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魔王ゼファー - タテ書き小説ネット

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魔王ゼファー - タテ書き小説ネット
魔王ゼファー
BUTAPENN
タテ書き小説ネット Byヒナプロジェクト
http://pdfnovels.net/
注意事項
このPDFファイルは﹁小説家になろう﹂で掲載中の小説を﹁タ
テ書き小説ネット﹂のシステムが自動的にPDF化させたものです。
この小説の著作権は小説の作者にあります。そのため、作者また
は﹁小説家になろう﹂および﹁タテ書き小説ネット﹂を運営するヒ
ナプロジェクトに無断でこのPDFファイル及び小説を、引用の範
囲を超える形で転載、改変、再配布、販売することを一切禁止致し
ます。小説の紹介や個人用途での印刷および保存はご自由にどうぞ。
︻小説タイトル︼
魔王ゼファー
︻Nコード︼
N5833BV
︻作者名︼
BUTAPENN
︻あらすじ︼
勇者との戦いに敗れ、異世界アラメキアから放逐された魔王ゼフ
ァーがたどりついた先は、地球だった。 すべての魔力を奪われ、
人間となったゼファーは、佐和という女性の握ったおにぎりに魅了
される。 妄想癖と嘲られながらも誇りを忘れず、鮭のおにぎりを
こよなく愛しつつ、つぶれかけた零細部品工場を再建するために、
魔王は新しい戦いを始める。 サイトで連載中のものを、タイトル
や文章に一部修正を加えながら、お届けします。
1
魔王トーキョーに降臨す︵1︶
﹁たとえ何千年、何万年かかったとて、必ずおまえに復讐してや
る。精霊の女王﹂
魔王ゼファーは、喉に食い込む革紐を引きちぎらんばかりの叫
びをあげた。
縫い
その身体には、神の祝福によって編まれた7重の鎖がかけられ、
見る者を狂わすという虹彩のない紫の瞳は、銀糸でまぶたを
とられ開くことはない。両手足は聖なる4本の剣で、巨大な円形の
結界に釘付けられていた。
精霊が人
精霊の加護を受けた美しい世界アラメキアをめぐって、人間と
魔族の間に400年間続いた戦争は、中立を保っていた
間側に加担したことから、魔王の敗北によって終止符が打たれた。
ゼファーは捕らえられ、今人間の王たちと精霊の女王の前で裁
きを受けんとしている。
﹁魔王よ。おまえの呪われた肉体は、いかなる力をもってしても
滅することができぬ﹂
おごそかで悲しげな精霊の女王の声が、アラメキア最深の洞窟
にひびく。
生きる
﹁我が霊力によりおまえの魔王としての力をすべて封印したうえ
で、永久に異世界に放逐する。無力なひとりの人間として
ことによって、おまえのその醜い野望を浄化するがよい﹂
彼女が指先から光のしずくを垂らすと、結界は作動し、まばゆ
い光体で魔王を包み始めた。
ゼファーは意識を失う最後の瞬間に言い捨てた。
﹁肝に銘じていろ、精霊の女王。俺は⋮⋮戻ってきて⋮⋮おまえ
のアラメキアを⋮⋮滅ぼす﹂
2
︵ここは、どこだ⋮⋮︶
固い岩の感触と、耳慣れない喧騒で目を覚ました。
定まらない意識をかかえたまま起き上がると、灰色の固くつる
りとした地面がどこまでも連なるのが見える。
彼が倒れていたのは、壁と壁の狭いすきまだった。
そのむこうには、精霊祭の仮装行列でもあるのだろうか、奇妙
な服を着た大勢の人間が足早に歩いていた。
新しい体をあやつりかねて、よろめきながらすきまを抜け出る
と、頭上はるか高みまで広がるのは、おびただしい数の林立する尖
塔の群れだった。
アラメキアのどこにも、巨大な魔王城でさえ、これほどの高さ
でそびえる塔はなかった。
人の群れをよけて進み、正面のガラス板を見つめる。
そこに写るのは、漆黒の髪を持ち漆黒の眼をした人間の男の姿。
回りを歩いている人間どもと似た形の黒い服を着ている。
これが今の俺か。
骨を噛み砕くことすらできぬ細い顎の脆弱な肉体。牙も角も鋭
い爪も何一つ備えてはいない。
どう見ても30歳に満たないこの人間が、齢800歳をかさね
た魔王だとは。
ゼファーが怒りと失望でうめき声をあげていると、そばに小柄
な人間の若い娘がふたり寄って来た。
﹁いけてるお兄さん。ジョシコーセーと遊ばない?﹂
まるで食ってくれと言わんばかりに肌をあらわにした、目のふ
ちを塗った女どもに、彼はちらりと視線をくれた。
アラメキアの言葉でも、魔族の言葉でもないのに、不思議と彼
女たちの言うことは理解できる。
精霊の女王の霊力がまだ彼の身に及んでいるためだろう。
﹁ここは、なんという世界だ﹂
3
彼の問いに、ふたりの娘は顔を見合わせてきゃあきゃあ笑った。
﹁ばっかじゃない? ここは東京の渋谷だよ﹂
トーキョー。
この異世界は、トーキョーという名であるらしい。
ゼファーは路傍に腰かけて、自分が放逐されてきたこの異世界
を日がな一日観察した。
このトーキョーというところは、アラメキアの人間の町のどこ
とも似るところのない、不思議な世界だった。
地面にはほとんど黒い土がなく、灰色の岩か、神殿の床のごと
き文様の板で固められている。
木は一定の間隔をおいて直線状に植えられており、町全体で何
かの結界を形作っているものと思われた。
アラメキアではあれほど咲き乱れていた花々も、ここではとこ
ろどころに配置される四角い箱を除き、すべて禁止されているよう
だった。
何かの呪術が行われている特殊な聖域。それがトーキョーの正
体なのだろう。
ここでは人間が幅をきかせ、我が物顔に闊歩している。
広い道ではものすごい速さで、アラメキアのゴーレムに似た生
き物が行き来していた。金切り声をあげ目を光らせるくせに、なぜ
か生命の息吹が感じられない。
その体内には人間が乗って、行く先を命じているようだった。
魔王の乗り物だったグリフォンも、使い魔だったガーゴイルも
天かける姿を見かけない。ただときどき生命のない鉄の鳥が、はる
か上空を飛んでゆくばかり。
ここには魔族の好む暗闇がなかった。洞窟も地底もなく、地下
にさえ太陽や月が天井にはりつき、煌々と人間の行く道を照らして
いる。
4
精霊の女王がこの異世界を魔王の追放地に選んだわけがわかっ
た。
トーキョーは、彼の味方になるひとりの魔族もいないのだ。
絶望が彼の心に忍び寄り始めた。
夜がやってきても、街は昼間と同じ明るさを保っていた。
空腹を感じたゼファーは、﹁金をよこせ﹂と彼に因縁をつけて
きた馬鹿面の人間を拳で殴り倒して、その腕に噛みついた。
しかし牙のない彼には、わずかな肉しかちぎりとることができ
ない。しかもそれはとんでもなく不味かった。
人間になったため、人間を食物と感じられなくなってしまった
のだろう。
しかも、たった一発殴っただけの拳は骨が折れたかと思うほど
じんじん痛む。なんという軟弱な身体なのだろう。
血と肉を口から吐き捨てると、彼はそのまま食べ物を求めてあ
てどなく歩き始めた。
街角にあるガラス張りの部屋に、人の流れに巻き込まれるよう
にして入った。
突き当たりの氷室のように冷えた棚の上に、小さな三角形の物
体が並んでいた。一見果物のようで、黒い皮が一枚白い果肉をおお
うようにかぶっている。
食べ物だと直感し、もう一枚おおっていた透明の皮を破ると、
かじりついた。
﹁お客さま! レジでお支払いいただかないと⋮⋮﹂
あわてて駆け寄ってきた店の主らしい男を睨む。
人差し指をすっとその額にあてると、主はぼんやりとした表情
でつぶやいた。﹁どうぞ、ごゆっくり⋮⋮﹂
魔の力がすこしは残っていたらしい。ゼファーはそのまま次々
と他のいろいろな三角形を胃の中に納めた。
5
アラメキアにもこんな美味な食べ物はなかった。呪術を思わせ
る禍々しい形といい、魔王にふさわしい食物だ。
となりの棚には、酒やあらゆる種類の液体が飲み放題だった。
他の人間たちが遠巻きに見つめる中、満足した彼はゆうゆうと
店を出た。
ふたたび街を歩き始める。色とりどりの灯りが地上の星のよう
にまたたく中、大通りの縞模様の道を踏みしめながら、ゼファーは
藍色の夜空を見上げ、ひとり笑った。
魔族がいないのなら、それでいい。
俺はこの異世界で人間の王として君臨する。
そして、いつか必ずアラメキアに大軍を率いて攻め込む。 覚悟していろ。精霊の女王。トーキョーに俺を送り込んだこと
を後悔させてやる。
6
魔王トーキョーに降臨す︵2︶
魔王はその日から自分の配下にふさわしい人間を求めて、夜の
街をさまよい歩いた。
ミネアスの大河ほどもある大通りで鉄製のサハギンにまたがっ
て猛スピードをあげ、けたたましく騒ぐ一団に近づくと、﹁俺のし
もべになれ﹂と命じた。
奴らは烈火のごとく怒り、いっせいに彼に襲いかかって来た。
20人ほどだったが、なんなく返り討ちにしてやった。さすが
に途中で拳が壊れそうだったが、奴らのひとりから木製の剣を奪い
取ると、あとは簡単だった。
こんな弱いやつらなど、戦馬の鞍みがきの奴隷にも値せぬ。
地面に倒れ伏す連中に唾をはきかけていると、近隣の住民らし
感謝された。
い人間たちが出てきて、口々に﹁よくやってくれた。この暴走族に
夜な夜な悩まされて眠れなかった﹂と涙ながらに
人間社会の中で不満をくすぶらせ、この世界を破壊することを
望んでいる者。
彼はそういう気配を漂わす者たちに次々と声をかけたが、結果
は失望に終わることばかりだった。
彼らはゼファーを主として受け入れるどころか無謀にも歯向か
い、ことごとく彼の拳と刃のもとに沈んだ。そして、回りの人間は
彼に拍手喝さいを送った。
このトーキョーには、俺の家臣に値する奴はひとりもいないの
か。
その夜も、﹁公園﹂と呼ばれるわずかばかりの土と木々がある
園で、数人の男たちが暗がりで騒いでいた。
見るからにゼファーの目には叶わぬ連中だったが、むしゃくし
ゃしていた彼はそいつらを血祭りにあげた。
7
﹁待ってください﹂
男たちが地面にころがる中、その場を立ち去ろうとした彼の耳
に、若い女の声が響いた。
ふりかえると、ドロだらけで上半身の服をぼろぼろにされた短
髪の女が、涙を浮かべながら彼を見ていた。
﹁助けていただいてありがとうございました﹂
そうか。こいつらはこの女を集団で犯そうとしていたのか。
﹁おまえを助けようとしたわけではない﹂
﹁でもあなたがいらっしゃらなければ、私は今ごろ⋮﹂
女のすすり泣きを無視してきびすを返したゼファーに、彼女は
あわててすがりついた。
﹁お願いです。警察に被害届を出すのに証言してください。でな
いとこの人たちはまた何度も罪のない人たちを襲います﹂
警察。彼が乱闘を起こすたびに、頭にチカチカ光る目をつけた
ゴーレムをうならせて駆けつけてくる奴ら。人間の騎士団と同じ目
をした連中。
﹁ごめんだな。俺の知ったことではない﹂
﹁それにあなたに何かお礼がしたいのです。せめて⋮⋮せめてお
名前だけでも聞かせてください﹂
﹁名前?﹂
アラメキアでは、名前をたずねるのは占いや呪術をする高位の
魔女と相場が決まっていた。
﹁おまえは魔女か﹂
﹁は?﹂
﹁ちょうど良い。おまえに占ってもらいたいことがある。アラメ
キアに戻る方法と我が臣下となるべき者の居場所だ。⋮⋮こちらで
良いのか?﹂
﹁え?﹂
﹁占いの水晶のあるおまえの館だ﹂
﹁え、ええと。あのう⋮⋮﹂
8
とまどう女の方を見もせず、彼はさっさと歩き始めた。
﹁魔女ではないのか⋮⋮﹂
﹁ご、ごめんなさい﹂
小さな箱に乗り、8階にある女の住居まで上がったゼファーは、
その部屋をひとめ見るなり落胆した。
そこには水晶も、毒薬を作る大なべもなかった。
﹁きっとあなたのおっしゃる占いの館は、駅前にあると思います。
今日はもう遅いので閉まっていると思いますが。⋮⋮あ、待って。
帰らないで。今コーヒーを淹れます﹂
こざっぱりとした服に着替えた女は、彼の目の前に黒くにごっ
た液体を出した。熱く苦いその飲み物は、なぜか彼の肉体をほぐし
ていくようだった。
﹁あなたは、外国の方なのですか?﹂
﹁なぜそんなことを聞く?﹂
﹁ことばがとても古風なので⋮⋮。それにさっきどこかへ戻る方
法を探しているとおっしゃいました﹂
﹁アラメキアか﹂
﹁初めて聞く国です。やはり旧ソ連の一国だったりするのですか
?﹂
﹁精霊の女王の治めている世界だ。俺はそこから追放されてきた﹂
﹁まあ⋮⋮﹂
女はびっくりしたように目を見張った。
﹁そのセイレーノ女王さまは、何かの誤解をしてらっしゃるので
すね。あなたのような良い方を追放なさるなんて﹂
﹁俺が良い者だと?﹂
ゼファーは口の端をかすかに上げた。
﹁俺は女王を許さん。いつかきっと女王を殺し、アラメキアを滅
ぼしてやる﹂
9
﹁だめっ。だめです! 殺すなんて、滅ぼすなんて。あなたの国
力になってもらうよう、
でしょう? 話し合えばセイレーノ女王さまもわかってくださいま
す。私の伯父が外務省に勤めてるんです。
なんとか頼んでみますから﹂
目の前できらきらと水晶のような涙をこぼす女を見て、彼は黙
り込んだ。
﹁ごめんなさい。ひとりで興奮してしまって。私なんかが口出し
をすることじゃないですよね。おなかがお空きになりませんか?
何か作ります。といってもチャーハンかおうどんか、そんなもの
しかできませんが﹂
﹁おまえは三角で白く細かい房を持つ、黒い薄皮のついた食べ物
を作れるか?﹂
彼女は一瞬ぽかんとした表情をしたが、やがてくすくす笑い始
めた。
﹁ああ。おにぎり。おにぎりがお好きなんですね﹂
やがて出された三角形はほかほかと温かい湯気を立てていた。
そして、いつもガラス張りの店で奪い取るものより百倍も美味かっ
た。
﹁きめたぞ﹂
指についた白い粒までていねいに舐めとった魔王は、厳かに宣
言した。
﹁俺は今日からここに住む。おまえは俺のためにこの三角形の食
べ物を毎日作れ。よいな﹂
女は目を見開きしばらく呆然としていたが、やがて耳たぶまで
真っ赤に染めながら、小さくうなずいた。
女の名は佐和と言った。
ゼファーは3ヶ月のあいだ、彼女の部屋で暮らした。
佐和は毎日﹁カイシャ﹂というところに出かけていくほかは、
10
ずっと彼のそばにいて、文字や人間世界のことを教えた。
彼はだんだんと、この世界はトーキョーだけではないこと、そ
さまざまな国々があることを学ん
の回りに﹁ニホン﹂という国があり、さらに海のむこうには、﹁ア
メリカ﹂や﹁イーユー﹂などの
だ。
この異世界はアラメキアの20倍近い大きさがあり、人口は2
00倍近かった。
人間は魔法の代わりに﹁科学﹂という怪しげな術をあやつって
いた。
ドラゴンやゴーレムの代わりに、﹁機械﹂というしもべを使っ
ていた。
魔族はやはりどこにも存在していなかった。
毎日質問攻めにするゼファーを、佐和は根気よく教えた。
そして、さまざまな肉や魚や野菜でできた美味な食事を作った。
しかしどんなご馳走を出されても、彼は必ず最後に白い三角形だけ
は要求した。
﹁ゼファーさんは、アラメキアで何のお仕事をなさっていたんで
すか?﹂
佐和はある夜、コーヒーを注ぎながらたずねた。3ヶ月夫婦同
然の生活をしていても、彼女は相変わらず、彼に対する丁寧な言葉
づかいを改めようとはしなかった。
﹁仕事?﹂
﹁職業のことです。どんなことをして働いていらしたんですか?﹂
﹁働くことなどなかった。俺は魔王だからな﹂
﹁魔王?﹂
怪訝な顔をして、彼女は口ごもった。
﹁それは⋮⋮、何をすることなのですか?﹂
彼は少し考えて、答えた。
﹁人間を殺し、支配することだ﹂
みるみる佐和の表情が変わった。
11
ゼファーは、夜の街に飛び出した。
自分が魔王であると言ったときの、彼女の悲しげな目。憐れみ
の入り混じったまなざし。
佐和は俺に失望したのだ。馬鹿にしているのだ。
城も持たず、軍隊も持たず、それでも己を魔王と称する俺に。
彼は生まれて初めて自分を恥じた。膝が震えて立っていられな
いほど、自分が惨めだった。
その夜以来、彼は佐和のもとから姿を消した。
12
魔王トーキョーに降臨す︵3︶
1年後。
ゼファーはその頃にはもう、数え切れない配下を従えていた。
海外のマフィアまで及ぶ巨大な裏社会のシンジケートを作り上
げた。
不正な株価操作、麻薬や銃密売など、ありとあらゆる非合法の
ビジネスで巨万の富を得た。
限られた魔の力をここぞというときに使って、政府の官僚や財
界のお偉方どもを操った。
この異世界では、武力よりも金の力がものを言う。何よりもそ
のことを知り尽くしていた。
渋谷の一等地の30階建てのビルを手にいれると、彼はロール
スロイスを佐和のマンションに横付けし、何百本のバラの花束を手
に彼女を迎えに行った。
彼女は何か言いたげにただ涙を浮かべていたが、結局その身ひ
とつで彼のあとについてきた。
最上階をワンフロアまるごと占める広大な住まいが、彼らの新
居だった。
佐和はそこから一歩も出ることが許されなかった。外に出よう
とすると、大勢の黒服の武装した男たちに押し戻された。
深夜に疲れて戻ってくる彼のために、おにぎりをこしらえるこ
とが彼女の唯一の日課だった。
電話一本で数億ドルの金を動かし、いともたやすく人を殺す命
令を下している彼を、痛みに耐えているような顔でただ見上げてい
た。
13
﹁おまえは、精霊の女王にどこか似ている﹂
豪奢な寝床の上で彼女を愛撫しながら、ゼファーはささやいた。
﹁俺は400年前、女王の近衛隊長だった。いつも女王のそばに
つき従い、その命令を待っていた﹂
この人の国では1年の数え方が違うんだわ。佐和はそう思いな
がら黙ってうなずく。
﹁いつも女王だけを見ていた。だが俺は道具でしかなかった。あ
いつにとって何よりも大事なのはアラメキアだった。だから俺は反
旗をひるがえした﹂
﹁女王さまを心から愛していらしたのね﹂
﹁愛していた? 俺が?﹂
魔王は低く笑った。
﹁だから悲しかったのでしょう。自分を見てもらえなくて。だか
らアラメキアが憎かったのでしょう。そして今でもそんなにもアラ
メキアにお帰りになりたいのでしょう?﹂
佐和が顔をそむけてこっそり涙をぬぐったのを、彼は知らなか
った。
﹁わたし、お手伝いします。あなたがアラメキアに帰れるように、
私のできることなら何でも﹂
ゼファーはひとりの科学者のもとを訪れた。
そのあまりにも奇想天外な理論ゆえに物理学会から追放された、
科学者というよりは狂信者。天城博士。
﹁あなたの言うアラメキアは、確かに並行宇宙ですな﹂
博士は白い髭をしごきながら、その分厚い眼鏡の奥から、色素
の薄い瞳をきらめかせた。
﹁そこに行くことは可能か﹂
﹁ワープホールを作れば可能です。座標軸の計算に手間取りまし
ょうが、条件さえそろえばいつでも﹂
14
﹁そのために何が必要だ?﹂
﹁2500万キロワット以上のエネルギーが少なくとも0.8秒
間。そうですな。この東京23区内の全電力に相当します﹂
﹁わかった。1カ月以内に東京を征服する。おまえは研究を進め
ろ。金は好きなだけいくらでも注ぎ込んでやる﹂
宣戦布告から7日後。イシハラ都知事は条件を飲んだ。
﹁こ、これは⋮⋮﹂
佐和は渋谷のビルの地下に3階分をぶちぬいて設置された巨大
な集積装置を見上げて、立ち尽くした。
﹁来たか。佐和﹂
﹁窓から見ると、東京中が真っ暗です。いったい何が起きたので
すか、ゼファーさん﹂
﹁東京に送電する全発電所の電力を一箇所に集めている。ここか
らアラメキアに半永久的に穴を開けるのだ﹂
﹁そんなことが⋮⋮。では、とうとうお国に帰れるのですね﹂
目を伏せる彼女を、ゼファーはかたわらに抱き寄せた。
﹁アラメキアに凱旋し、精霊の女王を倒したら、魔王城でともに
暮らそう。おまえに后の冠を授けてやる﹂
﹁⋮⋮いえ、私は﹂
そのとき、耳をつんざくような轟音が上がった。
﹁しまった!﹂
天城博士のうろたえた声。
﹁何が起きた!﹂
﹁電力が膨大すぎて、送電ケーブルが耐え切れん!﹂
まばゆいばかりの光をふりまきながら、よじり合わせた太いワ
イアが、一本また一本と切れてゆく。
15
危険を感じた大勢の科学者たちが悲鳴を上げながら逃げまどう。
﹁スイッチを切れ! またやり直せばよい﹂
ゼファーがどなった。
﹁だめです! 並行宇宙は絶えずお互いの位置を変えながら移動
チャンスは残されてはいないのです!﹂
している。計算によれば、次にアラメキアと再接近するのは7年後。
今しか
﹁⋮⋮なんだと?﹂
﹁くそう。0.8秒だけあのケーブルをつなげれば。そうすれば
実験は成功するのにっ﹂
そのとき、影がゼファーと天城の前に躍り出た。
ふたたびの閃光とともに、集積装置は勢いよく回り始めた。
ちぎれていた送電ケーブルは、あいだを埋める通電物質を得た
のだ。
くらんでいた目をこらすと、ゼファーの見たものは、両手にそ
れぞれケーブルの先端をにぎりしめて床に崩れ落ちた佐和の身体だ
った。
﹁佐和ーっ!﹂
﹁やったぞ! 実験は大成功だ!﹂
有頂天で小躍りする天城博士を殴り倒すと、ゼファーはころげ
るように走りよって、黒焦げになったもの言わぬ屍を抱き起こした。
﹁佐和⋮。なんてバカなことを⋮﹂
あたかもそうすれば生き返るとでも言うように、彼女の体を力
の限り抱きしめる彼の脳裏に、佐和のかつてつぶやいた言葉がよみ
がえった。
﹃わたし、お手伝いします。あなたがアラメキアに帰れるように、
私のできることなら何でも﹄
なぜ今ごろ気づいたんだ。佐和がいなければ、アラメキアに帰
って何の意味がある。
アラメキアだろうが、トーキョーだろうが、佐和がいるところ
以外俺の居場所はなかった。
16
彼は子どものように泣きじゃくった。
涙でぼやけた視界の隅で、何もなかった空間にぼっかりと穴が
うがたれた。
その向こうには、花々の咲き乱れる見覚えのある故郷の風景が
広がっていた。
﹁精霊の女王! 聞いているか!﹂
魔王は声のかぎり叫んだ。
﹁おまえの力で佐和を生き返らせろ。そのためなら、俺の命をや
る。永遠に蛆虫となって地べたをはいずりまわってもいい。佐和が
もう一度微笑んでくれるなら!﹂
美しく澄んだ声が、すべての空間を満たした。
﹁おまえの願い、かなえよう。魔王ゼファーよ⋮⋮﹂
﹁佐和さん。彼の病状はだいぶ回復しました﹂
医師はカルテを机の上にぽんと放り投げた。
﹁はじめは極度の錯乱状態で、誰のこともわからなかったのが嘘
のようですね。あなたとも普通に会話できているようですね﹂
﹁はい⋮⋮。もう自分は魔王ではなくなったと言っています﹂
﹁それは、良い兆候です。今すぐというわけには行きませんが、
都とも相談して措置解除のうえ退院の手続きを取るようにしましょ
う﹂
﹁よろしくお願いします﹂
﹁それで、佐和さん。うかがいにくいことですが、本当にあなた
は彼と結婚されるおつもりですか? それはとても⋮⋮。いや、
医師の領分を越えた余計なお世話ですが﹂
﹁ええ、先生。私、彼を愛しています。彼が魔王であろうと誰で
あろうと、私の気持ちは変わりません﹂
﹁それなら良いのです。失礼なことを申し上げました﹂
﹁これから彼に会ってきます。霧島先生、ありがとうございまし
17
た﹂
せほうまさと
彼女が出て行ったあと、医師は机のカルテをもう一度拾い上げ
た。
﹃瀬峰正人。埼玉県浦和市にて19××年8月2日出生。
幼少期より妄想癖がはげしく、小学4年のとき小児性統合失調
症と診断、以後長期にわたる加療。
現病名。誇大妄想をともなう統合失調症。自分を異世界の魔王
であったと固く信じ込んでいる。
商法違反。麻薬及び向精神薬取締法違反。恐喝罪。心神喪失状
態を理由とする不起訴後、都知事の行政処分による措置入院。現在
に至る﹄
霧島医師は窓の外を見てつぶやいた。
﹁はたして、本当に魔王だったのやら。本人にもわからないのか
もしれないな﹂
佐和が病室に入ると、彼はベッドで仰臥しながら窓を見ていた。
﹁佐和﹂
﹁ゼファーさん﹂
﹁今そこに、精霊の女王が来ていた⋮⋮﹂
彼は弱々しく、指で窓辺の花瓶の花のあたりを指した。
幻覚を見ているのだ、と佐和は思いながらにっこりとうなずく。
﹁二度とアラメキアには帰らないと言ったら、笑っていた。それ
でよいと言っているようだった﹂
﹁いいのですか。ゼファーさんはそれで﹂
﹁俺はもはや魔王ではない。わずかに残っていた魔の力もすべて
なくしてしまった﹂
彼は佐和に視線を移して、悲しげに微笑んだ。
﹁もうおまえに何もしてやることができない。后の冠もぜいたく
な暮らしも﹂
18
﹁何もいらないのです、私。ゼファーさんといっしょにいられれ
ば﹂
﹁⋮⋮俺もだ﹂
佐和は彼の上に静かにかがみこんだ。
午後のやわらかな日差しが、ふたりの重なる影をつつみこむ。
そのうしろで、窓辺の花が風もないのにかすかに揺れ、ひとす
じの光のしずくをこぼした。
19
陽だまりの異邦人︵エトランゼ︶
秋の夕暮れの公園。花壇の甘くひんやりとした香り。
﹁魔王よ﹂
﹁精霊の女王﹂
咲き乱れる花々の薄い花弁が風もないのにゆらいだ。
紫の髪をベールのように全身にまとった、真珠色の顔かんばせ
の女が花の中に立つ。
﹁元気そうだな﹂
﹁ああ﹂
﹁人間の暮らしは慣れたか。佐和とはうまくやっているのか?﹂
﹁まあな﹂
買い物袋を手に下げた佐和は、公園に入ろうとして足をとめた。
愛する夫がベンチに坐って、宙を見つめながらひとりごとを言
っている。
夢見るような瞳で。
さきほどの会話を思い出して、佐和は唇を噛む。
﹁佐和ちゃん。あんたのご主人はうちで働くのに、むいてないよ﹂
﹁⋮⋮え? どうしたんですか﹂
﹁朝の挨拶もしない。上司や先輩に対しても横柄な物言いをして、
敬語を使おうともしない。気に入らなきゃ、持ち場を離れて勝手に
あたりをほっつき歩く﹂
﹁⋮⋮そんなことを﹂
﹁みんな困ってんだよね。工場はチームワークだろう? ⋮⋮佐
20
和ちゃんにこんなこと言いたくないけど、
前科があって、長いこ
それも、佐和ちゃんのおじいちゃんの代から
と精神病院に入ってたなんてのを雇ってくれる会社なんか、うちく
らいしかないよ? 考えさせてもらうよ﹂
の長い付き合いがあってのことだ。うちだって、この不景気のご時
世、今の状態がいつまでも続くようなら、
﹁すみません、社長さん。正人さんにもよく言って聞かせますか
ら﹂
佐和は、電話に向かって深々とお辞儀をした。
彼女が瀬峰せほう正人とめぐりあったのは、2年前。公園でレ
イプされかけていたところを救ってくれたのが、彼だった。
その日のうちに、恋に落ちた。
彼はゼファーと名乗った。だがそれ以外には自分のことを何も
語らない。
麻薬取引や不正な株売買に関わっていたと知ったのは、ずっと
後だった。
挙句に、東京都に対してすべての電力の供給をストップしろと
脅迫したと聞いた。いったい彼が何のためにそんなことを要求した
のかは、いまだにわかっていない。
彼は逮捕され、精神病院に措置入院の処分を受けた。
自分を異世界の魔王だと思い込む、妄想型の統合失調症。それ
が彼の病名だった。
一年半の入院。3ヶ月前に退院して、ふたりは正式に結婚した。
披露宴も祝福してくれる人もない、ふたりだけの結婚式。
下町に小さなアパートを借りて、住み始めた。
新婚生活は決して甘いものではなかった。職のない夫との生活
は苦しく、前の会社を辞めてしまっていた佐和が近所のスーパーに
パートに出て、かろうじて家計を支えていた。
ようやく古い知人の伝手で彼の就職を頼み込み、二週間前から
21
働き始めたばかりだった。
﹁ゼファーさん﹂
﹁佐和﹂
﹁お仕事はどうでしたか?﹂
﹁まあまあだ。⋮⋮今晩は何だ?﹂
﹁少し寒くなったので、湯豆腐にしました。それと、ゼファーさ
んの大好きな、鮭のおにぎり﹂
彼は、わずかに顔をほころばせた。
歩きながら夫の長い腕が、無言で肩を引き寄せる。その暖かさ
の中に身をゆだねながら、佐和は言おうとしていたことばを飲み込
んだ。
彼はそれからも、ときどき仕事をさぼっては、昼間から公園の
ベンチに坐っているらしかった。
そのまわりにはいつの間にか、放課後遊びに来た小学生たちが
たむろするようになった。
愛想などかけらもない男なのに、不思議と彼は子どもたちに慕
われ、精霊の国の話や、魔王の頃の冒険譚をせがまれた。
﹁ゼファーさん。お仕事はちゃんと行っているのですか?﹂
気をつけていないと、飲まなくてはならない薬をこっそり捨て
てしまう彼の手のひらに、佐和はいつも毎食後、山盛りの薬を乗せ
てやっていた。
﹁ああ﹂
﹁がんばってくださいね。ゼファーさんなら、きっとできます﹂
そう言いながら、自分を魔王だと思い込んでいる夫には、人か
ら命令されることも、工場のラインの単調な作業も耐え難い苦痛で
あることを佐和は知っている。
抗精神病薬の副作用で、いつもまぶしそうに目を細め、気だる
く椅子の背にもたれている。集中力の必要な細かい仕事もむずかし
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いだろう。
佐和は、地の底からはらわたをつかまれるような不安に襲われ
て、自分の両腕にそっと爪を立てた。
彼女の不安は的中した。
﹁佐和ちゃん、もう正人くんは明日から来なくていいよ﹂
パートの休憩時間に、勤め先の社長から電話があったのだ。
﹁⋮⋮また、何かあったんですか?﹂
﹁今日は、こともあろうに、工場長に作業の手順を変えろと文句
を言ったんだ。それも、自分のラインだけじゃなく、工場全体のラ
インを変えろと。
工場長も、これにはブチきれてね。ほかの従業員からも苦情が出
てる。もう私にも手のうちようがない。佐和ちゃんには気の毒だけ
ど、もうどうしようもないよ﹂
電話を切ると、その場にへたへたと座り込んだ。
仕事を早退して、ともかくも夫を捜すためにアパートに戻った
とき、入り口で、こわい顔をした数人の女性が待ちかまえていた。
﹁あの、公園にいつもいる男の奥さんね﹂
母親たちは、彼が自分の子どもをたぶらかしていると抗議に来
たのだ。
﹁きのう、うちの子は、塾にも行かず公園でずっと遊んでたんで
すよ。叱りつけると、おたくのご主人が行くなと言ったと﹂
﹁いつも、ぼうっと坐って、ぶつぶつひとりごとを言ってるし。
目つきが怖くてたまらないわ﹂
﹁とにかく、子どもにはもう絶対近づかせないでちょうだい。い
いですね﹂
憎しみと嘲りの視線の中、佐和は何も考えられないまま、ただ
頭を下げるだけだった。
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﹁どうして、真っ暗なんだ?﹂
部屋をおおう濃い夕闇に、夫は不思議そうな声を出して、明か
りをつけた。部屋の真ん中に、佐和は膝をぎゅっとつかんで坐って
いた。
﹁ゼファーさん。今日、子どもたちのお母さんから苦情が来まし
た﹂
﹁え?﹂
﹁公園で子どもたちが帰ろうとするのに、帰るなとおどかしたっ
て⋮⋮。もう子どもたちのそばに近づかないでくださいって言われ
たんです﹂
﹁俺は、そんなこと言っていない﹂
﹁嘘をつかないで!﹂
佐和は、大声を上げた。長い間がまんしていた涙が、堰を切っ
たようにあふれでる。
﹁工場だって、いつも行っているって嘘をついて、さぼっていた
でしょう。あなたは、本当は魔王なんかじゃないんです。瀬峰正人
という人間なんです。
精霊の国なんか、この世に存在しないんです。なぜ、夢ばかり見
るんですか? なぜ、今いる現実を見ようとしないんですか?
夢だけでは誰も生きられないんです。私は、私は⋮⋮もう、あな
たといっしょの夢は見られません!﹂
﹁ゼファーよ﹂
精霊の女王の透き通った衣の裳裾が、まばゆい白い光を放ち、
早朝の公園に坐る彼の脚にふわりとかかる。
﹁ゼファーよ。生きることは辛いか?﹂
彼にそそがれる黄金色のまなざしは、悲しいほど高貴で優しい。
彼は、静かに首を振った。
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﹁俺の選んだ道だ﹂
﹁佐和が死んだとき、呪術をもてそなたは誓った。佐和が生き返
るならば、自分は蛆虫になってもよいと﹂
﹁ああ。そしておまえは佐和の命を救ってくれた﹂
﹁引き換えに、そなたの得たものは、周囲の者に誤解され、愛す
る者にさえ信じてもらえぬ人生。⋮⋮本当にそれでよかったのか?﹂
﹁後悔はしておらん。俺には、佐和を失うより惨めな人生はない﹂
﹁⋮⋮変わったな。魔王よ﹂
﹁それでもなお、俺は昔の己にこだわりすぎていたのかもしれん
な﹂
彼は自嘲するように、かすかに笑った。
﹁アラメキアのことは、忘れよう。もう俺は魔王ゼファーではな
い。これからはひとりの人間、瀬峰正人として生きる。精霊の女王、
おまえにももう会うまい﹂
﹁わかった。私ももはや、この世界を訪れることもなかろう﹂
﹁最後にひとつだけ、教えてくれ﹂
﹁なんだ?﹂
﹁俺がおまえの近衛隊長だったころ、おまえは俺のことを愛して
いたか?﹂
精霊の女王は、紫の髪を朝露のごとくきらめかせて、微笑んだ。
﹁400年前、最も美しい精霊とうたわれたそなたが、私の目の
前で悪しき思いに身をゆだね、魔王と化したとき、⋮⋮どれだけ私
が嘆いたか、そなたは知るまい。
だが、私はひとりの女として、そなたの胸に飛び込むことはできな
かった﹂
﹁それだけ聞けばじゅうぶんだ。⋮⋮さらばだ、ユスティナ。精
霊の女王﹂
﹁霧島先生。私はどうすればいいのでしょう﹂
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佐和は、夫の主治医の精神科医・霧島の診察室にいた。
﹁あなたは魔王なんかじゃない、と私が言ったときの、哀しそう
な顔。私はなんと酷いことを言ってしまったのかと気づきました。
あれから彼は私のほうを見ようともしません。もう私は、いっしょ
に暮らす自信がありません。いったい、どうすれば⋮⋮﹂
﹁佐和さん﹂
霧島医師は、デスクの前から立ち上がると、窓から外を見つめ
た。
﹁このことは、あなたに言うべきかどうか迷っていましたが、言
うことにしましょう﹂
﹁なんですか?﹂
﹁私は、彼がここに入院したとき、彼の病歴を調べるため、あち
ひとりもいなか
こちの病院に問い合わせました。当時のカルテはすぐに見つかりま
した。しかし、彼のことを覚えている担当医師は
ったのです﹂
﹁⋮⋮﹂
﹁よくあることではあります。私たちは何千人もの患者を診てい
だ
るのですからね。しかし、それからも私は個人的な興味で、彼の住
んでいたという家や彼の通ったという学校を調べてみました。
が、誰ひとりとして、瀬峰正人とその家族のことを覚えている人は
いなかった。あたかも、誰かが書類だけで瀬峰正人という架空の存
在を作り上げたように﹂
霧島医師は黒縁の眼鏡越しに怜悧な視線を彼女に送った。
﹁佐和さん。真実とはいったい何でしょう? 私たち人間の数だ
け真実はある。彼には精霊の国で魔王であったという真実があり、
あなたにはあなたの真実がある。どちらの真実のほうが重いのでし
ょう?﹂
﹁先生⋮⋮﹂
﹁もちろん、私は彼が本当に魔王だったというつもりはありませ
ん。瀬峰正人は妄想癖を持つ統合失調症患者。これが精神科医とし
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ての私にとっての真実です。でも、あなたたちふたりには、あなた
たちの真実があってよいのではないでしょうか?﹂
彼は公園から、工場に向かういつもの道を選んだ。
社長に頭を下げて、もう一度雇ってもらう。そう決心していた。
途中で、小学校の裏手を通る。もう昼近く、中はしずかだ。
かさかさと枯葉を踏みながら長い直線の壁に沿って歩くと、3
人の男たちが裏の校門を乗り越え、校舎に向かって走っていくのが
見えた。
手に何か黒いものを握っている。
﹁ゼファー!﹂
ポプラ並木の黄色く色づく葉陰から、突然精霊の女王が現れた。
﹁大変だ、ゼファー﹂
﹁こんなところで何をしている。さっきもう二度と会わぬと言っ
ただろう﹂
﹁緊急事態なのだ。今走って行った男たちは、悪しき者ども。偶
然私の目に映ったのだ。奴らが武器を用いて、子どもたちを害そう
としておるところが﹂
﹁何だと⋮⋮?﹂
﹁このままだと、子どもの中に犠牲者が出る。ゼファー、止めて
くれ。そなたにいっときだけ魔王の力を返そう。悪しき者の手をく
じいてくれ﹂
彼の体が、黒い光輪を帯びて、光った。
﹁社長さん、お願いします﹂
佐和は、霧島医師のもとから戻るとすぐ、夫の働いていた工場
に赴き、社長の前で膝をついた。
﹁正人さんを雇ってあげてください。もう一度だけチャンスをく
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ださい﹂
﹁佐和ちゃん⋮⋮﹂
﹁私、彼を信じることにしたんです。妻である私が信じきれてい
彼はきっとやれます。私の命を賭けてお約束しますから﹂
なかった。でも、もう迷いません。時間はかかるかもしれないけれ
ど、
﹁佐和ちゃん、ちょっと待ってくれ。実は⋮⋮﹂
社長は、罰が悪そうに禿げ上がった頭頂をなでた。
﹁おととい工場長とも相談して、一度正人くんの提案したライン
20年この仕事をやってきて、こんな簡単なこと
の変更を試しにやってみたんだ。そしたら、生産効率が3%もアッ
プしたんだよ。
に気づかなかった。彼はたった3週間で全部の工程を把握して、改
善点を指摘してくれたんだ﹂
﹁⋮⋮﹂
﹁こちらからお願いしたい。ぜひご主人に戻ってもらいたい。今
度は主任待遇で迎えるから﹂
佐和がことの性急さに考え込んでいると、ひとりの古参の従業
員がばたばたと事務室に走りこんできた。
﹁大変だっ、奥さん。あんたの旦那が小学校で⋮⋮!﹂
急いで学校に駆けつけると、校庭は、避難した子どもたちがク
ラスごとに、あわただしく整列させられていた。
﹁あ、ゼファーさんのお嫁さんだ﹂
低学年の子どもたちが彼女を見て、騒ぎ出す。
﹁すごかったんだよ。ゼファーさん﹂
﹁体育館で、体育の授業中だったんだ。そしたら、鉄砲を持った
男たちがとびこんできて、大声でわめいたの﹂
﹁﹃ぼーりょくだんのこーそー﹄の後、逃げてきたんだって﹂
﹁そこに、ゼファーさんが来て、3人をあっというまに殴り倒し
たの﹂
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﹁男のひとりが何発も撃ったんだよ。でも、ちっとも当たらなか
った﹂
﹁まるで、身体がシュンカンイドウしてるみたいに見えたんだよ。
カッコよかったよ﹂
興奮した子どもたちは、支離滅裂なことをまくしたてている。
﹁で、ゼファーさんは?﹂
﹁まだ体育館にいるよ。警察が来て、いっぱい質問してるから﹂
佐和は、靴が脱げるのも気づかず、走った。
体育館の暗がりの中、大勢の制服の警官が忙しく動いている只
中に、彼女の愛する男が立っていた。
屋根の天窓から洩れ入る午後の光が、彼のまわりを七重の天使
の翼のように取り巻いている。
﹁ゼファーさん!﹂
﹁佐和?﹂
夫はびっくりしたように振り向いた。
彼女は、彼の胸に勢いよく飛び込み、とりすがって泣いた。
﹁どうした? なぜ泣く﹂
﹁お願いだから、心配させないでください。もう、無茶なことは
しないで!﹂
﹁⋮⋮すまない、佐和﹂
﹁私こそ。ごめんなさい。⋮⋮ひどいことを言ってごめんなさい、
ゼファーさん﹂
﹁もういい。それにもう俺をゼファーと呼ぶな。今日から正人で
いい﹂
﹁いいえ。私にとって、あなたはゼファーさんです。ずっと永遠
に﹂
涙でくしゃくしゃになった顔をあげて、夫の目を見つめた。
はじめて出会ったときからわかっていたのだ。その深い色の瞳
にひそむ不思議な魔力を。
﹁大好きです。ゼファーさん﹂
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体育館を出たとき、彼は秋の透明な青空を仰いで、何かにじっ
と目を凝らして黙って立っていたが、やがてぽつりとつぶやいた。
﹁ああ。腹がへったな﹂
暢気な声に佐和はくすりと笑って、彼の手をそっと取った。
﹁家に帰ったら、おにぎりを、たくさんこしらえますからね﹂
30
優しい旅人たち
﹁どうした?﹂
人通りの途絶えた道端で、電信柱の陰にうずくまって、ひとり
の女が子どものように泣きじゃくっていた。
風呂敷包みをひとつ、膝に大事そうに抱えた白髪の老女。小花
模様の柄ちりめんのワンピースからのぞく、しみの浮き出た手足が
木の棒のようだ。
声をかけた若い男は、長躯を折り曲げるようにして女の顔をの
ぞきこんだ。
﹁どこか、痛いのか?﹂
﹁わからなくなって﹂
老女は顔を伏したまま訴える。﹁早く帰らないと夜になっちゃ
うのに﹂
﹁うちはどこだ。送ってってやる﹂
﹁遠く﹂
﹁なんという名前の町だ﹂
﹁わからん﹂
﹁弱ったな﹂
男は背を伸ばし、目を細めて、夕闇にとろりと沈む空気の向こ
うを見やった。
その空気を明るい色で染めるように、ひとりの若い女が買い物
籠を抱えてやってくる。
女は彼を認めると、花の蕾が開いたような笑顔になって駆け寄
った。
﹁ゼファ⋮⋮正人さん﹂
いっしょに誰かがいるのを見て、あわてて呼び方を変える。
﹁佐和﹂
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﹁よかった。ここらへんで会えると思っていました。⋮⋮その方
は?﹂
﹁道に迷ったらしい﹂
佐和はしゃがみこみ、首をかしげて老婆の顔をうかがった。そ
して、驚いたような表情をうかべた。
﹁カネヤのおばあちゃん﹂
﹁知っているのか?﹂
﹁はい⋮⋮。私の実家の近所に住んでいるおばあちゃんです﹂
﹁カネヤのおばあちゃんは、昔うちのそばの商店街で駄菓子屋さ
んをしていたんです﹂
ようよう泣き止んでぼんやりとした面持ちの老婆の手を引き、
ふたりはそこから歩いて十分ほどの家に送り届けた。
中年の女が出てきて、びっくりしたように佐和たちを見て、ぺ
こぺこ頭を下げた。
玄関のドアが閉まったとき、中から女が老婆を叱りつける大き
な声が聞こえてきた。
﹁とっても優しいおばあちゃんで、⋮⋮もう私が子どものころか
らおばあちゃんだったんですよ⋮⋮いつも百円玉をにぎりしめてお
菓子を買いに行きました﹂
佐和は歩きながら、懐かしそうに話す。
﹁つかみどりの飴や、くじのあたるチョコを買うんです。くじに
はずれると、こっそり﹃佐和ちゃん、みんなに内緒だよ﹄って、お
まけをしてくれました。本当は誰にでもそうやってくれていたみた
いです﹂
夫はそんな彼女を、宝物を見るような優しい目でじっと見つめ
ている。
﹁とっても暗算の得意なおばあちゃんだったのに、今は私のこと
もわからないなんて⋮⋮﹂
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﹁何故、そんなふうになってしまったんだ?﹂
﹁人は歳を取ると子どもに返ると言います。いろんなことを忘れ
てしまって﹂
ことばを途切れさせ、悲しげに唇を噛んだ。
﹁さっき迎えに出てきたのは、おばあちゃんの娘さんです。気を
つけていないと昼でも夜でも家を抜け出して、帰れなくなってしま
って、とても大変だとおっしゃってました﹂
﹁この世界に来たころの俺と同じだな﹂
彼は、夢見るような瞳で空を見上げた。
﹁帰りたくとも、帰る道がわからない﹂
﹁ゼファーさん⋮⋮﹂
何日か経って、ゼファーはふたたびあの老女に会った。
彼が近道に選ぶいつもの公園の、雨にうたれた砂場の真ん中で、
ぺたんと座って鼻歌まじりに、濡れて黒々とした砂を無心に掘り返
よわい
していた。まるで畑仕事に精を出している童女のように。
﹁また会ったな﹂
﹁おじちゃん﹂
﹁おじちゃんか、俺は﹂
彼は苦笑した。
﹁まあしかたあるまい。俺の齢は800歳以上。おまえよりはる
かに上なのだからな﹂
ぽかんとした顔の彼女の泥だらけの手を、大きな手で包み込む。
﹁立ってくれ。家まで送ってやろう﹂
﹁いや﹂
﹁なぜだ。迷子になったのだろう?﹂
﹁あの家は、ちがう﹂
﹁ちがう?﹂
﹁本当の家じゃない﹂
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﹁本当の家とは、どこにある﹂
﹁お父ちゃんとお母ちゃんのいるところ。大きな森があって、花
がいっぱい咲いていて﹂
公園の入り口から、老女の娘という女がサンダル履きで走って
きた。
彼を見て会釈したものの、母親の顔は般若のようにきっとにら
みつける。
﹁お母さん! なんでいつも勝手に出て行ってしまうの! 夕方
の忙しいときに限って。また柱に縛りつけてほしいの?﹂
﹁おまえ﹂
老女の服を無理矢理つかんで引っぱろうとする娘を、ゼファー
は静かに押し止めた。
﹁この婦人は、自分の家が別にあると言っているが、本当なのか
?﹂
﹁な、何ですか?﹂
うろたえた声で、彼女は答えた。
﹁そんなわけないじゃない。母は結婚したときからあの家に住ん
でいたんですよ﹂
﹁父親と母親の家があると言っている﹂
﹁バカな。田舎の家なんか、とっくになくなってます﹂
﹁ちゃんと話を聞いてやったらどうだ。もしかすると、そこに何
かの心残りがあって﹂
﹁話なんて通じるもんですか!﹂
彼女はヒステリックに叫んだ。
﹁ボケちゃったんですよ、母は。娘の⋮⋮実の娘の私の顔もわか
らないんですよ!﹂
泣きそうに顔をゆがめると、いやがる年老いた母親を引き引き、
ふたりの小さな背中は薄闇の中に消えていった。
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﹁今日、カネヤのおばあちゃんの娘さんから電話がかかってきた
んです﹂
佐和は、夕餉の味噌汁をよそいながら、言った。
夫とふたりきりの食卓には、小さな魚、野菜の煮物などのつつ
ましい器の並ぶ真ん中に、大皿にいっぱいのおにぎりが盛られてい
る。
﹁ゼファーさんを怒鳴ってしまって悪かったと謝ってらっしゃい
ました。でも、毎日とても辛いそうなんです。おばあちゃんはごは
んを食べたことを忘れてしまったり、テーブルでお金を勘定する真
似を始めて、計算が合わないって怒鳴ったり。目を離すとあっとい
う間に行方不明になってしまって、何キロも先で見つかって﹂
﹁あの人の生まれ故郷はどこにあるんだ?﹂
﹁信州です。でも、生まれた家はダムの底に沈んでしまったらし
いです。もちろん、おばあちゃんのご両親もとっくに亡くなって、
おばあちゃんのことを知っている人も村には誰もいないんですって。
それでもおばあちゃんは、そこにまだ自分の家族が住んでると信じ
ているんですね﹂
﹁そうか﹂
﹁私これからときどき、おばあちゃんのお世話ができたら、と思
っているんです。パートが休みの日に2時間でも3時間でも手伝え
れば、娘さんが息をつく暇が少しでもできるんじゃないかって。子
どもの頃の話をしたり肩を叩いたり。親孝行をさせていただくみた
いに、いろんなことをしてあげたいんです﹂
﹁佐和﹂
ゼファーは箸を置いて、妻を見た。
﹁佐和は、自分の親にはあれから会ったのか﹂
﹁え、ええ。昼間ときどき、顔を見に帰ってますよ﹂
悲しい嘘だった。彼と結婚したときに実家から勘当された佐和
は、こんなに近所に住んでいるのに、実の両親にも兄にも会いに行
けるはずがないのだ。
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﹁すまない﹂
﹁え⋮⋮?﹂
﹁人間にとって、親というのはそれほど大切なものだったのに。
俺のせいでおまえは、その大切なものを奪われてしまった﹂
﹁ゼファーさん﹂
佐和は、心から屈託なく微笑んだ。
﹁そんなこと言わないで。時間が必要なだけです。いつかゼファ
ーさんと私の両親と、きっとみんなで仲良くできる日が来ますから。
私そう信じてます﹂
彼女の微笑にはいつも、不可能をも可能に変えることのできる
魔力が秘められている。アラメキアの最高位の魔女でもかなわぬ魔
力が。
﹁もう、佐和さんと結婚して2年か﹂
ブラインドに手をかけて病院の庭の景色を見やる姿勢をとりな
がらも、眼鏡の奥からのぞく霧島医師の鋭い眼光は、診療室の椅子
に腰かける患者から決して離れない。
﹁早いものだよ。工場にも真面目に行っていると聞くし、もうす
っかりこの世界の住民だな。子どものことも、そろそろ考えてるの
か﹂
ゼファーは軽く肩をすくめただけだった。
月に一度、検診を受けに来る歳月のうちに、この医師のからか
い好きな性格はよくわかってきたつもりだ。
﹁それより、先生。聞きたいことがある﹂
﹁なんだ﹂
﹁人間は歳をとると、どこか帰る場所を捜すようになるのか?﹂
若い精神科医は、わずかに眉を上げた。
﹁近くに住んでいる年寄りの女が、いつも迷子になっているらし
い。家族と住む自分の家は本当の家ではなく、別に帰るところがあ
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るのだ、と思っている﹂
﹁それは、空間的見当識障害だな。アルツハイマー型老年痴呆の
第一期かもしれん﹂
﹁アルツハイマー?﹂
﹁海馬や大脳新皮質の神経細胞が死滅する病だ。記憶障害・失認
に始まり、進行すると多動・徘徊・痙攣が認められる。徘徊してい
る本人には、自分が徘徊しているという意識はないはずだが﹂
﹁そうか﹂
﹁気になるのか?﹂
﹁俺も帰る場所をなくした人間だからな﹂
﹁瀬峰せほうくん﹂
霧島は笑みをたたえて、彼を見つめた。
﹁きみはやはり、自分がアラメキアから来た魔王であると思って
いるのかい﹂
﹁いいや﹂
医師の目を真直ぐに見返して、彼も笑う。
﹁俺は、妄想型の統合失調症患者。魔王なんかじゃない。
⋮⋮そう答えないと、あの眠くなる薬を、またしこたま飲まされる
んだろう?﹂
工場の事務室で、ゼファーは佐和からの電話を受け取った。
﹁おばあちゃんがまた、いなくなったんです﹂
街なかの公衆電話かららしく、息がはずんでいるのがわかる。
﹁みんなで手分けして捜しているんですけど、あの公園にも行っ
てみたんですけれど、いないんです。昨日からのこの大雨の中、ど
こへ行ったのか、とても心配で。ゼファーさん、おばあちゃんと話
したことの中で、何か心当たりはありませんか?﹂
﹁工場長﹂
彼は工場内に急いで戻って、小柄な年配の男に話しかけた。
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﹁私用ができた。早退させてくれ﹂
﹁何を言ってるんだ!﹂
とたんに、工場長は眉を吊り上げる。
﹁だいたいきみは、何かにつけてたるんでる。自分が主任だとい
う自覚があるのか。納期も迫っているのに、勝手に早退なんかされ
ちゃ、困るんだ﹂
﹁頼む﹂
彼は穏やかな漆黒の瞳で、じっと上司の目を見つめた。
﹁ま、まあ﹂
工場長は、とたんにしどろもどろになった。
﹁明日その分残業するというなら、考えてもいいが﹂
﹁わかった。そうしよう﹂
ゼファーが出て行ったあと、社長が何事かと近づいて行くと、
﹁まったくあいつの前に立つと、なぜか園遊会で天皇の前にいる
招待客みたいな気分になるんだ﹂
工場長がひとりでぶつぶつと、繰り言を並べていた。
工場を飛び出すと、門のそばの紫陽花が、大粒の雨に重そうな
首を揺らした。
﹁精霊の女王。そこにいるんだろう﹂
ゼファーが呼びかけると、花のかたわらに、光のしずくをまと
った紫の髪の美しい女が姿を現した。
﹁ばれていたか﹂
﹁この世界には二度と来ないと言っておきながら、たびたび覗い
ているくせに﹂
﹁人間の世界もなかなかおもしろいものだな。私もこちらに住み
たくなってきた﹂
﹁よく言う。400年昔、精霊の国を治めることがどんなものよ
りも大事だと言ったのは、おまえだぞ。ユスティナ﹂
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女王は、鈴を鳴らすような声で笑った。
﹁それより、わたしの助けが必要ではないのか、魔王よ。あの年
老いた女の行方を知りたいのであろう?﹂
﹁ああ、それにひとつ頼みがある。少しのあいだでいい、俺に魔
力を返してもらえぬか﹂
最初のうち、彼女は自分がどこにいるかもわからなかった。考
えても何を考えたかすら忘れてしまう。
自分が細切れになって、暗い宙に浮いているような空虚さ。
家といって思い浮かぶのは、父や母が座っていた大きな囲炉裏
のある茅ぶきの家。裏手の斜面のどっしりとした森と、花々の咲き
みだれる野原を遊び場として大きくなった。いつも小川のせせらぎ
を聞いて眠った。
結婚して上京したことも、夫に先立たれ、駄菓子屋を営みなが
ら3人の子どもを育てた苦労の日々のことも、すべては消え去って、
ただ自分のいるべきところが、どこか別の場所にあるような焦燥に
いつも駆られていた。
自分を呼ぶ声が遠くで聞こえた気がして、はっと目を上げると、
橋のたもと、丈の高い茂みの中で彼女はうずくまっているのだった。
足元の地面だった場所は、いつのまにか水がくるぶしのあたり
まで溢れ、そばの川の濁流へと飲み込まれようとしている。
﹁こんなところにいたのか﹂
背の高い男がひょいと、彼女の小さな体を抱き上げて、川原の
真ん中に立たせた。
﹁びしょぬれだな。風邪をひくぞ﹂
いつのまにか雨は止み、透明な真珠色の陽の光が雲間から差し
込んできた。
老女の眼の前で、男の体がこの世のものとは思われないまばゆ
い輝きを放った。
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雑草の生い茂る河川敷の上を、彼が発する黒い光輪がなめてい
ったかと思うと、その軌跡の中から次々と、曼珠沙華の咲く秋の草
むらが現われた。
﹁ああっ﹂
彼女は叫んだ。
ふるさとの懐かしい景色。近くに、姉や弟と魚をとったあの小
川。遠くに、父と母が待つ萱ぶきの家の屋根。麦飯を炊くにおい。
山おろしのひんやりした風が頬をなぶる。
﹁ここか? おまえの帰りたがっていた場所は﹂
﹁お父ちゃん、お母ちゃん!﹂
手をふりほどいて駆け出そうとする彼女に、
﹁だめだ﹂
と男は首を振った。
﹁これは幻だ。俺の魔力で見せている。本当に行くことはできな
い﹂
﹁あああ﹂
彼女は顔を両手でおおった。
何かが心を揺すぶる。
うれしい。悲しい。ごちゃごちゃになった気持ちが渦を巻き、
熱い涙があとからあとから、あふれてくる。
﹁おまえの本当の家に送ってやろう。家族が心配している﹂
男は、ただひいひいと声もなく泣いている老女を軽々とおぶっ
た。
﹁俺とおまえは似ている。ふたりとも、この世界ではないところ
から来た﹂
土手を歩きながら、言い聞かせるように背中の彼女に話しかけ
る。
﹁もしかすると俺たちは、一生のあいだ旅をしているのかもしれ
ん。でも、この世界に愛する者を見つけて、ここで暮らすことを俺
たちは望んだ。おまえはきっとそのことも忘れてしまったのだろう
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がな﹂
答えの代わりに彼女は、男の暖かい背中にこつんと額を押し付
けて、目を閉じた。
﹁つらくなったら、ときどきさっきの景色を見せてやる﹂
川を渡ってくる風が湿気をふくみながら、旅人たちの髪を揺ら
した。
﹁ゼファーさん﹂
佐和がそっと手をからませてきた。老女を家に送り届けての帰
り道。
﹁カネヤのおばあちゃん、すごく優しい顔をしてました。昔のお
ばあちゃんに戻ったみたい。何かあったのですか?﹂
﹁さあな﹂
﹁ゼファーさんてやっぱり、本当に不思議な方です﹂
﹁いつか、おまえにも俺の生まれた国を見せてやりたい﹂
彼はいきなり立ち止まって、妻の頬を両手ではさみこんだ。
﹁俺は、おまえがいたからこの世界で人間として生きてこれた。
アラメキアから来たという俺のことばを、おまえは黙って信じてく
れた﹂
﹁どうしたんですか、いきなり﹂
彼女は恥じらって、耳たぶまで赤く染めた。
﹁信じるのは当たり前です。大好きな人のことなら何だって﹂
﹁ありがとう﹂
﹁それに⋮⋮、実はアラメキアからもうひとり、お客様が来てく
れたみたいなんです﹂
﹁え?﹂
﹁ほら、ここに﹂
佐和は、大切なものを触る仕草で、自分のお腹をなでた。
41
42
彼方からの使者
﹁にゃあん﹂
足元に黒猫が近づいてくる。公園のベンチに座っている彼の靴
をなめ、くるぶしに気持ち良さそうに柔らかい体をすりつける。
一度も見かけない猫なのに、異常な人懐こさだ。
彼は迷惑げに眉をひそめて、持っていた飲みかけの缶コーヒー
を数滴、猫の鼻に落とした。
﹃ぶ、ぶはあっ﹄
猫は、異様な声をあげた。
﹃アチチ。ひ、ひどいじゃニャいですか。閣下﹄
見るまに黒猫の体がふくれあがり、黒く逆立つ体毛と、鋭い角
と牙とを持つ小柄な若い魔族の姿へと変わった。
﹃ヴァルデミール!﹄
驚いて、腰を浮かしかけるゼファーの前に、
﹃しもべの名を呼んでくださるとは、光栄至極﹄
異形の獣は、前足を折り曲げて拝礼する。
﹃長い間お探し申し上げました。我らの君、魔王閣下﹄
﹃そう言えば、おまえの魔の力は変身をすることだったな﹄
遥かな故郷アラメキアからの同胞に会えたなつかしさと戸惑い
に、ゼファーは目を細めた。
﹃はい、よくぞ覚えていてくださいました﹄
﹃人間に見つかれば、おまえの格好は騒ぎになる。もとの猫の姿
に戻ってくれ﹄
﹃仰せのままに。閣下﹄
黒い魔族は、もとどおり一匹の猫と化した。
43
夕闇の濃い公園の片隅をもし誰かが通り過ぎたとしたら、その
目にゼファーは頭のおかしい男としか映らなかっただろう。ミュア
ミュア鳴きたてる子猫にわけのわからぬことばで話しかけているの
だから。
﹃どうして、この世界に来た?﹄
﹃もちろん、魔王閣下に拝謁するためです﹄
猫は肩をそびやかした⋮⋮つもりらしい。
﹃閣下をお捜しするには、とても長い年月がかかりました。失礼
ニャがら、仰ぐ者すべてを震撼させるかつての偉容と魔力を失われ、
ただの人間の男のお姿とニャっておられましたので﹄
﹃そうだろうな﹄
ゼファーは苦笑した。
﹃それなのに、よく俺だとわかったな﹄
﹃だからこそ長年おそばに仕えていたこのしもべが、アラメキア
の全魔族の使者として選ばれ、ここに参ったのです。私ニャら、閣
下の匂い⋮⋮し、失礼いたしました。閣下のかげりのニャき威光が
見分けられるからです﹄
﹃だが、いったいどうやってここまで来ることができた? 精霊
の女王でもなければアラメキアからこの世界への道筋をつけること
はできまい﹄
﹃それは、閣下がアラメキアに送り込まれた人間を使って、でご
ざいます﹄
﹃なんだと?﹄
彼はわが耳を疑った。
﹃俺が送り込んだ?﹄
﹃はい。アマギと申す白髪のじじいと、その横にそびえるゴーレ
ムのごとき﹁転移装置﹂と申すものです﹄
マッドサイエンティスト天城博士。
44
ゼファーがこの世界に来たばかりで、まだアラメキアに帰るこ
とを目論んでいたとき、並行宇宙の理論を唱え、アラメキアに向か
って穴を開ける装置を提供した科学者である。
渋谷のビルの地下に据えつけた巨大集積装置は、佐和を殺して
暴走を終えたあと、天城博士の姿とともに忽然と消えてしまってい
た。
まさか、それがアラメキアに送り込まれていたとは。
﹃アマギによれば、閣下はアラメキアに人間の大軍を持って攻め
こむ計画をたてていらっしゃるとのこと。しかし、その装置がニャ
いために、それを果たせずにいるのだろうとのことでした。そこで
私が閣下の凱旋をお手伝いするために、こちらに送り込まれたので
す﹄
﹃動力はどうした。確かあの機械は、膨大な電力を必要としたは
ず。それにアラメキアとは7年に一度しか行き来ができぬと言われ
たぞ﹄
﹃アマギに研究させたところ、雷獣トールのミョルニルの数撃で
それと同じ力が得られるとわかり、自由に使いこなせるようにニャ
ったのです。さらに時間神セシャトの魔力により、いつでも行き来
が可能にニャりました﹄
﹃天城のやつ、さぞやアラメキアのほうが住み心地は良いことだ
ろうな﹄
皮肉な笑みを口の端に上らせると、ゼファーはベンチを立ち上
がった。
﹃閣下、お待ちください。どこに行かれるのですか?﹄
﹃家に帰る﹄
彼はゆっくりと大股で歩き出す。黒猫はあわててその後を小走
りに追う。
﹃ヴァルデミール、俺はもうアラメキアには戻らん。こちらで人
45
間として一生を終えることに決めたのだ﹄
﹃ニャ、ニャんですって﹄
男の後をミャーミャー鳴きながら追いかける毛並みのつやつや
した黒猫に、道行く人は不思議そうに、しかし微笑みながら振り返
る。
﹃俺には、ここで守らねばならぬ家族ができたのだ﹄
﹃カゾク。カゾク、それはニャんですか?﹄
ヴァルデミールは信じられないといった叫びを上げた。
﹃俺の妻と、その子どもだ﹄
﹃閣下にお世継ぎができたと?﹄
﹃ああ。まだ生まれてはいないが﹄
みこ
﹃では、ニャおさらアラメキアにお戻りください。魔王軍一同、
魔王閣下とその皇子を諸手をあげて歓迎しましょうぞ﹄
﹃俺は人間だ。もはや魔族の長として君臨することはならぬ﹄
﹃それニャら、ご心配にはおよびません﹄
忠実な部下は、たたたっと家の塀に駆け上り、そこから狙いを
定めてゼファーの肩にジャンプし、耳にささやく。
﹃アケロスの洞窟に封印されていた閣下のお身体を、精霊と人間
どもの手より取り戻しました﹄
﹃なんだと﹄
﹃数ヶ月もの間、精霊の都に総攻撃をかけるふりをして精霊ども
の気を引き付け、その隙に精鋭軍300でアケロスの最奥に潜入し
たのです。
そして魔女たちのいけにえの力で、結界に釘付けられていた御身体
の奪還を果たしました。これでいつお戻りにニャられても、その脆
弱な肉体を脱ぎ捨てて、あの最強の牙と角をそニャえた美しい御身
体に宿ることができます﹄
﹃そのために、何百の魔族を犠牲にしたと言う?﹄
﹃確かに⋮⋮。でも閣下のためニャら、みな死はいといませぬ﹄
ゼファーは心の痛みに、かすかに顔をゆがめた。
46
﹃⋮⋮それでも俺は、この世界を住処と定めたのだ﹄
﹃そんニャ⋮⋮﹄
﹃許せ。ヴァルデミール。アラメキアに帰って、皆にこれ以上無
駄に命を落とすなと伝えてくれ﹄
﹃いいえ。私は帰りません﹄
黒猫は、白くかわいらしい牙をむきだして笑った⋮⋮ように見
えた。
﹃私は、御身の忠臣。閣下とて、私の名を呼んでくださったでは
ありませんか﹄
﹃あ⋮⋮﹄
人間の暮らしが長く、忘れていた。アラメキアの魔族にとって
名前を呼ぶことは特別の意味を持つ。相手に従属を命ずるしるしな
のだ。
﹃私は、閣下と一緒でニャければアラメキアには戻れませぬ。こ
こで一生、閣下のそばを離れぬ覚悟でございます﹄
﹃俺はもう魔王ではないのだ。俺のそばにいて何をするつもりだ﹄
﹃閣下のお世話をさせていただきとう存じます﹄
﹃猫の姿、でか﹄
にじむ笑いを抑えることができない。
﹃ニャんなら、人間に変身してもよろしいです﹄
彼の身体がみるみるうちに巨大化し、黒々と背中まで達する髪
と浅黒い皮膚を持つ若い男の姿へと変わっていく。
もちろん全裸の。
﹃うわっ。やめろ!﹄
ゼファーはあわてて、着ていたコートを脱いで彼にかぶせた。
道端で男同士抱き合っているかのごとき様に、見知らぬ中年の
女がねっとりとした視線を浴びせて通り過ぎる。
﹃いいから、猫の姿に戻れ﹄
﹃それでは、しもべとして侍ることをお許しくださいますか?﹄
﹃わかった。とりあえず認める﹄
47
せほう
数秒のちに、彼の腕の中にはコートにくるまれた子猫が抱かれ
ていた。
ゼファーは、深い苦悩のため息をついた。
﹃ともかく、俺を閣下と呼ぶのはやめろ。俺はここでは﹁瀬峰正
人﹂という人間なのだ﹄
﹃敬称をつけずに呼ぶことはできません。人間の家来どもはニャ
んとお呼びしているのですか﹄
﹃そうだな。このごろ会社では﹁主任﹂と呼ばれている﹄
﹃シュニンですか﹄
ヴァルデミールは、うっとりしたような感嘆の声を洩らす。
﹃すばらしい。それは﹁閣下﹂よりも格段に威厳のありそうニャ
響きです﹄
﹃まあ、そう思うなら思ってもいい﹄
呆れたようにゼファーは首をすくめた。
佐和は、夕食の支度の手を止めた。
今、赤ちゃんがおなかを蹴ったのだ。
愛する夫と下町の狭いアパートで暮らすようになって2年半。
今、彼女の胎内にいる子どもは、8ヶ月になろうとしている。
法を犯し、﹁妄想型の統合失調症﹂と精神病院で診断を受けて、
長い間入院していた正人。自分のことを﹁アラメキア﹂という異世
界から来た魔王だと思い込んでいる。
そんな彼も工場で働くようになり、仕事でも認められ始めた。
佐和にもようやく人並みの幸せな生活が訪れようとしていたのだ。
廊下からめずらしく、無口な夫の話し声が聞こえる。
﹁おかえりなさい、ゼファーさん﹂
玄関のドアが開くと、彼の腕には一匹の黒猫が抱かれていた。
﹁まあ、かわいい﹂
﹁佐和、あの⋮⋮﹂
48
夫は言いにくそうに口ごもった。
﹁こいつは、ヴァルデミール。俺がアラメキアで魔王だったころ
仕えていた部下だ﹂
﹁まあ。アラメキアからのお客様なのですね﹂
佐和は濡れていた手を丁寧にぬぐうと、押入れから客用の座布
団を出してきて、黒い猫をその上に座らせ、丁寧にお辞儀した。
﹁はじめまして。妻の佐和です。アラメキアでは主人がお世話に
なりました﹂
﹃奥方さま。こちらこそ、よろしくお願いいたします﹄
ヴァルデミールのことばは、佐和にはミャオミャオとしか聞こ
えない。
﹁ミルクがお好きかしら。ヴァル⋮⋮。あ、お名前を忘れてしま
いました。﹁ヴァル﹂さんと呼んでよろしいでしょうか﹂
﹁ミャオン﹂
皿に注がれた白い牛乳に、黒猫は甲高い声で鳴く。
﹃シュニン、ニャんとお美しくお優しい奥方さまでしょう。私、
感激のあまり尻尾がぴんぴんです!﹄
﹃フ。俺の選んだ女が、そこらへんにいる有象無象といっしょの
わけがない﹄
﹃ところで﹄
彼はきょろきょろと室内を見渡した。
﹃恐れ多くも、シュニンの御子はどこにいらっしゃるのですか?
見ればどこにもサナギが見当たらニャいのですが﹄
﹃俺の子は、佐和の腹の中だ﹄
﹃ええええっ﹄
忠臣は、座布団の上から10センチも飛び上がる。
﹃こ、この世界の人間はサナギや卵ではなく、腹の中に子を宿す
のですか﹄
﹃ああ、俺も最初は信じられなかったがな﹄
﹁たのしそうですね﹂
49
佐和がにこにこしながら、ヴァルデミールの分の器を並べる。
﹁さあ、ごはんができました。お客様はこれでいいかしら?﹂
黒猫の前のテーブルには、細長い皿に塩鮭がひときれ乗ってい
る。
﹃ああああっ。私、これが大好きニャんです! マグロの刺身や
カツオのたたきも﹄
彼は感涙にむせんでいる。
﹃アラメキアにも、こんニャ美味しい食べ物はありませんでした。
奥方さま直々の手料理でもてなされるなんて、ニャんて私は幸せ者
でしょう﹄
﹁佐和。もしかして⋮⋮﹂
ゼファーは、自分の目の前に山盛りになったおにぎりを見なが
ら、うめいた。
﹁はい、すみません。塩鮭は今日はひときれしかなかったの。お
にぎりの中身はなしになってしまいました﹂
﹃ヴァルデミール! そいつを返せ﹄
﹃え? ニャ、ニャぜですか?﹄
﹃鮭のおにぎりほど、この世で美味いものはない。おまえが来た
せいで、俺はそれが食べられないんだ﹄
﹃そ、そんニャ。いくら威光あるシュニンといえど、それとこれ
とは話が別ですよ!﹄
猫ととっくみあいを繰り広げる夫に、佐和は微笑んだ。
﹁ゼファーさん、うれしそう。やっぱり故郷のお客様が来るとな
つかしいのですね﹂
﹁精霊の女王﹂
返事はない。
ゼファーは、通りがかった家の生垣からのぞく山茶花の色鮮や
かな花をじっと見つめた。
50
アラメキアの精霊の女王。かつて彼が精霊の騎士だったころ、
近衛隊長として仕えていた。
﹁やはり戦乱の中にあっては、俺の声を聞くこともできないのか
⋮⋮﹂
道理でこのごろ、彼女の姿を見ないと思っていた。
かつては毎日のように、この世界を訪れていたのに。異世界で
苦しみながらも、人間として生きようともがいていた頃のゼファー
のもとへ。
﹁俺のせいで、俺の名のもとでまた多くの命が失われているのだ
な﹂
人間と精霊とに挑むこの戦いを始めたのは、ほかならぬ彼だっ
た。
精霊の女王のもっとも身近にいながら、その愛を得られなかっ
た己。
憤りのあまり堕落して、悪しき欲望をもて魔王と化し、女王の
治めるアラメキアに復讐しようとした愚かさ。
﹁俺はアラメキアに戻るべきなのか。そしてもう一度おまえの裁
きを受け、二度と魔族が戦を起こさぬように、永遠の縛めを受けな
おすべきなのか﹂
佐和とその子をこの世界に残して。
そんなことはできない。たとえ多くのアラメキアの民を見殺し
にしても、佐和たちとともにいたい。それは身勝手なのか。ふたた
び罪を犯すことなのか。
﹁ユスティナ。答えてくれ﹂
しかし、冷たい氷雨を含む風が赤い花を揺らしても、答えが聞
こえることはなかった。
工場からアパートの部屋に戻ると、ゼファーは室内を見て驚愕
した。
51
佐和が紐で縛られて、身動きできなくなっている。
﹁ゼファーさん﹂
彼女は困り果てたように微笑んだ。
﹁ヴァルさんとずっとかくれんぼをして遊んでいたんです。そし
たら、急に紐を口にくわえて、私の回りをくるくる回って。気がつ
いたら、こんなになっちゃいました﹂
いかずち
﹃ヴァルデミール!﹄
人を怖じさせる雷のような声で、彼は怒鳴った。
﹃お許しくださいませ﹄
黒い猫の姿をした魔族は、全身の毛を恐怖で逆立たせながらも
言い返した。
﹃どうしても、魔王閣下にアラメキアに戻っていただかなければ。
そして魔族を率いて精霊の国を滅ぼしていただかねばニャりません。
奥方さまと御子には、そのための人質にニャっていただきます﹄
﹃貴様、はじめからそのつもりで⋮⋮﹄
﹃はい。もうすぐ打ち合わておいた時刻が参ります。アマギの操
る転移装置が、ここにアラメキアに通じる穴を開ける予定です。私
と奥方さまたちは、その穴を通って向こう側に戻ります﹄
﹃そんなことは許さん﹄
﹃それ以上お近づきにニャると、奥方さまのお命を頂戴いたしま
す﹄
忠臣はぶるぶると震える鋭い爪を、佐和の首に当てた。
﹁佐和!﹂
﹁ゼファーさん、私だいじょうぶですから﹂
彼女は微笑んだまま。ただ夫の異様な剣幕を見て、ほんの少し
声がかすれている。
﹃穴が開き始めました﹄
アパートの安物の壁が、まるで広大な奥行きを持った神殿であ
るかのように、退き始めた。音もなく湿った風が吹き、部屋にいた
者たちの髪を吹き上げる。
52
﹃もうすでにアラメキアとつながっています。魔力が身体に戻る
のをお感じにニャるでしょう。今ならお望みにニャるだけで、閣下
の真のお身体を手に入れることができます﹄
﹃⋮⋮﹄
﹃アラメキアにお戻りください。魔族の世を作ってください。私
ニャら、八つ裂きにされようとかまいませぬ! どうか⋮⋮﹄
﹃ヴァル⋮⋮デ⋮⋮﹄
暗黒の光輪がゼファーの身体をめぐり渦巻き始めた。抗しがた
い破壊への欲望。
虹彩はまばゆい紫に輝き、瞳の回りの白い部分は消える。なめ
らかな皮膚は鱗に被われ、口から鋭く長い牙が飛び出す。
愛スルモノヲ⋮⋮奪ウモノハ、スベテ⋮⋮滅ボス。
佐和の口から悲鳴が洩れた。
﹁ゼファーさん!﹂
そのとき、佐和の身体から銀色の光が弾けだし、その場にいた
すべての者の視界を奪った。
気がつくと部屋は元通りのみすぼらしいアパートの一室で、人
間の姿に戻ったゼファー、きょとんとしている佐和、そして必死に
壁を叩いている黒猫がいるだけだった。
﹃ニャぜなんだ! アラメキアへの扉が閉じてしまった!﹄
ヴァルデミールはミャンミャンと泣き叫ぶ。
﹁いったい何があったの。ヴァルさんと遊んでいて、急にわから
なくなって⋮⋮﹂
﹁覚えていないのか、佐和﹂
ゼファーはしっかりと腕の中に彼女を抱きしめた。﹁よかった
⋮⋮﹂
53
﹁そなたの呪われた肉体は魔族の手から取り戻し、ふたたび封印
した。魔王ゼファーよ﹂
シュウメイギクの清楚な花が初冬の風に揺れ、精霊の女王のす
きとおった裳裾が、その夜目鮮やかな白に融けこんでいる。
﹁アマギの転移装置も、ふたたび建てられることなきように破壊
した。そなたがアラメキアに戻らぬことを知った魔王軍もすぐに鎮
まるだろう﹂
﹁迷惑をかけた。精霊の女王﹂
ゼファーは夜の公園の街灯の凍えた輪の中に立ち尽くす。
﹁俺の部下たちに、できる限り寛大な処置をしてくれ﹂
﹁こころえている﹂
﹁ヴァルデミールはこちらで預かることにする﹂
﹁不器用なほど忠実な男だ。そなたの力になるだろう﹂
女王は、真珠色に輝く顔を微笑ませた。
﹁それにしても、あの転移の扉を閉じさせた力は何だったのだろ
う﹂
﹁おまえではなかったのか。精霊の女王。佐和の記憶まで消えて
いたので、てっきりおまえだと思っていた﹂
﹁私ではない。はて、そなたでもないとすると、いったい︱︱﹂
﹃私が悪かったのです。奥方さまと御子を人質にとるニャどとい
う不忠義を働いたばかりに⋮⋮﹂
黒猫は、かわいそうなほどがっくりと首を垂れている。
﹃アラメキアに戻る方法は、これで永久にニャくなってしまいま
した﹄
﹃おまえもここで猫として生きるんだな、ヴァルデミール。ミル
クくらいなら、毎日恵んでやる﹄
﹃閣下。わ、私を許してくださるのですか﹄
﹃俺のことはシュニンと呼べ。そのかわり塩鮭は絶対にやらんぞ。
54
あれで作ったおにぎりは俺の大好物なんでな﹄
﹃わかりました。シュニン﹄
﹁さあ。ごはんですよ﹂
エプロン姿の佐和がテーブルにおかずを並べ始める。
﹁ヴァルさんには、大きな塩鮭ひときれですよ﹂
﹁あっ。佐和、まさか!﹂
﹁だいじょうぶ。今日はちゃんとふた切れ買っておきましたから。
おにぎりも鮭入りです﹂
﹃ニャんて、優しくて美しい奥方さま。記憶がないとは申せ、奥
方さまと御子をさらおうとした私にも、過分なもてなしをくださる
ニャんて﹄
黒猫は、感激して高らかにミャオミャオ鳴いている。
﹁あ﹂
﹁どうした?﹂
﹁今また赤ちゃんがおなかを蹴りました。きっと男の子ですね。
とても元気なんです﹂
ゼファーは柔らかく微笑みながら、佐和の大きくなったおなか
を見つめる。
そういえば。
あの、目もくらむほどの銀色の光輪が部屋を覆ったとき。
中心にあったのは、この佐和のおなかではなかったか。
﹁まさか、な﹂
ゼファーは誰にも聞こえぬ小声で、そうつぶやいた。
55
雪の贈り物 都会の小さな駅の人気のないコインロッカー。
一匹の小さな黒猫がひたひたと忍び寄る。
首輪からぶらさがっている鍵がちりりと鳴った。慎重にあたり
を見回すと猫は前脚をうんと踏ん張って、毛を逆立てた。
みるみるうちに、その毛はなめらかな皮膚に変わり、四肢がし
なやかに伸び、猫は20歳くらいの裸の男の姿になっていた。
﹁さあてと﹂
男は喜々として鍵を手に取ると、コインロッカーを開け、中か
ら服を取り出した。
﹁シュニンの家に行って、おいしい昼ごはんを食べさせてもらう
んニャ!﹂
﹁奥方さま。失礼しまぁす!﹂
元気な声と冷気とともに、ドアが開く。
せほう
﹁ヴァルさん、いらっしゃい。うわっ。さむーい﹂
瀬峰佐和は、夫が弟のように可愛がっている青年を部屋に迎え
た。
﹁ニャんだか、空から白いものがいっぱい降ってきましたよ﹂
﹁雪だわ。道理で寒いと思った。アラメキアにも冬はあるの?﹂
﹁いえ、あそこは、一年中春みたいにあたたかいところですから﹂
と答えながら、彼はこたつにもぐりこむと、背中を丸めて幸せ
そうな吐息をついた。
佐和は目を細めて微笑む。
夫の正人は彼のことをヴァルデミールと呼ぶ。確かに浅黒い肌
もつややかな黒髪も黒い首輪も、彼が抱いていたあの黒猫とそっく
56
りだった。
夫がかつて異世界アラメキアで魔王ゼファーと呼ばれていたこ
ろ仕えていた魔族の若者で、変身する魔力があり、猫と人間の姿を
自由に行き来できるという。
普通ならば、とても受けいれがたい話。
何年ものあいだ精神病院に妄想型の統合失調症患者として入院
していた正人のことを、今でもときどき信じられなくなりそうなと
きがある。この若者にしても、ただのお人よしで彼に話を合わせて
くれているだけではないかと。
でも佐和は夫を信じたいと思う。信じると決めている。
﹁ゼファーさんはまだ工場なのよ。今日は土曜日だから、昼まで
のはずなんだけど﹂
﹁あ、忘れてました。私、シュニンからのご伝言を持って来たん
です。どうしてもノーキのせまった仕事があるので、今日は夜まで
残業にニャるそうです﹂
﹁まあ、そうだったの﹂
﹁奥方さまにおかれましてはごシュッサンも間近ニャので、くれ
ぐれも気をつけているようにとの、おことばでございました。
お世継ぎさまのご様子はいかがですか?﹂
﹁ありがとう、ヴァルさん。予定日は五日も先だし、まだ平気よ﹂
佐和は、いとおしげに自分のお腹をさすった。
﹁今日は不思議に、朝からおとなしいんだけど﹂
﹁奥方さまのお腹の中に、シュニンのお世継ぎがいらっしゃるの
ですね。ニャんだか不思議です﹂
﹁アラメキアでは、子どもはお母さんのお腹から生まれないの?﹂
﹁はい、人間も魔族も種族によってちがいますが、卵やサナギか
ら孵るのです﹂
﹁ゼファーさんも?﹂
57
﹁シュニンはもともと気高き精霊の騎士でいらしたので、精霊の
森の花のつぼみから誕生あそばされたはずです﹂
﹁すてきなところなんでしょうね。アラメキアって﹂
﹁もちろんです。一度でいいから、奥方さまとお世継ぎさまを連
れて行ってさしあげたかった﹂
ヴァルデミールは、とたんに悲しそうにうなだれる。
﹁転移装置が壊されてしまったために、もう私も二度と戻ること
ができニャくなってしまいました。シュニンをお連れ申し上げると
いう役目も果たすことができず⋮⋮﹂
﹁ヴァルさん、そ、そうだ﹂
がっくりと気落ちしている様子に、あわてて佐和はばたばたと
食器棚と流し台を往復しはじめた。
﹁お昼、いっしょに食べてかない? ゼファーさんが帰ってこな
いから、おにぎりに入れる予定だった塩鮭が一切れあまっているの
よ﹂
﹁はい、私もそれが目当て⋮⋮、い、いえ。それは望外の幸せに
存じます﹂
﹁よかった。お味噌汁も飲める?﹂
﹁はい。うんとぬるくしてくださいね。ニャにせ私、猫舌なもの
で﹂
塗りの汁椀がそのとき佐和の手を離れて、からからところがっ
た。
﹁あ、大丈夫ですか?﹂
﹁あ⋮⋮っ﹂
彼女は台所のリノリウムの床に、崩れるようにうずくまった。
﹁いた⋮⋮い﹂
﹁奥方さま! どうされたのです?﹂
ヴァルデミールはあわてて駆け寄り、佐和を抱き起こそうとす
る。
﹁ヴァルさん⋮⋮、あ、赤ちゃんが﹂
58
﹁い、今生まれるのですか﹂
﹁違うの、最初の陣痛が来ただけ。まだ平気よ﹂
く
しかし、その苦痛にゆがんだ表情を見て、彼はすっかりパニッ
クに陥った。
﹁お、奥方さま、いったいどういたしましょう。そ、そうだ。薬
すし
師と、祈祷のための魔女を呼んで来ニャければ﹂
﹁落ち着いて、ヴァルさん。だいじょうぶ、病院は近くなの。タ
クシーを呼べばすぐ行けるわ。それにあわてなくても、陣痛は当分
まだ10分おきのはずよ﹂
﹁で、でも⋮⋮﹂
﹁私はここを片付けてから病院に行きます。ヴァルさんはゼファ
ーさんに陣痛が始まったことを知らせてくれる? 電話口に呼び出
したりしては、工場のみなさんに迷惑をかけるから﹂
﹁は、はい。承知しました! すぐにシュニンにお伝えしてきま
す﹂
﹁あわてないで、ゆっくり。気をつけてね﹂
佐和の声に送られ、浅黒い肌をすっかり蒼白にして、ヴァルデ
ミールは一目散に外に飛び出した。
北からの強風にあおられ、粉雪が狂ったように舞う。
ヴァルデミールは、工場への道をひた走りに走った。
﹁だいじょうぶ。あわてないでゆっくりね﹂
何度も佐和にそう言われたのに、彼の耳には入っていなかった。
うずくまって苦しむ佐和の姿。卵を産むだけのアラメキアの出
産とは全然違っている。
ヴァルデミールには、彼女の身に異常なことが起こっていると
しか思えなかった。
﹁シュニン、シュニン﹂
彼の仕える魔王の尊称を呼びながら、ただ急ぐ。
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あっと思ったときには、街角を曲がって歩いてきた三人連れを
よけきれず、衝突していた。
あわてて起き上がって振り向くと、尻餅をついたままのひとり
が﹁いたた⋮⋮﹂と呻いている。
﹁ごめんニャさい、大丈夫ですか?﹂
﹁大丈夫なわけないだろ、このボケがっ﹂
﹁本当にかたじけニャい。悪いが私は火急の用件にて主のもとに
馳せ参じるところ。この非礼はあとで幾重にも詫びるので、今は失
礼させてください﹂
﹁なにを寝ぼけたこと言ってんだよ、こいつ﹂
三人はぐるりとヴァルデミールを取り囲む。どうもタチの悪い
ヤツらのようだ。
﹁おまえのせいで、むち打ち症になっちまったじゃねえか。どう
落とし前つけてくれるんだ﹂
﹁だ、だからあとで詫びると⋮⋮﹂
﹁うまいこと言ってそのまま、トンズラこくつもりだろーが!﹂
﹁私は、魔王閣下の栄誉ある従臣だ。トンズラこくつもりなどニ
ャい!﹂
﹁ふざけるな! やっちまえ!﹂
三人は一斉に、殴りかかってきた。よけきれず、腹や腕あちこ
ちに火で焼いたような痛みを覚えた。
﹁おのれ! あくまでわが使命を邪魔する気か﹂
ヴァルデミールは牙をむき出した。姿勢を低くして四つんばい
になると、背中まである髪の毛が風をはらみ、三人の眼の前でみる
みる異形の獣と化していく。
﹁うわああっ﹂
悲鳴をあげてその場に腰をぬかしたひとりの襟に噛み付くと、
ぶんと振り回して電柱に叩きつけた。逃げ惑う残りのふたりも、追
いかけて同様に気絶させた。
付近の住民が集まり大騒ぎになる前に、あわてて物陰に隠れて
60
人間の姿に戻ろうとした。
が、戻れない。
アラメキアから遠く離れて過ごしているうちに魔力が弱まって
しまったのだろうか。今日何回も変身して、力を使い果たしたらし
い。苦労してやっとのことで一番小さな猫に変わると、今まで着て
いたシャツの下から這い出て、ニャオンと鳴いた。
奥方さまの身に危険が及んでいるというのに、とんだ横槍が入
った。早くシュニンのもとに急がなければ。
だが小さな体しか持たぬ身には、工場までの道のりはなんと遠
いことだろう。小さな生垣すら巨大な森に見え、道路のガードレー
ルでさえ、国と国とを隔てる壁に見える。
ヴァルデミールは、知らずに赤信号の交差点に飛び出した。
キキキと車がブレーキを踏む甲高い音に気絶しそうになったが、
堪えた。
シュニンのもとに。
ただただ一刻もはやく、奥方さまのごシュッサンを知らせるん
だ。目にうっすらと涙さえ浮かべながら、ふたたび走り出した。
凍えた地面を踏みしめる脚には、もはや感覚がない。
﹁にゃっ!﹂
水たまりに薄い氷が張っていたのだろう。後ろ脚が他愛もなく
滑ってころび、ヴァルデミールは道路わきの溝に落ちてしまった。
こんなことになるなんて。
懸命に中から這い上がろうとするが這い上がれない。足の裏も
切れて血がにじんでいる。
﹁みゃああっ﹂
自分があまりにみじめで、役立たずなのが悲しくて、彼はあら
んかぎりの鳴き声をあげた。
そのとき、誰かの大きな手がひょいと溝に落ちた黒猫を拾い上
61
げた。
﹁ヴァルデミール﹂
彼の慕う、なつかしい声。ヴァルデミールは驚きと安堵のあま
りヒゲを震わせながら、彼を助け上げた男の顔を見上げた。
﹃シュニン。来てくださったのですね。奥方さまが、大変ニャの
です⋮⋮﹄
﹃わかっている﹄
彼は皆まで言わせず、微笑んだ。
﹃精霊の女王が知らせてくれたのだ。佐和はたった今病院に着い
て、分娩室に入った。だから心配しなくともよい﹄
﹃よかった、ご無事ニャのですね﹄
ヴァルデミールのつぶらな両眼から、堰を切ったように涙があ
ふれる。
﹃私はてっきり、奥方さまとお世継ぎさまに万一のことがあった
のだと﹄
﹃心配を、させたな﹄
ゼファーは自分のコートのボタンをはずすと、従者の冷え切っ
た体を暖かい胸元に入れて、しっかりと抱きしめた。
﹃あれが、お世継ぎさま⋮⋮﹄
黒猫は、主のコートから頭だけ覗かせると、新生児室のガラス
越しにうっとりと中を見ていた。
﹃ニャんて可愛くて、ニャんて色が白いのでしょう。まるで今日、
空から降っていた雪のようです﹄
﹃女の子だそうだ。女は魔王の世継ぎにはなれぬぞ﹄
﹃それでもいいのです。シュニンの御子であることに変わりはあ
りません。それに⋮⋮﹄
小さな肉球で、ぐしぐしとまた涙をふく。
﹃あんニャに何時間も奥方さまが苦しまれて、誕生あそばされた
62
お子さまです。それだけでもうよいのです。
新しい命を産み出すということは、人間にとってほんとうに美し
くて、ほんとうに尊いことニャのですね﹄
﹃ああ。400年ものあいだ、魔王としてずっと破壊ばかり為し
てきた俺が、新しい生命を預かり、自分の手で守る者となるとは﹄
ゼファーは、ぽつりとつぶやいた。
﹃⋮⋮この喜びこそ、精霊の女王がこの世界で本当に俺に伝えた
いことだったのだな﹄
部屋には朝の光が満ちていた。
甘い香り。窓辺に柔らかい色のたおやかな花々が咲き乱れる。
そして、そのかたわらで小さな黒猫を抱いた夫がじっとこちらを見
つめている。
ここがきっとアラメキアなのね。佐和はそう思った。光あふれ
る幸せの国。
﹁この花はさっき、社長と工場長が置いていったものだ﹂
夫が目を開けた彼女に気づいて、語りかける。
﹁まあ、わざわざ社長さんたちがお見舞いに? 眠っていて失礼
なことをしてしまいました﹂
﹁玄関まで見送るついでに、また赤ん坊を見てきた﹂
﹁あの子、どうしていましたか?﹂
﹁元気に手足を動かしていた。やはり、おまえに似ているよ﹂
﹁そんなことないです。ゼファーさんにそっくりの美人だわ﹂
佐和はくすくすと笑った。
﹁どうしましょう。男の子とばかり思い込んでて、女の子の名前
を考えていませんでした﹂
﹁今はまだいい。ゆっくりと休め﹂
そう言いながら、サイドテーブルのビニール袋に手を伸ばし、
アルミホイルの包みをとりだす。
63
﹁腹が減ってないか? きのうからずっと、食べていないんだろ
う﹂
﹁ええ、もうすぐ病院の食事があるから。⋮⋮でも、それは何?﹂
﹁俺が握ったおにぎりだ。ゆうべ家に帰って、冷蔵庫に入ってい
た塩鮭を見つけて作ってみた﹂
照れくさげに夫は顔をしかめた。
包みから現われたのは、でこぼこの形をした、半分割れかけた
おにぎりだった。皮や骨のついたままの鮭の切れ端が中からのぞい
ている。それを見た佐和は、思わず微笑んだ。
﹁難しいものだな。おまえが握るようにはいかない。ごはん粒が
半分以上、手にくっついて取れなくなったぞ﹂
﹁手を先に水で湿らすんですよ。でもうれしいわ。いただきます﹂
佐和は両手で受け取ると、一口頬張った。
おにぎりに塩はまったく入っていなかったが、その必要はなか
った。佐和の口の中はすでにもう、涙の塩味でいっぱいだったから。
﹁とても美味しい。ありがとう⋮⋮ゼファーさん﹂
64
暗黒︵前書き︶
残酷な描写があります。お読みになるときは、ご注意ください。
なお、これは実際の精神病院をそのまま描写するものではありませ
ん。
65
暗黒
オレハ、ダレダ?
医師が彼の腕に注射針を刺した。
﹁やめろぉ︱︱ッ﹂
男性の看護師がふたりがかりで彼を押さえつける。
交わされることばは何もなく、ただ男たちの荒い呼吸が部屋に
反響する。
ストレッチャーは﹁手術室﹂と書かれた部屋に運ばれた。
酸素マスク。さらに麻酔薬の注射。
意識が遠のく。ぐったりとした彼のこめかみに電極が当てられ
る。
オレハ、魔王ぜふぁー⋮⋮。
頭の中の絶叫は、暗黒にはじける白い電気の火花に溶けてゆく。
瀬峰正人。26歳。妄想型の統合失調症。
麻薬所持や株の不正取引、恐喝などの罪で、都内の精神病院に
措置入院中。
自分のことを異世界から来た魔王だと信じている。
入院後数ヶ月、極度の錯乱状態。
66
ECT︵電気ショック療法︶5回処置。その後も保護室入室が
断続的に続いている。
﹁瀬峰さん、あんたは魔王なんかじゃないんだよ。病気なんだ﹂
ちがう。俺は魔王だ。自分で自分のことを信じなければ、誰が
信じる?
﹁また当分ここに入ってろ! 世話を焼かせやがって!﹂
﹁何にもできない魔王さんよ、悔しかったら魔法でも使ってみろ
よ﹂
完全に魔力を失った体は、まるで草原をかろやかに駆けていた
動物が地べたを這いずり回っているよう。
それでも俺は、かつては比類なき闇の主、最強の魔王と呼ばれ
た存在だった。
⋮⋮本当に、そうなのか?
頭が痛い。何も考えられない。
暗闇を好んで何百年も生きてきたはずなのに、この暗黒はまる
で永遠だ。
﹁俺は蛆虫になってもよい! 佐和を生き返らせてくれ!﹂
精霊の女王に誓ったことば。
67
そうか。だから俺は蛆虫になったのか。
こうやって保護室の畳の上で這いずり回ることしかできない。
涙と小便とよだれを垂れ流して、それでも生きていくしかない
存在になったのだな。
薬のせいで、何かを考えようとしても指の間からこぼれおちて
しまう。
ただ時間が、ぼんやりと過ぎていく。
﹁お願いです、一目だけでも彼に会わせてください﹂
若い女の声が扉の外から響いてくる。
誰だったろう?
