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やり直してもサッカー小僧

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やり直してもサッカー小僧
やり直してもサッカー小僧
黒須 可雲太
タテ書き小説ネット Byヒナプロジェクト
http://pdfnovels.net/
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このPDFファイルは﹁小説家になろう﹂で掲載中の小説を﹁タ
テ書き小説ネット﹂のシステムが自動的にPDF化させたものです。
この小説の著作権は小説の作者にあります。そのため、作者また
は﹁小説家になろう﹂および﹁タテ書き小説ネット﹂を運営するヒ
ナプロジェクトに無断でこのPDFファイル及び小説を、引用の範
囲を超える形で転載、改変、再配布、販売することを一切禁止致し
ます。小説の紹介や個人用途での印刷および保存はご自由にどうぞ。
︻小説タイトル︼
やり直してもサッカー小僧
︻Nコード︼
N9987BI
︻作者名︼
黒須 可雲太
︻あらすじ︼
試合中の怪我によりサッカー選手としての道を絶たれた男がい
た。
後に彼が黒猫を助けようとして事故にあった時にその運命が一変
する。
目を覚ますと己が初めてサッカーに触れた小学三年生に戻ってい
ることを確認したのだ。
﹁もう一度サッカーができるってことか⋮⋮﹂歴史やタイムパラド
1
クスなど一切気にしないサッカー馬鹿が、今度こそはと真剣にサッ
カーに打ち込む物語
2
プロローグ
ゴールをかすめる豪快なシュートにテレビの中から絶叫に近い大
歓声と、興奮で甲高くなったアナウンサーの耳障りな実況が響く。
俺は止めていた息を一気に吐き出すと、手に握りしめていた缶ビ
ールをあおった。ずっと口を付けていなかったためにすっかり気は
抜けて生ぬるくなってしまっている。アルコールに弱い俺にとって
は普段でさえ苦くてまずいとしか感じられないビールなのだが、サ
ッカー観戦時にはより一層俺の舌を硬く痺れさせる。
とはいえ素面では見ていられないのも事実だ。ちらりと画面に視
線を走らせると、アルゼンチンの神の子の系譜を受け継ぐ選手がま
たスピードに乗ったドリブルで相手守備陣を切り裂いていた。今夜
の国際試合でも彼の動きはキレまくっている。
﹁俺だって怪我さえなければ、あのぐらい⋮⋮﹂
と呟きかけた言葉を飲み込む。
あれぐらいやれたのか? 本当に? そう自問する声から意識的
に考えをそらし、何かから逃げるが如くまた缶ビールを傾けて一息
に飲み干す。俺の膝が壊れなくてもこんな活躍ができたとは思えな
い。だが、チャレンジしたかった。自分の力がどこまで通用するの
かプロの舞台で確かめてみたかったのだ。
叩き付けるように缶を置き、お代わりを探して左手が宙をさまよ
うが、残念ながら手ごたえはなく振った手は全てが虚しくも空振り
に終わる。
いつもよりもペースが速かったのか用意していたビールがもう切
れてしまった。
3
テレビの中ではちょうど試合は審判の笛でハーフタイムに入った
ところだ、今の内にコンビニに行ってビールと一緒につまみも買っ
てこようか。
﹁よっこいっしょ﹂
いつの間にか身についた年よりじみた声を上げながら立ち上がる。
くそ、それだけでやっぱり右膝にまるで錘が付けられているように
感じてしまう。ただ身を起こすだけの動きが今の俺にとっては一苦
労だった。
怪我をしてからもう四年経つのに一向に違和感は薄れない。この
古傷のせいで二度とサッカーがプレイできなくなったと思うと鈍い
痛みのみならずやるせなさがつのる。
舌打ちをして胸にわだかまる黒い感情から目を逸らすと思考を打
ち切ろうとする。
もう精神的には片づけたつもりだったのだが、どうも自分で思っ
ていた以上に俺は未練がましい人間のようだ。自分がサッカーをプ
レイしていないという現状に未だに慣れる事ができていない。
すでに闇に染められた外へ出ても胸中のざわつく物は収まらない。
せめて何か蹴飛ばす物でもないかと周囲に目をやる。空き缶などは
音が大きすぎて人目を集めてまずいだろうが、小石程度なら問題な
いだろう。
キックなどできなくなった自分の足の状態などすっかり忘れて、
きょろきょろと八つ当たりの対象を探し首をめぐらす。傍から見れ
ばかなりの不審人物かもしれないが、すでに俺の脳裏には周りへの
配慮などはなかった。
辺りを見渡していると道路の真ん中でうずくまる小さな影を発見
4
した。なんだろう、あれは? そう疑問を浮かべると、その影に二
つの光が灯った。
あれは猫の瞳か?
どうやら闇に溶け込むほどに小さな黒い猫がこっちを見つめてい
るようだった。野良猫なのか首輪は付いておらず、右の後ろ足は怪
我をしているのか宙に浮かせっぱなしだった。
いくら八つ当たりの対象を探していたとはいえ︱︱これを蹴るの
はさすがに人間失格だろう。
仏頂面のまま黒猫を見つめていると、黒猫もじっとこっちから視
線を外さない。
何でここで猫とガンを付けあってるのか自分にも不明だが、ここ
で引いたら何かに負けたような気がする⋮⋮いやまあ間違いなくそ
んな勝負をしているのは気のせいだとは判っているんだけどな。
野良猫とにらめっこをするという行為の、あまりの不毛さに嫌気
が差す寸前に、俺と猫は横合いから眩しい光に照らし出された。
強烈なヘッドライトと夜間にも関わらず耳をつんざくようなエン
ジン音が届く。
この辺には珍しく暴走族じみた車がやってきたらしい。
俺がいるのは道路の端だから別に移動しなくても車から身を守る
のには十分だが、問題は道路の中央にいる黒猫の方だ。あのままで
は轢かれてしまう可能性が大だ。
あいつはどうも足が不自由らしいし、道路の端に避難させてやる
べきだろう。足に怪我している点にシンパシーを感じたのか、いつ
もの自分らしくない仏心を出して余計なお節介を焼いてしまう。
﹁ほら危ないからこっちにおいで﹂
5
文字通りに猫撫で声で黒猫を招き寄せようとする。だが黒猫は相
変わらず光る瞳を俺から逸らさずに微動だにしない。足が痛いから
なのか俺を警戒しているからなのか、いや恐らくは両方なのだろう。
仕方なしに無理に抱き寄せる事にする、まだ車との距離はあるが
急いだ方がいいに決まっている。
﹁ほらこっち来いって﹂
いささか強引に抱き上げると、黒猫は未だ警戒の抜け切らないの
か体を固く強張らせたまま小さく鳴いた。あれ、こいつ足だけでな
く尻尾まで怪我してるのか? 何だか二つに裂けているみたいだが。
俺があれこれ観察しても、黒猫は怪我で体力が低下しているのか
それ以上の抵抗は示さなかった。
まあとりあえず確保完了っと。安堵の吐息をついた瞬間、いきな
りエンジン音が大きく高くなり同時にライトが強烈になった。
まずい。
頭に浮かんだのはその単語だけだった。どういう事情か判らない
がいきなり車がすぐそこまで接近しているのは間違いないようだ。
だが、まだこのぐらいなら逃げるのに間に合う⋮⋮。
音と光に驚いたのか最悪のタイミングで手の中で黒猫が暴れた、
反射的に歩道へ放り投げる。同時に車を避けるために俺もそちらへ
と急いで走ろうとした。
ダッシュしようと力を込めた一歩目ですとんと右足が落ちた。古
傷が痛いとかそういう問題ではなく、膝から下が抜けたように全く
足の感覚が無い。
まるで最後になった試合中に後ろから反則のタックルを受けた時
と同様に、力が入らず動かせもしないという糸が切れたマリオネッ
トの状態だ。
6
慌てて首だけで振り向くと、真っ赤なスポーツカーがヘッドライ
トを光らせて接近していた。
猛スピードだと判っているのになぜか車がゆっくり近づいている
ように感じられ、運転手の若い大学生風の男が顔をひきつらせてい
るのまではっきりと確認できた。
もしかしてこれって絶体絶命のピンチでは。
俺はすでに接触を避けきれない状況にあることを認識すると、と
っさに車に対し背を向け右足を抱え込む。
これ以上右足を破壊されるともう二度とサッカーが出来なくなっ
てしまう。
俺の背に凄まじい衝撃が走ったと思うと、体が宙に舞い体全体が
ふわりとした無重力状態になった。
クルクルと回る視界の中で俺は自分の馬鹿さ加減に思わず笑って
しまっていた。
何で壊れた右足を庇ってるんだよ。これ以上壊れたらも何も、二
度とサッカー出来ないと絶望したのはもうずいぶん昔の話じゃない
か。
自嘲が頬に浮かびかけるが、それより早く体がアスファルトに叩
きつけられて強制的に肺の空気が全て吐き出され、顔が苦痛に歪ん
でしまう。
覚悟していたよりも落下の痛みは少なかった。だがそれよりも目
眩と吐き気が酷い。道路に横たわっているはずなのにぐらぐらと揺
れて船酔いをおこしているようだ。
ぼんやりと自分の被害を調べていると、再び大きなエンジン音が
響きここから急速に遠ざかっていく。
馬鹿逃げるんじゃない。この事故は乱暴な運転をしていたお前も
悪いが、俺にもかなり責任はある。
7
だが逃げたら反論の余地なくお前だけが悪いって事になるぞ。こ
のままじゃひき逃げになる、早く引き返すんだ。
そんな俺の願いは届かなかったのか、さらに派手なエンジン音と
急ブレーキを繰り返して遠ざかっていく。
あいつ逃げる途中でまた事故起こすんじゃねぇか⋮⋮?
なんだか呑気にそんな事まで想像する余裕があった。何故か判ら
ないが、跳ねられた瞬間に痛みは最大になったのだがその後はほと
んど感じていない。眩暈と吐き気が無かったらこのままぐっすり眠
ってしまいそうなほど安らかな状態だ。ああ、本当にだんだん眠く
なってきたな⋮⋮。
いっこうに揺れの止まらない視界を瞼を閉じることでシャットア
ウトする。それだけで船酔いに似た状態は軽くなり体がまるで道路
ではなく泥の中へどこまでも沈んでいくような深い眠りへと誘われ
ていく。
半分意識を失った状態でぼんやりと今までの二十二年の生涯を思
い返してみても、やっぱり頭に引っかかっているのはこんな時でさ
えすでにやめた筈のサッカーの事が大部分を占めていた。
事故にあったのに痛みは感じず、自身の頭の中ではこれほどゆっ
くりと人生を振り返るなんて明らかに不審すぎる。さすがに目をそ
むけていたが、ここまできたら俺が人生の最後の走馬灯を見ている
のだと理解していた。
両親にまた苦労をかけて悲しませるなと反省しているはずなのだ
が、脳裏を横切っている走馬灯の中身は怪我以来もう縁を切ったは
ずのサッカー関連で埋め尽くされている。俺の頭の中の動画サイト
ではサッカー動画がお祭り状態だ。つくづく親不孝の上に諦めの悪
い男だったんだな俺って。
8
ああ、でも本当にもう一度だけでいいからサッカーをプレイした
かったなぁ⋮⋮。
最後まで未練がましい繰り言を唱えていたが、徐々に圧力を増し
てくる睡魔に耐え切れなかった。
瞼を落としながらふと時間の経過だけしか解決できない疑問が浮
かんだ。俺が次に目を覚ますのはどこだろうか? 自宅かそれとも
病院か? いや本当に目を覚ますのだろうか? ︱︱意識を失う寸前にどこかで猫の鳴き声がしていた。
はやてる
﹁速輝起きなさい、いつまで寝てるの!﹂
︱︱懐かしい声がする。
ああ、母さんだ。きっと俺を心配して来てくれたんだろう。
記憶が事故から途切れているが、入院でもした俺を見舞いに来て
看病や声掛けをしてくれたんだろうな。
とすると、俺はあんな大事故でも助かったのか。自分でも驚くほ
どタフな体だな。
まあ、サッカーをリタイヤする時の怪我にはなんの効果もない程
度のしょぼいタフさなんだが。
苦笑して自分がまだ笑いを浮かべられるのを確認すると、覚悟を
決めて上半身を起こす。だが想像していたような痛みが全くない。
骨折はおろか打ち身などの鈍痛でさえ感じ取れない。それどころか
今までに無いほど体からエネルギーがあふれている感覚だ。 ﹁あれ? 母さん俺って思ったより怪我が軽かったの?﹂
9
寝坊してるんだから全くもう、と両手を腰に当てて俺を呼んでい
た母さんが驚いたように首を傾げる。
﹁あんたどこか怪我してたの?﹂
⋮⋮何だかおかしい。今の状況が把握できていない。
﹁いや、だって⋮⋮﹂
説明しようと布団から立ち上がって気が付いた。痛みや目眩など
の異常を示す症状はない。
そしてなぜか、中学時代にはすでに身長は追い越していたはずの
母さんを見上げている。
そして何より⋮⋮右足に痛みや違和感が全くない。
﹁は、ははは⋮⋮﹂
すべての疑問は後回しにして右足をブラブラさせてはジャンプを
繰り返して笑い出す。気が付けば頬が濡れて、母さんが訝しげな顔
をしていたが俺の頭はただ一つの事で占められていた。
これでまたサッカーができる。
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第一話 とりあえず走りだそう
︱︱できる! またサッカーができる!
その歓喜は電流のように俺を貫いた。
﹁くくく、けーけっけけ﹂
化鳥のような笑い声を上げながら涙を流し、かつピョンピョンと
右足のみで飛び跳ねているという奇態を晒している俺に心配げな声
がかけられた。
﹁どうしたの?、どこか具合が悪いの? 具体的には頭とか﹂
はっとして顔を上げると、滲む視界の中で母が眉を寄せて俺を覗
き込んでいた。記憶にある姿よりもずっと若々しく、特にしわの数
や肌の張りなどは比べ物にならない。なのになぜかセピアがかった
懐かしい印象を俺に与えている。もしかして母のそっくりさんか?
いやまて、いくら実の親よりサッカーを選ぶほどの親不孝者でも、
自分を産んでくれた母親の顔を忘れるはずがない。⋮⋮例え年齢が
十歳ほど若返っていようとも。
そのまだ若い母が更に顔をしかめて俺の額に柔らかい手を当てた。
はやてる
﹁熱は⋮⋮なさそうだけど、速輝が泣くなんてどうしたのかしら?﹂
あ、まずい。俺は足が動く事に感動してまだ涙を流しっぱなしだ
った。子供の頃は早期に患った厨二病と反抗期のせいで、感情を露
わにするのがみっともないとクールな態度を気取っていたのだ。朝
からこんなテンションでは母が心配するのも当然じゃないか。
11
﹁いや、ちょっと怖い夢を見てただけ。本当に⋮⋮本当に夢でよか
ったなぁ﹂
と心底からの声音で答える。
その余りの真実味に納得したのか、未だ﹁大丈夫なのかしら、こ
の子﹂と心配気ではあったが﹁そう、なら良かったわ﹂と頷いてく
れる。そして、
﹁今日から三年生になるんだから、遅刻しないように早く着替えて
朝御飯を食べなさいよ﹂
とお小言を残して朝の支度に戻っていった。
⋮⋮三年生? 足が回復しているのに興奮しっぱなしだった頭が
僅かにクールダウンする。
三年生とは何のことだろう? ある突拍子もない予想に身をゆだ
ねながら、おそるおそる壁に掛かっている姿見に自分の姿を映す。
そこに映っていたのはまだ十歳になるかならないかの日に焼けた
少年だった。
ぼさぼさの髪にちょっときつめの顔立ちは、記憶の中にある俺の
幼少の頃の姿に間違いはない。
いや母との会話の流れや体調なんかから、薄々はそうかなーと思
ってはいたのだ。だが昔に戻っているのが現実になってみると流石
に﹁マジですか﹂と口から洩れてしまう。ロトシックスで試しに一
点買いをしてみたら一発で大当たりが出るとこんな気持ちになるの
かもしれない。まるで現実感がなく﹁へーほー﹂と他人事のように
鏡に見入ってしまう。
12
確認しようとそろそろと鏡に手を伸ばすと鏡面上で指が触れ合う。
冷たい感触が指先を刺激した。この感覚は間違い無くリアルだ。
この鏡に映った少年は十年以上昔の俺だ。
原因は皆目見当がつかないが母の言葉から考えて、小学三年の頃
に戻ったらしい。
いや原因などどうでもいい! 大事なのは俺がもう一度サッカー
が出来るという事だ。その事実に思い至ると再びくっくっく、と悪
役じみた含み笑いが堪えきれないほどにテンションが高揚する。さ
っきまでの他人事だったふわふわしたリアリティの無さが一瞬で吹
き飛んだ。
今まで見ていたのが夢だったのか現実だったのか、胡蝶の夢と同
じで俺には判断できない。
だがはっきりと判る事実もある。それは俺の思考能力や判断能力
が格段に進歩しているという事だ。
小学三年生で大学生か社会人レベルの精神年齢を備えている。こ
んな頭脳は昨日まで、あるいは十数年まえの小学二年生の俺には備
わっていなかった。
そんな大人並みの頭脳を持って何を為すべきか︱︱決まっている。
俺がどこまでサッカーで到達できるかチャレンジするのだ。
前回︱︱夢の可能性もあるが︱︱の人生では怪我でサッカーのキ
ャリアを棒に振ってしまったが、今度は出来うる限入念に準備を整
えて俺の可能性の限界を極めるのだ。
よく引退した名選手も言っているではないか﹁今の経験と頭脳を
持って現役に戻ったら、絶対にもっとすごい選手になれた﹂って。
俺はまさしくその状況つまり﹁強くてニューゲーム﹂状態になれ
たのかもしれない。
13
いや、百歩譲って肉体的・精神的に何一つメリットが無かったと
しても、俺のサッカーに対する情熱を再確認できただけでも大収穫
だ。
よし、まずは出来る事から始めよう。
そうだな、まずは︱︱遅刻しないように急いで朝御飯を食べる事
からだな。
﹁おはよう。何か少し寝ぼけちゃってた﹂
﹁はい、おはよう。速輝が寝ぼけるなんて珍しいから、母さんちょ
っと心配しちゃったのよ﹂
自分の小学三年の頃を思い出して必死で再現しながら、笑顔で﹁
さっきのは寝ぼけてただけですよー﹂とアピールする。居間に来る
前に入念に洗顔をしていたからもう涙の痕跡は残っていないはずだ。
母もじっと俺の顔を観察すると﹁うん﹂と頷く。
柔和な表情で味噌汁とアジの開きにほうれん草のおひたしといっ
た純和風の朝食を勧めてくれた。うちの母は料理好きなので、食事
に外れがないのが嬉しい。
そして久しぶりの母の味を噛みしめていると、やはりいつもと違
和感を感じたのか母が俺の皿に目を向けたのだが。
﹁あれ、速輝はほうれん草も残してないし魚の食べ方が上手になっ
てるわね﹂
﹁え、あ、うん、もう三年生だから!﹂
などと微妙に理由になってない言い訳で切り抜けた。場の空気を
変えるべく急いで残りのご飯をかき込むと﹁ごちそうさまでした﹂
と両手を合わせる。
14
﹁今まで手を合わせてまでごちそうさまって言ったこと⋮⋮﹂
﹁あ、そうだ! 母さんに聞きたいことがあったんだ!﹂
どうも言動の端々から俺の変化を見つけられそうなで、勢いで誤
魔化すしかないとこっちから話題を振ることに決めた。まあ、実際
に確認したい点も多々あるしな。俺の記憶通りか一番気になってい
る事柄から尋ねよう。
﹁三年になったらサッカークラブに入れてくれるって言ってたよね﹂
﹁ええ、今日からでしょ。あんたあれだけ楽しみにしてたのにもう
忘れちゃったの?﹂
﹁いや、そうじゃなくて今日の何時からだったっけ?﹂
ふむ、どうやら以前と同じスケジュールで三年からサッカースク
ールに入るようだ。そう安堵しながら質問を続ける。流石にここま
で細かいスケジュールまでは覚えていないからな。
﹁午後二時からってプリントに書いてあったから、学校から帰って
きてお昼食べてからで充分間に合うわよ﹂
﹁そうだったっけ、うん、思い出したよ!﹂
母はどこか呆れたように眺めて﹁まったく、楽しみだからって昨
日全然寝てないんでしょ。だから様子が変だと思ったのよ﹂と、俺
のおでこを人差し指でつつく。
うう、やはり俺の母だ、どこかちょっとだけズレている。だが悪
い人じゃないんだよなぁ。
湧き上がる罪悪感を押しこめていると、母が時計に目をやった。
﹁ほら、そろそろ準備しないと遅刻しちゃうわよ。新学期そうそう
遅刻なんてみっともないまねするんじゃないわよ!﹂
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ほら急いでと両手を叩くのに俺はもちろん逆らえるはずもなかっ
た。
部屋に戻り学校へ行く準備を整える。とは言ってもランドセルに
は真新しい教科書がちゃんと入っているので、今から慌てて時間割
を確認するまでもない。身支度にしても、通っていたのは服装が自
由な小学校だからせいぜいがぼさぼさの寝癖を直して、寝間着から
外出する普段着に着替えるだけだ。
﹁よし!﹂
と両頬を叩いて気合を入れる。
とにかくここからが俺の新たな人生の第一歩だ。
母に﹁行ってきます﹂と挨拶して外へでる。
うん、雲一つないいい天気だ。天に向かって大きく伸びをすると
軽くジョギングを始める。
走るのにはランドセルが邪魔だし、準備運動もろくにしていない。
こんな状況じゃ激しい運動はしてはいけないと理性では判っている
のだが、うずうずする体の欲求に耐えきれなかったのだ。
幸い小学校までの道のりは覚えている。他人に迷惑をかけない程
度に走らせてもらうおうか。
息が切れるまでダッシュしては、呼吸を整えるためにゆっくり歩
く。たったそれだけの事なのにとてつもなく楽しい。自分の体が自
由に動くのがこんなに素晴らしいとは想像以上だった。もしこれが
夢ならばいつまでも醒めずにいてほしいものだ。⋮⋮ん? ふとど
こからか視線を感じたような気がした。きょろきょろと首をめぐら
すと通学路に沿って立っているブロック塀に、どこかで見覚えがあ
16
る黒猫が俺の目を見つめていた。
見覚えがあるんだが⋮⋮あれは昨日、いや十二年先か? ややこ
しいが俺が事故から救おうとした猫に瓜二つだ。だが、まさかその
猫であるはずがない。十二年後まで野良猫が生きているとは思えな
い。しかしそう勘違いするほどこの黒猫と俺が助けた猫は外見に全
く違いがないのだ。もしかしたら助けた猫はこいつの子孫だったの
かもしれない。当時の俺の住所はここからかなり離れているため、
もしもそうなら奇縁と言うべきだな。
俺がそんな事を考えている間に、黒猫は満足げな鳴き声を上げる
と﹁恩は返したぞ﹂と言いたげな堂々とした態度で踵を返した。
やっぱりあの猫は俺が助けた奴と関係があるんだろうな、だって
まだ右後ろ脚を引きずっているし尻尾が二つに裂けている。きっと
あの猫の血統は代々そんな特徴を受け継いでいるんだろう。
納得した俺も慌てて背を向けて走り出した。
小学校と︱︱二度目の人生に向かって。
17
第二話 決意を表明してみよう
﹁お、思ったよりも距離があったな⋮⋮﹂
小学校の校門前にたどり着いた俺は膝に手を突いてぜーはーと荒
い呼吸を整えようとした。
まだこの肉体のスペックを手の内にしてないのにはしゃぎ過ぎて
しまった。つい最近まで思うように動かなかった足が、今ではどこ
までも駆けて行けそうなほど軽かったのだ。見覚えのある黒猫をな
んとなく敬礼で見送った後、つい全力疾走してしまった俺は悪くな
いはずだ。そして、学校までの距離をうっかり大人の感覚で計算し、
子供の足と体力を考えていなかったのも当然悪くない。
よし理論武装終わり。結論としては全ては政府の政策が悪いって
事にしておこう。
さて、心の中で内閣不信任案を可決し落ち着いたのだが学校に到
着して一つ困った事態に直面してしまった。
俺は確かに自分の通っていた学校の場所ぐらいは思い出せていた。
しかしクラスの場所までは記憶していなかったのだ。いや冗談みた
いだがいきなり小学三年生の時のクラスに案内せよって言われたら
みんなだって少しは迷うだろ?
別に若年性健忘症に罹ったわけではなく小学校の六年間の記憶が
ごっちゃになり、三年生時の教室の位置が曖昧なのだ。多分俺の過
ごしたA組は二階だったと覚えて⋮⋮いや三階だったっけ? まず
い待てよ、そもそも今回も俺はA組だったか? 確認をとってなか
ったぞと密かな危機に戦慄していると、救いの神がやってきた。
あしかが はやてる
﹁お、足利 速輝じゃねぇか! 今回も一緒のクラスだったな。ま
18
た一年間楽しもうぜ!﹂
と俺の背中を叩いた大柄な少年がいたのだ。﹁お、おお!﹂と手
を上げて答えながら瞬きを繰り返す。こいつの名前は何だったっけ
? 顔は見覚えがあるんだよなぁ。えーと、確かこいつは⋮⋮か、
香川だったかな。
あしかが
﹁おーい、足利に徳島。そこで固まってないで早く教室行こう﹂
そこにまたしても出現したクラスメートらしき少年の手招きに、
俺は健忘症かと疑われかねない窮地を救われた。しかし、香川では
なく徳島だったか⋮⋮、なぜか四国つながりで勘違いしていたよう
だ。だが、今度は俺達を手招きして呼んだ少年の名前で悩む羽目に
なった。
しかし、この状況はどうにもやりにくいな。記憶が明らかに混乱
しぼやけている。普通に生活する為にはちょっとクラスや学校周辺
といった生活に必要な知識のすり合わせが必要だな。
正直言って俺は小学校に通うのは問題ないとなめていた。いくら
真面目ではなかったとは言え大学生だった俺の頭脳は明らかに小学
生レベルを超えている。だからといって天才とでも間違われて学業
に時間を取られるのも面倒だ、できる限りサッカー以外では目立つ
まいと皮算用していたのだが、逆悪い意味で注目を浴びそうだ。
とりあえずこの場は、人懐っこいクラスメート達に感謝して自分
の教室まで後をつけるとしますか。
そして、彼らの無意識の案内によってようやく二階の左端にある
自分の教室である三年A組へ到着した。ああ、うんたどりつくとな
んか﹁三年の時はここだったなぁ﹂としっくりくる。
19
幸い出席番号順に並べられた席順が板書してあったので、自分の
席がどこだか戸惑うようなまねはせずにすんだ。俺の足利という名
字は名簿ではほとんど一番だし、歴史をかじった事のある日本人な
ら皆一発で覚えてくれるいい名前だと思う。これで俺の名前で﹁ア
シカが流行ってる∼﹂とかからかう馬鹿がいなければ最高なのだが。
まあ考え様によっては新学期の初日から第二の人生のスタートを
切れるのは幸運だったかもしれない。
もしこれが学期中だったりしたら、自分の教室や席で迷うなんて
かなり不審がられるだろう。皆もまだ新しいクラスと雰囲気に馴染
みきっていない探り合いの気配がある今こそが、疑われずに自分の
ポジションを確かめるチャンスだ。
顔なじみが同じクラスになったのを喜んでいるのか、特に女子が
集団になって声高に騒いでいる。そんなざわついた教室の中をゆっ
くりと見回すと、おぼろげに小学三年当時の記憶が蘇ってくる。あ
の頃の俺も文字通りガキだったんだよな⋮⋮いや今も肉体はガキな
んだが。
周りの風景がセピアがかったような懐かしさと、自分が全く成長
していないようなもどかしさという微妙にブレンドされた感慨にひ
たってぼんやりいると、ようやく担任の先生が現れた。
姿を見せた前回と同じ担任の先生の小太りで薄い頭にほっとする。
俺は小学校の先生達にはいい思い出しかないほどお世話になった
ので、もし違う先生が担任だったらと不安を持っていたのだ。
﹁ほらほらいい加減席に座って口を閉じて、鼻も閉じろ﹂
﹁せんせー、それじゃ息が出来なくて死んじゃうよー﹂
﹁おっとそいつは気づかなかったなぁ﹂
20
はははと笑うと一気にクラスの空気が柔らかくなる。うん、やっ
ぱこの先生は子供扱いが巧いわ。
﹁さてと、冗談はここまでにしておこうか。始業式が始まる前に急
いでまずは自己紹介から始めよう。知り合いが多いからって手を抜
かずに、自分の名前と好きな物ぐらいは言うようにな。じゃ、出席
番号の一番。まあ座席が廊下側になっている方からいってみよう﹂
先生の言葉に廊下側最前列の俺が立ち上がって自己紹介を始めた。
こいつはいい機会だと改めて気合を入れ直して、勢いよく起立す
ると深く息を吸い込む。
あしかが はやてる
﹁俺の名前は足利 速輝だ。嫌いな物は俺の名前をからかう奴で好
きな物はサッカー。趣味ももちろんサッカー。そして⋮⋮﹂
周りを見回して胸を張る。ここは決意表明しておくべきだろう。
﹁将来の夢は世界一のサッカー選手になることだ﹂
このぐらい宣言しなきゃ男じゃないよな。だから、クラスメート
からの﹁ちょっとアレだなぁ﹂というかわいそうな目で見られるの
も覚悟の上だった。これだけ言っておけば俺がサッカーに打ち込む
のも納得してくれるだろうし、努力怠ったら﹁口だけか﹂と馬鹿に
されるだろう。退路を断つという意味とやり直しの人生において他
人を気にせずやりとげるという俺なりの宣言だった。
﹁⋮⋮うん、まあ夢があってよろしい。皆も足利君が夢を叶えられ
るよう応援しようか。じゃ次の人﹂
木枯らしが吹きかけた雰囲気をフォローするように、次の自己紹
21
介を促す担任。うん、あんたやっぱり頼りになるぜ。
すでに立って喋っているのは後ろの席の奴に変わっているのに、
まだ俺は生暖かい視線を集めていた。
大丈夫、このぐらいの覚悟はしていた。と言うよりそんな事を気
にしていられる程器用ではないのだ。
前回の短すぎたサッカー人生のおかげで自分の才能は大体把握で
きてしまっている。世界のトップレベルと比較すると何もかもが不
足しているのだ。スピード・パワー・スタミナ・テクニックとどれ
も今から計画的に伸ばしていかなければ間に合わないだろう。唯一
アドバンテージを持っていると思えるのは前回から持ち越した精神
面、つまり経験や諦めの悪さなどといったアピールするには判りに
くい物ばかりである。自分が世界に通用するプレイヤーと認めさせ
るまでの道は長く、壁は高い。
他人を、ましてや小学生の子供を気にしていられる状況ではない
のだ。
﹁早く終われ﹂
口の中でそう呟く。学校が終わったらサッカークラブへ行ける。
もう一度サッカーが出来る。
学校は極力手を抜いて、サッカーに集中できる環境にしなければ
ならない。その為にはここで﹁こいつはサッカー馬鹿だ﹂と楔を打
ち込んでおくのは悪くない選択だろう。﹁だから早く終われ﹂もう
一度心の中でそう唱えた。
グラウンドには三年生の新入部員がたむろしていた。ちらちらと
22
お互いを伺い合うようなぎこちない雰囲気だ。だが集まっている皆
はサッカー好きだとお互いが理解してるせいか、新しいクラスより
はまだ連帯感がある。その分、﹁こいつらどのぐらいサッカー巧い
んだろうか?﹂という探るような空気も混ざっているのだが。
俺もその中にいるが、皆とおそろいの真新しいユニフォームとシ
ューズに身を包むと、つい口元が緩んでしまう。シューズはともか
くユニフォームの方は成長を見越してか、かなり大きめなのだが動
きに影響は無い。
新しい服でわくわくするなんて何年振りだろうか。俺の場合は事
情が複雑だから一概には言えないが、以前にこんなにやけ面になっ
たのもユニフォームにレギュラー番号がついた時以来だったはずだ。
本当にサッカー以外には彩に乏しかったんだな前回の俺って⋮⋮。
まあそんな些細な事を思い出したぐらいで、今の最高潮にまで上
がった俺の機嫌が落ちる訳もない。
もうすぐサッカーがプレイできるんだ⋮⋮。
ざわつきが大きくなったと感じた時、俺が加入したサッカークラ
ブの監督が姿を現した。どちらかというと細身でインドア派な見た
目で優しげな雰囲気を漂わせている。だがその外見と異なり中身は
したお
かなりの熱血漢だというのも後に発覚していたな。
だけどもよかった、ここでも前回と同じ下尾監督で。しかも、こ
の下尾監督は俺にサッカーの魅力を教えてくれた恩師とでも言うべ
き人物なのだ。もし会えなかったらショックは大きかっただろうか
らとりあえずここまでは一安心だな。
やはり
﹁みんなよく来てくれたな。うちの矢張サッカークラブへの入部歓
迎するぞ。
今日は軽いウォーミングアップをした後は、軽い練習試合をしよ
うか。上級生達と一緒にプレイしてサッカーを楽しもう。明るく・
23
楽しく・怪我無くプレイしてサッカーを好きになるのが今日の目標
だ。みんなこれから頑張ろうな!﹂
﹁はい!﹂
監督の歓迎の言葉に俺達新入部員全員の声が綺麗に揃った。
24
第三話 監督の目で見てみよう
﹁ほう⋮⋮﹂
下尾監督は感嘆の溜め息を吐いた。興味深そうに見つめる視線の
先は恒例の新入部員歓迎の練習試合だ。
様々な目的や練習効果を見込む試合と異なり、この歓迎試合は新
入部員にサッカーの楽しさを覚えさせる為の完全にお祭りのような
お遊びの試合である。
何しろ今日初めてボールを蹴る人間まで参加している試合なのだ。
基本的な蹴り方とルールは教えたとはいえ﹁蹴るときはこの足の内
側の土踏まずの所で蹴るとまっすぐ飛ぶぞ、そしてルールは手を使
わない・敵を蹴ったり叩いたりしないこと、それだけだ。じゃ、頑
張れー﹂という蹴り方はインサイドキックだけ、ルールはオフサイ
ド抜きといった子供でも理解しやすい簡易版だ。サッカーよりむし
ろ玉蹴りと言うべきで、これで試合らしき形になる方が不思議とも
言える。だが、
﹁ちゃんとしたサッカーになってるじゃないか﹂
これまでに監督した経験ではこの歓迎会サッカーでは、ピンボー
ルのようにあっち蹴りこっち蹴りと玉が派手に飛び交いそれを子供
達の集団が右往左往して追いかけるという物だった。
だが今年は少し様子が違っている。
その﹃違い﹄を生み出しているのはピッチの中央に立つまだ初々
しさの残る少年だった。少し長めのくせ毛に鋭い目つきの︱︱率直
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に表現するならぼさぼさ髪で目つきの悪い︱︱新入部員がゲームメ
イクをしているのだ。
他の少年達のようにボールを追いかけるのではない。常に上半身
を立てて周りへと視線を送りながら空いたスペースを埋め、ボール
を持つと逆サイドのフリーの味方へパスを回すといったつなぎを意
識した動きをしている。
それだけの試合慣れしたプレイをするのは今までに指導した子供
たちにもいた。最近の日本ではサッカーも普及し、小学三年ならば
すでにどこかでプレイ経験のある子供もいて当然なのだ。だが、や
はり経験はあるとは言っても子供でしかない。これまでの経験者は
ボールに慣れていてキックが上手い・視野が広いという所までだっ
た。
しかしながらこの新入部員はそれらの基礎的な技術を持ちながら、
加えてピッチの外から眺めている監督並みに的確な戦術的動きが出
来ている。ボールを追いかけるのではなく、ボールの方が自然と彼
を経由したがっているようだ。この年代でここまできちんとゲーム
の流れを作れる者に彼は出会ったことがなかった。
あしかが はやてる
﹁ふむ足利 速輝か⋮⋮﹂
手元の資料からその少年のデータを探す。だが彼の予想に反して
記されている情報が少なすぎた。
傍らで同じようにじっとピッチを観戦しているキャプテンに尋ね
る。
﹁おい、あの足利って奴は今までサッカー経験が無いって嘘だろ。
地元のユースとかであいつの噂聞いたことないか?﹂
﹁足利ですか?﹂
26
と下尾監督がいつも頼りにしているキャプテンは小首を傾げた。
その後合点がいったようにどこか面白そうに含み笑いを見せる。
﹁ユース関係では全く聞いたことのない名前ですが、今日ちょっと
話題にはなった名前ですね﹂
﹁ほう、なんかやらかしたのかあいつ﹂
視線は足利に釘付けのまま監督は尋ね返す。
﹁三年A組の足利ってやんちゃ坊主が﹁世界一のサッカー選手にな
る﹂と宣言したという話です﹂
﹁そりゃまた⋮⋮﹂
と監督も苦笑を隠せない。子供の微笑ましい夢なのだろうが、世界
と日本の現在のサッカーレベルの差を知る彼にとっては﹁まあ、頑
張れよ﹂としか答えられない。
だが、そんな身の程を知らないはずの少年のプレイを観察してい
るとだんだんと笑みが薄く真顔になっていく。
﹁おい、あいつ本当にサッカーの経験がないのかよ﹂
呆然としたように彼の口は半開きのままだ。
﹁ええ、多分⋮⋮﹂
キャプテンの言葉もどこか呆れた響きがある。
彼らの視線が焦点を結んでいるのは、パス一辺倒からいきなりド
リブルを始めるとマルセイユルーレットもどきの技で鮮やかに敵チ
ームの上級生を抜き去る足利の姿だった。新入部員のはずなのに的
確にボールの配給している足利が目障りになったのか、上級生の一
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人が激しく前からプレスをかけてきたのだ。気合の入りすぎた上級
生の形相に﹁いかん、熱くなりすぎだ﹂とホイッスルを吹いてでも
落ち着かせそうとした監督だった。だが足利は相手の勢いに怯む風
もなく、逆に相手を迎えるように踏み出すと足裏を使ってボールを
操り、くるりと体を入れ替わるように抜け出したのだ。
今年の世界最優秀選手にも選ばれた﹁フランスの新将軍﹂と呼ば
れる個性的な髪型の名MFの代名詞でもあるトリックだ。習得する
にも相応の時間がかかるはずで、どう考えても未経験者の使うテク
ニックではない。だが足利のルーレットはぎこちなさこそ残ってい
るが、ボールの動きに淀みはなかった。ディフェンスも驚いたのか
一瞬足が止まって足利に対するチェックが遅れてしまった。それだ
けの隙があればあの小僧には十分だ、素早く右足を振り抜くとボー
ルはキーパーが反応する間もなくゴールネットを揺らしていた。
︱︱こいつは!
思いがけない素材を発見したと監督はつばを飲み込んで唇を舐め
た。なぜ未経験者だと言い張っているのかは不明だが、年齢に比し
て高すぎるほどのテクニックを持っている。今の時点でこれほどだ
とどこまで伸びるのかちょっと想像がつかない。もしかしたら﹁世
界最高の選手を目指す﹂ってのも本人はあながち冗談のつもりはな
かったのかもしれん。
気がつけば自分に鳥肌が立ち、冷たい汗が背筋を伝っていた。
足利 速輝か。どんな事情があるのかは判らんが、お前を歓迎し
ようじゃないか。冗談でも世界一を目指すと言ったんだ、生半可な
覚悟でその夢を叶えられると思ってないだろうが、サッカーの厳し
さと楽しさをお前に叩き込んでやろう。
審判役の上級生がやや遅れて笛を吹いて得点を認めると、ガッツ
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ポーズをとっていた足利がこっちを向いた。おそらく監督の反応を
確認しているのだろう。こっちも親指を立てて答えると足利のきつ
めの顔がほころんだ。笑顔になって彼が年相応の無邪気な表情にな
ると監督もほっとする。なぜか彼のプレイを見ているとどうも大人
っぽく感じてしょうがないのだ。勿論、外見からして小学三年の新
入部員であるのは間違いないのだが。
ともあれ、有望な新人が加入したのは嬉しい誤算だとしても他の
新入部員のチェックも必要だ。監督は残りの試合時間を他の選手の
観察に費やすることにしたつもりだがどうしても足利に注目せざる
を得なかった。これには前言を翻すのかと監督を責めるのは酷かも
しれない。なぜならゲームをしていると自然に足利の所へとボール
が集中してしまうのだ。
さっきのようなドリブル突破などの個人技は影を潜めているが、
ゲームメイカーとしてパスを正確に左右に配る足利は味方からの信
頼をもうとりつけたのかボールを奪取するとすぐに預けられる。さ
らに敵が攻めて来た時もボールホルダーではなくむしろ空いたスペ
ースをケアしているのだが、それがまた相手も連携が拙くまだパス
が不正確の為に面白いようにカットしている。まるで彼がボールを
追いかけるのではなく、ボールが彼に呼ばれ自ら寄って行くような
印象さえ受ける。
あの小僧を無視しようって方がよほど不自然な観戦になるか。
そう自分に言い訳して、足利のプレイを分析する事にした。
改めてこのニューカマーを眺めていると、意外なことに身体能力
においてはさほど突出していない事に気がついた。この年代の優れ
たプレイヤーにありがちな典型の一つとしては、周囲と比較して圧
倒的なポテンシャルの肉体を持っている場合も多い。例えば千五百
メートルを走るだけでも、同じようにしているはずなのにいつの間
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にか他の選手を周回遅れにしてしまう。そんな破格の素質を持った
選手もいるのだ。﹁ナチュラル﹂とか﹁ギフテッド﹂とか呼ばれる
類のアスリートだが足利はその範疇には入っていない。
足利という選手の特筆すべき点は技術とサッカーIQにあるよう
だな。
まあ、肉体面ではこれからの成長期に期待するとしてどこまで成
長するか楽しみな奴だ。
監督はこみ上げる笑みを押し隠すと、試合終了のホイッスルを吹
き鳴らした。
30
第四話 歓迎試合をやってみよう
試合開始のホイッスルを待ちわびながら、俺は心臓の鼓動がどん
どんとテンポアップしていくのを抑えられずにいた。
手足も勝手に踊り出しそうになっているが、ようやくサッカーが
できるんだ、少しぐらい舞い上がっても問題ないよな? 今朝目を覚まして足が動くようになったのを確認してから、ラン
ニングや試合前の軽いボールに慣れる練習はしたのだが、やはりサ
ッカーは試合をしてナンボだろう。試合が一番楽しいからこそきつ
いトレーニングにも耐えられるんだ。
その楽しい楽しい試合から遠ざかって、諦めて、挫折していた俺
がもう一度サッカーをプレイできるのだ。歓迎の為の試合でこれが
お遊びの様なものだとかは関係ない、相手がほとんど初心者とかも
全然気にならない。
自分がピッチに立てるだけで湧き上がってくる幸せを俺は心の底
から噛みしめていた。
笛が吹かれると、味方のメンバーがわっとばかりにボールに群が
った。いや、それは相手チームも同様でボールはおしくらまんじゅ
うの中心にあるような状態だ。
さすがにあの中には突っ込めないなぁ⋮⋮、と足を止めたのが俺
と数人の先輩だ。両チームに分けられたサッカー経験者は、集団に
加わろうとはせずにちゃんとポジションを守ってバランスを保とう
としているようだ。
では俺も以前に自分のやっていたポジションである攻撃的MFの
位置につくか。勝手に全開で走り出そうとする足の手綱をしぼりな
31
がらセンターサークルを目指す。幸いにもこの試合に関しては技術
的な心配はほとんどない。さっきの足慣らし程度のボール練習にお
いて自分のテクニックがさび付いていないのを確認できたからだ。
自転車に乗るコツを覚えたらブランクがあってもすぐにまた乗れる
ようになるのと同様に、俺のボールを扱うコツもまたすぐに蘇って
きたのだ。全盛期とまではいかないが、基礎的なプレイに関しては
ミスする不安はない。
俺がピッチの中央付近に軽いジョグで体をほぐしながら移動して
いると、妙な眩暈じみたものを感じた。つい先程まで浮かれっぱな
しだっただけに衝撃は大きくかなり動揺して足取りが一瞬みだれた。
ヤバい、過去に戻った後遺症でもあったのかと内心青ざめて周りに
ばれないよう体調をチェックするが、異常があるのは三半規管のみ
なのか平衡感覚がおかしくなっているだけで他に肉体的な不調は発
見できない。
監督などに不審に思われない様に顔を伏せ、目をつぶって感覚を
戻そうと深呼吸する。だが、その眩暈のような症状は強くなる一方
だった。無視するのは不可能と諦めて、僅かに体が揺れているよう
な感覚に自分から集中してみた。
すると頭の中にピッチが上から︱︱まるで将棋や囲碁の盤を見下
ろす様な映像が捉えられたのだ。鳥が上空からのカメラで映したよ
うに自分を含めたプレイヤーがどこにいるのか把握できる。
目で見る視界とは別に脳裏にディスプレイがあって、そこでピッ
チ上の敵味方のプレイヤー情報を判りやすく駒の形で表現されてい
る。
これは︱︱おぼろげだが記憶に残っているどこかの名選手が語っ
ていた﹁好調な時にはピッチを鳥の様に上から眺めている﹂状態な
のか?
聞いた時はオカルトじみた話だと切り捨てていたが、すでにこの
32
身はもっと不可思議な現象を実体験しているのだ。別に鳥のような
天からの視点を持ってもおかしくはないだろう。それに実際のピッ
チの中からと観客席にテレビから同じぐらいの比率でサッカーを眺
めていた、再起不能になってもサッカーから離れようとしなかった
恩恵なのかもしれないな。そんな都合のいい思考に捕らわれていた
のだが体は自然とこの場に最適な行動をとっていたようだ、ちょう
どのタイミングで密集地帯からボールが飛び出してきたのに誰より
早く反応できた。
これも盤上の駒の配置から棋士が勝負のポイントを読みとるよう
に、俺の﹁鳥の目﹂がルーズボールを奪うのに有効なスペースを教
えてくれていたからだ。
転がり込んできたボールをしっかりとトラップして、笑みを抑え
きれない顔を上げる。うん上体を起こして視界が広くなると、この
鳥の目の有効範囲も広がるようだ。さっきまでは自分の周囲十メー
トルほどの選手を認識するのが精いっぱいだったのが、ルックアッ
プするだけで俺が感じ取れる間合いが倍に広がっている。
首をせわしなく巡らすとさらに俺が知覚できる範囲はピッチ全面
にまで及んだ。そこまで確認するとボールをサイドに開いているフ
リーの味方へと渡す。うん、試合での初キックは澄んだ音を立てて
相手にピタリと合った。
﹁へへへ⋮⋮﹂
俺は足から伝わる感触に思いっきり痺れていた。もちろん、痛か
ったとかじゃなく自分の足でボールを蹴るのがどれほど快感だった
のか思い出していたのだ。そう、綺麗にボールを蹴れたそれだけで
こんなにも胸が湧き立つのだ。これが本当の試合だったら、もっと
重要な大会だったら、ゴールを決めたら⋮⋮その為にも今から頑張
らねばならない。
33
とりあえず鳥の目をなんで手に入れたかは置いておこう。もしか
して今目覚めた訳じゃなく、前世の俺が取得した技能という可能性
も捨てきれないからな。ただ使う前にリタイヤしたせいでようやく
出番がきたとか、知らないだけで世界の一流選手は皆がこのぐらい
の鳥並の視界をもっているといった事さえ考えられる。
だからこの歓迎試合の間だけは儲け物と考えて活用だけすればい
い。
自分の持った力に対しそう気を取り直す。
精神的再建を果たした俺が改めて戦況を分析すると、固まってボ
ールを追いかけている集団と広がってポジションどりをしている選
手の半々ぐらいだった。ボールを追いかけているのは初心者達で勢
いはあるがあまり有効な動きは出来ていない、そのため俺にとって
問題となるのはそれ以外の経験者達だ。
今更追いかけっこするのはごめんだとすると、それ以外で一味違
ったプレイをして監督などにアピールしなければならない。
そう考えた俺は少し位置を下げ、ボランチとして攻守のつなぎ役
をアピールすることにした。なぜならばそれが最も俺の持つ﹁鳥の
目﹂を生かすポジションだと判断したからだ。以前にプレイしてい
た攻撃的MFより一列下がった位置だが、この試合のレベルではさ
ほど違和感はない。
というよりも今日の歓迎試合ではこなすだけならば、ゴールキー
パーを除くどのポジションでも出来そうだ。
またもこぼれてきたボールを味方に配給しながらそう口の中で呟
く。自信過剰かもしれないが、浮かれているだけではなく第三者的
にも間違いないだろう。
自負を裏付けるようにまたボールが俺をめがけてやってくる。
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今度は転がって来たんじゃなく、味方DFからのパスである。D
Fの上級生がよこすってことは少しは信頼を獲得できたのだろう、
その信頼を裏切らないようにしっかりと左足でトラップして前線の
FWへ丁寧なロングボールを送る。よし、今度も気持ちいいくらい
狙いどおりにコントロールされたパスが通った。
くくく、絶好調だ。いくら相手が初心者ばかりとは言え自分の考
えた通りに試合展開が流れていくのだ。ルーズボールをいち早く拾
い、わざと空けたスペースへ誘導してパスカットをし、手元にある
ボールを常にフリーの味方へと捌いていく。上級生も俺を初心者と
は思ってないようだが、やはり歓迎試合ということもあってか無理
に削ってはこない。そんなにもぬるい状況下ならば俺にとってはこ
の歓迎のゲームはイージーモードでしかない。まだ初心者の子供相
手に我ながら大人げない無双をしている内に、よりいっそうボール
が足に馴染んでくるのだ。
トラップする度に柔らかくボールを受け止められるようになって
いく。キックする毎に狙いが正確になっていく。
自分が一分刻みで成長する実感に俺は鳥肌を立てていた。
またパスをもらうと﹁鳥の目﹂によってフリーの味方を探る。こ
の一連の思考操作もだんだんとスムーズになってきた。
ふむ、前線にパスを通しすぎたせいかFWらしきポジションにい
る味方には全てマークがついている。スルーパスを通そうにもまだ
ディフェンスの裏のスペースに走り込むなんて芸当は期待できない。
ならば⋮⋮。
俺がしばしボールをキープしているのに業を煮やしたのか、上級
生がつっかけてくる。
なかなかのスピードだがまだ今の俺でも十分に対処できるレベル
だ。ちょっと実践練習しようと間合いを完全につめられる前に、こ
35
っちのタイミングで迎えに行く。新入部員と侮っていたのか、急に
前に出た俺に﹁あれ?﹂って表情で慌ててブレーキをかける上級生。
そのバランスが崩れたままの相手を誘うようにボールを押し出すと
見せかけて足裏でコントロールし、つんのめった相手と入れ替わる
ように一回転して前を向く。
︱︱よし、久しぶりに成功したぞ。マルセイユ・ルーレット!
往年の名選手︱︱あれ? 今の時代ではまだ現役なのか? ︱︱
とにかく俺の好きなフランスの司令塔の得意技だ。何度も練習した
のだが試合で成功したのは数えるほどで、今日ほど完璧に敵を抜け
たのは初めてだ。
ここまで簡単に抜かれるとは想像していなかったのか、相対する
上級生をかわすとディフェンスのフォローが誰も来ない。まあ、来
ないなら行ける所までいっちゃうよ。
ペナルティエリア付近で完全にフリーになった俺は、ようやく駆
けつけてきた敵ディフェンスを尻目に丁寧にゴール左隅へと流し込
んだ。
︱︱げ、危ねー。どフリーでよく狙ったはずなのにゴールポスト
かすめてたな。相変わらずシュートは下手だな俺って。ま、まあと
にかく初得点だ!
﹁お前やるなー!﹂﹁凄ぇよ﹂﹁ナイスシュート﹂
﹁ありがとう!﹂
駆けよってきた急造チームメイトに背中を叩かれ、ハイタッチを
交わす。いてて、手のひらも真っ赤だし背中にも紅葉が幾重にもつ
いているぞ。叩かれた跡が結構痛いのに頬の緩みが押さえきれない、
今の俺は自覚できるぐらいニヤケきっている。
それにしても、この試合で一つだけ改めて確信できた。
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俺、本当に馬鹿みたいにサッカーが好きなんだなぁ。
37
第五話 早朝練習を頑張ろう
﹁行って来まーす!﹂
﹁車に気をつけなさいよー﹂
母と最近恒例となった朝の挨拶を交わして道路に出ると、左右を
確認しジョギングを始める。ちなみに俺の格好は汚れてもいいよう
に上下とも紺のジャージで、背中にしょったリュックにはタオルや
ドリンクが入っている。いささかおしゃれではないが、すぐ汗と土
だらけになるのにあまり神経質になっても仕方がない。ちなみに俺
がちょこんと手にぶら下げた網にはサッカーボールがちゃんと入っ
ている。
こんな早朝から何をするのかというと、うちのサッカークラブに
は朝練がないのでその分をカバーする為に自主的に登校前のトレー
ニングを実施しているのだ。
ゆっくりとしたペースでトレーニング場所にしている公園を目指
す。朝早くに人が少ない公園を探すと、近くの公園はすでに愛犬家
やゲートボールの集団に占拠されていた。そこで、ちょっと離れた
地区だが希望通りの物が見つかった為にそこを根城にしているのだ。
自宅からの距離のマイナス点はジョギングにぴったりの長さだと目
をつぶっている。本当はランニングをするだけなら新聞配達のバイ
トでもすればいいのかもしれないが、まだ小学三年生で毎日やれる
のか疑問に思われたのと他のトレーニングが出来なくなるデメリッ
トから自主練習の方を選んだのだ。
呼吸が乱れない程度ののんびりとしたスピードで、早朝の新鮮な
空気の中約十分走ると目的の公園へ到着だ。すぐには止まらずに公
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園の外周を一周してから柔軟運動に移る。九歳という年齢では無理
なウエイトトレーニングをすると成長を阻害する恐れがあるため、
俺はこの柔軟体操を重視している。関節の可動域が広がればプレイ
の幅が広がるのは勿論、怪我をしにくくなるのが一番の目的だ。俺
はトレーニングをするようになってからウォーミングアップとクー
ルダウンはしつこいぐらいにやるようになった。以前の怪我の軽い
トラウマかもしれないが、これは良い方向へのものだろう。
ジョギングでほてった体を冷まさない様に手早く関節を伸ばす体
操をする。柔軟の時は無理に呼吸を止めたり、勢いをつけたりする
のはご法度である。相撲で新弟子が又割の時にやるという、一気に
関節を広げるのは実は結構リスクが高いのだ。
﹁それに俺って横綱目指すほど太ってないし﹂
誰にともなく自分のスタイルの良さを強く自己主張しながら額の
汗をぬぐう。真剣にすると柔軟だけでも結構な運動量になるのだ、
春の陽気ではすぐに汗が吹き出してしまう。しかしながら柔軟体操
もやってみると意外と奥が深いな。うむ、そのせいかまた昨日より
も少し体が柔らかくなった気がするぞ。
いくらなんでも効果の出るのが早すぎる? 思いこみだと? 構
わない。こういうのは思いこみでもなんでも﹁そう信じた﹂方が効
果がアップするのだ。鰯の頭も信心からの格言もメンタル的には全
くその通りなのだ。
だから俺は何度も心の中で繰り返す﹁凄いぞ、俺は昨日よりまた
成長している﹂と。あ、これ口に出したら周りからなま暖かい視線
を浴びるから真似するなら注意しろよ。
一通りウォーミングアップを済ませると、ハンドタオルで顔を拭
いてスポーツドリンクを一口味わう。どうして運動したらスポーツ
ドリンクって甘くなるんだろう。そんな飲む度に頭をよぎる疑問を
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スルーして、お待ちかねのサッカーボールを網から出す。本当はこ
こまでもドリブルして来たかったのだが、交通ルールを守れと母に
叱られたので手提げの網で運んできたのだ。
ボールを爪先で軽くリフティングするとつい口元がにやける。こ
の前の練習中に同級生に指摘されて初めて気がついたのだが、俺は
ボールを扱っているときにいつも﹁にひっ﹂という感じの笑いを浮
かべているそうだ。気持ち悪いからその癖直してくれと言われたの
で現在鋭意修正中である。夢が叶ってプロになった時、テレビに映
る試合中の姿が常ににやけているんじゃ悲しいもんな。
そんな顔を引き締める努力が必要なほどにボールを蹴るのは楽し
い。そしてこれからがその大好きなボールを使ったトレーニングだ。
クラブの練習は専らミニゲームと連携などの実戦練習が主なので、
個人技術を高めるのはこんな風に自主的にやらねばならない。
俺はリフティングしていたボールを足下に落とすと、習慣にしよ
うと決めている練習を始めた。
公園にある低い鉄棒と平行にドリブルを開始する。
まず一つ目の鉄棒の支柱である棒に向かって右で軽くボールを蹴
る。上手くまっすぐ返ってくると鉄棒とすぐにまた平行に移動して
左で次の支柱へパスする。今度は狙いがずれたのかあさっての方向
へ反射した。舌打ちしてボールを追いかけるとまた次の支柱へとキ
ックする。
支柱は細い上に丸いので正確にボールを蹴らないと、どこへ跳ね
返るのか判らない。それをドリブルしながら、途中で右・左・イン
サイド・アウトサイドと交互に狙っていくのだ。キックが僅かでも
ずれるとそれが数倍のズレたボールになってはっきりと表れてしま
う。基礎を磨くにはいい練習だとやり始めた時は自画自賛したが、
未だにきっちりと足元に戻ってくるケースは二割を切っている。
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難易度が高かったかもしれないのだが、今更メニューを変えるの
も何か負けたような気がするので嫌なのだ。今は半ば意地になって
﹁いつかはこの八連棒をクリアしてみせる﹂となんか格闘漫画の試
練のように思って練習している。
他にも色々とあるのだが、それらの基礎的な訓練を一人で黙々と
こなすのが俺は嫌いではなかった。いやもちろん試合なんかの方が
血湧き肉躍るのは間違いないのだが、孤独にボールを蹴っているだ
けでも充分に楽しいのだ。単純なゲームでハイスコアを目指してい
る感覚のようで、リフティングや目標をボールで狙い続けるような
練習などは時間を忘れて没頭してしまう。
だからいつまでもやめ時が見つからない︱︱とちょうど腕時計が
金属的な音色のアラームを鳴らした。
母曰く﹁あんたサッカーしてるとそれで一日潰しちゃうから、こ
れ着けてなさい﹂と渡された腕時計が、今日の朝練はこれまでです
と告げていた。
﹁ふー﹂
天を仰いで深く息を吐き、また大きく朝の冷えた酸素を吸い込む。
それだけで小さな肉体の芯に溜まっていたトレーニングの疲労の淀
みが軽くなっていくのが実感できる。子供の体って自分でも驚くほ
ど回復と成長が早いんだよな。もちろんこれも子供時代を通り過ぎ
てから普通は気がつくことなんだろうが、俺にはその恩恵が身にし
みて判っている。
日々自分の体が成長していくのをリアルタイムで実体験すると、
まるでゲームのキャラクターが簡単にレベルアップするのを彷彿と
させる。俺の感覚では翌日に寝込むほどくたくたになった状態で眠
っても、次の朝目が覚めるともう全快どころか昨日以上にエネルギ
ーが貯まっているのだ。
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そんなスピードで成長しているのは身体能力だけでなく、サッカ
ーのテクニックに関しても同様だ。ちなみにちょうど今の俺の年代
の九歳から十二歳までを﹁ゴールデンエイジ﹂と呼んでいるそうだ。
この期間は神経系が発達するために、技術面では一番覚えが早いら
しい。
やり直しに気が付いた直後は漫画によくあるリスクの高い特訓を
してでもパワーアップ出来ないかとも考えはしたのだが、自分の成
長速度にちょっと考えを改めた。健康でありさえすれば子供の成長
って皆チートじみているのではないかと。であるならギャンブル度
が高い無茶な訓練はする必要がないと判断したのだ。その成長にお
けるボーナスタイムであるゴールデンエイジを上手く利した人間に
は、この年代を利用しなかった者と比較して大きなアドバンテージ
が与えられている。
実際に身体能力が優れた人間が十代後半からサッカーに転向した
として、アスリート的な能力を生かした﹁凄い﹂選手にはなれるか
もしれないが、﹁サッカーが上手い﹂選手になるのはほぼ不可能な
のではないのだろうか。例外があるとはいえ、それが過言ではない
ぐらいこの年代における神経系の発達は技術面の上昇と密接な関係
があるのだ。ちょうどその期間の入り口から自覚を持ってトレーニ
ングを始められる俺は本当に幸運だと思う。そのラッキーに恥じな
い様に頑張らなければいけないよな。
まあ、それはともかく朝の個人練習はこれまでだ。やれるならば
学校をさぼってでも一日中でもサッカーをしていたいのだが、やは
り両親にあまり心配をかける訳にもいかない。前回の人生で親不孝
ばかりしていたので、親に迷惑をかけるのが若干トラウマになって
しまった。そこで今の俺は、サッカー関連の譲れない部分以外は親
に譲歩しているのだ。おかげで両親とも﹁三年生になったら急に聞
42
き分けがよくなった﹂と関係は良好だ。
もちろん学校の成績も急激にアップしたのだが、それも﹁サッカ
ーをしているおかげで集中力がついた﹂からだと吹き込んでいるの
でサッカーにのめり込むのも賛成してくれている。
とりあえずここまでの生活は計画通りの順風満帆と言ってもいい
だろう。
道具をリュックにしまい、ボールをネットに入れて家路へと急ぐ。
朝食は一日の基本である。食べ逃すなど絶対に許されない。もち
ろん偏食などはもっての外だ! 納豆以外の全ての食物は差別せず
においしくいただくべきである。ふふふ、味覚が大人のままで良か
ったぜ。子供の舌のままならばピーマンなんかは苦く感じられるの
だろうが、経験が﹁ピーマンは苦さがおいしい﹂と教えてくれてい
るので苦さが気にならないのだ。食べ物は舌ではなく脳で味わって
いるってのは本当だぞ。
ちなみに朝食にこだわっているは俺の食い意地が張っているから
ではなく、成長期における食事の重要性と運動直後の栄養補給のメ
リットを知っているからだ。決して飯ウマの母に餌付けされたわけ
ではない! ⋮⋮たぶん。
ま、まあともかく家に帰れば腕自慢の母の朝食にプラスしてヨー
グルトと野菜ジュースが待っている。これも俺が頼んだもので﹁栄
養のバランスは考えて作っている﹂としぶる母に頼み込んだものだ。
野菜ジュースはそのままサラダにして取るのに比べると栄養が低下
するとか言う人もいるみたいだが、何こういうのは気持ちの問題だ。
体にいいと思いこんで飲めば実際にプラシーボ効果も加わって効く
のだ。ヨーグルトはまあ、その俺の好みってだけだが。で、でもお
いしいよね、ヨーグルト? みんなも食べ物を粗末にせず、乳酸菌
もちゃんととろうぜ! ⋮⋮ただ納豆だけは勘弁してくれよ⋮⋮
43
第六話 弱点について悩んでみよう
トレーニングと誰へ向けたのか不明な乳酸菌のコマーシャル、さ
らに納豆を食卓から撲滅しようキャンペーンを脳内で終えて一旦帰
宅する。
帰路もクールダウンも兼ねたジョギングなのだが、いくらゆった
りとしたスピードとはいえその最中に体力がぐんぐん回復するのは
自分でも驚くほどだ。
いや本当に呼吸するたび体中に酸素が送られ、心臓が鼓動するた
びに蓄積された乳酸が分解されて足取りが軽くなっていくのが実感
できるのだ。
おそらく俺の現在の体はバッテリーが小さい為に長時間は持たな
いが、充電も素早くできるという事だろう。
軽快なペースで足を運んでいるからと頭をからっぽにするわけで
もなく、今までに色々試して分析した現在の自分の能力について思
いを巡らせる。
前述したように俺の走力で考えればサッカーでも長いダッシュを
繰り返すポジションより、短めのダッシュを小刻みにするポジショ
ンが適任のはずだ。
他に俺のストロングポイントとなるのは﹁鳥の目﹂だが、これも
やはりピッチの中央付近でこそ輝くスキルだろう。スペースの見つ
け方やマークの有無など攻撃時にパスを出すにも守る時パスカット
で止めるにも役に立つ。サイドではドリブル突破とクロスの精度が
必須だが、これらの技術には﹁鳥の目﹂はさほど役に立たないのだ。
そしてDFは俺の体格では無理だ。サッカー選手としては日本人
の中でも小柄な俺は海外の屈強なFWと競り合ったら吹っ飛ばされ
てしまう。FWは鳥の目を使えばDFとの駆け引きには有利だろう
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が、俺の抱えている欠点からするとまず不可能だ。
うん、俺にあったポジションはMFしかも攻撃的とも防御的とも
いえないニュートラルな位置のセントラルMFが一番だ。
やり直す前は十番をしょって花形である攻撃的MFを担当したこ
ともあったが、その当時ですら自分に根本的な欠陥があるのには気
が付いていたんだよ。
それは攻撃を主とする選手においてあるいは最も必要とされる資
質かもしれない。それが俺には備わっていなかったのだ、だから今
回もFWを目指すのは無謀だと諦めたのだった。
いや、俺の事情を抜きにしても日本人では持っている選手の方が
貴重だろう。その資質とはつまり︱︱決定力だ。 サッカーにおける決定力というのは人によって定義が色々あるだ
ろうが、俺にとっては﹁決めて当たり前の場面できっちりと決める﹂
ことができる選手を決定力がある選手と認識している。
もっと簡単に言うと﹁キーパーと一対一で外さない奴﹂の事だ。
どんなにボール扱いの上手い選手でも一対一に強いかはまた別の
問題である。ゴールを決められるというのは野球で言えばホームラ
ンを打てる、ボクシングであればKOできる、そういった上手さと
は別な所にある特別な能力なのだ。だからこそその能力が高い者は、
絶対数が少ないがゆえに希少種のエースストライカーとして世界で
も引く手あまたな選手になるのだ。
だが、俺にはそのセンスが決定的に欠けていた。新入生歓迎の試
合では上手く点を取れたが、あのようにフリーで時間的余裕もある
場面でなければ俺のシュート成功率は激減する。
ギリッと歯を食いしばりかけて慌てて顎の力を抜く、せっかく歯
磨きなど毎日入念にして虫歯予防をしているのにこんな所で歯が欠
けてしまっては意味がない。
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だが無意識に歯ぎしりをするほど悔しいのも事実だ。俺はドリブ
ルが上手い、パスだって正確だ、ボールのコントロールにおいては
上級生でさえ及ばない。︱︱シュートを除けば。
原因不明なのだが俺はペナルティエリアでのシュート枠内率が悪
い、そりゃもう頭を抱えたくなるほどに。
精神的な問題か技術的に欠陥があるのか判らないが、監督が何も
言わないってことは簡単なアドバイス程度で克服できる問題ではな
いのだろう。これはもはや前世からの俺の欠点を引き継いでしまっ
ている、ある意味呪いと考えた方がいいのかもしれない。
日本人が海外で活躍したかのバロメーターの一つが﹁何点とった
か﹂であることを考えると、サッカー選手としてかなり致命的に近
い欠点である。でもどーしようもねーんだよ! シュート練習では
上手くいっても実践するとなるとまるで駄目なんだよ。いや、諦め
たらそこで終わりってのも理解しているが不得意な分野にこだわり
続けるのも不毛だよな。短所を長所でカバーできる方法を考えれば
いいだけさ!
その方法は⋮⋮現在模索中である、早くいいアイデアが出ればい
いのだが。
この時の俺はそんな簡単に決定力を上げる方法があるのならば、
サッカー界から決定力不足という単語が消滅しているはずだという
事実はできるだけ考えないようにしていた。
だって、ほら考えると落ち込むだけじゃん。これは現実逃避では
なく前向きな戦略的撤退だとやや意味不明に自分に対して言い聞か
せ家路を急いだ。
いつもながら朝練をこなしてたっぷりとした朝食をとった後の授
業は﹁眠りの呪文﹂に抵抗しているような感覚になる。だがここで
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睡魔にやすやすと敗北するわけにはいかない。
意外に思われるかもしれないが、俺はいつも授業中の態度だけは
真面目にしているからだ。
サッカーに集中したいのは山々だが、成績優秀な生徒の評価をも
らっておくと色々と便利だと経験から学んでいるのである。
時々先生方から﹁足利の成績は三年になって急に上がったな、何
か特別な勉強でもしているのか?﹂と尋ねられるが全部﹁サッカー
していると集中力がついた﹂と誤魔化している。
体育でも﹁三年になって体力が上がったな﹂﹁サッカーをしてる
から﹂、国語においても﹁三年になって読解力が上がったな﹂﹁作
家を知ってるから﹂とどこかズレていようともサッカー万能説で押
し通している。
さすがに﹁頭脳は大人だから、小学校クラスの問題は余裕っす﹂
と答える訳にはいかないしな。
俺にとってはまさしく義務でしかない授業を終えると、お待ちか
ねのサッカーのお時間だ。
俺だけでなく入部した皆が楽しみにしている秘密は、うちのサッ
カークラブの練習はやたらと試合形式の練習が多いせいだろう。
勿論練習前後にはランニングや柔軟を兼ねたストレッチ、個人練
習もやるのだが練習の中心をなすのは必ずミニゲームだ。
これは下尾監督曰く、
﹁試合で必要なものは試合でしか身につかない。試合で自分に必要
なものを発見して個人練習でそれを手に入れろ。今の自分に何が出
来るのか、また何が必要か常に念頭に置いてプレイしろ。そうすれ
ばお前たちは一ゲームごとに成長できる。
それになによりゲームを通じてサッカーを好きになれ。好きこそ
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ものの上手なれという格言通りにサッカーを楽しめない奴はそれ以
上うまくなれねーぞ﹂
との方針によりミニゲームは毎日行われているのだ。精神年齢が
異なる俺が認めるのは場違いかもしれないが、確かに子供が毎日ゲ
ームをやってればそりゃサッカー好きになるわな。この放任主義と
いうかサッカーは楽しむものという信条を持った監督だからこそ、
未来の俺を含めたこのクラブのみんなは現役を離れてもサッカーを
嫌うことができなかったのだ。
﹁では来週の練習試合のスターティングメンバ︱を発表するぞー。
今回は新入部員が参加してから初めての対外試合だけど、いつもの
練習と同じで勝負を楽しみながらも怪我しないよう気を付ける事。
あと練習試合だからスタメンに入らなくても八人までは交代させ
るから、メンバー落ちしたからといって気を抜いたりしないように
なー﹂
練習終わりの下尾監督の言葉に思わず息を止めて唾を飲み込む。
前回はこの時期どころか三年生時に俺が試合に出場したことは無か
った。ぽつぽつ出番があったのは四年から、レギュラーになったの
は五年である。
だが今回は違う。違うはずだ。違わなければならない。
前回を超える為に技術を高めて歓迎試合やミニゲームで監督にア
ピールし続けたんだ、それが実を結ばないはずがない。自分に言い
聞かせじっと耳をすます。
﹁⋮⋮で最後にゴールキーパーの山本だ﹂
自分の名が呼ばれなかった事にため息がもれ膝の力は抜けるのに、
掌は爪が食い込むほど握りしめられた。あれだけやってもスタメン
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入りは無理だったのか⋮⋮。俺ってサッカーの才能がないのかな、
もしかしたら何度繰り返しても無駄なんじゃとネガティブ方面に落
ち込みそうだったが監督の一声が救った。
﹁普通は新入部員は対外試合には出さないんだが、今回は何人かベ
ンチに入れておいた。展開次第だが優先的に交代させて出場させる
つもりだから気合入れとけよ﹂
と自意識過剰かもしれないが監督は俺の目を見て言い聞かせてい
るようだった。
﹁三年の足利と香川に山形お前たちもベンチ入りだ、初めての試合
だがプレッシャーに負けずに楽しんでくるんだぞ。でも楽しみにし
すぎて徹夜で体調不良なんかにならないようにな、そんなお調子者
も以前いたがもちろん試合に出すどころか家に帰らせたからな﹂
﹁はい!﹂
俺と名前を呼ばれた同級生が声を揃えて返答する。
よし! 前回は初めての対外試合はピッチの外から観戦と応援す
るだけだったが、今回はベンチ入りできた。しかも途中出場とはい
え実戦デビューできそうな監督の口ぶりだ。
さっきまでの﹁俺って何回やっても駄目駄目かも﹂といった折れ
かけた心が一気に浮上する。
明らかに前回と歴史が変わったとか俺の行動によるバタフライ効
果なんて、その時の頭には何一つ浮かばなかった。
ただ一つだけの事柄に心は占められていたのだ︱︱俺は間違いな
くサッカーが上手くなっている︱︱そのシンプルな喜びだけしか感
じていなかったのだ。
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第七話 練習試合で頑張ろう
俺はうずうずとした体を持て余すように短いが激しいダッシュを
繰り返した。ユニフォームの背中に背負った三十九という補欠の番
号が汗でうっすら湿るほど体は温まっている。
噛みつきそうな視線は前半終了まではピッチに釘づけだったが、
お互い無失点のまま後半に入ってからは﹁俺の出番はまだですか?﹂
とちらちらと監督に注がれている。
あまりみっともいい格好ではないかもしれないが、これも一応は
計算の内だ。大人がやるとあざといかもしれないがこの年代の少年
ならばまだ許容される仕草だろう。この際、お前の精神年齢は幾つ
だよって突っ込みは無しにしてくれ。
試合はこちらがサイドからクロスを上げては跳ね返され、相手が
カウンターを狙うといった展開のまま硬直していた。どちらも決め
手がないのか少し中だるみしているように感じられる⋮⋮なら俺を
出したらどうですかね監督さん? 残り時間がもう十分を切ると俺からの熱い思いを感じ取ったのか、
下尾監督はどこかうっとうしげな顔でこっちに振り向いて頬を人差
し指でボリボリかくとその指で﹁足利と⋮⋮そうだな三年生はみん
なこっち来い﹂招き寄せた。
﹁足利、お前は出たくてしょうがなさそうだから出してやるが、ボ
ランチで中盤でバランスをとる役目だからな。目立とうとして前に
出すぎるなよ。マークの受け渡しなんかはキャプテンの指示に従っ
ておけ。後両チームとも足が止まっている時間帯だからフレッシュ
なお前が活躍するチャンスは十分ある。そしてなにより⋮⋮思い切
り初めての試合を楽しんでこい!﹂
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と背中を軽く叩かれた。触れられた部位が熱い、いや熱を持って
いるのは俺の体の方だ。
監督が他の三年生にも色々と指示を出しているのが耳に入らない
ほど俺は高揚していた。
次のボールデッドで俺たち新入生組がピッチに入る。
試合中のピッチの中は独特の香りがする。ここは芝ではなく土の
グラウンドだが、芝とか土とかの問題ではない﹁実戦﹂の火薬じみ
たツンと鼻を突く匂いだ。
ああ、俺は本当にここへ帰って来たんだな。後で伝え聞いたとこ
ろによると、この時の俺は笑っているんじゃなくて﹁牙をむいてい
る﹂表情をしていたらしい。
さて俺以外の二人はFWとDFだからMFの俺も加えると各ポジ
ションに一人ずつ新入りが入ったことになる。
まあ先輩たちがフォローしやすいようにと考えて、一名ずつの新
人起用だろう。
うちのチームは三・五・二のフォーメーションで対する敵は四・
四・二である。つまりどのポジションでも先輩とコンビが組めると
いう事だ。
俺が与えられたポジションはボランチで、監督が言ったように中
盤で攻守のバランスをとるのが役目である。同じポジションの相棒
はキャプテンだから安心してフォローを任せられるな。だが勿論平
凡に指示をこなすだけで終わらせるつもりはない。
仮にも世界一を目指すプレイヤーが、デビュー戦とはいえ小学校
レベルで言われた通りにしかできないのは恥ずかしいだろう。自分
の役目をきっちり果たしつつプラスアルファの活躍をしなければな
らないな。
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ピッチの中に入ると周りを見回して一瞬目を閉じるのが、ここ最
近のミニゲームでついた癖である。
これは精神を落ち着かせるのと同時に﹁鳥の目﹂の調子を確かめ
るルーチンにもなっている。
よし、今日も調子は上々で目をつぶったままでも半径十メートル
までは人の動きが脳裏に映し出される。
そこまで自身の状態を確認して、改めてピッチの状況へと注意を
映す。さすがに後半のさらに半ばを過ぎた時間帯になると、スタミ
ナが切れ始めたのかプレスも緩くボールホルダーに対するチェック
も甘くなっていた。
俺に任された中盤は特にそれが顕著でお互いのチームが自分たち
が動くより、相手チームのミスを待つ展開になっている。
ならばここは元気が余っている俺が状況を打破するべきだろう。
相手チームが敵陣で回す横パスにミスキックによる微妙な乱れが
あると見るや思いきり突っかけていく。俺の本来のスタイルならば
自分でボールを取りに行くよりも罠にかける方が好みだが、消極的
なパス回ししかしていない相手にはそれは無理だ。自分から追いか
けていくしか道はない。しかも出来ればまだ俺の情報がないこの交
代後の初対決でボールを奪いたいところだ。
相手のMFがこっちに背を向けて後ろにずれたパスを受けにいく
のを俺は隙だと襲いかかったのだが、それは正解だったらしい。ボ
ールをトラップしようとした瞬間﹁敵、来てる!﹂の声に相手は慌
てて確認しようと俺の方を振り向いたのだ。そのせいかトラップが
大きくなりすぎ、足元から離れてしまう。
よしチャンスだと加速のついた体を敵とボールの間にこじ入れて、
相手を肩と肘で押し退けボールの強奪に成功した。
幸い相手もさほど大柄ではなかったので、先に良い立ち位置を占
めた俺がボールを確保できたのだ。ここで俺から無理にボールを奪
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おうとするとファールになってしまう。 この辺はバスケットのリバウンド争いと一緒でパワーと同等以上
にポジショニングが重要なのだ。
フォローに来ていたキャプテンに一旦はたいて敵との密着状態を
外し、改めてボールを受け取る。この時にはすでに俺の頭の中には
敵味方のフォーメーションが描かれている。
中盤のいい位置でボールを奪った為に敵のディフェンス陣はバタ
バタと慌ただしくラインを形成して守備陣を再構築しようとしてい
るが、途中出場の俺へのマークが曖昧だったのか若干混乱している。
歓迎試合でも似たような場面があったよなと思いつつドリブルで
突進する。相手が混乱しているのにこっちが時間をかけてやる理由
などどこにもない。
ペナルティエリア近くまで侵入するが、さすがにそれ以上は行か
せないよとDFがコースを切ってくる。だが、俺にマークが付いた
ってことはその分うちのFWが空いたってことだ。ちらりとその味
方の長身FWへ視線を放ってアイコンタクトをとった。よし、その
先のゴール前のスペースへ飛び込むんだ。
ほらよ、と俺へ寄せてきたDFがさっきまで占めていた場所をあ
ざ笑うように通したスルーパスを蹴る。
⋮⋮そのままスルーパスは誰からもスルーされ敵のゴールキーパ
ーへのパスとなった。
あれ? スペースへ走りこんでくれるはずのFWを睨むと、先輩
であるそのFWも睨み返して上を指差す。
﹁ここへくれよ!﹂
そう言えば先輩FWはDFの裏へ走りこむよりクロスをヘディン
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グで合わせるのが好きなタイプだったか。今日の試合でも専ら前線
のターゲットとなっていて、動いてボールを貰うシーンは少なかっ
た。
俺のアイコンタクトは﹁スペースへ走れ﹂ではなく﹁そこにクロ
スを上げるぞ﹂と誤解されたようだ。先輩もマークが外れたと見る
や、他のDFと離れたヘディングに最適のポジションへと動いてい
たらしい。
やはり急造なコンビネーションでは意思の疎通が難しい。
特にスルーパスなどのゴール前のプレイではお互いの息を合わせ
ねばならないが、俺には先輩達とそこまで意識のすり合わせが出来
ていない。というより俺のプレイの精度が先輩方にまだ信頼されて
いないのが原因だろう。お互いがこちらのプレイスタイルに従えと
意地を張ってもしょうがない、ここは俺が先輩達に合わせるべきだ
ろうか⋮⋮。
と、マズい。それよりまずは急いでバックしてうちの守備に加わ
らなくては。
俺が急に前に飛び出してきただけに敵のマークも捉えきれていな
かったが、その分後方の味方の守りも頭数が足りていない。
中盤の守備も役目になっている俺が戻らないとミスマッチが生じ
てしまいそうだ。上がる時以上のスピードでピッチ中央を自陣へ向
かいダッシュする。
今の攻撃が俺のミスだとするとそれを取り返しておかなければマ
ズい。ただでさえ特例で三年なのに試合に出してもらったんだ、上
級生からの反発も当然ある。その俺が初出場の初プレーで失点など
してしまっては印象が悪すぎる。下手すればこれから先一年間また
試合に出してもらえないかもしれない。
主にチームより自分の都合を優先している気がするが、失点を防
ごうとする気持ちに偽りはない。
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キャプテンの﹁七番をマーク!﹂という指示に従って七番に身を
寄せる。
くそ、俺より頭一つは大きいぞこいつ。
七番は俺にマークされているのも意に介さず、パスを受け取ると
手で押しのけるようにして前を向く。パワーとリーチの違いで俺に
はその強引なプレイを止められない。
こっちはこっちで肩を押したり、シャツを引っ張ったりと反則に
ならないよう抵抗してはいるのだが、年齢と体格の差で振り払われ
て後退してしまう。
以前の俺だったらここで﹁抜かれたなら仕方ない、また次頑張ろ
ー﹂とディフェンスを放棄していたかもしれない。だが今の俺は諦
めるという選択肢は既に消去済みだ、しぶとく相手に食い下がり僅
かなりとも時間を稼いで七番の進むコースを縦からずらす。
こんな一対一の場面でも鳥の目は有効だ。一人では対処しきれな
い相手を味方DFのいる方向へと誘導するのが可能なのだから。
俺を振り切れると思った瞬間に死角からタックルが入ったのだろ
う、敵の七番はピッチの上を数回転がるほどの勢いで倒れた。激し
いタックルであったがボールに向かっていたのでうちのDFはファ
ウルを取られずにすんだ。プレイが切れないと判断した俺は、こぼ
れたボールを素早く拾うと思いきり逆サイドに振った。
後ろから追いかけてボールを取った形になるが、鳥の目を使えば
振り向いてわざわざ味方の位置を確認する必要もなく一挙動でロン
グパスが出来る、鳥の目って本気で便利だな。
スライディングタックルから起き上がった先輩DFが﹁ナイスだ、
よく俺んとこに誘い込んだな﹂と乱暴にがしがしと頭を撫でる。
正直撫でるってより軽く小突かれてるぐらいの勢いで頭が揺れた
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が、この時初めてチームの一員として受け入れられた気がしたぞ。
俺からすれば子供からさらに子供扱いされて褒められて認められた
事になる。へへへ、だがこういうのも悪くないな。
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第八話 点を取りにいってみよう
時間の経過と共に俺もゲームに馴染んでいくが、馴染むというの
は埋没しているのとあまり変わりはない。流れに沿ってプレイして
いると言えば聞こえはいいが、自分では流れを作れずに流されてい
るだけだ。
試合も後半終了間近にいたっても両チームとも無得点のまま、硬
直した状況が変わらずに我慢比べのようなじれったい展開のままで
ある。
俺も時折ポジションを上げようとするが、加入直後ならともかく
今は警戒されているのかオーバーラップしようとする素振りだけで
マークがつく。
それもボールを奪おうとするのではなく、攻めを遅らせようとす
るマークだから厄介だ。ディフェンスから不用意なまねはしてこな
いで間合いを保ったままドリブルのコースを潰してくる。こうなっ
てしまうと俺の中盤の底というポジションからでは決定的なパスを
出すには遠すぎるし、何よりFWとのコンビネーションが悪すぎる。
どうするべきかと頭を悩ませていると、攻撃的MFで十番の山下
先輩が顎で前を示した。華麗なテクニックが持ち味の先輩もこんな
拮抗状態に辟易しているようで、いつもはクールな表情が険しい。
これは俺に前へ出ろと言うことか? 確認の為キャプテンに目を移
すとスッと近づくと﹁後ろは任せろ﹂と後押ししてくれた。
どうやら先輩方もこのままでは面白くないと、俺というまだ相手
にとって得体の知れないジョーカーにかき回してもらいたいようだ。
当然ながら味方も信用しきれていないから守備陣は上がらないが、
俺が攻撃的にシフトする許可を得たと考えていいだろう。それは嬉
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しいがさて、どうするか⋮⋮。よし、あれでいこう。
手を上げてボールを要求すると、ボールが渡るより早く敵の七番
がマークがついた。先刻の一対一でこいつは俺よりパワーがあるの
は判っている、ゴール近くまで進もうとするとそのパワーに物を言
わせて潰しにかかるだろう。だがスピードはそれほどでもない、と
はいえ今の俺のスピードとほぼ互角なのだから簡単にドリブル振り
切るという訳にもいかないのだが。
キャプテンからのボールを受けて、ようやく俺が攻撃できる準備
が整った。ここからは前世のサッカー知識をいかした戦術を使わせ
てもらうぜ。
俺は七番を後ろの正面に押し込むような形でドリブルを進めてい
く。小刻みに上体を左右に振ってフェイントをかけるが、全く釣ら
れる様子はない。重心を低く間合いを保ったままじりじりと後退す
るだけだ。やはりこいつ自分でボールを奪おうと思わずに、時間を
かけさせて守りを整えるディレイを選択しているな。
普通ならば彼をかわそうとスペースのあるサイドへと流れるのだ
ろうが、今回は逆にディフェンスの枚数が揃っている中央へ向かっ
ていく。
これは別に敵が密集していようと俺のドリブルで突破してやる!
という作戦ではない。
敵のディフェンスが多いところに自ら飛び込むのは自殺行為だと
以前の俺は思っていたし、それが常識だった。だが世界レベルのク
ラブチームではよくあるプレイの一つなのだ。
当然彼らクラスの選手でも密集している敵全員を抜こうとしてる
訳ではない。
ではなぜこんなことをするかというと⋮⋮ほら、こんな場合には
相手は二・三人掛かりでボールを奪いにくるのだ。人数の優位さを
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生かしていると言いたいのだろうが、そうではない。普通に考えれ
ば守備の枚数が五枚も揃っている中に一人で突っ込んでくる場面な
どない。従ってそんなパターンに対応する練習などしているはずも
ないのだ。ここまで多人数で囲むシチュエーションは守備側として
は想定外のため、誰がチェックに行くべきか判断に迷う。そしてな
ぜここにこれだけの人数が集まっていたかも考えれば判るだろう。
敵が多いのと同様こっちの攻撃する選手も中央に数が揃っているの
だ。
そして、俺に数人掛かりでプレスをかけた分味方のマークはルー
ズになっている。俺が使ったのは敵のディフェンスをマークを張り
付けたままのドリブルで意図的に過密状態にして混乱させる戦術だ。
敵にしたってここまで敵味方が多いとマークの受け渡しも曖昧にな
る上、ボールホルダーに複数でチェックもしなければならない。意
志の統一がはかれずにボールを取りに行くべきか、マンマークを続
けるべきか、スイッチして別の人間のマークにつくべきか混乱する
︱︱その混乱した状況を作り出す為の戦術だ。
名選手ならばこの人口密度の高い状況でも持ち前の技術で、簡単
にパスを通してチャンスを作れるのかもしれない。だが俺にはそこ
までの技術は無い。無いのだが代わりに俺には特殊能力がある。︱
︱ここまでドリブルで上がる時に鳥の目を使いっぱなしで敵味方の
ポジションを確認していたのだ、敵ディフェンスが統制のとれた動
きをすればするほど読みやすい。敵がプレスをかけやすいここらへ
んの位置まで俺がドリブルで進めば︱︱よし、予想通りうちのFW
についていたディフェンスが寄せてきた、その瞬間に右足首だけで
ふわりとボールを浮かして俺はそのままゴール前に詰める。
狙い通り頭上三十センチにピタリと送られたボールに先輩FWが
ジャンプする。
59
﹁決めろよ!﹂
俺以外でもおそらくピッチ上の味方全員、いやベンチや観客席か
らも声が飛ぶ。
敵と競り合うまでもない場所にコントロールされたクロスを、豪
快なヘッドで叩き付けたシュートは⋮⋮横っ飛びしたキーパーのナ
イスセーブによって弾かれた。
﹁ナイスキーパー!﹂﹁流石はアンダー十二代表候補﹂
との声からするとどうも相手は有名なキーパーらしい。だがそん
なのは構っていられない、こぼれたボールを押し込まなくては。敵
の守備陣も必死で駆け寄るが、ショートクロスを入れた後に足を止
めずにゴール前に走っていた俺と、一瞬とはいえFWとキーパーの
対決の傍観者となっていたDFでは勝負は明らかだ。キーパーもま
だ立ち上がっていないし、ゴールはがら空きだ。俺が先にボールに
触れられさえすれば⋮⋮。
届け! スライディングした俺の伸ばした右足が転がってきたボ
ールを叩く。
と、なぜポストに当たる!? 俺のシュートはぽっかり口を開けていたはずのゴールマウスを逸
れ、左のポストに直撃してしまった。
こんなドフリーで外すかよ俺!?
いや悪いのは俺じゃない﹁急にボールが来たのが悪いんだ﹂と未
来の代表並みの言い訳を口にして、ポストから跳ね返ったボールを
倒れたままで無理矢理押し込もうとする。とにかくがむしゃらに足
を振ってゴールへと転がそうとする無様な動きで、とてもキックと
は呼べないし、ましてやシュートというレベルではない。だが、ど
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んなに不格好だろうとゴールに入ればそれで全てが正当化されるの
だ。だから、とにかく入りやがれ、こんちくしょうが!
戻って来た敵ともみ合いになりながらも強引にボールを流し込み、
よしゴールだ! と確信した刹那、再びゴールキーパー凄まじい勢
いで飛び込むと指でかきだすようにして得点を防ぐ。
無理な体勢からだったせいかシュートの威力がなく、キーパーに
立ち直る余裕を与えてしまったようだ。それにしても、このキーパ
ー結構やるなぁ。あながち俺達の年代の代表候補というのも嘘じゃ
なさそうだ。ベンチを温めていた時は何で点を取れないのかと先輩
方を内心馬鹿にしていたが、これほど手強いとは⋮⋮ご免なさい舐
めていました。
だが敵キーパーの奮闘もむなしく、三度リバウンドはうちに渡る。
いつの間にかゴール前に現れていた山下先輩は﹁ご苦労様でした、
ごっつぁんです﹂といいたげな涼しい顔で、落ち着いてこぼれ玉を
キックしゴールネットを揺らしたのだ。
一瞬の静寂の後歓声が沸き上がった。
チームの誰もがゴールを決めた山下先輩に群がり頭や背中をバシ
バシと叩いている。あ、先輩が本気で嫌そうな顔をしているからあ
れって相当痛かったんだろうな。
と座り込んだままタイミングを外して喜びの輪に入り損ねた俺に、
ヘディングしたFWの先輩が手を差し伸べてくれた。うわ、十分も
プレイしてないのにもう俺の足はつりそうなほどへばっている。
﹁ほら立ち上がれよ。それと、まぁ、そのお前のクロスも悪くはな
かったぞ﹂
﹁はぁ﹂
とどこかツンデレっぽい発言に気の抜けた声で答えると、ありが
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たく手助けを借りてふらつく歩みで祝福しに行く。
自分がシュートを外しまくったのは意識的に忘却し殊勲の山下先
輩の背中を遠慮なく平手で叩く。
﹁ナイスシュートです先輩﹂
﹁痛ぇよ! お前は駄目押しすんな﹂
祝福する俺に向けてなぜか殺気をにじませる先輩に﹁あはは、す
いません﹂と本心のこもってない謝罪を繰り返す。
本当は俺が格好良く決めているべき場面だったんだよなぁ。
サッカーの得点はある程度運・不運に左右される。そして対戦相
手やキーパー・自分の体調など外した言い訳は星の数ほど挙げられ
る。
しかし、どんな上手い言い訳をしても俺が得点できなかったのは
事実だ。まだ拙い連携や短かった出場時間も不利となる条件はそろ
っていた。だが一番の問題は⋮⋮やはり俺の決定力不足だな。
試合終了の笛が鳴る中、俺は勝利に喜び合うチームメイトの輪の
中にとけ込んでいた。だがその心の中では、この試合で得たあまり
に多い課題に誰にも判らないように一人で悩んでいた。
62
第九話 原石の取り扱いには注意しよう
﹁みんな良くやったぞ! お疲れさま!﹂
下尾は拍手で凱旋する選手をねぎらう。例えそれが練習試合で不
満がある内容であっても、勝った場合はまず褒めて持ち上げるのが
年少にサッカーを教える鉄則である。その勝つ度に褒められるとい
う行為が繰り返される事によってモチベーションが高まり、勝利に
対する執念の芽が出てくるのだ。
だからまずは勝利を手にした選手達と徹底的に喜び合うのだ。
ピッチから得意気に帰ってくる教え子を一人一人ハイタッチで迎
えていたが、二人ほど喜色を露わにしていない子供がいる。困った
事にその二人共がチームで傑出した才能を秘めている選手なのだっ
た。
﹁山下に足利、どうした?﹂
下尾監督の呼びかけにちょっと不服そうに頬を膨らませていた山
下は、ちらと見上げると顔を背けた。不満というよりはすねている
ようだ。この子は十番を背負うだけの技術と身体能力を持っている
が、才能ある子によく見られるメンタルの弱さが課題なんだよな。
﹁点取ったっていうのに、みんなに叩かれてメッチャ痛かった。あ
いつらにもうちょい手加減するか、点取ったら取った奴がチームメ
イト叩いていいってルールにするかしてください﹂
﹁あ、ああ確かに最後のは痛そうだったからな。練習試合であれだ
け喜ぶのも相手チームにも失礼だし、みんなに点取ってもあまりは
しゃぐなと言っておく。あと一応叩くの手加減しろとも﹂
63
山下は﹁一応っすか、まあそれでもお願いします﹂とちょこんと
頭を下げてクールダウンに入った。この子はまあ孤高の天才を気取
っているのかクールな振りをしているだけだ。今回もちょっと機嫌
を損ねたぐらいで明日にはもう元に戻っているはずで、大して気に
するほどでもないだろう。だから問題になりそうなのはもう一人の
方だ。
﹁足利はどうしたぁ? デビュー戦にしては良くやっていたぞ。チ
ームも勝ったんだしもっと喜べよ﹂
﹁はぁ、ありがとうございます﹂
下尾監督がが褒めてもどこか硬い作ったような笑顔は解けない。
何やら思い悩んでいる風にも見えるが、試合中のプレイではそんな
に落ち込むほどの失敗はなかったはずである。確かに最後のゴール
前ではぐだぐだしていたが、あの状況では落ちついて決められる子
は生粋のFWでもこの年代の日本ではそうはいない。
足利に関しては個人的な技術がどうこうではなく焦りが透けて見
える精神面の方が問題かもしれん。試合の内容としても周囲とのコ
ンビネーションが課題だと下尾は考えていた。
なまじ足利の視野が広いだけに、周りとの連携のチグハグさが如
実に現れるのだ。彼一人だけならば正解の行動もチームとしてのコ
ンセンサスが出来ていないため結果としてあまり効果的ではなくな
るのも多い。チームメイトとの信頼関係が築けていない現状では、
周りを使ったプレイをしようとしていてもまだ不可能である。
まずは自分の力でゲームを動かそうとしすぎる足利に、仲間との
コミュニケーションの大切さを自覚させるのが問題解決への第一歩
だろう。
そしてもう一つ問題なのがこいつが連携やシュート以外で﹁ミス
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をしなかった﹂事だ。ミスが少ないのとミスが無いのとはまた違う
のだ。サッカーというのは足でやるだけにミスを前提としたスポー
ツになる。
だからミスがないプレイヤーが名選手かというと︱︱そうでもな
い。ゴールに直結する危険なパスとゴールキーパーへ戻すバックパ
スを同じパスの成功率で計算しても意味がないのと一緒だ。
もちろんポジションによっては失敗が許されないキーパーのよう
な例もある。だが足利のようにあれだけ攻撃に参加していながら凡
ミスが無いというのは不自然なのだ。
もちろん足利が基礎練習を異常にしっかりしている点を考慮して
もである。普通子供は、特に才能があればあるほど基礎練習を好き
になれないものだ。才能があればある程度やるとコツをつかんでし
まうので、それ以上やる意義を見いだせないからだ。
しかし、基礎練習は社会人が皆﹁学生の頃もっと勉強しておけば
良かった﹂と思うぐらいプロになったサッカー選手も﹁子供の頃も
っと基礎練習をしっかりやっておくべきだった﹂と悔やむことが多
い重要な事項だ。 その重要だがあまり面白くない基礎練習を足利は目を輝かせて楽
しげに、そして子供らしくないほど真剣に長時間集中力を保って毎
日欠かさない。ここまでしっかりと基礎練習に取り組んで﹁基礎を
固めろ﹂と口出しをしないでいい少年は、下尾監督が指導者になっ
て始めてである。だからまあ、試合でも簡単なプレイを失敗しない
のは理解できる。 こいつが途中出場すると、すぐに相手もマンマークをつけてきた。
短時間で﹁こいつはフリーにしちゃいけない﹂選手と判らせるのは
いいが、不満も少なからずあった。
足利ならばあのマークの一人ぐらいなんとかなったはずなのだ。
相手が上級生とはいえ技術は足利の方が確実に上だ。ちょっと無理
すれば個人技でも突破できたはずなのだ。だがあいつにはその﹁ち
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ょっとした無理﹂をやろうとしない。常にギャンブルを避けて安全
な道を通ろうとパスしている。
つまりこいつはミスをしないように細心の注意を払って、充分な
マージンをとり、合理的で堅実なプレイを常に心がけていたという
事になる。
言葉にするとまるで大人っぽく成熟したプレイヤーに対する褒め
言葉のようだが、この成長期の時点でリスクにだけ気をつけている
のならばもう選手としての成長はない。
失敗は成功の母という通り、失敗すれば自らに足りない部分が自
覚できる。それを克服しようと努力する選手に適したトレーニング
を提示するのが監督の役目の一つだ。
だが、失敗をしない選手はどうなのか? これは自分の能力の及
ぶ範囲はここまでと自身に対して檻を作っているようなものである。
その檻以上の力を持っていようとも宝の持ち腐れとなってしまう。
しかしこの檻を外すのは難しい。他人がどうこう言ったとしても、
檻から出るには当人がその気にならなければ不可能なのだから。
今のミスをしない堅実なプレイヤーという殻を破り、檻からの一
歩をどう踏み出させるかが、下尾の監督としての腕の見せ所だろう。
下尾監督が檻という連想をしたのには訳がある。
なぜか判らないが、こいつのプレイを見ていると上手いことは上
手いのだが︱︱どこかで一回大きな失敗をして今度はそれを繰り返
すまいと必死になっているような印象があるのだ。
今日の試合でもどこか悲壮さが伝わり、純粋にはサッカーを楽し
めていないようなシーンがあった。いや足利がサッカーを好きだっ
てのは良く知っている、何しろ毎日の練習においてボールを渡され
るだけで満面の笑みになるからな。
最近はからかわれるのが嫌なのか頬が緩むのをこらえようとして
いるようだ。妙に難しげな顔でボールを受けとっているが、その口
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の端がピクピクと嬉しげにひくついているのは隠し切れていない。
サッカーを大好きなのに試合でプレイするのを楽しめないならそ
んなに悲しいことはない。これだけの技術を持っていながら初心者
と言い張る不自然さといい、足利にはどんな事情があるのだろうか。
このクラブでプレイすることで足利に一歩踏み出す自信と試合を
楽しむ余裕ができればいいのだが。
試合の後始末を終えて相手監督の鈴木と握手をする。こいつは大
学のサッカー部の同期で、今も近くの地区のサッカークラブをして
いるという下尾にとってはライバルとも腐れ縁ともいうべき存在だ。
﹁今日はお前等の日だったか、まあこんなこともあるさ﹂
﹁さすがアンダー十二代表のキーパーを持ってる監督は余裕がある
なぁ﹂
﹁そっちこそなかなかいい選手が入ってきたみたいじゃないか。特
に目立つの二人もいたぞ。あ、でも十番の奴は前の試合でもいたか
⋮⋮となると後は途中出場の三十九番だな。一体どこのクラブに隠
れてやがったんだあんな奴﹂
﹁いやあいつはサッカークラブに所属するのはうちが初めてだそう
だ﹂
﹁はぁ? あれだけ基礎がしっかりしている奴が初心者だと?﹂
鈴木が絶句するがそれも判る話だ。下尾も足利が初心者じゃない
と判断した理由の一つは、プレイがあまりに洗練されすぎているか
らだ。もしストリートとかでやっていただけならばどうしても癖と
いう物がでるはずなのだ。この癖というのは悪いだけではなく、上
手く生かせれば強烈な個性ともなる。
だが、足利のプレイスタイルは癖もなく上手いだけでなく、無駄
がなく理に適っている。これは客観的な視点を持った指導者に教わ
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っていなければ不自然なのだ。
下尾はまず確実に誰か指導者̶︱しかも自分とよく似た指導理論
を持った誰か︱︱に足利はサッカーを習っていたはずだと踏んでい
た。
﹁マークつけた七番は一対一じゃうちでも一・二を争う有望株なん
だぞ。初心者を相手にしてあんなに振り回されるはずないだろ。そ
れにあいつ小さかったけど今何年生よ?﹂
﹁新入部員で三年生だ﹂
﹁⋮⋮なんか得体は知れんが面白そうな素材じゃないか、大事に育
てろよ﹂
﹁ああ、お前も面白いと思うか?﹂
﹁うむ、特にシュートをねじ込もうと足をバタつかせている動きが
面白かったな﹂
﹁そっちかよ﹂
監督同士で苦笑した顔を見合わせる。才能がある子を発見するの
は少年クラブの監督としては最高の喜びだ。だがその裏には預かっ
た子供を順調に成長させられるか指導者としての責任がのし掛かか
ってくる。そのプレッシャーは見つけた原石の大きさに正比例して
増大していく。
歴史に名を残すクラスの選手の指導者は大なり小なりこういう恐
怖を感じたに違いない﹁こいつを逃したらもうこんなタレントはで
てこないかもしれない﹂と。
だからといって無理なスパルタ練習や怪我しないようなべたべた
に甘い指導もどこか違う。結局は自分の目を信じながら一人一人に
合った指導をしていくしかないのだ。
今までのチームにも幾つかの原石はいた。その中に掘り出したば
かりのはずなのに、すでにカットされているような奇妙でいびつだ
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が特大の宝石が入ってきただけだ。
あまり無理な期待やプレッシャーを与えないで、他の子供と同様
に伸び伸びと育てるべきだろう。
そう決断した下尾監督に鈴木もまたどこか遠くを見る表情で話し
かけた。
﹁俺が抱えてるキーパーが代表に選ばれた時も悩んだもんさ。どう
指導すべきかってな。今の子供達はどいつもこいつも昔の俺達以上
の技術を持っていやがる、そんな奴ら相手に偉そうに指導していい
のかともな﹂
﹁⋮⋮俺はお前よりも上手かったけどな、まあ言ってるのは判る﹂
﹁ぬかせ、俺の方が⋮⋮ともかく俺達に出来るのはあいつらの成長
の邪魔をしないことだけだ。上に行く奴は勝手に上に行くんだ、そ
れを応援するだけでいいのさ。そして、もしどこかでつまずいたら
⋮⋮その時助けてやればいい﹂
﹁ちょっとくさいが⋮⋮その通りだな﹂
﹁じゃあ、またな。今度また試合する時はあの小僧がどうなってる
か楽しみにしているぞ﹂
﹁ああ、またな﹂
同期の桜とはいいもんだな。こうして定期的に練習試合を組める
だけでなく、お互いにしか言えないような話も出来る。他で口にし
たりすると依怙贔屓だとか問題になって、才能のある子が潰れたり
する後味の悪い事になったりするんだよな。
せめて自分の教え子のあいつらだけでも、楽しくサッカーができ
る環境を作ってやらなければな。
クラブの監督さんは気苦労が多いよとぼやく下尾だった。
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第十話 ストレスをまとめて蹴り飛ばそう
俺は早朝練習の公園へ向けてジョギングしながら、ここ最近の自
分の能力の伸びについて考えていた。
あの対外練習試合から一ヶ月たつが懸念の俺の決定力不足につい
ては何ら改善されていない。
いやそれどころか自覚してからなお酷くなった気さえする。さす
がにこのままではマズいとシュート練習を増やすのだが、練習はと
もかく試合どころかミニゲームですらゴールが生まれない。コース
を狙えばポストに嫌われ、力を入れればキーパー正面、ループを打
てばDFにクリアされる始末だ。 俺は基本的にはパサーの為に自
分が打つ場合はかなり高確率で決まると判断した時だけである。そ
れなのに決定率は二割を下回る体たらくなのだ。
これはもう前世からの呪い説を真剣に検討し、お払いをしたくなる
不調ぶりだな。
だがシュート以外の面では悪くない成長をしている。小学三年生
という年代は何もしていなくても肉体がグングンと発達していく時
期だ。特に俺は食べ物は好き嫌いをなくし、早寝早起きでサッカー
による適度な運動といった﹁良い子の観察日記﹂に乗ってもおかし
くない規則正しい生活をしているんだ。これで順調に生育しなかっ
たら嘘だよな。
感覚的なものだがどうも前回より身長や体重の成長が早い気がす
る。まだやり直ししてからのスパンが短すぎて検証は無理だが、最
終的に成長期が終わった段階では一回りサイズが大きくなるのさえ
期待できるのではないだろうか。とはいえ過剰な期待をするのも禁
物だ。以前と変わらずサッカー仲間の中では小柄なままかもしれな
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いし、でかくなってもせいぜい日本人では大きい方、外国のクラブ
では華奢なのは変えようがない。だから、まあ今磨いている小柄な
方が使いやすい技術が無駄になることはないのは慰めにはなる⋮⋮
か。
俺は前回よりはるかに上手く強くなっている︱︱その事に疑問の
余地はない。だが自分の望むほどの高みに上れるのだろうか?
それを測る目盛り代わりが同じチームの十番の山下先輩だ。この
二歳年上の先輩の事は記憶が薄れ始めている俺でもよく覚えている。
とは言っても、別に山下先輩から攻撃的MFのポジションを奪えな
かったのを逆恨みしていたわけでもない。
何といっても前回の人生では身近で出た唯一のJリーガーだった
からだ。
最後に消息を聞いた時は確かJのサテライトの試合に出場してい
たそうだ。
つまり小学校時代に俺よりあらゆる面で上だった山下先輩でさえ、
Jのリーグ公式戦ではベンチ入りする権利をつかめない程プロの壁
は高いのだ。
だが今はまだそこまで先の事を考えても仕方がない。俺がボラン
チに下がってしまったからポジション争いは出来ないが、とりあえ
ず山下先輩が卒業する前に彼とポジション争いをしたとしても確実
に勝つと確信を持てる程度まで鍛え上げなければならない。いや、
それでは所詮日本レベル止まりになってしまう。目標にたどり着く
為にはもっともっと俺は強くなる必要があるのだ。
決定力の向上や基礎の底上げ、状況を打破するためのドリブルな
ど個人技の特訓に身体能力を伸ばすための運動などやることは山積
みだ。
なまじ前回の歴史で、これからスターダムへのし上がる選手達が
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どれほど華麗なプレイを見せるのか知っているだけにそこまでの距
離を考えると気が遠くなってしまう。自分の考えた練習メニューを
こなすだけで毎日精一杯、一日が三十時間は欲しいぐらいだぜ。
そんな精神的に余裕を無くしていた一日でのクラブ練習中の事だ
った。
﹁足利、お前最近サッカーが楽しいか?﹂
﹁え? ええそりゃ楽しくなければこのクラブに来てませんよ﹂
﹁相変わらず子供らしくない口のきき方だが⋮⋮まあいい。どうも
最近お前が悩んでプレイしているように見えたんでな﹂
﹁俺なんかおかしな事やミスをしましたか?﹂
﹁いやミスはないんだが⋮⋮あーもう説明するのが難しいな、とに
かく今日の練習は俺の言った通りにやれ。いいな?﹂
﹁はあ、まあ監督の指示ですし当然従いますが﹂
従順に答える俺に対し、なぜか下尾監督は僅かに苛立ちの色を表
した。
﹁そうゆう所が⋮⋮ちっ。じゃ、今日のミニゲームでお前はシュー
ト五本以上打つこと。そしてチームとしては最低五点は取れ。これ
は命令な﹂
﹁え、ちょっと待ってくださいよ! 俺の決定力の無さ知っている
でしょう、それにミニゲームっていったら十分ハーフで計二十分で
すよ。その短時間でシュート五本打てって、五点取れって無茶ぶり
が過ぎますよ﹂
﹁監督の指示に従うって言質とったもーん﹂
﹁監督自分の年を考えてください、ちっともかわいくないですよ!﹂
﹁おーし、みんなアップが終わったら集まれー。今日のミニゲーム
は攻撃がテーマだ、半分遊びだから内容とか失点とか考えずに攻め
合えよー。あ、でも怪我には注意な。接触プレイはすぐファール取
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るからディフェンスは特に気を付けろよ。えっと、後は勝ったとし
ても五点以上とらないと両チームとも負けの判定だ。罰ゲームが待
ってるぞー、ちなみに罰ゲームの内容は⋮⋮ふふふ﹂
俺の抗議も華麗にスルーされてミニゲームが始まってしまう。正
直なぜこんな無茶な指示を出されたのか理解不能だが、一応は恩師
の言うことである出来るだけ実現させるべきだろう。
俺はチームメイトを見渡すとほとんどが上級生の準レギュラーだ、
まだ三年のおれがゲームキャプテンに指名されたことに不満を持つ
奴もいるかもしれないがとりあえず明らかに馬鹿にした態度の子は
いない。
試合が始まるまでの短時間で戦術をどうこうする暇はないな。基
本的には今までやってきたサイドアタックをベースにして、後はと
にかくこのチームの意志統一だけはしておこう。
﹁みんなも聞いたと思うけど、この試合は五点とらないと負けにさ
れるみたいだ。だから攻撃を重視してチャンスがあればガンガン上
がって点を取りに行こう!﹂
﹁おう﹂
口々に﹁任せろ﹂と受け合ってくれるチームメイトにちょっと胸
をなで下ろす。俺に︱︱というより下級生に従うのが嫌で反抗され
てたら試合開始前から終了のお知らせがきたぞ。
監督の﹁それじゃ始めるぞー﹂と気の抜ける言葉と共に開始の笛
が吹かれた。
マイボールからの始まりだが、五点取れという縛りの中ではじっ
くりと中盤を組み立てている余裕はない。
ボランチの俺にまで戻されたボールを前線のFWにロングボール
でいきなり放り込む。向こうもこっちと同じ急造チームならば組織
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的ディフェンスはできないだろう。うちのチームのFWは二人とも
レギュラーではないがそこそこ長身だ、運が良ければいきなり得点
出来るはずだ。先制点が取れれば、こっちが主導権を握る事ができ
る。
そんな皮算用は脆くも崩れさった、何だよ向こうのDF陣はレギ
ュラーばっかりじゃないか! 正直うちのチームのFWが相手にす
るには荷が重いか⋮⋮。想像通りヘディング争いに競り勝った相手
チームは、こっちと同様に中盤を無視して一気にゴール前までロン
グパスを送る。 くそ、正直まだ成長途中のこの体ではヘディング争いでは戦力に
なれない。ディフェンスにおいてはせいぜいがこぼれ玉が来そうな
スペースに張っているぐらいしか⋮⋮ほら来た!
素早くボールを拾うと、また前線に放り込もうとして一瞬躊躇し
た。相手のDFは明らかにうちのFWより高い。単純に上げるだけ
ではゴールするのは難しいだろう。ではどうするか⋮⋮考えながら
ドリブルで前へ持っていく。お互いポンポン蹴りあっていたので中
盤はぽっかりと空いていたのだ。おまけにファールが怖いのか積極
的には止めようとしてこない。よし、こうなったら俺がいける所ま
で持っていこう。
ギアをトップに切り替えてスペースの空いたピッチ中央を駆けて
いく。空いたスペースを結構な距離進んでいたが、さすがにペナル
ティエリア手前のバイタルエリアまではボールを運ばせてもらえな
かった。 危険な場所まで進入されたと判断するやマークがさっと
現れる。だが今回はFWのマークは外していないしラインも崩さな
い、どうやら俺からのスルーパスを警戒しているようだ。
ここまでドリブルしている中でも鳥の目を使っていたのだが、ど
うにも隙が無い。遅れて今上がってきたサイドバッグにまできちん
とケアされている。
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これでどーやって五点も取れって言うんだよ。大体相手チームは
贔屓されてないか? なんでDFがレギュラークラスで固められて
るんだよ。しかも相手には山下先輩までいる、攻撃に関しても向こ
うは問題ないだろう。この理不尽な状況に段々頭に血が昇ってくる。
監督は試合前に五本シュート打てなんて難題を俺にだけ出すとか何
考えてるんだ? 俺こんなことしてて本当に上手くなれんのか? これまでの不安とこの試合に対する怒りで息が荒くなっている。元
々試合中はクールにと自制してはいてもそんなに気は長い方じゃな
いのだ。
プツリと切れる音が多分俺にだけ聞こえた。ええい、くそ面倒く
せぇ。
軽くボディフェイクを入れて強引に突破をはかる。勿論マークも
反応して止めようとしてくるが、俺の直線的でシンプルなドリブル
突破は予想外だったのか半歩遅れる。そうだろうな、これまでは結
構ボールをこねくり回した末のスルーパスが十八番だったのが急な
スタイル変更だ。瞬時に対応しきれなくても無理はない。
体半分だけ抜け出した状態でフリーな味方がいないのを視界では
なく鳥の目を使い脳裏で確認する。
だったら、もう俺が打つしかないよな。
俺の決定力じゃ入るとは思えないけれど、これでシュート数一消
化だ。肩と肘で相手DFに壁を作り右足を振り抜く。諸々のストレ
スを詰め込んだボールを力の限り蹴り飛ばす。
お、いい手応え︱︱じゃなくて足応えだ。軸をぶらさずにキック
できたおかげで左上のいいコースへボールは飛んでいく。
だがやはりと言うべきか俊敏に反応したゴールキーパーにパンチ
ングで防がれた。はいはい、判ってましたよ。俺のシュートが入ら
ないってことは。だからここは、
75
﹁押し込め!﹂
指示と同時に自分もDFを引き連れてまたゴール前に殺到する。
うわ、マズい相手のディフェンスが真っ先にこぼれ玉を拾いやが
った。しかもあのDFは確かロングキックが正確だったはずだ。
うちのチーム全体が前のめりなプレイをしていたために防御は手
薄だ。
﹁やばい! 下がれー!﹂
また俺の絶叫に従って慌てて潮が引くように自陣へ帰って行く。
勿論俺も全力で駆け戻る。こういう点を多く取れといった縛りのあ
る展開では上手く鳥の目が活用できていない。ただの子供のように
右往左往しているだけだ。
それなのに︱︱楽しい。無心でボールを追いかけるだけの戦術も
何もないゲームがおかしくてしょうがない。さっきの強引なドリブ
ルとシュートで鬱憤がはれたのか体が軽く感じられる。
最近小難しく考えすぎてた反動か、ここまでノープランの打ち合
いしていると俺が悩んでいる事自体が小さく感じられた。
そんな変なハイテンションは敵のカウンター一発でゴールを割ら
れても落ちることはなかった。
今のは仕方ない。あれだけの攻める体勢だったら攻めきるかカウ
ンターに沈むかの二択でしかなかった。今のはたまたま幸運のコイ
ンが裏を向いただけだ。
でも先制点を献上してしまったのも確かだ。もう、こうなったら
更に開き直るしかないよな。
意気消沈してセンターサークルに集まっているチームメイトに端
的に説明する。
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﹁相手はディフェンスが強い上マンツーマンを崩さない。これを攻
略するのは今の俺たちじゃ難しいし、このままふつうにやってれば
間違いなく罰ゲームだ﹂
俺の言葉に上級生は顔をしかめ、同級生は体をこわばらせる。
﹁だから非常手段をとるしかない﹂
﹁うん、どんな?﹂
楽しげな表情で再開の笛をくわえてこっちの作戦を伺う監督に対
して胸を張る。どうなってもあんたの責任ですよ。
﹁キーパーも上がれ。残り時間ずっとパワープレイだ。全員ボール
を持ったら即シュートだ、打てなければドリブルで突破するぞ。全
部のコースがない場合のみパスを許可する﹂
﹁⋮⋮点の取り合いになる試合を誘導したのは俺だけど、これはひ
どい﹂
明らかに元凶の監督が顔を引きつらせていた。
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第十一話 防御は捨てて殴り合おう
﹁上がれ! 上がれ!﹂
試合再開後、俺はこの命令しかしていない。全員ポジションを最
低十メートル前へ移せという乱暴な指示の結果、今の俺達のチーム
のフォーメーションは一・五・五という狂気に満ちた物となってい
る。
見たこともない数字の並びで分かりにくいかもしれないが、DF
はペナルティエリアの直前に一人だけ、後は五人ずつMFとFWの
位置についている。
え? チーム人数がキーパーを含めると十二人いるんじゃないか
って? 数が合っていないのはゴールキーパーをペナルティエリア
からリベロの位置にまで上げて、DFとして計算するという暴挙を
行っている結果であり実質DFはゼロのペナルティエリア内は無人
だ。FWがいないゼロトップならともかくゼロバックなんてほとん
どギャグだな。
ここまで来るともう防御とか考えるだけでも馬鹿らしい、さあ総
員突撃だ。
まずボールを預かった俺はパスの出し所を考える。いくらなんで
も前線にターゲットが多すぎるぞ、いったいどこに出せばいいんだ
これ? 自分でやった事ながら呆れてしまうが、そんな迷いも一瞬
である。何しろ自分で皆にまず﹁シュートを考えろ﹂と言ってしま
ったんだからな、とにかくシュートか悪くてもドリブルで前へ持っ
ていってアシストになるパスを渡さなければならない。
俺が前へとドリブルで進むが相手も混乱しているようだった。そ
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りゃこんな馬鹿なフォーメーションと戦ったことなんかないだろう。
FWが五人なんてどうやってマークすればいいのか俺も判らんぞ。
相手はとりあえずマンツーマンディフェンスを選択したのか、五
人のFWに合わせてDFと中盤が下がる。ならこっちはつけ込むだ
けだ。さらに前線の数を増やすのみ。
この時の俺のテンションは最高潮だった。一点負けているのはと
もかくこれから五点取りにいかねばならない状況が、いけいけの作
戦を後押ししていた。
﹁よし、キーパーもゴール前まで上がれー!﹂
﹁オッケー! 喜んでー!﹂
キーパーもこの狂気のノリに乗っかったのか喜々として敵陣へ突
入していく。もううちのチーム全員がハーフウェイラインを越えて
敵のサイドに入っている。カウンターを貰ったら一発で終わりだが、
このフォーメーションになった以上そんな心配しても仕方がない。
チーム一丸の片道しか考えていない特攻である。
これでFWも加えればうちのチームだけで六人がゴール前に集合
していることとなった。ほとんどコーナーキックなどのゴール前の
混雑さと変わりない。相手もラインを上げたいのだろうが、そうは
させじとタッチラインを深く抉る。
﹁ゴール前で全員張って、ボールがこぼれたら押し込んでくれ!﹂
叫ぶとまだ崩れているディフェンスラインを横目にサイドへと全
力で突っ込む。ここはテクニックよりも速さで勝負だとばかりに、
上体を起こしているいつものスタイルではなく前傾姿勢になった俺
の最高速のドリブルだ。タッチは荒くなるがこの方がスピードは乗
る。
前方にディフェンスの影が差す寸前に、鳥の目でそれを察知して
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いた俺はクロスを放った。
センタリングのコースはいい。ゴール前のDFの壁を越えて味方
FWの頭上へピンポイントで落ちていく。
でも止められた。キーパーがクロスの軌道を予測していたように
前へでるとパンチングで弾き返したのだ。うんすんなりとは入らな
いだろうと覚悟はしていたよ。
やっぱり叫んでからクロスを打つのはやめておいた方がいいな。
キーパーにタイミングを盗まれる。
それはともかく、ゴール前のルーズボールが飴に群がる蟻んこの
ように敵味方を集めている。俺もあそこに参加すべきだろうか? いや、それより幾らなんでも後ろに空けた過ぎたスペースを気休め
程度でもケアしておくべきか。
躊躇していると、人混みの中からうちのキーパーが雄叫びを上げ
右手を掲げて現れた。我がチームのゴール前に詰めていた奴らとハ
イタッチを交わしている。どうやら俺の見えない混戦の中でなんと
か点を取れたらしいな。しかし、俺よりも得点力のあるキーパーっ
てどうなんだろ?
祝福の拍手を頭上で鳴らしながらも首を捻らざるを得ない。
その時下尾監督が笛を吹いた。
﹁前半終了ー。お前ら両チームとも後半の十分で四点以上取らない
と罰ゲームだぞ﹂
その言葉に顔を引きつらせたのは明らかに相手チームの方だった。
前半終了間際の俺たちの特攻に動揺を隠せないようだ。うん、もし
俺が相手チームにいてもこんなノーガード戦術には呆れてしまうよ。
まあ、そんな狂った戦術を指示した俺が言えた義理ではないが。
80
五分の短い休憩を終え、後半開始のホイッスルを待っている俺達
の前に立ちはだかる影があった。
相手チームのゲームキャプテンをしている山下先輩だ。
何格好つけているのかと不審に思う間もなく、彼は指を俺に突き
付ける。
﹁目には目を! キーパーレスにはキーパーレスを! こっちも攻
め百パーセントでいくぞ﹂
﹁え?﹂
キーパーレスって俺たちがキーパーを上げたフォーメーションの
事か。あれは単にマンツーマンが厳しかったから攻め手を増やそう
とする苦肉の策だったんだけどなぁ。でも、そっちがそうくるなら
お出迎えしなければ。こちらも前半終了間際のゼロバックで迎え撃
つのみだ。
﹁そりゃ攻め合えとは言ったが、最近の子供は何を考えるかホント
判らんな⋮⋮﹂
どこかやさぐれた雰囲気を漂わせ、俺たちの会話を聞く監督を尻
目に後半もお祭り状態の試合が開始された。
両チームともキーパーがペナルティエリアより前のポジションに
いる異様な陣形だ。 普通ならばいくらなんでも無茶苦茶すぎると止める監督が見て見
ぬふりをしているのに、俺達は許可を得たものとさらに調子に乗っ
た。
この試合ではもう何でもありだと全員が判断し、敵味方がやりた
い放題なゲーム展開となったのだ。
ワンオンワンの勝負など誰もがフォローに行かず、決着を見守っ
81
ている。
﹁おおキーパー同士がセンターサークル内で一対一をやっている﹂
﹁どっちが真の守護神か決める戦いだな!﹂
﹁⋮⋮キーパーの戦いってそーゆーのだったか?﹂
ここまで全力で遊ぶ試合になっては、俺が今更エゴイスティック
なプレイを隠す必要もない。ボールを持ったら目の前に出てくる敵
を全部抜けるか挑戦だ。
俺も自身の手持ちの中から惜しげもなく高等技術のフェイントを
駆使した自己満足気味のドリブル突破をはかる。
﹁凄ぇ、足利の四人抜きだ!﹂
﹁マルセイユ・ルーレット、シザース、エラシコ、クライフ・ター
ンとどれをとっても高等技術だが、三人抜いた後キーパーまでかわ
しているのに、最後の締めのシュートは外すなんて落ちまでつけて
いる。真似できねぇぜ!﹂
﹁⋮⋮いや真似したら駄目だろう﹂
下手をしたらあの歓迎試合を上回るほど素人っぽい戦いを、小学
生にしては高度な技術で真剣に行っているのだ。
とはいえお互いディフェンスは無視しているので時折とんでもな
いシュートが決まってしまう事もあるのだが。
﹁やばい! キーパーにキャッチされたぞ全員戻れー!﹂
﹁ああ、キーパーのクリアがそのままこっちのゴールに﹂
﹁まだ間に合う! あきらめるな! 追いかけろー!﹂
いつものうちのサッカーとは違い無茶苦茶な試合だった。無謀な
指示に、前代未聞な戦術、そして自分の技を見せつけるようなプレ
82
イ。そんなサッカーが︱︱俺は無茶苦茶楽しかった。
今までのどの試合より走ったが、スタミナ切れよりも大笑いで腹
が痛くなるほどだった。
試合終了のホイッスルが鳴り、点の取り合いに興奮冷めやらぬ皆
が口々に自慢話をする。
﹁くそ、二得点止まりかよ。あと五分あればハットトリックを狙え
たのに!﹂
﹁お前キーパーだろうが、得点王狙ってどーする﹂
などとくだらない馬鹿話に花が咲く。実際には試合は最終スコア
が四対四で終わり、全員で罰を受けることになったのだ。実に僅か
後半の十分だけでお互い三点ずつ取り合うというオフェンスオンリ
ーのまるで草サッカーのような試合だった。しかし、罰ゲームであ
るグラウンド五周走らされるのも全く苦にはならなかった。誰一人
罰ゲームに文句を言うことなく今日の試合について熱く語っている
のだ。
試合で今までになく熱くなった体はクールダウンしてもまだ収ま
らない。高ぶりを醒ます為にも軽いジョグで帰宅しようとすると、
下尾監督に呼び止められた。
﹁うん。足利、お前試合前に比べていい顔になったな﹂ ﹁僕は前からハンサムのつもりでしたよ﹂
監督に対しても軽口で応える。
そのぐらい今日の試合で高揚していたのだ。そんな俺の顔をしげ
しげと見つめていたが、何かに納得したのか喜ばしそうに頷いた。
そして念を押すかのように俺の肩に手を置く。
83
﹁ああ、そうだもう一度聞いておこう。足利、お前最近サッカーし
ていて楽しいか?﹂
﹁︱︱勿論です!﹂
試合前と同じ質問に今度は一点の迷いもなく答えることができた。
俺の返事の曇りなさに監督の口元のしわが一層深くなった。
ああ、まったく、もう。
だから何回やり直してもこの監督にはかなわない気がするんだ。
84
第十二話 自分の力を信じてみよう
あの無茶苦茶な試合を終えた俺は完全に一皮剥けていた。
自分でもそうと判るほど体のキレが増していたのだ。
今までためらっていた場面で躊躇なく前へ出られる。何回もフェ
イントを入れなければ抜けなかった相手を一発で振り切れる。
自分の体がこれほど軽く動くのかと俺は新鮮な感動を味わってい
た。だが考えてみれば走るのもままならない体から、発展途上の幼
い体に意識がシフトしたのだ。リハビリのつもりでビシバシ鍛えて
いても、頭の方が身体能力を把握しきれずに十分に力を発揮できて
いなかったのかもしれない。
故障のある中古車を騙し騙し運転していたドライバーがいきなり
新車を渡されたようなものか。しかもその車がチューンナップされ
て徐々に性能がアップしてるのに、ドライバーが中古車感覚のまま
恐る恐る運転してはレースのタイムが伸びがないのも当然だ。少な
くとも一回は限界までアクセルを踏んで、どこまでやれるのか判断
するのが必要不可欠である。だが俺はもう一度怪我する恐怖にそれ
が出来ていなかった。自主訓練でさえまず﹁怪我しない事﹂を最重
要視していたのだから。
怪我しないように無理は控える、その方針が間違っていたとは思
わない。だが俺は﹁無理を控える﹂ではなく﹁無理はしない﹂人間
になっていたようだ。それって普通の大人ならともかく、サッカー
のプレイヤーとしてはどうなんだ? と疑問符を付けざるを得ない。
俺が憧れ・そして目標としているサッカー界のレジェンド達は、
常人には不可能な試合やプレイを見せてくれたから伝説になったの
だから。それらの伝説を目指していながら﹁無理はしない﹂だと?
俺は馬鹿か! 怪我には注意しても多少の無理はして当然だろう
85
が!
そう気がついた日から、俺の練習における密度と集中力はどんど
ん高まっていった。
俺自身の好調と連動するようにうちのチームも調子がいい。やは
りあの馬鹿試合を経験し、共に笑い合ったせいか全員に一体感が生
まれている。俺などもあの試合前までは﹁お高く留まっている﹂﹁
スカしている﹂というマイナス方面の評価が多かったのが、試合中
に弾けすぎたせいなのか﹁四人抜き、でもゴール抜き﹂だの﹁キー
パーに点を取らせたがる男﹂だのからかわれるぐらいには親しみを
持たれたようだ。その成果だろう、お互いが信頼しあったおかげで
ミニゲームにおいてもパスの繋がりやすさ、お互いのポジションの
連動などが急速に整っていく。
俺もすでにレギュラー陣と認識されているようで、ミニゲームで
はレギュラー側で中盤を任されている。キャプテンとのダブルボラ
ンチなのだがこれが結構相性がいいのだ。ボランチとしてはフィジ
カルに難のあるテクニシャンタイプの俺と、恵まれたスタミナと大
柄な体で小学生離れしたパワーを持つ典型的なクラッシャーである
キャプテンはお互いを補完するコンビだ。
うちのチームがボールを保持している時は俺がやや上がり目のポ
ジションをとり、前にいる司令塔である山下先輩の攻撃指揮のフォ
ローとアクセントを付ける役目ををこなす。この時キャプテンは若
干下がり目でバランスをとっている。
相手ボールの時はディフェンスはあまり真面目にやらない山下先
輩がそれでもディレイで時間をかけさせ、キャプテンがボールホル
ダーをマークして潰す。その間俺はスペースを埋める、あるいは故
意にスペースを開けて罠にかけてパスをカットするそういった役割
分担がきちんと機能し始めている。ミニゲームでも俺達中盤の三人
86
が揃っていればまず負けることがない為、紅白戦のチーム分けに監
督が苦労しているらしい。
監督曰く﹁お前ら三人の連携も深めたいんだが、三人が同じチー
ムだと試合にならねぇ﹂らしい。
俺とキャプテンは素直に賛辞を受け取っていたが山下先輩だけは
ちょっと微妙な表情だった。おそらく彼は自分がスペシャルな存在
だと思っていたのが﹁三人組﹂でまとめて評価されたのが面白くな
かったのだろう。
山下先輩が俺を見る目には僅かに棘がある。まあ試合中はそんな
のに関係なくいいコンビネーションを構築できているから気にはな
らないんだけどね。
とにかく順調にトレーニングは続けられていた。
二ヶ月後に開かれる、日本における小学生サッカー最大の祭典で
ある﹁全日本アンダー十二サッカー大会﹂を目標として。
これは日本の少年サッカークラブの頂点を争う大会で、小学生以
下ならどこでも出場できる為にJリーグのジュニアユースさえ参加
している。当然ながら大会のレベルと注目度は高く、各県一枚の出
場チケットを入手するのさえ容易ではない。
あ、わかりにくい人はこれならイメージしやすいかもしれない﹁
小学生フットボーラーにとっての甲子園﹂だと。そう考えればチー
ムの皆が気合いを入れているのも納得できるだろう。
勿論俺も大会に向けてモチベーションがぐんぐん上がっていた。
今回の俺にとって初めての公式試合で、しかも勝ち続ければ全国の
強豪と戦える可能性もあるのだ。いや、是が非でも勝ち続けて全国
へ行かなければならない。
全国大会でしかも注目度も高いとなれば当然ながらスカウトも大
勢が集まるのだ。彼らの目に留まるような活躍をしなければ、海外
87
のクラブへ行くことなど夢のまた夢だろう。
別に俺はこのクラブに不満があるわけではないが、様々なコネク
ションを持つのは将来において無駄にはならない。
そんな打算もあったが、純粋にこの大会で勝ち上がりたいと思っ
たのも本当だ。サッカー選手であるならどんな試合でも敗北が気に
ならないはずはない、それが大きな大会︱︱しかも過去に何もでき
なかった敗戦だったらなおさらだ。
前回では小学三年当時の俺はスタンドから声援を送るだけしかで
きなかった、だから県予選の準決勝で破れたチームにほとんど貢献
できなかったのだ。しかし今の俺は違う、チームの主力の一人とし
て計算されているはずだ。
俺の力がどれだけチームにとってプラスになっているか証明する
チャンスでもある。県の準決勝を越えれば﹁俺は上手くなって、チ
ームのためにも貢献できた﹂と胸を張れる。まあ、それらを抜いて
も個人的な願望として最低でも全国大会の切符までは掴みたいもの
だ。
この大会で全国に行けばあの男︱︱いやこの時代ではまだ少年か
︱︱に会えるかもしれない。もし俺たちが勝ち進めさえすれば試合
さえ出来るかもしれないのだから。この場合相手がちゃんと勝ち上
がってくるかという心配はほとんどない。なにしろ本来の歴史に従
えば優勝するはずのクラブに在籍しているのだから。
まあ取らぬ狸の皮算用はここまでにして、二月の間に自分が上手
くなる・強くなる為にやれることは全てやらねばならない。早朝練
習にも熱が入るってもんだ。
だから、ここまでは問題がないのだが⋮⋮。 ﹁おい足利、俺を無視すんなよ﹂
88
なぜあんた達が朝っぱらからこの公園にいるんですかね。練習の
邪魔をされた煩わしさを軽く頭を振って追い払う。
﹁別に無視してはいませんよ。おはようございます、キャプテンに
山下先輩﹂
﹁ああ、おはよう。ほら山下もあいさつぐらいはしろよ﹂
﹁⋮⋮おはよう﹂
何か用なら早くしてくれ、個人練習の時間が削れていくじゃない
か。小学校があるので練習の終わりは動かせない為に悠長に話し合
いなどしていたら、組んでいるメニューを消化しきれない。
外に苛立ちが表れない様にしていたつもりだったが、キャプテン
がなだめるように声をかける。
﹁今日から僕達もここで一緒に練習させてもらおうと思ってね﹂
﹁え? 先輩方も自分達で自主練習していたんじゃないんですか?﹂
﹁うん、だけど監督から僕達を分けないとミニゲームをやりにくい
って文句を言われたんだ。だけど中盤のコンビネーションは高めた
いし、どうしようかと思っていてね。そこに監督から足利がこの公
園で朝練をやってると聞いたんで、ここで一緒に練習しようと思っ
て。ね、山下﹂
﹁⋮⋮まあな﹂
俺を睨んでいた視線を外してそっぽを向き、頬を膨らませてリフ
ティングを開始し始めた山下先輩と、おだやかな表情で説明するキ
ャプテンの対比に口元が緩む。本来ならば朝は個人練習でテクニッ
クを高め、放課後のクラブで連携を密にする予定だったのだが監督
の暗黙の誘導であれば仕方がない。全国大会が終わるまでは三人で
朝練に励むのも、まあ悪くないか。ならば、ここは大人の対応をす
89
るべきだな。
﹁判りました、歓迎しますよキャプテンに山下先輩﹂
﹁おお、ありがとうよ。ほら、山下も﹂
﹁⋮⋮アシカとキャプテンが誘うのなら、しょうがないな。やって
やるよ﹂
︱︱キャプテンはともかく、山下先輩がもう少しだけ素直になっ
てくれれば簡単なんだけどなぁ。
多少は面倒に思いつつ三人で練習を始める。いきなり連携を高め
る訓練とかは用意が出来ないので、今日の所は俺の個人練習に二人
が混ざる形だ。
俺がやった後をなぞるように二人が取り組むのだが、細い支柱に
ボールを正確に当てる練習などはなかなかクリアできない。そりゃ
そうだ、俺はこの練習を毎朝二ヶ月間繰り返してきたのだ。簡単に
追随されてはたまらない。
﹁⋮⋮急に出来るようになったりはしませんから、適当な所で切り
上げてくださいね﹂
﹁そうだな、思ったより難しいよ。山下もいいかげんに諦めろって﹂
﹁⋮⋮別にお前等のためにやってるんじゃない。俺が勝手にやって
るだけだ﹂
こんな朝練ではたして仲が良くなるのかどうなのか、ともかくこ
うして全国大会に向けた準備はちゃくちゃくと進んでいった。
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第十三話 全国大会に備えよう
﹁アシカ、後ろ来てる!﹂
鋭い声で警告されるが大丈夫だって。俺の持つ鳥の目は、真後ろ
から忍び寄るディフェンダーをはっきりと捉えている。この鳥の目
という常時発動型のレーダーを装備しているおかげで、不意を撃た
れることは俺にはない。それよりも最近チームメイトが俺のことを
アシカと呼ぶ風潮をどうにかしなければならないな。親しみを持た
れているのか、からかわれているのか判らんぞ。
そんな雑念を抱きながらも、パスを受け取る際にも敵との距離を
見極めて最適な位置にボールをトラップする。基本的には敵とボー
ルの直線上に自分の体をいれるのだ。さすがにゴール前などの敵が
多すぎる場面ではそう上手く行かないが、中盤ならばよっぽどパス
が乱れていなければマイボールとして確保できてロストする事はま
ずない。
ディフェンダーを背負いながらもターンしようとすると、そのタ
ーンする方向へ相手も体を置いてくる。素直に回転すれば俺が苦手
な接触プレイとなりボールを奪われてしまう可能性が高いので、軸
足の後ろにボールを転がして逆回転で抜け出した。
はっ、この程度の緩いマークじゃ今の俺は止められないぜ!
自分でもキャラが変わってるなと自覚してしまうほど最近の俺は
調子がいい。
今日は敵チームであるキャプテンが、俺がフリーになったと見る
や猛然とダッシュして潰しにくる。さすがは我らがチームの誇る中
盤の番犬だな、少しでも危険な香りを嗅ぎつけるとすぐ噛み付きに
91
くる。だがわざわざそれにつき合う義理もない。彼のパワーは毎朝
の練習で嫌と言うほど思い知らされているのだ、接近戦を挑むのは
御免だよ。
まだ一足で飛び込まれる前の間合いでシュートモーションから右
足を鋭く振り抜く。ボールとの衝突を予期してか体を硬くしている
キャプテンの頭上を柔らかな放物線を描きボールが通過した。キッ
クすると見せかける動きとスピードは変えずに、足首の跳ね上げだ
けでボールを宙に浮かせるチップキックだ。
反射的に防御行動をとってしまったキャプテンは脇を抜けていく
俺に反応できない。うん、キャプテンをこんなに綺麗にかわせたの
は初めてじゃないかな。
誰にもばれないようほくそ笑みながら再びシュート体勢に入る。
相手はキャプテンの守備力を信頼していたのか俺の決定力の無さを
信じているのか完全にフリーにしている。幾らなんでも舐め過ぎだ
ぜ、ここからなら外さない!⋮⋮はずだ! たぶんだけど!
自分でもまだシュート能力を完全には信じ切れていないが、ペナ
ルティエリアのすぐ外からシュートを放つ。
ノーマークだったせいか速度と精度を持ったシュートはゴールの
右上隅に突き刺さった。え? 本当に?
うおおー! ミニゲームとはいえ一か月ぶりぐらいのゴールじゃ
ないか? ほら、やっぱり決定力はちゃんと上がってきてる。うん、例え一
月で一得点でも、完全にフリーだったからでも、相手キーパーが補
欠だったからでもとにかく自信を持たなくちゃいけない。
口々に﹁ナイスシュート!﹂と祝福してくれるチームメイトに応
えながら、少なくとも﹁決定力が無い﹂から﹁決定力が悪い﹂ぐら
いにまでは改善されたかなと口の端をつり上げた。くくく、最近は
ミニゲーム中でも顔が綻ぶ事が多いぞ、それだけ余裕を持てるよう
92
になったのだろうがいい傾向だよな。
ミニゲームが終わり、ドリンクを飲んでいるとキャプテンが軽く
肩を叩いた。少し行儀が悪いがボトルをくわえたままで振り向く。
﹁足利は最近調子がいいじゃないか。昨日よりは今日、朝練よりは
クラブのゲームと一日の間にも成長しているみたいだな﹂
﹁ぷはぁ、ありがとうございます﹂
この人に対しては素直にお礼が言える。別にチームメイトで唯一
キャプテンだけが俺を﹁アシカ﹂と呼ばずにいてくれているからで
はない。小学六年という年齢ながらキャプテンとしてきちんとチー
ムをまとめているからだ。うちの下尾監督はどちらかというと放任
主義に近いタイプな分、キャプテンの穏やかな人柄とピッチ上での
献身的なプレイがチームの皆からの信頼を集めている。
﹁たぶん今度の大会でも僕達がコンビを組むはずだ。お互い頑張ら
ないとな﹂
﹁ええ、もちろんです。キャプテン達の最後の大会に花を添えてみ
せますよ﹂
そう、今度の大会が終わったらキャプテン達六学年はクラブから
卒業することになるのだ。夏休みに卒業とは早いかもしれないが、
公式戦に出られるのが最後だからと決められたそうだ。したがって
俺達は秋と冬の大会は六年生抜きで戦う事になる。このクラブはJ
の下部組織とかではなく、小学生育成の為の地域クラブだからその
点ではあまり融通がきかない。
﹁でもクラブを卒業しても顔を出してくださいよ﹂
93
﹁ああ、そのつもりだ﹂
頷くキャプテンにも嘘をいっている様子はない。この人なら中学
に上がってもサッカーを続けるだろうし、コンディション維持も兼
ねて中学に入学するまでは結構な割合で練習に参加してくれそうな
気がするな。
﹁でもまあ全国大会まで勝ち進む予定ですから、先輩方の引退はも
う少し先の話になりますね﹂
﹁足利はずいぶん自信があるんだな﹂
﹁ええ、キャプテンは無いんですか?﹂
﹁いや⋮⋮足利や山下、それにうちのメンバーがいればどことやっ
ても負ける気はしないな﹂
﹁ええ、そうですよ。実際に負けませんしね﹂
俺の言葉にキャプテンは少し驚いたように口を開くと、目を閉じ
て薄く笑った。
﹁ああ、きっとどこにも負けないな﹂
そんな会話をした練習の後のミーティングで、監督による次の全
国大会の県予選への説明がされた。
﹁⋮⋮で来月の頭から県予選が始まる。これからの練習もそれ目標
にしたものに変えるぞ。とは言ってもうちはミニゲームが中心だか
ら、レギュラーメンバーを固定してあとはセットプレーなんかの約
束事を確認するだけだな。
個人練習なんかは今まで通り自分でやれよー。それとスタメンは
完全に決定じゃないし、上に行くと一日二ゲームの強行日程になる
94
から、ベンチ入りの二十人はまず確実に出番があると思っておけ。
わかったな﹂
﹁はい!﹂
全員の揃った返事に満足そうに監督は頷いた。
﹁ではスタメンの発表だ、FWから⋮⋮﹂
とメンバーを読み上げ始める。この時間はいつも胃が痛くなる。
一月前の途中出場だった対外試合とは異なり、俺ははっきりと実力
をアピール出来たはずだ。ミニゲームだって監督が戦力均衡のため
俺がキャプテンや山下先輩なんかとかぶらないよう気を使っている
ほどだ。うん、間違いない。俺は実力が認められている。スタメン
にもきっと選ばれているはずだ。
﹁⋮⋮MFは山下、キャプテン、アシカ⋮⋮﹂
その希望通り俺の名前が耳に入った。いつの間にか監督からもア
シカ呼ばわりされているが、今だけは文句がない。同じMFの中に
当然ながらキャプテンと山下先輩もメンバーに入っている。まあ、
順当なのだろうか、クラブの誰も文句を言わないし不思議そうな顔
もしていない。若干の上級生が俺の名前に眉を顰めたようだったが、
そのぐらいはもう誤差の範囲内でやっかまれるのは覚悟している。
周りには俺は冷静なままに見えたかもしれない。だが、俺は心臓
の鼓動が急に大きくなったように感じていた。腹の底から熱く得体
の知れないエネルギーが血管を通って体中を駆け巡る。今体温を測
れば通常より一・二度は上昇しているんじゃないだろうか。早く試
合をしたくてたまらない、手足の筋肉が動かす許可を待ちかねてピ
クピクと小刻みに震える。もう肉体の方は試合に向けてアイドリン
グをし始めたようだった。
95
︱︱後一ヶ月。この期間を長いとみるか短いとみるかは人それぞ
れだが、俺にとっては長すぎるが同時にまだ時間が足りない。個人
的感情であれば今すぐにでもオーケーだ。チームの一員としてなら
ば連携の熟成にもう少し時間をかけたい。特に俺の場合はFWとの
コンビネーション、つまりスルーパスと裏への飛び出しのタイミン
グを合わせる時間が必要だ。こういったのは練習だけでなく、ミニ
ゲームとかの試合形式で煮詰めなければもっと厳しい本番では通用
しない。
まあ、大会までの一ヶ月退屈する暇はなさそうだ。チームとして
の総合力を高めるだけでなく、俺の個人能力もアップさせなくては
ならない。俺が今までやってきた事がどこまで通用するかようやく
公式試合で測れるのだ、大きな期待と僅かな不安は胸を躍らせ肌を
粟立てていた。
96
第十四話 挨拶の長さに気をつけよう
初夏のぬけるような日差しの中、俺を含め何百人もの小学生達は
ピッチで整列していた。まだ夏本番にはなっていないとはいえ遮る
もののないこの場所では肌が小さな針でちくちく刺されているよう
にひりつく。
﹁⋮⋮であるからして、我が県のスポーツ振興と少年の健全な育成
を⋮⋮﹂
なぜ、サッカー大会なのにお偉方の挨拶があるんだろう。しかも
精神年齢の高い俺だからまだ内容が判るが、小学生にとっては難し
すぎる内容だぞ。このおじさん何のために長時間演説しているんだ?
暑さと疲労感でだんだん頭がぼうっとしてきたら、近くで土を叩
く軽い音がした。動くのも面倒なので何かとぼんやりと観察してい
たら、同じように整列していた選手の一人がうずくまっていた。日
射病だな、あれ。
担架で運ばれる少年を横目で心配しつつ、こいつのせいかと壇上
の男を睨むが、かえるの面に小便なのか全く動じる気配もなく紙束
を読み上げ続ける。まさかこんな大会が始まる直前にこんな敵が現
れるとは⋮⋮。あ、また一人倒れた。
ただサッカーの試合をやるだけなのになんでこんな面倒な事をす
るんだろうな。俺はプロ志望である、純粋にサッカーを楽しめるの
は小学生くらいだろうと覚悟はしていたが、小学生でもこんなもん
かぁ⋮⋮。
いや、だからこそ上手くならなければならない。中途半端な実力
だから周囲に影響されるんだ。例えばサッカーの神様やアルゼンチ
97
ンの神の子だったらどんなわがまま言ってもそれが通るはずだ。だ
からこそ俺もそういったレベルまで上がるべきなのだ、わがままを
言うためではなく自由にサッカーができるように。
自分の長々とした挨拶が、一人のサッカー少年の微妙におかしな
ハングリー精神と上昇志向に火をつけたことなど知らぬまま、頭頂
部の薄い中年が自分の犠牲者の数に満足したのかようやく口を閉じ
て開会式が終わった。
﹁みんなご苦労だったな﹂
開会式から迎える監督の顔にも疲労の影がある。なぜ試合前に疲
れなければならないのか理解不能だが﹁今年はうちのチームは誰も
倒れなかったか﹂と胸をなで下ろしている監督に文句をいっても仕
方がない。この口振りではどうやら毎年数名KOしてるみたいだし
な、あの挨拶男は。誰か止めろよ。
﹁まあ、ともかくうちの試合まであと一時間だから四十分間は休ん
でていいぞ。あとは水分の補給はしっかりすること、のどが渇く前
に十分おきに口をゆすぐ程度でも水を飲んどけよ﹂
﹁はい﹂
やはり
俺の﹁矢張SC﹂における公式戦の初戦はあと一時間後か⋮⋮、
汗ばむ陽気なのにぶるりと体が震える。
監督の言葉があっても、チームの全員の中で休もうする者はいな
かった。開会式で体力をすり減らしたとはいえ、小学生がこんな大
会の出番間近でじっとしていられるわけもない。
皆で誘いあってウォーミングアップの時間まで現在行われている
試合を見学する事にした。俺達が勝ち上がれば次に当たる相手がや
98
っているはずだ。チェックしておいて損はないだろう。
そんな少し軽い気分で観戦をする事に決めたのだ。だが⋮⋮、
﹁⋮⋮なるほど、この試合の勝者であればなんとかなりそうですね﹂
﹁そうだな、問題なさそうだ﹂
キャプテンと山下先輩の会話からも類推できるように、眼下で行
われている試合はさほどレベルが高いとは思えなかった。別に馬鹿
にしているわけでもないし、油断して敗北のフラグを立てたい訳で
もない。
だが対外試合やうちのクラブの紅白戦に比べてさえも、何という
かもさっとしているのだ。テンポが遅いのか外から見る分には展開
が単調に感じられる。正直な話、うちのクラブは結構レベルが高い
んだよな、少なくとも後のJリーガーを輩出するぐらいには。それ
がやり直してからもまた同じクラブを選んだ理由の一つでもある。
やはり恩師がいるからってあからさまにプロになるのは不可能なほ
ど弱いチームに入るのは御免だからな。
これ以上の観戦はあまり意味がないと判断し、自分達の試合に備
え体をほぐすことにした。
スケジュールが詰まっている為にピッチが開放されてから試合が
開始されるまで十分しかない。それだけでウォーミングアップを完
全に済ませるのは不可能だ。その為に隣にある第二競技場がアップ
用として準備されている。芝はないが、軽く体を動かすには問題な
い広さが確保されていた。
こんな所で怪我する訳にはいかないからな⋮⋮。いつもより更に
入念なストレッチで筋の一本一本までチェックしていく。そして足
を大きく広げ体重をかける、いわゆる股割の姿勢で静止した。これ
をやり始めた頃は手を付くぐらいまでしか足が開かなかったが、今
では股間と地面の間が僅かに空いているだけだ。毎日の練習後と風
99
呂後のストレッチの成果である。これだけ体が柔らかくなればプレ
イの幅も広がるし、怪我する可能性も少しぐらいは減少すると期待
できる。
黙々とウォーミングアップで体に火を入れていると、熱と共に笑
みが浮かんでくる。手足は勝手に踊りだしそうに、心は大声で笑い
だしたくなってくるのだ。沸々とテンションが上昇していって仕方
がない。アップの手順を終えて大きく息を吐くと、口から出たのは
炎のように熱い息吹だった。早く始まってくれないかな。
﹁じゃあ、作戦通りのスタメンとフォーメーションでいくぞ。油断
は禁物だが、おそらくはいつも通りにやれば問題ないはずだ。相手
を見下さず、焦らず、怪我せず試合してこい。いいな﹂
﹁はい!﹂
﹁よし、行って来い!﹂
下尾監督の指示終わり、俺達の一回戦がようやく始まろうとして
いる。俺もポジションにつこうとしたら監督に手招きされた。
﹁アシカは三点以上差がついたら前半で引っ込めるぞ。明日も試合
があるんだし、まだ体の出来上がってないお前がデビュー戦でフル
出場はきついだろう。その代わりエンジン全開で前半の二十分でス
タミナを使いきるぐらいに暴れろよ﹂
と背中を押された。小学生を対象にしたこの大会は前半二十分、
後半二十分となっているが、確かに俺の今の体力ではフル出場は難
しい。無理すれば出来ないこともないだろうが、これからの連戦の
スケジュールを考えると止めておいたほうが賢いだろう。
その初戦の相手はあまり有名ではない新興のクラブで、レベルも
100
それほど高くはないという話だった。別段エリート意識に染まった
つもりはないが、確かに試合前のピッチ上での動きを見る限りでは
実力のあるチームが持つ迫力は感じられない。
これならば前半だけでも勝てる⋮⋮そう口元を緩めた瞬間俺は、
背筋に冷たい物が走り右膝に電気が流れたような感覚を味わった。
﹁うあ!?﹂
小さな叫びをあげた俺は怪訝な表情で振り向いたチームメイトに
何でもないと手を振った。
今の感覚は肉体の痛みではない、自分が緩みきっているのに気が
付いた恐怖心の発露である。自分がどれだけ思い上がっているのか、
頭ではなく体の方が理解して警告してきたのだ。
何回同じ間違いを繰り返せば気が済むんだ俺は! まだ公式戦デ
ビューすらしていない餓鬼が開始のホイッスルが鳴る前から勝った
気でいるだと? どこまで増長するつもりだよ。
天を仰いで目を閉じる、視界は闇に閉ざされるが脳裏のスクリー
ンには敵味方合わせて二十二の光点が表示されている。そのまま思
いきり息を吸い込むと瞼を開いた。
瞳に映るのはただの点ではなく二十一人の少年の姿であり、その
全員が準備に余念がない。試合に向け集中を高めているその姿に対
し、データだけ並べてすでに勝負のついたつもりでいる自分がたま
らなく小さく感じられた。
俺は胸に溜めていた息を大声と共に吐き出した。
﹁絶対に勝つぞー!﹂
いきなり叫び声をあげた後輩に驚いた様子だったが、我に返った
キャプテンは率先して﹁おう!﹂と応える。
101
よし、今の雄叫びで気合いが入った。自分たちが有利との情報を
忘れるつもりはないが、これから戦う敵を全力でなければ倒せない
強敵と想定する。デビュー戦で手を抜くとおかしな癖がついてしま
いかねないしな。
この試合はもらったとか馬鹿な事を考えている暇はもうない。こ
れから始まるのだ、そしてこの試合から始まるのだ。
試合開始の笛が高らかに鳴らされた時、体内にあるアクセルはす
でに底まで踏みつけられていた。フルスピードで加速する俺にとっ
て敵チームの動きはゆっくりとしか感じられない。いや実際に今ま
で戦ってきた対外試合や紅白戦の相手なんかよりもテンポが遅いぞ。
それがまだ油断しているせいでそう感じるのか、それとも俺のレベ
ルが上がっているせいなのかとりあえずは全力でテストさせてもら
おうか!
︱︱試合中、俺は誰にも止められなかった。
前半終了のホイッスルと共に俺はピッチを引き上げる。ドリンク
をがぶ飲みしていると、監督に﹁お疲れ、よくやったぞ﹂と肩を叩
かれた。どうやら今日はこれでお役御免らしい。
後半に備えて戦術を話し合っている中で、ゆっくりとクールダウ
ンを始める。後半も出場するレギュラー組と途中出場を狙いせわし
なくダッシュを繰り返すベンチスタート組に挟まれて、一足早くダ
ウンをし始めた俺に対しては皆がなんだか遠巻きにしているような
微妙な雰囲気で接している。
結局七対一のスコアで初戦を突破した矢張SCの二回戦は明日の
午前である。くじ運良く、後五回勝てば全国への切符に手が届く。
102
今日は上手くいったが、最後まで気は抜けないな。
俺の公式デビュー戦は前半のみの出場、五アシストの記録で幕を
閉じていた。
103
第十五話 試合をコントロールしてみよう
昨日の快勝から一夜明け、今日も二回戦の一試合が行われる。
本来は成長期の体を考えてもっと余裕を持ったスケジュールにし
たいのだろうが、全国大会となるとそうもいかない。
全国各地から代表を集める為には、どうしても夏休みなどの長期
休暇中でなければならない。優勝校ともなると一週間も拘束される
のだからこれは仕方がないだろう。そして、全国大会が夏休みにあ
ると決定すれば、当然ながら地方予選はそれ以前に行われなければ
ならない。そして、小学生は学業優先の建前があるために予選が行
えるのは土日だけである。そういった事情を考えれば七月は毎週末
に試合が︱︱勝ち進めば午前と午後の二試合︱︱行われるハードス
ケジュールもやむなしという訳だ。
ま、そんなスケジュールなんかは俺達に関係ない。次の試合に集
中するだけだ。昨日の試合では何本か外したシュート以外は全てい
いプレイで、その感触は未だに残っている。前半だけで引っ込んだ
からか疲れも全く残っていない、今日もまたサッカーを楽しむ事が
そうだ。ふふ、これから試合だってのに笑みが漏れてしまうな。
◇ ◇ ◇
ちくしょうが、俺は目の前の小僧を睨み付けていた。こいつさえ
いなければ︱︱前半残り五分の段階で三対ゼロで負けている分際だ
が︱︱もう少しはいい勝負がでいたはずなのだ。せっかく小学生と
しては最後の大会に出場してやっとの思いで二回戦に進んだのに、
なんでこんなルーキーが出てくるんだよ!
104
相手の矢張SCは県下でも有名である。去年のこの大会でも準決
勝までいったって聞いていた。だから覚悟はしていたし、エースっ
ていう十番にボールが渡ると俺ともう一人の二人がかりのマークを
つけたのだ。だけどこの三十九番までがこんなに上手いなんて聞い
てなかったぞ!
攻撃的MFの十番のマークがきついと見るや、この三十九番が即
座にポジションを上げて攻撃のタクトを振り出しやがった。こっち
は十番にマークを二人も付けているんだ、新しく前線に来た奴に廻
す人間なんているはずがないだろう?
こっちのマークが緩いのをいいことに好き放題やりやがって、う
ちの守備陣は崩壊状態だ。
まだ小柄で幼ささえ残っている小僧︱︱アシカって呼ばれてやが
る︱︱ほどやりにくい相手は今まで俺は当たった事がなかった。 何が厄介かって、アシカは同じパターンの攻撃を続けないのだ。
普通は得意な攻撃パターンがあってそれが潰されたら、他のパター
ンや戦術に移すものだろう? こいつ最初の攻撃ではサイドDFの
後方にスルーパスを通して、MFのサイドアタックからのクロスで
長身FWに点を取らせる演出をしたかと思えば、お次の攻撃は自身
のドリブルによる中央突破とDFの裏へのスルーパスで二点目だ。
一点目のサイド攻撃で外を警戒していたとはいえ、中央にスペー
スを与えたら躊躇なく自身が突っ込んで来やがった。アシカは特別
に足が速いって訳じゃない、スペースとタイミングの見つけ方が絶
妙なのだ。だから、ドリブルを止められない。またはアシカを止め
にいったらよりゴールに近い相手をフリーにしてしまう。まるでこ
っちの陣形とカバーリングまで丸判りの様な嫌なポイントばかり正
確に突いてきやがる。
エースに二人がかりのマークをつけた上で、さらにサイドアタッ
クと中央突破のどちらも止められるだけのディフェンス能力はうち
105
のチームにはない。だからふがいないがズルズルとDFのラインを
下げて、カウンターを狙うしか道がなくなってしまった⋮⋮すでに
二点も負けているのに!
だが、ここまで深い防御陣だとさすがにスルーパスは通せない。
アシカの攻撃もここまでだろうと心のどこかで安堵する。逆転しよ
うと思う反骨心よりも、これ以上点を取られての惨めな敗戦を嫌が
る気持ちの方が強かった。
しかし、かなり腰の引けた深いDFラインを前にしたアシカは、
どことなく憂鬱そうな表情でロングシュートを撃ちやがったのだ!
いきなり撃たれたシュートに反応できたのはうちのチームではキ
ーパーだけだった。必死の形相でジャンプすると枠の中へ飛んでき
た鋭いシュートを叩き落とす。
ナイスキーパーの声が出かかったが、すぐさまこぼれたボールを
相手のFWに押し込まれて何も言えなくなった。まるでアシカのシ
ュートが入らないのが判っていたかのような機敏な反応で、何人も
がうちのゴール前に走り込んで来ていたのだ。アシカがシュートを
撃った瞬間にボールウォッチャーになってしまったDFでは勝負に
ならない。
三点の起点となったアシカだがなぜかあまり嬉しそうではなかっ
た、首を捻り﹁あれでも入らないのか⋮⋮、というかあいつら俺の
シュート全然信用してねぇな﹂と舐めた事を呟いていやがる。そう
かい、そうかい。俺達みたいなチーム相手じゃロングシュートでも
入って当然なのかい!
くそ、腹の底が屈辱で熱い。どうにかしてこいつの悔しがってい
る顔を拝んでやる。
さっきのシュート関連の時以外は、にやけた表情でボールを操っ
ているアシカを絶対に止めてやる。
唇を噛んで悔しさを押し殺し、アシカの次の攻撃に備える。
106
点を取られたのだからもちろんマイボールから始まるのだが、残
念ながら、もうほとんどが俺達のチームの前線は攻撃の形になって
いない。
それもまたアシカと呼ばれる少年のせいだ。こいつが中盤のパス
をカットしまくるのだ。
一見してどこを守っているのか不明なポジションにいるのだが、
スペースが空いているとパスをすると必ずこいつに引っかかる。た
だでさえ向こうのキャプテンが無尽蔵のスタミナでボールを追いか
けまわしているのに、やっとプレッシャーから逃れたと思ったら、
どこからともなく現れたアシカにボールをかっさらわれているのだ。
こっちはまだシュートすらまともに撃たせてもらえない。中盤で
ボールを奪われるリスクが多すぎるから自然とロングボールを放り
込むだけになってしまうのだ。だが向こうの攻撃にDFラインが下
がってしまっている状況では、いいパスも出せずラインの押し上げ
もままならない。当然ながら攻撃も淡泊になり、すぐにまた敵の攻
撃を受ける羽目になる。もうマイナスのスパイラルが止まらない。
だからこそ、この中心となっている三十九番を止める事で流れを
取り戻さなくては。
予想通りゴール前に運ぶ事さえできずにボールを敵に奪われた。
ボールを保持した敵は素早くアシカへとパスを回す。ふむ、やはり
ずいぶんと信用されているみたいだな。となればこいつからボール
を奪い返してのカウンターが決まれば相手もかなり動揺するはずだ。
是が非でもこの一対一に勝利しなくては。
パスを受けたアシカの肩にチャージをかける。後ろからだがファ
ールにはならない程度に圧力を加え、小柄なこいつが苦手だろう押
し合いのパワー勝負にもっていく為だ。
だがそのチャージをアシカの奴は受け流しやがった。まるで後方
107
から押されるのは折り込み済みですよと言わんばかりに、接触する
寸前に俺が押す方向へボールを持ったままステップを踏んだのだ。
こうなるとぶつかるつもりだった俺の方がバランスを崩してたた
らを踏んでしまう。慌てて体勢を立て直すが、その時にはすでにア
シカは前を向いてこっちに近づいて来るところだった。
あれ? ボールは?
一瞬どこに行ったのか探そうとした視界の下にちらりとボールの
影が映る。こいつ股抜きしやがったのか! 下を向いて確認しても、
もうボールを止められない。せめてアシカを体で止めなくてはと覚
悟を決めるが、俺が下を向いている間にもう横を通過してやがる。
止められない。それどころかこんなにあっさりと抜かれるとは。
速度ではなく先手先手のタイミングで俺を思うようにコントロール
した突破だ。
屈辱に顔を歪めてカードを貰う決意をした。もう退場になろうと
こいつをここで止めてやる。
猛然とアシカの後ろ姿を追いかけるとその足に狙いを定める。さ
すがに後ろから足裏で蹴るのはひどい怪我させてしまいかねないの
で、タックルでボールではなくすねを思い切り掬ってやる。これな
ら派手に転ぶかもしれないが打撲ぐらいですむだろう。怪我はしな
くともリズムは崩せるはずだ、これも全てお前が頑張りすぎるのが
悪いんだ。
スライディングした瞬間にアシカがそれを待っていたようなタイ
ミングでサイドステップした。俺はもう膝がピッチについて座り込
んだような状態でここからはまともに動く自由度はない。逃げてい
くアシカに向かって必死で足を伸ばすがすでに届く範囲から抜け出
している。
アシカはちらりと横目で俺を確認すると非難の色を瞳に映し、薄
108
い笑みを口元に刻んでまたドリブルを続行する。
あいつは後ろにも目があるのかよ! 今のは背中の死角から、し
かもファール覚悟のタックルだぜ!? どうやって察知したんだよ、
俺の気配でも読んだってのか?
呆然と尻餅をついたままでアシカを見送っていると、あいつは十
番にパスを出した。ああ、俺がマークを外れたから少しはプレイし
やすくなったんだろう。十番が受け取ると同時にすっと手を挙げて
ペナルティエリアへ進入した。
ただの壁パスのワン・ツーだが、このタイミングだとDFライン
を崩す綺麗なスルーパスにもなる。﹁危ない!﹂と俺が警告を発し
たが、事態はそう素直に進まなかった。
パスを返すかと思った十番が強引に自分でシュートを撃ったので
ある。俺が離れたとはいえもう一人はきちんとついていたにも関わ
らず、ダイレクトであったがしっかり抑えの効いたパワフルなシュ
ートだった。
やられたと目をつぶるが、耳からは容赦なくネットを激しく擦る
音と相手のチームの歓声が届く。
﹁ナイスシュート!﹂﹁やっと目立てたな!﹂﹁何で俺に返さなか
ったんですか?﹂﹁さすが十番だ、おりゃおりゃ﹂
﹁痛ぇーぞ、やめろって。叩くなって監督も言ってただろうが!﹂
ここまでか⋮⋮。相手の無邪気な喜びように紛れて響く前半終了
の笛に、やっと半分が終わったのかと呟いた。時間が少なくなるの
は追いかける立場としては不利なはずなのに、もう俺は早く終わっ
て欲しいとしか思えなかった。
その後はもう特に語るべき事はない。後半はあのアシカって小僧
109
は出てこなかったのだ。次の試合に向けて体力を温存させるのか、
それとももしかしたら俺のラフプレイで壊されないように交代した
のかもしれない。だが奴一人がいなくなったからといってここまで
傾いた形勢に影響はなかった。結局は総合力の差というべきか、そ
の劣勢を覆せずにずるずると敗戦を喫してしまった。
試合後の握手と勝者への激励の時に︱︱さすがにプロでもなけれ
ばいちいちユニフォームの交換はしてられない︱︱アシカと呼ばれ
る三十九番に近づいた。
﹁悪かったな﹂
他人には聞こえないようにぼそっと呟く。﹁ん? 誰だこいつ?﹂
と不思議そうな顔をしていたが、俺の背番号を確認してその鋭い目
を瞬いた。
﹁いいえ、試合中のアクシデント︱︱特にバックチャージでの怪我
には注意しているんであれぐらいなら気になりませんよ。ファール
だったかもしれませんが、危険なプレイでわざと怪我させるつもり
だったとまでは言えませんしね﹂
と笑顔を作るが瞳の奥は笑っていない。続けて﹁狙って怪我させ
る奴は相手が再起不能になったらどうするつもりなんですかね、そ
んな奴は死んだ方がいいですよ本当に﹂と低く罵る。どうもこいつ
にとって良くないスイッチを押してしまったようだ。
﹁ああ、これからは気をつける﹂
﹁お願いしますよ﹂
﹁それで一つ教えて欲しいんだが、お前はどうしてそこまで上手く
なったんだ? やっぱり才能なのか?﹂
110
﹁いえ、才能ではないでしょう⋮⋮どちらかといえば諦めの悪さと、
後はサッカーをするのが楽しくて仕方のないサッカー馬鹿になれた
からですかね﹂
どうもアシカは本心からそう思っているようだった。これだけの
技術を持っているのにおかしな事におごりがない。とても下級生と
は思えんぞ。
﹁そうか、俺もそんな風に楽しくプレイできるよう頑張ってみる。
また試合をしようなアシカ﹂
﹁ええ、それは構いません⋮⋮それともう一つだけ教えておきます
が、俺の名前は足利です﹂
﹁そ、そうだったのか﹂
111
第十六話 次に向かって話し合おう
土日と続けて公式試合を二つもこなした俺は﹁よし、やれる﹂と
確かな手応えを感じ満足していた。
だが、そうでもない人もいるらしい⋮⋮具体的には今目の前にい
る我がクラブのエース様とか。
﹁おいアシカ。昨日の試合はどう考えても俺へのパスが少なすぎた
んじゃないか?﹂
﹁仕方ないじゃないですか、マークが二人もついていたんですから﹂
﹁だけどな、もっとこう、何というか⋮⋮﹂
山下先輩は頬をふくらませていささか乱暴な扱いで足下のボール
をこねくりまわす。こいつは表情と同様にボールの動きの荒っぽさ
が納得できないと感情をだだ漏らしにしているな。
﹁まあまあ、足利もわざとお前にボールを廻さなかったんじゃない
し、ぐちぐち後輩を苛めてないで次の試合をどうするか考えようか﹂
と朝練の前の話し合い続行を進めるキャプテンは本当に苦労人だ。
確かにここで無駄なお喋りに時間を費やしてもしょうがない。これ
からも続く試合に向けて相談するべきだな。
﹁でも、これから先に進むとやっぱり十番の山下先輩はマークされ
ると思いますよ﹂
﹁うん、僕もそう思う。うちはFWより中盤が注目されているから、
攻撃的MFのポジションにいる山下は間違いなく最重要ターゲット
になる﹂
112
﹁ってことは次からもあんなマークがつくのかよ﹂
うんざりと山下先輩がボールを上空へ蹴り上げる。きっちりとコ
ントロールされているので公園外には出ないが、もう少し落ち着い
てくれ。
﹁うーん、そうでもないかもしれないな﹂
﹁ん、どうゆうことだ?﹂
﹁さあ?﹂
自分で言っておきながらそれを否定するキャプテンに、落ちてき
たボールをトラップした先輩と二人で首を捻る。こんな咄嗟の場合
には山下先輩とは息が合うんだよな。そんな俺達にキャプテンは﹁
判ってないなぁ﹂とため息を吐く。
﹁足利がこれまでの二試合で目立ち過ぎたんだよ。僕が相手チーム
にいたら山下と足利を間違いなくマークして潰そうとするね﹂
キャプテンの言葉には、自分より注目されている後輩に対する自
嘲の念がほんの僅かに混ざっていたようだった。
﹁いや、俺が敵チームだったら一番厄介だと思うのはキャプテンみ
たいなタイプですけどね。ねえ山下先輩﹂
﹁え? お、おぅそうだな﹂
﹁足利はどちらかというと攻撃寄りだからそう思うのかもな、それ
と山下はそこまで心がこもってないなら相槌を打つなよ﹂
とキャプテンは年齢に似合わないほど深みのある苦笑いする。良
かった、拙いフォローだがとりあえずは機嫌が戻ったようだ。これ
から先を見据えれば彼のテンションが下がっていいことなど一つも
113
ないからな。
それと彼の言う通りだとすると俺にも密着マークがつくのか、い
やー本当に面倒だなぁ⋮⋮。まいったなぁ⋮⋮。
﹁おい、アシカ。何にやけているんだ?﹂
﹁え?﹂
﹁うん。足利がいつもボールに触っている時の初孫を見る爺さんの
ような表情してたな﹂
どーゆー表情だよ。二人の言い草にイラッときながら口元に触っ
て確かめると、確かに口角が上がっている。いかん、敵に警戒され
るプレイヤーだと聞かされて胸の高まりを抑えきれていないのだ。
だって敵からノーマーク状態って楽ではあるけど、相手にされて
ないみたいで悔しいじゃないか。今までの対戦相手もある程度時間
が経過したら、俺を無視できないと悟ってマンマークをつけたりと
対応してきた。だが、試合が開始される前から俺専用に対策を立て
てくることなどなかった。ま、そりゃそうだよな。今大会が公式戦
デビューなのだ、俺の事を知っているのはうちのクラブの関係者ぐ
らいだからな。
だからこそ嬉しい。俺の能力を下尾監督やチームメイトが高く評
価してくれているのは判る。だが第三者のひいき目なしな観察で俺
が警戒に値するプレイヤーだと認められたのなら、それは一つの勲
章だろう。
俺が自分の表情を取り繕えないでいるとキャプテンがまた疲れた
ような息を吐く。大丈夫だろうか? キャプテンは俺や山下先輩と
一緒だとため息が多いような気がするからちょっと心配だ。
﹁とにかく次ぐらいから足利もマークがきつくなってくるのは予想
しておくべきだな。山下と足利は少し距離を縮めてダイレクトプレ
114
イを多めにして相手からのプレスをかわそうか﹂
﹁俺は二人ついてたマークがアシカと分散して一人になるなら個人
技で抜けるぞ。アシカにもマークがつくならかえって距離をとって
一対一で勝負する状態を作った方がよくないか?﹂
﹁⋮⋮うん、それもいいですね。キャプテンと山下先輩のどちらの
意見も悪くありません。相手のフォーメーションと状況によってお
互いの距離を判断しましょうか﹂
﹁そうだね、二人の後ろは僕がフォローする。まずいと思ったら一
旦僕にボールを返してくれれば組み立て直すよ﹂
キャプテンと山下先輩の意見は正反対だがどちらがいいともこの
段階では判断できない。マークしてくる相手を簡単にかわせるなら
一対一で、手強いならコンビネーションで崩すべきだろう。理想と
するのなら未来のスペインにある名門チームのようなパスサッカー
ができればいいのだが、小学生に世界最高峰のチーム戦術をこなせ
というのは無茶だろう。せいぜいが参考にするぐらいだ。
だから後ろにはキャプテンが控えていてくれるのが、地味に凄く
嬉しい。キャプテンは中盤の掃除屋またはボールコレクターと言う
べきか守備に重点を置いたプレイが持ち味だが、別にテクニックが
ないわけではない。いやむしろレギュラークラスでもボールさばき
は上位に入る。しかし自分のプレイスタイルには合わないとバッサ
リ切り捨て、シンプルな汗かき役に徹しているのだ。
俺達の緊急バックパスでも十分に堅実なボール回しをしてくれる
はずだ。
﹁まあキャプテンを保険にできるなら安心できますね﹂
﹁俺についてはそんな心配いらないけどな!﹂
自信満々のどや顔の先輩にため息を吐く。ユニゾンしたかと思え
ば隣のキャプテンもこっちを見て苦笑いをしていた。そうだよな、
115
山下先輩との付き合いはこの人の方がずっと長いんだ。苦労してま
すねと目で語りかければ、微妙な表情で顔を逸らされた。なんだろ
うこの﹁おまえが言うな﹂的な反応は?
﹁ごほん。じゃあ最初は山下の意見を元にしてやってみようか。個
人で突破できるならその方が手っとり早いしね。予想以上に相手が
人数かけてきたりしたら、三人の距離を縮めてワンタッチパスで圧
力をかわすのがいいと思う﹂
﹁ういっす﹂﹁了解﹂
キャプテンの提案は俺としても納得できる物だった。山下先輩は
自分の意見が通り、また一対一の勝負を存分に戦えそうな予感に顔
を綻ばせて賛成している。
﹁それでは、とりあえず今日の朝練はワンオンワンの勝負を負け抜
けでやりましょうか﹂
﹁お、それでいいのか? ずっと俺がプレイすることになるけど﹂
﹁⋮⋮じゃあ山下と足利からでいいよ、勝ち残りの方と僕とってこ
とにしよう﹂
と苦労性のキャプテンを残し、まずは山下先輩と一対一で勝負す
ることになった。この二人はクラブでもトップクラスの実力なので
一騎討ちするといい練習になるのでラッキーだ。
﹁では、山下先輩の先攻でどうぞ﹂
﹁へへ、すぐにキャプテンの出番ですから準備していてくださいよ﹂
と実に小物臭い台詞と共にドリブルで突っ込んでくる。俺達が朝
練でやっている一対一のルールは簡単だ。決められた鉄棒の間にボ
ールを通せば攻撃側の勝ち、その前にボールを奪えば防御側の勝ち
116
だ。
単に負けたくないだけならば鉄棒の前でキーパーのように守備し
ていればいいのだが、それはみっともないと暗黙の裡でしてはいけ
ないことになっている。
俺も前へ進んで山下先輩を迎え撃つ、二人ともどちらかといえば
テクニック派で接触プレイを嫌う傾向にある。そのせいかいつもよ
り対峙している間合いが遠い、ワンステップで飛び込める距離を僅
かに外した睨み合いだ。俺が試合でディフェンスをする場合は鳥の
目を使って、味方のDFと連携するのが基本だがこの場合では通用
しない。
深く腰を落として相手の動きを伺う。山下先輩も似たような体勢
でじりじりと間合いを詰めてくる。試合と違ってどれだけでも時間
をかけられるのがこの一対一だ、実戦における仲間の援護を待つデ
ィレイなど意味がないとこちらから状況を動かす決意をした。
スペックで比較すると俊敏性は互角にしてもトップスピードは向
こうが上、テクニックや経験では前世込みのこっちが勝るがフィジ
カル面においては二歳の年齢によって大きく差をつけられていた。
まあパワーに関しては向こうの方が上でも、山下先輩が自分から
チャージする可能性はほぼゼロなのであまり関係はない。
総合すると肉体面での優位な先輩と経験や技術とメンタルといっ
た方向で有利な俺といった図式だ。ざっくりと考えるなら一対一で
戦うならばほぼ互角だろう。
性格的に待つことが苦手な山下先輩に対して正面から飛び込む。
もちろんこれはフェイクでボールを取るのが目的ではなく、先輩の
リアクションを期待しての行動だ。案の定俺の動きに反応してこっ
ちを抜き去ろうとするようだ。
ならば右? 左? どっちから来る? 山下先輩の利き足である
右足が右に振られる。俺から見ると左か︱︱じゃない、これはボー
117
ルをまたいでいるだけでボールは動いていない。では右︱︱でもな
い、先輩の視線と右膝の角度を考えると︱︱股抜きだ!
