
母、律子には、子は俺1人だが、その俺が彼女の子でないという
のなら条件から外れる。
つまり、正妻ではなかったということだ。
﹁知らないわっ!! わたくしは、何も⋮⋮穢されて、妊娠して、
自殺したのは薔子が弱かったからでしょ!!﹂
﹁何故、薔子の自殺の原因を知っている? 彼女の自殺の原因は、
完全に秘匿されている﹂
﹁噂が⋮⋮噂になっていたわ﹂
971
﹁残念だったな。そんな噂はない。表向き、彼女は病死だ。それに、
妊娠していたのは、私の子だ﹂
﹁⋮⋮⋮⋮え?﹂
﹁DNA鑑定は当然している。薔子は死してなお、我が子の命を守
ってくれた。薔子が発見された時、胎児はまだ生きていたのだよ﹂
その言葉に、母も俺も目を瞠った。
﹁薔子を死に追いやった律子、君を、私は決して赦しはしない。同
じ目に合わせるなど、なまぬるい。薔子が手に入れるはずのものを
君に渡すはずもないだろう? 君が屈辱と感じるすべてを君に与え
ることにした。まず手始めは、君が欲しがっていた私を与えないこ
とから、だな﹂
くつくつと暗く笑う父に、俺も母も言葉を失う。
侵入者ですら呆気にとられて父を見つめている。
﹁妻の座は、薔子のものだ。長男はいるから、次男を産む胎として
君を傍に置いた﹂
﹁まさか、そんな⋮⋮どうやって⋮⋮﹂
﹁どうやって? 簡単だろう? 生体バンクに必要なものは預けて
おくのは四族の成人の常識だ﹂
その言葉に、納得する。
成人となった時に、DNAや生殖機能に関するものを生体バンク
に預けるのが、四族の義務であり常識だと学んでいる。
皮膚や骨などの細胞は、未成年でも預けるべきではないかという
議論があるのも知っている。
これは、相良の事故を受けてのことで、まだそれが決定にはなっ
ていない。
皮膚移植をすれば、相良の身体に残る傷の大半を消すことができ
るのに、皮膚を培養するための細胞をバンクに預けることができず、
培養する時間も足りなかったことの反省を込めてという理由だと記
憶している。
それとは別に、成人四族は、次代に血を繋ぐことが最重要課題だ。
972
それゆえ、必要な細胞が若くて元気なときにそれらを預けること
になっているのだ。
父はそれを利用した。
人工授精し、それを母の胎内に着床させたのだろう。
これら一連のことは、麻酔をかけて眠らせてしまえばできないこ
とはない。
現法律では代理母は認められないが、実は、特例はある。
その条件にあてはめられれば、申請し、許可が下りると問題ない
のだ。
その特例というのが、卵子提供者の死亡というものだ。
薔子という女性に関しても、死亡届を出す前に婚姻届を出し、受
理された後で死亡届を出せば彼女は法律上、父の妻となる。
申請書があり、それが受理されたという証拠があれば、俺は律子
の胎から生まれようとも薔子の子供として戸籍上、記載されること
が可能だ。
このことを母が知らなかったのも無理はない。
戸籍は、謄本だろうが抄本だろうが、母が直接手に入れようと手
続きをすることはない。
秘書や弁護士あたりに手続きを頼んでしまえば、それで終わりだ
からだ。
そして彼らは、知り得た情報をたとえ本人であろうと口にするこ
とはない。
母のことはどうでもいい。
今、気になるのは別のことだ。
先程、父は、兄が生きていたと言った。
それは、今も生きているという意味なのだろうか?
生きているとしたら、今、どこにいるのだろう。
そう言えば、すっかり忘れかけていたが、あの偽デザイナーは何
をやっているのだろうか。
973
視線を巡らせれば、醜悪な表情を浮かべた男が視界に入る。
﹁⋮⋮道理でおかしいと思った⋮⋮﹂
ぼそりと呟く男に、俺は首を傾げる。
﹁子供を産んだ女が、あんなに⋮⋮なわけねぇよな﹂
呟いた言葉の意味がわからない。
だが、男は何かを掴んだようだった。
﹁莫迦にしやがってと思ったが、こいつぁいいネタ掴んだ﹂
ニヤリと笑った男に、父が言う。
﹁残念だったな。ゆすりのネタにはならんよ。証拠を掴んだ時点で
警察には届けている。伊織が薔子の二番目の息子だというのも隠し
てはいないからな、知っている者はいる。君は己の罪から逃れる術
はない﹂
﹁何だと!?﹂
﹁無駄足だったな。律子を巻き込もうとしても、諏訪に痛手はない。
我々は被害者だと堂々と言えるからな﹂
淡々と告げる父の言葉に顔色を変える男と、そして母だと思って
いた女。
﹁薔子の長男はどこにいるのっ!?﹂
彼女もまた醜悪な表情を浮かべていた。
憎悪に染まったその表情は、華やかさの欠片もなく一気に老け込
んだ感がする。
﹁⋮⋮まだ、気付いていないのか? 愚かにもほどがある。何度も
会っているだろうに⋮⋮ああ、見たいものしか見ないという愚者の
典型か﹂
何度も会っているという父の言葉に、俺はまさかと思った。
おそらくは、適度な距離感を保ちつつも、その成長過程を目にす
ることができる位置に置いていただろう。
該当するのは、ごくわずかだ。
父は親族の中でも信頼できる相手に預けたはずだ。
﹁⋮⋮⋮⋮珂織だ﹂
974
うっすらと微笑みながら告げる父の言葉に、ああやはりかと思う。
珂織は、誰もが本家の子供であればいいと言われてきた人間だ。
温厚で優秀。
しかも、父に面差しよく似ている。
当然だろう、父子なのだから。
幼い頃から珂織は俺を可愛がってくれて、わりと仲が良い親族で
もある。
彼が兄と言われて、すぐに納得できるほどに。
﹁珂織!?﹂
﹁君が欲しがるものはすべて、手に入れることはないと知れ。もう、
君が存在する理由もなければ、価値もない。だが、死ぬことは許さ
ない。絶望の中で生きていけ。それが薔子を苦しめた君に似合いの
人生だ。贖罪などは認めないがね﹂
﹁そこまで! そこまでわたくしをっ!!﹂
﹁⋮⋮当然だろう? 君という存在が相良との軋轢を大きくした。
余計なことしかしない君を諏訪はとっくの昔に見放している。それ
すら気づかず、当主夫人のつもりでいるのは滑稽だったが﹂
くっと声を上げ、皮肉気に笑う父の姿に、母だった女は悲鳴を上
げて崩れ落ちた。
自分が思い描いたことがすべて虚構であったことに気付いたため
か、愛されていると思っていた父にここまで疎まれていたという事
実を突きつけられたことか。
祖父が母を無視していたのは、このせいだったのか。
息子の嫁は別の人間だと態度で示していただけなのだ。
﹁諏訪の当主夫人が聞いて呆れる。全然使えねぇな。まあ、いいや。
どうせ律子は利用できるだけ利用したら捨てるつもりだったし﹂
男がおろしていたナイフをこちらに向ける。
﹁なあ。俺と手を組まね? 律子よりもアンタらの方が上手くやれ
そうだ﹂
誘いに見せかけた脅しなどに誰が頷くものか。
975
﹁残念だが、当主の座は息子に譲り渡した。私はもう前当主であっ
て権限はないのだよ﹂
父が嫣然と微笑む。
﹁へえ﹂
﹁そう。俺が、今日より諏訪家の当主というわけだ。諏訪は神に仕
える一族だ。現世のことなど、本来興味はない。つまり、貴様やそ
この胎など、どうなろうが知ったことではないな﹂
俺に流された視線に、率直に答える。
相良にできて、俺にできないなど許されることではない。
決して、一族の当主が犯罪者と手を組むなどあってはならないこ
とだ。
﹁⋮⋮へぇ? おまえら殺して、俺が成り代わってやってもいいん
だぜ? 同じ顔だし﹂
﹁当主としての知識がない者に、四族の当主が務まるか! 同じ顔
などではない。誰がどう見ても似ても似つかぬ粗悪品でしかないが
な﹂
この程度の挑発に乗るようであれば、本当に粗悪品でしかない。
﹁何だとっ!?﹂
ああ、乗ったか。
母だと思っていた女は、本当に見る目がない愚かな人間だという
ことか。
ふと気づけば、祖父の姿がなかった。
そのことに、俺は微笑う。
あの人が実は一番、武術に長けている。
この場から立ち去るくらいわけないだろう。
そうして、いないということが、最悪の状況を免れたということ
だ。
静かに開けられたイベントホールの扉。
そこに武術を得意とする警備の人間、もしくは警察の人間が気配
976
無く雪崩れ込んでくる。
それから先は、スローモーションだった。
俺が煽るだけ煽ったことで頭に血がのぼった男は、ナイフを振り
かざし、俺に迫ってくる。
それを寸前のところで辛うじて避ける。
さすがに完璧に避けることができず、切り傷が増えていくが、こ
れは仕方がない。
切られた場所は、痛いというよりもじんじんとした疼痛を伴い熱
かった。
熱を持つというのは、こういうことなのかと実感する。
逃げるふりをしながら、男の注意を惹きつける。
広いホールの中で、警備の者たちがここへ駆けつけるまでの時間
稼ぎをしなくてはいけないからだ。
幸いにも、当主の座を交代しても実権は父にある。
父か祖父が無事なら、諏訪は安泰だ。
ましてや俺には兄がいる。
万が一のことがあっても、後を継ぐ人間がいれば諏訪家は後世に
血を残すことができる。
そう思えば、今、目の当たりにしていることはあまり現実味に欠
けていた。
恐怖心とやらを感じないのだ。
脇腹辺りにナイフが埋まる。
ざしゅりという音と共に感じたのは熱のみで、やはり痛みは感じ
ない。
この程度では死に至らないと、冷静に判断できる自分もいる。
﹁伊織!!﹂
俺の名を呼ぶ声が聞こえた。
ああ、これは、父の声だ。
﹁邪魔をするなっ!!﹂
977
苛立たしげな男の声。
熱がさらに上がり、脇腹から何かが零れる。
俺の前にできた黒い壁。
否、父の背中だ。
﹁離せっ!!﹂
﹁おまえには、後悔してもらおう﹂
その後に続いた父の言葉は、生憎と聞こえなかった。
何故なら、醜い悲鳴がごきりという鈍い音共にすべての音を消し
去ったからだ。
あれは、おそらく骨が砕けた音だ。
砕いたのが父なのか。
急速に暗くなる視界の中で、辛うじて見えたのは、蒼白になりな
がらも満足げな父の笑みだった。
978
121 ︵諏訪伊織視点︶︵後書き︶
念の為、書き添えますが、この世界は現代ではなくゲーム設定によ
く似た別の世界です。
当然、法律その他手続きは現代とは異なります。
世界が異なるのですから、当たり前の話ですが。
979
122
﹃うちのクソガキが、退屈しきってロクでもないことしでかす前に、
ちょっと傷口を蹴り上げてやっちゃあくれねぇか?﹄
そんな少々物騒なお願いが諏訪のご隠居から寄越されたのは、諏
訪の誕生パーティの翌日だった。
ご隠居から齎された情報は、実に溜息ものだった。
パーティに乱入したのは、律子様が援助していた自称宝飾デザイ
ナー。
ナイフを振りかざし、会場に押し入ってきたと、出席していた方
から教えていただいたいので、ある程度予想をしていたが、うん、
呆れた。
普通、こういったパーティはそれぞれの家の威信がかかっている
ので、邪魔をされてはかなわないから全力で警備するのが基本だ。
乱入できるはずもない。
それが、何故、乱入できたのか。
わざと隙を作ったからだ。
普通に考えればわかることだ。
諏訪家のパーティであれば、そのスジの方が虎視眈々と狙い撃ち
しようとするのに、そちらが入れずに素人が乱入なんてありえない。
招き入れたと考えるのが普通だ。
誰がそんなことをしたかと考えれば、辿り着くのは諏訪当代、先
980
代、次代の3人しか該当者がいないだろう。
次代である諏訪伊織が自分の晴れ舞台をよく知りもしない相手に
潰されるような真似をするわけがない。
先代か当代かと考えれば、当代がとしか言いようがないだろう。
律子様に対して思うことがあったため。
そう考えれば、表面上は誰もが納得する理由が作り出せる。
しかしながら斗織様の思惑は別の所にあったのかもしれない。
斗織様の負傷、しかも重傷と聞いて、確信した。
斗織様は律子様を巻き込んで死ぬおつもりだったのではないか、
と。
そこまで考えて、ふと気づいた。
﹃うちのクソガキ﹄って、諏訪伊織のことではなく、斗織様のこ
とではないか、と。
諏訪の男というのは、何て傍迷惑なんだ。
色々と話が繋がってきたことにまず覚えた感情がこれだった。
一途に誰かを想うのは、それはそれで羨ましいことだと思う。
だが、実際に行動に移していいかと言えば、そう簡単に頷くこと
はできない。
四族に生まれたからには、守らねばならないものがある。
激情のままにそれらを無視して突き進んでよいとは、決して言え
ない。
己が手を下さなければ、その手は罪に染まっていないと声を上げ
ることは赦されない。
そうと判断し、誰かに動くように伝えた時点で、その手は罪に触
れたと自覚しなければならないと、私は訓えられた。
息子の晴れ舞台で、その息子を危険に晒した斗織様は最愛の人が
哀しむことをしたとは思わなかったのだろうか。
実に頭が痛いと思う。
だが、時期を外してはならないこともある。
981
元を糺せば発端は斗織様にある。
逃げ出されても困るから、選べないように釘をさしに行くか。
ここ数日、色々と調べた資料に視線を落とし、私は見舞いに行く
ことを決意した。
***************
いつものように疾風を供に車に乗り込む。
今年はいつもよりも雨が多い。
窓の外に広がる景色に溜息を吐きたくなる。
だが、雨が多いが去年ほど傷が痛まないのは助かる。
瑞姫さんの記憶にあるよりも身体が動いてくれている。
それを知っているのか、雨の日になると甲斐甲斐しく面倒を見よ
うとする疾風が心持ち手控えてくれている。
﹁⋮⋮何だって、こんな日に行かなくても⋮⋮﹂
反対側の車窓を眺め、疾風が呟く。
雨だから反対しているのではなく、行き先が諏訪親子の入院して
いる病院だからであろう。
諏訪親子の見舞と告げた瞬間、兄姉もその随身たる岡部の者たち
も猛反対したのだから間違いない。
結局のところ、何故、外出できたかというと、理由は簡単だ。
﹃そろそろ止めを刺してもいい頃だと思って﹄と告げたからだ。
この言葉は、以前、瑞姫さんに教えてもらったものだ。
諏訪家の者と接触することを反対されたら、こう言えば皆、退い
てくれるはずだと。
982
最終奥義だと聞かされていた言葉の効果はてき面だった。
虚を突かれたような表情を浮かべた兄姉たちは、そのままの表情
で頷いてくれた。
岡部家に至っては、﹃遠慮なく超特大級でやっちゃっていいです
からね﹄と真顔で諭された。
こういう場合、私が暴走しないように窘めるのが本筋というもの
ではないだろうか。
厳戒態勢を敷かれて、屋敷内に閉じ込められるよりは遥かにマシ
だけれど。
見舞いの品も用意して、準備を整えての出発なのだが、最後まで
大反対の疾風は、皆が私を止めなかったことに不満爆発中のようだ。
面倒見るのはやめないが、それでもご機嫌斜めという微妙なとこ
ろを綱渡りしている。
﹁準備ができたときに行かなければ、好機を見失ってしまうよ﹂
﹁それは、そうだけど⋮⋮﹂
﹁一言、斗織様に言わせてもらいたいことがあってね﹂
他家のことには本来興味はないが、巻き込まれた身としては言わ
ねばならないこともある。
そもそも、すべての元凶を今まで放置していた責任はどうとるお
つもりなのか、納得がいくまで説明いただきたいものだ。
私の表情から何を読み取ったのか、疾風がふと肩の力を抜いた。
﹁まぁ、自業自得だよな﹂
﹁⋮⋮⋮⋮⋮⋮今、何だかとても失礼なことを考えやしなかったか、
疾風?﹂
﹁ごく普通に、いつも通りの瑞姫の行動を思い浮かべただけだ﹂
信用できないと、じっとり疾風を見上げれば、苦笑した疾風が私
の頭を撫でた。
﹁あまり無理をするな。瑞姫は自分のことだけを考えていればいい﹂
﹁しかし、な⋮⋮﹂
﹁瑞姫はそれくらいでちょうどいい﹂
983
そう言われれば、次の言葉を封じられたも同然だ。
﹁そのために、俺がいる﹂
﹁⋮⋮疾風﹂
私はにこりと笑った。
﹁誤魔化しても無駄だからな﹂
﹁⋮⋮⋮⋮⋮⋮﹂
疾風が悔しそうな表情を浮かべ、肩をすくめた。
諏訪家の病院に到着すると、疾風が見舞いの品を手に私の後に続
く。
エントランスホールには財界の見知った顔がちらほらとあった。
諏訪家の新旧当主が揃って入院をしているのだから、見舞いを口
実に色々と画策をとでも考えているのだろう。
私たちと同年代の娘を連れた年配の男性の姿も多い。
そのほとんどが門前払いをされたらしく、不満げな表情を浮かべ
ている。
諏訪が起きているのなら、納得できる状況だ。
身動きできない不愉快な状態である上に、呼びもしないのに押し
かけて一方的な見合い状況を作られるなんて誰だって御免被ると言
いたくなるだろう。
相手に怒鳴り散らさないだけまだマシだと思えばいいものを、断
られたことに不満を抱くなど言語道断だ。
動かぬ身体にもどかしい思いを抱えている相手を思いやらずに要
求だけを突き付けようとするのだから、当然の結果だと言える。
何もかも自分の思い通りに運ぶと思ってしまうのが、四族・葉族
通しての悪い癖と言えるだろう。
自戒せねばならないことだと、常に思う。
彼らと視線を交わすことなく、受付で見舞いの手続きを行う。
特別室に入院の相手に手続きすることなしに会うことはできない
のだ、この病院では。
984
受付に話が通っていたのだろう、自分の名前と入院患者の名前を
告げれば、即座に許可が下りた。
そのままエレベータで最上階まで移動し、諏訪伊織の病室の前で
立ち止まる。
﹁⋮⋮疾風、ここで待っていてくれ﹂
﹁嫌だ﹂
﹁心配せずとも、相手は身動きできない。話もすぐに済む﹂
即答され、それが予想通りであることに苦笑してしまう。
﹁瑞姫﹂
﹁なに?﹂
﹁つらかったら、逃げ出しても、泣いてもいいんだぞ。おまえが望
む限り、俺はおまえの傍にいる﹂
その言葉に顔が強張った。
バレていたのか。
まあ、勘が鋭い疾風なら、バレていてもしょうがない。
だが。
﹁逃げる気は、ない。泣く気も、な。私が選んだことだ﹂
﹁⋮⋮⋮⋮⋮⋮わかった。ここにいるから、行ってこい﹂
仕方ないなというふうに、肩を竦めた疾風が頷く。
﹁ああ﹂
疾風の言葉に送られて、私は扉をノックする。
中から応えがあり、重厚な作りの扉をスライドさせた。
985
123
収納式のドアをスライドさせて部屋に入る。
最近の病室では、この収納式スライドドアというのが定番になっ
ているが、ドアを開ける際、若干力が必要だ。
体力及び筋力が落ちた病人や車いすの人がドアを開けるのには少
し不向きではなかろうか。
それとも介助者がいるという想定で⋮⋮いや、それはないな。
特別室は考えられるが、一般病棟ではそういった考慮はされてい
ないはず。
うん。これは考える余地があるな。
ドアについての考察はあとにしておいて、挨拶を口にする。
﹁気分が優れないところを申し訳ないが﹂
﹁さ、相良っ!?﹂
ベッドで横になっていた諏訪伊織が慌てて起き上がり、そうして
呻き声をあげて再びベッドに崩れるように倒れ込む。
自業自得だ。
同情はしない。何故なら、本当に軽傷だからだ。
刺されたのは左脇腹で、幅2cm程度、深さ1cm程度。
内臓とは全く関係のない場所で、脂肪に到達するくらいの深さと
言えば、何となく想像がつくだろう。
ナイフは先端に向かって尖っている。
つまり、一番深い場所がナイフの先端であるから、他はさほど深
く切れていないのだ。
縫わなくてもいいとても小さな傷だ。
986
あえて縫うなら1針で充分だし、この程度なら、きっちり消毒し
た後、サージカルテープを貼るという処置でも構わない。
もちろん、刺されたのだから痛みはあるが、普通であれば入院な
どはしないだろう。
相良や岡部の人間なら、稽古中によくやる怪我の範囲だ。
痛みに慣れていない者にとっては充分痛いのかもしれないが。
﹁真っ直ぐに起き上がるからだ。痛みがあるときは横に転がるよう
に体を丸めて起き上がれ。そう説明されただろう?﹂
﹁⋮⋮⋮⋮された⋮⋮﹂
ぐったりとしながら唸るように返事する。
﹁そのまま横になっていて構わない。怪我人なのだから、安静にし
ているべきだろう﹂
そう告げて、テーブルの上に紙袋を置く。
仄かに甘いカカオの香り。
﹁⋮⋮それは?﹂
﹁見舞いの品だ。甘いモノ、特にショコラが好きなのだろう?﹂
﹁もしかして、相良のて⋮⋮﹂
﹁うちのパティシエの知り合いに高名なショコラティエがいるとい
うことで、お願いをしたものだ﹂
﹁⋮⋮そうですか⋮⋮﹂
何故か先程よりもぐったりとして、さらに哀愁まで漂わせた諏訪
が力なく頷く。
諏訪伊織が甘いモノ、特にショコラを好むというのは、わりと一
部では有名な話だ。
ハロウィンの周辺やヴァレンタインなどが近づくとそわそわして
いる姿がよく目撃されている。
なので特別に用意してもらったのだが、食事制限でもあるのだろ
うか。
そんな話は聞いていないから、別の理由があるのかもしれない。
まあ、いいか。
987
理由を聞いたところで私にはどうしようもないはずだ。
﹁ああ、それから。誕生日と当主就任、おめでとう﹂
私の言葉に、痛みをこらえるように唸っていた諏訪が固まった。
血の気の失せた青白い顔に朱が走る。
なかなかに複雑な顔色だ、器用だな。
﹁え? 相良?﹂
﹁何だ?﹂
﹁まさか、知らない、とか⋮⋮?﹂
﹁何について知っているのか、言葉にしてもらえないと答えようが
ないのだが﹂
﹁俺が⋮⋮﹂
﹁あ。もしかして、あのことか⋮⋮君が律子様の御子でないという
⋮⋮あれなら、以前から薄々そうではないかと思っていた﹂
﹁え!?﹂
﹁諏訪家は神に仕える者と一族を率いる者、2人の頭を必要とする
家だと聞いている。男子を2人産む者が正妻だと、な。律子様には
君1人だ。おかしな話だろう? 聞けば、斗織様には律子様ではな
い婚約者がいらっしゃったと⋮⋮つまり、正妻はそちらだと考えた﹂
﹁それだけのことで!?﹂
﹁充分すぎるヒントだと思うが? 君も他家の成り立ちに関しては、
ある程度学んでいるだろう? まあ、それに関しては、男児よりも
女児の方がより詳しく学ばされるのは当然だが。何しろ、他家へ嫁
がねばならぬのに、相手の家に関して何も知らないでは通用しない
からな﹂
﹁⋮⋮あ⋮⋮﹂
私の言葉に諏訪の表情が目まぐるしく変わる。
﹁それで、俺のことは、どう思った? 死亡した女性の卵子から生
まれた俺は﹂
﹁言いたいことの意味がさっぱり分からないな。諏訪は諏訪だろう
? 誰から生まれようが、誰の子だろうが、私が知っているのは目
988
の前にいる君だ﹂
率直すぎる言葉は時に凶器だ。
理解しているが、言わねばならないこともある。
﹁前当主である諏訪斗織様の御子であり、現当主なのだろう、君は。
遺伝子に関しては不可抗力だが、意思がある以上、どうやって生き
るか、それを選ぶのは君自身だ。自分自身の意思で選びとって行動
している君が私が知る諏訪伊織という人間だ。正直に言えば、相変
わらず学ばない男だと思ったが﹂
﹁は⋮⋮え?﹂
﹁まだわかっていなかったのか? 君の今回の怪我は、またしても
自業自得だろう? 確保を目的とした時間稼ぎを行う時に、相手の
視界を動かすような真似をする莫迦がどこにいる!?﹂
﹁相良⋮⋮どういう⋮⋮﹂
﹁⋮⋮確保を行う者たちが迅速に対象者に近付くために、対象者の
視界、意識を一点に向ける。基本だろう。それを出来もしないアク
ションに持ち込んで混乱に陥れた挙句に怪我するなど、愚かの極み
だ。君が怪我を負ったのは、君が愚かな行為に走ったせいなのに、
責任は彼らが負うことになるんだぞ!﹂
﹁⋮⋮あ﹂
ようやくわかったらしい諏訪が目を瞠る。
﹁その点に関しては斗織様も同罪、いや、遥かに罪は重いな。他殺
に見せかけた自殺をしようとしたのだから﹂
﹁父が!?﹂
﹁君を庇う振りをして自ら刺されたそうだよ。あの男を招き入れた
のも、斗織様だけれどね﹂
﹁⋮⋮何故⋮⋮﹂
﹁理由は君が一番よくわかっているだろう? 諏訪の舞台から降り
るためだ。後顧の憂いをすべて取り払うために﹂
私の言葉に諏訪がぐったりとベッドに沈む。
思い当たったことがいくつもあるのだろう。
989
﹁⋮⋮諏訪の立て直しを俺にしろと、そう言っているのか、父は⋮
⋮﹂
﹁さて。諏訪家自体に未練を持ってなどいないと思うけれど? 現
当主は君だ。君が思うようにすればいい。盛り立てるか、没落する
か、解体するか。すべて君の裁量ひとつだ﹂
﹁⋮⋮相良﹂
ぽつりと諏訪が呟く。
﹁何だ?﹂
﹁頼み⋮⋮いや、願い、だな。俺の傍にいてほしい﹂
﹁何故?﹂
﹁俺は、おまえのことが好きだ。それと同時に、俺を導く者として
おまえを必要としている﹂
真っ直ぐに向けられた視線。
それは嘘偽りないと告げている。
﹁そうか。君の気持ちはわかった。だが、断る﹂
﹁諏訪家の当主が正式に申し込んでも、か?﹂
﹁ああ。相良家としても決して頷かないな﹂
﹁⋮⋮俺が、加害者だからか?﹂
﹁いや。私が﹃みずき﹄だからだ﹂
予想はしていたが、とうとう諏訪がその言葉を口にしたか。
それが﹃今﹄ではなく、もう少し先であれば、また違った答えが
出ていたかもしれないが。
仮定の話をしても、現実には起こり得ないことだ。
﹁相良?﹂
﹁先程も言ったな? 他家の成り立ちについて学んでいればわかる
ことだ。相良家で﹃みずき﹄という名の人間は、外に出ることはな
い。ましてやそれが﹃姫﹄という文字を持つ者なら特に、な﹂
﹁姫⋮⋮﹂
﹁そう。姫の文字を崩せば、女と臣だ。諏訪には﹃ヒメヒコ﹄と言
った方が馴染があるか⋮⋮﹂
990
私が言ったその言葉に思い当たったのか、諏訪の顔色が変わる。
﹁まさか、おまえも相良の当主なのか!?﹂
﹁私はスペアだがな﹂
ヒメヒコとは、媛彦ともヒミヒコとも言う古代の政治制度のひと
つだ。
親を同じくする男女のきょうだいが、治める地を武と農で支配す
るという二重統治制度だ。
男が武力を女が農耕または政治でその地を支配する。
その男女のきょうだいは、胎が違えば夫婦となったとも言われて
いる。
大和王権以前の統治制度なので、地族である諏訪ならば知ってい
ると思って言ってみたが、正解だったようだ。
﹁スペア?﹂
﹁そうだ。兄が結婚し、子ができれば、私は分家を作ることになる
が、兄が死した場合、私が父の後を継いで相良の当主となる。実際
のヒメヒコとは異なるが、常に直系の血を継ぐという一族独特のな
らわしだ。私は相良の名を捨てることはない。よって、他家の次期
当主や当主に嫁ぐことはしない﹂
﹁それならば﹂
﹁当主である者が家を捨て、名を捨てた場合でも、私はその相手に
は嫁がない。守るべきものがありながら、それを手放す無責任な者
に寄せる好意は持っていないからだ﹂
諏訪の表情が凍りついた。
私が諏訪に嫁ぐことはないと理解できたようだ。
﹁諏訪。以前、私は君に、君の気持ちは君だけのものだと言ったが、
あれは今も有効だ。君が誰を好きであろうと、それは君の自由だ。
だが、私の気持ちは私だけのもので、おそらく君を好きになること
はないだろう。今の私には恋というものが全くわからない。だから、
君の気持ちを察することはできない。これを言えば君が傷つくとい
うことはわかるが、正直に答える。これから先、どんな状況になろ
991
うとも私は君に応えることはない。そのことについて君に﹃すまな
い﹄とも思わない。私の答えで君がどういう結果を導き出すことに
すら興味を持てない﹂
﹁⋮⋮例えば、俺が諏訪を盛り立て、逆に相良を窮地に立たせるよ
うな場面に立って、相良を助けるからおまえを寄越せと言えば⋮⋮﹂
﹁相良は﹃みずき﹄である私を手放すような真似はしないだろう。
その時は、私自身が諏訪、君の首を狩る﹂
﹁結局、俺は何の為に﹂
﹁自分の為だろう? 自分で考え、自分で選びとった結果はすべて
自分の為だ﹂
誰かのためという考えも、自分が選び取った結果だ。
厳しいようだが、諏訪は時期を見誤った、それだけのことだ。
柾兄上が結婚して子が出来た後、分家を作らなくてもよいという
状況を作り上げることができたなら、その時は﹃みずき﹄である私
でも他家へ嫁ぐという道はあるかもしれない。
その手に気付かなかった諏訪の落ち度だ。
そこを指摘してやるほど私は親切ではない。
﹁おまえも俺に諦めろと言うのか?﹂
﹁言っただろう? 君の気持ちは君のものだ。君自身で選べばいい。
そこに私の意思は関係ない﹂
﹁⋮⋮なお悪い。おまえは酷いな﹂
﹁この道を選び取ったのは、君自身でもある。君が少しでも他家の
事情というものに興味を持てば、私が選ぶ結果に気付いたかもしれ
ないが﹂
﹁俺の勉強不足か。紅蓮にも再三言われた﹂
﹁いい友だな﹂
大神は諏訪の欠点を指摘してやるほど、彼に心を砕いているよう
だ。
それを活かせなかったのは諏訪の問題だ。
﹁休養が必要だろう。私はこれで失礼する﹂
992
それだけを言うと諏訪に背を向ける。
答えはなかった。
嗚咽を殺すような重い気配を感じたが、振り返ることはしなかっ
た。
諏訪がどのような結論を下すのか、それはわからない。
だが、諏訪が結論を出すために、私は今振り返ってはならないこ
とだけはわかっていた。
それが彼を傷付けた者の最低限の礼儀だからだ。
病室を出ると、疾風が心配そうな表情で私を迎える。
﹁瑞姫﹂
﹁⋮⋮さて。本命への見舞いへ行こうか﹂
実にややこしい、微妙な状況を作り出した元凶にぜひとも責任を
取ってもらわなければ。
疾風の手から花束を受け取ると、隣の病室の扉をノックした。
993
124
ノックをして、返事があって、ドアを開ける。
ごく当たり前な手順を踏んだと思う。
扉を開けて、目の前に広がった光景に見なかったことにして扉を
閉めようかと思った。
重傷とはいえ、ベッドをリクライニングさせて上体を起こせるま
でに回復した斗織様の横に座っていらっしゃったのは、ご隠居様。
憮然とした表情の斗織様と、嬉々とした御様子のご隠居様。
ここまではいい。ここまでは。
あまりよくないが、大した問題ではないだろう。
問題なのは、ご隠居様が手にしているモノと、キャスター付きの
簡易テーブルの上に積まれたモノだ。
﹁おお、瑞姫ちゃん。来てくれたのかい? ありがとう﹂
にこにこと上機嫌のご隠居様が手招きする。
見舞いに来た客に対する親族の対応としては、フレンドリーだが
相手が私であるため許容範囲だろう。
﹁いえ。当然のことですから﹂
私が入院していた時に、斗織様も見舞いに来てくださっていたと
いうことは桧垣先生から聞いたことがある。
礼儀としては当然だと思う。
だが、ご隠居様の手許から視線が外せない。
﹁どうだい? 1つ、食べないか?﹂
にこやかに笑うご隠居様がテーブルの上を示す。
994
しょりしょりと小気味良い音を立て、皮をむいて作り上げたそれ
をさらにテーブルのそれらの山に積み上げる。
実に見事だ。
手捌きというか、包丁捌きと言うか、そうして積み上げられたそ
れらの出来栄えも。
趣味でフルーツカービングでも習っていらしたのだろうか。
しかしながら定番とはいえ、何故すべてうささんりんごなのだろ
うか。
70代のご老人が、40代の息子とはいえ男性に、何故うささん
りんごをむいているのだろうか。
私の後ろに立つ疾風は、見たくないモノを見てしまったせいか、
固まってしまっている気配がする。
﹁ご隠居様? ひとつ、お尋ねしますが。なぜ、兎の形なのでしょ
うか﹂
﹁⋮⋮定番だろ?﹂
そうですか。
嫌がらせですか。
兎をむいていたのが大刀自様なら、実に温かな心和む穏やかな家
族の風景になるのに、ご隠居様だと大きな悪戯っ子が悪巧みをして
いるようにしか見えないのは何故だろう。
﹁そうですか﹂
ここでこれ以上突っ込む度胸は、今の私にはない。
瑞姫さんなら違う対応もあるだろうが。
﹁瑞姫ちゃん、約束通りに蹴り上げに来てくれたんだ﹂
﹁御冗談を﹂
傷を負った身とはいえ、正式に武道を習得している私が、重傷者
と言われている斗織様の傷口を蹴り上げれば冗談でなく鼓動は止ま
ってしまう。
私たちが修練しているのは、スポーツのようにルールに則って行
うものではなく、確実に相手を仕留めるためのものだ。
995
おイタをしないように止めるために、心臓止めてどうするおつも
りなのか、そこのところをお尋ねしたいと思う。
大刀自様がご存命なら、激怒されることだろう。
まあ、今からすることは確かに蹴り上げるようなものだけど。
どちらかと言うと、抉る方かもしれないが。
﹁ああ。先程、諏訪当主より相良瑞姫へ婚姻の申し込みがございま
したので、お断り申し上げました。この事実は覆りません﹂
表情を変えず、淡々と告げれば、ご隠居様も斗織様も顔を顰めた。
﹁あの莫迦⋮⋮自分の立場、理解しろよ。ごめんな、瑞姫ちゃん﹂
﹁誠に申し訳ない。時期を測れぬ愚かな息子だが、根は純粋な子だ。
気持ちに偽りはないというところだけ酌んでやってくれないか? 勿論、必ず諦めるよう言い含める﹂
﹁斗織様、その必要はございません。相良の事情を説明いたしまし
たので、納得していただけましたから﹂
﹁⋮⋮そうか﹂
斗織様の視線が泳ぐ。
﹁そりゃあ、ばっきり心が折れたなぁ、伊織のやつ。自業自得だけ
どな﹂
所詮他人事とばかりにご隠居が笑う。
ご隠居様に情がないわけではない。
むしろ、情に厚い方だからこそ、他人事のような態度を取られる
のだろう。
こう言った感情は、他の人に同情されて嬉しいようなものではな
いとご存知だからだろう。
ご隠居様はともかく、この状況を作り出した責任の一端は斗織様
にある。
ならばきっちりと責任を取ってもらうのが筋だろう。
﹁申し訳ございません。お見舞いの花を持ってきたのですが⋮⋮﹂
手にしていた花束を斗織様が見やすいように差し出す。
﹁⋮⋮薔子!?﹂
996
その花束を見た斗織様が、低く叫んで咳き込んだ。
私が手にしていたのは、本来ならば見舞用の花として忌避される
白薔薇だった。
通常、見舞い用としては白薔薇は幾重もの意味で敬遠される。
白は喪を意味し、また、棘のある植物であることはもとより、薔
薇は病に罹りやすいとしても避けられる。
色彩、種類さまざまな花を用意しての花束であるならば、彩の1
つとして受け入れられるが、白薔薇だけの花束は見舞いではありえ
ない。
その禁忌を侵して、あえて白薔薇だけの花束を作らせたのはわけ
がある。
斗織様の婚約者であった薔子様は、その名の通り、花の中でもと
りわけ薔薇がお好きで、さらに白を好まれたという。
赤を好まれた律子様とはそこは対称的だ。
咳き込んだことでさらに傷が痛み、相当に消耗されただろう斗織
様は、ぐったりとしながらも花束から視線を逸らさなかった。
﹁⋮⋮君は、すべてを知っているんだな﹂
枯れ声で呟いた斗織様の表情は、何故かほっとしたものであった。
﹁いいえ。すべてではありません。確証のない推察でしょう、おそ
らく﹂
﹁白薔薇に辿り着いただけでも、畏れ入る。さすがは相良家の姫だ﹂
﹁いえ。私ではなく、私に手を貸してくれる友人たちのおかげです﹂
そう訂正をし、まっすぐに斗織様を見据える。
﹁あなたは、今まで行ってきたことを、この白薔薇に向かって胸を
張って言えますか? 我が子の養育、教育を放棄し、その子の晴れ
舞台を台無しにし、一歩間違えれば死に追いやったかもしれないと、
そう白薔薇に言えますか?﹂
997
﹁私はっ!!﹂
﹁あなたが何を思おうが、それが傍から見た事実です。企業体とし
ての諏訪を牽引してきた手腕はある程度の評価を受ける事でしょう。
ですが、父親としてはいかがなものですか? 守るためと称し、珂
織様を手放し、伊織様を無視してきた事実は消せません。先程、伊
織様は私にこう言いました。﹃俺のことは、どう思った? 死亡し
た女性の卵子から生まれた俺は﹄と。故意に作り出された不自然な
生命体という認識を彼はしてしまったということです。律子様への
嫌がらせの為に自分は生まれた、それ以外の価値はないのだろうと。
あなたが、そう思わせた﹂
﹁伊織が⋮⋮﹂
﹁詩織様に依存したのは、本来母親から与えられるはずの愛情を注
がれなかったため、その代わりが欲しかったのだと、以前、そのよ
うに仰ったこともありました。では、父親は?﹂
私の言葉に、斗織様は表情を強張らせたまま、何も言えずにいる。
﹁父親として、あなたは彼に何をしてあげたのですか? 白薔薇の
方の子という認識以外で我が子と思ったことはあるのですか?﹂
失礼な言い草だと自分でも思う。
だが、そこまで言わなければ斗織様は気付かれないだろう。
諏訪は自分のことを必要とされていない子供だと信じているとい
うことに。
自分が父親がしでかしたことで殺されていたかもしれないという
ことには気づいていない。
しかしながら、薔子様の卵子がある限り、代理母を立てて幾人で
も諏訪の子が産まれるということに気付いてしまった。
自分でなくても、もっと優秀な子供を選んで作り出すことが可能
なのだと知ってしまった。
それに対して、斗織様は自分がしたことの重大さに全く気が付い
ていなかったのだ。
最愛の人と自分との間にできた大事な跡取り息子だと思っている
998
ことはわかる。
だからこそ、諏訪の後に他の子供を作ろうとはしなかった。
完全な擦れ違い。
この点で責があるのは伊織の方ではなく、斗織様の方だ。
私が言いたいことの意味がわかったのだろう。
斗織様の顔色は蒼白だ。
﹁違う、私は⋮⋮﹂
﹁このような事態を引き起こしたことに、白薔薇の方はよくやった
と微笑んでくださるような方ですか?﹂
﹁私は、赦せなかった。薔子を奪った律子が﹂
﹁あなたは証拠を手に入れていたのでしょう? それをそのまま警
察に引き渡せば、それですべて治まるはずです。伊織様のことは、
登録されている代理母候補の方にお願いすればよいだけ。そうすれ
ば伊織様だけでなく珂織様も手許で育てることができた。万事旨く
いく方法がありながら、あなたはそれをしなかった。現在、諏訪家
が置かれている状況の殆どはあなたが原因です﹂
﹁あの女に復讐したいと思って何が悪い!?﹂
﹁復讐したければ、あの時点で律子様の目の前で自殺なさればよか
った。これ以上ない復讐でしょう?﹂
手に入れるために策を弄したものが目の前で消え去ることほど、
彼女の矜持を傷付けるものはないだろう。
犯罪に手を染めたとわかった時点で、それが例え法の下では軽微
な罪だと見做されなくても、四族に名を連ねている生家では彼女の
存在を抹消するだろう。
刑期を終え、塀の外に出た瞬間に、彼女の生家は彼女を屋敷奥へ
捕え、朽ち果てるまでそれこそ一生、表に出さないだろう。
斗織様がしてきたことは、そのほとんどが無意味なことだと言え
る。
ただの悪趣味な自己満足と言う人もいるかもしれない。
生餌を甚振って楽しんでも、それは自分の内側だけのことで、傍
999
からは何もわからない。
それよりもきちんと罪を暴いて、亡くなった方の名誉回復をした
ほうがいい。
圧力かけての病死など、理由を晒しているようなものだ。
真実だろうと思われる憶測で冒涜されるより、事実を明らかにし
た方が傷は小さい。
決して彼女に非はないと堂々と言えるからだ。
それを伝えるための痛みは確かにあるが、無い罪を捏造されるよ
りはいい。
﹁しかし、あなたはそれをしなかった。生を選んだあなたは、天寿
まで生き抜かなければならない。己がしでかしたことを悔やんでも﹂
﹁それは﹂
﹁これから先、伊織様が受ける悪意や嘲笑をあなたが庇うことは赦
されません。白薔薇の方が命を賭して守ろうとしたものを踏み躙っ
てしまったあなたへの罰でしょう、それが﹂
当主であるなら、先をすべて見通して行動しなければならない。
感情のままに動いてしまった斗織様はこれからそのツケを払うこ
とになるだろう。
白薔薇の花束を斗織様の膝に乗せ、私はご隠居に視線を向ける。
﹁⋮⋮これで、よろしかったのですか。ご隠居様?﹂
これまでのことがご隠居様の指図だとわかるように、問いかける。
﹁ああ。見事な蹴りだな。どっちかっつーと抉った系?﹂
ゆったりとご隠居様が笑う。
﹁お褒めにあずかり、光栄です。では、覚悟はよろしいですか?﹂
八雲兄上とよく似ているという顔で、私は笑う。
﹁まさか、ここで終わりだとは思っていらっしゃいませんよね?﹂
にこやかと言ってもいいほどの笑顔を作って告げる私に、疾風が
書類を手渡してくれる。
﹁さあ、次はご隠居様の番です﹂
覚悟してくださいね、と、書類を見せれば、ご隠居様の笑みが崩
1000
れた。
1001
124︵後書き︶
今年最後の更新です。
皆様、よいお年をお迎えください。
1002
125
テーブルの上に置かれる書類。
それはここ数年内に起業した複数の会社について調べられたもの
だ。
業績は非常に安定している。
ある程度まで右肩上がりをしたのち、そのまま横ばいを続けてい
る。
あり得ないほどの安定感。
それは、その会社があらゆるリスクを排除し、また必要以外の規
模拡大をしていないということだ。
それもそのはず、この会社たちはある目的の為に起業したからだ。
そうして、私はまた別の書類をそれらに重ねるようにして上に置
いていく。
今度の書類はNPO法人に関するものだ。
これも数年前に立ちあがった比較的若いものだ。
﹁ご隠居様。ある方の助けで、おそらくここ数年間のご隠居様の行
動の7割を把握していると思います﹂
にこやかな笑みを作り、私はご隠居様に話しかける。
﹁へえ。そいつは親切なやつがいたもんだな。一体誰だ?﹂
ご隠居様は上機嫌で問いかける。
私が正直に話すわけがないと思っているのだろう。
もちろん、正直に話すとも。
1003
﹁ええ。ご隠居様が一番よくご存知の方ですよ﹂
その方がご隠居様が受ける衝撃が大きいでしょうから。
﹁ほう?﹂
﹁⋮⋮大刀自様です﹂
にっこりと笑って告げれば、ご隠居様から表情が抜け落ちた。
それもそのはず。
大刀自様はすでに鬼籍に入られている。
直接言葉を交わすことなどできないからだ。
諏訪のご隠居様の最愛の伴侶であった大刀自様は、所謂姐さん女
房と呼ばれるご隠居様より年上の女性であった。
その年の差は、あえて言うまい。
だが聞いた方は間違いなく驚くだけの差はあった。
御幼少の頃に惚れ込んだご隠居様が、大刀自様の所に持ち込まれ
る婚約話を潰しまくり、全力を挙げて外堀を埋め尽くして口説き落
としたという。
うん、流石、ご隠居様。
やることが大人げない。
いや当時は子供だったからそれでいいのか。
その話をご本人から聞かされた時、私は正直にそう思った。
﹃仕方なかったのよ、絆されちゃったんだもの﹄
そう言って笑った大刀自様の笑顔がとても綺麗だったので、私は
あえて何も言わなかったのだが。
ご隠居様が大刀自様を口説き始めたのはなんと5歳の時だったそ
うだ。
5歳児が高校生を口説く。
ご隠居様、それ、絶対に犯罪ですからね。
それとも執念深いと思うべきか。
1004
まあ、諏訪の男だから仕方がない。
それはともかく。
子供が大好きだった大刀自様は、子供が多い相良家に遊びに来る
ことが大層お好きだった。
ご自分の孫とは疎遠であったこともあり、特に私を可愛がってく
ださったのだ。
そういうこともあり、私は大刀自様に色々と教えていただいたこ
とがあった。
あの日、保健室で茉莉姉上にPCを借り、調べていた時にふいに
その時のことが脳裏によみがえった。
いくつになってもやんちゃすぎるご隠居様を危惧してのことだっ
たのかもしれない。
大刀自様は、ある人物の名前と、そしていくつかの言葉を私に告
げた。
﹃おイタをしたら、遠慮なく鎖を引っ張って締め上げてね。躊躇っ
ちゃ駄目よ? 相手は狡賢い猛獣なんですもの﹄
あの言葉、聞いたときには何のことかわからずに不思議でしよう
がなかったけれど、今ならわかります。
猛獣はご隠居様のことで、大刀自様は猛獣遣いだったのだと。
とても鞭など扱えそうにない嫋やかな方でしたが、誰よりも芯の
強い方だという印象は幼心にも持っていた。
鞭ではなく、鎖でしたか。
思い出した私は、遠い目になりながらキーワードを打ち込み、そ
うしてこの情報を手に入れたのだ。
1005
﹁数年前、小規模の会社が数社、起業しました。どの会社も優良企
業で業績をある一定上伸ばした後、そのまま安定するように横這い
状態になりました。業績が横這いと聞くとあまりいい印象を受けな
いこともありますが、逆にどんな経済の流れの中でも安定した数字
を叩き出せるというのは、非常に素晴らしい稀有なことだと思われ
ます﹂
学生の身であまり経済には詳しくないが、発展と衰退、このふた
つは表裏一体でほんの少しのきっかけで入れ替わってしまう。
リスクは常につきまとうのだから。
それなのに、業績が上がりもしなければ下がりもしないというの
は、状況判断に優れ、見事に操作しているということに他ならない。
これだけのことを数社同時に行えるのは、わずか数名だろう。
そのひとりが、今、目の前にいる。
楽しげな表情を浮かべて、私の説明に耳を傾けている。
﹁これらの会社が波に乗り、完全に安定した後、NPO法人が立ち
上がりました。彼らはそのNPO法人に出資しています。いえ、N
PO法人の資金源として、彼らは起業したのでしょう。そうして、
さらにNPO法人が立ち上がったころにまた数社、起業しました﹂
非営利団体というのは、非常に厄介だ。
なにが厄介かと言うと理想の目的の為に立ち上げたはずが、現世
的な問題で立ち行かずに走り出した直後に潰れてしまうことが多い
という。
つまり、平たく言えば資金源と人材が運営の最大の壁になるのだ。
いくら志が高くとも、活動するための費用を捻出できなければ人
も集まらない。
活動する環境が整わなければ、人材は集まらないし、元からいた
人達も逃げ出してしまうという結末が待っている。
もちろん、極端な話だけれど。
活動を開始した後、ある程度軌道に乗った辺りで今度は次の壁が
1006
待っている。
全然別方向に規模拡大を望まれてしまうということだ。
ある人は、彼らの活動に救われて、別のある人は彼らの活動内容
に微妙にはずれていて手を差し伸べられなかったとなると、同じく
困っている人なのに助けないとはずるいではないかと言い出す人が
現れてくるのだ。
本来の活動内容とは別の内容に人手を取られ、資金を取られ、そ
うして忸怩たる思いを抱えて拠点を潰してしまうという話も多く聞
く。
それらを解消する方法が、単純に同時に複数のNPO法人を立ち
上げるということだったらしい。
微妙に活動内容の異なるそれらが困ったちゃん対策に役に立つの
だ。
助けてやれと言われたら、連携を取っている別の、そうしてそれ
専門の活動をしているところを紹介すればいいからだ。
勿論これらにも問題点はある。
だが、どういうリクエストが出てくるか予測できるものには十分
クリアできることだろう。
彼らの活動が軌道に乗り、依頼する人々が増え、資金が不足し始
めるころに次に起業していた会社が安定した業績を上げるころとな
り、次の資金を提供できるようになる。
そうして、最初の企業が業績アップする余裕を作り、それが安定
したら提供する資金を増額するという仕組みだ。
﹁未成年、子供を守るためのNPO法人はいくつもあり、そしてそ
の内容も漠然としたものが多いですが、ここは非常に明瞭ですね。
交通事故、刑事事件の被害者、リハビリのフォローアップ。その他
にも未成年者の事件事故に関する活動内容に限ってというのは、わ
かりやすすぎますね﹂
曖昧な活動内容ではなく、自分たちがすべきことを明確にするこ
とで方向違いの要望は受け入れられないことを示す。
1007
受け入れられないことに対し、﹃あの子たちが可哀想だと思わな
いのか﹄と言われても、﹃彼らを救済するための活動を行っている
ところをご案内いたします﹄と言うことでそれ以上の無茶は封じる
ことができるだろう。
専門外の所に無理やりさせるより、専門としているところに任せ
た方がよりきめ細やかな対応をしてもらえるからだ。
その辺りのことをしっかりと考え、反映させているところがいか
にもご隠居様らしい。
そう。これが、ご隠居様の考える﹃謝罪﹄なのだ。
私は相良の人間だったから、運よく助かった。
幼い頃より身を鍛え、そうして高額手術を払える財力を持つ家だ
ったからこそ、最高の治療を受け、それに耐える体力があった。
そういう私だったからこそ、諏訪の謝罪というのはある意味無用
のものだったのだ。
何をすれば私に対する謝罪になるのかと途方に暮れる当代様方と
異なり、ご隠居様は目に見える恒久的な謝罪を示されたのだ。
四族である私とは異なり、一般家庭の子供たちが同じような目に
合えば確実に落命していたことだろう。
ならばそんな目にあった子供たちを救うことが謝罪となると考え、
また相良も納得すると思われたのだろう。
実際にこれを目にした私は、謝罪の言葉や補償金よりもこちらの
方がよいと思ったからだ。
この起業に関連する会社関係者やNPO法人の立ち上げ関係者の
中に、ご隠居様の名前はない。諏訪家に関係する名前は一切浮かび
上がってこない。
だが、この中に記載されている人物の中で1人だけ知っている名
前があった。
しかもその人物は企業の方にもボランティアの方にもほとんどの
所で名前が挙げられている。
その人物こそ、大刀自様から教えていただいていた人であった。
1008
﹁ご隠居様、この役員やら代表やらに名前を連ねておいでのこちら
の方、大刀自様の腹違いの妹様の息子さん。つまり、甥子様ですね
?﹂
﹁⋮⋮あいた。あいつ、そこまで喋っちまってたのか﹂
がっくりと肩を落としたご隠居様は、とても悔しそうな表情にな
る。
﹁ええ。ご隠居様が特にお気に入りだとかで、悪巧みをするときに
必ず巻き込むだろうから覚えておいでと言われました﹂
﹁⋮⋮悪巧み!! いや、違うから﹂
﹁違わないでしょう。ご隠居様は猛獣と同じなので、おイタをした
ら鎖を引っ張れと仰っておいでです﹂
﹁その認識もどうかと⋮⋮﹂
﹁違わないと、これを見て思いましたが?﹂
あっさりと頷けば、ご隠居様は深々と溜息を吐かれる。
﹁俺、そんなに信用ない? 失っちゃった?﹂
﹁流石は大刀自様と感心しました﹂
﹁⋮⋮⋮⋮ああ、そ﹂
私の言葉に、天を仰ぐ。
最初から信用していないということがご理解いただけたようで何
より。
大刀自様は心から尊敬しているけれど。
﹁それから、この企業の株主に私の名前が入っているのは何故でし
ょう?﹂
株の保持率から言うとごくわずかだ。
だが、利益としては馬鹿にはならない金額が配当されているはず
だ。
﹁それは、だな﹂
﹁ああ、それと、もう1つ。期末試験前、東雲の株が売りに出され
ていました。島津が持っていたモノです。あの家が学園の株を手放
すはずはありません、が、しかし、唆した人物がいれば、また別の
1009
話でしょう。あの株は菅原が買い取ったようですが﹂
﹁え?﹂
﹁ご隠居様?﹂
にこやかに微笑んでご隠居様に視線を向ける。
少々威圧するような強めの視線を送ったため、ご隠居様の表情も
微妙に変わる。
﹁⋮⋮菅原が、株を?﹂
﹁ええ、そうです。偶然、学園の株が売りに出されていることを知
った千景が、慌てて買い取ったようです﹂
﹁⋮⋮は!?﹂
そこに浮かんだのは純粋に驚愕だった。
そうしてご隠居様は私の後ろに立つ疾風に視線をちらりと向ける。
﹁うちの人間は、ええ、相良も岡部も、基本的には株に興味ないん
です。特に教育関係は﹂
おそらくご隠居様は、疾風の特技をご存知なのだろう。
だからこそ島津の誰かを唆して東雲学園の株を手放させた。
疾風か、そうではなければ相良の誰かが買い取ると思って。
﹁我が身は己で育てよ、というのが基本方針ですよ、うちは。子供
が所属する教育関係の株を手にして口出しするような家ではありま
せん。それは、﹃いらないもの﹄なんです。買い取るわけがないん
ですよ﹂
﹁単に知らなかったとか⋮⋮﹂
﹁東雲の株でしたら、不自然な動きをしていたので、知っています。
瑞姫は株自体に興味がないので知りませんでしたが﹂
ご隠居様の言葉に疾風が口を挟む。
﹁まず、この手のものが売りに出されたら、何かの罠だと考えて手
控えます。値が落ちるかどうかを様子見て、安全だと思った者が買
いに動きます。それでも株に動きはありませんでした。ですから菅
家が慌てて動き出しました。それを見届けましたので、俺は必要な
しと判断しました﹂
1010
淡々と告げる疾風の言葉に偽りはない。
﹁どうせ買うのなら、島津のメインを買い占めて潰した方が楽しい
でしょう?﹂
表情一つ変えずに告げる疾風の言葉の内容は、ある意味、ものす
ごく危険な発想ではないかと思う。
売りに出ないはずの持ち株を買い占めると言っているのだから。
その言葉に反応したのはご隠居様ではなく斗織様であった。
﹁まさかと思うが、君は、諏訪の株も⋮⋮﹂
﹁瑞姫の許可があれば、今日中に占めますが﹂
﹁⋮⋮俺の読みが甘かったかっ! だぁあっ!! 残念っ!!﹂
口惜しげに髪を片手で掻き毟ったご隠居様は、あっさりと白状し
た。
﹁あいつが瑞姫ちゃんに暴露してるとは考えもしなかったぞ。迂闊
だった! しかも、俺としたことが読み間違うしっ!!﹂
﹁大刀自様はご隠居様のことが気懸りだったんでしょう。どなたも
御身内で頼ることができないと判断され、私と祖母に託されました
から﹂
﹁⋮⋮⋮⋮⋮⋮もしかして、まだ⋮⋮?﹂
﹁ええ。公表したら、ご隠居様がとても恥ずかしい思いをされるこ
とを、ここに記憶させていただいております﹂
こめかみ辺りを指さして、笑ってみせる。
にやりとカッコよく笑っているように見えたらいいのだけれど。
﹁瑞姫ちゃん。もしかして、この年寄りを脅迫なんて﹂
﹁いたしません﹂
﹁だ、だよねー⋮⋮じゃあ、取引⋮⋮﹂
﹁⋮⋮したいのですか?﹂
にっこりと笑って問えば、ご隠居様は大仰に溜息を吐いて肩を落
とした。
﹁降参﹂
どうやら、私が勝ったようだ。
1011
大刀自様、ありがとうございます。
どうやら鎖を引っ張ることができたようです。
これから諏訪と本格的な交渉ができるだろうことをまず御祖父様
にご連絡しなければ。
そんなことを思いながら、私はご隠居様にある言葉を告げた。
1012
126
がっくりと項垂れる諏訪家の皆様に別れを告げて、病室の外へと
出た瞬間、疾風の満足そうな笑い声が低く響いた。
﹁すごいな、瑞姫。あんなネタ、よく仕込んでたな﹂
﹁どれのこと? まあ、大刀自様はご隠居様とはご夫婦だから、色
々と事欠かなかったようだね﹂
疾風が言うネタについては少々口外しづらいものもあるのでほん
の一部しか伝えてないけれど。
中には再起不能になりそうなとんでもないものもある。
大刀自様、他家の子供に何てことを教えるのですかと、今の私な
ら絶対にご本人に訴えることだろう。
あの当時は、そこまでの判断が追い付かなかったので聞かされた
ことをただ覚えていただけだが。
﹁ま、これで相良の方も本格的に行動を開始できるだろうし、それ
を見届けたら岡部も動くからな﹂
﹁そのことだけれど、諏訪家に対して追撃するのは構わないが、彼
らの会社に対しては極力は思い切ったことは避けてほしい。諏訪家
が潰れて困るのは、諏訪家ではなく、諏訪という企業に勤める人た
ちとその家族なのだから﹂
﹁瑞姫は優しすぎる﹂
﹁優しくない。計算しての結果を言っているだけだから。諏訪の会
社をこれ以上弱体化させれば社会が混乱する。そうしたらその原因
となった相良が次に狙われる。私は相良を守る立場にいるのだから、
そういった芽を摘むに決まっているだろう? 相良を危険に晒して
1013
までも潰す価値があるかと考えれば結果は出る﹂
どちらかというと、私は冷たい人間だろう。
相良とその分家、そして岡部を守ろうという気は常に持っている
が、それ以外に対しては友人だけしか大切だとは思えない。
いつでも切り離せる存在でしかない。
博愛主義ではないのだから、とうに割り切っているが。
﹁それでも、瑞姫は優しい。諏訪を切ったのも、あいつが這い上が
るチャンスを与えるためだろう?﹂
﹁チャンスと捉えるかどうかは諏訪であって、私ではない。常に選
択肢は本人にしかないんだ。何を選び取るか、考えるのはその人間
だ。流されるというのも、それを選んだのは本人だろう? 嫌だっ
たら抗えばいい。選んだことを他人にとやかく言われる筋合いはな
い。私は、諏訪がこの後何をどう選ぼうが、彼を選ぶという選択肢
を捨てた﹂
﹁⋮⋮そうだな。瑞姫は諏訪を選ばなかった。そのことの意味を諏
訪が気付けばいいんだが﹂
いつもの飄々とした表情に戻った疾風は、天井を見上げて、そう
して私を見下ろした。
﹁それでも俺は、決して諏訪伊織と諏訪詩織の2人を赦すことはな
いからな﹂
﹁大概しつこいな﹂
﹁当たり前だ。瑞姫がすぐに赦すからだ﹂
﹁怒りを持続させるのは難しいんだ。厭きても仕方がないだろう?﹂
﹁そもそも、瑞姫は滅多なことじゃ怒らないしな﹂
﹁面倒なんだよ、怒るのは﹂
﹁その顔でものぐさとは⋮⋮﹂
﹁顔は関係ないだろう!?﹂
﹁いや、重要だと思うぞ﹂
それこそ馬鹿馬鹿しい言い争いをしながらエレベータに乗り、1
階へと降り、受付がある吹き抜けのエントランスへと戻ってくる。
1014
その待合のソファで見知った顔を見つけて思わず足を止めた。
﹁瑞姫﹂
穏やかな笑顔を作って立ち上がったのは、橘だった。
﹁⋮⋮誉?﹂
橘は常に笑顔だが、この表情はどこか不自然だった。
無理をしている。
ふとそう思うほど、ぎこちない。
だが周囲は十分騙せているようだ。
近くにいた女性たちが橘を見て頬を染めている。
﹁⋮⋮ああいうのを色気駄々漏れって言うんだってなー﹂
溜息を吐きながら疾風が呟く。
﹁色気?﹂
﹁らしいぞ?﹂
﹁あんな不自然な笑顔が?﹂
﹁だよな。何か、疲れ切ってないか、あいつ﹂
疾風も似たようなことを考えていたらしい。
意見の一致に満足して、こちらにやってくる橘を待ち受ける。
﹁こんなところにまで押し掛けてすまない﹂
数歩手前で立ち止まった橘は、少しばかり申し訳なさそうな表情
でそう告げる。
﹁家に連絡を入れたら、こちらだと教えてもらったから﹂
﹁⋮⋮急用だったのか?﹂
﹁あ、いや。瑞姫にピンブローチをと思って⋮⋮ちょうど今頃、瑞
姫はストール使うから﹂
﹁誉がデザインしたものか?﹂
﹁うん﹂
﹁ありがとう﹂
素直に礼を言った私は橘が差し出そうとした手を押さえる。
﹁ここではなんだから、うちへ行こう。お礼に珈琲でも飲んでいっ
1015
てくれ﹂
勘というほどのことでもないが、ここで橘と別れたら後悔するよ
うな気がした。
わざわざこんなところまで追ってくるほど、切羽詰まった何かが
あったのかもしれない。
会う口実を作る程、家にいたくなかった何か、だ。
時間稼ぎができるのなら、うちに引き留めてその間に何かしら対
応させるという手段も取れる。
一瞬、ほんの一瞬だけ驚いたような表情を浮かべた橘は、とても
嬉しそうに微笑んだ。
﹁うん。お邪魔させていただくよ﹂
ほんのりと頬を染めた柔らかな笑顔は、先程漂わせていた倦怠感
を払拭し、喜色を漂わせている。
こっちの笑顔の方がいい。
橘は笑顔が標準装備だが、やはり本心からの笑顔の方がよく似合
うし、綺麗だと思う。
﹁⋮⋮これ見てまったく動じないっていうのもな⋮⋮﹂
斜め上から疾風の呆れたような声が降ってきた。
﹁ん?﹂
﹁何でもない﹂
﹁そうか? じゃあ、行こうか﹂
疾風と橘を促し、病院を後にした。
++++++++++ +++++++++++
相良の家に戻ると、帰宅を知った姉たちが玄関へと迎えに出て来
1016
てくれた。
﹁瑞姫! 首尾はどうだった?﹂
おそらく人の悪い笑みと称するに相応しい微妙に人相の悪い笑み
を湛えた姉たちの足がぴたりと止まる。
視線は私ではなく、橘に向かっている。
橘は私から少し離れ、茉莉姉上と菊花姉上に向かって頭を下げた。
﹁橘の者が大変不躾なことを。当主に代わりお詫び申し上げます﹂
﹁誉?﹂
何があったんだ?
頭を下げたままの橘と姉たちを見比べる。
茉莉姉上と菊花姉上はその場に座る。
﹁橘殿? 顔をお上げくださいな﹂
そう声を掛けたのは菊花姉上だった。
﹁ですが⋮⋮﹂
﹁謝罪は受け入れましょう。ですが、君が謝る必要はないのよ?﹂
言い淀む橘に苦笑を浮かべて告げたのは茉莉姉上。
﹁一族の暴挙は本家の咎です。抑えきれなかったのは﹂
﹁君は被害者でしょう﹂
苦い声音の橘を遮って茉莉姉上が諭す。
﹁姉上? 何が﹂
﹁ごめん、瑞姫。俺のせいなんだ。相良の御大の庇護を俺が受けた
から、勘違いした分家が壱の姫と弐の姫を父の後添えにと言い出し
て﹂
橘の言葉に、声にこそ出さなかったが疾風がうわあと顔を顰めて
天を仰いだ。
うん、最悪の手だな。
橘夫人が亡くなられて、まだ四十九日も済んでないのに、故人を
軽んじる考えもだが、次妻に相良を選ぼうとするのも考えなしだ。
それを知った橘が速攻で謝罪に来るのも頷ける。
納得するが、別の意味で納得できない。
1017
謝罪に来るのは当主だろう!
少なくともその息子じゃない。
彼らの言い分は、ひとり息子の誉を廃嫡して次妻との子を次期当
主に据えようというものなのだから。
﹁⋮⋮茉莉姉上の言う通りだ、誉。君が謝る必要はない。私は、私
の友を軽んじるような者を赦さない﹂
﹁それでも分家を従えるのは本家の務めだ﹂
﹁本家じゃなくて、家長の務めだ﹂
橘がわざわざ病院にまで足を運んだ本当の理由がわかった。
謝罪の為もあるだろうが、それ以前の問題だ。
家にいたくなかったんだ。
当主夫人である由美子夫人の死を悼む者は2人しかおらず、当主
が次期当主だと選んだ誉を軽んじ、廃嫡するために喪も明けぬどこ
ろか彼岸にも辿り着いていないというのに新しく妻を娶れと詰めか
けているのだ。
家を継がず、出るつもりの橘とて、居心地が悪かろう。
今すぐにでも家を出たいのに、父親は手放すことを躊躇い続けて
いる。
﹁しかし﹂
﹁誉はまだ未成年だ、親が守るべき義務がある。それを放棄してこ
の体たらく。赦すわけにはいかないな﹂
﹁瑞姫の言う通りよ。可愛い妹の友人を軽んじるような輩の要求を
呑むことはないし、赦すつもりもないけれど、一番赦し難いのは己
の役目を全うできない腑抜けよね﹂
我が家の女王様がゆったりと笑う。
﹁ふふっ おイタをした子も、すべきことをしない子も、どちらも
お仕置きが必要よね﹂
女帝様が獰猛な笑みを浮かべる。
﹁次期殿、離れを用意しますわ。幾日でものんびりと我が家で羽を
伸ばされるといい﹂
1018
それはお誘いと称した決定事項だった。
﹁瑞姫!? 岡部!﹂
助けを求めるように橘がこちらを交互に見る。
﹁うん。うちの離れはどこも庭が自慢のいい作りをしているんだ。
好きなだけ滞在してくれていい。居心地良く整えよう﹂
ああなると絶対にこちらの意見など聞いてはくれない姉たちだ。
ならば、彼が居心地良く暮らせるように設えるのが私の役目だろ
う。
﹁岡部!!﹂
﹁⋮⋮諦めろ﹂
ぽんっと橘の肩に手を置いた疾風が首を横に振る。
﹁相良の女性たちに逆らえる男はこの世にはいない﹂
さすがにそれは失礼だと思うぞ、疾風。
1019
127
離れを用意する間、橘には母屋の子供部屋で寛いでもらうことに
なった。
私が暮らす離れに来てもらってもよかったのだが、姉たちが先に
そう言ったので決定事項となったのだ。
長期滞在と姉たちは言ったが、実際にそんなに橘が長く滞在する
ことはないだろう。
四十九日まで七日ごとに法要があるからだ。
三月掛かっての四十九日はよしとされないので、その時は五七日
で三十五日の法要で取り上げて納骨する。
宗派によってそれらは異なるので定かではないが、今まで一週間
おきに午前中を休んで午後から登校していたので七日法要は行われ
ていたようだし。
うちの場合は武家なので禅の教えをと思われやすいが実は密教系
だ。
宗教もまた政治の一端を担っていた時代があったのだから、経緯
は推して図るべしと言われたが。
嫁いできた人の影響も多少はあったのではないかと推測はできる。
子供部屋と呼ばれる奥の間の襖を開けて固まった。
﹁⋮⋮兄上方、お仕事は?﹂
兄妹全員揃うなんて、正月以来のことだ。
何がと考えれば、まあ答えは諏訪の見舞いと橘家の暴走のどちら
1020
かしかない。
﹁ん? 作戦会議。仕事といえば、大事な仕事だね﹂
八雲兄上がにっこり笑って答える。
一緒になって固まっていた橘が、背筋を伸ばした。
﹁あ。橘君は謝罪しなくていいから。君は被害者だってことをそろ
そろ自覚した方がいい。君がしっかりしすぎているから、当主が腑
抜けのままなんだよ﹂
﹁ですが﹂
﹁君は重荷をもう背負う必要はない﹂
出鼻を挫かれ、橘は首を横に振るが、兄たちもそこは強引に押し
切ってしまう。
﹁瑞姫の友人であり、当主の長男である君を軽んじるような者たち
に容赦するつもりはないし、君がそれでも彼らを守る気なら、申し
訳ないが君を彼らから切り離すよ﹂
﹁俺がどういう生まれであろうと、彼らがどういう者であろうとも、
俺は橘当主の息子です。事の発端が俺にあるというのなら、責任は
取るべきでしょう﹂
﹁橘家の御家騒動なんて、僕たちにはどうでもいいことなんだけど
ね。巻き込まれるのも嫌だけれど、君に何かあって瑞姫が哀しい思
いをするのはもっと嫌なんだよ。だったら、君を確保した方が話は
簡単だよね﹂
にこやかに笑う八雲兄上の言葉に、こちらもすでに決定事項であ
ったことを悟る。
最初から、橘の行動を読んで確保するつもりだったんだな。
﹁兄上方、私は誉の意思を尊重したい﹂
最低限釘は刺さねばならないだろう。
兄たちが考えていることは相良にとって正しいことかもしれない
が、それが橘の為になるというわけではない。
ならば、私が橘の味方になることが兄たちの足を乱すことに繋が
るだろう。
1021
﹁だけど瑞姫﹂
蘇芳兄上が真っ直ぐに私を見る。
まさに武人といった感じの大柄な兄が視線を据えるだけでかなり
の迫力がある。
中身を知っていれば、その迫力は獅子から猫に転落するけれど。
﹁どれだけその子が優れた人間だとしても、それを父親が気付かな
い、親族が軽んじるならば、そんな一族はいらないだろう?﹂
﹁それでも、です。本人が決める事であって、他家の私たちが決め
ることではない﹂
きっぱりと言い切れば、蘇芳兄上が一瞬固まる。
そうして、口許を手で覆い、ぷるぷると震える。
﹁蘇芳﹂
咎めるように八雲兄上が肘で蘇芳兄上を小突く。
いくら八雲兄上でも年長者に対してそれはどうかと思うのだが。
﹁うあ、やばい。うちの妹って、何でこんなに可愛いんだろう?﹂
蘇芳兄上が意味不明なことを口走った瞬間、八雲兄上と柾兄上の
拳が、そして茉莉姉上と菊花姉上の足が見事に蘇芳兄上に落とされ
た。
﹁まあ、蘇芳ったら! いくつになってもお馬鹿さんだこと。瑞姫
が可愛いのは瑞姫だからよ! 当たり前のことじゃないの﹂
見事な脚線美を惜しげもなく披露した茉莉姉上が、畳の上に沈ん
だ蘇芳兄上の脇腹を踏み躙り、嫣然と言い切った。
とりあえずいつものことなので私としてはこの光景に何ら思うこ
とはないのだが、客人の前であるということは少しばかり気にかか
る。
見れば、橘の顔色も少しばかり悪い。
内面を察するに、これはうちの日常なので気にしてはいけないと
自分に言い聞かせているのだろう。
ちょっと申し訳ないことをしてしまったかもしれない。
話題を変えた方がいいだろう。
1022
気を取り直した私は、橘に中に入り、座るように促す。
﹁あらいやだ。お客様を立たせたままだなんて失礼なことを。蘇芳
兄さんがおバカなせいね﹂
ぐりっと踵で蘇芳兄上の鳩尾を踏み躙った菊花姉上が笑みを湛え
てさらに兄上を踏み抜いて、後ろへ蹴り倒すと橘に座るように坐を
示す。
﹁失礼いたします﹂
蘇芳兄上を気にしながらも、とりあえず座った橘の向かいに私も
座る。
﹁誉、先程の、見せてもらってもいいか?﹂
そう声を掛ければ、橘の顔に笑顔が戻る。
﹁ああ。気に入ってもらえるといいけれど﹂
小さな天鵞絨の箱を取り出して、座卓の上に置くと蓋を開けてく
れる。
﹁あら、可愛らしい。カラーサファイアかしら?﹂
一緒に覗き込んだ茉莉姉上が目を瞠る。
そこには小花を模したピンブローチが鎮座していた。
花弁は色とりどりの色石。
軽やかな色合いだが、その照り具合から茉莉姉上が仰るようにカ
ラーサファイアだろう。
花弁を留める雄蕊は黄金だ。
﹁ピンブローチというところが心得ているわね﹂
菊花姉上が感心したように呟く。
﹁ちょうど今の時期、瑞姫はストールを使っていますから﹂
橘が言い添える。
﹁よく見ているわね。デザインも可愛らしいけれどあっさりしてい
て瑞姫の好みに合っているわ。石も、硬度と色を考えての選択でし
ょ?﹂
﹁ええ。どんなストールでも合うようにと﹂
1023
﹁うん、合格。君は瑞姫の事を本当によく見ているのね。安心した
わ﹂
どうやら菊花姉上は橘のことを気に入ったらしい。
﹁ちょっ!! 菊!! そんな簡単に⋮⋮っ!﹂
蘇芳兄上が声を上げ、また茉莉姉上に踏まれた。
﹁うるさいわよ、蘇芳。瑞姫のお友達に失礼でしょう!? 瑞姫が
人を見る目は確かよ﹂
﹁⋮⋮ともだち⋮⋮﹂
茉莉姉上の言葉に蘇芳兄上が瞬きを繰り返し、呆然と呟く。
﹁友達? 友達か!﹂
がばっと跳ね起きて、橘を見る。
﹁すまんっ! 勘違いしてた!!﹂
﹁あ、いえ。気になさらず﹂
蘇芳兄上の迫力に仰け反り気味に橘が応じる。
﹁蘇芳、情報収集が甘いぞ﹂
呆れたように柾兄上が告げ、蘇芳兄上の襟首をつかむと後ろへ引
き摺る。
﹁すまないね、橘誉君。君が宝飾デザイナーの有望株な卵だという
ことも、その道に進むために橘を出たいと思っていることも理解し
ている。実家の力を頼らずに、自分の才能と努力だけでどこまでや
れるか、きちんと考えているということも。うちとしては、その考
え方を尊重したいと思っているし、それだけの力が君にあるとも思
っている。そのピンブローチを見て、決めた。スポンサーとして君
を支援しよう。友禅作家としての瑞姫の名前を利用してもいい。2
人でコラボするのも面白いだろう?﹂
﹁そのために、橘を俺から切り離すと?﹂
﹁君は、橘の名前を必要としていない。むしろ邪魔にしか思ってい
ないだろう? 家を出たいと思っているのであれば、私がスポンサ
ーになるのは有益だろう?﹂
柾兄上がそこまで言うのであれば、宝飾デザイナーとしての橘の
1024
才能はかなりのものだろう。
こういったモノは感性の問題だけれど、デザイナーとして成功す
るかどうかは売れるモノが作れるかどうかという即物的な側面から
見られがちになってしまうのが残念なのだけれど。
﹁誉。このデザイン、私はとても気に入った﹂
言ってなかったことを思い出し、私は正直に告げる。
その言葉に橘はとても嬉しそうな笑みを浮かべる。
﹁よかった﹂
﹁それで。この石をトルマリンや合成石に変えたら、かなり手頃な
値段に抑えられるよね?﹂
﹁ああ、そうだね﹂
﹁これ、カラーバリエーションも揃えて、ピンブローチだけじゃな
くコームとかペンダントもシリーズにしてデザインすると売れると
思う﹂
﹁そうか。考えてみる﹂
素直に頷いた橘の表情は、すごく真剣なものだった。
本当に、自分で選んだ﹃したいこと﹄なんだな。
人の意見を素直に聞き入れる柔軟な姿勢は、橘にとってすごく重
要な武器になる。
きっと彼は成功するだろう。
そう思ってピンブローチを摘まみ上げた私と、橘の視線が絡む。
﹁瑞姫のところは、本当に兄弟仲がいいな﹂
どこか嬉しそうな表情の橘の言葉には羨ましげな響きは一切ない。
微笑ましいものとして認識されているようだ。
さっきのアレを見てこの言葉というのもなかなか神経が太いのか
もしれない。
﹁そうか?﹂
﹁うん。瑞姫に恋人が出来たら、どうなるんだろうね﹂
くすっと笑った橘の表情には珍しく好奇心が浮かんでいる。
完全に面白がっているのだろう。
1025
﹁君は立候補する気はあるのかな? 橘誉君﹂
にこやかな笑みを湛えて八雲兄上が問う。
﹁もしかしたら名乗り上げる時が来るかもしれませんが、今は瑞姫
の友人であることが嬉しいですから﹂
﹁そう? まあ、君ならいいかもね。その時になったら認めてあげ
るかもしれないよ? 疾風もだけど﹂
そう言った八雲兄上は笑顔の種類を変える。
それは大層イイ笑顔であった。
﹁瑞姫の恋人になるのなら、まず、兄である僕を倒してからだね﹂
﹁あ! 俺とも勝負しないとな!!﹂
八雲兄上に引き続き、蘇芳兄上も名乗り出る。
﹁それから、お約束としては交換日記から始めてもらおう。僕を交
えてね﹂
﹁ああっ!! それいいっ!! 俺もやる! 邪魔してやる!!﹂
﹁あら、それ、面白そうね。私もやるわ、交換日記﹂
﹁私もーっ!!﹂
面白いおもちゃを見つけたような表情で、蘇芳兄上どころか、茉
莉姉上と菊花姉上も便乗する。
﹁⋮⋮何のカオスですか⋮⋮﹂
呆れたように疾風が呟くが、彼らはそんな呟きを意に介すはずも
ない。
﹁兄上、姉上、申し訳ありませんが、私は交換日記などいたしませ
ん﹂
目的がない限り日記など書く気がしない身としては、ここはきっ
ぱり否定をさせていただこう。
﹁えーっ!?﹂
﹁用があれば、メールで充分です。誰に読まれるかもわからない日
記を持ち歩く趣味はありません﹂
﹁ま、そうよねぇ﹂
あっさり認めたのは茉莉姉上だ。
1026
﹁えーっ!! やろうよ、瑞姫。面白そうよ?﹂
ノリのいい菊花姉上は不満そうに声を上げている。
﹁そこのボードが交換日記のようなものでしょう? いいじゃない
ですか、あれで﹂
スケジュールを書きこむボードを指さし、そう告げれば、瞬きを
繰り返してボードを眺めた菊花姉上はあっさり納得してしまった。
﹁そうね。あれも一種の日記よね。ま、いいか﹂
﹁それでいいのか!?﹂
姉と妹が手を引いたことに驚いた蘇芳兄上が声を上げる。
﹁数日おきに日記を書くなんてまどろっこしいこと、誰がやろうと
思うんですか?﹂
﹁え? 普通、やらない?﹂
﹁やりません! 八雲兄上の冗談ですよ﹂
﹁半分本気なんだけど?﹂
﹁ほら?﹂
にこにこと笑う八雲兄上の言葉に裏付けされ、先程の発言が冗談
だと悟った蘇芳兄上はがっくりと肩を落とす。
﹁⋮⋮おまえたち。目的を見失ってやしないかな?﹂
それまで沈黙を守っていた柾兄上が穏やかに話を制する。
怒った素振りは全くないが、兄姉たちがぴっと背筋を伸ばして座
り直す。
さすがだな。
﹁瑞姫、離れの用意ができたようだ。彼を案内して差し上げなさい。
疾風も瑞姫と一緒に世話をしてあげて﹂
﹁承知いたしました﹂
軽く頭を下げ、了承の意を表した疾風は立ち上がると、廊下へと
向かう。
﹁じゃあ、誉、離れに案内するよ﹂
私も立ち上がり、橘を促して子供部屋を後にする。
それが柾兄上の意図するところであるというのはわかっていた。
1027
私があの部屋にいては話せないことがあるのだろうと。
突き止めるのは後でいいと考えて、離れへと向かって歩き出した。
1028
128 ︵橘誉視点︶︵前書き︶
橘誉視点
1029
128 ︵橘誉視点︶
母屋と離れを結ぶ廊下は、屋根つきの回廊とも平安時代を思わせ
るような渡殿とも見えた。
悪天候でも何の影響もなく母屋と離れを行き来できるように造ら
れており、廊下をぐるり歩けば一周できるようになっている。
もちろん、途中で対面にある離れに移動することも可能だ。
離れ同士の間にある庭にまるで橋のように廊下を渡してあるから
だ。
そうして、そこから庭がよく見えるように、庭と調和するように
している。
広大な敷地の殆どが庭であり、代々の当主が丹精込めて設えてい
ると聞いている。
母屋も離れもその自慢の庭が一番映えるように計算されて配置さ
れているのだとか。
相良の庭園といえば、ある意味、垂涎の的だ。
彼らは滅多なことでは本邸に人を招くような催しは行わない。
プライベート空間に人を立ち入らせるような真似はしない。
個人的に友人関係を築き上げた者ならある程度自由になるが、仕
事関係や知人程度では招かれないのだ。
例外は年始の挨拶ぐらいなものだろう。
それでも、母屋の入り口付近までなのだから、奥庭なんて見るこ
とは叶わない。
それほどまでに警戒心が強い一族なのに、何故俺なんかを﹃長期
1030
滞在﹄させる気になったかなぁ?