思い出すのもおっくうだ。誰が好きこのんで、蛆虫に会いに来
るというのだ。
だがその声を聞くたびに、心の奥底で何かがかすかな音を奏で
ている。何か意味あることばを形作ろうとしている。
﹁開けてあげなさい﹂
ある日、聞いたことのない男の声がした。
﹁でも、危険だから誰も面会させないようにと⋮⋮﹂
﹁院長には私から言っておく﹂
鉄の扉が開き、白衣をひるがえして入ってきた男は、畳に伏し
ている彼のそばに片膝をついた。
﹁瀬峰正人くん、はじめまして﹂
だるく熱っぽい体を少しずつ、少しずつ動かす。
﹁霧島と言います。今日からわたしがきみの新しい担当医になる﹂
だが彼の目は、医師の向こうの、扉の影にたたずむ女に釘付け
られていた。
68
﹁さ⋮⋮﹂
ずっと耳の中で鳴っていた音楽。ずっと瞼の裏から消えなかっ
た夢。
﹁ゼファーさん﹂
女は泣きながら、確かにそう言った。
誰も呼んでくれなかった、自分でさえ忘れかけていた、その名
前を。
﹁さ⋮⋮わ﹂
眼球がとうとう溶けて流れ出したのかと思うほど、彼の目から
涙があふれでていた。
﹁佐和﹂
﹁ゼファーさん!﹂
それは暗黒の中から彼を救い出す、魔法の呪文だった。
69
親切な配達人
はらはらと色づいた木の葉が、工場の庭から風に乗って、積ん
であったダンボール箱にふわりと着地する。まるで秋が寄こした便
せほう
りのようだ。
﹁瀬峰主任﹂
工場長のダミ声に、搬入された部品の点検をしていたゼファー
は振り返った。
﹁今日も、何人かに残業をしてもらわねばならん﹂
﹁また、なのか﹂
渋い表情で視線を返すゼファーに、
﹁このままの生産ペースでは、どう見積もっても、約束した納期
に間に合わんのだ﹂
工場長は汗を拭き拭き、言い訳を続ける。
﹁E工程の機械をもう一台増やしてもらえれば、なんとかなるん
だがなあ。会社の状況じゃそうもいかんし﹂
ゼファーが働く工場では今、近年ブームになっているデジタル
家電に特化した部品の生産を伸ばしている。注文が増え、その分従
業員たちも残業が多くなる。だが熾烈な値引き競争の中で、その割
に利益は上がらず、相変わらず苦しい経営が続いていた。
特に、新しい工程に導入した工作機械の数が足りないため、そ
の時間あたりの生産量がネックになって、製品が思うように仕上が
らないのだ。
﹁悪いとは思ってるよ。おまえにも乳飲み子を抱えた奥さんがい
るんだしなあ﹂
工場長は煙草を取り出すと、箱の上にすとんと巨体を落とした。
70
ゆきは
﹁おまえの娘⋮⋮なんて名前だったっけ﹂
﹁雪羽、だ﹂
﹁もう十ヶ月になるんだったかな。子どもが大きくなるのは早い
もんだ﹂
煙をくゆらす上司の隣に座り、ゼファーは言った。
﹁工場長。ひとつ、提案がある﹂
﹁なんだ?﹂
﹁E工程の前に、ひとつ検査作業をはさめないか﹂
作業着の胸のポケットに入っていた、くしゃくしゃの書類を取
り出す。
﹁これによると、最終検査で、全体で約2%の不良品が出ている。
そのほとんどがE工程の前の工程で出たミスだ。つまり、2%の不
良品がE工程の機械を通っていることになる。その前に検査ではね
れば、機械の作業時間をムダにしなくて済む。うちの工場は今、E
工程の生産量が全体の生産量を決めているんだ﹂
﹁しかし、そんな検査に割く場所も人員もないぞ﹂
﹁場所は、作業場を少し動かしてそのあたりに作る。必要な人員
は至急、各部署から何人かを集めて訓練させる。どうせE工程のあ
とのラインは手待ち時間が長い。それくらいの融通は利くはずだ﹂
﹁2%の不良品か⋮⋮。少し前までは、1%台だった。工員の士
気が落ちてるんじゃないのか﹂
﹁残業が増えて、みんな疲れてる。こっちの身にもなってみろ﹂
﹁それはそうだが⋮⋮。特に研磨工程の不良が多いな。水橋、矢
野、村上か。3人とも女性だから、残業続きはきついかもしれんな﹂
丸めた書類でぽんぽんと肩を叩く。
﹁とにかく、納期内にノルマを果たしてもらわねばならん。一円
でも少なくコストを抑え、一円でも多く利益を上げる。会社の存続
がかかってるんだぞ﹂
﹁俺に関心があるのは、従業員全員の給料が上がることだけだ。
︱︱残業なしにな。そのためなら、何でもする﹂
71
﹁わかった、その提案を試してみよう。おまえが音頭を取ってく
れ。そのほうが、みんな進んで動くからな﹂
﹁ああ﹂
﹁それにしても﹂
不思議そうにゼファーを見つめる。ふたりには、父と息子と言
ってもいいほどの年齢の開きがあった。
﹁学校にもろくに行ってないはずなのに、どこでそんな生産理論
の知識を得たんだ?﹂
﹁魔王軍全体の陣形を見極め、弱いところに兵を投入して勝利に
導く。それが何百年もの間の、俺の仕事だったからな﹂
それを聞いて怪訝な顔をしている工場長に、ゼファーは笑った。
﹁病気から来るいつもの妄想だ。気にするな﹂
﹁どうでもいいけど、おまえと話してると、俺はおまえの上司だ
という気がしない。そっちの方が偉そうだ。もうちっとその言葉使
いは、なんとかならんのか﹂
﹁それでは、改めよう。⋮⋮これでよろしいでしょうか、工場長﹂
﹁やめてくれ﹂
工場長は、ぶるぶると震えてみせた。
﹁おまえにそんな言葉を使われると、かえって怖い﹂
昼休み。交替で取る休憩時間に、ゼファーはひとりの女性と、
工場近くの喫茶店で向き合っていた。
﹁あ、あの、主任⋮⋮﹂
その女性、水橋ひとみはおずおずと切り出した。
﹁お話は、おっしゃらなくてもわかってます。わたしの仕事にミ
スが多いことでしょう?﹂
運ばれてきたコーヒーを前に、泣きそうにうなだれる。
﹁村上さんも矢野さんも、懸命にフォローしてくれるんですけど、
でも、どうしても集中できなくて。すみません。⋮⋮わたし、リス
72
トラですか?﹂
ゼファーは微笑んで、首を横に振った。
﹁ときにはそんなこともある。人間は石でできたゴーレムではな
いのだからな﹂
﹁ごーれむ?﹂
﹁いや、もののたとえだ﹂
と咳払いする。
﹁仕事に身が入らないのは、何か心配ごとがあるのではないか﹂
﹁ええ⋮⋮。でも﹂
﹁話してみろ。遠慮はいらん。兵卒の様子に気を配るのは、指揮
官の仕事だ﹂
﹁わたし、⋮⋮結婚したい恋人がいるんです。でも﹂
みるみるうちに、目尻に涙がたまる。
﹁彼のお父さんは小さな会社を経営してらして、今、資金繰りに
とても困っているって。それで会社の専務である彼も、毎日金策に
走り回って⋮⋮。わたしもできるだけのことはしたんだけど、もう
貸してあげられる貯金もなくなってしまったんです﹂
ゼファーは天井を見上げて、吐息をついた。
﹁どこも、金の話か﹂
﹁今週20万そろえないと、不渡りが出てしまうんです。でも、
わたしもどこにも頼るところがなくて⋮⋮。お給料の前借りを社長
さんに頼んだら、親の葬式か家族の病気でないと、前借りはできな
い規則だと言われちゃって。わたしは小さい頃に親をなくしてひと
りぼっちだし、高校を卒業してから5年間ずっとお世話になった社
長さんに、嘘をつくこともできません﹂
ゼファーは、しゃくりあげている女子工員を優しいまなざしで
じっと見つめた。彼女にはどこか、佐和に似たところがある。控え
めで、ひたむきで、不器用だけれども何に対しても一所懸命の女性。
﹁20万あれば、いいんだな﹂
ひとみは、﹁えっ﹂と声を上げた。
73
﹁そんな⋮⋮。ウソ。だめ。主任にご迷惑をかけるわけには﹂
﹁なんとかしてみる。明日まで一日待ってくれ﹂
﹁あ⋮⋮、主任﹂
支払いをすませ先に喫茶店を出ると、外で待ち構えていたらし
い小さな猫が、ミャアとすり寄ってきた。
﹃シュニン。ニャにか悩みがあるというお顔をしておられます﹄
﹃わかるか。ヴァルデミール﹄
ふさふさの黒い毛糸玉のような身体を拾い上げ、魔族のことば
で語りかける。彼はゼファーが精霊の国アラメキアにいた頃の、従
者の若者だった。
﹃明日までに、20万という金を工面せねばならなくなった﹄
﹃20万! 塩鮭がニャん切れ買えるお金でしょう!﹄
﹃アラメキアと違い、この世界のすべては金で動く。だが、今の
俺にはそれを動かす力がないのだ﹄
﹃どこか金の余っているところから盗んでくる⋮⋮というのは、
お許しくださいませんよね﹄
﹃無論だ﹄
﹃どうしたら、いいでしょう﹄
曇っていたヴァルデミールの顔が、ぱっと輝いた。
﹃そうだ! 落ちているコインを拾うという案はどうです? わ
たくし、自動販売機の前で百円拾ったことがあります。猫仲間に呼
びかけて、町中のコインを拾って集めれば⋮⋮﹄
﹃三年計画くらいで、頑張ってくれ﹄
ゼファーは、苦笑しながら答えた。
﹁20万円?﹂
夕餉の食卓で、佐和は驚いたように言った。
あれからいろいろ考えた挙句、結局何も良い案が浮かばずに、
ゼファーは家に帰ってきたのだった。
74
﹁いったい、何に使うのですか﹂
﹁女に⋮⋮﹂
﹁女の方に貢ぐのですか?﹂
﹁ば、馬鹿っ。何を言ってる﹂
ゼファーは大慌てで否定した。﹁工場の女性従業員が、恋人の
借金のことで困っているのだ。だから⋮⋮﹂
﹁冗談です﹂
くすくすと、佐和は笑った。
﹁ちょっと、雪羽を見ていてくれますか﹂
佐和は幼い娘を夫の腕に抱き取らせて、隣の部屋に行った。
雪の日に生まれたわが子。舞い落ちる雪のひとひらにも似た母
親譲りの白い肌。父親そっくりの漆黒の瞳で、じっと見上げる。ま
るで、この世のすべての真理を知っているかのような眼差し。
﹁雪羽﹂
大切なその名を呼びながら、ゼファーはそっとその柔らかい頬
に自分の頬を押し当てた。その傍らで、黒い猫が塩鮭をかじりなが
ら、幸福そうに寝そべっている。
﹁ごめんなさい、ゼファーさん。15万円しかありませんでした﹂
佐和は白い封筒に入った紙幣を数えながら、戻ってきた。
﹁後でもよければ、銀行に行って、また少しお金を下ろせるので
すけれど。とりあえず今はこれで足りるでしょうか﹂
﹁どうしたんだ、この金は﹂
﹁私のへそくりです﹂
﹁へそくり?﹂
﹁雪羽が大きくなったときのためにと思って、少しずつ貯めてい
たんです。だから、このお金は雪羽が貸してくれたと思って、大事
に使ってくださいね﹂
﹁佐和﹂
ゼファーは娘を抱いたまま、もう片方の腕を、妻のか細い背中
に回した。
75
﹁おまえは本当に、アラメキアの最高位の魔女のようだな。いつ
も俺を驚かせる魔法を使う﹂
﹁魔法だなんて、大げさです﹂
﹁第一、魔法でもなければ、これほど美味いおにぎりを作れるは
ずがない﹂
彼は、妻の額に口づけを落とす。
﹁ありがとう、佐和﹂
﹁こんなにたくさん⋮⋮﹂
うるんだ目で、水橋ひとみはゼファーを見上げた。
﹁これで、足りるのか﹂
﹁はい、わたしも幾らか、友だちに借りてきたから。彼、とって
も喜ぶと思います。ありがとうございました﹂
彼女は何度もお辞儀をしながら、工場の庭を一目散に駆けてい
った。さっそく、恋人に連絡を取るのだろう。
ゼファーはその後姿に微笑みながらも、何故か心の隅に巣食う
不安をぬぐいきれなかった。
その日の夜、工場を出た彼のもとに、暗がりからひとりの若い
男が近づいてきた。長い黒髪をした浅黒い肌の男。
﹃ヴァルデミール。どうだった?﹄
﹃はい、お言いつけのとおり、例の女性が男と待ち合わせて金を
渡すところを見張っていました。それから後は、男のほうをずっと
つけて行って、ある店に入るのを見届けました﹄
ゼファーの腕をくいくい引っぱり、先導する。﹃こっちです、
シュニン﹄
ヴァルデミールが連れていったところは、一目でいかがわしい
とわかる歓楽街のど真ん中だった。
雑居ビルの階段を上がると、高級バーらしき店の豪奢な布張り
のドアの中から、数人の男女の笑い声が響いてきた。
76
﹃とんでもニャい奴ですよ、あの男は!﹄
憤慨した様子で、ヴァルデミールがつぶやく。
﹃すぐに借金を払いに行くかと思えば、こんな店に入ったんです
よ。畏れ多くもシュニンのしもべをダマすニャんて、赦せません!﹄
扉を押し開けた瞬間、﹁バカな女だよ﹂という声が聞こえた。
﹁もうこれで、かれこれ百万だぜ。少しは変だと思わないのかね﹂
﹁おつむがちょいと弱いんだろう。あんな下町のボロ工場で、油
にまみれて文句も言わず、あくせく働いてる女だからな﹂
﹁この調子じゃ、まだまだ巻き上げられるんでねーの?﹂
あとから続いて店に入った従者の目には、ゼファーの背中から
黒い炎が吹き上がるように見えた。
﹁貴様ら︱︱﹂
突然降ってきた声に、ソファに座って酒を飲んでいた4人の男
女ははっと振り返る。
﹁そこの真ん中の奴が、水橋が恋人と呼んでいた男だな﹂
その静かな声には、人を恐怖の沼に突き落とすような凄まじい
響きがこめられていた。
﹁今その懐にある金は、多くの汗がしみこんだもの。貴様ごとき
が触る資格はない﹂
﹁な、なんだ、おまえは。いきなり﹂
﹁こいつと初めからグルでなかった者は、今すぐこの店を出ろ。
巻き添えにされたくなければ﹂
いっしょに座っていた女と、店のバーテンがあわてて飛び出し
て行った。
﹁アラメキアの魔王ゼファーの名にかけて、貴様を赦しはしない﹂
その声に呼応するかのように、そばにいた黒髪の男が身を屈め、
そしてたちまちのうちに異形の獣と化した。
﹁うわああぁぁっ!﹂
77
﹁すみません、主任。きのうは勝手に休んでしまって﹂
一日有休を取り、あくる日から出勤してきた水橋ひとみは、意
外なほど明るい表情をしていた。
﹁お借りした15万円、お返しします﹂
﹁ほう、いったい、どうしたんだ﹂
何も知らぬふりを装って、たずねる。
﹁おとといの夜、うちに電話がかかってきました。警察から、詐
欺容疑で男を逮捕したので、事情聴取に来てほしいと言われて。そ
こで、彼が前科のある、結婚詐欺の常習犯であることもわかりまし
た﹂
﹁そうだったのか﹂
﹁本当のことを知ったときは、さすがにショックで落ち込んで⋮
⋮。悔しくって。でもなんだか、それでよかったのだと思えてきま
した。自分でも不思議だけど、今はきっぱりふっきれたみたいです﹂
口とは裏腹に、まだ悲しみの陰を目元に引きずってはいたけれ
ど。
﹁それよりもっと不思議なのは、あいつったら、ぼろぼろに殴ら
れて半狂乱になって、﹁自首させてくれ﹂と警察に駆け込んできた
そうです。誰にやられたかと刑事が聞いても、﹁魔王が、怪物が﹂
と、わけのわからないことを口走るだけなんですって﹂
ひとみは、子どものような微笑を浮かべた。
﹁わたし、それを聞いたとき、なんだか瀬峰主任の顔を思い浮か
べちゃいました。主任が助けてくださったという気がして﹂
﹁さあ、俺は何も知らないな﹂
﹁すみません、変なことを言って。でも本当にありがとうござい
ました。何もかも、主任が親切にお金を貸してくださったおかげで
す﹂
﹁礼なら、俺ではなく、家内と娘に言ってくれ﹂
﹁まあ、雪羽ちゃんにも? ふふ、お二人によろしくお伝えくだ
さい﹂
78
彼女はくるりと振り向くと、工場の庭を元気な足取りで歩き始
めた。
﹁残念だなあ。主任に奥さんがいらっしゃらなかったら、好きに
なっちゃったかもしれません﹂
﹁⋮⋮え?﹂
呆気にとられた顔をしたゼファーがひとり、落ち葉の降り敷く
中に取り残された。
79
幸せの風景
夜ゼファーがアパートに戻ると、佐和が泣いていた。
台所の隅で背中を向けて、エプロンでそっと目の辺りを拭いて
いる。
心ならずも妻のとんでもない秘密を覗き見してしまい、彼はう
ろたえた。魔王軍が敗北して人間の王たちに捕らえられたときでさ
え、これほどにうろたえたことはないというほどに。
﹁佐和。いったいどうしたんだ﹂
﹁いえ、なんでもないんです﹂
﹁雪羽に何かあったのか?﹂
﹁いいえ、元気ですよ。遊び疲れてもう寝ています﹂
なお口をつぐんでいる彼女に、彼はますます混乱した。
﹁財布でも落としたのか﹂
﹁⋮⋮いいえ、そんなんじゃ﹂
﹁じゃあ、俺が毎日残業で帰りが遅いのが、寂しいとか?﹂
﹁⋮⋮﹂
﹁それとも、残業だと偽って、工場長と内緒で飲みに行ったのが
バレたとか﹂
﹁⋮⋮﹂
﹁まさか、女子工員の水橋に昼をおごってやったのが、気に食わ
なかったのか?﹂
﹁ふふっ﹂
佐和はこらえきれなくなって、くすくす笑い始めた。
﹁このままずっと黙っていたら、ゼファーさんの隠し事が全部聞
けそうですね﹂
﹁ば、馬鹿。何を言ってるんだ﹂
﹁本当は、これが理由なんです﹂
80
涙をぬぐったその指で、佐和は食卓を指差した。その上には、
ラップをかけたおかずの皿や小鉢のそばに、デパートの包装紙をほ
どいた白い紙箱が置いてあった。
﹁たった今、宅配便で届いたんです﹂
箱を開いて夫に見せた。﹁うちの実家の母から﹂
そこには、可愛らしいピンクの女の子用のドレスが入っていた。
﹁雪羽にって。来週の一歳の誕生日を覚えててくれたんですね。
だから私、胸がいっぱいになってしまって。幸せで泣いていたんで
す﹂
佐和はまた目をうるませながら、にっこり笑った。
そうだろうか。ゼファーは心の中で思った。
佐和はやっぱり悲しかったのではないだろうか。娘が生まれて
一年。佐和の両親や兄弟は、その間一回も雪羽を見に来たことがな
い。佐和自身も実家に戻ったことがない。
ゼファーと結婚したとき、父親から二度と家の敷居をまたぐな
と言われているのだ。母親だけは佐和を不憫に思ってくれているら
しいが、夫を恐れて、おおっぴらに会いに来ることもできない。こ
うしてこっそり何かの折に、内緒でプレゼントを贈ってくれるのが
関の山。
そんな状態を、佐和は幸せだと感じているはずがあるだろうか。
﹁さあ、すぐ晩御飯にしますね﹂
﹁佐和⋮⋮﹂
﹁なんですか、ゼファーさん﹂
﹁いや、なんでもない﹂
すまない、ということばをすんでのところで飲み込んだ。その
言葉を言えば、佐和は懸命に否定するだろう。
﹁ゼファーさんは、私に謝るようなことは何もしていません﹂
そう言って、すこし悲しそうな目で見つめるだろう。
夕食の支度のあいだに、ゼファーは隣の部屋に入った。雪羽が
寝かされている布団のそばに胡坐をかき、じっとその顔をのぞきこ
81
む。
柔らかくてふっくらとした頬。長いまつげに縁どられたまぶた
は、時折ぴくぴくと動く。そしてにこっと笑う。
﹁こんなに小さいのに、夢を見ているのか﹂
ゼファーは驚いたように、つぶやいた。その声を聞きつけて、
佐和もやってきた。
﹁ああ、本当。幸せそうですね﹂
﹁夢の中でどんなものを見たら、こんなに幸せそうな顔になるん
だろう﹂
﹁さあ、なんでしょう。私だったら、お日様の光をいっぱい浴び
たふかふかのお布団が夢に出てきたら、うれしいわ﹂
﹁俺なら、山のようなおにぎりかな﹂
﹁ゼファーさんを幸せにするのは、とっても簡単ですね﹂
佐和は笑って、手に隠し持っていたおにぎりを、夫の口にひょ
いと放り込んだ。
ゼファーはそのとき心の中で、あることを決意していた。
アパートから歩いて十分ほど。
坂道を上がると、大きなお屋敷町が見えてきた。
佐和の家は、格式のある旧家だと聞いた。厳格で体面を重んじ
る父親と優秀な兄たちに囲まれて、佐和はさびしい少女時代を送っ
たらしい。
﹁元々トロくて、何をしてもダメな子どもだったんですよ﹂
と一度笑いながら、言ったことがある。
ものを考えるときもゆっくりで、要領良く生きられない彼女は、
父の意に染まなかった。たったひとりの味方である母も、夫の前で
佐和をかばいきれず、彼女はとうとう短大入学を口実に家を出て、
82
一人暮らしを始めたのだった。
御影石の長い塀に囲まれた家を探し当てると、ゼファーは門の
呼び鈴を鳴らした。
ちょうど庭で愛車の掃除をしていた、60才くらいの男がすぐ
に出てきた。
﹁おまえは⋮⋮﹂
門の外に立つゼファーを見て、即座に眉を吊り上げた。
﹁お父さん﹂
﹁おまえなどに、お父さん呼ばわりされる筋合いはない!﹂
興奮のあまり喉をつまらせながら、高飛車に怒鳴る。
﹁今さら、のこのこと何しに来た﹂
﹁俺たちの娘が、もうすぐ一才になる。一度、会いに来てはもら
えないか﹂
﹁おまえらと、この家とは何の関係もない﹂
﹁雪羽はあなたの孫だ。たとえどんなに否定しようとも、それは
変わらない﹂
﹁うるさい! どこの馬の骨かわからない奴の血を引いた子ども
なんかを、誰が孫だと認めたりするか。
佐和のことは、もうとっくに勘当した。親の勧める縁談をぶち壊
してメンツをつぶしおって! 挙句、おまえのような得体の知れな
い男と所帯を持つような娘は、娘とは思わん﹂
妻たちに対するあまりの侮辱に、ゼファーは思わず手を握りし
めた。足元で小さな黒猫が﹁フーッ﹂と、うなりたてる。
﹁でも佐和は、あなたたちに会いたくて泣いているんだ﹂
かすれた低い声で、ゼファーは続けた。そして、深々と礼をし
た。
﹁⋮⋮お願いします。佐和と雪羽に会ってやってください﹂
下げていた彼の頭に、冷たい水が浴びせられた。
さっきまで車の掃除に使っていた、バケツの汚れた水だ。
﹁帰れ!﹂
83
佐和の父はわめきながら、門を彼の鼻先でがしゃんと閉めた。
﹁二度と顔を見せるな。今度来たら、警察を呼ぶ﹂
門の外、ゼファーはきつく握りしめていた拳を、ゆっくりと時
間をかけて、ほどいた。
二月の寒風の中、頭からずぶぬれになったまま、もと来た道を
歩き始める。
﹃ニャぜ、あの無礼者を殴らニャいのですか?﹄
黒猫がそのあとを追いかけながら、悲痛な声で叫んだ。
﹃あんニャに辱められ、おとしめられたのに。シュニンは悔しく
ニャいのですか﹄
﹃佐和の父親の、言うとおりだからだ﹄
ゼファーは子猫を拾い上げ、ふところに抱きしめる。
﹃俺はこの世界では、地位もなく金もない。地位も金もある父親
にとって、俺は佐和にふさわしくない存在なんだ﹄
﹃わたしは、悔しいです⋮⋮﹄
猫はぼろぼろ涙を流し、ゼファーの濡れた手に顔をこすりつけ
た。
﹃シュニンは、アラメキアでは比類のニャい最強の魔王であらせ
られたのに。あんニャ人間、ひと睨みで殺してしまうことがおでき
にニャったのに﹄
﹃だが、俺は魔王であったとき、ちっとも幸せではなかったよ﹄
ゼファーはやさしく猫の背中を撫でた。
﹃すべての者に畏れられていたが、たったひとりの心さえ得られ
なかった。今は欲しかったものが、ちゃんとある。たとえ他の誰に
も認められなくとも、俺はそのほうがいい﹄
﹃シュニン⋮⋮﹄
﹃ヴァルデミール。おまえの身体は暖かいな﹄
アパートに近づいたとき、むこうから佐和が雪羽を抱いて、走
ってきた。
﹁ゼファーさん!﹂
84
涙でくしゃくしゃになった顔を、彼に向ける。
﹁⋮⋮ごめんなさい﹂
﹁どうしたんだ?﹂
﹁たった今、実家の母から電話がありました。父が、訪ねてきた
あなたに水をかけて追い返したと⋮⋮。母は泣いて謝っていました。
ごめんなさい、ごめんなさい、父を赦して⋮⋮﹂
﹁そんなに泣くな。雪羽まで、びっくりして泣き出しただろう﹂
ゼファーが娘を妻の腕から抱き上げると、佐和は両手で顔をお
おった。
﹁ゼファーさん、私はあなたさえいれば、いいんです。あなたと
雪羽と三人で暮らせれば、⋮⋮もう、他には何もいらないんです﹂
晴れ上がった冬の青空の下。
下町の路上で、泣いている子をいとしげにあやす夫。エプロン
で顔をぬぐっている妻。
そして、足元にはみゅうみゅうと身体をすりつける黒猫。
誰が見ても、一目でわかっただろう。
それは人が望みうる限りの、幸せの風景だった。
85
守るべきもの
カーテンが染まりそうなほど青い初夏の空を窓越しに見上げ、
ゼファーは軽いめまいを覚えた。
夕べの酒がまだ残っている。
昨日は残業の後、工場長に無理やり居酒屋に誘われた。酒は飲
めないわけではないが、自分からあのように、けたたましい場所へ
行こうとは思わない。工場長は、自分はほとんどしゃべらずに相槌
だけを打っているゼファーをお供に連れて、会社の愚痴を言うのが、
よほどお気に召したと見える。
﹁だから、どこも問題は後継者不足だということなんだ﹂
と、ビールの泡を口端にためつつ、昨夜は﹁工場の将来﹂とい
うテーマで気炎を上げていた。
﹁社長の一人息子は、大学を出たらすぐ大手の商社に就職しちま
っただろう。そっちが面白くて、工場を継ぐ気なんかさらさらない
そうだ。
社長もああ見えても、もう65だぜ。本当はそろそろ引退して、
息子に継いでほしいんだろうけどなあ﹂
子どもに継がせるべき事業を持っていると、余計な苦労がとも
なうものらしい。
おにぎりを食べ終えて走りよってきた雪羽を、ゼファーは抱き
上げて、キスした。そして、口の回りのご飯粒を丁寧に取ってやっ
た。
俺も魔王の玉座に着いていたなら、アラメキアのすべてを己れ
の子に継がせたいという野望を持っただろうか。大勢の家臣の生命
を犠牲にしつつ、人間と精霊を相手に、全土を巻き込んだ戦を今な
お続けているだろうか。
86
それならば、魔王でなくなったことは幸せだ。
チャイムが鳴り、﹃おっはようございます!﹄と、朝っぱらか
ら不必要なほどの大声で、ヴァルデミールが入ってきた。
﹃奥方さまは?﹄
﹃まだ帰っておらん。だからおまえを、こうして呼んだのだ﹄
﹃ニャるほど、確かにおおせのとおり﹄
と答えながらチラチラと物欲しげに、朝食が終わったばかりの
卓袱台に目を走らせる。
﹃⋮⋮わかった。塩鮭の残りをやる。さっさと食ってこい﹄
﹃ありがたき、幸せ﹄
長い黒髪の青年は、﹁にゃおん﹂と一声鳴くと、皿に飛びつい
た。
﹃奥方さまも⋮⋮毎日、朝早くから大変です。お体は⋮⋮平気ニ
ャんでしょうか﹄
ぺろぺろと細い舌を出して魚をしゃぶりながら、ヴァルデミー
ルは佐和を気遣うことばをつぶやいた。
佐和が近所のファミリーレストランの清掃の仕事に就いたのは、
三ヶ月ほども前だ。
早朝のシフトなので、朝5時に出て、たいていはゼファーが出
勤する前に帰ってくる。
だが、今日だけは駐車場の花壇の草抜きがあるとかで、昼前ま
で帰れないらしい。そこでゼファーは、そのあいだ雪羽を預かって
ほしいと従者のヴァルデミールを呼んだ。
そこまでして佐和が勤めに出たのには、理由がある。
今のアパートからもっと大きな家に引越したいのだ。
瀬峰家が住んでいるのは、1LDK。六畳一間で親子三人が寝
ている上に、収納も少ない。雪羽が大きくなるにつれて、中古でも
いいから、せめてもう一部屋あるマンションに住みたいと、いつし
か佐和は強く感じていたようだ。
週末になるとどっさりと入る不動産の広告のチラシを熱心に調
87
べている妻を見ると、ゼファーも彼女の望みをかなえたいと願うよ
うになってきた。
とりあえずは頭金として三百万を貯めようとがんばっているの
だが、工場の薄給だけでは、なかなか計画どおりには行かない。そ
こで佐和も、少しでも家計の足しになればと早朝パートに出始めた
わけなのだ。
﹃アラメキアはよかったです。どこにだって土地は余っていたし、
もう一部屋欲しければ、洞窟をちょっと掘ればよかったんですから。
ニャのに、この地球は何をするにも、必要なお金がハンパじゃあり
ません﹄
ヴァルデミールは主人夫婦の苦労を思って、憤慨している。
﹃シュニンみたいに一番金が欲しい人間のところには、ちょっと
しか回ってこニャくて、ちっとも必要のニャい人間のところにあり
余っているのは、どうしたことでしょう﹄
と素朴すぎる疑問をぶつけられて、ゼファーは苦笑いした。
﹃いいことを思いつきました。全世界の人間に、一円ずつ分けて
くれるよう頼むんです。そしたら、あっというまに、一億くらい溜
まりますよ﹄
﹃⋮⋮まあ、百年計画くらいでがんばってくれ﹄
ゼファーはため息をつくと、塩鮭を食べ終わったしもべに雪羽
を渡した。
﹁ヴァユゥ﹂
﹃はーい、姫さまぁ﹄
回らない舌で彼の名前を呼ぶ雪羽を、ヴァルデミールはうれし
そうに、ぎゅっと抱きしめた。
﹃本当に、姫さまはニャんて可愛らしいんでしょう。アラメキア
のリューラの花だって、これほど可愛くありません﹄
出勤の身支度が整ったゼファーは、玄関のところで振り返った。
﹃雪羽から絶対に目を離すのではないぞ。このところ、小さい女
の子を狙う輩が多いらしい﹄
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﹃まったく、地球というところは、ときどき信じられニャいこと
が起こりますからねえ﹄
ヴァルデミールは、自信ありげに胸を叩いた。﹃おまかせくだ
さい。一秒だって目を離しません。わたくしの命に賭けまして、ヘ
ンシツシャから姫さまを守ってみせます﹄
その大げさな仕草がおかしかったのか、雪羽はきゃっきゃっと
笑った。
﹃姫さま。笑うといっそう、お可愛いですぅ﹄
でれでれと相好を崩している臣下に、ゼファーはむっつりと言
った。
﹃ヴァルデミール﹄
﹃はい、ニャんでしょう、シュニン﹄
﹃おまえが一番、変質者に見える﹄
﹃⋮⋮﹄
その朝の工場は、どこか雰囲気がいつもと違っていた。
普段なら、ロッカールームで制服に着替えたあとは、掃除や部
品の搬入など、仕事の下準備にてきぱきと動き始める工員たちが、
手持ち無沙汰そうに、ひそひそと立ち話をしている。
﹁あ、瀬峰主任﹂
輪の中から、ひとりの男性工員が心配げな顔でゼファーを見た。
﹁大変です。この工場がよその会社に売られてしまうって﹂
﹁え?﹂
﹁社長室に今、売却先の会社の専務という人が来ているそうです。
工場長と三人でずっと話してます﹂
﹁やっぱり工員は、全員解雇かなあ﹂
﹁どうしよう。お給料もらえなかったら暮らしていけない⋮⋮﹂
﹁俺、中卒だから、ここ以外に雇ってくれるとこなんてねえよ﹂
みんなすっかり落ち込んだ様子で、うなだれる。
89
寝耳に水の話だ。いくら工場の経営が苦しかったとは言え、昨
日の今日でこんなに切羽詰った状態になることは考えられない。
﹁社長室に、行って来る﹂
工員たちは頼みの綱とばかりにゼファーを見た。
﹁主任⋮⋮﹂
﹁いいから、いつでもラインを動かせる段取りをしておけ﹂
どのみち、これでは仕事にならないだろうと思いつつも、そう
言い残すと、ゼファーは建物の外付けの階段を駆け上がった。
社長室のドアをノックする。
﹁おお、瀬峰主任、今呼ぼうと思っていたんだよ﹂
ドアを開けると同時に、社長の上機嫌な声が響いた。
応接用ソファに座っているのは、倒産話が下でささやかれてい
るとは思えないほど、福福しい顔をした社長。その隣には、30歳
半ばくらいの涼やかな笑みをたたえたスーツ姿の男。隅っこでは、
かけい
暑苦しげに汗を拭いている工場長。
﹁筧さん。これがうちの工場の製造主任、瀬峰正人くんでござい
ます﹂
﹁ほう、先ほど、きわめて優秀だと誉めておられた﹂
スーツ男はすっくと立ち上がって、作りものめいた微笑を浮か
べた。
﹁わたくしは、リンガイ・インターナショナル・インコーポレイ
ティド・ジャパンのプロダクト・マネージメント・セクションのチ
ーフ・アドヴァイザーをしております、筧です。以後お見知りおき
を﹂
英文をエンボス加工した名刺がさっと差し出されたが、横文字
に弱いゼファーはすでに頭がくらくらしている。
﹁瀬峰くん、目下わが社は、世界的に有名なリンガイ社の傘下に
入れていただく話を進めているのだよ﹂
﹁傘下? 吸収されるということか?﹂
﹁いえ、そうではありません。この会社の組織も名前もそのまま
90
で、わがリンガイ・グループの一員となっていただくということな
のです﹂
筧は、すらすらと慣れた口調で説明を始める。
﹁もちろん今までどおり、坂井社長に全面的に経営をおまかせす
ることになります。そして私ども本社から経営改善のノウハウにつ
いての有益なアドヴァイスを差し上げるわけです。
全世界150ものグループ企業と提携して、資源調達から設計・
生産までを一貫してシステム化することによって、コスト削減と受
注への素早い対応が可能になっています。ぜひ、﹃坂井エレクトロ
ニクス株式会社﹄さまの高い技術力を、わがグループで生かしてい
ただきたい﹂
﹁うちだけではとても導入できないような高価な機械もレンタル
してくださるそうだ。しかも、工程に必要な期間だけのレンタルだ
から、ムダがない﹂
社長の頭の頂が、いつもに増して、てらてらと光っている。
﹁もちろん、まだ正式に決まった話ではない。きみたちの意見も
聞かねばならんからな﹂
﹁わがリンガイ・グループが将来にわたって安定した受注を保証
いたします。決してみなさんにとって、悪い話ではないと思います
が﹂
﹁おお、もちろんです。きっと従業員たちも、こぞって賛成する
と思いますよ﹂
社長と筧氏は、すでに提携が決まったかのように、がっちりと
固い握手を交わしている。
ゼファーと工場長は顔を見合わせた。
﹁どう思う?﹂
訪問者が帰ったあと、ふたりはゆっくりと工場の鉄製の階段を
下りた。
﹁俺にはさっぱりわからん﹂
ゼファーが答えた。
91
﹁﹃リンガイ・グループ﹄という名前も初耳だったしな。あんた
は知っているのか? 工場長﹂
﹁近頃、電気部品の中小メーカーの買収や提携を推し進めて、急
成長している会社だ。確かに将来性という意味では、目を見張るも
のがあるのだがな﹂
工場長はしぶい表情を崩さない。﹁俺にも正直、なんと判断し
たらいいものか﹂
ふたりは階段を降りたところで、どちらともなく立ち止まった。
﹁俺の国では、何千年ものあいだ魔族が部族ごとに相争っていた﹂
彼方を見つめる瞳をして、ゼファーがおもむろに話し始めた。
﹁俺は武力をもって各部族を従わせ、ひとつの国にまとめあげた。
所領ごとに自治を認めるというのが、和睦の条件だった。
しかし実際のところ、俺のやったことは、貢ぎをしぼれるだけしぼ
り取り、戦える男を片っ端から魔王軍に徴用しただけだ。いったん
支配下に入れてしまえば、こっちのもの。甘いことばを連ねた約束
など、守る気はさらさらなかったよ﹂
﹁おまえの魔王時代の妄想話は、たいていはチンプンカンプンな
んだが﹂
工場長は鼻息荒く、うなずいた。
﹁今日の話はよーくわかるぞ。この提携は、やはりどうも気に食
わん。何よりも、あのにやにやした若造が気に食わん。俺は断固と
して、社長に反対するぞ﹂
﹁工場長。主任﹂
筧氏を門まで見送ってきた社長が、にこにこしながら近づいて
きた。
﹁どう思うね。さっきの話は﹂
﹁は、はい。その︱︱﹂
さっきの勢いはどこへやら、工場長は困ったようにゼファーの
方を見る。
﹁わたしはさっきの話を持ちかけられたとき、心底から安心した
92
んだよ﹂
社長は、工場の庭に生えている一本の大きなカシの木を振り仰
いだ。
﹁わたしも年だ。血圧も高くて、いつ倒れるかわからんし、後継
者もおらん。リンガイ・グループに所属してさえいれば、万が一の
ことがあっても、本社が面倒を見てくれる。もし後継者となる者が
いなければ、適切な人材を派遣もしてくれる。君たち従業員52名
を路頭に迷わせずにすむんだ﹂
その声は、涙ぐんでさえいる。
﹁この木を植えたのは、死んだ家内とふたりきりで細々と、部品
のハンダづけをやっていた頃だった。あれからもう40年になるん
だなあ﹂
社長は物思いから立ち戻ると、ぽんとふたりの背中を叩いた。
﹁さあ、行こう。とっくに始業時間だ﹂
ゼファーと工場長は、結局何も言えなかった。
今の話を聞いてしまうと、社長がこの提携にかける夢を壊すな
ど、とてもできないことのように思われた。
工員たちは終業時に集まり、社長から直接、リンガイ・グルー
プとの提携を聞かされた。
大企業の仲間入りを素直に喜ぶ者もいたが、大部分はぴんと来
ないらしく、不安な面持ちを隠しきれなかった。
しかし表立った反対の声は上がらず、従業員全員一致の賛成を
持って、工場は新しい道を歩み始めた。
まず、正式な提携の準備段階として、筧氏ほか本社から何人も
の専門家が来て、工場の生産ラインや帳簿のチェックに取り掛かっ
た。
事務員は朝から晩まで書類の整理でくたくたになり、社長と工
場長は本社のお偉方の連夜の接待で二日酔いになり、ゼファーたち
93
従業員も、ラインを幾度となく停められては変更を強いられ、フラ
ストレーションの溜まる日々が続いた。
﹁本当に、これで会社のためになっているのか?﹂
ゼファーは工場長に疑問をぶつけた。﹁俺には、仕事を邪魔さ
れているだけに見える﹂
﹁まあ、効率化のためには、いろんな角度からデータを集める必
要があるんだろうなあ﹂
﹁そんなもの、ラインを止めなくても、いくらでも集められる。
現場の人間の意見を直接聞きもしないで、何がわかるというんだ﹂
﹁しかたないよ。ゼファー﹂
工場長は寂しげに首を振った。
﹁親会社のやり方には逆らえない。俺たちはもう、リンガイ・グ
ループの言うままなんだ﹂
数週間後、始業30分前に工員たちは全員、工場に集められた。
筧氏が、正面に立った。社長はその脇に立って、こころなしか
青い顔をしている。
﹁この工場の作業工程について、細かく計測して、ラインバラン
ス表を作成させていただきました﹂
彼は無表情に、全員の顔をゆっくりと見渡した。
﹁この工場におけるわたくしどもの改革は、まず第一に、最低生
産要求量に見合う適正な所要人員を配置することです﹂
﹁ど、どういうことなんだ﹂
みな、ぽかんとして聞いている。
﹁つまりさ、リストラだよ﹂
誰かが言った。
﹁リストラ!﹂
強風が吹き荒れる麦畑のように、彼らの頭が激しく揺れた。
﹁ちょっと、待ってくれ﹂
94
工場長が異を唱えた。
﹁最低生産要求量に見合うっていうのは、どういうことだ。もし
大量に注文が来たら、少数の人員では対処できないじゃないか﹂
﹁そのときは、本社からの派遣社員で対応します。万が一のとき
に備えて余分な工員を遊ばせておくのは、まったくのムダだ﹂
﹁⋮⋮﹂
﹁当方の計算では、約三分の一の省人化が可能になります。一人
時間当たり出来高の表も作成しました。平均より生産性の低い工員
の名に赤丸を入れてあります﹂
筧氏は、死刑宣告に等しい名簿を、茫然としている工場長に渡
した。
﹁わがグループの名を冠するために、ぜひ必要な事前準備です。
退職勧告の方法はおまかせしますので﹂
彼はくるりと踵を返すと、社長室のほうに行ってしまった。
従業員たちの視線がいっせいに社長に注がれる。
﹁すまない﹂
うなだれた社長の禿頭は、蒼白を通り越して透き通って見えた。
﹁肩たたきはしたくない。依願退職を募ることにする。退職金に
関しては、せいいっぱいの色をつけるから﹂
そして絶句すると、逃げるように工場から去って行った。
﹁ゼファー﹂
工場長は、震える手でさっきの書類を渡してきた。
﹁依願退職する奴なんて、誰がいる。みんな、ここしか行き場の
ない奴らばかりだ。⋮⋮俺には、とてもじゃないが、こんなことで
きん!﹂
ゼファーは表に目を落とした。
赤丸をつけられた名前を確認する。
ついこのあいだ女房をもらったばかりの高橋。暴走族のリーダ
ーから、社長に拾われてまじめに働き始めた重本。手に軽い障害の
ある樋池。結婚詐欺で貯金を全て奪われてしまった水橋の名前もあ
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る。52人中、17名。
﹁くそう﹂
ゼファーは工場の磨かれた床に向かって、吐き出すようにうめ
いた。
﹁瀬峰主任﹂
樋池が、すすり泣くような声を上げた。
﹁そこに僕の名前、ありますよね。どう考えたって、僕の生産性
が一番低いし﹂
ゼファーは、彼のおどおどした目を見つめた。
﹁この工場に⋮⋮ずっといたいです。他のとこに行きたくない。
本当にここが好きだから、僕⋮⋮﹂
次の瞬間、ゼファーの手にあった紙は、ぐしゃりと音を立てて
小さな塊となった。
あっけにとられた工場長と工員たちを残し、ゼファーはものす
ごい勢いで工場を飛び出した。社長室への階段をわずか数歩で駆け
上がる。
ドアをもぎとらんばかりにして開け、中にいた筧氏の前に詰め
寄った。
﹁この赤い印を取り消せ﹂
押し殺した声で、言う。﹁俺の生きている限り、この工場から
は一人たりとも辞めさせん!﹂
﹁ほう、なぜですか﹂
筧氏は、あざ笑うように答えた。
﹁何が生産性だ。何がムダだ。俺たちは人間だ。レンタル用の機
械じゃない。生きていくために誰だって食わねばならんのだ。会社
の都合で切り捨てていい人間など、ひとりもいない﹂
﹁社長は納得してくださっているのに。あんたは何様です。坂井
社長より偉いおつもりですか?﹂
社長は一気に十歳くらい老け込んだ顔をして、無言でうなだれ
ている。
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﹁少なくとも、おまえなどよりはずっと道理を知っている﹂
﹁目上に対する口の利き方も知らないくせに。⋮⋮さすがに前科
者だけありますね﹂
﹁⋮⋮﹂
怒りをこめてまっすぐに睨み返したゼファーに、筧氏は一瞬ひ
るんだようだった。
しかし、すぐに立ち上がると、やれやれと言うように首をすく
め、ちらりと社長を見た。
﹁こんな野蛮な男を製造主任として置いているなんて、グループ
企業としては不適格としか言えませんね。この提携はなかったこと
にしてもよいのですよ﹂
勝ち誇った顔をした男をしばらく見つめて、ゼファーは心を決
めた。
﹁わかった。俺が辞める﹂
﹁何を言う、瀬峰主任﹂
﹁社長、その代わり、樋池の分の赤丸を消してやってくれ﹂
﹁待ってくれ、瀬峰くん!﹂
﹁⋮⋮長い間、世話になった﹂
追いかけてこようとする社長を振り切って、彼は工場を後にし
た。
その日一日、ゼファーは公園のベンチに座っていた。
まるで、病院から退院したばかりの日々に戻ったようだった。
わずか数年前のことなのに、遠い遠い昔に思える。
工場の定時の退社時間になっても、家に帰る気がしない。
佐和になんと説明すればいいのだろう。あれほど新しい家を買
うことを楽しみにしているのに、マンションの頭金どころか、明日
の糧すらおぼつかなくなってしまった。
会社を辞めたことが、困難な状況から尻尾を巻いて逃げ出すも
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同然だったのは、わかっている。それでも今の自分にはああするし
かなかった。
アラメキアにいた頃は、力に満ちあふれていた。すべての者が
彼の魔力の前にひれ伏した。だが、今の彼には何もない。本当に何
も。
ゼファーはこの世界に来てから、自分の無力さをいやというほ
ど思い知った。もはや精霊の騎士でも魔王でもない、ただの人間。
何もかもが思い通りにならない毎日を送って、人間はわずか数十年
の人生を老いて死んでいく。
それでも不思議なことだが、人生に対して絶望してはいなかっ
た。たとえ力は弱くとも、ともに寄り添って生きるべき大切な人々
がそばにいる。人間の生は短く儚いからこそ、貪欲に夢を見るのか
もしれない。
気がつくと、工場長によく連れられてくる居酒屋の前に立って
いて、ゼファーは苦笑した。
すっかり感化されてしまった。工場長も、ここで仕事の愚痴を
全部吐ききって、家に持ち帰らないようにしていたのだろう、家族
に心配をかけないために。
人間となって七年、ようやく、本当の意味で人間の気持ちがわ
かるようになった。
暖簾をくぐると、まだ夕方の居酒屋には、驚いたことに大勢の
先客がいた。
﹁よう、ゼファー﹂
工場長がすでに顔を真っ赤にして、銚子を傾けている。
﹁どうしたんだ、工場長。こんな時間に﹂
﹁俺も、工場を辞めてきたんだよ﹂
ダミ声でそう言うと、工場長はぐびりと一気に、猪口の酒をあ
おった。
﹁世の中には、どうしても譲れんものがある。おまえを見て、そ
れがわかった。それを譲ってまで、仕事や金にしがみつきたくはな
98
いってな﹂
﹁瀬峰主任!﹂
女性従業員の水橋も、奥のテーブルから手を振った。
﹁私も自分から辞表を叩きつけてきちゃいました。だって、主任
のいない工場なんかに、もう何の未練もないんですもの⋮⋮。あわ
わ、言っちゃった。ウソですよ。私、酔ってます。酔ってますから
ね﹂
﹁主任﹂
樋池が立ち上がり、なみなみと注いだビールのグラスを不自由
な両手で支えながら、歩いてくる。
﹁ありがとうございます。主任が僕の代わりに辞めたと聞いて⋮
⋮。僕、今までずっと職場を転々としてきたから、もう絶対にここ
を辞めたくないと思ってたけど⋮⋮。違うんだ、ってわかりました﹂
差し出したコップからビールがこぼれ、樋池の目からも涙があ
ふれた。
﹁主任みたいに勇気のある人になりたい。僕も、別の仕事をまた
探す覚悟ができました﹂
店内のあちこちから、同意の声が上がる。
﹁瀬峰主任、地獄の底まで俺たちもついていきます﹂
笑い声があがった。
﹁楽しそうだな、おまえたち﹂
ゼファーは呆れたようにつぶやいた。﹁ここにいる全員、会社
を首になったんだぞ﹂
﹁みんなでリストラ、こわくない﹂
﹁いっそのこと、このメンバーで新会社を作りましょう﹂
冗談じゃない、と言いかけたゼファーは、彼らの表情を見て、
口をつぐんだ。
腹の底にずしりと重いものがのしかかる。この世界に来て、ヴ
ァルデミール以外の家臣というものを持たなかった。たくさんの部
下の生命を預かる責任というものを、忘れかけていた。
99
こんな身の引き締まる気持ちがするのは、久しぶりだ。
カウンターに座って、樋池から受け取ったビールを一息に飲み
干し、高ぶる気持ちを静めていると、また入り口の引き戸が開いた。
振り返ると、疲れきったように背中を丸めた、小太りの男が入
ってきた。
﹁社長!﹂
誰かが叫んだ。
﹁やっぱり皆、ここにいたか﹂
彼はやつれた頬に弱々しい笑みを浮かべると、よろよろとゼフ
ァーの隣の席に座り込んだ。
﹁⋮⋮どうした。社長﹂
何か言いたげな相手の様子を察して、ゼファーは問いかけた。
﹁わたしはいったい、何を守りたかったんだろうなあ﹂
ぼんやりとした口調で、社長はゆっくりと従業員たちの顔を見
回した。
﹁社員のために会社を存続させたいと、そればかり願っていたは
ずなのに。わたしが守りたかったのは、建物や株券じゃない、働い
ているひとりひとりの社員だったのに﹂
﹁⋮⋮社長﹂
﹁わたしはバカだったよ。いつのまにか、本来の目的を見失って
いた。瀬峰くん、きみの﹃俺たちはレンタル用の機械じゃない﹄と
いう言葉を聞いて、やっと目が覚めた﹂
社長の目がうるんでいる。居酒屋の中がしんと静まり返った。
みな、社長の一言一句を聞き漏らさぬように、腰を浮かして身を乗
り出している。
﹁︱︱リンガイ・グループとの提携は、白紙に戻した。リストラ
は、もうなしだ﹂
初夏の宵の風は、少し肌寒いほどだった。
100
喧騒に慣れた耳には、静けさは心地よい音楽となる。ゼファー
は宴の余韻を楽しみながら、ひとり家路をたどっていた。
他の従業員たちも続々と集まって、居酒屋ではにぎやかな祝会
が繰り広げられた。ひとりの退職者も出さずに、会社が今までどお
り、独立を貫く経営方針に戻ったことを、みな一様に喜んでいた。
しかしゼファーは、心の片隅にひとかけらの不安を抱えていた。
それは工場長も同じだったし、どこかほっとしたような表情を浮か
べながらも、ついに満面の笑みにはならなかった社長も同じだった
ろう。
ゼファーが、アラメキアでみずから行なったことだ。すべての
魔族をひとつの国に束ねるという大義ゆえに、魔王の軍門に下らな
かった小部族を、彼がどのように非道に扱ったか。
リンガイ・グループに逆らった工場の将来は決して安寧なもの
ではない、という気がした。
しかし同時に、身体の奥底で熱い血がたぎる。久しく忘れてい
た高揚感だった。ゼファーは、骨の髄まで自分が指揮官であり、王
であることを思い出している。
﹁あの52人を絶対に、路頭に迷わせたりはせん﹂
目を閉じ、いつのまにか呟いていた。
そして彼らにもまして、ゼファーには幸せにしなければならな
いふたつの生命がある。
瞼の裏に佐和と雪羽の顔を思い浮かべると、彼はいつしか微笑
んだ。そして、彼らの待つ家に向かって、自然にその足は速まるの
だった。
101
堕天
﹁ゼファーさまだ﹂
﹁︽精霊の騎士︾さまだ﹂
通りのあちこちで、喜びのささやきが交わされる。
白銀の馬にまたがって凱旋の先頭に立つは、白と紫紺の戦衣を
まとった若き勇者。
アラメキアに恒久の平和を約束する者。
ささやきは沸き立つ泉となり、歓呼の声となって、都中に響き
渡る。
﹁アラメキア、ばんざい。ゼファーさま、ばんざい!﹂
宮殿の壮麗な門をくぐり、下馬したゼファーは、謁見の広間へ
の通路に置かれた銀の鏡に、目を留めた。
そこに写る自分の姿。精霊の女王の加護を受けた身体に、汚れ
や染みなどあろうはずがない。
そんなはずはないのに。
何かを握りつぶすように拳を固めると、彼は絨毯を踏みしめて
歩き出した。
﹁近衛隊長どのが帰還いたしました﹂
侍従長の声に、ユスティナは﹁そうですか﹂と素っ気なく答え
た。
内心は、動揺している。
己を制しているつもりでも、ことあるごとに思い出してしまう
102
のだ。出陣まぎわの、予期しない抱擁。唇の上を通り過ぎていった
性急な嵐を。
紫の髪に王冠をいただき、権威の王杓を右手に持ち、白い裳裾
を広げ、なにごともなかったような顔をして、彼女は女王の座に着
いた。
ファンファーレが響き、謁見の広間の扉が儀仗兵によって開け
放たれ、彼が入ってきた。
羽根のついた兜を脱ぎ、その顔貌があらわになると、垂れ幕の
端をめくって覗いていた侍女たちの中から、抑えそこねた吐息が漏
れた。
太陽の髪と月夜の瞳を持つ騎士は、片膝をつき、女王に拝礼し
た。
﹁近衛隊長ゼファー、ただいま戦地グルバティスより戻りました﹂
﹁大儀でした﹂
ユスティナは、つとめて平静な声を出した。
﹁して、かの地の様子は﹂
﹁魔族側が散発的に反攻を試みていましたが、今は平和を取り戻
しました﹂
﹁ふたたび蜂起する恐れはないのですか﹂
﹁もともと魔族には長となる者もおりません。当分は何も起こり
ますまい﹂
﹁苦労をかけました。さぞかし疲れたでしょう。軍装を解き、ゆ
っくり休むとよい﹂
騎士は顔を上げ、玉座の女王をまっすぐに見つめた。
﹁陛下。まだお耳に入れたいことがございます﹂
﹁明日ゆっくりと聞きます。今は下がりなさい﹂
それを聞いたゼファーはわずかに目を細めたが、何も言わず頭
を下げた。
103
夜、礼拝堂から寝室への回廊を渡るとき、女王は片隅の人影に
気づいた。
﹁⋮⋮ゼファー?﹂
ひざまずいていた影は立ち上がって、暗がりから現われた。松
明の灯りの中に立つ姿は、まばゆく輝き、金色に煙るようだ。
﹁こんな時間にいったいどうしたのです﹂
﹁陛下は、わたしのことを避けておられる﹂
ゼファーは自分の手に、憂いに翳る視線を落とす。
﹁陛下の御目にも、きっと映っているのでしょうね。わたしの全
身には、拭いようのない血がこびりついている。大勢の魔族を斬っ
て浴びた血が﹂
﹁⋮⋮﹂
ユスティナは息を呑み、とっさに返事ができなかった。
﹁そこまでしなければ、魔族からあの弱い種族を守ることはでき
なかった。でも、⋮⋮なぜなのです?﹂
彼女に向けた顔は、にわかな怒りに彩られた。
﹁なぜそこまで人間に肩入れなさるのです? わたしたち精霊は、
何者にも与せず中立を保つのが、世々の掟ではなかったのですか﹂
﹁人間は、ようやく興ったばかりの新しい種族。今はわたくした
ちの手で守らねば、いともたやすく滅びてしまいます﹂
﹁それが自然の摂理であるならば、滅びるべきでしょう﹂
﹁ですが、アラメキアを担っていくのは彼らなのです。未来のた
めにも、人間を滅ぼしてはなりません﹂
アラメキアの未来と、そして、︽もうひとつの世界︾の未来の
ために。
﹁あなたの頭にあるのは、アラメキアのことばかりなのですね﹂
精霊の騎士はうなだれ、そして引きつるような笑い声を漏らし
た。
﹁あなたが愛するアラメキアのために、わたしは大勢の魔族をこ
の手で殺した。そして、あなたは血で穢れたわたしを疎み、いっそ
104
う遠ざけておしまいになる﹂
﹁そうではない、ゼファー﹂
そうではない。
わたくしは自分が怖いのです。そなたに溺れそうになる自分自
身が。そなたへの愛ゆえに判断を狂わせ、精霊の女王の取るべき道
を見誤ってしまうことが。
唇をわななかせる彼女のもとにゼファーは近づき、その真珠色
の顔をそっと手で撫でた。戦場で血濡れの剣を振るって来た大きな
手で。
そしてゆっくりと幼子に言い聞かせるように、ささやく。
﹁もし、わたしがアラメキアを滅ぼしたら、あなたはわたしのも
のになってくださいますか?﹂
﹁え?﹂
ゼファーの口元に、あきらめの笑みが浮かんだ。
﹁いえ、戯れを申しただけです。おゆるしください﹂
彼は数歩下がると、身をひるがえし、木立の間に姿を消した。
ユスティナは、その場に立ち尽くしたまま動くことができなか
った。
なぜなら、見てしまったのだ。
ゼファーの透き通った紫の瞳の中に、かすかな魔の色が忍び込
んでいることを。
そして、やがて彼が憎悪と憤怒に身を焦がし、魔王へと変容す
る日が来ることを。
皮肉にも、代々の精霊の女王が受け継いできた霊力は、もっと
も愛する者の恐るべき堕落を、避けえぬ未来として告げていた。
105
生きるチカラ
ぷっくりと盛り上がった美しいオレンジ色の身。ほどよく焦げ
た皮。
そして何よりも、最上の至福をもたらす海の香り。
﹁どうしたの、ヴァルさん。食べないの?﹂
台所から佐和の声がかかると、あわててヴァルデミールは視線
を卓袱台から引き離した。
﹁いえ、今日はけっこうです。おニャかがすいておりませんので﹂
﹁めずらしいわね。ヴァルさんが塩鮭を食べないなんて﹂
これ以上何か答えると、口からヨダレが洪水のようにあふれで
そうだったので、彼は沈黙を守った。
︵シュニンのお宅でご馳走にニャるのは、やめると決めたんだ。
もう何があっても︶
﹁ヴァユゥ﹂
奥の洗面所から、ピカピカになった雪羽が走ってきて、ヴァル
デミールに飛びついた。
﹁おはようございます。姫さま﹂
﹁あまり、雪羽の顔をべたべた触るな。洗ったばかりだ﹂
むっつりとしたゼファーも出てきて、食卓についた。少し不機
嫌なのは、疲れているからだろう。
ゼファーの勤めている工場は、今あまり仕事がない。
数ヶ月前に、﹃リンガイ・グループ﹄という大企業との提携話
が打ち切りになってから、大口の注文が入ってこなくなっている。
噂では、﹃リンガイ・グループ﹄が裏で圧力をかけているとい
うことだった。
106
昔からの付き合いのある地域の中小企業との取引や、小口の注
文はこれまでどおりなので、今すぐに倒産ということはない。だが、
このままでは工場の経営が先細りになり、やがては従業員に給料も
出せなくなることは明らかだった。
社長や事務職は連日、新規注文を求めて営業に走り回っている
し、工場長や、製造主任のゼファーも操業の合間に心当たりを探し
ているのだが、どうも結果は、はかばかしくない。
小口の注文が増えても、細々とした仕事が多い割りに、実入り
は少ない。今回の﹃リンガイ・グループ﹄との一件で大きな責任を
感じているゼファーは、つい自分の体を酷使してしまうのだ。
彼の苦衷を察している佐和は、生活をいっそう切りつめ始めた。
本当は、雪羽を預けてフルタイムで働きたいのだが、公立の保
育園には空きがなかなかない。
しかたなく、早朝と午前のパートをかけもちし、そのあいだヴ
ァルデミールが雪羽の面倒を見ているのだった。
︵奥方さまが、無理をして働かニャくてもよいように、せめてわ
たしが食事をがまんしニャければ︶
固く心に誓って、ここへ来たのだったが。
﹁はい、ヴァユ、あーん﹂
﹁あーん﹂
雪羽がスプーンで塩鮭のかけらをすくって、ヴァルデミールの
口に入れてくれようとするので、その決意も、たちまち水泡と化す。
﹁おいしいです﹂
﹁ヴァユは、しゃけが好きだねぇ﹂
﹁はい、でも鮭よりも、姫さまのほうが、もっと好きです﹂
﹁雪羽も、ヴァユがしゅき﹂
﹁ほんとですか﹂
﹁おにぎりよりも、父上よりも、ヴァユがしゅき﹂
それを横で聞いていたゼファーの顔がますます不機嫌になった
ので、ヴァルデミールは青ざめた。
107
﹁は、はは⋮⋮、まさかぁ。姫さまは、わたくしよりお父上のほ
うが、だーい好きに決まってますよね﹂
﹁ううん。父上、あしょんでくれないから、きらーい﹂
⋮⋮ど、どうしよう。これじゃ、フォローできない。
﹁じゃあ、ヴァルさん。お昼ごはんまでに帰りますからね﹂
佐和があわただしく二度目のパートに出かけ、ついでゼファー
が出勤のために玄関に立った。
﹃ヴァルデミール﹄
﹃はい、シュニン﹄
﹃おまえ、今日中に雪羽にとことん嫌われてこい。いいな﹄
﹃そんニャ無茶な∼﹄
雪羽が砂場で大きな山を作っているあいだ、ヴァルデミールは
ほうっとため息をついた。
食事を我慢しているせいか、公園に飛んでくるスズメが美味そ
うに見えてたまらない。しかし、大勢の人間の見ている前で、猫に
変身するわけにもいかなかった。
猫として生きていく分には、金はいらない。食べるものはちょ
っと狩りをすれば事足りるし、洋服なんて大層なものを買う必要も
ない。
それに比べて、人間になると、とんでもなく余計な金がかかる
のだ。第一、身体が大きい分、食べる量もハンパではない。
︵せめて、自分の食い扶持くらいは、自分で稼がニャいとなあ︶
とは言え、アラメキアから来て三年間、一度も働いたことがな
い。猫同士のネットワークを使って、落ちている小銭を拾って集め
たりもしているのだが、今までに貯まったのはたった1,287円
だ。
﹁できたよ、ヴァユ﹂
﹁姫さま、それはニャんですか﹂
108
﹁アヤメキアのおっきい山﹂
﹁ああ、ラプリス山ですね﹂
ヴァルデミールは、遠くの景色を見る目つきになった。﹁ニャ
つかしいなあ﹂
それにしても、不思議だ。雪羽は一度もアラメキアに行ったこ
とがないはずなのに、その砂山の形は確かにラプリス山そのものに
見えた。
雪羽の手を引いて、とぼとぼとアパートに戻る途中、ヴァルデ
ミールは商店街の真ん中で足を止めた。
︻従業員急募!︼
﹁じゅーぎょーいん、きゅーぼ?﹂
人間の文字の読み書きは、ゼファーや佐和に教えてもらってい
た。
︵ここで、雇ってくれるんだ︶
自動ドアを開けると、店内のいたるところに、いろいろな形の
時計がかけてある。どうやら時計を売る店らしい。
﹁あのっ、仕事がしたいのですが﹂
奥から出てきた前掛けをかけた中年の男性に、ヴァルデミール
は勇んで話しかけた。
﹁ほお。あなたが﹂
店主は、小さな女の子の手を引いて立っている長髪の青年を、
値踏みをするような目つきで見た。
﹁今日は、履歴書はお持ちですかな﹂
﹁リレキショ?﹂
﹁履歴書を書いてきてください。そしたらすぐに面接をしますか
ら﹂
リレキショなるものを持ってくれば、すぐに雇ってもらえるの
か。
﹁わかりました﹂
ヴァルデミールは、ぺこりとお辞儀をした。﹁急いで持ってき
109
ます。どこにも行かニャいで、待っていてください﹂
アパートに帰ってから、パートから戻ったばかりの佐和に、リ
レキショについて訊ねてみると、
﹁ああ、私が使った残りがあるわよ﹂
と、用紙を出してきてくれた。それをためつすがめつ睨んだヴ
ァルデミールは、首をひねった。
﹁これは、ニャにを書くものですか?﹂
﹁自分のことを紹介するのよ。住所とか、学歴、職歴とか﹂
﹁ガクレキ? ショクレキ?﹂
﹁ヴァルさん、働いたことは?﹂
﹁いいえ、一度もありません﹂
﹁学校は﹂
﹁行ったことありません﹂
﹁そ、そうなの?﹂
佐和は目を見開いている。
﹁だって、アラメキアの魔族の国には、学校ニャんてものはあり
ませんでしたから﹂
﹁そうよね⋮⋮﹂
佐和は大きなため息をついた。
アラメキアの存在を信じているとは言え、やはり佐和にとって、
ゼファーやヴァルデミールの言うことは、ときどき理解を越えてし
まう。
﹁それではわたくし、リレキショに何も書くことがありませんね
⋮⋮﹂
ヴァルデミールは、ただでさえ撫で肩の肩を、しょんぼりと落
とした。
﹁そんなことないわ。趣味や特技を書く欄というのもあるのよ﹂
﹁トクギ、ですか?﹂
110
彼は目を輝かせた。﹁それニャら、いっぱい書くことがありま
す!﹂
﹁名前⋮⋮ヴァルデミール。住所⋮⋮なし。電話⋮⋮なし。性別
⋮⋮男。生年月日⋮⋮95年前の満月の晩?﹂
時計店の店主は、若者の持ち込んだ下手な字の履歴書に、ポカ
ンと口を開けた。
﹁学歴⋮⋮なし。職歴⋮⋮なし。扶養家族⋮⋮なし﹂
﹁すみません、あまり書くことがニャい人生でして﹂
ヴァルデミールは、神妙な顔をして頭を下げた。
﹁でも、その裏にはいっぱい書きました。どうぞ見てください﹂
﹁特技⋮⋮ゴキブリ取り。小銭拾い。塀歩き︱︱﹂
紙を持つ店主の手が、ぷるぷると震え始めた。
﹁こ、こ、この趣味の欄に、﹃姫さまを頬ずりしたり、抱っこし
たり、いっしょに公園で遊ぶこと﹄とありますが、﹃姫さま﹄とい
うのは?﹂
ヴァルデミールは、得意満面で答えた。
﹁はい。とてもかわいい三歳の女の子です﹂
数秒後には、店のドアの外に放り出された。
公園のベンチからは、宵の星々が梢にぶらさがっているのが見
える。
ぐうぐう鳴るお腹を水道の水でなだめながら、ヴァルデミール
は何十回目かのため息をついた。
このままゼファーの家に行けば、またご飯をご馳走になってし
まうことになる。
あれから商店街の店を一軒ずつ回って、雇ってくれないかと頼
み込んだが、どこも、彼が履歴書を見せたとたんにバカにしたよう
111
な顔つきになって、相手にしてくれなかった。
﹁地球では、ジュウショとガクレキとショクレキがなければ、何
の役にも立たないんだなあ﹂
ヴァルデミールは、すっかり自信をなくしてしまった。
いっそのこと、これから猫として生きていこうかとも思う。そ
れならゼファーたちに迷惑をかけることはない。その代わり、ゼフ
ァーの役に立つこともできないのだ。
﹁お金がある人は働けるのに、お金がニャくて困っている人ほど
働けニャい。これっておかしいよ。逆じゃニャいか﹂
﹁うん、まさにそのとおりだ﹂
ぎょっとした。暗がりからいきなり声が響いてきたのだ。ふと
見ると、隣のベンチに、かくしゃくとした老人が座っている。
﹁おまえさんのいうことは正しい。この世の中は間違っておる﹂
﹁そ、そうですか?﹂
あまり断固として肯定されたので、ヴァルデミールはかえって
不安になった。
﹁でも、シュニンの工場の社長さんのように、ガクレキとショク
レキのニャい者を雇ってくれる、いい人もいるのです﹂
﹁そういう善人の会社ほど、えてして苦労しておる﹂
﹁そうニャんです! おっしゃるとおり﹂
ヴァルデミールは驚いて、目をまんまるに見開いた。
ことわり
﹁おじいさんは、予言の魔法司かニャにかで、いらっしゃいます
か﹂
﹁予言などではない。善人は馬鹿を見るというのは、この世の理
だよ﹂
この方はさだめし、名のある賢者に違いない。ヴァルデミール
は居住まいを正した。
﹁おじいさんも、ご苦労ニャさっておいでなのですか﹂
﹁うむ、おまえさんといっしょだ。年老いて仕事をクビになり、
働きたくても働けない﹂
112
﹁ジュウショもガクレキもショクレキもあるのに?﹂
﹁あるにはあるが、若さがない﹂
﹁ワカサ、ですか﹂
﹁おまえさんには、たっぷりあるものだ。わしから見れば、うら
やましい﹂
﹁そうかあ﹂
ヴァルデミールは思わず、深々と考え込んだ。
﹁じゃあ、おじいさんとわたくしがふたりで働けば、無敵ですね﹂
老人は大口を開けて、哄笑した。
﹁おもしろいことを言う男だ。なるほど確かに、わしらふたりが
いっしょなら、経験も若さもそろっておる﹂
﹁いっしょに働きましょう。おじいさんはリレキショを書いてく
ださい。つらい仕事は、全部わたくしが引き受けます。おカネは、
ふたりで山分けにしましょう﹂
﹁よし、その話、乗った﹂
老人はベンチから勢いよく立ち上がったが、ふらふらしたので、
ヴァルデミールはあわてて腕で支えた。
﹁脳梗塞を患うてな。右半身がしびれておる﹂
それでも杖をつき、しっかりした足取りで歩き出す。
﹁いいから、わしについてこい。おまえさんの名前は?﹂
﹁はい。ヴァルデミールと言います﹂
ふたりは、街灯の灯りはじめた夕暮れの坂道を、駅の方向に向
かってたどり始めた。
﹁年を取るというのは悲しいことだ。早朝から夜中まで働けた若
い頃と違って、身体がいうことを聞かん﹂
﹁日本では、年を取った人がだんだん増えているそうですね﹂
﹁おまえさん、名前をヴァルなんとか言ったな。南米からの日系
移民か﹂
﹁アラメキアという国から来ました。シュニンも同じです﹂
﹁シュニンの働く工場、なんと言ったかな﹂
113
﹁坂井エレ、ほニャらら、とかいう名前です﹂
﹁坂井エレクトロニクスか。あそこの社長なら、わしもよく知っ
ておるぞ。底抜けのお人よしだ﹂
﹁ごぞんじですか。それは、ニャんという奇遇でしょう﹂
やがて、ふたりは高架の下をくぐり、街の南側にやってきた。
﹁ここだ﹂
老人は、一軒の古ぼけた工場の扉を開けた。
﹁うわあ﹂
中には、魔女の館にあるような、たくさんの大鍋や、見たこと
もないベルトコンベヤの機械がところせましと並んでいる。
やっぱり、この方は高名な魔法司だったんだ。
頭の中でそう確信していると、老人は彼を扉のところに待たせ
て、奥の明りがついている事務所へと向かった。
やがて、なにやら女と老人が言い争う声が聞こえてきた。
驚いたヴァルデミールがこっそり部屋の中を覗くと、三十歳く
らいの小太りの女性が、口から泡を吹かんばかりの勢いで、まくし
たてている。
﹁何言ってるの。お父さんは、自分の箸さえロクに持てないくせ
に、まだあたしのやり方に口出しする気なの﹂
﹁そんなことは、言っとらん。わしも現役に復帰したいと言っと
るだけじゃないか﹂
﹁それが、余計な口出しなのよ。傾いてた経営がせっかく軌道に
乗ったばかりだというのに、また昔のやり方を持ち出して、ああだ
こうだって、あたしの邪魔ばっかりするじゃない﹂
﹁ま、待ってください﹂
ヴァルデミールは、険悪なムードの彼らの間に割って入った。
﹁誰よ、あんた﹂
女は赤い縁の眼鏡の奥から、じろりと睨む。まさに、最高位の
魔女の風格だ。
﹁わたくしは、この方といっしょに、ここで働かせていただく者
114
です﹂
ヴァルデミールは恐怖で全身の毛が逆立つのをこらえて、説明
した。
﹁どうぞ、おじいさんを怒らニャいでください。ケイケンはたく
さんおありですが、ワカサが足りニャいだけなのです。その分わた
くしが、身を粉にして働きますから﹂
女は、ぽかんとした顔で﹁はあ?﹂と訊き返した。
﹁どこで拾ってきたの、この頭の弱そうな男﹂
﹁何を言う。おまえなどより、よっぽど目上に対する口の利き方
を知っておる﹂
﹁こんなのを、ここで働かせるなんて冗談じゃないわよ。お父さ
んも、もう工場には来ないで﹂
有無を言わせず、鼻先でドアを閉められ、ふたりは為すすべな
く、工場の外に出た。
﹁あのご婦人は、おじいさんの娘さんだったのですね﹂
﹁⋮⋮ああ、わしの末娘だ﹂
老人は、大きな吐息をついた。
﹁わしは、家内といっしょに小さな弁当屋をやって、四人の子ど
もを育てた。兄や姉たちがそれぞれ家を出て行ったあと、末っ子の
あの子が、死んだ家内や病で倒れたわしの分まで必死に働いてくれ
た﹂
﹁親孝行な娘さんニャのですね﹂
﹁お化粧のひとつもするでなく、朝から晩まで工場でずっと働き
づめ。口は悪いが、しがない弁当屋をここまでにしてくれたのは、
あの子なんだ。だから、わしは、あれに頭が上がらんのだよ﹂
﹁わかっています。娘さんの許しをもらえなかったら、おじいさ
んもわたくしも、ここでは働けニャいんですね﹂
ヴァルデミールは、悲しそうな目で真っ暗な夜空を見上げた。
東京では、アラメキアで見えていたような満天の星は、ほとんど見
えない。
115
アラメキアに帰りたい。
この世界で人間として生きようとしても、自分にはそのチカラ
がないのだ。一所懸命になればなるほど、頭が弱い、ピントがずれ
ていると馬鹿にされる。
アラメキアでは最強の魔王であったゼファーが、どれほど辛く
悔しい思いをして、人間の中で生きてきたのか、今ならよくわかる。
﹁わたくし、やっぱり人間にニャるのは無理だったんです。これ
からは、猫として生きていきます﹂
﹁⋮⋮え?﹂
﹁おじいさんにも迷惑はかけたくニャいし、敬愛するシュニンに
も、これ以上の負担をかけられませんから﹂
﹁ま、待ちなさい﹂
﹁おじいさん、お世話にニャりました﹂
ヴァルデミールは老人の制止も聞かず、肩を丸めて、とぼとぼ
と歩き始めた。
公園のすべり台の下で、日がな一日うとうと眠っていた黒猫は、
ひょいと身体がすくい上げられたのを感じた。
﹃こんなところにいたのか﹄
ゼファーは膝に彼を乗せると、その鼻先におにぎりを差し出し
た。﹃腹が減ってるんだろう。さあ、食え﹄
﹃ふ、ふにゃぁ﹄
ヴァルデミールはひと声上げると、三角形にむしゃぶりついた。
塩鮭がたっぷり入ったおにぎりは、たとえようもなく美味しかった。
﹃﹁相模屋弁当﹂の会長だという老人が今朝、工場の俺のところ
に訪ねてきたぞ﹄
必死の形相でおにぎりを食んでいる従者の背中をくすぐりなが
ら、ゼファーが言った。
﹃ええっ!﹄
116
﹃おまえを、正式に雇いたいそうだ。娘の了解は取ったと言って
いた﹄
﹃ま、まさか。あの性格キツそうな娘さんがオーケーを出してく
れるニャんて、信じられません﹄
ゼファーは、愉快そうにくつくつと笑った。
﹃おまえ、人間をやめて猫になって生きていくと言ったらしいな。
それを聞いて心配したご老人が、﹁あの若者が世をはかなんで、自
殺でもしたらどうする﹂と、娘を恫喝したそうだ﹄
﹃文字通りの意味だったんですけどねえ﹄
﹃でも、よかったな﹄
かつての魔王は、穏やかに目を細めながら、微笑んだ。
﹃これからは、自分の手で働いて、生きるんだぞ﹄
﹃はい!﹄
最後の米粒をごっくんと飲み込むと、ヴァルデミールはうれし
そうにヒゲを震わせた。
﹃それにしても、あそこが弁当を作る工場だったとは。ニャんと
すばらしいお仕事でしょう。運がよけりゃ、しゃけ弁の余りにあり
つけるかもしれニャいじゃありませんか!﹄
かくしてヴァルデミールの、毎朝四時に弁当工場へ出勤する毎
日が始まった。
とりあえずは見習い社員として、相模会長のそばに付き添って、
身の回りの世話をすることになった。
昼過ぎまでが勤務時間なので、雪羽の面倒が見られなくなり、
佐和は仕方なく早朝だけのパートに戻った。
でも、そのため佐和の身体は楽になったようだし、ヴァルデミ
ールも少ししたら、瀬峰家にわずかでも給料が入れられるようにな
るだろう。
雪羽だけは、おかんむりだ。
117
﹁ヴァユ、きらーい。ちっとも、あしょんでくれないんだもん﹂
﹁ええっ。そんなぁ。姫さま﹂
ゼファーはそれを聞いて、至極ご満悦だった。
118
夢を継ぐ者
照明を落とした工場内で、工作機械の部品を分解してウエスで
拭いていたゼファーは、ふと上を見上げた。
二階の事務所に煌々と明りがついているのが、高窓から見える。
︵社長は、まだ働いているんだな︶
ため息をつく。否応なしに、昨日の会話を思い出してしまった
のだ。
﹁俺の今月の給料は、なしでいいからな﹂
ゼファーは昨日の昼休み、社長の机の前で、そう宣言した。
﹁なにをバカなこと、言っとる﹂
社長は笑い飛ばそうとしたが、口の端がひくっと引きつっただ
けだった。
﹁瀬峰主任の安い給料を出せないほど、うちは困っていないよ﹂
﹁そんなはずないだろう﹂
事務の女性がおろおろと、ふたりを交互に見ている。
﹁第一、月給なしに家計はどうするんだ﹂
﹁俺のところは、まだ娘が小さい。学費もかからん。大学生の子
どもがふたりもいる工場長や、病気の家族を抱えている日浅らとは
違う。女房もそのつもりで金を貯めている﹂
﹁社員を無給で働かせるなんて、わしの目の黒いうちは絶対にそ
んなことはさせない!﹂
坂井社長は大声で怒鳴って、そのあと急に風船がしぼんだよう
に、ガックリと腰を落とした。
﹁わたしの責任だ。こんな情けないことになるなんて⋮⋮いっそ
のこと、ひとおもいに死んで、生命保険金でも受け取ってもらった
ほうが⋮⋮﹂
119
ゼファーは、頭を抱えこむ社長の手首をがっしりと握った。
﹁そんなことは、俺が許さん﹂
その顔は怒りに燃え、輝くように見えた。
﹁社長。もう二度と、今みたいなことは言うな﹂
﹁あ、ああ⋮⋮﹂
そのときのことを思い出すたびに、ゼファーは胸がしめつけら
れる。上に立つ者が、どれほど責任を感じるものなのかを、彼は知
っていた。
死を選びたいという誘惑に駆られる気持も、よくわかる。つい
用事を作って、社長が帰宅するまで残業してしまうのも、その不安
があったからなのだ。
拭き終わった部品をそっと台の上に置いた。目を上げると、暗
い工場の向こうの端に、もう一箇所明かりが灯っている場所がある。
近づいていくと、最古参の工員、矢口と、若手の樋池が旋盤に
屈みこんでいた。
﹁いいか、ここでスイッチをニュートラルに入れる﹂
﹁はい﹂
﹁回転が惰性になったところで、横送りハンドルを回す。しっか
り数えて、いーち、にい、ほら、今!﹂
ふたりの担当は、旋盤だった。特に65歳の矢口は四十年間、
旋盤ひとすじにやってきたベテランだ。
樋池は手に軽い障害があるため、それまでは梱包を担当してい
た。しかし、二ヶ月ほど前に志願して、旋盤担当の一員になったの
だ。
それ以来、早朝から夜遅くまで矢口は樋池につきっきりで、ね
じ切りや穴ぐり加工を教えていた。
﹁バイトを引くのが遅い。だから欠けてしまう﹂
﹁すいません!﹂
﹁もう一度﹂
気の遠くなるような細かい作業の繰り返しだ。
120
ゼファーは二人に声をかけずに、その場を離れた。
ふと見上げると、事務所の蛍光灯が消えるところだった。
ゼファーは、拭っていた部品を丁寧に並べ、カバーをかぶせる
と、工場を出た。
街灯に照らされて、社長の小さな後姿がひょこひょこと揺れて
いる。ゼファーは少し後ろから社長について歩いた。
車の往来が多い国道を越え、遮断機の上がった踏み切りを越え、
無事に一人暮らしのマンションにたどりつく。
その窓の明かりがポツンと点くのを確認してから、ゼファーは
ようやく家路に着いた。
︱︱俺は、会社の倒産を阻止することができるのか。
五十二人の社員を絶対に路頭に迷わせないと誓ってから、もう
半年。
リンガイ・グループとの提携を断って以来、会社の業績は、目
に見えて悪くなっていく。このままでは、不渡りを出すのは時間の
問題だろう。
魔王の力が使えれば。
そう考え始めている自分に苦笑する。人間というのは、打つ手
が尽きたときには、ないものねだりをするものらしい。
精霊の女王に、ほんのわずかな間だけでも魔力を返してもらえ
れば。
ゼファーは夜の闇のなかで目をこらした。どこかの家の軒先で、
ケイトウの濃赤の花が風に揺れている。
﹁精霊の女王﹂
答えはない。
﹁⋮⋮ユスティナ?﹂
突然、気づいた。もう何ヶ月、精霊の女王の姿を見ていないだ
ろうか。
半年? 一年?