瞬時に左足を後ろにずらし、体の真下にあるボールを引っかける。
よし、ボール奪取だ!
顔を上げるとボールを残したまま勢い余って俺を追い越した山下
先輩が、どこかばつの悪い表情で俺を見つめていた。あ、今﹁チッ﹂
って舌打ちしただろう。﹁この小石がなければ﹂ってクレーム付け
るなよ。
微妙な空気になりかけた俺達二人にキャプテンが声をかける。
﹁それじゃ、今度は足利が攻撃側で僕が守備だね﹂
﹁え? あ、はいそうです﹂
こんな雰囲気でものんびりした態度で割って入れるキャプテンは
やっぱり大物なのかもしれないな。
と、そんなことより久しぶりのキャプテンとの一対一だ、気合い
を入れてやりましょうか!
キャプテンと山下先輩の二人はレベルの高い︱︱しかもまったく
タイプの異なるプレイヤーである。自分より年が上で当然ながら体
格もパワーも相手の方が上だ。将来海外でプレイすることになれば
周りはみんなこんな感じになるんだろうな。
現在一緒に練習出来るクラブの中では最も高い技術を持ち、さら
に正反対の個性の選手を相手に何度も一対一の勝負を出来るんだ。
今までの自分なりに計算していたトレーニングとは若干道を違える
が、この二人との特訓は吸収力の高い今の俺にとってもかけがえの
ない財産になるのだった。
118
第十七話 後ろ向きでも役に立とう
キャプテンの言うことに間違いはないな。
それが三回戦を迎えた俺がまず感じた印象だった。対戦相手と対
峙しての感想としてはややずれているかもしれないが、キャプテン
の言った通りだというのが正直な俺の思いであった。
なぜなら試合開始直後から密着マークが一人ついてきたのだ。俺
専用のマーカーとは敵さんから脅威と認められたってことか、やっ
ぱりまだどこか面映ゆいな。頬をぽりぽりかいて山下先輩の方を伺
うと、こちらも想定通り先輩にもマークが影のようにくっついてい
る。
まあ、このぐらいは朝練でのシミュレーション内である。ただこ
こで問題になるのはこのマーカーがどれぐらいの実力の持ち主かだ
よな。試す意味で少し揺さぶってみようか。ボールを持っていない
状態だが、素早く二・三歩ダッシュしてマークを引き剥がそうとし
てみる。
ふむ、なかなかいい反応で遅滞なく追いついてくるな。
俺をマークしているのは背番号が二十番で細身の少年だ。ほとん
どゲーム展開には目もくれず、俺の動向に注意を払っているようだ。
うん、どうやら対人マークの専門家っぽい感じだな。ボールテクニ
ックは判らないが身体能力は高そうだ。 だがいくら俺にだけ神経を集中していても、仲間とのコンビネー
ションまでは気が回らない。俺を前に向かせないのには一生懸命だ
が、DFラインから廻されるパスは比較的楽に受け取れた。
ボールを持ったままバスケットのゴール下のように背中で押して
もそれ以上の力で押し返された。ターンしようとすると回りたい方
119
へと体を寄せられる。ここまでべったりと張り付かれるとちょっと
厄介だな、テクニックを披露する前に圧力で潰されそうになる。軽
く舌打ちして一旦ボールをキャプテンに戻す。
背後からの圧力がすっと消えた。ボールのない所での接触プレイ
はこの年代では厳しくファールを取られる、その対策のためにボー
ルを持った時にだけ激しくプレッシャーをかけるのだろう。
よし、大体判ったな⋮⋮。それじゃ始めようか。
マークを引きつれたまま十メートルほど前へ進む。このボールを
持ってない段階でゆっくり歩くスピードでポジションを上げる俺を
止める手立ては相手にはない。ボールを持っていれば厳しいチャー
ジやタックルができる。走っているなら﹁ついうっかり﹂足をかけ
てしまう事もあるかもしれない。
だが散歩のようにのんびり進む俺に対してはマークについた二十
番が何か問いたげな表情でくっついて歩くだけだった。そりゃそう
だよな、マークしている相手がにこにこ笑いながら歩いて自分達の
ゴールへ向かったら何を企んでいるのか気になるよな。そうなるよ
うにあえて満面の笑みを浮かべているんだから不安に思ってもらわ
なければ割りに合わない。
マークマンがどこか怯えた雰囲気を漂わせ始めた時﹁勝った﹂と
俺は思ったね。だが、試合後のチームメイトによると﹁噛み付きそ
うに牙を剥いたアシカが相手の喉笛の辺りを見ながら歩み寄ってい
るように﹂見えたらしい。俺ではなく相手に同情していたようだ。
普段はへらへらしていると指摘されるのに、作り笑いはどうにも苦
手だな。
それはともかく俺は本来のポジションの一つ上︱︱つまり山下先
120
輩の隣辺りまで上がって来ていた。ここまでくるとマークしていた
二十番だけでなく、他のDFからの視線も厳しい。
その最中俺はFWの二人に良く見えるよう右手の人差し指と中指
を突き出した。相手チームからの視線がいぶかしげな物に変わり、
FW陣は合点と頷く。
FWが了解したのを確認した俺は後ろを向いて﹁キャプテン﹂と
ボールを要求する。上がったせいで若干距離のあいた位置からでも
さすがキャプテンである、正確で早いパスが俺の足下にもたらされ
た。ここでも二十番はボールを取りに来ないのは予想通り。背後に
くっついて前を向いてプレイさせない事に全力を注いでいる。ここ
まで一つのプレイを潰すのに専念されたらいくら俺でも前は向けな
い。
だから俺は一切前を向かずにヒールでDFラインの裏にスルーパ
スを出した。パスを受けるトラップでワンタッチ、即ヒールキック
のツータッチでゴール前に出したのである。FWの位置など確認し
ていない、ノールックというのもおこがましい山勘頼りのプレイと
しか敵には思えなかっただろう。
だが俺には前線のポジションを全てチェックできる鳥の目があっ
たのだ。味方であるFWの位置は勿論、敵DFの並びまでもが正確
に脳裏に映し出せる。ヒールキックという点以外は普通のスルーパ
スを通すのと大差ないのだ。
そこで問題となるのはタイミングだけだが、これも事前に指を二
本立てて﹁ツータッチでスルーパス﹂と知らせておいた。おかげで
FWは俺がトラップした瞬間にダッシュをかけて、パスが出るぴっ
たりのタイミングで最終ラインを破っていた。
後はゴールに流し込むだけだ。俺が振り返った時には全てが終わ
り。点を取った先輩FWが雄叫びを上げて走りよって来るところだ
った。それじゃ、また祝福にいきますか。先輩の頭や背中を公然と
121
叩けるいい機会だしね。
先制点を取られた相手は一層マークを厳しくしていた。とはいえ
人数は同じ十一人だ、俺と山下先輩に過剰なプレッシャーをかけれ
ば他の所に穴があく。ほら、この場合はサイドだな。
中盤の底を支えるボランチの二人とDFまでが俺達を包囲しよう
としてくるのだ、外が緩くなるのも当然だろう。次に俺にボールが
渡ったらサイドMF︱︱すでにウイングと呼ぶべきポジションにま
で上がって来ている︱︱にまたしてもヒールでパスを出す。
サイドの深い場所で俺からのボールを受け取ったMFには、ディ
フェンスが追い付いてこない事もあり、中央をよく観察してからセ
ンタリングを上げるだけの余裕があった。
その間に俺もニアサイドであるゴール正面よりもセンタリングを
上げるのに近い方へと駆けつける。これももちろん鳥の目によって
一番守備の人数が手薄なポイントだと判断しての行動だ。だが、少
しそれは甘かったらしい。俺が絶好の地点にたどり着いたが、ダイ
レクトでセンタリングは上がらずに一拍おいてから蹴られたのだっ
た。その直後に息を荒げてマークする二十番とDFに囲まれたのだ。
ち、まずったかな。一番のウィークポイントだったはずなのに、
一気に人口密度が高くなってしまった。同じ場所でヘディング争い
になったら背の低い俺では勝つのは難しい。
ちょっと悲観していたら狙いを定めたのかセンタリングが上がっ
ていた。それはニアにいる俺と守備陣を通り越して、ファーサイド
にいるFWにピタリと合った。キーパーまで俺につられてこっちに
来ていたので、うちの長身FWは随分と余裕を持ってヘディングを
地面に叩き付けて今日二ゴール目を記録した。
よし! チームメイトに従って俺もガッツポーズをとるが、目の
122
前にセンタリングでアシストしたサイドMFが駆けて来たので﹁あ
の、ちょっと﹂と呼び止めた。
﹁なんだ、ほらあいつの頭叩けるの今ぐらいなんだから早く言えよ。
ったくあいつは俺を差し置いてあんなに背ぇ高くしやがって﹂
﹁あ、すいません。あの⋮⋮ディフェンスに囲まれる前、一拍早い
タイミングならノーマークの俺に出せましたよね?
何で俺に出さな⋮⋮いや目を逸らさないで、なんですか﹁すまん﹂
って? ﹁アシストが欲しかった﹂? どういう意味⋮⋮﹁逃げる
んじゃない、あいつの頭を叩きに行くんだ﹂って先輩⋮⋮﹂
まずいな。ゴールに浮き立つ我がチームとはまた別に、あまりに
得点能力がない自分のプレイスタイルに対しチームメイトからどう
思われているか不安を感じ始めていた。
それと同時に自分をマークしている選手の焦りに満ちた視線にも
気がつく。
ホイッスルが吹かれ、ゲームが再開された。二点リードしている
俺達としては三点目を取って止めを刺しておきたいところだが、相
手側としてはハーフタイムまでに一点でも返して折り返したいだろ
う。
当然攻め合いになる︱︱かと思いきや意外に静かな展開になった。
相手も負けているからといって無理なパワーゲームを仕掛けてく
ることもなく、サイドからの突破に戦術を変えてきたのだ。俺の得
意なのは中盤でのスペースを利用した駆け引きである。サイドの攻
防はそれらよりもむしろスピードとスタミナが要求されるのだ。も
ともとうちは三・五・二のスリーバックであるために、四・四・二
の布陣の相手方が中央は諦めてサイドのMFとDFだけに攻撃を任
せたら守るのは難しい。
しばらくは左右のサイドラインでボールと選手のアップダウンが
123
繰り返されていた。俺も右サイドバックが上がってくればケアしに
いくが、それ以外ではボールになかなか触れない。
前半終了が近づいてくる中、俺はじっとチャンスを伺っていた。
おそらくそれはずっと背後についているマーカーも同じだろう。俺
はパスでチームに貢献しているからまだしも、後ろの少年には目立
った活躍がない。実際は結構﹁邪魔だなぁ﹂と俺のプレイに妨げに
はなっているのだが、傍目からは余り役に立っているとは見えがた
いだろう。ここらで一発仕事をしたいところだろうと推察している。
よし、その時好機が訪れた。サイドを縦に突破出来なかった敵チ
ームのMFが無警戒なバックパスでボールを戻そうとしたのだ。こ
んな目的意識のないふわっとしたパスが俺の大好物だ。気配を消し
て忍んでいた俺は全力でダッシュして、そのボールを手に入れた。
パスの受け手のはずだったDFが急いで取り返しに来るが、その前
にいつの間にか後に控えていたキャプテンへボールをはたく、こん
なフォローを試合中ずっとこなすキャプテンは本当に頼りになるぜ。
ボールを手放すとサイドから一息で中央に進出する。斜め前への
全力疾走だ。俺がサイドへ開くのについて来損ねたマーカーが必死
な顔で追いかけてくる。そこへポンとキャプテンからボールが配給
され、まだマーカーに追い付かれていない俺はダイレクトで山下先
輩に流す。さらにワンタッチで返されたボールを持ってペナルティ
エリアに侵入しようとすると、ここで二十番が追い付いてきた。エ
リアの一歩手前で進路を遮る焦った表情の二十番に、にやりと笑み
を見せつけると半回転して背を向けた。
またもヒールか! と反応しかけた相手に対し俺はそのまま一回
転してマーカーをかわす。単に意味もなく一回転しただけだが、こ
こまでさんざんヒールでスルーパスを通されてる相手にしてみれば
ルーレットで抜かれたような錯覚を覚えたかもしれない。
124
脱出成功、あとはキーパーとの一対一だ。俺はこの有利な状況で
のゴール率が極端に悪いのだが、今回は外す気がしない。なぜなら、
そら来た!
後方からのタックルに合わせて、足を宙に浮かして蹴られるダメ
ージを最小限に抑える。ただ倒れ込むのではなく受け身を使って肩
から着地し、ぐるりと回転して倒れる衝撃を逃がす。
ホイッスルが鳴り、審判がペナルティ・スポットを指さした。よ
し、PKゲットだぜ。
しばらく体を横たえていたが、キャプテンの差し出した手にすが
って立ち上がる。ファールされる準備をしていたおかげで刈られた
右足に痛みはなし、ほとんど﹁押されたような気がする﹂程度のダ
メージだ。左もオーケー、受け身でぶつけた肩も問題ない。よし大
丈夫だ。
立ち上がった俺に全員がよくやったと頭を撫でる。さすがに倒れ
た奴の頭やぶつけた肩を叩く常識知らずはいないようだ。
ベンチを振り向き右手の親指を立てると、ほとんどのメンバーが
同じ仕草で返す。ただ、監督はあまり嬉しそうには見えなかったが、
俺が怪我してないか心配してるのだろうか?
さて、俺がもらったPKだとペナルティエリアに入るが、そこに
はすでに山下先輩がいた。
﹁あれ? うちはPKを取った人が蹴るんでしたよね﹂
﹁ああ、そうだが⋮⋮﹂
と蹴る山下先輩のみならず他の先輩方もばつが悪そうな表情をす
る。どうしたんだろう? はっきり言ってくれればいいのに。皆が
顔を見合せていっせーのと声を揃えて返事をした。
125
﹁アシカがPK蹴ると外すから﹂
﹁⋮⋮﹂
﹁あ、いや足怪我してないか? 心配だからちょっと休んでろよ﹂
そうなんですか。あ、監督が呼んでるから俺下がりますね。急に
テンションが落ちた俺はベンチの交代の指示に従いとぼとぼとピッ
チを後にした。
微妙に納得がいかない点もあったが、とにかくこれが俺の三回戦
出場記録だ。
126
第十八話 親指を立ててねぎらおう
﹁アシカ、ちょっとこっちに座れ﹂
下尾監督はピッチ上から目を離さずに、今交代して戻ってきた足
利少年を呼びつけた。こいつを早めに引っ込めたのは体力や怪我に
配慮したからではない。少しこの子と話し合いたい事があったから
だ。
クールダウンを始めていた足利はクエスチョンマークを頭上に浮
かべながら、ベンチの隣に座る。
この子の早熟の才能に文句はない、精神年齢だってとても小学三
年生の子供とは思えない。だが、やはり他人に言われなければ判ら
ない事もあるのだろう。
﹁怪我はなかったか?﹂
﹁ええ、大丈夫です。あのファールは予想してましたから上手く受
け身がとれました﹂
気遣いに軽く返されると、こほんと咳払いして﹁そうか、やっぱ
りか⋮⋮﹂と頷く。
﹁さっきのPKについてだがな⋮⋮﹂
﹁あ、あれひどいですよ! PKはそれを誘った者が蹴るって約束
だったじゃないですか、なんで俺じゃなくて山下先輩がキッカーに
なるんですすか?﹂
﹁いや、お前だと外しそうだし⋮⋮とそうじゃない﹂
監督は言葉を切って山下がPKのセットをしているピッチから目
127
を逸らすと、足利の瞳を真っ直ぐにのぞき込む。
﹁あのPKはやっぱりわざと誘ってダイビングしたのか?﹂
﹁ダイビングじゃありませんよ。実際に足には掛かってましたし。
まあ誘ったかと言われればそうかもしれませんが﹂
ため息を吐くのを寸前でこらえた。PKを誘うのは決して間違っ
たプレイではない。現実にトップレベルにおいてさえPKを獲得す
るのが上手いストライカーもいるのだ。だが、この年代ではやって
は駄目だろう。これは正義感とかサッカー観とはまた別の理由だ。
﹁アシカよ、そのPKを誘うダイビングはもう止めろ。少なくとも
うちのクラブに在籍している間はな﹂
返事をせず、足利は訝しげな表情を作る。こいつは大人びている
から多少は綺麗ではない手段でも、ルールに抵触しなければ問題な
いと判断しているのだろう。その判断に反する指示には素直に従え
ないといったところか。まあ、素直にPKを誘ったのは認めたし、
今もすぐに﹁はい﹂と心にもない返事だけするよりはマシだな。
﹁別に青臭い正義感で言ってるんじゃない。あんなPKを誘うよう
なプレイをしていると先がないから言ってるんだ﹂
﹁どういう意味ですか?﹂
眉をひそめる足利に下尾監督はゆったりとした口調で語りかける。
﹁PKをもらえるかどうかは所詮審判の主観で決まる。審判がノー
と言えばどんな悪質なファールでも流されるし、逆にこちらが演技
をしたとしてカードを出される事すらあるんだ。それぐらいなら審
判に頼るより自分の足で決めた方が確実なのがまず一つ目。二つ目
128
はいくら予想していたとしても、接触プレイで転倒まですると怪我
をするリスクがあるって事だ。そしてこれが最も今のお前にとって
重要かもしれないが、上にいけばいくほど審判とDFのレベルも当
然上がっていくってのが三つ目だ。この小学校レベルで自分でゴー
ルするんじゃなくて、審判にPKを恵んでもらおうとするのなら上
を望むのは無理だな。
日本ではそうでもないが、海外のアウェーでは得点しようとして
も反則で倒され、それでもPKをとってもらえないのも日常茶飯事
だ。そんな状況におかれた時、それまで自分で点を取ろうとせず審
判に恵んでもらってた奴なんかは何の役にも立たん﹂
じっと聞き入っていた足利はある程度は納得したようだ、だがま
だ微かに不満があるのか口をへの字形にしていた。そのひん曲げて
いた口を開き、鋭い目を弱らせて少しだけ自信なさげに告白する。
﹁でも、俺、シュートが入らないから⋮⋮チームメイトからも信用
されてないんじゃないかって⋮⋮﹂
﹁うん。まあお前の決定力はともかく、逆にアシカの方こそもっと
チームメイトを信頼しろよ。自分で考えているよりもお前はずっと
頼りにされているぞ、ほら﹂
と監督が顎で示す先にはちょうどPKを決めてこっちに向かって
親指を立てたポーズをとっている山下の姿があった。
﹁サンキュー、アシカ!﹂
いつもは悪い目つきを丸くして、足利がおずおずと同じポーズを
返す。
﹁ほらな、お前は立派にチームの一員だ。しかも主力の一人だと誰
129
も疑っていないぞ﹂
ピッチの中から山下だけでなくキャプテンも他のチームのメンバ
ーもベンチの足利に向けて親指を立てた﹁グッジョブ!﹂の仕草を
している。 しばらく同じポーズで固まっている足利の頭を、下尾監督はがし
がしと荒っぽく撫でる。その間やられるままだった足利は、髪の乱
れを気にすることなく頬をポリポリとかいた。
﹁まさか、あんな子供たちに励まされるとは⋮⋮﹂
﹁いや、お前も子供だからな。というよりお前の方がもっと子供で、
クラブで最下級生だからな﹂
思わず下尾は突っ込んだ。どちらかというとひょうひょうとして
突っ込まれる側の監督が自ら言わねばならない程足利の台詞はボケ
ている。
まあこれだけ冗談を飛ばせるなら大丈夫か。精神の安定を取り戻
した期待のルーキーに胸を撫で下ろす。下尾の読みでは今大会にお
いて、今までの矢張SCの戦力ではこれから上の試合はきつい。次
の試合までは多分何とかなるだろうが、その後の準決勝の相手は前
年度の覇者、去年全国の舞台に立ったチームだ。決勝の相手は判ら
ないが、向こうも厳しいブロックから上がってきたチームでありと
ても弱小だと甘い予想はできない。この先の準決勝と決勝がうちの
チームにとって壁になるという推測はまず外れないだろう。
正直今年は全国は無理だろうと半分諦めていたのだ⋮⋮足利を発
見するまでは。さらに足利を見出した後も、さすがに今年には間に
合わないだろうとも考えていた。それらの下尾の予測を全て超えて
足利は成長した上に、まるで前からうちのチームを理解していたよ
うに戦術とフォーメーションにフィットして異例ともいえる三年で
130
のスタメンを勝ち取ったのだ。
こいつがいればもしかすると⋮⋮そこまでの期待をルーキーにか
けるのは酷かもしれない。だが冷静に考えれば昨年の県ナンバーワ
ンチームなどとまともに戦うなんて、勝ち目が少なくなるのはしょ
うがない。ちょっとした奇跡でも起こらないかな⋮⋮と現実逃避に
走りたくもなるだろう。そこに現れた計算外のプラスファクターが
足利だったのだ、これでは監督に期待するなという方が無理だ。
﹁アシカはもっと上手く、強くなれる。だから、今はとりあえず俺
の説教は忘れて仲間の応援をしようか﹂
﹁⋮⋮試合中に説教してきたのは監督ですけどね﹂
相変わらず減らず口を叩く少年に対し別に腹は立たない。むしろ
このぐらいの方がおとなしいよりは選手のメンタルとして向いてい
るのかもしれないと思う。
﹁ま、説教できるのは監督の特権だからなぁ。ほーら、アシカ、声
が出てないぞー﹂
﹁え、ちょ。⋮⋮ふう、それじゃみんなー頑張れー! あ、ハーフ
タイムです﹂
思わず吹き出す。足利が声援を送った瞬間ホイッスルが前半終了
を告げたのだ、なんてタイミングの悪い奴だ。気がつけば周りのベ
ンチメンバーも笑っている。さっきまでの真面目な話では少し距離
をおいていたが、今の足利のかけ声の間の悪さに一気に雰囲気が柔
らかく明るくなった。
ピッチから戻ってきたスタメンも﹁おう、頑張るぞー。休憩だけ
ど﹂などと足利をからかっている。
131
うん、いい雰囲気だな。前半終了時点で三対ゼロか、足利が抜け
た後も大幅なバランスの崩れもなかった。というより足利が入って
くる以前のレギュラーだったメンバーとフォーメーションなのだ、
急に悪くもなりようがない。
油断は禁物だが、この試合はこのまま後半もいけるだろう。
問題は明日の四回戦と、来週の土曜一日で済ます準決と決勝だ。
この小僧がちゃんと働いてくれないと俺の計算が成り立たないんだ
が︱︱そう心配げに見つめる視線の先には途中退場したとは思えな
いぐらい元気そうな足利が、山下に﹁これはお前へのおすそ分けだ
ー!﹂と叫びながら頭と背中をバシバシと叩いていた。
あれか? 俺がもらったPKでゴールした後チームメイトに叩か
れた憂さばらしなのか? 意外と仲が良さげなうちのエース格二人
の子供っぽい姿に笑みをこぼした。
こいつらならやってくれるかもしれん。
監督の胸に僅かな希望の灯りをともし、矢張SCは三回戦を勝ち
進んだ。
132
第十九話 体力をもっとつけましょう
四回戦の開始直前審判の笛を待つ間に、俺は瞳を閉じていつもの
ルーチンをこなしておく。
ふむ、昨日の試合での体の疲労・怪我などは無し。引っかけられ
た右足も受け身でつかった肩も湿布を貼る必要さえないほどダメー
ジはなかったのだ、体調としてはほぼベストである。目をつぶると
いつものようにピッチを上から見下ろす感覚で選手の動きがチェッ
クできている。ピッチからの土の匂い、柔らかな風と照りつける日
差しが肌で感じ取れる。うん、体のキレ・精神状態共に万全だ。
そうでなければ困る。なにしろこの試合は監督から﹁最後までい
くつもりでやれ﹂と指示されたのだ。今までのように前半だけとい
った途中までの出場ではないらしい。
決勝と準決勝が来週だから、今日疲れたとしてもそれまでには回
復すると踏んでいるんだろうし、俺がどこまでやれるか試す意味も
あるのだろう。体がぶるりと震え口の端が吊り上る、やはりスタメ
ンでフル出場してこそレギュラーだよな。
﹁おい、アシカ。なに笑ってるのかしらんが作戦を覚えているな?﹂
﹁ええ、基本的には昨日の三回戦と同じで俺と山下先輩で崩すって
話でしたよね﹂
﹁そうだ。だからもっと俺にパスをよこせよ。俺がこのチームのエ
ースで十番なんだから﹂
口をとがらせて要求する山下先輩はどうもこれまでの試合内容に
納得がいっていないようだ。三回戦ではPKキッカーにもなったの
に欲張りだなぁ。まあそんな性格なほうがスコアラーとしては向い
133
ているのかもしれないが。
﹁判りました、今日の試合は先輩を中心にしたコンビネーションを
重視しましょうか。俺も先輩にパス出しますからお互いとキャプテ
ンでしっかりと中盤を作りましょう﹂
﹁ああ、攻撃は俺に任せて後ろは頼むぞ﹂
﹁了解です﹂
話し合いというよりは一方的に先輩の言い分を聞かされていたが、
まあ別に反対する事でもない。昨日の試合の反省から俺も少し似た
ような事を考えていたのだ。翻弄できると確信した相手からPKを
もらうプレイが俺の目指していたものだったのかと。
もう一度基本から考え直すと、俺は中盤の真ん中で攻守両面で活
躍するプレイヤーを目標にしていたんだよな。もちろん戦況によっ
ては前に顔を出して得点に絡むのも重要だが、それも基礎である中
盤の安定をこなしてからの話だ。ここまでほとんど点を取られてい
なかったのはうちが圧倒的に攻めていたのもあるが、それ以上にキ
ャプテンが中盤とDFラインの間を汗かき役となって支えていてく
れたおかげが大きい。
そこで今回は原点に戻って山下先輩とではなく、キャプテンとコ
ンビを組む感覚でやってみようと思ったのだ。そこに監督のフル出
場指令と山下先輩の﹁攻撃は任せろ!﹂だ。うん、先輩のお手並み
拝見でむやみに上がらずボランチとしてチームのバランスを取るこ
とを優先しよう。
審判の笛で試合が始まったが、今回もまた山下先輩はもちろん俺
にもマンマーカーがつけられた。まあ予想の範囲内だからいいけど
ね。
マークの事は意識から外して、自分の目と鳥の目の併用でざっと
相手のフォーメーションを確認する。
134
ふーん、うちと同じ三・五・二か、じゃあ中盤での主導権争いが
激しくなりそうだな。お互いがMFの多い陣形をとっているので当
然ながら中盤のプレッシャーがきつくなるのだ。ただ、向こうは守
備的MFの一人が俺をマークするために普通よりも若干上がり目に
なっている。このギャップにより空いたスペースは色々と使えそう
だ。
前半の半分が過ぎたがまだ両チームにスコアの動きはない。やは
り中盤での潰し合いに終始して、なかなかそこからの展開が始まら
ない。山下先輩もドリブル突破やスルーパスで惜しいところまでは
いくのだが得点にまでは至らなかった。
そんなじれったい試合経過の中、俺がDFからパスを受け取ろう
としたタイミングで相手が隙を見せた。俺達が自陣でパス回しをし
ていると油断したのか山下先輩のマークが緩んだのである。俺が背
を向けているからといって油断しては駄目だぜボーイ。自分の身体
の年齢を無視した敵への忠告を内心ですると、速攻の狼煙を上げる。
毎朝一緒に練習している仲だ、俺の﹁山下先輩!﹂という叫びと
ロングパスに瞬時に反応する。
俺がパスを出したのは先輩の足下とかではなく、俺をマークする
ためのMFが空けているスペースへである。普段であればボランチ
がいるべきであるが、今はぽっかりと空いた無人のスペースだ。右
へ流れながらパスを受け取る先輩に俺のマーカーも迷いの色を隠せ
ない。
何しろゾーンディフェンスで守っていれば自分が担当すべき場所
が攻められているのだ、自分も戻るべきか一瞬悩んでも仕方がない
だろう。だがそんな時間は与えない。俺もさっきまで山下先輩が居
たスペースへ斜めの線を描くように駆け上がっていくからだ。
山下先輩と俺の前線へ走る軌跡が時間差はあるとはいえ交差する。
135
先輩をマークする相手も間に合うか微妙な距離にまで逃げられた山
下先輩と、今こっちに進んでくる俺とどっちに対処すべきか躊躇し
た。マンマーカーの二人が上手く切り替えができずに俺に引き付け
られる。このチャンスを逃すんじゃないぞ自称エース様! 俺とチームメイトの期待に応えるように山下先輩がゴールを決め
た。マークがずれたとはいえボールを受けとってからシュートまで
の約四秒は、俺でさえ口笛を吹きたくなるほど鮮やかな動きのファ
インゴールだった。
俺の猛ダッシュの攻め上がりは一見無駄のようだったが、そうで
はない事は自分が一番よく判っている。鳥の目による戦況確認では
DFも幾分はこちらに意識を奪われ、結果的に山下先輩に対する警
戒がルーズになっていたのだ。
⋮⋮決して誰も褒めてくれないから自分を慰めていたわけじゃな
いぞ。
一人寂しく﹁俺の戦いはこれからだ﹂と拳を握っていると、﹁ア
シカもサンキューな!﹂と滅多にない満面の笑みを見せる山下先輩
がいた。頬をかいて視線を逸らすと拍手をしている監督と目が合っ
た。ためらいがちに手を上げてそちらに応えていると今度は俺の頭
をがっしりと抱きしめられる。
﹁足利ナイスランだったぞ﹂
キャプテンも目立たない縁の下の役割を黙々とやっているから、
俺の無駄走りがチームに貢献するプレイだと判ってくれたんだろう。
まあ、別にこの人たちに認められたからって訳じゃないけどやっぱ
りチームの為に全力で走るのは悪くないな。スタミナが不足してい
ても自分の為じゃなくチームの為だと思えば勝手に足が出る。これ
は自分で思っている以上に、俺もいつの間にかこのチームの一員に
なってたって事か⋮⋮。
136
試合も進み後半の残り十分を切った。攻撃陣は好調の山下先輩が
奮起して引っ張り、全得点に絡む活躍をしていた。そのおかげで、
この時点で三対ゼロだ。三点差あれば逆転負けという間抜けな事は
まずないだろう。油断するつもりもないが、これ以上無理するつも
りもない。なぜならそろそろ俺の足が疲労でSOSを発信している
からだ。なにしろ今回が初めてのフル出場であり、ここから先は未
知の体験になるのだから無茶なプレイはとてもできない。くそ、試
合がこれほど消耗を早めるとは計算外だったな。
ここで初めて俺は鳥の目によるデメリットを受けていた。いや正
確にはデメリットというほどではない、使いこなせていないが為の
不利益だ。
それは鳥の目を使うと試合中のペース配分をやりにくいという事
だ。なまじ一目で戦況が把握できる為に、常に急所である地点へと
急き立てられるように移動してしまうのだ。普通であれば気が付か
ないような些細な敵味方のポジションミスの度に小刻みにダッシュ
を繰り返していては体力が持つはずもない。今までの前半だけとい
った限られた時間内だけならともかく、フル出場するにはいつもア
クセル全開では燃料切れをおこして当然だ。ましてや俺はまだ小学
三年生、ここまでもっただけで褒めてほしいよホント。
でもさすがにかなり体が重くなってきたな。今日はそんなに攻め
上がりはしなかったが、長短のパスで攻撃のリズムと溜めを作った。
アシストこそ最初の一本だけだったがパスの成功率は百パーセント
近いはずだ。むしろ体力を消耗したのは守備のスペース埋めと敵の
パスの分断に忙殺されていたからだ。体で止める場面こそなかった
が、人数かけて攻められるとDFのラインの前のバイタルエリアに
侵入する相手からボールを奪おうとてんてこ舞いだった。
137
ちらりと視線をベンチに走らせるが、監督はFWに向かって大声
で何か指示を出している所だった。フル出場させるって言ってたし、
今までみたいに途中で引っ込める気はなさそうだ。
だったら自分でペースの調節しなきゃ駄目か。
ただ闇雲に走り回るんじゃなくてもっと効率的に動かなくては。
小学生というレベルで見れば俺のプレイは効率がいいだろう。だ
がこれからもっと上のレベルで戦うためには、今以上にプレイの最
適化をしなければならない。という訳で少し体力を温存しよう。よ
し、自己正当化完了。
ずっと落としていた腰を伸ばし、大きく息をつく。額から滲む汗
を袖で拭ってもすぐに次の汗が目にしみる。くそ、日差しが少しは
弱まれば楽になるのだが。肌と喉がひりついている、次にボールア
ウトした時には絶対スポーツドリンクを飲みに行くぞ。
そんな風に気を抜いていたのが悪かったのか、相手のDFがオー
バーラップしているのに気がつくのが遅れた。まずい! 一気に最
前線まで駆け上がった向こうのリベロによってこっちの守備陣に乱
れがでる。俺がマークにつくかせめて一言﹁DF上がってる﹂と注
意すべきだった。
舌打ちして自分で止めに行くことに決めた。これまで中盤の攻め
はキャプテンが大過無く防いでくれていたんだ、こんな突発的なオ
ーバーラップのようなイレギュラーがなければ抑えてくれるはずだ。
﹁俺がマークします!﹂
宣言してキャプテンとDFを手で制する。彼らには今までの役割
に専念してもらったほうが、マークする相手をスイッチするよりも
ミスがないだろう。
138
DFラインにまで潜り込もうとするリベロの前に立ちはだかる。
だが、彼はかわそうとする素振りさえ見せずに腕と肩で体当たりす
るような形で押しのけようとした。単純すぎるその振り払いに一歩
下がって受け流す︱︱はずだった。それが出来なかったのは、疲労
のせいでバックステップを踏もうとした足がもつれたのだ。一瞬棒
立ちになった俺の体をなぎ倒して進む敵のリベロ。
審判は俺のあまりに無抵抗な倒れ方に作為の匂いを感じたのか、
ファールの笛を吹いてはくれなかった。尻もちをついた俺はなす術
もなく敵の攻撃を見つめるしかない。
︱︱そうして相手は意地の一点を返したのだった。
残り時間はロスタイムを入れても五分を切っていた為に、結果と
しては大局に影響はなくそのまま三対一で終わった。
矢張SCとしては完勝と言っていい内容だ。だが俺にとって自分
の体力のなさと終わっていないのに気を抜く甘さなど多くの課題が
残る試合でもあった。
俺って本当に何遍失敗すればこりるんだろうな、次の試合ではこ
んなミスしてたら勝てるはずもないぞ。なにしろ次の相手は本来の
歴史であれば、うちが敗れているチームなのだから。
そして、これだけは忘れちゃいけない。俺が必死で上を目指して
いるように、敵も俺達を倒すのに一所懸命なのだ。これを肝に銘じ
ておかないとまた同じ詰めの甘い失敗を繰り返してしまう。俺は進
歩しているはずなのに、なぜか二歩進めば一歩下がっているんだよ
なぁ。
つい楽をしようとする自分のあまりのふがいなさに、重い足を引
きずりながらがしがし髪をかきむしって反省する俺だった。
139
第二十話 美味しいお弁当を頼みます
﹁へー、それで今度の土曜日は二試合あるのね?﹂
﹁うん、午前に準決勝で午後に決勝だよ。だからお弁当お願いね﹂
はやてる
速輝は鯖の切り身をお箸で綺麗に食べる合間に週末の準備を頼ん
できた。まあお弁当を作るぐらいは何でもない。ユニフォームが汚
れるのも、どうせ試合がなくても練習で汗をかいて洗濯する羽目に
なるのだから気にはならない。
それよりも速輝のお箸の使い方と食事のマナーが良くなったのに
笑みがこぼれてしまう。ちょっと前まではお魚は小骨が食べにくい
ってぶつぶつ言ってたのに、三年になってサッカークラブに通うよ
うになってからは、スポーツマンとしての自覚がでてきたのかすっ
かりお兄ちゃんになっちゃった。母としては少し寂しいけれどこの
子の成長を喜ばなくちゃいけないわね。
最初は本当にうちの子かしら、誰かが化けているのではなんて馬
鹿な事まで考えちゃったものね。でも二・三日も観察していれば間
違いなく自分のお腹を痛めた息子だってちゃんと判るわよ。無意識
に出るのだろう細かい癖とか納豆を食卓に出した時の絶望的な表情
とかでね。今になってみるとサッカーを始めたせいで反抗期が凄い
スピードで終わっちゃって、大人っぽくなっちゃったから私がつい
ていけなかったのかしら。
本当にあのサッカークラブには感謝しなくちゃいけないわ。三年
生に進級した朝なんか、悪い夢を見たって私に甘えて涙ぐむような
子だったのに、最近では顔つきまで子供じゃなく精悍な男の子って
印象に変わっちゃった。せっかく成績もアップしたんだから、もう
少しサッカーの熱が冷めて勉強に力を入れて欲しいものだけど、や
140
っぱりそれは欲張りすぎかしら?
他のサッカークラブのママ友に聞かれたらきっと﹁贅沢な!﹂っ
て怒られるわね。
できれば完全に大人になる前に、もっと速輝が喜ぶような事がし
たいのだけど⋮⋮そうだ。
﹁今度の土曜日お母さんも応援に行こうか?﹂
﹁え? いやいいよ。忙しいんでしょう﹂
﹁馬鹿ね、一日ぐらいなら大丈夫よ。それにもし優勝したら全国大
会に行けるんでしょう? やっぱり息子が頑張ってる姿をこの目で
直に確かめたいじゃない﹂
﹁あ、そうなんだ。うん、じゃあお願いしてもいいかな﹂
﹁もちろんよ。二試合とも観戦するの楽しみにしてるわね﹂
遠回しな応援に﹁二試合⋮⋮うん、全国に行かなきゃ意味がない
か﹂と速輝が顔を引き締め小刻みに頷いている。あれ、ちょっと発
破をかけすぎちゃったかな? 準決勝で負けちゃったら落ち込みそ
うね。
﹁えーと、そうだ。速輝はその日のお弁当はどんなのがいい? せ
っかくの大切な日なんだから豪華なのでもいいわよ﹂
と真剣になりすぎそうな息子に話しかけて注意を逸らす。この年
代の男の子でご飯の話題に食いつかない子はいないだろう。実際速
輝も普段は果物を多くしてくれだとか、朝は野菜ジュースとヨーグ
ルトが必須だとかちょっとした我がままを言ってくる。まあ一年生
の時は給食なんかでさえ﹁野菜は牛や豚が食べて、その肉を俺が食
べているから大丈夫﹂と野菜についてだけはハンガーストライキを
していたのだから、そのころから比べたら可愛い物だ。
141
速輝はちょっと宙を睨んで考えていたけれど﹁いや、運動前にな
るから軽いのでいいよ。サンドイッチとかおにぎり二・三個ぐらい
で﹂と素っ気なく答えた。
﹁そう⋮⋮﹂
それじゃ腕の振るいようがないじゃない。ちょっとしょんぼりし
かかった私の心を浮上させたのは速輝の、
﹁その代わりに夕食を豪華にしてよ。県大会優勝のお祝いに﹂
というどこか悪戯っぽい笑顔だった。
﹁︱︱任せなさい!﹂
ああ、昔聞いたことのあるサッカーは少年を男にするって名言は
本当なのねぇ。試合前なのに私の方が元気づけられるなんて。さて
と、そうと決まれば美味しいサンドイッチと豪華な夕食を今の内か
ら考えておきましょうか。
◇ ◇ ◇
﹁⋮⋮ふむ、次の準決勝は矢張SCだったか﹂
疲れた目を指で押さえて呟く。ワシの目も最近どうもかすむよう
になってきおったの。
矢張⋮⋮はてこの名はどこかで聞いた覚えがあるな⋮⋮ああ去年
もうちのチームと戦っておったのか。どれどれと書類をめくる。
ほう、その時の結果は三対一か。うちから一点でも奪ったとは中
々健闘したようじゃな。そして、矢張SCの今大会の成績にざっと
142
目を通す。うむ⋮⋮思ったよりもやるようだ、スコアが実力を証明
しておる。全ての試合で二点差以上つけているというのはうちのチ
ームも同様じゃ、一点差では﹁間違い﹂が起こる可能性があるから
の。
なぜか最近では﹁二点差は危険﹂とかいう認識が広まっているよ
うだが、ワシに言わせれば二点差もつけて心配するようなら開始直
後のゼロ対ゼロの時はどんなにビビってるんじゃと聞きたいわ。う
ちのチームではある程度のレベルの相手には二点差をつけたらそれ
以上は強引な攻めは控えさせておる。あまりに点差をつけると試合
を諦めた相手チームが悪質なファールをしてくることもあるからの。
まあ、ワシなりのマナーと護身、それに敵への敬意のようなもんじ
ゃ。
それにしても、本当であれば専門スタッフの撮影した敵チームの
試合のビデオ映像も欲しいところじゃが、いかんせん人手が足らん。
父兄が撮影してくれたビデオはどうしてもボールの行方を追ってば
かりで、ゲーム全体を俯瞰する事はできんしの、参考程度にしかな
らん。むしろ書類上のデータと試合を見ていた知り合いの寸評で相
手のイメージを固める方が役に立つ。
ふむ、前年度と変わらず攻撃は十番の山下と防御はボランチのキ
ャプテンを中心にまとまっておる。向こうの二枚看板は健在のよう
じゃな。攻守のバランスがとれた好チームではあるが、うちとは層
の厚さが違う。総力戦になれば一人一人の力の差がじわじわと出て
くるもんじゃ。一人や二人うちのメンバーに匹敵するエースが居た
ところで結果はひっくり返せやせん。無論油断をするつもりはない
が、次の決勝も見据えて疲労がたまらないようローテーションを組
まねばならんの。
なんじゃ? 他に注意事項としてルーキーの名前が挙がっとるの。
ふむふむ⋮⋮ここまでの数試合で十もアシストを稼ぎおったか、ほ
143
とんどが途中までしか出場してないにしては立派な数字じゃな。じ
ゃが正直そこまで警戒すべき相手かどうかはこれだけでは判断でき
ん。予選クラスならば格下の相手にだけは滅法強く、得点を荒稼ぎ
するようなチームもある。この足利という小僧本人が得点したとい
うわけでもないみたいじゃし、どこまでやるのか判らんの。
まあ一応注意はしておいた方がいいじゃろ。では、こいつのプレ
イスタイルの印象をどんな風に書いておるんじゃろうか?
まず基本技術がしっかりしたボランチとな、攻守ともに秀でてお
る、か⋮⋮。一方で弱点としてはフィジカルが弱いせいか接触プレ
イを嫌がる傾向にある、シュートが入った所は見たことがない、よ
く後ろを向く、ボールを持つと顔がにやける⋮⋮こやつ本当に注意
が必要かのう?
若干の疑問を持ちながら矢張SCのビデオを流し見る事にした。
なに、こういうのはざっと目を通しておけばいいんじゃ。もし本当
に警戒すべき物があれば嫌でも注目してしまうからのう。
別のブロックの準決勝で当たる二チームの資料をぱらぱらとめく
りながらも、矢張SCのビデオを確認する。
やはり素人さんのとったビデオは判りづらいのぅ。別段プロカメ
ラマンのように撮れとは言わんが、もう少しロングで全体像が映る
ようにしてくれんとポイントが見えてこんわ。
ぶつぶつと口の中で愚痴りながら早送りを連打していた指が止ま
り、手にしていた別のチームの資料を邪魔じゃと机に置いた。
﹁このチームは⋮⋮かなり厄介そうじゃな﹂
なるほど準決勝まで出てくるだけの事はあるか。攻守の柱とする
二名とまだ正体の判らんジョーカーが一人おる。
144
これは次の決勝を見据えてメンバーを考えるのではなく、この一
戦に全力を傾けるべきかもしれんのぅ。何、買い被っておったのな
ら点差が開いた時点で主力を引っ込めればいいだけじゃ。
﹁ほっほっほ、まだまだ全国を知らん輩に負ける訳にはいかんしの
ぅ﹂
それでも、矢張の三人はなかなかのものじゃ。今大会が終わって
からうちに来んか打診してみようかの。こいつらもプロとつながり
のあるクラブのほうがええじゃろうしな。
145
第二十一話 体を熱くたぎらせよう
まだか、まだか、まだなのか。
焦燥感に腹の中を熱く焼きながら、俺はベンチに座って貧乏揺す
りをしていた。みっともないとも思うが、自分の手足の動きを完全
には制御できていない。体内にこもった熱を逃がすために最低限必
要な悪癖だとお目こぼししてほしい。
今日の準決勝は俺はベンチスタート、後半から出す予定だそうだ。
そのプランを初めに聞いた時は耳を疑ったね。監督に﹁スタメンで
出してください﹂と直訴に行ったのも仕方がないだろう。
だが下尾監督の﹁俺は全国へ行くつもりだ、だからこそアシカを
準決勝でスタメンにしてそこで潰れてもらう訳にはいかんのだ。午
後の決勝にも出場してもらうためにはな﹂という甘言にころっと騙
されてしまったのだ。あの時は俺をそこまで買っていてくれるのか
と感激したのだが、もしかして俺をちょろい奴とか思ってないだろ
うなこの監督は。
俺が不審の目で見ているのに気が付いたのか監督がこっちを向い
て眉を上げた。
﹁アシカはまだ出さんぞ。お前の出番は後半からだ﹂
﹁判ってますよ。だからまだ座って待っているでしょうに﹂
と噛み付くように答える。本当なら後半スタートでももうアップ
を始めていてもいい時間帯だが、少しでも体力の消耗を防ぐために
ハーフタイムからやるように言われている。どうやら俺のスタミナ
に関しては全く信用されていないようだな。
ならば今の俺にできるのはチームメイトを応援することぐらいだ。
実際にベンチのみんなで声ぐらいはかけて力づけてやらないと、こ
146
れ駄目なんじゃないかっていうぐらい押されている。しかし、ボー
ルの支配率やシュート数ではかなり差がついていても点数にはそう
は反映されないのがサッカーだ。
ここまでは点数は一対一となんとか互角の展開を見せているのだ。
そういえば本来の歴史でも確か三対一での敗北だったが、二点差つ
けられてからはどうしてか相手の運動量が落ちてなかなかいい勝負
していたんだよな。今回も俺が出る後半までこのままのスコアを維
持してくれればいいのだが。
前半のここまでの試合経過はこうだ︱︱まずはお互いの実力を計
るような静かな睨み合い、その後先制点を奪ったのはうちの矢張S
Cだった。どこかぎこちない立ち上がりの相手に対し、キャプテン
がサイドMFに送ったパスをダイレクトで上げるアーリークロス。
ゴール前で競り合ったFWが落としたボールを山下先輩が蹴り込む
という理想的な攻撃で得点したのだ。
だがこれが虎の尾を踏んだのか相手の選手達が眼を覚ました。こ
れまではウォーミングアップだったのだとばかりに当たりが強くな
った。敵のゴール前はもちろん、中盤やこっちのディフェンスライ
ンでさえ強烈なプレスをかけてくる。この時間帯はこちらは碌にボ
ール回しさえままならなかった。
そして敵の攻撃が矢張SCのゴールに襲いかかる。うちの最終ラ
インが堅いと見るや、ミドルレンジからシュートをどんどん撃ちだ
したのだ。キーパーが必死のセーブを続けるも、そのこぼれ玉を拾
われてまたシュートを撃たれ続けてはどうしようもない。奮闘むな
しく前半十五分過ぎについに同点に追い付かれる。
その後も流れは変わらない、相手チームの分厚い攻撃をなんとか
しのいでハーフタイムまで逃げ込もうとしている。できればこのま
ま⋮⋮残りの二分とロスタイムの三分を踏ん張ってほしい。
147
その願いはロスタイム終了直前に打ち砕かれた。前半の時計が止
まり、ロスタイムに入ったと気が緩んだDFの隙をつかれたのだ、
ロングシュート・ロングシュートの二連発後のスルーパス。DFは
もうシュートを打たれるのは嫌だとばかりに体でシュートコースを
消すのに精一杯で、裏へ走りこむFWなんかケアする余裕はゼロだ
った。それを見越したような鮮やかなスルーパスとFWのランニン
グになす術もなくゴールネットを揺らされた。
今のは完全に計算された攻撃でたまたま点が入ったとかではない。
︱︱詰まる所は実力差って事か。
長すぎると感じたロスタイムがようやく終了し、重たい足取りで
ピッチからイレブンが戻ってくる。
ベンチで見守っている俺達以上に試合時間を長く感じたのだろう、
皆の顔には疲労の色が濃い。
抜群のスタミナを誇るキャプテンや、いつもは生意気なぐらいに
元気な山下先輩も荒い呼吸をするだけで何も喋ろうとはしない。
﹁どうしたみんな元気がないぞー﹂
そこに空気を読まないで口を出すのがうちの監督だ。先制しなが
らもその後は押されっぱなし、しかもロスタイムに逆転されて帰っ
てきたのだ。お通夜のような雰囲気になるのも仕方がないのかもし
れない。だが、仕方がないからといってそのままのムードだと後半
巻き返すのは夢のまた夢となる。それが判っているから監督もわざ
とのんびりした声で固まった空気を壊したんだろう。⋮⋮まさか本
当に空気が読めない訳じゃないよな? とにかく監督の意図が雰囲
気を変える事なら積極的にのっていくべきだな。
﹁俺は元気ですよ! 監督がベンチにおいているから早く暴れたく
てうずうずしていますよ!﹂
148
﹁アシカは元気だな。よしよし、後半は出してやるぞー。他に出た
い奴はいないのかー? レギュラーが元気がなさそうだから出して
やるぞ﹂
その監督にベンチの控え選手達が色めきたつ。全員が自分は元気
ですよとアピールし始めたのだ。監督がまた﹁おおう、スタメンの
奴らと違って元気がいいなー﹂と煽るものだから、さっきまで沈み
こんでいたはずのイレブンまでが前半の疲れを忘れたように活気づ
いたのだ。皆が口々に﹁俺はまだやれます﹂と引っ込めないでくれ
と懇願する。
監督は﹁さーてどうしよっかなー﹂と実に楽しそうな表情で腕組
みをして悩む素振りだ。あれ絶対に交代のプランはすでに決定済み
で、悩んでいる態度はただの演技だよな。
まあそのおかげかどうかチームの雰囲気が盛り上がったのだから、
それでいいのだろうが。もう少しだけ監督として重みのある言動を
してくれないものかな。
俺は汗を拭いている山下先輩やFWと後半の攻撃について簡単な
確認をしておく。なに、日頃の練習で﹁点が取れなければ罰ゲーム﹂
のミニゲームを何度もこなしているから念を押しておくだけで、今
更話し合うほどでもない。俺がより攻撃的に動くのと山下先輩がア
シストよりもシュートを狙う事、そして俺が声をかけたら前線にい
る皆が即ゴール前に詰める事なんかを確認するだけだ。
それらを終えると各々が後半に向けた準備に取りかかる。
柔軟を終えて額に浮いてきた汗を拭いて、微かに乱れた呼吸を整
えていると背後に人の気配がした。
なにか用事かと振り向くと俺と交代でアウトになる先輩がそこに
立って両手で肩をつかんできた。きつく握りしめられた先輩の掌か
らは痛みではなく、大事な試合を途中で降りて後輩の俺に任せなけ
149
ればならない無念さが伝わってくる。
﹁アシカ、できればリードした状態で代わりたかったんだが、すま
ん﹂
﹁いいえ、ここから逆転するいい舞台を作ってくれたんだと思って
ますから﹂
﹁⋮⋮そうか後は頼んだぞ﹂
俺に対して頭を下げた先輩はさらにぐっと更に力を込めて掌を離
した。
まったくこの先輩はプライドが高くて俺にスタメンを取られてか
らは棘のある態度ばかりだったのに、頭を下げてまで後輩に頼みに
くるかね。だったら︱︱頼まれるしかないんだろうなぁ。
もう掌は離れたはずなのに肩からの熱は冷める事なく体の芯へと
伝わる。心臓の鼓動に合わせてその熱が血管を巡り体中を駆け巡っ
た。自分の感覚では体温が二・三度上がって頭上に陽炎が立ってい
るんじゃないかってぐらいに俺の体が燃え上がっている。
﹁アシカ、もうすぐ後半が開始するが準備はいいな?﹂
監督の確認に声を出さずに親指を立てる事で答える。無礼かもし
れないが、今声を出すと胸の奥からたぎっているこの熱さが抜けて
しまいそうで喋れなかったのだ。
小さく吐息を漏らすが、それと共に口から炎がちろちろと出てい
る錯覚を起こしている。
今日のコンディションを確かめる為に、眉間に皺がよるぐらい力
をいれて瞼を閉じた。うむ、いつもよりくっきりと鳥の目の映像が
頭の中のスクリーンに映っているような気がする。体の方もすでに
アップが終わりいつでも戦える。メンタルも体も完全に準備が整っ
150
て後は開始の合図を待つばかりだ。
もう一度炎の息を吐き、ゆっくりと目を開く。
クリアになった視界には俺の倒すべき相手がすでに勢揃いしてい
る。こいつらに勝たなきゃ全国へ行けないんだよな。普段でさえ目
つきが悪いと言われる視線に殺気を込めて睨みつける。邪魔するん
じゃねぇよ。全国大会に出場するのは俺達矢張SCだ。 ︱︱後半開始と同時に足利 速輝出陣。
151
第二十二話 リスクを恐れず攻め上がろう
ようやく審判の笛が鳴り、震えるほどに渇望していた後半が始ま
った。
だからといって体の高ぶりのままに暴れまわるわけにもいかない、
俺の体内にあるバッテリーは容量が少な目なのだ。冷静に効率的に
溜め込んだエネルギーを放出するべきだろう。熱を帯びて勝手に走
り回りたがる手足の手綱をしっかりと握り直す。
さて頭をクールダウンさせながら相手チームの前半までの戦術を
確認すると、陣形はこちらと同じ三・五・二で比較的オーソドック
スな戦い方をしていた。ただ問題なのは選手一人一人の質が高く、
プレイの一つ一つが洗練されている事だ。もしもただの観客として
前半の試合を観戦していたのなら参考にしようと思うコンビネーシ
ョンさえもいくつかあった。
つまりは個人としても組織としても高いレベルでまとまった好チ
ームという事で間違いない。そりゃ本来の歴史ではこの県大会で優
勝するはずのチームだ、弱いわけがないな。
上等だ、弱点がないのなら純粋な実力でねじ伏せるしかないって
ことか。
本来は不利なはずのその条件でさえ今の俺には自分を鼓舞する物
としか思えない。なぜならばこれで勝った場合は堂々と﹁俺達の実
力が上だったから勝てた﹂と口にすることができるからだ。相手の
ミスをひたすら待つとか弱点だけを延々と突くとかそういった﹁小
賢しい﹂戦い方ではなく﹁強い﹂戦い方でしか破れないレベルの敵
だ。ようやくこんなチームの住む所まで昇ってこれたんだなぁ。
思わず口元がほころんでしまう。もちろん俺は笑ったわけではな
152
い、牙をむいたのだ。
DFから俺へさあそろそろ攻めようぜとボールが廻されてきた。
この試合のファーストタッチだが、足に吸いつくようなトラップが
出来た。俺の場合はふわりと受け止められた時よりも、今のように
ピシッとボールがはまった感覚の方が調子はいい。こりゃ最高のコ
ンディションだと笑みを深くする俺だがさっそくマークがつく。
当然だろう。一点負けている矢張SCは攻撃に重心を置くために、
俺のポジションを一つ上げて攻撃的MFにしたのだ。山下先輩と並
ぶ高い位置にまで上がっているプレイヤーが、ノーマークでボール
を持てると考えるほど俺は夢想家ではない。このマークについた八
番の選手は大柄でいかにも力押ししてきそうなタイプだが、前半の
プレイでは足下の技術もしっかりしていてパスもドリブルも標準以
上だった。さすがは強豪だよな、ただの潰し屋ではなくサッカー選
手としての基礎が血肉になっている。こいつを出し抜くには一工夫
も二工夫も必要だ。
ボールを貰うと同時に鳥の目で前線の配置を確認するが、こちら
の攻撃陣には綺麗に全員にマークがついている。御丁寧にうちのF
Wのツートップには、一人に一人ずつしっかりとつくと同時にDF
をスイーパー気味に余らせるというスリーバックの最も効果的な布
陣に重なってしまっている。
元々スリーバックはツートップを止める為に成立したようなディ
フェンスだから、その術中にはまってしまうのも仕方がないのだが
負けている分際で易々と諦めるわけにも行かない。
﹁山下先輩、もっとゴール前に上がってください﹂
﹁え、これ以上前に行くとFWになっちまうぞ﹂
﹁じゃあ、今から先輩はFWって事で。俺がパス届けますから点を
取ってきてください﹂
153
﹁⋮⋮絶対にいいパスよこせよ﹂
ボールを保持したまま話す俺とは長くは喋れないと納得したのか
前へ走って行く。よし、先輩ならゴールをちらつかせればすぐ上が
ってくれると信じていたよ。まあ試合中にボールを持ってる奴から
話しかけられたら﹁判った、判ったから落ち着いてくれ﹂って気に
はなるだろうが、別に脅迫したわけでもないし素直に指示に従って
くれたのだから文句を言う筋合いではない。
これで多少強引だがスリートップになったな。おかげで中盤が薄
くなった変形の三・四・三だが攻めるためだと目をつぶろう。負け
ている方がリスクを覚悟して攻めないといけないのは当然の事だ。
後半が丸々残っているからといってゆったりと構えてもいられな
い。残り二十分で逆転するには二点取らなければならない。つまり
十分で一点だが、これまでの対戦相手との試合であればそれは可能
である。しかし、それがどんな試合でも簡単にできるならば、前後
半合わせて九十分のJリーグのスコアは野球以上の大量得点で溢れ
てしまうだろう。そうならないって事は、つまりレベルが上がるほ
ど一点の価値も上がるのだ。そして、現在の対戦相手は俺の記憶通
りなら間違いなく県で最強のチームだ。時間に余裕があるなんて言
っていられる相手ではない。
一旦キャプテンにボールを戻し、再度相手の陣形を確認する。こ
ういう展開に困った時にいつでも立て直し可能なキャプテンってい
うのは本当に助かる。
さて相手の守備陣は、山下先輩がFWに上がっても余っていたD
Fをつけただけで慌てた様子はなかった。今まで山下先輩をマーク
していたボランチがスペースを潰す役割に変化したぐらいか。それ
でもこの対応は俺にとっても望ましい物だった。なぜなら余ったD
Fがいなくなったからで、三人いるFWの一人でも駆け引きに勝っ
154
てノーマークになればそこにスルーパスを届ける自信が俺にはある
からだ。前半の攻撃ではFWがフリーになると、余っていたDFが
すぐにフォローしていたのでなかなか決定機を掴むのは大変そうだ
ったからな。
のんびりと迷っている暇はないと決断し、大きく息を吸って﹁先
輩!﹂と叫ぶと一本の指を立てる。ボールを貰ってもいないのにマ
ーカーがすぐに駆けつけてきたので、その指示をFWが確認したと
勝手に決めつける。キャプテンが俺に返したボールをダイレクトで
ヒールに引っかけて勢いを殺すことなくゴール前に送った。
これはほとんどがゴールに背を向けたままのプレイだからマーク
している相手も邪魔がしにくいのだ。それなのに俺をマークしてい
る八番は反応しやがった、ヒールキックされたボールを止めようと
スライディングして足を伸ばしたのだ。もし今のがトラップしたり
して一拍おいたパスならば止められていたんじゃないか?
微かな戦慄を覚えたが、なんとかボールは八番の足の先ギリギリ
を通過した。
よし、いいコースにコントロールされたパスがDFの間を抜けF
Wに⋮⋮と思ったら受け手に設定していたFWがマークしていたD
Fから強烈なチャージで体勢を崩され、その目の前を転々とボール
が流れていってしまった。敵キーパーが転がるボールを地面に伏せ
るような格好で放すものかと大事にセーブする。
く、今までは成功していたノールックでのヒールパスも簡単には
決まらないか。これだけよく鍛えられたDF陣を出し抜くのは一筋
縄ではいかないようだ。あのDFもゴール前だというのにファール
ぎりぎりのチャージを臆する事なく実行しやがる。よほど自分達の
技術に自信を持っているんだろうな。
唇を噛みしめていると八番が俺の前に立ちふさがった。お互いが
無言だが何を伝えたいかこんな時は目を見れば判る。これも一種の
155
アイコンタクトだ。俺からのメッセージは︱︱邪魔すんじゃねぇ、
八番からは︱︱次は必ず止めてやるといった所か。さてどっちの言
い分が通るか楽しみだな。
後半も半分近くが過ぎ、微かに焦りが胸にちらつきだす。早い所
同点にまで追いつかないとチームメイトにも動揺が広がってしまう
だろう。
少しギャンブルになるが俺も実戦では一度もやった事がない技を
試してみるしかないか。これだけのレベルの相手にリスク無しで点
を取りに行くのは至難の技だからな。
ノールックやヒールでのパスが上手くいかないのは、敵のDFの
実力もあるがこれまでの試合で俺が見せすぎていたのが原因だ。あ
れは一種の奇策だから、初見でなければ効果は激減する。おそらく
こいつらDFはビデオででも観察していたから驚く事がなくこれら
のプレイが有効に作用しないのだ。だったら少し方向転換する必要
があるだろう。
ボールをキープしているDFにボールを要求すると、キャプテン
を経由して俺に廻ってきた。本当にキャプテンが便利で仕方がない、
一家に一台じゃなくて一チームに一人はこんな黒子が必要だ。俺も
こんな風なプレイも勉強して選手としての幅を広げなきゃいけない
な。まあそういった反省はまた明日にでもして、今はこの試合で出
来ることに集中しようか。
俺がボールを持ってもマークについた八番は迂闊には近づいてこ
ない。あまりに接近しすぎると、またヒールキックでスルーパスを
出されると警戒しているのだろう。ではその警戒心を利用させても
らおうか。
後ろ向きのままボールを右足で踏みつけるようにして後ろへと押
156
し出す。マーカーはヒールパスかと身構えるが、このまま体を半回
転させれば単に右足をボールの上に乗っけた俺の姿があるだけだ。
距離をとってくれていた分だけ小細工する余裕があった。
さらに俺のプレイはここで終わりではない。パスではないと判る
と慌てて近づこうとする相手に向かって、後方に引いていた左足を
前に踏み出すとさらに一回転したのだ。ピッチの外から見れば二回
連続のルーレットをフィギアスケートの回転ジャンプと錯覚したか
もしれない、それぐらいキレのある動きで敵をかわしたと自負して
いる。
相手にスピードがあったからこそカウンターとなって相対的に素
早く体を入れ替える事ができた。 想定以上に綺麗に抜けたが、それでも俺に与えられた時間は少な
い。僅かでもタイムロスをするとすぐにこのマーカーが追いついて
しまうだろう。だから間髪入れずに次のプレイへ移る。右サイドを
向いて大声で﹁先輩!﹂と叫ぶと左足を振り抜いた。
声に反応してスタートを切ったうちの右サイドのMFもその対面
のディフェンスもすぐにあれ? という表情で立ち止まる。パスが
来ないのだ。それもそのはず、俺の左足は見事に空振りしていた。
皆が﹁え? 空振り?﹂と固まった瞬間に左足の裏から右足でゴ
ール前にスルーパスを出す。
これは空振りしたはずの左足を軸足として、その左足のさらに外
側にあるボールを交差させた右足で蹴る﹁ラボーナ﹂というプレイ
だ。ほとんど実戦ではお目にかかれないほど遊びの要素の強い変則
的なキックだからこそ、相手チームは虚を突かれたようだった。
だが残念な事に味方も意表を突かれたのか反応できたのは一人だ
けだった。
やっぱりFWに上げておいて良かったぜ山下先輩。俺の叫びを信
じてただ一人、ラボーナのようなトリッキィなプレイに視線もよこ
157
さずにゴール前へと詰めていた。
ほかのFWの先輩達は追随できなかったが、山下先輩ならばキー
パーとの一対一なら決めてくれるはずだ。ましてや相手キーパーも
俺のラボーナのおかげか驚愕で反応が遅れている。
その期待通り、寄せるのが遅れた敵守備陣を尻目に先輩はダイレ
クトながら丁寧にゴール左隅へとボールを流し込んでいた。
ガッツポーズする山下先輩に親指を立てて応えていると、審判の
ゴールを認めるホイッスルが鳴り響く。よし、まずはこれで同点だ。
この時俺は、敵チームは俺が相手している八番だけでなく全員の
顔つきが真剣に︱︱正確に言うならば余裕を削ぎ落とした表情に変
わっていた事にまだ気がついていなかった。
158
第二十三話 しつこいマークと渡り合おう
同点を祝ってもらっているはずなのになぜか頭を防御して逃げ回
る山下先輩を追い回していると、俺の背筋に冷たい物が走った。反
射的に振り返ると瞳に映ったのは、黙々とセンターサークルにボー
ルをセットして再開を待つ相手チームの姿だった。
︱︱まずい。このタイミングで再開されたらどうしようもない。
陣形は乱れきって士気は緩みきっている。キーパーまでペナルティ
エリアを離れて祝福の輪に加わっているのだ、子供の手を捻るより
簡単に得点されてしまうぞ。俺は強盗に追われて交番へ逃げ込むが
如き鬼気迫る形相でセンターサークルへ急行した。
確かサークル内に相手チームの選手がいれば試合は再開されない
はずだ。
間一髪で間に合ったのか審判が咥えていたホイッスルを外して注
意してくる。
﹁あんまり長く喜びすぎないように。もし君がここに来なかったら、
準備ができてなくてもルール上再開しなきゃいけなかったんだから
ね﹂
﹁はい、承知してます。お手数かけてすいません﹂
審判に向けてしおらしく頭を下げると、まだ山下先輩の頭を狙っ
て張り手を繰り出しているチームメイト達に怒鳴り声を上げる。
﹁すぐに試合を再開しますよ! 早くポジションに戻ってください
!﹂
俺の声に無粋な奴だと迷惑げに振り向くが、すでに攻撃する準備
159
を整えている相手を目撃してはっとした表情で小走りに先輩方が自
分のポジションへと戻っていく。ここからはむしろその先輩方より
も、後ろで無言の内に気迫を高めている相手チームに意識を向けて
言葉を続ける。
﹁早く再開しないと逆転ができないじゃないですか! 今勢いに乗
ってるんですからさっさと逆転しましょう!﹂
俺の背から吹く風の温度が一気に上昇したようだった。
◇ ◇ ◇
ふざけるなよ。俺は目の前で偉そうな事を喋っているチビに対す
る怒りを抑えきれなかった。大体こいつが前半から出て来なかった
せいで、立てた対策が無駄になりちょっと計算違いの試合スタート
になったのだ。そのせいでマークの再確認などのどたばたした立ち
上がりになり、序盤で失点をしてしまった。
そして今の同点弾もやっぱりこの足利ってチビが原因だ。パスの
受け手を確認しようとしないパスやヒールキックといったふざけた
プレイスタイルに加えて、今度はラボーナだと? にやけた生意気
そうな顔といい絶対に真面目にサッカーやってないよな、こいつ。
こんな奴にアシストされるどころかもしかしたら負け︱︱ぶんぶ
んと頭を振ってネガティブな考えを払いのける。確かに上手いのは
認めよう、俺一人でこいつの攻撃の全てを止めるのも難しいかもし
れない。だが、監督が指示したように俺が体で足利の体を止めても
う一人のボランチがパスコースを消せば問題ない。
こいつが接触プレイが苦手なのはもう判ってるんだ。これまで競
り合った感触でも明らかに当たりが軽いからな。ボールを奪おうと
は考えずにドリブルしてきたら体をぶつけるつもりでいくぞ。それ
160
でボールがこぼれたらうちの守備陣がフォローしてくれるはずだ。
足利よ俺は一対一ではお前に勝てないかもしれない、だが負けな
ければいいんだ。そして俺達を抜いた矢張SCとうちで十対十をや
れば間違いなくうちが勝つ。
﹁三十九番の足利は俺がチェックするけどあいつからのパスのカッ
トをしてくれ、最悪DFライン裏へのスルーパスだけはケアしてほ
しい﹂
﹁判った。あの小僧とゴール前をつなぐラインは消しておくね。だ
けどあいつすばしっこいぞ、ドリブル突破も厄介だと思うけどそっ
ちは大丈夫?﹂
﹁ああ、パスがないと決めておけば簡単には抜かれない。忘れるな
って俺はこれでも一対一のディフェンスならチームナンバーワンな
んだぞ﹂
﹁⋮⋮うん、まあFWは抑えきってるし問題になりそうなのは三十
九番の他は十番だけだね、よし後ろは任せてお前はマークに集中し
ろ﹂
さすがにうちのチームメイトとは話が早くて済む。同じ守備的M
Fと僅かな会話で即座に今一番の脅威となっている足利への対応策
がまとまった。もっともこれは試合前に監督が高く評価していた足
利対策としても最悪の場合で、あの小僧の実力が想定の一番上だっ
た場合の対処法なんだけどな。俺が一対一で押さえきれない相手な
んてここ一年を通して県内にはいなかったんだから。足利よ光栄に
思うんだな、お前への対応はちょっと上手いチビから全国でエース
クラスを相手にした物に変更されたぞ。
とはいえ向こうも攻撃的なスリートップの布陣だけに、これ以上
の戦力を足利ただ一人だけに注いで守るのは不可能だ。そして同点
であるからこっちも攻めの人数を削る訳にもいかない。こうなった
161
らFWを止めるのはDFに任せて俺ともう一人がフォロー役で止め
るしかないな。最悪の場合は監督は嫌いな方法だがファールで止め
たりもしなくちゃいけないかもしれない。いや、そうではない。俺
が危なげなく足利をストップできていれば何の問題も起こらないの
だ。余計な事は考えずこのチビのマークに集中しよう。
◇ ◇ ◇
俺は対面する八番の雰囲気の変化に舌打ちして額の汗を拭った。
これまではどこかにあった油断とか驕りが完全に消えている。見下
すのはやめて対等な相手だと認識したって事だろうが、俺を三年と
侮っていた為に僅かにあった隙なんかまで消滅してしまった。
これからの残りの十分は厳しい戦いになるのを今一度覚悟してお
くべきだろう。正直少しは俺も同点ゴールの喜びに浸りたかったと
いう未練なんか、爪の先でも残してたらすぐに勝負を決められそう
な気迫をしている。
俺達矢張SCのようやく同点に追いついたというどこか浮ついた
空気を吹き飛ばしたのは敵の猛攻だった。俺へはぴたりと八番がマ
ークしているのだが、DFはラインをどんどん押し上げて﹁攻撃は
最大の防御﹂を実践している。
ちい、これまでの対戦相手は俺達が攻めている時間が多かったか
ら、こういう守りを強いられる展開は慣れてなく分が悪い。おまけ
に中盤を押し込まれているので、もっと前にいたはずの俺がいつの
まにかキャプテンと並ぶポジションにまで下げられている。
こうなると山下先輩をFWにしたのがたたり、中盤にスペースが
空いてしまう。そこを相手に突かれさらに敵の攻撃が厚みを増すと
いった負のスパイラルが止まらない。矢張のDF陣も頑張ってはい
るが、これではいつまでもつのか⋮⋮。
162
このままではマズい、流れを押し戻す為にはどうにかしなければ
ならない。キャプテンに近づくと﹁十番に仕掛けます﹂と伝える。
相手の勢いを断つ為にも攻撃の中心を担っている敵の攻撃的MFで
ある十番をターゲットに定めた。
こいつが分厚い攻撃をほとんど独力で指揮しているのだ。ただ単
にFWへ玉を出すだけならば対処しやすいが、こいつはバランスを
考えてDFを左右に揺さぶるようにパスを配りやがる。派手ではな
いが正確なキックは司令塔として及第点以上のタレントだ。おかげ
でうちのディフェンスは振り回されて体力を消耗してしまっている。
この十番からボールを奪えれば、カウンターのきっかけになりその
間が矢張SCの守備陣に僅かなりとも休息を与える事になるはずだ。
向こうの攻撃は未だに続いている。シュートを止めてもセカンド
ボールを拾われ、さらにそこから次のより厳しい攻撃に繋げられて
いる。だが、実はその攻撃の渦の中心である十番は実はあまり動い
ていない。ほぼ王様状態で味方がパスを献上するとそれをまたFW
達に危険なパスへと変えて与えている。運動量が少なくても許され
るだけの確固たる地位をチーム内に得ているのだろう。
だからこいつを捕まえるだけならそんなに難しくはない。ピッチ
の俺達の陣の真ん中にデンと構えているからだ。それでもこれだけ
攻撃を操れるんだから大したもんだとは思うぜ、でもここらで終わ
りにしてもらおうか。ちょうどシュートまで持ち込めなかったFW
が十番の位置にボールを戻す。
そこに俺が思いきりつっかける。なかなかに鋭いダッシュだった
はずだが、あっさりとボールごとサイドステップを踏んでかわすと
またFWにパスを送ろうとする。急ブレーキに傾く体をわざと大き
く右手をぐるぐる回すことでバランスをとり、なんとか踏みとどま
った俺はそのキックを邪魔しようと体を寄せた。
幸いな事にさっきのダッシュで十番を追い越しているので、前線
163
へのパスコースに俺が入って壁になっている。もう一回チェックに
⋮⋮と動き出そうとした瞬間にたたらを踏む。俺をマークしていた
八番がここまで追ってきて肩をぶつけたのだ。くそ、ちょっとこれ
は予定外だ⋮⋮俺は体勢を崩しながらも十番へ左からスライディン
グするが、キレを欠いたそんな物に引っかかるはずもなく、馬鹿に
したような笑みを浮かべながら一歩右へ移動するだけで奴は完璧に
スライディングを避けた。
よし、それでいい。おそらく十番に俺の笑みは見えなかっただろ
う。だが、結果から逆算すれば引っかけられたと判るはずだ。
俺を小馬鹿にしたステップでかわした十番は、その刹那に右の死
角からのキャプテンのチャージにあっさりとボールを奪われた。﹁
え? なんで?﹂ときょとんと表情の十番には悪いが、ここまでが
サインプレイだったのだ。
俺が急停止した時に右手を回したのはキャプテンへの﹁右へ回れ﹂
という合図だ。だから俺は逆方向から注意をひきつける為にスライ
ディングを仕掛けたって訳だ。あの八番に邪魔されてちょっと焦っ
たが上手くいって良かったぜ。
素早く立ち上がるとキャプテンがすぐにボールを渡してくれる。
これまで押し込まれていた分、相手のDFラインが上がっていた。
絵に描いたようなカウンターチャンスだ。すぐに﹁先輩行きます!﹂
と大声を上げてDFラインの裏へとロングボールを放り込もうとす
る。そこで誰かにユニフォームの右肩を引っ張られた。倒れるほど
ではないが微妙にキックの精度が落ちる。しかも、引っ張った八番
はボールの軌跡を見るや﹁キーパー前へ出ろ!﹂と絶叫したのだ。
俺の蹴ったロングボールは狙いより若干長くなってDFとキーパ
ーの中間地点辺り、つまりペナルティエリアよりもちょっと手前に
落ちた。これならばキーパーの守備範囲内、俺達DFが追うまでも
164
ない⋮⋮と思ったよな? そう思ってくれ! 祈りが通じたのかD
Fの足が止まる。﹁馬鹿! 追え!﹂と隣で八番が叫んでいるが、
もう間に合うものか。
ワンバウンドしたボールは、前へ進むことなくその真上に跳ねる
とぴたりと停止した。俺がロングボールにバックスピンをかけて蹴
った成果だ。
これでボールはキーパーとうちのFWのちょうど真ん中ほどの地
点にあることになる。走るのをやめていたDFはもう追いつけない。
キーパーとFWのスピード競争の一騎打ちになる。頼んだぜ先輩、
ここできっちり決めてくれよ。
見守る俺の祈りも虚しく、ほんの僅かに早くボールに追いついた
キーパーがペナルティエリアを大きく離れてクリアしやがった。F
Wと正面衝突しそうになりながらも、一切恐れる様子もなく冷静に
ピッチの外へ蹴りだしだのだ。
﹁アシカ、すまん!﹂
と追いつけなかったFWが俺に謝るが、本来ならば謝罪しなけれ
ばならないのはこちらの方だ。隣にいる八番にバランスを崩されな
ければ、もう少し短くてキーパーよりもFWが先に触れるボールで
アシストが出来たはずなのだ。しかもキーパーに指示まで出しやが
って、あれでキーパーの飛び出しが一瞬早くなってしまった。まっ
たく邪魔だなこいつ。乱れたユニフォームを直しながら﹁どっか行
け﹂と不満を視線に乗せて睨んだら、向こうも上からぎらついた目
で睨み返して俺の胸を指さした。
﹁お前みたいにふざけたプレイをしたり、にやにや笑っている奴に
なんか絶対に負けるもんか﹂
165
﹁俺だって真剣にやっているぞ﹂
﹁だったらなんで試合中に笑ってるんだよ﹂
﹁⋮⋮サッカーを楽しんでいるからだ﹂ 166
第二十四話 天に向かって叫びだそう
後半も残り僅かになり、ずっと猛攻をしかけていた敵チームの足
取りもようやく鈍ってきたようだ。
ここら辺の時間帯がカウンターの機会かもしれないな。そう決意
してキャプテンがサイドにボールを振るのと同時に俺も前線へと駆
け出す。
このタイミングでゴール前にクロスが上がればビッグチャンスに
なるかもしれない。残念ながらマークしている八番をスピードでち
ぎるのは無理だったが、引き連れるような格好のまま敵のペナルテ
ィエリアにまで侵入した。
さてどこにセンタリングがくるかとサイドを確認すると、ボール
は味方のMFへ届かずに流れて白線を越える所だった。ああそうか、
サイドはずっとアップダウンを繰り返していたから、俊足を誇る先
輩MFでももう深いところへのスルーパスに追いつける瞬発力は残
っていなかったみたいだ。おそらく前半ならばあの位置へのボール
でも十分に間に合っていたのだろうが。気が付いて周りを見回し、
味方の表情を確かめても疲労の影がちらついている。そういえば、
前半終了時からスタメンは精神的消耗も引きずっていたようだしな
ぁ。
頼みの長身FWコンビも腰に手を当ててうつむいている。あの二
人はFWなのに前半から守備に追われていたんだよな、その上で前
線で屈強なDFと体を張っているんだから責めるのも筋違いか。
今のタイミングでもゴール前に詰めていたのは俺以外では山下先
輩だけだ、あの人は監督にバレない程度に手を抜くのがうまいんだ
よな。その先輩でさえちょっと前のカウンターではドリブルの精度
が落ちていたっけ、それが疲れからかそれとも敵からのプレッシャ
167
ーかは判らないが。
どうやら後半からの出場でスタミナにまだ余裕のある俺が︱︱お
まけでキャプテンと山下先輩か︱︱なんとかしなくては得点は不可
能のようだ。
この試合だけでなく午後から決勝まであることを考えると︱︱い
やこの試合に勝つことだけに焦点を当てても、後半の残り五分以内
で勝ち越しゴールを決めるしかないと腹を括った。
この先輩達の疲労した状況下で延長戦をやられたらまちがいなく
惨敗する。相手もかなり疲れているはずだが、攻めているほうが消
耗は少ない。特にパスやシュートでこっちを揺さぶりまくっていた
から相手よりもうちのチームの方が遙かに走らされているのだ。強
敵と戦うとみるみるスタミナが減っていくものだが、俺達と異なり
去年すでに全国大会を経験している相手はそんな試合経験を積んで
いるようだった。これが大舞台を知っている者と知らない者の差か
⋮⋮。
向こうのゴールキックに備えて中盤に下がり、忙しく頭を巡らせ
る。スルーパス一発で得点できるか︱︱ノーだ、FWの動きにキレ
がない上に俺のヒールなんかのタイミングまで予測するようになっ
ていやがる、現状では難しいと言わざる得ない。ではサイドから行
くか︱︱ノーだ、さっきのキャプテンのパスに追いつかなかった事
から考えても、ウイングとしてドリブルでサイドを抉るスタミナは
残っていないだろう。
チームとしては中央からもサイドからもこの凍ってしまった状況
を打破する手がなくなってしまっている。
⋮⋮だったら俺が個人でやるしかない。
こんな﹁凍った状況﹂の氷を壊して試合を動かせる人間を﹁クラ
ック﹂と呼ぶんだよな。ファンタジスタと並んで呼ばれてみたい称
号の一つだ。
168
自分の腕に鳥肌が立っているのに気がついた。炎天下なのに︱︱
ああ、それ以上に体が燃えていれば外気が冷たくも感じるか。ふふ
ふ、また自分の唇がほころんでいるのに気が付いた。まあ構うまい、
これからは存分に俺の牙を見せつけてやるのだから。
相手チームもここらで試合を決めたいのか、じりじりと最終ライ
ンを上げて最後の攻撃の準備をしている。おそらくあと一点取って
さっさと守りに入りたいのだろう。FWがここまで消耗しているの
だ、敵が得点した後で完全に守備に専念されてはひっくり返しよう
がない。矢張SCは交代要員もすでに使いきっている。切れる札は
もうすでに全て切った後なのだ。
だから何度も言うように俺がなんとかするしかないのだが⋮⋮。
攻撃に移ろうにもまずボールを奪うのが容易ではない。先刻のカウ
ンターで警戒心が増したのか、より安全なパスルートでじっくりと
ボールを運んでいる。俺がわざと隙を見せてスペースを空けても、
そこを避けるようにして互いの足元へとつないでいく。
しかたない、うまくいくか判らんが出し惜しみしてもしょうがな
い。幾つかはったりも混ぜて先輩方と罠を仕掛けてみるか。
俺をマークしていた八番がすっと離れて、DFから廻ってきたボ
ールを受けとろうとする。さすがにロングボールを放り込むような
雑なプレイをせずに、慎重にパスをつないでいく過程では俺のマー
カーだからと一人飛ばして前へ進めるのは難しいようだ。
だからそこにつけこむ。
八番がボールをトラップする寸前に俺は﹁先輩!﹂と大声を上げ
てボールへダッシュしたのだ。散々俺のかけ声に苛ついていたこい
つはビクッと肩が跳ねる。明確なミスこそなかったが、少しだけト
ラップが長い。動揺を押し殺しているのに間違いはなさそうだ。
背後からプレッシャーをかける俺にちらりと目を向けると、前へ
169
進めるのは諦めたのか一旦パスで後ろへ戻そうとした。そこにキャ
プテンが割って入る。俺が声を上げて注意を引き付けてキャプテン
が仕留める簡単なコンビプレイ︱︱だと思ったな?
◇ ◇ ◇ 足利の叫びに思わず背筋が伸びて肩がビクッと動く。今まで何度
あの﹁先輩!﹂という声と共にディフェンスが崩されたことか。俺
も聞きたくないが、顎で使われるあのチビの先輩もいい面の皮だよ
な。
と、いかん。ボールが僅かに体から離れてしまった。足利が近付
いて来るのに間違いはないよな。流し目で確かめるとかなりのスピ
ードでプレスにきてやがる。
こいつの体当たりぐらいなら跳ね返す自信はあるが、無理をして
ボールを失うリスクを負う必要もない。同じボランチにパスで戻そ
うとした。ぞくりとその瞬間に寒気が走る、駆け寄る足利が笑って
いたのを思い出したのだ。あのチビが牙が見えるほど唇をつり上げ
ていたんだ、単純なチャージでお仕舞いだろうか。
とっさにパスをとりやめると、パスを出そうとしていた方向にす
っと向こうのキャプテンが割り込んできていた。危なかったな、あ
のタイミングで慌てて蹴っていたらあいつにカットされていただろ
う。 矢張SCのボランチコンビの罠をかいくぐったとほくそ笑み、逆
方向のフリーなDFにバックパスする。その蹴った足が何か不快感
を感じた。これは直接的なミスキックとかではなく何か見落として
いる時の肉体からの注意を促すフィードバックだ。
だが一体何を? 自問するまでもなく答えは現れた。
俺がDFに返したボールが途中でカットされたのだ。奪ったのは
向こうの十番でMFのくせに最前線にいた奴だ。今まで守備には参
170
加していなかったから無視していたんだが、もしかしてさっきのボ
ランチの奴はフェイクでこっちが﹁先輩﹂って呼んだ奴なのか? だとしたら⋮⋮慌てて見回す俺の瞳に駆け上がる足利の姿が映った。
俺は必死でその姿を追走する。まだ数年でしかないがサッカー選
手としての勘がこいつを自由にしてはいけないと叫んでいる。その
嫌な予感が当たり十番から足利へとパスが渡った。
もう一人のボランチがフォローに来たが、足利はちらりと一瞥す
ると左へ視線を流す。
ああ、ダメだ。釣られるな。そいつは顔を上げて味方を探すタイ
プじゃない。そうアドバイスする暇も無く、足利が視線に向けてボ
ールを蹴った︱︱ようだった。うちのボランチが反射的にカットし
ようとするが、その相手が動いた逆の右へと足利はドリブルで駆け
ている。
今のは変形のエラシコか? インサイドで触ったボールをその蹴
り足が追い越してアウトサイドで切り返したのだ。一回目のインサ
イドキックで動いたボールをパスだと重心を移したボランチは見事
に逆をつかれてしまった。 チビが一人抜く僅かなロスの間にその前に立ち塞がれたのはラッ
キーだ、こうなったら正面から体をぶつけてでも⋮⋮そう決意した
時、足利が大きくキックモーションに入った。まさかここからシュ
ートを撃つのか? データではこいつの得点はゼロだって⋮⋮いや、
違う! 得点もゼロだが撃ったシュートは全部枠を捕らえていたは
ずだ、撃たせるとまずい。だが、今回もラボーナのようなキックフ
ェイントかもしれん。シュートコースを防ぎつつボールと蹴り足に
目をこらせ。
足利の右足がボールを捕らえた、キックモーションも空振りでは
ない。来る! 身を強ばらせて衝突を待つ。反射的に目をつぶって
171
しまったが、身構えたタイミングでショックがこない。
俺に当たらなかったのかと思ったが、頭上にふわりという感じで
ボールが浮かんでいるのを発見するとすぐに真相に気がついた。チ
ョップキックか! 足利の奴はあのシュートの動きのまま足首のバ
ネだけでボールを上に弾きやがったんだ。いけない、このまま抜か
れてはこいつをゴール近くで自由にしてしまう。
横を駆け抜けた足利のユニフォームを引っ張るのと、足利が浮き
玉が落ちてきたのをボレーでシュートするのがほぼ同時だった。
無理に背後に手を伸ばした為に足利の勢いに俺も引っ張られて倒
れるが、その斜めに傾いた視界に足利のシュートがキーパーの手を
掠めてバーに当たり、跳ね返ってピッチに戻ってくるのが映った。
ざまぁみろ。俺のマークも少しは役に立ったんだ。
これからゴール前に詰めてもすでにうちのDFが二人で塞いでい
る。接触プレイの苦手な足利にはもう何もできないはずだ。このピ
ンチはなんとか守り切ったぞ。
◇ ◇ ◇
またかよ。
シュートがキーパーに弾かれてバーに直撃したのにそう呟かずに
はいられない。だがこれは俺の決定力の無さだけに原因を求めるの
は酷だ。なにしろ八番にユニフォームを引っ張られてジャストミー
トできなかったのだから。
それにシュートを撃つと決めたときから、どうせ俺はすぐこぼれ
玉を拾いに行くんだと覚悟していた。だからボレーが入らないのは
想定内だった。想定から外れていたのは八番のファールすれすれの
プレイだ。そのおかげでバランスを取り戻してゴール前に詰めるス
タートダッシュが大幅に減速してしまったのだ。
172
このタイミングでは、ゴール前を鳥の目で見ても二人のDFが壁
を作っていて俺の入れるスペースはもうない。
無理だな、そう理性は判断を下した。ならばもう足を止めて延長
に向けて体力の消耗を抑えるべきだと。
いくぞ、そう俺の体は反応した。難しい事は関係ない、ここはい
くべき時なのだと。
体が理性の制御を振り切って屈強なDFの間に突っ込んでいた。
もちろん俺のパワーでは二人も相手にして弾き飛ばす事など不可能
だ。だが、躊躇なく体当たりしたのが功を奏したのか僅かな隙間が
開き、そこに潜り込むのに成功した。
俺がもう少し大きかったらこの間隙には入れなかったし、その前
の体当たりでファールを取られていたかもしれない。まだ小柄な体
で良かったと一瞬だけ感謝する。
そして、DFの壁に潜り込んだ俺の目に入ったのは転がるボール
と集まるDFの姿だ。考える暇も無く、ほとんど脊髄反射に近い感
覚でそこに飛び込む。
だがゴール前のボールが安全であるわけがない。頭から突っ込ん
だ俺の目にはボールとスパイクの両方が映り、意志とは無関係に瞼
を閉じてしまった。
﹁ぐほっ﹂
腹を地面で顔をスパイクで打たれたせいでうめき声が漏れ、口の
中に土と血が混じる。痛いぜ、こんちくしょうと涙目になって開い
た俺の瞳には揺れるゴールネットとゴールラインの内側に転がるボ
ールがあった。
審判が長い笛を吹く。これはファールなどではなく得点のときに
鳴らされる音だ。俺は上半身を持ち上げて両手を掲げ、下半身は膝
173
をついたままの姿で雄たけびを上げる。
﹁おおおおおー!﹂
絶叫する俺の口の中からは土と甘い血とゴールの味がした。
︱︱俺の公式戦初ゴールは前世譲りの華麗なテクニックを駆使し
たものでも、新たに授かった鳥の目でスペースの駆け引きに勝利し
たものでもない。
ただがむしゃらに飛び込んだだけの土にまみれたダイビングヘッ
ドだった。
174
第二十五話 まだ見ぬ相手を目標にしよう
俺は呆然と揺れるゴールネットと雄叫びを上げている足利を見つ
めていた。この右腕にはさっき振り払われるまでは掴んでいた足利
のユニフォームの感触が残っている。
何でこうなるんだよ? 足利はフィジカルが貧弱だったんだろう
? なんでそんなチビな体でDFに向かってつっこんでゴールして
しまうんだよ。
両腕を掲げている足利の周りに向こうのチームメイトが集まって
くる。どいつもこいつも﹁もう勝った﹂といわんばかりに頬を緩ま
せて、あのチビの頭をはたいてやがる。
得点された事よりもなぜかその人の輪に無性に腹が立った。
俺に向けて審判が﹁今のプレイは本当ならイエローカードだから
ね﹂と警告してきた。判ってるよそれぐらい。それでもカードをも
らったとしても足利を止めなければいけなかったんだ。
俺は唇を噛みしめて立ち上がるとゴール内にあるボールを抱え、
センターサークルにいるうちのFWに向けて蹴り飛ばした。この失
点は俺の責任だ。マークしていた足利に得点されたんだから言い訳
のしようがない。だが責任を追及されるよりも先にまだやらなきゃ
いけない事がある。
﹁急いで一点取り返すぞ! 相手はもう疲れてるんだ、延長まで持
ち込めば絶対に勝てる。だから全員で上がってすぐ取り返そう!﹂
手を叩いて皆に大声で鼓舞する。俺の意図に気が付いたのだろう
他のメンバーも﹁よっしゃあ、ここから追いつけば伝説だな﹂と空
元気でも冗談を言えるだけの気力が出てきたようだ。
175
それでも一部のチームメイトは舌打ちして﹁お前が言うなよ﹂と
聞こえよがしに呟いているが、それは甘受しなければならない。俺
がマークを引き受けたはずの足利にゴールを決められたんだからな。
でも嫌みを言われたのよりも、チームが一つになれていないのが
痛い。
相手は同点の時に気を緩ませたミスを繰り返さない様に、もう足
利を中心にして残り時間を守り切ろうとお互いが声を掛け合いまと
まっている。
︱︱俺達の方が実力は上のはずだ。なのにどうしてこうなっちま
ったんだろう。 その疑問は試合終了のホイッスルが鳴るまで解かれることはなか
った。
◇ ◇ ◇
審判の笛に小さくガッツポーズをとると、俺は勝利の喜びと誰に
も判らないであろう理由で鳥肌を立てていた。勝ったのはもちろん
嬉しいのだが、今回の結果で明らかに俺の知っている歴史とはズレ
が生じたのだ。
これから先は起こる筈の歴史を知っていても役に立たないかもし
れない⋮⋮。あれ? 今までに役に立った事あったか? というよ
りも俺が利用していないだけか。ならばこの感慨は前回の優勝チー
ムである敵を下したことによる傲慢だな。
スポーツは残酷なほど平等に弱肉強食が適用される世界で、勝っ
た者だけが上に行ける。別にイカサマをした訳ではないのだ、本来
の歴史をくつがえして実力で俺達が勝ったからといって誰も文句を
言う奴はいないはずだ。よし理論武装終了。
176
﹁足利だったな、ちょっといいか﹂
⋮⋮どうやら文句を言う奴がいたようだ。出来るだけ表情を消し
て、後半ずっと俺をマークしていた八番と対峙する。
﹁なんでしょうか﹂
﹁ああ⋮⋮まずはおめでとう。午後からの決勝も頑張れよ﹂
﹁あ、はい。ありがとうございます﹂
身構えていたら素直に祝福されて毒気を抜かれた。恨み言の一つ
ぐらいは言われるかと覚悟していたんだけどな。
﹁俺達に勝ったんだ、全国にまで行ってもらわないと納得できない
からな﹂
﹁はあ、まあ俺達もそのつもりですけれど﹂
﹁そうだろうな。それと⋮⋮全国へ行くんならそのフィジカルとス
タミナの二つを何とかしろよ。そうじゃないと、比較にもならない
からな﹂
﹁比較? 誰と比べてるんですか?﹂
﹁⋮⋮ああ、去年うちが負けた相手のエースで俺がマッチアップし
た相手だ。お前も名前はぐらいは聞いたことあるんじゃないか? U十二でもエースを張って十番を背負っている奴だから有名だぞ。
今年はどうにかしてリベンジするつもりだったんだけど俺はここで
つまずいちまったからな﹂
ああ、あいつか。その名を思い浮かべた瞬間に鳥肌が立ち、胸の
奥に新たな熱が生まれた。そうか、やっぱりあいつかぁ。前世では
結局一度も対戦する事は叶わずに、活躍をテレビで観戦する事しか
できなかった選手である。
当然ながら今回の全国大会で俺が一番戦いを熱望している少年だ。
177
このU十二の年代でもすでに代表のエースとして将来を嘱望されて
いるが、俺が知っている未来の歴史でもその期待通り、いやそれ以
上に成長していた。だからこそ戦って確かめたい、現在の自分がど
の位置にいるのかを。
﹁その表情じゃ知っているみたいだな。お前達が勝ち進めば当たる
事もあるだろうさ、俺もお前とあいつの一対一を見てみたいからな。
ま、負けるだろうがそこまでは頑張れ﹂
﹁意外と親切、なんですよね? まあ激励には感謝しておきます﹂
﹁何、もしかしたらチームメイトになるかもしれないしな。うちの
監督はお前等をスカウトしそうだったからな﹂
﹁⋮⋮全国大会後にしてください﹂
苦笑いでスカウトを婉曲に断ると、少し寂しげに彼も頷いた。
﹁そうだな、お前達のチームは仲が良さそうだからな﹂
そして何かに納得したように右手を差し出す。﹁また戦おう。そ
の時は必ず止めてやる﹂俺も握り返すが相手の手は万力で締め付け
られるように圧迫してくる。いてて、全力で握っているのにまるで
かなわない。
﹁残念ですが、次も俺達が勝たせてもらいます。いてて⋮⋮﹂
◇ ◇ ◇
母特製のサンドイッチを食べ終えた俺はごろりと芝の上に横にな
った。ここは競技場の観客席で中心へ向けて少し斜めになったスタ
ンドである。床や椅子がなく、下が芝になっているため、ピクニッ
ク気分で横になれる。
178
﹁お行儀が悪いわよ。それに、食べてすぐ横になると牛になるんじ
ゃない﹂
﹁軽くストレッチするだけだから大目に見てよ。それと、もし牛に
なったら松坂牛みたいに毎日ビール飲ましてね﹂
﹁未成年の飲酒は禁止されています﹂
﹁牛が成人するの待ってたらとっくに出荷されてるよ﹂
馬鹿話をしながら芝の上で伸びをする。うーん、食べてすぐ横に
なるのは消化に悪いと判ってはいるんだが、今の内に少しでも疲労
を回復しておかなければならない。仰向けに寝転がった俺は、真上
に足を突き出すとつま先を握りぐっと引き付ける。このストレッチ
はアキレス腱が伸びるし、足に溜まった乳酸も分解されていく気が
する。
﹁お、アシカはもう飯を食べ終わったのか﹂
青空と入道雲をバックに監督が俺の顔を覗き込んできた。母の方
にも軽く会釈で挨拶している。
﹁ええ、母特製のサンドイッチが美味しかったので﹂
﹁そうか、そりゃ良かった。美味しい料理はいいサッカー選手を作
るんだ﹂と怪しげな自説を展開した後でこう付け加えた﹁それで次
の試合でのお前の起用法についてちょっと伝えておこうと思ってな﹂
それは重要だと起き上がる俺を制して再び背中を芝につけられた。
﹁まあ休める内に休んでおけって。それで、次の試合だがアシカは
スタメンで行くからな。あ、でもフル出場させようとまでは思って
ないから安心しろよー。というよりもお前のスタミナがどこまで持
179
つか判らんからこうしたんだ。後半から途中出場させてその後ガス
欠になられたんじゃ計算が立たん。それぐらいなら最初から行ける
ジョー
だけいってもらって、疲れが見えたら交代してもらった方だがいい
しなー﹂
﹁⋮⋮期待されているような、舐められているような﹂
監督が肩をすくめる。
カー
﹁期待してるのは本当だぞ。そうでもなきゃ三年生を準決勝の切り
札に選んだりせんよ。そして舐めてるっていうかアシカが体力無い
のは事実だしな﹂
横になったまま頬をかく。スタミナ不足なのはどうにも否定しが
たい事実だ。
﹁全国でも活躍したいならもっと体力をつけろ。最低でもフル出場
できるだけのスタミナがないとジョーカーにはなれてもエースには
なれん。お、今のはなんか格好いい台詞だな﹂
﹁言ってる事は確かに格好いいですけどね。言っている監督は格好
よくありませんよ﹂
俺の減らず口も気にせず、どこかいたずらっぽい眼差しで監督は
俺を見下ろしている。
﹁とにかく次の試合は後の事は考えずに最初からトップギアで行け
よ。俺は全国へ行く計画を立ててるんだからな。その計画の最初の
ページに前半で引っ込むアシカが得点かアシストを決めるって書い
てあるんだ。その後は守りきって勝利、全部監督のおかげですとチ
ーム全員に感謝の胴上げされるってな。その計画通りにやるんだぞ﹂
﹁随分と詳細かつ他人任せな計画ですね﹂
180
﹁そりゃ監督だからなー﹂
からからと笑う監督には悪気は一切ないようだ。だけど、まぁ監
督が立てた計画ならそれを実現するのがいい選手なんだよな。
それじゃあちょっと全国への切符を取りにいきましょうか。
181
第二十六話 へろへろでもボールを追いかけよう
﹁おーいアシカ。どうも計画通りにはいってないけれど、まだ大丈
夫かー?﹂
こんなどこかとぼけた声で俺のスタミナ残量を尋ねてくるのは、
もちろんうちの下尾監督しかいない。
﹁ええ、当然ですよ。これからマラソンにも出られるぐらいピンピ
ンしています﹂
﹁おー、元気はいいなぁ。それで横になってぜえぜえ息してなけれ
ば信じられるんだけどな﹂
と言われるとおり俺はベンチの横で荒い息を吐いて横になってい
た。芝の冷たい感触が背中から伝わり熱くなった体の熱を僅かとは
いえ吸い取ってくれる。これで後頭部にちくちく刺さらなければ最
高なのだが。寝そべるのはいくらハーフタイムだとはいえ少しみっ
ともないかもしれない。だが、見栄えよりもまず体力を回復する方
が先決だろう。
覗き込む監督もいつものとぼけた顔ではなくどこか心配げな表情
をしているのだから、結構疲れて見えるのかもしれない。だが午前
の準決勝でフル出場した先輩も決勝のスタメンには何人かいるのだ、
俺一人が﹁もう無理っす﹂と根をあげる訳にもいかない。ましてや
監督の予定と違って前半を終えているのに、まだ両チーム共に点が
とれていないのだ。せめて先に一点とるまではピッチにいたい。
なぜ先取点にこだわっているかというと、我が矢張SCはどちら
かというと攻撃よりも防御の駒が揃ったチームだからだ。そうでも
182
なければ三年の俺を抜粋して攻撃のジョーカーにするはずがない。
だから俺がいるうちに勝ち越しさえしておけば、後は逃げきる為に
守備的能力に優れた先輩方と安心してバトンタッチできるって寸法
だ。
でも決勝の相手チームも守備が堅いんだよなぁ。
決勝で戦っているのは以前にうちと対外試合をしたチームだった。
そうお互いがどんなチームか良く知っているチームなのである。相
手のチームの主力は代表候補にも名を連ねているキーパーで、彼を
中心にDFがよくまとまっているんだよな。
今回も決勝まで上がってくるのに一失点しかしていないという鉄
壁ぶりだった。反面攻撃力はさほど脅威ではない。それなのにフォ
ーメーションからしてわざわざ決勝仕様でしかも俺達のチーム対策
なのか、四・五・一のトリプルボランチといった前回の対戦よりさ
らに守備的かつカウンターよりにシフトしているのだ。イメージと
してはイタリアのカテナチオに近いだろう、もちろんあそこまでの
完成度はないが。しかし、ここまで負けない事に徹したサッカーを
やられたら、たった一点とはいえ取る苦労は半端ではない。
中盤の潰し屋が三人もいるおかげでプレッシャーはきつく、最終
ラインもキーパーによって完璧に統率されている為に攻め手に困っ
ているのが現状だ。まあ相手も守備に偏重しすぎていてカウンター
も俺達にほぼ封殺されているんだが。
もしかしたら俺達が優勝候補を破った試合を見て、点の取り合い
は分が悪いと割り切って引き分け狙いに近いこのフォーメーション
にしたのかもしれない。
﹁後十分でいいからチャンスをください。相手を崩すアイデアがや
っと出てきたんです﹂
﹁うーん、信用したいけどその様を見るとなぁ⋮⋮。でもアシカと
183
交代しても攻撃陣を活性化させられるタレントはうちにはいないし
なぁ。仕方ない、最大限で後十分だ。でも無理だと感じたらすぐに
ピッチから下げるからな﹂
﹁了解です﹂
監督がしぶしぶ言い渡した返答に、ほっとため息をつく。正直な
話まだ作戦はまとまっていない。だが、傲慢に聞こえるだろうが誰
が俺と交代したとしてもあの相手から得点を上げられるとは思えな
い。それならば、俺の方がまだ可能性があると信じられるのだ。そ
のためにも空になった燃料タンクを少しでも補充しておくべきだろ
う。
目に入った汗をユニフォームの袖で拭くが、すでにぐっしょりと
湿っていて拭いてもちっとも視界が晴れた気もさっぱりとした感じ
もしない。
霞む目でスコアボートにある時計を見ると後半はまだ始まってた
ったの七分という表示とアウト三十九番・イン六番という交代の札
があった。⋮⋮三十九番って俺じゃん! まずいぞ、とうとう俺を
見限りやがったなあの監督! いや、確かにこの試合のプレイの出
来では交代させられても仕方がないかもしれないが⋮⋮。全力での
プレイには体力が心許ないからと抑え目にしていてこの様とは。
そこまで思考を進めて俺はまた背筋に氷片をあてられたように硬
直した。仕方がない? 途中で引っ込められるのを仕方がないで済
ませるのか? 何度同じ後悔を繰り返すつもりだよ。怪我で動けな
いとかならともかく、サッカーがプレイできるのに力を余らせた状
態でピッチを後にするなんて恥ずかしい事はできないだろうが。
スタミナを使い果たした俺が交代させられるのも納得しよう、だ
がスコアレスドローの状態で引っ込むのは我慢できない。
184
残った体力を全てつぎ込んででも最後のワンプレイに賭けるんだ。
カウンター狙いの敵のロングキックを蹴る目の前でキャプテンが
スライディングで防ぎ、大きくボールが相手陣内へ飛んでいく。D
Fラインの後ろにまで弾かれたボールを取りに行くのは誰一人とし
ていなかった。俺以外には。
ボールがピッチから出ればその時点で俺はもう交代されてしまう。
だから﹁届かないかも﹂と心のどこかで思いつつも転々とゴールラ
インへ転がっていくボールを追いかける。ここでちょっとした幸運
があったとすれば、蹴られたボールがキャプテンの足に当たって上
に大きく弾んだという事で角度的に下からすくったようなスピンが
かかる︱︱つまりバックスピンが弱いながらもかかるという事だ。
ゴールラインまでもう少しという所でバックスピンにより玉足が
弱くなる。だが、俺以外の皆が﹁アウトだ﹂と判断したボールであ
る、今にもピッチから出てしまいそうだ。
全力でダッシュする俺を追いかけるのは敵味方の呆れたような視
線だけだった。﹁追いつける訳ないじゃないか﹂そう誰もが無言の
内に態度で示している。彼らにとっては俺の必死の走りも交代前の
﹁こんなに頑張りましたよ﹂というアピールにしか見えなかったの
かもしれない。ボールが弾かれた瞬間に鳥の目で﹁計算上は届く可
能性がある﹂との答えを出した俺一人の他は皆が足を止めていた。 だが計算上は届くとはいえ、俺の持つ最高速でかつ最短距離を走
れば追いつける可能性があるというだけである。ガス欠の体に更な
る負荷をかけたためにその代償は大きかった。
足に鉛が貼り付いたように重い。問題ない、動かなくなった訳じ
ゃない。
185
肺が酸素を求めて焼けるようだ。大丈夫だ、呼吸が止まった訳じ
ゃない。
未完成の体のあちこちからオーバーヒートの警報が鳴り響くが俺
はそれに注意を払わない。足が本当に動かない状態を覚えているか
ら、呼吸ができない状態を体験しているから。前世の俺を襲った理
不尽な苦難は、今確実に俺を強くしていた。
ゴールライン三十センチ前でボールに届いた。その時になってよ
うやく他のプレイヤーが慌てて動き出しやがった。
遅いよ。鳥の目で確認してもうちのチームは誰もゴール前まで上
がっていない。クロスが上げられないじゃないか!
ダイレクトでクロスを上げるのは無理と判断して、ボールを踏ん
ずけるようにして止める。
ボールは何とかラインぎりぎりで停止したが、トップスピードに
までのっていた体は急には止まれない。ましてやボールを止めるた
めに片足を使ったのだ、急ブレーキの反動で上半身が前につっこん
でピッチの外にまで吹っ飛んでしまう。上手く受け身を取るために
一回転までしてようやく停止ができた。
だが、低くなった視線の先には敵のDFが迫ってきている。そり
ゃ味方だけでなく敵も追いついてくるか。立ちあがってからキック
する余裕はないと判断して、倒れたままの姿勢で手で尻の位置をず
らしてスライディングキックの格好でゴール前へ上げる。
こんな状況でも俺が鳥の目で確認したフリーの選手の中で、最も
信頼できる先輩の下へとボールをつなげる。
﹁山下先輩! 任せましたよ!﹂
◇ ◇ ◇
186
アシカが俺の名を呼ぶのを聞いて一瞬耳がおかしくなったかと思
った。あいつが誰かの名前を出して﹁任せる﹂だなんて言った事は
今までなかったはずだ。せいぜいが﹁先輩﹂とか﹁ゴール前に詰め
ろ﹂と年上を一括りにして誰でもいいからゴールに押し込んでくれ
って指示していたぐらいだ。
そのぐらい年下のくせに上から目線のチビなんだ。おそらく自分
では気が付いていないだろうが、無意識に俺を含めたチームメイト
を年下扱いしているに違いない。時々学校の先生が生徒を見るよう
な﹁やれやれ、しょうがないな﹂って目でふざけている俺達を見て
いる事があるのだ、とても俺より二学年下とは思えない。
たぶんあいつが認めているのは俺やキャプテンぐらいじゃないの
かな? 他は例えスタメンや同級生でさえ名前を憶えているのか判
らんほど自然にアウトオブ眼中な行動をしている。それが、別に見
下しているんじゃなくてサッカーだけしか目に入ってないのだと皆
が気が付いているから問題になってないが、くそ生意気だと思って
いる上級生は俺だけじゃない。
そんな異常にプライドが高いアシカが俺を名指しで﹁任せました﹂
だと? ﹁仕方ない任されてやるぜ!﹂
ほとんど寝ていた体勢からのパスのはずなのに走り込んで来た俺
の足元にピタリと送られた。こういう所は新人離れどころか小学生
離れしているよな。それはまあとにかく。
俺がエースだって証明の為にお前等DFとキーパーは引き立て役
になってくれ! ダイレクトでボレーを放つ。ゴールラインぎりぎ
りからのマイナス方向への折り返しだったために自分に向かってく
るようでシュートしやすくはある。さらにあれだけの深い位置から
ならばオフサイドになどなりようがない。
落ち着いて足で蹴るというよりは当てる感覚のシュートは、代表
187
候補のキーパーでさえ動けない程鮮やかにゴールの中へ吸い込まれ
た。
ガッツポーズをとって、右手の人差し指をアシカに突きつける。
﹁見たか、これがエースの力だ!﹂
と一番俺の力を見せつけたい後輩に見得を切る。指さされた生意
気な後輩はにやっと笑顔を見せると座ったままで拍手をする。うむ、
俺の凄さを理解したようで大変よろしい。
満足して頷くが、そのまま立ち上がろうとしたアシカが顔をしか
めて崩れ落ちた。げ、どうかしたのか?
祝福を口実に頭を叩こうと集まってくる悪魔のような軍団に向け
て、指さしした格好のまま叫ぶ。
﹁アシカが倒れた!﹂
声が裏返ったのは別にアシカの心配をしたからじゃなくて、頭を
叩かれるのを避けようと必死だったからだ。一番早くアシカの側ま
でたどり着いたのも、集団から逃げだそうとしただけで深い意味は
ない。
別にこの生意気な後輩がいなくなったら全国は厳しいとか、一対
一で戦える相手が壊れては困るとかそんな事は一切考えていない。
本当だぞ。
だからアシカが慌てたように手を振って﹁なんともない﹂ってジ
ェスチャーをして、むしろこっちにくんなと手で追い払うほど元気
そうでも、その元気な姿にほっと安心したりして足がもつれたりは
しない。これはちょっと疲れが出ただけだ。
188
第二十七話 後は任せて見守ろう
座っている所にチームのメンバーとはいえ多人数がわっと集まっ
てくると結構怖い。特に先頭にいるのが今得点したうちのエース様
なのだ。あいつは絶対に心配しているから来たというよりも﹁後ろ
の連中の手荒い祝福から逃げたいから﹂こっちに押しつけたに決ま
っている。
得点やアシストを決めた時も祝福に集まったりするが、あの時は
こっちもちゃんと立っているし山下先輩のように走って逃げる選択
だって選べる。だが今の状態は座ったままで右足がつってしまって
いるので立つのも逃げるのも不可能、座して待つ以外に出来る事な
どない。かくして自分よりずっと大きい少年達にさらに上から覗き
込まれる羽目になったのだ。未だ成長の遅い身長のコンプレックス
が強まるから勘弁してくれよ。
﹁だ、大丈夫です。ちょっと足がつっただけですから。それより早
く自陣に戻らないと警告くらいますよ﹂
そう言いながら痛めた右足を腕を使って伸ばす。ああ、やっぱり
ふくらはぎの筋肉がはっきりとへこんで固まっている。いてて、前
世でもう馴染みの締め上げられて筋肉をブラシでこすられているよ
うな感覚だがやっぱり痛い。お尻をずらして楽な体勢にしようとす
ると今度は逆の左足の筋が悲鳴を上げた。うわ、両足かよ。
まだちゃんと話しができる程度の痛みだから自己診断では大した
事がないと判断しているが、さすがにこれでは続行は無理だ。とい
うよりもう交代の選手が副審の隣で足踏みしてるじゃないか。
俺はベンチのメンバーに両脇を抱えられて戻ってくると、交代に
入る先輩に声をかけた。
189
﹁後お願いします﹂
﹁よし、任せろって﹂
入れ替わりに走って出ていく先輩は元気一杯だ。まあ今日は準決
勝も前半だけで俺と代わったからエネルギーは有り余っているみた
いだな。
ベンチの隣に横たわると監督が手早く足の状態を確認して、ほっ
としたような笑顔で鎮痛スプレーを浴びせる。
﹁よし、ただ筋肉がつっただけみたいで肉離れとかではなさそうだ。
アシカ、こんなになるまでお疲れ様だったな﹂
﹁いえ、このぐらいでダウンするとは我ながら情けないです﹂
﹁ま、そう言うな。お前を途中で交代させるのは予定通りだったし、
かえって俺が引っ張りすぎたかもしれん。お前の攻撃力に頼りすぎ
たな。お前はちゃんと役目を果たしてアシストしたんだ、胸を張っ
ていいぞー﹂
そりゃどうもと頷きながらも顔は引きつった。両足ともなんとか
筋肉の硬直は解けたがまだ痺れるような鈍い痛みは残っているため
に、笑顔を作ろうとしてもどうしても苦笑になってしまう。
﹁たっぷりスポーツドリンクを飲んで水分を補給しろよ。確かビタ
ミンとミネラルが足りないとつりやすいそうだけど、スポーツドリ
ンクで十分に補えるはずだ。でもアシカは食事にも気を使っている
みたいだし、今回は限界を超えるまで走り過ぎただけで特に治療は
いらなさそうだな﹂
﹁はい、もう痛みもなくなってきましたし。明日になればもう大丈
夫だと思います﹂
﹁明日になっても違和感があれば念の為に病院へ行こうか。たぶん
190
問題なさそうだけどな﹂
﹁そうですね。大丈夫だと思いますが、その時はお願いします﹂
これまで何度もやったことのある感触だから大した事はないと判
ってはいるが、監督が俺達の体のケアに気を使ってくれているのが
少し心強かった。
◇ ◇ ◇
せっかく祝福の張り手から逃げる為にアシカを囮として使ったの
だが、あいつはすぐにピッチから出ていってしまった。
まあ両足がつってしまっては交代するのも仕方ないか。それにし
ても二試合トータルでもあいつは一試合フル出場に毛が生えたぐら
いしか出ていないはずだけどな。鍛え方が足りないのかもしれない
な、よしこれから俺の分の雑用もアシカにやらせよう。俺の面倒が
減ってアシカは雑用で動いてスタミナがつくって訳だ。
皆が心配そうな顔つきでベンチを眺めているが、誰かと派手に接
触したわけでもないし倒れた後もちゃんと話ができていたし大した
事はないはずなんだがな。俺にも時々つる事はあるが足が速い奴は
特にその回数が多いような気がする。まあ一回もつった事がなくて
鈍足な奴よりは、貧弱なアシカの方がまだ役には立つから怪我の影
響がなければいいんだけども。ふむ、朝練の相手でもあるし、一応
は気にかけておいてやるべきだろう。
さて、それよりもまだ試合中なのだ。ここでチームメイトに気落
ちされて、せっかくの俺様の文字通りの決勝ゴールを無駄にするわ
けにもいかない。エースとしては少し格好をつけておくか。ごほん
と一つ咳払いをして喉の調子を整える。
﹁あー、それにしても俺の雑用係り︱︱違った、可愛い︱︱いや可
191
愛くもないな、えっとにかく後輩のアシカが倒れるまで走ってアシ
ストしたんだ。これで先輩の俺達がそろっていて追いつかれたりし
たらあの生意気なアシカに何言われるか判らんぞ。後十分ちょいだ、
全力で守りきろう!﹂
﹁おう!﹂
﹁あ、キャプテン何か一言﹂
﹁う、うん。山下がここまでちゃんと味方を鼓舞するとは思わなか
ったよ。今の言葉に付け加えるのは何もないよ。みんなで一つにな
って最後まで集中しよう。それと、山下﹂
﹁何です?﹂
﹁次プレイが切れたらお前も交代な﹂
﹁な、何でです!﹂
﹁だってお前守備をほとんどしないし⋮⋮﹂
キャプテンのちょっと申し訳なさそうな言葉にベンチを眺めると
﹁十番アウト、十四番イン﹂の札を用意してあった。本当かよ、俺
の扱いがアシカとあんまり変わらないじゃないか。
がっくりと肩を落すとキャプテンが﹁心配するな﹂とその下がっ
た肩を叩く。
﹁お前とアシカで取ってくれた一点だ。取り返されたら本気で六年
生の面子が立たないからな、まだキャプテン面する為にも絶対に守
り切ってみせる﹂
﹁⋮⋮キャプテンやうちの守備陣に心配はしてませんよ。準決勝や
俺、ついでにまあアシカといった全国レベルの相手じゃなければ簡
単には点は取られないでしょうしね﹂
﹁へえ、お前もアシカの事は高く買ってるんだな。ついでに自分も
さりげなく全国レベルって断言してるのが山下らしいが⋮⋮、まあ
間違っちゃいない、俺達は全国へ行くんだ。県内予選で終わるチー
ムじゃないんだからな﹂
192
力強い言葉に頷く、テクニックでもフィジカルでもキャプテンを
とっくに追い越したつもりだけど、ここら辺の頼りがいがまだかな
わない。うちのチームにこの人がいてくれて本当に良かったと思う、
俺やアシカといった他人の目をあんまり気にしないタイプにはでき
ない気の使い方だ。
じゃあ後は任せてエースは休ませてもらうとするか。
◇ ◇ ◇
﹁おーし、予定通り先制してあとは逃げ切るだけだ。俺って凄い読
みをしてるなー﹂
腕組みのまま大きく頷いて、こうなるのは判り切っていたとアピ
ールする。実際には偉そうに組んだ掌の中はじっとりと脂汗が滲ん
でいるのだが、ベンチに座っている限り意地でもそういう態度は見
せられない。どっかりと余裕を見せて座り、安心感を選手に与える
のも仕事の内だ。
正直いうと予定外の出来事ばかりだった。相手があそこまでガチ
ガチに守ってくるとは考えてもいなかったし、アシカが足をつるほ
どに全力で走るとも思っていなかった。あいつは自分の体の調子に
は細心の注意を払っているからあそこまで行く前に、自分から交代
を申し出ると予想していたんだけどな。ま、それでも交代直前に一
点アシストしてくれたんだから、さすがは切り札その一だな。
おっと切り札その二のご帰還だ。
若干頬を膨らませて﹁不機嫌です﹂とアピールしているようだが、
この俺がそんなのを斟酌するとでも思っているのかね。
﹁おー山下ご苦労だったなぁ。おかげで一点リードできたまま終盤
193
だ。俺の計画通りよくやったなー﹂
﹁いや、計画って何です? 俺には試合前はいつも通り攻めろとし
か言ってなかったじゃないですか﹂
﹁あれ? お前には言ってなかったっけ? 確かアシカにはちゃん
と言ってたはずなんだが。ダメだなぁ山下は、人の話を聞かないと﹂
﹁いや、俺が知らないとこで話してるのを聞いてないって叱るのは
おかしいだろ﹂
やれやれと俺が首をふると顔を真っ赤にして抗議してくる。しめ
しめ交代させられた不満はもう忘れてしまっているようだ。こうし
て違う不平でも素直に口に出させた方が選手の精神衛生上いいはず
だしな。
実際口を尖らせてぶつぶつ呟いている山下の顔は上気しているが
すでに不満の影はない。﹁それでどうしたんだ﹂と水を向けると。
ちらりと横目で離れた所で横になってマッサージを受けているアシ
カの様子を確認すると、そっぽを向いてこほんと咳払いをする。
﹁えーと、アシカの具合はどうですかね。いや別に心配とかはいて
ないんですけど、明日の朝練の都合もあるしどうなのかなーって﹂
﹁⋮⋮アシカはもうサッカーができないそうだ﹂
﹁ええ!?﹂
﹁今日の所はなー。まあ明日になれば復活しているだろう﹂
﹁⋮⋮監督、俺をからかって面白いですか﹂
﹁うむ、わりと﹂
ピッチを見ながらでもこんな会話をできるぐらい戦況は落ち着い
ていた。やはりどちらかというとファンタジスタ系の二人が消えて、
堅実な汗かき役が代わりに入ると守備だけは安定するな。
敵の監督であるあいつも敵のチームを何とかしようと忙しくメン
194
バーチェンジをしたり、ピッチぎりぎりまで近寄って大声を上げて
指示しては副審に注意されている。だが、守備に傾きすぎたチーム
編成のツケか立て直すのは難しいだろう。だから超守備的なんて柄
でもないサッカーはやめていつもどおりに向かって来れば良かった
のに。
いや、良くはないか。その場合はもっと苦戦していたかもしれな
い。
あいつの計算ではアシカや山下がスタミナを使い果す延長戦から
が勝負だと読んでいたのかもしれない。そりゃあれだけガチガチに
守っていれば大体のチームは完封できる︱︱例外は県代表になれる
クラスの攻撃力を持つチームだけだろう。そしてあいつは俺達を抑
え切れると考えていたんだろうが、アシカと山下のうちの攻撃陣の
二枚看板の成長が予想以上で全国レベルまで進歩していたってのに
までは気が付かなかったんだろう。あいつも得点力がかなり欠けた
チームで決勝まで上がってくるのに大変そうだったからな。
それだけに急造でFWを増やしても攻撃はあまり怖いものではな
い。今のうちのディフェンスが後五分間守りきるだけなら問題なさ
そうだ︱︱事実、最後まで問題なかった。
195
第二十八話 今だけは優勝を喜ぼう
皆が監督の胴上げをしてるのを遠巻きにして眺めていると、自然
と頬が緩んでくる。これは試合中の敵に牙を見せつけるようなもの
ではなく、自然に自分の中からこみ上げてきた暖かなものだ。
本来であれば、俺も一緒に胴上げに参加したいのだが両足の筋肉
のつりは収まったとはいえまだ完全には回復してはいない。無理に
動かさずに自重しておくべきだろう。
小学生が下から大人を上げているせいで高さの物足りない胴上げ
が終わり、いつも着ているジャージがさらにくしゃくしゃになった
監督が地面に両足をつける。話に良く聞くように落下して怪我しな
いかちょっと心配だったが余計なお世話だったようだ、ちっ運がい
いな。⋮⋮いや俺は監督を尊敬してますよ。
誰にともなく言い訳している内に、気が付くと山下先輩が隣に立
っていた。この人も要領がいいから力のいる胴上げは適当な所で切
り上げてきたんだろう。
胴上げよりもむしろ俺の方が気になるのか、ちらちらと横目で見
ているようだ。ここはこちらから声をかけてあげるのが後輩として
の礼儀だろう。
﹁山下先輩もお疲れ様でした。最後のパスを良く決めてくれました
ね、あれはナイスシュートでしたよ﹂
﹁お、おう。まあほら俺ってこのチームのエースだしな。なんだか
最近お前が目立っているような気がしたんでちょっとだけ本気を出
してみた。そういえば、お前もナイスアシストだったぞ。俺へのパ
スが少ないって反省したのかここん所の二・三試合はいいパスよこ
196
すようになったなぁ﹂
﹁⋮⋮別に山下先輩を特別扱いした覚えはありませんけどね。ただ
先輩がいいポジションにいるから結果的にそういう事になってるだ
けかと﹂
俺の言葉に気を悪くするかと思ったが、山下先輩はにんまりと笑
った。どうしたんだろう、気分屋なこの先輩が後輩である俺にこん
な口を利かれても怒らないなんて不思議だ。
それどころか俺の首に腕を巻きつけるようにして肩を組んで﹁へ
っへっへ﹂と含み笑いをしてくる。
﹁そう言うなって、お前が俺の事だけは信用してるの判ってるんだ
から。試合中にあそこまで名指しで任せられたら、先輩としては頑
張らなくちゃいけないだろうーが﹂
とにやにやした表情で﹁うりうり﹂と首を引き付ける。
げ、そういえば今日の試合でアシストしたラストパスで﹁山下先
輩任せた﹂みたいな事言ったっけ。いつもは﹁ゴール前に詰めろ!﹂
とかだけだったから印象が変わったかもしれないな。いや、鳥の目
で見ても山下先輩が最適の位置にいただけで他意はない。そりゃ朝
練を毎日一緒にやってるからそのシュート技術に安心してパスが出
せるとかもちょっとは考えたけど、ちょっとだけだぞ。
俺は山下先輩をどちらかといえば友達よりもライバルだと認識し
ているために、こういう風にフレンドリーに接されるとどうしてい
いのか困惑する。
﹁へえ、足利が名指しで頼るなんて。それは珍しい事を聞いたね﹂
ふむふむと頷きながら話に加わってきたのはキャプテンだ。さっ
きまで胴上げの輪の中心にいたはずなのに、いつの間にか俺達の隣
197
に立っている。こんなにすっと人の懐に入るのが上手いのは、ディ
フェンスでマークが得意なのと関係があるのだろうか。俺が未だ首
を抱えられたまま頭の片隅でそんな事を考えていると、また違う声
がかかった。
﹁うんうん、アシカが誰かに頼るなんてちょっと信じられないねー﹂
とスタメンの長身FWが言うと集まってきた皆が﹁うんうん﹂と
同意している。なぜチームメイト全員がこっちに来る。ほら、監督
が寂しそうな仲間になりたさそうな目でこっち見てるじゃないか。
その言葉が聞こえたかのようにキャプテンが答えてくれた。
﹁不思議そうな顔で僕達を見ているね。なぜこっちに来たかという
と︱︱足利を胴上げするためだー!﹂
﹁うえっ!﹂
驚愕でおかしな声が出た。ちょっと待て、俺は別に胴上げされる
ほどの事は⋮⋮。とお断りしようとしたのだが、お構いなしに先輩
達に抱え上げられてしまった。
いつになくノリノリのキャプテンが音頭をとる。
﹁では、次にルーキーなのに大活躍。攻撃に守備に走り回って最後
には足をつるほど頑張った足利の胴上げだ!﹂
﹁おー!﹂
﹁いや、有り難いけど結構です﹂
﹁みんな落とすなよ。一応怪我人なんだからな﹂
﹁おー!﹂
﹁そうじゃなくて! 怪我してるんだから勘弁してくださいよ!﹂
﹁じゃあ行くぞ、足利は軽いからどこまで上がるか記録に挑戦だ!﹂
﹁おー!﹂
198
﹁俺の意見は無視ですかあぁあぁあぁ!﹂
と抗議する声までもが胴上げで波打ってしまう。上空に二・三度
高々と跳ね上げられて地面に降ろされた。今のは絶対胴上げじゃな
くて人間の手でやる逆バンジーとかそういった絶叫マシンっぽい奴
だぞ。空中で何回転したんだか本人にも判らないのは胴上げとは呼
べないはずだ。微妙に足下がふらつくがこれは疲労や筋肉のつりが
原因ではなく、三半規管へのダメージの影響である。
さすがにこの祝宴ムードの中で恨み言は口にできないが、目つき
が悪いと評判になりつつある目つきに涙を滲ませて周囲を睨みつけ
る。そこにうっぷんを晴らせる獲物を発見した。こちらをにまにま
と楽しそうに眺めている山下先輩だ。そういえば先輩、さっき俺を
胴上げする時は随分力強く押し上げてくれましたね。
俺がたぶん今までに見せたことのない満面の笑みで接近するのに
何かを感じたのか、山下先輩が急に体を震わせると後ずさろうとす
る。駄目ですよ先輩、俺の感謝を受け取ってください。
﹁胴上げどうもありがとうございました。でも僕だけじゃなく、決
勝ゴールを決めた尊敬すべき山下先輩も祝福してあげるべきですよ
!﹂
﹁え?﹂
山下先輩の体が石像のように固まる。
﹁ははは、アシカは冗談が上手いなぁ⋮⋮。てキャプテンなぜ俺を
抱え上げてって。あぁあぁあぁ﹂
くけけけ俺を陥れた罰だ。俺よりも高く上がってやがる、怪我人
の俺には少しは配慮して手加減をしていたみたいだ。俺も痛む足を
引きずって下に入り、頭上に落ちてくる山下先輩の後頭部にぺしぺ
199
しと平手で攻撃する。
胴上げから降ろされた山下先輩はしばらくうずくまっていたが、
やがてふらついた足取りでこっちに近寄ってきた。やばい、彼の目
が血走っている。
ここは逃げるが上策とくるりと背を向け逃走を開始したのだが、
﹁あ、足がまだ痛い﹂
﹁うう目が回る﹂
まるで二人の酔っぱらいの追いかけっこの様な有様になってしま
う。そこに﹁おー、二人とも胴上げ気持ち良かったかー﹂と監督が
乱入する。いや、気持ちよかったらこんな所で仁義無き戦いをして
いるはずがないだろう。
非難を視線に乗せ頬を膨らませる俺と山下先輩に対し﹁そっかー﹂
と監督はぽりぽり頬をかく。
﹁いや二人が寂しそうだったから俺がキャプテンをけしかけたんだ
けどなー﹂
﹁あんたが黒幕かー!﹂
﹁うむ、そうだ。全ての計画は監督が立てる。それが何か問題ある
のか?﹂
﹁ぐぬぬ﹂
と熱に浮かされたようにしばらく馬鹿騒ぎが収まらなかった。
◇ ◇ ◇
胴上げされる同期の桜に胸の中がちくりと痛むのを抑えきれなか
った。少し運の天秤がこっちへと傾いてくれたら俺があそこで宙に
舞っていたかもしれなかったのにな。
200
だが嫉妬を覚えるより先に監督としてしなければならない事があ
る。
﹁お前達、決勝戦まで良く頑張ったな﹂
皆うつむいていて話している俺を見ようともしない。涙を流して
しゃくりあげている少年もいる。まだ小学生に敗戦のショックを表
に出すなと言うのは酷だろう。
﹁この決勝戦の負けは俺のせいだ。すまなかったな﹂
頭を下げる俺に泣いていた一人が大声をあげる。
﹁そんな事ありません。俺が決勝に出られたらもっと⋮⋮﹂
ああ、このうちのエースストライカーが準決勝で負傷退場しなけ
ればもっと攻撃的に戦えたかもしれない。だがエースが怪我で出場
できないのなんてサッカーではよくある程度の不運でしかない。そ
れを覆せるだけの作戦を授けられなかった俺の責任なんだ。
﹁それは違う。監督ってのは負けた時に責任を負わされる為にいる
ようなもんだからな。その役割を奪うのは許さんぞ。それより⋮⋮﹂
少し離れた所で大はしゃぎしている矢張SCを指さす。
﹁あの光景を目に焼き付けておけよ。くやしさを刻みつけておけよ。
涙を止めるなよ。そういった全てを忘れなければお前達はもっとも
っと強くなれる。将来サッカーでかどうか判らんがきつい状況に追
い込まれた時に、今のこの状況を思い出せ。きっと逃げずに戦える
はずだ﹂
201
ぽんと大きく手を叩く。
﹁物語の主人公は一度負けてから立ち上がれるから格好いいんだ。
みんなでまた立ち上がろう、そうすれば今日よりずっと強く格好よ
くなれるはずだ﹂
全員で﹁はい!﹂と返事をする。いい子達だ、だからこそポリシ
ーを変えてでも勝利にこだわったのだが、それが返ってこの子達に
迷惑をかけてしまったようだ。
﹁いい返事だ。じゃあ来年彼らを倒しにまたここまでこよう﹂
そしてふと考える。あのアシカって子は三年生だったよな、あの
幼さでもし敗北したとしたらその時に立ち上がれるのだろうかと。
◇ ◇ ◇
馬鹿騒ぎを終えて、俺達は表彰状と優勝旗を手にしていた。開会
式と同じほど長い挨拶は想定外だったが、その他の儀式は晴れがま
しいので勝者の義務というよりは権利でもある。
一通りの表彰を終え、皆で写真撮影などをこなす。うちのチーム
は個人賞は俺の﹁最優秀新人賞﹂といった三年生だけの中から選ば
れた賞だけだった。この新人賞にしても三年で出場している選手そ
のものが少ないのだから、どこまで権威があるのか判らない。
それでも一ゴール差で得点王を逃した山下先輩などは執拗に絡ん
でくる﹁得点王って言ったってよー、準決勝で俺達が勝った相手の
FWじゃないか。優勝を決めた決勝ゴールの俺をもっと評価するべ
きだよなぁ。そこら辺一人だけ個人賞をもらったアシカはどう思う
202
?﹂
どうも思いません。そう答えられたらどれほど楽な事か。そんな
内心を押し殺す。
﹁そうですね、全試合通して二失点のあのキーパーのMVPは妥当
かもしれません。準決勝ではPKも止めていたようですしね。そし
て得点王のFWもなかなかの得点能力だと思いますが、やっぱり身
内びいきを抜きにしてもMFなのに得点王まであと一点に食い込ん
だ山下先輩は凄いとおもいますよ﹂
﹁やっぱりそうか? 俺もそうだとは思っていたんだ﹂
いやーまいったなと前髪をかき上げる。優勝が決まって機嫌がい
いのは判るが、クールな印象と随分とイメージが変わったな。ちな
みにこの人はサッカー少年にしては長めの髪をしている。俺なんか
面倒だし熱いからほとんど坊主に近いぐらいに刈り上げているんだ
が。
収まらない馬鹿騒ぎの最中にふと思った。小学生という狭いカテ
ゴリーとはいえ県でナンバーワンのサッカーチームになったんだ。
そしてこれから先の大会では俺達は日本一を目指す。
矢張SCとしては全国大会で優勝したとしても世界への挑戦はな
く、そこで終わりだ。だが、この年代の選抜された者が日本代表と
して戦う事になっていたはずだ。大会で優勝し、活躍すればそのメ
ンバーに選ばれる可能性もアップするはずだ。なんにしろこのサッ
カーというスポーツは世界と繋がっている。
︱︱だとすれば意外と世界と言うのは近い。いや、日本も世界の
一部なのか。
だったら⋮⋮これから一度も負ける事がなければ俺は自動的に世
界一になれるはずだよな。
203
第二十九話 全国に向け進化しよう
﹁おーし、みんな昨日は頑張ったな。そのおかげで我が矢張SCは
全国大会にいける事となった。まずはめでたいな、ぱちぱちぱちと。
よし、それでこれからの全国大会に向けたトレーニングだが⋮⋮今
までどおりでいーぞ。どうせ後二週間で大会が始まるんだし、今更
あれこれやっても変わらないって。それどころか悪影響すらあるか
もしれん。何しろこれまでの練習で県の王者になったんだから、自
信を持ってこれまでの練習の精度を高めていこう﹂
﹁はい!﹂
﹁んじゃ、いつもどおりに楽しく、全力で、怪我をしないように練
習しろよー﹂
ぽんぽんと手を叩く。昨日の県大会優勝の後の挨拶としてはいさ
さか気が抜けたような言葉だ。だがそんなのんびりとした態度が下
尾監督には似合っている。この監督が急に熱血する姿などちょっと
想像できないし、してほしくない。
﹁あ、それと全国大会で使用する公式球はこの新しいボールだとさ。
一応三つは貰えたから大切に使って、感触を確かめておけよー。特
にキーパー、ちょっと変化が大きいみたいだから慣れておかないと
ポロポロ失点するそうだぞー﹂
それは結構重要なのでは、少なくともついでで言うべき事じゃな
いだろう。ん? まてよ。新しいボール?
﹁監督、練習後でもいいですから新しいボールを少し使わせてもら
えますかね?﹂
204
手を挙げた俺を監督はちょっと胡散臭そうな表情で見つめるが﹁
ああ、まあ三十分ぐらいならいいぞ﹂と許可を出してくれた。よし
これで新しいボールで色々と試せる。
俺がにんまりとしているとなぜか周りの人間も訝しげに眺めてい
るようだ。大会後から妙に注目を浴びるようになったが、やっぱり
どこか鬱陶しいな。まああまり気にし過ぎてもストレスが溜まるだ
けだ、できるだけ気がつかない風を装っておこう。
﹁じゃあ、練習開始ー﹂
と開始を告げる監督が不意に﹁あ、アシカはちょっとこっち来い﹂
と手招きした。
﹁なんですか?﹂
﹁おー、アシカの欠点が実践であからさまになったからな、それを
克服する訓練をするぞ﹂
﹁⋮⋮特別な練習はしないって﹂
﹁まあ、特訓というほどじゃなくて追加のトレーニングだ。お前の
スタミナ不足を補うために、ミニゲームの休憩ごとに二十メートル
ダッシュを十本やれ。短距離を全力で走ればトップスピードとスタ
ミナが強化されるからな﹂
﹁スタミナ付けるのは長距離を走るのかと思いましたが﹂
﹁走り込みなら今でもやってるだろ? それにサッカーのスタミナ
とマラソン選手のスタミナもまたちょっと違うからなぁ。ま、全国
大会までに効果があるかは怪しいが今の内からやっておいて損はな
い。スピードもスタミナも本来はじっくりと長期的計画でやらない
と身に付かないが、今種を蒔いておかないとなかなか花は咲かない
からなー﹂
﹁な、なるほど﹂
205
と感心した俺に﹁ま、花を枯らさないぐらいの頑張りでやるんだ
ぞ。水や肥料をやりすぎても駄目なように、あんまり無理なトレー
ニングは成長途中のアシカの体を壊すから、決勝戦みたいな無茶は
よせ﹂と少しシリアスな雰囲気で注意を追加する。
﹁なるほど、判りました。ダッシュの件は了解です。それにしても
監督は園芸もやってるんですか? 花なんかの例えを出すなんて﹂
﹁え? 俺の趣味が園芸って知らなかったのか? 俺は毎年サボテ
ンを買ってはその度に花が咲く前に枯らしているぞ﹂
﹁⋮⋮サボテンってほっといてもなかなか枯れたりしないんじゃ、
それを趣味で毎年やって枯らしてるって⋮⋮﹂
﹁ま、まあとにかく。アシカの弱点克服パートツーだ﹂
仕切り直しをするように監督は声を張り上げた。まあ、俺とあん
まり関わりのないことで突っ込むのも無粋かと思っておとなしく続
きを待つ。
﹁アシカの最大の欠点︱︱決定力の改善だ﹂
﹁俺も色々と努力はしているんですが﹂
その努力が実を結んでくれないから、俺の返答も歯切れが悪い。
簡単な解決法があるのならそれこそ教えて欲しい。
﹁うん。その一環として今日のミニゲームではFWをやれ﹂
﹁は?﹂
﹁とにかくシュートをじゃんじゃん撃ってみろ。それで何か判るか
もしれないし、万が一準決勝で点を取った事で呪いみたいなものが
なくなったかもしれん﹂
﹁わ、判りました﹂
206
︱︱とりあえず今日最初のミニゲームでは俺はFWとして戦う事
となった。
◇ ◇ ◇
俺を急造FWにしたミニゲームが終わり、俺と監督とキャプテン
と山下先輩の四人で顔を合わせていた。話題はもちろんさっきのゲ
ームにおける俺の活躍だ。なんと撃った十本のシュートの全てが枠
内。キーパーやDFの誰にも触れさせなかったのだ。
﹁まさかここまでとはなー﹂
﹁足利のシュート力を見誤っていましたかね﹂
﹁俺でも十本連続は無理だぞ⋮⋮﹂
と三人が﹁十本連続でバーに直撃させるなんて﹂と口を揃える。
え? ゴールバーに当たったのって枠内だったっけ? というか枠
そのものだろうか? という疑問は置いておいて。とにかく俺のシ
ュートは見事に敵のディフェンスをかいくぐり、バーに当たり続け
たのだ。結果的にそのこぼれ球を仲間のFWが三回押し込んで、俺
の所属するチームが勝利したんだが、どう考えても喜べないな、こ
れは。
﹁どうしてシュートが入らないんだろうな。アシカの他のパスやキ
ックと同様におかしな部分は技術的には見当たらなかったぞー﹂
﹁ええ、よくキーパーやDFの動きを観察していましたし、シュー
ト前のスペースを見つける目も大したものでしたね﹂
﹁でも、俺なら目をつぶってでも入れられるようなコースからもバ
ーに当ててるんだよなぁ﹂
207
全員が腕を組んで﹁うーむ﹂と考え込む。とそこで下尾監督が小
首を傾げて尋ねてきた。
﹁なあアシカ。お前は時々ノールックでパス出したりしてるじゃな
いか。あれって普通の視線をパスを出す方向へ向けていないぐらい
じゃないよな?﹂
﹁ええ、まあ⋮⋮﹂
と言葉を濁して答える。さすがに世界的選手になれば別だろうが、
今の俺が鳥の目を持ってるんですと説明するとオカルトっぽくなる
からな。すると監督が﹁なるほど視覚に頼らずイメージする能力が
高いんだな﹂と一人合点する。
﹁つまり体操選手なんかがどんなに激しく回転しても鉄棒を掴めた
り着地できるように、目だけに頼るんじゃなくて周囲の状況をイメ
ージして把握できるってことだ﹂
﹁はぁ﹂
頼りない返事をする先輩方に﹁じゃ目をつぶっていてもなんとな
く周りの様子が判る力とでも思っておけ﹂と切り捨てる。ただここ
ではあきらかに監督の推測は外れている。鳥の目はそういうなんと
なく判るといった勘のような物ではなく、はっきりと脳裏に映像と
して認識できているのだから。だが、ここはそういうものだと頷い
ておいた方が話は進みそうだ。
﹁でもそれがどうしました?﹂
﹁つまりアシカはよく見てシュートを撃っても入らないんだよな?
なら目をつぶって撃てばいいじゃないか﹂
﹁⋮⋮﹂
﹁いや、冗談ではなく本気で。ゴール前では一瞬の隙しかない。生
208
粋のストライカーなんかはゴールとキーパーだけを見てシュートを
撃つが、アシカは考えすぎなんじゃないかな。ゴールとキーパーに
加えて敵DFと味方FWの位置にアシストした方がゴールする確率
が高いかまで計算しながらでは、まだアシカの能力じゃ処理し切れ
ていないから微妙なズレが出てシュートが入らないんじゃないか?﹂
⋮⋮一理あるかもしれない。ただでさえ時間のないゴール前で、
普通の視覚情報に加えて鳥の目の情報まで利用しようとしたら処理
しきれずにパンクしていたって事か。納得できる仮説⋮⋮かなぁ?
まあ他に仮説があるわけでもないし、俺には今度神社に行ったら
お賽銭を弾もうというぐらいしか対策がなかったんだ。とりあえず
その線で考えてみよう。
﹁じゃあ、実験してみようか﹂
監督がキーパーを呼び俺にペナルティエリアのすぐ外からフリー
キックを撃たせる。よくキーパーの動きを観察し、逆を突くつもり
で右足を振り抜く。結果は⋮⋮まあ、想像していた通りクロスバー
を直撃した。
﹁今度は目をつぶってみろ﹂
ふてくされたい気持ちはあるが、僅かにでも決定力不足が解決さ
れる可能性があるのなら馬鹿らしくてもやるしかない。
瞳を閉ざすが、俺には何の関係もない。鳥の目によってゴールの
位置もキーパーの動きも脳裏に映し出されている。そのまま助走を
つけてキックする。すると脳裏には見事にゴール左上隅に突き刺さ
ったボールが映る。
﹁え?﹂
209
全員が疑問の声を上げるが、俺が目を開いてもゴール内に転がっ
ているボールが今の光景は嘘ではないと証明している。
﹁まさか本当に入るなんて⋮⋮海水浴のスイカ割りみたいに空振り
失敗したのを笑ってやろうと思っていたのに﹂
おい、一人で﹁アシカ、恐ろしい子!﹂とおののいている監督よ、
貴様は冗談のつもりだったのか?
﹁いや、本気だ。本気で笑うつもりだったんだ﹂
駄目だ。この人には口は勝てそうにない。俺は会話を切り上げて
もう一度目をつぶりシュートを放つ。今度のキックはキーパーの読
みがあたったのかパンチングで防がれた。
﹁ま、百発百中ってわけにはいかんか。そりゃ目をつぶったとたん
外さなくなったら俺も怖ーしな﹂
﹁僕はまだ半信半疑ですが、確かに目に頼らない方が決定力は上が
っているようですね﹂
﹁え? それでいいのか本当に?﹂
山下先輩が一人常識人のようにうろたえているが、サッカーにお
いてはゴールすれば全ては正当化されるのだ。山下先輩のちょっと
傲慢な態度が許されているのもゴールゲッターとして買われている
からなのだ。
とにかく、効果があるのかまだ不明ではあるが俺の決定力解消へ
の道は開かれた。いや﹁目を閉じて撃て﹂とか﹁考えるな感じろ﹂
とかいうアドバイスをドヤ顔で送ってくる監督の示唆によるものだ
というのが微妙に不安を感じさせてはいたのだが。
210
第三十話 応援をよろしくお願いします
全国大会に向けて矢張SCは着々と準備を進めていた。とはいっ
ても練習そのものは普段と変わらずに完成度を高めるだけだったた
めに、何の準備が進んだかといえばそれは試合とは直接関係のない
準備である。
全国大会に行く為の宿泊の準備から移動の手配、選手や両親への
告知など俺とは関係ない所で大忙しだったようだ。﹁正直な話、う
ちが県大会を勝ち抜けると本気で信じていた大人は一人もいなかっ
たから誰も準備なんかしてなかったぞー﹂とは監督の談話だが、あ
んたもうちのチームを信じていなかった一人かい! とクラブの全
員で突っ込むなどといったちょっとした騒動をよそに、チームとし
てはなかなかいい感じで仕上がってきたと思う。
レギュラー陣の顔ぶれに変化はないが、県大会を勝ち抜いた事で
連携はより深まっている。やはりこれまでどんなに練習しても埋め
きれなかった経験を、トーナメントという厳しい舞台で手に入れら
れたようだ。ミニゲームにおいても俺が本気で鋭いパスを出そうと
するとタイミングに合わせた動きをしていたのは山下先輩ぐらいだ
ったのが、大会以降はFWも徐々に満足できる反応をするようにな
っている。
ディフェンスにしてもラインの上げ下げやプレスのかけ方などの
呼吸が合うようになって、パスカットやオフサイドを簡単に取れる
ようになった。組織的な守備としては一つ上のレベルに上がったん
じゃないかと自信を持てるようになったな。県内レベルであればそ
うそう点を取られる事はないと胸を張って断言できる完成度だ。
211
俺の個人的な練習もまあ順調と言って間違いはないだろう。朝練
では今まで通りの個人技術の上達と一対一を重視したトレーニング
である。劇的な変化はないが毎日少しずつ技術が上がっていくのが
実感できるのが嬉しい。基本的なボールタッチの柔らかさだけなら
ば前世での全盛期に並んでいるんじゃないかな。
それに、最近は二人の先輩とも距離が近くなって、俺も面倒だと
ストレスに感じなくなったのはいい。
だが、時々山下先輩が﹁あれを取ってこい﹂﹁これを取ってこい﹂
と用事を言いつけるのにはイラッとくる。頼まれた物を渡す時に彼
の頭をポンと叩くようにして渡していたら怒りだして雑用を俺に頼
むのは止めたが、なんであんなに怒ってるんだろう。
朝練の公園ではシュート練習もするのだが、徐々に俺の決定力も
上がっている。監督の助言を受け入れて最初はぎゅっと目を閉じて
シュートを撃っていたのだ。だが、むしろ足下のボールを見る事に
よって上体が起きないし、より確実に狙ったコースへ蹴れるとシュ
ートの時は周りを見ないですむようにうつむく格好にしたのだ。す
るとミニゲームの途中で﹁アシカはシュートを撃つ時下を向く﹂と
ばれてしまい、今度はそれをカバーするためにパスやシュートのフ
ェイントを入れる時まで下を向くプレイスタイルになってしまった。
おかげでよりトリッキィなスタイルとなり﹁むしろ視線の先にボ
ールを蹴る方が珍しい﹂とまで言われるようになったのだ。どうも
だんだんと色物的なキャラクターとなり、俺の理想とする堅実で正
統派のゲームメイカーという理想像から少しずつずれてきたように
感じられる。
そしてメインになるクラブでの練習だが、これは随分とハードに
なった。なにしろ監督が、
﹁アシカにも厳しくチェックに行け、でもお互い怪我しないように﹂
212
と命じたせいで、マークがきつくなってミニゲームの最中に全く
気を抜けなくなったのだ。さらに、そのミニゲームが終わると俺だ
けは監督に命じられたダッシュのトレーニングだ。短い距離でも全
力で走るとかなり疲れる。だが、そのダッシュとジョグの組み合わ
せのノルマを終えるとまた次のミニゲームが始まる時刻になる。
最初はやってられるかと切れそうになったのだが、なんとそのダ
ッシュにチームメイト全員がついてくるようになったのだ。これで
は文句を言っても、俺が駄々をこねているとしか思えない。
監督も﹁お前等なんでアシカの練習につき合ってるんだ?﹂と尋
ねられた時も﹁俺達もおいて行かれたくないから﹂と答えられては
反対のしようもない。
次の﹁そうか⋮⋮ではなんでアシカだけが仰向けに倒れてるんだ
?﹂との問いには﹁アシカはスタミナがないから﹂と全員で答えや
がった、ちくしょう。俺の体力増強メニューをチームメイトがこな
したらますます差が開いていきそうでちょっと怖い。いや、敵では
なく味方の体力がアップするのは喜ばしいはずなのに素直に祝福で
きないのは俺の性格が曲がっているのだろうか。
そして最後に、俺が監督へ要求した練習後の大会用の新しいボー
ルを使ったトレーニングである。
うん、このボールは新素材を使用しているだけあって軽くてよく
飛ぶ。キーパーからすれば厄介だろうが、フィールドプレイヤーと
しては力加減を間違えて上に吹かさないように注意が必要だがそれ
以外は問題なさそうだ。いや、問題ないどころか幾つか思いついた
手もある。それをこの時間で実験しているのだ。全国大会まで物に
するのは大変だが、新技の開発はどうしても燃えるな。つい熱が入
って時間を超過しては監督に怒鳴られるのが日常と化していた。
213
そんな練習に明け暮れている毎日だったが、ある日に母と朝食を
一緒に食べていた時だった。
﹁ごちそうさま。今日も美味しかったよ﹂
﹁はい、お粗末様。あ、速輝ちょっといい?﹂
﹁うん、何?﹂
もう夏休みに入っているから多少の時間の調節はできる。どうせ
これからも個人練習の後にクラブへ行くだけしか予定はないのだか
ら。
﹁うん⋮⋮そうね、夏休みの宿題はちゃんとやってる? あんまり
サッカーばっかりやって勉強もしなくちゃ駄目よ﹂
﹁ああ、夏休みの宿題ならもうほとんど終わってるよ。あとは日記
とか自由研究とかどうしても時間がかかるのだけが残ってる﹂
﹁あ、そうなの﹂
と真面目に勉強もしているとアピールしたのにまだどこか浮かな
い表情だ。
﹁速輝はなんでサッカーをやっているの? 私もスポーツは好きだ
けど、応援に行ってちょっと怖くなったの。速輝が顔を蹴られて口
の中を切ったり、走り回って足をつったりしたのを見てたらこんな
にきついのに何でやってるんだろうって⋮⋮﹂
﹁別に大した怪我じゃないし、もうどこも痛い所なんてないよ﹂
﹁うん、それは判ってる。大丈夫って速輝が言ってるのに心配だっ
たから病院で見てもらったけど、問題ないってお墨付きをもらった
ものね。でも、やっぱり怪我したのは事実じゃない。速輝は勉強も
出来るんだし、他にも安全なスポーツだって一杯ある。無理してき
214
ついサッカーを続けなくてもいいのよ?﹂
心底俺の事を心配してるのが伝わる言葉だけにどう答えればいい
のか迷ってしまう。確かにサッカーは接触プレイがあるだけにスポ
ーツの中でも怪我をする危険は大きい方だ。危険性の無いスポーツ
など存在しないが、少しでも怪我をする可能性を低くしたいのもま
た親として当然の感情だろう。
﹁でも、俺はまだサッカーを始めて間もないのに、もうレギュラー
で全国大会に出場できるほど上達したんだよ。ここまで来てやめる
のはもったいないじゃないか﹂
﹁うん。でもこの短期間でそんなに上達したって事は、元々速輝の
運動神経が良かったからじゃないの? だったら他のスポーツをや
り始めても同じようにすぐに上達するわよ﹂
⋮⋮しまった。前世からの技術や経験の持越しなんかを説明して
ないせいで、俺の基本性能が凄く上の方なんだと誤解されているよ
うだ。そうじゃない。俺は学校の勉強もサッカーのスキルもこれか
ら十年以上かかって覚える事を前倒しにして覚えているにすぎない
んだ。インチキをしている後ろめたさが俺の腹に石が乗ったような
重さを感じさせる。
ここは口先で誤魔化せる場面じゃないよな。十年以上も未来から
戻って来たとかそういったSFっぽい話はできないが、自分の本心
をさらけ出さないと納得してくれそうにない。
﹁うん、もしかしたら他のスポーツをやっても上手くいくかもしれ
ない。勉強に力を入れれば受験は上手くいくかもしれない﹂
﹁だったら﹂
﹁でも、それじゃ駄目なんだ﹂
﹁どうしてなの?﹂
215
﹁俺はサッカーの事が好きだから﹂
俺力を込めた言葉に﹁そう⋮⋮﹂と頬に手を当てて何やら考えて
いるポーズをとった。しばらくすると﹁仕方がないわね﹂と苦笑し
て認めてくれた。
﹁速輝は最近わがままを言わなくなったのに、これだけ頑固に続け
たがるって事はもう誰が言っても止めないでしょうね。だったら母
親としては全力で応援してあげるしかないじゃない﹂
︱︱ああやっぱりこの人は俺の母親だ。いろんなイレギュラーが
あってもこの人は俺の味方でいてくれるんだよな。
﹁ありがとう﹂
﹁ただし!﹂
びしりと空気を引き締めて、これだけは守ってもらうわよと目に
力を込めて約束させた。
﹁学校の成績が下がらないようにする事! いいわね﹂
﹁も、もちろんです﹂
216
第三十一話 上を向いていても足下に注意をしよう
なんでお偉方の挨拶は長いんだろう、もしかして三分間はスピー
チしないと罰ゲームとか定められているのだろうか。俺は全国大会
の開会式に参加している一員にふさわしくないだろう疑問を抱く。
それでも、まあ俺達の県大会の会長の挨拶よりはましかもしれな
い。あれは一人で時間をかけていたが、こっちは規模が大きくなっ
たせいか多人数で時間をかけている。⋮⋮いやまあ強制的にスピー
チを聞かされる方にとってはどっちも面倒でしかないんだけどね。
だから俺は壇上に立つ大会関係者に注目をするのは止めて、周囲
の色々なチームに視線を向けて観察していた。あまり礼儀正しいと
は言えないが、こんな時は子供だから仕方がないですませられるの
は楽でいい。
きょろきょろと見回すと俺のお目当ての人物を発見した。
全国大会ともなると小学生の大会でもある程度大柄な選手が増え
てくるが、その中でも頭半分は抜きん出るほどの長身だ。褐色の肌
にウェーブのかかった髪が隣合う少年達と流れる血の違いを際だた
せている。
今大会で最も注目されているのは間違いないだろう、この世代の
日本代表の十番のエドソン・カルロス・前田・ダ・シルヴァである。
通称カルロスと呼ばれているその父方の血をアフリカ系ブラジル
人に持つ彼は、圧倒的な身体能力とサッカー王国で培われたテクニ
ックで将来を嘱望されている選手だ。あまりのポテンシャルに日本
のサッカー関係者が﹁ブラジル代表に取られる前に唾を付けておけ﹂
とU十二のメンバーにごり押ししたのは有名である。ある国の代表
選手としてプレイした者は他の国の代表選手にはなれないという国
際ルールを利用して囲い込もうとしたほどなのだ。
217
だが俺だけはこの少年のこれから先の活躍から、その作戦が必要
とされるほどの才能だと知っている。
前世でカルロスの姿を最後にテレビで観戦した時は、ロンドンの
オリンピックのスタジアムで胸に日の丸を背中に十番を背負って青
いユニフォームを着ていたのだ。
日本の将来を担うタレントとの遭遇か。体が勝手にぶるっと震え
る。その時視線でも感じたのかカルロスがこちらを振り向いた。俺
と目が合ったのはほんの一瞬で﹁小さい奴だな﹂とでも言いたげな
見下した光が相手の瞳には宿った後すぐに逸らされた。おそらくは
俺の存在は敵だとさえ認識されていないのだろう。だが待ってろよ、
絶対に俺の顔と名前を忘れられない様にしてやるからな。
一人で内にこもった闘志を燃やしていると肩をつつかれた。なん
だよ今いい具合にやる気メーターが上昇している所なのに。
﹁おーい足利。もう開会式は終わったよ。ぼうっとしてないで早く
移動をしようか﹂
﹁あ、すいません﹂
キャプテンの柔らかな声はなんだか反抗心を溶かす不思議な力が
あるな。少しぐらい不機嫌なはずでもいそいそと従ってしまう。
そのキャプテンに続いて開会式場を出ながら振り返るが、もうあ
の褐色で長身の姿はない。
また会いたかったら勝ち上がるしかないって事か。何トーナメン
トの組み合わせでいけば二回戦で当たる事になっているんだ。今日
勝てば、明日の午前の試合か⋮⋮燃えるな。
この時の俺は一回戦で当たる相手もまた全国まで勝ち上がってき
た強豪だという事実を忘れていた。
218
◇ ◇ ◇
一回戦の試合会場まで歩いて移動する。甲子園のように一つのピ
ッチで全試合がやれれば最高なのだろうが、それをやるには時間が
許さないし芝もボロボロになってしまう。四つの会場に分かれて試
合を行うのはしょうがないか。そんな判り切った愚痴が口を突くの
は当然ながらカルロスのプレイを生で観戦したかったからだ。二回
戦で当たる筈なのになぜか違う会場になるとはどういう振り分け方
をしているんだろうな。俺がぶつぶつと文句をこぼしていると、頭
をぽんと軽く丸めた書類で叩かれた。
﹁おーいアシカよ。お前はなんだか集中してないみたいだなぁ。調
子悪いんならスタメンを代わってもらうか?﹂
﹁いえ、ちょっとぼけっとしていただけで体調に問題はありません﹂
はっと気を取り直してはきはきとした口調で返事をする。こんな
所で急にスタメン落ちなんて冗談じゃない。慌ててウォーミングア
ップで体を温め始める。まずは関節をほぐすように軽く、そして次
第に小刻みなダッシュなどで自分の体に戦うための火を灯していく。
額にうっすらと汗が滲んでくる頃には、すでにいつ開始のホイッス
ルが鳴らされてもオーケーなぐらい準備は整っている。
そんな矢張SCのメンバーを眺めていた監督は満足げに﹁うむ﹂
と頷く。そしていつものように手を叩いて注目を集めるとこれから
の試合の戦術について語りだした。
﹁よし、じゃこの試合はいつもどおりのフォーメーションでいくぞ
ー。今日はこの一回戦だけだからスタミナ配分は考えずに戦ってい
いからな。それと要注意のプレイヤーとしてはFWの七番でこいつ
のヘディングはかなり高い、そして守備は向こうのキャプテンで三
219
番のDFが統率して綺麗なラインディフェンスを敷いている。他に
は目立った選手はいないな。
うちと同様に向こうのクラブもこれが全国大会は初出場だ。正直な
話、相手は県の準決勝で戦ったチームより一枚落ちる戦力だと考え
ている。俺達が落ち着いて戦えば負ける相手じゃないはずだ。それ
じゃ、いつも通りに怪我しないように試合を楽しんでこい!﹂
﹁はい!﹂
監督の言葉に元気よく返事し、俺達イレブンはピッチへ飛び出し
た。
くー、芝なんかまで全国大会仕様だと思えば通常よりも柔らかく
て毛足が長いような気がする。ふわふわした感触を足に馴染ませよ
うと、小刻みに足踏みをしてはステップを確かめても地に足を着け
る感覚が定まらない。
ピッチの外で見守る観客の数もサッカー関係者の数も県大会とは
比較にならない。言い方は悪いかもしれないが小学生サッカー選手
の品評会という側面も持っている。だからこそここで活躍する事が
まず日本のサッカー選手としてのエリートコースへ至る王道なのだ。
よし、一回戦でこれだけギャラリーが集まっているんだ。実力が
下だっていうこの敵はさくっと下して、明日の二回戦で優勝候補の
カルロス達との戦いで目立つようなプレイができたら︱︱そんな風
に思考が散漫になっていた。
開始一分、俺は自陣のゴール前で呆然と立ち尽くしていた。相手
が開始ホイッスルの第一小節から一気にFWがダッシュするとロン
グボールで攻め込んできて、まだ浮き足立っていたうちのDFがた
まらずにコーナーキックに逃れる。マークがまだ曖昧なまま行われ
た、そのコーナーキックを相手の七番にヘディングでゴールネット
に叩き付けられるという最悪の立ち上がりだった。
220
︱︱まだ﹁あれ?﹂って感じで現実とは認識できていない。夢を
見ているようなふわっとした頼りない感覚である。点を取られたん
だろ、どうしてこんなにのんびりしてるんだ? 自分の神経が判ら
ない。よし、なぜか小さく震えている掌で思いきり自分の頬を張り
飛ばす。
痛っ! 同時にすっと頭の中が急速にクリアになっていく。足も
しっかりとピッチを踏みしめた感触が伝わり、手の震えも収まって
いるし、なによりも頬がひりひりしてそよ風が当たるだけで痛い。
ようやく自分の体だと実感が持てるようになった。
どうやら柄でもないが俺は上がっていたらしいな。しゃっきりし
た頭でスコアボードを見ても先制点を奪われた現状は変わらない。
だったら、ここから巻き返すしかないか。
周りを見回しても先輩達の誰もが不安そうにきょろきょろと視線
が定まらず、始まったばかりなのに出てもいない汗を拭ったりドリ
ンクを取ったりしている。監督がピッチぎりぎりまで出て指示して
いるのも耳に入ってなさそうだ。ちょっと前までの俺もこんな風だ
ったかと思うと軽い自己嫌悪に陥るな。
深く息を吸い込むと﹁何やってんだっ!﹂と大声で叫ぶ。周りの
全員が何事かと振り向くが、チームメイトにだけ注目してさっきの
叫び声に劣らぬ大声で叱咤する。
﹁先輩達何を寝ぼけてるんですか、これは全国大会なんですよ。相
手が強いのは判り切っているじゃないですか、さっさとテンション
を強敵相手のモードに切り替えて下さい﹂
とつい先ほどまで自分もこの空気に飲まれていた事など棚に上げ
て先輩達の責任にする。
﹁すぐに逆転しますから、波に乗り遅れないでください!﹂
221
そう宣言する俺の背に﹁当たり前だろ、今気合入れてるところだ
ったのに﹂とか﹁乗り遅れるだと? お前が俺の後をついてくるん
だよ!﹂とか﹁台詞を取られたな、僕キャプテンなのに⋮⋮﹂とい
う言葉がぶつかってくる。
うん、ようやくいつもの矢張SCの雰囲気に戻ったようだ。
さあ、多少手間取った感はあるが、ここから俺達の全国大会が始
まるんだ。
222
第三十二話 先輩のキックを見守ろう
ようやく戦闘態勢に入った俺達矢張SCだが、全国レベルの相手
に一点のビハインドは精神的に辛い。できるだけ早く同点︱︱いや
前半の内に逆転までしておくべきだ。
ボールをセンターサークルにセットすると、闘志を込めた視線で
相手のイレブンを睨みつける。だが思っていたように殺気を込めて
睨み返されるとか、そんな事は全くなかった。むしろ相手もそわそ
わしていて、ボールがセットされてもまだ得点したFWが他のチー
ムメイトと笑みを交わし合っている。これは⋮⋮敵も浮ついている
のか?
そうか、相手も小学生なのだ。俺達と同じで初出場組のチームが
全国大会の初戦で緊張しない訳がない。それが開始一分もたたない
内に願ってもない先制のゴールを決めたのだ。まるで夢見心地にな
り浮き足立たないほうがおかしいだろう。
なら速攻だ。
瞬時に作戦を決めると山下先輩に話しかける。全体的な戦術なら
ばキャプテンだが攻撃に関しては山下先輩と相談した方が早い。
﹁向こうもまだ試合に入り込めていないようですから、ドリブルで
突っかけましょう﹂
﹁判った。俺とアシカのどっちがいく?﹂
﹁俺が行けるとこまで行きます。その間に先輩はマークを外してい
て下さい﹂
﹁うしっ、了解!﹂
力強く俺の肩を叩くと﹁ちゃんと届けろよ﹂と念を押して前へ出
223
た。こういう時は割り切りが速いこの先輩と組むと楽だ。力量も信
用できるし、自分のプレイをこなせば山下先輩もしっかりとそれに
答えてくれるはずだ。
さて、ここで俺が速攻の中でもなぜドリブル突破を選んだかとい
うと、相手のディフェンスが浮ついていると想定したからだ。集中
していない状態でも目の前に来たパスならばボールをカットするこ
とはあるが、スピードのあるドリブルならば止められない。もしく
は無理に止めようとしても余裕がない為にファールになる確率が高
いのだ。
試合再開のホイッスルにFWから渡されたボールを山下先輩が後
ろに下げる。そのパスを俺は前へ加速しながら受け取った。リスタ
ートの上にまだ自陣なので当然ながらマークなどついていない。邪
魔されるものがない俺のドリブルはセンターラインを越える時には
すでにトップスピードにまで達していた。
俺の奇襲ともいえる中央突破に慌てて相手もピッチの真ん中に集
まってくるが、明らかに反応が鈍い。前でコースを切られるタイミ
ングで隣を走る山下先輩とのパス交換をすると、どちらをマークす
るのか迷ったのか中途半端に立ち止まっている。
想定通りに気を緩めた隙への速攻が功を奏して敵のディフェンス
を混乱させていた。いくつかFWへのパスコースが空いてはいるが
ここはあえて無視して強引にドリブルで進む。
しかし、さすがに危険なエリアまでは一直線に通してはくれない
ようだ。バイタルエリアに入る前にマークが二人も寄ってきた。こ
の辺が潮時だと、俺と同等のスピードでここまで駆け上がってきた
山下先輩にパスを出す。
待ってましたとばかりにトラップしたボールをぐんぐん前へと進
めていく。主に俺にだけ注意していたのか先輩のマークが雑になっ
ている。おそらく相手も県大会レベルではきっちりマークの受け渡
224
しなんかが出来ていたのだろうが、そんな初歩的な事でミスが起こ
っている。これが全国大会のプレッシャーか。
まあせいぜいが苦しんでくれ、なにしろこっちもプレッシャーに
晒されたせいで先制されているのだ。相手も少しは硬くなってくれ
ないと不公平ってもんだよな。
その時顔を引きつらせた敵のDFと山下先輩とぶつかった。いや
明らかに相手がぶつかってきた。スピードにのった先輩のドリブル
に横から体当たりの格好で、二人がもつれるように転がったのだ。
すぐさま審判のホイッスルが響き、矢張SCにフリーキックが与
えられる。それより今は先輩が無事かどうかが問題だ。
﹁山下先輩、大丈夫ですか?﹂
一番近くにいた俺が衝突現場まで当然早くたどり着く。芝の上に
横になっているが、山下先輩は上手く受け身をとったのか﹁いてて
⋮⋮﹂と芝で擦った膝を気にしているぐらいだった。よかった、こ
れなら酷い怪我はしていなさそうだ。
集まってきたチームメイトに﹁大丈夫そうです﹂と安心させ、ベ
ンチに座る監督に向けて両手で丸のサインを送る。これで判ってく
れるだろう。
﹁おい、せめて俺の大丈夫って返事を聞いてからオーケーのサイン
を送れよ﹂
とまだ横になったままぶーぶー言う先輩は無視の方向で。
それより、こんな目立つファールをした相手はと見ると。どうや
らこっちは受け身に失敗したのか、腰の辺りを押さえている。あ、
しかも審判からイエローカードまで出されたか。ま、故意のファー
ルだけど結果的に山下先輩に怪我はなかったし相手は倒れて呻いて
225
いる。そして、まだチャンスは続くんだからレッドカードが出ない
判定にも文句はない。
﹁アシカ、フリーキックは俺が蹴るぞ﹂
山下先輩がいつの間にか立ち上がって宣言する。こういう得点に
なりそうな場面では率先して立候補するんだよなこの人は。PKな
どの時で俺がもらった場合でもFWより早く﹁自分が蹴る﹂と言っ
ていたしな。まあ、ここは先輩が取ったフリーキックなのだ。山下
先輩が蹴るのに誰も反対はしないだろう。それでも一応は念のため
に確認だけはしておこうか。
﹁もう蹴れるぐらい回復したんですね? なんなら俺が蹴ってもい
いんですよ﹂
﹁いや、いい俺が蹴って直接入れる﹂
そう断言してから小さな声で付け加える。﹁アシカのフリーキッ
クは秘密兵器だし、ゴールまでちょっと距離があるここからはパワ
ーのある俺の方がいいだろう﹂との事だ。これは本心なのか、それ
とも自分で撃ちたいだけなのか。ひとまず、エースのお手並みを拝
見しましょうか。最後に﹁新ボールなんで吹かさないようにだけは
気を付けてください﹂と伝えてキッカーを認めた。
ついさっまで倒れていたとは思えない軽快な足取りで審判からボ
ールを受けとると、指示された位置より微妙に前にセットする。
フリーキックを与えられた地点はゴールの正面で、直接狙うには
少し遠めかもしれない。だが山下先輩が﹁直接狙う﹂と宣言してる
んだ、間違いなくシュートするだろう。それが直接入るかは判らな
いが、壁に当たったりキーパーに弾かれてルーズボールになった場
合のフォローも必要だ。早く同点に追いつきたいので、DFを残し
226
て俺達矢張SCも前のめりなフォーメーションになる。
いつでもいいぞとピッチ上の全員の集中が高まった時、審判の笛
が吹かれた。
山下先輩が力強く踏み込んでキックを放つ。鋭い弾道のシュート
が壁を巻いてゴール右上に突き刺さった。
キーパーが一歩も動けない程の文句の付けようのない見事なゴー
ルだ。山下先輩って思ったより上手かったんですね、絶対止められ
るからとこぼれ玉を押し込む気満々でしたよ。
﹁見たか、俺がエースだ!﹂
天に拳を突きたてて吼える山下先輩にチームの全員が集まる。観
客に自分のアピールをしていた先輩は自分に魔の手が迫ってくるの
に気が付かない。﹁アシカもちゃんと見て⋮⋮おや全員揃って何を、
あ、頭は痛いからやめてって、うわっ今のはまじで痛かったぞー﹂
と人の渦の中心になっている。うむ、みんな楽しそうでなによりだ。
誰よりも先に一発叩き込んだ俺は素早く離脱すると、口元の笑み
を噛み殺して相手チームを観察する。
さてこの同点弾でさらに落ち着きをなくしたか、それとも俺達み
たいに目覚ましの一撃になってしまったか。果たしてどちらだ?
敵は失点したにも関わらずキーパーを大声で励まし、お互いが忙
しく声をかけ合っている。明らかに先ほどのリスタート時より雰囲
気が締まっている⋮⋮復活したか。まあ相手も全国まで勝ち上がっ
てくるチームだ、パニックになったままで簡単に押し切れる相手だ
と甘い予想は捨てたほうがいいな。
だとしたら︱︱ここからは総力戦だ。
﹁先輩方、もうすぐ試合再開ですよ! 気合入れなおしていきまし
ょう!﹂
227
﹁おう!﹂
俺の檄にチームメイトが応える。中には﹁またキャプテンなのに
台詞とられた﹂とか﹁あいつに張られた後頭部がまだ痛い﹂だの文
句が聞こえるが、そんな雑音を気にしていては何もできない。監督
は俺達の方が実力は上だとかしたり顔で解説していたが、そんなデ
ータは現在の試合には関係ないな。大体初の全国大会出場の俺達が
相手を格下に見下しているのが大間違いなんだ。
これから対面する相手は全部強敵、向かってくる相手は全てライ
バル。そう思い込んで対処しなければ大怪我してしまいかねない。
さあ、行くぞ。
228
第三十三話 下手な推理はやめておこう
ここまでの試合経過は一対一の同点だが、あまり点数に意味はな
い。お互い初出場同士でばたついていた所で仲良く一点取り合った
だけである。両チーム共に頭の冷えたここからが本当の試合といっ
ていいだろう。
さて、冷静になって相手を分析すると、さっき俺が罵倒した﹁俺
達の方が戦力は上﹂という下尾監督の言もあながち間違いではない。
FWとDFには怖い選手がいるが中盤は割と緩いのだ。鉄壁のディ
フェンスに自信を持っているのか、どうもMFのプレスが微妙に遅
れているのだ。これならば簡単にピッチの中央でパス交換ができる
はずなのだが、何か違和感があるな。あれ? 今、俺の鳥の目にお
かしなポジションの小さなボランチが映ったぞ。誰かをマークする
でもなく、スペースを埋めるでもない。だが、この微妙な位置にい
られると⋮⋮。
﹁キャプテン、駄目です!﹂
俺の言葉は一瞬遅れた。すでにキャプテンの右足はパスを山下先
輩へ出した後だったのだ。そのパスコースにすっと割り込む小さな
影が一つ。鳥の目でポジションがおかしいと目星をつけていたボラ
ンチで背番号が十五番の奴だ。こいつ、間違いなく今のは狙ってパ
スを誘導してカットしやがったな。守備において俺の得意なプレイ
の罠をしかけるやり口である。そういえばさっきのドリブル突破の
時も妙にFWへのパスコースが空いていたようだったがあれも誘い
だったのかもしれん。
そうかい、そうかい、なるほどな。俺ぐらいのディフェンス能力
を持った奴がごろごろいるのが全国大会か。監督も中盤の守りの要
229
であるだろうこの十五番の事なんて一言も注意しなかった事から考
えると、もしかしてこれぐらいできて当たり前なのが全国レベルっ
て奴か。
でもこいつはなんか小柄だし年齢も俺とそう変わらないだろう、
だとしたら⋮⋮。
俺の胸の中から熱い物が溢れだし、唇の端を勝手につり上げる。
こんな気持ちをなんて言うんだっけな。嬉しいんじゃない、楽しい
とも少し違う。ああ、そうか俺はワクワクしてるのか。
◇ ◇ ◇
僕は目の前でいきなりにやりと笑う三十九番に後ずさりした。こ
の子は身長は僕と変わらないぐらい小さいのに妙な迫力があるんだ。
目つきもちょっと怖いし、笑うと尖った八重歯が覗いてまるでうち
のシロが牙を剥いているみたいだ。
でもビビっちゃ駄目だぞ。監督さんにも﹁サッカーは気合いだ﹂
と言われてるし、僕だってちゃんと気合い入ってるもん。
だからこの子を無視してゲームに集中しても逃げた事にはならな
いよね?