思わず遠い目になりそうになる。
﹁誉、この離れを暫くの間、使ってくれ﹂
うきうきとした様子で目的の場所に案内してくれた瑞姫が振り返
って言う。
﹁俺1人には勿体ない広さだと思うんだけど⋮⋮﹂
その離れを見た瞬間、脳裏に浮かんだのは平安時代の対の屋だっ
た。
離れっていうのは、母屋から離れた小さな部屋的存在だと思って
いたけれど、これ、完全に屋敷だよな?
まあ、瑞姫が過ごす和洋折衷風の離れも館形式だけど。
﹁ああ。うちの人間、規格外に大きいから、家も若干大きめに造ら
れてるんだ。それに主家筋の者が家族単位で住むように造ったもの
もあるから﹂
離れという名の屋敷が出来たんだというわけか。
確かに。
相良家の人々は背が高いからな。
蘇芳さんなんて、本当に見事な体格で、まさしく武人といいたく
なるような姿をしているから、これで一般的なの尺貫法で建てられ
た家では鴨居に頭をぶつけるというありがちなことが簡単に想像で
きる。
実際にあれだけの使い手が鴨居に頭をぶつけるか、なんてことは
考えないでおこう。ありえないから。
それはいいとして、何故、俺にそんな大きな家を用意するかな?
﹁ここ、庭がいいんだ。誉が好きだと思って﹂
嬉しそうにはにかみ笑いをうっすらと浮かべて告げる瑞姫。
端正な顔立ちなのに、誰が見ても凛々しいとか格好いいという形
容詞が付きそうな顔立ちなのに、とても可愛らしい。
以前だったらそんなことは思わなかったかもしれない。
1031
追いつきたくても追いつけない、瑞姫はそんな存在だった。
最近は仕種の1つ1つが可愛らしく見える。
俺も少しは成長したのだろうか。
離れの説明を聞きながら、ふと岡部の様子に気付く。
何だかとても微笑ましいものを眺めているような視線を瑞姫に向
けている。
多分、俺も似たような表情になっているんだろうな。
岡部には負けるとは思うけれど。
耳に心地よい瑞姫の声を聞き、ここで御世話になるだろう数日間
を想う。
このままではいけないと思っているのは確かだ。
橘を何とかしなければ。橘の家は分家によって潰されてしまうだ
ろう。
本家、いや、当主である父が頼りないと思われてしまっているの
だ。
正確に言えば、妻の実家からの後押しを得ることができない当主
は、当主たりえないと思っているのだ、分家は。
自力で何とかしようと最初から考えていないところが情けない。
分家が本家を支えようとも思っていない。
これが橘の実態だ。
祖母が葛城の大巫女とわかり、俺に葛城がついていると知った分
家の一部は、あれだけ排除しようとしていた俺を次の当主に担ぎ上
げようとし、廃嫡本流の分家と真っ向からぶつかっている。
廃嫡派の方でも揉めている。
俺を葛城へ帰して恩を売ろうとする一派と、廃嫡し実権を握れば
それで構わない一派だ。
今回、相良家へ迷惑をかけたのは廃嫡して実権を握りたい派の方
だ。
派閥としては大勢派だが、目先に囚われすぎて結局はすべて悪手
1032
を打つ羽目に陥っているようだ。
葛城に恩を売りたがっている方も、悪手だとわかっていない。
養母の死後、祖母と会い、話を聞いた。
男児が極端に生まれない葛城では、直系に近い血筋で男児が生ま
れれば、その瞬間、その男児が当主となる。
当主補佐、あるいは当主代理としてそれまで当主の座に就いてい
た者が男児が成人するまで仮の当主を務めるのだ。
つまり。
俺はすでに葛城の当主だったということだ。
成人していないから、連れ戻す必要はないので接触もない。
むしろ、葛城に連れ戻す方が危険なのだそうだ。
意外なことに、祖母は成人しても俺を葛城に戻すつもりはないら
しい。
それは、俺が葛城の当主であることを隠し通すということだ。
葛城家には興味がない俺としては、非常に助かることだが、葛城
の人間も橘の分家も思惑と異なり、さぞかし困惑することだろう。
着せる恩が最初から存在しなかったのだから。
まあ、その辺りはいいとして。
問題は相良家へ迷惑をかけないということだ。
すでに分家の者が迷惑をかけてしまっているけれど、これ以上は
駄目だ。
そして、この程度のことで分家を御せない当主も必要ないだろう。
後妻に入ってくださる方がしっかりした性格ならば、当主を支え
てくれるだろうからそのまま様子を見れるが、そうでなければ父に
は隠居してもらい、祖父の弟の血筋から誰かを当主に据える必要が
でてくる。
面倒なことだと思うが、途絶えるわけにはいかないのだから仕方
ない。
俺が家を出たいと思うのは、俺の我儘なのだから。
1033
瑞姫の説明を聞いて思ったことは、本当にここは﹃離れ﹄と言っ
ていいのだろうかということだった。
多分、一般住宅よりも広いだろう、平屋だけど。
それを俺1人に使わせるなんて。
まあ、風呂は母屋をお使いくださいと言われるよりは楽でいいけ
れど。
﹁あ。食事は、どうしよう? 私の棟で食べる? それともこちら
がいいかな?﹂
大事なことを思いついたとばかりに、瑞姫が訊ねてくる。
﹁どちらでも構わないけれど⋮⋮﹂
そこまで言って、ふと気が付いた。
多分、瑞姫は一緒に食事を摂ろうと思っているはずだ。
彼女の脚は正座ができるほど回復したとはいえ、まだ長時間座る
のは負担がかかりすぎるだろう。
この離れは純和風で畳の間しかない。
﹁瑞姫の所にしよう﹂
﹁そう?﹂
不思議そうな表情を浮かべながら素直に頷く瑞姫に、岡部も頷い
ている。
﹁瑞姫の棟の方が厨房からも近いしな﹂
﹁ああ、そうだね。運ぶことを考えてなかった﹂
瞬きを繰り返した瑞姫は、岡部の誘導に気付かずに納得したよう
に頷いている。
﹁じゃあ、それでいい?﹂
﹁うん。お願いするよ﹂
﹁わかった﹂
俺が了承すると、瑞姫は岡部に視線を向ける。
﹁瑞姫、そろそろ着替えてこい﹂
瑞姫が何かを言う前に、岡部が瑞姫に着替えるように告げる。
﹁あ﹂
1034
﹁出先で会ったから、まあ、仕方ないが。その姿のままというのも
あまりよくないだろ?﹂
岡部が言うのも尤もだ。
俺が見舞い先の病院まで押し掛けたから、外出着のままでの対応
になってしまっていたが、着替える時間くらい待つべきだった。
﹁ごめん。忘れてた⋮⋮﹂
岡部の言葉を俺に対する非礼だと捉えたらしい瑞姫が慌てた様子
を見せる。
﹁瑞姫、ごめん。ゆっくり着替えておいで﹂
﹁でも﹂
﹁岡部もいるし。慌てなくていいから、のんびりと休んでから着替
えてくるといい。瑞姫も疲れただろうしね﹂
説き伏せるように言えば、渋々ながら瑞姫が頷いた。
﹁わかった。着替えてくる。疾風、その間、頼む﹂
﹁承知。そのまま昼寝しててもいいから、ゆっくり支度してろ。頃
合見て、俺達もそっちに行くから﹂
﹁うん﹂
素直に同意した瑞姫が離れから自分の棟へ向かう。
男2人、微妙な沈黙を保ちながらそれを見送り、そうして充分に
彼女が離れてから岡部が言葉を紡いだ。
﹁何で瑞姫を好きだと言わなかった?﹂
切り込むような口調は、疑問を呈してはいなかった。
﹁まだ早いと思ったから﹂
嘘を言うわけにはいかないだろうと、俺は本当のことを声に乗せ
る。
﹁早い?﹂
﹁そうだろ? 瑞姫は俺のことを異性だとは思っていない。友だと
しか﹂
﹁それは、確かにそうだが﹂
﹁それもあるし、それ以前に俺はまだ何の力も持ってないしね﹂
1035
﹁宝飾デザイナーが何を言う?﹂
﹁賞を1つ獲っただけの一般人とさして変わらない駆け出しだけど
ね﹂
その言葉に、岡部は口を噤む。
﹁大きなコンペで入賞常連になれるほどの実力があるわけじゃない。
家という後ろ盾があるわけでもない。実績が全く何もない未成年で
しかない俺に、相良が瑞姫を俺に渡せるとでも?﹂
﹁将来性は否定できないだろ?﹂
﹁未知数っていうだけで、確約はない。デザイナーなんて、それこ
そ掃いて捨てるほどいる。成功したものなんてほんの一握りだ﹂
﹁だけど﹂
﹁だから、まだ早いんだよ﹂
俺の言葉に、岡部が目を瞠った。
俺の言っている意味を理解したらしい。
﹁実績積むのが先か⋮⋮﹂
﹁そういうこと﹂
現時点で俺がいくら瑞姫の事を好きだと言っても、それだけで終
わりだ。
瑞姫を預けても大丈夫だと思われる要素は何一つない。
橘の後ろ盾が一切ない俺に、誰が大事な妹を預けようなんて思う
だろうか。
生きるということは、生活するということで、生活するための安
定した基盤というものが必要になってくる。
その必要性は、今の俺でも十分すぎるほどわかっている。
今まで何度も独り立ちしたいと願っていても、実際にそれが許さ
れない状況にいた俺は、何が必要なのかということを理解している
つもりだ。
最低限認めてもらうには、充分な経済活動が必須項目だと思う。
瑞姫は相良の家を出ないから、経済面を相良に援助してもらえる
なんて甘い考え方をする気はない。
1036
実際に、そういう考え方で打診してくる者も割と多いだろう。
少なくともそんな考え方は、俺にとっては恥だと思う。
己の手で愛する者を養いたいと思うのが俺の考えだ。
今の俺にはそんな基盤はない。
だから、今の俺には瑞姫を好きだという資格はないと考えている。
友で充分だという気持ちも嘘ではない。
今までの俺は、瑞姫と友になることを目標に努力してきた。
その甲斐あって友人と呼べる立場を手に入れた。
純粋にそのことが嬉しいと思えるし、友という立場と、男として
瑞姫が好きだという気持ちは、俺の中では別のものだ。
まあ、それ以前に、瑞姫に異性として好きになってもらえるかと
いう大問題が横たわっているのだけど。
﹁いくつかコンペに作品を応募しているから、結果が出たら岡部に
も知らせるよ﹂
﹁⋮⋮知ってたけど、おまえ、用意周到派だよな。着々と外堀埋め
てくタイプだろ?﹂
﹁簡単に外堀埋められてくれるタイプだったら、こんな手間かけな
いんだけどね﹂
﹁確かに﹂
問題になっているお嬢さんの見かけによらず豪快な性格を思い浮
かべ、岡部と2人で溜息を吐く。
﹁彼女は誰に恋をするんだろう?﹂
恋とは無縁の彼女が選ぶ相手は誰なのか。
気にならないと言えば嘘になる。
それが俺であってほしいと願いながら、しばし庭を眺め、そうし
て岡部と連れ立って彼女が暮らす棟へと向かった。
1037
129
抜けるような青空。
風はなく、ただ広い空間だけが広がる。
ああ、いつものあの場所だ。
なぜだかそのことにホッとする。
瑞姫さんには青空が似合う。
﹁瑞姫﹂
穏やかな笑みを浮かべた瑞姫さんが、私を呼ぶ。
﹁はい﹂
振り返って答えれば、瑞姫さんが目を細め、笑みを深くする。
しばらく、無言のまま、対峙する。
ふと気づけば、緩やかに風が吹いていた。
暖かな風が頬を撫でる。
﹁残念ながら、時間切れだ﹂
苦笑浮かべ、瑞姫さんが切り出した。
﹁⋮⋮はい﹂
私は、ただ頷く。
気の利いた言葉なんて言えやしない。
笑顔を作るだけで精一杯だ。
1038
﹁意外と泣き虫なんだよな﹂
困ったような表情で笑う瑞姫さんに、すみませんと答える。
﹁泣いてもいいけど、お別れじゃないんだよ?﹂
私を抱き寄せて、頭を撫でる瑞姫さんがそう耳許で告げる。
﹁ひとつの身体に自我がふたつあることが不自然なんだって。だか
ら、あるべき姿に戻るだけだ﹂
﹁⋮⋮それはっ それは、わかってます﹂
わかっているけど、納得できない。
瑞姫さんだけに貧乏くじを引かせているようで。
﹁私は死ぬわけじゃない。瑞姫の中に溶け込むだけだ。ああ、その
点では瑞姫の性格が少し変わるかもしれないな﹂
﹁え?﹂
﹁私という人格が、多少なりとも瑞姫に影響を与えてしまうという
ことだ﹂
その一言で、頬を濡らしていた涙が止まった。
﹁それは、嫌かい?﹂
﹁いいえ。嫌ではないです﹂
呆然としながら、無意識に答える。
﹁そうか。それは良かった。まあ、ね。人は、環境などの影響で多
少なりとも常に変化していくものだから、変わることを受け入れる
ことができるのなら成長できるというし﹂
﹁そうなのですか?﹂
﹁そうだよ。疾風も誉も成長しただろう? 諏訪の坊やもね﹂
坊やか。諏訪は坊やなのか。
同じ年というか、半年以上、向こうの方が早く生まれているんだ
が。
ちょっとばかり感動して、尊敬のまなざしを向けてしまった。
﹁当面の問題は殆どクリアした。ゲームに似た時間はもう終わりだ。
あとは、瑞姫が思うように生きればいい﹂
﹁瑞姫さんの望みなんですね、それが﹂
1039
﹁うん、そう。私が知っている最悪の危機は脱した。そのことにつ
いては、瑞姫が知る必要はないよ。もう起こらないことだから。自
滅するとは思わなかったけれど﹂
苦笑する瑞姫さんに、葉族の少女が関係していたと気付く。
﹁瑞姫さん﹂
﹁大丈夫。私はずっと瑞姫と一緒だ﹂
こつんと額を合わせて告げるその人の言葉が真実だと確信する。
﹁そうですね。ずっと一緒ですね﹂
﹁うん。やっと笑ったな。そうやって、いつも笑っているといい。
皆、瑞姫が笑っていると安心するから﹂
﹁はい﹂
瑞姫さんの屈託のない笑顔に、彼女が言っている言葉の意味を知
る。
﹁じゃあ、いこうか﹂
それが、最後の言葉だった。
﹃さよなら﹄でも﹃また﹄でもなく、﹃いこうか﹄
その言葉を聞いた途端、くらりと眩暈を覚えた。
眠気と言い換えてもいいかもしれない。
強烈な睡魔に襲われ、意識を手放した。
だから、そのあとの事は何も覚えていない。
瑞姫さんがどうなったか。どんな表情を浮かべていたのか。
私が覚えている瑞姫さんの最後の表情は、青空の下、屈託のない
笑顔だった。
++++++++++ ++++++++++
1040
﹁瑞姫?﹂
名を呼ばれ、ふと目覚める。
﹁⋮⋮疾風?﹂
こちらを覗き込む疾風に、どうしたのかと首を傾げる。
﹁気分はどうだ?﹂
﹁んー? 気分を問われると、どう答えればいいのか悩むが、いた
って普通だ﹂
﹁そうか﹂
腑に落ちないと言いたげな表情の疾風に向かって無意識に手が伸
びる。
﹁瑞姫?﹂
﹁うん。いい手触りだな﹂
クセのある髪は、見た目に反して柔らかくふかふかしている。
ひとしきり撫でたところで、満足感を覚える。
﹁瑞姫? もしかして寝惚けてる?﹂
くすくすと楽しげに笑う橘の声。
﹁寝惚けると人の髪を撫でるものなのか?﹂
﹁人それぞれだと思うけれど。理性が働かない分、目についたもの
に対して、自分に素直に行動するらしいよ﹂
﹁へえ。そうなんだ﹂
確かに。私の直毛と異なり、クセのある疾風の髪はきちんと手入
れされているためか、それとも元からの性質なのか、もふっとした
柔らかな手触りが非常に楽しい。
いつまででも撫でていたいと思うほどだ。
﹁いや。これは瑞姫の癖で寝惚けてなくてもやるぞ﹂
ちょっと困ったような表情で疾風が答える。
﹁最近はあまりしなかったけど﹂
﹁そうだったか?﹂
﹁ああ。柾様や茉莉様、八雲様がよく瑞姫の頭を撫でるから、それ
1041
を無意識に真似ているというか、それが挨拶だと思ってたんだよな﹂
私に頷いた後、疾風は呆れたような表情で橘に説明する。
﹁何だかすごく微笑ましいんだけど﹂
くすくすと笑いながら橘は告げ、横を向いて吹き出す。
﹁頭を撫でられると、何だか安心しないか?﹂
とりあえず、そう問いかけてみれば、橘は納得したように頷いた。
﹁そうだね。子供の頃は安心したね﹂
﹁だろう?﹂
我が意を得たりと私も頷く。
﹁ということは。寝惚けたわけではないようだな﹂
結論が出たところで、起き上がる。
﹁ところで、これからの話を少しした方がいいかな?﹂
突然のことに戸惑いながらも平常心を保とうとしている橘の負担
を軽くしてやるべきだろう。
そう判断した私は応接セットの向かいのソファに座るように促す。
その話し合いは、夕食が出来たと案内がくるまで続けられた。
1042
130
﹁ゆっくり動かして。はい、そこで止めて。痛みはないですか?﹂
診察室で桧垣先生の指示通りに腕や足を動かしながら、私は自分
の骨や筋肉の動きを意識する。
﹁少し違和感は残っていますが、痛みというほどのことはないよう
です﹂
﹁そうか。じゃあ、ここまで動かすと?﹂
ぐっと右の上腕部を後ろへ押されるが、痛みそのものはない。
﹁痛みはないです﹂
﹁うん。順調ですね、よかったね﹂
にこりと桧垣先生が笑う。
﹁はい、ありがとうございます﹂
﹁夏場の入院はこの調子ならしなくてもよさそうですね﹂
カルテに色々と書きこみながら桧垣先生は穏やかに話す。
﹁え?﹂
﹁形成の担当の先生とも話していたんですが、来年は受験生という
こともあるので、このまま自然治癒で様子を見ようという結論に至
りました﹂
思ってもいなかった言葉に、私は目を瞠る。
﹁今は成長期ですから、なるべく身体に負荷をかけないように状況
を見守っていく方がいいのではないかと考えています。もちろん、
何かあればすぐに来てください﹂
﹁はい﹂
﹁一時はどうなるかと思いましたが、傷も随分目立たなくなりまし
1043
た。若いというのはいいことです﹂
そう話す桧垣先生の言葉を聞いていた看護師さんたちがぷっと吹
き出す。
﹁先生、まるで引退間近な老先生みたいな仰り様ですね。私よりお
若いのに﹂
母ぐらいの年頃の看護師さんがくすくすと笑って桧垣先生を窘め
る。
桧垣先生は柾兄上より年上だろうが、どう見ても30代半ばを過
ぎてはいない若手といってもいい先生だ。
明るい性格だが落ち着いていらっしゃるので私としても担当医が
先生で良かったと思っている。
﹁瑞姫さんはわたしの半分くらいですよ? 若いでしょう﹂
事実だと堂々と言い切る先生は、その看護師さんと親しいようで
どこか子供っぽい態度だ。
だが、間に挟まれた私はどういう態度を取ればいいのだろう?
こういう時、人生経験が浅すぎる私にはどう対応すればいいのか、
非常に悩んでしまう。
﹁ええ。瑞姫ちゃんはこれからのお嬢さんです。ですが、私から見
れば先生も同じようなものですよ。ねぇ、瑞姫ちゃん﹂
﹁あ、はい﹂
看護師さんに同意を求められ、素直に頷く。
年上の女性に逆らうことは基本的にない。特に、尊敬すべき方な
らば。
﹁ほら、瑞姫ちゃんもそう言ってますよ、先生﹂
にこやかに告げる看護師さんの言葉に居心地悪そうな表情を浮か
べた桧垣先生は、少々わざとらしく咳払いをする。
﹁いや、僕の歳のことはどうでもいいんです! 大事なのは瑞姫さ
んのこれからの治療方針ですから﹂
﹁はい。失礼いたしました﹂
それまで先生をからかっていた看護師さんたちは表情を引き締め、
1044
すっと後ろに退く。
多分、先程の話で私の表情が少し強張っていたせいでリラックス
させようとわざと先生をからかって遊んでくださっていたのだろう。
今年と来年はこのまま経過を見るということだが、その次の年に
来ることを想像して緊張してしまったせいだ。
﹁来年まではわかりました。その次の年からはどうなるのですか?﹂
覚悟を決めて自分から切り出せば、桧垣先生はわずかに微笑む。
﹁その時になって考えましょう。どのくらい傷が薄くなっているか
によりますからね﹂
その言葉に、先生の中ではいくつかのパターンがあるのだとわか
った。
傷が目立たなくなっていれば、そのままでいくパターンと、傷が
目立つようであれば形成手術するか、ケロイドを削るような手段を
取るとか。
もっとひどいようであれば、人工皮膚の移植もありうるかもしれ
ない。可能性としては非常に低いだろうが。
その中でどの方法を取るのかは、確かにその時にならないとわか
らないだろう。
もしかしたら、画期的な医療技術が確立されているかもしれない
し。
﹁わかりました。今まで通り、無茶をしないように気をつけます﹂
優等生の返事をして、先を促す。
﹁はい、神経質になる必要はありませんが、急激に動いたりしない
ようにしてください。じゃあ、次の診察予定日は⋮⋮﹂
次回の予定日を決める先生の言葉に頷きながら、私はこれからの
ことに思いを馳せた。
診察室から出ると、椅子に座って待っていた疾風と橘が立ち上が
1045
る。
﹁瑞姫﹂
どうだったと表情で問いかけるふたりに、どう答えるべきかと少
し考える。
﹁瑞姫?﹂
﹁あ。結果だけを言うと、この夏、入院はしなくていい。来年も﹂
﹁大丈夫なのか?﹂
﹁それはよかったねと言いたいところだけど、どういう理由でか、
聞いてもいい?﹂
入院しなくていいと言われたのに、逆に心配そうな表情になると
はどういうことだろうか。
﹁経過を見るという理由でだ。今は成長期だから、身体に負担をか
けずに自然治癒に任せた方がいいだろうと﹂
﹁⋮⋮成長期﹂
ほぼ同時に疾風と橘が呟き、視線が私の顔から下へと落ちる。
今、何処を見たのか、問い詰めてもいいだろうか?
﹁身長、伸びてたよ?﹂
﹁え、そっち!?﹂
思わず口にした言葉に、疾風が瞬きを繰り返し、私の頭を見る。
﹁あんまり変わってないように見えるけど﹂
﹁岡部。俺達も背が伸びてるんだから、な?﹂
苦笑を浮かべ、橘が理由を告げる。
﹁ああ、そっか。瑞姫より俺らの伸び率の方が高かったら、小さく
見えても仕方ないか﹂
﹁小さい!?﹂
小さいという言葉は、千瑛のような小柄な女の子のための言葉だ
ろう。
同年代の男子の平均身長より高い私に向けられていい言葉ではな
い。
﹁瑞姫がヒールを履いても俺達の方が余裕で高いからね。エスコー
1046
ト役にはぜひ指名して﹂
にこやかに橘が告げる。
﹁それより、もう終わり? 会計を済ませて食事に行こうよ﹂
﹁もうそんな時間か。わかった、済ませて来よう﹂
時計を見れば、正午をとっくに過ぎている。
色々と検査をすると、時間が過ぎるのが早い。
何処で何を食べようかと考えながら、会計窓口へと向かった。
会計を済ませ、待たせていた疾風と橘を伴い、エントランスを抜
けようとした。
﹁相良﹂
あまり聞きたくないが、聞き覚えのある声に呼び止められる。
﹁⋮⋮諏訪﹂
唸るような声で疾風が呟く。
病院で実力行使などされては困るので、疾風の腕を軽く掴む。
これで疾風は引いてくれるだろう。
﹁諏訪か。入院していたんだってね﹂
にこやかな笑みで話しかけた橘が、私を隠すように前に出る。
笑顔だが、口調は皮肉気で完全に威嚇している。
君達、そこまで諏訪伊織が嫌いか。
多少呆れてしまうが、仕方がないことかもしれない。
諏訪が絡んでまともな結果になったことがないからだ。
﹁ここに来るということは退院したんだ。おめでとう﹂
﹁⋮⋮あ、ああ﹂
どうやら諏訪は疾風に続いて橘も苦手のようだ。
顔を顰めている。
﹁俺たちは次の予定があるから、これで﹂
橘が私の背に腕を回し、歩くように促してくる。
先日の件があるため、私には諏訪と話すことはない。
追い縋るような視線を感じながら、誰もそこにはいないという態
1047
度を貫かねばならない。
﹁相良! 俺は諦めないからな!!﹂
これだけは言っておくとばかりに諏訪が声を上げる。
﹁俺は、絶対におまえを諦めない﹂
その声にざわりと周囲がざわめく。
病院で何を言い出すんだ、諏訪は。
何故そんな結論が出るのかわからずに、私は眉を寄せそうになる
が、そのまま無表情を作る。
一体、どこで間違えた?
先日のやり取りを思い出しながら、何故諏訪がそんな結論を導き
出したのか、悩んでしまう。
私は随分諏訪を傷付けたと思うぞ。
あれだけざっくりやられて、まだ想いを残すというのがわからな
い。
普通なら二度と顔も見たくないと思うのではないのか?
本当に人の心というのは不思議すぎる。
通り過ぎながら、こちらを見つめ、呆然とした表情で立ち尽くす
諏訪と視線が絡む。
それはほんの一瞬とも言えないような短い時間だった。
頬を染め、惚けた様にこちらを見ていた諏訪がくしゃりと泣きそ
うな表情を浮かべる。
﹁瑞姫﹂
橘が私を呼ぶ。
﹁ん? どうした、誉﹂
橘を見上げると、彼もまた困ったような表情を浮かべて苦笑して
いた。
﹁無自覚なのも罪だね﹂
﹁何のことだ?﹂
﹁いや。仕方がないか﹂
ちらりと諏訪に視線を向けて、すぐに何事もなかったかのように
1048
私に視線を落とした橘は、穏やかに微笑む。
﹁和食とイタリアン、どちらにしようか﹂
話題を変えようと、橘は疾風に声を掛ける。
﹁⋮⋮スペイン料理を推すぞ、俺は﹂
周囲の気配を探っていた疾風がぽそりと意見を告げた。
スペイン料理か。
パエリアが好きだな。
魚介類のパエリアを思い浮かべ、美味しそうだと頷く。
諏訪のことは御隠居様にお訊ねしよう。
御隠居様に頼まれた領域はクリアしている。
これ以上のことは私には荷が重い。
御隠居様に相談して、あちらで対応してもらおう。
そう結論付けて、車寄せへと向かう。
その時、ふと思った。
諏訪を置いて来てしまったが、あの後、どう収拾をつけたのだろ
うか、彼は。
病院側の迷惑というものを考えていたのだろうか。
そもそも、この病院に何の用があったのか。
まあ、考えても仕方がない。
自分が起こした行動に対し、自分で責任を取るのが当たり前だ。
結果がどうなるかを考えて行動したのだろうから、私の範疇では
ない。
そう結論付けた私の脳裏から、先程のことは殆ど消え去った。
今、頭の中を占めているのは、昼食のメニューのことだ。
どうやら思っていた以上にお腹が空いていたようだ。
健康で何より。
迎えの車に乗り込み、行き先を告げる疾風に任せて、私は緩く微
笑んだ。
1049
131
家に帰り着くと、御祖父様の部屋で御隠居様が座卓を叩いての大
笑いをしていた。
帰り着くなり御祖父様に呼ばれていると言われて部屋を訪ねれば、
この光景。
何事かと立ち尽くしてしまっても仕方がないと思う。
﹁おう、瑞姫ちゃん! うちのクソガキが悪かったな﹂
私に気が付いたご隠居様が、片手を挙げて声を掛けてくる。
﹁ええ、まあ。驚きましたが﹂
私の返事にご隠居様は横を向いて吹き出す。
﹁予想通りの莫迦で、笑うしかねぇな﹂
﹁何故そういう結果に落ち着いたのかが、私としては計りかねます
が﹂
﹁⋮⋮瑞姫ちゃんは甲賀三郎を知ってるかい?﹂
﹁ああ、諏訪大社の﹂
諏訪大社縁起として話をするなら、古事記の方が有名かもしれな
いが、甲賀三郎の話もまた有名だ。
攫われた妻を探して助けたところ、妻の春日姫に横恋慕する兄た
ちに地中に落とされ、地底王国に辿り着き、そこの姫と結婚するも、
春日姫を忘れられず苦難を乗り越え地上に辿り着きといった話だ。
上宮に甲賀三郎が、下宮に春日姫が祀られていると聞いた。
妻を想う一途な青年の話として語り継がれているということだが。
1050
﹁まあ、諏訪の気質は、アレだ。甲賀三郎そのものだな﹂
﹁そうですか﹂
御祖父様が思いっきり呆れたような表情を浮かべてそっぽを向い
ている。
ああ、溜息までついて、大人げない。
﹁鬱陶しい!﹂
言っちゃいましたか。
﹁一途な男の純情を鬱陶しいとは何事だ、ジジイ!﹂
﹁鬱陶しいものを鬱陶しいと言って何が悪い! こっちはいい迷惑
だ﹂
﹁やかましいわ! ご先祖さまからのDNAに文句をつけるな、罰
当りが﹂
御老体御二方が大人げなく口喧嘩を展開させる。
﹁⋮⋮あの、申し訳ありませんが、中に入ってもよろしいでしょう
か?﹂
戸を開けたままにしておくのはいささか問題ありな低次元な口喧
嘩に、私は仕方なく言葉を挟む。
﹁ああ。入りなさい。そこの若作りな老人が瑞姫に洒落た茶菓子を
持ってきてくれたからな。詫びの足しにもならんがな﹂
﹁おう、瑞姫ちゃんが気に入りそうなところの洋菓子を用意したよ。
そこのジジイには糖尿の心配があるだろうから、分けてやる必要は
ないからな﹂
いがみ合うおふたりは、実に気が合っていらっしゃるようだ。
﹁誰が糖尿だ! そんな心配は全くないわ! どうやらボケが始ま
ったようだな﹂
﹁誰がボケるか!﹂
﹁おふたりとも!﹂
穏やかに柔らかく呼びかければ、ぴたりと口を閉ざして私の顔色
を仲良く窺う。
﹁お話を伺いますので、どうぞ穏やかに願います﹂
1051
座卓から少し離れたところに正座して、静かに告げれば、御老体
御二方は反省したように少しばかり小さくなった。
深々と溜息を吐かれた御隠居様は、出されていた茶碗を手に取る
と、一口、口に含む。
﹁諏訪ってぇのは難儀なもんでな、身ぐるみ剥がされて残った感情
に固執しちまうんだよ。俺もそうだが、斗織も伊織も惚れた女だ。
例え手の届かない処に逝っちまったとしても、たった1つ残ったモ
ノがそれなら、絶対にそれを手放さない。伊織はまさに今、その状
態なんだよ﹂
業だよなぁと苦く笑いながらご隠居様が呟く。
﹁そいつが唯一の伊織の足場だ。あいつはそこから這い上がる決心
をした。叶おうが叶うまいが、瑞姫ちゃんを手に入れる。それが、
今、伊織が足掻くための原動力だ。そのことを瑞姫ちゃんに言いに
行ったのはあいつの我儘だ。何も考えちゃいねぇ。ただ、知ってほ
しかった。それだけだ。だからな、瑞姫ちゃんは全部無視しちまえ﹂
﹁⋮⋮は?﹂
﹁あいつの我儘に瑞姫ちゃんが付き合うこたぁねぇ。それに、伊織
にゃもう瑞姫ちゃんにつきまとうような余裕もねぇしな。諏訪の当
主になったんだ、自分の感情に現を抜かすような時間はねぇよ﹂
にやりと人の悪い笑みを浮かべてそう告げる。
﹁悪いジジイだのう﹂
御祖父様が呆れたようにぼやく。
﹁おうよ。青春謳歌してぇんなら隠居しやがれってぇんだ。やるこ
とやっての隠居なら、誰も何もいわねぇんだよ﹂
﹁仰いますね﹂
有言実行された方は、にやにやと笑っていらっしゃる。
﹁今度、伊織が何か抜かしやがったら、岡部の坊主をけしかけてや
れや。もう止める必要はねぇぞ﹂
﹁御存知でしたか﹂
1052
﹁まあな。あの坊主、大した腕をもってやがる。さぞかし岡部の当
代も鼻が高かろうや。仕掛けられりゃ、うちでもひとたまりもねぇ
だろうしな﹂
楽しそうに仰る御隠居様は、どうやら疾風のお遊びと武術の両方
の腕前をご存知のようだ。
それをけしかけていいとは、また物騒なことを。
﹁橘の、いや、葛城の坊やも見どころがあるし。菅家の双子といい、
在原の坊といい、瑞姫ちゃんは見る目があるな﹂
﹁私には勿体ない友人です﹂
﹁優等生、優等生。謙遜すんなって。ああいうクセがあるやつはな、
惚れ込んだ相手じゃねぇと手を貸さねぇもんだ。瑞姫ちゃんにはあ
いつらを動かす何かがあったんだろうよ﹂
傑物と言われる御隠居様にそんなことを言われると思わなかった
私は困惑する。
﹁何せ、うちのが瑞姫ちゃんに色々バラしてんだから、確実だよな
ぁ。それが見抜けねぇ奴ぁ、間抜けってもんだ﹂
楽しげに笑って仰っていますが、何故そこまで私の交友関係につ
いてご存知なんでしょうか?
まあ、探られたところで、大したものは出て来ませんが、まだ学
生の身ですし。
﹁ところで、東條の娘の話だが﹂
﹁東條⋮⋮瞳様のことでしょうか?﹂
﹁いや。凛って娘だ﹂
﹁⋮⋮彼女が何か?﹂
おおよその罪が確定して、現在手続き中と聞いていたが、何かあ
ったのか?
﹁異母姉の瞳が身元引受人として手続きを取っている最中に姿をく
らましたそうだ﹂
﹁⋮⋮そうですか﹂
﹁そうですかって、落ち着いているねぇ﹂
1053
﹁いえ。逆に何方かの悪意を感じておりますが﹂
どう考えても、あの東條凛が逃げ出せるはずがない。
そう仕向ける者がいたからこそ、逃げ出したという状況が作り上
げられたのだろう。
さすがにその状況を作り出した人間に心当たりはない。
﹁彼女は相良の屋敷の場所を知りません。ここを張っていても無駄
でしょう﹂
﹁なるほどね﹂
そう呟いた御隠居様は、大きく頷いた。
﹁その件は、うちで処理しよう。伊織を餌にすれば釣れるだろうし
な﹂
﹁⋮⋮魚ですか﹂
﹁ん? まあ、後ろで操ってるやつを釣り上げるにはちょっとばか
り弱いかも、だがな﹂
そう言ってふわりと立ち上がる。
﹁邪魔したな﹂
あっさりとした口調で告げると、御隠居様はそのまま出て行って
しまわれた。
御隠居様を見送って、私は御祖父様に視線を戻す。
﹁御祖父様?﹂
これは一体どういうことなのかと、御祖父様に問いかける。
﹁東條の本筋が動いたやもしれんな﹂
﹁⋮⋮東條の? 清和源氏に桓武平氏、藤原氏、小野氏が東條とい
う名の分家を持っていたと記憶しておりますが、どちらでしょうか﹂
﹁さて。諏訪のが動くのであれば、放っておくといい。だが、疾風
と颯希を常に傍に置け﹂
﹁承知いたしました﹂
1054
私の疑問をさらりと流した御祖父様は、身辺警護を厚くするよう
にと指示をする。
知られたくないことがあるのだろう。
大人の世界についてであれば、子供が口出すことはできないが、
未成年を使うことはやめてほしいとちらりと思う。
﹁橘の当主から、息子を返せと言ってきた﹂
溜息交じりに御祖父様が溢す。
﹁その息子の身に何が起こっているのかわかって言っているのかと
返したら、黙りおったわ。相変わらずのようだ﹂
﹁そうですか﹂
あちらも未だに問題山積のようだ。
﹁身の安全を図るための宿を貸しておるだけだと言ってある﹂
﹁ありがとうございます﹂
柾兄上にも伝えなければいけないな。
そう結論付けて、私も御祖父様の部屋を辞した。
1055
132
色々とバタバタしているうちに夏休みに入った。
周辺にあまりにも刑事事件が多すぎて少々うんざりしているのだ
が、そういったことを表に出すわけにもいかないので、普段通りに
穏やかな表情で過ごしていたのだが、正直、夏休みに入って助かっ
たと思ってしまった。
情報入手先を当事者に求めようとする輩が割と多くて困ってしま
ったのだ。
本来ならば手持ちの情報収集機関に任せるのが一番だが、今回の
場合、情報規制が徹底しすぎて何も洩れず、それならと突撃してく
る者が続出したのが原因だ。
私に突撃してきた者たちは、もれなく千瑛と疾風の餌食になって
いたが。
さぞかし肝の冷える思いというものを存分に味わったことだろう。
あれをきっと勇者と言うに違いない。
私はそんな勇者にはなりたいと露程も思わないが。
﹃自業自得だよね﹄と呟いた千景の表情が忘れられない。
出来れば忘れ去りたいと思うほどに、色々な意味で怖かった。
学校と言う時間的束縛から一時的に逃れられることは、学業以外
に活動する者にとって実にありがたいことである。
株を扱うものは年中無休的なものがあるのであまり変わらないだ
ろうが、手に職を持つ者にとっては創作活動を確実に確保できると
いうことだ。
1056
勿論、本分である学業を疎かにするつもりはないが、次を作れと
常に言われているので作時間ができるというのは助かるのだ。
それとは別に、そろそろ決めないといけないこともある。
高校生活2年目の夏休みと言えば、進路だ。
東雲学園に通う者の大半は、そのまま大学部へ進む。
だが、その大学部に己が学びたいものが無ければ、当然のことな
がら別の大学を選ばなければならない。
橘はデザインの基礎をきっちりと学びたいという理由で、デザイ
ン科を持つ工芸大に進路を定めているようだ。
どこの大学を受けるかまでは聞いていない。
私もまた、東雲ではなく別の大学を選ぶつもりだ。
そろそろそのことを疾風に告げなければならない。
疾風は私の随身だから、出来るだけ進路も同じように揃えるべき
だと誰もが考えているだろう。
本来であれば、そうあるべきなのかもしれない。
だけど、それだと疾風が進みたい道を絶つことになりかねない。
私にも進みたい道がある。
ならばどうするべきかと考えれば、話し合いをするしかないだろ
う。
似たような道なら問題ない。
違うようであれば、妥協点を探して歩み寄れるようにする。
どちらも犠牲にならず、負い目を感じないように。理想論かもし
れないが。
全く違う学部なら、それら両方を持つ大学を選び、教養学科で一
緒に授業を受けられるものを探すとか。
同じ敷地内にいるのなら、その程度は許容範囲だと認めてもらえ
るかもしれないし。
一度、話し合おう。
自分が進みたい道を疾風に押し付けてしまい、彼の夢を潰すとい
うことがあってはならないと思うから。
1057
そう考えて、疾風と向き合う。
﹁疾風。進路のことなんだけど﹂
﹁うん? ああ、瑞姫と一緒でいいけど?﹂
﹁⋮⋮⋮⋮⋮⋮あのね。せめて、何をするか聞いてからにしてほし
いな、同意するなら⋮⋮﹂
あまりにもあっさりとした答えに脱力する。
﹁瑞姫は理系だろ? 文系の大学に進みたいと言われる可能性はな
いと思ったし﹂
﹁それは、そうなんだけど﹂
﹁だったら、問題ない﹂
そんなに簡単な答えでいいのだろうか。
﹁それで、どこを受けるつもりなんだ?﹂
東雲を出るということを確信していたようだ。
﹁建築士になりたいから、工業大学を目指すつもりだ﹂
﹁⋮⋮⋮⋮そうきたか﹂
雑誌を捲っていた疾風の手が止まる。
﹁八雲様と同じ大学かと思ってた﹂
﹁国立大なのは一緒だけれど、建築士を目指すなら工業大学の方が
より環境がいいと思って﹂
﹁難易度上げたなー⋮⋮理系最高峰か⋮⋮﹂
ぱたりと雑誌を閉じ、溜息を漏らす。
﹁だ、駄目かな?﹂
﹁いや。瑞姫の進みたいところに行けばいい。まあ、今の俺の成績
でも何とか合格できるだろうし。もう少し順位を上げるか﹂
ぼそりと呟く疾風の言葉に、やはり成績を誤魔化していたかと半
眼になる。
疾風も充分成績上位者だが、千瑛同様目立たない位置についてい
る。
あからさまに実力を見せているのは体育ぐらいなものだ。
それとてかなり加減はしている。
1058
私の随身として、護衛の実力は十分持っているとわかる程度に見
せているのだが、それだけでも追従を許さぬほどに男子の次席との
差がある。
まあ、四族が通う学校ゆえと言っておくべきか、武張った家系で
あっても今もなお武を鍛えている家はそう多くないのだ。
﹁だけど、いいのか?﹂
﹁何が?﹂
﹁皆と離れることになるぞ﹂
﹁進路が異なるのだから、仕方がないと思うよ。千瑛たちは医療系
の進路を選ぶつもりだろうし、誉は工芸大に進むのは聞いたし。静
稀だって語学を学ぶために外部の大学を選ぶつもりだ﹂
﹁まあ、そうだな﹂
﹁進む道が違ったから、会う時間が少なくなるのは当たり前のこと
だ。だからと言って自分の進路を変えることもおかしいだろう? それに、疎遠になったくらいで付き合いがなくなるなんてこともそ
うないだろうし﹂
大学になれば今まで大目に見てもらっていた社交の場にも出席し
なければならない。
そういったところでも彼らに会うことはできるのだから、あまり
気にはならない。
そういう無関心ではないが、あまり他人に執着を見せないところ
が人としておかしいと、以前、見知らぬ人に言われたことがある。
おかしいと言われても、人それぞれなのではないかと思ってしま
うので、根本的なところが相手とは相容れなかったのかもしれない。
結局、どういう相手でどんな顔をしていたのかすら覚えていない
のだから。
﹁瑞姫は、そうだな。一度懐に入れた相手は絶対的な信用を置くか
らな﹂
﹁それが友だろう?﹂
﹁まあな。とにかく、建築士の進路の件は承知した。御館様も反対
1059
はなされないだろう﹂
勝手に結論付けた疾風が頷く。
﹁疾風はいいのか? 岡部の方は﹂
﹁岡部は土木が主体だ。建築士ならむしろ喜ばれるぞ﹂
﹁そ、そうか⋮⋮﹂
そういえば、そうだった。
疾風の兄上たちは全く違う方面の仕事についているので、まった
く気にしていなかったけれど、岡部の本体は建設業だった。
それで誰も建設業系の職に就いていないと気にしていないのがす
ごいな。
だが、岡部の方でも問題にはならないのならよかった。
﹁当面、進路は理系に進むということだけ公表して、東雲を出るこ
とは隠しておけよ﹂
少しばかり顔を顰めた疾風がそう告げる。
﹁そのつもりだけれど。何故?﹂
﹁東雲進学するやつで、おまえが出ると聞いたら大騒ぎするやつが
何人かいるからな﹂
﹁そう?﹂
友人、知人と呼べる人の中で、そのくらいのことで大騒ぎするよ
うな人物には心当たりがない。
首を傾げれば、疾風は深々と溜息を吐いた。
﹁誰だろう?﹂
﹁うん。そのまま、気付かなくていいから﹂
﹁そうか?﹂
﹁そうだ﹂
力強く頷かれたので、そうなのかとそれ以上考えることを放棄す
る。
﹁疾風に問題がないのなら、父様に進路を伝えようと思うがいいか
?﹂
﹁ああ。俺には問題ない。それで、瑞姫は、建築士になって何を造
1060
りたいんだ?﹂
﹁病院とか、公共施設だね﹂
﹁⋮⋮病院⋮⋮﹂
微妙な表情になった疾風が黙り込む。
﹁どんな人でも使いやすい建物を作りたい﹂
﹁そうか﹂
それ以上の言葉はなかったが、私の考えていることは大体伝わっ
たようだった。
名前など、どうでもいい。
ただ、人の役に立つ仕事をしたい。
直接人と触れ合うことではなく、ひっそりと目立たずに。
兄や姉とは異なる方法で。
それが今の私の望みだ。
そのことを伝えるために、父に時間を作ってもらえるよう母に頼
みに行った。
1061
133
父様と御祖父様それぞれに進路の件を伝えたところ、あっさりと
了承をいただけたのだが、何故か頭を撫でられた。
何故だろう?
兄姉にも母様から伝えられたようで、進路が決まったお祝いにと
有名建築家の建築写真集と図面集が贈られた。
実に有難いプレゼントではある。1日中でも眺めていられるぐら
いだが、目指しているものと方向性が全く異なるところが残念だ。
数十年どころか数百年かけても完成しない建物を作るつもりは全
くない。
設計から完成まで3年以内で終わらせたいのだ。
本当に学びたいことが沢山ある。
目的があり、それを手にする手段を持ち合わせている私は、本当
に恵まれていると思う。
だからこそ機会を無駄にしてはならないと自分に言い聞かせる毎
日だ。
夏休みに入っての相良瑞姫としてのお仕事は、﹃展示会﹄であっ
た。
﹃個展﹄ではなくて、﹃展示会﹄だ。
友禅デザイナーとしてのお仕事のひとつ。
1062
祖母が主催として行っている﹃花見月﹄の作品展示会なのだ。
スケッチや下絵、それをもとに描いた着物と、私がデザインした
絵に新人作家さんたちが色付けしたものを展示している。
招待状をお送りした方はもちろんのこと、一般客も気軽に来場で
きるようにと去年から計画していたものだ。
あくまで展示なので、商談はしない。
友禅の美しさを見ていただくことと、お気に入りの作家を見つけ
ていただくことが今回の趣旨なのだとか。
そのため、会場には日替わりで私以外の作家たちが詰めることに
なっている。
私は毎日数時間ほど会場にいるように言われている。
作家たちとの交流はもちろん、来場してくださったお客様への挨
拶などが目的だ。
私が未成年であるため、取材もお断りしている。
驚いたことに取材の申し込みがあったそうだ。
招待状以外の周知はしていなかったのだがと首を捻ったが、答え
はすぐに見つかった。
招待状を送った相手が情報を流したのだ。
まあ、御祖母様が招待状をお送りするような相手であれば、それ
なりの地位の方であり、色々な伝手をお持ちであろう。
話のついでに零したことが、意外な方向へと流れて行ったという
のが真相のようだった。
意外な方向というのは、時に厄介な方向でもあると知ったのもあ
る意味、仕方がないことなのかもしれない。
展示の期間は5日間。
程々の長さだ。
ふと目についたからと、着物愛好家の方がふらりと立ち寄ってく
ださったりと、嬉しいこともあった。
実際に普段よく着物を着ていらっしゃる方のお話というのは、デ
1063
ザインする側にとって実に有難いものなのだ。
その方の好みもあるだろうが、流行りの柄というのもある程度わ
かるからだ。
今好まれている色使いや柄がわかれば、これからのデザインの参
考になる。
伝統はとても大事だが、型にはまりすぎるというのも進歩がない。
臨機応変に対応していくことも時には重要ということだ。
それらを知る機会が与えられたというのは嬉しいものだ。
﹁瑞姫ちゃーん! 来ちゃった﹂
明るい声が響き、振り返れば、似たような顔が2つ並んでいた。
﹁千瑛、千景! 来てくれたの?﹂
﹁うん! 少しは着物の勉強でもして来いって﹂
肩をすくめて告げる千瑛に苦笑する千景。
これは、母君から言われたのだなと推測する。
﹁これ、全部手描きって、すごいよねぇ﹂
感心したような溜息交じりの声に、他の作家たちからも笑みが零
れる。
﹁まあ、失敗は許されないから、根気と集中力がいるからね﹂
多少の失敗は修正できるけれど、それが集中力を欠く切っ掛けに
もなってしまうので、やはりミスは恐ろしい。
完璧に、丁寧に、美しく仕上げることが、作家であり同時に職人
でもある者たちの意地だ。
﹁ホントに大変よね﹂
仕上がるまでにどのぐらいの時間が掛かるのか想像した千瑛は、
ウンザリしたような表情で呟く。
仕事と定めて行う者と、そうでない者の差だろう。
﹁何か気になるものがあれば聞いて? 説明するから﹂
﹁うん、ありがとう﹂
構われることを好まない千瑛には、自由に見るように勧める。
千景にも同じように声を掛けようと視線を向ければ、すでに気に
1064
なるものを見つけたらしい彼は片手を挙げて指さす。
﹁あれはなに?﹂
原画と装丁された私の作品を上段に置き、その下にも装丁された
作品が並べられているコーナーだ。
デザインはすべて原画と同じものだが、色彩はすべて異なる。
使われている技法も然り。
辛うじて同じ絵だとはわかるものの個性が際立つ作品群だ。
﹁ああ、あれね﹂
千景らしい着目に、笑みが零れる。
﹁花見月の入賞者の作品だよ。私が描いた下絵を写して着色したも
のを審査した結果、入賞した人たちの作品を展示しているんだ﹂
﹁瑞姫のが正解で、それに近い作品を入賞にしてるわけじゃないん
だ?﹂
私の描いたものと、彼らの作品の違いを見比べながら、慎重な声
音で問いかける。
﹁うん。見ているのは、個性と技量だからね。私の下絵をどう自分
なりに表現するか、それが評価の基準になってるんだ﹂
﹁ふうん。まあ、色のバランスは重要だからあまりごちゃごちゃし
た色合いはないみたいだけど﹂
﹁色の濃淡やぼかしの技法がきちんと身についているかというとこ
ろを見てるからね﹂
﹁ああ、そういうことか。友禅て聞くと、女性用の着物しか思い浮
かばないし﹂
﹁まあ、確かに。男性用がないということはないけど、表現したい
絵柄が女性向なものが多いかな﹂
その技法から華やかな色彩を使うことが多いため、女性用の着物
のイメージが強いのは否めない。
ある意味、芸術作品として成り立ってしまうからだ。
﹁男性用は色目を抑えて少ない色の濃淡で仕上げることが多いしね、
私の場合は﹂
1065
﹁それはそれで渋くて格好良さそうだね﹂
﹁興味があるなら、今度、見てみるかい? うちにいくつか置いて
あるから﹂
兄上達用に描いたものの、反物のまま仕立てていない物がいくつ
かあるのだ。
ちょっと派手だったり、イメージが合わなかったりしたものだと
か。
﹁いいの?﹂
﹁構わないよ。千景が気に入ればいいけれど﹂
﹁ありがとう﹂
意外にも着物に興味を示した千景に少しばかり驚きながら承諾す
れば、期待に満ちた視線が返ってきた。
気に入れば、仕立ててあげようと思いながら、千瑛に視線を移す。
ふと、視界の隅で何かが動いた。
惹かれるように振り返り、そうして見覚えのある姿を見つけ、そ
うして何事もなかったかのようにそこから視線を動かす。
何も見てない。
気付かなかった。
そう自分に言い聞かせ、千景を促し千瑛の方へ移動しようとした。
そうしてその時、背後から声を掛けられ、舌打ちしそうになった。
大丈夫。
舌打ちしてないから聞かれてない。
そう自分に言い聞かせたくなるほど、とりあえずは会いたくない
相手がそこにいた。
1066
134
﹁相良さん﹂
かけられた声に舌打ちしそうになるのを何とかこらえ、ゆっくり
と振り向く。
実にゆっくり、だ。
するりと腕を組まれ、気付けば千瑛が隣に戻ってきていた。
﹁⋮⋮御機嫌よう、大神様﹂
いささか冷ややかな声音であることは許してほしい。
招待客ではないうえに、女性用の着物を展示している場所を一気
にむさ苦しくしているからだ。
そう、大神はひとりではなかった。
﹁ご機嫌麗しく⋮⋮は、なさそうだね。そこで偶然お会いしたもの
だから、ご一緒にと誘ったのだけど﹂
ちらりと視線を流した先には紳士が2人。
実に見覚えのあるお顔であった。
ただし、直接的にひとり、間接的にひとり、という内訳だが。
その内のおひとりが、ずいっと人懐こい笑顔を浮かべて前に進み
出て来た。
﹁やあ、初めまして、瑞姫嬢。お噂は息子から聞いているけれど。
あ、うちの息子が大変お世話になってますから始めないといけなか
ったよね、ごめんね﹂
くるくると表情を変えながらの突撃に一瞬身構えたが、うん、や
はり親子だ。よく似ている。
﹁いえ。こちらこそ彼にはお世話になっています。在原様﹂
1067
本来ならきちんと挨拶すべきところだが、手順が狂ってしまった。
しかしながら、在原家のご当主はまったく気にした様子はない。
﹁在原様なんて堅苦しい。静稀も在原なんだから。折角だからおじ
さまと呼んでほしいな﹂
にこやかに告げる在原家のご当主は、息子よりも押しが強いよう
だ。
﹁しかし、瑞姫嬢は噂以上の美人だね。凛々しい美人と言うのは実
に眼福だ。う∼ん、静稀は相当なメンクイだったんだなぁ﹂
激しく何かを納得された様子でご当主は頷いていらっしゃる。
﹁在原様? 何か誤解なさっていらっしゃるのでは⋮⋮?﹂
﹁いや、大丈夫。誤解も何もしてないよ。息子の大好きな友人の基
準について色々納得していたところだから﹂
﹁凛々しい美人と言うところからして誤解だと思われますが﹂
初対面の方から男性だと思われる容姿が﹃凛々しい美人﹄で収ま
るはずがない。
そんな線の細いイメージは私にないはずだ。
しかしなぜ在原様までこちらに来られたのか。
もうお一方が理由か。
そう考えて、そちらの方へ顔を向ける。
﹁お久し振りでございます、橘様﹂
﹁あ、ああ。先日は妻の葬儀に足を運んでくださったこと、感謝し
ます﹂
先手を打って挨拶をすれば、少しばかり怯んだ様子で橘家のご当
主が謝辞を告げる。
⋮⋮そこからか。
融通の利かない性格らしい。
そうして、息子の同級生である私に対してどのような態度を取れ
ばいいのかわからない不器用な面をお持ちのようだ。
﹁いえ。当然のことですから﹂
死者とその家族を悼まぬ葬儀など初めてであったが、過ぎたこと
1068
だ。
あの時、私は橘を案じて参列した。
その判断は間違いではなかったと、残念ながら確信してしまった
が。
﹁その。今も息子が世話になって⋮⋮誉は﹂
﹁彼なら、法要の為に戻られていますよ﹂
﹁え?﹂
﹁今日は取り上げで、納骨を済ませると聞いていますが﹂
何故ここにいるのかと、視線だけで問いかければ、その瞬間、顔
色が変わった。
それで、大体のことを察してしまった。
今までの法要も、橘が1人でしていたに違いない。
半眼になっている菅家の双子をこっそり肘で突いて制する。
完全に怒ってるし、千瑛が。
﹁本人からの言葉でしたので、間違いではないと思います﹂
﹁⋮⋮橘﹂
在原様が呆れた表情で橘の当代殿を眺めている。
﹁おまえ、何してんの?﹂
全くその通りだと思います。
橘誉も父に問わずに自分だけで動いてしまっているところは問題
だが、﹃最愛の妻﹄の法要を一切知らずにいた当代殿もかなり問題
だ。
﹁何故こちらにいらしたのか、お尋ねいたしません。ですが、何故、
しなければならないことをなさらないのですか?﹂
無礼を承知での言葉を紡ぐ。
相手を抉るだろうことは理解している。
だが、橘が報われない。
﹁君は⋮⋮﹂
﹁瑞姫嬢の言う通りだね。ここに来る前に、しなきゃいけないこと
があるなんて、馬鹿じゃないの、おまえ?﹂
1069
さすが親子。
静稀と口調が一緒で、言うことまでもそっくりだ。
ただし、誉はこんなことを静稀には言わせないけれど。
言われるとしたら真逆だろう。
しなきゃいけないこともあるだろうけれど、少しは休めという方
向で。
﹁しかし、誉は何も﹂
﹁言われなければなさらないのですか? 決まり事でしょう? 何
をすべきなのか、当然わかりきっていることを何故、わざわざ言わ
なければならないのですか、息子が父に﹂
逆を言えば、その手のことを子供が父に言えば侮辱もいいところ
だ、普通では。
家を出ると決めていても、橘誉として父の指示通りに母の供養を
しているという形を取って法要の指揮を執っていたのだろう、彼は。
守るべき立場にいながら、妻と子に甘えて何もしない当代殿に冷
ややかな怒りを隠せない。
﹁そのご様子では、我が家まで押し掛けてくる分家の皆様が当家や
誉に何を言っているのかもご存知ないのでしょうね?﹂
言いたくなかったが、とても許せそうにない。
だから会いたくなかった。
何を言われているのか、まったくわかっていない当代殿と、察し
がついたのか顔色を変えた在原様があまりにも対照的に映る。
﹁⋮⋮瑞姫ちゃん? 橘の分家の方が、相良に押しかけて、何を仰
ったのかしら?﹂
所謂、﹃超イイ笑顔﹄を浮かべた千瑛がとても上品な態度で問い
かけてくる。
黒いから。
千瑛、可愛らしいけれどとっても黒くて怖いから。
﹁瑞姫ちゃん。押し掛けてくるってさ、分家の分際で、相良本家に
事前の断りもなく強引にやってくるってことだよね? 本家の了解
1070
も他家の紹介もなく﹂
表情を消し去った千景も追い打ちをかける。
﹁門の前で何度か待ち伏せされたな﹂
それに乗って、私も事実を告げる。
﹁⋮⋮申し訳ないが、瑞姫嬢、その件の仔細を僕に教えてくれない
かな?﹂
在原様が真っ直ぐに私に問いかけてくる。
﹁橘家と相良家のことを在原様に、ですか?﹂
﹁お願いする。橘とは遠戚でもあるからね、在原とて無関係ではい
られない﹂
確かに姻戚関係はあるだろう。
橘家に影響を与えるという意味で、在原家の存在は欠かせないの
も事実だ。
どうやら在原様は頼りになる方のようだ。
手綱を1つ渡してもよいだろう。
﹁⋮⋮奥の控室にどうぞ。こちらでは他の皆様のご迷惑なりますの
で﹂
そう言って、ギャラリーの奥を示す。
﹁ありがとう。行くぞ、橘﹂
容赦なく当代殿を引き摺る在原様。
その後を当然のように大神が続こうとした。
﹁⋮⋮大神様﹂
﹁ん、何かな?﹂
﹁しばらくこちらでお待ちくださいませんか? 疾風に相手をさせ
ましょう﹂
﹁僕に構わなくても大丈夫だよ。ご案内した責任も﹂
﹁ないから大丈夫よ?﹂
にっこりと千瑛が笑う。
﹁むしろ、騒動を持ってきた責任を取って、この場から消えてもら
えると嬉しいわね﹂
1071
﹁菅原さんは毒舌だね﹂
﹁あら、褒め言葉? ありがとう﹂
嫌味のつもりだろうが、千瑛にとっては何てことはない言葉だ。
あっさりと返せば、大神はわずかに笑みを引き攣らせた。
﹁瑞姫の展示会を台無しにしようとしたとも取れる行動だね、大神
紅蓮﹂
千景が淡々とした声音で突きつける。
﹁そんなことは﹂
﹁ないとは言えないからね。簡単に予想がつくことだ。想像できな
かったなんて逃げ口上、使えると思うな﹂
感情を読み取らせない声音であるがゆえに反論も許さない。
大神の表情が探るようなものにかわる。
﹁⋮⋮疾風﹂
私の呼びかけに、会場の死角に立っていた疾風が姿を現す。
﹁後を頼む﹂
﹁承知した﹂
逃がすなよと言外に告げ、控室へと向かう。
﹁⋮⋮僕は駄目でも菅原さん達はいいのかい?﹂
私の後を追いかけてきた双子たちを牽制するかのように大神が声
を飛ばす。
﹁菅原も橘分家の被害にあっているから当事者だね﹂
私が知っている情報を放ってやれば、大神は黙り込む。
情報収集が甘いと言われたことに気が付いたのだろう。
プライドが高い大神にとって、これほど屈辱なことはあるまい。
自分の掌で他人を思い通りに動かすことを得意としているのなら
ばなおさら。
とりあえずここは大丈夫だと判断し、私は双子を連れて控室へと
入った。
1072
﹁お待たせいたしました﹂
控室のドアをきっちりと締め、ご当主2人と双子に座るように促
す。
﹁橘は使えないので、僕が聞くね。まずは謝罪を。本当に橘が使え
ないせいで相良家にもおそらく菅原家にもだね、迷惑をかけたよう
だ、申し訳ない﹂
子供相手だと見縊らずに潔く頭を下げての謝罪をなさる在原様。
﹁まずは分家が何をしたのか聞かせてもらえないかな? 事の次第
によっては僕が指揮を執るよ﹂
在原様の言葉に千瑛がちらりとこちらを見る。
うん、何が言いたいのかわかったよ。
そちらの方が話が早くて済むと言いたいんだね。全くもって同感
だ。
﹁わかりました。複数の分家から同じ内容の打診がありました。こ
れは菅原家でもほぼ同じ内容だと思われます。私の姉、2人のうち
どちらかを橘家ご当主の後添えにとのことです﹂
﹁ええ、そうですね。うちでは叔母と姉にその話がありました﹂
私の言葉の後に、千景が淡々と告げる。
﹁うあ⋮⋮莫迦だー⋮⋮ありえない莫迦! あ。失礼﹂
思いっきり頭を抱えた在原様に、生温かい視線を注いでしまった。
﹁後添え⋮⋮﹂
橘のご当主は、思いっきり顔を顰めている。
嫌だと言いたいのはわかるが、まずは分家を抑えられないご自分
が悪いのだという自覚を持ってもらわねば。
﹁おまえは黙ってろ。分家を抑えられないおまえが悪い。そのせい
で他家や息子に迷惑かけてるんだからな﹂
すっぱりと当代殿の言葉を封じた在原様が、ひとつ溜息を零して
こちらを見る。
﹁それから、他には?﹂
1073
﹁私宛に、葛城と繋ぎをつけろと言う要求がありました。それから、
私と誉が結婚し、その子供を橘に寄越せと言うのも。他には﹂
﹁ちょっと待って! そんなにやらかしてるのか!?﹂
ぎょっとしたのを隠せずに、在原様が声を上げる。
﹁ええ。ですが、まだ運がいい。私を当代殿の後添えにというお話
があれば、今頃分家の方々はひとり残らず⋮⋮﹂
にっこりと笑って言葉を濁せば、そこに隠されている言葉を悟っ
た在原様が項垂れる。
﹁いや、いっそのこと自爆してほしかったよ。そうしたら問題も一
気になくなるし﹂
﹁御冗談を。我が家だけ被害を被ることになるんですよ?﹂
﹁ああ、うん。そうなんだけど⋮⋮おじさん、滅びろ! なんて、
思っちゃったよ﹂
がっくりと肩を落としたまま仰る在原様のお言葉に、同意してい
いものかどうかしばし迷う。
﹁しかも相良家に対して政略婚を仕掛けた上に子供を寄越せなんて
⋮⋮分家の分際で思い上がるのも、ね﹂
唸るような声音で呟く彼の表情はかなり険しい。
﹁他にも余罪はかなりありそうだよ、橘。おまえ、責任取れる?﹂
﹁それはっ! 取れる取れないの問題ではなく、取らなければなら
ないことだ﹂
﹁どうやって?﹂
在原様の表情は厳しいままだ。
﹁当主の座を降りるなんてのは問題外だ。次の当主は誉だよ? 嫌
がっているのに押し付ける父親っていうのも情けないよね。もとは
と言えば、おまえが馬鹿だったせいなのに﹂
﹁しかし﹂
﹁言っておくが、当主の座を降りるのは、単に逃げ、だ。責任を取
るんじゃくて、ただの責任逃れ! おまえは、何があっても当主の
座を降りれないの!!﹂
1074
﹁では、どうすれば﹂
﹁ホント、莫迦? 人に言われてやるわけ? 当主だろ? 自分で
考えて、自分で決めるのが当主だろ? 敷かれたレールの上を走っ
てたんじゃなくて、敷かれたレールの上すら走れてないんだよ、お
まえは!﹂
がつがつと正論を突き付けていかれる在原様だが、いいのだろう
か?