いや、ことによると、もっとずっと前から︱︱。
121
不意にゼファーは、足元をすくわれたような、ひどい恐怖に襲
われた。
アパートに帰ると、玄関脇の窓から明るい光が漏れ、笑い声が
聞こえた。
﹁ゼファーさん、おかえりなさい﹂
佐和が満面の笑顔で出迎えた。
いつもの夜ならば、ゼファーの分の夕食だけが乗っているつつ
ましい食卓が、ご馳走とケーキで彩られている。
﹁シュニン。おキュウリョウです。おキュウリョウもらいました
!﹂
ヴァルデミールが、頬を紅潮させて、薄っぺらい封筒を差し出
した。
﹁ヴァルさんたら、ケーキと、それから雪羽に洋服まで買ってく
れたんですよ﹂
﹁父上ぇ。おようふく、ねえ、ねえ、似合う?﹂
雪羽はピンクの可愛いワンピースを着て、ぴょんぴょん跳ねな
がら、ゼファーにまとわりついてきた。
ゼファーは彼らの能天気な様子に、熱く煮えたぎったものが腹
の底に生まれるのを感じた。
﹁うるさい。今何時だと思っている﹂
三人は一瞬のうちに、ぎざぎざの氷に触れたように顔をこわば
らせた。
﹁⋮⋮すまん﹂
ゼファーは背中をくるりと向けた。
﹁疲れている。今日は飯はいらない﹂
ふとんを敷き詰めた奥の六畳に入って、開け放していた襖をガ
タンと閉めた。ひとりきりになるという意思表示だ。
雪羽が、ふええと泣き出すのが襖ごしに聞こえた。
122
﹁すみません、奥方さま﹂
しょげかえったヴァルデミールの声。
﹁わたくし、調子に乗りすぎました。今日は、これで失礼します﹂
﹁待って。ヴァルさん。もうちょっとのあいだ雪羽を見ていてく
れる?﹂
やがて襖がそっと開いて、佐和が入ってきた。
﹁ゼファーさん﹂
背後で、妻が静かに正座する。
﹁ごめんなさい。雪羽を夜更かしさせてしまって。今日はヴァル
さんが﹃相模屋弁当﹄に勤めて、はじめての月給をもらった日なの。
だから、みんなでお祝いしましょうということになって﹂
﹁⋮⋮﹂
﹁疲れているのね。ゼファーさん。熱いおしぼりを持ってきます
ね、それから、おにぎりも﹂
﹁佐和﹂
夫を気遣う優しいことばに、みじめさが喉からあふれだしそう
なのを制して、ゼファーはようやく口を開いた。
﹁俺は、本当は魔王じゃなかったのか﹂
﹁え⋮⋮?﹂
﹁アラメキアを追放されて人間になったというのは俺の妄想で、
はじめから、ただの人間だったのか。病気でそう思い込んでいただ
けなのか﹂
佐和はしばらく返事をしなかった。
﹁⋮⋮どうして、そんなことを﹂
﹁いくら呼びかけても、精霊の女王が答えてくれない。ほんのわ
ずかな魔力も使えないんだ。たったひとつの工場を建てなおすこと
ができない。死ぬほど思いつめている社長を⋮⋮励ますことすら⋮
⋮できない﹂
ゼファーの丸まった背中が、小刻みに震えた。
﹁本当は、全部⋮⋮妄想だった。何もできないのに、誰も助けら
123
れないのに、魔王⋮⋮だなんて⋮⋮﹂
膝の上で握りしめた佐和の拳に、涙があとからあとから滴り落
ちた。
﹁私、前にも言いましたね。あなたは私にとって、永遠にゼファ
ーさんだって。私の気持は今でも変わりません﹂
佐和は、夫の背中に顔を押し当てて、両腕をぎゅっと回した。
強く、強く。
﹁全部の力を失っても、あなたはゼファーさんです。雪羽も私も
ヴァルさんも︱︱あなたが魔王ゼファーだということを、絶対に疑
ったりしません﹂
翌朝、始業時間よりずっと早く、門から工場の敷地に入ったゼ
ファーに、矢口が声をかけてきた。
﹁おはよう、瀬峰主任﹂
﹁もう来ていたのか。毎日、精が出るな﹂
﹁ああ、樋池も、よくがんばってるよ﹂
矢口は、首に巻いたタオルでごしごし頭を拭きながら、敷石の
縁に腰を下ろした。
﹁どうだ。ものになりそうか﹂
﹁まだわからん﹂
初老の男は、皺だらけの瞼をしょぼしょぼと瞬かせた。
﹁正直言えば、片手のハンデというのは、旋盤工にとっては厄介
だ。左手で保持して右手で削る。ハンドル回しも両手でやらなけれ
ば、細かい送りはできない﹂
﹁そうだな﹂
﹁だが、樋池にはそれを補う集中力がある。何よりも目がいい。
俺の言うのは、視力という意味じゃないぞ﹂
﹁ああ﹂
﹁主任。俺はうれしいんだよ﹂
124
矢口はにっこり笑った。白い無精ひげが朝の陽光に映えて、き
らきら光った。
﹁実は、何ヶ月か前に、そろそろ辞めたいと社長に申し出たんだ﹂
﹁そうか﹂
﹁俺ももう65だ。こんな年寄りがいすわっちゃ、余計に経営を
圧迫すると思ってな。だが、社長に説得された。おまえは四十年培
った技を、まだ誰にも受け継がせていないってな。そこへ、樋池が
教えてほしいと志願してくれた。社長に勧められたと言ってな﹂
﹁社長が?﹂
﹁今のうちに、少しでも樋池に技術を身につけさせようと思って
のことだろう。このままじゃ、やつには転職先がないからな﹂
﹁⋮⋮ああ﹂
﹁それほど会社の状態が悪いんだってことは、わかってる。⋮⋮
だがな、主任。あいつらには、未来がある。その未来を、俺たちが
守ってやらなきゃ、いけない﹂
﹁ああ﹂
﹁俺は今、毎日が楽しくてたまらんよ。自分が若造の頃から見よ
う見まねで習い覚えたことを、次の若造が真剣に学び取ろうとして
くれる﹂
矢口は汗を拭くふりをして、タオルで目のあたりを、こっそり
ぬぐった。
﹁生きがいってのは、こういうことを言うんだろうな、なんて柄
にもなく、感激しちまってよ﹂
ゼファーはその夜、近くの公園へ娘を連れ出した。
大好きなすべり台に乗せようとすると、﹁あっち﹂と言って、
ブランコに向かって駆け出した。
ヴァルデミールからもらったピンクのワンピースが、ふわりと
風に揺れる。
125
﹁父上、見てぇ﹂
いつのまにか、ひとりでブランコを漕げるようになっていた雪
羽に、ゼファーは驚いた。
もうずいぶん長いあいだ、仕事が忙しくて、雪羽と公園に遊び
に来たことがなかったのだ。
子どもの成長というのは想像を超えている。ゼファーは後ろに
立って、娘の小さな背中をじっと見つめた。
﹁ゆうべは、すまなかった﹂
﹁んー?﹂
﹁あれは、雪羽を怒ったんじゃない。自分が不甲斐なかっただけ
だ﹂
﹁ふーがーい?﹂
雪羽の歌うような声が、遠ざかったり近づいたりする。
﹁ときどきアラメキアにいたころを思い出して、今の自分とのあ
まりの違いに愕然とする。吹っ切れたつもりだったのに、どこかで
まだ吹っ切れていないものがある﹂
﹁父上、アヤメキアにかえりたいの?﹂
雪羽はくいと振り向いて、バランスを崩しそうになり、あわて
てゼファーが鎖を押さえた。
﹁いや、帰るつもりはない﹂
﹁アヤメキアじゃ、いっぱいつよーい、まおうなのに?﹂
﹁それでもだ﹂
ゼファーは娘を抱き上げて、秋の花々が揺れる花壇のそばに立
った。
﹃アルト エルス。クルト エルス ラクミ︵今のままでいい。
ここが一番、いいんだ︶﹄
久しぶりに使った、アラメキアのことばだった。
﹃オーラァ︵そうだね︶﹄
腕の中の幼な子は、まっすぐに父親を見つめ返しながら答えた。
﹁雪羽、おまえ⋮⋮﹂
126
ゼファーは目を見開いて、一瞬絶句した。﹁いつのまに、アラ
メキアのことばを⋮⋮﹂
﹁雪羽、アヤメキア、しゅき。お花も、川も、山も、みんな、だ
いしゅき﹂
きらきらと黒い瞳を輝かせながら、娘は笑った。
﹁アヤメキア、ぜったい、いこうね。父上と母上とヴァユ、みん
なで、いこうね﹂
胸に熱いものがこみあげてくるのを、ゼファーは感じた。
矢口が言っていた、自分のものを受け継がせる喜びというのは、
こういうことだったのか。
﹁さすがに、そなたの子だな﹂
ふと気づくと、花壇のリンドウの上に透き通った裳裾を広げて、
黄金色の瞳をした高貴な女性が立っていた。
﹁⋮⋮精霊の女王﹂
﹁雪羽は、生まれながらに不思議な力を備えている。将来がとて
も楽しみだ﹂
﹁いきなり現われて、驚かせる。ずいぶんと久しぶりだったな﹂
﹁そうか。私はいつも、そなたのことを見ていたのだが﹂
女王はいたずらっぽく、真珠色の顔をほころばせた。
﹁むしろ、そなたが私を必要としなかっただけではないか﹂
﹁よく言う。さんざん、呼んだのだぞ﹂
﹁それで、魔王よ。いったい何の用事だ?﹂
﹁いや﹂
ゼファーは首を振った。
﹁やはりこれは、おまえの力を借りることではない﹂
﹁本当に、いいのか﹂
﹁ああ﹂
彼の深い色の瞳に、いつもの落ち着きと自信が戻ってきた。
﹁これは、俺の務めだ。今の俺が持てる力で、戦うべきことだ﹂
ゼファーは雪羽を地面に下ろすと、しっかりと手をつないだ。
127
﹁さあ。もう寝る時間だ。帰るぞ﹂
公園を去っていく父娘の後姿を見ながら、精霊の女王は少しす
ねたように呟いた。
﹁まったく。佐和と雪羽さえいれば何もいらぬくせに。勝手なと
きだけ私を呼ぶのだからな﹂
雪羽はそのとき、さっと後ろを振り向き、精霊の女王を慰める
かのように、花のつぼみに似た笑顔を見せたのだった。
128
夜明けの足音
夜明けの訪れを、ヴァルデミールはヒゲで感じる。
濃紫の空から降りてくる冷たく湿った空気があたりを包むと、
ヒゲがふるふると揺れるのだ。
とたんに目が覚める。遊具の下から這い出て﹁にゃおん﹂と鳴
く。その黒い体をしなやかに伸ばし、噴水の水で四本足と顔をちょ
んと洗い、コインロッカーに一目散に走る。
ロッカーから出てきたのは、もはや黒猫ではなく、普通の服を
着た、ごく当たり前のひとりの男だ。
駅前の時計は、もうすぐ朝の四時。ヴァルデミールは、長い髪
をなびかせて駆け出した。
まだ闇の中で眠りをむさぼる町で、その一角だけが煌々と明か
りを灯し、暖くて良い匂いの湯気をもくもくと吐き出している。自
転車や単車に乗った人々が、続々と集まってくる。
﹁おはよう﹂
﹁おはよう﹂
﹁おはようございます!﹂
ヴァルデミールも、彼らといっしょに元気よく扉の中に吸い込
まれようとした。
そこに突如、障害物が立ちはだかる。
﹁何度言ったら、わかるの!﹂
さがみのりこ
赤い眼鏡を光らせた最高位の魔女、もとい、この﹃相模屋弁当
株式会社﹄の社長、相模理子だ。その見幕に、ヴァルデミールはあ
えなく弾き飛ばされて、尻餅をついた。
129
﹁清潔がモットーのこの工場に、そんな汚らしい長髪で出入りし
ないでって、あれほど注意したでしょう。なんで切ってこないの!﹂
﹁お、お、おことばですが、このタテガミはわたくしの一族にニ
ャくてはニャらないシンボルでして﹂
両手で頭を抱えながらも、むなしく反論を試みる。
﹁なにが、ニャくてはニャらない、よ。いいかげんに、まともな
日本語覚えろ!﹂
﹁ご、ごめんニャさい!﹂
﹁あんたは、もう工場に入らなくていいわ。会長がまだ自宅にい
るから、さっさと迎えに行ってきて!﹂
﹁は、はい!﹂
ヴァルデミールはあわてて立ち上がり、脱兎のごとく、工場の
敷地をぐるりと裏に回った。
裏手に隣接して、﹃相模屋弁当﹄の創業者・相模四郎と、その
末娘の理子の家がある。
地面にころげて埃だらけだった服を丁寧にはたき、息を整える
と、ヴァルデミールは家のチャイムを鳴らした。
﹁おはようございます。相模会長。お迎えにまいりました!﹂
しばらくして、インターホンから返事が聞こえてきた。
﹃入れ。開いておるぞ﹄
彼は扉を開けると、家にあがりこみ、相模会長のいる居間へと
向かった。
﹁お支度は、もうお済みですか﹂
﹁うむ。おまえを待っておった。このポロシャツのボタンが厄介
でな。嵌めてくれんか﹂
相模会長は数年前に脳梗塞をわずらい、右手と右足が不自由だ。
箸を使ったり、字を書いたり、ボタンを嵌めたりするのが苦手で、
ヴァルデミールはいつのまにか彼の身の回りの世話をまかされるこ
とが多くなった。
会社の創業者であり、人生のあらゆる知恵を修めた賢人でもあ
130
る老会長に付き従うのは、ちょっぴり誇らしい気分だ。
ボタンを嵌め終えると、
﹁それでは、まいりましょう﹂
ヴァルデミールは、彼の上着とステッキを持ち、玄関で靴を履
くのを手伝った。
ようやく東が白み始めた空を、相模会長は長い間じっと見上げ
ていた。
﹁今日は、よく晴れそうだな﹂
﹁はい。快晴です﹂
﹁弁当屋は、いつも空模様をにらんでおらねばならん。雨になれ
ば行楽用の弁当がさっぱり売れず、反対にビジネス街では、雨のほ
うがよく売れる。誰しも、雨の日に外出はしたくないからな﹂
﹁人間も猫もおニャじですね。猫も雨の日はどこへも出かけずに、
できるだけ濡れないように軒下でじっとしてます。寒い日は車の下
やエアコンの室外機なんかが暖かくて、ちょうど具合がいいんです﹂
﹁ヴァル、おまえの言うことはいちいち含蓄があるのう。それで、
仕事のほうはどうだ。そろそろ慣れたかな﹂
﹁それニャんですよね﹂
ヴァルデミールは、がっくりと首を垂れた。
﹁わたくし、社長のおことばだと、どうしようもニャく、トロい
らしいです。月曜日は、弁当の蓋にシールを貼る作業を任されたん
ですが、ひとつ貼るのに一分以上かかってしまいまして﹂
﹁ほうほう﹂
﹁仕上がりがピッタリそろうようにと、定規で計りニャがら貼っ
ていたんです。そしたら、社長にその定規を取り上げられて、角で
頭をはたかれました﹂
﹁理子のやつ、相変わらず、することが荒っぽい﹂
﹁火曜日は、注文係さんたちのそばについて伝票を集めて回った
んですが、九時を過ぎると、いっせいにたくさんの電話が鳴り出し
て、頭が真っ白にニャってしまいました﹂
131
﹁ふむ。それは驚いただろう。近所の工場や会社の総務が、社内
の注文を取りまとめて電話してくる時間は、どこもだいたい九時過
ぎと決まっておるのだ﹂
﹁水曜日は、にんじんのカット作業をさせていただいたんですが、
乱切りというのがまた、めちゃくちゃ難しくて、見本と同じ形にし
ようと削っていたら、また社長に頭をはたかれて﹂
﹁わはは﹂
﹁社長がおっしゃるには、弁当工場というのは、とにかく時間と
の戦いニャんだそうです。わたくしのように何をさせてもトロい従
業員は、工場には要らニャいと言われました﹂
﹁そんなことはないぞ﹂
相模会長はよたよたと歩きながら、ステッキをトンと地面に突
いた。
﹁確かに、熟練の従業員は何をするにも正確で手早い。だが、お
まえのような新人は、ひとつひとつの仕事に丁寧に心をこめること
が、まず基本なのだ﹂
﹁そうでしょうか﹂
﹁心をこめず、手早いばかりの料理が美味いはずはない。時には、
にんじん一本をいとおしむように調理することも、学ばねばならん
ぞ﹂
﹁はい、わかりました﹂
﹁理子の言うことなんぞ、男らしく堂々と無視しておればよいの
だ﹂
﹁えへへ﹂
ヴァルデミールは、ようやく笑顔を取り戻した。老人はそんな
彼を息子のように、ニコニコと見つめている。
だが工場に着いたとたんに、ヴァルデミールはポケットから輪
ゴムを取り出して、あわてて髪の毛を縛った。
やはり理子が怖いのだった。
132
﹁こんにちはっ。相模弁当です﹂
ヴァルデミールは昼前になると、ゼファーの働く﹃坂井エレク
トロニクス﹄を訪れる。
工場内での仕事が失敗ばかりなので、この頃は町に出て、弁当
を売ってくるように社長に命じられているのだ。
﹁おいしい弁当はいかがですかぁ﹂
﹁あ、ヴァル﹂
旋盤のそばで働いていた樋池が、彼を見つけて駆け寄ってきた。
﹁今日のおかずは?﹂
﹁焼きさばと白和えと卵焼きと筑前煮です。500円﹂
﹁高いなあ、もう五十円まけてくれたら、買うよ﹂
﹁だめ。絶対にまけませんよ。うちの弁当は最高の素材を使って
るんですから﹂
﹁しかたないや。買うよ。矢口さんも弁当いります?﹂
﹁ああ﹂
タオルで首筋をぬぐいながら、老工員も近寄ってきた。
ヴァルデミールは、それぞれから500円玉を受け取ると、キ
ャリアケースから弁当の包みをふたつ取り出し、油がしみて黒くな
った二つの手に渡した。
﹁毎度ありがとうございます。樋口さん、お仕事はいかがですか﹂
﹁まだまだダメだよ。今日は回転シャフトの加工の練習をしてる
んだけどね﹂
﹁ふーん、回転かぁ。乱切りも、手で野菜をくるくる回しニャが
ら切るんです。野菜の乱切りが機械で出来たらいいのにニャあ﹂
﹁野菜の自動カット機械だったら、もうとっくに発売されてるだ
ろう?﹂
﹁でも、太さのそろったキュウリとかはいいんですが、根元が太
くて先の細いニンジンの乱切りは、あんまりうまくいかニャいみた
いです。うちは何百本というニンジンを、全部手作業ニャんですよ
133
ね﹂
そんな話をしている間に、他の工員たちも集まってきて、弁当
を買っていく。
最初はゼファーの知り合いということで珍しがって買ってくれ
た彼らも、今ではすっかりヴァルデミールと顔なじみだ。
業績が振るわず、倒産寸前の会社だが、工員たちの顔は明るい。
社長やゼファーたちトップに立つ者たちが、希望を失っていないか
らだろう。そして工員たちにも失わせないように懸命に努力してい
るからだろう。
﹁あ、シュニン!﹂
二階から降りてきたゼファーを見ると、ヴァルデミールは喜び
に顔を輝かせた。
﹁シュニンもお弁当買ってください。ちょうど最後の一個です﹂
﹁俺はいらない﹂
ゼファーはにべもなく答えた。﹁佐和が作ってくれたおにぎり
がある﹂
﹁それじゃ、奥方さまのおにぎりは、代わりにわたくしがいただ
きますから﹂
﹁佐和のおにぎりを、そんな弁当と交換できるか!﹂
﹁そんニャとは、ニャんですか。﹃相模屋﹄のお弁当をバカにし
てますね﹂
﹁比べるまでもない。おまえこそ、﹃奥方さまの焼いた鮭は、相
模屋の﹁しゃけ弁﹂よりずっと美味しいです﹄と、いつも佐和にお
もねっているくせに﹂
﹁そ、それとこれとは、話が別です!﹂
ふたりの言い争いを見ながら、研磨工程の水橋ひとみは、うっ
とりと同僚に言った。
﹁奥様のおにぎりのことで、あんなにムキになれる瀬峰主任って、
すてきだわ∼﹂
134
﹁どうしよう、一個だけ余っちゃった﹂
ヴァルデミールは、ほとんど空のキャリアケースを抱えて、と
ぼとぼと歩いていた。
﹁最後の一個っていうのは、なぜか売れにくいんだよね﹂
弁当工場の近くの公園まで差しかかると、ひとりの路上生活者
が疲れた顔でベンチに座っているのに気づいた。いつもあちこちの
公園で寝泊りしているヴァルデミールは、その男の顔に見覚えがあ
った。
拾ってきたアルミ缶や雑誌をたくさん抱えている。売って、わ
ずかな金に換えて、今日の食事代にするのだろうか。
ヴァルデミールは、ポケットの小銭をごそごそと探った。
ベンチのそばを通り過ぎるふりをして、大きな声で﹁あっ﹂と
叫んだ。
﹁おじさん、こんニャところに五百円落ちてました。これ、おじ
さんのでしょう?﹂
ひょいとベンチのそばの地面に屈みこんで、硬貨を拾う真似を
する。
男は、戸惑ったように彼を見上げた。
﹁い、いや、この金は俺のじゃ⋮⋮﹂
﹁いいえ、ここには他に誰もいませんし、やっぱり、おじさんの
ですよ。わたくしが拾ってさしあげたのですから、お礼にこのお弁
当を買ってくれませんか?﹂
﹁え?﹂
﹁おいしいですよ。﹃相模屋﹄、﹃相模屋﹄のお弁当です。みん
ニャで朝の四時から、がんばって作っています。ボリュームも栄養
もたっぷりですよ﹂
ぽかんとしている男に弁当を押しつけると、﹁毎度ありがとう
ございます﹂とお辞儀して、ヴァルデミールは風のように走り去っ
た。
135
少し行くと、
﹁ちょっと、あんた!﹂
路地から、社長の相模理子が般若のような顔で飛び出してきた。
﹁見てたわよ。あんた、ホームレスにうちの弁当を渡したでしょ
う﹂
﹁え。ど、どこから見てらしたんですか?﹂
公園の上をホウキで飛んでいたのだろうか、と空を見上げる。
﹁垣根の裏からよ。丹精こめて作ったうちの弁当を、ただでくれ
てやるなんて、まったく呆れたわ﹂
﹁ただニャんかじゃありません。ちゃんと御代はいただきました﹂
﹁うそ。じゃあ、弁当二十個売った売上金、見せてみなさい﹂
ヴァルデミールはおずおずと集金用の巾着袋を差し出す。釣り
銭分を別にしても、確かに一万円の売り上げはそっくり残っていた。
﹁じゃあ、あんたまさか、自腹切って、あのホームレスに弁当を
恵んでやったわけ?﹂
﹁恵んでやったニャんて。もらっていただいただけです﹂
﹁なんでそんな勿体無いことするの。あんたの給料なんて、ほん
のすずめの涙しか渡してないわよ﹂
﹁だって、せっかくのお弁当を、ひとりでも多くの人に食べても
らいたいじゃニャいですか﹂
ヴァルデミールはビクビクと身をすくませながら、言い訳した。
﹁あの方だって、今は公園で暮らしていらっしゃいますが、将来
は社長に出世ニャさるかもしれません。そしたら、﹃相模屋弁当﹄
の味を思い出して、社員全員分のお弁当を毎日注文してくださるよ
うにニャるかもしれニャいんですよ﹂
﹁あんた⋮⋮本気でそんニャこと考えてるの?﹂
理子は唖然とするあまり、ヴァルデミールのことばが自分に移
ってしまったことにも気づかなかった。
136
﹁そりゃあ、生き物は生きているかぎり、どんニャことにだって
可能性があります﹂
﹁あんたって、頭が弱いの? 底抜けのバカなの? ⋮⋮それと
も﹂
理子は口をつぐんで、じっと彼のことを見つめたかと思うと、
プイと背中を向けて行ってしまった。
朝の四時。
いつものとおり、ヴァルデミールは工場に出勤した。
今日は社長に締め出されないように、あらかじめゴムで幾重に
も髪を結わえて、万全の装備を整えている。
お仕着せの服と帽子に着替え、手をよく洗ってから、分厚い透
明フィルムのカーテンをくぐった。
朝礼では、社長がきびきびと指示を出した。
﹁紅葉がそろそろ見ごろの時期です。今日は金曜日だけど天気が
良いから、たくさんの行楽客が出るはず。駅前に出す行楽用の弁当
は、百個増産します。みんな頑張りましょう﹂
﹁はい!﹂
五十人以上の従業員たちが、一斉に返事をした。
﹁ま、待ってください!﹂
ヴァルデミールは、大きな声を張り上げた。﹁でも、今日は雨
が降ります﹂
社員たちは、﹁え﹂と一斉に彼のほうを振り返った。
﹁天気予報では、降水確率は10%だと言ってるわ﹂
理子は、きっと彼をにらみつけた。﹁空を見てごらん。雲なん
て全然ないじゃない﹂
﹁でも、降ります。九時ごろには、たくさん雨が降ってしまいま
す﹂
ヴァルデミールは両の拳をぎゅっと握りしめ、力説した。
137
﹁わたくしのヒゲが、そうビンビンと感じてるんです!﹂
﹁あんたの顔のどこに、ヒゲなんて生えてるの!﹂
﹁心のヒゲです!﹂
﹁バカなこと言わないで。今日は晴れよ﹂
﹁雨です。だから行楽用の弁当は控えて、その代わりに、ビジネ
ス弁当を増やさニャければいけません﹂
﹁晴れだってば!﹂
﹁理子!﹂
ステッキをついた相模老人が、よたよたと事務室から出てきた。
﹁ヴァルの言うとおりにしなさい﹂
﹁お父さん、このバカに付き合って、会社をつぶすつもり?﹂
﹁もし損害が出たら、わしが全責任を負う!﹂
﹁会長、そ、そんニャ⋮⋮﹂
不安げに老人を見やるヴァルデミールに、相模四郎は満面の笑
みで答えた。
﹁よい。それよりわしは嬉しいのだ。おまえがわしの教えたこと
を、忘れずに覚えていてくれたことがな﹂
﹁わかったわ!﹂
理子は、叫んだ。﹁こうなりゃ、ヤケよ。行楽弁当を50個減
らして、ビジネスランチを50個追加! もし雨が降らなかったら、
地獄の果てまでも売りに行ってもらうからね!﹂
そして、その日の朝九時前。
突風とともに、バラバラと大粒の雨が叩きつけるように降って
きた。
午後になると、空は元通りの秋晴れに戻った。
勤務時間が終わり、工場の庭で大きな伸びをしていたヴァルデ
138
ミールは、ふと背後に人の気配を感じた。
﹁社長﹂
小太りの女性に向き直ると、彼は丁寧にお辞儀をした。
﹁今日はありがとうございました。わたくしの言うことを信じて
くださって﹂
﹁あんたに礼を言われる筋合いはない﹂
理子はしかめ面で、ぷいとそっぽを向いた。
﹁あれは、会長が大啖呵を切ったからよ。あそこで私があの提案
を拒否したら、会長の面目は丸つぶれ。それは、会社の経営体制に
とって決して得なことではない。それだけよ﹂
彼女はしばらく何ごとか思案していたが、いつものダミ声とは
まったく違う、か細い声で言った。
﹁あんたが来てから、父が別人のように変わったわ。お母さんが
死んでからというもの、私には一度もあんな笑顔見せたことなかっ
た。脳梗塞で体が利かなくなってからは、毎日﹃死にたい、死にた
い﹄と、そればかり⋮⋮﹂
唇を噛みしめて、うなだれた。
﹁お父さんを喜ばせたくて、会社もせいいっぱい大きくしたのに。
昔のお父さんに戻ってほしくて、わざと厳しく突き放すようなこと
も言ったのに。なぜ私にはできなくて、あんたにそれができるの⋮
⋮﹂
﹁社長は、本当は気持のやさしい方だったのですね﹂
﹁⋮⋮そんなわけないじゃない。バカ﹂
﹁以前、シュニンが教えてくれたことがあります﹂
ヴァルデミールは目をしばたいて、微笑んだ。
﹁誰でも、みんニャ、ホコリというものを持っていると。どんニ
ャにお金があっても、着る服や食べるものがたくさんあっても、ホ
コリがニャくては誰も生きられニャいのだと﹂
﹁⋮⋮﹂
﹁社長のお父上はあれほどの賢者でいらっしゃるのに、お年を召
139
して、手足が不自由にニャられて、そのホコリをニャくしておられ
たのだと思います﹂
﹁⋮⋮誇り﹂
﹁そうです。家がニャくて公園で暮らしているわたくしたちにだ
って、ホコリはあります。猫にヒゲがあるように﹂
﹁心の、ヒゲ?﹂
彼女は、クスッと笑った。
﹁はい、そうです﹂
﹁あんたって不思議ね。浮世ばなれしてると思ってたけど、やっ
ぱり普通の人間じゃない﹂
﹁そりゃもう。夜は猫ですから﹂
﹁⋮⋮そう言えば、さっき変なこと言わなかった? ﹃家がニャ
くて公園で暮らしてる﹄って⋮⋮﹂
﹁はい。言いました﹂
﹁それって本当のことなの?﹂
﹁はい﹂
﹁まさか、本当に公園で寝てるの?﹂
﹁すべり台の下を少し掘って、砂に潜りこむと、暖かくて、ニャ
かニャか快適ですよ﹂
理子が小刻みに震え始めたのに、ヴァルデミールは気づかなか
った。
﹁⋮⋮お風呂は?﹂
﹁噴水で、ときたま水浴びします。このごろ寒いからあんまりし
ませんけど﹂
﹁よ、よくそれで、清潔第一のうちの工場へ⋮⋮﹂
ヴァルデミールは、得意げに胸をそらせた。
﹁ぜんぜん汚くニャいです。だって毎日、全身を綺麗に舐めてま
すから﹂
相模社長はヴァルデミールの手首をひっつかむと、弾道ミサイ
ルのような勢いで工場の裏手に回り、自分の家に駆け込んで、彼を
140
頭からバスタブにつっこんだ。
141
蒼空の扉︵1︶
ガーゴイルのレリーフが浮き出た禍々しい扉を前にして、彼は
もう一度うしろを振り返った。
﹁準備はいいか﹂
緊張をみなぎらせていた他の三人の王たちは、我に返ったよう
に深くうなずく。
それぞれの手には、柄に聖なる宝玉を嵌めこんだ剣が握られて
いる。
﹁護衛の魔物たちに目をくれるな﹂
﹁まっすぐに玉座に向かい、この剣を奴の手足に突き刺すのだ﹂
﹁決して、あの紫の目を見るなよ。たちまち操られてしまうぞ﹂
﹁大丈夫だ。われらには、精霊の女王のご加護がある。決して負
けはせぬ!﹂
矢継ぎ早に言い交わしながら、くじけそうな勇気を奮い立たせ
る。それほどに、この扉の向こうにいるのは、強大な敵なのだ。
﹁いつでもよいぞ、ナブラの王﹂
仲間の呼びかけに応えて、先頭に立っていた最も年若き王は、
雄雄しく叫んだ。
﹁よしっ。みんな、行くぞ!﹂
﹁おおっ﹂
四人の勇者は扉を差して、いっせいに剣を掲げた。
﹁アラメキアに仇なす魔王ゼファーよ、今日こそ、おまえを永遠
に封印してやる!﹂
﹁陛下﹂
142
しわがれた声に、ユーラスは目を覚ました。
異世界への旅の途中で気を失い、夢を見ていたようだ︱︱はる
か昔の夢を。
まず見えたのは、目を射るほど真っ蒼な空だった。アラメキア
の紫を帯びた青とは明らかに異なる色。
鉄サビの匂いが肺を突く。たくさんのうち捨てられたゴミの山
に、彼らはなかば埋もれているのだった。
白い髭の男が、彼のかたわらでガラクタを取り除けている。そ
のうしろには、ふたりが乗って来た巨大な︻転移装置︼が、着地し
たときの衝撃もそのままに、傾いて立っていた。
﹁この世界に、奴がいると申すのか。大賢者アマギ﹂
﹁仰せのとおりです、陛下﹂
﹁混沌とした醜悪な景色だ。さすが、あの魔王の流刑地にふさわ
しい﹂
ユーラスは嫌悪に唇をゆがめると、電子レンジやプリンターの
堆積物をがらがらと崩して立ち上がった。
﹁ふふ。待っていろ、魔王。余が来たからには、もう逃がれられ
ぬ﹂
彼は、虚空をにらみつけて不敵に笑った。
﹁たとえ、女王の裁きがいかなるものであっても、余のなすべき
ことは、ただひとつ。地の果てまでも、おまえを追いかけて︱︱滅
ぼしてやる!﹂
アマギの道案内によって、ユーラスは一軒の建物の前に導かれ
た。
アラメキアではほとんど見かけぬ二層建てだが、外観はかなり
みすぼらしい。
﹁ここが奴の根城か﹂
﹁はい、さようでございます﹂
143
目深に黒いローブをかぶった博士は、うやうやしく答えた。こ
の異世界の男はアラメキアに来てから、ローブを着る資格のある大
賢者のひとりと数えられていた。
﹁わたしは以前、魔王の従者という魔族をひとり、︻転移装置︼
で地球に送り込みました。奴から発信された電波の座標位置から計
算すると、間違いなく、ここが奴の住居﹂
うなずいて、まさに一歩踏み出そうとしたユーラスの耳に、楽
しそうな歌声が届いた。
﹁しろくまが、めがねをかけたら、パンダさん∼﹂
﹁しまうまが、しまをとったら、風邪をひく∼﹂
振り返ると、黒髪の浅黒い男と、雪のように白い肌の小さな女
の子が手をつなぎ、笑いながら道を歩いてくる。
﹁あの男が、今申した魔王の従者ですぞ﹂
アマギが、こっそり耳打ちをした。
ユーラスは、身をおおっていたマントを背中に掃い、彼らの前
に立ちふさがった。
﹁きさま、魔王の配下だな﹂
﹁え?﹂
ふたりは、怪訝そうな顔で立ち止まった。
﹁余はナブラの王だ。アラメキアからはるばる魔王に会いに来た﹂
﹁アヤメキア!﹂
幼い少女は、小鳥のさえずりのような歓声をあげた。
﹁おにいちゃん、アヤメキアから来たの?﹂
﹁姫さま!﹂
従者の男は、ユーラスに手を伸ばそうとする女の子の身体を、
とっさにかかえこんだ。
﹁姫⋮⋮だと?﹂
ユーラスは片眉を上げ、少女をうさんくさげに見つめた。﹁と
いうことは、その小娘、ゼファーの娘か﹂
﹁おまえ、本当にニャブラの王か﹂
144
ようやく事情が飲みこめた様子の従者だったが、それでもまだ
ユーラスを見つめて、ぽかんとマヌケ面をさらしている。
﹁それじゃあ、まさか隣にいるのは、アマギ博士﹂
﹁ふっふ。久しぶりだな﹂
﹁我ら魔族に味方すると誓ったはずニャのに、人間側に寝返った
のか?﹂
﹁恩知らずな魔族と違って、ナブラ王は、わたしを地球に連れ帰
ると約束してくださったからな﹂
﹁そうか⋮⋮だから代償に、そんな姿に﹂
従者は視線をユーラスに戻して、少しいたましげな顔つきにな
る。その憐れみのこもった目つきが、ユーラスの怒りをいっそう燃
え立たせた。
﹁そこまでして、この世界に来るとは、いったいニャんの用だ﹂
﹁知れたことを。七十年前の魔王討伐の続きを、ここで果たそう
というのだ﹂
ユーラスは言うが早いか、右手を聖剣の柄にかける。
﹁北と西と南の三人の王は寿命を全うし、もはや余を残すのみ。
魔王を滅ぼすことは、余に託された神聖な義務なのだ﹂
﹁ニャにが、神聖な義務だ。どうせ精霊の女王さまの言いつけに
そむいて、こっそり来たのだろう﹂
﹁だまれ!﹂
ユーラスは図星をつかれて逆上し、あざやかに剣を鞘から放っ
た。
﹁まず、きさまから血祭りにあげてやる!﹂
そのとき、チリンチリンとベルを鳴らし、たくさんの紙束を運
ぶ二輪の乗り物が、キキーッと彼の目の前で停まった。
﹁おい、坊主﹂
乗っていた地球人の男が、ぽんぽんと彼の頭を叩く。
﹁小ちゃな女の子相手にチャンバラごっこなんかしちゃいけねえ﹂
﹁チャンバラごっこ?﹂
145
﹁それじゃあ、気を引くところか、泣かせちまって元も子もなく
なるぜ﹂
ユーラスは憤怒のあまり、頬をイチゴのように赤らめ、答える
こともできなかった。
無理もない。
アラメキアの四覇王のひとり。青い髪と青い目を持つ、並ぶも
ののない伝説の勇者、ナブラ王ユーラス。
しかし今はどう見ても、カーテン地か何かをマント代わりに引
きずり、オモチャの剣を振り回す、わんばくな小学生にしか見えな
かったのである。
﹁ユーラスが、子どもに?﹂
夜、工場から帰ってきたゼファーに、ヴァルデミールは今日の
騒動の顛末を話して聞かせた。
﹁いったい、なぜそんなことになったのだ﹂
﹁はニャせば、長いことニャがら﹂
ヴァルデミールは、佐和からもらった塩鮭を、皿までていねい
に舐めてしまうと、説明を始めた。
﹁そもそもアマギの作った︻転移装置︼は、56年に一度しか作
動できニャいのです﹂
﹁天城博士は俺には、アラメキアと地球が最接近するのは7年に
一度、と言っていたぞ﹂
﹁ところが、アラメキアでは地球と比べて、およそ八倍もの速度
で時間が流れるらしいのです﹂
ヴァルデミールは、必死に両手の指を折りながら説明する。
﹁シュニンがこの世界に来てから9年。ところが、その間にアラ
メキアでは72年の歳月が経ってしまいました。あのとき18歳だ
ったナブラ王は、たぶん90歳をとっくに越えていたはずです﹂
退屈な話に雪羽はすっかり眠気がさして、佐和の膝の上で、こ
146
っくりと舟を漕いでいる。
﹁わたくしがこの世界に来たとき、アマギは︻転移装置︼を動か
すために、時間神セシャトのもとへ行き、装置の時間を40年ほど
進めてくれるように頼みました。セシャトはその代価として、装置
に乗る者の時を40年戻すことを要求したのです﹂
﹁つまりは、乗る者を40歳若返らせる、ということか﹂
﹁はい。わたくしは魔族ですから、40年の年を差し引かれても、
さほど不便は感じませんでした。そのときアマギも、﹁若返れるな
ら一石二鳥﹂と地球に帰りたがっていましたが、セシャトは、﹃異
世界人の時間は、代価にニャらぬ﹄と言って、断ってしまいました﹂
ヴァルデミールは、ほうっとため息をついた。
﹁たぶんアマギは今回、自分もいっしょに地球に連れ帰ることを
条件に、ニャブラ王に協力すると約束したのでしょう。ニャブラ王
は、しかたニャく、自分の分とアマギの分の代価も合わせて、二倍
の時間をセシャトに差し出した﹂
﹁もしそれが40年だとしたら、ユーラスは80歳若返ったとい
うことか﹂
﹁どう見ても、9歳か10歳くらいにしか見えませんでしたから
ねえ﹂
と、おおげさなため息をつく。
﹁あれだけ小さいと、昔戦ったときの、あの炎のような気迫も強
さも、全く感じませんでしたよ。本人は、まだそのことを自覚して
ニャいみたいですけど﹂
ヴァルデミールは、上目づかいでゼファーを見た。
﹁シュニン、どうしましょう。ヤツはしつこくも、まだシュニン
の命を狙っているみたいです。けど、あれじゃあんまり可哀そうで、
ニャぐる気も起きませんよ﹂
﹁どうしたものかなあ﹂
ゼファーは、箸を食卓に置いて、黙り込んでしまった。
147
家電ゴミ置き場に埋もれた転移装置の中で寝苦しい夜を過ごし
たユーラスは、すっかり寝坊してしまい、日が高くなってからゼフ
ァーの居城に駆けつけた。
どうも、この身体になってから、一日9時間睡眠を取らないと、
眠くてしかたがない。
昨日は、おせっかいな通りすがりの新聞配達人にこんこんと説
教され、這う這うの体で逃げ出し、それきりになっていた。
﹁今日こそは、ヤツをこの剣で仕留めてやる﹂
抜き身の剣をかかげ、ユーラスはアマギが止める間もあらばこ
そ、一階の真正面の扉に突入した。
﹁ゼファー、覚悟﹂
数秒後、中にいた住民に首根っこをつかまれ、部屋の外に放り
出された。
﹁冗談じゃない、おもちゃの刀なんか振り回して。あんた小学生
だろ。学校サボって何してるんだい﹂
口やかましそうな太った婦人が、腰に手を当てて仁王立ちして
いる。城の入り口を守護するゴーレムも真っ青になるほどの迫力だ。
﹁なぜだ。ここはゼファーの城ではないのか﹂
﹁ゼファー? ああ、瀬峰さんを訪ねてきたのなら、二階の右か
ら二番目だよ﹂
﹁み、右から二番目?﹂
ユーラスはあぜんとして、二階の扉を見上げた。
﹁こんなアリの巣のような建物の、たった一室が魔王の居城だと
いうのか?﹂
﹁悪かったね。アリの巣みたいなアパートで﹂
女はバタンと扉を閉めてしまった。
﹁魔王は、かなり貧乏な暮らしをしているようですな﹂
アマギがぽりぽりと白髪頭を掻いている。
﹁大賢者。おまえは、ここで待っていろ﹂
148
ユーラスは、キッとまなじりを吊り上げると、階段を駆け上っ
た。
﹁ゼファー、覚悟しろ!﹂
勢いよく飛び込んだ部屋の中では、ゼファーの妻とおぼしき女
と娘が、ふたりで朝ごはんを食べていた。
﹁あ、アヤメキアから来たおにいちゃんだ﹂
﹁まあ、ゼファーさんのお知り合いですか。いらっしゃい﹂
のんびりとしたふたりの笑顔に、ユーラスはすっかり毒気を抜
かれて、持っていた抜き身の剣を、あわてて後ろ手に隠した。
﹁ま、魔王は?﹂
﹁ごめんなさい。ゼファーさんなら、さっき工場に出勤したとこ
ろなんですよ﹂
﹁コージョー? シュッキン?﹂
ユーラスは心の中でうなった。
︵おのれ、魔王め。性懲りもなく、この世界でもコージョーとい
う国に出陣して、攻め取ろうとしておるのか︶
﹁そんなところにいたら、寒いわ。どうぞ中へ﹂
佐和は立ち上がって、玄関に立ち尽くしている少年の肩に手を
かけると、食卓に案内した。
光線の加減によっては、美しい藍色に見える髪と瞳。革のベス
トとスパッツに似たズボン。緋色のマントにくるまれた手足は骨ば
って細く、すべすべした頬には髭の生える気配すらない。
どう見ても、10歳そこそこ。佐和の子どもだとしても、不思
議ではない年齢だ。
昨夜の夫とヴァルデミールの話では、この子どもがアラメキア
から追いかけてきて、夫の命をつけねらっているらしいというのだ
が、この澄んだ目をした子がそんなことを考えているとは、とても
信じられない。
佐和には、アラメキアの歴史も、︻転移装置︼の話もよくわか
らなかった。ただひとつわかることは、少年が知らない場所に来た
149
ばかりで、途方にくれていること。
ちょうど、出会ったばかりのころのゼファーのように。あのと
きの夫は、この世界のことを何も知らず、住む所も信頼できる仲間
もなく、すさんだ目をしていた。
そして何よりも、お腹をすかせていた。
﹁よかったら、朝ごはんをごいっしょにいかがですか?﹂
﹁え?﹂
﹁おにいちゃん、雪羽の鮭のおにぎり、あげる﹂
少女は、﹁はい﹂とユーラスの前に、白い三角の物体の乗った
自分の皿を押しやる。
︵魔王城で食べているものなど、食えるか。毒が入っているに決
まっている︶
そうは思ったが、食べ物だとわかっただけで、口の中はたちま
ち唾でいっぱいになる。
﹁ゼファーは、いつ戻る﹂
ユーラスはむりやり視線をそらすと、佐和に向かって高飛車な
態度で訊ねた。
﹁たぶん、遅くなると思います。納期が近いそうなので﹂
﹁ノーキ?﹂
︵近づくだけでゼファーの帰りをはばむとは、ノーキとはいかな
る強敵だろう。手を結んでおく必要があるかもしれぬ︶
﹁あの、お名前は?﹂
女は怖じずに、まっすぐ彼の顔をのぞきこんできた。
﹁名前だと﹂
ユーラスは油断なく身構えた。
﹁余の名を聞くとは、よい度胸だ。さては最高位の魔女だな﹂
﹁いいえ、私は魔女ではないし、名前は呪文を唱えるのに使うの
じゃありません﹂
佐和もゼファーのときの経験があるので、もうすっかり慣れた
ものだ。
150
﹁この世界では、名前をうかがうのは、相手と仲良くなる第一歩
なんですよ﹂
﹁仲良くする?﹂
ユーラスはまた考え込んだ。
︵この女、どうやら余を敵だとは思っておらぬらしい。これは好
都合かもしれぬ︶
内心ほくそ笑む。
︵味方のふりをして油断させ、こいつらを人質にしてしまえばよ
い。ゼファーの奴め。帰ってきたら驚くぞ。自分の居城が余に乗っ
取られて、入りたくとも入れないのだからな︶
﹁余の名は、ユーラス・サウリル・ギゼム・ド・ファウエンハー
ルだ﹂
﹁あ、あの、長いので覚えられません。ユーリさんとお呼びして
いいですか?﹂
﹁︱︱好きにするがよい﹂
﹁それじゃあ、ユーリさん、おにぎりはいくらでも作りますので、
どんどん食べてくださいね﹂
皿に盛られた白い三角形の山は、つやつやと輝き、どうにも目
が離せない。
横から、ひょいと小さな手が伸びてきた。
﹁おにいちゃん、雪羽とどっちが早く食べられるか、きょうそう
しよ。ヨーイ、ドン﹂
なぜか、その﹁ヨーイ、ドン﹂という魔法の呪文を聞くと、ユ
ーラスは矢も盾もたまらず、三角形にむしゃぶりついた。
その夜、ゼファーは残業を終えて、疲れた身体で家路についた。
会社の業績は、悪化の一途をたどっている。
そのことを聞きつけた部品メーカーや機械リース会社の中には、
現金でしか取引に応じないところも出てきた。
151
経理は、すでに自転車操業状態だった。いくら、工場長やゼフ
ァーたちが新規の受注を取ってこようにも、もうそれすら引き受け
られないところまで追い込まれている。
︵時間の問題なのかもしれないな︶
凍えた夜の道をひとりで歩いていると、つい悪いほうへと気持
が向いてしまう。
ゼファーはぐっと拳を握りしめると、勢いよくアパートの階段
を駆け上がった。
﹁おかえりなさい﹂
いつもの明るい佐和の声に迎えられて、靴を脱いで部屋にあが
ったゼファーの手から、持っていたカバンがどさりと落ちた。
部屋の中では、雪羽といっしょの毛布にくるまって、ユーラス
がこのうえなく幸福そうな寝顔で、眠りをむさぼっていたからであ
る。
︵︵2︶につづく︶
152
蒼空の扉︵2︶ 朝焼けが窓をうっすらとバラ色に染めている。
暖かい布団にぬくぬくとくるまりながら、また若かった頃の夢
を見ていたユーラスは、目を開けた。
︵いったい、なぜ余はこんなところに寝ているのだ︶
記憶を取り戻すまで、しばらくかかった。
確か昨日は、魔王城に突入し、勧められるままに食事をしたの
だった。
あの白い三角形の食物は、たいそう美味だった。
お腹が満たされたあとは、雪羽という魔王の娘に付き合って、
積み木やカルタで延々と遊ばされた。
そのあいだに魔王の妻だという女、佐和は彼のぼろぼろに破れ
たマントを丁寧につくろい、短く仕立て直してくれた。
そして、夕食を平らげたあとは、魔王の帰りを待つうちに、睡
魔に勝てずにそのまま寝てしまったのだった。
︵結局、昨夜はやつは居城に戻らなかったのか︶
魔王の邪悪な気配がそばに近づけば、たちまち目が覚めるはず。
とてもこんなにぐっすりとは寝ていられなかっただろう。
顔を横に向けると、狭い部屋に四つの布団が敷き詰められてい
るのが見える。
佐和はもう早くから起きているらしく、紙張りの引き戸で隔て
た向こうからは、軽やかな足音や水音が聞こえてきた。
雪羽の隣には、見たことのないひとりの人間が寝ていた。
優しそうな男だ。漆黒の髪は寝ぐせがついて先が丸まっている。
身なりは貧しいが、気品を備えた風貌をしていた。
153
︵誰だろう。こやつも魔王の従者なのか︶
突然、魔王の娘がむくりと起き上がり、男に向かって寝ぼけた
ような声をあげた。
﹁父上、おしっこぉ﹂
﹁な、な、なんだと!﹂
ユーラスは、布団から跳ね起きると、枕元に置いてあった剣を
鞘ごとつかんだ。
﹁おのれ、きさまが魔王か!﹂
ゼファーは身体を起こして大きな欠伸をすると、ちらりとユー
ラスを見た。
﹁朝っぱらから、うるさい。少しは時間をわきまえろ﹂
﹁なんだと﹂
﹁だいたい俺のパジャマを着ているくせに、威張れた立場か﹂
﹁⋮⋮﹂
ユーラスは自分の着ているものを見た。確かにゆうべ風呂に入
った後に、だぶだぶの服を借り受けて着ていたのだった。
﹁おまけに昨日一日で、おにぎりを15個も食ったそうだな﹂
と、すこぶる不機嫌そうな声で言う。﹁そのせいで、俺の夕食
のおにぎりには、鮭が入ってなかった﹂
﹁父上ぇ、おしっこ、もれちゃうぅ﹂
﹁雪羽はもう、ひとりでトイレに行けるだろう﹂
﹁でも、父上といっしょがいいの!﹂
﹁やれやれ﹂と、魔王は娘の両脇に手を差し入れて抱きあげる
と、行ってしまった。
布団の上に残されたユーラスは、自分の目が見たことが信じら
れなかった。
幼い娘を抱っこして厠に連れていくなど。おにぎりに鮭とやら
が入ってないと文句を言うなど。これが、最強の魔王軍の頂点に立
ち、無慈悲にも人間を殺戮し続けた、あの魔王なのか?
佐和が、ひょいと部屋の仕切りから顔をのぞかせた。
154
﹁ユーリさん、私パートに行って来ます。朝ごはんは用意してお
きましたから、おなかがすいたら食べてくださいね﹂
﹁う、うむ﹂
﹁でも⋮⋮大丈夫かしら。敵同士のふたりを残して行って﹂
佐和の目は心配そうに、ユーラスの顔と、トイレから戻ってき
た夫の顔の間を往復する。
ゼファーは肩をすくめて、答えた。
﹁大丈夫だろう。万が一戦うことになれば、雪羽を隣の田中さん
に預けて外へ出る﹂
﹁それじゃあ、くれぐれも、ふたりとも怪我のないようにお願い
しますね﹂
︵⋮⋮何だ、この緊張感のない会話は︶
佐和が出て行ったあとゼファーは、剣を手に立ち尽くしている
ユーラスに背中を向けて、さっさと布団をたたんで、押入れにしま
い始めた。
ユーラスは、無視されたことへの屈辱に震えた。
﹁魔王よ、外に出ろ。きさまの望みどおり、戦ってやる﹂
﹁この時間はまだ、暗くて寒いぞ﹂
﹁黙れ。今日こそ、おまえの心臓をこの剣で串刺しにしてやる﹂
﹁いいから、先にそのパジャマを着替えて、顔を洗って、飯を食
べろ﹂
﹁ふざけるな!﹂
怒りが頂点に達し、ユーラスは剣を抜いて斬りかかった。
ゼファーは軽く身をかわすと、勇者の腕をうしろにねじりあげ
た。
﹁こんなものを、狭い部屋で振り回すな﹂
﹁うっ﹂
命の次に大切な剣は、あえなく床に落ちた。
﹁ふすまを破ってみろ、張替え代2100円を弁償してもらうぞ﹂
ユーラスは腰砕けになって畳に座り込み、深くうなだれた。
155
悔し涙が目ににじむ。
やはり、この幼い身体ではダメなのだ。七十年前、魔王を倒し
たときに持っていた力も技も、何もかも失ってしまった。
ゼファーは、そんな彼をじっと見下ろした。
﹁ナブラの王よ。見てのとおり、俺はすでに魔王ではない。普通
の人間だ﹂
﹁⋮⋮だが、この世界を征服して、アラメキアに攻め込むことを
企んでいる。︱︱アマギがそう言っていた﹂
﹁昔の話だ。佐和と結婚して以来、そんな気はとうに失せた﹂
﹁嘘をつくな。今もなお、コージョーという国を侵略しているく
せに﹂
﹁コージョー?﹂
﹁毎日、朝早くから夜遅くまで出陣していると聞いた﹂
魔王は顔をそむけ、驚いたことに、くつくつと笑い出した。
﹁⋮⋮おまえもいっしょに来てみるか?﹂
﹁え?﹂
﹁自分の目で確かめてみろ。俺がこの世界で、何と戦っているの
か﹂
佐和がパートから帰ってきたあと、ゼファーとユーラスは連れ
立って外へ出た。
アパートの軒下で、ローブにくるまって寒さに震えていたアマ
ギは、ふたりが並んで階段を降りてくるのを見て、目を丸くした。
﹁ゼ、ゼファーさま﹂
数年ぶりに再会した老科学者に、ゼファーは皮肉げに笑いかけ
た。
﹁変わらんな、天城博士。アラメキアでは不思議なことに、この
世界の人間はまったく齢を取らないと見える﹂
﹁わ、わたしを裏切り者だと思っているだろう﹂
156
闇組織の非情なボスだった頃のゼファーしか知らないアマギは、
あたふたとユーラスの後ろに隠れた。
﹁だがわたしは、どんな手段を使ってでも地球に帰りたかった。
︻転移装置︼の成功を、わたしの並行宇宙理論の正しさを、わたし
をバカにした科学者どもに突きつけてやりたかったんだ﹂
﹁大賢者。おまえは︻装置︼のところに戻っていろ﹂
ユーラスはアマギに低く命じると、そのままゼファーの後に従
った。
連れて行かれたのは、コージョーと呼ばれる、何の装飾もない
大きな建物だった。
そろいの服を着た大勢の人間が、集まってきた。魔王とともに
攻撃を受けるかと一瞬身構えたユーラスは、満面の笑顔が彼に向け
られていることに戸惑った。
﹁かわいいーっ﹂
﹁おっ。坊主、不登校か。俺の仲間だな﹂
﹁主任、この子、ご親戚ですか? どことなく似てますよ﹂
彼らのあけっぴろげな様子から察するに、ゼファーは、ここで
厚い信頼を受けているに違いなかった。
︵アラメキアでは人間の敵だった魔王が、この世界では人間から
慕われている?︶
とてもではないが、認めたくない光景だった。
ユーラスはその日一日、工場の隅にぼんやり座って、魔王が彼
らとともに、ほとんど休みも取らずに働くのを見つめていた。
とっぷりと日が暮れたころ、ようやく彼はユーラスのもとに戻
ってきた。
﹁待たせたな﹂
﹁⋮⋮いや﹂
﹁ナブラ王。これが、俺の戦場だ﹂
﹁これが、戦場︱︱﹂
﹁そうだ。この世界はアラメキアとは違う。生きて家族を養うた
157
めには、朝から晩まで額に汗して働かねばならぬ﹂
かつての魔王は、工場のうす汚れた天井を見上げて笑んだ。
﹁ここで俺は機械油にまみれ、朝から晩まで、単価数十円や数百
円にしかならぬパーツを作っている。だがこれは、破壊のための戦
いではなく、生み出すための戦いだ﹂
﹁⋮⋮﹂
﹁今のところ、負け戦のようだがな。それでも俺は最後まであき
らめない﹂
と言いながら、その笑顔には誇りさえにじむ。
ユーラスは目眩を感じた。それほどに激しく動揺している。
﹁さあ、帰るぞ﹂
工場を出て、夜の道を先立って歩き出した魔王に、とぼとぼと
ついていく。
奴の背中が大きく見える。それとも余が小さくなっただけなの
か。
突如、得体のしれない悲しみと怒りが、腹の中を駆け上がって
きた。
﹁余は、きさまを赦さん!﹂
ユーラスは立ち止まり、小さな全身がきしむほどの大声で叫ん
だ。
﹁アラメキアは、魔族との戦争で大きな荒廃を喫したままだ。そ
の爪あとは、四王国で今も消えておらん。民はいまだに食糧不足に
苦しみ続けている﹂
魔王は背中を向けたまま、何も答えない。
﹁たくさんの命が失われた。きさまのせいで! そのアラメキア
を逃げ出して、知らぬふりをして生きようというのか。新しい戦い
を始めようというのか。余は赦さん! きさまには、あの戦いを忘
れる資格などない!﹂
ユーラスは、ゼファーを残して駆け出した。月明かりの中をめ
ちゃめちゃに走った。
158
どうして自分のことを負け犬のように感じるのか、わからなか
った。
若き紅顔の勇者は大胆にも、真正面から斬りかかってくる。そ
の気迫は、ゼファーの紫の目が放つ魔力さえ跳ね返している。
注意を奪われた一瞬をついて、両側面から︻テュールの七重の
鎖︼がゼファーの身体に巻きつき、ぶざまにも膝をついた。
その足元には、魔族と人間の死骸が、じゅうたんのように敷き
詰められている。
髪をふり乱してもがき、牙で鎖を噛み切ろうとしたが、縛めは
びくともしない。
ゼファーは憤怒に我を見失った。
ただ憎い。何もかもが憎い。
人間が、人間に加担する精霊の女王が、そして女王の愛するア
ラメキアそのものが憎い。
右手に鋭い痛みを感じる。
ナブラ王ユーラスの剣先が、彼の手首を刺し貫いたのだ。
ゼファーは野獣のように吼えた。魔力が噴水のように、傷口か
ら失われていく。精霊の女王が、人間の四人の王に与えたという聖
なる封印の剣。
ついで、左手。左足。右足。
﹁魔王ゼファー。きさまに殺された幾万の民の恨みを思い知れ!﹂
﹁おの⋮⋮れ。ユーラス﹂
ひゅーひゅーと互いの息が感じ取れるほど間近で、ふたりは命
を懸けた憎悪をこめて睨み合った。
ゆっくりと起き上がると、ゼファーは吐息をついた。
﹁ゼファーさん﹂
159
佐和が布団の中から、そっと夫の名を呼んだ。
﹁眠れないのですか?﹂
﹁⋮⋮ああ﹂
彼は大きな手で、妻の髪を撫でた。
﹁おまえは、何も心配する必要はない﹂
﹁ええ。わかっています。けれど⋮⋮﹂
佐和は今までの結婚生活で、夫がときどき、ひどく辛そうに見
えることに気づいていた。
そういうときのゼファーは決まって、何も見ていない目をして
いる。
この世界にあるものすべてを突き抜けて、過去の記憶を見てい
るのだ。そして、絶対そのことを語ろうとしない。
ほんとうは、教えてほしいのに。いっしょにその辛さを分け合
いたいのに。
夜明け前の薄明の中に夫がそのまま消えていってしまいそうな
不安に駆られて、佐和は思わず彼の手を握りしめた。
工場に向かおうとして家を出たゼファーは、しばらくすると立
ち止まった。そして、来た道へと歩を戻す。
﹁どこへ行く。魔王よ﹂
﹁精霊の女王﹂
朝霞の中にたたずむハクモクレンの木のそばに女王は立ってい
た。早春の日光が差し込み、白いつぼみは、女王の衣の裳裾のよう
に淡く輝いている。
﹁ユーラスのもとか﹂
﹁まあな﹂
﹁彼に討たれる覚悟をしたのではあるまいな﹂
﹁まさか﹂
ゼファーは低く笑った。
160
﹁佐和や雪羽を置いて行く選択など、俺にできようはずがない﹂
﹁それでは、いったいどうしようと言うのだ﹂
﹁⋮⋮わからぬ﹂
途方に暮れたように、ゼファーは首を振った。
﹁奴が俺を恨む気持、痛いほどわかるのだ。わかるが、どうする
こともできない﹂
﹁ナブラ王の言うことを、あまり真に受けてはならぬぞ。確かに、
アラメキアの大地は今も荒れ、作物も昔のようには豊かに育たぬ。
だが、それは、そなたの起こした戦争の爪跡のせいばかりではない。
アラメキアの自然そのものが、少しずつ異変をきたしておるのだ﹂
﹁異変?﹂
ゼファーは顔を上げ、女王の凛とした貌をまっすぐに見つめた。
ユスティナの瞳は、今も昔と変わりなく、アラメキアの未来だけに
向けられている。
﹁今はほんのわずかな異変だ。時間はまだあろう。それより﹂
精霊の女王は、美しい眉をひそめてゼファーを見た。
﹁今度のことは、私も責任を感じておる。もっと注意を払うべき
だった。ユーラスは幾度となくアケロスの洞窟に侵入し、そなたの
肉体にかけられた封印を解こうとしたのだ﹂
﹁聖剣の封印を?﹂
ゼファーには、初耳の話だった。﹁いったいなぜ?﹂
﹁おそらくユーラスにとって、後の人生は決して幸福なものでは
なかったのだ﹂
﹁どういうことだ﹂
﹁彼は何よりも天性の戦士だ。戦いの場においてこそ優れた力を
発揮できる。だが平和な世において、ユーラスはどう国を治めれば
よいかわからなかった。食糧難と、たびたび起こる叛乱。国民たち
は彼を疎み、王としての彼は常に孤独だった﹂
女王は哀しげに、睫毛を伏せた。
﹁だからユーラスは、そなたへの憎しみを忘れることができなか
161
った。そなたの封印を解き、アラメキアに呼び戻して、再び倒そう
とした。それができないとなれば、異世界まで追いかけてでも倒す。
それが、自分の誇りを保つために奴の選んだ、ただひとつの道だっ
たのだろう﹂
ゼファーは奥歯をぎりと噛みしめると、ふたたび歩き出した。
﹁ゼファー、待て。何をする気だ﹂
﹁やつを殴る!﹂
﹁ナブラ王、どこだ!﹂
︻転移装置︼の中で寝ていたユーラスは、その声で外へ飛び出
した。
ガラクタの山のふもとに立つ男は、かつて魔王だった頃に持っ
ていた、燃えるような憤怒に包まれている。
何十年ぶりだろう。これほど激しく全身の血が騒ぐのは。
ユーラスは剣の柄をかたく握りしめると、髪の毛が逆立つよう
な戦慄の中で山を降りた。
かつての宿敵同士は、あのときと同じように間近でにらみ合う。
﹁おまえ、俺の首を取って、どうするつもりだった﹂
﹁⋮⋮なに?﹂
﹁俺を殺して、その後どうするつもりだったかと訊いている!﹂
あまりの剣幕に、ユーラスはとっさに答えられない。
﹁おまえは、おのれの治める国を捨ててきたのか。それで、民が
喜ぶのか。飢えが満たされるのか。おまえは、ただ俺に対する不毛
な復讐の一心だけで、ここへ来たというのか。それならば、おまえ
には俺を責める資格はない﹂
ゼファーは、ぐいと前に出ると、ユーラスの襟を鷲づかみにし
た。
﹁アラメキアを逃げ出した卑怯者は、おまえのほうだ!﹂
剣が、手を離れて落ちた。
162
ゼファーの人間の身体から、あるはずのない暗黒の光輪が立ち
昇っているのが見えたのだ。
圧倒的な王威。
アマギ博士は、︻転移装置︼の陰で声もなく震えている。
ゼファーの手が首から離れたとき、ユーラスはぺたんとゴミの
山の上に尻餅をついた。
敗けた。
やつの言うとおりだ。余はアラメキアから逃げ出したのだ。
七十年前の魔王との戦いには、確かに勝ったかもしれぬ。だが、
その後の人生では敗けたのだ。コージョーで多くの人間と心をひと
つにして働いていた魔王の足元にも、余は及ばぬ。
膝をかかえて滂沱の涙を流すユーラスを、ゼファーは長い間見
つめていた。
﹁七年、待ってやる﹂
﹁⋮⋮え?﹂
泣きはらした目を上げた少年に、魔王は背中を向けた。
﹁七年すれば昔の強さを取り戻し、俺を倒してアラメキアに凱旋
できるだろう。それまで、この世界にとどまれ。おまえが大きくな
るのを、待っていてやる﹂
答えも聞かずに歩き始めたゼファーの後姿を、ユーラスは茫然
と見送っていた。
﹁まったく、そなたも人使いが荒い﹂
精霊の女王は、ほころび始めた公園の桜の枝々の陰から、繰言
を言った。
﹁この世界の書類を書き換えるのは、わたしといえど、並大抵な
苦労ではないのだぞ。瀬峰正人の戸籍やヴァルデミールの外国人登
録を偽造したときも、どれだけ大変だったか﹂
﹁すまん﹂
163
砂場でひとり遊びをしている雪羽のそばのベンチで、ゼファー
は苦笑した。
﹁その類の証明書を作っておかねば、やつは小学校にも通えない
からな﹂
﹁アマギには、ずっと昔、死に別れた息子がいたそうだ。ユーラ
あまぎゆうり
スはその息子の子どもで、ずっと外国で暮らしていたことにしてお
いた。名は、﹃天城悠里﹄。住所はこの近くにある、アマギが昔使
っていた研究所だ。︱︱だが、ゼファー﹂
精霊の女王は憂いを帯びた目を、かつての想い人に向けた。
﹁ナブラ王は、おまえを倒すことをあきらめてはおらぬぞ。本当
に七年後に討たれるようなことにでもなれば、なんとする﹂
﹁そのときは、潔く討たれてやるさ﹂
﹁ゼファー!﹂
﹁まあ、そうもいかんだろうがな﹂
ゼファーは穏やかに微笑みながら、無心に遊ぶ愛娘を見つめた。
﹁俺にも、逃げてはならぬ理由がある﹂
ある夜、疲れて帰ってきたゼファーが家に入ると、いくつもの
声が一斉に彼を出迎えた。
﹁おかえりなさい、ゼファーさん﹂
﹁父上ぇ﹂
﹁シュニン、おかえりニャさーい﹂
﹁勤めご苦労﹂
ゼファーの手から、カバンがどさりと落ちた。
瀬峰家の夕食の席には、佐和と雪羽、ヴァルデミールのほかに、
ナブラ王ユーラスまで座っているではないか。
﹁余は、ここの食事が気に入った。毎日食べてやることにしたの
だ﹂
すました顔で、少年はおにぎりを頬張っている。
164
﹁きさまを待たせぬためにも、早く大人にならねばならぬからな。
そのうえ、きさまの糧食も減らすことができる。一石二鳥の戦略だ
ろう﹂
﹁ユーリおにいちゃん、ヴァル、早く食べて遊ぼう﹂
雪羽はふたりの腕を引っ張って、楽しそうだ。
ヴァルデミールは、現われたライバルに対抗心を燃やし、すご
い勢いで鮭をしゃぶっている。
そして、ゼファーのおにぎりには︱︱今夜も鮭が入っていない
のだった。
165
星夜のブランコ 天城博士は、朝から思索に忙しいのだった。
﹁アマギ。﹃給食袋﹄とはいったい何だ。教えろ。余にはさっぱ
りわからぬ﹂
﹁⋮⋮﹂
﹁早く教えぬと遅刻するではないか。遅刻すると校門を閉められ、
職員室という名の拷問部屋へだな⋮⋮﹂
﹁ああっ。うるさい!﹂
ついに癇癪を起こす。
﹁せっかく浮かんだサーストンの幾何化予想に関する、まったく
新しい数式を忘れてしまったではないか!﹂
﹁うるさいだと?﹂
叫んでいた少年は、濃い藍色の目に憤怒を乗せて、じろりとに
らんだ。
﹁余に向かって、うるさいだと﹂
﹁お、お赦しを、陛下﹂
その威圧感に一瞬たじろいだ天城だったが、﹁いや﹂と思い直
した。
﹁悠里、おまえこそ祖父に向かって、その口の利き方は何じゃ﹂
勝ち誇ったように、両腕を組む。
今度はユーラスが、ぐっと言葉を飲んだ。
アラメキアでは、ナブラ王とおかかえ賢者という主従関係。だ
が精霊の女王の計らいで、地球では立場が逆転し、このふたりは孫
と祖父ということになっている。
周囲の人々の前では、それらしく演技する、という取り決めを
交わしたばかりなのだ。
166
﹁それでは、遅れぬように行ってこい﹂
﹁い︱︱行ってきます。おじいちゃん﹂
しぶしぶ門を出て行ったユーラスを見送りながら、天城はため
息をついた。
まったく、面倒くさい。人と付き合うということは。
それに比べて。
コンクリートの建物に戻った天城は、満足そうに部屋を見渡す。
八年ぶりに戻ってきた自分の研究室は、機械やフラスコが壊れ
たまま放置され、床や机のあちこちに積み上げた書物が、いまだに
真っ白な埃に覆われているものの、心からくつろぐことができた。
こここそが、わたしの城。高邁なる叡智の殿堂。とうとう、戻
ってきたのだ。
天城博士はお気に入りの安楽椅子に深々と腰を下ろし、あの頃
ワープホールの座標計算を書き散らかしていた黒板や壁を、なつか
しげにゆっくりと眺めた。
物理学会を大ゲンカの末に脱退し、この部屋に閉じこもってい
た彼を、ゼファーと名乗る漆黒の髪をした男が、黒服の男たちの一
団とともに訪ねてきて、こう言ったのだ。
﹃地球からアラメキアへの穴を開けろ。金は好きなだけ出す。エ
ネルギーもいくらでも調達してやろう﹄
相手の正体が誰か、などということは関心がなかった。
あれは、なんという至福の時間だったろう。資材も人力もふん
だんに使って、自分の望むままに研究の進められる日々。
ついに実験は成功したが、アクシデントゆえに天城自身がワー
プホールを通って、異世界へと飛ばされてしまうという結果に終わ
った。しかし、理論の真実を自らの目で確かめることができたこと
は、むしろ彼にとって満足だった。
アラメキアでは、実に長い歳月を過ごした。
幸いにして、かの地ではまったく歳を取らぬという恩恵と、﹃
大賢者﹄という何不自由ない身分を得ることができた。が、地球に
167
戻りたいという願いは、次第に募るばかりだった。
地球に戻って、あの高慢ちきな学会の奴らの鼻を明かしてやり
たい。わたしの理論を、﹃お子様向けのファンタジー﹄と呼んだ、
あのバカどもの吠え面を見るまでは、死んでたまるかと。
﹁見ていろ。次の物理学会では、並行宇宙に関する完璧な論証を
展開してやる﹂
椅子の上でのけぞりながら哄笑していると、肌の浅黒い若者が
床にしゃがみこんで、じーっと天城を見つめていた。
﹁ふーん。お爺さんて、鼻毛も白髪にニャるんだ﹂
﹁き、きさま、いつの間に入ってきた!﹂
天城はあわてて鼻の穴を片手で隠した。
﹁あんたがブツブツひとりごとを言ってるときだよ。次の﹃ブス
にガッカリ﹄では、アラメキアに関するニャんとかかんとか。﹃ブ
スにガッカリ﹄てニャんのことだ?﹂
﹁物理学会だ。おまえ、いったい何をしに来た﹂
﹁あんたに弁当を届けてこいとの、シュニンからのご配慮だ。ニ
ャブラ王の方は毎晩ごはんを食べに来てるけど、あんたはどうせ研
究ばかりで、ロクなものを食べてニャいだろうって﹂
﹁余計なお世話だ﹂
そう言えば、魔王の従者は弁当工場に勤めていると言っていた
な。
﹁さあ。できたてだから、熱あつだよ。早く食べニャよ﹂
机の上に置かれた袋の中からは、ぷーんと美味そうな香りが漂
ってくる。確かに腹が減っていたことに気づく。
それにしても、ゼファーというのは奇妙な男だ。かつて自分の
仇敵だったユーラスの世話をするばかりか、人間側に寝返った天城
にまで食べ物まで届けてくれるとは。お節介なこと、はなはだしい。
などと思いに耽っていると、ヴァルデミールが、今度は転移装
置の前にしゃがみこんでいた。
﹁おい、何をしている﹂
168
﹁相変わらずすごいニャあ。これ、またあんたがひとりで作った
の?﹂
﹁自分で作らねば、誰が作る﹂
答えはぶっきらぼうながらも、ほめられて内心悪い気はしない。
昔から﹃狂信者﹄と呼ばれてきた天城には、協力してくれるよ
うな技術者などいなかった。
特にアラメキアに飛ばされてからは、壊れた転移装置の修理の
ために、鉄板一枚ネジ一本も苦労して自ら手作りせねばならなかっ
たのだ。
﹁あ、これ回転シャフトっていうんだよね。シュニンの工場の樋
池さんが作ってたヤツ﹂
﹁触るな。少しでも角度がズレると、一億光年彼方に飛ばされて
しまうぞ﹂
﹁ねえ、これでニンジンの乱切り機械ができニャいかなあ﹂
﹁バカもの! 唯一無比の転移装置に向かって、何がニンジンだ﹂
ぐずぐずと研究室から出て行きたがらない従者を無理やり追い
出すと、天城はまたため息をついた。
やれやれ、これでやっとひとりになれる。知性レベルの低い人
間と言葉を交わすのは、まったく苛立たしいことだ。
安楽椅子に座り、ふたたび思索に耽ろうとしたが、どうもうま
くいかない。
それどころか、思いはどんどんと望まぬ方向に向かっていく。
明快で美しい科学の世界ではなく、醜く不条理な過去の世界へ。
天城はかつて、家庭を持ったことがあった。今から考えれば、
まったく成り行きとしか言いようがない。
四十歳近くになってひとりの男の子を設け、妻子を養うために、
ある法人の研究所に勤めたりもした。
ところが、並行宇宙理論に心囚われた彼は、次第に自分自身の
研究にのめりこんでいったのだ。当然、研究所は首になり、妻とは
諍いが絶えなくなった。ある朝、妻は息子を連れて、出て行ってし
169
まった。
それきりふたりには会っていない。風のたよりに、息子は病気
で死んだと聞いた。葬式にも呼ばれなかった。
まだ幼稚園のとき、息子は今のヴァルデミールと同じように、
やたらと装置に触りたがった。
﹃パパ。これ、すごいね。くるくる回ってるよ﹄
研究を邪魔されたと思った天城は、息子を突き飛ばして大きな
声で怒鳴ったのだ。
﹃触るな。邪魔だ!﹄
そこまで思い出して、天城は閉じていた目を開いた。こんこん
と眉のあいだを叩き、のろのろと立ち上がると、呟いた。
﹁思い出したくないことまで思い出してしまう。まったく人間と
いうのは、面倒くさい生き物だ﹂
そして、ヴァルデミールの持ってきた弁当を思い出し、しばし
生き物の原初の欲求に身を委ねることに決めた。
気がつくと、夜のひんやりした空気が窓からしのびこんできた。
今日も、これといったアイディアの浮かばない、むなしい一日
だった。七年に一度しか行き来できない今の転移装置を改良し、い
つでも異空間へのワープホールが開けられるような新しい理論を、
天城は今頭の中で構築しているところなのだ。
これが成功すれば、あのアホどもに、いつでも並行宇宙の存在
を実証して見せられるのだが。
気分転換のために、散歩に出かけることにする。散歩は彼にと
って、数少ない娯楽だ。
同居人の九歳の少年、ナブラ王ユーラスはまだ帰ってきていな
い。小学校からゼファーの家に直行したものと見える。よほど、あ
の家で出される飯と、ゼファーの娘が気に入ったのだろう。王族な
どと威張っている人種も、とどのつまりは欲望のかたまりなのだ。
170
まあ、そのほうが助かる。あのキンキンとうるさい変声期前の
声に、思索を邪魔されずにすむ。
静かな夜道を、ぺたぺたと靴のかかとを踏みながら歩いた。夜
風が、ぼうぼうに伸びた白髪を乱していく。
ユーラスといっしょに暮らすようになって、天城は息子のこと
を思い出すことが増えた。
あの子は、わたしのことが好きだっただろうか。いや、まさか。
返事もせず、腹が立つと怒鳴りつけるばかりだった父親など好きに
なれるはずはない。
妻と同様に、あの子もわたしを憎んでおったはずだ。
︵一度だけ、夜の散歩についてきたことがあったな。どういう風
の吹き回しか、公園に連れて行って、ブランコで遊ばせてやったの
だ︶
息子はまだ、立ち漕ぎができるようになったばかりだった。父
親がうしろから背中を押してやると、半分恐そうな笑い声をあげて
いたものだ。
だが、そのブランコの鎖の往復運動と、回転する留め金の動き
を見つめていたとき、突然の天啓のように、脳裡に新しい理論がひ
らめいたのだ。
これこそが並行宇宙を支配する法則だったのか!
天城は一目散に家に飛んで帰り、研究室に三日間閉じこもって
計算に没頭した。
息子のことなど、完全に忘れていた。
︵︱︱そうか。そう言えば、あのときだったな︶
天城は、歩きながら苦い笑みを浮かべた。
︵四日目に部屋から出てくると、妻も息子も姿が見えなくなって
いたのは︶
罪悪感などない。だって、そうだろう。宇宙の真理以上に大切
なものなど、この世にあるはずがないではないか。
それでも天城の心の片隅には、初夏の夜に白く浮かぶクチナシ
171
の花のように、くっきりとした痛みが残像となって消えないのだっ
た。
翌朝ユーラスが、天城の前におずおずと立った。
﹁あの、アマギ。担任教師が、今日の放課後に保護者を呼んでこ
いと余に命じたのだが⋮⋮﹂
﹁担任が?﹂
﹁余の保護者というのは、そなたのことになる⋮⋮のだろうな﹂
天城は、迷惑そうに太い眉をひそめた。どうせ、学校の備品で
も壊したのだろう。
日ごろ遠慮というものを知らぬユーラスが、珍しく殊勝な物言
いをしているのには興味を覚えるが、それにしても面倒くさい。自
分の実の息子の授業参観にさえ、行ったこともないのに。
その日の午後、天城は気乗りしないまま小学校に向かった。
小さな会議室に通され、お茶もなしにしばらく待たされたあと、
黒い眼鏡をかけた三十歳前後の教師が入ってきた。
﹁天城彰三さん、悠里くんのお祖父さんでいらっしゃいますね﹂
﹁いかにも﹂
﹁悠里くんはご両親のお仕事の都合で外国育ちと聞いていますが、
いったいどこの国へいらしていたのですか﹂
﹁さあ、あちこちを転々としていたようですな﹂
﹁現地で日本人学校や補習校に通わせるか、最悪の場合、文部省
の通信教育を受けさせることはできなかったのでしょうか﹂
ふん。アラメキアに、そんなものがあってたまるか。
﹁わたしには、わかりませんな﹂
﹁単刀直入に申し上げると、悠里くんの学力はまったく小学四年
のレベルに達しておりません﹂
いかにも尊大な態度で、教師は眼鏡のズレを直した。
﹁漢字はおろか、平仮名カタカナも書けない、日本の県名どころ
172
か、自分の住んでいる東京という名前も知らない。掛け算や割り算
の記号の意味もわからない﹂
何をほざく。アラメキアには地球とはまったく体系の違う高等
数学があったぞ。すぐれた動植物学も文学も地誌学も。おまえがバ
カにしている相手は、そのいずれにも通じておったのだ。
﹁言葉づかいは小学生らしくないし、基本的な生活習慣も身に着
いていないし、まったく手を焼かせられます﹂
教師は、いかにも悲痛げなため息を吐き出した。自分の苦労を
見てくれと言わんばかりの。
﹁帰国子女は何人か見てきましたが、これほどひどいケースは初
めてです。これでは、悠里くんは将来まともな日本人には育ちませ
んよ﹂
教師のその言葉を聞いたとたん、腹の底に大きな岩をずしんと
落とされたような気がした。その振動で、視界がぐらぐらと揺れて
いる。
﹁先生﹂
﹁はい﹂
﹁あなたはまともな日本人を育てておるつもりで、人間を育て損
なっておるのですな﹂
﹁何ですって?﹂
﹁期待するほうが無理というものか。少なくとも、相手に自分よ
りずっと豊かな才能があることを気づかぬ者には、人を育てる資格
などない﹂
天城はすっくと立ち上がり、あっけにとられている教師を残し
て、扉を開け放った。
外の廊下には、ユーラスがぽつりと立っていた。
そのうなだれた顔は、彼の高貴な人生でかつて経験したことが
ないような屈辱に紅く染まっていた。
それを見たとき、天城のはらわたに、ひたひたと熱い泉がせり
あがってきた。
173
﹁帰ろう。悠里﹂
﹁⋮⋮﹂
彼は少年の手を取ると、ずんずんと歩き出した。
﹁卑下する必要はない。胸を張っておれ。この世界は、他人に理
解されることより理解されないことのほうが多いのだ。わたしだっ
て、今までどれほど悔しい思いを︱︱﹂
天城は胸がいっぱいになって、ことばを詰まらせ、道の真ん中
で足をとめた。
﹁アマギ﹂
ユーラスは、老いた物理学者をじっと見上げた。その蒼い瞳は
落ち着きを取り戻し、民を見守る王のまなざしになっていた。
それを見た天城は、自分が馴れ馴れしく手をつないでいる相手
は一国の王であることを思い出し、あわてて手を離した。
﹁も、申し訳ありません、陛下﹂
少年は、首を振った。
﹁よいのだ﹂
そして、今度は彼のほうから手をつないできた。
翌朝、あの魔王の従者がまた弁当を配達に来たとき、天城は一
万円札を数枚差し出した。
﹁これで、わたしと悠里の分の弁当を、毎日届けてくれ﹂
﹁え?﹂
﹁当分は、魔王の家に行かせぬぞ。夜はわたしが、あの子の勉強
を見てやることにしたからな。魔王には、そう伝えておいてくれ﹂
﹁それはいいけど﹂
ヴァルデミールは、こわごわ高額の紙幣を受け取った。
﹁すごいお金を持ってるんだ。あんたって、てっきり貧乏ニャん
だと思ってた﹂
﹁失礼な。わたしとて、特許のふたつやみっつぐらいは持ってお
174
る﹂
﹁ふうん。トッキョってもうかるんだニャ﹂
こうして一般庶民から尊敬のまなこで見られるというのも、悪
くない。あの物理学会の連中のことなど、もうどうでもよくなるく
らいに。
﹁ふははは。﹃ブスにガッカリ﹄か﹂
﹁え?﹂
﹁なんでもない﹂
天城はすっかり気分を良くして、作りかけの転移装置をぽんぽ
んと叩いて見せた。
﹁ニンジンの乱切りはだな。回転シャフトに上下移動と水平移動
を組み合わせるのだ。対象を計測するセンサーも必要だぞ﹂
天城はその夜も、散歩に出かけた。
ユーラスは、彼のあとにぴったりついて歩きながら、アラメキ
アの法律の巻物を朗読するのと同じ厳かな調子で、九九の表を暗唱
している。
公園に来た。驚いたことに、三十年前とまったく同じ場所に、
ブランコがあった。
﹁あれに乗ってみないか﹂
﹁あの鎖つきの台に? あれは、祈りの香炉か何かか﹂
天城はユーラスをブランコの上に立たせると、後ろから押して
やった。
﹁ふむ。なかなか愉快なものだな﹂
﹁そうか﹂
少年はすぐにコツを覚え、自分の足でぐいぐいと漕いでいく。
子どもらしい、高く楽しげな笑い声が公園に響いた。
﹁星がつかめそうだ﹂
かつて、並行宇宙理論の基となったブランコ。そしてそれと引
175
き換えに天城から息子を奪っていったブランコ。
だが、こうしてユーラスの小さな背中を見ていると、その単調
な往復が繰り返されるたびに時が戻り、おのれが失ってしまったも
のまで取り戻せるような気がしてきた。
﹁まったく、面倒くさいことだ﹂
天城は笑みさえ浮かべながら、いつもの口癖でつぶやいてみる
のだった。
176
夏色毛糸玉
あるじ
﹁誕生日とは、何だ﹂
ある日突然、主から真面目な顔で訊ねられて、ヴァルデミール
は目をぱちくりさせた。
﹁ニャニって、生まれた日のことですよ。ほら、毎年冬になると、
姫さまがお生まれにニャった日をお祝いしてるでしょう﹂
﹁そうか。あれは、雪羽だけにあるものだと思っていた﹂
ゼファーは、自分の迂闊さを呪うかのように、うめいた。﹁す
べての人間に誕生日というものがあるとは、気づかなかったな﹂
﹁魔族にもありますけどね。ニャにせ人間に比べてうんと長命で
すから、人間ほど盛大に祝ったりはしません﹂
ヴァルデミールは、ため息をついた。﹁まして、精霊の騎士と
してお生まれあそばしたシュニンには、誕生年はあっても、誕生日
というものが存在しニャいですからねえ﹂
アラメキアの精霊の国の奥深く、人や魔族の目には決して見え
ない神秘の場所に隠れているのが、すべての精霊の誕生の地、︽カ
ムリの森︾だ。
すべての精霊は、その森に咲く花の蕾の中から生まれ落ちる。
いや、﹃生まれ落ちる﹄という表現は正しくない。目覚めたときに
は、すでにりっぱな成人の肉体をまとっているからだ。ほどなく、
女王からの使いが来て、精霊の宮殿に迎え入れられる。
一応、﹁瀬峰正人﹂の戸籍には﹁19××年8月2日﹂と生年
月日が記載されているが、それはあくまで精霊の女王が書類をそろ
えるときに適当に書き込んだ、便宜上のものだ。
だから、ゼファーの八百年余の生涯には、誕生日を祝ってもら
177
った経験が一度もない。
﹁けれど、どうして急に、そんニャことを?﹂
﹁佐和が、きのうカレンダーをめくりながら、不意に言い出した
のだ﹂
﹁どういうことを?﹂
﹁正確には覚えておらぬが︱︱確か、こんなふうだった。﹃あら、
私、もうすぐ誕生日なのね。いやだわぁ﹄﹂
夕暮れの公園のベンチで、顔を寄せてひそひそ話をしているふ
たりの見目麗しき男に、通りかかった中年の女が好奇心まるだしの
視線を浴びせていく。
﹁ニャんと。奥方さまは、誕生日が来るのを嫌がっておいでニャ
のですか﹂
ヴァルデミールは怪訝な顔で問い返した。
﹁ご馳走とケーキが出て、プレゼントももらえる、あれほど楽し
いことがいっぱいの日がお嫌だとは、信じられません﹂
﹁俺にも、さっぱり理由がわからぬのだ﹂
ゼファーは、途方に暮れて首を振った。﹁訊ねてみようとした
のだが、佐和を傷つけてしまいそうで、とても訊けぬ﹂
﹁⋮⋮というわけで、わたくしが奥方さまに、その理由を訊ねて
くるように仰せつかったんだけど﹂
﹁なんだ、そんなことか﹂
半ズボンから伸びた、少年らしいしなやかな両脚をばたばたさ
せながら、ナブラ王ユーラスが笑った。
﹁学校のトモダチに聞いたことがあるぞ。この世の女たちは、十
八歳になったとたんに﹃ババア﹄になってしまうそうだ﹂
﹁ええっ?﹂
﹁だから、女たちは十八歳を過ぎると、誕生日が来るのが、こと
のほか苦痛になると言っておった﹂
178
﹁知らニャかった﹂
ユーラスの博識に感心して、ヴァルデミールの口は開きっぱな
しだ。
﹁十八歳にして突如年を取ってしまうとは、さだめし、ニャにか
の呪いに違いない﹂
﹁うむ。おそらくアラメキアの最高位の魔女でも、それほどの呪
術はかけられぬだろうな﹂
﹁おかわいそうに﹂
ヴァルデミールは、しょんぼりと長髪頭を垂れた。
﹁十八歳で﹃ババア﹄だとすると、とてもそうは見えニャいけど、
奥方さまは﹃大ババア﹄ニャんだ。すると﹃相模屋弁当﹄の社長ニ
ャんかは、﹃スーパーババア﹄︱︱﹂
﹁⋮⋮おい。そういうことは、本人の前で言わぬほうがいい。殺
されるぞ﹂
﹁⋮⋮というわけニャのです﹂
ヴァルデミールは早速、この怪情報をゼファーに逐一報告した。
﹁誕生日がお嫌だとおっしゃったわけがわかりました。十八歳以
上の地球の女性は、全員必死で、自分が﹃ババア﹄であることを隠
そうとしているのです﹂
﹁そんな話は、聞いたことがないぞ﹂
平静を装ってはいるが、ゼファーにとっても、この話はかなり
ショックだ。
﹁とりあえず、奥方さまを悲しませたくニャければ、誕生日の話
は絶対に、ぜーったいに禁句です﹂
ヴァルデミールは、魔王軍の作戦参謀よろしく、胸をそびやか
して断言する。
﹁いいですか。話を向けられても、あくまで知らぬふりを通すの
ですよ﹂
179
佐和はまたカレンダーをじっと見つめていた。
彼女の誕生日は、とうとう今週の土曜日。
結婚してからこれまでは、誕生日どころではなかった。家事と
小さい子の世話とパートに追いまくられる日々。気がつけば、誕生
日がとっくに過ぎていた年もあったくらいだ。
今も、決して生活に余裕ができたわけではない。夫の勤める工
場はずっと倒産の危機に直面していて、製造主任である彼も心の休
まる暇がないのはわかっている。
それなのに、なぜ今年に限って、これほど誕生日にこだわって
しまうのか。自分でも、さっぱりわからないのだ。
何気なさを装って、夫の前でアピールしているのに、夫は知ら
ん顔。
ゼファーがいたアラメキアでは、誕生日を祝う習慣がないのだ
と、いつか言っていたことがある。でも、雪羽の誕生日は毎年欠か
さず祝っているのだから、気づかないはずはない。
﹁心の危険信号が、﹃愛情不足﹄って点滅してるのかしら﹂
ひとりでつぶやき、おかしくて笑ってしまう。
﹁いやだわ。結婚して六年も経つのに、今さら﹂
味噌汁に入れる白葱を刻んでいると、ゼファーが帰ってきた。
﹁おかえりなさい。ゼファーさん﹂
﹁父上ぇ。おかえりなしゃーい﹂
﹁ただいま、雪羽﹂
ふたりで出迎えると、夫は走って来た娘をすぐに抱き上げ、い
としげに頬にキスをする。
そういうときの彼の優しい笑顔を見るのは、大好き。
でも、たまには、娘でもなく、仕事でもなく、私のことだけを
見つめてほしい、という願いが佐和の心に芽生え始めたのだ。
彼の視線の中で、自分だけが主人公になっていたいと思うのは、
180
ぜいたくなのだろうか。
﹁佐和﹂
ドキンとした。気がつくと、ゼファーが真剣なまなざしで、佐
和だけを見つめている。
﹁⋮⋮何か焦げてる匂いがするぞ﹂
﹁いけない!﹂
焼き網の上で、おにぎりに入れる塩鮭が見事に炭化していた。
ヴァルデミールが今日は残業なので、一匹鮭が余っていたのが、
せめてもの幸い。
会話がちっとも弾まない夕食の席で、佐和はつい我慢できなく
なって、ぽろりと口に出した。
﹁あ、そうだ。今度の土曜日ね⋮⋮﹂
﹁げほっ。げほげほっ﹂
とたんにゼファーは、激しい咳を始めた。
﹁すまん、お茶をくれ﹂
﹁は、はい﹂
それからというもの、夫は佐和が何かしゃべろうとするたびに、
わざとらしい咳をした。
ゼファーさんは、私の誕生日を祝いたくないのかしら。プレゼ
ントを買うお金がないことくらい、わかっている。︱︱でも、私が
欲しいのは、モノなんかじゃない。
こんなに幸せなのに。これ以上望むものなんて、ないはずなの
に。私は、わがまますぎる。
食器の片付けをしながら、じわりと佐和の目に、ひそやかな雫
があふれた。
ゼファーが朝、工場へ行くと、搬入口の隅で若い工員ふたりが
向き合って、なにごとか話している。
ひとりは、研磨工程の水橋ひとみ、もうひとりは資材係の重本
181
哲平だ。
重本が水橋に小さな箱を押しつけ、水橋が項垂れながら、その
箱に手を伸ばすかどうか迷っているらしい。
ゼファーが近づく気配に、ふたりははっと振り向いた。
﹁しゅ、主任!﹂
水橋は、うろたえた声を上げると、重本に向き直り、ぐいと箱
を押し戻した。
﹁あたし、やっぱり受け取れないから!﹂
そして、ばたばたと中に走り去った。
﹁どうしたんだ﹂
ひとりその場に残された男子工員に、ゼファーは訊ねた。
彼は片頬だけでニッと笑って、﹁なんでもねえ﹂と首を振った。
﹁今日は、水橋の誕生日なんだ。それで安物のブローチ買ってき
て、渡そうとしたんだけど﹂
と照れ隠しに、頭に手をやる。﹁あっさり断られちまった﹂
﹁そうか。水橋も誕生日だったのか﹂
ゼファーは、同情をこめて彼を見た。
﹁女は十八を過ぎたら、自分の年を隠すと聞いたぞ。水橋も、誕
生日を誰にも祝われたくなかったんだろう﹂
﹁オレ、そういう女の気持、あんま、わかんねえけど﹂
顔を赤らめながら、重本はぶっきらぼうに続ける。
﹁喜んでもらえなかったのは︱︱たぶんオレのせいだよ。水橋の
心の中で、オレが主任を越えられなかっただけの話だ﹂
そして、突き返された箱をじっと見下ろした。
﹁それでも、オレ、祝ってやりたかった﹂
その朴訥なことばに、ゼファーはハッとする。
﹁⋮⋮オレ、暴走族上がりで、ここに勤め始めた頃も、朝弱くっ
て、仕事サボってばっかでさ。そのとき水橋に、めちゃくちゃ怒ら
れたんだ。あんただけが辛いんじゃないよ。みんな必死で頑張って
るんだよって。だからオレ、辞めずになんとかやってこれた﹂
182
そして、顔を上げて、今度は満面で笑った。
﹁だから、迷惑なの承知で、せめて、おめでとうを言おうって思
ったんだ。そして、ありがとうって﹂
ゼファーは公園で、雪羽をシーソーに乗せた。自分はその反対
にまたがり、足を地面に着けたまま、雪羽の動きに合わせてゆっく
りと上下を始めた。
﹁雪羽は、誕生日には何が一番うれしかった?﹂
﹁タンジョービ?﹂
﹁母上の誕生日を祝いたいのだ。なるべく心が傷つかぬように、
おめでとうを言いたいのだが、何か母上の喜びそうなものを知らな
いか﹂
﹁きれいなドレス!﹂
﹁ドレスか⋮⋮﹂
ゼファーはしばらく唸っていたが、首を振った。﹁もう少し金
のかからないものがいいな﹂
﹁ケーキと鮭のおにぎり!﹂
﹁なるほど﹂
﹁おさんぽ。公園でぎっこんばったん﹂
﹁それは、雪羽が今やってることだろう﹂
﹁えーとえーと、父上とふたりでお風呂﹂
﹁雪羽は、そんなにお風呂が好きか﹂
﹁うん、それに、ヴァユと入るのも、ダイ好きー﹂
﹁⋮⋮なんだと。いつヴァルデミールと風呂に入った?﹂
﹁えーと、母上がおネツ出たときとかねー。ヴァユに、せなかゴ
シゴシしてもらった﹂
ゼファーはふところで、そっと怒りの鉄拳を固めた。
183
いよいよ土曜日の朝。
佐和が早朝のパートに行っている隙に、計画を実行に移す。
ご飯を炊き、鮭を焦がさないように焼き、そのピンク色のほぐ
し身を、大きな皿にご飯を薄く敷き詰めた上に乗せていく。その手
順を何回か繰り返すのだ。
﹁えー。これがケーキ?﹂
雪羽は、不満そうだ。
﹁このように階層をなしているものを、ケーキと呼ぶのではない
のか﹂
﹁でも、ケーキは甘いんだよ﹂
﹁では、砂糖をうんと混ぜてみるか﹂
幼い娘は、味見のひと口を、すぐにダーッと吐き出した。
﹁まじゅーい﹂
﹁⋮⋮わかった。作り直す﹂
その頃、ヴァルデミールはアパートの階段の下で待ち構え、仕
事から帰ってきた佐和を呼び止めた。
﹁奥方さま、大変です﹂
﹁あら、どうしたの。ヴァルさん﹂
﹁ニャブラ王の悠里が、二百八十度の高熱を出したんです﹂
﹁ええっ?﹂
﹁あまりに汚い家のホコリを吸ったからだと思います。早く、来
てください﹂
佐和がヴァルデミールに誘い出されているあいだに、瀬峰家で
はパーティの準備が着々と整えられていく。
結局、天城研究所の隅から隅まで掃除をする羽目になってしま
い、疲れ果てた佐和が戻ってくると、どうも様子がいつもと違う。
扉に鍵がかかっているのを不思議に思って開けてみると、入っ
たとたんにクス玉が割れて、紙吹雪がたくさん頭の上に落ちてきた。
﹁おめでとー、母上!﹂
﹁はっぴばーすでー。奥方さま!﹂
184
食卓の上には、大きな皿にきれいに盛り付けられた特大﹃鮭の
おにぎりケーキ﹄。ヴァルデミールが﹃相模屋弁当﹄でもらってき
た鳥の唐揚げやポテトサラダも、彩りを添えている。
本物の苺のショートケーキも、1個だけ。
﹁誕生日おめでとう、佐和﹂
﹁ゼファーさん⋮⋮﹂
けれど、何よりも佐和の心をゆすぶったのは、まっすぐに彼女
のことを見つめて微笑んでいる夫だった。
結婚して六年も経つのに、彼の漆黒のまなざしは佐和を少女の
ようにときめかせる。
祝いの宴のあと、ゼファーは佐和をふたりきりで散歩に誘った。
行き先は、いつもの公園だった。ジャスミンの香りが夕方の空
気を甘く染めている。
﹁ゼファーさんがおにぎりを作ってくれたのは、これが二回目で
すね﹂
﹁そうだったか﹂
﹁最初は、雪羽を産んだ産院でした。あのときは、鮭の皮も骨も
丸ごと入っていたけれど﹂
くすくすと幸せそうに、佐和は笑った。﹁今日のは、とてもお
いしかったです。見た目も塩加減も最高でした﹂
﹁俺のおにぎりも少しは上達したかな﹂
﹁ええ﹂
ゼファーは佐和の手を引っ張り、シーソーの片側に横座りにさ
せた。
﹁実は今日は、雪羽が決めた台本どおりにやっている﹂
﹁まあ、そうなの﹂
ふたりは、しばらく黙って、シーソーの両側に座っていた。
やがて、佐和が唐突に話し始めた。
﹁私ね。初恋は、中学生のときだったんです﹂
﹁そんなこと、初めて聞いたぞ﹂
185
﹁ごめんなさい。言いませんでしたか﹂
ゼファーは少し不機嫌そうに、妻の独白に耳を傾けている。
﹁その子は、雪羽と同じで寒い冬の生まれでした。それで私は、
誕生日に手編みのマフラーをプレゼントしてあげたいと思ったの﹂
佐和は頬杖をつきながら、遠くを見る目つきになった。
﹁でも、私は昔から無類のぶきっちょで。マフラー一枚編むのも、
大変なことだったんです。だから、一念発起して、夏休みに毛糸を
買って、半年かけて完成させるという壮大な計画を立てました。ウ
ールの毛糸なんて、夏には店ではまだほとんど売ってなくて、探す
のが大変でした﹂
﹁⋮⋮で、結果は?﹂
佐和はくすくす笑う。﹁編みあがった頃、彼にはちゃんと別の
彼女ができてました﹂
シーソーを降りたあとは、恋人同士のように、ベンチに寄り添
って座った。
﹁実は昨日、手芸屋さんを探し回って、青い毛糸をたくさん買っ
たんです。ゼファーさんと雪羽の誕生日にあげるマフラーを今から
編み始めようと思って﹂
﹁だが、俺の誕生日は⋮⋮﹂
佐和はぱちぱちと瞬きをして、いつもの優しい瞳で夫をじっと
見つめた。
﹁いいんです。ただ、私がお祝いしたいんです。ゼファーさんが
この世界に来てくれたことを﹂
﹁佐和﹂
ゼファーは長い腕で、すっぽりと妻の身体を包み込んだ。
﹁おまえこそ、ずっと俺の隣にいてくれて、ありがとう﹂
﹁ゼファーさん﹂