﹁おい﹂
﹁ひゃい!﹂
せっかく無視しようと僕なりに頑張っているのに怖い子が話しか
けてきた。えっと、でも試合中には乱暴されたりしないはず。存在
感が無いとよく言われているけど、僕だってサッカーの最中には気
合いで負けたりなんかしない。きっと表情を引き締めて睨み付ける。
﹁な、なに?﹂
﹁⋮⋮君何年生?﹂
230
﹁さ、三年だけど⋮⋮﹂
僕が答えると﹁俺と同じか﹂と呟いた。なんなのこの試合中に自
己紹介しなきゃいけない空気みたいなのは? そんな風に思ってい
るとよく判らない名前を幾つか尋ねられた。外国人の名前みたいだ
けど、みんな僕の知らない人ばっかりだ。歴史上の偉人か何かなの
かは知らないけれど﹁俺はこんなに頭がいいんだぞー﹂って自慢さ
れているみたいで気分は良くない。しかもその後に﹁お前は前世っ
て信じるか?﹂という質問だ。間違いない、この人電波さんだ。
でも勝手にここから逃げると後が怖いので、視線を逸らして﹁あ、
キャプテンが呼んでる﹂とわざと三十九番に聞こえるように口走る
と、すぐにこの場を立ち去った。
︱︱この時の僕は三十九番をただの変な子だとしか思っていなか
った。それが間違いだった︱︱いや変な子だってのは間違ってない
けど、ただのではなくとんでもなくサッカーが上手い変な子だった
と気が付いたのはもっと後の話になる。
◇ ◇ ◇
ふーむ、逃げられたか。あの罠を張るプレイスタイルに同じ小学
三年生という年齢。もしかして俺みたいに十年ちょっと逆行してき
たんじゃないかと思ったんだが、どうやら考えすぎのようだ。﹁前
世を信じるか?﹂といった質問や、確かめる為にこれからビッグネ
ームになるはずの数年後のバロンドール受賞者の名前を言ってもま
るで反応がない。前世ではサッカーに興味があれば誰でも知ってい
たような有名選手なのだ、それでもぽかんとしているのであれば未
来の歴史を知らないと判断していいだろう。となるとあの十五番は
ただの早熟かつ接触プレイを嫌うタイプと考えた方がいい。DFで
あればタックルなどよりオフサイドを狙う方に分類されるだろう。
あれだけの素材でも無名とは日本のサッカー界の底辺も広がってい
231
る。
さて同類がいないと判ると少し安堵の感情が湧く。本来であれば
仲間を見つけたと喜ぶべきかもしれないが、俺の持つアドバンテー
ジを奪われそうで僅かに恐怖心も抱いていたのだ。やり直してサッ
カーが出来るだけで充分だと考えていたはずなのに、随分と欲張り
になったものだな。まあそのぐらいではないと世界一の選手になろ
うだなんて野望は持たないか。
夏の熱気がこもった空気を深く吸い込むと肺が空っぽになるまで
一気に吐き出す。それだけで今までの雑念を全てシャットアウトし
て今やっている試合に集中し直す。今日のこのゲームは集中を乱す
要素が多いせいかなかなか百パーセントの力を出せなかったが、よ
うやくいつもの自分が戻って来た。⋮⋮先制点取られた後もそう言
っていたような気がするが、これからは試合が終了するまで一切気
を緩めずにいこうか。
改めて敵陣形を鳥の目を使って観察すると、どうもあの十五番も
わざと罠を張っているのではなく、中盤の綻びを取り繕うのが上手
いのだと理解できた。ならばあまり罠を注意しすぎると勢いを削ぐ
事になるな。あいつは存在感が薄い上に、ボールを持った人間の死
角に入るポジションをとっているのだが鳥の目を持つ俺には通用し
ない。ならば俺が前へ出て積極的にゲームを作るべきだろう。
⋮⋮なんだか最近理由をつけては前線へ出るようになっているな。
試合が終わったらキャプテンや監督とも俺のプレイスタイルについ
て相談しよう。
そんな事を考えながら少しずつポジションを上げていく。どうも
俺は一つ一つのプレイにだけ集中するよりも全体的な戦術を思考し
つつ行動する方が性に合っているようだ。試合開始直後のふわふわ
232
した取り留めのない考えではなく、鳥の目によって現在の戦況を把
握しつつどう優位に持っていくかを追求するマルチタスクだ。
いわゆるサッカーIQが高い選手という事だが、今ここでそのI
Qが導き出す答えはやはり前へ出て自分と山下先輩とゴールの距離
を近くすることだ。
戦力はこっちが上かもしれないがほぼ互角の状態ならば主導権を
持っておきたい。
俺が前へ出れば中盤のプレスや罠をかわしてシュートで攻撃を終
われる自信はある。例え入らなくても相手に﹁中盤の罠は通じない﹂
とメッセージを送り、新たなプレッシャーをかけることが出来るだ
ろう。
しばらく試合の流れから切り離されていた俺を無視するように、
ゲームはサイドでの攻防になっていた。うちのチームは三・五・二
のフォーメーションを採用しているためにサイドは一枚で薄い。こ
こは俺がフォローに行くべきだ。
サイドMFはディフェンスに手間取ってドリブル突破もアーリー
クロスも上げられないで、どうすべきか迷っていたのか俺の接近に
ほっとした顔をする。だが俺はすぐボールを渡しそうな先輩を手で
制し﹁まだパスを出すな﹂と止める。
なぜならそのパスコースが十五番に狙われているからだ。バック
パス気味に出そうとしたタイミングですっと俺の前に入ろうとしや
がった。なるほど、これだけパスカットが上手ければ三年でレギュ
ラーに抜粋されるのも判るな。でもそれだけで俺達矢張SCの攻撃
をストップできると考えていたなら甘すぎるぞ。
十五番を追い越すように前へ走ると慌てたようについてくる。そ
の時ようやくサイドMFがパスを出した。俺ではなく、その後ろの
ポジションをとっていたキャプテンへと。中盤に網をかけていた蜘
蛛の巣の主である十五番は俺につられてサイドへ流れている。空白
233
になったスペースをキャプテンのインサイドキックが一直線に切り
裂き、前線のFWへとつながった。
あいにく密着マークがゴール方向を塞いではいるが、ちょうどい
いポストプレイとなりペナルティエリアのすぐ外でボールを保持で
きた。もう一人のFWや山下先輩などの二列目もギアを上げてゴー
ル前へ集結する。
そんな中、俺はあえてゴール前の混雑から少し離れた位置に陣取
る。体格に劣る俺があそこに突っ込んでも動きが制限されるだけで
利益はない。
そう考えて外で張っていた俺の所にボールがこぼれてくる。よし、
こんな時の為に鳥の目で一番ボールが来そうなスペースで待ってい
たのだ。
︱︱となると当然次の展開はこうだよな。俺はボールをトラップ
するよりも、こぼれ玉を奪おうと割り込んできた十五番を肩と腕で
押さえつけるのを優先する。
俺と似た感覚を持つお前との競り合いになると予想していたんだ。
大柄な上級生ならともかく、同程度の背丈しかないしかも同年代な
らば俺はぶつかり合っても負けはせんぞ。歯を剥いた俺の形相に﹁
ひっ﹂小さく声を漏らして十五番が引いた。相手が引くならこっち
は強引に押しとおるのみ、邪魔なんだよ、どきやがれ!
十五番のマークを引っぺがすのに成功すると、そこはぽっかりと
空いたエアーポケットのような場所だった。ゴールまではやや距離
があるが、その分キーパーからはゴール前の密集がブラインドにな
って俺のモーションは見えていないはず。
そこまで瞬時に判断すると、よく狙いをつけてパワーではなく、
コース重視でシュートを放つ。
⋮⋮あ、やべ。目をつぶらないし俯いてボールも見ないで﹁よく
234
ゴールを狙って﹂シュートを撃ってしまった。まだプレッシャーが
解けずに緊張しているのだろうか俺は。
反応が遅れたキーパーがシュートを防ごうとジャンプしたのを見
ながら﹁入れ!﹂と念じる。だが誰よりも自分の決定力を信じてい
ない俺の足は、すでにこぼれ玉に詰める為にダッシュを開始してい
るのだった。
235
第三十四話 どんなゴールでも喜ぼう
鈍い音を立ててゴールポストに弾かれたのは、ご想像がついてい
るだろうが俺の放ったロングシュートだ。
ペナルティエリアの外からとはいえ角度的にはいい場所からのシ
ュートだったが、一拍遅れて反応をしたキーパーの手をかすめるよ
うなコースを辿ると、予め定まっているかのようにポストへ衝突し
たのだ。
まあそれは仕方がない。ロングシュートであれば入る確率の方が
少ないのだから。うん、決して俺がシュートの時に目を閉じるのを
忘れたり下を向くのをうっかりしていたせいではないのだ。
外れたのを嘆くよりも、こぼれ球を押し込もうとする方が建設的
だな。そう覚悟を決めてゴール前の密集地へ突入する体勢になった
俺の目に、予想外の光景が映った。
キーパーの手をかすめてゴールポストに当たったボールはそのま
まの勢いで跳ね返り、まだ宙に浮いたままのキーパーの背中に命中
したのだ。
そしてさらにその背中で反射したボールは反対方向︱︱そうゴー
ルマウスの中へぽろんと飛び込んだ。
﹁⋮⋮﹂
何とも言いがたい空気がピッチを覆う。夏なのにその肌寒く感じ
る空気を吹き飛ばしたのは、いつもよりためらいがちな音色の審判
のゴールを告げるホイッスルだった。その音に、僅かな間は硬直し
ていた仲間も何か吹っ切ったような様子で俺の周りに集まってくる。
皆が笑っているのは間違いないのだが、普通のゴール後の祝福の
236
笑顔ではなく吹き出すのを堪えているような表情だ。そのまま乱暴
に頭や背中をばしばしと叩き﹁ナイスシュートだぞアシカ!﹂﹁い
や、むしろナイスアシストだゴールポスト、ナイスシュートだゴー
ルキーパーといった方が正しい﹂と姦しい。本当に祝福されている
んだよな? 全国大会で初ゴールを決めたのに素直に喜べていない
んだが。ガッツポーズを取ろうにも、どうにも自分の力での得点で
はないようで赤面し、堂々とアピールできない。とにかくゴールし
たんだから反則以外の全ての経過は正当化されると判っていてなお
面映ゆさが先に立つ。
﹁せ、先輩達また気を抜いてないで試合再開に備えましょう!﹂
という俺の進言に皆がしぶしぶと従った。さすがに得点した者の
発言は重いのか、割とすんなりとポジションに戻ってくれたのはあ
りがたい。それでようやく周囲からメンバーが離れ、注目が薄れて
くるとついつい唇が綻びる。えへへへ、格好いいとは言い難いがこ
れが俺の全国大会での初得点である。つい、にやけてしまうのも仕
方ないだろう? でもこれだけで満足する事などできない、ここか
らどれだけの数字を積み上げていけるのかで真価が問われるのだか
ら。
気を抜くと緩んでしまう頬を引き締めていると、試合が再開され
る笛が鳴り響く。
おっと、得点したからといって浮かれるのはここまでにしておこ
うか。なにしろここは全国大会。僅かな油断がチームの危機を招く
のは失点の際に痛いほど思い知らされているのだからな。
◇ ◇ ◇
審判の長い笛の音にふうと一息つく、ようやく前半終了か。
237
結局点数はあれから動かずに二対一でうちがリードしているのに
変わりはない。だが戦況は少しずつ動いている。相手チームが徐々
に攻勢を強めて来たのだ。中盤を薄くしてその分をFWに当て、前
線の破壊力を増している。
当然ながらピッチの真ん中付近は俺達矢張SCの天下になるが、
一番ディフェンスにとって危険なペナルティエリア付近は十五番が
カバーしている。そして、相手のDFも二失点したとは思えない程
しっかりと立て直をしていた。これが少々誤算だったのだ。それま
でのディフェンスのドタバタぶりを見ていただけに前半でもう一点
ぐらいは取れるだろうと皮算用していたのだが。ここまできっちり
とした守りが出来るチームだとは思わなかったな。
もう一点取っておけば次の試合に向けた作戦も立てられるんだけ
どなぁ。
多分ビデオにでも録画してこっちのチームの観察をすることにな
るだろうカルロス達に対しての話だ。分析するには役に立たないデ
ータになるように華麗ではあるが意味のない技術を発揮する姿をこ
の試合で見せておきたかった。
そう考えて頭をぶんぶんと振る。いかんまた先走って次の試合を
考えてしまっている。この試合に勝たなければ次も何もないんだぞ、
もっとしっかりしろと頭に冷水をかけて物理的に頭を冷やす。冷た
い水が火照った体に気持ちいいが、これって真夏にしか使えない冷
静さを取り戻す方法だよな。だが全国大会でオーバーヒート気味な
自分の精神状態よりももっと心配になるのが、
﹁おーし、みんな前半はまあまあの出来だったぞー﹂
と県大会と変わらずにお気楽な声をかけてくるこの監督だ。一見
落ち着いているようなのだが、実は俺達以上にテンションが上がり
すぎているのではないかと邪推してしまう。相手のチームの注目選
238
手に中盤の要である十五番のボランチを抜かしていたし、全国で初
試合で舞い上がっていた俺達を落ち着かせることもできなかった。
もしかして、育成は上手いけれど試合に勝つ為の戦術家ではないの
かもしれない。
俺から密かにそんな勝負師失格疑惑を持たれている下尾監督がチ
ームに後半の指示を出す。
﹁後半だが基本的な戦術はこのままでいいぞー。当然負けている相
手が攻撃的に出てくるのは予想できるよな。そこでキャプテンとア
シカの両ボランチはしっかりと守備をしてからのカウンターがベー
スとなる。特に前へ出がちなアシカはポジションを上げ過ぎないよ
うにしろよ。もし前へ出るとしてもあくまで囮としてだ。一点取っ
たアシカが囮になればDFラインも乱せるはず、かく乱の為にオー
バーラップする振りだけでいいぞ。アシカは後半は専ら守備にその
力を使ってくれよ。次に当たる相手にもわざわざその攻撃センスを
見せびらかさないでもいいだろう﹂
﹁はい﹂
返事をするがちょっとその声は暗くなる。やはりどちらかという
と華やかな攻撃的ポジションへの未練が捨てきれない。ましてやこ
の試合がおそらくは全国のサッカー関係者の目に留まるかと思えば、
目立つようにアピールしたくもなる。
だが、それよりもチームの勝利が優先だ。負けていてどうしても
得点が欲しい場合などは多少の無茶は許されるが、リードしている
展開では俺が勝手なプレイをするとチームとしての戦術的な意思統
一が乱れてしまう。ここは監督の指示通り後方に控えてボランチと
しての仕事︱︱チームの攻守のバランスをとり、空いたスペースを
埋めてパスを左右に的確に散らしてゲームをこちらに有利なように
コントロールする︱︱に専念するとしよう。
239
﹁それで、攻撃の方は山下を中心に基本的にはカウンターなのは言
ったとおりだ。それとボランチが二人残っている分サイドアタック
を効果的に使え。両サイドも右が上がったら左は下がるといった釣
瓶の動きをしっかりすれば攻め上がっても問題ない。その場合はボ
ランチがサイドの上がったスペースを埋めるように動けよー。
最後に攻撃はしっかりとシュートで終わるのは徹底しようか。細
かいパスでつなぐよりより山下かアシカからのスルーパス一発でセ
ンタリングかシュートまで持っていくような形にしよう﹂ ﹁はい!﹂
全員が声を揃えて答える。うん、少し防御に比重を置いた作戦で
はあるけれど堅実な指示だ。それを聞いた俺は胸をなで下ろす。
もしかして舞い上がった監督が、無理な作戦を提示するんじゃな
いかと心配していたのだ。だが俺達と同じく前半を終えてその緊張
も解けたようだ。ベンチに対する信頼感を取り戻した俺は手を挙げ
る。
﹁なんだアシカ?﹂
﹁中盤でパスを回す際には十五番のボランチに注意してください。
あいつわざとパスコースを開いて罠を張っていますよ。影が薄いの
で大変ですが、パスを出す前にあいつのポジションを気にしてくだ
さい﹂
﹁ああ、あの十五番か。アシカと同じ三年なのにスタメンだから気
にはなってたんだがなー。出場していた試合数が少なすぎて分析で
きなかったんだ。なるほど、つまりアシカみたいな奴が中盤で守っ
ていると想定して戦えばいいんだな。よし、みんな聞いてただろう。
アシカが相手チームで守っていると思ってやれよー﹂
今回は素直な﹁はい﹂という返事はなく﹁えー﹂﹁やだなぁ﹂と
か﹁アシカの身代わりなら一発ぐらい殴ってもいいかな?﹂などと
240
物騒な発言まで漏れてくる。先輩達は俺を一体何だと思っているの
か問い質したいな。
でも、そんな軽口を叩けるようになっただけチームの雰囲気は軽
く柔らかくなっている⋮⋮まあそうとでも思ってないとやってられ
ないのが俺の本音なのだが。
241
第三十五話 右に左に揺さぶろう
後半のキックオフを告げる笛の音を、前半の開始時よりもはるか
に落ち着いた心境で聞くことができた。
全国大会特有の観客の多さとサッカー関係者の多さによるプレッ
シャーにも慣れたせいかもしれない。まだ伸び伸びとまではいかな
いが自分のプレイを胸を張って披露できるだけの度胸は身に付いた。
これは俺一人ではなくうちのチーム全員に言えることである。僅か
二十分で傍目でも変化が判るとは、なるほどトップレベルってのは
居るだけで自分が磨かれていくって言うのは本当かもしれないな。
後半は相手の攻勢を受け止める展開となった。まあ、これは当然
ではある。
一発勝負のトーナメントにおいては一点差でも十点差でも敗北に
は変わりがない。負けている方はリスクを承知で攻めに人数を割か
ないと話にならないのだ。勝っている方は無理な攻撃をせずに軸を
守備に置いて、数人の攻撃的なポジションの選手だけがカウンター
でディフェンスの裏を突こうとすればいい。そうすれば守備は整っ
たままでローリスクハイリターンのカウンター戦術が完成する。こ
れが後半のうちのチームの基本方針でもある。
正直俺はあまり好きな戦術ではないが、チームとしての約束事な
ので無茶をして迷惑をかけるわけにはいかない。
敵の焦りが透けて見える強引な攻めを今は集中して守っていくだ
けだ。
後半が進むにつれてスコアは変わらないが、形勢は徐々に俺達矢
張SCへと傾いていた。元々薄い相手のチームの中盤が前がかりに
なることで、十五番一人では取り繕えないほど穴が広がっていく。
242
そこへ俺とキャプテンが中盤で守備陣と攻撃陣とのリンク役とフィ
ルター役をこなすことで、その穴だらけの中盤の守備はほとんど機
能を止めていた。
なにしろボランチが埋めるべきDFの前のスペースを、まだ三年
生の十五番一人に任せているのだ。トップ下の山下先輩とFWが繰
り返すポジションチェンジについていけていない。ましてや十五番
はマークが上手いわけでもフィジカルに優れているわけでもない、
パスコースを寸断するのに向いた人材である。この少年が先輩にマ
ークする為に居場所をはっきりさせてくれていたら、こちらとして
は返ってパスする時に迷いがなくなってラッキーなぐらいだ。
向こうは前線の人数は増やしたが、こっちのカウンターを警戒し
てかあまりDFラインも押し上げてこない。そのために単調なロン
グボールの放り込みになっているが、うちはその手の攻撃には滅法
強い。背が高く、当たりの強いDFとキャプテンが揃っていればそ
うそう失点する心配はない。
こういうサッカーではなく格闘技のようなディフェンスにおいて
は俺は居場所がない。だがDFラインの前に陣取って、こぼれ球や
敵からのグラウンダーのパスをせっせと掃除するように集めること
で存在をアピールしている。﹁足利という少年は攻撃だけじゃなく
て守りも頑張ってますよ﹂というどちらかというと営業のような感
覚である。それでも俺の地道なプレイが確実に相手チームのセカン
ドチャンスの芽を摘んでいく。
そしてボールを手中にするやカウンターの起点として行動する。
前へ出てもセンターサークルまでと監督から制限されているので、
ややふくれっ面になっていると自覚しながら山下先輩やウイングの
位置まで上がった方のサイドMFにパスを通す。
ここで気を抜くと十五番がそっとパスコースに近寄っているので、
常に鳥の目も併用してカットされないように注意しなければならな
243
い。俺の位置でボールを奪われると守備を整える時間のないショー
トカウンターになり、かなり危険な状況になってしまう。そんなの
は出来る限りリスクを避ける戦術の今では絶対に許されない事態だ。
そんな慎重さが要求される起点となるパスだが、俺は意図的にサ
イドへのパスを多めにしている。これは別に中央で待っている山下
先輩に意趣返しをしているんじゃない。ここまでの二得点は俺と山
下先輩の真ん中寄りのポジションの者が取っている。ここらで矢張
SCにはサイドアタックもあると見せておかねばマークは中央にだ
け厳しくなるかもしれない。この試合だけでなく次からもマークを
分散させるためにも、サイド攻撃の活性化は必要なのだ。
後半の半ばを過ぎるとさらに相手は前がかりになってきた。もう
中盤のスペースを消す作業まで省略して攻撃に人数をかけようとし
ている。
そんな前輪駆動の相手には手数の少ないカウンターが有効なのも
また判り切った話だ。
すでにさりげなくボールを奪うという手段を放棄して、必死に山
下先輩にくらいついているだけの十五番を無視するようにサイドア
タックを繰り返す。繰り返すとは言っても左の次は右とピッチの横
幅一杯を使って相手を揺さぶっているのだ、このDF前のエリアを
一人で担当している十五番は追いかけるだけで一苦労だろう。
また俺が意地悪く見る必要もないのに必ず山下先輩とアイコンタ
クトしてからサイドに流すもんだから、十五番は必ず真ん中からス
タートしなければならず右往左往している。時々涙目で俺を睨んで
いるのは多分気のせいではない。
﹁山下先輩!﹂
﹁おう!﹂
244
と声をかけてマークをトップ下の先輩に引きつけてからのロング
パスでサイドMFを走らせてはアタックを何度も繰り返す。
俺と同じ三年生ならばまだ体が出来上がっていないはず、もうい
つ足が止まってもおかしくはない。
あ、向こうの監督もそれを懸念したのか十五番を交代させて、セ
ンターバックのように体格のいい奴をボランチのポジションにいれ
やがった。あの十五番は顔を袖で拭いながらベンチに下がっていっ
たが、俺のせいじゃないよな。
普段ならば俺もここら辺の時間帯で足が重くなってくるのだが、
今日に限ってはその気配がない。なぜかと思うと、ふと監督のセン
ターサークルより前へ行くなという後半の指示に思い当たった。あ
れでいつもよりアップダウンが少なくなって運動量も軽くて済んだ
のだろう。あの監督がそこまで考えていたのかという疑問はあるが、
とにかく今はスタミナ面で問題は起きていない。
ところで向こうの監督がボランチを交代させたのはどういう意図
だろうか。 その作戦を探る為にとりあえず新入りのお手並み拝見とマークさ
れた山下先輩にボールを渡すが、先輩は前を向くことが出来ずにが
っちりとストップされた。すぐに俺へバックパスで戻したがそれだ
けでどんなタイプかは推測できる。体格なんかから見て取れるよう
にDFをボランチにコンバートしたような選手だ。接触プレイには
強いがMFとしては汎用性に問題がある、つまりマークマンとして
以外は注意する必要はない。むしろ十五番のほうがやりにくいタイ
プだったことは確かだ。だからこそ三年生でのスタメン抜擢だった
のだろうが。
ならばまだゲームに馴染む前に穴をつかせてもらおうか。
山下先輩に少し戻るように手招きすると、案の定新加入のボラン
チもついてきた。駄目だろう、チームの舵取り役が簡単に釣り出さ
245
れては。
すっと左に流れる先輩とマーカーを生暖かい視線で応援しながら
右サイドのMFへとパスを通す。さすがにDFだけは残っているが、
縦へのコースを切られたと判断するとドリブルにこだわることなく
アーリークロスを上げる。
ここで山下先輩がボランチを誘い出したのが功を奏した。中央の
DFが薄くなっていたのである。
そのゴール前の危険なポイントに、若干影の薄いサイドMFから
のクロスが入った。正確で早いセンタリングが、いまいち活躍して
いる場面の思い当たらないFWの頭へとピタリと合う。
どちらかというと目立たないコンビから生み出された高速カウン
ターは、見事に敵のゴールネットを揺らしていた。
﹁山下やアシカだけじゃなくて俺も忘れんなよ! 俺の名前は︱︱﹂
﹁ナイスヘッド!﹂
﹁全国大会初ゴールおめでとー!﹂
得点したFWを中心に人の輪が出来上がっていく。何やらFWが
﹁最後の名前まで喋らせろ﹂とか意味不明な怒り方をしているらし
い。それを見つめる俺と山下先輩の視線が絡まった。やるか? い
きましょう、赤い背中の紅葉の復讐です。俺は後頭部の仇討ちだな。
どうでもいい場面でだけアイコンタクトが成立するほど先輩との
息が合う。そして互いに頷き合うと、スコアラーの背中に紅葉を付
けるため得点者への祝福の嵐の中へ侵入するのだった。
三対一となり試合が決まったと判断したのか、下尾監督は残り時
間を睨みながら交代要員のアップを仕上げさせる。
確かに残り五分で二点差あれば決まりだろう。油断する訳にはい
246
かないが、余裕ならば持てる。
そして監督は残り三分で俺を、そしてロスタイムに突入してから
山下先輩と立て続けに選手を交代して時間の消費をはかる。交代で
出場した選手はどちらも守備的な選手で守りは万全だ。
監督に乱暴に撫でられたせいで乱れた髪を整えている山下先輩と
共にベンチから声援を送る。ちなみに俺はもともとぼさぼさ頭なの
で別に少しぐらい髪が跳ねても気にならない。﹁しっかり守って下
さい!﹂と先輩達を元気付けようと声を張る。
でもロスタイムで二点差、しかもフレッシュな守備陣と逆転され
るならもうそうなる運命だったとしか思えない布陣である。
幸い矢張SCにはそんな理不尽な事は起こらず、そのままのスコ
アで試合終了を迎えたのだった。
247
第三十六話 仲良くテレビを眺めよう
﹁おーし、皆にジュースは行き渡ったな? それじゃ、一回戦の勝
利を祝してかんぱーい!﹂
監督の掛け声に﹁乾杯!﹂と全員で唱和する。そのままグラスを
置かずに、ぐいっと一息で飲み干す。うん、美味い。これが勝利の
美酒⋮⋮と言う訳にはいかないので果汁百%のジュースだが、間違
いなく勝利の味付けがされている。
乾杯の後は別に何という事もなく食事をするだけなのだが、皆の
視線は挨拶している監督よりもテレビから離れない。
なぜならば俺達が宿泊している旅館は、おんぼろであるがBSも
CSも全ての放送が無料で視聴できるのだ。しかもこの夕食の時間
帯にはスポーツに特化した局で俺達が参加している全国大会のコー
ナーが放送しているのである。花より団子の年代なのだがつい食事
の手を休めて注目してしまう。
注目のクラブが幾つか取り上げられ、その後で今日行われた一回
戦のハイライトが流される。小学生とは言えさすがは全国のレベル
だと唸らされる試合が続出し、ついに俺達矢張SCが三対一で勝利
した試合が放送された。
山下先輩の鮮やかなフリーキックに三点目の駄目押し弾となる豪
快なFWのヘッドは格好よく映されていた。俺の得点シーンはどう
だったかって? ⋮⋮今日の珍プレー大賞と題されて、シュートが
バーに当たりその跳ね返りがキーパーの背中にぶつかってゴールと
いうビリヤードのような得点として何度もリプレイされた。俺はと
もかくあのキーパーにはちょっと失礼な話だよな。
248
けんがみね
そして最後の特集コーナーに次の二回戦で俺達が当たる剣ヶ峰F
Cのチーム紹介と今日の試合の結果があった。さすがにJ下部のユ
ースだけに注目度も高いが、同じようなJユースなら他にも数チー
ムがこの大会に出場している。なぜここが一番目立っているのかを
一言でまとめるならばそのメンバーの豪華さだ。なにしろレギュラ
ーメンバーの中にこの年代の代表候補が三人も入っているのだ。し
かもその内の一人カルロスは代表でも不動のエースである、彼を中
心にしたチームが優勝候補と目されるのも当然と言える。
﹃では最後に今大会の優勝候補の最右翼の呼び声も高い剣ヶ峰FC
の一回戦の試合をご覧いただきます。この剣ヶ峰FCはエースであ
るカルロス君抜きでも県大会を圧倒的な強さで勝ち上がってきまし
た。そしてすでに上のカテゴリーに混じっていたカルロス君が全国
大会でようやくチームに復帰。その破壊力に更に磨きをかけていま
す。合流間もないエースがチームにフィットするのか? ではどの
ような強豪でもプレッシャーのかかる初戦の模様をどうぞ!﹄
アナウンサーの煽りが終わり、得点シーンを中心とした試合のダ
イジェストが流される。
しかし、長いなこれ。最初は皆で﹁おお!﹂とかそのユースなら
ではの技術の高さに驚いていたんだが、五点を超えた辺りから誰も
口を開かなくなってきた。いつまで続くんだろうこの得点ラッシュ
は。皆がそう思い始めた時、ようやく試合のシーンが終わりアナウ
ンサーに画面が戻る。
﹃九対ゼロという大差で勝利した剣ヶ峰FCの立役者は間違いなく
このカルロス君でしょう。彼の持ち味はその絶対的なスピードです。
六月に行われた陸上の小学生全国大会において百メートル走で優勝
した、文字通り日本最速の小学生なのですよ。その快足を生かした
ドリブルはまさに圧巻の一言。国際大会においてもその突破力は注
249
目を集め、ブラジルの監督からは﹁ブラジル代表で十番を背負うべ
き少年が日本に奪われてしまう﹂と懸念を表明したほどです。これ
からも彼がどちらの代表を選ぶのか両国で綱引きが激化する模様で
す。
普段は上のカテゴリーであるU十五に参加して中学生相手でも主
力として練習と試合をしているのですが、今大会を制する為の切り
札として急遽参戦が決定しました。そのためにチームとしての連携
が心配だったのですがよけいなお世話だったようですね。今日の彼
の残した記録は三得点二アシスト⋮⋮前半のみの出場でこれでした﹄
解説していたアナウンサーの姿が消え、カルロスの活躍シーンが
連続で映し出される。
うん、このダイジェストを見ただけで判る。こいつは小学生のレ
ベルじゃねぇ。ドリブルを始めるカルロスを誰も止められない、ほ
とんどヒョイヒョイという感じでごぼう抜きされていく。
もちろん他のチームメイトも十分に上手いのだが、あまりに彼が
突出しすぎていて印象に残らない。特に剣ヶ峰FCの守備陣なんか
はほとんど攻められているシーンが無いために判断のしようもない。
延々と剣ヶ峰FCが攻め続けている映像が終わると、アナウンサー
が次はカバティの世界選手権の予選について話し始めた。
いつの間にか静まり返った室内で唯一響いていたテレビの電源を
監督が急に消す。
じっと見入っていたはずなのに誰一人それを抗議しようとはしな
かった。そして画面が暗くなると同時にふうっと深い呼吸を始める
人間が俺も含めて大勢いる。どうもさっきのカルロスのプレイを見
ている間は無意識の内に呼吸を止めてしまっていたらしい。
﹁⋮⋮とまあこいつらが明日の俺達の相手で注目の優勝候補だ、困
ったことに﹂
250
監督の宣告に誰かがごくりと唾を飲む音が聞こえた。まだ対戦が
決まっただけなのにプレッシャーがかかるなんて洒落にならないな。
硬くなりすぎた雰囲気をほぐそうと俺が何か考えるよりも早く、監
督が続けた言葉によってシリアスな空気は壊された。
﹁だから、その優勝候補に勝てば今度は俺達矢張SCが注目の的と
なってテレビに追いかけられる訳だ。どうしよう、誰かインタビュ
ーに慣れた奴いるか? 俺なんかマイク渡されても演歌歌ったり、
人生のパートナー募集中ですとしか言いようがないんだが﹂
腕組みして﹁練習のメニューに隠し芸を入れ忘れていたのは痛恨
だった⋮⋮﹂と俺達に相談する監督の表情はあくまで深刻だ。それ
なのに一瞬の空白の後にくすくす笑いが広がっていく。困っている
のは俺達が勝っちゃうとマスコミがうるさくなるからかよ! ああ、
さっきまであったお通夜のようなムードはすでに胡散霧消して誰も
がリラックスした状態になっている。
監督は無言の内に﹁俺達は勝てる﹂という信頼を伝えてくれたの
だ。ただ話すよりユーモアを交えた態度にすっかり硬さがほぐれて
いる。さすがは大人の余裕って奴なのか、ここらへんの緩急の使い
方は上手いなぁ。
ようやくプレッシャーに飲まれた状態から復活した俺達に監督が
改めて声をかける。
﹁それじゃ、明日の作戦を説明するぞ。今テレビに出てた通り敵の
剣ヶ峰FCは強い。正面から無策でぶつかったら勝算は少ないだろ
う。だからちょっと小細工を使わせてもらおうか﹂
とぐるりとメンバーを見回し、俺に目を止める。
﹁次の試合ではアシカは後半からの出場だ。前半はいつも逃げ切る
251
時用の守備重視の布陣でいくぞ﹂
﹁え! なんでです?﹂
俺は思わず立ち上がって抗議の声を上げる。俺はもうレギュラー
としての立場を確立したつもりだったから、この指示に素直には従
えない。監督も判っていると言わんばかりに掌をこっちに向けて﹁
抑えて、抑えて﹂というジェスチャーをする。俺がとりあえず腰を
下ろすと監督が説明を続けた。
﹁おそらく相手は明日も今日と同じようなゲームプランで臨んでく
るはずだ。つまりカルロスを先頭にした前半で点を取れるだけとっ
て後半は控えのメンバーで軽く流すって展開だな。これなら主力の
疲労も抑えられるし、なにより勝って当たり前なはずのチームが先
に点を取られて最後までずるずるいくという、番狂わせに起こりが
ちな﹃事故﹄が起こる可能性が一番少ないプランだからなー﹂
とりあえず敵の明日の作戦については納得できる説明だ。しかし、
それがなぜ俺がスタメン落ちという結論に至るのかが理解できない。
﹁そこで俺達は明日は前半を思いっきり引いて守ることにする。い
つもは三・五・二だが、サイドは下がって五・三・二のファイブバ
ックなって構わない。その分いつものスリーバックは中をしぼって
スペースを与えるな。そしてボランチは二人とも守備専門だ、特に
アシカを下げてまで入れたんだからボランチはカルロスを密着マー
クに専念してキャプテンはそのフォローだ。
FWとトップ下の攻撃陣も前半は点を取ろうと思わず、シュート
を撃つことでディフェンスラインの押し上げを防ぐぐらいの感覚で
いてくれ。相手のフォーメーションは四・五・一で守備重視に見え
るが、カルロスを中心にした高速カウンターは間違いなく日本一の
破壊力を持っている。絶対にスペースを与えるんじゃないぞ﹂
252
﹁は、はい﹂
と攻撃陣の返答も歯切れが悪い。そりゃ点を取ろうとは思うなっ
てのは攻撃するメンバーにとってあまり嬉しくない言葉だろう。
﹁後半になったら逆にこっちが攻撃する番だ。アシカを投入してサ
イドも上げてどんどん攻めていく。おそらく相手は前半でカルロス
を下げているだろうから、カウンターをおそれずに全員で点を取り
に行くぞ﹂
﹁はい!﹂
﹁よし、このウサギとカメ作戦の正否は後半逆転できるかよりも、
むしろ前半どれだけ失点を防げるかにかかっている。カルロスは絶
対にフリーにしないこと。例えピッチの外にドリンクを飲みにいっ
ても、お前はついていって一緒にピッチの外でマークしてろ。判っ
たな?﹂
﹁はい!!﹂
一際大きい声で返事したのは俺の代わりにスタメンに入り、カル
ロスのマーカーに指名されたボランチの先輩だ。くそぅ羨ましいな
ぁ、あのカルロスとガチでやり合えるなんて。
確かに監督の指示する作戦は、元々戦力の劣る俺達が勝つ為には
正しいかもしれない。だがそれでも一つだけどうしようもない不満
が俺にはあった。カルロスの出場が前半だけなら俺は直接戦えない
じゃないか! それだけが心残りだった。
253
第三十七話 優勝候補と試合をしよう
俺もスタメンに混じってウォーミングアップをしているが、いま
いち気合いが入っていかない。どんな状況でもベストを尽くさなけ
ればならないとは承知しているのだが、カルロスとの直接対決がな
いのかぁと地の底まで下がったテンションのノリという奴はなかな
か思うようには上がっていかない。
そんな憂鬱そうな雰囲気を漂わせていたのか、俺を監督がちょい
ちょいと手招きする。
﹁アシカ、なんだか調子悪そうだな﹂
﹁べ、別にそんなことありませんよ﹂
﹁お前は判りやすいなー。まあ、あのカルロスって奴と戦うのは今
回は我慢してくれ。うちが剣ヶ峰FCに勝つ為には向こうの切り札
であるカルロスが引っ込んだ後で、ジョーカーであるアシカがひっ
くり返す手しか考えつかなかったんだ。俺だってお前とカルロスの
マッチアップは見たかったんだがチームの勝利の為だ、勘弁してく
れ﹂
と前で手を合わされて頭まで下げられたら不満を持ち続けている
訳にもいかない。大きく息を吐き出して肺の中の空気と頭の中の思
考を入れ替える。
﹁頭を上げて下さいよ、選手である俺が起用法について文句を言え
るはずないじゃないですか﹂
﹁スタメンから落とした時は思いっきり言われたような⋮⋮﹂
﹁と、とにかく文句はありませんから監督の思うように采配を振る
って下さい。あ、それで一つ質問があるんですが﹂
254
都合が悪くなりそうだったので質問で話題を切り替える。
﹁どうしてキャプテンをカルロスのマークに付けなかったんですか
? 正直キャプテンの方があの先輩よりマンマークする能力は上だ
と思いますが﹂
﹁ああ、そうだがな⋮⋮﹂
監督は顎を撫でながら苦い物を口に含んだような表情になった。
﹁正直な話、カルロスを完全に押さえ込める奴はうちのクラブには
⋮⋮いやもしかしたら日本中の小学生にはいないかもしれない。だ
から少しでも時間と体力を削るのがマークする人間の使命になるん
だ。でもキャプテンの奴は真面目で責任感が強すぎるからなぁ、マ
ーカーとして指名されると何とかカルロスを止めようとしてファー
ルを重ねる事になってしまうだろう。
うちのチームは目立たないかもしれないが、キャプテンを中心に
まとまったチームなんだ。もし早いうちにキャプテンが退場をして
しまったら、そこからアシカを投入しても建て直しがきかなくてチ
ームが崩壊してしまう。だからこそカルロスのマークはもう一人の
ボランチに任せるんだ。前半だけでも保ってくれればいいし、万が
一トラブルがあってもまだ傷は浅くてすむからな﹂
﹁なるほど、そうですか﹂
納得のいく説明に俺は頷いた。確かにキャプテンはうちのチーム
の要である。守備での貢献度はもちろん、俺が上がった時のフォロ
ー、チーム全体へ目を配ったコーチングなど精神的支柱としてかけ
がえがない存在だ。実際の所監督よりチーム内での信頼度は高い。
そんなキャプテンが途中退場してしまうリスクは許容できないに違
いない。
255
﹁だから、前半はじっと耐える時間帯だ。いくらカルロスやJユー
スでもうちの守備陣が守りだけに専念したならば、そう簡単には点
は取られないはずだからな。誰かが怪我やカードをもらったりとか、
よっぽど手の施しようがない事態でも起こらない限りはお前を前半
から出したりはしないぞ。だから後半からの攻撃の組み立てをピッ
チの外から観察してシミュレートしておいてくれ﹂
﹁判りました。前半の内にDFラインの上げ下げのタイミングや、
ウィークポイントがどこかとかチェックしておきます﹂
﹁頼む、たぶんスタメンの奴らは前半はずっと守備に追われてそこ
ら辺までは気が回らないだろうからな﹂
﹁了解です﹂
額の前にビシッと指を伸ばした掌を当てて敬礼する。こんな茶目
っ気のある態度ができるようになったのもちゃんとスタメン落ちの
理由を説明されて、その理由に納得できたからだ。アップ中のもや
もやが残っていたら試合中のパフォーマンスにも影響があったかも
しれない。やっぱりなんだかんだ言ってこの下尾監督は俺と相性が
いいんだろうなぁ。
﹁そろそろ試合開始だな、ベンチから皆の頑張りを応援しようか﹂
促されてベンチに腰掛ける。頼むぞ先輩方、優勝候補が相手とは
いえ失点を防ぐぐらいなら何とかなるはずだ。頑張ってくれよ!
◇ ◇ ◇
甘かった。
それが今の心境を表す単語だ。うちのチームが防御に徹すれば県
256
内レベルではそう点を取られることはない、それは事実である。な
ら相手が全国大会で優勝候補であれば? そしてその相手の攻撃の
中核に世界レベルの選手がいたとしたら? 答えは決まっている、
耐え切る事などできるはずがなかったのだ。
特にあのカルロスの動きはベンチから観察しているだけで背筋に
冷たい物が走る。マークしてる防御専門のはずのボランチの先輩が
赤子扱いされているのだ。密着マークで体力を削るのと、抜かれる
にしても少しでも時間を稼ぐのが役目のはずだが全く機能していな
い。カルロスがボールを受け取る、ボランチが抜かれる、キャプテ
ンがフォローに行くがスピードにのったカルロスに追いつく事は出
来ずに、そのままシュートされるか決定的なパスを出されるという
シーンが続出している。
まだ開始から5分しかたっていない状態で二対ゼロ、カルロスの
一ゴール一アシストという監督の想定した最悪の事態をはるかに超
える展開だった。
矢張SCのよく訓練されているはずのディフェンス陣がたった一
人によって完全に崩壊させられている。
いつもは憎らしいぐらい泰然としている監督が少し顔色を青ざめ
させて俺を呼ぶ。
﹁おい、アシカ。悪いがすぐに準備してくれ。このままじゃ前半だ
けで何点取られるか判らん。最小限の失点でしのごうだなんて俺の
考えが甘すぎたぞ、あいつは化け物だ﹂
﹁はい、もう体は温まっていますから今すぐでも大丈夫です﹂
﹁ああ、もうこのままボランチのあいつをカルロスのマークにつけ
ておくのは酷すぎる。このままじゃトラウマになりかねんぞ。じゃ
あ次にプレイが途切れた時に⋮﹂
観客の歓声にピッチの上を振り向く。そこには芝の上でカルロス
257
とボランチの先輩が倒れている。審判が走り寄ってくると倒れてい
る先輩に高々とイエローカードを示す。
どうやらまたドリブル突破された先輩がファールでカルロスを倒
してしまったらしい。良かった、いや良くはないがレッドでさえな
ければオーケーだ。今から俺と交代する先輩がイエローカードをも
らっても、それほど問題にはならない。カルロスも先輩も痛がる素
振りも見せずにさっさと立ち上がった所からしてダメージはなさそ
うだしな。
だがお互いの顔色は対照的である。褐色のカルロスはともかくカ
ードを貰った先輩は真っ青で血の気がない。唇なんか紫に近いほど
で目には涙まで浮かんでいる。これはもう心が折れてしまって戦闘
意欲がないな。
監督が副審に俺の交代を伝えるが、それはこのフリーキックの後
でプレイが途切れた時になるようだ。
頼むからこれ以上は点を取られないでくれよ。小刻みにステップ
を踏んで体に火を入れ直しながら﹁外れろ、外れろ﹂と怪しげな念
を送る。
俺のそんな願いが通じたのか、ファールされた影響も感じさせな
いカルロスが蹴ったパワフルなフリーキックは僅かにゴールの枠を
逸れてピッチの外にある看板を直撃して鈍い音を立てた。
ああ、小学生の大会でも宣伝の為の看板ってあるんだなぁ。頭の
片隅でかすかにそんな思いも湧いたが、すぐに一つの思考に埋め尽
くされた。
︱︱もうすぐあのカルロスと勝負できるんだ。
すぐに矢張SCのゴールキックとなり、このタイミングで俺も交
代してピッチに入る。
交代で途中退場する先輩は県大会の準決勝では交代があんなに悔
しげだったのに、今日はむしろほっとしているような表情さえ浮か
258
べている。あいつと対峙するのがどれだけプレッシャーになってい
たのかが伺える。悪いな先輩、まるで先輩を使ってカルロスがどれ
ほどの選手か計ったようになってしまった。だが、安心してくれ。
きっと俺があいつを止めてみせるからよ。
この時の俺は時計はまだ前半の八分なのにすでに二対ゼロである
とか、うちの守備組織がずたずたにされているとかのマイナス要素
は浮かんでこなかった。諦めていた世界レベルの怪物と直接戦える
のだ、まさに前世から俺が待ち望んでいた舞台である。ここは格好
つける為にも、面と向かってこう告げるべきだろう。
﹁かかってきな、カルロス﹂
259
第三十八話 ﹁本物﹂と戦ってみよう
ピッチに入ると同時に急いでカルロスへと走りよる。
交代したボランチとポジションも役目も大体そのままなのだから、
当然ながら俺に与えられた指示の最重要項目はカルロスをマークし
て自由に動かせない事なのだ。年代別とはいえ日本代表のエースと
マッチアップできるなんて贅沢な話だよな。
他にも後半から俺に期待していた攻撃参加なんかも﹁もしできた
らやれ﹂と実にあの監督らしいアバウトかつ欲張りな命令だが、俺
にとってはありがたい願ったり叶ったりな指示である。
つまり、カルロスを押さえ込んで逆転までしろって事だよな。
与えられた命令を思い切り恣意的に略すと、無意識の内に笑みが
浮かぶ。監督が聞けば﹁そんな事は言ってないぞー﹂と文句を言い
そうだが、日本どころか世界でも通用する才能と真剣に対決できる
なんてサッカー選手にとってはこんなに燃えられる展開はそうない
ぞ。
カルロスは近づいてくる俺を見ると一瞬小首を傾げ﹁小さいな﹂
と小声で呟き鼻を鳴らした。別に聞かせるつもりはなかったのか小
さな声だったが、あいにくと俺は耳がいいのだ。その言葉からして
おそらくこいつは、さっきまでマークしていたボランチの先輩みた
いに大柄な相手とばかり戦ってきたのだろう。
そりゃ五年生なのにとても小学生とは思えない程背の高いカルロ
スなら、対抗してマークする相手も大きくないといけないと今まで
の敵の監督は判断したんだろう。そのでかい奴らとの戦いに打ち勝
ってきたとすれば、カルロスの尊大な態度も判らなくはない。だが、
大きいだけのパワータイプの奴と比べると、ずっと素早い俺に対し
ても同じように簡単に勝てるとは思わない方がいいぞ。
260
それにしてもピッチに立って気がついたのだが、カルロスにはカ
リスマというのかちょっと異常なまでの存在感があるな。近くに寄
っただけで二・三度気温が上がったようでうっすらと汗をかくのに、
肌にはなぜか鳥肌が立っていく。そんな経験は一度もないのだが、
野生の黒豹なんかの猛獣と接近遭遇したら、こんな空気が重くなっ
た異常な感覚を覚えるのかもしれないと思わせる独特の雰囲気だ。
俺が交代してから初めてカルロスにパスが送られてきた。パスカ
ットが得意な俺だがカルロスへのパスは遮断しにくい。まずトップ
下のポジションにいる彼に入るパスは基本的には後方から前へ送ら
れる為に、カルロスの前に立ちゴール方向の進路を切っている俺か
らすれば、奴を挟んでちょうど逆方向からのボールとなるのだ。こ
れではちょっとカルロスに渡る前にカットするのは難しいな。
かなりのスピードで送られたパスにカルロスがトラップ失敗した
のかと思った。それほどボールが受けた足から弾んで彼の体から離
れたのだが、そのまますんなりと彼の足元に収まった。え? 今の
はミスじゃなかったのか。あそこまで離れたボールをコントロール
できるなんてどれだけ足が長いんだよ。
別に自分の足が短いと思った事はなかったが、感覚的には足の
リーチが俺の二倍はありそうだな。向こうが今しているみたいに、
体を壁にして俺を抑え込んで伸ばした足でボールを踏まれたりした
ら、ちょっとスライディングしたぐらいでは届かないかもしれない。
そんな軽いファーストタッチだけで彼我の体格差に戦慄している
俺を、まるで無視するかのようにカルロスは前を向いた。
ボールの方へと一歩体を引いただけで俺の二歩分近い距離を稼げ
るから、それだけのシンプルな動作で振り向くだけのスペースを作
れたのだ。マークしている相手にボールを持ったままここまであっ
けなく反転された経験はない。あまりに簡単に前を向かれた俺は必
261
死で動揺を鎮めようとする。
︱︱大丈夫だ。ディフェンスラインはしっかりしている。ファイ
ブバックにしているおかげでDFの数はあまってゴール前でフリー
になっている敵はいない。スルーパスを出そうにもゴール前にスペ
ースはなく、FWにもマークがぴたりとついている現状では無理で
ある。
こいつにはバックパスという発想はなさそうだし、もししたとし
てピンチにはなり得ない。だとすればここからの攻撃手段で警戒す
るべきはカルロスのドリブル突破の一択となる。
鳥の目を使って彼がドリブルしようとするコースまで推測する。
トップスピードのあるカルロスはできるだけ広いスペースを使いた
いはずだ。ならば俺の左後ろにフォローするキャプテンがいるコー
スより、右に抜いて進もうとするに違いない。
たぶん彼の突破力を生かそうとする相手チームの約束事としてカ
ルロスの前方は出来るだけ空けるようにしているのだろう。その為
だろうか相手もこの右後ろのスペースには踏み込んでこない。なら
より確実にするため、俺が左を気にしている振りをして、右に隙を
作れば⋮⋮。
そこまで思考して僅かに重心を左に乗せるとカルロスが動いた。
彼の上体が左へ傾き足も左へと動く。
いや、これはフェイントで右へ抜きに来るはずだ。︱︱予想通り
左へはボールをまたいだだけで、右へアウトサイドでボールを押し
出すようなタッチでドリブルを始めた。
ビンゴ! 読み通りの動きに笑みが浮かぶ。カルロス、お前はす
でに罠にかかった猛獣なんだよ。
一歩・二歩・三歩ここだ!
そう俺が牙を剥いてボール奪取の為に差し出した右足は空を切っ
262
た。予想してタイミングを計っていた俺の足より数十センチは先を
ボールはすでに通過していたのだ。
え? なんで? 空振りした足から視線を上げると、すでにカル
ロスは俺の右脇を抜けかかっていた。おい、ちょっと待てよ。思わ
ず伸ばした手でさえユニフォームに届かせる事さえできずにこちら
も空振りした。
その二つの空振りによりバランスを崩して尻餅をついた俺の頭は
真っ白になっていた。
カルロスを止めるどころか彼の体に触れる事さえできなかったの
だ。
読みが外れたのならまだいい。次は動きを当てられるよう観察の
精度を高めるだけだ。
フェイントに引っかかったのならまだましだ。次はそのフェイン
トに釣られないよう注意すればいいのだから。
だが来るコースもタイミングまで判っていて、なおかつ触れもし
ないスピード差ってどういう事だよ。
尻を芝につけたまま呆然と眺める俺の目に映ったのは、カルロス
の凄まじい速度と技術を現すゴールシーンだった。フォローしよう
とするキャプテンをトップスピードの違いで振り切り、パスする素
振りも見せずDFラインまで一人で突破する。
その後キーパーとの一対一もキックフェイントで相手を先に動か
すと、芝の上に横たわったキーパーをあざ笑うかのようにかわして
悠然と無人のゴールへボールを軽く蹴り込むカルロスの姿に観客席
から爆発するような歓声と拍手が響く。
あいつは今度のゴールではほとんど誰にも接触していない。にも
関わらず、俺とキーパーにDFの合わせて三人もの敵が勝手バラン
スを崩して芝の上に倒れて腰を落していた。
審判の笛の音で我に返る。
263
あ、そうかまた点を取られたんだ。これで三対ゼロか。時計に目
をやってもまだ俺が入ってから四分しか過ぎていない、前半の十一
分だ。やけに平静にそれらの事実を理解した瞬間、今まで呆けてい
た頭にカルロスにあっさりと抜かれたショックが甦り、体中の毛穴
から冷や汗が吹き出す。
鳥の目を使ってコースを読んで罠を張り、経験からくる誘導によ
って俺の利き足である右でボールを取りにいける位置へとドリブル
させたのだ。
それらの罠がまるで無かったかのように簡単に突破されてしまっ
た。
体の中の深い所から軋む音が聞こえる。今までに一度だけ︱︱い
や前世で医者から二度とサッカーが出来ないと告げられた時にだけ
聞こえた音だ。誰でも一度で充分だと感じるだろう、不快で心が軋
みつつ折れていく不協和音が再び俺の中で鳴っている。
カルロスという﹁本物﹂の持っている暴力的なまでのスピードに
よって奪われたのはゴールだけではない。技術や経験に特殊能力な
ど俺が拠り所にしていた物と今までに積み上げてきた全て、それら
はプライドごと完全に叩き潰されてしまったのだ。
264
第三十九話 ピンチをチャンスと思いこもう
尻餅をついたままゴールに入ったボールを見つめ口を開けている
と、俺の肩をキャプテンに強めに叩かれた。
﹁何をぼけっとしているんだ。すぐに試合が再開されるぞ、気合を
入れなおせ!﹂
﹁え、あ、はい﹂
いつになくきついキャプテンの語調にも生返事をしてしまう。シ
ョックのせいかまだあまり頭が働いてくれていない。とりあえず起
き上がろうとすると、足がふらついてもう一度尻餅をついてしまっ
た。
しっかりしろと自分の足を叱咤する。交代したばかりでまだ疲労
が溜まっているはずもないのに、がくがくと笑っている膝でなんと
か立ち上がってはみたものの、これからどうすればいいのか判らな
い。
あれだけ簡単に抜かれてしまったんだ、俺がカルロスを止めるだ
なんて不可能に近いのではないだろうか。無謀な挑戦だったのでは
ないかと、心の奥からまたどうしようもなく不快に軋む音が問いか
けてくる。
次にカルロスがまたドリブルしてきたらどうするんだ? 止めら
れないのが判っていながら止めようと形だけでも努力している振り
でもするのか? それとも応援を頼むのか? いやキャプテンと二人がかりで止よ
うとするダブルチームでも、普通にやったら一回戦の相手がそのデ
ィフェンスをカルロスにまとめてかわされたように時間稼ぎにもな
265
らないかもしれない。ましてや中盤に空く穴については隠しようも
なくなる。だったら俺はどうすればいいんだ? 頭の中をネガティ
ブな思考がぐるぐると回っている。
はやてる
﹁速輝! 頑張りなさい!﹂
空転する思考が不意に鋭い声によって止められた。甲高いのだが
耳障りではない、むしろ慣れ親しんだ声である。
︱︱母さん来てたんだな。声の発生源を眺めると、スタンドの席
で胸の前に手を組んで心配気な顔をして俺だけを見つめている。
大会に来るとは聞いてなかったから、こっそりとクラブの他の親
達と示し合わせてやってきたのだろう。別に応援に来る必要はない
と一応は断ったのだけど、それでもわざわざ時間をかけてきてくれ
たのだ。
︱︱前世では親孝行は何一つできなかったんだよなぁ。だったら
今度は息子がこのままうずくまっているような格好悪い姿は見せら
れない。
何とか自慢できるようなプレイを見せないと、母さんも俺自身も
納得できない。って俺ってこんなにマザコンだったかなと苦笑する。
そこで苦笑いとはいえ自分がまだ笑えるだけの余裕があるのに気が
付いた。
スタンドの母さんの席から空に視線を移し、大きく息を吐く。な
んとかマイナスの精神的スパイラルからは脱出できたが、これから
どうすればいいのか指針がない。
そこに今度は矢張SCのベンチから野太い声が届いた。
﹁アシカ! あいつにはスピードじゃかなわない、お前の持ってい
る技術でドリブルする前に何とかしろ! カルロスに合わせるんじ
ゃなくて、自分のストロングポイントで勝負するんだ!﹂
266
随分とまあアバウトな指示だ。言うは易しで相手より優れている
分野で勝負しろというのは基本的だが、カルロス相手にもそう上手
くいくのだろうか。
俺が普通の小学生やカルロスなんかよりも有利な点は逆行したこ
とによる経験ぐらいだが、ここまで絶望を覚えた経験なんて⋮⋮あ
ったな。
俺が﹁二度とサッカーをプレイする事はできない﹂と宣告された
時に比べれば、この程度の困難なんか大した絶望とは思えない。
怪我をした時はサッカー選手に復帰するのは﹁不可能﹂だった。
今は俺がカルロスを止めるのは﹁非常に困難﹂でしかない。なんだ
よ随分とハードルが下がっているじゃないか。
それにここでカルロスを止められないと選手生命が断たれるのか
? そんな馬鹿な話はない。こらからもサッカーを続けられるなら
これもまた貴重な経験となる。
そうだ俺はいったい何を勘違いしていたのだろう。これがピンチ
などであるものか。
この小学三年という時点で日本一、いやサッカー選手というカテ
ゴリーならば世界でもトップクラスのスピードを持った選手と戦え
る機会なんてめったにないぞ。これほどの選手をこんなに早い段階
で経験できるなんて願ってもいないチャンスじゃないか! こんな
貴重なチャンスの最中に俺は何を立ち竦んでいるんだ?
状況は何一つ変化してはいない。三点差で負けていて、カルロス
を止める手段はまだ見つかっていないままである。だが、この場か
ら逃げ出したくなるようなピンチは、瞬きする間さえ惜しいチャン
スの時間へと俺の心の中では大きく変化を遂げていた。
自分の心の持ちようで世界は変えられる、か。
さっきまでは薄暗く曇っていたかと思ったが、今日の雲一つない
267
初夏のかんかん照りだ。どうも勝手に日差しまでビビっていた精神
状態が陰らせていたようだ。しかし、大丈夫。今の空には一点の曇
りさえ見つけられない。
センターサークルの向こう側にいるカルロスをじっと見つめる。
さっきまでは俺に襲いかかる巨大な猛獣のようなイメージだったが、
今はただちょっと背が高いだけの南国風の少年としか見えない。い
やむしろ俺に多大な経験を積ませてくれる貴重なスパーリングパー
トナーのようなものだ。存分に彼の実力を味あわせてもらい、そし
て必ず越えてやる。
切り替えるまでは、微妙にふらついて心許なかった足にしっかり
と力が入るようになった。カルロスから目を離すとキャプテンだけ
でなくチームメイト全員が︱︱あの山下先輩でさえもが、俺を気遣
うように眺めているのにようやく気が付いた。
どんだけショックを受けているんだよ、俺は視野の広さが自慢の
はずだろうが。思わず苦笑して頭をかくと、ほっとしたような空気
が流れる。いつもの仕草で俺が立ち直ったと安心してくれたらいい
んだが、笑顔だけでは説得力が弱いかな。
そうだ、確か前の試合も気合入れる為にこれをやったよな。
ぱん、と乾いた破裂音が響いた。その発生源は俺の両頬である。
思いきり両手で頬を張ることで気合を入れなおしたのだ。ただ、ち
ょっとだけ力を入れ過ぎたせいで若干涙目で頬は赤く紅葉が付いて
にしまったが、間違いなく喝は入った。
ピッチ上では聞くことのない音にチームメイト以外の周りからも
注目が集まる。それらは無視して︱︱あ、審判さんにだけはご苦労
様ですと会釈をしておいた︱︱心配をかけている人達に親指を立て、
未だひりつく頬をつり上げてしっかりした視線を投げかける。
268
一般の観客からすれば訳が分からないだろう、為す術もなく抜か
れて座り込んでいたMFが立ち上がるとサムズアップのポーズをと
ったのだ。だが判ってもらう必要もない。俺にとって理解してもら
い人々は、ピッチとベンチとスタンドと居る場所に関わらず親指を
立てるポーズを返してくれたのだから。
ここまで盛り上がってきたら、もう後はやるしかないよな。カル
ロスに対しても﹁かかってこい﹂とは上から目線過ぎたかもしれな
い。俺は何様のつもりだったんだろう。返ってここらで自惚れすぎ
ないように、本物の才能と出会えて鼻っ柱をへし折られて良かった
かもしれない。
俺はチャレンジャーなんだからこう言うべきだよな。試合再開の
ホイッスルと共にゆっくりと近づいてきたカルロスの正面に対峙す
ると、茶色い瞳を見上げて改めて宣言した。
﹁こちらからかかっていくぞ、カルロス﹂
と。
お前は確かに日本一速い小学生かもしれない。だが俺も日本一諦
めが悪い小学生なんだ。そう、死んでもサッカーを諦めなかったほ
どにな。
◇ ◇ ◇
オレは三点差のついた試合に少し興味を失っていた。このゲーム
もまた昨日のように前半だけで交代だろう。こんなに簡単に得点で
きるのに、わざわざオレを呼ぶ必要あったのかな?
ま、日本で同年代となんかプレイをしてもどうせ誰もオレを止め
られないんだから、ちょっとぐらいは気分転換に遊んでみるのもい
いけどね。
269
オレのマークについているチビを見下ろすが、こいつは本当に小
さいな。横に並ぶとオレの方が頭一つは上に出ているぞ。でも体は
小さいがガッツだけはあるみたいだな。
興味はないから相手のデータなんか知らないが、このチビの方が
レギュラーだったのだろうか。
交代する前のジョアンは︱︱ああ、ジョアンというのはブラジル
で﹁太郎﹂のようなありふれた名前のことで、オレが尊敬している
過去の名選手が、誰が対戦相手でも関係なくジョアン呼ばわりして
いたのを見習ったのだ。まあどうせ名前を覚えるまでもないオレに
抜かれるだけの存在なんだけれど、以前みたいに﹁やられ役﹂とか
﹁石ころ﹂と呼ぶよりはマシだろう︱︱オレがパスを受け取っただ
けでまた抜かれるのかと腰を引いて涙目になっていた。
だがこいつはあれだけ完璧に抜かれても﹁かかっていくぞカルロ
ス﹂と目をぎらつかせて睨みつけてきやがる。うん、日本よりもど
ちらかというとブラジルにいた頃の近所にいたハングリーなガキと
似た雰囲気のチビだ。
よし、喜びなチビ。このカルロス様がわざわざ遊んでやろうじゃ
ないか。
ボランチから来たパスをしっかりとトラップする。リーチが違う
ためにチビの足が届かない所でゆっくりボールの操作ができるな。
ボールを自分の得意な位置に置いて余裕を持って前を向く。
ふむ、さっきみたいにスピード勝負ならあっさり抜けてしまいそ
うで面白くないな。どうせならチビが監督に言われたようにテクニ
ックで勝負してやるよ。
チビの頭越しにFWへ視線と顎をしゃくるだけで合図をする。
右へ抜くと思わせて、左へドリブルってこれもフェイントで、顔
の向きと反対方向だったゴール前のFWへスルーパスだ。さんざん
オレのドリブルに手を焼いていた相手には、突然のパスにカットど
270
ころか反応さえできないだろう。少なくとも日本国内ではオレのノ
ールックパスは、パスミスとオレの意図を理解しなかったアホのF
Wのせいを除いて止められた事はない。
︱︱だが、このチビは今までのジョアンとはちょっと違っていた。
日本人で初めて俺のノールックパスを止めたのはこのチビだった
のだ。まるでオレが見ていない方向へパスを出すのが判っていたか
のように、そして後ろにいて死角のはずだったFWの走るコースま
で読み切ったような守備の仕方だった。
こーゆーオレのパスでさえカットされるようなサプライズが、た
まにあるからサッカーは楽しいんだよな。
健気に抵抗するチビとこの試合に、ほんの少しだけ興味が湧いて
きた。
確か﹁かかっていくぞ﹂とか可愛い事言っていたよなこいつ。
なら喜べ、オレのパスを止めたご褒美だ。
﹁遊んでやるよ、チビ﹂
271
第四十話 幻のシュートを撃ってみよう
俺の気合はマックスにまで高まったが、それだけではカルロスを
止めるのには充分ではない。あの絶対的なスピードのドリブルをど
うするか具体的な対策がまだまとまっていないのだ。
げ、だから今だけは攻めるのは勘弁してくれよ。と俺が抗議して
いるにも関わらず、またもカルロスへとパスが渡る。こいつが攻撃
の中心だからよくボールが回ってくるのは仕方ないが、対処法を考
える暇ぐらいは与えてくれてもいいだろうが。
くそ、あいかわらず懐が深いせいでボールをキープされたら奪い
ようがない。しかも、そのリーチ差をいかしてまたしても軽く前を
向かれやがる。
どうする? ここでキャプテンを呼ぶか? とっさに使った鳥の
目によるとキャプテンは俺が抜かれた場合のスペースを消す場所に
陣取っている。これを動かすと中盤にスペースが空きすぎるか。な
らば、少しでも時間を稼ごうと腰を落して僅かに後退する。その瞬
間にカルロスがドリブルにいく素振りをした。右か? それとも左
か? いやこれは︱︱パスだ。
カルロスが完全にノールックで出したパスを俺が足に引っかけて
カットをする。おそらく俺以外ではこのパスを読むのは不可能だっ
ただろう。しかし、鳥の目を持ち上空からの視点でピッチを捉えら
れる俺にとっては、カルロスの合図とFWのマークを外す動きがシ
ンクロして見えたのだ。ならばそのコースに割り込めばいいだけで
ある。
パスとは思えないほどのスピードにちょっとだけヒヤリとしたが、
これぐらいなら奴のドリブルの方がもっと速く感じたな。
272
とにかくようやくボールを奪ったのだから一刻も早くカウンター
を仕掛けねばならない。
カルロスがボールを持つと相手チームのほとんど全ての選手が前
がかりになる。これはディフェンスの選手においても言えるのだ。
それだけ彼への信頼感が高いのだろうが、今俺達が速攻をかけるに
は有利な条件である。
﹁アシカ、こっちだ!﹂
と久しぶりのカウンターチャンスの到来にボールを要求する攻撃
陣の中、俺がパスを出したのは一番ゴールへ近い場所にいるFWだ
った。俺からのロングボールはつながったが、ゴールへと振り向く
ことはできない。さすがにしっかりとしたDFだ、隙をついたはず
の速攻でもきちんと敵にシュートを撃たせないというディフェンス
の鉄則を守っている。
FWも自分では無理だと判断したのか、少し下げてトップ下の山
下先輩にボールを回すがこちらもマークが厳しい。さすがにJユー
スのDFにぴったりとつかれては先輩も自由に動けない。
まずいな。このままでは守備の組織が整う前にシュートするとい
う、カウンターの利点が成立しなくなってしまうぞ。
ならどうすればシュートにまで持っていけるのか? その方法の
一つはマークのついていない中盤の後ろから、リスクを承知でオー
バーラップしてくるべきだろう︱︱そう、今の俺みたいに。
これまでの試合展開では矢張SCのボランチは一度も上がってこ
なかったので虚を突かれたのか俺に対するマークが遅れる。そのタ
イムラグを見逃さず山下先輩がパスをくれた。
ナイスパスだ、やっぱりあんたはセンスあるぜ。先輩に聞かれた
273
ら﹁どこまで上から目線なんだ﹂と怒られそうな事を思いながらノ
ートラップでシュート体勢に入る。このぐらいの距離ならば俺のパ
ワーでも射程圏内だぜ︱︱前の試合の失敗を繰り返さないように俯
いた格好で足を振り上げると、肩へ強い衝撃を受けて俺は横転して
しまった。
ちょうど片足を振り上げた瞬間だった事と、ぶつかって来た相手
のスピードとパワーが桁外れだった為に見た目は随分と派手に跳ね
飛ばされたようだった。即座に審判のファールだと試合を止める笛
が響く。
そのショルダーチャージをしてきた相手はカルロスだったのだが、
ちょっと俺には信じられなかった。
え? シュートモーションに入るまでもう少し離れた場所に居た
はずだよね。瞬間移動でもしてきたのかこいつは。
尻餅をついたままカルロスの規格外のスピードにつくづく感心し
ていると、その彼から手を差し伸べられた。
﹁すまんな、怪我はないか?﹂
﹁ええ、大丈夫です。これから剣ヶ峰相手に逆転できるほど元気で
す﹂
ぐいと力強く起こされた俺に﹁そいつは楽しみだな﹂と不敵に笑
うカルロスは小学生とは思えないほど大人びていた。まあ実際にほ
とんどダメージはない。受け身もきちんと取ったし、元々は片足の
不安定な状態でぶつかられた上に俺が軽量だから派手に転がっただ
けだ。
おかげでフリーキックはもらえたが、もし飛ばされ方がもう少し
控えめだったり、わざとらしかったりしたらファールを取ってもら
えなかったかもしれないぐらいの、ほとんど反則とも言いづらいぐ
らいのチャージだった。でも審判もカルロスにカードは出さなかっ
274
たし、今回の判定は審判の天秤が俺達にラッキーな方へ傾いたと思
っておこう。
﹁それより、俺にこんな場所でフリーキックを撃たせるなんて失敗
しましたね﹂
﹁ほう?﹂
片方の眉を器用に上げてカルロスが探るような視線を投げかける。
そりゃそうだ、フリーキックは誰が蹴るのか判らないのがメリット
の一つなのに﹁俺が蹴る﹂だなんて普通は言わない。何の魂胆があ
るか迷いをうかがわせるカルロスにもう一つ楔を打ち込んでおこう。
﹁あのキーパーに伝えておいてくださいよ。例え代表候補のキーパ
ーだとしても俺のキックは絶対にキャッチできないって﹂
しばらく俺を見下ろしていたが軽く頷くと﹁伝えておこう﹂とカ
ルロスは立ち去った。
俺とカルロスが話しているのを遠巻きにしていたチームメイトに
笑顔で親指を立てる。その仕草で怪我はないと判りほっとした様子
の皆に、ああ心配されてるんだとちょっと安心するな。
ではその皆に恩返しする為にも、スタンドで応援している母さん
にここで格好つける為にも、新ボールと練習場を時間外でも使わせ
てくれた監督の為にもここで一点取り返そうか。 そしてキーパーさんよ、運が無かったな。まだあんたは知らない
だろうが、これから一世を風靡する事になる最先端技術を真っ先に
味わってみるがいい。
慎重にボールをセットすると、ゴールとキーパーの位置を確認す
る。フリーキックをもらったのがほぼ正面だったからか、相手の配
置も比較的オーソドックスな物だった。
275
ゴールの真ん中にキーパーがいて、壁は左右のコースを潰すよう
に立っていた。壁役の選手の背は皆高く、このユースでは俺ぐらい
の身長ではレギュラー入りできなかったかもなと、相手にとっては
理不尽な怒りの炎を燃やしてパワーに変換する。その壁も正面だけ
はキーパーの視界を塞がないように空いていた。よし、これだけ判
れば充分だ。
セットしたボールの正面から走り込み、親指の付け根の少し上を
ボールの中心に当てる。ここで重要なのは足首は固定したままで蹴
ると言うよりは押し込むイメージで足を振り抜く事だ。
鳥の目に頼りきり、ゴールを見ずにシュートモーションでは上半
身は伏せる。目標はゴールの隅とかではなくゴールど真ん中のキー
パーの体を狙っているのだから、これで枠を外すことも上に吹かす
ことも無いはずだ。
思い切りキックした蹴り足の膝が鼻に当たりそうになった。それ
ほど窮屈そうに折り畳まれていたと後でチームメイトに言われたフ
ォームだ。
まあ格好など今更どうでもいい。それよりも、ゴールに入りやが
れ!
◇ ◇ ◇
アシカって子はゴールの真正面からのフリーキックを力強く踏み
込むと、そのまままっすぐゴールへ向かってシュートをしてきた。
あまりにも素直すぎるシュートに拍子抜けしちゃうよ。カルロス
からの伝言や一回戦は違う子がフリーキックを蹴っていたりしたか
ら、どんなトリックプレイをしてくるかと期待していたんだけどね。
何の変哲もないフリーキックでゴールを奪えると考えているなら、
代表候補にもなっているゴールキーパーの僕を馬鹿にしているとし
か思えないな。
276
僕の指示でゴール前の壁はボールの確認の為に隙間を空けておい
たんだけど、そのスペースを通ってほぼ正面の顔当たりにボールが
飛んでくる。はっきり言って一番キャッチしやすいコースだよね。
何一つブラインドとなる物もないから、僅かにも曲りさえしない
ボールは軌跡どころか模様まではっきりと確認できるよ。﹁キャッ
チできない﹂だって? こんなボールしか蹴れないでよく大言でき
るもんだ。お望み通りしっかりとキャッチしてあげるよ!
取った。そう確信して差し出した手の内をボールはすり抜けた。
いや、ボールが揺れたとかブレたと表現した方が正しいのかな。と
にかく僕の手を避けるようにしてボールはゴールへと突き刺さっち
ゃったんだ。
何なのあれは? 今までに僕が味わったことのないシュートだぞ。
ただの鋭いフリーキックなんか今までに何本も止めている。練習相
手がカルロスなんだもん、僕はパワーやスピードだけなら大人のキ
ックにも引けをとらないシュートでさえ慣れているんだ。だけど、
今のはこれまでに経験した物とは絶対に違った種類のシュートだ。
ぽかんと口を開けて僕の手をすり抜けたボールを眺めていると、
そのボールを拾いにきたアシカって意地の悪い子が僕に対して勝ち
誇ったように唇をつりあげる。
﹁だからキャッチできないって忠告したでしょう。今のブレ玉を止
められないなんて、俺よりも技術的に十年以上遅れていますよ﹂
︱︱十年以上遅れているだって? 君だって三年生ならまだ十歳
にもなってないはずだよね! 君が生まれてくる前よりも技術が遅
れているって、どーゆー意味? さっぱり訳が判らない挑発してく
る、このアシカって子に対して凄く腹が立った。
別にゴールされたからって訳じゃないけど、この子大っ嫌いだ! 277
278
第四十一話 簡単に盗まないでください
小脇に抱えたボールをセンターサークルにセットし終わると、皆
が得点を祝福し頭を撫でてきたり背中を叩いてきたりしてきた。叩
かれるのも慣れたが、段々威力が上がってくるような気がするのが
少し怖い。このままの上昇比率でいくと、もしも今大会の決勝戦な
んかでゴールしたらヘビー級ボクサーのKOパンチ並の威力での祝
福の嵐になりそうだ。そうなるともう祝福とかではなくボクシング
のラッシュになるな、少しは首を鍛えておこうかと場違いな想像が
浮かんでしまう。
ま、そんな騒ぎを起こせるぐらい士気が回復したのはありがたい
な。ついさっきまでは交代した俺がカルロスにふがいなく抜かれた
せいもあって、チーム全体をどことなく怯えていたような雰囲気が
覆っていたのだ。だが今のメンバーの顔付きはちゃんと﹁戦える﹂
表情に変化している。
これならば、秘密兵器としていたブレ玉フリーキックを公開した
効果があったな。
大会用の新ボールは子供用のせいか軽くて反発力がある未来のボ
ールに近いと判ってから、クラブの練習時間の後でずっと試してき
たんだ。ブレ玉はこれから先の歴史で流行する技術だから、まだJ
ユースでも馴染みがないだろうと判断していたのがそれは正しかっ
たらしい。
さらにゴールの可能性を高めるために、わざと﹁俺が撃つ﹂とキ
ッカーを教えた上で﹁キャッチしてみろ、代表候補﹂と挑発し、キ
ーパーの取りやすいコースへと蹴ったのだ。腕に覚えのあるキーパ
ーなら誰だってキャッチしてやろうと行動するだろう。
279
ブレ玉は不安定に変化する為に、前世ではほとんど世界一流のキ
ーパーでもパンチングで大きく弾くのが定石となっていた。つまり、
キャッチするより弾く方がはるかに簡単なのだ。
だからもし初見でも、まだ未完成の俺のブレ玉を弾くだけならば
可能かもしれない。その為に万が一の保険として、相手のキーパー
がキャッチではなく弾く事を選択しないように思考を誘導したのだ。
ゴールした後も挑発したから、あの少し子供っぽいキーパーなら
ば似たような状況からのキックの時に、俺への反発心からまた無理
してキャッチしようとする事さえも期待できる。
その秘密兵器を使ってでも前半の内に一点を返しておく戦略が間
違っていたとは思えない。俺にはあのままだったら志気が保つとは
考えられなかったのだ。ジリ貧のまま前半終了までは耐えるという
監督の作戦がなし崩しにばらばらになって、後半に入ってもリカバ
リーできないほどの点差がついてしまっていただろう。
だから俺は間違っていない。よし、自己正当化終了。
ただ一つだけ誤算があったとするならば、カルロスが目を輝かせ
てさっきよりずっと楽しそうに笑っている事だけである。
あ、目が合ったと気が付いたのか口パクで何か伝えようとしてい
るな。ええと﹃なかなかやるな﹄か? 後は﹃本気にさせたね﹄っ
て⋮⋮。
前半から反撃するのは、間違っていたかもしれない。カルロスが
微笑みを浮かべてウインクしただけで、俺は冷や汗を流してつい先
ほどとは真逆の事を考えていた。
◇ ◇ ◇
なかなかやるじゃないかあのジョアン︱︱いやチビ君は。
280
オレは自分のノールックパスが止められてからの失点なのに、後
悔よりも敵を称賛する気持ちの方が強かった。
日本国内では誰も止められた事がなかったのに、まさか自分より
も年下でしかもこんなに小さい奴にパスカットされるなんてな。慢
心していたつもりはなかったが、余裕を持ち過ぎたのかもしれない。
ま、所詮オレにとってはこの大会に出場する意義なんてあまりな
い。元々上のカテゴリーでプレイしていたのに、急に呼び出されて
迷惑しているぐらいだ。
このぐらいのレベルならば自分のスピードでどうとでもなるけれ
ど、沢山点を取ったからと言ってオレの評価がこれ以上アップする
わけでもないしなぁ。
だから、それほどやる気にもならず毎試合怪我をしないように前
半だけで流す予定だったんだが⋮⋮。
相手にはなにも期待してなかったんだけど、面白い小僧がいたも
んだな。こいつ今のフリーキックなんてオレでさえ見たことが無い
シュートだったぞ。
あれは確か無回転シュートなのか? 相当なパワーがなければ撃
てないシュートと聞いていたが、あの小さな体でどうやって撃った
んだろう。オレにキーパーへ﹁絶対キャッチできない﹂との伝言さ
せるぐらいだからゴールするという自信は相当あったんだろうけれ
ど。でも、注目していたおかげであのキックのモーションは記憶し
た、うん今度試してみようか。 面白いチビ君がいるおかげで、消化試合とおもっていたがやる気
が出てきたな。上唇をぺろりと舐めると、向こうにいるチビ君にウ
インクした。
◇ ◇ ◇
281
試合が再開されたが、今度の立ち上がりは意外に静かな物だった。
一点返された事で俺達矢張SCがやられるだけの獲物ではないと慎
重になったのかもしれない。
それにしてはマークしてるカルロスが全く危機感を持ってないよ
うに、にやにやしているのが気に食わないが。
それはそうと、やはり俺はカルロスをマークするのは今の作戦の
ままでは無理だとキャプテンに変更を頼んでいた。別に臆病風に吹
かれた訳ではない。それが必要だと客観的に判断したからである。
今までは俺やカルロスに対してまず当たり、それをかわそうとし
て動いた瞬間にセカンドアタックとしてキャプテンがボールを奪う
作戦だった。一人目が囮と拘束役になり、二人目でしとめる対ドリ
ブラーの基本戦術だがこれは不発に終わった。
前を向かれてスピード勝負になってしまうと、多少の有利さがあ
っても日本最速のカルロスにはどうあがいても勝てなかったのだ。
では彼がドリブルに入る前に止めるしかないのだが、体格の差でそ
れも難しい。
そこで俺はキャプテンに前への進路を塞いでもらって、俺がカル
ロスへ渡るパスを遮断する事にしたのだ。普通はダブルチームだと
マークする人物の前に二人並ぶ物だが、桁外れのスピードを持つカ
ルロス相手にその手は通じない。実際一回戦の相手もカルロスを二
人掛かりで止めようと前に並んでいたのだが、ほとんど一人を抜く
手間と変わらずにぐるりと回られるだけでかわされて、人数を増や
したメリットが感じられなかった。
だから俺とキャプテンは前後で挟む形にしたのだ。するとこれが
想像以上にはまった。ボールを持たない状態のカルロスに密着した
キャプテンが進路を塞いでいるために、それよりも前方へのパスコ
282
ースが制限され。つまりスルーパスが出しにくくなったのだ。そし
て前のスペースへのパスができないならば足下へ出すしかないが、
そこにはパスカットの得意な俺が﹁いらっしゃいませ﹂と罠を張っ
て待っているという具合だ。
さすがにJユースだけに何度も俺にカットされる愚は繰り返さな
いが、カルロスへのパスも本数が減ってドリブルをする機会そのも
のが少なくなった。
何遍かキャプテンを持ち前のスピードで振りきってはいるのだが、
その都度鳥の目を使った俺とキャプテンの指示によって余ったDF
を動かしてカルロスへのパスコースを切っていく。俺達のカルロス
への対策は﹁カルロスにボールを持たせない﹂に尽きる。 止めら
れないドリブルならば最初からさせなければいいという発想だな。
その作戦が今は上手くいっている、このまま最後までカルロスが大
人しくしてくれればいいのだが⋮⋮。いけない、今のはフラグか?
俺が脳内で無難に終わってくれと思いを抱いた時、カルロスの動
きが変化した。
今まではボールが送られるまではトップ下の定位置で棒立ちにな
って待っていたカルロスがポジションを下げたのだ。
これについていくかどうか一瞬迷い、キャプテンと顔を見合わせ
る。
カルロスが下がった事によるメリットは、まずゴールから遠くな
った為に危険性が若干薄れた点だ。逆にデメリットは後ろに下がっ
た事によりボランチとの距離が近くなってパスカットしにくくなる
点だ。どちらも一長一短あるが、これまで﹁カルロスにボールを持
たせない﹂のが基本方針だった俺達には、彼にパスが渡るだけで大
問題である。
その迷いを見逃してくれるほど相手も甘くはない。俺達がマーク
283
する前にカルロスへとボールを渡されていた。
まずい。
体中にドリブルで抜かれた時の悪寒が蘇る。鳥肌を立てた俺を気
にすることなく、カルロスがまたドリブルを開始していた。中盤の
底からのスタートだから彼はまだセンターラインも超えていない。
それなのにカルロスがボールを持っているというだけで、うちのチ
ームの全員がコーナーキックやフリーキックレベルの失点の恐怖を
感じている。
どうする? まだ中盤にいる内に数人でプレスをかけにいくか?
ノーだ。連携の確認も取っていないこちらからバラバラに動いて、
結果としてピッチの中央に広大なスペースを与える事になっては敵
に塩を送るのに等しい。
では待ち構えるしか道はない。つい追いかけようとしたキャプテ
ンに﹁後ろで守備ブロックを組みましょう﹂と制止する。
慌てて味方にもっとラインを下げるよう指示して自分達もペナル
ティエリア付近まで下がると、もうすぐそこにカルロスがいやがる。
ドリブルしているのに俺達より速く移動してる事実に気が滅入るな。
だが、ここまでDFラインを下げれば抜くスペースは無い。これ
以上縦にドリブルすれば、敵味方の密度が高すぎてボールを持って
いなくてもぶつからずに走るのでさえ無理だ。ここからはもうシュ
ートを撃つかゴール前にクロスを上げるかしかない。
︱︱そう思い、シュートに備えていた俺の裏をかくようにカルロ
スは人混みの中に突進する。嘘だろ、いくらなんでもそこは突破で
きないだろう! 戦慄する俺の耳にホイッスルの音が聞こえる。
あ、やっぱりあいつでも無理だったのか。
ちょっとほっとしたが、倒れているカルロスの顔に浮かんでいる
表情に再び肌が粟立つ。こいつ今のドリブルは狙って反則貰いにい
284
ったんだ。それが一番手っとり早くフリーキックを貰えると考えて。
邪推でない証拠は身軽に立ち上がったカルロスが、壁へ並びかけ
た俺にウインクを一つくれたからだ。
審判の示すところにボールをセットしたカルロスが、再び壁に整
列した俺をちらりと眺めると力強い助走をする。
これは︱︱彼のフリーキックのキックモーションを観察した俺は
叫ぶ。
﹁キーパー、パンチングしろ!﹂
その声の直後にカルロスのシュートが放たれる。今までの彼のフ
リーキックとは異なり、壁の上からゴールの隅へと巻いてくるよう
なボールではない。むしろ直線的に向かっていくボールである。︱
︱まるで俺がさっき撃ったフリーキックのように。
俺の声に反応できたのか、キーパーが目の前にきたシュートを両
手で大きく弾こうと突き出した。だが、そのボールの勢いとコース
ならセンターラインまで跳ね返るのではとの想像を裏切り、キーパ
ーの拳にぶつかった後で前ではなく、斜め後ろへと跳ねたのだ。幸
いゴールではなく枠の外に飛び出したので、得点ではなくコーナー
キックであったが。しかし、それでもピンチはまだ続くのに変わり
はない。
いやそれよりも、キーパーの拳がボールの芯を捉え損ねたって事
は、今のカルロスのキックは︱︱。
﹁俺のブレ玉を見ただけでコピーしやがったのか、この化け物が﹂
今のフリーキックの感触を確かめる為か、嬉しそうな笑顔で何度
も足の振りを繰り返している褐色の怪物の潜在能力に改めて戦慄し
た。
285
286
第四十二話 名前を知りたければ本人から聞こう
うちのキーパーが赤ん坊を守るような姿勢でしっかりとボールを
抱きしめる事により、カルロスのフリーキックから続いていた一連
のピンチを脱出して一息をつく。
あの後のコーナーキックは、矢張SCのほとんど全員がペナルテ
ィエリア付近まで引き籠るという非常手段で乗り切ったのだ。幸い
なことに剣ヶ峰は無理に点を取ろうとはせずに、四・五・一の守備
重視のフォーメーションを崩そうとしなかったので、数で勝る俺達
が守りきる事になんとか成功した。
それにしてもまだ相手は俺達を舐めているのか、全力でプレイを
している感じがしない。将来の事まで考えて怪我しないように、無
理をしないようにと自重しているのかもしれないが、そう考えると
馬鹿にされているようでふつふつと腹の底が煮えたぎるな。
その熱を冷まさないように意識しながら思考を攻撃に切り替える。
いや、そんな反抗心でも集めていかないと戦う為の心の圧力が下が
っていくんだよ⋮⋮カルロスのせいで。
こいつの才能を感じる度に﹁不公平過ぎるだろ﹂と愚痴がこぼれ
てしまう。やり直しというインチキをした俺でさえこうなんだから、
今までのこいつの対戦相手が心を折られても仕方がない。そんな奴
らの為にも生まれつきの才能だけではなく、技術や経験とチーム全
員の力を集めれば天才にも勝てる事を証明しなければならないよな。
正直俺達が勝つことがカルロスに挫折を味あわされた奴らの為に
なるのか全く不明だが、そう思い込むことで力に変える。
あのブレ玉にしても俺はキックする時に足首を固定して、ボール
287
にスピンがかからないような工夫を色々としていた。だがカルロス
はそれを見よう見まねでコピーしたのだ。
もちろん俺よりも無回転シュートとしての完成度は低く若干スピ
ンがかかってしまってはいるのだが、あいつのパワーがその分ボー
ルの速度を上げて、空気抵抗を増やす事でボールを揺らすのに成功
しているのだ。つまりは力技である。だが結果として俺のブレ玉と
似たような効果が得られるのならば、これから先のカルロスのフリ
ーキックが一層脅威になったことに違いはない。
キーパーがボールをDFにパスし、今度は俺達が攻める番なのだ
がどうしようか少し悩む。俺のフリーキックにも警戒しているのか、
直接ゴールを狙える位置ではファールを取られかねないプレイはし
てこなくなったのだ。その分マークが甘くはなったとも言えるが、
Jユースの選手に慎重なプレイをされてはこちらも打つ手が少なく
なる。
ましてやカルロスを中心とした高速カウンターを考えるととても
じゃないがDFラインを上げろとは指示できない。
だから、少ない人数で得点を取れるセットプレイ︱︱でき得れば
俺のブレ玉を生かせるフリーキックが最高なのだが、それを封じら
れた状態だ。仕方ない、ここは無理せず一旦サイドから崩すか。
とは言えサイドMFはもはやDFラインの一角として吸収されて
いるので使いづらい。ボールを貰いに下がってきた山下先輩に、サ
イドに流れて貰おうと指示しようとした瞬間、猛然と右のサイドM
Fが駆け上がっていくのを発見した。
は、そうだよな。三年坊主が攻撃の組立に苦労しているのを、じ
っと引いて見ているだけの先輩達じゃなかったよな。ここで監督の
作戦に反して上がるってのは、例え失敗してもそのリスクは自分で
背負うという事だ。
288
つまりサイドからクロスを上げるなり、もしボールを取られるな
りして攻撃の役目を終えたら、敵よりも早く即座に全力疾走でDF
の最終ラインへ戻らねばならない事を意味する。口で言うのは簡単
だが、実際にやるのは相当きつい。ましてやカルロスがいる高速カ
ウンターチーム相手に上がる決断は、勇気があるのではなくむしろ
暴挙に近い。
でもそこまで覚悟したのなら、使うしかないよな。
さっそく上がった右サイドへとパスを送る。この試合初の矢張S
Cのサイドアタックに、相手も一瞬だけ陣形に揺らぎを生じさせた。
でも元々守備の枚数は揃っている、せいぜいが中央へしぼっていた
ディフェンスを広げる程度の対応にかかる隙でしかない。
俺も攻撃に加わるべく前線にダッシュするが、ここで異変に気が
ついた。ついてくるのだ、カルロスが。
おかしい。こいつは守備をほとんどしない、するにしてもDFの
パスコースを制限するプレスをかけるぐらいだったはずだ。なのに
なぜ俺にくっついて相手の陣地まで戻っていくのだろう。
もしかしてこのタイミングでカルロスが守備の勤労意欲に目覚め
たなんて理不尽な展開だけは止めてくれよ。
そんな俺の願いが聞こえているように隣でカルロスがにやにやし
ている。俺にとっては猛ダッシュだが、この化け物にとてはランニ
ングと変わらないようだな。
だがカルロスにマークされているデメリットだけを気にしても仕
方がない。むしろこいつを俺の所に引き付けていると考えれば悪い
取引ではないのだ。これから俺が敵のゴール前まで上がれば、相手
のカウンターも前線に軸となる人物のいない切れ味の鈍いものにな
る。ならばここで俺が攻め上がる事でカルロスを敵陣深くに押し込
む!
攻める裏側にあるリスクを覚悟しながらも、足を速めてさらに敵
289
のゴール前までカルロスを釣り上げる。
うちのサイドMFは前を敵に切られると、俺へ返そうかと迷って
いたようだ。しかし、俺がフォローに行く素振りもなく敵ゴールへ
一直線に向かう態度に、自分で勝負するしかないと判断したらしい。
もともとサイドアタッカーはドリブル勝負が得意な奴がやると相
場は決まっている。うちの先輩ももちろんそうなのだ。だから、行
けぇ! 先輩。
一対一のサイド対決を制したのは相手のDFだった。
負けるなよー!
内心で絶叫しながらも俺が自陣に戻ろうとはしなかったのは、サ
イドMFがスライディングでボールを奪われたのだが、その攻防で
こぼれたボールを最終的に確保したのはうちのキャプテンだったか
らだ。
さすがにキャプテンだ、頼りになるぜ。矢張SCのフォローの神
様である。その彼がバックアップしていると確認したからこそ俺は
サイドでボールを受けようとせずに中央へ走ったのだ。
キャプテンは素早くルーズボールを、そのままサイドライン沿い
の前方へのふわりとしたパスへと変えた。そこにボールを取られた
先輩が汚名返上と慌てて走り込む。スライディングした敵DFはま
だ追いかける体勢にはない。その為に結果的に深くサイドをえぐる
事になったが、さてあの先輩はどこにクロスを上げるのだろう。
俺は今ゴールの正面にいるが、もはやDFラインに吸収されてし
まっている。ここで大柄なDF達とクロスボールに対してヘディン
グでの高さ比べをしても勝ち目はない。一旦バックステップして体
勢と走り込むべきスペースを探るが、ちい、ここまでカルロスの奴
がくっついてきやがった。
290
ならば! 思いきりDFの間に突っ込みキーパーの目の前にまで
立つ。どこか幼い顔つきのキーパーが、じろりと険悪な視線を投げ
かけるがここは無視する。本来ならばここまでキーパーと接近する
ことはほぼない。せいぜいがコーナーキックの時ぐらいだろうか。
では、なぜこんな場面が少ないのか? 答えは簡単である、オフ
サイドの反則になるからだ。でも今の俺がここでシュートをしたと
しても反則ではない。なぜならば俺の隣に敵の一員のカルロスがい
るからだ。
チームに馴染んでいないからなのか、それとも判っていてやって
いるのか、彼はチームのディフェンスの約束ごとを平気で破ってい
るようだ。
とにかく俺みたいにすぐゴールキーパーの前にいても、オフサイ
ドではないと判断したうちのFW二人がペナルティエリアに侵入す
る。
当然だが彼らについていたDFも慌ててゴール前に殺到し、キー
パーの前のスペースが一気にセットプレイでもなければあり得ない
人口密度となった。
その間にサイドはゴールラインぎりぎり、コーナーキックとほぼ
変わらない位置にまで侵略している。ここに至ってはオフサイドな
ど無い為にさらにゴール前に人が集まってくる。
こんな密集地にいられるかと、すれ違うようにしてペナルティエ
リアを出る。そして、そこですぐに手を上げてクロスを呼び込んだ。
DFが全員引っ張られて、シュートを撃つのに絶好のこの位置が
ぽっかりと空いているからだ。サイドもそれを感じたのか、即座に
俺に向けた低く速いクロスボールを蹴った。
ヘディングではなく、ボレーで撃てる膝ぐらいの高さだ。これな
らば軽くミートするだけで枠を外さなければゴールできる。
291
そう確信した俺は迫るボールだけに注目し、ゴールとキーパーの
位置は鳥の目で確認するだけにした。そして万全の態勢でボレーの
準備に入った時、俺とクロスの間に割り込んでくる影があった。
そう、お察しの通りカルロスだ。こいつこんなに大きい体をして
いるのに、もうあのゴール前の混雑を抜け出して追いついてきたの
かよ。その恵まれた体躯をいかして、ぐいっと俺を押し退ける。さ
っきファールを取られたせいか幾分は柔らかい当たりだが、それで
も俺が陣取っていたシュートするにはベストのポジションは占有さ
れた。
もう場所を変えようにも時間がない、クロスボールがすぐそこま
で来ているんだから。だったらいっそ、もう守備に戻る準備をした
方が︱︱。そこまで考えてカルロスのカウンターに備えようとして
いた俺は予想外の人物を発見した。
山下先輩がまるでミサイルのように俺達とクロスボールの軌道の
間に飛び込んできたのだ。
後方で俺の代わりにボランチの位置に下がったかと思っていたが、
どうやら決定的な仕事をするチャンスを窺っていたらしい。俺に合
わせたクロスが来ると判断した先輩は、それを自分のゴールに変え
るべくカットして自分でシュートしようともくろんだのだ。そうと
しか考えられないエゴイズムに満ちた行動だが、それが俺とカルロ
スの意表を突いたのは確かだ。
山下先輩は低空クロスに足で合わせることは出来ず、頭から突っ
込むダイビングヘッドになった。
低いボールだった為に上から叩きつけるヘッドになった事に加え、
ゴール前の密集がキーパーへのブラインドとなったのか、相手のキ
ーパーは反応さえ出来ずにボールはゴールネットを揺らす。
かなりの勢いで飛び込んだ山下先輩は地面と衝突の際﹁ぐおっ﹂
292
とうめき声を上げたようだったが、ゴールしたと判った瞬間にピョ
コンと跳ねるように立ち上がると﹁おおー!﹂と天に人差し指を突
き立てて吠えた。
そして真っ先に俺とポジション争いの押し合いをしていたカルロ
スに向かって指を突き付けた。
﹁うちのルーキーばかり気にしてんじゃねーぞ。俺がこのチームの
得点王でエースの山下だ﹂
と宣言すると胸を張って、カルロスを指差ししていた手をどうだ
と腕組みにする。俺と同様﹁何だこいつは?﹂と固まっていたカル
ロスがいきなり笑い出した。
﹁くっくっく、そ、そうか山下だな。覚えたぞ。それとチビお前は
何て名前だ?﹂
﹁⋮⋮他人に名前を聞く場合はまず自分が名乗るのが礼儀でしょう﹂
﹁え、オレの事知らないの?﹂
冗談ではなく本気で皆が自分の事を知っていて当然だと思ってい
るらしい。まあ、この小学生サッカー関係者ばかりのここでは、カ
ルロスを知らない奴はほぼいないだろうが。これがすでに有名にな
った奴の思考という物か。少しでもこっちのペースに巻き込もうと
﹁名を名乗れ!﹂と言ったが、返ってカルロスは喜んでいるようだ
った。
﹁まあいいか、オレはカルロスだ、でお前は?﹂
﹁俺の名前は⋮⋮﹂
﹁こいつはアシカだ﹂
俺が答えようとしたのにかぶせるように、なぜか山下先輩が先に
293
口を切る。いや、しかもそれあだ名だし!
﹁いや、それ⋮⋮﹂
﹁山下にアシカだな、よし覚えたぞ。後半も遊ぼうぜ﹂
無駄に格好良い台詞を残してカルロスが背を向けると、審判の前
半終了を告げるホイッスルが鳴った。
﹁俺の名前、アシカじゃなくて足利なんだけど⋮⋮﹂
たぶん聞こえていないんだろうなぁ。
294
第四十三話 監督についてぼやいてみよう
ハーフタイムで帰ってきた俺達を迎えたのは微妙な雰囲気だった。
前半の頭からの惨状を考えれば今の一点差というのは喜ぶべきだ。
だが明らかに今の試合展開は﹁前半は守備一辺倒﹂という監督のゲ
ームプランを崩壊させている。気が短い監督であれば﹁お前等、俺
を舐めているのか!﹂と怒鳴っても不思議ではない場面だからだ。
もっともそんな物はうちの下尾監督が出迎えに立ち上がって手を
叩いた後、
﹁お前ら、俺の指示に従わないで何て試合をやってるんだ。全くよ
くやったぞー﹂
と褒めているんだか怒っているんだか不明な言葉と共に、戻って
きたイレブンの頭をくしゃくしゃに撫でてくれたので固い空気はほ
ぐれたのだったが。
下尾監督ももちろん完璧な監督なんかじゃないけれど、小学生で
あるクラブの全員を萎縮させずに、のびのびとプレイさせる事が出
来るだけでも育成年代の指導者としてふさわしいな。
﹁まず、前半の作戦だけどな。あれが失敗したのは俺のせいだ、す
まん。まさかカルロスって奴があそこまでの選手だとは想定してい
なかった。特に俺の作戦ミスのおかげで無茶な役目をさせた上に、
早めの交代までさせてすまなかったな﹂
と監督は続けて、前半で俺と交代したボランチの先輩に頭を下げ
る。
その先輩は慌てたように手をぶんぶんと振って﹁いや、別に俺は
295
気にしてないし、というか監督が謝るような事じゃないよ﹂と顔を
赤くして﹁全然気にしてません﹂とアピールする。
ふむ、空元気かもしれないが、少しは精神的に回復したようだ。
あのカルロスに遊ばれた後は、本気でトラウマになりかねないほど
落ち込んでたみたいだったからいい傾向ではあるな。
﹁ま、前半の俺の失策はともかく後半の作戦だが、試合前から言っ
ていた通りだ。カルロスが下がったなら両サイドのMFもガンガン
攻め上がっていいぞー﹂
﹁あ、それなんですが﹂
と俺が手を上げて監督の作戦に異を唱える。﹁なんだアシカ?﹂
と訝しげな監督には気の毒な情報かもしれないが、これは耳に入れ
ておかないとまずいよな。
﹁カルロスが後半も遊ぼうって言ってましたから、たぶん後半もあ
いつは出てくるんじゃないかと﹂
﹁⋮⋮﹂
下尾監督のみならず、スタメン・ベンチ組を問わずに沈黙がこの
場を支配した。そんなにカルロスが怖いかお前ら、いや俺も怖いん
だけどね。
﹁確かなのか?﹂
﹁間違いないかと﹂
﹁俺も聞いてたぜ、アシカの言った通りだ﹂
俺と山下先輩の確認に監督が舌打ちする。俺達だけでなく、相手
側も想定外のアクションを取ることで試合前からの彼のゲームプラ
ンが完全に崩壊してしまった。
296
ご苦労だろうが、監督からしたら﹁お前が言うな﹂と怒るかもし
れない。俺が前半中に反撃に出たのが誤算の一歩目だったんだから
な。
﹁そ、そうか、あまり知りたくもなかったが了承した。じゃあ、作
戦変更だな。サイドは上がるのは控えめにしろ。そのぶん中央にD
Fの人数を割いてディフェンスを厚くしなければどうしようもない
からな﹂
額に手を当てて悩みながら後半の作戦を絞り出していた監督だが、
俺を見て小首を傾げた。
﹁それで、アシカとキャプテンは二人がかりならカルロスを止めら
れるのか?﹂
﹁止めてみせます﹂
﹁いや、止められるのかどうかと﹂
﹁止めてみせますって﹂
﹁⋮⋮そうか﹂
何かを諦めた表情だが監督が納得してくれた。
﹁ディフェンスは枚数を余らせているんだから、アシカやキャプテ
ンから合図があったらいつでもフォローできるように備えておくん
だぞー﹂
﹁はい!﹂
元気のいい返事に監督も顔色を戻して頷く。
﹁それで攻撃の方だが、どうしても手薄になるな。残り五分を切っ
ても負けていたらパワープレイで全員で総攻撃するしかないが、そ
297
れまではどうしても前半最後の攻撃みたいなカウンター頼りになる
か⋮⋮﹂
ちらりと俺に視線を投げかけて
﹁フリーキックでゴールするのが理想的なんだが、正直言ってアシ
カのキックはもう一度ぐらいなら通用すると思うか?﹂
﹁⋮⋮後一度ぐらいなら﹂
少し頭の中で計算して答える。キーパーに挑発の種を蒔いておい
たし、カルロスは守備陣と連携が取れていないようだった。初見殺
しのブレ玉だが、俺程度のレベルのシュートでも一度見ただけです
ぐに対策をとられるとはちょっと考えづらい。後一点ならば何とか
なるのではないかとこの点では俺は楽観的なのだ。
﹁よし、ならば攻撃は少ない手数でシュートまで持っていくこと。
それかセットプレイを有効に使うこと。最後に気持ちでは絶対に負
けないこと。いいな?﹂
﹁はい!﹂
﹁よし、全国大会で優勝候補と試合できるのはあと二十分だけだ。
精一杯楽しんで、怪我をしないで、そしてできれば勝ってこい!﹂
﹁はい!﹂
⋮⋮監督、そこは絶対に勝ってこいと言うべき場面だろう。それ
より怪我するなってことを優先するのか。
はぁ、まったくこの監督は頼りにならないなぁ。
こんなんじゃ俺達が頑張らないと、この勝利よりも選手を優先す
る監督に苦手な勝利インタビューさせるという意趣返しができない
じゃないか。自分の為、チームの為、そして監督の為にもこれは勝
つしかないな。
298
◇ ◇ ◇
ハーフタイムに帰ってきたオレを見る周りの目には、僅かにトゲ
が含まれているようだった。
﹁何だ?﹂
とたずねても﹁いや、別に﹂ともごもご言って向こうへ行ってし
まう。日本はこんな所がうっとうしいな、ドリンクを飲みながらそ
う強く思う。言いたいことがあったらはっきり言えばいいのに、み
んな口ごもるのが好きなのだろうか。
昔からオレに正面から物を言って来る奴は少なかった。もっと子
供の頃は肌の色のことで、今はサッカーの実力のせいで陰口を叩か
れる機会が多かったのだ。
点を取られたのはお前のせいだってはっきり責めてくれた方が気
が楽なのにな。
一点目のチャージがファールを取られたのはアンラッキーなだけ
だったし、その直後のフリーキックも敵の技術に拍手はするがオレ
の責任ではない。だが、二点目はオレが最終ラインを崩してしまっ
た訳で、失点の原因の一つであることに間違いはない。チームに合
流して日が浅いとはいえ、それは言い訳にはならないのだから。
そう自分でも納得しているんだから、ちらちらと横目で見られる
よりはっきり﹁カルロスのせいだ﹂と指摘された方がやりやすいん
だけどな。ドリンクを一息に飲み干してボトルをベンチに置く。監
督も予想とは違う展開に頭を悩ませているようだ、これでは実りの
ある話し合いは期待できそうにないな。
そうオレがため息を吐いた時だった。
299
﹁二点目はカルロスが悪い﹂
うちのキーパーがはっきりオレに向かって言い切った。瞬時に周
りが静まりかえる中﹁おい、そこまで言わないでも⋮⋮﹂となだめ
ようとする奴もいるが、全くオレから視線を逸らさずにキーパーは
続けた。
﹁一点目のフリーキックは僕のミスだった。うん、認めるしかない
よ。でも二点目はカルロスのせいだよ﹂
﹁ああ、そうだなDFラインを乱したのは悪かったな﹂
俺が素直に謝罪をすると、はっと息を飲む音が聞こえる。オレが
素直にミスを認めたのが信じられなかったのだろうか、一体どんな
風に思われてるんだろうなオレは。
だがキーパーはまだ幼さを残した顔で首を振る。
﹁ううん。カルロスが悪いって言ったのはDFラインを無視したと
かそんな話じゃない。カルロスが僕達ディフェンス陣を信用してな
いのが悪いって言ったんだ﹂
﹁ん?﹂
﹁カルロスは守りに戻ってくる必要はないって言ってるんだよ。僕
たちが後ろで守備してるのを信用してないから、あの三十九番にく
っついて帰って来たんだろう? 僕達が止めると信じていてくれた
ら前線でカウンターの準備をしていたはずだよね﹂
思わず視線を相手から青空へと逸らす。うん今日もいい天気だ、
日本の夏はブラジルに比べて湿度が高いのが難点だが今日に限って
言えばからりとした南米のような陽気だな。
そっぽを向いているオレの頬を両手で挟んで自分の方へと向かせ
300
たキーパーが、噛み付きそうな表情で一語ずつぶつけてくる。
﹁だ・か・ら、カルロスはハーフウェイ・ラインより向こう側に行
って攻撃だけしてくれればいーの。どうせ守備は下手なんだしやら
なくていーよ。こっちはこっちで守るからさ、好き勝手に攻撃して
後一点ぐらい取ってくれればそれでいいんじゃないかな﹂
﹁⋮⋮ずいぶんな扱いだな﹂
﹁いーや、信用してるんだって。カルロスなら好きにやらせても点
を取ってくれるってね。だからカルロスも僕等が守ってくれると信
用してほしいね﹂
結構な言われ方なのに不思議と腹は立たなかった。こんな風にス
トレートに感情をぶつけられる方が、陰口をたたかれるより何倍も
いい。
﹁判った。オレは攻撃だけで守りには口も挟まない。だけど、ただ
一つだけ聞いておきたい事がある﹂
﹁何?﹂
﹁あのアシカってチビの無回転シュートを止められるのか?﹂
﹁あ、あの生意気なチビはアシカっていうんだっけ。それに無回転
シュートってあのフリーキックのおかしなシュートだよね。あれを
止めるって⋮⋮大丈夫、僕が気合と根性でキャッチするよ!﹂
根拠は何一つないくせに、なぜかどや顔のキーパーにため息をこ
ぼす。こいつがうちのチームだけでなく、控えとはいえ代表のキー
パーで日本は大丈夫なのだろうか。いや確かにこいつの気合いと根
性と反射神経は、オレでも認めざるをえないレベルではあるのだが。
﹁あれはパンチングして防げ﹂
﹁へ?﹂
301
﹁オレが向こうのチームに使った時アシカがパンチングしろって叫
んでいたんだ。という事は、あのシュートはパンチングで防ぐのが
有効ってことだろう﹂
﹁あ、そうだね。なるほどー﹂
素直に納得してうんうんと頷く姿に毒気を抜かれる。そこに何も
教わった覚えが無いためか、どうも印象がうすい監督が尋ねてきた。
この人から何も習っていないはずなのだが、対外的には﹁カルロス
は俺が育てた﹂と吹聴しているので鬱陶しいことこの上ない。
﹁カルロス、お前は後半も出るつもりなのか? 予定では前半だけ
のはずだが﹂
﹁ええ、出してください﹂
﹁それは構わんが、どうしたんだ? お前はこの大会に出るのを嫌
がっていたかと思っていたんだがな﹂
﹁ええ、ちょっと思い出してきたんで﹂
﹁何をだ?﹂
﹁⋮⋮血が熱くなる感覚をですよ﹂
302
第四十四話 ピッチの外も覗いてみよう
観客席の中で唯一屋根が付いていて日陰になっている特等席で、
この暑さにも関わらず背広を着た男達が話し合っていた。
先刻まではじっとピッチに釘付けだった視線は、お互いの表情か
ら手持ちの情報を推し量ろうとしているようだ。
﹁カルロスの突破力はデータ通りだな、決定力もスプリント能力も
この年代では最上級だ。久しぶりに素材だけで世界に匹敵するタレ
ントが登場したな﹂
﹁ああ、あいつはもう能力の裏付けを取るのはこの試合まででいい
だろう。それよりもどうやって日本代表に取り込むかに力を入れた
方がいいな。その方向でブラジルのサッカー協会と交渉を進めてお
く﹂
﹁剣ヶ峰は彼が突出し過ぎて他のメンバーは能力が判らなかったな、
むしろ相手のチームの方がよく抵抗していた﹂
彼らの会話に、唯一ジャージ姿の中年男が額の汗を拭きながら報
告する。
﹁はい、えーと矢張SCですね。全国大会はこれが初出場ですから
あまり有名ではないチームです﹂
﹁ふむ、ボランチの二人とトップ下の選手はいいな。資料をもらえ
るかね﹂
﹁はいこちらに﹂
あしかが はやてる
﹁他の二人はともかく、この三十九番の情報は本当かね。いささか
信じ難いのだが﹂
﹁ええ、間違いないはずです。足利 速輝は小学三年生で四月から
303
矢張SCに所属し、サッカーを始めたそうです﹂
﹁⋮⋮クラブに入ったのが四月からで、それまでどこか別のところ
で練習していたのではないかね?﹂
﹁いいえ、それまではボールに触ったこともない、もちろん親もボ
ールを買い与えたこともない全くの初心者だったと﹂
その報告に背広組はお互いに訝しげな視線を交差させる。
﹁ボールタッチなどに関しては、まあセンスがあるという事でいい。
世界にはもっと天才的にテクニックを持つ子供もいるからな。でも
サッカーを始めて四月からならまだたったの四ヶ月という期間で、
これだけゲームの流れを読んでプレイできるのはおかしいだろう。
しかも、フリーキックで無回転シュートだと? ヨーロッパでも最
先端技術で、現在の日本でも撃てるのは片手で数えられるぐらいだ。
どうして初心者があれを撃てるんだ?﹂
﹁⋮⋮さ、さあ?﹂
﹁ふむ、上手いというよりも不気味な小僧だな﹂
◇ ◇ ◇
﹁足利さん、お宅の速輝ちゃんは凄いわねぇ﹂
と周りの席中から褒められても私には曖昧な微笑しか返せない。
﹁はあ⋮⋮﹂
それを不満に思ったのか隣に陣取ったママ友が﹁もっと喜びなさ
いよ﹂と口を尖らせる。
304
﹁うちの息子なんて速輝ちゃんと同い年なのに、レギュラーどころ
かまだベンチ入りもしてないわよ。三年で唯一試合に出てる速輝ち
ゃんが凄いって喜んでくれないなら、出番のない他の子達が可哀想
じゃないの。ねえ?﹂
と周囲の母親グループに同意を求める。口々に﹁そうよ、うらや
ましい﹂だの﹁どういう練習をさせているのか教えて﹂とか言って
くるが、私には答えようがない。基本的にサッカーに関しては、お
金やクラブが絡まない事には速輝の好きにやらせているのだから練
習内容など全然知りもしていないのだから。
﹁えーと、うちは速輝の自主性に任せてるんでちょっと練習内容と
か判らないんです﹂
やんわりとした拒絶に周りのママ友も落胆したようだった。あわ
よくば自分の息子も同じようなトレーニングをさせたかったのだろ
う。このままではあまりに冷たすぎるかと僅かばかりの手がかりを
だす。
﹁朝は速輝が自主練習しているけれど、最近は上級生も一緒にやっ
ているみたいよ。確かキャプテンの子とも一緒に練習しているみた
いだから、そっちから聞いてみたらどうかしら?﹂
としらっと他に追求する先をおしつける。確か速輝に聞いた限り
ではキャプテン君は親御さんがあまりサッカーについては熱心でな
いと耳にしているから、結局親ルートでは無理。子供達の話になる
だろう。
そんな風に大人数になればもうクラブでのトレーニングと変わら
なくなる。熱心な子は今でも自分で練習しているだろうし、やりた
くない子は三日坊主になる。結局環境はそんなに変わらないはずよ。
305
うん、自己正当化完了ね。
速輝、家に帰ったら美味しいご飯をたくさん作ってあげるから頑
張るのよ! 試合もその後のママ友からの追及から逃げるのも。で
もあの子なら試合はともかくママ友には勝てなさそうかなぁ、そう
思い頬が緩んだ。
あ、良かった。私は速輝が前半尻餅をついてからずっと顔が強張
っていたから、ストレートな笑顔なんてできなかったのにようやく
普段の自分に戻ってこれたみたいね。
後半に入るけれどあの子大丈夫かしら⋮⋮まだ小さいから体力な
いし、大きな子にぶつかれればすぐ転んじゃうから、怪我しなけれ
ばいいんだけれど。監督さんも、もう少ししたら引っ込めてくれな
いのかしら? もう一点取ったんだし、休ませてくれてもいいのに。
◇ ◇ ◇
﹁監督、カルロスのいるチーム結構苦戦してるじゃないっすか﹂
﹁むう、明智の言うとおりだな﹂
﹁絶対に次の三回戦で俺達と当たるって本当っすか? ここでコケ
たらカルロス対策が水の泡なんすけど﹂
﹁いや、絶対に剣ヶ峰が勝ち上がってくる﹂
﹁だといいっすけどね﹂
俺はぼりぼりと頬をかいて、隣で﹁絶対に剣ヶ峰が勝つ、はずだ、
たぶん﹂と呟いている監督に冷たい視線を当てる。このおっさんは
イマイチ当てにならないんだよなぁ。これからは自分で対戦する可
能性のある両チームを調べた方が早くて確実みたいだな。
306
﹁明智の頭でならどっちが勝つか判らないのか?﹂
﹁俺でも判らないからサッカーは面白いんすよ。だいたいやる前に
判るんなら、試合なんかやらないでデータ上の条件でシミュレーシ
ョンで勝敗を決めた方が楽っす﹂
と自分でも判らない事はあっさりと認める。そして﹁もし試合し
ないで判るなら、俺サッカーやらないっすよ﹂と吐き捨てる。
﹁でも試合する方を選ばせてくれるならカルロスより、あの三十九
番︱︱足利って奴と戦ってみたいっすね﹂
﹁ほう、どうしてだ。やっぱりカルロスとは戦いたくないのか?﹂﹂
俺が興味を示したのが珍しいのか目を輝かせて監督が尋ねてくる。
﹁だってカルロスってフィジカルが凄いだけじゃないっすか。スピ
ードとパワーでごり押ししてるだけ。あれじゃ面白くないっす、や
っぱりサッカーはもっとスマートにやらないと。その点まだ足利っ
て奴との方が読み合いと技術を競う頭脳的な試合がやれそうっす﹂
﹁なるほどなぁ﹂
しきりに頷いた監督がふと真剣な表情を作る。この人がこんな顔
をするときは大抵が禄でもないことを考えているに違いないんだ。
﹁なあ明智今ちょっと、俺は考えたんだが⋮⋮﹂
﹁監督の考えはいつも間違っているから口に出す必要はゼロっす﹂
﹁そう言わずに聞いてくれよ﹂
﹁⋮⋮はあ、何っすか?﹂
﹁お前の﹁っす﹂て口調は頭悪そうな感じしないか?﹂
﹁⋮⋮聞く必要なかったっすね﹂
﹁いや、学業では県ナンバーワンの成績なのにその口調が似合って
307
ないかな∼って﹂
サッカーや喋り方に学校の成績は関係ないはずなんだけどね。
﹁監督の喋り方も随分と大人っぽくないっすけどね﹂
﹁あ、若く見えるって事か? いやーまいったなぁ﹂
﹁ええ、ホントに参るっすね﹂
俺はため息を吐き出した。いっそこの人が本当に性格が悪いのな
ら、追い出すなり何なりの手段が取れるんだけど、まるっきり悪気
のない監督の上に俺は恩があるのだから手に負えない。
﹁あ、もうすぐ後半開始っすね。選手達が出てきたっす﹂
﹁おお、本当だな。あ、なんだカルロスと足利って奴が和やかに笑
い合ってるぞ。うんうん、スポーツで生まれる友情かぁ、青春だな
ぁ﹂
﹁思ったよりもヌルい奴らだったんすかね、俺だったら少なくとも
試合中は絶対になれ合わないっすけどね。⋮⋮でもよく見れば笑顔
同士なのに誰も近づいていかない、殺伐とした雰囲気のようっすよ﹂
﹁誰も間に入れないライバル関係かぁ、青春だなぁ﹂
﹁はいはい、青春っすね∼。あ、俺は後半集中して観戦するんで監
督は話しかけないでくださいね∼﹂
さて、カルロス君と足利君。次に当たる俺達が燃えるぐらい、出
来るだけ面白くそしてお互い消耗する試合をお願いするよ。
308
第四十五話 長距離砲を撃ち合おう
後半の始まりを前にしてピッチへと両チームの選手が駆けだして
いく。
その中でもやはりカルロスは別格の存在感を放っている。何をす
るわけでもない、ただピッチに姿を現しただけなのに観客が一斉に
息を飲み、次の瞬間歓声が沸き上がったのだ。
観客達もカルロスが前半だけで引っ込んでしまうのではないか、
そんな心配してしたのかもしれない。それが後半も出場するような
ので胸を撫で下ろしたのだろう。現金なもんだよな、俺がピッチに
出たときも同じぐらいどよめいてくれてもいいのに。そう内心で愚
痴っていると、その注目を一身に受けている人物が近づいてきた。
﹁よ、アシカ。さっき言った通り後半も遊んでやるぞ﹂
何だか前半より挙動が﹁軽く﹂なっているような気がする。ハー
フタイム中に何か良い事でもあったのだろうか? それはマズイ、
こいつに気持ちよくプレイさせるなんて自殺行為だ。少しでも集中
を妨げるよう挑発をしてみるか。
﹁遊ぶだなんて、随分とまあ上から目線ですね。逆転されても遊ん
でいられるか楽しみですよ﹂
﹁⋮⋮そうだな、真剣になってほしければ、せめて同点に追いつい
てみるんだな。さもないと負け犬の遠吠えだ﹂
言葉を交わすごとに俺達の間だの雰囲気はぎすぎすしていくのだ
が、なぜかお互いの表情は返って笑みが深くなっていく。
309
﹁いやぁ、そうですか。カルロスの無駄に高いプライドと鼻は、俺
が両方ともへし折りやすくするためだったんですね。ごっつぁんで
すよ﹂
﹁⋮⋮アシカがチビなのもオレが叩き潰しやすくするための親切設
計なんだな﹂
満面の笑みだがお互いに視線は外そうとしない﹁ふふふ﹂﹁はは
は﹂と俺達二人の笑い声が、なぜか不自然なまでに周りだけがぽっ
かり空いたピッチ上に響いた。
﹁あ、あの君達もうすぐ後半始めるよ﹂
﹁ああん?﹂
空気を読まないで俺達に声をかけてきた男を睨みつける⋮⋮やば
い、審判だ。笑みの形に硬直した表情筋をすぐに戻して、真面目な
表情を作りだし深々と頭を下げる。
﹁すいません、お手数かけました。すぐに位置につきます、では﹂
﹁う、うむ。気を付けてね﹂
俺の豹変ぶりに驚いたのか審判の反応は鈍かった、すぐさま言葉
通りにこの場を離脱する俺は、こっちを睨んだままのカルロスに軽
いウインクを一つ残して自陣へ戻る。﹁あ、おい。ちょっと﹂と呼
び止めかけるカルロスは審判から﹁小学生でも君は日本代表なんだ
から、もっと自覚を持って⋮⋮﹂と説教をされ始めている。
しかし、カルロスを挑発するだけのつもりだったのにうっかり自
分まで熱くなってしまった。ここまで薄々と自覚はしていたが、精
神年齢が肉体年齢に引っ張られているような気がするな。気を付け
ないと、このままではやり直しで得た精神的なメリットを失ってし
まいそうだ。
310
自陣に帰ってくると、皆が何か怖い物を見るような態度だった。
でもキャプテンが﹁遅いよ足利﹂と軽くたしなめるのに﹁すいませ
ん﹂と素直に頭を下げて謝罪すると、雰囲気がハーフタイム中の﹁
逆転するぞ﹂という熱気に満ちた物へと戻った。
さあ後半だと俺も気合いを入れ直して敵チームを窺うと、カルロ
スがどこかじとっとした暗い表情で見返している。あの後、彼は審
判にちょっぴり絞られたようだ。まだ子供なら逃げる要領が悪くて
も仕方がないだろうな、でも俺は脱出に成功したぞと﹁ふふん﹂と
いう鼻息を混じえた見下した視線を放つ。
うん、どこか﹁ぷつん﹂という音が聞こえそうなぐらい切れてる
な。これで冷静なプレイは出来ないだろう。もしかして怒りが予想
以上の力を出させるかもしれないが、後半を開始して五分も防ぎき
れば対処できるレベルまで落ちてくれるのではないかという希望が
ある。
百メートルで最速の男がマラソンでは勝てないように、スピード
のある選手はスタミナがない傾向が高い。俺もその一人ではあるが、
ましてカルロスは百メートルで優勝するほど速筋が発達した選手だ。
体が出来上がっていない小学生の段階では、まだフル出場が不可能
︱︱少なくとも試合の最後まで高いパフォーマンスは発揮できない
のではないかと推測、いや期待したのだ。
審判が笛を高らかに鳴らし、後半が始まった。
さて、初手は向こうのボールからだ、ハーフタイムにどんな指示
が出てどんな変更があったのか⋮⋮。
いや、ちょっと待て。いきなりのカルロスのあのモーションは︱
︱。
﹁キーパー、ロングシュートだ!﹂
311
カルロスによるセンターラインより後ろからのキックオフシュー
トが放たれた。小学生離れした長身から生み出されたパワーが余す
ところなく発揮され、鈍い爆発音のようなボールを蹴る音が響いた
かと思うと、ボールは唸りを上げて矢張SCのゴールを強襲する。
俺の声が間に合ったのかは判らないが、まだDFに陣形の指示を
出していたキーパーが慌ててバックするとジャンプしてシュートに
手を伸ばす。だが、彼が必死に伸ばした指先は僅かに届かない。
万事窮すかと思われたが、シュートはキーパーの手をかすめるよ
うにしてクロスバーを直撃した。ピッチの半分以上を踏破したロン
グシュートのはずなのに、直撃したバーが細かく震えていた。
た、助かった⋮⋮。じゃないだろう! カルロスの奴がいねぇ。
一体どこに行ったんだ? げ、もうこっちの陣の奥深くまで上がっ
て来てやがる。
﹁キーパー、ぼーっとしてないで早くキャッチしろ! カルロスの
奴が狙ってるぞ!﹂
俺からの恐怖のこもった叫びにキーパーが高く飛び上がって、バ
ーに弾かれて宙に上がっていたボールを両手で確保する。そのキー
パーから顔がはっきり確認できる位置にまでカルロスは詰めてきて
いた。最初から自陣にいた俺よりもすでに深い地点にまで入ってき
て、キーパーがボールを掴んだのに舌打ちしている。
さっきのシュートもずいぶん強引だったし、こぼれ玉を押し込も
うという貪欲さも前半の彼の攻撃のバリエーションにはなかったは
ずだ。
これは︱︱異様な熱気をはらんでいるようなカルロスにそっと近
づいた。ただ立っているだけなのに彼の体から陽炎じみた物が立ち
上っているようだ。
312
近づいてくる俺に気が付いたのかカルロスが視線を合わせてくる
が、今までと桁違いの物質的な圧力を感じて軽く仰け反ってしまう。
浅黒い顔つきも引き締まり、口はへの字にきつく結ばれている。
こいつは間違いない。
﹁カルロス、怒っているのか?﹂
すぐには返答しようとはせず、注がれる視線の圧力がさらに増し
ていく。冷や汗をたらし、顔を背けたくなるのを我慢しているとボ
ソリとした答えが返された。
﹁怒ってはいないが、遊ぶのはやめだ﹂
褐色の彫りが深い顔が前半よりも紅潮しているようだ。こいつほ
どのタレントでも怒りで興奮しているのだろうか。だが、続いての
宣言には俺ではなく周りにいた両チームの選手が驚いて動きを止め
た。
﹁遊ばずに、叩き潰す﹂
⋮⋮ああ、やっぱり強敵ってのはこうでなくちゃ。
小学生のはずなのにカルロスが絶対の確信を込めて発言すると、
裁判官が死刑判決を下す時のような相手の抵抗を無くす力がある。
周りの選手達も一瞬停止した後は、無意識なのかもしれないがじり
じりと俺達から距離をおいている。 だが俺だけは反応が違う。こういう化け物と戦えるなんて俺はな
んて幸せ者だろう、鳥肌を立て冷や汗を流しながらも俺は思わず運
命に感謝していたのだ。
313
生理的な脅えの反応を表面上に出さないようにして、カルロスを
睨み返す。さらに後ろ手で山下先輩に指示し、最後にぐっと強く拳
を握りしめる。そして後ろに隠していた手を上げてボールを呼び込
んだ。
この間ずっとカルロスの瞳から視線を外さない。相手も俺から眼
を逸らさないどころか、瞬きすらしていないようだ。
その対峙したままの姿勢で、DFから送られたパスを一瞥もせず
にダイレクトヒールで前へ流す。
そこに待っているのは万全の体勢を整えて、ピッチのど真ん中に
もかかわらずシュートの為の助走をしている山下先輩だ。
﹁叩き潰すのはこっちの方ですよ﹂
センターサークル内からの超ロングシュートを放つ山下先輩の姿
に、一瞬カルロスの視線がそちらに動く。うむ、目を逸らさない合
戦に勝ったな。勝った意味があるのか判らんが。
山下先輩のシュートは惜しくもキーパーに防がれてしまったよう
だった。ま、オーケーだな。今のはカルロスからの挨拶に対するカ
ウンターで、威圧感に飲み込まれそうだったうちのイレブンに対す
る気付けだ。入ってくれればそれに越したことはないが、それでも
残念がるほどでもない。
最後にカルロスに向けてこれだけは言っておこう。
﹁カルロスは強い。だけど俺達矢張SCはもっと強いぞ﹂
314
第四十六話 セットプレイを頑張ろう
俺の戦闘意欲は最高値にまで上がったが、それでも好き勝手に攻
めていける訳でもない。まずはカルロスを抑えられるかどうかがこ
の試合を左右するのは判り切っているからだ。
そのカルロスについてなのだが、困った事に前半よりも一層攻撃
的になったようだ。今まではFWの後ろで攻撃を操るトップ下のポ
ジションだったが、今は少しポジションを上げてもはやMFではな
くFWの一種であるセカンドトップのポジションにいるのだ。だが、
ここにこいつに陣取られると非常に困る。
純粋なFWではないから最前線にいる訳ではなく、少し下がった
位置にいる。したがってDFラインもオフサイドの駆け引きができ
ないのだ。そのオフサイドをかける対象となるのはセンターフォワ
ードだが、彼をターゲットにしているとカルロスはオフサイドライ
ンとは無縁になる。つまり常に前を向いたカルロスがオフサイドの
心配なくゴール前にいるって事だ。
確かにポジションを上げた事で、DFと連携してのマークとパス
の遮断はまだやりやすくはなった。そして敵の攻撃も単調になった
かもしれない。だが、一瞬でも油断してカルロスにボールを渡すと
そこで得点されてしまうぞ。
速くて、でかくて、パワーのある人間が虎視眈々とチャンスを伺
っていると思うだけでディフェンスしている全員が緊張しっぱなし
のプレッシャーを感じている。この緊張感が今のところはいい方向
に働いているが、試合終了まで集中力がもってくれるかどうかは幸
運を祈るしかない。
そんな訳で、防御の方はDFラインに加えて俺とキャプテンがガ
315
チガチにカルロスをマークして、ボールと触れ合えないようにして
一応は落ち着いている。
そうなると気になるのは攻撃の方ではあるが、こちらは芳しくは
ない。
両サイドが上がらずに守備に忙殺されているのが攻撃に厚みがな
い理由でもある。
さらに俺がカルロスのマークについている為に、いつものボラン
チの位置よりも下がっているのも原因の一つなのだ。
これまでは、俺とキャプテンと山下先輩の中盤におけるテンポの
良いパス交換から、リズムの良い攻撃が生まれて来ていた。それが
今は封じられている。そんな状況でいい攻撃ができるわけがないよ
な。
ひりつくような真夏の太陽の下、両チームの我慢比べが行われて
いた。
俺がマークしているカルロスも時折自陣までボールを貰いに戻り
たそうな素振りは見せるものの、唇を噛みしめてじっと回ってこな
いパスを待っている。
正直このプライドの高すぎるエースがここまで動かないとは思わ
なかった。遊ぶのは止めたと宣言しているのだからもっと派手に暴
れまわるのかと想像していたが、ハーフタイム中に監督にでも釘を
刺されたのかな。
しかしこのままでは当然ながら一点負けている俺達の方が不利に
なる。なんとか打開策はないかと頭を巡らすが、すぐに思いつくの
ならもう実行している。
攻撃陣頑張れと念を送っていると、それが通じたのかゴール前で
山下先輩が倒された。よし!
あ、いや、別に山下先輩が倒れたのを喜んだ訳じゃない。倒され
た理由が相手チームのファールによってだからだ。当然俺達にフリ
316
ーキックのチャンスが与えられる。ここはまた俺のブレ玉の出番だ
な。
これで同点だ。そううきうきして審判が示す場所へ向かうと、山
下先輩はどこか険悪な表情で俺を迎えた。本来であれば彼が自分の
身を削って取ったフリーキックだ。当然自分が蹴りたいだろうし、
また自信家な先輩の事だからゴールできるとも考えているのだろう。
だからハーフタイムで決められていた通りに俺がキッカーとなる
のが気に入らないらしい。﹁絶対に決めろよ﹂とだけ言い残すと俺
の手に叩きつけるようにボールを渡していった。
やれやれ、これで外しでもしたら何言われるか判んないなぁ。ま、
外す気は毛頭ないんだけどね。というよりも外せない。
山下先輩に怒られるのが怖いとかではなく、怖いのはカルロスだ。
あいつはこっちのフリーキックだというのに守りに戻らず、まだ
DFラインの前に居残っていやがる。俺までキックする為に上がっ
ているんだ。万一失敗してカルロスにボールが回ったらと想像する
だけで、流してる汗が粘っこい油汗に変わってしまう。
そんな雑念を頭から消去し、ふうっと一息ついて改めてゴールを
狙いをつける。
ゴール前の絶好の角度だ。距離は少し遠いが位置的には一点目を
決めたフリーキックの場所と大差ない。
しかも、壁やキーパーのポジションも全く同じなのだ。この時点
で俺は相手がブレ玉に対して何も対策を取っていないと確信してい
た。たぶん、運が悪かった程度にしか思っていないのだろう。いか
にもプライドの高すぎるエリート集団にありがちな話だ。
ならばまた、その驕りを利用して得点させてもらおうか!
﹁取れるもんなら取ってみな!﹂
317
小さく叫びながら、いつものようにゴールを見ないで上体を伏せ
た姿勢でキックを放つ。
全パワーを右足に乗せ、キックした反動で宙に浮いた状態の俺は
ようやく顔を上げて、自分の目で撃ったシュートの軌跡を見つめる。
蹴った感触は文句なしだ、上手くキーパーの手前で揺れてくれるは
ず。
後はキーパーがキャッチしそこなってゴールするか、ファンブル
したところを押し込めばいいだけ。これは壁となってゴールに背を
向けている剣ヶ峰のDFより、こぼれ球を押し込もうとチャンスを
伺っている矢張の攻撃陣に有利な条件だ。
︱︱よし、同点だ! 俺は心の中ではすでにガッツポーズを取っ
ていた。
そのバラ色の未来予想図が崩れたのはキーパーの行動によってだ。
キャッチしやすい胸元のボールであるにも関わらずあのキーパーは
思い切りパンチングで防いだのだ。
﹁な、何でキャッチしようとしなかったんだ⋮⋮﹂
パンチングによってゴールラインを割り、コーナーキックのチャ
ンスは続いているが、まだ俺の動揺は収まっていない。ちらりとキ
ーパーの表情を伺うと、いかにもしてやったりという表情を作って
いる。
くそ、何が高すぎるプライドだよ。敵を見下していたのは俺の方
じゃないか! 拳をきつく握りしめて必死に気を取り直す。まだこ
っちのチャンスは終わっていないのだ、なんとかこのコーナーキッ
クを物にしなくてはならない。
なぜなら、監督が指示していた俺のフリーキックによる得点とい
うプランが崩壊したからだ。
318
この試合の作戦はよく崩壊しているが、やはり事前に打ち合わせ
ていた作戦が通じないと士気は確実に落ちる。ましてや、一点負け
ている状態でしかも強力な敵がカウンターの機会を今や遅しと待っ
ている。ここで引くことはできない。だからこそ、今点を取らねば
ならないのだ。
コーナーキックを蹴るのは矢張SCでは山下先輩である。FKと
PKは大体がその反則を受けた者が蹴るのが、全国に出るまではう
ちの暗黙のルールだった。だが、コーナーキックだけは﹁エースの
役割﹂だとかでキッカーは立候補した山下先輩となっていたのだ。
正直俺からしたら、割と長身な山下先輩はキッカーよりもゴール
前にいてくれた方がチームにとって有益な気もする。だが、先輩の
プレースキックは正確でもあるし、文句を言うまでもない。
慌ただしく短いサイン交換を終え。ぴりぴりとした空気の中、短
い助走から山下先輩がコーナーキックを上げる。
相手は大柄なDFがゴール前にずらりと勢揃いしている。まとも
に勝負はできないと、正面の密集地からニアへ流れてきた俺への低
くて速いボールだ。
さすがに狙いは正確で、走り込む俺の足元にぴしゃりと照準が合
っている。
ただ問題は二つある。一つは混雑するゴール前からサイドへ流れ
たために、直接狙うには角度がきつい事。もう一つはゴール前から
俺にへばりついているマーカーがいる事だ。
こいつはカルロスほどのスピードはもちろんないのだが、ニアへ
の短距離ダッシュだけでは振り切れなかった。その大きな体の全て
を使ってゴールまでのコースを潰している。
このボールが俺に渡る刹那の間に、俺の持つ経験と戦術眼と鳥の
319
目をフル稼働させて厳しい状況を打開してゴールへ結び付けようと
シミュレーションする。
俺がボールを受けて、マークをかわしてから改めてゴール前にク
ロスを送る。駄目だ、ゴール前には敵の長身DFが揃っている上、
俺と山下先輩もゴール前にはいない。
このニアサイドへも半分シュートコーナーに近い速く低い弾道の
クロスだからつながったようなもので、相手が防御を固め直したら
ヘディング争いでシュートまで持っていくのは難しい。
では直接ゴールを狙うのか? これも無理だ。俺の位置が角度が
きつい上に、マークがゴールへのシュートコースを隠している。こ
いつを抜いてゴールを狙える位置に行くまでやはり時間がかかって
しまう。
時間をかけるだけ、守備は整えられてボールを奪われるリスクは
高まる。そこからカウンターくらう未来など想像したくもない。
ならばこれしかない。ボールの軌道より半歩だけ前へ出る。ボー
ルより俺を追いかけているマーカーも当然追随する。その半歩分の
後ろのスペースを使い、クロスをヒールで引っかけるようにしてゴ
ール前のDFの壁の隙間を通した。
相手ディフェンスとしては面食らっただろう。
まずショートコーナーに近いぐらいのニアサイドへの低く速いパ
ス。それをノートラップのヒールキックで、勢いはそのままに角度
を変えてゴール前に流されたのだ。それも鳥の目による相手DFの
間を縫って、だ。
ジャンプする準備を整えていたDFは速く、しかも足元を切り裂
くパスに対応できなかったようだ。
そーゆー訳でお願いします先輩FWさん。今まで影が薄かったけ
れど、ここで決めたら一気に同点の立役者だ!
俺の願いを込めたパスは予定通りにFWへ渡り、ダイレクトでシ
320
ュートされた。
試合後の彼の言葉によると、混戦中に目の前にボールが来たから
とりあえずゴールに向けて蹴ったら偶然入ったらしい。俺にはちょ
っと真似できない、点取り屋の本能的なワンタッチゴールだ。
あまりに人が密集しすぎてどうなったか判らなかったが、高らか
に鳴らされたゴールを告げるホイッスルと右手を上げて走り出すF
Wでようやく同点に追いついたと知る。FWの先輩、今まで影が薄
いだなんて思っていてすいませんでした。
観客席に近寄ると俺達の保護者が固まっている一角に向けて、点
を取った先輩が嬉しそうにガッツポーズでアピールしている。
そこへのんびりと歩みよりながら自陣の方へ目を向ける。へへっ、
カルロスよカウンターのチャンスなんて無かったぜ。⋮⋮あれ?
佇んでいるカルロスの青白い炎のような姿を確認すると、思わず
目を疑い同点になった高揚感が一瞬で引っ込んだ。
︱︱剣ヶ峰SCではなく、カルロスという怪物の逆襲はここから
始まってしまった。
321
第四十七話 ジョアンはどけと言っただろう カルロスの雰囲気が明らかに変わっていた。だが雰囲気は重くな
っているのに、今まで以上に圧倒的な存在感をまき散らしているよ
うではない。むしろ放っているオーラは減少したようにすら感じら
れる。
後付けの理屈ではあるが、彼の中の炎が鎮火したのではなくより
高温になったのではないだろうか。眩しいばかりの赤い炎ではなく、
冷たくさえ見える青白い炎を俺は連想した。
これはマズい。あいつがセンターサークルに佇んでいるだけで、
危険な気配がプンプンしてくる。
ゲームが再開されるまでのほんの僅かな時間であるが、カルロス
を止める為の相談を矢張の守備陣が総出でやりとりする。幸いな事
に話はすぐにまとまった、いやまとめなければ失点すると誰もが感
じ取っているのだ。
すぐに解散し、そそくさとフォーメーションを確認する。
その確認が終わる前に再開の笛が吹かれ︱︱カルロスがやってき
た。
キックオフのパスを受け取ってから、迷う素振りさえなくピッチ
の中央を一直線にドリブルで進んでくる。
少しでも進路の妨害をしようとうちのFWも頑張るのだが、ほと
んど相手にされていない。立ち止まらせるどころか、ほとんどフェ
イントさえ引き出せずに突破されていく。
やばい。これだけの速度で進まれると即席の罠が完成する前にゴ
ールされてしまいかねない。
仕方なく俺は少しだけ見えやすいように前へ出て﹁カルロス!﹂
322
と叫ぶ。俺の声と姿に注意を引くだけの効果があったのか、一瞬と
はいえ彼のドリブルが停滞した。そこに抜かれたFWも含めて俺達
が一斉にプレスをかける。
ここでポイントなのが、俺達からみてプレスをかける全員が右か
らカルロスに向かって行くことだ。こうなればスピードに自信のあ
るカルロスは、群れて押し寄せる右の敵から逃れるような進路、つ
まり俺達から見れば左のサイドに逸れつつ縦への突破を試みるはず
だ。
そこにはサイドDFが二枚待っているという寸法だ。
右からは俺達が包囲し、左はサイドライン、前にはダブルチーム
のDFが歓迎している。最後の仕上げとして、故意に空けてある敵
FWへのパスコースには、普段は守備をしない山下先輩がじっと潜
んでカットする瞬間を待ち構えている。
DFの二人を縦へのストッパーとして、俺とキャプテンとFWの
先輩がプレッシャーをかけ、パスカットの為に山下先輩まで動員し
た六人がかりというほとんど無謀なギャンブル近い罠だ。もしカル
ロスがドリブル突破を諦めて途中でパスを選択していたら、うちの
中盤は簡単に切り裂かれてしまっただろう。
ここでカルロスが個人技のみで勝負しにくると決めつけたのは、
データとか相手の陣形を読んでとか論理的な物ではなく俺の勘でし
かない。しかしうちのチームの誰一人として異を唱えなかったのだ
から、それだけカルロスが他のチームメイトと距離をとり、なおか
つ尋常ではないオーラを漂わせていた証拠になるだろう。
だが、彼はご自慢のスピードに慢心したのか、すっぽりと包囲網
の中に突っ込んでしまった。ここまで罠が機能してしまってはもう
逃げ場がない。後は熟した果実をもぐように、ボールを奪う作業が
残っているだけだ。さあボールを渡すんだカルロス。
323
包囲していた全員でカルロスの持つボールを取りにいった瞬間、
彼のしなやかで大きな体が爆発したようだった。
◇ ◇ ◇
怯えたようなチームメイトが﹁ほ、ほらカルロス﹂とよこしたパ
スを受け取ると、ボールを渡した選手はオレの意識から消失した。
もちろん本当にいなくなった訳ではない。俺にとっては、そんな使
えない味方なんていないことになっただけだ。
それでいい。このオレがチームメイトとはいえ他人を信用しよう
としたのが間違いだったんだ。
自分一人の力で勝つと覚悟を決めると、急速に世界の動きがスロ
ーモーションになり、歓声は遠ざかっていく。さらに視界に映る全
ての物から鮮やかな色彩が失われていった。ついさっきまで肌を焼
いていた熱いはずの日差しさえオレを避けているようで、夏の熱気
を感じなくなった体は流れている汗さえも停止させる。
ああ、これまでに何度か覚えのある﹁ゾーン﹂に入った感覚だな。
別に体に異常が起こった訳じゃない。オレも初めてゾーンに入っ
た時は、何が起こったのか判らないまま夢中で相手チームの全員を
ぶち抜いてゴールしていたのだ。
後にユースのチームドクターに質問すると、アスリートが極限に
集中すると時々起る現象らしかった。コンピュータでいうなら、不
要とされたソフトが次々に緊急停止され、重要なソフトのみにリソ
ースを注ぎ込むようなものらしい。
つまりは色や音、味覚に嗅覚や温感など、当面必要のない感覚が
シャットアウトされて、その分他の能力が研ぎ澄まされるらしい。
324
アスリートとしては選ばれた一握りの人間しか到達できない場所
だと、ドクターはオレを祝福してくれた。
だが、ここはひどく寂しい場所だ。
モノトーンの世界に響くのは自分の呼吸音だけ、周りを見回して
も誰もまともに動いている奴なんていない。ゾーンに入る度に、オ
レは行った事など一度もないはずの氷原の中に一人立ち尽くす自分
の姿が思い浮かぶ。
そんな場所に一緒に入れない人間に期待していたオレが間違って
いたんだ。
オレは一人だけでいいんだ。この状態のオレを止められる奴なん
か、きっと世界中探してもいないのだから。
灰色の世界の中で、ほとんど練習用のコーンを通り過ぎるのと同
じ感覚で敵のFWをかわして前へ出る。
どうせ止められない、ただの石ころみたいな障害物にすぎないん
だから無駄な邪魔はしないでほしい。
少し進んで敵陣も半ばに入ると、この無彩色で静かな風景の中、
僅かばかりに色づいた敵のボランチともう一人がノイズを響かせな
がら体を寄せて来た。
へえ、この中でもオレが識別できるってのは、アシカはやっぱり
ただのジョアンじゃないみたいだな。
まあどちらにしろ、ちょっと進行方向を変えるだけでオレに追い
ついてこられるはずもない。
進路を右に逸らし、サイドから敵陣を蹂躙しようとするが⋮⋮。
おかしいな、オレが駆け抜ける為のスペースがないぞ。
気が付くとオレは前を二人のジョアンに塞がれ、周りを敵に包囲
されていた。
どうしてこんな事に?
325
その問いが頭をかすめたが、それよりも今どうするかが問題だ。
︱︱ああ、そうか。
その答えはすんなりと天から落ちてきた。
ジョアンがどかないのなら、踏みつぶせばいいんだ。
そう決めると、オレは自分の体が弾けるように筋肉が躍動するの
を感じた。
横からのあくびが出そうなプレスがかかる前に通過すると、前に
いる石ころ二つの真ん中にある、体半分ぐらいもあるオレにとって
は広すぎる隙間をこじ開けてすり抜ける。
この白と黒だけで構成された中で、まともに動いているのはオレ
だけだ。他人はオレの後ろをスローモーションで間抜けに追いかけ
てくる存在でしかない。
ペナルティエリアの手前までくると、キーパーがオレを止めるた
めに飛び出そうとしている。そんなんじゃダメだな。遅いよジョア
ン。迷いがあるから反応が鈍くなるんだ。
そんな中途半端なタイミングで前へ出ると、ほら。
キーパーの頭上を越えるように、ふんわりと優しくボールを浮か
せてゴールへプレゼントする。
ゴールネットが揺れるのと同時にゾーンの魔法が解けて世界には
色彩が戻り、観客がオレの名をコールしているのが耳に入る。焼け
るような日差しが思い出したようにオレにも照り付け、汗が再び流
れ出した。
観客席の前に行きシャワーのように歓声を浴びる。国際大会など
のスタジアムに比べると、明らかに数が少ないとはいえ、やはり自
分の名前を何度も呼ばれるのは気持ちがいい。
これは日本でもブラジルでも変わらないな。オレがハーフだとか
肌の色がどうとかそんな事は関係なく、凄いプレイをすれば皆が褒
326
めて注目してくれている。手を上げてコールに答えるとさらに歓声
と拍手のボリュームが上がった。
今の内によく拝んでおけよ、オレはすぐにでもヨーロッパなんか
のビッグクラブでプレイするようになってしまうんだぞ。このオレ
を日本で見れるのは、もうしばらくの間だけだ。
︱︱だからよく目に焼き付けておくんだ。絶対に忘れるんじゃな
いぞ、このオレを。これがカルロス様の力とゴールなんだ。
327
第四十八話 覚悟を決める時間がきたようだ
カルロスが観客席に向けて大きく手を広げ、歓声を全身で迎えて
いるのを呆然とした視線が追いかける。
剣ヶ峰のメンバーはキーパーさえもが彼を祝福しようと駆けつけ
たのだが、抱きつくなどの直接的なアクションは起こせずにいる。
ピッチの上にいる全員が今のプレイとカルロスの放つ異様な気配
に圧倒されてしまっているのだ。
そして今のゴールが矢張SCに与えたダメージは大きい。特に面
と向かってやられた俺達ディフェンス陣の傷は深い。
五人がかりで包囲したと思った瞬間に、前にいる二人の間をぶち
抜かれてしまったのだ。あれはまるで﹁彼が戦術だ﹂とまで言われ
た、ブラジルの不世出のストライカーを思わせる強行突破だった。
もしかしたら、カルロスも彼のように歴史に名を残すレベルの﹁
戦術級の選手﹂なのかもしれない。未来の彼の姿を知っている俺で
さえ、その潜在能力の高さに驚きを隠せないのだ。ましてや未来の
予備知識もなしに目の当たりにした皆の衝撃はいかばかりだろうか、
そう包囲に参加したメンバーを見回した。
やはり皆の顔が青ざめて︱︱いやただ一人キャプテンだけはしっ
かりと顔を上げて、意志のこもった瞳で見つめ返している。
暗い雰囲気を壊す為に﹁いやー、やられちゃいましたね﹂とキャ
プテンに対し意図的に軽く話しかける。
﹁うん、日本代表のエースが偽物じゃなくて良かったよ﹂
彼も頷いて賛意を示し、周りのメンバーに﹁日本最高峰の選手と
328
戦っているんだ、今後の良い経験になるぞ﹂などと呼びかけて鼓舞
している。おかげで換気をしたように、淀んでいた空気は少しはま
しになったようだ。
﹁⋮⋮キャプテンはメンタルが強いですね。あんな抜かれ方した事
が全然気にならないみたいです﹂
俺の賛辞に対して、彼の顔には苦い物が混じった笑みが浮かんだ。
﹁まあ、今年の四月に初めてボールを触った下級生に、練習試合で
テクニック勝負を仕掛けて負けた経験があるからね。抜かれたりす
るのに慣れる⋮⋮のはダメだけど、その苦い経験を成長する糧にす
るのには慣れたよ﹂
﹁ご迷惑をかけています﹂
その下級生が誰だか心当たりの有りすぎる俺は、即行で頭を下げ
る事しかできない。
しかし、穏やかだとばかり思っていたキャプテンも内心で俺に思
う事があったんだな。その感情を昇華して経験にしているのは、サ
ッカー選手というより人間として素晴らしいが。そんな風に学年で
は上だが、精神年齢では下のはずのキャプテンに尊敬の念を覚える。
﹁迷惑だなんて思ってないけれど、じゃあ足利には迷惑料としてこ
の試合逆転してもらおうかな﹂
﹁⋮⋮そんな事でいいんですか? 言われなくてもやるつもりです
が﹂
キャプテンは広い肩をすくめる。
﹁充分だよ。それにもう一つ、向こうにいる化け物も何とかしない
329
といけないしね﹂
﹁そっちの方が難題ですね﹂
顔を見合わせて同時に振り向いた先には、カルロスが未だ衰えぬ
威圧感をみなぎらせてピッチに戻ってきたところだった。
試合が再開されたが、正直まだ俺達の腰は引け気味だ。いくら気
勢を上げたとはいえ根本的な問題の解決策︱︱つまりカルロスをど
う止めるかの方策が見つかっていないからだ。
まあ簡単に見つかってしまうレベルの選手であれば、年代別とは
いえ日本代表のエースにはなれないのだろうが。
とにかくこれまではある程度うまく行っていたように感じられる
﹁カルロスにボールを与えないでください﹂という動物園レベルの
作戦を続行するしかない。
しかし、ただ守り一辺倒ではじり貧は免れない。こちらは一点負
けているのだから攻めのアクションも必要なのだ。
思惑通りにいってはいないが、セットプレイでこの試合二点取っ
ているのも事実だ。だからできるだけ敵のゴール近くまで運び、シ
ュートで終わるかファールを貰うかしたい。
そう考えて前線でターゲットになるFWへとロングパスで通すが、
相手もそう簡単にはシュートまでは持っていかせてくれないな。俺
も上がろうかと考えるが、背後のカルロスを放置する訳にもいかな
い。
なんとかFWが折り返したボールを山下先輩が強引にシュートを
撃つが、マークが厳しい中での無理な体勢からのシュートは、ちょ
っと角度が悪く距離もあったせいかキーパーの正面をついてしまっ
た。
330
がっちりとキャッチしたキーパーが、ディフェンスに上がれとの
合図も出さずにいきなりキックした。
一体何を?
そう思いつつボールの軌道を見ると、自陣で守備もせずに一人だ
け離れていたサイドのDFに渡り、彼もまたすぐにロングキックを
放つ。これは大きすぎるな。今大会でのよく飛ぶボールを考えに入
れなかったのか、これではうちのゴールキーパーへのパスにしかな
らない。
そう判断すると、念の為に鳥の目も使って敵の陣形と、俺の背後
にちゃんとカルロスがいないのを確認した。え? いないの?
慌ててカルロスを探すとうちのゴールへ向けて疾走している。
まさかあいつ、ここからあのカウンターとは言えないロングボー
ルに追いつくつもりなのか!
﹁キーパー前へ出てボールを処理しろ!﹂
そう叫んで必死に俺も追いすがる。キャプテンも俺の少し先を走
っているが、どちらもカルロスには追いつけそうにない。
それどころかカルロスは同じロングボールに対して、同時に駆け
だしたはずの仲間のFWと矢張のDFを追い抜いている。
ちょっと待て、そいつはセンターフォワードでお前はトップ下だ
っただろうが。キックに同時に反応したとしてスタートしてほんの
数瞬でぶち抜かれるっておかしいだろう。
俺達DF陣の悲鳴が聞こえそうな中、ペナルティエリアから少し
出た地点でキーパーが宙へ飛ぶ。同じく空中にまだあるボール目指
して一拍遅れてカルロスもジャンプした。
数メートルは離された俺達は見守る事しかできない。
331
その空中にあるボールを一対一で制したのは︱︱カルロスだった。
エリア外で手の使えないキーパーよりも、ヘディングに慣れてい
るカルロスが落ちてくるボールを頭で上手くコントロールしたよう
だ。自分の着地するすぐそばにボールを落とすと、ダイレクトでそ
のままゴールに叩き込む。
豪快なシュートでネットが揺れるのと同時にホイッスルが鳴り響
く。
これで二点差なのか? ほんの僅かとはいえ俺の心が絶望に浸食
されそうになる。︱︱いや、違う。このホイッスルの音は得点した
時の物ではなく、ファールの時に吹かれる音だ。
助かったぁ。今のプレイでカルロスがキーパーチャージしたと審
判は判断してくれたんだ。
そういえばうちのキーパーも腹を押さえてうずくまっているし、
上のボールに目を奪われている間に接触があったのだろう。相手の
チームが抗議しているが、当事者であるカルロスはそれに加わらず
にアメリカ人のようなオーバーアクションで肩をすくめているとこ
ろから、ファールの自覚は多少あったのだろう。
しかし、カルロスは危険すぎる。今のプレイにしても審判がファ
ールを見逃していたら、相手陣からのパス一発で即ゴールになって
しまう。
だが引き籠ってばかりいても⋮⋮頭を悩ます俺にベンチから喚く
声が届いた。振り向くと、監督が何やらジェスチャーをしている。
え? 時間を見ろ? ええと残り五分か、もうチャンスは少ないな。
いや、そうじゃない。監督がハーフタイムで言っていたじゃないか
﹁残り五分で負けていたらパワープレイだ﹂と。
⋮⋮このカルロス一人に押されっぱなしの現状で、DFのライン
を上げて総攻撃するしかないのかよ。
332
ただピッチ上で攻め込まれているだけではない。観客席でもカル
ロスのプレイをもっと見たいのか、彼にボールが渡ると大騒ぎをし
ている。つまり会場の雰囲気はアウェー状態だ。
こんな四面楚歌の状況で同点に、いや逆転にまで持っていかなけ
ればならないなんて︱︱くそ、笑っちまうぐらいに燃えてくるなぁ。
◇ ◇ ◇
﹁あれは無茶苦茶だ﹂
想定以上のカルロスの突破力に思わず口からうめきにも似た声が
出た。あ、まずい。キャラが壊れている。
幸い隣の監督も、今までのカルロスの一連のプレイに度肝を抜か
れているみたいだから、この隙に改めて余裕綽々のうざいキャラに
修正っす。こほん、ではテイクツーだ。
﹁あれはもうほとんど卑怯っすね。チェックメイトをかけたらチェ
スの対戦相手にぶん殴られて、盤を反対にされたようなもんっす。
あんな力技のゴールは頭脳派としては認めたくないっすねー﹂
﹁でも、明智が対戦するならどうする?﹂
監督の質問に﹁うーむっす﹂首を捻る。そんな簡単にスピードの
あるドリブラー対策ができれば苦労はしないよ。でも聞かれた事に
は何でも薄っぺらい回答をするのが俺のクオリティだ。
﹁そうっすねー。ま、まずはこれからの試合展開に期待しましょう
か。矢張SCが粘れば粘るほどカルロスも消耗するはずっす。フル
出場すれば、いくらなんでも午後までの短時間でカルロスのスピー
ドが完全に回復するはずがないっすよ。だからどうせ負けるんなら、
333
せめて矢張も最後まで俺達の役に立って欲しいっすよ。そう言う訳
で、がんばるっすよー矢張SC−!﹂
﹁ずいぶんとまあ打算の臭いがする応援だな、おい﹂
﹁そんな事はないっす。俺は心の底から矢張SCが勝ち上がり、あ
の足利って小僧と頭脳戦を楽しみにしている、きりっす﹂
﹁いや、最後だけ急に真顔になるのが余計に胡散臭いというか⋮⋮﹂
﹁まあそんな事より面白くなってきたっすよ。カルロスみたいなス
ピードスターがいるのに、矢張はラインを上げて総攻撃にいくつも
りっすね。これは作戦名は﹁カミカゼ﹂か﹁バンザイアタック﹂っ
すね。くー勝算がない状態からの最後の特攻っすかー、燃えるっす
ねー﹂
334
第四十九話 キャプテン後はお願いします
監督の大きく腕をぐるぐる回す﹁上がれ﹂との合図に、DFは全
員が顔を引きつらせながらラインを上げていく。
じりじりと上がっていくラインがついにカルロスと同じ横一線に
なった時、ついに耐え切れなくなったようにこの試合はサイドDF
になっていた先輩が、監督とキャプテンを睨むような決意の籠った
眼差しで一瞥すると猛ダッシュでサイドを駆け上がる。このままゆ
っくりラインを上げるよりは、思い切って攻撃的に行動して特攻の
時間を少しでも減らそうと考えたのだろう。
何しろ今はキーパーチャージによって得たフリーキックからの再
開だが、蹴るキーパー以外の矢張のメンバーのほとんどが敵陣内か
その付近まで上がってしまっている。
全員が相手陣内に入ってしまうと確かオフサイドのルールが適用
されないはずだったから、DFのラインはハーフウェイラインと重
なりそうなほど上げっぱなしの所にしてあるのだ。
そしてオフサイドのルールのせいで、そのラインぎりぎりにまで
下がってくるしかなかったカルロスや他の敵FWが窮屈そうに勢揃
いしている。合図があればすぐにでもラインの裏へ飛び出そうとし
ているその姿は、まるで運動会の短距離走のスタート前のようだ。
傍目には微笑ましい光景かもしれないが、俺達にとってはかなり
冷や汗物の状態である。カルロスはもちろん、他のFWにしても充
分にスピードスターと呼ばれるだけの快足を持っている。もし、俺
達の陣にボールがこぼれてしまえばすぐに拾われ、DFは追いつく
のに苦労するだろう。︱︱それはつまり失点する事を、いやこの試
合に敗北する事を意味している。
335
これは以前に練習でやった馬鹿試合を思い出させる指示だ。﹁肉
を切らせて肉を切る。最後にはタフな俺達の方が立っているはずだ﹂
とか監督は言っていたが、確かに精神的にタフでなければこんな無
茶なタイトロープディフェンスはやろうともしないだろうよ。
これはもう監督からの﹁失点は恐れずに得点しに行け﹂という意
思表示に他ならない。
他にはあの無茶苦茶な監督は何を言ってたっけ。そうだ﹁怪我す
るな﹂と⋮⋮﹁楽しんでこい﹂だったな。
空を仰いで息を吐く。
そうだ、楽しまなくちゃいけないよな。これは監督命令なんだか
ら、俺のわがままって訳じゃない。仕方ないことなんだよな、うん。
そんな風にいつもの如く自己正当化を終了すると、一番近くにい
たキャプテンに声をかける。
﹁ほら、キャプテンもそんな厳しい顔をしていないで、もっとこの
試合を楽しみましょう﹂
﹁そうは言っても、この状況で攻めるのはかなりリスキーだよ﹂
﹁大丈夫です!﹂
﹁⋮⋮どうしてだい?﹂
俺が余りにも強く太鼓判を押すので、キャプテンも理由を尋ねて
きた。もちろん俺が自信満々なのにはれっきとした理由が存在して
いる。
﹁何かあったら、キャプテンが全部フォローしてくれるからです!﹂
目を丸くして俺の責任転嫁を耳にしたキャプテンは、腹を抑え﹁
くくく﹂と笑いともうめき声ともつかない音を漏らす。やがて上げ
た瞳に少しだけ浮かぶ涙を拭って﹁仕方ないね﹂と了承してくれた。
336
﹁後輩と監督の両方の要望にはキャプテンとして反対できないよ。
後のフォローは全部僕に任せてアシカは点を取って来てくれ﹂
﹁はい﹂
元気よく返事をすると、びしっと敬礼の真似事をして前へ歩を進
める。
さあ特攻と行こうか。そんな覚悟を決めてはいるのだが、俺の足
取りは軽い。何しろ﹁楽しめ﹂って命令だし、後ろのフォローは全
部キャプテンに任せているんだ。好き放題にやれる条件は揃ってい
る。
全国大会で優勝候補相手に総攻撃だ、これで燃えなければ嘘だよ
な。
キーパーのキックでリスタートした俺達は、すぐにでもゴール前
に持っていこうとする。こんな前がかりな総員突撃態勢なんて長く
続けていられるはずがない。一刻も早くシュートに結び付けなけれ
ば失点の危険性は加速度を上げて上昇していく。
だからこそ、リスクの高いプレイはできない。そして安全なプレ
イでは前へは進めない。
相反する事情によって焦るほどに秒針は回り、じりじりと矢張の
DFラインは下がっていく。これは責められない。カウンターを狙
うスピードスターを相手にしてラインを上げ続けろというのは、殴
られても顔をそむけるなと言うのに等しい難題だからだ。
判ってはいるが、時間の経過が俺達の敵だ。その敵を倒すために
は多少の無茶は許容されるだろう。ギャンブルを打つと決めた俺は、
大きく手を上げるとボールを要求する。
そしてボールを受け取ると、すぐさま俺は﹁味方のゴールに向か
ってドリブルをしながら下がって行った﹂のだ。
337
一瞬敵味方の区別なくぽかんとした阿呆面と固まった体をしてい
たが、その硬直が解けると怒涛のように舞台は動き出した。今、俺
からボールを奪えばオフサイドにはならないと皆が気づいたのだ。
まず、敵FWが凄い勢いで食いついてきた。その中にカルロスも
含んでいるスピード自慢ばかりだ。残念ながらうちのDFは隙を突
かれたのか、スタートダッシュで置いて行かれ二番手グループだ。
そこまで見届けるとボールをキーパーにバックパスして託し、俺
は踵を返してまた駆け戻る。このパスは当然ながらキーパーが手を
使う訳にはいかないボールである、従ってキーパーも足技で何とか
するしかない。それに加えてこの状況であればオフサイドの心配も
ないので、敵のFW︱︱特にカルロスなどはもうすでにキーパーを
射程圏内に捉えようとしている。
だが舐めるなよ、うちのキーパーを。あのキーパーレスの馬鹿練
習試合で二得点もした、キャッチよりシュートが得意なんじゃない
かと首を傾げる少年だぞ。敵に詰め寄られたとしても前線へロング
パスを通すことなど造作ない⋮⋮はずだ。もしミスしても俺のせい
じゃないからね! そう責任をキーパーに押しつけて、俺は前へ︱
︱点を取りに行く。
俺がセオリー度外視したプレイをしたせいで相手のフォーメーシ
ョンが混乱している。まあ、味方も混乱しているんだが、それでも
うちはチーム全員が﹁攻める﹂という意思統一はできているので収
まるのも早い。
ゴールキーパーが俺からの無茶ぶりに応えて前線へと蹴ったボー
ルを、キャプテンが確保し素早く山下先輩へ送っている。俺が無意
味に思える後退で敵FWを釣りだしたおかげで中盤は穴が多い。普
通ならば敵のMFが埋めているべきスペースも、さっきまではオフ
サイドラインに押し下げられていた敵FWが占めていたせいである。
338
そこで一気にFWが敵陣へ飛び出していった物だから修正が間に合
っていないのだ。
このチャンスを逃すわけにはいかない。山下先輩がボールをキー
プしたまま敵DFと対峙しているのに叫ぶ。
﹁山下先輩、強引にでも突破してください! ファールで止められ
てもフリーキックで俺が決めますから!﹂
この俺の叫びには山下先輩に指示する以外にも幾つかの意味があ
る。
まず理由その一は、声によって俺がここまで攻めに戻って来たこ
とを先輩に伝える為だ。そしたら、ほら、山下先輩が俺にボールを
パスしてくれた。
ここで俺が叫んだ第二の利点が顔を出す。それは強調された内容
によって俺達への当たりが微妙に軽くなっているのだ。これまでの
試合で二点はセットプレイから失っている。俺の叫びがそれを意識
させたことで、ファールを犯したくないとチェックに躊躇いが生ま
れているのだ。そうだよな、誰だって同点のフリーキックを与えた
戦犯だって後ろ指は差されたくない。
だがそれがこっちの付け目だ。一瞬の迷いを逃さずにボールを受
け取ると遅滞なく突進する。スピードに乗りペナルティエリアのす
ぐ前まで来ると、一旦FWへボールをはたきそのリターンパスをエ
リア内でシュートしようとする。
俺へのマークがここまで甘いのは、これまでの意味不明な動きが
役に立っているようだ。なにしろドリブルして最終ラインを越えて
自陣へ戻り、そこからこの最前線まで駆け上がったりと捉えどころ
のない一見無駄な走りを繰り返している。その動きに相手のFWが
釣られてしまったものだから、ディフェンスするには人数が足りな
339
いのだ。
もちろんその下敷きには下尾監督の﹁全員上がれ﹂という指示で、
矢張SCがオフサイドラインをぎりぎりまで上げたせいで剣ヶ峰の
防御戦術が混乱したことも関係している。
そこまでは上手くいっていたのだが、エリア内に侵入しようと一
歩踏み入れた瞬間にキーパーが飛び出してきた。このままのタイミ
ングでダイレクトシュートを撃てば例えループシュートでもキーパ
ーの体にぶつかってしまう。
とっさにシュートしかけた足をずらし、踏みつけるようにしてボ
ールを止める。そして素早く後方に引き付けると、突っ込んでくる
キーパーに背を向けながらボールは体の回転に沿って回す。キーパ
ーの目前でのルーレットだ。
ここはエリア内である。俺がゴールとキーパーに背を向けた状態
で、しかもキーパーが指一本ボールに触れないまま俺に対して強く
ぶつかれば悪くてもPKはもらえる。
ここまでのシナリオは完璧だった。
ルーレットでターンしている俺の頬には笑みすら浮かんでいたか
もしれない。その笑みが半ばまで回転した所で凍ってしまった。
なんでここにいるんだカルロス! お前はうちのゴール前にいた
はずだろうが!
ゴールしようと集中したせいで、背後や鳥の目に隙があったとは
いえ、どれだけのスピードでここまで戻ってきたんだこいつは。
とにかく今はルーレットをしている最中で、急に切り替えて他の
行動なんてできない。カルロスが足を伸ばしてボールを奪おうとし
ても、ボールを引きずるように動かしている右足に力を込めて抵抗
するぐらいしか道はなかった。
ボールを中心にした衝撃と鈍い衝突音が漏れ、二人のぶつかった
340
右足の間からボールがぽろっと転がり出た。
まずい、このこぼれ玉を早く拾わないと。そう動きだそうとする
が、もちろんカルロスも同時に反応している。
こいつと競争かよ! グチを吐き捨てても仕方がない。スタート
しようとした足に軽いショックを受けて僅かにバランスを崩す。足
下を見るとキーパーが止まれずにぶつかったのだが、これではPK
を貰えるような当たりではない。このぐらいで倒れたら、俺の方が
わざとPKを取ろうとしたとしてシミュレーションの反則になって
しまう。それぐらい軽い当たりだったが、俺のスタートダッシュを
遅らせるのには充分な効果を与える衝撃だった。
悔やむよりも一秒でも早くボールを⋮⋮と見つめた時、すでにボ
ールは新たな所有者によって全力で蹴られていた。
剣ヶ峰のゴールへと。
︱︱キャプテン、ナイスシュートです。
﹁足利もカルロスも上がっているのに、僕がついていかない訳ない
だろう。なにしろわがままな後輩にフォローを全部頼まれたんだか
ら﹂
そう言って拳を握ると全力でここまで駆け上がったキャプテンは、
肩を大きく上下に揺らしながら胸に拳を当てて観客席をちらっとだ
け眺めた。
ゴールを決めたというのに、キャプテンはどこか恥ずかしそうな
そんな控えめなガッツポーズしかとらなかった。
俺を含めて絶叫しながら集まってきたチームメイトが、祝福のた
めに親のいる観客席前に連行しようと彼の腕を引っ張る。なぜかキ
ャプテンが得点した場合にのみ、祝福の張り手による赤い紅葉が封
印されるのは謎である。
341
そんな俺達に苦笑しながらも、抵抗せずに引っ張られていたが﹁
あ、ちょっと待って﹂と一言告げて、キャプテンはカルロスとキー
パーの前に立ち胸を張る。
﹁あんまり舐めないでほしかったな、僕はこれでも矢張SCのキャ
プテンなんだよ﹂
342
第五十話 時計の針に注目しよう
今日何度目の試合再開の合図を待っているんだろうか。この試合
のスコアは四対四という県大会ならともかく、全国大会では珍しい
ぐらいの点の取り合いになっている。
しかもこれは別にノーガードの殴り合いって訳ではない。お互い
が守備をベースとした戦術にもかかわらず、この結果なのだ。全国
レベルの守備を越えた破壊力が両チームにある証だろう。⋮⋮剣ヶ
峰にはカルロスがいて、俺達の攻撃の場合にはギャンブルが当たる
という運の要素も多分にあったが。
ここで両チームとも残り時間が無いにもかかわらず、慌ただしく
メンバーチェンジが行われた。剣ヶ峰はFWの入れ替えで、こっち
はDFとFWをそれぞれ同じポジションの少年と交代だ。
たぶん向こうはカルロスと相性のいいFWを入れたんだろう。う
ちは疲労で足の重くなっているメンバーのチェンジである。 ピッチから良く見えるスコアボードには四対四というスコアと、
ロスタイムが四分という表示があった。
四並びとは運がいいのか悪いのか判らないが、試合時間そのもの
はもうすでに使い切っている。あとはロスタイムに残された四分だ
けの戦いとなるな。それでも決着がつかないならば、延長戦からさ
らにPK戦へと進んでいく。
審判のホイッスルと、カチリと小さな音を立ててスコアボードに
ある時計の針が動くのがほぼ同時だった。後この試合はたったの四
分間か。
剣ヶ峰はまたキックオフのボールをカルロスに渡すが、今回の彼
343
はあっさりとボール後ろに戻して、前回のキックオフからのドリブ
ルで強行突破を試みてはこなかった。
﹁さすがにあんなに神がかったドリブルは、もうお休みみたいです
ね﹂
俺の言葉にキャプテンも頷く。ほとんど対カルロスのドリブル専
用ともいえる﹁カルロスが来たよ、全員集合!﹂と引き籠って自陣
のペナルティエリアに集結するという、みっともないディフェンス
は披露せずにすんだようだ。
﹁そりゃああんな抜き方が毎回できるのなら、どんな抵抗しても無
駄になりそうだしね。カルロスもガス欠とまではいかなくても、あ
れだけのキレのあるドリブルする体力が尽きたって感じかな﹂
﹁なら今のカルロスはただの代表のエースクラスの選手ってことで
すか﹂
﹁それでも充分にすごいけどね。でも前みたいに全員でディフェン
スしても止められないって雰囲気じゃないよ﹂
﹁さすがはキャプテン。プレイだけでなく俺の発言までフォローし
て相手の状態の解説まで行き届くとは、素晴らしい万能ぶりですね﹂
﹁ま、キャプテンだからね﹂
﹁⋮⋮キャプテンになるハードルがそんなに高いなんて今初めて知
りましたよ﹂
俺達が中盤の底で会話している内に、また時計の針がカチリと動
く。残り三分だ。
どうすべきかと、ちらりとベンチを眺める。ラインを上げて同点
にしろとの作戦は、忠実に実行したつもりだ。では、同点になって
からのプランはどうなっているんですか監督?