他家の子供の前で余所の当主を頭ごなしに叱りつけるなんて。
﹁今は、私の方の被害についてお伝えいたしましたが、誉の方に言
われた言葉もお伝えしましょうか?﹂
その一言で、当代殿の顔色が変わった。
﹁誉にも⋮⋮﹂
﹁あわよくば事故を装って、というのもありましたが。相良の守り
を舐めていらっしゃるのか﹂
﹁それで、誉は!?﹂
﹁何かあれば、今日の法要はなされていませんでしたよ﹂
﹁そう、か⋮⋮﹂
﹁念の為、相良と岡部の方から人を回して警護させています。誉は
無事に戻るでしょう﹂
﹁⋮⋮ありがとう。感謝します﹂
深々と頭を下げる当代殿。
一応、親としての気持ちはあるようだ。
﹁僕からもお礼を。想像以上に認識が甘かった。相良家の守りがな
ければどうなっていたことか⋮⋮﹂
在原様も頭を下げ、言葉を添える。
﹁正式な謝罪と御礼は後日、そちらに伺ってからにしよう。その前
に、分家の馬鹿どもの始末をしないとな﹂
どうやら在原様が指揮を執ることになるらしい。
﹁では、そのことについて祖父に伝えておきましょう﹂
﹁お願いする。菅原家にも同じく、後日、正式に謝罪を﹂
1075
﹁わかりました。当主に伝えておきます﹂
千瑛と千景が声を揃えて答える。
それに目許を和ませた在原様が立ち上がる。
﹁ほら、橘、行くぞ﹂
困惑したままの当代殿を促した在原様がふと私に視線を向ける。
﹁瑞姫嬢﹂
﹁はい﹂
﹁うちの静稀と誉のいい友達でいてやってくれないか? 家にこだ
わりなく、ただの友人として﹂
﹁承知しました。彼らが望むのなら、いつまでも﹂
﹁ありがとう﹂
そう仰って、彼らは会場から去って行った。
さて。
大神紅蓮をどうしようか?
千瑛に譲るべきだろうな。
そう考えながら、控室から私たちも出て行った。
1076
135
控室から展示室へ戻ると、そこには実に微妙な空間が出来上がっ
ていた。
ゆっくり寛いで作品を見ていただけるようにとちょっとした応接
セットやチェアなどをあちこちに配しているのだが、その中の1つ
である応接セットに大神と疾風がいた。
正確に言おう。
2人ではない。
大神を取り囲むように、自称﹃妙齢﹄の御婦人方が数名座ってお
られた。
疾風はそこから少し離れたところに椅子を用意して座っている。
この配置は、確実に大神包囲網だな。
ある意味、自業自得だと思っているがちらりと気の毒だという考
えも過る。
私たちの年代の特に男子は年上の女性という存在が非常に苦手で
ある。
口では勝てない、力を揮うわけにはいかない相手なのだから、ど
うしても勝機が見いだせないのだ。
御祖母様が招待したであろう御婦人方は、どうやら先程のやり取
りをご覧になっていたようだ。
名家、あるいは四族の家を取り仕切る立場にいらっしゃる方々は、
優雅に見えて歴戦の戦士でいらっしゃる。
家のため、あるいは夫の為に笑顔で情報を仕入れ、あるいは噂を
操り、社交の場で培ってきた経験をお持ちだ。
1077
私を翻弄しようと招かれざる客人を伴い、思い通りに動かそうと
して玉砕した大神に、どうやら教育的指導をなさっておられるよう
だ。
大神の顔色が非常に悪い。
表面上は冷静さを取り繕っているようだが、わずかに不安定に動
く視線がそれを裏切っている。
勿論、疾風は最初から助ける気など毛頭ないため、彼女たちの話
を大人しく拝聴し、偶に相槌を打っている。
余裕だな、疾風。
疾風も特に母親世代の御婦人方を非常に苦手としているのだが、
矛先が自分に向いていないため、かなりのんびりした空気を纏って
いる。
本来、私もあまり得意としていないが、七海さまに対応の仕方を
徹底的にしごかれた記憶を持っているため、何とかなるだろう。
瑞姫さんが王子様と呼ばれた根底には七海さまの教育があったと
推察する。
あの記憶に感情が伴わないため、心底よかったと思ったことのひ
とつだ。
あれに耐えた瑞姫さんは凄い。
尊敬に値する方だと、若干遠い目になりながら思ってしまう。
﹁あら、瑞姫様﹂
歩み寄る私の姿に気付いたご婦人のおひとりが晴れやかな笑みを
浮かべて私を呼ぶ。
﹁まあまあ! お話はお済になりましたの?﹂
嬉しげな表情で御婦人方がこちらにと手招きなさる。
﹁瑞姫ちゃん、あれを世間ではドヤ顔というのよ。獲物を甚振った
成果を飼い主に報告する猫の表情とも言うわね﹂
こそっと千瑛が囁く。
なるほど。
大神はあの御婦人方の逆鱗に触れたということか。
1078
まあ、仕方がない。
彼女たちにすることは受けて流すというのが正しい対処法だから
な。
しかし彼女たちと私のお仕置きとはまた別物だ。
御婦人方に便乗するというのも微妙だが、状況把握してそれなり
に動くとするか。
﹁お待たせして申し訳ございません。お楽しみいただけましたか?﹂
ソファに腰かけていた御婦人方に声を掛ける。
自称﹃妙齢﹄の御婦人方は、それぞれに笑みを浮かべて頷いてい
る。
この﹃妙齢﹄の﹃妙﹄とは、たえなるという意味ではなく、絶妙
とか微妙とかいう方面の意味合いだと思われる。
微妙なお年頃の御婦人方だ。
うん、こちらの方がしっくりくる。
﹁ええ、とても。お若い方とお話しするのはとても楽しいわ﹂
にこやかな笑みを作り、含みある言葉を選ばれるのは藤堂家の麗
佳様。
確か還暦を過ごされたはずだが、どう見ても30代半ばにしか見
えない若々しい方だ。
年相応に見えることも大切だが、時と場合によっては年齢よりも
遥かに若々しく元気に見えることが望まれる。
麗佳様はその典型だ。
﹁どのようなことをお話に?﹂
この場合、﹃まだまだお若いでしょうに﹄や﹃そんなことはあり
ませんよ﹄なんてお答えしてはいけない。
子供どころか孫年代の者がそんなことを言えば、失礼の極みにな
ってしまう。
1079
年齢に関する話題は完全スルーが一番無難だ。
﹁ふふふふふ⋮⋮ないしょ﹂
人差し指を唇に当て、可愛らしく仰るけれど、目は裏切っている。
完全に面白がっている。
﹁内緒ですか。それは残念です﹂
まったく残念そうに見えない表情で言ってしまうのはご愛嬌だろ
う。
残念に思ってないのだから仕方がない。
それに、ここには疾風がいる。
一部始終を見聞きしていた疾風が後で教えてくれるだろうことは
麗佳様も承知の上だ。
﹁そう仰って引いてくださる瑞姫様だからこそ、わたくしたちは信
頼申し上げますのよ?﹂
にっこりと笑って告げる視線の先は私ではなく大神だ。
ああ、なるほど。
彼への教育的指導はまだ続いていたのか。
と、いうことは。
情報の取り扱いについての説教か。
無理やり聞き出さないが、情報入手の手段は持っているというと
ころを実地で見せつけていたわけか。
大神の弱点は、手駒がないということだ。
情報入手のための手段が己自身という極めて狭い範囲に限られて
いる。
それは、彼が自分の書いたシナリオで他人を動かそうとするせい
だ。
シナリオの中身を読まれたくないため、傍に置くのは情報入手が
得意ではないものばかりだ。
しかも、交友関係は極めて薄い。
手に入れた情報の正確さを確認することも困難だろう。だから、
悪手を打つのだ。
1080
それもひとつの理由だが、さらに自分の望む結果を重視しすぎて、
シナリオに登場する人物の性格を自分に都合よく書き替えてしまう
という欠点もある。
大神自身、優秀であるがゆえに、その殆どが彼の思惑通りに動く。
だが、彼と同等かそれ以上の人物がシナリオに登場した場合、相
手の能力を自分より下と見做して動かそうとするために齟齬が生じ
るのだろう。
そうして、己の書いたシナリオを重視するがゆえにイレギュラー
に弱い。
シナリオが多方面から見て意味するところにも気付かない。
未熟である証拠だ。
かく言う私も、大神本人でないからこそ気付いた。
大神が書いたシナリオの別の意味の恐ろしさを。
﹁まあ、キリもいいところですし、わたくしたちはここでお暇をい
たしましょう。瑞姫様、今度はゆっくりお時間を作ってくださいね﹂
﹁もちろんです。ぜひ﹂
御祖母様に目で合図し、御婦人方の対応をお任せする。
漣のような笑い声を響かせて、彼女たちは何事もなかったかのよ
うに去っていく。
﹁さて。お待たせして申し訳ありませんでしたね、大神様﹂
先程まで麗佳様がお座りになっていたソファに腰を掛けて、大神
を見据える。
蒼褪めていた大神の頬に朱が走る。
﹁君は⋮⋮﹂
﹁さて、お聞かせ願えますか? ご自分の家を潰すような真似をし
た理由について﹂
にっこりと笑って問えば、大神から表情が抜ける。
﹁⋮⋮は?﹂
いかに美形といえど、間抜けな表情はやはり間抜けだと実感した
瞬間だった。
1081
136
﹁もう一度、申し上げましょうか? ご自分の家を潰すような真似
をなさった理由についてお聞かせくださいますか、と﹂
ゆっくりと言葉を切り、問いかけると、大神の表情は間抜け面か
ら眉間に皺を寄せて不快気なものに変わった。
﹁家を潰すなど、不可解なことを仰る﹂
﹁全く理解しておられないと?﹂
﹁何故、そんな話になるのですか?﹂
表情を取り繕い、脳裏でシナリオを構築しているであろう大神に、
菅家の双子がこれ見よがしに溜息を吐く。
あまりの息の合い様に、流石双子だと意味のない感想を抱いてし
まう。
﹁今の状況をご当主にお伝えしましょうか? 君が廃嫡で済めば、
軽いものでしょうね﹂
﹁だから、何を!?﹂
﹁先程、疾風が言ったでしょう? この展示会を潰すつもりなのか
と﹂
淡々と告げれば、さすがに思い至ったのか、大神は黙り込む。
﹁悪戯半分の軽い気持ちでおられたようですが、これは私のための
展示会などではありませんよ? 私個人なら展覧会でしょう? ﹃
展示会﹄の意味を把握せずに来られたことこそ、いくつもの家と敵
対した最大の原因といえるのですが﹂
﹁⋮⋮何を﹂
先程と同じ言葉を繰り返すが、今度は力ない声であった。
1082
﹁先程来られていた御婦人方。彼女たちは何をしにここに来られた
か、御存知ですか?﹂
﹁は? 展示会でしょう? 展示されているものを見に来たか、そ
れらを注文するためじゃ﹂
﹁ここでは商談をいたしません。それに、あの方たちならいつでも
花見月の商品を手に入れることができますし、欲しいものがあれば
特注もできますよ﹂
そう。御祖母様が招待状を出した方々だ。
わざわざ足を運んでいただくのは別の要件のためだ。
そのために職人たちを日替わりでこちらに常駐させている。
彼女たちは自分が気に入った職人を見つけ、育てるために足を運
んでくれたのだ。
スポンサーやパトロンといった言葉を連想するだろうが、実際は
少々異なるがそういったモノと思ってもらっても差し支えはないだ
ろう。
伝統の担い手を育てるのは、非常にお金がかかるのだから。
﹁それでは、何のために⋮⋮﹂
﹁それがわからないのなら、潰されても仕方がありませんね。彼女
たちが得意としているのは﹃噂﹄を操ること。君の生家である大神
家は﹃悪しき噂﹄が打撃になる病院及び製薬会社を主体としていま
すよね? 彼女たちは、ほんの少し、囁けばいい。それだけで興味
本位の﹃噂﹄が広まり、君の家は取り返しのつかない痛手を受ける
ことになる﹂
﹁なっ!?﹂
﹁無知は罪だとよく言いますが、都合の良いこと以外を知ろうとし
ないことは悪以外の何物でもないと思いませんか?﹂
そう問いかければ、大神は押し黙る。
反論したくてもできないと気が付いたのか。
﹁君は、自分に都合の良い解釈をしたがるようです。君が描いた登
場人物以外の方々も、この場におられるのですよ? その方々の思
1083
惑を潰せば、報復があるのは当然のことでは?﹂
それでもまだ気が付いていないため、懇切丁寧に説明をして差し
上げる。
﹁⋮⋮⋮⋮!﹂
ようやく意味がわかったのか、大神は目を瞠り、息を呑みこむ。
﹁ここまで瑞姫ちゃんに説明してもらわないと理解できないなんて、
学年次席なんて意味ないわね﹂
くすりと千瑛が笑って告げる。
﹁御婦人方の件もありますが、もちろん、相良からの報復もありま
すよ。当然でしょう?﹂
千瑛の言葉に反応しないように言葉を被せると、大神はこちらに
視線を向ける。
﹁相良家主催の展示会です。顔に泥を塗るような真似をされたので
すから、最低倍返しは当たり前のことです。相良が侮辱されたとな
れば、岡部や阿蘇家も動きますよ﹂
﹁まさか、阿蘇⋮⋮﹂
﹁縁戚なんです。知らないとは言わないでしょう? まあ、一番怒
っていいのは私でしょうから、私個人からも報復措置に動いてもか
まいませんよね?﹂
にっこりと笑えば、大神は顔を引き攣らせた。
﹁まさか、仕掛けた本人が、相手からの反撃を考慮してないなんて
仰いませんよね? 仕掛けるなら、当然反撃があると考えているは
ずです。例外はありません。自分はされないなんて都合の良いこと
あるわけないでしょう﹂
﹁⋮⋮まさか⋮⋮﹂
﹁まさか、何でしょう?﹂
笑みを深くすれば、言葉を紡ぎかけていた大神はそのまま言葉を
呑みこむ。
本気で私が反撃するつもりだと思ったようだ。
本当にするかどうかは別として、その言葉に踊らされて、何か起
1084
これば、私がしたことなのかと疑念を持ち、怯えることだろう。
これは、瑞姫さんが得意としていた言葉遊びだ。
言葉に隠したトリック、仕種、表情、その細かい動きで相手を惑
わす。
策を練ることを得意とする者の方がこういったことに引っ掛かり
やすい。
﹁当然の権利でしょう? ﹃そんなつもりはなかった﹄なんて言葉
は何の免罪符にもなりませんよ。君は、私の報復に耐えられますか
?﹂
ゆるやかに笑みの種類を変える。
﹁あら、楽しそう。菅原も参加させてもらうわよ﹂
﹁そうだね。僕らも大神に邪魔されたんだもんね。当然、権利はあ
る﹂
千瑛と千景も楽しげに言葉を挟む。
その瞬間、大神はむっとした表情を浮かべ、そして消した。
﹁ああ、それから。在原様からも君がしでかしたことに対してのペ
ナルティを要求すると思うよ﹂
橘家の揉め事をこんなところで明らかにされたのだから、八つ当
たりの対象にされるという意味でだが、そこは黙っておこう。
﹁在原家は商社だ。それこそ色んな物を取り扱っておられる。海外
製の医療機器なんてものも、中にはあるよね﹂
﹁っ!?﹂
大神家が欲しがっている最新式の医療機器を他の病院と契約して
在庫を切らしてしまうとか、注文を掛けても取引先ではないと断る
とか、些細なことだ。
﹁あの、諏訪家ですら、相良本家が直接動いていないというのに相
当なダメージ受けてもんね。大神家はどこまで凌げるかしら?﹂
にんまりと千瑛が笑う。
﹁楽しみ、でしょう? 大神紅蓮﹂
実に楽しそうに告げる千瑛に私は思った。
1085
千瑛は小悪魔ではなく、大魔王だな、と。
その後は疾風も参戦し、大神の精神状態は見るも無残な状況へと
陥ったようだった。
表面上はさほど変わらない。
我々はそういう教育をされているのだから、表情を取り繕うとい
うのはほぼ無意識に行える。
中身はどうかというと、まあ、二度と会いたくないと思う状態だ
と思う。
会場を去る時、大神は決して千瑛の方を見ようとはしなかったか
ら。
そんな状態になっても、去年の生徒会役員選挙で自分を陥れたの
が千瑛だとは気付かなかったようだ。
気付いたところで何もできないだろう。
アレは多分、心が折れたという状態なのだろうから。
このまま夏休みの間、何の接触もないことを祈ろう。
時間が来たため、会場を後にする。
少し買い物でもしないかと千瑛に誘われたので、疾風と千景も一
緒に歩くことにした。
﹁⋮⋮ところで。何やったの、千瑛?﹂
周囲の人と程々の距離を取りつつ、千瑛に問う。
﹁ん?﹂
﹁あれだけの騒ぎ、誤魔化せないからね﹂
背後から聞こえる喧騒を指さして言えば、千瑛は可愛らしく笑う。
1086
﹁えへへへへ﹂
﹁誤魔化さない﹂
﹁やだなぁ、そんなこと﹂
﹁気付かない方が間抜けよねって言う千瑛さん?﹂
どう見ても大捕り物の様相を示す背後の状況に、私も笑って見せ
る。
﹁⋮⋮はあ⋮⋮警察も何やってるんだか。たかだかアレ1人掴まえ
るくらいで﹂
不満そうな表情を浮かべて千瑛が呟く。
﹁⋮⋮アレ、ね﹂
千瑛の言う﹃アレ﹄には心当たりがあった。
今逃走中だという、﹃彼女﹄だ。
﹁諏訪のご隠居様と手を組んだのか?﹂
﹁頼まれちゃったのよねー。まあ、あの諏訪の御大に盛大に恩を売
れるんだもの、乗らなきゃね﹂
﹁そうか。それで私を囮に使ったわけだ﹂
﹁いやあ! バレちゃしょうがない﹂
てへっと作ったような笑いを浮かべて告げる千瑛に私どころか千
景も疾風も胡乱な視線を向けている。
﹁だから、言っただろ。瑞姫にはすぐにばれるからって﹂
呆れたような眼差しで、千景が姉に告げる。
﹁あら、でも。私だって、瑞姫ちゃんに害がないから乗ったのよ?
どんなに無能でも掴まえられるって状況じゃなきゃ、応じないわ
よ﹂
﹁万が一にも害があるなら、僕が全力で千瑛を止めるよ。いくら姉
でも、そこは許さないから﹂
﹁ちーちゃんってば、瑞姫ちゃんのこと、大好きだもんねー﹂
﹁当たり前だろ? 千瑛の暴走を笑って受け止められるほどの大物、
瑞姫しかいないんだから﹂
﹁人を暴走機関車のように言わないでよ﹂
1087
﹁事実だろ﹂
﹁⋮⋮ちょっと、双子さんたち。微妙に脱線しないでくれるかな?﹂
漫才のように矢継ぎ早の会話で論点をずらしていく双子に、釘を
さす。
こら、千瑛。舌打ちしない。
千景も視線を逸らさない。
﹁つまり。御隠居様から千瑛に打診があったと理解していいんだね
?﹂
﹁そうよ﹂
﹁展示会の情報を流して、ここに来るように仕向けたってわけだ。
その情報を警察にリークした?﹂
﹁仰る通り。今日、何時頃に瑞姫ちゃんがここを通るかって情報を
アレに伝わるようにして、どこに潜むかを向こうに教えてたの﹂
ぷうっと頬を膨らませ、面白くなさそうに千瑛が説明する。
﹁大神紅蓮はイレギュラーだったから、ちょっと腹が立ったけど。
まあ、時間通りに出れたから良しとするわ﹂
﹁それで? 糸を引いてたのはどの家だった?﹂
﹁⋮⋮小野家よ。東條家を完全に潰すのが狙いだったようね﹂
溜息交じりの千瑛の言葉に、少しばかり苛立ちを感じる。
﹁他家に潰してもらおうって魂胆か﹂
﹁表に出ちゃったら、本家ってことで自分の家も危ういことになっ
ちゃうからでしょうね﹂
﹁ムシの好すぎる話だけどね、まあ、あそこまで相良に喧嘩吹っか
けちゃってる東條家を自分の分家だとは言えないしね。自分たちが
本家とバレないようにして潰すのが妥当だと思ったんだろう﹄
双子たちがそう解説する。
﹁それはそれで、ムカつく話だな。疾風﹂
﹁ん?﹂
﹁悪戯してもいいぞ﹂
﹁⋮⋮ん。了解!﹂
1088
今まで不機嫌そうだった疾風が晴れ晴れとした表情で頷く。
﹁あくまで、悪戯の範囲だからな﹂
﹁はいはい。丸裸にして潰す気はないから。せいぜい、株を暴落さ
せるくらいに止めるさ﹂
﹁⋮⋮⋮⋮それって、本当に悪戯の範囲?﹂
珍しく千景がこっそりこちらを見て問いかけて来たのが、妙に印
象的だった。
そのあと、千瑛とアーケード街で夏用の小物をいくつか選んで買
って、満足したところで車を呼び、別れた。
家に辿り着くと、ちょうど橘も戻ってきたところだった。
傍には護衛を頼んでいた颯希の姿も見える。
﹁戻ってきたところだったのか、お帰り。誉﹂
﹁⋮⋮瑞姫﹂
声を掛ければ、振り返った橘が淡く微笑む。
﹁さっちゃん⋮⋮じゃなかった、颯希。ありがとう﹂
﹁瑞姫様、任務無事に終了いたしました。差し迫った問題はありま
せん﹂
﹁うん。颯希に頼んでよかった﹂
根が真面目なさっちゃんは、こういった基本的な護衛を得意とし
ている。
﹁後で報告にあがります。橘様をお部屋まで案内して戻りますので、
瑞姫様もお部屋でお寛ぎくださいませ﹂
﹁わかった、頼むよ。誉も少し休むといい。夕食を一緒に摂ろう﹂
﹁そうするよ、ありがとう﹂
穏やかに微笑んで頷いた橘は、視線を落として、そうして私を見
た。
﹁瑞姫﹂
1089
﹁ん?﹂
﹁父と在原様に会ったよ。ありがとう﹂
﹁⋮⋮そうか。その話は、またあとで﹂
﹁ん﹂
頷き合って、それぞれの棟へと向かう。
﹁瑞姫﹂
疾風がそっと声を掛けてくる。
﹁⋮⋮あれで、よかったのかな?﹂
もう少し良い手があったかもしれない。
手を打った後で、いつも考える。
﹁大丈夫だ。橘は笑ってただろ?﹂
﹁うん﹂
﹁あいつは、瑞姫の前では仮面を被らない。笑っていたなら、それ
が結果だ﹂
﹁⋮⋮うん。ありがとう﹂
疾風の言葉に、いくらかホッとしながら、家の中に入って行った。
1090
137 ︵東條凛視点︶︵前書き︶
東條凛視点
少々長いうえに、不快表現ありです。
お嫌な方は飛ばされることをお勧めします。
1091
137 ︵東條凛視点︶
夢の中を歩いている気分。
すべてが頭の上で決まっていく。
実際、何が起こっているのか、全然わかんない。
heaven﹄のヒロインだ。
あたしは、東條凛。
﹃seventh
ホントは両親2人ともだったけど、パパだけが自動車事故で死ん
で、ママのおじいちゃんとおばあちゃんに引き取られた。
東雲学園に編入して、極上の御曹司とかいう人たちとラブラブに
なるはずだったのに。
すべてが何も上手くいかない。
あたしがヒロインのはずなのに。
ストーリーと全く違う展開ばかり。
何で、どうして!?
あたしの思う通りに攻略が行かないの?
heaven﹄は続編があった
挙句の果てには、バグを修正してやろうとしたのに、殺人未遂で
捕まった。
何でなの?
あたしが主役よね?
ここ、ゲームの世界だもの。
そういえば、﹃seventh
1092
っけ。
うんうん。確か、﹃seventh
gate﹄だったわ。
出たばっかりでまだやり込んでなかったけど、先行して小説は出
てた。
乙女ゲー雑誌に連載されてたのよ。
世界観そのままで、攻略キャラもほとんど変わらずに、でも、主
役が変わってた。
今度はお嬢様だったから、そこまで興味は沸かなかったけど、人
気としては前作よりもいいって評判だった。
キーキャラの設定をがらりと変えたからってことと、王道キャラ
の1人が誰かと交代したせいで男の人もゲームしやすくなったとか
聞いたし。
乙女ゲーを男がやるってキモいからどうでもいいや。
警察のおじさんたちは、あたしが何度も説明してやってるってい
うのに理解しない馬鹿ばかり。
挙句の果てには溜息ついて、精神鑑定とか言い出すし。
ホント、ばっかじゃない!?
しかも妙なこと言い出すしさ。
パパとママがあたしの本当の両親じゃなくて、おじいちゃんがパ
パで、ママはメイドさんとか。
しかも、メイドなママをおばあちゃんが誰かに頼んで殺しちゃっ
たって。
他にもお兄ちゃんがいたのに、それもおばあちゃんがって、どこ
のメロドラマよ?
ママはママじゃなくてお姉ちゃんだって。
それじゃ、あたしが主人公じゃなくなっちゃうじゃない。
ヒロインはあたしなんだから!
でも、紅蓮君が変なこと言ってたわ。
1093
あたしがバグだって。
そんなはずない! だって、あたしが主役なんだし。
格子付きのどっかの寮みたいなところに入れられて何日か経って。
ママが頭の良さそうな女の人と一緒に来た。
あたしを連れて帰ってくれるって。
遅いじゃないの!
手続きがあるからまた後でって言ってどっかにいっちゃった。
そうしたら、今度は男の人が来た。
﹁東條の家を継ぐのは凛様、あなたですよ。さあ、御不自由をおか
けいたしましたが、こちらにどうぞ﹂
にっこり笑ったおじさんは、どこかの弁護士さんみたいな人だっ
た。
ほら、ドラマとかで見るでしょ?
黒いスーツ着て、ピンバッジつけてる。
銀縁メガネまでしててさ、完璧よね。
その人があたしを車に乗せて連れて行ってくれたのは、高そうな
ホテルだった。
しかも、スイートだかセミスイートだかわかんないんだけど、最
上階近くのやっぱりものすごく高そうな部屋で、超可愛い作りだっ
た。
めちゃくちゃ豪華!! すごい!!
﹁御屋敷の準備がございますので、しばらくの間、こちらに滞在し
てのんびりとお過ごしくださいませ﹂
そう言って、おじさんが世話係だって連れてきたのが、これまた
弁護士さんみたいな女の人だった。
こっちもいかにも! 的な人。
高そうなベージュのスーツで、美人じゃないけど頭がよさそう。
1094
赤縁のメガネで、穏やかそうな人。
﹁凛様、あちらにお召し物を用意しておりますので、お気に召され
たものに御着替えくださいませ。ああ、その前に、バスルームへご
案内いたしましょう﹂
そう言って、その女の人はあたしをバスルームへ案内してくれた。
わかってるじゃん。
あそこ、シャワーは使わせてくれたけどさ、すっごく不便で嫌だ
った!
しかも、掃除も自分でしなきゃいけないなんて最悪!!
でも、ここはホテルだから、好きなように使って片付けしなくて
いいんだもの、最高よね。
それから数日間、あたしはその部屋でのんびりと過ごした。
男の弁護士さんは、あたしをホテルに連れて来てからは会ってな
い。
女の弁護士さんの方はずっとつきっきり。
とは言っても、1人にしてくれるし、必要なときにはいつでもい
るし、いろんな話を教えてくれるし、欲しいものも用意してくれる。
すごく便利な人だわ。
こういうのを有能な人っていうのね。
でもさ。
ゲームじゃこんな展開ないのよね。
シナリオはずれてるわ。
どうやったらシナリオに戻れるのかな?
部屋の中はいつも快適。
欲しいものは全部揃ってるしね。
1095
でも、たまには外に出たい気もする。
いつまでここにいればいいのかな?
でも、テーブルの上に置かれたフルーツ盛り合わせって、なんか
すごくない?
自分で好きなものが食べられるように、ちゃんとフルーツナイフ
も用意されてるし。
それを毎日何回も取り換えてくれるし。
タワーのように積み上げられてるそれを見るのは、テンションあ
がる。
一応、リンゴの皮むきくらいはできるのよ?
だから、試しにむいて食べてみたら、ものすごく美味しかった。
ナイフなんてするするってよく切れるし。
上手ですねって、女の弁護士さんも言ってたくらいの腕前なんだ
から、あたし。
そんな弁護士さんが、面白いことを教えてくれた。
相良瑞姫、あの女が展示会を開いてるんだってさ。
友禅作家? 着物に絵を描くやつだっけ?
あいつ、そーゆーのらしい。
お嬢様なのに、変なの。
まあ、いいわ。
その展示会をしてて、そこにいろんな人がくるらしい。
それで、そこから離れたところで車に乗って帰るんだって。
ふうん。チャンスじゃない?
あの女がいなきゃ、皆、あたしのこと好きになるんでしょ?
バグは正さなきゃ。
今度こそ、間違えないようにしないとね。
あたしは、女の弁護士さんに散歩に行きたいと言ってみた。
﹁ええ、どうぞ。ずっとお部屋にこもっていても退屈でしょうし、
偶には気分転換も必要ですものね﹂
1096
そう言って、その人はバッグとかの小物を見繕ってくれた。
﹁歩きすぎては疲れますから、ホテルを出て少し歩いたら、タクシ
ーに乗って回るのもいいですよ﹂
お札が結構たくさん入ったお財布まで用意してくれた。
御嬢様っていいわね。
あの女に思い知らせたら、このお金でどっかに旅行っていうのも
いいかもしれない。
あたしが生きてた日本と違って、ここ、四族だとか葉族とかって
いう貴族みたいな特権制度的なものがあるし。
確か、公式ファンブックに四族とか葉族とかの説明書いてたけど、
あんまりよく覚えてないのよね。
侯爵とか伯爵みたいなものかしら?
ゲームの中じゃ、グループ分け程度にしか出てこなかったからわ
かんない。
細かいところ気にしたってしょうがないか。
そう思ってふとテーブルの上のフルーツナイフが目についた。
あ、あれ。持っていこうっと。
最近、何かと物騒だもの。
護身用に必要だよね。
ホテルを出て、タクシーに乗って、聞いていた場所へと行ってみ
た。
本当に聞いていた通り、あの女がビルから出て来たわ。
すごいすごい! チャンスじゃない!!
あの弁護士さん、本当に有能ね!
じゃあ、ちょっとバグを片付けなきゃ。
あたしはバッグの中からナイフを抜き取る。
﹁ふふっ 今度こそ、間違いなく消してあげるから﹂
1097
そう呟いて足を踏み出した時だった。
﹁確保!!﹂
がしっと誰かに肩を掴まえられ、近くで叫ばれた。
﹁ちょっと! 邪魔よ!! 放しなさいっ!!﹂
﹁大人しくしろ!﹂
﹁凶器、刃渡り10cm程度のナイフのようです。こちらも確保!﹂
誰かががしっと右手首を掴み、フルーツナイフをもぎ取った。
﹁やめてよっ!! 邪魔しないで!! いらない物を消すんだから﹂
思いっきり暴れようとしたけれど、押さえつけられてびくともし
ない。
﹁もうっ!! 放して!! 邪魔だったら!!﹂
あの女が行っちゃう!!
疾風君があたしに気付かない。
どうしてよ!?
﹁⋮⋮あーあ⋮⋮東條の人間って、皆、こんなカンジばっかりだな﹂
どこかで呆れたような声が聞こえる。
﹁バカばっかりの分家と一緒にしないでよ! あたしは東條凛よっ
!!﹂
この世界は、あたしのためのものなんだから!
モブが邪魔していいわけないのよ!
ムカつく!
ホントにムカつく!!
どうして思い通りにならないの!?
1098
憤るあたしを無視して、またしても狭い部屋に押し込められる。
今度は、野暮ったいスーツの女の人があたしの前に現れた。
﹁東條凛さん、で、間違いないですね?﹂
﹁そうよ。それがなに?﹂
あたしは間違ったことをしていないわ。
なのに、誰もがあたしを責める。
いらないわ、こんな世界。
ねぇ、神様。
こういいわ、こんな世界。だから、いつでもリセットしていいわ
よ。
早く2周目に入ってよ。
﹁相良瑞姫さん殺害未遂の容疑があなたにかかっています。何故、
このようなことを?﹂
﹁あいつ、バグだからいらないのよ。あたしがこのゲームの主役な
のに。この世界の主役はあたしだって決まってるのに、思い通りに
ならないやつを消して悪いの?﹂
何度も言ったセリフ。
いつもはこれで変な顔をされるけれど、この人は違った。
﹁あなたが知っている相良瑞姫さんについて話していただけますか
?﹂
﹁八雲様の妹よ。八雲様は1つ上の3年生だったはずなのに、何故
か5歳も年上になっちゃってた。それに、相良瑞姫は完璧なお嬢様
って呼ばれてて、腰ぐらいまでの真っ直ぐな髪だったのに、ショー
トになってて、しかも男の子の制服着てるんだもの。最初は八雲様
かと思ったわ﹂
﹁では、何故、彼女が男子生徒の制服を着ていたか、御存知?﹂
﹁知るわけないでしょ!? あんな奴﹂
1099
﹁⋮⋮不思議な話ですよね。あなたと相良瑞姫さんが会ったのは、
3回だけだそうです。様々な目撃証言を集めて確認しました。4月
の始業式の日、それから授業で1回、そうしてあなたが階段から突
き飛ばした時。それなのに、何故、あなたはさも相良瑞姫さんのこ
とを知っているように話されるのですか?﹂
﹁だからーっ!! それは、ゲームで何回も邪魔されて⋮⋮﹂
﹁⋮⋮今回は、邪魔されました?﹂
そう言われて、ふと気づく。
﹁そう言えば⋮⋮全然?﹂
八雲様の弟君だと思い込んで探し回ってたのに、全然会わなかっ
た。
なんで?
﹁彼女が何故男子生徒の制服を着ているのか、その理由もご存知で
ないわけですね﹂
﹁それが、何よ?﹂
﹁数年前、事件に巻き込まれて、それこそ生死にかかわる大怪我を
負ったそうですよ。一生消えないかもしれないという傷が身体中に
残っているそうです。本当はこういうことをお話しするのはいけな
いことなのですが、あなたには必要だと思われますので、許可をい
ただいております﹂
そう、女の人があたしに言う。
﹁事故?﹂
何だろう?
記憶に引っ掛かった。
聞いた、ううん。見た覚えがある。
事件。
﹁あなたがつきまとっていた諏訪伊織君とその従姉妹の諏訪詩織さ
んを誘拐しようとしていた犯人たちによって、彼女は害された﹂
﹁⋮⋮え?﹂
何だろう。
1100
見た覚えが⋮⋮。
伊織君は詩織に失恋してなかった。
王道攻略キャラが入れ替わっていた。
それって⋮⋮嘘。
﹁heavenじゃなくて、gateってこと!?﹂
どういうこと!?
あたしがいるのに、heavenじゃない!?
嘘よ、あたしがモブなんて!!
主役はあたしよ!!
﹁東條凛さん?﹂
混乱するあたしの名前を女の人が呼ぶ。
heaven﹄の主役なんだから!!
そうよ、あたしは東條凛よ!!
﹃seventh
ええっと、でも、gateの主役は誰だっけ⋮⋮確か、確か⋮⋮。
﹁⋮⋮安倍りん⋮⋮﹂
うそ。
あたし、だ。
うそうそうそっ!!
あたしじゃない!!
東條に引き取られる前のパパの名字!!
あのやたらとお金持ちっぽいパパのお兄さんたち!!
あっちに行けばよかったの!?
じゃあ、今のあたしって、モブ以下!!
呆然としたあたしに、女の人は根気よく説明してくれた。
そうして、あたしも彼女の質問にぼうっとしながら答える。
何で私が死んで、ここに来たのかはわからないけど、そのあとの
1101
事は理解できた。
あたしは、最初の選択で間違ったんだ。
パパが生きてれば、こんなことにならなかった。
引き留めてれば、パパは生きてて、普通に生活できてた。
だって、あたし、安倍凛の記憶がないんだもん。
これからどうやればいいのか、全然わかんないってことはよくわ
かる。
元の学校に戻ることはできない。
凛の友達、知らないんだもの。
話なんて合わないし、きっと向こうもあたしのことを忘れてる。
友達ってそんなものだから。
それに、あたしはパパに対する殺人幇助と相良瑞姫に対する殺人
未遂の容疑があるんだって。
まあ、それはホントのことだから。
あいつがいなきゃと思ってたから。
理解できたら、余計なことまで思い出した。
相良瑞姫って、ライバルキャラだけど、悪役じゃないのよね。む
しろ、キーキャラだった。
彼女との会話で攻略がわかるの。
東條凛の駄目なところを教えてくれて、こうした方がいいって注
意してくれるキャラだった。
友達にはなってくれないけれど、要所要所で助言をしてそれをク
リアできればフラグが立ったり、回収できたりするんだっけ。
ただし、彼女自身が完璧なお嬢様だから、クリアできるレベルは
鬼だけどね。
なんで忘れてたのかな⋮⋮。
あたしはぼんやりと天井を見上げる。
白い、白い、パネルの天井。
高くなくて、むしろ低くて圧迫感がある。
1102
あたし、これからどうすればいいんだろ。
どうやって生きていけばいいのかな。
お願い、だれか、教えてよ⋮⋮
1103
138
﹁以上、報告と相成ります﹂
颯希が淡々とした口調で今日あったことを報告してくれる。
だが、その内容に頭を抱えたくなってしまったのは仕方ないと思
う。
何やってるのかな、橘の当代殿は。
未だにその感想しか出てこない。
今日会って話をしたから、すぐに対応できるような人ではないと
は思っていたけど。
ホント、何やってるのかな⋮⋮。
颯希からの報告は、こうだ。
いつも通りに法要を済ませ、その後、取り上げの四十九日法要に
移り、納骨まで行った。
ここまではいい。
だが、問題はここからだ。
法要を行ってくださった導師様にお礼を申し上げているところに
当代殿と在原様が到着。
その後、ひたすら橘誉に謝り倒していたそうだ。御導師様にお礼
も言わずに。
まず、順番が違うだろう。
法要を行ってくださった御導師様に礼を尽くしてから、内輪に移
1104
るべきだろう。
その場を治めたのは当然誉と在原様だったそうだ。
その時、御導師様が仰ったそうだ。
﹃賢は愚より生まれる﹄と。
ひどく納得しそうになったと颯希がぽそりと呟いたのが心に痛い。
だが、それも微妙だと思う。
普通のことをすることが賢く見えるというのは、愚かだと見える
行いがあまりにも周囲からひどく見えるということだ。
誉は確かに賢いが、賢しらに知恵を見せるタイプではない。
堅実にひとつひとつ丁寧に基礎を積み上げていく、見た目に反し
て地味な手順を好んでいる。
諏訪よりも遥かに華やかな容姿をしているのに、彼よりもまった
く目立たないというのはそういうことだ。
それもまた知恵であり、賢さだと指摘されているのかもしれない
が。
前に出るのではなく、一歩引いて必要なところを押し上げていき、
全体のバランスを整えていくことを得意とする誉もまた、当主とし
ての才に恵まれているのかもしれない。
しかしながら、それを活かせる家ではなかった。
そのことは現当主の不備だ。
その後、当代殿が現れたことを知った分家の者たちが、お寺に押
しかけたそうだ。
取り上げで四十九日が終わったとはいえ、喪は明けてはいない。
それを知っているはずなのに、話題はいつも通り次の当主夫人と
跡継ぎについて、だ。
その騒ぎを一喝したのが在原様だった。
全員を本家に移動させ、その際、各家の弁護士を呼びつけたそう
だ。
1105
颯希は他家の者であるにもかかわらず、護衛であるからとひっそ
りと気配を消して誉の傍で一部始終を見ていたようだ。
もちろん、誉と在原様が赦したからできたことである。
むしろ、在原様は誉の安全のために颯希を置いたのだろう。
そこで在原様が何をしたのかというと、弁護士に各家の財産目録
を至急作成し、提出させること。彼らが経営している会社の状況も
同じく大至急報告書を作成して提出する。
さらには経営権をすべて取り上げ、本家に返すことを命じ、ここ
に来た者は全員謹慎蟄居の上、近日中に橘の名を取り上げ、分家と
して潰すことを告げたそうだ。
本家の命に背くようであれば、相応の制裁を科す。今回、こちら
に来なかったものもそれまでの対応を見て、同じく処分を与える。
今まで己の利を追求し、本家を思い通りに動かそうとしていた者
たちには重い、重すぎる処分に思えたのだろう。
反駁した者たちに、在原様は一言仰ったそうだ。
﹃本家に離反したのだろう、死ぬか?﹄と。
本家あっての分家、その逆も然りだが、本家に添う者が恣にする
ことは赦されない。
おそらく、数家はその処分が下されるだろう。
そのことを察知した彼らは押し黙ったそうだ。
これで不正などをしていて見つかれば、本当に自死に追いやられ
るということだ。
名家として負うべき誇りを失えば、取る道の2つに1つだ。
そこに同情は生まれない。
生真面目に、逐一必要事項を報告した颯希は、私の顔をじっと見
る。
﹁どうした?﹂
﹁あ。いえ⋮⋮瑞姫様は、この結末をご存知でしたか?﹂
﹁どうして?﹂
1106
﹁全く驚いているようには見えません。むしろ、当然のように受け
止められているように思われましたので﹂
﹁うん、そうだね﹂
当主として取るべき行動は、在原様の指示以外にもまだ道がある。
だが、そのことには触れず、私は頷く。
﹁橘家が次代を守るつもりなら、そのような方法を取るだろうと考
えていたよ﹂
﹁⋮⋮次代様⋮⋮誉さまのことではないのですか?﹂
﹁今のところは、誉も含む、かな? 在原様は、最終的には当代殿
に再婚を進めるだろう。誉に跡を継がせたいと思っていらしてもね﹂
﹁継がせたいと?﹂
﹁そう。在原家の次代と誉は懇意だ。両家共にある未来を考えるの
なら、誉を次の当主と推すのが望ましい。誉にはその資質がある。
当代様よりもね﹂
﹁⋮⋮それは、確かに﹂
﹁誉はそのことを全く望んでいない。跡を継ぐことは義務だと思っ
ていたけれど、その楔が外れてしまった今、由美子さま、真季さん
の意思に従い、誉の気持ち通りに家を出ることが一番いいことだと
思う﹂
﹁それは⋮⋮﹂
﹁橘家にとって、最大の損失だろうね。当代殿にとって、これ以上
の罰はないだろう。でも、受け入れなければならないことだ﹂
そう言葉を切って、ふと頬を撫でる風に気付いた。
窓は空気を入れ替えるために開け放たれている。
外と異なり、敷地内はいたるところに緑が溢れている。
それゆえ、庭を渡る風は清涼感を伴い、とても涼しげだ。
母屋の方は殆ど空調設備を使う必要がないくらいに、夏は快適に
過ごせるほどだ。まあ、その分、冬は寒いけれど。
作り自体が違うため、私の住む棟は空調設備がなければ夏は暑い。
それでも今は必要としないほどの爽やかな風が吹いている。
1107
それが、心を落ち着ける。
この風が誉の所にも届いているといい。
﹁家も大事だが、それは人を損なってまで存在し続けるものであっ
てはいけないと思うよ、私は。力を削いでしまった家というのは、
それが原因じゃないかなって私は思う﹂
﹁はい﹂
神妙な顔で頷いた颯希は、ふと息を漏らす。
﹁僕は、岡部の家に生まれて来て良かったと思いました。こうして
瑞姫様に御仕え出来ますし﹂
﹁私も相良で良かったと思うよ。さっちゃんも疾風も傍にいてくれ
るからね﹂
のんびりと穏やかな空気が漂う。
﹁今日は疲れただろう? 下がってゆっくり休んでくれ﹂
﹁はい。あの﹂
﹁ん?﹂
﹁誉さまをこちらにお招きしてもよろしいですか?﹂
﹁構わないけれど、何故?﹂
﹁誉さまも癒されたいのではないかと思いまして﹂
誉を癒す?
どうすればいいんだろう。
﹁ああ、うん。今、疾風と一緒だよね?﹂
﹁はい﹂
﹁じゃあ、2人に良ければ足を運んでくれって伝えて?﹂
﹁かしこまりました﹂
綺麗なお辞儀をして颯希が部屋を出ていく。
癒すって、どうすればいいんだろう?
とりあえず会ってから考えるべきかな。
そう思って、私は御茶の用意をすることにした。
1108
++++++++++ ++++++++++
﹁瑞姫?﹂
疾風と橘が不思議そうな表情を浮かべてやって来た。
﹁呼んでるって聞いたんだけど⋮⋮﹂
﹁ん?﹂
さっちゃん、何て言ったんだ?
﹁ええっと⋮⋮お茶しない?﹂
とりあえず用意していたティーセットを示して言えば、2人とも
瞬きを繰り返す。
﹁⋮⋮颯希⋮⋮﹂
くっと疾風が目頭を押さえる。
﹁あの莫迦﹂
﹁えーっと、さっちゃん、何言ったの?﹂
思わず確認したら、橘が苦笑を浮かべる。
﹁いや。瑞姫が呼んでるとだけ⋮⋮な? 岡部﹂
﹁ああ。そう﹂
絶対違うな。
何か勘違い起こしそうなことを言っちゃったんだな、きっと。
誤魔化さなきゃいけないようなことを。
﹁⋮⋮さっちゃん⋮⋮﹂
﹁いや!! 颯希に悪気はないと思う!﹂
妙に慌てまくった疾風が私を制止する。
こういうところは兄だよな。
ちゃんと弟を庇ってるし。
﹁まあ、いいけど。うん。おなか、すいたでしょ?﹂
1109
夕食までに小腹を満たすくらいは許されるはずだ。
育ち盛りということで、この棟には日持ちするお菓子の類がわり
と多い。
兄姉たちのお土産やパティシエ特製のおやつだったり。
食が細いわけではないが、傷を癒したり身体の成長を促すにはま
だまだ栄養が足りないと周囲は考えているようだ。
充分だと思うけれど、甘いものが特別好きだというわけではない
し。
正直に言うと、ケーキよりは煎餅やおかきの方が好きだ。
求肥とかも好きだけど、あれは眺めるのが楽しいので、量はいら
ない。
キャラメルとかも普通の半分ぐらいの量で充分すぎるほどだ。
そういう話をすると、イメージに合わないとよく言われるが。
﹁俺、煎餅がいい﹂
﹁疾風、紅茶だよ?﹂
﹁⋮⋮ザラメならあうかも﹂
お茶菓子のある場所をよく知っている疾風が煎餅を取り出そうと
したので、用意していたお茶を告げれば、しばらく葛藤した後、微
妙な答えを出す。
﹁うん。お腹にたまれば何でもいい年頃だからね、俺達﹂
ぽんっと疾風の肩を叩いた橘がフォローにならるのかならないよ
うなことを言う。
﹁味と組み合わせは、それなりに重要だと思う﹂
﹁まあ、それなりにね﹂
私の主張を軽く流した橘はくすくすと笑っている。
どうやら、小腹を満たすためならバランスは無視できるらしい。
実に納得がいかないが、人それぞれと諦めるべきか。
溜息を吐けば、2人とも楽しげな笑い声を響かせた。
今日あったことの情報交換を軽くする。
1110
あらかじめ、疾風と橘の間でも話しておいたのだろう、説明は簡
単だ。
橘の所の話は、颯希から聞いていたこととほとんど一緒だ。
主観が異なるため、少し違う部分がある、という程度。
﹁大神も仕方がない奴だな﹂
苦笑を浮かべた橘が呟く。
﹁自業自得だ﹂
それをにべもなく斬って捨てる疾風。
﹁でも、ああなるのも仕方がない。大神も手がないからね﹂
﹁⋮⋮情報を集める人間が不足している、という意味か?﹂
橘と疾風が言っていることの意味がわからず、思わず確認する。
﹁いや。そっちの手じゃないよ。大神は外からのイメージよりも遥
かに子供だという意味﹂
﹁大神が、子供?﹂
﹁諏訪よりも、もしかしたら、ね﹂
﹁⋮⋮意味が、わからない⋮⋮﹂
﹁気になるものがあって、それの気を引きたいときに取る行動が悪
戯だってこと﹂
﹁ああ! そういうことか﹂
蘇芳兄上がよくやって怒られていたやつか。
子供の時に虫を集めて菊花姉上にプレゼントして、盛大に蹴りを
入れられて肋骨折ったという話を聞いたことがある。
どうやら兄として尊敬してほしかったらしいが、派手に裏目に出
たと柾兄上が笑って八雲兄上に教え込んでいた。
そこから学んだ蘇芳兄上は、所謂ダンゴ虫やミミズではなくカブ
トムシやクワガタをよちよち歩きの私にプレゼントしようとして、
やはり八雲兄上に見事に阻止されたそうだ。
学んでも成長はできなかったと、未だに言われている。
対外的な評価はその見た目の良さから非常に高い蘇芳兄上だが、
家の中での評価は非常に残念な人なのだ。
1111
身内の評価というのは、実に残酷だ。
﹁つまり、大神は残念な奴だったということか!﹂
合点がいったと頷けば、堪えきれずに噴き出した疾風がソファに
沈んだ。
﹁何その大神の評価⋮⋮聞かせてやりたい⋮⋮いいザマだ﹂
くっくっくっくと肩を揺らし、咳き込みそうになるまで笑ってい
る。
﹁⋮⋮まあ、その評価が一番堪えるだろうね﹂
肩をすくめた橘がそう断定し、困ったような表情になる。
﹁違うのか?﹂
蘇芳兄上と同類かと思ったのだが、どうやら異なるようだ。
﹁評価の基準は人それぞれだからね。瑞姫がそう思ったのなら、そ
れでいいと思うけど﹂
どうやら2人とは基準が違うということだけはわかった。
﹁まあ、いいや。大神のことは、千瑛に任せる﹂
﹁報復しないのか?﹂
﹁したらそれで終わりだろう? 他の方々の手腕を見せていただい
てから考えることにする。独創的なものがいいのか、それとも堅実
を狙うべきか、参考にさせてもらうとしよう﹂
﹁それもいいな。さぞかし怯えることだろうな、あいつ﹂
にやにやと楽しげに笑う疾風。
最近、すっかり性格が悪くなってしまったようだ。
こと同性相手だと容赦ない。
ふとその時、橘がわずかに顔を顰めた。
ほんの少し曇る表情。
疲れているんだなと、気付く。
癒しは確かに必要そうだ。
さて、どうしたものかと考えを巡らせる。
自分の身に置き換えてみると、兄姉たちも父たちも同じことをし
ていることに思い当たる。
1112
兄や父だと硬くて痛いが、それさえ我慢すれば確かに安心できて
癒されるかもしれない。
姉や母だと完璧だ。気持ち良い。
﹁誉、そこ座って﹂
私はソファの隣を示す。
﹁え?﹂
﹁そこ﹂
すぐ隣ではなく、半分ほど間隔を空けたところを示せば、不思議
そうな表情をして橘は指示された場所に腰かける。
﹁頭、ここ﹂
ぽんぽんと自分の膝を叩いて見せれば、ぎょっとしたように立ち
上がり、ものすごい勢いで向かい側のソファに座る疾風の後ろに隠
れた。
﹁ちょっ!! 瑞姫っ!?﹂
﹁なっ! なにっ!!﹂
何故か疾風まで驚いて立ち上がってる。
なんでだ?
﹁瑞姫!!﹂
﹁ん?﹂
﹁何考えてる!?﹂
﹁んー? 誉、疲れてるみたいだから、休んだらいいかなあと思っ
て﹂
﹁だからどうしてそれが膝枕になる!?﹂
﹁癒されない? 兄上や姉上は、私が疲れてたら必ず膝枕するし﹂
﹁いやいやいやっ!! それ、まずいから!!﹂
﹁八雲様にバレたらシめられる!! 絶対ダメだって!﹂
﹁⋮⋮なんで?﹂
何で八雲兄上がシめるんだ?
それより、何故そこまで疾風にしがみついて怯えてるんだろう、
橘は。
1113
それは私に対してあまりにも失礼ではないだろうか。
﹁身内でない男にそういうことやったら駄目だから!﹂
﹁駄目なのか?﹂
﹁そう!﹂
﹁前に誉にしてもらったことがあるような気が⋮⋮﹂
﹁俺からならいいけど、瑞姫は駄目!﹂
何故駄目なんだろう?
﹁岡部∼っ!!﹂
﹁すまん、橘。相良の皆様はスキンシップがわりと派手で、特に瑞
姫に対してはアレでな。それに慣れてるから、こーゆーのに欠けて
るんだ﹂
﹁うん。姫の意味がよくわかったよ﹂
2人で手を取り合って納得しているけれど、何を言っているのか
よくわからない。
そのまましばらく言い合いが続き、夕食の時間が来たので、彼ら
に肝心なことを伝えるのを忘れてしまったことに気付いたのは、就
寝前のことだった。
1114
139
予定を伝えねばと思いつつ、色々と準備に追われて数日後。
久々に庭をスケッチしようかと思い、橘を誘う。
デザインを考えるのに、うちの庭はとてもいい材料が揃っている
と思う。
橘も二つ返事で頷いてくれたので、疾風も一緒に母屋から庭に向
かおうとした。
﹁瑞姫っ!!﹂
背後から賑やかな声が響いたと同時に疾風が私の背後に立つ。
がっともどこっとつかぬ重い音がした直後、さらにごつっと鈍い
音が響いた。
﹁瑞姫∼っ! 今日も可愛いな!! さすが、俺の妹﹂
ひょいっと抱き上げられた後、頬擦り攻撃が繰り広げられる。
何が起こったかというと、蘇芳兄上が突進してきたのだ。
ものすごい勢いだったので驚いた疾風が蘇芳兄上を一時的にブロ
ックしたのだ。
兄弟の中で一番の武闘派である蘇芳兄上を一撃とはいえ、防いだ
疾風は驚嘆に値する。
2m近くもある長身についた筋肉は飾りではなく、むしろ実践の
みの無駄のないものである。
鬼の寿一と呼ばれる大叔父様と唯一同列に渡り合えるのは蘇芳兄
1115
上だけであろう。
父様ですら、大叔父様には到底かなわないと仰るほどなのだ。
その蘇芳兄上の一撃を防げた疾風は実に随身の鏡だと言えるだろ
うが、次の手は悲しいことかな、無理であった。
一撃の力を相殺する間もなく、ぽいっと投げ捨てられたのだ。
それが次に響いたごつっという鈍い音だ。
とりあえず受け身を取って転がれたので大事に至っていないよう
だが、廊下の上で転がる疾風にハラハラしてしまう。
﹁⋮⋮は、疾風⋮⋮﹂
蘇芳兄上の顔を押しのけ、声を掛ければ、板張りの上で転がった
まま、疾風がひらひらと手を振って無事を知らせてくる。
よかった。
怪我はないようだ。
﹁⋮⋮こんのぉ⋮⋮馬鹿力!﹂
呻く疾風の声にはまぎれもない怨嗟の響きが。
﹁はっはっはっは! 甘い、甘い! 俺を止めるなんざ百年早いわ
っ!!﹂
楽しげに笑う蘇芳兄上は、最初から疾風で遊ぶつもりだったのだ
ろう。
何かとてもいいことがあったのか、始終ご機嫌の蘇芳兄上だ。
もともと陽気な気質ではあるが、それに輪をかけて賑やかな気配
を振りまいている。
﹁にしても、瑞姫が元気で俺は嬉しいよ﹂
にこにこと笑った蘇芳兄上の視線がふと降りる。
﹁お。誉君だ﹂
私の傍にいた橘にようやく気が付いたらしい。
﹁うん。君はいい男だな﹂
唐突に不可思議なことを言う。
﹁は?﹂
﹁待てができる男はいい男だと、うちの嫁が言っていた﹂
1116
﹁え?﹂
蘇芳兄上が口にした言葉を首を傾げて考える。
﹃待て﹄とは、多分、先程のことだろうか。
疾風が蘇芳兄上をブロックした時のことだ。
橘も一瞬、身構えたのだ。
相手が蘇芳兄上だとわかってそれを解いたのだが。
多分、そのことを言っているのだろう。
橘も護身術をある程度扱える。
皇族でありかつて朝廷で近衛を拝命していた家系ゆえ、それなり
に鍛えてあるようだ。
勿論、武将ではなかったため、うちとは雲泥の差ではあるが。
それでも相手の実力を測るくらいの力は持っている。
橘は相手が太刀打ちできない実力を持ち、なおかつ私の兄である
がゆえに私を傷付けるつもりがないことを見てとって構えを解いた
わけだ。
無意識にそれができるということは、そこそこの実力を持ってい
るという証明に他ならない。
疾風が蘇芳兄上を止めたのは、勢いのまま私を抱き上げれば、私
の傷が痛むと判断したからだろう。
この場合、どちらの判断も正しいと、私は思う。
だがしかし、おそらくだが、義姉様の言っている﹃待て﹄という
のは、蘇芳兄上の言っている言葉の意味とは違うと思う。
別の意味合いの方だと思うが、それがどういう意味なのかも状況
がわからないため判断できない。
﹁⋮⋮ちなみに、蘇芳兄上﹂
﹁ん?﹂
﹁義姉様はいつ、その言葉を仰ったのですか?﹂
﹁瑞姫みたいに抱き上げたときだ﹂
﹁⋮⋮⋮⋮⋮⋮無茶をなさらないでください。義姉様は、一般の方
ですよ?﹂
1117
兄上の突撃の圧力にとても耐えられるとは思えないのですが。
そういえば、きょとんとしたような表情で蘇芳兄上が私を見る。
深雪義姉様は一般女性の平均身長はお持ちだが、2m近くある蘇
芳兄上と並べばとても小さく見える。
しかも、物心つく前から鍛えてきている私たちとも異なり、ごく
一般的な生活しかしていない女性だ。
とてもじゃないがあの圧力に耐えられるとは思わない。
気力精神力の意味では、かなり強い女性だと思うけれど、肉体的
な意味では本当にごく平均的な強さしか持ち合わせていないと思う。
危険だ、とても危険。
私たちから見れば、とても小柄で可愛らしい女性で、パワフルで
内面は強いとわかっていても、相手が蘇芳兄上ならどう考えても危
険すぎる。
﹁わかった。これからは気を付ける﹂
ちょこっと首を傾げた蘇芳兄上は、素直に頷いた。
根は素直な方なんだ、本当に。真っ直ぐすぎて一直線だけど。
楽しくなると全部忘れちゃうってところが問題だが。
きちんと話は聞いてくれるし、改めてもくれる。
残念感が漂っちゃってるけれど、頭も実はものすごくいい。
完全に理数系なのだ。
何たって、中等部からすべての試験で理数はパーフェクトで一度
もミスったことがないのだから。
その分、語学は散々だったと聞いている。
だからというわけではないが説明が苦手で、質問をされても相手
が何をわかっていないのかが理解できないと零すことも多々ある。
﹁そうしてください﹂
﹁ん。瑞姫はいい子だな﹂
ぐりぐりとまた頬擦りしてくる。
どこか呆気にとられている橘の視線が微妙に痛い。
1118
私を抱き上げたまま頬擦りを堪能していた蘇芳兄上は、再び橘へ
と視線を向ける。
﹁橘家の件は、俺も知っている。他家が余計な手出しをしないよう
には手を打っているが、必要なことがあれば言ってくれ﹂
﹁ありがとうございます。感謝いたします、ですが、相良家の皆様
のお手を煩わせるようなことがあっては⋮⋮﹂
﹁瑞姫のためだ。瑞姫が友を気に掛けるのなら、その憂いを晴らす
ためのことをする﹂
にっと笑った蘇芳兄上が、気にするなと橘に告げる。
﹁その⋮⋮こういう言い方をしては何ですが、意外でした﹂
﹁そうか? 俺は将だからな。柾が大将で指示を出す。俺は現場で
派手に動くのが仕事だ。俺が目立てば、八雲も茉莉も菊花も目立た
ず目的を果たせるだろ?﹂
蘇芳兄上の笑みは獰猛だ。
なまじ顔が良いだけに迫力がありすぎる。
肉食獣が獲物を見つけたときのようなイメージがある。
﹁俺がやるのは、味方の被害を少なくして、相手の被害を甚大にし
てやることだ。それが将の仕事ってもんだ﹂
﹁では、瑞姫は?﹂
﹁瑞姫は楔だ。すべての基点になる。差すか抜くかの判断をするの
が役目だ。一度楔を引き抜いたら、あとはすべてを押し流すだけだ
がな﹂
﹁そんな物騒なことは致しません﹂
﹁だから、自慢の妹だ﹂
だから、蘇芳兄上。
小さい子ではないので、そうすりすりしないでください。
おひげが痛いということはありませんが、何かがすり減っていく
ような気がしますので。
﹁あ。そうそう! 瑞姫、郷に行く予定あるだろ?﹂
1119
堪能したとばかりに笑顔になった蘇芳兄上が私に問う。
﹁はい。約束がありますので﹂
﹁じゃあ、深雪を一緒に連れて行ってくれるか? 挨拶があるんだ﹂
﹁深雪義姉様を? それは構いませんが、兄上がお連れしなくても
いいのですか? それに挨拶って﹂
郷で挨拶って何だろう?
ものすごく良い事であるのは蘇芳兄上を見ていればわかるのだが。
﹁俺も後から追うけれど、瑞姫と一緒の方が安心だし、ゆっくりと
した行程になるから安全だ﹂
﹁⋮⋮はあ⋮⋮﹂
安全?
﹁もーっ!! 蘇芳くんったら!! 瑞姫ちゃんを放しなさいよ!﹂
どかっという音と共に、ほんの少しだけ蘇芳兄上が揺れる。
﹁おお、嫁か!﹂
﹁嫁か、じゃない!! 瑞姫ちゃんに無茶したら、その髪の毛とう
っすらしたすね毛も全部手で毟ってやるわよ!!﹂
憤然と兄上を蹴る我が家レベルで小柄な女性は、蘇芳兄上のお嫁
さんである深雪義姉様であった。
げしげしと遠慮なく蹴り上げても、残念なことに蘇芳兄上には全
くダメージがない。
﹁それは痛そうだな﹂
痛そうという割には笑ってますけど、兄上?
﹁放しなさい! でないと、瑞姫ちゃんをいじめたって八雲君に言
いつけるわよ?﹂
にこやかに脅す深雪義姉様の言葉に、蘇芳兄上は渋々と私を廊下
に降ろした。
﹁八雲に怒られるくらいはかまわんが、あまり大きな声を出すな、
深雪。胎の子が驚くぞ﹂
﹁あら? 蘇芳くんの子がこんなことで驚くわけないじゃない。出
来の悪いお父さんで呆れてるわよ﹂
1120
﹁え?﹂
思わず深雪義姉様と蘇芳兄上を見比べる。
﹁御子が?﹂
﹁蘇芳くん、まだ言ってなかったの?﹂
きょとんと深雪義姉様が兄上を見上げる。
﹁瑞姫が可愛かったから﹂
﹁それは仕方がないわねぇ﹂
﹁納得しないでくださいっ!! ええっ!? じゃあ、今日はその
ことを? 郷に行くのはその報告に!?﹂
蘇芳兄上の言い訳をなぜか納得してしまった深雪義姉様に訴えつ
つ、兄上に遭遇した理由を問う。
﹁そういうことなの。まだはっきりはしていないけど年末か年明け
くらいが予定なの。忙しいときにごめんなさいね﹂
﹁いえ! それは大丈夫です。おめでとうございます。茉莉姉上も
いますので、安心して出産準備をされてください﹂
思いがけない朗報に、嬉しくなって笑う。
﹁兄上、兄上!! 産着とかプレゼントしてもいいですか!? 冬
だから暖かいものの方がいいですよね﹂
﹁ううっ 瑞姫ちゃんが可愛いーっ!!﹂
お祝いに何を贈ればいいだろうかとわくわくして考えていたら、
深雪義姉様が背伸びをして頭を撫でてくる。
﹁さすが、俺の嫁。ブレないなー﹂
何故か感心したように頷く蘇芳兄上。
﹁ま、そういうわけで、郷まで一緒に行ってやってくれ﹂
﹁はい!﹂
深雪義姉様が疲れないような行程を組まなければ。
﹁疾風と、誉くんも瑞姫と一緒に行ってくれないか?﹂
﹁⋮⋮俺も、よろしいのですか?﹂
蘇芳兄上に誘われた橘が怪訝そうに問う。
﹁頼む。瑞姫がはしゃいでるからな、ストッパーは多い方がいい﹂
1121
苦笑した兄上に、ちょっとムッとする。
﹁兄上、失礼です!!﹂
﹁そうよ、蘇芳くん! 瑞姫ちゃんに失礼よ! 蘇芳くんよりしっ
かりしてるんだからね﹂
﹁⋮⋮嫁。それ、ひどい﹂
﹁なによ、顔だけ残念男! 私が嫁にならなきゃ、一生独身だった
くせに﹂
その一言に蘇芳兄上が怯む。
反論を許さない正論だ。
蘇芳兄上の外見は、所謂﹃肉食系女子﹄に大変ウケるようで、パ
ーティなどでは速攻ハレムが出来上がるとまで言われるほどだ。
兄上が妻帯者であることは関係ないらしい。
鍛え抜かれた長身とそれに見合う精悍な顔立ちで、傍に私さえい
なければ社会人としてソツなく対応できるため、妻を追い落として
もとか、愛人の座をと考える女性が群がるらしい。
まあ、中身がアレなので、早々に諦める女性も9割以上だが。
﹁瑞姫∼っ!! 嫁が酷い∼っ!!﹂
﹁いいじゃないですか、そんな兄上でもいいとお嫁に来てくださっ
たんですから﹂
﹁⋮⋮それもそうだな。瑞姫を優先してくれるなら、それだけでも
充分有難いし﹂
﹁そこが、そもそもの間違いだと思うのですが﹂
何故私を優先させる女性が嫁の条件なのかが問題だ。
まあ、とりあえず、2人に郷行きの件を伝えられたことだけでも
よしとしよう。
そう思って、私は兄夫婦に詳細を後で伝えると告げ、庭へと向か
うことにした。
1122
140
郷までの行程は、数日をかけてのゆったりとしたものだった。
慎重すぎるかもしれないが、飛行機を使っての気圧の変化で体調
を崩してもいけないし、新幹線などで長時間同じ姿勢になっても駄
目だろうということで、あちこち観光しながらの移動にしたのだ。
思いがけない国内旅行となったが、かなり楽しいものとなった。
深雪義姉様という建前上の保護者もいるため、未成年だけよりも
随分と融通が利くし。
その深雪義姉様のはしゃぎっぷりに少々はらはらしたのはとりあ
えず内緒だ。
駅にはいつものように大叔父様が迎えに来てくださって、今回は
本家の屋敷の方へ案内していただいた。
深雪義姉様はここで蘇芳兄上と合流して挨拶回りをする予定で、
私は針仕事を教えていただくために師匠の許へ数日通う。
疾風と橘は、大叔父様と鮎釣りに興じるということだ。
鮎釣りも資源保護のために、釣りをする権利を買わないといけな
いらしい。
一般人は一時的な権利を早い者順で買うようだが、うちは家です
でに持っているとのことだ。
岡部も権利を持っているので、橘はうちの権利を使うのだとか。
釣りひとつでも大変な世の中だと思うが、自然を保つためなのだ
から仕方ない。
そう思うのは、私が鮎が大好物だからだろう。
1123
美味しいのを釣ってやると言われて、それだけでご機嫌になって
しまったのだから隠しようもない。
予め、身長や身丈を調べておいたので、反物からのカットはあま
り問題がなかった。
浴衣を縫うのは今回が初めてで、色々戸惑うことは多かったが、
慣れるとそう難しいものではないとわかった。
皆、背が高いので、反物が足りるかどうか心配したというあり得
ない状況でドキドキしたが。
﹁運針は左を動かすのが基本やし。ひいさまはようできてござる﹂
御老女がほっほっほっほと小気味良く笑いながら頷く。
﹁これなら、青井さんに間に合いますな﹂
﹁あおいさん?﹂
﹁はら? ひいさまは青井さんをご存知なかとね? 上青井の青井
阿蘇神社やがね﹂
﹁ああ! その青井さんならわかります。でも間に合うって?﹂
﹁夏のお祭りがあるわいね。てっきりそれ着ておざると思うとった
が﹂
﹁ああ、そういうことですか! 夏祭りがあるってこと、知らなか
ったから﹂
﹁はらはら。なら、いきなさるとええ。花氷が涼しげで愛らしかけ
ん﹂
目を細めて笑う御老女の言葉に、手許の浴衣を見る。
﹁⋮⋮間に合うかな?﹂
﹁はい。ひいさまの分と八雲さまの分はおわっちょりますけん、あ
とは疾風ちゃんと、一緒に来なさった敦子がイケメンやぁ言うとっ
た坊ちゃんの分でしょ? 疾風ちゃんの分もそれで終わりやさけ、
坊ちゃんの分だけやね。間に合いますって﹂
1124
おっとりとした言葉の中に不似合いな﹃イケメン﹄という言葉に
笑いが零れる。
そうか、橘はイケメンなのか。
綺麗な顔立ちだと思うが、それを﹃イケメン﹄と呼ぶのかと思う
とおかしくなる。
随分幅広く言うんだな、﹃イケメン﹄とは。
くすくすと御老女と笑い合い、疾風の分の浴衣を仕上げ、屋敷に
戻った。
今回の分は3日かかった。随分早くできるようになったなと思っ
たけれど、師匠は浴衣くらいなら1日で仕上がるそうだ。
すごいな。
本家の屋敷に戻ると、意外な人が来ていた。
﹁柾兄上っ!! 蘇芳兄上も﹂
﹁おかえり、瑞姫﹂
両手を広げる柾兄上に思わず飛びつく。
﹁げっ! 柾、ずりぃ!!﹂
蘇芳兄上が柾兄上を詰っているが、そこは全く気にしない。
﹁日頃の行いだ。積み上げが大事だと言ってるだろう?﹂
実に涼しい表情で仰っている。
まったくもってその通りだと思う。
八雲兄上は大好きだが、柾兄上はもっと好きだ。
完全に刷り込みと言われても全然構わない。
﹁蘇芳は突進しすぎなんだ。待つことを覚えれば、瑞姫も飛びつい
てくれるぞ﹂
ぽんぽんと背中を叩く力加減が絶妙です。
﹁柾兄上! いつ、こちらに? いつまで滞在される予定なんです
か? 八雲兄上も一緒ですか?﹂
1125
レア度満点の柾兄上の登場に、嬉しくなって問いかける。
﹁先程到着して、一週間ほど夏休みをもらったよ。あー⋮⋮八雲は
⋮⋮﹂
気まずげに兄上の視線が泳ぐ。
﹁⋮⋮置いてきたのですか?﹂
﹁仕事、押し付けて来た﹂
﹁それは⋮⋮なんとも﹂
怒ってるだろうなぁ、八雲兄上。
お土産渡しても無理かな。
﹁たまにはいいさ。うん﹂
やったことを言っても仕方がないと、思いっきり開き直った柾兄
上が笑う。
﹁夕食、皆で一緒に食べよう﹂
﹁あ。疾風たちは?﹂
﹁もう帰ってきてるよ﹂
﹁じゃあ、支度してきますね﹂
そう言って、部屋に荷物を置いて着替える。
夕食は、いつも以上に賑やかで楽しいものだった。
夕食が終わるなり、大叔父様が疾風と橘を連れて道場へ行ってし
まう。
釣りをしていた時に稽古をつけると約束していたようだ。
日焼けして赤くなった肌をそのままに道場に行ったが、果たして
大丈夫だろうか?
あの炎症を起こした状態で畳で擦れたらもっと痛むと思うんだが。
あとで手当て一式持って部屋を訪ねてみよう。
﹁蘇芳くん、私も温泉入ってくるから、またあとでね﹂
そう言って、深雪義姉様もお風呂へ行ってしまった。
1126
残ったのは、私と柾兄上と蘇芳兄上の3人のみ。
非常に珍しい組み合わせだ。
2人とものんびりと焼酎を呑んでいる。
美味しそうであり楽しそうである。
﹁癖のある芋もいいけど、米のまろやかさもいいな。香りが違う﹂
うっそりと微笑んだ柾兄上が呟く。
﹁米はやっぱりお湯割りだよなー﹂
ぐい飲みを摘まみ、くいっと煽りながら蘇芳兄上が頷く。
﹁繊月、六調子、峰之露⋮⋮どれも美味い﹂
﹁古酒のブレンドなんかもいいやつあるぞ﹂
﹁ああ、あれか。無言といったか⋮⋮確かに名前通りだった﹂
賑やかな蘇芳兄上だが、お酒を呑むときは意外と静かだ。
間違いなくうちの家系は呑兵衛だと思う。
しかも、ざるどころか枠の家系だ。
アルコール分解量が平均よりも遥かに多いようだ。
まあ、食べずに呑むのではなく、かなりの量をしっかり食べてか
らゆったりと呑むので、胃を荒らすこともないのだと茉莉姉上も言
っていたし。
静かに上機嫌な兄たちの姿に何となくほっこりしながらデザート
のアイスクリームをつつく。
﹁蘇芳兄上﹂
ふと、いつか聞いてみようと思っていたことを思い出し、蘇芳兄
上に声を掛ける。
﹁ん?﹂
﹁お尋ねしたいことがあるのですが﹂
﹁⋮⋮珍しいな?﹂
ぐい飲みを摘まんだまま、蘇芳兄上が瞬きをする。
﹁大したことではないのですが、深雪義姉様となぜ結婚しようと思
われたのですか?﹂
兄弟唯一の妻帯者だ。
1127
兄姉を差し置いて3番目の蘇芳兄上がどうして結婚に踏み切った
のかと少しばかり興味がある。
深雪義姉様に対してまったく不満はない。
むしろ、よくぞ嫁いでくださいましたと思っているのだが、結婚
しようと思った切っ掛けが気になってしようがない。
私の問いかけに、柾兄上が噴き出し、そうして蘇芳兄上は派手に
咳き込んだ。
﹁深雪ちゃん、ね。蘇芳が娶らなければ、俺か八雲、それでも駄目
なら分家の誰かを差し出そうかと思ってた﹂
くつくつと笑いながら柾兄上が爆弾を落とす。
﹁え!?﹂
最初から深雪義姉様はうちの嫁決定だったのか!?