佐和がそれまで感じていた寂しさは、塵のようにどこかに飛ん
でいってしまった。
愛する人が、自分を見つめ、自分の声に耳を傾け、自分のこと
186
だけを考えてくれる瞬間。
たとえどんなにお互い忙しくてすれ違っても、どんなに思い通り
にならない毎日でも、その瞬間をケーキのように重ねて行くことが、
結婚の幸せなのだと思った。
﹁さあ、帰りましょう。きっと雪羽が待ちくたびれているわ﹂
夫婦は手をつないで、暮れてゆく街を歩き始めた。
﹁そういえば、雪羽の立てた誕生日の計画は、あとひとつ残って
いたな﹂
ゼファーは塩鮭色の夕焼け空を仰ぎながら、言った。﹁もうし
ばらく、ヴァルデミールに雪羽を見てもらわねばならん﹂
﹁あら。そんなに時間がかかることですか?﹂
ゼファーは佐和の腕を引き寄せた。
﹁ふたりでいっしょにお風呂、だそうだ﹂
魔王の声は心なしか、とてもうれしそうだった。
187
雨のしずく
﹁まったく、よく降る雨だな﹂
ユーラスは、教室の窓枠に片肘をつき、藍色の眉をひそめて、
雲の垂れ込めた空を見上げた。
軒先から、ぽとりぽとりとひっきりなしに、しずくが落ちてく
る。
もう三日も降り続いている。そう言えば、彼の治めていたナブ
ラ領の地は、たびたびの旱魃のために、作物の不作が続いていた。
この雨をアラメキアに運べたら。
﹁今ごろ、民はどうしているだろう。王子たちは、国をうまく治
めているだろうか﹂
王は突然、ずきんとする胸の痛みに襲われた。
﹃おまえは、おのれの治める国を捨ててきたのか。それで、民が
喜ぶのか。飢えが満たされるのか﹄
魔王ゼファーの激しい叱責のことばが、耳の奥にこびりついて
いる。
国を捨てたのではない。民のことを忘れたことはない。
地球からアラメキアへの転移が叶うのは、早くて七年後。それ
までに魔王を倒して凱旋すればよいのだ。そう思って自分を慰めて
はいるが、結局それでは何にもならないような気がしてきた。
もっと大きな収穫を持って帰らなくては。ナブラ領、ひいては
アラメキア全体の民が幸福に暮らすことができるような知識をこの
地球で得て、大事業をなしとげることが、自分の使命なのではない
か。
﹁天城くぅん﹂
188
甘ったるい声を出して、﹁川越美空﹂という名前のひとりの少
女が小さなノートを持って近づいてきた。
﹁プロフ帳、書いてくんない?﹂
このところ、クラスの中で、﹃プロフ帳﹄なるものが流行って
いるらしい。
軍隊の兵卒名簿に少し似ている。ただし、名前や住所のほかに、
﹃星座﹄や﹃チャームポイント﹄などという、訳の分らない項目ま
で埋めるようになっている。
﹁この情報は、何に用いるのだ?﹂
﹁え? ただ集めてるんだよ﹂
美空は、桜色の頬にえくぼを浮かべて、にっこりと笑った。﹁
う
もうこれで、二冊目。もう少しで終わるから、三冊目を買ってもら
うんだ﹂
︵こうして見ると、なかなかに愛いものだな︶
自分の曾孫にも相当する九歳の少女に向かって、ユーラスはし
みじみと目を細めた。
同級生たちはあまりにも幼稚で、学校に通い始めた頃は同じ教
室の中にいることさえ苦痛だった。だが不思議なことに、日が経つ
につれ次第に会話が噛み合うようになり、学校にいる時間を楽しむ
ことすらできるようになった。
それと呼応して、少し前まではクラスの中でも浮いた存在だっ
た自分が、いつのまにか﹃トモダチ﹄として扱われ、特に女子生徒
たちに、しきりと笑いかけられるようになっている。
﹁ね、続き書いてよ﹂
﹁あ、ああ﹂
ユーラスは、次の項目にとりかかった。
﹃特技﹄とある。ユーラスはためらわずに、﹃戦﹄と書いた。
本当は﹃戦略﹄と書きたかったが、﹃略﹄という漢字は、四年生で
はまだ習っていない。
﹁戦争の戦?﹂
189
﹁そうだ﹂
﹁もしかして、定規戦とか、消しピンのこと?﹂
﹁そうではなく、地形を調べ、兵法に鑑み、軍をどのように配置
するかをだな﹂
ため息をついた。﹁⋮⋮説明がむずかしい﹂
それでも満足げにノートを胸にかきいだくと、美空は﹁ありが
とう﹂と、特別に心をこめた口調で言った。
﹁天城くんのプロフもらったの、美空が第一号。みんなに自慢で
きるよ﹂
﹁そうか。ならば、よかった﹂
﹁あ、それから﹂
少女は急に眉をひそめると、そっとユーラスに耳打ちした。
﹁三木さんも、﹃プロフ書いて﹄って言って来ると思うけど、絶
っっ対に書かないでね﹂
背筋にぞわりとするものを感じた。
どうやら彼は、もっと別の種類の戦いに巻き込まれてしまった
らしい。
雨粒がひっきりなしに、トタン屋根を打つ。ヴァルデミールは、
夜の工場の調理台で、ひとりで人参を切っていた。
﹁こう、こう、そんでもって、こうニャんだよね﹂
ぶつぶつ呟きながら、人参をくるくる回して、包丁を入れる。
今朝もずっと、調理担当者たちの手の動きを見ていた。人参の
細い部分と太い部分、それぞれ何回くらい人参を回して、何回包丁
を入れるか。
目に焼きつくほど何時間も、観察を続けた。
﹁何してんの﹂
社長の相模理子が、すごみのある声を出しながら入ってきた。
﹁うわっ。すごい数の人参﹂
190
﹁あっ、あの、これ全部、わたくしが練習用に買った人参ですか
ら﹂
あわてて、弁解する。
﹁へえ⋮⋮。けっこう、形がそろってるじゃない﹂
理子は人参を手に取って、意外そうな顔をした。﹁何年もやっ
てるベテランにひけを取らないくらい﹂
﹁そりゃもう﹂
ヴァルデミールは、なで肩を思い切りそびやかした。﹁毎日練
習してますから。おかげで、人参ばかり食べて、馬にニャったよう
な気分です﹂
﹁ニャんのために、こんなに練習してるの?﹂
ヴァルデミールのことばが移ってしまったのに、彼女は全然気
づいていない。
﹁まず自分が完璧にできニャいと、人には教えられませんから﹂
﹁ふうん。誰に教えるの?﹂
﹁鼻毛まで白髪のおじいさんです。回転数とかセンサーの自動計
測値を決めるには、実際のデータが要るのだ、と威張って命令する
んです。そのくせ、ニャかニャか回転シャフトがうまく加工できな
くて、失敗ばかりニャんですよね﹂
﹁あんたの言うことって、ときどきさっぱりわからないわ﹂
理子は、ふくよかな二の腕をぽりぽりと掻いた。
﹁とりあえず、少しは休憩したら? うちの夕食の残りを持って
きてやった﹂
﹁え、わ、わたくしにですか?﹂
女社長は、少し顔を赤らめた。﹁ああ、不本意だけどね。お父
さんに言われたから﹂
隣の休憩室のテーブルには、大きな塗りの弁当箱が置いてあっ
た。
﹁うわあ、すごい﹂
蓋を開いたヴァルデミールは、彩りよく詰められた惣菜に、顔
191
を輝かせた。とても残り物とは思えない。
﹁ああ、いい匂い。鯖のみそ煮だ。わたくし、塩鮭の次に大好物
ニャんです。うわ、おにぎりにはかつお節が入ってる!﹂
ヴァルデミールは幸せそうに、喉を鳴らした。﹁相模屋のお弁
当も美味しいですが、やはり弁当は手作りが一番ですね﹂
理子は向かいのソファに腰を下ろし、自分よりも十歳も若い青
年が無心に弁当をかきこんでいるのを、しげしげと見つめている。
﹁あんたって、ほんとに不思議だ﹂
﹁どこが、ですか?﹂
﹁すましてれば、きっとすごい美男子なのに、どうして美男子に
見えないのかしらね﹂
﹁それって、ほめられてるのでしょうか、けニャされてるのでし
ょうか?﹂
﹁ははは﹂
女社長は立ち上がり、隅の給湯器で急須にお湯を入れた。
﹁はい。お茶も飲まずに急いで食べると、喉をつめるよ﹂
﹁あ、わたくし猫舌ですので、うーんとぬるく⋮⋮﹂
あわてて立ち上がろうとしたヴァルデミールの足と、湯呑みを
運んできた理子の足が交差した。
ふたりはバランスを崩して、ソファに倒れこんだ。お茶はこぼ
れ、休憩室のカーペットに吸い込まれてゆく。
そして気がつけば、ヴァルデミールの上に理子が覆いかぶさる
形で、ソファに横たわっていた。
何のはずみか、互いの唇を重ねたまま。
﹁ひいっ﹂
﹁ひゃあっ﹂
彼らは自分の置かれた状況を把握すると、二匹のトビウオより
も速く跳ね起きた。
理子は頬をトマトのように赤く染め、泣きそうな顔でばたばた
と走り去ってしまった。
192
ヴァルデミールは、呆然と立ち尽くしたまま、その後姿を見送
る。
﹁⋮⋮そんニャ、馬鹿ニャ﹂
体が熱い。理子のやわらかな胸や腹、そして唇に触れた部分が
熱を帯びている。そして痺れている。
﹁うわーん﹂
ヴァルデミールは、頭を抱えてその場にしゃがみこんだ。
﹁シュニンー、姫さまぁ。わたくし、汚れてしまいました﹂
靴を履いて立ち上がるとき、ゼファーは努めて明るく言った。
﹁じゃあ、行ってくる﹂
﹁はい、いってらっしゃい﹂
﹁いってらっしゃぁい﹂
食卓から走ってきた雪羽は、父の首にむしゃぶりついて、ごは
ん粒のおまけつきのキスをしてくれた。
だがドアを後ろ手に閉めたとたん、彼の笑顔は凍りついたよう
に、厳しい表情に替わる。
﹃坂井エレクトロニクス﹄は、最大の正念場を迎えている。
なんとかして、倒産を食い止めたいという思いは消えてはいな
い。だが、打つ手はすべて打ってしまった。もうできることはない。
もし彼にできることがあるとすれば、製造現場の責任者として、
一秒でも長くラインを動かしていること。そして工員たちが不安を
感じないように、自信をもってふるまうこと。
ゼファーは工場に着くと、いつもの朝と同様、社長室と事務室
のある二階への外付けの階段を駆け上がった。
しかし、中にいた事務の女性の顔をひとめ見たとたん、もうす
でに、そのときが来てしまったということを感じ取った。
﹁瀬峰主任﹂
﹁社長は、どこだ﹂
193
﹁朝一番で、銀行に行っておられます﹂
事務員は、真っ赤に泣き腫らした目をして、訴えた。
﹁明後日が期日の180万円の小切手が、どうしても手当てでき
ません﹂
﹁⋮⋮﹂
不渡りが出る。
工場長が、ぽかんと呆けたような顔でゼファーの後ろから入っ
てきた。会話の最後の部分だけを聞いて、事情を察したらしい。
﹁小切手の不渡りは、六ヶ月以内に二度目を出さなければ大丈夫
だと聞いた﹂
階段を降りながら、ゼファーは押し殺した声で言った。
﹁一度目の不渡り情報はす
﹁銀行の約定ではそうだが、実情は違う﹂
うめくように、工場長は答えた。
ぐに漏れて、あっという間に広がる。そういう情報専門の会社もあ
るらしい。そうなると、信用はガタ落ち。取引先がいっせいに押し
かけてきて、倒産は回避できなくなる﹂
﹁そうか﹂
ゼファーは立ち止まった。
﹁このこと、みんなにはまだ内緒にしてくれ﹂
﹁⋮⋮言えと言われても、とても言えんよ﹂
力なく答えた工場長は、今にも倒れそうにフラフラと表に向か
って歩き出した。
﹁ちくしょうっ﹂
ゼファーは、工場の壁に拳を叩きつけた。
社員たちを絶対に路頭に迷わせないと誓ったのに。俺はとうと
う何もできなかったのか。
元を正せば、ゼファーが提携先のリンガイ・グループのやり方
に異を唱えなければ、こんなことにはならなかった。
会社は存続し、少なくとも工員の三分の二は働き続けることが
できたのだ。
194
俺が、この世に存在しなければよかったのか。地球に来ずに、
アラメキアで魔王の体のまま滅びてしまえば、よかったのか。
その日の夜、ゼファーは工場の真ん中に立ち、ぼんやりと工作
機械の部品を磨いていた。
他の工員たちは無理矢理に定時に帰した。
何かは感づいているのだろう。みな一様に心配そうな顔をして
いたが、口に出して質問してくる者はいなかった。
社長は結局、一度も姿を見せなかった。今なお最後の金策に走
り回っているのだろうか。
入口で、コトリと音がした。もしや社長かと思って振り向くと、
そこに立っていたのは水橋ひとみだった。
﹁主任﹂
暗い工場に不似合いなほど朗らかな声を上げながら近づいてき
た彼女は、一枚の封筒を両手で差し出した。
﹁これを使ってください﹂
﹁どうしたんだ。この金﹂
封筒の思いがけない厚みを確かめ、ゼファーはすぐに手を離し
て彼女を見た。明るい声とは裏腹に、水橋は蒼白で思いつめたよう
な顔をしていたのだ。
﹁借りたんです﹂
﹁いったい誰から?﹂
水橋ひとみは、天涯孤独の身の上だ。それに、つい最近、結婚
詐欺に会い、貯めていた金のすべてを奪われてしまっている。
尋常な金であるはずはなかった。
﹁水橋、いったい誰から借りた﹂
口をつぐんでいたが、彼の詰問に、覚悟を決めたように答えた。
﹁支度金として、もらいました﹂
﹁何の?﹂
195
地球の事情に疎いゼファーも、うすうす察していた。水橋は自
分の体を他の男に任せる商売に就こうとしているのだ。
﹁何でもいいじゃないですか。これさえあれば、会社はつぶれな
くてすむんですよね﹂
彼女は、強いて笑顔を浮かべようと試みていた。
﹁それだったら、わたし嬉しいです。わたしなんかが役に立てる
ったら、これくらい︱︱﹂
ゼファーは水橋の手をぐいと引っ張った。
﹁痛いっ﹂
﹁水橋、今から俺を連れて行け!﹂
彼女の目には見えていないが、ゼファーの体から黒い炎が立ち
昇っている。
﹁え、ど、どこへ?﹂
﹁この金をおまえに渡した奴のところへだ。たたき返してやる!﹂
一時間後、ゼファーは、泣きじゃくる水橋ひとみを連れて繁華
街を歩いていた。
たった今、いかにもいかがわしい一軒の店に入り、彼女を雇お
うとしていた店主に金を突き返したところだった。
屈強な男たちが二、三人取り囲んで、行く手をはばもうとした
が、ゼファーが睨みつけると怖気をふるったように、すごすごと退
散した。
﹁もう泣くな﹂
﹁⋮⋮だって﹂
﹁おまえの気持はありがたい。だが、おまえを売った金で会社が
持ち直したとしても、俺も含めて誰ひとりとして喜ばん﹂
吐き捨てるように言ってから、ゼファーは思い直して語気をゆ
るめた。﹁それに、これぽっちの金額じゃ、うちの工場を立て直す
には全然足りないぞ﹂
196
﹁ごめんなさい﹂
彼女は、二、三回しゃくりあげた。
﹁こないだ詐欺に遭ったとき、相手に渡すお金をなんとか工面し
ようとして、あの店の存在を知ったんです。わたしったら、このお
金で工場が救われるなんて、早とちりして⋮⋮﹂
﹁いいから、涙をふけ。家まで送ってってやる﹂
ふたりは、五階建ての古いワンルームマンションに着いた。
暗く、人けのない玄関ホールに入り、エレベータを一階まで降
ろすと、ゼファーは水橋の肩をぽんと叩いて、微笑んだ。
﹁じゃあな。今夜は何も考えずにゆっくり寝ろ﹂
﹁主任﹂
水橋は、上目遣いでゼファーを見上げた。
﹁わたし、主任のために何ができますか?﹂
﹁え?﹂
﹁今朝見たみたいな主任の苦しそうな顔、わたし、もう二度と見
たくないです﹂
その訴えるような眼差しに、ゼファーはことばを返せなかった。
﹁わたし、主任のことが好きです﹂
水橋ひとみは、彼の腰に抱きついた。
﹁工場がつぶれたら、わたしたちバラバラになっちゃう。いっし
ょに働けなくなっちゃう。わたし、主任と離れたくない。いつまで
も、そばにいたい﹂
﹁水橋⋮⋮﹂
﹁お願い、放さないで﹂
渾身の力で抱きついてくる彼女に、ゼファーはしばらく立ち尽
くしたままだった。
やがて水橋の背中に腕を回すと、降りてきたエレベータにいっ
しょに乗り込む。
五階のボタンを押した。
﹁ありがとう﹂
197
ゼファーは、彼女の体をそっと包むように抱きしめた。
﹁おまえの言うことは、よくわかった。その気持を、俺は全霊を
かけて受け止める﹂
﹁主任﹂
﹁だがな﹂
ゼファーは、彼女の髪の毛を撫でた。
﹁俺は、ひとりの女性を愛すると決めた。その誓いを破るつもり
はない﹂
五階に着き、ドアが開いた。もう一度、一階のボタンを押す。
﹁おまえを喜ばせてやりたいと思う。だが、それは同時に、俺の
妻を悲しませることだ。わかるな、水橋﹂
﹁はい⋮⋮﹂
﹁平気で妻を裏切れるような男なら、おまえに想ってもらう資格
など初めからない。そうだろう?﹂
﹁はい﹂
水橋は、ゼファーの胸の中でこっくりとうなずいた。﹁私も主
任がそんな人だとは、絶対に思いません﹂
一階に着く。もう一度、五階へ。
﹁すまない﹂
﹁いいえ﹂
﹁それに、俺はまだあきらめていない﹂
ゼファーはエレベータの低い天井を見上げて言った。﹁往生際
が悪いとは思うが、最後の最後の瞬間に行き着くまでは、会社が生
き延びることに賭けたいのだ﹂
みたび、一階へ。
﹁主任がそう言うならば、あたしもそちらに賭けます﹂
﹁それでは、賭けにならんな﹂
ゼファーは楽しそうに含み笑った。
エレベータが止まり、ドアが開いた。
﹁どうする。もう一度、上に上がるか﹂
198
﹁いいえ﹂
水橋ひとみは、きっぱりとした声で、自分から体をほどいた。
﹁ここで、お別れします﹂
しとしとと音もなく降る雨に濡れて、ゼファーは歩き続けた。
道端の紫陽花が、ぼんやりと雨ににじんでいる。時折り花首が
傾ぎ、一瞬だけ暗さの中に、鮮やかな青が浮かび出るのだ。
目を上げると、我が家の窓に明かりが灯っていた。
ゼファーはさまざまな感情を振り捨てるように、大きく深呼吸
をしてから階段を上がった。
扉を開けると、妻と娘が彼を迎えた。
﹁父上ぇ﹂
雪羽が、誇らしげに報告した。
﹁見て見て。おにぎりで作った、魔王城!﹂
娘のことばどおり、皿の上に円錐形に積み上げられた少し小さ
めのおにぎりは、アラメキアの居城にそびえていた塔のようだった。
﹁母上がいっぱいおにぎり作って、雪羽がいっぱい乗っけたの﹂
﹁全部にちゃんと鮭が入っていますよ﹂
説明しながら佐和は、ゼファーの脱いだレインコートを受け取
った。
夫の服からは、かすかに女性の香水の香りがした。
一瞬、心臓がどくんと跳ねたが、すぐに思い直して、にっこり
微笑んだ。
きっと何か理由があるのだろう。夫はそんなことのできるほど
器用な人ではないし、そんなことのできるほど愛を知らない人でも
ない。
﹁絶対に父上に見せるんだって、雪羽も今まで食べないで待って
いたんです﹂
佐和は何ごともなかったかのように、話を続けた。
199
﹁この子の提案なんです。今朝の父上はとても悲しそうだったか
ら、元気が出るようにって﹂
﹁⋮⋮雪羽が?﹂
ゼファーは思わず、愛娘の顔を見た。
﹁この子の前では、いくら上手に気持を隠しても、無駄ですね﹂
佐和と雪羽をかわるがわる見ているうちに、家に持ち込まぬよ
うに捨ててきたはずのものが、満ち潮のようにひたひたと、ゼファ
ーの喉にせりあがってきた。
外では、紫陽花の花が風に揺れて、重たいしずくをポトリと落
とした。
200
窓ひとつ分の希望
敗北とわかっている戦いに出陣する朝には、こんな空が見られ
るのか。
雨の宵から一夜明けて、ゼファーは痛いほど美しい青を目に刻
みつけるように、頭上を見上げた。
雪羽は昨夜、父親の帰りを待って夜更かししたせいで、まだ奥
の部屋で寝ている。娘の笑顔にさえ、つい救いを求めてしまう自分
は、相当心が弱くなっている。
﹁行って来る﹂
妻の佐和は微笑み、こっくりとうなずいた。
﹁いってらっしゃい﹂
﹃がんばって﹄や﹃気を落とさないで﹄や、そのほかのどんな
言葉をかけても、夫に無理を強いてしまいそうで、恐い。
今の彼女にできることは、黙って彼の帰りを待つだけ。佐和は
いつものように、玄関わきの小窓から、ゼファーの後姿が角を曲が
るまで、祈りをこめて見送った。
一歩一歩を踏みしめるように歩きながら、ゼファーは工場に向
かった。
今日は、﹁坂井エレクトロニクス﹂の最後の日になるかもしれ
ない。明日の朝になれば、小切手の不渡りが確定してしまう。それ
をどれほど避けたくても、今の会社には180万円の資金を明日ま
でに調達する手段がないのだ。
たったひとつ、自分に思いつくことのできる解決法がある。だ
がそれだけは、考えぬように努めていた。頭の隅に追いやられた考
えは、ずきずきするような幻惑をもって、その存在を主張した。
工場の門をくぐったとき、ゼファーはいつもと違う光景に、足
201
がすくんだ。
建物の正面入口にも、搬出口にもシャッターが降りているのだ。
覚えている限り、出勤時にここが閉まっていたという記憶がな
い。早出の工員の誰かが、必ず一番最初に、ここを開けているはず
だ。
ゼファーは思わず駆け寄った。もしや、社長はすでに廃業を決
めてしまったのか。それとも、倒産の気配を察知した取引先が一斉
に押し寄せてくるのか。
脇の小さな通用口から工場の中に飛び込むと、ゼファーはぽか
んと口を開けた。
﹁主任、ドアを閉めて、早く早く。逃げちゃう﹂
工員たちが大騒ぎしながら、暗い工場内で天井を見上げている。
﹁何をしている?﹂
﹁インコですよ。インコ。ほら、あそこの斜めの梁のあたり﹂
工員のひとりが指差す先には、一匹の緑の小鳥が、大空を求め
てうろたえるように羽ばたいていた。
﹁今朝、工場の入口を開けたら、飛び込んできたの﹂
﹁近所で飼ってるヤツが逃げ出したらしいです。あわててシャッ
ターを降ろして、みんなで捕まえようとしてるんですが﹂
﹁なのに、飛び回ってなかなか捕まらないんだーっ﹂
ゼファーは、隅に置いてあった巻きコイルの束の上に、がっく
りと腰をおろした。
口元をおおった片手のすきまから、止めようとしても笑い声が
漏れる。
明日から自分の仕事がなくなるかもしれないというときに。従
業員たちも、そのことは、とっくに感づいているはずなのに。
一匹のインコのために、皆でこれだけ夢中になれるものなのか。
焼けついていた心に、スポイドで一滴の水を垂らしたようだ。
笑いながら、ゼファーは彼らのことが心底から、いとしいと思った。
202
結局、飼い主を捜し出して、鳥かごを持って来てもらい、よう
やくインコ騒動は終わりを告げた。
シャッターを開け、全員で朝の準備を急ぎ始めたとき、旋盤工
程の樋池が近づいてきた。
﹁主任、あの⋮⋮﹂
何か話したそうにしていたが、その小声を資材係の重本の大声
がかき消した。
﹁主任、ちょっと﹂
ゼファーが思わずそちらに向くと、搬入口のほうから、強ばっ
た顔をした重本が走り寄ってきた。
﹁H004のコーナー用のブラケット部品が足りねえ﹂
他の工員たちに聞こえないよう、彼なりにささやいているつも
りだが、すでに工場中の全員が耳をそばだてている。
予想していたことであった。この部品の卸元からは、もうずい
ぶん前に現金でしか取引をしないと通告されている。
支払う現金が尽きた以上、部品が足りなくなるのは時間の問題
だったのだ。
﹁どうする。もう一度、注文の電話を入れてみるか﹂
﹁いや﹂
ゼファーは首を振った。
﹁ある分だけでいく﹂
﹁ある分だけったって﹂
重本の顔が蒼くなった。彼の押してきたカートの上には、わず
か50個ほどの部品しか乗っていない。これでは、二時間も経たな
いうちに部品が尽きてしまう。
﹁そのあとは︱︱?﹂
ラインが止まる。
それは、製造主任であるゼファーにとって、一番恐れていた瞬
間だった。
203
資材の搬入が途絶え、旋盤が鳴り止み、研磨用機械が動きを止
め、そして何も流れてこないのを感知したベルトコンベアが、自動
的に電源を切る。
毎日、絶え間ない騒音に包まれていた工場が、昼間からひっそ
りと静まり返るのだ。息を止めて地面に崩れ落ちる巨獣のように。
ゼファーの苦悩の表情を見て、重本も樋口も黙り込んで、それ
ぞれの場所へ戻っていった。
﹁とうとう、このときが来たか﹂
振り返ると、工場長がゆっくりとした足取りで歩いてきた。
﹁社長から今、電話があった。やはり事態は変わらないらしい﹂
﹁そうか﹂
ゼファーは深い息を吐いた。﹁昼休み前にみんなを集めて、説
明しよう﹂
﹁いや、俺から説明するよ。工場長としてせめて、それくらいさ
せてくれ﹂
ふたりは並んで、見慣れた朝の作業が進んでいくのをじっと見
つめた。もう明日から二度と見られなくなる景色として。
﹁なんとかならんものかなあ﹂
工場長は、あきらめと悔しさが半々に入り雑じった声で、うめ
くように言った。
ゼファーはそれには答えず、足元に視線を落として、また上げ
た。
﹁少しだけ、ここを頼む﹂
言い置くと、搬入口から工場の裏手に出た。
外に出たとたん夏の光に目を射られて、思わずシャッターの取
っ手を掴んだ。
空気を求めて、あえいだ。ずきずきと、みぞおちが痛む。
アラメキアの魔王城でユーラスたちに負けたときも、これほど
痛かったか。アケロスの洞窟で手足を四本の剣で釘づけられた、あ
のときの絶望は、これほどまでに果てしなかったか。
204
搬入口から正面にかけて、建物の周囲を細長い花壇が連なって
いる。事務の女性が毎年春に球根を植え、この時期になるとダリア
やグラジオラス、ゼフィランサスといった華やかな大輪の花が咲き
そろう。
﹁精霊の女王﹂
と思わず呼びそうになって、ぎりぎりと歯を噛みしめた。
結局俺は、精霊の女王の力を借りなければ、ひとりでは何もで
きないのだ。
あのときも、そうだった。
佐和が転移装置の暴走で命を失ったとき、ゼファーはありった
けの魔力をこめて、呪術を行なった。
﹃自分は蛆虫になってもよい。佐和を生き返らせてくれ﹄と。
確かにその後に訪れたのは、汚辱と侮蔑にまみれた日々だった。
だが、この肉体が本当に蛆虫にならなかったのは、精霊の女王が彼
をあわれみ、呪術の呪いを霊力で無効にしてくれたからなのだ。
だが、今度同じことを行なえば、そうはいかない。
今のゼファーの魔力は、ほとんどゼロに近い。この状態で呪術
を用いるためには、蛆虫どころか生命と引き換えにするほどの覚悟
がなければ、不可能だ。
呪いによって生命を奪われるか、良くても精神の崩壊は避けら
れまい。
﹁会社が救われるなら、この命など惜しくない。だが⋮⋮﹂
それは佐和と雪羽を置いていくことだ。苦しみから逃げること
だ。自滅への衝動と懸命に戦った果てに、ゼファーは力尽きたよう
に苦笑した。
﹁やはり俺にはできないよ、ユスティナ﹂
初夏の風が吹いてきて、花壇の花々を揺らした。まるで誰かが
﹁当たり前でしょう﹂と微笑んだように。
﹁逃げるわけには、いかない﹂
彼は祈るように、空を仰いだ。
205
﹁せめて俺に、運命を受け入れる勇気をくれ﹂
夜の工場内は暗く、静まり返っていた。
ゼファーと工場長が中に入ったとき、坂井社長のシルエットが、
ぽつんと機械のそばに佇んでいた。
﹁きみたちには、苦労をかけたなあ﹂
社長はふたりを見ると、やつれた顔に痛々しい笑みを浮かべた。
﹁どうあがいても、会社を立て直すのは無理だったよ﹂
ゼファーたちは何も言うことができず、ただ社長を見つめた。
﹁今朝まで、博多にいるわたしの息子に頭を下げに行っていたん
だ。百八十万貸してくれと頼んだら、思い切り怒鳴られたよ。何を
考えてるんだ、俺たちまで巻き込んで、一家心中させる気かと。⋮
⋮あれで、目が覚めた﹂
目尻をくしゃりと下げて、社長は微笑んだ。微笑みながら、涙
をこぼした。
﹁わたしのやっていたことは、ただの時間延ばしだった。ますま
す借金を広げるだけだった。ここで止めなきゃならんと、ようやく
決心がついたよ﹂
その言葉を聞きながら、心臓がつぶれそうだった。
﹁だが、きみたち社員とその家族全部を路頭に迷わせてしまう。
そう考えると、どうしても、ふんぎりがつかなくてなあ。なんとか
して、この工場を続けたかった。社員のみんなには、いくらお詫び
しても、お詫びしきれんよ。この汚い首を吊ったって、誰も喜ばん
しなあ﹂
﹁社長﹂
﹁瀬峰主任。きみがわたしが自殺するのではないかと、毎日帰り
道まで見張っていてくれたことを知っとるよ。すまなかった。だが、
本当はそんな必要はなかったんだ。生命保険なんか、もうとっくの
とうに解約して、運転資金に使ってしまっていたんだからな﹂
206
﹁⋮⋮﹂
﹁ほんとうに、すまなかったなあ﹂
﹁社長!﹂
ゼファーは、ぶるぶると小刻みに震えている社長の肩をぐいと
つかんだ。
﹁もういい。もう戦わなくていい﹂
﹁⋮⋮瀬峰くん﹂
﹁おまえは、よくやった。戦いつくした。もう、十分だ﹂
工場長が背後で、男泣きに泣く気配がした。
負けたとわかっていても、剣先を収められぬ悔しさを、ゼファ
ーは痛いほど知り尽くしている。
﹁みんなのことは、俺たちが何とかするから﹂
魔王の目から、一筋の涙がしたたり落ちる。
﹁あとはまかせろ。今は何も考えずに、ゆっくり休め﹂
﹁⋮⋮すまない﹂
それだけ言って、あとは声もなくしゃくりあげる社長を椅子に
座らせると、ゼファーは持って行き場のない拳を、彼の背丈以上も
あるフライス盤の機械に叩きつけようとした。
その瞬間だった。
﹁みニャさん! 早まらニャいでくださいっ﹂
叫び声とともに、浅黒いしなやかな身体が、風のように通用口
をすり抜けて飛び込んできた。
﹁ヴァルデミール?﹂
魔族の忠臣は両掌を膝に当てて、ぜいぜいと息を整えると、得
意そうな顔になった。
﹁間に合いました。機械が売れたんです!﹂
﹁︱︱?﹂
﹃坂井エレクトロニクス﹄の幹部たちは、ぽかんとした顔で、
ただ若者を見返す。
﹁何の機械だ?﹂
207
﹁だから、ニンジンの機械ですってば﹂
じれったそうに答えるヴァルデミールの後ろから、今度は旋盤
工の樋池が、年輩の矢口を引っ張るようにして、走ってきた。
﹁社長﹂
樋池は満面の笑顔で、報告した。
﹁うちが作った試作品の機械を一台、正式に納入してきました﹂
﹁うちが? 試作品?﹂
﹁正確に言えば、わたしが作った機械だ﹂
ユーラスに背中を押されながら、白髪をふり乱した天城博士が
入ってきて、一気にまくしたてた。
﹁加速度センサーを利用して材料の三次元角度を計測し、水平な
らびに平行移動を組み合わせた回転シャフトによって均一に切る﹃
全自動高速乱切り機﹄だ﹂
そして、息を整えたあとに、さりげなく付け加える。﹁あくま
でもわたしの発明だぞ。シャフトの加工と調整には、ちょいと、こ
この工員の手助けを受けたがな。︱︱もちろん、すでに特許出願済
みだ。ここの会社の名義にしてやったぞ﹂
そして一番最後に、手足の不自由な﹃相模屋弁当﹄の会長、相
模四郎が娘の理子に付き添われて、ゆっくりと杖をつきながら入っ
てきた。
﹁坂井くん﹂
﹁さ、相模さん﹂
坂井社長はあわてて立ち上がった。
商工会議所で会えば、挨拶くらいは交わす。だが、それ以上に
親しい仲ではない。戸惑う坂井社長に、相模会長は一枚の紙片をす
っと差し出した。
﹁額面二百万円の小切手だ。明日朝一番に支払うように、銀行に
は話を通してある﹂
﹁⋮⋮﹂
﹁とりあえず、今日うちの工場に納入してもらった機械の代金だ。
208
もう一台注文した方の分は、後日支払う﹂
﹁ええっ。も、もう一台買ってくださるんですか﹂
ヴァルデミールは目を丸くし、疑わしそうに社長の理子のほう
を見た。
﹁性能は、試運転を見たら明らかだ﹂
理子は、ぶっきらぼうに答えた。
﹁たった三分で、百五十本の人参の皮を剥き、ぴったり3センチ
角の乱切りにした。熟練のパートが十人がかりでも、ここまではい
かない﹂
﹁この機械なら、弁当会社や食品加工会社に飛ぶように売れるぞ。
あとはきみたちの営業の腕しだいだ﹂
相模会長は、杖でとんと工場の床を打った。﹁坂井くん。いい
部下たちを持ったな﹂
﹁あ⋮⋮ありがとうございます﹂
社長は床に正座して、泣きながら深々と頭を下げた。
ぽっかりと円い月が天窓から光を注ぎ込み、工場内を静かに照
らした。
深夜の路地に、人々の影が躍っている。
あれから、知らせを受けた工員たちが続々と工場に押しかけ、
会社の存続を祝って乾杯した。
インコの飼い主が、捕まえてくれたお礼だと言って、酒屋から
ビールやジュースをケースごと届けてくれたのだ。
﹁じゃ、ここで失礼する。主任﹂
矢口は工場の角を曲がったところで、言った。労をねぎらうゼ
ファーに、老工員は首を振った。
﹁そのことばなら、あんたを慕ってるあの若いのに、言ってやり
な。それと樋池に。このふたりは幾晩も寝ないで、頭つき合わせて
回転シャフトの調節をしておったんだから﹂
209
そして、背中を向けて片手を上げた。﹁もう、俺のような年寄
りの出る幕じゃないよ﹂
次いでゼファーは、隣町の研究所に帰って行こうとするユーラ
スと天城博士に声をかけた。
﹁︱︱何と言って感謝すればよいか。ナブラ王﹂
﹁余に礼を言うのは、筋違いだぞ﹂
少年は振り向き、蒼い瞳を悪戯っぽく、きらめかせて笑った。
﹁わからぬか、魔王よ。これだけの人間を動かしたのは、おまえ
の力だ﹂
﹁え?﹂
﹁おまえとおまえの従者が、何のゆかりもない者たちの心をひと
つに結び合わせた。余とアマギも含めて、な﹂
天城は、ユーラスの隣で腰をとんとん叩いている。
﹁やれやれ、これだけ走ったのは、二十年ぶりだ。敵に弁当を届
けるお人よしの男のためとは言え、面倒くさいことだ﹂
彼らが遠ざかるのを見送って、ゼファーは最後まで残った従者
を、優しい眼差しでじっと見つめた。
﹁ヴァルデミール﹂
﹁はい、シュニン﹂
﹁よくやった。礼を言う﹂
﹁何をおっしゃいます﹂
ヴァルデミールは、無理に怖い顔をして答えた。﹁しもべが主
人のために働くのは、当然至極。礼ニャど、他人行儀というもので
す﹂
﹁そうだな﹂
ゼファーは、一歩後を歩いていた若者を引き寄せて、背中を撫
でた。
﹁だが、俺はうれしいのだ。おまえが俺のために手を尽くしてく
れたことが、何よりもうれしい﹂
﹁そんニャ、もったいニャい﹂
210
ヴァルデミールは照れくさげに、しきりにヒゲをこする真似を
した。
﹁ほうびを取らせる。望みのものを言え﹂
つい魔王の頃の口癖で言ってしまってから、ゼファーはあわて
て付け加えた。﹁︱︱できれば、二千円以内だとありがたいが﹂
﹁それニャら、おことばに甘えて、塩鮭を二切れいただきとうご
ざいます。次の特売の日でけっこうですので﹂
﹁それだけで、よいのか﹂
﹁それと、もしお許し願えますニャら、一晩だけ猫の姿にニャっ
て、シュニンのおふとんの足元で、ごろごろさせていただきたく存
じます﹂
﹁わかった。許す﹂
﹁ありがたき幸せ﹂
﹁ただし、雪羽に近づいて寝顔をながめるのは、絶対に禁止だか
らな﹂
﹁も⋮⋮、もちろんです﹂
従者は、しょんぼりと肩を落とした。
ゼファーは月が煌々と輝く夜半の空を見上げた。
これで確かに、とりあえず会社は永らえた。だが、あくまでも、
とりあえずだ。
五十二人もの社員を雇っている会社が、機械を一台や二台売っ
たからと言って、喜んではいられないのだ。相模会長はああ言った
が、この﹃全自動高速乱切り機﹄を会社の主力商品とするまでには、
まだまだ時間が必要になる。
明日からまたリンガイグループを相手に、生き残りのための戦
いが始まる。今は、小さな覗き窓がうがたれて、そこから何かが垣
間見えたに過ぎない。
だが、それは、ほんのわずかではあるが、窓の向こうに確実に
211
ある希望だった。
212
ねじねじゴーレム
﹁暑い﹂
工場を一歩出ると、真昼の太陽がじりじりと地上のものすべて
を焦がしていた。
コンクリートの地面は、仕返しとばかりに空に向かって熱気を
吹き上げ、花壇の草はその熱気に煽られて、ちりちりと萎れている。
工場内も暑いが、それでも外気よりはまだマシだ。熱を放出す
る巨大な機械がたくさんあるため、エアコンがフル稼働している。
それだけで莫大な光熱費がかかる。
業績がよくない会社にあって、一円でも無駄な出費を節約する
ことは、製造主任であるゼファーの仕事である。だが、いったいど
こから手をつければいいのかと悩む毎日だ。
本当はゼファーは、エアコンの冷気があまり好きではない。人
間が機械で作り出した涼しさは、木々を渡ってくる夕風の涼しさと
は、まったく違う。
空気が、どこか無理をして干からびてしまったという肌触りを
している。
だがエアコンを止めれば、大気も太陽も、人間に敵意を持って
襲ってくる、という気分になる。
︵アラメキアの自然そのものが、少しずつ異変をきたしていると、
ユスティナは言っていた。だが地球も、それと同じなのかもしれん︶
青すぎる空に目を細めながら、ゼファーは思った。
﹁この暑さで僕のアパート、とうとうエアコンがイカレちゃった
よ﹂
﹁うちは冷蔵庫だ。氷ができねえから、たったひとつの楽しみの
213
焼酎ロックにならねえんだ﹂
従業員たちの会話が聞こえる。
どこの家庭も、この暑さで特別な出費が強いられているようだ。
﹃ボーナスが少しでも出せればいいんだがなあ﹄
今朝、事務室で坂井社長が頭をしきりにこすっていた。だが、
魔法のランプならぬ禿げ頭からは、何も出てくるはずはない。
坂井エレクトロニクスでは、この二、三年夏のボーナスは出し
ていない。冬は、田舎に帰省する工員たちを気遣って、﹁餅代﹂だ
と二万円ほどを支給している。
だがそれも、坂井社長が生命保険を解約して自腹を切っていた
のだと、後でわかった。
今年の夏は、それに比べれば多少の余裕はある。天城博士の発
明した︻全自動高速乱切り機︼が、少しずつ売れているためだ。
だが、それでも相変わらずの苦しい経営であることに変わりは
ない。
﹃金庫にある金を使えば、出せないことはないんだが﹄
﹃やめておけ。どうせ月末になれば、また資金繰りに苦しむこと
になるんだろう﹄
ゼファーの指摘に、社長は苦笑いをこぼした。
確かに今の会社にとって、経営を立て直すことが先決で、賞与
などは夢のまた夢だった。
一応反対はしたが、ゼファーも内心は彼らにボーナスを出して
やりたいと思っている。
薄給にも愚痴ひとつ言わず、どんな無理な残業でもこなしてく
れる52人に対して、たとえわずかでもいいから、その労に報いて
やりたい。
だが、そのために新たな仕事を取ってきて残業を強いるのでは、
意味がなかった。今の資金繰りでは、余分な原材料を仕入れること
もできない。
なんとかならぬものか。
214
思案に暮れているゼファーに、資材係の重本が近づいてきた。
﹁主任、ちょっと﹂
彼の﹁ちょっと﹂には、いつもひやりとさせられる。だが、今
日は少しばかり違った。
﹁これを見てくれよ﹂
資材倉庫に入ると、重本は片隅で埃をかぶっているダンボール
の山を指差した。
﹁全然使ってねえ古いボルトやナット類が、いっぱいあるんだ。
場所ふさぎだけど、捨てるに捨てられねえし。いったいどうしよう﹂
ダンボールを開けて中身を確かめると、ゼファーは顔を上げた。
﹁返品処理は?﹂
重本は頭を振った。
これを製造した部品メーカーは二年前に倒産してしまったのだ。
だから、返品が利かない。
かと言って、今の工程ではまったく役に立たない部品ばかりだ
った。在庫帳簿を確認すると、各種三千個ずつはある。
ナイロンの袋にぎっしりと詰められた小さな部品をじっと眺め
ていると、ゼファーの頭にひとつの考えが浮かんだ。
もし、この不要部品をうまく有効活用して、新しい製品を生み
出すことができれば。
﹁おかえりなさい﹂
﹁おかえりなしゃーい﹂
家に帰ると、佐和が家計簿とにらめっこしている。
雪羽があせもだらけになってしまったため、去年の夏、瀬峰家
ではとうとうエアコンを買った。そのローンと電気代が、この夏も
家計を圧迫している。
だが、夜も眠れずに痒がる雪羽を見れば、そんな浪費は何でも
ないことのように思えてしまうのだ。
215
雪羽といっしょに風呂に入り、幼稚園で習い覚えた童謡を全部
聞かされる。風呂上りには、タオルでよく拭いた身体にパウダーを
はたいてやる。
﹁もうどこも、かゆくないか﹂
﹁うん﹂
もともと色白で、夏でも全然日焼けしない雪羽の肌は、粉のせ
いでますます白く、透き通るように見えた。
四月から公立の二年保育に通い始めた娘は、他の園児たちとは、
どこか違っていた。
﹁言うことが変﹂
﹁普通の子どもらしくない﹂
という声が漏れ聞こえてくるたびに、佐和が気をもんでいるの
がわかる。もちろん、雪羽の前では、不安な様子は決して見せない
ように努めているらしいのだが。
夕食の支度が整うまでのあいだ、ゼファーはカバンの中から、
茶封筒に入れて持ち帰ったボルトやナットを取り出して、眺めた。
工員たちにも相談してみたが、これを再利用するというのは、
かなり難しそうだった。そもそもが、材質が悪いので次第に使われ
なくなった部品なのだ。
いつのまにか雪羽が隣にちょこんと座って、しげしげと見つめ
ている。
﹁これ、なあに﹂
﹁工場で使う部品だ﹂
﹁これ、ゴーレムのおめめ?﹂
六角ナットをふたつ手に取って、雪羽は自分の目にかざしてみ
た。
﹁それで、これはゴーレムのお手手﹂
アイナットと呼ばれる先の円い部品を卓袱台の上に置き、六角
ナットの下に並べた。さらにボルトやワッシャーやコイルばねを次
々と並べていく雪羽の手の下には、みるみるうちに小さな人形が出
216
来上がった。
少女は満足そうに笑った。
﹁ね、ゴーレムができたよ﹂
天城の研究室では、ナブラ王ユーラスが山のような宿題を前に、
うめいていた。
﹁確か教師は、9月まで休みだと言ったぞ。だが、これでは勉強
場所が家に変わるだけで、全然休みになっていないではないか。お
まけに﹃自由研究﹄とは何なのだ。なぜ自由だと言っておきながら
強制する﹂
﹁ばかもの。いつまでもぐだぐだ言ってないで、せめて夏休みに
勉強の遅れを取り戻さんで、どうする﹂
ユーラスとアマギは、今では誰が見ても、長年暮らした孫と祖
父そのものだった。
その傍らで、弁当を届けに来たヴァルデミールが膝を抱えて、
ほおっと大きな溜め息をついた。
﹁なんだ、おまえでも溜め息をつくほどの悩みというものがある
のか﹂
ユーラスがからかう。
﹁溜め息をつきすぎて、身体が軽くニャった気がするよ﹂
ヴァルデミールは、物憂げに答えた。﹁ニャにをする気も起こ
らニャい。塩鮭も一切れ食べられニャいんだ﹂
﹁そいつは、重症だぞ﹂
天城は、ペン立てに差してあったネコじゃらし草を、ふるふる
とヴァルデミールの前で振ってみせた。
﹁にゃっ!﹂
とうとう我慢できずに、両手で飛びついたヴァルデミールに、
ユーラスと天城は大笑いする。
﹁おまえの悩みなんて、どうせこの程度だ﹂
217
﹁ひ、ひどーい﹂
ヴァルデミールは元通りに膝をかかえて、すっかりスネてしま
った。
研究室がしばらく、しんと静まり返った。ユーラスが口を開い
た。
﹁聞いてやるから、話せ﹂
﹁スズメが二羽いると、思いニャよ﹂
ヴァルデミールは、待ってましたとばかりに、口の中でもごも
ご言い始めた。
﹁一羽は、とてもきれいなスズメなんだけど、まだヒナで小さい。
一羽は少々食べごろが過ぎてるんだけど、ころころに太って柔らか
い。あんただったら、どちらを選ぶ?﹂
﹁なんだ、それは﹂
ユーラスは、目をむいた。﹁余はスズメなど食したことはない。
そんな問いに、いちいち答えられるか﹂
﹁じゃあ池の鯉が二匹いて⋮⋮﹂
﹁池の鯉も食したことはない!﹂
﹁ははあん﹂
さすがに年の功だけあって、天城にはぴんと来た。
﹁おまえもお年頃というわけだな。ヴァル︱︱女のことだろう﹂
言い当てられて、とたんに純情な若者は浅黒い肌を真っ赤に染
めた。
﹁そ、そうはっきり言わニャいでほしいニャ﹂
﹁つまりは、好きな女がふたりいると﹂
ヴァルデミールは、観念したように、こくんとうなずいた。
﹁ひとりは、とても大切なお方で、わたくしには絶対に届かニャ
い高嶺の花で、でも見ているだけでドキドキして幸せニャんだ。⋮
⋮もうひとりは、見てても全然ドキドキしニャいけど、あったかく
て、ほわほわしてて﹂
ヴァルデミールの言っているのが、雪羽と相模理子だというこ
218
とは、天城にはすぐにわかった。伊達に結婚経験があるわけではな
いのだ。
﹁どちらも好きで、どちらを選べばよいかわからんのだな﹂
﹁⋮⋮﹂
天城は、もう一度ネコじゃらしを手に取り、ふるふる振った。
﹁にゃおん﹂
ヴァルデミールは間髪をいれずに、また飛びつく。
︵こいつの辞書に、忍耐や待つなどという文字はないな。さだめ
し、目の前に餌がぶらさがれば、すぐに飛びつくことだろうて︶
にやにやしながら博士が考えていると、研究室の扉が開いた。
﹁シュ、シュニン!﹂
話題が話題だっただけに、主人の出現に従臣はあたふたと慌て
始める。
﹁どうニャさったんです。こんニャむさくるしいところへ﹂
﹁おまえに言われたくはない﹂
ユーラスは不機嫌に言うと、入ってきたゼファーの前にゆっく
りと立ち上がった。
かつての敵同士、魔王と勇者。ふたりは互いを今でも警戒して
いるが、しかし同時に尊敬もしているのだ。
﹁邪魔をする。ナブラ王﹂
﹁何の用だ、魔王﹂
ゼファーは、持ってきたダンボールをどんと作業台に置いた。
﹁これを見てくれぬか、天城博士﹂
中には、不要品のボルトやナットの一部が、ぎっしりと詰まっ
ていた。
﹁なんだ、これは﹂
﹁この部品を元にした機械を、何か考えてもらいたいのだ﹂
﹁たったこれだけでか﹂
天城は白いあごひげを引っ張った。
﹁こんなものは、ただの外側の部品にすぎぬ。中心に据える電子
219
基板や半導体がなければ、機械にはならん﹂
﹁︱︱だろうな﹂
﹁こっちのは?﹂
ユーラスが横から手を伸ばしてきた。部品の一番上に、手のひ
らほどの人形が乗っている。ボンドで張り合わせただけらしく、触
ると継ぎ目がぐらぐらした。
﹁ああ、それは﹃ねじねじゴーレム﹄だ﹂
ゼファーは笑いをこらえるような表情になった。
﹁ねじねじゴーレム?﹂
﹁ああ、昨日の夜、雪羽が作って命名した﹂
ゴーレムとは、魔族がしもべとして使役する石の人形で、魔力
を動力として動く。
﹁確かに、ゴーレムそっくりだな﹂
ユーラスは、そのボルト人形をいとおしげに撫でた。﹁おまえ
の娘は、アラメキアのゴーレムを見たことがあるのか﹂
﹁いや、一度もない﹂
﹁不思議だな。なぜ、見たこともないものを、これほど似せて作
れるのだろう﹂
確かにそれは、ゼファーもいつも不思議に思うことだった。地
球で生まれ育った雪羽に、アラメキアの記憶があるはずはないのに。
ねじねじゴーレムをじっと眺めていたユーラスの顔に、突然、
喜色が現われた。
﹁そうだ。余の夏休みの自由研究は、これに決めたぞ﹂
﹁自由研究?﹂
﹁魔王よ。この部品、いくつかもらう。赤や黄に色を塗り分けて、
いろいろな姿勢を取らせる。︱︱知っておるか? この世界では、
戦いの大将は赤を着ると、相場が決まっておるらしいぞ﹂
﹁やれやれ﹂
ゼファーはがっかりして、頭を掻いた。
ボーナスの資金を稼ぐために役立てようと考えていた部品は、
220
どうやら小学校の工作の材料になりさがってしまったようだ。
ところが、ゼファーのこの考えは少々間違っていた。
数日が過ぎたころ、工場にいた彼のもとに、興奮したユーラス
の電話がかかってきたのだ。
﹁あの鉄の材料を、あるだけ全部、研究所に持ってこい!﹂
あわてて駆けつけると、天城の研究室ですでに、ユーラス、天
城博士、ヴァルデミールが勢ぞろいし、作業台にボルトやナットを
広げて、ハンダづけをしていた。
﹁この、ねじねじゴーレムは売れるぞ﹂
九歳の勇者は、勝ち誇ったように叫んだ。
﹁余が作ったものを、学校の登校日に持っていった。あっという
まに学校中で評判になり、欲しいという者が続出した。もしやと思
い、おまえの従者に、これを売る店を捜させたのだ﹂
﹁相模屋弁当が弁当を納めてる駅の売店やコンビニに、試しに置
かせてもらったんです﹂
ヴァルデミールも、目をきらきらさせている。
﹁そしたら、一日で売り切れてしまって、次の納入はいつかと矢
の催促ニャんです﹂
﹁﹃ねじねじゴーレム﹄を、さっそく登録商標として出願してお
いたぞ﹂
天城が抜け目なく、にやりと笑う。
それから毎日、四人は仕事以外の時間をすべて使い、﹃ねじね
じゴーレム﹄を作り続けた。
﹃ねじねじゴーレム﹄の可愛さが口コミで知れ渡ると、注文が
殺到し、作っただけ飛ぶように売れてしまった。
三千個がすべて売り切れたのは、わずか一ヶ月後のことだった。
221
﹁なんだって?﹂
出勤して工場の事務室に入ると、ゼファーはとんでもない事実
を知らされた。
﹁売り上げはたった60万?﹂
﹁だって﹂
会計担当の事務員は、申し訳なさそうに帳簿を見せてくれた。
﹁一個200円の商品が三千個ですよ。どう計算したって、60
万円にしかなりません﹂
ゼファーはがっくりとソファに座り込んだ。
一ヶ月、昼夜ぶっつづけの手作業で作り続けたのに。
そもそも小学生であるユーラスに、最初に値段を決めさせたの
が悪かったのだ。200円なら、確かに安さゆえに売れるだろうが、
普通に作れば採算割れだ。
﹁おまけに、梱包やラベルなんかの諸経費もかかっていますから、
差し引き⋮⋮﹂
53万円。これは、社長やゼファーも含めた従業員全員が、ち
ょうどぴったり1万円ずつ貰えるだけの額だった。
﹁あはは﹂
脱力して、無性に可笑しくなったゼファーは、ソファにひっく
りかえって大笑いした。
やはり、タダ同然の部品で大儲けしようだなんて、それほど世
の中は甘くはないということか。
﹁あのう。次に売るときは、もう少し単価を上げてみてはどうで
しょうか﹂
﹁残念だが、そうもいかない﹂
あの部品を製造していた会社は、もう倒産してしまった。二度
と同じものは手に入らないということだ。不思議なことに、いくら
工夫しても、あのボルトやナットでなければ、アラメキアのゴーレ
ムにそっくりな可愛い人形は作れなかった。
﹃ねじねじゴーレム﹄は、ひととき、この地域の人々に熱狂的
222
に受け入れられ、そして幻のように消えてしまったのだ。
坂井エレクトロニクスの従業員たちに、焼け石に水のボーナス
を残して。
残暑がまだ厳しい八月の終わりの夕方、瀬峰一家は連れ立って
家を出た。
﹁やっぱり、はんばーぐ!﹂
﹁ハンバーグにするの?﹂
﹁やっぱり、おむらいす!﹂
雪羽は両親の腕のあいだで大はしゃぎだ。
出たばかりの1万円のボーナスをはたいて、ファミレスへ夕食
に行くことにしたのだ。ヴァルデミールは一足先に天城博士と悠里
を迎えに行き、向こうで落ち合うことになっている。
たとえわずかな金額でも、ボーナスを出せた。坂井社長や従業
員たちの満面の笑顔を思い出すと、ゼファーは心地よい疲労と、し
みじみとした充足感を覚えていた。
だが同時に今度のことで、自分が営業に関して何も知らなかっ
たことも、つくづく思い知らされた。
いい製品を作っても、必ずしも成功するものではないのだ。販
路の開拓。適正な価格設定。買う側の要求を適確に汲み上げるフィ
ードバック。
今まで会社に欠けていたものが、おぼろげにわかったような気
がする。
気がつけば、夕方の風が、ずいぶん涼やかに感じられる。暑か
った夏も、もう終わりだった。
﹁うーんと、やっぱりね、雪羽、しゃけのおにぎりがいい!﹂
ゼファーと佐和は、顔を見合わせてほほえんだ。
雪羽のポシェットには、﹃ねじねじゴーレム﹄が、歩くたびに
カチリカチリと揺れていた。
223
224
世界で一番ふしぎな魔法
さがみのりこ
相模理子は、同窓会が大嫌いだ。
なのに、絶対に欠席はしない。どこでどんな商談のチャンスが
生まれるかわからない場所には、マメに足を運ぶ。それが商売人の
鉄則だ。
﹁理子ったら、昔はおとなしかったのに、見違えたわあ﹂
﹁社長ですって、すごいじゃない。私たちの出世頭よ﹂
﹁毎日三時起きですって。充実しててうらやましい。私なんて、
子どもを幼稚園に連れてって、おしゃべりするだけで一日が終わっ
ちゃう﹂
いかにも苦労知らずの主婦といった風情の同級生たちは、理子
をやんわりとからかって、優越感を楽しんでいるのだ。
﹁あはは﹂
心の中が煮えくり返っても、理子はいやな顔ひとつ見せない。
経営者となって以来、肌にしみついた習性だ。
けれど、たいていの場合は帰り道で忍耐の糸がぷっつり切れ、
そこらにあるものに当り散らす羽目になる。
今夜も公園の入口にある車止めのポールをげしげし蹴っ飛ばし
ていると、一番会いたくない人間にばったり会ってしまった。
﹁あ、ヴァル﹂
﹁相模社長﹂
浅黒い肌の男は、気の毒そうな顔で近づいてきて、よしよしと
ポールを撫でる。
﹁かわいそうに。痛かっただろ﹂
﹁こら、私の足を心配せんか﹂
225
理子の工場で働く日系移民。理子より十歳以上若いし、いまだ
に正しい日本語を覚えないし、おつむも弱い。
﹁ところであんた、なんで、こんな時間にこんなところにいる﹂
﹁そろそろ寒くニャってきたから、こっちへ移ろうかと。ここの
公園は木が多くて風除けにニャるし、鉄製の遊具の下は、夜でもあ
ったかいんですよね﹂
﹁まだ公園で寝ているのか!﹂
理子はヴァルデミールの首根っこを、むんずと掴むと、豪然と
歩き出した。
﹁ひゃん、ニャ、ニャにをするんです﹂
﹁従業員が公園でホームレスしてるなんて風評が立ったら、うち
の信用にかかわるんだよ﹂
自分の家に連れて帰ると、理子は彼を、タンスの詰まった真っ
暗な納戸に放り込んだ。
﹁当分ここで寝ろ。お父さんの知り合いにアパートの大家がいる
から、空き部屋がないか聞いておいてやる﹂
﹁ええっ。アパートの家賃ニャんかが払えるほど、給料もらって
ませんよ﹂
﹁人聞きの悪いことを言うな!﹂
彼の頭を小突きながら、理子は心の中で悪態をつく。
︵私もヤキが回ったな。こんな男に関わりあってる暇があれば、
売り上げを一円でも伸ばすことでも考えればいいのに︶
ころんだはずみで唇を重ねてしまうという、わが生涯最悪のア
クシデント。それ以来、理子は彼のことが気になって、しかたがな
いのだ。
彼の頼りない姿を見るたびに、母性本能が刺激されるのか、つ
い世話を焼きたくなってしまう。
ふたりの会話を聞きつけて、父親の相模四郎が自室から顔を出
した。
﹁おお、ヴァル。ちょうどよかった。さっきから背中が痒くてた
226
まらん。掻いてくれんか﹂
﹁はい。会長﹂
ヴァルデミールはすぐさま駆け寄って、畳の上にうつぶせに寝
ころんだ四郎の背中を、爪を立てないように拳を丸めて、そっと掻
き始めた。
﹁いい気持だ。ヴァル。おまえは背中掻きのプロだのう﹂
目を細めてうれしそうな父親の顔を見て、とりあえずはよかっ
たかと自分を納得させる。
台所に入り、インスタントコーヒーをマグカップに放り込んで、
お湯を注いだ。
ひとくち啜って、ほうっと溜め息をつく。
理子の三十三年の人生は、家のためにあったようなものだった。
彼女とて、全く男に縁がなかったわけではない。OLをしてい
た頃は、けっこう異性にも誘われたし、彼女を想ってくれる男性も
現われた。
だが、彼との結婚を真剣に考え始めた頃、母親が倒れ、そのま
ま他界してしまった。家と工場の雑用に忙殺されているうちに、結
婚の話はいつのまにか立ち消えになった。
父も病に倒れ、工場の経営は理子が双肩に担うしかなかった。
寂しさも何もかも忘れるくらい、がむしゃらに働いた。ストレ
スで体重が二十キロも増えた。
それでも、これが自分にぴったりの人生だったと信じることに
している。親や、何の手助けもしてくれない兄姉たちを恨みながら
生きたくはない。
だが、特に今夜の同窓会のように、あったかもしれない別の未
来を見せ付けられるときは、何とはなしに心が乱れるのだ。
ヴァルデミールがいつものように、お昼の弁当を坂井エレクト
ロニクスに売りに行くと、ゼファーと工場長が頭を突き合わせて、
227
なにごとか真剣に相談していた。
﹁目ぼしい弁当工場は、もうすべて当たったぞ。もっと他に需要
のあるところはないのか﹂
﹁小学校はどうだ。学校給食でも使うだろう﹂
﹁そっちも難しそうだな。このところ、学校、病院、介護施設と
言ったところの給食は、民間の大手企業への業務委託が増えている。
入札の時点で従業員数や予算まで決まってしまうから、そう簡単に
は、大型の機械を売り込む余地があるとは思えん﹂
ふたりは、天城博士の発明した︻全自動高速乱切り機︼の販路
拡大について話し合っているらしい。
いいものを作っても、それが売れるとは限らない。大々的な宣
伝や広告もできない中小企業では、地道に足で売って回るしかない
のだ。
︵その点、うちの社長はすごいニャあ。売店でもスーパーでも見
かけたら入っていって、さっさと話をまとめてしまうもんニャあ︶
やっぱり理子は、アラメキアの最高位の魔女に匹敵する魔力を
持っているのだと思う。手料理は美味だし、体もふかふかで、あっ
たかくって⋮⋮。
ヴァルデミールは夢見心地になって、はっと我に返った。どう
も、ソファの上で理子に押しつぶされそうになってからというもの、
頭のどこかがおかしくなっているみたいだ。
﹁ヴァルデミール﹂
打ち合わせが終わったのか、ゼファーが近寄ってきた。
あるじ
﹁シュ、シュニン、おはようございます﹂
主の深い色の瞳を見ると、ときどき頭の中を覗かれているよう
で、ドキッとする。
﹁今日は塩鮭の特売日だぞ。夕飯を食べに来ないのか﹂
﹁もちろん、うかがいます!﹂
このところ、ヴァルデミールの毎日はけっこう忙しい。
このあとは、天城研究所に弁当を届け、ユーラスが小学校から
228
帰ってくるまで、暇そうな天城博士と少し遊んでやる。それから、
あちこちの公園や高架下を回っては、おなかを空かせている人を見
つけて、売れ残りの弁当を食べてもらう。
佐和が買い物や夕飯の支度で忙しくなる頃、雪羽と公園で遊ぶ
のも大事な日課だ。
﹃ヴァユ。ソディ クルト︵ここに座って︶﹄
﹃ラァラァ︵はいはい︶﹄
雪羽は、このところよくアラメキアの言葉を話すようになった。
くるくると走り回っては、ヴァルデミールの前の葉っぱのお皿に、
せっせと花びらの料理を盛り付けている。
︵やっぱり、姫さまはかわいいニャあ︶
その様子を、ヴァルデミールはうっとりと眺める。
︵アパートニャんか借りるお金があったら、姫さまに新しいドレ
スを買ってあげたいよ︶
仮にも、高貴なる魔王の娘。従者である自分などとは、およそ
身分違いであることはわかっている。
だから何も期待はしていない。ただ、見つめるだけでいいのだ。
雪羽が美しく成長して、アラメキアで女王の座に即位するとき、
彼に向かって、﹁そなたが仕えてくれたおかげだ﹂とひとこと言っ
てくれれば、もうそれだけで死んでもかまわない。
気がつくと、雪羽がふくれっ面になって、じっとのぞきこんで
いる。
﹁ヴァユ、お鼻の下が伸びて、変な顔ぉ。ちゃんと食べてよ﹂
﹁す、す、すみません﹂
あわてて鼻の下を片手で隠し、おままごとの料理を全部口の中
に放り込んだ。
ある日、弁当の配達を終えたヴァルデミールが、売上金の精算
のために相模屋弁当の事務室へ戻ってくると、社長の相模理子の巨
229
体が、いつもの半分くらいに小さく見えた。
唇まで、心なしか蒼ざめている。
﹁ど、どうニャさったんですか﹂
﹁うちの弁当を食べたお客さまの中から、食中毒患者が出た﹂
﹁ええっ﹂
﹁まだ報告は一件だけだ。うちの弁当のせいだと決まったわけで
はない。私は今から保健所に行ってくる﹂
理子は心細げな、訴えるような目でヴァルデミールを見た。
﹁父を頼む。ひどくショックを受けている。従業員たちに気づか
れぬよう、こっそり家に連れて帰って、面倒を見ていてくれ。血圧
の薬も、忘れずに飲ませるんだ﹂
﹁は、はい。わかりました﹂
それからヴァルデミールは、相模会長の小脇をかかえて、工場
の裏手にある家に連れて帰った。布団を敷いてから、濡れタオルで
顔を拭き、寝巻きに着替えさせてやった。
﹁もう、終わりだ﹂
四郎は横になると、天井を仰いで、力なくつぶやいた。
﹁弁当屋は、食中毒を出したら、おしまいだ。何十年かけて培っ
た信用が、一瞬にして失われてしまう﹂
﹁だいじょうぶです。まだ、うちのせいだニャんて決まったわけ
じゃありません﹂
ヴァルデミールは、わざと明るく答えた。
﹁あれだけ社長が毎日、清潔第一と言ってるじゃありませんか。
材料だって一番いいものを仕入れているし。ニャにがあっても、絶
対にうちの弁当は日本一です﹂
理子にいつも、﹁手を洗え、髪を縛れ、風呂に入れ﹂と怒鳴ら
れていたことを思い出す。
口うるさいと思っていたが、理子は必死だったのだ。決してう
ちの会社から食中毒を出してはならないと。
理子がどれだけ、この相模屋弁当を愛しているかを、ヴァルデ
230
ミールは今ようやくわかった気がした。
外が薄暗くなった頃、理子はころげるように家の玄関に飛び込
んだ。
﹁うちじゃ、なかった!﹂
ぜいぜいと息をする合間に、きれぎれに叫ぶ。﹁食中毒の、原
因は、三時の、おやつに食べた、古い饅頭だったそうだ。うちの弁
当のせい、じゃなかった﹂
﹁ほんとうか!﹂
四郎は布団からガバと跳ね起きて、奥の部屋からどたどたと廊
下を走ってきた。
﹁お父さん。あまり興奮するな。血圧が上がる﹂
理子は汗だらけの顔に泣き笑いを浮かべた。﹁私は今から工場
に行って、報告してくる﹂
ひんやり感じられる空気を胸いっぱい吸い込むと、理子は事務
室に急いだ。心配して待っていた専務に今日の結果を伝え、明日の
朝、従業員たちに一層の手洗いの励行を訓示するように命じた。
﹁⋮⋮疲れた﹂
建物を出て見上げると、空には星が瞬き始めていた。
保健所だけですんで、まだよかった。もし、このことがどこか
から漏れ、噂が一人歩きを始めてしまえば、いくら濡れ衣だと弁解
しても信じてもらえない。
そのことを考えると、虚脱感で膝の力が抜けていきそうだ。
工場の門のところで、仕事を終えたパート従業員たちが、自転
車のハンドルを手に、ぺちゃくちゃ井戸端会議に興じていた。
﹁相模社長って、毎日元気よね。すれ違うと風圧がすごいの﹂
﹁そうそう、朝礼のときでも耳をふさぎたくなるくらいの大声﹂
﹁女を捨ててるよねー﹂
爆笑。
231
理子はぼんやりと、その会話を聞いていた。
﹁あっ、社長﹂
ひとりが後ろを振り向いて、理子がいるのに気づき、慌て始め
た。
﹁かまわない、かまわない。本当のことだ。もう女なんて、とっ
くに捨てている﹂
理子は、蒼白になっている従業員たちの前で、あけっぴろげに
笑ってみせた。従業員に恥をかかせ、恨みを抱かせてはならない。
場を和やかに収めるのが、経営者の心得だ。
﹁しかし、風圧かあ。うまいこと言うな。あははは﹂
笑いながら、彼女たちに背中を向けて家に戻った。
玄関でハイヒールを脱ぐために下を向いた拍子に、涙がぽろり
とこぼれる。
﹁⋮⋮ばかみたい。女と見られてもないのに、こんな痛い靴を我
慢してはいて﹂
﹁おかえりニャさい﹂
ヴァルデミールが彼女を出迎えた。その能天気そうな笑顔を見
たとき、理子の中で何かがぷっつりと切れた。
﹁どうせあんたも、陰で笑ってるんだろう。私のこと、女を捨て
たと思ってるんだろう﹂
﹁え?﹂
﹁何のために⋮⋮何のためにいったい私が、今まで苦労してきた
と思ってるんだ︱︱!﹂
理子は、わめきながら彼に殴りかかった。まるで公園の車止め
のポールみたいに、この細い長髪の男は叩きやすいのだ。どんなひ
どいことをしても、受け止めてくれるのだ。
﹁好きで女を捨てたんじゃない。好きで元気でいるわけじゃない。
私がそうしなきゃ、こんな会社、とっくにつぶれていた。誰も助け
てくれないから、悪いんじゃないかあっ﹂
﹁社長!﹂
232
ヴァルデミールは、なんとか彼女を落ち着かせようと、両腕で
すっぽり羽交い絞めにした。何発も殴られたが、逃げることなど考
えてもいない。ようやく居間のソファまで引きずっていき、座らせ
た。
﹁離せ⋮⋮離せぇ⋮⋮うわああっ﹂
﹁社長⋮⋮﹂
ヴァルデミールは、ただひたすら理子を抱きしめる。柔らかく
て熱い体が、プリンのように震えている。赤い縁の眼鏡はいつのま
にか吹き飛んで、小さな黒い目が涙に濡れている。
不思議だった。理子が弱々しい少女に見える。愛おしくて、い
じらしくてたまらない。
きっとヴァルデミールは、このとき最高位の魔女の魔法にかか
ってしまったのだ。
理子の頬にキスをすると、理子は暴れるのをやめた。
今度は涙をぺろりと舐める。理子は完全に脱力してしまった。
ぐったりとして倒れるとき、丘のような膨らみがぷるんと揺れ
た。
この柔らかそうな場所に顔を埋めたら、どんなに気持がいいだ
ろう。このふわふわに包まれて日向ぼっこできたら、どんなに暖か
いだろう。
じっと彼女の体に視線を定めていると、とんでもないことが起
こった。
普段はお行儀がよくても、ヴァルデミールは若い男だ。欲望に
いったん火がつくと、自分では止められない。理性など吹き飛んで
しまい、野性に完全に支配されるのだ。
魔族にとって、それは人間の体から猫の体に変化することを意
味していた。
﹁⋮⋮?﹂
目をぎゅっと閉じて、次に起こることを待っていた理子は、そ
っと薄目を開けた。
233
﹁ぎゃああっ﹂
﹁にゃにゃっ?﹂
その超音波のような悲鳴で、ヴァルデミールは自分が黒猫にな
ってしまっていることに、ようやく気づく。
あわてて人間に戻ったところへ、ちょうど折悪しく、何事かと
飛んできた父親の四郎が、がらりと引き戸を開けた。
彼が見た光景は、ソファで仰向けにひっくりかえっている娘。
そして全裸になってその上にまたがっているヴァルデミール。
﹁⋮⋮邪魔したな﹂
するすると引き戸が閉まった。
﹁か、会長﹂
ヴァルデミールは服を掻き集めて、呆然とするばかり。
恐怖にわなないている理子と、目が合った。
﹁⋮⋮あ、あの、社長﹂
﹁きゃああ。来ないで!﹂
クッションが、顎を直撃した。﹁妖怪! 化け猫! 向こうへ
行ってぇ﹂
ヴァルデミールは、服をあたふたと身につけると、家を飛び出
した。
こういうときには、行くところはひとつしかない。
﹁どうした﹂
ゼファーが瀬峰家の扉を開けた。ヴァルデミールが項垂れたま
ま中に入ろうとしないのがわかると、真顔になった。
﹁外に出よう﹂
ふたりは、宵闇の中で、アパートの鉄製の階段に座り込んだ。
﹁何があったんだ?﹂
ヴァルデミールは、かすかに首を振った。
﹁相模社長に⋮⋮化け猫と呼ばれてしまいました﹂
﹁⋮⋮﹂
﹁変ニャんです。それからずっと胸が苦しくて⋮⋮ニャぜでしょ
234
う。まるで、タチの悪い呪いをかけられたみたいです﹂
﹁ちょっと待ってろ﹂
家に戻ってきたゼファーは、おにぎりの乗った皿と麦茶のコッ
プを従者に差し出した。
﹁食え﹂
﹁はい⋮⋮いただきます﹂
一口、頬張る。ゆっくりと噛みしめる。
佐和の握った鮭のおにぎりは、なぜか、いつもよりずっと塩の
味がした。
235
人魚姫の見る夢
扉が開け放たれた瞬間、血が凍りそうになった。
そこに立っていたのは、まぎれもなく、このアラメキアを四百
年間、蹂躙し続けてきた魔王だったからだ。
﹁精霊の宮殿とは、まったくもって無防備なところだな﹂
彼は喉を鳴らして笑いながら、近づいてきた。﹁俺を阻む者な
ど、無きに等しい。近衛兵を今司っているのは、誰だ﹂
﹁おまえの後を継いだモレネー伯だ。かつて近衛隊長であった者
よ﹂
厳かに玉座から立ち上がった精霊の女王の真珠色の顔に、魔王
は憎悪に満ちた紫の目を投げかけた。
長い黒髪の頂には、まがまがしい二本の角。肌は鱗で覆われ、
口には鋭い牙が覗く。背中からは黒い翼が生え、全身を暗黒の光輪
が包んでいる。
汚らわしい悪魔のごとき風貌なのに、なぜかその美しさに心奪
われる。
まなじり
何もかも忘れて、その足元に我が身を投げ出したくなる。
精霊の女王は自分を取り戻すと、キッと眦を吊り上げて、彼を
睨み返した。
﹁何の用だ。魔王よ﹂
﹁人間の四人の覇王とやらに、聖なる剣を与えたそうだな﹂
﹁それが何か﹂
﹁中立を保つと言いつつ、ひそかに人間に加護を与える︱︱昔か
らおまえのやり方は変わらぬな。精霊の女王﹂
﹁そなたのやり方が、あまりに卑劣だからだ﹂
236
玉座に歩み寄ろうとする魔王に、勇敢な護衛兵が叫んだ。
﹁それ以上、女王陛下に近づくな!﹂
魔王は、ちらりと兵に視線を向けた。息を飲む間もなく、護衛
兵はその場に崩れ落ちた。
紫の目を見てはならぬと、あれほど命じたのに。
自らの無力を感じながら、精霊の女王は玉座を離れた。階を降
りる裳裾が揺れ、きらきらと光を撒き散らす。
﹁俺を滅ぼすつもりだろうが、そうはいかぬ﹂
魔王は彼女の顎に長い爪を伸ばしながら、ささやいた。
かつて、やさしい愛撫を与えてくれた指は、今は氷よりも冷た
く、棘よりも鋭い。
﹁何をしに来た。わたしを殺すつもりか﹂
﹁殺しはせぬ。今はまだ、な﹂
昏い喜びに口元を引きつらせながら、魔王は答えた。
﹁おまえの愛する美しいアラメキアを徹底的に壊し、人間どもを
ひとり残らず家畜にするまでは生かしておいてやる。その有様を、
おまえに見せつけることが、俺の切なる望みだ﹂
﹁そんなことは、命に懸けてもさせぬ﹂
﹁必ず、そうしてみせる﹂
しろ
魔王は、己のたくましい胸をすっと指差した。青黒い唇から呪
術のことばが漏れた。
﹁この身から出る者の命を代としてでも、俺はこのアラメキアを
滅ぼす﹂
精霊の女王ユスティナは、はっと跳ね起きた。
朝の陽光がきらめき、小鳥の声がするばかり。悪夢の中の過去
とは違い、今の精霊の宮殿には平和な静けさが満ちていた。
女王は激しい動悸が収まるのを待って、寝台から立ち上がった。
﹁大変だ。こうしてはおれぬ﹂
237
ヴァルデミールが﹃相模屋弁当﹄に出勤してくると、入口に立
って従業員たちを挨拶で迎えていた理子は、さっと笑顔を消した。
﹁⋮⋮おはようございます﹂
﹁⋮⋮﹂
おずおずと彼がそばをすりぬけるのを、無言で見送る。
︵私は、どうかしている︶
髪をかきむしりたくなるのを、かろうじて堪えた。
︵あんなの、夢に決まってるじゃないか。人間が黒猫に変身する
など。私は疲れて、いつのまにか夢を見ていただけなのだ︶
そう思えば思うほど、あのとき感じた猫の柔らかい毛並み、そ
の直後にのしかかってきた裸の男の重みが、現実のものとしてよみ
がえってくる。
気が遠くなりそうになり、あわてて理子は事務室に引き上げた。
朝礼で専務の訓示があり、工場はいつものように暖かい湯気と、
秩序ある喧騒に包まれた。
︵もうやめよう。私は気弱になっていただけだ。こんなデブでブ
スの私が、好きな男の胸にいだかれるなどという夢を見たのが、そ
もそもの間違いだったのだ︶
理子はぼんやりと工場の様子を見つめながら、何度も自分に言
い聞かせた。
﹁ヴァル﹂
老会長が、ちょいちょいと工場の隅から手招きする。
﹁理子の様子はどうだ﹂
﹁それが⋮⋮目を合わせてもくれません﹂
﹁そうだろうな。家でもひどく荒れとったぞ﹂
ステッキで、ことんと床を突く。
238
﹁おまえさん、少しことを急ぎすぎたな。理子はあのトシでまだ、
おぼこ娘だ。いきなりああいう恰好で迫っては、女は魂消るだろう
て﹂
﹁そ、そうじゃニャくて﹂
ヴァルデミールは、あのときの状況を弁解しようとして、口を
つぐむ。猫に変身した拍子に服が脱げただけなのだと、どうやって
説明すればいいのだろう。
﹁まあ、わたしが頃合を見て、なだめておいてやる。おまえさん
は、しばらく大人しくしていなさい﹂
どうも、ふたりの成り行きを面白がっているらしい相模会長の
横顔を盗み見て、ヴァルデミールは小さな溜め息をひとつついた。
﹁相変わらず、景気の悪い顔だな﹂
天城研究所に入ってくるなり、椅子に座って膝をかかえてしま
った魔王の従者に、ユーラスは肩をすくめた。
﹁本当に何も聞こえていないのか﹂
﹁ほれ﹂
天城博士が目の前で、ねこじゃらし草を振るが、ヴァルデミー
ルは、ぼーっとあらぬ方を見ている。
ユーラスと天城は、心配そうに顔を見合わせた。
ヴァルデミールは、﹁帰る﹂とひとこと言って、さながら亡霊
のような生気のなさで出て行った。
﹁いよいよ、恋の病の末期症状だな﹂
吐息をついた天城は、ふと手の中でもてあそんでいたねこじゃ
らしを見下ろした。
手元はわずかしか動かしていないのに、先の部分は大きく揺れ
ている。
﹁この根っこが地球で、穂の部分がアラメキア︱︱﹂
ぼさぼさの白髪の下の目が、にわかに鋭い光を帯びた。
239
﹁︱︱共振によって揺らぎを増幅させるのか!﹂
天城博士は、壁にかけられた黒板に駆け寄り、チョークを握り
しめて猛烈な勢いで計算式を書き始めた。
﹁やれやれ。アマギはこうなったら、三日は戻ってこぬな﹂
ヴァルデミールの持ってきた弁当を手に、ユーラスは鷹揚に微
笑んだ。
﹁余が食事を、横から口に入れてやるとするか﹂
﹁ヴァユ。ご本読んで﹂
雪羽は、絵本を持ってくると、ちょこんとヴァルデミールの膝
の上に座った。
瀬峰家にやってきても、ちっともいつもの調子で遊んでくれな
い彼に、業を煮やしたらしい。
﹁でも、わたくし、あまり上手に読めませんが﹂
﹁じゃあ、雪羽が読んであげるね﹂
雪羽は、表紙の文字をひとつずつ指差して、言った。﹁に・ん・
ぎょ・ひ・め﹂
﹁人魚姫?﹂
﹁そう。ヴァユはお魚が好きだから、このご本も好きでしょ﹂
﹁そう言えば、魚がいっぱいいますねえ﹂
雪羽の気持がうれしかったヴァルデミールは、ちょっと元気を
出した。
﹁この人は、どニャたですか。半分女の子で、半分魚ですよ﹂
﹁これが、にんぎょひめなの﹂
﹁へえ。お姫さま。そういえば、姫さまと似ていますね﹂
﹁父上は、おひめさまが出てくるお話が大好きなの。でも、この
ご本は悲しいからって、あまり読んでくれない﹂
雪羽はページをめくりながら、読んでくれた。とは言え、字を
追っているというよりは、両親に読み聞かされたとおりに、話して
240
くれていると言ったほうが正しい。
﹁にんぎょひめは、お船に乗っていた王子さまが海に落ちてしま
ったので、いっしょうけんめい助けました。そして、王子さまのこ
とが大好きになってしまいました。王子さまのそばにいたいとおも
ったので、にんぎょひめは、海の底の魔女のところへ行って、きれ
いな声とひきかえにお薬をもらいました。それを飲むと、にんぎょ
ひめは足が生えて、にんげんになることができました﹂
雪羽の言うとおり、そのあとは、とてもとても悲しいお話だっ
た。
人魚姫が泡になってしまったページで、ヴァルデミールは、お
いおい泣き出してしまった。
﹁ああん。ヴァユ。ご本がぬれちゃうよ﹂
﹁す、すみません。だって⋮⋮これじゃ人魚姫が、あんまりかわ
いそうです﹂
すべてを捨てても人間になって、王子のそばにいたいと願った
人魚姫の心が、今のヴァルデミールには、とてもよくわかるような
気がした。
﹁もうご本はやめて、公園に行こ﹂
﹁はい﹂
雪羽に引っぱられて、ヴァルデミールは立ち上がった。
﹁ヴァルさん、大丈夫なの?﹂
彼の様子を気づかう佐和に見送られて、ふたりは外に出た。
︵わたくしも人間にニャれるように、精霊の女王さまにたのんで
みようかニャ︶
雪羽と手をつないで道を歩く途中、ヴァルデミールは空を見上
げて思いに耽った。
精霊の女王の計らいで人間の体を与えられたゼファーと違い、
ヴァルデミールは魔族の体のまま地球に来た。
アラメキアから遠く離れたせいで魔力が薄れ、元の魔族の体に
戻ることはあまりなくなったが、それでも、ひどく動揺したり興奮
241
したりすると、自分の意志に反して猫の姿になってしまう。これで
は、人間の女性と寄り添って生きることなど、絶対にできないだろ
う。
もう理子に﹁化け猫﹂などと呼ばれたくはない。
だが、魔族の体を捨てて人間になっても、とても大事なものを
失ってしまうような気がするのだ。
本来の姿を捨て、海での生活を捨て、声を捨ててまで王子のも
とにいたいと願った人魚姫のように、そこまでして理子のそばにい
たいのだろうか。
︵いったいどうすればいいんだ︶
ヴァルデミールは、自分の気持が全然わからなくなってしまっ
た。
工場での仕事を終え、帰宅しようと外に出たゼファーは、ふと
空き地で揺れるコスモスに目を留めた。
﹁精霊の女王﹂
花の中に、紫の髪を半開きの扇のように広げて立つ女王は、夕
暮れの光の中で、よく目を凝らさねば見えなかった。
﹁どうした、なんだか影が薄いぞ﹂
﹁すまぬ。起きてすぐに、こちらに来たのだ﹂
﹁ふうん。アラメキアは今、朝か﹂
ゼファーは口元をゆるませた。﹁昔からおまえは、朝が弱かっ
たな﹂
﹁それどころではない。魔王よ﹂
精霊の女王は林檎のように顔を赤らめたが、気を取り直して叫
んだ。
﹁明け方に、昔の夢を見たのだ。もうすっかり忘れていた99年
前のことだ﹂
﹁99年前?﹂
242
﹁そなたは精霊の宮殿にやってきて、私の目の前でアラメキアを
必ず滅ぼすと誓った。その呪術の代償に、自分の身から出る者の命
をそなたは担保とした﹂
にわかに、ゼファーの表情が変わった。
﹁⋮⋮覚えておらぬ。確かか﹂
﹁確かだ。そなたはアラメキアを滅ぼすという誓いを果たすこと
はなかった。だから、その代償としての担保が、百年以内に払われ
ねばならないのだ﹂
﹁俺の身から出る者⋮⋮雪羽か﹂
﹁うかつだった。私がもっと早くに気づいて、呪いを解いておけ
ばよかったのだが⋮⋮﹂
女王は後悔に唇を噛みしめた。
﹁今となっては、もう遅い。呪いの効力が消える百年が来るまで、
あと数ヶ月︱︱だが地球では、あと数日のはずだ。そのあいだ、雪
羽のことを気をつけていてほしい。私もできうる限りの見張りをし
よう﹂
﹁わかった。頼む﹂
ゼファーは家に向かって全力で走り出した。
胸中に黒雲のような不安が湧いて来る。
自分が蒔いた種を刈り取ることは避けられない。だが、娘の命
が取り去られることだけは、何としても許してはならなかった。
たとえ、おのれ自身の命を引き換えにしても。
すべり台に夢中になっている雪羽を見守りながら、ヴァルデミ
ールは花壇にちらちらと目を注いでいた。
主であるゼファーが、このベンチに座りながら、花々の中に現
われる精霊の女王と語らうのを、ときどき見る。
秋の風情となった花壇には、ハゲイトウ、センニチコウ、サル
ビアといった花が、夕焼けに映えていっそう赤い色を強めている。
243
︵精霊の女王さまニャら、お願いすれば、きっと人間にしてくだ
さる︶
ヴァルデミールは花壇の前に立って、ぼんやりと自問自答した。
︵でも、人魚姫みたいに、ニャにかを捨てろと言われるかも。⋮
⋮どうしよう。足が痛むのは困るニャ。弁当の配達に必要だし。そ
れに、声も捨てたくニャい。ちゃんと自分の気持を口で言いたいと
きもあるはずだよ。かと言って、髪も切りたくニャい。だってタテ
ガミはわが一族のシンボルで⋮⋮ああ、これじゃ塩鮭を捨てるしか
ニャいか。それも悲しいニャあ︶
理子と塩鮭を天秤にかけながら、もんもんと頭を抱えていると、
突然、雪羽の悲鳴が聞こえてきた。
ヴァルデミールが、考えに気を取られているあいだに、公園の
中に、まるで子牛のような大型犬が入ってきたのだ。
土佐犬という種類だろう。誰かが飼っているのが逃げ出したも
のか、首輪からは太い鎖が垂れている。そして、とても興奮してい
るようだった。
雪羽は、すべり台をすべろうとしたまさにその時、犬に気づい
たものと見える。体はすでに、すべり台のてっぺんから離れてしま
っている。両手で手すりをつかみ、なんとか体を押し戻そうとして
いるが、つるつるしたすべり板の上では逆に、だんだんとずり落ち
ていく。
﹁ヴァ⋮⋮ユ⋮⋮﹂
もう大声を上げる力もなく、雪羽は命の戦いを必死に戦いなが
ら、ヴァルデミールのほうを頼りなげに見た。
猫にとって、犬は天敵だ。だが ためらう余裕などあるはずは
なかった。
次の瞬間、すべり台と土佐犬とのあいだに、高速の影がしなや
かに躍り出た。
ヴァルデミールは、さっきまで捨てるかどうか悩んでいた魔族
の体へと変化したのだ。長い角を高々と上げ、長いタテガミを鞭の
244
ように振り、牙を剥き出して、ひと声吼える。
彼我の力の差を本能で感じ取った土佐犬は、急におびえはじめ
た。尻尾をまたぐらの間にはさみ、後ずさりしていく。
ちょうどそのとき、佐和とともに公園に駆けつけたゼファーに、
先回りしていた精霊の女王が呼びかけた。
﹁魔王よ﹂
﹁どうなった!﹂
﹁雪羽は無事だ。たった今、ヴァルデミールが死の危険を追い払
ったところだ﹂
そうは聞かされても、自分の目で確かめずにはいられなかった
ゼファーは、ようやく安堵の吐息をついた。
﹁⋮⋮そうか﹂
﹁これで呪いは完全に解けた。そなたは、良い家臣を持ったな﹂
﹁ああ﹂
ゼファーたちが来ているのを知らないヴァルデミールは、すべ
り台のほうを振り返って、大きな目に涙をいっぱい貯めている少女
に笑いかけた。
﹁姫さま。もうだいじょうぶです﹂
ところが、雪羽は身をこわばらせて、彼から離れようとした。
﹁⋮⋮いやあ。こわい﹂
そして、堰を切ったように泣き出した。
﹁ヴァユ、いやだ。ヴァユ、こわいー﹂
﹁⋮⋮姫さま﹂
ヴァルデミールは呆然と、異形と化した我が身を見つめた。
近所の人の通報で警察がやって来て、土佐犬は捕獲された。飼
い主らしき男もあたふたと現われ、ぺこぺこ頭を下げた。檻の掃除
をしている間に、逃げ出してしまったという。
騒動が終わって、野次馬たちも引き上げていった公園には、す
245
っかり夜の帳が降りていた。
幸いにして、魔族に変身していたヴァルデミールを見た人は誰
もいなかったらしい。いっしょにいた佐和も、何も見ていない様子
だ。もしかすると、精霊の女王が、霊力でうまく誤魔化してくれた
のかもしれない。
人間に戻ったヴァルデミールは、すっかり放心した様子でベン
チに座っていた。地球で魔族の体に変じるためには、大きな魔力を
消費するのだ。
﹁ヴァユ﹂
見ると、雪羽がひどくしょげた顔で、彼の前に立っていた。
﹁ごめんなさい。こわいなんて言って。ヴァユは助けてくれたの
に﹂
自分の内側を見つめるようにして、ひとことずつ言葉をしぼり
だす姿は、とても四歳の女の子には見えない。生まれながらに高貴
な王女そのものだった。
﹁父上に叱られたの。ちゃんと、あやまりなさいって。だから、
ごめんなさい。もうこわくないから。ヴァユのこと大好きだから。
助けてくれてありがとう﹂
雪羽の目にも、ヴァルデミールの目にも、涙が浮かんでいた。
﹁姫さま﹂
彼は、雪羽の前に両膝をついた。そして頭を垂れ、その手をと
って接吻をした。
﹁わたくしは生涯、姫さまの臣下です。姫さまをお助けするため
ニャら、命も惜しくありません﹂
﹁雪羽をずっと、ずっと助けてくれるの?﹂
﹁はい﹂
ヴァルデミールは、こっくりとうなずいた。
魔王閣下と奥方さまと姫さまをお守りするために、命をささげ
る。そしていつか、アラメキアに三人をお連れする。その役目を果
たすためには、魔族である自分を捨てることなどできない。
246
人間となって理子と寄り添うことなど、考えるまでもなく、最
初から不可能だったのだ。
悲しい誓いを心に刻み込みながら、ヴァルデミールは理子をあ
きらめようと思った。
﹃ヴァユ。ライ・イルシュ︵おんぶして︶﹄
﹁え?﹂
﹁だって、眠くなっちゃった﹂
大きなあくびをしながら、彼の背中にもたれかかってくる雪羽
に、ヴァルデミールは思わず、こわごわと主のほうを見た。
ゼファーは素知らぬ振りをして、佐和といっしょに歩き始めた。
その背中は、﹁褒美として、おんぶを許す﹂と言っているようだっ
た。
﹁それじゃあ。姫さま、どうぞ﹂
ふたりは、虫が盛んに鳴いている秋の夜の中を、ゆっくり家路
についた。
﹁ねえ。ヴァユ﹂
﹁はい、姫さま﹂
﹁雪羽ね、にんぎょひめのお話、少しちがうと思うの﹂
﹁どう、違うんですか﹂
﹁にんぎょひめはね、にんぎょのままで、王子さまにあいに行く
の。そして、にんぎょのままで、好きですっていうの。そして、王
子さまも、好きですって言ってくれるの。ふたりは海のそばにおう
ちをたてて、しあわせにくらしました﹂
﹁⋮⋮ああ。そのお話のほうが、ずっとずっと素敵です﹂
﹁そうでしょ﹂
街灯にぼんやりと照らし出された夜道が、人魚や魚たちが行き
交いながら、ゆらゆらと揺れる海の底に見えてくる。
ヴァルデミールは、うとうとと微睡みはじめた雪羽を起こさな
いように、そっと背負いなおした。
247
248
すれちがう星たち
いつものようにヴァルデミールが天城研究所に弁当を届けに行
くと、天城博士がソファに仰向けに横たわって、ぴくりとも動かな
かった。
﹁ええっ。そんニャ﹂
彼はあわてて、その場にひざまずくと、両手を合わせて頭を下
げた。
﹁あれほど元気だったのに。惜しい人をニャくしたものだ﹂
﹁こら。真面目にボケるな﹂
ユーラスはヴァルデミールの頭を、ねこじゃらしで叩いた。
﹁おまえは毎日ぼーっとしていたから覚えておらぬだろうが、ア
マギは三日間一睡もせずに、研究に没頭していたのだ。余は毎日、
小学校から飛んで帰って、トイレに連れていったり食事を食べさせ
たり、大変だったのだぞ﹂
﹁へえ、そうニャんだ﹂
ヴァルデミールは天城の鼻の穴を覗いて、白髪の鼻毛が寝息で
ふるふる震えているのを確かめた。
﹁それほど熱心に研究してたものって?﹂
﹁なんでも、アラメキアと地球との位置関係についての計算らし
い﹂
ユーラスは立ち上がり、半ズボンから伸びたしなやかな脚で、
床に散らかっている実験道具を、ひょいとまたいだ。
棚に置いてあった太陽系の模型を、片手でつかむ。
﹁今までアマギは、アラメキアと地球を、同じ太陽の周囲を巡る
惑星のようなものだと考えていた﹂
249
根元のハンドルをくるくる回すと、色とりどりの星は各々の軌
道をゆっくりと回り始めた。
小学四年生は、理科で月や星座について学ぶ。だが、ユーラス
の知識はすでに、それらを追い越しつつあるようだった。
﹁こうやって回っている惑星は、互いに近づくときと遠ざかると
きがある。確かにアラメキアと地球は7年ごとに、近づいたり遠ざ
かったりしているように見える﹂
﹁ああ、わたくしも博士から、そう聞いたよ﹂
ヴァルデミールはうなずいた。
﹁だから、地球の暦では7年に一度、アラメキアの暦では56年
に一度しか、行き来ができニャいって﹂
﹁だがアマギは、このねこじゃらしを使って、まったく新しい理
論を構築した﹂
ユーラスは、持っていた草を振ってみせる。
﹁根元の揺れは小さいが、先端は大きく揺れている。これが地球
とアラメキアの関係だと言うのだ。だから、揺らぐことによって、
互いの位置関係が変わっても、地球とアラメキアをつなぐ道はつな
がるはずだと﹂
ヴァルデミールは、きょとんとしている。
﹁さっぱり、わからニャいよ。それが、何の役に立つんだ?﹂
﹁今は理論だけで、役には立たぬ。理論を応用した機械を完成さ
せて、初めて有用なものとなる﹂
﹁機械ってニャんの?﹂
﹁新しい︻転移装置︼だ﹂
﹁転移装置?﹂
﹁それが完成すれば、7年待たずとも、いつでもアラメキアに帰
れる﹂
﹁いつでもアラメキアに︱︱﹂
ヴァルデミールはユーラスのことばに、ぶるっと体を震わせた。
﹁でも、その機械を動かすためには、途方もない電気が必要ニャ
250
んだろう?﹂
﹁東京二十三区の供給量に相当する電力だそうだ。普通ならとて
も無理な話だが、アマギには何か考えがあるらしい﹂
ユーラスは、深い溜め息を吐いた。﹁アラメキア⋮⋮か﹂
﹁もし転移装置が完成したら、あんたは帰るつもりニャのか?﹂
﹁わからぬ﹂
ユーラスは重々しく首を振った。
﹁魔王との決着がまだ着いておらぬ。今アラメキアに帰れば、余
は地球で何も果たせなかったことになってしまう﹂
﹁でも、ニャブラでは、国民みんニャがあんたの帰りを待ってる
んだろう?﹂
﹁誰も、待ってはおらぬ﹂
少年は苦々しげに言い捨てると、藍色の瞳を虚空にこらした。
王子たちも家臣団も、ユーラスとは気持の通じ合わぬ存在だっ
た。思い浮かべるべき女性の面影すら、彼にはない。
国中で一番美しい女たちを、正妃と妾妃たちとしてめとった。
望む女性を思うままに手元に呼び寄せることができたのは、彼が君
主であり、かつてアラメキアを救った勇者だったからだ。
だが、本当の意味で心まで結びついた女性は、ひとりもいなか
った。
ユーラスは魔族の若者を見て、寂しげに笑った。
﹁たかが女のことで、それだけ落ち込めるおまえがうらやましい
な。ヴァル﹂
﹁どうしてだよ?﹂
ヴァルデミールは不服そうに、上目づかいで彼をにらんだ。
﹁新しい転移装置?﹂
ヴァルデミールはその足で坂井エレクトロニクスに急ぎ、この
ことをゼファーに報告した。
251
﹁どうニャさいます、シュニン﹂
﹁なにがだ﹂
﹁アラメキアにいつでも帰れるとしたら、です﹂
ゼファーは彼の話には興味なさそうに、ベルトコンベヤで運ば
れてくる部品を手際よく組み立てている。
﹁もう言ったはずだ。俺はアラメキアに帰るつもりはないと﹂
﹁ニャブラ王も、そう言っていました。シュニンとの決着が着い
てニャいから、まだ帰れニャいって﹂
﹁あいつも、しつこい奴だ﹂
ゼファーの口調は、どこかうれしげだった。
﹁おまえはどうなのだ。ヴァルデミール。アラメキアに戻りたい
か﹂
﹁わたくしが、ですか﹂
忠実な従者は、口ごもった。﹁シュニンがお帰りにニャらぬの
に、従者のわたくしだけ戻れる道理がありません。⋮⋮姫さまをお
連れすることにでもニャれば、話は別ですが﹂
﹁雪羽をアラメキアに、か﹂
ゼファーは手を止め、じっと考え込んだ。
﹁⋮⋮それもよいかもしれんな。あの子は、アラメキアに強く惹
かれるものがあるようだ﹂
﹁それニャらば、いっそ、ご一家で里帰りをされませんか。魔王
城の塔から見える美しい氷河の山々を、ぜひ奥方さまや姫さまにも
見せてあげたいです﹂
ヴァルデミールは、その楽しい計画にたちまち夢中になった。
このところ、つらい思いばかりしていただけに、アラメキアに帰り
たいという気持はどんどん膨らむ。
﹁だがアラメキアに戻れば、俺はおのれの意に反して、かつての
魔王の体を求めてしまうだろうな。そんな異形の姿を見れば、佐和