このまま同点を維持して延長に持ち込むのか、それとも⋮⋮。
344
下尾監督は一点負けている状況と同じように手を大きく回して﹁
攻め上がれ!﹂と全身で指示していた。どうやら延長にいく前に勝
負を決めるのがお好みらしい。クラブ内で一番好戦的なのが監督っ
て大丈夫か、とも思うが俺のスタミナの残量も実はそろそろ厳しい。
延長に入らずに勝てるならばそれに越した事はない。
傍らのキャプテンと顔を見合わせるとお互いに肩をすくめ苦笑す
る。判っていたんだ二人とも。うちの監督はこういう監督なんだっ
て。
﹁ラインを上げろ!﹂
俺とキャプテンがDFにそう指示していると他の地点からも同様
の声が届いてきた。思わずそっちに目をやると、ちょうど振り向い
たカルロスと視線が合う。どうやら向こうのお望みも延長前の短期
決戦らしい。
驚いたように丸くなっていた彼のブラウンの瞳にも笑みの影がよ
ぎる。こっちも守らずに攻撃に出るのが判ったのだろう。ブラジル
の血が入ったサッカー選手は皆攻撃が好きなのか、音を出さずに口
笛を吹く真似をして小さく拍手の真似事をする。
舞台は全国大会、相手は未来の日本代表のエース、状況は点の取
り合いの末の同点、残り時間はロスタイムのみ。この状況で攻めろ
! という指示が出たら燃えないフットボーラーはいないだろう。
プレッシャーがかかっていない訳ではない。自分の一挙手一投足
に観客からの視線を感じているのだ、無視することはできない。だ
がその重圧がかえって俺の緊張感を研ぎすまし、集中力を持続する
いい刺激になっているのだ。
人の目に晒されるのが重荷に感じるのは、恥ずかしさや照れがあ
るんだろう。でも逆行する前ならともかく、今回はサッカーに関し
345
てだけは誰に見られても恥じることなく胸を張れる、俺はベストを
尽くしていると。
俺とカルロスの絡み合う視線が離れたのは、中盤で激しいボール
の争奪戦が始まったからだ。お互いが残り時間が少なく、そしてそ
の間に得点を決めた方が勝つと判っている。ならばボールの奪い合
いにも熱が入る訳だ。
残念ながら俺の体格とパワーではこの格闘技に近いぶつかり合い
では分が悪い。自分に今できる最善の事︱︱ルーズボールが出る確
率の高そうな位置に陣取り、プレスの掛け合いを一歩引いた場所で
応援するしかない。
俺のすぐ目の前にはキャプテンが体を張り、向こうの屈強なMF
と肩と肘で押しあっている。こんな泥臭い場面だといつもはその場
からいなくなるはずの、クールな山下先輩まで汗にまみれて走り回
っている。
カチリ。時計の針がまた動いた。ロスタイムの残りはもうたった
の二分しかない。
くそ、俺も力足らずとはいえ参加するべきか? 血は熱く俺もあ
の中へと飛び込むべきだと叫んでいるが、頭は冷たく冴え最もボー
ルがこぼれる可能性の高い場所へと小刻みなポジションチェンジを
繰り返している。
勝手に飛び出しそうになる足に向けて言い聞かせる。焦るな、仲
間を信じるんだ。絶対にあいつらはボールを敵に渡したりはしない。
そう信じてはいても、体力的にはともかく精神的に消耗する。自
分が動くべき時にまでひたすら我慢する方がずっときつい。こんな
ことなら闇雲に突っ込んでいって暴れまわったほうがはるかに楽だ
とさえ思える。
だがそれは逃げだ。
346
俺は二回目にサッカーをやる機会が訪れた時に、絶対世界一の選
手になると決めたのだ。世界一の選手がこの場面でプレッシャーに
負けて逃げるだろうか? 逃げるどころか、こんな時にこそ笑うんだろうな。
ぎりぎりの状況でリラックスして微笑める選手こそが、世界への
階段を上がっていけるのだろう。
深呼吸して無理やり唇をつり上げる。体の強張りが抜けたことが
影響したのか、目の前で展開されている迫力満点の格闘戦だけでな
く、いつの間にか俺のすぐそばに接近していたカルロスに気が付い
た。
こいつは俺よりはるかに恵まれている体格をしているくせに、こ
の潰し合いには参加する気配はゼロだった。
むしろ、仲間が走り回っているのを無視して俺をまっすぐに見つ
めて笑っている。
くそ、負けるもんか。対抗してこっちも唇が上がっている程度だ
った笑みを、もっと深くして睨み返す。
ピッチの真ん中でありながら、周囲の喧騒からすこしだけ外れた
場所でお互いが牙を見せつけあっている。試合中とは思えない、ど
こかシュールな風景だ。
だが、こんな時でも警戒のアンテナは張っておいて良かった。俺
の鳥の目によると中盤の競り合いの均衡が崩れ、ボールが破れた網
の目からこぼれ落ちるように、誰もいないスペースへと転がり出た。
ルーズボールが俺とカルロスが睨み合う、そのちょうど真ん中に
転がってきたのだ。お互いが躊躇いなくこぼれ玉へと飛び込もうと
する。
カチリ。時計の針がまた動いた。
残り一分。
347
おそらくはこの試合最後になるであろうプレイが、ここから始ま
る。
348
第五十一話 みんなで肩を叩き合おう
俺とカルロスの間に転がるボールに、最初に触れる事ができたの
は俺だった。
単に同距離を同じタイミングでスタートすれば、間違いなくカル
ロスが先着する。だが、ここは第三者のいない陸上のトラックでは
ない。勝負の分かれ目は、カルロスに肩をぶつけるようにして彼の
初動を遅らせてくれた、頼りになるうちのキャプテンだった。
それでも半ばキャプテンを突き飛ばすような格好で迫ってくるカ
ルロスよりも、ほんの一瞬だけしか先にたどり着けなかった。これ
では細かなボールコントロールなど出来るはずもない。このままで
はすぐにボールを奪われると確信した俺は、トラップしてからのド
リブルではなく勢いを殺さずにスライディングするような格好での
ダイレクトでのパスを選択する。
カルロスの長い足に引っかからないように注意したパスは、ぎり
ぎりでその長いコンパスを通過し、こちらに近づいていた山下先輩
へときっちり渡った。
あのパスでもカットされかかるとは、やはりカルロスの足のリー
チは日本人離れしているな。いやあくまで日本人小学生の平均と比
較しただけで、俺と比べた訳じゃないぞ。
そんなちょっとした屈辱を感じている俺を置き去りに、カルロス
は新たな獲物を見つけた猟犬のように、風を裂く音がしそうな鋭い
方向転換をして山下先輩に襲いかかる。
パスを受けた山下先輩はくるりと素早く反転すると、カルロスが
追いつくまでの僅かな時間に先輩としては遅めなドリブルで数メー
349
トルだけは進んだ。そして充分に敵の注意とマークを引き付けたと
判断したのか、ノールックでのヒールパスを出す。
そこに走り込むのはもちろん俺である。
さすが先輩だ、毎朝のトレーニングでやっているのと全く変わら
ないタイミングで俺の元へとパスが届いた。間違いない。きっと彼
はずっとヒールキックの個人練習をしていたに違いない。俺の方が
得意だからって悔しそうに何度もコツを聞いていたもんなぁ。
こんな切迫した状況にもかかわらず、自分の足下にチームメイト
から託されたボールがあるのが嬉しくて、歯を食いしばっていた顔
が勝手にふにゃっと崩れる。
とにかくボールを確保してドリブルを始める俺の前には、スペー
スという名の自由な花道が広がっていた。
ここまでノーマークになれたのには山下先輩の貢献が大きい。あ
れだけ敵のマークを集めてくれれば、その影から飛び出した俺への
対応も遅れて当然だ。
特に助かったのは、すぐそばにいたカルロスも引き付けてくれた
ことだ。あいつは反応の速さが仇になり、俺から先輩にターゲット
を変えた後、さらにノールックパスと翻弄されて完全に振り切られ
ている。そして他の剣ヶ峰DFも一斉に上がり始めたうちのチーム
メンバーに気を取られ俺にマークを絞り切れていない。
ありがとう。
俺の心の中にあったのは激しい試合の中には不似合いな感謝の念
だった。
キャプテンがカルロスの一歩目を止めてくれたから、俺が先にボ
ールへたどり着けた。
山下先輩がマークを引き付けてくれたおかげで、今俺は自由にド
リブルできる。
350
守備陣もきついだろうに両サイドが駆け上がってくれたから、中
央にいるDFが少なくなっている。
交代してくれたボランチの先輩、あなたが最初の八分間頑張って
くれたおかげで、スタミナのない俺でもまだ何とか足が動く。
そして下尾監督、こんな作戦をよく破る三年生をよく主力に据え
てくれたものだ。おかげでこうして終了間近のプレッシャーがかか
る場面でも自由にプレイができる。
この矢張SCに入ったのは間違いではなかったな。
まさかあんなにサッカー馬鹿だった俺が、あれ以上にもっとサッ
カーを好きになれるなんて自分でも思っていなかった。
こみ上げる感情を抑えきれずに、叫びにも似た笑い声を漏らして
ドリブルを続ける。走っている最中に呼吸を乱すのは御法度だと判
っていながらも我慢しきれなかったのだ。
前にディフェンスが立ちはだかると、顔を上げてその目から視線
を逸らさずにノールックでサイドの仲間へパスを送る。渡された相
手もダイレクトで敵をかわした俺へボールを戻す。スピードを落と
すことなく、さらにダイレクトで前線で張っているFWへ回す。D
Fを背負ったFWがそれをまたもワンタッチで俺へ戻す。
この時の俺はほとんど全力疾走のペースは変わらず、味方のパス
もダイレクトパスなのにぴたりと足下や前のスペースへと通った。
事前に打ち合わせやアイコンタクトさえなかったにもかかわらず、
全員の意志が統一された見ているだけでもわくわくするコンビネー
ションプレイだ。
そんな夢のような時間が終わる瞬間がやってきた、敵のゴール前
にたどり着いたのだ。ここまで俺を連れてきた人達への感謝をこめ
て丁寧に逆転のシュートを撃とう。
表情が真剣に戻り、視線をボールに落す。肉眼だけではなく鳥の
目で周囲の状況を確認する。俺へのマークは最接近しているDFは
351
シュートコースを切っているだけで、カルロスと同様に到達するま
で後二秒はかかる。落ち着いてキーパーとの一対一に専念できる絶
好の舞台だ。
キーパーはさっきは飛び出してゴールを割られたのが頭に残って
いるのか、腰を落して前進はしているがまだ体を倒してはいない。
これはループではなく速いシュートでキーパーが届かないゴール隅
に撃つべきだ。
これまでさんざん俺を悩ませていた決定力不足よ、今だけは味方
をしてくれ。
祈るような気分で足を振りあげると、不意に頭の中に監督の言葉
がよぎった。
﹁サッカーを楽しめよ﹂︱︱ええ、充分に楽しんでいますよ。引き
締めた表情が緩み、全身から無駄な力みが抜けて、唇からは牙が覗
く。
今までよりも柔らかいフォームから放たれたシュートの感触は、
前世を含めても最高の物だった。
芝を這うような低く鋭いライナーがキーパーの伸ばす手よりも一
瞬早く通過する。
瞳には揺れるゴールネットに横たわるキーパー、耳からはボール
がゴールネットを擦る軽い音、そして耳ではなく肌がビリビリ震え
るほどに自分に浴びせられる歓声を感じている。
だが、こんな劇的な場面でゴールを決めたにもかかわらず、俺は
興奮よりむしろ安堵の気持ちが先に感じた。
︱︱ああ、これで少しは皆に恩返しできたのかなぁ。
審判がゴールを認める長いホイッスルと、試合終了を告げるホイ
ッスルを続けて鳴らす。歓声に包まれていても、この音だけは耳に
届くんだよなぁ。勝利の時は優しく、負けた場合は鼓膜に突き刺さ
352
る音色である。
ゴールからゆっくりと振り向くと、チームの全員が俺めがけて駆
け寄って来ている。
パスをくれた山下先輩は﹁俺にリターンパスをよこさなかったん
だからな、外してたら殴ってたけど⋮⋮。まあナイスシュートだ﹂
といつもなら言わない賞賛の言葉と背中に赤い紅葉をプレゼントし
てくれた。
いつの間にか、シュートを撃った俺の後ろにまで追いついていた
キャプテンは﹁フォローする必要ないぐらい、いいシュートだった
ね﹂とぽんと肩を叩いて褒めてくれた。
他の皆も﹁よくやったぞ!﹂とか﹁格好良かったぞ!﹂や﹁唸れ
! 俺の右掌。キャプテンの時の分まで、はあっ!﹂などの声と共
に、背中や頭をばしばしと音を立てて乱打してくる。
嬉しいけれど、正直痛い。
ベンチと観客席に得点したとアピールしに行く素振りで、この場
から逃げ出す事にする。
俺に対してまだ祝福なのか叩き足りないのか不明なチームメイト
を引き連れて観客席に向かう。
ああ、うちの母さんが手を振っているが、周りのママ友の興奮ぶ
りにいささか押され気味だな。あまりサッカーに詳しくないんだよ
な、うちの母さんは。息子が頑張った程度に思ってくれればいいん
だけれど。
俺がガッツポーズをすると周りの人が立ち上がって、手を振り返
していたのに母さんは人影に埋もれてしまった。
ま、まあ有名税みたいなものか。これからもきっと何度もこんな
ご面倒おかけする予定ですが、これでも親孝行のつもりなんです。
353
次にベンチに向けてのポーズだ。監督にぐっと拳を突出し、親指
を立てる。監督もそれに応えて、芝居がかった様子で自分のかぶっ
ていた帽子を脱ぐとサムズアップを返してきた。
いや、気が付くと監督のみならずベンチ入りしているメンバーの
全員がポーズを返している。
そのどこかおかしな光景に思わず笑いが込み上げる。同時に今頃
決勝点を取った歓喜が込み上げてきた。
前に突き出していた拳を改めて天に突き上げ、自分でも区別のつ
かないが熱いことだけは確かな感情を込めた咆哮を放つ。
﹁おおおおー! おおーはっはっはっは!﹂
後半は笑いへと変化してしまったが、胸に溜まっていた試合での
熱気とプレッシャー、ストレスに緊張などプラスもマイナスも全て
吐き出してしまった。
周りも俺の大笑いに一瞬ギョッとした表情だったが、すぐにくす
くすと含み笑いからチーム全員がお互いの肩をばしばしと音がする
ほど叩く、大笑い大会になってしまった。
この機会にさっきの仇を討とうと、山下先輩などと集中的に狙わ
れる同士でスナップを利かせた張り手の交換をする。痛いくせに今
だけは気持ちがいいんだよな、これが。ただ今夜、風呂に入る時は
地獄だろうが。
それでも、今のこの時間だけは体のすべての感覚は痛みや疲労で
さえ快く、耳に入るのはチームメイトの嬉しい悲鳴だけだった。
︱︱ああ、やっぱりサッカーって楽しいな。
354
第五十二話 未来のことを考えよう
俺達の馬鹿騒ぎを制するように審判が﹁早く整列しなさい﹂と促
してきた。あ、嬉しさで舞い上がったあまり忘れていたが、試合後
の挨拶がまだだったな。
実は、俺はどうにもこの試合後に相手チームと顔を合わせるのは
苦手である。これは勝っても負けても変わらない。
まだ練習試合ならまだしも、公式試合ではそれが顕著だ。勝てば
相手を見下しているように感じられるし、負ければ悔しさを押し殺
すので精一杯だ。少なくとも少年マンガのように勝っても負けても
さわやかに、なんて芸当は俺には不可能な行為なんだよな。
だから審判の矢張SCの勝利を告げる声に頭を下げると、できる
だけ早くその場から逃れようとする。
﹁アシカだったよな、ちょっといいか﹂
そんな俺の目論見はカルロスのかけてきた声によって崩れさった。
ばつが悪そうにしぶしぶ振り向いた俺に対して、カルロスは何の
わだかまりもなさそうな落ち着いた表情だった。むしろ今の俺の挙
動の方が礼を失しているだろう。
深呼吸して頭を試合中の戦闘モードから、日常モードの穏やかで
丁寧なものへと切り替える。
さて、日本のエース候補様が何の用だろうか?
﹁ええ、いいですよ。とりあえずナイスゲームでしたね﹂
﹁⋮⋮ああ、まあオレが勝ってればもっと良かったんだけれどな﹂
と苦笑まじりで話すカルロスの表情は、意外にも年相応にあどけ
355
なく柔らかく見えた。こいつはもしかしたら試合中はアドレナリン
が出っ放しで、性格が変わるタイプなのかもしれないな。
だとしたらこちらも試合中と違って、友好的な態度を取るのも問
題ない。元々俺はカルロスの能力には敬意を払っていたのだ。
右手に付いていた汗をユニフォームで拭い、差し出す。
あしかが はやてる
﹁改めてよろしく、アシカじゃなくて、足利 速輝です﹂
﹁え、お前の名前はアシカじゃなかったのか? そうか、アシカじ
ゃなくてアシカガ。アシカじゃなくてアシカガが﹂
﹁⋮⋮いや、もうアシカでいいです﹂
なんだか早口言葉になりかけていたカルロスを止めて、俺をあだ
名で呼ぶのを許可する。別に握手していた手が痛くなるほど大きく
力強い手を放してほしかったからではない。クラブ内でもキャプテ
ン以外には全員から﹁アシカ﹂と呼ばれているので、今更カルロス
にそう呼ばれてもそれほど違和感がなかったのだ。
﹁それで、なんでしょうか?﹂
﹁いや、アシカが使っているテクニックは、どうもオレの周りの日
本人っぽくなかったから気になってな。ブラジルの子供みたいにボ
ールに慣れている感じだった。どこか外国のクラブでフットボール
をやっていたのか? それとも小さいころからストリートで遊んで
いたとか﹂
﹁いえ、そういう訳ではないんですが⋮⋮﹂
﹁じゃあ、どこでフットボールをやり始めたんだ?﹂
﹁⋮⋮今年の四月からこのクラブでです﹂
歯切れの悪い俺の返答に何か問いただそうとした感じのカルロス
だったが、今日が初対面だったと思い直したらしい。はあ、と傍目
にも大きなため息を吐くと、肩をすくめて頬をかいた。
356
﹁まあ、何か事情があるらしいがその続きは⋮⋮そうだなUー十二
の日本代表に選ばれた時にでも教えてくれ。お前もその内に同じチ
ームに呼ばれるだろうからな﹂
﹁はは、そうですね。もし日本代表でチームメイトになれたら全部
話しますよ。まあ作り話九十九パーセントの物語になりますが﹂
﹁⋮⋮そいつは楽しみだ。全米が泣くってレベルの話に仕上げてお
いてくれ。じゃあ、早くアシカもこっちに来いよ、一緒に世界と戦
おうぜ﹂
﹁はい、必ず!﹂
俺は力を込めて頷いた。世界一を目指しているのだから、年代別
の日本代表が現実味を帯び出している程度で動揺してはならない。
とはいえ前世から目標の一人にしていたカルロスに認められたよう
で、嬉しさを隠すことはできなかった。
︱︱だが結局この約束が果たされる事はなかったのだが。
◇ ◇ ◇
﹁ふーむ。まさか矢張SCが勝利するとは⋮⋮予想通りっす﹂
﹁え? 明智って剣ヶ峰が負けるのが判っていたのか? でも今ま
さかって言ったよな﹂
驚愕して突っ込む監督に、重々しく頷く。
﹁ええ、監督が剣ヶ峰の勝利を疑ってなかったんで、俺はその逆張
りの予想を立てていたっす。あ、まさかって言ったのは一応監督へ
の気遣いっす、監督はカルロスの勝利を疑っていなかったようだっ
357
たので﹂
と胸を張る。本当は矢張が勝つなどとは露ほども想像していなか
ったのだが、監督のみならず他のメンバーも一緒に観戦している状
況では虚勢を張らざるえないな。
ここで﹁俺もびっくりっす﹂と認めてしまえば、﹁あ、明智にも
判らなかったのかぁ﹂と士気が下がってしまう。午後から矢張との
試合を控えた身でそれは避けたいからな。うちのいまいち頼りない
クラブの面々の為にも、俺は﹁間違いのないリーダー﹂でいなけれ
ばならない。
それにしても本音で言えば、カルロスを擁する剣ヶ峰SCよりは
矢張SCに対戦相手が決まって助かった。
あのカルロスの個人技とスピードでの突破に対しては﹁ラインを
下げて守る﹂か﹁マークを数人付ける﹂か﹁奴に来るパスを遮断す
る﹂ぐらいしか無かったからなぁ。
しかも、そのどれもが今までのチームがやって成功しなかった方
法だから、俺としても最後の手段である﹁試合中カルロスの身に不
幸なアクシデント﹂を起こす覚悟はしていたんだけど、無駄になっ
てよかったなぁ。いやぁ、予定されているアクシデントなんて事故
じゃないって? やだなぁ、俺の想定通りの事故が起こったとして
も、それはもちろん偶然だよ。
それでも、自分の良心を説得して考えていた﹁カルロス対策﹂を
実施しなくてすんだ事に内心ほっとする。相手が怪我する可能性の
高い作戦はやる方もやられる方もいい思いはしないもんな。
でも今大会だけは負ける訳にはいかなかったから仕方がなかった
んだ。優勝以外は全ての努力が無意味になってしまう、優勝しなけ
れば俺はサッカーを続けることができないんだから。
358
元々学校の成績以外では折り合いの悪い両親が、俺にサッカーを
やめさせて学業に専念させようとしたのだ。それを何とか﹁この大
会で日本一になれば続けていい﹂という条件にまで交渉してくれた
のがうちの監督さんだ。
正直全国に行ければ万歳レベルのクラブだから両親も納得したの
だ。きっと内心では﹁我がままも聞いたし、この大会まででサッカ
ーを遊ばせるのは終わりだ﹂なんて考えていたに違いない。それで
も僅かとは言え、サッカーを続けられる可能性を残してくれたのは、
この頼りないんすけど信用はできる監督さんなのだ。だからこそ俺
の為にも、監督の恩に応える為にも何が何でも優勝しなければなら
ないんだ。
だからまあ、矢張SCが上がって来てくれて有り難いな。こっち
の方がどう見ても戦力的には劣っているし、カルロスみたいな超小
学生級のプレイヤーもいない。全体的なバランスは整った好チーム
だとは思うが、正直剣ヶ峰に勝てたのはラッキーと勢いに乗ってい
た点が多かった。
これならば正面から相手にしても問題はなさそうだな。
﹁あの矢張SCは主力をこの試合で酷使しすぎたっす。前にカルロ
スについて言ったと思うけれど、あれじゃ午後からのうちとの戦い
にベストの状態で出場するのは無理っすよ。特に三十九番の足利な
んか最後の挨拶ではへたり込みそうな様子だったっす﹂
﹁ふむ、そいつは助かるな。うちで言うなら明智みたいな体力が無
いタイプか。そりゃフル出場させたらきついわなぁ﹂
﹁俺は自分の代わりにボールを走らせているから問題ないっす。そ
れに、そうっすねぇ。これからみたいに二試合目でスタミナが残っ
ていない方が俺達のプレイスタイル的には有利っすね﹂
監督に答えながらピッチから立ち去っていく両チームに目をやる。
359
いっぺんカルロスとは戦ってみたかったんだけど、今回はお預けみ
たいだな。まあ、絶対に勝たなくちゃいけない試合に、あんな計算
外のプレイヤーが紛れ込むと本当に面倒だからここで退場してくれ
たのは有り難いけれどね。
でもその代わりに上がって来たのは矢張かぁ⋮⋮。うちの戦力と
この状況ならば負けはしないはずだ。
だが、念の為にも県大会からのビデオを、今からでも手に入るな
ら目を通しておきたいな。このままでも八割がた勝てると予想して
いるけれど、弱点を見つければ勝算はさらに上がるからな。
県大会からこの分析や研究が監督よりも俺の担当というのは変わ
らないスタイルだ。
でも間違っても﹁俺達の勝つ確率は九十九パーセントっす!﹂と
かは言わないようにしている。それは負けのフラグを立てる気がす
るからだ。むしろ﹁相手クラブのエースはこの試合勝利したら幼な
じみに告白するんだって言ってたっす!﹂とチームメイトを焚き付
け、勝利より告白阻止の炎を燃やさせて勝ち上がってきたようなク
ラブなのだ。
︱︱だから次の試合も勝たせてもらう。矢張SCさんも、うちと
当たった不運を恨んでくれ。
360
第五十三話 三回戦のミーティングをしよう
﹁おーし、全員集合したな。それじゃ三回戦のミーティングを始め
るぞー﹂
監督の声に矢張SCの全員が﹁はい!﹂と威勢良く返事をする。
もう剣ヶ峰戦が終了してからしばらくたち、昼食も済ませたので元
気一杯のようだ。
俺も同じ年代のはずなのに未だ体力が回復しきってはいない。こ
れは単にレギュラー組との二・三歳の年の差なのかな? 年齢だけ
が問題ならば仕方がないが、俺個人のウィークポイントだとまずい。
ただでさえ弱点になっているのに、スタミナ不足の問題は連戦が続
くと深刻化してしまう。できるだけ早く解決しなければならないぞ。
そう頭のメモにこれで何度目になるのか﹁スタミナを強化すること﹂
と書いてアンダーラインを引いておく。
そんな俺が大会後のトレーニングメニュー改良などしているのと
は無関係に監督はミーティングを始めた。
﹁よし、じゃあ三回戦の相手だが鎧谷SCというあまり有名じゃな
いクラブだな。何度か全国には出場したことはあるみたいだが、最
近はぱっとしていなかったみたいだ。でも今回勝ち上がってきたん
で古豪復活と言われているらしいぞー。ま、こんな情報はどうでも
いいか。問題は現在の敵の戦力だもんなー﹂
おそらくチームの全員が心の中で﹁だったら昔の話をするなよ!﹂
と突っ込んだに違いない。何か言いたげな俺達の表情を見てそうと
察したのか監督はにやりと笑う。
361
﹁うん、皆の心が一つになったな。計算通りだ﹂
﹁嘘つけ!﹂
今度こそは我慢できなくなった全員が、声を合わせて突っ込んだ。
その反応に下尾監督一人が拳を固めて﹁よしよし﹂と頷いている。
うわ、鬱陶しい。おそらく今度も心が一致しただろうが、連続で突
っ込む者はいなかった。やがて満足したのか顔を上げた監督は、何
事もなかったかのように敵チームの説明を続ける。
﹁で、敵の戦術なんだが、これがどうもはっきりしないんだよなー。
県大会のスコアを見てもほとんどが一対ゼロの勝利で、比較的楽な
試合で二・三対ゼロがあるという、ロースコアのシャットアウト試
合ばかりだ。全国に入ってからも、昨日と今日の午前の試合の両方
で一対ゼロだ。守備が整っているのは確かなんだが、どうもカウン
ターチームって訳でもないしなー。正直に言って捉えどころがない
チームだ。まあここまで勝ち上がってきたんだから、弱いはずはな
いんだが⋮⋮﹂
と歯切れの悪い解説だった。
ふむ、話を聞く限りではどんなチームなのか全くイメージできな
いな。
﹁なにか他のチームと違う所はなかったんですか?﹂
﹁いや、それが一見どこにでもあるようなチームなんだ。確かに個
人の技術はしっかりしていてパスもよくつながるし、守備も基本に
忠実だしこの年代では珍しくオフサイドトラップを多用しているな。
でも全国レベルなら攻守ともそう珍しくないレベルみたいなんだけ
どなー﹂
362
俺の質問にも監督は首を傾げる。どうも本格的に特徴のないチー
ムらしい。
﹁なるほど、じゃあ相手の良さを消すサッカーでしょうか?﹂
そこで出たキャプテンからの意見に、監督はポンと音が出るほど
右拳を掌に打ち付けた。
﹁それだ! そうだな。鎧谷SCのプレイスタイルは判らなかった
が、鎧谷SCと戦っている相手はみんなやりにくそうだったぞ。監
督や選手なんかが試合中に首を傾げながらプレイしていたなー﹂
としきりに頷いて納得したような表情を浮かべている。
うーん、どうやら相手の長所を潰すいわゆる﹁アンチ・フットボ
ール﹂と言われて嫌われるタイプなのかもしれない。でも俺は結構
嫌いじゃないんだよなそういうサッカーも。
俺の目指しているサッカーとは大きくかけ離れているのは確かだ。
だが自分の良さより相手の長所を消すサッカーもまた一つの立派な
戦術だと思う。アンチ・フットボールというが、その作戦も自分の
チームと敵の戦力と戦術を正しく理解していなければ役に立たない。
ある意味自分達から仕掛けるアクション型のサッカーより頭を使う
と言ってもいい。
だけどそれにしては何か監督の説明に違和感があるなぁ。
そんな風にあれこれ敵チームを想像していたら監督はさっさとミ
ーティングを進めていく。
﹁ま、相手がどんなチームか判らなくても、こっちはいつものプレ
イ心がけるしかないな。何しろ攻撃重視か防御優先かの二つぐらい
しかうちのクラブがとれる作戦はないしな﹂
363
とぐるりとチーム全員に目を走らせる。
﹁矢張で一番大事なのはいつも言っているように、サッカーを楽し
む事と怪我をしない事だ。⋮⋮まあ二つだがこれは両立可能だから
いいか。次の三回戦もそれさえ守っていれば大丈夫だ。それじゃ、
防御重視のスタメンを発表するぞ﹂
若干眉をしかめながら﹁意図は後で説明するからまずはメンバー
を聞いてくれ﹂と前置きした上での発表だ。俺でなくともある程度
のメンバーが変更されているのは予想がつく。
果たして呼ばれたスタメンの中には俺の名は入っていなかった。
それと何名か二回戦のスタメンと変わっていたが、個人的に意外だ
ったのは山下先輩が外れていたことだ。
﹁どうして俺がベンチなんですか!﹂
ほら当然噛みつくよなこの人は。チームで一番プライドが高いだ
ろうエースの抗議に監督は﹁うーん﹂と帽子をとって頭をかいた。
﹁うーん、お前らを外した一番判りやすい理由から言うと⋮⋮。そ
うだな同じようにスタメンじゃないアシカ立ってくれ﹂
﹁はい?﹂
指名された通りに立ち上がる。なんだ? 俺自身は抗議はしてい
ないぞ。そう眉を寄せている俺の姿に、なぜか腕組みして渋い顔を
する監督。
﹁ほらな。アシカなんて生まれたての子鹿みたいに足がぶるぶる震
えているだろう? こんな状態で次の試合に出られると思っている
364
のか?﹂
﹁俺はアシカとは違います!﹂
﹁うん、まあアシカより体力があるのは認めるけれどさー。二試合
連続フル出場は無理だろう?﹂
監督の言葉に悔しそうにうつむく先輩だが、さすがに自分の状態
を理解しているのか﹁フル出場できます﹂とまでは言わなかった。
ま、普段は守備をさぼっている先輩が、剣ヶ峰戦では積極的にプレ
スをかけたり守備参加してたもんなぁ。強敵相手に点を取って、い
つもはしない守備にまで加わっていたらそりゃ体力消耗するわ。
﹁⋮⋮アシカはあんまり怒らないんだな、お前からも文句がくると
予想してたんだが﹂
﹁いくら何でも自分のスタミナ不足は自覚してますよ。⋮⋮それに
ずっと出番がない訳じゃないんでしょう?﹂
﹁まーなー。あ、今発表した布陣は前半用だからな。後半からは山
下を投入して攻撃的にシフトするぞー﹂
﹁はい!﹂
と皆と一緒に返事してから気が付く。あれ? 山下先輩の投入が
後半からだとすれば、じゃあ俺はいつから出場するんだ?
﹁あの、俺の出番は⋮⋮?﹂
おそるおそる尋ねた俺をちらっと眺めて監督は頬をかくと、俺の
顔から足へ視線を移す。生まれたての子鹿のように足が震えている、
というのはさすがに大げさではあるが、疲労が溜まっているのは隠
せない。ざっくりと自己診断すると、出力八割でガソリン量は二割
って所か。もし車がこんな状態だったら整備工場に持っていくのが
妥当なレベルだ。
365
しかし、他のメンバーも午前に出場した選手が多い。特にスタメ
ンでボランチのポジションでキャプテンとコンビを組むのは、前の
試合で俺へすぐ交代した先輩だ。体力面ではともかく、メンタル面
で回復しているかが問題となってくる。さらにキャプテンにしたっ
て前の試合ではチームで一番というほどの距離を走っている。いく
ら体力自慢とはいえ、まだ小学生なのだから、厳しい試合のダブル
ヘッダーでは音を上げてしまっても仕方がないぞ。
監督としてはできれば俺を一日に二試合も出したくないのだろう。
しかしチーム事情はそれを許してくれない。自分で言うのも何だが、
俺がいるといないとでは特に攻撃面に関しては相当な開きがあるは
ずだ。
頬をかくのを止めた監督はため息とともにこう告げた。
﹁うちが負けている場合に限り、後半の残り十分を切ったら出すか
もしれん。とにかくアシカは出番があるかないかより、まずは疲労
を回復させるのに専念しろ﹂
そして何かを吹っ切ったかのように、ぽんぽんと手を叩いて再び
注意を集めると最後にこう勇気づける。
﹁俺達は優勝候補の筆頭だった剣ヶ峰に勝つぐらい強いチームなん
だ。マンガみたいに勝てば勝つほど敵のレベルが上がっていくなん
て事はない。次の試合なんて、もしかしたら剣ヶ峰戦に比べたら楽
勝かもしれないぞ。油断してもいけないが、相手よりも俺達のほう
が強いと信じていつも通りの矢張のサッカーをやろう。
つまりいつものように楽しく、怪我をしないように試合をすればい
いだけだ。それ以外の事は考えないでいい。もし他に指示があれば
その都度出す。いいな?﹂
﹁はい!﹂
366
気合いのこもった返事が響く。
これだけ気合いが入って、しかも優勝候補に勝ったという勢いが
あれば、もしかしたら俺の出番がないんじゃないか⋮⋮そんな心配
をしたほどだった。
まあその心配は無駄になる訳だが。
﹁ん?﹂
ミーティングを終えてピッチに向かおうとする右足に、ほんの僅
かな違和感がある。疲労で震えているだけじゃない、俺が良く知っ
ている感触だ。
︱︱これは。
﹁スパイクの中に小石が入ってやがる﹂
スパイクを逆さにしてトントンと叩いて小石を出すと、改めてし
っかり靴紐を締めなおした。
367
第五十四話 ベンチから走れと叫んでいます
﹁何か上手くいきませんね﹂
まるで最上級生のようにふてぶてしく腕組みをしてピッチを見つ
める俺のつぶやきに、隣に座る下尾監督もしかめっ面で頷く。
前半の半ばを過ぎた時点でまだスコアは動いていないのだが、試
合展開は思わしくない。どうもうちのチームの動きがいつもよりス
ムーズではない印象を受けるのだ。
もちろん前の試合から連続出場している選手もいるのだから、そ
の疲労で運動量が落ちるのは判る。それに一時間程度とはいえ敵の
鎧谷SCの方が二回戦が早く終わった為に休憩が長かった。だから
敵の方がコンディションが良いのも理解できる。しかし、それだけ
ではない流れや繋がりの悪さを感じてしまう。
敵の鎧谷SCはミーティングの通り、どこか捉えどころがないチ
ームだった。
俺としてはアンチ・フットボールを予想していたから、もっとフ
ィジカルとガチガチの守備を重視したチームカラーを予想していた
のだが。
アンチ・フットボールというのは、名前の通りフットボール的能
力よりも身体能力が高い選手が選ばれる傾向が高い。その優秀な身
体能力によって相手のサッカースタイルを封殺するパターンが多い
のだ。その上で少人数のカウンター攻撃によって数少ないチャンス
を物にする、ローリスク・ハイリターンの作戦である。欠点として
は、観客からすればあまりサッカーを見ている気にはなれないとい
うぐらいか。まあアマチュアであれば気にする必要のない欠点だ。
368
だが実際に対戦すると、この鎧谷SCはまるで俺の想像していた
チーム像とは違っていたのだ。
まずアンチ・フットボールと呼ばれるようなチーム戦術ではない。
どうやらこれはロースコアの結果から推測した、俺達の勝手な誤解
だったようだ。
改めて確かめると守備はしっかりしているが、なんというか突出
した選手がいない﹁基本がしっかりした、小さくまとまったチーム﹂
のようである。しかし、それだけで全国大会をここまで勝ち上がっ
てこれるとは思えない。実際に今も矢張が押されている訳だしな。
うちのリズムを狂わせるような事を仕掛けているのかもしれない。
そう思ってじっとピッチ上の違和感の元を感じ取ろうとする。
矢張SCが押され気味のいらいらする展開をしばらく観察してい
ると、ようやくその理由の一端が見えてきた。
相手は確かに特別上手いという選手はボランチで﹁っすっす﹂と
うるさい少年以外にはいないのだが、その分きちんと全員が揃った
レベルで安定してプレイしている。それは全国大会なら当たり前だ
が、メンバー全員が完全にチームコンセプトを理解して従っている
のは珍しい。
そして、そのチームコンセプトとはおそらく﹁味方はボールを走
らせて、敵には体力を使わせる﹂に近い物だろう。
相手は攻撃する時などは大体パターンが固まっている。
ドリブルなどはほとんどせずパスを回すのだが、例えば右サイド
にボールを渡す場合には、必ず左サイドへ一回ボールを戻してから
大きく逆サイドの右へと振る。
こうする事でディフェンスしている相手は左へとプレスをかけた
のが無駄どころか、右サイドを空けるという逆効果になってしまう。
さらに今プレスをかけたのと反対方向へと走ることで体力を倍使う。
369
守備にしても、ここまできちんとオフサイドトラップを仕掛けて
くるチームとは初めて対戦する。
小学生ではディフェンスはほとんどのチームがマンツーマンを選
択している。それは一対一という基本的な守備を教えるのには最適
であるし、ワンミスで大ピンチになるオフサイドトラップはどうし
てもムラのある小学生にはまだ早いとの考えからだろう。
だが、鎧谷はそれを基本戦術としているのだ。たぶんDFにも確
実に一対一で止められるような、特筆する選手がいない為の苦肉の
策なのだろうが、それがかえってDF全員の﹁個人でなく組織で、
そしてオフサイドで止める﹂という意志を統一するのに役立ってい
るようだ。
おかげで矢張SCの前線へのロングパスはほとんどオフサイドに
引っかかってしまっている。
何遍も無駄走りに終わっているFWなどが苛立っているな。俺や
山下先輩までいないから攻撃が単調になって、アクセントをつけら
れる人がいないんだ。
うちのFWは﹁使われる﹂タイプばかりであって自分で状況を打
破するタイプではない。普段ならば山下先輩の強引なドリブルや俺
のスルーパスが攻撃の中心となっているから顕在化していなかった
が、ここで矢張SCに攻撃の駒が少ない欠点が浮き彫りになってし
まった。
そうなるとサイド攻撃にしても、後ろや中央のフォローもなく、
ただサイドアタッカーが突っ込んでドリブル突破という訳にはいか
ない。バックパスなどの逃げ場のないドリブラーが個人で敵の組織
的守備を敵にするのは、それこそカルロスのようなスピードを持っ
ていなければ無理だ。当然そこまでの切れ味を持たないうちのサイ
ドMFは、マークされた状態でボールをもらっても味方からは孤立
して有効な攻撃を仕掛けられないでいる。 370
そんな徒労感の多いプレイを試合開始直後から繰り返されれば、
誰だって疲れを感じてくる。そして一番問題なのが、こっちのチー
ム全体に走る意欲が薄れてきている点だ。﹁どうせプレスをかけに
行っても無駄だし、また逆を突かれるんだからプレスに行くのは止
めておこう﹂とか﹁またオフサイドにかかるんだろうなぁ﹂とこう
いう雰囲気になっているのが恐ろしい。体力が尽きて走れなくなる
のではない。諦めが勝って追うのを止めてしまっているのだ。
そんな風に足を止めてプレッシャーがかかっていない状況では、
敵がさらにのびのびとプレイしてしまう。
こちらのプレッシャーが弱まれば、向こうのパスはさらに回りや
すくなる。こっちの無駄走りがなくなれば、相手はさらに余裕を持
ったディフェンスができるようになる。
鎧谷だけがリズム良くパスを回して、こっちの流れが寸断されて
いく。
そして敵はいいリズムなのにボールを奪われないことを優先して
いるのか、無理にゴール前に上げたり、強引なシュートを撃ったり
はしない。
ゴール前のFWにいいパスが通ればシュートを撃つが、それが駄
目ならばバックパスをして組み立て直す。そんなゆとりを持ったゲ
ーム展開を相手にされてしまっている。
前半も終わりに近づいてくると、ピッチに立つ矢張のメンバーが
首を捻る場面が目立ってきた。
いつも通りやっているはずなのにパスが繋がらない。プレスのか
け方がちぐはぐだ。DFラインが乱れている。パスを出そうとする
相手がオフサイドのポジションにいる。
仲間で確認を取り合って練習の時のようにフォームを戻そうとす
るが、その声もお互いが微妙に尖って苛立ちを隠し切れていない。
ピッチ上の矢張イレブンはキャプテンを除いて全員がやりにくそう
371
にプレイしていた。
キャプテンはこんな場合でも落ち着いて見えるのが頼もしい。彼
が中盤の底でしっかりとディフェンスを引き締め、攻撃陣にも声を
出して士気をあげようと鼓舞している。さすがにこれ以上に攻撃に
も参加しろとは言えないよなぁ。
だがキャプテンの孤軍奮闘もあまり上手く機能しているとは言い
がたい。キャプテンの存在感のおかげかディフェンスは浮き足だっ
てはいないが、それでも消極的な守りになっている。攻撃にいたっ
てはオフサイドに引っかかりすぎたのか、縦への意識が消失してい
るようだ。誰も仕掛けようとはせずに﹁逃げ﹂のパスを回すばかり
だ。
鎧谷のゆっくりとした攻撃とは似て非なる物だ。
敵の攻撃はパスを回すことでDFのポジションを動かして隙を作
り、そしてDFの体力と集中力を少しずつ削いでいく。今の矢張の
攻撃は攻める手段がないから、他の誰かに責任を押しつけようとい
うような意志のこもっていないパス回しなのだ。
そんな意味のないパス交換をしていると、敵にパスのルートが見
破られやすくなるって、ああ、やっぱり!
﹁DFとキーパー、サイドから上げてくるぞー!﹂
俺の叫びにDFよりもMFであるキャプテンがはっと驚いた顔で
慌てて深い位置にまで下がっていく。他の防御陣の反応は敵のカウ
ンターに対しても鈍い。おいおい、集中してくれよ。
右サイドの奥深くから上げられたセンタリングは、ゴール前に固
まっていた矢張DFによって何とかクリアされた。これもうちのD
Fが頑張ったというより、鎧谷に長身のFWがいなかったから助か
ったような物だ。運動量が少ないためにサイドを抉るような攻撃に
372
はクロスを上げる前に止められず、上がったボールをゴール前で待
ちかまえてシュートされる前にクリアするというちょっと情けない
守備だ。
ここまでうちのディフェンスが崩されたのは俺の記憶には無い。
カルロスにごぼう抜きされた時ですら、自分達からチェックにい
ってかわされたのだ。今のようになんだか気が抜けたような、みっ
ともないやられ方は初めてである。まだ失点していないのは相手の
決定力の無さに助けられているからで、断じてうちの守備が機能し
ているからではない。
こちらはシュートさえまともに撃てず、敵になぶられているかの
ような前半がようやく終了した。ゲームが途切れる事がほとんどな
かった為か、ロスタイムもほぼなかったのはありがたかったなぁ。
あと二・三分あれば失点していたぞ。
こうして三回戦の前半はただ点を取られていないだけの、一方的
な相手ペースで終わった。
スコア的には差がつかなかったが、体力的、精神的な消耗の度合
いは比較するまでもない。ピッチから引き上げてくる両チームのメ
ンバーの表情を見れば一目瞭然だ。
参ったな、またこの試合でも俺の出番がありそうじゃないか。
﹁アシカ、何がおかしいんだ?﹂
あ、いけない。疲労と試合が上手く行かない事で神経質になって
いるスタメンの先輩に俺の顔を見られてしまった。
︱︱ボールを持った時と、ピンチなのに自分の出番が来そうだと
にやけてしまうこの悪癖は直さなきゃいけないな。
373
第五十五話 改めて作戦を練り直そう
﹁前半はやられ放題だったなぁ、全く誰のせいだ!?﹂
ハーフタイムで戻って来た選手達に、監督は珍しく語気を強めて
尋ねる。その怒気に気圧されてか、一瞬で矢張のベンチの空気が緊
張で張り詰めた。
ピッチから持ち込まれた倦怠感とスタメンの間での不協和音が吹
っ飛んで、皆がどこか萎縮した態度に変わる。
山下監督がここまで怒った表情を作ったのは俺も初めて見たので、
少々腰が引けてしまった。精神年齢が他のメンバーよりずっと上の
はずの俺でさえビビるのだから、普通の小学生であるうちの選手が
怖がるのも当たり前だ。
しかし、今は試合中だ。こんなところでヒステリーを起こしてし
まってもらっては困る。俺は予想以上に沸点の低かった監督をなだ
めようと一歩前へ進み出た。
だが俺が自己犠牲の精神を発揮するよりも早く、監督はかぶって
いた帽子を外して皆に頭を下げた。
﹁俺のせいだな。皆、すまん﹂
﹁え?﹂
身構えていたチームメイトも前へでた俺も、自分の責任だと素直
に謝罪した監督に驚きの声をもらす。
いや、まあ確かに敵をアンチ・フットボールだと誤解していたり、
ノープランでピッチに送り出した監督のせいだとは俺も思っていた
けれど、完全に怒っていたような問いかけからのギャップが激しす
374
ぎる。周りもそうなのか全員がぽかんと口を開けている。
そんな俺達の反応を尻目に、体を起こすといつも通りのひょうひ
ょうとした雰囲気に戻った監督が頭を上げて帽子をかぶり直す。
﹁とまあ前半の反省はここまでにしておこうかー﹂
明るい口調の監督に誰かの口から吹き出す音が聞こえる。その途
端メンバー全員が顔を伏せ、口元を隠して肩を揺らす。なんだか形
勢が不利な試合中のハーフタイムというのが信じられないような、
和んだムードに一瞬で変えられている。
もちろん俺も監督の変化と緊張が解けたせいで思わず笑ってしま
った。しばらく押し殺した笑いが空気を漂わせていたが、監督はい
つものように手を叩いて注目を集める。
﹁よし、じゃあ作戦会議といくぞー﹂
とぐるりと周囲を見回す。俺もついでメンバーの表情を観察する
が、少なくとも皆の顔から緊張や疲労の影は薄らいでいる。相変わ
らずこの下尾監督は子供の心をほぐすのは上手いもんだな。これで
試合の戦術面の指揮でもう少し頼りになればいいんだけど、それは
無い物ねだりなんだろう。チームをまとめる能力とまだ子供である
選手を思いやる心を持っているだけで上等だと思わないと。
さて戦術面では俺から駄目出しをされているとは知らない監督は、
士気の戻った俺達を相手に後半へ向けたミーティングを始めた。
﹁前半のゲームを見ていてアシカが気がついたんだが、相手チーム
はこっちの体力の消耗をねらったサッカーをしているんじゃないか
って意見だ﹂
監督の発言にメンバーの目がちらりと向けられる。その瞳には﹁
375
またお前か﹂と言いたげな色が浮かんでいたので、思わず横を向い
て口笛を吹く。いや、口笛吹けないから﹁ひゅー、ひゅー﹂という
空気が抜ける音しかしないんだけど。
監督も素直に俺が見抜いたと言わなくてもいいのに。サッカー歴
が少ない子供のはずが敵の戦術を監督より先に理解するなんて、俺
がさらに怪しげな子供になっていくじゃないか。自分を大きく見せ
ようとしない態度は立派だけれど、今回は俺の事はスルーしてほし
かった。
そんな風に必死でとぼけている俺をよそに、監督が相手はパスを
逆方向に一端振る事によってプレスを防いだりしている手口を教え
ていく。だがこれらは相手のプレイ方法が判っても、有効な対策が
ほとんどないのが痛い。
未来のプロサッカーでもプレスをかわす方法の一つとして使われ
ている作戦を、拙いとはいえ鎧谷は実践しているのだ。よっぽどい
いコーチに恵まれたのかもしれない。そういえば選手達も飛び抜け
て上手いような選手は⋮⋮一人しかいなかったな。それでこんなに
完成度の高いチームを作り上げるんだから、やっぱり監督の手腕が
確かなのだろう。
﹁判りました。それで僕達は後半どうプレイするべきなんでしょう
か?﹂
具体的な方法を尋ねるのは当然キャプテンだ。この人だけは試合
中もハーフタイムでも落ち着いて最善の一手を探しているような感
じだな。
﹁そうだなー、一番困るのは敵の術中にはまってうちの運動量が落
ちる事だ。まずそこから改善していこう。後半の頭から山下を出す
から、山下を中心に攻撃して鎧谷を押し込め。そうすれば相手のパ
376
スワークやオフサイドの脅威も減る。攻撃は最大の防御というノリ
で審判が後半開始の笛を鳴らしたらどんどん飛ばしていけ。下手に
ペース配分を考えるとまた相手の作戦に引っかかってしまうからな
ー﹂
﹁はい!﹂
と全員が力強く返答する。特に声が大きかったのは山下先輩だ。
自分を中心にした攻撃ができるとあって、気合いが体中から溢れん
ばかりだ。こうなると彼を前半温存していたのも利点になるな。気
力体力ともに充実したうちのエースが満を持しての登場だ。
︱︱いつもならそれが俺の立場なのになぁ。まだレギュラーを奪
って日が浅く、それまでは攻撃の切り札的な使われ方をしていた時
を思い出して、俺はちょっと悔しさがつのる。同時にこれまで監督
は、俺をこんなに美味しい場面で出してくれていたのかと感謝の念
が湧く。
この時俺には少しだけジレンマに襲われていた。自分が活躍する
ためにはチームが苦境に陥らなければならない、そのせいで心から
チームを応援できないのではないかと。
だがそんなちっぽけな葛藤は、チームの皆で﹁後半はやるぞー!﹂
と掛け声を掛け合っている内に簡単に消滅した。
この試合は俺が出られなくてもいいから勝ってくれよ!
一片の曇りなく味方を応援できるようになったのは、俺が大人に
なって心が広くなったのだろうか? それとも子供になって純粋に
なったからなのだろうか? どっちでもいいな、とにかく皆ファイ
トだ!
◇ ◇ ◇ 377
﹁なんだか前半はピリッとしない試合内容だったな。こんなのわざ
わざ見に来る必要あったのか?﹂
﹁まあそう言うなって、代表でチームメイトだったカルロスがどん
な奴らに負けたのか興味ないのかよ?﹂
一人がそう言うと、スタンドの隣の席で同じジャージを着ていた
少年がしょうがなさそうにため息を吐く。
﹁俺がテレビの前であいつをチンチンにしてやるつもりだったのに、
余計な事する空気の読めない奴らがいるもんだなー﹂
﹁いや俺の見立てでは、まだお前よりカルロスの方が上だったな﹂
﹁え? どこが?﹂
本気で判っていなそうな相棒にもう一人の少年は、一層面倒そう
な表情を深めて淡々と突っ込みを入れる。
﹁スピード、パワー、決定力、知名度、格好良さ、ファンの数、出
来る言語の数、俺からの好感度、そういったものすべてがお前より
もカルロスの方が上だ﹂
﹁そんなにたくさんあるのか⋮⋮っていうか後半はあんまりサッカ
ーに関係なかったよな。ファンの数とかバイリンガルのあいつに語
学で負けるのはともかく、格好良さとかお前の好感度とか一体どん
な基準だよ? というかお前俺のこと嫌いなのか?﹂
﹁⋮⋮はっはっは、何くだらないこと言ってるんだか﹂
﹁え? 否定しないのか。笑って流すつもりかよ﹂
大声で笑っていた少年が抗議に対し、何かを誤魔化すようにピッ
チを指さした。
378
﹁お、後半の開始だ。両チームともメンバーを入れ替えて、勝負を
かけるつもりだな﹂
﹁え? あ、本当だな。いや、それよりお前はチームメイトの俺の
事を⋮⋮﹂
﹁これからの両チームのディフェンスをよく見ておいてくれよ。ま
だどっちか判らないけれど、お前が明日相手する事になる守備陣な
んだからな。頼りにしてるぞ﹂
﹁お、おう! 俺に任せておけって!﹂
﹁⋮⋮本当にやりやすいなこいつ﹂
﹁今、何か言ったか?﹂
﹁いや、お前は本当にやりやすいFWだって言っていたんだ﹂
﹁へ、へへへ、そうかぁ? なんだか照れるぜ﹂ 379
第五十六話 やだなぁ、わざとじゃないっすよ
後半の開始と同時に俺達矢張SCの動きは格段に良くなった。そ
れはベンチで眺めている俺の目からでもはっきりと確認できる。う
ちが交代のカードを二枚切って、山下先輩とサイドのMFをフレッ
シュな状態で途中出場させたおかげだろう。そこを基点にテンポの
良いパス交換が生まれているのだ。
﹁いい感じで攻撃ができていますね。正直言うと攻撃陣のリズムを
戻すのに、山下先輩で大丈夫か心配していたんですが﹂
﹁ああそうだな。こんなゲーム全体の流れを変えるのは山下のよう
な個人で突破する奴よりも、むしろお前みたいな後方からの司令塔
かなと思っていたんだがなー。想像以上に山下がプレイで皆を引っ
張っていってるじゃないか。ん? どうだ、アシカは悔しくなって
こないか? うりうり﹂
肘で脇腹をぐりぐりと責めてくる監督から、座るベンチの位置を
ずらしてちょっと距離をあける。
﹁効果音を口に出してまで、俺を攻撃するのは止めてくださいよ。
それに、悔しくないとは言いませんが、ちょっと先輩の力に感心し
て見直しています。ピッチから離れて客観的な目で見ると、山下先
輩も充分に全国レベルの選手ですね﹂
﹁⋮⋮俺はアシカの子供っぽくなさにびっくりだけどなー。ちょっ
とは悔しがってくれよ、なんかベンチに置いておいたら俺の代わり
が務まりそうな落ち着きぶりじゃないか﹂
﹁そんな事よりも、あ、またゴール前でチャンスです!﹂
380
﹁お、おう﹂
俺のあからさまな話を逸らす言葉にもあっさりと乗ってくれる監
督は、ノリがいいのか人がいいのか、多分両方だろうな。そう結論
づける。
だが俺の言った台詞は話を逸らす為ではあっても嘘ではない。う
ちのチームが山下先輩のドリブルでの中央突破から相手のゴール前
でシュートチャンスを迎えている。
ちっ、パスを受け取ったFWが反転してシュートを撃つ寸前にボ
ールを奪われてしまった。さすがにここまで勝ち上がって来ただけ
あってゴール前の守りは堅いな。でも今の攻撃のリズムは悪くなか
ったぞ。こんな攻めを繰り返していけば、いずれは得点できそうだ
⋮⋮。と審判が笛を吹いているな。何があった?
改めてピッチを確認すると、審判が走っていく先に倒れているさ
っき途中出場したばかりの、うちのチームのエースの姿が見えた。
﹁山下先輩!?﹂
思わず立ち上がり、ピッチで横になり左足の太もも辺りを抑えて
いる先輩へ呼びかける。俺だけではなくベンチメンバー全員が声を
かけたせいで、山下先輩は顔をしかめながらもこっちを向いて﹁大
丈夫だ﹂と掌を振る仕草をして体育座り近い格好で足を伸ばす。歪
んだ表情で芝に座り、左足の付け根をとんとんと手で叩いていて痛
みを紛らわす動きからすると、痛みはあるが怪我ではなさそうだ。
おそらくはぶつかったのだろうが、太もものあの辺りは比較的に
ぶつけても怪我しにくい場所ではある。間を置かずに立ち上がって、
足を振って痛みを散らそうとする先輩の動きから深刻なトラブルで
は無さそうだとほっと胸をなで下ろした。
審判が山下先輩のそばの敵チームの選手に注意している。あいつ
381
が先輩を倒した選手か。カードは出してないのだから悪質ではない
という判定だろうが、ファールされたのがうちのいいリズムをつく
っていた原動力だけに少しいらっとするな。
⋮⋮いやちょっと待てよ。俺が気がつかなかったって事は、その
ファールはおそらくボールと関係のない離れた場所で行われたはず
だ。だとすれば山下先輩は狙われているのか?
背筋をちりちりと刺す嫌な電流が走っている。そんな疑いの目で
見ると、先輩を倒したDFと向こうの攻守の要であるボランチの明
智という選手が顔を寄せ合って何か話しているのでさえ疑わしく思
えてくる。
あ、明智がファールしたDFに笑顔で肩を叩いてやがる。この時
俺は直感で思い込んだ。明智がわざとファールで山下先輩を倒した
んだと。証拠も何もないただの思い込みではある。だがチームメイ
トが倒されたのをただの偶然で済ませるよりは、腹を立てた方がは
るかにまともな精神を持っているはずだ。
﹁山下先輩、狙われていますよ!﹂
と大声で先輩に向かって注意する。これは先輩に狙われていると
知らせるのが一番の目的だが、ついでに審判にもアピールする意味
も混じっている。これで審判は山下先輩に対する反則にはチェック
が厳しくなるはずだ。これで少しでも手助けになればいいのだが。
審判に﹁今のファールはわざとだろ、カードを出せやボケ﹂と無
言の念を送っている俺に向けて、山下先輩はぐっと拳を突き出して
きた。言葉は届かないが、同じチームなのだ、アイコンタクトで意
味は判る。
﹁山下は何が伝えたいんだ?﹂
訂正。同じチームでも判らない人間もいるようだ。仕方ない仲介
382
してあげますか。
﹁まあ今の拳の力の入れようと意志の籠った眼差しからすると、た
ぶん﹁心配はいらない﹂か﹁俺は大丈夫だ﹂といったあたりでしょ
うね﹂
﹁ほう、良く判るな。アシカと山下はそんなに仲がいいとは思わな
んだが﹂
﹁⋮⋮まあ、他には﹁この拳で殴り返す﹂とか﹁アシカ、ジュース
おごってやる﹂とかいう可能性もありますが、これらの線は薄いか
と﹂
なぜか監督は俺をかわいそうな子を見る目で眺めた。
﹁そうか、きっと山下が言いたかったのはアシカが最初に言った﹁
大丈夫﹂って方だな﹂
﹁ああ、それともう一つ﹂
山下先輩が伝えたい事ではなくて、勝手に伝わってきた事を監督
にも教えておくべきだろう。
﹁山下先輩、めっちゃ怒ってます﹂
◇ ◇ ◇
ちょっとこいつの性格を読み間違っていたかもしれないな。内心
で俺は呟いた。剣ヶ峰戦や県大会での情報から想定した山下という
選手の性格は、ムラのある天才肌のプレイヤーだった。
その読み通りの性格ならば後半に出てきて調子良くプレイしてい
る最中に、太ももに膝蹴りが入ったりしたらすぐに苛立つはずだ。
383
だが今見る限りでは感情が檄しているのは確かだが、上手くその怒
りをコントロールしている。
怪我をしにくい安全な部位ではあるが、太ももの付け根を膝で打
たれると痛みと痺れがかなり強烈に感じられるはずなのだが。そこ
を小さく鋭い膝の一撃をぶつけたのだ。足の裏を見せるようなあか
らさまな物ではなく、密着した状態からの細かい動きだから運が良
ければ審判にも見逃されるかとも期待していたが、そうは上手くい
かなかったな。まあ、カードを貰わなかっただけマシとしよう。
それにしても、山下という選手はDFにファールさせたらやる気
をなくすか簡単に思っていたが、どうも考えが甘かったようだ。む
しろ立ち上がってからの彼の姿には、傍目にも凄みを感じさせられ
るな。
このタイミングでこんな気配をだしているなら間違いないだろう、
これまでの山下って選手のデータからすると自分でゴールを狙って
くるな。
﹁キーパー、たぶん山下が直接ゴールを狙ってくるっす。パスだっ
た場合はディフェンスがなんとかするから、キーパーは山下だけに
集中するっす﹂
﹁判ったぜ、明智﹂
﹁他はマークする相手から目を離さないようにするっす。敵はハー
フタイムの後でちょっとだけ体力が回復しただけだから、このフリ
ーキックさえしのげばすぐにガス欠起こして失速するはずっす。そ
れまでの辛抱っすよー!﹂
俺からの檄に﹁オッケー﹂﹁判った﹂﹁明智の言葉は力が抜ける
な﹂といった反応をする仲間に頷く。
今喋った言葉に嘘はない。誇張は混じっているのだが。
矢張SCは俺達鎧谷に比べると、試合開始してから前半の途中で
384
運動量がガクンと落ちた。これは前の試合の疲れをまだ引きずって
いる事実を示している。いくらハーフタイムでリフレッシュと選手
交代で活性化をはかっても、そう簡単に体力が復活するはずはない。
今の矢張の攻勢は山下を中心としたリズムに乗った攻撃で、疲れ
を一時的に忘れているだけに過ぎない。ならば、ファールで試合を
止めてリズムを崩した上でこのピンチをしのぎきれば、間違いなく
矢張は息切れをするはずである。
それでも︱︱俺はちらりと山下を眺めた。こいつのフリーキック
を止めてからの話だ。そうでなければ馬鹿な皮算用でしかない。
ここでこっそりとキーパーにだけ聞こえるように耳打ちする﹁山
下は絶対にあいつらから見てゴール右上隅を狙ってくるっす。そこ
にヤマを張っておいてほしいっす﹂と。
できれば今のアドバイスが無駄になるように、枠を外してくれよ。
ゴールを守る壁に入りつつそう心から念じる。俺達鎧谷SCは無
失点で終わることを前提にゲームプランを立てているのだ。もし失
点する事があれば非常事態であり、勝率が著しく下がってしまう。
そうなれば︱︱俺は覚悟を決める。不運な事故を起こすしかない
っすね。あ、しまった。表向きの口調がこっちにまで移ってしまっ
たな。 385
第五十七話 観客もこれで決まったと思ってるっす
﹁山下先輩、冷静に頼みますよ! もしゴールじゃなく壁の誰かに
向けて蹴ったりしたら、次からは俺がずっとフリーキッカーですか
らね!﹂
直接ゴールを狙える位置からのフリーキックを、審判から指示さ
れた場所にボールを置いて準備している先輩の耳に届くように大声
で叫ぶ。
見間違えでなければ今ビクッと山下先輩の肩が揺れたような気が
するが。あ、俺の叫びを聞いて僅かにボールの位置を変えやがった。
⋮⋮誰かは判らないが、ゴールではなくそいつを狙ってたな。たぶ
ん先輩の狙撃のターゲットになっていたのは、ファールして倒した
相手ではなくそれを指示したと思われる人物だ。
その黒幕と思われるのは向こうの十番で確か︱︱明智というボラ
ンチはさっきまで笑い合っていたDFではなく、その後にキーパー
の耳元でなにか囁くと急いで自分も壁に入っている。いかん、どう
も先入観のせいか明智のやる事が全て怪しく見えて仕方がない。
山下先輩もそう感じたからボールをぶつけたくなったんだろう。
ま、まあこれで冷静さを取り戻してくれればそれでいい。得点を
決めてくれればもっといい。
俺の出番がこの試合はなくなるだろうが、それでも矢張の勝利の
可能性がぐっと上昇する。
俺だけでなく試合会場の全員の注目を浴びて先輩がフリーキック
を撃つ。軽やかな助走からの力強いキックは、さっきファールを受
けて倒された影響など微塵も感じさせない物だった。
386
俺の撃つ無回転のブレ球とは違って、鋭いスピンがかかったキレ
のあるシュートが壁をかすめゴールの右上隅を襲う。山下先輩のお
得意のコースとシュートだ。
ナイスシュート! そう声が出そうになるほどいいキックだった。
そう、出そうになるって事は実際には口から出なかったのだ。
山下先輩のフリーキックはキーパーの手によってキャッチされて
いた。
︱︱あれだけのいいコースのシュートを止めるどころかキャッチ
するなんて、もしかして読まれていたのか?
まさか、それはないはずだ。俺は頭の中でその疑いを却下した。
俺達矢張SCがここまで上がってくるとは、誰も予想していなか
ったはずだ。二回戦で戦った剣ヶ峰とカルロスに対するかませ犬と
いう認識だったはずなのだ。そんな俺達の詳細なデータをすでに鎧
谷が持っているとは思えない。そう考えると、先輩の癖などを読ま
れたというよりもおそらくはあのキーパーが優秀なのだと判断した
方が妥当だろう。
だとすればそんなに良いキーパーから得点するのはかなり大変そ
うだな。
山下先輩はなおも諦めきれないのか悔しげな瞳でキーパーを見つ
めていたが、近付いてきたキャプテンに肩を叩かれて何かささやか
れると、深く息を吐いた後で頭を振って未練を断ち切ったようだ。
性格的にはうちで一番点取り屋に向いているだろう山下先輩でも、
この年齢ではすぐに気持ちを切り替えるのは難しいようだな。
それでもまだ矢張が有利な流れのはずだから、気落ちせず頑張っ
て攻撃して欲しい物なのだが。
◇ ◇ ◇
387
危なかったな。
フリーキックを止めたキーパーに﹁ナイスキャッチっす!﹂と称
賛しながらも背中からは冷や汗が噴き出している。急遽大会初日の
矢張の一回戦をチェックして山下のフリーキックを確認しておかな
ければ、あそこのコースに来るとは予想がつかなかったぞ。剣ヶ峰
戦を観戦していたからあの三十九番のアシカが正規のフリーキッカ
ーだと思っていたが、山下もそう引けは取っていない威力のシュー
トだった。
一回戦のフリーキックの位置とほぼ同じだったから、壁の配置ま
で似せて同様のコースに撃つようさりげなく誘導しキーパーに助言
したのだが、そのヤマが外れていたら失点していても何の不思議も
なかった。
頭の中で山下の脅威度をさらに一つ上げる。こいつをいい気分で
プレイさせる訳にはいかないな。さっきのファールでおとなしくな
っていてくれればよかったんだが⋮⋮。
いやまずは、この反撃の後で考えようか。俺だって相手が怪我す
るかもしれないような事故は起こしたくないし、仲間にやらせたく
もない。
だが先に点を取られると、逆転する術がほとんどない俺達鎧谷は、
先手先手で動くしかないのだ。
先に俺達が得点できれば良し。そうでなければ⋮⋮。
ぶるっと川へ落ちた犬が身震いして水を払い落とそうとするが如
く、俺も体を一回振って嫌な考えを払い落す。
このカウンターで点を取ればいいんだ。そうすればこの試合は勝
てる。
勝たなきゃ俺はサッカーを続けられないんだよ。俺の邪魔をする
んじゃない!
388
﹁みんな、相手が前へ出ている今がチャンスっす! このフリーキ
ックを外してがっくりきている相手を、ここら辺でとどめを刺して
楽にしてやるっすよー!﹂
﹁おおー!﹂
チーム全員が俺の檄に応えてくれる。こいつらのためにもここで
負けてやるわけにはいかないんだ!
大事に胸に抱えていたボールを、キーパーが俺に向かって投げて
くる。基本的にうちはキーパーはキックを使わない。そりゃもちろ
んゴールキックなどの場合やバックパスを処理する場合は別だが、
より正確なパスができるという理由、いや監督のこだわりでキーパ
ーは投げるように決めてあるのだ。
その正確なボールを胸で受けると、すぐに駆け寄ってきた山下か
ら逃げるように右へはたく。それをノーマークでトラップしたサイ
ドDFはピッチを確認した後で、大きく左へとサイドチェンジした。
この時には壁を作っていたうちの選手達も、すでにいつもの攻撃
時のポジションに戻っている。サイドにボールが渡ると相手のディ
フェンスはどうしてもその方向へ寄っていくので、逆サイドがサイ
ドライン沿いに向かえばかなりの確率でフリー、あるいはマークの
緩い状態になれるのだ。
このときサイドチェンジのロングパスを受け取った左サイドのM
Fもマークが付いていなかった。
よし、敵ディフェンスの出足が遅い。自分達が攻められる番にな
ってようやく疲れていた事を思い出したのかもしれない。ならば忘
れっぽい相手に、その疲労を忘れられないように刻み込ませてやら
ねばならないな。
ノーマークであるにも関わらず、サイドMFはいそいでドリブル
で縦に突破しようとはしなかった。周りを見ながらゆっくりとした
389
速度でサイドラインを背に横走りのような格好で上がって行く。
ようやく、といったタイミングで集まってきた敵DFに対し﹁お
疲れ様でした﹂とでもいう態度で、あっさりと中央まで上がってき
た俺へとボールを回す。
プレスが緩いなと油断していると、一人の選手が猛然と俺に向か
ってダッシュしてきた。またもや猛ダッシュしてきたのは山下だっ
た。フリーキックの時も険しい顔で俺を目標にする寸前だったし、
どうも狙う相手に選ばれてしまったようだ。まあいいだろう。他の
チームメイトを的にされるよりは対処しやすい。
俺も山下相手に一対一を仕掛けようとはせずに、今度は右へとま
たロングパスでサイドを変える。左へと重心をかけようとした矢張
のディフェンスは、舌打ちしながらまたフォーメーションを右へと
ずらそうとする。山下も﹁逃げるのか﹂と言いたげな表情で俺を睨
むと、右サイドへのヘルプに走る。
うん、いい具合に矢張のディフェンスはくたびれてくれたようだ
な。左右に振りまくっていると相手の守備陣が位置を移す度に、首
を捻ったり、汗を拭ったり、小さく﹁ちくしょう﹂と罵倒したり走
るのを嫌がっているのがはっきり見える。
疲れれば集中力もそりゃ無くなるよな。
ここで敵陣に隙ができた。相手のディフェンスの中で唯一激しく
動いている山下の埋めるべきスペースが空いているのだ。本来であ
ればサイドの守備のフォローの場合は山下が動くべきではないが、
あまりに緩慢な味方のプレイぶりに我慢できなくなったのだろう。
でもそんな行動ができるのは、後半から入ってきてまだスタミナ
に問題のない君だけだよ山下君。他のチームメイトは山下のプレイ
に応じた行動がすぐにはできない。矢張ディフェンスに付け入るべ
きギャップが生じていた。
390
俺はするすると山下の空けたスペースへと侵入していく。トップ
下である山下が担当するべきエリアだから、ゴールまで距離はある
が位置は真っ正面のポジションだ。
誰もマークがついていない俺を発見した右サイドが俺へとパスを
通す。慎重にトラップするが、この時点においてもまだプレッシャ
ーがかかっていない。山下や敵のキャプテンが駆け寄っては来るよ
うだが、それでは遅すぎるよ。
俺は余裕を持って、周りに敵のいないフリーキックのようなイメ
ージでロングシュートを撃った。
振りぬいた足にいい感触を残したボールは足取りの重いDFの間
をすり抜けて、虚を突かれた表情のキーパーが飛びつく指先のほん
の少し先を通り過ぎゴールネットに突き刺さった。
審判の笛の響く中、ぐっと拳を握って突き上げる。あ、いかん。
クールに振る舞わなくっちゃいけないな。
﹁スゲーよ、明智! あんなロングシュート撃てたんだな﹂
﹁ええ、まあ。ドリブル練習の副産物っすよ﹂
興奮して駆け寄ってきたメンバーに対して俺はそう謙遜する。あ
れ? 皆が何か不思議そうな顔になっている。ああそうか、話が少
し飛んでいるか。
﹁うちの監督にドリブルの上達方法を尋ねたら、ロングシュートが
撃てればディフェンスは迷うからドリブルで抜きやすくなるって助
言をくれたっす。それでロングシュートの練習をしたら、なんかど
んどんゴールに入るんで、もうドリブルするよりこっちの方が手っ
取り早いっすかねーって思って。全国ではドリブルは止めてロング
391
シュートを撃つことに決めたっすよ﹂
﹁な、なるほど。あいかわらずうちの監督のアドバイスは役に立つ
んだか、立たないんだか良く判らんな∼。ドリブルを上達させよう
として、ロングシュートが撃てるようになったとはなぁ﹂
﹁まあ結果オーライっすよ。とにかくこれでこの試合は俺達の勝ち
に決まりっす!﹂
◇ ◇ ◇
﹁うーんこれで決まりかぁ。あんまり面白くない試合だったなぁ﹂
﹁おいもう終わりだって決めつけるなよ﹂
﹁だってもう矢張はダメだろ? 足も勢いも完全に止まっちゃって
る。あーあ、カルロスに勝ったのがあんな奴らかよ﹂
﹁そう言うなって、まだ矢張は諦めてないし、打つ手はあったよう
だぞ﹂
そう言ってジャージの少年が指差す先には、矢張SCのユニフォ
ームに三十九番を背負った小柄な少年がピッチの外でアップする姿
があった。
392
第五十八話 チームメイトを走らせよう
﹁俺を出してください﹂
ピッチ上での鎧谷のお祭り騒ぎから目を逸らして、隣に座ってい
る監督に訴える。
前半こそピンチの連続だったが後半になって山下先輩を投入した
事で、俺達が攻め込めるようにはなり互角の勝負になったのだ。だ
からこそ、この時間帯での失点は痛い。
一方的に押されていた前半を思い出させ、自分達の体力の消耗を
思い知らされる一撃である。
本来ならばすぐに点を取り返そうとメンバーが急いでセンターサ
ークルにボールを戻すのだが、その行為でさえ気落ちしたせいでい
つもより時間がかかっている。
今、行かなければ間に合わなくなってしまう。
それを理解しているのだろう下尾監督が渋い表情で時間を確認し
た。後半十一分で一点負けている状況、ハーフタイム中に俺を出す
と認めた条件に合致している。
諦めたかのように溜め息を吐くと、俺の肩を引き寄せ一言だけ告
げた。
﹁怪我だけはするなよ﹂
やるべき戦術とか点を取ってこいとかのアドバイスではなかった。
いつもの交代の時の﹁試合を楽しんでこい﹂という言葉さえない。
つまり監督は俺が怪我をするリスクが高いと考えているのかもし
れない。俺はただちょっと疲れているだけで、そんな心配は無用だ
393
と教えて上げなければいけないな。
幸いにもハーフタイム中のアップですでに体は温まっている。小
刻みなダッシュを一・二回、それで準備は完了だ。俺は靴紐をきつ
く締め直し、ソックスを引き上げて、改めて気合いを入れ直した。
交代する先輩の為にも、前の試合の剣ヶ峰の為にもこのまま敵の
術中に陥ったままで終わるわけにはいかない。あっさりと敗北した
ら、俺達がカルロス達に勝ったのまでまぐれだと思われそうじゃな
いか。
交代する先輩に背中を軽く叩かれて送り出されると、ピッチの真
ん中へと小走りにポジションをとりに行く。
失点後の試合再開を待つ間に、目を閉じて周りの状況と鳥の目の
調子に自分のコンディションをまとめてチェックする。うん、スタ
ミナは確かに心許ないが、それ以外は問題ないようだ。若干いつも
より足に力が入らないのがマイナスだが、これはパワーの必要なブ
レ球を撃つのが無理なだけで、他のプレイには影響がない⋮⋮はず
だ。
まあ今更グチを言っても仕方がない、自分のおかれた状況で最善
を尽くすだけだ。自分の頬を叩いて気合を入れる。いつの間にかこ
れもルーチンワークの一つになっているな。気合が充填されるのは
いいのだが、頬のひりつくような痛みが長引くのが難点である。く
そ、この苦痛は全部鎧谷のせいだよな。よし、あいつらボコボコに
してやるぞ。
やや八つ当たり気味のファイトを燃やし、ようやく俺は一点差で
負けているピッチに立っている実感を得た。
ゲームが再開されると、鎧谷のボランチの一人が俺の前にぬっと
立ちはだかった。この少年はあからさまな俺へのマンマーカーであ
る。今まで敵は個人マークをほとんどつけてはいない。後半から入
った山下先輩を除けば、他のメンバーは全員がゾーンやオフサイド
394
で対応されている。
それなのに俺にわざわざマンマークをつけたのは特別待遇という
だけじゃない。﹁これ以上君を前には進ませないよ﹂という敵から
のメッセージなのだ。
これではっきりしたのは鎧谷の監督が︱︱あるいはピッチ上でさ
かんに指示を出している明智ってプレイヤーがかもしれないが、俺
を攻撃の為に入れたと思っている事だ。
もちろん一点負けている現状では攻撃的にシフトしなければなら
ないのも確かだ。だが俺はもともとは攻撃に偏ったタイプではない
つもりである。
このチームとして動脈硬化に陥っている我が矢張SCを、敵の要
である明智に対抗してこっちも中盤からゲームメイクをすることで
チームを活性化するのが一番の役目なのだ。剣ヶ峰戦で誤解されて
いるかもしれませんが、マスコミやサッカー関係者の皆さん、本来
の俺はバランスのとれたセントラルMFなんですよー。
と誰に向けているのか不明なアピールを終えると、これからの自
分のやるべきことを考える。監督が明言しなかったから自分の頭で
考えて動くしかない。
前線からパスが中盤の底の俺にまで下りてきた。相変わらず攻撃
陣は消化不良な攻めに終始しているようだ。おっと、俺についてい
るマークがじりじりと圧力をかけてくるな、ここは無理せずに一旦
キャプテンへ戻そう。
ボールを渡すのと同時に前へ進もうとすると、慌ててマーカーが
後退する。ふむ、やはり俺がオーバーラップするのを相当に警戒し
ているらしい。二回戦で二得点もしたのが相手とっては強烈な警告
になったのだろう、俺をゴールに近づけまいとしているディフェン
スだ。
395
ならばこちらもそれに応じた戦い方をさせてもらおうか。
改めてパスをもらい直すと右手を大きく振る。このサインは単純
明快だ、右サイドに向けての指示﹁走れ﹂である。﹁先輩、行け!﹂
の声と共に、強く長いDFラインの裏へのパスでサイドMFを走ら
せる。
お、ちゃんと追いついてパスを受け取ったじゃないか、偉い偉い。
俺の子供扱いした心の声が聞こえた訳でもないのに、右サイドのM
Fがキツい眼差しでこっちを睨む。うん、消沈するよりは俺に腹を
立ててでも走り回ってくれる方がずっとましだ。
本当はその殺気混じりの視線に﹁もう少し優しいパス﹂を出すべ
きだったかと後悔しかけたが、そんな反省をするべきじゃないな。
俺の能力ならばこの中盤の底という自陣からのポジションでも、
オフサイドを取られずに前線へのロングパス、または敵DFの背後
のスペースへのスルーパスを通せる。
チームの足が止まりがちな状態だからこそ、ギリギリ届くはずの
スペースへパスを出すことでチームメイトを無理矢理にでも走らせ
るのだ。⋮⋮決して自分が走るのが嫌だからではないぞ。
敵陣の深い所で俺のスルーパスを受け取った先輩は、何か言いた
い事がありそうだったが久しぶりのチャンスを優先させたようだ。
オフサイドをかいくぐった為に敵は周囲にはいない。とっさにゴー
ルへ直進するよりは縦への突破を目指したらしく、サイドライン沿
いに突き進む。
ディフェンスラインが破れた事で敵味方の動きが慌ただしくなっ
た。敵DFは争うようにゴール前へ後退し、こちらは一気に全員が
ポジションを押し上げる。
ゴールライン近くまでサイドを抉りきった右サイドから、中央へ
のセンタリングが上げられた。ゴールから少し離れた地点へのふわ
396
りとしたボールだ。鎧谷DFに長身のDFがいない弱点を突くよう
に、キーパーが飛び出せない場所への、速さよりうちのFWの高さ
を生かそうとしたセンタリングである。
いくらか速度が遅いために敵味方を問わずに大勢でのヘディング
争いになった。しかし、これに勝利したのは敵のDFだった、その
頭で大きくクリアされてしまう。どうやら高さでの勝負になる前に、
ポジション争いでそのDFが勝利していたらしい。少し遅めのセン
タリングがここでは裏目に出た形だな。
だが矢張のチャンスはまだ終わってはいない。こんなこぼれ球が
出る展開でこそ、俺の鳥の目のメリットは最大限に発揮されるのだ。
クリアされたボールの所へ誰よりも早くたどり着く︱︱そう思っ
ていた。だが、俺と同じタイミングでボールへ到達した少年がいた
のだ。向こうのキャプテンでありボランチの明智だ。
こいつは確かさっきまでゴール前にもいなかったし、中途半端な
ポジショニングだったはずなのだが。どうして俺と同じぐらい短時
間でこぼれ球にたどり着けたんだ? 足下のボールを確保しようと
肩と肘で押し合いながら、訝しげな視線を投げかけると同様の視線
を寄越す明智と瞳が正面からぶつかった。
︱︱その時に俺は理屈抜きに直感で理解した。おそらくは明智も
同様だろう。こいつも俺と似たような感覚で、つまりピッチを空か
ら見ているような鳥瞰図でゲームメイクしてやがる、と。
そして猛烈な敵愾心、あるいは同族嫌悪が襲ってくる。こいつに
だけは負けられない!
それは明智も同じ様で押し合っていた肘を少し引いて肘打ちして
きやがった。負けじとこっちも目立たないように肘打ちで応戦する。
小柄な二人における審判の目から逃れるような地味かつ陰険な戦い
は、そこへ駆けつけた頼りになるうちのキャプテンのおかげで水入
りとなった。
397
ボールよりお互いへの攻撃に意識を向けていた俺達を尻目に、キ
ャプテンがあっさりとシンプルに足を伸ばしただけでボールだけを
奪っていったのだ。すぐさまパスでボールを捌くと、まだ絡み合っ
ている状態の俺の襟首をぐいっとばかりに掴んで自分の方へ引きつ
ける。
視線は明智に釘付けのまま﹁足利、君の仕事はそんなんじゃない
よね﹂と今までになく冷たい口調で俺へ告げる。
そしてこうも続けた。
﹁こんな場合は僕を呼んでくれないといけないよ、僕って割とラフ
プレイも得意なんだから﹂
そのいつもと変わらない優しい笑顔なのに迫力を滲ませたキャプ
テンに、尊敬されているだけでなく彼が得点しても誰も祝福の張り
手ができない理由を理解した。
︱︱どうもこの試合はすっきり爽やかとは行きそうにない雲行き
だなぁ。
398
第五十九話 ベストポジションはいただきました
ゲームは拮抗状態︱︱いや俺の欲目かもしれないが僅かに天秤は
矢張SCに傾いている。これは俺が入ったことで自陣の深い所から
のゲームメイクが可能になったからである。敵の鎧谷では明智が担
当しているチームをスムーズに動かす潤滑油の役割だ。
向こうは組織力と経験でその明智のゲームメイカーとしての能力
を生かしているが、そこまでしっかりと戦術として整備されてはい
ないこっちもメンバーはきっちりと俺の指揮に従ってくれている。
そして矢張には個人で突破できる能力を持つ自称﹁矢張のエース﹂
がいる分こちらが有利になっているのだ。
俺と明智はお互いの作戦を読みあって、細かいポジションチェン
ジと長短のパスで相手のバランスを崩そうとしている。そんな頭脳
戦を展開している場面でも山下先輩は一人で勝手なプレイをするの
だが、それが結果的に敵陣を切り裂く事になり何度も決定的なチャ
ンスを作っているので俺や監督を含め誰も文句が言えない。
山下先輩の多少は強引なプレイがいいアクセントとなり、俺がこ
の試合で比較的堅実に構築しているバランスに配慮したパス回しと
相まって鎧谷のディフェンスが対応しきれていない。
俺や明智のチェスや将棋のようにピッチを上空から盤上のように
捉えてゲームを組み立てるやり方は、全体に目が行き届きやすい反
面で突発的な対処に遅れるデメリットもある。相手がどう動くかを
考えすぎて敵に主導権を渡してしまうのだ。
だが山下先輩は良い意味で空気を読まずに、自分からガンガン前
へ攻撃をかけてくれる。その分鎧谷が応急処置せざるを得なくなり、
その猶予を使って俺が別のルートで攻撃する指示が出せるなどうち
399
の攻勢が多く、しかも連続した攻撃ができるようになってきたのだ。
しかし流れは矢張に向いて来たとはいえ、未だに一点差で負けて
いる事には変わりはない。なんどか惜しい場面まではいくのだが、
最後のシュートが決まってくれないのだ。山下先輩のフリーキック
を止めた時から感じてはいたが、相手のキーパーはかなり優秀だな。
他のDF陣にしても崩れそうでなかなか崩れないし、上手いという
よりも自分達のゴールを一生懸命守っているという印象だ。
それはまあ仕方がないのだが、相手のディフェンスの所々にラフ
プレイが見られるのが気に障る。はっきりイエローカードをもらう
ようなあからさまな物ではないが、ファールが嫌いな俺は特に腹が
立つ。
残り時間はロスタイムを加えてもほんの僅かでしかない。そんな
状況でリズムを崩され、時間を消費させられるファールを受けると
どうしても苛立ちを隠せない。
ああ、また山下先輩が倒された。先輩はドリブルで突っ込むから、
他の選手よりもずっと敵からのファールを受けやすいのだ。今度の
ファールも突破しようとした先輩に敵のマークの足がぶつかったよ
うだった。俺からしたらわざとにしか見えないが、狭いスペースで
の接触プレイだと明らかに狙ってやった故意の反則だとは審判も判
定しづらいのかもしれない。
くそ、そっちがファールででも止めてくるならば、こっちはそれ
を利用させてもらうぞ。
うずくまって﹁痛てて⋮⋮﹂と太ももを押さえる山下先輩に近づ
き、耳元で作戦を囁く。
ファールされた者がフリーキックを蹴るのがうちの流儀であるか
ら、このキックを蹴る権利を持っているのは当然ながら山下先輩で
ある。だからトリッキーなプレイをするためには真っ先に相談しな
400
ければならないのだ。でないとこの人へそを曲げちゃうしね。
足をさすりながら俺の作戦を聞いていた先輩は﹁オッケー、それ
でいこう﹂とあっさり承諾した。正直もう少しゴネるかと予想して
いたので、その聞き分けの良さにちょっと驚く。
まじまじと見つめる俺の前で﹁ふっふっふ、俺の足を蹴りやがっ
た借りはゴールで返してやる。山下様、ファールしてすいませんと
土下座して謝りたくなるような得点を決めてやろう﹂と唇を歪めた
低い笑いをもらす。﹁う、うん、そうだね﹂とちょっぴり退きなが
ら俺も頷く。何だかこのフリーキックが失敗したら俺が山下先輩に
逆恨みされそうな勢いだが、それでも多分これが一番得点できる確
率の高い方法だと信じて実行するだけだ。
審判に指示された地点に、俺が静かにボールをセットする。隣に
はファールされた痛みから回復した山下先輩、後ろには頼りになる
我らがキャプテン、前にはゴールとそれを守るように築かれた長い
人の壁があった。
俺が剣ヶ峰戦で決めたブレ球のフリーキックを警戒しているのか、
キーパーの正面でさえもボールを確認する必要最小限の隙間しか空
けていない大人数の壁だ。
明らかに直接ゴールを狙わせないという執念がにじみ出ている布
陣だな。
まずは俺がセットされたボールに向かって走り出す。その後一歩
だけ遅れて山下先輩が続く、その少し後ろからキャプテンが俺達を
フォローするように従っている。
最初に踏み込んだ俺がキックすることなくボールの脇を通過して
いくと﹁やっぱり﹂という空気が流れ、次に山下先輩のキックモー
ションに壁を作っているDFの体が緊張で強ばった。ほとんど全員
が俺はカモフラージュで、ボールをセットしたのはフェイントであ
401
り二人目の山下先輩が本命だと読んでいたらしい。
その山下先輩までもがシュートすることなくボールをちょこんと
後ろに軽く動かすだけだった。壁を作っていた鎧谷DF達も中途半
端にジャンプしたり、飛び出しかけてストップをしていたりと一瞬
混乱する。
そこに後ろで出番を待っていたキャプテンがバックパスされて渡
されたボールを蹴った︱︱ゴールではなくサイドへ流れている俺の
方へと。
もちろんノーマークだった俺はキャプテンからのパスを、丁寧に
ダイレクトで壁の向こうにふわりと浮かせて送り出す。
そこに走り込んだのは山下先輩だ。フリーキックの場面でキッカ
ーのポジションにいれば敵のマークは張り付けない。俺と先輩はそ
れを利用して完全にノーマークの状態になっていたのだ。
しかも直接ゴールを狙ってくると思っていたのか、ゴール前の壁
は乱れていてDFの足は止まっている。そこにフリーキックを撃つ
ふりの勢いそのままに、加速度をつけた山下先輩がゴール前に突っ
込んできたのだ。後は俺がオフサイドにならないタイミングで壁の
向こうにパスを届ければもう結果は判っている。
ほら、観客席からの大歓声と審判の得点を告げる笛に先輩達の歓
喜の雄叫び。ゴールネットが揺れるのを確認してから目を瞑っても、
耳から嵐のように大騒ぎが伝わってくる。
歓喜の声の余韻に浸りながら目を開けると、山下先輩が走り寄っ
てきたチームの皆から祝福という名の平手打ちの連打をくらってい
る所だった。どうみても俺からは襲撃されているとしか思えないの
だが、これもうちの伝統なのだろう。⋮⋮俺の代になったら廃止し
たい伝統だな。
まあ今は自分がやられるんじゃなきゃいいか。俺も記念手形を山
402
下先輩につけておこう。
いつもより疲労で少し重く感じられる足を動かして、祝福の輪に
入ろうとする俺は、周囲を見渡す鳥の目にちょっとした違和感を覚
えた。
なんだろうか?
違和感の発生源は敵チームの明智からの視線だった。俺はここま
で勝ち上がってくるのに結構活躍したから、妬みや敵意を感じた事
はある。だが、明智から放たれているものは敵意とかそういうレベ
ルではない。俺もこれまでに浴びた経験がないので自信を持って断
言はできないが、おそらくは﹁殺気﹂と呼ばれる類の物だった。
カルロスに感じたような太陽から熱風が吹き付けてくるような感
覚ではない。むしろブラックホールに吸い込まれるように、明智の
持つ冷たく暗い瞳に吸い寄せられそうだった。
カルロスを怒らせた時はこう思った︱︱虎の尾を踏んでしまった
な、と。今回の明智に睨まれて思ったのは︱︱今度は毒蛇の尾を踏
んだようだ、だった。
あれ? どっちとも死亡フラグじゃないか? サッカーの試合中
に似つかわしくない形容がさっきから頻出しているな。まあ、でも
脅威を感じたんだ、多少表現が大げさになるのは勘弁してほしい。
明智のあの目を見ているとチームメイトの祝福騒ぎで高揚したテ
ンションが下がり、背筋に冷たい物が走る。
別に得点直後に反撃されそうで脅威に感じているのではない。そ
れよりももっと質が悪い雰囲気である。
ああ、そうだべつにビビっているわけではないが、俺や山下先輩
の身辺の警戒を厳重にしなければならないな。個人的な﹁嫌な予感﹂
だけではない。何しろ監督にも命令されているし二度と繰り返した
くない嫌な思い出もある。だから絶対に怪我だけはしないように注
403
意するべきなのだ。
一人で戦慄していると祝福の輪が俺の場所まで広がってきた。
﹁おい、アシカどうかしたか? お前もナイスアシストだったんだ
からもっと喜べよ。今回は特別にお前の為に背中の一番いい位置を
空けておいたから、ここに一発でっかい紅葉を﹂
﹁アシカ! てめぇ先輩に向かって張り手をかますのは許さんぞ!﹂
﹁うんうん、足利も山下も仲がいいねぇ。あ、ちなみに足利が辞退
したらその背中の真ん中のベストポジションはキャプテンの権限で
僕がもらうから﹂
﹁キャプテンはさっきもやったでしょうが! それに俺の背中は俺
の物だから、勝手にやりとりしないでください!﹂
⋮⋮うん、なんだかこのメンバーと一緒だとシリアスになってい
るのが馬鹿みたいに思えて来たな。まあとにかく、今のほんの僅か
な時間だけは皆と喜ぶか。
404
第六十話 気にするな、不運な事故が起こるだけっす
同点に追いついた喜びに湧く矢張のメンバーだが、その傍で俺は
中途半端に固まっていた。
それでも仲間の明るさに救われて、明智のどんよりとした視線の
呪縛からようやく再起動ができたのだ。気を取り直して俺も山下先
輩の祝福と言う名の張り手合戦に参加していると、そこで審判が吹
いた後半終了の笛の音が響く。
ふう、ぎりぎりでなんとか間に合ったな。得点するのが後ワンプ
レイ遅れていたら、タイムアップの方が先に来て俺達は敗退してい
たぞ。
もしかしたら審判も鎧谷のファールによって得たフリーキックだ
から、少々は時間が超過しても目を瞑って最後までプレイさせてく
れたのかもしれない。
とりあえず終了間際に同点に追いついた俺達のテンションは高い。
ベンチに戻ってからも、皆が﹁よくやった﹂と声をかけてきては
ハイタッチを交わしている。特に山下先輩はピッチ上にいるメンバ
ーから紅葉をつけられ終わったと思ったら、ベンチメンバーからお
代わりだとバシバシ背中を叩かれている。山下先輩の瞳には得点し
た直後の興奮はすでになく、今は何か悟ったような達観の色があっ
た。
そんな中、下尾監督が大きく手を叩いた。
﹁よーし、みんな頑張ったなー! お前たちの諦めない心が最後で
追いつかせたんだ。でも時間がないから飴はこのぐらいで、さっさ
とミーティングを進めるぞー。延長は今から五分休んでから前後半
405
十分ずつだ。ハーフの休憩も五分だけになる。体力的にきついのは
判っているが、それは向こうも同じだから仕方ないな。とにかく水
分はどんどん取って脱水症状にならないように気をつけろよー﹂
﹁はい!﹂
監督の言葉に全員で返事をする。ほんの二・三分前のリードされ
ていた時は疲れきった表情をしていたのに、追いついたばかりなせ
いか皆の顔が生き生きと輝いている。こうしてみるとやっぱりメン
タルの影響って凄いんだなぁと実感させられるな。
と、そんな事を考えていたのは俺のスタミナの残量が危険値にな
ったからである。最後のフリーキックのプレイも俺の足の調子が万
全であれば、直接狙わせてもらっていた。だがこの乳酸の溜まった
足ではパワーの必要なブレ球などは撃てないので、コンビネーショ
ンを使ったトリックプレイを使用したのだ。
﹁アシカは大丈夫か?﹂
﹁もちろんです!﹂
だが監督の心配げな質問に、つい脊髄反射で胸を叩いて請け合っ
てしまった。
このつい見栄を張ってしまう心理は、おそらくスポーツをやった
人間なら誰でも判ってくれるだろう。よっぽどの状態ではないと試
合中に﹁無理です﹂なんて弱音は口を突いて出ない。とにかく選手
は試合には出たいものなのだから。
なおも疑いの眼差しを向ける下尾監督に﹁まだまだ走れますよ﹂
と、内心考えている﹁今百メートル走したら、タイムが悪いどころ
か途中棄権だな﹂などの弱腰な台詞とは裏腹な強気な言葉で答える。
俺の演技が上手くなったのか、監督もやや曖昧な表情だが頷いて
納得してくれたようだ。
406
﹁それじゃ、延長戦はアシカを入れた後にやっていたプレイ内容と
同じで問題ないな。皆も怪我しないように精一杯楽しんでこい!﹂
監督の言葉で短すぎる休憩を終えた俺達は、またピッチへと戻っ
ていく。
全く、明智が俺を狙っているようだとは言い出せない雰囲気だっ
たな。俺はそう心の中で愚痴る。そんな事言ったら、もう交代枠は
使い切っているのに俺を引っ込めかねないからな、あの監督は。
でも後で文句言われるのも、俺が怪我するのもどっちも御免だ。
明智のラフプレイの対策は取っておくべきだろうな、うん。その為
の備えを終えて、いつもより一回り膨らんだソックスを上げると、
若干重くなった足取りで俺もピッチへと向かった。 ◇ ◇ ◇
﹁いやー、思ったよりも矢張SCって強かったみたいっすねー﹂
意図的に軽い口調で煮えたぎる腹の内を覆い隠す。俺の計算では
試合終了まで逃げきれる予定だったのが、一人の三年生の途中出場
のせいで勝利のシナリオが狂ってしまった。
鎧谷は元々が先行逃げきりをスタイルとしたチームだから、攻撃
で第二・第三といった次の手がないのが痛い。相手の体力を消耗さ
せるよりメンタルを削って足を止める戦術も、足利の登場によって
上手く機能しなくなってしまった。
もちろんプレイスタイルの差で俺達の方がスタミナは残っている
だろうが、このままやれば敵の体力が尽きる前に向こうに点を取ら
れてしまう可能性の方が高いと客観的に判断ができてしまう。
どうするべきか頭の中で幾つかの作戦を考えるが、この状況を打
407
開できるクリーンな手は思いつかない。
こういう時に自分を含めた鎧谷の選手層の薄さと個人能力の低さ
を痛感する。カルロスレベルとまで贅沢は言わないが、せめて山下
クラスの突破力を持つ選手がいれば選択肢も広がるのだが。
︱︱仕方ないっすね。俺は目を瞑り、自分の中にいるもう一人の
客観的で冷徹な自分と会話をする。
俺はクリーンな手段で勝利を得るのは諦めた。そして多少後ろ暗
いプレイをしなければ矢張に勝つのは無理だと判断したのだ。
だったら何を躊躇っているんだ? カルロスが三回戦に勝ち上がってきた場合はどうせダーティな手
段を取らねばならないのは覚悟していたはずだろう?
カルロスを退場させるのは良くて、矢張の選手を退場させるのは
駄目なのか? そんな訳ないよな、俺はどんな事をしても優勝する
って決心していたはずなのだから。
自分の中にあった躊躇いに決着をつけて目を開けると、チームの
皆が口を閉ざして俺の様子を伺っている。 ﹁どうかしましたっすか?﹂
﹁いや、明智が急に黙り込んだから何かあったのかと思ってな。そ
れに後半の指示もまだ受けてないし⋮⋮﹂
﹁いや、指示は監督が言うべきっすよ﹂
俺が突っ込むと監督も﹁それもそうだな﹂と一つ頷いた。
﹁うん、じゃあ後半の指示をしておこうか。明智の言う作戦通りに
しろ、以上﹂
﹁⋮⋮次の試合からは監督じゃなくぬいぐるみでもベンチに置いて
おくっす﹂
408
あまり頼りにはならないが、俺への全幅の信頼を示す監督に減ら
ず口を叩いておく。こういう接し方をされるとどうしていいか判ら
ないんだよな。
いや、今は俺の作戦を止められないことを喜ぼう。
﹁それじゃ、延長戦の作戦を立てるっすよー。基本的には今までと
同じ戦い方でオッケーっす。時間が長くなればなるほど相手に体力
を使わせるサッカーをしている俺達が有利になるっす。
でも一つ注意してほしいのは山下のドリブル突破っす。強引だか
らマンマーカーが頑張れば止められるはずっすけど、念のため他の
DFもフォローする用意をお願いしまっす﹂
簡単にまとめた俺のプランにどこか訝しげな質問がかかる。
﹁ああ山下のフォローをするのはいいが、もう一人の攻撃の軸の足
利は注意しなくていいのか? 後半の最後もあいつからのパスでや
られたようなもんだし﹂
﹁ああ、足利は問題ないっすよ﹂
俺は素っ気なく答える。あまりこの話題には触れたくない。
﹁そ、そうか、問題がないならいいんだが⋮⋮﹂
まだ納得できないようなチームメイトの瞳をしっかりと見つめ、
笑顔でこう宣言する。
﹁ええ、俺が問題なく処理するっす﹂
うん、俺はいつも通りに笑えているだろうか。
409
◇ ◇ ◇
試合終了直前にゴールが決まり、延長が始まろうとする中でスタ
ンドはざわついていた。これまでの試合展開の感想や今の内にトイ
レに行っておこうとする観客が一斉に行動しだすからだ。
そんな観客席の一角に、ジャージ姿の少年が二人で席を並べてい
た。
﹁おお、お前の言ったとおりだな矢張が追いつきやがったぞ﹂
﹁そうだな、まあ三十九番を入れるのがあそこの最後手段だったん
だろう。まがりなりにでもカルロスと渡り合った選手だ、疲れては
いてもあれぐらいはやるだろう﹂
﹁ふーん、そっかぁ。俺なんかはパスばっかの三十九番より十番の
トップ下の奴の方が良く見えたけどなぁ﹂
﹁まあドリブラーは見栄えがするからな。ゲームメイカーよりは素
人でも上手さが判りやすい⋮⋮ってお前はサッカー選手だろうが、
しかも年代別とはいえ日本代表の。素人と同じ感想を持つなよ﹂
どこか呆れたような視線で隣の少年を眺めるが、その態度には気
安さがある。おそらくは本気で相手を馬鹿にしてはいないのだろう。
視線を向けられた少年もそれを承知しているのか、何のわだかま
りもなく言われた言葉を受け止める。
﹁まあ俺は直感的なFWだからな。面倒な分析は司令塔のお前に全
部まかせるよ﹂
﹁丸投げかよ、まあ、今までもそうだったから仕方ないか。で、直
感の鋭いストライカー様はどっちが勝つと思う?﹂
﹁うーんと鎧谷かな﹂
410
﹁へえ理由は?﹂
﹁⋮⋮勘だ。でも俺の勘は外れた事はないからな﹂
﹁そうか﹂
こいつの野生的な勘は侮れないからなと納得しかけて彼は気が付
いた。
﹁お前、二回戦の時も勘だけどカルロスのいる剣ヶ峰が勝つって言
ってなかったか?﹂
﹁⋮⋮お! 延長戦の開始だ、両方とも頑張れー!﹂
﹁いや聞こえないふりはやめろよ﹂
411
第六十一話 情けは人の為ならず、と自分に言い聞かせよう
延長戦が始まっても立ち上がりは落ち着いた物だった。お互いの
チームの力量を理解しているし、これまでのゲームで体力を消費し
ているために一気に勝負をつけるといった風にはならない。
強引な攻めはとりあえず止めて、慎重に相手の出方を伺いあって
いる状況だろう。
だが俺は少しだけ違和感を感じていた。俺へのマークが微妙に甘
くなったようなのだ。山下先輩などに対してはドリブルを警戒して
いるのか、マークが付くだけでなく抜かれた場合に備えてフォロー
する人数さえ割いているのにもかかわらず、だ。
俺を過小評価している可能性も考えた。だが、後半の終了間際の
明智とのボール争奪戦から、お互いが似たセンスを持っているのは
理解できたはずだ。ならば俺が明智に対してしているように、最大
限の警戒を俺に対してもするべきではないのか? それとも俺程度
では障害にならないとでも思ったのか? プレッシャーが軽くなっ
たのは嬉しいが、舐められているんだとすれば腹が立つな。
ならばこっちも勝手にやらせてもらおうか。そう思ってボールを
味方に要求する。
パスが足元に送られるが、マーカーからのプレッシャーがない。
自由に動けるんならこっちのもんだと、これまでのようにパスでゲ
ームメイクをするのではなく、自らのドリブル突破を選択する。
真正面に立っているだけのマーカーを斜めに通る形で走り抜けよ
うとすると、そのマーカーの影に当たる場所から明智がトップスピ
ードで飛び出してきた。
その勢いのまま俺へとスライディングを敢行する。
412
傍目からはこのスライディングは、ほんの少しだけ勢いがつきす
ぎたようにしか見えないだろう。
だが狙われている俺にははっきりと判る。これはボールを奪おう
としたものじゃない。こいつが狙っているのは︱︱俺の足だ。
背筋を氷の欠片がなぞる。
甘かった。
こいつがマーカーの裏にいるのは判っていたが、パスカットする
ために俺からの死角に当たる場所に潜んでいたのかと考えていた。
まさか俺を潰すためにわざわざ待ち構えていたとは。
しかもこの位置は俺をマークしていた選手がブラインドとなり、
俺と明智の接触するシーンが審判からは見えにくいはずだ。ここま
で計算づくで潰しにくるとは思っていなかった。
明智が芝に太ももを着けた姿勢になりながら、鋭く右足を振り抜
く。そこはボールが一瞬早く通り過ぎた場所で、まるで明智のスラ
イディングが遅れたように見える。その一拍のタイミングのずれが
ボールではなく、そのボールにタッチした俺の左足へスライディン
グするはめになった。
きっと明智は公式にはそう発言するだろう。だが現在マッチアッ
プしている俺にだけははっきりと判る。明智の視線は常に俺の左足
から動かず、ボールの動きには一切興味が無かったと。
こいつ延長戦に入ってからおとなしくなったと思っていたのは、
間違いなく今のわざとに見えないような場面で俺を潰すタイミング
を計っていやがったのか!
恐怖と怒りが俺の集中力を加速させた。明智は俺の左側面から左
足首に向けてスライディングをしている。この左足はドリブルをし
ようとボールタッチして踏み込んだせいで、今のタイミングでは完
全にかわすのは不可能だ。
413
であれば被害を最小限に抑えなければならない。
とっさに左足にかかった体重を減らすために踏ん張るのは止めて、
左足かかとをずらして芝の上を滑らせるような格好にする。
空手やキックボクシングをしていれば判るだろうが、体重のかか
った軸足にローキックされればダメージが大きい。それは体重がか
かっているぶん衝撃を逃がす事ができないからである。
同様の事はサッカーでファールを受ける場合にも言える。むしろ
派手に吹き飛ばされて衝撃を受け流した方がダメージは少なくてす
むのだ。できるならジャンプしてでも左足を完全に宙に浮かせたい
が、そこまでの猶予はない。
だから俺は踏ん張るのではなく、自分から左足を滑らせて転んだ
ような形で衝撃を小さくしようとしたのだ。そんな風に無理に出足
を滑らせると、自分も体勢を崩してしまうがこれはもう仕方がない。
明智の突き出した右足と俺の左足首が接触する。ぐっと歯を食い
しばるが、覚悟を決めていた分と蹴られるポイントをずらしていた
分だけ衝撃も痛みも大したことがないように感じた。
そして明智はスパイクの裏から伝わる感触に驚いているのか、自
分が反則を仕掛けてきたにも関わらずに目を丸くしているな。
そのおかしな感触とはまず軽すぎるという点だろう。体重のかか
っている足を狙ったはずなのに、俺が瞬間的に自ら転んだ格好にな
って重心を左足からずらしたものだから、左足は蹴られたと言うよ
りもむしろ押されたと言うのに近いほど衝撃は抑えられている。
次に異常を感じたのは﹁堅さ﹂だろう。延長戦に入る前、明智か
ら脅威を感じた俺はソックスの中にこっそりとすね当てを何枚も、
それこそ足を一周するようにぐるりと巻いておいたのだ。その分微
妙に重く、タッチも感覚が鈍く感じられるがこれからもこんなファ
ールに備えて重装備に慣れておかなければいけないな。
そのすね当てによってもずいぶんとダメージが軽減されている。
414
嫌な予感というのを馬鹿にせず、念のために対策を取っておいて
良かった。もし無警戒で明智のタックルを受けていたら、まず試合
続行は無理、怪我は当然、下手したら後遺症が残るレベルのダメー
ジが与えられただろう。
その事を想像しただけで全身の毛が逆立ち、口の中がからからに
なる。
ここまでの様々な考えが、明智に倒された一瞬で走馬燈のように
頭の中をよぎっていた。
そんな俺の体は明智が足をすくった状態で、尻餅を着くというか
背中から着地する事になりそうである。だが、ここで俺の予定外の
出来事が一つ。
俺の体が倒れる場所が明智の体の上になりそうだったのだ。
そりゃそうだよな。考えてみれば明智は勢い良く俺の足を刈りに
突っ込んで来たんだ、その俺が倒れれば当然スライディングした明
智の上って事になる。
重力に引かれて明智の上に落下しつつある俺に、暗い声が囁いた。
﹁このシュチエーションなら下で明智がクッションになるので受け
身は取る必要がない。いやそれどころか、お前が倒れる時に明智の
体をスパイクで踏むか、硬い肘から落ちて下の明智を攻撃する形に
なっても不思議はないぞ。目立たないようにやれば、審判も観客も
偶然の行為で済ませてくれるはずだ。だいたい怪我させるような反
則をしてきたのは明智からじゃないか、俺はただやり返しただけ。
いやちょっと受け身を失敗して、下敷きにした明智の体のダメージ
が大きくなっただけに過ぎない。因果応報と言う奴で、良心のとが
めを感じる必要もないだろう﹂
うん、そうだよな。別にわざとじゃなくて、これは偶然だよな。
俺は倒れ込みながら左肘を地面に向けて︱︱この場合は明智の体
415
に向けて突き出した姿勢になった。プロレスで見る、エルボードロ
ップの体勢だ。下にいる明智が俺の思惑を悟ったのか表情を凍らせ
る。こいつ、他人に怪我させる覚悟はあっても自分が怪我する覚悟
なんか微塵も持っていなかったんだな。
同情の余地は無しだと落下するその瞬間に、自身が選手生命を失
った負傷した場面のフラッシュバックが起こった。
痛み・悲しみ・悔しさ・絶望・無力感・ファールした相手への憎
悪、すべてがごっちゃになった何とも言いようがない感情が湧き上
がる。
ああ、あんな思いをするのは二度と御免だよな。⋮⋮例えそれが
敵であっても。
ぎりぎりで俺は肘を引き、お尻と背中から明智の体に倒れ込んだ。
下敷きにした瞬間﹁むぎゅっ﹂というカエルが潰されるような小
さい悲鳴が上がったが、明智も腕で落ちてくる俺の体をブロックし
ていたようだし、ただ普通に押しつぶされたぐらいのダメージで済
んだはずだ。
俺もお尻が痛かったし背中を打ったせいで咳き込んだが、さっさ
と明智の体から起き上がる。反則を仕掛けてくるような奴とは長く
接したくない。
お、良かった。タックルをされた左足も異常はないな。体重をか
けてもほとんど痛みは感じないぐらいで、ちょっとした打撲程度に
収まったようだ。
素早く立ち上がった俺に向かって審判が駆けてくる。あんまり真
剣なその表情にちょっと微笑が込み上げる。大丈夫だって、とりあ
えず怪我はしていませんよ。
﹁大丈夫かね﹂
﹁ええ、引っ掛けられた足も、落ちて打った背中も異常なさそうで
416
す﹂
﹁それは良かった﹂
安堵を滲ませて審判が俺に頷きかける。その顔を厳しく引き締め
てまだ地面に横たわっている明智に対し、イエローカードを突きつ
けた。
﹁鎧谷十番、明智君。今のは危険なファウルだ﹂
威厳に溢れる声だが、明智は審判よりも俺の方をじっと見ていや
がる。審判もそう察したのか声を荒げて﹁今のはもう少し後ろから
だったり、足利君が怪我したりしてたらレッドカードだったよ。も
う一回今みたいなプレイしたら君じゃなくても一発退場だからね、
ちゃんと判ってる!?﹂と詰問する。
﹁判ってるっす﹂
今度は俺から審判へと目を移してしっかりと答える。﹁もうしな
いっすよ﹂
それに納得したのか、審判もメモに書き込むとそれ以上は何も言
わなかった。
﹁ずいぶんと甘いっすね。今のタイミングだったら反則をとられず
に俺を潰せたでしょう?﹂
審判は離れたので、俺だけに届くぐらいの低く小さな声だ。
﹁また削られるとは思わないんすか、だったら甘いんじゃなくて馬
鹿っすね﹂
﹁甘いと思うよ、俺もね﹂
417
自分で思っているよりも冷静な声になった。この明智って奴に対
してはさっきほどの怒りは感じていない、こいつが本当に危険な奴
なら何も言わずに次にまたラフプレイをやるだろう。こんな八つ当
たりじみた事を被害者である俺に言うって事は、たぶん自分でも今
やっている行為が間違っているのが判っていながらやめる事ができ
ない︱︱つまりは子供って事だ。
﹁でも、潰し合いや壊し合いしたって楽しくないだろう? 俺はサ
ッカーが好きだから、サッカーの事を嫌いになるような汚いプレイ
はしたくない。明智がどう考えているのかはしらんが、そんな壊し
合うプレイが好きならお前はずっとやってればいいじゃないか。俺
達はその先にいかせてもらうけどな﹂
﹁こんなの好きな訳ないじゃないか! 何も知らないくせに勝手な
事を言うな!﹂
﹁じゃ、やめればいいだろ。それとお前の特徴の語尾にっすが抜け
てるぞ﹂
﹁⋮⋮倒れる時に俺に怪我させようとしなかったのには礼を言うっ
す。それと借りは必ず返すっす﹂
﹁俺に無理な反則を仕掛けてこなければそれでいいよ﹂
﹁⋮⋮善処するっす﹂
418
第六十二話 次からはぬいぐるみが監督席っす
俺が明智にファールされた後もしばらく続いた延長戦前半は、俺
達矢張SCが完全にゲームを支配していた。
明智のゲームメイクは精彩を欠き、それに伴い相手のパスやフォ
ーメーションもどんどん崩れてルーズになっていったのだ。
明智が調子を崩したのは判る。彼がファールした直後に俺へ逆切
れのような形で叫んだので、審判とそれにこっちのチームからはキ
ャプテンが厳重に明智を監視しているからだ。
特に俺にとってはキャプテンがフォローに回ってくれたのが有り
難い。俺に敵のマークがついただけで、守護霊のようにすっと背後
に現れてくれる。俺の角度からは見えないが、その度にマーカーが
顔色を悪くして目を逸らすのだから、よほど恐ろしい表情をしてい
るのかもしれない。 何度振り向いても俺には穏やかな笑顔しか見せないこのキャプテ
ンには、達磨さんが転んだで遊んでも絶対に勝てないと確信するね。
そんな頼りになるキャプテンがついていてくれると、俺は安心し
てゲームメイクに専念できた。
逆に明智はイエローカードをもらった上に感情面でも整理しきれ
ていない所に、他から監視されるプレッシャーまでかかってはまと
もにはプレイできまい。
しかし、相手のチームが不調でもこっちには関係がない。いやそ
れどころかチャンスが転がって来たような物だ。
こっちは今が勝負時だとガンガン攻めるのだが、それでも最後の
ゴールマウスまではこじ開けられなかった。オフサイドを狙うタイ
419
ミングのシビアな戦術から完全に引いて守る戦術に切り変えて、鎧
谷も体で止める必死のディフェンスで立ち向かってきたからである。
こうなると延長は時間が短すぎる。押し込んではいたのだが、得
点という結果を出す前に前半が終了してしまった。
俺達矢張はチームメイトがお互いの肩を叩き合いながら﹁惜しか
ったな﹂﹁あのシュートが枠に行っていたら⋮⋮﹂と悔しそうだが
総じて明るい表情をしている。あくまで﹁とどめを刺しそこなった﹂
ぐらいの感覚だ。
それとは対照的に鎧谷の表情は硬くなっている。いつもは彼らが
やっている、敵に振り回されるというゲーム展開を初めて味わって
いるのだろう。
特に明智の調子は最後まで取り戻せていない。ずっと報復される
のを警戒していたのだが、あの一件以来俺に積極的に近づいてこよ
うとはしなかった。プレイ内容も無難にこなしているというだけで、
延長に入る前の頭脳的で二・三手先を読んだ戦術的なゲームメイク
は見られなかったな。
俺の言葉ぐらいで改心するとは思えないし、話をした感じでは勝
利にこだわる事情もありそうだった。だからこのおとなしい時間が、
新たな危険な作戦への考慮時間でないといいんだが⋮⋮。
引き上げる明智の表情を窺おうにも、彼のうつむいた姿からは何
を考えているのかの手がかりはさっぱり与えられなかった。
ベンチでは全員が立ち上がって﹁勝てるぞ!﹂﹁この勢いだ!﹂
と激励の言葉をかけてくる。その声も弾んでいて、そんな所からも
延長前半が俺達のペースだった事が確認できる。
下尾監督も腕組みしたままで、
﹁うん、前半はいいリズムだったぞー。後半もこの流れを切らずに
420
集中していけば絶対に勝てる!﹂
といつになく熱い太鼓判を押してきた。そしてその後でこっそり
と俺の耳元で﹁左足は大丈夫か?﹂と確認してくる。こうしたクラ
ブの子供への細かな心配りがうちの監督の取り柄だよな。俺も﹁心
配ありません﹂とにこやかな笑顔を作って答える。
これは別に監督を安心させる為の嘘ではなく、実際にあのファー
ル以降も痛みなどの支障がなくプレイできたのだ。
﹁備えあれば憂いなしって奴ですね﹂
ソックスを下ろし、ぐるりとすね当てで囲まれた俺の足を見ると
﹁こりゃまた厳重な装甲だなー﹂とちょっと驚いた口調になる下尾
監督だった。確かに大袈裟に見えるが、結果的に役に立ったんだか
らいいじゃん。重いとかボールタッチの精度が少し落ちるとかのデ
メリットはこれから改善すればいいだけの話だ。とにかくこの試合
で怪我しないのが最優先で、それが成功したのだから全部オーケー
である。
俺のその準備の良さと曇りのない表情に監督は安心したように肩
をすくめた。
﹁うん、ファールのダメージがないならいいんだ。で、もう一つの
心配ごとの方のスタミナはどうだ?﹂
﹁⋮⋮もちろん、バッチリ大丈夫だといいなあと思う次第でありま
す﹂
﹁つまり、きついのか?﹂
﹁⋮⋮ちょっと﹂
誤魔化しきれないと判断した俺は、頬をポリポリと人差し指で掻
きながら体力が尽きかかっているのを認めた。いや認めざるを得な
421
かった。延長前半の最後辺りは、俺はほとんど動かずにセンターサ
ークル付近でパスを駆使したゲームメイクに専念していた。そう周
りも思ったはずだ。だが実際には前線に攻撃参加するだけのスタミ
ナが残っていなかっただけなのだ。
攻める為に前へ出るだけなら何とかなったかもしれない。だがそ
の後に相手のカウンターに備える守りへの自陣へのダッシュの往復
は絶対に無理だと俺の足が言っている。そしてどうしても得点が必
要な状況ならばともかく、FWでもないボランチのポジションにい
る俺が守りを放棄して攻めるのは、カウンターをもらう危険が大き
すぎたのだ。
﹁無理だと思ったらすぐにピッチから出ろ。それで負けても怪我さ
れるより何倍もマシだからな。そして、こっちから見ても無理だと
判断したらすぐに引っ込めるぞ﹂
﹁え、でももう交代する枠は使い切ったんじゃ﹂
﹁一人少なくなってもそれは仕方ないなー。それより今言ったよう
にちょっとでも無理だと感じたら引っ込むのを承知しないなら、延
長の後半にはアシカは出さんぞ﹂
﹁⋮⋮了解です﹂
﹁よし。なら後半も楽しんで、そして絶対に怪我しないようにプレ
イしてこい!﹂
◇ ◇ ◇
ベンチにどっかりと座り込んだ俺の頭の中はぐるぐると回ってい
た。試合中に足利と交わした会話が、どうしても頭を離れなかった
のだ。試合に集中しようとしてもそれが妨げていつものように上手
くいかなかった。そのせいで結果としてチームの中心となるべき俺
が足を引っ張るという情けない事になってしまったのだ。
422
大体俺はラフプレイをやり返さなかった点では感謝してもいいが、
それまでは足利にはいい印象は持てなかったんだよな。
俺と似た感覚を持ちながら、チームメイトと監督に恵まれ存分に
才能を伸ばす、それが足利である。そんな奴が俺が望んでも得られ
ない環境でプレイをしているのだ。これまで通りの軽いファールで
はなく怪我させようとまでしたラフプレイの裏には、認めたくない
が嫉妬も確かに存在していた。
気に入らない奴だからこそ言われた言葉を否定したいのだがそれ
が出来ない。そのジレンマが俺のパフォーマンスを落としていたの
だ。
俺は勝たなければサッカーを続けられない。だから審判の目を盗
んでラフプレイもするし、したくもない反則をしてでも勝利を最優
先したプレイをする。だから今の俺はサッカーは楽しくない。
だったらなんでサッカーを続けようとしているんだ?
俺はサッカーを続けるというのが目的になっていて、何のために
サッカーをするのかという点が完全に置き去りにしていた。
サッカーを続けられたとしても、嫌いになっていたら意味がない
よな。いや、嫌いな物を続けるなんて罰ゲームに等しいじゃないか。
胸の奥から深い息を吐く。あの足利は知ったような口を利いてい
たが、俺の事情など何も知らないからこそ建前上は正しいだけの事
を言ったのかもしれない。その綺麗事が一周回って痛いところを突
いてきやがった。
仕方ないな。深く息を吸い込んで心の中の葛藤にけりをつける。
ふと気がつくと、ベンチの周りは静まり返って皆が︱︱監督まで
もが俺の指示を待っている。
﹁お待たせしたっすね。やっと延長後半の作戦が決まったっす。ど
う考えても、このままの試合展開ではじり貧になって勝利するのは
423
難しいので、もう俺の指示に従わなくっても結構っすよ。各自自分
のベストと思うプレイをしてサッカーを楽しんで下さい﹂
﹁え、それでいいのか?﹂
﹁はい。このままでは座して死ぬのを待つだけっす。それなら精一
杯楽しんだ方がマシっすね。俺も久しぶりにやりたい放題にするつ
もりなので気兼ねはいらないっすよ﹂
たぶんこれが俺にとって最後のサッカーの試合になるだろう。だ
ったらせめて、ここまで俺についてきてくれたチームメイトとサッ
カーを楽しんでみたい。無責任かもしれないが、勝つこととサッカ
ー続けるのを諦めたら急に気が楽になった。純粋にサッカーを楽し
めるなんて何ヶ月︱︱いや何年ぶりだろう。
﹁でも、⋮⋮それじゃあ明智はサッカーを辞めないといけないんじ
ゃないか?﹂
﹁え?﹂
意外な発言に驚いてまじまじと仲間の顔を見つめてしまう、なん
でお前ら俺の家庭の事情を知っているんだ?
﹁びっくりしているみたいだけど、監督がそんな秘密をうっかり口
を滑らさないわけないだろう?﹂
﹁そ、それもそうっすね﹂
凄い説得力に思わず頷く。監督のついうっかりはこのクラブの名
物でもあるからな。横目で睨むと監督は必死に顔をそむけて冷や汗
を流しているようだった。頼りにならない監督を無視して、頼りに
なる仲間は真剣な表情で俺の肩に両手を置く。
﹁もし明智が上手くなるために他のJ下部のクラブに移るなら納得
424
するよ。でもサッカーを辞めなきゃいけないのは酷いよ﹂
﹁⋮⋮でも﹂
確かに酷いだろう。でもあの両親が俺の言うことを聞いてくれる
とは思えない。
﹁だから、勝とう﹂
﹁え?﹂
﹁今までのやり方で勝てないなら、楽しんでプレイした方がまだ勝
率が高いなら、今までのやり方にプラスしてみんなが楽しんでプレ
イして勝てばいい!﹂
︱︱ああ、そうかぁ。俺は今まで自分を世界一頭が良くて可哀想
な子供だと哀れんでいた。でも、こんないい仲間に恵まれていたの
に気がつかなかったなんて、本当はちょっと、いやかなりお馬鹿だ
ったんだなぁ。
﹁⋮⋮ええ、そうっすね。だったら今まで通りのプレイに、もう少
し全員のやりたいワガママを足してみるっす。ドリブルしたければ
してもいいし、遠くからシュート撃ちたければそれもオッケーっす。
守備の時だけは指示にしたがって欲しいっすけど⋮⋮あ、そう言え
ば、もうファールで相手を止める作戦は中止にするっすよ﹂
﹁お前達そんな事してたのか?﹂
監督が俺に尋ねる。そんな事とはファールやそれに類するラフプ
レイで相手の流れを止める作戦の事だろうが、今頃そんな尋ね方す
るってことは。
﹁監督、気がついてなかったんっすか!?﹂
425
そっちの方が驚きだよ。俺、黙認してるんだとばかり思っていた。
﹁う、うむ。なんだか妙な勝ち方をするなーとは思ったことがあっ
たが﹂
﹁その時点で普通なら気がつくっす﹂
﹁だが、それなら今からでもこれまでの相手に謝りにいかないと﹂
急にオロオロし始める監督を落ち着かせる。
﹁大丈夫っすよ。これまでにうちと当たったチームで試合後に通院
している子供はいないっす。ほとんどがその場で痛がるだけのファ
ールで、応急処置で全部収まっているっす﹂
﹁⋮⋮そこまで調べたのか?﹂
﹁当然っす﹂
﹁明智は情報収集能力や作戦立案能力の使い方を間違えているな﹂
呆れたように肩をすくめる監督にこっちも鏡合わせのように同じ
ポーズをとる。
﹁誰のせいで俺がそんな事までしないといけないっすかねー﹂
旗色が悪いと目を逸らした監督に追撃を加えようとした時、もう
延長の後半が始まる寸前になっていた。
﹁みんな、とにかくこれまでやってきた事をできるだけ楽しんで、
自分なりにアレンジしてやってみるっす。どうせこのままだと負け
て元々、勝ったらラッキーぐらいな勢いの差がついてしまったっす。
だから俺はみんなとやれる最後の試合だと思って全力で、そして楽
しんでサッカーをプレイするっす!﹂
426
チームの全員が大声で﹁任せろ!﹂だの﹁明智のためにも絶対に
勝つ!﹂だの答えてくれている。
︱︱こんな風な団結できるチームにもっと早くなれていたら、こ
れまでの試合も反則なんてせずに勝ち上がれていたのかなぁ。
427
第六十三話 最後の力を振り絞ろう
俺達矢張SCは延長前半のいい勢いと流れを保ったまま後半に突
入した。
だが、後半に入るとなぜかそれまでのいいイメージが通用しない。
これまでは通っていたパスがカットされる、振り切れたマークがど
こまでも追ってくる。
どうしたんだ? と不審に感じるが、すぐに相手の士気が高くな
っているのに気がついた。
これまでの鎧谷は幾つかのパターンに則って、ここに敵がきたら
こういうフォーメーションで守るというある意味オートマチックな
物だった。
だが、後半に入ってからは鎧谷のチーム全員が声を出し合って、
マークの確認やオーバーラップしてきた選手への注意などをお互い
にし合っている。
やっていることは、これまでとそう変わりはない。だがその作業
をこなす選手がみな生き生きと楽しそうにしている。まるで決めら
れた事だからやるのではなく、自分達が望んでやっているというよ
うな精力的なプレイだ。
あれ、おかしいな? ここは今までの作戦が通じなくなって、し
かも明智のラフプレイが見破られてイエローカードが出されたんだ、
気落ちするのが当然な場面だろう。なんで勇者がピンチで覚醒する
ような、以前よりパワーアップして復活をとげているんだ。
そんな理不尽な思いを抱えつつ、こっちも慌てて気を引き締め直
す。無意識の内にでも﹁この試合はもらった﹂という油断が生じて
いたのだろう。僅かに緩んでいる緊張感と矢張SCのフォーメーシ
428
ョンを再構築しなければ。
﹁FWはオフサイドラインと駆け引きして常に裏を狙ってください、
俺がボールを持ったら常にゴール前へダッシュです。キャプテンは
俺の後ろのスペースは全部任せました。DFへの指示も全部キャプ
テンに頼みます。サイドは敵の攻撃時には中へ絞って下がって、攻
撃する時はウイングのつもりで意識は縦へ。山下先輩は⋮⋮先輩ら
しく好きにプレイしてください﹂
俺の言葉に﹁オーケー﹂﹁了解﹂﹁僕の負担が結構大きいね、責
任重大だ﹂﹁アシカの指示で心底納得できたのは初めてだな﹂とい
う答えで皆が改めて試合に入り直す。そうすると俺からすると不思
議な現象が起こった。
気温は三十度を越える真夏日である。一日に二連戦、しかも二試
合目の延長後半という小学生にとっては過酷な状況下で体力を使い
果たしそうになりながら、なぜか皆のプレイのレベルが上がってい
るように見えたのだ。
もちろん走るスピードそのものなどは落ちている。だが、試合開
始したメンバーが時間経過でスタミナの減少するのと比例するよう
にはサッカーのレベルが落ちてはいかなかったのだ。
一皮剥けたと言うのか、ピッチ上の皆がどんな時よりも集中して
チームの為にプレイしている。これが俺達だけならば申し分ないの
だが、なぜか鎧谷の選手まで何かから解き放たれたように楽しそう
にプレイしている。
特に理解できないのが明智である。
イエローカードをもらって、審判からも危険なプレイヤーだと目
をつけられたのは間違いない。しかもその後俺達にペースを握られ
っぱなしだったはずだ。なのにどうしてそんな晴れ晴れとした顔で
躍動しているんだ?
429
俺の怪しむ視線に気がついたのか、明智がこっちを振り向いてに
こやかに手を振る。俺と明智は普通とちょっと違う視点を持ってい
るせいか、割と目が合うんだよな。
俺は苦虫を噛み潰した表情で仕方なく手を振り返す。何を思った
のか、明智が走り寄ってきた。
﹁足利の言う通りに、危険なファールは止めてサッカーを楽しむこ
とにしたっす﹂
﹁そりゃ良かったな﹂
﹁それで、改めて思ったんすけどサッカーで一番楽しいのはやっぱ
り勝利の味っすよね。そーゆー訳で勝たせてもらうっす﹂
﹁いや、性格変わりすぎだろお前﹂
どこか暗い影を背負っていたはずの明智の変貌ぶりに首を傾げて
しまう。あのぶつかった時の肘は外したはずだが、頭でも打ったの
かあいつは。
まあ、いい。
明智がどんな理由で性格が変わろうと、鎧谷がリフレッシュしよ
うと、俺達はいつものように楽しんで勝つ。それだけだ。
◇ ◇ ◇
﹁明智、こっちだ!﹂
とパスを要求する声が複数から届く。それらの声の発生源をチェ
ックして︱︱声を出さずに裏へ抜けようとしているサイドアタッカ
ーへとロングパスを蹴った。
彼へとボールが渡った瞬間﹁ああー﹂と残念そうな声が敵味方か
ら洩れる。パスを要求した選手は﹁俺にじゃなかったのか﹂と落胆
430
の呻きで、敵はその声を出していた選手をチェックしに行って結果
的に空振りに終わった失望の溜め息だ。
これはいい傾向だな。今までは俺のゲームメイクに文句を言わず
に従っていたチームメイトが、俺に対して遠慮なく要求をしてくる
ようになった。それが自己満足では終わらずに、敵を引きつける囮
の役目にもなってくれている。
これまで俺はこのチームで王様として君臨していて、俺の出来不
出来がチームの調子に直結していた。しかし、この延長後半は明ら
かに違う手応えを感じている。
皆が従ってくれているんじゃなくて、皆が協力してくれているの
だ。
俺からのパスに応じて動くのではなくて、パスを生かそうと出す
前から動き出してくれている。
ああ、そうかこれがチームプレイって奴なのか。
俺は今まで数種類のパターン練習を繰り返し、それらの組み合わ
せをチームの全員が一糸乱れぬコンビネーションで遂行するのがチ
ームプレイだと考えていた。だが俺達が現在やっているのは一人一
人がチームの為に自分で考えて動く、それが結果としてチームの利
益になるという逆のベクトルからのチームプレイだ。
こんな世界もあったんだな。
俺は自分の考えに固執しすぎていたのかもしれない。県大会から
ここまで上がってくるのに、どれだけチームプレイを向上させるチ
ャンスを逃したのだろう。
真正面からぶつかれば負けていたかもしれない試合はあった。だ
がそれ以上に成長し、サッカーを楽しめた確率の方が高かっただろ
う。
だが負けて引退したくない俺からすれば、まともに戦うのはリス
431
クが高すぎたのだ。
それで相手が怪我をしない、審判がカードを出さない程度のファ
ールで反則を誤魔化せるようになってからは、この試合まではロー
リスクのラフプレイを作戦の主軸に取り入れていたのだ。
それが間違っていたのかは判らない。判るのは今やっているサッ
カーがこれまでのサッカーよりもずっと楽しいって事だけだ。
そうか、そうだよな。俺はサッカーが好きでサッカーが楽しいか
ら、辞めるのが嫌だったんだよな。嫌いならばわざわざ危険なファ
ールをしてまで、いやいやサッカーをする必要などどこにも無かっ
たんだ。
ここで俺は自分の中にあったある暗い考えを発見した。俺が汚い
ファールやラフプレイをしてきたのは、勝つための手段であったの
は確かだが、もしかしたらこうも考えていたんじゃないか。俺が自
分のやっているサッカーが嫌いになれたなら、サッカーを辞めるの
がこんなに苦しまなくていいのに、と。
そうか、俺はサッカーを辞める時の言い訳と言うか逃げ道を作っ
ておきたかったんだな。﹁別に俺、サッカーはそんなに好きじゃな
かったっす﹂って。逆に言えば、そんなアリバイを作らなければな
らないほど、辞めるのを考えるのが辛かったんだ。なにしろカルロ
スなんかテレビで見ただけで﹁こいつに勝てるのか?﹂と一人悩ん
でいたからな。全国で優勝できるなんて自分が一番信じていなかっ
たんだろう。
じゃあこれまで鎧谷が、いや俺の指示でファールされた人達は八
つ当たりに巻き込まれただけなのか。自分の小ささが恥ずかしくな
ってくるな。まあこれまでの相手で通院するほどの怪我人がいなか
ったのだけが救いだ。対戦相手の追跡調査までしているなんて、自
覚していなかったが無意識の内に罪悪感を感じていたんだろうな。
432
よし、悔やむのも謝罪するのも全てはこの試合が終わった後にし
よう。
何しろ今までで最高のチームプレイをしているんだ。せめて俺の
できる限りの力を、今まで迷惑をかけっぱなしのチームメイトに捧
げなければならない。
そんな俺の足元にまたパスが渡された。そのボールを俺の事を信
じて前へダッシュする味方FWへと、丁寧にロングパスで送る。い
つもより澄んだ音とシャープな弧を描いて、狙い通りの地点へとパ
スが成功した。
足がボールを蹴った感触、味方との連携にアイコンタクトによる
意志疎通の早さ、どれも過去に味わった事がないレベルだ。 俺は今までで一番上手くなっている。そして一番上手い相手と戦
っている。
畜生、サッカーって面白いよなぁ。俺、やっぱり辞めたくないよ。
433
第六十四話 回すな、絶対に回すなよ
延長後半は、俺達矢張SCにとっても敵である鎧谷SCにとって
も息がつけない展開になった。
なぜか完全復調を果たした明智が、これまで以上に味方を動かす
ゲームメイクを指揮し、鎧谷のメンバーも明智のパスが遅いと言わ
んばかりに走りだしたのだ。
ここまで﹁ボールを走らせる﹂事を徹底したせいか、この時間帯
でもまだスタミナが残っているのが鎧谷の恐ろしい所だ。何かを吹
っ切ったかのようなハイテンションで矢張ゴールめがけて攻め立て
てくる。
そうなるとこっちも受けて立つしかない。一点取った方のチーム
がほぼ勝利が確定する延長戦では、どんなチームだって自陣のゴー
ル前でプレイされたくはない。俺達は審判から少しだけ判定を甘く
してもらっているかもしれないが、それでもゴール前でファールす
るとPKを取られる危険性がある。こんな土壇場でのPKを入れら
れて負けるなんて悪夢でしかない。だから出来るだけ自分達のゴー
ルから離れた場所、それこそ相手ゴール前でプレイしたいのだ。
だが当然相手の鎧谷もそう考えている。
お互いがまずは相手陣内へ押し込もうとボールを回しては奪い合
うのを繰り返している。どちらも一歩も退こうとしない総力戦だ。
不思議な事に激しい奪い合いになっても、これまでと違って鎧谷
のディフェンスはファールをしてこなかった。接触プレイが減った
わけではない。だがそのどれもが正当なプレイで、故意のラフプレ
イや審判が笛を吹くほどのものはゼロである。
434
明智のような何か事情を背負った少年が、俺の言葉だけで変化す
るとは思えない。おそらくは何らかの話し合いが鎧谷の中で行われ
たのだろう。その結果がファールをしないという合意に達したと。
まあ途中経過はどうでもいい。一番重要なのは鎧谷がファールし
なくなったという事実である。ならば︱︱、
﹁行けー、山下先輩!﹂
フラストレーションを溜めているうちのエース様に突っ込んでも
らいましょうか。山下先輩のドリブル突破はこれまではファールぐ
らいでしか止められていない。相手が反則をしないのならば最も止
めにくい攻撃だろう。
俺の声援を背に受けて、山下先輩が鎖から放たれた猟犬のように
前のスペースに出したパスへ追いついてドリブルを開始する。
向こうも当然それに対応して止めにかかる。だがそれがこれまで
のように、体をぶつけるのが前提のディフェンスではなくボールを
奪おうとする防御だ。
随分とクリーンなディフェンスだが、それじゃ山下先輩は止めら
れない。その人は毎日のように俺やキャプテンといった矢張で一・
二を争うディフェンスの得意な相手と一対一をやっているんだ。
俺からの信頼通り、マークしていた選手をこの時間帯でもまだキ
レのあるドリブルで振り切った。よしチャンスだ、そう矢張の全員
が前がかりになろうとした時、かわされたマーカーのカバーに素早
く入った明智が死角からのスライディングして先輩のボールを奪取
した。
思わず自分の時のファールが頭をよぎり、審判に確認するがその
笛からファールの音は鳴らされない。
今のは正当なスライディングで、きちんとボールに向けられたタ
ックルだったな。明智め、あれだけの技術を持っているなら汚いラ
435
フプレイをする必要もなかっただろうに。俺に恨みでもあるのかよ。
奥歯を噛みしめ残り少ないスタミナを使い明智にプレスをかける。
このタイミングでこいつに自由にパスを出されると、矢張のフォー
メーションが上ずっているせいでカウンターの絶好機になってしま
う。
俺が前へ立ちはだかると、スライディングから跳ねるように立ち
上がった明智が微笑んだ。これまでのようにどこか含むものがある
笑みではなく、イタズラ坊主のようなニヤッとした表情だ。
つられて俺まで笑い返す、もっともこっちは牙を剥いたとか形容
するべきなんだろうが。
俺とそれにボールを奪われた山下先輩の二人でチェックしようと
すると、すぐに横パスでプレスをかわす。こいつはなんだか力みが
消えてリラックスしてるな。
﹁随分と楽しそうじゃないか﹂
思わず呼び止めた俺に明智は曇りのない笑顔で答える。
﹁足利君に言われた通りに反則を止めて、楽しんでいるだけっすよ﹂
⋮⋮敵に塩を送ってしまったか。いやでもあの危険な潰し屋のま
までは怪我させられそうだったし、真っ当なサッカー選手になって
くれればそれに越した事はない。でもできるなら覚醒するのは俺達
との試合後にしてほしかったぞ。
だが、こんな強敵と戦う場合、一つしかやれる事はない。即ち︱
︱こっちも全力で戦う事だ。
信じられないが延長戦の後半に入ってから、一度しか審判が笛を
436
吹かなかった。
一度だけというのは終了の時に鳴らしただけ。つまり一度として
ボールが止まる事がなかったのだ。
十分という短い時間ではあるが反則はもちろん、スローインやゴ
ールキックすらない完全にピッチ上だけで完結している世界だった。
こんな試合展開になっては細かい作戦など役に立たない。なにし
ろボールが止まらないのだから、いちいち修正などしていられない
からだ。ひたすらボールを追い、味方と声を掛け合い、自分にマー
クを任された相手との一対一に集中するしかない。
ある意味サッカーの原点のような物だ。
﹁くっくっく﹂
このハイスピードの展開に思わず笑みが洩れる。うん、俺は普段
より試合中の方がよく笑っているような気がするな。
ボールが止まらないんだから当然足を止めるわけにもいかない。
残り少ないスタミナがみるみる減っていくにもかかわらず、俺は楽
しくてたまらなかった。
そうだよな、技術のレベルが高くフェアプレイで戦う相手とこん
な舞台でやり合えるなんて、サッカーの醍醐味の一つを今味わって
いるんだ。
これは俺だけでなく、たぶんピッチ上の皆の共通認識だったと思
う。その証拠に誰一人として、ゲームの流れを壊すようなファール
や意味のないピッチ外へのクリアなどを選択しなかった。
延長戦のラストに差し掛かっているのだ、表情は疲れて苦しそう
にそれでも輝かせながら全員でボールを追いかけている。
だがその幸福な時間は無粋な終了の笛の音によって終わりを告げ
られた。
延長戦は結局どちらも点の入らないまま終わってしまったのだ。
437
となると今度はPK戦で決着をつける事になるな。⋮⋮PK戦!?
走り回ってかいた汗とは別の冷や汗が出る。俺はいまだにPKは
苦手なのだ。
フリーキックで得点までしていて何を、と言われるかもしれない
が苦手な物は仕方がない。もちろん全然入らないという訳ではない
が、それでもキックの精度に比べて明らかに決定率が悪い。他の控
えの選手達の方がまだ入るぐらいである。
俺から負のオーラを感じたのか、終了と同時にメンバーも集まっ
て来た。
﹁大丈夫だって、アシカが蹴る前に俺達が勝負を決めてやるって﹂
﹁そうだね、後輩に責任を負わせるわけにはいかないよ。足利の順
番は最後になるよう監督に言ってみるよ﹂
﹁あ、そうですか﹂
情けない事に、俺はこの時苦手なPKを蹴らなくてすむとほっと
していた。勝敗が自分の手の届かない︱︱言い換えれば責任のない
所で決まるのを認めてしまったんだ。本当に俺が精神的に強い人間
ならば例え却下されるとしても﹁俺に蹴らせてください﹂と頼むべ
きだった。
だが、事態はそんな俺を置き去りに進んでいく。
﹁よし、監督も足利の順番は一番最後だって納得してくれたよ﹂
﹁さすがキャプテン頼りになるな。で、キャプテン自身が蹴る順番
は?﹂
そこに監督の声が割り込む。
﹁じゃ、PKを蹴る順番を言うから自分の番だけは覚えておけよー﹂
438
と読み上げていく。最初に蹴るのが山下先輩で、五番目にキャプ
テンとプレッシャーがかかる最初と最後の勝負所にメンタルの強い
二人を持ってきた。
ちなみに俺が蹴るのは十一番目で本当にラストキッカーになった。
なにしろ俺の前にはキーパーがキッカーになっているのだから、そ
こまで信用がないのかとちょっとへこむな。
そんな俺に気が付いたのか、チームメイトも慰めてきた。
﹁アシカを信用してないわけじゃないんだけど、俺達上級生に格好
をつけさせてくれよ﹂
﹁大丈夫、お前の番の前には決着つけておくから﹂
﹁はい、頼みます﹂
俺が頭を下げると、先輩方もくすぐったそうに自分の頬をかいた
りして照れたような態度を見せる。いつもは生意気な後輩である俺
が殊勝な態度なのが珍しいのだろう。
﹁ああ、俺ならPKぐらい目を瞑ってたって入れられる﹂
﹁僕なら敵のシュートを全部止めてやるね﹂
なんだか嫌なフラグが立っているような気がしたが、事ここに至
っては俺にできるのは皆の成功を祈るだけだ。
﹁サドンデスになって十一番目のアシカにまで回る筈ないから、リ
ラックスしていろよ﹂
﹁そうそう、絶対に回ってこねーって﹂
﹁判りました。では安心して応援してますよ﹂
こんなに信頼できる先輩達がいるんだ。きっとPK戦でも勝って
439
くれるはずだ。勝負がもつれて俺まで回ってくるなんて事は絶対に
ないだろう。
回ってきた。
440
第六十五話 PKは目を瞑って軽く蹴ろう
時間をPK戦の開始時に巻き戻そう。
仲間と監督から、暖かい口調ではあるが﹁PK戦ではアシカは邪
魔だからどいてろ﹂と幾重にもオブラードにくるんだ言い方でいら
ない子扱いにされてしまった。
そんな俺ができる事といったら、そりゃもう応援しかない。
特にPKはサッカーの中でもメンタルの比重が大きい。声援と味
方には﹁入れ﹂と敵には﹁お空の上へ飛んでいけ﹂と念を送るのは
決して無駄ではないはずだ。
応援だけとは言っても馬鹿にはできない。サポーターなどはそれ
だけの力で十二番目のメンバーとされているのだから。いや、俺は
ちゃんとしたチームの一員のはずなんだけどね。
敵の先攻で始まったPK戦は、まず鎧谷の一番手である明智に難
なく決められた。キーパーの逆をついた丁寧なシュートでまずは一
本先取されたのだ。まあ今の明智はなぜか外しそうな雰囲気はゼロ
だったから、これは仕方ないと切り替えよう。
今度は矢張の番である。一番緊張すると言われているチームで最
初のキッカーの山下先輩は、自信満々の素振りでボールをセットす
ると、審判の笛の音の合図に躊躇なくシュートを撃ち込む。左へ飛
んだ敵キーパーの読みの方向は当たっていたが、先輩のキックのス
ピードとパワーの勝利でボールはゴールネットに突き刺さる。
よし、ナイスシュートだ。
チームの全員が手を繋いで、一列になって見つめていた俺達が飛
び上がる。山下先輩に緊張の二文字はないのだろうか? 精神的に
441
はかなりプロ向きな人材だよな。
とにかく幸先良い一人目だったが、懸念材料もある。試合中から
判っていた事だが、向こうのキーパーはかなり優秀だ。こっちが蹴
る場合には細心の注意が必要だな。
二人目のキッカーの登場となった。
鎧谷は成功、こっちはキーパーの手で弾かれた。ボールが外れた
瞬間に鎧谷からは歓声が、矢張のメンバーからはうめき声が漏れる。
三人目、鎧谷は枠を外し俺達は見事成功。四人目は両チームとも
ゴールした。
五人目、ここまででポイントに差はない。だからこれからは一人
ごとに決着がつくかもしれない順番だ。体をガチガチに硬くしてい
るキーパーに﹁リラックス﹂と声をかけたが、振り向きもせずゴー
ルへ歩いていく。あれは何も耳に入ってないな。
駄目かもしれんと半ば覚悟していたが、蹴るより早く飛んだうち
のキーパーの逆をつこうとした相手がまさかのミスキックで枠を外
して膝をつく。対照的にキーパーは﹁俺のおかげだ!﹂とばかり胸
を叩いてガッツポーズしている。いやお前は緊張でかなりまずいプ
レイをしていたぞ、でもPKを止めたんだからまあ自慢してもいい
か。それがキーパーの特権だ。
こっちの五番目のキッカーはキャプテンである。ここで決めれば
矢張の勝利だ。はっきり言ってキャプテンが外す訳がない。PKの
成功率なら山下先輩以上の、うちで一番の精神力を持った信頼でき
るキッカーだ。
いつもと変わらない落ち着いた姿でセットすると、少しだけ早い
タイミングで強烈なシュートを放つ。俺達矢張SC全員の祈りを乗
せたシュートは⋮⋮キーパーの手をかすめ、バーを直撃した。
442
俺だけでなくチームの全員、特にキャプテン自身が信じられない
と呆然とした表情で固まっている。初めてこのキャプテンの年相応
な顔を見た気がするな。
かたや鎧谷SCはお祭り騒ぎだ。絶体絶命のピンチを切り抜けた
とはいえ、まだ同点なのにすでに勝ったような盛り上がり方をして
いる。
くそ、勢いが完全に向こうに行ってしまったか。
ここからはサドンデスと言われる、お互いのチーム一人ずつのP
Kで差がついたらそこで決着のルールが適用される。
ただのPK以上にプレッシャーのかかる、技術より一層メンタル
が試される場面だ。
だが六人目、七人目はお互いのキッカーが意地を見せて成功。こ
の辺りから俺はどうにも落ち着かなくなってきた。
八人目はお互いが枠を外しキックした者は顔を覆う。九人目は両
チームともゴールネットを揺らすのに成功した。
もうこの時点では、俺はどうか早く勝負が決まってくれとしか考
えていなかった。
そして十人目俺の前の最後のキッカーが二人ともに天を仰ぎうめ
き声を洩らし、十一番目である俺へ出番が回ってくるのが確定した。
まずいな、体ががちがちに緊張で固まっている。試合終了から少
し間が空いたので、汗で体が冷えかかっている。今になって明智に
ファールされた左足首が痛みを訴え出す。
ありとあらゆる不調の言い訳が俺を包んだ。このまま俺が倒れて
蹴らなくてすむのなら、それでいいとさえ思った。
せめて敵が外してくれれば、俺がPKを入れれば勝利で外しても
次のキッカーに責任が引き継がれるという、気楽なポジションにな
れるのだが⋮⋮。
443
俺の祈りも虚しく、敵の十一番目のキッカーである相手キーパー
は、ゴール右隅に入れて飛び上がってガッツポーズを決めていた。
これで俺が入れなければ敗北という所まで追いつめられたって訳
か。
弱気の虫を振り払い、セットされているボールの前へ立つ。ここ
にくると急に敵のキーパーが大きく、そしてゴールマウスが縮んで
見えるのが不思議だ。
大きく深呼吸すると目を閉じて、頭の中でイメージと鳥の目によ
るゴールを重ね合わせる。
俺の足は疲労で力があまり残っていない。全力で蹴ったらどこへ
いくかコントロールが効く状態じゃなく、それこそ遙か上空に打ち
上げてしまいそうだ。それに試合後しばらく動かずにボールにも触
れていない、さらにかいた汗で体が冷たく硬くなった状況では、細
かいコースを狙えるとも思えない。ましてやこんなプレッシャーが
かかった場合ではさらに分が悪くなるだろう。
となると全力ではなく、ハーフスピードぐらいでギリギリのコー
スを狙わないシュートとなる。⋮⋮ど真ん中に蹴るしかないな。普
通に左右に蹴って甘いコースでハーフスピードなら、キーパーが止
める確率の最も高いシュートになってしまう。ならばキーパーが飛
ぶのを確認してから真ん中へ蹴り込むのが最善である。
このコースには技術はいらない、ただ一番度胸の必要なコースだ。
審判が短く笛を吹くと俺は固く目を瞑り、三歩だけの助走の後左
足を踏み込む。キーパーを先に動かす為、微妙にタイミングを遅ら
せながら、間違ってもシュートを浮かさないように上体を折り畳む。
キーパーが左に重心を動かすのを確認して、ふり上げた右足をふ
わりと振り抜く。
力を抜いたボールがあざ笑うかのように、キーパーが飛んだ後の
空間を通り過ぎ⋮⋮なかった。キーパーにも迷いがあったのかダイ
444
ブが中途半端だったために、まだ反応できる余地が残っていたのだ。
キーパーが空中であがくように、ボールに最も近い己の部位︱︱
足を動かす。
俺の撃ったシュートはキーパーの残した左足一本にぶつかり、己
の足下にまで戻ってきた。
ころころと転がるボールが俺の足をこつんと軽く叩く。
え? 何? 俺、外したの?
その足先から伝わる僅かなショックで、真っ白になって呆然とし
ていた意識が戻って来た。
俺のゴール方面へ向けた視界からは敵のキーパーが鎧谷のメンバ
ーの方へ走り寄り、誰も映っていない。
そのまま力の抜けた膝をついて顔を覆いたくなるのを必死に我慢
して、崩れそうになる体を奥歯が砕けそうになるまで噛んで食い止
めた。震えてこの場から逃げ出したくなる足を叱咤して、何とか仲
間の方へと振り返る。
皆の顔をとても見る気にはなれず、目を伏せたままチームの全員
に頭を下げた。
﹁すいません⋮⋮﹂
喰いしばった口の中から何とか言葉を絞り出す。疲れていた、俺
まで回ってくるとは思っていなかった、言い訳は幾らでもあるが、
今の俺が言っていいのはこの言葉だけだろう。
﹁すいません⋮⋮﹂
俺はキャプテンに頭からタオルを掛けられ慰めの言葉を受け取っ
ても、ただ謝る事しかできなかった。
445
446
第六十六話 キャプテンはつらいよ
足利がゆっくりと振り返るまで、僕達矢張SCの全員は凍り付い
たように動けなかった。まだ敗北したという現実を受け入れられて
なかったんだ。
﹁すいません⋮⋮﹂
俯いたままの足利から弱々しい謝罪が届く。いつも強気で生意気
な足利のこんなかすれた小さな声は初めて聞くな。
その言葉に反応ができないほど、みんなが沈みこんで暗く淀んで
いる。しかし、こんな雰囲気こそキャプテンである僕の出番だろう。
足利に近づいて頭乱暴に抱き寄せながら、大声で慰める。
﹁仕方ないよ、先に外した僕が言うべきじゃないかもしれないけれ
ど、PKは運だ。足利はちょっと運と順番が悪かっただけだって﹂
俺の声に賛同するように、ようやく動き出したチームメイトも口
々に足利を元気づけようと足利の周りに寄って来る。﹁そうそう、
仕方ないって﹂﹁うん、アシカがPK苦手なのは知ってたし、それ
まで決着を付けられなかった俺たち上級生が悪い﹂﹁いや、俺がせ
めて後一本でもシュートを止めていれば⋮⋮﹂
そんなみんなの慰めも聞こえないように、もう一度足利が﹁すい
ません﹂と謝る。
そんないつもと違う弱々しい姿に、僕は足利と初めて会った時の
事を思い出していた。
新入部員の歓迎ゲームで、僕は初めて世界一のサッカー選手を目
447
指していると公言する妙な後輩がいる事を知ったのだ。何しろその
彼はその日に初めてサッカーボールに触ったそうだから、ボールに
触る前から世界一になると宣言していたのだ。でもそれを冗談かと
笑ったのは、歓迎試合が始まるまでだった。あの試合後、少なくて
も表だっては誰も足利の事は笑わなくなったなぁ。
明らかに足利は他の新入部員と︱︱いや僕の知っているどんなプ
レイヤーとも違っていたのだ。テクニックの才能があるだけなら一
年下の山下で慣れている、スピードやパワーなら僕の方が上だ。で
もこの足利は、僕からすればこいつは子供じゃなくてプロじゃない
かと錯覚させるような不思議なプレイヤーなのだ。
例えばこの大会で使うボールに触った時﹁このボールなら、あれ
が使えるな﹂と何度か練習するだけで無回転シュートを撃てるよう
になってしまった。
僕やチームメイトはもちろん、監督でさえもまず無回転シュート
を撃とうという発想さえなかったのに、この後輩はさらりと思いつ
き、それを実現してしまうのだ。まるで昔からそのシュートが撃て
ていたかのように。
これが普通の三年生ならば新ボールに慣れようと思うぐらいがせ
いぜいなはずである。
つまり、足利は技術や経験がどうこうというより存在そのものが
少しおかしいのだ。
僕は最初足利はきっと外国のプロ傘下のユースで、小さい頃から
コーチの指導を受けていたんだと思っていた。この推理が正しけれ
ば足利が上手いのも、僕や監督まで知らない技術の引き出しを持っ
ていても不思議ではない。そして、そこから何らかの理由で追い出
されたとすれば、これまで他の所で習っていたことを隠したくもな
るはずだ。
僕の推理はそう的外れではないと考えていた、彼と親しくなって
448
一緒に朝練をするようになるまでは。
それまでは親しく口をきいた事もなかったから、みんなが噂する
﹁生意気な後輩﹂というイメージしかなかった。まあ生意気と言え
ば、山下みたいに鼻っ柱が強い奴だと想像していたんだ。でも顔を
合わせて話をすると全く違うのに気がつくのには時間はかからなか
ったな。
僕はよく﹁大人っぽい﹂とか﹁子供らしくない﹂と言われるけれ
ど、それを言うならよっぽど足利の方がふさわしい。僕よりもずっ
と落ち着いていて、そしてサッカーについて詳しい。プロのコーチ
に習っていたんじゃなくて、こいつそのものがプロのコーチみたい
なんだよな。
ちょっと探りを入れてみると、どうやら学校の成績も学年トップ
らしい。それをまたこいつは﹁このぐらいできて当然﹂って顔をし
ているんだから周りが﹁生意気だ﹂って感じるんだろうな。同じ矢
張の仲間じゃなくて噂を聞くだけなら、僕だってあんまりいい印象
は持てかったかもしれない。
そして、僕もそうなんだけど、こういったタイプは子供より大人
受けがいいんだ。監督はもとより、矢張のママさん達︱︱特に新入
部員のママさんが﹁足利を見習いなさい﹂と言い出したのだ。うん、
仲間からの点数が辛くなるのも判るな。
僕から見れば足利は確かにサッカーは上手いし成績はいいみたい
だけど、問題もある後輩でしかない。サッカーについては成長途中
である肉体面はともかく技術面においては申し分ない、というかす
でに加入した時点でチームナンバーワンだ。
でも人間関係においてはかなり不器用だったのだ。いや少し違う
か、愛想がないのともまた違うな、どちらかというと他人を眼中に
入れていないようだったのだ。
なにしろ一年から三年になる今年度まで、ずっと一緒だったはず
449
のクラスメートの名前でさえ﹁えーと、お前誰だっけ?﹂と尋ねた
というエピソードがあるぐらいだ。それなのに下尾監督や山下にキ
ャプテンである僕なんかの特徴のある人間は、会ったばかりのはず
なのにまるで昔から知っているような対応をするのだ。相手を見て
態度を変えていると陰口を叩かれるのも、まあ仕方ないか。
そんな得意分野以外はまるで当てにならない足利だったが、その
分サッカーに関しては頼りになった。上手いのは承知していたが、
実戦ではどんな物か疑問視していたのは僕以外の上級生にも大勢い
た。練習では冴えを見せてもプレッシャーのきつい試合では役に立
たない選手もいるからだ。そのプレッシャーを受けるのがまだボー
ルに触って数か月のルーキーでは、信用する方が悪いとさえ言える。
だがこの規格外の新入部員はむしろ練習より試合の方が本領を発
揮したのだ。それは代表候補のキーパーを擁するチームとの対外試
合の活躍で思い知らされた。
そして、朝練を一緒にして気が付いたのだが、こいつの練習は実
戦的で全てが試合を想定して組まれている。いわゆる練習の為の練
習などは一切ないのだ。リフティングなども最初の足慣らしやボー
ルタッチを確かめるだけで、試合に使えないせいかあまり進んでや
ろうとはしない。たぶんリフティングも遊びの一種だと考えている
のかもしれないな。ただリフティングなどを止める時はいつも悲し
そうな顔をしているのが印象に残るが、あれは自分では気が付いて
いないよな。
かわいそうになって何度か﹁足利のリフティングも見せてくれよ﹂
とリクエストするとそれは嬉しそうに﹁仕方ないですね﹂といいな
がらいつもに笑顔で食いついてくる、こういう部分では山下同様に
判りやすい奴でもあった。
全国大会の県予選が始まると、足利という後輩がいるメリットを
矢張というチームは存分に味わっていた。今までは山下と僕が分担
450
していた攻撃の組立を足利に任せるようにすると、僕は中盤の守備
に山下はドリブルなどの個人技術を生かしたプレイに専念できるよ
うになったのだ。
ここまでくると、もう誰も足利について陰口を叩く奴はいなくな
っていた。実力で周囲を黙らせたのだ。もっとも本人はそういった
陰口を言われていることさえ、気がついていなかったみたいだけど
ね。
そして一度の敗北も挫折も知らずにここまで勝ち上がってきたの
だが⋮⋮。
俯いたままの足利を頭から大きなバスタオルをかぶせる。髪を乱
暴にがしがしと拭き、タオルの陰になっている顔は誰にも見えない
様に覆い隠す。こんな表情は意地っ張りのこいつは見せたくないだ
ろう。
﹁いいから気にするなって、誰もお前を責める奴はいないよ﹂
﹁すいません﹂
タオルを通してまだ小さく謝る声が届いてくる。ちぇっ、いいよ
な周りのみんなは。我慢せずに声を出して涙を流している。もしキ
ャプテンである僕までそんな風になったら誰がこいつを慰めるんだ。
僕だってこれで引退なんだぞ、もの凄く悔しいに決まっている。
いや、そうじゃないな。悔しいんじゃなくて、もう矢張のみんなで
試合ができないのが悲しいんだ。
﹁もう、謝らないでいいって。ここまで来れたのは足利のおかげだ
ってみんな判っている。もし足利がいなかったら剣ヶ峰には絶対に
勝てなかった。いや、もしかしたら全国へも来れなかったかもしれ
ない。それぐらい足利の力が大きかったって矢張のみんなは知って
いるよ。だからさ﹂
451
タオルに包まれた、まだ僕よりもずっと背の低くて華奢で、キャ
プテンになってから今までで一番手のかかった僕の言う事をちっと
も聞いてくれない後輩をできるだけ優しく撫でる。
﹁もう、泣くなって﹂ ⋮⋮ああダメだな。やっぱり今回も足利は聞き入れてくれないみ
たいだ。
︱︱こうして僕の矢張SCにおける最後の夏は終わった。
452
外伝 アシカ君の代表合宿記 上
夏の厳しい日差しが和らいで風に秋の気配を感じるようになった
ころ、俺と新キャプテンに任命されて間もない山下先輩は珍しく練
習前に監督に呼び出された。
﹁おい、山下にアシカ。お前らは全日本のアンダー十二の合宿に呼
ばれたぞー。どうだ、行ってくるか?﹂
﹁え、本当ですか?﹂
﹁うわぁ、っと。こほん、ふん、俺の実力にようやく気がついたか﹂
開口一番に監督から伝えられた話に素直に喜ぶ俺と、喜色を満面
に出しながら慌てた咳払いで﹁俺はクールだぜ﹂と誤魔化そうとす
る山下先輩だった。
監督も自分の指導する選手の中から年代別代表に選ばれたのは嬉
しいのだろう、俺達に劣らず顔がにやけている。例えそれが公式試
合に出場するのではなく合同トレーニングする為の合宿とはいえ、
箔がつくのは間違いない。
﹁今回はこの前の夏休みにあった全国大会で活躍した選手を中心に
呼んでいるみたいだな。今までの代表だったユース中心とは少し毛
色が違った選考らしいぞ。だから、まだ年少のアシカも呼んでみた
んだろうなー。期間も冬休みの三日間だけだし、初めて参加させて
実力を見るにはちょうどいいと、選ぶ側としても軽いお試しに近い
感覚なのかもな。それに全国大会の後からお前等をスカウトしたり
テストしたりしようとする人達が来ただろう? それの一環とも無
関係じゃないはずだ。それでうちの躍進の立役者の二人まとめて呼
453
んでみようって事になったんじゃないかなー﹂
確かに普通なら俺は十二歳以下の代表より、まずアンダー十とい
う十歳までの代表に呼ばれるのが先なのだろうが。小学生までは結
構細かく年代別に代表ってチームが別れているんだよな。でも、ど
うせなら上のカテゴリーでやれるんならその方がいい。吸収力の高
い今、できるだけ高いレベルのサッカーに触れておきたいからだ。
﹁ああ、ならカルロスも一緒ですよね? あいつは代表でレギュラ
ーですけど、山下先輩と同じ年齢ですし。ポジションも同じトップ
下でかぶってますけど﹂
﹁ふん、今はあいつの方がメジャーだけど、いつか必ずポジション
を奪ってみせる!﹂
無駄に熱くガッツポーズをとり闘志を燃やす山下先輩は、確かに
言葉通り代表のレギュラー奪りへ意欲満々のようだ。あのカルロス
をどかして定位置を確保するのは至難の業だが、確かに目標として
トレーニングに励むにはちょうどいいかもしれないな。
だが、そんな先輩の意気込みを聞いた監督は﹁えーっと﹂と口ご
もり、頬をぽりぽりとかいた。これは監督が何か困惑した時の癖で
ある。一体今の会話のどこが引っかかったんだろう。
山下先輩と顔を見合わせると、先輩も監督の躊躇に気がついたの
だろう怪訝な表情をしている。
俺達が何事かを尋ねるより早く、監督は﹁ええい!﹂と迷いを断
ち切る大声を出す。
﹁俺は隠し事があんまり得意じゃないんだよなー。ま、あんまり気
にせず耳に入れるだけにしておいてくれよ﹂
﹁ええ判りました﹂
﹁前置きが長いんだよ、早く早く﹂
454
頷く俺とせかす先輩の顔をちらりと確かめて、監督は短くまとめ
たニュースを語った。
﹁カルロスは日本の代表合宿には参加しない。今回だけでなくこれ
からもずっとな﹂
﹁え?﹂
﹁どういうこった?﹂
驚きを露わにする俺達二人に、監督はもう一度だけ頬をかくと説
明を始めた。
﹁カルロスがハーフだってのは知ってるよな。そのブラジル人の親
父さんが日本で働いていたんだが、最近の不況でリストラの憂き目
にあってしまったんだとさ。それでカルロスの一家は親父さんの実
家のあるブラジルに帰ることになったそうだぞ﹂
﹁そんな⋮⋮カルロスほどの才能があれば日本代表のエースにだっ
てなれたのに﹂
俺が思わず洩らした一言に一瞬さらに微妙な顔をする監督。それ
を見てまだ何かあるのかと追及する。
﹁それだけですか? あんまり言いたくない事情があるみたいです
が、他から話を聞いてショックを受けるより監督の口から聞きたい
ですよ﹂
監督が咳払いをして話しづらそうに続ける。
﹁そのカルロス一家が帰国したのはこの前の全国大会での成績が原
因らしい﹂
455
﹁え?﹂
﹁外国では子供が優秀なサッカー選手になりそうだと、親に仕事ま
で紹介して家族ごとクラブに囲い込む事があるらしい。だけど日本
ではまだそんな事はできないしな。カルロスにしても﹁個人でチー
ムを優勝させられる力がある﹂って触れ込みで随分とクラブから優
遇されてたみたいだから、今回の二回戦敗退って成績にはお偉方が
失望させられたみたいで特別な優遇措置が無くなったんだとさ﹂
淡々とした口調だがカルロスに対する冷たい仕打ちに監督も面白
くないのだろう、いつの間に腕組みしている掌に力が込められて肘
の辺りにしわが寄ってしまっている。
﹁でも、カルロスは俺達との戦いや一回戦で大活躍しましたよね?﹂
﹁それだけじゃ納得させられなかったんだろうな。得点やアシスト
にしても一回戦は前半だけの出場と二回戦で負けたのもあって試合
数や出場時間が少なく、結果的に得点王もアシスト王もとれなかっ
たからなー。ま、そんな状況で六得点三アシストしただけでもあい
つの化け物っぷりが判ると俺なんかは思うんだが。だが優勝もでき
ずに個人タイトルも取れない選手に、ブラジルから文句を言われて
まで日本に居てもらう必要はないと考える上の人もいるって話だ﹂
﹁そんな⋮⋮﹂
﹁で、ブラジルのクラブからカルロスの両親の方に親の仕事も込み
での勧誘があったみたいだなー。そうなると仕事のない日本にいる
よりブラジルで一家そろって暮らす方がいいよな。そーゆー訳でカ
ルロスはブラジルに帰国⋮⋮になるのかな? とにかく行ってしま
った。これであいつの国籍はまず間違いなくブラジルになるだろう。
だから日本代表とは縁が切れてしまうってこった﹂
俺は頭を抱えた。隣で山下先輩もショックを受けているようだが、
その比ではない。何しろ未来の日本の十番になるはずのエースがい
456
なくなってしまったのだ。思わずうめき声が洩れる。
﹁カルロスは本当なら日本代表の十番になるはずなのに⋮⋮なんで
帰国するんだ⋮⋮﹂
﹁いや、もしカルロスが優勝していれば、そりゃ日本に残っていた
かもしれないけどな。俺達は別に卑怯な手を使った訳でもないし、
堂々と正面から剣ヶ峰を破ったんだ。合宿に行けばカルロスがいな
くなった原因は俺達が余計な番狂わせをしたからだって、馬鹿な陰
口を叩く奴もいるかもしれないが気にする必要は全くないぞー。ど
うせそんな事しか言えない奴らは二度と呼ばれたりしないからなー﹂
確かにそんな陰口を言って他人の足を引っ張る事しかできない連
中は淘汰されていくだろう。しかし、それよりも俺は自分の行動に
よって明らかに歴史が変わっていくのを再認識していた。
︱︱これからは未来の知識は当てにならないって覚悟しておくべ
きだな。でも考えてみるとこれまでに役立てた事はほとんどないか。
あまり気にし過ぎないようにしなければ、と気を取り直す。
﹁それに剣ヶ峰に勝ったうちがすぐ次の三回戦で破れて、うちに勝
った鎧谷がまた次で敗退って風な結果になったからなー。カルロス
のレベルってそんなに高くないんじゃないか? ってくだらない疑
問を抱かれたみたいだな﹂
﹁そんな、ビデオでも見ればあいつの実力は一発で判るでしょう?
本当なら優勝できるぐらいの実力があるって﹂
﹁⋮⋮アシカはさっきから本当ならカルロスが優勝したはずって言
いたいみたいだが、どういう意味だ?﹂
﹁⋮⋮えっと⋮⋮﹂
まさか俺の前世での記憶によると彼が優勝していたからだとは口
に出せない。
457
口ごもる俺を訝しげに眺めて監督は締めに入る。
﹁ま、今言ったみたいにカルロス関係でちょっと居心地は良くない
かもしれんが、日本の最先端の育成レベルを体験してこい。どうせ
三日間だ、すぐに終わっちまうしなー﹂
﹁はあ﹂
とやや曖昧な態度で頷く俺達だった。代表の合宿に呼ばれたのは
嬉しいはずなのに、なぜか素直に喜べない。
﹁でも、カルロスがいなくなってお前達が入ったみたいに、今回は
入れ替わりで初選出が多いみたいだから顔合わせも兼ねているんだ
ろう。うちが戦った相手で言えば鎧谷の十番だった明智も来るって
話だ﹂
﹁ああ、あいつがですか﹂
俺は自分と似たセンスを持っている明智が代表に入ったのに納得
したが、山下先輩は顔をしかめて﹁俺もアシカも奴にはかなり削ら
れたよなぁ﹂と呟いている。うーん、延長に入ってからのプレイだ
とそんな心配はなさそうだが、あのラフプレイで止めるスタイルは
どうにかしてもらえないと誇り高いはずの日本代表には確かにふさ
わしくないかもなぁ。
色々な葛藤はあるが、それを吹き飛ばすように監督の激励が響く。
﹁とにかくお前らは、サッカーをやっている小学生なら誰でも羨望
する代表に参加する権利を得た。各自思う事もあるだろうが、間違
いなくめったに手に入らないチャンスなのは確かだ。二人とも日本
の小学生レベルの頂点を体験してこい﹂
﹁はい!﹂
458
反射的に元気よく答えた俺達だった。それに俺の二度に渡る人生
において初めての代表への参加である。
うん、俺が進んでいる道は間違っていない。そう確信させるに足
る嬉しい出来事だ。
では日本の頂点とやらをちょっくら覗きに行って来ますか。
459
外伝 アシカ君の代表合宿記 中
代表合宿とはいえ年代別だと案外少人数なんだなぁ。
それが俺のアンダー十二に参加したメンバーについての初感想だ
った。
そう思っても仕方がないぐらいユニフォームに着替えて集まって
いる選手の人数が少ない。矢張の練習で集まるのとちょうど同じぐ
らいの三十人程である。まあ、このぐらいの方がしっかりコーチ達
の目が行き届くのかもしれないな。
少数精鋭のエリート教育って奴なのか。全国から集められた選手
達と合同練習と聞いていて、もっと多いかと勘違いしていた俺は緊
張感を緩めた。
よく考えれば、フル代表なんかは大会に出場できるのは二十数人
だし、あまり多すぎても意味がないのだろう。
一人合点して集まったメンバーを見回す。
この寒空の中、それでも整備の行き届いた青々とした芝の上で目
に入るのは、ほとんどがどこかで︱︱おそらくはこの前の全国大会
の時にピッチ上かテレビで︱︱見かけた事のある選手ばかりだ。そ
れだけマスコミ関連でも注目を集めている選手達なのだろう。ほと
んどが小学生とは思えないほど背が高く、肩幅の広いいかにも運動
に向いた恵まれた体格をしている。
断っておくが、そう感じたのは決して俺が小さいせいではない。
俺が成長するのは前回もそうだったがこれから中学卒業にかけてな
のだ、だから他の選手が皆自分以上の身長をしているからとコンプ
レックスを持つ必要はないはずである。よし、理論武装終了。これ
で﹁チビ﹂だなんて馬鹿にする奴がいても動揺せずクールに対応で
きる。
460
その全国から選ばれた中でも特に目立つJ傘下のユース同士は、
顔見知りが多いのかお互いに挨拶を交わしている。そういうのって
少し羨ましいよな。
愚痴が出そうになるのは、繋がりのない俺や山下先輩はちょっと
遠巻きにされているせいだ。というか選手だけでなくコーチの一部
までこっちを見てひそひそ話している奴らまでいるのだ、まるで見
世物にされているようで感じ悪いよな。
居心地の悪い空気の中、ようやく俺は見知った顔を目にした。そ
の人物は小学生にしてはがっちりとした選手団の中で、唯一俺に匹
敵するほど細身に見えるのだが⋮⋮、
﹁お、アシカ誰かいたのか?﹂
俺の知り合いを見つけたような反応に山下先輩が食いつく。この
人も試合中は気が強いのに、普段は少し内弁慶の気があるのか俺に
ぴたりとくっついている。﹁頼りない後輩を監督する責任がキャプ
テンにはある﹂と言ってはいるが、どうみても俺の背後に隠れてい
るようなんだけれど。
時々は投げかけられる視線に対して睨み返したり胸を張って受け
止めたりはしているが、その後で必ず俺の後ろに隠れるように動く
のはまだ前のキャプテンほど﹁仲間を守る﹂といったしっかりとし
た自覚がないからだろう。
とにかく今も無意識の内に背後に潜んでいた山下先輩が、俺の発
見した人物に気がついた。
﹁げぇっ、明智じゃないか﹂
まるで曹操が関羽に赤壁の戦い直後の退却時に出会った時の、あ
461
るいは信長が本能寺で明智光秀と対面した場合のような表情をして
呻いた。その瞬間に先輩の右足がピクリと小さく跳ねる。逃げ出し
たくなるほど明智を嫌いだったのかな?