意外な真実に驚く。
﹁いや、まあ⋮⋮あいつが瑞姫の事を妙に気に入ってたから、うち
としては逸材だと前々からは思ってたんだけど﹂
ものすごく照れ臭そうに卓上にぐい飲みを置いた蘇芳兄上が話し
出す。
﹁決定打は、あれだな。瑞姫が諏訪の件に巻き込まれた時だ﹂
ふと蘇芳兄上の視線が遠くなる。
﹁あの知らせを聞いたとき、傍に深雪がいたんだ。あの時、あいつ、
何しようとしたと思う?﹂
﹁深雪義姉様が、ですか? 蘇芳兄上を止める、でしょうか?﹂
あまり思い出したくはないことだが、私が病院に重傷で運ばれた
と知らされた家族は激怒したと聞いている。
それでも踏み止まるのは柾兄上、茉莉姉上、八雲兄上だ。
状況把握と一番良い手を即座に打つことを信条としている彼らな
ら、感情を理性で捻じ伏せて状況把握をし、事態を支配しようとす
るはずだ。
感情のままに動くのは、蘇芳兄上と菊花姉上だ。
だが、動くベクトルは真逆だろう。
1128
菊花姉上なら私が運ばれた病院に直行し、蘇芳兄上は間違いなく
諏訪に殴り込む。
﹁いや。実は、俺が深雪を止めた﹂
﹁は?﹂
﹁深雪が諏訪に行って伊織と詩織を殴ってくるって叫んで暴走しよ
うとした﹂
﹁それ、本当ですか!?﹂
まずい。それ、本当にやったらものすごくマズイ!
蘇芳兄上が殴り込むよりは遥かにマシで、なおかつ大した影響は
ないけれど、それでも充分にまずいことだ。
﹁俺が行こうと思っていたのに、出鼻挫かれてさ、慌てて止める羽
目になったわけ。それで俺も助かったけど﹂
﹁⋮⋮⋮⋮そうですね﹂
蘇芳兄上が諏訪に単独で殴り込んだ場合の被害を想像すると心臓
が痛い。
よかった、殴り込んでなくて。
蘇芳兄上、確実に殺人罪だ。痛み分けのレベルなんてものじゃな
い。
諏訪親子はもちろん、分家や、屋敷の警備員すべて巻き込んでの
大暴れで相当な被害を出しているだろう。
全員死亡という最悪な状況で。
そうなると、深雪義姉様ってうちにとって相当な恩人ってことじ
ゃないだろうか。
柾兄上が自分のお嫁さんにというのもわかる。
何かの折に、深雪義姉様が諏訪に殴り込みかけようとしたことが
バレても確実に守れるからだ。
﹁あの時の啖呵に惚れました﹂
少しばかり茶化して告げる蘇芳兄上。
﹁ついでにあの無謀すぎる行動力も﹂
この蘇芳兄上を遠慮なくげしげし蹴り入れる方だからなぁ。
1129
﹁今の相良があるのは深雪のおかげ。いい嫁貰いました﹂
うんうんと頷く兄上に、私はどう返せばいいのかわからなくなる。
﹁何で深雪があんなにおまえのことを気に入ってるのかはわかんね
ぇんだけど。でもな、赤の他人の為にあそこまで怒れるやつはいな
いと思う。それに、あいつはあそこで激怒することで、俺を止めら
れることを知ってたし。頭、上がんないの、俺﹂
完全に惚気だ。
でもちょっと感動したけど。
﹁うん。深雪義姉様で良かったと思いました、私も﹂
目が覚めたら蘇芳兄上がいなかったという状況でなくてよかった。
﹁納得できたところで、深雪には内緒な?﹂
﹁わかりました﹂
照れ臭そうに目許を染めて人差し指を唇の前に立てた蘇芳兄上に、
頷いておく。
とりあえずのお礼も兼ねて、お祝いの産着は心を込めて丁寧に作
って贈ろうと決めた。
とりとめない話を兄上達と続け、頃合を見て解散する。
部屋に戻って炎症対応のローションなどを手に、橘の部屋へ向か
う。
﹁誉、今いい?﹂
﹁え!? 瑞姫?﹂
廊下から襖の向こうに声を掛けると、慌てた声が上がる。
﹁え? うわっ!!﹂
どさりという物音と、声が上がる。
﹁誉!? 開けるよ!!﹂
何が起こったのかと、一応声を掛けて襖を開ける。
目の前の光景に少しばかり驚いた。
1130
141
道着は乱れて上半身裸の状態で、もつれて畳の上に倒れている疾
風と橘。
正確に言うと、倒れ込んだ橘を支えようとしたのか、彼の下敷き
になっている疾風。
ふと、何故だか安倍彬の妙に嬉しそうに意気込んだ笑顔が思い浮
かんだ。
2人とも凍りついたような表情でこちらを見上げている。
これは、あれだな。
熱いおしぼりが大量に必要だろうな。
先に用意して来よう。
そう思って、そっとローションを卓上に置くと、部屋を出て静か
に襖を閉める。
﹁瑞姫っ!! 瑞姫、誤解だからっ!!﹂
慌てた声が追い駆けてくる。
誤解も何も事実だろうに。
何を言っているのだろうかと不思議に思いながら、私は台所の方
へ向かった。
大量のあつあつおしぼりを作って保温ボックスの中に入れると、
1131
もう一度橘の部屋へと向かう。
﹁誉、入るよ﹂
そう声を掛けて襖を開ければ、何やら苦悩している様子の疾風と
畳の上に倒れたままの橘の姿がった。
﹁⋮⋮瑞姫、誤解だから⋮⋮﹂
弱々しい声音で橘が訴えてくる。
﹁誤解も何も、見たとおりだろう? 脚、出して﹂
保温ボックスからおしぼりを取出し、橘のふくらはぎの上に乗せ
る。
﹁いっ!﹂
﹁ふくらはぎのところ、攣ってたんだろう? 慣れないのに使いす
ぎたからだ﹂
足が攣る理由はいくつかある。
その部位が冷えてしまったり、水分不足を起こしたり、疲労がた
まりすぎたりと様々だ。
対処法もいくつかある。
まずは温めてマッサージが効果的だ。
蒸気をあてて温めるのが筋肉への負担が減るので、熱いおしぼり
で温めながらマッサージがいいと思う。
﹁え?﹂
﹁ん?﹂
何故か妙に驚いた様子の橘が私を見て、それから疾風を見る。
﹁足が攣ったって、何故わかったんだい?﹂
﹁見たらわかる。それに、昼間、川で釣りして、今度は道場で稽古
だろ? 誉なら充分オーバーワークだ﹂
﹁そう、か﹂
納得したのか、ぱたりと力尽きたように畳の上に顔を伏せる。
﹁⋮⋮焦った⋮⋮﹂
﹁何が?﹂
まったくもって理解できない反応に首を傾げる。
1132
﹁まあ、瑞姫だからな﹂
何故か慰めるように橘の肩を叩いて告げる疾風。
最近、妙に仲が良いな、この2人。
というか、面倒見がいいな、疾風。
﹁なあ、岡部。もしかして、瑞姫、あーゆーことを知らないとか?﹂
﹁んー⋮⋮知らないことはないと思うが、ごく普通に当て嵌めるこ
とを知らないと思う﹂
﹁そっか。助かった⋮⋮﹂
もそもそと何やら話し合っているが、一体何のことだろうと不思
議に思う。
私が何を知らないと言っているのだろうか?
いや、もちろん、知らないことの方が多いということは充分理解
しているし、必要なことならば知らねばならないとも思っているの
だが。
﹁疾風? 誉? 何を言ってるんだ?﹂
そう問えば、2人はぎくりと肩を揺らす。
﹁いや! 何でもない!!﹂
﹁瑞姫はそのままでいてくれ!!﹂
﹁⋮⋮だから、何のことを言ってるんだ?﹂
﹁気付かずにいてくれる方が俺としては嬉しい﹂
何故、そんなに慌てて言う必要があるのだろうか。
やましい事でもあるのか?
こういう時は千瑛がいてくれると補足してくれるので助かるのだ
が、今、ここに千瑛はいない。
自分で調べるべきなのだろう。
だが、知らずにいろと言われているし、どうすべきだろうか。
﹁あ、わかった。さっきの誉の姿勢、マウントポジションというの
だろう?﹂
レスリングか何かの格闘技の技だったか、姿勢だったかの名前か
ら来ていると聞いたが。
1133
私がそう言うと、橘と疾風がガタガタと音を立て、狼狽える。
﹁なっ!! それ、何処で聞いた!?﹂
﹁瑞姫っ!! 誰に聞いたんだ、その言葉!!﹂
﹁ああ、宗像の姫からだよ﹂
﹁む・な・か・た・さぁん∼っ!!﹂
﹁何、妙なことを教えるんだよ、あの姫はっ!!﹂
2人とも、畳をどすどす殴って彼方へと怒りを向けている。
﹁瑞姫、他に何言われた!?﹂
きっと振り返った疾風が問いかける。
﹁ん? ああ。男性に押し倒されて馬乗りになった状態がさっきの
名前で呼ばれるものだと。あと、相手が美形だったらしばらく至近
距離で堪能して、そうでない相手であれば、即座に全力で抵抗しろ
と言われたな﹂
﹁⋮⋮え? そっち?﹂
﹁他にもまだあるのか?﹂
きょとんとした表情で呟く疾風に、今度は私が問う。
﹁いや、ない﹂
そう答えたのは橘だ。
やけにきっぱりと言い切った。
﹁じゃあ、何か間違ってるのか?﹂
﹁相手が美形だったらって。美形でも即座に抵抗して﹂
﹁そうなのか? 宗像の姫によると、美形は至近距離でも観賞に耐
えうるのか、きちんと把握すべきだろうと仰っていたぞ。眼福のチ
ャンスは逃すべきではないが、合意でなければ遠慮なく全力で抵抗
していいと﹂
そう答えつつ、橘の脚の様子を確認する。
大分、筋肉がほぐれて柔らかくなってきた。
これなら大丈夫だろう。
﹁誉、とりあえずの応急処置はできたようだ。あとは温泉に浸かっ
てゆっくり癒すといい﹂
1134
使ったおしぼりを片付けながら告げれば、橘がゆっくりと起き上
がる。
﹁ありがとう、瑞姫﹂
﹁どういたしまして。ああ、お湯の中で足をマッサージしては駄目
だぞ。水圧があるから逆に負荷がかかりすぎてよくないんだ。マッ
サージをするのなら、お湯に浸かった後で洗い場でしたほうがいい﹂
﹁わかった。そうするよ﹂
﹁疾風、ちょっと心配だから誉と一緒に入ってやってくれないか?﹂
今は大丈夫だけれど、服を脱ぐときに体温が一時的に低下してま
た攣るかもしれない。
﹁ああ、わかった。瑞姫は?﹂
﹁これを片付けてから入るよ﹂
﹁え? 瑞姫も!?﹂
何故か驚いたように橘が振り返る。
﹁何だ? 一緒に入りたいのか?﹂
﹁いや、いい! さすがにそれは困る!!﹂
﹁勿論、冗談だ﹂
あっさりと言えば、疾風が憐れむような視線を橘に向ける。
﹁本家の御屋敷には、湯殿は3箇所あるんだ。おまえが使ってるの
は客人用で、瑞姫が使うのとは別のものだ、安心しろ﹂
﹁⋮⋮よかった。焦った﹂
ぐったりと倒れ込んだ橘が安心したように呟く。
失礼だな、本当に冗談だったのに。
﹁じゃあ、後は頼んだぞ、疾風﹂
そう言って振り返った瞬間、違和感を感じた。
実に微妙な違和感。
ほんの少し、しっかり閉めたはずの襖に隙間が開いている。
﹁⋮⋮何をやっているのですか、御二方?﹂
襖を引けば、蘇芳兄上と深雪義姉様が廊下に伏せるような姿勢で
こちらを見ていた。
1135
覗いていたと自己主張しているような姿だ。
﹁うふふふふ⋮⋮﹂
笑って誤魔化そうとしている深雪義姉様。
﹁あー⋮⋮妙な音が聞こえたから﹂
視線を彷徨わせ、言い訳をする蘇芳兄上。
﹁兄上? 義姉様?﹂
にこりと笑って問い詰める。
﹁ごめんなさーいっ!!﹂
2人揃ってバタバタと走り去っていった。
うん。大叔父様に怒られてしまえ。
あの勢いなら、必ず大叔父様がおふたりを掴まえて説教されるこ
とだろう。
自業自得なので、目撃しても庇うことはしないぞ。
溜息を吐いて、荷物を手に廊下に出た。
1136
142
何とか無事に浴衣も縫い終わり、疾風たちと合流することになっ
たのだが。
やはり、そうだよな。
こういう展開になるよな、絶対。
目の前に広がる光景に、私はひどく納得した。
本家の道場で組手の稽古。
大叔父様の指導のもと、疾風と橘が組んで稽古に励んでいる。
勿論私は組手禁止の身であるがゆえに、しきりの稽古だ。
これは演舞とはかなり異なるものだ。しきりと呼ばれる範囲の中
に演舞は含まれるのだが。
流れるように舞うという表現が似つかわしい演舞と異なり、しき
りの動きは荒々しい。
まさに無骨という言葉が似合うだろう。
ただし、蹴り技は禁止と言われたが。
着地など、己の身に受ける衝撃を殺すように作られた演舞と異な
り、しきりは跳躍の着地や蹴りの際に身体が受ける衝撃がかなり強
い。
右足を軸にしても、攻撃に使っても、受ける疲労は相当なものだ
ろう。
随分良くなったからといって調子に乗って無茶をしてはいけない
と、大叔父様が仰ったのだ。
日常生活の動きに身体が付いていくようになったけれども、それ
1137
以上の負荷が当然かかる武術で身の危険を考慮しなければならない
組手やしきりはやはり上位者の判断が必要だろう。
だが、しきりの許可が一部とはいえ下りたということは、かなり
良くなったのだと嬉しくなる。
今は体術だけだが、そのうち、得物での稽古が解禁される日もく
るということだ。
﹁よし。休憩じゃ﹂
大叔父様の声でふと我に返る。
どうやら無心でやっていたようだ。
じわりと額に汗がにじんでいる。
疾風たちはと振り返れば、橘が畳に沈んでいた。
まあ、実力差があるからな。
疾風は汗ひとつかかずに平然としているが、稽古をつけてもらっ
ていた橘は疲労困憊の様子だ。
大叔父様は2人の様子を満足げに眺めている。
元々、橘の実力がどれくらいあるのかは、大叔父様にとって問題
ではない。
相良や岡部のように守る者ではなく、橘は守られる者なのだから。
それよりもどれほど真面目に取り組むか、が、問題なのだ。
その点において、橘は及第点だろう。
力量を測れる身でありながら、疾風相手に臆することなく挑んで
いたからだ。
自分より格段に強い相手に挑むのは、非常に胆力を要する。
とても怖い相手と戦い続けるには体力、精神力共に常の数倍も削
り取られるものだ。
それをわかっていて己に強いるのは、やはり強くなりたいという
気持ちが根底にあるからだろう。
大叔父様の御眼鏡に適うのは、並大抵のことではないが、橘はそ
れをクリアしたということか。
1138
﹁ひいさん、こっちゃ来﹂
大叔父様に手招きされ、私はタオルを手にそちらへと向かう。
﹁お呼びですか?﹂
﹁うむ。後ろを向いて﹂
﹁⋮⋮はい﹂
師匠に背を向けるというのは、いささか気が引けるのだが、言わ
れるまま背を向ければ、大叔父様の手が肩に触れる。
﹁ふむ。少し張りが残っておるの﹂
腕を取られ、背筋を確かめられ、何かを探るような大叔父様の様
子に大人しく待つ。
﹁重心もまずまずじゃの。八節から始めてみるかの?﹂
﹁よろしいのですか!?﹂
思わず振り返って問いかける。
﹁素引きから始めさせろと怒るかと思うたが、ひいさんらしいの﹂
くっくっくっくと肩を揺らして笑う大叔父様に、私は瞬きを繰り
返す。
﹁え? 基礎から始めるのが当たり前だと思いますが﹂
﹁じゃから、ひいさんらしいと言うたわ! 初歩から始めよと言う
たに、嬉しそうに笑うてござる﹂
﹁もちろん、嬉しいです!!﹂
ここが道場でなければ、飛び跳ねていたくらいには。
﹁⋮⋮岡部、はっせつって何?﹂
ぐったりと畳に懐いていた橘が疾風に問いかける声が聞こえる。
﹁ああ、八節ってな、射法八節と言って、弓道の基本動作だ﹂
﹁弓道!? 瑞姫、弓道出来るの?﹂
﹁弓道だけじゃないぞ。一通り、基礎を学んでいるから、武道と呼
ばれるモノはたいていできるはずだ。あとは本人の資質で向いてい
るものを学ばせるという教育方針だし﹂
のんびりと答える疾風に対し、橘は何故か起き上がって正座して
聞いている。
1139
なぜ、正座? まあ、正座は基本姿勢の1つだし、できないより
はできたほうがいいが。
﹁で、ちなみに、瑞姫は何を学んだわけ?﹂
﹁んーっと、弓と鎖術、杖術、小太刀だな﹂
﹁そんなにっ!?﹂
﹁普通だろ?﹂
そう言って疾風が私を見る。
﹁普通だよね。あと、太刀も扱えるな﹂
﹁こまかひいさんは、筋がいいからの﹂
大叔父様にお褒めの言葉をいただいた。
非常に珍しいけれど、嬉しい限り。
﹁⋮⋮ちなみに、一番強いのはどなたでしょうか?﹂
恐る恐ると橘が問う。
﹁お師匠様﹂
﹁大叔父様と柾兄上﹂
﹁こまかひいさんじゃの﹂
三人三様の答えが出る。
この場合、答えが被った大叔父様が一番ということか。
だが、聞き捨てならない言葉が入っていたぞ。
﹁何故私なのでしょうか!? 一番の未熟者ですよ、私は!﹂
﹁ふむ。まず、機を見る目がいい。これだけは天性のモノじゃから
のう、誰でもできるというわけにはいかん。それと、おんしは鎖術
と小太刀がある﹂
﹁は⋮⋮﹂
﹁鎖で相手の得物を封じて、間合いを殺して懐に飛び込む。そうし
て小太刀で掻き切る⋮⋮機を見る目と度胸がなくてはできぬが、ひ
いさんはそれを容易くやる﹂
﹁つまり?﹂
﹁無謀なまでに大胆に行動できる、怖いもの知らずな胆力がないと
できんわな。わっちには無理じゃ﹂
1140
溜息交じりに言われてしまった⋮⋮。
﹁柾は、確かに強いの。あれは、己の不備を認めてはならんという
思いがある。完璧でないと守られぬとな。じゃが、ひいさんは己が
未熟じゃという思いが先にある。足らぬところは足せばよい。それ
が己の努力でもよいし、他力でもよい。そうして最後に完璧になれ
ばよい。ここが大きな違いじゃ。それに、あれは下に甘い。ひいさ
んになら討たれても構わぬと思うておるからの﹂
﹁⋮⋮確かに﹂
﹁疾風! 認めちゃ駄目だから!﹂
﹁決して討たれるまいと思うひいさんと差があるの﹂
﹁なるほど﹂
﹁誉! 納得しない!!﹂
どうして2人とも頷くんだ!?
柾兄上は本当にお強いんだから! 私など、到底かなわないのに。
思わずむくれると、橘に頬をつつかれた。
﹁瑞姫、栗鼠かハムスターのようだよ。可愛らしいけれど、初めて
見たよ、そんな表情﹂
﹁瑞姫はブラコンだからなぁ。誰かが柾様にダメ出しすると不機嫌
になるんだ﹂
﹁こげんこまか時から変わらんけんのう﹂
大叔父様がご自分の膝丈くらいを示して言う。
﹁じゃけん、柾が甘うなる。愛らしかが、そろそろ卒業してもらわ
んと嫁の来てがなくなるがね﹂
﹁⋮⋮⋮⋮そこだけは、激しく同意いたします﹂
八雲兄上はまだ猶予はあるけれど、そろそろ柾兄上もお嫁さんを
もらっていただかないと。
それよりも茉莉姉上と菊花姉上の嫁ぎ先の方が問題かも。
意中の方がいても、外野がうるさいから黙っているという可能性
もあるけれど。
﹁兄弟が多くて、仲が良いのは羨ましいね﹂
1141
ほんのりと微笑んだ橘が何気なく言う。
ああ、そうか。橘は⋮⋮。
﹁望む相手と家族になれるように努力すればいい﹂
ぽつりとそう言ったのは疾風だった。
﹁岡部? ああ、そうだね﹂
驚いたように疾風を見た橘が、ふわりと微笑む。
﹁だけど、俺も手を抜かないからな﹂
﹁いや、ハンデください﹂
﹁甘い!! 俺は、瑞姫以外は絶対に守らない。だから、ハンデな
んかやらない﹂
﹁はあ⋮⋮もう、わかったよ。受けて立てばいいんだろ﹂
何の話をしているんだろう?
というか、本当に仲が良いな、この2人は。
微妙に疎外感を感じてしまうが、男同士の友情というものなら仕
方がない。
﹁大叔父様、着替えて弓道場で八節してきます﹂
﹁おお。あとから見に行くけん、励んじょれ﹂
﹁はい﹂
こういう場合は、頭を切り替えて、しなければならないことに専
念するのがいいだろう。
そう思って言い出せば、大叔父様がのんびりと頷いた。
﹁⋮⋮筋肉痛になりそうだなぁ﹂
道着を着替えるために歩き出しながら、ふと呟く。
普段、鍛えていても、古武術と弓道とでは使う筋肉がやはり違う。
あとできちんとケアしなければ。
矢を使えるようになるまでは、相当時間が掛かるだろうし。
それでも、思ったよりも早くに許可が下りたことが嬉しくて、頬
が緩むのが隠せない。
あとで柾兄上に報告しようと考えながら、部屋へと戻った。
1142
143
カランコロンと軽やかに下駄の音が響く。
のんびり、ゆっくり、緩やかな歩調に合わせ、ゆったりと。
﹁はれ、ひいさん! 来んさったとね!?﹂
すれ違いざまに声を掛けられ、振り返れば、今回はまだ足を運ん
でいない方面にお住いの御婦人方だ。
﹁ええ。皆様方、こんばんは。おかわりはございませんか?﹂
﹁ひいさんにお会いしましたけん、いつも以上に元気になりました
わ﹂
ねぇと声を掛けあい、からりと笑う方々の表情は明るい。
﹁青井さんに行かれると?﹂
﹁はい﹂
﹁愛らしか浴衣やねぇ﹂
﹁ありがとうございます。お師匠様に習って、自分で縫ったので縫
い目があまり⋮⋮なのですが﹂
﹁いやあ、そんなんわからんですよ。ばあちゃんが縫いんしゃった
かと思うとりましたが﹂
﹁上手かねぇ! ひいさんは何をやっても器用やけん﹂
﹁はら、あんたたち! ここでしゃべくってひいさんの邪魔したら
いかんがね! 花氷が融けてしまうやん﹂
﹁そやった!! ひいさん、はよう花氷を見に行きんさい。愛らし
か花ばっかりやったがね﹂
賑やかに促され、軽く頭を下げる。
1143
﹁はい。見てきます。それでは、また﹂
満面の笑顔に見送られ、またカランコロンと音を立て歩き出せば
掛けられる声。
端から端まで歩いて行けるような小さな町だ。
ほんの少し歩けば、知り合いに声を掛けられ、挨拶をするのが当
たり前のようなところ。
急ぐような用事ではないが、3歩も歩けば誰かしらに声を掛けら
れ、挨拶を交わし、なかなか前に進まない。
さすがに橘が苦笑し、疾風も呆れている。
﹁すごいよね、瑞姫の人気は﹂
﹁御館様たちが連れ歩いて顔を覚えさせたせいだよな﹂
何度立ち止まろうとも、疾風も橘も怒りはしない。
待たせたところで、じっと待っていてくれる。
ありがたいと思う反面、申し訳なさが募り始める。
ゆっくり歩いても15分もかからない距離を、家を出てすでに4
5分というのはさすがに掛かり過ぎだろう。
目的地はまだ見えないし、しかも参道を兼ねた商店街に配置され
ているらしい氷柱花も目にすることができないでいる。
目にも涼やかな氷柱は暑気払いには最高だと思う。
さらに、その氷柱の中に趣向を凝らして様々な花を入れ、それら
を一定間隔で並べている。
何とも贅沢なことだ。
﹁へえ。あれが花氷? 綺麗なものだね﹂
ふいに橘が感歎の声を上げた。
だが、周囲にそれらしきものはまだない。
﹁目がいいな、橘﹂
疾風も楽しげに遠くに視線を投げている。
ということは、2人の身長なら見える程度にまだ先にあるという
ことだ。
1144
﹁ずるいぞ、2人とも!!﹂
私も背は高い方だが、彼らには到底敵わない。
口惜しくて声を上げたら、ふっと笑われた。
むう。
﹁見たいのなら、抱き上げてやろうか?﹂
﹁それは駄目だって、岡部。浴衣が着崩れたら大変だ﹂
にっと笑ってからかってくる疾風を橘が窘める。
そう簡単に着崩れるような着付けをしていないが、やはり崩れた
らみっともない。
止めてくれてありがとう、橘。
これが蘇芳兄上なら、何も言わずにあっさりと抱き上げている頃
だろうから。
﹁わっ!!﹂
いきなり腰のあたりに衝撃が走る。
甲高い笑い声が響き、母親らしき女性の制止の声がする。
どうやらはしゃぐ子供たちが私にぶつかって、そのまま走り去っ
たようだ。
いきなりのことだったので、さすがに体勢を崩しかければ、手前
にいた橘にぐいっと引き寄せられる。
そのまま橘の懐に飛び込む形で支えられた。
﹁⋮⋮ごめん、ありがとう﹂
﹁いや。怪我はない?﹂
耳許で声がする。
﹁ん。大丈夫﹂
頷いて振り返れば、疾風は子供たちの母親らしい女性の謝罪を受
けていた。
﹁本当にごめんなさい。お怪我はありませんでしたか?﹂
﹁大丈夫です。後ろからだったのでよけきれなかっただけですから﹂
﹁本当に申し訳ありません。浴衣は汚れてませんか?﹂
﹁瑞姫?﹂
1145
﹁大丈夫だよ、汚れてない。押されてよろけただけのようだよ﹂
私が答える前に橘が応じる。
﹁ああ、よかった。初めて来たところでのお祭りだったから、すっ
かりはしゃいでしまって、言うことを聞いてくれなくて⋮⋮﹂
心底困ったと言いたげな表情で、それでも安堵を滲ませて女性が
言葉を紡ぐ。
﹁せっかくの綺麗な浴衣を汚してしまったらどうしようかと思った
わ﹂
﹁大丈夫でしたから、気にされないでください。ああ、でも。人が
多いですから、迷子になると大変ですよ。早く行ってあげてくださ
い﹂
私がそういうとホッとしたように頷いて、もう一度謝罪の言葉を
口にして、その女性は子供たちの後を追いかける。
﹁⋮⋮まあ、怪我がなくて良かったよ﹂
橘と疾風がほぼ同時に同じ言葉を口にする。
﹁2人とも気が合うな﹂
おかしくなって吹き出せば、憮然とした表情を浮かべる疾風と、
穏やかに微笑む橘。
そこで、私はふと気が付いた。
以前より橘の腕が硬く感じられるのだ。
﹁誉、筋肉ついた? 腕が硬くなってる﹂
﹁そうかな? まあ、稽古の成果が出たかな?﹂
少しばかり嬉しそうな表情で告げる橘に疾風が肩を竦めている。
﹁成果が出てもらわないと、俺が困る。何のための稽古かわからな
いからな﹂
﹁短期間でそこまでの成果が出るのは凄いと思うよ﹂
﹁筋肉痛の甲斐があった﹂
純粋にそう思って言えば、しみじみとした口調で橘が呟く。
あまりつらそうな表情を表に出さない彼だが、筋肉痛は相当堪え
ていたらしい。
1146
大叔父様と疾風が相手だから、そこは仕方がないが。
﹁それより、早く行こう。はぐれないように、ね﹂
ふわりと微笑んだ橘が私の左手を握る。
﹁そうだな。人が増えてきた。瑞姫が迷子になったら困るからな﹂
そう言って疾風が右手を握る。
﹁⋮⋮この構図は⋮⋮私はリトル・グレイだろうか﹂
両手を握られて歩く図というのは、宇宙人らしき謎の生命体と親
子ぐらいしか思いつかない。
さすがにお父さんとお母さんと子供というのは、どちらが母親か
という点で論争になりかねないので黙っておく。
何故なら、その結果、私が2人から怒られるというのが目に見え
ているからだ。
危うきに近寄らず、だ。
﹁瑞姫が宇宙人なら、ぜひ誘拐されたいね﹂
﹁人体実験は嫌だけどな﹂
何故だか上機嫌で歩き出す2人に首を捻る。
この状況自体、橘を誘拐しているようなものではないのだろうか、
相良は。
人体実験って、どういうことをするのだろうか。
それにしても何故2人ともそんなに嬉しそうなのだろうか。
﹁瑞姫! 屋台で何を買う?﹂
﹁わたあめ!﹂
﹁あれ? 甘いの苦手だよな?﹂
﹁3等分だ。3人で分け合えば少ない量で済む﹂
イカ焼とか箸巻だとか、色々と香ばしい香りが漂い始めてくるが、
そういったモノは食べつけていないので買う気がしない。
りんご飴やチョコバナナやべっこう飴も食べるよりも眺めている
方が楽しい。
したがって、気になってしまう食べ物はわたあめなのだ。
でも、1人では食べきれない。
1147
﹁あれは時間との勝負な食べ物だと聞いた﹂
﹁誰に?﹂
﹁千瑛﹂
﹁う∼ん⋮⋮嘘じゃないけどね﹂
苦笑する橘。
﹁すぐにぺしゃんこになると言っていた﹂
﹁それは、まあ、ね。でも、すぐというほどすぐじゃないと思うけ
ど﹂
﹁まあだけど瑞姫には1袋は多いだろうな。3等分は妥当だろうよ﹂
疾風の言葉でわたあめ3等分が決定した。
﹁じゃあ、早く行こう!﹂
2人を促し、先を急ぐ。
楽しい夏の宵。
ここにはいない千瑛や千景、それに在原がいたら、もっと楽しか
っただろうと思いながら、私は神社を目指した。
1148
144
郷から屋敷に戻ってきた私を待っていたのは、八雲兄上の強烈な
抱擁であった。
﹁瑞姫∼っ!! お帰り! 会いたかったよ。僕が傍にいない間、
何もなかったかい?﹂
何を指して﹃何もなかったか﹄と聞かれているのかがわかりませ
んが、今、背骨が折れそうな勢いでみしみし鳴っていますが、聞こ
えませんか、兄上?
﹁八雲様! 八雲様! 力を緩めてください!! 瑞姫が苦しそう
です﹂
疾風が焦ったような声を上げているのが、何故か遠くに聞こえる。
おかしいな。
確か右斜め後ろにいるはずなのに。
﹁瑞姫? 瑞姫!! 大丈夫!?﹂
﹁え? 瑞姫!?﹂
色々と声が重なっているけれど、ちょっと待ってください。
息、させて。
力が緩められた瞬間、空気を求めて咳き込んだ。
﹁八雲様、いくらなんでもこれはやりすぎです!!﹂
猛烈な勢いで疾風が文句を言っている。
﹁瑞姫! ごめんね﹂
﹁あ⋮⋮に、上⋮⋮私の背骨、折る気ですか⋮⋮﹂
咳き込み過ぎて少しばかり枯れた声で告げれば、八雲兄上の顔色
が見事に変わった。
1149
﹁あ。そんなつもりは⋮⋮﹂
﹁あったらシメるわ!﹂
﹁いっ!!﹂
ゴッという音と共に八雲兄上が頭を抱えてしゃがみ込み、その背
後に菊花姉上の姿が現れる。
﹁いついかなる時でも瑞姫には手加減しなさい。妹なんだから﹂
﹁申し訳ありません、菊花姉さん⋮⋮﹂
涙目になりながらも素直に菊花姉上に謝罪する八雲兄上。
女王様には敵わないと即座に白旗を掲げる潔さは見事だと思う。
﹁お帰りなさい、瑞姫。疾風もご苦労様。次期殿、我らが郷は楽し
めましたか?﹂
にこやかな笑顔を作っての対応は流石だと思う。
ほんの一瞬前まで般若顔だったとはとても思えないほどの和やか
さ。
橘が引き攣った笑みを浮かべて頷いたのは見なかったことにして
おこう。
﹁ところで瑞姫﹂
菊花姉上が私に視線を向ける。
﹁はい?﹂
﹁郷で不審な人物と遭遇しなかった?﹂
﹁いいえ? 疾風は知ってる?﹂
問われた内容に首を傾げ、疾風にも確認する。
﹁いえ。不審な人物及び不審な行動を取る者は見かけませんでした﹂
きっぱりと答える疾風に、菊花姉上と八雲兄上はほっとしたよう
な表情を浮かべる。
﹁⋮⋮姉上、兄上。何かありましたか?﹂
﹁大したことはなかったわ。ただ、ね。愉快な噂が流れてるのは事
実よ﹂
﹁愉快な噂?﹂
﹁ええ、そうよ。ザマーミロって大爆笑しちゃった﹂
1150
にやにやと笑う菊花姉上に、大体の予想はついた。
おそらく私に関係する、そうして相良が気に入らない人物に不幸
ともいえることが起こったのだろう。
周囲から見ればお祝いごと方面で、本人にとっては不本意この上
ない事が。
でなければ菊花姉上がここまで愉快そうな表情を浮かべることは
ない。
我儘放題で傍若無人に振る舞っているように見える菊花姉上だが、
この方は見た目のイメージとは異なり、実にクールな人なのだ。
私を構いたがることと蘇芳兄上を足蹴にすること以外に於いては。
﹁嫌がって逃走して、瑞姫のところに駆け込むかと思ったが⋮⋮あ。
それとは別に、大神家の株が暴落してるけど、何かした?﹂
廊下に座り込んでいた八雲兄上が、ふと気が付いたように疾風を
見る。
﹁いえ。俺は何もしていません﹂
表情を消して、疾風が応じる。
﹁疾風?﹂
﹁俺がタブレット扱ってるところを見たか?﹂
本当かと確認を取れば、逆に疾風が問うてくる。
﹁⋮⋮見てないな﹂
﹁だろ?﹂
﹁疾風は直接手を出していないということか﹂
﹁はい﹂
あっさりと頷く随身に、微妙な違和感を覚える。
直接手を出していないということは、間接的に手を出したという
ことか。
つまり、誰かを唆したとか。
﹁⋮⋮疾風?﹂
﹁あの騒ぎを見ていた奴がいてな、トレーディングをしているクラ
スメイトだったが。仔細を聞かれたので、大神は諏訪より阿呆だと
1151
言っただけだ﹂
正直に話せと見上げれば、澄ました顔でとんでもないことを言い
出す。
やっぱり元凶じゃないか!
﹁よくやったわ、疾風!!﹂
褒めてつかわすというように菊花姉上が疾風の肩を叩く。
﹁お見事、疾風﹂
八雲兄上までもが頷いている。
﹁おふたりとも!! 遊んでる場合じゃないでしょう﹂
﹁あら、お遊びの範囲でしょう? たかだか噂1つ捌き切れない大
神が阿呆なのよ。それこそ、疾風の言った通りにね﹂
﹁そうそう。瑞姫も予告してたんだろ? そうなる可能性があるっ
てね。前もって知らせているのに防ぎきれないなんてそれこそ阿呆
だよね﹂
﹁うちのせいにされるのでは?﹂
﹁証拠を見せろって話でしょ、それこそ。勝手に人のせいにするの
なら、根拠を差し出せって言ってやるわ。簡単な話じゃないの﹂
実ににこやかな菊花姉上と八雲兄上は、私の抗議もあっさりと受
け流す。
﹁⋮⋮瑞姫﹂
橘が私の肩に手を置く。
﹁大神の自業自得だ、瑞姫のせいじゃないし、気にする必要は欠片
もないよ﹂
﹁そうそう。わかってるじゃないの、次期殿。瑞姫、次期殿の仰る
通りよ。気にする価値もないわ﹂
﹁新学期にどう出てくるかで、さらに大神家の価値がわかるさ﹂
実に呑気なことを言い出す姉と兄に、私は溜息を吐くほかなかっ
た。
1152
********** **********
新学期。
学園内はある噂でもちきりだった。
大神のことではない。
八雲兄上と菊花姉上が心配していた不審者の件であった。
いや、本当に不審者だったわけではない。
実によく知った相手だ。親しい相手ではないが。
皆、噂話に耳を傾けながら、ちらりと私に視線を投げかけてくる。
無関係だから。
そう言いたい気分だが、尋ねられていないことを言うわけにはい
かないので沈黙を守るのみだ。
教室に入ると大神が私の前に立つ。
﹁よくもやってくれたね﹂
﹁何のことだろう?﹂
ああ、まだ情報を集めることに苦戦しているのか。
呆れて見やれば、大神がわずかに怯む。
﹁あなたがやったのでしょう?﹂
﹁だから、何のことだと訊ねている。私はこの夏、疾風と橘誉とで
郷の方に戻っていてね、そちらで習い事をしていて忙しかったのだ
が﹂
﹁え?﹂
驚いたように目を瞠る大神に、私は肩を竦める。
﹁問い合わせればすぐにわかることだ。調べもしないでとやかく言
うのはやめてもらいたいものだ、迷惑だ﹂
1153
﹁では、誰が⋮⋮﹂
﹁だから、何度同じことを言わせる気だ? 何を言われているのか
さっぱりわからないことに答えられることはない﹂
頭痛を堪えるようにこめかみに手を当てれば、伊達の姫や数名の
女子生徒が寄り添ってくる。
﹁瑞姫様、大丈夫ですか?﹂
﹁ええ、まあ﹂
﹁大神様も少しはお考えになられるとよろしいのですわ。相良の姫
が姑息な手を使われるとお思いですの?﹂
﹁それは⋮⋮﹂
﹁そんなこともわからないなんて、大神様も大したことはないので
すね。姑息というよりは、稚拙な手ですわよ? そんな手に足許を
掬われるなんて﹂
くすくすと笑う姫君たちに、少しばかり慄いてしまったが表面上
は取り繕えていると思う。
﹁思い込みというのは本当に目を曇らせてしまいますのね。犯人あ
りき、で物事をつぶさに捉えないとは﹂
ああ、あの場にいた御婦人方の御身内がいらっしゃったようだ。
さて、この幕引きをどうするべきか。
そう考えていた時だった。
廊下から誰かが走って近付いてくる音が聞こえてきた。
それも、かなり激しいというか、凄まじい音だ。
全力疾走と言ってもいいくらいの足音だ。
﹁ああああああああっ あのっ!! すみませんっ!! ゴカイな
んです!! すみません、相良先輩っ!!﹂
悲鳴というよりは大絶叫で教室に飛び込んできたのは、安倍彬だ
った。
これは、どう収拾つけたらいいのだろうか。
1154
瞬きをしながら私が考えたのは、これらの事態の責任は誰が負う
べきなのだろうかということだった。
1155
145
﹁ああああああああっ あのっ!! すみませんっ!! ゴカイな
んです!! すみません、相良先輩っ!!﹂
教室へと飛び込んできた少女は、コメツキバッタのようにやはり
ものすごい勢いで頭を何度も下げる。
﹁ホントにゴカイなんです!! いや、ゴカイじゃないんですけど、
やっぱりゴカイなんです﹂
意味不明の言葉を口にしているが、一生懸命だということだけは
わかった。
あまりの暴挙に注意をしようとした生徒たちが、微妙すぎるほど
生温かい視線で彼女を眺めている。
﹁そんなつもりじゃなかったんです! 分不相応なのはしっかりく
っきり理解してますし! 何より並んでる自分が許せませんし﹂
﹁⋮⋮ええっと。安倍の姫? 何を仰いたいのかよくわからないの
だけど﹂
そう言っても多分、いいと思う。
﹁だからっ!! ええっと、あのぅ⋮⋮噂、お聞きになられました
よね?﹂
﹁先程から蔓延している噂なら。諏訪と安倍の姫の婚約というもの
と、諏訪と大神が道ならぬ恋に身を投じたというものだね﹂
﹁ううっ すみません。ついうっかり落としちゃって⋮⋮﹂
耐えきれないとばかりにふらりと床に座り込んだ安倍彬は、がっ
くりと肩を落とす。
﹁図書室でついうっかりストーリーを書いてたノートを落としちゃ
1156
って、誰かが中身を読んだのかはわかりませんが、いつの間にかそ
ういう噂が広がっちゃったのと、父が諏訪の援助を申し出た条件が
婚約というものだったので⋮⋮﹂
﹁婚姻を理由に援助をするというのは、政略婚ではよくある話だな。
誤解も何もないだろう﹂
﹁ですが、諏訪先輩は⋮⋮﹂
﹁君が何を思ったのかは知らないが、私と諏訪は無関係だ。それこ
そ婚約はありえない。何も気にする必要はないが﹂
そう告げて、もう一方の件については言葉を濁そうとしたが、じ
っと安倍彬がこちらを見上げているので居心地が悪くなってしまう。
﹁それから、もう一つの件だが、ノートを落としたのは君の失態だ
が、君がノートに何を書こうともそれは君の自由だろう。他人のノ
ートを理由があろうとなかろうと、本人に断りなく読み、その内容
を広めたという人物がいたとしたら、その人の品位を疑うけれど﹂
﹁⋮⋮え?﹂
﹁まあ、実際、君が書いた内容が、本当に噂通りのことなら、少々
軽率だと思うけれどね。実際に存在する人物での事実に反する物語
を書くというのは、やはり本人の許可がなくては駄目なのではない
かと思うよ﹂
﹁うっ そ、それは⋮⋮﹂
確かにまずいと表情豊かに感情を浮かべてしまった安倍彬の視線
が泳ぐ。
﹁とりあえず、君が原因となったことに関しての責任は、やはり取
るべきだと思うよ。誰が君のノートを勝手に読んで、その中身を広
めたのかということに関しても﹂
﹁う。はい﹂
素直に頷いた1年生は、私を縋るように見上げる。
﹁あのっ! 諏訪先輩は、仮の婚約者なんです。私が二十歳を迎え
るまでは、口約束ということで、それまでに援助した額を返済でき
ればこの話はなかったことになるんです﹂
1157
ちょっと待て。
それは契約の内容じゃないのか?
簡単に言っては駄目だろう!
そう思うと同時に、安倍と諏訪の思惑がかすかに読み取れた。
安倍家は神の系譜である諏訪家の内部情報が欲しいのだろう。
彼女が本当に諏訪伊織と婚姻するかは問題ではなく、その口約束
をしている間に神職を司る諏訪の情報を手に入れようとしている可
能性が高い。
それを知ってというよりは、逆に餌にして焚き付け、譲歩を引き
出したのは御隠居様だろう。
﹁諏訪先輩は、私が二十歳になる前にすべてを終わらせると仰いま
した。だから、ゴカイじゃないんですけど、やっぱりゴカイなんで
す﹂
八雲兄上と菊花姉上が心配していたのは、おそらく諏訪が私のと
ころへ出現するということだったのか。
だが、実際は現れなかった。
これが意味することは、明白だ。
諏訪は口約束のままにするつもりなのだろう。
立て直して、すべてを数年内に終わらせる決心をしたということ
だ。
ようやく、本気になったということか。
これは手強くなるな。
今まであったアドバンテージがひっくり返るということになる。
﹁だから、あの⋮⋮﹂
﹁君が何を言いたいのかわからないが、私から言うべきことはもう
何もないな﹂
﹁え、でも⋮⋮﹂
﹁教室に戻りなさい。ここは2年の教室だ。君がいていい場所では
ないことはわかっているね?﹂
そう諭せば、ようやく彼女は自分の立ち位置に気が付いたようだ。
1158
﹁うわっ!! すみません! ごめんなさい!!﹂
周囲に慌てて謝り倒すと、あちこちから苦笑が漏れる。
﹁あのっ!! 相良先輩、ひとつ伺ってもよろしいですか?﹂
教室の外へと出た少女は、こちらを振り返って問いかけてくる。
﹁何か?﹂
﹁岡部先輩と橘先輩、どちらがお好きですか?﹂
﹁それは、君には関係ないことだね﹂
私が答えるよりも早く、安倍彬の背後から穏やかな声が響いた。
﹁あ。橘先輩﹂
声の主の名を呟く彼女に、私は思わず疾風と顔を見合わせる。
呑気なというより、豪胆だ。
あの穏やかそうな声音とは裏腹に、思いっきり怒ってるぞ。
﹁俺と岡部と瑞姫は友人だ。それ以上でもそれ以下でもない。勝手
な憶測でものを言うのはやめてもらおうか﹂
笑顔なのに、確かに笑みを浮かべているはずなのに、ものすごく
怒っている。
何故だろう。
怒られているのは私ではないはずなのに、この場から逃げ出した
いなんて思うのは。
﹁え? でも⋮⋮﹂
﹁はっきり言うよ。迷惑だ﹂
橘がここまで怒るようなことを彼女が何かやらかしたのだろうか。
﹁うちのクラスの生徒が君の姿を目撃している。俺や瑞姫たちの姿
を追っているとね﹂
どうやら裏は取れた後での発言のようだ。
思い当たる節があるらしい安倍彬は、しまったと言いたげな表情
を浮かべている。
そうして、橘が怒っている理由にも思い当たる。
橘家の事情と今の彼の事情が絡んでいるからだ。
相良に迷惑がかかることを気にしているのだろう。
1159
﹁どういう理由であろうとも、今後一切俺達に近付くな。特に瑞姫
に近付くような真似をすれば、しかるべき手を打つ﹂
﹁はあ?﹂
意味がわかっていないらしい少女は、きょとんとした表情で橘を
見上げる。
﹁えっと、あの⋮⋮﹂
﹁幼気なお嬢さん? あなたがしていることは御自分の家を貶める
ようなことだと理解していて?﹂
彼女が問いかける前に、新たな声がかかる。
初めて聞く声だ。
橘の後ろから女子生徒がひとり、現れる。
見たことのない顔だ。
それも当たり前かもしれない。
彼女が来ている制服はとても真新しいものだからだ。
所謂転校生というものなのだろう。
﹁は? 家を?﹂
﹁お判りでない? 隠れて他家の令息の様子を窺うなど、品位に欠
けるのはもちろんですけれど、それ以上に他意があると捉えられて
抗議を申し入れられても仕方がないことですのよ﹂
﹁は!?﹂
﹁そうなれば、安倍家としても放っておくわけにはいきませんから、
あなたを退学させて婚約が調ったからと誕生日と共に華燭の儀とい
うことにもなりかねませんわ﹂
丁寧に説明しているその表情はとても静かだ。
顔立ち、醸し出す雰囲気はとても学生とは思えないほど妖艶では
あるが。
瑞姫さんや義姉上が喜びそうな美女だろう。
﹁ナニソレ!?﹂
﹁そうせざるを得ないほど拙いことをあなたはなさっていらっしゃ
るのよ﹂
1160
きっちりと指摘した後、嫣然と微笑む。
﹁そうならないように忠告される我が君のお優しいお言葉に従い、
二度とこのような真似をなさらないことね﹂
ん? ﹃我が君﹄?
気になる一言に、思わず橘に視線を向けると、橘の表情がわずか
に歪む。
﹁さあ、お行きなさいな。そして、決して他者に要らぬ興味を持た
ぬこと。それがあなたの身のためよ﹂
橘とよく似た笑顔で安倍彬を追い払う。
何となく、何となく、この女性の正体がわかったような気がした。
﹁皆さま、場をお騒がせしたこと、お許しくださいませ﹂
廊下から教室の中へ凛とした声音で挨拶をする美女。
本来なら美少女というべきところだろうが、どう見ても大人びて
いるため少女というイメージではない。
その美女がひたりと私に視線をあてた。
そうして、とろりと艶やかに微笑む。
男子生徒の大半がその笑みにうっとりと溜息を吐いた。
なるほど。
橘と同じ﹃色気駄々漏れ﹄状態なのだな。
これだけの美人となれば、笑顔だけでもかなりの威力だ。
姉上たちと似ているようで異なる美女ぶりだ。
艶やかな笑みを湛えた人は、胸の前で両手を軽く握り、私に向か
って頭を下げる。
﹁はじめまして、相良の姫君。わたくしは葛城美沙と申します。ど
うぞ、お見知りおきくださいませ﹂
1161
﹁御機嫌よう、葛城の郎女。相良瑞姫です﹂
葛城美沙という名前に聞き覚えがある。
わずかばかりの噂だ。
橘の祖母である葛城の大巫女の後継と言われる娘だ。
大巫女が先見の巫女なら、彼女は真眼の巫女と呼ばれている。
何でも真実を見抜く力があるそうだ。噂の範囲でしかない情報ゆ
えに真実かどうかはわからないが。
﹁⋮⋮わたくしを、御存知でしたか﹂
うっすらと葛城美沙が笑みの種類を変えた。
満足そうな笑みだ。
﹁それなら話が早くて済みますわ。わたくし、我が君のお側に侍る
ために参りましたの﹂
﹁それは、拒否したはずだ!﹂
橘が素早く声を挟む。
﹁いくら我が君の命でもこればかりは聞けませんわ。我が一族にと
ってこれ以上ない大切な御方ですもの﹂
さらりと流した葛城美沙は、私をまっすぐに見る。
﹁相良様、どうぞよろしくお願いいたします﹂
ゆるりとした動作でもう一度頭を下げると、その場から離れる。
舞踊の名手と言っても差し支えないほどしなやかで典雅な動作だ。
﹁⋮⋮葛城、か⋮⋮﹂
土着の一族が、上位の姫をこちらに送ってくるとは思わなかった。
﹁瑞姫﹂
心配そうな表情で疾風が見つめてくる。
﹁さて、どう打ってくるか﹂
事態が混迷していくような気がして、わずかに頭痛を覚えた。
1162
146
東條凛が学籍抹消となり、欠員ができた。
そこに入ってきたのが葛城美沙ということらしい。
クラスはもちろん諏訪と同じクラス。
新たな外部生ということで彼のクラスの生徒たちは戦々兢々にな
っていたようだが、葛城美沙が実に常識的な人であったために一転
して歓迎ムードに切り替わったという噂が聞こえてきた。
比べる対象が微妙すぎるので何とも言い難いのだが、平穏な日々
が訪れたということは歓迎すべきことだろう。
物腰柔らかな妖艶な美貌の葛城の郎女の周囲には、男子生徒が集
まって何かと話しかけていた。
﹁⋮⋮転校生は珍しいからな﹂
穏やかに応じる葛城美沙は絶えず笑みを浮かべている。
こういうところも橘とよく似ている。
裏を返せば、笑顔で武装しているともいえるのだろう。
転校初日だということもあり、情報収集をしているのかもしれな
い。
﹁葛城の名前が珍しいのよ、瑞姫ちゃん﹂
千瑛が笑みを浮かべて答える。
﹁こちらでは、幻の一族のようなものだしね﹂
﹁幻、か⋮⋮﹂
土着の一族ということで、本拠地からあまり外に出てこない一族
ではあるが、大巫女と小槙姐さん、橘誉という例外がある。
それを知っているがゆえに、﹃幻﹄という言葉に微妙な違和感を
1163
感じてしまう。
まあ、尤も、橘誉は例外中の例外的存在なのだが。
彼の場合は、例えは悪いが三毛猫の雄のようなものである。
﹁しっかし、群がるものよねぇ。見た目に弱いっていうのは、男も
女も差はないわね﹂
﹁そうか?﹂
﹁そのようよ。ああいうのを逆ハーレムっていうのね﹂
﹁ハレムとは違うだろう?﹂
﹁囲ってないからね﹂
ハレムというのは、時代、場所によってその中身が異なる。
一生出られないところもあれば、3年間主の渡りがなければ出ら
れるところもあり、外出を許されるところもある。
共通なのは、女性たちが住まう場所であり、その時代最高の教育
が女性たちに為されるところであるということくらいか。
ただ勉強をしたいがためにハレムに入った強者もいるとかいない
とか。
そのことを考えれば、千瑛の言う﹃ハーレム﹄とは違うような気
がする。
﹁ああ。瑞姫ちゃんの言うハレムとは違うわよ。イメージは似たよ
うなものだけど、ゲームとか小説とかで使う言葉だから﹂
﹁ふうん⋮⋮﹂
なるほど。違うのか。
納得したようなしないような微妙な心地で葛城美沙を見やる。
﹁まあ、彼女の狙いは半分達成したようなものだけれどね﹂
﹁狙い?﹂
まるで自分を餌にしているような状況で何を狙っているというの
だろうか。
勝算がなければ、非常にリスクが高い状況だ。
﹁実際は違うんだろうけれど、諏訪伊織に婚約者が現れたとなった
ら、次は誰が狙われると思う?﹂
1164
﹁大神紅蓮とか、千景かな?﹂
﹁それもあるけれど、橘誉と瑞姫ちゃんよ﹂
﹁は?﹂
千瑛の言葉に、思わず目を丸くする。
﹁何故、私? まあ、誉が狙われるのはわかる⋮⋮誉か!﹂
﹁そ。葛城の一族にとって、橘誉は待ちに待った唯一無二の男子だ
もんね。本人の意思は絶対だけれど、迂闊なことで奪われたくない
というのが本心じゃない?﹂
﹁なるほど。郎女ほどの上位者が自分を囮にしようと思うのも無理
はないな﹂
今現在、橘誉は橘家の後継者ではあるが、葛城の頂点に立つもの
でもある。
一方、葛城美沙は、葛城を名乗ってはいるが実際のところ傍系の
出だ。
葛城の一族もまた、実力主義であるらしい。
詳しいことはわからないのだが、分家でも傍系でも力があれば本
家に迎えられ、葛城姓を名乗ることができると聞く。
女系であるからこそ、連綿と続く血をより濃く強く後世に残すこ
とを使命としているのかもしれない。
﹁しかし、大巫女は誉を葛城に呼び戻す気はないと伺っているのだ
が⋮⋮﹂
﹁いかに葛城とはいえ、一枚岩とは言い難いんじゃないの? 女ば
かりなんだもの﹂
﹁そういうものだろうか?﹂
﹁多分ね。あの、葛城美沙がどちらの人間かはわからないけど、橘
を目立たないようにするために自分を餌にしているのは間違いない
と思うわよ﹂
そうまでして守りたいのなら、どうしてもっと早くに手を差し伸
べなかったのだろうか。
できなかった理由はわかっているが、ふとそう思ってしまう。
1165
葛城の血を持つと最初からわかっていれば、橘は辛い思いをしな
くても済んだはずだろうに。
まるでそれは橘に与えられた試練だというように放置しているの
はいささか納得がいかないものがある。
﹁どちらにしても、彼女が打つ手を見落とさないようにしないとね﹂
そう告げる千瑛の言葉をどこか他人事のように聞いていた。
********** **********
放校後、帰宅の為に車寄せに向かう途中、橘が私たちを待ってい
た。
﹁誉?﹂
てっきり葛城美沙も一緒に居るのだろうと思っていたのだが、彼
女の姿はない。
﹁彼女はどうした? 一緒ではなかったのか?﹂
﹁帰ってもらった。俺は、相良家にお世話になっている身だからね﹂
﹁あの女、橘を迎えに来たんじゃないのか?﹂
疾風も怪訝そうに問いかける。
﹁いや。マンション1つ買い取ったから、相良家を出るのであれば
そこに来てほしいとは言われたけれど﹂
﹁どういうことだ?﹂
﹁無理強いはしない、俺の意思が最優先だって﹂
肩をすくめて応じる橘に、疾風が首を傾げる。
﹁何企んでるのかイマイチわからないな。まあ、今すぐ喰われない
だけマシだけど﹂
﹁岡部!!﹂
1166
疾風の一言に鋭く橘が制止する。
﹁瑞姫の前で余計なことを言うな﹂
﹁あー⋮⋮すまん﹂
かりっと頭を掻きながら、苦笑する疾風。
﹁疾風、今のはどういう意味だ?﹂
﹁何でもないから!! 言葉のあやだから!!﹂
妙に慌てた橘と疾風が声を揃えて誤魔化そうとする。
﹁んー? 納得いかない﹂
﹁今は納得して! とりあえず、俺は大丈夫だし﹂
﹁まあ、誉が無理強いされてなければいい。誉の意思に反するよう
な真似をしたのなら、いくら葛城家相手でも仕掛けるからな﹂
﹁あー⋮⋮うん。ありがと﹂
﹁なんか、橘が姫ポジな気がする⋮⋮なんでだ?﹂
不思議そうに首を捻る疾風がぶつぶつと呟いている。
﹁瑞姫も意外と武闘派なんだよなぁ﹂
微妙な笑みを浮かべる橘。
﹁失礼な! 私とて相良の一員だぞ。無用の争いは好まないが、売
られれば買うぞ。買ったら負けるつもりは毛頭ないということだけ
は覚えておいてほしい﹂
﹁うん、武闘派だ﹂
あっさりと結論付けられてしまった。
武闘派ではないと思うが。
﹁まあ、いい。帰るぞ﹂
とりあえずこんなところで言い合っていても始まらない。
帰ってからそれなりに情報を得るべきだろう。
そう思い、声を掛ける。
﹁そうだね、帰ろう﹂
穏やかに微笑む橘と疾風と並んで、今度こそ車寄せへと向かった。
帰宅後しばらくして、相良の本邸に予定外の客人が来たから母屋
1167
へ来るようにと知らせが入り、不思議に思いながらも疾風を伴い応
接間へと足を向けた。
1168
147
案内されたのは、畳廊下がある座敷だ。
私を呼んだのはどうやら蘇芳兄上のようだ。
﹁瑞姫です﹂
襖の前で声を掛ければ、入ってくるようにと中から声が上がる。
﹁失礼いたします﹂
一声かけて障子を開け、中に入る。
私の後に疾風が続き、そうして障子をきっちり閉めて顔を上げれ
ば、ひどく納得してしまった。
上座に座る蘇芳兄上、入口側に座した橘誉。
そうして蘇芳兄上の正面に姿勢を正して座るのは、葛城美沙であ
った。
橘とは蘇芳兄上を挟んでの対面側に疾風と共に座ると、客人であ
る葛城の郎女に軽く会釈する。
蘇芳兄上は泰然と座って私たちが落ち着くのを待っている。
家族内での評価は、落ち着きが足りないと非常に残念なことにな
っている蘇芳兄上だが、対外的な評価は実はかなり高い。
身内なだけに容赦ない評価をしているのだろうと思う。そう、思
いたい。
まあ、実際、理数系では突出した能力を持ち、プログラミングを
得意としていた蘇芳兄上は、大学時代に会社を興してセキュリティ
関連の事業を行っている。
1169
若き社長として柾兄上と比較しても遜色ない評価を業界では得て
いるのだ。
対外的な面を取り繕えているだけマシだろうと御祖父様も仰って
いるし。
つまり、今、ここに座っている蘇芳兄上は有能な社長を演じてい
るわけだ。
茉莉姉上や菊花姉上が居たら、ぷぷっと吹き出しているかもしれ
ないな。
表情を変えずに端然と佇む兄上は、普段と違って威厳めいたもの
がある。
しかも、郎女の美貌を前にして興味を覚えた様子もない。
このブレなさ加減が確かに相良の血だと納得してしまう。
私たちが落ち着いたところで、葛城の郎女が座していた座布団か
らすっと降り、畳に手をついて頭を下げた。
動き、姿勢、そのどれをとっても完璧なまでに美しい。
彼女に作法を教えた者は、かなりの技量を持っているのだろう。
何故かそんなところに感心してしまう。
﹁お忙しい中、突然の来訪に対応いただき感謝いたします﹂
揺るぎない声で口上を述べる彼女にいささか驚く。
今、予告なしに押しかけたって言わなかったか?
﹁生憎と当主も父も兄も出払っていて、客人の対応をするのが私で
申し訳ない。用件次第では当主の居る本社の方にご案内申し上げよ
う﹂
ゆったりとした口調で応じる蘇芳兄上。
﹁有り難う存じます。こちらに参るのが筋というものですから﹂
対する郎女も動じず、淡々と言葉を紡いでいる。
蘇芳兄上の皮肉に気付いているのかいないのか、その面からは読
み取れない。
﹁まずは相良様に葛城一族を代表いたしまして御礼を申し上げます﹂
1170
深々と一礼。
﹁顔を上げられよ。葛城家から礼を受ける覚えは全くないのだが﹂
わかっていながらすっとぼける兄上に橘が苦笑を浮かべる。
相良が受け入れたのは、橘誉個人だ。
橘家の次期当主でも、葛城家の当主でもない。
しかも、橘誉本人からの礼の言葉を受け取っているので、他家か
らの礼など必要ない。
これが我々相良の建前だ。
﹁いえ。我が君⋮⋮誉さまは、我が一族にとって大切な御方。橘姓
を名乗り、当主夫人でいらした由美子さまの庇護を受けていらして
も、葛城の当主であることには変わりございません。しかも、由美
子さまが鬼籍に入られてからの橘家の対応は到底許せるものではご
ざいません。お迎えにあがらねばと準備をしておりましたが、相良
様の御温情を賜り、こちらへ身を寄せたと知らせが入り、安堵した
次第にございます﹂
葛城美沙の言葉で、やはり葛城は橘を迎えに来たのだと知る。
だが、本拠地に連れ帰るという意味ではなさそうなところに首を
傾げそうになる。
﹁このご恩に報いるべく参りました﹂
﹁さて。葛城殿は何やら誤解をなされているようだ﹂
あくまでとぼける気でいる蘇芳兄上。
それはそうだろう。
葛城家からの礼など、不安しか感じない。
常識はずれで桁外れなモノを用意してきているようで。
勘違いだ誤解だと言って誤魔化して有耶無耶にしてしまいたいと
いうのが本音だ。
例えて言うなら、1000円のランチを奢ったら、10億円相当
の金塊をお礼だと持ってくるようなものだ。
葛城家にとって直系の男子というのはそれくらいの価値がある。
だからこそ、その男子が何者かに恩を受けたというのであれば、
1171
全力でもって礼をし、その恩義に報いようと考えるのだろう。
はっきり言って、傍迷惑だ。
友の窮地を救うというのに他家からの礼はいらない。
本人からの感謝の言葉で充分酬いられるのだ。
それを踏み躙るような真似をするのであれば、受けて立とうと蘇
芳兄上なら言いそうだ。
受けて立つのはいいけれど、他家と違って葛城家は徹底的に微塵
に破砕するまで潰さないと、後が面倒そうだ。
図太く復活するのは当たり前だが、以前よりも遥かに力をつけて
来そうな予感がするし。
その辺りを考慮して判断していただけるとありがたいと思うぞ、
蘇芳兄上。
とぼける蘇芳兄上と無表情の私に、攻め入る足がかりを見いだせ
ないのか、葛城美沙がゆったりと瞬きを繰り返す。
﹁⋮⋮誤解、と申されますか?﹂
﹁誤解だろう。瑞姫の友人を家に誘っただけだ。よければ遊びにお
いで、と。学生時代にはよくあることではないかな?﹂
まあ、あると思いますけど。
でも兄上、それは初等部の子供達の間での交流ではないでしょう
か? 未成年という点では似たようなものかもしれませんが。
確認するように郎女が私と橘に視線を向ける。
そうだと答えるために、頷いてみせる。
長期休暇などで別荘に招待するといったことが一般的な四族では、
こういったことは特別珍しい事ではない。
お誘いし、応じてくれた方を丁重にもてなすのもまた楽しいこと
だと訓えられる。
﹁確かに。そのようですわね。そのお心遣いで誉さまのお心が救わ
れたのも事実。葛城がそのことを安堵し、嬉しく思ったのもまた事
実﹂
1172
嫣然と微笑んだ葛城美沙は、真顔に戻る。
﹁ですが、この恩義を金銭に換えてしまってはかえって相良様を侮
辱することにもなりかねないということも承知しております。人へ
の恩は人が返すもの。それゆえ、わたくしが参りました。葛城が持
つ人脈をどうぞ、ご存分にお使いくださいませ﹂
﹁⋮⋮⋮⋮⋮⋮断る﹂
深々と溜息を吐いた蘇芳兄上が、実に面倒臭そうに一言で断ち切
ってしまった。
﹁なにゆえに?﹂
葛城家が持つネットワークは確かに物凄いものがある。
土着の一族と言いながらも、その人脈はそれこそ蜘蛛の巣のよう
にあちこちに張り巡らされていると聞く。
それを考えもせずに断るとは思わなかったのだろう。
意外そうな表情を浮かべ、郎女は問いかける。
﹁伝手を使うにも、その相手との信頼関係が強固でないと難しい。
相良は、葛城家に対してまったく信頼関係を築いていない。そんな
相手の人脈を使うことはありえない﹂
﹁では、我が一族に瑞姫様をくださいませ。常々、我が葛城は瑞姫
様を一族にお迎えしたいと思っておりました﹂
﹁それも断る。瑞姫も、他の兄弟もそちらへ渡すことはない﹂
﹁瑞姫様のお考えはいかがでしょう?﹂
郎女の視線が私の方へ向けられる。
﹁私はモノではない。欲しいからくれと言われて頷けないだろう﹂
﹁瑞姫の言う通りだ。葛城さん? 全く関係ない方に横から恩がど
うのとか、人脈を使えだの言われて断れば、今度は瑞姫を寄越せっ
て随分自分勝手な理論だね﹂
それまで黙っていた橘が、不快げな表情で言葉を挟む。
葛城美沙は、﹃葛城さん﹄と呼ばれたうえに関係ないと言われた
ショックで顔色を変える。
﹁我が君﹂
1173
﹁その呼ばれ方、とても不愉快だ。俺は葛城家の人間じゃない。橘
家の人間だ。今まで親族だと名乗りもせずに、義母が死して後にい
きなり俺を所有物のように扱う態度が気に入らないと言わせてもら
ってもいいかな? 俺の母も葛城の人間じゃなかった。別の家の娘
として、父の子を産んだ。つまり、どう考えても葛城の名前は出て
こない。母と祖母も縁を切っているようだしね﹂
﹁それには理由がございます!﹂
﹁俺は一切聞いていない。そんな理由なんて、理由でも何でもない
ということだ。迷惑だから帰ってもらえないかな﹂
﹁誉さま!﹂
橘からの拒絶は、流石の葛城美沙でも堪えたのだろう。
完全に色を失っていた。
﹁まあ、次期殿。そこまで無碍にせずともよいだろう﹂
いささか言い過ぎだと思ったのか、蘇芳兄上が軽く窘める。
﹁ですが﹂
﹁信頼関係を急遽築くために相応の人質を取るというのは、よくあ
る話だ﹂
いつの時代の話ですか。
人質と言いますか、私を。
確かにそうだと言えますけど。
私を葛城に迎え入れるというのは、相良にとっても、橘にとって
も﹃人質﹄になる。
どんなに礼を尽くすと言っても、そういう風にしか捉えられない。
それは表向きで、裏というか本音では別の思惑が葛城にはありそ
うだとも見て取れる。
こう言う場合は自分を餌にする気にはなれないが。
﹁だが、そういう話に持っていく場合、悪手を打っているように見
せかけて引っ掛けをするという手法もある﹂
﹁え?﹂
﹁ま、確認とかもそのうちの1つだ。瑞姫が相良や次期殿の弱点か
1174
どうかを探るという手も考えられるだろう?﹂
にやにやと笑う蘇芳兄上は、そう言うことで葛城美沙に釘をさす。
揺さ振りをかけようとしても無駄であると。
﹁見破られてしまいましたか﹂
肩をすくめた美女は、仕方なさそうな微笑みを浮かべる。
﹁当主の許へではなく、本家に来たのだから、思惑があると考える
のが妥当だろう﹂
﹁確かに。ですが、瑞姫様が欲しいというのも一族の本心ですのよ
?﹂
﹁一致して、ではあるまい﹂
﹁否定はできませんわね。相良様の気性を知ることもわたくしの役
目でしたから、充分に果たせましたわ。それでは、本題に入ります
わね﹂
にこやかに笑顔を作り上げた郎女は、背筋を伸ばして橘に視線を
向けた。
1175
148
どっしりとした一木造の座卓の上に、葛城美沙が何かを置き、そ
れを橘の方へと滑らせる。
﹁こちらは、誉さまのものでございます。どうぞ、お納めください
ませ﹂
それは、印鑑と通帳のようだった。
橘はそれを一瞥したが目を伏せ、受け取りを拒絶する。
﹁大巫女様からでございます。誉さまのご誕生から今まで、誉さま
が受け取るべき葛城の益にございます﹂
自分は葛城の人間ではないと言い切った橘は、目を伏せたまま、
沈黙を保つ。
受け取る気はないと、全身で告げているようだ。
﹁次期殿、受け取っておけ。受け取らねば、葛城は無理やり受け取
る状況を作り上げようとするぞ。それこそ、次期殿の不本意な状況
でな﹂
﹁⋮⋮しかし!﹂
﹁手をつけるかつけぬかは、次期殿の自由だ。受け取って放置した
ところで、もう何も言えぬよ﹂
だよな? と、蘇芳兄上が葛城美沙に視線をあてて笑う。
真眼の巫女と呼ばれる美女は、苦笑を浮かべて頷いた。
﹁ええ。誉さまがお納めくださったという事実さえあれば、一族の
者はそれ以上申し上げることは叶いませぬ﹂
﹁ですが﹂
﹁受けておけよ、橘。誰も見てないところで印鑑砕いて、通帳燃や
1176
してもかまわないってことだぞ﹂
ぼそりと疾風が唆す。
﹁⋮⋮さすがにそれは困りますけれど﹂
困ったようには見えない笑みで、葛城美沙は言葉を紡ぐ。
﹁ああ、なるほど。そういう手もあるんだ。いいね、それ﹂
ふわりと橘が笑う。
いや、本当にいいのだろうか、それ。
少しばかり困惑したが、本人の意思が重要だから部外者の私が口
を挟むわけにもいかない。
同じ部外者の疾風と私とでは立つ位置が違うため、疾風が言える
ことでも私では難しいこともある。
今、私が言質を取られることになれば、家にも橘にも迷惑をかけ
ることになりそうだ。
﹁それなら受け取ろう。紛失したところで、気付かないだろうけど
ね﹂
笑顔のまま、橘が答える。
そんなに嫌なのか。
ああ、でも。あることに気付いてしまった私は、沈黙を守ろうと
思っていたにもかかわらず、郎女に問いかける。
﹁ひとつ、お尋ねしたい﹂
﹁何でございましょう?﹂
いきなり問いかけた私に驚きもせず、郎女は私に視線を向ける。
﹁大巫女は、何故、今、それをあなたから渡すように託したのだろ
う? 彼女ならいつでもチャンスはあったはず﹂
祖母として、橘に幾度となく会う機会があった葛城の大巫女が、
何故直接渡すことなく郎女に託したのか。
一度気になってしまえば、あまりにも不自然すぎる展開のように
感じてしまう。
私の質問に橘がわずかに表情を変え、疾風も葛城美沙に視線を向
1177
ける。
﹁大巫女様が先見の巫女ということは、御存知でいらっしゃいます
ね﹂
動じることなく彼女はうっすらと微笑んで告げる。
﹁情報の1つとして。実際にどのようにして未来を予知するのかな
ど、皆目見当もつかないが﹂
葛城一族なら、このような物言いは不快に感じるだろう。
大巫女の能力を否定しているようにも聞こえる可能性もある言い
方だからだ。
郎女もさすがに笑み続けることはできずにわずかに目を眇めた。
﹁確かに。大巫女様も先見の宣託は一族以外の前ではなされません
もの﹂
ふと溜息を零して、葛城美沙は呟く。
﹁先見も、﹃必ずしも当たるとは言い難い﹄ということは、ご本人
から伺ったことはあるが。特に血が濃いと上手く読み解けないとも﹂
﹁⋮⋮そのようなことまでお話しなさっていたのですか⋮⋮﹂
﹁私が偽りと言っているとは思わないのか?﹂
﹁瑞姫様の発する言葉は真ばかりですわね。疑う余地もありません
わ。わたくしも大巫女様からそのように伺ったことがございます﹂
溜息交じりの声は、どこか呆れたような響きを含んでいる。
﹁正直に申し上げましょう。大巫女様は、誉様が葛城にお戻りにな
られるか、そのまま橘を継がれるか、橘の家を出たまま葛城にお戻
りにならず名を馳せられるのか、まったく読めなかったそうです﹂
静かな声音で告げた内容は意外なものだった。
﹁しばらくはこちらにいらっしゃるだろうということはお判りにな
られたそうですが、それ以上のことは⋮⋮それゆえ、これをわたく
しに託されました。渡すかどうかはわたくしに任せると﹂
﹁あなたは、渡すべきだと判断したということか﹂
﹁はい。大巫女様の先見は外すことがないという歴代でも類を見な
いほど優れた御方なのですが、5年前、それが初めて覆されました。
1178
瑞姫様、あなたのことです﹂
少しばかり迷うような素振りを見せた葛城美沙は、それでも表情
を改め、言葉を紡ぐ。
﹁巻き込まれるはずもない事件に巻き込まれ、驚いた大巫女様はあ
なたの先を案じられた。誉様の唯一の希望であった瑞姫様に万が一
のことがあればと⋮⋮そうして先見をし、後悔なさったそうです。
最悪の結果など、見たくはなかったと。摘み取られた華を嘆いた者
たちの報復は、それはもう恐ろしいものであったそうです。誉様も
⋮⋮ですが、先見の結果を覆し、瑞姫様は回復なさいました。大巫
女様にとって、とても嬉しい﹃外れ﹄だったそうです。それ以来、
大巫女様は進んで先見を行うことはなさらないようになりました。
視えるものだけ受け止めると仰って﹂
彼女の言葉に、ほんの一瞬、身が強張る。
橘の表情も歪み、制止の声を上げかけ、言葉を呑みこむ。
大巫女が見た私の未来は、潰えていたのか。
瑞姫さんが居なければ、確かにそうだったのだろう。
私の死が橘に与える影響というものは、もう聞く必要のないこと
だ。
起こらなかったことに対して、いつまででも気にかけていては進
まない。
﹁つまり、大巫女は、この先、誉の未来も、私の未来も視るつもり
はないということか﹂
確認すべきことは、そこだ。
私の未来が誰かの先見だとか、予知だとかで左右されるわけには
いかない。
それが私ひとりのものではないということはさすがに理解できて
いる。
それでも、自分の足で立って、状況を把握して、進むべき道を選
び取らなければならないという自覚はある。
大巫女が予見したからと言って、それに従うつもりも道理もない。
1179
だが、それを押し付けてくるのなら全力で抗うつもりだ。
﹁⋮⋮おそらく、そのつもりでいらっしゃると⋮⋮﹂
曖昧に肯定した葛城美沙は、緩やかに頷く。
﹁大巫女様からお渡しするよりも、わたくしからお渡しした方が誉
様も受け取ってくださるとお思いになられたようですわ﹂
受け取るという意味合いが遥かに違うが、結果を見れば確かにそ
うだろう。
身内の情というよりも半ば脅迫で受け取らせたようなものだ。
﹁葛城の主たる我が君が、本来ならば受け得る益をお渡しできなか
ったことが問題だったのです﹂
彼女の言葉にわずかばかりの違和感を感じる。
それではまるで葛城はずっと橘と接触しようと試みてきたように
思える。
﹁祖母君である大巫女様がお孫様である我が君にお会いになるのに、
何ゆえ橘家に阻まれなければならぬのか! この屈辱、相良様には
お判りにならぬでしょう。いえ。橘ではなく、相良様の御血筋とし
て我が君がお生まれあそばされていたのなら、そのようなことには
一切ならなかったでしょう。先見の結果とはいえ、悔やまれてなり
ません﹂
その言葉に思わず蘇芳兄上と顔を見合わせる。
まあ、確かに。
嫁は大切にする家だから、嫁の実家も当然大事に扱うのが当たり
前だと思っている。
子供や嫁に、その実家からの財産分与があれば、それは彼らの財
産としてきちんと渡るように手配するだろう。
もちろん、実家から会いたいと言ってくるなら会うのも当然の権
利だ。
阻むわけがない。
一般家庭から嫁取りしている家だから、そういう考え方をしてい
ると言っても過言ではないのだが。
1180
家同士の結びつきを大事にする名家の政略婚はこれとは別の対応
になる。
しかも、橘誉の場合、母親の出自が橘家内部で明らかになってい
なかったというのが原因だ。
由美子夫人と真季さんが姉妹であるということは知られていたが、
異母姉妹であったため、その母親の出自まで橘家が把握していなか
ったようだ。
それゆえ、真季さんが葛城の血を引く娘であることを知らず、接
触してきた者が誰かわからずに拒否したということかもしれない。
あそこの分家の質の悪さは今までのことで充分すぎるほどわかっ
ている。
真季さんの母親がどの家の出身なのか、まったく調べなかったの
だろう。
察するに、葛城家は相当屈辱的な態度を取られたのだろう、橘家
を憎悪するほどに。
大巫女がそれを抑えていたから、今までは手を出さなかった。
何故なら、橘誉は次期当主として橘家で暮らしていたからだ。
その橘家を出た今となれば、大巫女が抑えていたとしても隙間を
縫って橘へ報復するかもしれないということか。
蘇芳兄上と視線でやり取りしてそういう結果を導き出す。
いや、だから。﹃うわぁ⋮⋮女って怖い﹄って訴えないでくださ
い、兄上。
郎女にばれちゃいますから。
﹁確かに、相良ではあなた方のお気持ちはわからぬでしょう。それ
に、葛城の姫君を我が家にお迎えすることはこれから先もありませ
んし﹂
これだけはきちんと言っておかないと、葛城の姫君たちとの縁談
が舞い込んできては困る。
1181
ある意味、葛城家は相良と似ている。
どこに嫁ごうと、自分の生れた家が一番だというところが特に。
まあ、嫁がずに独身のまま子を産む女性が多い家であると聞いた
こともあるけれど。
あと母親は違うが父親が一緒という子供も意外と多いという噂も
あるけれど。
これ以上は考えると怖いので、あまり深く考えてはいけないと思
う。
﹁それは残念ですわ。こちらの皆様にちょうど釣り合う者が大勢い
ますのに﹂
にっこりと郎女が微笑む。
その郎女の視線がわずかに後ろに流れる。
ああ、そうか。
﹃こちら﹄というのは、﹃相良﹄だけではなく﹃岡部﹄も同じだ
ということか。
微妙に疾風が緊張しているのがわかる。
かなり郎女を警戒しているようだ。
﹁申し訳ない。そちらと同じように我が家は少々特殊ゆえ、一般家
庭の方ならほとんど問題ないが、四族であれば家との繋がりを断ち
切っていただかないと馴染めないだろう﹂
﹁そのようですわね。まあ、葛城と致しましても相良様と事を構え
るつもりは毛頭ございませんもの。感謝をしているというのは真実
ですわ﹂
そう言って、葛城美沙は表情を改めて蘇芳兄上を相手に交渉を始
める。
内容は橘に関することだ。
その中の1つに、橘が与えられた離れを見たいというものがあっ
た。
橘に確認したら、別にかまわないということだったので、彼と一
緒に郎女を離れに案内する。
1182
離れの造や庭を見た郎女は、﹃葛城が手に入れたマンションだと
見劣りするので仕方ない﹄と意外にあっさりと諦めて帰って行った。
葛城美沙を見送り、彼女の目的を考える。
﹁⋮⋮やはり、ここでの誉の扱いを確かめるためかな?﹂
﹁俺は物色されたような気がしたぞ﹂
疾風に問えば、憮然とした表情で答えが返ってくる。
﹁物色⋮⋮?﹂
何も触れなかったのに、物色?