も雪羽も卒倒する﹂
ゼファーは、恐ろしい地獄絵図を思い浮かべて、苦笑いした。
252
﹁やはり、やめておこう﹂
﹁そうですか⋮⋮﹂
ヴァルデミールは肩を落として、すっかりしょげかえった。
確かに、主の言うとおりだ。地球の人間にとって、アラメキア
の魔族の姿かたちは、お化けや妖怪より恐ろしいのだ。魔族に戻っ
たヴァルデミールを見て、雪羽が激しく泣き出してしまったのは、
つい数日前のことだった。
︵魔王の血を引く姫さまでさえ、そうだったのだから、まして相
模社長があれを見たら、心臓が停まってしまうだろうニャ︶
魔族である自分と、人間である理子の間に横たわる距離の大き
さを、あらためて知らされたような心地だった。
その距離は、決して埋まることがないのかもしれない。たとえ
どんなに相手を想っていても。
理子が仕事を終えて家に戻ると、納戸から、ごそごそと人の気
配がした。
﹁ヴァル?﹂
急いで靴を脱ぎ捨てて駆け上がり、納戸の扉をがらりと開ける。
﹁何をしている﹂
ヴァルデミールは驚きのあまり跳び上がると、おずおずと振り
返った。その腕には、小さなふろしき包みが抱かれている。
理子が彼と面と向かって話をするのは、三日ぶりだった。
工場でも、いつも彼は理子を避けてしまう。まるで叱られるの
がわかっている子どものように。
﹁あ、あの﹂
気おくれした顔で、ヴァルデミールは答えた。
﹁荷物を取りに来たんです。また、これまでみたいにコインロッ
カーに入れておこうと思って﹂
﹁ここを出ていくつもりか﹂
253
﹁⋮⋮そのほうが、いいと思うんです。社長にご迷惑ですから﹂
理子は怒鳴り出したい気持を抑えて、ぷいと視線を反らせた。
﹁私は別にかまわないが、父ががっかりするだろうな﹂
﹁会長には、もうお暇を申し上げました﹂
﹁おまえの肩もみは誰よりも気持がいいと、せっかく喜んでいる
のに﹂
﹁それだったら﹂
彼はこわばった笑みを漏らした。﹁ときどき会長の肩をもみに
来ます。そのときだけ、ここに来るのを許していただけますか。ニ
ャるべく、社長のいらっしゃらニャいときを選びますから﹂
その最後のことばを聞いたとたん、理子の内部で膨張してはち
切れそうだったものが、一瞬のうちにはじけた。
﹁⋮⋮そんなに、私の顔を見るのがいやか﹂
﹁え?﹂
﹁私と一緒にいるのが、それほどいやだったのか。だから、黒猫
に変身するなどという手品を使って、私を驚かそうとしたのだろう﹂
﹁そんニャ⋮⋮﹂
浅黒い肌の男は、ぶるぶると首を振った。
﹁手品じゃありません、驚かすつもりニャんか全然﹂
﹁じゃあ、催眠術か!﹂
﹁信じてもらえニャいかもしれませんが⋮⋮﹂
ヴァルデミールは、ぎゅっと肩をすくめて、うなだれた。
﹁わたくしは、アラメキアという別の世界から来た魔族です。本
当は人間じゃありません﹂
﹁⋮⋮﹂
﹁坂井エレクトロニクスで働いておられるシュニンが、わたくし
の仕えるご主人で、わたくしはシュニンの後を追って、アラメキア
から地球に来ました。リレキショでは一応21歳ということになっ
ていますが、本当は96歳です。ごめんニャさい。うんとサバを読
んで﹂
254
理子はぽかんと口を大きく開けたまま、ヴァルデミールのこと
ばを聞いている。
﹁わたくしは普段は猫の姿でいます。そのほうが楽だし、お腹も
空かニャいし、だから夜はいつも猫にニャって、公園で寝ています。
でも、人間のほうが走るのも早いし、シュニンのお役に立てるので、
でも人間にニャったら、お腹も空くし、着るものも買わニャくちゃ
いけないし、それで相模屋弁当で働かせていただいて⋮⋮﹂
﹁ニャにを言ってるか、さっぱりわからん!﹂
怒り心頭に発した理子は、ことばが移っているのも気づかない。
﹁よくもぺらぺらと、口から出まかせが言えるものだな﹂
﹁いいえ、出まかせじゃありません。本当のことです﹂
﹁そんな見えすいた嘘をついて、そこまでして私から逃げたいの
か。ああ、わかってるよ。こんなデブのブスに好かれたら、男はさ
ぞ迷惑だろうな﹂
﹁社長⋮⋮﹂
﹁おまえなんかに関わりあうんじゃなかった。バカヤロー、おま
えに費やした私の気持を返せ! どうせ私は一生、会社や家族の犠
牲になっていくんだ。人並みの女の幸せなんか、望んじゃいけなか
ったんだ!﹂
顔じゅう、くしゃくしゃにしてわめく理子を前にして、ヴァル
デミールの両目から、どっと洪水のように涙があふれた。
﹁⋮⋮それほど怒らせてしまって、悲しませてしまって、ごめん
ニャさい。わたくしが悪いんです。魔族のくせに、人間のことを好
きにニャるなんて。最初から間違っていたんです。⋮⋮もう二度と、
社長にはお会いしません﹂
ばたばたと廊下を駆けていく音がする。
﹁ヴァルよ!﹂
父親の四郎が、奥の間の障子をがらりと開けて、ヴァルデミー
ルを追いかけようと出てきた。﹁ヴァル。待て。戻ってこい﹂
﹁お父さん!﹂
255
﹁ばかもの。おまえには、あいつの良さがわからんのだ﹂
よろよろと裸足のまま玄関に下り、ドアの取っ手をつかんで、
外の暗闇に向かって叫んでいる父親の後姿を見て、理子は張り詰め
ていたものが崩れたように、その場にぺたりと尻餅をついた。
家を出て行くヴァルデミールを引き止めたいのは、お父さんだ
けじゃない。
ヴァルがいなくなって、悲しいのは私だ。寂しいのは私だ。
捨てられて住むところをなくした子猫のように、どうしたらい
いかわからないのは、私の方なのだ。
﹁ヴァユーッ﹂
瀬峰家の玄関が開くと、パジャマ姿の雪羽が飛びついてきた。
﹁遅かったね。もう雪羽、ねんねの時間なんだよ﹂
﹁すみません、姫さま﹂
ゼファーはまだ帰ってきていなかった。奥の六畳には、ふとん
が三つ敷きつめられていた。
﹁ご本、読んで﹂
ヴァルデミールの手を引っぱって、奥の部屋に行こうとした雪
羽は、つぶらな瞳でじっと彼を見上げた。
﹁ヴァユ。泣いてるの?﹂
﹁泣いてニャんか、いませんよ﹂
彼は、わざと大きな声を上げた。﹁さあ、何を読みましょう﹂
﹁にんぎょひめのお話! 雪羽が話してあげる﹂
少女はふとんにもぐりこむと、かたわらに胡坐をかいた従者相
手に絵本を読み始めた。
途中からハッピーエンドに変わる、﹁人魚姫・雪羽バージョン﹂
である。
﹁にんぎょひめは、お船から落ちた王子さまを助けました。そし
て、大好きになりました。ある日、にんぎょひめは、にんぎょのま
256
まで王子さまにあいに行きました。王子さまは、にんぎょひめが海
から出てくるのを見てびっくりしました。にんぎょを見たのが、は
じめてだったからです。はじめてのものは、とてもこわいのです。
⋮⋮でも、王子さまはすぐに、やさしくて元気なにんぎょひめが大
好きになりました⋮⋮そして﹂
雪羽はいつのまにか、すやすやと寝息を立てていた。
﹁ふたりは海のそばにおうちをたてて、幸せに暮らしました﹂
ヴァルデミールは小さな声でお話の結末を言うと、雪羽の手を
そっと、ふとんの中に入れた。
﹁ヴァルさん﹂
佐和は台所から、彼の背中に向かって、呼びかけた。
﹁ゼファーさんは今日は残業で遅くなるの。あなたのことを心配
していたわ。もしかして何か悩みがあるの? 私で代わりになれる
なら、何でも相談して﹂
﹁奥方さま﹂
若者は、暗がりの中で光る不思議な瞳で、佐和に振り向いた。
﹁奥方さまが最初にシュニンと知り合ったとき、アラメキアから
来た魔王だというシュニンのお言葉を、お信じにニャれましたか?﹂
佐和は、静かにほほえんだ。
﹁いいえ。とても信じられなかった﹂
﹁でも、今は信じておられるのでしょう?﹂
﹁もちろんよ。でも⋮⋮ほんのときたま、わからなくなるときが
あるの﹂
考え深い目を伏せて、佐和はゆっくりとしゃべった。
﹁ゼファーさんがアラメキアから来たことを、素直に信じられる
こともある。でも⋮⋮病気のせいで、そう思い込んでいるだけじゃ
ないかと思うこともある﹂
﹁わたくしやアマギ博士やニャブラ王の悠里が、いっしょにアラ
メキアの話をしているのに、ですか?﹂
﹁ごめんなさい。あなたたちまで疑うようで悪いんだけど⋮⋮そ
257
れほど、地球の人間にとってアラメキアの存在を信じるのは、むず
かしいことなのよ﹂
﹁やっぱり、そうニャのですね﹂
﹁でも、私、こう思うことがあるの﹂
佐和は目じりをちょっと下げて、少女のように笑った。
﹁ゼファーさんのことを信じている自分も、疑っている自分も、
まるごとの自分全部が、ゼファーさんのことを大好きなんだって﹂
ヴァルデミールは目をぱちぱちと瞬き、怪訝そうに首をかしげ
た。
﹁⋮⋮そんニャむずかしいこと、できるのですか?﹂
﹁人を好きになると、どんなむずかしいことでもできるのよ﹂
屋根を打つ雨音に気づいた。
ソファに座って、うとうとしていた理子は、はっと立ち上がる。
ヴァルデミールは今晩泊まるところもないはず。また公園の遊
具の陰で夜露をしのごうとしているのだろうか。
秋の雨は、野宿をする者にとって、どれだけ冷たいだろう。
矢も盾もたまらず、理子は毛布と傘を持って、家を飛び出した。
向かったのは、同窓会の夜、彼と偶然出会った公園だ。
﹁ヴァル!﹂
理子は必死でヴァルデミールを探した。木の下やベンチを探し
た。小さな茂みの中や、すべり台の下まで探した。
﹁⋮⋮ヴァル﹂
彼が、長い髪の毛をぼとぼとに濡らして、雨の中で膝をかかえ
て、うずくまっているような気がして、仕方がなかった。
﹁どこへ行ったのよ、バカ⋮⋮﹂
理子は、毛布をぎゅっと抱きしめて泣きながら、公園の中にい
つまでも立ち尽くしていた。
258
相模屋弁当工場の軒先から、音もなく一匹の黒猫が姿を現した。
つやつやとした毛並みに水滴を星のようにいっぱいちりばめて、
社長宅の玄関前まで来ると、家から漏れてくる温かそうな明かりを
見上げる。
銅像のように雨の中にたたずみながら、猫はひと声、さびしげ
に﹁にゃおん﹂と鳴いた。
259
いつか来た場所
不幸のどん底にあるときほど、神さまは小さな幸運をプレゼン
トしてくださるものだ。
黒猫のヴァルデミールが頭をうなだれて道を歩いていたとき、
ヒゲに何かが触れる感触があった。
なんと、五百円玉だ。
︵お金が欲しいときには、あれほど探してもニャかったものが、
こんなときに限って見つかるんだニャ︶
ヴァルデミールは硬貨をぱくりと口にくわえて、また歩き出し
た。
しばらく行くと見えてきたのは、以前よく夜を過ごしていた公
園だ。中年の路上生活者がひとり、ベンチの上に寝そべっている。
︵見覚えがあると思ったら、あのときお弁当をもらってくれた人
だ︶
五百円玉を拾ったふりをして、売れ残りの弁当を、そのお金と
引き換えに押しつけてきたのだっけ。
近寄ると、黒猫はベンチの上にひょいと飛び乗り、くわえてい
た硬貨を男の頭のそばに、そっと置いた。
しばらくして男が目を覚ますと、枕元に五百円玉が置いてある。
﹁ふうん。不思議なこともあるものだ﹂
路上生活者は銀色に光る硬貨を手にして眺めていたが、突然﹁
そう言えば﹂となつかしげな声を出した。一日じゅう誰も話す相手
がいない彼にとって、ひとりごとは珍しくない。
﹁前にも五百円を恵んでくれた奴がいたな。そいつがくれた弁当
は、うまかった。何ていう弁当屋か、覚えておけばよかったな﹂
260
︵相模屋、相模屋のお弁当ですよ。日本一のお弁当、相模屋︶
木陰から様子をうかがっていたヴァルデミールは、そう叫ぼう
としたが、猫に人間のことばが話せるはずはなかった。
︵それに、もうわたしには、相模屋の弁当を売ることはできニャ
いんだった︶
彼はあの日から、仕事をずっと休んでいるのだった。もう理子
に会わないと決めた以上、工場に出勤することなどできない。
︵働きたいニャあ︶
あの巨大な炊飯器から立ち上る暖かい湯気。まな板の上でトン
トンと響くリズミカルな音。魚の切り身を焼く香ばしい匂い。従業
員たちを指図する社長の大声。
︵あそこに帰りたいよ︶
大きな目から、葉っぱの上にぽとりと雫が落ちた。あわてて肉
球で雫を堰き止めようとしていると、驚くようなことが起きた。
小さな猫だったはずの体がみるみるうちに膨らんでいくのだ。
﹁何度やってみても、ちっとも元に戻らニャかったんです。シュ
ニン﹂
公園の茂みの中で人間になってしまったヴァルデミールは、あ
わてて先ほどの路上生活者に声をかけた。いきなり素っ裸の男から
声をかけられた路上生活者は腰を抜かしていたが、なんとか頼みこ
んで、工場にいるゼファーに連絡を取ってもらったのだ。
﹁どうして、こんなことにニャったのか、さっぱりわかりません﹂
寒さに震えつつ、ゼファーが持ってきたシャツやセーターを着
こんでいる従者の様子を、ゼファーは目を細めながら観察した。
﹁おまえの魔力である変身の能力が、一時的に不安定になったの
だろう﹂
﹁それって、どうしてですか﹂
﹁実は俺も、ひどく落ち着かない気分がしてならなかったのだ﹂
261
﹁え、シュニンも?﹂
ふたりは顔を見合わせた。
﹁もしや、アラメキアへの扉が開いた?﹂
﹁確かに、先ほど数分間だけ、転移装置を試運転した﹂
急いで天城研究所へ到着すると、天城博士が戸口に現われた。
﹁結果は上々だ。まあ、入れ﹂
研究室の中は、いつもに増してひっくり返っていた。三歩歩く
たびに何かを押しのけ、またぎ、踏みつぶしながら、ようやく奥ま
でたどり着くと、真新しい、以前よりもずっと巨大な転移装置が完
成していた。
ユーラスがその横で、カップラーメンをすすっている。
﹁おまえが弁当を運んでくれぬから、この数日、余の夕食はこん
な有様だ﹂
うらめしげに言いながら、少年はヴァルデミールをじろりと睨
んだ。
﹁ご、ごめん。誰かに配達を頼んでおけばよかったよ﹂
﹁まあしかし、実験中は、あまり他人に立ち入ってほしくはなか
ったからな﹂
天城博士が肩をそびやかして言った。
﹁今日は、新理論によってアラメキアとの交信に成功した、世紀
の日だ。物理学会の奴らがここにいたら、尻をからげて逃げ出すぞ﹂
﹁だが、アラメキアへの穴をつなげるには、膨大な電力が必要で
はなかったのか﹂
﹁確かに、人間が通れるほどの大きな穴ならば、東京二十三区の
供給量分の電力が必要だ。だが、今回は、針のように小さなゲート
をわずか数分開けただけだからな。今回の目的のためには、それで
十分だったのだ﹂
﹁今回の目的ってニャに?﹂
262
﹁アマギは、アラメキアで助手をひとり雇っておいたそうだ﹂
ユーラスが代わりに説明した。
﹁その助手に電波を使って伝言を送ったのだ。﹃トール神のもと
へ行き、ミョルニョルの一撃を放ってくれるように頼め﹄と。それ
がうまく行き、電力が確保されれば、アラメキアへの通路が開く機
会が、大幅に増えるらしい﹂
﹁増える? 七年に一度ではなく、か﹂
ゼファーは、訊ね返した。
﹁ふむ。それが今度の新理論のすごいところだ﹂
天城は、得意げに白い顎ひげを引っぱった。
﹁いわゆる﹃超ひも理論﹄の元となる考えだ。地球は実空間にあ
る星、アラメキアは虚数空間に存在する星と考えれば、わかりやす
いだろう﹂
天城博士は、片方の腕を水平に、もう片方の腕をそれに対して
斜めに立て、手首のところで交差させた。実空間と虚数空間の関係
を表しているつもりだ。
﹁虚数空間を公転する星が実空間を通過する瞬間がある。つまり
アラメキアが実空間に現れる瞬間だ。このときだけは、アラメキア
と地球は同じ世界に存在する。これはけっこう頻繁にあって、月に
二回ぐらいだ。まあ、満月と新月みたいなものだな。
もっとも、アラメキアが実空間で現れる場所は地球に近かったり遠
かったりする。それゆえアラメキアと地球のゲートは、両者が極め
て近く、わずかなタイミングを見きわめられる時しか開くことがで
きないと考えられておった。それが七年に一度なのだ。
だが、あのネコじゃらし草が振れるのを見たとき、わしはピンとひ
らめいた。自然に存在する﹃量子的揺らぎ﹄を人工的に拡大させれ
ばよいのだ、と。
そうすれば、アラメキアが実空間に現れる全てのチャンスにゲート
を開く事ができるというわけだ。わしが今回発明した﹃真・転移装
置﹄は、まさにその揺らぎを人工的に拡大する装置なのだ!﹂
263
完璧な解説に満足し、ふと見やると、ゼファーもヴァルデミー
ルも、実験をずっと見てきたはずのユーラスまでが、目を点にして
いる。
︵ふふふ。これだけの錚々たる美男が、そろいもそろってアホ面
をさらしているところを見られるのが、科学者の醍醐味というもの
だわい︶
天城博士は、心の中ですっかり悦に入った。
﹁つまり要するにだな。今まで七年に一回しか開くことができな
かったアラメキアへのゲートが、これからは月に二回開くことが可
能ということだ﹂
﹁す、すごい﹂
ヴァルデミールは、ようやく博士の発明の素晴らしさを理解し
て、身震いした。
﹁月に二回、助手さんがミョルニョルの雷撃の力を送ってくれれ
ば、この装置を好きニャだけ使えるんだね﹂
﹁まさに、その通り﹂
天城はうなずいた。
﹁ただし、実用化までには、まだ実験を重ねなければならぬ。い
きなり人間を送るわけにもいかぬから、まず動物で実験することに
なろう。マウスか⋮⋮もう少し大きな動物がよいかな﹂
ヴァルデミールは、はっと身を固くした。
﹁次の実験はいつになるのだ﹂
﹁アラメキアの助手に送った伝言では、地球時間で二週間後の金
曜日正午ということにしておる﹂
﹁ふん、土日にしてくれたら小学校が休みなのに。余が見られな
いではないか﹂
﹁しかたないだろう。ゲートが安定して存在しうる時間は、今の
技術では⋮⋮﹂
ユーラスと博士の会話を聞きながら、ヴァルデミールは一心不
乱に考え込んでいた。
264
﹁ヴァルデミール?﹂
ゼファーが、従者の思いつめた様子に気づいた。
﹁あの、博士﹂
おずおずと、若者は申し出た。
﹁その実験に、わたくしを使ってくれニャいかニャ?﹂
﹁ええっ﹂
﹁⋮⋮一日も早くアラメキアに⋮⋮帰りたいんだ﹂
赤く色づいた公園の木の葉がはらはらと落ちる早朝の光の中を、
ヴァルデミールはゆっくりと歩いた。
﹁あ、こないだの素っ裸の兄ちゃん﹂
いつもの路上生活者が、新聞にくるまって寝ていたベンチから
起き上がり、彼に声をかけた。
﹁先だっては、お世話にニャりました﹂
ヴァルデミールは、ぺこりと頭を下げた。
﹁ひとこと、おじさんにお礼を言ってから行きたいと思いまして﹂
﹁どっかへ行くのかい?﹂
﹁はい﹂
ヴァルデミールは、にっこりと笑った。﹁とっても遠い遠いと
ころニャんです﹂
﹁⋮⋮そうか、元気でな﹂
﹁はい。おじさんもお元気で。あ、それから、ここでよく寝てい
る、けばけばスカートのおばさんに会ったら、よろしく伝えてくだ
さい。︱︱それともうひとつ﹂
とても重要なことを言う、もったいぶった調子でヴァルデミー
ルは声を落とした。
﹁相模屋、相模屋のお弁当です。もしおじさんが社長さんにニャ
ったら、社員全員に買ってやってくださいね﹂
﹁あはは、そんなもんに一生なれるかよ﹂
265
公園を出ると、ヴァルデミールはゼファーのアパートに向かっ
て歩いた。
どこもかしこも、まばゆいほど色とりどりの秋に輝いている。
けれども、そんな美しい風景も目に入ってこない。
もう会えない人と同じ空気を吸っていると考えるだけで、身が
切られるように痛いのだ。
瀬峰家では佐和が大きな鮭のおにぎりを握って、二つずつ竹の
皮に包んでくれた。
﹁向こうに着いても、家までは遠いのでしょう。三日分のお弁当
を作っておいたわ﹂
涙が出そうになって、あわてて床に両手をつく。
﹁ありがとうございます。奥方さま。長いあいだお世話にニャり
ました﹂
そのそばでは雪羽が目を泣きはらして、グスグスとすすりあげ
ている。
﹁どして⋮⋮ヴァユ⋮⋮雪羽をおいて、行っちゃうの﹂
﹁ごめんニャさい。姫さま﹂
とうとう我慢していたものがあふれ出て、手の甲にぽろりと一
滴落ちた。
﹁だいじょうぶよ、雪羽。ヴァルさんはすぐに帰ってくるわ。ね、
そうでしょ、ヴァルさん﹂
﹁は⋮⋮はい﹂
それまで、じっと黙っていたゼファーが、口を開いた。
﹁相模屋の会長と社長のところには、別れを言いに行ったのか﹂
﹁⋮⋮いいえ﹂
﹁あれだけ世話になったのに、いとまも告げずに行くつもりか﹂
﹁お言葉ですが⋮⋮﹂
ヴァルデミールは、水の足りない草のように、うなだれた。
﹁わたくしは、申し訳ニャくて、とても社長に会わせる顔があり
ません﹂
266
﹁なぜだ﹂
﹁だって社長は、﹃私の気持を返せ﹄っておっしゃいました。わ
たくし、お金は1625円しか持っていませんし、一体どうやって
社長に気持をお返ししたらいいのか、いくら考えてもさっぱりわか
らニャいんです﹂
それを聞いた佐和は、ぷっと吹き出した。
﹁いやだわ、ヴァルさん﹂
晴れやかな佐和の笑い声に、ヴァルデミールはぽかんと顔を上
げた。
﹁何か、おかしいですか﹂
﹁理子さんの欲しいものって、もっと、とても簡単なことなのよ﹂
﹁ええっ﹂
﹁気持には気持を、心には心を返せばいいの。理子さんは、あな
たの本当の気持が欲しいだけなのよ﹂
﹁ど、どういうことですか。ますますわかりません﹂
ヴァルデミールは、おろおろするばかりだ。
﹁とにかく、理子さんのところに行って、ヴァルさんが思ってい
ることを全部しゃべってごらんなさい﹂
﹁わ、わ、わたくし、いったい、ニャにを思ってるんですか?﹂
﹁いいから、早く行きなさい!﹂
﹁は、はいっ﹂
ヴァルデミールは、あたふたと転げるようにして、走って家を
飛び出した。
﹁佐和﹂
ゼファーは苦笑しながら、妻の肩に腕を回した。﹁そういうこ
とだったのか、あのふたりは﹂
﹁ええ、そういうことなのよ﹂
雪羽は、両親の間に交わされている笑顔を見てすっかり安心し、
つられたように、にっこりと笑った。
﹁そーゆーことだね﹂
267
相模屋弁当工場まで全速力で駆けてきたヴァルデミールは、ぜ
いぜいと息を切らしながら理子を捜し回った。
工場にいないと知ると、相模家の玄関でドアのチャイムを鳴ら
そうとし、またウロウロとためらった挙句、ようやく、力の限りボ
タンを押した。
たっぷり一分ほどの間があってから、ドアが開いた。
﹁何の用だ﹂
幽霊のように蒼ざめた理子の顔が、ドアの隙間からのぞいた。
﹁あの⋮⋮実は、ふるさとに帰ることにニャって、ひとことお別
れを⋮⋮﹂
﹁そうか﹂
﹁あの⋮⋮会長は?﹂
﹁おまえが出て行ってから、ずっと寝込んでいる﹂
﹁ええっ﹂
ヴァルデミールは思わず玄関に駆け込みそうになったが、理子
がキッと眉を吊り上げ、ふくよかな体で押し返した。
﹁入るな。おまえが故郷に帰るなどと聞いたら、ますます具合が
悪くなる﹂
﹁あ⋮⋮はい﹂
ヴァルデミールはしょんぼりと肩を落とした。﹁会長にお元気
でと、お伝えください﹂
﹁⋮⋮誰が伝えるか﹂
﹁さようニャら。お世話にニャりました﹂
理子の冷やかな視線を背中に浴びて歩き始めたが、佐和に言わ
れたことを思い出して、振り返った。
﹁あの、社長⋮⋮﹂
﹁なんだ﹂
﹁ひとつだけ、お話したいことがあります﹂
268
﹁⋮⋮言ってみろ﹂
﹁わたくしの気持のことです﹂
ヴァルデミールは、勇気を出して、ぐっと顔を上げて理子を見
た。
﹁わたくしは、日ニャたぼっこするのが大好きです﹂
﹁はあ?﹂
﹁でも、同じ日ニャたぼっこと言っても、気に入った場所とそう
でニャい場所は、全然違います。冬は風が当たらニャくて、ちょう
どいい具合にあったまった車のボンネットの上や、いい匂いのする
枯れ葉の上は、とても居心地がいいんです﹂
そして大きく息を吸って、吐いた。
﹁わたくしにとって社長は、日ニャたのお気に入りの場所みたい
でした。そこにいると、ふわふわして、あったかくって、懐かしく
って⋮⋮いつか来たみたいで、いつまでもいたいと思える場所でし
た﹂
理子は目を見開き、たちまち頬を赤く染めた。
﹁社長が魔族のわたくしを見て、とても怖がっておられるのを見
て、わたくしは、とても苦しかったです。もう、ここにいてはいけ
ニャいのだと思いました﹂
彼は、ぐしっと手の甲で涙をぬぐった。
﹁わたくしのこれっぽっちの気持では、社長の大切な気持をお返
しできニャいことはわかっています。でも、それでもお礼が言いた
かったのです。美味しいお弁当を作ってくださって、家に泊めてく
ださって、ありがとうございました。⋮⋮さようニャら﹂
そこまで言って頭を下げたヴァルデミールは、首筋をむんずと
掴まれたのを感じた。
靴を脱ぐ暇もないまま、理子に廊下をずるずると引きずられ、
気がついたときは、居間のソファの上に投げ出されていた。
﹁ここで、あのときと同じことをやってみろ﹂
叫ぶ理子の顔は、苺のように真っ赤だ。
269
﹁あのとき?﹂
﹁私の目の前でもう一度、あのときのように猫に変身してみせろ。
あれが手品じゃないことを証明しろ。そうしたら、おまえの言うこ
とを信じてやる﹂
﹁で、でも﹂
彼女の剣幕に、ヴァルデミールは震え始めた。
﹁怖くニャいんですか。またわたくしのことを、﹃化け猫﹄って
呼ばニャいですか?﹂
﹁呼ばニャい!﹂
理子は動転しきって、言葉が移っていることも気がつかない。
﹁だから、おまえが嘘をついていないことを見せてくれ﹂
﹁わかりました﹂
ヴァルデミールは意を決して、ぐっと息をつめると、目を閉じ
た。
彼の体はみるみるうちに縮み始めた。顔からはピアノ線のよう
なヒゲが生え、浅黒い肌は黒い艶やかな毛で覆われた。
理子が瞬きも忘れている間に、からっぽの男物の服の下から、
おずおずと這い出てきたのは、一匹の黒猫だった。
﹁にゃあん﹂
猫は理子にすりよると、ピンク色の舌で彼女の手をぺろりと舐
めた。
﹁⋮⋮嘘だろう﹂
﹁にゃあ﹂
猫はぶんぶん首を振った。
﹁こんなの嘘だ。もしおまえが本当にヴァルなら、お座りをして
みせろ﹂
ヴァルデミールはすぐさま後ろ足を畳んで、ソファの上にちょ
こんと座った。
﹁その場で、くるりと回ってみろ﹂
回った。
270
﹁踊ってみろ﹂
踊った。
﹁ほんとうに⋮⋮﹂
理子はとうとう猫を抱き上げると、ぎゅっと力のかぎり胸に抱
きしめた。
﹁おまえなんだな︱︱ヴァル。私が嫌いで、嘘をついていたわけ
じゃなかったんだな﹂
ヴァルデミールはその瞬間、自分の言いたいことがはっきりと
わかった。でも猫に人間のことばが話せるはずはない。
理子の胸に顔をすりつけながら、彼はもう一度目を閉じて、人
間に変身した。
そして、ゆっくりと顔を上げて、理子を見た。
﹁社長。わたくしは社長のことが大好きです﹂
﹁ヴァル⋮⋮﹂
理子は、赤い眼鏡の奥でぼろぼろ泣いていた。
﹁私もだ。ヴァル。おまえのことが大好きだ﹂
そのときちょうど、居間の引き戸が開いた。
﹁ヴァルが来ておるのか、理子⋮⋮﹂
﹃相模屋弁当﹄の創業者、相模四郎が見たものは、ソファに座
って泣きじゃくっている娘と、その胸に抱かれている全裸の若者だ
った。
﹁⋮⋮邪魔をしたな﹂
するすると引き戸が閉まった。
﹁社長﹂
ヴァルデミールは伸び上がって、理子の目から伝い落ちる涙を
ぺろりと舐めた。そして、唇にちょんと自分の唇を押し当てた。
たちまち理子は、へなへなとソファの上に崩れ落ちてしまう。
ゼファーが、どんなにアラメキアに帰りたくても地球にいる理
由、佐和のそばから絶対に離れない理由が、ヴァルデミールにはわ
かったような気がした。
271
ここはアラメキアよりも懐かしくて、暖かい。ずっと捜してい
たけれど来られなかった場所に、彼は今ようやく、戻ってきたのだ。
不意に胸が熱くなり、四つんばいになって、もう一度理子の唇
に触れようとした。だが、今の自分の恰好の、あまりのはしたなさ
に気づいて、ますます頭に血が昇ってしまった。
そして︱︱
﹁にゃあん﹂
理子の胸には、ふたたび一匹の黒猫が抱かれていた。
﹁⋮⋮というわけで、すみません、実験台にニャれなくなってし
まいました﹂
その夜ヴァルデミールは天城研究所に行き、平身低頭してあや
まった。
﹁せっかくアラメキアとの同期も成功して、スタンバイしておっ
たのに、送られてきたエネルギーが無駄になってしまった﹂
天城は実験を台無しにされて、ぶつぶつと怒っている。
﹁まあよいではないか﹂
ユーラスは取り成すように言った。
﹁それで、社長とは少しは進展したのか﹂
﹁し、し、進展ニャんて﹂
浅黒い肌を耳たぶまで赤くして、大慌てで否定する。
﹁そんニャわけありません。⋮⋮ニャにしろ、いざというときに
限って、猫に戻ってしまうんですから﹂
﹁わはは﹂
天城とユーラスはお腹を抱えて大笑いした。
﹁笑いごとじゃありません!﹂
﹁まあ、せいぜい頑張ってくれ。それより、明日からまた弁当を
届けてくれるな。もうカップラーメンの毎日はこりごりだ﹂
﹁もちろんです。毎度ありがとうございます﹂
272
ヴァルデミールは、﹁じゃあ、シュニンに報告してきます﹂と
満面の笑顔を残して、帰っていった。
﹁なんだかんだ言って、幸せそうだな、ヴァルのやつ﹂
﹁ああ﹂
ユーラスは、彼の後姿が遠ざかる夜道を、窓からながめた。
﹁魔族と人間の恋︱︱うまくいくと思うか、アマギ﹂
﹁まあ、前途多難であることは確かだが、こういうことは、ヴァ
ルのように、あまり考えすぎない奴のほうが、うまく行くものだて﹂
﹁そうかな﹂
﹁色恋など、くだらぬ。明快で美しい科学の世界に住むわしには、
およそ遠い世界だ﹂
﹁余も同じだ。うるさくてわずらわしい女どもには、当分関わり
たくもない﹂
﹁だが⋮⋮ちょっぴり、うらやましくもあるな﹂
祖父と孫はちらりと視線を合わせ、自嘲するように笑った。
273
ベリーメリークリスマス
﹁クリスマスとは、何だ﹂
と訊くと、クラスの仲間たちに笑われた。そのくせ、誰も本当
のことを知らない。
﹁サンタが来る日﹂
﹁プレゼントをもらえる日﹂
と、大方の意見は、実利的な側面ばかりに傾いている。
︵祝祭とは、そんなものだ︶
アラメキアにも、精霊祭などという賑々しい祭りがあるが、な
ぜその日を祝うのかを知っている民は、そう多くないのだ。
為政者としてのユーラスは、祭りには苦い思い出しかない。あ
りったけの砂糖や小麦を国庫から供出して、民衆の不満が高まらな
いように気を配らなければならなかった。
だが、うまく行けば、彼らはしばらくの間、自分たちの貧しさ
から目を逸らせてくれた。
︵余は、アラメキアのことを忘れたいのかもしれぬな︶
冬休み前の短縮授業とやらで、いつもより早めに校門を出たユ
ーラスは、今の自分の平穏で心安らかな日々を噛みしめながら、道
を歩いていた。
昼さがりの冬の陽射しは弱く、冷たく尖った風が頬に当たり、
思わず首をすくめる。
道の角を曲がると、幼稚園のイチイの垣根の向こうから甲高い
歓声が聞こえた。
確かここには、魔王の娘が通ってきているはず。まだ背がそう
高くないユーラスは、垣根の切れ目から、見るともなしに中を見た。
274
昼休みらしく、たくさんの幼児たちが園庭で思い思いに遊具遊
びや鬼ごっこに興じている。
どの子も楽しそうに仲間と遊んでいるのに、雪羽だけが園庭の
隅にしゃがみこんで、たったひとりで地面に絵を描いていた。
﹁ユーリお兄ちゃん﹂
アパートの外の階段で、足をぶらぶらさせて座っていた雪羽は、
彼が近づいてくるのを見て、ぱっと顔を輝かせた。﹁どうしたの。
学校は?﹂
﹁今日は、給食なしの四時間授業だ﹂
﹁ふうん。雪羽のようちえんは、最後のお弁当だったよ。今帰っ
てきたところ﹂
﹁ああ、見た﹂
﹁見たの?﹂
﹁余の通学路は、幼稚園のそばを通る。垣根越しにおまえの姿を
見た﹂
ユーラスは少しうつむいて、足もとのアスファルトをズック靴
の爪先でとんとんと叩くと、訊こうと思っていたことを口にした。
﹁おまえは、いつもああやって、ひとりで遊んでいるのか﹂
雪羽の顔から、溶け出すように笑みが消えた。
その顔は、園庭でしゃがみこんでいたときの彼女と同じく、頑
なで、それでいて全身で悲しみを訴えているように見えた。
部屋の扉ががちゃりと開いて、中から魔王の妻、佐和が現われ
た。
﹁母上﹂
雪羽は、また元通りの花のような笑みを浮かべると、立ち上が
った。﹁ユーリお兄ちゃんだよ。遊びに来てくれた﹂
﹁まあ、ユーリさん。お久しぶりです﹂
佐和は目上の者に対するように丁寧に頭を下げた。﹁今日は寒
275
いでしょう。どうぞ、中に入って﹂
﹁公園でブランコをする約束をしていたのだが﹂
とっさに彼は嘘をついた。﹁今から連れ出してもよいか?﹂
﹁ええ。もちろんです。雪羽、その恰好で寒くない?﹂
﹁はーい﹂
﹁じゃあ、お願いしますね﹂
﹁ああ﹂
ユーラスは雪羽の手をぎゅっと握ると、歩き始めた。
少年のせっかちさで、ずんずん進んでいく。雪羽はときどき小
走りになって、懸命に遅れまいとしている。
公園に着く少し前、彼は突然立ち止まり、吐き出すように言っ
た。
﹁魔王の娘。余の隣にいるときは、無理をしなくともよい﹂
﹁え?﹂
﹁無理して笑う必要はないということだ﹂
雪羽はそれを聞いて、つぶらな瞳を大きく開けた。
﹁どうして? どうしてそんなことを言うの、お兄ちゃん﹂
﹁そなたが幼稚園で仲間はずれにされていることくらい、一目見
ればわかる﹂
少しいらいらした調子で、ユーラスは答えた。﹁余は九十年生
きているのだぞ﹂
雪羽は、とことこと公園の中に駆け込むと、ウサギの石像にま
たがった。
聞かなかったことにするつもりらしい。
﹁そなたが感じている屈辱は、余にもわかる﹂
その後姿に、ユーラスはひとりごとのように語りかけた。
﹁何ヶ月か前まで、ずっと教師から言われ続けていたのだ。
﹃おまえはみんなと違う。同じことができない﹄
﹃こいつがいると、集団行動がそろわない﹄
﹃これは、下の学年で当然習っているはずの単元だ﹄﹂
276
ユーラスは古い悔しさを思い出し、唇を噛みしめた。
雪羽は、驚いたように振り向き、じっと彼を見つめた。
﹁どうして、お兄ちゃんは、それでも元気なの?﹂
﹁余は周囲に合わせる術を持っていた。多くの人生経験を積んで
きたゆえに﹂
彼は寂しげに微笑んだ。﹁だが、四歳のそなたには、そのよう
な狡さはないだろう﹂
﹁雪羽ね、元気になりたいの﹂
少女の瞳が素直になり、みるみる涙で潤んだ。﹁人魚姫みたい
に、どんなにつらくても負けない、やさしくて元気な女の子になり
たいの。でも、ダメなの。すぐにダメになっちゃう﹂
﹁やさしくなくとも、元気でなくとも、よいのだ﹂
ユーラスは、すすりあげている雪羽の頬に指先で触れた。﹁大
声で泣けばよい。そなたには、抱きしめてくれる父と母がいるでは
ないか﹂
﹁でも、父上も母上も悲しくなるのは、イヤだよ。雪羽が泣けば、
父上も母上も泣いちゃうよ﹂
雪羽は、ウサギからすとんと降りると、手の甲でぐっと涙を拭
いとった。
﹁もう、泣かない。雪羽はだいじょうぶ﹂
﹁そなたは︱︱﹂
ユーラスは奇妙な感動に打たれて、思わず片膝を地面についた。
﹁生まれついての女王なのだな﹂
﹁じょおう?﹂
﹁王とは、孤独なものだ。民から理解されることはない。多くの
者に非難されても弱音を吐くことはゆるされない﹂
まるで王に仕える騎士のように少女の顔を見上げながら、彼は
言った。
﹁どんなに仲間はずれにされても、そなたは女王らしく生きろ。
いつでも毅然として、前を向いていろ﹂
277
彼は立ち上がり、手を雪羽の頭に置いた。
﹁余が見ていてやる﹂
﹁うん﹂
雪羽は手を伸ばし、少年の手をそっと掴んだ。
﹁ユーリお兄ちゃんががんばったんだから、雪羽もがんばる﹂
つながれた手から、ぐっと力が返ってきた。
ふたりはそのまま、雪羽の家へと歩き始めた。
四歳の少女と十歳の少年。ゆっくりと、同じ歩調で。
佐和は、熱いココアとホットケーキを用意して待っていた。
こたつの中でジグソーパズルで遊んだあと、たちまち降りてき
た冬の夕闇にせかされるように、佐和が雪羽を風呂場に連れていっ
た。
パズルを片付け、辞する準備をしていたユーラスは、戻ってき
た魔王の妻に何と切り出そうか迷った。
娘が幼稚園でつらい思いをしていることを、親は知るべきだと
思った。だが、父母を悲しませたくないという雪羽の願いも、無碍
にはできなかった。
﹁ユーリさん﹂
佐和は静かに彼の前に座った。
﹁雪羽と遊んでくださってありがとう。あの子には⋮⋮ヴァルさ
んとあなた以外には、友だちがいないみたいなんです﹂
ユーラスは、その暗い口調を聞いて、はっとした。
﹁知っているのか﹂
﹁昨日、幼稚園の先生に呼び出されました。雪羽には、人とうま
く人間関係を結べない︱︱なんとかという名前の病気であるという
疑いがあると言われました。専門医に見せたほうがいいと﹂
ナブラ王はそれを聞いて、自分の内臓が怒りに燃え上がるのを
感じた。
278
﹁あの娘は、そんな病気ではない!﹂
思わず叫ぶ。﹁ただ、間違っていることを正しいと言えないだ
けだ﹂
﹁ゼファーさんも以前に同じようなことを言っていました。雪羽
は小さな頃から、この世界ではない場所に多くの関心を寄せてきて、
その分、人の心の真実と醜さをよく知っているのだと﹂
﹁そのとおりだ﹂
﹁だから、雪羽はこの地球で生きていく限り、多くの苦しみを背
負ってしまうのだろう、とも言っていました﹂
佐和は、そっとエプロンで涙をぬぐった。
﹁わかっています。わかっていても、母親としてつらいのです。
どうにかして雪羽を守り、その苦しみを代わりに背負ってあげられ
る方法はないものかと﹂
﹁奥方⋮⋮余は⋮⋮﹂
続けられなくなって、ユーラスは立ち上がった。
﹁すまない。思わぬ長居をした﹂
﹁ユーリさん、お願いがあります﹂
佐和は、きらきらと涙のしずくをこぼしながら、顔を上げた。
﹁どうぞ、ゼファーさんや雪羽には、このことは内緒にしてくだ
さいね。ゼファーさんは工場の再建のことで頭がいっぱいだし、雪
羽も、私たちを悲しませてると知ったら、もっと悲しみますから﹂
いたたまれぬ心地で外に飛び出ると、ユーラスは走り出した。
行き先は、ゼファーの働く工場だ。何としても、魔王と直接話
をしなければならなかった。
妻と娘を助けてやってほしかった。
ちょうど明かりを落としかけた工場の中から、ぞろぞろと工員
たちが出てくるところだった。
門の陰に入り、身を切るような風を避けながら待っていると、
建物すべてが真っ暗になり、一番最後にゼファーが疲れきった足取
りで、外付けの階段から下に降りてきた。
279
﹁魔王﹂
﹁ナブラ王か﹂
意外な人影を認めて、ゼファーは微笑んだ。﹁いったいどうし
た。こんな時間に﹂
﹁話がある﹂
﹁怖い顔だな。こみいった話をするには、ここは寒い﹂
肩をすくめて見せる。﹁歩きながら話そう﹂
﹁忙しそうで重畳だ。工場の経営はうまくいっているのか﹂
﹁まあな。この不況下だから注文全体は落ち込んではいるが﹂
ゼファーは、くっと息をつめ、低い声で言った。﹁皮肉なこと
に、あの乱切り機械が売れ始めた﹂
﹁よかったではないか。皮肉とは?﹂
﹁人件費の削減のために、あの機械を導入する工場が増えたとい
うことだ︱︱それは、つまり﹂
白い息が、口からふっと漏れる。﹁あの機械一台が売れれば、
その分だけ、どこかで従業員たちの首が切られているということだ﹂
﹁しかし、それはやむなきことだ﹂
ユーラスは反論した。﹁きさまたちとて、生きるために働いて
いるのだ。見知らぬ人間が職を失ったからと言って、気に病む余裕
があるのか﹂
﹁三日ほど前だったか、そこの暗がりにひとりの男が立っていた﹂
ゼファーは立ち止まった。
﹁そいつは工場を見上げながら、俺に向かって、こう言った。﹃
これが、多くの人間を泣かせている乱切り機械の工場か﹄と﹂
ユーラスは、返す言葉もない。
魔王は、じっと幻影を見るような目をして笑った。
﹁ナブラ王よ。俺は自軍の勝利のために敵を容赦なく斬り殺す戦
いを、今なお続けているのかもしれぬな﹂
280
クリスマスの前夜祭の日になった。
ユーラスは、天城研究所のゴミ捨て場からダンボールを拾って
きて、真四角に切った。
発泡スチロールは削ってドーナツ状に仕上げ、台紙に貼りつけ
る。
近所をあちこち探し回り、頼んでヒイラギの枝を少し切らせて
もらった。マンリョウの赤い実も同じように手に入れた。
雪羽は粘土の人形をたくさん、こしらえていた。
﹁これが、父上と母上。これはユーリお兄ちゃんと、あまぎはか
せ。こっちはヴァユと理子さんと⋮⋮﹂
﹁おいおい、人形だらけではないか﹂
﹁いいの。みんな仲良しなんだから﹂
発砲スチロールを茶色く塗り、その上にヒイラギの枝とマンリ
ョウの実を刺し、粘土人形も塗ってリボンで飾った。
真中には、ベルの代わりにねじねじゴーレムをぶらさげた。
手作りのリースは振るとカチカチ鳴り、ヒイラギの白い花の甘
い香りがした。
瀬峰家に着くと、佐和がたくさんのご馳走を準備していた。
クラッカーのオードブル。大きな鳥のもも焼きとフルーツサラ
ダ。もちろん、山盛りのおにぎり。
ゼファーが駅前で買ってきたのは、とてもささやかなデコレー
ションケーキ。
﹁ヴァルデミールは?﹂
﹁今晩は、理子さんと四郎会長と三人で過ごすそうですよ。天城
博士は?﹂
﹁次のアラメキアとの接触が近づいているので、今夜はゆっくり
と座標軸の計算をしたいそうだ﹂
﹁まあ、残念。せめてユーリさんが来てくれてよかったわ﹂
和やかに、祝いのときが始まった。
暖かい部屋の中、すべてが特別で、すみずみまで幸せが満ちて
281
いる。
ゼファーも、佐和も、雪羽も、一点の曇りもない笑顔で笑って
いた。
ユーラスはそれを見て、心の片隅がときどき、ひきつれるよう
に痛んだ。
︵悔しいはずなのに、悲しいはずなのに。なぜ、そんなふうに笑
えるのだ。なぜ、心に苦しみを隠しながら、そんなふうに互いをい
たわり合えるのだ︶
プレゼント交換が終わり、ユーラスと雪羽が作ったリースが壁
の一番目立つところに飾られると、雪羽が奥の部屋から絵本を持っ
てきた。
それは、ひとりの赤ん坊の話だった。
王として生まれるべき赤子が、なにを間違ったか、暗く汚い馬
小屋で生まれたという。いる場所もなく、牛馬の餌を入れる桶の中
に寝かされたという。
王家からのなんの寿ぎもなく、ただ身分の卑しい者たちだけが
集って誕生を祝ったという。
それなのに、父と母は不運を嘆くこともなく、王になるべきだ
った赤子を、微笑みながら見つめている。
そんな不思議な話だった。
楽しい夜が更け、天城博士が心配したのか、﹁散歩がてら﹂と
言って迎えに来た。
風が冬空の曇りを吹き飛ばし、都会にはめずらしく多くの星が
輝いていた。
﹁どうした。悠里﹂
ユーラスは歩きながら、声もなく泣いていた。
だが、その熱い雫は、決して悲しみの涙ではなかった。
282
風との約束
心地よい暖かさに包まれて、ヴァルデミールは目覚めた。身じ
ろぎすると、ぷにゅぷにゅと心地よい何かに手が当たる。
まぶたを薄く開けると、その柔らかいものの正体は、レースの
フリルのついたネグリジェの中に隠れていた。
︵ひええ︶
いっぺんに目が覚め、飛び起きた。彼は昨夜、生まれてはじめ
て、女性と同衾したのだった。
理子の自室のクイーンサイズのベッドの上で、理子の胸に抱か
れ、なでられているうちに、いつのまにか眠ってしまった。
︱︱ただし、黒猫の姿で、である。残念なことに、お行儀の悪
いことを企んだとたんに魔力が不安定になり、魔族の彼は猫に変身
してしまうのだ。
︵赤い眼鏡をかけていない社長は、かわいいんだニャあ︶
朝の光の中で、理子のふくよかな寝顔を飽かず眺めていたヴァ
ルデミールは、ネグリジェのリボンにちょっかいを出したくなった。
男らしくも、猫らしくもある悪戯心というものである。
そっと肉球をリボンに伸ばしたとき、大変に不幸なできごとが
起こった。
理子がその瞬間、くるりと寝返りを打ち、ヴァルデミールの上
にのしかかってきたのだ。
﹁ふぎゃああっ﹂
﹁うむ。ひと仕事の後の味噌汁はうまい﹂
283
弁当工場の戦場のような激務を終え、相模家では遅い朝の食卓
を囲んでいた。
ずっと寝込んでいた四郎会長も、ヴァルデミールが戻ってきて
からすっかり朗らかになり、食欲も戻ってきたようだ。
﹁おや、ヴァル。その顔はどうした﹂
﹁ニャ、ニャんでもありません﹂
ヴァルデミールはあわてて、眉間にできた青あざを押さえる。
﹁ふむ、昨夜は少しはしゃぎすぎたようだの﹂
老会長は、ふたりが熱い初夜を過ごしたと信じて、すこぶるご
機嫌だ。
﹁早いところ、式の日取りも決めねばならんな﹂
そのことばを聞いたとたん、理子はお茶を吹いた。
﹁な、な、なにを言い出すの。お父さん、式ってなに!﹂
﹁おまえたちの結婚式のことに決まっておろうが。今の若い者は
手順を踏むということを知らん。ものごとは順序を間違えずに行な
わねばならんぞ。まずお披露目をして世間様に認められてから、子
どもを授かり、りっぱな家庭を築く。それが世の中というものだ﹂
﹁コドモ。カテイ﹂
ヴァルデミールは、目をぱちくりさせた。﹁わたくしと、社長
とがですか?﹂
﹁ほらほら、その﹃社長﹄ということばがいかん。男らしく﹃理
子﹄と呼び捨てにせんか﹂
﹁と、とんでもニャいです。そんな畏れ多いこと﹂
﹁だーかーら! おまえたちは夫婦とニャるのだろう﹂
いつのまにか、四郎にもヴァルデミールのことばが移っている。
﹁だが、確かにヴァルの言うことも一理ある。女房が社長で、亭
主がパートでは釣合いが取れん。よし、明日からさっそくおまえは、
相模弁当工場の専務に昇進だ﹂
﹁お、お父さん﹂
﹁結婚は一にも二にも勢いが肝心。何事も、考えこむからうまく
284
いかない。さっさと互いの気が変わらんうちに既成事実を作ってし
まうのだ﹂
娘が結婚する最後のチャンスを手放すまいと、老父は必死なの
だった。
﹁会長も気がお早いんだから﹂
理子の様子をちらと見やりながら、ヴァルデミールは口の中で
もごもご呟いた。
﹁おまえは私と結婚するのが、そんなに嫌なのか﹂
からかうように理子が言った。﹁そうだろうな。私の体重では、
いつかベッドの上でおまえのことを圧死させてしまう。こわくて逃
げ出したくなっただろう﹂
﹁とんでもニャい。逃げるだニャんて﹂
彼はぶんぶんと首を振った。﹁社長のお体で圧死できるニャら、
わたくし本望というものです。ただ⋮⋮﹂
﹁ただ、なんだ?﹂
﹁わたくしはノロマだし、弁当二十七個の売り上げ金の計算もで
きニャいし、おまけに⋮⋮一番肝心のときには猫に変身してしまう
し。このままじゃ、会長の望んでおられるふたりのコドモニャんか、
とても﹂
おずおずとヴァルデミールは顔を上げた。﹁これでは、どんニ
ャにわたくしが社長を大好きでも、結婚する資格がありません﹂
﹁資格?﹂
理子はくすりと笑って、彼の細い首にふくよかな両腕を回した。
﹁りっぱな資格があるぞ。この私がおまえを好きなのだからな。
これ以上の資格が必要か?﹂
また変身しないように、なるべく軽くついばむようなキスを交
わす。
﹁ヴァル。結婚してくれ﹂
285
﹁しゃ、社長⋮⋮うれしくて死にそうです﹂
﹁﹃社長﹄はいいかげんにやめろ。結婚してからも社長、専務と
呼び合うのはごめんだ﹂
﹁そう言えば﹂
ヴァルデミールは突如あることに気づいて、あわて始めた。
﹁専務とはいったい、ニャんの役職ですか。主任と専務では、ど
ちらが偉いのですか﹂
﹁そりゃ、専務に決まっている。専務とは会社の取締役なのだか
らな﹂
﹁そんニャあ﹂
ヴァルデミールは、へたへたと床に座り込んだ。
﹁どうしましょう。わたくし、シュニンより出世してしまいまし
た⋮⋮﹂
ゼファーが工場の中庭に出ると、アラメキアのワダンガ火山を
思わせるほど、工場長がせわしなく煙草をふかしていた。
いらいらしているのは彼だけではない。工場のみんなが、どこ
となく落ち込んでいるのがわかる。
社会全体の景気が急激に悪くなりつつある。﹃坂井エレクトロ
ニクス﹄も例外ではなく、その大波をまともにかぶり始めた。
製品が売れていないわけではない。天城博士の発明した﹃全自
動高速乱切り機﹄の注文がどんどん舞いこみ、連日の残業を強いら
れるほどなのだ。
だが即金で支払ってくれる客は、ほとんど皆無。どこも台所事
情が苦しい中小企業同士、お人よしの坂井社長は、泣きつかれてつ
い約束手形での支払いや分割払いを許してしまう。
その一方、原材料の支払い期限は待ったなしだ。したがって売
れば売るほど、経営は苦しくなる。
そして、何よりも工員たちのやる気をなくしているのが、この
286
機械の導入先では、当然のように余った人員のリストラが行なわれ
ていることだった。
自分たちの作っている機械が、人々を幸せにしていない。士気
が落ちるのは当然だろう。
ゼファー自身もこのところ空腹になると、じくじく胃が痛むの
を感じていた。
︵俺も、年だな︶
苦笑しながら、彼は工場長のところに歩み寄った。
﹁瀬峰主任﹂
今やふたりは、ちらりと目を交わすだけで、互いの苦労をいた
わり合える戦友同士だ。
﹁ようやく、明日の分の納品の目途が立った。やれやれだ。いつ
までこんな綱渡りのような毎日が続くんだろうな﹂
﹁そのことだが﹂
ゼファーは唇をしばし引き結んで、それから言った。
﹁従業員を、あと五人ほど採用できないか﹂
﹁なんだと﹂
工場長は、これ以上意外なことばを聞いたことがないというよ
うに目を丸く見開いた。
﹁みんな疲れきっている。連日の残業は、もう限界だ。これから
も注文が増える目算がある以上、人を増やすことで対処するしかな
い。それに︱︱﹂
工場の外の暗闇で、ゼファーを睨みつけた男の姿が目に焼きつ
いている。
﹃これが、多くの人間を泣かせている乱切り機械の工場か!﹄
もし自分たちの作っている製品が人々の職を奪っているなら、
たとえひとりでも二人でも多く雇い入れて、仕事を分かち合うこと
で償いをするのが、会社の責務だと思った。
﹁だが、あと五人分の給料を払う金がどこにある!﹂
工場長は、予想された反論を返してきた。﹁今でさえも、毎月
287
の資金繰りに苦労しているのに﹂
﹁その方法が、俺にはわからん。だから相談している﹂
工場長は、無精ひげの生えた顎をごしごしと撫でて、しばし考
え込む。
﹁方法がないことはない。今いる52人の従業員の給料を十%ず
つ減らす。その金で、五人雇える﹂
﹁なるほど﹂
だがゼファーは、その考えに首を振った。
﹁俺の指揮していた魔王軍で、同じことをしたことがあった。人
間との大きな戦いを控えて、兵を増強した分、ひとりあたりの糧食
の割り当てを減らしたのだ﹂
﹁それで、どうなった﹂
﹁完敗だった。俺の軍の兵は全員、腹を減らして力を出せなかっ
た﹂
ふたりは、顔を見合わせて大笑いした。
﹁正直、工員たちの給料を減らすのは、最後の最後の手段だ﹂
工場長は力なく言った。﹁うちの給料はもともと少ない。みな
今でも苦しい生活をしている。病気の親をかかえてる奴もいれば、
三人の子どもがいる奴もいる。かくいう俺も﹂
彼は、薄い頭頂をぽりぽりと掻いた。﹁今の給料がもらえなけ
れば、仕送りができなくなる。下の息子には休学してもらわねばな
らん﹂
﹁そうか﹂
ゼファーは、沈痛な思いで聞いていた。
できれば、来月から主任手当を断ろうと決意している。それく
らいの痛みを引き受けなければ、会社はいつまで経っても何も変わ
らないと。
だが、それぞれの内情を聞いてしまうと、その覚悟を他の者に
押し付けることは、とてもできないことだと思える。
﹁人を増やすのは、もうひとつ理由がある﹂
288
ゼファーは、自分がずっと考え続けてきたことを打ち明けた。
﹁うちの会社の弱いところが見えてきたのだ。今までは顧客から
注文を取ってきて、その注文どおりの製品を作るだけだった。だが、
今度の乱切り機械はそうではない。相模弁当工場で働いている俺の
部下が、ニンジンを楽に切る機械が欲しいという要望を持っていた。
それを実現する機械を天城博士に頼んで発明してもらった。⋮⋮そ
れと同じことを、すればいい﹂
﹁つまり、おまえの言っていることは﹂
工場長はうーんと唸って、眉根を寄せた。
﹁︻マーケティング︼というやつだ。注文を待つのではなく、相
手のニーズを調査し、こちらから新製品を提案する﹂
﹁まーけてぃんぐ、と言うのか﹂
横文字に弱いゼファーにとっては、初耳のことばだ。
﹁しかしだな。それができる優秀な人材は、みんな大企業に行っ
てる。こんな下町辺りにはころがっていないぞ﹂
﹁いなければ育てる。苦しい戦いの中でこそ、優秀な兵は育つも
のだ﹂
ゼファーは、冬空を仰いだ。
四百年間、アラメキアで続けてきた戦いの日々が思い出される。
すべ
多くの命が、魔王である彼の野望のために失われた。
もし、その命たちに詫びる術があるとするならば、今目の前に
いる人々の生活を失わぬように、力を尽くすしかないのだ。
﹁あ、ユーリおにいちゃん﹂
園庭のすみに立っていた雪羽が、イチイの垣根のすきまから覗
いているユーラスを見つけて、うれしそうに駆け寄ってきた。
﹁どうしたの? 学校は?﹂
﹁う、うむ。ちょっとな。食後の散歩だ﹂
本当は、給食のあとの昼休み、クラスの友だちにアリバイ工作
289
を頼み、こっそり裏塀を跳び越えて学校を抜け出してきた。
ナブラの若き王だった頃、よく宮殿を抜け出して酒場に行った
ことを懐かしく思い出す。
﹁あ、また来てる﹂
度のきつい眼鏡をかけた女性教諭が、彼の姿を見つけてヒステ
リックにわめいた。
﹁なんなの、あなたは。どこの小学校。名前を言いなさい﹂
﹁大崎先生﹂
雪羽は垣根の前に立って両手をひろげ、通せんぼした。﹁この
人、悪い人じゃないよ。雪羽のお友だち﹂
﹁雪羽ちゃん、小さい女の子がヨソのおにいちゃんに近づいたら、
だめなのよ。何をされるかわからないからね﹂
﹁雪羽がだいじょうぶって言ってるのよ。どうして信じないの?﹂
猫なで声を出していた教諭は、一転してムッとした表情になり、
﹁知りませんっ﹂と体をひるがえして行ってしまった。
雪羽のような話し方をする子どもを、﹃可愛げがない、生意気
だ﹄と大人はひどく嫌うものだ。そして、その負の感情を、回りの
幼稚園児たちは鋭敏に感じ取る。
雪羽の置かれている苦境が、ユーラスにはよくわかるような気
がした。
﹁すまぬ、魔王の娘。余のせいで、ますますそなたを困らせてし
まったな﹂
﹁ううん﹂
雪羽は首を振って、にっこり笑った。
﹁だって、うれしかったもん。ユーリおにいちゃんが雪羽のこと
を見ててくれて﹂
﹁余のできることは、見ていることだけだ﹂
ユーラスがどんなに気づかっても、このイチイの垣根から向こ
うに助けに入ることはできない。この戦いは雪羽に与えられたもの
で、誰かが代わってやることはできないのだ。
290
ユーラスは垣根越しに、せいいっぱい腕を伸ばして雪羽の髪を
なでた。
今までの九十年の人生で経験したことのなかった、柔らかな思
いが胸を駆け上がるのに戸惑いながら。
雪羽を寝かしつけたあと、佐和は奥の部屋から出てきて、ゼフ
ァーの前にぺたんと座った。
﹁ゼファーさん、相談があります﹂
﹁なんだ﹂
﹁雪羽を転園させたいんです﹂
佐和はどう話すべきか、しばらく迷った。
﹁雪羽が、幼稚園で仲間はずれにされているの。先生も、あまり
雪羽のことを良く思っていないらしくて⋮⋮。きのう、パートの仲
間から、隣町の幼稚園の話を聞きました。ひとりひとりをじっくり
見てくれる、とても良い幼稚園だって。⋮⋮でも、月謝やスクール
バスの費用をあわせると、今の幼稚園より一万円以上多くかかって
しまうんです﹂
佐和は、すがるような眼差しでゼファーを見つめた。
﹁苦しいのは、わかっています。でも、私ももっと家計を切り詰
めるし、パートの時間を増やせるように頼んでみますから。雪羽に
だけは悲しい思いをさせたくないの﹂
日曜日、ゼファーは娘を連れて、公園に出かけた。
耳や鼻の先が痛くなるほどの寒い昼下がり。毛糸の帽子や佐和
の編んだ青いマフラーで、羊のようにもこもこになった雪羽は、い
つもよりずっと親に甘えていた。
﹁父上ぇ。抱っこ﹂
﹁まるで赤ん坊だな。雪羽は、もう五歳になったのだろう﹂
291
﹁今日だけ、赤ちゃん﹂
ゼファーは娘を抱き上げると、冷たく柔らかい頬に自分の固い
頬を押し当てた。
﹁雪羽は、幼稚園で友だちがいないそうだな﹂
﹁え?﹂
﹁母上が先生から聞いて、やっと知った﹂
﹁ちがうよ。ほんとうはたくさん⋮⋮﹂
﹁黙って、聞きなさい﹂
ゼファーは、ぽんぽんと娘の背中をあやすように叩いた。
﹁別の幼稚園に変わらせてやりたいと、母上は考えている。それ
で雪羽がつらい思いをしなくてすむなら、それが一番よいのだろう。
だが︱︱﹂
魔王は何度もためらった挙句、続けた。﹁俺は、そうさせない
つもりだ﹂
﹁父上⋮⋮?﹂
雪羽は、父親の声が小刻みに震えているのに気づいた。
﹁工場の経営は、今厳しい。俺は、責任ある立場としてできるだ
けのことをせねばならぬ。そのために、最悪の場合は生活がもっと
苦しくなるかもしれない。雪羽を隣町の幼稚園にやる余裕がないの
だ﹂
雪羽はこっくりとうなずくと、父の胸のマフラーに顔をうずめ
た。
﹁でも、母上は︱︱﹂
﹁母上は、俺が説得する﹂
ゼファーは妻の泣き顔を思い浮かべて、ちくりと胸が痛むのを
感じる。
それを振り切るようにして、続けた。
﹁金のことだけが理由ではないのだ。戦いというものは、逃げる
ことも必要だ。だが、踏みとどまることは、もっと必要だ。俺はお
まえに魔王の娘として、最初に逃げることを学んでほしくはない﹂
292
﹁魔王の娘⋮⋮ユーリおにいちゃんも雪羽のことをそう呼ぶよ﹂
﹁そうだ。おまえは、魔王ゼファーの娘だ。雪羽﹂
﹁うん﹂
元気よく、少女はうなずいた。その声には、幼いながらも強い
誇りがにじみ出ていた。
ゼファーは雪羽を、すとんと地面に下ろし、手をぎゅっと握り
しめた。
﹁足を踏みしめて、相手を見つめろ。顔を下に向けるな﹂
﹁うん﹂
﹁俺もそうする﹂
﹁うん、父上といっしょだね﹂
﹁雪羽、がんばれ﹂
﹁父上も、がんばれ﹂
冬の吹きすさぶ寒風の中を、大きな父と小さな娘は顔をまっす
ぐ前に向け、心を熱くしながら、ともに歩いた。
293
紙ヒコーキ、飛んだ
みなみあまね
南天音は、新任の幼稚園教諭だ。
天性のドジで失敗ばかりしている。去年はどこの幼稚園にも採
用してもらえず、一年間アルバイトで食いつないでいたところ、よ
うやく年末から産休の代理で、﹃イチイ幼稚園﹄で働けることにな
った。
張り切って勤め始めたものの、その元気がことごとく空回りし
てしまうのだ。
今日も今日とて、教室の壁に子どもたちの絵を貼ろうとして、
踏み台にしていた棚を踏み抜いた。修理しようとしたら、トンカチ
で指を打った。あわてて救急箱を取ろうとして、椅子の脚に引っか
かり、倒れた拍子にしたたかに脛をぶつけた。
初日から三ヶ月、上司に怒られなかった日は片手で数えるほど
だ。
︵しょげた顔をしてたら、子どもたちまで暗くなるもの。スマイ
ルスマイル︶
お絵描きの教材を教室まで運ぶ途中、ふり仰ぐと、青空を斜め
に切り取っている白い飛行機雲が見えた。うれしくなって、鼻歌を
歌いながら上を見て歩いていたら、園庭の真中で足をもつれさせて、
またころんでしまった。
遊具で遊んでいた園児たちの、遠慮のない笑い声が聞こえる。
﹁あは、あはは﹂
と照れ笑いしながら、両手をついて起き上がる。
︵うわあ、やっちゃった︶
クレパスの箱の中身が、土の上に盛大にぶちまけられている。
294
﹁あまね先生、だいじょうぶ?﹂
ひとりの少女の顔が、天地さかさまになった視界の端ににゅっ
と覗いた。
﹁あ、平気へいき﹂
あわててぺたんと座ると、天音先生はにへらと笑った。﹁心配
してくれて、ありがとう。雪羽ちゃん﹂
女の子はしゃがみこむと、散らばったクレパスを黙々と拾い始
めた。
﹁あ、手が汚れちゃうよ。先生がやる﹂
﹁いいの。ふたりでやったほうが早いから﹂
頑なに拾い続ける少女の黒々とまっすぐな髪をちらちらと見つ
つ、天音もせっせと手を動かした。
他の園児たちは、そんなふたりを関係ないとばかりに遠巻きに
見ている。
︵雪羽ちゃんて、とても思いやりのあるやさしい子なんだ。なの
にお友だちと遊べないなんて︱︱︶
大崎先生が以前言っていたことを思い出す。
﹁瀬峰雪羽ちゃんは、おそらく発達障害よ﹂
ベテランの大先輩のことばには、重みがある。
﹁空想したことと現実の区別がつかないの。両親とも日本人なの
に、めちゃくちゃな外国語をしゃべるときもあるし、ほかの子とも
うまく人間関係を結べない。幻覚を見てるみたいな目をしてるとき
もある﹂
さらに声をひそめる。﹁お母さんに、専門家に相談するように
勧めたのだけれど、ぼんやりした人で、どうにも要領を得ないのよ。
お父さんは娘には関心がないのか、ちっとも姿を見せないし﹂
最後はおおげさな溜め息をつく。
﹁特に困るのは、アラメキアという架空の国のお話を事細かに話
してみせること。園児の中にはすぐ影響されてしまう子もいて、そ
の話が始まったときは、雪羽ちゃんだけうまく引き離すようにして
295
るんだけど﹂
先輩の指導方針に間違いがあろうはずがない。けれど、それを
聞いたとき、天音先生の心はちくりと痛んだのだ。
﹁はだいろ、しろ、くろ。⋮⋮先生、はい﹂
雪羽が差し出した箱には、ちゃんと配列どおりにクレパスが並
んでいた。
﹁すごいね、雪羽ちゃん。ぴったり合ってる﹂
﹁色のじゅんばん、ちゃんとおぼえてるもん﹂
﹁そういえば﹂
教師は、さっき教室に掲示したばかりの絵を思い出した。
﹁雪羽ちゃんの描いた花は、色とりどりで、とてもきれいだね。
あれは、どこかのお花畑?﹂
﹁アラメキアだよ﹂
﹁アラメキア?﹂
天音は思わず、用心深く身構えた。
﹁リューラというお花なの。精霊の国にいっぱい咲いてて、朝は
むらさきいろ、昼はぴんく、夜はみずいろから青にかわっていくの﹂
﹁へええ﹂
﹁枯れるときは、きんいろになるの。花のねもとの、毛がたくさ
ん生えているところにタネがみっつ入ってて、ふくらんで、ぱあん
とはじけて、空がきらきら、きんいろに光るの。ちょっとしたら、
土から芽が出て、またあたらしい花がさくの﹂
雪羽は頬を桜色に染めて熱心に説明していたが、唐突に口をへ
の字に曲げた。
いつもなら、このあたりで他の先生に話を止められてしまうこ
とが、幼いながらにちゃんとわかっているのだ。
﹁神秘的なお花なんだね﹂
天音は、心から驚いていた。これほど緻密な描写が、五歳の子
どもの頭が作り出した、まったくの空想なのだろうか。
﹁アラメキアって、どこにあるの?﹂
296
﹁地球ではないとこ﹂
﹁雪羽ちゃんは、行ったことあるの?﹂
﹁⋮⋮ない﹂
少女は、おずおずと天音の顔を上目づかいに見た。﹁でも父上
が、アラメキアから来たの。アラメキアの魔お⋮⋮だったから﹂
﹁そうなんだ。お父さんの国のことだから、よく知ってるんだね﹂
励ますようにうなずいた。﹁雪羽ちゃんは、そこに行きたくて
たまらないんだね﹂
﹁あまね先生は⋮⋮﹂
彼女の瞳が次第に力強くきらめき始めた。﹁アラメキアのこと、
信じてくれるの?﹂
﹁え﹂
口には出さないけれど、雪羽の小さな全身が﹃信じてほしい﹄
と叫んでいる。
教師は、とまどった。
信じるよ、と口先だけで言うのは簡単だ。でも、嘘はいつか、
ことばの端々から明らかになり、敏感な子どもの心をしたたかに傷
つける。見えないものを信じることは、大人だからこそ難しいのだ。
天音は、この一年のつらい日々を思い返していた。小さいころ
から幼稚園の先生になりたいという夢を持ってがんばってきたのに、
就職活動でみごとに惨敗した。
他人に自分という人間を見てもらえない苦しみ。それだけでは
ない。自分が自分を信じられなくなることが一番つらかった。
信じる、というのは、ひとりの人間の全存在を肯定することだ。
誰からも否定され、自分で自分を否定しては、人は生きていけない。
私は教師として、発達障害というラベルを通して、この子を見
ていくのか。それとも、どんなに荒唐無稽なことばでも、この子の
言うことを信じていくのか。
﹁雪羽ちゃん﹂
天音先生は地面に両膝をついたまま、少女の肩に手を置いた。
297
﹁先生は、雪羽ちゃんの言うことを信じるよ﹂
﹁あまね先生、ありがとう﹂
天音の手のひらの下で、雪羽の華奢な肩の線がすっと柔らかく
なった。
彼女がそれまで、どれほど体を強ばらせて幼稚園で過ごしてい
たのか、ようやくわかったような気がして、せつなくなった。
﹁さ、全部拾えた﹂
ふたりはクレパスを並べ終えると、立ち上がり、にっこり笑み
を交わした。
﹁きれいな空だね﹂
天音先生は、澄み切った晴れやかな気持で空を仰ぎながら、す
いすいと歩き始める。
そして、十歩と歩かないうちに、また石に蹴つまずいた。
持っていた画用紙が一枚、風にふわっと飛ばされ、紙ヒコーキ
のように空を飛んだ。
﹁きれいな空だニャあ﹂
ヴァルデミールが目覚めたら、飛行機雲が横切る空が真っ先に
見えた。うんと伸びをしようとすると、肩に柔らかいものが当たる。
理子のほっぺただった。
ふたりは公園の樹にもたれて、日向ぼっこをしていたのだ。ま
ず彼が眠気に負け、隣で本を読んでいたはずの理子も、いつのまに
かぐっすり寝入ってしまったらしい。
木漏れ日がちろちろと揺れながら降り注いでいる様は、まるで
未来の花嫁と花婿たちを、ささやかなスポットライトで照らしてい
るようだ。
︵あ、メガネがずれてる。かわいい︶
横目で眺めているうちに、ぺろりと彼女の頬を舐めたくなった
ヴァルデミールは、あわてて衝動を抑えた。﹃舐める﹄という猫に
298
とって当然の行為は、人間の愛情表現としてはかなり不適当らしい。
︵家に帰るまで、がまんしようっと︶
とっておきの昼寝場所を理子に知ってほしくて、工場の仕事が
ひと段落したあと、ふたりで公園に来た。寝ても覚めても相模屋弁
当の経営のことばかり考えている彼女には、のんびりする時間が必
要だと思ったのだ。
︵あーあ。センムにニャったら、わたくしもケイエイに参加する
のか︶
四郎会長が張り切って、彼に後継者としての教育を始めたのだ。
事務所に新しく据えられた彼の机には、書類や帳簿や、経営に関す
るハウツー本が山積みになっていた。読んで勉強しろと言われてい
るが、魔導の書を読んでいるかと思うくらいチンプンカンプンだ。
理子を外出に誘ったのは、本当は彼自身が逃げ出したかったか
らかもしれない。
会社の経営など、想像もつかない。主であるゼファーでさえ坂
井エレクトロニクスの経営難に日々悩んでいるのを見ると、自分に
はとても不可能なことだと思えてくる。
︵でもニャんとかして、理子さんの役に立てるようにニャりたい
ニャ。そしたら、シュニンの工場の機械を、たくさん買ってあげら
れる︶
志は空より高いものの、むずかしいことを考えようとすれば、
すぐ眠気が襲ってくる。だんだんと落ちてくる瞼の前で、誰かが通
り過ぎた。
﹁あ、おじさん﹂
以前弁当を買ってくれた路上生活者が、アルミ缶の入った大き
な袋を三つも四つも載せた自転車を押して、公園を通り過ぎるとこ
ろだった。
﹁おお、ハダカの青年﹂
以前、ヴァルデミールが猫から人間に戻ったときの大騒動を思
い出しながら、おじさんは弱々しく手を振った。
299
﹁ニャんだか元気がありませんね。景気が悪いのですか﹂
﹁ああ、どん底だね。アルミ缶なんか、このところキロ当たり四
十円だぜ﹂
一日かかって自転車で空き缶を集め回り、一個一個ペタンコに
つぶして業者に持ち込んでも、せいぜい数百円にしかならないのだ
と言う。
﹁この不況が終わる前に、ホームレスの半分は飢え死んじまうだ
ろうな﹂
﹁そ、そんニャ﹂
ヴァルデミールは驚きのあまり、ネズミを見つけた猫の勢いで
男のところへ這いよった。
﹁いて﹂
理子はそのあおりで、木の幹に頭をぶつけた。
﹁そう言えば、あのけばけばスカートのおばさんは?﹂
﹁さあ、こないだあっちの公園で見かけたけど、やっぱり雑誌集
めもうまく行かないみたいだな。冴えない顔してたぜ﹂
﹁社長、社長﹂
ヴァルデミールは戻ってきて、理子の体をぶるぶると激しく揺
する。﹁起きてください﹂
﹁ばかもん、とっくに起きてる﹂
理子はヴァルデミールの頭をはたこうとして手を止め、絶句し
た。彼の両目には、もはや決壊寸前なほどの涙が溜まっていたのだ。
﹁お願いします。わたくしがセンムにニャったら、給料ニャくて
いいですから、そのかわりに公園にいる人たちを工場に雇ってあげ
てください﹂
﹁ニャ、なんだって﹂
ヴァルデミールの経営者としての第一歩は、まず路上生活者ふ
たりを雇い入れることから始まりそうだ。
300
ちりん。
なつかしい音が聞こえたような気がして、宿題のノートから目
を上げたユーラスは腰を浮かせた。
天城博士は、彼が帰宅してからもずっと、夕食の弁当そっちの
けで座標計算に没頭している。
月に二回の、アラメキアのゲートが開く時期がまたやって来る
のだ。今度は手紙をやりとりするだけではなく、アラメキアにいる
博士の助手とのあいだで、かなり大掛かりな物体を送る実験が行な
われるらしい。
ちりん。
軽やかな音だった。たぶん近所の誰かがケータイのストラップ
に小さな鈴をつけているのだろう。しかし春の湿った空気を伝わる
くぐもった音色は、アラメキアの姫君が薄布のショールの房に結び
つける千の小鈴に似ていた。
どこか寂しげな鈴の音は、ひとりの女のたおやかな舞いを思い
起こさせる。
いったい誰の舞いだったか。
90年の人生で、三人の正妃と数え切れない側妃を娶った。だ
が、遠い異世界で10歳の少年となった身には、彼女たちの美貌も
滑らかな肌も、まして名前すらも思い出すことができない。
閉め忘れた窓から夜の冷気が、強い沈丁花の香りとともに忍び
込んでくる。
ユーラスは窓辺に寄り、もう一度耳を澄ました。鈴の音はもう
聞こえない。
研究所の草ぼうぼうの庭に、コブシの木が一本すっくと立ち、
白い花を枝いっぱいにつけている。
︵魔王の娘は今日一日、幼稚園でしょげずに過ごせただろうか︶
春の夜は、人恋しくてたまらない。
ユーラスはノートから紙を一枚ちぎり取ると、紙ヒコーキを折
り、窓から外に飛ばした。
301
暖かい手から放たれたヒコーキは、月影がぼんやりと青白く光
る空を背景に、すうっと夜の向こうに消えて行った。
302
幻をつかむ者
窓枠に肉球をかけて、そっと押し開ける。
ミルク色の霧に包まれた裏庭は、初めて見る幻のようだ。物干
し台やほうきや、欠けた植木鉢さえもが、特別な魔法の小道具に思
える。
首をにゅっと突き出した。夜明けのしっとりと湿った風にヒゲ
や毛並みを逆立ててもらう心地が、とても好きだ。
彼が窓ぎわを好むようになったのは、家付きとなることを選ん
だ猫の体内で疼く、ささやかな野生への憧憬ゆえかもしれない。
﹁おや、また来てるのか﹂
早起きの四郎会長が、部屋に入ってきた。
まさか、この小さな黒猫がもうすぐ自分の娘婿になる若者であ
るとは、荒唐無稽な朝の夢の中でさえ思いつくことはないだろう。
﹁ほら、いつもの魚肉ソーセージじゃ﹂
不自由な手で皮を剥いてくれたピンクのソーセージがふるふる
揺れるのを見ると、つい我慢できずに両手で捕まえぱくりと齧りつ
いた。
﹁よしよし﹂
目を細めて頭を撫でる老人の掌の下で、猫は幸せそうに丸くな
った。
理子はこの頃、頭が痛い。
原因は、ヴァルデミールが雇ってきたふたりの路上生活者だっ
た。彼の公園仲間の中年男性、春山と、六十歳くらいの女性、秋川
303
だ。
春山と秋川とは冗談のような偶然の一致だが、工場に誘うまで
は、ヴァルデミールも彼らの名前を知らなかった。
理子はとりあえず、近所の安アパートを二部屋借りて住まわせ、
そこから工場へ通ってくるように手配してやった。
だが、長年のホームレス生活が身についた彼らは、みんなとい
っしょに行動することが、なかなかできない。
﹁何をさせても、のろい﹂
﹁口ごたえばかり﹂
﹁なんだか、見た目が不潔っぽい﹂
他のパート従業員たちも、ことあるごとに上司に苦情を申し立
てている。
﹁そう言えば、わたくしも相模屋弁当で働き始めたばかりのとき
は、同じことを言われました。髪を切れ、風呂に入れと、社長にも
よく殴られましたね﹂
﹁こら、そんなことを懐かしがるな﹂
暢気に笑うヴァルデミールに、むっつりしていた理子もつい破
顔する。
﹁本当に困るのだ。ああ仕事の邪魔になっては、いずれ辞めても
らうことになるぞ﹂
﹁わざと邪魔をしているわけではニャいのです。彼らには彼らな
りの理由が、ちゃんとあるんですよ﹂
自分も失敗ばかりだったことを覚えているヴァルデミールは、
懸命にふたりを弁護した。
最初は小さなことにこだわり、大事なところが見えていなかっ
た。工場全体のことがわかるようになったのは、やっとつい最近の
ことだ。
調理が全然できない男性の春山は、ヴァルデミールに連れられ
て弁当の配達に回ることになった。あちこちの事務所や工場に弁当
を届けるときも、彼は笑顔どころか挨拶もしない。
304
﹁どこも不況みたいですね。このごろ、家から弁当を持ってくる
人が増えたと、さっきの会社の人も言ってました﹂
売れ残ってしまった弁当のケースを運びながら、ヴァルデミー
ルは溜め息をついた。
﹁値段が高いからだ。もっと安くすればいい﹂
春山が彼の後ろをついて歩きながら、ぽつりと言った。
﹁無理ですよ。原価から考えると、500円がぎりぎりです﹂
﹁普通の勤労者には、500円の弁当では毎日は手が出ない。ま
して路上生活者は、せいぜい100円が限度だ﹂
﹁そんニャ。100円でお弁当ニャんか作れませんよ﹂
﹁もちろん赤字覚悟だ。インパクトのある商品を前面に打ち出し
て、相模屋ブランドの宣伝になると考えればいい﹂
﹁は?﹂
突然、難しいことを言い出した春山に、ヴァルデミールは思わ
ず目を丸くした。
﹁100円弁当?﹂
理子はすっとんきょうな大声を上げた。﹁そんなことできるも
のか。弁当一個の原価がいくらか知っているのか﹂
﹁赤字覚悟で、インドパキスタンのある宣伝をするんです﹂
﹁なにを訳の分からんことを言ってる﹂
しばらく美容院にも行っていない伸び放題の前髪を、理子はう
ざったげにかき上げた。
﹁今はそれどころじゃない。おまえが留守の間に、また秋川のお
ばさんが騒動を起こしてくれたんだ﹂
﹁ニャ、何があったんです?﹂
﹁︽乱切り機︾の前に立ちふさがって、﹃こんな機械、絶対に使
わせない﹄とわめき出したそうだ﹂
﹁あのニンジンの機械ですか?﹂
305
ゼファーの工場から去年納入された二台の︽全自動高速乱切り
機︾は、少しずつ改良されて、ゴボウのように固い野菜からナスの
ように柔らかい野菜まで、皮むき、ささがき、みじん切りなど用途
に応じて切り分けられるようになっている。その分、調理や販売に
人手を割くことができて、工場の能率は格段に上がった。
今や相模屋弁当になくてはならぬ機械のことを、彼女は﹃クズ
同然﹄と罵ったという。
さすがのヴァルデミールもちょっぴり腹を立て、事務室から工
場に向かった。
秋川は、ごま塩の白髪を後ろでひっつめた小柄な老女で、いつ
も毛羽の立った派手なスカートをはいているため、ヴァルデミール
は彼女のことを﹃けばけばスカートのおばさん﹄と呼んでいた。も
ちろん今は、さすがに工場のお仕着せを着ている。
﹁あの⋮⋮﹂
ギロリと上目遣いでにらまれて、ヴァルデミールはおっかなび
っくり話しかけた。
老女は工場の中から引きずり出され、裏の搬入口のそばのガー
ドマン用の机で不貞腐れてタバコを吸っていた。
﹁おばさん、あの機械が嫌いニャんですか?﹂
彼の問いかけに彼女はふんと鼻を鳴らして、そっぽを向いた。
ヴァルデミールは、ますます打ちしおれて言った。
﹁あれは、大勢の人が汗水を垂らして、力を合わせて作った機械
ニャんです。だから、おばさんにも好きにニャってほしいのですが﹂
﹁あれは、ダメだ﹂
煙をふかしながら、秋川はぶっきらぼうに答えた。
﹁どうしてですか﹂
﹁あんなに野菜の皮を分厚く剥いては、もったいなくて見ていら
れない﹂
﹁ええ?﹂
﹁ちょっと、来てみろ!﹂
306
タバコを乱暴にもみ消し、ヴァルデミールの手をぐいと引っぱ
ると、彼女はずんずんと工場の通路へと向かった。
手を念入りに洗ってエアカーテンの内側に入ると、午後の弁当
工場の中は働いている従業員も少なく、朝の喧騒から比べれば別世
界のように静まり返っている。
﹁ほら、これだ﹂
乱切り機の床部分には、大きなダストボックスが備え付けてあ
る。秋川はそれをガラリと引っ張り出した。
﹁見ろ、こんなに分厚く皮を剥いている。おまけにヘタもシッポ
も大きく切り落としてしまって。人参も大根も皮やシッポの部分に
栄養があるんだ。千切りにして、きんぴらにすれば、どれだけ美味
いか﹂
﹁あ、あの﹂
ヴァルデミールはしどろもどろで訊ねた。﹁皮やヘタって食べ
られるんですか﹂
﹁当たり前じゃないか!﹂
﹁す、すみません。知りませんでした﹂
﹁このご時勢に、これだけのムダを出すなんて犯罪だ。お天道さ
まに顔向けが出来んわい。見かねてわしは毎日、ゴミ箱から拾って、
アパートで炒めて食べているが、ひとりでは、こんなにたくさん食
べ切れん﹂
﹁え、おばさん、これで料理を作れるんですか﹂
﹁見せてやるわい﹂
ふたたび工場を出ると、おばさんは大きな肩掛け袋を持ってき
た。
中から出てきたのは、竹の皮にくるんだ大きなおにぎり。アル
ミの弁当箱からは、たくさんの野菜料理が出てきた。
﹁ほら、これが、さっきの皮で作ったキンピラ。こっちはキャベ
ツの芯をゆでて、ゴママヨネーズ和えにしてある。こっちも大量に
捨てられておった﹂
307
﹁すごい﹂
﹁わしはな。ここで働き始めて、悲しくてたまらんのじゃ﹂
老女は、しわがれた声で呟いた。﹁機械だけじゃない。天ぷら
の衣や釜の底に残ったご飯も、平気でどんどん捨てていく。あれさ
え食べられないホームレス仲間が大勢いる。心が痛くて見てられん﹂
﹁確かに、わたくしも最初はそう思いましたけど﹂
一日何千食もの弁当を作っている弁当工場では、調理に使った
材料の余りも半端ではない。現場にいる者たちだって、もったいな
いと思う気持を持っている。だが、しかたないのだ。
﹁それに、まだ十分に食べられる弁当が賞味期限切れというだけ
で大量に捨てられているじゃないか。ひもじい思いをしている人間
は、世の中にたくさんいる。なぜ困っている人たちに配らない﹂
﹁工場の決まりで、それはできニャいんです﹂
賞味期限切れの弁当をきちんと説明の上で売ったり、無料で配
ることは法律で禁止されてはいない。だが保健所の指導が入りでも
したら、会社の大きなイメージダウンになる。絶対にやってはいけ
ないことだと、理子に厳重に注意されているのだ。
﹁それに腹の立つことは、他にもいっぱいある。プラスチックの
弁当箱やアルミカップ。たくさんのゴミが、どれだけ公園を汚して
いることか﹂
﹁それはわたくしも、腹が立ちます!﹂
ヴァルデミールがまだ地球に来て間もない頃、公園に捨ててあ
ったシャケ弁の残りを漁っていたとき、アルミカップを食べてしま
ったことがある。あれは、とてつもなく不味い上に、歯が痛くなる
のだ。
﹁でも、キンピラや春雨サラダのように汁の出るおかずは、どう
しても小さなカップに入れニャいと味が混じってしまうんです﹂
﹁それなら、なんでも包めばよいのじゃ﹂
﹁包む?﹂
﹁薄揚げや、錦糸玉子、ワンタンの皮だってよい。天ぷらの衣の
308
残りと混ぜてお好み焼き風にしてもよいぞ﹂
﹁はああ。聞いてるだけでヨダレが出ます﹂
﹁釜にこびりついた焦げ飯で握ったおにぎりをいっしょに紙袋に
入れて売れば、ちっともゴミなんか出ないぞ﹂
舗道の縁石に座り込んで、すっかり意気投合して弁当談義をし
ているうちに、日はとっぷりと暮れ、清掃担当の従業員がぞろぞろ
と扉から出て来た。
相模屋弁当の長い一日が今日も終わったのだ。
﹁あ!﹂
ヴァルデミールはいきなり何ごとか思いついた様子で立ち上が
った。
﹁おばさん。野菜くずを使ったお惣菜を入れて、﹃100円弁当﹄
を作れませんか?﹂
ゼファーが外に出ると、春山が弁当のキャリーケースをぶらさ
げて、門のところで工場を見上げながら立っていた。
﹁あんたか﹂
と言いながら、ぎろりと見る。
﹁ちょうどよかった。今日の注文分の弁当だ。毎度ありぃ﹂
最後のとってつけたような挨拶の言葉に、ゼファーは思わず苦
笑いした。
﹁預かっておこう。ヴァルデミールはどうしている?﹂
﹁さあ、なんだか﹃100円弁当﹄という俺の冗談を真に受けて、
婆さんといっしょに毎日、試作品作りに明け暮れているぞ﹂
﹁ほう。元気そうで何よりだ﹂
春山は、背後の工場の建物をもう一度見上げた。
﹁熟練工のそろった優良工場だ。だが、今のところあまり儲かっ
てはなさそうだな﹂
﹁なぜ、そんなことがわかる﹂
309
﹁搬入口の様子、部品の整頓具合、設備の劣化状態、照明の明る
さ、何よりも大事なのは従業員の表情だ﹂
﹁あんたは、こういう工場で勤めたことがあるのか?﹂
﹁いや、ずっと以前に、製造企業専門のM&Aの会社にいただけ
だ﹂
そして、意味ありげに片方の口角を持ち上げた。﹁そうか、あ
んたもよく知っているはずだな。リンガイ・インターナショナルと
いう名に覚えはないか﹂
﹁なんだと?﹂
その名を聞いただけで、ゼファーはつい無意識に身構えた。
﹁確か、俺の同僚だった筧というヤツが、提携話を勧めにここに
来たことがあったろう。俺も、書類でちらりと坂井エレクトロニク
スの名前は見たことがあるよ﹂
﹁あんたは、あそこの社員だったのか﹂
﹁だが、とっくに縁は切った。あまりにあこぎな商売を続けるの
が、イヤになってな。ある日、衝動的に辞表を叩きつけた。おかげ
で年収二千万がフイになった挙句、夫婦仲がとっくに冷めていた妻
とは離婚して家も財産も取られ、メシにも事欠く路上生活さ﹂
悲惨な身の上話にもかかわらず春山は、せいせいしたという様
子で笑った。
﹁頼まれたって、もうあんな毎日はごめんだ﹂
ゼファーは、かつて敵の陣営にいた男の顔をしげしげと見つめ
た。
ホームレスのときには髪が伸び放題でわからなかったが、春山
は人生の修羅場をいくつもくぐり抜けてきた者の持つ目をしていた。
かつてゼファーの直属の配下だった魔族たちも、こういう目を
していた。有能な指揮官の目だ。
﹁あんた、うちの会社で働く気はないか?﹂
経験から来る直感が、思わず言わせていた。
春山は驚いて、まじまじとゼファーを見返した。﹁俺がか﹂
310
﹁正直言って、ひとり雇い入れる余裕はうちにはない。給料もい
くら出せるかわからん。だが、俺たちの会社には、あんたのような
人材が必要だ﹂
﹁無理だな﹂
いったんは興味を引かれた様子だったが、彼は首を横に振った。
﹁俺は手先が不器用で、細かい仕事が苦手だ。相模屋弁当への就
職だって、あのハダカの青年が土下座せんばかりに頼み込むから、
つい承知してしまっただけだ。包丁も持てない俺が役に立つはずも
ないし、そろそろ辞めるつもりでいる﹂
﹁そうではない。俺たちが求めているのは、マーケティングの分
野を担ってくれる人間だ。顧客を開拓し、相手がどんな機械を必要
としているかを調べ、新しい製品開発に結びつけられるような︱︱﹂
﹁なおさら、ごめんだ﹂
荒々しく春山はさえぎった。
﹁正直言って、もううんざりなんだ。会社という組織が肥え太る
だけのマネーゲーム。所詮、俺たちは使い捨ての歯車だ。自分の健
康も良心もすべてを差し出して、ぼろぼろになっていく﹂
そして辛い思い出を断ち切るように、元の投げやりな調子に戻
った。﹁空き缶を拾っているほうが、よほど人間のまともな暮らし
だ﹂
﹁空き缶を拾って、何かを生み出せるか?﹂
﹁少なくとも、壊すことはない﹂
﹁そうやって、一生ひとりで生きていく気か﹂
﹁ひとりで死にたいんだ。もう人とは金輪際関わりたくない﹂
﹁他ではどうだったか知らぬが﹂
ゼファーはじっと彼を見つめた。心の底まで貫くような深みを
持つ瞳だ。
﹁少なくとも俺たちの工場には、使い捨てられるヤツなどひとり
もいない。俺たちは生き残るために、全員が命がけで戦っている。
おまえもその戦いに加われ。自分のために生きられなければ、人の
311
ために生きてみろ﹂
﹁あんたは⋮⋮﹂
その穏やかな視線に強烈な身震いを覚えて、春山は言った。﹁
ただの町工場の主任じゃないな﹂
﹁ただの製造主任だよ﹂
﹁違う。もっと大きな組織を統率したことのある人間だ。以前は
どこの会社にいた?﹂
ゼファーは少し迷った。だが、彼を説得するためには本当のこ
とを言わなければならないと思った。
﹁俺は、かつてアラメキアという世界で魔王だった﹂
﹁冗談⋮⋮だろ?﹂
﹁本当だ。頭がおかしいと思いたければ、思うがいい﹂
春山はうつむいた。
︵ばかばかしい︶
笑おうとしたが、頬が引きつっただけだった。そして、おそろ
しく長い間、口をつぐんでいた。
顔を上げたとき、男の決意は固まっていた。
﹁わかったよ。魔王さん。あんたのために働こう﹂
312
予期せぬ客人
ユーラスが小学校から帰ってくると、天城研究所の建物のほう
からモクモクと煙が上がっていた。
﹁げえっ。アマギのやつ、何をやったんだ﹂
驚いた彼は、通りの野次馬たちを掻き分けて、走る。
﹁おお、あそこはまだやっとるのか。なつかしいな﹂
﹁そう言えば、初孫が生まれた日も、やっぱり煙が上がっていま
したね﹂
ありがたがって、手を合わせて拝んでいる近所の人たちもいた。
扉を開け放つと、研究室の中は水蒸気と埃で真っ白だ。
入口近くで、何かを踏んづけた。
﹁うわ、アマギ﹂
﹁うーむ、出力を上げすぎた﹂
白髪の老人は歯ぎしりをすると、また床にのびてしまった。怪
我はなさそうだ。
そう言えば、今日は月に二回、アラメキアとのゲートが開く日
に当たっていた。まさか実験に失敗して、とんでもないものを召喚
してしまったのではあるまいか。
グリフォンやゴーレムが、この世界に出現したら大変な騒ぎに
なる。
煙の向こうに、果たしてうごめくものがいた。ユーラスは壁に
架けてあった愛用の剣を右手に握ると、用心深く近づいた。
けほけほと咳が聞こえたかと思うと、か細い声が続いた。
﹁陛下⋮⋮陛下はどこ?﹂
﹁な、なに?﹂
313
ユーラスは思わず剣を取り落としそうになった。その声に聞き
覚えがある。
覚えがあるどころではない。毎朝、寝台にいる彼にやさしく呼
びかけて、起こしてくれた声。
﹁マヌエラ!﹂
﹁陛下﹂
白く煤けてはいるが、紛うことなき豊かな藍色の髪。深い湖の
色をたたえた瞳と、みずみずしい果実のようなピンクの唇。
は
そこにいたのは、ナブラ王ユーラスにとっては三番目にして最
後の正妃、マヌエラだった。
﹁お久しゅうございます。陛下﹂
ドレスの裳裾を正し、床に膝をついて、マヌエラは王の前で拝
いき
跪した。
﹁大賢者さまのご命令を聞いていれば、きっといつか陛下のもと
に行けると信じておりましたわ﹂
﹁それでは、アマギが言っていた助手というのは、そなたのこと
だったのか﹂
﹁はい。崖を登って山の頂に住むトール神のもとに使いに行った
り、それはそれは大変なご注文ばかりでしたけれど﹂
そんな大切なことを、今の今まで隠していた天城を思い切りに
らみつけたが、博士は素知らぬ顔で、煤だらけになった転移装置を
磨いている。
幸い、装置に大きな故障はないと見える。
﹁それにしても﹂
マヌエラは、床まで届きそうな長い髪をふわりと揺らすと、窓
に駆け寄った。
﹁ここが地球なのですね﹂
窓から見えるのは、天城家のわずかな庭。その向こうに広がる
314
住宅街。遠景には都市部の林立するビルディング。
アラメキアとは微妙に色の違う空を仰ぎ、微妙に匂いの違う空
気を心ゆくまで味わってから、彼女は振り向き、うるんだ目でにっ
こりと微笑んだ。
﹁陛下。お会いできる日を、一日千秋の思いで待っておりました﹂
﹁う、うむ﹂
ユーラスは懐がもぞもぞするような居心地の悪さを感じる。な
ぜならば、地球へ来てからというもの、彼女を思い出したことは、
ほとんどなかったからだ。
妃とはいえ、ユーラスが彼女と暮らしたのは一年半あまり。ほ
どなく、全てを捨てて魔王ゼファーを倒すため旅立ったので、彼女
と連れ添った思い出はごくわずかだ。
国中の妙齢の女性から選びに選び抜かれ、平民階級の出だった
彼女が正妃として王宮に上がったのは、18歳のとき。ユーラスは
そのとき88歳だった。まるで、祖父と孫娘のようだと、市井では
陰口がささやかれたという。
もちろん、夫婦とは名前だけ。年老いた王の身にあれこれと気
配りをすることが、妃となった彼女の役目だった。
﹁大賢者から聞いてはおりましたが、本当に陛下は子どもになら
れたのですね﹂
十歳の少年の姿となった夫を、ついジロジロと見てしまい、彼
女は恥らうように目を伏せた。
﹁ああ、80年若返ったぞ﹂
旧理論に基づく古い転移装置では、アラメキアの暦で56年に
一度しか地球を結ぶことができなかった。ユーラスは地球に来るた
めに、自分の齢を身代わりに差し出して時を早めたのだ。
﹁わたくしは逆に、歳を取りました。お別れしてから八年が経っ
ておりますから﹂
ユーラスが地球に来た一年の間に、アラメキアは八倍の年月が
流れている。まだぽっちゃりとした少女だったあの頃とは違い、マ
315
ヌエラは成熟した大人の女性になっていた。
﹁そなたは⋮⋮ますます美しくなった﹂
妃は、ぽっと頬を染める。﹁陛下、おたわむれを﹂