むしろ明智からの一番悪質なファールの対象になった俺の方が、
あの試合で受けたラフプレイを吹っ切っているような気がする。そ
れにしても自分やチームメイトを反則で止めていた敵の黒幕なのだ
から、俺にしてもあまり明智に良い感情は持ってはいないのは確か
だが。
それでも俺達と視線が合った明智は嬉しそうな笑みを浮かべてこ
ちらに寄ってきた。
﹁足利君に山下君でしたよね、お久しぶりっす﹂
﹁ああ、そうですね。こんにちは﹂
﹁⋮⋮ちわ﹂
俺が一応年上への礼儀として丁寧に答えて山下先輩はぶっきらぼ
うに返す。明智もなぜか遠巻きにされていたので、同様に敬遠され
ていた矢張の二人とくっつくとさらに周りから浮き上がってしまう。
予め下尾監督から﹁お前らはユースとか関係のない外様だし、影
響力と人気のあったカルロスを追い出した元凶みたいに逆恨みされ
ているかもしれないぞ﹂と忠告を受けていたが、明智もまた仲間が
いなさそうだ。まあ、こいつに向けられている白い眼は多分これま
でのファールを利用したプレイスタイルによるものだろうが。
代表候補にまで選ばれるのは当然ながら上手い選手ばかりである。
そして親やコーチから期待をかけられている子供が多い。その大切
な才能をラフプレイで壊されるかもしれないという不安感が明智を
見る目には込められているようだった。
でもちょっとおかしいな。少なくとも俺達と対戦するまでは全国
大会でも明智や鎧谷は普通に応援されていて、こんな白眼視されて
462
はいなかったはずだが。
そんな俺の葛藤を読みとったように、山下先輩が明智に﹁あっち
行け﹂と言わんばかりに掌をひらひらさせる。
﹁お前と友達だと思われると、こっちまでイメージ悪くなるからこ
っち来んな。つーかお前とは話するような仲じゃないだろう﹂
﹁つれないっすねぇ﹂
とそこまでは情けなかった表情を引き締めて﹁矢張のお二人には
謝りたかったんすよ﹂と明智は打ち明けた。
﹁全国大会の後にした親との話し合いの結果で、これまでラフプレ
イをしてきた相手に謝罪行脚をすることになったっす。ほとんどは
うちの県内だからすぐ行けたっすけど、矢張は遠かったんでちょっ
と待ってこの合宿で謝ろうと思ってたんすよ﹂
そう言うと真正面から俺達二人に頭を下げた。﹁危険なプレイを
して申し訳なかったっす﹂と深々とお辞儀をする明智に困惑する。
ああほら、周りの目も﹁何やってんだ、あいつら﹂って好奇心で光
っているじゃないか。
ここで許さないと逆に俺達が悪人っぽくなってしまう。心からの
謝罪のようだが、周り向けのパフォーマンスもおそらくは意識して
はいないのだろうが入っているタイプだな、明智の奴は。そんな計
算高いところも垣間見えるが、真摯に反省している態度は俺の目に
はいかにも本当らしく映った。なら、ここは受け入れるべきだろう。
﹁別に今では大して気にしてませんよ、ね、先輩﹂
﹁ああ、別にお前の顔を見たら反射的に蹴りを入れたくなったぐら
いしか怒ってないぞ﹂
463
いや、先輩のそれはかなり頭にきているという事だろう。明智と
会った時の先輩の足の動きは逃げるんじゃなくて、俺が想像してい
たよりも遙かに攻撃的な物だった。でもこんな所で口喧嘩になるの
を衆目に晒されるのも不快だ、俺が事態の収拾を図るべきだな。
﹁まあ明智がラフプレイを止めてくれたんならそれでいいよ。でも、
もしまたやったら⋮⋮﹂
自分やチームメイトが怪我をすると想像するだけで、腹の奥から
ぐつぐつと煮えたぎる物がこみ上げてくる。
﹁だ、大丈夫っす。もう二度としないっす!﹂
なぜか必死で俺に向かい両手を上げる明智がいた。あれ、なんで
山下先輩まで冷や汗を流しているんだ? 答えはおそらく二人が話
す﹁こ、怖かったっす∼﹂﹁ブラックアシカの降臨だ﹂という会話
から推察できそうだが、止めておこう。
でも先輩、ブラックアシカって言っても、それは色彩的にはただ
普通のアシカでしかないのでは。そこで明智が周りから距離をとら
れる理由に気がついた。
﹁あ、だから明智も孤立しているのか﹂
﹁ええ、謝罪した後でどこから噂が広まったかわからないっすが︱
︱まあ自業自得と諦めてはいるっす。これからの自分のプレイで﹁
壊し屋﹂って汚名を返上しなきゃいけないっすけどね﹂
真摯にプレイで名誉の挽回をはかる態度の明智に警戒心と嫌悪感
は薄らいだ。やたら小賢しいけれど、まだ子供なんだよな。だった
ら一度の過ちで全部否定するのもかわいそうかもしれない。ま、俺
が怪我しなかったから言える事だが。
464
﹁そっか、じゃあまあこれからよろしく頼むよ﹂
﹁ええ、こちらこそっす﹂
﹁⋮⋮まあ、アシカがいいなら俺もよろしく⋮⋮別にしなくてもい
いけれど﹂
俺と明智の間に和解が成立すると、山下先輩もそれに加わりたそ
うにして結局足踏みをした。先輩ってこんなキャラだったっけ? ほら明智がなんだか生暖かい目で先輩を見つめているじゃないか。
仮にも矢張のキャプテンなんだから、あまり他のチームの奴らにな
められそうな言動はしないでほしい。
ようやく俺達を包む雰囲気が明るくなってくると、このアンダー
十二の監督が真剣な表情で集合をかけた。
ピッチ上でばらばらだった全員が走って監督の前にとりあえずと
いった形で雑然と集まる。それでも俺達の周りは微妙に距離があけ
られていた。
﹁よし、集まったな。ではこれらのメンバーが三日間一緒にトレー
ニングする仲間だ、仲良くするようにな。それで今回は初顔が多い
ようだからトレーニングより、解説や説明を多めの合宿にするぞ。
今回習った事は自分のクラブに帰っても日々の練習に生かしてくれ。
そうすればまた皆がフル代表の戦いの場で会えるかもしれないな﹂
そう言ってぐるりと顔を巡らし、自分の言葉を聞いているか確認
したようだった。
﹁ではまずウォームアップからいくぞ、気を抜かず自分達が日本の
代表という自覚を持ってここから集中するように! 今日は体力測
定の後はボールを使った軽い練習だけだ、短い時間だが声を出し合
って頑張ろう﹂
465
﹁はい!﹂
と、まあそんな俺達やその他の選手との微妙に溝を埋めきれない
ままに俺の代表初合宿が幕を開けた。
466
外伝 アシカ君の代表合宿記 下
代表合宿は二日目になり、今日はまず座学から始まるスケジュー
ルが組まれていた。
そして﹁朝からお勉強かよ﹂とどんよりとした目の代表候補生一
同は、学校の教室に似た部屋で座って講義を受けている。どうも体
育会系の少年達はハードトレーニングより、座学が大変らしい。
そんな中、最前列に座って講義の始まりを待つ俺は初日とは違っ
てかなり落ち着いている。
昨日は各種の体力測定と軽い基礎トレーニングだけだったが、収
穫となる情報を手に入れたからだ。
まず行われた体力測定は年代の壁もあり散々だったが、基礎技術
はここでも俺がトップレベル︱︱傲慢のそしりをおそれなければ多
分ナンバーワンだと確信できたのだ。
代表候補はどんな高い技術を持っているかと内心びくびくしてい
たが、予想していたよりもそのレベルは低かった。いや、そうでは
ない。俺が無意識の内に比較対象としていたのは十年以上未来の世
界の一流プレイヤーの技術だったせいである。しかもその大半がニ
ュースや動画サイトでのスーパープレイ集だ、ハードルを上げ過ぎ
ているのにこの時まで気がつかなかったのだ。
そりゃこの代表候補の技術レベルが低いと言うのは、十年先のオ
リンピック百メートルの世界記録とまだ小学生であるこの子達の百
メートル走のタイムを比べて﹁こいつら遅ぇ﹂と嘲笑するのと変わ
らない行為だ。
自分の中の基準のおかしさと、世間的な目の比較ができただけで
もここに来たかいがあったな。
467
それにしてもやはり代表の合宿はお金をかけて設備がしっかりと
している。
昨日の体力測定にしても、ほとんど陸上の十種競技のような厳密
さでデータを取っていたぞ。
今日講義が行われる部屋も、仮にも年代別とはいえ代表の使う教
室だから設備はしっかりしているな。俺が通っている市立の小学校
の教室よりも塾とか予備校のクラスのように機能的な部屋といった
方が正確だろう。
そこで何の講義を受けるかと言うと、フィジカルコーチからのト
レーニング理論と食事や睡眠など生活習慣についてだ。
このコーチはトレーニング理論の正しさを自分の肉体で実証して
いるのか、サッカー選手よりもプロレスラーと言った方が納得でき
る分厚い筋肉をジャージに包んでいる。半分捲り上げられた袖から
覗く腕なんかは、まるで丸太のような太さを誇っている。うん、何
の根拠もないが断言できる。このコーチはナルシストだ。
俺からそんな偏見を持たれているごつい体をしたフィジカルコー
チの授業は、意外にもきちんと理論立てられたものだった。小学生
に言うより指導者か親に話すべきではないかとも思うが、それはま
た別の機会にやっているのだろう。
しかし自分で練習メニューを組む俺にとっては、なかなかに興味
深い講義だった。実際に曖昧だったトレーニングの意味や食事内容
について、理論立ててはっきりと再確認できたのも収穫である。
今までもタンパク質と野菜を多く、バランスの良い食事をと母に
リクエストしていたのは間違いではなかった。だが、成人の健康的
な食事と成長期の体を作る食事とはまた微妙に異なっていたようだ。
手間をかけさせる事になるが、母には今日学んだ事を加えてこれか
ら食事にまた一工夫してもらおう。
そして他にも、成長ホルモンを分泌するのに昼寝などの日中のシ
ョートスリープを奨励されるとは思わなかった。さすがに学校があ
468
る間は無理だが、休みの日は可能な限り積極的に昼寝をしよう⋮⋮
って何か凄いアグレッシブな感じのする昼寝だな。
これらの各種データを伴った講義は小学生には難しいとフィジカ
ルコーチも判ってはいたのだろう、ざっくりとまとめて話すと後は
プリントを配って保護者や指導者に参考にしてもらうようにと言っ
た。イラストとグラフの沢山入ったカラフルなプリントによって、
このまま保健体育の授業で使えそうなぐらいきっちりとまとめられ
ている。
山下先輩だけでなく他の少年達にしても半分推奨されている昼寝
をしかけているが、俺や明智は耳をそばだてて熱心にメモを取って
内容を理解しようとしていた。
村八分にされた偏見かもしれないが、どちらかといえばじっとし
ているより体を動かすのが得意そうな少年達の中で真剣に聞き入っ
ている俺と明智は目立つのだろう。コーチもこっちに注目して喋っ
ているようだった。
だがその視線に含まれているのは真面目な生徒に対する好意だけ
ではない、どこか別の粘着質の光があったような気がする。
講義の中身はすぐ実践に移せそうな役立つ物だったが、それでも
全ての面で賛成できる話ばかりではなかった。
コーチの言う﹁フィジカル要素はサッカーの中で近年ますます重
要度を上げてきている﹂という意見はいい。﹁スピードがないと世
界の舞台で戦えない﹂というのもまあ、面白くないが判らないでも
ない。
でも﹁テクニックは後からでも身につけられるから、先天的にフ
ィジカルに優れている選手を成長期の子供の代表に選ぶべきだ﹂と
いうのは暴論だろう。
思わず挙手してから反論してしまう。
469
﹁でも神経系統の発達する、いわゆるゴールデンエイジに技術の修
得よりも身体能力を優先するのは変では?﹂
フィジカルコーチはまだ小学三年の俺から真っ向から言葉を返さ
れたのに驚いたのか、若干目を丸くした。
だがすぐに体勢を建て直すと、棘のある口調で答えた。
﹁技術がゼロで良いとは言っていない。ただ技術よりも運動能力を
重視するべきだと言っているんだ。
足利君だったな。君は今回選出された中で最年少だった事もあっ
て、体力測定では総合すると最下位だ。その君が身体能力が重要で
ないと主張しても説得力がない、ただの負け惜しみにしか聞こえな
い。正直君みたいな選手が中心になったチームがなんでカルロス君
のいるチームに勝てたのは不思議でしょうがないな﹂
︱︱ああようやくこのコーチや周りのスタッフが俺を敵視してい
る理由が判った。つまりこのコーチの理想像ともいえるフィジカル
が優越したプレイヤーがカルロスだったわけだ。その自分が目をか
けていた選手がどこの馬の骨か判らない選手に負けてしまった、し
かもその負かした選手である俺が自分の理論と異なったフィジカル
よりテクニックに傾いた存在なのが気に入らないのだろう。
だから多少こじつけ臭くても俺みたいなタイプに難癖をつけてい
るのか。
この時点で俺は今回の合宿にある程度の見切りをつけた。
すでにトレーニングメニューの改良や食事についての知識など、
スポーツ科学的にこの時代の最先端のものは手に入れた。後はここ
のコーチ達からの評価はもうばっさりと切り捨ててしまおう。多少
は扱いにくいと思われようが、小学三年生に嫌みをぶつけているの
がここまであからさまだと、俺が反抗してもそれほど悪影響はない
470
はずだ。希望的観測も入っているが﹁生意気な小僧﹂ぐらいで済ん
でくれるはずだ。
そう脳内計算すると席を立ち、堂々と抗議する。
﹁そうです俺たちがカルロスに勝った事、それこそ反証になるでし
ょう。サッカーは身体能力も重要ですが、むしろ俺達の年代ならば
ゴールデンエイジと呼ばれる期間に、しっかりとした技術を身につ
けるべきじゃないですか?﹂
俺の袖を引っ張り﹁もう止めろ﹂と山下先輩が小声で制止してく
る。
だが、ここまで俺がむきになるのにも理由はある。俺は技術を伸
ばして世界で勝負しようと予定を立てているのだ。
なにしろやり直したとはいえ俺の体のアスリート的な伸びしろは
多くない。前回のこの時点よりはるかにましになったが、成長した
時に単純な身体能力では海外の選手︱︱もちろん比較対象はトップ
クラスの選手である︱︱よりも分が悪いのは判りきっている。
だから﹁身体能力が技術なんかよりずっと大事﹂と言われると反
発せざるえないのだ。でないと技術を頼りに世界一を目指す俺の存
在理由が揺らいでしまう。
そんな事はもちろん露とも知らないコーチは馬鹿にしたように唇
を歪めた。
﹁テクニックが優れていれば身体能力はどうでもいいのかね? バ
カバカしい。昔から華麗な勝利にこだわるオランダ代表や、無敵艦
隊なんて気取っているスペイン代表のヨーロッパの古豪を見てみろ。
変にテクニックや見栄えやプライドにしがみつくから国際的な競争
力が落ちていく一方だ。このままだとあの両国がワールドカップで
優勝するより先に、フィジカルに優越したアフリカ大陸の代表がト
ロフィーを掲げているだろう﹂
471
︱︱それは違うぞ! 内心で俺は叫びを上げた。一番最近のワー
ルドカップでは例に挙げた二カ国が決勝で戦い、見事に無敵艦隊が
世界王者になったのだから。この先の歴史を知っていればいるほど
突っ込みどころの多いコーチの台詞だった。
だが同時にそれをこの場で発言しても無駄な事は判っていた。証
拠も無しで未来の優勝国を予言するなんて子供の戯れ言でしかない。
ましてや、このコーチはフィジカルが重要だと考えているのと同じ
ぐらい俺を論破するのに執心している。俺の言葉が間違っているか
ら正したいのではない、カルロスを排除した奴の意見だから間違っ
ているに違いないと決めつけているのだ。
そしてコーチの鬱憤に火に油を注ぐが如く、俺が抗議をしてしま
ったのだ。まともな議論になるはずがない。
俺は選択をミスしたんだろう。ここでフィジカルコーチに喧嘩を
売っても何にもならない、大人らしくスルーすべきだったんだ。そ
れぐらいは判っていた、でも⋮⋮我慢できなかったんだ。
ここで黙っていたら俺の目指すプレイスタイルが世界で本当に通
用しなくなるんじゃないかって、そんな焦りか恐怖にも似た感情が
反発を止められなかった。
やり直した俺が持ち越してきた技術や経験はこれから年を経るご
とに、どんどんアドバンテージを失っていくだろう。そうなると俺
が否定したはずの身体能力に優れたプレイヤーに追い越されるかも
しれない。
だから俺は技術と経験、そして頭脳を鍛えれば圧倒的なフィジカ
ルを持つ天才達と渡り合えると信じて短い期間とはいえ代表候補ま
で昇って来たのだ。
これで﹁やっぱりどんなに技術を持っていても、天性の素質を持
つアスリート系の選手にはかなわない﹂なんて認められる訳がない。
472
同様にこのコーチも俺を認められないのだろう。
後から聞いたのだが、アンダー十二の首脳陣は俺達の年代が世界
と戦う為に﹁カルロスを中心としたチーム作り﹂を進めていたそう
だ。スピードに溢れる前線のカウンター攻撃とフィジカルの強い守
備陣が体で止めるチームを目指して。ならば合宿に呼ばれた中でテ
クニックに主軸を置いた選手が俺や明智に山下先輩ぐらいだったの
も頷けるな。俺達は初めからチームカラーに合っていなかったんだ。
そりゃ中心になるはずの選手がいなくなりコンセプトが根底から
崩壊し、一からチームを再構築しなければならないのだ、愚痴や文
句も言いたくなるだろう。でもそれが俺に向けられるのは、こっち
からしたらやっぱり八つ当たりするなと言うしかない。
でもこれですっぱりと思い切れた。今回は良い経験だったと割り
切ろう。俺もつい熱くなって口論してしまったが、これ以上コーチ
なんかの首脳陣と対立しても意味がない。
大人しくしていれば、向こうも小学生相手にねちねちと嫌がらせ
をすることはなかっただろう。でも、ここで口答えしたことで決定
的に印象が悪くなってしまった。
︱︱こりゃあ、このスタッフが居る間はもう代表に呼ばれないか
もな。
その予想は嫌になるぐらい的中した。
俺はこの合宿の終了後、小学生の間は二度と代表に招集されるこ
とはなかったのだ。二年後に矢張で全国大会優勝したキャプテンで
あった時でさえも、である。
473
474
外伝 とあるブラジル人コーチの憂鬱
﹁くそ!﹂
罵る言葉はポルトガル語ではなく日本語だ。とっさに出るこうい
う場面でカルロスは日本とのハーフだと強く意識させられる。外見
だけならこの町で歩いている少年とどこも変わらないのだが、その
中に流れる血はどこかエキゾチックで異質な物があるのだ。チーム
メイトもそれを敏感に感じ取って未だに彼を仲間扱いしていないの
だろう。
まあその根底にあるのはチームから特別待遇を受けているカルロ
スに対する嫉妬だろうが。
リオにあるユースチームのコーチはオーバーな仕草で肩をすくめ
た。この才能溢れる少年をどう指導するべきか考えあぐねているの
だ。
カルロスのサッカー選手としての資質に疑問の余地はない。特筆
すべきスピードに加えてパワーにスタミナと、身体能力でいえばこ
れほど恵まれた少年は短くない彼のコーチ人生でも初めてである。
技術的にも文句のつけようがない。まだ荒削りではあるが、基本
的技術はしっかり修得している上に実戦で生かせるだけのセンスも
セレソン
持ち合わせている。これからの成長も考えれば、所属するトップチ
ームどころかブラジル代表の中心になる事でさえ大いに有望だろう。
ただ一つ問題があるとすれば⋮⋮、
﹁なんであいつらゴール前の俺にパスを出さないんだ!?﹂
波の激しいメンタル面だけだ。特に最近はその矛先がチームメイ
475
トに向きがちである。
今日行われた練習試合も結果が気に食わないと荒れている。試合
には勝ったのだがカルロスは不完全燃焼だったようだ。それも仕方
がないだろう、露骨なまでの無視がチーム内で行われていたのだ。
一緒にトレーニングしてカルロスの力量が判断できない程うちの
ユースの選手レベルは低くはない。だがそれでも拭いがたいわだか
まりがうちのユースの生え抜きにはあるのだろう。
しかしこれぐらいは彼を獲得したチームの幹部も想定内だ。新た
に加わったチームに中々馴染めない状況など、これから彼がプロに
なるのならいくらでも出てくる。それぐらい自分に有利にひっくり
返せなければ、所詮それまでの器ってことになる。
もちろん手助けはするのだがその助力を生かすも殺すもカルロス
次第だな。
ここブラジルはサッカー選手の埋蔵量は世界最大の鉱脈である。
過去にもカルロス程ではないが、資質に恵まれていた少年が些細な
原因で選手生命を絶たれている例は枚挙に暇がない。その原因には
怪我だったりメンタル面での不安定さだったり、ただ単に運が悪か
ったとしか思えない巡り合わせの無ささえも含まれるのだ。それで
も尽きる事なく名選手の予備軍は続々と生まれている。 このカルロスにとってはチーム内で味方のいない厳しいシュチエ
ーションを、今の内に体験できてラッキーだとふてぶてしく考えら
れるだけの精神的なタフネスがブラジルで一流のプロになるには求
められる。
サッカーが上手いだけの子供ならこの国にはごろごろしている。
上手い上に身体能力が高い子供も少なくない。その上でさらに向上
心があるか、心身両面のタフネスを持っているか、最後に幸運であ
るかどうかというレベルでまで選別され選手として大成するかが決
められるのだ。
476
まだ年は幼いかもしれないが、プロとしての苛烈な生存競争はす
でにスタートしている。
とはいえこのまま放置もよろしくない、彼を獲得するまで少なく
ない金に加え日本のクラブとトップチームからのレンタル移籍など
の様々な取引があったのだ。そんな金の卵を孵化させる手助けがで
きないならば、コーチとしての存在意義が失われてしまうからだ。
だがここで安易に答えは出してはいけない。もしも一言ユースチ
ームの絶対権力者であるコーチが﹁カルロスにもパスを回せ﹂と命
じれば表面上の問題は解決される。
カルロスにパスを出さないのがマイナス評価になると判れば、プ
ロを目指すユースチームの誰もそんな事はしなくなるからだ。
しかし、もちろんそんな事だけで本質的な問題は解消されるはず
もない。むしろチームメイトからすれば﹁カルロスはひいきされて
いる﹂という負の感情を募らせるだけだろう。
だからあくまでカルロスが自分の力だけで打開するべき課題なの
だ。
ここでコーチがしていいのはアドバイスぐらいだろうか。
﹁カルロス、とりあえず落ち着いて俺の話を聞いてくれるか﹂
﹁ちっ、何だよ﹂
口を尖らせてふてくされているカルロスに極力ソフトに語りかけ
る。
﹁カルロスがブラジルに帰ってきて、まだチームに馴染んでいない
のは判る。でもカルロス一人で勝てるのか? 帰国するきっかけに
なったっていう日本での大会の試合を思い出してみろ。俺もビデオ
で見てみたが、相手はチームとして戦っていたけれどカルロスは一
人ぼっちで対抗していたじゃないか﹂
477
そっぽを向いているカルロスの表情にばつが悪そうな色が浮かぶ。
﹁いくらお前が天才だって言っても、仲間からの協力が得られない
状態での一人の力ではかなわなかった訳だ。だったら、これからお
前がうちのチームでどんな戦い方を身につければいいか判るだろう
?﹂
目を逸らしていたカルロスが何かを理解したかのように、輝く瞳
をコーチと合わせてしっかり頷く。どうやらチームメイトと力を合
わせて戦う術を学んでくれる気になってくれたようだ。
胸を撫で下ろしかけたコーチに、カルロスは疑問が解消されたす
っきりとした表情で確認する。
﹁つまり次は最初から仲間を当てにせず、俺一人でも敵チームに勝
てるだけの力を身につけろって事だな!﹂
﹁え、なんでそうなる﹂
斜め上のカルロスの思考に思わずコーチはどん引きする。そんな
彼の態度に気が付くことなくカルロスは﹁いいアドバイスを貰った﹂
と言わんばかりの曇りのない笑みを浮かべる。
﹁じゃ、とりあえず十一人抜きの特訓を今からしてくる。またな!﹂
﹁いや、ちょ、待てって﹂
コーチの﹁お前は何を言っているんだ?﹂という制止の声を振り
切って、生気に溢れた姿のカルロスが足取りも軽く去っていく。
しばらくその後ろ姿を呆然と眺めていたが、やがて首をふると﹁
そのうち間違いに気が付くだろう﹂と肩をすくめる。それにしても
カルロスがあれだけ直情径行だとは思わなかったな。これから彼を
478
コーチングする場合には、もう少し柔らかい表現を心がけなければ
ならないとメモをとっていた。
◇ ◇ ◇
﹁ありがとうコーチのアドバイスのおかげだ!﹂
喜びに輝くカルロスからの賛辞を素直に受け取るわけにはいかな
い。彼が自分に感謝している理由も推測できるが、できるならこの
前に言った台詞でないことを祈りたい気分だ。
﹁今日の試合は、俺一人で敵を全員抜いてゴールできたぞ!﹂
﹁そ、そうか⋮⋮﹂
ゴールしたのだから叱る訳にもいかない。でもチームメイトを生
かすどころか独力で勝つつもりになってしまっているぞ。よし、俺
が企んでいたとりあえず無理やりチームの一員に組み込む方法は棚
に上げておこう。
ここで矯正するより、自分で壁に当たって仲間との協力の大切さ
を思い知ってくれた方が身に染みるはずだ。そう考えてコーチは軽
く現実を逃避する。
ここブラジルではユースレベルとはいえ将来プロになる少年がご
ろごろいる。敵もこのままカルロスの独走を許すはずもない、自分
一人の力ではどうしようもない現実にぶち当たってもらおうか。
うん、一人でゴールできる実力を示したのだから、他のチームメ
イトもカルロスを主軸にしたチーム作りに文句は言わないだろう。
それでも不満があるなら、そんな不満分子はうちのユースには不適
479
合の烙印を押して放出するしかない。
これから先の試合にカルロスが敵チームのマークに止められた場
合の対処と保険を考えて、今だけは心置きなく褒めてあげよう。 ﹁よくやったな、カルロス﹂
﹁へへへ、これぐらいは軽いもんさ。これからも俺に任せておけよ
!﹂
﹁う、うむ。頑張れよ﹂
曖昧な言葉で励ましながら、機嫌良く部屋を出て行くカルロスを
見送る。
間違ってない⋮⋮よな? コーチは自問する。
あいつが自分の力が通用しなくなるまで辛抱強く待つのも教育の
内のはずだ。
◇ ◇ ◇
﹁へへへ、今日も誰にも止められなかったぞ﹂
﹁そ、そうなのか。カルロスは凄いなぁ﹂
コーチの褒め言葉にもどこか諦観の念が混じっている。彼の予想
を超え、カルロスの高速ドリブルを止めるチームが中々現れなかっ
たのだ。もちろん、対戦した中にはファールしてでも止めようとし
たチームもあった。
だが、どこで覚えて来たのか﹁枯れ葉シュート﹂という揺れて落
ちるフリーキックをこの才能溢れる小僧は武器にしていたのだ。本
人曰く﹁本当ならもっと揺れるはずなのに、日本製に比べるとボー
ルが悪い﹂そうだが、フリーキックでも得点を量産し始めたこの少
年にむやみにファールをする事もできずにどのチームもお手上げ状
480
態だった。
この頃はさすがにチームメイトもカルロスの力を無視できなくな
ったようで、彼にボールがよく回ってくるようになった。だが、ど
う見てもチームメイトがカルロスにパスを献上しているようで、協
力しているとは言い難い。こいつは協調とかそんな平和的な物では
なく力づくで自分を認めさせ、王様のように自分のやりたいプレイ
を好きにやってそれが通用してしまっているのだ。
⋮⋮壁にぶつかるまでは自主性に任せ、温かく見守る。
このモットーに間違いはなかったはずなのに、どこか予想の斜め
上へドリブル突破力と得点能力を進化させていく自分の教え子に対
し、チームは連勝を続けているのに憂鬱な気分になるコーチだった。
481
外伝 二回目になるファースト・コンタクト
春休みも終わりに近い日の事だった。
ジャージを汗でびっしょりにして、手にはボールを入れたネット
とスポーツバッグをぶら下げて朝練から帰宅する。春休みなんだか
らといつもより遅くまでみっちりとトレーニングをしてきたのだ。
どうもキャプテンが卒業してからは、朝練が山下先輩と二人っき
りになってしまって間が持たない。
全国大会の後から増やしたPK練習を除くと変わらないメニュー
なのだが、俺達が成長したのか徐々にトレーニングメニューが早く
終了するようになってきた。そうなると余った時間は仕方ないから
と、ぶっ続けで攻守を代えてのワンオンワン合戦でお互いが個人技
を磨くことになってしまう。俺達は二人とも負けず嫌いなものだか
ら、終わりの時間を決めておかないと延々と勝負が続いてしまうの
だ。
居なくなってみて初めて、キャプテンが練習しやすい環境を作っ
ていてくれていたんだなぁと気が付く。このまま二人だけでは朝練
が個人技の練習だけになってしまう。
もっとゲーム勘を磨く練習を取り入れなければいけないな。だと
すればもう少し人数を増やすべきか⋮⋮。しかし、安易に増やすと
練習のレベルが下がってしまいかねない。でも来年には山下先輩も
卒業してしまうしなぁ。
今後の練習計画について考えながらクールダウンを兼ねた軽いジ
ョグで帰ってくると、空き家だったはずの隣家に引っ越しの荷物を
載せているトラックが止まっていた。
482
⋮⋮そういえばあいつが隣にきたのは小学校四年生の頭からだか
ら、ちょうど今頃だったか。
高校を卒業してからは随分と会っていない、いや違うな。今回の
人生では初顔合わせになる幼馴染の顔を思い出す。あれ、思い出そ
うとするのだが、あいつは︱︱そういえばどんな顔だったっけ? 割と長い付き合いのはずなのに朧気にしか浮かんでこない。確かち
っこかったのと髪が長かったのだけは記憶しているんだが。
いかん、前世の知識なんかが最近の記憶に圧迫されて段々思い出
せなくなっていくような気がするぞ。しかもそれはサッカー以外に
関してだけで、サッカー関連はばっちり覚えているのは我ながらど
うかしている気がするが。
頭を振って自分が不人情だという思考は忘れようとする。朝から
ネガティブになっても仕方がない。
そんな風にトラックから視線を引きはがすと、ひょこって感じで
その陰から出て来る子供の姿を見つけた。小さな体に不似合いな大
きな段ボールを抱き抱えるようにして隣家へ運ぼうとしているよう
だ。
その姿を見た瞬間︱︱まだ顔は段ボールに隠れて足と長い黒髪し
か窺えないのだが、ピッチの外では数少ない俺の天敵だった幼馴染
の少女を思い出していた。
﹁︱︱納豆娘!﹂
俺の恐怖に満ちた声に気がついたのか﹁ん?﹂と疑問符を洩らす
と、抱えていた段ボールを地面に置いてその少女はこちらへ振り向
いた。乱れた黒髪を手で押さえている幼く愛嬌のある容貌は、よう
やく記憶の中から浮上した前世での俺の幼馴染の面影を残している。
ああ。こいつだったな間違いない。
483
﹁よいしょっと。あ、初めまして、おはようございます﹂
﹁あ、お、おはよう﹂ 丁寧な挨拶をしたにも関わらず後ずさって、さらにやや腰の引け
た対応をする俺に、またも﹁ん?﹂と首をかしげる少女だったが気
を取り直したように微笑みかける。
ほうじょう まこと
﹁お隣さんですか? わたしは北条 真小学四年生です。よろしく
あしかが はやてる
お願いします﹂
﹁⋮⋮足利 速輝同じく小四だ。こちらこそよろしく﹂
挨拶が硬くなってしまうのは仕方がないだろう。俺はこの真に対
して明らかに苦手意識を持っているのだ。別にこの子が悪いってい
う訳ではない、むしろ性格は素直で優しい子だと思う。
唯一俺が許容できない欠点というか悪癖に近いのが、こいつの自
分の好物を広めようとするその姿勢だ。
﹁それとあたしの事、納豆娘って呼ばなかった?﹂
﹁滅相もない﹂
首を振って断固とした態度で嘘をつく。このぐらいの嘘は人間関
係を円滑にする為に勘弁してほしい。ここできっちりさっきの失言
とこいつとの距離を保っておかないと今後何があるか判らない。
真は﹁んー?﹂と不服気にぷくぷくとした頬をさらに膨らませて
首を捻っていたが、表情をすぐに笑顔に変えた。
﹁じゃあ空耳かな? あたしから溢れる納豆愛がそう聞こえさせた
のかもね。もし足利君があたしを納豆娘って呼んだんなら、お返し
にお腹一杯になるぐらいどんぶりに大盛りでサービスしてあげたの
に﹂
484
﹁⋮⋮謹んで辞退する﹂
良かった、しらを切って本当に良かった。苦手な納豆を頭からか
けられるのなんて、想像しただけで血の気が引いてしまうぞ。
やはり真は苦手だ。というか彼女が大好物の納豆が苦手なのだ。
そして事あるごとに俺へと納豆を勧めてくる時のこいつは、俺にと
っては地獄からの使者にしか見えない。もしかしたらそのせいで、
今まで真の事を俺の脳内メモリーから消去していたのかもしれない
な。
﹁⋮⋮そう? 美味しいのに﹂
﹁味はさておき、少なくともどんぶりで食べる物じゃないよな﹂
﹁うん、そんな事して残したりなんかしたらもったいないお化け納
豆バージョンが、糸を引いて足利君を追いかけてくるね﹂
﹁被害者の俺を追っかけては来ねーよ。百歩譲ってもったいないお
化けがいたとしても、そんなに腐ってねーよ!﹂
思わず突っ込んでしまった。まずい、初対面なのだからできるだ
け当たり障りのない関係を構築しようと考えていたのだが⋮⋮。真
と仲が良くなると必然的に彼女の好物とも長い付き合いになる事を
意味する。
ただのお隣さん以上の関係になるつもりは毛頭ないのだ。早くこ
の場から立ち去ろう。
﹁じゃ、引っ越し頑張ってね。俺はもう帰るから﹂
と家に逃げ込もうとしたら、その脱出口のはずのうちの家の扉が
開かれた。中から出てきたのは、うちの母ともう一人は母と同年齢
の小柄な女性だ。
どちらも玄関のドアを開けるとすぐ前に俺達がいたのに驚いたの
485
か、少し目を見開いている。
﹁あら速輝、お帰りなさい。ちょうど今、隣に越してきた北条さん
がご挨拶に来てくれていたのよ﹂
﹁真もお隣の速輝君ともう友達になったの? 初めまして速輝君、
うちの子はちょっとそそっかしい娘だけど仲良くしてあげてね﹂
﹁は、はあ、こちらこそよろしくお願いします﹂
と俺や大人達の間で挨拶が交わされる。俺の態度について﹁大人
っぽいわね﹂とか﹁そちらの真ちゃんこそ﹂といった社交辞令が飛
び交っているが、真の大きな目はいつの間にか俺がぶら下げている
サッカーボールに注がれていた。
﹁足利君はサッカーするの?﹂
﹁うん﹂
すると好奇心で一杯の視線はボールから俺へと移された。
﹁ふーん、上手いの?﹂
その質問を真から受けるのは二度目である。前回の人生では確か
会って間もないこともあり﹁うん、まあ﹂と曖昧な言葉を返したは
ずだ。
でも、今回は子供っぽい軽い気持ちでの質問であっても、この分
野に関してだけは妥協はできない。素直に﹁うん﹂と答えて頷いて
おけば問題ないと判ってはいても、秘めた自信がそれだけでは許し
てくれないのだ。
胸を張って彼女の視線を跳ね返すように強く見返し、しっかりと
頷いた後にプライドを込めて前回よりも少しだけ言葉を続ける。
486
﹁うん、将来世界一になるぐらいには﹂
と。
487
外伝 あなたの欲しいお返しは、ミサンガ? それとも人形?
ほうじょう まこと
﹁北条 真です、これからよろしくお願いします﹂
いささか猫を被った挨拶をしているのは、うちの隣に引っ越して
きた真である。ぺこりと頭を下げるとさらさらの髪が流れるように
背中から前へ移り、小柄な体を包み込むみたいだった。あいつは絶
対に本体よりも髪の方が体積が多いよな。
進級してもクラスのほとんどが顔見知りである中、転入してきた
真には興味津々という視線が何重にも突き刺さっているようだ。
それに気がついたのか、少し不安げに教室の中を見渡すと俺の顔
を見つけて表情を輝かせる。まずい、あれは溺れる者が掴む藁を発
見したような雰囲気だ。
﹁んと、足利君のお隣に引っ越してきたので足利君同様に仲良くし
てください﹂
真の言葉に﹁へー、アシカのお隣さんかぁ﹂という空気がクラス
に流れる。転校生に直接でなくても、俺に聞けば真の事が判るのか、
というような俺にも協力しろという雰囲気だ。だから俺を巻き込む
なって、俺はサッカーに努力を傾注しているから学校で余計に目立
つような事はあんまりしたくないんだよ。
⋮⋮そりゃサッカーで全国級の選手になったのに注目されないの
は難しいと判ってはいるのだが、それでも余計な騒ぎは持ち込んで
欲しくはない。
やっぱり真は苦手だなと微かに唇を結んで睨むと、あいつは逆に
安心したように微笑んで小さく手を振ってくる。うん、どーにも苦
手だなこいつは。
488
昼休みのグラウンドの取り合いでは、いつも仁義なき戦いが繰り
広げられる。ここでは年齢や学年は考慮されずに、早く到着して遊
び始めたメンバーが使用する権利を持つ。したがって毎日公平な先
着順という名のタイムトライアルが展開されているのだ。
つまり、サッカーなどの大きくグラウンドを使う遊びがしたけれ
ば、給食を食べ終えていち早くグラウンドに飛び出さなければなら
ない。その役目は三年生の頃からいつも俺が担ってきた。
遊びの場所取りに走り回るのが大人げないのは理解しているが、
理由は一応存在する。それはもちろん昼休みであっても相手がクラ
スメートでもサッカーがしたかったからに他ならない。試合でもな
く、トレーニングでもない純粋に楽しむためのサッカーができる俺
にとっては貴重な時間なのだ。
その順番争いを任されるのは足の速さでも、好き嫌いなく給食を
食べられるという点でも俺が最適だからだ。
だが今日に限っては⋮⋮、
配膳された中で唯一残っている小さな白いパックを睨む。
俺にとって前世からの宿敵とでもいう腐った大豆が配られたのだ。
だが、これを何とかしなければ昼休みの陣取りには参加できない。
下らないことで苦悩する俺を救ったのは、皆に囲まれながらもど
こか疲れたような笑顔を見せている真だった。この幼馴染の大好物
を思い出すと、すぐさまテロリストに接近する特殊部隊のように気
配を消して背後から歩み寄る。
髪に覆われた華奢な肩をつんつんと突っつくと、真が反応する前
に﹁これ好きだろ。食べてね﹂と納豆のパックを手渡しするのに成
功した。
ふう、ミッション成功だ。安堵して大きく息を吐く。
489
俺からすれば爆発物を危険物処理班に丸投げしたようなものだ。
もし実際にそんな事態になったら多少は罪悪感を覚えるかもしれな
いが、物は納豆で渡す相手は真である。まさに適材適所、あいつは
大好物を美味しくいただいてくれるだろう。
試合で得点を決めたようなすがすがしい気分で真に向けて親指を
立てると、すぐにグラウンドへと走り出す。
急げ! もう足の速い奴らは集まりかけているぞ。
◇ ◇ ◇
私は愛想笑いを張り付けてながら、給食を少しづつ片づけていっ
た。体格からも判るように、私はちょっとだけ小食でほんの少しだ
け身長が足りていないのだ。だからその分髪を長くしているんだけ
ど、良く考えたら髪の重さだけ体重は増えるけれど身長は伸びてく
れないんだよね。
今更ショートにする気はないし自分の髪形は気に入ってるけど、
時々お相撲さんが身長を誤魔化そうとしたみたいに固めてこの長い
髪を逆立てて固めちゃうのはダメかなぁと思う。そのてっぺんを身
長と認めてくれれば数値上はすらっとしたモデル体型になれるのに
なぁ。
でもそんな斬新なヘアスタイルを考えるよりも、今日はこれから
午後も授業があるんだからエネルギー蓄えないといけないよね。
私を囲んで一緒に食事を取っている女子はみんな優しいけれど、
でも知らない人ばっかりだとやっぱり気疲れしちゃうから。
よし、こんな時こそ大好物の納豆で栄養と元気を補給しよう。
ん、ここの給食の納豆は割と当たりだね。コクと風味がちょこっ
と薄れているのが残念だけれど、それ以外の味や粘りはこの真ちゃ
んが高得点をつけてあげよう。
490
⋮⋮あ、つい調子に乗っていたらもう食べ終わっちゃったよぅ。
まだ給食のおかずやご飯はたくさん残っているのに。これからは納
豆の援護なしで食事の残りを片づけていかなくてはいけない、そう
思うと心細くて震えてくる。
その瞬間控えめな力で私の肩をつつかれた。
︱︱誰? ん、足利君? え、私に納豆をくれるの? うわぁあ
りがとう!
思わぬ贈り物を手にして小躍りしてしまう。周りから少し退いた
目で見られているがそんなのは気にならないぐらい嬉しい。
サプライズプレゼントを渡した足利君は、なぜか静かに気配を消
してそっと自分の席へ戻って行った。うん、きっと恥ずかしがり屋
で照れているんだな。
昨日会った時もさっさと帰っちゃったからあんまりいい印象はな
かったんだけれど、どうやら第一印象よりずっといい子みたいで安
心だよ。隣の家が苛めっ子とかだったら最悪だもんね。
でも、納豆をくれる人に悪い人は一人もいないよ!
お家に帰ったらなんかお礼してあげよう。
うまうまと二個目になる納豆を頬張りながら、何がいいかなぁと
思いめぐらす。
﹁ね、ね。今の北条さんに何か手渡ししたのアシカ君じゃなかった
?﹂
そんな私に好奇心に満ちた質問がかかる。
﹁ん、そうだよ﹂
﹁えー、そうなんだぁ﹂
頷く私に尋ねてきた女の子が隣の子と色めき立って話をし始める。
491
ん? なんだか状況が判らないんだけど。詳しく問いただそうとす
ると、さっきの子が﹁ごめん、北条さんは今日転校したんだから知
らないよね﹂と言って事情を説明してくれた。
それをまとめると足利君はこの小学校でも結構な有名人らしい。
全国大会に出るぐらい強いサッカークラブに入っていて、しかもそ
このレギュラーなんだって。まだ四年生なのにだよ! 昨日の台詞
も口先だけの物じゃなかったんだ、びっくりだよ。
おまけに学校の成績も赤丸急上昇中のクラスで注目度ナンバーワ
ンの男の子なんだってさ。
﹁へー、そんなに人気があるんだ足利君って﹂
私の感想に妙に居心地の悪い沈黙が流れる。さっきの子も﹁いや
注目されているけど、人気があるんじゃなくて⋮⋮﹂と言葉を濁し
ている。 どういう意味なの? そう問いを込めてじっと見つめると、やが
て根負けしたかのように教えてくれた。
﹁アシカ君は、サッカーは凄いんだけどクラスのみんなと話が合わ
ないし⋮⋮。一緒に遊ぶのも男子とサッカーするぐらいで、あたし
達女子にむかっては子供扱いしかしないからちょっと浮いちゃって
るの﹂
﹁そっかぁ﹂
﹁だから、そんなアシカ君がわざわざ北条さんに手渡しに来たでし
ょ。絶対に何かあるんだと思ってたんだ﹂
﹁それって⋮⋮﹂
勝手に頬が熱くなる、周りからの視線を逃れようと顔を伏せた。
それって私の事特別に思ってるって意味だよね? さっきまでは別
に意識していなかった足利君の顔を思い出す。
492
ぼさぼさの頭をして目つきが鋭いぐらいしか特徴がなかったけれ
ど、まあまあ格好いいかもしれない。サッカーが上手いんだし、プ
レゼントもくれたんだから評価は甘めの﹁結構格好良い男の子﹂に
してあげよう。
でも、癖があるとはいえそんな有名人が転校した家の隣で、私に
興味をもっているのかぁ⋮⋮まるで少女マンガみたいだ。
それに昨日会ったばかりの私の大好物まで把握して、今日には貢
いでくるなんてこれも私の可愛さがいけないのね。よし、家に帰っ
たらお返しにわざわざお取り寄せしている水戸納豆の極上品﹁藁人
形二号君﹂をお裾分けしてあげよう。藁人形の中にタレや芥子が入
っていてそのまま食べられる一号君に、世話になった相手にプレゼ
ントする贈答用の二号君。丑の刻参りでもすぐ釘が打てますって表
示してある三号君と分かれている優れものだ。ちょっと三号君の表
示の意味が判らないけれどあの味は絶品よ。きっと足利君も気に入
ってくれるはず。
藁人形二号君を受け取り鋭い目を和ませる足利君を思い浮かべて、
クラスにちょっとだけ溶け込めた気がした。
◇ ◇ ◇
﹁あ、足利君。ちょっと待っててくれるかな、お昼のお礼にプレゼ
ントがあるの﹂
下校する最中に真からそう誘われた。断ろうにも家は隣で、俺は
ユースクラブに行くために部活をせずに帰宅しようとしているのが
バレている。こんな状況で角が立たずに謝絶するのは難しい。
仕方ないか。溜め息がこぼれる。
493
﹁判った。ただしクラブがあるから手短にな。それと別に納豆を上
げたくらいでお返しはいらんが﹂
﹁ん? それぐらいって⋮⋮納豆のプレゼントなんて命を助けても
らった次に ランキングされるぐらい重い恩義だと思うけど﹂
﹁その、そこまで恩にきられるとこっちが困る。そうだ、それとお
返しに納豆はやめてくれ﹂
﹁ん? 贈答用にも使える高級品でもダメ?﹂
﹁⋮⋮もしかして藁人形二号君?﹂
良く判ったねという真の頷きにげっそりする。
﹁足利君も知ってるんだね!﹂
﹁昔、知り合いにバレンタインの日に送られた事があってね。あの
時はあいつからどんな恨みをかっていたのか戦々恐々だった﹂
﹁二号君を送るとはその知り合いはかなりの通だね! どんな人な
の? 私もお知り合いになれる?﹂
﹁真にはそっくりだし、いつか鏡ででも顔は見れるはず。と、話が
逸れたなとにかく納豆はいらんし気にしないでくれ﹂
﹁んー、それじゃ私の気が済まないなぁ。うん、じゃあミサンガを
あげよう﹂
えーとミサンガってあれだよな、切れたら願いが叶うって細い紐
でおまじないの道具。また古めかしい︱︱ってこの時代ではそうで
もないんだっけ? 確かそんなに高価な物でもないし、クラブの時
間も迫っている。さっさと貰って撤収するか。
ごそごそとランドセルの中を探っていた真は﹁やっと見つけた、
はい!﹂と満面の笑みで手渡そうとする。
だが渡そうとするのはかなり太めの紐状の物で作られた輪で、色
は目に痛いほどのショッキングピンクである。ミサンガってこんな
494
のだったかな。
﹁ほ、他の色とかないかな?﹂
﹁このミサンガ特別製だからそれしか残ってないの。でも丈夫で長
持ち、きっとずっと使える一生物のアイテムになるよ﹂
﹁⋮⋮切れたら願いが叶うはずなのに、切れないで一生使えるミサ
ンガって意味あるのか? 別に俺は子々孫々に伝えたい悲願とかは
ないから、もし一生切れなかったらただの呪われたアイテムじゃな
いか。っとまあいいや、もう時間がないからこれはありがたく受け
取っておくな。サンキュー真﹂
﹁うん、ちゃんと使ってね。使わないなら藁人形三号君を代わりに
上げるから﹂
頭の中に前世の忌まわしい記憶が蘇る。バレンタイン当日の朝、
異臭で目を覚ますと隣に等身大の藁人形が添い寝していたのだ。
叫び声をあげてベッドから蹴り出そうとすると、打ち所が悪かっ
たのか二号君の藁が破れて内容物が飛び出したのだ。飛び散る豆に
粘つく糸、おまけに芥子まで入っているのか目にしみて涙は止まら
ない。後はもう思い出したくもない阿鼻叫喚の一日になってしまっ
た。あんな惨劇は二度と起こしてはならない、素直にミサンガを受
け取るのが吉だろう。
﹁⋮⋮あー、手は目立ちすぎるから巻くのは足でいいか?﹂
﹁うん、一トンまでの衝撃になら耐えられるし、切ろうとしたらダ
イヤモンド・カッターが必要なはずだからサッカーしてても簡単に
は切れっこないから大丈夫! 足利君が足に巻いても問題ないよ!﹂
﹁なぜそんな素材でミサンガを作るのか疑問が尽きないな。あ、そ
れと俺はお前を真って呼び捨てにしているから、真もアシカってあ
だ名で呼んでいいぞ﹂
﹁ん、判った。じゃあ今日もサッカー頑張ってねアシカ。ついでに
495
私もミサンガを右手に巻いておこう。どっちが先に切れるか競争だ
ね﹂
﹁それって競争する事なのか?﹂
﹁まあまあ、こっちの私が使うミサンガの願い事はアシカがサッカ
ーで世界一になれるように願っておいてあげるから⋮⋮一生切れな
いかもしれないけどね﹂
﹁ぼそっと不吉な事をいうなよ。ああ、それじゃまた明日学校でな﹂
こうして俺は藁人形型納豆を回避し、丈夫なミサンガを右足につ
ける事になったのだ。藁人形よりは縁起がよさそうではあるが、こ
れが幸運を呼ぶのかどうかはこの時点ではまだ誰も判ってはいなか
った。
496
第一話 初心を忘れないようにしよう
喘ぐと言うより﹁こひゅーこひゅー﹂と喉の奥で笛のように高く
なった呼吸を必死で落ち着けようとする。
だが酸素不足の肺は何回荒い息をついても、頭にまでは新鮮な空
気を運んでくれない。
俺は立っているのを諦めると上体を折って膝について体を支えて
いた掌を地面に移し、ゴロリと地面の上に仰向けに横たわり春の柔
らかい日差しの空を眺める。
︱︱この練習メニューはちょっと負荷強度を厳しくし過ぎたかも
しれん。これだけやっても消化しきれないんだから、今日はこのぐ
らいで切り上げて明日からはもう少し軽くしないとまずいかなぁ。
俺はオーバーワークになりそうなほどのメニューを組んだ事を悔
やむ。
中学生になるんだからと調子に乗って、少々ハードなレーニング
をしようと思ったのが間違いなんだ。こんな苦しい思いをしたあげ
くに調子を崩しては何にもならな⋮⋮。
俺は今何を考えていた!? がばっと勢いよく起きあがった。
体は湯気をたてそうな程に熱を持っているのに、今皮膚を伝うの
は冷や汗で肌は粟立っている。
俺はいつからこんなに苦しさに弱く、トレーニングに妥協しやす
くなっていたんだ!? やり直した当初は、全力で走れるだけで嬉
しくてたまらなかった。息が切れるほどトレーニングができるのは
最高に幸せだったはずなのに。
いくら人間が流されやすいとはいえ、あまりにも堕落しすぎだろ
う。たった四年前に手にしたサッカー人生をやり直せる奇跡と世界
497
一になる決意さえ薄れているなんて! 練習内容を考えた時も、き
つくはあるが無茶な内容にならないよう注意していたはずなのに。
ほとんど恐怖に襲われて、俺は残っていたメニューに慌てて取り
かかる。
今日は新年度の初め、二度目の中学校生活が始まる日である。小
学三年のちょうど今日と同じ日付に俺は未来から戻って来た。
あれから何年たってもサッカーへの情熱は変わらないが、自分へ
の甘えが無意識の内に出そうになる。今の俺ですらこんなにきつく
てボールを使わない練習だと嫌になってさぼりたくなるのだから、
前回はどれだけ時間を無駄にしていたのかを考えるとぞっとするな。
くそ、今更もう一度中学生になったからってちっとも精神的な成
長が伴っていないじゃないか。新たなトレーニングに汗をかきなが
ら、自分の進歩のなさに涙まで出そうになった。
◇ ◇ ◇
﹁それでは皆さんの東矢張における中学生活が実り多く、楽しいも
のになることを願って新入生歓迎の言葉に変えたいと思います﹂ 校長先生のスピーチに拍手を送る。別段すばらしい挨拶ではなか
ったが、はっきりとした口調と短時間で終わったのが個人的には評
価が高い。前回の歴史ではほとんどまともに聞いていなかったから、
比較はできないんだけれどね。
とにかく入学式も無事に済み、これで俺も東矢張中学の一員にな
った訳だ。
実の所、俺は中学に進学する際には結構悩んだのだ。
498
まず最初に決めるべき選択肢がサッカーを中学校の部活動でやる
のか、それとも誘いのあったJ傘下のユースチームでやるべきかと
いう問題だ。
もし部活でやるのならば公立だけでなく、サッカー部の強い私立
中学も候補に上がる。
成績は何しろ二度目であるから大抵の学校は受験しても大丈夫な
成績だし、全国大会で優勝したチームのキャプテンであればスポー
ツ推薦としても通用する。多すぎる選択肢にちょっと迷ってしまっ
た。
そんな中で最終的に俺が選んだのは、前回と同じ市立中学だが部
活はせずにユースでサッカーを続けるという道だった。
まずサッカー選手として考えると、俺は以前に中学校の部活のサ
ッカーは経験している。だから今度はユースのサッカーに触れる事
でロスのない濃い経験を積むことができるのではないかという判断
だ。そして、ユース活動を重視するからには部活でスポーツ推薦な
どの援助を貰う選択肢が消滅する。従って学費の低い市立の学校に
したのだ。
また前回と同じ学校であれば、そこで過ごした記憶が薄れかけて
いるとはいえ多少は役に立つはずだ。周囲との関係などにおいて余
計な摩擦や面倒が減り、サッカーに集中する環境が作れるはずであ
る。
そう自画自賛していた俺の﹁中学校サッカー集中ライフ﹂の計画
は第一段階から頓挫してしまった。
その原因はと言うと、
﹁あ、いたいた。ねアシカは何組だった?﹂
と声をかけてくる幼馴染の真のせいだ。こいつは同じ中学に上が
499
っていても制服が紺のセーラーに変化した以外は、髪が一層長くな
ったのとオプションに縁無しのメガネがついたぐらいで、ほとんど
体型的に成長が認められない。つまりは出会った頃とほとんど変化
のない棒のように細く、上からつむじが見えそうなぐらい小さくて
凹凸のない幼い容姿のままだ。
俺からすれば前回もそうだったのだから自明の話なのだが、本人
にとっては気がかりなのだろう﹁成人しても子供料金で通用するよ、
きっと﹂と俺が励ましているのに、なぜか涙目になって殴りかかる
くらいナーバスになっている。
この少女が何かと俺に構ってくるのだ。
﹁ああ、俺は三組だったな﹂
﹁ん、そうなんだ! じゃあ私と一緒だね﹂
真は﹁てへへ﹂とえくぼを作る。
入学式が始まる前に、クラス分けの発表はすでにしてあった。そ
こで俺は前回と同じ三組なのか、自分のクラスの確認と一応念のた
めに真も一緒なのかチェックはしておいたのだ。だから、真の言葉
にも特に動揺も見せずに普通のリアクションを返せる。
﹁そりゃ良かった。また一年間クラスメートとしてよろしく頼む﹂
﹁ん? 何だか反応薄くない? おまけに四年生からずっとお隣さ
んだった私を今更クラスメートとしてよろしくだって? アシカは
人としての情が薄すぎるよ!﹂
握り拳を固める真に今回も騒がしい一年になりそうだと嘆息する。
真が同じ中学に進学し同じクラスになるのは前回と同様だが、な
ぜか今回は妙に距離感が近い。どうもいつの間にか懐かれてしまっ
たようであるが、理由を考えてもこれといったものが見当たらない。
俺がサッカーで名の知られる選手になったせいかとも思ったが、
500
この真は一切サッカーには興味がない女の子なのだ。俺が小学校の
時に全国大会で優勝した時でさえ﹁凄いね、で後何回勝てばワール
ドカップってのでも優勝なの?﹂と尋ねてくるぐらいなのだ。ファ
ンとしてのミーハーな感情で近付いたようでもない。
あ、もしかして小学生の時の給食で嫌いだった納豆をそっと真に
渡したのがキッカケになったのだろうか。あの時は感激した様子で
やたら目をキラキラさせて感謝しながら食べていたようだが、俺に
とっても嫌いな食材を食べなくてすむウィン・ウィンな関係のつも
りだった。
その後で﹁んー、アシカは優しいね﹂と褒めてくれていたが、た
ったあれだけの事で俺を優しい男の子だと勘違いして妙なフラグを
立てた訳じゃないだろうな。
⋮⋮ホストなんかに騙されないか、ちょっと真の将来が心配にな
っちゃったよ。
そんな風に思うのも、俺からすればどうしても真は子供に見えて
しまうのだ。見た目も、適切な食事と運動で予想以上に順調に成長
している俺と、やや発育不良な真は下手をしなくても兄妹のようだ。
ましてや精神年齢だと、イカサマで一回分余計な経験を積んでい
る俺と、まだお子様な真では比較にならないだろう。
﹁ん? アシカが私の顔をじっと見てるなんて、どうかしたの? それとも私のセクシーさにやっと気が付いたとか?﹂ 真は眼鏡の奥の瞳を細めて長い髪をかき上げると、くねくねと体
を躍らせる。はっきり言ってセクシーさの欠片もなく、おもちゃの
花が音楽に合わせてくねくね動くのと同等の色っぽさしか感じられ
ないな。
うん、子供だ。女子中学生にしても真は子供すぎる。
こんな子が俺に気があるんじゃないかと勘違いするとは、俺ちょ
501
っと自意識過剰すぎるかな。
頭をぶんぶんと振って甘く染まりがちな思春期の思考を放棄する。
﹁じゃあ、さっさと教室へ行くか﹂
﹁ん、オーケイだよ﹂
大きく腕を振って歩く真は、その小柄な体躯と相まって子供が行
進しているような柔らかい空気を醸し出している。周りの上級生も
まるで可愛らしい小動物を見る目で微笑みを浮かべて眺めている。
こいつは年上に可愛がられるタイプで、年長に煙たがられる俺とし
ては少し羨ましい。
向かっているクラスも教室の場所も以前と同じだった事から、大
筋で歴史は変わっていないようでもある。ただ自分の行動が変化し
ているためにどれぐらいのバタフライ・エフェクトがあるのか多少
の注意は必要かもしれない。
ま、でもサッカーに関する限りはそんな心配は必要ない。いや、
心配できないと言うべきだ。﹁前回は勝ったから今回も勝てるだろ
う﹂とか﹁歴史上は負けていたから、今度もダメか﹂などと考えた
時点で、おそらくどっちの試合でも敗北が決定してしまう。
小学三年生の時に県予選で敗退するはずだった俺が、全国へ行っ
て闘えるはずもなかったカルロスに勝利した事が、未来は不確定で
あると証明しているのだ。
そんな風に考え込んでいると真に背中を叩かれた。叩かれたとは
いえ真の力ではせいぜい﹁ぺちん﹂と音がする程度だったが、物思
いから覚めるぐらいの威力はある。
﹁もう、またぼーっとして! さっさと教室に行くよ。まったくア
シカは私が注意していないと、サッカー以外ではダメダメだなぁ﹂
502
﹁ふぅ、まあ一応礼は言っておくか。じゃ急ぐから俺は走っていく
な、さらばだ﹂
﹁ん? え、ちょっと、待てー! こらー私を置いていくなー!﹂
のんびりしているかもしれないが、今朝も必死で冷や汗を流しな
がらトレーニングをしてきたんだ。ピッチを離れた学校の中だけで
は、こんな普通の中学生になっていても構わないよな?
503
第二話 代表と戦う準備をしよう
俺は右足を伸ばし、相手のドリブルするボールを引っかけようと
する。だが相手も反応が速い、反射的にアウトサイドへ持ち出そう
とした。
両者の動きが交錯し、二人の足の間に挟まったボールが不規則な
回転をしながらルーズボールになって小刻みに跳ねる。
その後を追うのは俺の方が一瞬早かった。周囲の状況を把握する
のは、鳥の目を持つ俺の最大のアドバンテージだ。その特技を生か
して素早くボールを自分の足下に確保する。
ボールを奪われた相手の舌打ちが背中から聞こえ、この一対一は
俺の勝利が確定した。
﹁よーし、そこまで﹂
コーチの止めの合図が届き、ほっと一息つく。マッチアップして
いた相手は高校生で俺よりもずっとパワーが有るために、どうして
も接触プレイでは押されがちになる。まともにはぶつからないよう
にしても対抗するためには体力を消耗してしまうのだ。
これまでの小学生を相手にしているのと中学生になってJリーグ
傘下のジュニアユースで戦うのはずいぶんと差がある。対戦する相
手がまだプロではないとはいえ要求されるレベルが違っているのだ。
俺もその差に最初は戸惑ったものだった。
﹁アシカもようやく上との競り合いに慣れてきたみたいだな﹂
そう声をかけてくるのは山下先輩だ。この俺より二つ年上の先輩
504
も同じJのクラブのユースチームの一員で、中学生の年代のカテゴ
リーであるジュニアユースのチームメイトとなっている。小学生以
来の付き合いになる山下先輩とは、昔と変わらずに今みたいにちょ
っとした休憩でも話をする仲である。
そして彼もどちらかと言うと当りが弱いタイプなので、今日のよ
うに一つ上の高校生までのカテゴリーのチームと一緒に練習すると、
俺と同様にパワー負けする悲哀を分かち合う同士になってしまうの
だ。
﹁山下先輩の方はどうなんですか? パワー負けしないよう春休み
中にウェイト・トレーニングで筋肉をつけるって言っていましたけ
ど﹂
山下先輩の長身ではあるが、まだ細身の体を一瞥する。
﹁いや、思ったより面白くないっていうか⋮⋮﹂
面目なさそうに頭をかく先輩に、溜め息を吐くのを歯を噛みしめ
てこらえる。この山下先輩はボールを使った一対一なんかは日が暮
れるまででもやり続けるのに、興味が湧かない事はさっぱりなのだ。
﹁まあ、成長期に無理なウェイト・トレーニングは逆効果ですよ﹂
﹁そういえばアシカは﹁サッカーで使う筋肉はサッカーでしかつか
ない﹂って小学生のころからウェイトの否定派だったな﹂
頷いて肯定する。俺のトレーニングメニューにおいては筋肉をつ
けるよりも、関節を柔らかく保ったり技術を向上させたりするほう
が優先されている。別に小学生の時に代表合宿で会ったフィジカル
コーチに反抗しているわけではない。実際に生活習慣や食事関連に
ついては参考にさせてもらったのだから。そして有効と思われるそ
505
れまではやっていなかった体幹を鍛えるという運動は取り入れてい
るしな。
だが、やはりテクニックよりフィジカルを重視するあのコーチと
は永遠に相入れないだろうと今でも思う。そのせいでたぶん小学生
時代の代表歴はゼロになったのだが⋮⋮。
相性ってのはどうにもならないよな。
そんな不愉快な記憶はともかく、やはりここのジュニアユースチ
ームに所属して良かったな。やり直した当初はもう知識については
今更覚える必要はないと思っていた。だが、今の俺は個人的な技術
や科学的なトレーニングだけでなくプロとしても通じる戦術的な動
き方も教わっているのだ。
作戦に沿った最適な行動パターンやフォーメーションごとに求め
られる役割の違いなど、基礎からもう一度勉強させられた。もちろ
んある程度は覚えて実践していた知識だが、それでも新たに得た試
合でも使える知識も多い。 自分より上の年代でフィジカルで対抗できない相手と毎日のよう
にトレーニングができて、コーチからは細かく作戦や戦術の意図を
説明される。肉体と頭が毎日くたくたに疲れるが、自分がサッカー
プレイヤーとして自覚できるほどの速度で成長している実感がある。
中学の部活では大会のスケジュールがかっちり決められているせ
いで、これほど長期的スパンで余裕を持った育成は難しいもんな。
うん、今回はクラブチームを選んだのは間違いじゃなかった。
そんな自分の選択に満足していると、うちのチームの監督が声を
かけてきた。矢張の下尾監督ほど親しみは持てないが、子供相手で
も頭ごなしに命令したりしない理論派の頼りになる監督さんだ。
﹁おーい、アシカと山下。次の日曜に練習試合をやるのは知ってる
よな﹂
506
﹁ええ、確かアンダー十五の代表が相手でしたよね﹂
俺の言葉には僅かな棘がある。結局俺と日本代表とはあの気まず
い合宿以降、まったく縁がないのだ。そのくせ試合結果とかは気に
なってしまう。特に自分が無視された形になったあの時のアンダー
十二が世界大会に出場した時は、どう反応すればいいか困ってしま
った。素直に応援ができずに、予選突破した代表が本選のトーナメ
ントではカルロスの不在がたたり惨敗したあげくに敗退したのを、
日本人でありながらも内心で暗く喜んでしまったのは自分の記憶か
ら抹消したい醜い思い出でもある。
そんな愛憎半ばの複雑な感情を代表チームに対しては持っている
のだ。そんなチームと試合するとなれば、どんな態度をとればいい
のかいまいちはっきりしない。
﹁今度新たに就任した監督は、俺と同期だった男だが中々優秀な奴
だぞ。そしてうちのチームに有望な選手がいないか尋ねてきたから、
お前らの事を推薦しておいた。お前らが代表に選ばれるというのは、
うちのユースだけでなくトップチームの知名度も評価も上げる事に
つながるんだ。明日の試合では、テストだと思って全力でプレイし
てみろ﹂
﹁は、はあ⋮⋮﹂
返答に力がないのは、どうも代表と聞くと一度だけ参加した合宿
の記憶が甦り、いい感情が持てずに気分が盛り上がらないからだ。
と、そんな気が抜けたような俺の背中で軽く高い音が響く。
痛ってぇ。背後にいる山下先輩を半眼で睨む。試合中はともかく
今は別に得点もアシストもしてないんだから叩かないでくださいよ。
﹁アシカも気合い入れていこうぜ!﹂
﹁はいはい﹂
507
確かに代表に対する幻想はなくなったが、監督が替わったという
なら俺との相性が悪いコーチ陣も交代したのかもしれない。あのチ
ームの首脳陣は、俺が全国大会で活躍する度に役員席なんかで苦い
顔をしていたのが印象に残っている。どれだけ俺は嫌われていたん
だろうな。
でも監督以下が総とっかえならばまた代表を目指すのも悪くない。
いやそれ以前に試合を前にして気合いが入っていないのはサッカー
選手として問題外だよな。どんな試合でも全力を尽くさなければ、
プレイヤーとしてのレベルは上げられない。捨て試合でいいなんて
負け犬の思考である。
一プレイヤーとして考えれば代表との戦いは願ってもない舞台だ。
相手は同年代では最高級の集団、試合をするだけで得られる物が
あるだろう。しかも、結果によれば俺達も代表に呼ばれる可能性す
らあるのだ。
もう代表なんて夢を見ずに、Jリーグで実績を上げて海外に行こ
うと将来を描いていたのだが、国際試合で活躍すればその進路を大
幅にショートカットできるかもしれない。
ようやく闘志が下腹から沸き上がってきた。胸を通り越し、肩ま
で熱い物がこみ上げて体をぶるりと震わせて宙に溶けていく。
試合は週末なのに、もう体が戦闘準備に入りかけて武者震いを起
こしている。
さっきまでは俯抜けていたのにずいぶんと現金な体だなぁ。
一つ大きく熱い息を吐く。
﹁ふぅっと、そうですね気合いを入れて絶対に勝ちましょうね﹂
﹁お、おお。急にアシカの態度が変わったな。でもその小生意気な
方がアシカらしくって頼りになりそうだ。代表との試合でも俺にい
508
いパスをばんばんよこしてくれよな﹂
﹁了解、先輩こそ俺のパスを無駄にしない様に頼みますよ﹂
﹁そりゃ大丈夫だろう。だてにここの練習でしごかれてねぇよ﹂
胸を叩く山下先輩の顔には自信が溢れている。そしてそれを裏付
けるだけの実績をこれまでの間に積み上げている。先輩も中学入学
と同時にこのジュニアユースに所属したから俺よりも二年長く在籍
している計算だ。
一年生の時は周りの変化とレベルアップにとまどっていたそうだ
が、去年からは堂々のレギュラーとしてトップ下を任されている。
幸いにも、加入と同時にレギュラーチームでボランチをやらせて
もらっている俺とのコンビネーションは未だ健在で、先輩曰く﹁ア
シカが俺と同級生だったら、二人とも一年からスタメンだったのに﹂
と悔しがるほど完成されている。
俺と山下先輩が組んで試合するなら、相手が代表チームであって
も一泡吹かせてやれそうだ。
509
第三話 代表と戦ってみよう
﹁ここまで押されっぱなしだと、返って清々しいな﹂
山形監督は手にしていた書類を投げ出すと、ピッチで行われてい
る自分のチームの試合を眺めるのに集中しだした。
急遽自身が率いる事になったアンダー十五の代表は正直言えば、
まだ骨格さえも決まっていない状態だ。本当ならばこんな練習試合
をするよりも先に、まだまだメンバー選考の為にこの年代の中で活
躍している選手達をピックアップして能力を見極めなければならな
い段階なのだ。しかし彼にそんな時間は与えられなかった。
協会からの連絡は唐突で無礼とさえ言えるものだった。前の監督
は予選の第一ラウンドの内容が悪すぎたからと首にしたので、いき
なりだがアジア予選の第二ラウンドから指揮をとってくれないかと
緊急の監督就任を要請されたのだ。
滅多にないチャンスだと飛びつくように受諾して帰国した山形は、
とりあえずはつい最近まで前監督の指揮下で日本代表チームとして
第一ラウンドに出場していたアンダー十五の選手達を召集した。そ
してその結果、集められた選手達に彼は愕然とする事になる。
二十人の代表メンバーだったが、不思議な事にあまりにも画一的
な選手ばかりがチームに揃っていたのだ。皆がフィジカルに優れ、
監督やコーチの言う事に素直に従い、リスクのない堅い作戦を実行
する。そんないわゆる﹁優等生﹂的な選手だけしか選ばれていなか
った。
おそらくはそういった選手が前監督の好みだったのだろうが、監
督がプレイヤーの選り好みをして勝てるのはほんの一部のサッカー
510
強国だけである。
まだ世界的に見ればサッカー発展途上国でしかない日本では、多
少はクセがあっても試合に勝たせる能力がある選手をチームに組み
込まねばアジア予選よりも上のレベルでは戦えない。
これじゃ下のカテゴリーではアジアはともかく強敵ぞろいの国際
大会の決勝トーナメントでは通用しなかったたのも頷ける。
持ちあがりで監督もスタッフも上の年代へとスライドしても修正
が効かなかったのだろう。今回またアジア予選第一ラウンドで大苦
戦したあげく、なんとか通過してもその内容の酷さから監督がその
座から飛ばされる訳だと山形は納得した。いや、逆によくここまで
監督の首が持ったものだ。前任の者はよほど上層部と太いパイプを
繋いでいたのかもしれない。
しかしそんなチームを次の予選第二ラウンドまでに立て直して、
本大会まで持っていくのはチーム改革にかける時間がなさ過ぎるな。
なるほど、誰もがこの世代におけるチーム作りは失敗だと予期し
て、予選敗退する不名誉のババを押しつけあっていたのか。協会と
の関係が薄い山形は前監督達に代わって全ての責任を被せるのにぴ
ったりの、非難するだろうマスコミ対策にはもってこいの生け贄の
羊だったってところか。
自分の事を舐めているな。そんな渦巻く不満を胸に、前の監督の
好みではないと外していた使えそうな選手のデータを急いで集めて
いたのだ。
⋮⋮で、その前監督やコーチ達に嫌われていたというのがこいつ
らか。
選手時代の同期の伝手をたどり、代表には縁がないにもかかわら
ず県のトレセンレベルで目立った選手がいないか情報をかき集めた
のだ。その中で特に見込みのあると推薦された山下と足利の両少年
511
達の所属するチームが、これまでのメンバーで作られている代表相
手に実に楽しそうに試合を進めている。
山形監督はこの試合にあたってはスタメンを指名しただけで、別
に作戦も指示していない。﹁前の監督の指揮していたようにやって
みせてくれ﹂と選手をピッチに送り出しただけだ。
当然ながら対戦相手のデータなど一切与えていない。さらに攻撃
の核となるべきだった背番号十番のトップ下の選手は今回は不参加
なので、サブの選手を司令塔のポジションに入れて出場させている。
これだけ不利な条件は重なっているのだが、まさか仮にも代表が
同年代のチームを相手に二対ゼロのスコアで、しかも試合内容は点
差以上にずたずたにされるとまでは予想していなかった。
目の前で自分が監督しているチームが叩きのめされている光景を、
自虐的な喜びに満ちた内心を押し隠して腕組みして見守る。ともす
れば﹁前のスタッフは何をやっていたんだよ﹂とあきれた半笑いが
浮かびそうになるが、自らのチームの苦境に喜んでいる様子など見
せる訳にはいかない。
無理やり表情を引き締めて、傍らにいる急ごしらえで前監督から
入れ替えたスタッフに尋ねる。
﹁向こうのトップ下の十番とボランチの十六番は、俺がうちのチー
ムの候補リストにも上げといた奴らだよな? なんで今まで代表経
験がないんだ?﹂
﹁あ、ええと、トップ下が山下でボランチが足利の両選手ですね。
︱︱えーと二人とも一度は代表合宿に参加した経験があるようです
が、身体能力が代表チームで要求されるレベルに達しておらず、態
度も反抗的で日本を代表するチームにはふさわしからぬ選手だった
と前監督時に記されていますね﹂
﹁ふむ、そうかね。その二人が中心になったチームにうちの代表チ
ームは押されっぱなしのようだが﹂
512
鼻を鳴らす山形にスタッフは叱られたと感じたのか、面目なさそ
うだ。たぶん心の中では少ないデータしかない二人の選手と、それ
を代表に呼ばなかった前任の代表スタッフに文句を言っているのだ
ろう。
そこで山形は興味をピッチにまた移し、代表よりも相手のチーム
の二人を注目する。
お、ちょうどお目当ての十六番の足利がボールを持ったな、さて
ここからどういったゲームメイクをするかお手並み拝見しようか。
◇ ◇ ◇
へへへ、ボールを受け取る俺の頬には隠しきれない笑みが浮かぶ。
ボールを持つと無意識に出るこの癖の矯正は何度か試みたのだが、
そうするとどうも笑わないようにする方へと注意が逸れてしまい、
肝心のボールコントロールが疎かになってしまう。仕方ないので周
りの人も﹁アシカはもうずっと笑ってろ﹂と直すのは諦めたのだ。
今俺が笑っているのは足下にボールがあるからだけでなく、試合
が思い通りに進行しているからだ。
二対ゼロ、得点は共に山下先輩でアシストは約束通りの俺からの
パスだ。相手が代表チームと考えればここまでの展開は上出来であ
る。しかもまだまだ攻撃のリズムと試合の流れはうちのチームの物
で、仲間は気力に溢れて全員の動きが軽やかだ。対する相手は動き
に精彩がなく、モチベーションを維持していられないようだな。
ま、あんたらに直接の恨みはないが、代表に今まで選ばれなかっ
た悔しさをこの試合で叩きのめす事で晴らさせてもらうぞ。
そう決意してこの二点差を守るのではなく、さらに攻撃に出る事
を選択する。
513
比較的マークの緩い中盤の底であるボランチの位置から、背中に
マークが張り付いているトップ下の山下先輩にスピードの遅いパス
を出す。先輩と俺のコンビネーションはここまで何度も成功し、す
でに二点も奪っているので相手もこのパスに対して敏感に反応した。
さて、俺がこのユースに入って一番進歩したと感じるのはこの﹁
遅いパス﹂を有効に使う技術だ。
これまではパスは速ければ速いほど、鋭ければ鋭いほど良いと思
っていた。
だが、例えば今のようにマークを背負った味方にわざと遅いパス
を出すと、敵はプレスをかけてボールを奪う絶好の機会だと撒き餌
に群がる魚のように集まってくる。それも当然だ。密着マークが縦
へのコースを切っているのだから、ゴール方向への警戒はしないで
ボールを取りにいけるからである。
この時にスピードのあるパスなんかでは敵は引きつけられないし、
マークが集まってくるまでの時間的な余裕もない。あくまで緩いパ
スだからこそ撒き餌として有効なのだ。
山下先輩はマークを背負い、さらに他からも集まる敵のプレッシ
ャーにさらされながらも、一切気にする素振りもなく緩いパスをダ
イレクトで強く俺に返す。
このリターンパスまでが一連のプレイとして機能している。何回
も練習したパターンの一つだからこそ、試合での強いプレッシャー
にも落ち着いてプレイができるのだ。
再度俺の足下にボールがあるが、先ほどと違うのは中盤のマーク
が山下先輩にだけ集中して他の選手はフリーになっている点だ。そ
りゃそうだ、敵は皆山下先輩の所に寄せて行ったのだから。
その過度に集まりすぎたバイタルエリア︱︱ペナルティエリアの
前のスペース︱︱に向けて俺がドリブルで進む。
山下先輩に詰め寄っていた敵のボランチが俺の突破に一瞬躊躇す
514
る。
マークしていた選手をフリーにして山下先輩に向かってきたんだ。
ボールが先輩から離れた今、マークするべき相手に戻るか、それと
も目の前に接近して来た俺に対処するべきか。急に突きつけられた
選択に迷いが見える。
僅かに硬直した後で俺の方にダッシュして来た。まず目の前のピ
ンチをしのごうと考えたんだな、でもそっちがそうくるなら⋮⋮。
敵が寄せてくる前に、本来はそいつがマークするべき対象だった
味方の左サイドのMFにパスを出す。フリーになったMFは、待っ
ていましたとばかりに水を得た魚のように勢い良くタッチラインを
縦にドリブルで突進していく。
俺へと迫っていたボランチが舌打ちしてそのMFを追いかけ始め
ると、そのマークが追いついた途端にまた左サイド寄りに彼へのフ
ォローに走っていた俺へとリターンパスを渡される。この二本のワ
ンツーで敵のボランチは完全に振り切ったな。
そのままトップスピードに乗った俺は、すでにゴール前のミドル
シュートが撃てる危険なエリアまで到達している。
山下先輩についていた敵MFがこちらに寄せようとした瞬間に、
先輩が俺から距離をとるように右へ流れながらペナルティエリアに
まで踏み込む。そのマーカーはエリア内で今日二得点の山下先輩を
自由にするわけにもいかない。山下先輩に引っ張られるように俺か
ら離れていく。
となるとDFが出てくるしかない。でも下げっぱなしの守備ライ
ンを作っていたDFが一人だけ飛び出すと⋮⋮。
DFラインが乱れてオフサイドもマークの受け渡しも曖昧になる
んですよ︱︱こんな風にね!
我慢しきれなかったDFの背後を突くパスをFWに出す。そこは
515
左へ向かった俺や右へ流れた山下先輩がわざわざ空けておいたとっ
ておきの中央のぽっかり空いたスペースだ。ノーマークでゴール正
面、これで外したら怒りますよ。
俺のパスを受けたFWは悠々とワントラップしてからキーパーの
位置を確認すると、冷静にゴールに流し込んだ。
よし! と盛り上がりハイタッチを交わす︱︱なぜか山下先輩だ
けは﹁後一点でハットトリックなのに﹂と得点したFWの頭や背中
を平手で叩いているが︱︱俺達とは別に代表チームは顔色が悪い。
特にDFラインはギャップを突かれ、マークはずらされ、パスで
崩された後フリーになったFWに得点されたのだ。
自分達の守備が全く機能してない様に感じただろう。
この手品には種がある。
代表の守備は年齢を考えると決して悪い物ではない。DF一人一
人の質は高いし、身体能力に拘っていた前監督が集めたメンバーだ
けあってフィジカルは大したものだ。
だが、俺達はよく一つ上の高校生のカテゴリーとトレーニングを
しているのである。特にここ最近の代表との試合が決まってからは
その頻度が高い。そのためにフィジカルが自分より上の相手とどう
戦うかに慣れて捌き方を熟知しているのだ。
実際最後の一連のコンビプレーでもパワーに勝る敵とできるだけ
接触プレイをせずにすむよう、ボール離れがいつもよりも早かった。
山下先輩以外はマークが付く前にすでに自分のするべきプレイを終
わらせていたのだから。
また、試合のビデオを何回も見直してどう攻めて、どう守るべき
かきっちり対策を取って待ち構えていたのだ。急に地方のジュニア
ユースと試合が決まった代表チームとは準備にかけた時間が違いす
ぎる。
付け加えるなら、敵の代表チームは身体能力が高い者を集めたあ
516
る意味単色なチームで、アクセントをつけられるテクニシャンタイ
プがいない。代役なのか大きい数字の背番号だった司令塔もパスを
捌くばかりで、リスクの高いドリブル突破などの作戦はとってこな
い。
おそらくチームの約束ごとが少ない個人技に頼った中央突破を仕
掛ける戦術を志向しているのだろうが、他の攻撃が無いと判れば破
壊力は激減する。一遍そのスピードとパワーに慣れてしまえばチー
ムとしてそれを防ぐのは難しくなかったのだ。
そりゃカルロスクラスの怪物がいれば別だが、最近までこの代表
チームの監督だった人は未だにその呪縛から逃れられず、新たな戦
術を構築できていなかったようだな。
笛が鳴り、俺達にとっては楽しかった、そして代表にとっては屈
辱だっただろう練習試合が終わる。
三点差もつけたんだ、しかも全て俺のアシストから。これでフィ
ジカルに信仰を持っていた前監督やコーチ陣に意趣返しができたか
なぁ。
517
第四話 監督もつらいよ
勝ち試合の後にチームメイトの皆と心置きなくじゃれ合う。この
一時だけは試合のプレッシャーが抜け、次の目標に向かうまでの何
も考えないでいい貴重な時間だ。
敗れた代表からの憮然とした視線を優越感混じりに背中で味わっ
ていると、その中に異質な物が混ざっている。どうやら代表の監督
らしき人からじっと観察されているのだ。その不審な髭面の男がな
ぜ監督と判ったかというと答えは簡単、その人の態度が一番偉そう
だったからだ。
ここで言う偉そうというのは負けたチームに向かって怒鳴ってい
るとかじゃなく、うなだれていたり面目なさそうな代表スタッフの
中一人だけ余裕を持った何かを面白がる表情でこっちを眺めている
態度の事だ。
ええと、あなたが見ているのは俺ですか? と自分の顔を指さす
と、茶目っ気たっぷりにウインクをすると親指を立ててきた。
⋮⋮あの人、本当に代表の山形って監督かなぁ。どうにも態度が
軽すぎて代表の監督っぽくないから、念の為に後で写真で人物確認
をしておこう。
気を取り直すと、山下先輩を含むチームメイトはまだお互いに喜
び合っている
確かにこっちが今日に合わせてコンディションを合わせていたり、
相手がベストメンバーでなかったりという要因はある。だが、同年
齢の代表チームに白星︱︱しかも相手を完封しての圧勝となるとか
なり気分いいよな。
特に俺や山下先輩にはどれだけアピールしても代表には選ばれな
かったコンプレックスというかわだかまりがある。それをこの試合
518
で一掃でき、自分のプレイスタイルは正しかったと証明したような
ものだ。これで今後の代表チームについては例え自分が選ばれなく
ても、冷静な態度でいられるだろう。
⋮⋮でもここまで実力を見せつけたんだ、とりあえず一回ぐらい
は呼んでくれませんかね新監督さん。
◇ ◇ ◇
敗戦に肩を落とすメンバーを見ながら、それほどマイナスの収支
ではなかったなと山形監督は一人頷く。
新しくなった監督の前で良いところを見せようとアピールをした
かったメンバーには気の毒だが、彼は最初から前監督が作ったチー
ムにはさほど期待していなかったのだ。だから今日の試合結果は彼
にとって、あれだけの点差と内容になるのはともかく大枠では予想
通りだったとさえ言える。
彼の手に渡された代表チームはこの年代においては珍しいくらい
に規律正しく、フィジカルの強い正統派のチームであるのも事実だ。
だが、あまりにそちらに偏りすぎていて作戦の修正や格上のチー
ムに対する対抗策などは全く想定されていない。
世界の流行を追うのに精一杯で、とりあえず形から入ってみまし
た。そんな感じがどうしても拭いきれないのだ。
だから自分達の日本の強みを生かそうとせずに、自分達の弱みで
あるフィジカルだけは卓越したメンバーを選出したのだろう。
だが、考えてみれば弱点がなくなっただけで強みは全く生まれて
いない。﹁世界と戦える﹂フィジカルであっても﹁世界で勝てる﹂
ほど傑出している選手はいないのだ。また身体能力だけでなんとか
なるほどの差が出せるのは、それこそカルロスやアフリカ系選手の
519
身体能力がトップレベルである一握りぐらいだろう。
日本は自分達の強み︱︱細かい技術と戦術に対する理解度やチー
ム一丸となる協調性といった点を押し出して戦わなければ、世界を
舞台にして強豪国には勝てない。そこまで理性的に判断するときつ
く唇を噛みしめた。
そう、山形監督のサッカー観からすれば選手個人の特徴を生かし
たチームが好みなのだ。それなのに優等生揃いのチームをベースに
しなければ、選手の選考を一からやり直すはめになる。そんな悠長
な作業をしていればチームが出来上がる前に予選の第二次ラウンド
が開始してしまう。
彼の好みの個性的で攻撃的なサッカーは新戦力の数名に求めなけ
ればならないだろう。
﹁だとしたら、前の監督達が切り捨てたこいつら期待していいかも
な﹂
まだピッチで祝福し合っている︱︱いや、もしかして喧嘩をして
ないか? お互いが平手で背中や頭をはたき合いしている︱︱足利
と山下を眺めた。
あの二人は想像以上に使い物になりそうだ。ならリストにまとめ
てある残りの他のメンバーも役に立つかもしれない。
もちろん今のうなだれているメンバーを総入れ替えするわけでは
ないが、何人かはピンポイントでの補強をしなければ﹁世界で勝ち
にいくサッカー﹂は実現不能だ。
山形監督はこっそりとリストアップしてあったあの二人を含む、
前監督に嫌われていたらしい選手達のプロフィールを受け取った時
の事を思い出す。
520
書類を渡す知り合いは、彼らの調査に協会からの協力が得られな
かったとさんざんぼやいたもので、なだめる為には彼に一杯奢る約
束をしなければならなかったぐらいだ。
それでは、資料の内容を思い出すのは小学生の全国大会で前回は
ベストフォーで前々回は優勝したチームのキャプテンをやっていた
足利からいくか。
この足利という少年は今回山形の率いるアンダー十五というカテ
ゴリーで括れば、ほぼ年齢は下限に近い。その分体も小さくフィジ
カルも弱いのがネックとなってしまうが、それをカバーするだけの
テクニックと戦術眼を所持している。
ボランチとしての能力は折り紙付きでパスや攻撃の組み立てにア
シストなど、やや攻撃的に傾くきらいはあるが守備もできる。特に
パスカット数は全国優勝時のチームでも最多だったらしい。スペー
スを潰す動きやマンマークなどの裏方の仕事も厭わないが、反面接
触プレイを嫌がる傾向もある。スタミナにも難があり、連戦が続く
とパフォーマンスが落ちることも。
最後に情報をまとめた責任者の個人的な感想として、欠点として
のフィジカルと決定力。そしてプレッシャーを受けた際に後ろを向
く癖を解消できれば間違いなく代表でも活躍できる人材として評価
されている。
なんでこいつはこれまで代表に入ってなかったんだ? どうも外
国に居たせいで最近の国内事情に疎くなってしまっているのが痛い
が、多少の性格の難ぐらいには目を瞑ってさっさと召集しておくべ
きだったろうに。
さて次は⋮⋮山下かこいつは足利と小学校時代は同じチームで、
足利の前の代のキャプテンだったようだな。
足利とはまたちょっと違ったタイプでこいつもとがったプレイ特
521
性を持っている。
トップ下のポジションだがタイプ的にはドリブラーで、アシスト
のパスを出すより自ら切り込みあるいはスルーパスの受け手となっ
て得点するタイプらしい。
攻撃面ではほぼ穴がなく決定力も高いが調子に波があり、メンタ
ル面でもむらがあるため出来不出来の差が激しい。特に優秀なパサ
ーがいると素晴らしい活躍をする一方で、パスが回ってこなかった
り敵から削られたりすると無謀な突破を試みて自滅する事も多い、
か。
最後に雑感として二学年下の足利とは相性が良く、コンビとして
組ませると良く機能する、と。そういえば、今日の試合も足利のア
シストで二得点をしていたな。なるほどこの二人組は使うのならコ
ンビとしてまとめて使えという事か。
他にも数名の推薦された選手がリストアップされているのだが、
ピッチで乱闘事件を起こした得点王のストライカーや、ウイングと
間違われる超攻撃的サイドバックにテクニシャンだが相手を削った
ら謝りにいくボランチなど皆一癖ありそうな奴らばかりだった。
⋮⋮個性の強い選手を探してくれって頼んだだけで、おかしな奴
らを集めろって言った訳じゃないんだが⋮⋮。
記憶の中からデータを浮上させてぼやいた山形は、ピッチでまだ
騒いでいる二人を改めて観察する。なんだ生意気とか反抗的なぐら
いなら扱いやすいほうじゃないか。
優等生のグループは受け継いだのだ、時間がない状況ではあくま
で骨格となるのは彼らである事に間違いはない。だが、そのアクセ
ントとしてリストアップされていた連中も召集して、早くチームと
して一体化させる必要があるな。
こうして考えるとこのチームの前身であるアンダー十二の時点で
522
の十番には悪いことをしてしまったな。カルロスの代わりに十番と
トップ下でエースという役割を急に上層部に与えられて潰されてし
まった選手にすまなく思う。
山形が直接何かしたわけではないが、前監督からカルロスの代役
だと同じようなプレイスタイルを強要されて、結果が出せなかった
ら﹁お前のせいだ﹂と言わんばかりに代表から放出されてしまった
のだ。彼も才能に溢れる少年だったようだが、周りの都合とプレッ
シャーの犠牲にされたようなものである。今回の召集にも応じても
らえなかった事実が示すように、代表への不信感は根強いらしい。
今の俺ならもう少しましな使い方があると思うのだが⋮⋮。
まあ今はこのチームを完成させることを優先して考えよう。
三ヶ月後の夏休みにアンダー十五世界大会が開催されるのだ。予
選の第二ラウンドはその一月前である。
サッカーはクラブチームの休みのスケジュールで大きな国際大会
が行われるので、日本の季節では夏に開催されることが多い。その
リミットを考えれば、もうすでにチームは熟成段階に入っていなけ
れば時間が足りないぐらいだ。
今日はこれまで前監督が指揮していたのとほとんど同じメンバー
とフォーメーションで戦ってみた。つまり三・五・二である。これ
はこれでバランスのとれた陣形で、優秀なMFが多い日本において
は理に適ったフォーメーションである。
だが、これまでの国際大会や今日の試合でもこのチームにおいて
は機能していない。むしろ身体能力の優れたMFがプレスをかけす
ぎているためにピッチを窮屈に使っている印象さえあった。
今更フォーメーションや選手を大幅に変更するべきなのか⋮⋮山
形監督は唇を噛みしめて覚悟を決めた。大会まで期間がない中でチ
ームの建て直しという火中の栗を拾わされたのである。結果が悪け
523
れば全て彼に責任を押し付けて協会の上層部は知らないふりで終わ
りだろう。
だったら好きにやるしかない。例え失敗しても後悔しないぐらい
自分好みの攻撃的なチームにしてみせようじゃないか。幸いこの試
合で二人は使えそうな﹁駒﹂を発見できた。後、幾つかのピースを
組み合わせれば世界を驚かせるのも不可能ではないはずだ。
そう自分に言い聞かせている唇だけでなく拳まで握りしめている
のは、山形が各国の予選状況まで思い出してしまったからだ。
南米予選では二大サッカー王国のブラジルとアルゼンチンが、近
年最強の下馬評通りの猛威を振るいほぼ勝ち抜けを決定させた。
ヨーロッパはビッグクラブが力を入れ出したカンテラやユースか
ら、続々とトップチームに昇格しそうな俊英の揃ったチームがしの
ぎを削って大混戦だ。ここのアンダー十五のチャンピオンズ・リー
グじみた予選を突破したチームが弱いはずもない。 アフリカからは身体能力の高い選手がチャンスだと目をぎらつか
せて、速く激しいサッカーで潰し合っているそうだ。
アジアにおいても各国が日本をターゲットに追いつけ追い越せと
ばかり、どの国も虎視眈々と首を狙っている。
これから先はどこと当たっても強敵ばかりだな。
だがここで下手な成績でおとなしく生贄になってたまるか。選手
と同じぐらい︱︱事によってはそれ以上に監督のキャリアにとって
は国際試合での結果は重要なんだ。
何としてもこのチームの奴らに加えて山下に足利も、百二十パー
セントの力を出してもらうとしようか。
524
第五話 皆に祝福してもらおう
俺がジュニアユースクラブに足を踏み入れると、なんだかいつも
よりも空気がざわついた感じだった。
何があったのかと訝しみながらグラウンドへ出て挨拶をすると、
ジュニアユースのチームメイトやスタッフが集まっている真ん中で
監督が﹁おおアシカも来たか﹂と上機嫌で手招きをしてきた。その
傍らには山下先輩もいるが、はてなんだろう? これだけ笑顔を見
せているんだから悪い事ではなさそうだけど⋮⋮。もしかして俺が
もらい過ぎて始末に困った納豆を監督に贈ったあのお返しか? い
や、それなら山下先輩とは関係がない。だとするとやはり先日の代
表チームとの試合絡みの事だろうな。
﹁よし、アシカも来たから発表するぞ。うちの山下と足利の両名が
アンダー十五の代表候補に選出された。はい拍手!﹂
﹁おおー!﹂
よし! それを聞いた途端に俺はくるりと半回転し、ガッツポー
ズを小さく胸の前でとった後でまた正面へ向き直る。皆の前に顔を
戻した時点では、すでにいつものクールな表情に帰っているはずだ。
﹁アシカは大人っぽい﹂というこのユースでの評価を崩すわけには
いかないからな。
俺がいきなり回転したのと代表に二人も選ばれたのに驚いたのか、
一瞬の間があったがすぐに届いた素直な賞賛の声と拍手が響き、体
中がくすぐったくなる。隣の山下先輩も口元をひくひくさせている
から、きっと大口を開けて笑いたいのに真面目な顔するため歯を食
いしばっているのだろう。
やっぱりこうしてチームの皆の前で祝福されるのは嬉しいものだ。
525
選ばれなかったチームメイトも内心は悔しいだろうがそれを表に出
さず、笑顔で拍手の激励をしてくれる。こういった場面に立ってい
るとスポーツマンシップというのが信じられるな。
周りからの期待と羨望を込めた視線に、今回は前の代表合宿であ
ったような不幸な出来事がないよう新たに就任した監督と相性が良
いことを祈った。
◇ ◇ ◇
﹁ねえねえ、アシカ君ってサッカーの日本代表に選ばれたって本当
?﹂
﹁ああ、年代別の代表ね。まだ候補でしかないし、監督と顔合わせ
すらしていないけれど一応そうなっているよ﹂
﹁へー、凄いんだね。もしよかったら有名な選手からサインとかも
らってくれないかな﹂
﹁あー、すまない。俺はアンダー十五の代表だから、フル代表みた
いに有名な選手はいないなぁ﹂
どこから洩れたのか判らないが、俺と山下先輩が代表候補に名を
連ねたというのは、ジュニアユースで知らされた翌日にはもう中学
中に広まっていた。
周りの生徒に持ち上げられるのはもちろん嬉しいのだが、露骨に
態度が変化するクラスメイトなどもいるので純粋に喜んでばかりも
いられない。
あまりサッカーに詳しくなさそうな生徒が急になれなれしく話し
かけてきたり、遊びのお誘いを受けても正直困ってしまう。幸い、
俺の精神年齢はまっとうな中学生よりも上なので、全部愛想笑いで
スルーしたがサッカー以外で気を使わせないで欲しいよ。
526
そして寄ってくる生徒以上に気になったのが、中学のサッカー部
員の態度だ。
もちろんいじめや無視なんかはないし、そんなのを起こすような
奴らじゃないのは知っている。なにしろ前回は同じ部活で一緒に汗
を流した間柄なのだ。みんなサッカーが大好きな気のいい奴らだと
理解しているが、どうにも俺に対しての態度がよそよそしいのだ。
元々サッカー部とジュニアユースには微妙な緊張関係がある。サ
ッカー部は﹁あいつらはちょっと上手いからって部活を馬鹿にして
見下している﹂と思っているからだ。これは間違いない、なにしろ
前回は俺もそう偏見を持っていた一員だったからだ。
逆にユースに入って判ったのだが、こっちはこっちでサッカー部
の大会が学校では大きく取り上げられ、クラスの話題になるのを羨
ましく思っているのだ。自分達の方が実力は上だと信じてはいても、
サッカー関係者でもない一般的な父兄が知っているのはサッカー部
の活動の方がはるかに多い。それに対してちょっとした嫉妬が産ま
れてしまう。
ゆえにお互いが対立するとまではいかないが、なんとなくぎくし
ゃくしてしまう。
いっそ無関係な野球部や陸上などの運動部とかであれば話も弾む
のだが、なんとなくサッカー部員とは話しにくいのだ。
ま、仕方ないか。クラスメートに向かって笑顔で﹁応援してくれ﹂
と答えながら、きっとサッカー部の奴らともいつかは前回みたいに
馬鹿話なんかができるといいなと心から願った。
◇ ◇ ◇
﹁よかったねー、アシカってばモテモテじゃない。ん? どう? 527
嬉しかった?﹂
そうどこか棘のある口調で背伸びして俺の頬をぐりぐりと指でつ
ついているのは、一緒に下校している真だ。
クラスでは自分の事のように自慢していたのに、なぜか今になっ
てすねているのかいつもよりもつついている力が強い。
とりあえず頬が赤くなるほどつつかれている人差し指を外し、反
論を試みる。
﹁いや、サッカー良く知らない奴にちやほやされてもあんまり嬉し
くないしな。⋮⋮そういえば真もサッカーをほとんど知らなかった
よな﹂
﹁わ、私は勉強したよ! 勝利中の十一人なんかわざわざゲームの
ハードまで買ってやり込んだんだからね!﹂
﹁⋮⋮そりゃサッカーのゲームだろうが。まあ、無関心よりはずっ
とありがたいけどな﹂
外された指をわたわたと上下に動かして﹁私、サッカー知ってる
もん﹂と主張する真のさらさらと手触りの良い黒髪を撫でてなだめ
た。このぐらいで動揺してもらっていては困る。
﹁それにしても、応援してくれる人のほとんどが﹁納豆差し入れて
あげるね﹂と言ってくるのはなぜだと思う? 納豆連続差し入れ未
遂事件の第一容疑者の真君﹂
そうこの疑問を追及しなければならないからだ。髪を撫でていた
右手はとっくに拘束用のアイアンクローへと変化させている。
﹁ん? な、何の事かなぁ?﹂
528
だがこの少女は頑固にも否認をするつもりのようだった。しかし
後ろ暗い事があるのか、アイアンクローで顔を強制的にこっちに向
けているにもかかわらず、眼鏡の奥の瞳を逸らして視線を合わせよ
うとはしない。
むう、心証と状況証拠で絶対的に黒なのだが断固として否定する
つもりか。よし、では証言で止めを刺そうか。
﹁納豆を差し入れにきた人に尋ねたら、真が﹁差し入れは納豆がい
いよ﹂って力説してたって話を⋮⋮﹂
﹁そ、それは誤解だよ!﹂
徐々に強まる握力から逃れようとじたばたしながら真は抗議する。
﹁何が誤解なんだ?﹂
俺の質問に﹁とにかく手を離してー!﹂と真は嘆願する。掌の陰
から覗く瞳にはレンズ越しにもうっすらと涙が浮かんでいるようだ。
まずい、うっかり力を入れすぎたか? ﹁す、すまん。そんなに力を入れたつもりじゃなかったんだが﹂
﹁メチャクチャ痛かったよ! 具体的には藁人形三号君に自分の髪
を入れて釘を試し打ちした時ぐらいに!﹂
﹁え? いや悪かったのは確かだが、今回もその藁人形の時も頭が
痛くなったのは気のせいなんじゃないのか?﹂
謝る俺に、うずくまって頭を押さえ﹁うーうー、今度アシカの髪
を三号君に⋮⋮﹂と涙目で見上げる真がぷいっと頬を膨らませて横
を向く。そのままの姿勢で﹁ん、痛かったんだからね、本当に。ま
ったくもうアシカは子供なんだから⋮⋮でも、もらった納豆を私に
貢いでくれるなら、今のは水に流してもいいよ﹂というのはたぶん
529
彼女からの和解勧告なのだろう。
﹁了解﹂
﹁ん、ならもう良いよ﹂
あっさり涙が引っ込んだ真は自分の髪の乱れを手櫛で直し﹁ん、
仲直り﹂と差し出された俺の右手をつかんで立ち上がる。え、今の
涙は本気で痛かったからなのか? それとも演技? 判断がつかな
い俺の右手を引っ張ったそのままで、手をつないで歩きだそうとす
る真に対して尋ね忘れていた質問を思い出した。
﹁あ、そういえばさっき誤解だって言ってたけど、あれはどういう
意味だ?﹂
﹁ん、私は﹁差し入れは納豆がいい﹂だなんて一言も言ってないよ。
ただ私がアシカに差し入れするのはいつも納豆だよって伝えただけ﹂
⋮⋮やっぱり元凶はこいつか。わざと誤解されるような言葉を使
いつつ、嘘はつかないという高等テクニックを使ってまで俺に何が
したいんだか。
﹁ん、どうして怒ってるのアシカ?﹂
﹁いや、もういいや。とにかくその俺に納豆を押しつけるのは止め
てくれ﹂
俺の言葉になぜか真は口を大きく開けて目まで見開いた驚愕の表
情を作る。
﹁ん? なんで? 私はアシカに納豆の素晴らしさを教えてあげた
いとか、余ったら私に貰えそうとしか思っていないのに!﹂
﹁⋮⋮思ってるのかよ。俺達は友達だろ、利用するのは止めてくれ
530
よ﹂
﹁んー、友達かぁ﹂
つないだ手と反対の右の拳を顎に当てて考え込む真に、もう一歩
で彼女の納豆の押し売りを止められるかもと希望を抱く。
﹁いや、親友で幼馴染みだったな。とにかく困ってるんだから止め
てくれよ﹂
﹁ん、なら仕方ないね。皆には私から話をしておくよ!﹂
機嫌が直ったのかつないだ手を大きく振って、ハミングしながら
俺を引き連れる真に﹁なんで面倒がないように前回と同じ中学を選
んだのに、厄介事が増えている気がするんだろう﹂と首を傾げてし
まった。
◇ ◇ ◇
﹁ただいまー﹂
真と手をつないだままの下校を強制され、ようやく安息の地であ
る自宅へとたどり着いた。ふう、代表に選ばれたからって学校でも
気を緩められなくなるのは困る。もう少し交友範囲を広げるべきか
? しかし時間が⋮⋮。
そんな悩みに頭を捻っていると、母が﹁はい、お帰りなさい﹂と
出迎えてくれる。
そのエプロン姿と香ばしく甘い香りがお菓子を作っていたと告げ
ているな。クッキーかなにかだろうが、母の作ったお菓子には外れ
がないから安心できる。
531
はやてる
﹁おやつを作っていたの?﹂
﹁ええ、速輝が代表に入ったお祝いにね﹂
﹁そりゃ感激。今日一番嬉しいプレゼントだよ﹂
少なくとも学校でもらったねばねばする大豆の発酵食品は俺にと
ってはプレゼントではない。あれ、断りきれなかった分は真に押し
つけてきたが、ちゃんと無駄にならないよう処分してくれるよな。
﹁あ、それとパスポートはちゃんと間に合うそうよ﹂ ﹁やった、これで安心して練習に専念できる。ありがとう母さん、
助かったよ﹂
代表戦では海外の試合も多い。第二ラウンドまでの間にパスポー
トも準備ができてラッキーだった。ホームではスタメンだがアウェ
ーになったら日本国内から応援するだけになり、その理由がパスポ
ートを持ってないからってのは寂しいからな。
﹁それと⋮⋮﹂
柔らかな笑みからどこか浮かない表情に変えて、リビングの隅に
置いてある段ボールを指さす。
﹁あんなのが届いたんだけど。速輝は誰かに恨まれたりしてないわ
よね?﹂
その震える指先の先である段ボールをのぞき込むと、九十センチ
ほどの藁人形が入っていた。またこいつかよ! 思わず額を押さえ
て頭痛を防ぐ。これは間違いなく﹁藁人形二号君、二歳児サイズ﹂
だ。等身大よりもお求めやすい価格になっておりますと、真の家で
チラシを見せられた事がある。
532
たぶんこれは真のデマを信じた誰かが、お祝いのつもりで贈って
きてくれたんだろう。その証拠に藁人形のお腹の辺りに大きく﹁祝
!﹂と書いた紙が貼ってある。
だが、この状況下ではどうしても﹁呪﹂と誤読してしまうぞ。
どこか不安げな母の様子に家でだけは休ませてほしいと思いつつ
も、これは一応お祝いのつもりなんだろうと母を安心させるために
面倒な説明をし始めた。
533
第六話 新たな仲間と顔合わせをしよう
﹁それでは、今回新たに我がアンダー十五の日本代表に加わった五
人を紹介しよう。まずはFWの上杉だ。お前達も知ってるんじゃな
いか? 今年の全国中学選手権の得点王だからな。
それにMFの三人は、年齢順に山下・明智・足利だ。こいつらも
全国の常連だから、よく小学生時代やユースで対戦したことがある
はずだよな。そして最後にサイドバックの島津だ。こいつも全国中
学選手権でDFのくせに試合中にウイングより攻め上がっていたの
が随分と話題になってたから覚えているだろう。この五人を加えて、
ようやく新しい代表チームが誕生した。
今度のアンダー十五の世界大会まで練習する期間は少ないが、ジ
ュニアユースや部活動は最大限の協力を約束してくれている。その
好意を無駄にしないためにも是非とも優秀な成績を︱︱もっとはっ
きり言うと優勝を狙わなければならない。
皆、これからは俺達は世界大会で優勝するんだと、その事を常に
念頭に置いて練習するように﹂
山形監督の檄に返ってきたのは戸惑ったようなややばらついた返
事だった。山形監督は髭面のその無骨な顔が微かに眉をひそめたよ
うだが、すぐになんでもないような表情をとりもどして﹁それじゃ
ウォーミングアップを始めてくれ﹂と指示を出す。
紹介される際に俺達新入りが五人が並んで前に整列していた場所
から、見本となるアップをするコーチと入れ替わるように代表チー
ムの中に混ざる。
すれ違う中には小さく手を振ってくれる選手もいたが、ほとんど
534
はこっちに視線を合わせて軽く頷くぐらいの反応だ。
代表の練習のやり方など俺や山下先輩は小学生以来で、どんな手
順だったかもう完全に忘れてしまっていた。コーチのやるアップの
仕方をジュニアユースと異なっていないか注意深く見つめながら、
自分の肉体に少しずつ熱を入れていく。
ふと気がつくと、さっき呼ばれた新加入の五人だけが見本のコー
チを見つめて体を動かしている。今回加わったメンバー以外はほと
んどコーチを見る事もなく黙々とアップをしているから、新メンバ
ーは俺も含めて皆代表に不慣れなんだな。
場に慣れていないのが俺達だけじゃないのが判ると、肩の無駄な
力が抜けるぐらいに気が楽になった。前回の合宿の時以来、明智も
代表には呼ばれていないようだし、他の二人も紹介を聞く限りでは
初参加らしいしな。
まあ、前の監督はチームメンバーをほぼ固定していたからなぁ⋮
⋮。
とりあえず新入り同士でコミュニケーションをとろうかと、アッ
プが終わると監督とコーチが話し合っている間のちょっとした空き
時間を利用して話しかける。
あしかが はやてる
﹁さっき監督が紹介したと思うけれど、足利 速輝です。一番年下
なんでアシカって呼んでください、これからよろしく﹂
最年少としての謙虚さとできるだけフレンドリーな笑顔をと心が
けたのが良かったのか、どこか胡散臭そうな顔つきであったが新参
メンバーは皆が挨拶を返してくれた。
ジュニアユースか中学のサッカー部で活躍していたのだろうが、
明智以外はほとんど接点がないので手探りで会話を構築する。
535
まずはいかにもプライドが高そうなやんちゃ坊主風のFWの上杉
からだ。確か全中の得点王というのだから、ユース出身ではなく中
学校のサッカー部からの選出だよな。
少し長めの茶髪を逆立てているのはファッションなのだろうが、
一見した俺の感想は﹁ガタイのいいヤンキー風の兄ちゃん﹂だ。
その強面の兄ちゃんに話しかける。
﹁俺が小学生の時には対戦した経験がありませんが、上杉さんはい
つからサッカー始めたんですか?﹂
﹁あん? 中学入ってからや。まだ二年とちょいか﹂
⋮⋮え? サッカー歴二年で得点王になったのか? 気がつくと
俺だけでなく、新参組みに加えてこれまでの代表に参加していた人
まで興味深そうに俺達の会話に耳を傾けている。
﹁たった二年でよく得点王になれましたねぇ。凄い才能があったの
か、それとも凄い努力をしたとか﹂
俺の疑問に山下先輩がいる辺りから﹁お前が言うな﹂というボヤ
キが聞こえたようだが、ここは無視しておく。
﹁はあ? よう聞かれるけど、点取るのに何の才能がいるっちゅー
んじゃ。キーパーが守っとらんとこに玉蹴ったらええだけやないか﹂
﹁⋮⋮え? それだけ?﹂
﹁ワイはそれしか教わっとらんし、それだけしかせぇへんよ﹂
面倒げに答える上杉だが、そんなに簡単なはずがない。決定力不
足とは日本のみならず、世界でもよく嘆かれるキーワードの一つだ。
それが二年程度の練習で身に付いたのなら世界を狙えるクラスの天
才ではないか。
536
そんな奴は俺の前世知識には存在しないぞ。
﹁じゃあ、二年前には何にもしていなかったんですか?﹂
﹁何や根ほり葉ほりよう聞くなぁ。お前は探偵か?﹂
﹁いえ、ただちょっと俺はシュートが下手なんで、どうやれば得点
力がつくのか参考までに⋮⋮﹂
﹁むー、まあええやろ。年下相手にムキになるのもアホらしいしな。
元々ワイはボクシングをやってたんや。まあ小学生やからほとんど
遊びみたいなもんやけど、たまにグローブとヘッドギアつけて殴り
合うのが大好きでな。
ジムの会長さんもお前才能あるでと褒めてくれよったんやけどなぁ﹂
彼は口をへの字形に歪めて左の拳を掲げて見せると、そこには時
間が経過したはずなのにまだ生々しい傷痕とそれを縫合した痕跡が
残っている。
﹁事故でこの拳を怪我で壊してしもうて、もうボクシングは無理な
んや。そん時にうちの監督さんにサッカーせぇへんか誘われて、そ
れからや﹂
﹁はあ、なるほど﹂
予想以上に重い話を聞いて、雰囲気に押されるように頷く。そう
か、拳の怪我でボクシングを断念してサッカーに転向したのか⋮⋮。
﹁いや、おかしいだろ。ボクシングとサッカーは関係ないよ、どち
らかっていうと手と足でする真逆のスポーツだよ!﹂
思わず敬語を忘れて突っ込んだ俺は悪くないだろう。周りの人も
上杉の話に聞き入っていたのが我に返ったように﹁確かに﹂と同意
している。
537
﹁おお、ナイス突っ込みや。お前漫才の素質あるで﹂
﹁あ、それはどうも⋮⋮ってだから、ボクシングとサッカーは関係
ないですよね?﹂
﹁まあ、関係ないわな。監督さんも最初はサッカーのセンスあるな
し以前に、ワイをほっといたら何するか判らんでマズイ思うて誘っ
たらしいわ。けど一遍やってみたら練習試合とはいえ一人で五点取
って、それからずっとチームのエースや﹂
﹁はあ、結局関係なかったんですねボクシングは﹂
﹁そうでもないで﹂
上杉は片方の唇をつり上げて笑みを見せる。少し不良っぽい外見
と相まって、危険な肉食獣の気配が漂う。
﹁サッカーもボクシングもワイからすれば、大して変わらへん。相
手をぼこぼこにすればええだけや、直接殴れんぶんこっちのが面倒
やけどな。そん代わりに相手DFも別に気にせんでええし、相手か
らいきなり殴られたりするよりずっと気は楽やな。なんで他のFW
が敵に遠慮してワイみたいに点を取らんのか、こっちが不思議なく
らいや﹂
⋮⋮なるほど、大体判ってきた。天性の得点センスと格闘技をや
っていた闘争心と強心臓が、怖いもの知らずで異形の点取り屋を産
んだのか。
前世では上杉などのストライカーはいなかったはずだから、どこ
でどうバタフライエフェクトが起こってこいつがここにいるのかも
判らない。俺のどんな動きが引き金となってこいつがサッカーをす
るはめになったのだろうか?
前回は上杉が事故で怪我せずボクシングをしていたのかもしれな
いし、事故で命を失っていたかもしれない。それは今ここで考えて
538
も判る事じゃない。という事はこれは余計な思考だな、うん、上杉
のサッカーに関わるきっかけについては考えるのはもうよそう。今
大事なのはこいつが使えるかどうかだ。
サッカーを初めて二年で得点王になる決定力というのはどうにも
理解がしがたいが、これ以上は実際にプレイしてみないと判断でき
ないな。
そうとなれば残りの島津にもバックグラウンドを尋ねておこう。
﹁島津さんは、いきなり空気を読まずに重い過去を語りだした上杉
さんに匹敵するようなエピソードはお持ちで?﹂
﹁いや⋮⋮他言するような事はないな﹂
誰が空気読めん奴やと気色ばる上杉をなだめるように、坊主頭の
島津は手で彼を押さえつつ言葉を続ける。
﹁DFのくせに攻め上がるプレイスタイルは、尊敬するサイドバッ
クがそういうタイプだったからだ。俺と同年代のサイドバックには
そういった奴らが結構多いだろう﹂
ああ、特にブラジルなんかは下手なウイングより攻める、悪魔の
左足を持ったフリーキックの得意なサイドバックが有名だったよな。
そういえばこの代表では俺より身長が低いのはこの島津ぐらいだし、
同じように体格に恵まれなかったあの名サイドバックと似たプレイ
スタイルになったのかもしれない。なら良かった、この人は割と常
識人のようだ。
﹁特徴を強いて上げるとすれば、サイドバックの俺がチームの得点
王となったぐらいか﹂
﹁それ普通じゃないよ、かなり変だよ!﹂
539
安心していた所に告げられた台詞にまたもや突っ込んでしまった。
大体チームで一番点を取るのはFWである。まあ譲歩してもMFの
中でも攻撃的なポジションについている者ぐらいまでだろう。サイ
ドバックのくせにチームで最も点を取るなんて聞いたことがない。
島津は常識的だと考えていた俺が馬鹿みたいじゃないか。
とにかく新たなメンバーはかなり特殊な面々らしい。
﹁それで、アシカ⋮⋮ってゆーたよな。他人にばかり聞いとらんで
自分の事も話さんか﹂
﹁ええっと、話せって言われても。僕はごく普通のボランチですし﹂
俺の言葉になぜか山下先輩や明智に周りにいた代表の選手までも
が、口を揃えて突っ込んでいた。
﹁嘘をつくな!﹂
と。
え? 嘘はついてないつもりなんだけどなぁ。ああ、そうか。こ
れを付け加えるべきだったんだな。
﹁こほん。すいません、訂正します。
僕は将来世界最高の選手になる以外は普通のボランチです﹂
これでいいだろう。声を合わせて突っ込んだ後は、胡乱な目で俺
を眺めていた山下先輩が﹁けっ﹂と小声を出して手を挙げた。
﹁あー、じゃあ便乗して俺も言っておくわ。俺も将来世界最高の選
手になる以外は普通のMFだ﹂
540
続けて明智までもが挙手する。
﹁この流れには逆らえないっすね。僕も将来世界最高の選手になる
以外は普通のボランチっす﹂
⋮⋮何、この居心地の悪い雰囲気は。周りの代表メンバーも﹁世
界最高を宣言する奴が三人も⋮⋮﹂とか﹁こいつら本当に大丈夫か
?﹂といったひそひそ話をしている。さっきまで仲間の雰囲気をま
とっていた上杉に島津までが、どこか一歩引いた様子でこっちを伺
っている。
監督なんか遠くで﹁なんでこんな問題児ばっかりが﹂と胃の辺り
を押さえているじゃないか。
ま、まあ言っちゃったものは仕方がない。ならこれからはそれを
嘘にしないように努力するだけだな。
こうして代表に初選出された全員がおそらく﹁今回加入した五人
の中でまともなのは自分だけだ﹂と考えたであろう顔合わせは幕を
閉じた。
541
第七話 十一を分割するだけなのに難しいね
山形監督が顔をしかめて腹をしきりと撫でながら代表メンバーを
集める。どうやらこれからの基本方針を話すらしい。これは気合い
を入れて聞いて、きっちり理解しなければ。監督がどんなサッカー
を目指してどんな戦術を使うのか、頭に入れておけば練習効率が段
違いになるからな。
こほん、と咳払いをした山形監督は胃の辺りに添えていた手を後
ろに回し、胸を張ってその髭面で俺達を見据える。
﹁まず最初に言っておくのは、このチームは二ヶ月後のアジア予選
第二ラウンドとその後の世界大会に勝つために作られたチームだと
いうことだ。当然ながらアジア予選で敗退したらこのチームは即解
散して、俺は首になる。お前らもきっと谷間どころかどん底の世代
と笑われるぞ。それが嫌なら勝て! 勝つために俺はお前らを集め
たんだ﹂
眼光鋭く俺達に置かれた状況の危うさを訴えかける。その表情は
真摯でとても嘘を言っているようではないので、たぶん彼の首がか
かっているのは本当なのだろう。それを今話して子供にプレッシャ
ーをかけるのはどうよという気もするが、秘密主義でどこか閉塞感
のあった前の代表監督よりはまだましかな。
おっと熱の入った監督の話が具体策に入ったようだ。
﹁このチームは熟成させるだけの時間がないから、基本となるフォ
ーメーションと戦術にレギュラーを決めた後は、練習試合を多くこ
なして細かい修正をしながら急ピッチで仕上げていくぞ。だから疑
問があればすぐに俺なりコーチなりに質問しろ。迷いを持ったまま
542
プレイしても何も頭に入らないからな。判ったか?﹂
﹁はい!﹂
皆が真剣な表情で答える。
﹁じゃあまずは基本フォーメーションからだ。予選の第一次ラウン
ドは深刻な得点力不足に陥っていたな、それを解消するために思い
切った変更を加えるぞ。現行の三・五・二から四・三・三への移行
だ﹂
﹁ちょっと待ってください! 時間がないのにスリーバックからフ
ォーバックへ変更するんですか? 守備のシステムが一からやり直
しじゃないですか!﹂
いきなりの大幅な転換に顔色を青くして抗議の叫びを上げたのは、
キャプテンマークを巻いたDFだ。名前は⋮⋮確か、えーと、誰だ
ったっけ? とにかくそいつの抗議も当然と言えるだろう。
今までやっていた三・五・二というのはDFが三人でMFが五人
それにFWが二人というスタイルだ。これをDF四人とMFを三人
にFWを三人にすると言うのはつまりチームのほぼ全てを入れ替え
ると言っても過言ではない。特に守備のリーダーである彼にとって
は、ディフェンスの考え方そのものが変わりかねないこのシステム
の変化は一大事だ。
﹁まあその懸念はもっともだが気にする必要がない。今、便宜的に
フォーバックとしただけで、実質はスリーバックになるのは間違い
ないからな。お前には今まで通りそのディフェンスラインの統率を
頼む﹂
﹁どういう意味ですか?﹂
尋ねる声は困惑に満ちている。うん、そうなるよな俺にも意味判
543
らないもん。
﹁島津を右のサイドバックに入れるという事だ﹂
周りから﹁おお﹂というどよめきが上がる。それには驚きだけで
はなく﹁ああ、なるほど﹂といった成分も含まれている。どうやら
﹁島津がDFに入る﹂という説明だけで、四人のはずのDFが実質
三人になるのを皆が納得したようだ。どんだけ攻め上がってるんだ
よ、あいつは。
その指名された島津はすました表情は変わらないが、頬がわずか
に紅潮し唇が軽くつり上がった。
﹁承知した﹂
答える声も凛として迷いなどどこにも感じ取れない。だがその佇
まいからいきなりレギュラーに抜粋された事への喜びと覇気が発散
されている。ちぇっ、いいなぁ。
﹁それで、話しの途中だったが良い機会だから俺の考えている基本
的なスタメンを発表しておくか﹂
そう言って監督から名前が告げられていくうちにざわめきは大き
くなっていった。なにしろ今回初選出された俺達五名の名が全部入
っていたからだ。
島津はさっき言ったように右のサイドバック。上杉はセンターフ
ォワードで俺と明智はボランチより少しだけ前目のポジションで、
センターハーフという攻守の軸となるチームのど真ん中のMFのポ
ジションだ。そして山下先輩はトップ下ではなくFWとして右のウ
イングだと発表された。
544
このチームのMFが少なく三人で逆三角形の陣形をとると、三人
とも守備ができるのは前提となる。だから守備をあまりしない山下
先輩はFWにコンバートされたんだろう。先輩ならシュート能力は
高い上ドリブルは得意だし、ウイングの適性も高いはずなので悪く
ないと思う。
俺にしてみればほんの少しだけボランチより守備の負担は軽くな
り、ちょっと攻撃的になれる。まあ今までがボランチとしては前へ
出過ぎと言う苦情もあったから、逆にここがベストのポジションか
もしれない。
しかし、FWを三枚のスリートップに、﹁ウイング以上に攻撃的
なサイドバック﹂の島津まで加えるとはどこまで攻撃的なチームを
作るつもりなんだこの監督は。この布陣はどうしても一点が欲しい
場合のオプションならともかく、普通は基本のフォーメーションに
はしないぞ。
よほど一次ラウンドでは深刻な得点不足に悩んだんだろうな。ま
あ、アジア予選では日本は強国としてマークされているから、どう
しても相手は引いて自陣を固めて守る引き分け狙いの作戦をとって
くる場合が多い。それを打ち破るべく、より攻撃的にして失点のリ
スクを高めてでも勝利をもぎ取ろうとする監督の執念がこの作戦か
ら如実に現れているようだ。
自分の定位置を失った元レギュラーの選手やトップ下から移され
た山下先輩などはぶつぶつ文句を言っているが、山形監督は構うつ
もりはないようだ。手を叩いて、とりあえずまずは試してみようか
と補欠組との練習試合を提案してきた。
監督は軽く言っているが、俺達にとってはこの練習試合の意味は
小さくない。ぽっと出の新加入組にポジションを奪われた元レギュ
ラーなどは、いい機会だとばかり自分達の力を誇示して俺達を潰そ
うとしてくるだろう。
545
だが、逆にここでいきなりいいプレイをしてみせれば、急造チー
ムでもこれだけできるのだからと、かなりの潜在能力を持っている
と認めさせられるはずだ。
俺は手を上げて監督に時間をもらう。
﹁監督、練習試合まで十分でいいですから打ち合わせをする時間を
ください﹂
﹁ああ、そのぐらいならいいぞ。さっきいったスタメン組と控え組
に分かれて準備しておけよ。控えの方も今まで通りのメンバーと戦
術なら、お互い良く知っているだろうから簡単に一チームを作れる
な?﹂
﹁ええ、俺達は問題ありません。むしろスタメンの方が新加入が多
くてまともなチームにならないんじゃないですか﹂
と控えに回ったメンバーからの強気な言葉には、俺達新レギュラ
ーに対する控えめな挑発が潜んでいる。でもこいつの言うのももっ
ともなんだよな。という訳で挑発はスルーして、さっさと新チーム
の皆と話し合いを始めよう。
﹁じゃ、手っとり早く話を進めるために俺が進行しますけど、それ
でいいですね? はい、反対なしと。それじゃあ、監督が言った通
りのポジションで何か問題がありますか?﹂
スタメンに選ばれた全員を﹁こっちだぞー﹂と集めると、俺は誰
にも口を挟ませない速度でさくさくと進めていく。
﹁フォーバックなのかスリーバックなのかはっきりして欲しい﹂
﹁そこん所はどうですか、たぶん一番の問題になる島津さん?﹂
代表のキャプテンで守備の統率者からの当然の疑問に島津は肩を
546
すくめた。
﹁オフサイドラインの上下には加わろう。それ以外の組織的ディフ
ェンスはするつもりがない﹂
﹁⋮⋮という事で、普段は高めのオフサイドラインを引いて島津さ
んが攻撃に上がったらスリーバックに変更と言うことで頑張ってく
ださい。そちらのDFの三人は前のチームから一緒だったからそれ
ぐらいできますよね?﹂
﹁君、アシカ君だっけ? 結構無茶言うなぁ﹂
﹁最終ラインの苦労は他人事ですから﹂
さらりと流して、次へと進む。
﹁じゃあキーパーさんは高めのラインに合わせて前目のポジション
をとってください。DFとの最終ブロックは変わっていないんです
から、何とかしてください﹂
﹁スイーパー兼用か、判ったぜ俺は結構足技が得意なんだ。任せろ
!﹂
﹁得意だからって、上がってこないでくださいよ﹂
念のための俺の釘差しに、キーパーは日焼けした顔をしかめる。
﹁キーパーが上がるわけないだろう。俺は島津じゃないぞ﹂
﹁すいません、小学生の頃チームに得点するのが好きなキーパーが
いたんで。確かにあいつや島津さんとは違う常識人みたいで助かり
ました。頼りにしてますよ﹂
﹁うん﹂
﹁先程から俺のことをさりげなく誹謗しているようだが﹂
﹁気のせいです﹂
547
ばっさりと島津の言葉を切り捨てて話しの流れを元に戻す。うん、
俺は嘘は言っていない。さりげなくなんてなかったからな。
﹁ええと、DFとキーパーが終わりましたから。次はMFというこ
とで、俺と明智さんがピッチ中央のセンターハーフの位置で左右に
並んでその後ろにボランチ︱︱というより守備専門のMFであるア
ンカー役が一人、と。俺と明智さんも守備は下手じゃないので守り
の負担は軽減できると思います。できますよね明智さん?﹂
﹁そりゃもちろんっすよ﹂
﹁俺も明智さんも体で止めるってタイプじゃないのでアンカーは忙
しくなると思います。でも俺達はバランス取りとパスカットはボラ
ンチをやってた頃から得意なので、それ以外の積極的なディフェン
スをアンカーには期待してます﹂
守りも任せろと力強く断言する明智は信用できるだろう。もう一
人のほぼ守備に専念してもらうアンカー役からも、その泥臭いが重
要な役割に対する文句はなさそうだ。
﹁ではFWですが、中央に上杉さんと左右にウイングがサイドで張
るスリートップですね。これは提案なんですが、通常のウイングみ
たいに左右からゴール前にセンタリングをあげるんじゃなくて、ゴ
ールへ切り込んでシュートまで行くのを第一目標にしてもらえませ
んかね﹂
﹁うん? どうしてだ?﹂
と疑問の声を右ウイングである山下先輩が上げる。
﹁山下先輩とは同じチームに所属していたから判っていますが、左
ウイングの方も純粋なウインガーではありませんよね。これまで代
表チームは二人のFWで戦術は中央突破でしたから、この手のサイ
548
ドからクロスを上げるタイプは需要がなかったんです。でもお二人
はドリブルが上手いので自分の力でサイドからゴール前まで行ける
ならフィニッシュまで行ってもらおうと﹂
﹁なるほどシュートが第一目標で、ゴール方向へのディフェンスが
堅ければ次善の手としてサイドを抉ってクロスを上げろと﹂
頷く左のウインガーも文句はなさそうだ。
﹁ええ、これは批判じゃないですがセンターフォワードの上杉さん
もさほど身長が高くありませんし、空中戦ではサブ組の大柄なDF
陣と争うのは厳しいでしょう。ですからFWは三人ともアシストす
るより自分でゴールするつもりでいてください。アシストは俺達が
引き受けますから。ねえ明智さん﹂
﹁了解っす﹂
﹁ほら、明智さんもこう言ってるし。任せてくださいよ﹂
そこで島津が再び手を上げる。
﹁俺はどの機で攻撃参加すればよい?﹂
﹁ああ、うーんと、好きにすればいいんじゃないですかね。山下先
輩は右サイドから内に切れ込んで行くはずですから、右のサイドラ
イン沿いはフリーになるはずです。オーバーラップしたいならスペ
ースはいくらでもあるでしょう。上がればタイミングを計って俺達
がパスを出しますから﹂
﹁承知した。では好きに上がらせてもらおうか﹂
この言葉の意味が、そして島津というDFはウイングより攻撃的
と言われる表現が嘘ではないと判ったのは試合開始直後の事だった。
﹁それでFWの三人と、それに後よく攻め上がるって聞く島津さん
549
はどのぐらい守備の負担をしてくれますかね?﹂
俺からの問いに対する各々の反応は以下に述べるが、名前を出さ
なくても誰がどう答えたか判る回答ばかりだった。
﹁そうだな、パスコースを切るのとDFのチェックぐらいならやる
よ﹂
﹁え、今までそういうのはアシカに任せてたしなぁ。今回も頼むぞ﹂
﹁守備が不得手だから俺はオーバーラップを繰り返している﹂
﹁守備? なんやそれ美味いんか?﹂
⋮⋮こいつらって、もうどこから突っ込めばいいんだ。モダンサ
ッカーの基本でもある最前線からのプレスなど夢のまた夢だな、こ
りゃ。俺のため息と監督の﹁よーし十分経ったぞー!﹂との声が重
なる。もう時間がないからこれでいくしかないのだが、激しく不安
だな。
こうしておそろしく適当な作戦方針と攻撃に偏重したチームの話
し合いは時間によって打ち切られた。
この後にたぶん代表の誰もが思い出したくもなく、山形監督に尋
ねても﹁あの練習試合は必要だったんだ。いや、でもやらないです
むならやらなかった方が、ああ、思い出しただけで胃が痛む﹂と言
わしめたゲームである。
その場にいた者達全てに口止めがされたにも関わらず、なぜか後
々まで語り草となったある意味伝説の練習試合が今開始されたのだ
った。
550
第八話 このチームならばやれるはずだ、たぶん。
新しくスタメンに指名された俺達赤組の先攻で、練習試合開始の
ホイッスルが鳴る。
さてどうするか、少しだけ頭を悩ませる。今伝えられたフォーメ
ーションと顔を合わせたばかりのメンバーでいきなりの実戦に放り
込まれたのだ。これではチームが組織としてまともに機能する方が
おかしいとさえ言えるだろう。
それでもここである程度の力を見せなければ、このメンバーと戦
術をベースにして戦おうという監督の基本方針まで崩れてしまうか
もしれない。特に新入りでいきなりスタメンを与えられた俺達は、
他のチームメイトからさえも新監督の山形のお気に入りとでも思わ
れているようだからな。
この試合でいいパフォーマンスを見せる事ができなければ、メン
バー選考がただの監督好みかどうかだけだと思われて、スタメン落
ちしたメンバーに対する監督の求心力までもが失われてしまいかね
ない。
だから、これはただの練習試合と甘く見ずに全力で勝ちにいく必
要があるな。
要は試合でベストを尽くせという事か︱︱なんだいつもやってい
るのと同じじゃないか。
すっと肩の力が抜けた時にセンターサークルにいるFWの上杉か
らボールが下げられた。
所属するチームをはっきりさせる為に渡された赤いビブスをトレ
ーニングウェアの上につけた俺は、パスを受けつつピッチ上全体を
把握する鳥の目を使って、天からの視点で相手の陣形を確認した。
うん、予想通り敵のフォーメーションは典型的な三・五・二だな。
551
前監督の採用していた中盤を厚くしたオーソドックスな⋮⋮あれ?
俺が疑問に感じたのは敵の布陣ではない。味方の配置である。
具体的には右のサイドバックのポジション取りがおかしい。
一つお伺いしたいのですが、キックオフ直後の場面なのになぜ右
サイドバックの島津様は、すでに味方のFWを追い越すどころか敵
陣の守備の最終ライン近くまで到達していらっしゃるのでしょうか
? 笛が鳴ったのを短距離走のスタートの合図とでも間違われたの
でしょうか? 始まりの笛の音に合わせてダッシュしなければこん
な短時間でそこに行けませんよね? 一瞬でこれだけ島津に問いただしたい事が大量に、しかもなぜだ
か敬語で頭を巡る。だが、それはとりあえず後回しにしてノーマー
クの︱︱そりゃそうだ、残り時間僅かでリードされた状態ならとも
かく試合開始の直後に敵のDFがいきなりオーバーラップしてきた
ら敵も困惑するだろう︱︱の島津にパスを出してお手並み拝見とい
きましょうか。
キックオフされたばかりで三人のFWがまだセンターサークル付
近にいるにも関わらず、右サイドの敵陣深くにロングキックを放っ
た俺の行動は一瞬両チームの誰にも意味が判らないようだった。ま
るで敵に攻められた時の苦し紛れのクリアのような行動だったから
だ。
だが俺からのパスの先になぜか存在している赤いビブスの選手を
発見した途端に、ピッチ上はいきなり騒々しくなった。
開始十秒ですでに敵である白組のDFラインが破られようとして
いるのだ。敵もそしてはっきり言って味方もまだ状況に思考が追い
ついていない。
こうなったちょっとした混乱時に個々人の持っている資質が現れ
るな。
552
白組は組織だった守備をしているだけに勝手に動こうとはせずに、
DFがお互いに声をかけ合ってチームとしての意志統一を果たすに
はほんの二・三秒ほど余計な時間がかかった。
こちらのチームは対照的だ。なにしろ赤組にはチャンスがあれば
攻め上がりたがる奴らが揃っているのだ。
相手が戸惑っているのなら勝手に体がゴール前に進むような突撃
思考の連中がじっとしているはずもない。
敵の守備が混乱から回復するまでの二・三秒という猶予は、こっ
ちの赤いビブスをまとった攻撃好き達が敵陣に突入するには充分な
間隙である。
そう解説できるのは、いつの間にかうちが誇るスリートップの全
員が敵ゴール前に集結しているからだ。味方で視界の広い俺でさえ
﹁いつの間に?﹂と驚くような速度で走り込んできたうちの三人の
FWに敵DFも焦ったらしく、急いでペナルティエリアにまで下が
ってきた。だが、さすがにぴったりと付く事はできずにまだマーク
が甘い。
これならゴール前にセンタリングが上がればフィニッシュまで持
って行ける。島津、できれば大柄なDFと空中戦で競り合うよりも、
速くて低い触ってコースを変えればゴールになるようなボールを頼
む。
そう応援しながらも敵のカウンターとボールがこぼれた場合に備
え、アイコンタクトのみで赤組MFの俺達三人は各々が前線の空け
たスペースの補充に動く。
ゴール前には手を上げて自分へ寄越せとパスを要求する赤組FW
陣とクロスを警戒し緊張する白組のDF。だが島津の積極性は俺の
想像の斜め上をいった。
サイドを深く抉った角度のない所から強引なミドルシュートを撃
ってきたのだ。
553
ペナルティエリア付近に味方FWが三人に、それを止めようとす
る敵DFでごった返しているスペースのない中へ向かっての、道が
ないならどかすだけと言いたげな無理やりなパワーシュートだ。
俺ならば絶対に撃たずにパスを選ぶ。いや撃たないのではなく撃
てやしない。こんな確率の低いギャンブルなど。
驚愕する俺の目の前で島津の放った弾丸のようなミドルシュート
は、DFの肩に当たって上空へと跳ねた。シュートをまともにくら
ったDFはまるで上半身を銃撃されたように吹き飛ばされて、芝の
上に倒れては咳き込んでいる。どれだけの威力があったんだあのミ
ドルは。
その跳ね上がったボールに一番早く反応したのは、さすがと言う
べきか生粋のストライカーである上杉だ。
ペナルティエリア内のマークがついている狭いスペースから弾か
れたようにボールの落下点へと最短距離をダッシュして、まだ地面
に落ちる前に体を反転させつつボレーシュートを放つ。
自分が走ってきた方向への百八十度向きを変えながらのシュート。
それも全力のダッシュから急停止をしながらというのは慣性を殺し
つつ背後にある目で確認できないゴールへ撃つ事になるために、ボ
ールを枠内へとコントロールするには高い技術が必要だ。
その技をこのチャラいヤンキー風の上杉は、腕を強く振る動作だ
けで体のバランスを保って難なくやってのけたのだ。
苦しい体勢からとは思えないほどの強烈なシュートはラインを上
げようとしていたDF達の間を抜け、キーパーが反応する間もなく
ゴール左隅へと叩き込まれていた。
開始一分足らずの速攻からのゴールに、得点された白組からはあ
っけにとられたような白けた空気が流れている。
その春なのに寒い空気を破ったのは上杉の野太い雄叫びだった。
決めたゴールと守備陣を睨みつけながら胸を張ると、首に筋と血
554
管が浮かぶほど力を込めた叫びを上げていた。その姿はまさに野獣。
得点を決めたにもかかわらず、あまりの迫力に味方である俺達の誰
も近づいていけない。
こんな時こそ精神年齢が大人である、空気を読まない振りもでき
る俺の出番だよな。
﹁ナイスシュートだ! 上杉さん!﹂
明るい祝福の言葉とともに背筋が盛り上がった背中を思い切り叩
く。うむ、良い手応えと破裂音のような高い音が響いた。これなら
ば、さぞや立派な紅葉が背中についたことだろう。叫んでいる最中
に背中に衝撃があったせいか、急にむせ始めた上杉がちょっこっと
涙目になって睨む対象を敵ゴールから俺へと移す。こんな表情だと
年相応の幼さが伺えて、ちょっとだけワイルドなこいつが可愛く見
えるな。
﹁いきなり何すんねん﹂
上杉のその目にはすでにさっきまでの迫力はない。雰囲気が変わ
ったのを察してか他のチームメイトも寄ってきては、楽しそうに彼
の肩や背中をぺちぺちと叩いていく。
特に山下先輩などはどこか悔しそうに一回叩いた後で、スーパー
のお一人様一品のみの特売品を素知らぬ顔で二度並ぶ主婦のように
時間をおいてもう一度背中にアタックしていた。
やられている上杉の方は、俺を睨もうと向き直った背後からどん
どん叩かれているくせに、痛みではなく戸惑った表情になっている。
その様子はまるで子猫にじゃれ付かれて困惑する虎といった風情だ。
微妙に動いている口元は﹁ワイのチームでさえこんな事されへんの
に⋮⋮﹂と鬱陶しいくせに嬉しそうな複雑な表情で呟いている。
555
よし! そんな様子を眺めながら俺は胸の中では上杉よりも派手
にガッツポーズを取っていた。このチームは攻撃に傾きすぎるきら
いはあるが、個人の得点力だけなら世界でも通用しそうだ。
正直俺からすれば最も協力が必要な部分である決定力を補ってく
れる選手の目途がついてほっとした。小学生時代からすれば格段に
向上はしているのだが、それでもまだ俺よりも山下先輩などの方が
よく得点してくれる。これはポジションだけでなく性格も絡んでく
る問題だと思う。
確率の低い所からでもばんばんシュートを撃てるようなメンタリ
ティは俺にはない。常に確率の高い所へとボールを動かそうとして
しまうからだ。これはもっと得点力のある選手に成長するためにも
矯正中だが、そうそう直るものでもない。それにボランチの奴が確
率の低い場所から無意味にシュートを撃ちまくる訳にもいかないし、
バランスを考えるとどうしてもアシストを重視するスタイルになっ
てしまっている。
そんな俺からすれば密集したゴールに強引にシュートを撃った島
津、難しい体勢からのボレーを迷わなかった上杉とどちらも理解し
がたい人種ではある。だが同時に心強い仲間であることも確かだ。
これならいける。山形監督は間違っていないぞ。このチームの攻
撃力ならば世界とも戦えるだけのポテンシャルを秘めている。
手応えを感じた俺の唇には、たぶんいつものボールをパスされた
時のような笑みが浮かんでいるだろう。
そして世界と渡り合える戦力だと確信した俺達の赤チームは、前
半を終えた時点で一対三と相手の白組にリードを許していた。
556
第九話 ロドリゲスは思う、アシカ君は前監督の嫌うタイプだと
ハーフタイム中、俺達赤チームはお互いに責任を押し付け合って
怒鳴り合っていた。
本来ならばもっと冷静に守備の組織の修正点や、攻撃におけるお
互いの意識のすり合わせなどやることはいくらでもあるのだがあま
りにも不甲斐ない結果に皆の頭に血が上っていたのだ。
﹁いいから、お前らはワイにボールをパスすりゃいいんや! そう
すりゃ点とったるさかい﹂
﹁島津が戻らないのにDFラインなんて作れるわけないだろう、ど
うやって守備しろって言うんだ!﹂
﹁アシカはなんでもっと俺にボールを出さない?﹂
﹁それよりなぜ俺が攻め上がった際にパスが来ない理由を伺いたい。
不本意だ﹂
自分のことは棚に上げて全員が好き勝手にわめいているのに、つ
いいらっとした俺もつい大きく息を吸って思いのたけを吐き出して
しまう。
﹁上杉さんは前半だけでシュート八本も撃ってますよね、まだ欲し
いんですか、このトリガーハッピーめ。あんたにだけマークが集中
しているんだから、引きつけてパスとか周りを生かしてくださいよ。
DFも島津さんが戻ってくるのを当てにするなんて、宝くじの当選
を期待して家計組むようなもんですよ、彼はお守りぐらいに思って
もっと真剣にディフェンスしてください。
山下先輩も俺は何度もあんたにパスしましたよね? 忘れちゃい
ましたか? お爺ちゃんご飯はさっき食べたばかりでしょうって言
557
ってほしいんですかね。島津さんも攻め上がった際って、いったい
何回目の事ですか。あんたもずっと最前線にいて、敵のマークが寄
ってきたらDFのポジションに下がるって行動はおかしいと思わな
いんですか? 自陣より敵陣のペナルティエリアの滞在時間が長い
サイドバックって初めて見ましたよ。 ふー、ああ今日はいい天気だなぁ。そういえば今日のお昼ご飯は
なんだっけな﹂
息が続く限り突っ込み、最後にもう議論を放棄したような台詞が
俺の今の心境を物語っている。一息ついてスポーツドリンクを口に
するが、そのドリンクどころか炭酸飲料よりも考えが甘かった。ま
さかこれほどまでにメンバーのまとまりが悪いとは思っていなかっ
たのだ。
この選手構成とスリートップという布陣ではどうしても攻撃的に
ならざる得ない。それはいいのだが、守備の綻びが大きすぎた。そ
れに元々組織的な守備という物は構築するまでにどうしても時間が
かかる物だ。
極端な話、攻撃は一人で得点できる凄いFWがチームにやって来
てそれで点が取れるならそれでいい。だが守備は一人だけあるいは
DFの全てが優秀なDFだとしても組織として機能していなければ
失点は免れない。優秀なDFがいたとしてもマークできるのは一人
だけだからだ。それ以外のマークしていない人物や、オーバーラッ
プした人物にシュートを撃たれてしまってはどんな優秀なディフェ
ンスでも失点の可能性を排除できない。
もし無理にでも即効性のある守備を求めるのなら、それはDFを
五・六人も入れるほぼ攻撃を諦めて守りに人数をかける方法しかな
い。
なぜなら攻撃は数あるチャンスの一つでも決めれば得点だが、守
備はミスをすれば即失点になってしまう。
558
そしてミスを減らすというのは時間をかけて連携を高めて、戦術
の共通認識を全員で深めるしかないのだ。
このチームは右サイドバックである島津がほぼ上がりっぱなしで
あるために、どうしても右肩上がりの陣形になる。そこを相手に集
中して突かれて、こちらの右サイドを深く抉るような突破からのセ
ンタリングを何度も繰り返されてゴールを割られてしまった。
正直な話、この三失点は痛いがそれほどショックではない。これ
までに述べたように守備には時間がかかるから、ある程度の失点は
覚悟していたからだ。
だが得点が開始直後のあの一点だけというのは納得がいかない。
この原因を一言でまとめるなら、FWの連携が悪いせいだ。
皆が自分で得点しようとしすぎるのだ。野球でいえば全員がホー
ムランしか狙っていないような荒い攻撃で、自分を殺した送りバン
ドのような囮になるプレイは全くない。あ、駄目だまたむかむかし
てきた。
﹁お前らFWもちっとは協力し合えよ! 前半だけでシュート総数
二十本一ゴールって効率悪すぎだろうが! みんなシュートばっか
り撃ちやがって、パス出すのは俺や明智より後ろの奴らだけじゃな
いか。あ、島津もそうだな、なぜかいつも俺達より前にいるけれど。
とにかくお前らの頭には自分がゴールすることしか頭にないのかよ
!﹂
強引すぎるプレイでこれまでのチャンスを潰したシーンを思い出
しただけで腹が立つ。俺からの怒りのこもった珍しく敬語抜きの声
にチームメイトの話し合いが途切れる。
﹁当たり前やないか﹂
559
そんな張りつめた空気を屁とも感じていないのか、上杉は顔色一
つ変えないで言い放つ。こいつのふてぶてしさは本物だ。
﹁ワイの仕事は点を取ることだけや、ワイがハットトリックしても
試合に負けたなら、そら責任は他の奴らにあるっちゅう事やな﹂
﹁⋮⋮そうですか﹂
あまりに傍若無人な発言にかえって頭が冷えた。この男に周りの
事を考えろと言っても無駄だったか。こいつの異常な得点力をこっ
ちが利用する形にならないと、試合には勝てない。上杉は得点王に
なれてもチームを優勝させることはできないタイプのようだ。こい
つは得点させる作業に任せて他は俺達が請け負うしかない。
上杉とチームメイトになるならば孫悟空を使いこなす三蔵法師の
広い心が必要だな。そこである人物に思い当たった︱︱山下先輩の
一つ前の代の矢張のキャプテンだ。あの頃の俺や山下先輩をコント
ロールするのは小学生には厳しかっただろうなぁ。
よし、あのぐらいの寛容さと包容力を見せつけるんだ。深呼吸し
て無理やり精神を安定させる。
﹁では、上杉さんはもう攻撃︱︱それもシュートのみに専念してく
ださい。他の事は期待しませんから最低後二点、ハットトリックを
するつもりで﹂
﹁オッケーや。初めからそう言ってくれればいいのに﹂
何の疑問も持たずに自分がフィニッシュだけをやらせてもらうの
を当然の権利とする傲慢さ、それは日本のFWには欠けている部分
かもしれない。だがこいつはこいつで始末に困るほどのエゴイスト
だな。他の皆も呆れているようだが、お前らも他人の事は言えない
ぞ。
560
﹁上杉さんが最前線に出ずっぱりなら、守備が中央に集中しますか
らウイングの二人はサイドに目一杯広がって下さい。そして、片方
にボールが回ったらもう一人もゴール前に飛び込むって事で。あ、
山下先輩の右サイドは島津さんがよく上がりますから、その時もゴ
ール前へゴーです﹂
と大雑把な右が上がれば左はゴール前へ、左が上がれば右がゴー
ルへと約束を決めておく。これで少しはすっきりと攻められるし、
こぼれ球も拾えるだろう。
そして機能しなかったディフェンスには大鉈をふるってシステム
ごと取り換える。
﹁守備はもうスリーバックで固定してください。島津さんはDFに
はいないものと想定した守備陣形を。オフサイドがかけにくいなら、
もうFWをマンマークして最後尾に一人余らせたスイーパーシステ
ムでも構いません。キーパーもそれに応じて今の定位置から少し下
がるように。前へ出てルーズボールを処理するのはスイーパーに任
せて、自分はゴールにデンと待ち構えていてください。再三攻めら
れている右サイドの後ろは俺とアンカーがフォローします、これに
文句があるなら他の提案を今すぐ出してください。ありませんね?
じゃ、とりあえず後半はそうしましょうか﹂
と、お次は中盤だな。明智とアンカー役がなぜか神妙な面持ちで
俺の様子を伺っている。いや、年下にそんな畏まらんでもいいだろ
うが。そうも思うが今のこの状況では好都合である事も確かだ。
﹁中盤の守備ですが、前半は陣形をコンパクトにしようと意識しす
ぎて連携がぎこちなくなりましたね。DFもラインを上げなくしま
したからもういっそスペースを潰すのはアンカーにお任せしましょ
うか。それで俺達二人はパスカットとそれが無理なら相手の攻撃を
561
遅らせるのに絞ります。ざっくり分けてピッチの右半分は俺が受け
持ちますから、左は明智さんの分担という事で﹂
MFの二人も納得したようだ。
かなり適当にも思えるが、この案ならばミスしたのが誰の責任か
はっきり判る。普通のチームであれば全員が味方のミスをフォロー
しようと頑張るものだが、このチームにいるのは元々の代表レギュ
ラー達もアクの強い奴らばかりのようだ。他人にフォローしてもら
うのが死ぬほど嫌そうな、プライドがヒマラヤ山脈並みに高い連中
だと察したのだ。
ならばこの責任の所在をはっきりさせた戦術ならば、自分の所で
のミスだけはすまいと必死になるはず。
全員が自分の事だけに血道を上げるというのがチームゲームであ
るサッカーでいいのか判らんが、もうこうなったら俺を含めた﹁自
分はナンバーワンだ﹂というプライドに賭けるしかない。
幸いな事にこれまで毎朝のトレーニングを休まなかったおかげか、
もう俺にはスタミナ面では不安はない。試合の最後まで走れるだけ
の体力は充分に残っている。途中でバテてチームメイトの足を引っ
張るみっともないまねは晒さずにすむはずだ。
ピッチの外で何か言いたげな山形監督の視線を無視して、俺は個
々人の能力に頼るマンツーマンディフェンスとスリートップや島津
の突破力に依存する作戦に切り替えた。今更このチームに連帯感と
か持たせるのは無理だ、ならば好きにやらせてその尻拭いをするだ
けだ。最悪失敗してもあの監督の構想が拙かったというだけじゃな
いか、そう責任転嫁してプレッシャーを軽くする。あの監督が首に
なったからと言って俺には何もダメージは無いはずだ。
ぶるっと監督が震えて手を首に当てたような気がしたが、視界か
ら外してチームメイトを見つめる。
562
﹁それじゃ後半戦にいきましょうか。皆、全力を尽くしましょう﹂
﹁了解や、まあ点取るのは保証するで。それで勝てるどうかは他の
奴らしだいやけどな﹂
﹁オッケーっす。中盤の左は任せるっすよ。これ以上年下のアシカ
に良い格好はさせないっす﹂
﹁承知した。右サイドは俺が蹂躙させてもらおう﹂
﹁アシカのパスがいつもより少ないのがやはり負けている元凶だろ
う。遠慮せず一番信用できる先輩にパスを献上するがいい﹂
﹁⋮⋮君達、ちょっとは守りのことも考えて⋮⋮くれそうにないよ
ね、うん。アシカはよくこいつらに言うこときかせられるなぁ。猛
獣使いというよりは同類だからか﹂
﹁そのアシカは俺達DFへの指示は名前を使ってこねーぞ、まだ覚
えてねーのかよ﹂
﹁モブをなめんじゃねーぞ、おらぁ!﹂
︱︱どこか変なスイッチが入ってしまったようだが、とりあえず
は気合いが入った状態で後半戦へピッチに向かって行く。
﹁ところでアシカは本当に僕らの名前を覚えていないのかな?﹂
﹁はっはっは、まさかそんな﹂
空の白い雲を眺めて俺は代表キャプテンの⋮⋮えーと、その誰だ
っけこの人?
﹁本当に覚えてるんだよね? じゃあ僕の名前を答えてくれないか。
ちなみにジャージについている刺繍はビブスに隠れてるから読めな
いよ﹂
﹁⋮⋮もちろんですよ。えーと﹂
﹁ドン・ロドリゲスっすね﹂
﹁そう! ドン・ロドリ、え?﹂
563
﹁お前、本当に覚えてないんだなぁ﹂
横から余計な茶々を入れてきた明智を睨みつつ、代表キャプテン
の爆発に備える。だが、予想に反して彼はため息の一つと頭を軽く
ぺちんと打っただけだった。﹁僕の名は真田だ。せめてチームメイ
トの登録名ぐらいは記憶しておけよ﹂と告げて。おお、キャプテン
というものは小学生時代の彼を含め皆器が大きい。判ったぜ、えー
と、よしロドリゲスだったな。キャプテンの名前ぐらいはちゃんと
覚えておこう。
そして明智に対する仕返しも考えておかねば。
﹁とにかく、明智さんもロドリゲスさんも気を引き締めて後半は戦
いましょう﹂
﹁おうっす!﹂
﹁お、おいちょっと!﹂
キャプテンが何か騒いでいるようだったが、審判の開始の笛にか
き消された。まったく仮にもキャプテンなんだからしっかりしてく
れよロドリゲス。
564
第十話 逆襲を開始しよう
後半開始してからしばらくは、ほぼ俺の想定したように推移して
いった。
向こうのチームは前半同様に守りを固めた手堅いカウンター戦術
を続行。それに対してうちの赤組は変わらず突撃体勢で襲いかかる
状況だ。
だが今はうちのDFラインは上がっていないために、中盤には敵
が活用できる広大なスペースが存在する。この隙を三人だけで埋め
るのは不可能だと判断して俺達MFは罠を張っておいた。出来ない
のではなく、わざとパスコースを遮断しようとせずに意図的に残し
ておくルートも幾つか存在するのだ。全部のパスコースは潰せない
が、俺が誘導してチェックしている範囲内にきたらボールを狩れる。
中盤の左半分は知らんがな。あっちはあっちで明智がどうにかし
てくれるはずだ。
これは信頼とかではなく責任の押しつけに近いが、あいつならや
ってくれるはずだ。たぶん。
さっそく、敵のパスが俺のセンサーに引っかかった。カウンター
であれば本来はDFからのロングパス一本というのが手順が少なく
て理想的なのだろうが、相手は三・五・二でMFが五枚もいる。中
盤が厚くて元々カウンター向きとは言えないこの陣形では、中盤を
経由しなければ質の高い前線へのパスの供給は難しい。
だから、ほら。わざとマークを緩めていた敵の左サイドのMFへ
のパスを注文通りにカットできた。明智と左ウイングのプレッシャ
ーから逃げるようなパスをじっと待ちかまえていたのだ。これまで
565
にさんざん島津が上がった穴だと狙われ続けていたんだ、いいかげ
んにこのパターンも読めるって。
今までは通用していた攻撃パターンが止められたせいで、僅かに
前のめりになって急停止する敵チーム。それを尻目にこっちが逆襲
をかける番だ。
そろそろウイングのポジションにも慣れたでしょう。目を覚まし
てくれませんかね先輩! そんな思いを込めて蹴ったパスが山下先
輩の下へと渡る。さあ、ここまであまり働いていなかった先輩の出
番ですよ。
カウンターのさらにカウンターという速攻には効果的な場面であ
る。このままフィニッシュまで持っていってください。
山下先輩は久しぶりに俺とのホットラインがつながったのが嬉し
いのか、喜々としてドリブルを始める。そのスピードは大した物だ
が、相手も放っておくわけがない。すぐにゴール方向へ壁を立てる
ようにDFが立ちはだかる。
だが、こっちの右サイドにはFW以上に攻撃的な男がいるのを忘
れてないか?
ウイングである山下先輩を追い越すように島津がオーバーラップ
してくる。すかさず彼にボールをはたく先輩に速度を緩めることな
くダイレクトでパスを返す島津。
ペナルティエリア前でDFかわすワンツーが綺麗に決まった。
他のDFが来る前にと、山下先輩が蹴った渾身のシュートは横っ
飛びしたキーパーに弾かれる。そのルーズボールの向かうバイタル
エリアには明智の姿が。さすが良いポジションセンスを持っている
なあいつは。
明智は右サイドのごちゃつきを見て自分で撃つのかと思ったが、
自分にDFが付く前に左足をコンパクトに振り抜き、より危険な男
へのパスへと変える。
566
上杉はパスが来るよりも早く︱︱それこそ明智がボールを持ちそ
うになった瞬間にゴールするための動きを始めていた。ボールの行
方を目で追っているDFの視界からバックステップで逸れてマーク
を外すと、死角である背中側に回り込むようなルートで改めてゴー
ル前に飛び出したのだ。
その足下へピタリと収まる絶好のボール。上杉はまだ体勢の整っ
ていないキーパーを無視するようにゴールのど真ん中へと蹴り込ん
だ。
先輩へパスを出した後、下がり気味に島津が上がったスペースを
ケアしていた俺の背筋にぞくりと冷たい物が走る。
今のはゴール前であれだけ冷静な動きができる上杉も凄いが、そ
れ以上にセンチ単位の誤差もなくラストパスを送った明智の技術が
見事だ。まるで俺と山下先輩クラスのコンビプレイ︱︱ってこいつ
ら今日顔を合わせたばかりなんだよな。
ぐっと拳を握りしめて、またもや雄叫びを上げている上杉と明智
に歩み寄る。
サッカーに関してだけは誰にも負けてたまるもんか。例え味方で
あるこいつらにも。
挑戦の意志と若干の悔しさを込めて二得点目のエースストライカ
ーの背中を思い切り叩くと、まだ得点した興奮の残っているらしく
レーザーじみた視線で睨まれた。なぜだろう。
ともあれ、一点差に追いつき気勢の上がる赤チームと舌打ちして
苦い表情の白チームと対照的だ。
まだ敵がリードしているのだが、それはあまり気にならない。な
ぜならこっちは﹁攻撃は十トンハンマーで防御は鍋の蓋﹂という具
合に攻撃に偏ったチームだからだ。つまり点の取り合いになれば自
567
動的にこっちのペースになっている事を示している。
相手のキックオフから敵の攻撃が始まるが、どうも精神状態が表
れているのか微妙にパスが荒い。これなら、前線でプレスをかけれ
ばなんとかなるかと思ったがさすがにそうは甘くはいかない。
いや、判ってはいたのだが甘かったのは俺の予想、いや正確には
味方FWの守備意識の低さだ。敵のボール回しをほとんど檻の中に
いるパンダを眺める感覚でぼーっと突っ立って見ているだけだ。
敵もプレッシャーがかからない状況に落ち着いたのか、いいタイ
ミングで白チームのトップ下にパスが入る。
くそ、エリアで分ければそこは若干だが右側で俺が担当するべき
場所である。どう守るか迷った時相手がトラップをミスしたのか大
きくボールを体から離した。
ええい、行ってしまえ! 前線の突撃思考に感化されたのか、じ
っと待って相手の攻撃を遅らせる選択をせずに我慢しないでボール
を取りに飛び出した。
その瞬間に失敗して焦っているはずの敵のトップ下の口元が歪ん
だ。
直感でミスをしたのを理解する。まずい、これは罠だ。
しかし、ここまで来ては引き返せない。今できるのは俺が空けた
穴に敵がパスするより早く、ボールを奪取しようと全力を尽くすぐ
らいだ。
必死にダッシュするが、走り寄るのと少し離れたボールをキック
するのでは後者の方が圧倒的に速い。俺が近付いた時点ですでに敵
のトップ下はパスの予備動作を終えていた。
しかしその体勢で相手が凍り付く。その表情はまるで幽霊を発見
したかのようなぎょっとした顔だ。
刹那の隙を逃さずに相手からボールをかっさらったが、取った後
568
で鳥の目で状況を確認した俺でさえも動揺を隠せない。
何と島津がトップ下のパスを出そうとしていた右サイドのディフ
ェンスをしていたのだ!
⋮⋮いやまあ冷静になって考えると、サイドバックがセンターハ
ーフの後ろで守備をしているのに何の不思議もない。だが、島津が
守備をする︱︱いや俺より後ろに位置どっているのさえ、リスター
ト時ぐらいにしかなかったのになぁ。
とにかく確保したボールをいったんアンカーに預ける。その途端
にまた右サイドを島津が駆けあがる。それに応じて敵の守備陣が微
妙に右サイドへと重心を移した。なにしろこっちの右サイドは島津
と山下先輩のドリブラーが二人もいる。敵としても人数をかけて守
らねば! と警戒心を刺激されるだろう。
フリーになる位置へ移動して、改めてアンカーからボールをもら
い直す。
右に防御が偏っているな、なら! と左サイドへ開いた明智へと
パスを出す。右へ傾きかけていたDF陣は慌ててディフェンスの修
正をしようとする。その左右に振られてDFがぶれている隙に俺が
ぐいっと前へ出る。
これまでは前線が厚く自陣は薄かった為に上がるのは自重してい
たが、守備陣が左右に動かされて中央がぽっかりと空いている。こ
こは出るべきだろう。
決断した俺の下に明智からタイミング良くボールが戻ってくる。
よし、中盤の真ん中に穴があいている。今がチャンスだ。
空いたスペースを全力で走る俺のドリブルがミドルシュートの撃
てる危険なエリアまで来たと判断したのか、相手のDFがついに上
がって止めに来た。
どうする? 鳥の目で観察すると、上杉は敵のマークを外そうと
不規則な動きをゴール前で繰り返している。島津は右サイドの斜め
569
四十五度の自分が一番切り込みやすい角度でスタンバイしている。
この二人に加え、俺までも中央よりやや右側から攻めてきたと敵は
マークをつけたんだ。必然的にこの人がフリーになるよな。
パスコースは潰しているつもりかもしれないが、そこが開いてい
るんだよ。
﹁いいかげんに決めてくださいよ山下先輩!﹂
俺が詰め寄る相手の股の間を抜くパスを、先輩の前一メートルに
送る。あそこなら一歩踏み込んで右足のダイレクトシュートを撃つ
のに最適なポイントのはずだ。
﹁待ちくたびれたぞ、アシカ!﹂
そう叫んで山下先輩は俺のイメージした通りに一連の動作を淀み
なくこなし、見事にゴールネットを揺らす。
よし、今のパスにシュートは数センチも想定を外れていなかった。
俺の技術は明智にも負けていないぞ。チームが得点した喜びだけで
なく、自信をも蘇らせた熱が体を駆け巡る。 ﹁見たか、俺のゴールを!﹂
同点に追いつく得点をして山下先輩が大声でアピールした相手は
敵ではない。観戦していた監督やアシストした俺でもなく、ここま
で二得点の上杉に対してだった。どうやら相当な対抗心を持ってい
たらしい。敵DFの﹁なんだこいつら﹂と言いたげな視線を無視し
てお互いが真正面から睨みあっている。
⋮⋮ああ、こいつら同種の犬がどっちがボスかを決めるような感
じなのかな。
山下先輩はカルロスを相手にした時もライバル心を剥き出しにし
570
ていたし、ポジションは違うとはいえ同じ点取り屋としては上杉に
は負けたくないのだろう。俺も明智に対し微妙なライバル心を持っ
ているからよく理解できる。
だが、こんなところでいつまでも睨み合いをしていてもらっても
困るな。
﹁どうどう、お二人さんともこんな所で喧嘩するよりどっちが点を
取れるかで勝負したらいいじゃないですか﹂
俺としては闘争心を試合に向ける良い方便だと思ったのだが、二
人のぎらりと輝く瞳がこちらを向いた時に何かを失敗したのだと気
づく。
﹁なるほど。それでアシカは当然その勝負には俺に協力してくれる
んだよな?﹂
山下先輩がこれまでに聞いたことがないほど優しい声で確認を取
る。
﹁センターフォワードにアシストせんゲームメイカーはいらんわな
ぁ﹂
上杉はなぜか壊していない方の右拳を自分の顔の前で握りしめる。
え? なんでこんな﹁アシカはどっちを選ぶんだ?﹂という展開
になるんだ?