﹁颯希にも気を付けるように言っておこう﹂
﹁それがいいね﹂
少しばかりげっそりしたように橘も頷く。
﹁さっちゃん? 何で?﹂
﹁兄貴たちにも言っておこう。あれは本当に怖かった﹂
﹁⋮⋮俺達に近づかないように言っておく。さすがに俺も恐ろしい﹂
﹁何が?﹂
﹁瑞姫にはわからない!﹂
2人同時に断じられてしまった。
確かにわからなかったけど、説明してくれてもいいじゃないか。
﹁土蜘蛛っていうより絡新婦だぞ﹂
﹁同意するよ、心の底から﹂
本当に最近、疾風と橘は仲が良い。
ちょっと拗ねてもいいだろうか。
1183
149
大したことではないと言われてしまえばそれまでなのだが、私は
かすかな違和感を感じていた。
何に対してかと言えば、葛城美沙にだ。
彼女の醸し出す雰囲気と彼女が起こす行動に、若干の差異がある
のだ。
行動すべてに対してイメージと合わないと言えば、それはイメー
ジの受け取り方が違っていたのかもしれないと思うだろう。
だが、普段の行動は抱いたイメージに違和感なく合致し、とある
行動のみ違和感を感じるのだ。
おそらく故意にしていることなのだろう。
その意図は私にはよくわからないが。
その行動に対してどう思うかと問われれば、答えようがない。
違和感を感じるが、何を考えてやっているのかわからないので目
についただけで、特に何も思わなかったからだ。
﹁千瑛はアレをどう見る?﹂
昼休み、カフェから見える食堂の様子を示して千瑛に問いかけて
みる。
そこには男子生徒に囲まれて如才なく振る舞う葛城美沙の姿があ
る。
﹁生き生きしてるわねー﹂
﹁⋮⋮そうか﹂
思っても視ない答えに瞬きを繰り返す。
1184
﹁静かに獲物を狙う蜘蛛よね、まさしく﹂
﹁獲物?﹂
﹁餌と言ってもいいけど。望んでいない取り巻き引き連れてるのも
情報収集のためのようね﹂
くつりと皮肉気に笑いながら千瑛が告げる。
﹁情報収集、か﹂
﹁そうよ。だって、橘誉を葛城に戻すにせよ、戻さずとも橘家と縁
を断ち切らせるにせよ、東雲内での立ち位置は外からじゃわからな
いからね﹂
﹁⋮⋮まあ、そうだな﹂
﹁学園七騎士の一角だなんて知らなかったでしょうし? 瑞姫ちゃ
んもそう呼ばれてるってことを含めてね﹂
﹁私は関係ないだろう?﹂
﹁大ありよ! 七騎士で、王子様な瑞姫ちゃんに手を出そうとする
なら、ここでの足掛かりを即座に失うってことだもの。見かけ以上
に賢い人のようね、度胸を含めて﹂
目を眇め、千瑛が呟く。
﹁相良に1人で乗り込んだって、橘誉に聞いたわ﹂
﹃聞いた﹄んじゃなくて、﹃聞き出した﹄の間違いでは?
橘がそう簡単にこういうことを口にするとは思えない。
千瑛が無理やり聞き出したと考える方が自然だ。
﹁確かに乗り込んできたけれど﹂
﹁なに?﹂
﹁納得がいかない。悪手を打つふりをする意図がわからない﹂
﹁揺さ振りをかけて来たの?﹂
ちらりとこちらを見た千瑛が、葛城美沙に視線を向けて問いかけ
てくる。
﹁揺さ振り⋮⋮ある意味、そうだな。蘇芳兄上しかいない時を狙っ
て本家に来たのだから﹂
﹁⋮⋮まあ、筋を通すなら本邸だけど、礼を言う相手が当主なら、
1185
当主の居る場所に行くわよね、普通。ちゃんとアポイントを取って﹂
﹁それをしなかったから、乗り込んだと誉が言ったんだろう﹂
﹁確かにね。乗り込んだとか、突撃したとか、そういう雰囲気よね﹂
﹁まさしくな。それが、問題なんだ。どう見ても、郎女の持つイメ
ージとはかけ離れている。わざと悪手を打って、それをこちらに教
えるようなタイプの人間には見えない。何かしらの意図があるはず
だろうが、それがわからない﹂
﹁なるほどねぇ﹂
感心したように呟いた千瑛は、にやりと笑う。
﹁瑞姫ちゃんから見て、イメージに合う行動と合わない行動、どっ
ちが多い?﹂
﹁今の時点では、イメージ通りという行動の方が多い。だからこそ、
合わない行動が目につくとも言える﹂
﹁そう。で? イメージに合わない行動を取るときはどんなときか
気付いた?﹂
﹁⋮⋮んー⋮⋮ああ、そうか。誉に直接絡むときだな﹂
﹁ほー⋮⋮﹂
気のない相槌を打つ千瑛は、何かを考えているようだ。
﹁なるほど、ねぇ?﹂
答えを見つけたらしい彼女は、楽しげに頷く。
﹁千瑛?﹂
﹁うふふふふ∼⋮⋮わかっちゃった! でも、瑞姫ちゃんには内緒。
今は、ね。普通の女の子なら、この方法でもいいんだけどねー、瑞
姫ちゃんには通用しないわね。まあ、なかなかの策士だとは思うけ
れど、相手を普通の女の子だと想定してたら間違いよね。瑞姫ちゃ
んだし﹂
﹁⋮⋮千瑛?﹂
楽しげに笑う千瑛の反応に、私は眉を寄せる。
何だかすごく貶されたような気がする。
私が﹃普通の女の子﹄からかけ離れているような言い方はやめて
1186
ほしいと思う。
とりあえず、生物学上も戸籍上も﹃女性﹄にわけられているはず
だし。
﹁まあ、安心していいんじゃない? 少なくとも葛城美沙は、橘誉
の味方であるということは間違いないようよ﹂
﹁悪意はない、と?﹂
﹁橘誉に対してはほぼ完全に。全力で守るつもりだし、欲しいもの
を与えるつもりではいるみたい﹂
﹁欲しいもの?﹂
その一言に引っ掛かる。
それは余計なお世話とは言わないのだろうか?
橘は努力して欲しいものを手に入れるタイプだ。
努力したからこそ、手に入れたときの価値は何物にも勝ることを
知っている人間だ。
横からそれらを渡されるのは不本意だろう。
それが味方だろうが何だろうが、彼の努力を無にしていいはずが
ない。
﹁余計なお世話だろうと思った? まあ、それが普通の反応よね。
相手を尊重すれば、その辺りは見えてくるものだしね﹂
くつくつと笑いながら告げる千瑛に、彼女もまたそう思っている
ことを確信する。
﹁あちらとしては橘が大切すぎて必死なんだろうけどね。大事な大
事な唯一の主なんだから﹂
﹁そういうものなのか?﹂
﹁そうだと思うよ。真綿にくるんで、大切に守り通したいんだろう
ね﹂
﹁誉は男だぞ﹂
﹁そう。男だからよ﹂
葛城にとってはね、と、続けられて、価値観の相違を痛感する。
自分の足で立ちたい橘にとって、葛城は橘家以上に束縛が強い家
1187
になるのだろう。
かといって、相良が彼に手を貸せることはあまりない。
必要だと乞われたときにしか、介入できないのだ。
後手に回るのはいささか癪だが、状況を見守るしかなさそうだ。
葛城美沙の動向を探りながらも動けずにいたある日、意外な事実
を知った。
﹁もうやだー!! 瑞姫、助けてー!﹂
そう言って私に泣きついてきたのは在原だった。
﹁どうした、静稀?﹂
勢いよく抱き着いてきた在原を受け止め、宥めるように頭を撫で
る。
﹁知ってたけど、知ってたけどっ!! もう、何なんだよ、あの人
!! 使えないっ!!﹂
﹁静稀?﹂
﹁お願い、愚痴らせて! 誉の父さん!! お坊ちゃま過ぎて、も
うやだーっ!!﹂
その一言で大凡のことを察してしまったが、これは聞いてやらな
いと在原も可哀想だと思い直す。
でもまあ、視線が遠くなってしまうことだけは許してほしいが。
在原の話を要約すると、父親から橘本家再生の手伝いをさせられ、
橘のご当主につきっきりで世話をしていたのだが、彼の無能ではな
いが基本的な常識のなさと応用力のなさに辟易したということだ。
今までどうやって当主の仕事をしてきたのかと問えば、上がって
きた書類に目を通し、認可するか差し戻すかのどちらかの判断しか
しなかったという答えが返って来たそうだ。
つまり、自分から働きかけずに、結果を待つだけのお仕事だとい
1188
うことか。
視線が遠くなるどころか、気が遠くなりそうだ。
そんな父親を持っていた橘の苦労を労いたくなってしまう。
まあ、それでまわっていく一族経営だったから良かったのだろう。
岡部のような他社競争の激しい業界に身を投じているような企業
であれば、数日とは持たないはず。
父親の下、経営に関する勉強を始めていた在原は、良い実務経験
になるからと橘のご当主の補佐に入って心が折れかけたとぼやいて
いる。
﹁それは、苦労したな﹂
それ以外の言葉は思い浮かばない。
﹁ああ、もう! 俺より誉だよ!! 相当苦労してるはずだよ、実
の父親がアレなんだから﹂
﹁まあ、そうだな﹂
﹁家出て正解だと思った。早く縁切ってやればいいのに、うだうだ
と!!﹂
まだ駄々こねているのか、彼は。
怒り心頭の様子で愚痴る在原は、妙に据わった目で私を見る。
﹁それと、あの化け猫みたいな人! 誰か何とかしてほしいんだけ
ど﹂
﹁⋮⋮化け猫?﹂
一体誰のことだ?
﹁アレだよ、葛城の。俺が誉に声を掛けようとすると邪魔するんだ﹂
﹁そうか﹂
絡新婦を化け猫と呼ぶあたり、在原の毛嫌い振りがよくわかる。
元々、在原は女性が苦手なフシがあるからな。
葛城美沙のようないかにも妖艶な雰囲気を持つ女性は出来るだけ
近づきたくないタイプなのだろう。
その彼女が邪魔に入るのなら、橘に近付きたくても近づけない状
況が出来上がってしまったのか。
1189
おそらく、彼女としては橘家に繋がる在原を傍に寄せたくないの
だろう。
橘誉を橘家へ引き戻すような因子を徹底的に排除するつもりなの
かもしれない。
﹁どうしても重要な連絡をしなければならない時は、うちに来ると
いい。相良の内側では、さすがに彼女も手出しはできないからな﹂
﹁そうか! その手があったか。瑞姫、最高!﹂
感動したように告げる在原に、彼がどれだけ苦労したかがわかっ
たような気がする。
﹁来月末にはまたハロウィンがくるからな﹂
﹁ああ、そうだね。また瑞姫のところにお邪魔して、お菓子作りを
させてもらうよ﹂
﹁今回は早めに準備に入ろうか﹂
﹁いいね!﹂
いくら葛城美沙とはいえ、相良本邸に入れても、私の棟には立ち
入ることはできない。
否、私の棟があることすら知らないだろう。
勿論、私の客としても認識されないため、本邸の応接間にしか案
内されない。
彼女に気付かれずに内緒話をする場所は、意外とたくさんあるの
だ。
そのことを示唆すれば、在原の表情が明るくなる。
﹁疾風のところに泊まるという手もあるからな﹂
﹁もう大好き!﹂
﹁そうか、ありがとう﹂
岡部家には、うちから直接移動できるため、いくら表や裏の入り
口を見張っていても無駄である。
そのことも告げれば、満面の笑みになった在原の告白を受け流し、
授業の準備に入る。
葛城家と橘家、実に頭が痛いと思ってしまったが、関わってしま
1190
ったことをない事にはできない。
どう手を打つのが橘誉にとって良い事なのか、じっくりと話し合
う時間を作らなければならないと、黒板を眺めながらそう思った。
1191
150
﹁相良様、少々お話をお伺いしてもよろしいかしら?﹂
サンルームの奥にあるいつものカウチで紅茶の香りを楽しんでい
たら、思わぬ方から声を掛けられた。
﹁私に、ですか?﹂
﹁ええ。こちらの学園の行事について少々⋮⋮クラスの皆様のお話
では、要領を得ませんでしたので﹂
﹁諏訪様に説明を求められましたか? 彼なら詳しいですよ﹂
同じクラスの生徒で、彼女が納得できそうな知識を持つ者の名前
を上げてみる。
﹁わたくし、さすがに空気は読めますのよ? あの方、話しかけら
れたくないという気配が濃厚でとても近づけませんわ﹂
﹁あなたに対してもその態度ですか。相変わらずのようだ。わかり
ました、葛城の郎女。私でわかることでしたらお話いたしましょう﹂
目の前のソファに座るように促すついでに、こちらの様子を窺っ
ていたコンシェルジュに目配せでお茶の用意を頼む。
﹁ありがとうございます。お時間を取らせて申し訳ございませんが、
よろしくお願いいたします﹂
にこやかな笑みを浮かべた葛城美沙は、促されるままにソファに
腰かけた。
コンシェルジュが彼女に用意したお茶はフルーツティ。
香りよく、色鮮やかで美しく、美味だ。
アールグレイの私とは対照的な内容だ。
1192
彼から見た葛城美沙は癒しが必要だということか。
﹁よい香りですこと。果物をお茶にするという発想は持ち合わせて
おりませんでしたわ﹂
ティーカップを手にした郎女は、驚いたようにぽつりと呟く。
純和風である家では緑茶が主流であるせいか、フレーバーティあ
たりはあまり馴染がないものだ。
それなりに新鮮に映るものなのだろう。
﹁フレッシュでもドライでも、香りは損なわれず、果物本来の甘み
を感じるので砂糖も蜂蜜も必要ないと思います。ああ、蜂蜜だと折
角の色合いが変化してしまうので、なるべく少量の方がよいですよ﹂
﹁お茶に詳しいというお話は本当ですわね﹂
﹁それなりに学びましたので﹂
隠したつもりはないので、このくらいのことを知られていても不
快だとは感じない。
﹁それで、お聞きになりたいこととは?﹂
相手のペースに合わせることはない。
単刀直入に問いかければ、一瞬驚いたように目を瞠った郎女が、
微笑みを漂わせる。
﹁ええ、そうですわね。時間は有限ですもの。わたくしが以前通っ
ていた学び舎と少々勝手が違いますので、教えていただきたいと⋮
⋮この時期、体育祭はないようですね﹂
﹁この時期という言い方も微妙なところですが、そもそも体育祭自
体が東雲には存在しませんので﹂
﹁え?﹂
﹁ないのですよ。初等部も中等部も﹂
﹁ない?﹂
﹁ええ﹂
﹁それはまた、何故ですの?﹂
これには郎女も驚いたようだ。
先程は取り繕った表情も、今は瞬きを繰り返してその感情を伝え
1193
てくる。
瑞姫さんの言葉を借りれば、﹃ゲームのストーリー上必要なイベ
ントだから﹄だろうが、実際どうなのかというと呆れる理由だ。
﹁体育祭が、なぜ必要なのでしょうか? 武術を嗜みとする我が家
のような家もあれば、野蛮と考える家もある。両家の体力差はかな
りのもので、それを不公平だと考える者もいる。いらぬ怪我をする
と怖がるものもいれば、外部から人が入るため保安上に問題がある
と声高に叫ぶ者もいる。意見をまとめるのは難しいので、最初から
なければよいという結論に達したと聞いております。文化祭も似た
ような理由でありません﹂
﹁⋮⋮まあ﹂
それだけを呟いて絶句した郎女の表情は、完全に呆れが混じって
いる。
﹁個体差を浮き立たせるものは、学生の本分である学業だけでよい
との考え方のようです﹂
﹁⋮⋮それで、よろしいの?﹂
﹁特に否やはありません。授業で最低限の体力作りはプログラムさ
れています。それ以上ともなると、入院されてしまう方が続出する
でしょうし﹂
主にはしゃぎすぎて極度の疲労状態に陥ったとか、いいところを
見せようと張り切りすぎて肉離れを起こしたとか、まあそういう理
由で。
﹁そういう理由ですか⋮⋮﹂
私が匂わせた理由に行き当たったのか、納得したように郎女が頷
く。
﹁体育祭がしたいと言い出すような生徒もいないのですね﹂
﹁そのようです。身体を動かすことを苦手とする者には苦行のよう
ですし、元々身体を動かすことになれている者にとっては準備運動
の足しにもならないような競技しか用意できないのなら、しないで
も不都合はないと考えるようですし﹂
1194
﹁そうしますと、迂闊にそのような話題を乗せれば拒絶される可能
性が高いということですか⋮⋮﹂
ぽつりと零れた言葉に、思わず眉が寄った。
体育祭を企画するという話は瑞姫さんのノートに書かれていたイ
ベントフラグとやらだ。
何故ここでその話が持ち上がるのだろうか。
いやだが、時期的に遅い。
体育祭をするには企画から準備期間までかなりの時間を要するは
ずだ。
文化祭にしろ、今すぐ行うのは無理だ。
少なくとも夏休みに入る前には企画を上げる必要がある。
﹁⋮⋮相良様、そこまで嫌そうなお顔をなされなくても⋮⋮﹂
﹁いや。すでに遅いだろうと思っただけだ﹂
﹁まあ、そうですわね﹂
私の指摘に郎女は素直に頷く。
﹁今から企画すれば、冬ですもの。無理ですわね﹂
﹁そういうことだ﹂
﹁では、ハロウィンがあるというのは、まことですか?﹂
小首を傾げて次の質問を口にする。
何をするのかと、実に不思議そうだ。
﹁あるなしで答えれば、あると答えましょう。だが、本格的なもの
でもないし、強制参加でもない。楽しみたいものだけ楽しめばいい
という程度だな﹂
﹁そうなんですの?﹂
﹁ああ。参加するならば、お菓子は手作りであることが条件だ。自
分で作らなくてもいい。誰かの手作りと判る程度で充分だ。ああ、
食べ物を粗末にするのは当然のことながら絶対禁止事項なので、味
はそれなりに美味しいものにしておくことを付け加えなくてはね。
衣装については、制服を逸脱しないことだ。耳をつけるとか尻尾を
つけるとか、レースをつけてみるとか、帽子をかぶるとか、その程
1195
度だな﹂
去年の瑞姫さんの記憶を呼び覚まし、表面のみの答えを告げる。
﹁去年は、相良様はどのようなお姿になさいましたの?﹂
﹁菅家の姫がシルクハットを模した髪飾りを作ってくださったので、
それをつけていたようだ⋮⋮正確に言うと、彼女がつけたので、私
からは見えなかった﹂
﹁菅原様でございますか⋮⋮手先が器用なのですね﹂
﹁そうだな。何をやらせても嗜み以上の結果を出す姫ゆえ﹂
郎女が気付くかどうかはわからないが、とりあえず警告だけは出
しておく。
見た目の幼さで千瑛を侮れば、手痛いどころの騒ぎではないしっ
ぺ返しが待っている。
それをみものだと思う私も相当性格が悪いだろうが。
﹁手作りのお菓子を何になさったのか、参考までにお訊ねしてもよ
ろしいでしょうか?﹂
﹁去年の分なら構わない。ロリポップの花束とキャラメルだ﹂
﹁それを手作りなさいましたの?﹂
﹁我が家のパティシエ、ああ、女性だからパティシエールか、彼女
に作り方を教えてもらって﹂
﹁そうでしたか。今年は秘密なんですのね﹂
﹁当然だ。楽しみが減ってしまうだろう? もちろん、何の悪戯を
するかもね﹂
にっと笑って堂々と言い切る。
郎女も楽しげな笑みを浮かべた。
﹁確かに。では、その時を楽しみに待ちましょう﹂
﹁ぜひ﹂
ハロウィンの話はそこで打ち切りにし、生徒会役員選挙やクリス
マス、年明け手の行事に関しての説明を簡単に話す。
どうやら知りたいことはその辺りで充分賄えたようで、郎女は満
足そうな笑みで頷く。
1196
﹁ありがとうございました。知りたいことはそこまでですわ﹂
﹁お役に立てたのならよかった﹂
そこまで告げて、頷く。
﹁ええ。相良様がとても優しい方だということがよくわかりました
わ﹂
﹁⋮⋮果たして、どうかな?﹂
郎女の言葉に私も笑う。
﹁それは⋮⋮?﹂
﹁あなたと対峙しているのに、私の周囲に誰ひとりいないという状
況をおかしいと思わなかったのですか?﹂
その一言に、郎女から笑顔が消える。
﹁私の友は、大変過保護な者が多くて、彼らが親しい相手だと判断
しない限り、傍につき添うのが当たり前なのですよ﹂
﹁⋮⋮わたくしを親しい相手だとは思ってらっしゃらないようです
ものね﹂
﹁そうですね。たった3回会った相手を親しいと思うかどうか、難
しいところですね﹂
私の口調も変わったことに気付いたようだ。
表情を引き締め、こちらの様子を窺う。
真眼の巫女として能力を使っているのかどうかはわからない。
だが、結果は同じだ。
私は一切偽りを口にしてはいないのだから。
大巫女が先見を違えた相手であれば、己の能力も通用しないかも
しれないという恐怖心が郎女にもあるだろう。
すべて真に聞こえるというのは、偽りを目にしてきた者には恐ろ
しいものなのだそうだ。
﹁では、彼らは何をなさっているのかしら?﹂
﹁知りません。私は友を信頼しているため、彼らがどう動こうとも
気にしないことにしています。必要であれば教えてくれるだろうし、
そのつもりがなければ、決して言わない。聞いても無駄だというこ
1197
とですから﹂
﹁それでよろしいの?﹂
﹁構わないでしょう? 気にするようなことでしょうか。必要であ
れば、私も友の為に動くのだから、同じことです﹂
にこやかに笑えば、郎女は目を眇める。
﹁相良様は本心を隠すのは得意なようですわね﹂
﹁いいえ。私は嘘が苦手なので、本当のことしか口にしません﹂
言いたくないことは黙るけれど。
﹁私はどちらかというと優しいのではなく、残酷な性質だと思いま
すよ。切り捨てることに躊躇いを覚えることがまずないので﹂
﹁それは、諏訪様のことを仰っています?﹂
﹁いえ。彼のことも入るかもしれませんが、基本的にあまり他人に
興味がないのかもしれません﹂
﹁⋮⋮誉様も切り捨てると仰いますか?﹂
﹁状況による、とだけ、申し上げておきましょう﹂
笑顔で告げれば、郎女は深々と溜息を吐いた。
﹁あな⋮⋮ッ!!﹂
何かを言いかけた郎女がびくりと肩を揺らし、後ろを振り向く。
一気に数名分の殺気を向けられれば、確かに驚くだろう。
疾風に颯希、千瑛と千景、それから橘もだけれど、何で諏訪まで
いるんだ?
ちなみに諏訪はサンルームの入り口ではなく、天上のガラス向こ
うに映る校舎を繋ぐ渡り廊下からこちらを見ている。
偶然見つけたという感じではあるが、近付く気はないようだ。
﹁そこまでだ﹂
薔薇の陰から姿を現した橘が低く告げる。
﹁誉様﹂
﹁もう用は済んだのだろう? これ以上は時間の無駄だ﹂
きっぱりと言い放つ橘に、機を逸したと悟ったらしい郎女は、淑
やかに立ち上がる。
1198
﹁相良様、お時間をいただきありがとうございました。またお会い
いたしましょう、御機嫌よう﹂
それだけを紡ぎ、郎女は立ち去る。
橘に対し、言い訳することも取り繕うこともなしに何事もなかっ
たかのように去っていく姿は見事としか言いようがない。
わざと悪役を演じているかのようにも見える。
﹁瑞姫?﹂
﹁ああ、何でもない。ちょっと考え事をしていただけだ﹂
﹁余裕だね﹂
苦笑する橘の傍をすり抜け、颯希が私の前に立つ。
﹁瑞姫様、大丈夫でしたか?﹂
﹁心配いらないよ、話しただけだ。彼女は私に何かをする気はない
ようだ﹂
﹁それならいいのですが⋮⋮塩撒きたいです!﹂
拳を握ってぼやく颯希の頭を思わず撫でる。
﹁瑞姫様!!﹂
﹁ん。気持ちだけで充分だ。ホントに撒いたら、薔薇が痛んでしま
う﹂
﹁むうっ! 口惜しいです!!﹂
﹁さて、帰ろうか﹂
そう声を掛けて、双子に視線を向ける。
少し硬い表情の千景と、にやりと笑う千瑛がほぼ同時に頷く。
そうして2人は軽く手を振ってその場から立ち去った。
﹁⋮⋮任せてしまっても安心だとは思うんだけど、不安しか感じな
い場合もたまにあるんだよな﹂
郎女には言わなかった言葉を正直に呟いた。
1199
151
在原の任務は予想以上に大変そうだった。
日に日にやつれていく彼を見ると、微妙な心地になる。
手助けしてやりたくても、これもまた彼の試練の一部であると考
えれば、迂闊に手を出すこともできない。
在原家のご当主殿が次代教育の一環として彼を橘家の当代殿の補
佐に据えたのだから、彼がやり通さなければならないことだ。
﹁おはよう∼﹂
まったく爽やかさからかけ離れた疲れ切った様子でよろよろと教
室に入った在原は、自分の席にぱたりと倒れ込むように座る。
﹁おはよう。大丈夫か、静稀?﹂
﹁大丈夫くない∼﹂
唸るように告げた在原は、深々と溜息を吐く。
﹁使えねぇ∼! 仕事って、自分で見つけるものであって、大人し
く椅子に座って待ってるものじゃないって言われなかったのか、あ
の人は。イイトシしたおっさんだろ!?﹂
﹁おじさんと呼ぶにはかなり若い部類に入るけれどね﹂
苦笑を浮かべた千瑛がフォローになるのかならないのかわからな
いことを告げる。
﹁で、どうしたの?﹂
﹁あのおっさん、仕事したがらないんだ﹂
促す千瑛に在原が答える。
この間まで当代殿のことを﹃誉の父さん﹄とか﹃おじさん﹄とか
1200
呼んでいたはずなのに、今ではすっかり﹃おっさん﹄呼ばわりだ。
在原の言葉遣いは奔放なところはあるものの、基本的には目上の
者に対しては丁寧なのだが、もう取り繕う気にもならないようだ。
それほどまでに心労が重なっているということかと思うと、気の
毒になる。
﹁まあ、随分余裕が御有りですこと。脱走癖があるとは聞いたこと
なかったけれど﹂
にこやかに笑う千瑛だが、目が笑ってない。
すごく黒い笑みだ。
ものすごく怖いのでやめてもらえないだろうか、その笑顔。
﹁脱走癖じゃなくて、現実逃避の方。イイトシしたおっさんが、僕
を見て、﹃誉と毎日会えて羨ましい﹄とかぼやくわけ。息子に逃げ
られたの、自業自得じゃないか﹂
在原の言葉は尤もだ。
しなければならないことをしなかったがために起こったことを今
更嘆いても始まらないだろう。
﹁在原﹂
ふっと千瑛が笑って彼を呼んだ。
﹁いいこと教えてあげるわ。馬鹿と鋏は使いようって言葉、知って
る?﹂
﹁言葉ぐらいなら⋮⋮﹂
引き気味に頷く在原。
﹁似たような意味で、馬を全速力で走らせる方法は?﹂
﹁え? 目の前にニンジンをぶら下げるってやつ?﹂
﹁そ。人参、ぶら下げてみたら? 時間限定で、在原が補佐に入っ
ている時間帯だけ﹂
﹁ニンジン⋮⋮﹂
千瑛が言うところの﹃人参﹄の意味を計りかね、在原は首を傾げ
ている。
﹁千瑛。誉に許可貰わないと駄目だぞ﹂
1201
一応念のために釘は刺しておく。
﹁勿論よ。でも、橘が気付かないようにやるわ﹂
﹁え? ナニ?﹂
私と千瑛の会話が何を指しているのか、理解しづらかったらしい
在原が私と千瑛の顔を交互に見る。
﹁あのな、静稀。千瑛は誉の写真を隠し撮りすると言っているんだ﹂
﹁ああ! 確かにニンジンだ!!﹂
補足してみたら、即座に納得した。
﹁そうよ。しかも極上の。橘の父様が見たことがないような笑顔の
橘の写真を仕事のご褒美として在原が見せてあげるの。とても喜ぶ
でしょうね。写真見たさで真面目に仕事に取り組むでしょうし。で
もね﹂
にっこりと笑って千瑛が付け足す。
﹁父様が引き出すことができなかった笑顔を見るのは悔しいでしょ
うね。絶対に橘が彼に向けることのない笑顔、なんですもの﹂
その一言に、在原は引いた。
うん、これぞドン引きだろう。
顔が思いっきり引き攣っているし。
﹁それ、オニの所業じゃ⋮⋮﹂
﹁それがどうしたの? 自分の至らなさが招いた結果でしょ? 反
省ついでに心を折って差し上げるべきでしょう? いい加減、自業
自得という言葉の意味を噛みしめてどん底から這い上がる覚悟が必
要だと思うのよ﹂
そう言われれば、そんな気もしてくるだろうが、﹃心を折って差
し上げるべき﹄ではないと思うのだが。
何も人道上のことではない。後々面倒臭そうだからだ。
どん底から這い上がるだけの覚悟が期待できない。
まあ、心が折れたままでも構わないが。
その心を修復するのは、由美子夫人でも真季さんでも誉でもない、
別の﹃新しい家族﹄の役目だろう。
1202
おそらく橘の当代殿が現実逃避をしたがるのは、在原の当主殿が
着々と次の橘当主夫人の選出をされているからだと推測される。
喪が明けないうちにと思うけれど、明けてからでは遅すぎるのだ。
分家の力を削いでいる今の内でないと。
それは理解できるのだけれど。
﹁私ね、己の立場を理解できない愚かな分家を御することもできな
い傍迷惑なだけの当主って大嫌いなの。自分のところだけならまだ
許せるけれど、他家に迷惑かけて詫びもできない阿呆なら、どんな
目にあっても仕方ないと思うのよ。本当に自業自得なんだから﹂
そう言ってうっすら笑う千瑛の黒さに、在原と手を取り合って怯
えた。
納得できるけど、怖いから。
ものすごく、怖いから。
菅家への迷惑行為、相手に恐怖心与えるだけじゃ済まないほど怒
ってたんだね。
うん。千瑛を怒らせないようにしよう。
在原と視線だけで話し合い、心に誓いあった。
++++++++++ ++++++++++
極悪非道な千瑛の﹃人参プラン﹄の狙いを橘に伝えないように頼
み込み、家へと帰り着いて固まった。
﹁⋮⋮⋮⋮⋮⋮御隠居様?﹂
御祖父様の部屋で寛いでいる御隠居様の姿に驚いた。
暇なのか?
1203
もしかして、暇なのか?
いや、そんなはずはないだろう。
諏訪家の窮状を打開すべく奔走しているはずなのだが、主に諏訪
伊織が。
その後見人たる御隠居様が、何故ここに?
畳の上ですっかり寛いでいる御隠居様が、こちらを振り返り陽気
に笑う。
﹁よっ! お帰り、瑞姫ちゃん﹂
﹁はい。ただ今戻りました⋮⋮御隠居様、何故こちらに?﹂
諏訪家の中では唯一好印象の御隠居様だが、それでも相良家では
風当たりが強いだろうにわざわざ足を運ばれるのだろうか。
疑問に思っても仕方がない、というか、当たり前だろう。
疾風も私の背後で微妙に警戒している。
﹁ああ、うん。ちょっと、瑞姫ちゃんに確認したいことがあってさ﹂
相変わらずの人誑し振りで、御祖父様が苦笑している。
﹁確認したいこと、ですか? 私でわかることでしたら、答えられ
る範囲でお答えいたします﹂
﹁おおー! さすが、優等生だな。そつがなさ過ぎて突っ込めない﹂
妙なところで感心しないでいただきたいのですが。
﹁瑞姫、疾風、こちらに来て座りなさい。少々込み入った話になる
からの﹂
御祖父様の言葉に、私も疾風も素直に頷く。
勧められるままに座し、話を伺う体勢に入る。
﹁回りくどいことを聞くのも面倒だから、簡単に説明してから聞く
な﹂
御隠居様がにこにこと笑いながら仰る。
﹁葛城の娘がうちに来てな、まあ、売り上げが伸び悩んでるデパー
ト部門の方なんだが、葛城の化粧品を出店させろと言ってきたんだ
な、これが﹂
1204
﹁化粧品⋮⋮﹂
﹁そ。あの﹃化粧品﹄だ。セレブ御用達だとか、美魔女がどうとか、
人気女優が使ってるとかで口コミだけでバカ売れしてるやつだ﹂
﹁⋮⋮聞いたことがあります。店舗系の商業施設が出店交渉しても
決して首を縦に振らないという⋮⋮﹂
﹁それだ、それ!﹂
うちは誰も使っていないけれど。
かなり質がよく、その分値段も張るのだが、それでも買い求める
女性が多く、海外でも注文が殺到しているとか。
葛城の化粧品は﹃女性のアコガレ﹄なんだそうだ。
ちなみにうちの家族は、一応オーダーだが一般メーカーのものを
使用している。
決してブランド品ではない。
理由は簡単だ。
高くても安くても結果があまり変わり映えがしないということと、
肌を甘やかしては後が大変だという理由だそうだ。
まあ、身体を動かすので新陳代謝が活発だから、そこまで必死に
ならなくても良い状態を保てるからというのが本当の理由らしい。
これを言うとニラまれるので、美容関係について尋ねられたら笑
って誤魔化せという方針は徹底されている。
そういうわけで、意外と大雑把な我が家の女性陣は、いくら質が
よくても葛城の化粧品は見向きもしないのだ。
﹁あのやたらとプライドの高い葛城が、わざわざ落ち目の諏訪の商
業施設部門に商品卸させろと言い出したのかと思ってな﹂
調べてみたら、相良の名前が挙がったのだろうか?
﹁今の諏訪にテコ入れしたって、何の利益もねぇだろ? それを敢
えてするっていうには理由がある。割と簡単にわかったけど﹂
﹁理由が、ですか?﹂
そんなにわかりやすい理由があるのか。
﹁ああ。橘だ。あそこの坊が葛城だろ? まあ、不当な扱いをした
1205
報復措置だな。当然だとは思うが﹂
﹁あ⋮⋮そうか。橘も商業施設を持っていましたね。ダメージを与
えるためですか﹂
﹁まあ、それもある﹂
﹁⋮⋮他にも?﹂
一手で複数の益を得るとは随分欲張りだな。
まあ、私も同じ手を取るだろうけれど。
﹁瑞姫ちゃんには思い当たることはない?﹂
楽しそうな笑顔で御隠居様が問いかけてくる。
﹁⋮⋮⋮⋮⋮⋮申し訳ございません。不勉強のようです﹂
色々と考えてみたが、思い当たることはない。
うちと敵対するつもりはないと言っていたはずなので、相良への
ダメージはないと信じたいところだが。
﹁だから言っただろう? 瑞姫にはわからぬとな﹂
御祖父様が笑いをこらえて御隠居様に仰る。
﹁いやあ、ここまで筋金入りとは恐れ入る! あの女狐も苦戦する
だろうよ﹂
くくくっと笑った御隠居様が満足そうに頷かれた。
﹁あのぉ∼?﹂
﹁うんうん。瑞姫ちゃんはそのままでいいよ。むしろ、その路線で
最後までいっちゃって﹂
﹁⋮⋮そういうことですか⋮⋮﹂
深々と溜息を吐いた疾風が肩を落として呟く。
﹁おお! 岡部の坊はわかったか。いいコンビだな﹂
﹁⋮⋮疾風?﹂
わかったなら教えてくれ。
後ろに視線をやり、名を呼べば、疾風は首を横に振る。
﹁瑞姫は知らない方がいい。そちらのほうが効果的だ﹂
﹁そうそう! こーゆーのは腹に抱える奴よりも真っ直ぐで鈍感な
奴の方が強いからな﹂
1206
﹁鈍感ですか、私は⋮⋮﹂
まあ、そこまで敏い方だとは思わないけれど、そんなに鈍いのか。
ところで何について鈍いのか、教えていただけると助かるのだが。
﹁それが瑞姫ちゃんの良さだな。イイ女ってぇのは、多少鈍感なん
だぜ? 男共の視線に気付かずブッた切って通り過ぎるぐらいの度
胸があるのがいいんだからな﹂
﹁⋮⋮はあ⋮⋮?﹂
﹁そういう女だからこそ口説き甲斐があるってもんだろ?﹂
﹁⋮⋮そうなのですか?﹂
﹁そーゆーもんだ﹂
そう仰る御隠居様だが、おそらくそれは鈍感なんかじゃないと思
うのだが。
見られてることには気づいてると思うし、気にしてても仕方がな
いから無視してるだけではないかと。
だから別に度胸があるとかいう話でもないと言ってもいいのだろ
うか。
﹁ところで女狐というのは? もしかして、葛城美沙嬢のことでし
ょうか﹂
﹃葛城の娘﹄と仰るのなら、大巫女ではないだろう。
今、こちらにいる葛城家の関係者は、彼女だけしかわからないけ
れど。
﹁そうそう。その娘。伊織と同じクラスなんだってな﹂
﹁ええ。東條のと入れ替わりに入ってこられました﹂
﹁なかなかの曲者でな。まあ、相手が言ってることが本当かどうか
を知ることができるって巫女様だからかもしれねぇが。大した度胸
の持ち主で、演技力もなかなかだ﹂
楽しげに笑う御隠居様からの評価はかなり高い。
﹁諏訪の基盤建て直しが出来ればどう動くのか、ある程度の予想を
しての打診だからなぁ⋮⋮伊織の奴も警戒してやがんのよ﹂
﹁それは⋮⋮﹂
1207
﹁瑞姫ちゃんは当分、高みの見物をしててくれ。あの嬢ちゃんの狙
いはわかってるんだけどな、一番面白い手は瑞姫ちゃんが一切動か
ないことなんだな、これが﹂
﹁⋮⋮はあ⋮⋮﹂
なぜ?
そう思うけれど、御祖父様も御隠居様も楽しげに頷いているし、
疾風までもが納得しているようだから、それは確かにそうなのだろ
うと考える。
﹁邪魔になりそうな大神を真っ先に排除してからの登場だしな、丁
重に対応してやろうと思ってよ。それで筋通しにきたってわけだ﹂
にやりと笑った御隠居様が、ようやく本日お越しの理由を仰った。
これは。
お話をきっちりお伺いして、千瑛に相談した方がいいかもしれな
い。
そう思いながら、御隠居様に頷いて見せた。
1208
152
御隠居様の御話は実に簡潔であった。
諏訪は葛城の話に乗る。
相良、特に私は何があっても動かない。
私が動く気配を見せなければ、葛城は焦ることだろう。
再び動きを見せる間に、諏訪は諏訪の目的を果たす。
つまり、私は囮役ということなのだろう。
諏訪家にとっても、相良にとっても。
おそらく、橘家にとっても。
私には葛城の意図が理解できなかったが、私以外の者には大凡の
ことがわかっているようだ。
それならば、ある程度のことは任せてしまった方がいいのかもし
れない。
動くなと言われて不満を抱くほど、己が有能な人間ではないこと
を知っている。
彼らの策に乗ることに否やと言えるだけの代替案も今のところな
い。
動かないでいるということは、それだけ相手の様子をじっくり見
る時間ができるということでもある。
それは私にとって必要なことなのかもしれない。
1209
そう考え、御隠居様の言葉に頷いた。
あらかた話し合いが終わり、細かく情報交換をすることで一応の
結末を得た。
諏訪伊織がどう動くのかは、御隠居様が把握し、こちらにも必要
なことを知らせるということで、不動を貫かねばならない私の情報
網を補ってくれるというのは助かった。
﹁では、私はこれで⋮⋮部屋に戻ります﹂
これ以上は私の役割はないだろうと判断し、御祖父様に声を掛け
れば、ひとつ頷いた御祖父様が疾風に視線を向ける。
﹁疾風は残れ。少し話がある﹂
﹁承知﹂
頭を下げて恭順の意を示す疾風の肩に手を置き、部屋で待つと伝
えてその場を立ち去る。
疾風に何の用があるのかと気になるところだが、私の警護のこと
かそういう関連についての話だろうと無理やり自分を納得させる。
気になったところで話してはくれないだろう。
必要であれば、疾風が後ほど教えてくれるだろうが、多分、教え
てはもらえない可能性の方が高いと思う。
時に過保護は、必要以上に情報統制をしてしまうのだ。
別棟に戻ってしばらく経ったあと、居間の扉が静かに開く。
﹁瑞姫、待たせたか?﹂
少しばかり心配そうな声で疾風が戻ってきた。
﹁いや。内緒話は終わったのか?﹂
からかい半分でそう問いかければ、見事な渋面が返ってきた。
﹁そんな可愛らしいもんじゃない﹂
1210
﹁⋮⋮へぇ﹂
﹁ああ、うん。内緒話だな、うん﹂
慌てて取り繕うが、全然隠せてなかった。
相当な無理難題を押し付けられたようだ。
﹁大丈夫か?﹂
そう問いかければ、疾風の視線が泳ぐ。
﹁多分、何とかしなければならないんだろうなと、思ってる﹂
﹁つまり、大丈夫ではないんだな﹂
﹁難敵でな﹂
深々と溜息を吐いた疾風がソファに身を投げ出すように座り込む。
﹁そこまで言うほどか?﹂
﹁まあ、な﹂
どうやら随分とへこんでいるようだ。
﹁手伝えることはあるか?﹂
そう問いかければ、疾風の溜息はいよいよ深くなる。
﹁気持ちだけ、受け取っておく﹂
何故か残念そうな表情で告げた疾風は、天を仰いで目を閉じた。
********** **********
翌日、事のあらましを千瑛に告げた。
﹁⋮⋮そういうわけで、私は表面上は動けないことになった﹂
﹁なるほどねー﹂
教室の自分の席で頬杖をつき、のんびりと相槌を打つ千瑛の視線
は疾風に据えられている。
1211
﹁諏訪の御隠居様は、瑞姫ちゃんに動かないように言ったのね?﹂
﹁ああ﹂
﹁と、いうことは﹂
﹁うん?﹂
﹁御隠居様、学園内に目と耳をお持ちだってことね﹂
納得したように頷いた千瑛の言葉に、瞬きを繰り返す。
﹁諏訪伊織じゃ、御隠居様が欲しい情報を手に入れられないでしょ
う?﹂
﹁あー⋮⋮納得。大雑把すぎるからな﹂
﹁そういうことね。かなり正確に情報を手に入れられる状況を作っ
てらっしゃる、と。いつの間に? と、問い質したい気もするけれ
ど、それが諏訪家の風雲児と呼ばれた方の実力なのだから、そこを
突いたところでどうしようもないわね﹂
﹁確かに﹂
誰が目と耳かと探すよりもすべきことは他にもある。
ここは敢えて知らんぷりをすべきだろう。
﹁それと、御隠居様は、葛城が大神を排除して登場したって仰った
のね?﹂
﹁ああ、うん。確かにそう仰った﹂
﹁⋮⋮じゃあ、もしかするとあの噂の出どころは⋮⋮﹂
千瑛の視線が胡乱なものへと変化する。
大神が絡む噂というと、やはりアレだろうか。
安倍彬の秘密のノート。
とりあえず、安倍彬が婚約者︵仮︶になった諏訪伊織はあまりダ
メージにはならなかったが、大神紅蓮には相当なダメージになった
ようだ。
それまでのことがあってか、誰もが遠巻きにしている。
事実無根なだけに不憫としか言いようがないのだが、こちらも些
か腹に据えかねる事態を引き起こされたこともあり、取り成すこと
もしなかった。
1212
それが一層拍車をかけ、事実と異なるはずなのに、真実に近いの
ではないかという憶測を呼んでいるという話も小耳にはさんだ。
不憫ではあるが、自業自得だ。
﹁だが、どうやって?﹂
噂を操るのは、四族女性の得意とするところだが、さすがにこう
いった情報操作はあまり好まれるところではない。
しかも葛城美沙は9月になってこちらにやって来たのだ。
安倍彬の行動パターンを知る由もないだろう。
ましてや彼女の趣味など、論外だ。
﹁例えば。本当に例えばの話だけれど。こちらに試験を受けに来て、
校内を歩き回って、たまたま図書室に行き当たり、テーブルの上に
置かれたノートに気付いて名前を確かめようとしたときに、偶然中
身が見えてしまった、とか⋮⋮﹂
千瑛が仮説にもならないけれどと前置きしていかにもあり得そう
な話を作ってみせる。
もちろん、作り話だ。
実際の葛城美沙が人のノートを勝手に見るような人物ではないこ
とは、私にもわかる。
彼女は矜持高い。
そうして、葛城以外の人間にはあまり興味を持っていないように
も見える。
今、私に興味があるように見えるのは、橘誉と友人関係にあるか
らだろう。
橘と親しくしているから、彼に害があるのか益があるのかを見定
め、相応の対応をしようとしているだけだと思う。
だが、他の人間がそれを見つけ、中身を見ていたのだとしたら、
話は変わる。
相談するように話を向け、火のないところに煙は立たないなどと
嘯いて誘導していたとしたらどうだろうか。
まあ、他人のものを勝手に見てしまうような人間なら、その話を
1213
真に受ける可能性は捨てきれない。
ついでにその憶測を他人に話してしまうかもしれない。
そうして噂は広がった⋮⋮というのなら、まだ納得がいく。
仮定というより、想像とか妄想とかのレベルの話だが。
どのみち、今現在の情報量では結果を導き出すまでの根拠が足り
ない。
﹁説得力ないわね。まあ、そう簡単に尻尾を出すような人ではない
ことは確かだけれど。化かし合いの結果を待ちましょうかね﹂
そんな話をしていたが、事態は思わぬ方向へと転がっていた。
1214
153 ︵岡部疾風視点︶
肩に乗っていた手が離れ、迷いない足取りで瑞姫が去っていく。
ぴんと伸びた背筋、隙のない後姿。
そのどれをとっても男前すぎる。
俺を置いて行くことに躊躇いがない。
そこから感じ取れる感情は明白だ。
揺るぎない﹃信頼﹄の一言に尽きる。
瑞姫が部屋を出、そうして完全に気配が途切れた瞬間、男3人か
ら溜息が漏れた。
﹁相変わらずだなぁ、瑞姫ちゃんは﹂
苦笑しか出ないという表情の諏訪の御大。
﹁未だ、幼子のようだのう﹂
呆れたような、微笑ましいような、少しばかり困った様子の御館
様。
﹁⋮⋮⋮⋮申し訳、ございません⋮⋮﹂
俺が謝罪するのもおかしいが、何故か申し訳なくて頭を下げる。
﹁いや、よいよい。気にするな、疾風。あれは兄や姉のせいでもあ
る﹂
苦笑した御館様が俺を宥める。
﹁まあ、そうだよなぁ。瑞姫ちゃん誕生のくだりは意外と有名な話
だし﹂
くつくつと笑う御大。
1215
﹁⋮⋮はぁ﹂
その話は、俺も知っている。
八雲様のおねだりで瑞姫が出来たというのは、岡部では微笑まし
い話だと語られている。
その後のご兄弟の溺愛っぷりも凄まじかったことから、さらに生
温い目になってしまうのは仕方がないだろうが。
あのすっきりとした見た目と異なり、瑞姫の内面が幼いのは、兄
君、姉君が徹底的に可愛がり、余計なモノを見せないようにがっち
り管理しまくったからだ。
さすがに子供が生まれる仕組みは知っているだろうが、そこへ行
きつく感情の推移については全く以って無知だろう。
茉莉様や八雲様が瑞姫に薦める本の内容は実務的なものばかりで、
恋愛に関するような小説などは一切含まれていない。
そのせいか、瑞姫が興味を示すのは歴史や技術に関連するもの、
軍略に関するものなどが多い。
政略婚を受け付けない相良の直系でありながら、恋愛に全く興味
を示さないのは俺が傍に控えていたからではない。
断じて違うと声を大にして言える。
﹁まあ、それで助かりもし、困りもしているのだがな﹂
御館様の視線が遠くなる。
こればかりは、随身を務める俺にはどうしようもない分野だ。
俺が想像していたよりも、事態は遥かに重いのかもしれないと、
少しばかり警戒心が強くなる。
﹁その様子では、瑞姫が気になる男というのはまだおらんか﹂
﹁はい。橘誉に関しては、完全に友としか認識しておらず⋮⋮﹂
﹁であろうな。次期殿も今はそれ以上を望もうとはしておらぬよう
だしな﹂
﹁はい。今は時期が悪いと。己の手で力をつけて、瑞姫を迎え入れ
るだけの環境を整えなければ相良には認められないからと﹂
﹁そうか⋮⋮﹂
1216
﹁ぬるいな! 瑞姫ちゃんが他の男に惚れでもしたらどうするつも
りだ!﹂
御館様と俺の会話を聞いていた御大が思わずといったように声を
挟む。
﹁⋮⋮それは⋮⋮瑞姫ですから⋮⋮﹂
まず、自覚をするまでに相当時間が掛かるだろう。
思わず視線を泳がせた俺に、御大は言いたいことを悟ったらしく
盛大に溜息を吐く。
﹁そういうことか。呑気だと思ったが、意外と計算高い男か!﹂
普通に考えて、相当時間的余裕はあるんだよな、瑞姫の場合だと。
問題は、自分自身だ。
それだけ長い時間をかける間に、自分の想いが変質してしまわな
いかという意味で。
他の女に惚れるとか、気持ちが浮つくとかしてしまうかもしれな
い。そういう危険性は捨てがたい。
本気で口説いたとしても、瑞姫の場合は冗談だとか、言葉を弄す
るやつだとか、そういった認識をしかねないし、御大のようなタイ
プには攻略が難しい相手になると思う。
人間としてはこれ以上ないほど信頼のおけるやつだが、女性とし
てはあまりにも恋愛ごとに疎すぎて手の打ちようもない困った相手
なのだ、瑞姫は。
﹁それで、疾風。葛城の動きをどう見る?﹂
御館様の問いかけに、俺は答えていいものかと戸惑う。
﹁なぁに、率直に言いな。どうぜ、瑞姫ちゃんはここにいないし、
おそらく結果として影響ないし﹂
御大までがそう添える。
つまり、予想はついているということか。
﹁⋮⋮おそらく、瑞姫の周辺に揺さぶりをかけて、瑞姫に周囲の男
を意識させようという考えかと⋮⋮﹂
1217
﹁やはり、そう思うか﹂
﹁ま、葛城と言やぁ、感情操作、特に情動操作をお手のモノとして
るからなぁ⋮⋮瑞姫ちゃんには全然効かねぇだろうがよ﹂
溜息しか出ないが、葛城の動きはある程度予測はつく。
親友だと思っている橘を男だと認識させたいのだろう。
そこまで出来れば、土蜘蛛が得意とする感情操作で瑞姫を橘と縁
付けさせるつもりだと推測できる。
大神を排除したのは、それこそ邪魔だったからだ。
諏訪に想いを寄せることはないけれど、大神に対しては皆無では
ない。
あとは橘、在原、菅原弟、俺だ。
一見、菅原弟の存在は希薄だろう。姉の方が瑞姫と行動を共にし
ているせいで誤魔化されている。
在原を橘の傍に寄せないのも、その延長線だろう。
さすがに俺を排除できなかったらしいが。
俺を瑞姫の傍から排除しようとした瞬間、瑞姫は葛城の喉笛に容
赦なく牙を突き立てるだろう。
誰にでも簡単に想像がつく結果だ。
相良と岡部の関係を知っていれば、明白だ。
岡部が相良を守るのと同じく、相良は岡部を守る。
俺達が守ろうと思う以上に鮮やかに躊躇いなく。
そうなった時の葛城のダメージは計り知れないだろう。
瑞姫の作品や瑞姫自身を好む女性たちは数多い。
その女性たちまでもが反葛城についてしまえばと、そこまで想像
がつくだろうし。
だから、俺に手を出すことはできなかった。
つまりは、御二方にとって、俺がもう1つの囮というわけか。
動かない瑞姫と、葛城の思惑から外れて動き回る俺。
橘は元々周囲をよく見て動くやつだから、俺が説明しなくても大
凡のことは読み取って動ける。
1218
イチイチ説明しなくても臨機応変ができる小器用なやつなので、
こういう時は大変助かる。
﹁⋮⋮御館様﹂
﹁なにかの?﹂
﹁葛城一族の感情操作というのは、どのようなものでしょうか。警
戒すべきことのように思えますが、情報がなく⋮⋮﹂
﹁ふむ。さもありなん。年若かろうとも女怪であるからのう⋮⋮あ
やつらは言葉ひとつで巧みに相手の感情を乱すのを得意としておる。
己の欲しい結果になるよう、甘い言葉、耳に優しく囁いてこよう。
それで大抵の男は惑わされる。特に葛城は見目良い娘が多いしの﹂
﹁⋮⋮見目⋮⋮?﹂
ふと、葛城美沙の顔を思い浮かべる。
顔貌は整っているが、とても同じ年には見えない。
あ、いや。別に老け顔だとか、ケバい顔だとかと言っているわけ
ではなく、単に、そう、単純に同じ年だとは思わなかった、ただそ
れだけだ。
思わず考え込んだ俺に、御館様と御大から微妙な視線が投げかけ
られる。
﹁意外とこやつも瑞姫と同類かの?﹂
﹁まあ、瑞姫ちゃんとずっと一緒だから類友っちゃー類友だけどな。
判断基準が顔じゃねぇってところが男として納得いかねぇところだ
が﹂
﹁おまえよりは遥かにマシじゃろう!﹂
﹁美人は世界の宝だろ? 挨拶代わりに口説かねぇと申し訳ない﹂
﹁⋮⋮⋮⋮⋮⋮﹂
俺を余所に繰り広げられていた舌戦第一弾は、御館様の冷ややか
な視線で終わりを告げた。
﹁何だよ、その、汚れた雑巾を見るような眼は!!﹂
﹁馬鹿者。雑巾とおまえを一緒にするか! 雑巾が可哀想じゃろう
が﹂
1219
﹁俺より雑巾!?﹂
﹁当たり前じゃ。雑巾は文句も言わずに役に立つ。おまえは役に立
つ前に文句が出る。比べるべくもない﹂
時々、瑞姫がこの御二方にとても醒めきった、とても残念なもの
を眺めるような視線を向けているが、納得した。
普段は尊敬できる方だという認識が先に立つが、実に残念な会話
だ。
まったくもって、嘆かわしいというべきか。
﹁おいこら、岡部の! 元はと言えばおまえが原因だろうが﹂
﹁それは申し訳ございません﹂
﹁そういうところも瑞姫ちゃんと似てるけど、可愛くないぞ!!﹂
﹁イイトシしたジジイがやかましいわ﹂
﹁何だと! ジジイに言われたくないわ!﹂
﹁⋮⋮席を外した方がよいのでしたら、そう仰っていただけるとあ
りがたいのですが⋮⋮﹂
俺がそう声を掛けた途端、2人の口論はぴたりと止まった。
﹁話を戻すか﹂
咳払いをした御館様が、重々しい口調で言葉を切る。
その内容はあまり触れられたくないものであった。
瑞姫を排して、俺に告げるというのなら、それは当然の内容だろ
う。
俺がもう1つの囮であるのだから、予想はついていた。
葛城を焦らせるのであれば、そうなるのだろう。
芝居の類は苦手なんだが⋮⋮。
俺がすることは、実に単純かつ簡単なことだ。表向きには。
噂を1つ、流すだけでいい。
俺が、﹃御館様から許しをもらった﹄という噂だ。
1220
何についての﹃許し﹄なのかは告げる必要はない。
その噂を聞いたものが勝手に想像すればいいことだから。
どんな噂に化けるのか、それこそ賭けに近いが、興味を引く内容
か、むしろ聞きたくない内容に捉えるだろうと、御大がにやりと笑
いながら仰る。
おそらく瑞姫なら﹃悪戯の許可﹄と受け取るだろう、とも。
どのタイミングでその噂を流すべきなのかは、また後ほど詳細を
詰めることになるだろう。
そう言い含められ、承知する。
話はそこで終わり、その場を辞することになる。
部屋を出て、溜息を1つ。
わかったことがある。
学園内にいる御大の目と耳はかなり優秀な奴らしい。
仕方ないから今は従うが、この件が終わったら炙り出して絶対に
悪戯してやるからな。
そう決めて、急ぎ瑞姫の許へ向かった。
1221
154
今年もあちらこちらで﹃トリックオアトリート﹄の声が聞こえる。
瑞姫さんの記憶にあった以上の賑やかさだ。
今年もだが、あまり積極的に参加するつもりはない。
廊下側からこちらの様子を窺う生徒も見受けられるが、視線を合
わせるつもりもない。
意思表示は大切だな、うん。
﹁⋮⋮参加、しなくてもいいのか?﹂
前の席に座っている疾風が、私の机に頬杖をついてのんびりとし
た口調で問いかけてくる。
﹁したいと思う要素がなくてね﹂
これは、私の中の真実だ。
﹁それに、あそこに魔女がいるから充分なのでは?﹂
そう言って示した先には、葛城美沙がいる。
おそらくあれはモルガン・ル・フェの装いではないかと思われる。
美貌の魔女と言われた伝説の大魔女を模した姿の彼女は、相変わ
らず男子生徒に取り囲まれている。
鬱陶しいだろうに表情一つ変えずに対応している葛城美沙に思わ
ず称賛の眼差しを送ってしまう。
﹁⋮⋮確かに、魔女だな。実によく似合ってる﹂
微妙な表情の疾風が、大きく頷く。
私が言った意味合いと異なる響きが混じっているのは気のせいだ
ろうか。
1222
﹁疾風﹂
﹁ん?﹂
﹁私は動かなくて、本当にいいのか?﹂
気になっていることを問いかける。
﹁ああ。そう言えば、橘が何か、動いているな﹂
﹁⋮⋮誉が?﹂
﹁そうだ。流石に詳しいことはまだ把握していないが、どうやら相
良の家を出るべきだろうと考えているらしい﹂
﹁そうか。葛城の影響から逃れられる手立てがあるのなら、それも
いいかもしれないな﹂
疾風の言葉に少し考えて、そう答える。
今の橘は、微妙な立場にいる。
生家である橘家から不当な扱いを受け、相良家に身を寄せたとこ
ろ、母方の葛城家が迎え入れようとし、それを拒絶。
葛城家は橘家の対応を不服とし、彼の家に対して報復行動に出て
いるのだから、立派に火種になっている。
それは橘の望むところではない。
相良家は、彼を受け入れているが建前上は中立の立場を取ってい
る。
そう、庇を貸しているだけで庇護を与えているわけではないとい
う態度だ。
それを貫くことで、橘の立場を守っている。
そこまで考えて、ふと疑念を抱く。
﹃母方﹄の﹃葛城家﹄と言うが、由美子さまは当然だが、真季さ
んの姓は﹃葛城﹄ではない。
葛城家は、大巫女の娘である真季さんを葛城に招き入れなかった。
それは何故なのか?
今までは、真季さんが芸の道に進むためにすべてを捨てる覚悟を
持っていたからだと思っていたが、別の理由があるのではないか?
別の、理由⋮⋮。
1223
真季さんの父親は、誰だろう?
誉の祖父である男性の家は。
﹁瑞姫?﹂
﹁あ、いや。真季さんの名字は何だったかと思って⋮⋮﹂
おかしい。
今まで疑問を感じなかった自分がおかしい。
葛城家よりも先に、真季さん達の父親が出てくるはずなのだ。
そう思い当たった私の耳に、クラスメイトの話し声が聞こえてく
る。
﹁20年ぶりにこちらに戻られるそうだぞ﹂
﹁へぇ。帰国理由は何だって?﹂
﹁娘さんの1人が亡くなられたらしい。葬儀には間に合わなかった
そうだ。それどころか、婚家からの連絡もなくて四十九日過ぎてか
らようやく連絡があったそうだ﹂
﹁それはひどい話だな。前田家のお嬢さんなんだろ? 嫁いだ先が
葉族とかいうわけじゃないよな?﹂
前田家!?