﹁ニャるほど。いい男は、そういうふうに女をほめるのか。勉強
にニャるなあ﹂
いきなり背後から聞こえた声にユーラスが飛び上がると、ヴァ
ルデミールがうずくまって、手帳に何やら書きつけていた。
﹁ヴ、ヴァルか。驚かすな﹂
﹁毎度あり。弁当持ってきたよ。その人は?﹂
﹁⋮⋮余の正妃だ﹂
むっつりと、ユーラスは答える。
﹁ええっ。アラメキアから来たの?﹂
ヴァルデミールは興味津々ながらも、理子の半分ほどにか細い
女性の前に立つと、礼儀正しくぺこりと頭を下げた。
﹁はじめまして。お妃さま。わたくし、魔王の従臣でヴァルとい
います﹂
﹁ま、魔王の従臣だと﹂
とっさに身構えて、懐剣を取り出そうとするマヌエラを、ユー
ラスはあわてて止めた。
﹁大丈夫だ。今は、魔王と休戦協定中なのだ﹂
﹁休戦協定? あやつが、そんなものを守るものですか﹂
﹁後で、詳しく説明する。それにヴァルは今、我が軍の食糧調達
係として働いてくれている﹂
マヌエラは見かけによらず、けっこう男勝りで正義感が強い。
王宮で一緒に暮らしていたときも、ナブラの政治について意見
を言うことがあって、控えめながらも、かなりの強硬派だった。
ユーラスが肘で小突くと、ヴァルデミールは﹁そ、そのとおり﹂
と調子を合わせた。
﹁お妃さまもごいっしょにいかが? 今日は特別に無料にしてお
くから﹂
316
﹁なんですか、これは﹂
﹁相模屋、相模屋のお弁当だよ。一個五百円。もしお気に召せば、
明日からお妃さまの分も合わせて毎日三つ配達するからね﹂
毒でも入っているのではと、差し出された弁当をおそるおそる
開いたマヌエラは、卵焼きを口に入れたとたんに目を輝かせた。
﹁おいしい﹂
﹁そうでしょう。地球の食べ物はアラメキアのより美味いんだか
ら。特にこのアジのフライは、取れ取れの最高のアジを使った絶品
だよ﹂
ヴァルデミールも、すっかり商売がうまくなった。
﹁そう言えば、例の100円弁当はどうなったのじゃ﹂
装置の手入れを終わった天城が、近づいてきて口をはさむ。
﹁それニャんだよね﹂
ヴァルデミールは、溜め息をついた。
﹁今、150円の攻防に入ってるんだ﹂
﹁150円の攻防?﹂
﹁本当は、100円にしたいんだけど、どうしても無理だと社長
に猛反対されてる。大量生産するとニャると、どうしても残り物だ
けでは足りニャいし、栄養のバランスを考えて肉や魚を入れると高
くニャるし﹂
﹁確かにな﹂
﹁おまけに、環境のことを考えてプラスティックをやめて紙容器
にすると、仕切りを作らないとご飯やおかずがごろごろ片寄ってし
まうし、保温や断熱効果のためには分厚さが必要で、そうすると全
然採算が合わニャくニャるし﹂
﹁ニャるほど﹂
思わず言葉が移ってしまうほど、ヴァルデミールの100円弁
当に懸ける熱意はすごい。
﹁あの、少し伺いたいのですが﹂
マヌエラは半分ほど食べ終えた弁当を、卓上に置いた。
317
﹁お話に出てくる﹃環境﹄とは何のことですか﹂
男たちは顔を見合わせた。
﹁環境は、環境だよ﹂
ヴァルデミールが代表として、口ごもりながら答えた。﹁人間
の住む場所と、その回りにある自然のこと﹂
﹁なぜ、その環境のことを考えなければならないのですか﹂
﹁だって、考えニャいと、人間が環境を汚してしまうだろう?﹂
﹁どうやって、自然を汚すことなどできるのです﹂
若き妃は、身を乗り出すようにして矢継ぎ早に訊ねてくる。
アラメキアは人口も少なく、自然を汚すような形の文明は発達
していない。何よりも地球と違うのは、精霊たちが自然を守ってく
れていることだ。
アラメキアに住む人間にとって、環境という言葉は、なかなか
理解のできないものなのだ。
ヴァルデミールは相模家に帰ると、開口一番に今日のことを理
子に話した。
四郎会長の厳しい指導のもと、彼女に対してなんとか敬語を使
わないでしゃべれるように訓練しているが、なかなかうまくいかな
い。
﹁アマギ博士のところに、ニャブラ王の悠里を訪ねて、女の人が
来てるんです﹂
﹁ふうん、悠里くんのお母さんか?﹂
﹁いいえ、奥さんというか﹂
﹁ええっ﹂
ユーラスが本当は九十歳であることを、順序だてて説明するの
は大変な手間がかかる。そのあたりをヴァルデミールはいつも適当
にごまかしてしまうのだ。
﹁と、とにかく、肉親というか親戚というか、そんニャもんです。
318
すごく好奇心のある人で、ゴミや環境のことで、ずいぶんいろいろ
質問されました﹂
﹁なんと説明したんだ﹂
﹁今のうちにゴミを減らす努力をしニャいと、人間はこの地球に
住めニャくなってしまうって﹂
相変わらず発音は下手だが、ヴァルデミールの話は、この頃変
わってきた。
最初は路上生活者のために安い弁当を作りたいと言っていただ
けなのに、いつのまにか生産コストや栄養のバランスや、環境など
という用語がぽんぽん飛び出すようになった。
理子の父はヴァルデミールに、将来の相模屋を背負って立つ後
継者という途方もない夢を託しているが、案外それは不可能ではな
いかもしれない︱︱理子はそんなことを心の中で思い始めている。
うれしそうに未来の夫を見つめる彼女の視線に気づき、ヴァル
デミールはユーラスとマヌエラが交わしていた粋な会話を思い出し
た。
﹁理子さん、そニャたは、ますます美しくニャったニャ﹂
理子は、目をまんまるに見開いた。
﹁バカ、何をいきなり、訳わからんことを言ってる﹂
こういうセリフは、付け焼刃ではうまくいかないのだった。
研究室の掃き出し窓に腰を下ろし、夕暮れの庭をぼんやり眺め
ていたユーラスの背後に、王妃マヌエラが静かに立った。
﹁陛下﹂
﹁ああ﹂
﹁もしかして、私を避けておられるのですか﹂
彼女は彼の隣にそっと腰をおろすと、悲しげに微笑んだ。﹁地
球へ来てもう数日が経つのに、今なお私とまともに目を合わせてく
ださいません﹂
319
﹁五年生になると六時間授業が増えて、何かと忙しいのだ﹂
﹁私が勝手に地球に来てしまったこと、怒っておいでなのですか﹂
﹁そんなことはないが︱︱﹂
ユーラスは膝の上に顎を乗せ、くぐもった声で言った。
﹁妃。そなたがここに来た本当の理由は何だ?﹂
﹁いいえ何も。ただ理由もなく不安で、いてもたってもいられな
かったのです﹂
マヌエラは、遠くを見るような眼差しを庭に向けた。
﹁陛下がおられなくなったあと、最近のアラメキアは、どこかお
かしいのです。何かが少しずつ狂い始めているような気がします。
今日みなさんがおっしゃっていた、自然や環境というものかもしれ
ません﹂
﹁まさか︱︱地球ならともかく、精霊の加護を受けているアラメ
キアに限って﹂
﹁わかりません。気のせいであってくれればよいのですが﹂
初夏の夜風が吹きぬけ、庭の隅に群生したラベンダーの甘い香
りを運び、さらさらとふたりの藍色の髪をなぶっている。
﹁大賢者さまのお手伝いをするかたわら、少しずつ家の回りを歩
いています。地球も美しいところですが、アラメキアとはずいぶん
違うような気がいたします。生き物がすべて狭いところに押し込め
られて、今にも窒息しそうに見えます﹂
﹁都会とは、そういうものだ﹂
彼女が来てからというもの、研究所の中は隅々まで掃除が行き
届いている。鏡のように磨きぬかれた床に、ユーラスはごろりと仰
向けに寝ころんだ。
﹁陛下は、異世界に来てお変わりになりましたわ﹂
マヌエラは穏やかな微笑を隣に向けた。
﹁魔王を倒しに行くとおっしゃって旅立ったはずなのに、魔王の
従者をお抱えに召しておられるなんて﹂
﹁おかしいか﹂
320
﹁いいえ。拙い私の目から見ても、あの男は善人であるような気
がいたします。とても邪悪な魔王の配下と思えません﹂
﹁ああ、最初は何も考えていないお気楽な男に見えたが﹂
ユーラスはくすりと笑った。﹁何度失敗しても挑戦し続ける、
あのひたむきさは、すごい﹂
﹁そんな暖かい目で人をご覧になる陛下は、やはりお変わりにな
りました﹂
﹁そうか、余はそんなに冷たい目をしていたか﹂
﹁己にも人にも厳しいお方だと、みな思っておりました﹂
﹁それでは、今の余はまるで別人だろうな。見てのとおり、何の
力も持たぬ十歳の子どもとして学校へ通いながら、平和そのものの
毎日を過ごしている。仲間とドッジボールをしたり、教室で漢字の
書き取りをしていると、ふとナブラ王であったことすら忘れそうに
なるときがある﹂
月明かりに照らされた天井を見つめながら、ユーラスはぽつり
と問うた。﹁そなたの目に、余の姿はどう映っている? みじめか﹂
﹁そんな小さなことをお気になさるなんて、陛下らしくない﹂
正妃は唐突に口をつぐんだ。次に話し始めたとき、声音が冷え
て硬いものに変わっていた。
﹁ご存じでいらっしゃいましたか。王宮への召しを受けたとき、
私には決まった殿方がおりました﹂
﹁え⋮⋮﹂
﹁私は、その人を心から好いておりました。正妃に決まったとき
は自害しようと思ったものです。ですが、家にふりかかる不名誉を
思えば、できませんでした﹂
﹁⋮⋮﹂
ユーラスの喉が、ビー玉のような塊にふさがれる。
﹁陛下は気まぐれゆえに身分の低い私を召し、わずか一年あまり
で、周囲に何のご相談もなく異世界に飛び出してしまわれた。それ
以来、私は王宮にて陛下のお帰りを待つことを強いられています。
321
宿下がりをすることもかないません。巷を自由に闊歩する代わりに
王宮の奥に閉じ込められて。おそらく一生、処女のまま飼い殺しに
されて﹂
彼女はにっこりと笑んだ。それは内に怨嗟を含んだ、凄絶な笑
みだった。
﹁私は何としても、陛下を追いかけようと決意しました。追いか
けて︱︱そして、陛下を一発ぶちのめしてやると﹂
﹁なに﹂
拳を振り上げ、突然すっくと立ち上がった正妃に、ユーラスは
度肝を抜かれた。
寝ころんだままの体勢で、反射的に両腕で頭をかばう。
﹁ハハ﹂
マヌエラは、平民の育ちを思い出させる、はすっぱな嘲笑の声
を上げると、清楚なドレスの長い裳裾をくるりとひるがえした。そ
の拍子に、ショールの小鈴がちりちりと鳴った。
﹁でも、そんな気もなくなりましたわ。先ほどの問いにお答えし
ましょう。ええ陛下の今のお姿は、みじめですわ。魔王の討伐も果
たさず、子どもになって無為に生きているなんて︱︱!﹂
暗闇の中で金色の斑をちりばめたように見える藍色の瞳から、
ひとすじの涙が伝い落ちる。
﹁私の目的は果たしました。もうここに用はありません。次の最
接近日が来たら、アラメキアに帰ることにいたします﹂
彼女が去ったあと、ユーラスは暗闇の中で、いつまでも頭をう
なだれていた。
﹁雪羽ちゃん、雪羽ちゃん﹂
天音先生が園庭の向こうから、ぱたぱたと走ってきた。
﹁また、あの男の子が来てるよ。﹃垣根の君﹄﹂
﹁ユーリおにいちゃんのこと?﹂
322
﹁光源氏みたいでステキだわー﹂
先生は、ひとりでロマンティックな空想に浸っている。
果たして、イチイの垣根の陰に隠れるようにして立っていたの
は、ユーラスだった。
﹁今日も、しょくごのおさんぽ?﹂
﹁ああ﹂
ユーラスはいつものように垣根のすき間から手を伸ばして、雪
羽の頭を撫でた。アラメキアの最高位の魔女に習った、﹃元気ので
る魔法﹄なのだという。
雪羽が幼稚園の友だちから無視されて遊んでもらえないことを
知ってから、彼は昼休みになると、こうして小学校を抜け出して雪
羽に会いに来る。
﹁どうしたの。今日はユーリおにいちゃん、元気がないね﹂
﹁そうか﹂
﹁﹃元気のでる魔法﹄が必要なのは、おにいちゃんのほうだよ﹂
雪羽は思い切り背伸びをして、ユーラスの頭に手を伸ばした。
指先がちょんちょんと、彼の前髪に触れた。
﹁余は、ひとりの女を傷つけてしまった﹂
十歳の少年は、懊悩のあまり落ちくぼんだ目と蒼ざめた頬をし
ていた。
﹁これまで、仕える者たちの気持など想像したこともなかった。
臣民は王に喜んで仕えるのが当然だと思っていた。まさか余のせい
で、歩もうとしていた人生をめちゃくちゃにされた者がいるなどと
は。⋮⋮いったい余は、どうすればよい?﹂
90年の歳月を重ねた男が、わずか五歳の子どもに頭を垂れて
教えを乞おうとしている。
雪羽は不思議そうに首をかしげた。﹁おにいちゃんは、おかあ
さんに教えてもらわなかったの?﹂
﹁なにを﹂
﹁悪いことをしたら、﹃ごめんなさい﹄。うれしかったら、﹃あ
323
りがとう﹄。それでもまだ足りなかったら、﹃だいすき﹄って言う
んだよって﹂
一目散に走って、天城研究所に戻ったとき、マヌエラ妃は、転
移装置の前にたたずんでいた。
﹁もうすぐゲートが開くそうです﹂
このあいだのことが夢かと思うほど、彼女の口からは、飽くま
でも淑やかな言葉が流れ出る。
﹁お健やかな様子を見て、安堵いたしました。短いあいだですが、
お世話になりました。陛下のご武運を、かの地からお祈り申し上げ
ております﹂
﹁しばし待て﹂
ユーラスはカバンから国語の学習ノートを取り出すと、一枚ち
ぎって突き出した。
﹁これは︱︱﹂
﹁余の署名入りの離縁状だ。戻ったら侍従長に見せるとよい。そ
なたのこれからの暮らしについても、こまかに指示してある﹂
﹁⋮⋮﹂
﹁そなたのことに今まで頭が回らなかった。すまぬ﹂
ナブラ王は片膝を床について、深々と頭を下げた。﹁そして、
余をこれまで支えてくれたことを感謝する﹂
﹁⋮⋮陛下﹂
﹁それから︱︱そなたの幸せを祈っている。これからは、好いた
男と睦まじく暮らすがよい﹂
天城は転移装置のかたわらで、何か言いたげな不満顔でうつむ
いている。
﹁わかりました。仰せのとおりにいたしましょう﹂
彼女は、すまして答えた。
﹁ただ、最後にひとつだけ、申し置きたいことがございます﹂
324
マヌエラは、長いドレスの裾を両手でぐっと持ち上げた。そし
てすたすたと軽やかな足取りでユーラスに近づくと、いきなり彼の
顔を殴りつけた。
﹁わっ﹂
拳とは言え、女の細腕。さほど痛みを感じるわけではない。
ユーラスが驚きのあまり叫んだのは、彼を見下ろす彼女の顔に
浮かんでいた晴れやかな笑みのゆえだった。
﹁あの男のことなら、ご心配なく。私が王宮に上がると知って、
さっさと別の女と結婚してしまいましたわ。今ではすっかり、でぶ
でぶのはげはげです﹂
﹁そ、それでは︱︱﹂
﹁陛下をちょっぴり脅かしてやりたかったのです。私がお恨み申
しあげていたのは、陛下がひとことの相談もなく私を捨てていらし
たことです。王宮に上がってからの毎日、あれほど御そばにいて、
陛下のことだけを見つめていましたのに﹂
﹁き、妃︱︱﹂
﹁ああ、言いたいことを言って、せいせいしましたわ﹂
彼女は埃を払うような仕草をして、つんと肩をそびやかした。
﹁それでは、お暇いたします。ごきげんよう﹂
彼女が転移装置に入り、機械の振動音とともにその姿が消えた
とき、こらえきれなくなった天城博士は、体をくの字に折って笑い
始めた。
それから一ヶ月ほどしたある日。
本鈴とともに教室の席に座ったユーラスは、担任教師が見慣れ
あまぎ まな
ない生徒とともに入ってきたのに気づいた。
﹁あー。転校生を紹介する。天城麻奈さんだ﹂
ユーラスはカバンから取り出そうとしていた教科書やノートを、
どさどさと床に落とした。
325
そこに立っていたのは、ピンクのパーカーシャツとショートパ
ンツ姿の五年生の少女だった。短く切った藍色の髪と金色の斑点の
ある藍色の瞳。
﹁天城さんは、天城悠里くんの遠縁にあたるそうだ。悠里くんの
家から通うことになる﹂
クラス中の生徒がどよめいた。特に女生徒たちの声は悲鳴に近
かった。
﹁ま、ま、まさか﹂
口をぱくぱく開け閉めするナブラ王に、マヌエラは講壇から降
りてきて、低くささやいた。
﹁時間神セシャトのもとに行き、髪と引き換えに陛下と同じ年齢
にしてもらいましたわ。だってそうしないと、妃が十八才も年上と
いうのは、おかしいでしょう?﹂
﹁そ、そんな大それたことを﹂
﹁精霊の女王さまのお許しもいただいてまいりました。大賢者さ
まには、この学校も含めて、いろいろな手続きをしていただきまし
た﹂
今朝、彼を送り出すとき、妙に天城博士がにやにやしていたは
ずだ。
﹁⋮⋮かえすがえすも、アマギのやつ!﹂
﹁ご不満ですの?﹂
アラメキアからやって来た美しき客人は、十歳の子どもらしく
無邪気な、それでいて、どこか艶っぽい笑みを浮かべた。
﹁だって、好いた男と睦まじく暮らせと命じられたのは、陛下で
すのよ﹂
326
冷たい水
夏休み最初のプール開放日は、シャワーから吹き出す水がまだ
冷たかった。
子どもたちは歓声をあげながら入口の水だまりで足踏みして、
光の屑をまき散らす。
薄日を反射してキラキラ光る25メートルプールを見ていると、
ふとナブラの海が思い出された。精霊の加護により荒れることも汚
れることもなく、貧しい国民に大きな恵みをもたらしてくれた紫紺
の海。
﹁陛下ととともに、サリカ湾から眺めたナブラの海を思い出しま
すわ﹂
突然寄り添うように隣に立ったショートカットの少女に、ユー
ラスはぎくりと体を強ばらせた。
﹁き、妃﹂
﹁今は、5年3組37番、天城麻奈ですわ。遠縁の天城悠里くん﹂
マヌエラは、いたずらっぽい笑みを浮かべて彼を見る。﹁そん
なにびくびくなさらなくても、ただのクラスメートとしてお接しく
ださいませ﹂
と簡単に言うが、ハイそうですかというわけにはいかないのだ。
彼女を三番目の正妃として召し、その挙句さっさと王宮を飛び
出して地球に来てしまった。そんな非道な夫を彼女は恨まぬどころ
か、同じ子どもの姿となって追いかけて来たのだった。
男がこれほど負い目を感ずる状況というのも、あまりないだろ
う。
﹁そ、それにしても、この恰好はなんだ﹂
327
﹁あら、おかしいですか﹂
マヌエラが着ていたのは、普通のスクール水着ではなく、まる
で大正時代の白黒写真に出てくるような、半袖、五分丈ズボンのシ
マウマ水着だったのだ。
﹁手に入れるのに苦労しましたわ。だって、陛下以外の殿方に素
肌をさらすわけにはまいりませんもの﹂
﹁よく、先生が許したな﹂
﹁肌が弱いので直射日光に当たれないと涙を浮かべたら、イチコ
ロでしたわ﹂
もともとがナブラ随一の美女。たとえ10歳の子どもになって
も、その色気は隠しようがない。
﹁そこまでして、自由参加のプール開放日に来る必要はないだろ
う﹂
﹁だって、こういう場所は、陛下にとって浮気の虫の宝庫ですも
の﹂
﹁悠里くん﹂
向こうから走ってくるのは、川越美空以下、数人の同級生たち
だ。
﹁よかった、来てくれたんだね。みんなで五分おきに電話した甲
斐があったよ﹂
﹁さ、ひとりとばっかり話してないで、いっしょに泳ご﹂
ぐいと手を引っぱられる。美空たちと麻奈のあいだに、目に見
えぬ雷光が走った。
そのときユーラスの背中に、暑さが理由ではない冷たい汗が伝
った。
タンスの鏡を見ながら、溜め息が出た。
朝だというのに、首筋からもう汗がにじみ出てくる。この国の
梅雨明けの猛暑は、洞窟や地下を根城としていた魔王にとって、か
328
なり厳しい。
﹁佐和。結んでくれないか﹂
﹁はい﹂
二本しか持っていないネクタイの一本を選ぶと、台所で洗い物
をしていた妻が、ていねいに手を拭って、やってきた。
﹁今日は、スーツなんですね﹂
﹁ああ、取引先に行くことになっている﹂
きゅっと衣擦れの音を立てて、ネクタイが巻かれる。首を締め
つける感覚が、人間の王たちに鎖で捕らえられたときのことを思い
出させて、ゼファーは苦手だった。
洗面所に長い時間こもっていた娘が、ととっと駆けてきた。こ
の頃、雪羽は自分の髪を自分で結いたがる。まだ完璧とは言えない
が、最初はスチールたわしのようにぐちゃぐちゃだった髪型が、次
第にまとまるようになってきた。
﹁幼稚園の用意はしなくていいのか?﹂
父親の身支度を不思議そうに見ている娘に、わかりきった質問
を投げかけると、
﹁だって、今日から夏休みだもん!﹂
うれしそうに胸をいっぱいにふくらませて、そう叫ぶ。
﹁そうか。いいな、雪羽には夏休みがあって﹂
﹁父上のカイシャには、休みないの?﹂
﹁幼稚園の休みに比べたら、ほんの微々たるものだ﹂
﹁じゃあ、魔王のときは、休みあった?﹂
無邪気な問いに、ゼファーは一瞬ぽかんとした。
﹁ああ﹂
彼は遠くを見るような目をして、微笑んだ。﹁休むなど、考え
たこともなかったよ﹂
坂井エレクトロニクスの工場の階段に座って待っていた春山は、
329
近づいてくるゼファーを見て立ち上がり、にやりと笑った。
﹁本当にあんたは不思議な人だ。そういう服を着て現われると、
しがない町工場の製造主任なんかじゃなく、まるで大財閥の御曹司
に見える﹂
﹁ネクタイを二本しか持っていない御曹司などあるか﹂
からかわれたと思って、ゼファーは顔をしかめた。﹁さあ、さ
っさと行くぞ﹂
ふたりは蝉の声に追いたてられるように、街路樹の影を選びな
がら歩き始めた。
﹁今日行くところは、カワキタ工業という社員15人ほどの町工
場だ﹂
タオルで汗を拭いながら、春山が説明する。
﹁マシニング加工や溶接を得意とする工場だ。だがこの頃、車や
オートバイ部品の受注が目に見えて減り、この数ヶ月は、いつ潰れ
てもおかしくない状況だ﹂
﹁そこと、うちの会社が提携する意味はあるのか﹂
﹁うちが比較的弱い工程をそこに回すことで、受注できる機械が
増える。設備投資を最小限に抑え、互いの得意分野を生かす。これ
は中小零細の町工場が生き残る、最善の方法だ﹂
﹁リンガイも、確か同じようなことを言っていたな﹂
﹁奴らといっしょにするな。目的が違う﹂
春山は、苦笑まじりに答えた。彼は数年前まで、リンガイグル
ープの一員だったのだ。
﹁俺は、提携先の社員をひとりだってリストラなどさせない。す
ばらしい技術を持っている会社を救いたいんだ。今のままでは、日
本という国は、みすみす大きな宝をドブに捨てることになる﹂
﹁ああ。わかっている﹂
ゼファーはうなずいた。﹁おまえには大きな荷物を背負わせて
しまったな﹂
営業の春山は連日、炎天下の中を、あちこちの製造業者を訪ね
330
て歩き回っている。
たとえ一台の機械でもいいから注文してほしいと頼みこむ。相
手の細かい要求に応じたオーダー製造の実績を積むことが、坂井エ
レクトロニクスのような小工場の取るべき道だというのが、彼の信
念だ。
だが、どんな注文でも確実に受けるためには、旋盤、研磨、溶
接、塗装といった、製造のあらゆる工程をこなす必要がある。ひと
つの工場では無理だ。そのためには地域の町工場のネットワークを
作るべきだと、春山は主張している。
だが、毎日を生き延びることだけで必死な中小企業オーナーに
未来を語ることは、生半可な覚悟でできる仕事ではなかった。
春山の顔は、この数ヶ月で消炭を塗りつけたように真っ黒に日
焼けしている。歩き回っているうちに、シャツが絞れるくらいぼと
ぼとになるので、会社に戻って着替えることも珍しくないらしい。
春山は、入る気もない量販店のドアマットをわざと踏んで、中
から漂い出てくる冷気に身をひたしながら、持参の水をぐびぐびと
飲む。
﹁いや、あんたには感謝してるよ。昔たくさんの会社に対して犯
した罪を、こうしてつぐなわせてもらっている﹂
﹁そうか﹂
﹁一度捨てた人生を、また取り戻したようなものだ﹂
唇をぐっと拭うと、春山はまた強烈な太陽の下へと歩き出した。
カワキタ工業の川北社長は、小柄で、度の強い眼鏡をかけた初
老の男だった。
﹁また、あんたか﹂
春山の顔を見て口の中でボツリとつぶやくと、また元通り、テ
ーブルの部品の上にかがみこむ。
﹁今日は、うちの製造主任の瀬峰を連れてきました。わたしの話
331
だけでは信用できないなら、この人と話してみてください﹂
﹁誰と話しても、同じことだよ﹂
ゼファーは、春山の後ろで、静まり返った工場の内部をぐるり
と見渡していた。
﹁いい工場だな。整頓がゆきとどいている。機械も、動線をみき
わめた配置になっている﹂
川北社長は顔を上げ、片目を眇めると、ぶっきらぼうに答えた。
﹁当たり前だ﹂
﹁だが、なぜ昼間から誰もいないんだ?﹂
﹁このところ、週三日の時短操業が続いてる﹂
﹁ですから、そういう状態ならなおさら、うちの工場と提携して
もらえませんか﹂
春山がすばやく畳み掛ける。
﹁おたくの得意とするウォータージェットや溶接を引き受けても
らえれば、うちから仕事を回すことができます﹂
﹁どうせ、体よく利用され、安く買い叩かれるだけだろう。お断
りだ﹂
﹁そんなつもりはありません。互いの得意分野を生かして協力す
ることが、これからの製造工場には必要なんです﹂
﹁じゃあ訊くが、あんたたちはどれだけの定期的な注文を約束し
てくれるんだね。納期までの原材料費や光熱費は誰が面倒を見てく
れるんだ﹂
﹁それはまだ、これからの話になります﹂
﹁ほら、設計図さえ描けていない。そんな甘い話に乗って傷口を
広げるのは、もうお断りなんだ﹂
社長は吐き捨てるように言った。﹁もういい。放っておいてく
れ。新しいことに手をつける気はない。うちの工場は、このまま自
然消滅で終わらせるんだ﹂
﹁川北社長!﹂
なおも激しく迫ろうとする春山にゼファーは目で合図し、代わ
332
りに静かな口調で続けた。
﹁社長。俺たちを信じてもらうわけにはいかないか﹂
﹁⋮⋮無理だ﹂
﹁わかった。邪魔をしたな﹂
一礼して踵を返したゼファーを、春山はあわてて追いかける。
﹁主任、もうあきらめてしまうのか﹂
﹁⋮⋮﹂
﹁奥さんが泣きながら話してくれた。あの社長は、数ヶ月前、腹
心だと信じていた社員に金を持ち逃げされた。それ以来、やる気を
失い、誰も信じることができなくなってしまっているんだ﹂
ゼファーはひとつの機械の前で足を止めた。
しばらくじっと見つめていたが、おもむろに上着を脱ぎ、ネク
タイの先をシャツのポケットにねじこんだ。
そして、そばにあったウエスを取り上げて、機械を丁寧に拭い
始めた。
﹁おい、何をしているッ﹂
社長はすぐに立ち上がり、サンダルをぱたぱたさせて駆け寄っ
てきた。﹁うちの機械に触るな!﹂
﹁古い油で汚れているので、拭いている。いい機械なのにもった
いない﹂
﹁そんなことをしてもらう筋合いはない。もうその機械を動かす
ことはないんだ。離れろ﹂
しかし、ゼファーはなおも手を休めることなく、拭い続けた。
﹁俺の率いていた軍隊に、鞍みがきの奴隷というのがいた﹂
誰に聞かせるでもなく、話し始める。
﹁軍隊の中では最低の位だ。鞍みがきの奴隷と言えば、戦いには
まったく役に立たぬ無能な者の象徴だった﹂
その漆黒の瞳は、遠い彼方の世界を、憧憬と痛みをもって見つ
めていた。
﹁一度だけ、ひとりの鞍みがきの奴隷が、部下を通して進言をし
333
てきたことがある。﹃馬が疲れきっている、休ませてほしい﹄と。
だが俺は、その言葉を信じなかった。無視して行軍を命じた。今に
なって思えば、あの奴隷は馬の状態や戦列のことが、きっと誰より
もわかっていたのだろう。彼のいうことに耳を傾けていれば、ある
いは俺の軍は、あれほどたやすく滅びることはなかったかもしれぬ﹂
川北社長と春山は、狐につままれたような顔で聞いている。
﹁この世界に来て、俺は坂井社長に拾われて製造主任となった。
だが、実際は何の知識も技術も持たず、できることは機械を磨くこ
とだけだった。だがその中で少しずつ、機械のこと、工場全体のこ
とがわかるようになっていった﹂
ゼファーの背中は、暗い工場の中で、ほの明るい光輪に包まれ
て見えた。
﹁さげすんでいた鞍みがきの奴隷と同じことを、俺は今も続けて
いる。そのことを誇りに思っている﹂
ゼファーは振り向くと、﹁社長﹂と呼びかけた。
﹁人を信じるのは、むずかしいことだ。だが、俺は本心から、お
まえの工場が滅びてほしくないと願っている。もう一度考え直して
くれないか﹂
帰り道のアスファルトは燃える炉のようで、ゼファーと春山は、
ひりつく肌を我慢して歩いた。
﹁俺は焦りすぎていたのかもしれない﹂
春山がポツリとつぶやいた。﹁こういう仕事は、一朝一夕では
できない。わかっていたはずなのに﹂
﹁人の心は、そうたやすくは変わらないぞ﹂
﹁だが、時間をかけて手遅れになるのが、一番怖い。今の製造不
況は底無しだから﹂
﹁我慢の日々が続くことになるな﹂
春山の携帯が突然鳴り出し、ふたりは立ち止まった。
334
携帯を耳に当てた春山の顔色が変わった。﹁それは、本当か!﹂
﹁悪い知らせか?﹂
眉をひそめるゼファーに、春山は奇妙な笑みを返した。
﹁昔の同僚からだ。リンガイ・インターナショナルが今日、会社
更生法の適用を申請した﹂
﹁なんだと?﹂
﹁つぶれたんだ。ハハ、あの会社が﹂
春山は興奮して両の拳を打ち合わせると、まるで獣のように低
いうなり声をあげて、飛ぶように歩き始めた。
﹁大変なことになる。リンガイと提携していた部品メーカーに連
鎖倒産の嵐が吹き荒れるぞ﹂
炎熱に白く照らされた街が、帰途を急ぐふたりの男の目に、妙
に寒々として見えた。
﹁よかったな。主任﹂
﹁え?﹂
﹁坂井エレクトロニクスが、リンガイとの提携を蹴ったことさ。
もし提携していれば、今ごろ共倒れだ﹂
﹁そうか﹂
ゼファーはとまどったように答えて、唇を結んだ。
会社が苦境に立つたびに、何度リンガイと手を結んでおけばよ
かったと後悔したことだろう。
あのときの決断は間違ってはいなかった。そう思うことで、今
さら何が変わるわけでもないが、それでも心に、ひとかけらの慰め
を得た思いがする。
工場に戻ったとたん、坂井社長が、二階の事務室からバタバタ
と外階段を駆け下りてきた。
﹁今、カワキタ工業の社長から電話があった!﹂
喜びのあまり裏返った声で、社長は叫んだ。﹁うちとの協力の
話、お引き受けしますと!﹂
春山とゼファーは、信じられないように顔を見合わせた。
335
﹁今日は、次々と驚くことが起こる一日だ﹂
女性事務員の高瀬が入口でにこにこしながら、コップの乗った
お盆をささげ持っていた。
﹁お疲れさまでした。どうぞ﹂
ふたりの男は競い合うようにして水滴のついたコップをつかみ、
一息にあおる。
冷たい氷水が、焼けついた喉から腹の底まで、心地よく伝い落
ちた。
336
ウェディング・ブーケ
海に近づくにつれ、濃厚な香りが鼻腔をくすぐる。
ヴァルデミールは大きく伸び上がり、心のヒゲを風に震わせた。
﹁ほら、魚のにおいがしてきました﹂
﹁わかった。わかったから、窓から頭をひっこめろ。危ない﹂
堤防沿いに車を停め、港に向かった。
桟橋の倉庫の床にところせましと置かれた木箱の中で、獲れた
ての魚介類がぴちぴち跳ねている。ここの港の名物、浜の朝市だ。
相模屋弁当の社長と専務は、週に一度の定休日の夜明け前に起
き出して、理子の運転する小型トラックで魚の仕入れにやってくる
のだ。
﹁あっ。この魚安い。おいしそうニャのに、どうして﹂
﹁兄ちゃん、目利きだねえ。これは関西ではベラと言って高級魚
なんだけど、関東では水臭いって捨てちゃうところもあるんだよ。
煮付けや南蛮漬けにすると美味いよ﹂
﹁買う、買う。たくさん買うから、おまけしてぇ﹂
﹁はは、猫なで声も堂に入ってるな﹂
﹁あんた、いい若い衆を手に入れたね﹂
古くからのなじみのおばさんが、気さくに理子に話しかけてき
た。
﹁人当たりはいいし、ひとめで魚を見分けちまうし、あの年でた
いしたもんだ。どこで拾ってきた?﹂
﹁さあ、公園だったかな﹂
﹁は?﹂
仕入れた魚を保冷箱に入れて荷台に積むと、理子とヴァルデミ
ールは堤防のテトラポットに並んで腰かけた。
337
暑かった夏もようやく終わるのか、浜風は秋めいて心地よい。
﹁今週も無事に、安くていい魚が仕入れられましたね﹂
ヴァルデミールは持参の鮭のおにぎりを、幸せそうに口いっぱ
い頬ばった。﹁お弁当を買ってくれる常連さんたちが、きっと喜び
ます﹂
﹁ヴァルが塩鮭を買い付けるようになってから、しゃけ弁当の売
上げがずいぶん伸びた。おいしいと口コミで評判になっているらし
い﹂
﹁いい塩鮭を見つけると、自然と口の中がよだれでいっぱいにニ
ャるんですよね﹂
理子は、彼のうなじで揺れている長い後れ毛を、赤い眼鏡の奥
からまぶしそうに見た。
﹁おまえのおかげだ。おまえがいないと、もう相模屋弁当は立ち
行かない﹂
﹁そ、そんニャことありません﹂
ヴァルデミールは恥ずかしそうに答えた。
﹁いまだに一万円札と五千円札を間違えるし、せっかく立ち上げ
た﹃150円弁当﹄も赤字続きだし、わたくしは会社の役に立つど
ころか、損ばかりさせています﹂
﹁だが、安いと言って、みんな喜んで弁当を買ってくれる。今は
それでよいのではないか﹂
﹁はい⋮⋮は⋮⋮はっくち!﹂
ヴァルデミールは、小さなくしゃみをした。﹁風が冷たいよぉ﹂
﹁もう秋だなあ⋮⋮って、おい、何をしてる﹂
﹁猫は寒いのが一番苦手ニャんです﹂
ヴァルデミールはちゃっかり、理子のふくよかな胸に抱きつい
て、風を避けているのだ。
﹁ふわふわであったかーい﹂
﹁こら、普通の恋人同士なら、男が﹃寒いだろう﹄と女に上着を
かけ、腕の中に抱き寄せてだな⋮⋮﹂
338
理子はため息をついた。
﹁ま、いいか﹂
ヴァルデミールの長い黒髪をゆっくりと撫でてやる。﹁私たち
は、普通の恋人同士じゃないもんな﹂
﹁⋮⋮社長﹂
﹁なんだ﹂
﹁⋮⋮あんまり気持よくて、ニャんだかムラムラと﹂
﹁ば、ばか。こんなところで何を考えてる﹂
離れようとした時はすでに遅く、理子の胸元で、男もののシャ
ツに包まった黒猫が、申し訳なさそうに﹁にゃあん﹂と鳴いた。
﹁どれ﹂
と天城博士は、手を伸ばした。
﹁これが、ベラの南蛮漬けか。なかなか美味じゃな﹂
﹁だろ?﹂
ヴァルデミールは得意げに胸を張った。天城一家には、毎日の
弁当の配達のときに、ときどき150円弁当の試食係を頼んでいる。
﹁でも、原価が150円以内におさまらニャくて、赤字続きニャ
んだよね﹂
﹁確かにな﹂
ユーラスがひとつずつ箸の先で数え上げる。
﹁ベラの南蛮漬け、野菜の皮のきんぴら、大豆の煮物の油揚げ包
み。もやしとベーコンのオムレツ、野菜くずの浅漬け。大きなおに
ぎり二つ﹂
﹁捨てる食材や安い食材をうまく使っていますが﹂
マヌエラが嘆息した。﹁これでは150円に収まるわけありま
せんわ﹂
儲かるどころか、売れば売るほど赤字が出てしまう。
それでも、日々ぎりぎりの暮らしをしている路上生活者や日雇
339
い労働者が涙をこぼさんばかりに150円弁当を喜んでいるのを見
ると、やめることなど到底できないのだ。
﹁ほんの少しでも、儲けがでればニャあ﹂
彼の次の目標は、相模屋弁当で作るすべての弁当に、紙の弁当
箱を使うことだ。
だが、環境に良いと言われる紙やエコファイバーの弁当箱はプ
ラスチックの二倍の原価がかかるとあっては、なかなか踏み切るこ
とができない。
﹁それはそうと、これはなんじゃ﹂
弁当の横にさりげなく置いてあるカードに、天城博士が気づい
た。
﹁請求書か﹂
﹁﹃寿﹄のシールを貼った請求書ニャんかが、どこにある!﹂
﹁ほう、結婚式と披露宴への招待状か。でもいったい誰と誰が﹂
博士とユーラスはニヤニヤと、わざと意地悪く訊ねる。
憤慨したヴァルデミールは、さっと招待状を手の中に取り戻し
た。
﹁博士とニャブラ王は欠席。王妃さまだけ出席﹂
﹁おい、待て﹂
ユーラスはあわててヴァルデミールの肩を抱いて、なだめ始め
た。
﹁余が行かなくていいのか。いろいろと助言が必要だろう﹂
﹁シュニンに頼むから、いらニャいよ﹂
﹁魔王は、結婚式など一度も挙げたことはないから役に立たんぞ。
それに比べて余は、三回もの経験者だ﹂
ひとつだけゼファーに勝てることが見つかり、十歳の勇者は気
分を良くしている。
﹁そ、そりゃまあ﹂
言われてみると、確かにそのとおりだ。ゼファーと佐和は入籍
しただけで、結婚式を挙げていない。
340
主人にならってヴァルデミールも、お手軽にそうしたいところ
なのだが、いかんせん四郎会長がガンとして譲らないのだ。披露宴
も盛大にして、得意先をたくさん招待するのだという。
﹁ホテルの大広間を早く予約しろだとか、お色直しは最低二回だ
とか、すごい張り切りようニャんだ﹂
﹁女にとって結婚は一生の晴れ舞台です。父親として、できるだ
けのことはしてあげたいのですわ﹂
マヌエラは自分の華やかな輿入れを思い出し、深く同感する。
﹁でも⋮⋮﹂
ヴァルデミールは、爆発で煤だらけの天井を見上げながら、悲
しげな吐息をついた。
﹁社長とわたくしの結婚は、会長を騙すことにニャらないかなあ﹂
四郎会長は、﹁早く孫の顔が見たいのう﹂と口癖のように言っ
ている。でも、魔族のヴァルデミールでは、人間との間に子どもが
生まれるはずがないのだ。肝心なときには猫に変身してしまうのだ
から。
﹁ヴァル﹂
ユーラスが恐いほど真剣なまなざしで彼を見た。﹁ひとつ言っ
ておくことがある﹂
﹁ニャ、何?﹂
﹁おまえ、披露宴のときも、その憂いを含んだ顔でいろ。いつも
より百倍は男前だ﹂
相模屋弁当の工場へ帰ってくると、従業員のひとりがあたふた
と飛び出してきた。
﹁大変です、ヴァルさん﹂
﹃センム﹄と呼ばれるのが大の苦手なヴァルデミールは、絶対
にそう呼ばないでほしいとみんなに頼んでいるのだ。
﹁﹃情報まんさいテレビ﹄の取材が、来てるんです﹂
341
﹁えっ﹂
工場の中は、カメラや照明や反射板を持つテレビ局の人たちで
いっぱいだった。
その中央で、きちんと工場のお仕着せを着た若い女性リポータ
ーから、インタビューのマイクを突き出され、理子がおろおろして
いる。
﹁あ、ヴァル﹂
理子は天の助けとばかりに、エアカーテンの中に入ってきたヴ
ァルデミールに駆け寄った。
﹁こ、この人が、150円弁当の発案者です﹂
﹁ひえ?﹂
カメラと照明が、一斉に彼に向けられた。
晩酌のとき四郎会長が居間でテレビを見ているので、ヴァルデ
ミールもテレビがどういうものか、なんとなくわかるようになった。
あの四角い箱の中にこの工場が映って、たくさんの人が彼のし
ゃべることを聞いてくれるのだろうか。
﹁150円弁当を思いついた最初のきっかけは何ですか﹂
リポーターの質問に、ヴァルデミールはマイクに向かって叫ん
だ。
﹁あ、あのっ、普通の500円のお弁当だと、公園や路上で生活
する人たちには高すぎるのです。今はますます仕事がニャくって、
みんニャ食べるものに困っています﹂
﹁でも、たった150円でお弁当を作るのは大変でしょう﹂
﹁だから、いっぱい工夫したんです﹂
彼は、リポーターの女性の手をぐいと引っぱると、︽全自動高
速乱切り機︾の前に連れていった。
﹁これが、︽坂井エレクトロニクス︾が作った、すばらしいニン
ジンの機械です。野菜をすごいスピードで切ることができます。ご
注文は、︽坂井エレクトロニクス︾へどうぞ!﹂
﹁あ、あの⋮⋮﹂
342
﹁どんなすごい機械でも、野菜の皮や切りクズが残ります。それ
をニャんとか再利用しようと、けばけばスカートのおばさんが美味
しいおかずにしてくれました﹂
﹁それは、すごいアイディアですね﹂
﹁それでも、150円ではまだ赤字が出てしまいます。だから汁
の出るおかずを揚げで包んだり卵でとじたりして、ニャるべく仕切
りやホイルカップをニャくすようにしています﹂
﹁ニャるほど﹂
ヴァルデミールの勢いについ乗せられたリポーターは、言葉が
移っているのも気がつかない。
﹁本当はもっとゴミを減らすために、紙やエコファイバーの弁当
箱を使いたいと思っています﹂
﹁ゴミ問題は深刻ですからね﹂
﹁はい。あニャたも公園や路上で暮らせば、ゴミの多さにびっく
りしますよ﹂
﹁一度やってみます﹂
﹁もし、みニャさんが相模屋の500円弁当をたくさん買ってく
れたら、その儲けを使って、環境にいい弁当箱を使えるし、150
円弁当をもっとたくさん作って、ホームレスの人に喜んでもらえま
す﹂
﹁ほんとにそうですね﹂
ヴァルデミールはカメラに突進して、レンズをかかえこむよう
にして訴えた。
﹁相模屋、相模屋のお弁当ですよ。日本一のお弁当、相模屋。よ
ろしくお願いします!﹂
﹃情報まんさいテレビ﹄の放送があった次の日から、相模屋弁
当には倍の注文が舞い込むようになった。
普通なら、必要のない部分は編集で大幅にカットされてしまう
343
のが常だが、日系移民らしき若い男が、たどたどしい言葉で懸命に
しゃべっている様子が珍しかったのか、ヴァルデミールのインタビ
ューはほぼノーカットで放送された。
おかげで、︽坂井エレクトロニクス︾にもぽつぽつ、テレビを
見たという人から問い合わせの電話が来るようになった。
﹁まったく、あんたにこういう才能があったとはな﹂
営業の春山は、ヴァルデミールの顔を見ると、苦笑まじりで誉
めちぎった。
﹁おじさんの言うとおりでした。赤字覚悟でインドパキスタンの
ある宣伝をすれば、相模屋弁当全体の売上げが上がるって本当でし
た﹂
今やすっかり時の人となり、どこへ行っても声をかけられるヴ
ァルデミールは、ちっとも疲れた様子も見せず、朝から晩までうれ
しそうに働いている。
またたく間に日は過ぎ、とうとう結婚式の当日となった。
﹁ど、どうしましょう﹂
ヴァルデミールは、朝からうろうろと居間を歩き回っている。
﹁ちょっとは落ち着け。テレビ出演のときのほうが落ち着いてい
たぞ﹂
﹁突然引っぱり出されるほうが、あれこれ考える暇がニャくてい
いんですよ﹂
理子は一見、泰然自若だが、よく見ればソファのクッションの
下に隠した手の爪先が少し震えているのがわかる。
当然のことながら結婚が初めてのふたりは、今日の華燭の典を
迎えて急に不安になっているのだった。
ガラリと引き戸が開いた。
﹁もう用意はできたか﹂
﹁あ、会長﹂
344
ヴァルデミールは走っていき、紋付き袴の四郎会長の足元にガ
バとひざまずいた。
﹁お父さん。長い間、お世話になりました﹂
﹁こらこら、それは花嫁のセリフじゃ﹂
﹁あ、間違えた。お父さん。お嬢さんをわたくしにください﹂
﹁ヴァルよ。おまえはどうもピントがずれとるのう﹂
呆れたようなため息をつく。
﹁だが、おまえに﹃お父さん﹄と呼ばれるのは、うれしいものだ。
今日からおまえは、わしの息子になるのじゃなあ﹂
﹁わたくしのような者が、相模家の一員にニャるなんて、ゆるさ
れるのでしょうか﹂
ヴァルデミールはしょんぼりとうなだれた。彼は結婚すれば相
模の籍に入ることになっており、そのことについて理子の兄姉は、
あまり心良く思っていないらしいのだ。
﹁家を出た兄さんや姉さんには、ひとことだって文句を言わせる
ものか﹂
理子は吐き捨てるように叫ぶ。
﹁なあに。付き合ううちに、きっとあいつらもヴァルのことを気
に入るさ﹂
四郎は、にこにこと笑みをたたえている。
﹁さあ、そろそろ式場に行くか﹂
﹁あの、その前にひとつだけ﹂
ヴァルデミールは居住まいを正した。﹁お話しておきたいこと
が、あります﹂
理子はその隣で﹁えっ﹂という顔をした。
﹁なんじゃ﹂
﹁実は、わたくし本当は、人間︱︱﹂
そのとき、玄関の扉ががらりと開いた。
﹁社長、会長、ヴァルさん!﹂
ヴァルデミールとともに専務を務めている古参の社員が駆け込
345
んできて、悲鳴に近い声を上げた。
﹁どうした﹂
﹁そ、それが受注係が注文を大量に間違えていたのです﹂
﹁ええっ﹂
﹁今日の四時までに納品しなければならないのに、用意した分だ
けでは五十個足りません!﹂
﹁い、急いで追加を作れるか﹂
﹁材料はなんとかなりますが、この時間では、みんな帰宅したと
ころです﹂
﹁大至急、呼び戻せ。秋川のおばさんは特にだ!﹂
理子は仁王立ちになって、怒鳴った。
そして、ヴァルデミールとうなずき合うと、用意していたバッ
グや靴を放り出して、工場へと走っていった。
ホテルの結婚式場の前の廊下では、ゼファーたちが新郎新婦の
到着を今か今かと待っていた。
﹁いったい、どうしたんだ。ヴァルは﹂
ユーラスはイライラと、靴の先で毛足の長いじゅうたんをほじ
くっている。
﹁家にかけても誰も出ないし﹂
﹁まさか、道で迷子になってるんじゃないだろうな﹂
﹁浮かれてドブに落ちたとか﹂
﹁怪我した仲間の猫を見つけて、病院に付き添っているとか﹂
﹁ヴァルさんひとりならともかく、理子さんがついてるんだから
大丈夫ですわ﹂
マヌエラが明るく言うが、みなの表情は晴れない。
﹁もうすぐ、式の時間になってしまうぞ﹂
そのとき雪羽が突然、高い声を張り上げた。
﹁ヴァユは、そこの角を曲がったところだよ﹂
346
﹁なんだって﹂
﹁ほら、いっしょうけんめい走ってる。理子さんもいっしょだよ。
背中におんぶして﹂
﹁⋮⋮どうして、そんなことがわかるの、雪羽﹂
﹁今、回転ドアをくるくるって入ってきたよ。エレベーターじゃ
なくて、階段を上がってくる﹂
彼らは雪羽の声につられて、ホールのほうを見つめた。
﹁ほら、もう少し。あと五秒﹂
みんな知らず知らずのうちに、心の中でカウントダウンを始め
た。
ゼロの瞬間、理子を背中に背負ったヴァルデミールが、ものす
ごい勢いで汗をまき散らしながらホールに駆け上がってきた。
﹁お待たせしました!﹂
その夜、瀬峰一家はバス停からの家路をゆっくりたどっていた。
﹁いい結婚式だったな﹂
﹁ええ﹂
﹁正直、相模屋弁当の社長が、あれほどきれいな女性だったとは
思わなかった﹂
﹁ヴァルさんも、とても凛々しく見えたわ。理子さんのご友人た
ちが、何度もため息をついていたもの﹂
﹁ナブラ王と天城博士は、最初から最後まで腹をかかえて笑って
いたがな﹂
ユーラスの忠告に従って、ヴァルデミールは披露宴の間、せい
いっぱいのしかめっ面をしていたのだった。彼は黙って眉根を寄せ
ていると、とても美男子に見えるのだ。
﹁精霊の女王も会場の花の陰から、嬉しそうな顔でこっそり覗い
ていた﹂
雪羽は両親に手をつながれて歩きながら、少し眠気がさしてき
347
たようだった。
﹁父上ぇ。だっこ﹂
﹁ああ﹂
ひょいと娘を抱き上げると、ゼファーはまじまじと妻の顔を見
つめた。
﹁すまない﹂
﹁え?﹂
﹁とうとうおまえには、結婚式を挙げてやれなかったな﹂
﹁まあ、そんなこと﹂
佐和はくすくす笑い出した。﹁私はそういう華やかな場って苦
手なんです。第一、ウェディングドレスを着るような柄じゃありま
せん﹂
﹁いや。きっと、地球やアラメキアのどんな女よりもきれいだ﹂
﹁ゼファーさんたら﹂
佐和は頬が熱くなるのを感じて、立ち止まった。それは、彼が
昔愛した精霊の女王よりも、ということだろうか。﹁嘘ばっかり。
本気にしますよ﹂
魔王は娘を片手に抱いたまま、もう片方の腕で彼女を抱き寄せ
た。
﹁俺が嘘を言うほど器用な男だと思うか?﹂
夜遅くなって家に帰ってきた新婚ほやほや夫婦は、父親が自室
に引き取ったあと、居間のソファに並び座った。
明日からさっそく、朝四時起きの毎日が始まる。弁当工場の経
営者は、新婚旅行に行っている暇などないのだ。
﹁ああ、おなかが空いた﹂
二回のお色直しで、披露宴のご馳走を食べる暇もなかった理子
は、結んだばかりのおにぎりをパクついていた。
﹁ニャんだか、すごく長い一日でしたね﹂
348
重い理子を背負って工場からホテルまでの二キロの道をひた走
ったヴァルデミールは、ほうっと疲れきった様子でソファにもたれ
た。
﹁お弁当五十個も無事納品できたし、式にも間に合ったし﹂
そして、ぽりぽりと頭を掻きながら、恥ずかしそうに付け加え
た。﹁それに社長は、どのドレスのときも、とても美しかったです﹂
﹁ヴァル﹂
コンタクトをはずして元通りの赤い眼鏡をかけた理子は、おに
ぎりをごくりと飲み込むと、夫を見つめた。
﹁ニャんですか﹂
﹁その﹃社長﹄と呼ぶのをやめて、名前で呼んでくれないか﹂
﹁え⋮⋮﹂
﹁私たちは、今日から夫婦なんだぞ﹂
﹁はい。ノリコ⋮⋮さん﹂
ヴァルデミールは、おそるおそる確認するように上目遣いで理
子を見た。
﹁亡くなった母は、私のことを﹃リコ﹄と呼んでいた﹂
﹁リコ﹂
そのとたん、勝気な女の目からぽろぽろと涙がこぼれた。
﹁大切な誰かに、そう呼んでもらえる日が来ればいいと、⋮⋮ず
っと思ってたんだ﹂
﹁リコ︱︱リコ﹂
呪文のように繰り返すと、ヴァルデミールは妻のほっぺたにつ
いていたご飯粒をぺろりと舐めた。
そして、そのまま唇まで移動した。ゆっくりと味わいつくすよ
うに、何度も口づける。
﹁ヴァル⋮⋮﹂
﹁ああ、そろそろ、猫にニャりそうです﹂
目をつぶって、夫の顔にヒゲやふかふかの毛が生えてくるのを
覚悟していた理子は、いつまで経ってもそうならないので、いぶか
349
しんで目を開けた。
﹁あれ?﹂
一番驚いているのは、ヴァルデミールだった。﹁猫にニャらな
い?﹂
テーブルに置いたウェディングブーケの白バラの間から、精霊
の女王が微笑んだような気がした。
350
色葉ひらひら
夫が、どうも挙動不審だ。
むろん、夫と言っても過去の話。この異世界に来て、互いに十
歳の姿となってからは、肩を抱かれたことも、唇を寄せたこともな
い。
それでも、マヌエラにとって、ユーラスはいつも思いを占める
存在なのだ。気がつけば、授業中でも自分の席から、彼の背中を見
つめている。うなじにかかる蒼い髪の一本一本まで数えてしまう。
﹁天城麻奈くん。先生の言うことを聞いていますか﹂
そういうときに限って、先生は答えられない質問をマヌエラに
当てるのだ。
給食が終わると、週に二、三度、ユーラスはそそくさと教室を
飛び出してしまうことがある。どうも、こっそり学校の外に出てい
るようで、同じクラスの男子生徒たちに、給食当番を代わってもら
ったり、先生へのアリバイ工作を頼んでいるらしい。
﹁教えてくださいな。悠里は、いつもどこへ行っていますの?﹂
﹁し、知らないったら﹂
照れて顔を赤くした悪ガキたちは、わざとらしく口笛を吹き始
める。大人っぽい色気をまとったマヌエラに詰め寄られると、ユー
ラスと固く交わした秘密の誓いも、ついぐらつきそうになるのだ。
﹁一刻を争うのです。大叔父さんの葬式のことを、悠里に至急知
らせなければならないの﹂
天城麻奈と天城悠里は、遠い親戚ということになっている。
﹁連絡が遅れて悠里が出席しそこねたら、せっかく死んだ大叔父
さんが生き返ってしまいますわ!﹂
351
﹁そ、それは大変だ﹂
わけのわからない説明に納得して、彼らはあわてて行き先を教
えてくれた。
﹁イチイ幼稚園?﹂
首をかしげる。なぜかわからないが、第六感がぴんと働く。陛
下に、浮気の虫の気配がするのだ。
裏の通用門のほうに急いでいると、同じクラスの川越美空と数
人の女子生徒たちが、ばっと彼女の前に立ちはだかった。
﹁あら、天城さん、おひとりでどこへ行くつもり﹂
﹁あなたがたには、関係ございませんわ﹂
マヌエラは、冷ややかに答えた。
﹁まあ、えらそうに。﹃いろはにほへと﹄も知らないくせに﹂
彼女たちは、小ばかにしたようにキャアキャア笑った。
先週の国語の授業のとき、マヌエラは先生に当てられて、﹃い
ろは歌﹄について答えることができなかったのだ。
﹁四年の国語でとっくに習っているはずなのに、忘れたの?﹂
それ以来女子生徒たちは、ことあるごとにマヌエラをからかっ
た。
しかたがないではないか。つい四ヶ月前まで、彼女はアラメキ
アに住んでいたのだから。
家に帰って、ユーラスに聞くと、
﹁要は、﹃あいうえお﹄四十七文字をすべて使った歌があるのだ。
余も、最初にこの世界に来たときは、わけがわからなかった﹂
と慰めてくれた。
浅き夢見じ 酔ひもせず ん﹄⋮⋮この最後の
﹁﹃色は匂へど 散りぬるを 我が世誰ぞ 常ならむ 有為の奥
山 けふ越えて
﹃ん﹄を忘れずに大声で叫ぶのが、コツのようだぞ﹂
﹁子どもが習うには、むずかしい歌ですわ﹂
﹁彼らには意味がわからずとも、ただ覚えるだけでよいらしい﹂
﹁いったい、どんな意味がありますの?﹂
352
人生の山道を越えていくときに、はかない夢を見た
﹁花は美しく咲いても散ってしまう。我々の人生もいつまでも同
じではない。
りぼんやりしていては、この世のほんとうの有様を知ることはでき
ない︱︱というほどの意味だ﹂
﹁まあ﹂
それを聞いたとき、マヌエラは感激のあまり、思わず涙ぐんだ
ものだ。﹁なんと深く、傾聴すべきことばでしょう﹂
アラメキアで今まで持っていたナブラ王妃としての位も、必死
で磨いた教養も、この異世界では何の役にも立たない。それどころ
か、今目の前にいるわずか十歳の級友たちにさえ、﹁天城さんて、
頭わるーい﹂と嘲られている毎日。
﹁ほんとうに、人生というのは無常ですわ﹂
ふっと溜め息とともに漏らしたことばに、美空たちはポカンと
した。
﹁何言ってるの、この子﹂
﹁いえ、あなたたちには理解しがたい、この世の理です﹂
﹁なまいきーっ﹂
﹁やっちゃえ!﹂
女生徒のひとりが、マヌエラの髪をひっつかもうと腕を伸ばし
た。
マヌエラはその腕を逆につかむと、ひょいとひねった。
尻餅をついている子のそばを、軽やかに通り過ぎると、振り返
って微笑む。
﹁あなたがたでは、陛下のお相手には百年早いですわ﹂
冬はもうすぐ、そこまで来ていた。
街路樹の色づいた葉もあざやかさを失い、北風が吹くたびに、
はらはらと舗道に錦を敷きつめる。
いつも昼休みになると、イチイ幼稚園の垣根の陰から雪羽のこ
353
とを覗き見する美少年がいる。
みなみあまね
彼のことを、光源氏になぞらえて﹃垣根の君﹄と呼んだのは、
産休教師の南天音先生だが、それがいつのまにか近所の主婦の間に
も広がり、﹃垣根の君ウォッチャー﹄なるものまで出現しているら
しい。
今日も昼休みに園庭に出たとき、少年が覗いているのを見つけ
た天音先生は、﹁おや?﹂と思った。
彼の隣に、いつもは見かけない少女が立っているのだ。
﹁まあ、なんてきれいな女の子﹂
ふたり並ぶと、まるでヨーロッパの王室の肖像画のようだ。ま
わりの空気がきらきら光り輝いている。
︵やっぱり、ああいう美男美女には、ちゃんと小さいうちからお
相手がいるのね︶
彼氏いない暦23年の天音先生は、がっくりと肩を落とす。
︵どうしよう。ユーリお兄ちゃんが来てること、今日は雪羽ちゃ
んには知らせないほうがいいかな︶
雪羽ちゃんにとって、たぶん初恋だしと、あれこれ勝手な感傷
にひたっていると、ベテラン教諭の大崎先生が玄関に現われた。
﹁また来てる、あの小学生!﹂
憤懣やるかたない様子で、叫ぶ。
﹁いいじゃないですか。じっと雪羽ちゃんのことを見守ってくれ
ているだけですよ﹂
﹁近所で悪い噂になっているんです。どうせ、昼休みに学校を抜
け出して来ているんでしょう。そろそろ、小学校の校長先生に通報
したほうがよさそうですね﹂
﹁待ってください。そこまでしなくても⋮⋮﹂
﹁私に意見なさるとは、偉くなられたものですね、南先生も﹂
大崎先生は、眼鏡の奥からジロリとにらんだ。﹁私は、この幼
稚園の園児のためを思って、言っているんです。今は、私立小学校
受験の時期です。幼稚園に万が一にも変な噂が立てば、お受験に不
354
利になってしまうかもしれないんですよ﹂
そう言われると、天音先生は何も反論できない。
﹁だからこそ、私は雪羽ちゃんの変な妄想もやめさせたいのです﹂
大崎先生は、無言の後輩教師に向かって、さらに言い募る。
﹁小学校によっては、受験生を試験会場で遊ばせて、その様子を
観察するところもあります。もし、雪羽ちゃんの﹃アラメキアごっ
こ﹄を真似する園児が出てきてしまったら、それこそ大変。何より
も、雪羽ちゃん自身の将来のためにもよくないことです﹂
﹁そうでしょうか﹂
天音先生は口の中でこっそり、聞こえないようにつぶやいた。
お受験のため、将来のため。そんな理由で子どもの自由な発想を禁
止してしまっていいのだろうか。
本当は、アラメキアが実在するとは、いまだに信じられないと
きがある。落ち葉が風にひらひらと葉裏を返すように、信じること
は疑う気持へと、たやすく変わる。
でも、信じられないからこそ、信じたい。わたしひとりだけで
も、雪羽ちゃんの言うことを信じたい。教師として、それがただひ
とつ自分にできることだと、天音先生は固く心に誓ったのだ。
﹁魔王の娘のところへ来るために、学校を抜け出しておられたの
ですね﹂
マヌエラの笑みを含んだ口調に、ユーラスはぴくりと頬を引き
つらせた。
﹁ええ、お気持はわかりますわ。大きくなれば、あの子はさぞ美
しくなるでしょう﹂
彼女の考えていることは、大方予想がつく。金の斑を散りばめ
た深青色の目には、怒りの炎がチロチロ燃えている。
若く血気さかんな頃のユーラスは、けっこう女性にだらしなか
った。麗しい女性がいると見れば、毎晩でも忍んで出かけ、片っぱ
355
しから王宮に召した。
さすがに年を重ねるにつれて、そういうこともなくなったが、
今のユーラスの行動を妃の目から見れば、あまりにも雪羽に執着し
ているように見えるのだろう。
そんな意味ではないのに。ただ、魔王の娘のことが大切に思え
るだけだ。恋人に寄せる気持とは、まったく別の意味で。
﹁誤解するな。余はただ⋮⋮﹂
我ながら情けなくも、必死に弁明を試みる。
﹁心配をしているだけだ。偶然通りかかったとき、雪羽が仲間は
ずれにされているのを知った﹂
﹁仲間はずれ?﹂
﹁ほら、今でもひとりで遊んでおるだろう。他の子どもたちは、
雪羽に近づこうとしない。先生に止められておるようだ﹂
マヌエラが息を飲む気配がした。
﹁まあ、なんてこと﹂
﹁そなたも気づいておろう。この国はアラメキアとはまるで違う﹂
ユーラスは、物憂げにつぶやいた。
﹁古い伝統と歴史を持ち、﹃いろはにほへと﹄のような繊細な言
葉づかいが子どもの頃から教えられているのにもかかわらず、人の
苦しみを推し量り、自分のこととして感じることは、誰にも教わっ
ておらぬ。それゆえ平気で、自分たちとは異なる者を仲間はずれに
したり、馬鹿にしたりする﹂
ユーラスはふと隣を見て、﹁しまった﹂と思った。
マヌエラは、ぎりぎりと歯を噛みしめ、両手の拳を震えるほど
に握りしめている。
︵忘れていた。この妃は︱︱︶
下町育ちで、男勝りのおてんばで、めっぽう正義感が強いのだ
った。
垣根の向こうではちょうど、眼鏡をかけた中年の女性教師が、
地面にお絵描きをしている雪羽のそばに立って、盛んにお小言を言
356
っているところだった。
﹁雪羽ちゃん、羽のある馬の絵を描いちゃダメって言ったでしょ﹂
﹁でも、アラメキアの馬は羽が生えてるんだよ﹂
﹁アラメキアの話は、しちゃいけません!﹂
気づいたときは、止める間もあらばこそ、マヌエラは生垣を乗
り越えていた。
﹃黙って聞いていれば、そこのババア!﹄
とんでもない卑語に気を遠くしながらも、ナブラ王は、妃がせ
めてアラメキア語を使ってくれたことを神に感謝した。
その日の夕方、ユーラスとマヌエラは、瀬峰家を訪れて、暗く
なるまで雪羽といっしょに、コタツでお絵描きに興じた。
﹁羽の生えた馬はペガサスと呼び、グリフォンとともに王族の乗
り物なのですよ。羽に三本、青い線を染めこむのが、ナブラ王家の
印なのです﹂
﹁青いウサギを見たことはある? 地球にはいないそうですね﹂
マヌエラは画用紙にクレヨンでいっぱいに、何枚も何枚もアラ
メキアの動物や植物を雪羽のために描いてやる。あたかも、今日ア
ラメキアを否定された分だけ、取り戻してやろうとするかのように。
幸い、幼稚園では大きな騒ぎになる前に、ユーラスがマヌエラ
を羽交い絞めにして引きずり戻した。
生垣の外に出たとたん、妃は両手で顔を覆い、わっと泣き出し
た。自分が小学校で受けている辱めを思い出したのだろう。
﹁わかっただろう。余が魔王の娘を気にかけている理由が﹂
彼は妃の背中をさすりながら、ポツリと言った。もちろん、そ
れだけが理由ではないことは、彼自身が一番よく知っているのだが。
﹁ユーリお兄ちゃん、マナお姉ちゃん、ありがとう﹂
戸口からいつまでも手を振っている雪羽と佐和に見送られて、
ふたりは天城研究所への帰路に着いた。
357
街路樹の道をたどりながらマヌエラは、梢から離れた葉を、地
いろは
面に落ちる前につかまえようとした。
﹁これも、色葉ですね﹂
﹁ああ、そうだな﹂
街灯に照らし出され、ショートカットの少女の影が舗道の上で
くるくる踊る。落ち葉が一枚、彼女の掌の中に納まり、くっきりと
紅く浮き上がって見えた。
﹁不思議ですわ﹂
﹁なにがだ﹂
﹁わたくしは今日、魔王の娘をご覧になる陛下の横顔があまりに
優しかったので、激しく嫉妬しました。もしわたくしが魔女ならば、
呪い殺したいと思うほどに﹂
﹁⋮⋮﹂
﹁でも、今はそんな醜い気持は、すっかり失せたのです。あの子
の生まれつき持っている不思議な力なのでしょう。あの子は、この
異世界にあって、誤解を受け続けながらも、なお気高いものを持っ
ています。わたくしはすっかり、その魅力にやられてしまいました
わ﹂
マヌエラはユーラスを見つめると、けなげにもにっこり笑った。
﹁陛下。わたくしを離縁なさいませ。わたくしは間違っておりま
した。いろは歌にあるとおり、﹃我々の人生もいつまでも同じでは
ない﹄のですわ﹂
﹁妃︱︱﹂
﹁魔王の娘との婚姻は、アラメキアにとっても朗報となるでしょ
う。おふたりはきっと、人間と魔族の架け橋となってくださいまし
ょう。わたくしは、心から祝福申し上げます﹂
その言葉を裏切るように、頬に涙が光っている。
﹁マヌエラ!﹂
ひらひらと葉裏をひるがえしながら、落ち葉が舞い散る。
その下で、十歳の少年は、少女をしっかりと抱きしめた。
358
359
花束をあなたに
工場の花壇に掃除のバケツで水を撒いたあと、事務員の高瀬奈
津はしゃがみこんで、まだ顔を出したばかりのチューリップの芽を
数えた。
冬の花壇を彩るのは、ビオラ、プリムラ、クロッカスなど、背
の低い花が多い。
上に伸びすぎて冷たい風に当たらないように。でも縮こまりす
ぎて、雪や霜に埋もれてしまわないように。
花も必死に知恵を働かせて身を守りながら、春をひたすら待っ
ているのかもしれない。
﹁おはよう、高瀬さん﹂
﹁あ、おはようございます。主任﹂
奈津はあわてて立ち上がり、ぴょこんとお辞儀した。
︵やったー。今朝は瀬峰主任の笑顔が見られた︶
思わず心がはずんでしまう。
倒産の危機が続いていた頃は、いつも主任の眉間には、くっき
りと皺が刻まれていた。
今だって、この大不況下で業績は決して上向きとは言えないの
だが、その中でも少しずつ、何かの手ごたえをつかみかけているの
だろう。彼が笑っていれば、会社は大丈夫なのだと信じられる。
もう一度、奈津は花々をじっと眺めた。
この花壇はもともと、亡くなった社長夫人が手塩にかけて造り
あげたものだ。
十年前、奈津が七歳の息子を連れて離婚し、どう生きていった
らいいかと途方に暮れていたとき、坂井社長夫妻が彼女を拾ってく
360
ださった。
︵奈津さん、花を育てるのは子どもを育てるのといっしょよ︶
深い笑い皺を目元にたたえながら、奥さまは彼女に花壇の手入
れのしかたをひとつひとつ教えてくれた。
︵手をかけすぎてはダメ。ただ、いつも見ていればいいの。そう
したら、何をしてほしいのかわかるから︶
まもなく夫人は病気で倒れ、花壇の世話は奈津へと引き継がれ
た。
それ以来、どんなに景気が悪いときでも決して花を絶やさなか
った。せめて、疲れきった工員たちが、花を見て心をなごませてく
れるようにと。
十年の間には、花壇も数々の試練をくぐってきた。
重本の元仲間の暴走族が、ここにたむろして待ち伏せしていた
こともある。タバコの吸殻をポイポイ花壇に捨てるので、奈津は我
慢できずに大声で怒鳴ってしまった。
﹁なにやってるのよーっ。ここの花たちは、あんたたちよりずっ
と頑張って生きているのよ!﹂
恐くて恐くて、しばらく膝の震えが止まらなかった。
組立て係の横田さんと、あともうひとりは小西さんだったか、
酔っ払って花壇のそばで殴り合いになったこともあったっけ。横田
さんが咲きそろったばかりのアネモネの上に、思い切り尻餅をつい
て、めちゃくちゃにしたんだわ。
瀬峰主任も、来たばかりの最初のころは、ここの常連だった。
工場に入ろうともせずに、毎日うつろな目で何かつぶやきながら花
壇を見ている姿に、
︵ああ、この人は花に助けを求めているのね︶
と馬鹿なことを考えたものだ。そんな人が今では工場の中心的
な存在になるなんて、あのときは想像もしなかった。
社長夫人が祈りをこめて遺した花壇は、坂井エレクトロニクス
の歴史を見つめながら花を咲かせ続けてきたのだ。
361
﹁高瀬くん、寒いのにご苦労さま﹂
﹁あ、社長。おはようございます﹂
出勤してきた坂井社長といっしょに外付けの階段を登って、事
務室に入る。
﹁今日は午前中に銀行へ行って、支払いを三件お願いするよ﹂
﹁はい、わかりました﹂
奈津の仕事は、庶務と会計だ。
ソファで今日の打ち合わせを始めた社長と工場長にお茶を出し
て、朝のひととおりの事務を片づけると、銀行用の袋をカバンの奥
深く突っ込み、フックにかけておいたジャンパーとマフラーを手に、
﹁いってきます﹂と外に飛び出した。
会社の自転車に乗って、白い息を吐きながら銀行まで走る。A
TMをかじかんだ手で操作して、三度の振込みを済ませる。
銀行を出るときは、解放されたような晴れ晴れした気分で、思
わず冷たい空気を胸いっぱいに吸い込んだ。
︵今月も、なんとか支払いをすませることができたわ︶
年末から年明けにかけて、近所のあちこちで、老舗の商店や町
工場が閉鎖するのを見た。
みんな頑張れるだけ頑張って、絞れるだけ絞りつくして、力尽
きて倒れていくのだ。長年戦ってきた経営者たちの無念を思うと、
やりきれない。
大企業が賃金の安い海外に移転する一方、こういう下町の企業
はどこも、やがて滅びていく運命なのだろうか。
帰り道は行くときよりも、寒さのとげが少しだけ柔らかかった。
自転車を押して門をくぐると、花壇の前に長い髪の男がしゃが
みこんでいた。
来るたびに花壇を熱心に覗いている、今の常連さんだ。
﹁ヴァルさん、おはようございます﹂
﹁あ、高瀬さん、おはようございます﹂
相模屋弁当の若い専務は立ち上がって、ぺこりと頭を下げた。
362
﹁今日も、いいお天気ですね﹂
﹁ほんとに、きれいな青空﹂
﹁高瀬さんの服も、今日の青空みたいに、きれいニャ青色です﹂
﹁うーん。こんな汚い事務服をほめてもらっても嬉しくないわね。
45点﹂
﹁やっぱり、ダメかあ﹂
ヴァルデミールはがっかりして、なで肩をさらに落とす。
専務になってからというもの、彼は弁当の販売促進のための営
業トークを学ぶ必要に迫られている。ところが根が正直すぎるから
か、お世辞がどうも苦手らしいのだ。
会う人会う人をつかまえては誉める練習を繰り返しているのだ
が、なかなか上達しない。
﹁今日も、きれいニャ花がいっぱいです﹂
﹁うん、水仙が今週から見ごろになったわ﹂
﹁高瀬さんの親指をちょっと見せてください﹂
男の子にいきなり手を握られて、心臓がトクンと打つ。四十歳
にもなって自分がまだそんなときめきを持っていることが、奈津は
不思議だと思った。
﹁あれ、緑色じゃニャい﹂
﹁え?﹂
﹁シュニンの奥方さまが話しておられたんです。高瀬さんの親指
は緑色ニャんだって﹂
﹁あら、それはグリーンサムのことだわ﹂
﹁グリーンサム?﹂
﹁外国では、花を育てるのがうまい人のことを、﹃緑の親指を持
ってる﹄って言うのよ﹂
﹁本当に、高瀬さんは花を育てるのがうまいです。きっと、花の
女王さまニャんですよ﹂
﹁わあ、今のは95点。⋮⋮あ、ちょっと待ってて﹂
奈津は工場の入口そばの出欠用黒板に近寄り、チョークで書き
363
込まれた丸印を数えた。
﹁今日は、お弁当八個お願いするわ﹂
﹁毎度あり。すぐに持ってきます﹂
ヴァルデミールは、自転車に積んだ大きなクーラーボックスか
ら弁当を取り出して、ビニール袋に入れて運んでくる。
奈津はその間に、事務服のポケットに入れている小さなハサミ
を出して、花壇のクロッカスや水仙、赤のクリスマスローズを何本
か切り取り、茎を輪ゴムで結わえた。
背の低い花ばかりだから、できたのは、こじんまりしたブーケ
だ。
﹁はい。ヴァルさん。新婚の奥さんに﹂
と差し出すと、若い夫は顔を赤くして﹁えへへ﹂と笑った。
五時を過ぎると、奈津はいつものように退社して、スーパーに
立ち寄った。
高校三年の息子は、年が明けてから、ほとんど学校に行ってい
ない。受験シーズン本番とあって、授業はほとんどが自習なのだそ
うだ。
彼は大学には進学しない。かと言って、就職が決まっているわ
けでもない。
また今夜も顔を合わせれば、口論になってしまうのだろう。
重い気持と重い買い物袋を抱えて家路をたどると、マンション
の三階西端の窓は夕焼けを映していた。
案の定、部屋の中は真っ暗。
奥の六畳で、息子はまだ朝と同じ姿でぐうぐう眠っていた。
﹁何時間寝てるの、雄輝。あんたはまったく︱︱!﹂
腹立ちまぎれに、買ったものをテーブルにどさどさと並べて、
しかし卵のパックだけはそっと置いた。
洗濯物を取り込み、風呂を沸かし、夕食の支度を調える。
364
そのあいだに、何度も奥の部屋に声をかける。
ようやく、のっそりと息子が起きて来た。なるべく母親と目が
合わないように、食卓について、もそもそと食べ始めた。
﹁雄輝。あんたいったい、どうするつもりなの﹂
﹁⋮⋮﹂
﹁プロのミュージシャンなんて、十人にひとりも食べていかれな
いのよ。音楽をやめろっていうんじゃない。別に本職を持って、趣
味で続けなさいって言ってるの﹂
﹁だから、きちんと自分の食べる分はバイトで稼ぐって﹂
﹁食べる分って、それだけじゃすまないのよ。年金だって保険だ
って納めていかなきゃならないの。このマンションの家賃も光熱費
も、お母さんが払ってるのよ。私だって、いつまでも働けるわけじ
ゃないわ﹂
﹁わかってるよ。そんなこと﹂
﹁じゃあ、せめて厚生年金のある会社に入って、家庭を持てるだ
けの収入を︱︱﹂
奈津は箸をおいて、自分の荒れた手の甲をごしごしとこすった。
﹁お母さん、あんたに貧乏させたくないの。明日の朝は食べるも
のがないって、そんな苦労だけはあんたにさせたくないの﹂
﹁⋮⋮別にいいよ。そんなこと気使ってもらわなくたって、自分
で苦労して何とかするよ﹂
﹁あんたは、苦労なんて全然わかってないじゃない﹂
思わず、声を荒げる。
﹁社会に出て、お金を稼ぐことがどんなに辛いか。こんな世の中
になっちゃって、景気はまだ、どんどん悪くなっていくかもしれな
いんだよ。だから就活にみんな必死なのに、なんであんたはそんな
に暢気なの!﹂
﹁どうせ、俺はみんなと同じスタートラインにすら立ってないじ
ゃないか﹂
雄輝はうなだれながら、皿の上の惣菜を無意味につついている。
365
﹁ほかの連中は、のうのうと大学を卒業して、俺よりずっといい給
料をもらえるのに、馬鹿らしくて、まじめに会社勤めなんかできる
かよ﹂
﹁雄輝、あんたまさか、大学へ行きたかったの?﹂
﹁行きたかねえよ。俺、勉強キライだし。どうせ塾へ行ってる奴
らに成績でかなうわけねえじゃん﹂
奈津は絶句した。
︵この子は、今までこんな劣等感を抱えて生きてきたの?︶
﹁雄輝﹂
何度も生唾を飲み込むと、言った。
﹁もし、あんたがよければ⋮⋮お母さんの働いてる会社の社長さ
んに頼んでみようか。すごくいい方で︱︱﹂
﹁冗談じゃねえ!﹂
彼は怒りにゆがんだ顔を上げて、溜めていたものを吐き出すよ
うな大声をあげた。﹁誰が、あんな油だらけの汚い工場で働けるか
よ。そんな惨めな思いをするくらいなら︱︱のたれ死んだほうがマ
シだっ﹂
﹁雄輝!﹂
﹁スタジオ行く。今晩帰らないから﹂
奥のふすまがぴしゃんと閉まり、母子の間を限りなく隔てた。
翌朝、一睡もできないまま起き上がり、いつものように出勤し
た奈津は、ぼんやりと花壇の前に座った。
﹁ねえ、奥さま﹂
恩人である、今は亡き社長夫人に呼びかける。
﹁花と子どもは、やっぱり違いますよね。花は、愛情を注げば注
ぐだけ応えてくれるけど、子どもは︱︱﹂
ぽっかりと空いた心を慰めるように、寒風にクロッカスが揺れ
ている。それを見つめながら、うずくまっていると、
366
﹁高瀬さん?﹂
後ろにはいつのまにか、とまどった表情の瀬峰主任が立ってい
た。
﹁どうしたんだ﹂
奈津はあわてて立ち上がり、指の腹で目の縁をぬぐってから答
えた。
﹁なんでもありません﹂
﹁なんでもないっていう顔じゃないだろう﹂
瀬峰主任の暖かい手が背中に触れると、虚勢にさからって、ぽ
ろりと新しい涙があふれ出た。
﹁ゆうべ、息子とけんかしてしまって﹂
﹁息子さん、この春卒業だったか﹂
奈津はうなずいて、震える喉で大きく息を吸い込んだ。
﹁小さい頃から母子家庭で、勉強を見てやる暇も、塾だって入れ
てやる余裕もなかった。何も言わなかったけど、あの子はそれを引
け目に⋮⋮ううん、私を恨んでいたんだって、昨日わかったんです﹂
風下へと導かれ、奈津は崩れるように花壇の縁石に座った。
﹁まじめに働くのが馬鹿らしいって。どうせみんなと同じスター
トラインにも立ててないんだからって言われました﹂
風除けになって立ってくれている主任は、花々を見つめながら
溜め息まじりにつぶやいた。
﹁どうしてそんなふうに、若いうちから自分の人生を決めつけて
しまうのだろうな﹂
﹁私が悪いんです。自分の経済力も考えずに離婚を決めたりして
⋮⋮あのとき私さえ我慢して結婚生活を続けていたら⋮⋮、夫の不
倫なんて、長い一生のうちに笑い話になっていたかもしれないのに
⋮⋮。雄輝はもっと幸せな人生を送れたかもしれないのに﹂
唇を噛みしめて嗚咽をこらえる奈津を、主任は長い間じっと見
守っていた。
﹁なあ、高瀬さん。人間は八百年生きてから、再出発することだ
367
ってできる﹂
﹁は?﹂
﹁だが、過去に絶望してしまったら、それで終わりだ。前に進む
力をなくしてしまう﹂
﹁⋮⋮﹂
彼は、奈津の前に片膝をついた。
﹁俺が歩いてきた道は、裏切りと戦いにまみれていた。最後はみ
じめな敗北だった。だが、俺はやり直したいとは思わない。それが
なければ今の俺は、この世界には存在しなかった。出会えたはずの
人にも出会えなかった﹂
漆黒の瞳で奈津の目を覗きこみながら、魔法をかけるような調
子でゆっくりとささやく。
﹁あんたは過去に戻ってやり直したいか﹂
﹁え︱︱?﹂
みぞおち
﹁今ここで選んでみろ。もし選べるならば、別の人生を選びなお
すか﹂
きゅっと鳩尾が縮む。過去をやり直す? そんなことが︱︱そ
んなことが、できるはずない。
けれど、もしできるとしたら︱︱。
瀬峰主任の体が、黒い光輪に包まれたような気がした。
それにつれて、奈津の中に、息子とふたりでたどってきた十年
間が鮮やかによみがえってくる。
どんなに忙しくても必ず駆けつけた運動会。熱いココアをポッ
トに詰めて、夜の公園でふたりで遊んだこと。熱を出して寝ている
雄輝に﹁ごめんね﹂と心の中で詫びながら会社に急いだこと。
奈津は背筋を伸ばした。靴の中で震える爪先をぎゅっと折り曲
げた。
そして首を大きく振り、きっぱりとした声で答えた。
﹁いいえ、私は今のままがいい。今の雄輝に会いたい。今のまま
がいいです﹂
368
﹁それでよい﹂
瀬峰主任の大きな手が頭に軽く触れ、奈津は子どものように泣
きだした。
雄輝がスタジオを出てすぐ携帯をチェックすると、母の携帯か
ら着信があったことに気づいた。
従業員らしい男の声が録音されていた。
﹃お母さんが、階段から落ちて怪我をしました。会社まで迎えに
来てください﹄
﹁ちぇっ。何してるんだよ。おふくろのやつ﹂
と口では毒づきながらも自転車に飛び乗り、夜の繁華街を力の
限り漕いだ。
小さい頃何度か訪れた工場の入口にはまだ煌々と明かりがとも
り、大勢の工員たちが働いていた。
﹁あ、雄輝﹂
母親は、入口近くのパイプ椅子に座っていた。投げ出した右の
足にはギブスがはめられている。
﹁階段を降りるとき、踏み外しちゃって﹂
と言い訳して、﹁あーあ、年だね﹂と照れたように笑う。
すぐに、工員たちがガヤガヤと集まってくる。
﹁また、どうせ急いで二段飛ばしでもしたんじゃろ。若い奴の真
似しおって﹂
﹁だって、若いもん﹂
﹁そもそも俺が働き始めたときから、もう高瀬さんは事務室の奥
にデンとふんぞりかえってたぜ﹂
﹁あのねえ。人を牢名主みたいに言わないでよ﹂
﹁えーっ。高瀬さんて、こんな大きなお子さんがいらしたんです
か﹂
さまざまな年代の工員たちと話している母親の生き生きとした
369
姿を、雄輝は不思議なものを見るように見ていた。
﹁雄輝くん、だね﹂
背が高く、ひときわ存在感のある漆黒の髪の男が前に進み出た。
﹁医者で診てもらったら、足の甲の骨にひびが入っているらしい。
ギブスがはずれるまで十日かかるそうだ﹂
﹁その足じゃ自転車も漕げないわ。高瀬さん、明日からどうやっ
て会社へ来るの﹂
﹁そうだよ。高瀬さんがそんなに休んだら、この工場はやってけ
ないぜ﹂
そのとき、髪を脱色した若い男が、ずかずかと近寄ってきた。
﹁俺、バイクで毎朝迎えにいってやるよ。予備のメットも持って
きてやる﹂
﹁まあ、重本くんと二人乗りだなんて、光栄だわ。惚れられちゃ
ったらどうしよう﹂
母親の華やいだ笑い声に、雄輝はいささかムッとして、立ちふ
さがった。
﹁いいです。俺が毎日、自転車で送り迎えしますから﹂
﹁遠慮するなよ﹂
﹁いいです﹂
ぐっと母親の腕を取り、抱きかかえようとする息子に、奈津は
目を丸くして驚いている。
工場の外へ出たとき、ばたばたとひとりの男が駆け込んできた。
﹁高瀬さん、足を怪我したってほんとですか﹂
南米系らしい浅黒い肌の青年は、ほとんど半泣きになって奈津
の手を取り、ビニール袋を握らせる。
﹁今晩の夕食用にと思って、デラックス幕の内弁当をふたつ持っ
てきました。治るまで毎日届けますから﹂
﹁うわあ、助かるわ。ありがとう﹂
﹁それから、⋮⋮これ、これを﹂
花屋で理子が買ってきたのだろう。チューリップやカーネーシ
370
ョンをあしらった大きな花束を差し出す。
﹁早く良くニャってください。高瀬さんが元気でニャいと、わた
くし、明日からどうして生きていったらよいかわかりません﹂
﹁ヴァルくん。今のは百点満点よ﹂
︵母さんは、毎日こんないい男たちにチヤホヤされて、仕事をし
ていたのか︶
雄輝は無性に腹が立つのを感じた。
﹁母さん、帰るぞ!﹂
ギターケースを前のかごに乗せ、母親を後ろの荷台に乗せて走
り出そうとした雄輝に、頭頂の禿げ上がった社長らしき人が近づい
て、ぽんと肩を叩いた。
﹁雄輝くん、うちの工場は給料は安いし、仕事もきつい。だが、
もし働きたいと思ったら、いつでも歓迎するよ﹂
﹁え?﹂
﹁お母さんをあんまり心配させるな。階段を踏みはずしたのは、
このところ、ずっとうわの空だったからだよ。お母さんの頭には、
きみのことしかないんだ﹂
社長の後ろでは、何十人もの工員たちが、にこにこと彼を見つ
めている。
﹁シゴいてやるぜ、早く来いよ﹂
﹁お母さんをよろしくね﹂
寒風を切るようにして、雄輝は夜の町へと漕ぎ出した。
﹁ねえ、雄輝﹂
後ろの荷台から、風に負けない大声で奈津が叫んだ。
﹁なんだよ﹂
﹁うちの工場、いい人ばっかりでしょ﹂
雄輝は、返事をしない。
でも、油まみれの工員たちの顔も、母親の顔も、まぶしく輝い
ていたのを雄輝は少しうらやましいと思った。きれいだと思った。
悔しくて、彼はペダルを漕ぐ足にぐいと力を込めた。ちっぽけ
371
な劣等感に支配されている自分が、彼らに比べてあまりにも小さく
思えた。
それでも、わからないのだ。
これからどうしたらいいのか。何を選べばいいのか。
どうしたら、あんなふうに迷いなく生きていけるのか。
横座りになった母親の膝で、大きな花束がゆさゆさと揺れてい
る音がした。
372
天気雨
五月に入ってから、目まぐるしく天気が変わる。朝に晴れてい
ると思うと、昼には雨がぱらついてきたりする。
陽射しのふりそそぐ中、雲の速さに追いてけぼりにされた雨が、
光の糸になって落ちてくる。
﹁高瀬くん。どうだね、具合は﹂
段ボールの山を搬入している雄輝の肩を、坂井社長がぽんと叩
いた。社長が近づいてくる気配がすると、その場を逃げ出したくな
るのだが、雇われている身ではそうもいかない。
﹁はあ、なんとか﹂
視線をそらしながら、頭を下げた。
﹁最初は訳がわからんだろうけど、じきに慣れる﹂
﹁はあ﹂
﹁赤ん坊だって、首が据わるのに三か月かかるだろう。わっはっ
は﹂
この一カ月、まったく感心するほど一字一句、同じセリフと同
じ笑い声を聞かされる。
︵アホ、ここは何かの劇団か︶
テレビで見る漫才のように、社長の禿げ頭をぺしっと叩く光景
を頭の中で想像して、少しだけ溜飲を下げていると、
﹁おい、高瀬。急げよ﹂
外から、資材係の重本のガラガラ声がした。
搬入口に運び込まれてきた段ボールに、ぽつぽつと水滴がつい
ている。また雨が降ってきたらしい。
373
雄輝は高校を卒業してすぐ、母親が事務員として働いている﹁
坂井エレクトロニクス﹂に入社した。三か月の見習い期間を経て、
六月末には正社員になる。
3Kと言われる製造業は、彼の就きたい職業ではなかった。だ
が、未曾有の不況でほかに就職の当てがなく、ここに入れたのも、
いわばコネだった。
ともすれば、惨めな気分に陥りそうな自分を奮い立たせて、な
んとか頑張ろうとしている。
﹁よかったじゃないか。自宅から通えるところだし﹂
バンド仲間たちは、家庭の事情を含めて雄輝のことを知りつく
している。大学生も社会人もいるので、広い見地からいろいろなア
ドバイスをくれた。
﹁とにかく、これからの時代は学歴じゃない。資格がものを言う
んだ。しっかりとした資格や技術を身につければ、有利な転職に結
びつくし﹂
︵そうか。資格と技術か︶
仲間の言葉に励まされ、勇んで出勤してみれば、初日に配属さ
れたのは、検査係。資格が取れそうな旋盤や研磨や、工作機械は触
らせてももらえない。
おまけに働いているのは、中高年の熟練工ばかり。一番若い重
本や水橋のグループでさえも、25歳を過ぎて30歳近い。
話の合いそうな人間は、ひとりもいなかった。
昼休みを告げるチャイムが鳴り、二階の事務室から、足の怪我
もすっかり治った奈津が階段を二段飛ばしで下りてきた。
﹁ほら雄輝、これ、あんたの分﹂
﹁お、雄輝くん、母ちゃんの手作り弁当か﹂
組立係の横田がからかうような声を挙げたので、雄輝はひった
くるようにして包みを受け取った。
﹁おっきな弁当箱だな。俺にも覚えがあるよ。あいつの年頃の男
374
は、一日五回食っても、すぐに腹がすくもんだ﹂
﹁けっ。おめえはそんだけ食って、それしか背が伸びなかったの
かよ﹂
﹁へっ。しっかりと髪に栄養が行ったんだよ。おまえと違ってな﹂
組立係の横田と小西は仲が悪く、暇さえあればいつも互いを罵
っている。そのくせ、休憩時間も片時も離れず、背中合わせにいる
のが不思議でしかたない。
いたたまれなくなった雄輝は、外に出て、花壇の縁石に座って
弁当を広げた。
先輩の工員たちは、みんな学歴がなく下町育ちだ。いっしょに
いると、その口の悪さと話題の下品さに閉口することがある。どう
見ても元ヤン上がりの重本に指図されるときも、心の底にむらむら
と怒りが湧いてくる。
雄輝の通っていた高校は地元でも有数の進学校だった。同級生
の大半は大学に進学している。
四年後は大企業に就職するだろう仲間たちから見れば、高卒で
零細工場に勤めている俺は、あいつらと同類なのだ。そう思うと、
自分がたまらなく惨めだった。
﹁高瀬。もう食べ終わったか﹂
顔を上げると、瀬峰主任が彼をじっと見下ろしていた。
﹁今のうちに、いろいろ教えておく。ついて来い﹂
﹁は、はい﹂
雄輝はあわてて弁当の包みを結び直すと、立ちあがった。
工場の55人の従業員の中で、この人だけは毛色が違うと感ず
ることがある。何か命じられたら、体が自然に動いてしまう。命令
の仕方が、ごく自然なのだ。
昼休みでラインの止まった工場内は、天窓から初夏の陽射しを
浴びて、しんと静まり返っていた。
﹁いろいろ教える﹂と言ったくせに、瀬峰主任はただゆっくり
とラインのそばを歩いて回るだけだった。
375
最後まで行ってしまうと、ふたたび最初に戻って、同じことを
繰り返す。
沈黙にいたたまれなくなった雄輝は、目についたひとつの工作
機械を指差した。
﹁あの、この機械は何ですか?﹂
﹁ブローチ盤の一種だ。サーフェス加工用で、小型部品の表面の
切削に使う﹂
﹁⋮⋮はあ﹂
﹁触ってみるか﹂
﹁いいんですか?﹂
主任はレバーを解除すると、機械の一部をはずして、そっと引
きだした。
﹁分解して掃除してみろ。手を切らんように気をつけてな﹂
﹁はい﹂
雄輝は、ひとつひとつの歯車やビスを、ウェスの上に順番に並
べて拭いていく。
もともと子どもの頃から、プラモデルいじりが好きだった。指
先がたちまち油で真っ黒になるが、次第にそれも気にならないほど
夢中になる。
﹁うちの工場にはもったいないほどの高性能の機械だ。値段も高
い。壊れたら、もう二度と買えんだろうな﹂
主任の何気ない呟きに、思わず手元が狂いそうになった。﹁ほ、
ほんとに?﹂
﹁ひとつひとつの機械や部品が、うちの財産だ。よく﹃社会の歯
車﹄などという言葉が悪口として使われるが、俺は歯車になれるほ
ど、すごいことはないと思っている﹂
﹁⋮⋮﹂
﹁ひとつの歯車が欠ければ、機械全体が使い物にならん。それは
人間も同じだ﹂
ゼファーは、そこでいったん口をつぐむと、今度は﹁組み立て
376
てみろ﹂と雄輝に促した。
はずすときは簡単だった部品が、今度はなかなか元通りに嵌ま
ってくれない。汗がたらりと耳のそばを伝うのがわかった。
﹁検査や計量ばかりでは、つまらんか﹂
﹁⋮⋮つまらなくはないけど﹂
雄輝は、口の中でもそもそと答えた。﹁もっと他のこともやっ
てみたいです﹂
﹁たとえば?﹂
﹁CNC加工のプログラムを作ってみたい。熟練工になるには何
十年もかかるけど、コンピュータ制御なら熟練工と同じ技術が簡単
に再現できるはずです。それにCNCなら人間と違って、短時間に
大量の部品を受注生産できると思います﹂
﹁機械製造業のことを、かなり勉強してきたな﹂
﹁ここへ就職が決まってからは、それなりに﹂
瀬峰主任は軽く息を吐くと、背筋を伸ばして天井を仰いだ。
﹁俺の率いていた軍隊では、将校候補と見込んでいるヤツも、ま
ず歩兵から配属した﹂
﹁は?﹂
﹁歩兵での経験を積んだあと槍兵になる。次は重装歩兵に、ある
者は弓兵や騎馬兵へと昇進する﹂
そう言えば、母親が言っていたっけ。瀬峰主任は、ときどき突
拍子もない異世界の空想話を大真面目にすることがあると。
﹁最初から馬に乗ると、歩兵の目線で戦いを把握することはでき
ない。弓しか経験しなければ、歩兵の武器が届く範囲が予測できな
い﹂
主任は上から吊るされている天井クレーン用のチェーンに手を
伸ばし、まるで馬の手綱を握るような手つきで触った。
﹁プログラムを組むには、現場のナマの生産情報が必要だ。その
日の気温によって金属の性質も溶接の温度もすべて違う。熟練工員
たちが経験と勘でこなしていることを、コンピュータの数値にどう
377
やって組み入れるつもりだ?﹂
﹁え⋮⋮﹂
頭がくらくらする。西洋中世を思わせる軍隊の話と、現代の工
場の話が、この人の頭の中ではどうやって結びついているんだろう。
﹁検査工程でしか見えないことが、必ずある﹂
主任は彼の肩を、ぽんと叩いた。﹁それを全力で探ってみろ。
それができたら、次の工程に行かせてやる﹂
﹁は︱︱はい﹂
雄輝は、黒く汚れたウェスをぎゅっと両手で握りしめて、しょ
んぼりとうなだれた。
﹁あの⋮⋮主任﹂
﹁なんだ﹂
﹁分解した歯車が︱︱元通りの位置に嵌まらなくなりました﹂
工場内に終業のチャイムが鳴り響き、機械の騒音と入れ替わり
に、従業員たちの楽しそうなおしゃべりが始まった。
﹁よっしゃー。飲みに行くぞ﹂
﹁わたしはパス。今日は、お花のお稽古の日なんだ﹂
﹁待っててくれよ。ここ片づけちまうから﹂
ぞろぞろとロッカールームに引き上げていく人ごみから取り残
されたように、雄輝ひとりだけが、作業台に張りついていた。
着替え終えた奈津が、息子に声をかけようかどうか迷っていた
が、何も言わずそのまま扉を出て行った。
﹁おい、どうしたんだ﹂
組立工の小西が見かねたのか、近づいてきて覗きこむ。
﹁最後の箱の計量が合わないんですよ。くそ、規格より25グラ
ム軽い﹂
雄輝は舌打ちをしながら、箱の中の部品をひとつずつ、計量台
の上に乗せて計りなおしていたのだ。
378
﹁おいおい、辛気くさいな﹂
仲間の横田が呆れたような大声を出す。﹁それでも一流高校出
かい。ひとつの欠陥品を見つけ出すのに、それじゃ最高ニ十回計ら
なきゃならねえだろ﹂
﹁え?﹂
﹁こうすんだよ﹂
年輩の工員は、箱の中に部品を十個だけ戻し、計量台に乗せる。
﹁目方はどうだ﹂
﹁正常です﹂
﹁それじゃ、そっちの十個の中に欠陥品がある。次は五個ずつ計
って、軽いほうを今度は二個と三個に分ける。そうすりゃ、多くて
もたった五回計るだけで、一個の欠陥部品が見つけられる﹂
﹁はあ﹂
﹁なんでえ。そんな常識を、とくとくと偉そうに﹂
そばで同僚の小西が悪態をつく。
﹁何を。わざわざ親切に後輩を指導してやってんのに、文句つけ
る気か﹂
﹁け。てめえの善意には、悪意が透けて見えるんだよ﹂
﹁あ、あの﹂
雄輝は、神妙な面持ちで言った。彼らに対する侮りの心は、す
っかり消え去っている。