﹁ちょっと、何やってんすか。もう試合再開されるっすよー。同点
になったからと気を緩めて遊んでないで戻ってきてほしいっす﹂
そこへ声をかけてきた少年がいた。よし、この瞬間の俺の目は二
571
人のFWに負けないほど光っていただろう。君に恨みは⋮⋮あるな。
さすがに小学生の時の試合で削られた事はもう時効にしても、さっ
きのキャプテンのドン・ロドリゲス事件は許せない。こいつがキャ
プテンの名前を真田だなんて嘘つくから話がややこしくなったんだ。
⋮⋮あれ? どこか間違っているような気もするが、まあいいか。
﹁ああ、だったら明智さんはどっちのストライカーが組みやすいん
でしょうかね? 聞いてみましょうよ。俺は山下先輩とコンビを組
んで長いから客観的な評価は難しいですからねー﹂
と言いつつじりじりと後退をし続け﹁もうすぐ笛が鳴るな﹂とき
びすを返して離脱に成功した。
後ろで﹁え、何っすか?﹂と困惑の声が聞こえたが、きっと空耳
だろう。
そんな事よりようやく同点に追いついたんだ、これからが正念場
だな。
﹁ちょ、ちょっとアシカ君、ヘルプ・ミーっす!﹂
うん、今日は空耳が多いような気がするが、そんなハンデにも負
けないで試合に集中しなければな。ああ、そうだ。再開されるまで
に、代表キャプテンのロドリゲスとディフェンスの打ち合わせをし
なければ。忙しい忙しい。
572
第十一話 全部なかったことにしてしまおう
試合再開のキックオフをする相手側のチームの顔色は悪く、表情
は強ばっている。
こんな急造チームに苦戦するとは思わなかったのかもしれない。
大方彼らは完勝して俺達新加入組の高い鼻をへし折り、山形監督に
自分達の有能さをアピールするつもりだったのだろう。
だがこうなっては彼らの目論見は失敗したと言わざるえない。い
くらこっちが超攻撃的なチームにしたとはいえ、試合展開は俺達赤
組が狙っている通りの点の取り合いの様相を呈しているのだ。しか
も俺達のチームワークや連携は、前半はともかく後半に入ってから
は時間経過と共に徐々に高まっていっている。これでは旧チームの
復権は難しい。
それを理解しているのだろう、残り十分を切った試合時間にセン
ターラインを挟んだ向こう側から焦燥の念が届いて来そうだ。
だからといって俺達赤組が遠慮する必要はない。全力で戦い、叩
き潰すのみ。たぶん俺以外のチームメイトもそう考えているはずだ。
焦りからかさっきまでのようにサイドから崩そうともせず、ロン
グボールをいきなりこっちのゴール前に放り込んでくる。だが、さ
すがにそんな単純な攻撃では仮にもこれまでの代表を守ってきた守
備陣は破れない。ボールの軌跡とDF陣を観察してこれは心配ない
と判断する。この時点から俺の行動はこぼれ球を拾う為の空いたス
ペースのフォローから、フリーでボールを受ける為のポジション取
りへと変化した。
うん、期待通りにDF達はきっちりと相手FWを抑え込んで、キ
ーパーに不要なプレッシャーを与える事なくしっかりとボールをキ
573
ャッチさせる。いいぞ、ドン・キャプテン・ロドリゲス。後半はち
ゃんとDF達をまとめているじゃないか。
そしてボールを両手に抱え込んで着地したキーパーと俺の視線が
重なった。
すぐさま俺に投げられたボールをトラップしながらついにへらと
表情が緩む。パスを受けるまでに敵のマークが甘い地点にまで移動
していたのが良かったのか、反転してゴール方向を向いてもすぐ近
くには敵はいない。
うん、やっぱりいいな。緩む口元を隠す気もなくなるぐらいに胸
が湧き立つ。前半はパスを散らしてばかりだったからさっきの山下
先輩へのアシストとか、今のドリブルで持ち上がっていく状況とか
自分の足元にボールがあるのが凄く楽しい。
おっと、そのお楽しみを邪魔する相手が現れちゃったな。目の前
に立ちはだかる敵のボランチに対し、瞬時に幾つかの取るべきルー
トが頭の中に浮かぶ。
安全性を求めるだけなら、左後方にいる明智に戻して改めて攻撃
を組み立て直すべきだ。一番ゴールに近いパスを選択するならDF
に囲まれているが、常に敵にとって危険な場所にしかいない上杉に
渡すのがいい。サイドから崩したいなら猛烈なダッシュで駆け上が
ってくる島津の前のスペースに出す一手だ。コンビネーションでつ
なぐなら山下先輩へとアイコンタクトをとるべきだろう。
だが、今回の俺の選択肢はどれでもなかった。カウンターで敵の
枚数が揃っていない今だからこそ、マークしに来た相手は無理をし
てこない。攻撃を遅らせようとして自分がボールを取りには来ずに、
DFが整うまでの時間稼ぎを狙っているのだ。
その思惑に俺も乗ってやる必要はない。この試合ではバランサー
として封印していた個人技によるドリブル突破を解除する。
574
敵のボランチは明らかに不意を突かれたようだった。腰は引け気
味で重心は後ろでじりじりと下がっている姿勢からはボールを奪っ
てやろうという積極的な気概は感じられなかったからな。
すっと顔を上げて自然な仕草で右サイドにいる島津へ視線を送る。
反射的に右に体重をかけた相手にこちらも右足のアウトサイドでボ
ールを押し出す。跨いだんじゃなくてボールも動いたと判断した敵
ボランチがその動きに反応した瞬間、俺の体は敵の左へと抜け出し
ていた。右足のアウトサイドで触れたボールを一挙動でインサイド
で切り返してボールの動きを鋭角に変化させるエラシコというフェ
イントが見事に決まり、相手は慌てて俺に追いすがろうと無理をし
たのかバランスを崩し尻餅をつく。
邪魔者を振り切った俺は前傾姿勢になりさらにスピードをあげる。
これで後ろにいた奴らは追いつけないだろう。ここからは鳥の目で
確認するまでもなく、前方の敵に対処していけばいい。
俺を止めようとする者がいない事に気が付いたDFが、ダブルチ
ームで張り付いていた上杉から離れてこっちにむかって来ようとす
る。
するとそれに併走するようになぜか上杉までそいつにくっついて
くる。思わず足を止める敵DFをそのままぐるりと回るような格好
で向きを変えると今度はゴールに対して走り出す。
言葉にするとまったく意味不明な行動のようだが、彼のそのよく
判らない動きに対して残って上杉をマークしているはずの相手はつ
いていけなかった。特に俺へとヘルプに行こうとしたDFが壁にな
ってしまって、上杉の縦へのダッシュを防げない。
これなら通る。
そう確信した俺は上杉の前二メートルの地点にグラウンダーのパ
スを出す。これから彼が踏み出す三歩目の右足でダイレクトにシュ
575
ートを撃つのをイメージしたボールである。
だが想像の中の動きと現実とがシンクロしていたのは二歩目まで
だった。上杉は三歩目を踏み出せずつんのめってしまったのだ。
芝に足を取られたのか? いや敵DFのあからさまなファールだ。
フリーでシュートを撃たれるよりはとPKを取られるペナルティエ
リアに入る直前にボールではなく足をめがけて引っかけやがった。
舌打ちして、唾を吐きたい衝動に駆られる。俺はこういう狡賢いと
言われるプレイが大嫌いなんだよな。
だが抗議するよりも、今はまず上杉が大丈夫かどうかだ。慌てて
上杉の様子を確認するが、蹴られたのではなく足首を引っかけられ
た感じでダメージはそれほどないようだ。彼も引っ掛けられた足よ
り芝で擦った膝の擦り傷の痛みが気になるぐらいらしい。
ほっとして上杉に手を貸そうとするが、それを振り払うようにし
て自分で跳ね起きた。
仁王立ちになると自分を倒したDFを見つけては睨みつける。そ
の相手は審判にイエローカードを示されていたが、まるで反省して
いるようではない。審判の指示には素直に従っているが、その顔に
は薄い笑みが浮かんでいる。
無言でその方向へと歩いていく上杉の足取りに不安はない。うん、
深刻な怪我やダメージはなさそうだ。と、ずんずんと歩いていく上
杉の歩調が速まった。それに気がついたのか、足を引っかけたDF
がさらに笑みを深くして﹁悪ぃ、まさかあのぐらいで転ぶなんて思
ってなかった﹂と火に油を注ぐような発言をする。
上杉の傍らにいた俺の耳にはぷつんという音が届いた。いや、実
際に聞こえたはずはないから雰囲気による幻聴なんだろうが、その
時は確かにキレる音が聞こえたと思ったんだ。
マズイ。上杉を止めなければ。
576
俺が肩に手をかけて止めようとするのをかいくぐって、上杉は自
分を挑発した選手の懐に入る。その動きはすでにサッカー選手のも
のではなくボクサーのステップだ。
﹁上杉さん落ち着いてください!﹂
俺の悲鳴に反応したのは上杉ではなく相手のDFだった。上杉が
放った芝の上とは思えない滑らかなステップからの右パンチを相手
は上手く捌いたのだ。動きが速くてよく判らなかったが、どうやら
上杉の右のストレートを手で払うようにして受けたらしい。
おお、これで終わりなら大事にならずにすむかも。そんな俺の願
いは儚く消えた。
右をかわされた上杉は一瞬戸惑ったようだが、瞬時に戦闘体勢を
取り戻し上半身を振りステップを踏みながら撃ち込む隙を伺ってい
る。対する相手DFもボクシングステップを踏む上杉とは対照的に
深く腰を落として左の掌を前へ出した構えでどっしりと待ちかまえ
ている。
え? 何? 普通は乱闘が起こってもせいぜいが揉みあいや頭突
きが一発ぐらいだろ。なんで金網で囲まれていてもおかしくないぐ
らい本格的な異種格闘技戦が始まっているの? 俺を含めた周りが
どうすればいいか判らず硬直していると、そこで立て続けに審判の
笛が響いた。
そうだ、審判の笛に従って争いは止めて⋮⋮と、なぜか対峙する
二人には笛の音がゴングにでも聞こえたのかその途端に激しい打ち
合いが開始された。
二人の間では空気を裂く音と﹁フン、ハ!﹂や﹁シッ﹂という声
が洩れてくる。まるで小さな竜巻のようだ。これ本格的すぎて俺達
じゃ危なくて止められないんだけど。
577
皆がどうするべきか困惑していると、ピッチにずかずかと入り込
んできた山形監督が審判の横に立つと二人に対し﹁この大馬鹿野郎
どもがー!﹂と喉も裂けよと大喝した。
びくんと動きを止めて両者が攻撃の当たらない距離までステップ
バックする。もうこいつらはピッチじゃなくてリングに行かせた方
がいいんじゃないかな。
そんな二人を睨み据え、監督は一言一言に力を込めて語りかける。
﹁お前ら、この練習試合を何のためにやっているのか判らないのか
? これからの代表の方向性を決める大切な試合だぞ! ただでさ
え時間がない中、システムの大変更をして間に合うか心配している
のに余計な手間をかけさせるな。それに、ここでお前達が乱闘で怪
我なんかしたら俺の責任問題にもなるだろうが。
そうなったら協会の上層部は絶対に俺に全責任を被せて監督交代
だ。交代した後で第二ラウンドも成功すれば次の監督の手腕のおか
げで、失敗したら途中で投げ出した俺のせいにするに違いない。い
らん責任と余計な手間ばっか増やしやがって、中間管理職を馬鹿に
するんじゃねーぞ、お前らと協会の大馬鹿野郎ー!﹂
⋮⋮監督の魂の咆哮に戦闘体勢だった二人も気勢を削がれたよう
だった。すかさず審判が二人に向けレッドカードを突き出すが、す
でにそういう問題じゃない気がする。
﹁いや、乱闘はともかく、試合中に監督がピッチに入って協会の批
判をぶちかますのはマズいのではないかと思うんですが⋮⋮﹂
俺の呟きは小声に抑えたつもりだったが意外によく通り、ピッチ
上に響き渡った。その意味を理解した監督を含めスタッフ全員が顔
色を変える。
578
いつの間にか隣にいた明智が指折りして悪い条件を数えていく。
﹁まあ、マスコミがいたら一発でアウトっすね。合宿初日に大幅な
チーム改革して新顔と旧チームの派閥を作る。その上作った派閥同
士が練習試合中に乱闘を起こしての代理戦争、その挙句に監督が上
層部への批判っすか⋮⋮﹂
今日はマスコミに公開していないのは助かったな。もしも合宿初
日に乱闘騒ぎや監督による上層部批判があったなどとバレてしまっ
たら、一体どんな記事が書かれるのか想像するだに恐ろしい。
俺と同じ事に思い至ったのだろう、監督がさっきよりさらに重々
しい声で試合中止を告げた。
﹁よし、練習試合はこれまで! いや、今日は練習試合などしなか
った。初顔合わせの人間が多かったから一日ミーティングと軽い練
習だけで、試合は存在しなかった物とする。皆、口外しないように
!﹂
﹁は、はい﹂
山形監督の練習試合そのものを抹消する宣言でこの試合は闇に消
されるのが決定した。だが誰の口から漏れたのかアンダー十五代表
の黒歴史として、記録には残らないが記憶とそしてある意味伝説に
も残る試合となってしまったのだ。
こうして山形監督による代表の船出は、初っ端から波乱に満ちた
物になるのであった。
579
第十二話 落ち着いて夕食を楽しもう
﹁ただいま﹂
﹁ん、おかえりー﹂
﹁あれ、真?﹂
三日間の代表合宿から帰宅した俺を最初に迎えたのは、母ではな
くエプロンと三角巾を付けた幼馴染の姿だった。真の特徴である長
い艶のある髪は後ろで簡単に括って背中に流している。そんな格好
をしていると小柄な体も相まって、まるで小学生が家庭科の授業を
受けているみたいだな。
でもお前が俺の自宅になんでいるんだ? と疑問を浮かべる間も
なくこちらもエプロンをした母がパタパタと玄関にやってきて俺と
﹁ただいま﹂﹁はい、お帰りなさい。合宿お疲れ様﹂の挨拶を交わ
す。 とにかくまずは確かめておかなければならない事がある。
﹁なんで真がうちにいるの?﹂
﹁ああ北条さんのお宅がご夫婦で出かけるから、今日と明日は真ち
ゃんが一人でお留守番だったのよ。だから私がうちにご招待したの。
ご飯なら一人分ぐらい増えても手間は変わらないどころか、真ちゃ
んが手伝ってくれて楽ができたわ﹂
﹁えへへ、いつもお世話になってますから﹂
ああ、なるほどそういう訳ね。だがもう一つ確認しておくべき事
がある。
﹁夕食に納豆料理はないよね?﹂
580
﹁⋮⋮ん? アシカは私の事信用してないの? がっかりだよ﹂
返答の前の一瞬の間が凄く気になる俺だったが、隣で母が苦笑し
ながら﹁大丈夫よ﹂と太鼓判を押してくれたのに胸を撫で下ろす。
それがどうにも不服だったらしく真は口を尖らせている。眼鏡越し
の大きな瞳が﹁このマザコンめ﹂と責めているようだ。いや、でも
料理に関しては真よりも母の方がどうしても信頼度は高いのは仕方
ないだろう。
﹁それじゃ、疲れているから悪いけど俺から先に風呂に入らせても
らうよ﹂
玄関から自分の部屋へ向かいながらそう宣言しておく。一応は真
も女の子だ、風呂場でばったりとか現実に起こったら洒落にならな
いからな。忙しい今はラブコメをやっている暇はない。
﹁はいはい、沸かしてあるからさっさと入ってきなさい﹂
との言葉にありがたく従って風呂から入っておこうか。
﹁んー、家に招いてくれたお礼に背中流してあげようか?﹂
目を細めてどこか子猫じみたにんまりした表情で真が提案する。
こいつ俺をからかうのが趣味みたいになりかけてるなぁ。ここで一
回乗り突っ込みで釘を刺しておこう。
﹁ああ、じゃあ頼もうか﹂
﹁ん? え?﹂
真は自ら持ちかけてきたのに急に顔を赤らめ、意味もなく手足を
581
せわしなく動かすと﹁ポ、ポイントとかフラグがまだ足りてないか
らまた今度!﹂と足早にリビングへ退却していった。
ふっ、勝ったな。しかし、ポイントって何のポイントでどうすれ
ば手にはいるんだよ。フラグってどうやればイベントが進むんだよ。
最近サッカーゲームだけでなく、いわゆる乙女ゲームとやらに手
を出し始めたという幼馴染に対し﹁大丈夫かなあいつ﹂とちょっぴ
り不安を覚えた。
まあとにかく今は風呂へ急ごうか。
すっかり入浴する気になっている俺の袖をいつの間にか母が掴ん
でいた。
﹁速輝、あんまりからかっちゃ駄目よ﹂
﹁は、はい﹂
なぜか判らないが、静かな母の笑顔と注意が凄く怖かった。
◇ ◇ ◇
風呂に入って疲れも汚れも綺麗さっぱり洗い流すと、リビングに
入り夕食だ。入浴している間に女性陣の微妙な空気はすっかりほぐ
れて、いつも通りの落ち着いた雰囲気になっている。
食卓には俺の好物の唐揚げが小山を作り、お刺身にサラダや味噌
汁に煮物までが周りを彩っている。
﹁うわ、美味しそう。今日はご馳走だね﹂
﹁ええ、速輝が帰ってくるし真ちゃんも手伝ってくれるからちょっ
と力を入れて作っちゃった﹂
﹁えへへ私が手伝ったのはサラダとか簡単な所だけだけどね﹂
﹁うん、ありがとう。お腹が減ってよだれが垂れそうだからもう食
582
べようよ﹂
そう感謝の言葉を述べながらさりげなく食卓をチェックする。あ
いつがサラダ担当ならドレッシング当りが怪しいが、香りからはあ
の物体が混入されてはないな。どうやら今回は余計な真似はしてい
ないようだ。母の裏付けがあったとしても、真と食事をすると必ず
毒殺を警戒するスパイのようなテンションになる。ま、その分会話
は弾んで気分は浮き立つから収支としてはプラスなのだが。
全員で手を合わせ﹁いただきます﹂と唱和した後で唐揚げに口を
つける。うん、タレが染み込んでジューシーだな。相変わらず母の
作った料理は旨い。このまま唐揚げを食べ続けたい所だが、横から
じっと注がれている緊張した視線の圧力に逆らいきれず、恐る恐る
サラダを一口頬張った。あ、ちょっと意外だ。
﹁美味しいなこのサラダ。さっぱりとしていて和風ドレッシングに
も合っているぞ﹂
﹁そ、そうだよね。私も割と自信が合ったんだ﹂
途端にほっとしたように真から緊張が抜けて行ったようだ。こい
つが硬くなっているとどうにも調子が狂うから結構な事だ。気がつ
くと俺達二人の様子を微笑ましそうに眺めている母にも困る。とり
あえずここは話しを変えようか。
俺は土日と振り替え休日の月曜の三日間代表の合宿に行っていて、
その間はずっとサッカー漬けだ。その間にうちではニュースとか何
もなかったのかな。
﹁合宿に行ってる間にこっちは何も変化なかった?﹂
﹁ん、学校やクラス関係では何もなし。というかあったら真っ先に
喋ってるよ。それより、代表合宿ってどんなだった? やっぱり凄
583
かったの? ジュニアユースとはどこか違ったの?﹂
逆に矢継ぎ早に真が質問してくるのを母は﹁あらあら﹂と言うだ
けで遮ろうとはしない。大方自分は後でゆっくり聞けばよいと思っ
ているのだろう。
﹁そうだなぁ﹂
一息入れて何を喋るべきか思いを巡らせる。あの初日のエキサイ
ティングな練習試合は存在その物がなかった事にされて口外を禁止
されてしまったしな。愚痴ならば、まだ気の合わないメンバーもい
る事や旧監督派とのしがらみもあるスタッフについていくらでも語
れる。でもここで雰囲気が悪くなるような事を言っても仕方がない。
新しくできたチームメイト︱︱いや友達について話そうか。
﹁俺と一緒で初参加した面白い奴らとは仲良くなったな。まあみん
なちょっと乱暴だったり守りを考えなかったり、サッカー選手とし
ては癖が強いのばっかりだけど、悪い奴らじゃないと思う﹂
﹁んー、そうなんだぁ﹂
﹁乱暴な子って喧嘩なんかしないでしょうね、速輝も気をつけなさ
いよ﹂
ふむふむと頷いて真は眼鏡が曇ったのか外して﹁はーっ﹂と息を
吐いてちり紙で拭う。そんなのんきな真と違って母は少し心配そう
だ。
﹁大丈夫だって、実際に喧嘩は最初に一回だけあったけどすぐに治
まったしね。それからは、みんなストレートに物が言えるようにな
ってかえって仲が良くなったって﹂
584
憂い顔を晴らす為に少しだけ内情を暴露する。このぐらいなら問
題ないだろう。
﹁喧嘩を始めた子なんか﹁あいつはワイの右ストレートを上段回し
受けで捌きよった、なかなかのもんや。きっとあいつはビッグにな
るで﹂って本当にサッカー代表かよと突っ込みたくなるような事言
っていたし、相手の奴とも最後には肩組むぐらい砕けていたな。あ
の喧嘩は何だったんだよってみんな文句言いたくなるぐらい意気投
合してた。ま、どっちも脳筋だから気が合ったのかもな﹂
俺としても名前はぼかしているが、合宿最終日の上杉や相手の行
動を話して安心させようと試みる。
だが、なぜか女性の二人はため息を吐いている。
﹁男の子ってまったく⋮⋮﹂
﹁んー、本当にそうですよね﹂
となにやらお互いだけで判りあっている空気だ。一体なんだよ。
﹁それで速輝は新しくできたお友達が取られたみたいで寂しいんだ﹂
﹁んー、そうとしか思えないね。アシカって子供だなぁ﹂
﹁な、何でそうなる。俺はごつい男が二人で肩組んで鬱陶しいなあ
と⋮⋮﹂
﹁ん、そう言えばアシカは身長何センチだっけ? 私ほどじゃない
けどサッカー選手にしては小さいって愚痴ってたよね? おっきい
二人の喧嘩なんかに混ざれなく悔しかったとか﹂
はぐらかされたような気もするが、ここで黙っているのも負けた
みたいだしちゃんと答えるか。
585
﹁俺はこれでも一応クラスでは高い方だぞ。身体測定の時に真が﹁
また縦にも横にも成長してない、ぐぎぎ﹂と歯軋りしてた時自慢し
ただろう? で、さっき言った二人は俺にプラスして十センチぐら
いか。でもあいつらはそれ以上に体格がいいんだよ。格闘技してい
たせいか分厚い胸板していて、まともにぶつかると絶対パワー負け
しちゃうもんなぁ﹂
俺の身長は中学に入った時点で明らかに前回よりも高くなってい
て、百五十五センチだった。自分の努力が少しだけ報われたようで、
身体測定の後で無意味にふんぞり返って真を見下したらぽこぽこ殴
られた記憶がある。
それとは違い、なかなか改善の兆しが見えない自身の当たりの弱
さに嘆く。一試合走りぬくスタミナをつけるのには成功したが、こ
っちの方には目途が立たない。ま、焦らずじっくり行くしかないか。
あ、弱点というので一つ思い出した。このまま合宿での話をして
も俺がいじられるだけのようだし、ここで切り出しておくか。
﹁母さん、そういえば俺が英語を習いたいって言ってたの考えてく
れた?﹂
﹁ん? アシカってそんなに英語悪かったかな? 成績はトップク
ラスじゃない﹂
﹁ああ、俺が習いたいのは英会話の方ね。語学のペーパーテストの
方はとりあえず自分でなんとかなるけど、英会話は先生がいないと
難しいからな。それに、ジュニアユースで時間取られるから少ない
空き時間でも何とかなる都合のいい所ないかなーって﹂
母は少し眉根を寄せていたが﹁速輝のサッカー以外の頼みは珍し
いし、勉強の事じゃ反対もできないわね﹂と納得してくれた。
﹁英会話教室を幾つか調べておくわ。ユースが休みの日だけでも通
586
えるのか、費用は幾らぐらいかもね。でも、もし通う事になったら
三日坊主は許しませんよ﹂
﹁サッカー始める時にもそう言われたけど、今でも続いてるでしょ。
大丈夫だって﹂
親子の会話を黙って聞いていた真が不思議そうに首を傾げる。
﹁でもまたなんで忙しいのに、わざわざ英会話を習おうと思ったの
?﹂
﹁⋮⋮世界一のサッカー選手を目指すには必要なんだよ﹂
俺の答えに母と真が顔を見合わせてぷっと吹き出す。
﹁何だよ﹂
二人だけで判り合っちゃって。今日はそんなのが多いぞ。
﹁ごめんごめん。勉学に目覚めたかと思えば、やっぱりアシカはサ
ッカー馬鹿なんだなーってね﹂
そう言うとまた二人で笑い出した。⋮⋮自宅なのに俺が疎外感を
感じるのはなんでだろう。
587
第十三話 監督はカルロスを忘れたい
山形監督の作る新代表チームはマイナーチェンジを繰り返し、二
ヶ月をかけてアジア予選の第二ラウンドへ向けて少しずつチームと
しての形を整えていく。
練習試合もあれから何試合も繰り返して、欠点となる所を修正す
る。その結果さすがにディフェンスがザルすぎるだろうとウイング
の二人のポジションが距離にして数メートルだけ下げられた。
これによって表記上はFWを二人下げてMFを増やした四・五・
一のフォーメーションとなる。だが、ポジションが下がっただけで
二人のサイドアタッカーの役割はさほど変化していない。守備の負
担はほとんど免除されているし、うちがボールを持っている時はM
Fにしては極端に攻撃的にプレイするのを許されているのだ。つま
り攻撃するときは元の四・三・三に戻るという仕組みだ。
このちょっとした変更は中盤に落ち着きをもたらしていた。いく
ら守備をしないとはいえ、味方の選手が中盤に居るだけで敵の攻撃
を制限してくれるのだ。敵のパスもドリブルもわざわざ二人のいる
付近を使おうとはしないからな。これによって敵の攻撃で使用でき
るエリアが減少して、俺達元々のMF三人︱︱特にアンカー役の守
備しなければならないゾーンは減り、負担は随分と軽減された。
﹁でもこの四・五・一って陣形を聞いただけじゃ、うちのチームが
こんな突撃指向の攻撃的布陣だとは誰も思わないでしょうね﹂
﹁うん。僕だって自分の目で見なければ最終ラインと中盤厚くした
カウンターサッカーと誤解してしまうっす﹂
俺の言葉に相槌を打つのは明智だ。こいつとはポジションも役割
588
も似通っているので話す機会が多い。いつの間にか周りには仲のい
い友達と認識されているようでちょっと癪に障る。でも、代表のチ
ーム内で一番話しが合うのもこいつなんだよな。広くピッチを見る
姿勢とか常にバランスを取ろうとするポジショニングとか、同じ中
盤のゲームメイカーである明智と話していると考えがよく判るし、
また刺激も受ける。
と同時にどこか悔しさも感じてしまう。俺はやり直してようやく
ここまで来たのに、明智はそんなショートカットは無しで同等のレ
ベルにいるのだ。だからこそ負けられない。今俺の一番身近にいる
ライバルでもある。
﹁ちなみに今度の日曜のヨルダン戦はどういう展開になると思いま
す? 敵チームの情報は明智さんの方が持ってますよね﹂
俺はもっぱら自分のチームの特色を生かす戦術が好みだが、明智
は逆に敵チームを分析してその長所を消すのが巧みである。こうい
う部分では全く正反対だが、それが却って新チームの戦術の幅を広
げていた。
﹁僕じゃなくて山形監督に聞けばいいじゃないっすか﹂
﹁あの監督の思考は基本的に攻撃中心ですからね、うちのウイング
を下げるように進言した明智さんみたいな相手が嫌がる分析と対策
を聞きたいんですよ﹂
俺は褒めたつもりだがどうも明智はそう受け取らなかったようで
﹁微妙な評価っすねー﹂と頬をかく。
﹁ま、味方にデータ隠してもしようがないんで話しますが、これは
あくまで僕が独自に集めたデータで確実性は保障しないっすよ。も
し監督の集めた情報と齟齬があれば監督の持ってきた方を優先して
589
欲しいっす﹂
﹁了解﹂
俺が頷くのを確認した明智は﹁では第一ラウンドからの相手の予
想スタメンからっす⋮⋮﹂と説明を始めた。
◇ ◇ ◇
﹁こんな所でまだ起きてらっしゃったんですか﹂
どこか呆れたような声に、椅子をぐるりと回転させて山形監督は
振り向いた。
時計の短い針はすでに頂点を過ぎて、試合が行われるのは翌日で
はなく今日になっている。
山形はどこかばつの悪い表所を作り頭をかいた。監督室ではなく
資料室にこもって考え事をするのが、彼は好きだったのだ。自分に
割り当てられたあの広く立派な部屋より、このどこか雑然としたサ
ッカーの資料で埋もれんばかりの部屋に親しみを覚えていた。
だが、見回りにきたスタッフにわざわざ毎日綺麗にしてもらって
いる﹁監督室が嫌いでね﹂とは言いづらい。
﹁少し調べたいことがあってね⋮⋮﹂
と言葉を濁す。実際調べたい事はいくらでもあるのだ。今日の対
戦相手であるヨルダンについても分析と対策は終わっているとはい
え、本当にそれで正しいのか何度も確認したいし、見落としがない
かも気になる。
さらにまだ率いて日の浅い代表チームについても、あのシステム
590
変更が吉とでるのか不安や悩みの種は尽きない。
﹁どのような事でしょうか? お手伝いしますが﹂
助力を申し出るこのスタッフは山形が雑用係にと連れてきたスタ
ッフで、能力的には未知数だが一番信用できる相手である。以前か
らのスタッフなどと話をしていると﹁ここだけの話し﹂がサッカー
協会の上層部に筒抜けになってしまいかねないからだ。
だとすると裏を考える必要のない彼とここで話し合いができるの
は有益かもしれない。要は一人でぐるぐると考えを巡らすのが嫌に
なっただけなのだが、山形は対話で疲労した精神をリフレッシュし
ようと試みる。
﹁そうだな、じゃあ話し相手になってもらおうか﹂
﹁私でよければ喜んで﹂
相手のスタッフも言葉通りに嬉しそうだ。年代別とはいえ試合前
日の代表監督の考えを聞けるのは自分の経験にとってもプラスにな
るとおもっているのだろう。
そんな青年に山形は語りかけた。
﹁君は今の代表チームをどう思う?﹂
僅かに顔を強ばらせた青年に﹁正直に言っていいから﹂と促す。
﹁はあ、率直に言って攻撃に傾き過ぎているのではないかと。いく
らウイングを下げても、島津がいるかぎり守備の薄さは隠せません。
もう少し守備に重点をおけばバランスのいいチームになるんじゃな
いでしょうか?﹂
591
やや躊躇いがちに口に出されたのは常識的であり真っ当な物だ。
だが、山形には少し違う思惑があった。
﹁それも間違ってはいないけどな。俺がこのチームを作ったのは何
の為だと思っている?﹂
﹁はあ⋮⋮アジア予選を突破して世界大会でいい成績を残すためで
は﹂
﹁少しだけ違う﹂
山形はどうして自分がここまで攻撃的なチームを作ろうとしたの
か、その考えの一端を明かす。
﹁お前が言ったのもやらねばならない事ではある。だがな俺がこの
チームでやらなきゃいけないと思っているのは⋮⋮﹂
﹁思っているのは?﹂
釣り込まれたのか前のめりで尋ねるスタッフに答える。
﹁カルロスに勝つ事だ。つまりは今あいつのいるブラジルに勝たな
きゃいけないと思っているんだ﹂
﹁⋮⋮なぜです? 山形さんはカルロスと直接の面識はありません
でしたよね﹂
不思議そうなスタッフに会ったことはないなと認めて、だからこ
そと山形は力説する。
﹁前監督の残したチームもスタッフもそれに協会の上層部も、皆が
まだカルロスの呪縛にかかっているように見えるんだよ。先天的な
フィジカルの強い彼のようなプレイヤーがいれば勝てるのにってな。
だからこそ俺は自分の作ったチームでカルロスを︱︱そしてブラジ
592
ルを倒すことで証明したいんだ﹂
﹁何をです﹂
﹁日本人でも必死に考えて努力し続ければ、相手がどこだろうと勝
てるってな。だからこそ、あのブラジルに勝つためには最適だと超
攻撃的なチームを作ったんだ。少しは堅守速攻のカウンターチーム
にも心が動いたんだが、ちょっとこの資料を見てみろ﹂
と手元にあったブラジルの南米予選結果が示された紙を渡す。も
うあそこは予選が終了して世界大会に出場するチームは確定してい
る。
﹁これは⋮⋮凄まじいですね﹂
﹁ああ、アルゼンチンと別グループに入るなどくじ運も良かったが、
それでもブラジルは全試合で三点以上取っていやがる。比較的楽だ
ったとはいえ相手は日本の予選で当たる敵よりも厳しい相手ばかり。
そいつらがブラジルが相手だと守備中心の布陣で、しかも得失点差
を考えて負けていても引きこもり続けた相手に対してもその得点差
だ。攻撃力なら世界一ってのは誇張じゃないな﹂
﹁ええ⋮⋮﹂
﹁そんな奴らを相手にして勝つにはどうしたらいい? 引きこもっ
てカウンターを狙うのか? それを十八番にして毎回ブラジルやア
ルゼンチンと渡り合っているはずの南米の国々が、今回は予選で蹴
散らされたのに? 日本が短期間でそれ以上のカウンター戦術を身
につけられるとは思えない。ならば⋮⋮打ち合うしかないだろう﹂
﹁だから攻撃的なチームを作ったと﹂
山形は頷いて、椅子に深く座り直した。
﹁バランスを取って安定したチームでブラジルに勝てるなら俺はす
ぐにでもそうするさ。だが俺の計算上ではこれが一番勝算が高いと
593
出たんだ。だがなぁ、ここで時間がないのがネックになる﹂
﹁チームの形を整えるだけで予選が始まっちゃいますからね﹂
﹁だから、このチームは後は実戦の︱︱アジア予選という厳しい戦
いの中で磨いていくしかない。幸い一ヶ月の練習より一回の苦戦が
成長を促すこともある。それに期待して、世界大会までにどこまで
成長してくれるかを祈るしかないな﹂
﹁アジア予選は突破するのが前提ですか﹂
﹁ああ、今のあいつらが負けるとは俺には思えない﹂
﹁同感ですね﹂
山形はスタッフと忍び笑いを漏らす。彼らの当初の想定を超えて
今のチームは強くなっている。
﹁上杉・山下・島津・明智・足利と前監督はよくこれだけの人材を
使わずに放っておいたもんだな﹂
﹁使いたかったみたいですけどね。どうにも自分の掌の上で踊って
くれるタイプじゃないと見切りをつけていたようです﹂
スタッフの言葉に頷く。山形の集めた新メンバーは誰をとっても
制御が難しそうな少年ばかりだ。
﹁なるほど、みんな他人の意見に耳を傾けるタイプじゃなさそうだ
しな﹂
﹁明智と足利は中盤のバランサーとして柔軟に役割をこなしていま
すが?﹂
山形監督は苦笑して首を振るとスタッフの疑問に答える。あいつ
らが従順なはずがない。
﹁いや、攻撃一辺倒の奴らより、あの二人の方が頑固だぞ。自分が
594
納得しない限り絶対にプレイスタイルは変えんだろう。そのくせチ
ームは動かし易いようにどんどん変化させやがる。特にあの足利っ
て小僧は危険だな﹂
﹁そうでしょうか、試合前に話しをしたり監督の意図をくみ取って
行動しているようですが﹂
﹁ああ最初は奴のゲームメイク能力と基礎技術の高さに注目してい
たんだが、最初の︱︱あー無効試合になった練習試合であいつの修
正能力に驚かされた。前半まるでいいところがなくても、落胆する
どころか最適解を探してすぐに修正してきた。あんなに器用に試合
中にチームの戦術を修正できるなら監督はいらんかもしれん。自身
の手で選手を管理したがる監督にとっては鬼門だな。俺がどちらか
といえば放任タイプで助かったよ、喧嘩せずに済むからな。だがま
あリスクもあるが、足利の才能は大会本番の短期決戦では大きなア
ドバンテージになるはずだ﹂
﹁ならばブラジルに勝てますかね?﹂
さあ? と山形は肩をすくめる。彼は自分の選択できる中で最も
勝率が高くなるであろう作戦を選んだ。だが、それで勝てるかどう
かはまた違う問題だ。人事を尽くして天命を待つ、すでにその心境
に彼は至っていた。
ならば今山形にできる事は︱︱。
﹁あいつらが勝てるように祈るだけだ﹂
﹁それ監督の仕事ですかね?﹂
坊主や神主か牧師のやる仕事でしょうと突っ込むスタッフの疑問
ももっともだ。だが山形監督にはこれ以上するべき事が見つからな
い。
﹁まあ、だからといってやって悪い事もないだろう﹂
595
目を瞑ると心の底から山形は祈る。どうかあいつらが世界の舞台
でも勝てますように、と。
この時山形監督も若いスタッフも忘れていた。アジアで戦う敵も
また世界への扉を開けようと必死な事を。そして、チームやメンバ
ーを変えられるのが日本チームだけの特権ではない事も。
︱︱そしてアジア予選第二ラウンド初戦、ヨルダンと戦う朝がや
ってきた。
596
第十四話 会場の熱気を感じてみよう
俺は通路からピッチへと出た瞬間、あまりの眩しさに目を閉じて
思わず手で日差しを遮った。
ここってこんなに明るかったっけ? 確か何遍か試合をした事の
ある筈の会場だが、これまでのどの時とも違う一種異様な雰囲気が
感じ取れる。
踏みしめたピッチの芝がいつもより柔らかく足下がふわふわと落
ち着かずに頼りない。真昼の太陽がなぜか普段よりもぎらついてい
るようで肌に痛く感じられる。半分も埋まっていないはずなのに観
客席からの歓声が轟音となって耳をつんざく。空気までもが薄くな
っているようでまだ試合が始まっていないのに自然と呼吸が荒くな
っていく。
︱︱これが代表戦か。
覚悟はしていたつもりだが、自分で体験してみないとこのプレッ
シャーは判らない。自分の着ている軽くて通気の良いはずのサムラ
イブルーのユニフォームが、何十倍に重量を増やしてずしりと体に
のし掛かっているようだ。
これまでのように学校のみんなや知り合いの父兄だけが応援して
くれているんじゃない。日本中のサッカーを愛するファンが俺達に
注目し後押ししているのだ。なるほど肩にかかるこの重みは日本中
からの期待の重さか。
時間が押しているのか会場のスタッフに促され慌ただしく整列す
ると、まずヨルダン国家が流れる。耳慣れない音楽に戸惑っている
と、続いて心の準備をする間もなくすぐに君が代がスピーカーから
597
流される。テレビでよく観戦するフル代表の時とは違って歌手はい
なかったが、起立した観客席から響く合唱にその渦の中心であるピ
ッチにいた俺達イレブンは体が揺さぶられた。
今までの体験とは何から何までスケールが違う。いつの間にか自
分の体が小刻みに震えているのに気がついた。これが武者震いって
奴なのかな。
俺はこんな場所でサッカーをやるために人生を繰り返したのかも
しれない。俺はボールを蹴っているだけで幸せになれる単純な人間
だが、それでも今自分が立っているのがサッカー選手にとっては特
別な位置であることは理解できる。
︱︱俺は幸せ者だな。本当ならば尽きていたはずの命があるばか
りか、やり直して最高の場所でサッカーがプレイできるなんて。な
らばこれまでの全てに感謝を込めて、全力を尽くしてプレイするべ
きだろう。
覚悟が決まると、ふわふわとしていた足の感触がいつものように
しっかりとしたピンと筋の入った物に戻る。少しだけ落ち着いて浅
くなっていた呼吸を深く吸い込んでいると、ちょうど君が代が終わ
り観客が着席する所だった。行儀は悪いかもしれないが横目でちら
ちらと敵を眺めて試合前のミーティングを思い出した。
◇ ◇ ◇
﹁まず第二ラウンド通過する為の条件をおさらいしておこう、はい
上杉﹂
山形監督は茶髪を棘のように立たせた頭をぼりぼりとかいている
少年に向かって質問する。
それにめんどくさそうに答えるのはうちのエースストライカーだ。
598
﹁そんなん予選全勝すればええんとちゃう?﹂
﹁⋮⋮うん、まあ間違ってはいないな。だが正確にはこの日本が入
ったグループの四チームの内一位のみが世界大会へのチケットを手
に入れられる。まあ二位でも勝ち点と得失点差が良ければ拾われて
他の地域との最後の椅子を争うことになるが、こいつは他力に頼る
ギャンブルだ。だからあくまで俺達日本は一位通過を目指す、いい
な﹂
﹁はい﹂
いかにも﹁聞いてへんで﹂と小指で耳をほじっている上杉と違っ
て、素直に頷く他のメンバーに満足げな顔をすると監督は言葉を続
けた。
﹁日本と同じグループに入ったヨルダン、中国、サウジアラビアは
どこも強敵だ。だがやはり日本の力が頭一つ抜けているだろうとい
うのが我々やメディアからの評価だ。そこで今日の試合だが、こん
なホームアンドアウェー戦う場合において格下とされているチーム
のほとんどが採用する鉄則と言っても過言ではない作戦がある。お
前らも判るよな。
そうだ、アウェーのヨルダンは間違いなく引き分けを狙って守り
を固めた作戦を採用してくるはずだ﹂
監督が予選突破までの大雑把な説明と試合前の最後の指示を与え
ようとしている。だが、ここで黙って聞いていられないのがうちの
チームメンバーだ。
﹁でも万が一ヨルダンが予想を裏切って攻めてきたらどーするんす
か?﹂
599
明智の疑問にいきなり話しの腰を折られたにもかかわらず、山形
監督は顔をしかめる事なく答えた。この選手の意見を封殺しないで
誠実に回答するだけでも前監督より俺好みな指導者である。
﹁その時は正面から殴り合いだな。お前らが一番得意な試合展開だ。
もし攻め合いをして勝てないなら、このチームでは例えどんな作戦
を立てても勝てんだろう。だが、点の取り合いでお前らが負けると
思うのか?﹂
﹁ワイのいるチームが殴り合いで負けるわけないやろ﹂
元ボクサーらしく上杉が殴り合いにはプライドを覗かせる。他の
メンバーもその意見には同意しているようだ。この超攻撃的に作っ
たチームが攻め合いで負けてたまるもんか。そう俺も自信を持って
言えるからな。
﹁ならヨルダンが攻撃的に来た場合の心配はせずに、相手が堅く守
ってカウンターに徹した場合だけ指示しておくぞ﹂
﹁はい﹂
チームの全員が真剣に山形監督の言葉に聞き入っている。そこに
監督が自信に満ちた笑みを浮かべた。
﹁ま、その場合もいつも通りにやればいいんだが﹂
﹁え?﹂
﹁この代表チームが一番たくさん練習試合をしたサブメンバーのチ
ームは、前の監督が採用していた三・五・二のカウンターチームだ
っただろう? あれは別に他に相手がいなかったんじゃない。予選
で当たる筈のカウンターチーム対策だ。だからお前らはもうその手
の作戦を相手にするのは充分に経験を積んでいる。心配せずともい
つも通りにやれば大丈夫なはずだ。まあ強いて言うなら⋮⋮﹂
600
﹁何でしょう?﹂
ほぼいつも通りでいいのなら、俺達に任せると言っている放任主
義の監督からの最後のアドバイスだけは頭に入れておくべき事だろ
う。
﹁練習しているサブのチームよりもっと引いて守るはずだから、D
Fを前に釣り出すためにもどんどんシュートを撃っていけ﹂
山形監督の言葉は引き分け狙いで自陣深く引きこもる相手に対し
ての作戦としてはもっともだ。もし今回の代表チームが普通であれ
ばの話だが。思わず俺は監督に向けて問いただす。
﹁うちのチームに対して普段よりシュートをさらに撃てと?﹂
手を横にしてその台詞を聞くや否や喜々としてアップを始めだし
たFW陣とプラスワンを示す。全員の目が輝き、その口からはぶつ
ぶつと独り言が漏れている。
﹁ワイの代表デビュー戦⋮⋮監督お墨付きのシュート撃ち放題の権
利なら、ハットトリックはもちろんもうちょい欲張ってもええな。
どうせならワイ以外がノーゴールなら一層目立つかもしれへん⋮⋮﹂
﹁ついに俺の初代表戦か、遅かった気もするがカルロスに代わる点
取り屋の初舞台にシュートの無制限とは気前がいい。監督も判って
るじゃないか﹂
﹁攻撃的サイドバックとして選ばれた俺には監督に従う義務がある。
監督の命であればシュートを常の試合以上に撃つのに躊躇いはもた
ない﹂
﹁ふふふ、左のウイングからサイドMFに下げられた時は、また影
が薄くなると心配したがここで大活躍すればまだ挽回できる。前監
601
督からも重用されていた俺の実力を今見せる時だな﹂
なんだか勝手に皆さんテンションが最高潮になってるんですが、
この熱くなったまま試合に出していいんですかね。そんな疑問を込
めて監督に視線を送るが、露骨に顔をそむけて山形監督はやや覚束
なげな口調で気合を注入する。
﹁い、いいか、さっきも言ったように実力はこっちの方が上だ。相
手が引き籠っていても強引に攻め続けろ。お前らにペース配分とか、
余裕を持った頭のいい試合展開なんかは最初から期待していない。
試合開始直後からアクセルを踏んで相手を押し込んでシュートの雨
を降らせてやれ。得失点差も俺達が二位になってしまう最悪の場合
では比べられる可能性があるから、点は取れるだけ取っておけよ。
とにかく相手がギブアップしたそうでも情けを見せず、アウェーの
地でも復活しないぐらい叩きのめすんだ、判ったな!?﹂
﹁はい!﹂
全員からの力のこもった返答に監督も満足したようで、髭面を綻
ばせてている。
﹁それじゃあ、自信を持って行って来い! お前らなら負けるはず
がない!﹂
﹁おお!﹂
◇ ◇ ◇
こんな感じで試合前のミーティングは終わった。ざっくり噛み砕
くといつも通り攻めろとロングシュートを撃てぐらいしか指示が出
てないよな。あの監督はちょっと放任主義が過ぎやしないか? そ
れとも俺達を信用してくれているのか?
602
両国の国歌が終わったのを機にイレブンで肩を組んで円陣を作る。
隣と触れ合う上半身が互いの熱で燃え上がりそうな錯覚を覚えるほ
ど熱い。
﹁じゃあ、キャプテンのロドリゲスから一言﹂
﹁⋮⋮絶対に勝つぞー! それと俺はロドリゲスじゃねーぞー!﹂
﹁おお!﹂
全員で叫んで散らばったが、今の﹁おお﹂って答えの中には少な
からず困惑の色が混ざっている。俺と同様キャプテンの名前がロド
リゲスで固定されているメンバーが少なからずいるようだ。しかも
ロドリゲスではないとだけ怒鳴っていたので元の名前が思い出せな
い。まったくあのキャプテンの本名は何て言ったっけ⋮⋮確か、さ、
さ、さ⋮⋮ロドリゲスでいいや、もう。
そんな些細な葛藤は頭を振って意識から消す。試合中に考えるよ
うな事じゃないからな。
アップで入れた体の熱を冷まさないように、小刻みに動かしなが
ら改めて試合会場を見渡す。
半分ほどの客の入りと言ったがそのほとんど全てが日本の応援だ。
観客の姿はほぼ青一色で、レプリカユニフォームか青い服をわざわ
ざ着てくれたんだろう。この会場にくるまでどれだけの手間をかけ
てくれたのだろうか、よく考えると本当に頭が下がるよな。
そんな青い人波の中に俺の母や真もいるはずなのだが、どこにい
るかはピッチからは判別できない。しかし、それでもまだ観客から
したら馴染みのない俺であるが、少なくとも二人だけは確実に応援
してくれる人がいると判っている分だけ心強い。
︱︱そして審判の試合開始を告げる笛が鳴り響き、俺と日本代表
603
の世界に向けての戦いが幕を開けた。
604
第十五話 日本は伝統を大切にする文化です
試合が開始され敵からのキックオフ直後、ざっと周囲を視認した
後でさらに鳥の目を使って脳裏のスクリーンでも確認する。
うん、相手が引き分け狙いだろうって言っていた監督の言葉に嘘
はないようだ。敵のヨルダンチームは形式的には三・六・一のフォ
ーメーションだが、実質はサイドMFが最終ラインまで下がってい
る五・四・一というDFを五人にした守備偏重の陣形である。
これならよっぽどの事がないかぎり俺達日本代表のゴールは割ら
れないだろうが、がちがちに人数をかけて守られた相手のゴールを
奪うのもまた容易ではないな。
オフサイドを取ろうとも思っていないのだろうか、敵のDFライ
ンは下がりきっている。さらにMFも上がる様子がないためにハー
フウェイラインより向こうは人口密度が随分と高くなっているぞ。
注意が必要な点としては相手は俺が初めて対戦する外国のチーム
なのがあげられる。これまでに外国人と戦った経験はブラジル人と
のハーフであるカルロスだけだった。いくらなんでも今日の相手に
はあんな化け物はいないだろうが、それでも違和感からくる警戒は
隠せない。
外国人選手というだけで気後れするつもりもないが、それでも試
合前に並ぶと日本人より成長期が早いのか平均身長でうちのチーム
を上回っていたようだった。まあ、日本のイレブンの中では俺と島
津がちょっとその平均を下げているのだが。
おそらく身体能力も比例して高いはずだから、イメージの中では
敵を高校生レベルと設定しておくべきだろう。つまりは今年度の初
めに俺が旧代表チームと戦った場合をスケールアップさせて考える
べきだ。
605
向こうの最終ライン近くで回されていたボールがいきなり前線へ
と蹴り出され、そのロングボールをヨルダン唯一のFWが拾いに行
く。おお、あいつ結構速いな。だがこっちの守備陣も数年前とはい
えカルロスのようなスピードスターと戦った経験があるのだ。少し
速いだけならたった一人に簡単に負けるわけがない。
一人のDFがFWをマークして走るコースを制限し、他の二人が
ボール確保とそのフォローと役割を分担してきっちりディフェンス
をする。
この敵のFWは背番号が二十番で明智が予想したスタメンには入
っていなかった。本来のFWは怪我でもしたのだろうか?
よし、キャプテンのロドリゲスがボールをキープして前を向いた。
相手チームのヨルダンはその孤軍奮闘しているFW以外は前線へプ
レッシャーをかけにはこなかった。結構このFWは足が速いために
少しは注意しておくべきかもしれない。だが明智の予想したFWは
向こうの国内リーグでの得点王だったそうだから、この代わりのF
Wがそれ以上の選手とは考えにくい。あまり警戒しすぎてこちらの
攻撃力が下がるのもいただけないな。
この一連の攻撃からするとヨルダンチームの総意としてはやはり
守備を第一に考えて、引き分け狙いであるのは確かであるらしい。
向こうの邪魔がほとんどないので、中盤の真ん中にいる俺までス
ムーズにボールが回ってきた。さてどうするか。
すでにこっちのチームは攻撃的にサイドの二人が上がって四・三・
三のFW三人体制へとフォーメーションを変化させている。
さらに、同じゲームメイカーである明智は相手の攻め気の無さを
見切ったのかいつもより前目のポジションへ移っている。ここまで
敵からのプレッシャーが緩いと普段より攻撃的に行くつもりのよう
606
だ。
ではお手並み拝見と明智へとパスを送る。
さすがにこれ以上ボールを持ったまま侵入させる訳にはいかない
と思ったのか、敵のボランチがその明智にすっと寄ってくる。
敵が寄せきる前に俺へとボールが返された。明智が数歩下がると
それに応じて相手もまた後ずさり、自分のポジションに戻る。ふむ
ハーフウェイラインを超えて少し進むと、敵の守備陣がアクティブ
になる︱︱つまりマークがつくようだな。
最前線にいる上杉などはDFに完全に囲まれているようで、パス
を通すのさえ難しそうだ。上杉ほどではなくても山下先輩や左のウ
イングにもきっちりとマークが張り付いている。
スリートップが完全にマークされているのだ、普通ならば攻め手
に詰まりここでどうするか考えるだろう。だがうちのチームにはも
う一人FW以上に攻撃的な選手がいるのだ。
﹁行け! 島津さん!﹂
俺の声に応えるようにサイドから駆け上がる小柄な影が。その前
のスペースにボールを通す。
中央へ寄った山下先輩に釣られ、右サイドは少しだけ手薄になっ
ている。もちろんそれでも普通の陣形よりは堅いが、それでもDF
というよりサイドアタッカーと呼ぶのがふさわしい島津なら突破で
きるはずだ。
ヨルダンのDFの一人が中央から島津を止めようとしてサイドに
開いた。だが島津は逆にその隙を逃さずにスピードを殺さずに最終
ラインの中央へとカットインする。
島津へパスが渡った瞬間にゴール前に集まってきた味方のFWを
一顧だにせずそのままシュート体勢に入る。その躊躇いのなさにヨ
607
ルダンディフェンスはついていけない。前線の日本のFWに張り付
けたままのDFを無駄駒にして、島津を捉えきれずにシュートを撃
たせてしまう。
確率が低い場所からでも気にせず強引にゴールを狙える積極性が
島津の長所であり短所でもある。
この時も島津の撃ったシュートはゴールの枠を捉えていた。だが、
少しだけゴール前に敵の人数が多すぎた。そして運もあちらにあっ
たようだ。
シュートは相手の長身DFにぶつかり、あえなく勢いを失ったボ
ールはキーパーの手に収まってしまう。
その瞬間になぜか強烈な寒気が背筋を走り、俺は考えるより早く
後方へとダッシュする。その反射行動の理由は鳥の目が教えてくれ
た。
俺の嫌な予感を裏付けるように、相手キーパーが思い切りパント
キックで日本チームの奥深くまで蹴り込んだのだ。
ハーフウェイラインでワンバウンドしたボールは俺達の陣地の右
サイドへと転がっていく。攻めに出たせいで日本の守備の枚数は少
ないが、それ以上に敵の攻撃人数は少ない。だがキーパーは迷わず
に決まっていた事のように蹴った、ほぼワントップであるFWしか
前線へ走ってこないにもかかわらず、である。
だが、そのただ一人のFWが並ではなかった。キーパーがキック
した途端にアクセルを全開にした勢いで走り出したのだ。おそらく
練習を何度も繰り返し、試合前から入念に打ち合わせてあった奇襲
なのだろう、キーパーからのボールが蹴られるコースを事前に察知
しているからこその反応の早さだ。
そしてスタートの早さだけでなく、追いつこうとするDFを振り
切るだけの加速も備えている。
608
︱︱こいつさっきのカウンターでは三味線弾いてやがったな!
前回の攻撃から想定されるスピードより今度の方が格段に速い。
こんな奇襲は日本がヨルダンの攻撃に油断した後、そしてDFによ
ってFWの能力が見抜かれる前という微妙なタイミングでしか成立
しない。そのほんの僅かな隙を突かれてしまった。
慌てたDF達がボールを奪おうとするよりゴールまでのルートを
遮ろうとするが、それより一拍だけ遅れて相手FWがミドルシュー
トを放つ。
結果は日本にとって最悪な物となった。島津のシュートの時から
ずっと運はヨルダンへと味方しているな。
ブロックしようとしたロドリゲスの足に当たったシュートは角度
を変え、キーパーの逆をつくコースへとなってころころとゴールの
内側へと吸い込まれたのだ。
え? 本当に?
呆然と立ち尽くす俺達日本チームを尻目にヨルダンのイレブンが
喜びを爆発させている。いや、ピッチの外に出て監督やリザーブメ
ンバーとまで抱き合って叫び声を上げてやがる。
この試合会場のほんの僅かな一角、ヨルダンのチームカラーであ
る白く染まった観客席から叫び声とさっき歌っていた国家が歌われ
ている。中には涙を流してヨルダンの国旗を振っている人間までい
るようだ。
︱︱ああそうか、こんなに期待されてたらそりゃ必死になるか。
奥歯が軋むほど噛みしめた。なにが普通にやれば勝てるはずだ。
俺は何遍同じ失敗をやれば気が済むんだよ。
向こうが全力でやっているのにこっちだけが余裕持ってやってい
る場合じゃないだろうが。俺は決して油断していたつもりはない。
だが、相手を格下だと思っていたのは事実だ。
609
敵の戦術とメンバーチェンジそれに覚悟を軽視しすぎていた。た
ぶんあの二十番のFWはヨルダンで一番決定力があるFWではなく、
一番足が速いFWだ。攻撃はカウンターしかないと割り切って、そ
の数少ないチャンスを成功させるために賭になるのは承知で選手を
入れ替えたんだ。
これから先おそらく向こうは必死で守ってくるだろう。こちらは
あの鋭いカウンターを喰らうリスクを背負って最低二点は取らなけ
ればならない。
それができるのか? 当たり前だ。少しだけ弱音が顔を出しそう
になるが、無理やり胸中で押さえつける。このぐらいの窮地でテン
パるほど俺は脆弱ではない。大丈夫だ、絶対に。そう自分に言い聞
かせていると、傍らに誰かの立つ気配がした。
﹁油断大敵っちゅー事やな。ま、こんぐらいはワイのゴールショー
で盛り上がる前座にはちょうどええか﹂
強気な口調の上杉だが、その声からは硬さが抜け切れていない。
﹁終わったのを悔やむより、さっさと同点にするぞ。パスをよこせ
よアシカ﹂
小学生時代と変わらず内弁慶だと分析していた山下先輩が足を震
わせながら、俺の背中を叩く。
﹁今度は必ず得点してみせる。また先ほどのようなパスをお願いす
る﹂
カウンターの原因になったにもかかわらず、堂々とボールを要求
する島津。その顔色はいつもより青白い。
610
﹁このチームでやってて一点取られたぐらいでへこんでもしょうが
ないっす。さっさと切り替えるっすよ﹂
手を叩いて周りを鼓舞する明智も声が上擦っている。
彼らも俺と同じで今日が代表デビュー戦だったはずだ。それでも
空元気を張って弱みを見せようとせず、闘う姿勢を崩していない。
そして以前からの代表組は﹁よくあることだ﹂と苦笑いをしただ
けで自身が受けているショックは外見には映し出さない。俺は旧代
表組を過小評価していたようだ。少なくとも国際試合においての経
験値は俺みたいな代表ドロップアウトした人間よりよほど豊富なん
だよな。
そうか。俺達はまだ強くなっている途中なのだ。そしてこんな試
合を乗り越えればまた一つ強くなれるのだろう。
俺って実はチームメイトに恵まれているのかもな。言葉には絶対
出せないクサい事を思い、チームメイトに負けずに胸を張って大声
を上げる。
﹁せっかくヨルダンが俺達をヒーローにするために盛り上げてくれ
たんですから、今度は日本の観客にファンサービスする時間ですよ
ね。ここから逆転するのが応援に来てくれたサポーターへの礼儀で
しょう﹂
そこで改めて周りにいるメンバーに声をかける。特に外見はとも
かく一番ショックを受けているであろうサイドバックの島津に対し
てモチベーションを上げてやらねば。
﹁もう判っていると思いますが、敵はカウンターでロングボールし
か放り込んできません。敵がボール取っても以前の攻撃的な陣形の
四・三・三のままでいてください。そして、島津さん。あなたの守
611
備の穴を突かれて失点したんですから、少なくとも一点取り返して
くるまでディフェンスに戻ってこないでくださいよ﹂
﹁⋮⋮承知した﹂
俺の言外の﹁今の失点は気にせず、これまで通りに攻め上がれ﹂
という意味を理解したのだろう。ちょっぴりと硬さが解けた島津が
微笑む。
﹁ハットトリックで借りを返そう﹂
⋮⋮いや、誰もそこまでは要求してないんですが。
﹁それにロドリゲスもブロックしなければ良かったとか、入るタイ
ミングとコースが悪かったとか、敵のFWのスピードを見誤ってい
たとか気にしないでいいですよ。今のは交通事故みたいな物です﹂
俺が親切に声をかけたにもかかわらず、渋い表情になる。むしろ
声をかけられる前までの方がダメージがなかったようだ。
そんなロド⋮⋮代表キャプテンが思い出したような顔つきで新加
入メンバーを呼び寄せる。なんだろう、もうすぐ試合が再開される
から早く済ませてほしいんだが。
﹁日本代表に伝わる伝統でな、初代表でリードされた人間がいる場
合には必ず伝えろと先代のキャプテンから言い含められているんだ﹂
深く息を吸ってしっかりとした声で喋りかける。DFを統率する
だけにその声は張りがあって聞き取りやすい。
﹁リードされた時下を向くなスタンドを見ろ、そこには日の丸があ
るはずだ。失点して悔やむ時泣き言を聞くなスタンドに耳を傾けろ、
612
そこからサポーターの祈りが聞こえてくるはずだ。厳しい状況かも
しれないが、ここにたどりつけなかった多くのサッカー選手の希望
を踏みにじるな。お前たちは日本で一番サッカーが上手い人間だか
ら日本代表に選ばれたんだ、このプレッシャーを感じられるのは代
表に選ばれたからこそだ。存分にその重圧を味わえ﹂
そう言うと今度は旧代表が全員で声を合わせた。
﹁日本代表へようこそ!﹂
その綺麗に揃った声に思わずぱちぱちと拍手をしてしまう。
⋮⋮たしかに硬さはとれたが、こんなリードされた時用のパフォ
ーマンスをやる伝統を守っている国って他にあるのかな? 613
第十六話 たくさん得点するコツ? たくさんシュートする事や
な
初代表で敵にリードされたメンバーがいる場合限定の日本の伝統
儀式をしたおかげで、僅かに士気が上がり俺も落ち着いた。うん、
これだけでもあの伝統のメッセージには意味があったな。
俺達日本代表はセンターサークルにボールを置いて自陣のポジシ
ョンにつく。
本当はこれだけの観客を前に失点した悔しさと恥ずかしさで俯き
たいのだが、日本のチーム全員が無理をしてでも胸を張って敵チー
ムであるヨルダンを見据えていた。
その悪びれない態度に観客席の一部からは﹁失点した責任感じて
るのかー!﹂とか﹁負けているくせに格好付けるな﹂といった野次
も投げかけられるが、それは圧倒的に少数派だ。
有り難いことに会場内のサポーターのほとんどが﹁ニッポン!﹂
と息のあったコールをかけて手拍子までして俺達を後押ししようと
してくれている。
たぶんどこかで母や真も手を真っ赤にして声を枯らして応援して
くれているのだろう。そんな想像するだけで、一点取られる原因と
なった余裕を持ちすぎた自分の馬鹿さに対する後悔と、絶対に逆転
しなければならないという決意が胸に刻み込まれる。
おそらく今の代表チームの頭上には陽炎が立ち上っているのでは
ないか? そんな風に思うほど気迫がにじみ出ている。理屈じゃな
く思い知らされたのだ、俺達が点を取られるっていうのは日本とい
う国が殴られるって事だと。
冷静に考えればサッカーはスポーツで政治や国の威信などとは無
関係なはずである。だがプライドをかけて戦っている本人達にとっ
614
ては紛れもなく戦争だ。初めて代表でプレイするメンバーは俺を含
めてようやく戦争をする準備が整ったのだ。
そりゃ向こうは戦争のつもりだったのに、こっちが喧嘩程度の気
迫じゃ失点もするさ。
だがカウンターでの失点は俺達のちょっとした隙もあったが、そ
れよりもヨルダンを褒めるべきだと俺と明智のゲームメイカーの意
見は一致している。おそらく彼らはボールを持って二回目のあのカ
ウンターだけに全てを賭けていたのだろう。一回目でFWのスピー
ドを偽り、DFの穴を探す。そして二回目でその穴に向かってFW
を走らせキーパーはそこにコントロールしたロングキックで送る。
最後にトップスピードにのったFWは何が何でもフィニッシュまで
持っていくと。その為にだけにスタメンのFWを変更までしたのだ。
そして最後まで彼らのシナリオ通りにやられてしまった。
ぱしん! と乾いた音が響くぐらいに、いつもの気合を入れる儀
式である自分の頬を叩く。
見ていろよ、ヨルダン。これからの俺達は一味違うぞ。
◇ ◇ ◇
うわーっと周りのお客さんが総立ちで絶叫する。私も息を止めて
身を硬くして拳を握ってピッチを見つめる。
だが、今回もまた日本のFWのシュートは守っているヨルダンの
選手に防がれてしまう。
﹁ああっ! もうなんで入らないかなー﹂
何度目になるか判らないほど得点チャンスを逃している日本対し
615
て思わず口を突いたグチに、隣にいたアシカのお母さんが目を瞑っ
たままぐっと身を縮こまらせて﹁真ちゃん、日本はまだ負けてるの
?﹂と問う。
﹁ええ。んと、でもさっきアシカが自分のほっぺを叩いて気合入れ
てたから、すぐに逆転しますよ!﹂
﹁そうだといいんだけど﹂
とおそるおそる目を開けてピッチを眺めるその姿はかなり不安げ
だ。アシカのお母さんと一緒に応援に来たのは初めてだけど、こん
なに心配性だったのかな?
そんな私の疑問を感じたのか﹁ごめんなさいね、真ちゃんには迷
惑かけて﹂と小声で謝るアシカのお母さんに﹁ん、何の事だかさっ
ぱりです﹂と言い張って話を聞かなかったふりをする。﹁最近あの
子が注目されるようになったら、あの子の周りが敵も味方も大きい
子ばかりで直接見るのが怖くなっちゃって⋮⋮﹂と小声で他にも付
け加えようとしたのだろうが、また場内から沸き起こる絶叫にかき
消される。
﹁ああ! 敵のカウンターが!﹂
またやたらと足の速い敵のFWが敵陣からのロングパスを受けよ
うとダッシュする。なんで肌が褐色の人ってだけでスピードがあり
そうに見えるのだろう? そんな疑問が頭をかすめるが、日本のピ
ンチにぐっと拳を握りしめてしまう。が、頑張れ! 守備の人達。
あ、よかった。キーパーの人が前へ出てボールを外に蹴りだした。
ふう、まったく心配させないでよね。手の中が汗でぐっしょりに
なっちゃうよ。
敵に攻められているシーンじゃなくてアシカが活躍している姿を
見に来たのに、今まではあんまり良いところがないじゃない。やっ
616
ぱり他のチームメイトに比べても背も低いし、苛められたりしてな
いのかなぁ。アシカって成績はいいから頭もいいはずなのに、人間
関係では不器用だから心配だよ。
あ、アシカがボールを持った! そこだ、行け! ってなんです
ぐにパスしちゃうんだろう。パスもらった相手がすぐシュート撃っ
ちゃうから、アシカが目立てないじゃないか。ん、またアシカから
のパスをダイレクトで撃ったぁ! もうっしかもキーパーに取られ
ちゃったじゃない! 自分達ばっかり美味しいところ取りしないで、
アシカにも撃たせてよぉ。
◇ ◇ ◇
なかなかゴールに入らねぇ。
時計で前半の残り時間が十分を切っているのを確認する。着実に
経過していく試合時間に俺は努めて苛立ちを表すまいとしているが、
うちのFWが分厚いヨルダンのディフェンスに跳ね返される度に舌
打ちしてしまう。
俺自身の調子はいいのだ。俺ができるだけ少ないタッチで配給す
るパスからは、そのほとんどの受け手がフィニッシュまで持ってい
けているのがその証拠である。フリーの選手を見つける目とパスの
精度はほぼ完璧だ。ただその後の日本のシュートが問題なのだ。
向こうが人数に物を言わせてゴール前に築いた壁が多すぎるし、
FWにはつねにきっちりとマークがくっついている。
こぼれ球を狙おうにもヨルダンにとって危険なバイタルエリアに
は、ボールを拾い集めるのが自分の任務だと決心しているようなア
ンカー役が二人もいるのだ。
ちょっとやそっとの揺さぶりではゴールまでの道は開けない。
617
だが攻めにくいからとここで睨めっこをしていても仕方がない。
また後方からのボールを預かる俺は、トラップするまでにちらりと
明智へと視線を走らせる。その意図を了解したのか、明智が一瞬前
へ出る素振りでマークを引き付けるとすぐ後方へと下がる。
それと連動するつるべの動きで逆に俺がドリブルで前へ出た。 今までずっとパスを捌いてばかりだった俺の突破と明智に気を取
られた事で、マークがつくのが距離にして数メートル、時間にして
二・三秒遅れる。
それだけあれば俺がゴールを狙うのに充分な余裕だ。ミドルレン
ジからの人が多い中への強引なシュートを放つ。
これは俺にとっては本来のプレイスタイルではない。いつもはも
っと確率が高く、スマートな方法を探すのだが今回は特別だ。自分
の危険性と中距離からの脅威を示すためにも多少は無茶なプレイを
して、相手DFに警戒心を抱かせてペナルティエリアの外へ釣り出
さなければならない。
だからといってこのシュートは威嚇だけが目的ではない。きっち
りと守備の隙間を狙ったゴールを奪うつもりのキックだ。入るのな
らばそれに越したことは無いが、外れても相手にとって脅威になる
だけの威力と正確性を備えていなければならない。そのどちらも兼
備したシュートである。
ミートした感触は良好、コースもキレも狙った通りだ。
だが、俺にとっては会心であったシュートはキーパーのパンチン
グによって弾かれた。くそ、壁役のDFが多い分撃つコースが限定
されていたのを察知されていたか。
しかし、ようやく日本にも運が向いてきたのかそれとも才能なの
かそのこぼれ玉に詰めていたのはうちの上杉だ。点取り屋としての
嗅覚でいち早くボールが跳ね返る場所に足を伸ばして何とか保持は
できたのだが、押し込むには角度が悪く二人のマークも外せていな
618
い。
その瞬間にゴール前にノーマークの小柄な影が現れた。島津のも
う何度目か判らないオーバーラップだ。
よし、このキーパーが体勢を立て直していない場面で島津にパス
が渡れば決定的だ。上杉、パスを出すときはオフサイドに気を付け
ろよ。
スリートップに加え、俺にまでDFが分散した絶妙のタイミング
での島津の出現を、上杉が気がついた様子にようやくゴールだと確
信する。
そして上杉はパスする事なく崩れた体勢と無理な角度のまま自分
でシュートを撃った。
そのシュートは上杉をマークしていたDFにぶつかり、ボールは
ゴールラインから出る。
⋮⋮今のは島津にパスするべきだっただろうが!
﹁おい、上杉さん! 何してるんです!﹂
﹁ん? なんやFWがシュート撃ったらおかしいんか?﹂
額の汗を拭いながらふてぶてしい顔をする上杉に神経がささくれ
立つ。
﹁ふざけてる場合じゃないですよ。あんたはこの前半だけで何本シ
ュート外してると思っているんですか? いくらマークが厳しいと
はいえもう五本目ですよ!﹂
﹁もう、そないになっとるんかぁ⋮⋮﹂
上杉もまだ前半の内なのに五本連続で外しているのに驚いたらし
い。ちょっと目を丸くしていたが、すぐにそれをにんまりと細める。
619
﹁じゃあそろそろ入る頃合いやな﹂
⋮⋮こいつのメンタルは実に点取り屋向きな、空気を読めない鋼
の精神を持っているようだ。ストライカーとしては羨ましい性格だ
が、友人として付き合うのは大変そうな超マイペースな奴だな。
﹁⋮⋮シュートを撃つなとは言いませんが、せめてもう少し周りを
使ってくださいよ﹂
﹁おう、オッケーオッケー。ほらコーナーキックがくるで。後で話
は聞いたるさかい、俺の得点チャンスの邪魔せんといてな﹂
⋮⋮まったく他人からのアドバイスを聞き入れる気がなさそうだ。
奥歯をきつく噛みしめる事で溢れ出しそうな怒鳴り声を押さえ込み、
明智の蹴るコーナーキックに適したポジションへと少し後ろに歩み
を進める。
︱︱本当に上杉はこのチームに必要なのだろうか? その疑問が
胸中に浮かぶ。しまったそんな事は試合後にでも考えようか、今は
このコーナーキックに集中せねば。
明智からのコーナーキックはショートコーナーで、すぐ近くに控
えていたうちの左ウイングへのパスだった。平均身長の高いヨルダ
ンDFがほぼ全員ペナルティエリア内でおしくらまんじゅうをして
いるような状況では、素直にゴール前へ高いボールは蹴れなかった
のだろう。
ちょっとしたアクセントにディフェンスが少し緩むが、まだセン
タリングをあげられる状況ではない。
悔しそうな表情で一端後ろの俺に戻す。
鳥の目を使ってもここまで混雑するとパスコースが見えてこない。
だが、そんな人混み中で唯一俺へのボールを要求している少年がい
た。あいつはボールを受けとるポジション取りは絶妙なんだよな。
620
つい反射的にパスを出すが、受け取った上杉はマークを外しきれ
ていないどころかすぐ二人に囲まれてしまう。いかん、またさっき
の二の舞になるぞ。いや、こりないのは上杉だけじゃない。またあ
いつが駆け込んでくる。
﹁上杉さん、右!﹂
俺の声に体を張ってボールを守りながらも右に走り込む島津を見
つけたようだ。今度は上杉の頬に笑みが浮かび島津へ顔を向けると、
さっきのプレイで学習したのかパスしようとするみたいだ。しかし、
パスに慣れていないのかどうにも動きがぎこちない。馬鹿! あれ
なら囲んでいるDFに読まれてしまうぞ。ただでさえ、さっきのオ
ーバーラップで島津への警戒が増しているのに。
案の定相手のDFの一人が島津とのパスコースに割り込んだ。
すると上杉は笑みを浮かべたまま、空いたDFの隙間からゴール
へ向けて自分で蹴り込んだのだ。
顔も体の向きも半分は島津の方へ向いていた。一人は外れたとは
いえもう一人のDFに密着マークされていた。ついさっきに同じシ
ュチエーションで得点できなかった。
そんな事は上杉にシュートを躊躇わせる理由にはならなかったよ
うだ。
空気を読まない少年から放たれたシュートはDFの影に隠れ、キ
ーパーが反応する間もなくネットを揺らしていた。
上杉の野獣の雄叫びとそれをかき消すほどの大歓声がピッチを覆
う。待ちに待った同点弾に俺たち代表メンバー全員が上杉の背中を
叩き、つんつんと掌を刺激する彼の髪を一撫でしていく。もううち
のチームには誰も上杉の叫んでいる姿を怖がる者はいない。
思う存分に吼えてサポーターにアピールすると気が済んだのか、
621
上杉は興奮の残るぎらついた目で俺を呼ぶと手荒く頭と髪をぐしゃ
ぐしゃに撫で回す。
﹁な、何するんですか﹂
﹁ちょっとした礼や。パスくれたさかいアシカの言う通りにちゃん
と周りを使ったやろ﹂
⋮⋮こいつの周りの使い方は俺とはまるで違うな。どこまでいっ
てもこいつの発想は﹁周りを使って自分が点を取る﹂という考え方
でしかない。
だけど、チームに一人はこんな空気の読めないFWがいると頼り
になる。
とにかくさっき頭を悩ませた疑問の答えは出たな。上杉は間違い
なくこのチームに必要な仲間だ。
622
第十七話 敵の攻撃は全て見切りました
ハーフタイムになりロッカールームへ引き上げる日本代表の足取
りは軽い。
まだ逆転まではしていないとはいえ、前半終了間際という時間帯
に上杉のゴールで同点に追いついたからだ。ヨルダンにリードされ
たままで後半を迎えるという最悪の展開は免れる事ができた。もし
そんな事態になっていたら、後半はもっとがちがちに引き籠った相
手だけでなくホームで負ける訳にはいかないという重圧とも戦わね
ばならなかった。
もちろん欲を言えば相手のFWのスピードを見誤らなければ最初
の失点は防げたはずだし、運がこっちに向いていれば得点も何点か
上積みできていてもおかしくない。だが、そう自分達の思い通りに
上手くいくはずがないのがサッカー、それも国の面子を賭けた代表
戦である。
そんな事は百も承知のはずだがそれだけで済ます訳にもいかない
立場なのだろう、一斉にベンチに座ってスポーツドリンクを飲むス
タメンを見る代表監督である山形の髭面は厳しい物だった。
﹁お前ら、前半の内に勝負をつけてこいと言っていただろう。時間
ぎりぎりで同点に追いついたってのはどういう事だ﹂
腕組みをして監督がキャプテンであるロドリゲスを見つめて雷を
落とす。おそらく一罰百戒を狙ってキャプテンをその損な役目にし
たのだろう。
﹁特に真田、あんな単純なカウンター一発で得点されるなんてお前
623
らしくないぞ。クレバーで堅実な守備がお前の持ち味だろうが。後
半はあの二十番のFWに仕事をさせるなよ﹂
﹁はい﹂
あ、そうだ。うちのキャプテンはロドリゲスじゃなくて真田だっ
たなぁ。試合が開始する間際に喉に刺さった小骨が今ようやくとれ
たようなすっきりした感覚になった。他にもドリンクを飲んでいた
顔を跳ね上げ、やたら晴れ晴れとした表情になったメンバー達がい
たからきっと彼らもようやくキャプテンの本名を思い出せたんだろ
う。特に意味はないが、お互いが顔を見合って親指を立て合うと微
笑みをかわす。うんうん、仲良きことは美しき哉。
そんな隣で無言の内に育まれている友情劇を気にも止めず、表情
を引き締めたロドリゲス︱︱じゃなかった真田キャプテンは山形監
督に短く答える。
﹁これ以上あいつには一点も取らせません﹂
﹁あ、それついてなんですが﹂
あえて空気を読まずに監督とキャプテンの対話に軽い調子で口を
挟む。油断は禁物だがヨルダンからの攻撃はそれほど深刻な問題じ
ゃないという雰囲気を意識して作らないと、チーム全体が委縮して
しまいかねない。監督もそれ理解したのか、黙って続きを促した。
﹁あのFWの弱点は前半で見切りました。後半もヨルダンのメンバ
ーチェンジがなければうちのディフェンスなら大丈夫でしょう﹂
﹁ほう、どんな弱点だ?﹂
まず監督が食いついたが真田キャプテンも︱︱まだしっくりこな
いなこの呼び方︱︱興味をもってこちらに注目している。
624
﹁あの二十番はたしかに足が速いんですが、ドリブルはそんなに上
手くないんですよ。もしかしたら陸上の短距離からの転向組かもし
れませんね、身体能力に比べてボールコントロールの技術が低いん
です。前半もボールを持たせるとかえって突破力が落ちてました。
ボールを持っていない状態でマークする相手をスピードで振りきる
事はできても、ドリブルで抜くのは無理でしょう。ですから、DF
はロングボールが出れば彼とよーいドンでボールの落ちたスペース
へ競争するんじゃなくて、むしろ二十番がボールを拾ってからゴー
ルまでのコースをカットするようなマークの仕方をすれば振り切ら
れることなくあいつを止められますよ﹂
﹁ふむ⋮⋮﹂
監督がちらりと真田キャプテンと視線を交わして考え込む。たぶ
ん前半の相手のカウンターのシーンでの二十番のプレイを頭の中で
リプレイして、俺の意見を検証しているのだろう。
しばらくして納得がいったのか一つ大きく頷くと、山形監督は真
田キャプテンに向かって﹁その方向で守るようにしろ﹂と告げた。
真田キャプテンも異存はないようで﹁判りました﹂と俺からの提案
を受諾する。
﹁よし、それに武田﹂
と監督が控えの大柄な選手を呼ぶ。げ、どこかで見覚えがあると
思ったら、合宿初日の練習試合で上杉と殴り合いの乱闘騒ぎ起こし
た屈強なDFじゃないか。
﹁お前がうちのDFでは一番体が強い。後半出場させるから二十番
のカウンターを追っかけずに深く守って体で止めろ。いいな?﹂
﹁はい﹂
625
意外に素直に答える武田にちょっと乱暴者との印象が変わる。ま
あ、チームメイトなんだし良い方へ印象が変わるのならばオーケー
か。
それに実際に練習試合で敵として何度も戦った感触からしても、
細かな連携はともかくDF個人の能力ではスタメン以上だったよう
な気さえする。オフサイドトラップのようなDF間の意志疎通が必
要な守備をするのでなければ、このメンバーチェンジはありだ。
よし、これで後半もヨルダンがカウンターだけなら日本の守備は
心配ない。後ろの憂いなく俺は自分の役割を攻撃にシフトできる。
問題はシュートの数のわりになかなか得点できない攻撃の方だが、
こっちも打開策は一応考えてある。もっとも前半の内に上杉という
日本代表のエースが一点取っておいたからこそ実行できる作戦だが。
﹁では攻撃に関しては上杉さんを囮にする作戦を提案します。これ
までのシュート数の多さでヨルダン側も相当上杉さんに警戒心を持
っているでしょうし、実際に得点したのも彼だけです。ですから後
半は前半以上にタイトにマークがつくでしょう。そこで少しマーク
が緩むはずの他のFW達の出番という訳です﹂
﹁おお、任せろ! 最初から俺にボールを回していたらもっと楽に
逆転してたと言わせてやるぞ﹂
﹁目立て無かった左サイドの僕がようやく活躍する番か﹂
﹁それを言うなら今まで我慢していた右サイドの俺も気張らざるえ
ないな﹂
俺から後半のキーマンに指定された二人は﹁ふっふっふ﹂と不適
な笑みを浮かべている。それに加わっている島津だが、なぜFW達
との呼びかけに自然とこいつが混ざっているんだ? それにあれだ
け上がっていてまだ我慢していたのか? それでも山下先輩も島津
ももう代表デビューのプレッシャーは感じていないようなのは好材
626
料だな。
だがここですんなりと収まらないのがうちのエースストライカー
だ。
﹁ワイに囮になれっていうんか?﹂
本気やったらただで済ませへんで、と味方に対しても迫力を滲ま
せる上杉に﹁ああ、上杉さんは今のままのプレイでいいですよ﹂ど
うどうと彼の前に両手の掌を突き出して落ち着かせる。だいたいこ
の人がおとなしく自分を囮に使う作戦が実行できるとは思えない。
﹁上杉さんは前半同様に最前線で張っていてくれれば、敵はどうし
てもそっちに注意が逸れますからその隙を利用しようって事です。
上杉さんはむしろ今まで以上にがんがん攻めてマークを引き付けく
ださい。後は他の攻撃陣がゴールしますから﹂
納得いかないのか顎に手を当ててしばらく唸っていたが﹁ワイは
別に点を取ってもええんやな?﹂と確認してきた。そりゃあもちろ
んだ。予定とは違っても日本に点が入るのなら拒む理由はどこにも
ない。
﹁はい、マークが厳しくなりますが得点できるならそれに越した事
はありません。でもかなり難しいですよ﹂
とあえて煽るような言葉で受け入れた。俺の言葉を耳にした途端
ピクンと上杉の肩が跳ね上がりかけたが、深く息を吐く武道で言う
息吹のような呼吸をすると唇の端だけをつり上げて﹁ならええ﹂と
頷いた。よし、これで上杉はもっと点を取ろうと活動し、最前線で
敵を集めてくれるだろう。
そこに、こほんと咳払いの音が。
627
咳をしたのは存在感を失いかけた山形監督だ。
﹁ん、ん、あー俺の言いたい事はほとんど足利が喋ってくれたよう
な気がするが、最後に一言だけ付け加えさせてもらおうか﹂
そう言葉を切るとロッカールームにいる全員を見渡して、厳しい
表情を崩して少し照れたような笑みを刻む。
﹁開始前に言ったよな、日本の方が強いって。普通にやれば勝てる
って。あれは油断だったかもしれないが、今のお前らの話し合いを
見て確信したぞ。このチームは強い、しかも試合開始前よりずっと
強くなっている。だから改めて言っておく。お前達は普段通りのプ
レイを足利の作戦に沿ってすればいい。それで勝てる。勝てなかっ
たら責任は俺が取ればいいだけだ。日の丸の誇りを胸に全力でプレ
イする事、それだけを考えて自信を持って後半の三十分で叩きのめ
してこい。判ったな?﹂
﹁はい!﹂
控えのメンバーも加えて全員の声が綺麗に揃う。イレブンの士気
は最高潮、俺のコンディションも万全で故障やスタミナ面での問題
は何一つない。これなら後半はもっと積極的なプレイができそうだ。
せっかく代表に選ばれたんだから、今俺のできる全力を尽くさな
ければもったいないよな。
そんな決意の後押しをするように今日の俺はよほど体調がいいの
か、すでに試合の半分は戦っているのに自分の胸の中から熱いエネ
ルギーが無限に産み出されているようだった。小学生時代は体力不
足でフル出場するのさえ困難だった俺が随分とまあ成長したものだ。
これなら観客席にいる二人にも格好いい所を見せて、代表でやっ
ていけるかどうかという心配を一掃する事ができるかもしれないな。
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そんな皮算用をしている俺はこの試合中に格好いい姿ともっと心
配させる姿の両方を見せて、より彼女達に心労をかけることになる
のだが、それはまた後の話だ。
629
第十八話 蹴る、絶対に俺が蹴る
後半に入ったがヨルダン側のメンバーチェンジはない。もしかし
たらFWの二十番を代えて、本来の向こうのエースストライカーを
投入してくるかもと予想していたが、それは杞憂だったようだな。
攻撃も相も変らぬロングボールからのカウンター一辺倒しかして
こないつもりなのか。だが、こちらの守備にはもう通用しないぞ。
後半から出場した武田というDFがきっちりと攻撃を潰している。
格闘家のような外見を裏切らずにパワーに優れ、ぶつかり合いに
絶対の自信を持つ彼が密着マークするのではなく距離を取ってボー
ルを持たした上で体で止めている。
敵の二十番のプレイを見る限りではハーフタイム中に立てた作戦
と武田のパワーで、ヨルダンからの攻撃は問題なく抑えられるはず
だ。
ただ彼がフィニッシュまで行かずにアシスト役になって、他のヨ
ルダンチームのメンバーが押し上げてきた場合の備えだけはしてお
かねばならない。
引き分け狙いでカウンターに徹している現在はそんな事はないだ
ろうが、これから日本が逆転すれば向こうがパワープレイで点を取
りに来る可能性もある。警戒心は残しておくべきだろう。
だがそれは逆転してからの話だ。今は多少のリスクを背負ってで
もホームの俺達が攻撃を強めなければならないからな。
明智とアイコンタクトしてじわりと二人ともポジションを上げて
いく。なんだか同じ中盤の明智とは顔を見ただけでサッカーに関す
る事ならある程度判り合えるようになっている。
アンカー役に中盤の守備のほとんどを任せて、ゲームメイカーで
630
ある俺達まで上がってきたんだ。相手のヨルダンもマークが足りな
くて互いに怒鳴り合っていた。日本のパスの出所を抑えようとして
か、前半よりもプレスをかける位置を前に持ってきたのがかえって
混乱を呼んでいる。
危険な上杉には常に二人のDFを張り付けておきたいだろうし、
他のFWにもマンマークが必要だ。さらにサイドの警戒もしてバイ
タルエリアのケアもやっている。その上で俺達二人にマークをつけ
るなどどうしても人数が足りなく、ディフェンスの割り当てを変更
しなければならない。
でもこちらはヨルダンの守備が整うまでの時間は与えるつもりは
ない。
明智とのパス交換から、まずは右サイドに上がったというか上が
りっぱなしの島津に預ける。そしてすぐに中盤の底まで下がってマ
ークを外すと、明智と交差するように今度は左サイドへと顔を出す。
そこへアンカーと明智を経由してボールが回ってくる。ボールは
右から左へ、さらに俺と明智が斜めにクロスして走って上がるポジ
ションチェンジにヨルダンのディフェンスは俺達を掴みきれていな
い。
そこにまた左のウイングにひとまず当ててから戻してもらい、今
度は自分でドリブル突破を試みた。
敵の守備が左右に振られているので、向かってきたこのDFさえ
かわせばビッグチャンスになる。
右、左と肩や腕の上半身で小刻みにフェイントを入れ、相手がボ
ールに飛び込みにくい姿勢にさせた上で股抜きでDFをかわす。外
国人は足が長く、下半身が硬い場合が多いから股抜きが有効だと聞
いていたのだ。それは正解だったらしい。
一発で上手く抜け出して、追いすがるように伸ばされた手も振り
払いシュートを撃てるゾーンまで来た。ヨルダンディフェンスも覚
631
悟を決めたのか、ゴール前を薄くしてでも俺にさらにDFを一人あ
てがった。
こいつは素早く処理しなければならない。時間をかけるとかわし
たDFまでもが追いついて二対一になってしまうからだ。
そのゴール前から駆け寄ってくるDFが俺へと完全に寄せきる前
にキックモーションへ入る。相手DFは目を見開いてゴールまでの
シュートコースを潰そうと体を投げ出した。
その頭上をふわりとボールが舞う。
俺の得意技の一つチップキックだ。シュートしようとする動きは
そのまま足首のバネだけで上へボールを跳ね上げるトリックショッ
トである。
シュートを防ごうとして体勢を崩したDFにはもう俺は止められ
ない。他のディフェンスはうちのFWで手一杯だったのか今の俺の
周りにはいない。よし、浮いたボールをコントロールしてペナルテ
ィエリア内からシュートが撃てる。
鳥の目を使い周囲を把握しながら今度こそ本当にシュートモーシ
ョンに入った。
自分にパスがこなかったのに若干不満そうな顔でリバウンドに備
える上杉。こちらもマークを引き連れてゴール前にダッシュしてく
る山下先輩。その山下先輩よりなぜか前に陣取っている島津。優秀
な割にいまいち報われてない感のある左のウイング。そして俺の後
ろにはそのフォローに来ている明智がいる。
あ、マズい。背後からもう一人さっき股抜きした奴が⋮⋮。
とっさに避けようとするが、ボールごと足を刈られてしまった。
芝の上を派手に転がるが、見た目ほど痛くはくない。これならば
擦り傷とちょっとした打撲程度だ。自分から飛んでダメージを殺し
ていたし、受け身もちゃんととれた。相手のDFもわざとではなく
ボールを狙いにスライディングしたのが勢い余ってという感じだっ
632
たしな。
そして何より︱︱転がった俺の耳には祝福の鐘にも聞こえる審判
がPKを宣言する笛の音が響いた。
よし! ペナルティキックを獲得だ。
大歓声とヨルダン語なのだろうか? 審判に抗議する外国語らし
き声が倒れたままの俺の耳に入る。無駄だって、わざとじゃなくて
もファールしたのは確かなんだから。
うつ伏せのまま﹁やった!﹂と拳を握りしめた俺の目の前から、
ごく自然に転がっていたボールが持って行かれた。その手の持ち主
は審判かと思いきや上杉だった。
﹁ちょ、ちょっと待ってください﹂
﹁ん? おお元気そうやな心配したで。もうちっと休んどけばワイ
が逆転しといたるわ﹂
お前はまるで心配してなかっただろう、と言いかけてもっと大事
な事を思い出す。
﹁ボールを返してください。俺がPKを蹴ります﹂
ボールを持っている上杉だけでなく近くまで走り寄ってきたチー
ムメイトの中で山下先輩まで口を大きく開けて驚いている。
﹁PKはワイが蹴るもんやろ?﹂
﹁アシカが蹴るのか?﹂
方向性は違うがどちらも俺が蹴るとは思っていなかったようだ。
おそらく上杉は点取り屋としての本能で自然に
自分が蹴るものだと思い込んでいたのだろう。
633
そして山下先輩は俺がPKに対しての苦手意識を持っているのを
知っているがゆえの驚愕だ。同様に俺を見つめている上杉をはばか
るように﹁アシカ、お前本当にいいのか?﹂と囁く。ああ、もちろ
んだよ。 ﹁俺が取ったPKですから今回だけは俺に蹴らせてください。次か
らは上杉さんに任せますから﹂
﹁そうか、お前が蹴るのは今回だけっちゅう事で。次からは俺が蹴
ってええと、約束やな?﹂
﹁はい﹂
﹁なら、ま、ええか﹂
意外にあっさりボールを渡そうとする彼の姿に拍子抜けする。上
杉の性格ならもっとごねるかと思ったんだが。俺は少し不思議そう
な顔をしたのだろうか、指を突きつけて﹁そんなに驚くなや、今回
だけっちゅーのを信じただけや。次からは全部蹴らしてもらうで﹂
と告げる。
﹁ええ、約束です﹂
としっかり目を見て頷く。俺のプレイ上の欠点に上げられるのが
得点に対する拘りのなさである。別に俺じゃなくてもチームの誰か
が得点してくれてチームが勝利できるなら、それでいいじゃないか
という積極性の欠如だ。もちろん自分がシュートを撃つのが得点へ
の早道ならば躊躇うことはないのだが。
そのある種の淡泊さを知っているから上杉も簡単に今回だけはと
譲ったのだろう。
﹁⋮⋮感謝します﹂
634
受け取ったボールはずしりと重い。実際はもっと軽いはずだから
精神的なプレッシャーで感覚が過敏になっているんだろう。
俺がこのPKのキッカーになりたがったのにはもちろん理由があ
る。
山下先輩が不安げにしてたように俺にはPKに対するトラウマが
あるのだ。その克服のために今まで朝練にPKのキックを繰り返し
ていたし、試合でも数え切れないほど撃ってきた。
だが、ここまでプレッシャーのかかる場面では通用するのだろう
か? 自分の欠点改善のために日本代表チームまで利用するとは酷
い話だが、それでも俺にとっては重要な事だ。
しかしながらこの緊迫した展開で、勝ち越しゴールとなるPKを
蹴らせろと要求できるだけの図太さと積極性が身についているのが
我ながら嬉しい。数年前の自分の番が回ってくるなと願っていた当
時とは大違いである。後はPKを決めて逆転するだけだ。
審判の指示する通りにペナルティスポットに丁寧にボールを置く。
この時ボールの空気を注入する穴を自分の方へ向けるのが俺のジン
クスである。フリーキックの時にふとそんな置き方するとよく球が
揺れたので、それ以来ずっとそう置くようになったのだ。PKの場
合は距離が短すぎるためにほとんど意味はないが、それでもボール
の向きを自分で整えないと気になってしまう。
ふう。短いため息を吐いて審判の笛を待つ。
PKを蹴ろうとする俺の耳には様々な音が流れ込んでくる。﹁日
本﹂のコールが集中させようとしてなのか徐々に小さくなり、逆に
ヨルダン側からの応援なのか牽制のつもりなのか声が大きくなる。
それ以上に大きく響いているのは俺の心臓の鼓動だ。
トラウマの元である小学三年の全国大会で敗れた時から、ずっと
朝練のPKではワールドカップ決勝で蹴るイメージを描いていた。
今の場面はこれまでの人生の中でそのイメージに最も近いシチュエ
635
ーションである。まさにこれまでの修練が問われる場だ。
ごくりと乾いた喉に唾を飲み込むと、ちょうどその時に審判が笛
を鳴らす。
俺の耳は笛の音が届いた後、しばらく機能を停止していた。外界
からの一切の音が遮断され、体に伝わるのは心臓の鼓動と自身の芝
を踏む際の振動だけだ。
そして視覚もここで意味を失う。視線からコースを読まれないた
めとボールを浮かさないために、顔はピッチに置いてあるボールを
のぞき込むようなフォームになっているのだ。
軸足の踏み込みはあくまでまっすぐで、爪先から蹴るコースはば
らさない。ミートする際の腰のひねりと足の振り抜きでゴールの左
隅へとコントロールする。
相手キーパーは読みなのかただの勘なのかシュートした方向へと
飛んでいる。
︱︱入れ!
俺の願いとおそらく会場中の日本人の願いが込められたシュート
は、ヨルダンキーパーの手をかすめながらもゴールネットを揺らし
ていた。
胸の中に数年間くすぶっていた物が跡形もなく溶けていく。その
空白になった場所にこみ上げる熱く純粋な高まりに我慢しきれず何
年分もの鬱憤を込めた日本語になっていない叫び声を上げる。
チームの皆が背中や頭を乱暴に叩いて祝福してくるが、それも少
しだけ昔を思い出させて嬉しくてちょっぴり切ない。本当は小学生
時代に違うメンバーから受けるはずだったんだよな。
一通り祝福の嵐が過ぎ去ったあと、いつもは真っ先に俺を襲撃す
る人がようやく俺の前にやってきた。山下先輩だけは当時のメンバ
ーと代わっていない。
ぐしゃっと頭を乱暴に︱︱でもこの少年にしてはいつもより優し
636
く撫でる。
﹁ナイスシュート。⋮⋮それにしてもアシカは強くなったなぁ﹂
﹁強くしてもらったんですよ、小学生時代からずっとみんなに﹂
637
第十九話 ヨルダン戦に終わりを告げよう
俺が蹴ったPKによって日本が逆転すると明らかにゲームの流れ
が変わった。選手交代や戦術の変更などヨルダンのベンチワークが
急激に慌ただしくなったのだ。
まずヨルダンはこのまま守ってカウンター戦術では駄目だと判断
したのか、あの二十番のスピードスターを引っ込めて、明智がスタ
メンだろうと予想していた九番のエースであるFWを投入してきた。
だがどう考えてもこの交代はタイミングが遅かった。戦術を変え
るならまだ同点の内にするべきだったんだ。今さら代えても日本の
方へと流れ出した試合の展開は変えられない。
もともと攻撃的な日本のサッカーは、相手が向かってくる時にそ
の威力を最大限に発揮するのである。
下げていた側面からの攻撃を活用しようとしたヨルダンの左サイ
ドは、オーバーラップしようにも向かい合う日本の右サイドバック
島津によって蹂躙されていた。
サイドの攻防では強い方が相手をそのチームの陣地に押し込む事
になる。ならば相手がボールを持っても下がろうとしない島津と押
し合う敵の左サイドは不幸だろう。島津が下がらないのだから、押
し合いではなく押されるだけになってしまう。そこに山下先輩まで
加勢にくれば、ヨルダン陣地の左サイドはもう日本の植民地として
実効支配されている状態だ。そこの深い位置から鋭いクロスやシュ
ートが敵のゴールを襲っている。
日本のDFはDFで堅実に守備をしている。ヨルダンがロングボ
ール一辺倒から繋ぎを意識したパスサッカーを混ぜてきたのだが、
638
真田キャプテンによるとそれがかえって守りやすくなったそうだ。
スピードでだけ勝負してきた前半の方がDFとしての技術を発揮
する暇がなくてやりにくかったらしい。武田がヨルダンのエースを
そのパワーをいかした密着マークで完璧に封じ込めるのに成功して
いた。
中盤は俺を含めた日本の三人のMFが掌握している。
人数が少ないように見えるが、その三人ともパスカットのエキス
パートである。これまでロングボールに頼っていたことからも判る
ように、ヨルダンの中盤のパス回しのレベルは決して高くはない。
ましてやヨルダンの左サイドは完封されて使い物になっていないの
だ。そんな状態で無理に攻撃に出ても、俺達にとってはパスカット
の数を稼ぐいいカモでしかない。
これならロングボール放り込み作戦の方が判ってはいてもカット
できない分対処が難しかった。今のヨルダンからの攻撃は怖くない。
これは試合前の漠然とした油断ではなく、戦況からの客観的な判断
だ。
ヨルダンの攻撃を真っ向から受けて立つ形になった日本は、右サ
イドを基点に攻め続けてさらに追加点を奪う。
これまで沈黙していた山下先輩の代表初ゴールは、島津と俺のワ
ンツーから最後は山下先輩へのスルーパスという敵の最終ラインを
パスとコンビネーションで崩し切ったものだった。
ゴールに流し込むと、初ゴールの嬉しさからか走り回ってアピー
ルする先輩にそれを追いかける代表のイレブン。ようやく追いつい
た日本のサポーター席の前で山下先輩を押しつぶすようにしてゴー
ルを祝った。
下になった先輩は﹁ピッチに俺を埋葬する気か!﹂と叫んでいた
が、その緩んだ顔から察するに最高のご機嫌のようだ。
639
ここでたぶんヨルダンは心が折れたんだろう。
残りの十分ぐらいはもう日本に攻め込もうとする気力がなく、コ
ーナーに丸まってゴングを待つボクサーのように試合終了を待つだ
けだった。
でも俺達は相手が戦意を失ったからと手加減するような性格では
ない。
さらにかさにかかって攻めたてる。
また敵が前半同様に引き籠り体勢になったが、今回はあの厄介な
二十番の快速FWはいない。おかげでDFや中盤の俺達も心置きな
くオーバーラップできるのだ。
完全に日本のペースになった試合で最後を締めたのは、やはりう
ちのエースストライカーの上杉だった。一人で二人以上のマークを
受けていたが、あまりに日本がオーバーラップを繰り返すので我慢
しきれずに一人が彼から離れた瞬間に、それを見逃さなかった明智
からのアシストをダイレクトで蹴り込んだ。いや、上杉ってほとん
どがワンタッチでゴールしているなぁ。ボールタッチの半分がシュ
ートだという敵にしたら恐ろしいシューティングマシンだ。
とにかくこれで四対一、ヨルダンサポーターは沈黙し日本の観客
席からは紙吹雪が舞って試合は完全に決まった。
ここで俺とおそらく両チームで一番走っていたアンカー役のMF
はお役御免、一足先に交代してピッチを後にする。
へへ、サポーターから歓声で送られるってのは初めてだが中々乙
な気分だな。
残り時間も日本はボールを支配し続けたが、これ以上追加点は奪
えずにそのまま終了のホイッスルを迎えた。
試合終了と同時に沸き起こる﹁ニッポン﹂コールに、ピッチから
観客席に向かうチームメイトに俺も混じって、お辞儀や手を振って
歓声に応える。こんなに大勢に挨拶するのは応援してくれるのが全
640
員知り合いに近いアマチュアではあまりなかった。なんかまるでプ
ロになったような気分だな。
その時視線の隅に、遠い異国の地でも応援してくれていた自国の
サポーターの下へ赴くヨルダンチームの姿が映った。足取りは重く、
選手達の日に焼けた褐色の顔は沈んだ表情でまるでお通夜のようだ。
︱︱一歩間違えれば、俺達がああなっていたのか。勝負の世界は
厳しいとはいえピッチの上に描かれた対照的な姿にちょっとだけ感
傷的になってしまう。ま、そう思えるのも勝った余裕なのかもしれ
ないが。
◇ ◇ ◇
ふう、最初はどうなるかとハラハラしていたけど、日本が勝って
良かったよぅ。
アシカも前半は少し窮屈そうだったけど、後半は生き生きとプレ
イしていたみたいだったしね。
でも後半になってすぐに相手に吹き飛ばされた時は、アシカのお
母さんと一緒に立ち上がって絶叫しちゃった。お母さんは心配だか
らってなかなかピッチに目をやらないのに、たまたま目を向けると
自分の息子が芝の上で三回転ぐらいしてるんだもん。びっくりする
よね、そりゃ。
幸いすぐにアシカが立ち上がったから私たちは二人ともほっとし
たけれど、もし担架で運ばれたりしてたら私は失神したアシカのお
母さんの面倒までみなきゃいけなくなったんじゃないかな。
その後PKまで決めちゃって、幼馴染としては鼻が高いけれど、
代表でも得点したアシカがちょっと遠くなったような気がする。
でもアシカのお母さんが﹁うそ、速輝が蹴るの? 前みたいにな
641
らないように﹂ってPKを蹴る前にまた目を瞑ってお祈りしちゃっ
てたから、アシカは以前にPK失敗した事があったのかもしれない。
ん、でもそういうの詮索するのはあんまりよくないか。
それより、アシカがPKを入れたり活躍するシーンは見ないで、
吹っ飛ばされたりする所ばっかり目にしてるから心配性になっちゃ
ったんじゃないかな。
ある野球チームのファンなんか﹁あたしが応援に行くと必ず負け
てしまうから、涙を飲んでテレビ観戦している﹂って聞いた事があ
るけれど、アシカのお母さんもそれに近い所があるような気がする。
アシカが怪我しそうなタイミングだけ見ちゃって、ゴールしている
所はあんまり見てないんだ。
今こそピッチを見てあげて! お宅のお子さんが頑張ってるよ!
PKを決めてこっちの観客席に拳を振り上げてアピールしている
のに、お母さんが褒めて上げないと!
﹁んと、ほらアシカがこっちに向かって点を取ったとガッツポーズ
してますよ﹂
﹁え、あ本当ね。速輝ったらあんなに砂だらけになって頑張ってる
のね⋮⋮、でもなんであんなにみんなに叩かれてるのかしら? や
っぱり小さいからって苛められてるのかしら⋮⋮﹂
﹁た、たぶん手荒い祝福なんじゃないかなぁ。アシカって最年少な
のにレギュラーになってるんだから、チームのみんなから可愛がら
れているんですよ!﹂
根拠もなしに断言する。なんで男の子って乱暴に平手でばしばし
叩くのが祝福になるの? 女の子だったらせいぜいハイタッチか抱
き合うまで、それ以上は苛めになっちゃうよ。
﹁ん? ほら頭を撫でてもらってるじゃないですか﹂
642
﹁ああ、あれは山下君ね。小学生時代からのお友達でいつも速輝と
朝一緒にボールを蹴っていたわね。速輝ったら、あの子が代表でも
一緒だなんて教えてくれなかったわ。これまでずっと年上だから面
倒を見てもらって、その上仲良くしてくれていたのねぇ﹂
アシカって年上っぽいけど、サッカーじゃ後輩なんだから色々お
世話になっているんだろうなぁ。うん、今度あの先輩⋮⋮山下だっ
たよね? あの人にも藁人形二号君を送ってあげようかな。
私がそんな余計な事を考えている間に日本はどんどん点を追加し
ていて、気がつけば周りから回ってきた紙吹雪を投げていた。いつ
の間に受け取ったんだろう? まあいいや、おめでとうー! 手に
した全部をぶちまける。観客席のここからは、いくら紙吹雪を投げ
てもピッチには届かないみたいだから心おきなく投げられたよ。
アシカが一点しか取れなかったのは残念だし、後半倒された時は
胸が痛くなったけれど、終わりが良ければ全て良し! だよね。
ああ、アシカが他の選手と一緒にサポーターへの挨拶にくる。こ
うして見るとアシカともう一人だけが、頭半分くらいメンバーより
小さく感じるよ。
アシカが﹁もう少し身長が欲しい﹂っていうのは私みたいなコン
プレックスだけじゃなくて、サッカーで必要だからだったのかぁ⋮
⋮。
スタンドとピッチの距離がそのままアシカと私の大人っぽさの差
みたいだな。 日本が勝ったのは純粋に嬉しいよ。アシカが怪我しなかったのは
何よりだ。得点までしたのは凄いと思う。でも幼馴染みが遠くに行
っちゃったみたいだからかな、子供の頃迷子になった時と一緒の気
持ちが少しだけしちゃうのは。
643
644
第二十話 ドン・ロドリゲスの消滅
﹁皆、昨日のヨルダン戦はご苦労だったな。前半はどうなるかとは
らはらしたが、四対一なら文句なしだ。もう一つ知らせておくと、
同じく昨日やっていた中国対サウジは二対一でサウジが勝っていた。
だから、うちのグループリーグでは日本が得失点差で暫定一位って
ことになるぞ﹂
俺達代表メンバーに昨日集まってきたニュースを報告する監督は
満足そうだ。自分の指揮したチームが初勝利した翌日だ、機嫌を悪
くしようもないか。しかも暫定とはいえグループ一位なのだ、ここ
までは申し分のない結果である。
インターネットですでにグループリーグの情報を得ている人間も
いただろうが、それでも代表のメンバーからは﹁やりぃ﹂との喜び
の声がそこかしこから洩れている。
﹁とりあえず今後のスケジュールを確認しておくが、次はホームで
の中国戦だ。そしてアウェーの三連戦サウジ・ヨルダン・中国で最
終戦がまたホームに戻ってのサウジとなる。できれば最終戦前に一
位を確定しておいて、凱旋気分でゆとりを持って最終のサウジはや
りたいもんだな。ま、連戦が続くんだ体のケアには気を使っておけ
よ﹂
山形監督がまだ初戦を終えたばかりなのに捕らぬ狸の皮算用をし
ているが、そう上手くいくのだろうか。俺もその気があるから強く
は言えないが、ヨルダン戦の前もこの監督は﹁楽勝だ﹂って断言し
ていたよな。国際試合で楽観は禁物だと思い知らされたはずなのだ
が⋮⋮。それとも選手のプレッシャーを和らげるつもりなのかな?
645
うん、その方がありえそうだ。俺も国外でのアウェー戦は初めて
でどんなものかと緊張してしまっているからな。他の選手も目の届
く範囲では笑顔が浮かび、無駄な力みがなくなった様子だ。
さすがに監督が予選の初戦を終えたばかりのこの段階で油断をす
るはずはないか。そう判断した俺の耳に、監督の話の続きが入る。
﹁では、次にもう予選が終わって世界大会への出場が決まった国も
一応紹介しておくか﹂
﹁え? 俺達はまだ予選なのに、もう決定しているとこもあるんで
すか?﹂
﹁ああ、なんだか国内リーグや気候の影響でな。早めに中南米は予
選をやっていたんだ。そこがもう最終戦を済ませている﹂
へえ、予選というから一斉にやるのかと思ったが、よく考えれば
ワールドカップなんかも出場国が決まる時期は結構まちまちだった
よなと納得する。
﹁で、そこから勝ち上がってきたのが三カ国、どれもお馴染みの強
豪国ばかりだな。まずはブラジル。サッカー王国の名に恥じない強
い勝ち方で全勝して突破してきた。このチームには一時期日本代表
にも所属していたカルロスがいるのはお前らも知っているよな? あいつはブラジルでも頑張っていて、向こうの代表でも十番を任さ
れているそうだぞ﹂
おお、あいつ元気でやっているんだな。そう言いたげな表情が俺
を含めたメンバーの顔に浮かぶ。反応がないのはおそらく直接の面
識がない上杉や島津に明智といった所だけか。他の︱︱特に前監督
時代からのメンバーは皆どこか懐かしそうだ。
﹁もちろんタレントの宝庫らしくカルロス以外のプレイヤーも人材
646
が豊富だ。正直ブラジル以外のどこの国でもこの大会に出てくるク
ラスのメンバーだな。カルロスと南米予選で得点王を分け合ったF
Wもいれば島津並の攻撃的サイドバックも存在する。ついでにDF
の統率はすでにイギリスのプレミアリーグに移籍がまとまっている
選手だぞ。どのポジションでも粒が揃った近年最強の年代だそうだ。
こいつらに勝つにはかなり気合いを入れなければいけないな﹂
監督の口からでる情報に徐々に室内には沈黙が広がっていく。同
年代なのにすでに世界から注目どころか移籍交渉が始まっているプ
レイヤー達にちょっと退いてしまったのだ。
そんな雰囲気を察して俺がフォローしようとする。
﹁あ、でもそのブラジルでカルロスが十番になったなら、何とかな
るんじゃないですか? ほらあいつは日本でも十番だったし、そう
考えるとあまり日本とブラジルも変わりはないって事なんじゃない
ですか﹂
俺の言葉にはあまりはかばかしい反応は返ってこなかった。真田
キャプテンなんかは﹁そうだといいけどね﹂と苦笑している。
微妙になった空気を入れ換えるように咳払いをして監督がまた注
目を集める。
﹁他にもブラジルと並ぶ南米の雄アルゼンチンも当然のように上が
ってきている。タンゴのリズムに乗ったパスサッカーと闘牛のよう
な荒々しさを兼ね備えた⋮⋮というのが向こうでの宣伝文句だそう
だ。ま、実際にブラジル同様ここも無敗でグループリーグを突破し
ている。優勝候補の一角であるのは間違いないな⋮⋮と、またなん
だよアシカ?﹂
手を挙げた俺を指名する。この監督はじっと話を聞けというタイ
647
プではないので、説明の最中でも色々質問されるのを嬉しがるのだ。
疑問が湧くのは集中して聞いている証拠だと思っているんだろうな。
﹁ブラジルもアルゼンチンも無敗って事はその二国は当たらなかっ
たんですか?﹂
﹁ああ、違うグループだったからな。南米予選は二つのグループに
分けられて一つはブラジル、もう一つはアルゼンチンと首位を取り
合ったみたいだ。そして後一ヶ国、得失点差で拾われたのがアルゼ
ンチンと同じグループだったコロンビアだ。ブラジルは全勝で終え
たが、アルゼンチンは予選で唯一ホームでもアウェーでもコロンビ
アに引き分けられた、それがコロンビアが三位を決定する混戦を抜
け出す決め手になったようだな﹂ ﹁へえ、なるほど﹂
答える俺の言葉には緊張感がなかったのかもしれない。山形監督
が僅かに髭面を厳しくした。
﹁南米三位通過とはいえコロンビアは決して弱くない。キーパーを
中心に安定した守りとヨーロッパのクラブチームからも注目されて
いるエースストライカーのロドリゲスのカウンター攻撃は強力だ。
日本と当たる事になったらヨルダンの比ではない鋭さの攻撃を覚悟
しなければいけないだろうな﹂
﹁⋮⋮ロドリゲス?﹂
全員の目が一人の少年に注がれる。監督はプルプルと手を振って
﹁あーうちのロドリゲスじゃないし、親戚でもない⋮⋮はずだ﹂と
否定する。
それに﹁当然ですよ、僕は日本人です!﹂と立ち上がる真田キャ
プテン。監督も頷いて﹁無関係だそうだぞ。まあ万が一マッチアッ
プする場面があったら、どっちが本物のロドリゲスか決定戦をすれ
648
ばいい﹂﹁それ、一対一で勝つと僕の名前がロドリゲスに確定する
んですか!? だったらそいつを止めるどころか応援しますよ!﹂
と騒がしい。
さすがに、監督も悪かったと感じたのか言い直す。
﹁じゃあ、もしコロンビアのロドリゲスと当たったら、マークする
のはこっちはキャプテンのロドリゲスじゃなくて別の⋮⋮ああ、や
やこしい! もうこれからキャプテンはロドリゲスと呼ぶんじゃな
い! 真田キャプテンだ、いいな!﹂
﹁はい!﹂
その声を受けて真田キャプテンはなぜか一人地面に跪き﹁やっと
解放された、ありがとう遠いコロンビアの地にいるロドリゲスよ⋮
⋮﹂と感謝の祈りを捧げていた。
その姿に感銘を受けたのか、明智がそろそろと近づいて﹁あのち
ょっといいっすか?﹂﹂と声をかける。
﹁こほん。うむ、ちょっとみっともない姿を見せてしまったな。な
んだ明智?﹂
﹁もしかしてロドリゲスって名前嫌だったんっすか?﹂
﹁お前だったら嬉しいのか!?﹂
﹁え? 格好いいじゃないっすか! しかもより一層強そうにする
ために﹁ドン﹂とまで付けて、ドン・ロドリゲス。これなら海賊と
か山賊の一味を率いていても違和感がないぐらい強そうっすよ﹂
明智の言葉に近くにいたメンバーは大きく頷く。特に格闘に造詣
の深い二人は同感だったようだ。
﹁ああ、ワイもロドリゲスって聞くと、いったいどの階級のチャン
ピオンかと思うたわ﹂
649
﹁俺もそうだな。中南米辺りのパワフルなファイターを連想させる
良い名だ﹂
力説する明智とそれに同意する上杉と武田に対し、毒気を抜かれ
たような表情で﹁まあ、あだ名をつけた明智が悪気がなかったのは
判ったよ﹂とかつてロドリゲスと呼ばれていた少年は肩をすくめる。
そんな脱力した表情の真田キャプテンに明智が﹁いえ済まなかった
っす⋮⋮﹂と頭を下げる。
﹁ご迷惑だったなら謝罪するっす。良かれと思ったんすが申し訳な
かったっすね。もし腹立ちが収まらないなら、最悪の場合は土下座
して辞世の句を詠んで切腹して果てるのも覚悟の上っすけど﹂
﹁いや、さすがにそこまでは⋮⋮﹂
あまりに真剣に謝ってくる明智に、かえって頭を下げられている
真田キャプテンの方が押され気味だ。
﹁そうっすか? 昔に悪いことをしたら許してくれるまで謝りなさ
いとこっぴどく親に怒られたんすよ。その時にたくさんの謝罪行脚
をした影響で僕の謝り方が大仰になっているかもしれないっすけど、
悪気は無かったんで許してもらえると有り難いっす﹂
﹁⋮⋮あー、もう明智は他人にあだ名をつけないと約束してくれれ
ば水に流そうか。お前はネーミングセンスが無いようだからな。後
はプレイで返してくれ。同じチームメイトなんだ、しこりを残して
も嫌だしな﹂
明智が﹁了解っす、これまで以上に死力を尽くすっす﹂と応えて
和解が成立し、お互いに手を取り合った時に聞き覚えのある咳払い
が背後から届いた。今感動的な場面なのに、空気を読まない奴だな
ぁ。振り返るとそこには困惑した表情の山形監督が。
650
﹁その、ミーティングを続けていいのかね?﹂
︱︱仮にも日本代表を名乗るチームがこんなにドタバタしていて
いいのだろうか? いやチームの仲が良くなったとか、結束が深ま
ったとか言い換えれば良い話になるんだけどね。
そんな風にしてその日のミーティングはぐだぐだのまま終わって
しまうのだった。
結局今日監督から聞かされたので役に立ちそうなのって、キャプ
テンをロドリゲスではなく真田と呼ぶようにと決めたぐらいだった
な。
651
第二十一話 ジャイアント・キリングを始めよう
﹁速輝、よく頑張ってたわね﹂
﹁アシカ、代表初勝利アンド初ゴールおめでとう!﹂
目の前には俺の好物のご馳走が並び、母と真がジュースの入った
コップを手に満面の笑みで乾杯してくれている。俺も表情を和らげ
ると素直に﹁ありがとう﹂と感謝して果汁百パーセントのグレープ
フルーツを掲げる。
このグレープフルーツは他の果物よりも筋肉を柔らかくするので、
筋肉系の怪我やこむら返りなどの故障の予防になるらしい。最初は
同じ果汁百パーセントでもオレンジジュースなどに比べてちょっと
癖があると好きではなかったのだが、我慢して飲み続けるといつの
間にか自然と好物になっていた。
それでまた真が﹁納豆だって慣れれば同じ、ううんもっと好きに
なるよ! さあ口を開けてあーん﹂と俺に強引に勧めだしたのはち
ょっと面倒な思い出だ。あーんと口を開かせて納豆を食べさせよう
としたのも、恋人同士のやる甘酸っぱい雰囲気のものではなく、ど
ちらかというとフォアグラを作るためにガチョウに無理矢理食物を
流し込むノリだったもんなぁ。
ともかくこの豪華な夕食は、昨日行われたヨルダン戦での俺が日
本代表へデビューしたお祝いだ。試合が終わってから昨日はずっと
夜までサッカー関係者やマスコミの人に囲まれていたし、なぜか急
に友達が増えた学校でも気が休まらなかったからここでやっと息が
つける。
それにしても小学生時代には矢張のチームで全国を制しても、こ
652
こまでは騒がれなかったぞ。
せいぜいチームメイトの保護者や県内のサッカー関係者にお祝い
されたぐらいで、代表選手となって外国を相手にすると周囲の評判
や扱いが一気に変わるんだなぁと実感させられる。
ま、とりあえず今は飯食って寝よ。自覚してなかったが、俺もど
うやら日本代表としての初の試合でかなり疲労がたまっているよう
だ。
﹁速輝も疲れているみたいだし、今日はたくさん食べてさっさと休
みなさい。夜更かししちゃ駄目よ﹂
﹁はいはい。大体夜更かしできるぐらい体力残ってないよ﹂
﹁ん、やっぱりだいぶ疲れてたんだ? 交代するまでは元気に走っ
ていたし、スタミナは充分あったみたいだったけど?﹂
母は俺の顔色を見て早寝を勧め、真が試合中の様子からの疑問を
発する。 ﹁ああ、やっぱり代表戦は特別だな。何というかピッチ上の空気は
重いのに酸素は薄く感じて、いつもの試合の倍は疲れる﹂
﹁ふーん、やっぱり大変なんだ⋮⋮あ、そういえばPKもらった時
にファールされてたけど大丈夫だったの? 派手に飛ばされていた
みたいだったけれど﹂
﹁うん、あれは半分は自分から飛んだし受け身も取ったからな。あ
んな時は地味に見える方が衝撃が全部肉体に伝わってダメージが大
きい場合も多いんだ﹂
へぇそうなんだと言いつつ、真は大皿に盛って寿司の中から海苔
巻に手を伸ばす。その中身はもちろん納豆巻きだ。出前をとったこ
のお店は普通は納豆巻きは入れていないのだが、真は頼み込んで特
注で作ってもらっている。彼女曰く﹁シャリ抜きでワサビ抜きの芥
653
子入りが最高﹂だそうだが、それって普通の納豆を海苔で巻いただ
けのとどこが違うんだ?
そんな疑問も抱くが、納豆巻きに伸ばされたその細く小さな手に
違和感がある。いったいなんだろう⋮⋮。
俺がじっと見つめているのに気がついたのか﹁何よ﹂と少し赤く
染めた頬を膨らませて真が手を止めて俺を上目遣いで睨む。そして
﹁あ!﹂と右手に巻いてあったミサンガを左手で押さえた。そうか、
俺にもやっと判った。いつも彼女が巻いていたミサンガが変わって
いるのだ。
﹁真、前のミサンガはどうしたんだ?﹂
﹁ん、あれって切れちゃった。願いが叶ったからかな﹂
真はそう言って色がショッキングピンクから普通のピンクへと変
わって、ちょっとだけ落ち着いたミサンガを優しく撫でる。
﹁ふーん、それってどんな願いかけてたんだ?﹂
何気なく問うと、少し頬を染めて﹁アシカの方こそ、右足に巻い
てる私が渡したミサンガにどんな願いかけてるの? やっぱりサッ
カーが上手くなりたいとか?﹂と尋ね返す。まあ俺のは別に隠すほ
どでもないし話すのは構わない。
﹁いや、俺の願いは怪我なんてせずにずっとサッカーを楽しんでプ
レイしたいって願いだな﹂
﹁へぇそうなんだ。アシカの事だからサッカーが上達するように願
ったのかと思ってたけど﹂
﹁技術の上達は練習と工夫で何とかなる場合も多いが、怪我しない
ってのは運も含まれるからな。充分に注意はしているが、神頼みで
654
きるならしておこうかな、と﹂
﹁ふうん、じゃあやっぱり私の方の願い事が叶ったのか﹂
ふむふむと一人頷く彼女に﹁質問に答えてくれないなら、聞いち
ゃまずかったかな?﹂と俺も思い始めた時、ようやく真がこれまで
のミサンガにかけていた願いを口にする。
﹁あれを右手に巻いたのは転校した日にアシカに助けてもらって、
その帰りが一緒の時だったよね。だから、アシカが頑張ってるサッ
カーが上手くいきますようにって⋮⋮﹂
あー、そう言えば俺がミサンガを真からもらったのはそんな場面
だったったっけ。﹁お揃いに私もつけとくね﹂って真も右手に巻い
てたが、そんな願いをかけてくれていたのか。
﹁真は馬鹿だなぁ。俺はさっき言ったみたいに勝手に上手くなった
んだ。でも、もしかしたら代表監督が代わって俺を呼んでくれるよ
うな人になったのは真のミサンガのおかげ⋮⋮な訳ないか。それで
もありがとな。気持ちは嬉しいよ﹂
俺の礼に﹁えへへ﹂とえくぼを浮かべる真だった。えーとこいつ
って前世でもこんな健気なキャラだったっけ?
誰にも答えようがない疑問に捕らわれてしまうなぁ。
◇ ◇ ◇
前回と同じように入場と代表戦のセレモニーが行われるが、それ
を受け取る俺の方はずっと落ち着いている。
ピッチ上に出た時も眩しさに目を瞑らずにしっかりと周りの観察
655
ができた。
もちろん試合前︱︱しかも代表戦なのだからテンションは上がる
が、頭のどこかが冷たく冴えて現状を忙しく分析している。ただお
ろおろと周りについていくだけだったヨルダン戦とは大違いだ。
試合会場は今回も日本のサポーターによって席は半分ほど埋めら
れている。だが、前回と明らかに違うのは敵である中国のサポータ
ーもヨルダンとは比べ物にならないほどの数が入っているのだ。
もちろんホームである日本とは人数なら十倍以上も差があるだろ
う。しかし熱気は負けていないのではないだろうか? そう思わせ
る熱狂的な応援団が敵にはついているようだ。
今回の試合相手である中国は山形監督によれば﹁ヨルダン以上、
サウジアラビア以下で日本よりは一枚落ちる﹂ほどの実力だろうと
いう事だ。それを鵜呑みにするわけではないが、明智の情報もその
分析を裏付けているとなれば素直に受け取ってもいいだろう。これ
は別に監督を信用していないとかではなく、二つの情報源が一致し
たデータを運んできたから納得しただけだ。
だが、チーム力と結果が比例する訳じゃない。むしろチームの戦
術やフォーメーションの相性によって勝敗が決まる場合も多い。日
本が地力では上回っているだろうというのは、落ち着く材料にはな
るがそれで安心して油断する隙にしてはかえって逆効果になりかね
ない。
そして⋮⋮スタメンが全員で整列して国歌を聴いていると、大型
ヤン
選手の多い中国代表からでも頭一つ抜け出している少年がいる。F
Wの楊という十五歳ですでに身長が百九十センチに近い選手だ。そ
の長身をいかしたヘディングで一次予選では得点を重ねた中国のエ
ースストライカーである。山形監督が特に名前を挙げてチームの全
員に注意するよう呼びかけた中国の大黒柱なのは間違いない。
656
中国はこの楊の空中戦の強さを利用するため、サイドからのクロ
スとポストプレイで楊の頭に合わせて攻めるのをこれまでの基本戦
術としていた。その作戦は単純ながら強力だ。
しかも中国はサウジアラビアとの第一戦を落としたために、引き
分け狙いではなくアウェーであろうとも勝利を目指してくるのでは
ないかと予想している。
それに対して日本もホームゲームでは負けは論外、引き分けも駄
目。勝利︱︱しかもできれば得点を多く取っての︱︱するしかない
という状況である。両国の意志は﹁負けないこと﹂よりも﹁勝つこ
と﹂に向けられている。
つまりは真っ向勝負って訳だ。
唇がつり上がり胸から熱い塊が沸き上がってくる。それは喉を通
過する時に﹁ははっ﹂と洩れた笑い声になった。
これが代表戦の楽しさか。ようやく俺は代表戦のプレッシャーを
楽しめるだけの余裕を持てるようになったんだな。
ふと気がつくと日本代表のほとんどのメンバーが笑っている。緊
張感が足りないのではない。これから始まる試合が楽しみで待ちき
れないからだと自分の体の状態から理解ができた。
この試合が初スタメンのDF武田も唇を歪めて牙をむき出しにし
ている。⋮⋮たぶんあれも彼にとっては微笑みのつもりなんだろう。
体の強さとヘディングの上手さを買われて楊を相手にするマーカー
に抜擢されたのだが、びびっている様子は毛ほどもない。うん、楊
に比べても少し高さでは負けるが迫力では劣っていないな。上杉と
喧嘩するほど気が強いんだ、いくらでかくても敵に呑まれる事はな
いはずだ。
ふと頭に浮かんだのはサッカー用語で﹁ジャイアント・キリング﹂
というのは弱小チームが強大なチームに勝つ、いわゆる番狂わせの
事をいう。だが、この巨人である楊を倒せば、文字通りのジャイア
657
ント・キリングだな。
くだらない事を考えたのが良かったのか無駄な力が抜け、精神的
にリラックスできた。
よし、こっちの準備は万端だ。
さあ、かかってこい中国。いや違う、こっちから行くぞ。存分に
戦おうじゃないか。
︱︱そして試合開始のホイッスルが鳴らされた。
658
第二十二話 敵のプレスに対抗しよう
日本ボールから始まった試合は、当初から中国の激しいプレスに
さらされた。まずはファーストタッチで一旦ボールを中盤に下げて
もらうと、そこへ向けて怒涛のように中国の選手が駆け寄ってきた
のだ。
なんだこりゃと、慌ててさらにボールを後ろに下げる。 アンカー役をこなすMFは地味だけど、こんな緊急避難のパスは
しっかりと受け取ってミスなく真田キャプテンへボールを回してく
れる。本当に助かってます。
しばらく相手のプレスに晒されて判った。こいつらはボールがど
こにあっても関係なくプレッシャーを与えてくる。普通の﹁ボール
狩り﹂では相手がこのラインを越えてきたらみんなでマークに行く
というラインをピッチ上に設定するのだが、今回はボールを最終ラ
インどころかキーパーにバックパスしても変わらず走って奪い取り
にくる。スタミナとかペース配分を全く無視した戦術だ。
おそらくは中国代表は相当の覚悟でこの試合に臨んでいるのだろ
う。少なくとも得点をするまではこのハイペースなプレスを継続す
るつもりのようだ。
俺が密着された一人のマークを外してボールを受けとっても、す
ぐに他の相手がフォローに来るので前へ進むための充分な時間は与
えられなかった。
舌打ちして、ならばと敵のプレッシャーに負けたように背を向け
る。すると好機と見たのか他の中国選手も俺からボールを奪おうと
して集まってきた。俺の体格が小さいためにパワー勝負になれば簡
単にボールを取れると思っているのだろう。
659
そこで敵陣には背を向けた格好のままヒールキックでマークして
いる相手の股を抜いて山下先輩へとパスを通す。
相手のマークが俺へと集中しかけていたタイミングでの前線への
パスだ。パスの出し手が自陣を向いた状態からのヒールで、しかも
相手DFの股を抜いたボールである。普通ならば通るかどうかは怪
しいが、先輩もこれまでの俺の反転してからのヒールでのプレイに
よく馴染んでいるから、俺が背中を見せた時点で自分がノーマーク
になるように動いてくれていた。それを鳥の目で確認してからのパ
スである。
ここまで息が合ったコンビネーションはいくら俺でも他のメンバ
ーとはこなせない。山下先輩との長年チームメイトだった関係なら
ではの以心伝心のプレイだ。
中国の激しいプレスに押され気味だった状況から、一転してチャ
ンスになった日本の観客席から声援が届く。
ここで先制点を取れれば、この後の試合展開がぐっと楽になる。
頼む、なんとか決めてくれ。俺は今はちょっと敵に囲まれたままで
身動きがとれないんだ。もう少ししたらフォローに行くが、できれ
ばそれまでの中国側の守備が整わない内に点を取って欲しい。
そんな期待を背負って山下先輩が敵のゴールへ向かう。
中国は前からどんどんプレスをかけてきたと言えば聞こえは良い
が、それは最終ラインが薄くなっていることも意味している。今の
状況にしても攻めている日本の方は四人で中国側のDFも四人と人
数は互角でしかない。そして数が互角ならば守っている方が圧倒的
に不利となる。攻撃側の内一人でもマークについた相手との駆け引
きに勝つとノーマークな選手が生まれ、得点チャンスが生まれるか
らだ。
会場中が固唾を飲み見守っている前で、山下先輩はドリブル突破
660
を選択した。
試合開始直後だけにフェイントの切れ味は鋭くステップは軽い。
その足取りに幻惑されたかのように一瞬動きの止まったDFを置き
去りに、山下先輩はフォローしにきた相手も抜き去ると素早くシュ
ートする。
敵の大柄なキーパーの反応も速い。DFが振り切られたと見るや、
ゴールを狙うコースを切るように自身のポジションを前よりに変え
て、近距離からのシュートに対しても体を投げ出しながら長い手を
伸ばして何とかパンチングでそのシュートを防ぐ。
だが、弾いた場所が俺達にとってはラッキーだった。ゴール前に
詰めていた日本代表の一人、その中で唯一DFのはずの島津がなぜ
か一番前に陣取っていて、スライディングしながらこぼれ球を押し
込んだのだ。
試合開始からまだ五分しか経過していない。そしてDFのくせに
FWより前へ出る島津は中国ディフェンスもまだ把握しにくくてマ
ークしきれなかったのかもしれない。
とにかく島津の代表初ゴールに俺達イレブンはピッチで、サポー
ターは観客席で爆発した。
スタメンの全員が集まって島津の背中をバシバシと叩き、短い髪
の毛をクシャクシャにする。島津もこれまでさんざんシュートは撃
っていても入らなかったゴール欠乏症から解放されたのが嬉しいの
か、ピッチの上で仁王立ちしては目を細めて俺達にされるがままだ
った。
一通り手荒い祝福が済むとちらりと青いタオルなどが振り回して
いるサポーターの方へ顔を向け、遠目では判らない程度に微笑むと
ぺこりと小さく一礼する。あまり表情を変えないポーカーフェイス
の島津だが、耳が赤くなっている所からすると照れているのかな。
そういえば島津は九州から招集されているから、家族なんかは試
661
合会場までは応援に来れないと聞いたな。きっとゴールする事で遠
くの家族に自分の活躍を知らせているんだろう。⋮⋮ちょっと感動
的な話ではある。いや、それでもこいつがDFにしては上がりすぎ
だという見解は変わる事はないのだが。
とにかく幸先の良い先制点が手に入った。
これで今日の試合の主導権も握ったな。ホームで先に点を取った
んだ、油断をするつもりはないが余裕を持ってプレイができる。
ほくほく顔の俺たち日本チームとは対照的に、中国チームの表情
は硬い。試合の初っぱなから勝負をかけたハードなプレスをかけて
きたのに、それが裏目に出て俺達ホームチームに先制点を与えてし
まった。相手のゲームプランは修正を余儀なくされることだろう。
実際中国のベンチからは監督とおそらくはコーチと思われる人物
達が怒鳴るような大声でさかんに指示を出している。
中国語なので当然何を言っているのかは判らないが、指示の内容
は推測できる。たぶんもっとプレスを厳しくするようにと、上がっ
てくるサイドバックの島津にマークをつけろってぐらいだろうな。
審判からの﹁再開するぞ﹂との声に従って俺達は日本の陣地に戻
る。
足取りも軽く、観客席へ手を振りながら自分のポジションへと帰
る浮ついた奴もいる。先に点を取ってリラックスできたのはいいが、
ここからが本当の勝負所かもしれないのに緊張感が薄れるのはまず
い。
攻撃的な相手が失点したのだ、それを取り返そうとさらにプレッ
シャーを強めてくるだろう。しかし、いくらなんでもあそこまでよ
く走るプレスが長続きするとは思えない。しばらく時間がたてば中
国チームもペースを落とさざる得ないはずである。そうなると体力
の消費量と得点している分日本がぐっと有利になる。だから、そこ
までの時間帯を俺達が失点せずに耐えきれるかがポイントだ。
662
﹁みんな気を抜かないでください! ここからが本当の勝負です!﹂
俺が叫ぶと、日本のベンチからも声が飛ぶ。
﹁そ、そうだ。俺が言おうとした台詞を取られた気がするが、アシ
カの言うとおりだ。一点取ったのは忘れて今からが本当の試合開始
だと思って気合いを入れろ!﹂
そんな監督の檄に全員が﹁はい!﹂と声を揃える。真田キャプテ
ンも﹁よし、もう一度マークする相手を確認しておこうか﹂とDF
に呼びかけている。
うん、今の日本チームには慢心という言葉は縁がない。その姿を
センターサークルにボールをセットした中国チームのFW達が忌々
しそうに見つめている。特に楊の目つきは怖い。こいつ本当に十五
歳かよと尋ねたくなるぐらいの貫禄である。うん、こいつはやっぱ
り要注意だな。
俺達が気を引き締めなおした後、審判が試合再開の笛を吹く。
さあ、レベルの高く緊張感のあるサッカーの続きを楽しもうじゃ
ないか。
失点後の中国の攻め方はより一層シンプルで判りやすくなった。
攻め手は単純なサイドからのクロス攻撃だけに絞られているのだが、
だからといって警戒しないわけにはいかない。特にそのクロスから
のフィニッシュが長身FWである楊のヘディングに合わせられてい
る場合は。
サッカーでは総合力より一点特化が優れていると見なされる場合
663
も多い。特にそれが攻撃に関しては顕著である。どれか一つだけで
も人並み外れたものがあればそれで得点ができるからだ。DFを振
り切るスピード、相手を寄せ付けないパワー、敵を幻惑するテクニ
ック。そして今相対している楊のように守備している相手より抜き
んでる身長による制空権などだ。
俗に言う判っていても止められないという奴である。
︱︱だからって無抵抗で白旗を上げる訳にはいかないよな。
楊をゴール前で決してフリーにしないようにうちで一番競り合い
に強いDFの武田がマンマークでくっついている。さらにセンタリ
ングが上がりそうになれば、真田キャプテンもその援護として楊を
挟みこむようにしてフォローし空中でも自由にさせない様にしてい
る。
飛び抜けた個人を技術と連携でここまでは抑えきっているのだ。
このまま最後まで守り切ってくれよ、俺達攻撃する方は何とか追加
点を奪ってくるから。
中国の猛攻に先制点を取ってからしばらく日本は押されていた。
向こうは最終ラインを上げて、しかも前線から激しくプレスをかけ
てくる﹁攻撃的な守備﹂をしてきている。体力は消耗するはずだが、
これをやられるとさすがにちょっと攻めにくい。
下手なパスや不用意なドリブルは全て敵にカットされて、高い位
置からこちらのゴールへ短距離でかつ短い時間で到達するショート
カウンターを喰らう事になってしまう。それを避けようとロングボ
ールで前線につなごうにも、中国は最終ラインを上げているために
オフサイドにかかる率も高い。
ホームで先制点を取ったのに、なんでこんな追い込まれた形にな
ってるんだろうな? くそ、これだから高いレベルでの戦いっての
は楽しいんだ。
664
厳しい状況にも関わらず、その厳しさを味わえる所にまで自分が
上がって来た事に俺は喜びを隠せなかった。
665
第二十三話 コーナーキックを防いでもらおう
中国は手っ取り早く得点チャンスを作るべくコーナーキックを取
りに来た。
サイドを攻略する際に無理にゴール方向へと切り込まずに縦へ突
破し、日本のDFが止めに来たらその相手にボールをぶつけるよう
な感覚でクロスを上げようとするのだ。
これは乱暴なようで実は結構対処に困る攻め方である。碌に狙い
を定めていないようではあるがセンタリングには変わりはない。そ
して敵のFWにはヘディングに絶対の自信をもつ巨人がいるのだ。
うちのディフェンスがゴール前にボールを上げられたくないのは当
然だろう。
だが、そのセンタリングを防ごうとして足を出すと角度的にコー
ナーキックになってしまうのだ。俺好みのスマートなやり方ではな
いが制空権を確保しているなら有効な戦術ではある。
そして前半ですでに何度か中国のコーナーキックになっているの
だが、ゴール前に密集してなお頭が一人だけ抜き出る楊の存在感は
凄い。
当然ながら日本もこの巨人を自由にさせる訳もなくDFが二人、
しかも武田と真田キャプテンという代表守備陣の誇る豪華な顔ぶれ
で何とか働かせまいとしている。本来ならもっとこいつに人数を割
きたいのだが、コーナーキックのために他にも中国の長身DFも上
がっているのだ。二人までが敵のエースでもつけられる限界である。
今もまたコーナーからボールが蹴られ、そのボールは挟まれた日
本DFと一緒にジャンプした楊へと届く。これでもマークが二人邪
魔してるんだぜ? それでもなお、他の選手達の中から表情がはっ
666
きり判るほど顔まで上空へ出た楊によってヘディングシュートされ
てしまう。 日本のキーパーがそのシュートに慌てて飛びついて弾いてゴール
マウスから逸らすのだが、さらに中国のコーナーキックは続いて日
本のピンチも続いてしまう。
マズいな。さっきのコーナーからのボールもあまり正確な物でも
なかったにもかかわらず、楊はヘディングでシュートにまで持って
いった。それは彼の頭をピンポイントで狙ったクロスではなく、多
少のズレがあったとしても身長差とヘディングのテクニックで誤魔
化して強引にフィニッシュできるという事を意味している。そして
そのヘディングシュートを撃つのが楊なのだからこれは相当な脅威
である。
そしてコーナーキックでのもう一つの困ったポイントが、うちの
キーパーの目の前にいるもう一人の中国人FWだ。彼はそれほど上
背がない、そのためかあまりヘディング争いには参加しようとはし
てしない。
だが彼がゴール前の嫌なポジションをとる事でキーパーが飛び出
しにくくなっているのだ。キーパーはルールによって保護されてい
るので、ぶつかり合いをすればすぐに攻撃側のファールになる。
しかし、キーパーの目の前に立っていて邪魔なだけでは反則にな
りようがない。この男がキーパーと楊を直線上で結んだ地点に立っ
ているので、キーパーは楊へと上げられたセンタリングへと飛び出
しにくくなっているのだ。
しかも、ここにいればもしキーパーがボールをこぼしたら押し込
むには最適である。うかつにシュートを弾く事さえも制限されてし
まうのだ。
中国はコーナーキックからの得点が多いだけあってよく考えて訓
練されているな。
667
とにかく敵のコーナーキックからの空中戦では俺はあまり役には
立てない。絶対的に高さが足りないのだ。ゴール前におけるポジシ
ョン争いや体のぶつけ合いで敵を妨害するのも苦手である。ならば
俺がこの場面で日本チームに貢献できるのは、ゴール前からボール
がこぼれて来た時に備える事だろう。
人口密集地から少し離れ、ルーズボールになった場合に最も来る
確率が高いであろう場所へ動く。
頼むぞうちのディフェンス陣。
いつもは守りを犠牲に攻撃力を上げていると割り切っているのだ
が、こんな時はつい現金だと判っていても真田キャプテンが率いる
DF達に頼ってしまう。
俺の祈りが通じたか二度目のコーナーキックは楊の頭には合わず、
なんとかキーパーがキャッチするのに成功した。
こんな攻撃を何度も繰り返されるといつかはゴール破られそうで
怖いな。たぶんDF達は俺よりもっと不吉な予感を実感しているだ
ろう。
その不安を和らげるのはやはり追加点しかない。貯金があれば一
点ぐらいやってもいいと余裕が持てる。そりゃ無失点なら最高だが
﹁一点もやれない﹂状態と﹁一点も取られない方がいい﹂状態では
DFにかかるプレッシャーが違う。
だから、早くボールをくれ。そう手を上げてアピールしたが、キ
ーパーからのパスは明智に向かっての物だった。
上げた手でぽりぽりと頬をかき、ならば俺は上がった方がいいだ
ろうとすぐに思考を切り替える。スペースを埋めようと待っていた
守備の為の場所から素早く前へダッシュする。
中国ディフェンスは長身DFをコーナーキックのヘディング要員
として日本ゴール前へつぎ込んでいたから、こうなると攻守の切り
668
替えができずにまだ守備が薄い。
よし、今度は日本のカウンターチャンスだ。
さっきまで人が少ないスペースにいた俺についているマークなん
ているはずがない。フリーで敵陣へと侵入していく。
明智は一旦溜めを作り、そこから左サイドへとパスで攻撃を展開
した。
左のウイングはボールを受けとるとそのままドリブルで上がろう
とするが中国の寄せも速い。すぐに駆け寄ってくる。だが、マーク
に追い付かれる直前に俺へとパスを回してくれた。
でも、ちょっとだけタイミングが遅いよ。もうすでに俺にマーク
が追いついているじゃん。右サイドの選手や明智とはプレイする呼
吸が合ってきたが、こいつとはまだまだだな。
密着マークされるのが好きなプレイヤーはいないだろうが、特に
俺は苦手である。
年齢差による体格の違いが最も浮き彫りになってしまう接触プレ
イだからだ。
それを知ってか、中国のボランチがぐいぐいと相撲のように俺を
後ろへと押し出す。ボールを奪おうとするよりも俺の体を自由に動
かさずに、後方へ押し込むのを目的としているようなマークだ。
こっちはパワー負けしているために、踏ん張って抵抗するのが精
一杯。パスをもらったタイミングと体勢が悪いために相手の圧力を
受け流す事ができない。
そうこうする内に中国側のDF達が日本のゴール前から引き上げ
て来た。
くそ、カウンターは失敗だ。これは俺のミスだな。パスを止める
んじゃなくてダイレクトで前線に通すべきだった。
踏みしめていた右足でアンカーへボールを戻すと、踏ん張りがな
669
くなった俺の体は敵に押されて数歩タタラを踏む。いっそ倒れるほ
どの力ならばファールになるのだが、これぐらいならば審判も笛を
吹かないか。正当なチャージで押される貧弱な俺の方が悪いって事
かよ。
俺が自身のパワー不足を嘆いている間にもアンカーも無理して前
へ攻撃しようとはせず、あっさりと最終ラインにまでボールを下げ
た。うん、地味なんだが落ち着いたボール捌きだ。
だが、後ろにとはいえ簡単にパスが通るのも何か違和感があるな。
そう思って改めてピッチ上の中国のフォーメーションを見直すと、
これまでのように前掛かりではなくペナルティエリア前できっちり
と守備のブロックを作っている。
さっきまでの時間帯は中国ディフェンスはブロックを作って攻撃
を待つ構えではなく、前へボールを奪いにいく作戦だった。それが
改められているな。さすがにあれだけのハイテンポのプレスは体力
が持たないと戦術を変えてきたようだ。
正直助かる。ないとは思っていたが、まさかあのプレスを試合最
後までやり続けられるのではないかと危惧していたのだ。
こうして多少なりともマークが緩くなってくれれば、日本チーム
のパスのつながりやリズムがぐっと良くなる。
﹁ほらアシカ、やりやすくなったっすよ﹂
﹁うん、これなら中盤はいつも通りのパス回しができそうだ﹂
俺と明智がパス交換するのが日本代表の攻撃のスイッチの一つに
なっている。ゲームメイカー同士だからか、お互いがパスを欲しが
るタイミングが判るので俺達二人を経由したボールはチャンスにな
りやすいのだ。
やっと自由にプレイができるな、つい緩みそうになる口元を意志
の力で引き締める。ボールが足下にないならば俺だって我慢できる
670
のだ。
さて、どうしようか? 相手がプレスを弱めたのなら、こっちが
攻めるべきだろう。その攻め方にも幾つも方法がある。
中国のようにサイドからクロスを上げる戦術に、中央からドリブ
ル突破する作戦、遠目からどんどんミドルシュートを撃つやり方に、
パスをつないでボールキープ率であるポゼッションを重視する方法。
それらの中から俺と明智が選んだのはボールを失わないように、
パスを回してじっくりと攻める手だった。
なにしろ俺達が一点リードし、さらに相手の中国チームはここま
でオーバーペースでやってきたんだ。時間はこっちの味方である。
試合の残り時間が少なくなればなるほど日本が有利になっていく。
ならば相手にカウンターで攻めさせる隙をなくすために、じっく
りと時間をかけて攻撃するべきだ。その上でパスを回して相手の守
備をさらに引きずり回して疲労させられるならそれに越した事はな
い。
これはもうずいぶんと昔に思えるが、俺が小学生時代に明智のチ
ームにとられた作戦に近い。
じっくりと狩人が獲物を狩るように中国側の抵抗を削いでいこう。
油断はしないし、自身の力を過信もしない。日本チームの意志は
統一され、無理な攻撃は控えてボールを失わない事を優先した落ち
着いた展開へと試合の流れが変化した。
もちろんうちのエースストライカー様はパスが回ってこないとご
立腹だったが、上杉にボールを渡すとキープするどころかダイレク
トでシュート撃っちゃうもんなぁ。できるだけ﹁なんでワイにパス
せぇへんのや﹂と叫んでいる少年と目を合わせない様にパスをつな
ぐ。
671
あ、やばい。目が合ってしまった。つい俺のせいじゃないぞと明
智の方を向く。
上杉の視線が移った明智も﹁げげっす﹂と口にするとアンカーの
方へ顔を向ける。アンカーはさらにDFへ。そうした一方通行の視
線のリレーの終着駅となった真田キャプテンが﹁僕か? 僕が悪い
のか?﹂と呟きながら必死に眼光鋭く睨んでくる上杉に対してそっ
ぽを向き続けていた。うん、楊を抑え込みながら上杉の八つ当たり
の対象になるなんて、本気で胃を患わなければいいんだけどな。
そのまま前半の残り時間のほとんどを日本がボールを支配した状
況で終えたのだった。
追加点が奪えなかったのは残念だが、前半の内容としてはまずま
ずだな。
672
第二十四話 ハーフタイムでは落ち着こう
﹁よし、まあ前半は及第点だろう。中国があそこまで激しくプレス
をかけてくるとは想定外だったが、よく凌ぎきったな。特にディフ
ェンスに関しては武田と真田があの楊を抑えてくれたのが大きい。
あれだけマークする相手がでかいとセンタリングで頭に合わされた
ボールは防ぎきれないが、いい体勢でシュートを撃たせないのだけ
は後半も徹底しろよ。攻撃もちょっとだけうちらしくない攻めだっ
たが、とりあえず一点は取れたんだから悪くはなかったな﹂
﹁どこがや﹂
前半の日本チームの出来を評価する山形監督のその言葉に噛みつ
く者がいた。だいたい判るだろうがうちのエースストライカーであ
る上杉だ。前半の最後付近の時間帯は得点を狙うより﹁ボールをキ
ープする﹂のを目的としてパス回しをしていたから、彼にはほとん
ど回ってこなかったのが不満なのだろう。
なんで上杉にパスを出さなかったって? そりゃ判るだろう。こ
いつにボール渡したらどんな状況でもシュートするに決まっている
からだ。敵の守備組織がかっちり固まっていて、日本が時間を使お
うとしている場合は上杉にパスしようとは誰も思わなかったのだ。
﹁何でワイにパスをくれんのや?﹂
﹁そりゃ⋮⋮なあ?﹂
上杉のイライラした質問に監督が俺達に対し﹁お前らは判ってく
れるよな?﹂と言いたげな目でこっちを向く。ええ、判ってますけ
ど、俺達に責任を投げないでくださいよ。選手を納得させるのも監
673
督の義務でしょうが。加勢が来るのを諦めた監督が理詰めで説いて
いく。
﹁ふむ、もし上杉にパスが来たらどうしたかね?﹂
﹁シュート撃っとったな﹂
迷う素振りのない上杉に皆が頷く。うん、こいつは間違いなく躊
躇なくシュートしてただろう。
﹁その、皆がボールを奪われないように慎重にパスを回していたの
は判るよな?﹂
﹁ああ、面倒な事ようやるわって思うてた﹂
﹁⋮⋮ならすぐシュートを撃って相手ボールにする上杉には、ボー
ルをやりたがらないのも当然だと思わないか?﹂
﹁ほう、だからワイにボールがほとんど来んかったんか⋮⋮﹂
監督の言葉にしばらく精悍な顔を曇らせてうつむいていたが、や
やあって晴れやかな表情で顔を上げる。
﹁つまり、そんな状況なら確実にワイに来たパスはシュートしても
ええボールちゅうことやな。うし、パスが少ないのは気に入らへん
けどしゃあないか。まぁ他のごちゃごちゃした作戦は皆に任せるさ
かい、ワイにももうちょいボール寄越してな。ちゃんと点取ったる
から﹂
事実上のボールキープ戦術の放棄宣言だ。自分はシュートしか撃
たないと、こんな時ですら﹁点取り屋﹂としてのプレイスタイルを
曲げようとしない。
監督もこの態度に﹁シュートせずにパスを回せ﹂とは言えない。
ま、この少年にそんな無理な要求をごり押しする監督だったら上杉
674
を代表に招集してスタメンにまで抜擢しないか。やれやれと髭面に
苦笑いを浮かべ﹁上杉はもうそれでいい﹂とお墨付きを与えた。
どうせ上杉は何を言ってもシュートしか撃たないのなら、それを
チームの共通理解にしておいた方が得策だと考えたんだろう。万が
一誰かが上杉もパス回しに参加してくれるだろうとかいった誤解を
持たないようにな。
そんな特別待遇でもチームメイトも﹁まあ上杉だし⋮⋮﹂で納得
するようだ。それだけで納得されるキャラクターってのも凄いな。
パス回しに参加しないのが一名出たのはともかく、これから後半
どうするかを決めなくてはならない。
すると明智が手を上げて﹁提案っすけど﹂と監督と周りに作戦を
提示する。
﹁後半も最初の十分は前半最後のボールキープする戦術でいいと思
うっす。相手がまたプレスを強めてくるか、引いて守るのか判らな
いっすが、どっちを選択しても日本がボールを持っていれば対応で
きるっす。そしてもしプレスがきつくてボールが奪われそうになっ
た時は、右サイドの前方に狙いをつけなくたっていいから、適当に
蹴ってくれればいいっすよ。そこならうちのサイドアタッカーが二
人いて、しかもその二人につくマーカー以外はプレスに行っている
はずだから、つながる確率が結構高いっす﹂
﹁ああ、そうだな。緊急避難先として中国の左サイドの裏へ放り込
むのを約束事にしておくか。あそこなら多少ズレたとしても最悪ゴ
ールキックだ。下手につなごうとしてうちの陣地の深い場所でパス
カットされるよりはましだし、運が良ければ山下と島津がボールを
拾えるからな﹂
山形監督もしきりに頷く。
675
﹁そして守備は今まで通りでいい。オフサイドを取ろうとするより
も、しっかりとマークする相手を逃がさない様にしろよ。そして楊
がゴール前にいる時は常に二人がチェックしているように。サイド
を抉られたとしても、サイドへ広がるよりもゴール前を固める事を
優先しろ、いいな?﹂
﹁はい﹂
皆の︱︱特にDF達の元気な返事に監督も﹁よしよし﹂と頷く。
そしてお次は、俺や明智にアンカー役のMF三人衆への指示だ。
﹁相手のプレスが強い場合だが、お前達ならそれをかい潜って前線
パスを通せるはずだ。その時はできるだけ中盤ではもたつかずに、
シンプルに縦へ速くできればワンタッチでボールを運べ。それが強
いプレス対策になる。そして相手が引いて守ろうとする場合は明智
とアシカの二人が中心となってのボール回しだ。どちらの場合も片
方が上がればもう一人は下がってスペースを埋めるつるべの動きを
忘れるな﹂
﹁判りました﹂
﹁了解っす﹂
最後に残ったFW陣︱︱一人DFも混じっているが︱︱に対して
も指示がでる。
﹁お前らは、えっとそうだな﹂
集めたはいいがどうにも言いにくそうである。FWは上杉を筆頭
にわがままと称されても仕方がないクラスのプレイヤーばかりだか
らな。俺が監督にそう同情していると左ウイングが﹁ちょ、俺もこ
いつらと一括り!?﹂と動揺した様子を見せる。あれ? まずいな
無意識の内に心の声が洩れていたらしい。
676
失敗に体は固まったまま視線だけを動かして周囲を探ると、山下
先輩が半眼で﹁アシカがそれを言うか?﹂と睨む。島津は﹁まあま
あFWが少しぐらいエゴイストと謗られるのは仕方がないのでは﹂
と宥めている。どうやら彼は自分もそのわがままなメンバーの一員
に数えられているとは思ってもいないようだ。
最後の俺から名指しされた上杉は逆になんだか嬉しそうだった。
唇をつり上げて逆立てている髪を下から上へ撫でつける。
﹁ワイがわがままなの判ってくれてありがたいわ。ならワイが自分
勝手に動くのも判ってくれてるやろ。アシカがきちんとパスを寄越
すなら別に何言われても文句はないで﹂
﹁えっ?﹂
いつの間にか俺が上杉へのパスを出す係りになっているようだ。
まあ仕方ないか、口を滑らせたのは俺の方だしな。ただ譲れない点
ももちろんある。
﹁パスは出しますが、確率の低いシュートを質より量とばかりに撃
たれても迷惑です。できるだけノーマークに近い状態でシュートで
きるようなポジションどりをお願いしますよ。マークを三人も引き
連れて﹁寄越さんかい!﹂って怒鳴られても俺は突発性難聴になり
ますからね﹂
﹁⋮⋮ほー、その病気ってアシカの頭を斜め四十五度で叩くと直る
んやないか?﹂
﹁ふっふっふ、そんなことを許すと思っているんですか? ⋮⋮う
ちの真田キャプテンが﹂
﹁え? ごほっまた僕に丸投げ?﹂
驚いたのか、飲んでいたスポーツドリンクでむせる真田キャプテ
ンだった。すまない、なんだかキャプテンって役職は面倒事を押し
677
つけてもオーケーっていう感覚が強くて。﹁なるほど先に真田キャ
プテンの頭をその角度で殴れってことかいな﹂と冗談混じりだが剣
呑な目つきになる上杉だった。
ピンチに陥ったかと思われた真田キャプテンだったが、彼に意外
な援軍が現れる。
﹁真田キャプテンを殴りたいなら、先に俺を倒さなきゃいけないな﹂
﹁⋮⋮武田かいな。一遍互角に戦っただけで、ワイとやり合えると
思うとるんか?﹂
﹁やり合えるどころか圧倒するつもりだがな﹂
二人の間が緊迫する。あれ? なんでこんなバトル物の展開にな
ってるの? その時、半ば忘れ去られていたこのロッカールーム内
の最高権力者︱︱監督が雷を落とした。
﹁お前ら、試合中だぞ。いい加減にしろ!﹂
さすがに口をつぐんだ上杉と武田の二人はお互いに目で会話する。
﹁では後日﹂
﹁おう、いっちょもんだるわ﹂
⋮⋮とりあえず今の衝突だけは避けられたようだ。試合に出場し
ている選手よりも疲れた口調で監督が口を開いた。
﹁お前らって本当に﹂
なんと続けようとしたのかは不明だが、そこでロッカールームの
扉が開き、﹁もうすぐ後半開始です﹂とスタッフから声がかけられ
た。﹁お、おう﹂と頷く山形監督もタイミングを外されたのか微妙
678
な雰囲気だ。
だけど、監督まだ作戦指示の途中ですよね?
﹁監督、FWへの指示が終わってませんが?﹂
俺の気配りに﹁いや、アシカが余計な口を滑らせなければ⋮⋮﹂
と逆恨みっぽく呟いたが、すぐに落ち着きを取り戻す。
﹁あーFWは自由にやれ。っていうか勝手にやるだろお前らは﹂
﹁ええ、そんな!?﹂
﹁あ、読まれてたか﹂
﹁言われへんでも勝手にやるわ﹂
﹁お墨付きをいただけた、と﹂
左のウイング以外は皆、嬉しそうだ。それと島津、だから繰り返
すがお前はFWじゃないって。
こんな有り様で後半はうまくいくのだろうか?
679
第二十五話 目を離せないストライカー
後半開始の笛が鳴らされ、中国との試合が再開した。
中国から始まるボールを楊がセンターサークルからMFへと戻す。
前半の頭はいきなりあれだけ飛ばしてきたのに、今度は随分とじ
っくり構えているな。敵の両サイドは若干上がってはいるが、中盤
はむしろスペースを空けないように守りに気を使っているようにす
ら見えるのだ。
がむしゃらなだけのサッカーが通じないと判断したか︱︱もしく
は前半の内に飛ばしたツケがきて、体力が心許ないのかもしれない。
どっちにしろ日本にとっては都合がいい。
一番厄介なのは最初の馬鹿みたいなプレスの嵐を続けられる事だ
ったからな。あれだけ絶え間なく相手に押し寄せられると、いつも
の通りのプレイでさえやりにくくて仕方がなかった。まあ、アジア
を出ればあのぐらいのプレスを特攻ではなく戦術の一つとして有効
に使ってくる国があるかもしれないから、この試合が終わるとちゃ
んと対策を練る必要があるだろうが。
そうなるとこの試合で激しいプレスを体験できたのはかえってラ
ッキーだったかもしれない。おっと、思考が今やっている試合から
ズレているな。気を取り直して集中し直そう。
◇ ◇ ◇
日本はマイボールにしても速攻はしない。
後半に入ってからはボールの奪取に成功してもしばらくは中国デ
ィフェンスとの間合いを計りながら、日本代表はじりじりとボール
680
を敵陣の深くに運ぼうとパスを回していくだけだ。しかし当然なが
ら向こうもゴール前には人数をかけてきっちりとした守備のブロッ
クを作り、容易には近づけようとはしない。
ここで強引に行くのも手なんだが⋮⋮ちらりと後ろを振り返る。
ハーフウェイより日本側のピッチに残っている中国人選手は一人
だけだ。そのたった一人が長身FWの楊なのだから問題なのである。
うかつにボールを中国に奪われて、ロングボールを日本の陣地の奥
深くまで蹴り込まれたらと想像するだけで鳥肌が立つ。あれだけポ
ストプレイもカウンターも得意な選手なのだ、適当にボールを放り
込まれると、ただそれだけでピンチになってしまう。
だが、こうやってボール回しをしているだけでは意味がない。ボ
ールキープを重視しているポゼッションサッカーとは本来はボール
を保持しているだけでなく攻撃するための物なのだから。
それにこのまま中国がおとなしく負けを認めるはずがない。体力
を温存した後で、絶対に一度どこかでスイッチを入れて逆襲に来る
はずだ。その前にできれば追加点を取っておきたい。
そのまま静かに試合が推移し、後半が十分過ぎたぐらいの事だっ
た。ちょうど俺がボールを持っていた時、今度は右サイドにパスを
回そうと思ったタイミングで中国の監督がベンチから立ち上がった
のを鳥の目で捉えた。
これはもしかしたら!
一拍だけパスのタイミングを遅らせると、中国の監督が大声で何
か指示をしている。もちろん何て言っているかなど理解不能だ。た
だ一つだけ俺が判るのは︱︱お前らがちょっとピッチ上への集中力
が薄れているって事だ!
一瞬中国のDF達は目の前の敵ではなく、自分達の監督の方へと
視線を移した。それは時間にすればほんの瞬き程度の物だったかも
しれない、だがその間だけは確実に俺達は彼らの目に映っていなか
681
ったのだ。
向こうの監督が声を出した刹那、空気を読まない二人組である俺
のパスと上杉のダッシュのタイミングは完全にシンクロしていた。
俺がパスを出したのはこの試合ほとんどがボール付近でのプレイ
に絡んでこなかった、いわゆる﹁眠っていた﹂プレイヤーだ。だが、
この上杉は自分の所にパスがほとんど来なくても、マークを外そう
とする動き、オフサイドラインを破ろうとするダッシュ、DFの裏
を取ろうとするムーブなど今まで一切手をぬいていなかったのだ。
この少年は他の事はともかく、ゴールをするためには何度無駄なダ
ッシュになるのも厭わず、汗をかくのも何とも思っていないのだろ
う。
この時もそうである。おそらく上杉には﹁相手の監督が指示を出
している﹂というのさえ気がついていなかったかもしれない。こい
つには﹁敵DFが隙を見せた﹂というだけで自分が動くには充分な
理由であり、今回もまたそのセオリーに従って一瞬集中力を途切れ
させたマークを振り切っただけだ。
そこに俺は細心の注意と持てる技術の全てをつぎ込んだ、速くて
正確なスルーパスを上杉の足元、走るペースから考えて約五十セン
チ前に狙いを定める。
自分の足元からパスを出すラインがすっと伸びている感覚で、そ
のラインにボールを乗せるように丁寧にかつ力を込めてインサイド
で蹴る。
蹴った瞬間空間にイメージしたラインは消えたが、ボールは糸を
引くようにその線を上書きして中国守備陣のMFとDFの間をすり
抜けて、ぴたりと計算通りのポイントとタイミングで上杉へと通る。
よし、オフサイドにもならず敵のDFの裏を取った最高のスルー
パスだ。そう自画自賛したくなるほどのいいアシストだ。
682
あとはうちの誇るワンタッチゴーラーの出番である。後ろを振り
返って確認をしていないはずなのに、俺からのパスをここに来るの
が当然とばかりにトラップもせずに迷いなくその右足を振り抜いた。
キーパーからすれば気がついたら目の前で上杉がすでにシュート
を撃った後のような感覚じゃなかったかと思う。当然その状態でシ
ュートを止められるどころか反応すらできるはずもない。
豪快なシュートは見事にゴールネットを揺らし、日本の二点目が
記録された。
﹁おおおーー! 見たか。ワイにパスを回せば点を取ったるんや!﹂
よほど鬱憤が溜まっていたのか興奮して、その場でなぜかシャド
ーボクシングをしながら叫ぶ上杉。その見事なコンビネーションブ
ローを打つ姿にいつものように手荒な祝福をしようと近付いてきた
日本イレブンも立ち止まってしまう。
最後に豪快なアッパーを空に突き上げると﹁見たか! ワイの力
を!﹂と俺を指差す。え? 俺を仮想敵にしてシャドーボクシング
してたの?
﹁お、俺、ちゃんとアシストしましたよね﹂
﹁あ、そやな。じゃあどいつに文句言えば⋮⋮﹂
﹁サポーターに言えばどうです?﹂
俺が提案すると上杉が日本のサポーターが集まっているサムライ
ブルーに染まった席を向く。すると彼が何か言うより先に﹁ウ・エ・
ス・ギ、上杉ナイスゴール!﹂とのコールが響く。いくらなんでも、
これでは怒りの持続はできないだろう。
サポーター席に対して俺みたいに指を突き付けようとした上杉は
﹁あー⋮⋮﹂と口ごもると指さすのは中止した。その手で逆立てて
683
いる髪をぽりぽりかくと、ぎこちない動きで傷痕が目立つ左拳を上
げて応える。すると彼の名を呼ぶ歓声がさらに大きくなった。
中途半端に手を上げたまま笑顔で固まっているこいつも、島津同
様に耳を赤くしてやがる。どうも素直に称賛されるのが苦手な奴ら
がこのチームには集まっているらしいな。
まあ、ちょうといい機会だ。
﹁ナイスシュートです、上杉さん﹂
そう言って分厚い背中を破裂音がするほど叩く。ボクシングをや
っていたせいか背筋が盛り上がるぐらいに上杉は発達しているんだ
よな。叩いた手が弾かれるようなしなやかで分厚い筋肉だ。
俺に続けとばかり他のメンバーも祝福の平手を乱打する。その掌
の雨の下からは﹁ちょい待ち﹂﹁あ、そこはアカン脳が揺れてまう﹂
などの悲鳴がしているような気もするが、突発性の難聴にかかった
事にしてスルーしよう。
俺達がじゃれ合っていると、山形監督が﹁騒ぐのはいい加減にし
てポジションに戻れ﹂とベンチから声をかけてきた。はいはい、言
われなくても戻りますよ。まったく監督も空気が読めないなぁ。
内心で文句を呟きながらちらっと中国側のピッチを見ると、その
浮ついた気持ちが全て吹っ飛んだ。
中国チームのイレブン全員がぎらついている。なんだかサッカー
と言うより喧嘩の前のような迫力だ。向こうの監督に何か発破をか
けられたようだが、中国チームの監督さんよ、二点目はあんたの指
示を出す間の悪さも責任があるんだぞ。だからそんなに選手を死に
物狂いに追い込むなよ。
思わず乾いた唇を舌で湿らせて、まだ敵の変貌に気がついていな
いチームメイトに声をかける。
684
﹁おーい、まだ試合は終わってないみたいですよ、気を抜かないで
ください。そしてあちらさんがどうもキレちゃってるみたいです﹂
俺からの言葉に幾つもの訝しげな視線が中国チームに注がれ、そ
れが緊張した物へと変化する。
さすがに皆も中国が背水の陣の覚悟を決めているのが判るようだ。
敵の表情からは真剣さのみならず悲壮感すら混じっているのだから。
二点差をつけたからといって油断なんてできるわけがない。おそ
らくこれからまた中国は前半最初のようなハイペースのプレス地獄
をやるつもりだろう。
ならばここからが日本の実力が試される時間だな。
多少敵の気迫に呑まれた感がある俺達の中で、いつもと変わらぬ
大阪弁が響く。
﹁毎度の事なんやけど、気を抜くなとか気合い入れろとかそんなん
いらんわ。ワイはいつでもどんな相手でも、点を取ることしか考え
てないんや。気を抜くもくそもあるかい﹂
⋮⋮こいつはこいつでブレないなぁ。まあでもそうだよな。相手
が気合い入れてきても俺達がやることは変わらない。その与えられ
た役割とプレイを一つ一つしっかりとこなしていく、それが勝利に
つながる道なんだろう。
﹁だから、またさっきみたいなパスを頼むでー。と、まだ世界がぐ
らんぐらん揺れて見えるわ。だから顎は駄目や言うたのに﹂
﹁はいはい﹂
ま、上杉がいれば敵もディフェンスを空にして総攻撃というわけ
にはいかないだろう。こいつの存在がある事で、中国の腰が少し引
けて攻めにくくなるはずだ。何だかんだ問題はあるが、頼りにして
685
るぜうちのエースストライカー様よ。
686
第二十六話 目を離してはいけないストライカー
試合再開の笛の音と共に中国は凄い迫力で攻め込んでくる。
その勢いは俺が警戒していたにも関わらず無意識に後ずさりしそ
うなほどだった。予想通り相手は勝負をかけてきたらしい。
でも、さっきの二点目を失った時といい、あの中国の監督は試合
中のタイミングを読む勝負勘がないな。二点差がついて残り二十分
という状況になってからハイリスクなギャンブルを仕掛けてもちょ
っと遅いぞ。
馬鹿みたいにロングボールをゴール前の楊に放り込むだけなら、
うちの守備陣だってそのぐらい単純な攻撃は余裕を持って︱︱。
﹁武田! 体で止めろ!﹂
﹁判ってるが、止まらねぇんだよこの化け物は!﹂
余裕を持って防げるはずなのに、楊の奴が止まらない。
DFの武田を半ば引きずるようにして、楊が強引なドリブルでペ
ナルティエリアに侵入しようとする。あいつってヘディングだけじ
ゃなくドリブルも結構うまいじゃないか! しかもあれだけの体だ、
DFにパワー負けしたことなんかないんじゃないかな? けっ、だ
から恵まれた体格を持った奴は⋮⋮。じゃねぇ、大ピンチだ。
だが、俺が慌てて最終ラインに入ろうとするより早く武田のフォ
ローをしていた真田キャプテンによってなんとかクリアされ、時間
が止まると中国ボールのスローインへと変わる。
﹁真田キャプテンナイスディフェンス!﹂
687
俺以外からもそのボール奪取能力に賞賛の声が挙がるが、真田キ
ャプテンは手を叩いて﹁いいから集中しろ、集中!﹂と叫ぶ。
ふむ、その通りだな集中しようか。
それにしてもさっきの楊の突破は凄かった。まずは、でかい体を
フルに生かして後方からのロングボールを空中戦で自分の足下に落
とす。そこで味方にリターンパスを戻すポストプレイかと思えば、
周りのDFをなぎ倒すようなターンをしての自らゴールへ向かうド
リブルだ。トラックが軽自動車を弾き飛ばすようにパワーで日本の
最終ラインを個人で突破しかけていた。
なんとか真田キャプテンによってボールを奪えたが、高さとパワ
ーだけでなく足技を使ったドリブルまであるとなるとかなり厄介だ。
武田と真田キャプテンの二人で大丈夫かな⋮⋮いや、大丈夫に決ま
っているじゃないか。うちのディフェンスを信じろ。
後半も半分が過ぎ、残り十五分ぐらいになったころに敵のプレス
のペースがやや落ちてきたように感じた。さすがにあんな休みなし
の守備をそうそう続けられるものじゃない。前半よりもプレスが弱
まるのが早いぞ。
チャンピオンズリーグに出場している屈強な選手達でさえ、時間
一杯プレスをかけるのは不可能だとされているのだ。大人の場合は
九十分とこのアンダー十五の試合より試合時間が三十分も長いが、
いくら大人より短いとはいえそれでも成長途中の少年達がずっと走
りっぱなしでいられる訳がない。
ましてやこのプレスは一人でもさぼる奴・走れなくなった人間が
でれば、包囲網がただの破れた網になってしまい意味がなくなる。
そのためにチームの全員が休めないハードな物なのだ。
中国は前半もそんな消耗する作戦を決行して、その後守備でさん
ざん左右に振り回されたんだ。俺達がそうなるように意地が悪くパ
スでディフェンスを引きずり回して体力を削るようにプレイしてい
688
たのだから、そろそろ体力が尽きてもらわないと割に合わない。 プレスが緩くなったのを感じ、ボールをもらうと前を向くことが
できた。さっきまではパスが渡った瞬間に相手がついていたから反
転する余裕がなかったのだ。確実に相手の対応が一呼吸ずつ遅れて
いる。ならば、チャンスの到来だ。
今度は右サイドを使おうと山下先輩にロングパスを送る。
軽くカーブするボールが描く軌跡はきちんとウイングのポジショ
ンにいる山下先輩にまで届いた。
うん、プレスが遅れているせいか先輩もDFと一対一で勝負がで
きるようだ。もちろん抜けばビッグチャンス。前半の島津のゴール
につながったプレイのようなシーンが再現されるはずだ。
げ、山下先輩の馬鹿! ドリブルで抜けずにボールを奪われやが
った。いや、あれは相手のDFが上手かったんだ。よく見れば山下
先輩をマークしていた相手が前半から変わっている。どうもドリブ
ルを止めるのが得意なタイプを個人突破を好む山下先輩用に配置し
ておいたらしい。
くそ、それはともかくカウンターが来るぞ。
この時ばかりは中国にとってはプレスが遅れたのが幸い、日本と
っては災いだ。なぜなら、まだ日本の前線に残って自陣まで戻りき
っていない中国人選手が多数いるのである。
中国のカウンターはまたもや島津が上がって不在の日本の右サイ
ドから行われた。
敵のウイングが日本の右サイドを切り裂いてもこっちのサイドに
対応する動きは遅い。むしろゴール前に人数を割いている。仕方な
く俺が下がって抑えに行かないとマズいなと動き出すと、それより
早く向こうはゴールライン付近まで進んでセンタリングの準備をし
ている。こりゃちょっと間に合わないかな?
689
だがゴール前の敵選手には全員密着マークがついている。特にニ
アサイド︱︱蹴る方へ近いゴール前︱︱にいる楊には、武田と真田
キャプテンの二人が左右を挟むようにして自由を奪っている。これ
ならば大丈夫かと安心しかけた時、ようやく敵のウイングがクロス
を上げた。
それはこれまでのように楊の高さを生かそうとする上空へのハイ
ボールではなく、低く速い弾道のオウンゴールを呼び込みそうなシ
ュート性のクロスだった。
虚を突かれた形になった日本DFだが、ゴール前の守備に参加し
ていない俺が感心するほど素早く反応した。一番ボールに近い武田
が楊の前に立ちはだかり壁となったのだ。そして楊の背中側になっ
た真田キャプテンも審判の目から判らないぐらいにさりげなく彼の
袖を引っ張って動きを制限している。
自分達がボールをクリアするよりも楊に動かれない様にする密着
マークだ。クロスボールは他の仲間に任せるつもりらしい。
このままニアサイドをスルーできればボールはキーパーの真正面
だ。きっとキャッチしてくれるだろう。
だがそんな期待を裏切り、武田の目の前でボールは角度を変えて
ゴールへと突き刺さった。
オウンゴールでもカーブがかかっていたのでもない。
何が起こったのか? 答えは単純だ、武田の背後にいた楊が武田
の脇の間から体越しに左足をぬっと突き出してボールに触れていた
のだ。
武田だってぼうっと立っていた訳ではない、周り込まれない様に
肘を張り、腰を落して背中で楊の動きを感じ取っていたのだ。普通
ならばそれだけ警戒したDFが前にポジションをとって、しかも後
ろのDFには袖を掴まれていれば身動きが取れない。しかし、規格
外に大きい楊の体と長い足がその場からの敵の体越しのシュートを
690
可能にしたのだ。
日本国内の試合であれば、これだけきっちりマークしていれば得
点はされなかっただろう。しかし、そんな常識を越えているのが世
界のレベルなんだ。
まだアジアレベルはその入り口でしかないが、俺達の常識では判
断できない選手や技術がまだまだ存在するのだ。それを知り体感す
る為にも世界大会へ進まねば。
俺が楊のシュートに﹁負けるもんか﹂と決意を固めていたが、他
の日本のメンバーにはまだ事態の把握ができていなかったようだ。
え? 今何が起こったんだ? と呆然とする日本の守備陣を尻目
に、楊と中国選手がゴール内のボールを抱き抱えて走っていく。
審判の得点を告げるホイッスルに落胆の呻きが日本のサポーター
から洩れる。そして対照的に活気づくのが中国のユニフォームと同
じ赤で染まった向こうのサポーター席だ。まるで生き返ったように
歓声が爆発し、大きな中国の国旗が無闇に風を切って振り回される。
ちっ、中国がプレスを続ける体力が尽きるとそこで勝負ありだと
考えていたが、これで向こうの士気も回復してしまったな。もしか
したら一点差に縮まった事で精神的にリフレッシュして、消耗した
体力まで回復してしまったかもしれない。これでは試合の最後の一
秒まで油断できないぞ。
ロスタイムも入れると残り十五分といった所か、実際以上に長く
感じそうだな。
センターサークルにボールをセットすると﹁早く再開しろ﹂と言
わんばかりにさっと自陣へ戻り審判にアピールする中国チーム。
これには審判もうちに対して再開するように促すしかない。
こうして失点したにも関わらず、精神的に立て直す時間がないま
691
ま試合が再開されそうになっている。本来はこんな時は、ピッチ上
の監督である真田キャプテンが一声かけて冷静さと気合いを取り戻
すのだろう。だが今回は彼も失点を防げなかった原因の一人である。
瞬時に平常心を取り戻すのは難しいか。
真田さんは温厚で本当に良い人だが、本当はキャプテンをやるに
は繊細すぎるのかもしれないな。落ち込んでいる風情のキャプテン
にどうするか頭を悩ますが、それより早くベンチから監督が声をか
けた。
﹁気合いを入れなおさんか真田! このままだとコロンビアの奴に
お前の真の名前が奪われるぞ!﹂
﹁それって誰の事ですか!﹂
あ、復活した。
でも監督、ロドリゲスは自ら禁句って言ってましたよね。しかし、
その名前を口に出して言ってはいけないとは、まるで恐怖をまき散
らす魔法使いとか魔王みたいな扱いだな。
ま、落ち込むよりは怒っている今の真田キャプテンの方が戦う仲
間としてはずっとましになったようだけどな。これも山形監督なり
の発破のかけ方なのかな? でももう少しスマートな喝の入れ方を
希望するぞ、そうでないと俺にまでおかしなあだ名がつけられそう
だからな。
692
第二十七話 軽量のハンデを乗り越えよう
後半の残り十分、これぐらいの時間帯からは体力と精神力の強さ
が問われる勝負にもなってくる。
俺は精神力はともかく体力の方はちと自信がない。スタミナは途
中退場が当たり前だった小学生時代とは比較にならない程ついては
いるが、まだ中学生の試合時間には完全には適応しきってはいない。
この年代になってから前後半が三十分ずつと小学生の時より合計で
試合時間が二十分も延長されたのだから。
余裕のある試合ならともかく敵が強く全力で戦わねばならない場
合は終盤でガス欠に近くなってしまう。ましてやこれはプレッシャ
ーがかかり一瞬の油断もできない国際試合の真剣勝負だ、スタミナ
の消費は自身の想像以上に激しかった。
だが、それはたぶん中国代表も同じはずだ。いや、むしろ前半も
後半も時間一杯ではなくともあんな無茶なプレスをしかけてきたん
だ、俺より早くエンプティランプが点灯してなければおかしい。
だから俺も弱音を吐いてはいられないよな。
監督の喝で蘇ったのか開き直ったような真田キャプテンは精神的
再建を果たし、テキパキとDFに指示を下しては守備の引き締めを
している。よほど呼ばれたのがショックだったんだな、あのあだ名
⋮⋮可哀想だから俺も忘れてやるとしよう。
だがその守備では常に問題になるのが右サイドである。
島津が上がりすぎるためにうちの右サイドはフリーパスになって
いる。俺だってスペースを埋めようと努力はしているが、中盤の穴
ならともかく日本の最終ライン近くにまで侵入している敵のウイン
グなんかマークしていられないって。
693
今更そんな文句を悠長に言っていられる暇はないか。そのぐらい
承知で攻撃的布陣を組んだんだしな。
それよりも困った事には、中国が元気を取り戻してまたプレスを
強めて来たのだ。
いい加減に諦めてくれよ。一点取り返したぐらいで士気が上がる
なんて単純すぎる奴らだな、もう。
自分が逆の立場なら﹁後一点で追いつく﹂と元気一杯になっただ
ろう事は棚に置き、相手のプレスをかける勢いに辟易する。
ちっ、前へ出ると中国のディフェンスに邪魔されてパスが来ない。
ならば少しポジションを下げてボランチの位置にまで退くか。
さすがにここにまで下がると最終ラインのすぐ前だ、プレスもま
だ緩くボールだって回ってくる。パス回しには苦労しないな、ここ
でちょっとボールを落ち着かせるか。それにしてもなぜか周りの敵
もなかなか近づいて⋮⋮む?
﹁真田キャプテン、後ろだ!﹂
最終ラインでパス交換をしている真田キャプテンへ必死の声を出
す。だが、それは一歩遅くすでにキャプテンからのパスが別のDF
に渡っていた。
三人のDFがボールの出しどころを探り合ってっていると、大き
な体のくせに静かに楊の奴が真田キャプテンからパスを出されたD
Fへと接近していたのだ。
武田と真田キャプテンがずっと張り付いていたから、もう一人の
DFはこの巨人のことを自分の担当じゃないと軽視していたのかも
しれない。それが守備をしている時ではなくボール回しをしている
時に隙となった。楊の突進に慌てたDFが俺へとボールを蹴る。う
ん、あのでかい体の奴に突っ込まれてビビるのは判る。でもそれは
悪手なんだよ。
694
こんな場合は、もう右サイドの前方へ狙いは適当でいいから蹴れ
ってハーフタイムで指示があっただろう。こんな風にパニックにな
りかかってボールを近くの味方に渡そうとすると、ほらそこに罠を
張って狙って待っている奴がいるんだ。
中国のもう一人の小柄なFWが照準の甘いパスを、俺に届く前に
横からかっさらっていく。
くそ、こんな日本ゴール近くの危険地帯でボールを取られるとは
マズすぎる。失点の予感に総毛立ちながら、必死にダッシュで中国
FWの背中を追う。
そこに武田が駆けつけて、ゴール方向へのコースを切る。よし、
ドリブルが止まった、そう思った瞬間にボールがはたかれた。
そのボールの行く先はゴール前のバイタルエリア、つまりペナル
ティエリア正面のすぐ外である。敵に渡ればシュートもドリブルで
中へカットインも狙えるまさに﹁死命を制する場所﹂だ。絶対にこ
こで敵にボールを持たせてはいけない。
全力でボールを追うが、俺が追い付くより先にボールはパスの受
け手へと渡ってしまった。
中国チームのバイタルエリアでラストパスを受け取る人間なんて
こいつに決まっているよな。
そう、中国のエースストライカーである楊にこんな危険な場所で
ボールが渡ってしまったのだ。日本チームのメンバーだけでなく、
会場にいるサポーターまでもが一斉に息を飲んだようだ。全員の脳
裏に﹁危険﹂の二文字が点滅している。
ただ一つだけ幸いなのは、彼がゴールに背を向けている事。ボー
ルを迎えに戻って来たために、シュートするにはターンしなければ
ならないのだ。
そこにようやく追いついたDFが楊の背に抱きつくようにして密
695
着マークする。自分のパスミスで奪われたボールをなんとしてでも
取り返すつもりなのか、歯軋りが聞こえそうな悲壮な表情をしてい
る。
だが、DFの必死の覚悟もほんの僅かな時間しか稼げずに、その
体ごと物理的に取り除かれる。
楊が大きな手でかき分けるようにぐるりと回しながら反転すると、
うちのDFは回転ドアに巻き込まれたように自分の意志とは関係な
く体がずらされてゴールへの道を空けてしまったのだ。
では彼の努力は無駄だったのか? そんな事はない。その抵抗の
おかげで俺が楊の前に追いつく間ができたのだ。
﹁てめえ、でかい面してんじゃねーぞ!﹂
日本語が通じないと判っているからこその無茶苦茶な言いがかり
の気勢を上げて、俺が吹き飛ばされたDFの代わりに楊の前に立つ。
さあ来い! 俺はただ吹き飛ばされたりはしないぞ!
簡単に俺の体は吹き飛ばされた。
楊の肩でのチャージにぶつかった上半身が弾かれたように、楊と
反対方向へと振られたのだ。あまりの衝撃と勢いに一瞬視界がブラ
ックアウトしてしまうほどのチャージだ。
だが、一番恐ろしいのはそのチャージが反則ではないという点だ。
楊からすれば軽く肩を当てて邪魔を排除しただけにすぎないし、
ファールする気もなかった正当なプレイである。ただこっちが今ま
でにこんなパワフルなショルダーチャージは受けたことがないため
に、派手に吹き飛ばされる事になったのだ。
だが俺もただ意味もなく突っ込んで吹き飛ばされたのではない。
696
しっかりと収穫を倒れた足下に得ている。
上半身は無防備にチャージをされたようだが、足は楊からボール
を奪っていたのだ。さすがにショルダーチャージとボールコントロ
ールは同時にはできないからな。こっちはまともに喰らうのを覚悟
していれば足を伸ばしてボールを引っかけるのも可能だ。
まあほんの一瞬、肩がぶつかってから尻餅をつくまでの間だとは
いえ、体だけでなく意識まで飛びそうになったのは計算外だったけ
どな。まったく楊と俺との間には戦車と軽自動車の衝突ぐらいのパ
ワー差があるのではないだろうか。
芝の上に尻餅をついたままボールを明智へとパスする。あ、マズ
いか? 足を動かした途端に左の尻に電気が走った。少しだけ出し
たボールの精度が落ちたが、明智は上手く受け取ってくれたな。
痛てて、立ち上がろうとしても倒れたときに尻を打ったせいか少
し痺れるような違和感があって、右足だけに体重をかける片足立ち
になる。
だが、このぐらいなら俺の自己診断ではダメージは浅い。自分の
力でちゃんと立ち上がれたんだし、ちょっと今やっているみたいに
手でとんとんと叩いて痛みの元をほぐせばすぐに回復しそうだし、
プレイには支障はないはずだ。
俺が自分の体と相談している間にも日本のカウンター攻撃が終了
していた。
明智から左FWへ、そこからまた明智にボールを戻して上杉を囮
に走り込んだ左FWへのスルーパスだ。
オフサイドラインを破りながら﹁どうせ自分には来ないだろう﹂
とでも思っているような左ウイングの表情が﹁まさか、俺にパスが
来るとは!﹂と驚きと喜びに変化し﹁お願いだ、入ってくれ!﹂と
ちょっと心配そうな顔でシュートを撃つのをその場で棒立ちのまま
観察していた。
697
そのシュートの結果は見事にゴールネットを揺らした。日本の三
点目でおそらくは駄目押しになる試合を決定づけるゴールだ。
左FWが何か叫びながら走り回っているが、ちょっとここまでは
聞こえないな。尻が痛くてあそこまで駆け寄ってもいけないし。も
しかしたら自分の名を叫んでアピールしているのかもしれないな、
そういえばあいつの名前は何だったっけ? 確か⋮⋮。
えーと、まあいいか。
それより日本のゴールで時計が止まっている間にメンバーチェン
ジするみたいだ。交代するメンバーは島津と俺か。まあフル出場で
きないのは不本意だが、スタミナが尽きかけているのと地面で打っ
た尻がまだじんじんと熱をもっているようなので交代させてもらえ
るならそれはそれでありがたい。
痛みは治まっているが、走るのは辛いかなとゆっくり交代のメン
バーの所へ歩いて行くとなぜか観客席から﹁アシカ﹂コールが響い
た。え? なんで? と思ったが、どうも俺は怪我も覚悟で楊の突
進を止めた勇気ある少年のような扱いになっているらしい。
ボランチの交代メンバーも﹁アシカ、ナイスファイトだ!﹂と肩
を叩いてくる。いえ、別に覚悟していたとかではなく、成算があっ
たからボールを取りに行ったんですが。それであんなに弾き飛ばさ
れたのは俺のミスなんです。
なんとなくサポーター席からの温かい拍手に素直に応えられず、
遠慮がちに右手を上げる。拍手がいっそう強くなるが、うう、なん
だか自分が悪いわけでもないのに嘘をついているようでどうしてい
いか判らんな。
ピッチから出ても監督が妙に優しく﹁お疲れ﹂と頭を乱暴に撫で
てくるし、一緒に退場した島津まで﹁無事か?﹂と訪ねてくる。
自分で歩いて戻れるんだから大丈夫に決まっているだろうが。
698
念のためベンチ前で横になってフィジカルコーチに見てもらって
も、半分お尻を出されて冷却スプレーを噴射されただけだった。
その肌を刺す冷たさに思わず﹁きゃっほぅ﹂と奇声を上げてしま
ったじゃないか。
﹁まあ見たところ軽い打撲だな。今日と明日までは湿布を貼ってお
けば充分だろ。万一明後日まで痛みだけでなく痺れがとれなければ
病院で検査してもらおうか。ま、ケツが痛いだけで大したことなさ
そうだ。これからの試合の日程も大丈夫だろ﹂
とお墨付きをもらった。実際冷やしてもらえばほとんど痛みは消
えて、尻の痛みより疲れの方を意識するようになっている。
ズボンをはき直しつつ試合途中で交代させてもらったのもいい休
養になるかと考えて、頭をプルプルと振る。何を腑抜けているんだ。
途中で代えられるってのは体力的に下に見られているって事だぞ、
良いことなんか一つもない。
それに今回は楊に吹き飛ばされた大事をとっての交代かもしれな
いが、前回のヨルダン戦も俺は途中交代しているんだ。体力をつけ
たつもりでも、まだ監督の目には頼りなく映っているのかもしれな
い。もっと精進しなければいけないな。
ベンチに座るとまだ左に尻の辺りがじんじんと痛みを訴えてくる
が、ここで変な挙動をするとまるで痔みたいで格好悪い。いや痔も
大変な病気だとは思うし、誰もベンチに座っている俺を観察しては
いないと思うが、代表戦なんだし自意識過剰になるのぐらいは許し
てくれよ。
ちょっともぞもぞしながらも観戦していると、俺の治療中︱︱と
はいっても横になってスプレーをかけられただけだが︱︱の間も試
合は続行され残り時間も少なくなっている。
俺や島津を下げて守備的なサイドバックとボランチをいれたのは、
699
四点目は望まずにこのまま試合を終えろというメッセージだろう。
まるで野球で九回にリードしてストッパーを投入したみたいだな。
こうして日本はゲームメイカーの一人である俺の代わりに、体で
も止められる大型なボランチ、いやこいつもプレイスタイルはアン
カーに近いMFを入れた。そしてウイング並の攻撃力を誇る島津の
代わりには、堅実でオーバーラップを控える傾向のタイプのDFだ。
この二人にはゴールに直結する攻撃力は期待できない。
おかげで上杉は﹁またパスが来ぇへん﹂とベンチに向かってぶつ
ぶつ文句を言うし、他のFW二人はウイングからサイドMFにまで
ポジションを下げられた。もう攻める気も、攻めさせる気もないみ
たいだな。
そこまで他の守備を固めた上で山形監督は楊に対して﹁DFが増
えたんだから、あなたにもう一人プレゼント﹂作戦で三人がかりで
マークすることにした。それが当たったのかガチガチに固めたゴー
ル前で中国の巨人も封殺し、そのままのスコアで逃げきるのに成功
したのだった。 アジア最終予選第二戦、三対一での勝利。
ホームでの二連勝はこれから始まる地獄のアウェー戦に向けて、
この上ないスタートとなった。
700
第二十八話 自分の評価を確かめよう
﹁アシカ君、二連勝おめでとー!﹂
﹁大きい中国人にワイヤーアクションみたいに飛ばされてたけど大
丈夫?﹂
﹁この調子だったらアジア予選も楽勝だな﹂
﹁︱︱今の監督のサッカーは攻撃的すぎてバランスを崩していない
か? むしろインサイドハーフの一人を少し下げてダブルボランチ
にした方が︱︱﹂
俺が教室にたどり着いた途端クラスメートがわっとばかりに集ま
ってきた。朝の挨拶もそこそこに、昨日あった代表戦について話し
かけてくる。真も一緒に登校していたのだが、人波に押されて俺の
隣から教室の外まで流されていってしまったぞ。どこかからか﹁ヘ
ルプ・ミーなんだよ!﹂と聞こえようだが、きっと気のせいだろう。
あの中国戦はテレビ放送されたとはいえ衛星放送でしかも視聴率
は取れなかったったはずなのに、なんだかうちのクラスでは見てた
人が多いみたいだ。
まあ俺達を応援してくれていたと思えばありがたいよな。日本人
しかいないクラスメートなのにわざわざ対戦国を応援するへそ曲が
りもいないだろうし。
﹁ああ、皆の応援のおかげで勝てたよ、ありがとう。それと怪我は
してないよ、大丈夫。ちょっと打ち身があったけど湿布を貼ってお
いたら眠っている内に痛みは消えてた。えーと、まだ二戦目だから
軽々しく予選突破は約束できないけれど、全力で努力するつもりだ。
そして、戦術の提案は俺じゃなく監督に言ってくれ。俺には決定権
がない﹂
701
聞き取った分は一通り返事をしてから、人の壁を押し開くように
してようやく自分の席に着く。俺は聖徳太子じゃないんだから、ク
ラスメイトももう少し落ち着いて欲しいものだ。
誰にもバレないようにそっと口の中だけにため息を留める。応援
してくれるのが試合会場でだけならもっと対応は楽なんだけどな、
でもプロを目指している俺としてはあまり素っ気ない態度でいるの
も問題だ。
好奇心満々の一般人への上手い対処方を、今度ユースの大人か代
表のコーチにでも聞いておこうか。
人の流れに押されてはるか彼方まで運ばれて、ようやく戻ってき
た真からの﹁いきなりタックルされた時ぐらいは、幼馴染みをかば
おーよ﹂との抗議を受け流す。そんな外見だけでもファンやクラス
メイトに優しいナイスガイ風に取り繕っている俺の耳に、ちょっと
聞きたくない情報が入った。
﹁でも今度の監督は評判悪いらしいぞ、昨日の中国戦でもネットで
凄く叩かれてたしな﹂
﹁ああ、その前のヨルダン戦でも前半の戦い方は何だとか、強豪国
に当たったらあんな攻撃的には行けないアジア予選でしか通用しな
い戦術とか週刊誌で記事になってた﹂
⋮⋮別に俺に聞かせようとする意図はなさそうだが、聞き捨てな
らない情報だ。
﹁あの、すまないがちょっといいかな﹂
﹁おお、なんだよアシカ。どうかしたか?﹂
﹁今言っていたネットの評判とか週刊誌の事を教えてくれないか﹂
702
◇ ◇ ◇
クラスメートが快く教えてくれた情報を元に、家に帰ってからそ
のソースを調べてみる。
まだ僅かとはいえ尻の筋肉に痛みがあるので、コーチからは﹁無
理せず休養日にしろ、体を休めるのもトレーニングの内だぞ﹂と念
を押されたためにいつもならボールを蹴っている時間だが、ハード
なトレーニングはできないのだ。⋮⋮まあこっそり今朝も朝食前に
いつもは試合後用の軽いメニューの奴をやったし、夜も低負荷のト
レーニングとボールを触るぐらいはするんだけどね。
だってもう毎日の習慣になっているから、最低限はやらないと歯
磨きや洗顔を忘れたみたいで落ち着かないんだよな。
話がそれたな、帰りに買ってきた代表チームに対するコラムがあ
るという﹁少年サッカー﹂というサッカー専門の週刊誌をチェック
し始める。
目次の所に聞いていた通りに、松永の目によるアンダー十五のヨ
ルダン戦の解説って記事があるな。この松永ってどこかで聞いた覚
えが⋮⋮まあいいかとりあえず読んでみよう。
なになに、見出しが﹁勝って当然の試合に苦戦した若すぎるイレ
ブン﹂だと?