思わず立ち上がる。
﹁瑞姫!?﹂
﹁あ⋮⋮いや﹂
突如立ち上がったことでクラス中の視線を浴びていることに気付
き、我に返る。
﹁驚かせて済まない。忘れていたことを思いだして驚いたんだ﹂
﹃何を﹄については語らずとも、正直に事実を告げれば、皆、納
得したように頷くと、それぞれの話に戻っていく。
﹁瑞姫﹂
低く、あたりを憚るように囁くような声で疾風が私の名を呼ぶ。
﹁すまない﹂
﹁どうした?﹂
﹁由美子夫人と真季さんの家、だ。不思議に思っていたんだ。何故、
1224
真季さんは葛城の名を名乗らなかったのか、と﹂
﹁ああ、確かにそうだな。大巫女様の娘なら、葛城は欲しがるだろ
うに﹂
そのことに気付いた疾風も腑に落ちないといった表情になる。
﹁前田の血、だ。あちらの血が濃いんだ。誉も、そうだ。だから、
葛城は誉自身ではなく、誉の子を欲しがってるんじゃないのか?﹂
﹁前田の、血? ああ、自由を尊び、芸術を愛するとかいう⋮⋮確
かにな﹂
﹁束縛されることを厭う血だ。葛城に戻そうとすれば、鎖を砕き断
つために全力で抗い、暴れる。だから、誉の意思を尊重すると言っ
て手出しを控えたんじゃないのか?﹂
﹁控えてないように見えるけどな﹂
ぼそぼそと、小声での会話に注意を向ける者はない。
興味を持ちそうな者たちも今は教室内にはいない。
﹁誉は、祖父である前田殿に接触する気なのだろうか?﹂
﹁妥当な線だな。あちらも血族の結束は固い。とはいえ、当主は海
外に拠点を置いて飛び回っていると聞くが﹂
﹁さっき、戻ってくるという話をしている者がいた。由美子さまの
訃報を今頃受け取ったそうだ﹂
﹁⋮⋮今頃?﹂
﹁橘が連絡していなかったらしい。誉も、さすがに前田家の祖父ま
で気が回らなかったのだろう。生まれてから一度もお会いしたこと
がないのであれば、なおさら﹂
﹁そうか﹂
これはもう、完全に詰んだな、橘家は。
家の格などの騒ぎではない。
分家は確実に切り捨てられる。
視方によれば娘2人を当主に弄ばれたと考えられなくもないだろ
う前田殿は、外孫の現状を知れば激怒するだろう。
誉を引き取る方向に話が進めば、葛城も手を出しにくいだろう。
1225
彼の才能は、葛城よりも前田の方が活かせるはずだ。
﹁⋮⋮葛城の郎女は、誉の動きを把握しているのだろうか?﹂
﹁さあ。はっきりとはわからないが、そこまでは難しいかもしれな
いな。橘は有能だ。周りの状況を読むことにも長けている﹂
﹁そうだな。本当に誉が前田家に接触するかどうかはわからないが、
御隠居様が仰る通り、私が動かない方が郎女の目をこちらに向ける
ことが出来そうだな﹂
﹁まあ、そうだな﹂
表情を引き締めた疾風が静かに頷く。
﹁疾風、誉が動きやすいように撹乱できるか?﹂
﹁やってみよう﹂
﹁私も前田殿と接触できればよかったのだが﹂
悪戯してほしいのか、お菓子が欲しいのか、こちらを窺う生徒達
の視線を少しばかり煩わしいと思いながら、溜息を吐き、呟いた。
1226
155
中間試験、ハロウィンが終われば、生徒会役員選挙となる。
二宮先輩から会長の座を引き継いだのは大神だった。
瑞姫さんのノートには、生徒会役員選挙はイベントの1つで、諏
訪伊織が会長になるということだが、肝心のヒロインがログアウト
したせいですっかり様相が変わったようだ。
まあ、大神が書記になっていたことすら本編とやらからは大幅変
更だったそうで、この時点ですでに本来の話から相当脱線している
ということだったが。
私のところにも会長選の話が回ってきたが、心より辞退申し上げ
たため、話は立ち消えとなった。
去年の大混乱が記憶に新しいからだろうと疾風が笑っていた。
相当酷かったんだなと、あの愉快そうな笑顔から想像する。
少しずつ暖かかった空気が涼しさを含み、冴え渡る季節がやって
くる。
諏訪家と葛城家が提携したコスメは、かなりの売り上げを伸ばし、
業績を上げているらしい。
諏訪の表情に余裕が出て来たので間違いないだろう。
葛城の郎女も表立った動きを見せてはいないが学園にも馴染み、
それなりの成果を得ているのかもしれない。
私と言えば、御隠居様の御申しつけ通り、まったく動いてはいな
い。
1227
予定通り勉学に励んでいる。
学生の本分だ、当たり前だろう。
外部受験に関しては、未だ内密のままだ。
建築家になるというのは、資料や書籍を読む限り、様々な問題や
課題があるということがわかった。
核となる理念をどこに持っていくかによって、かなり異なる結果
をもたらすものだということが理解できただけでも進歩だと思う。
建物は人を守るモノだが、予算や構造によって相当な開きが生じ
る。
安全であればどれほど高価な材料や工法で作ってもいいというわ
けではない。
おまけに建物を支える基礎の下、大地のことも理解していなけれ
ば無理だ。
軟弱な地盤に対して、どう強化するかが重要だ。
建物だけではなく、地質についての知識が必要だということか。
それらの知識の基礎を今のうちに、そうして大学に入って専門知
識をきっちりと身に着けなければならない。
必要となれば大学院も視野において、どう習得するかを考えねば。
為すべき目標があるというのは、とても幸せなことだと思う。
どんなことがあろうとも、目標に向かって邁進すればいい。
私はつくづく恵まれていると思う。
だからこそ、それを無駄にせずに結果を出さなければならない。
ある晴れた日、家の庭でスケッチをしている時だった。
水引の可憐な姿を絵に留め、山茶花の花の造りを間近で観察して
いた時、来客だと声を掛けられた。
振り返れば、御祖父様が橘ともう1人、堂々たる体躯の男性を伴
っていた。
1228
年の頃は御祖父様よりやや若いくらい。
目許が真季さんとよく似ている。
ああ、この方が⋮⋮。
写真でお姿は拝見したが、やはり実際にお会いした方がよくわか
る。
この方が真季さんの父であり、誉の祖父である前田翁か。
﹁⋮⋮このような姿でお客様をお迎えするなど、申し訳ありません。
はじめてお目にかかります。末の孫の瑞姫にございます﹂
さすがにラフな姿では拙いだろうと思い、着替えをするべきかと
祖父に視線で問えば、そのままでよいと返ってくる。
﹁御初にお目にかかる。誉の祖父で前田利則という。孫が大層お世
話になったそうで、礼を言う。ありがとう﹂
落ち着いた低音。
穏やかに言葉を紡ぎ、前田翁は私に頭を下げた。
﹁いえ! 友として当たり前のことをしているだけです。彼もまた、
私に幾度となく手を貸してくれました。お互い様です。ですから、
前田様にお礼を言われるようなことでは⋮⋮﹂
慌てて頭を上げてほしいと告げれば、前田翁は顔を上げ、穏やか
に微笑む。
﹁友と、言われるか﹂
﹁はい。大切な友人です﹂
﹁そうか。誉と仲良くしてくださっておられるか⋮⋮祖父としては
本当にありがたいことだ﹂
実に嬉しそうに言われると、少々居心地が悪い。
どちらかというと、悪巧みばかりしている悪い友だと思うのだが。
﹁瑞姫嬢にも迷惑をかけ、申し訳ないことをした。もっと早くに気
付けばよかったものを⋮⋮﹂
悔いておられるのだろう。
口惜しげに呟かれると、視線を落とし、そうして私を見て苦く笑
う。
1229
﹁少しばかり、年寄りの昔話に付き合ってくださらぬか﹂
そう言って、前田翁は日本を離れた経緯を語ってくださった。
********** **********
前田翁には3人のお子様がいらっしゃる。
長男の慶司様、長女の由美子様、次女の真季さん。
長男と長女が同腹で、次女の真季さんは葛城の大巫女様の御子だ。
慶司様と由美子様の母上は、由美子様をお産みになられた直後に
風邪を拗らせてお亡くなりになられたそうだ。
そのせいではないだろうが由美子様も御身体が弱く、長くは持つ
まいと言われていたそうだ。
最愛の妻を失くされた利則様は、幼子と乳飲み子を抱えて苦労を
なさっていた時に大巫女様が手を貸してくださった。
よくある話だと仰っておられたが、哀しみの縁におられた利則様
を支えた大巫女様に心を救われ、お子様方も大巫女様に懐かれてい
たということもあり、再婚されて真季さんが生まれた。
家族5人、穏やかな生活だった。
それが崩れたのは暦が一巡りした真季さんが12歳になった年の
こと。
﹃役目は終わった﹄
そう仰った大巫女様は、離婚届を残して葛城に戻られたという。
何故そんなことになったのか、突然のことに利則様は茫然自失に
陥った。
前の奥様を失くされた時以上にショックだったそうだ。
何が悪かったのかと自問自答する利則様を正気付かせたのは真季
1230
さんの一言だったらしい。
﹃近すぎてわからないのなら、遠くから眺めてみればいい﹄
ちょうどその頃、前田家は海外進出の話が持ち上がっていたとい
うこともあり、本拠地はこちらに置いたまま、拠点を海外に作る計
画があったそうだ。
利則様は真季さんの一言でそちらに移る決心をした。
成人した慶司様を連れ、身体の弱い由美子様は橘家との婚約が調
い、残るは真季さんひとり。
未成年である真季さんを海外に連れて行くべきかどうかを悩み、
利則様は真季さんに海外に一緒に行くか、母の居る葛城に行くか、
由美子様と一緒に前田の家で暮らすかお尋ねになられた。
﹃やりたいことがある。芸の道に進みたい。日本一の芸者になりた
いから、稽古をさせてほしい﹄
真っ直ぐな瞳で言われ、利則様は承諾された。
何せ真季さんだ。
駄目だと言って海外に連れて来たとしても、絶対に日本に一人で
戻って置屋の戸を叩いていたことだろう。
無理に連れて行くよりも、姉である由美子様に妹の面倒を見るよ
うに頼んだ方がお互いの為によいだろうと考えたそうだ。
妹の世話をするということが由美子様の気力に繋がり、臥せって
いたのが起き上がれるようになったという実績もあったからだ。
姉の面倒を見るということで真季さんも無茶をしないだろうとの
思いもあったそうだ。
数ヶ月に一度、必ず由美子様が手紙を出すという約束のもと、利
則様と慶司様は海外に、由美子様と真季さんはこちらで別れて暮ら
すことになった。
やがて由美子様が橘家に嫁ぎ、真季さんが小槙と呼ばれるように
なり、誉が生まれた。
ところが誉は由美子様の御子だと、手紙には書かれていたそうだ。
さすがに真実を実父には書けなかったようだ。
1231
それゆえ利則様は橘家の実情に今まで気づかなかったそうだ。
由美子様の最後の手紙は亡くなられる直前で、いつも通りに誉の
ことが書かれてあった。
もうそろそろ次の手紙が届く頃かと利則様が心待ちにしていた知
らせが、在原様からの由美子さまの訃報だったそうだ。
その知らせに驚いた利則様は、慶司様と共に日本に戻られた。
何が起こったのか、真実を知るために。
********** **********
今まで前田家が出てこなかった理由がわかった。
さすがに由美子様もこればかりは本当のことを言えなかったのだ
ろう。
それゆえ誉は由美子様の御子だと前田家には認識されていた。
嫡子であると信じていたがゆえに、橘で誉が不当な扱いを受けて
いたことに気付きもしなかった。
真実を知った今、前田翁の心中は如何許りか。
後悔というよりも、今もなお己に対し憤りを感じておられること
だろう。
如何な格上の橘家であろうとも、前田の血を持つ孫を不当に扱わ
れて許せるわけもない。
ならば、取るべき道は限られてくる。
こればかりは橘の当代殿も飲まざるを得ないだろう。
﹁⋮⋮孫の話を聞き、意思を確認した上での私の考えだ﹂
前田翁は、そう前置きをして言葉を紡ぐ。
﹁誉を前田の子として橘から切り離す。息子、慶司と養子縁組をし
1232
て、アレの子としてこれから先、誉が望むようにしよう﹂
ちらりと誉に視線をやり、前田翁は穏やかに微笑む。
﹁慶司にも息子と娘がいて、弟が欲しいと言っていたから丁度良い
だろう。実際には従弟だが、あれらは細かいところは構わぬ性格だ。
早く会いたいと言っていたし﹂
そうか、それなら一安心というところか。
どこかで聞いたことのあるような話だが、望んで受け入れてくれ
るところがあるのなら、誉も息を吐けるはずだ。
﹁前田の家が継ぎたいのなら、それに必要な教育を与えるし、進み
たい道があるのならそちらを手配しよう。当然の権利だ、何を言っ
ても構わぬと思っている﹂
前田翁の言葉に、安堵する。
誉の方へ視線を向ければ、彼は小さく頷いた。
﹁前田家へ行こうと思っている。瑞姫は、橘でも葛城でもない俺を
友だと思ってくれるだろうか?﹂
﹁当たり前だろう? 誉は誉だ。家など関係なく、私の大事な友だ。
必要なときは力を貸すし、一緒に居る。誉の望む通りにすればいい﹂
﹁⋮⋮うん﹂
小さく頷いた誉が、前田翁をまっすぐに見つめる。
﹁前田家のお世話になりたいと思います。養母が好きな道へ進むよ
うにと言ってくれましたので、宝飾デザイナーの道に進みたいと考
えています﹂
﹁そうか。いくつか賞を取っていると聞いている。才能を伸ばすの
は良い事だ。デザインの勉強ができるように取り計ろう﹂
﹁ありがとうございます﹂
﹁私の孫なのだから、礼は不要。存分に甘えるがいい﹂
柔らかく笑う前田翁に、誉は困ったような表情を浮かべる。
気持ちは何となくわかる。
甘えるというのは、難しいものだ。
﹁瑞姫嬢にはその内、時間を取って正式にお礼を言わせていただき
1233
たい。それに、色々と尋ねたいこともあるのでな﹂
﹁わかりました。ご都合のよろしいときに﹂
﹁突然お邪魔をして申し訳なかった。では、後日また﹂
そう言って、前田翁は御祖父様と誉と一緒に立ち去られた。
﹁⋮⋮あれが、前田翁、か⋮⋮﹂
3人を見送り、呟く。
一筋縄ではいかない方のようにお見受けした。
あの方であれば、橘も葛城も誉にそうちょっかいを出せないだろ
う。
そのことに心底安堵した。
自分の力で立てるまでの時間をこれで作ることができる。
本当に良かったと思う。
﹁さて。葛城はどう動くのか⋮⋮﹂
いきなりの前田翁の参戦で、誉を巡り3家がどう矛先を収めるの
か、様子を眺めさせてもらおう。
手にしたえんぴつを握り直し、私はスケッチブックに視線を落と
した。
1234
156
﹁今回は、してやられましたわ﹂
カフェテラスでのんびり紅茶をいただいていたら、葛城美沙が朗
らかに声を掛けてきた。
してやられたという割には、全く口惜しげな色合いはない。
むしろ、清々しいまでの爽やかな笑顔だ。
本当に言葉通りしてやられたと思っているのか、それともこの展
開を読んで仕向けていたのか、微妙なところだ。
﹁⋮⋮ええっと、何のことでしょう?﹂
すべて私のせいだと思われては困るので、とりあえずとぼけてみ
る。
﹁仰いますこと。前田様の件ですわ﹂
﹁ああ、それは⋮⋮私ではなく、在原様ですよ。とんだ濡れ衣です。
私は関与していませんが﹂
﹁あら、本当に?﹂
﹁ええ。私が動くなら、とっくの昔に前田翁に訴え出てますよ。お
わかりいただけますでしょう?﹂
誰がわざわざ待つものかと匂わせれば、郎女は黙り込む。
﹁⋮⋮確かに﹂
挙句の果てが納得された。
ちょっとムッとしたけれど、とりあえず言葉を呑みこむ。
﹁お尋ねしてもよろしいかしら?﹂
﹁答えられることでしたら﹂
﹁何故、前田様は今まで我が君のことを放置なさっていたのでしょ
1235
う?﹂
﹁由美子様の実子だと聞いていたからですよ。橘が嫡子を疎かに扱
うはずがない、と﹂
﹁なにゆえそのようなことに?﹂
﹁由美子様が自分の子だと前田翁に手紙に書いていたからです。実
際、由美子様は自分の手が届く範囲で、誉を大切に育てておられた﹂
ベッドから起き上がることができる日が少なくても、自由になる
限りご自分の時間を誉に割いていらっしゃったことは誉から聞いて
いる。
だから、誉はあれほどまでに由美子様に懐いていたのだ。
息子として恥ずかしくないように1人で葬儀を仕切り、その後の
供養もきちんと行っていた。
﹁由美子様があれだけ保ったのは、真季さんと約束をしたからです。
誉を大切に育てると⋮⋮それが、あの方の気力に繋がり、身体が限
界を超えても生きることへの執着にも繋がったと思われます﹂
﹁⋮⋮橘夫人に関しては、わたくし共も感謝をしておりますのよ?
誉様の幸せの為に、あの方へ一族の医師を派遣するようにと大巫
女様に願い出た者も大勢おりましたし﹂
ブレないな、葛城一族。
すべては誉の為に、か。
否、葛城直系の血を引く男子の為に、というのが正しいのだろう。
だからと言って、それを押し付けていいわけではない。
由美子様の延命が、由美子様と誉の幸せだと断言できるわけでは
ないのだから。
﹁それにしても、相手が前田家だと手出しができませんわ。さすが
に﹂
溜息を吐くように大きく息を吐き、そう告げた郎女に違和感を抱
く。
まるで、決まったセリフを喋っているような、台本を読み上げて
いるような不自然さ。
1236
﹁そんなことはないだろう? 四族と言っても前田家は地族である
葛城家程の歴史はない。本気でかかれば、誉を奪い取ることくらい
可能だろう﹂
これが決められたセリフなら、それに続く言葉はこうだろうと合
わせてみる。
﹁海外に拠点を持つ前田家に、地に根を張る我が一族が敵うはずが
ありませんわ。それに、わたくしにとって、誉様は唯一無二の主で
すもの。我が君の望まぬことを為す気はございませんわ﹂
ゆるりと首を横に振る葛城美沙に、彼女の本心を悟った。
ずっとおかしいと思っていた。
何故か、彼女の行動は微妙にずれていて読みにくいと感じていた。
それがこれだったんだ。
葛城の一族と、彼女の考えは全く異なっていたんだ。
﹁葛城の郎女、それがあなたの本心ですか⋮⋮?﹂
﹁わたくし、葛城の中でも異端ですの。傍流も傍流、端末の生れで
すのに巫女の血を持っていたのですから﹂
そう告げた郎女は口許に笑みを刷く。
﹁そのわたくしが本家に呼ばれ、葛城の名を許された時、心に決め
ましたの。唯一無二の主に誠心誠意、御仕えしよう、と﹂
﹁⋮⋮だから、誉に前田家に行くように仕向けたんですね?﹂
見事に私たちは手玉に取られたというわけだ。
葛城の思惑とは別の意思を持つ郎女の行動はすべてある種のフェ
イクだったのだ。
それに操られ、見事に嵌められたということだ。
葛城の一族の思惑は、誉を一族の当主に据えること、だ。
その正妻の座には、大巫女に次いで能力の高い葛城美沙をつける
つもりだったのだろう。
もしかしたら、他にも年の近い娘をあてがうつもりだったのかも
しれない。
1237
それは、誉という人間の意思を無視してのことだ。
葛城の血を引く男子だから、そうなって当たり前だという考えに
基づいての行動は、他家で育った誉には通用しない。
そのことを彼女たちは見落としている。
だが、傍流の末端に生まれ落ちた葛城美沙は、一族の中央とは異
なる視野を持っていた。
思いがけぬ能力を持っていたため、親から切り離され、本家に連
れてこられて育てられたからこそ、誉の気持ちが想像できたのかも
しれない。
それゆえに、彼女は考えたのだろう。
誉が葛城に戻りたいと思わなければ、葛城が手出しできないとこ
ろで彼の安全を図ろうと。
一度、視線を周囲に向けた葛城美沙は、誰もこちらに注意を向け
ないことを確かめてゆるりと頷く。
﹁あなたにはいつかバレてしまうとは思っていましたけれど、想像
以上に早かったですわ。さすがですね﹂
﹁⋮⋮まさか、諏訪のご隠居様や在原様まで手玉に取るとは思って
もいませんでしたよ﹂
相当な切れ者だ。
千瑛すら見抜けなかったのだから。
﹁どうして気付きましたの?﹂
今後のために教えてほしいと言われ、肩をすくめる。
﹁違和感を感じたからですよ﹂
﹁違和感?﹂
﹁先程、あなたが仰った言葉が、まるで演劇の台本を読んでいるよ
うに聞こえました﹂
﹁わたくしの言葉⋮⋮聞きしに勝る野生のカンですわね﹂
どこか呆れたように葛城美沙が呟く。
どこぞで私のことを調べたのだろう。
1238
その結果、出て来た言葉が﹃野生のカン﹄か。
疾風がよく言うからなぁ。
脱力する私に、葛城美沙が笑う。
﹁あなたがわたくしのことを﹃葛城の姫﹄とは呼ばずに﹃郎女﹄と
呼んだ時から、多分、こうなるとは思っておりましたけれど﹂
笑みを深め、言葉を紡ぐ。
﹁葛城の男子は、ある意味、道具ですの。より強い能力を持つ子供
を産ませるための。誉様は好きでもない一族の娘と次々に関係を持
たされ、子を生み出すための種として扱われるのです。あの方には
想う方がいらっしゃるというのに⋮⋮一族は、大王たる誉様を持ち
物のように考えているのですわ﹂
ひそりと言われた言葉は、嫌悪に満ちていた。
葛城家の考えに確かに怖気が走ったが、その考えに染まっていな
い郎女を意外にも感じる。
﹁あなたはそれでよいのですか? 一族を裏切ることになるのでは
?﹂
﹁構いませんわ。大巫女様も誉様を一族に戻す意思はございません
し⋮⋮実は、わたくしには兄がおりましたの﹂
﹁兄上が?﹂
﹁ええ。男子と巫女を産んだ母は、一族の誉れだと煽てられ、子を
産むことを強要されました。兄は⋮⋮死にました。一族の女たちに
殺されたのです﹂
具体的なことを口にしなくても、何が起こったのかが想像できる。
だから、彼女は誉を守ろうとしたのか。
﹁力を削ぐつもりでも、あったのですね?﹂
﹁これだけのことでそこまでお気づきになられるとは⋮⋮本当に恐
ろしい方﹂
﹁あなたには負けます﹂
家族の復讐などではない。
主を主とも思わぬ思い上がった者たちを一掃するための罠でもあ
1239
ったわけか。
葛城の女性たちに万が一でもバレていたら、彼女はその場で粛清
される恐れがあった。
それでも貫き通し、やり遂げたわけか。
まさに命懸けだったのかもしれない。
誉は前田家に身柄を移し、そう簡単には葛城家は手出しできない
ようになった。
不満は挙がるだろう。
だが、打つ手はあると葛城の者なら思うだろう。
その間に大巫女様と共に彼女たちを排除するつもりなのか。
﹁相良様には、本当に感謝をしております。ですから、ささやかで
すが少しばかりの仕掛けをしてみましたの﹂
にこりと郎女が微笑む。
﹁仕掛け⋮⋮もしかして、諏訪ですか?﹂
﹁ええ﹂
﹁具体的に、お尋ねしてもよろしいですか?﹂
﹁勿論ですわ。わたくし共と提携した諏訪家は、おそらく持ち直す
でしょう﹂
にこやかに状況を話す郎女の言葉に、私も頷く。
﹁この、危機的状況を的確に判断し、乗り切った上に持ち直したと
なれば、諏訪伊織様の評価はあがりますわね﹂
﹁確かに﹂
﹁例え、安倍家との婚約を解消したところで、次々と縁談が持ち込
まれることになりますわ﹂
⋮⋮は?
﹁彼が、いくらあなたを妻にと望んだところで、持ち込まれる縁談
を断るだけで精一杯になるでしょうね。それに、女性嫌いのようで
いて、かなりお好きなようでしてよ、彼﹂
くすくすと笑いながら告げる葛城美沙に、どう対応したものかと
戸惑う。
1240
﹁女性らしいところを前面に押し出してくるような方ではなく、控
えめでいて芯の強い方を好まれるようですわ。頭の良い方なら、簡
単に籠絡できると思います﹂
﹁え?﹂
﹁なんなら、2、3人、見繕って、試してみます?﹂
悪戯っぽいというよりもいかにも企んでいますというような悪魔
の笑顔。
絶対に千瑛よりも上手だ。
﹁楽しそうですわね。相良様を一途に想っていると信じながら、傍
にいる女性に心揺れる己に気付き、葛藤する諏訪様を眺めるのは。
さぞかし派手に動揺なさるでしょうね﹂
悪魔というより魔王だ。魔王がここにいる。
﹁大神紅蓮様もそろそろ困った状況に立っていることに気付くでし
ょうし﹂
﹁⋮⋮大神紅蓮に何か?﹂
﹁いえね、この間、可愛らしい噂が立ちましたでしょう? こちら
の学生ならば、冗談だろうという程度の⋮⋮社交界で秘めた嗜好の
方々の琴線に触れたようで﹂
え、ええっと⋮⋮?
﹁先日、とある方の夜会に招かれた折り、見目麗しい男性方に取り
囲まれたあの方をお見かけいたしましたわ。御気の毒に⋮⋮﹂
気の毒と言いつつ、くすっと笑っていらっしゃる。
い、言ってもいいだろうか?
怖い。ものすごく怖い。
慄き、涙目になりそうだ。
もしかしたら鉄の心臓を持つ淑女の皆様よりも怖いかもしれない。
今はただ、大神に心の中で、﹃心強く生きてくれ﹄とひっそり願
うだけだ。
見事に羊の皮を被っていたが、その下は敵にしてはいけない恐ろ
しい何かだったわけだ、彼女は。
1241
楽しげに笑っていた葛城美沙は、ふと表情を改める。
﹁誉様は、橘家のご長男から、前田家の次男となられたのですね。
これで、想う方と添い遂げる道も開かれることでしょう﹂
ぽつりと呟いたその表情は、儚くも嬉しげなものだった。
﹁あなたは、この結果に満足なのですか?﹂
思わずそう問いかける。
﹁ええ。とても﹂
﹁それで、これからどうなさるおつもりですか?﹂
﹁まだ何も終わっておりませんわ。わたくし、一の臣として、我が
君にお仕えする覚悟でこちらに参ったのですもの。最後まで御側に
お仕え致しますわ﹂
鮮やかに笑う美女のその姿がとても印象的だった。
1242
157
葛城美沙との会話は、言える部分だけを皆に伝えることにした。
大神紅蓮の件はとても言えない。
本人が望んでのことであれば、それなりに仕方がないことだと思
うのだが、今回に関して言えば完全に誤解で被害者だ。
不憫すぎて目頭が熱くなりそうだ。
そうして、それ以上に恐ろしい事態が目の前で発生している。
発生源は、千瑛である。
現在の表情を例えるのなら、間違いなく﹃般若﹄だろう。
素晴らしく笑顔なのに、どす黒い怒りが透けて見える。
﹁見事にしてやられたってわけね⋮⋮ふふっ﹂
可憐な容姿のはずが、恐ろしすぎて視線を向けられない。
﹁⋮⋮まあ、狙いが狙いだったし⋮⋮私も、全く気が付かなくて⋮
⋮﹂
ごめんなさいと謝りたくなるのは何故だろう。
私が悪いわけではないと思いたい。
ぴるぴると震えそうになる私の頭を抱き込んで宥めるように撫で
たのは千景だった。
﹁瑞姫のせいじゃないからね。千瑛、八つ当たりしない。読みが甘
かったのは、未熟だったせいだ﹂
﹁わかってるわよ! だからムカつくんじゃない﹂
﹁葛城美沙個人の情報収集が足りなかったのが敗因だった﹂
口惜しげに唸る疾風。
1243
﹁⋮⋮気付かずに誘導されてたわけか、あの父さんまでもが﹂
呆れたように机に倒れ込む在原。
﹁完敗だな﹂
口惜しいとすら思えない結果に、笑みが零れる。
﹁橘⋮⋮違った、前田誉のためだけに、ここまでやるとは思わなか
ったわね﹂
感情を収めた千瑛が髪をかき上げる。
﹁さすが絡新婦だけのことはあるわね。緻密に糸を絡めて複雑に織
り上げ、餌がかかるのを待つって⋮⋮ホント、負けたわ﹂
負けたという割にはその瞳には闘志が煌めいている。
次は負けるつもりはないと思っているのか、再戦を仕掛けようと
思っているのか。
﹁前田の傍に居続けるつもりなら、リベンジできるわよね。ふふふ
ふふ⋮⋮次は捻じ伏せてやるから﹂
﹁さすがだ、千瑛﹂
﹁任せて! 私のプライドにかけて絶対に潰してやるわ﹂
キラキラと瞳を輝かせて宣言する千瑛は大層可愛らしいのだが、
言っている内容は可愛くない。
どうしようかと千景を見上げれば、頭を撫でられた。
﹁たまに、瑞姫ってば小動物っぽくて可愛いよね﹂
﹁あら、瑞姫ちゃんはいつだって可愛いわよ?﹂
﹁あの⋮⋮私の形容詞に可愛いはないと思うんだが⋮⋮﹂
肉親以外で私を可愛いという人達はあまりいないのだが。
可愛らしいという形容詞が当てはまるような外見を全くしていな
いというのが事実だ。
﹁それは見る目がない人たちの意見だと思うわ。瑞姫ちゃんは今す
ぐ私の嫁にしたいくらい可愛いわよ﹂
﹁いや、嫁はどうかと⋮⋮﹂
普通に考えれば逆になると思うんだが。
疾風、何とかしてくれ。
1244
そう思って、疾風に視線を向ければ、何故か微笑ましいような表
情を向けられた。
﹁まあ、平和的に治まれば、誰が勝とうか関係ないと思うし。瑞姫
が可愛いのは当たり前のことだし。男前だけどな﹂
﹁岡部の言葉に納得させられる自分が情けない!!﹂
在原、それもあんまりだと思う。
誉の前田家との養子縁組は、割とスムーズに行われた。
橘の当代殿が最後までゴネたそうだが、前田翁に一喝されたそう
だ。
曰く、﹃親たる責任を果たせぬ未熟者に親を名乗る資格なし﹄と。
さすがにこれは痛かったらしい。
しかも、前田翁は由美子様と真季さんの父親だ。
2人の娘を翻弄したという自覚が多少はあった当代殿は、手を引
かざるを得なかったということか。
これは秘密裏に行われ、葛城が気付いた時には誉の名字が前田に
変わっていた。
まあ、ここで葛城美沙が私に声を掛けて来たというのが流れなの
だが、このタイミングを逃さず動くというところが見事だ。
事情を知ってそうな人間に抗議するということで、彼女は自身の
身の潔白を証明して見せたのだ。
限りなく黒に見えても、白だと主張できるように。
この後の流れは、わりと読めるだろう。
次に来るのは、誉のお披露目だ。
前田家主催のパーティを開き、そこで慶司さんと誉が養子縁組を
したことを発表する。
パーティの準備には時間が掛かるため、実際の開催日は2ヶ月程
後になるだろうが、招待状を送ってしまえば前発表したようなもの
1245
だ。
これで完全に橘家も葛城家も誉に手出しすることが出来なくなる。
まあ、葛城家には搦め手という方法が残っているが、それに引っ
掛かるような誉ではないから大丈夫だろう。
その算段を取っている間に大巫女と郎女が動くことだろうし。
このパーティまでは相良も関わらなければならないだろう。
誉が前田家の人間であることを認め、後押しするという立場を取
ったと周囲に知らせる必要があるからだ。
多分、私も招かれることになるのだろう。
パーティにはあまり出席したくないのだが、これは別枠だ。
我儘を言える立場にはない。私が引き起こした事態だし。
だが、これは予想外であった。
招待状を持ってきたのは、誉だ。
今は相良を引き払い、前田の別邸に住んでいる。
別邸の場所はわりと近くだ。
﹁瑞姫にお願いがあって﹂
招待状を差し出し、誉が少しばかり困ったように笑う。
﹁お願い?﹂
出席するかしないかと言えば、出席すると答えるが、そうではな
さそうだ。
﹁俺にエスコートさせてくれないか?﹂
﹁⋮⋮エスコート⋮⋮?﹂
所謂夜会と呼ばれる夕方以降のパーティは、男女同伴が基本だ。
昼間であれば茶会という形式なら女性一人でも出席できるが、こ
れは略式なので可能だということだ。
夜会になると男性であれば単独出席は可能だが、女性は不可能だ。
必ず誰か男性のエスコートが必要となる。
既婚者は夫、未婚である場合は親兄弟、婚約者、あるいは広い意
味での身内の男性だ。
1246
あまりこういったところに出席しない私だが、出なくてはいけな
い時は大体が八雲兄上か疾風がエスコート役となる。
他に御祖父様や父様とも出かけることもあるが、公の場では柾兄
上と一緒になることは少ない。
嫌な言い方をすれば、私が柾兄上のスペアだからだ。
今回は、私が出席することになるので、柾兄上は欠席。
おそらく八雲兄上か疾風がエスコート役になる予定だったはずだ。
﹁私が主催者側に回ってもいいのか?﹂
﹁ぜひお願いしたいところだけれど。まぁ、早い話が女性除けなん
だ﹂
﹁ああ、なるほど!﹂
皇族の血を持つ天族の橘家、地族の葛城家と前田家の直系の誉は、
見事に血統書付きの優良物件だ。
四族の中で年頃の御嬢さんを持つ家ならば、婿としては最上級の
相手だろう。
橘家の庶子と思われていた時ならいざ知らず、母親の血統が明確
になり、その両家が保護者として名乗り出た今なら誰もが掌を返す
だろう。
似たような物件の諏訪や大神と比較しても容貌、性格、能力でま
ったく劣りはしない。
容貌に関しては好みにもよるだろうが、端正であり、華やかだ。
目立たぬように装っていた以前とは状況が異なるため、おそらく
これからは容姿が注目されることになるはずだ。
婚約者がまだいない令嬢ならば、家の力を使ってでも誉と縁組む
ことを望むだろう。
それを望まない誉が、私を盾に使おうというのはよくわかる。
盾としては最適な物件であるというのは自覚している。
﹁御祖父様と疾風が了承したら構わない﹂
﹁相良様には、瑞姫が了承すれば構わないというお言葉はいただい
ている。岡部は、瑞姫のエスコート役を一緒にするつもりだったん
1247
だ﹂
﹁え?﹂
﹁Wエスコートだよ。よくあるだろ?﹂
﹁ああ、箱入り娘を絶対に一人にさせないっていうアレか⋮⋮私は
箱入りか!﹂
﹁桐箱入りだよ、絶対﹂
﹁納得いかないぃ∼!﹂
玄関の框を行儀悪くぺしぺし叩きながら訴えるが、誉は笑ったま
まだ。
﹁瑞姫は着物を着るんだろ?﹂
﹁あ⋮⋮ドレスじゃなくていいのか?﹂
﹁着物の方が暖かいだろ? 真冬でも袖無かったり、肩出してたり
してさ、いくら空調があるからって寒いだろ? ああいうの見ると、
女性は根性あるなぁって思うよ﹂
﹁あー⋮⋮ドレスコードは重要だからね。その点、着物は楽だ。特
に未婚であれば振袖着てればいいからね。ちなみに、誉の姉上のお
召し物の色は何色を選ばれる予定なんだ?﹂
主催者側の色は重要だ。
招かれる側はその色と被ってはいけないし。
﹁ああ、多分、朱だろうね。わりとはっきりした色を好まれるよう
だから﹂
﹁そうか。では、薄紫の友禅を着ることにしよう。それなら色が被
らないだろう?﹂
﹁わかった。それじゃ、俺と岡部もそれに合わせるよ﹂
﹁共布が残っていたと思うから、タイか、チーフにして贈ろうか?﹂
﹁それは助かる。パーティは2ヶ月先だから、年明けだね﹂
﹁了解した。準備しておくよ﹂
﹁ありがとう。じゃあ、また﹂
そう言って、誉は前田の別邸に帰って行った。
1248
その姿を見送った私も、さて部屋へと戻ろうかと思った時、ずし
りと頭が重くなる。
﹁蘇芳兄上!!﹂
﹁おお、よくわかったな、妹よ﹂
私の頭の上に顎を乗せ、背後から抱き込んでくるような真似をす
るのは蘇芳兄上しかいない。
﹁当然でしょう! 柾兄上も八雲兄上も正面から来ますし、気配を
消すこともありませんから﹂
﹁何だと!? こういうのは気配を隠してやるから面白いんじゃな
いか!﹂
お遊びが大好きな蘇芳兄上ならではの言葉だ。
﹁兄上、重い!﹂
﹁お兄様に失礼だぞ!﹂
﹁子泣き爺のようです。義姉様に言いつけてやる﹂
﹁それは遠慮する﹂
最終奥義を繰り出す前に、蘇芳兄上はあっさりと私から離れた。
さすがに有効手段その1だ。
ちなみに、その他にも茉莉姉上に言いつけるのと菊花姉上に言い
つけるのもかなり有効だ。
あと、柾兄上と御祖母様もいい感じである。
他にも有効手段はあるのだが、そこまで繰り出すと確実に父様か
ら鉄拳が落ちる。もちろん、蘇芳兄上に、だ。
アレを見てしまうと、末っ子って得だよな、本当に末っ子で良か
ったと思ってしまう。
﹁なあ、瑞姫。誉君がいなくなって寂しいか?﹂
首を傾げ、蘇芳兄上が問いかけてくる。
﹁寂しい、ですか?﹂
兄上の質問の意図がわからず、私も首を傾げる。
﹁良かったなとは思いますが、毎日学校で会っていますから、寂し
いとは思いません﹂
1249
﹁そうか。学校で会ってるか⋮⋮﹂
﹁ええ。別邸は御近所ですし、用があれば疾風と一緒にこちらに来
てくれますし﹂
﹁そう言えば、そうだな﹂
﹁それで、兄上。なぜ急にそのようなことをお尋ねに?﹂
質問の意図を教えてくださいと、兄上を見上げれば、蘇芳兄上は
肩をすくめた。
﹁いや、そのままの意味。毎日、うちで食事を摂ったりと顔を合わ
せていたのが、いなくなってしまって寂しいんじゃないかなって思
って﹂
﹁そうですか。蘇芳兄上は誉がお気に召したのですね。誉に伝えて
おきましょう。喜ぶと思います﹂
﹁⋮⋮嫁が誤解して喜びそうだな、その言葉﹂
﹁え?﹂
﹁何でもない。そっか、違うのか﹂
微妙な表情になった兄上が、奥へと戻っていく。
﹁ところで兄上、お仕事は?﹂
その背に気になっていたことを問いかける。
﹁⋮⋮大丈夫! 煮詰まってなんかないから!!﹂
そう叫んで、兄上は勢いよく走り去る。
そうか、プログラムが煮詰まっていたのか。
菊花姉上がそのこと知ったら激怒しそうだな。
とりあえず、姉上に問われるまでは内緒にしてあげよう。
相変わらずな蘇芳兄上に溜息を吐きながら、自分の別棟へと向か
った。
1250
158
少しずつ、空気が冷気を伴い、澄んでいく。
吐く息が白くなり、上着も厚みを増していく。
秋だと思っていたのに、冬の気配がそこかしこに潜んでいる。
車窓から覗く街はクリスマス一色だ。
まだ11月だというのに、賑やかなことだ。
そこまで考えて、ふと気づいた。
クリスマスプレゼントを用意しなければ。
渡す相手は限られているが、今までは瑞姫さんが用意していたの
で同じものを贈らないように日記を見て確認しておこう。
そう考えて家に戻り、日記を確認していて目についたのはレジン
というものだった。
カフスボタン等を作っていたらしい。
瑞姫さんはとても几帳面な性格だったらしく、用意したプレゼン
トなどはすべて写真付きで記録されている。
私と入れ替わった時に、記憶としてそれが残っているかどうかが
わからなかったこともあるが、何時・誰に・何を用意したのか、そ
の準備を誰に頼んだのか、どのように指示したのか等、事細かに書
かれているうえに、品物とラッピング後のそれを写真で記録してい
たので非常に助かっている。
ラッピング1つ、カードの内容1つで、相手との会話が躓くこと
もあるからだ。
贈った相手がカードの内容に触れたときに覚えてないということ
1251
では、相手に不快な思いをさせてしまうだろう。
そういったところに気を配れるのはすごいと正直思う。
実際にこの記録で助かったこともかなりある。今もそうだ。
その記録の中で気になったレジンというものをネットで検索して
みる。
すぐに2種類がヒットした。
エポキシ剤というA剤︵主剤︶とB剤︵硬化剤︶を混ぜて硬化さ
せる種類のモノとUVレジンと言われる紫外線に当てて硬化させる
モノ。
瑞姫さんが使ったのはUVレジンの方だ。
絵を描いて、その上にレジンを乗せて硬化していったようだけれ
ど、最初から色を混ぜる方法もあるのか。
これは面白そうだな。
ネットには色々な作品の写真が載っていて、そのひとつひとつが
手が込んでいて素晴らしく、目を楽しませてくれる。
作り方もそれほど難しくはないらしい。
レジンとパーツと型枠、色付け用の樹脂用着色剤などだ。
メインのプレゼントに添える形で何かを手作りしてみるのはどう
だろう?
幸いにもUVレジンはまだ少し残っているようだし。これにパー
ツを揃えて作るのも楽しそうだ。
何かいいものはないかとさらにネットで検索をかけると、キラキ
ラとしたものを封入したレジンを見つけた。
﹁⋮⋮オルゴナイト?﹂
キラキラしたものは金属片のようだ。
何でもポイント水晶と呼ばれる先端が尖った水晶に銅線をぐるぐ
ると巻きつけたり、あるいは渦巻き状の銅線と水晶の細石、金属片
をレジンに封入したものらしい。
銅線が一番いいけれど、他の金属線を巻きつけてもいいのか。
金属片は⋮⋮ステンレスたわしとかアルミのたわしを細かく切り
1252
刻んだものでもいいらしい。
たわしって、束子のことだろうか?
金属のモノもあるのか、知らなかった。どこに売ってるんだろう。
水晶の細石だけではなく、パワーストーンと言われる石も入れて
いいのか。
画面の文字を読みながら感心する。
空気をきれいにするとか水をきれいにするとか、電磁波をカット
するとか、何だか色々と効能が書いてある。
専門家でないと作れないものなのかと思えば、誰でも気軽に作れ
るものだと書き添えてある。
楽しんで作ればいいと書かれてある文字を読み、作ってみようか
という気になった。
﹁ペーパーウエイトなんて良さそうだな﹂
効能なんて素人が作るのだから期待はできないだろうけど、それ
でもキラキラした綺麗なものが机の上にあれば気分転換にはなりそ
うだ。
﹁よし。やってみよう﹂
失敗したところで、困ることはない。
とりあえず材料とそれらが売ってある場所をメモに書く。
それから、作る際の注意事項をよく読む。
﹁レジンはあまり身体によくないのか。換気に気をつけなければな
らない⋮⋮外で作ればいいのか?﹂
あ、でもUVレジンなのだから紫外線がある外では硬化が始まる
ので無理なのか。
とりあえず窓を全開にして、給気と換気を行えばいいのか。
﹁アレルギー? ああ、身体によくない物質が含まれているのなら
ありえるな。直接液に触れないように気をつけなければならないと
いうことか﹂
手に湿疹とかが出来ている写真とかも載せてあり、気軽にできる
けれどリスクもあるものだということを知る。
1253
その辺りを考え、対応できると答えを導き出し、とりあえずやっ
てみようという結論に至る。
﹁まずは材料集めだな。レジンはネットで注文して⋮⋮着色剤も。
あとは、実際に見てみるか﹂
そう考えた私はスマホに手を伸ばした。
翌日、疾風に頼んで学校の帰りに材料を見に行くことにした。
石やさんと呼ばれるパワーストーンを扱うショップに手芸屋さん、
それからDIYのお店と100円均一のお店。
初めて行く所ばかりなので興味津々だ。
まずは大量に細石が必要だと思うので石やさんに行く。
壁面にまで大量に、しかも色々な種類や大きさの石が飾られ、あ
るいは並べられ、圧倒される。
値段も手頃のようだ。
石の質は微妙なところ。
﹁まあ、宝石じゃなくてパワーストーンだからな﹂
石を眺めて固まった私の耳許で疾風が囁く。
どうやら店員に聞こえないようにという配慮らしい。
つまり、ある程度の力があればよいという考え方なのか。
まあ、そうだろうな。パワーストーンと言いつつも、天然石だけ
ではなく人工石や加工石、金属やサンゴやベッコウ、アンモナイト
等の生物もその範疇に入っているのだから。
﹁浄化用⋮⋮?﹂
何故か乾燥した葉が置いてある。
タグを読めば、ハーブの一種であるセージの葉で浄化用と書いて
ある。
どうやって使うのかと思えば、燻すらしい。
煙をあてて燻せば浄化できるようだ。本当か?
1254
思わず半眼になってしまう。
そう言えば、ネットでのオルゴナイト制作法の中に、ポイント水
晶や細石を浄化するとか何も書いていなかったが、実際はどうなの
だろうか。
書いていないということは、細かいことは気にするなという意味
なのだろうか。
それとも、浄化することが当たり前なので敢えて書く必要はない
という認識なのだろうか。
あとで調べよう。浄化の方法も燻す以外にもあるのかもしれない
し。
とりあえずざっくりと気に入った石もあわせて細石等をトレイに
乗せていく。
﹁⋮⋮瑞姫、こんなに買い込んで、何するんだ?﹂
胡乱な目でこちらを見る疾風にだんまりを決め込む。
﹁まあいい。はしゃいで買いすぎるなよ?﹂
その言葉にハッとしてラリマーを掴んでいた手をそっと皿の上で
開く。
危ない危ない。ついうっかり余計なモノまで買いそうになってい
た。
これをレジンに封入したとばれたら、勿体ない事をするなと怒る
人が出てきそうだ。
こういう時はストッパー役の疾風はありがたい。
石を眺めて必要ないものが無いかを確認したのち、レジを済ませ
た。
その後、DIYのお店へと移動した。
﹁一体何をやらかすつもりだ?﹂
あまりにも脈絡のない買い物に疾風が顔を顰めて問いかけてくる。
﹁失礼な! ちゃんとレシピに書いてあったものを集めているだけ
だぞ!﹂
1255
胸を張って言えば、懐疑的な視線が向けられる。
﹁レシピ? 何を作るつもりだ?﹂
﹁とても綺麗なものだ﹂
﹁金属たわしが、か?﹂
全く信用できないと言いたげな眼差しだ。
それもそうだろう。
あんなにキラキラしたものがたわしからできているなんて、私も
最初は疑った。
﹁出来上がれば、わかる。まあ、失敗して元々的なものだから、出
来上がるまでは予想できなくても仕方がない。私も作ってみるまで
わからないからな﹂
﹁キケンなモノを作るということだけはわかった。御館様に報告し
てもいいか?﹂
﹁それはまだやめてくれ。何事も試してみないと結果は出ない。結
果が出て、初めて語れることがある﹂
とりあえず言い包めてしまえと、尤もらしい言葉を紡ぎだす。
﹁⋮⋮何を企んでるんだ?﹂
﹁キラキラした綺麗なモノを作ること﹂
嘘ではないので、堂々と言い切れば、疾風が深々と溜息を吐いた。
﹁怪我、するなよ?﹂
﹁わかった!﹂
銅線やら真鍮の針金やらを買い込んだせいで、怪我をしそうだと
思ったようだ。
針金を切る時は慎重にやろうと心に決めた。
試しにいくつか作ってみたところ、大きな失敗もせず、それなり
にキラキラしたものが出来た。
正直に言おう。
1256
銅線の針金をぐるぐると渦巻き状にしてみたり、真鍮の針金をコ
イル状に巻いてみたりするのが非常に楽しい。
ついつい下準備が重要だからとぐるぐる巻いて下手すると15c
m以上の長さのコイルを作っていたりする。
型枠の中に入れるためにはもちろん途中で切って短くするけれど、
あまりにも楽しくてやめられずに気付けばものすごくぐるぐると巻
いているのだ。
自分で言うのもなんだが、随分とコイル巻が上達したように思え
る。
渦巻き状の分も、直径1cmぐらいをと思っているのに、気付い
たら3cm以上のものを作っていたり。
もちろん、使うけれど!! 無駄にはしない。大きい型枠に入れ
ればいいだけだ。
楽しいことは良い事だと思うぞ、私は。
作ってみてわかったことは、色の付け方が重要だということだ。
全体に色を付けるのなら、なるべく薄い色がいいけれど、底の部
分だけに色を入れるのなら、濃い色を使うと映える。だけど、黒に
近くなると見えにくくなってしまうので固まりづらくなる。
四苦八苦で試行錯誤を繰り返しながら、何とか人にプレゼントし
ても許されるかもと思える出来になってきた。
これが瑞姫さんなら、1度で上手くいくだろうけれど、やはり私
には経験値が足りないので、失敗をしながら経験値を積むしかない
ようだ。
家での作業とは別に、期末試験の準備をはじめつつ、今年は少し
ばかり早く聖歌隊の練習に入った。
私は今年もオルガン奏者の補欠だ。
唄わなくて済むのは助かるが、こういう時は甘やかすのではなく
厳しく練習をする方向に持っていくべきなのではないだろうか。
そうすれば多少は音程が外れるのが修正できるかもしれない。
1257
まあ、実際に練習に割ける時間が少ないせいで、足を引っ張って
合わせの時間を取るよりも、最初から下手な者は外しておいて上手
い人たちをより美しい歌声にするように指導した方がいいという考
えなのだろう。
口惜しいが納得がいく指導だと思う。
少々やさぐれた気分を味わいながら遠くを眺めていたら、男声部
のところで何か話し合っているのが見えた。
声楽担当の教師が誉に何やら楽譜を手渡そうとしているのだが、
誉はそれを断ろうとしているようだ。
在原が誉の背中を叩き、表情を輝かせて何か言っている。
千景も疾風もいつも通りの表情で、誉に言葉をかけているようだ。
楽譜を押し付けられた誉が天を仰ぐ。
教師は上機嫌でその場を去った。
どうやら、あの楽譜が問題のようだ。
深々と溜息を吐いた誉は、肩を落とし、その場から離れた。
何があったのだろうか。
ざわめく会場の中では今のやり取りは全く聞こえなかった。
在原の様子から、そこまで悪い事ではないようだが、誉の気落ち
した様子が気になる。
追い駆けてみよう。
誰もこちらを気にしている様子がなかったので、その場を離れ、
誉の後を追いかける。
教会の外へ出て、ひと気のない木立の方へ歩いていく誉に声を掛
ける。
﹁誉!﹂
﹁⋮⋮瑞姫?﹂
﹁何かあったのか? さっき、何やら楽譜を手渡されていたようだ
が﹂
﹁ああ。見てたのか⋮⋮﹂
力なく笑う誉は肩をすぼめる。
1258
﹁何となく視界に入った﹂
﹁そういうこと⋮⋮瑞姫は今、休憩中? どこの担当になったの?﹂
﹁去年に続いて、オルガン奏者の補欠だ﹂
﹁そ⋮⋮そうか﹂
吹き出しかけた誉は、慌てて口許を手で隠し、笑いを収める。
﹁素直に笑え! 唄の才能はからきしないようだからな。こればか
りは仕方がない﹂
腰に手を当て、堂々と言い切れば、誉はくすくすと笑い出す。
﹁瑞姫の声は綺麗なんだけどなぁ⋮⋮﹂
﹁他の音につられて、自分が何歌ってるのかわからなくなるんだ﹂
﹁それ、堂々と言うこと?﹂
﹁仕方ないだろう、事実だ!﹂
﹁⋮⋮どこまで男前なんだか⋮⋮﹂
笑うだけ笑った誉は、手にしていた楽譜を私に差し出す。
﹁ん?﹂
﹁ソロパートの楽譜﹂
﹁ソロ!? すごいな⋮⋮﹂
ソロと言えば、聖歌隊の中でも一番歌が上手い人間が選出される
パートだ。
誉の声は、確かにとてもいい声をしている。
話声だけでも心地良いのだから、歌声になればもっと聞き惚れる
だろうことは想像に難くない。
﹁あまり、ね⋮⋮﹂
﹁誉は目立つのが苦手だからなぁ⋮⋮﹂
こればかりは持って生まれた性質なだけに、人前に立ってどうこ
うするのが苦手というのは仕方がない事だろう。
彼の場合、今までが今までだ。
橘家の跡継ぎとして人前に立てば、そのあと陰湿な大人からのい
じめにあっていたのだから、それがトラウマになっているとしても
納得できる話だ。
1259
その場に相応しい態度を取るということに関しては、問題なく立
ち振る舞えるのだから苦手だろうが実際は大した問題ではないのだ
が。
﹁でも、まあ、その楽譜を持っているというのは、引き受けたとい
うことだろう?﹂
押し付けられたというのが正しいかもしれないが、突き返さなか
ったというのなら誉ができると判断したということだ。
﹁私は誉の声が好きだな。その歌、聞いてみたい﹂
そう言えば、誉は片手を挙げ、前髪をぐしゃりとかき混ぜてその
まま顔を隠す。
﹁瑞姫は人をノせるのが上手すぎるよ⋮⋮﹂
耳が赤い。
照れているのだろうか?
﹁⋮⋮どうせ、練習しようと思ってこっちに来たんだ。初めて歌う
んだから、下手なのは愛嬌と思ってくれ﹂
﹁うん、わかった!﹂
さて、どこで聞こう?
わくわくしながら周囲を見渡せば、誉がベンチを見つけてそちら
を指さす。
﹁向こうに行こう。あそこならあまり人目にもつかないし﹂
﹁了解!﹂
そう言ってベンチに向かい、そこに座れば、苦笑を浮かべる誉が
後を追ってくる。
﹁じゃあ、始めるよ﹂
ある程度の距離を取ったところで楽譜を手にした誉が息を吸う。
そこから始まった曲に、思わず聞き惚れる。
柔らかな低音が紡ぐ神の愛は、静かな木立の中に溶け込んだ。
1260
159
期末試験も終わり、結果が出た。
何とか主席を取れたけれど、かなり上位陣の顔ぶれが変わった。
大神は10位以下に転落、3位に誉と在原、5位に疾風、7位に
千景と千瑛だ。
学生生活も後半に入ったので、そろそろ本気を出してきたという
ところか。
それはそれで気を抜けない処なので、もっと頑張ってミスを無く
さなければならないと自分に言い聞かせる。
まだ内密にしてあるが、外部受験なのでどんなに良い点を取った
としても気は抜けない。
クリスマスの準備も佳境に入る。
オルガン補欠の私には、今回も出番がないだろうことは目に見え
ているのだが、とりあえずのお仕事はもらった。
ソロである誉の練習に付き合うこと、だそうだ。
音取りの為に鍵盤で誉の欲しい音を出すという役目だ。
報酬は、誉の歌聞き放題という豪華さ。
﹃声フェチ﹄だと言っていた瑞姫さんにとってはきっとかなりの
ご褒美だろう。
私ですら誉の声は聞き惚れるのだから。
喜んでくれるといいなと思いながら、今日も誉の練習に付き合う。
声出しついでに最近ではいろんな歌を歌ってくれる。
私がクラッシック以外はあまり詳しくないと言ったからかもしれ
1261
ない。
今、人気がある曲だとか、洋楽だとか、さわりの部分だけを軽く
口ずさんでくれたりするのだ。
思わず感心すると、笑ってさらに歌ってくれる。
こればかりは他の女子生徒たちに羨ましがられたが、歌の練習が
ある彼女たちは私と代わることができないので仕方がないと諦めて
もらうほかない。
﹁瑞姫、寒くない?﹂
誉が私に問いかける。
﹁⋮⋮⋮⋮⋮⋮﹂
いや。もう、もこもこ過ぎて暑苦しいほどなのだが⋮⋮。
ソロということで、外で練習しているため、防寒対策は万全すぎ
るほどだ。
本来ならば防音室の1つでも借りて練習するべきなのだろうが、
敷地内にある教会は教室棟から遠く離れている。
もし、合わせの全体練習があるとき、わざわざ呼びに来てもらう
というのは少々不便だ。
スマホは持っているが、防音室などは電波の通りが悪いため繋が
らない可能性がある。
そのため、手っ取り早くソロが練習できる場所として教会から少
しばかり離れた林の中のベンチ付近に腰を据えているわけだが、や
はり冬場の外は寒い。
とりわけ私はまだ傷が残っている身だ。冷えると少々不具合を起
こす。
それ故に過保護なまでに体調を心配してくれる者たちが防寒具を
手配してくれて、実に暑苦しい。
ありがたいとは思っている。もちろん、そこまで気にかけてくれ
ているということには感謝している。
だが、限度というものがあるだろう。
今、私の手許には膝掛3枚、ストール2枚があり、さらにロング
1262
コートを3枚掛けられ、イヤーマフにマフラー、手袋、ネックウォ
ーマーまである。
男子生徒用の制服を着用しているからいいようなものの、女子生
徒用の制服であればこれにレッグウォーマーまで足されそうだ。
それでも寒くないかと尋ねてくる誉も相当過保護だ。
額に光る汗が見えないのだろうか?
私にそんなことを問う誉は制服の身の薄着だ。
発声練習の為にウォームアップを行っていたので、身体が温まっ
ているからだろう。
コート1枚、わけてやりたいくらいなのだが、声を出すのには厚
着は不便だろう。
したがって、私はただ黙り込む。
私が微妙に不機嫌なことに気が付いたのだろう、誉は苦笑する。
﹁うん、ごめん。寒いんじゃなくて、暑いんだね﹂
じとっとした視線で見上げていた私は、その言葉にこくりと頷く。
﹁暑いと言ったら申し訳なくて我慢してたんだね﹂
その通りだともう一度頷く。
﹁⋮⋮うん。そうだね、暑いよね﹂
私から視線を逸らした誉の肩がふるりと揺れる。
﹁誉、最近笑いすぎ!﹂
﹁ご、ごめん⋮⋮﹂
ぷくっと吹き出した誉が身体を二つに折って笑い出す。
﹁や、可愛くて。何でそこで我慢しちゃうのかな⋮⋮くっ!!﹂
﹁だって、そこまで心配されたら何も言えなくなるだろう、普通!
!﹂
﹁それはそうかもしれないけど! 限度があるだろうに﹂
﹁あんなに心配されたら、心配させてる自分が申し訳なくて⋮⋮せ
っかく用意してくれているものをいらないなんて言えないだろう﹂
﹁うん、そうだね。そうなんだけど⋮⋮﹂
﹁⋮⋮誉。練習しないのなら、私は帰るぞ﹂
1263
﹁ごめんごめん! 練習するから! 練習、す⋮⋮くっ⋮⋮﹂
こちらに視線を向けた誉は、再び笑い出す。
﹁⋮⋮その笑いは、私がスノーマンだと言いたいのかな?﹂
白いダウンコートを掛けられ、黒いイヤーマフと手袋、赤いマフ
ラーをしている私は傍から見ればスノーマンのように見えるだろう。
実はこのダウンコートのせいで身動きが取れないのだ。
これは在原が無理やり着せてくれたため、ファスナーが生地を噛
み外れなくなってしまったのだ。
自分が着ているコートであるため、こういった不具合を解消する
のは難しい。
この状況に至らしめた在原は、意外と不器用なために投げ出して
自分の練習に向かってしまった。
﹁わかった。俺が外すから⋮⋮ごめん﹂
ようやく笑いを抑え込んだ誉が私に手を伸ばす。
在原よりも遥かに器用な指先がファスナーと生地を確かめるよう
に触れ、慎重に解していく。
無理をしないようにゆっくりと長い指がフックを摘まみ、そっと
下す。
﹁ん。大丈夫だね﹂
﹁ありがとう﹂
﹁どういたしまし⋮⋮てっ!﹂
食んでいた生地を解いた誉に礼を言えば、顔を上げた誉と視線が
合う。
意外と至近距離だった。
そう思った瞬間、ものすごい勢いで誉が後ろに下がる。
﹁ご、ごめん!﹂
﹁⋮⋮何が?﹂
何を謝っているのだろうか。
瞬きを繰り返し、誉を見上げれば、深々と溜息を吐いた誉はしゃ
がみ込む。
1264
﹁うん、そうだった。瑞姫だもんな﹂
﹁⋮⋮だから、何が?﹂
﹁いや、いい。気にしないで﹂
﹁何を?﹂
﹁わかってないのなら、それで構わないから﹂
何がいけなかったのだろうかと首を傾げれば、気を取り直した彼
が立ち上がる。
﹁意識されていないということがよくわかったよ。ある意味、令嬢
としては正しい姿だよな﹂
やはり何を言っているのかがよくわからない。
私の何が悪かったのだろうか。言ってもらえないと修正しようが
ないのだが。
﹁う∼ん。よくわからないが、まあ、仕方がない。ところで、本番
には間に合いそうなのか?﹂
﹁大丈夫だと思うよ。何とかなりそうだし﹂
﹁そうか。本番が楽しみだ﹂
﹁俺はその後が楽しみだけどね﹂
くすくすと楽しげに笑い出した誉に、私は首を傾げる。
﹁何かあるのか?﹂
﹁ああ、うん。プレゼント、楽しみにしててくれ﹂
﹁わかった、楽しみにする﹂
珍しいな、誉がこんなことを言い出すとは。
橘の家を離れたからか、表面上は平坦だった感情を最近は割とは
っきりと出すようになってきた。
穏やかに笑って何を考えているのかわからないのではなく、穏や
かな笑顔の中に嬉しさや楽しさが滲んでいるといった具合にだが。
そんな誉の表情を葛城の郎女が遠くから嬉しそうに見つめている
姿を見かける。
まるで母親のようだと千瑛や千景が言っているが、未婚の女性に
それは些か失礼ではないだろうかと思う。
1265
たまに、彼女を見て、もしかして郎女はこっそりと真季さんとも
繋がっているのではないかと考えることもあるが。
そんなことを考えていたら、全体練習を告げる声がこちらに届け
られた。
﹁行こうか﹂
そう声を掛けあい、誉と一緒に教会の方へと歩き出した。
石造りの教会は、何処か少し寒々しい。
だが、その寒さを気にすることもなく、中は聖歌に対する熱気に
あふれていた。
﹁瑞姫様!! 瑞姫様! 前田様と何をお話なさっていたんですの
? とても良い雰囲気でしたけれど﹂
誉と別れ、女声部の方へと足を運べば、幾人かの女子生徒に取り
囲まれる。
﹁え? 誉と、ですか? クリスマスプレゼントについてですが﹂
﹁まあ、そうですの! 仲良さげな雰囲気の王子様御二方の語らい
⋮⋮萌えましたわ﹂
﹁⋮⋮もしもし? 伊達の姫? 何を⋮⋮﹂
最近、少しばかり理解できない話が飛び交っているような気がす
るのは気のせいか?
﹁萌え、ですわ。瑞姫様! 胸キュンとも言うのです! 遠くから
眺めていてもだもだするような甘酸っぱい心地のことを言うのです﹂
﹁は、はぁ⋮⋮﹂
わからない。うん、わからないが、何やらそこら辺の姫君たちは
非常に満足したような空気を漂わせている。
﹁わたくし、王子と騎士の組合せがイチオシなのですが、王子2人
も捨てがたいと思ってしまいましたの﹂
﹁わたくしは王子2人がオシですの。ああ、でも! 王子と中将様
1266
もよいと思いますわ﹂
中将? 在原の中将のことか? つまり、静稀を指しているのか。
だが静稀は在原業平ではなく在原行平の系譜だから中納言なのだ
が。
いやしかしこの場合、王子というのは私だろうか、それとも誉だ
ろうか。
コンビを組ませて何をさせる気なのかと聞いてもいいのかな?
姫君たちの空気がそれを阻んでいる。
どの組み合わせが萌えるのかと口々に言い合っていた姫君たちは、
私の方へと向き直る。
﹁それで、瑞姫様。前田様と岡部様、どちらの方がより好ましいと
思われますか?﹂
﹁ええっと? どちらも私には過ぎた友人だと思っています。2人
に後れを取らぬよう精進せねばと⋮⋮﹂
﹁安定ですわね!﹂
﹁ええ! それでこそ、瑞姫様です﹂
﹁さぞかしジリジリなさっておられるでしょうね、殿方は。ですが、
瑞姫様の安定っぷりが余計に萌えます﹂
﹁⋮⋮安定⋮⋮﹂
何故だろう? 彼女たちは褒めているようなのに、貶されている
気分になるのは。
戸惑う私の手を阿蘇の姫がそっと握る。
﹁瑞姫様。わたくし共、乙女の普遍の夢、﹃いつか王子様が⋮⋮﹄
を体現なさっている瑞姫様をわたくし共は常に応援しておりますわ。
例えお相手が王子様であろうと騎士であろうと瑞姫様がお幸せにな
るのでしたら、わたくし、涙を呑んでハンカチを握りしめようとも
見守りますわ。でも、姫を選ぶのでしたら、どうぞわたくしに﹂
﹁ずるいですわ! ぜひわたくしをお選びくださいませ﹂
﹁ええっと皆様? 何をそんなにはしゃいでおられるのか、私にお
教えくださってもよろしいのでは?﹂
1267
ものすごくはしゃいでいることだけはよくわかる。
普段は淑やかに振る舞える彼女たちがここまではしゃぐのであれ
ば、何か理由があるはずだ。
そう思って問いかければ、彼女たちが一斉に天井を見上げる。
﹁あれですの! 瑞姫様、よくご覧になって。宿木ですわ﹂
クリスマスの装飾を施された教会内部の天井の何ヵ所かに小枝が
吊るされている。
あれが宿木だろう。
確か、ケルトの言い伝えで、地面に置かれない限り何人たりとも
傷付けないという木で、聖なる木とも祝福の枝とも言われるものだ
ったのが、いつの間にかキリスト教に取り込まれてクリスマスのイ
ベントの1つになっているとか。
本来は場を清める的な意味があったはずなのに、何故だか宿木の
下に立った女性は男性からのキスを拒むと1年間結婚ができないと
か言われるようになり、相手が誰であろうともキスを拒むことが出
来なくなったようだ。つまり、嫌なら宿木の傍に近付くな、という
ことだろう。
毎年これらの装飾は変わるから、今年は茶目っ気ある人が宿木を
取り入れたということか。
﹁なるほど。近付かなければいいのか﹂
了解したと頷けば、残念そうな表情をされる。
﹃いつか王子様が﹄というのは童話のモチーフだろうが、私が彼
女たちの理想の男性像に近いというのは瑞姫さんからも千瑛からも
聞いたことがある。
まあ、おそらくは瑞姫さんが彼女たちの理想の人だということだ
ろう。そこは納得できる、ものすごく。
私もあんな人になりたいと思わずにいられないからな。
広い視野を持って、前を見続けつつも、周囲への気配りを忘れな
いというのは、本当に難しいことだ。
それができるからこそ﹃大人﹄と言われるのかもしれない。
1268
いつ追いつけるかわからないけれど、頑張ろうという目標がある
のは嬉しい事でもある。
そこに辿り着いて初めて瑞姫さんにお礼を言えるのだと思う。
そう思うのはいいとして、さて、この期待に満ちた視線をどうし
よう。
ある意味、彼女たちに宿木の下に引っ張り込まれるのではないか
という疑念を払拭できない。
そして、男子生徒達から少々恨みの籠った視線も投げかけられて
いる。
どうやってこの場を切り抜けようか。
﹁⋮⋮あれ? 双子がいない⋮⋮﹂
友人たちの姿がないことに気付いた私は、悩んでいたことも忘れ、
双子探しの旅に出ることにした。
1269
160
クリスマスプレゼントがすべて用意できた翌日、私はとある教諭
に呼び止められた。
正確に言えば、私と疾風である。
そうして切り出されたのは実に名誉ある頼まれごとであった。
該当者がいないためにどうしても私たちに頼みたいと言われれば、
断ることなどできないだろう。
疾風を見上げれば、少しばかり考え込んでいた疾風も私を見やる。
﹁⋮⋮できるか、瑞姫?﹂
﹁やりたいと思う﹂
﹁そうか﹂
頷いた疾風が教諭に是と答える。
勿論、但し書きはあったのだが。
無理無茶などではないが、こちらの言い分を淡々とした口調で押
し通す疾風の手腕には少しばかり驚いた。
取扱注意の内容を説明しただけなのに、教諭が涙目になっている
のだがどうしよう。
とりあえず問題はなかったと思ってもいいのだろうか。一応、交
渉成立な状態なのだから。
情報漏洩注意だけはお願いして、その場を立ち去る。
﹁⋮⋮疾風﹂
﹁ん?﹂
﹁手入れ、しないとな﹂
そう告げれば、苦笑した疾風が私の頭に手を乗せる。
﹁はしゃぎすぎないようにしてくれ﹂
1270
﹁了解した! 存分に楽しむために気を引き締めよう﹂
﹁⋮⋮⋮⋮⋮⋮それをはしゃいでるって言うんだよ﹂
どこか呆れたような呟きが降ってきたが気にしない。
頼まれた任務を完遂するために努力は惜しまないとだけ、言って
おこう。
********** **********
クリスマス当日、教会には生徒たちがそれぞれの持ち場でそわそ
わと出番を待っていた。
それを端から眺めていた私は誰かにポンと肩を叩かれた。
振り向けば、満面の笑みを浮かべた在原の姿が。
﹁聞いたぞ、瑞姫! すごいなあ、道場の霊鎮めの役、回って来た
って?﹂
﹁⋮⋮どこでそれを?﹂
おかしいな。
疾風が厳重に情報漏洩をしないようにと注意していたのに。
﹁んー? 1年の間で話題になってるよ。僕もそこで小耳にはさん
できたんだけど﹂
﹁ほー﹂
﹁⋮⋮もしかして、秘密だったり?﹂
﹁情報統制していたな、疾風が﹂
﹁それが、バレてるって⋮⋮﹂
私が言いたかったことがわかったらしい。
在原の表情が改まる。
﹁情報の出処が1年生だとわかっただけでも儲けものだな。お喋り
1271
小雀の末路はお伽噺ではどうなっていたっけ?﹂
﹁うっわ、こわー! 自分が悪いとわかってても怖いなー﹂
﹁それが﹃躾﹄というものだからね﹂
にっこりと笑って告げれば、寒いと怯える在原の姿が。
これから何が起ころうとも自業自得だ。
あの場で疾風は、申し出を受けたことを内密にしてほしいとはっ
きりと言った。
これは、万が一、周囲で聞いていた者たちにもあてはまることだ。
取扱注意の事項であり、情報漏洩になれば相応のことが起こると
告げている。
一般的な見識があればそれがどういう意味を持つか理解できるだ
ろう。
知ってしまった情報を迂闊にか、意図的にか他人に話せば、何が
起ころうとも本人の自己責任の範疇になる。
わかっていて話したのだから、当然だ。
疾風はそう言うだろう。
そして、それを押し通せるだけの実力もある。
見事に炙り出すことだろう。
在原ではないが、御愁傷様と言ってやる。
﹁それで、瑞姫。霊鎮め、見ちゃ駄目なのか?﹂
﹁本来は人に見せるものではないな。あれは、神に奉納するものだ。
だが、見てはいけないというものでもない。上座に行かず、入口付
近で見学する分には構わないだろう﹂
﹁そうなんだ? じゃあ、見に行くよ。楽しみだな∼﹂
﹁うん。見て驚け﹂
﹁⋮⋮ちょっ! 瑞姫ちゃん、何する気?﹂
にやりと笑って私が言えば、ぎょっとしたように在原が問う。
﹁神に奉納するものが、普通だと思うか?﹂
その一言で在原は納得したように頷いた。
1272
ようやく始まったクリスマスミサは実に荘厳なものだった。
この独特な空気は、信者でなくとも厳かな雰囲気に呑まれ感動す
るだろう。
ハーモニーが途絶えると、誉のアリアが始まる。
艶のある甘さを含んだ誉の声は、初めて聴く人には相当なインパ
クトがあるだろう。
冗談半分でリクエストしてみたジャコモ・プッチィーニ作曲の歌
劇トゥーランドット﹃誰も寝てはならぬ﹄は絶品だった。
三大テノールの1人がシングルを出して驚異的な売り上げ記録を
叩き出したという有名な曲だ。
原作は﹃千一日物語﹄で﹃千一夜物語﹄ではない。
中国の王女なのに名前が﹃トゥーランドット﹄っておかしくない
か? と幼心に思ったが、トゥーランだけなら木蘭という名があて
はまるし、昔の話だから深く考えまいと思った記憶がある。
まあ、それはさておき、世界的に有名なアリアなので誉も知って
いるだろうから、さわりの部分だけでもと頼んでみたところ、全部
歌い上げてくれた。
三大テノールと比較しては駄目だろうが、それでも見事だと素直
に思える美声であったことは追記しておこう。
瑞姫さん、歓んでくれるといいな。
そんな誉の独唱に息を呑んで聞き惚れる生徒の姿がここからでも
よくわかる。
主に女子生徒だが。
彼女たちも声フェチなのだろうか。
それとも、単に聞き惚れているだけなのか。
まさかとは思うが、ひと聞き惚れでも起こして所謂恋の病とやら
に突入しているのだろうか。
誉にとって厄介なことにならなければいいけれど。
葛城の郎女がいるから、大事にはならないか。
何というか、適度な距離感を保てれば、誉にいいマネージャーが
1273
ついたなという感想に落ち着いた。
近すぎると厄介な相手だが、ある程度の距離を保てばそれなりに
いい関係を作ることが出来そうだ。
味方ではないが、協力関係は作れるというような。
まあ、敵味方という考え方自体をするつもりもないし、慣れ合う
つもりもさらさらないので、ある程度、距離を保つつもりではある
のだが。
そんなこんなを考えるうちに、歌が終わった。
割れんばかりの拍手。
自分自身への労いもあるだろうが、友人たちへの賛美もあるだろ
う。
練習という苦労を耐え忍んだ仲間たちとの共感もあるのかもしれ
ない。
頑張ることを選んだからこそ得られる達成感や解放感。
それらが合わさって、感極まって泣き出す生徒もいる。
そんな生徒の肩を叩いて慰める者もいる。
暫くの間それを眺めていた私は、その場から離れる。
この後、ひと仕事あるからだ。
疾風に合図し、武道場へ行くと伝えた後、視線を流して唖然とし
た。
人だかりの向こうに見える柔らかそうな癖のある髪が縁どる横顔
は、予想通り、誉のモノだ。
うん、見なかったことにしよう。
予想通りなのだが、予想以上に人だかりができている。
普段はおっとりとした姫君たちが、顔色を変えて前列を目指す姿
は実に恐ろしい。
おそらく、誉は今頃困ったような笑みを湛えて、姫君たちの要求
をかわしているのだろう。
1274
こういう時は、同性の友人というものはあてにならない。
邪魔な存在として押しのけられてしまうからだ。
例え顔がよかろうと、家柄がよかろうと、ターゲットではない限
り、相手にしては獲物を他の者に取られてしまうからだ。
菊花姉上に聞かされたとき、恐怖を感じたが、実際に見てみると、
さらにその恐怖が増す。
あそこに割って入って、誉を救い出そうと行動する者は勇者だろ
う。
命懸けで友を助ける勇気が持てるか、などと言われたら、今回は
持てないと答えるだろう。
相手が本来無力であるはずの女性、しかもうら若い姫君たち相手
に無粋な真似はできないという理由をあげて。
そういうわけで、すまない、誉。
私は自分の仕事を全うするよ。
骨は、おそらく在原が拾ってくれるだろう。
まあ、その前に、葛城の郎女が掃討作戦を展開してくれるだろう
から、その点は安心して待つがいい。
⋮⋮頑張れ。
心の中でそう告げて、私は勇気ある撤退を断行した。
********** **********
儀礼用の道着に着替え、道場へ足を踏み入れる。
そこにはどで知ったのか、明らかに関係者以外の生徒たちの姿が
1275
所狭しと並んでいた。
思わず話を持ってきた教諭に鋭い視線を向けてしまったのは仕方
がないだろう。
霊鎮めの儀式に歓声を出すような観客は御法度なのだから。
私よりも数段厳しい疾風の視線を受けた生徒たちが慌てて人員整
理に乗り出す。
彼らは普段、この道場を使用している生徒達だ。
以前、疾風の指導を受けていた者も多いのだろう。
主に女子生徒たちを道場の外へと連れ出そうとしている。
﹁えーっ!! 何でですか!?﹂
不満そうな声があちこちで上がる。
﹁道場は私語厳禁だ。そのような声を上げる者をこの場に居させる
わけにはいかない﹂
﹁ちょっと話すことぐらい、別にいいでしょう?﹂
﹁ならない。上座には神を祀る神域がある。つまり、神社と同じだ。
君たちは神前でそのように声を上げて話すのか?﹂
多少脅しも兼ねているので大袈裟に言っているが、概ね間違って
はいない。
神前で声を出せるかと問われれば、怯む者が多数出てくる。
﹁霊鎮めの儀は、破邪の儀だ。場の穢れを祓うため、浄めた刃で切
り裂く。つまり、万が一にここにいて怪我をしたのなら、それは君
たちが穢れた存在だと神が判断したということだけれど、それでも
いいのかな?﹂
いや、それ嘘だから!
前半はあってるけれど、後半は嘘だろう!