﹁すみません、あの、教えてもらえませんか﹂
﹁うるせえ、なんだ﹂
﹁欠陥品が出るのは、なぜですか﹂
﹁え﹂
ふたりの組立係は、言い争いをやめて顔を見合わせた。
﹁そ、そりゃあ。欠陥と言えば、誤りというかミスというか﹂
﹁昨日も、終業時間の間際に欠陥が出たような気がします。どう
してですか﹂
﹁どうしてって︱︱﹂
379
﹁そりゃ、早く帰って酒が飲みてえっていう人間の自然な欲求が
だな︱︱﹂
真剣なまなざしで食い下がってくる新人に、ベテランたちは顔
色をなくす。
機械の影から見ていたゼファーは、笑いをこらえるのに必死だ
った。
外はすっかり日が落ち、澄みきった濃紺の空には、すでにいく
つかの星が瞬いていた。
﹁今から、音楽の練習か﹂
﹁はい﹂
工場の門のところで瀬峰主任といっしょになった雄輝は、自転
車を押しながら、肩のギターケースを背負い直した。
今からリハーサルスタジオに行って、深夜までバンド仲間と練
習する。
家に帰ると力尽きて布団に倒れこむ毎日。こんなハードな生活
がいつまで続くかわからないが、自分の夢を易々とあきらめたくは
なかった。
納得のいくまで、足掻いてみたかった。
﹁音楽のことはさっぱりわからん。俺のいた世界とは、音階から
して全く別ものだからな﹂
隣を歩きながら、主任が夜空を見上げた。
母親が﹁瀬峰主任は、すごくオンチなのよ。絶対にカラオケに
さそっちゃだめ﹂と言っていたことを雄輝は思い出し、にやつく口
元をシャツの立てた襟で隠した。
﹁仲間は何人だ﹂
﹁五人です。俺以外に、ギターがもうひとりと、ベースとドラム
とキーボードとボーカル﹂
﹁みな、それぞれの役割が違うのだな﹂
380
﹁ひとりひとり違います。だから互いの音を聞き合いながら、ひ
とつの曲を作り上げる﹂
﹁そうか。大切な仲間たちなのだな﹂
﹁はい。すごく﹂
雄輝は胸が高鳴るのを感じた。主任に﹃大切な仲間﹄だと言っ
てもらえたことが、無性にうれしい。
﹁おお、魔王ではないか﹂
小学生の少年と、その祖父らしき白髪の老人が道の向こうから
やってきた。
﹁ナブラ王。アマギ博士﹂
﹁久々だな、きさまと会うのも。五十余人の生存を懸けた戦いは、
首尾よく行っておるか﹂
﹁まあな﹂
偉そうな態度の小学生は、暗がりで蒼く光って見える瞳を、雄
輝に向けた。
﹁初めて見る顔だ。ヴァルが新婚ボケで使えなくなったゆえ、新
しい従者でも手に入れたか﹂
﹁じ、従者?﹂
おそろしく古風な少年の口調に唖然とする雄輝の隣で、瀬峰主
任は穏やかに笑った。
﹁そんなところだ﹂
﹁果たしてヴァル以上の男に育てられるか、余も楽しみにしてお
る﹂
ふたりが通り過ぎていったあと、雄輝は思わず主任の横顔をま
じまじと見た。
︵この人は、いったい誰なんだ︶
魔王と呼ばれていた。ただの零細工場の製造主任のはずなのに、
まるで大会社の社長︱︱いや、それ以上の威厳をもつ存在。
従者扱いされたというのに、なぜか悪い気はしない。むしろ、
その反対だった。
381
歩みを強めながら、口から自然に笑みがこぼれてくる。
主任と並んで、晴れた夜空を見上げながらずんずん進むと、き
らきらと輝きながら星が落ちてきそうに思えた。
382
ビタースイート
校門わきの塀にもたれながら、ユーラスはいつものように、ひ
とりの少女が出てくるのを待っていた。
下校途中の女子中学生たちが、通りすがりに彼を見て、きゃあ
きゃあと声を上げる。この春からは、彼女たちと同じ中学に通うこ
とになるのだ。
この異世界で暮らし始めたときは小学四年生だった彼も、今は
六年。三月になれば小学校を卒業する。
剣の鍛練は、日々欠かしたことがない。この二年で自然と体は
引きしまり、背も伸びた。
︵もう少しだ。もう少しで、魔王を倒したころの強い自分に戻れ
る︶
魔王討伐を果たしたとき、彼は18歳だった。国じゅうの民が
こぞって彼の名前を歓呼して迎えた。女たちは熱っぽい瞳をして、
彼に恋い焦がれた。東の王であり、世界を救った四人の勇者のリー
ダー。いつしか、そんな自分に酔いしれるようになっていた。
あの若々しく力にあふれた時代に、ユーラスはもう一度戻ろう
としている。
︵だが、戻ったからと言って、余は何をすればいい︶
魔王を倒すという大義のために、はるかな時空を超えてアラメ
キアからやってきたはずだった。だが、零細工場の製造主任として
懸命に働くゼファーを見るうちに、みるみる闘争心はしぼんでいく。
そして、何よりも︱︱。
﹁あ、ユーリお兄ちゃん﹂
まだつややかさを失わない赤いランドセルを背負って、雪羽が
383
駆けてきた。去年の四月、ユーラスの通うこの小学校に一年生とし
て入ってきた魔王の娘。
新しい学校、新しい友だちの中に入れば、幼稚園で彼女が受け
ていたイジメは、きれいになくなるはずだった。だが、そう簡単に
は人の心は新しくなれるものではない。
イチイ幼稚園を卒園した男子生徒が同じクラスに何人かいた。
その子たちが、雪羽をふたたびイジメの標的に定めたのだ。
一年生たちは、新しい学校で不安をかかえている。同じクラス
の知らない友だちと早く仲良くなりたいという願いは切実だ。それ
が、ひとりの生徒を集団でからかうという、最悪の﹁楽しみ﹂の共
有に発展してしまった。
その事実を人づてに知ったとき、ユーラスは烈火のごとく怒っ
た。
﹁おい、ちょっと。そこの一年生﹂
休み時間に、いじめっ子グループをひとりずつ呼び出して、や
さしく諭した。
﹁女の子をよってたかって、仲間はずれにするのはやめようね﹂
160センチもある六年生男子に呼び出され、にっこりと殺意
のこもった笑顔を向けられた一年生たちは、たちまち震えあがった。
ユーラスはそれからも、なるべく雪羽といっしょに登下校する
ようにした。朝はマヌエラとともに彼女の家まで迎えに行き、放課
後は、全然違う下校時間を合わせるために、仮病を使ったり委員会
をサボりたおすなど、ありとあらゆる努力をした。
回りからは、女王につき従う騎士に見えるだろう。
︵ちがう。相手が雪羽でなくても、自分はそうしたはずだ。義憤
ゆえに、身近なひとりの少女を理不尽なイジメから守っているだけ
だ︶
︱︱しかし、それが言いわけであることは、おのれが一番よく
知っている。
︵余は、いったい何をしている。ここにいるのは、敵と狙ってい
384
る魔王の愛娘ではないか︶
そんなユーラスの逡巡も知らず、雪羽は無邪気に近づいてきた。
﹁お兄ちゃん、今日は一年生よりも、じゅぎょうが終わるのが早
かったんだね﹂
﹁ああ。今日は、私立中学の受験日とかで、二時限で終わったの
だ﹂
﹁お兄ちゃんは、じゅけんしないの?﹂
﹁私立中学は金がかかるのだ。アマギには、余とマヌエラのふた
りで厄介になっているのに、これ以上迷惑をかけるわけにはいかぬ﹂
﹁そういえば、マナお姉ちゃんは?﹂
﹁アマギがまたアラメキアの座標軸計算に没頭しているので、食
事をさせるために早く帰った﹂
﹁うふふ、計算にむちゅうなときのハカセは、スプーンをお口に
入れてあげないと食べないのでしょ﹂
﹁さあ、行こうか﹂
ふたりは、並んで歩き始めた。雪羽の赤いランドセルが、とき
どき忙しくカタカタ鳴る。そのたびにユーラスは、歩調をゆるめる。
道行く人はみな、可愛い年の差カップルに目を留め、微笑みな
がら振り返る。そのたびにユーラスは、少し雪羽との間を空ける。
一年近く続いたこの習慣も、あと少しで終わる。
少女のサラサラと揺れる黒髪、雪のような白い肌、果実のよう
な唇。冬の刺すような空気が、彼女のいる側だけ、ほんのり暖かい。
︵︱︱い、いかん。余は本当は90歳なのだぞ。わずか7歳の幼
女に見惚れるとは︶
これが﹃ろりこん﹄というヤツなのかと、ユーラスはひそかに
思春期らしい下心に思い悩むのだった。
﹁主任。頼みがある﹂
営業の春山が、鬼気迫る顔で、ずいと近づいてきた。
385
﹁営業要員を大至急、あとふたり増やしてほしい﹂
﹁ずいぶん急な話だな。四月では待てないのか﹂
﹁来期や来年では間に合わない。今が千載一遇のチャンスなんだ﹂
春山は、その理由を息も継がずに一気にまくしたてた。
この数年、部品生産の下請け工場から脱却し、自社ブランドの
︽全自動高速乱切り機︾を主力製品にしてきた︽坂井エレクトロニ
クス︾だったが、次第に限界を感じていた。もともと、弁当工場や
給食センターといった大規模な現場向けの機械として開発された製
品。おのずと需要は限られている。
﹃こんなデカい機械、狭い厨房におけないよ﹄
﹃うちは短時間に大量の野菜を切る必要はないんだ。それに、こ
の値段じゃ、アルバイトをひとり雇ったほうが安くつくよ﹄
営業に回った先々で春山が聞かされるのは、つれない返事ばか
りだ。
﹁高速でなくていい。中規模のレストランや居酒屋向けに、もっ
と小型で安価な乱切り機を作れば、需要は爆発的に伸びる﹂
と、熱心に坂井社長や工場長を説き伏せた結果、︽コンパクト
乱切り機︾の開発が始まったのは昨年のはじめのことだった。
高速乱切り機の発明者である天城博士を中心にした開発グルー
プがふたたび協力して、機械の体積を六分の一以下にすることに成
功した。
﹁一番の改良点は、野菜の自動送りをなくしたことだ﹂
白いひげをひっぱりながら、天城博士が得々と解説する。
﹁アタッチメントや振動板といったパーツフィーダー部分がなく
なったことで、究極のコンパクト化を実現した。その代わり手動で
野菜をセットせねばならんが、中小の料理店ではかえって、そのほ
うが融通が利いて喜ばれるそうだ﹂
さらに今回は、今までの技術に改良を加えて、皮の剥きくずを
激減させることに成功した。﹁皮のところに栄養がある﹂とこだわ
る自然派レストランからの要望だ。
386
春山が半年かけて数十軒の店を回り、聞き取って集めた意見が、
あちこちに生かされているのだった。
だが、部品の極小化のためには、神わざのような旋盤技術や、
3ミクロンというレベルの繊細な研磨工程が必要とされた。そこで
一部の部品は、一年前に提携したばかりの﹁カワキタ工業﹂のウォ
ータージェット加工に回されることになった。
長年の夢だった中小町工場同士のタイアップが、ようやく実現
したのだ。大工場には決して真似のできない、人間の熟練の技術が
主役となって創られた機械。
だが、せっかくの優れた機械も、販路がない。坂井エレクトロ
ニクスの予算では大規模な広告を打つわけにもいかず、中小の料理
店を一軒一軒しらみつぶしに回るには、あまりに人手が足りない。
﹁コネをたどって、ようやくレストラン業界紙の編集者に接触で
きたんだ。コンパクト乱切り機の紹介記事を四月号に載せてくれる
ことに決まった。発売は三月中旬だ。それに合わせて、一気に大攻
勢をかける。今ここで営業要員をそろえないとダメなんだ﹂
﹁それに合わせて、会社のホームページを作成しましょうよ﹂
と、新人の高瀬雄輝が提案した。﹁俺の友だちにウェブデザイ
ナーがいて、手を貸してくれるっていうんだ。俺も少しくらいなら
わかるし﹂
﹁おお、それは助かる。SEO対策も頼めるんだろうな﹂
﹁ち、ちょっと待ってくれ﹂
ゼファーは、春山と雄輝の異世界語かと思われるやりとりを、
両手を上げてとどめた。
﹁少し、宣伝は待ってくれないか。それでは、機械が売れすぎて
しまう﹂
意外なことばに、春山は目を剥いた。﹁売れてはまずいのか﹂
﹁製造ラインに問題が起きているんだ。今のままなら、目標とし
ていた月産百二十台はむずかしい﹂
元トップ営業マンは、空気が抜けてしぼんだように、がっくり
387
と座り込んだ。
﹁何があったんだ﹂
﹁だって、部品が全然流れてこないんですよ﹂
研磨係の水橋ひとみが、頬をふくらませて、ほかのふたりの同
僚に同意を求める。
﹁それで、つい暇になって、研磨機を止めておしゃべりしちゃう。
今年はバレンタインのチョコどうするとか﹂
﹁あ、瀬峰主任、期待しててくださいよ。今年もひとみから、愛
情のこもったチョコが行くから﹂
﹁きゃーっ。やめて。やめてよ!﹂
﹁まあ、そういうわけで、しゃべってるうちに部品が来て、あわ
てて研磨機を動かすんだけど、稼働までの時間のロスがけっこうあ
りますね﹂
予想もしなかった状況だった。
新しい製造ラインは、研磨工程が複雑になったために時間がか
かるのだと、ゼファーは思いこんでいた。実はその前の段階がもた
ついていたのだ。
﹁部品がときどき足りなくなるんだよ﹂
その前のC工程を担当している三河と八重樫が弁解した。﹁カ
ワキタ工業にウォータージェット加工に出してる分さ。そのたびに
重本を怒鳴りつけて、催促させるんだけどね。やっぱり、外注って
のはリスクが大きいんじゃねえか﹂
﹁俺は、ちゃんと発注してるよ﹂
資材係の重本は、ポケットに手をつっこんで不貞腐れたように
言った。
﹁適正在庫になるように、倉庫の棚を見ながら、翌週の分を補充
発注していってるよ。けど、河北のおやじさんが、へそ曲げちまう
んだ。﹃そんなに急に言われても、できねえもんはできねえって﹄﹂
388
河北社長に電話をしてみると、驚くような返事が返ってきた。
﹁こっちにだって事情ってものがあるんだよ。あんたのところの
部品だけ作ってるわけじゃねえ﹂
話を聞けば、︽坂井エレクトロニクス︾の発注には、ムラがあ
るのだという。極端に多い週もあれば、少ない週もある。要するに、
アテにならないのだ。それでは生産計画が立たないので、つい他の
会社への納入を優先させてしまうのだという。
なぜ、週によって生産台数に変動があるのか。製造ラインをど
んどんさかのぼって調べていくと、問題がどんどん噴出した。
﹁ラインをいくら複数に分けても、検査機械が一台しかないんだ﹂
﹁部品ごとに、いちいちヘッドを取り換えなきゃならない。その
都度、取り換え作業に二時間かかる﹂
﹁とにかく、仕掛かりの部品を置くスペースがなくて、台車で取
りに行くのに、もたつくんだよ﹂
﹁前工程はとっくに終了してるのに、あいつらが教えてくれない
から、気がつかねえんだ﹂
﹁注文が入ってから、納品までのタイムラグがあるんです。資金
繰り的にも、うちには過剰在庫する余裕はないので、ついぎりぎり
の数で見積もってしまうんです﹂
製造主任であるゼファーは頭を抱えてしまった。要するに、綿
密な計画を立てて新しく作った製造ラインが、なぜか各工程で機能
していない。そして、その原因がさっぱりわからないのだ。
今年のバレンタインは、月曜日だ。
女から、好いた男に貢ぎ物としてチョコレートを渡す日だとい
う。アラメキアから来たゼファーには、いまだに理解できない風習
だった。
なのに、せっかく家で骨休めができる貴重な日曜日、娘は朝か
ら台所で、その貢ぎ物作りに大騒ぎなのだ。
389
しかも、それを渡す相手が、魔王の不倶戴天の敵、勇者ユーラ
スだというのが気に入らない。実に気に入らない。
﹁ゼファーさん、ユーリさんは一年のあいだ毎朝、登校のとき雪
羽を迎えにきてくださったのよ﹂
あからさまな仏頂面をしている夫に、妻の佐和はなだめるよう
に言った。﹁雪羽は、まだ6歳ですもの。そんなに心配するような
ことではないわ﹂
﹁相手は正妃のほかに妾妃を山ほど持つような、ふらちな男だぞ﹂
﹁まあ、ユーリさんが? そうは見えませんけど﹂
佐和は、にこにこ笑いながら卵を泡立てている。﹁あなたのほ
うが、よほど大勢の女性をはべらせていたように見えるわ﹂
﹁こ、こら。雪羽の前で何ということを﹂
ゼファーはげんなりして、こういう微妙な問題については、家
族の前で口をつぐむことに決めた。
﹁俺が頭を悩ませているのは、そんなことじゃないんだ﹂
﹁まあ、どんなことですか﹂
﹁新しい機械を発売してからというもの、どうも製造ラインがう
まくいかないんだ。資材の在庫にも注意をはらい、各工程の所要時
間も計って、綿密な製造指図書を作っても、そのとおりにいかず、
みんなが混乱してる﹂
﹁それはきっと慣れないからですわ。新しいことを始めるときは、
誰でも体が自然に動かずに、段取りでつまづいてしまうものですか
ら﹂
﹁段取りか﹂
﹁ええ、ケーキ作りだって段取りが大事なんですよ﹂
娘は佐和の指示にしたがって、小麦粉とココアを懸命にふるっ
て、袖まで粉だらけになっている。ふたりが作っているのは、ハー
ト型のチョコレートケーキらしい。
﹁粉はふるえた?﹂
﹁うん﹂
390
﹁じゃあ、さっき計ったボウルの砂糖を、この卵の中に少しずつ
入れていって﹂
卵がしっかりと泡立ったころ、ビーという音がした。
﹁何か鳴ってるぞ﹂
﹁電気ポットだわ。バターを湯せんするお湯が沸いたんです。雪
羽。ふるっておいた粉を持ってきてね﹂
佐和も雪羽も、少しも手を休めることがなく、スムーズに次の
仕事に移っていく。
また何かが、ピーピーと鳴った。
﹁今度は何だ﹂
﹁オーブンが180度になったという合図の音です﹂
新婚の理子社長が新しいオーブンレンジを買ったので、今まで
使っていた古いのを佐和に譲ってくれたのだ。それまでケーキが焼
きたくても我慢していた佐和は、大喜びだった。これからはクリス
マスや誕生日に、市販のケーキを買わなくてすむ。
﹁聞いただけで、よく音の違いがわかるな﹂
﹁慣れれば、ほかのことをしていても、すぐわかりますよ﹂
ゼファーは、﹁あっ﹂と声をあげた。
﹁作業が終了したことを知らせるブザーのようなものはできない
か﹂
ゼファーは翌日、工員たちを集めて、相談した。
﹁音でいろいろな情報を知らせるんだ。作業終了はピーという音。
仕掛かり部品がたまってきたらブーという音。異常が起きたらビー
ビーという音。それなら作業に没頭しているときでも、まわりの状
況が全員に伝わる﹂
﹁でも、旋盤や研磨中は、うるさくてブザーの音なんか聞こえね
えぞ。主任﹂
﹁⋮⋮そうか。良い考えだと思ったのだが﹂
391
あからさまにがっかりと首を垂れると、工員たちの間から声が
上がった。
﹁音の代わりに、ランプを点灯させてはどうです。順調なら青信
号、手待ちは赤信号﹂
﹁それでも、全部の持ち場からは見えないよ。全体をコの字型に
配置したらどうかな。お互いが見えやすい﹂
落ち込んでいる主任を少しでも助けようと、どんどん、いろい
ろなアイディアが湧いて出てくる。
﹁いっそのこと、各部品に最初にタグをつけちまえばいいんじゃ
ないか。次の工程に送るときにセンサーでタグを読みとれば、今ど
こにどんな部品があるか一目瞭然だ﹂
﹁そりゃいいや。けど、そんな装置どこに売ってる﹂
﹁俺が試しに作ってみるよ。バーコードリーダーを応用すればい
いだけだから簡単だ﹂
さすがに電気のプロたちがそろっている。工員たちは車座にな
り、時間の経つのも忘れて議論にふけった。
﹁よかったな、主任。雨降って地固まるだ﹂
工場長が半分苦笑いの笑みを浮かべて、ゼファーの隣に立った。
﹁今まで新しい変化についていけずに受身だった連中も、何をすべ
きか自分の頭で考え始めた。こいつは二歩も三歩も前進だ﹂
﹁だが、これも単なる時間稼ぎにしか過ぎない﹂
ゼファーは憂鬱な面持ちで答えた。﹁根本的な原因はまだ残っ
てる。この工場自体が限界なんだ。これ以上、新しい製品ラインに
対応するだけの十分な広さがない﹂
ゼファーは熱っぽいまなざしで、かたわらの老境に入りかけた
﹁工場長、いまのうちに、もっと広い工場に引っ越すことを考
上司を見た。
えてみないか﹂
だが、相手はゆっくりと首を振った。
﹁やめておけ。無理して事業を拡大すれば、ひとつ間違えたとき
392
に、たちまち破産だ。銀行も、あっと言う間に手を引いてくる。俺
はそんな悲しい実例をイヤというほど見ている。坂井社長は決して、
うんと言わんよ。俺たちのような中小企業に冒険はできんのだ﹂
﹁⋮⋮だろうな﹂
﹁春山には、悪いことをしたな。売れ売れとはっぱをかけて、せ
っかく大々的に売り始めたのに、次は生産が追いつかなくなるから
売らないでくれと言わねばならん﹂
目を輝かせている工員たちを、男たちは悲しい気持ちで見つめ
る。
﹁俺たちは、軍馬の尻を鞭で打ちながら、一方で手綱を締めてい
る、愚かな騎兵なのかもしれんな﹂
アパートの階段をカンカンと駆け下りながら、雪羽は途中で足
を止めた。
向こうから、いつものように彼女を迎えにユーラスとマヌエラ
がやってくる。ふたりがむつまじく話しながら、並んで歩いている
のを見ると、なぜかはわからないが、ひどく悲しい気持ちになって
しまったのだ。
﹁おはよう。魔王の娘﹂
﹁おはようございます。ユーリおにいちゃん。マナおねえちゃん﹂
﹁あら、なんだか今日は、かしこまった挨拶ですのね﹂
学校への道を、ふたりから少し遅れてついていく。ランドセル
を鳴らさないように、息をひそめて、静かに静かに。
﹁そういえば、雪羽ちゃん﹂
マヌエラが振り向いた。﹁手に持っている紙袋は、なにが入っ
ているんですの?﹂
﹁え、こ、これは⋮⋮﹂
あわてて、後ろ手に隠そうとする。
﹁なんでしょう。ちゃんと見せてください。きれいなリボンの先
393
が見えていますけど﹂
雪羽が止める暇もなく、彼女は紙袋を取り上げると中をのぞき
こんだ。
﹁ほら、やっぱり。陛下、雪羽ちゃんが陛下のためにバレンタイ
ンのチョコを用意していますわ﹂
﹁え?﹂
﹁ち、ちがうの。それは!﹂
雪羽は、なんだか悪いことをしたような気持ちになって弁解し
た。﹁母上といっしょに作ったチョコケーキなの。でも、私が最後
にかけたガナッシュがヘタクソで、変なかたちになっちゃった。も
ういいよ。どうせユーリおにいちゃんは、ステキなのをいっぱいも
らうんだし﹂
﹁余のために、わざわざ作ってくれたのか﹂
ユーラスは紙袋を受け取ると、藍色の瞳をうれしそうに細めた。
﹁礼をいう。魔王の娘﹂
雪羽は赤くなって、うつむいたままトボトボ歩く。
王妃マヌエラはそんな彼女を見つめて、やわらかく微笑んだ。
その両腕に布のカバンをぎゅっと抱え込みながら。
そのカバンの中には、もう決して渡すつもりのない、リボンを
かけたチョコレートが入っていた。
394
確率1%のキセキ
﹁毎度ありーっ﹂
天城研究所に元気よく飛び込んだヴァルデミールは、くんかく
んかと鼻をうごめかした。
開け放たれた窓から、初夏のさわやかな風が入ってくる。
このいい匂いはたぶん、庭のフェンスで咲いている白いジャス
ミン。紫のライラックと競い合うように、たわわに垂れさがってい
る小さな花々は、大好きな人の髪に飾ってあげたくなるほど愛らし
い。
以前なら、窓を開けたとたんに散乱してしまっただろう書類や
メモは、きれいにバインダーで閉じられマグネットで留められて、
机の上や壁のコルクボードや、それぞれの場所に置かれている。い
ちいち用心して床をまたがなくとも、実験器具は棚の所定の位置に
きちんとある。
マヌエラが来てからというもの研究室の中は、整然と片付いて
いるのだ。心なしか、全方位に向かってピンピン跳ねていた天城彰
三博士の白髪でさえ、きちんとなでつけられているのだから、すご
い。
﹁まったく、おぬしは嫁をもらったとたんに、すっかり出現率が
低くなったな﹂
相変わらず幸せいっぱいの笑顔をふりまいている浅黒い肌の青
年を、天城博士はからかった。﹁おまけに、元々ゆるんでいた顔が、
以前に増してゆるみっぱなしだ﹂
﹁ほめてくれて、うれしいニャ﹂
﹁ばか、ほめとらん﹂
395
保冷パックから、三人分の特製弁当を取り出しながら、ヴァル
デミールは首をかしげた。﹁ところで、今言ってたシュツゲンリツ
って、ニャんのこと? アラリリツの親戚?﹂
﹁ほう。粗利率などとは、むずかしい言葉を知っているではない
か﹂
ヴァルデミールは、相模家の婿養子になってからというもの、
将来の相模屋弁当社長となるべく、経営学の猛特訓をさせられてい
るのだった。
最初は、本が上下逆さまでも気づかないくらいチンプンカンプ
ンだったのに、この頃は少しずつ専門用語も覚えてきた。
﹁まあ、親戚かどうかは知らぬが、今言ったのは、おまえがここ
に現れる確率のことだ﹂
﹁カクリツ?﹂
﹁サイコロを知っておるか。ひとつの目が出る確率は六回に一回、
つまり六分の一だ﹂
﹁あ、知ってる。スゴロクで上がりにニャるのは、とってもむず
かしいんだ。ぴったりのサイコロの目が出ないと上がれニャい。﹃
偶数だと一回休み﹄には、しょっちゅうハマるのに﹂
﹁偶数は、二、四、六のどれかが出ればよい。確率は六分の三、
つまり二回に一回は偶数が出ることになる﹂
﹁ふうん、カクリツって面白いんだニャ﹂
﹁で、さっきの続きだ。おまえは以前は用がなくとも毎日顔を見
せに来たのに、今はせいぜい週に二回。出現率は、以前の三分の一
か四分の一に下がったというわけだ﹂
﹁ああ、そうか﹂
思い当たることがあるのか、彼はなで肩を、ますますガックリ
と落とした。﹁面目ニャい﹂
﹁新婚生活が楽しくて、わしらのことなど忘れておったろう﹂
﹁うん、忘れてた﹂
﹁はは。正直なヤツだ﹂
396
博士は、壁の黒板に書き散らかした計算式を、げんこつでトン
トン叩いた。﹁おもしろいことに、アラメキアの出現率が、おまえ
に反比例するように大きくなっておる﹂
﹁ハンピレイ? それはハワイの花かざりの親戚?﹂
﹁虚数空間にあるアラメキアが実空間と交差するタイミングは、
月に二回程度と決まっておった。ところが、このところ、その間隔
がどんどん狭まり、その分、交差時間が増えてきたのだ。とは言え、
今はまだ数分単位の話だがな﹂
﹁えっ。じゃあ、うんと未来は、アラメキアと地球が、つニャが
ってる時間がもっと増えるんだ﹂
﹁まあ、何百年も先の遠い未来はそうなるかもしれないな﹂
天城博士は白いひげを引っ張りながら、期待をこめてつぶやい
た。﹁アラメキアがまるごと実空間に転移してくるなどということ
になれば、さぞ面白かろうに﹂
アパートの扉を出て下を覗くと、雪羽はにっこりと手を振った。
道の向こうから、お迎えの騎士がやってくる。
﹁ユーリおにいちゃん!﹂
天城悠里は、手を振り返した。四月から中学生になった彼は制
服を着ている。紺色のズボンにブレザー。まるで会社に出勤する大
人のようで、見るたびに雪羽はちょっぴりドキドキしている。
﹁マナおねえちゃんは?﹂
﹁今日は日直で、先に登校した﹂
彼らの通う中学校は、小学校よりもさらに高台にある。通学路
が重なっているのは、最初の三百メートルほど。そのわずかな距離
をいっしょに歩くために、ユーラスは毎朝、雪羽を迎えに来るのだ。
雪羽の後から、ゼファーが階段を降りてきた。今朝あらたまっ
た服装をしているのは、工場に行く前に銀行に用事があるからだそ
うだ。
397
いつもの見慣れた作業着の代わりに、ネクタイを締めてスーツ
を着ている父親の姿にも、雪羽はドキッとした。
︵やっぱり父上のほうが、ちょっぴりお兄ちゃんよりもカッコい
い︶
ユーラスは笑みを消して、階段のゼファーに会釈をした。ゼフ
ァーも厳しい表情で少年を見下ろす。
ふたりが昔、敵同士だったことを雪羽は知っていた。アラメキ
アにいるとき、雪羽の父は魔王で、ユーラスは勇者。激しい戦いの
すえに、父上の率いる魔王軍が敗れたのだと聞かされた。
今でもふたりが、互いを敵だと思っているのかどうかは、わか
らない。けれど、キライがスキになるのは、とても時間がかかると
思う。雪羽も、幼稚園で彼女をいじめていた男の子や女の子たちは、
今でもちょっぴりキライだから。
でも、ずっとキライのままでいるのは、やっぱりよくない。ど
こかでスキに変わらないと、大人になったときに、回りはキライな
人ばかりになってしまう。
﹁じゃあ、いってきます﹂
玄関から見送る母親に大声で叫んでから、雪羽はふたりの護衛
に挟まれて、さっさと歩き始めた。
護衛は脚が長いので、急いで歩かないと待たせてしまう。小走
りになるとカタカタとランドセルが鳴る。けれど、その音が聞こえ
ると、ふたりは余計に歩みを遅くする。だから、ランドセルを鳴ら
さないように気をつけながら、思い切り大股で歩く必要があるのだ。
分かれ道の角は、あっけないほどすぐにやってきた。
﹁ありがとう。お兄ちゃん、父上。いってきます﹂
﹁ああ﹂
﹁気をつけて﹂
雪羽は勢いよく走りだした。ふたりが立ち止まって見送ってく
れているのがわかるから、元気な背中を見せなきゃ。
きっと今日も一日、元気でいられる。
398
あとに残った魔王と勇者は、どちらともなく無言で歩き始めた。
彼らの行く道はもう少しだけ重なっている。
﹁いつまで続けるつもりだ﹂
ゼファーは不機嫌を装って、言った。﹁たった五分のために、
わざわざ二十分も遠回りをして﹂
﹁余の勝手だろう﹂
ユーラスも負けずに無愛想に答える。
﹁気遣ってくれるのはありがたいが、二年になっていじめっ子と
はクラスが分かれた。もうだいじょうぶだ﹂
﹁余はそうは思わぬ。あの子はまだ無理をしている﹂
﹁そうだとしても、おまえには関係のないことだ﹂
ゼファーは曲がり角で立ち止まり、少年の蒼い瞳をじっと見つ
めた。マヌエラがいない今日は、話し合いには絶好のチャンスだっ
た。
﹁ナブラ王。おまえは雪羽のことを、どう思っている﹂
ユーラスは奥歯をぐっと合わせ、魔王の漆黒の眼差しを真正面
から受け止めた。
﹁正直に言えば⋮⋮わからぬ。余とあの子では年が違いすぎる。
見かけですら五歳違うが、実際は九十歳と七歳だ﹂
﹁それを言い出せば、俺と佐和は七百歳以上離れているぞ﹂
ゼファーは薄く笑んだ。﹁学校で雪羽をいじめから守ってくれ
たことには感謝している。だが、われわれはずっと敵同士だった。
おまえとて、地球までやってきたのは俺を殺すためだろう﹂
﹁ああ﹂
﹁あの子は幼い。人を恋うる気持ちなど、いまだ知らぬ。だが万
にひとつの話、雪羽が将来おまえを愛するようになるとしても、俺
は認めない。おまえに殺された何百人の俺の部下たちのためにも、
おまえと融和するという選択肢は、俺にはない﹂
399
﹁わかっている﹂
﹁雪羽がほしいのなら、俺を殺してからにしろ﹂
﹁わかっている﹂
ユーラスは笑いを含んだ息を吐いた。﹁つくづく、互いに不器
用な性分だ﹂
﹁そうだな﹂
ふたりの男たちは、なごみかけた視線を逸らせて、それぞれの
行く方角を見つめた。
﹁さっき万にひとつの話と言ったな、魔王よ﹂
ユーラスは手に握っていた学校カバンの取手をぐいと握りしめ
た。﹁万にひとつとは、0.01%だ。決してゼロではない。十分
に起こりうる確率だ﹂
﹁忘れていたよ﹂
ゼファーは背中越しに、柔らかな声を投げかけた。
﹁おまえの、そのあきらめの悪さに、俺は敗けたのだったな﹂
銀行の前で坂井社長や工場長と待ち合わせてから、彼らは中に
入り、カウンターの後ろ、仕切りの奥の応接室に通された。
用意してきた工場の決算書、納税証明などを机の上に並べる。
﹁今後の事業見通しですが﹂
銀行側の担当者は書類に目を走らせながら、言った。﹁今のと
ころ、新しい主力製品の︻コンパクト乱切り機︼が好調なようです
ね。価格も今までのものと比べて手ごろで、小さな事業者でも買い
やすい。増産すればするだけ、増収が見込める状態ですね﹂
﹁そうなんです!﹂
坂井社長は蛍光灯を反射してテカテカ光る頭を、ぐいと銀行員
に近づけた。
﹁その増産体制を整えるために、どうしても広い工場が必要なの
です﹂
400
﹁わ、わかりました。それでは、次は登記簿謄本を見せていただ
きます﹂
坂井エレクトロニクスはついに、新工場への移転を決断したの
だ。
このままでは、注文を受けても納品が何ヶ月待ちという事態に
陥りかねない。ブームはやがて去る。もたもたしているうちに、大
手企業や海外メーカーが似たような製品を開発して売り出せば、小
さな工場にはもはや太刀打ちできない。
﹁今のうちに知名度を上げろ﹂と、営業の春山は社長にしつこい
くらい発破をかけた。﹁今なら特許を持っている俺たちに勝機があ
る。この分野に本格的に大企業が参入する前に、︻乱切り機のサカ
イ︼というブランドイメージをつけるんだ﹂と。
尻込みしていた社長や工場長も、とうとう熱意に負けた。
運よく適当な物件も近くにあり、大きな改装費用をかけずに工
場を移転する見通しもついた。彼ら三人は、その移転費用のための
融資を受けに、銀行に来たのだった。
正直に言えば、今でも彼らには、ためらいがある。月々の資金
繰りさえ綱渡りなのに、数千万円という新たな借金を作りたくはな
い。
けれど、新しい工場候補地を見つけてから、従業員たちは何度
も何度も出かけていっては、ああだこうだと議論し合いながら図面
を引いた。製造ラインの配置が、瞼の裏にくっきりと浮かぶように
なった。
いつしか新工場は、53人全員の夢になっていたのだ。
三人の熱意のこもった説明を表情をゆるめて聞いていた担当者
も、いよいよとなると表情を引きしめた。﹁一ヶ月くらいの審査を
経て結果をお知らせします﹂という事務的なことばを最後に、面談
は終わりとなった。
﹁どうだ。手ごたえはあったような気がするが﹂
﹁まだわからんよ。担当者が好感を持ってくれても、ひとりの一
401
存ではどうにもならん。行内の審査会議というのに通らんとな﹂
﹁未曽有の不景気だ。とは言え大企業は国がつぶさせない。業績
が悪いところには公的な特別融資制度がある。結局、うちのような、
中途半端にがんばっている中小企業だけが、何の恩恵もないんだ﹂
などと話しながら応接室を出ると、隣の部屋から﹁お役に立て
ずに申し訳ありません﹂という声が聞こえてきた。
ちょうど、ひとりの男が出てくるところだった。
かけい
その男の顔を見たとき、ゼファーたちはあっと叫んだ。
﹃リンガイ・インターナショナル・グループ﹄の筧だった。数
年前、坂井エレクトロニクスに提携話を持ち込み、人員の削減案を
無理に押しつけようとし、さんざん揉めたあげく、結局、提携は白
紙に戻った。
筧のほうも、ゼファーたちのほうを見たとたん、たちまち気ま
ずい表情になった。このあいだ会ったときは、まだ三十代の若々し
さにあふれていたのに、今は口元もたるんで、髪にも白いものが目
立つ。
﹁お久しぶりです﹂
﹁こちらこそ。こんなところでお会いするとは﹂
動揺を押し隠して、丁寧に頭を下げ合う。銀行の外に出て、そ
のまま何ごともなかったかのように左右に別れると思っていた。
だが、駐車場に行きかけた筧は振り向き、最後尾のゼファーに
向かって言った。
﹁春山に会いましたよ﹂
ゼファーは立ち止まり、筧をじっと見つめた。社長と工場長に
は、﹃先に行け﹄と手で合図する。
﹁驚いたことに、あの春山が、あんたのもとで働くのは楽しいと。
やりがいのある仕事だと言っていた﹂
﹁あんたのほうは今、何をしてる?﹂
ゼファーは平静を装って訊ねた。﹁二年前﹃リンガイ・インタ
ーナショナル﹄は倒産したと聞いたが﹂
402
﹁さっきの様子を見て、うすうす感づいてるんでしょう? 自分
で事業を始めたが、うまく行かなくてね。融資してくれと頭を下げ
に来たが、断られた﹂
﹁⋮⋮﹂
﹁もう、首をくくるかと覚悟していたところですよ﹂
筧はひとごとのように言うと、五月の晴れ上がった空を見上げ
た。
﹁⋮⋮うちへ来る気はないか?﹂
ゼファーは言った。﹁ベテランの営業がもうひとり欲しいと春
山がずっと言っている。あんたに会いに行ったのはたぶん、その話
を持ちかける気だったはずだ﹂
﹁ふん、そんな話はまったく出なかった。たとえそうだとしても、
丁重にお断わりするね﹂
筧は鼻でせせら笑うように答えた。﹁本気だとしたら、あんた
らは甘すぎるな。ライバルに情けをかけている余裕などないだろう。
そんな甘っちょろい会社に将来性などない﹂
﹁皮肉に聞こえるかもしれないが、俺はおまえに感謝している﹂
﹁はっ! 皮肉じゃなかったら何だ﹂
﹁あんたたちが俺たちを引っかき回してくれなかったら、うちは
早晩つぶれていた。あのときあんたが、ひとつの戦略を示してくれ
たからこそ、俺たちは確信をもって反対のほうに進むことができた
んだ﹂
彼は、苦い唾を吐き捨てるときのように唇をゆがめた。
﹁あんたのことは、だいたい初めから気に食わなかった。殺して
やりたいよ﹂
﹁そうか。残念だが、殺されてやるつもりはない﹂
﹁不思議なものだな。人間、怒りが湧くと、思いがけないパワー
がみなぎるものだ。そういう意味では、今日あんたに偶然会えたこ
とを神に感謝する﹂
﹁ああ。俺もだ﹂
403
筧は身をひるがえして、大股で自分の車に向かった。ゼファー
はその後ろ姿を見送った。
残業を終えて家に戻ったとき、パジャマ姿の雪羽がものすごい
勢いで駆けてきて、ゼファーに飛びついた。
﹁おかえりなさい!﹂
﹁ただいま。どうした﹂
﹁えへへ。けさね、父上といっしょに歩いてたのを、クラスの友
だちが見てて、﹃お父さん若くてカッコいい﹄ってほめてくれたの﹂
﹁へえ﹂
七歳の子どもたちの言うことだが、まんざら悪い気はしない。
﹁それから、ユーリお兄ちゃんのことも、﹃カッコいいカレシだ
ね﹄って﹂
︱︱そっちは、あまり聞きたくなかった。
その夜の夕食は、カレーだった。カレー自体は美味いのだが、
鮭のおにぎりにかけて食べようとすると、ちょっと技術が要るのだ。
﹁ねえ、父上﹂
雪羽は卓袱台にぴたりとくっついて頬杖をつき、父親の遅い食
事をじっと眺めている。
﹁なんだ﹂
﹁父上と母上が会ったのって、すごいカクリツなんでしょ﹂
﹁確率?﹂
ゼファーは、スプーンの動きを止めた。﹁二年生になると、そ
んなむずかしいことを学校で習うのか﹂
﹁ううん。ヴァルに教わったの。すごろくでサイコロを振るたび
に、カクリツ、カクリツって言ってるよ﹂
ヴァルデミールは、忙しいとこぼしていながら、きっちり雪羽
のところには遊びに来ているらしい。
﹁でね、母上が教えてくれたの。アラメキアにいた父上と、地球
404
にいた母上が出会って結婚するのは、ふつうは絶対にないんだって。
カクリツ1パーセントより、もっともっとないキセキなんだって﹂
佐和は、夫の湯のみにお茶を淹れながら、恥ずかしそうに笑っ
ている。
﹁そしたらね。雪羽が父上と母上の子どもに生まれたのは、カク
リツ1パーセントよりも、もっともっともっとないキセキなんだね﹂
雪羽の細くてさらさらの髪の毛の上に、ゼファーの大きな手が
乗った。
﹁俺はそうは思わん﹂
﹁え?﹂
﹁俺と佐和が出会うのは、必然だった。どんな道をたどっても、
それ以外の選択肢はありえん。確率100%だ。だから、雪羽が生
まれたのも100%決まっていたことだ﹂
﹁そうなの?﹂
幼い少女は、きょとんと首をかしげた。﹁父上と母上のいうこ
とは、ぜんぜんサカサマなんだね﹂
﹁いいえ。雪羽﹂
母は、夫の愛情のこもった視線を受けとめて返した。そして、
ほんのりと頬を染めながら娘の肩を抱いた。
﹁ふたりが言っているのは、同じことなのよ﹂
405
まっすぐな長い道
鞍を置いた駿馬にまたがるときの用心深さと真剣さで、雪羽は
自転車にまたがった。
同じアパートの住人が引っ越していくとき、昔使っていた子ど
も用の自転車を譲ってくれたのだ。雪羽は大喜びだった。これで友
だちが遊びに行く相談をしているときも、自分だけ仲間はずれにさ
れずにすむ。
ところが、それは小学校二年の雪羽の体には、かなり大きかっ
た。当然、補助輪もついていない。
サドルにまたがるときは、慎重にバランスを確かめながら、ぴ
ょんと飛び乗る。せいいっぱい爪先を伸ばして地面に立ち、重いペ
ダルを漕ぎ出す。ひとつひとつのことが、最初は至難のわざだった。
ころぶたびに、口をきゅっとへの字に結んで立ち上がって、ま
た同じことを繰り返す雪羽を見守りながら、ユーラスの胸は痛んだ。
かわいそうに思ったのではない。これほど何度も挫折を味わっ
ても新しいことに立ち向かっていく勇気は、もはや自分にはないも
のだと悟ったのだ。
かつては﹃勇者﹄と呼ばれた存在であったのに、そして今も十
二歳の肉体は力にあふれているのに、老成した心には勇気の片鱗す
らない。
特訓の甲斐あって彼女の成長はめざましく、時折ふらつくもの
の、調子がよければ数十メートルは一度も足をつかずに走れるよう
になった。
﹁ユーリおにいちゃん!﹂
雪羽は、ハンドルから少しだけ片手を放して、すばやくユーラ
406
スに向かって手を振り、あわててハンドルをぎゅっと掴んだ。
まだまだ、手綱さばきに余裕があるとは言いがたい。
たった七歳の幼い少女に恋心を抱いている自分のことを滑稽だ
と思っていたが、それはむしろ、﹁あこがれ﹂に似たものなのかも
しれない。
若さに対するあこがれ。
たゆまぬ努力、探究心、未来に向かって進んでいける迷いのな
い心︱︱すでに自分が失ったものへのあこがれ。
﹁この路地では、もう練習にならぬな﹂
戻ってきた雪羽が安全に着地するように、車体のうしろを支え
てやる。﹁隣町の川原に行けば、広いサイクリング用の舗道がある。
今度連れていってやろう﹂
﹁うん!﹂
雪羽が彼を見つめる目は、喜びと誇りにきらきらと輝いている。
まぶしくなって目をそらし、片膝を地面についた。自転車の車
輪や、それらをつなぐチェーンやブレーキのチューブを丹念に調べ
る。見れば見るほど精巧にできていると感心するばかりだ。
﹁これを、わがナブラ領に持って帰れたらな﹂
アラメキアに自転車はない。四輪の馬車はあるが、二輪で走れ
る車など、誰も想像したことがなかった。
もし、自転車をアラメキアに持ち帰ることができたら、そして、
これを真似て大量に作ることができれば、気軽に隣町や村々に行き
来することができる。翼を持たず、四つ足で走ることもできない弱
い人間たちも、行動範囲は格段に広くなる。
﹁おにいちゃんは、いつアラメキアに帰るの?﹂
雪羽は不安を宿した眼差しで、彼を見下ろしていた。﹁⋮⋮マ
ナおねえちゃんと一緒に﹂
﹁さあな﹂
まさか、﹃そなたの父親である魔王を倒したときだ﹄とは言え
ない。それに、いつのまにかユーラス自身も、そんな考えはとうに
407
捨てている。
﹁帰るときは、地球から、何かを持ち帰りたいのだ﹂
ユーラスは立ち上がって、自転車のサドルを撫でた。﹁この自
転車よりも、もっと大きな何か。それは形あるものではないかもし
れぬ﹂
﹁形のないもの?﹂
﹁だが、それが何か、まだ余にはわからぬ﹂
ユーラスは悔しげに吐き捨てると、雪羽を見て表情をやわらげ
た。﹁魔王の娘。そなたもいつかはアラメキアに行くと言っていた
だろう﹂
﹁うん﹂
雪羽はうれしそうにうなずいた。﹁父上のおさめていた魔族の
国に行きたいの。そして、こまっている魔族のみんなを助けたい﹂
﹁そうか。それはよいな﹂
﹁じゃあ、雪羽も、おにいちゃんが帰るとき、一緒にアラメキア
に行くね。連れて行ってくれる?﹂
ユーラスは返事をせずに、ただ空の向こうをじっとにらんでい
た。
心の中に、一本のまっすぐな長い道がある。
雪羽は自転車をあやつり、軽やかにどこまでも走っていく。そ
して、ずっと後から遅れて、離れていく背中を見つめながら彼は歩
く。
決して、隣り合って歩むことはできない、そんな光景。
﹁う⋮⋮ん﹂
朝まだきに目を覚ますと、理子は隣に寝ている夫のパジャマの
半袖を、しっかりと握っていた。
夢を見たのだ。夫がどこにもいない夢。とうとう行ってしまっ
たのだとわかって、ひとり立ち尽くして、泣いている夢。
408
浅黒い肌の夫は寝返りを打ち、重そうに瞼を半分持ち上げる。
﹁リコ?﹂
﹁ごめん、起こしてしまって﹂
﹁どうしたんですか、こんニャに早く﹂
ヴァルデミールは、またパタンと瞼を閉じて眠りに戻ろうとし
たが、すぐに目を開いた。﹁ねえ、どうして泣いてるの﹂
上半身を起こして、理子の上にかがみこむ。その拍子に長い黒
髪がふわりと彼女の首筋をくすぐる。
﹁ヴァルは、アラメキアに帰ってしまうんだろう﹂
﹁え?﹂
﹁だって、シュニンを連れて帰るために来たんだって、前に言っ
てただろう﹂
すねたように、もごもご呟いている理子の頬を、ヴァルデミー
ルはぺろりと舐めた。
﹁だいじょうぶ。わたくしは、ずっと地球にいますから﹂
理子は、彼の胸元に顔を埋めた。
﹁ほんとに?﹂
﹁ほんとに﹂
﹁ほんとにほんと?﹂
﹁ほんとにほんとですです。リコと会長と相模屋弁当の人たちを
置いて、どこへも行くわけありません﹂
顔や首のあちこちを、いとおしげに舐める夫の仕草に、理子は
うっとりとなる。最初会ったときは、何をしてもトロくて頼りない
と思っていたヴァルデミールは、結婚してみれば、とても頼りがい
がある男らしい男だった。理子は日々、夫に惚れ直してしまうのだ。
﹁そんニャことで泣くニャんて、リコは可愛いニャあ﹂
﹁⋮⋮バカ、からかうな﹂
照れた理子は、夫の首に両腕を回して飛びついた︱︱全体重を
かけて。
409
﹁また、おまえたちは少しはしゃぎすぎたようだのう﹂
弁当工場で戦場のような激務を終えて、朝の食卓についた四郎
会長は、ヴァルデミールの眉間にある青あざを見て、うれしそうに
言った。
﹁これほど仲が良いのだから、そろそろ子どもを授かっても良さ
そうなもんだが﹂
ヴァルデミールはなで肩をきゅっとすくめながら、黙って味噌
汁をすする。
結局、今に至るまで、彼がアラメキアから来た魔族だというこ
とを、どうしても打ち明けることができない。
魔族と人間とのあいだに子どもができることは、絶対にありえ
ない。だが、これほど孫ができるのを楽しみにしている義理の父に、
それを知らせるのは、とても酷なことに思えるのだ。
さりとて黙っていると、裏切っているような、いたたまれない
気分になってしまう。
最後まで楽しみにとっておいた塩鮭を味もわからずに飲み込ん
だヴァルデミールは、茶碗と箸を置いて、顔を上げた。﹁あの⋮⋮﹂
﹁なんじゃ、ヴァル﹂
﹁あの、そのう。わたくしとリコさんの真剣かつ厳正ニャる話し
合いの結果ですね。今は子育てより、相模屋弁当株式会社の将来の
ために、夫婦一丸とニャって働くことのほうが大切ではニャいかと﹂
﹁なんだとう﹂
四郎会長は、入れ歯をカポッと鳴らして、大きな口で怒鳴った。
﹁理子とおまえに子宝が授かる以上に、大切なものなど世の中には
ない!﹂
﹁か、会長。落ち着いてください﹂
﹁これが落ち着いていられるか。おまえたちがそんな罰当たりな
ことを考えているなら、相模屋の工場など売り飛ばしてしまうぞ﹂
﹁わあっ。そんニャ﹂
410
そのとき、隣の椅子ががたんと倒れた。理子が食卓から立ち上
がって、口を押さえながらバタバタと洗面所のほうに走っていく。
﹁え⋮⋮?﹂
ふたりの男はつかみ合ったまま、凍りついた。この絶妙なタイ
ミングでは、さすがの鈍いヴァルデミールでさえも、何が起きたか
察しがつくというものだ。
﹁第8週に入ったところです﹂
﹁⋮⋮﹂
﹁少し前から、つわりがあったのではありませんか﹂
﹁はい⋮⋮。でも、忙しくて、気にするどころではありませんで
したので﹂
カーテン越しに、妻と医師の会話が聞こえる中、ヴァルデミー
ルの頭の中は、ぐるぐるとたくさんの考えが回っていた。
︵アラメキアでは、魔族と人間のあいだに子どもはできニャいと
言われていたんだ。いったい何が起こったんだろう?︶
﹁ご主人。こちらへどうぞ﹂
医師がヴァルデミールをカーテンの内側へと呼んだ。﹁超音波
検査で、赤ちゃんの様子をご覧になってください﹂
ヴァルデミールは、﹁ええっ﹂と叫んで、中へ飛び込んだ。
﹁もう、赤ちゃんが見られるんですか!﹂
﹁はい。このモニターを見てください。手や足もはっきり見えま
すよ﹂
﹁こ⋮⋮この黒く丸いのは卵ですか。さなぎですか?﹂
﹁さなぎ? いや、これは胎嚢という赤ちゃんを包む袋のような
ものですね﹂
﹁しっぽやツノは生えてますか﹂
﹁しっぽに似たものは胎芽期にはありましたが、もう消えていま
すね。ツノは⋮⋮ハハハ、さすがに人間にはありません﹂
411
黒い画面の中で白く波打って見える子宮。その真ん中で、ドク
ドクと心臓を鼓動させている我が子を、ヴァルデミールは呆然と見
つめた。
新しい命を預かる親になれたという実感が、しみじみと湧いて
くる。
だが同時に、不安もあった。生まれてくるのは、二本足の人間
なのか。それとも、全身を黒く硬い毛で覆われた四つ足の魔族なの
か。
︵もし、そんニャ赤ん坊が生まれたら、病院じゅうが大騒ぎにニ
ャっちゃう。リコだって、自分の産んだ子が毛むくじゃらだと知っ
たら悲しむよ。会長ニャんか、びっくりして倒れてしまうかも︶
﹁どうしよう﹂
診察が終わって病院を出るとき、妻は、それまで浮かべていた
満面の笑顔をふと曇らせた。
﹁このところ、食べ物の匂いを嗅ぐと吐きそうになる。つわりの
せいだったんだな。こんな状態が続いては、現場に入ることすらで
きない﹂
﹁ニャ、何を言ってるんです﹂
ヴァルデミールは、理子のふくよかな手の甲を心をこめてさす
った。﹁リコは余計ニャことは考えずに、ゆっくり休めばいいんで
す。相模屋弁当の工場は、センムのわたくしが、ちゃんとカントク
しますから﹂
﹁お父さんも、この頃はあてにならないぞ。ヴァルに全部背負わ
せてしまって、本当にいいのか﹂
﹁あたりまえです。まかせておいてください!﹂
理子の手前、きっぱりと宣言したが、内心では大変なことにな
ったと思っている。弁当の製造から営業まで、たくさんの従業員を
経験の浅い彼ひとりで指揮できるだろうか。
妻を家まで送り届けて休ませたあと、ヴァルデミールは、いて
もたってもいられず、一目散に走り出した。
412
こういうときに相談できる人は、ひとりしかいない。
しんと静まりかえった工場を、ゼファーは鍵をかけて回った。
ほかの従業員たちは、もう全員帰宅している。
新工場への移転まで、あと一ヶ月。通常業務に移転作業も加わ
って、坂井エレクトロニクスは超過密スケジュールを強いられてい
た。
そこへ、電力会社から節電の要請が来た。真夏の電力需要が逼
迫しているため、企業や家庭は一律に15%の節電をしてほしいと
いう。
もともと零細の製造工場に、無駄に使っていた電力などなかっ
た。照明を落とす、空調の設定温度を上げるなど、すでにギリギリ
まで節電していたのだ。
﹁とりあえず、今はできるだけの協力をしよう﹂
社長の命令に、工場長と製造主任であるゼファーのふたりは頭
を抱えることになった。
しかし、そこは専門技術者の集まりだ。設定電力を超えそうに
なると自動的に制御を行なうデマンド・コントロール装置を取りつ
けて、出力を抑えるようにしたのだ。
だが当然、出力が下がれば、製造効率も下がる。予定どおりに
納品ができないという危機が、この夏は幾度も訪れた。今までは納
期が迫ると、残業でなんとかこなしていたのに、その残業すらでき
ない。
工場の鍵を閉めて回りながら、ゼファーは綱渡りのような一ヶ
月の日々を思い起こしていた。
もうすぐ楽になる。新しい工場は最新の空調設備も整い、節電
効率も今とは比較にならない。何よりも、広い敷地を生かして、作
業のしやすいラインが自在に組める。移転に伴って、新しい社員も
三人雇う。
413
みんなの夢が実現するのだ。あと少しの辛抱だった。
そろそろ9月になろうというのに、空調を止めた工場の中はう
だるようだ。すでにゼファーの作業服はびっしょりと滝のような汗
でぬれている。ひと夏の疲れがたまっている体には、ひどく堪えた。
照明は消したが、天窓から差し込む長い西日で、工場の中はま
だ明るい。
停止したコンベアに沿って歩いていたゼファーは、足を止めた。
中央の作業台に乗っていた仕掛かり品に不良を見つけたのだ。検査
もせずに何故わかったのか、自分でも不思議だ。長年の勘といえる
ものだった。
そのまま放っておいて、明日の朝一番に前工程に差し戻せばよ
かったのかもしれない。けれど、それだけでラインに朝から十数分
の時間のロスが出る。一日の士気にもかかわる。明日じゅうの納品
はむずかしくなるかもしれない。
ゼファーは工具を手に取ると、部品を分解し始めた。
汗が全身の毛穴からどっと噴き出す。一日フル稼動していた夕
方の工場内は、もう40度近いが、そんなことにかまってはいられ
なかった。
︱︱地球に来て、もうすぐ十年になるのだな。
心の中でいろいろなことを思いながら、ドライバーを回す。あ
のとき、まだ二十代なかばだったゼファーも、四十歳に近づきつつ
ある。
もう若くはない。体も日ごとに無理がきかなくなっていく。あ
と数年で、ユーラスと剣で戦っても勝てなくなるだろう。
精霊や魔族には、﹁老い﹂というものがない。それにひきかえ、
老いをいつも見据えて生きるのが、人間という種族の宿命だ。
手に入れた力を手放し、名声も栄誉も手放して、人間は確実に
衰え、そして死んでいく。
悲しいとは思わなかった。限られた寿命の人間のほうが、長命
の精霊や魔族より潔く生きている気がする。だが、八百年生きてき
414
たゼファーにとって、あと四、五十年の寿命は、あまりにも短い。
不良箇所を直し、組み立てを終えて、ゼファーは工具を置こう
として、ぽとりと床に落とした。突然、指先に力が入らなくなった。
︵変だな︶と頭のどこかで考えているのに、歩こうとしても足
は前に出ない。
気がつくと、膝が床についていた。手のひらで全身を支えよう
とするが支えきれない。
ゼファーは、そのまま床に倒れこみ、意識を失った。
﹃魔王よ﹄
﹃⋮⋮精霊の女王か﹄
少しだけ頭をもたげると、透き通った裳裾を揺らして、ユステ
ィナが立っていた。哀しそうな顔をして、両手を広げて。
﹃よくがんばったな。魔王。もうゆっくり休むがよい﹄
﹃俺は⋮⋮死ぬのか﹄
﹃わかっておるだろう。死は終わりではない。死は移ることだ﹄
﹃ああ﹄
ゼファーはなんとか、上半身を起こそうとした。﹃なんとなく
⋮⋮気づいてはいた﹄
﹃アラメキアと地球の関係のことか﹄
﹃俺が地球に来た理由もな﹄
﹃そなたの使命は果たした。あとは、次の世代にまかせるのだ﹄
﹃ふざけるな!﹄
ゼファーは、拳を握りしめ、ありったけの力で叫んだ。黒い光
輪が彼の体を包む。﹃俺はまだ、ここにいる。俺のなすべき務めは、
まだ終わっておらん!﹄
﹁⋮⋮ニン、シュニン﹂
415
ヴァルデミールの泣き声が聞こえる。
ゼファーは目を開けた。
工場の扉が押し開かれ、敷地の木陰に彼は寝かされていた。涼
やかな夕風が吹きすぎて、花壇には背の高いセージやクレオメの花
が揺れながら、心配そうに見下ろしているのが見える。だが、精霊
の女王の姿はどこにもない。
︱︱あれは、夢だったのか?
自分はひどく叫んでいたようだったが、それが何だったのか思
い出せない。どんな話をしていたのかも、忘れてしまっていた。
﹁この水を飲んでください﹂
背中を支えられながら、忠実な従者が差し出す冷たいペットボ
トルの水を、ゼファーは一口ずつゆっくりと口に含んだ。
意識がはっきりしてくると、水で濡らしたウエス布が体のいた
るところに乗せられているのに気づいた。
﹁シュニンは、ものすごく暑い工場の中で、倒れていらしたんで
す。ネッチュー症だとわかって、あわてて外に運んで﹂
ヴァルデミールは、ぐしっと手の甲で涙を拭いた。﹁でも、ご
無事でよかったです﹂
﹁すまん。おまえのおかげで命びろいをした﹂
﹁ニャにをおっしゃいます。主をお守りするのが、従者の役目で
す﹂
﹁俺も年を取ったな。これくらいの暑さでのびてしまうとは﹂
まだ多少頭がふらついているが、ゼファーは立ち上がった。工
場の入り口を見て、ふと不思議に思う。
﹁どうやって扉を開けたのだ。鍵をかけたはずなのに﹂
﹁いえ、開いてましたよ﹂
そう言えば、最後の扉を閉めようとして、その寸前に不良品を
見つけたのだった。もしその順序が逆であれば、ヴァルデミールは
工場の中に入れず、あきらめて立ち去ってしまっただろう。
﹁実を言いますと﹂
416
ヴァルデミールは、恥ずかしそうに説明した。﹁わたくしの手
柄ではありません。リコのお腹に赤ちゃんができたんです。それを
知ったとき、ニャんだか無性にシュニンに相談したくて⋮⋮。もし
かして、お腹の子どもが、そう思うように仕向けてくれたのかもし
れません﹂
﹁そうか﹂
すべては偶然なのだろう。不良部品を見つけたことも、鍵のか
け忘れも、ヴァルデミールがゼファーの工場を訪れようと思い立っ
たことも。
だが、偶然とは、ときに誰かが必然という糸を手繰って起きる
もの︱︱その誰かが味方にせよ、敵にせよ。
そして、生命とは、網の目のように張り巡らされた運命の糸の
上で営まれている、危ういものなのかもしれない。
ゼファーは、夢の中で精霊の女王が言っていた言葉を、ひとつ
だけ思い出した。
﹃あとは、次の世代にまかせよ﹄
﹁次の世代か︱︱﹂
ゼファーを取り巻く若き者たち。雪羽。ユーラス。マヌエラ。
そして、まだ見ぬヴァルデミールの子ども。
﹁冗談ではない﹂
まだ、死ぬわけにはいかない。この世界で、しなければならな
いことは山ほどあるのだ。
佐和を幸せにすること。雪羽をりっぱに育てること。この工場
の仲間たちが笑顔を失わずに働き続けること。
ゴールは見えないが、道半ばであきらめるわけにはいかない。
あきらめが悪く、頑固で、与えられた運命に逆らいたくなるのは、
ゼファーの持って生まれた性分だ。
だからこそ、彼は﹃魔王﹄ゼファーと呼ばれているのだ。
417
418
鏡の向こう側
アケロスの洞窟の内部は、浸み出した地下水で壁も地面もぬら
ぬらと黒く光り、歩み入る者を広大な宇宙へと陥れる。さながら鏡
の無限回廊のようだった。
精霊の女王は疲れるとときどき、ここにやってくる。
最奥の部屋に、魔王がいた。人間との戦いに敗れ、魔方陣の上
に四本の剣で手足を釘づけられたまま時を経た、肉体のみの存在。
人の生命をたちどころに奪う紫の邪眼は固く閉じられ、憎々し
げに呪詛がほとばしり出てきた口も、もはや開くことはない。
魂はすでに彼方の世界へと去った。冷たい死の静寂をまといな
がらも、そのかんばせは昨日眠ったばかりのようにみずみずしく、
精霊の騎士であった往時と変わることなく美しい。
﹁ゼファー﹂
天井から落ちる雫の音よりなお、か細く女王はささやいた。
あのとき、﹁そなたを愛している﹂と言うことができたなら、
﹁アラメキアよりも何よりも、そなたが大切なのだ﹂と叫ぶことが
できたなら、何かが変わっていただろうか。
今ごろは宮殿の園で、たくましい金色の騎士の腕に抱かれてい
るだろうか。それとも、その安逸こそが、﹃あの者ども﹄の策略に
堕ちることだったのか。
ユスティナにはわからない。
ただわかるのは、彼の魂は遠い異世界に流されて、愛する女性
と巡り合い、自分の使命を見つけたということ。
そして、自分のもとに残されたのは、この物言わぬ永遠の骸だ
けだということ。
419
﹁ゼファー﹂
もう一度、想いをこめて魔王の名を呼んだ。
ふわりと女王の紫の髪が揺れ、水明かりをかき乱す。薄衣のす
そが床に広がり、しとどに濡れた。
薄紅色の唇が、触れるか触れないかのやさしさで彼の頬に当て
られたとき、異変は起こった。
アケロスの洞窟を不意の揺れが襲った。その震動はアラメキア
の大地を底深くまで揺さぶった。
﹁父上ーっ﹂
洗面所で身じたくを整えた雪羽は、ふすまをがらりと開けて、
布団が敷きつめられた奥の六畳間に飛び込んだ。
﹁起きなさい、朝ですよーっ﹂
﹁あら、お父さん、まだ起きてなかったの﹂
佐和は台所のタオルで手をぬぐってから、やってきた。﹁ゼフ
ァーさん、早く。遅刻しますよ﹂
﹁うう、あと五分﹂
くぐもった声が、布団と毛布で作った防壁の下から聞こえてく
る。
︵珍しい。ゼファーさんが、こういうことを言うなんて︶と佐和
は思った。いつもなら、気合いをこめて出陣する将のように、たち
どころに起き上がるのに。
﹁お寝坊さんは、おしおきです!﹂
雪羽は弾みをつけて、山に飛び乗った。﹁うわっ、重い﹂とい
う悲鳴が聞こえてくる。
やがて、夫がしぶしぶ布団をはねのけて、あくびをしながら起
き上がった。いつも先が少し反っている黒髪が、今日は盛大にあち
こちに跳ね上がっている。
︵なんだか、今日のゼファーさん、かわいい︶
420
笑いをこらえながら、佐和はくしゃくしゃの毛布を畳み始めた。
﹁さあ、顔を洗って。味噌汁できてますよ﹂
﹁うん﹂
ゼファーは、ほにゃりと笑顔を浮かべて、佐和の手を握った。
﹁鮭のおにぎりも?﹂
﹁はい﹂
﹁じゃあ、起きる﹂
夫の甘えたような舌足らずの言い方に、佐和はとうとう我慢で
きなくなって笑い出した。
﹁ゼファーさん、どうしたの。今日は変﹂
﹁佐和こそ、変だよ﹂
不平そうに唇をとがらせながら、彼はパジャマのボタンをはず
し始めた。﹁俺のこと、なんでそんな呼び方すんの。俺の名前は瀬
峰正人だよ﹂
﹁え﹂
佐和と雪羽は、同時に固まってしまった。
﹁ゼファーっていったい、何の冗談?﹂
﹁シュニーン!﹂
ヴァルデミールが、ころがるように玄関のドアから飛び込んで
きた。﹁どうニャさったんですか﹂
﹁あ、相模屋弁当の﹂
ゼファーは彼のことを見ても、怪訝な顔をするばかりだ。﹁な
んで朝っぱらから? 弁当頼んでたっけ﹂
﹁お、お、奥方さま、これはいったい﹂
﹁わからないの。起きたときからずっとこんな調子で﹂
佐和は途方に暮れた様子で、夫の従臣である若者に訴える。﹁
自分がアラメキアから来たことも、魔王であることも、完全に忘れ
ているみたい﹂
421
﹁だから、なんだよ。さっきから、アラメキアだの魔王だのって﹂
すっかり不機嫌になって、ゼファーは鮭のおにぎりを口いっぱ
いに頬張り、ごくりと飲み込んだ。
﹁早く出ないと会社に遅刻しそうなんだ。くだらない話は、また
後にしてくれるかな﹂
﹁シュ、シュニンが壊れたあ﹂
主のあまりの変貌ぶりに、ヴァルデミールはへなへなと床に座
りこんだ。
目にいっぱいの涙をためている雪羽を見たとたん、ユーラスと
マヌエラはすぐに異変を感じとった。きわめつけは、アパートの階
段を下りてきた魔王が、
﹁おはよう、悠里くん、真奈ちゃん﹂
と声をかけたことだ。
ゼファーは今まで、彼のことを﹁ナブラ王﹂﹁ナブラ王妃﹂と
しか呼んだことはない。
公の場所では互いの名を直接口にしないのが、アラメキアの慣
習だ。魔術を行う者に名を盗まれないためだと言われる。名を呼ぶ
のは、目下の相手に服従を命じるとき、あるいは家族や恋人など、
ごく近しい間柄だけだ。
﹁父上が、アラメキアのことを忘れちゃったみたいなの﹂
もの問いたげな視線を受けて、雪羽が鼻水をすすりながら説明
した。﹁自分が魔王だってことも、ヴァルのことも、おぼえていな
いんだって﹂
﹁なんだと﹂
ひそひそと話す彼らを置いて、ゼファーはさっさと工場に向か
って歩き始める。
﹁魔王、待て﹂
教科書をつめた重いカバンを持った勇者は、あわてて後を追い
422
かけた。
﹁まさか、余のことは覚えておろうな﹂
﹁ああ、覚えているよ。天城悠里くん。うちの雪羽への下心がバ
レバレな、近所の中学生だ﹂
﹁⋮⋮う﹂
ゼファーは肩越しに冷ややかな視線を寄こした。
﹁中学に入ってからも、登校時わざわざ遠回りして、雪羽を小学
校まで送ってくれる。部活にも入らず、帰りまでついてきて、無節
操に夜まで家にいりびたる。このへんでも噂になってるぞ。小学校
二年生にちょっかいを出している、真性ロリコンだと﹂
﹁⋮⋮うう﹂
去っていくゼファーの背中を見送りながら、ユーラスは胸を押
さえて、道端にうずくまる。
﹁陛下、だいじょうぶですの?﹂
﹁余が今までの生涯で受けた、最強の攻撃であった⋮⋮﹂
昼休み、移転した新工場の芝生で、無心に妻の作ったおにぎり
を食べているゼファーに、工場長がせかせかと近づいてきて話しか
けた。
﹁まったく、信じられん﹂
﹁どうしたんです?﹂
珍しく丁寧なことばを使った製造主任に、一瞬とまどいながら
も、工場長は頭をぽりぽりとかいた。
﹁石沼工業が海外に移転するんだと。これで、うちの知り合いで
は三軒目だ﹂
﹁ああ、そりゃね﹂
﹁円高に節電のダブルパンチ。やっていけないのはわかるが、こ
んなことじゃ、日本から製造業がひとつ残らず消えてしまうぞ﹂
中小企業の未来について、日ごろから熱く語り合っている者同
423
士、きっと同じように憤ってくれるだろうと期待していた工場長だ
が、あにはからんや、彼は素知らぬ顔をしていた。
﹁まあ、うちさえつぶれなければ、そんな先の未来なんてどうで
もいいですよ。それより、残業が多いのは何とかならないかなあ﹂
﹁な、なんだって﹂
﹁安月給で遅くまでこき使われて、娘と遊ぶ暇もないんだから、
まったく﹂
弁当箱を包みなおして、さっさと行ってしまうゼファーの後ろ
姿をポカンと見つめながら、工場長はつぶやいた。
﹁何が一体どうしちまったんだ、あいつ﹂
定時に家に帰ってきた夫を見て、佐和は驚いた。﹁どうしたん
ですか、ゼ⋮⋮正人さん。こんなに早く﹂
﹁残業はことわった。たまには、早く帰らなきゃ身が持たないか
らな﹂
久しぶりに三人で食卓を囲み、食後はトランプやゲームをした。
雪羽は父親と一緒に風呂に入り、片時も離れずに、抱っこをせがん
だ。日ごろ甘えられない分を取り返すような甘え方。それはどこか
不安に駆られて、そうしているようにも見えた。
娘が寝るまで、ゼファーは低い声で子守唄を歌いながら添い寝
をしてやったが、それは佐和がびっくりするほど完璧な音程だった。
アラメキアの音階しか知らないときの彼の歌は、聞くに堪えないも
のだったのに。
﹁あなた﹂
電気を消した六畳の部屋で、夫婦は座って娘の寝顔にいつまで
も見入った。
﹁おまえには苦労をかけるね、佐和。こんな古いアパートで、い
つまで経っても貧乏な暮らしで。おまえも実家の手前、肩身が狭い
だろう﹂
424
ぽつりと呟いたゼファーに、妻は懸命に首を振った。
﹁苦労だなんて思ったことは、一度もありません﹂
﹁今は無理だけど、いつか必ず、もっと仕事が楽で給料のいいと
ころに転職するから。そしたら、もっと広い家に移ろう﹂
﹁でも、工場を辞めてよいのですか﹂
﹁おまえと雪羽が喜ぶなら、仕事なんか何だってかまわない﹂
佐和は喉がつまり、途中で口をつぐむ。涙があふれてきて、し
かたがない。夫は黙って彼女の肩を抱き、自分のほうに引き寄せた。
今まで夫から、こんな優しいことばをかけられたことはなかっ
た。ゼファーの見ているのは、いつも遥かな雲の彼方に浮かぶ理想
だった。小さな倒産寸前の工場を立て直し、たくさんの従業員たち
が安心して働ける、りっぱな企業へと育て上げること。
それは、かつてアラメキアで指揮官であった彼にとって、新し
い、命を懸けるべき戦いの場だったはずだ。
そのために残業や休日出勤で、家庭を犠牲にすることも一度な
らずあった。佐和も雪羽も、少し寂しくはあったけれど、そんな彼
の姿を誇りに思い、気持ちをなだめてきたのだ。
その彼が、自分の戦いを忘れ、ひとりの夫、ひとりの父親とし
て佐和と雪羽のそばに寄り添っていてくれる。魔王ゼファーとして
ではなく、瀬峰正人として生きていこうとしている。
︵うれしいはずなのに︶
夫の暖かい腕に包まれながらも、佐和の心のどこかに、小さな
しこりが生まれていた。
ユーラスは帰宅の途上でも、ずっと苛立っていた。
アラメキア随一の勇者と呼ばれた存在だけあって、その全身か
ら放たれる不穏なオーラの前では、身を刺す三月の寒風も、蝋梅の
甘い香りも、避けて通りそうだ。
転移装置の前の計器に長い時間かがみこんでいた天城博士は、
425
ユーラスが通学カバンをどさりと置いた音に顔を上げ、研究所内に
立ち込める暗雲に気づいた。
﹁どうしたのだ、悠里は﹂
﹁魔王が、記憶喪失になってしまったのです﹂
夫のコートを丁寧にハンガーにかけながら、マヌエラは答えた。
﹁ほう、あの男が﹂
﹁自分が魔王だということも、アラメキアのこともすっかり忘れ、
陛下を﹃真性ろりこん﹄だと罵倒する始末﹂
﹁それに関しては、当たらずといえども遠からず、じゃないか﹂
﹁ええ、確かにそうなのですけれど﹂
﹁アマギ﹂
ユーラスは、殺意のこもったすさまじい目つきで、祖父代わり
の博士をにらんだ。
﹁何か心当たりはないか。アラメキアに何か異変の兆候は﹂
﹁ああ、そう言えば、あった。あったぞ﹂
天城は、計器から吐き出された記録用紙の束を、ばさばさと繰
った。
﹁二、三日前、妙な波形が描かれておったな。地震と言えなくも
ない﹂
﹁地震?﹂
﹁ああ、と言っても地質学的な地震ではないぞ。何かもっと、シ
ューマン共鳴に似たものでな。地球とアラメキアというふたつの異
空間を結ぶ球殻間空洞内において発生する︱︱﹂
﹁要するに、それが魔王の精神に異常を及ぼしている可能性はあ
るのか!﹂
説明を途中でさえぎられた博士は、不服げに老眼鏡の奥に見え
る大きな目をぱちくりさせながらも、考え込んだ。
﹁ないとは言えんな。むしろ、あの男こそが、その共鳴の原因か
もしれん﹂
﹁あ、陛下。どこへ﹂
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王妃の制止の声も振り切って、ユーラスは外に飛び出した。
﹁余の力で、アラメキアのことを思い出させてやる!﹂
佐和は、今日一日、電話の前で逡巡していた。
夫が三ヶ月に一度通院している精神科の診察券を、手に取って
は離す。夫の主治医である霧島医師に相談しようかどうか、迷って
いたのだ。
ゼファーは長い間ずっと、回りから心を病んでいると思われて
きた。自分が魔王だという妄想に取りつかれていると、精神科医の
診断を受けていたのだった。
だから、今の夫の状態は、病気が完治したと言うべきなのだろ
う。
︵妻である私は、一番そのことを喜んでいいはずなのに︶
なぜか、喜べない。今の夫は、本当の姿ではないような気持ち
に襲われるのだ。病気だ、妄想だとさげすまれようが、魔王ゼファ
ーとして誇りをもって生きている夫のほうが、彼らしかった。どん
なに貧しくても、迷いなく自分の道を突き進める夫のほうが、ずっ
と彼らしかった。
さすがの霧島先生も、あきれてしまうだろう。﹃夫が回復して
しまいました。どうか、元に戻してあげてください﹄などと言う妻
なんて。
﹁お母さん﹂
ちゃぶ台で宿題をやっていた娘の声に我に返った。気がつけば、
窓が夕焼けで真赤に染まっている。
﹁ごめんなさい。すぐにご飯の支度するわね﹂
そそくさとエプロンを身につけ、流し台の前に立つ。今晩は夫
の好物の湯豆腐とおにぎりだ。
﹁父上、今日も早く帰ってくるかな﹂
雪羽の声には、期待の中に、かすかな不安が混じっていた。
427
だし昆布を浸しておいた鍋を火にかけ、豆腐を切って静かに入
れる。焼いた塩鮭の身をほぐして、おにぎりの準備をする。
﹁ねえ、雪羽﹂
﹁なあに﹂
﹁父上は、今のほうが幸せなのかもしれないわね﹂
娘が﹁え﹂と息を飲む気配を、背中で感じた。
﹁魔王でいる限り、父上は重たい荷物を自分ひとりで引き受けて
しまう。でも、何もかも忘れてしまえば、その荷物を全部降ろすこ
とができると思うの﹂
振り返ると、雪羽は涙の膜をかけた黒い瞳を伏せて、﹁うん﹂
とうなずいた。
﹁それとも雪羽は、魔王でない父上は、いや?﹂
﹁ううん﹂
目をぎゅっとつぶり、雪羽は頭を懸命に横に振った。﹁それで
も、父上が大好き。だって父上は父上だもの﹂
﹁そうね。お母さんも﹂
エプロンの端で手をぬぐい、すばやく目もぬぐう。
もう一度﹁よし﹂と腕まくりして、心をこめておにぎりを握ろ
うとしたとき、換気のために薄く開けた台所の窓から、何やら大き
な叫び声が聞こえてきた。
あわてて玄関の扉を押し開け、通路に出て下を見下ろすと、三
月のほの明るい夕映えの中、道でふたりの人がにらみ合っているの
が見えた。
﹁ゼファー。本当なのか。本気で余を忘れたと申すか﹂
抜き身の剣を下げているのは、天城悠里だ。彼に行く手をはば
まれて立ち尽くしているのは、ゼファーだった。
﹁魔王と勇者として、きさまと余は互いを不倶戴天の敵と定めて
戦ってきた。最後の戦いでは、数多の屍を踏み越えながら、何時間
も火花が散るほど激しく斬り結んだではないか。そのことすら、き
さまは忘れてしまったのか﹂
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﹁な︱︱何を言ってるんだ、きみは。アニメやラノベの見すぎじ
ゃないのか﹂
﹁うるさい!﹂
声変わりが終わったばかりの頑なな響きの声は、泣いているよ
うにも聞こえる。
ユーラスの後を追いかけてきたマヌエラは、大きく息をはずま
せながら天を仰いだ。﹁まったく陛下ったら子どもみたい︱︱子ど
もには違いないけれど﹂
九十歳を過ぎた一国の王ともあろうものが、敵に忘れられたと
言って激昂し、身も世もなくうろたえる姿は、女性にはとうてい理
解しがたい。
﹁断じて赦さぬ。余を忘れる資格は、きさまにはない!﹂
少年が握りなおした剣に仰天し、ゼファーは震え上がって叫ん
だ。
﹁ま、待て。暴力反対。どんな理由があっても、暴力はいけない﹂
﹁そのような情けなき台詞を、きさまの口から聞くことになろう
とはな﹂
裂帛の勢いで剣を振りかざしたとき、ゼファーの前に人影が躍
り出た。
﹁雪羽!﹂
佐和は驚愕した。さっきまで部屋の中にいたはずなのに、いっ
たいいつ外に出たのか。
﹁父上に、ひどいことしないで﹂
雪羽は、父親をかばう位置に立ち、両腕をいっぱいに広げてユ
ーラスをにらみつけた。﹁父上は、もう魔王じゃないの。昔のこと
をみんな忘れちゃったの。だから、いじめないで﹂
﹁魔王の娘⋮⋮﹂
﹁その呼び方も、もうやめて﹂
唐突な早春の風が、ざわりと少女のやわらかな髪を乱す。まる
で生き物のように。
429
﹁それでも、そなたが父上の敵であろうとするなら、もう二度と
そなたには会わぬ︱︱立ち去れ!﹂
ユーラスは、目を大きく見開いた。そして雪羽の透き通るよう
な白い額を、怒りにひそめられた黒い眉を、強い意志で結ばれた唇
を見つめた。
剣を持つ手が力を失う。思わず、背を丸めてひざまずきそうに
なる。
その隙にゼファーは愛娘を腕にかかえこみ、用心深く数歩うし
ろに下がってから、アパートの階段を駆け上がった。
﹁陛下﹂
王妃の呼びかけに我に返ったナブラ王は、ゆっくりと剣をさや
に戻した。
﹁あの娘は︱︱﹂
言いさしたまま、動けない。あれは八歳の少女の持つ目ではな
かった。女王の持つ目だ。
勇者と決して相容れることのない、魔王の後継者の持つ目だっ
たのだ。
雪羽の規則正しい寝息を確かめてから、佐和は添い寝の布団か
ら起き上がった。
ふすまを開ける。夫は真っ暗な部屋で腕枕をして寝ころびなが
ら、ガラス窓から夜半の月を見上げていた。
﹁正人さん﹂
彼の後ろにそっと座る。月明かりの中で、ふたつの影が寄り添
う。
﹁ときどき夜中に目を覚ますと、あなたの布団から、寝返りを打
つ音やため息が聞こえてきて⋮⋮今夜も眠れないのかなって思って
いました﹂
幾千もの敵と殺し合った戦い。果てしなき憎悪の応酬。敗戦の
430
屈辱。
精霊の女王との、報われない愛の記憶。
彼の胸を去来しているにちがいない思いが、いつも佐和は恐ろ
しかった。
﹁正直に言えば、昔のことを忘れてと願ったことも、何度もある
の。普通の人間として生きてほしいって﹂
佐和は話しながら、夫の肩から腕にかけてのラインを、何度も
指で往復した。
願いが叶い、夫は過去を忘れた。だが、佐和の知っているゼフ
ァーではなくなってしまった。そのことに心のどこかで失望してい
る自分は、あまりに身勝手だとわかっている。
そして、もう一度、自分に問い直したのだ。私は夫のどこを愛
しているのだろうかと。そして、答えは簡単に出た。
彼の硬い髪に顎をうずめながら、あまたの想いをこめて、息を
吐き出す。
﹁私は、あなたのことが大好きです。あなたの全部が好き。たと
え、あなたが魔王であろうと人間であろうと。たとえ、今までのこ
とを何もかも忘れてしまっても﹂
﹁誰が、何を忘れたって﹂
夫は腕枕をはずし、漆黒の瞳で不思議そうに振り返った。
﹁あなたが⋮⋮ご自分のことを﹂
﹁俺が、アラメキアから来た魔王ゼファーであることをか?﹂
﹁⋮⋮え?﹂
﹁四本の封印の剣のうち一本が、アケロスの洞窟にあるそなたの
身体から抜けてしまったのだ﹂
淡い夜明けの光を浴びて、寒そうに背筋を伸ばしている菜の花
の中から、精霊の女王が立ち現れ、ことの次第を説明した。
﹁あわてて封じの結界を張ったのだが、それが思いのほか強力に
431
作用し、そなたの精神の一部にまで影響をおよぼすことになってし
まったらしい﹂
﹁それで、俺はおのれの過去を忘れていたわけか﹂
女王は、あいまいにうなずいた。封印の剣が抜け落ちたそもそ
もの原因である彼への接吻については、何があろうと口をつぐむこ
とに決めていた。
﹁そのことに気づいて、すぐに結界の力を弱めた。剣も元通りに
魔方陣に突き刺した。面倒をかけたな﹂
﹁別にかまわん﹂
だいたい、彼自身は何も覚えていないのだ。もっとも、妻や娘、
ヴァルデミールの喜びようを見れば、どれほど皆に心配をかけたか
は想像がつくのだが。
﹁だが﹂
暁の空を映し出したゼファーの瞳は、一瞬、黄金色に光る鏡の
ように見えた。
﹁そのような結界をほどこさねばならぬほど、俺の存在は今も危
険なのか﹂
ユスティナは、そうだとも違うとも言えなかった。ゼファーの
身体があのまま洞窟の底に置かれている限り、危険はない。
だが、万が一にも、そのことを︽あの者ども︾に感づかれてし
まったとすれば。
ふたつの世界は、そう遠くない将来、新たなる戦いの渦の中に
投げ入れられることになるのだ。
アラメキアと地球︱︱鏡のように、互いの姿を映し合うふたつ
の異世界は。
432
風はどこから来て
夜明けの白さの中に立って、ずいぶん日が長くなったのだなと
気づく。
工場の敷地の隅に植えられた木から、花びらがはらはらと散る
のを見て、ヴァルデミールは訳もなく泣きたくなった。
桜は、この国の人にとって特別な花だという。アラメキア人が
リューラの花を恋しく思うのと同じだろう。
冷たさの中にわずかの温もりを隠し包んで、風が吹く。また、
花びらが舞い落ちる。
薄く、はかない命。白い夜明けの中の、白い影。
﹁今日は、お花見弁当を二百、デラックス弁当を五十個増産しま
す。デラックス弁当には、百円割引券つきのサクラのシールを張る
のを忘れニャいで。みニャさん、がんばってください﹂
﹁はい!﹂
この季節、ビジネス街では新入社員の姿が目立つようになる。
彼らが割引券を使って、それから後もずっとリピーターになってく
れれば、相模屋弁当にとって、百円割引は決して損ではない。
産休をとっている社長の理子の代わりに、ヴァルデミールは、
朝早くから卸市場を回っておいしい食材を探したり、弁当を売って
いるスーパーや駅の売店をめぐっている。その甲斐あって、相模屋
弁当の売り上げは好調だ。
理子が帰ってくるまで、絶対に会社をつぶすわけにいかない。
もし食中毒が起きたら。
433
発注ミスで大量に売れ残ってしまったら。
味付けが辛すぎて、お客が愛想をつかしていったら。
いろいろなことを考えると、夜も寝られないことさえあった。
完成した弁当が、バイクやバンで次々と配達されていくのを見
て、ようやくヴァルデミールは大きく息を吐いた。
﹁あいつも、うまくやったよな﹂
従業員の誰かが、数人で工場の裏で立ち話をしている。
﹁日本語もへたくそな外国人のくせに。社長に取り入って婿にお
さまったら、とたんに重役だ﹂
﹁玉の輿って、男の場合は何て言うかな。タマの輿? ははっ。
あいつ元気そうだもんな﹂
︱︱何を言っているのかさっぱりだが、悪口であることは、し
ゃべり方でわかる。
それに、そのうちのひとりは、彼といっしょに工場の責任を担
っている、古参の専務だ。
膝から下がすーっと感覚をなくしていくようだ。体の内側がか
らっぽで寒いのに、頬は燃えるように熱い。
ヴァルデミールはそっとその場を離れると、工場の敷地内にあ
る相模家に戻った。
最初はとぼとぼと。次第に歩幅を広げて、玄関を開けるときに
は元気を取り戻して。
﹁ただいまあ!﹂
台所では、理子が朝食の支度をしていた。
﹁あ、リコさん。だいじょうぶですか?﹂
﹁これくらい、大丈夫だ﹂
理子は、大きなお腹に刺激を与えないように、そろそろと振り
返った。﹁すまない。何もかもヴァルにまかせて﹂
﹁ううん、ちゃんと、うまくやっていますから﹂
﹁顔色が悪いな。それに痩せたみたいだ﹂
﹁気のせいですってば﹂
434
理子にとって、妊娠期間中はトラブルの連続だった。
長いつわりがやっと終わったと一息ついた頃、切迫早産の恐れ
があると入院になった。治療のあと、安静にしながらの自宅療養。
やっと妊娠九ヶ月まで無事にこぎつけ、あとは出産を待つばかりに
なった。
﹁わたくしの子どもだから、落ち着きがニャくて、じっとしてい
ニャいのかなあ﹂
ヴァルデミールは、理子の具合の悪さを自分のせいにして、し
ょげてしまう。
﹁もし、毛むくじゃらでツノが生えた子だったら、どうしよう﹂
﹁それでもいい。ヴァルの子だから、きっと世界で一番可愛い﹂
妻は、夫のたてがみのような長い髪を撫でて、なぐさめた。母
親になった理子は、心身ともに今までの何倍も、大きくてたのもし
い。
﹁さ、できた。お父さんを起こしてきてくれないか﹂
﹁はい﹂
ヴァルデミールは奥の和室に行き、ベッドでテレビを見ていた
義父の四郎を助け起こして、着替えを手伝った。
脳梗塞をわずらっている四郎会長は、この頃は少しずつ、でき
ないことが増えていく。リハビリに行ったりして頑張ってはいるの
だが、どんな訓練も、年齢と追いかけっこをしているようなものだ。
その分、生活の中で、婿であるヴァルデミールに頼らねばなら
ないことが増えていくのだ。
﹁ヴァルや、おまえちゃんと寝ているのか﹂
四郎は、彼の手と杖の力を借りながら台所に向かう途中、心配
そうに言った。﹁わしが夜中に目を覚ますと、いつも居間から灯り
が漏れているぞ﹂
﹁ごめんニャさい。つい、消すのを忘れちゃうんですよね﹂
ヴァルデミールはできるだけ明るく、うそをついた。本当は夜
も眠れないので、つい起き出して、いろいろ考えてしまうのだ。
435
朝食が終わると、日課の得意先回りに出かける。
家を出たとき、先ほどの専務が工場の出入り口にいるのが見え
た。悪口を言われたことを思い出して、ずきんとみぞおちが痛む。
しばらく歩くと、我慢できなくなったヴァルデミールは公園の
トイレに飛び込んだ。
このところずっと、食べたものを胃が受けつけないのだ。なぜ
だか自分でも理由がわからない。
﹁理子さんも、つわりのときは、こんニャに大変だったんだ﹂
妻の苦しみを分かち合えたような気分になって、ヴァルデミー
ルは少しだけ慰められた。
理子はもう何年もずっと、弁当工場の経営者として苦労してき
た。母が亡くなり、父は病に倒れ、兄姉に頼ることもできず、たっ
たひとりで重荷を背負ってきたのだ。
その苦労を夫の自分が背負うのは、あたりまえだ。どんな悪口
を言われたって、冷たい目で見られたって、相模屋弁当を守らねば
ならないのだ。
口をゆすいで、トイレの外に出たとき、くらりと目まいを感じ
た。
﹁あれ、変だニャあ﹂
春の陽ざしがふりそそいでいるはずなのに、あたりがどんどん
暗くなる。
ベンチに座ろうとして、ヴァルデミールはそのまま、何もかも
わからなくなってしまった。
﹁ヴァルが行方不明?﹂
一日の仕事が終わって工場を出ようとしたとき、ゼファーは佐
和の電話を受けた。
﹃得意先回りに行くと、朝出たきり、何の連絡もないんですって﹄
おろおろと訴える佐和。そのそばでは、雪羽が母のエプロンの
436
紐を、ぎゅっと不安そうに握っているのが見えるようだ。
﹁わかった。心当たりを探してみる﹂
ゼファーは門の外に出ると、道の真ん中でゆっくりと体の向き
を変えながら、宵闇に目を凝らした。
彼の体を淡い黒の光輪が取り囲む。やがて、風に乗って、かす
かな呼び声が聞こえてきた。
﹃⋮⋮シュニン﹄
﹁ヴァルデミール﹂
ゼファーは迷わず走り出した。風の方向をたどっていった先は、
工場のそばの大きな公園だった。もう何年も前、ゼファーを捜しに
地球に来たヴァルデミールと、初めてめぐり会った場所。
あのときと同じく、彼は小さな黒猫になって身体を丸め、﹁み
ゃお﹂と鳴いていた。
﹁よかった。いなくなったと聞いて、心配したぞ﹂
手を伸ばしたが、黒猫は身を縮めるだけで、彼の腕に飛び込ん
でこない。
﹁どうした﹂
﹃わたくし、人間に戻れニャくニャってしまいました﹄
﹁なんだと?﹂
﹃こんニャことをしてる場合じゃニャいのに︱︱早く、いっぱい
働かなきゃニャらないのに、どうがんばっても人間にニャれないん
です﹄
猫の大きくて真っ黒な瞳から、きらきらと涙が伝い落ちる。
﹃どうしましょう。シュニン。わたくし、どこがいけニャいんで
しょう。どこが間違っているんでしょう﹄
﹁落ち着け。ヴァルデミール﹂
ゼファーはむりやり、腕の中に彼を抱き上げた。
﹃落ち着けですって! じゃあ誰が代わりに仕事をやってくれる
んですか! 手伝ってもくれニャいくせに、気休めを言わニャいで
ください﹄
437
﹁ヴァル﹂
﹃﹁大丈夫か﹂って訊かれるのも、もううんざりです。無理して
﹁大丈夫﹂って答えるたび、よけいにツラくニャるんです。もう放
っておいてください。悪口ニャんて聞きたくありません。人間のこ
とばニャんて、わかりたくありません!﹄
﹁ヴァルデミール﹂
﹃シュニン。助けて⋮⋮助けてください﹄
ヴァルデミールは、遠吠えのような声で泣き始めた。今まで溜
めに溜めていた気持ちを全部吐き出すように、長く細く泣く。
ゼファーはそのあいだ、何もしゃべらなかった。
﹁お前の気持ちはよくわかる﹂とも、﹁こうしたらいい﹂とも
言わない。
ただじっと黒猫を抱きしめ、艶を失った毛並みをゆっくりと撫
で続ける。その暖かい腕の中でヴァルデミールはけだるい、不思議
な安堵に包まれた。
なぜ、もっと早くこうしなかったのだろう。彼にとって憩える
場所は、最初からここだったはずなのに。
全身の毛がゆっくりと毛羽立っていく。そして、気がつくとい
つのまにか、人間の姿に戻っていた。
通りかかった中年女性が、全裸の若者を抱きしめているゼファ
ーを見て、﹁ひょええ﹂と変な叫びを上げて、走り去っていった。
ゼファーは急いで工場に戻り、洗い替え用の作業服を持ってき
て従者に着せると、相模家まで送っていった。
泣き腫らした目をしてうなだれて玄関に立っているヴァルデミ
ールを見て、四郎と理子はことばを失った。
﹁すみません﹂
ヴァルデミールはそれだけ言って、小さく身を震わせた。
﹁まあ、あがれ﹂
438
居間のソファに座って、ゼファーからあらましを聞いた理子は、
涙を流しながら、ぽつりと言った。
﹁どうして︱︱どうして、そんなにつらい思いをしていたのに、
打ち明けてくれなかったんだ﹂
四郎会長は、理子に﹁おまえは、あっちに行っていなさい﹂と
静かに命じた。
﹁だってお父さん。私は﹂
﹁おまえが一緒だと、ヴァルは言いたいことも言えなくなる﹂
﹁⋮⋮﹂
理子が悄然と出て行くと、四郎は杖を頼りに立ち上がって、呆
けたようにソファに座っている義理の息子の前に立ち、険しくも優
しい目でじっと見下ろした。
﹁なぜ打ち明けてくれなかったとは、わしは決して言わぬぞ。言
えないものなのだ。口にすることすら、自分がゆるせないのだ。わ
しもそうだったから、よくわかる﹂
ヴァルデミールは、焦点の合わない目を上げた。﹁お父さん﹂
﹁その意気地のなさ、脆さ、弱さ。それは、おまえが男だからだ
ぞ。男とはそのように、頑固でもろくて弱いものなのだ﹂
﹁⋮⋮﹂
﹁理子に言えぬ気持ちも、よくわかる。そうさせるのは、幻想だ。
男は強くあれかしという、ロマンなのだ﹂
﹁菓子というマロン︱︱﹂
﹁よいか。ヴァル。わしも、同じ頑固でもろい男のひとりだ。お
まえの味方だ。悪口を言うやつらなど放っておけ。おまえの値打ち
がわかれば、恥じて言わなくなる。おまえに値打ちがなければ、あ
きれて言わなくなる﹂
﹁はいっ﹂
どこかちぐはぐでユーモラスな父子の会話を聞きながら、ゼフ
ァーはそっと部屋を立ち去った。
﹁もう心配はいらんだろう﹂
439
夜目にも白いハクモクレンに向かって、息を吐く。それは自分
に言い聞かせると同時に、その花の向こうに立っている誰かに語り
かける口調だった。
﹁リコ⋮⋮さん﹂
明かりを消した部屋に入ると、ヴァルデミールは上着を脱いで、
静かにベッドの中にもぐりこんだ。
答えの代わりに、妻のふくよかな腕が彼を抱きしめた。
﹁ごめんニャさい﹂
﹁あやまるのは、私のほうだ﹂
理子の涙まじりのため息が聞こえた。﹁私はおまえに、とても
たくさんのものを背負わせてしまった。自分でも負いきれなかった
重い荷物なのに﹂
﹁違うんです。わたくしはリコさんに荷物を背負わされたんじゃ
ニャい。リコさんのために、自分が背負いたかったんです﹂
﹁ヴァル⋮⋮﹂
﹁わたくしは本当は立派じゃニャいのに、立派にニャろうとしま
した。だから工場の皆さんに笑われてしまいました。はじめから、
﹃助けてください﹄とお願いすればよかったんです﹂
﹁つらい思いをさせたな﹂
﹁黙っていて、ごめんニャさい﹂
﹁どうすれば、ヴァルの心が癒せるか、少しでも楽になれるか教
えてくれ。なんでもするから﹂
﹁ええと、ええと﹂
ヴァルデミールは長いあいだ必死で考えた。
﹁それでは、わたくしの顔をニャめていただけませんか﹂
﹁ニャめる?﹂
﹁猫にとって、それが最高の癒しニャんです。親猫が子猫をニャ