﹁勝って当然の試合に苦戦した若きイレブン。
試合開始後に私は目を疑った、山形監督は四・五・一のフォーメ
ーションを選択していたのだ。彼は前監督である私のサッカーに異
を唱えて攻撃サッカーを標榜して現チームを作ったのではないのか
? その結果がワントップという守備的なシステムだとは明らかに
矛盾している⋮⋮﹂
思い出したぞ、この記事書いてるのは前監督の松永かー! 俺と
703
は相性が悪かったのであの合宿でしか会った事がないが、その後は
いくら俺や山下先輩が全国大会で優勝しても全く代表候補とは縁が
なくなってしまった元凶である。
自惚れを抜きにしても、純粋に選手としての力量だけならば俺も
年代別の代表に選ばれるはずだったはずと今でも歯噛みするほど悔
しい思いをさせたあいつだ。
直接やり合ったのがフィジカルコーチだったから前監督本人の印
象は薄いが、俺以外にも上杉や島津に明智も代表に呼ばれていなか
ったのだから個性的な選手が嫌いなタイプの監督なんだろう。しか
しこんな所で自分の手を離れたチームにクレームをつけるとは、ど
うにも粘着質な感じで代表監督を辞めてくれてありがとうとしか言
えないな。
ま、そんな執筆者への偏見はともかく、この記事からポイントを
抜粋するとこんなものか。
その一、誰の目にも判りやすい攻撃への偏重に対する批判。
バランスを崩すほどに攻撃の駒が多いことだが、これ半分は島津
に責任があると思う。島津がここまで上がりっぱなしじゃなければ、
それなりにバランスは保てていたはずだ。 だが、この代表チームはバランスを崩してでも攻撃に人数を割き、
敵より多くのゴールを奪うのを目標にしているチームなんだ。試合
終盤でリードしていればそりゃ守りきろうとする事もあるが、基本
方針は相手を叩き潰すという物だ。
最初から重心を攻撃の方に置いているチームなのだから、バラン
スが悪いと言われても﹁うん、知ってるよ﹂としか返しようがない。
その二、新加入選手が気に入らないらしい。
今回山形監督に代わってから集められた選手達は、良くも悪くも
アクが強い。
704
そのためにどうしても試合においては目立つ存在なのだ。上杉の
沢山のシュートは当然注目を浴びるし、シュート数が多いのだから
必然的に失敗数も多くなり文句を言われている。島津にしても得点
につながった場面のオーバーラップはともかく、守備の場面で役に
立っていないのを﹁サイドバックとは呼べない﹂とまで書かれてい
る。
ああ、俺も載ってるな。うーん、センターハーフを任せるには線
の細すぎる気分屋のプレイメーカー、か。これは中国戦の前に発売
された雑誌だからヨルダン戦のみの解説だが、俺ってそういう風に
見られているのかなー。
もしかしたら、サッカー部の奴らが俺とぎくしゃくした雰囲気に
なるのってこの松永の文なんかを鵜呑みにして、俺を守りで手を抜
いている自分勝手な選手だと誤解しているからじゃないよな? 少
なくとも俺は楊を体を張ってボールを奪ったように守備でもさぼっ
ているつもりはないんだけどなぁ。
この松永前監督は減点主義のためにマイナス面がないプレイヤー
が好きなんだろう。特徴がありすぎるプレイヤーはそれだけで減点
対象なのかもしれない。前の監督時代から残っているスタメンが穴
のない平均的に高いレベルでまとまった選手達ばかりだった理由が
判ったな。
その三、カルロスは自分が育てた。
えーとカルロスがどう成長してあれだけの選手になったのかは知
らないが、俺が戦っていた段階では身体能力で押すタイプでむしろ
野性的だったけどなぁ。でもこれは俺には検証できないし、関係な
いか。
でも今の代表にいない選手の名を出して、現代表を批判するのは
ちょっと失礼な気がするな。しかも、国籍が違ってもはや召集のし
ようがない過去の選手を比較対象にするのはフェアじゃない。山形
監督が選ばなかったのではなく、権限外の事なんだからな。
705
まあ俺はあの監督に嫌われていたのは判っていたが、記事から察
するともはや今のアンダー十五の代表チームそのものがこの人に恨
まれてないか、これ? ため息をつき、雑誌を放り投げる。
コントロールが悪く、机からズレて床にページが開いたままで床
に落ちる。しばらくそのままにしておいたが、うん、この雑誌に罪
はないよな。そそくさと取り上げるときちんと閉じると本棚に突っ
込み直しながら、誰にともなくフォローしておく。いや、本とかが
乱雑に扱われているのって嫌じゃないか。
とにかく次は教えられたネットの掲示板を確かめてみるか。
⋮⋮しばらく読み進めるが、なるほど結構酷い事も書き込まれて
いるな。だが、思ったより悪意による批判ばかりではなかった。い
まの代表チームに対しては賛否両論といった所か。
好意的な意見では﹁攻撃的で見ていて楽しい﹂というのが代表例
だ。確かにこれまでの二試合の結果だけなら完勝である。四対一、
三対一というスコアは観客としてなら満足できるものかもしれない。
否定的な意見では﹁守備がザル﹂との文句が多い。まあこれは納
得できるよなぁ。でも﹁シュート数の割に得点が少ない﹂というの
にはちょっと首を傾げてしまう。相手は仮にも一国の代表だぜ? そう簡単に得点できるものでもないんだけどなぁ。
他に目に付いたのはスタメンの個人評価についてだな。
守備がザルと酷評されながらも、アンカーから後のDF陣の一人
一人の評価は高い。一体どっちやねんとツッコミたいが、むしろ﹁
このフォーメーションとメンバーでよく頑張っている﹂と思われて
いるようだ。監督の戦術に不満はあるが選手達の努力は認められる
というのが全体としての感想らしい。
706
ふーん、俺からすれば逆に山形監督が﹁このDF達がいるから攻
撃的なシステムでもいいだろう﹂と信頼して計算しているような気
もするがな。
でも中盤から前の評価はかなり人によってブレがある。
全員が攻撃的すぎるという意見は一致しているが、個々人によっ
てファンの様なものがついているのだ。
例えば上杉ならば﹁シュート撃ちすぎ﹂や﹁こいつパスって単語
知ってるのか?﹂という者と﹁日本には珍しい本格派の点取り屋﹂
とか﹁良い意味でのエゴイスト﹂だの﹁こいつには毘沙門天の加護
がある﹂といった意味不明ながら褒めている物まで賛否は真っ二つ
だ。
なぜかFWと一緒に議論されている島津は﹁バックギアを付けろ﹂
はもちろん﹁いない方が守備が安定しているサイドバック﹂﹁味方
のピンチに撤退と叫んで敵中に突っ込んでいくのはギャグなのか?﹂
とか言われたい放題だ。良い評価ででも﹁シュート力、積極性、マ
ークを外す動きとこれだけ持ち合わせたFWは少ない。でもなぜか
DF﹂﹁攻撃能力では満点、ウイングとしては申し分ない。でもD
F﹂と本当に褒めているのか微妙なのが多い。
他の山下先輩や明智と左FWの評判は意外にもいいな、大体がこ
のチームに必要な人材だと認められている。山下先輩だけは渋々と
はいえ、こいつらはわりと守備もしてくれるし、強引な個人技だけ
でなくパス交換で相手を崩すことも多いからかもしれない。
それでネット上の俺の評判は︱︱なんだこりゃ。どこから漏れた
のか詳細かつ間違った情報が書き込まれている。
あしかが はやてる
﹁足利 速輝 通称アシカ。今回の代表で最年少でありながらスタ
707
メンに抜擢される。
小学校時代から全国大会で優勝するなどの実績を上げながらも、
なぜか代表チームには初参加である。彼に関しては不確定の噂が多
く、﹁小学三年で初めてボールに触ったときすでに上手かった﹂﹁
いやリフティングができていた﹂﹁マルセイユルーレットで回って
た﹂などは眉唾だが、ほとんど初心者でありながら適応が早かった
のは確からしい。
さらにフリーキックではブレ玉を得意とするが、すでに小学生の
頃から修得していてこの技術の日本でのパイオニアの一人である。
誰に習ったのかは堅く口を閉ざしているが、彼の幼少期は謎が多い。
性格的には我が強いらしい。
代表合宿に初参加した時にフィジカルコーチと真っ向から対立し
たのは有名で、当時のスタッフからは﹁あの生意気な小僧﹂と呼ば
れていた。
ヨルダン戦でもPKを蹴ろうとする上杉からボールをもぎ取って、
自分で蹴ったのも我の強さを裏付けている。
その事からも判るように監督の指示より自分の考えで動くタイプ。
基礎的な技術はしっかりしているが、トップ下としてはスピード
と決定力に問題がある。ボランチとしては体の強さとスタミナに不
満が残る。
結論︱︱ゲームメイカーとしては明智がいればこいつ控えでいい
んじゃね?﹂
この長文以外にも色々な意見が載っている。﹁前を向くより、ヒ
ールキックの方がパスが正確だ﹂とか﹁こいつはもうシュートを撃
つな﹂とか滅茶苦茶言ってるな。好意的意見でも﹁スーパーサブ的
に後半の得点が欲しいときに投入した方がいい﹂や﹁もう少しフィ
ジカルがあれば申し分ないのだが﹂といった条件付きの物が多い。
708
サッカーについてだけでなく個人的にも﹁あいつマジで周りの奴
らを子供扱いしている、ウザイ﹂﹁んー、それほど性格悪くないん
じゃないかな。あとは納豆を好きになればパーフェクトだね﹂とい
う学校での俺を知っているのかと疑わせる書き込みまであった。
⋮⋮誰の書き込みか知らんが、実力で後悔させてやる。 ついでに前監督の松永も俺を使わなかったのが失敗だったと、こ
れからのアジア予選で思い知らせてやるからな!
709
第二十九話 出発前夜を楽しもう
﹁んーそれじゃアシカは明日の夜に出発なんだ﹂
﹁ああ、明日の金曜の夜の飛行機に乗ってサウジ入り。でそのまま
ホテルに直行でお休み。次の土曜は軽く練習とピッチの状態を確か
めて一泊したら、次の日の午前中にはもう試合して即帰国だぜ。金
曜の午後に出て日曜の夜には帰ってくる予定なんだけど、これって
結構なハードスケジュールだよなぁ﹂
またも夕食をうちの家で一緒にとっている真の質問に、今回が初
の海外での試合になる俺はタイトに詰まっているスケジュールを答
える。
観光する暇もないと、ちょっと不満げな俺の態度を母がたしなめ
た。
﹁速輝ったら、そう文句を言わないの。中学校だってあるんだから、
お休みして代表の試合ばかりしている訳にもいかないでしょう?﹂
﹁はい、了解です﹂
首をすくめてすぐに不服気に膨らませていた頬を普通に戻すと態
度を改める。これは明日サウジアラビアに出発する俺を激励するた
めの夕食会だ、主賓の俺が子供染みた態度で機嫌を悪くしていたら
雰囲気が壊れるからな。
それに中国戦で楊から派手に吹き飛ばされて以来、代表の試合に
関して常に心配そうな母に対しては強くは出れないのだ。むしろは
っきりと﹁アシカが死んだかと思ったよー﹂と眼鏡の真紅のフレー
ムに負けないくらい目を赤くしながら告げた真の方が気楽だ。﹁そ
710
んな訳あるかい﹂と大阪弁でツッコめばいいだけだったしな。
それにしても真は幼馴染とはいえ一応他人の家なのに、長い髪は
無造作に後で括っただけで着ている服は学校指定のジャージ姿か。
こいつ自分の家と勘違いしてるんじゃないかってほど完全にくつろ
いで夕食をとっているぞ。
その無防備にリラックスしている真はともかく、未だ心配そうな
母には参る。あの中国戦の打撲にしても試合後に自分だけでは上手
く貼れなくて困っていたために、仕方なく尻に大きな湿布を貼るの
を手伝ってもらっただけにばつが悪い。
とにかくそんな二人との出発前食事だ、あんまり逆らっても良く
なさそうだし﹁俺、今度の試合から帰ってきたら宿題をするんだ﹂
とか口が滑って戦場へ出かける兵士のように妙なフラグが立つのも
困る。黙ってとりあえずは我が家の試合前の定番であるトンカツで
もいただきましょうか。
おお、奮発して薩摩黒豚のロースを使ったトンカツは、カリッと
揚がり自然な甘みでソースは少量でもいいくらいに文句なく美味し
い。
付け合わせのキャベツと一緒にがつがつと食べていると、あっと
いう間に自分の分を平らげてしまった。素材に良いものを使用した
ために量が少なくなったのが唯一の残念な点だ。まあ、他にも出汁
の効いた野菜の煮物や焼き魚なんかもあるからおかずには困らない
か。食事の度に母が料理が上手くて良かったと感謝している。もし
も料理が苦手だったら、そんなにまずい食事付きの少年時代を二回
も繰り返すのはかなりきついからな。
﹁ほら足りないならこっちも食べなさい。速輝は成長期なんだから﹂
﹁ん、私のも一切れどうぞ。トンカツより納豆の方が好みだしね﹂
711
⋮⋮なんでだろう、女性二人から主役のおかずを貰うというハー
レムめいた状況のはずなのに、ときめきとかいったものが全く無い
のは。
まあ、相手が母親や真ではそんな雰囲気になっても困惑してしま
うけれど。
女性を気にかけるのは俺が世界一のサッカー選手になってからで
も遅くはないよな。サッカー選手としての成長は順調なんだから女
運については嘆く方が筋違いか。
そこに小学生並に色気のない幼馴染が話しかけてきた。
﹁アシカのお尻はもう大丈夫なの?﹂
﹁ああ、それはもう全然痛みもないし心配いらないけれど、お尻が
痛いって恥ずかしいからあんまり口に出さないでくれ﹂
﹁そうよ真ちゃん。この子は不器用なくせに自分でお尻に湿布貼ろ
うとして、何回も紙テープを駄目にしてたから無理やり私が貼っち
ゃったの。その時でもぎゃーぎゃー騒いだぐらい恥ずかしいみたい
なの﹂
なぜか嬉しそうに話す母に箸が止まる。嫌がっているのが判るん
なら黙っていてくれよ。なんで母親って子供の失敗を楽しそうに口
にするんだ? そりゃ本当にマズいのは喋らないでくれるけど、結
構俺からすればグレイゾーンのエピソードでも口を滑らすよなぁ。
﹁とにかく他の人には言わないでくれ、頼むよ﹂
﹁はーい﹂
こんな時だけ女性二人の声は揃うのだが、その目はしっかりと笑
っていた。
︱︱出発前夜に主役が笑い者にされるってどうよ? 712
﹁あ、アシカ。お土産はサウジアラビア納豆でいいからねー﹂
﹁じゃあ私はサウジのお饅頭でいいわ。それなら空港で売ってるか
ら手間が省けるだろうし﹂
どちらも売ってません。
◇ ◇ ◇
山形はふうっと大きくため息を吐くと、パソコンの電源を落とし
た。目を瞑ると両手の平でぐいぐいと押して乱暴にマッサージをす
ると、少しだけ酷使された眼球の疲れがとれていくようだった。
デスクの引き出しのどこかには目薬もあったはずだが、それを探
すのさえ面倒でたまらない。
そのまま自堕落に椅子の背もたれにぐったりと腰かけたまま手で
目を抑えていた。
﹁監督、どうしました!?﹂
驚いたような声をかけてきたのはヨルダン戦の前夜にも話に付き
合わせたスタッフの青年だ。
また深夜にも関わらず監督室に明かりがついていたので、不審に
思ったのか様子を見に来たのだろう。そこへ監督室の主が椅子でぐ
ったりとして目を押さえているのだから、監督が泣いているのかと
誤解してもおかしくはない。動揺するのも当たり前ではある。少し
だけ面倒だなと感じつつ山形は目から手を離して彼へと向き直った。
﹁いや、ちょっと目が疲れたので休ませているだけだよ﹂
﹁はあ、そうですか⋮⋮﹂
勢いよく飛び込んだ割に相手から冷静な対応をされて戸惑ってい
713
る青年の姿に苦笑が洩れる。どうもこの青年は山形の事を勝手に師
匠のように思って尊敬しているらしい。その恭しい態度がちょっと
くすぐったいし、山形の疲労した精神を回復させてくれる。
さて、この青年が来たってことはそろそろ眠らないとマズい時間
帯なのだろう。そう思って時刻を確かめると、もうすでに真夜中を
過ぎている。これ以上就寝が遅いと明日に響きかねないな。
山形は﹁やれやれ﹂とぼやきながら首を振ると、ぼきぼきという
音が傍らの青年に聞こえるほど鳴ってしまった。しばらく画面を凝
視したぐらいで首や肩が凝りまくっている自分の体に、最近年を感
じてしまう山形である。
﹁凄い音がしましたけど、大丈夫ですか?﹂
﹁ああ、ちょっとネットでのうちのチームの評判を覗いてたら、見
入ってしまって肩がやたらと凝ってしまっただけだ﹂
山形の言葉に青年は眉を曇らせる。どうやら彼も今の代表チーム
の評判が芳しくないのは承知しているらしい。
ネットやマスコミからの悪評はこの年代につきまとう負債のよう
な物で、山形が就任する以前からずっと続いている。
前任の松永という監督と面識はないが、関係者から話を聞く限り
ではどうも監督としての実力で選ばれたのではなく、コネなどそれ
以外の要素で監督になったようだった。
それでもカルロスという絶対的なエースがいればまだ彼を中心に
チームを作ればよかったのだが、そのカルロスを失ってチームが崩
壊したらしいのだ。ならばまた新たに一から作り上げればいいのだ
が、松永にはバラバラになったメンバーをまとめるだけの力量がな
かったって話だ。もともと面倒な事はスタッフに任せて対外向けの
看板になっていたようだったそうだしな。
こうなった時点でマスコミやネットではこの年代のチームを叩く
のが流行のようになったのだ。
714
それでも我慢し松永を使い続けていた協会も、アジア予選で危う
く一次予選で落ちかける醜態にようやく重い腰を上げたのだ。⋮⋮
生贄の羊を呼ぶための行動という後ろ向きなものだったが。
松永が予選落ちすれば﹁誰がこいつを監督にしたんだ﹂と協会の
責任問題になる。
だが山形の場合は同じ予選落ちという結果になってもちょっと事
情が違う、﹁前任者が体調不良で急遽探した監督﹂が﹁協会からの
意見を無視し、新任の監督が功を焦って無茶な戦術を試して自滅﹂
という事になると山形以外の誰にも責任が行きにくくなってしまう
のだ。
そのために協会とのつながりが薄い山形が新監督に選ばれたのだ
ろうし、これまでのスタッフがチームから離れるのもすんなり了承
されたのだろう。全てが被害を最小限にしようとするための動きで
ある。
明日はもうサウジアラビアに出発するのに、今更政治的な事で頭
を悩ますなんてな⋮⋮。山形はもう一度首を振って嫌な思考を消そ
うとする。幸い今回は痛そうな音もせず、暗い思考もなくなった。
すでにサウジ戦については腹案ができているのだ、これ以上睡眠時
間を削って考えても何ら益はない。
﹁じゃあ、明日の準備だけしてもう寝るか﹂
﹁ええ、そうですね。明日出国するんですから忘れ物しないでくだ
さいよ﹂
雰囲気を明るくしようとして、冗談を軽い口調で口にする青年に
山形も苦笑いで応える。しばらくバッグの中身を点検していた山形
だったが﹁む!﹂と声を上げた。
715
﹁危ない、一番大事な物を忘れるところだった﹂
ごそごそと引き出しの中を探る山形に不思議そうに青年が尋ねる。
﹁何です一番大事な物って? パスポートですか、それとも作戦を
書いたノートとか?﹂
﹁いや、愛用の胃薬だ﹂
716
第三十話 アウェーの洗礼を浴びてみよう
﹁熱い⋮⋮﹂
サウジアラビアに到着した俺達日本代表チームの感想は、その一
言に集約されていた。日本の夏はサウナに入っているような﹁蒸し
暑い﹂場合が多いが、こっちの場合は日差しで肌がこんがりとトー
ストのように美味しく焼かれていくんじゃないかと錯覚する﹁乾燥
して熱い﹂気候なのだ。
空調の効いた飛行機から出た途端に吹き付ける熱風と夜にも関わ
らず落ちない気温に代表チームの全員がちょっとたじろいだ。この
サウジでの世話をしてくれる協会からの案内人は﹁異常気象の影響
でたまたまここ数日は暑い日にあたっただけだよ﹂と言うが、それ
って明日試合をする俺達にとっては全く慰めになってはいないよな?
﹁とにかく一旦ホテルに荷物置いたら今日はさっさと寝て。明日は
試合会場の下見に行くぞー﹂
﹁おー﹂
暑さと疲れからか監督と俺達の声が棒読みになったのは仕方ない
だろう。だが今日は寝て時差ボケを解消し、明日の早い内に試合会
場のピッチの状態を確認しておかないと、サウジ戦の試合のプラン
を立てるのに響いてしまうからな。
長くシートに座っていたためにちょっと行儀が悪いが、各自が思
い思いに﹁んー﹂と背伸びなんかで凝り固まった体の関節をほぐし
ながら、チャーターしてあったマイクロバスでホテルへと向かう。
717
◇ ◇ ◇
﹁会場が使えないとはどういう事だ!?﹂
監督の怒鳴り声が聞こえる。
ホテルで荷物を整理するのもそこそこに、ホテルの各部屋に飛び
込んで休んでいた俺たちは、時差のせいか以外と全員が寝坊もせず
に朝早くロビーへ集まっていた。
俺達日本代表のメンバーがその大声にビクッ震える。山形監督が
気合をいれるためではなく、怒りでこんな風に声を荒げるのはあま
り聞いたことがない。自然と皆の目が﹁何事だ?﹂とそこに集まっ
てしまうな。
しばらく案内役とやりとりしていた山形監督は険しい表情のまま
﹁予定変更だ﹂と俺達に告げた。
﹁試合会場の下見はできないことになった。別の練習場で軽く体を
動かして時差ボケを飛ばしてコンディションを整えるだけにしよう﹂
語気の荒い監督の言葉にチームの皆が顔を見合わせて不審そうに
頷く。何かおかしい事態なのは判っているのだが、山形監督の機嫌
が悪そうなので尋ねにくいといった所か。ならばここは空気を読ま
ないで我が強いと一部で評判の俺の出番だろう。
﹁それは構いませんが、何かあったんですか?﹂
俺の問いに反射的にじろりと睨み返した監督だが自分が興奮して
いたのに気がついたのだろう、一つ大きく息を吐いてから答える。
﹁予定していた試合会場は急遽修理が必要になって、明日まで入場
禁止だそうだ。でも明日の試合にはなんの影響もないから気にする
718
なだとよ。ちなみに、その修理が必要な箇所はサウジの試合前日の
練習が終わった直後に発見されたそうで、サウジ代表チームの練習
には問題なかったみたいだな。自国の練習中は大丈夫だが俺達が会
場に向かおうとすると危険だと判断されるなんて、なんともまあ良
いタイミングで修理する所が見つかったもんだ﹂
監督の抑えきれない感情が込められた報告にちょっと驚いてしま
う。これって日本代表にピッチで練習させないように妨害している
んだよな。
話には聞いた事があるが、これがアウェーの洗礼って奴なんだろ
う。フル代表ならともかく、この年代からやるものなのか? それ
ともこのぐらい子供の頃からサウジアラビアのチームに苦手意識を
持たせようとしているのかもしれない。
俺以外のメンバーも動揺したのを雰囲気から感じ取ったのか山形
監督は、厳つい髭面を強ばらせながらなんとか笑顔と呼べる物へと
変化させた。
﹁ああ、お前らは何も気にする事じゃない。ピッチの確認が明日に
なっただけで、お前らのコンディションを整えておく軽いトレーニ
ングは結局は必要だからな。面倒な事はこっちで始末しておくから
お前らは明日の試合に向けて集中してくれればいい﹂
正直言えばまだ難しい表情の方がまだマシだったような、頬をひ
くつかせながらの朗らかな作り声と強ばった笑顔に俺もそれ以上は
突っ込めずに終わった。
﹁さあ、気を取り直して練習場へ行くぞ。その後はミーティングだ、
明日に疲れを残さないようにさっさと済まそうか﹂
チームメイトもまだ納得してはいないようだが全員がバスへと乗
719
り込んだ。アウェーとはいえこれ以上のトラブルが無いことを祈ろ
う。
だが、考えてみれば試合会場での練習を妨害されるぐらいなら、
アウェーの試練としては軽い物だ。フル代表のワールドカップ予選
なんかになると、ほとんど犯罪に近いあるいは犯罪そのものの妨害
工作が行われるそうだしな。
そう無理矢理自分のもやもやする感情を﹁いい勉強になった﹂と
結論づける。これ以上精神的に消耗するのはそっちの方が損だ。
代わりにと案内された練習場は幸いな事にまともな物だった。芝
の状態も日本に比べると多少は粗があってもグラウンダーでパス回
しをするのにもなんら支障はないレベルである。元々サウジの気候
では砂漠に近くて乾燥しすぎの芝の育成には向かない環境なのだ。
明日のピッチもこれぐらいなら文句はないが、事前に日本チームに
慣れさせないようにしている辺りからそれは望み薄か。
ピッチコンディションは明日考えるとして、日中の暑さだけはど
うしようもないな。トレーニングウェアなどはウォーミングアップ
の時点ですでに汗でぐっしょりと濡れてしまっている。これは体力
のない俺一人に限った事ではなくチームの全員に共通していて、皆
が濡れた犬のように舌を出して息を荒げている。
俺達がすぐに一汗かいたおかげでボールを使った練習での動きが
軽くなると、すぐに監督が﹁もういいだろ﹂と撤収の宣言をする。
﹁この練習場じゃ明日のピッチの予行演習にはならんし、これ以上
やってもスタミナを消費するだけだ。クールダウンしたらさっさと
帰るぞ﹂
すぐにでもホテルへ帰りそうな勢いだ。でもここで練習してコン
ディションは整ったようだが、試合会場の下見なんかはどうなって
いるんだろう。
720
﹁試合会場の下見の方はどうなってるんですか?﹂
﹁⋮⋮後で話す﹂
ちらりと横目で俺を見るとすぐに逸らし﹁さ、帰るぞ!﹂と手を
叩いてメンバーを急かす。
◇ ◇ ◇
ホテルの会議室のような部屋でミーティングを開始するが、どう
も今日のこれまでの流れのせいか空気がギスギスしているようだ。
山形監督がそんな雰囲気を無視するかのように明日のサウジアラ
ビア戦への戦術を指示し始める。
﹁明日のサウジ戦はアウェーの初戦だが、最重要の試合になる。こ
れまで日本もサウジも二勝で勝ち点では同点、しかし得失点で日本
が上回って順位は上だ。だが、ここで負けたりするとすぐに逆転さ
れてしまう差でしかない。負けはもちろん論外だが、アウェーだか
ら無理せずに引き分けの可能性も考えて戦う事にする﹂
そこで言葉を切ってぐるりと代表のメンバーを見回す。そして僅
かに躊躇した後﹁スタメンをいじるぞ﹂と告げた。
これまでの二試合のスタメンはほぼ固定されていたから、その監
督の宣言に少し身構える。まさか俺じゃないよな?
﹁島津、今回はベンチスタートだ。アウェーだからな、試合の入り
は慎重にしたい﹂
﹁⋮⋮承知しました﹂
721
スタメン落ちしたんだ、面白くはないだろうが表面上はそれを見
せない島津だった。これは守備を安定させるためだけなら必要で妥
当な交代かもしれない。
でも攻撃力を落としても守備力を高めようとは、このチームのコ
ンセプトからは外れているぞ。山形監督もネットやマスコミの批判
で日和ったのかな。
そんな俺の思惑も知らず、監督が明日の試合に向けた説明を続け
る。
﹁サウジはこれまでうちと同様ヨルダン・中国相手に勝っているが、
内容は二試合併せても一失点で連勝してきている守備が優秀なチー
ムだ。一時予選では無失点だった結果も考えればこのグループ最高
のディフェンスと評価されている。そのライバル相手のアウェー戦
を勝つか、最低でも引き分ければぐっと予選の首位通過が近づく。
だが、そんなサウジから得点するのは容易ではない、ましてや先に
失点してしまえば相手はさらに守りを硬くするだろう。そのために
も、さっきも言ったが明日の試合は前半は少し抑え目にスタートし
ろ﹂
監督の言葉に多少は不満の色もあるが、とりあえず続きを聞く体
勢の俺達にさらに監督からの指示は続く。
﹁サウジのこれまでの得点はカウンターが主だが、ミドル・ロング
シュートによるものも多い。特に向こうのエースで得点王のモハメ
ド・ジャバーは﹁砂漠の鷹﹂っていわれるぐらいスピードと決定力
を持ったFWだ。それにキーパーも通称﹁砂漠の蟻地獄﹂と二つ名
を付けられているし、中盤でエースキラーを請け負っているボラン
チも﹁砂漠の毒蛇﹂という具合に向こうのキープレイヤーにはニッ
クネームがついている。それぐらいすでにサウジ国内では有名にな
っている選手達だ﹂
722
﹁なんかチーム名がサウジアラビア代表とかより﹁砂漠の動物園﹂
か﹁砂漠の昆虫館﹂が似合いそうですね﹂
俺の素直な感想になぜか吹き出す音が響く。
でも動物や昆虫ばっかりなのはいただけないが、通称とか二つ名
とかはちょっとあこがれるな。﹁皇帝﹂とか﹁魔術師﹂とか格好良
い異名を持った過去の名プレイヤーも多いしな。
監督も笑いながら﹁向こうはモハメドとかいう名が多いから二つ
名は区別するためもあるんだろう﹂と補足する。
﹁まあ動物や昆虫はともかくサウジが強力なチームなのは間違いな
い。試合会場の下見もできず、アウェーで審判も相手チームよりの
笛を吹くだろう。それに気候も日本の夏とは違い、乾いた暑さでス
タミナの消費も早く体調を整えるのも苦労すると厳しい材料が多い。
前半は不本意だろうが守備を第一に考えて、サイドバックはオー
バーラップを控えめにしろ。明智とアシカも片方が攻撃的な位置に
上がれば、もう一人は必ず下がってアンカーと二人で中盤の底を支
えるんだ﹂
﹁でもそれじゃ、守備一辺倒にならないっすか?﹂
﹁うちの三人のアタッカーならそこまで守備的にはならんと思うが
⋮⋮。まあ前半の様子を見て、いけそうなら後半は島津も投入して
攻撃的にチェンジする。ここで白星を取れれば大きいからな。あく
まで守備的なのはゲームの最初だけで勝ちを諦めた訳じゃない。お
前らはもちろん勝つつもりでやれよ﹂
﹁はい!﹂
これらの指示によって明日の試合はどう転がるんだろうな。
いつもの超攻撃的チームから少しずれた作戦に﹁上手くいってく
れよ﹂と心の中で呟いた。そうでないと試合が厳しくなるし、サウ
ジ納豆やサウジ饅頭でも探しに走り回らないと日本に残している女
723
性陣に許してもらえなくなってしまうからな。
724
第三十一話 嫌な夢なら忘れよう
ああ、俺は今夢を見ているんだな。
そんな風にはっきりと認識できる人間は意外と少ないらしい。偉
そうに語っている俺にしても、はっきりと夢だと理解できるものは
一種類だけ。しかもそれは二度目の人生を歩き出してからの話だ。
そう、年に一度だけ思い出したくもない記憶をはっきりと夢に見
てしまうのだ︱︱。
◇ ◇ ◇
絶好調の俺がトップ下のポジションで気持ち良くボールを預かっ
ている。ボールが足に吸い付くようで、これほど調子が良かったの
は高校生になって初めてかもしれない。今日の俺ならこの位置から
ドリブルでもパスでもなんなら苦手なシュートでさえ簡単に決めら
れそうな気さえする。
敵のボランチに囲まれそうになりつつもFWの上がりを待ってボ
ールを溜めてタイミングを計っていた俺は、相手高校のDFの隙を
ついてゴール前の味方にスルーパスを通した。よし、完璧。
これでシュートが決まればうちの高校の勝ち越しだ。
会心のスルーパスをFWへ通した直後、凄い衝撃に襲われ俺の体
が宙に舞っていた。
︱︱え? 何が起こったんだ?
呆然としたまま受け身を取ることさえできず、背中から地面に叩
き付けられる。
ぐぇ、痛いじゃないか。
落下の衝撃で肺が押されて勝手に咳が出る。その拍子にようやく
725
真っ白になっていた頭と体の反応が戻って来たようだ。この状況で
は間違いなく俺は背中側の死角からのファールで倒されたようだな。
くそ、倒した奴に盛大に文句を言ってやるぞ。
その時になって、ようやく俺の耳には自分の右足からぶつっと何
かが千切れる音と感触が届いた。
あれっ? と立ち上がろうとした体が崩れ落ちる。俺の右足から
下が長時間正座した後で痺れているかのように全く動かなかったの
だ。さっきの音と感覚といいこれはなんだろう? 確かめようとし
た俺の脳に激痛が伝えられたのはその瞬間だった。
﹁あああああー!﹂
俺は絶叫し、ピッチ上でうずくまり右足を押さえる事しかできな
くなった。
今度は夢の舞台ががらり変わり、覗いているのは病院の診察室だ。
俺は椅子に腰かけると、右足には頑丈なギブスをはめて傍らには松
葉杖を立てかけている。
﹁⋮⋮という状態が足利君の右足の現状な訳だ﹂
レントゲン写真を片手に長々と説明してくれた担当医の先生には
悪いが、俺が知りたいのはただの一点だけしかない。
﹁それで、俺はどれぐらいリハビリをすればまたサッカーができる
ようになるんですか?﹂
726
俺からの端的な質問に、担当医の先生の顔に躊躇いの影がでた。
しばらくじっと俺の瞳を見つめていたが、やがてゆっくりと残酷な
診察結果を告げる。
﹁残念ながら足利君は、もう二度とサッカーは︱︱﹂
◇ ◇ ◇
﹁︱︱っ!﹂
声にならない叫びを上げて、跳ねるようにベッドから上体を起こ
す。
今のは夢、夢だよな。
荒い息をつきながら自分の右足に手を伸ばし痛みを感じるほどき
つく握りしめて感触を確かめ、さらに何度も右足を曲げたり伸ばし
たりベッドの上でじたばた暴れてちゃんと動くのを確認する。
良かった、大丈夫だ。俺の右足はまだサッカーができるんだ。
安堵の息をついて額の汗を拭った俺に、隣のベッドから声がかか
る。日本代表は二人組で寝るように手配していたので、俺と同室な
のは最も付き合いが長いこの少年だ。
﹁アシカ、なんか悪い夢でも見たのか? 寝苦しそうだったけど﹂
﹁悪い夢⋮⋮まあそうですね、でももう目が覚めたから大丈夫です。
あ、それより先輩を起こしちゃいましたか?﹂
﹁いや、ちょうど起きる時間だったしな。ほら、アシカも起きたん
なら一緒に朝飯でも食いに行こうぜ﹂
﹁ああ、先に行っておいてください。俺はちょっとシャワー浴びて
から行きます﹂
727
寝汗をぐっしょりとかいてしまってシャワーで流さないと気持ち
悪い。山下先輩もそれを察したのか深く詮索する事なく﹁早く来い
よ﹂と一声かけて部屋から出ていった。
ふう、一人になると冷静になったのかようやく頭が回り始める。
時計で時間を確認すると午前六時半。いつもなら朝練から自宅へ帰
ってきた頃だ、確かにそろそろ朝食にはいい時間だな。
そこで時計の上にかけてあったカレンダーに気がついた。サウジ
で使われている言葉は判らないが、数字のカレンダーならさすがに
日付の確認ぐらいはなんとかなる。今日は⋮⋮、そうか俺があんな
夢を見るはずだ。
今日は別に祝日のような特別な日ではないし、覚えやすい日時で
もない。だが俺にとっては絶対に忘れられない記憶に刻印された日
ではある。
前世においてプレイした最後の試合の日︱︱、つまり俺の右足が
壊れたのが何年前か何年後になるのかは不明だが今日の日付けの試
合での事だったのだ。
思い出したくもないのにあの事故についての一連のエピソードは
はっきりと脳裏に刻まれてしまっている。
毎年なぜかこの日に夢で事故の一部始終を見るので忘れたくても
忘れる事ができないのだ。
二度目の小学生時代に初めてこの事故の夢を見た時はその日一日
使い物にならないほどショックを受けてしまったが、今ではそう悪
い物でもないとポジティブに考えている。
何しろ俺は本来は怠け者なのだ。
やり直してからは一日たりとも練習をさぼった事はない俺が言う
のに説得力がないかもしれないが、もし心底真面目ならば前回の人
生でも練習を休むことなく今と同じぐらい努力していたのではない
728
かと思う。でも、俺は実際にはやり直す機会があって初めてここま
で自分を追い込む努力ができた。
その原動力はサッカーが好きだと言うプラスの気持ちと、もう一
度あんな目に遭いたくないという恐怖に近い感情だ。
なにしろ記憶力の悪い俺が、また﹁少しぐらいは休んでも﹂と怠
け癖が出そうな頃にちょうど一年に一度この悪夢がやってくるのだ。
とてもじゃないが練習がきついからさぼろうかと思う気持ちなん
かは吹っ飛んでしまう。
自分がどれだけのチャンスを与えられてここにいるのか、夢を見
た後では否応なく理解してしまう。またあんな目に遭いたくないな
らば、たった一回の練習でもさぼっている暇なんかある筈がないの
だ。
年に一度、前世の俺が今度の人生も怠けていないか警告してくれ
ているのかもしれない。最近はそう考えるようにさえなってきた。
ま、今年に関しては怠けてもいないし、今日も試合がある俺には
関係ないな。
すっかり濡れてしまった寝間着をバッグに詰め込んで、俺はシャ
ワーを浴びに浴室に向かった。
汗と一緒に嫌な思い出も流してしまおう。
さっぱりした状態でホテルの食堂に行くと、監督を含め他の代表
のメンバーはほとんどがすでに来て各自で食事を始めていた。
ここはバイキングの上に別に修学旅行とかじゃないんだから、全
員で揃って﹁いただきます﹂とかはない。
外国の和食には期待できないと聞いていたのでパンとスープにサ
ラダとベーコンエッグ、後はデザートとしてフルーツといった片仮
名で統一されたメニューにする。
﹁おはようございます﹂
729
﹁お、アシカおはよう﹂
一言朝の挨拶をしてから朝食を食べ始める。うん、まあどちらか
といえば簡単な料理ばかりだから外れはないのだが、うちの母の作
った物の方が口に合うなぁ。
朝食を食べ終わったメンバーもまだコーヒーを飲んだりしてこの
場に残っている。部屋に戻って言葉の判らないテレビを見るより、
ここで皆と一緒にいた方が試合前は心強いからな。
﹁もう全員朝食は食べに来たのかな?﹂
大きなテーブルを三つほど独占している日本代表の面々を見なが
ら俺が尋ねると、苦笑いしながら真田キャプテンが否定する。
﹁いや、まだ上杉が来てないよ。同室の俺が起こそうとしたんだが、
声をかけても目を覚まさないし、揺さぶろうとしたらパンチを振り
回してきて危ないから眠らせておいた﹂
キャプテンであるが故に問題児と同室にされた真田の顔には諦め
の色が滲んでいる。不憫だなこの人。だからといって俺が部屋を変
わってやるつもりは一切無いのだが。
それにしても流石はうちの誇るエースストライカーだ、アウェー
の地でも熟睡できるとは神経が図太いぜ。このぐらいの神経をして
いないと、最前線でゴールを狙い続けられないのかもしれないな。
そんな事を思っていると、噂をすれば影が差すのか話題になって
いた少年が姿を現した。
﹁おはようさん﹂
﹁おはよう、上杉さん﹂
730
いつもはつんつんに突っ立っている髪もまだ寝癖がべったりとつ
いているし、鋭い目つきもとろんとしている。彼が起動するまでは
もう少し時間がかかりそうだ。
なら試合直前とかではなく今起きてもらって助かった。こいつに
は今日の試合でたっぷり働いてもらわなければならないからな。
全員が顔を合わせたところで山形監督が告げる。
﹁一時間後にはこのホテルを出るぞ、朝食を食べ終えたら出発の準
備しておけよ﹂
﹁はい!﹂
﹁お、おおう?﹂
一人目をこすって理解していない人間もいるようだったが、面倒
をみるのは同室の人間がやるべきだよな。
俺はそうして腹を押さえながらも上杉を手招きする真田キャプテ
ンと、彼に﹁俺が愛用している胃薬はドーピングの心配がないタイ
プのだから、お前にもわけてやろうか?﹂と尋ねる監督から全力で
目を逸らし続けた。
もちろん真田キャプテンの﹁いえ、胃薬よりむしろ上杉との部屋
を分けてくれたほうが助かります﹂との声も聞こえない。もし耳に
入ったと気づかれたら自分がそのルームメイト交代の候補になりか
ねない。
ふと周りを見回してもチームメイト全員がキャプテンと監督を見
ないようにして食事に専念しているし、食べ終わった奴は口笛なん
か吹いてやがる。
これも多分監督や真田キャプテンが信頼されているからなんだろ
う。ま、俺からしたら二人ともチームの責任者で最年少の俺が口出
しする立場ではないな、うん。
そう自分を納得させて朝食の残りへと取りかかる。
731
この時はもう今朝の夢の事なんか思い出しもしなかった。
732
第三十二話 アウェーでも試合に集中しよう
試合前のロッカールームという物は緊張感が漲っているものだが、
今日の雰囲気はまたいつもと少し違う。試合に臨む以前の段階で空
気がピリピリとしているのだ。
確かに今回の試合のスケジュールはわざとだろうと勘ぐってしま
うほど段取りが悪かった。昨日の段階でピッチの状態などを確認で
きていなかったのも頭が痛かったな。試合直前の練習でどうぞご確
認をと言われても、案内された練習場と芝の具合が違いすぎて困っ
てしまったのだ。
それではと実際に試してみると試合会場のピッチは昨日代わりに
と案内された練習場の整備されていた物とは大違いだった。
なにしろ芝の生えている部分と土の露出している部分が斑となっ
て荒れ放題のイレギュラーバウンドばかりだったのだからたまらな
い。サウジ側からの﹁ここの所試合が立て込んでいて、ピッチの整
備と設備の補修に大忙しで昨日は迷惑をかけました﹂との謝罪にた
だ頷いて同意するだけだったという案内役に殺意が湧く。仕事しろ
よお前。
もやもやした沈滞したムードの中、山形監督が手を叩いて全員の
注目を集める。
﹁どうした? まさか、このぐらいのハプニングで動揺しているん
じゃないだろうな?﹂
﹁昨日下見ができないって一番怒鳴っていたのは監督でしたけどね﹂
からかうような監督の言葉に乗って俺も軽口を返す。初のアウェ
733
ー戦で思う事は色々あるが、まだこのぐらいだったら許容範囲内だ
ろう。フル代表の試合になると、ホテルで騒音がして一晩中眠れな
かったり、飲食物に異物が混入されていた場合さえあったそうだ。
俺達ぐらいのちょっとした妨害ならば、ここで蒸し返すよりこれ
からすぐ行われる試合に備える方が先決だし有効だろう。おそらく
サウジ側も俺達を少年だと考慮したのだろう、冷静にさせずに苛立
たせるのが目的な程度の妨害でしかなかったからな。
その辺りを心得ているのだろう山形監督も﹁俺が一番騒がしかっ
たっけか?﹂と厳つい顔を情けなく歪めて頭をかくと、周りからも
﹁そうですよ、忘れないでくださいよ監督﹂﹁かなり煩かったっす﹂
との声が漏れ、少しだけ空気が和らいだ。
﹁ま、それはともかく試合について最後の打ち合わせをするか﹂
その言葉に室内の全員の顔が引き締まる。今日の試合はこれまで
の攻撃的にやれたホームゲームと勝手が違う部分が多い。集中して
監督の説明を聞かねばならない。
﹁昨日も話しをしたはずだがもう一度確認しておくぞ。前半は守備
を重視したメンバーと構成だ。前のスリートップはいつも通りでい
いが、必ず攻撃はシュートで終わる事。後ろに下げる場合には絶対
にカウンターのきっかけになるような簡単なパスミスはしないよう
に気をつけろ、いいな﹂
頷く前線の三人を確認し、さらに山形監督は中盤から後へ指示を
する。
﹁中盤は必ずボランチの位置に二人はいるように徹底しろ。アシカ
が上がれば明智が下がり、逆の明智が上がる場合もアシカが下がる
釣瓶の動きを忘れないようにな。二人とも上がるリスクの高い作戦
734
は前半は不可だ。
DFについては右のサイドバックが島津じゃなくなったから、サ
イドから崩されるリスクは少なくなったはずだ。ただ実戦での連携
はこのフォーバックではまだまだだから、無理にオフサイドとかを
狙わずにマンツーマン気味で深く守れ。アウェーなんだから微妙な
オフサイドは取ってもらえないかもしれないからな。とにかく前半
は守備は安全第一で頼むぞ﹂
﹁はい!﹂
答えるDFの声には迷いがない。特に島津の代わりにスタメンに
選ばれた右のサイドバックは気合いの入った表情をしている。むし
ろ守備力には定評がある彼の方が正統派のサイドバックで、島津の
方がどちらかといえば異端なんだから定位置を奪い返したいと力が
入ってもおかしくはない。
﹁そしてさっき確かめたようにピッチコンディションは非常に悪い。
ショートパスはあまり使うな、パスを受け取る方もイレギュラーバ
ウンドが起こる可能性を常に頭に入れておけよ。グラウンダーのパ
スよりできれば浮かせたロングボールでつなげる事。
そして細かいタッチのドリブルする場合もボールのコントロール
にいつもの倍は注意しろよ。スペースを生かした高速のドリブルな
らともかく繊細なタッチはまず無理だろう。特に明智やアシカに山
下がそのタイプだから気をつけるんだ﹂
名指しされた三人が口々に﹁判りました﹂﹁了解っす﹂﹁俺のド
リブルは止められないと思うけどなぁ﹂と素直に⋮⋮あれ一人素直
じゃない奴がいたみたいだけど、まあいいか。
他にも色々と細かい指示を出していたが、ついに扉をノックされ
て試合開始まで間もない事をスタッフから告げられる。
735
﹁よし、お喋りはここまでで後はピッチ上で結果を残すだけだ。今
日の試合も必ず勝って日本へ凱旋帰国するぞ!﹂
﹁おう!﹂
◇ ◇ ◇
ところ変わればしきたりも変わるものだとは頭では判っていても、
なかなか実感はできないものだ。
ただ入場するだけの場でここまで緊張を強いられるとは思わなか
った。会場に入っている観客の人数は少ないのだが、鳴り物や声が
凄い。特に言葉が判らないものだから声援も何か怒鳴っているとし
か思えないので、近くで大声がする度に体が勝手に身構えてしまっ
ている。
少ない観客の中には日の丸の旗を振ってくれている人もいるのだ
が、やはりサウジの応援の方が圧倒的なために肩身が狭い感じで遠
慮がちな声援だ。
だが、それでも周り全部が敵じゃないと精神を安定させる役に立
ってくれた。多分現地在住の日本人なんだろうけど、わざわざの応
援本当にありがとう、力になっていますよ。
少しだけ緊張をほぐして笑みを浮かべると、その応援団へ手を振
る。歓声の中で日本語の割合がちょっとだけ増えたような気がする
な。﹁ちっちゃい七番頑張れよ!﹂との声まで聞こえてくる。
あ、言い忘れていたかもしれないが俺は代表で七番の背番号を頂
戴している。
うちの山形監督は背番号には無頓着なのか、スタメンのキーパー
から順に一番・二番と付けていったのだ。フォーバックだからDF
の四人が真田キャプテンが二番で武田が三、島津が四で次の左サイ
ドバックが五番。あ、今回右のサイドバックに入ったのは十五番だ。
736
そして中盤になってアンカー役が六番で俺が七という訳だ。
次に明智が八番を取ると、FW陣からは点取り屋のイメージが強
い九番は﹁ワイの背番号やな﹂と上杉が強奪、十番は﹁カルロスに
対抗するには俺しかないだろう﹂と山下先輩が背負う事になった。
ちなみに残った左ウイング︱︱確か馬場だったよな? ちょっと
地味で濃い他の面子から割を食うFWは﹁じゃ、僕は残った十一番
でいいよ﹂とあっさり納得してくれた。うん、馬場君よ地味って言
って御免。あんたいい奴だよ。
さてお決まりの国歌演奏の間にまたこっそりと相手であるサウジ
アラビアについて観察する。
エースであるモハメド・ジャバーは想像したよりは小柄で、身長
なら上杉と同じぐらいの百七十というところだろうか。いや、別に
小さくはない。どうも中国の楊と戦ったばかりだからか身長を計る
物差しがおかしくなってるな。
だが見た目に関わらず﹁砂漠の鷹﹂と呼ばれるほどのストライカ
ーだ、油断できる相手ではない。
他にも褐色の肌に頑丈そうな砂漠の民という俺の勝手なイメージ
に沿った選手が多い。この年代ですでに髭を生やしかけている少年
もいるのが異国の代表を相手にしているのを実感させるな。
その中で敵チームで最も身長が高いのが﹁砂漠の蟻地獄﹂という
二つ名のキーパーだ。日差しが熱いために日本のキーパーは半ズボ
ンなのにこっちは慣れているのか黒く長いジャージをはいている。
すらっとした細身で手足が長いスタイルは蜘蛛を連想させるな。あ、
俺は蟻地獄って言われてもすり鉢状の罠みたいなのしか思い浮かば
ずに本体がどんな形かは判らないんだ。蟻地獄ってどんな形してた
っけ? と脳内で検索して出てきたのが蜘蛛みたいだったかなとい
う感想でしかない。
737
何にせよ大きな体と身体能力に恵まれたキーパーらしきことだけ
は理解できる。こいつからゴールを奪うのは大変そうだ。しかもい
つもより日本が守備的なシステムでとなるとなおさらだな。
他には目立った選手はいない。
もう一人監督が挙げていた、砂漠の︱︱ええと毒蛇だっけ? 蠍
だったかな? とにかくエースキラーの毒を持った奴はぱっと目で
判る風貌はしてないようだ。いわゆるトップ下のポジションを潰す
役割のようだから、うちでは多分俺か明智がその対象になるのだろ
う。俺じゃなく明智をマークするんだとテレパシーを飛ばしたつも
りだが、果たして受信してくれただろうか。
でも例えそのマークされる標的が俺だと判っていても、普段通り
のプレイを心がけないと。集中を乱すのが最もやっちゃいけない事
だからな。
まあ仮に運悪く俺に厳しいマークが来たとしても、今日の調子な
ら何とかなりそうな気がする。
日本とはかなり違う気候だが、俺は他のメンバーほどコンディシ
ョンの維持に苦労はしていないのだ。汗をさんざんかいて水分を取
ったのが良かったのか、むしろ今は早く試合で体を動かしたくてう
ずうずしている。ウォーミングアップの必要がないほど体が熱くな
っているのだ。反面暑さによるスタミナ面での不安はあるがそれは
もう毎度の事だしな。
体が軽く思考も興奮や緊張に流される事なくクリアである。初め
ての海外の環境でここまで適応できるとは嬉しい誤算だった。
深く息を吸い込むと、どこか日本とは違う臭いと乾燥しきった空
気が肺に入る。そして大きく吐き出すと、ゆっくりと心臓がアイド
リングを始めドクドクと音を立てて戦闘用の血液が体を巡るイメー
ジで手足の末端からうずくように力が湧いてくる。
よし、俺の準備は万端だ。
738
国歌の演奏が終わり、俺達日本は円陣を作り肩を組む。
こんな時最後に気合いをいれるのは当然真田キャプテンだ。
﹁いいか、前半は守備重視だが攻めの気持ちを忘れるなよ。気持ち
まで守りに入ったらアウェーでは一気にペースを持ってかれるから
な。全員が集中して目の前の相手をねじ伏せるつもりで行け!﹂
﹁おう!﹂
いつもは温厚で冷静な真田キャプテンには珍しく熱い演説だ。こ
の熱い気候に影響されたかな?
︱︱こうして過酷なアウェーでの戦いが開始されたのだった。
739
第三十三話 最初からアクセルを全開にしよう
キックオフの笛と同時に歓声と騒音が鳴り響く。
いやサウジアラビアの民族由来である楽器などをきちんと演奏し
ているのかもしれないが、馴染みのない耳には騒音としか認識でき
ないんだ。
最初は日本のボールからだったので、センターサークルから上杉
がちょっと頬を膨らませて俺へとパスを出す。おいおい、こんな最
初のボール回しでまで自分のプレイがシュートじゃなくパスだから
って不服そうな顔をするなよ。
荒れた芝の上で初めて受け取るパスなのだ、イレギュラーしても
対応できるように慎重にボールから目を離さずにいるが脳裏にはピ
ッチの全景を映し出している。
うん、いつも通り︱︱いや鳥の目ではいつも以上にはっきりとし
た映像でピッチ上のプレイヤーが把握できる。
ふわりとトラップして顔を上げると、実際の視界が広がると同時
に頭の中の上からピッチを眺めるイメージ映像もさらに鮮明になっ
ていく。
気持ちはいいがいつまでもボールを持ちながら笑っていても仕方
がないと、山下先輩に軽くパスを捌いた。
︱︱あ、ボールを蹴る足の感触がいつもより鋭くダイレクトに伝
わってくる。サッカー選手は試合の最初のボールタッチでその日の
調子が判る。それを踏まえて判断すると、今のパスに加えて、さっ
きのトラップでの足首の柔らかさといい鳥の目の精度といい間違い
ない、今日の俺は絶好調だ。
自分の調子に満足すると、その調子の良さを攻撃に生かすため少
740
しだけピッチ上でのポジションを上げる。それに応じて何も言わな
いですっと下がって、監督の指示通り中盤のバランスを取ってくれ
る明智は実にプレイしやすい相棒だ。
その好意に甘えてトップ下に近い位置まで居場所を押し上げる。
うん、ここまで敵のゴールに近くなれば攻撃的なプレイはしやすい
な。
そこでまた俺にボールが回ってくる。序盤で相手もまだ様子見な
のか、それとも俺と明智がいきなりポジションチェンジしたせいで
マークがずれたのかプレッシャーはあまり感じられない。
あ、これ狙えるんじゃね?
マークがつくよりも早くシュートを撃つために、後ろからのパス
を体を反転させながらノートラップでゴールへ蹴る。
ちぃ、荒れた芝のギャップで蹴る直前にボールが小さく跳ねてシ
ュートコースが少し逸れたな。
だがキックのタイミングが良かったのかシュートは唸りをあげて
サウジゴールへ襲いかかった。
ゆったりとした流れからのいきなりのミドルシュートにサウジの
キーパーは一瞬だけ反応が遅れたが、すぐに飛びついて両手で弾く。
くそ、ジャストミートできていればもっとゴールの隅に行っていた
はずなのに。
そのこぼれ球に素早く上杉がダイビングするが、DFもボールよ
り上杉に向かって体を張るような勢いでぶつかり合ってゴールを守
る。DFの圧力に押された上杉のヘッドはゴールポストをかすめて
外れてしまった。
いまのはファールなんじゃ? ピッチ上どころか会場内の目が審
判に注がれるが、審判は笛を吹いてゴールキックを宣言した。
途端に湧き上がるサウジサポーターからの大歓声と小さな日本サ
ポーターからのうめき声。
741
むう、今のは微妙な判定ながら日本にPKを与えてもおかしくは
なかったぞ。開始直後にホーム側の反則でPKは取りにくいとはい
え、やはり審判の笛相手よりと考えた方がいいだろう。
だから上杉よ口を尖らせて審判を睨むな、お前の印象が悪くなる
だけだって。
そしてぶつぶつ文句を言うのも止めるんだ、なにしろその審判は
風貌から察するとアラブ系でたぶん日本語を理解してないぞ。抗議
しても無駄な努力どころか次の判定で不利になりそうなマイナスの
行動だ。 ﹁ドンマイ上杉さん、次は入りますよ!﹂
せっかくの得点チャンスが一回潰されたにも関わらず、俺の中に
は悔しがる感情は希薄だった。それよりも自身のコンディションの
良さへの嬉しさが勝っている。今のシュートにしても荒れたピッチ
じゃなければゴールになっていても不思議じゃなかった。うん、今
日の俺の体はキレているな。
少し下がっていた明智を呼んで﹁このまましばらく前でプレイさ
せてください﹂と頼む。
﹁そりゃ構わないっすけど、もうこの荒れたピッチに慣れたんすか
?﹂
﹁いや、そっちはまだ慣れてないんだけど、体の調子がいいからな
るべく早く先制点を狙いたいんで﹂
﹁⋮⋮了解っす。ただマークを惑わすため何回か僕も上がってポジ
ションチェンジをした方が効果的かもしれないっす﹂
ふむ、と顎に手を当てて一秒間だけ思考する。
742
﹁判かりました、俺から明智さんへのパスをそのスイッチにしまし
ょう。明智さんにパスを出したら俺はボランチの位置にまで下がり
ます。そうでなければ中盤の底で待機していてください﹂
﹁了解っす、しばらく攻撃は任せたっすよ﹂
あっさりと俺に攻撃のタクトを委ねる明智もいい奴だよな。俺だ
ったら﹁俺が司令塔になるから、お前は下がれ﹂と言われたら少な
からずむっとするが。まあ、ここまで短いながらも信頼関係を築い
てきた恩恵と考えるべきだ。
そして同時に責任も肩にのし掛かってくる。ここまで﹁攻撃は俺
に任せろ﹂と宣言したんだ、後で﹁一点も取れず御免なさい﹂じゃ
すまない。なんとしても先制点を取らねば。
よし、と気合いを入れ直している隙にもサウジは反撃を開始して
いた。
ゴールキックからボールがDFに渡されるや、ロングパス一発で
日本ゴールに迫る高速アタックだ。
向こうは荒れたピッチに慣れているだけにその戦い方にも長けて
いる。だからサウジが採用している芝の有無など関係のないロング
パスでの攻撃が有効なのは理解できる。だがそれは繊細なサッカー
を目指している日本の流儀とはちょっと違うんだよな。
とにかく今はトップ下の位置にいる俺は、味方ゴール前での攻防
において守備ではあまり役に立たない。むしろDF陣がボールを取
り戻した時のカウンターに備えてどう攻撃するかを想定するべきだ。
サウジはロングボールを長身のFWに当てて味方に戻すポストプ
レイをしようとする。だが、日本のDFもゴール前にいるのは真田
キャプテンに武田といった体格には恵まれたDFばかりだ。中国の
楊みたいな規格外の空中戦の王者でもなければ抑え込める。
ヘディングが先に届いたのは武田だ。だが彼の頭に当たったボー
743
ルは安全な所までは飛ばせずに、まだシュートを撃てる危険なエリ
アに留まっている。
その中途半端なクリアにいち早く反応したのは﹁砂漠の鷹﹂であ
るモハメド・ジャバーだ。DFがゴール前に引き付けられていると
見るや先ほどの俺と同様にそこからミドルシュートを放つ。
俊敏なその動きにポスト役に引き付けられていた日本の守備陣は
誰もついていけない。
いや、ついていける者が一人いた。その一人であるキーパーだけ
が抜群の読みでモハメド・ジャバーのシュートを止めた。しかも横
っ飛びしての胸でしっかりとキャッチまでする文句のつけようがな
い満点のプレイだ。
ごめんキーパー。今まであんまり存在感がなかったから﹁いなく
てもいいんじゃ?﹂とか﹁名前を覚える必要ないな﹂とか思ってい
たけど、よく考えれば俺達の年代では日本一のキーパーなんだよな。
その日本チームの守護神と目が合った。キーパーは素早く立ち上
がると、俺へ向けてのパントキックを放つ。
おし、受け取った! 日本のピンチにも関わらず助けようともせ
ずに自由に動けるスペースを探していた俺は、ノーマークでキーパ
ーからのロングキックを大切に受け止めた。
サウジが攻撃をしていたせいで向こうの守備が少しだけ上擦って
いる。特にDFとボランチの間であるバイタルエリアに空白が生ま
れているのだ。そこに俺がボールをもらったタイミングで走り込む
少年がいる。
さすが山下先輩だ、俺のプレイの呼吸が判っている。
絶好のポジションを占めた先輩の足下に強めのパスを送る。ゴー
ルに近いこの辺では弱くスピードのないパスだと敵ディフェンスに
対応する時間を与えてしまうからだ。
744
実際に鋭いパスを綺麗にトラップした山下先輩でさえ、すぐに敵
のDFが張り付こうと接近している。
そこで一旦また俺へとリターンパスだ。
先輩に集中しかけた守備が俺へと気を回す前に勝負をかける!
げ、そのつもりが先輩からのリターンパスはまた荒れた芝で不規
則な跳ね方をしやがった。慌ててトラップしなんとかコントロール
するが、その僅かなタイムロスで俺の傍らにまで敵のボランチが近
づいている。
だが幸いな事にゴール前からのパスなので、俺は前を向いたまま
行動できるのが大きい。
ボールに触った先輩や俺へ急いでマークが集まろうとしているた
めに、そこで守備網に綻びが生じている。ボールを目で追うのに精
一杯で他への注意が薄れたのだ。
俺は敵の接近前にDFの間を抜く低く鋭いボールを撃つ。
そのボールは上手くDFの隙間を抜けたがキーパーの真っ正面だ
った。
だがこれはミスショットではないし、フリーキックでもないのに
ブレ玉が撃てた訳でもない。
キーパーは真正面に飛んでくる俺の撃ったボールには触れる事も
できなかった。
先にキーパーの目の前に飛び込んでボールに触った者がいたのだ。
そんな事をするのは勿論日本の誇るエースストライカーの上杉しか
いない。
俺と山下先輩のコンビネーションで自分へのマークが緩くなった
と判断するや、躊躇なく全力でDFラインの裏へ走り込んだのだ。
キーパーの鼻先で触って角度を変えるだけのワンタッチボレー。
まさに﹁シュートしかしない上杉﹂の真骨頂とも言うべきプレイだ
な。
745
当然そんな至近距離でシュートコースが変わるのに反応できる人
間がいるはずがない。ボールはゴールネットに吸い込まれて擦れる
音を立てる。うん、敵のゴールから届く分には何度聞いてもいい音
だ。
飛び込んだ勢いのままゴール前を走り抜けると、こっちに向かっ
て上杉がやってきた。ぐえ、首を絞めるなよ。俺は今お前にいいア
シストしたばかりだろうが。
﹁ナイスパスだアシカ!﹂
首から手を離すと今度は頭を乱暴に揺らされる。これって上杉か
らすれば撫でているつもりなんだろうな。だとしたらさっきのも首
を絞めているつもりはなく肩を抱いて感謝を表しているぐらいの感
覚だったのだろう。
まったくこれだから体育会系でも格闘技をやってた奴らは、馬鹿
みたいに単純で乱暴で︱︱頼りになって楽しいんだよな。
少ないが拍手を送ってくれている日本のサポーターに、ガッツポ
ーズでアピールする上杉の後ろからそっと手を振った。日本で見て
いるはずの女性二人も俺がこのぐらい活躍すれば、個性的なお土産
求めて走り回らなくても許してくれるだろう⋮⋮多分だが。
746
第三十四話 誰も悪くないなら忘れよう
当然ながら日本の先制点を機に、試合は大きく動いた。
お互いがグループの首位を狙うに当たっての最大のライバルなの
である、特にホームのサウジにとっては絶対に負けられない試合だ。
そんなホームチームが敵に先に得点されてしまった場合はどうな
るのか︱︱答えは簡単、サウジは猛攻を仕掛けてきた。
﹁武田、前へ出すぎるなモハメド・ジャバーのケアはボランチに任
せるんだ。そしてサイドはもう少し中へ絞れ、島津がいないと攻め
にくいと判断したのかサイドからの攻撃は思ったより少ない。サイ
ドを警戒しつつ中央へのフォローを頼む﹂
忙しく守備の指示を下しているのは真田キャプテンだ。オフサイ
ドラインを形成していないために、最後尾からDFの最後の砦とし
てスイーパーのような役割を果たしつつディフェンスを奮起させて
いる。
だがサウジもホームとしてのの利点を生かし、大歓声を背に次々
と多少強引にでもアタックをかけてきた。
荒れたピッチでの戦いはこっちの十八番だと、まるで苦にせず普
段通りであろうスピードのあるプレイをしている。逆に日本の方は
いつもの細かいパス回しに最も向かないピッチの状況に、やや困惑
ぎみでどうしても受け身になってしまう。
日本代表で芝の状態を気にしていないのは、絶好調でハイテンシ
ョンになりボールを完全にコントロールできている俺以外では、ま
ともなキックはダイレクトシュートぐらいで普通のパスなどしてい
ない上杉ぐらいだろう。
747
サウジ側の作戦としては中央からの突破にこだわっているようだ
った。それが日本代表が島津をスタメンから外した事による試合開
始後の作戦変更か、それとも当初からの予定だったのかは判らない。
だが、現実的に敵の攻撃の八割近くがピッチの真ん中からの攻め方
である。
特に後方からのロングボールを長身のFWがポスト役となってヘ
ディングでモハメド・ジャバーへ落とし、そこでエースが決めると
いうのが向こうのチームの一つの約束事になっているようで狙われ
る頻度が高い。
一旦最前線のターゲットに当ててそこからのパスでゴールを狙う
といったポストプレイは、むしろサイドを抉るより後方からのボー
ルの方がやりやすい。FWが後ろから出るボールを確認しようと見
ると、自然に敵ゴールに背を向ける格好になりリターンパスが出し
やすくなるからだ。これがサイドからのセンタリングだとどうして
も半身か体が前を向くので、直接ヘディングシュートを撃つほうへ
と意識がいってしまう。
結果として最前線で体を張るポスト役よりも、その少し後方でセ
カンドストライカーとして控えているモハメド・ジャバーの決定力
を信じているために、サウジはサイドからではなく中盤からのロン
グボールをポストに放り込む攻撃手段に選択しているのだろう。
だが、ここで日本代表が中盤のゲーム構成力を下げてまで守備的
なMF役を二人にした効果が出た。明智がいつもより下がっている
ためにアンカー役がさらに通常より一段深い位置で守れるようにな
ったのだ。
それが危険な日本のバイタルエリアをも守備範囲に含んでカバー
してくれている。
敵のエース格であるジャバーも、アンカーのしつこいマークと最
終ラインの息が合った守備網になかなか自分のプレイをさせてもら
えない。いや時折見せるドリブルやボールコントロールの個人技術
748
はさすがと唸らせる物を持っているのだが、それを上手く日本のデ
ィフェンス陣が抑え込んでいると味方のディフェンスを褒めるべき
なのだろう。
サウジ代表も中央突破ばかりではらちが明かないと判ってはいて
も、それ以外に有効な手はないようだ。ここで日本がサイドバック
を守備重視の人選にして、オーバーラップを前半は禁止した布石が
生きている。守りに関してだけは選手と中盤の構成を変えたのが吉
と出ているな。
これで報われない中央からの攻撃だけに拘ってくれればDFは楽
なのだが。
そんな訳はない。同じような展開が続けばサウジ代表も苛立って
くるはずだ。
ほらまた焦ったのか、前線からボールをもらいに真ん中まで下が
ってサウジの鷹と呼ばれる少年がパスを受け取った。でもそこでも
らったとして何ができる? アンカーから離れられてもその位置か
ら前にはパスの出し所が⋮⋮。
あ、マズイ。あいつならできる事はまだある。ポジションを中盤
に下げたからってエースを相手にマークが緩んでやがる。
ゴールから遠い位置だろうと鷹とまで呼ばれる少年が躊躇すると
は思えない。エースストライカーの称号はどこからでもゴールを狙
う人間にのみ与えられる物だからだ。
危険だと直感した俺の背中から冷や汗が吹き出す。
﹁そいつ狙っているぞ!﹂
俺の怒鳴り声とほぼ同時にモハメド・ジャバーがロングシュート
を撃つ。
かなり距離はあったとはいえ充分に体重の乗ったズドンと鈍いイ
749
ンパクトの音を立ててシュートが日本のゴールを襲う。
だがマークは緩くても無警戒だった訳ではない。彼の前方にいた
うちのキャプテンである真田が体で止めようとするが、敵のシュー
トは絶妙のコースを通り惜しくも真田キャプテンの頭は届かない。
だがそのコーナーポストぎりぎりのシュートもこの試合まで存在
感があやふやだったキーパーがパンチングで防ぐ。
凄いぞキーパー! 試合が終わったらチーム名簿でちゃんと名前
を覚えてやろう。
キーパーが弾いたボールがゴール前に転がると、それを目掛けて
敵味方が入り乱れて結集してくる。
オフサイドラインで格闘技レベルの押し合いをしていた連中がど
っと突っ込んできたのだ。
俺からは戦場が離れすぎているので祈るしかない。頼んだぞDF、
なんとかクリアしてくれよ!
さっきから守備陣に叫んでばかりだがその願いが届いたのか、一
番早くルーズボールへたどり着いたのは日本のDFである武田だっ
た。
ポストプレイ役のサウジのFWを押し退けながら、ゴールの正面
の五十センチ前方に転々としているという危険すぎるこぼれ球へと
必死にスライディングして掻き出すようにクリアする。
いや正確にはクリアしようとした。
敵と競り合いながらトップスピードのまま滑り込んでの反転しな
がらするクリアである。武田が後ろの確認が疎かだったと文句を言
ってはいけないのだろう。
武田がクリアしようとキックしたボールはまるで狙ったかのよう
な一直線の軌道で、フォローしようと駆け寄って来た日本代表の右
サイドバックの顔面に至近距離から直撃した。
750
﹁あ、痛そ﹂
俺が呟いた瞬間、ネットが擦れる音に重なりホイッスルが響く。
慌ててゴールに目をやるとボールが入っている。
どうやらチームメイトの顔面にジャストミートしたボールはその
まま反射してゴールへ飛び込んだらしい。
わっとばかりに盛り上がるサウジアラビアのイレブン。会場の大
多数をしめるサウジの観客からの声援に鳴り物も大騒ぎでボリュー
ムを上げて鼓膜に突き刺さる。
対する日本代表チームの空気は落胆というわけではなく、微妙の
一言に尽きる。
誰もが悪くないプレイだったが失点してしまった。だが、その原
因となった武田やサイドバックもチームのために全力で動いたのが
裏目に出てしまっただけなのだ。
それでも同点に追いつかれたのも確かだし⋮⋮と全員が何と言っ
ていいか判らなかったのだ。
ええい、こんな時にこそ俺の空気の読めなさを役に立てるべきだ。
手を叩いて注目を集めると﹁今のは仕方ありません。まだ同点なん
ですから切り替えましょう﹂と声をかける。
﹁ほらほら、先輩方もオウンゴールぐらいで責任感じて泣いたりし
なくても﹂
﹁これはボールが顔に当たって痛かっただけだよ﹂
﹁あ、すまんかったな﹂
﹁い、いや別に武田を責めた訳じゃないからね﹂
そんなやり取りを見る限りでは、失点の元となった二人の仲もぎ
こちないながら修復できたようだ。助かったぜ、これで気まずくな
って守備の連係が乱れるなんて最悪だからな。
751
守備を傍観していただけの俺に言われたくないかもしれないが、
今のはもう運が悪かったとしか言えないオウンゴールだ。気にして
も仕方がない。
それより早く俺に攻撃をさせてくれないか。
前半の二十分を過ぎたがここまで自己診断では、自分のプレイだ
けに関しては単純なミスだと感じるものは全くなかったのだ。ピッ
チの荒さや相手が強敵のサウジだとか今日の俺には関係ない。ここ
まで調子が良いのはたぶん中学に入ってから初めてだ。
﹁大丈夫ですよ。前半の内にまた一点取ってきますから﹂
思わず口から出た言葉は我ながら偉そうではあるが、それでもた
だの大言壮語とは思えない。それが出来ると信じられるだけの自信
が今日の俺にはあるのだ。
その言葉に口笛を吹いたのは上杉だ。今日すでにワンゴールを挙
げている生粋の点取り屋は﹁そうやな取り返せばええだけのこっち
ゃ﹂と強気な笑みを浮かべる。
他のFWの二人も﹁今度は俺にアシストする番だよな?﹂とプレ
ッシャーをかけてくる山下先輩に﹁あの⋮⋮僕の事忘れてないよね
?﹂と念を押してくる馬場もすっかり攻撃モードに切り替わってい
る。
うん、守備重視の布陣だけどやっぱりこっちの攻撃的な作戦の方
が俺の性には合ってるな。
監督の指示でそれ以外のメンバーは上がってくれないけれど、こ
れだけの面子が揃っていれば残り十分でも得点ができそうだ。いや、
できる。
まだ騒いでいるサウジの応援席に目を走らせる。まあ随分と騒々
しかったからあれを力尽くで黙らせるのも気持ち良さそうだよな。
752
﹁アシカ、ええ顔になってきたなぁ﹂
と上杉が声をかけてきた。思わず手で顔を拭うが、そこにはもち
ろん汗しかついてはいない。どういう意味だと見返すと、彼が面白
そうに答えた。
﹁それはボクサーがKO狙いに行く時の表情やで﹂
そいつはどうもありがとうございます。
753
第三十五話 生意気な後輩に胸を張ろう
ここはアウェーで監督からは前半は抑え目で守備的に行けと指示
されていた。
そんな事は百も承知だ。俺のプレイスタイルはゲームメイカーと
して監督の意図を汲み取って、それをピッチ上で実現する事なのだ
から。
でもとりあえず、そんな頭の良い事は忘れてしまおう。
今日の俺には頭ではなく体が勝手に攻めろと叫んで、そしてチー
ムメイトがそれをフォローしてくれているのだ。
前線のFWは﹁自分にもっとパスを寄越せ﹂と要求するし、後ろ
のDFは﹁ここは僕達に任せてアシカは前に行け﹂とまるで敗軍の
殿兵みたいな妙なフラグを建設しようとしてくる。
そこまで言われたら、点を取りにいかなければ攻撃的な位置にま
でポジションを上げた意味がないよな。
同点に追い付かれてのリスタートをしながらそう強く思う。前半
の残りあと五分プラスロスタイムで絶対に一点を取ってやる。
だがここで少しだけネックになるのが、いつもと違って超攻撃的
サイドバックである島津がいない事だ。あの少年がいればほとんど
常に右サイドを駆け上がっているから、攻撃側が右サイドに限って
は数的有利になるという普通ではありえないメリットがあったのだ
が、今回に限ってはそれが消滅している。
さらに俺よりも後ろは﹁上がるな﹂と断言されているから、基本
的には前線の三人と俺だけで攻撃しなければならない。
この自分が置かれた状況に無意識に唇がつり上がる。やっぱ楽し
いよなあサッカーって。
754
レベルが高くなればなるほど、プレッシャーがかかればかかるほ
ど、勝たなくてはいけなくなればなるほど加速度的に厳しくなって
くるのだが、それらを乗り越える達成感もまた跳ね上がる。
さあ、もっと楽しもうか。
◇ ◇ ◇
アシカの奴がまた唇を歪めて牙の様な犬歯を見せた。いつものボ
ールを持った時のにへらという笑みではない、小学生のころから変
わらないあいつが覚悟を決めた時の表情だ。上杉風に言うならば﹁
KOを狙うボクサーの表情﹂という顔である。
やれやれ、何だか判らんがあいつがやらかすようなら先輩として
付き合ってやらんといけないよな。
特にこの試合のアシカはなんだか一皮剥けたようで、変なオーラ
というか貫録染みた物を漂わせるようになってきやがった。昨日の
うなされていた夜に何かあったんじゃないかと思わせる、好調とい
うだけでは説明がつかないような成長ぶりだ。
﹁山下先輩、ほら、さぼってないで前線からプレスかけてください﹂
﹁お、おう﹂
ちょっと他の事考えていたら目ざとく指摘してきやがる、こうい
う年上にも遠慮しない部分が微妙に生意気だと言われる所なんだろ
う。だが先輩を先輩扱いしないとかそういう次元ではなく、こいつ
がただのサッカー馬鹿でしかないと理解している俺は別に腹は立た
ない。
だが文句はあるぞ。
﹁上杉にもプレスかけろって言えよ!﹂
755
﹁⋮⋮あの人守備になると﹁大阪弁じゃないと指示は判らん﹂って
言って拒否して、大阪弁で指示すると今度はイントネーションがお
かしいって駄目だしするんです﹂
﹁そ、そうか﹂
上杉は攻撃以外にはとことん手を抜くようだな。それに俺までプ
レスをさぼればバランスが悪くなりすぎるか。
ただ守備だけでなく、アシカのプレイに合わせられるよう集中し
なければならないのが難しい所だ。
一点目の上杉のゴールにしてもギリギリのアシストで、もし上杉
が反応できなければキーパーの正面に蹴ったミスキックとなってい
た。パスが鋭くなっている分味方に対する要求のレベルも上がって
いる。
もしのんびりしていれば俺でもついていけなくなってしまいかね
ない、それほど今日のアシカはキレていやがるのだ。
サウジの観客もそれを理解しているのか日本のボールがアシカに
回る度に、一瞬ブーイングが静まりそれから慌てたように一層大き
く鳴り響く。たぶんピッチ上にいなくても判るのだろう、アシカが
一握りの選手しか手に入れられないオーラを纏い始めているのが。
俺も実際にそんなオーラを持った奴にはカルロス以外には会った
事がない。だから無意識に﹁カルロスが特別なんだ﹂と思い込んで
いたが、こんなにすぐそばに同じようになる可能性を持つ奴がもう
一人いたとは。
でも⋮⋮そうあっさりアシカが自分より先に行ったと認める訳に
はいかない。先輩としての意地があるからよ。
歯を食いしばり胸の奥から溢れそうな炎を収めようとするが、つ
い口から滑り出る。
﹁アシカァ、パス寄越せ!﹂
756
俺の声に驚いたように顔を上げると、その表情のまま後ろの明智
にバックパスする。
確かに今はアシカにマークがついていたし、俺のポジションも良
くなかった。だからって俺にパスしようとする仕草ぐらい見せても
いいじゃないか。
前の好意的感想は破棄だ、やっぱりこいつは生意気だな。
舌打ちしてマークを引き剥がそうとサイドに流れる。アシカも明
智にボールを預けると中盤の後方へと下がったようだ。
だがサウジの中盤のプレスも厳しい。すぐに明智へとアシカへつ
いていた密着マークが移動してへばりつく。
明智も諦めたようにもう一度アシカへとパスを返した。
その瞬間にアシカがダッシュを始める。
自分へのパスをカウンターで迎え撃つように全力で疾走しながら
ドリブルへと移行したのだ。単純そうだがボールを受け取りながら
トップスピードを落とさないでコントロールするのは高等技術であ
る。それをあの小僧は何気なくこなしている。
だからそういう所がそつがなさ過ぎるんだって。
後輩の成長が嬉しさと妬ましさが等分に含まれた感情を持ちつつ、
さらにサイドへと流れてマークを引き寄せる。俺を担当しているD
Fもこれ以上サイドに広がっていいのか迷いが見えた。中央をドリ
ブルで突破しつつある敵のゲームメイカーがいるのだ、守備が一枚
サイドで足止めされるのは痛いだろう。
そのためかある程度まで俺が広がったら、それ以上は中へのコー
スを切るだけでサイドまではついてはこない。
少しマーカーから距離をとってアシカの方を見ると、バイタルエ
リア付近まで敵に囲まれそうになりつつドリブルしている。これだ
757
け荒れたピッチでボールが足下から離れないのは正直凄い。前から
ボール扱いは上手かったが、今日はなんか本気で足に吸い突いてい
るみたいだ。
とにかくアシカの突破にDFラインはさらに中央に絞られ、その
前方の最終ラインのギリギリでは上杉が小刻みにダッシュとストッ
プそして走る振りだけのフェイントでマーカーと熾烈な駆け引きを
繰り返している。
俺も負けていられない、そう決心して俺は一層ゴールから遠ざか
った。俺をマークしているDFの視線から僅かに険しさが消え、視
線を中央の攻防へ移す。
そこで俺は全力でダッシュをしてサイドからゴール前へのカット
インを試みた。相手DFとの距離が開いている分加速度がついて敵
は止めにくい、さらに注意を逸らしていた分後手にも回っている。
そんな状況で振り切れないなら俺は日本代表に選ばれてないぜ。
ゴール前へ走り込む俺が顔を上げるとアシカと視線が合い、すぐ
に逸らされた。
そしてすでに中央の危険なエリアへいる上杉へと顔の向きを固定
した。
俺は、そうかアシカはそういう奴だよなと納得し減速する。慌て
て俺に追いすがろうとしていたDFもつんのめりそうになりながら
足を止めた。
アシカが上杉を見つめたまま右足を振り抜こうとし︱︱敵のDF
に腕をぐいっと引っ張られて空振りした。その瞬間に俺はまた猛ダ
ッシュ、上杉にマークを集中していてしかもアシカの空振りにあっ
けにとられている敵DFをかいくぐり最終ラインを越える。
するとちょうど目の前には﹁シュートを撃て﹂と言わんばかりに
ボールが届く。俺の直前でバウンドし軽く逆スピンがかかっていた
758
のかこっちへ返ってくる感覚のボールだ。これなら例え芝のギャッ
プがあっても関係なくシュートできるはずだ。
そう、アシカはあのタイミングで俺から視線を外したって事はノ
ールックで、その後の敵の邪魔も計算した上ラボーナでこんなパス
をするような生意気な後輩なんだよ! ならその後輩からのアシストを外すわけにはいかないだろ。そん
なミスしたら、もう先輩だってアシカに威張れなくなってしまうじ
ゃないか。
パスは絶妙といっていい位置とタイミングで送られたが、それで
も猶予はほんのコンマ数秒しかない。
アシカの奴、俺を上杉と同じワンタッチゴーラーと勘違いしてる
んじゃないか? その短時間に頭がフル回転し、飛び込んでくるキーパーに触れら
れないようなコースへと軽くタッチする。ここまでゴールやキーパ
ーと接近していると蹴るというよりボールをちょんと押す感覚で正
確さを重視したキックだ。
蟻地獄と呼ばれるキーパーにふさわしい長い手の先を通り抜け、
ボールはゴールに吸い込まれる。
﹁おおおー! 見たかアシカ、この先輩を尊敬しやがれ!﹂
握り拳を天に突き上げ、そのまま人差し指を突き出すとアシカに
向かって叫ぶ。
近くまで来ていた上杉が﹁何言うとんじゃ?﹂と不思議そうな顔
をしているが、こっちはスルーだ。﹁外せばこぼれ球ワイが拾うた
のに⋮⋮﹂とぶつぶつ言う奴に用はない。
そして雄叫びの対象であるアシカは﹁はいはい、ずっと前から尊
759
敬してますって﹂といいながら親指を立てて、俺が突きつけた人差
し指にちょこんと触れる。
﹁お、おう、そうか。それならいいんだ﹂
なんか毒気を抜かれてしまい勢いがなくなるが、相手は許してく
れなかった。純粋な祝福の笑みをにんまりとしたイタズラっぽい表
情に変化させたのだ。
﹁じゃあ、山下先輩の得点を祝って特大の紅葉を背中にお贈りした
いと思います﹂
バカ、それはもう止めろって。ほら他の奴まで寄って来たじゃな
いか、アシカも﹁もう逃げられませんね、どこまでも追いつめて赤
い手形をつけられます。これがホントの紅葉狩りですね﹂ってなん
でこんな所でそう上手いことを言うんだ。
くそ、ゴールしたのに背中がひりひり痛む。やっぱりアシカは生
意気な後輩だ。
いつもよりは少ない歓声に手を上げて応えながら思う。サッカー
の技術と頼りがいは充分なのだが可愛げのある後輩の育成という点
では失敗したのかな、と。
760
第三十六話 ハーフタイムに手を打とう
帰ってきたメンバーを山形監督は﹁お、おう。よくやったな﹂と
頬の辺りをひくつかせた笑顔で迎えた。
彼の指示とはだいぶ違う試合の運びになったという点で言いたい
ことは多々あるのだが、結果的に強敵とのアウェー戦で一点リード
して前半を終えたのである。結果を重視する放任主義に近い山形で
はあまり文句もいえない、だが素直にも喜べない。それが表情とな
って強面の髭面をさらにむさ苦しくしているのだ。
﹁ま、とにかくご苦労だったな﹂
戻って来たメンバーの一人一人の肩を叩いて激励する。守備的な
プランを崩した元凶だろうアシカに対しては少し力が籠り過ぎたよ
うな気がするが、それは些細な事だと山形は気にしていない。
終わった前半よりも後半をどうするかが問題だ。
まずは日本の攻撃している本人達に、監督として一番気になって
いた前半のサウジのディフェンスに対する印象を確認しておこう。
﹁どうだったサウジの守備は﹂
﹁大した事あらへんワイにパスを集中してもろたらハットトリック
したるで﹂
﹁キーパーがちょっと厄介な以外は、それほど怖くなかったな﹂
﹁マークは厳しいですが汚いファールはありませんでしたし、守備
の組織も整っていました。今日のアシカ君は絶好調みたいですし、
彼のプレイリズムが独特なせいかその対応には苦慮してましたが間
違いなくレベルは高いです。ただ、攻撃している際に唯一気になっ
761
た点は僕へのパスが少なかった事ぐらいでしょうか﹂
脳天気で強気な二人のFWに対し、意外と饒舌で正確な情報を届
ける左ウイングの馬場だった。ごめん、と手を合わせるアシカに﹁
後半は頼みますよ﹂と苦笑いで答えるこいつも苦労人のようだな。
だが、話の内容は山形が把握しているのと一致している。つまり
ここまではサウジのディフェンスはちょっと大人しくしていたよう
だな。おそらく後半はホームの利を生かしてもっと厳しくなるのは
間違いないだろう。
ふむ、だとすれば今のままのこの代表チームとしてはディフェン
ス寄りの構成で、前半同様に攻め続けられるかは疑問だな。
ベンチから観察する限り、前半の日本の守備には問題なかった。
一点失ったとはいえあれは不運だったにすぎない。
一方攻撃の方といえば⋮⋮、
﹁今日はアシカの日っすね。僕はサポートに徹するっすからアシカ
は存分に暴れて欲しいっす﹂
﹁ありがとう、でもフォローと後ろのスペースは明智に頼みますね﹂
とゲームメイカーが交わす会話から判るように中盤から前はアシ
カを中心として機能しているのだ。
監督としてはちょっと複雑だが、この二人の関係が上手くいって
いるのに横から口出しするべきじゃない。
アシカも明智もこの年代とは思えないほど精神的には成熟してい
る。チームにとって最善と思われる行動をとってくれているんだ、
それが間違っていたり不利になるのなら無論止めるが、今日の所は
いいリズムを刻んでいるようである。その二人で作ったリズムを乱
すのは止めておこう。
762
ここで山形監督の中に迷いが出た。この試合展開ならば後半はも
っと攻撃的にいっていいんじゃないか? という甘い誘惑である。
もともとリードされた場合のオプションとして攻撃的な選手交代は
考えていたが、今そのカードを切ってもいいのではないかと考えた
のだ。
こっちがリードしているこの状態からならば、例えサウジアラビ
アに一点奪われたとしてもドローで終わるだけだ。だがこの試合を
大量得点で勝利すれば、ほぼ確実に日本のアジア予選の勝ち抜けを
決められる。
幸いなことにサウジは今日も、そしてこれまでの予選の試合でも
サイドからの攻撃をほとんどしてこなかった。ここで島津を投入し
ても、守備におけるリスクはサイド攻撃が得意なチームより格段に
下がる。
さらにあの不運なオウンゴール以降、うちの右のサイドバックが
精彩を欠いているのも事実だ。
育成するのならば自信をつけさせるために我慢して使い続けるべ
きかもしれないが、これは国家の面子がかかった代表戦だ。自信を
回復するまで待っているべきなのだろうか。それよりベンチでくす
ぶっている島津を入れて攻撃を活性化するべきじゃないのだろうか。
山形監督の頭の中を幾つもの選択肢が浮かんでは消える。
作戦を変更するメリットとデメリット。ここまでうまく運んでい
る試合展開に手を入れる躊躇いと、おそらく後半の体力勝負になる
とアウェーの日本が不利になるだろうという予想。協会内からの批
判とマスコミなどによるマイナス面を強調した末に生まれた、ネッ
ト上での自分の手腕への疑問視。
最終的に決断したのは本来山形は攻撃的チームを志向していた事
と、一刻も早くこの厳しいアジア予選を突破して周りを見返してや
りたいという欲望だった。
763
山形は今日はずっとベンチを温めている小柄な少年に声をかける。
﹁島津、後半から出場してもらうぞ﹂
︱︱日本代表がまずカードを先にきった。
◇ ◇ ◇
サウジの監督は前半の内容を吟味し、後半どうするのが最善手か
考える。
ホームで劣勢なサウジチームには、このロッカールームにまでい
ろんな雑音が響いてくる。
その騒々しい中にあって、意外かもしれないが彼は前半の出来に
ついて機嫌を損ねてはいなかった。日本代表が強いのは予想の内で
あるし、サイドを守備的で無難なプレイヤーに変更したりダブルボ
ランチにしたりと対サウジ用に色々趣向を凝らしてきているのだ。
こっちの予想通りに試合が上手く行くと考える方が楽天家すぎるだ
ろう。
だが、敵の抱える問題点と突くべきポイントも発見できた。
日本の選手のほとんどは荒れたピッチに適応できていないし、こ
れから更に暑くなる後半になると運動量はどんどん落ちていくだろ
う。後半勝負になると読んで前半は抑えていたが、それに間違いは
なかった。ただ二点取られたのが誤算だっただけである。
ならばやはり問題となるのはあの小柄なゲームメイカーだな。あ
いつさえいなくなれば作戦通り試合が進みそうなのだ。
正直あの七番の子供のような少年の力量を見誤っていたのは認め
ざるえない。それが偶々今日調子が良かっただけなのか、それとも
急成長したのかは不明だがこれからのアジア予選でも邪魔になるの
764
は間違いない。
そこでサウジで最も潰し屋として名を馳せている、監督が信頼す
る五番の背番号の少年にだけ聞こえるように呟いた。
﹁ふむ、あの七番の小僧は目障りだな。できれば後半の早い段階で
ピッチから消えてもらえれば我が国は助かるのだが﹂
監督の言葉を吟味したように目を瞑っていた童顔の少年は、濃い
茶色の瞳を開ける。
﹁実は俺もそう思っていました﹂
︱︱砂漠の毒蛇と呼ばれている少年は、異名にふさわしくないぐ
らい幼く人懐っこい笑みを浮かべてそう答えた。
◇ ◇ ◇
リビングで手が白くなるほど握りしめていた二人の女性はハーフ
タイムの笛にほっと息をついた。
お互いが深い息をついたのを目撃したのか控えめな笑みを交わし
合う。
そして机の上にあるティーカップに手を伸ばして、中身の紅茶が
すでに冷え切っているのに気づく。それもそのはずである、彼女た
ちは試合前に紅茶を注いでから一口も飲まずにじっとテレビを応援
していたのだ。
﹁真ちゃんの分も紅茶入れ替えてくるわね﹂
年長の優しげな女性が二つのティーカップを持ってキッチンへ向
765
かう。﹁ありがとうございます﹂とお礼を言うのは小学生のように
小柄で可愛らしい女の子だ。顔立ちはまだ幼くて大きく赤いフレー
ムの眼鏡が特徴的なぐらいだが、長く艶のある黒髪と座っていても
すっと背筋を伸ばした姿勢の良さが目立つ。
﹁はい、どうぞ。あら?﹂
少女に比べると背の高い女性が少し驚いた声をあげる。﹁速輝の
カップまで出しちゃってるわね﹂と大ぶりのカップを手に取ると、
その取っ手がポロリと外れカップが落下する。
テーブルの上で真っ二つになったカップは不幸中の幸いか破片が
飛び散る事はなかったが、目を丸くしている女性に真と呼ばれた少
女がてきぱきとカップを片づけながら声をかける。
﹁これってアシカのカップだったんですか?﹂
﹁ええ⋮⋮あの子の誕生祝いにもらったんだけど、速輝が気に入っ
たらしくて昔からずっと使ってるのよ﹂
﹁じゃあ⋮⋮もしかして﹂
﹁ええ、間違いないわ﹂
二人の女性はお互いが理解したと頷きあった。
﹁使い過ぎですね﹂
﹁古くなったんでしょうね﹂
⋮⋮この女性二人は女の勘というものが、あまり発達していない
ようだった。
766
第三十七話 毒蛇の牙には気をつけよう
さあ楽しい後半戦の始まりだ。
俺は湧き上がる熱に耐えかねてぶるりと身震いする。気温の上昇
とテンションの高さが相まって体が熱くて仕方がない。
この気候で最初からアクセル全開で飛ばしているんだ、正直試合
終了まで俺の体力がもつかは怪しい。だからこそ俺はまだスタミナ
に余裕のある今の内に得点差をつけておきたいのだ。
監督もここが勝負所と読んだのか、前半にオウンゴールをしてし
まった右サイドバックの代わりに島津を投入し攻撃的な布陣へと変
化させている。
サウジ代表は中央からの突破が多いからと中盤におけるダブルボ
ランチの構成はそのままだったが、チーム単位で見れば前半よりも
ぐっと攻撃に重心を移している。
これは日本代表が﹁引き分けを視野に入れた作戦﹂から﹁絶対に
勝ちに行く作戦﹂へと変更したことを意味しているのだ。
後半からのスタートとなる島津などはその日本人形のような顔に
は出していないが、気負いがあるのか落ち着かなげに何遍もスパイ
クを芝に向けてトントンと足先でつついている。これまでのスタメ
ンで出場していた試合ではそんな仕草はしなかったはずだよな。
これは少し緊張をほぐした方がいいか。
﹁島津さん﹂
﹁む?﹂
いつもよりさらに引き締まった表情をこちらに向ける島津に﹁頼
767
りにしてますよ﹂と告げる。
﹁前半休んでいたんですから後半は走ってもらいますからね﹂
﹁うむ、了承した﹂
俺の冗談めかした口調に少しだけ雰囲気を柔らかくして彼が頷く。
そこに二人のFWも乱入してきた、
﹁おう、ワイの代わりにようけ働いてもらおうか﹂
﹁なんだと、右サイドのポジション的に俺の分まで守備を頑張って
もらう予定なんだぞ!﹂
﹁アホか、そいつが守備するわけないやろ﹂
﹁上杉が言うんじゃない﹂
お前らは黙れ。
ともかく右サイドにもう一つ武器ができたのは攻撃陣にとっては
朗報だ。これによって後半攻めてくるだろうサウジを逆に押し込ん
で、逆襲する芽を先に摘んでしまおうというのが監督の思惑なんだ
ろう。
日本代表の攻撃を預かる者としては、その構想を実現しなくちゃ
な。 後半開始の笛の音が響く。 サウジはその余韻が残っている間にも、どっと日本陣内へと突入
してきた。
向こうのボールからだから前へ出るのは当然なのだが、全員が一
つポジションを上げたんじゃないかと思うような、前がかりのフォ
ーメーションだ。
やはりサウジアラビアも勝負をかけてきたな。まあホームで首位
を争っているライバルチームと戦って一点負けているんだ、これぐ
768
らいは当然だろう。
だがこのサウジの攻勢は逆に俺にとっても好機でもある。全員が
上がっているっていうことは、相手のDFラインの裏に得意のスル
ーパスが通しやすくなるということを意味するからだ。 くくく、そっちの攻撃で一つでもミスしたら俺達のカウンターで
バッサリと斬って捨てるぞ。日本代表の攻撃力は日本刀級の切れ味
だ、なめるんじゃねえ。
そこまで思考を進めてふと気がつく。いつの間にか傍らにちょっ
とだけ俺より背の高いサウジの選手が立っている。鳥の目でも気が
つかなかったくらい自然に接近していたのだ。
なんだこいつと見つめると、褐色のまだ幼さが残る顔に人懐っこ
い笑みが浮かぶ。
思わずこっちもにへらと笑みを返してしまう俺は、間違いなく日
本人気質だな。
とにかくこのままじゃ動きにくいかとポジションをずらしても、
ぴたりと俺の隣から離れようとはしない。
このサウジの五番のプレイヤーが俺のマークを任されたのかな?
それにしては、引き締まってはいるが細身の外見からは、マンマ
ーカーによくいる圧力で封殺するパワータイプではなさそうだが⋮
⋮。
ちらりと目を走らせサウジの攻撃を観察するがその攻めを日本の
ディフェンスがよくしのいでいる。その間もこの五番の選手は俺か
ら目を離さない。どうやら完全にマンマークの対象になったようだ。
では少し揺さぶろうか。向きを変えてすたすたと日本の陣地へと
戻っていく。
もしこのマークしているのが敵陣の危険なエリアだけだと決めら
れていれば、ここで俺についてくるのは自重するはずだ。
769
だが何事もなかったかのようなにこにこ顔で、俺と二人三脚のよ
うに接近しては離れようとしない。
俺が戻った事により、今度は明智がじりじりとポジションを上げ
て攻撃的なポジションへ移動するが、それに対してもノーリアクシ
ョンだ。
攻撃的な位置にいるMFをマークしてるんではなく、完全に俺を
ターゲットとしてロックオンしているな。
どうやってこいつのマークをかわそうかと脳の一部分で考えなが
ら、現在攻め込まれている日本チームの守備陣形を確認する。
こっちのDFラインは前半と変わらずフォーバックのままのはず
だが、その内の右サイドバックは上がりっぱなしの島津へと交代し
ている。つまり実質はスリーバックになっているのだ。
だがこれが意外と安定している。
これまでの予選では島津が先発出場していたから、否応なくスリ
ーバックに適応する事を強いられていた。だから後半から急に変わ
ったとはいえ、三人でディフェンスする状況がとっくに彼らには染
みついて慣れているのだ。
しかも、ダブルボランチのおかげで中盤の守備は落ち着いている。
そのおかげで最終ラインもいつもよりは余裕を持って守れているよ
うだった。
だとしたら俺も今は下がって明智と入れ替わりでボランチの位置
にいるんだ、守備のタスクをこなさなければ⋮⋮痛て。
右足に何かぶつけられたような痛みが走り、傍らにいるサウジの
五番を睨みつける。視線の先の相手はきょとんとした表情で﹁どう
したんだ?﹂とでもいいたげに首をかしげる。
いや⋮⋮位置関係からしてこいつだよな? 俺の右足を多分蹴っ
てダメージを与えたのは。
770
でもここまで無邪気な態度を見せられると、もしかして人違いか
とも考えてしまう。
なんにしろこいつのそばにいるのはマズイ気がするな。
少しずつ位置をずらしこの五番から離れようとしても、ぴたりと
くっついたままで俺から距離を空けるつもりは全くなさそうだ。
くそ、邪魔だがあんまりこいつを気にしすぎて普段のプレイがで
きなくなったら本末転倒だな。
できるだけ、マークする相手から離れようと動きつつ、気にしな
いようにと難しい精神状態を強いられる。
だがここで俺にとって役立ったのは鳥の目による客観的な視点だ。
感情的にならずに自分と相手を脳内で記号化しつつできるだけ距離
をとるように、なおかつチームにとって役立つルートをシミュレー
トするのだ。
俺の脳内のコンピュータは自分の位置をもう少し右に移動した方
がいいと答えを出した。
右サイドの島津が上がっているために日本の右サイドはどうして
も手薄になっているのだ。サウジは特にサイド攻撃をしてくるチー
ムではないが、攻め込んでゴールを固まられているとパスを回して
いる内にそこが攻撃の狙いどころとなっている。
だが向こうはドリブルはあまりしてこない傾向にある。ならばこ
のタイミングで日本の右サイドへのパスが⋮⋮ほら、今だ。
サウジの中盤からのロングパスが蹴られる寸前に俺はダッシュを
かける。出してからでは間に合わないが、その前にタイミングとコ
ースを予測してパスがくるのを待っていれば綺麗にボールが奪える
のだ。
パスの糸をすぱっと切り裂くようなカットの仕方は、敵と密着し
てボールを取り合うよりも俺好みのボール奪取法である。
771
よし、読みはドンピシャだ。サウジのウイングに通る前にカット
できる。
ボールを持てば、すぐに右サイドの島津へ送ってカウンターのス
タートだ。
俺が速いボールをカットしようとした途端またも足にさっきと似
た衝撃を受けて、今度は走っている最中という事もあり体勢を立て
直せずに倒れて芝の上に転がる。くそ、なんだよ。
痛みはさほどないが、邪魔されたのに腹が立つ。
ピッチに横たわったままで足を引っかけてきた相手をじろりと睨
みつける。そこにいたのはやはりずっとくっついてくる俺のマーカ
ーであるサウジの五番だ。スタートダッシュで引き離せたかと思っ
たのだが、すぐに追い付いてくるとは瞬発力は俺以上って事か。
そこでようやく審判の笛が響き、五番に注意が与えられる。その
最中にも﹁え、僕なんですか?﹂とでも言いたげなきょとんとした
表情をしてやがる。これじゃ審判もなんだか厳しく注意しにくいの
かもしれない。
こいつは役者だなと思いつつ立ち上がる。
痛てて、右足にピリッと軽い痛みが走った。まるで蛇に噛まれた
ような⋮⋮。
ああ、そうかやっと思い出したぞ。サウジの五番。俺のマーカー
であるこいつが二つ名を与えられたエースキラーの﹁砂漠の毒蛇﹂
なのか。
772
第三十八話 自分の足を確かめよう
ちょっとだけ右足を気にしながら立ち上がった俺に、駆け寄って
来た明智が心配げに眉をひそめて尋ねる。
﹁大丈夫っすか?﹂
﹁ええ、問題ありませんよ﹂
実際一瞬ピリッと来たぐらいで、屈伸をするとすぐに痛みも飛ん
でいった。﹁そうっすか﹂と明るく頷く明智も安堵の表情を見せる。
﹁じゃあアシカはまた前の攻撃的なポジションへ代わった方がいい
っす﹂
﹁でも、マークについている奴が結構しぶとくて⋮⋮﹂
毒蛇ってだけにしつこくて執念深そうなんだよな。マークを外す
のは一筋縄ではいかなさそうだ。俺が攻撃しようとするとすぐ潰さ
れるんじゃないかという懸念がある。
﹁だからこそっす。中盤の後ろでは相手が反則してきた場合、ファ
ールをもらってもあまり意味がないっす。でももっと前の位置なら
ファールされればフリーキックでゴールが狙えるっす。それが判っ
ていれば相手も無闇に反則でアシカを止められないっすよ﹂
﹁ああ、なるほど﹂
納得した俺は素直に﹁ありがとう﹂と明智に礼を言う。彼だって
国際試合で攻撃の指揮をしてみたいに決まっているのに、そのエゴ
を捨ててチームと俺にとって役立つ方法を考えてくれたんだ。俺な
773
ら絶対に迷ってしまってこんなに早く決断はできない。彼のチーム
に対する献身にはどれだけ感謝しても足りないな。
その好意に甘えてさっそくポジションを押し上げる。
並行して明智はボランチの位置にまで下がっていく。
そんな移動をしている最中にも、五番はずっと俺の隣から離れよ
うとしない。ファールしたというのに、こいつには罪悪感というの
がないのかずっと笑みが顔に張り付いたままだ。だったらどこまで
笑いながら密着マークできるか試させてもらおうか。
ゆったりとした歩調から急にギアをトップに入れ替えて前へ出る。
それはちょうど俺がファールされたフリーキックのボールが前線の
左ウイングの馬場へと渡った、リスタートのキックで皆の目がそっ
ちに集中したタイミングだった。
その馬場の後方である左のサイドへと流れながら、再度自身と敵
味方のポジションにチェックを入れる。敵が全体的に前がかりにな
っているのは予想通りだが、この俺に張り付いて離れない五番が邪
魔だ。さっきのダッシュで振り切ったかと思えば、少しでも足を緩
めると隣にいやがる。
そこに馬場からのバックパスが来た。やはり後半に入ってからデ
ィフェンスが厳しくなっているのか、彼でもゴール方面へ切れ込む
のは無理だったようだ。
パスを受け取るトラップ際は最もボールを奪われやすいタイミン
グの一つである。俺は毒蛇にカットされない様にと馬場が配慮した
であろうスピードのあるボールを、トラップせずにダイレクトでマ
ークしている相手の足に向けて弾く。
俺から奪う気満々だった毒蛇はいきなり自分の足に当てられたボ
ールにほんの一瞬硬直した。
自分から出ようとした瞬間に相手からボールをぶつけられると、
ボクシングでのカウンターパンチをもらったようなもので痛くなく
774
とも相手は予想外の展開に瞬間的に動きが止まるのだ。その間にボ
ールをぶつけたボールを取り返して俺は中央へとカットインを試み
る。
敵DF陣は俺をマークしていた相手をよほど信用していたのか、
俺の突進に反応が遅れている。
よし、これならシュートか上杉に合わせたパスを⋮⋮とマズイ!
また後ろから五番に足を引っかけられてピッチの上を転がってし
まう。俺だから足をかばい上手く重心をずらせたが、鳥の目を持っ
ていなくて毒蛇の接近に気がつかなければ怪我をしていたかもしれ
ない危険なファールだぞ。
それにしてもあれだけ綺麗に抜いたと思っても数秒の猶予しか与
えられないのか。
そこで審判の笛が響く。うん、そりゃ今のは反則だよな。イエロ
ーカードでも出されればさすがにこいつも少しは大人しくなるだろ
う⋮⋮。
え? なんで審判が俺に﹁早く立て﹂ってジェスチャーしてるの
? そしてなんで相手のボールなんだ? また倒れた俺を起こす為
に手を貸しに現れた明智が解説する。
﹁自分から転んだって判定されたみたいっすね﹂
﹁俺はあいつから反則されたのに!?﹂
﹁見えにくいようにファールしたようで、僕にもはっきり反則した
瞬間は確認できなかったっす。それに審判はもうサウジ側のはあか
らさまな反則しかとってくれないようっす﹂
もし今のがペナルティエリア内だったら、PK狙いのダイビング
と判断されて逆にこっちがカード出されたかもしれないっすと吐き
捨てる。
775
卑怯者めと俺を倒した相手を探すと、毒蛇の奴もまたこっちを見
つめて笑顔を浮かべた。さっきまでのように無邪気なものではなく、
唇の端だけをつり上げた嘲笑という奴だ。
頭が沸騰しそうになるが、俺の体は明智によって抱き止められて
いた。おまけに審判までこっちを注視してやがる。ここで暴れたら
ファールされたはずの俺の方がカードを出されかねない。
ふうっと息をついて必死に気を静める。深呼吸だ、脳に酸素を取
り込んでクールになれ。すーはーすーはー、よし。
﹁落ち着いたから放してください明智さん。さすがに暑い中抱き合
う趣味はないんで﹂
﹁僕もそんな趣味はないっすよ﹂
俺の頭が冷えたと感じたのか、拘束を弛めて解放する。
明智から一歩離れると、自分の体の各部のコンディションを確か
める。うん、よし大丈夫だ。引っかけられた右足もピッチで打った
箇所もダメージはもう抜けている。後は⋮⋮精神的なダメージの回
復だけ、いやもっとはっきり言えば五番に対する報復したいという
欲求だけだな。
だがどちらかといえば接触プレイが苦手な俺が、ラフプレイの名
人とアウェーの地でバチバチ肉弾戦をやるわけにはいかない。
毒蛇にはDFにとっては最も辛い、マークした相手に大活躍され
るという刑にしてやろう。
◇ ◇ ◇
それからしばらくはサウジの猛攻に押される時間帯が続く。
こちらが島津を投入したとはいえ、パスの供給源である俺が窮屈
にプレイしているのだ、チームが一丸となって攻めてくるサウジに
776
対しては劣勢にならざる得ない。
だが、日本の守備陣の頑張りが少しずつ流れを変えつつあった。
やるじゃないか、うちのディフェンスも。俺の口からそう漏れる
ほど洗練された追い込み方で守っていた日本代表がボールを奪取し
た。
ポストプレイヤー役のサウジFWをマークしていたDFの武田が
シュートを撃てない場所でわざとボールを持たせ、そこに真田キャ
プテンが参加しダブルチームで絶対にゴール方向へ振り向かせずに
サイドへと押しやろうとプレッシャーをかける。
そこで敵FWが目にしたのはピッチの中央から駆け寄ってくるう
ちのアンカーの姿だ。こうなるともうバックパスするしかないと判
断するだろう。そこに明智が気配を殺して罠を張っているとも知ら
ずに。
ポストプレイヤーがサウジでは孤立気味だったからできた、狭い
ゾーンに思い切って人数をかけた﹁パスの出し所を一カ所だけ空け
て、そこに一人忍ばせておく﹂方式のパスカットだ。
日本のディフェンスは枚数が減ったにも関わらずアグレッシブな
守りをするなぁ。
と、そんな感想を抱いている場合じゃない。明智が視線でこっち
に尋ねているじゃないか。﹁どこにパスが欲しいか﹂って。
今は五番にくっつかれている状況で、こいつを相手にして俺はス
ピードでは振り切れない。ならばスペースではなく足下に寄越して
くれ。
俺が足下の芝を指差すと明智からのパスは寸分違わずに要求した
地点へ送られてきた。 これからは一瞬の勝負だ、俺はサウジの五番を背後にしてそう感
じた。こいつは俺がボールキープして前を向こうとすれば躊躇なく
777
潰しに来る。ならばその前の僅かなタイミングを捉えるしかない。
明智からのボールが俺の想定した通りの場所に来る。あいつはや
っぱり上手いな、コントロールが正確だから受け取る時にわざわざ
自分の位置を調整する必要がない。
ボールを普通にトラップするより微妙に早い拍子で右足で迎えに
いき、そのまま足首のスナップだけで背後へと蹴り上げる。
得意のチップキックの変形だが、これは真後ろに立っている者か
らすればボールと蹴り上げる動きが全く見えない。俺の体がブライ
ンドとなってまさに﹁ボールが消えた﹂ように錯覚するだろう。
ボールを完全に見失った相手がまず疑うのは自分の下だ。股抜き
されたのではないかと視線を落とす。
その後にようやく自分の背後の空中にボールが浮いているのを発
見できるのだが、その時にはもうすでに遅い。ほら、この毒蛇も俺
が今までにこの技で抜いた奴らと全く同じ反応をしやがった。
そしてボールの行方を目で追っている間に、俺の体はすでにスタ
ートをきっているのだ。もう抜かれまいとしても間に合わない。
よし、上手く毒蛇を引き剥がした。
あとはゴールへの道を見つけるだけだ。だが、すぐにフォローの
DFが出現する。サウジはよほど俺を警戒しているらしいな。
瞬時の迷いも見せず右へ抜きにかかる。完全に抜けなくてもいい、
今の俺ならボール一個分のスペースが空いていればゴール前のFW
達の誰かにアシストを通してみせる。左手を伸ばし相手を寄せ付け
ない様にしながらドリブルする。
体半分が通り抜けかかった時、左腕にしがみつかれる感触があっ
た。
前半ラボーナで山下先輩にパスした時よりがっちりと両手で掴ま
れているじゃないか。ほとんど俺の左の肘関節を敵DFに極められ
778
ているようだ。
この体勢は明らかにファールだが審判は笛は吹いてくれそうにな
い。では残念ではあるが作戦を変更するしかないか。さすがにこれ
では抜くのは不可能だし、毒蛇も追いついてきた。
ここは一旦ボールを明智に戻そう。左腕を掴まれた不自由な状態
だが敵に奪われないよう丁寧にパスを出す。
これでもう一度中盤から攻め方を組み立て直し⋮⋮、ちょっと待
て。
なんで毒蛇は後ろからスライディングしようとするんだ。俺は今
ボールを手放したじゃないか。
なのになぜ俺の足だけを睨んで滑り込む?
くそ、なら避けなければ⋮⋮。おい、DFお前左腕を離せよ。そ
うじゃないとタックルを避けられないじゃないか。
冷や汗を吹き出しながら振り払おうとしても、がっちりと鎖で固
定されているかのように俺の左腕は動かせない。
このままじゃ避けるどころかダメージを逃がす事さえ⋮⋮。
後ろからの殺気に鼻からは火薬の臭いと肌はナイフで切りつけら
れるような錯覚を感じた体が勝手に反応した。
少しでも衝突するタイミングと当たる場所をずらそうとジャンプ
するが、足がまだ上がり切れないうちに衝撃が襲ってきた。
左腕はサウジDFに掴まれているために吹き飛ぶことはなく、そ
の場に半回転して背中から叩き付けられる。
空中での一瞬の浮遊感に﹁あ、これ今朝も夢の中で経験した感覚
だ﹂と場違いでどこか呑気な感想を覚える。
そんな頭がぼんやりとなった状態で、受け身など取れるはずもな
い。思い切り背中を打ちつけた。
だがその落下の衝撃によって一気に意識がはっきりと覚醒した。
779
叩き付けられた背中の痛みより、悪夢でも体験した恐怖が先に立
つ。タックルを受けた俺の足は大丈夫なのか?
慌てて自分の足を押さえると、夢の中と同じようにようやくその
時になって神経が伝達したのか、俺に自分の右足からぶつっと何か
が千切れる音と感触に痛みまでが遅れて届けられた。
伸ばした手からは、右足に今までずっと感じていたあるべき感触
が伝わってこない。
俺はピッチで右足を抱えてうずくまる。
痛みに霞む視界の中、チームメイトが集まって来てくれている事
だけをぼんやりと感じ取っていた。
780
第三十九話 審判はレッドカードを掲げる
アシカがサウジの毒蛇に後ろからのタックルされた時、思わず山
形監督は立ち上がった。
あのプレイは危険すぎる。明らかに狙って後ろから、しかもボー
ルを持っていない人間の足に向けて硬いスパイクの裏で蹴りにいっ
たのだ。
タックルとかボールを奪いにいったとかではなく、相手にダメー
ジを与える事を目的とした悪質なラフプレイである。
﹁何やってるんだ!﹂
同様の怒りの叫びが一斉に日本のベンチから上がった。
うむ、当然審判が笛を吹きながらファールの現場に近付いていく。
アウェーでもさすがにあれはレッドカードだろう、それよりもアシ
カの容体は⋮⋮ああ、右足を抱えてうずくまっているな。あいつ大
丈夫なのか?
いや、例え怪我が軽かったとしても、あれだけのラフプレイを受
けた後ではもうプレイ続行は無理だ。まだ成長段階の少年を預かる
チームの監督としてはすぐに引っ込めねばならない。
素早く頭の中で後半の作戦を修正し、ベンチを温めているボラン
チの選手を手招きする。
﹁準備はできているな? アシカの代わりに出てもらうぞ。いつも
通りにアンカーと並ぶ位置で守備優先に頼む﹂
アシカを交代させる時はいつも投入している中盤の人材の背中を
781
ポンと叩く。こいつはこれまでの予選でも途中出場していたからア
ップはきちんとしている上、こんな交代には慣れているから他のベ
ンチウォーマーよりすぐ試合に適応できるはずだ。
問題はこの少年はアシカと違って攻撃力より守備力が高いタイプ
なのだが、明智のポジションを一つ上げて攻撃的にすることでそれ
は解消できるはずはずだ。
そこまで思考を進めている間に、ピッチでは信じられない光景が
進んでいた。
審判がアシカを倒した五番に対しレッドではなくイエローカード
を示したのだ。
﹁嘘だろ⋮⋮﹂
無意識に山形の口から信じられないと現実逃避の言葉がこぼれ落
ちる。あれでイエローカードなら一発退場なんてこのピッチ上に存
在しないじゃないか。もしかしてあの審判レッドカードを持ってく
るの忘れたんじゃないのか?
いや、実はちゃんと審判はレッドカードを持ってきていた。
とても公平とは思えなかったが、それは今から一分後に示される
事で判明するとなる。
審判のあまりに甘すぎる判定を呆然と眺めていると、その視線の
先にファールしたサウジの毒蛇と上杉が映りだす。
敵のゴール前からここまで戻ってきた上杉は、髪を一層逆立てて
いつもより鋭くなった目を血走らせている。どこかで見た表情だと
記憶を掘り返していた山形監督は、思い当たると喉も裂けよ叫ぶ。
﹁マズい! 上杉を止めろ!﹂
782
あれは代表初合宿の時に乱闘を始める寸前の顔だ。こんな所で暴
れられたらたまったものじゃない。
だが山形監督の叫びに他の選手が反応するよりも早く、上杉がサ
ウジの毒蛇の襟を鷲掴みにすると自分の顔面ぎりぎりまで引きつけ
て巻き舌で大喝する。
﹁うちのチビに何さらすんじゃ、ワレェ!﹂
仲間を思うその心意気は買うが、上杉、その行為はマズい。ただ
でさえ日本語では相手に言いたいことが伝わらない上、脅迫してい
ると取られかねない。
慌てて真田キャプテンと武田が鬼の形相となった上杉とサウジ選
手の間に入る。すると掴みかかられていた相手の選手はなぜかオー
バーアクションで顔を押さえて後ろへ倒れた。
なんだ? あいつは襟を握られただけのはずだ。なんで倒れる?
しかも触られてもいない顔を両手で覆って?
そんな山形監督の疑問はすぐに氷解する。
審判が上杉に対してレッドカードを突きつけたのだ。
﹁さっきの相手のタックルがレッドじゃなくて、こっちはちょっと
襟を掴んだだけで一発退場だと!?﹂
レッドカードをもらってしまったらこの試合どころか、次からの
二試合も出場できない。それも今日を含めこれまで出場した全試合
で得点しているうちの得点王の上杉がだぞ!
あまりの理不尽さに頭に血が昇る。ベンチから立ち上がり、審判
に詰め寄ろうとするがその俺の袖掴んで引き留める男がいた。サウ
ジに出発する前夜に俺と荷造りしながら話しをした若手スタッフだ。
彼が﹁いけません、監督まで退場させられたらゲームが完全に壊
れます﹂と必死の形相で言い募る。
783
その制止で冷水をかけられたように血の気が引く、悔しいが彼の
言う通りだろう。いかに審判の判定が一方的とはいえそれが試合中
に覆るとは思えない。それどころかここはアウェーの地だ、俺まで
おまけに退場させることさえ考えられる。
落ち着け、冷静になるんだ。そう自分に言い聞かせる。
まずは事実のみを確認しよう。アシカが負傷して上杉が退場か。
アシカとの交代要員は、さっき指示していたようにボランチでい
いだろう。だが、上杉がいなくなるのが誤算だ。攻撃の柱となるあ
いつがいないとサウジを守備に忙殺させて、逆襲を押さえ込むとい
う後半のコンセプトが完全に崩壊してしまう。
アシカの交代を入れて切った選手交代のカードは二枚。いっそこ
こで最後に残ったもう一枚使って守備的にフォーメーションを変化
させるかと悩む。
だがそれは危険すぎる。
ここでネックになるのがアウェーで相手の反則に甘いと言うこと
だ。具体的な例として今ピッチから担架で運び出されようとしてい
るアシカがいる。もしも残り一回の交代を使った後で怪我をするほ
ど乱暴なキーパーチャージをされてしまったら?
最悪の予想に酷暑にも関わらず背筋が冷たくなる。
こっちとしては交代枠が残っていないのだから、未経験のフィー
ルドプレイヤーを急遽キーパーに仕立てなければならない。そうな
ってしまえばもうまともな試合は不可能だろう。
それにキーパーに限らずこれ以上に負傷者が増えることも考えら
れる。
やはり交代のカードは保険としてできれば最後までとっておくべ
きだ。
ぎりっと音がするほど奥歯を噛みしめた山形に若手スタッフも心
784
配そうな表情をするが、そうでもしないと激情を抑えられない。
ゲームメイカーが負傷させられ、エースストライカーはアシカへ
のファールに対する報復行為としてレッドカードだ。アシカは治療
するし上杉は判定に対する抗議はしてもどちらも次の試合には間に
合わないだろう。
日本のサッカー協会は外国やFIFAとの交渉が下手すぎるんだ。
もっと強気で対話してくれよと思うが、ずっと続いていた弱腰姿勢
は国内での内弁慶と相まってもはや伝統とすらなっている。
いや上杉はともかく下手したらアシカなんて、怪我の状態によっ
てはもっと長期間離脱する可能性も⋮⋮。
くそ、これも俺の監督としてのマネジメント能力が低いせいなの
か? ネット上で中傷される程度の指揮官でしかなかったのだろう
か。
﹁監督!﹂
アシカと交代して入るMFの選手が﹁指示の続きをください﹂と
訴える。その声に少し冷静さを取り戻す。うむ、自身の能力査定は
後でもできる。まずはこの試合の残りをどう凌ぐかに全力を注がね
ば。 ﹁とにかく試合が少し落ち着くまで無理な攻撃は控えるように皆に
伝えてくれ。特に島津には悪いがこの試合に限り攻め上がりを控え
て守備をしてくれるようにと﹂
山形監督の指示に強張った表情で頷く。アウェーでこんな雰囲気
の中に出て行くのはまだ子供といっていい年代の少年には酷かもし
れないが、今はそんな配慮をしていられない。ピッチ上の選手たち
はそんな空気の中で戦っているんだ、こいつも自力で乗り越えても
らわねば。
785
◇ ◇ ◇
﹁速輝! 危ない!﹂
﹁アシカ! 避けるんだよ!﹂
ここ日本でもテレビで観戦している女性二人が悲鳴を上げていた。
その叫びも虚しく、画面には右足を抱えて芝の上に横たわる少年
の姿が映し出される。
じっとその姿を見ていた年長の女性は、小さな吐息を洩らしてぐ
ったりとソファにもたれ掛かる。その姿はいかにも弱々しく今にも
気を失いそうにすら見えた。
﹁わ、わ、どうしよう。 おばさん? 水飲みます? 紅茶の方が
いい? それともあ・た・し・? じゃなくてええと﹂
﹁⋮⋮じゃあお水を﹂
かなり狼狽して何を口走っているか判らなかった少女はすぐに小
柄な身を翻し、キッチンからコップを探すのももどかしく慌てて水
を汲んでこようとする。
その時慌てすぎて注意が散漫になっていたのか、手に取ったコッ
プと同じ棚にあったガラスのグラスを落としてしまう。
グラスの割れる音に青ざめた顔を向けた女性が、
﹁そ、その割れたのはあの子がいつも使っているグラス⋮⋮﹂
﹁ええ!? それじゃあ﹂
眼鏡のレンズが瞳だけで一杯になるほど目を大きく見開いて少女
が叫ぶ。
786
﹁アシカの気に入ったカップがなくなっちゃったんだね!﹂
﹁ええ、そうなるわね﹂
当たり前の事を叫ぶ真と頷く女性。このままアシカのカップをハ
ーフタイム中に続いて割ってしまったという現象をスルーするかと
思いきや、ようやく少女が何かに気がついたように体を震わせる。
﹁まさか、さっきのカップが割れたのも不吉な前兆だったんじゃ!﹂
﹁⋮⋮さすがにそれはないでしょうね﹂
疲れた表情はしていても理性が残っているのか、少女のオカルト
染みた危惧を否定する女性。
﹁もし、そんな事があるならまた不幸が訪れるってことになるじゃ
ないの﹂
﹁ん、こほん、そうですよね。すいませんちょっとさっきのアシカ
のやられた衝撃映像が頭に残っていて﹂
少女もすぐに照れ笑いを浮かべるとテレビ画面を一瞥する。
﹁テレビもアシカの具合はどうなのか早く情報を︱︱え? う、上
杉選手が退場だって!?﹂
﹁その子ってこの前速輝が複雑な顔で褒めてた子じゃないの!﹂
﹁お、お払いをしましょう。なんなら清めた納豆とかをこの家の四
方に撒いちゃいましょう!﹂
﹁清めた納豆って発酵してないならただの大豆じゃないの? とに
かくそんな物撒かれたら速輝が帰ってこなくなりそうだから、駄目
よそれは!﹂
787
⋮⋮日本は結構なピンチに陥っているが、彼女達はどうにもシリ
アスが似合わないタイプのようであった。
788
第四十話 こんな試合はこりごりっす
俺は荒れた芝の上でうずくまったまま、ファールを受けた右足に
再度手を伸ばした。
やはりいつも感じているあの感触がないくせに、右足首の辺りか
らは鼓動に応じて脈打つ痛みだけが伝わってくる。
周りに集まってくれたチームメイトにもせめて﹁大丈夫だ﹂とだ
けでもこの試合中動揺しないように伝えたいが、それを言う間もな
く担架でピッチの外に運ばれてしまった。
ベンチ横に降ろされると駆け寄るチームドクターより早く自分で
ソックスを引き下げて、毒蛇にタックルされた右足の負傷箇所を確
認する。
蹴られた場所はすでに赤黒い痣となって触るとかなりの痛みが走
るし、足を動かすだけでも鈍く重く響く。
だが、単純な蹴られた部分のダメージのみで腱や関節などに重大
な異常はないようだな。前回の怪我から学習した俺の知識と経験が
そう囁く。
何しろ前回は手術を受けるまで、自分の意志では右足がろくに動
かせなかったからな。
もしかしたらこれが守ってくれたのかもしれない。
右足首に切れ端が垂れ下がっているミサンガを手に取る。あの千
切れた音も、いつものこれを巻いてある感触が急に消えて違和感が
あったのも、小学生時代からずっとつけていた真からのプレゼント
である特製のこのミサンガが切れたせいだ。
確かこれは、昔に俺が鋏で切ろうとしても切断するどころか傷一
つつかなかったほど頑丈なミサンガのはずだよな。
789
それがすっぱり切れたって事は、もしかしたら俺の身代わりにさ
っきのファールの衝撃を全部受け止めてくれたのかもしれない。そ
んな非科学的な想像をしてしまうほど、あれだけのファールで与え
られたショックと比較して体に与えられたダメージが少ない。
これなら、ちょっと我慢すればこのまま試合にも戻れそう⋮⋮。
立ち上がろうと足に力を入れるとビリッと電流が走る。うむ、や
はり今日ぐらいは無理しないようにしておこうか。
そんな風に自分の体の損傷と相談をしている内になにやらピッチ
の中では、一触即発の空気になっていた。
あ、上杉が退場してくるじゃないか。こいつ一体何をやらかした
んだ?
﹁アシカ⋮⋮すまんかったなぁ、仇を討つつもりやったんやけど﹂
﹁え⋮⋮何の事か判らないけれどそのお気持ちだけで充分です﹂
﹁いつか必ずワイが仕返ししたるから、ちょい待っといてや﹂
本当に悔しそうに、この唯我独尊な少年が俺に頭を下げている。
レッドカードで退場になったにもかかわらず、監督に謝る前に俺
に仇を討てなくてすまんと言いに来るところが、何というか、こう
⋮⋮いかにも上杉らしい。
あ、それでもやっぱり監督に呼ばれて怒られていやがる。
とはいえそれでも少しの間だけだ。上杉にはこれから二試合の出
場停止という長い罰が待っている。俺と違い怪我もないのに試合に
出られない悔しさを覚えるのはこれからだろう。
試合に出られない焦燥は監督に怒鳴られるより何倍も身に染みる
のだ。
その上杉との会話の、間ずっと俺の右足を診察していた若いドク
ターがほっとしたように大きく息を吐く。
790
﹁うん、確かに打撲の程度は重いが関節や筋肉・腱に特に重大な損
傷はないようだ。もちろん日本へ帰国したらすぐに検査を受けた方
がいいけれど、反則を受けたシーンを見てぞっとしていた立場から
すれば信じられないぐらい軽い症状だよ﹂
そう落ち着いた口調で結果を告げながら、慣れた手つきで素早く
右足をぎっちりとテーピングで固定していく。それが巻き終わると
今度はアイスパックを使っての患部を冷やすアイシングだ。
あ、その冷たさが痛みと暑さにぐてっと脱力していた体をしゃん
とさせるぐらい心地いい。
こちらもよく冷やされているスポーツドリンクをぐいっとばかり
に飲み干すと、ようやく人心地がついた。
足やほかの部分の痛みも疲労も無視できる程度になり、汗で張り
付くユニフォームがべたついて嫌だなと気になるぐらいにまで落ち
着くと、改めて自分と上杉が退いた後のピッチ上へと目を移す。
︱︱え? いつの間に同点に追いつかれてんの?
◇ ◇ ◇
アシカの負傷退場と上杉への厳しすぎるレッドカード。
不公平だと僕達日本代表は、皆が腹に熱く煮えたぎる物を飲み込
んでプレイしてるっす。
不満を表面上抑え込んだだけなので、どうしても普段より集中が
乱れ行動が雑になってしまうんだよな。
それはアシカの後を継いでゲームメイカーを託された僕も例外で
はないっす。いや、同じタイプでポジションも被るだけに一つ間違
えれば、アシカの代わりに僕があの毒蛇の標的にされていてもなん
791
らおかしくはなかったはずだ。それだけに僕の感じる怒りと苛立ち
は、まるで自分の事のように思えて人一倍っすよ。
それにしても、この状況になってからゲームの組み立てを任され
るのもかなり辛いっすね。
アシカが倒れた後、上杉までレッドカードで一発退場して一人少
ない状況になってしまった。それだけでもかなりの痛手っすよね?
それなのにこっちが審判に抗議しようとしている間にサウジはア
シカがピッチから去ったと同時に、審判の笛を要求してさっさとリ
スタートするとまだ状況を把握していない日本のゴールを陥れてい
るのだ。
その一連の流れもかなり酷かったっす。
顔を押さえて倒れていたはずの毒蛇がいつのまにか立ち上がり、
セットされていたボールをいきなり日本のゴール前に放り込んだの
だ。
え? 確か日本ボールからじゃなかったのか?
そんな油断とも言えない空気があった。こっちはまだジャッジが
納得いかないと審判に食い下がっている奴、新しく入ってきたボラ
ンチからの指示を受けている奴、上杉が消えた攻撃をどうするか相
談している奴らに、あれだけ痛がっていたにもかかわらずキックす
る段になると平然と立ち上がった毒蛇にあきれる奴とまるでバラバ
ラだったっす。
そんな状況でいつリスタートしたか判らない内に、敵が急なロン
グパスからのカウンター攻撃を仕掛けてきたのだ。日本の守備が動
揺で意思統一ができなくても、まあ仕方がなかったのかもしれない
っす。
サウジのエースであるモハメド・ジャバーの本領発揮と言える、
後方からのロングボールをポスト役からのリターンパスで落しても
792
らってダイレクトで見事にゴールに叩き込む得意の得点パターン。
これまでの予選で猛威を振るい、今日の試合でもずっと警戒してこ
こまでは封じ込めてきたプレイっすよ。
それがこの場で炸裂してしまった。
確かに彼の動きは洗練されていて見事だったかもしれない。だが
その前段階がおかしすぎるっすよ。
日本チームの全員で、ちょっと待ってくださいよ、今のゴールは
無効でしょう? ファールされたのはこっちっすよ! と文句を言
ってみたものの、最後に反則をとられたのは上杉になっているので
サウジボールから再開して問題ないという解釈らしいっす。確かル
ール上は日本ボールの再開じゃないとおかしいはずだが、抗議しよ
うにも言語が判らないしピッチには通訳もいない。結局サウジの同
点ゴールは取り消されなかったっす。
この審判、本気でサウジから幾らかもらってるんじゃないっすか
ね?
アウェーで同点、しかもこっちが一人少なく向こうのファールは
ほとんど取ってくれない。
ピッチは馴染まない荒れた芝で、気候は相手の生まれた砂漠周辺
の乾いた焼けるような暑さっす。
日本は守備には向かないメンバーで環境に慣れたホーム側のサウ
ジアラビア猛攻を受けているっていう、マイナス面しか残っていな
い最悪の状況だ。
しかも、俺にマークについたのが⋮⋮五番をつけた通称﹁砂漠の
毒蛇﹂って気取った二つ名を持った潰し屋っす。アシカみたいに怪
我したくないからこいつのラフプレイには注意が必要だとすると、
それをかいくぐるのにも幾重にも手間がかかる。やっぱりかなり厳
しくなるっすねー。
793
ま、これからゲームを立て直して勝ち越すのはさすがに高望みが
過ぎるから、ドローを狙って時間稼ぎをするしかないっすけど⋮⋮。
スコアボードに表示された残り時間を確認する。
ロスタイムも入れると後十分以上っすか、試合前の予想以上に随
分とハードになっちまったもんすね。
額からとめどなく流れる汗を拭いつつ、早く時間が過ぎないっす
かねーと呟いた。
◇ ◇ ◇
﹁んーもー、同点になっちゃったよ!﹂
﹁速輝があんなに頑張ってリードしていたのに⋮⋮﹂
日本のどこかではまた二人の女性がテレビを見ながら騒いでいた。
年長の女性は頭に冷却シートを張ってぐったりと椅子に腰かけてい
るが、どうやら具合は観戦できるぐらいには回復したようだ。手に
したカップから紅茶を一口飲んでは残念そうに呟いている。
自分の息子が試合から退場したせいか、物理的に頭が冷えたから
か日本の逆境にも意外と冷静に観戦している。
むしろ眼鏡をかけた小柄な少女の方が不安気にそわそわしている。
﹁んーと、このままなんとか引き分けで終わってくれないですかね
ぇ﹂
﹁きっと大丈夫よ真ちゃん。もうロスタイムに入っているし、たぶ
んこれがサウジにとっても最後の攻撃のはずよ﹂
真と呼ばれた少女は童顔をさらに幼く見せるほっとした表情で眼
鏡を拭う。それをちょこんとかけ直すと両手を握りしめて力強く頷
いた。
794
﹁それなら安心ですね! いわゆる﹁負ける確率なんて計算上はゼ
ロに等しい﹂っていう奴ですね!﹂
﹁⋮⋮それはちょっと違うかも﹂
そんなまたもやフラグを立ててしまったような二人の会話をよそ
に、テレビ画面の中ではサウジチームが日本のゴールへ向かって襲
いかかっていた。
この試合の日本の結果からすると彼女達の﹁大丈夫だ﹂という言
葉はあまり当てにならないようだった。
サウジアラビア対日本戦は最終スコアが三対二とホームであるサ
ウジアラビアが逆転勝利を飾り、この時初めてグループリーグの順
位でもサウジアラビアが日本を抜いて首位に立ったのである。
795
第四十一話 懐かしい顔に癒されよう
いつもの朝練をする公園で俺は軽く体をほぐしていた。
波乱のサウジ戦を経て帰国して三日目、昨日になってやっと足を
ギブスのようにガチガチに固めていたテーピングを外されたのだ。
思い切り体を動かしたくてうずうずする所だが、検査から治療まで
担当してくれた有名なスポーツドクターから﹁無理して悪化したら、
残りのアジア予選の出場にドクターストップをかけるよ﹂と穏やか
ながら太い釘を刺されてしまっては仕方がない。
この公園までもいつものジョギングではなく、散歩ぐらいの足慣
らしである。
今までの習慣にしていたトレーニングをこれだけ休んだのは、二
周目の生活になってからは初めてだ。さすがに足の筋肉なんかが衰
えてないかが気にかかる。
通常の倍の時間をかける気持ちでじっくりと体の︱︱特に右足の
︱︱筋肉を伸ばしていく。
おお、手順を踏んで柔軟をしていくうちに右足に音を立てて新鮮
な血液が流れ込んでいくように錯覚する。テーピングをしている間
はどこかぼんやりして焦点の定まっていなかった神経が、じんわり
と暖められると同時に薄皮を剥がれたようにシャープに鋭く研がれ
ていく。
うう、早く全力で走ったりプレイをしたいな。担当医の相当に脅
しの入った言葉がなければ俺は子犬のようにサッカーボールをドリ
ブルしながらはしゃいでしまったかもしれない。鎖を解かれた奴隷
みたいにようやく自由に動けるようになったのに、まだフルパワー
で動けないのがもどかしい。
796
ま、それでもこうしてボールを蹴れるようになっただけでも有り
難いんだけどな。足を固められて歩くのも大変だったのに比べれば
天と地の差だ。
ボールを軽く空に蹴り上げて、右足首で挟むようにして受け止め
る。よし、ボールから離れていたブランクは感じないし、右足もこ
のぐらいの動きや衝撃では全く痛みも違和感もない。
トラップする際の柔らかく受ける感触は、サウジ戦でのピッチ上
で感じた好調時と比べても遜色ないはずだ。
ボールをコントロールするコツは忘れてないようだと、ほっと安
堵の息を吐いているとそこに懐かしい声がかけられた。
﹁良かったな、右足は順調に回復しているみたいじゃないか﹂
﹁キャプテン!﹂
姿を現したのは小学生時代に入団した当時、矢張チームのキャプ
テンを務めていた少年だ。残念ながら俺や山下先輩といったユース
組とは違い、高校サッカーを選んだので俺達とは進路や環境が違っ
てしまっている。それでもキャプテンの頼りになるその人柄からか
俺や昔のチームメイトは未だに時々だがこの人と連絡を取っていた。
最後は確か俺が代表に選出された際にお祝いのメールをもらった
時だったよな。だけど、昔に一緒に練習した場所とはいえこんな早
朝に顔を合わせるとは思っていなかったぞ。
しかし、ちょっと会わない内に随分と背が高くなっているな。俺
も成長期のはずだが、小学生の頃からの身長差が縮まるどころか広
がってしまったようにさえ感じる。
そのキャプテンを見上げながら挨拶をする。 ﹁お久しぶりですね、今日はどうしてここに?﹂
﹁うん、久しぶり。たまたまここを通りかかったら、見た顔がボー
ルを蹴ってたんで差し入れにね﹂
797
手にしたスポーツドリンクのペットボトルをほいっと軽く放り投
げる。こうされると礼儀上断ろうとするとボトルが地面に落ちてし
まうので、受け取らないわけにはいかないのだ。
キャッチしたのは俺が一番好んで飲んでいるスポーツドリンクだ
った。キンキンに冷えた感触といい、この朝早い時間帯といい出会
ったのは明らかに偶然ではないだろうに、それで押し通すつもりな
んだろうな。
この先輩はわざわざ自分が時間を作ってやってきたとか負担に思
われたくないタイプだ、ならば素直に好意を受け取って話を合わせ
るべきだろう。
ドリンクに対して俺がお礼を述べ、お互いにドリンクを一口飲ん
で口を湿らせるとキャプテンが話しかける。
﹁サウジ戦は大変だったみたいだけど、もう右足の負傷は回復した
のかい?﹂
﹁ええ、まあテーピングを外したばかりで今はまだ六割程度ですか
ね。もう二・三日すると八割方オッケーなんですが﹂
へえとキャプテンは目を丸くする。彼の驚いた表情は結構レアだ、
どんな厳しい試合中でも落ち着いている印象が強かったからな。
﹁テレビで見たときはもっと大事になるかと心配してたけど、予想
以上に順調な回復ぶりに安心したよ﹂
﹁あ、やっぱり見られてましたか。ご心配かけました﹂
﹁後輩が二人も代表に選ばれて試合に出てるんだ、そりゃテレビ観
戦でぐらいは応援するさ⋮⋮ちょっと残念な結果になってしまった
けれどね﹂
確かにあのサウジ戦は残念というしかない結果だった。負けた事
798
より、俺の負傷と上杉のレッドカードによる出場停止が痛い。山形
監督は顔を引きつらせながら﹁協会を通じてFIFAに抗議文を提
出する﹂と言っていたが、その抗議がどこまで上手くいくかは不明
だ。下手したらそのまま審判の判定が通ってしまうという最悪の事
態さえ覚悟しておかねばならない。
﹁それに結構マスコミや周りからも叩かれちゃってるみたいだね﹂
﹁ええ、確か谷間の世代どころか﹁カルロスのいないアンダー十五
は海溝の底世代﹂でしたか。それにあれだけ反則なんかやられたの
に﹁逆境を覆せないひ弱な選手達﹂呼ばわりまでされちゃいました
からね。またその報道を鵜呑みにするクラスメートとかもいますし﹂
そこまで言われたら怒りよりも乾いた笑いしか出てこない。しか
もその海溝の底世代という命名者が以前に率いてた前監督の松永だ
と聞いた時は﹁ギャグのつもりなのか?﹂とすら考えてしまった。
そんな偏った報道で俺達代表を﹁日本の代表のくせに情けない﹂
と考える連中もいるのだ。それが知らない人達ならともかく一緒の
クラスにいると面倒である。試合をテレビ中継で観戦してアウェー
の笛と反則された俺達に同情する一派と﹁代表ならもっとしっかり
しろよ﹂とマスコミの︱︱特に松永前監督のコラムでは強く非難さ
れていた︱︱報道の尻馬にのって現代表を叩く連中とで俺を中心に
してクラスが分裂の危機に陥っている。
本当にもう勘弁してほしい。俺をサッカーに集中させてもらえな
いかな。
学校関係で唯一良かったと思えるのは、サウジ戦を見ていたとい
うサッカー部の連中が審判に憤って、俺との間に合った微妙な空気
に雪解けの気配があるくらいか。
﹁一回の敗戦や予選突破が難しくなっただけで掌を返すような記者
や人間は、あんまり信用できないと判別できただけでも収穫と思う
799
しかないな﹂
﹁そうとでも思わないとやってられないですね﹂
苦笑いしてもう一口ドリンクから水分を補給する。
﹁でもマスコミが掌を返すのが速いってのはこっちも利用できるん
じゃないか?﹂
﹁は?﹂
﹁つまりお前達が予選突破して世界大会でいい結果を出せば、この
サウジアラビア戦で負けた事もきっとマスコミや記者は忘れて褒め
てくれるって事じゃないか﹂
柔らかな表情でポジティブな発言をするキャプテン。この人にと
ってはまだ俺は小さな後輩でしかないのかもしれないな。とっくに
精神年齢は超えているはずなのになぜかこのキャプテンにはかなわ
ないなぁと感じる。
﹁そうですね、世界大会で優勝してお前等は海溝の底と世界一高い
エベレストの山頂を見間違えたんだと思い知らせてやりましょうか﹂
ぐいっとペットボトルの残りを飲み干してキャプテンに感謝する。
これは今まで飲んだドリンクの中でも一番胸の中をスッキリさせて
くれた。
そうだよな、俺は何を迷っていたんだろう。雑音を無視して試合
に勝つことだけを考えればいいんだ。そうすれば批判する奴らは勝
手にいなくなる。俺が戦うべきなのはピッチ上の敵だけでいいんだ。
頭では判ってはいたつもりだが、信用している人にいわれるとま
た説得力が違うものだな。一瞬で脳内コンピュータが学校やマスコ
ミで囁かれている雑音の情報価値を暴落させて意識にのぼらないよ
うに操作したようである。今ではなぜあの程度をくよくよ考えてい
800
たのか判らないほど、彼らから聞いた話も遠い過去のように忘れて
しまった。
﹁わざわざここまで元気付けに来てくれたんですね。ありがとうご
ざいますキャプテン﹂
自分で言うのもなんだが、珍しく俺からの率直なお礼にかえって
キャプテンは面食らったようだ。ぱたぱたと手を顔の前で左右に動
かし﹁いや、だから偶然見かけただけだって。それにもう僕はキャ
プテンじゃないだろう﹂と謙遜する。
﹁でもこのスポーツドリンクは俺が一番好きな種類のですが、これ
はこの付近の自販機では売ってないんですよ。それがこんなに冷え
ているってことはたぶんキャプテンの家から準備してきたんでしょ
う? それにこの時間帯にここら辺を通りかかるなら、俺が中学に
入ってからこれまでの朝練で一回ぐらいはキャプテンとも顔を会わ
せてますよ﹂
名探偵ではないが、俺でも推理できる程度のお節介だ。
観念したのか両手を上げて﹁降参だ﹂と頬を赤くしているキャプ
テンにさらに俺は追い打ちをかける。
﹁それに俺がキャプテンと呼ぶのはあなただけです。矢張でキャプ
テンを継いだのはあの人ですが俺はずっと﹁山下先輩﹂で通しまし
たし、今の代表の主将は真田キャプテンと呼んでいます。
何もつけないでキャプテンとだけ呼ぶのは、たぶんこれから先もず
っとあなただけですよキャプテン﹂
俺からの言葉に上げていた両手を下ろして、しばらく頬をかいて
いたキャプテンが﹁それは光栄だね﹂とようやく返答した。
801
﹁でも一つだけ確認しておきたいんだが﹂
﹁なんですか?﹂
﹁もしかして僕の名前を覚えてないからキャプテンと呼んでいると
かじゃないよな?﹂
﹁あ、すいません。もう学校に行く時間です。足を怪我しているか
ら早めに登校しなきゃ。じゃ、キャプテンまた今度!﹂
﹁おい、足利! ちょっと待てよ! お前本気で僕の名前忘れたわ
けじゃないよな?﹂
うん、今日の朝練は右足の回復具合も確認できたし、懐かしい顔
を見て精神的にもリフレッシュできた。朝からこんな調子だと良い
一日になりそうな気がするな。
802
第四十二話 テレビを見ながら応援しよう
﹁うう、なんだかドキドキするな﹂
﹁んーもう、今日はアシカが出るんじゃないから緊張しても仕方が
ないのに﹂
﹁まあそうだけど、お友達が頑張っているのなら落ち着かないのも
当然よ。私も速輝が試合に出場している時はどんなに心配している
ことか﹂
俺がテレビで日本代表がヨルダン代表と並んで入場しているのを
見ながら呟くと、同じリビングにいる二人の女性から激しくツッコ
ミが入った。
うん、そう言えば俺はサッカーの試合をこの母と真の二人と一緒
に観戦するのは初めてな気がする。
これまではほとんど俺は自分が試合に出て応援してもらっている
立場だったからなぁ。
それより開始はまだかと無意識の内に貧乏揺すりをしかけて慌て
て止める。おかしい、俺はこんな癖なんかもっていなかったはずな
のに。そんなそわそわしている俺をよそに、二人の女性陣は俺が出
場していないからなのかリラックスムードで、ジュースにポテチも
準備してまるでレンタルDVDの鑑賞でもするような雰囲気である。
応援する立場より自分がやる方がずっと気が楽だって話は本当だ。
何も手出しができないのが一層焦りを募らせてしまう。しかも俺の
場合は怪我からの回復は順調で、痛み止めさえ打てばこのヨルダン
のアウェーにも強行出場は可能だとまで診断されたのだ。つい﹁出
てみようか﹂と思っても仕方がないだろう。
山形監督やユースの関係者に母など知り合いの全員から﹁将来を
803
棒に振るつもりか﹂と止められたのでしぶしぶ諦めたのだが。
今日ぐらいは試合を休んで怪我の治療を優先した方が理に適って
はいると、判ってはいても感情面で納得がいかない。試合に出てる
仲間達がなんだか自分をおいて先に進んでいるようで、羨ましいし
ほんのちょっぴり妬ましい。
でも一回目に選手生命が終わった後は、ずっとこんなもやもやす
るすっきりしない気分が続いたんだよなぁ。あれに比べればもうす
ぐ怪我も完治して試合に出られる俺が文句を言える義理ではない。
素直に代表のチームメイトを応援する事に専念しようか。
﹁頑張れよ山下先輩! 明智に真田キャプテンも、それに島津⋮⋮
は出てないな﹂
﹁あ、島津ってのはいつもスタメンで出てる右ウイングの人だね﹂
﹁いや、右のサイドバックだが⋮⋮﹂
真や母の﹁冗談でしょう?﹂という声に﹁いや本当にDFなんだ
って﹂と答えながら島津がスタメン落ちした理由を考える。
やはりサウジ戦での低調なパフォーマンスが不満を持たれたんだ
ろうな。後半からの出場にも関わらず、ほとんど試合にとけ込むこ
となく逆転負けしたのだから印象が悪いんだろう。
でも、あの一般人がウイングと間違うようなサイドバックを投入
した後に俺と上杉の退場だ。急遽守備的に戦術変更することとなっ
て、島津の持ち味が全て消される展開だったのは不運だったとしか
言いようがない。
島津が悪いんじゃなく、彼を入れるタイミングとその後の作戦が
ちぐはぐだったせいでプレイの内容が悪くなってしまったと俺なん
かは思うけどな。 ﹁何にしろあいつらはやってくれるはずだ。ホームとは言え四対一
804
のスコアで圧倒したヨルダンが相手だ、油断したりエースストライ
カーがいなくなったり、ゲームメイカーが怪我でいなかったり、ア
ウェーの判定に泣いたりしなければ勝てる!﹂
﹁⋮⋮んーアシカの方がサッカーは詳しいんだろうけど、それって
結構前提条件が多くない? しかも怪我したゲームメイカーって今
ここにいるよね﹂
顎に人差し指を当てて真は小首を傾げる。
う、そうかな? 俺としては不安材料を払拭したつもりで、妙な
フラグを立てたつもりはなかったんだが。
ま、まあこれも外から代表の試合を客観的に見るいい機会だとポ
ジティブに捉えよう。ベンチを温めている場合は自分が出た場合は
どう動くか、敵の穴はどこかとリアルタイムのゲーム展開に頭を使
ってしまって、こんな場合でもないと冷静にチーム全体の動きを把
握しながらの観戦はできないからな。
将棋なんかでもプロの場合は実際に指しているのと、その指した
将棋をまたその後にじっくりと研究するのは全く別物なそうだが、
これもその感覚に近いだろう。
俺一人がドキドキしている部屋でテレビの中で試合開始の笛が響
き、キックオフされた。
さあ、皆。頑張ってくれよ! あ、でも俺がいなくても大丈夫だ
と安心されるのもマズいし、ちょっと﹁アシカがいないと大変だっ
たな﹂とチーム全体が苦戦した上での辛勝というのが俺にとっては
一番ありがたいかなぁ。
◇ ◇ ◇
﹁さてここまでの試合展開はいかがですか、松永さん﹂
805
﹁そうですね。決して日本が調子がいい訳ではないのですが、ヨル
ダンのミスに助けられていますね﹂
﹁なるほど、相変わらず辛口で厳しいご意見です。しかし、一点リ
ードして残り時間もわずか、このままリードを守って勝利できれば、
前回のサウジアラビア戦から引きずっている悪い流れが断ち切れる
でしょう。頑張れヤングジャパン!﹂
試合の最後近くまできたが、それにしてもテレビのアナウンサー
と解説者の温度差が酷い。アナウンサーは一生懸命日本代表を褒め
て盛り上げようとしているが、解説者の松永が日本とヨルダンの両
代表に対してネガティブな言葉しか言わない。
この耳障りで嫌みな奴は誰かと思えば前代表監督の松永じゃない
か。あんたサッカー誌に連載持っていたりテレビの解説やったり意
外と多芸だな。でも考えてみれば日本代表メンバーのほとんども知
っているし、相手チームの情報も持っているはずだから解説として
は最適なはずなんだよな⋮⋮性格を除けば。
それにしても、もしかしてこれまでの日本代表の試合中継も全部
こいつが解説してたんじゃないだろうな。もしそうなら代表チーム
が叩かれるのも、松永によって視聴者へのファーストインプレッシ
ョンが悪く操作されているって部分も多そうだ。
とにかく実況席の不協和音以外は試合は滞りなく進んでいた。一
部審判の笛に﹁やっぱりアウェーだなぁ﹂と感じる場面もあったが、
それでもサウジアラビア戦よりはずっとクリーンな試合展開だ。
役に立たないと俺が馬鹿にしていた日本のサッカー協会からの抗
議が意外と効果があったのかもしれないな。まあ、あの試合が没収
試合の上で再試合になったり、上杉の処分が取り消されるとまでは
いかなくても、これからのアウェーの地で汚い反則を受ける可能性
が減ったのだけでも歓迎すべき事態である。
806
おっと話が逸れたな、今はヨルダン戦についてだ。
ここまでのスコアは一対ゼロで日本がリードしている。前半に明
智のフリーキックが壁に当たって跳ね返った所を、山下先輩がすか
さず詰めてシュート。貴重な先制点をもぎ取った。山下先輩って俺
がいなくても点が取れたんだ⋮⋮いや馬鹿にしていたつもりはない
がちょっと面白くない。
その後は両チームとも一進一退の攻防だ。手前味噌になるが俺が
いないせいで代表の中盤に柔軟性が失われているな。明智がずっと
攻撃的MFのトップ下に居座っているからマークが厳しいのだ。俺
がいれば二人でポジションチェンジを繰り返してマークを分散させ
られるのだが⋮⋮。
つい自分がピッチにいる想像をしては右足に触れてしまう。そこ
には随分と早く回復し、普通の湿布でカバーできるまでの小ささに
なった毒蛇に蹴られた痕と、改めて真からプレゼントされたミサン
ガがある。
︱︱もうちょっとだけ我慢しなきゃな。 ◇ ◇ ◇
﹁あーっと、馬場選手のシュートはバーの上だ。日本、ロスタイム
を考えてもおそらく最後の攻撃だったかもしれませんが、ヨルダン
のゴールを割って勝ち越すことはできませんでした!﹂
﹁結局はセットプレイからの一点止まりでしたか。攻撃的なチーム
と山形監督は自信を見せていましたが、少々期待外れですね﹂
﹁ですが、試合終了のホイッスルは鳴っていません。まだ可能性を
信じて頑張れ日本!﹂
﹁ロスタイム突入間際に同点に追いつかれたのが痛かったですね。
日本は高速カウンターから崩されましたが、一点リードのアウェー
の終了直前では別に無理して攻める必然性はなかったはずです。こ
れは結果論ではなく、チームとしての意志が統一されていなかった
807
のが原因ですね。これではこの試合だけでなく、続く予選の残りも
厳しいですよ﹂
相変わらず微妙に噛み合ってない実況コンビだが、こっちはそれ
に構っている暇はない。
試合の終了直前にヨルダンからゴールを奪われて同点に追いつか
れてしまったのだ。
何やっているんだよみんな、頼むから後一点取って勝ってくれ。
そうじゃないと日本の自力での予選突破がなくなってしまう。そん
な事になってしまえば、俺が復帰してからどんなに頑張っても無駄
になってしまうかもしれないんだ。
試合前に﹁俺の存在感が薄れると嫌だから、少しぐらいは苦戦し
てくれればいいのに﹂と油断しきっていたことは謝る。だからどう
にかしてヨルダンから白星を挙げてほしい︱︱。
だが画面の向こうから希望を閉ざす無情の笛がなってしまった。
一対一のドロー。日本代表にとっては痛すぎる、ほとんど負けに
匹敵するダメージの引き分けである。
ちょうどその予選状況の厳しくなった解説をテレビでやってくれ
た。
﹁これで四試合を消化した日本の勝ち点は七で、現在グループ首位
のサウジアラビアはまだ三試合で勝ち点九です。二時間後に行われ
るサウジの試合は行われますが、その試合を含めサウジが最終戦の
日本と当たるまでに最低一試合は引き分けるか負けてくれないと、
日本の自力突破の可能性が消滅してしまう事となりました!﹂
アナウンサーの言葉を最後に試合後のインタビューも待たずにテ
レビを消すと、俺は無言で立ち上がった。うなだれたあいつらの姿
なんか見たくない。
808
﹁ど、どうしたのアシカ﹂
﹁ちょっと走ってくる﹂
﹁もう夜遅いし、怪我にも良くないわよ﹂
﹁ごめん、でも少し体を動かさないと眠れそうにない﹂
そう言い捨てて玄関へ向かう。
ちぇっ怪我した時と同じぐらい胸が痛い。今だけはボールを蹴っ
ても笑えそうにないな。
809
第四十三話 やる気を取り戻そう
﹁はあ、学校に行くのが面倒になってきたな﹂
代表チームがアウェーでのヨルダン戦に引き分けた翌朝、登校す
るための身支度をしながらもついため息混じりのぼやきが漏れる。
朝練は怪我の影響もなくなってきているのでほとんどいつもの練習
メニューに近いものになっているから、一回シャワーで汗を流して
から学生服に着替えないと汗臭いのだ。そのためにいつもより少し
だけ時間がかかる。
もそもそとシャツに袖を通し、教室で交わされる会話を予想して
みる。
﹁どうせまた昨夜のヨルダン戦についていろいろ言われるんだろう
なぁ﹂
これまでも学校は面倒だと思った事はあったが、それは小学校時
代に感じた﹁以前やったことをもう一度やる﹂という繰り返しが面
倒だっただけで、今回のように人間関係がやりにくいと感じるのと
はちょっと違う。
でもこんな特殊な事情を人に相談する訳にもいかないしな。
キャプテンと久しぶりに会った朝はあんなにすっきりしていたの
に、たった数日でえらい違いだ。
せめて母に心配をかけるわけにはいかないと、冷たい水で顔を何
度も洗って表情筋を柔らかくマッサージして笑顔を鏡に映す。よし、
これでいつも通りの表情だな。
810
﹁おはよう、母さん﹂
﹁あら、速輝おはよう﹂
うん、テーブルに着く前ににこやかに挨拶ができた。母も何一つ
俺の態度がおかしいと感じてはいないみたいだな。安心して果汁百
パーセントのジュースに手を伸ばす。
﹁あ、速輝が眉の間にしわを作っている原因を解消できる記事が朝
刊に載ってたわよ﹂
うわ、油断していたせいで危うく口にしていたグレープフルーツ
ジュースを危うく吹き出す所だったじゃないか!
ごほごほとむせながら涙目で睨むと、母は配膳の手を休めて﹁何
を慌ててるのかしら﹂と首を傾げている。いかん、俺が表情を取り
繕っていたのに母を欺くどころか、何でもない様子の演技していた
のに気付かれさえしなかったようだ。
﹁ほら、スポーツ面の日本対ヨルダン戦の隣に小さいけど中国対サ
ウジアラビアの結果が速報で入っているわね﹂
﹁え?﹂
慌ててその記事が載っているスポーツ面を探してめくる。すると
そこにあったのは嬉しい記事だ。
﹁日本と同グループの中国対サウジアラビアが一対一のドローで終
わった、か。終始中国に押されていたサウジだが、得意のカウンタ
ーから先制点。しかしホームの大声援を背に中国は激しいプレスと
攻撃を続け、エースである楊のヘッドで同点に追いついた、だと。
なんだか日本のヨルダン戦と似た展開だったんだなぁ﹂
811
読んでいる内にだんだんと体が熱くなっていく。これは練習でほ
てった熱さの残滓でも初夏の気候のせいでもない、自分の内側にあ
る萎えかかっていたやる気という炎が大きくなったのだ。
﹁これで勝ち点差が三、得失点差はまだ日本が上だ。次の中国戦と
サウジの直接対決で勝てば逆転できる!﹂
そう、これで自力でグループ首位になれる目が出てきたのだ。さ
っきまでの無力感と眠気が一気に吹き飛んだ。くそ、しまったな朝
練を流すんじゃなくてもっと気合い入れてやるべきだった。
現金かもしれないが、これまではどうしようもなかった運命が、
自身の手でどうにかできる可能性がでてくるとなると心構えや見え
る景色でさえも違っていく。
ああ、俺は本当に馬鹿だ。それも重度のサッカー馬鹿だ。自分の
力で予選突破できるかもと想像しただけでこんなに力が湧いてくる。
学校や人間関係が煩わしいとかそんなのは些事じゃないかと全然気
にもならなくなっていく。
俺はまだ高いレベルでのサッカーに参加できる権利が残っている
んだ。いちいち細かいことを気にして時間を無駄にはできない。
絶対に予選の残りである中国とサウジアラビアの二戦は勝利して、
世界へと羽ばたくんだ。その為にはまずやるべき事は一つしかない。
﹁母さん、朝ご飯お代わり!﹂
腹が減っては戦ができないよな。
◇ ◇ ◇
﹁こんにちは!﹂
812
﹁お、アシカ久しぶりじゃないか。もう練習の許可がでたのか?﹂
俺がユースへ顔を出すとコーチの一人が声をかけてくる。俺はサ
ウジ戦以降は通院と軽いリハビリのような練習メニューのためにこ
っちの方の練習には参加していなかった。まあ怪我の具合は連絡し
ていたから大した事はないと把握しているだろうが、やはり顔を見
ると安心できるのかこのコーチもほっとした表情をしている。
ああ、そうか。ユースのスタッフならあの試合を見ていた人も多
いだろうし、こんなにも周りの人やスタッフに心配をかけていたん
だな。改めてリハビリの最中は自分の怪我の事しか意識に上らなか
った自分の薄情さが浮き彫りになる。
﹁ええ、思ったより経過が良好でほとんどの練習には参加していい
と言われています﹂
これは本当だ。特に瞬発力を使うトレーニングだけは、一応大事
を取って様子を見ながらやった方がいいと回数制限をされているが、
他のランニングや軽いコンタクトの練習試合までなら問題ないとの
見解だ。もちろん俺もドクターのその見解を支持する。つまり本格
的な練習の解禁だからだ。
担当医の今週末までに間に合わせるという言葉が信じられる回復
具合である。 ﹁まあアシカは練習に熱心だからサボるとかいう心配よりも、いき
なりハードにやりすぎて怪我を悪化させる方が怖い。無理だけはす
るんじゃないぞ﹂
﹁了解です。怪我からの復帰メニューについてはエキスパートです
からね、俺は﹂
﹁嘘つけ。お前は大きい怪我したの今回が初めてだろうが﹂
﹁え、ああそうでしたね﹂
813
いかん、また練習ができると舞い上がってちょっと緊張感が薄れ
ていたようだ。しっかりと気を引き締め直さないと、また練習でも
怪我しかねない。プレイ中の怪我は事故であり、サウジ戦のような
故意のラフプレイ以外では仕方のない側面もあるが、練習での故障
に関してはしっかりとアップをする事と違和感があった場合はすぐ
フィジカルコーチに相談することでかなりの確率で防げる。
逆に言えばそういった設備︱︱特にフィジカルコーチやスポーツ
専門医︱︱を有し、すぐに相談できるのがユースの強みの一つだろ
う。普通の中学などでは例えスポーツに力を入れている私立でもこ
うはいかない。少しぐらいの痛みや違和感なら、たぶん大丈夫だろ
う⋮⋮と素人考えで無理をしてしまうのがまだ一般的だ。だから俺
の今の環境は凄く恵まれているんだよな。うん、これで頑張らなか
ったら嘘だ。
昨日の朝刊でサウジが中国と引き分けて日本に自力突破の可能性
が出たと確認してから、ずっと俺のテンションはこんな風に高い。
今まで軽く考えて流していたことでさえモチベーションをアップ
させる材料にしている。
早く戦いたくて、代表のチームメイトに会いたくて、何よりもサ
ッカーがしたくてたまらない。
足の怪我の影響もあり、体の調子は万全とは言えないが、精神状
態はもう準備万端だ。
ユースのロッカールームで手早く着替えなどの練習の準備をすま
せると、すぐにピッチへ駆け出しては声をかけてくる知り合いと挨
拶をしながらアップを始める。
そこに俺にはお馴染みになった声が弾むように届いた。
﹁アシカ、もう復帰できるんだな!?﹂
814
山下先輩は慌ててこっちに向かってきたのか少し呼吸が荒い。だ
が疲れを見せずに嬉しそうに俺の肩を叩いてくる。得点した後に叩
かれるのと同じくらいの強さなのだが、いつもはそれが痛くて逃げ
回っているにもかかわらず今日に限ってはなぜか心地よい⋮⋮あく
まで今日だけだからな? 変な性癖に目覚めた訳じゃないぞ。
﹁ええ、もう八割以上オーケーです。週末の中国戦には間に合わせ
ますよ﹂
﹁うん、そうかぁ。うん、うん。いや助かるぜ﹂
バシバシと背中を叩き続ける山下先輩にちょっとだけ嬉しく、そ
して鬱陶しく感じる。
﹁じゃあ、ちょっと別メニューがあるんで﹂
﹁おう、無理すんじゃねーぞ!﹂
誰も彼もが俺に﹁無理するな﹂とアドバイスしてくる。そんなに
無鉄砲に見えるのかな。ならば少しは自重しないと。そんな事を思
いながらゆっくりとしたスピードで足下のボールをドリブルしなが
ら移動する。
うん、悪くない感触だ。サウジの一戦は酷い結果に終わってしま
ったが、あの逆境が俺の中に何かこれまでとは違った感覚も残して
くれていた。
ボールをタッチする場合、これまではボールの表面を触っていた
のだがサウジ戦以降はボールの中心︱︱コアとでも言うべき部分︱
︱を感じたボールタッチが出来ているのだ。今みたいにゆったりと
したドリブルでもボールを蹴って動かしているのではなく、まるで
ボールの芯を足で掴んで移動させているようなしっかりと安定した
ボールコントロールができる技術である。
815
うん、確かに悪くない。
︱︱この感覚を試合で試してみたい。ああ早く中国戦がこないも
のか︱︱
今の俺は間違いなくいつものボールを持ったにへらという表情よ
りも、ずっと凶暴な笑みを浮かべているという自覚があった。
816
第四十四話 切り札を使うなら今しかない
﹁よーし、今日から復帰した奴もいるし、まずここまでの状況を整
理しておくぞ。俺達日本は今勝ち点七でグループ二位だ。アウェー
の直接対決で日本に向かってあれだけやらかしたサウジが勝ち点十
でなぜか今一位になっている。前回のサウジ対中国でサウジが勝っ
てたら自力首位が無くなっていたが、楊の得点で中国がなんとかド
ローに持ち込んで俺達に可能性が残った。と言うわけでまずは、と
りあえず礼を言っておこう、シェイシェイ! ありがとう中国!﹂
﹁あ、ありがとう中国﹂
少しだけ古ぼけた感のあるロッカールームに感謝の声が響く。
なんで中国との試合をする直前のこのタイミングで対戦する相手
に感謝するのかが意味不明なのか、ハイテンションな山形監督に続
いて代表メンバーが出したのはやや不明瞭な声だった。馬鹿、もし
中国がサウジに負けていればこれから先の戦いが無意味なものにな
りかねなかったんだぞと山形は内心で憤る。こんな時は多少馬鹿に
なってでも流れに乗ってハイになった方がいい目が出るのだ。 まあまだ子供達の彼らに対しノリが悪いぞと贅沢は言うまい。と
にかくこれで試合前の礼儀は尽くしたつもりだ、後はただ全力で戦
うのみである。
﹁基本的な戦い方は日本で戦った中国戦と同じでいい。少なくても
向こうはほとんど戦術を変える余裕はないはずだ。つまりあの激し
いプレスをどんどんかけてくる可能性が高い。でもアウェーだから
といって圧力に負けて絶対に守りに入るなよ。サウジはヨルダンと
戦うが、ヨルダンはここまで俺達と引き分けた以外は全敗だ。サウ
ジが星を落とすどころか引き分ける可能性すら低いだろう。つまり
817
俺達は予選突破するには中国を相手に勝たなきゃけない立場に追い
込まれているんだ﹂
そこで言葉を切って山形監督はスタメンを鋭い目で見つめ一人一
人確認していく。選手達もそれに気合いの入った瞳でじっと見つめ
返してくる。
﹁中国は先週の戦いでグループ首位のサウジと引き分けている。エ
ースの楊も調子が良いようだし、油断できる相手ではない。しかも
伝統的にホームの中国や韓国は対日本戦になると実力以上の力を出
すことがあるから、前回勝ったとか格下だなんて意識は捨てろ。こ
っちがチャレンジャーのつもりでがんがん攻めるんだ、いいな?﹂
﹁はい!﹂
今度ははっきりとしたいい返事だ。
先刻も言ったように、この中国戦は負けるのはおろか引き分けさ
えも許されない一戦である。勝たなければアジア予選で敗退し、世
界大会への扉が閉ざされてしまう。グループ二位でも得失点差で世
界大会へ出場できる可能性はゼロではないが、アジア予選のもう片
方のグループも二強が抜け出してマッチレースを繰り広げているら
しい。グループ二位で得失点差で拾われるというシナリオは完全に
運任せ、しかも分が悪い賭けになる。それを期待しては無駄に終わ
るだろう。
もし日本代表チームが予選突破できなければ当然監督である自分
はお払い箱。これまでの協会の責任も全て押し付けられ﹁無能な監
督﹂の烙印を捺されてしまうだろう。そんな経歴を持つ、しかも協
会と折り合いの悪い監督を好んで雇おうとするJのチームはない。
これからの山形のキャリアにも重大な意味を持ってくる、絶対に勝
つしか道はない試合である。
818
勝ちに行くために今回はまた右のサイドバックを島津に入れ替え
た。こいつについてはもう守備では役に立たないのは仕方がないと
割り切っている。その守備においての案山子ぶりはアウェーのサウ
ジ戦で再確認できたが、それでもスタメンに入れて最初からスリー
バックで守ると決めていれば攻撃面では下手なFWよりずっと役に
立つ。島津をスタメンで入れておくと彼がいない場合よりも体感的
にだが平均得点で一点以上のアドバンテージがでるのだ。例えリス
クを背負っても﹁勝つしかない﹂という試合には外せない人材だ。
﹁攻撃は明智をトップ下に据える。両サイドはいつも通りに深く抉
ってからのクロスを上げるよりも、自分でゴールに切れ込めるなら
カットインを優先しろ。ポスト役がいるからとクロスを無理に狙っ
ていつものパターンを変える必要はない。とにかく全員が自分で決
めるという強い気持ちを持って攻めるんだ。シューティングマシン
の上杉がいないからといってシュート総数が減っていたら﹁ワイが
いないとあかんな﹂とあいつに馬鹿にされるぞ。丁寧に攻めるより、
強引にでもゴールを狙え。いいな?﹂
﹁はい!﹂
﹁よし、それじゃあ勝ち点三を取りに行くぞ!﹂
﹁おう!﹂
◇ ◇ ◇
前半が終わり疲れた様子でロッカールームに帰ってくる選手に対
し﹁ご苦労だったな﹂とぴくぴく引きつる顔面の筋肉を押さえなが
らも、山形は余裕を見せようと無理矢理に作った笑顔で出迎えた。
前半のスコアは一対ゼロ、ホームである中国にリードされての折
り返しだ。本来ならば焦りで怒鳴りたいのを意志の力で制御してい
る。
819
唯一の失点は残念ながらコーナーキックからのあの年齢詐称疑惑
のある楊の奴のヘッドだ。先制点を奪われてしまったのは痛いが仕
方のない側面もある。楊に対してだけにはマンマークをつけて警戒
していたのだが、どうしても空中でのヘディング争いとなるとあれ
だけの身長差がある相手を毎回完全に抑え込めと言う方が無理があ
るからだ。
その上に、失点に関してはある程度承知の上の攻撃的なメンバー
構成である。どうしてもスリーバックにすると守備が薄くなるので
点の取り合いになる覚悟していた。そのために失点よりもここまで
攻撃を無得点に抑え込まれているのが予定外であり問題である。
やはり﹁勝つしかない﹂という状況に少し気後れしているのかも
しれんな。特にヨルダン戦から上杉の代わりにスタメン入りしたF
Wに対してそんな感想を持つ。
元々日本はFWが育ちにくいという土壌があるが、なぜかこの年
代ではその問題が特に大きい。なかなか﹁これは﹂という得点力の
あるFWがいないのだ。
また逆説的になるが、もし優秀なFWがいれば前監督もあそこま
でカルロス頼りにならなかっただろうし、山形にしてもいろいろ問
題のある上杉を抜擢しなかっただろう。それにDFながらあそこま
で攻撃的な島津を入れたのも﹁FWが得点できないなら他の奴らに
取らせる﹂という作戦の一環である。
こんな緊迫した試合だからこそ、何も考えずにバンバンシュート
を撃ちまくる物怖じしない上杉がいないと代役を務められる人材が
いないのだ。まあ上杉は居れば居たでかなり面倒な選手ではあるん
だが。 今日の試合で上杉の代わりに投入したFWは長身でヘディングの
強い、前線でボールキープのできるポストプレイヤーだ。もう一人
820
のFWの候補者はどちらかというと最前線で張っているよりも、サ
イドに流れたり中盤に戻ったりする動きの多いセカンドトップっぽ
い特徴を持つ選手だった。
山形は悩んだ末にスタメンにポストプレイヤーを選んだのは、元
の上杉が﹁ワイの仕事場はペナルティエリア内だけや﹂とゴール前
に張り付いていたので、同じようにゴール前のポジションから動か
ないタイプの方が周りとのコンビネーションも取れるだろうとこの
FWに決めたのだ。
新たにスタメンとなったFWもけして悪い選手ではない。いやパ
スの技術やヘディングの高さ、前線からの献身的な守備など完成度
で言えば明らかに上杉を上回っている。
だがそれはサッカー選手として、だ。点取り屋として見れば評価
は逆転してしまう。
上杉は﹁なにがあってもワイがシュートを撃つ﹂という固い信念
とそれに見合う決定力があった。あいつの撃ったシュートはやたら
と数が多くても、敵DFやキーパーに防がれなければほとんどが枠
内にいっていたからな。敵からも﹁こいつにフリーでシュートを撃
たせるとやばい﹂と警戒されていた。
たった二年で全国大会の得点王になるだけの異常な上杉と比較し
ては可哀想だが、いまのポスト役のFWももう一人の候補も強引に
フィニッシュに持っていけない分小粒な感じがしてしまう。相手も
それを感じ取っているのか、マークを一人付けた後はほぼ放置され
ている。つまりは、舐められているのだ。 そうして前線の柱になるべきセンターフォワードがマークを集め
られないとどうしても攻撃のバリエーションが足りなくなる。選手
の個々の実力は相手の中国を圧倒しているはずなのに、それを結果
につなげられていない。
そのチームメイト同士を結びつけるためのものが、チームとして
821
の熟成であったりゲームメイカーのコントロール能力なのだ。だが
今の代表は結成してまだ日が浅い上に新チームなので、選手間の相
互理解はまだ浅い。おまけに中心にいるゲームメイクをしている明
智は全試合フル出場で疲労が溜まっている。そこに密着マークがつ
けば、いくらセンターハーフとしては十分な力量を持つ明智でもチ
ームを自在に動かすのにはちょっと苦労してしまうのは仕方がない。
どうするべきか、山形は思考を巡らす。サウジ戦以来のアウェー
に入ってからの悪い流れを断ち切るためにも、ここで積極的な選手
交代をして日本が主導権を取りにいかねばならない。
だが誰を入れる? そうなると候補者は彼の頭の中には一人の少
年しか浮かんでこない。
監督は唇を噛みしめると、出来れば今回まではまだ出したくなか
った切り札で勝負する事を決心する。
カードは配られた、オッズは決まっている、相手の手札もだいた
い推察できる。ならば後は自分の選手を見る目を信じて賭けるだけ
だ。
山形監督は今日はまだベンチを温めているだけの少年に対して目
を合わせて最終確認をとる。
﹁アシカ、後半から出場してもらいたいが大丈夫だな?﹂
問われたアシカが年齢に似合わない凄みを持った笑みで唇をつり
上げた。
﹁待ちくたびれましたよ﹂
︱︱こうして山形監督の監督生命のみならず日本代表アンダー十
五チームの命運は、この小柄でチーム最年少の生意気なゲームメイ
カーに託されることとなったのである。
822
第四十五話 挨拶はきちんとしよう
俺はピッチ上へ出ると大きく息を吸った。
うん、日本のピッチとはまたどこか一風変わった匂いがするな。
日本の芝の香りはどこか柔らかな感じがするが、ここ中国では緑の
芝の香りでさえもどこか尖っているような気がする。たぶんこれは
実際に俺の鼻が嗅いでいると言うよりは、頭で作ったイメージの問
題なんだろうが。
実際には中国のピッチはサウジアラビアの荒れた芝に比べると意
外と整っている。まあこれについては砂漠に近い気候のサウジでは
比べては可哀想だ。しかしこれは朗報だな、日本のような几帳面さ
で整備はされてないが、芝がはがれて地面が露出している部分がな
いだけでも安心できる。
そしてここにも、またたぶん世界中のどこのピッチの上でもサッ
カーの香りが漂っている。ただそこに立って呼吸しているだけで血
の温度が上がりそうな俺の大好きな刺激的な香りである。
その芳香を胸に一杯吸い込んでは大きく吐き出すと、同時にまた
アドレナリンもが吹き出して心臓の鼓動が大きくなる。よし、体の
方はこれでもう準備が出来た。
それにしても山形監督は待たせすぎだろう。俺はてっきりスタメ
ンで出場するものと思い込んで準備していたのに、こんなピンチに
なってから担ぎ出すなんて。まったく結局は俺がいなきゃ駄目なん
だよなぁ、もう。 そう思い上がる俺の頬は絶対ににやけているはずだ。
823
﹁おい、アシカ。ぼけっとしてないで気合いを入れろよ﹂
﹁そうっすよ。僕達にはもう後がないんすから﹂
山下先輩と明智がやってきて声をかけた。ふむ、もしかしてこの
二人が心配するほど顔が緩んでいたのかな。
さすがにへらへらした姿をテレビで中継されるのは恥ずかしい。
気合いを入れ直そう。
両手の平で自分の頬を張る。軽い破裂音が響き、緩んでいた俺の
頬が赤くひりひり風がしみる肌へと変化した。⋮⋮久しぶりすぎて
ちょっと力が入りすぎたが、これでようやく精神的にも戦闘準備が
整った。
さあ、楽しい時間の始まりだ。
後半は日本ボールからのキックオフになる。審判がボールをセン
ターサークルにセットしている間に、俺はルーチンワークを済ませ
ておく。そのルーチンとは自身のコンディションの確認と鳥の目に
よるピッチ全体の把握だ。
体調については問題なし。先週のヨルダン戦を欠場したのがいい
休暇になったようで疲労もない。一番心配していた右足の状態も怪
我する前と変わらず︱︱いやもしかしたらそれ以上に調子がいい。
懸念材料であった右足は大丈夫だと確信を持った俺は、最後に空
からピッチ上を眺めるような鳥の目で中国の試合会場を見渡してそ
の鮮明さに驚いた。
なんだかアナログからデジタル放送に変わったように解像度がア
ップしている。これは俺がボールをコントロールする新しいタッチ
の感覚をつかんで周りを見る時間が増えたから視野が広くはっきり
見えるようになったのか、それとも別の感覚が磨かれたせいなのか
よく判らない。
だけど、悪い事じゃあないよな。今日は調子がいいんだと俺に太
824
鼓判を捺してくれているようだ。
後半開始の笛の音と共にセンターサークルからボールが下げられ
る。この審判は前半の間は目立って中国有利な笛は吹かなかった。
できればこのまま真っ当に裁き続けてほしいものである。
そんな感慨をよそに、まずトップ下に陣取ってボールを受け取っ
た明智は、ちらりと俺の姿を確認するとパスを回す。途中出場の俺
にボールを触らせて落ち着かせようと考えたのだろう。 その明智からのパスを受ける時、またあのボールの中心を掴む感
覚があった。まだ敵が周りにいないために柔らかく衝撃を殺すよう
にトラップしたのではなく、無造作に左足で止めただけなのにその
突き出した足首にボールが吸い付いたように完全に停止している。
うわ、俺って絶好調じゃないか?