そう言いたいけれど、言葉を呑みこむ。
﹁怪我!?﹂
﹁真剣を使われるからね、あの御二方は。それだけの技量をお持ち
だ。そして、この場に赦されるのは、何が起こっても怪我をしない
者だ。彼らの刃を避けきれるのかい?﹂
1276
運動神経の有無を問うたわけではないのだろうが、刃物を扱う危
険性を指摘して追い出そうとする声に、さすがにこの場に残ること
を断念したようだ。
物見遊山でやって来た生徒たちは仕方なさそうに道場を出ていく。
﹁⋮⋮何故、道場に無関係な者がこの場にやって来たのでしょうか
?﹂
そう問いかければ、教諭は困ったような表情を浮かべて首を横に
振る。
﹁いつの間に知れ渡ったのか、ここを開けようとしたときにはすで
にあの子たちが集まっていて⋮⋮﹂
﹁道場に土足で上がるような真似を許したと仰いますか﹂
そう、彼女たちは裸足で上がるべき道場に靴を履いていた。
一応、道内の周囲は板張りにし、内側が畳敷きとなっているが、
その板張りの上を靴のまま立っていたのだ。
本来許されるべき行為ではない。
そのような真似をしたのは、一般生徒の一部と葉族出身の女子生
徒だ。
四族の女子生徒はこの場にはいない。
千瑛でさえ道場に顔を出すようなことはしないのだから、まあ当
然と言えば当然だろう。
道場は武術の嗜みのない女人禁制という考え方が根強くあるから
だ。
あとは、あまりにも汗臭い、男臭いので近付きたくないという衛
生面的な嫌悪感があるからとも言える。
彼女達よりは免疫のある私ですら、男臭いのは眉をひそめてしま
う。
とりあえず数日前から道場の畳を干して、痛んだものは入れ替え
て、空気も入れ替え、掃除もきっちり隅々からしたと誇らしげに説
明してくれた下級生もいたが。
非常に頑張った感が全面的に出ていたが、掃除をするのは当たり
1277
前のことだろうと少し残念な気持ちになったことは彼らの誇りのた
めに内緒にした。
﹁瑞姫、いけるか?﹂
疾風が心配そうに問いかけてくる。
﹁大丈夫だ。きちんと身体は解して温めた。動きに支障はない﹂
ひとつひとつ確認して答えれば、﹁無茶はするな﹂とほっとした
様子を見せながらも釘は刺してくる。
﹁わかった﹂
そう頷いて、布に包んでいた得物を取り出す。
その瞬間、どよめきが起こった。
﹁く⋮⋮鎖鎌!?﹂
﹁初めて見た⋮⋮あれ、使うのか!?﹂
﹁意外だ⋮⋮てっきり刀だと⋮⋮﹂
私が双鎖鎌を手にしたのがそれほど意外なのか、信じ難そうな声
ばかりが上がる。
﹁そうだよなぁ。見た目詐欺に近いからなー﹂
納得したような声音で疾風が頷いている。
﹁見た目詐欺!?﹂
﹁どう見ても弓とか太刀とか、細剣が似合いそうな顔をしているの
に、最悪の鎖鎌だし。しかも対の!﹂
﹁何故、最悪?﹂
﹁見た目のイメージが悪すぎる﹂
﹁そうか? 実用的だぞ? 最小限の力で最大限の効果を期待でき
るし、受け、流し、斬る薙ぐ投げる、絡める引き寄せる、何でもア
リだ﹂
﹁だから、最悪なんだろうが、武器として﹂
攻めあぐねるという意味では最悪だろう。
双つあるとなれば、攻撃と防御が同時に行えるわけだしな。
実際、鎖鎌というのは、三日月型の刃と柄、石突部から続く鎖の
1278
先端に錘と呼ばれる星型のおもりがある。
星形というのは五芒星や六芒星のことではなく、球形、土星や木
星といった惑星の形のことだ。
それゆえに錘のことを星と呼ぶ人もいる。
双鎖鎌の名の通り、私の持つ得物は対なのだ。
つまり、錘を繋げる形で1つの武器となる。
柄も独特で、通常の鎖鎌は刃の方に重心がくるが、私のものは柄
に重心がある。
さらに、鎖鎌と言っているが実際は棍に分類される。
節棍と言えば分りやすいだろうか。
先端に三日月形の刃がついているが、これは取り外しが可能なの
だ。
棍を連ねて柄を長くし、鎖を外して刃を大きくすれば大鎌になる。
刃を外せば節棍だ。
そして今は柄を短くし、刃を小さいものに換え、鎖を取り付けて
双鎖鎌の形態をとっている。
柄には細かい装飾が施されており、見た目はとても美麗だ。
この装飾は滑り止めの役目を兼ねている。
疾風にも言ったが実用的なのだ。形態がその場に合わせて変えら
れることも含めて。
何故これを選んだのかというと、もちろん、これの扱いが得意だ
ということもあるが、疾風の得物が槍だからだ。
柄に強いしなりを持たせた槍は性質が悪い。
普通に刀で対峙するには分が悪すぎるために、槍の特性を活かさ
ぬようにする得物を選んだわけだ。
勝敗をつける必要のない霊鎮めの儀でも、そう簡単に捻じ伏せら
れるのは癪に障る。
いくらかでも分の良い得物を選ぶのは武を嗜む者としては当然の
ことだろう。
﹁⋮⋮ホント、負けず嫌いなんだからな﹂
1279
ぼそりと疾風が呟くが、聞こえないふりをする。
﹁神に捧げる功だ。華々しくなければな﹂
刃を収める鞘はつけたままだ。
興が乗れば外すこともあるだろう。
それは、私の身体が十分に動くならばということだ。
ついている刃は真刃だ。
軽く触れるだけでも相当な威力を発揮するだろう。
だからこそ、取り扱いには十分注意をしなければならない。
今道場に残っている者は、それなりに心得があるものばかりのよ
うだ。
私が得物を手放すようなミスをすることはないだろうが、声を上
げて応援などやらかすような者がいないことは助かる。
﹁そろそろ始めるか﹂
準備が整ったと見てとった疾風が私に声を掛け、それに頷き返す。
双鎖鎌を手に、私は道場の中央へと進み出た。
1280
161
しんと静まり返った道場内。
目の前に対峙するは疾風ひとり。
徐々に空気が澄み渡り、冴え広がる。
神に捧げる技は、至高のものでなくてはならない。
ただ無心に、持てるすべての技を披露する。
だがそれだけでは霊鎮めとはならない。
新年が明けるまで、安らかに神に眠っていただくためには、それ
だけでは足りない。
それが、最も重要なものなのだ。
緩やかに呼吸を整える。
息を吐いて、吸う。
吐いて、吸う。
だらりと両手を下げたまま、静かに己の気が澄み渡っていくのを
感じる。
感覚が広がる。
己だけで完結していた気が、徐々に広がり、道場内へと張り巡ら
される。
1281
どこに誰がいて、何をしているのか、目を閉じていても気配が読
み取れる。
おそらくそれは疾風も同じだろう。
お互いの気配を探り合い、頃合を見計らう。
それは、唐突に始まった。
シュッと風を切る音が鋭く響く。
真っ直ぐに、真っ直ぐに。
私に突き刺さる寸前にがつりと音を立て止まる。
交差した双鎖鎌の柄が阻んだのだ。
力で押し込むよりも退いた方が早いと判断した疾風が柄を戻す。
その曳く力を利用し、私も疾風の懐へと飛び込む。
狙うは頚。
頸動脈を狙うというのは、もはや常識だろう。
どんなに鍛えても、防御を厚くしても、頸動脈のあたりというの
は庇いきれない部分であるようだ。
身長差が大きければ、非常に狙いにくい場所でもあるが、私と疾
風の差では致命的なモノにはならない。
迷いなくそこを狙えば、刃ではなく石突で防御に徹する疾風。
鞘と石突がぶつかり、火花が散る。
目まぐるしく攻守が反転し、ぶつかり合う音が高らかに清んでい
く。
がつりと鈍い音を立てていたものが、きんっと高い音となり、時
にはしゃらんと鎖が鳴る。
1282
何かが、自分の奥底から湧き上がってくる。
ふつふつと泡のように沸き起こり、浮かび上がる。
楽しい。
愉しい。
娯しい。
何処までも終わりなく揮っていたい。
互いにすべてを紙一重で除け、最低限の動きで相手を躱していく。
全神経を相手に注ぎ、仕掛けては防ぎ、そうして一旦距離を置く。
久々に本気を出して動ける相手の存在に、とても嬉しくなってく
る。
どうやって討ち取るか、そう考えるだけで笑みが浮かぶ。
相手の出方を見る小手調べの段階は終わった。
そろそろ本気を出して行こうか。
繋いでいた錘を外し、双鎖鎌だったものを2本の鎖鎌へと切り離
す。
ここから外道と呼ばれる鎖鎌の本領発揮というところだ。
ゆっくりと錘が円を描き、舞っていく。
ここからは2つの錘、2本の鎖、そうして2つの刃が相手となる。
スピードに乗った錘が、笛のような音を奏でだす。
どういう経緯でそのような名前がついたのか知らないが、巷では
この音を蟲笛と呼ぶらしい。
この音が鳴り出したら要注意と言われているのは、本当に蟲が呼
ばれるからではなく、ここまで高音が出せるほどのスピードを持つ
錘がぶつかれば、簡単に物が粉々に砕けるほどの威力があるからだ。
人にあたれば粉砕骨折は間違いない。
これも運がよくての話で、大体において死亡確定だろう。
1283
逆に言えば、これを持ち出さなくてはならないほど、疾風の実力
は確かだということだ。
その証拠に、これだけ振り回しても疾風にはかすりもしない。
防戦一方に追い込まれているようで、疾風の立ち位置はほとんど
変わっていない。
槍の柄で錘を弾かれても、鎖を絡まさずに手足のように操る私の
技量に周囲は惑わされているようだが、私の猛攻を槍一本で全部凌
いでいる疾風の方がすごいのだ。
兄上達ですら、双鎖鎌を持ち出した私の前でそう長いこと耐えら
れない。
防戦一方どころか、早々に私が得物を圧し折ってしまうからだ。
それほどに錘と鎖の攻撃は圧倒的だ。
それなのに、疾風は槍一本でそれらすべてを受け流している。
その事実の前に楽しくないなど思う方がおかしいだろう。
このままどこまでもやりあっていたいと願っても、終焉は必ず来
る。
緩やかに、ひそやかに。
鎖の速度が落ち、錘を絡めて元の双鎖鎌の形態に戻す。
その後もしばらく打ち合いは続き、そうして2人同時に得物を下
す。
呼吸1つおいた後に、礼をする。
静まり返り、緊迫していた空気が緩んだ。
拍手はない。
してはならないきまりだ。
拍手は柏手と混同され、眠りについた神を目覚めさせる合図とな
るため、霊鎮めの後、年が明けての最初の稽古まで堂内で手を打っ
てはならないきまりなのだ。
1284
霊鎮めが終わったのちは、静かに道場内から立ち去ることになっ
ている。
双鎖鎌を布に包み、片付けた後、そのまま道場の外へと私も出る。
﹁お疲れ様。すごかったね﹂
目の前に差し出されたタオルと共に労いの言葉がかかる。
﹁⋮⋮誉?﹂
﹁うん?﹂
驚いて見上げれば、笑みを浮かべていた誉が不思議そうに首を傾
げてくる。
驚いたな。
どうやってあの詰め掛けていた女子生徒たちから逃れたんだろう?
私の表情から悟ったのか、誉が苦笑を浮かべる。
﹁まあ、鶴の一声で解散したって言うか⋮⋮﹂
鶴?
﹁もしかして、郎女が何か?﹂
﹁うん、まあ⋮⋮世の中には知らない方が良い事もあるんだよ、瑞
姫﹂
急にきりっとした表情を作った誉が私の疑問を断ち切ろうとする。
そうか。やはり郎女が何かしたんだな。
タオルを受け取り、ひとつ頷く。
﹁この場合、御気の毒にとか、御愁傷さまとか言うべきなのかな?﹂
﹁察しがいいのも困りものだね﹂
遠い目線になった誉の肩を疾風が宥めるように叩く。
﹁癒されそうで抉られるよな﹂
﹁岡部。俺を突き落して楽しんでるだろ?﹂
﹁殆ど本気で命狙われてた俺よりはマシだろ﹂
﹁瑞姫!?﹂
ぎっと音がしそうなくらい鋭角に誉の首が動き、驚愕の眼差しが
私を捉える。
﹁や、つい⋮⋮﹂
1285
﹁つい、で、狙われたのか、俺は﹂
﹁だって、疾風、避けるから⋮⋮﹂
﹁避けるわっ!!﹂
速攻で疾風が声を上げる。
﹁⋮⋮自分の方がマシだと認めたくないけど、認めてしまいそうな
ところが怖い﹂
ぼそりと呟く誉に少しばかり反論したかったが、疾風が怖いので
我慢する。
﹁あ! そうだ! 誉、ちょっと待っててくれないか? すぐに着
替えてくるから!!﹂
クリスマスプレゼントを渡さなくては!
荷物は更衣室に入れている。
着替えなくては、荷物も取れないのだ。
﹁あ、瑞姫! こら、待て! 走るなっ!!﹂
疾風の声が追ってきたが、急がなくてはいけない。
千瑛たちも帰ってしまうし。
更衣室に飛び込んで、シャワーで汗を流した後、大急ぎで着替え
て戻ると待っていたのは予想通り般若顔の疾風の説教だった。
寒い中、慌てて走ったので少しばかり足が痛い。
自業自得なので疾風には言えないが、多分バレてるだろう。
また後で怒られそうだが、こればかりは仕方がない。
きちんと準備をすれば、走ったところでそこまで痛くはないのだ
が、身体が温もってない状態で急に動いたせいで骨と筋肉が驚いた
せいだろう。
地味に痛い。
﹁岡部、そのくらいで⋮⋮半分は俺のせいでもあるんだし﹂
苦笑を浮かべた誉が、疾風を宥めにかかる。
1286
疾風もすでに着替えて私を待ち構えていたのだ。
汗かいてないからそのまま着替えたらしい。
﹁いや、これはおまえのせいじゃなく、瑞姫の自覚が足りないだけ
だ。急に走るなと言われてるのに﹂
﹁ごめんなさい﹂
これは私が悪いので仕方がないな。
﹁だけど、俺を待たせないようにと急いだんだから⋮⋮急いでくれ
てありがとう、瑞姫﹂
﹁まったく⋮⋮甘やかすなよ﹂
呆れたような声を上げた疾風が、肩をすくめて説教を終わらせる。
﹁いいじゃないか。それで、瑞姫。急いでどうしたんだい?﹂
﹁うん。クリスマスプレゼントを渡そうと思って﹂
荷物の中からプレゼントを取出し、誉に差し出す。
﹁ありがとう﹂
﹁どういたしまして。はい、疾風も﹂
﹁あ、ああ。ありがと﹂
驚いたような表情で受け取る疾風とは対照的に、誉は嬉しそうに
笑って開けていいかと訊ねてくる。
どうぞと頷けば、小さい箱の包装を解き始める。
﹁⋮⋮ペーパーウェイト? キラキラしてるね﹂
オルゴナイトを見て、目を丸くする誉に、してやったりとくすく
す笑い出す。
﹁もしかして、アレか!? 化けたな⋮⋮﹂
誉の手に乗っているものを眺めた疾風も驚いたように声を上げる。
﹁化けたって⋮⋮ひどくない?﹂
頑張って作ったのに。
﹁いや、あの材料だろ? まさか、こんなものに化けるとは思わな
いぞ、普通﹂
﹁化ける? え? もしかして、瑞姫が作ったの?﹂
疾風の言葉から推測したらしい誉が驚いたように目を瞠る。
1287
﹁うん、頑張ってみた。案外、楽しかったよ﹂
﹁⋮⋮そう言えば、カフスやタイピンも作ってたよね。すごいな﹂
﹁作り方がわかれば、誰でもできると思う。あとは材料が集まれば、
だけど﹂
﹁⋮⋮作り方がわかっても、誰でもできないと思うよ。瑞姫は手先
が器用なんだね﹂
﹁そうかな?﹂
﹁そのうち、日曜大工とか始めるんじゃないかとハラハラしてるぞ、
俺は﹂
横で疾風がぼやく。
﹁いや、そこまではさすがにしないと思うよ、瑞姫は﹂
﹁面白いとか言い出せばやりかねないぞ﹂
﹁⋮⋮疾風の私に対する評価に不満を抱いてもいいだろうか?﹂
思わず2人に問いかければ、2人同時に私の髪をくしゃりと撫で
る。
﹁とりあえず、プレゼント渡す奴が他にもいるんだろ?﹂
﹁うん。在原や千瑛たち﹂
﹁じゃあ、行こうか﹂
2人に促され、歩き出す。
うまく誤魔化されたような気がするが、後で問い詰めてやろう。
そう思いながら、千瑛たちの姿を探し始めた。
1288
162
クリスマスプレゼント配布は、それなりに好評だった。
友人たちは淡々と、学友たちは驚愕と共に受け取ってくれた。
そして相変わらず兄上達の愛は暑苦しく、ハグが標準装備である
のが非常に不本意である。
だがしかし、全員が全員、オルゴナイトを見た瞬間、固まるのは
何故だろう?
ペーパーウェイトだと言うと息を吹き返して動き出すのだけれど。
謎の物体を作り出したわけではないのだが?
綺麗だと言った後、人の手を見て怪我の有無を確かめるのも微妙
なところだ。
怪我はしてないから! その中に血は入ってないぞ。
何故か妙に疲れた2学期はこうして幕を閉じ、冬休みへと入った。
********** **********
瑞姫さんの日記通りに新年の準備は終わり、年が明ける。
春が来れば、私が戻って1年が経つ。
私は少しくらい成長したのだろうか?
1289
目標は遠く、高い。
どんなに頑張ったところで、きっと追いつくことはできないだろ
う。
自分でもわかっている。
あの人を理想化しすぎているということを。
欠点など無いように思ってしまう。
すごい人だと尊敬しているが、彼女もまたひとりの人間であるの
は確かだ。
それでも私は永遠に彼女を追い駆けるのだろう。
淡い朱鷺色の友禅に袖を通し、支度を整える。
帯を締めると気が引き締まる。
来客対応の役目をきちんとこなさなければならない。
こうやって少しずつ、家の仕事を覚えていく。
兄上が当主になれば、その補佐役として、あるいは何らかの不都
合が起こり、私が当主となった時の為に。
﹁瑞姫様、お客様がお見えになられたのですが、お願いできますか
?﹂
そう問われ、素直に頷く。
﹁今、行きます﹂
ひとつひとつ丁寧に対応すれば、問題ない⋮⋮と、思う。
これも経験だと考えることにしよう。
ばくばくする心臓を押さえ、玄関へと向かえば、意外な方々のお
姿に足が止まりかけ、動揺を抑えつつ定位置に座した。
﹁高座から失礼いたします。あけましておめでとうございます。よ
うこそおいでくださいました、前田様﹂
1290
作法通りに膝前に手を重ね置きゆるりと上体を倒す。
肘を曲げすぎない、首を倒さないのが美しい礼だ。
肘を深く折り、身体を二つ折りするように倒し、なおかつ頭を地
に伏せるごとく首を倒せば、所謂土下座と呼ばれる形になる。
たまにこの姿を謝罪の姿だと勘違いされる方がおられるようだが、
土下座は謝意を表す姿ではない。
元々は遥拝の姿で神仏や身分の高い者に恭順の意を示すためのも
のだ。
前田様は大大名ではあるが、地族としては相良よりも格下になる。
この辺りの判断が微妙なところだ。
家勢を比べてみれば、海外に強い前田と国内に強い相良。
規模はほぼ一緒となれば、同格として考えた方が無難だろう。
﹁あけましておめでとう。麗しいお姿だな、瑞姫嬢﹂
前田翁が目尻をほんのりと下げて仰る。
﹁ありがとうございます﹂
﹁これらとは御初であったな。御紹介申し上げる。息子の慶司、そ
の嫁の杏子、孫の利正とえみ⋮⋮笑う美人と書いて笑美という。誉
については言わずともだろうが﹂
前田翁がお連れになった長男御一家の紹介をしてくださる。
﹁相良が末子、瑞姫と申します。お見知りおきくださいますようお
願い申し上げます﹂
翁の言葉を受け、私も名乗る。
誉の新しい家族はどのような方なのかと多少の好奇心もある。
﹁すごい! 和美人ね﹂
明るい声が響いたかと思うと、勢いよく抱き着かれた。
﹁瑞姫っ!!﹂
誉の慌てた声が聞こえる。
﹁姉さん! 離れてください! 瑞姫は⋮⋮﹂
﹁笑美、無礼な真似はやめよ。瑞姫嬢の髪や着物が乱れる﹂
言い淀む誉に代わって前田翁が制止する。
1291
おそらく誉は私の身体を気遣い、だがそのことを笑美さまに伝え
られずに言葉に詰まり、それを察した前田翁が別の理由で制したの
だろう。
相手の身体に傷があることを勝手に言うのは失礼にあたるという
誉らしい気遣いだ。
﹁あう⋮⋮ごめんなさい。純然たる日本美人見たの初めてで感動し
ちゃって⋮⋮﹂
外国暮らしが長い笑美様がしゅんと肩を落として謝罪する。
日本人でありながら、逆に日本人が珍しい環境にいたのなら、和
装姿の人間は相当珍しいのかもしれない。
﹁いえ、お気になさらず。おあがりになられましたら、和服姿の女
性は其処彼処に居りますので私など大したことがないということが
ご理解いただけると存じます﹂
﹁そうかしら? あなた、人形みたいに綺麗よ? ええっと博多人
形とか、雛人形とか⋮⋮﹂
﹁人形みたいというのは褒め言葉じゃないと思うよ、笑美。妹が失
礼しました﹂
利正様が笑美様を窘め、私に軽く頭を下げる。
﹁いいえ、先程も申しましたが、お気になさらず。海外では着物も
限りがございますし、珍しいと伺っております。衣装人形を連想な
さるのも道理かと﹂
奥に案内するのであがってほしいのだが、皆様、玄関に立たれた
ままだ。
さて、どうしたものかと考えていた時、前田翁がこちらを見てか
すかに笑った。
あの笑い方は、何かを企んだ時の誉の笑い方にそっくりだ。
何かなさろうとしておられるのか、それも、私にではなく、他の
方に対してだろう。
合図のようなものだ。
﹁さて、瑞姫嬢。こんなところでなんだが、ぜひともあなたにお願
1292
いしたい﹂
真っ直ぐにこちらを見つめる瞳は真面目さを装っているものの、
実に楽しげだ。
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
だから、あえて返事はせずに前田翁に視線を向ける。
﹁私の孫、誉の伴侶となってほしい﹂
﹁お断りいたします﹂
間髪入れずに拒絶する。
誰かが息を呑んだ気配がした。
﹁おや、即答か﹂
﹁考えるべくもありません﹂
﹁何故かとお尋ねしてもよろしいか?﹂
驚いた様子もなく、むしろさらに楽しげに、前田翁が問いかけて
くる。
﹁誉以外の申し出を何故考える必要があるのです?﹂
﹁前田家の当主からの申し出でもか?﹂
﹁ええ。誉は自分の意志で、自分の言葉で時機を見て言える人間で
す。他の者が変わって言う必要などない。誉が言ったのなら、真剣
に考えて答えもしましょうが、それ以外の方の申し出を考える必要
もないでしょう? それが本当に誉の意志なのかもわかりませんし﹂
﹁本人の気持ちを知って、叶えたいと思う親心でも?﹂
﹁当たり前です。誉は自分で言える。言わないのなら、それ相応の
理由がある。それを無視する形なら応じる必要がどこにあるという
のでしょうか。今まで、誉は周囲の大人の思惑でいいように扱われ
てきました。だから、誉は自分で立ちたい場所を探して、今、その
場所にいる。それをまた奪うというのでしたら⋮⋮﹂
にっこりと笑って見せる。
﹁言うた通りであったろう? 杏子さん。こういうものは余計な口
出しをするものではない、と﹂
笑い含みの声で前田翁が慶司様の奥方に声を掛ける。
1293
﹁ですが⋮⋮前田家当主直々のお声掛けですのよ? それを即答な
さるなんて、恐ろしくはございませんの?﹂
信じられないというように杏子様が私に直接問いかけてくる。
﹁何故、恐ろしいのですか?﹂
﹁前田家と言えば⋮⋮﹂
﹁それが何か?﹂
﹁は?﹂
﹁前田家がどうしたのですか? 大大名だからと仰りたいのですか
?﹂
﹁それはもちろんそうでしょう! それに付随する力もありますの
よ?﹂
﹁大大名であったのは、江戸からですね。戦国以前はいかがです?
我が一族はそれより遥か昔から彼の地を守っておりました。幾度、
権力者が代わろうとも何方も彼の地より我が一族を引き離せた者は
おられませんが。どのような力も、意味をなさない。我が家にとっ
ては、ですが。それに、たかだか小娘ひとりを思うように動かすた
めに力を使うなど底が浅いと周囲に知らしめるような真似をなさる
のですか?﹂
少し意地悪を言ってみれば、杏子様は肩を落とされる。
﹁⋮⋮喜ぶかと思いましたの。誉はよくできた子で、我儘1つ言っ
てくれませんもの。仲の良いお嬢さんがいらっしゃるならばと思い
ましたのに⋮⋮﹂
ああ、うん。
誉を可愛がりたかったのか。
何をしてもそつがない誉は、逆に言うと甘えるのは下手だろう。
家族全員、杏子様を生温い視線で見ているので、こういった自爆
は日常茶飯事なのかもしれない。
悪気はなく、むしろ善意というか愛情過多でやっているから家族
も自爆するにしろ、被害を大きくしない方向に誘導しているようだ。
おそらく自分が頼むというのを前田翁が当主が言うのが筋だから
1294
口出しせずに見ていろと言い含めたのだろう。
先に私が承知しないということを伝えたうえで。
そしてそれを私に知らせるために前田翁は合図を送ってきたのか。
﹁瑞姫、ごめん﹂
誉が申し訳なさそうに謝る。
﹁この貸しは高くつくぞ﹂
これは、放っておくといつまででも気にしそうだな。
そう考えて、ちょっぴり偉そうに笑ってみる。
﹁え?﹂
﹁カルメンと椿姫で手を打ってやろう﹂
﹁⋮⋮⋮⋮⋮⋮歌えって?﹂
﹁マイスタージンガーをつけてもいいが﹂
﹁わかった。今度改めて﹂
苦笑した誉が頷く。
﹁どうぞ、おあがりください。奥にご案内いたしましょう﹂
そう言って立ち上がり、少し下がる。
その言葉に頷いて前田翁が板間へと上がられる。
続いて慶司様ご一家も中に入られたのを確認して、御祖父様がい
らっしゃる部屋へと彼らを案内した。
1295
163
前田家当主と相良家当主の挨拶が終わり、客間へと案内する。
我が家のお節料理を振る舞うためである。
ここで微妙な問題が発覚した。
笑美様がお節料理を知らなかったのである。
慶司様と杏子様が結婚し、利正様がお生まれになられてすぐに海
外へ出られたため、笑美様は生まれてからずっと外国暮らしであっ
た。
着物が珍しかったように、日本料理も食材がすべて揃うわけでも
ないためあちらの日本料理店もなんちゃって系なモノが多く、正式
な和食を目にしたのもそんなに多くはないのだとか。
所謂、スシ・テンプラは御存知だが、その具材は魚などはほとん
どなくフルーツだったりするそうだ。
日本に戻ってこられて、和食の種類の多さに驚き、片っ端から攻
略中なのだとか。
たこ焼き、お好み焼きも攻略したと得意げに仰ったとき、誉と利
正様が笑美様から視線を外された。
意外とジャンクものと呼ばれる食べ物も果敢に挑戦なさっている
ようだ、というより、和食に入るのだろうか?
話に聞いたことはあるのだが、たこ焼きもお好み焼きも私はまだ
食したことはない。
理由は簡単だ。
親族や料理人の中にその地方出身者がいなかっただけだ。
もしいたら、誰かが作ってくれたことだろう。
1296
それがおやつと呼ばれるモノか、食事と呼ばれるモノに分類され
るかは謎ではあるが。
まあ、そういう理由で、初﹃御節料理﹄を前にした笑美様の感激
振りはすごかった。
杏子様はどこの店で作られたのかとお尋ねになられたので、我が
家の女性陣で作ったとお答えしたら固まった。
普通、仕出屋や料亭に頼むのが一般的で、主家の者が料理をする
など珍しいだろう。
上手か下手かは抜きにして、作り方を知っていれば、その苦労も
自ずとわかってくるので実際に農家や酪農家、漁業者などの生産者
や料理人に対して感謝の気持ちを常に持てるというものだ。
作るだけでも大変なのに、味も美味しくとなれば、どれほどの技
術や努力が必要なのか。
気が遠くなりそうだ。
去年からお手伝い要員として下拵えに携わるようになったため、
その大変さは多少わかるようになった。
これを毎日、しかも3食作るのだから、ものすごく大変だ。
綺麗な箸使いで御節料理を食べていた誉がふと手を止める。
﹁そう言えば、岡部は来ていないの?﹂
﹁ああ、疾風? いるよ。別棟にいるけれど、呼んで来ようか?﹂
いつも通りに岡部家は挨拶をした後、お休みだというのにも拘ら
ず、疾風を置いて行ってしまった。
兄上、姉上たちの随身の皆様はきちんとお休みをいただいて帰ら
れたというのに、少しばかり気の毒になる。
しかも私は案内役の任に就いているので、傍に控えるわけにはい
かない疾風は暇を持て余していることだろう。
﹁別棟って、瑞姫の?﹂
﹁そうだよ﹂
﹁じゃあ、俺が行くわけにはいかないね﹂
1297
﹁別にかまわないけれど、誉は気にするだろうから、呼び寄せよう﹂
誉が考えていることは、何となくわかる。
例え許可をもらっても、主の居ない女性の部屋へは入れないと礼
儀正しく思っているのだろう。
すでに疾風がその場にいるので、その条件は微妙に変わっている
ので構わないと思うのだが、ご家族がいる前で行ってこいとはさす
がに言えない。
なので、疾風を呼ぶように連絡役の親族に頼む。
ほどなくして、疾風が部屋にやって来た。
状況はすでに聞いて理解していたらしい。
真っ直ぐに前田翁に挨拶し、慶司様方にも挨拶を済ませ、誉の前
へと座る。
息子の友人ということで、ご家族の視線が疾風に突き刺さってい
る。
興味津々なのだろう。
普段のと言うか、学園での誉の様子というのは、さすがにご存知
ないだろうから。
﹁呼びつけて悪かったね、岡部﹂
﹁いや。暇にしていたから、返って助かった﹂
やはり、部屋で待機はつらかったのだろう。
苦笑をしながら疾風が首を横に振る。
年始の挨拶をしようとした2人は、突き刺さる視線に耐えかねて
反対側へと顔をそむける。
﹁⋮⋮何か、ごめん﹂
﹁いや、気持ちはわかるから﹂
挨拶したくてもできないというジレンマに陥った2人は、ぼそぼ
そと小声で語り合う。
﹁疾風、別棟の応接へ﹂
案内してはどうだろうかと告げようとすれば、その手があったと
1298
目を軽く瞠る疾風とは対照的に諦めた様子で誉が首を横に振る。
﹁そんなに長居出来ないから﹂
﹁そうか。それは残念だな。まあ、いつでも遊びに来ればいいこと
だし﹂
﹁そうだね﹂
うんと頷き合い、曖昧に笑い合う。
あまりにも微笑ましげに見つめられるのは、無礼ではないのだが、
居たたまれない。
良かったと思う反面、別の意味で苦労しているのだろうと推察し
てしまう。
ある意味、よくわかる。
可愛がられるのは、とてつもなく疲れるものだということを。あ
りがたいとは思っているが、もちろん。
あまり込み入った話もなく、3学期のことや、最終学年にあがる
ことなどの話を世間話程度にし、落ち着いたところで御重を包んで
前田翁に差し出す。
﹁おや、持ち帰ってもよいのかね?﹂
﹁はい。足を運んでくださいました皆様へのお礼の気持ちでござい
ます﹂
﹁それでは遠慮なくいただこう。いやなに、きんとんの舌触りが絶
妙で気に入ったものだから﹂
﹁きんとんは、瑞姫が裏漉ししたって言ってたよね。今年も?﹂
誉がふと思い出したように言う。
﹁今年も筋肉痛になりそうになりながら頑張りました﹂
﹁瑞姫嬢の一品だったか。なるほど。丁寧に作られたから美味であ
ったか﹂
ほっこりと微笑んだ前田翁が頷く。
意外と甘党であられたのか、田作りにきんとん、黒豆、紅白なま
すあたりを好んで食べられていた。
いずれも砂糖多めの味付けだ。
1299
ちなみに、この紅白なますや同じく紅白の叩きごぼうは我が家独
特の作り方をしている。
紅はどちらも同じく金時人参を使うのだ。
なますの方は大根と金時人参を千切りに、甘酢とちりめんじゃこ
を絡めるし、叩きごぼうに至っては、茹でて叩いたごぼうと人参を
胡麻酢に付け込むものだ。
地方独特の作り方ではあるが、独特すぎて驚かれることが多い。
味は美味しいとの評判だし、独特でも奇抜ではないため初めてで
も食べやすいようだ。
﹁では、ありがたく﹂
我が家の家紋が入った風呂敷に包まれた御重を手に、前田家の皆
様は御近所な別邸に向かわれた。
********** **********
新学期が始まり、それなりに落ち着いた頃、前田翁が再び我が家
にお見えになった。
おそらく、日を改めて来ると仰っていた一件だろう。
誉がしばらくの間滞在していた離れへとご案内し、庭をご覧にな
っていただく。
﹁⋮⋮見事だな﹂
御祖父様のこだわりが隅々まで行き届いた庭をご覧になって、ほ
うっと溜息を零される。
﹁これほど見応えのある庭ならば、離れるのが惜しいと思うのも道
理﹂
冬ではあるが、ここは常緑の設えだ。
1300
陽が差し込む時間帯は春を思わせ、長閑な雰囲気が漂う。
寒さ厳しい冬場だからこそ、一層暖かさを感じさせ見飽きないの
かもしれない。
﹁⋮⋮橘の、アレが橘で暮らしていた当時のことを聞かせてはもら
えぬだろうか? 瑞姫嬢が見たことを﹂
﹁それは、どのあたりからでしょうか?﹂
﹁初めから﹂
﹁幼い頃はそれほど接触してはいませんので、かなり飛びますが、
順を追ってお話いたしましょう。ですが、すでに終わったことと承
知してくださいますようお願い申し上げます﹂
前田翁がここに来られたということは、誉の橘での暮らしぶりを
ある程度調べ尽くしたということだろう。
そうして外側から知る者の記憶から調査の漏れがないかを探すの
かもしれない。
しかし、私が知ることを話したことで憤られても困る。
当時、そして今も私はまだ子供の範疇であり、それほどの影響力
を持たない。
私が誉を助けられたことはほんの少しもないだろう。
誉が前田の血を引いているということを当時の私は知らなかった。
小槙姐さんに会って初めて知ったのだから。
知った後ではある程度の分別がついていたので、闇雲に知らせる
わけにもいかないことを理解していた。
他家の事情に首を突っ込んでいいわけがないのだ、部外者が。
ある程度の言質を取ってから、私は私の知る﹃橘誉﹄の姿を最近
に至るまで話した。
冬の日は翳るのが早い。
まだ夕刻だとは言えない時間帯でも暗く感じてしまう。
己の感情を交えず、見たままを話す私と、黙ってそれを聞く前田
翁。
1301
ともに無表情なだけに傍から見ると奇異だろう。
話し終えた私が息を吐くのと同時に、前田翁も細く息を吐く。
﹁⋮⋮ありがとう。話辛いことを頼んで申し訳ない﹂
﹁いえ﹂
言葉短く首を横に振る。
前田家は聞く義務がある。権利ではなく、義務だ。
もっと早くに気付いていれば、ここまで深刻な事態には陥らなか
ったはずだ。
﹁誰もが隠そうとするはずだ。あまりにも愚かしい﹂
前田翁の呟きに尤もだと思いつつも同意はしない。
私が部外者だからだ。
余計な感情は伝えてはならない。
﹁橘からすべてを引き上げてきた。娘も、娘の遺品も孫の物すべて
を。籍も抜いた。前田は初めから橘とは何の関わりもない。誉の今
迄を否定するようで可哀想に思うが、そうでもしなければ誉を返せ
と言う莫迦者共が出て来たのでな﹂
その言葉に思わず顔を上げ、前田翁を見つめる。
﹁未だに分家を抑えきれぬ阿呆だ、あやつも。由美子を娶せるので
はなかったと後悔しても遅いとわかっているが﹂
ふと溜息を吐き、茫洋と遠くに視線を向ける。
﹁わたしも結婚に失敗したようなものだ。そんな男が見る目を持た
ずとも仕方ないというか⋮⋮由美子の手紙には、真季と誉のことば
かり書いてあった。気付けばよかったのだ。誉を我が子と告げた由
美子の精一杯の言葉に。早々に会いに来れば、わかったものを⋮⋮﹂
それこそ、今更だろう。
過去には戻れない。
やり直せるのなら、私だって過去に戻ってやり直したことがいく
らでもある。
でも、やり直してしまったら、私が私ではなくなってしまう。
誉だって、今の性格と違う人間になっていただろう。
1302
そうなると友人になっていたかどうかもわからない。
﹁今の状況は、色々な者たちの失敗の上にある。だが、誉は失敗で
はない。アレが自分を赦されざる者だとは思わず立派に成長できた
のは、瑞姫嬢たちアレを支えてくれた友人の存在だ。言葉で言い尽
くせぬほど感謝している、ありがとう﹂
前田翁が私に向かって頭を下げる。
﹁顔をお上げください。私たちが出来たことは何もありません。す
べては誉自身が選び取った結果です。その名の通り、誇るべきは彼
自身で、私たちではありません﹂
﹁その道を選び取らせた理由となったのが君達だ。何も知らず何も
しなかったわたしたちより遥かに支えとして誉に力を与えてくれた。
会ってみて初めてわかったが、誉はわたしよりも遥かに器の大きな
男だ。誰に似たのか⋮⋮﹂
最後は茶目っ気たっぷりに仰った前田翁は、おそらくしんみりし
かけた空気を厭われたのだろう。
﹁⋮⋮間違いなく、真季さんだと思います﹂
﹁そうか、真季か。あれにはわたしも敵わない﹂
ですよね、と、思わず頷きたくなる。
﹁それはさておき、瑞姫嬢は3月に誕生日を迎えられると聞いたが、
間違いないだろうか?﹂
間違いも何もないが、とりあえず頷いてみせる。
﹁少しばかり早いが、瑞姫嬢に誕生日プレゼントを用意したので受
け取っていただきたい。ああ、今度の誉のお披露目に付き合ってい
ただく礼も兼ねているので是非に﹂
﹁え?﹂
目録を差し出されて、目を瞠る。
中身に目を通せと促され、おずおずと受け取り、中を見て驚いた。
﹁⋮⋮なっ⋮⋮何て非常識な⋮⋮﹂
受け取り拒否はできないらしい。
目録の中に記されていたのは、世界各地の最上級の白の絹織物と
1303
染色に使われる膨大な種類の顔料だった。
もちろん、加賀特産の正絹の反物もある。
友禅等の職業に携わる者ならば、欲しくてたまらないものばかり
だ。
ものすごく痛い処を突かれてしまった。
﹁相良殿には先日話を通して許可はもらっておる。遠慮なく受け取
られるといい。ああ、あの美味しい御節の礼でもあるな﹂
にこやかに笑って告げる前田翁に、私は溜息しか出なかった。
本気で倒れてもいいだろうかと、非常識すぎる目録を眺めて、心
底思った。
1304
164
ぽかんと口を開けたまま、表情すら取り繕うことなく立ち尽くす
友人の姿がそこにある。
思わずしてやったりと笑みを浮かべてもいいだろうか。
いつも浮かべている笑みさえも、その存在を忘れ去っての間抜け
顔がそこにある。
まあ、整った顔というものは、どんな時も麗しいものであるよう
だが。
﹁あら、素敵﹂
笑美様の言葉にハッとしたように彼は瞬きを繰り返す。
﹁あらいやだ。誉ったら、瑞姫様があまりにも素敵だから見惚れて
言葉を失っちゃったの?﹂
からかうような言葉に、わずかだが誉の頬が朱に染まる。
﹁うふふふふ⋮⋮若いっていいわぁ。あ。わたくし、先に行きます
けれど、3人はゆっくり来てね。まだ時間はたっぷりありますから﹂
そう仰ると、笑美様はご自分の兄君を何かのように遠慮なく引き
摺って立ち去られた。
実に軽々と、満面の笑顔でご自分よりも大きな兄君を引き摺る姿
は圧巻だ。
それよりも笑美様。
若いって、笑美様もお若いと思いますが? 現在大学に在学中だ
と伺っておりますし。
あまりのことにおふたりの姿が見えなくなるまで見送ってしまっ
た。
1305
2月吉日、今日は誉のお披露目パーティだ。
パーティ会場であるホテルのワンフロアを予め控室として借り切
り、打ち合わせやら支度やらで朝から大忙しである。
私と疾風も招待客ではあるが、主催者の側に立つので前田家のご
厚意で部屋を2つばかりお借りして朝から支度をしていたわけであ
る。
本日持ち込んだ着物は手描き友禅。
私の渾身の作と言いたいところだが、当然のこと作者は瑞姫さん
だ。
この着物だけは別枠で保管されていたのだ、彼女のメモと共に。
﹃特別なときに﹄と残された着物は、おそらく瑞姫さんの最高傑
作だろう。
作品の殆どをお祖母様に預けて手放されていた瑞姫さんが唯一私
の為に手許に置いた翡翠の地色の手描き友禅は、縁起の良い宝尽く
しであった。
最初は薄紫の友禅にしようと思っていたが、﹃特別﹄と銘打った
一枚を目にして予定変更とした。
色の変更はもちろん誉にも伝えた。
相変わらずの微笑みで、﹃瑞姫のいいように﹄と答えたのが先月
のことだ。
夜会の女性の支度というものは、半端なく大変なものだ。
ドレスにしろ、着物にしろ、まず最初に全身の肌の調子を整えな
くてはならない。
身を清め、全身をマッサージして解し、ローションやオイル、ク
リームなど、状態に応じて肌に磨り込んでいく。
納得がいく状態まで磨き上げれば、軽食などで小腹を満たす。
1306
ある程度の栄養を巡らさなければ肌の状態維持ができないが、き
っちり食事を摂って胃袋がパンパンになってしまえば、ドレスの場
合はコルセットで締め上げて危険な状態になる。
下手するとドレスが入らないという恐怖も待ち受けているのだか
ら恐ろしい。
その点、着物は楽だと思ったらやはり間違いだ。
着物にはコルセットに匹敵する﹃帯﹄がある。
どういう締め方にするかはその状況によって異なるが、華やかな
場であればより複雑な締め方になるのが一般的だ。
しかも、若ければ若いほど、帯の結びも派手になる。
何が言いたいかというと、帯の長さは決まっており、結びに必要
な長さもある程度決まっている。胴回りが太くなれば、必要量を出
すためにその分締め上げる必要が出るということだ。
自分で解けないという点を含めてコルセットと何ら変わりないと
いう。
着付けが終われば、髪と化粧ということになる。
この順番は、着たものによってどちらが先か変わってくる。
どちらにせよ、自分ですることはほとんどない。
支度が整った時には疲労困憊間違いなしだ。
かく言う私も先程まで本当に疲労困憊で動きたくなどなかった。
夜会などに出たがる人の気持ちなど理解できないと真剣に思える
ほどだ。
しかしながら、一度引き受けたことは最後までやり通さねばなら
ないのが矜持というものだ。
しかも出来栄えは支度を手伝ってくれた方々の見事な手腕に拍手
をしたくなるほどなのだから、なおさらだ。
これはもう、皆に褒めてもらうしかないだろう。
勿論、この着物の素晴らしさと、それに負けぬように華やかに設
えてくれた方々の手腕をだ。
そうして一番最初に見せた疾風は、望みどおりに着物の素晴らし
1307
さを讃えてくれた。
もっと褒め称えてくれてもいいのよ? と、千瑛なら言うだろう
なと思いながら、もう1人のパートナーである誉のところへ行った
ところが、何故か私を見た瞬間、固まった。
頬を朱に染め、視線を泳がせていた誉は、深々と溜息を吐く。
﹁⋮⋮あの、すごく綺麗だ﹂
﹁そうだろう? この着物、最高傑作なんだ。今現在での﹂
何故か躊躇いがちな一言に、多少怪訝に思いながらもそう答えれ
ば、誉が瞬きを繰り返し、目を瞠る。
﹁え?﹂
﹁ん?﹂
何かがかみ合っていないと気付き、首を傾げれば、誉は横を向き、
片手で目許を覆う。
﹁⋮⋮やっぱりそういうオチか⋮⋮﹂
﹁最初からわかってることにそう何度も引っかかるなよ﹂
くつくつと笑いながら疾風が誉の肩を叩いて慰めている。
﹁笑美姉さんが﹃素敵﹄って言ってたのも、もしかして⋮⋮﹂
﹁多分、着物のことだろうな。多分というより、ほぼ間違いなく﹂
﹁⋮⋮うん、何となくわかってきたよ、俺も﹂
ふっと溜息を吐いて告げる彼らは何故だか黄昏た雰囲気を漂わせ
ている。
﹁本物の令嬢と言われる方々は、とんでもなく鈍いんだということ
が理解できてよかったよ﹂
﹁俺なんて中等部の時に悟ったさ﹂
何だろう、この微妙な空気は。
私が悪いのだろうか?
だが、今回はまだ何もやっていないぞ。
1308
﹁ああ、そろそろ会場に行かないと﹂
懐中時計を取り出して、時間を確認した誉が私たちを促す。
﹁もうそんな時間か!﹂
﹁いや、もう少し余裕はあるんだけどね﹂
﹁早めに動いた方が何事も対応しやすいからな﹂
なにせ、着物は歩幅が狭い。
普段はパンツスタイルでいることが多い私にとっては慣れている
とはいえ、ついうっかり大股になりそうで注意が必要だ。
歩く姿を人に見られるのはなるべく避けた方がよいだろう。
差し出される手に自分の手を重ね、背筋を伸ばしてゆっくりと歩
き出す。
﹁問題なく終わればいいんだが﹂
疾風がぽつりと呟く。
﹁こちらとしては問題を起こそうなんて考えてないんだけどな﹂
誉も大きく頷きながら同意する。
﹁精一杯遠慮しているんだけどな﹂
本心からの一言に一瞬こちらを向いた2人が、ほぼ同時に目を逸
らす。
君達、それはあまりにも失礼ではないのかな?
会場に向かいながら、やさぐれる私がいた。
1309
165
煌めくシャンデリア、漣めく笑い声。
華やかな会場は心地良い喧騒に包まれている。
ただし、私の笑顔はかなり引き攣っているが。
フロア入口に待機してお客様をお迎えするという仕事は、実際、
そこまで大変なことではない。
ある程度経験を積めば何とかなるものだ。
今回、問題は其処ではなかった。
招待客の皆様は、何故か誉と並ぶ私を見て驚いたような表情をし、
﹃おめでとう﹄と言いかけて疾風の姿に気付いて黙り込む。
そうして大変困ったような表情を浮かべて、本当のところはどう
なのかと問いかけてくるのだ。
そこまではいい。仕方ないと諦めて妥協もしよう。
だがしかし、そこから先はいただけない。
にこやかな笑顔を作った誉と疾風が口喧嘩モドキを始めるのだ。
本人たち曰く、客人たちの好奇心を満たす﹃鞘当ごっこ﹄なのだ
そうだ。
まあ、あれだ。﹃鞘当て﹄とは、刀の鞘をわざとぶつけて喧嘩を
吹っ掛けて無礼討ちをする実に傍迷惑な旗本道楽息子のお遊びだ。
1310
実際はそういうものではないのだが、時代劇などでそういうもの
だというイメージが作り上げられてしまった。
それがさらに広がって、﹃鞘当て﹄の前に﹃恋の﹄とかいう言葉
が冠せられて本気の喧嘩ではない言葉遊びのようなものと認識され
るようになったのが今現在。
それもまた傍迷惑だと断言しよう。
わけのわからない言い合いと、周囲の生温かい視線と笑みが何と
も言えず気味が悪いのだ。
微妙な位置取りで近付きすぎるとか、手の位置がどうのとか、よ
くも細かいネタで喧嘩ができるものだと感心する。
本当に芸が細かい演技力だ。
いや、感心してはいけないのだろうが。
私の神経がざりざりと削り取られているうちに、いつの間にか招
待客の殆どが来場されたようだ。
あちらこちらで飲み物や軽食を片手に談笑している姿が見える。
そろそろ場所を移動しての挨拶の時間だろうかと前田翁に視線を
やれば、何故か視界の端に獰猛な笑みを浮かべた笑美様が映った。
﹁もうじき本番かしら?﹂
にやりと笑う笑美様を見て、何故かうちの姉上たちの姿と被る。
苦笑する慶司様たちにどうやら何かこちらには内緒で企んだイベ
ントがあるのだと悟る。
思わず誉に視線を向ければ、誉が首を横に振る。
そうか、誉は知らないのか。
気の毒な⋮⋮。
そんな言葉が脳裏に過る。
何故と言われても困るが、ふと思ったのだ。
きっと笑美様方が企んでいることは、誉の不利にはならないだろ
う。
むしろ、誉のためを思って仕組まれたことなのだと思う。
1311
だがしかし、それを誉が望んでいるかどうかという観点から見れ
ば、きっと望んでいないことだ。
誉は華やかな外見を裏切って、目立つことを好まない。
そして、特に負の感情を忌避するきらいがある。
思い込んだら一直線的なところがあると見受けられる前田家の方
々が善かれと思ったことも、誉にとっては負担になることも考えら
れるのだ。
今回はこのパターンのような気がする。
大丈夫だろうかと思わず誉の腕を掴めば、大丈夫だと言いたげな、
だが力ない笑みが返ってくる。
本当に大丈夫だろうかと疑問を抱き、疾風を見上げれば、疾風は
疾風で肩をすくめてなるようにしかならないと不吉なことを態度で
示す。
実に不吉な回答をありがとうと、半眼で応じたとき、笑美様が壮
絶な笑顔になった。
﹁前田様、お招きありがとうございます﹂
特に気になるような特徴もない中年男性が案内係に誘導され、前
田翁に挨拶をする。
ひと目見て、四族出身ではないと判断する。
幼い頃より四族の方々とはある程度の面識があったり、または知
識として顔とお名前を憶えさせられる。
その記憶のどこにもその男性と一致するデータはなかった。
おそらくは一般の方だろう。取引のある会社関係の方だろうか。
そう思った瞬間、笑美様の獲物だと気が付いた。
正確に言えば、彼の同伴者が、である。
ひと目見て、老けたなと思ったのが正直な感想だ。
十年も経っていないはずだが、あの時よりも遥かにみすぼらしく
1312
老けている。
そう、橘家で誉を蔑み、彼の頬を打とうとして私の頬を打った女
性だ。
おそらく婚家から離縁されたのち、実家からも縁を切られるよう
にしてまた別の家に嫁がされたのだろう。
ただし、相良の怒りが恐ろしく、四族から拒否られたために一般
の名家と呼ばれる家に。
彼は四族のことを知らずに後妻として彼の女性を受け入れただけ
だろうが。
思わず冷ややかな視線になってしまった私はまだまだ未熟だろう。
彼女が前田家の獲物であるのなら、私は大人しく見守ろう。誉の
身内である彼らには始末をつける権利がある。
さて、どうなることやら。
すっかり傍観者目線になっていれば、件の女性は主役である誉に
も主催者である前田翁にも挨拶をせずに笑美様に話しかけた。
﹁まあ、御噂に違わず麗しい方ですこと。御機嫌よう。わたくしの
息子は笑美様と同じ年ですのよ。お話も合いましょう﹂
どうやら彼女は四族のままでいるらしい。
そうして、前田家と同等であると勘違いをしているようだ。
笑美様は其処には誰もいないかのように女性をすっぱりと無視し
て中年男性に視線を向ける。
﹁吉田様、ですわね? 招待状には同伴者なしでお越しくださいと
書かれていたはずですのに、どういうことですの?﹂
﹁はっ そ、それは⋮⋮﹂
汗をかきかき、その男性は言葉を紡ごうとするが、声にはならな
い。
﹁確かに、同伴者はなしで良いと書いたな﹂
前田翁もゆったりと頷く。
夜会の場合、女性が出席するにはエスコート役が必要だ。エスコ
1313
ートが居なければ、介添え役の年長の女性が。
しかしながら男性の場合は単身でも出席可能だ。
特に主催者側が同伴者を必要としないと書き添えていれば、誰か
を伴う必要は全くない。むしろ、伴った方が失礼だ。何しろ、主催
者側の意向に反するのだから。
ゆったりと前田家の皆様は鷹揚に笑う。
その瞬間、会場から光が消え、その次にはステージを強い光が照
らし出し、華やかな音楽とともに民族舞踊が始まる。
エキゾチックな衣装を身に纏い、妖艶な笑みを浮かべた女性たち
が艶めかしく腕をくねらせ音楽を表現する。
こちらのことなど気にもせず、招待客はその舞踊に魅入る。
﹁吉田様は、前田家に含むところがおありのようですね?﹂
ゆったりと微笑んだのは杏子夫人であった。
穏やかに、そして優雅に微笑むその姿は先日暴走して自爆してい
た方とは同一人物には見えない。
やんわりと柔らかくだがしっかりと脅しをかけるその姿は、流石
大大名の御正室といったところか。
﹁いえ、そのようなことは決して!!﹂
﹁その方が何をなさったかご存知? 幼い誉に非道な振舞いをなさ
いましたのよ﹂
先程の柔らかさが錯覚だったかのようなぴしりとした拒絶。
﹁え?﹂
吉田氏は瞬きを繰り返し、妻と杏子夫人を見比べる。
﹁幼い誉に、そちらの方は賤しい子供だと仰って頬を打とうとなさ
いましたのよ?﹂
そう告げたのは杏子夫人ではなく笑美様だった。
凄みのある笑顔で、ゆるりと首を傾げる。
﹁賤しい子供、そう、仰いましたの。我が前田家と、葛城の血を持
1314
つ橘家の継嗣に対して﹂
﹁⋮⋮は⋮⋮?﹂
﹁どこが賤しい血だと思います? 下賤などと断じられる謂れは何
処にあるのでしょう?﹂
ゆったりとした口調で問い詰める笑美様に、吉田氏も吉田夫人も
顔色を失う。
﹁そうして、わたくしのおとうとの頬を打とうとして、そちらの相
良の末姫の頬を打ちましたのよ﹂
その瞬間、吉田氏は目を瞠り、声にならない悲鳴を上げた。
信じられないと言いたげな表情で妻を見る。
﹁あれはっ!! わたくしは瑞姫様を打とうとして打ったわけでは
っ!!﹂
﹁語るに堕ちたとはこのことか﹂
慶司様が呟く。
それは、誉への暴言も私への暴力も認めると言ったも同然の言葉
だ。
﹁その事実にその方、婚家から離縁を申し渡され、そちらの御子息
と家に返されたのち、相良の報復を恐れたご実家から切り捨てられ
て吉田様に嫁ぐことになられたと伺っておりましてよ﹂
にこやかに告げる笑美様の言葉に、吉田氏は表情すら失った。
﹁⋮⋮離縁いたします。元々私も連れてくるつもりなど毛頭ありま
せんでした。それを強引に息子まで巻き込んでついてきたのはこの
人です。そこに私の意志も、息子の意志もありませんでした﹂
﹁ですって? 自業自得の結果ですわね﹂
くすくすと楽しげに笑いながら告げる笑美様の言葉の意味を知る。
招待状通りについてこなければ命拾いをしていたはずだ、と。
前田家の名前欲しさに息子を連れてこなければ、何事もなく済ん
だはずなのに、と。
﹁くだらぬ欲や嫉妬を持つからこのような目にあうのよね。御存知
でした? 吉田様。わたくしのおとうとへの暴言は、橘当主に嫁げ
1315
なかった嫉妬心からですのよ。叔母が橘家に嫁いだので、というよ
りも端から相手にされなかったのに逆恨みして、叔母たちではなく
幼子に八つ当たりの暴言を吐いたのですから当然の報いではありま
すよね﹂
﹁そのような経緯があったことなど、全く知りもせず、お恥ずかし
い限りです﹂
﹁まあそこは仕方がないと思いますわ。あちらもその方と縁を切り
たいばかりに全力で隠していたのでしょうしね﹂
吉田氏も騙されていたのだと温情を見せた笑美様だが、それは決
して温情ではないんでしょうね。
確かに吉田氏も被害者と言えるだろうが、吉田氏を庇うことで彼
の夫人とその実家を貶めているようにしか見えない。
それだけ前田家の怒りは深いということだろう。
今まで気づかなかったことへの自分たちへの怒りを含めて、八つ
当たり全開となっているようだ。
橘家関係者は招待されていないようだし、私が記憶する限り誉を
傷付けようとした方々の姿もない。
その取り巻きであった方々の姿は見受けられる。
つまりは、見せしめだ。
次はおまえたちだぞというメッセージ込の。
誉を見上げれば、誉は困ったような表情を浮かべている。
彼にとってすでに終わったことを蒸し返され、このような手を打
たれるのは不本意極まりない事なのだろう。
だが、前田家の方々の気持ちも理解できてしまうため、困ると思
っても口出しできないでいる。
誉が諌めれば、前田家の方々が嘗められてしまうからだ。
とんとんと背中を叩いて宥めれば、少しばかり肩を落とした誉が
仄かな笑みを浮かべて頷く。
大丈夫、何とか乗り越えてみせるから。
1316
そう言っているように思えた。
うん、大丈夫だ。
これから私が誉に手を貸してやれることはもうないだろう。
誉が必要としていた﹃家族﹄がこれから彼を守ってくれるのだか
ら。
願わくば、彼を守る方法は穏便にしていただきたい。
ちらりとそう思ったが、私も誉同様に沈黙を守ることにした。
1317
166
断罪イベントモドキは、前田家御婦人方の圧勝であった。
溺愛系の方を怒らせるのはおそらく閻魔様より恐ろしい。
そんな結論に至りそうな結果であった。
無辜のお客様方が民族舞踊に目を奪われているうちに終わってし
まった復讐劇は、前田家の皆様の中でも﹃なかったこと﹄にされて
いた。
吉田氏は招待されていなかった。
つまりは、そういうことだ。
まあ、普通に考えれば、四族ではない吉田氏が誉の披露パーティ
に招待されるということの方が不自然だ。
誉と吉田氏には何の関係もないのだから。
それゆえ、もし、吉田氏の姿を目撃した方がいたとしても、招待
されたとは思わずに、誼を得たいと強引に押し掛けた者として認識
されることだろう。
勿論それは誉というよりも﹃前田家﹄にという意味で、だ。
あの場に吉田氏の義子息がいたのも拍車をかけることだろう。
誉のためのパーティなのに、息子を連れて無理矢理笑美様に婚約
を押し迫ろうとしたという想像をするものも出てくるはずだ。
実に気の毒な方だと思ってしまう。
せっかくここまで努力してきたものを、後妻のせいで色々と失お
1318
うとしているのだから。
だが、私が手出しできる事ではない。
吉田氏も、調べればよかったのだ。
何故四族が子連れの娘を後妻に寄越したのか。
夫と死別したのであれば、同じ境遇の四族の男性と娶せるだろう。
連れ子は男子だ。離縁したのであれば、男子は跡取りとして、あ
るいはそのスペアとして引き取ることの方が多い。
だが、あえて手放すのであれば、相応の理由があるということだ。
疑えばよかったのだ。
疑わず、調べずにいた結果が、今回のことだ。
巻き込まれてしまったことだとはいえ、相手が誰であれ、家を守
ろうと思うのなら、素直に受け入れずに調査すべきだったのだ。
ある意味、これも自業自得ということだろう、迂闊だった自分が
やったこと、否、やらなかったことの結末だ。
続いていかねばならない﹃家﹄であることを選んだのであれば、
このくらいはやらなければならないことだ。
華やかなステージが終わり、前田翁が誉を正式に紹介する。
故あって手放していた二番目の娘の子供を長男の子として迎え入
れることにした、と。
誉を橘家の継嗣と知っていた人たちの中で、橘家の庶子であり、
出自のはっきりしない母親の子だと認識していた者たちは、この言
葉に顔色を変えていた。
橘当主の正妻は前田翁の長女であることは当然知られている。
彼女が我が子として遇していた誉の母親もまた前田翁の娘であっ
た。
血は同じ。
つまり、嫡子であろうが庶子であろうが、橘と前田の血を持つ子
供に変わりなかったとようやく理解したのだろう。
正妻である由美子夫人を思ってという自分勝手な理由が、本当に
1319
自分勝手で根拠のない蔑みであったと知り、完全に前田家を敵に回
したとわかった者達は、今どんな心地なのだろうか。
おっとりと嬉しげに微笑む杏子夫人と艶やかな笑みを湛える笑美
様の笑顔の意味を知る者はどのくらいいるだろうか。
前田翁の言葉は、誉のお披露目であると同時に宣戦布告でもある。
最初から誉の擁護に回っていた者達には全く脅威にもならないだ
ろうが、それなりに恐ろしいものであることは間違いない。
ついでに言えば、前田翁の二番目の夫人が葛城の当主であること
はあまりにも有名だ。
葛城家はこれを機に、正当な権利だと主張して彼らに牙を剥くの
だろうし。
大巫女様がその辺りは容認するだろうことは、何となくわかる。
粛清を掛けるつもりであろうとも、利用できるものは利用するの
が彼女たちの特徴だ。
その後、誉を交えての歓談が始まる。
広間をそれぞれゆったりと歩き回り、招待客と個別に挨拶を交わ
す。
出迎えの時と違い、今度は時間をたっぷりと取れるので客も少し
でも長く話そうと色々と話を振ってくるのが困るところ。
話した時間の長さが、どれだけ相手に重きを置いているのかとい
う目安になるという困った解釈をする方々もいるからだ。
前田翁の後ろで、誉と疾風と私が翁に紹介された方々と話すこと
になるのだが、誉に話しかけるのは納得するが、何故か私に話しか
ける方々が多くて驚いた。
そうして、その直後の誉と疾風の反応が怖かった。
笑顔って、相手を和ませるためのものだよな?
何故笑っているのに、恐怖を感じるんだろう?
穏やかそうで機嫌良さそうな笑顔なのに、なぜ黒く感じるんだろ
う?
﹁ごきげんよう、み⋮⋮﹂
1320
﹁ああ、これは朱雀院の。ご機嫌麗しいようで何より!﹂
﹁今、﹃み﹄という言葉が聞こえたが、まさか相良の末姫の名を許
可もなく口にしようなんて無礼な真似、しませんよね!?﹂
差し出された手を、がつっと音がしそうな勢いで握りしめた疾風
と、ざっと私の前に立ち、相手の視界から私の姿を消し去った誉が、
にこやかに朱雀院の御子息と会話を始める。
今の流れは、おそらく、いや、かなりの確率で私に話しかけよう
としたのを遮ったということだろう。
まあ、朱雀院の方は女性関係が華やかという噂をよく耳にするの
で、親しくなりたいと思う相手ではないことは確かだ。
﹁いやいや、さすがにそれは⋮⋮み⋮⋮皆様、仲がよろしくていら
っしゃると⋮⋮﹂
2人の迫力に押されたのか、苦し紛れのような言葉をひねり出し
た朱雀院の方は、かなり引き攣った表情で唇の端を持ち上げるよう
に笑みを作ろうとする。
﹁ええ、もちろん。わたしは瑞姫の遊び相手として選ばれておりま
すし、彼もまた相良家の皆様公認の友人として屋敷に足を運ぶこと
を許されておりますから﹂
﹁そっ⋮⋮それは何とも羨ましい⋮⋮﹂
﹁人を羨むようではあちらの方には到底認めてもらえないことだけ
お教えしておきますよ﹂
にこやかに、本当ににこやかに笑う疾風と誉だが、突っ込む気力
も湧かないほど妙な迫力がある。
﹁ああ、朱雀院殿は女性に人気がおありという噂は本当のようだ。
あちらの御婦人方が熱い視線を送っていらっしゃいますよ。女性方
をお待たせするのは罪ですよ。どうぞあちらへ足を向けられるとい
い。彼女たちを笑顔にするのが今のあなたの務めのようだ﹂
さあどうぞと、誉が右手奥に固まる女性たちを示す。
確かにこちらの様子を窺っていらっしゃる様子だが、何も朱雀院
の方を待っているとは限らない。
1321
だが、見目麗しい女性たちの姿に目移りしたのか、はたまたここ
に居ては危険だと判断したのか、朱雀院の御子息はぎこちなく頷い
た後、足早にこの場を立ち去られた。
見事な負け戦だ。
その見事な敗北感の漂わせ方に少々感動してその背を見送る。
﹁⋮⋮瑞姫?﹂
﹁まさかと思うけど、ああいうのが好みとかないよね?﹂
疾風と誉が妙なことを聞いてくる。
﹁好み、とは? ああいうのというのは、何を指してのことだ?﹂
何を言っているのかわからずに、2人を見上げて問いかける。
﹁あー⋮⋮うん。いや、いい。気にせずに忘れて?﹂
﹁何を見てたんだ?﹂
何やら誤魔化そうとしている誉と、心底不思議そうに問いかける
疾風。
﹁いや。あの見事な敗北感の漂わせ方に感動してしまってな。何に
負けたのかわからないが、背中だけで表現できるのもすごいなと思
って﹂
﹁なるほど。あの方は演技が上手い方だからだろう﹂
﹁⋮⋮演技⋮⋮?﹂
﹁まあ、騙される方は自分に都合がいいところしか見てないせいも
あるんだろうけど﹂
﹁ああ、華やかな噂の所以か!﹂
ちょっと納得した。
﹁⋮⋮騙されないところはすごいけど、何処まで理解しているのか
が謎だ⋮⋮﹂
﹁誉、聞こえてるぞ﹂
私の友人たちは、私に対して非常に辛辣であることが判明した。
これは怒るべきところかどうか、非常に対応に悩むところだ。
あちらこちらで挨拶を繰り返し、ようやくお開きになったのは深
1322
夜近くのことだった。
会場となったホテル側の人々も大変だが、私も疲れた。
歩き回って人と話すというのは、存外体力を消耗する。
今夜はホテルに泊まることになっていたので、部屋に引き上げて
着替えを済ませ、湯船に浸かったところで疲れを実感する。
私でさえこれほどまでに疲れたのだから、他の皆様も相当疲れて
いるだろうなと思い、身支度を整えてベッドに入ろうかとしたとき、
部屋のチャイムが鳴った。
********** **********
そこかしこから朝の気配がする。
慣れ親しんだ我が家の雰囲気とは異なるが、それでも朝の澄んだ
気配は心地良いものだ。
そして近くに馴染んだ気配がする。
馴染んだ気配?
寝惚けていた意識が急速に覚醒する。
ホテルの一室に泊まっていた私の近くに馴染んだ気配がするとい
うのは実におかしな話だ。
あってはならないことと、昨夜の記憶とで混乱しながら目を開け
れば、予想通りの事態に頭を抱えたくなった。
やっぱりかぁ!!
1323
声を上げて叫びそうになったのを何とかこらえ、枕に頭を沈ませ
る。
目の前にあったのは、眠っていても美しいと感じる誉の整った顔
であった。
それはそれでかなりの大問題だが、さらに背後には疾風の気配も
ある。
健やかな一定のリズムを刻む呼吸音は、誉も疾風もまだ眠りの底
にいることを示している。
人の気配に敏い疾風が目覚めないというのは、私が安全でいるせ
いだろう。
内心、どんなにパニックを起こしていたとしても、身の危険は一
切ないからだ。
命の危険性がない限り、大丈夫だと判断した疾風は安心して眠れ
るのだろう。
そう思うと起こすのが忍びないのだが、少々困った事態であるの
は確かだ。
昨夜、というべきか、それとも数時間前というべきか、部屋のチ
ャイムを鳴らしたのは、疾風と誉だった。
まともに食事が出来ていないだろうからとルームサービスで軽食
を頼み、持ってきてくれたのだ。
気持ちはありがたいが、眠る寸前の人間は軽食を食べようなんて
思わない。
どうしたものかと考えているうちに、何故か世間一般で言われて
いるような﹃女子会﹄モドキのパジャマパーティのようなものにな
り、ベッドに潜り込んでいろんなことを語り合った。
主に、﹃誉のこれからのこと﹄が一番大きなテーマであったよう
な気もするが、あまりよく覚えていない。
正直に言えば、半分以上、眠っていたからだ。
疲れ切っていた私は、多分、立っていても眠れただろう。
1324
おそらく、部屋の主である私が眠ってしまったがゆえに、疾風も
誉も施錠という部屋の安全上、出て行けなくなってしまったのでは
ないだろうか。
あるいは話しているうちに彼らも眠くなってしまったのかもしれ
ない。
記憶がないということは、とても恐ろしいことだと、今、初めて
気が付いた。
これはちょっとマズい。
八雲兄上に知られたら、盛大に泣かれて、多分、疾風の命も危う
いかも。
勿論、誉も以下同文。
八雲兄上の兄馬鹿振りは笑い事では済まないほどなのだというこ
とをよく理解しているつもりだ。
だが兄上はこのホテルには泊まっていない。
ゆえに黙っていれば、おそらく気付かれることもないだろう。
疾風と誉が目覚めたら、その辺りのところをしっかりと伝えてお
かないと。
しかし。
何というか、私は抱き枕ではないのだが。
布団が妙に重いと思ったら、どうやら2人の腕が乗っているらし
い。
軽さが命の羽布団がこんなに重いわけがない。
ずっしりとした重さに肩が凝りそうだ。
そうこうしているうちに、誉の瞼がぴくりと動く。
むずがるように眉間に皺を寄せ、緩やかに瞼が持ち上がる。
﹁⋮⋮おはよう、誉﹂
とりあえず朝の挨拶を言ってみる。
﹁⋮⋮ああ、瑞姫だ。おはよ⋮⋮えっ!? えぇえーっぷ!!﹂
﹁やかましいっ!!﹂
1325
ぼんやりと私を眺め、柔らかな笑みを浮かべて挨拶の言葉を口に
している途中で誉の目が限界まで見開かれる。
そうして叫び声を上げかけたところ、私の背後から伸びてきた手
に口を押さえ込まれ、塞がれる。
寝惚けながらも危機感の薄い叫び声に反応したようだ。
声にならない声で抗議する誉に、欠伸をかみ殺していた疾風もま
た目が覚めたのか、びしりと固まる。
﹁⋮⋮⋮⋮え? 瑞姫?﹂
﹁どうでもいいが、重い﹂
説明を求めても返ってこないと判断し、そう告げれば、慌てたよ
うに私の上を通り越していた腕が引っ込む。
﹁えっと、何があったっけ?﹂
2人揃って記憶を辿っているようだが答えは見つからないらしい。
﹁起きたらこうなっていたんだが⋮⋮2人とも、八雲兄上にはバレ
るなよ?﹂
念の為に伝えておかねばならないことを言うと、2人は完全に固
まった。
まあ、いい。
固まろうがどうであろうが、私が起き上がれれば。
ベッドから降り、着替え一式を手に取ってバスルームへ向かいな
がら、今日の天気はどうだろうと関係のないことを考えていた。
1326
167 ︵岡部疾風視点︶
にこやかに微笑む美貌の男。
主と寸分違わぬ顔立ちの、誰よりも大切な主の、その兄君。
顔立ちは主君と瓜二つと言っていいのに、纏う空気の何と異なる
ことか!
玲瓏たる美貌と表現できそうな冴え冴えとした美しさを持ちなが
ら、どこかふんわりとした柔らかさを持つ瑞姫と異なり、八雲様は
柔らかく麗しい笑顔を浮かべていながら禍々しい空気を醸し出して
いた。
********** **********
事の始まりは、前田家の厄介事からだ。
橘誉が、前田誉に変わったお披露目だとかで、あいつのパートナ
ー役に瑞姫が選ばれたことに端を発する。
この場合、未婚の男女であれば即、婚約という考え方が浮かぶ老
害共から瑞姫を守るために、俺も瑞姫のエスコート役に選ばれる。
これはよくあることだ。
岡部家は相良家の随身、一の臣ということで、未婚の娘の傍に控
えていても婚約者という考えはあまり出てこない。
1327
そうして、相良の姫を随身とセットでパートナー役をさせるとい
うことは、それこそ名前だけの役割だと周囲に知らしめることにな
る。
まだ、婚約者として認めてはいないが、大事な娘を任せてもいい
と思う程度には信頼関係を育んでいる家ではあると、そう勘違いす
る者はいるだろうが。
どこか浮世離れしている瑞姫は、前田翁の謝礼に心底驚きながら
も自分も似たようなことをやらかした。
曰く、﹃誉へのお祝いは、やはりいくらでも気軽に使える貴石や
半貴石を贈るのが一番だろう?﹄と。
まあそこで、ある程度の品質の宝石を多種類及び多数取り揃える
のが一般的な考え方だろうが、瑞姫の場合は根本的なところがずれ
ている。
どうしてそこで高品質な石を輩出する鉱山の採掘権を手に入れて
しまうかな?
質量を考えれば、確かに研磨後や裸石を大量に手に入れるよりは
採掘権を得た方が最終的には安上がりだけどな。
その辺りを納得して瑞姫が動かせる金でそれらを手に入れたのは、
確かに俺だ。
そうしてそれらの権利書を前田誉に差し出せば、中身を確認した
ヤツは涙目になった。
﹁何で止めなかった!?﹂
割と真っ当に聞こえる発言だが、根本的なところが間違っている。
﹁何故、止める?﹂
﹁常識外れだろう、これは!?﹂
﹁⋮⋮おまえのじーさんも似たようなことをやったぞ?﹂
﹁だけど!!﹂
﹁⋮⋮あのな?﹂
ぽんっと前田の肩を叩き、顔を覗き込む。
1328
俺の目線に近いところにこいつの顔は来るけれど、やはり少しば
かり低い。
﹁瑞姫は俺の主だ﹂
﹁知ってる!﹂
﹁随身の俺は、基本的に主に従う﹂
﹁だからって!!﹂
﹁勿論、主が道を踏み外した時には全力で諌めるし、命を懸けて止
める。だけどな? 今回の場合、止める必要なんてどこにもないだ
ろう?﹂
﹁は?﹂
﹁瑞姫が自分の才能で稼いだ金を使って、正攻法で買い取った採掘
権だ。そこに不正は何もない。それを誰に渡そうが、問題なんて生
じない。止める必要があるか?﹂
俺がそう言えば、前田はがっくりと肩を落として項垂れた。
﹁恨むのなら、瑞姫じゃなく、おまえのじーさんだな。そのせいで
あれはやってもいいことだと瑞姫が判断した。あれより金額が低い
からっていう理由でな﹂
﹁おっ⋮⋮おじーさま⋮⋮﹂
とうとう頭を抱えた前田に、さすがに多少は気の毒になったが、
まあ、仕方がない。
因果は廻るというし。
祖父がやったことのツケが孫に来るのも納得領域だ。
﹁⋮⋮ふっ⋮⋮わかったよ。ここで採れた最高級の宝石を使って、
瑞姫を飾ることにするよ﹂
﹁まあ、頑張れ?﹂
悔し紛れか何なのか、壮絶な顔色で笑った前田がそう告げる。
心意気は認めるが、瑞姫がその意図に気付くかどうかは謎だぞ?