めると、どんな病気やケガも治ってしまいます。きっと心だって元
440
気にニャれます﹂
﹁︱︱わ、わかった﹂
ふたりは真赤になりながら、向き合った。理子はおずおずと、
ヴァルデミールのおでこをぺろりと舐めた。
﹁にゃん﹂
﹁どうだ?﹂
﹁力が抜けるう。リコさんはプロですね﹂
﹁そんなに気持ちいいか﹂
調子に乗って、理子がヴァルデミールの上におおいかぶさった
とき。
﹁ううっ﹂
彼女は苦しげに身体を折り曲げ、彼にドサリとのしかかった。
﹁うげえ。リコさん。苦しい﹂
﹁ヴ⋮⋮ヴァル。始まったかもしれない﹂
﹁お⋮⋮お産が始まったんですか﹂
四郎会長が、不審な物音に気づいて部屋の扉を開けると、理子
を抱きかかえたヴァルデミールが、廊下を猛然と走ってくるのに出
くわした。
﹁お父さん、病院に行ってきます!﹂
﹁わ、わかった﹂
四郎は、玄関を飛び出していくふたりを呆然と見送った。
﹁ヴァルのやつ、あの相撲取りのような理子を、羽根枕のように
軽々と抱っこしておった﹂
明け方、電話を取ったゼファーの耳に、ヴァルデミールの興奮
した声が飛び込んできた。
﹁生まれました。シュニン﹂
﹁ふたりとも無事か﹂
﹁はい、とっても元気です。男の子でした。ツノも尻尾も生えて
441
ません。肌はつるつるで毛深くもありません。でも⋮⋮でも、首筋
から背中にかけて、ほんの一筋だけ、たてがみが生えてるんです。
わたくしにそっくりの、小ちゃいたてがみです。ニャんだか、それ
を見たら泣けて、泣けてきて⋮⋮可愛いんです。ものすごく可愛い
んです﹂
﹁そうか。会社の帰りに見舞いに行くから、ゆっくり見せてくれ﹂
﹁はい。ありがとうございました、シュニン﹂
佐和と、目をこすりながら起きてきた雪羽に、ゼファーは報告
した。
﹁男だそうだ﹂
﹁わあ、男の子!﹂
﹁でも、ヴァルさん、だいじょうぶかしら﹂
佐和が懸念を宿した声で言った。﹁赤ちゃんを育てるのは大変
よ。夜は寝られないし、朝は早いし。ヴァルさん、ますます疲れて
しまわないかしら﹂
﹁だいじょうぶだろう。男というのは、いったん調子に乗れば、
空でも飛べるものだ﹂
﹁あなたも?﹂
﹁父上も?﹂
妻と子から同時に発せられた問いに、ゼファーは笑った。
﹁そうだな。佐和と雪羽のためなら、飛べるだろうな﹂
﹁飛んで!﹂
ふたりを両腕に抱き寄せると、魔王は窓から、青く透きとおっ
ていく暁の空を仰いだ。
﹁それは、今日の風しだいだ﹂
442
さかさまさかさ
﹁台風が来ますよ﹂
と叫びながら、強風に背中を押されるようにして、天城研究所
の扉から飛び込んだヴァルデミールは、居合わせた面々の中に雪羽
の姿を見つけて驚いた。
﹁姫さま。ニャぜ、こんなむさくるしい場所に!﹂
﹁おまえに言われたくはない﹂
むっつりと答えたユーラスは、作業台の上に折れ曲がった黄色
い傘を広げ、一心にピンセットを操っている。
﹁学校の帰り、傘が風でさかさまになっちゃったから、直しても
らってるの﹂
雪羽はソファで、マヌエラといっしょにココアを飲みながら、
少し恥ずかしそうに弁解した。
何度も断ったのに、ユーラスは﹁修理してやる﹂と自分の傘を
代わりに差し出して、さっさと壊れた傘を持っていってしまった。
しかたなく、その後ろについてきたわけなのだ。
﹁しかたなく﹂と言い訳しながらも、雪羽は心のどこかで、傘
が壊れたおかげで、こうして彼の家に来られたことを喜んでいる。
今年の春、雪羽はユーラスに絶交を宣言した。ゼファーが一時
的にアラメキアのことを忘れてしまったとき、彼が父に剣を向けた
からだ。
﹃そなたが父上の敵であろうとするなら、もう二度とそなたには
会わぬ︱︱立ち去れ!﹄
443
あのときの記憶はぼんやりして、どこか別人の話のようなあい
まいさが伴うのだけれど、それ以来、ユーラスと雪羽は、どちらと
もなくお互いを避けるようになった。
台風が接近しているからという理由で、ユーラスが学校の帰り
に迎えに来てくれたのも、久しぶりだったのだ。
﹁ふうん。うまいもんだ﹂
ヴァルデミールは頬杖をついて、ユーラスの器用な手先を感心
しながら見つめた。
折れたシャフトの継ぎ目が、小さな部品でしっかりと補強され
ていく。
ナブラ国の国王、かつては宮殿で何百人もの召使にかしずかれ
ていた存在が、机にかがみこんで子ども用の小さな傘を懸命に修理
している。運命というものは、実に不思議なものだ。
﹁キノコにニャった傘でも、こんなふうにすれば直るんだニャ﹂
﹁キノコ?﹂
﹁壊れてさかさまにニャった傘を、リコさんは﹃キノコ﹄と呼ん
でいたよ。﹃マツタケ﹄と呼ぶ人もいるんだって﹂
﹁わしの子どものころは、﹃おちょこ﹄と呼んだな﹂
転移装置の下にもぐっていたアマギ博士が現われ、会話に加わ
ってくる。
﹁全部、おいしそうな名前ですわ﹂
﹁おちょこが美味しそうだニャんて、王妃さまは酒飲みだニャ﹂
﹁こいつが大酒飲みなのは、ナブラの宮殿にいたころからだ﹂
何げない、けれどマヌエラへの親しい気持が感じられるユーラ
スのつぶやきに、雪羽はちくりと心が痛くなった。
﹁さあ、できた﹂
元通りに開くようになった黄色い傘を、雪羽はうつむきながら、
小さく﹁ありがとう﹂と言って受け取った。
﹁さあ、修理が終われば、長居は無用﹂
ヴァルデミールは、ぴょんと立ちあがり、うやうやしく手を差
444
し出した。﹁姫さま、風がまた一段と強くニャってきました。わた
くしがお送りしますので、早く帰りましょう﹂
﹁こらこら、おまえは何しに来たのだ﹂
﹁あ、そうだった﹂
相模屋弁当の専務は仕事を思い出して、持ってきた大きな保冷
バッグからデラックス幕の内弁当三つを取りだした。
﹁毎度あり。これが今日の分だよ。それと台風で明日来れないと
困るから、冷凍のお惣菜をいろいろ持ってきた。新商品だから、ま
た後で感想を聞かせてね﹂
相模屋弁当では、毎日販売するお弁当のほかに、小分けして冷
凍した惣菜セットも売り出すことにしたのだ。
なかなか買い物に行けないお年寄りの家庭に届けると、﹁いつ
でもチンして食べられる﹂と、とても喜んでもらえる。
さらに、四郎会長のように歯が悪く飲みこみにくい人のために、
よく煮込んで柔らかくした惣菜も、秋山のおばさんを中心に開発中
だ。
だから、こうやって弁当を届けながら、人々がどんなものを欲
しがっているのかを知ることは、とても大切なのだ。
﹁おまえも、すっかり昔のアホ面に戻って、よかったな﹂
アマギ博士が満足そうに言った。﹁仕事のことで悩んでいたこ
ろは、顔も青白く憂いを含んで、えらく美男子に見えたぞ﹂
﹁それって、ほめられてる気が全然しニャい﹂
﹁ほめとらん﹂
﹁ひどーい﹂
不服そうに口をとがらせながら、ヴァルデミールは保冷バッグ
に冷凍惣菜を戻し始めた。﹁シュニンの工場へ行って、事務の高瀬
さんにあげようっと﹂
マヌエラは彼をなだめようと、あわてて必殺の呪文を唱えた。
﹁ヴァルさん、お子さまは大きくなられましたか﹂
とたんにヴァルデミールは、にへらと笑み崩れた。
445
﹁すごく大きくニャったよ。生まれたときの百倍はある﹂
﹁それじゃ、ゴジラだ﹂
﹁毎日、少しずつかわいく、かしこくニャっていくんだ。赤ちゃ
んてすごいニャ﹂
﹁なんというお名前でしたっけ。確か、命名のときは、ものすご
く悩んでおられましたね﹂
ツボをついた質問のおかげで、ヴァルデミールは有頂天になっ
て保冷バッグからどんどん惣菜を出して机に並べる。
マヌエラは、それをせっせと運んでは、冷蔵庫にしまいこむ。
﹁ハル! ﹃晴﹄と書いてハルと呼ぶんだ﹂
﹁素敵なお名前。ヴァルさんとも似ていますわ﹂
﹁本当は、ノリコの﹃ノ﹄とヴァルデミールの﹃ヴァ﹄を合わせ
て、﹃ノヴァ﹄という名前にしようと思ったんだよね。﹃新星﹄と
書いて、﹃ノヴァ﹄﹂
﹁それは、今流行のドキュンネームだのう﹂
﹁うん、リコさんにも反対されたんニャ。商売人の名前は、一に
読みやすく、二に覚えやすく。名刺を渡すとき、すぐに読めニャい
とダメだって﹂
﹁なるほど﹂
﹁ハルだったら、春に生まれたことも思い出せるし﹂
﹁なるほど、なるほど﹂
﹁今では、ハルを見るたびに、本当にハルって顔してるニャって
思うんだ﹂
残りの四人は笑いをこらえながら、顔を見合わせる。
この話は、もう幾度聞かされたかわからない。新米の父親にと
って我が子の命名の顛末は、アラメキアの建国に匹敵するくらいの
一大事なのだ。
﹁それより、ぐずぐずしていると、台風が来てしまうぞ﹂
﹁あ、そうだ。姫さま、早く帰りましょう。きっとシュニンや奥
方さまが心配しておられますよ﹂
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﹁うん﹂
雪羽は立ちあがって、マヌエラに﹁ココアをごちそうさま﹂と
お辞儀をし、ユーラスに向き直った。
﹁傘をなおしてくれて、ありがとう﹂
﹁ああ﹂
研究所の扉を苦労して開けて、外に出る。風がさっきより強く
なったようだ。
ヴァルデミールは自分の雨がっぱを雪羽に着せてから、宝物の
ようにそっと抱きあげて、自転車の後ろに乗せた。
﹁しっかりつかまっててくださいよ﹂
﹁うん﹂
雪羽は、ぎゅっと腕を回して、温かい背中に顔を押しつけた。
なんだかなつかしい匂いがする。
小さいころは、よくこうやってヴァルデミールにおんぶしても
らった。そのころの従者はいつも、﹃姫さまが一番大切です﹄と口
癖のように言ってくれたっけ。
今のヴァルデミールの一番は、わたしではない。理子さんとハ
ルだ︱︱ユーリお兄ちゃんにとって、マナお姉ちゃんが一番なよう
に。
すっかり暗くなった空には、街灯を反射して光る雨粒が、たく
さんの銀色の斜線を描いていた。
工場の天窓に雨粒が当たる音が反響しているのを聞くのが、ゼ
ファーは好きだった。
それは、生まれ故郷のアラメキアの洞窟で、天井からしたたる
雫の音を思い出させる。深く、深く自分の中へと潜りこんでいくよ
うな、落ちついた気分にさせてくれる。
ラインに沿って、機械の電源が落ちているのを確認しながら歩
いていると、高瀬雄輝の声が聞こえてきた。
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﹁ひとつひとつの機械や部品が、この会社の財産なんだ。ひとつ
それに対する返事は聞こえてこない。たぶん雑談の相手は、
欠ければ、機械全体が使い物にならない。人間だって同じだ﹂
今年の春に入った新入社員だろう。
新工場に移転した坂井エレクトロニクスは、︻コンパクト乱切
り機︼の大量生産に本格的に乗り出した。今はまだ月間八十台がい
いところだが、ゆくゆくは二百台を目標にしている。
そのために、新しく社員も雇い入れた。春山の部下に就く営業
経験者がひとり。製造部門にも新卒がふたり。
雄輝がここに勤めるようになってから二年が経つ。高卒で最年
少だった自分に、初めての後輩ができたと喜んでいたら、ふたりと
も専門学校卒。ひとりは雄輝より年上だったのだ。さぞ、やりにく
いことだろう。
必死で指導しようとしても、その熱意は、ともすれば空すべり
に終わっているようだ。
﹁今は仕事の全体像が見えないからつまらないと思うけど、その
工程でしか見えないことが、必ずある。将校だって、最初は歩兵か
ら始めるっていうし﹂
そのセリフを聞いて、ゼファーは吹き出しそうになった。雄輝
が入社したてのころ教えたことと、一言一句同じではないか。
あのときは、ろくすっぽ聞いていないように見えたのにと、胸
が熱くなった。
次の世代は確実に育っているのだ。どんなに頼りなく、後を託
するには心もとなく見えても。
﹃あとは、次の世代にまかせよ﹄
いつか見た夢の中で、精霊の女王がゼファーに言ったことばだ。
次の世代にすべてを託すことができれば、自分の役割は終わる。そ
れは、いつの日のことになるのだろうか。
448
工場の照明が全部消え、あらかたの工員たちが帰ったあと、搬
入口にしょんぼりと座っている雄輝に、ゼファーは自販機の缶コー
ヒーを差し出した。
ゼファー自身も製造主任になってまもなく、苦境に立つたびに、
社長からおごってもらった缶コーヒーに幾度救われただろうか。
﹁借り物の鎧では、戦えないぞ﹂
﹁え?﹂
﹁自分が身をもって経験した言葉でなければ、人には伝わらない。
どんなに拙くてもいい。自分の言葉で語ってみろ﹂
﹁⋮⋮はあ﹂
ふたりは並んで、雨まじりの風に揺れる街路樹を見つめながら、
熱いコーヒーを口に含む。
﹁次の世代を育てることは、むずかしいな﹂
﹁むずいです。ほんと﹂
800歳と20歳。年齢は天と地ほど違うが、ふたりの男は同
じ戦いを共有していた。
﹁瀬峰主任。ちょっと﹂
雄輝を帰宅させてから工場に戻ると、二階の事務室のガラス窓
から社長が手招きをしていた。
ゼファーは急いで階段を昇った。
工場長がソファに座って、ぽかんと呆けた表情をして彼を見上
げた。
ゼファーは眉をひそめた。﹁どうした﹂
﹁ずっといろいろ考えてはおったのだよ﹂
社長はいつもの、とりとめない調子で話し始めた。﹁いつまで
も頭の固い老いぼれが上に立っていては、会社の発展の妨げになる。
工場移転も見届けた。ここらが潮時なんじゃないかってな﹂
﹁⋮⋮つまり?﹂
禿げ頭をくるりくるりと撫でてから、社長は答えた。
449
﹁わたしも、そろそろ引退しようと思う﹂
﹁⋮⋮﹂
﹁後継者のことだが、息子の亮司を呼びもどすつもりだ。うちの
業績を説明したら、やりたいと張り切っている﹂
小さな目がうるんでくる。﹁うれしくて、たまらんのだ。赤ん
坊を背負いながら女房とふたり、みかん箱を並べて部品を作った頃
のことがやたらと思い出されてな。がんばってきてよかったよ。工
場を続けてきて、本当によかった﹂
社長の前を辞した工場長とゼファーは、外付け階段を降り、雨
を避けて建物の軒下に立った。
﹁商社マンの息子が、小さな子会社に出向になったそうだ。つま
りは、体のいいリストラということなんだろう。それなら、これを
機に帰ってきてくれと社長が拝みたおしたわけだ﹂
立ち昇る煙草の煙は、風にもみくちゃにされて、たちまち四散
した。
﹁あの息子は、子どもの頃から親の仕事を毛嫌いしていたと聞い
たよ。まさか、世界相手に何百万ドルのビジネスをしていた男が、
単価数円の部品を扱う零細工場に興味を持つとは。いったい、うち
をどう経営していこうと言うんだろうな﹂
ゼファーは軒先からしたたる水滴が地面を流れていくのを見つ
めた。
﹁だが、社長はうれしそうだったな﹂
﹁ああ。いつかはこの日が来るとは思っていたが⋮⋮さびしいな﹂
ある者は年老いて去っていき、ある者は新しい息吹を携えてく
る。人が変われば、組織のありかたも変わっていく。
いくら、それを止めようとしても、時間という潮流を前に、彼
らになす術はないのだった。
﹁ただいまあ﹂
450
ヴァルデミールは、玄関でびしょぬれの体をタオルで拭いて、
靴を脱いだ。
雪羽を家に送り、弁当工場の見回りに寄ったあたりで、急に激
しい嵐になった。
台風は夜明け前に最接近するというが、パートさんたちの出勤
と重なると困ったことになる。朝のだんどりを少しでも楽にしよう
と工場内で準備をしていたら、こんなに遅くなってしまった。
家の中はしんと静まり返っている。
リビングは明かりがついているのに、誰もいない。
︵おかしいニャ︶
寝室に入ろうとしたとき、理子が中から立ちふさがるように飛
び出てきて、思わずよろけてしまった。
﹁リコさん?﹂
﹁ヴ、ヴ、ヴァル、あ、あの、は、は、は﹂
﹁くしゃみですか﹂
﹁ハ、ハ、ハルがっ﹂
﹁ハルが?﹂
しがみついてきた理子を抱きとめ、そのままずるずると引きず
って、寝室へ入る。
ハルのベビーベッドをのぞきこんで、﹁うわ﹂と叫ぶ。
手足を折り曲げるようにして窮屈そうに寝ているのは、五歳く
らいの男の子だ。
﹁晩御飯のあと、ついうとうとして、起きてみたら、ハルが大き
くなっていた﹂
理子が、さめざめと泣きだす。﹁最初は別人かと思った。でも、
目も鼻も耳の形も、首の後ろのタテガミも、どう見たって、ハルな
んだ﹂
﹁ニャんだ。そんニャことですか﹂
ヴァルデミールは軽々と息子を抱き上げると、頬にたくさんキ
スした。
451
﹁さあ、ハル。起っきして。服がビリビリだから、着替えようね﹂
﹁お、お、驚か、ない、のか﹂
理子は呼吸困難に陥って、言葉が続かない。
﹁ニャぜ驚くんです。誰だって成長期が来たら大きくニャるのは、
当たり前でしょう﹂
ヴァルデミールは、首をひねった。﹁そういえば、姫さまのと
きは、ずいぶんゆっくりでしたね﹂
﹁⋮⋮アラメキアの魔族は、みんなそうなのか﹂
﹁だいたい、生まれて何日かで歩き始めます。わたくしも、そう
でした。一晩で急に背が伸びて、ニ、三歳で大人の背丈にニャるん
です﹂
夫は不安げに青ざめて、妻を見た。﹁まさか、地球では、そう
いうことはニャいのですか﹂
﹁普通は、ニャい⋮⋮﹂
﹁どうしましょう⋮⋮﹂
すっかり目を覚ましたハルは、ほとんど裸同然のかっこうで、
笑いながら部屋じゅうを駆け回り始めた。
﹁きゃはは。かーか、とーと﹂
そのとき、歩行器のカラカラという音が聞こえて、がらりと引
き戸が開き、祖父の四郎が現われた。
﹁おい、ヴァルや。雨戸の戸じまりは︱︱﹂
﹁じーじ!﹂
見知らぬ男の子に指差されて、四郎は目をぱちくりさせた。
﹁誰だ、この子は。うちで何をしている﹂
﹁お義父さん、あ、あの⋮⋮この子は、ハルです﹂
﹁何?﹂
﹁半年前に生まれた、このうちの子ども、相模ハルです。ちょっ
と、と言うか、ものすごく、大きくニャっちゃったけど﹂
するすると引き戸が閉まった。﹁どうも、夢を見ているらしい﹂
というつぶやきを残して、歩行器の音が遠ざかっていく。
452
理子とヴァルデミールは、途方に暮れて顔を見合わせた。
﹁どうしたら、いいのでしょう﹂
﹁とりあえず、大きな服を買いに行かねば﹂
妻は、うつろな目をしながらも、目の前のことに懸命に焦点を
合わせようと試みていた。﹁靴もだ。まさかこんなに早く歩けるよ
うになるとは思わなかった。普通なら、そろそろ寝がえりを打って、
それから、はいはいをして、つかまり立ちをして、普通なら、ゆっ
くりと成長していって、普通なら︱︱﹂
絶句して、唇を噛みしめる。
﹁リコさん﹂
﹁どうして、この子は普通じゃないんだ。普通でいいのに。ほか
には何も望まないのに。こんなに急に大きくなったことを、どうや
って回りに説明したらいい﹂
ぼとぼとと涙をこぼす母親の膝に、ハルはよじ登って、にゅー
っと下から覗きこんで笑った。
﹁かーか、あめ、あめ﹂
﹁ハル﹂
ヴァルデミールは男の子を抱き上げて、ぎゅっと頬を寄せた。
﹁わたしの大切な息子。キミは、わたしのアラメキアの血をちゃん
と引いているんだね﹂
﹁とーと﹂
﹁普通でニャくて、だいじょうぶだよ。わたしが、かーかとハル
を守るから。どんニャ雨が降っても風が吹いても、わたしが傘にニ
ャるから﹂
﹁ヴァル﹂
理子は手の甲で涙をぬぐうと、夫の肩にこつんと頭をぶつけた。
﹁こんな細くてヤワな傘じゃ、すぐに折れてしまいそうだぞ﹂
﹁だいじょうぶです。サカサマにニャった傘でも、すぐに修理で
きる方法を習いましたから﹂
轟々と叩きつけるような嵐の夜、三人の親子はしっかりとお互
453
いを抱きしめ合った。
454
雨雲パズル
二日雨が降って、三日晴れる。この季節は、そんな日々の繰り
返しだ。
そして雨雲のすきまから覗く青空は、とてもやさしい色をして
いる。あるときは、ショールをかぶった異国の貴婦人の瞳のように。
あるときは雲のかけらを遠くに蹴り飛ばして、さあ探してきて
嵌めてごらんと、ゲームに誘うように。
工場の敷地全体が禁煙となってから、工場長は、すっかり元気
をなくしたように見えた。
﹁タバコをやめると健康にいいと言うが、あんたを見てると、そ
うとも言えないな﹂
とゼファーが言うと、﹁まあな﹂と苦笑しながら答えた。
﹁うちのかみさんなんかは喜んでるよ。今までタバコ代がバカに
ならなかったからな﹂
と、工場の塀の縁に生えた丈の低い雑草をつま先で蹴飛ばす。
ダンゴ虫が一匹、あわてて逃げていった。
﹁だが、どうにも気勢があがらなくてな。45年たまりにたまっ
たタバコの毒を抜くのに、俺の体が悲鳴をあげてるらしい﹂
﹁ものごとが変わるときは、痛みをともなうものだ﹂
ゼファーの慰めのことばにも耳に入らず、工場長は半分別のこ
とを考えながら、黒ずんだ、皺だらけの手を握ったり開いたりした。
﹁実は、この秋で、65になるんだ﹂
その数字の意味することに、ゼファーは最初ぴんと来なかった。
455
なにせ、自身は800の齢を重ねている。65など、まだまだ若造
の部類に思える。
﹁定年ということか﹂
﹁ああ、できれば、このまま働き続けるつもりだったんだがな﹂
小さな町工場では、定年などあってないようなものだ。現に旋
盤工の矢口も、70を過ぎてまだまだ現役として働いている。
﹁来月にでも工場長の職を辞するように言われた﹂
﹁新社長にか﹂
坂井エレクトロニクスは、この四月に大きな変化があった。
坂井社長の息子、坂井亮司が今まで働いていた総合商社を辞め
て、社長の座につき、それまでの社長が会長に納まったのだ。
新社長は連日、銀行や大口の取引先を挨拶に回りつつ、二階の
事務所にこもりきりで、毎朝の朝礼以外は、工場にほとんど顔を出
さない。
新社長発案の改革は、文書での通達という形で、次々と発表さ
れた。
﹁工場内の全面禁煙﹂は、その改革のひとつだ。顔を合わせる
わけでもないので、文句も言えない。何があっても自分の考えを押
し切るという新社長の強固さを、工員たちはひしひしと感じた。
﹁亮司くんもなあ、勉強のよくできる、真面目ないい子だったん
だが﹂
古参の工場長は、新社長が中学生のときから、ここで働いてい
るのだ。
﹁あのときは、まだ食うや食わずの、カツカツの時代だった。貧
乏で苦労したからだろうな。汚い、油くさいと、あのころも工場の
中には絶対に入ろうとしなかった﹂
﹁そうか﹂
﹁気心を知り尽くしている社長が引退し、現場を知らない息子の
456
代になった。そろそろ潮時じゃないかと思えちまったんだよ﹂
工場長は口をすぼめ、頬をひくひくさせた。やはりたばこが吸
いたくて、たまらないのだろう。
﹁従業員も八十人を超え、工程もどんどん複雑化してくる。この
ニコチンまみれの老骨のどこを叩いても、新しい体制についていく
自信も気力も出てきやがらない。そこに今回の話だ。いっそ65の
誕生日を迎える日に、すっぱりと辞めてやろうかと思ってる﹂
﹁決定事項なのか﹂
﹁まあ、正直言うと、まだ迷ってる﹂
ゼファーは、悄然として言った。﹁あんたがいなくなると、痛
いな﹂
﹁過去の遺物など、いないほうがいいんだよ﹂
工場長は微笑み、ゼファーの肩を叩いた。﹁次の工場長は、お
まえだ、瀬峰主任。おまえなら安心して、後をまかせられる。この
町工場を、世界に名をとどろかすような企業に育て上げてくれ﹂
﹁俺にできるだろうか﹂
﹁えらく弱気だな。魔王さんよ。おまえらしくもない﹂
ゼファーは、﹁ああ﹂と口の中でつぶやき、うなずいた。﹁わ
かった。俺にできるだけのことはしよう﹂
﹁ふう。そうと決まったら、なんだか気分がさっぱりした﹂
男たちは、腕をいっぱいに広げて、背伸びをした。
﹁じゃあ、ぼつぼつ午後の仕事を始めるか、工場長﹂
﹁もう、その工場長というのも、よしにしよう。来月からはヒラ
に戻るんだから、﹃佐々木﹄と呼んでくれ﹂
﹁⋮⋮佐々木?﹂
彼は、振り返った。﹁まさか、俺の名を知らなかったというん
じゃないだろうな﹂
笑いながらふたりが建物の中に入っていくと、工場内で騒ぎが
持ち上がっていた。
457
﹁じーじ、さんぽ、はやく、はやく﹂
﹁わかった。せかせるでない、ハルよ﹂
相模弁当の創業者、相模四郎会長は、歩行器をかたかた押して
玄関を出た。
孫のハルは祖父のかたわらで、ひとときもじっとすることなく、
くるくる走り回っている。髪がぼうぼうと伸び、うなじから背中に
かけては、一すじのタテガミが生えている。手や足はすらりと細く、
黒く大きな瞳と、浅黒い肌は父親そっくり。ジャングル育ちの野生
児という風貌だ。
﹁あら、相模さん。おはようございます﹂
﹁おはようございます。町田の奥さん、いい天気ですな﹂
﹁お孫さんとお散歩ですか。いいですねえ﹂
﹁ははは﹂
彼らと別れてから、町田さんは、お隣さんと垣根越しに感慨深
げに言葉をかわした。
﹁ほんとうに、よその子どもって大きくなるのが早いわねえ。つ
いこないだご出産のお祝いを言ったと思ったのに﹂
彼女の感想は、実に鋭い点をついている。
ハルは体の大きさは五歳児に見えるが、本当は、一年前の春に
生まれたばかりなのだ。
アラメキアの魔族は、子どものうちは成長が著しく速い。一晩
のうちに、二、三歳分大きくなっていることもめずらしくない。
ヴァルデミールの魔族の血を受けついでいるハルも、生後半年
のとき、いきなり今の大きさまで成長してしまった。
もちろん、中身はほとんど一歳児と変わらないから、厄介だ。
だあっと走って行って、行方不明になってしまうし、バランスを崩
して、すぐにころぶ。大きな体を小さく折り曲げるようにして、父
母にだっこをせがむ。
ハルを一歳検診に連れて行くと、保健所では大騒動が持ち上が
458
った。大学病院に連れていくように言われ、成長ホルモンの分泌、
下垂体や視床下部などを、さんざん調べられたが、結局、誰もはっ
きりしたことはわからなかった。
﹁まったく、みんな騒ぎすぎなのだ﹂
四郎会長は、平然と茶をすすりながら娘の理子に言った。﹁少
々ほかの子と育ち方が違うからと言って、騒ぐことはない。ハルは
ハルなのだ﹂
﹁そのとおりです。おとなにニャれば、ちゃんとおとなにニャり
ますから、心配はいりません﹂
父と夫の、のんびりと楽天的な会話を聞いていると、泣きべそ
をかいていた理子も気持ちが静まってくる。
﹁わかったよ。ハルはハルだ。誰よりもかわいい、わたしとヴァ
ルの息子だ﹂
そうやって、家の者がおおらかに構えていると、最初は気味悪
そうにひそひそ噂をしていたご近所や工場の従業員たちも、すぐに
忘れた。
今は別にハルを見ても、何とも思っていないらしい。慣れとは、
すごいものだ。
四郎会長は、足腰の調子がよいときは、少し遠出をすることに
していた。ひとりでは心配な距離も、ハルがそばにいるというだけ
で心強い。
何度も、歩行器の荷台に腰かけて休み休み、とうとう小一時間
かけて、天城研究所までたどりつく。
﹁天城のじいさん﹂
﹁なんだ、相模のじいさんか﹂
新しい座標軸の計算に取り組んでいた天城博士は、うさんくさ
そうな目でじろりとにらんだきり、手元に視線を戻した。四郎会長
は、さっさと中に入り、勝手にソファに座った。
﹁あいにく、手がはなせない。茶は出さぬぞ﹂
﹁わかっておる。持参の水筒がある﹂
459
﹃全自動乱切り機﹄の開発をきっかけに、顔なじみになった天
城博士と四郎会長とは、ときどきこうして互いを訪れている。会っ
たからと言って、共通の話題も趣味も何もない。だが、黙っていっ
しょにいるだけで、妙に心地がよいのだ。
ユーラスもマヌエラも中学校に行ってしまっているので、ハル
は広い裏庭で、ひとりでモンシロチョウを追いかけ始めた。
初夏の風が、タンポポの綿毛を一本、開け放した窓から運んで
くる。そして、綿毛のように白い老人たちの髪の毛も、ふわふわと
撫でていく。
﹁あれ、お義父さん﹂
相模家の婿が、弁当と冷凍食品の配達にやってきた。
﹁どうしたんですか。こんニャ、むさくるし⋮⋮じゃニャくて、
シブい場所にいらっしゃるとは﹂
ヴァルデミールも、すっかり営業トークが板についてきたよう
だ。
﹁うむ。おまえの来るのを待っていた。ここまで歩きすぎて、す
っかり腰がくたびれてな﹂
﹁じゃあ、配達がてら、いっしょに帰りましょう﹂
ヴァルデミールは、半年前から教習所に通い、必死で練習して
自動車の免許を取ったばかりだ。ライトバンがあれば、弁当の配達
も格段にスピードアップするし、その分、家族といっしょにいる時
間が増えるからだ。
﹁とーと!﹂
ハルも大喜びで、父親にむしゃぶりついてきた。﹁あそぼ、あ
そぼ﹂
﹁うわ、気持ちの良さそうニャ緑の芝生だあ。⋮⋮あの、少しだ
け遊んできていいですか﹂
﹁行って来い﹂
窓から、二匹の猫がじゃれ合うように、父と子が歓声を挙げて
ころげ回っているのが見える。
460
﹁ヴァルは、変わったな。男になった﹂
天城博士が手を止め、まぶしそうに目を細めた。
﹁ああ﹂
四郎会長はうなずいた。
﹁ひとつの手で家族を守ること。もうひとつの手で相模弁当と従
業員たちを守ること。毎日、ふたつの拳をひとつずつ握りながら、
誓いの儀式のように確かめておるよ﹂
﹁そうか。もう、ネコジャラシに飛びつく手はないのだな﹂
ちょっと前まで、ネコジャラシと遊ぶヴァルデミールを見て、
研究の疲れを癒していた天城博士は、少しだけさびしく感じるのだ
った。
﹁よい後継者ができて、幸せだな。相模のじいさん﹂
﹁おまえこそ、その年でまだ夢を追いかけている。うらやましい
よ、天城のじいさん﹂
ふたりの老翁たちは、互いを見て、にやりと笑った。
﹁せいぜい、長生きしようではないか﹂
﹁ブラック企業? うちの会社が?﹂
もう昼休みが終わる工場内で、従業員たちは、IT担当の高瀬
雄輝の持ち込んだノートパソコンの前に、わいわい群がっていた。
﹁どうした﹂
﹁あ、主任。工場長﹂
﹁坂井エレクトロニクスが、ブラック企業リストの中に載ってる
んだって﹂
口ぐちの説明によると、ネット上のフォーラムの一角に、その
ブラック企業リストなるものはあるらしい。就活中の大学生もよく
見るので、彼らがその悪い評判を鵜呑みにすれば、来年からの人材
募集が、ひどくむずかしくなるだろうというのだ。
﹁ブラック企業⋮⋮﹂
461
英語がほとんど天敵とも言えるほど苦手なゼファーだが、﹃ブ
ラック﹄の意味するところは、おおよそわかる。
﹁工場の外壁の塗装を、黒にしたのが、やはりよくなかったのか
?﹂
数秒間、乾いた風が吹き抜けた。
﹁わ、私も、実はよくわからないの﹂
事務員の高瀬奈津が、さりげなくフォローする。﹁ねえ、雄輝、
わかるように説明してくれる?﹂
﹁ブラック企業とは、絶対に入ったらいけない会社を呼ぶときの
就活生の使う隠語です。具体的には、労働基準法などそっちのけで、
仕事がめちゃくちゃきつかったり、サービス残業を強制したり、上
司や先輩が日常的にパワハラまがいの言動で圧力をかけてきたり。
それで社員がどんどん辞めても、また大量採用で補充する⋮⋮つま
り、社員を使い捨てながら成り立っている企業が多いです﹂
﹁なんだよ、それ﹂
従業員のひとりが、ぽかんと口を開けた。﹁全然、うちの会社
と違うじゃねえか。なんで、うちがそんなふうに呼ばれるんだよ﹂
﹁仕事がきついってことだろう。納期が近いと、残業もけっこう
あるし﹂
﹁けど、そんなこと言ってたら、日本の町工場は全部、ブラック
企業になっちまうよ﹂
﹁大量採用ってところが、ひっかかったんじゃないか。去年は四
人、今年は六人入れただろう﹂
﹁一番、ショックなのは、そのフォーラムに書き込まれてる体験
談なんですよ﹂
雄輝がうわずった声で、説明を続けた。﹁ほら、ここ。﹃学校
の先輩から聞きましたが⋮⋮﹄で始まって、あとは就業時間とか、
作業内容とかすごく具体的だし、実際にここで働いてた人から本当
に話を聞いたんだなって、思える﹂
﹁この中の誰か⋮⋮?﹂
462
みな、思わず互いの顔を見交わしそうになって、あわてて目を
そらす。仲間の裏切りを疑うなど、今までの坂井エレクトロニクス
の中には存在したことのない感情だった。
﹁もう、いい﹂
ゼファーが厳しい声で宣言した。﹁この話は、終わりだ。これ
以上の詮索はするな﹂
﹁はあい﹂
従業員たちはみな、のろのろと午後の仕事の準備へと散ってい
く。
﹁でもさ。確かに、このところ⋮⋮ちょっとキツいよな﹂
﹁⋮⋮ああ﹂
﹁いきなり、会議とか勉強会とか増えたし。業務改善点を書いて
出せって言われても、わかんねえし﹂
ボヤき始めたのは、資材係の重本だ。工場長と同じく、全面禁
煙になって元気がなくなったひとりだ。
﹁問題意識を持てって言われても、あんまりわかんないんだよね﹂
工場のあちこちに張られたスローガンを見上げて、研磨係の水
橋らも言う。
﹁別に不満もないし。そりゃ、会社がもっと儲かりゃいいとは思
うけど﹂
﹁円安とか、電気代の値上げとか、私たちがいくら考えても、別
によくならないし﹂
誰かがぼんやりとつぶやき、別の誰かが答える。ちらりと二階
の事務室の窓を見て、言いたいことを飲み込み、全員がそのまま黙
り込んだ。
ゼファーが事務室のドアをノックすると、﹁ああ、ちょっと座
って待っててくれ。瀬峰主任﹂という太い声が聞こえた。
半透明のパネルの向こうに社長デスクがあり、新社長はパソコ
463
ンのキーを機関銃のように叩いていた。
55歳の坂井亮司は、父親とは対照的に大柄で、全身に自信と
活力がみなぎっている。
﹁すまないね。もう少しで終わるから﹂
﹁ああ﹂
ゼファーはソファに座って待った。
﹁すまん、すまん。長いこと待たせて、悪かったね﹂
新社長はにこにこしながら、向かいにどっかりと腰をおろした。
﹁財務体質を、ひとまず健全というところまで持ってきつつある。
外堀を埋めておかないと、肝心の本丸の改革には手をつけられない
んだよ﹂
さすがに、日本という国を牽引してきたと言われる総合商社マ
ン。この数か月で、彼は坂井エレクトロニクスの金の流れの実態を
完璧に調べ上げた。
商社時代につちかった人間関係を武器に、金融機関と個別折衝
して新たな融資を受け、財務基盤をしっかりと固め直すところまで
来ている。
なみはずれた機動力に、人脈。加えて、ことばにも説得力があ
る。
﹁きみや佐々木くんには、工場をまかせっきりにして悪いことを
した。どうだね、そっちのほうは﹂
ゼファーは、今日の業務報告と、それから午後一番の時間に、
工員たちのあいだで話題になった﹃ブラック企業﹄の話をした。
﹁ばかばかしい﹂
亮司は、鼻であしらうような調子で返した。﹁それじゃ、業績
が好調で右肩上がりの企業は、すべてブラック企業になってしまう。
気にすることはない。そんなものは、能力もやる気もない落伍者の
言い訳だよ﹂
﹁今うちの社員の中に、そう感じているヤツがいるということは、
やはり問題だと思うが﹂
464
﹁まったく、これが零細企業のダメなところだ。意欲も目標もな
い人間のふきだまりになっている﹂
眉根を寄せているゼファーに気づき、新社長は口元をほころば
せた。
﹁ああ、すまん。きみたちを責めているんじゃない。僕は僕なり
に、小さいころから親父の働く姿を見ていて、これじゃダメだよな
と思っていた﹂
彼はソファから立ち上がって、窓のそばに立ち、稼働している
工場を見下ろした。
﹁まったくひどいものだった。学校に持っていく給食費も遠足代
も、支払いに必要だからと親父に取り上げて持ってかれた。あれじ
ゃ、未来への展望などない。ゆきあたりばったりの経営には、社員
の教育に時間を割く余裕もない﹂
﹁⋮⋮﹂
幼いころの恨みが、これほどまでに、彼の心の奥に深くに巣食
っているのか。
﹁今度の社長交替にあたり、親父には、絶対に社員をリストラす
るなという条件を出されている。もちろん、それは守るつもりだ。
だが、その代わり、こちらの基準に合う、優秀な社員への再教育が
必要だ。途中で脱落するヤツは、必要ない。﹃ブラック企業﹄だな
んて、負け犬みたいなことをほざいているヤツは、こっちから願い
下げだね﹂
ゼファーは立ち上がって、彼の隣に立った。
﹁社長。工場内を全面禁煙にしたことだが﹂
﹁ああ。工場長が何か言っていたかい?﹂
亮司は、ごしごしと鼻の横を指でこすった。﹁せめて、敷地内
に喫煙スペースを設けてくれと頼まれたもんでね。きっぱりと断っ
た。女性の雇用促進という面でも、福利厚生の面でも、全面禁煙は
絶対にゆずれない改革の柱だ﹂
﹁わかっている、だが﹂
465
﹁瀬峰くん、きみはタバコを吸わないと思っていたが、反対なの
かな﹂
﹁いや、禁煙は正しいことだと思う。だが、正しいことが、どん
なときでも正しいわけではない﹂
﹁あ、何を言ってるんだ?﹂
﹁社長、あそこを見てくれないか﹂
ゼファーは、眼差しをガラス越しに工場の搬入口のほうへと向
けた。
﹁うちの工場の中で、喫煙者は、工場長、資材係の重本、溶接の
林、プレスの岡崎、ほかにも数人いる。年齢も部署もばらばらだ。
そんな奴らが、タバコを吸うときだけ、あそこに集まっていた。何
が起こったと思う?﹂
﹁わからん﹂
ゼファーは、ほほえんだ。﹁ほとんどが他愛のない雑談だ。愚
痴だったり、そっちが悪い悪くないの水掛け論だったり。だが、そ
んな中から、ほんのときたま、部署を超えたすばらしいアイディア
が生まれることもあった。そのうちいくつかは、今のラインで採用
している﹂
﹁ほう﹂
﹁おそらく、彼らに会議の席でよいアイディアを出せと言っても、
何も出てこないだろう。新しい考えというのは、たいてい誰にも強
制されず、自由でくつろいだ雰囲気にいるときに生まれるのだと思
う﹂
﹁それで?﹂
社長の声に、冷たいものが混じり始めた。
﹁研磨係の矢野は、木曜の午後になると、とたんに作業効率が良
くなり、すばらしい仕事をする。なぜだか理由を訊いたら、社交ダ
ンスを習い始めたらしい。そこの男性講師がイケメンで、絶対に遅
刻はしたくないと、気合を入れて仕事をするからだ。なら最初から
気合を入れればよいと思うが、それはできないらしい﹂
466
﹁ばかな﹂
口の中でつぶやく社長を横目に、ゼファーは続ける。﹁組立係
の横田と小西は、仲が悪く、よくケンカでラインが止まる。だが、
見かねてふたりを離して配置したら、かえって作業効率が下がる。
やつらはケンカでストレスを発散し、互いに競争しながら仕事をこ
なすことで、大きな能力を出していたんだ。ケンカも仕事の一部だ
ったわけだ﹂
曇りのない窓ガラスを、そっと確かめるように指の腹でなでる。
高瀬奈津は、事務室のこの窓を、使命感を持っていつもピカピカに
磨き上げている。事務員は工場でいっしょに働けないから、せめて、
互いがよく見えるようにと。
﹁社長。確かに、うちの会社の従業員すべてが、同じではない。
経験も、生きてきた道すじも違う。欠点もたくさんある。ある者は
工場全体を見ようとするし、ある者は自分のラインのことしか考え
ない。残業よりも家族との時間を優先したい者もいる。趣味を一番
と考える者もいる。ある者は、新製品の開発が何より大事で、ある
者は、納期を厳守することが何よりも大事だと思っている。みな、
それぞれの考え方で生きている。それぞれのやり方で会社を愛して
いる。それでよいのではないか﹂
﹁ほんとうに?﹂
社長は、裏返った声で訊き返した。﹁そんなものは、組織では
ない。ただのバラバラの烏合の衆だ﹂
﹁全員が、同じ考えや、同じ能力を持つ必要はない。それぞれの
立ち位置で、喜んで仕事ができれば、それでよいのではないか。上
に立つ者のすべきことは、ひとりひとりを知ることだ。全員の個性
を知ったうえで、適した部署に適切にあてはめ、時に応じて一番動
きやすい陣形へと配置することだ﹂
﹁僕は、何も知らないから、工場内のことに口を出すなというこ
とかな﹂
﹁そうじゃない。そういうことを言ってるわけじゃない﹂
467
亮司は、背広のすそをパンとはらって、窓から離れた。
﹁そうか。わかった﹂
彼は事務所のドアの前で立ち止まり、おだやかにゼファーに笑
いかけた。
﹁瀬峰主任。きみとは分かり合えると思っていたが、残念だよ﹂
社長が出て行ったあと、ゼファーは窓から工場をじっと見わた
した。上から見ていると、80人の従業員がせわしなく動いている
のが、よく見える。
しかし、心の中までは見えないのだ。
この中の誰が、自分の働いている会社を﹁ブラック企業﹂とお
としめるのか。
この中の誰が、働くことに喜びを見いだせず、人知れず満たさ
れぬ思いを抱えているのか。
ゼファーは小さな声で、いとおしげに80人ひとりひとりの名
をつぶやいた。
468
木には望みがある
坂井会長は、鏡の前できりりとネクタイを締めなおすと、靴を
履いた。
自宅から十分の場所にある坂井エレクトロニクスの工場。一年
前に移転したときは威圧感を感じたつや消しの黒の外壁も、歳月と
ともにすっかり風景になじんでいる。
二階の事務室へ向かう外付け階段を昇り終え、深呼吸して気持
ちをととのえる。もうそれが何十年間も、古い工場が建ったばかり
のときから続いてきた、彼の朝の儀式だった。
﹁おはよう、みんな﹂
明るい大声とともにドアを開けたが、返事はなかった。
数人の事務職員たちは全員、電話にかかりっきりで応対してい
たので、返事ができなかったのである。
﹁いやあ、朝から張り切ってるねえ﹂
蚊の鳴くような小声で言って、自分の席に座る。自分の席とは
言っても、デスクの上には書類も電話も何も乗っていない。手持ち
ぶさたで再び立ち上がり、ガラスの間仕切りの奥にある社長室に入
った。
﹁やあ、亮司﹂
かっぷくの良い息子の前では、父はますます小さく見える。﹁
どうだい。うまくやっとるかね﹂
﹁ええ、まあまあ﹂
ノートパソコンから目も上げずに、新社長は答えた。
﹁まだ、慣れるにはしばらくかかるだろうが、おまえなら大丈夫
だ。商社にいたころも、ひとりで外国へ行って大口契約を取ってき
469
たと、母さんに話したそうだな。そら、なんという名前だったかな、
中東の、そら、バーコードだ﹂
﹁バーレーンだよ﹂
﹁ほう、そうとも言うのか。とりあえず焦ってはいかん。赤ん坊
だって、首が据わるのに三か月かかるものだからな。わっはっは﹂
﹁父さん﹂
キーボードから手を離すと、ぎろりと睨みつける。﹁僕はいそ
がしいんだ。会社には毎日来なくてもいいって言ってあるだろう。
せっかくの隠居生活、身体を休めて、もっとのんびり過ごしたらど
うなんだい﹂
﹁い、隠居だなんて、とんでも⋮⋮﹂
﹁とにかく、邪魔にならないように、隅のほうにいてくれ﹂
すごすごと社長室を出て、隅の自分の席で身を縮めていると、
机の上に、いつもの愛用の湯飲みがコトリと置かれた。
﹁おはようございます。会長﹂
総務主任の高瀬奈津が、にっこりと笑う。
﹁さっきは、すみませんでした。今日は始業前から問い合わせの
電話がひっきりなしにかかってきて﹂
﹁景気がいいみたいだね﹂
﹁ええ、新社長と春山営業部長が打ち出した新聞広告が当たった
みたいです﹂
そいつはよかった。そう言おうとしたことばを、熱いお茶とい
っしょに一気に飲み込んだ。
やけどしてヒリヒリする舌を突き出しながら、階下の工場に降
りた。
彼に気づいた従業員が、わっと取り囲んで、﹁わあ、どうした
んですか。その舌﹂と大笑いになる場面を想像してニマニマしてい
たら、誰も振り向かない。
みんな、わきめもふらずに働いているのだ。
﹁そうか。︻コンパクト乱切り機︼の注文が殺到して、忙しいん
470
だな﹂
ひとりごとをつぶやき、とぼとぼと搬入口から外に出た。
﹁坂井社長﹂
後ろから呼び止める声がした。
﹁⋮⋮じゃなかった。今は会長だったな﹂
﹁瀬峰主任﹂
坂井の顔が笑み崩れた。﹁⋮⋮じゃなかった。今は瀬峰工場長
だ﹂
﹁お互いに、なかなか昔の癖が抜けないな﹂
小柄な上司と長身の部下は、握手を交わした。
﹁体はどうなんだ。調子を崩していたと聞いたが﹂
﹁ああ、たいしたことはないんだよ。三日ほど検査入院をしてね。
何十年間病院など行ったことがなかったから、出るわ出るわ。ずら
りと要注意マークが並んだ﹂
明るい中庭に出て、しょぼしょぼと目をまたたかせる。﹁そり
ゃね。人間七十年も生きてると、どこかしらガタは来るもんだ﹂
﹁そういえば、俺も来年は四十歳だな﹂
ゼファーは、社長の隣で歩調を合わせながら、嘆息した。﹁人
間の一生は、本当に短い﹂
﹁この木も、とうとうガタが来てしまったな﹂
庭の中央に植えてある大きなカシの木の前で立ち止まり、坂井
はいとおしげに幹に手を触れた。
妻とたったふたりで創業したとき、記念にと植えたのが、この
カシの木だった。新工場に移転する際、大切な会社のシンボルを残
してはいけないと、従業員総出で地面を掘り返し、担いで来て植え
替えたものの、根付きが悪かったらしい。
みるみる弱り始め、夏になる前に葉を全部落としてしまった。
奈津がいっしょうけんめい回りの土に肥料を入れたりしているが、
今のところ回復する様子はない。
枯れかけているカシの木を見るたびに、坂井会長はぎゅうっと
471
胸がしぼられるような、痛みをともなった懐かしさに襲われる。自
分の五十年の仕事一筋の人生と、この木を、つい重ねあわせてしま
うのだ。
ふと隣を見て、同じように木を見上げているゼファーに気づき、
坂井はあわてて言った。
﹁忙しいんだろう。仕事に戻ってくれたまえ。邪魔をして悪かっ
た﹂
彼は首を振った。﹁邪魔なんかじゃない﹂
﹁いいや、邪魔以外のなにものでもないよ。わたしはもう︱︱過
去の存在なんだ﹂
﹁社長﹂
﹁仕事もなく居場所もない。この工場にいてももう、することは
何もない﹂
ゼファーは漆黒の瞳で、失意の老人を見つめた。
﹁社長。この世で一番むずかしいのは、何かに成功するよりも、
成功して得たものを手離すことだ。自分の興した事業をあんたは息
子に譲った。一番むずかしいことを、りっぱにやり遂げた﹂
肩にそっと、大きな手の温かみが触れた。
﹁あんたは俺にとって、偉大な模範だ。十年前あんたが拾ってく
れなければ、俺はこの世界で新しい生き方を見つけることはできな
かっただろう。破壊ばかりしていた俺が、創り、生み出すことを、
あんたから教わった。いくらお礼を言っても、言い足りない﹂
坂井会長はうなだれて、くしゃくしゃと顔をゆがませた。
﹁⋮⋮ありがとう、瀬峰くん﹂
陽がかげって少し涼しくなるころ、アパートの壁ぎわの地面の
上に、雪羽はチョークで大きな飛行機を描いた。
﹁ほら、飛行機完成! ハルくん、お空へ飛ぶよ﹂
﹁ひこーき、ブーン!﹂
472
ハルは大はしゃぎで、両腕を広げて走り回っていたが、勢い余
って転げてしまい、アスファルトで鼻をしたたかに打った。
﹁またあ。そんなに何回もぶつけてると、お鼻、低くなっちゃう
よ﹂
﹁ばんそーこー!﹂
雪羽はポケットをさぐり、ハルの浅黒い顔に三枚目の絆創膏を
貼ってやる。
夏休みのあいだ、ハルと遊んでやるのが雪羽の日課だ。ハルの
両親は弁当工場の経営で忙しいし、保育所はなかなか空きがない。
一歳三か月なのに、もう五歳の体を持っているハルは、いろい
ろな理由をつけて保育所から敬遠されてしまうらしいのだ。
﹁私も、小さいころはヴァルに遊んでもらったから、今度は私が
ハルと遊んであげる﹂
そう宣言して、毎日遊んでやっているうちに、ハルは雪羽にす
っかりなついてしまい、夕方も家に帰りたがらない。雪羽も、ハル
のことが実の弟のように可愛くてたまらない。
かくれんぼやゴムとびや、お絵かき。それに飽きると、髪の毛
にリボンを結んだり、クローバーの花輪を首にかけたりと、着せ替
え人形扱い。それがまた、ハルのすらりとエキゾチックな容貌に妙
に似合うのだ。
長い髪の毛をたくさんの髪留めでじゃらじゃらにしてもらい、
﹁ひめさま、だいしゅきー﹂と、ハルは彼女の腕にぶらさがる。
中学の制服姿のユーラスがやってきて、その場面を目撃して、
むっとした顔になった。
﹁あ、ユーリおにいちゃん﹂
雪羽はユーラスに気づき、うっすらと頬を染めた。﹁学校に行
ってたの?﹂
﹁ああ、図書当番だった﹂
と答えながら、冷ややかにハルをにらみつける。
ハルのほうも、本能で敵だとわかるのか、大きな目でぎろりと
473
にらみ返し、ますます強く雪羽にしがみつく。
︵は・な・れ・ろ︶
と壮絶な殺気をこめて念じながらも、にっこりと笑った。
﹁魔族の息子よ、余がじきじきに、飛行機ごっこをして遊んでや
ろう﹂
ハルを荷物のように軽々と担ぎ上げると、走っていって、向こ
うの空き地に砲丸のように放り投げて戻ってくる。
﹁お、おにいちゃん!﹂
﹁魔族なら、あれしきのことで怪我はせぬ﹂
﹁でも、ハルは半分は人間だよ﹂
﹁魔族の血は、あまり受け継いでおらぬのか﹂
﹁猫にも変身しないってヴァルが言ってた。でも、体は一度に大
きくなったから、もしかすると、二度目は十歳くらいになるかもし
れないって﹂
︵十歳だと? ますます、そばに置くわけにいかぬな︶
憤然と考えながら、雪羽の隣に腰をおろし、アパートの壁にも
たれた。
このごろ、ユーラスはおかしいのだ。十四歳の少年の肉体は、
ときどき訳の分からない苛立ちや焦りに翻弄されそうになることが
ある。
彼の思いの大半を、隣にいる九歳の少女が占めている。寝ても
覚めても、女王のように凛々しく彼の前に立ちはだかった、あの日
の美しい雪羽の姿が忘れられない。
他人に心を支配されることは、とてもつらく、とても甘い。九
たぎ
十年の勇者の人生で、とっくに失ったはずの希望や不安、高慢なほ
どの自信とみじめな自己嫌悪と、そして滾るように熱いエネルギー
が、隊列を組んで戻ってきたようだ。
﹁ま⋮⋮雪羽﹂
彼は初めて﹁魔王の娘﹂ではなく、想いを込めて名前を呼んだ。
﹁なに?﹂
474
﹁もし、明日︱︱﹂
そのとき、ものすごい勢いで、ハルが駆け戻ってきた。途中で
何度もすてんと転びながら。
﹁ひーめーさーまー﹂
飛びついてきたハルの顔に、雪羽は四つめの絆創膏を貼ってや
った。ハルは彼女の腕にしがみつき、ユーラスに向かって、歯をむ
きだして威嚇する。
これは、手ごわい恋敵ができたものだ。
苦笑しながら、ユーラスは言った。﹁もし明日、用事がなけれ
ば、余と遊園地に行かぬか﹂
﹁え?﹂と雪羽は、驚きに目を見開いた。
﹁無料の券をもらったのだ。早く使わねば、夏休みが終わってし
まう﹂
﹁でも⋮⋮﹂
﹁ああ、もちろんハルもいっしょだ。きっと喜ぶぞ﹂
それでも少女は困ったように眉をひそめ、口ごもりながら訊ね
た。﹁マナおねえちゃんも、いっしょ?﹂
﹁⋮⋮ああ、マヌエラもいっしょだ﹂
﹁なら、行く﹂
ほっとして、晴れやかな笑顔で答える雪羽に、ユーラスは微笑
みを返した。
初戦は惨敗だ。とりあえずは14歳の中学生らしく、明るく清
いグループ交際から始めねばならないのだろう。
眠れぬ夜が明けて、坂井会長は暗いうちから家を出た。
と言っても、行くところは会社しかない。
街灯の明かりを頼りに歩いていくと、古い工場はすでに取り壊
されて更地になり、コインパーキングができていた。
妻とふたりで、部品を作っていたころのことを取りとめもなく
475
思い出す。苦労の連続だったはずなのに、なぜか楽しい想い出しか
浮かんでこない。
妻は、明日食べるものもないその日暮らしの中で、あのカシの
木の苗を買ってきて植えた。
﹁木には望みがある﹂と、楽しそうにつぶやきながら。
それは、何かのことわざだったらしい。どんなに切り倒されて
も、その切られたところか芽吹く。枯れたように見えても、水を与
えられれば、また命を甦らせる、という意味だ。
何度も訪れた経営の危機の中で、人間の汚い本性を見せつけら
れながら、それでも坂井たち夫婦は手を取り合って、歯を食いしば
って、がんばった。
坂井は、あふれでる涙を手の甲でぬぐい、新しい工場へ足を向
けた。
早朝だというのに、門はすでに空いていた。中に入ると、枯れ
かけたカシの木のそばに、ひとりの男が立っているのだ。
白々と明るむ空気の中で、まるで木そのものかと見まごう男の
シルエットは、黒い光輪を体にまとっていた。その光輪が幹を包み
込んで、やがて枝の先までが、きらきらと淡く光り出す。
﹁瀬峰⋮⋮主任?﹂
男は大きな吐息をつくと、木のかたわらの何もない空間に向か
って、ふたことみこと話しかけ、それから背中を向けて立ち去った。
︵瀬峰くんに見えたのだが、見まちがいか︶
キツネにつままれたような心地で、木のそばに立った。
﹁社長﹂
しゃがれ声がして振り向くと、近寄ってきたのは、最古参の工
員、矢口だった。
﹁あんた、どうした。こんなに早く﹂
﹁おまえこそ、どうしたんだ﹂
﹁ちょっと眠れなくてな。いろいろ考えごとをしに、早めに来た﹂
﹁わたしもだ﹂
476
ふたりの旧友はどちらともなく、カシの木に近い花壇のへりに
腰をかけた。
﹁実は、工場をやめようと思ってな。亮司くんには、今日にでも
言うつもりだ﹂
矢口は、長く伸びた白い眉毛を、指の腹でしごいた。﹁定年も
とっくに過ぎてるのに、これ以上は悪い﹂
﹁もうそんな年か﹂
﹁あんたより、一個上だよ﹂
﹁ずいぶん長く働かせてしまったな。うちの旋盤を一手に引き受
けさせて﹂
﹁もう今は跡継ぎができたよ﹂
矢口は、にまりと笑った。﹁樋池に、俺の技術はすべて伝えた。
伝えきった﹂
﹁そうか﹂
﹁うれしかった。ひとりで祝杯を挙げて泣いた。俺が生きてきた
のは、このためだったんだなって﹂
﹁そうか﹂
﹁でも、だんだんと悔しくなってきた。特に、樋池がミクロン単
位の加工を、俺よりうまくこなしたときなんかな﹂
﹁ああ、わかるよ﹂
﹁俺の目は、だんだんかすんできやがる。樋池はどんどん俺を追
い抜いていく﹂
﹁年をとると、そうなるな﹂
﹁うれしいんだが、さみしい﹂
﹁うれしいけど、さみしいな﹂
ふたりは顔を見合わせて、笑った。
﹁俺はな。いさぎよくカッコよく辞めるつもりだった。こんな負
け犬みてえな気持ちで辞めることになるとは思わなかったよ﹂
どちらともなく、頭上の枝を見上げる。
﹁ああ、奥さんの植えたカシ、枯れちまったな﹂
477
矢口がぽつりと言ったとき、坂井は心の中でつぶやいた。︱︱
木には、望みがある。
﹁なあ、矢口﹂
﹁なんだ﹂
﹁悔しいのは、何かをやり残したからだと思わんか﹂
﹁やり残したって、何を?﹂
﹁それは、まだわからん﹂
知らず知らず、丸めていた坂井の背筋が伸びていく。﹁だが、
このまま辞めても、無性に未練が残る﹂
﹁ああ。俺もそうなのかな﹂
﹁わたしは、ずっと心の奥底で、そう思っておったんだよ﹂
カシの枝が風で揺れる。目に見えぬ小さな光がきらきらと空中
に舞い上がり、あたりに降り注ぐ。
旋盤工は、ぎゅ、ぎゅっと拳を確かめるように、何度も握りな
おした。
﹁なあ、社長。俺とあんたで、なにか新しいことを始めてみない
か﹂
﹁ふたりで?﹂
﹁ああ、ふたりでもいいが、誘えば、佐々木は乗ってくるはずだ﹂
佐々木は、先月工場長を退いて、平社員に戻ったばかりだ。﹁
それに、日浅も﹂
﹁今年、定年を迎える連中か﹂
﹁場所は、瀬峰に頼めば、工場の隅の作業台を貸してくれると思
う。おはらいばこになった古い旋盤もある﹂
﹁だが、その程度では、たいしたものは作れんぞ﹂
﹁たいしたものでなくて、いいんだ。他の誰もが見過ごしていた
ような、小さいものを作ろう﹂
﹁小さいものか⋮⋮﹂
︻全自動乱切り機︼と︻コンパクト乱切り機︼のヒット。しか
し、その先に来る潮流を、会社はまだ見据えていない。
478
﹁もっと、小さな︻乱切り機︼﹂
思ってもいなかった言葉がさらりと、坂井の口をついて出てき
た。
﹁え?﹂
﹁場所を取らず、家庭や小さな施設に置けて、安全で、力のない
年寄りでも簡単に扱える調理器具﹂
﹁︻家庭用乱切り機︼か︱︱﹂
年老いた男たちの胸に、新しい火が熾き始めた。
﹁もう一度、天城博士に開発に参加してもらうように頼んでみる
か﹂
﹁ついでに、相模弁当の相模会長に助言してもらうのは、どうだ﹂
﹁みごとに、爺さんばかりのチームだな﹂
﹁プロジェクト・爺さんズ、だ﹂
大きな笑い声が響いた。
男たちの再スタートを祝うかのように曙の光が射し込んで、工
場の中庭を照らし出した。
カシの木の幹から、静かに音もなく、一枚の薄緑の葉が芽吹い
た。
479
木には望みがある︵後書き︶
﹁木には望みがある﹂の出典: 旧約聖書ヨブ記14章7ー9節
﹁木には望みがある。たとい切られても、また芽をだし、
その若枝は絶えることがない。
たとい、その根が地中で老い、その根株が土の中で枯れ
ても、
水分に出会うと芽をふき、苗木のように枝を出す。﹂
480
*番外編小話 十年目のバレンタイン︵1︶
§1︵十年前︶
﹁佐和。おみやげだ﹂
ゼファーは家に帰って来ると、紙袋をどさっとこたつの上に置
いた。
台所に立っていた佐和が、手を拭きながら袋の中をのぞくと、
色とりどりの包装紙に包まれた箱がたくさん入っている。
﹁うわあ、これ全部チョコレートです。どうしたのですか?﹂
﹁工場のラインの見回りをしていると、朝からあちこちの女性工
員が俺にこれを押しつけてきた。﹃ヴァレンタイン﹄というのか。
今日はそんな名前の祭りらしいな﹂
彼はコートを脱いで、こたつの前に胡坐をかくと、興味なさそ
うに紙袋を押しやった。
﹁おまえにやる。俺はこんなには食べられない﹂
﹁私も食べられないわ。一年分くらいありそうですね﹂
﹁工場長が、﹃義理チョコ﹄というのだと教えてくれた。つまり
は職場の人間関係を円滑にするための、一種の祈願の貢ぎ物らしい。
確かに社長や工場長も少しはもらっていたようだが、俺のが一番
多かった。俺との人間関係が良くないと感じている工員が多いのだ
ろうな﹂
そう言って渋面を作る彼の様子を見て、実は内心ちょっぴり穏
やかでなかった佐和はもう少しで笑いそうになるのをこらえた。
工場の女性たちにモテていることを、まったく自覚していない
夫。私の口から本当のことを言わなくてもいいかしら?
﹁そうだ。私もゼファーさんにヴァレンタインのプレゼントがあ
るんです﹂
481
﹁佐和。おまえも、俺との関係を円滑にしたいと思っているのか
?﹂
﹁まあ。これ以上円滑になりっこないわ﹂
佐和が台所から運んできたものを見て、ゼファーの口元が少し
ほころんだ。
皿の上には、ピンク色の塩鮭をまぶした大きなハート型のおに
ぎりが乗っていたからである。
§2︵十年後︶
﹁レイレイホー﹂
今年も地球には、﹃人間関係改善祈願﹄の貢物の季節がやって
来た。
主任から工場長へと昇進し、坂井エレクトロニクスの従業員も
百名近くに増えた今、ゼファーが作業台の足元に置いている紙袋は、
黒い貢物であふれんばかりになっている。
昼休みから戻ってきたとき、紙袋はなんと、ふたつに細胞分裂
していた。見かねた工員の誰かが、紙袋を置いていったらしい。
その中には、義理チョコとは呼べない高価なものも、ちらほら
混じっている。ゼファーはしばし悩む。これを贈った女子社員との
人間関係を、俺はどのように改善すればよいのだろう、と。
そう言えば、水橋ひとみを今年はまだ見ていない。真っ赤な包
装紙に包んだ大きな箱を、いつも﹁はい﹂と恥ずかしそうに渡して
くれるのに。
﹁レイレイホー﹂
歌いながら、また資材係主任の重本哲平が通り過ぎて行った。
なぜか、彼は朝から機嫌がよい。雪山ならぬ機械工場のあちこ
482
ちで、彼のヨーデルが響いている。
︵なるほど、そういうことか︶
水橋は今年は、ゼファーのかわりに重本にチョコを渡したのだ
ろう。それで彼は有頂天になっているのだ。
重本がずっと水橋を思い続けていたことを、ゼファーは知って
いた。良かったと安堵する一方で、さびしく思う気持ちも心の隅に
ある。
ずっしりと重い紙袋を両手に下げて、帰途に着いた。
︵どうしたものか︶
これでは一年かかっても、食べきれない。今年も、佐和と雪羽
に手伝って食べてもらうしかないだろう。
けれど、もらうと困ると思いながら、もらえないと寂しい、そ
んな理不尽で身勝手な男の気持ちまで、妻子に押しつけてしまうこ
とは赦されるのだろうか。
﹁ただいま﹂
着替えるとき、さりげなくタンスの中に紙袋を隠し、卓袱台の
前に座った。
例年なら、鮭をまぶしたハート型の特大おにぎりが出てくるは
ずなのに、今夜はごく普通のおにぎりだ。
︵なんだ、忘れているのか︶
いったんは納得したが、急に心配になった。
︵まさか佐和も、今年の貢物を他の男に移したのだろうか︶
︵俺は、もう貢物を送る価値もない夫だということか。給料を家
に持って帰ってくるだけの粗大ゴミ夫︶
とんでもない疑念が、次から次へと湧き出てくる。
ぼそぼそと夕食を食べているゼファーの前で、佐和と雪羽は肘
でつつき合いながら、くすくす笑っている。
﹁もう、父上ったら、まだ気づかないの?﹂
﹁今日のお父さんは、ぼんやりさんなのよ﹂
言われて初めて、部屋を見渡す。
483
上を見上げると、天井から垂れるたくさんの糸の先に、色紙の
ハートがぶらさがっていた。
﹁なんだ、これは﹂
手を伸ばすと、ひとつひとつに文字が書いてある。
﹃父上、世界で一番だいすき﹄
﹃ゼファーさん、私と結婚してくれてありがとう﹄
﹃コージョーチョー、あいしてます!﹄
﹃魔王よ、年なんだから無理するな﹄
というありがたいメッセージから、お手伝い券、肩もみ券まで。
﹁今年はすごいでしょ。みんなに書いてもらって、苦労してふた
りでぶらさげたんだよ﹂
﹁ああ、すごいな﹂
愛情とは、目を上げればすぐそこにあるのに、目が曇っている
と見えないものだ。
﹁ありがとう、佐和。雪羽。最高のプレゼントだ﹂
ふたりは、うれしそうに﹁うふふ﹂と笑った。
﹁券もいろいろあるから、試しに何か使ってみて﹂
しばし熟慮した後、ゼファーはひとつのハートをちぎると、妻
に渡した。
﹁今夜、ぜひとも﹂
お風呂券だった。
§3︵バレンタインデーの一日前︶
雪羽が生まれたのは、十年前の二月の雪の日だ。
だから、雪羽は十歳。小学四年生。そろそろ恋に恋するお年頃だ。
484
しかし、彼女の恋は、今ちょっと複雑な事情をかかえている。な
ぜなら、相手にはれっきとした妻がいるのだ。
ただし、それは、彼が異世界から地球に転生してくる前、九十歳
の老人だったころの話なのだけれども。
アラメキアの東の勇者、ナブラ王ユーラスは十五歳、中学三年生。
四月には高校生になる。雪羽の年齢の子どもにとって、五歳の距離
は、とてつもなく遠い。
﹃どうせ、あなたは奥さんのいる家に帰って行く人だもの。わたし
が、毎日どれほど寂しい夜を迎えるかなんて、あなたにはわからな
い!﹄
﹁あらあら﹂
買い物から帰ってきた佐和が、あわててテレビのリモコンを取り
上げた。
﹁このドラマは、あなたには少し早いみたいね﹂
テレビを買ったのは、失敗だったかな。
友だちの少ない娘を案じて、せめて話題作りになればよいと思っ
て購入したのだけれど、こういう番組はできれば話題にしてほしく
ないものだ。
母娘がいっしょに台所で夕飯のしたくをしていると、チャイムが
鳴った。
﹁ごめんください﹂
その声を聞いただけで、雪羽の心臓がジャンプ台から滑り降りて
きて、トクンと跳ねた。中学の制服を着たユーラスが、扉を開けて
お辞儀する。
﹁どうぞ、入って﹂
﹁いえ、雪羽さんに頼まれたものを持ってきただけですから﹂
若き勇者は三枚の色紙のハートを、佐和に差し出す。﹁アマギ博
士とマヌエラの分もいっしょです﹂
﹁どうもありがとう。悠里さん﹂
雪羽は急いで、奥の部屋のタンスの中に置いてあった紙袋を取り
485
に行った。
﹁待って、ユーリお兄ちゃん!﹂
あわててつっかけたサンダルは、右と左がさかさまだった。
アパートの通路でよたよたと追いつき、紙袋を差し出す。﹁一日
早いけど、これ。私が焼いたチョコクッキー﹂
明日のバレンタインはたぶん、会えないから。お兄ちゃんは、大
切な日をマナお姉ちゃんと過ごすのだから。
ユーラスは、白いマフラーに隠した口元を、ひっそりとほころば
せたようだった。
﹁礼を言う。雪羽﹂
どうせ、あなたは奥さんのいる家に帰って行く人だもの。
階段を降りていく彼を見送りながら、ドラマの台詞を少し芝居が
かった調子で口の中でつぶやくと、さっきの女優さんみたいに、目
にじわりと涙がにじみでた。
§4︵バレンタインデーの一日後︶
﹁こんにちは!﹂
息子のハルを背中に負ぶい、腕には大きなクーラーボックスをか
かえたヴァルデミールが訪ねてきた。さすが父親になると、男はた
くましくなるものだ。
﹁奥方さま。冷凍のおそうざいを持ってきました。売れ残りで悪い
のですが﹂
﹁ありがとう、ヴァルさん。すごく助かる﹂
﹁きのうのバレンタインのお祝いは、いかがでしたか﹂
﹁ええ、ゼファーさん、とても喜んでいたわ﹂
佐和はゆうべの一部始終を思い出して、ほんのり頬を赤く染めた。
486
﹁それより、ヴァルさんは?﹂
﹁う、うちニャんか、ハルがいるから、全然マロンチックじゃあり
ませんよ﹂
ヴァルデミールは、両手をぱたぱたと振った。﹁チョコは、ハル
がほしがって大変だからって、うちでは禁止ニャんです﹂
﹁ちょこー、ちょこーっ﹂
﹁おまえは、これニャ﹂
父はポケットに入れていた煮干しを、ぽんと息子の口に入れた。
﹁リコさんからハルへのプレゼントは、この煮干しを大袋いっぱい。
わたしは大きな新巻き鮭を一本もらいました﹂
﹁とーと、もっとー﹂
﹁はいはい﹂
また煮干しを、ぽんと口に入れる。
﹁健康的でいいおやつね﹂
﹁はい。リコさんもハルの手前、あんニャに大好きだったお菓子を
我慢していたら、心ニャしか痩せてきたみたいで。ますます美人に
ニャって、困ってしまいます﹂
てれてれと幸せそうに笑っているヴァルデミールを見つめながら、
佐和もうれしくなった。十年前は公園で寝ていたホームレスの青年
が、結婚して、りっぱな一児の父になったのだ。
そして理子も、会社の経営を一身に背負ってストレスで太ってし
まい、どんなに努力しても痩せられなかったのに、今は子どものた
めに苦もなく痩せているという。
人生とは、ときどき思いもかけない奇跡を用意してくれるものだ。
﹁よかったわね。お互いに、いいバレンタインで﹂
﹁はい!﹂
佐和がいれたミルクティーを飲みながら、しみじみと昔話をして
いると、
﹁あれ?﹂
いつのまにか、ハルのすがたが見えない。﹁すみません、見てき
487
ます﹂
奥の畳の部屋をのぞいたヴァルデミールは、﹁ひゃああっ﹂と声
にならない悲鳴を挙げた。
ハルがタンスの中に入っていた紙袋をびりびりに破り、中に入っ
ていた箱の包装も引き裂き、わしづかみでチョコレートをむしゃむ
しゃ食べていたのだ。
﹁ハ、ハ、ハルゥ、ニャんてことを﹂
あわてて駆け寄り、とっさにつかんだ布で、ハルのべっとりとチ
ョコだらけになった手を拭きとる。
そして、汚れた布を見て、気を失いそうになった。それは、ゼフ
ァーが二本しか持っていないネクタイのうちの一本だったのだ。
﹁おや?﹂
その夜、帰宅した魔王は、着替えのためにタンスを開けて、首を
かしげた。チョコの紙袋がひとつなくなっている。そして、代わり
に置いてあったのは、新品の高級ブランドのネクタイだった。
488
*番外編小話 十年目のバレンタイン︵1︶︵後書き︶
第一話は2004年にサイトでアップした掌編集の中に収録したも
ので、第二話は今回書き下ろしました。
489
いちごいちえ
ぐうっと拳をつくり、何度もゆるめては固める。
﹁よしっ﹂
ユーラスは、小さくつぶやいて歩き始めた。
力が戻った。とうとう、あの頃の自分に戻れたのだ。
ユーラスが王から東の勇者に任ぜられ、人々の歓声に送られて
仲間とともに旅立ったのは、十五歳のとき。
若く、力に満ち、輝いていた。長い苦難に満ちた旅の後、つい
にアラメキアに仇なす邪悪な魔王を封印し、数十年の歳月が流れた。
ふたたび魔王を追いかけて地球に来ると決意したときは九十歳
だった。
時間神セシャトに自分の年齢を代償として差し出したために、
非力な九歳の少年になってしまってから早や六年。今年の春からは、
地元の公立高校に通い始めるまでに成長した。
この日のために、剣の修行も肉体の鍛錬も欠かしたことはなか
った。
すべては、もう一度魔王ゼファーを倒すため。
﹁ユーリお兄ちゃん!﹂
アパートの前の道で、ひとりでなわとびの練習をしていた少女
が、爪先立って伸び上がるようにして手を振った。
色素が薄く、透き通るような肌に薄紅色の唇。小学五年生にな
ったばかりの少女は、先月会ったときよりもほんの少し大人びた顔
を、火照らせて赤く染めている。
憎き仇、魔王の娘、雪羽。
﹁日曜なのに、学校があったの?﹂
490
﹁⋮⋮剣道の部活だ﹂
﹁それ、高校の新しい制服?﹂
﹁⋮⋮ああ﹂
白金の鎧にはおよそ程遠い、真新しい黒の詰襟。水晶の剣とあ
まりにかけ離れた竹製の刀。それが今の、勇者の装備のすべてだ。
今にも途切れそうな会話をぽつぽつ交わしながら、ユーラスは
内に満ちていた闘志が、水をかけられたように急速にしぼんでいく
のを感じた。
魔王を必ず倒すと誓ったはずなのに、今の自分は絶対にその誓
いを果たせないこともわかっている。
それどころか、魔王の十歳の娘に心乱され、彼女が目の前にい
ると脳が空回りしてしまうありさま。話すことばさえしどろもどろ
だ。
向こうの角を曲がって、雪羽の両親が帰ってきた。魔王の両手
には、近所のスーパーのビニール袋がいくつもぶら下げられている。
﹁あら、ユーリさん﹂
佐和が親しげに笑いかけた。﹁久しぶり。ちょうどよかったわ。
苺の特売があったの、今からいっしょに食べない﹂
﹁いや、余は⋮⋮﹂
断ろうとしたとき、ゼファーが漆黒の瞳で彼をじっと睨みつけ
ているのに気づいた。
﹃七年、待ってやる﹄
そう言われたことを、不意に思い出す。あれは、魔王と地球で
再会を果たしたばかりのときだった。
﹃七年すれば昔の強さを取り戻し、俺を倒してアラメキアに凱旋
できるだろう。それまで、この世界にとどまれ。おまえが大きくな
るのを、待っていてやる﹄
約束の年まで、あと一年。
491
背筋が毛羽立つ。余はいったい何をしているのだ。やつは余の
ありさまを見透かしている。恋愛にうつつを抜かしている場合では
ないだろうと、さげすんでいる。
﹁おにいちゃん、よかったら食べていって﹂
雪羽がおずおずとした目で見上げた。﹁いちごスプーンでつぶ
して、練乳をかけて食べると、すごく美味しいよ。雪羽がおにいち
ゃんの分も作ってあげるから﹂
お願いします。
思わず頭を下げそうになり、ぶんぶん首を振ってうろたえる挙
動不審な勇者に、ゼファーは、はあっとため息をつき、スーパーの
袋を差し出した。
﹁馳走してやるから、半分持て﹂
﹁え?﹂
﹁二度は言わん﹂
袋を無理やり押しつけて、アパートの外階段をとんとん上がっ
ていく魔王を、ユーラスはあわてて追いかけた。
いったい何をしている。勇者たる余が、魔王一家と明るい家族
ぐるみの交際をしているとは。
ありえぬ。絶対にありえぬ。
心は拒否しているのに、ユーラスの舌は、すでに苺ミルクの甘
酸っぱく、とろけそうな味を待ち焦がれていた。
週明けの朝の工場は、喧騒に満ちている。
総務は溜まっている書類の処理に追われ、経理は朝一番の振込
のために銀行に走る。現場は、機械の稼働開始時の入念なチェック、
一週間の作業計画の伝達にあわただしい。その上、加工ミスによる
急ぎの割り込みなどが入ると、ますます業務はたてこんでくる。
景気が上向いたせいか、このところ注文が増え、納期は遅れ気
味だ。ここで気をひきしめてスタートダッシュをかけないと、ます
492
ます一週間のスケジュールが狂ってしまう。
﹁工場長﹂
そんな修羅場のまっただ中、汗だくのゼファーのもとへ、ひと
りの新入社員がつかつかと近づいてきたのだ。
﹁工場長。今日で辞めさせてください﹂
なんで、よりによって今それを言うんだと、思わず力が抜けそ
うになるのを堪えた。
﹁澤崎。きみは、3月の頭に入社したんだな﹂
﹁そうです﹂
﹁まだ一ヶ月少しししかならない。なぜそんなにも早く見切りを
つけてしまうんだ?﹂
澤崎という名の青年は、ゼファーの叱責のまなざしから顔をそ
むけた。
﹁退屈だから﹂
﹁退屈? 仕事が?﹂
想像もしていなかった理由だった。
﹁うちはどの部署も忙しい。退屈ということは決してありえない
と思うが﹂
﹁でも、重本さんが僕に仕事をやらしてくれない﹂
﹁重本が?﹂
﹁僕、嫌われてるらしいんですよ。のろまとか、気がきかないと
か、文句ばかり言われて。そのくせ、何をすればいいのか、全然教
えてくれないし﹂
彼は吐き捨てるように言った。﹁ほんと、勘弁してください。
あの人の下で働くくらいなら、辞めます﹂
重本哲平は資材班の主任だ。入社した新人たちは、それぞれの
希望や適性に応じて各部署に配属され、澤崎は重本の下で資材係と
して働き始めたばかりなのだ。
﹁おい、高瀬﹂
ゼファーは、そばにいた若手の従業員を呼び、とりあえず彼の
493
身柄を預けてから、重本のいる搬入口に向かった。
﹁あ、工場長﹂
﹁今、ちょっといいか﹂
外注部品のケースが次々と運び込まれてくるのを妨げぬよう、
ゼファーは重本とふたりで隅の壁際に立った。
﹁澤崎がやめたいと言ってきた﹂
﹁ああ、あいつはダメっすよ﹂
重本は、脱色した髪をぼりぼり掻いた。﹁何にも自分の頭で考
えちゃいないんだから。次にやることわかりませんって、幼稚園じ
ゃあるまいし、忙しいのに手を止めて教えてられるのかっての。ち
ゃんと俺の背中見て、覚えろってんだ﹂
﹁しかし、最初のうちは手取り足取り教えてやらないと無理なの
ではないか﹂
﹁俺だって、先輩は何にも教えてくれなかったぜ。それでも、な
んとかやってきたんだ。仕事なんて、いちいち教わるもんじゃねえ。
盗むもんだ﹂
ゼファーは、さらに事情をくわしく聞き出してみた。
重本は見かけは恐くぶっきらぼうだが、根はやさしく男気があ
る。澤崎が誠意を見せて頼みこめば、拒否するようなことはしない
のだ。
ところが澤崎は、教えてくださいと素直に頭を下げる気配がな
い。重本としては、かわいくない後輩だということになり、つい依
怙地になる。元暴走族は、妙なところで上下関係に厳しいのだ。
それに対して澤崎のほうは、重本が手取り足取り教えてくれる
ものだと期待して待っていたのに、そうしてくれないのは、自分が
嫌われているからだと思い込んでしまったのだろう。
﹁弱ったな﹂
頭を悩ませながらも、とにかく工場内に戻る。今は週明け業務
が優先だ。
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午前中の作業をどうにか無事に終え、もうすぐ昼休みのサイレ
ンが鳴るというとき、﹁工場長﹂と高瀬雄輝が走り寄ってきた。
﹁澤崎の様子はどうだ﹂
﹁今のところは、俺の仕事を手伝わせてますけど﹂
高校を卒業してすぐ、新人として入ってきた雄輝も、もう一人
前だ。
生産企画班に所属する彼は、手順書を作って各班に徹底させる
のが主な仕事だった。手順書とは、製品が完成するまでの全工程に
ついて細かく指示した書類のことで、坂井エレクトロニクスのよう
に、さまざまな部品や製品を作っている工場では、その数だけ詳細
な手順書が必要となる。
工場全体の生産を左右する、重要な仕事だ。
﹁頭は悪くないんだけど、注意力が散漫っつうか、いつのまにか、
何か考え込んでぼんやり手が止まってることがあって﹂
﹁そういう性格も、重本には気に入らないのだろうな﹂
﹁けど、手順書のコピーを取らせてたら、一枚手に取って、﹃今
の仕事に、こんなのが欲しかったんだ﹄なんてつぶやいたんです。
やり方がわからないだけで、決してやる気がないわけじゃないと思
う﹂
﹁手順書、か﹂
ゼファーはひとりになった後も、中庭のカシの木に向き合って、
じっと考え込んだ。この木は、会社のシンボルとも言える古い大木
だ。一度枯れかけていたのが生き返り、今はたくさんの若葉をつけ
ている。
まるで、倒産寸前で持ち直した坂井エレクトロニクスを象徴す
るようだ。
﹁瀬峰くん﹂
声をかけてきたのは、社長の坂井亮司だった。
﹁辞めたいという者を、そこまでして引き留めることはないので
495
はないか﹂
ゼファーは向きなおり、じっと亮司の顔を見つめた。﹁澤崎の
ことですか﹂
﹁働きたいと応募してくる者はいくらでもいる。やる気のない社
員にそこまでの手間をかける必要はあるのかね﹂
﹁いったん採用した者に対して、会社は責任があります﹂
﹁社員は家族か⋮⋮古い考え方だね﹂
社長は、ふふっと笑った。﹁まあ、工場長さまの気のすむよう
にやりたまえ﹂
去っていく背中を見つめながら、もどかしい思いをかかえる。
亮司が社長に就任してもう一年になるというのに、ゼファーはまだ
彼とうまく付き合えていない。
会社の発展よりも部下のことを真っ先に考えるゼファーに対し
て、新社長は、企業を大きくすることが引いては社員のためになる
と考えている。根本的に考え方が違うのだ。
﹁人間関係というのは、むずかしいものだ﹂
なぜ、他者とかかわることが、これほど入り組んだ問題になっ
てしまうのか。ゼファーは深いため息をついた。
昼休みが終わろうとする頃、外の自動販売機コーナーで、しゃ
がんでタバコをふかしている重本を見つけた。
﹁重本。澤崎のことだが﹂
重本は、ぎろりと横目でにらんだ。﹁俺、あいつに仕事を教え
る気はねえからな﹂
﹁わかった。では澤崎ではなく、俺に教えてくれないか﹂
﹁え?﹂
重本は口からぽろりとタバコを落とし、立ち上がった。﹁工場
長に? なんで﹂
﹁おまえが毎日どんな業務をしているか、知りたい。時間ごとに
順を追って書き出してくれ。そうすれば俺が代わりにやつに教える﹂
496
﹁お、おれ、漢字書くの苦手で⋮⋮﹂
重本は、床に落としたタバコをぐいぐいと踏みつけている。
﹁ならば、口で説明してくれればいい。ますは、9時の始業時だ。
最初は何をする?﹂
﹁えっと。つまり、在庫表見て、チェック⋮⋮あ、違う、そ、そ
の前に、今日の指示書、あれば、あるとき、あったら⋮⋮﹂
しどろもどろに説明を始めた重本は、エンストを起こしたバイ
クのように﹁う、う、う﹂とうなって、頭をかかえこんだ。
﹁できねえっ。自分が毎日何をしてるかなんて、自分でもわかん
ねえよ!﹂
﹁つまり、重本はいつも身体が覚えこんだとおりに動いているの
で、仕事の手順を説明したくてもできなかった⋮⋮というわけだ﹂
﹁野生のヒョウみたいなやつだからな。本能の赴くまま行動して
いるんだろうな﹂
ゼファーは搬出口のシャッターに背を預け、佐々木と缶コーヒ
ーを飲んだ。
佐々木は、前の工場長だ。今は坂井会長はじめ、定年を過ぎた
工員たちとともに開発チームを作り、新しい︻家庭用ミニ乱切り機︼
の製品化を模索している。
暇なときは、ときどきゼファーの相談にも乗る。不思議なこと
に、工場長時代にはなかった広い視野で、アドバイスをくれること
がある。日常業務にとらわれない自由な立場がそうさせているのだ
ろう。
目下の相談ごとは、重本と澤崎の人間関係のトラブルだ。
﹁重本はすごいぞ。飛び込みの仕事が入ったときなど、資材が足
りなくなりそうだというタイミングで飛んで来て、たちまち補充し
てくれる。本当にうちにとってはなくてならない逸材だ﹂
﹁それは、よくわかっているんだが﹂
497
ゼファーはたまった疲れをほぐすように、眉間をもんだ。﹁長
年つちかった経験と勘と言えばそれまでだが、やはりそれだけでは、
後進の育成には役立たん﹂
﹁工場が小さかったときは、それで十分だったんだ﹂
と佐々木はなつかしむように、言う。﹁今は人員も増えたし、
業務も複雑化している。大企業を見習って、本格的な生産システム
を採りいれる時機かもしれんな﹂
﹁ますます、俺の手にはあまるな﹂
つぶやくゼファーを、佐々木は肘で小突いた。
﹁零細工場だったこの会社を、まがりなりにも中堅にまで押し上
げたのは、おまえの力だ。ここで弱音を吐いてどうする﹂
﹁弱音を吐けるのは、相手があんただからだよ﹂
﹁そいつは、うれしいことを言ってくれる﹂
佐々木は、実の息子に対するように目を細めた。
空き缶をゴミ箱に放り込み、工場内に戻ろうとするゼファーを、
﹁そう言えば﹂と呼び止めた。
﹁その澤崎というやつ、俺たちが使ってる倉庫の前でときどき見
かける﹂
﹁ほんとか﹂
﹁ああ、座り込んでスケッチブックを開いて、何やらせっせと描
いてるんだ。一度ちらっと覗いたら︱︱マンガみたいなものが見え
たぜ﹂
資材置き場の巻きコイルの上に座り、澤崎は手元を隠すように
屈みこみながら、無心に手を動かしていた。
機械をフリーハンドで描くのは、むずかしい。細部を描きこん
でいると、いつのまにか全然違う形になっていく。
こうして苦手分野を練習できるのだから、機械工場に就職して
よかったと思わなければならない。でも、本音を言えば、やはり朝
498
から晩までマンガを描いていたい。
やはり、いさぎよく辞めたほうがいいのかもしれない。
いつのまにか、スケッチブックの上に人影が落ちているのに気
づいた。
﹁うまいものだな﹂
﹁こ、工場長!﹂
﹁絵のことなど、さっぱりわからないが、これは汎用フライス盤
だと、すぐわかる﹂
工場長はスケッチブックを取り上げ、ページをめくった。﹁こ
の男は、横田か。身体の線とか、特徴をよくとらえているな﹂
﹁は、はい。すみません﹂
﹁褒めているのに、なぜ謝る﹂
﹁勤務時間中なのに、サボって描いていたから﹂
瀬峰工場長は、彼の隣に腰をおろした。
﹁絵を描くのが、そんなに好きなのか﹂
答えを迫られ、しぶしぶうなずく。﹁子どものころから、プロ
のマンガ家になりたいと思ってます﹂
澤崎は確か、専門学校のマンガ・アニメ科卒だ。
﹁うちに就職したのは、本意ではなかったか﹂
﹁いえ、やっぱ、マンガだけじゃ食っていけないから﹂
答えながら澤崎は、クビになるなと半分覚悟して、うなだれた。
﹁俺は、それを描いているときのおまえを、そばでずっと見てい
た。機械を見ているときの目つきは、鋭かったぞ。じっと一点を捉
えて離さぬ集中力は、最上級の弓兵に通じるものがあった﹂
﹁は?﹂
﹁俺はいつも、入隊してきたばかりの新兵は一番剣のうまいヤツ
のそばに置く。最初の三日はひたすら足さばきだけを見ていろと命
じる。次の三日は、目の動きを見ていろと命じる。剣を握らせるの
は、その後だ﹂
﹁あの⋮⋮﹂
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澤崎はとまどって、いきなりファンタジーの世界に入ってしま
った工場長の横顔をそっと盗み見た。
﹁マンガを描いてくれないか、澤崎﹂
瀬峰工場長のことばは、予想をはるかに超えていた。
﹁おまえをすべての作業からはずす。勤務時間を使って思い切り
マンガを描け︱︱ただし、重本を主人公にすることが条件だ﹂
〆切の日と指定されていた一週間後、澤崎は数十枚のケント紙
の束を机の上にうやうやしく置いた。
﹁見てよいか﹂
﹁お願いします﹂
ゼファーのそばには、当人の重本をはじめ、ほとんどの従業員
が集まってきていた。
︻ある資材係の一日︼
あまりひねりのないタイトルと坂井エレクトロニクスの工場の
全景を緻密に描いた表紙をはらりとめくると、回りから﹁おお﹂と
いうどよめきが起きた。
ムースでつんつんに立てた金髪。唇の片方をゆがめるような、
少し悪ぶった笑い方。主人公として登場したのは、まさしく重本哲
平だ。
ゼファーが読み終えたページが、次々と工員たちに回覧される。
導入は、バイクから飛び降り、遅刻寸前で工場に飛び込み、タ
イムカードの前で膝を押さえてあえいでいる場面から始まった。
﹁あはは、似てるーっ﹂
タバコをふかしながら、脱力して空を見上げている重本。眠そ
うな顔で在庫表をめくっている重本。
﹁そっくりー。こんな顔してるー﹂
﹁うるせえ﹂
大好きな水橋ひとみに笑われて、重本は顔を真っ赤にして不貞
500
腐れている。
﹁これは?﹂
ゼファーの指が、あるページを差した。
あくびをしていた重本が、次のコマでは急に表情をひきしめ、
会社の電話に飛びついた。遠景に壁掛け時計が描きこんである。9
時30分。
﹁ほぼ毎日この時間、重本さんは電話をかけていました﹂
澤崎が説明する。
﹁重本、いったい毎日どこへ電話してんだ﹂
全員の矢のような視線が集まり、重本はしゃっくりのような音
を出した。
﹁え、ええと、相手はN計器だよ。担当者のおっさんに朝イチで
部品の納入を催促する電話をかけると、今は忙しいって怒られるん
で、わざと三十分遅らせてかけるようにしてる﹂
次のページは、納入のトラックが工場の敷地に入るはるか前に、
音を聞きつけて搬入口に走っていく重本。
﹁ははは。野生のシカかよ﹂
こっそり机の下に隠れて、スマホでゲームをしている重本。
﹁重本、おまえ、あとで始末書な﹂
﹁だーっ。なんなんだよ。俺のアラばっか描きやがって!﹂
今にも澤崎につかみかからんとする重本を制して、ゼファーは
静かに立ち上がった。
﹁澤崎﹂
﹁はい﹂
﹁おまえはマンガを描くために、一週間ずっと重本を見ていたな。
何がわかった?﹂
澤崎は、ぴんと背筋を伸ばして答えた。一週間前のけだるそう
な話し方ではない。
﹁僕は、重本さんはすごいと思いました。遊んでいても、少しの
物音も人の話し声も、全身を耳にして注意をはらってる。だから、
501
トラックの音も遠くから聞こえるし、予定外の作業で部品が足りな
くなったときも、すぐに補充に走れるんだなと﹂
﹁ふむ。それから﹂
﹁気ままにやっているように見えて、実はきちんと時間を区切っ
て動いていました。取引先にはこまめに電話を入れている。親しい
関係を築けば、多少の無理は聞いてもらえるから﹂
大笑いしていた工員たちも、しんと静まり返る。澤崎の目に、
涙がたまっていた。
﹁資材係の仕事は、たえず気働きの必要な、むずかしい仕事なの
だとわかりました。僕は、それをやりとげている重本さんを尊敬し
ます﹂
﹁重本、かっこいい!﹂
水橋ひとみが朗らかな声を上げ、親指をぐっと上に立てた。
結局、澤崎は辞めないことになった。
マンガのネタにされて最初は怒っていた重本も、他の従業員た
ち︱︱特に水橋︱︱から褒められてすっかり図に乗り、澤崎から原
稿を譲り受けて親族友人一同に配ると言いだした。
生産企画班は、手順書の一部に澤崎のマンガを採用したいと依
頼してきた。
﹁文章ばっかりだと読んでくれないヤツも多いんですよね﹂と高
瀬雄輝がゼファーに説明する。﹁ところどころに機械や作業手順の
イラストを入れるとひと目でわかるし﹂
何よりも、夢を持ちながら働いている澤崎を応援したいのだと
目を輝かせる。雄輝自身も、バンドという夢を今も捨てていないか
らだ。
営業の春山が、興奮ぎみに飛んできた。
﹁マンガを描けるヤツがいるんなら、営業に貸してくれ!﹂
営業回りのときに、ちょっとしたイラスト入りチラシを持って
502
いくと、顧客へのアピール度が違うというのだ。
﹁ひっぱりだこだな﹂
とからかうと、澤崎は照れくさそうに笑った。﹁でもやっぱり、
僕、重本さんのもとで資材係をきわめたいです﹂
ゼファーはカシの木のかたわらに立ち、一日の仕事を終えて、
それぞれの家に帰っていく工員たちの後ろ姿を見送った。
年齢も学歴も、性格も得意分野も、てんでばらばらな人間の集
まり。それが会社という組織の中で出会い、結びつきが生まれ、新
しい創造がなされる。
社員こそが、うちの一番の財産なのだ。
夕空に向かって、大樹の枝のように両腕を伸ばした。
﹁さあ、俺も帰るか﹂
ゼファーの一番の財産、佐和と雪羽のもとへ。
ヴァルデミールは、息子のハルを肩車して夜道を散歩していた。
毎朝三時に起きて、忙しく働き、夜は早々に床につく生活。ハ
ルとたくさん遊んでやれない分、たまには、こうやって罪滅ぼしを
してやりたい。
それに春の夜が恋しいのは、黒猫のときからの性分かもしれなか
った。
﹁とーと。まる、まる﹂
﹁ああ、でっかいお月さまだねえ﹂
家並みの向こうからぽっかり昇ってきたのは、みごとに赤く熟
れた満月だ。
﹁トマトみたいだニャ﹂
明日のデラックス幕の内弁当には、ミニトマトを入れる予定だ。
﹁いちご、いちご﹂
﹁傷みやすいから、弁当にはイチゴは入れられニャいよ﹂
のんびりした会話を楽しみながら歩く父子は、家に帰りつくま
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で、とうとう気づかないままだった︱︱彼らの頭上の闇が、ぱっく
りと裂けて大きな口を開け始めたのを。
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PDF小説ネット発足にあたって
http://ncode.syosetu.com/n5833bv/
魔王ゼファー
2016年9月25日12時58分発行
ット発の縦書き小説を思う存分、堪能してください。
たんのう
公開できるようにしたのがこのPDF小説ネットです。インターネ
うとしています。そんな中、誰もが簡単にPDF形式の小説を作成、
など一部を除きインターネット関連=横書きという考えが定着しよ
行し、最近では横書きの書籍も誕生しており、既存書籍の電子出版
小説家になろうの子サイトとして誕生しました。ケータイ小説が流
ビ対応の縦書き小説をインターネット上で配布するという目的の基、
PDF小説ネット︵現、タテ書き小説ネット︶は2007年、ル
この小説の詳細については以下のURLをご覧ください。
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