否、気付かない方に賭けてもいいぞ。オッズはかなり低いだろう
が。
1329
これが、ついこの間のことだ。
そうして昨日、前田誉の披露目の夜宴が行われた。
どこまでいっても無邪気な相良の末姫は、己が手掛けた友禅の出
来栄えにご満悦だ。
着物がよく似合っているというよりも、良い着物だと褒めた方が
数倍嬉しげな笑顔を見せる。
多分あれは﹃着物が似合っている﹄というのはお世辞だと思い込
んでいるせいだろう。
﹃良い着物﹄と言われるのは、描いたのが瑞姫だと知らない方々
の言葉だから純粋な評価だと思えるから嬉しいのだろう。
実に単純。
そこが可愛らしいと思うのは、一体どんな感情から来ているのか。
ご機嫌な笑顔を振りまく瑞姫は、やや幼く見えて可愛らしいのだ
が、それが要らぬ注目を集めてしまう結果につながる。
背後からかなり圧力のある視線を感じるのは気のせいではないだ
ろう。
招待客であるけれど、前田家との関係性を勘繰られるのは避けた
い相良の皆様が、俺にきっちり虫除けしろと無言の圧力をかけてく
るのだ。
あのシスコンぶりにはドン引きだ。
兄君方は年の離れた妹ならば確かに可愛いだろうと想像するが、
姉君方も一切負けてはいない。
何故あそこまで末の妹を溺愛されるのだろうか。
はっきり言って、俺も瑞姫も迷惑だ。
早いところ相手を見つけてまとまってもらえないだろうか。
いや、自力で相手を見つけた蘇芳様の御寮様も瑞姫激ラブ状態だ
から、アレが基準ならもっと面倒臭いことになるだろう。
しかし、妹に心配されているということに気付いているのだろう
1330
か、あの方々は。
御館様も次期様もやはり同じような視線を送ってこられているの
で、もうこれは諦めるしかないだろう。
瑞姫が相良の家を出ない理由が他にもあるとは、本人は気付いて
ないだろう。
完全に柾様のスペアだと思い込んでいるフシがあるし。
よからぬ相手が瑞姫に声を掛ける前に先手必勝で相手を逸らして
いた俺達は、さらに不快げな視線をあてられ嘆息した。
こちらに近付いてくるのは朱雀院の息子だ。
あまり良い噂を聞かない男だが、その内容は女性関係のみ。
気に入った女性を相手の気持ちなどを一切無視して⋮⋮というも
のもある。
皇族縁の家柄だけに、泣き寝入りをさせられてしまった令嬢も多
いとか。
それが事実かどうかはわからないが、不快であることは確かだ。
瑞姫の姿を見る事すら赦し難いと前田と視線で語り合う。
こういう場合は先手必勝で相手の弱点を確実に抉るのが一番だ。
力技で捻じ伏せて追い返せば、瑞姫がその背を眺めている。
どういうことかと尋ねれば、瑞姫はやっぱり瑞姫だった。
着目している箇所がズレている。
俺達の言葉をあっさりと信用してしまうところが困ったところだ。
一度信用すれば疑わないという懐が深いところは上に立つ者とし
てはよい資質だと思うし、美点でもあるだろうが、騙されやすいの
ではないかと心配になってしまう。
相手を見ての信頼であるから、そうそうは騙されないとわかって
いるが。
だが多少は裏を疑ってくれと願う気持ちが擡げてくる。
本当に素直すぎるのも困りものだと苦笑しかけたところで朱雀院
の息子がこちらをちらりと見たことに気が付いた。
1331
瑞姫に視線を走らせ、笑みを刻んでいる。
嫌な笑みだ。
﹁⋮⋮つまり、あの噂は本当だってことか⋮⋮﹂
前田翁と話している瑞姫に気付かれないように前田誉がぽつりと
呟く。
﹁部屋を変えれば気付かれるな﹂
次に言いそうなことを先回りして否定する。
﹁それじゃ﹂
﹁部屋を変えずに、部屋の主が変わればいいんだろ?﹂
俺がそう言えば、前田は意味がわからないと首を傾げる。
﹁瑞姫の部屋だと思って押しかけてみたら、別の人間が出てきたら
どうなる?﹂
﹁それって⋮⋮﹂
﹁瑞姫が部屋にいてもあいつにわからなければ、出て来た人間の部
屋だと思うよな?﹂
﹁でも、気付かれれば﹂
﹁他の人間の気配で誤魔化せばいいんだ﹂
﹁つまり、俺と岡部が瑞姫の部屋にいればいいということか?﹂
﹁ついでに言えば、俺があいつの対応をしている最中に、おまえが
奥から﹃瑞姫から内線がかかってきて、煩いから静かにしろと言っ
てるぞ﹄と言えば、同じフロアの別の部屋だと思い込むだろ?﹂
﹁そう上手くいくか?﹂
﹁いかせるのが腕ってもんだ。少なくとも、あの阿呆よりはおまえ
の方が演技力はあると思うぞ。如何にもゲームしてましたって顔を
装って⋮⋮いけるだろ?﹂
﹁⋮⋮そこまで難しいレベルじゃなさそうだけど﹂
溜息交じりで呟いた前田は、視線を落として表情を改める。
﹁女の子を都合のいい玩具扱いするような男など、赦しておくわけ
にもいかないからな﹂
根っから紳士的な前田は、噂以上に被害にあった女性がいること
1332
を悟って告げる。
﹁決まり、だな。あいつが赤っ恥かこうが知ったことじゃない。む
しろ、抹殺してやりたいくらいだな﹂
﹁瑞姫にバレない方向にしないと、後が怖いと思うけど﹂
﹁バレてもそう問題ない。犯罪犯してなけりゃな。守るべきは弱き
者、だからな﹂
その辺りは徹底して揺るぎない。
女性の意思と身を守るという大義名分は、錦の旗だ。
家と力を嵩にきて、無理強いをするようなヤツに明日が無くても
心が痛むことはない。
そんなことをする奴が同じ男として扱われることの方が不快だ。
そう言えば、前田はあっさり納得した。
己の身が大切なら、瑞姫に手を出そうとは思わないだろう。
相良の鉄壁の守りはあまりにも有名だ。
家を離れたからといって、その守りがなくなるわけではない。
むしろ、逆に強固になると考えるべきだろう。
そう考えつくなら、決して下手を打つような真似はしない。
さて。
朱雀院の息子は、弁えたやつなのか、下手を打つやつなのか。
そう考えた時期もあったことがあまりにもむなしい。
夜宴を終え、予定通り瑞姫の部屋に軽食を持って遊びに行く。
寝る前だからと軽食に手を付けずにいる瑞姫を寝かしつけるべく
色々と世話を焼いてみれば、女子会のようだと嬉しそうに笑う始末。
まあ、同性の友人が極端に少ないせいだろう。
1333
昼間からの疲れもあって、瑞姫は割と早く寝付いた。
全然警戒心を持たれていないことにへこむ前田に、警戒心を持た
れる方が厄介だと伝えて慰めてみる。
瑞姫は野性の獣と似たようなものだ。
警戒心を持てば、近付くどころか姿を見せることもないだろう。
それだけ徹底した行動を取る。
その瑞姫が顔や手に触れさせてくれるのだから、破格の対応だと
言えるだろう。
その言葉に、前田は実に微妙な表情になった。
普通、素直に喜べないだろう。
とりあえず、喜んでいいとは思うけれど。
寝入った瑞姫の顔を眺めてほっこりした気分にしばし浸っていた
ら、部屋のチャイムが鳴った。
うん、莫迦だろう。
前田と顔を見合わせ、溜息を吐く。
こんな時間帯、チャイムを鳴らされたからって、わざわざ出てい
くような人間はまずいない。
もう少し早い時間なら、何事だろうかと思って誰何するだろうが、
ホテルの部屋で扉を開けるような真似はしないだろう。
来客ならホテルのフロントから連絡が来るし。
下手を打つなんてものじゃない。
何も考えていない大馬鹿野郎だ、こいつは。
瑞姫は未成年だぞ。
朱雀院が相手にしている成人女性ならこの時間帯に起きている可
能性もないとは言えないが、良家の未成年の娘がこんな時間に起き
ているわけがない。
呆れ果ててものも言えないが、ドアが開かないことで騒ぎ立てら
れても拙い。
1334
仕方なく誰何の声を上げて、扉を開ける。
﹁なっ⋮⋮何故、ここに⋮⋮?﹂
挨拶もなしに言う言葉か、これが?
﹁⋮⋮妙なことをいきなり言われる。この部屋を借りたのは俺です
が?﹂
﹁そんなはずはっ!?﹂
﹁なにゆえ、そのようなことを思われる? そもそも、何をしにこ
こへ?﹂
誰か、グルになってるやつがいるな。
しかも、ホテル側に。
﹁それはっ! その⋮⋮﹂
大いに慌てる辺りが底が浅いと思われる理由の1つだろう。
こういう事態を想定していないのだから。
まあ、だからこそ、内通者がいると簡単にわかるのだが。
﹁用が言えないというのであれば、疚しい事情だと理解します。お
引き取りを﹂
﹁岡部! 廊下で煩いぞって瑞姫から電話かかってきたぞ。それと、
早くしろよ、ゲーム、おまえの番だぞ﹂
﹁わかった﹂
﹁彼女は今どの部屋にっ!?﹂
扉を閉めようとすれば、やつがそれを押さえ、必死の形相で問い
かけてくる。
﹁瑞姫に何の用ですか?﹂
﹁彼女に呼ばれて⋮⋮﹂
﹁嘘ですね﹂
あっさりと断じれば、表情が歪む。
﹁嘘かどうかは⋮⋮﹂
﹁部屋を間違えている時点で嘘だとばれるでしょう? それに、こ
んな夜更けに部屋に招くような性格をしていませんよ、瑞姫は﹂
﹁それは君が知らないだけで﹂
1335
﹁その言葉は瑞姫を侮辱したと捉えます。今の会話とこの姿はカメ
ラによって撮影されています。これを証拠として提出すれば、どち
らが正しいかすぐにわかるでしょう。相良の御館様と朱雀院家のご
当主にも立ち会っていただきましょう、その時は﹂
﹁卑怯なっ!!﹂
﹁何をもって卑怯と仰る? 夜更けに招かれもせずに人の部屋に押
しかけ、用も言わず、未成年の婦女子の部屋へ入ろうとし、招かれ
たなど偽りを口にした挙句、それを指摘すれば相手を卑怯だという
者の方が余程卑劣だと思うが、如何に?﹂
﹁なっ!!﹂
﹁前田、警備に連絡﹂
﹁もう入れたよ﹂
背後から現れた前田が俺の肩越しに朱雀院家の息子を見下ろす。
﹁この階は前田家が借り切っている。部屋を訪れる者は事前に警備
に連絡を入れているから、もし、それ以外の者が来た時点で警戒す
るように言っている。あとは、対応した者がどう判断するかで警備
の者が動くように事前に段取りを行っているんですよ﹂
実ににこやかに前田が告げる。
﹁ほら、来た﹂
警備の制服を身に纏った男達が数名、こちらにやってくる。
﹁身元は分かっているが、不審者だ。おそらく余罪があるはずなの
で、警察に引き渡すように﹂
笑顔のまま、前田が警備の人間に伝える。
﹁それと、ホテル側に内通者がいるはずだ。この部屋を使う予定の
者の名を事前に知っているのは借りた我々以外にはホテルの人間の
み。仕事で知り得た情報を外部に漏らすのは犯罪行為だと記憶して
るがどうだろうか?﹂
﹁仰る通りです。ただちにその件について調査し、通報いたします﹂
﹁よろしくお願いいたします﹂
警備の制服の威力は相当あるようだ。
1336
朱雀院の息子はガタガタ震え、大人しく取り押さえられた後、引
き摺られるようにして去っていく。
それを見送った後、ドアを閉め、鍵をかける。
﹁さて、寝るか﹂
﹁そうするか﹂
頷き合って、寝室へと向かう。
ソファで眠るなど、この時まったく考えてなかった。
何故なら、ソファは小さいし、ベッドはキングサイズよりも大き
い。
3人寝転んだところで狭いと感じるような幅ではない。
そういう判断をしてしまったあたり、俺も前田もかなり疲れて眠
気に負けてしまったためだろう。
翌朝、瑞姫に指摘されたことにより青褪める結果となった。
そして、それは事実となる。
にこやかに笑うが、全く笑っていない八雲様。
瑞姫に対してはいつも通り甘い笑みと態度で接しているが。
﹁疲れただろう? 早く部屋に戻ってゆっくりおやすみ?﹂
兄の命令と称して休むことを薦めた八雲様は、俺には残るように
告げる。
﹁後でな、疾風﹂
疑いもせず、瑞姫は俺に声を掛け、別棟へと戻っていく。
こういう時に俺を庇えば、さらに後から俺への対応が酷くなると
いうことをわかっているからだろう。
どこか気の毒そうな視線が痛い。
﹁⋮⋮さて、と。話を聞かせてもらおうじゃないか﹂
笑顔のままの対応は、一体いつまで続くだろうか。
1337
俺は天を仰ぎながらそう思った。
一矢報いるとするならば、朱雀院の息子を奈落の底に叩き落とす
よう唆すことぐらいだろうと考えながら。
1338
168
翌日の紙面は、前田家の華やかな夜宴の様子と朱雀院家の三男坊
の逮捕が大半を占めていた。
前田家の夜宴の様子は好意的に書かれていたのに対し、朱雀院家
の問題はやや攻撃的であった。
婦女子暴行と聞けばまったく赦す気は起こらないが、朱雀院家は
三男坊と縁を切ることを発表したらしい。
表面だけを見れば、トカゲの尻尾きりと揶揄されるような内容だ
が、実際は少々違うようだ。
縁を切ったのは、司法が朱雀院家を慮って彼の罪を軽減しないよ
うに罪を犯した一個人として断罪されるべきだという考えと、彼自
身が家の威を借りぬよう手を打ったこと、また己が犯した罪がどれ
だけ赦されがたい事なのかをはっきりと自覚し、反省するためだと
いう理由だそうだ。
被害者には親として、監督責任があるものとして、相応のことを
するとも言っている。
これは、裏情報なのだが、どうやら三男坊は意外と几帳面で日記
を書いていたそうだ。
いつ誰に何をしたのか、はっきりと書かれてあるため、被害者は
名乗り出なくても判っているらしい。
それだと、被害者を装う便乗犯が出たとしてもすぐにニセモノだ
ということはわかるだろう。
表沙汰にせず、ひっそりと賠償するようだ。
1339
法律的なことはわからないが、被害者ならば表沙汰になるのは致
命的だ。
周囲の反応という理解し難い暗愚な態度と戦わねばならないのは
被害者にとって理不尽だろう。
隙があった方が悪いとかいう莫迦な理論を振りかざす者すらいる。
力で抑え込まれ、パニックを起こしている最中に、親兄弟をネタ
に脅されて屈せぬ者は殆どいないということを理解しない想像力の
貧困さを棚上げしての言い分をまるで正論のように掲げる者は同じ
目に合うといいと思うのだが、如何なものか?
新聞を見て、そう疾風に問いかけてみれば、何故か半眼になった
疾風は重々しく頷いていた。
﹁加害者のアホさ加減も赦しがたいが、事情を知らない者が自分の
偏った意見を振りかざす姿は醜いよな。朱雀院が賠償する相手を暴
き出そうとする輩は潰す方向でいいか?﹂
﹁え? 疾風?﹂
﹁八雲様が、犯罪者共々下種は抹殺すると仰っていた﹂
﹁⋮⋮抹殺? それは犯罪じゃ⋮⋮﹂
﹁社会的抹殺は方法さえ間違わなければ犯罪じゃないから﹂
﹁そ、そうか⋮⋮﹂
何があったんだろうか?
やけに清々しい表情で言いきっているが。
しかも兄上、一体、どういう理由でそのようなことを言い出した
のだろうか。
だが、すぐに、まあいいかという気になってしまう。
下手に正論を告げたところで、止められるような性格をしていな
いのが八雲兄上だ。
火に油を注ぐような結果になりかねないうえに、燃え盛る中に水
をかけて水蒸気爆発など起こしては目も当てられない。
放っておくのがいいだろう。
そう、言い訳をしておいて、思考を有耶無耶にする。
1340
朱雀院家のことよりも、前田家、いや、誉のことの方が重要だ。
紙面、ネットなど調べるだけ調べてみたが、好意的な記事の方が
多くて安心した。
もちろん、全部が全部というわけではない。
よく調べもしないで噂だけの憶測だけというような記事もあれば、
やっかみだらけの記事もある。
その真逆で、つぶさに調べて橘家や前田家の批判をしているもの
もある。
いやホント、よく調べてるな。と、呆れるほど熱心に調べられて
いた。
しかし、どこからこの情報漏れたんだろう?
郎女ではない葛城の誰かだろうか。
葛城が誉の後見役として相応しいと言いたいのだろうか。
情報の出処を調べておいた方がいいかもしれない。
そう考えを巡らせた。
私は少々、迂闊な面があるようだ。
そう実感したのは、登校した時だ。
車止めで疾風と車から降りたときのことだった。
ざわりと周囲の空気が変わり、あちこちから視線が向けられる。
視線が向けられるということはいつものことだが、今回は少しば
かり異様な空気を孕んでいる。
﹁⋮⋮何が⋮⋮?﹂
不穏、とも違う空気に首を傾げれば、疾風が苦虫を潰したような
表情になっている。
﹁疾風?﹂
﹁あー⋮⋮マズったかも。ごめん、瑞姫﹂
1341
失敗したとボヤく随身に、意味がわからず私も眉をひそめる。
﹁話はあとで。ここじゃ、聞き耳立てられてるし﹂
﹁⋮⋮そうだな﹂
私よりも気が回る疾風が対応に失敗したというのも妙な話だ。
何か、他のことの気を取られたというのなら別だが。
とりあえず、今はそのまま頷いて場所を変えた方がよいと判断し、
教室に向かって歩き出した。
﹁あら? おはようございます。相良様﹂
実に機嫌よく葛城の郎女が声を掛けてきた。
﹁よい朝ですわね﹂
﹁ああ、まあ、いい天気の朝ではあるようですね。おはようござい
ます、葛城の郎女﹂
何だろう、この上機嫌は。
いっそ不気味に思えるほどの機嫌よさ。
﹁ふふっ 天気もそうですけれど。おめでたいことが続く良い朝で
すわ﹂
﹁⋮⋮めでたい⋮⋮?﹂
郎女にとってめでたいというのは、おそらく前田家のお披露目の
ことだろう。
だが、続くというのは、何が続いたのかがわからない。
首を傾げる私に、郎女は大きく頷く。
﹁それで、発表はいつ頃に?﹂
発表?
何のことかと首を傾げれば、険しい表情の疾風が前に出る。
﹁聞き捨てならぬことを仰る。あの場には俺も共にいたのだが?﹂
﹁あら。ですが、岡部様は⋮⋮﹂
﹁誤解をさせて申し訳ないが、今のところ、俺が筆頭だ﹂
強気の言葉に郎女が鼻白む。
﹁我が君の方が条件がよろしいかと存じますわ﹂
1342
﹁人の感情を条件で測ることが無粋だと思うが?﹂
見事な正論を告げ、しばし睨み合う。
どうやらというか、何やら譲れぬものがあるらしいということだ
けはわかった。
﹁根拠のない流言は見過ごせないな﹂
そこへ誉の声が割って入った。
今度は﹃流言﹄ときたか。
一体、どういう噂が出回っているのか。
声のした方へ顔を向ければ、笑顔を絶やさぬはずの誉がやはり険
しい表情を浮かべている。
﹁流言、でございますか? 事実にしてしまえば問題ございません
わ﹂
にこやかな郎女の言葉に、すっと目を細める誉。
これは、怒ってる。
かなり本気で怒ってる。
﹁話の出処は、葛城か?﹂
﹁⋮⋮さて?﹂
﹁今すぐ収めなければ、それ相応の対処に出るが、それでもいいか
い?﹂
﹁あらあら、困りましたわ。今度こそと思いましたのに﹂
残念そうというか、切なそうに視線を落とした郎女が、深々と溜
息を吐く。
﹁⋮⋮盛り上がっているところをすまないが、流言とか、筆頭とか、
一体何の話か教えてもらえないだろうか﹂
どうせかく恥なら、知らぬより知っておくべきかと思い、声を掛
ければ、意外そうな表情で郎女がこちらを見る。
﹁ま。御存知在りませんでしたの?﹂
﹁だから、何を?﹂
﹁瑞姫は知らなくていい!﹂
疾風と誉が異口同音で叫ぶ。
1343
﹁まあ、そういうことでしたの。相変わらずですわね﹂
2人の様子に納得したのか、葛城美沙がおっとりと笑う。
﹁先日の夜宴にて、我が君と相良様との縁談がお決まりになったと
の噂が流れておりましてよ﹂
﹁⋮⋮ほう?﹂
思いがけない話に相槌を打って先を促す。
﹁前々からそのような話はございましたけれど、夜宴での仲睦まじ
いご様子に皆様納得なさったと﹂
﹁そうか。それは初耳だ。あの夜宴では、誉はずっと疾風とばかり
話していたぞ。私の話し相手はどちらかというと前田翁だったが、
仲が良さそうに見えて縁談が決まるのなら、私が前田翁の後妻に入
ると思われるか、前田と岡部で縁組が決まる方が自然のような気が
するが﹂
﹁瑞姫! それはやめようよ!!﹂
ぶるっと身震いをして誉が叫ぶ。
﹁誉の兄上と、姉上の随身である巴の妹御あたりなら年も合うし、
気性も問題なさそうだという話が出そうだぞ?﹂
﹁え? そっち?﹂
意外そうな表情の疾風が私を見下ろす。
﹁え?﹂
﹁あ。いや⋮⋮うちの兄貴と笑美様とか⋮⋮﹂
﹁ああ、それもありだね。年齢的には、八雲兄上も候補者に入れて
いただきたいところだが⋮⋮確実に笑美様に断られそうだ﹂
納得の言葉に頷きながら、八雲兄上も同じくらいの年齢だと気付
き、そうして断念した。
即座に切って捨てられるだろう、笑美様の好みではなさそうだ。
微妙に論点をずらしていけば、郎女から表情が削げ落ちる。
﹁わかっただろう? 俺と瑞姫の婚約など、今現在、全く話などあ
がっていない﹂
﹁そのようですわね﹂
1344
﹁相良家に迷惑をかけるような真似をすれば、俺は決して葛城を赦
さない﹂
誉がきっぱりと言い切ると、郎女はゆったりとした仕種で頷いた。
﹁御意﹂
﹁今後、このようなことを瑞姫の耳に入れたら、岡部も黙ってはお
かない。全力で葛城に喰らいつくが、よろしいか?﹂
どうやら岡部は葛城を牽制する方針に変えたようだ。
いくら葛城家でも疾風の特技や土木分野を得意とする岡部の特性
を知っていれば迂闊に手出しをしようとは思わないだろう。
自分のところの株がいつの間にか誰かの手に渡っていたとか、化
粧品の材料となる鉱石がある日突然手に入らなくなってしまったと
か、彼女たちにとっては嫌すぎる出来事だろう。
おしろいになる鉱石は国産が肌理が細かく最高品質である。
だが、その採掘方法には難度の高い技術が必要となる。
鉱石を取り出す際に余計な圧力や熱が加われば、鉱石の質が劣化
し、色が変色してしまうからだ。
さらに、その鉱石を質が高いままにきめ細かなパウダー状まで磨
り潰す加工技術も独特だ。
それらの技術を持っているのが、岡部の分家だ。
とりあえずお得意様だから黙っていたが、目に余るようであれば
他にも契約したいと言っている国内外の化粧品メーカーもいること
だし、あちらとの契約を考え直してもいいとその岡部の分家が本家
へ申し出て来たという話を最近耳にした。
とりあえずは様子見で行こうかというところで落ち着いていたが、
それを切り札の1つにするつもりなのは明白だ。
岡部家は四族の中でも割とおとなしい一族のため、歴史があるに
もかかわらず目立ちたがり屋な一族からは低く見られがちだが、そ
の評価は間違いだ。
確かにおとなしい一族だが、無能なのではなく能力を伏せて害が
無いように振る舞っているだけだ。
1345
主家と定めた相良家に害が及ぶとき、容赦なく牙を剥く。相手が
最も嫌がる方法で。
しかも、表立ってではなく秘密裏に動くのだから、相手が自滅し
たようにしか見えないのだ。
実に嫌過ぎる戦法を取る一族なのだが、普段は本当に無害だ。
侮られても怒るような狭量さはない。相良さえ安泰であれば、彼
らは何の問題もないと考えるからだ。
その岡部が全力で喰らいつくと宣言したのだから、郎女も事の重
大さが予想以上に重いものだと気付いたようだ。
﹁今は困りますわ。仕方ありませんわね。しばし抑えると致しまし
ょうか﹂
にこやかな笑みを作り、そう告げた葛城の郎女は優雅な身のこな
しでその場から立ち去った。
誉との婚約の噂が出ていたとは、迂闊だった。
傍に疾風がいたから、そこまで飛躍するような考えは出ないだろ
うと思っていたのが甘かったのか。
これはマズイな。
郎女の後姿を見送りながらそう考えていた時だった。
﹁まったく陰険化狐ね。ちょろっとしか出てない噂を誇張するなん
て!﹂
忌々しいと言いたげな口調で現れたのは千瑛だった。
﹁千瑛?﹂
﹁ああ、その噂、確かに出てたけど、すぐに収めたから気にしなく
ていいよ﹂
実に表現豊かに郎女の悪口を並べ立てる千瑛を無視した形で千景
が私に教えてくれる。
﹁そうなのか?﹂
﹁うん、そう。確証のない不安定な噂だったからね、真実を教えて
あげればすぐに消えたよ﹂
1346
﹁真実?﹂
﹁相良の本家の皆様が末姫を溺愛しすぎて、誰が申し込もうとも決
して認めることはないだろうってね﹂
千景の言葉に、疾風と誉が顔を見合わせる。
﹁⋮⋮確かに!﹂
異口同音で同時に納得しないでほしい。
﹁例え、瑞姫ちゃん本人がこの人と! と、言ったところで、兄弟
全員と対決して勝利しない限り絶対認めてもらえないわねって言っ
たら、皆、納得したわよ。素晴らしき兄弟愛よね﹂
何故か嬉しそうに千瑛が言う。
﹁瑞姫ちゃんの婚期は絶対に遅れるわよ!﹂
﹁そっそうか⋮⋮﹂
﹁真実というものは、時に惨いものというけれど、まさしくそうよ
ね﹂
それはあまりにも惨すぎるが、そのことを誰もが納得したという
ことの方が地味に堪えるのは何故だろうか。
私から目を逸らす男性陣に、溜息を吐くほかなかったのである。
1347
169
私が思うに、誉は少々真面目すぎる性格のようだ。
移動教室のため廊下を歩きながら、そこから見える横顔を眺め、
そう思う。
私が廊下にいることに気付きながら、頑なにこちらを向こうとは
せずに周囲を取り囲む令嬢たちに紳士的な態度を崩さずに対応して
いる誉が何を思っているか、想像に難くない。
今回の騒動で私に迷惑をかけたとでも思っているのだろう。
誉と私が婚約したのではと思って詰め掛ける女子生徒たちを前に、
誤解であることを告げる彼は実に誠実な性格をしていると思う。
ちなみに、それを私に問う者はいない。
何故かというと、私の傍には常に疾風がついているし、私自身が
それほど人懐こい性格をしているとは言えないからだろう。推測の
域を出ないが。
もしかすると、怖いと思われているのだろうか?
意外とあり得そうではある。
私という人間の事実を知る者にとっては、爆笑ものだろうが。
どうしたものかと首を傾げれば、疾風が肩をすくめる。
﹁下手に口を出せば、ややこしくなる﹂
﹁しかし、な⋮⋮﹂
﹁欲しい言葉しか聞きたくないやつに、何を言っても無駄だ﹂
確かに疾風の言うことも一理あるが、事実無根な噂話を釈明しな
ければならない誉も気の毒ではないだろうか。
1348
﹁どんな言葉だろうと、言うのが﹃相良瑞姫﹄では頑なになったや
つらの心には響かない﹂
﹁誉なら、いいのか?﹂
﹁あいつらは、前田からの言葉が欲しいんだ。瑞姫じゃない﹂
﹁⋮⋮同じ噂の主なら、どちらでも一緒だろうに﹂
そう思うのだが、相手にとってはそうではないらしい。
﹁憧れか、恋かはわからなんが、恋情ってぇのは厄介なんだよ﹂
﹁そういうものなのか?﹂
﹁そうだ﹂
﹁⋮⋮私にはわからないな。まぁ、言わなければ伝わらない、とい
うのは、わかるけれど﹂
教科書一式を抱え、歩く。
誉の教室から視線がこちらに投げかけられるが、やはり声はかか
らない。
物問いた気ではあるが、声を掛ける勇気がないといったところだ
ろう。
私に声を掛けないように誉がそこで対応しているというのも正解
の1つだが。
﹁前田に、おまえを渡したりはしない。それが総意だ﹂
﹁私が﹃みずき﹄である以上、婿取りが基本だからな﹂
﹁⋮⋮そういう意味じゃないんだが﹂
困ったように笑う疾風の言葉に、今度は私が肩をすくめる。
﹁おまえは、何処にも誰にもやらない﹂
﹁⋮⋮行き遅れ決定か!﹂
これは忌々しき問題だな。
一度、兄上達を膝を交えて話し合わなければ。
コンコンと説教してくれてやろう。
これでも人並みには夢を見たいお年頃なんだからな。
そこで、私は立ち止まる。
1349
これでも13歳なのだと言おうとして、そうでないことに気が付
いたからだ。
もうじき私は17歳なのだ。
春休みが来れば、誕生日を迎える。
ああ、だから、か。
最近周囲が騒がしいのは。
早ければ、高等部を卒業したと同時に婚姻届を出す者もいるのだ
から。
婚約期間は大体1年間が主流だ。
早い者は半年くらいだが、概ね披露宴の準備でそのくらいの期間
を必要とするため、この時期から急激にそういう話が持ち上がって
くるのだと以前姉上に聞いたことがある。
誉も私も進学希望だから、卒業同時にというのは当て嵌まらない。
しかしながら、周囲としてはそうもいかないのだろう。
例え、進学希望で、その後、一族の会社経営に何らかの関与をす
ることになろうとも、優良株は先物買いで手に入れるべきだという
考え方もあるし。
それぞれの家の方針で、それこそ相手の一族の都合など考えずに、
今のうちに手を打つのだろう。
非常に迷惑だと思っても、こればかりは仕方がない。
婚姻は家との結びつきによるものに重きを置くからだ。
ちなみに許嫁は仮婚約のことで、結納を終えた婚約者よりも束縛
度は低い。
結納は契約で、許嫁は口約束と置き替えればわかりやすいだろう。
契約を違えれば、それに見合うペナルティを払わねばならないが、
口約束はその限りではない。
状況により、それなりのペナルティを払う場合もあるが、結納の
場合とは格段に差が出る。
1350
正式な婚約をせずとも口約束だけでも相手を拘束したいという思
いが働くために、こぞって騒ぐのかもしれない。
********** **********
人前で誉と会話しなくなり数日、期末試験やら卒業式などのイベ
ントをクリアして春休みとなった。
この頃になると、茶会や夜会の招待が非常に多くなる。
学生であるという言い訳が休みの間は効かなくなるのだ。
それゆえに、あまりにも面倒臭くなると奥の手を使う。
すなわち、﹃リハビリ﹄だ。
これがなかなかに効果を発揮してくれるので申し訳ない気もちら
りとするが、背に腹は代えられない。
うっかり茶会に出て、余計な噂を立てられたくないからだ。
これでハメられてありもしない嘘の噂をさも真のように持ち出さ
れ、己の名誉のためにしたくもない婚約をさせられたお嬢様が続出
する季節なのだ。
標的となる子息令嬢は絞られているため、あちこちでやたらと華
やかな噂が流れる。
それを片端から暴れて壊していったのが我が兄上と姉上たちだ。
どう暴れたのかは、私の精神安定上、聞かない方がよいと誰も教
えてはくれない。
おそらく、聞けばそれ以上の方法で私が暴れるとでも思われてい
るのだろう。
私は、兄や姉ほどアグレッシブな性格はしていないと断言できる
のだが。
1351
﹁本当にしつこいこと﹂
茶会の招待状を前に御祖母様が呟く。
﹁招待状、ですか?﹂
今にも舌打ちしそうな気配を漂わせる御祖母様に恐る恐る問いか
ける。
もちろん、舌打ちなんて御祖母様がするわけないのだが、忌々し
げなというか、苛立たしげな気配が漂っている。
﹁何を考えておいでなのか、葉族が四族、しかも地族へ招待状を送
り続けるなんて無礼もいいところですこと。はっきりとお断りした
というのにねぇ﹂
うっすらと微笑む御祖母様の笑顔が恐ろしい。
茉莉姉上は、きっと御祖母様に似たのだろうと思う。
血の繋がりというのは、確かに濃いものだ。
先程から後ろに控えている疾風の顔色も悪い。
御祖母様の御怒りも御尤もだ。
葉族は四族の分家からさらに切り離された末端だ。
名家というには程遠く、切り離された理由も実は公にはできない
モノが多い。
名を与えられて独立を許されたと勘違いする葉族が殆どだが、﹃
四族﹄の分家ではなく、﹃四族の分家﹄の末端から切り離されたか
ら﹃葉﹄族と呼ばれる。
﹃四族﹄主家の役に立たない、むしろ害を為すと思われたからこ
そ、縁を切られたものというのが正しい認識だ。
切り離された当初代はハナツマミでも、代を重ねるごとにまとも
な当主が立ち、ごく普通にそこそこ有能な家になる葉族も、もちろ
んある。
だが、どう足掻いても主家を超えることはできない。
四族、天地神皇を名乗る氏族とは課せられた責任も、その教育方
法も、全く異なるからだ。
1352
それゆえ四族は、課せられた責任を果たすためにそれ相応の優遇
を受けている。
責任を一切負わず、ただ葉﹃族﹄と呼ばれるために己も優遇を受
けられる存在だと勘違いしている端ゆえ、四族からも一般人からも
嫌われているということに気付かない者が多い。
分家からも切り捨てられた者が、他の四族本家に断られているに
も拘らず招待状を送り続けるなどありえない。
本来であれば、招待状を送ること自体も特別な縁がない限り許さ
れないことだ。
だから、御祖母様が笑顔のまま激怒なさっていても、それはごく
当たり前のこと⋮⋮そう、どの家でも判断するだろう。
間近で見ると非常に恐ろしいが、誰もが納得することなのだ。
どの家だ? こんな莫迦な真似をしたのは!
余程、己の家に自信があるとみえる。
﹁どこの家でしょうか? 本家筋は、どちらに?﹂
﹁さて、ね? どちらに縁なのかも定かではないほど地に堕ちた家
ですからね﹂
つまり、本家筋の家に抗議を入れても、関係を否定されるほどに
関わりたくない家なのだろう。
﹁⋮⋮御祖母様。縁もゆかりもない相良を茶会に招こうとする腹は
何でしょうか?﹂
﹁我が家の娘たちでしょうねぇ。それぞれ、利がありますからね﹂
﹁なるほど﹂
﹁そちらの家に、私たちと釣り合う年頃の子息がいらっしゃると?﹂
﹁いいえ。調べてみましたら、御子はいらっしゃらないご様子。甥
御はおられましたが﹂
﹁そちらと娶せるおつもりでしょうか?﹂
﹁ふざけたことを考えておられること。我が家の娘は、本人が望ん
だ方と添い遂げるのですよ? このような悪手を打つ家の男子を好
むような悪食はひとりとしておりません﹂
1353
﹁あはははは⋮⋮﹂
悪食、ですか。
つまり、そこの甥御は趣味が悪いと御祖母様が判断されるほどの
方ですか。
﹁瑞姫﹂
﹁はい?﹂
﹁あなたが誰を選ぼうと、私は止めません。今、あなたが友人と呼
ぶ在原家の坊も前田家の方も、菅家の方も疾風も、よい殿方だと思
います。ゆっくり吟味なさい。そして彼らと並んで恥ずかしくない
己であるよう努力なさい。急ぐ必要はありません。上の2人が片付
くまで、どうせ時間はたっぷりあるのですから﹂
﹁⋮⋮御祖母様⋮⋮﹂
それは言ってはならないお約束というものでは?
想う方がいらっしゃるのかどうかはわからないが、今のところ全
く嫁ぐ気を持たない姉2人に対して、その言葉は喧嘩を売っている
ようなものである。
まあ、言っている方が御祖母様であれば、姉上たちもさほど暴れ
ることはないとは思うけれど。
﹁それで、その招待状、どうなさるおつもりですか?﹂
﹁そうね。七海にでも話してみようかしら?﹂
﹁それは⋮⋮何とも⋮⋮﹂
大伴の七海さまにこの件を伝えれば、御祖母様以上ににこやかな
笑みでとんでもないことをなさるだろう。
やっておしまい的なまでにお怒りか。
﹁今から出かけるのでしたね、瑞姫﹂
﹁はい。友人たちと、外へ⋮⋮﹂
﹁そう、存分に楽しんでいらっしゃい﹂
﹁いってまいります﹂
﹁⋮⋮疾風﹂
﹁は﹂
1354
﹁瑞姫を頼むわね﹂
﹁御意﹂
御祖母様に見送られ、私と疾風は相良の屋敷を出る。
空は青く澄み始め、季節の移り変わりを示していた。
1355
170
﹁瑞姫ちゃん! こっち、こっち!﹂
待ち合わせ場所に先に来ていた千瑛が大きく手を振る。
﹁すまない。待たせてしまったかな?﹂
気を付けていたのに待たせてしまったかと腕時計を見れば、約束
の時間の30分前。
﹁大丈夫。千瑛が張り切って早く来ただけだから﹂
どこかうんざりしたような表情で千景が答える。
﹁⋮⋮待たせて、すまない﹂
時間前に来たのだから、おそらく私に非はないだろうが、何だか
申し訳なくなって謝罪の言葉を口にする。
元はと言えば私の用事なのだから、私が彼らを待つべきなのに。
﹁あら? 待ってなんかないわよ。市場調査してただけだもの﹂
﹁うん、市場調査だね、一片の曇りもなく﹂
溌剌とした千瑛とは対照的に、千景の目は死んだ魚のようにどん
よりしている。
何があったかなどとは、決して聞いてはいけないと目をそらして
しまう。
﹁とっても有意義だったわよ。最近の売れ筋なんかも教えてくれた
し﹂
﹁そ、そうか⋮⋮﹂
やけに張り切っている千瑛に、少しばかり、いや、かなり動揺す
る。
1356
今日は何のための待ち合わせかというと、生まれたばかりの姪の
ためだ。
蘇芳兄上と深雪義姉様の御子は、女の子であった。
産湯祝いはすでに贈ってはいるけれど、子供の誕生は生まれた日
数ごとにお祝いがある。
基本は奇数日で三夜、五夜、七夜、九夜、三十日目のお宮参りに
百日目のお食い初め、初節句に初誕生である餅誕生。
一般的には七夜が名前披露の命名の儀でお宮参りが産の忌明けと
して残っているようだが、四族ではきちんと祝うのだ。
もうじきお宮参りがあるので、それが終わると周囲に子供が無事
に生まれたとお知らせする。
母子ともに神様にお参りして、神様から子供に名前を贈ってもら
ったあと、赤子は人の子として認めてもらえるということだ。
ここでようやく出産祝いが贈れる。
その昔、出産は一大イベントで、母子ともに健康でお披露目でき
るということが難しかったからこそ、そういった風習が生まれたの
だろう。
義姉様と姪への贈り物を何にすればよいか千瑛に相談したところ、
全員で同時に選べば被ることはないし、その場のノリでいいものを
思いつけるだろうという回答を寄越され、集まることになったのだ。
指定された場所へ時間よりも早く着いたというのに、千景のこの
疲労困憊ぶり。
どれだけ千瑛は彼を振り回しながら市場調査とやらを行ったのだ
ろうか。
爆走する千瑛は、下手に止めるよりも爆走したいだけ走らせてお
いた方がいい。
その場合、被害者は生贄となる人物と千景だけになる。
1357
そう瑞姫さんが日記に書いていたが、まさしくその通りだと言い
たくなる光景だ。
千景のことは気の毒だが、市場調査の結果とやらが気になって仕
方がない私は悪い人間だろうか。
そんなことを考えているうちに残りのメンバーもやって来た。
﹁あれ? 時間前だと思ったけど、僕、遅かった?﹂
﹁待たせてしまったようで悪かったね﹂
在原と誉が揃って歩いてくるが、すでに私たちが揃っているので
やや困惑した様子だ。
﹁いや。千瑛たちは先に市場調査を行っていたそうだ。私と疾風は
先程来たばかりだ﹂
﹁そうか⋮⋮﹂
2人の視線が千景に向かう。
何だかとても気の毒そうな表情だ。
言葉には出さないが、何があったのかを察して同情しているのだ
ろう。
その視線に気付いた千景が顔を逸らす。
﹁とりあえずは市場調査の報告をするわ。ティーサロンで休みまし
ょ﹂
にっこりと笑った千瑛が告げ、先頭を切って歩き出す。
これは従わなければならないようだ。
顔を見合わせた私たちは、頷き合って、千瑛の後に続いて歩き出
した。
適正価格だが、値段が一般的ではないティーサロンは、いつもな
がらの優雅な佇まいだ。
別に閑散としているわけではない。
こういう場所で騒ぐ客はいないのだが、隣り合う席の間隔が非常
1358
にゆったりと設けられているのだ。
ひとつの席での会話が他の席に届いて相手の邪魔にならないよう
にという配慮だ。
例えそこに知り合いがいたとしても会釈をする程度で、相手の席
に近付いて挨拶などはしない。
それがこういう場所でのマナーというものだ。
他の場所、喫茶店やファストフードなどでのマナーとはおそらく
違うだろう。
案内された席につき、アフタヌーンティーを注文する。
お茶とお菓子、そして会話を楽しみたいので長居するという意思
表示だ。
店側もアフタヌーンティーの客の周囲に別の客が近付かないよう
に配慮してくれる。
これで堂々と内緒話ができるというものだ。
ティーポットやケーキスタンドとも呼ばれるティースタンドなど
がセットされ、声が聞こえないところまでスタッフ達が下がってい
く。
ティースタンドは三段で、下からサンドウィッチ、スコーン、そ
してケーキや季節のフルーツなどのデザート類で構成されている。
正式なマナーとしては下から順に食べていくのだが、焼き立ての
スコーンが冷えてしまわないようにと中段のスコーンから食べる方
もいる。
上段のデザート類を最後に食べるのであれば、中段でも下段でも
好きな方から食べても構わないと言う方もいる。
共にいる方が不快にならなければそれでいいと大雑把に考えるの
がマナーの根幹なので、要は大きな音を立てたり、見苦しい様子を
相手に見せなければ、細かい作法を忘れても大抵のことは許しても
らえるから萎縮する必要はないとマナーの授業で講師の方が仰って
いた。
本来であれば、フォークやナイフを操る腕の角度や一連の流れに
1359
細かい決まりがあるのだが、物心つくころからそれらを叩きこまれ
ている四族の子供たちと、一般家庭や葉族で育った子供たちを一緒
に考えてはいけないという講師方の配慮でもあるのだろう。
彼らが私たちのように社会に出た後でアフタヌーンティーをよく
行うかといえば、そうでもないと考える方が自然だろう。
どのような職業に就くかによって、または婚姻の相手によって、
それから先のことは変わっていくのだから、そこまで目くじら立て
て細かいところまで覚える必要はないと判断されたとしても無理は
ない。
それこそ、知っていれば困ることはないが、忘れてしまっても相
手が不快に思わなければそれでいいのだから。
昼食代わりのサンドウィッチを楽しみながら、ちらりと千瑛を見
る。
そろそろ話してくれてもいいと思うのだが。
そう思っていたのが通じたのか、千瑛がティーカップをソーサー
の上に置いた。
﹁とても面白いことにね、贈り手と貰い手では贈る品に対する反応
が違うのですって﹂
楽しげな声で告げる千瑛の言葉の意味に、一瞬、誰もが疑問を抱
く。
﹁それは、つまり。贈られる物と欲しい物が必ずしも一致していな
いということかな?﹂
首を傾げながら誉が問いかける。
﹁そういうことよ﹂
ゆったりと頷いた千瑛が肩をすくめる。
﹁ありがちなんですって。贈る方は目についた可愛らしいものを選
んでしまうのに対して、貰い手の方は実用的な物を欲しがっている
というのね﹂
﹁そりゃあ、赤ちゃんへ贈るのなら、可愛いものを贈りたいよね﹂
何故それが悪いのだろうかと在原が首を傾げる。
1360
﹁その﹃可愛いもの﹄って、その子やお母さんが貰って喜ぶことを
考えて選んだのかしら?﹂
﹁あ﹂
千瑛の指摘に在原が目を丸くする。
﹁乳幼児と呼ばれる期間は意外と短くて、成長も思っている以上に
早いそうよ。小さな靴や靴下が可愛らしいからってプレゼントして
も、すぐに履けなくなるんですって﹂
﹁それは勿体ないね﹂
せっかく贈った物が長く使ってもらえないものがあるのだと気付
き、誉も神妙な表情になる。
﹁おもちゃを買っても、使えるまでに時間が掛かったりとか、全く
興味を持たなかったりとかもあるそうよ﹂
﹁そう言えば颯希は気に入らない玩具は何度渡しても投げ捨てたな﹂
思い当たる節があったのか、唯一年下の弟がいる疾風が頷く。
﹁それは危ないな﹂
﹁ああ。何故か兄貴たちを狙って、まあ、瑞姫に向かって投げたこ
とは一度もなかったから、そこまで怒られたことはないんだけどな﹂
﹁⋮⋮意外と要領いいとか?﹂
物を投げるという行為で怪我をすることに思い当たったが、疾風
の言う通り、さっちゃんの傍にいて物を投げられたことは一度もな
いことに気付く。
﹁颯希は瑞姫の事が大好きだからなー⋮⋮それこそ赤ん坊の時から﹂
どこかうんざりしたように疾風が溜息交じりに告げる。
﹁まあ、筋金入りね。実によく理解できるわ、岡部兄弟って﹂
感心した様子で頷く千瑛から疾風が視線を逸らす。
﹁話を本題に戻すわね。この手の贈り物は、今、欲しいもので消耗
品を贈るのが喜ばれるそうよ﹂
﹁消耗品⋮⋮おむつとか、タオルとか?﹂
今や戦場といっても過言ではない兄夫婦の、特に義姉の買い物リ
スト上位を思い浮かべる。
1361
たまに手伝いに行かされるのだ。
買い物など、手のかかる乳幼児がいると連れ歩くのに不安な場所
などが多いため、補助に行ける者を本家からお遣いに出すわけだ。
もちろん、子育て経験者を派遣することの方が多いのだが、何事
にも経験とばかりに未婚の娘たちにも指示が出る。
所謂大家族だからできることなのだそうだ。
﹁そうそう! さすが、瑞姫ちゃん。手伝わされているわねー! 紙おむつをケーキだとか船だとかにデコレーションしてプレゼント
するのも随分前から流行ってるそうよ﹂
﹁どうやってっ!?﹂
在原が驚いたように問いかける。
それは、そうだろう。
私も最初は驚いたからな。
蘇芳兄上達の大学時代の友人から贈られてきたおむつケーキの出
来栄えに。
何でもそういう教室があって、そこで作ったものを贈ってきたと
聞いた。
深雪義姉様が可愛いを連発して写真を撮っていた。
あそこまで喜んでもらえるのなら、送ってきた甲斐もあるだろう
と思ったほどだ。
﹁そういうコーナーがあるから、そこで見れば早いわよ。誰が贈っ
てもハズれない贈り物であることは確かだし﹂
﹁なるほど﹂
大きく頷く在原は、おそらくおむつを贈る気になっているのだろ
う。
まあ、ストックが沢山ある程安心できる品物であることは間違い
ない。
まれにストックが無いから買ってきてほしいと言われ、疾風と一
緒に買いに行くと、レジでぎょっとした表情を浮かべられるか、気
の毒そうな表情で﹃大変ですね﹄と言われる身としては助かるし。
1362
買い物という経験自体があまりない私としては、こういう時に疾
風が一緒に居てくれるのでとても助かるのだが、微妙な表情を浮か
べられることが多いのだ。
私があまりにも不慣れな様子なので仕方がないのだろう。
おむつにサイズがあるということも買いに行って初めて知ったく
らいなのだから。
﹁いい? いくらなんでも銀食器ひと揃えとか贈っちゃだめだから
ね!﹂
千瑛の言葉に誉がぎくりとした様子を見せる。
﹁でも、銀食器は定番だろう?﹂
﹁イマドキ古いのよ! それにね、頭の固い年寄り連中がやらかし
て送り返されることが多いんだからね﹂
﹁確かに⋮⋮初子だからとあちこちの家から贈られてきて、その都
度、御祖父様がお断りしてらしたな﹂
昔の嫁入り道具のひとつにあった銀食器の揃いは、生まれたとき
に贈られたものを持っていくのだが、今は確かにそのような風習は
なくなったらしい。
特にうちはごく普通の家庭から御輿入れされる方も多いので、ま
ずないし。
それと同じくして漆器揃いの贈り物もある。
前田のご当主から贈られてきたと聞いている。
まあ、漆器はあちらの伝統工芸であることは知っているし、あの
方は豪快な方であるから聞いた瞬間に納得したけれど。
実物を見せてもらったが、繊細な蒔絵が見事な御品で、深雪義姉
様が蒼白になっていた。
取扱注意品を寄越すなと憤っていたのも記憶に新しい。
熱と乾燥に注意すれば、それほど取り扱いが難しいものではない
のだが、やはり扱いに慣れていないと恐ろしいものにしか見えない
のだろう。
1363
そのまま、千瑛からいくつかのレクチャーを受け、ティールーム
を出た後に店を回って贈り物を見繕う。
実物のおむつケーキを見た在原は大層興奮し、迷わずそれを贈る
ことに決めた。
きっと深雪義姉様も喜んでくれることだろう。
新米叔母としてもありがたい限りだ。
あの紙おむつのパッケージを両手に抱えてレジに並ぶというのは、
とても勇気が必要だ。
明日には注文していた分が届くのだが、今日の分が足りるか危う
いという状況で頼まれればやむなしと思うが、出来れば足りなくな
るようなことをしないでほしいと元気すぎる姪に願うのは身勝手な
ことだろうか。
誉も疾風もそれぞれ選んだところで河岸変えを伝える。
千瑛のおすすめの店があるらしい。
大通りの向かい側にある店だと聞き、そちらへ向かって歩く。
進行方向奥には公園があるためT字型の交差点だ。
信号が青に変わり渡り始めるとあちこちからクラクションが鳴り
響く。
そしてクラッシュ音や何か金属を引き摺るような音も聞こえだす。
音のする方を見れば大型運搬車が猛スピードでこちらへと向かっ
てきていた。
クラッシュ音はそのトラックが前列の自動車にぶつかっていく音
だ。
危険を知らせるために周囲の自動車がクラクションを鳴らしてい
るようだ。
﹁⋮⋮なんだ、あれは⋮⋮﹂
目を凝らしてみれば、運転席にいるドライバーはハンドルの上に
顔を伏せている。
何らかのトラブルがあり、意識がないようだ。
追突された車が制御不能になり何台も左右に振られてさらに隣の
1364
列の車にぶつかったり、対向車線へと向かったりと凄惨な状況にな
りつつある。
これが普通車であれば、ぶつかった衝撃ですぐに停まったであろ
うに、大型、しかも重量級の運搬車だ。
先に渡っていた千瑛も千景もあまりの光景に立ち止まって見入っ
ている。
おそらく、身体が竦んで動かないのだろう。
﹁疾風! 指示して止めろ!﹂
追突された車があちこちにぶつかっていく様子を見て私はとっさ
に疾風にそう指示する。
おそらく私たちの護衛で陰から見守っている者達が数名いること
だろう。
彼らは私たちが無事なら勝手に動くことはできない。
そうして彼らを指揮することができるのは、私ではなく、疾風だ。
疾風が命じれば、彼らはあの大型車を止めることができる。
そうして、千瑛と千景を安全な場所へ避難させることができるの
は、わずかな差だが疾風よりも私の方が早い。
今現在の立ち位置だとか、体重やら筋力によるスタートダッシュ
の速さとか、そういった条件を加味しての計算結果だ。
咄嗟の指示というのは命令にも等しい。
無条件でそれに従おうとする疾風なら、護衛への指示出しに意識
が向かう時にわずかばかりの隙が出る。
今、全力で走れば、後々その無理で何らかの影響が出るかもしれ
ないが、人、ふたりの命が助かるのなら安いものだ。
﹁千瑛っ! 千景っ!!﹂
T字交差点の中央部にわずかばかりにあるロータリーの植え込み
を利用すれば怪我は最小限に抑えられる。
あそこに飛び込めば!
わずかに引き攣り痛む右脚を感じながら、私は全力で駆けだした。
1365
171
ふと身体が浮き上がるような感覚を覚えた。
ふわりと浮きあがるのは、身体ではなく、意識の方だと認識した
時、唐突に視界が開く。
﹁あ﹂
目の前にあったのは、顔。
八雲兄上の、否、私そっくりの少年の顔。
﹁瑞姫ィ∼っ!! 瑞姫が目を開けたぞ!﹂
私が彼を認識したと気付いた少年は、ぱっと身を起こして後ろを
振り返り、誰かに声を掛ける。
﹁うるさい! 大きな声を出さなくても聞こえるわ!﹂
誰かが近付き、少年の頭に拳を落とす。
﹁いてーっ!! 乱暴だな、おい!!﹂
頭頂を押さえながら少年は喚き、私を見る。
﹁どうしてこんな乱暴年増を慕えるんだ、瑞姫は﹂
﹁瑞姫姉様は乱暴年増などではありませんわ。尊敬すべき方です﹂
さらにもう1人、少女が少年を諭す。
全部というか、全員ほぼ同じ顔。
若干異なるのは性別やら性格が表情に出ているからだろうか。
何だろう、この全員集合的な人たちは。
うちの家族は大体似たような顔をしているけれど、ここまでそっ
くりな顔は私と八雲兄上だけだと思っていたが。
そうして、この少年は、﹃瑞姫﹄を連呼していたし。
1366
﹁その表情だと、理解してないふりをしつつ、あらかた察している
ようだね﹂
ぐりぐりと少年の頭を拳で弄りながら、苦笑しているその人は。
﹁⋮⋮瑞姫、さん⋮⋮?﹂
﹁正解﹂
にこやかに笑うその人に、私は周囲を見渡し、目を瞠る。
﹁ここ⋮⋮﹂
﹁思った以上に意識が剥がれやすくなってるみたいだね。ここまで
落っこちて来るとは思わなかったよ﹂
そう説明を受ければ、目の前の少年と少女が何であるのか理解せ
ざるを得ない。
﹁彼らは﹃瑞姫﹄なのですね?﹂
﹁そーゆーこと。ちなみに、ゲームキャラの﹃瑞姫﹄はこの彼女が
一番近い﹂
そう言って、瑞姫さんは淑やかそうな少女を示す。
腰まである真っ直ぐで艶やかな黒髪を持つ彼女は、中等部時代の
私とよく似ている。
柔らかく微笑む彼女は、無骨な私とは全くことなる性格だとひと
目でわかる。
﹁では、本来の﹃瑞姫﹄は彼女なのでは?﹂
あるべき姿に戻るためのこの場所なのかと問えば、少女は首を横
に振る。
﹁いえ、違います。人格というのは意外と簡単に分かたれるもので、
その時主導権を得た者に対し、他の人格が多少なりとも影響を及ぼ
す程度で、誰が主というのも明確なルールがあるわけでもないので
す。強いて言えば、逃げ出さずに残った人格が主たるものになった
⋮⋮でしょうか﹂
﹁⋮⋮⋮⋮⋮⋮は?﹂
何だか、一番鈍臭い人格が主人格になるように聞こえるぞ。
﹁他の奴がどうだかは知らないけど、俺らの場合はこいつの言う通
1367
りだな﹂
少年が頷く。
﹁あまり嬉しくない表現だが﹂
貧乏くじを引かされたような気がしてならないのは何故だろうか。
﹁ちなみに、もう1人、いる﹂
少年が重々しい口調で告げる。
﹁もう、1人?﹂
﹁ええ。滅多なことでは私たちの前には現れないのです﹂
苦笑しながら少女が告げる。
人格、否、彼らを性格の具現化だと考えると、少女は淑やかさと
か大和撫子など女性らしい嫋やかな面を表しているのに対し、少年
は純粋さや大らかさ、大胆さなどを表しているような気がする。
瑞姫さんは剛毅さや賢さ、鋭利さだとするともう1人の私は、や
はりあれしかないだろう。
﹁それって、内気だとか臆病だとか、人見知りするとかいう性格の
子だろうか?﹂
自分の中にある性格を彼らに割り振っていくと、残る性格がこう
いう関係になっていく。
﹁⋮⋮えぇ、まあ﹂
言いにくそうに少女が頷く。
﹁蘇芳兄さまの迫力に押されて、ね⋮⋮かく言う私もそうなのです
が﹂
﹁⋮⋮何となく、わかった﹂
兄上も姉上もとてつもなく私に甘いが、蘇芳兄上だけが微妙に方
向性が異なるのだ。
この﹃兄上﹄という呼び方も、蘇芳兄上が私に強要したのが定着
したのだ。
彼女が﹃兄さま﹄と呼んでいるのは、おそらく強要された呼び方
に反発したか、上手く適合できなかったかだろう。
人見知りだか臆病だかいうもう1人は、押しの強すぎる蘇芳兄上
1368
に怯えたというあたりが原因かもしれない。
初等部に入った頃の蘇芳兄上は、何故だか時代劇にハマり、﹃兄
上﹄と呼ぶようにとようやく言葉を覚え出した私にしつこく言って
聞かせていたらしい。
はっきりした記憶がないので伝聞の上、曖昧なのだが、相当しつ
こかったらしい。
でなければ、人格がわかれたりはしなかっただろう。
だが、少年の方は蘇芳兄上が原因ではないようだ。
少女たちとは異なり、少年と分かたれたのは意外と最近と言って
もよい時期だろう。
彼の場合、明確な想いが伝わってくるのだ。
その想いは常日頃、私の心の一角を占めている。
だからこそ、素直に納得できたのだ。
﹃友人と、対等でいたい﹄という尤もな願い。だけど、叶えられ
るかどうかはとても難しい。
幼馴染として、一番の友と呼べる疾風だが、主従関係であること
もあり、どうしても対等に扱ってはもらえない。
誉や在原にしてもそうだ。
家柄の差異は大して気にならないだろうが、その立ち位置が大き
く異なる。
彼らにとって一番の問題は、私が女性であるということだ。
同性である疾風と異なり、異性である私に対しては、ある種の共
感が持てないためか、どこか線を引かれている。
特に誉は根っからのフェミニストで、異性に対してはどこか甘い。
守らなければならない対象として捉えているのだろう。
それを嬉しいと思うか、侮られていると思うか、人それぞれだろ
うが、彼にはそれが悔しかった。
友と言いながら、対等な関係を構築できない己の不甲斐無さ。
私が女性であるからという理由ならば、それを覆したいという想
いから派生したのが彼だったのだろう。
1369
人格が男性であったとしても、肉体が女性であればどうしようも
ないのだが。
疾風や誉が私に対して鈍いというのは、おそらく少年である人格
が関係しているのだろう。
感覚が繋がっていても、視覚的に別の人間として彼らの姿が映っ
ていると、わかることもある。
そうしてさらに混迷を深めているのが少女2人の想いだろう。
目の前にいる少女と姿を現さない少女の想い人は全く別の人であ
ることが、今の私にはわかる。
争いたくない内気な少女は、それゆえ姿を現さないのだろう。
どちらも自分の想いを私に押し付ける気はないらしい。
瑞姫さんに関しては、全く謎だ。
少年と少女たちとは異なり、瑞姫さんの想いと言うのは全く私に
は伝わってこない。
散々、記憶の残滓だと聞かされているからだろうか。
瑞姫さんが何を考え、誰を想っているのかなど、全くわからない。
﹁⋮⋮ひとつ、確認しておかなければならないことが﹂
この期に及んで、私は尋ねておかなければならないことを思いだ
した。
﹁ここで流れている時間と、外の時間の差異はどのくらいだろうか﹂
とりあえず、誰かが上に戻らないといけないのだが、時間が経ち
すぎて数年たっていたとなってはとても困る。
﹁ああ、そういうこと﹂
私が考えていることがわかったのか、瑞姫さんがくすくすと笑う。
﹁おそらくまだ一秒も経ってないんじゃないかな? 受け身を取っ
て植栽の中に突っ込んだところだよ﹂
﹁え!?﹂
そんな馬鹿なと目を瞠れば、少年と少女も頷いて同意する。
﹁こちらの時間の流れはとても速いのです。無意識下の思考速度と
同じぐらいだと思っていただければ納得なさるのでは?﹂
1370
そんなことを言われると、そんなものかと思ってしまう。
﹁つまり、あまり影響が出ない範囲で戻れるということか﹂
﹁ええ。それもありますが、前回のこともありますので、なるべく
早くお戻りいただきたいと思います﹂
﹁それは、俺もそう思う﹂
2人に同じことを言われては従わざるを得ないだろう。
﹁⋮⋮それで、いいのか?﹂
少女に問いかける。
本来であれば、彼女が主人格であったかもしれないのだ。
﹁ええ。私では、皆が違和感しか感じないでしょうし、彼の願いを
叶えることもできないでしょう﹂
﹁そうか﹂
ひとつ頷いて、瑞姫さんを見る。
﹁瑞姫さん﹂
﹁ん。まあ、目を開けたら、怒られる覚悟は出来てるよね?﹂
にこやかに告げられ、ぎょっとする。
よく考えてみれば、おそらく無茶としか言いようがないことをや
ってしまったと思う。
いや、出来ると思ったからやったのであって⋮⋮言い訳にしかな
らないかもしれないが。
﹁まず、千瑛と千景、それから誉と静稀、疾風。怪我はしていない
ようだから姉上たちの御小言は避けられるとしても、八雲兄上は覚
悟しなよ?﹂
﹁うわあぁっ!﹂
﹁ま、頑張れ!﹂
少年が私の肩をポンと叩く。
労いなのか、憐れみなのか。
自分ではないからと笑顔なのが悔しい。
ぐらりと視界が揺れ、後ろへと倒れ込む。
﹁もう、ここにきては駄目ですよ﹂
1371
少女の声が霞む意識の奥底で聞こえ、それが最後となった。
まだ言わなければならないことがあるというのに、私は。
いつもそうだと後悔しながら、暗闇の中へと落ちてゆき、そうし
て再び目を開けた。
++++++++++ ++++++++++
ガサガサという音と共にかすかな衝撃が背中に走る。
枝が腕や背中を引っ掻く感触もするが、上着のおかげで怪我をし
たという感覚はない。
衝撃が止まり、ふっと息を吐く。
腕の中には千瑛と千景がいる。
何とか、予定通りにロータリーの植栽をクッションにできたよう
だ。
﹁千瑛、千景? 大丈夫か﹂
そう声を掛ければ、かすかな呻き声を上げた千景がハッとしたよ
うに身を起こす。
﹁瑞姫! 千瑛!!﹂
﹁⋮⋮ん。瑞姫ちゃんっ!﹂
声を掛けられ、千瑛も顔を上げ、私を呼ぶ。
﹁ふたりとも怪我はないようだな﹂
すぐに意識が戻ったこともあり、身動きした時にも表情が変わら
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なかったことから怪我はないと判断し、ほっとする。
ふたりとも起き上がったことから私も上半身を起こして座り込む。
そこは、惨憺たる惨状であった。
ロータリーやらガードレールやらに突っ込むことで停止した車が
数台。
大型車に踏まれて潰れた車もある。
大型車はすでに止まっており、助手席のドアが開け放たれている。
疾風が指示して、誰かが車を止めて、運転手を下したのだろう。
意識が無いように見えたが、無事だといいのだが。
幸いにも怪我人は多いようだが死亡者は出ていないようだ。
救急車や消防車、パトカーがサイレンを鳴らして集まってきてい
る。
﹁瑞姫っ!!﹂
誉や在原、そして疾風がこちらへと駆け寄ってくる。
ここまで混乱していると、もはや信号機の意味はないようだ。
﹁瑞姫っ!!﹂
在原が遠慮なく抱きついてくる。
﹁怪我はないっ!? 痛い処はっ!! 生きてるよね!!﹂
どうやら相当パニックを起こしているようだ。
﹁勝手に殺さないでほしいんだが⋮⋮大丈夫、怪我はない﹂
ぽんぽんと在原の背中を叩いて宥めてやれば、千瑛が呆れたよう
に溜息を吐く。
﹁在原。ここでパニック起こしていいのは、私とちーちゃんだから
ね﹂
﹁あー⋮⋮ここまで慌てられると、逆にこっちが冷静になるものだ
ね﹂
千景が在原の腕を強引に剥がし、私から彼を遠ざける。
﹁あ、ちょっと⋮⋮﹂
﹁いい加減にしろと言いたいんだけど。抱き着くより先にすること
あるでしょ!﹂
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叱りつけた千景は、私の背中へ視線を走らせる。
﹁上着が厚くてよかったよ。枝が切り裂いたようなところもないし、
打ち身くらいかな?﹂
﹁いや、打ち身もないよ。2人が軽くて助かった。これが誉や疾風
だったらこうもいかないからな﹂
﹁瑞姫ちゃん、ありがとう﹂
私に怪我がないとわかった千瑛が頭を下げて礼を言う。
﹁瑞姫、ありがとう。僕はともかく、千瑛は大怪我どころじゃなか
ったからね﹂
千景も泣きそうな表情で告げてくる。
﹁咄嗟だったから⋮⋮礼なら私ではなく、疾風に言ってほしいな。
あの車を止めることができたのは、疾風の指示だから﹂
﹁⋮⋮俺は、瑞姫の指示がなければ動くつもりはなかった﹂
疾風っ! 正直に言うんじゃないってば!!
私が思ったのか、他の人格が思ったのかはわからないが、思わず
ため息を吐く。
﹁とりあえず、ここを移動しよう。このまま巻き込まれるのは得策
じゃない﹂
誉が告げ、場所を移動することにした。
ここに四族が5家も揃っていたら、我々が狙われたと思われてし
まうかもしれないからだ。
﹁瑞姫、わかってるよね?﹂
にこやかな笑顔で告げる誉に、相当お怒りであることが知れる。
無茶をやらかしたわけではないのに、理不尽だ。
そう思いながら、後始末をつけるべく、疾風に頷いて見せた。
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春の兆しはまだ遠そうな寒風に交じり、サイレンの音が増えつつ
ある。
それを避けるために少しばかり離れた在原家が所有するホテルへ
と移動する。
何事かと集まってくる人々の波とは逆方向へ、興味のなさそうな
表情を作って歩く。
これが大人の集団であれば不審人物として記憶に残ることだろう
が、多少身なりが良さげな未成年であれば意外と残らないモノであ
る。
何かしら事件があったとして、その犯人が集団で歩いているとは
一般的には考えられないからだ。
普通、目立たないように1人、あるいは2人程度で散っていくと
考える方が妥当だ。
勿論私たちは犯人ではないし、事故の要因でもないまったく無関
係なのだから、目の保養程度には覚えられるかもしれないが、関係
者だとは思われないだろう。
しかし、そのうちの2人が怒っている様子を隠しもしないので、
少々気が重い。
一族専用の部屋に通され、リビングでソファに腰かけて外を眺め
ている間に、ホテルスタッフがワゴンにティーセットと軽食を乗せ
て部屋に入ってくる。
彼らがテーブルにセッティングし、部屋を去っていた後、妙に据
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わった視線で在原がこちらを見つめる。
﹁瑞姫、わかってるの!? また大怪我するつもりだったわけ!?﹂
﹁静稀の言う通りだよ、瑞姫。君は自分を軽んじすぎる﹂
誉まで非難めいた視線を向けてくる。
﹁あのさ、それって僕たちは死んでもいいって言ってるのと同じだ
けど? それを瑞姫が赦すと思っての発言かな?﹂
うんざりしたような表情で千景が口を挟む。
﹁瑞姫ちゃんが岡部に指示して、走ってくれたおかげで私たちは無
事だったのよ。瑞姫ちゃんの判断は間違ってないわ。現場の被害も
最小限に止められたみたいだし。感謝しても批難する謂れはないわ
ね﹂
千瑛も千景を援護するように告げ、2人を制する。
﹁⋮⋮だ、誰もそこまでは言ってない。だけど、瑞姫が走る必要は
なかったはずだ﹂
﹁僕たちの一番近くにいたのは瑞姫だ。護衛に指示したところで、
間に合わない。あの大型車に追突された車が僕たちの方へ突っ込ん
できていたのは見えてただろう? 足が竦んで身動きが出来なかっ
た僕らをどこにどうやって避難させる? 瞬時に言葉にして指示で
きるのかな? 何もしなかった君たちは﹂
言葉に詰まった在原を追い詰めるように千景が言葉を重ねる。
奇妙なまでに重い空気。
そんな中で何故か疾風だけはのんびりとお茶を楽しんでいる。
私といえば、とりあえず学習能力はあるつもりなので、沈黙を保
っているだけだ。
おそらく、何を言っても今は在原にも誉にも信用してもらえない。
言い訳としか映らないだろう。
それほど、今の2人は均衡を欠いている。
冷静な判断をしているつもりで、感情的になりすぎている。
そしてそれは千景も同じだ。
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いつもは冷静な千景がここまで激昂しているのも珍しい。
さて、どうしたものか。
自分の機能がどれだけ回復しているのか、きちんと把握しての行
動だったと言っても信用してもらえないのなら、それこそ言っても
無駄だ。
かといって、ヒートアップさせていくのも拙いというのはわかる。
落ち着いてもらいたいのだが、それが出来そうな疾風はあの通り
だし。
絶対に自分から口を開くつもりはないのだろう。
誰かが問いかけない限りは。
﹁千景、言い過ぎだ﹂
在原を追い詰めていく千景を見かねて止める。
﹁言い過ぎ? 冗談でしょう? 理解できていないから状況を教え
てあげてるだけじゃないか﹂
﹁そうね。在原は思い込みが強すぎて、真実が見えてないみたいだ
し。それって、瑞姫ちゃんを信用してないってことよ?﹂
千瑛∼っ!! 今それを言うか!?
思わず頭を抱えて呻きそうになった。
﹁それ、どういう意味!?﹂
在原の表情が険しくなる。
﹁あら、簡単なことよ? 岡部は、瑞姫ちゃんを止めなかったじゃ
ない。あの、岡部が、よ? 止める必要がないという判断を下した
ってことじゃない﹂
ここぞというところで爆弾を投下するのは千瑛の得意とするとこ
ろだが、何もそれを友人にしかけなくてもと思う。
案の定、千瑛の言葉に一部納得したのか、誉が疾風に視線を向け
る。
﹁岡部、君は瑞姫の傍付だよな? 何故、瑞姫を止めなかった?﹂
疾風に対し、喧嘩を売っているとも取れる一言を敢えて告げる誉
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の気持ちも何とかわかる。
随身である疾風は、ある意味、私のストッパーだ。
そのストッパーが何故その仕事をしなかったのか、問題を問われ
るところだろう。
だが、疾風は悠然とした態度で首を傾げてみせる。
まるで質問の意味がわからないと言いたげな様子だ。
﹁止める必要がどこにある?﹂
﹁瑞姫が危険な目にあうだろう!?﹂
﹁は?﹂
心底驚いたというような表情を浮かべた疾風が誉の視線を正面か
ら受け止める。
﹁危険? どこにそんな場面があった?﹂
﹁岡部!?﹂
この言葉に、在原も誉も表情を変えた。
まあ、ここが生まれたときから武術を嗜んできた家とそうでない
文を重んじる家との差が生じるところだ。
﹁鎖鎌を難なく操れるまでに回復したヤツに、相応な危険って、一
体どれぐらいのものだと思うわけ?﹂
呆れたように告げる疾風の言葉は地味に心に痛い。
一族内で鎖鎌を操れるのは、師匠である大叔父様と私だけだ。
アレの危険度は確かに計り知れない。
操る使い手が一番危険に晒される得物なのだ。
それを使ってもよいと判断したのは師匠だ。
大叔父様の赦しが無ければ、私とてアレを扱うことは叶わない。
つまり、ほぼ、復調していると師匠が認めたことになる。
師匠の言葉は絶対だ。
同じく大叔父様に師事している疾風が私の回復ぶりを認めていて
くれたということは、無性に嬉しいことである。
表現の仕方がちょっぴり心を抉るけれど。
﹁下手すれば、銃弾さえ弾くことができる得物だぞ? アレを手足
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のように扱うって、マジでバケモノなんだぞ!? 間合いなんて関
係ないほど常識外れの武器を得意として、それを操れるやつが判断
したことのどこに危険があるのか俺が教えてほしいくらいだな﹂
まさかの人外確定か。
いや、確かに、鎖鎌や星錘の動きを目で追える私にとって、突っ
込んでくる自動車の動きなど、スローモーション並にゆっくりした
ものだけれど。
理解してもらえたことは、この上なく嬉しい。
嬉しいのだけれど、何かがざっくり抉られているような気がする
のは気のせいだろうか。
﹁それは、つまり?﹂
﹁ここまで言わなきゃわからないのか? 瑞姫はおまえらよりも遥
かに動けるぞ。現に、2人抱えてロータリーの植栽に背中から突っ
込んで無事だったろ? 全力で走って、2人を掴まえて、向きを変
えて背後に跳ぶ。それだけの動きが可能なヤツにする心配なんて何
もないぞ。しかも、その前に俺に配下に車を止めろと指示出すしな。
一瞬でいくつもの手が読めて、迷いなく判断を下せるヤツに無茶を
するなと偉そうに言える方が馬鹿だろう﹂
その一言で、逆に疾風が在原や誉に対して怒っていたことがわか
った。
私を、自分の主を見縊るなと、怒ってくれていた。
これほど嬉しいことはない。
共に育った相手が疾風で良かったと、心の底から思える。
﹁理解できたかしら、在原? 過保護も過ぎれば、ただの束縛なの
よ、前田﹂
うっそりと微笑んだ千瑛が締めくくる。
﹁これで瑞姫ちゃんの婿候補は、同学年では岡部と千景の2人だけ
よね﹂
妙に浮かれた友人の言葉に、私は愕然とした。
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いつの間にそんな話になっていた!?
思わず友人たちの顔を眺めた私に罪はないと、思う。多分。
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PDF小説ネット発足にあたって
http://ncode.syosetu.com/n9931bu/
ちょっとした手違いで
2017年1月27日18時27分発行
ット発の縦書き小説を思う存分、堪能してください。
たんのう
公開できるようにしたのがこのPDF小説ネットです。インターネ
うとしています。そんな中、誰もが簡単にPDF形式の小説を作成、
など一部を除きインターネット関連=横書きという考えが定着しよ
行し、最近では横書きの書籍も誕生しており、既存書籍の電子出版
小説家になろうの子サイトとして誕生しました。ケータイ小説が流
ビ対応の縦書き小説をインターネット上で配布するという目的の基、
PDF小説ネット︵現、タテ書き小説ネット︶は2007年、ル
この小説の詳細については以下のURLをご覧ください。
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