またも緩む口元を隠せずにボールを足元に確保したままピッチ上
の動きを再確認する。
うん、中国はリードしているせいかあまり前へと出てこないな。
もしかしたら、これからまた勝負所でどこからでも圧力をかけてく
るハイプレスのために今はスタミナを温存しているのかもしれない。
自陣のゴール前に四人のDFとダブルボランチを置いて守備のブ
ロックを構築した﹁待ち﹂で古典的なカウンター狙いの体勢に入っ
ている。
そこまで見て取ると、一旦ボールをDFラインに戻す。
うん、想定していたけど俺がパスを出した時には日本の最終ライ
ンにはもう三人しかいない。いや右のサイドバックである島津も一
応最終ラインには存在しているんだ。ただそれが敵のDFの最終ラ
インであるのが、どこか間違っているぞとツッコミたい所だが。
うちのポストプレイヤーと島津が二人で中国の最終ライン付近を
前後に動いて、敵のDFとオフサイドの駆け引きをしている。
825
︱︱何をしているんだよ島津は。
俺は最終ラインからボールを受け直すと、マークがついた明智と
入れ替わるようにボランチのポジションから少し上がる。
明智をマークしていた相手が一瞬こちらにスライドして俺につき
そうな素振りをみせるが、俺がそっちに視線を向けると同時に明智
も一歩だけ前へ移動すると、二兎を追う愚を犯しそうだと判断して
か自分は明智についたままでヘルプを要請する。
だが、俺は呼ばれたマークが来る前にロングキックでボールを手
放していた。そのターゲットはもちろん敵陣の左サイド、こっちか
ら見たら右サイドの最先端で待ち構えている島津だ。
︱︱あいつが何をしているかって? 決まっているじゃないか必
死に攻撃をしているんだ。
先制されて劣勢の状況をひっくり返そうといつも以上に前へ出て
やがる。あいつが敵陣のサイドの奥深くでパスを待っているだけで、
中国のディフェンスはサイドに長く伸びた歪な形になり他の攻撃メ
ンバーが攻めやすくなるのだ。
だがそれだけでなく、あいつが敵陣深くまで前へ出てる最大の利
点は︱︱当然島津が攻めやすい形になるって事だよ!
ほら、お待ちかねのパスだ。存分に攻めるがいい。
そんな気持ちを込めた俺のロングパスは綺麗な弧を描いて島津へ
と渡った。
うむ、狙い通り目標の足下にピタリと着弾した。ボールの中心を
感じ取れるようになってからキックの精度が増したようにも感じら
れる。今までのコントロールでも短い距離ならまったく問題なかっ
たが、パワー不足のために力を入れて蹴らねばならなかったロング
キックが改善されたようだ。やや不得手でぶれのあった長距離での
キックが正確になったのは喜ばしい。
826
ボールを受け取る島津もどこか嬉しそうである。これまでは中国
のプレスに苦しんでいたので、ここまで高い位置でボールを持てた
のは久しぶりなせいだろう。
彼は綺麗にボールの勢いを殺したトラップをすると、キレのある
動きでターンしてすぐにドリブルで最終ラインを突破しようと試み
る。この辺の動きはDFじゃなく完全にウイングのアクションだよ
な。
だが相手も必死にマークして、縦への突破はともかくゴール方向
へだけは行かせまいと中央への道だけは許さない。
ならばと島津はタッチライン沿いにぐいぐいと進み、コーナーフ
ラッグ近くまで侵入してからセンタリングを上げる。
ゴール前の絶好のポイントに上がったボールに飛び込む日本人は
ポストプレイヤーと山下先輩の二人だ。俺も前線へと走るがまだそ
こまではたどり着かない。ゴール前に飛び込むのは諦めると、仕方
なくセカンドボールを拾うための位置取りへと変更する。
日本のFWは二人ともポジション取りも高さも文句のつけられな
いレベルであったが、中国ゴールの前に壁を作っている屈強なDF
を破れなかった。くそ、あいつらは練習で嫌と言うほどあの巨人の
楊とヘディング争いをやっているのだろう。単純にクロスを放り込
むだけじゃ得点は取れそうにない。
しかし、その跳ね返されたセカンドボールは明智が素早くゲット
した。サイドの島津へボールが渡った際にするするとそこまで上が
っていたらしい。こんな所があいつは抜け目がないよな、連戦で疲
労しているはずなのに勝負所ではマークを外して急所にきちんと顔
を出す。感嘆しつつもこぼれ玉をとり損ねた俺もまた新たなポイン
トへと動き直す。
それでも明智がボールを拾ったのはゴールから少し離れた地点だ。
827
直接狙うには難しく、もうワンアクション起こさないとシュートは
撃てない。
中国もただ傍観しているはずがない、マークしていた選手はもち
ろん最終ラインもすぐにDFラインをブレイクして明智へのチェッ
クにいく。
自分でのシュートは難しいと見たか明智がすぐにパスへと切り替
えた。
彼の顔がこっちに向いた時点ですでに俺の準備はできている。目
の前のスペースはしっかりと空けていて自由に使えるポジションを
用意して待っているぞ。
うん、さすがだな明智は。ぴたりとその空間に優しく素直な回転
のボールが送られてきた。さあ、どうぞシュートを撃ってください
と言わんばかりのパスだな。
横目で確認すると口だけをパクパク動かして何か伝えようとして
いる。察するところ﹁復帰祝いっすよ﹂ってところか。
よし、お祝いをちゃんと受け取りましたよ。 いつものように視線を落としボールだけを見て撃つシュートモー
ションに入る。ユースの先輩DFやキーパー曰く﹁目線が見えんか
ら、どこを狙ってるのかさっぱり判らんフォーム﹂である。
もちろん俺の脳内には鳥の目によるイメージのゴールがはっきり
と映し出されているのだが、それを知らない他人からは変わったフ
ォームで守る側からすれば止めにくいことこの上ないだろう。
そのまま振り切る右足に心地よい抵抗があり、それが弾けて消え
る。
今までのジャストミートの感触と似て非なるボールの芯を撃ち抜
く手応え︱︱いや足応え︱︱の鋭いシュートはゴールまでの間に僅
かな弧を描きポストの内側を叩くと、反対側のサイドネットを揺ら
す。
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﹁おおおー!﹂
俺は雄叫びを上げた、いつもはゴールしてもここまでは感情を露
わにしない。だが怪我で試合に出られなかった不満、予選突破がか
かった状況での同点弾、そして決定力が悪かった俺が今のシュート
を決めた事で﹁何かを掴んだ感覚﹂が重なった俺は叫ばずにはいら
れなかったんだ。
なんて言うんだろう、戻ってきたというんじゃなくてレベルアッ
プして帰ってきたような感じだ。
一回目の人生では怪我をした後はなす術もなかった。だが今の俺
は違う。例え怪我をしたとしてもより一層の力を得て復活できたの
だ。俺は過去の自分よりも確実に強くなっていた。
これまでの日々が頭を横切る。
毎日欠かさなかった柔軟体操が柔らかく強靱な関節を作ってくれ
た。嫌いだった筋トレがダメージを抑えてくれた。好き嫌いのない
食事が体を頑丈にしてくれた。俺を形作っている物、俺が積み上げ
てきた物全てが怪我を乗り越えさせて、さらにここまで強くしてく
れたのだ。
︱︱これまでの俺は間違っていなかった。感情の高ぶるままにチ
ームメイトが駆けつけてくるまでの少しの間だけ俺は空に向けて叫
び続けた。
肺活量の続く限り叫んだ俺は、ようやく抱きついてきたチームメ
イトに顔を向けて、一言だけ告げた。
それは今のシュートは凄いだろうという自慢ではない、パスをあ
りがとうという感謝の言葉ですらない。
﹁ただいま﹂
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ようやく試合に帰ってこれたことを知らせる挨拶だった。
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第四十六話 DFの意味を考えよう
同点ゴールを上げた俺はチームメイトからの祝福を受ける。その
嬉しさと手形で頬と背中を赤くしながらも、笑顔で観客席の日の丸
と青で染められた場所へ手を振った。すると、その一角だけがまる
でスタンドが生きているように旗やタオルを振ってくれて反応する
のが楽しい。ま、今の俺ならば大抵の物を見ても楽しいんだけどな。
山下先輩からシュートを決めた後の台詞に﹁格好付けすぎだ!﹂
としっかり紅葉を背中につけられたが、せめて得点した時ぐらいは
見得を切らせてほしいぞ。そうじゃないと格好を付ける場面がない
じゃないか。
そんなにやけた顔を隠せない状況だったが、ベンチと観客席に一
通りガッツポーズをするとさすがに落ち着いてきた。もちろん胸の
奥にはまだ歓喜の残り火があるが、とりあえずは過度の叫びたくな
るほどの興奮は治まったのだ。
ああ、やっぱり試合に出るのは楽しいなぁ。
まだ頬が緩むのを抑えきれていない俺だったが、それでも敵チー
ムと観客席からの刺々しい雰囲気を感じて頭が冷えてくる。
センターサークルにまたボールがセットされて中国からのキック
オフで始めようとするが、彼らから殺気染みたものが発せられてい
るのだ。
彼らもこの試合と最終戦に勝ってその上で日本がサウジに大差で
負ければ、グループ二位になれる可能性がまだ僅かとはいえ残って
いる。さらに穿った見方をすれば地元の試合で中国が日本に負ける
など許されていないのだろう。スポーツではなく格闘技の試合のよ
うな雰囲気だ。
831
まさかサウジ戦の時のような肉弾戦が行われるのかと、完治した
はずの右足がぴくりと疼く。
中国ボールで開始された途端、これまでとは別のチームに変化し
たような勢いで相手が襲い掛かってくる。
具体的にはロングボールを日本のゴール前で張っている楊の頭へ
集め、それが防がれたらこぼれたボールの確保に動く。首尾よく中
国選手がボールを持てればまたゴール前に放り込み、もし日本選手
がこぼれ球を拾えば全力でプレスをかけて奪いにくるというシンプ
ルな作戦だ。
当然島津が上がりっぱなしの日本の右サイドも攻撃をかけるター
ゲットになっているが、俺と明智にアンカーの三人がローテーショ
ンでそのスペースを見張っている。全員が甘いボールはパスカット
しようと狙っているので、かえって敵としてはそこからばかりでは
タイミングを読まれそうで使い辛いみたいだ。
むしろ中国はお得意の、どこからでもボールを持った敵にプレッ
シャーをかけるハイプレスで日本の陣地内のボールを奪いたがって
いるようだ。
この試合はどちらも﹁勝たなければならない﹂試合であって引き
分けでは意味がない。これは意外と国際試合では珍しいのだ。よく
﹁絶対に負けられない戦い﹂というのは聞くが、﹁両チームとも時
間内に絶対に勝たなければならない﹂のは少ない。これは引き分け
が狙えない、つまりトーナメントのようにも思えるが少し違う。ト
ーナメントのように力の劣るチームがPK戦に持ち込むために守り
きるという手が使えない事を意味しているのだ。
こんな風に引き分けでもいいと考えずにお互いが全力で勝ち点三
を奪い合うのは両チーム共にリスクが高い。だからこそ、普通とは
少し違う戦術も使われる。
832
中国がロングボールを放り込むのはただFWである楊の制空権を
闇雲に信じているだけではない。例え彼がフィニッシュまで持って
いけなくても、そのこぼれたボールを持った日本人選手に対しての
プレスを敢行し、高い位置から反撃するショートカウンターを狙っ
てくるのだ。
下手に自分達でボールを運ぶより、こっちにボール渡して日本陣
地内でパスを回させてからそれを奪った方が日本のDFが崩れてい
る分カウンターでより決定的なチャンスになると計算しているのだ
ろう。
この﹁相手にボールを渡す﹂という作戦は前提条件が幾つかある。
まずは相手がパスをつないで攻撃するチームである事。そうでな
ければ互いにロングボールの蹴り合いになって、非常に低いレベル
でのカウンター合戦になってしまいメリットがないのだ。
そしてもう一つは相手が絶対に攻めてくる事だ。もし相手がリー
ドしてこれ以上攻める必要がなかったり、引き分けでもいいという
チームならば向こうも守備を崩さないのだからカウンターが成立し
ない。
だが日本は引き分けが許されずにまだ同点という状況だ。この相
手が誘っている作戦だと判ってはいても攻撃しないわけにはいかな
い。パスサッカーを標榜するチームがこの荒れたピッチの上をパス
でつないで、だ。
その上どんどん敵チームの俺へのプレッシャーが厳しくなってき
た。一点目を決めてから常に動向をチェックされている。
でもホームでの中国戦を考えると、俺が出てきたらすぐにマンマ
ークがつけられても仕方がないと覚悟していたからゴールをするま
ではマークが甘かったのは嬉しい誤算だった。やはりサウジ戦での
俺の退場シーンを見てアジア予選期間中に復帰は無理と判断して指
示が遅れていたのかもしれない。
833
まあそんな訳で俺は相手がカウンターをかける気満々のどこから
でもプレッシャーをかけてくる戦術をかいくぐり、慣れない荒れた
芝の上でエースストライカー抜きの攻撃陣を操って、マンマークを
引き連れた状態で最低でも後一点を取らねばならなくなったのだ。
全くもうこれだけ厳しいと、逆に楽しくなってくるぜ。さっきま
での緩んだ笑みではなく緊張で唇が吊り上る。
そう思っている間にもまた中国が中盤の底からロングボールを最
前線の楊に託そうとする。しかしこのボールはちょっと狙いが甘す
ぎた。ゴール前に届く前にうちのアンカーがヘディングで跳ね返す。
その日本陣地内でのルーズになったボールを求めて敵味方がわっ
と集まる。
もちろん俺もその一員であり、マークしている相手よりも一歩だ
け早くボールの落下地点へ入れた。
俺がマーカーの先を行けたのは鳥の目による空間把握だけではな
く、相手側の事情もある。マークしている相手はボールのみならず
ついている相手を警戒しなければならないからだ。俺は別にくっつ
かれているこいつに注意を払ってやる義理はない。毒蛇からの苦い
教訓で悪質なファールは受けない様にだけはしているが、それ以外
の動きは無視しても構わない。
だが、マークをしている相手は俺を見てさらにボールの行方も確
認しなければならないのだ。反応が一歩遅れるのも道理だろう。
俺がボールを拾って前を向く、その瞬間に敵マーカーがぶつかっ
てきた。くそ、今は警戒をしていたがターンする最中にはどうして
もプレイ速度が落ちる。そこにショルダーチャージされて上にその
後に手で押されてしまっては立て直しようがない。不覚だがバラン
スを崩して芝に手を突いてしまう。
そこに甲高い笛が響き審判が走りよってくると、俺を倒した相手
834
に身振り手振りを交えた注意をして日本のフリーキックだとセット
する場所を指さす。
おお、今のファールを取ってくれるか。なんだかごく普通の真っ
当なジャッジに少し感動してしまう。前半からそう感じていたのだ
が、この審判はホームの中国を露骨には贔屓していないぞ。
この審判はどうやら信頼できそうである。この場合の﹁信頼でき
る﹂というのは日本に有利な判定を下すと言うことではない。公正
でぶれのない判定を下すというのが信じられると言う意味だ。
日本側からの抗議で審判の質が上がったのか、それともサウジ戦
の映像を見たFIFAからの警告がきたのかは判らないが納得でき
る範疇のジャッジをこれまで続けてくれている。そのせいでホーム
にも関わらず中国チームは強引に攻めてはこないのだ。
これならいける。
俺は少々下品だが舌を出してぺろりと上唇を舐める。これならレ
ベルアップした俺の試運転には最適である。
立ち上がると軽く屈伸した。よし、痛みも違和感もミサンガに異
常も何もない。強いて言えばピッチに突いた掌をすりむいたぐらい
だが、こんな物は怪我のうちに入らない。体調はまだまだ万全だ。
だが、俺は少しだけ屈伸をする際に右足をかばう素振りをしてお
いた。フリーキックがセットされてその場から前へ上がる時もわざ
とゆっくりとしたスピードで歩いていく。
え? 肩をぶつけたなら足なんか怪我してないだろうって? ま
あいいじゃないか。
さてこの程度の小細工に引っかかってくれるだろうか? 日本チ
ームには俺の小細工好きがばれて、まるで心配していない人間もい
るようだが、俺についての情報の少ない中国ならどうだ?
︱︱引っかかってくれた。
835
俺は明智がフリーキックで前線にパスを上げる瞬間に全力でダッ
シュする。マークは俺が足を痛めたと思っていたのか完全に油断し
て目はフリーキックのボールを追っていた。視線を戻した時に俺が
消えていてさぞ驚いただろう。
ちょっとせこいが、こいつは倒した後に足を痛めた演技をしたら
心配するどころか一瞬喜びを表しやがった。こんな奴を騙してもか
まわないはずだ。
まあ今はそんな些細な罪悪感などを気にしている暇はない。
俺が目指しているスペースはさっき得点を決めた地点よりはやや
手前だ。そこは本来二人の中国人ボランチが埋めるべきスペースだ
が、その二人の内一人はフリーキックを蹴った明智につき、もう一
人はマークしていた俺から振りきられている。
明智からのキックはゴールからやや離れたポストプレイヤーの頭
に正確に合わせられていた。
ゴール前ではないからか敵DFのマークはやや緩く、ぎちぎちに
張り付いているというよりシュートを撃たせないようにFWを振り
向かせない事を優先している。その分リターンパスは出しやすい。
ジャンプの最高到達点でボールを捉えると、ヘッドで俺へと折り
返してくる。このパスに対してのアクションに時間はかけられない。
外したマークや他のDFの反応が鋭いため、俺がフリーになってい
られるのは秒針が一回動く間ぐらいだ。
だからそのボールをアウトサイドでダイレクトで弾き返す。 もちろんシュートではない。ゴールを狙うには少し遠すぎる。さ
らに明智のアシストみたいに正確でスピンもかけていない素直なパ
スならともかく、空中からの折り返しを吹かさずこの距離をシュー
トするなら今の俺でもトラップが必要だ。
だからコントロールよりタイミングを重視したパスを送ったのだ。
精一杯跳躍して今ちょうど着地したポストプレイヤーとそのマー
836
カーは、足元のすぐ横を通過するパスに反応できず見送るしかない。
うん、その動けないタイミングだからダイレクトで出したんだもん
な。
このパスに反応できるのは、俺が足を痛い振りをしていたのが三
味線を弾いていたと判断できていた奴。つまりあんたぐらいしかい
ないんだよ山下先輩!
ペナルティエリアより少し前のポストプレイヤーの足元を通過し
たパスだ。当然受け取るのはエリアの中になる、シュートするには
充分な位置だろう。
だが俺の予測よりほんの少しだけ中国のキーパーが速く前へ出た。
体を投げ出すようにシュートを撃つ山下先輩に飛びかかったのだ。
キーパーが大きく広げた手に先輩のシュートがぶつかり、ボール
はゴールマウスを逸れる角度で転々と転がる。そのままだと後少し
でゴールラインを割ってしまう、コーナーキックかと俺でもそう思
った瞬間、弾丸のような猛スピードでスライディングする少年がい
た。
その突撃した島津が外にこぼれかけたボールを強引にゴールに押
し込んだのだ。
いや、お前フリーキックの時は俺より後ろにいたよな? それな
のにこの小さくてDFのはずの少年は、いつの間にか味方チームの
FWどころか敵のキーパーでさえも追い越していたのだ。
まさにカミカゼ。日本一攻撃的なDFの面目躍如といったプレイ
である。
だが、スピードが乗りすぎていたのと角度がまずかったのか島津
はスライディングのまま止まれずにゴールポストに衝突してしまう。
げ、かなりの速度でぶつかったが大丈夫か?
﹁おい島津、大丈夫か?﹂
﹁島津さん、怪我はないですか﹂
837
近くにいた山下先輩と俺が衝突したままポストにしがみついた格
好になっている島津に駆け寄るが、彼は﹁大丈夫だ﹂と答えるより
先に咳き込んで一つの質問をした。
﹁今のは俺の得点だな?﹂
俺達ははっと顔を合わせると、審判の方を向く。まさか理不尽な
判定で︱︱例えば山下先輩がキーパーチャージしたとか︱︱でゴー
ルを取り消されたりはしないよな?
俺達の願いが通じたのか、審判は高らかに笛を吹き、日本が勝ち
越しのゴールを挙げた事を宣告する。
﹁ふふふ﹂
不気味な笑いが足元からして、ぎょっと見つめると島津が芝の上
で寝転がったまま笑って拳を突き上げていた。
﹁ふふふ、超攻撃型のサイドバックの威力を見たか。批判している
連中に目に物見せてやったぞ﹂
ああ、ゴールポストにぶつかった痛みは大した事はなさそうだ。
島津はこんなに嬉しそうに笑えるのだから。
それに思ったより島津もマスコミなんかの批判を気にしていたよ
うだ。しかし記事の中で彼が謗られていたのは守備力であって、攻
撃力ではなかった。だから得点しても、たぶんその評価は覆らない
んじゃないかなぁと俺が考えたのは秘密だ。
今ぐらいは純粋に祝福しなくちゃいけないよな。これは決してさ
っきの俺の得点後の意趣返しではない。
俺は彼を助け起こし、こっそりと背中に目標を定めて平手を振り
838
上げる。
﹁ええ島津さん。貴方は最高の攻撃的サイドバックですよ。ふん!﹂
バチン。それはゴールを告げる笛と同じぐらい良い音がした。
839
第四十七話 DFの意味をよく考えよう
島津が観客席に向かって手を振っている。おそらくテレビ中継を
観戦しているはずの家族にもその晴れ姿を見せておきたいのであろ
う、その笑顔に一点の曇りもない。
ただ時々ちょっと背中辺りが痛そうな様子を表すが、それはたぶ
んゴールポストにぶつけたからではなく手荒すぎる祝福のせいであ
って心配はいらない。
ポストとの接触プレイよりダメージが大きい祝福の平手の嵐につ
いては一度真田キャプテンが﹁やめようか﹂と提案した事があった
が﹁じゃあ最後に真田キャプテンにして終わりにしよう﹂という事
態になり、その最後になるはずだった祝福の後、真田キャプテンは
清々しい表情で握った拳を震わせてこう宣言した。﹁俺の代ではこ
の祝福はやめない。少なくとも俺がキャプテンマークをつけている
限りは﹂と。
おそらく世にある悪しき伝統というものはこうやって成立してい
くのだろう。
とにかく後半に入ってからの鮮やかな逆転劇に客席の一部を占め
る日本人サポーターもそしてベンチも大興奮である。特に山形監督
は﹁よし、俺は賭けに勝ったぞ﹂とか叫んでいるが、まさかこの勝
敗に金とか賭けてないだろうな。もしそんな事があれば即免職され
てもしかたないぞ。八百長しているのと変わらないからな。仮にも
俺を代表に抜擢してくれた監督さんなのだ、そんな間抜けな退陣劇
にならないことを祈っておこう。
だが喜んでいるのは俺たち日本のイレブンも一緒だ。状況さえ許
せば心置きなく騒ぎたい、ただそれを向かい合っている中国代表が
840
許さないだけだ。
彼らの目には何か決意したかのような炎がある。
ここで俺は確信する。こいつら間違いなくこれからピッチ上全部
を対象にした激しいプレスをかけてくると。敵からのただならない
様子に同様の考えに至ったのだろう、明智と真田キャプテンそれに
俺とある程度チームを指揮するメンバーが集まってくる。
﹁敵さんは怒っちゃったみたいっすね。たぶんあの後先考えないプ
レス地獄が始まりそうっすよ。どうするっすか?﹂
﹁ふむ、中国代表の様子からそれは窺えるが⋮⋮残念ながらディフ
ェンスは楊の高さ対策とロングボールに対処するので手一杯だ。現
状他のタスクをこなすのは難しい﹂
﹁ああ、じゃあ島津さんに一旦下がるように伝えてもらえますか。
得点して落ち着いたでしょうし、ハイプレスされた場合には考えて
いたこともありますから﹂
俺が急場しのぎとはいえ対策を考えていたのに驚いたのか二人と
もが口をOの字に開ける。
﹁それってどうするんすか?﹂
俺が答える前に審判が再開のホイッスルを鳴らす。どうやら悠長
に話をしていられる時間は過ぎてしまったようだ。
﹁とにかく真田キャプテンは最終ラインの統率と楊に対するマーク
をしっかりお願いします﹂
﹁ああ、了解だ﹂
頷くとすぐにバックラインへ下がっていく。そりゃ中国のFWが
こっちのゴールに向かって来ているから、あまり時間はかけられな
841
いよな。途中でまた敵陣に突っ込みたそうな島津を呼び止めては何
か話している。あ、島津がこっちを振り向いた。とりあえずにっこ
り笑って手を振っておこう。反射的に手を振りかえした島津はちょ
っとだけ眉を寄せて自分の振った手を見つめたようだが、とりあえ
ずは今上がるのは思いとどまってくれたようだ。
中国チーム相手のハイプレス対策はこの中国の攻撃を防いでから
実行するしかない。だが相手も手っ取り早く得点しようと無理矢理
にでも楊へとボールを渡そうとしている。あいつに一本でもパスが
通れば危険すぎるからな、うちでいえば上杉みたいなスコアラーだ。
くそ、上杉の復帰は次の試合からだったよな、早く帰ってきて欲
しいぜ。あいつはいればいたで厄介事の種だが、いなくなった時に
は途端に﹁上杉さえいれば⋮⋮﹂と存在感が大きくなるな。
まず中国代表は中盤でボールを回し、FWの楊がゴール前に到達
すればそこにロングパスを上げる方針は変わっていないようだ。た
だFWと共にじわりと中国のMFもポジションを上がり目にしてい
る。これは間違いなく少しでも日本陣地の深い場所でボールを奪う
為の前掛かりなフォーメーションだ。
敵の自陣への大量流入に思わずといった形でこちらの選手も陣形
が退き気味になってしまう。結果日本陣内のゴール前からその少し
前、バイタルエリアと呼ばれる危険地帯が敵味方で密集する。
やばい。直感的に危険を察知して俺もDFのフォローに入る。
こんなごちゃごちゃした狭いゾーンに選手がひしめき合っている
のは俺にとってできれば避けたい場面だ。だが同時に今ここで止め
に入らないと間に合わないという警報が頭の中で鳴っている。
俺と同様にピンチを感じたのだろう明智が一緒に敵味方が入り乱
れるゾーンへと突入する。
その時、中国の中盤の底︱︱センターライン辺りから放物線を描
くロングボールがペナルティエリアのすぐ手前に蹴り込まれた。
842
偶然かそれとも何遍も放り込んで距離感を掴んだのか、無造作に
蹴られたようなロングパスが前線のポスト役を正確に狙っていた。
その高いボールに向かい前線のターゲットとなっている楊が跳び、
マークしているDFの武田と最後の砦としてDFラインの裏に控え
ていた真田キャプテンが絡み合うように空中でボールを奪い合う。
さしもの巨人の楊も相手が二人掛かりでは分が悪かったのか、D
Fが二人掛かりでも抑えきれなかったと言うべきか三人の頭を経由
してクリアともリターンパスともつかない中途半端なルーズボール
になる。
そのこぼれた玉にいち早く追いついたのは日本のDFだ。逆サイ
ドの島津がとんでもなく派手なため、ここまであまり目立つことの
なかった左サイドバックがボールを確保して前へ蹴ろうとする。う
ちの代表チームでは外へ出して敵からのボールで再開されるクリア
よりも前へ︱︱特に右サイドへ向けて蹴れと奨励されている。
当然彼もそちらに蹴ろうとしてほんの微かに躊躇う。その視界に
待ち構えている敵が映ったのだろう。このまま右サイドへ向けてキ
ックしてもすぐパスカットされてしまうと思っても仕方ない。
無理はできないと切り替えて外へボールを蹴りだしてクリアしよ
うとしたのだろうが、その一瞬の迷いが致命傷だった。押し寄せて
いた中国のMFが背後からボールを奪い取ったのだ。こんな時に自
陣でも敵が押し寄せるハイプレスの怖さを思い知らされる。
驚く間もなくそのまま敵はシュート。その至近距離からの強力な
シュートをうちのキーパーはなんとか弾く。
だがもちろんキャッチしたりコーナーへ逃げるといった余裕があ
るわけがない。こぼれ玉はペナルティエリアの中を転々とする。
血の匂いを嗅ぎつけたピラニアのように選手が集まりエリアの中
がごちゃついた。まずい、こんな乱戦になってしまうと俺の鳥の目
843
も技術も役に立たない。
くそ、ボールはどこだ? あ、そこか⋮⋮え? 人混みの中ようやく発見したボールはちょうど日本のゴールへ向
かってシュートされる所だった。
︱︱痛恨の失点。得点したのが誰か審判や観客も判断に困るよう
な混乱の中からのゴールだった。
誰だか判らない中国選手が駆けだして喜びを爆発させているんだ
から、たぶんあいつが点を取ったんだろう。
ああ、まったく。ちょっと自分の調子がいいからって簡単に勝て
るはずがないよな、相手もまた必死なんだから。
なんで俺はこのぐらいで動揺しているんだよ。
相手に点を取られたらこっちはそれ以上に取り返す。その為の攻
撃的布陣だろうが、作戦を出し惜しみとかしている場合じゃないだ
ろうが。
さっきの作戦を一部修正して用いる事にする。
﹁真田キャプテン、島津に合図したら上がれって言ってください﹂
﹁上がらせていいのか?﹂
﹁あのプレスは急なオーバーラップが弱点なんです。こっちの攻撃
するメンバーにマークが張り付いて誰をマークするか、抜かれたら
誰がフォローするか一人一人の役割がはっきりしているからこそ効
果的なんですが、通常と違ったパターンと人数でこられると決めら
れたマークでは対応できません。そして、その状況を演出しやすい
のがDFのオーバーラップなんです。島津さんをいったん下がらせ
たのも、彼をマークしていた相手を宙に浮かせるためでした。今敵
DFの彼は別の役を担っています、ゴール前のDFが遊んでられる
844
訳ないですからね。そんな状況で新たにたった一人でも想定外の相
手が現れると、打ち合わせもなくお互いがフォローしなきゃいけな
い状況になった中国のディフェンスは混乱するはずです﹂
﹁なるほど、判った。DFのオーバーラップが効果的、か。時間も
ないし賭けに出るにはいいタイミングだろう﹂
真田キャプテンは即断で了承する。このレスポンスの速さは俺を
信頼してのことだよな、きっと。うちのキャプテンが考えなしだな
んてそんなはずがない。
それ以上話す間もなくまたゲームが再開される。今度は日本から
のボールだな。
後半に入ってもう四度目のキックオフだ。前半は一点だけだった
のに後半はすでに三度もスコアが動いているのだから当然ではある
が、後半に入ってから︱︱もっと言えば俺が途中出場してからゲー
ムが急激に動き出した。
前半のような硬直状況ではなく点の取り合いである。だが、それ
でいい。この日本代表はそういったサッカーではなく野球のスコア
のように大量点になればなるほど力を発揮するチームだからだ。
ちらりと時計に目をやる、残り時間はあと七分。これから先はさ
らに一点の価値が重くなる。
回されたボールを二・三回明智と交換し合って敵の動きと攻める
タイミングを計る。どこで攻め上がるスイッチを入れるのか、ちょ
っと度胸がいるな。
すると明智の方が微かに頷くとボールを持たずにすっと上がった。
俺は背後の真田キャプテンにハンドサインで﹁上がらせろ﹂と指示
しパスを明智に出す。同時に俺も前へ出る。
パスを受けた明智がボールをトラップするとすぐに敵がマークに
845
つく。無理に突破しようとはせず、ゴールに背を向けてタメを作っ
ては俺の上がりを待っている。
はいはい、今行くって。
ポジションを攻撃的なトップ下に近い位置まで上げると俺のマー
クも緩いままとはいかない。きっちり前へ行くコースは切られてい
る。
それに右サイドからの攻めが目立つのかマークする相手もポジシ
ョンを調整し、俺から山下先輩へのホットラインには相手DFがつ
ねに立ち塞がり邪魔をするようにしている。
ならこっちだな。明智からのパスを受け取るとすぐに左サイドの
ウイング馬場へとロングパスを放つ。
受け取った彼の顔が﹁久しぶりのパスだ﹂と輝いていたのがちょ
っとだけ切ない。うん、馬場もいい選手だとは思うのだけど、どう
しても強引さがない分印象が薄れてパスの優先順位としては下にな
りがちなんだよな。
俺からちょっと失礼な分析のされかたをしている馬場だが、彼も
ドリブラーとしてはなかなかの物だ。日本の攻撃が後半からは右サ
イドに偏ったせいもあって比較的警戒が薄かった左サイドを進んで
いく。
だが当然ながらどこまでも放っておいてくれるはずもない。敵の
サイドバックが外へ開いて止めにくる。
ここで無理にでも突破しようとしないのがうちの前線には珍しい
馬場の特徴だ。マークが近づいたと判断するとサイドから折り返す。
深くサイドを抉らずに早めのタイミングでゴール前に上げるアー
リークロスかと思いきや、その上げたボールはゴール前の上空を通
過し逆サイドへと渡った。
その右サイドの奥深くでパスを受け取ったのは当然ながら、敵D
Fラインにいつも混ざっている少年の島津である。
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こいつ絶対に俺が﹁上がれ﹂って合図するより先に走っていたに
違いない。それでもなければ今のパスには追いつけやしない。
まったくこのチームは人の言うことを聞く奴はいないのか! と
他人が聞けば、お前が言うな! と返されるだろう思考をよそに、
島津が今回は珍しく自分で切り込もうとはせずに中央へとセンタリ
ングを上げようとする。
敵は左に右にとサイドへボールを振られまくって中央が薄くなっ
た。これは絶好のチャンスになるかもしれない。
その時には俺もすでに中国のゴール前に到着している。ヘディン
グ争いは体格的に苦手だが、誰よりも早くボールに触れる場所であ
るキックを撃つ島津に近いニアサイドで合わせれば⋮⋮とポジショ
ンどりに動く。
その時俺は鳥の目で中国のゴール前にちょっと信じられない人物
を発見する。
なんでお前がいるんだ武田! お前はうちのセンターバックで一
番後ろにいなきゃ駄目だろうが。チームで一・二を争う長身である
お前がいなきゃ、誰が楊の奴をマークするんだよ!? もしこの攻
撃が失敗して中国のカウンターを喰らったらサイドバックとセンタ
ーバックがいない状態であの巨人の楊を止めなきゃいけないのか。
まさか俺が真田キャプテンに対して﹁ハイプレスを破るためには
DFのオーバーラップが有効だ﹂って指示を拡大解釈して、島津だ
けなくこいつまでやって来たのか? いや確かに意外すぎて敵も味
方も完全に武田をノーマークにしているが。
予想外の人物の出現に敵も味方までも混乱する中、島津からのセ
ンタリングが中国のゴール前へと蹴り込まれた。
847
第四十八話 ピッチに虹をかけよう
敵ゴール前になぜか日本のDFである武田を発見してから、島津
がセンタリングを上げるまでの短期間に俺の頭は猛烈に回転する。
戦況、フォーメーション、現在の選手配置。それらを平行して考
えて出した結論は結局﹁とにかくこのセンタリングをゴールに結び
つけろ﹂というごく普通の答えでしかなかった。
もしもこのボールを相手に確保されれば、楊対策の長身DFであ
る武田を抜きにして中国のカウンターを喰らうことになる。例え真
田キャプテンが最後の砦として最終ラインに控えていてくれたとし
ても、空中戦ではあの巨人を絶対に止められるかと言うと疑問符が
付いてしまう。
ここでゴール︱︱もしくは最悪でもシュートで終わらなければ、
中国のカウンター攻撃によって逆に日本のゴールが引いては日本の
予選突破が危うい。
背筋に冷たい物が走り、恐怖で身が竦みそうになる。ええい、そ
のぐらいは覚悟の上で青いユニフォームを着ているんだろうが。今
更びびるんじゃない。
自分を叱咤すると、俺は身を翻しニアサイドから後ろへ下がる。
これは腰が引けたのではなく、センタリングの軌道が自分の上を通
過すると確信したからだ。俺と中国のDFとの身長差を考えるとゴ
ール前での空中戦には加われない。むしろ下がってこぼれ球を狙う
のがセオリーだ。
島津が放ったセンタリングは普段シュートばかりで滅多にクロス
を上げないサイドバックとは思えないぐらいに正確なボールだった。
ゴール正面のやや遠目、ペナルティエリアぎりぎりの地点で待って
848
いる武田にピタリと照準が合っている。そこならばキーパーも飛び
出すのに躊躇する厄介なポイントである。
日本のFWであるポストプレイヤーもゴール前にはいるのだが、
こちらは敵のDFが密着マークしてより良いポジションを取ろうと
互いが体を寄せあっていた。どう考えてもフリーの武田に撃たせた
方が得点になる確率は高い。
だがそんな難しい地点へのセンタリングにも関わらず中国のキー
パーは勇敢にも飛び出した。もしくは楊みたいなヘディングの得意
なFWと練習しているのでDFを頼りにせず、ハイボールには自分
が出るのが癖になっているのかもしれない。
武田がジャンプしたその頭上にキーパーの拳が伸ばされる。さす
がにヘディングには自信があって楊とも渡り合える武田でも、最高
到達点では手を使えるキーパーには敵わない。キーパーのパンチン
グによってセンタリングは弾き返された。
この場合におけるこぼれ球のコースを予想するのは俺には容易だ
った。キーパーと競り合う武田、それにセンタリングの軌道を読め
ば答えも弾き出される。
武田の頭を狙ったボールはゴール正面、それに飛び込むキーパー
にも時間的余裕がなく一直線に武田へと向かっている。そしてボー
ルと接触する際、キーパーはパンチングで弾く拳を反射角度まで考
えて動かすのは不可能だ。
敵の頭の上に手を伸ばしてでもクリアしようとしているのだ、下
手に動かして空振りなどすれば相手の頭に当たりヘディングシュー
トをされてしまう。安全第一だと手首までしっかりと固定してパン
チングするに違いない。
野球でいうならバットを振り回すのとバンドのように止めて微調
整するのと、どちらがボールに当てやすいのかといった問題だ。万
が一にも空振りできないキーパーはリスクを最小限にしようと拳を
849
できるだけ動かさずにセンタリングのボールにぶつけるはずだ。と
なると跳ね返るボールはほぼ直角、やや勢いに押されて左に流れる
といった所だろう。
俺は島津のキックを見た瞬間に鳥の目から一番ありそうな未来を
予測した。出た答えは現実とどんぴしゃりに符合し、想定通りにゴ
ール正面の武田とキーパーからさらに数メートルピッチ中央に戻っ
た場所にキーパーが弾いたボールが落ちてくるはずだ。
つまりは、ここである。
ニアサイドから全力で戻った俺が一番最初にたどり着く。そりゃ
そうだ、俺は他の奴みたいにキーパーのクリアしたボールを見てか
ら駆け付けたんじゃない。センタリングが上がった瞬間﹁ここに来
る﹂と勝手に決めて迷わず一直線に走って来たんだ。もちろん外れ
る可能性も相応にあったが今回は見事に山が当たったな。
ピッチ上の選手から見れば﹁なんでクリアされる場所が判った?﹂
と驚いているかもしれないが、むしろ観客席やテレビの視聴者がゲ
ームのようにコントローラーで選手を動かせるなら、俺がダッシュ
したように動かすのではないだろうか。それぐらい客観的にピッチ
上での出来事を眺めて効率的な行動を選択できていた。
それでも時間の余裕はない。俺はボールに追いついたとはいえゴ
ールに背を向けたままで、ここは敵の集まりやすい場所だ。周りか
らは不可解な動きでマークを引き剥がしたとはいえ敵のDFが寄っ
てくるのは時間の問題、それどころかもう数メートルのところまで
接近している。これでは立ち止まってトラップした後にターンして
からシュートを撃つなどできはしない。
だが、中国のキーパーは今現在、ペナルティエリアを出るかどう
かという所まで前へ出過ぎているんだ。このチャンスを逃すのは惜
しすぎる。
850
ならばパスを出すか? 残念ながら味方の攻撃的選手は全てセン
タリングに備えてゴール前の空中戦に参戦してしまっていた。あん
なに混雑した中へはさすがに俺でも振り向かずにヒールでは通す自
信がない。なにより、もしそのパスをカットされれば日本の守備は
楊のマーカーがいない状態でカウンターを喰らってしまう。
バックパスであればどうだ? これ以上守備の人間を攻撃参加さ
せるのは不可能だ。
ではこれしかない。
俺はルーズボールが目の前に落ちて来てもスピードを殺さずに、
むしろ加速してその下をくぐるようにスライディングをする。
高速で尻を芝の上で滑らせながら、自分の頭上に落ちてくるボー
ルを背後に向けて力よりも繊細なコントロールを優先したキックを
撃った。
今日は一度も俺の期待を裏切らない右足が軽く空を切り裂いてボ
ールの中心を捉えると、ふわりとボールが山なりの軌跡を描いて俺
が脳内でイメージしたコース通りに飛んでいく。
仰向けになった視界が青空に包まれて、その中をボールだけが柔
らかな曲線で動いていった。
スライディングしながらのオーバーヘッド染みた背後のゴールへ
の特大ループシュート。
鳥の目によって振り返らずとも脳内にゴールのイメージ映像があ
る俺だから正確に狙えた。
キーパーがペナルティエリアから飛び出しそうなほど前で武田が
空中戦をしてくれたからループシュートでも良かった。
こぼれたボールをダイレクトで撃ったからこそ他の中国DFが手
出しする暇がなかった。
これだけの距離でもコントロールできるボールの芯を撃ち抜く技
を手にしていたからこそ自分でシュートを撃つ選択肢を選べた。
851
俺の今持っている技術と経験を全て乗せたシュートだ。
後はもう、祈るぐらいしか出来る事はない。
︱︱行け。
青い空を飛ぶボールに向かって拳を突き出した。
◇ ◇ ◇
DFである武田の突然のオーバーラップに最も驚いたのは、日本
代表ベンチに座っていた山形監督だろう。サイドバックの島津が上
がるのは許可していた。そうでなければあの少年は役に立たないの
だから。そして勝つためには賭の要素も必要とされているのも理解
していた。だからこそまだ万全とは言い難いアシカを投入したのだ。
だが、残り時間が少ないとはいえ相手チームのエースをマークす
るべきDFまでもが敵ゴールに迫るのは想定外だった。
しかし、今となってはもうベンチを立ち上がり大声で怒鳴っても
間に合わない。島津の上げたクロスを何とか得点に結びつけてくれ
と願うだけだ。だが、その願いは勇気を持って飛び出した敵キーパ
ーの拳で破られてしまう。
嘘だろう? このままではカウンターの餌食になってしまう! そう悲鳴を上げかけた山形の目に小柄なゲームメイカーの姿が映っ
た。
あれ? アシカはさっきまで中国のゴール前にいなかったか? 寸前の記憶が怪しくなるような不思議なルーズボールへの追いつき
方だ。
しかもそのまま敵DFに囲まれるかと思いきや、滑りながら真後
ろへと変形のジャンプしないオーバーヘッドキックのような格好で
真後ろにボールを蹴ったのだ。
アシカの蹴った真後ろには何があった? そうだ、キーパーが前
852
へ飛び出して無人の中国ゴールがぽっかりと口を開けているのだ。
︱︱入れ!
気がつくと山形のみならず日本のベンチにいる全員が立ち上がり
叫んでいた。
こちらがじりじりとするほどゆっくりと落下するループシュート。
慌てたようにゴールへ向けて走り出す中国選手。
ピッチの中で二つの異なる時間が流れているようだったが、あれ
だけ緩やかに見えたボールの方が先にゴールへとたどり着くとゴー
ルネットを優しく揺らした。
審判もボールの行方をじっと見守っていたのか、ゴールラインを
超えるとすぐに得点のホイッスルを鳴らす。
呼吸を止めて拳を痛いほど握りしめてループシュートの行方を確
認していた山形は、叫ぼうとして咳こんだ。ずっと息を詰めていた
のを忘れていたのだ。それほど真剣に空中を漂うボールを見つめ、
ゴールすることを願っていた。
ゴールマウスに吸い込まれたボールに間に合わなかった中国のD
Fが、自分もゴールの内側からゴールネットを掴み顔を俯かせてい
る。
その下を向いた顔と時計で残り時間確認した山形監督は握りしめ
ていた拳を解いて肩からは力を抜いた。残り時間は三分、長めのロ
スタイムを入れても逆転はされないだろう。そして中国にとって引
き分けでは意味がないこの試合に対して、逆転がないと悟ってしま
った彼らにはもう自分達を奮い立たせる材料はないはずだ。
これで決まったな。
油断するつもりはないし、チームの他の奴に聞かせるつもりもな
い。だが山形監督は試合の勝敗がこの時にすでに決定され、覆るこ
とはないだろうと確信していた。
853
ピッチ上で横たわったまま、姿が確認できなくなるほどチームメ
イトに抱きつかれて覆い被されたアシカのおかげだな。
今はまるで人間ピラミッドで崩れた土台のように埋まっているよ
うだが、あいつを後半投入したギャンブルは最高のリターンをもた
らしてくれたのだ。
さてと、では試合が止まっている今の内に、手早く最後の交代の
準備をしよう。疲れの見える明智と山下の代わりに守備的なボラン
チと右サイドのサイドバックを入れるのだ。そして島津には位置を
縦にスライドさせて山下のポジションである右のウイングを任せれ
ばいいだろう。
選手を入れ替える事で時間を消費し、さらにフレッシュな守備的
選手に残り時間を目一杯走り回らせる。これで中国の得点チャンス
が激減したはずだ。後は武田に﹁楊からもう離れるな﹂と命令すれ
ば万全だろう。
交代の手続きを終えると山形監督はようやくさっきのアシカの特
大ループシュートを思い返す。﹁俺の左足でピッチに虹をかける﹂
と言った名選手が過去にいたが、アシカのシュートは本当に虹のよ
うだったな。
そう言えば中国では虹は不吉とされていたっけ。髭面を少しだけ
綻ばせる。確かに中国チームにとってはあのループはさぞ不吉だっ
たろう。
︱︱そして試合は山形監督の予想通りに、そのままのスコアで幕
を閉じたのだった。
854
第四十九話 勝利した後は喜ぼう
終了の笛を聴くと山形監督はベンチから立ち上がり、交代してベ
ンチに下がって隣に座っている選手達にまず握手を求める。この少
年達は重要な試合の途中から外されたとモチベーションを低下させ
ている事もあるから、勝利が確定した瞬間に監督である山形自らが
率先して﹁君達のおかげだ﹂と握手して彼らの頑張りを認めてまた
やる気を回復させるのだ。
明智に山下、それにアシカの代理としてボランチで先発出場した
少年、これからも彼らの力を必要とする場面は必ずあるはずだから
な。
勝った試合でピッチに最後までいた選手達は、逆に精神的なケア
の必要がないぐらいテンションが高く充実感に包まれているはずだ。
そうはいっても試合後の出迎えは重要である。山形は勝利をもた
らしてくれたメンバー一人一人と握手を交わし、肩を軽く叩いて労
をねぎらう。
特にアシカと武田に島津といった連中には念入りに肩をばしばし
と叩いておいた。これは勝手に動いた事への罰じゃなくてつい激励
に力が入り過ぎただけだからな。
最後に引き上げてきた真田キャプテンは、少し顔に疲労を滲ませ
ていた。もしかすると今日の試合ではこいつが一番疲れたかもしれ
ない。単に走った距離や運動量だけならアンカー役の方が走ってい
るだろうが、試合で消費されるのは体力だけではない。出国前にマ
スコミ連中から加えられた精神的な物まで加えると、キャプテンで
ある真田へかかった重圧は山形監督に匹敵するほどとんでもなかっ
ただろう。精神的に成熟が早いとはいえ、まだ十五の少年に背負わ
せるべきプレッシャーではない。
855
その上試合中は最後尾で守備をまとめながら楊へのマークをフォ
ローしていたのだ。さらに皆の精神的支柱であり続けるためには、
失点した時も武田をオーバーラップさせた際にも一切動揺を表情に
も出せなかったのだ。本当に頼りになるキャプテンだ、素人目には
そう映らないかもしれないが今回の影のMVPである。
そして今回最大のサプライズは、後半からの出場で二得点とほぼ
一アシストのアシカだ。正直今日のこいつは監督が想定した以上に
とんでもなくプレイがキレていた。
もともとゲームメイカーとして期待していたから正確なパスでチ
ームを活性化してくれるだろうと思っていたが、期待以上に活躍し
てくれたのだ。
パスやアシストにゲームメイクと期待した役割はもちろんスコア
ラーとしても完全に開花したな。これは上杉という代表チームにお
ける絶対的な点取り屋が今日はいなかった事から自分で点をもぎ取
りに行った結果だろうが⋮⋮。結果が良ければ全て良しとしておく
か。
だが確認しておかなければならない事がある。
アシカと真田、二人の勝利の立役者に向かって山形は問いを発す
る。
﹁武田に上がれって指示したのはどっちだ?﹂
勝ち試合とは思えない監督の厳しい質問に二人の少年は顔を見合
わせる。身長差があるためにずいぶんと斜めな視線が少年達の間で
交わされ、互いが相手の顔を指さす。
﹁アシカの指示です﹂
﹁真田キャプテンの独断です﹂
856
⋮⋮どっちだよ。監督の心の声が聞こえたように﹁アシカがDF
も上げろと指示したんだろう﹂﹁島津さんだけのつもりが何二人も
上げてるんですか。あの時点でうちの守備はツーバックでしたよ、
自殺志願者なんですか真田キャプテンは﹂と責任を擦り付けあって
いる。
そのまましばらくして何やら二人の間で合意がなされたのかお互
いに笑顔で頷き合う。
﹁⋮⋮という訳で、武田が上がったのはこんなメンバーを集めた山
形監督の責任ということになりました﹂
﹁さすが山形監督ですねチームの全ての責任をとるとは度量が大き
い﹂
白々しくも監督を褒め称える二人に微かな頭痛と深刻な胃の不具
合を感じた。アシカはまだしも、真田よ、キャプテンであるお前だ
けはこの代表には稀なまともな少年だと信じていたからキャプテン
マークを巻かせたんだが。なんだか新加入組に染まってきてないか。
﹁監督⋮⋮朱に交われば赤くなるとか、ミイラ取りがミイラになる
とか格言を知らないんですか﹂
﹁う、うむ﹂
真剣な様子の真田に思わず頷く。確かに新加入選手、アシカに上
杉と明智に島津も山下まで皆が突撃思考の持ち主ばかりだ。そいつ
らをレギュラーにしていればチームカラーが攻撃的に染まっていく
のもある程度仕方がない事かもしれない。真田はひょっとしてその
犠牲になったのだろうか。
﹁いや、監督は他人事みたいに言ってますが俺達新加入選手を集め
857
てきたのは監督ですからね。このチームの突撃思考の大本は絶対に
山形監督ですよ﹂
アシカの言葉に止めを刺された。確かに攻撃的なチームが山形の
理想で好みではあるのだが、まさかここまで派手に攻め続けるチー
ムになるとは。
しかし元々彼が仮想敵として構想していたのは南米予選で無敗の
まま暴力的な攻撃力で猛威を振るった強大な王国ブラジルだ。中継
映像でも判るほどの破壊的な攻撃力と真っ向勝負するために作った
チームに、今更攻めすぎだと文句がつけられるはずもない。
そしてこの超攻撃的な布陣は今日の試合や次のサウジ戦のように
﹁勝つしかない﹂という場合には最も有効な戦術と選手達なのだ。
⋮⋮そうとでも思っておかないと胃痛が酷くなるから自己暗示をか
けているような気がするが山形は深くは考えまいとした。
するとそこにいつの間にか片腕のようになっている若手のスタッ
フが山形監督に近づく。
少なくともマスコミに情報を漏らしたりはしないという信頼があ
るので、側近として扱われてチームに同道している青年だ。さっき
までは監督以上に勝利に興奮していたようだったが、その彼がまだ
若々しい顔を引き締めて山形監督へ耳打ちしてくる。
﹁今入った情報によりますと、やはりサウジアラビアはヨルダンを
アウェーにも関わらず撃破したようです。スコアは一対ゼロ、サウ
ジの堅守からのカウンターにヨルダンが沈んだとのことです﹂
﹁そうか﹂
覚悟はしていただけに失望は少ない。もしかしたらホームのアド
バンテージを生かしてヨルダンが波乱を起こしてくれるのではと、
微かな期待をしていたが結局無駄に終わったようだ。
858
このアジア予選において第五節まで終了した時点で、日本の入っ
たグループのトップはサウジアラビアで四勝一引き分けの勝ち点十
三。第二位につけているのが日本で三勝一敗一引き分けの勝ち点十
だ。
幸い得失点差では日本代表がサウジを上回っているために最終戦
で日本がサウジに勝てば首位で予選突破が決まる。こんな時は大量
に得点を取れるチームで良かったと思う。だが、負けは論外だが引
き分けでもグループの二位のまま。他のグループ状況次第だがまず
予選の突破は無理だ。
つまりこうなってしまうと、
﹁日本の最終戦で絶対に勝たなきゃいけないってことか﹂
厳しい予感に体がぶるりと震える。
その時にまだ 声変わりのしていない子供っぽい声がかけられた。
どこから聞いていたのか、アシカの奴が口を挟んできたのだ。
﹁何を今更緊張してるんですか﹂
﹁む?﹂
あまりに軽い口調に、こいつは次の日本でのサウジ戦に勝たねば
予選突破がまず不可能だと気が付いていないのかと訝しむ。そこま
で察しが悪い小僧じゃなかったはずなんだが⋮⋮。
そんな山形の様子に呆れたようにアシカは言葉を続ける。
﹁勝たなきゃいけないって試合は今日もこなしたばかりじゃないで
すか。もう俺達選手の方は全員が勝つしかないと覚悟を決まってま
すよ﹂
いつの間にかアシカの後ろには代表チームのほとんどが顔を揃え
859
ては彼の決意に頷いている。
﹁そうか。そうだったよな﹂
山形は思わず笑みがこみ上げてくるのを止められなかった。そう
だ俺が作ったこのチームはこんな﹁勝つしかない﹂という試合でこ
そ最高のパフォーマンスを発揮するようにしたんだったじゃないか。
ならばこれ以上緊張も油断もするべきじゃない。
﹁明日からはまたサウジ対策の練習をするぞ、だから今日だけは皆
と一緒に喜んでおこう﹂
手近にいる生意気な小僧達の髪をぐしゃぐしゃにしながら撫で回
し始める山形であった。
◇ ◇ ◇
﹁さて解説の松永さん。前半終了時に﹁このままでは予選敗退は避
けられない﹂というご意見でしたが、その懸念を吹き飛ばしての見
事な逆転勝利でしたね﹂
﹁⋮⋮中国の意外なフェアプレイ精神に助けられましたね。私が監
督だったころはアウェーですともっと厳しい状況だったのですが、
今回の選手たちは運が良いですね﹂
﹁はあ、そうだったんですか。そう言えばアウェーの洗礼を受けて
負傷していた足利選手が途中出場しましたが、怪我の影響を感じさ
せない大活躍をしました﹂
﹁⋮⋮あれだけ元気にプレイできたんなら怪我も軽かったんでしょ
う。彼は怪我をしやすい体質なので私の時は代表へ選出しなかった
860
んです。その無理をさせなかった方針のおかげでここまで順調に成
長してくれたようで嬉しいですね。彼も私に感謝してくれているの
ではないですかね。ただ山形監督に酷使されて壊されなければいい
のですが﹂
﹁そ、そうですね、怪我などせずに大成することを望みましょう。
それと⋮⋮おっと、速報でサウジ対ヨルダンの結果が届きました。
やはりこのグループトップのサウジが下馬評通りにヨルダンを下し
たようです。これで日本は最終戦のサウジ戦で勝てばアジア予選突
破、引き分け以下ではおそらく予選での敗退ということになります。
ホームでサウジアラビアを迎え撃つ日本、どんなゲームを期待した
らいいのでしょうか?﹂
﹁とにかくまずはここまで攻撃に偏ってバランスの崩れたチームの
修正をしなければなりません。島津や上杉のような攻撃しかできな
いスペシャリストではなく、アスリート的に優れている控えのユー
ティリテイ性のある選手を使うのも手でしょう。何にしろアジア予
選は日本にとってノルマであり通過点です、これを突破できないと
世界とのレベルの差はますます広がってしまいますよ。山形監督と
イレブンにかかる責任は重大ですね﹂
﹁⋮⋮ええと辛口の批評の中に、溢れるほどの期待の大きさが垣間
見えるご意見でした。それでは時間ですので失礼いたします。来週
のアジア予選最終節、日本対サウジアラビアの一戦でまたお会いし
ましょう﹂
861
第五十話 次の試合に備えよう
﹁前を切れ、まずはゴール前への突破だけは阻止するんだ!﹂
﹁無理に止めようとするより、とにかく時間を稼いで仲間のフォロ
ーを待て。お前一人がディフェンスしてるんじゃないぞ!﹂
コーチ陣から厳しい指導の声が響く。
ハーフコートでの攻撃と守備の役割を決めてのミニゲームである。
サウジのエースであるモハメド・ジャバーによるカウンターを想定
した訓練だ。タイプ的に一番日本代表では似ている山下先輩を仮想
敵として攻め込ませ、守っているDF達は容赦なくしごかれていた。
特にマッチアップする機会が多いだろう武田とアンカーは何度もマ
ークする動きとディフェンスの連携を繰り返し体に覚えさせられて
いる。
でもこれだけしっかりと相手を想定した訓練をするのはうちの代
表チームには珍しい。もともとこの日本代表チームはアジア予選の
直前に完成したチームだけに、まずは味方同士の連携やチームとし
ての力をアップさせるのに時間を取られて個々の敵に対する詳細な
対策などはあまり練ってこなかったからだ。
俺はそのミニゲームを横目で見ながらフィジカルコーチとマンツ
ーマンでトレーニングしている。俺だって実践的練習に加わりたい
が監督が怪我から復帰したばかりの俺は大事をとって休ませるのと、
サウジには俺と似たタイプがいないから参加したらDF達のリズム
が狂うから駄目だ、との理由で参加を禁止させられたのである。
俺のプレイスタイルが独特だとたぶん褒められたのだろうが、そ
れでも除け者にされてしまったような寂しい気持ちが生まれてしま
862
う。
﹁足利君、こっちに集中して﹂
﹁あ、はい。すいません﹂
素直に謝罪してまた地味だがきついストレッチに戻る。これって
真剣にやると筋トレに劣らないぐらい体力を使うんだよな。終わっ
た後は練習着にしているジャージが汗でぐっしょりになって、しぼ
ると滴り落ちるぐらいだ。
でも本職の人から教わりながらやるのは色々と発見も多い。これ
まで自己流でやっていたストレッチにはまだまだ無駄な部分と足り
ない動きがあったようだ。コーチがいなくても自分一人でこのスト
レッチをこなせるよう努力しないとな。
額に汗を浮かべて一通り真剣に体中の筋をほぐしきるとコーチが
嬉しそうに肩を叩く。
﹁うん、これだけ動かせるならもう大丈夫、試合に出ても心配はい
らないよ。右足もちゃんと完治しているし他に悪い所もない。僕が
保障するよ﹂
﹁本当ですか! それは助かります!﹂
これは掛け値なしの本音である。右足の具合によっては中国戦と
同様に後半から投入するかもしれんと断られていたのだが、完治し
ているならフル出場ができる。
アウェーの地であれだけやられたのだ、俺がリベンジマッチに燃
えるのは当然だろう。これでコンディションは憂いなしで戦う事が
できるのだ。
そして俺以外にも当然ながらサウジアラビアとの再戦に入れ込ん
でいる奴もいる。レッドカードで退場したサウジ戦後に二試合あっ
863
た出場停止が解け、ようやく次の試合から出場できるうちのエース
ストライカーの少年だ。
だが⋮⋮こちらもチーム練習から離れて黙々とシュート練習する
上杉の体からは蒸気になった汗とともに殺気がまき散らされている。
どう見ても出場停止明けのストライカーとかいう光景ではなく、鎖
が外されるのを今か今かと待つ餓えた狼や虎といった猛獣の風情で
ある。
アウェーでの戦いには帯同してなかったのだから、他のチームメ
イトより休養がとれているはずである。なのに上杉のただでさえ無
駄な肉の無かった体がさらに削がれたように引き締まっている。
いつもは騒々しいくらいの上杉が愚痴の一言も言わずにシュート
練習をしていると、まるでいつ爆発するか判らない不発弾のような
扱いで誰も話しかけられない。
頼むから爆発するのは試合になってから、暴れるのは点を取るだ
けにしてくれよ。
一人で牙を研いでいる上杉を視界から外して、また俺はフィジカ
ルコーチとトレーニングを続行する。今度はリハビリや右足の治り
具合を確認する運動ではなく、試合中にどうやってファールから怪
我をしないで身を守るかの指導だ。今後﹁アシカはファールで潰せ
ばいい﹂と不埒な考えを持つチームと対戦した時の為に是非とも習
得しておきたい技術である。
こちらの方も自分の持っている半端な知識以上にコーチは幅広く
実践できる技を教えてくれた。よし、サウジ戦までに身につけるよ
うしっかり覚えておかないと。
こうしてサウジ戦までの代表練習は順調に進んでいった。
◇ ◇ ◇
864
﹁それにしても俺の評価が逆転しているな⋮⋮﹂
夕方のトレーニングを終えて食事も済ませると、手持ち無沙汰で
ネットに手が伸びてしまう。自分の評価がどうなっていようと仕方
がないのだから関係ないと無視すればいいのだが、つい自分の名前
を入れて検索などしてしまうのだ。
そこで中国から帰国した後で恐る恐る調べてみたのだが、どうや
らネット上では俺の評価が急上昇しているようだ。まだスタミナが
ないとか競り合いに弱いという正当な批判はあるが、怪我に弱いと
いう非難には﹁サウジの毒蛇君って言われてる奴らに二人がかりで
ファールされたんだよ、あれはもしアシカが怪我に弱かったりミサ
ンガが守ってくれなかったら引退ものだよ!﹂と擁護してくれる謎
の人物もいて心強い。
ただなぜこの人物が、お守り代わりにしていたミサンガが切れる
まで俺の体を守ってくれたというオカルト染みた話を知っているの
かが不審である。親しい人間にしか喋っていないのだから、もしか
したらストーカーかパパラッチのように身辺を伺っているのかもし
れない。まだそんな人物達に狙われるほど有名になったつもりはな
いが、念の為に母や真にも不審者がいないか気を付けるように言っ
ておこう。一応二人とも女性だしな。
ま、それはともかくアウェーのサウジ戦で最底辺にまで落ちてい
た自分の選手としての価値が上がったのは嬉しい。明智の控えで良
いという意見もなくなって、スタメンの一員としてちゃんと戦力に
数えられている。
特に中国戦の最後のループシュートは﹁あそこからダイレクトで
狙えるのは凄い﹂とか﹁絶対まぐれだ﹂とか賛否両論ではあるが話
題になっている。ただ俺はこれまでの公式試合ではアシストはとも
かくそれほど得点はしていなかったので、決定力についてはまだ疑
問視している者もいるようだが。
865
その前段階の中国キーパーが弾いたルーズボールにいち早く追い
ついた動きは完全にまぐれとされているな。好意的な意見でもせい
ぜいが﹁あの位置に移動していたこと事態が凄いんだ﹂と俺がこぼ
れ玉の位置を予測して動いていたとは誰も思っていないようだ。
それも仕方のない話だ。実は俺は鳥の目のようにピッチを上から
眺めて状況をリアルタイムで分析・把握をしているのだとは言って
も信じてくれないだろう。 それよりも腹立たしいのが、なぜか俺が前監督である松永の秘蔵
っ子だと勘違いして噂されている事だ。なぜか俺の成長途中である
体と才能を守るためにあえて過酷な代表チームに選ばなかった、と
いう麗しい師弟愛のストーリーが出来上がっている。
いったい何の冗談だよ? 秘蔵っ子どころかあの前監督と顔を合
わせたのは一回だけ、代表合宿に参加した際に挨拶しただけだ。し
かも前監督は素っ気なく頷いただけで声さえも聞いてねーよ。
その挙げ句に後は全国大会で優勝しても全く音沙汰なしだ。俺の
体を気遣っているっていうなら、他の選手はどうなんだとか試合に
は出さなくても合宿の練習には参加させろよとか突っ込みたくて仕
方がない。
どうしてこんな根も葉もない噂が流れるんだか。
そんな俺の意見を代弁するかのように﹁実際はアシカは松永前監
督に嫌われて召集されなかっただけだし、あの松永が曲がりなりに
も監督だと威張っていられたのは現役時代に築いた実績と人脈のお
かげだ﹂とする内部情報を知ってるんじゃないかと疑いたくなるほ
ど事情通のアンチ松永一派が現れた。
それに対抗してか﹁松永前監督はカルロスをブラジルに行っても
代表で通用するまで育て上げ、アシカに対しても体力面を考慮して
選出しないという自分の実績より選手の将来を考える名監督だった。
つくづく健康に問題がなければ続投してほしかった人材だ﹂とする
866
松永の擁護派、ハンドルネームが﹁サッカーは爆発だ﹂という爆発
が好きそうな人間も現れて大論争を展開しているようだ。
なんだか面白そうではあるが、俺が手出しをすると事をややこし
くしそうだな。
ぶるりと頭を振って余計な詮索を強制終了する。よし、気分転換
終了だ。
まずはサウジアラビア戦に勝つことだけを考えなくては。マスコ
ミやネットの対策なんかは後で構わない。結局俺達が勝てば賞賛さ
れ、負ければボロボロになるまで叩かれるだけだ。勝って自分の意
見を言えるようにしないと負け犬の遠吠えだと誰も耳を傾けてはく
れないだろう。
ベッドで横たわると目を閉じて頭の中でサウジアラビアとの試合
をシミュレートする。選手としての目線ではなく、ピッチを上から
鳥の目で見ている映像が脳内に浮かんだ。
ゲームのように選手たちが走り、ボールが動く。
よし、昨日より日本代表チームと俺の動きがさらに洗練されてい
る。具体的にイメージが固まってきたからか連日の特訓の成果だろ
うか、日を追うごとに想像した日本チームが強くなっていくのだ。
もちろんこれは妄想でしかない。だが俺はピッチ上では司令塔と
しての役割を期待されているのだ、このイメージ通りに代表チーム
と自分の体を動かせたら圧勝できるぜ。
︱︱待ってろよ、サウジアラビアと毒蛇め。
ベッドに横になっても眠気はなかなか訪れない。敵のフォーメー
ションを破るタイミングでは右足がピクンと小さく跳ね、敵のカウ
ンターがくると歯を食いしばり首の筋肉が張りつめる。
端から見るとうなされているのかと勘違いしそうな寝相になりつ
つ、俺は自然と眠りに落ちるまでずっと頭の中で考えられる限りの
867
攻め方のパターンと守備を検討し続けていた。
868
第五十一話 クラスのみんなと仲良くしよう
﹁暑い⋮⋮こんな中でサッカーなんてよくやるなぁ﹂
﹁そーゆーアシカはもっと暑い中試合やってるし、今も頬が緩んで
るけど気がついてる?﹂
珍しく黒く長い髪をポニーテール風に後ろで結わえている真に腕
組みで指摘されて、慌てて手で自分の頬を触り確認すると確かに勝
手に笑顔を作っている。いやまあいいじゃないか、今は学校の体育
の時間だがまさかサッカーができるとは思わなかったのだ。
夏休み前の最後の体育の授業になるのだが、一学期のカリキュラ
ムは全て終えて成績まで付け終わったという体育教師が自由時間に
してくれたのだ。水泳だけは他のクラスがプールを使用しているた
めに駄目だが、他はスポーツなら何をしてもいいとなったので自然
発生的に男女混合でのサッカーになったのである。
体育教師曰く﹁怪我だけはするなよー、俺の責任になるからなー﹂
とのことだが、本音を堂々とさらけ出すこの放任主義の教師は結構
慕われている。
このクラスには俺は別としてもサッカー部に入っている奴も多い
し、アジア予選をテレビで応援してくれるクラスメイトもいるから
たとえ一過性でもクラス内でサッカーが流行っているせいだろう。
まあ疲れるのが嫌な奴は参加しなければいいだけだしとすんなりと
やるスポーツは決定された。
すると﹁真剣勝負じゃないのならやってみようか﹂と意外に多く
の参加者が出て、男女合わせて三十人も参戦することとなったのだ。
時間がもったいないので十五人ずつの二チームに編成、授業終了の
チャイムが鳴った時に多く点を取っていたチームの勝ちというルー
869
ル。負けたチームは使った道具類の後始末、という妥当な軽い罰ゲ
ームつきである。
俺の入った方のチームはサッカー経験者は俺を除けば小学校まで
やっていた男子が一人だけ、後は体育の授業や草サッカーを遊びで
やった事があるぐらいの初心者ばかりだ。加えて女子の人数もこっ
ちのチームが多いな。
うちのクラスのサッカー部員は全員が敵のチームにいってしまっ
た。これは別に俺が嫌われている訳ではなく、対決して代表の一員
である俺の力を感じたいみたいだ。
とりあえず十五人のチームメイトを集めて適当に作戦を練る。こ
の時当然だが現役の選手である俺がゲームキャプテンとなってこっ
ちのチームをまとめる事となった。だがチームのほぼ全員が初心者
だ、複雑な作戦など出来るはずもない。簡単で判りやすい作戦にし
ないとな。
﹁ボールが足元にきたらまず敵のゴールに思いっきりシュートしよ
う。それが駄目ならゴールに向かってドリブルしよう。もしそれも
敵がいて無理だと思ったら俺か味方にパスをしようか、後は俺にま
わってくればこっちが何とかするからな。
それにサッカーするんだから突っ立ってボールが来るのを待って
いても楽しくないだろう? とりあえず、味方からパスが来たらゴ
ールを狙いに行く。敵が来たらボールを取りに行く。その事だけを
みんなで全力で取り組もう。そして一番大切なのは、俺も最初に教
わった事だけど楽しみながら怪我にだけは注意してプレイすること
だ。いいな?﹂
小学生時代の矢張サッカークラブに入った時の試合を思い出す。
あの時の下尾監督もこんな微笑ましい気分だったんだろうな。とい
う訳で矢張伝統の﹁明るく・楽しく・怪我なくプレイ﹂しようと決
870
めただけだ。
そうして試合が開始されたがやはりこっちのチームはなかなか上
手くボールがつながらない。ポジションも俺ではなく各自が適当に
自分がやりたいポジションに決めたのだからまともにはなっていな
い。向こうはサッカー部員であるFWとMFにDFの三人が軸とし
てそれぞれのポジションをまとめているようだ。
対するこっちは俺がセンターバック︱︱いや攻撃の組み立てもす
るのだからリベロである。守備はザルなんだからと諦めて、俺が止
めるからクラスメイトは前へ行けと指示したのだ。そうするとほと
んどのチームメイトが前線に行ってしまった。素直すぎるぞ、お前
ら。
そう抗議したら﹁いやアシカ君の試合を見てたら、サイドのDF
もセンターのDFもどっちも攻撃に上がってたよ?﹂とこっちがお
かしな事を言ったような目で見られる。島津に武田め、お前らの悪
影響が広がっているぞ。
そのせいで守備をしているのが俺とキーパーにもう一人だけなの
だが⋮⋮。
﹁ねえアシカ。キーパーの場合ものすごく大きな麦わら帽子とか手
の大きさの百倍もある手袋とか付けちゃダメなのかな? 面積が大
きければ止める確率も上がるはずだよね?﹂
⋮⋮あまりDFとしてはあてにならない真がディフェンスの相棒
である。俺一人に守備をさせるのは可哀想だからと残ってくれた心
意気だけは感謝しておこう。そして後ろのキーパーも走るのが面倒
だからとキーパーに立候補した奴だ。俺が頑張らないと何点取られ
るか判らないな。
いやこれまでも何点分もの失点を防いでいるんだけどな。
おっと、またお客さんだ。サッカー部のFWは今度も遠目からシ
871
ュートを撃とうとはせずに俺を抜いてからゴールしようとしている
な。
正直後ろのキーパーはロングシュートを止められそうにないから
俺と勝負してくれると助かる。
でも、なんというか敵の動きがぎこちなく感じる。この相手もサ
ッカー部では期待のルーキーのはずだが、スピードが遅いんじゃな
くて一つ一つの動作のつなぎが荒くてキレが悪いようなのだ。だか
ら、ほら。フェイントと本命の抜こうとするプレイの差がはっきり
判ってボールを簡単に奪い取れてしまう。
よし、久しぶりに前へ行こうか。
確保したボールを前のスペースへ転がすと、歩幅の広くタッチす
る回数の少ないドリブルを開始する。細かく触るより大雑把なほう
がスピードは上がりやすい。
相手もチェックに来るが、いくら何でも素人には止められない。
運動部の奴でもサッカー未経験者だと、反射神経は良くてもころこ
ろフェイントに引っかかってくれるので、つい相手のバランスを崩
すのが楽しくなって相手が尻餅をつくように仕向けてしまう。むし
ろ困ったのは女子が相手の場合だ、詰め寄られても接触を一切せず
に抜こうとするので気を使って難しいのだ。
おっと、ようやく向こうもサッカー部のMFがマークに来た。初
心者なら手加減するが、こいつらならそんなのはいらないだろう。
随分と上から目線だがドリブルで突破する事に決めた。
実はこいつは俺が一周目この学校のサッカー部に入部してた時に
はよく部活の練習でマッチアップしていたんだよな。あの当時はス
ッポンみたいにしつこいディフェンスで対峙する度に抜くのに苦労
させられたものだ。
さて今回はどんなもんだろうか。まずは半分フェイントのつもり
872
でアウトサイドに一回ボールを動かして様子を見るが、反応なしだ。
あれ、見破られたかな? いや、今重心が動いた。その瞬間にイン
サイドでボールをタッチして変形のエラシコのように切り返す。な
んだかそのままするりと抜けてしまった。あっさり突破できてしま
ったが罠じゃなかったのか?
そして敵を抜き去った後でも妙にフォローが遅い。素人ならばと
もかくサッカー部のDFは何をしているんだ? このままならタッ
チライン沿いにどこまでも侵入してしまうぞ。
お、来た来た。よし、このタイミングなら、一・二・三・ここだ。
横へ併走しかけたサッカー部のDFの股の間を通して低くて速い
アーリークロスを上げる。
相手ディフェンスの裏へ飛ぶとそこから戻ってくるような感覚で
曲がって狙った相手に渡る。
よし、うちの俺以外では唯一の経験者であるFWにパスが通った。
そこでシュートだ! ⋮⋮ああ上空高くシュートを吹かしてしまっ
た。
﹁ドンマイ、ドンマイ。次またパス出すぞー!﹂
俺の言葉になぜか味方より敵の方が過敏に反応し動きが強張る。
ん? どうした。
﹁はあはあ。えーと、アシカが上がると試合にならないからやりす
ぎるなって事﹂
ポニーテールをなびかすというよりぴょこぴょこと上下させて走
ってきた真がこっそりと耳打ちしてくれた。う⋮⋮確かにドリブル
突破は大人げなかったかな、少し自重しよう。しかし、真は俺みた
いにスピードを上げて走った訳でもないのにここまで来るのに息を
切らせ過ぎだ、運動不足だな。
873
﹁うるさい、この体力馬鹿﹂
﹁え? 俺代表ではスタミナを強化しろって言われてるんだけど﹂
﹁そんなレベルと一般中学女子を比べないでよー﹂
すまん、比較対象が悪かったのは確かだな。納得する俺に小さく
真が囁く﹁それにサッカー部の人の事も代表と比べちゃってるんじ
ゃない? あの人達ちょっとへこんでるよ﹂その言葉に慌てて見回
すと確かに敵チームのサッカー部員三人が少し元気をなくしている。
いかん。無意識の内にあいつらをアジア予選に出てくる相手国の
選手だと思ってプレイしていたな。困惑して頭をかくとそこで自分
の中の目盛りがどこか狂っていることに気がついた。
俺にとって普通の選手とは練習する時に周りにいるユースか代表
の選手達が基準になっているのだ。そりゃプロを目指しているユー
スや年代別とはいえ日本の代表と部活動の部員を比べて﹁反応が遅
い、どうしたんだ?﹂と思っちゃいけないな。
ここはちょっと空気を切り替えるためにも、よし。
﹁じゃあ、俺はキーパーをやろう﹂
﹁え? アシカってキーパーやったことあるの?﹂
﹁ふふふ、高校一年の時お遊びで一試合やったことがある﹂
﹁面白くないよ、そのジョーク﹂
真ははぐらかされたと感じたのか頬を膨らませるが、この後の試
合は楽しい展開になった。
俺がキーパーのくせに時々ドリブルでセンターラインまでオーバ
ーラップするものだから、敵味方も大混乱で大騒ぎだ。そして敵ゴ
ール前やサイドで待っている味方に、できるだけ偏らない様ににパ
スを配給しては自分のゴールへ戻っていく。その間に敵がカウンタ
ーを仕掛けてくれば即失点というスリリングな試合である。
874
ゲームキャプテンでキーパーの俺が﹁ふふふ、止められるもんな
ら止めてみろ! あ、しまった止められた﹂とか言いながらどんど
んボールを持ったまま上がるものだから味方のどちらかというと後
ろにいた連中も上がらざるえない。いや上がらないとドリブルして
いるキーパーの後ろ十メートルで自分一人が取り残されてオフサイ
ドラインを形成しているという意味不明の事態になったりしたのだ。
こんなのでまともなサッカーになる訳がないが、それでも敵も味
方もピッチ上にいる全員が笑って楽しそうにプレイできているんだ
から合格だろう。
でもちょっとだけうずうずしてきたな。
俺はぶるりと体を震わせると久しぶりに戻った自陣のゴール前で
大声で叫ぶ。
﹁よし! 点を取りに行くからパスしてくれ!﹂
﹁それ、キーパーの台詞じゃないよね﹂
最近真のツッコミが冴えてきたようでちょっと怖い。これ以上成
長してほしくないな。⋮⋮いやまあ小学生並のスタイルには成長の
余地があるだろうが。
﹁な、何かなその目は? いったいどこを見てるのかな!﹂
﹁こほん、すまん。お、ボールが来たな、いっくぞー!﹂
﹁え、ちょっと待てー!﹂
敵のゴールへ向かっての一直線に進む中央突破。
この試合最後に俺は十六人抜きという離れ業を達成することにな
る。なお敵チームが十五人しかいなかったにも関わらず抜いた人数
が増えているのは、まず突破した一人目が味方のはずの真だったと
いう理由による。
試合後に俺の評価が﹁素人相手に大人げない奴﹂と﹁さすがに代
875
表選手は上手い﹂に二分されたが、今更気にはならない。何しろ代
表戦の特にアウェーの後はもっと酷い批判が色々あったからな。
試合にも負けてしまったが、勝ったチームの奴らも結局後始末を
手伝ってくれて﹁今度の試合に応援に行くからなー、絶対勝てよー﹂
と声をかけられた。
クラス内にあった微妙な空気はとりあえず一緒に汗を流して笑い
合った事で払拭できたようだ。単純かもしれないが、これがスポー
ツとぎりぎり子供に入るこの年代のいい所だよな。
それよりもサウジアラビア戦を二日後に控えていい気分転換にな
った。試合に向けてぎりぎりまで張りつめていた緊張が少し緩み、
改めてサッカーは楽しくて大好きだと再確認してリラックスした状
態で大事な試合に臨める。うん、心身がベストに整いつつあるな。
ああ、それにしてもサッカーが終わったばかりだが、やっぱりこ
う思ってしまうのが俺の救いようのない所である。また早く次の試
合をしたいものだ、なんてな。
876
第五十二話 美味しい夕食をいただこう
﹁で、どうだった最年少代表選手様の足利の実力は?﹂
﹁ええ、やっぱり全力は出してないみたいでしたけど凄く上手かっ
たのは確かですよ、僕も簡単に抜かれちゃいましたから。それに、
よっぽど対戦経験が豊富なんですかね。なんだかサッカー部の僕達
がどんなプレイをするのかも、初対決のはずなのにまるで事前に知
っていたみたいな感じで一目で見抜かれちゃいました。それで⋮⋮
その試合が終わるとあいつが羨ましくなりました﹂
﹁へえ﹂
尋ねたサッカー部のキャプテンも少し驚いたような声を出す。
今日体育の授業で足利と一緒のクラスの部員がサッカーで対戦し
たと聞いていたのだが、いくら同じ一年生でも相手が悪い。ユース
から代表へ駆け上がったエリートとまだ部活でも控えの一年坊主で
は勝負にならないだろうなとは思っていたのだ。だが興味はあって
も足利とはどうにも年も学年も上のキャプテン達が一緒にサッカー
をする機会はなかなかなかった。それでこのルーキーが代表選手に
どのぐらい通用するか興味津々だったのだ。
技術的には相手にならないのは想定内である。
だがこの一年のFWは同い年でありながらすでに代表に選出され
ている足利に強烈なライバル意識を持っていた。だから負けた場合
は鼻っ柱をへし折られてしゅんとしているだろうと予想していたの
だ。しかしこの反応はちょっと予想とは違う。
あれだけ負けたくないと意識していた相手が羨ましいだと? 何
があったのかキャプテンとしても気になる。
﹁てっきりお前が叩きのめされてへこんでくると思ったんだがな。
877
それが対戦して悔しいとか追いつくのを諦めたとかでもなく羨まし
いだと? 一体どうしたんだ?﹂
﹁はい、ええとあいつは俺達サッカー部相手にはあまり手を抜いて
ないみたいでしたけど、サッカーの素人相手には思いっきり遊んで
たんです。結構女子やまるっきりの初心者相手にはボールも取られ
てましたし。結局最後なんかはドリブルで全員抜いちゃいましたが、
それまでは敵も味方もそしてなによりアシカの奴が一番楽しそうで
した。俺も試合中に声を出して笑ったのなんか久しぶりだったから
⋮⋮なんだかあそこまで楽しそうにプレイしているのが羨ましくて。
あんなに上手くなりたいとかよりも、あんなに笑いながらサッカー
を楽しめたらいいだろうな、って﹂
なんだか話しを聞く限りでは相手にもならなかったにも関わらず
試合の内容を嬉しそうに報告する少年がいつもとは別人のように感
じる。こいつは部活の練習などの態度から、もう少し生意気な性格
の奴だと判断していたのだが⋮⋮、あ、生意気といえば確認してお
きたい噂があったな。
﹁足利の性格はどうなんだ? 一時期凄く生意気だとか、周りを子
ども扱いするとか、チームメイトの名前さえ覚えないとか叩かれて
いたが﹂
﹁ああ、別に性格は良いとは思いませんが悪くはないですよ。サッ
カーだけでなく成績もいいのに別に鼻にかけたりしませんし。ただ
人の名前を覚えるのは確かに苦手みたいで、あまり親しくないクラ
スメイトには委員長とかの役職で呼んだり﹁ちょっといいかな﹂な
んて名前を省略したりしていますね﹂
﹁なんだ、その程度か﹂
キャプテンにとっては完全な肩すかしである。小学生の頃から代
表の監督に目をかけられ、怪我しないようにと優遇されていたのな
878
ら﹁俺は一般人とは違うんだ﹂ともっとエリート意識に凝り固まっ
て増長していても不思議はないのだが。少なくともネット上で叩か
れていたほど性格は腐ってなさそうだ。
﹁だから、ちょっとご相談なんですが。たぶんあいつも出るってい
う今度のサウジ戦に応援に行っても良いですかね? ちょうど日曜
のうちの練習時間と重なっちゃってるから部活を休まないと応援に
いけないんですよ﹂
﹁⋮⋮まあ監督が良いと言ったらうちの部全員で会場まで応援に行
くのもいいか。同年代の代表の試合を直で見られるのはいい経験に
なるだろうし。もし駄目でも試合中継の間だけは視聴覚教室のテレ
ビでリアルタイムに観戦させてもらえるように交渉してみよう﹂
﹁さすがキャプテン、ありがとうございます!﹂
勢いよく頭を下げる後輩に﹁気にするなって﹂とキャプテンは応
じる。これでチーム全体のモチベーションが上がれば安いものだ。
目標というか越えようとする相手が身近にいるのは幸運である。
これでこいつは一皮むけるかもしれんな。他の部員にしても日の丸
を背負った選手が同じ学校にいるだけでいい刺激になるだろう。
そのためにも次のサウジアラビア戦、足利と日本代表には是非と
も勝ってもらいたいものだ。
◇ ◇ ◇
﹁いただきます﹂
三人の声が唱和する。もはやお馴染みになった試合前の激励を兼
ねたちょっと豪華な夕食会である。なぜか当たり前のように真が居
たり、母が﹁今月はちょっと速輝の試合が多かったから贅沢に食費
879
を使っちゃったわね﹂とため息を吐いていたができるだけ気にしな
いようにする。ごめんなさい、プロになったら倍にして返すからも
う少しの間だけは待っていてほしい。
まずはメインの大皿に盛られた唐揚げに手を伸ばして一切れを味
わう。うん、皮はさくっとしてながらも中はにんにくとしょう油味
のタレが染み込んでいて、いくらでも食べられそう⋮⋮っていかん。
俺が大皿を丸ごと食い尽くしてしまいそうだ、少し勢いを落さなき
ゃいけないな。
俺が大皿から唐揚げをとっている間は女性達は自分達の分を確保
するのは控えていてくれたようだった。運動している成長期の俺と
比べたらいけないが、女性ってこんなに小食なのかな。それとも俺
の食べる勢いに引いちゃったとか、そうならもっと食事のスピード
を落とさねば。俺の手が止まると女性達は自分の分の唐揚げを取る
とその上にレモンをしぼる。あ、ちなみに俺は唐揚げにレモンはか
けない派である。もしどちらかが大皿に直接レモンをかけてたら戦
争だったな。
そんな風に考えた時タイミング良く真が話題を振ってくれた。 ﹁そういえば今日の体育の授業ではアシカはずいぶんと張り切って
たねー。なんだか敵の大軍に単騎で突入するアクションゲームを思
い出しちゃったよ﹂
﹁あら、速輝が何かしたの?﹂
若干興奮気味に頬を染めている真と不思議そうに首を傾げる母に
対して俺は苦笑して答える。
﹁体育でサッカーだったからついちょっとね⋮⋮﹂
唐揚げからサラダへと箸の矛先を変える。以前は野菜が嫌いだっ
たのに、今は体のことを考えて食卓に出された分はしっかりと噛ん
880
で食べるようにしている。慣れれば野菜も美味しく感じられるもの
だ、いやそれでも肉類が好物なのは変わらないんだけどね。
﹁十六人抜きはちょっととは言わないよ﹂
﹁あらあら、速輝もダメじゃない普通の子供に本気を出すなんて﹂
﹁いや、ちゃんと手加減はしたつもりだよ。スピードやパワーで強
引に抜いたりなんかしなかったし、女子には体にかすりもしないよ
うに気をつけたんだけど﹂
たしなめるような口調の二人に一応抗議はしておく。ただ単に無
双して目立ちたかったらキーパーなんてやらないって。ちゃんと皆
が楽しめるように試合中も配慮したつもりだ。
﹁え? あれ本気じゃなかったんだ。私が抜かれた時には本気でボ
ールが消えたみたいに見えたけど﹂
真は目を丸くしてる。最後の突破ではこいつには一番気を使って
抜いたんだよな。真が眼鏡をかけたままだったから、万が一にも体
に接触して転ばせたりしないよう普段より大きくボールを動かして
目がついていかないような深い切り返しで振り切ったんだ。
まだアジアレベルでしか実戦投入はしていないとはいえ国際戦で
も通用する技術なのだから素人目に判らなくても当たり前だ。﹁お
かしいなぁ、ゲームだったらあのタイミングであのボタン押せば絶
対私が止めてるはずなのに﹂と呟く真が最近ゲームやネットにはま
りすぎの気がして怖い。ちょっと外へ出るよう誘ってみるか。
﹁あ、今度のサウジ戦は二人とも応援に来ないかな? 二枚ならチ
ケットは家族枠でもらえるし、試合会場も近いしさ﹂
﹁え、いいの?﹂
﹁あら、ありがたいわね﹂
881
真も母も嬉しそうだ、二人がお互いの顔を見合わせて﹁あの不吉
な事しか喋らない解説者の声を聞きたくないのよねぇ﹂﹁ええ、あ
の人ってアシカを一回代表から落とした人ですよねぇ﹂﹁え? あ
の人が! 本当なの? 試合中も速輝の怪我が心配だ、まだ出すべ
きじゃないとかずっと速輝を気遣っていてくれていたのに﹂とか話
し合っている。うん、その解説は間違いなく気遣いとか心配とかじ
ゃないよね。
何にせよこの二人が会場で直に応援してくれるなら俺のモチベー
ションもさらに上がる、こっちこそありがたいな。
﹁応援に行くのは全然構わないどころか大歓迎だけど、アシカも前
回のサウジ戦みたいなのはもう勘弁してよね﹂
﹁ん? ああ、判ってるって。今度は負けない、絶対に勝つよ﹂
力強く約束する。前回のサウジ戦といえば予選唯一の敗北を喫し
た試合である。
確かに真と母に限らず、サポーターにもわざわざ応援に来てもら
って敗戦した挙げ句に予選突破ならずという屈辱を味あわせる訳に
はいかない。何が何でも勝つしかない。
そんな覚悟を決めていると、母が﹁速輝は全然判ってないわね﹂
と首を振った。
﹁私も真ちゃんも前みたいに怪我をしないようにって言ってるのよ﹂
﹁あ、そうか⋮⋮﹂
俺がサウジから足を引きずって帰国した時には涙ぐんで出迎えて
くれた二人を思い出す。サッカーの事は抜きにしても、この二人共
があんな表情をしている光景はもう見たくないな。
882
﹁うん判った。怪我はしないように気をつけるよ⋮⋮そして絶対に
勝つ﹂
サッカーをやっている限り﹁絶対に怪我をしない﹂とは約束でき
ない。もちろんあらゆる手段で怪我をする確率を減らそうと努力す
るが試合中のアクシデントに関してはゼロにはできないのだ。
でももう一つつけ加えた方は約束できる。というよりも約束でき
なければ代表のユニフォームを着てピッチに出てはいけない。
うん、そうだ⋮⋮俺と日本代表は絶対に勝つんだ。
﹁そうよ、体に気を付けなさいよ﹂
﹁うん、アシカがいつも言ってるみたいに明るく・楽しく・怪我な
くやれれば、今日の体育みたいにきっと上手くいくね﹂
﹁簡単に思い通りにいく相手ならいいんだけどな。でもそうなるよ
うに努力をしないとな﹂
﹁じゃ、上手くいくのを願って唐揚げをアシカにプレゼントだ﹂
﹁お、サンキュー。これでますます勝つしかなくなったなぁ﹂
レモンがかけられた唐揚げはいつものより少しだけ酸味を感じさ
せてさっぱりとしている。うん、意外と悪くないな。これだけ美味
しいのをもらったからには絶対に活躍しないと。
︱︱そしてアジア予選最終節、サウジアラビア戦の日がやってき
た。
883
第五十三話 チームの士気を上げよう
閉じているドアの向こうから微かに観客のざわめきが伝わってく
る。さすがに予選突破か否かの結果が決まる最終節、しかもホーム
ゲームである。これまでの予選中であったどの試合よりも多くの観
客席が埋まっているのだ。
そんなざわついた雰囲気の中、山形監督はロッカールームで自分
の言葉を待ってじっと目を凝らし耳を澄ませている少年達を見回し
た。
彼が前任者から受け継ぎ、そしてそこに日本中から探し出した選
手を加えて鍛えた日本代表のメンバーだ。これ以上のチームを作る
ことは彼には不可能だった、そう断言できるほど短期間とはいえ精
力を傾けて作り上げた自慢のチームである。
﹁皆、まずは礼を言わしてくれ。予選前に急遽変更された監督であ
る俺に今日までよくついて来てくれたな。結果いかんによってはこ
のチームも今日までとなるが︱︱﹂
﹁そんな辛気くさい事べらべら喋らんでもええやろ。ワイが帰って
きたんや、復帰祝いにハットトリックをしたらアホなミスせぇへん
限りは間違いなく勝つわな。タイタニック級の大船に乗ったつもり
で、監督はデンとベンチに座っててくれたらワイが勝利をプレゼン
トしたるわ﹂
山形の言葉を止めたのはこの代表のエースストライカーである上
杉だった。彼はアウェーのサウジアラビア戦で痛恨の一発退場を宣
告され、それ以来出場が停止されていたのだ。処分が明けてやっと
今日試合に出られるようになったと意気込む彼の体から放たれる熱
884
量は、エアコンが入っているにも関わらずこの部屋をかなり暑苦し
くしている。
随分と生意気な台詞ではあるが、それが上杉の胸を張り腕組みし
たどこか偉そうな姿と逆立てた髪にはぴたりと似合っている。うむ、
もしもこのロックな少年が一発退場のショックで点取り屋らしい覇
気を無くしていたら容赦なくスタメンから落とすところだ。だが、
理不尽なレッドカードを突き付けられるというトラブルを経てさら
に精神的に図太くなっているようだ。まさにストライカー以外のポ
ジションでは使い道がない唯我独尊な少年である。
上杉のぎらぎらした眼光と不遜な態度にかえって山形は安堵する。
よし、これなら問題なく彼に最前線を任せられそうだ。
山形監督は破顔して精悍さを増したエースに頷く。
﹁そうか、前置きには退屈している奴もいるみたいだな。じゃあさ
っそく今日の試合のスタメンと作戦の最終確認をしておこう﹂
そうして発表したスタメンはアジア予選の初戦であったヨルダン
戦とほぼ同じだ。
ここ二・三試合の不本意なある意味妥協を余儀なくされたチーム
事情から解放され、ようやく怪我や出場停止の影響なくベストのチ
ームを編成出来た山形は満足だった。
ただ初戦と少し違うのはDFである武田をスタメンに入れ替えた
ぐらいか。試合で使ってみて真田とのコンビネーションも悪くない
ようだし、高さと強さがある分ストッパーとしては申し分ないと最
終戦でもスタメンに起用したのである。武田もこの予選で一気に成
長した選手の一人だろう。
さらに山形は相変わらず右のサイドバックには島津を起用し続け
ている。こいつには守備がザルだとの批判も多いが代表チームを攻
撃的にするためには欠かせない人材だと思っているのだ。この島津
がDFとしてチームに加わっている限りはピッチにいる代表の全員
885
が、監督は守り切る作戦を採るつもりがないと意思表示しているの
を感じ取れるのだ。ある意味攻撃的な日本代表チームを象徴する選
手とも言えよう。
そしてFWには監督として一番気にしていた復帰明けとなる上杉
だ。これまでの練習や試合前の態度を見る限りでは退場明けでも委
縮することなく、いやいつも以上に堂々として気合が入っている。
二試合休んだために体の疲労はないはずなので上杉の精神面のコン
ディションさえ良好ならばアウェーの二戦で不発だった控えのFW
を出す必要はない。
前試合から実戦に帰ってきたMFのアシカにしても怪我の影響は
もうないらしい。フィジカルコーチからも﹁フル出場に問題なし﹂
との報告を受け取っている。中国戦での好調を維持しているのなら
きっと今回もやってくれるに違いない。
他のメンバーも連戦や遠征の後の疲れも見せず、心身共にいい状
態に持ってこれた。
今の山形監督が考えうるこの年代の日本で最高の選手達で作った
スターティングメンバーだ。必ず勝利を掴んでくれるだろう。
でも試合前に彼らの力を十分に引き出すためには、最後に気合を
入れる演説を行い選手たちのテンションを上げて﹁絶対に勝つぞ﹂
と決意させて試合に向かわせなければならない。
実は山形はこういった場面が苦手なのである。元々厳ついご面相
に、自分が現役の頃は鉄拳制裁も日常の完全に体育会系の縦社会で
育ってきたのだ。今更現代っ子を感動させるような名台詞がぺらぺ
らと出てくるはずもない。
その為にこうした試合前の時に喋るべき言葉は事前に色々と考え
ては来ているのだが、選手達を前にしてメモを読み上げる訳にもい
かない。そんな事をしたら士気が上がるどころか、選手達があくび
を噛み殺す退屈な時間になって試合に対するモチベーションも下が
886
ってしまう。
そんな訳で出だしはともかく演説の後半になると、メモしていた
はずの内容から外れてほとんどがアドリブである。だからこそこの
状況で口を開くのは勇気が必要だった。もしかしたらこの最後の演
説の出来次第が選手達に影響しアジア予選の成否が決まるかもしれ
ないと深く考えすぎた山形は、肩と口にほとんど物理的な重みを感
じていたのだ。
こほんと、拳を唇に当てて咳払いをすると改めて代表の皆に向け
て語りかける。
﹁お前達、今日は勝たなきゃいけない試合ってことは判っているな?
このサウジアラビア戦に勝たなければ日本の予選突破はない。も
う引き分けでも救われないことが他のグループの結果で決まってい
るんだ。この引き分けでも予選敗退という情報を試合前の今話して
いるのは士気を下げる為じゃなく、俺はグッドニュースだと思って
いるからだぞ。下手に引き分けでも仕方ないだなんて馬鹿な負け犬
の理屈を試合中に考えずにすむからな。よく覚えておけ、今日の試
合に限って言えば勝利以外は敗北でしかないんだ。だから︱︱﹂
まるで今見つめている日本代表が敵であるかのように山形は眼光
鋭く睨みつけた。
﹁だからサウジアラビアを叩き潰せ。一片の慈悲もかけるな。点差
が何点開こうと容赦するんじゃない。前回の戦いを思い出して見ろ、
あの酷い試合に比べてホームの今日のピッチは慣れた美しい整備さ
れた芝だ。審判は公平なジャッジをしてくれるはずだ。観客はみん
な俺たちのサポーターだ。負けるどころか引き分けにされる要素す
ら一つもない。勝つためのお膳立ては周りが全て整えてくれている。
後は俺達がそれを実現するだけだ﹂
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山形は一息ついてロッカールーム内の全員が聞き入っているのを
確認する。あの上杉やアシカでさえ真剣な表情で耳を傾けているな、
よし。
﹁中国戦が終わってから今日まで、今までにないほどの具体的なト
レーニングでサウジを相手にする戦術は叩き込んだはずだ。マーク
する相手への対応、ディフェンスの仕方、有効なコンビネーション。
それはもうお前達の体にインプットされている。だから俺が改まっ
てここで指示を出さずともピッチ上で教えた通りに動けるはずだ。
今更慌てて指示を出すまでもないな。
それにうちには指示を無視しまくって結果を出し続けている奴も
いるしな﹂
そう言うとアシカは目を逸らした。だが上杉と島津は﹁誰や、監
督の言うことを聞けへんなんて悪い奴もいるもんやな﹂﹁うむ、同
感だ﹂と悪びれない態度だ。もしかしたら指示を無視している奴と
いうのが自分達を指していると気がついていないのか? 何という
神経の太さだ、ワイヤー並だな。
まあそんな奴らだから国際試合の予選最終戦という土壇場でも硬
くならずにいられるんだろうが。
﹁だから今日の試合は俺があまり口出しをする必要がない。もう一
度だけ確認しておくがここはホームの慣れた試合会場で、審判も公
平なジャッジをしてくれるはずなんだ。俺はあのアウェーでの敗戦
後も実力はうちの方がずっと上だと判断していたんだぞ、それがこ
こまでまともに戦える準備が整ってくれればもう俺が心配する理由
どこにもない。ピッチに出るお前達に全てを任せられる。最後の指
示さえ守ってくれれば自由に戦ってくれてかまわないぞ﹂ そこまで話していると控え目にロッカールームのドアがノックさ
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れ﹁もうすぐ時間です﹂との声が室外からかけられた。彼が熱くな
って語っている内にもうそんな時間になっていたようだ。
よし、では戦いに行こうか。
山形監督が声をかけられたドアに向かって歩き出すと、焦ったよ
うな声がかけられた。
﹁ちょ、ちょっと待つっす。その最後の指示って何っすか?﹂
﹁そうです、それが判らないと俺も皆を統率しにくいです﹂
明智と真田の質問に山形監督は少し驚く。そうか、まだ言ってい
なかったか。
﹁お、そうだったか。つい当たり前のこと過ぎて言ったつもりにな
ってしまっていたな﹂
改めて全員と向かい合うと、最後の絶対に守ってもらわねばなら
ない指示を下す。
﹁︱︱勝て﹂
一瞬の沈黙の後、監督以外の部屋にいる全員がロッカールームを
震わせるほどの大声で応えた。
﹁おう!﹂
889
第五十四話 試合の入りは慎重にしよう
ピッチに入ると柔らかな芝を踏みしめて大きく息を吸っては吐き
出す。海外の試合会場を経験して一層感じるのは、日本のピッチは
芝も空気も雰囲気までもが全部柔らかいという事だ。
そのままぐるりと首を巡らすと、ほとんど青一色に染まった観客
席が目に入った。フル代表ならともかく、この十五歳以下という年
代別の代表が会場にこれだけサポーターを呼ぶのは珍しい。さらに
言えば、これまでのアジア予選の試合もテレビ中継での視聴率は好
評のようだ。
なぜかというとこの山形監督率いる若い日本代表チームは得点も
失点も多いために、ニュースで取り上げる場合はハイライトシーン
を編集すると盛り上がる場面が多く、スポーツコーナーでも繰り返
しの映像ではなく沢山の新鮮で良いゴールシーン提供してくれると
人気らしいのだ。
さらに攻撃的に傾きがちなチーム編成が会場に来たサポーターや
テレビを見たファンから言わせると﹁危なっかしくて自分達が応援
してあげなくちゃって気になるチーム﹂って評判のようだ。
おかげでサッカー協会からはともかくマスコミからは数字が取れ
るかもしれないチームとして注目され始めて、取材やインタビュー
でも段々と態度が柔らかくなっているそうだ。まあここまでの情報
は全部明智からの受け売りであるが。
なんにせよ俺たちを応援してくれる人が多いのはありがたいし、
その期待に応えたいと思う。この会場まで足を運んで応援してくれ
ているサポーターの中に、クラスメイトや真に母までもいるならば
尚更だ。
890
静かに血をたぎらせているとお互いのチームが集められて、メイ
ンスタンド側に向けて整列させられた後で国歌が演奏される。こん
な風に代表の奴らと一列に並ぶと俺と島津が特に背が低く見えて少
しだけ嫌なんだよな。俺が低いんじゃなくて、他のチームメイトや
相手チームが年上で大きすぎるだけなんだが、客席やテレビの前の
方は判ってくれているだろうか?
さて、ゆったりとしたテンポの君が代は他国のマーチのような国
歌と違って、戦う前に流されるとテンションが下がると言う人もい
る。しかし、俺はかえって落ち着ける分いいと思っている。これ以
上精神状態が高揚したら勝手に暴走しそうだからな。
気を静めるためにそっと瞳を閉じる。うん、目をつぶっていても
ピッチ上の隅々まで手に取れるように脳裏にイメージが描かれてい
る。鳥の目にしてもアップ中に確かめた体のキレにしても、中国戦
での良い感覚を引き継いでいるみたいだ。
国歌を聞きながらも、次第に鼓動が高まり自然に筋肉が踊り出し
たくなっている。もう少しだ、もうちょっとだけ待て。審判が開始
の笛を吹けば︱︱。
審判が試合開始の笛を吹き、日本ボールでキックオフされた。
開始してすぐに相手チームのどのポジションの人間がどのように
動くか見極めるのは、敵の戦術を見破るのに非常に役に立つ。まし
てや俺はピッチを上から眺めたように相手の動きが把握できるため、
多分誰よりも早く敵の行動に気がつけるのだ。そして一番最初に敵
チームがオーソドックスではない変わった動きをすれば、それが敵
にとっての戦術的な最優先事項だと判断できる。
そういう意味ではサウジアラビアの最初の動きは俺にとって最悪
の物だったと言える。
敵の中から飛び出した毒蛇がまっしぐらに俺へと突進してきたの
891
だ。
︱︱つまりは俺を潰すのがサウジにとっての真っ先にするべきこ
となのかよ!
舌打ちするが、今は手の打ちようがない。敵がマークを張り付け
てきただけであってまだ反則も何もされていないのだ、即座に排除
する手段は見つからない。
明智に視線だけで﹁嫌な奴にマークされた﹂と伝えて前へ出よう
とする。前回の対戦時と違いここはホームコートである。日本に有
利な笛、とまでは言わないが公平なジャッジが期待できる。同じフ
ァールされる危険があるならば、前へ行ってフリーキックでゴール
を狙えるチャンスをもらえるゴール前のポジションの方がいい。
俺がポジションを上げようとすると毒蛇の奴が前へ立ちはだかる。
まるで﹁ここから先は通行止めですよ﹂とでも言いたげな薄い笑み
が俺を苛立たせる。
いきなり前へ出るとこいつが過敏に反応して余計な反則をしてき
そうだ。序盤でつまらない怪我で退場したり余計なダメージを負う
のは不本意である。パスを交えて明智とのコンビネーションも利用
しつつじっくりと居場所を上げていくしかないか。
そこで俺は中盤の底でボールを回しながら攻撃のスイッチを入れ
る瞬間を見定めていた。サウジアラビアは引き分けでも予選突破が
決まるために無理に攻めようとはせず、自分達の陣型を崩さない程
度にしかプレスをかけてこない。唯一の例外が俺にべったりと張り
付いたこの毒蛇だけだ。
しかし、こうしてお見合いを続ける贅沢は今の日本代表には許さ
れていない。
マークしている相手も迂闊にファールできないほどボール離れを
速くした何度目かの明智とのダイレクトでのパス交換から、いきな
り右のタッチラインを元気よく上下している島津へとロングを蹴っ
892
てアクセントをつける。
島津の場合はサイドバックでありながら上下するのは攻撃と守備
に走り回っているのではなく、攻撃しようとオーバーラップしては
その後にくっつかれたマークを剥がそうと下がっていくというウイ
ングの動きとしか思えないアップダウンだ。だがその積極性がここ
での彼へのパスコースを生んだ。
俺からのロングキックで一瞬毒蛇の視線がそちらに動く。よし!
機を逃さずに俺もギアチェンジしてぐいっと前進する。慌てて毒
蛇も防ごうとするが、一拍動きが遅れた分と先に俺がいいコース取
りをしたせいで、もう俺の背中を見ながら追うぐらいしか手はない。
俺の体は今日もキレている、これならば活躍できそうだ。
ハンドサインで﹁上がれ﹂と後ろの連中にもオーバーラップを促
す。
俺のダッシュに気がついた島津がすぐに中央へと折り返す。いつ
もはサイドを深く抉るか、ゴール前への突破かの二択のしかないド
リブラーであったはずの島津のあっさりとしたリターンパスにサイ
ドへ開きかけたサウジ側のディフェンスが僅かに混乱する。
いける! 島津からのパスを左足でトラップしようとした俺は、
その時に右足にこつんとした軽い衝撃を受けた。
毒蛇の奴が後ろからちょっかいをかけてきたのだ。アタックその
ものは強い物ではなく、体感的にも接触したと感じ取れる程度の痛
みも伴わない、いくら日本のホームでも反則には取ってくれないち
ょっとしたものでしかない。
だが俺の体は総毛立ち筋肉が硬直した。
無意識の内に呼吸が止まり、背中から冷や汗が滲む︱︱あれ? 今どうなったんだ俺の体は? はっと気がつくとトラップし損ねたボールが自分の体から転々と
離れていく。うわ、あんなイージーパスを受け損なうのって二回目
893
の人生になってからは初めてじゃないか。思わぬミスに呆然として
いる暇もない、追いかけようとする俺より早く毒蛇はルーズボール
へとスタートを切っていた。
彼はボールを奪取した途端に大きく前線へとパスを送る。
まずい! 俺がボールを持って前へ行くとなると日本の陣形は前
掛かりになるのだ。前戦の中国以来、トップ下近い位置で俺がボー
ルを持つのが日本の攻撃へのスイッチになっている。
俺のボールキープ能力を信頼してくれた結果、チーム内での約束
事の一つになったのである。だが、今回に限ってそれが裏目に出て
しまった。この俺がトップ下にいる状態でボールを奪われるなんて
アジア予選においてはほとんど初めての事態だ。これまではゴール
か悪くてもフィニッシュまで持っていけたのに、だ。
その為に中盤の明智やDFまでもラインを上げて前線にオーバー
ラップしようと突撃体勢に移行しかけた日本代表の陣形が、想定外
のサウジの一本のロングパスからのカウンターに崩壊していく。
毒蛇からのハイボールを、武田と競り合ったポスト役が頭で守備
の薄い場所へリターンパスする。
敵のエースであるモハメド・ジャバーがそのパスを受け取るが彼
をマークしている日本のDFがいない。武田は最後尾でヘディング
争いをしている最中だし、もう一人のマーク役である日本の中盤の
底を守るアンカーは俺と明智に島津まで上がったせいで広大なスペ
ースを埋めようとマンマークから移動を開始したまさにその時だっ
た。
結果、サウジで最も警戒すべき男がこの瞬間にフリーで動けるよ
うになってしまったのだ。
千載一遇のチャンスを逃すほど砂漠の鷹のモハメド・ジャバーは
お人よしではなかった。日本にとって危険な地域でボールを持たれ
894
たとみるや、真田キャプテンをはじめ他のDFが殺到する。
だがサウジのエースストライカーは落ち着いて二・三歩ステップ
を踏むと、自分の得意の角度とシュートコースを確保してその左足
を一閃させる。
︱︱前半六分、日本失点。
大勢が詰めかけているとも思えないぐらい静まり返る会場の中、
観客席の一角のみで歓声とサウジの旗を振りまわされているのを見
て﹁ああサウジのサポーターも来てたんだ﹂とどこかぼんやりとし
た感想が浮かぶ。
今のは言い訳のしようもない俺のミスからの失点だ。後ろに毒蛇
がついたのは鳥の目でもはっきりと確認して危険なファールをされ
ないか用心もしていたのだ、なのになぜかあいつに反則とも言えな
い程度の強さで右足を触られた瞬間に体が急に硬直してしまった。
そして気がついたら相手のカウンターが始まっていて、毒蛇のロ
ングパスから始まる高速の敵の攻撃には敵陣まで攻め上がっていた
俺にはもう手の施しようがなかったのだ。
日本のゴール前の守備が甘かったと言われれば反論のしようがな
いが、俺があの位置でボールを持ったらリスクがあっても攻撃参加
のゴーサインだと判断しているうちの守備陣では今のタイミングで
のカウンターは防ぎきれない。 一体どうしちまったんだ俺の体は? ﹁どうしたんだ? アシカのあんなミスは初めて見たぞ﹂
﹁確かに珍しいっすね。トリッキィなプレイスタイルの割に安定度
が高いのがアシカの売りなんすけど、どうかしたっすか?﹂
﹁あ、いや⋮⋮﹂
真田キャプテンと明智の問いについ口ごもってしまう。自分でも
895
今のミスの原因は良く判っていないのだ。技術的な失敗ならば鳥の
目を使って自分のプレイを客観視できる俺ならば自覚できる。だが
今のは頭が真っ白になって体が硬直し、気がついたらボールを奪わ
れていたのだ。もしかしたら⋮⋮。
﹁アシカ、お前毒蛇の奴にビビってるんやないやろーな﹂
ずばりと上杉が切り込んできた。
﹁そ、そんなはずないじゃないですか!﹂
反射的に虚勢を張ってしまったが、なぜか声が裏返ってしまった。
ま、まさかそんなはずない⋮⋮よな?
まるでタイタニック号が氷山への衝突で航海が終焉したように、
俺が毒蛇相手にビビったせいで日本がアジア予選で敗退するなんて、
そんなことがあるはずないよな!?
896
第五十五話 飢えた虎に餌をあげよう
予想外の失点にざわつく中、日本ボールからのキックオフで試合
が再開される。
センターサークル内の山下先輩から下げられたボールを受けとっ
た俺の目に、審判のホイッスルと同時にサウジの毒蛇がまた猛ダッ
シュしてこっちに接近するのが映る。それを確認した途端、どくん
と心臓が一拍強く打たれて綺麗にトラップしたはずのボールが予定
した位置から僅かに流れる。
くそ、またか! 強ばった筋肉を無理矢理動かしてすぐにボール
を後ろのアンカーの足下へとはたく。俺とほぼ同じ高さのポジショ
ンにいる明智にパスしなかったのは、万が一俺のキックの精度まで
もが乱れてしまったら寄ってくる敵にボールを敵に奪われる可能性
があるからだ。
情けないな。これまで自分の積み上げてきた技術が信じられない
なんて⋮⋮。
ボールが日本のバックラインで回されて一旦試合は落ち着いたよ
うに見える。だが、これは実際にはサウジの狙い通りの展開である。
こっちがDFの間でパスを繰り返してもサウジ側からのボールを奪
還しようという積極的な反応は全くといっていいほどない。ほぼ完
全に自陣に引きこもりで、攻撃は小人数でのカウンターしかしませ
んと宣言しているようなサウジのフォーメーションだ。
ただしこっちの陣に入って来ているのがカウンター要員の二人の
FWだけでなく、俺にマークとしてつけられた毒蛇の奴もいるのが
鬱陶しくてたまらない。
897
日本もただじっと後ろでパス交換だけをして時間を潰していた訳
ではない。調子がおかしく、マンマークをつけられた俺を迂回して
ボール回しからの攻撃が行われている。その結果は何度かシュート
を撃てる所までは持っていくのだが、いい形でのフィニッシュには
結びつかない。むしろ入らない場所から無理に撃たされているとい
った感が強いのだ。
日本の攻めの形がいつも通りの形にならないのは、どうしてもボ
ール運びのリズムが悪くてスムーズにパスが回らないからである。
今まで相手が守備に専念して引っ込んでいた場合は、代表チームは
俺と明智のパスワークで攻略してきた。その一方の鍵であるはずの
俺が足を引っ張っているなんて⋮⋮。
大きく息を吸い込んで瞳を閉じると、すぐ目前にある浅黒くて俺
を怪我をさせた時でさえ笑みを浮かべていた少年の存在を脳裏から
消す。そして腹式呼吸で思いっきり息を吸い込むと大きく音を立て
ながら息を吐き出した。DFの武田がやっていたのを見よう見まね
で再現した息吹という武道の呼吸法だ。
よし、付け焼き刃でも思いこみの効果があったのか覚悟が決まる。
大股で一歩踏みだして右手を挙げてボールを要求する。失点して
から初めてのパスをくれという俺の意思表示に対して、明智がちら
っとこっちを確認するがその瞳には気遣わしげな色がある。ありが
たいとは思うが同時に悔しさがこみ上げる、チームメイトに心配を
かけながらプレイしているなんてな。
唇を噛みしめて攻撃的な位置を取ろうと前へ出る。当然ながら前
のコースを切るのは毒蛇だ。
すり抜けるように走り出すと俺の右を併走して付いてくる。普通
ならこんな場合はマーカーは自分がピッチの中央側になるように並
ぶ、その方がゴールへのルートを閉ざせるからだ。
だがこいつは俺が気にしていると判ったのか、セオリーを無視し
898
て怪我させられた右足に近い位置を占める。ただ今の俺はボールを
持っていないせいでこいつも露骨には邪魔はできないはずだ。
しかしボールが来たら⋮⋮どうなる事か。夏の日差しに焼かれて
いるはずなのにまた背筋が少し寒くなるぞ。ちょうどそのタイミン
グで明智が左からパスを寄越した。
当然明智のからのパスコースは最も毒蛇から離れている左足でト
ラップできる地点だ。
受け取った瞬間にまた右足をちょこんとつつかれた。くそ、反応
するな。ちょっと触られただけだ。一層強く唇を噛みしめると口の
中に鉄の味が広がった。力の入れすぎで口中のどこかが出血してし
まったか。今回はボールを持ったのに俺はいつもの笑みを浮かべて
ないだろう。
だが、覚悟を決めて血の滲むほど噛みしめた成果があったのか少
しだけぎこちないながらもボールコントロールそのものは上手くい
った。トラップではなく前方のスペースへ出すタッチだ。
そこで一気にスピードを上げてマークを振り切ろうとするが、毒
蛇も右横についてくる。俺の足によけいなちょかいを入れた分だけ
ダッシュが遅れたが、すぐ右隣に追いついてきた。
俺の利き足は右である。もちろん両足とも使えるように練習はし
てあるのだが、それでもフリーキックやPKなどを蹴るのはこれま
で全て右だった。それだけの自信を持っているのだ。その利き足側
にずっと反則をしかねない相手にへばりつかれているのが苛立たし
い。
肩で相手と押し合い腕でボールに近づかせないように制限する。
毒蛇と競り合っている右半身に鳥肌が立ち、皮膚がピリピリと痛み
を訴えている。経験はないが蕁麻疹というのはこんな感覚なのかも
しれない。
体が勝手に接触プレイから逃げたがるのを我慢して、毒蛇と押し
899
合う格好で少しでも前へ進もうとドリブルを続ける。だけど何も意
味もなくお前なんかと嫌いな接触プレイをしているんじゃない。ほ
ら見ろ。
ドリブルのコース上に山下先輩が待ってくれている。このままの
予定のルートを直線上でいけば、毒蛇と先輩のコースが重なる。い
わゆるスクリーンプレイでの壁役に山下先輩を使ったのだ。
先輩とぶつかりそうになった毒蛇がやむなく俺の右隣りから離れ、
山下先輩を迂回してまた俺につこうとするが先輩もそれを邪魔する
ように体を割り込ませている。
こうなると必然的に山下先輩をマークしていた相手のMFがスラ
イドして俺につく事になるのだが、なぜかこいつには毒蛇のような
嫌なプレッシャーは感じられない。
先輩から俺にマークを切り替えようと寄せて来た相手の、動き出
しの前足に重心が乗ったタイミングを見計らってこっちから逆にド
リブルで迎えにいく感覚ですれ違う。相手は動き始めた矢先に止ま
ろうと無理なストップをかけたのか僅かにスパイクを滑らせた。
よし、完全に抜く必要もない。相手が体勢を立て直すまでの一秒
あれば前線へとパスが出せる。
しかし、サウジも先制した後の守備優先のカウンター戦術を採用
中である。ゴール前には閂が掛けられているように人数をかけて守
られている。
だが、あえてそこのど真ん中にいるうちのエースストライカーを
パスのターゲットに選ぶ。相手はゴール前に壁を作っているが、シ
ュートを撃たせない様に守っているので上杉とゴールの間にマーク
がいる事になる。つまり彼へのパスそのものは通しやすいのだ。本
来ならばこの辺りのエリアを埋める役割を毒蛇と山下先輩について
いて今俺が抜いた相手が担っていたのかもしれないが、マンマーク
とスペースを埋めるのは両立が不可能だ。
サイドのDFもこっちの島津と馬場といったサイドアタッカーに
900
引き付けられている。
ゴールに直結するすぐシュートを撃てるようなスルーパスではな
いが、せめて次のプレイがしやすいようにと上杉の足元に速度はあ
るが回転の素直な優しいボールを丁寧に送った。
上杉よ、シュートを撃つのが無理でも何とかタメを作ってボール
キープをしてくれ。その時間があれば俺達前線の誰か一人はマーク
を外してゴール前に行けるはずだ。
うん、いい感じでキックできた。毒蛇が邪魔しなければプレイの
精度そのものは問題ないな。
上杉にパスは渡ったが彼の目前には二人も敵のDFが待ち構えて
シュートコースを消している。あれではとてもゴールを狙えない、
さすがにシュートジャンキーの上杉でもこれではシュートは⋮⋮撃
ったぁ! 何考えているんだあいつは! いや、何も考えていない
のか。
ああ、でもやはり駄目だ。体を張って守っているDFにシュート
は止められてしまう。そのこぼれ球を残ったマーカーと上杉が取り
合いになる。
転がるボールに真っ先にたどり着いた上杉がまたも躊躇いなくシ
ュートをぶっ放す。今度はそのシュートがルーズボール争いの接近
戦をしていたもう一人のDFに激突する。
そしてまたもゴール前を不規則に転々とするボール。
ゴール前で落ち着かないそのこぼれ球に向かって上杉以外にも、
敵味方がどっと︱︱特に近い位置にいたキーパーと最初にシュート
をぶつけられたDFが突っ込んでくる。
だがそれでもなお一番反応が速かったのは上杉だ。体を絞った効
果なのか、ただでさえ鋭かった反射速度がさらに上昇している。し
かも敵のゴール前では他のエリアに居る時よりも彼は神がかった動
きになるのである。その上彼の行動はほとんど全てが﹁シュートす
901
ること﹂で完結しているために行動の選択に迷いと言う物が一切な
いのだ。
上杉のここ五秒間で三度目になるシュートは両手を広げて襲い掛
かってきた敵のキーパーをかすめながらも勢いを失わずにゴールネ
ットを揺らすのに成功した。
パスを一回しか渡されていないのに無理矢理三回連続でシュート
を撃ちゴールをこじ開ける。お世辞にも洗練されているとは言えな
いが、実に上杉らしい力強いゴールだ。まるでハードパンチャーの
ボクサーが敵のブロックごと殴り倒してKOするような強引さと豪
快さである。
ハットトリックする以外は役立たずだと自ら豪語する、上杉の復
活を告げるゴールが日本の同点弾となった。
﹁ワイにボールを寄越せば、ざっとこんなモンや!﹂
自らの復活弾に右拳を掲げ誇らしげに雄叫びを上げる上杉だが、
それを上回るほどの歓声が観客席のサポーターから送られている。
待ち望んでいたホームの日本代表のゴールに湧き上がる大歓声だ。
自分の名前をリズムよく、しかも手拍子付きでサポーター全員か
らコールされるとさすがに照れくさいのか、ゴールの興奮とは違う
理由で耳までも赤くしている。
ナイスシュートだと上杉の背中を叩くチームメイトに加わりなが
ら、ほんの少しだけミスを取り返せたと安堵する。
だが、今のは俺の力ではなく九分九厘までが上杉の力による得点
だ。俺からのパスでなくともこいつならゴールしただろう。
そんな俺の内心を見通したように山下先輩が近付いて来ると、ぐ
いっと頭をプロレスのヘッドロックの形で強引に脇に抱え込まれた。
﹁上杉の台詞じゃねーが、アシカはビビってんじゃねーぞ。攻撃す
902
るににしたって上杉以外にも俺達もいる、一人で悩むなよ﹂
﹁はあ⋮⋮確かに先輩には今回助けてもらいましたしね﹂
ちょっと気の抜けた声を出すと、山下先輩の眉が不快気に寄せら
れる。それを見て慌てて俺は弁明した。
﹁いや、まるで昔のキャプテンみたいな台詞を言うので、思わず本
物の山下先輩か疑っちゃって﹂
﹁⋮⋮まあ中国戦前に矢張のキャプテンから、先輩なんだからアシ
カの面倒をみてやれって頼まれたからな﹂
﹁へえ、さすがキャプテンだ﹂
俺は小学校時代に一年足らずしか一緒にプレイしていないにもか
かわらず、未だに尊敬している矢張SCのキャプテンに手を合わせ
る。こうした絆が体育会系の縦社会の良いところだよな。
無意識に両手を合わせていた俺を先輩がどこかむっとした表情で
見つめている。
﹁どうしましたか?﹂
﹁いや⋮⋮キャプテンじゃなくてこの場にいる先輩は俺だけなんだ
から、俺にも頼れよ﹂
﹁⋮⋮判りました。お言葉に甘えます﹂
︱︱日本の同点ゴールに沸く中、俺と山下先輩はそんな会話をし
て次の攻撃の計画を練っていた。
今の一連のプレイで俺が毒蛇に対して持っている過敏な反応に対
しても、そして敵の能力についてもある程度判ったのだ。そして実
際にしばらく相手とくっついてプレイしたおかげで得体の知れない
不安感も軽減できた。
やはり原因が判らないのが一番まずいんだな。それさえ判ればい
903
くらでも対策も立てられる。
試合は同点に追いついただけで、まだまだ攻めなければならない
状態なのは変わらない。ならば俺が毒蛇を攻略してリベンジできれ
ばそれがきっと突破口になるはずだ。そのためにも山下先輩、どう
かご協力をお願いしますよ。
﹁ああ、何しろ俺は頼りになる先輩だからな﹂
自分で言って胸を叩く所が、まだキャプテンに比べると子供っぽ
いなぁ。
904
第五十六話 ピッチ上でワルツを踊ろう
上杉の雄叫びも観客席からの手拍子もようやく収まり、お互いに
一点ずつを取り合っての試合が再開される。
得点が多く生まれるゲームになれば、そうした正面からの打ち合
いになれている日本が有利だ。だが試合が二十分を消化しても同点
のままと考えれば、引き分けでもオーケーなサウジアラビアに天秤
が傾く。
まだどちらかが完全にペースを握ったとは言えない状況だ。
それでも、俺はまだこの時間帯の内にどうしても確かめておかね
ばならない事があった。
それは俺の背後に幽霊のようにくっついては、にやにや笑ってい
る浅黒い肌の少年に対して今日の自分がどれぐらい通用するかだ。
サウジからの再開ではあったが、守備に人数を割いているために
ロングボールを放り込むだけの戦術になってしまっている。それじ
ゃあ今の日本のディフェンスは崩せないよな。これまでさんざんカ
ウンターに対して少人数で守ることに慣れたDF達が、単純なロン
グパス一発でやられるわけはないのだ。そう、俺がくだらないミス
をして失点した時のように切り替えが遅れるような想定外の事がな
ければ。
俺はまた右手を挙げてまたパスを要求した。その場所はちょうど
ハーフウェイライン上で右サイドのタッチライン沿い。つまりはピ
ッチの真ん中の右端で何かあればすぐに山下先輩と島津がフォロー
できるエリアだ。
ここでボールをもらっても役に立たないのなら、俺はこの試合で
はこれ以上何もできないかもしれない。
905
そんな覚悟を秘めてDFから回ってきたパスを受け取った。同点
に追いついたせいか、心なしか先ほどよりもボールを展開するリズ
ムが良くなってきているな。
俺はボールを持つと真っ向から毒蛇を睨みドリブル突破を試みる。
今だけはパスという選択肢は脳裏から消しておく。これは自分の力
とプレイがきちんと発揮できるかチェックするために必要な勝負だ。
ボールの上を二・三度跨いで相手の反応と重心のバランスを見極
めながらタイミングを計る。よし、今だ!
敵の左をすり抜けるようにダッシュする。これには毒蛇も即座に
反応した。なぜなら右のタッチライン沿いという事は相手をドリブ
ルで抜けるスペースは左にしかないからだ。俺が左へ動くというの
は予想通りだったのだろう。
だが、俺へと体を寄せた毒蛇はその瞬間にピタリと動きが停止す
る。なぜなら俺がボールを持っていなかったからだ。
俺の体は敵の左を抜き、ボールは右から抜くという毒蛇の体の両
方を回り込むいわゆる裏街道を通った突破である。
この技は技術的にはさほど難度は高くないが、自分の体からかな
りボールを離すために度胸とスピードが必要だ。だがタイミング良
く使用すれば敵の動きを止められる。
ボールと俺のどっちを止めればいいか判断に迷ったその数瞬で、
このワンオンワンの決着は完全についていた。
ほら見ろ! 毒蛇なんかより俺の方がずっと上手い。
そう胸の内だけで叫ぶが、同時にぞくりと背筋の毛が逆立つ。
毒蛇の奴が明らかに追いつくはずもないのに俺の真後ろへと走る
コースを変えたのだ。
まさか、また危険なファールをやる気か!? 動揺にボールタッ
チ乱れて俺のドリブルの速度が落ちる。チャンスとばかりボールが
奪えるはずもない真後ろから接近する毒蛇。
906
そこで俺と毒蛇の間にカットインしてきたのが山下先輩だった。
俺の背後を横切るように右サイドから下がって後ろを守ってくれた
のだ。スピードを落とさずに俺へと接近してきた毒蛇と体をぶつけ
合うようにして押し合っている。
サンキューだ山下先輩。守備も接触プレイも苦手なくせに、今日
は何度も俺へのフォローをしてくれて感謝の言葉もない。
あ、押し合ってた二人が一緒にもつれ合って転んだ。と同時に笛
が鳴る。
どうやらサウジボールでのフリーキックで再開となるらしい。
後から割り込んだ形になる山下先輩がファールを取られたらしい
が、まあカードも出ずに二人とも簡単な注意ですんだのだからそれ
は関係ない。それに敵の陣に入ったサイドで奥深い場所からの再開
である。この位置からならばワンアクションでのカウンターにはつ
ながらない、うちのDF陣ならば失点にはならないはずだ。
それにしても山下先輩には感謝伝えないといけないな。
審判の前であからさまに﹁ファールしてきそうな奴を潰してくれ
てありがとうございます﹂とは口に出せない。倒れた先輩に手を貸
して立ち上がらせると、肩を叩いて﹁助かりました﹂と小声で伝え
ると﹁俺はお前の先輩だからな﹂と返ってきた。なんだか、この先
輩も大人になってきたなぁ。
改めて山下先輩ともつれ合うようにして倒れていた毒蛇を見下ろ
す。
あれ、こいつってこんなに小さかったか? いや確かに俺よりは
少しは長身だが、ただそれだけだ。体の厚みや迫力も武田や上杉な
んかのうちの武闘派の方がずっとあるし、背の高さなら中国の楊と
は比べ物にならない。
こいつはマークする以外ではサッカー選手としては突出した物が
907
ないな。
いや、そうじゃない。こいつマークもそんなに上手くないぞ。だ
って俺はこいつからボールを奪われた事があったか? 今日失点の
時に俺のミスで取られた以外はこいつに駆け引きで負けた覚えがな
い。
もしかしてこいつはただのラフプレイヤーでしかないんじゃない
のか。
そう思った瞬間、俺の体のどこかにあった力みと緊張がすっと抜
けていった気がする。同時にさらに目の前の毒蛇の姿が小さく縮ん
で感じられた。
こいつは接触プレイは苦手のはずの山下先輩ともみ合っていても
すぐには振り払えなかった。上杉に一点目のパスを出した時もパワ
ーのない俺を押し切れなかった︱︱なんだやっぱり大したことない
じゃないかこの毒蛇は。大体毒蛇ってのも毒を持ってなきゃ蛇の中
でも弱くて小さい種類が多いんだよな。
頭の中が冷たく冴えていく。よしクールになれ、こいつに付き合
って頭に血を昇らせる必要はどこにもない。こいつは反則以外では
俺のレベルへ到達できない程度のプレイヤーなんだ。思いっきり見
下して、翻弄しろ。ラフプレイだけを注意すればいいだけの下手く
そなマーカーにすぎないと思い込め。
なんだか随分と小さく感じられるようになった毒蛇の姿に、少し
だけ試合とは異質の思考が横切る。もしかしたら昔カルロスが相手
をジョアン呼ばわりして見下していたのは、敵がみんなこう見えて
いたからかもしれないな、と。
しばらくは攻め込もうとする日本とその隙にカウンターを狙うサ
ウジの思惑が拮抗し、硬直した状況になってしまった。
そんな凍ってしまった状況を打破すべくパスを要求すると、今度
はすぐにボールがアンカーから回ってくる。どうやら漂っていた俺
908
への不信感は払拭できたようだ。ならば後の仕事はこいつを叩きの
めすだけだな。
ボールが俺に届くのと同時に密着マークした毒蛇の奴が、またこ
りずに右足首へ爪先で軽く蹴ろうとする。そのタイミングを見計ら
って、俺は左足でトラップするべき体の左側の場所に転がってきた
ボールを強引に体を反転させながら右足で触る。
この瞬間、相手は軽くとはいえ俺の右足を蹴ろうとしていたのが
空振りしてバランスを崩した。俺も無理矢理体を捻ってボールをコ
ントロールしたために若干体勢が崩れるが、覚悟していた者と予想
外の者とではその後の反応に差が出る。俺は反転させた勢いをその
まま前へのダッシュする力に変えて前進する。
よし、完全に振り切った。ほら、俺が実力を出せばこいつなんか
に止められるはずがないんだ!
この試合初めて俺の頬が緩み笑みが浮かぶのが自覚できた。いつ
もは﹁にやにやするな﹂と叱られてまで治らなかった、俺のボール
を持つと表情がにやけてしてしまう癖がこの試合中はずっと出なか
ったのだ。自分がようやく笑顔を作れるのを思い出し、やっといつ
もの自分に戻れた事を実感する。
だがこの試合では何回も襲われた寒気がまた背筋に感じられる。
鳥の目を使う必要もないぐらいはっきりと毒蛇が俺を反則してでも
止めようとしているのが判る。
この場合はどうすべきか計算しようと脳が回転数を上げる。シュ
ートするべきか? いやここではまだ前にDFが邪魔していてゴー
ルを狙えるコースがない。
ではパスはどうだ? 上杉をはじめ他のFWには全員きっちりマ
ークがついている。引きこもっているため敵のDFの数は豊富なの
だ。一旦後ろに戻す選択もあるが、ここまで攻め上がった結果がそ
れでは意味がない。
909
俺は強引な突破を選んだ。
サウジのDFは上杉へのマークを厳しくしすぎている。だから前
にいるこのDF一人でいい、こいつさえ抜いてしまえばシュートを
撃てる花道が開くのだ。
後ろに毒蛇もいるのだから時間も手間もかけられない。ほとんど
一回のボールの切り返しだけで、フェイントよりもスピードで突破
しようとする。トップスピードに乗ったままのその動きに、完全に
ついてこれない敵の右側を通り抜けようとすると奇妙な既視感を覚
えた。
確かこんな状況をどっかで︱︱。抜きかけたDFに左腕を掴まれ
る寸前、アウェーでの俺が怪我をさせられたプレイが頭の中にフラ
ッシュバックする。
後ろからはスライディングの体勢に入りつつある毒蛇の姿が鳥の
目で確認できた。 左手を掴ませるな!
悲鳴のような頭からの指示より先に体が自動的に動く。これはフ
ィジカルコーチから教わった対処法だ。付け焼き刃にしかすぎない
のだが、こんな土壇場で役に立ってくれるとは!
左腕を掴まれる前に腕を捻りながら自分から突っ込むようにする
と、相手は抱え込もうとしていた腕を掴むのに失敗する。逆にそこ
で俺が深く突っ込んだ手で敵のユニフォームの袖を掴みながらその
場でターンを開始したのだ。
普通の相手をボールから遠ざけるように腕を張りながらではなく、
敵のユニフォームを掴んだままで引き込むようなマルセイユ・ルー
レット。
俺はワルツのステップでぐるりと廻る。すると腕を掴まれ強制的
に相手役を務めさせられたDFとの位置が完全に入れ替わる。
廻りながら俺は滑ってくる毒蛇を相手に、思い切り牙を剥くよう
910
な満面の笑みをプレゼントしてやった。
そして廻り終えた俺はダンスのお相手のユニフォームから手を離
し、相手ゴールへと突き進む。
後ろからは鈍い衝突音と異国語の叫びが響くが、きっと聞き違い
だ。
まさか毒蛇が俺へ向かって完全に反則な後ろからのスライディン
グタックルを敢行して、それにサウジのDFが巻き込まれる事なん
てあるはずがない。サッカーはクリーンなスポーツなんだからな。
俺は鳥かごから脱出したばかりの鳥の気分でドリブルを続ける。
よし、ここからなら十分狙える。他のDFや上杉にくっついて群
れていた相手が追いつくまでにシュートを撃つだけの余裕もある。
サウジのキーパーが凄い勢いで前へ出てくるが、それじゃあ間に
合わない。
顔を伏せて右足をコンパクトに振り抜く。俺はボールを芯でコン
トロールできるようになってから、小さな足の振りでも鋭いシュー
トが撃てるようになっていたのだ。
もっとも今回のシュートはコントロール重視の柔らかい物だが。
猛ダッシュするキーパーの頭の上をすれ違うように、俺の撃った
ループシュートがゆっくりと通過してゴールへと向かっていく。
ふう。
伏せていた顔を空に見上げると、一つ息を吐いて雄叫びを上げる。
その声に俺の撃ったふわりとしたシュートがゴールネットを優しく
揺らす音はかき消された。しかし、俺の叫びに合わせるように審判
がゴールを認める笛を吹く。
この試合の全てのストレスを空に向けて放っていると、空気を読
まずにその背中に抱きついてくる少年が一人。
﹁アシカ! やるじゃねーか、この! できるんなら最初からやれ
911
よ。心配かけやがって!﹂
﹁山下先輩のおかげで自分のフォームを取り戻しました! サンキ
ューです!﹂
﹁お、おうそうか。ま、まあ俺はアシカの先輩だからな﹂
あまりに素直に俺が感謝したものだから先輩は驚いたのか飛びつ
いてきた背中から降りてしまった。
その間に駆け寄ってきたチームメイトから﹁こら! 矢張の先輩
後輩だけで完結するな! 僕は代表の先輩だぞ﹂﹁あ、ならワイは
年上やけど代表チームでは同期やな﹂などと俺の背中は祝福の嵐の
乱打を受けることになったのだが、高揚してアドレナリンが分泌さ
れているのか痛みがほとんどない。
背中をバシバシと叩かれながらも笑顔のままでいられる。うん、
やっぱり俺はピッチでは笑っている方が絶対にいい結果になる。
スタンドを振り向いて右拳を大きく掲げると、爆発したような歓
声が鼓膜ではなく体を揺さぶる。ここまで大きいと判別できないが、
たぶん俺にとって親しく大切な人達も一緒に声を上げてくれている
のだろう。
周りを仲間が取り囲んで祝福し、観客席からは俺の名前が手拍子
付きで呼ばれている。ピッチを見渡せば俯く敵チームに、まだ倒れ
ている俺にファールをしようとした奴ら。そして敵のゴールマウス
に転がるのは俺の蹴ったボールだ。
︱︱ああサッカーって本当に楽しいなぁ。
912
第五十七話 ボールを外に蹴り出そう
俺が観客席へ手を振り終わってもスタンドから伝わる熱気は収ま
らない。
自然発生的な﹁ア・シ・カ!﹂というコールの後には﹁ニッポン
あしかが
はや
!﹂という叫びと手拍子が代表チームの後押しをしてくれている。
てる
ただ一つ不満なのは、なぜ俺のコールがアシカなのだ? 足利か速
輝のどっちかでいいじゃないか。どちらとも語呂は悪くないはずな
のだが。
どうにも﹁アシカ﹂と大人数で合唱されると、水族館で﹁芸をし
ろー﹂と要求されている哺乳類扱いみたいで頬が引きつる。
まあそんな些細な不満は試合後のインタビューまで取っておこう。
勝利の後で、しかもそれが予選突破決定後のインタビューで呼び名
について少しだけ不満を漏らせばみんな判ってくれるはずだ。おっ
といけない、その為にもまずはこの試合に集中して勝利を確定しな
くては。
またもサウジ側からのボールで試合が再開される。
逆転されてしまったサウジアラビア代表としては、これまでのよ
うな引きこもってのカウンター一辺倒ではどうしようもない。自ら
攻めなければならないのを覚悟しているのだろう、特にセンターサ
ークルにいるFW達は悲壮感すら漂わせて立っている。
だが、俺からすればなぜかあまり怖く感じられない。山下先輩と
一緒に倒れていた毒蛇がどんどんと体が縮んでいったような錯覚を
覚えたのと一緒で、今のサウジアラビアのチーム全体からは何の脅
威も迫力も感じられないのだ。
別に油断している訳でもない。だが、何と言うかすでに︱︱そう
﹁格付け﹂が終わってしまったかのようだ。
913
だからほら、ちょっと足を引きずって寄って来たこの毒蛇にして
も、なんだかこの前の体育の授業で相手をした生徒達と大差ない程
度の警戒感しか湧かない。
俺は少なくとも今日の試合において、これからこいつには一対一
ではもう絶対に負けないと断言できる。後は死角からのファールに
さえ注意すればいいだけである。冷静になれば俺はなんでこんなラ
フプレイしかできない奴にビビってたんだろう。
他の日本代表の面々も最低目標である勝ち越しに成功して、無駄
にテンションを上げて燃えているだけではない。逆転したおかげで
気合が入ったくせに頭は冷えているという良好な状態のようだ。サ
ウジが人数をかけて攻めてきても、落ち着いた対処でしっかりとし
た防御をしている。
元々がサウジは堅守速攻のリアクション型のカウンターチームだ。
自分達がボールを回して攻めるのは決して得意ではない。速攻なら
ともかくパスをつないでいこうとすると所々に粗が見えるのだ。
だからほら、今もまた明智が向こうの焦ったパスをカットする。
よし、日本の逆襲だ。まだ敵が上がり切る前のボール奪取だから、
サウジのDFラインが浮いていない為に完全なカウンターチャンス
にはならないのが残念だ。もしもう少し敵の攻撃時間が長くてDF
ラインが上がってくれれば、最終ラインの裏へ走り込む上杉にスル
ーパス一閃でほぼ片がついた。短い時間と手間の割に高確率で得点
に結びつくコストパフォーマンスの高いダイレクトパスでつなぐハ
イスピードカウンターが試せたのだが。
だがこれは贅沢な文句でしかないな、速攻でも遅攻でも関係なく
うちはサウジと対照的にボールを持っての攻撃で本領発揮するのだ
から。
明智がボールを確保したと見るや、俺はやや右サイドの位置から
914
ピッチの中央へと斜めに流れるようにダッシュする。前方で待って
いる毒蛇の奴を避けるような形だが、これまでの相手が怖いから逃
げるという後ろ向きな理由ではなく、単に邪魔だからいない動きや
すくスペースのある方へと場所を変えただけにすぎない。
だがこの程度の動きにさえ傷ついた相手はついてこれなかった。
俺を追おうと走り出した瞬間に毒蛇はつんのめったように倒れる
と、足を抱えてうめき声を上げたのである。馬鹿が! 衝突のダメ
ージが残っている体で無理にダッシュをしようとするからだ。あの
部位だとたぶん太腿の裏辺りの筋肉をやってしまったな。
それを尻目に明智から俺へのパスが通る。毒蛇が倒れているのは
気がついているのは多くないようだ。ボールとは関係ない場所で、
しかも俺が離れた後自分一人で勝手に転んだ格好なのだから反則が
介在する余地もない。
審判はもしかした気がついているかもしれないが、倒れたのはボ
ールを持ってないピンチに陥りかけたチームのこれまでラフなプレ
イをしかけていた選手だ。ワンプレイが終わるまでは日本のアドバ
ンテージとして見逃してくれているのかもしれない。
どうする? 今なら完全にフリーで動けるが⋮⋮。あああ、くそ。
俺は立ち止まると右手で倒れている毒蛇を指し示すとボールをタ
ッチラインの外に蹴り出す。
別に格好をつけたつもりはない。倒れた相手をアピールしてから
でなければボールを出しても単なるミスキックと思われそうで嫌だ
ったからにすぎないしな。倒れた毒蛇を見て見ぬふりをしなかった
のも、これだけ日本代表がフェアプレイに徹すれば相手も反則がし
辛くなるはずだと計算をしたからである。全部審判と観客からの好
意を得るためにした計算付くの行動で、別に敵の体を気遣っての事
ではない。
その計算が正しかった証拠に観客席から拍手が沸き起こっている
915
じゃないか。会場のほとんどを占めている青く染まった席だけでな
くサウジサポーターの一角からも拍手が起こり、試合が開始されて
初めての会場中が一体となった拍手だ。
思惑通りの結果になったのに、何だかサポーターをだましている
ようで居心地が悪い。担架によって運び出されようとしている毒蛇
の奴も苦痛に顔を歪めながら、俺の方を向いてどこか物問いたげな
瞳で見つめてくる。
ああ、もう! ピッチで誰かが倒れている状況を俺が見ているの
が嫌だからボールを出しただけだ。たとえその対象がどんなに嫌な
奴でも、無視してプレイを続けるのは我慢できなかったんだ。
そんな自己満足に過ぎない行為なんだから、お前は気にするなっ
て。もし次にまた試合で会った時に俺にはラフプレイを止めてくれ
ればいいだけだ。後、ついでに気恥ずかしくてたまらないからこの
拍手も止めてくれないかな。
担架によって毒蛇が運び出されると、サウジ側からのスローイン
となった。
向こうもこの雰囲気の中では自分達から攻撃はしにくいのか、ポ
ンとうちのキーパーへとロングキックでボールを返してきた。カウ
ンターではないですよと証明するようにその間はサウジの選手は誰
も動こうとはしない。
日本のキーパーがボールをしっかりとキャッチして二・三回バウ
ンドさせる。そしてロングキックで一気に中盤へとボールを送った。
ここで儀礼的なプレイは終わり、再び世界への挑戦を賭けた戦いが
始まる。
次にボールが外へ出てプレイが途切れるとサウジに新しい選手が
入ってきた。どうやらさっき運び出された毒蛇との交代要員らしい。
916
これで毒蛇はもうこの試合ではプレイできない。そこまで狙って同
士討ちのトリックプレイをやったわけではないが、怪我の程度がひ
どくないといいな。そして反省して俺以外にも試合でのラフプレイ
を止めてくれるともっといい。特にこれから先またサウジと国際戦
で当たる事になった場合悪質なプレイヤーがいると面倒だからな。
新しく入ってきた大柄な選手も中盤での守備的なプレイヤーらし
い。つまりはほとんど毒蛇と役割は変わらないって事だ。
俺はサウジが開き直って大胆な戦術を変更しなかったのに胸を撫
で下ろす。いきなりギアを変えられるとこっちもその対応を迫られ
るからな。今のいいリズムに乗ったチームをできればあまりいじり
たくない。
そして、この新しく俺についたマーカーが毒蛇以上の選手である
可能性はほぼないとも見切っていた。もしそうであるならば、最初
からこの選手をスタメンにしているはずだからだ。ならばこいつよ
り格上のはずの毒蛇でさえ止められなかった今の俺を止められるつ
もりか? 舐めるなよ。
早速ボールを要求しての一対一の舞台をお膳立てする。
ボールを持って正面から向き合い、俺が右肩を落とすと相手はピ
クンとそれに反応しかける。軽くボールを跨ぐと今度はそっちの方
向へと重心を移そうとする。こいつはどうやら毒蛇よりもこらえ性
がない積極的なボール狩りをするタイプだな。しかも途中出場とあ
れば少しでも結果を残したいと、少なからず焦りもある筈だ。
ならばと目の前で小刻みにボールを動かして相手を誘う。猫じゃ
らしで子猫と遊んでいるみたいだが、この手のタイプは必ず我慢し
きれなくなって足が出る。
ほらやっぱり。
一際大きく動かしたボールにマークしている敵が奪い取ろうと足
を出してきた。それをお待ちしてましたとばかりに逆をついて抜き
917
去る。こういったディフェンスのくせに自分から動いてくれる奴は、
俺みたいにテクニックとタイミングで抜くドリブラーにとってはい
いカモでしかない。
邪魔者のいなくなった広大な中盤のスペースを一気に駆け抜ける。
と、ここで残っていたサウジ側の中盤の底の番人に足を止められた。
さすがにシュートを撃てるエリアにまでは簡単には侵入させてはく
れないか。
ゴール前はと見ると、うちのシューティングマシンである上杉に
は二人のマークが以前よりさらに密着してへばりついている。両サ
イドの山下先輩と馬場も前にマーカーがいるな、パス一発で即座に
得点のチャンスとはいかないようだ。
では後ろから上がってくる者に託すしかないか。
俺が右に目をやるとそこには予想通り島津が右のタッチライン沿
いを猛然とダッシュして、今にもウイングの山下先輩を追い越そう
とする所だった。
俺の視線に気がついたのかサウジのディフェンスが慌てて右のケ
アに動く。
遅いよ。
俺は自分が笑顔になっているのを自覚しながら、右サイドを走る
島津へと顔を向けたままヒールキックで後ろのピッチ中央やや左へ
とパスを出した。
そこに走り込むのはこっちもオーバーラップしてきた明智だ。今
回のアジア予選では俺と同じように中盤のゲームメイカー役、しか
も俺の影になってくれている印象が強い彼だが、元々トップ下でも
通用するだけの得点力も備えている。
明智のパワーと能力ならばこの位置からでも充分に射程圏内だろ
う。
サウジのディフェンスが落ち着く前に明智がミドルシュートを放
918
つ。
伸びのある鋭いシュートがサウジのゴールに襲いかかる。枠内の
いい所に飛んだシュートに、入ったかと俺も錯覚するほどの豪快な
ミドルだった。
だが忘れていたが相手のサウジのキーパーも、砂漠のアリジゴク
との異名をもつほどの選手だったのだ。ここまではどんなキーパー
でも止められないようなシュートでの失点が多かったが、このミド
ルシュートには素晴らしい反応を持って叩き返した。
ここでサウジと敵キーパーにとって不幸なのは、うちには一人ゴ
ール前でのこぼれ球を押し込むスペシャリストが居た事だろう。
二人のマークに囲まれていたはずの上杉が、なぜか誰よりも早く
ルーズボールへ飛び込んでそのまま無人のゴールへ押し込んだのだ。
いわゆるごっつぁんゴールだがなんで上杉が一番先にボールに触
れるのか、遠くから鳥の目で見ている俺でさえ良く判らない。
あいつは絶対に味方のシュートも全て自分へのパスだと思い込ん
で行動しているに違いない。俺からのスルーパスを受けるアクショ
ンと味方がシュートを撃った後のアクションが、ゴール前に飛び込
むという点ではほぼ同一なのだ。味方のシュートに対しては見守る
んじゃなくて﹁これはこぼれ球をワイに入れろって合図やな﹂とい
う解釈をしているようだ。
だからたまにゴールした仲間に向かって﹁何でワイじゃなくてお
前が点取ってるんや!﹂という理不尽な怒りを振りまいているのだ
ろう。
とにかく得点そのものは上杉に持っていかれたが中盤の相棒との
コンビネーションも上手くつながり、うちのエースは﹁二点目だぞ、
コラァ!﹂と誰に向かってか判らないがキレた状態で虚空に向けて
シャドーボクシングをしている。
あ、俺の目には見えない相手をKOしたのか上杉がそのまま両手
919
を掲げたな。ガッツポーズを取った上杉に対して観客席からまた盛
大な拍手が打ち鳴らされた。
かなり騒々しいが、これ以上ない状態で前半を終える事ができそ
うだ。
920
第五十八話 実況席では落ち着こう
﹁よしよし、前半の出来は最高だった。だけどこれで守りに入ろう
だなんて考えるなよ! うちのチームはこれから先、攻撃の破壊力
と得点力で世界と戦っていくんだ。残りの時間はそのためのいい練
習だと思って攻めて攻めて攻めまくれ! スタミナが切れて走れな
くなった奴はこっちで代えてやるから、体力の温存なんて気にせず
全力で走って戦い抜け! いいな?﹂
という山形監督の熱い檄からハーフタイムの作戦会議は始まった。
その弾む語調が示すとおりにスコアは三対一でホームの日本がリ
ードしている。しかも逆転しなければならないサウジアラビアはど
ちらかといえば守備的に偏ったチームで、攻撃に関しては比較的カ
ウンターが強いというレベルでしかない。
ここまでは山形監督と俺達代表の全員が試合前に﹁こうなればい
い﹂と思い描いていた理想に近い展開だ。そして、ここから先もア
クシデントさえなければ逆転される可能性は少ないだろう。
なぜならばうちのチームのメンバーは︱︱特にFWの連中は油断
するどころか、監督の言葉に全員が目をぎらつかせていたのだ。
﹁あと一点でハットトリック⋮⋮くくくワイの実力がようやっと世
間に知れ渡るっちゅう事やな﹂
﹁監督の要望だ、これで攻め上がっても誰にも自分勝手とは言わせ
ない。超攻撃的サイドバックの看板を背負っているのに無得点でい
いはずがないんだ﹂
﹁あれだけ前半はアシカのフォローをしたんだ。人間の心を持って
いるなら、少しは先輩を労おうとアシストパスを送りたくなる心情
が湧いてくるはずだな﹂
921
﹁あの⋮⋮僕も前線に居るのを忘れないでくださいよ。え? お前
は誰だって? 馬場だよ、左サイドのウイングの! え? 忘れて
なかった? 今のは冗談だって? 本当だよね? あ、いや僕の事
を忘れてなければいいんだ。うん、覚えていてくれたら満足だよ、
別にもうパス寄越せとか無理は言わないよ﹂
我が代表の前線を彩る四人の反応は極端だった。うん、さっきF
Wの連中とひとまとめにしたがその中になぜかDFが入ってたり、
控えめな馬場選手が逆に目立ってたりと色々あったが、それでも気
を緩めるのではないかという山形監督の心配についてだけは無縁で
ある。
ほとんど全員が﹁俺が試合を決めてやる﹂という気合の入ってい
る表情をしているのだ。
全くなんて目立ちたがり屋な奴らばかりなんだと、普通のチーム
の司令塔ならば頭を抱えたくなるだろう。だが、その攻撃陣を操る
俺と明智のダブルゲームメイカーは笑ってFWの我が儘を許容する
だけの余裕がある。
﹁あんな事言ってるっすけど、僕達がパスを出さなきゃ攻撃は始ま
らないっすよね。僕達がパスを出しやすくするために前線のみんな
は頑張って走るっすよー﹂
﹁ああ、一応山下先輩と馬場さんの事は気にしておいてあげましょ
うよ。俺は山下先輩には前半お世話になっていますし。それに馬場
さんは前半ほとんど一人で敵陣の左サイドからトップ下のスペース
までのケアをしてくれたのに、パスがこなかったせいで攻撃面では
目立てませんでしたしね﹂
⋮⋮いや油断してるんじゃなくてこんな会話を交わすぐらいに余
裕があるだけだって。性格が悪いんじゃなくてチームをコントロー
ルしている感覚に酔っているだけなんだって。
922
とにかくそんなさらに攻撃を後押しするようなハーフタイムでの
話し合いを経て、俺達日本代表は後半戦へと突入した。
◇ ◇ ◇
実況席ではこのアジア予選をテレビで観戦している視聴者にはす
でにお馴染みになった真面目そうなアナウンサーが、大柄だがどこ
か神経質そうな硬い雰囲気を持った中年男性に会話を振っている。
﹁さあ解説の松永さん、前半を振り返ってここまでの試合展開はい
かがでしょうか? 三対一でリードと攻撃的な日本代表の好調さを
示すようなスコアになっていますが﹂
﹁⋮⋮ちょっと予想外でしたね。世界大会へのチケットがかかって
るんです、もう少し厳しい試合になるだろうと予想していましたか
ら﹂
なぜか沈痛な面持ちの解説者が顎の下で組んでいる手がプルプル
と小刻みに震えているのは、アナウンサーを含めてこの実況席にい
る誰もが見なかった事としてスルーされた。この松永というアンダ
ー十五代表の前監督は奇行が多いのでいちいち気にしていては仕事
にならないのだ。
﹁そう言えば松永さんの秘蔵っ子と噂の足利選手ですが、大活躍じ
ゃないですか! 最年少の、しかも故障明けの彼がここまでやれる
とは期待通り、いやそれ以上なんじゃないですか?﹂
﹁ええ⋮⋮最初の点が入った時には思わず﹁やってくれたなアシカ
!﹂と歓喜して叫んでしまいました。これならば私の期待に答えて
くれると信じていたのですが⋮⋮﹂
923
言葉だけなら足利という少年の活躍を褒めているようだが、なぜ
か残念そうに首を振る解説者の組んだ手と喋っている言葉の震えは
さらに大きくなっている。
その挙動にも気がつかないかのようにアナウンサーは言葉を続け
る。ハーフタイムの今はチャンネルを変えられてしまう事が多い為、
できるだけ早く興味のある話題を繰り出して視聴者を繋ぎ止めなけ
ればならないという使命が彼には課せられているのだ。
﹁ほう、そこまで彼に期待していたんですか。松永さんに将来を嘱
望されるとは足利選手も幸せ者ですね。それに私のような素人は日
本の初得点はFWの上杉のゴールに対する意欲溢れるプレイが素晴
らしかったように思えるのですが、専門家の方はやはり見る目が違
うのですね。その一つ前の足利選手からのパスに注目するとは⋮⋮。
それに日本が得点を奪った時も落ち着いていましたし、監督経験
者の言動は現場を知っている重みが違います。むしろ松永さんはサ
ウジの初得点の時の方がなんだか興奮していたみたいでしたよね。
先制された後にも関わらず﹁やってくれたなアシカ!﹂と叫んだ後
は﹁よしよし。これで大丈夫だ、安心しろ。心配いらないぞ絶対に
勝てる﹂と隣の私にも聞こえないぐらいの小声で自分に言い聞かせ
るような激励に、失点ぐらいでは揺らぐ事のない日本代表に対する
深い信頼と愛情が隠しきれていませんでしたよ﹂
﹁ええ、彼らを信用しています。だからきっと、私の期待に応えて
くれるはずです。それに試合はまだ決まっていませんからね。後半
が丸々残っているんですから、日本も油断していたらあっというま
に同点どころか逆転されてもおかしくはありませんよ﹂
手の震えを止めて﹁そうです、まだ日本代表は逆転されてもちっ
ともおかしくないんです﹂と自分の発言に何度も頷く。
アナウンサーも﹁おっと油断大敵という事ですね﹂とその発言を
冷静に受け止めた。 924
﹁なるほど松永さんの厳しいご指摘の通りですね。確かにここで油
断して試合をひっくり返される様なことがあってはいけません。ヤ
ングジャパンは後半はサウジの鋭いカウンターに注意して守備にも
気を使ってバランスよく戦えという事でしょうか﹂
﹁いや⋮⋮そうですね、むしろ正面からの打ち合いを選んだ方がい
いですね。DFの島津もずっと上げてしまってより攻撃的に行けば
いいんです。そうでないともうチャンスはないですからね、日本が
守りに廻ると難しいです﹂
松永のどこか歯車がずれたような解説にアナウンサーは首を傾げ
る。 ﹁という事は松永さんは日本が攻撃的な姿勢を貫くべきだと? そ
うでないと必死になったサウジのディフェンスから得点するチャン
スはないとお考えですか。いやー私なんかはもう後半は守って時間
潰しをしていればいいんじゃないか、なんて思ってしまいますが﹂
﹁そんな事をして良い訳がない﹂
ドンと松永がテーブルを叩く。
﹁そんな事では勝てなくなってしまうじゃないですか!﹂
顔を赤くして﹁守備的なシステム変更など許さない﹂と憤ってい
る前監督をアナウンサーは呆然と見つめた。そして自分達を映して
いるカメラの隣のスタッフが手に持った﹁後五分で後半戦開始しま
す﹂とのフリップに生放送だとはっと気を取り直す。とにかく場を
つなげなければ。
﹁な、なるほど。このアジア予選ぐらいで攻撃的なシステムから守
925
備的に変更してしまえば世界の舞台では勝てなくなってしまうとい
う事でしょうか。この試合だけでなく先を見据えての提言ですね﹂
﹁⋮⋮オ、オー。ソノトーリデース﹂
不意に何かを思い出したかのようにエセ外国人っぽく片言で答え
た後、必死に誤魔化すように﹁その通りです、私は厳しい愛情で接
しているだけで代表を応援してるんです﹂としきりに頷いている松
永に、アナウンサーは彼の行動を理解しようとするのはやめた。
局の上の方から﹁前監督で現役ではスター選手だった松永を解説
に据えれば視聴率が取れる!﹂とこの人事を押し付けられたのだ。
確かに視聴率は想像以上に取れたが、おそらくそれはエキサイティ
ングな試合内容のおかげであって、松永の解説はどこがとは指摘し
にくいが間違っている印象が強い。
だが現場で実況をしているアナウンサーにキャスティングの権限
がある訳がない。下手に文句をつけると自分がこの大会のメインア
ナウンサーから締め出されかねないのだ。
だから保身の為にも必死で様子のおかしい松永のフォローをこな
す。
﹁松永さんもここで気を緩めるな、サウジのカウンターに腰を引か
ずに最後まで攻めの姿勢を貫けと厳しくも温かい激励の言葉をかけ
ています。
若き日本代表はその期待に応えられるか? 後半戦を戦い抜いた
末には世界への道が続いています! 頑張れ日本! CMの後は後
半戦が始まります。テレビの前の皆さんも日本代表へエールを送っ
てください。それが彼らの力になります!﹂
﹁そうです、頼んだぞ日本代表のみんな! 是が非でも私の期待に
応えてくれ!﹂
日本代表が圧倒的に有利な状況のはずなのに、どこか悲痛な響き
926
と再び震えの混じった松永前監督の言葉を最後として、とりあえず
ハーフタイム中の実況は終了したのだった。
927
第五十九話 オーバーラップをさせてみよう
サウジ側は後半戦にあたり戦術を少し変更してきたようだ。
前半の試合内容ではさすがに逆転はもちろん、同点に追い付くの
さえ難しいと考えたのだろう。新たに選手を投入してきた。
長身でがっしりとした体格だがどこか体が重そうでその分頑丈そ
うなために、スピードを必要とするポジションには向いていないの
ではないかという印象があるな。その考えを裏付けるように、新し
く入った少年は最前線のFWのポジションに歩いていった。
ああ、あそこならばポスト役︱︱つまり味方からのロングボール
を体を張って確保するのが役目の選手のようだ。
どうやらエースで点取り屋のモハメド・ジャバーを一列下げてト
ップ下に移し、FWはツインタワーに変更するようだな。その分中
盤が薄くなるが、どうやら守りは一対一が基本となるマンマークで
は支えきれないと割り切って、さらに引いてゴール前に堅固な守備
ブロックを構築してしのぐゾーンディフェンスに変更するようだ。
このフォーメーションでは前線とDFラインの間にスペースがで
きて中盤を支配される危険があるが、サウジはそれでも仕方ないと
ロングボールを二人の長身FWに当ててからのそこから短い手数で
ゴールを目指すという戦術に専念するようだ。
こうなると俄然張り切るのは俺と明智の中盤でありながら攻撃を
受け持つポジションのMFだ。
ただでさえあの鬱陶しい毒蛇がいなくなったのに加えて、中盤に
スペースがぽっかり空いたのだ。敵のゴール前は人数が増えすぎて
渋滞しているが、この状況ならがんがん中盤で勝負ができる。パス
で前線を動かすだけでなく自分でもゴールへのアクションを仕掛け
928
るべきだろう。
という訳で早速ボールを持って中盤から上がっていく。ミドルシ
ュートを撃てそうな距離までくるとさすがに危険だと思われてマー
クがつくが、あまりしつこくは食いついて来ない。むしろ俺達MF
までサウジの陣内に引き付けておいてからのカウンターを狙ってい
るようだ。
前半は攻撃参加が少なかった明智が憂さ晴らしにさんざんパスカ
ットしたせいで、サウジのMFのパスの連絡網は寸断されていたか
らな。出来るだけ厄介な俺達にはサウジがカウンターの攻撃をして
いる最中は日本陣内には戻って欲しくないようだ。
だからといって俺達がサウジ側の事情に付き合う理由もない。俺
が前へ出ると明智がアンカーと並ぶ位置に下がり、明智がポジショ
ンを上げると俺は中盤の底でパスカットしようと試みる釣瓶の動き
を忠実に果たしておく。
思うようにいかない敵と違い、こっちは余裕を持ってじっくりと
攻撃の形ができている。ゴール前でだけは向こうが人数をかけて壁
を作っているから得点には至らないものの、いい形でのフィニッシ
ュまでは持っていけているのだ。
後はゴールをこじ開けるだけ、なのだが敵ももう一点取られたら
完全に試合が決まってしまうと感じているのか必死にディフェンス
する。
ここでスコアが動かないまま試合が硬直してしまった。このまま
タイムアップでも勿論日本の勝利と予選突破は間違いないのだが、
こんな状況で点が取れないチームが世界に出て得点できるとは思え
ない。
ここでおとなしく終了の笛を待つのが賢い作戦かもしれないが、
うちの連中は俺を含めて﹁おとなしい﹂という単語が似合わない奴
929
らばかりだ。
ここで俺はベンチを見る、するとこっちを凝視していた監督と目
が合い彼はゆっくりと頷いた。よし、もっと攻撃的にいけという意
味だな。もしかしたら﹁このままのペースで問題ないぞ﹂と伝えた
かったのかもしれないが、俺は攻めろと指示されたと解釈した。
ここで一度最前線の上杉に人波を縫って何とかパスを通したが、
三人がかりのマークによって反転してゴールを向く間もなく潰され
てボールを奪われた。︱︱あの上杉がシュートを撃てない程ゴール
前の彼には密着したマークが複数ついているのだ。
サウジは二人のFWと一人のトップ下と得点力のある少人数だけ
に攻撃をさせようと指示が出ているのかDFの駒は豊富だ。ほとん
ど三人がかりで中央の上杉とゴール正面付近の危険なエリアを封鎖
し、サイドの山下先輩や馬場にもマークが張り付いている。俺にし
ても明智にしてもミドルシュート圏内に入れば、向こうの中盤のア
ンカーが息を荒げて前を切ってくる。
ならやっぱりDF陣に攻撃参加してもらわないとな。監督から﹁
もっと攻撃しろ﹂とお墨付きをもらった気もするし、試してみたい
攻撃もあるからだ。俺は背中に回した指で上がれと指示を出す。
俺がオーバーラップの指示を出すのと同時にやれやれといった風
情で首を振り、明智がすっとボランチの位置からポジションを下げ
ていく。
そして入れ替わるように右サイドの島津が、俺の指示が遅いぞと
言わんばかりにサイドを駆け上がる。同時に日本の左サイドバック
は中へとポジションを絞ってセンターバックへと移行した。今日は
ほとんど攻撃参加する事もなく今もまたDFラインに吸収されると
いうと、ちょっとサイドバックとしては活躍の場がなくて不遇だな。
だがこれによって中央がスリーバック、そしてアンカーという四
人がかりの守備が構築され今のサウジの攻撃人数ではカウンターで
930
攻めて来ても日本の数的有利が保たれる。ま、うちの代表にDFに
人数を余らせるとか考えている奴はほとんどいないんだけどね。
とにかく攻め駒の中で唯一マークがついていない島津が、山下先
輩を追い越すようにオーバーラップしてくれた。敵のDFが彼の邪
魔する前にと素早く島津の前方のスペースである右のコーナーフラ
ッグ付近へと玉足の速いパスを出した。あいつなら敵陣の一番奥の
エンドラインぎりぎりでも追いつくはずだ。
俺の予想通りコーナーフラッグのすぐ傍まで駆け上がりボールを
受け取った島津は、いつものように自らゴール前に切り込んで行く
かと思いきや、その位置からコーナーキックのようなクロスを蹴る。
おそらくは敵ゴール前の混雑ぶりに音を上げたのだろう。上杉が
ゴール前に陣取っているおかげで異常にそこら辺の人口密度が高い
のだ。
しかしここで問題が一つ。島津がクロスを上げたのだが前線にい
る日本人プレイヤーでヘディングが得意な長身の選手はいないのだ。
上杉や馬場に山下先輩と皆が高さを競うヘディング争いよりも、角
度を変えるだけでゴールに突き刺せるスピードのあるクロスが好き
なタイプが集まっている。
だからこそ島津の高く、そしてややスピードを抑え気味のセンタ
リングは両チームの意表を突いたものだった。
しかも狙った地点はゴール正面ながら少々後ろのスペースで、す
でにペナルティエリアまで突っ込んでいった上杉の後方である。普
通ならばキーパーが飛び出してもおかしくないボールだが、上杉と
その取り巻きとなったサウジのDFが邪魔となって前へは出られな
い。
このクロスに反応できたサウジのDFは上杉についていき損ね、
そこに取り残された一人だけだった。そして日本でこのクロスに対
するヘディング争いに参加できたのは、残念ながらFWにもMFに
931
もいなかった。
だがDFには一人いたのである。
日本の最終ラインを守っていたはずの武田が、ここまでオーバー
ラップして島津からのクロスを頭で捉えたのだ。敵のDFとの争い
になったが、ここまで一気に駆け上がった助走付きの武田と上杉か
らはぐれてそこにいただけのサウジDFとは勢いが違う。
ましてや武田は日本代表で一番の高さを買われて、中国の巨人楊
のマークに指名されたほどヘディングが得意な選手なのだ。サウジ
のDFとの空中戦に易々と勝利し押し退ける。
やや抑え目のスピードと戻ってくるようなマイナス方向へのクロ
スが幸いして、しっかりとボールを確認してから武田は額を叩きつ
ける事ができた。
ヘディングにしては速度と威力のあるシュートがサウジのゴール
を襲い、そのネットを揺らす。
少々距離があっても武田にこれだけしっかりと頭に合わせられた
ら、そうそうキーパーも止めることはできない。ただでさえゴール
の横から入って来て急激にコースの変化するクロスからのシュート
は反応しにくいのだ。中国戦で一回試したばかりの、この新しい日
本の攻撃パターンを防げなかったサウジのキーパーを責めるのは酷
だろう。
それに俺が責めるまでもなくキーパー以外のDFも、いやサウジ
の選手全員が俯いたり腰に手を当てて苦い顔をして休んでいる。
そう、休んでいるのだ。
俺ならばこの場面で失点すれば急いでボールを回収し、一秒でも
早い試合再開をしようとセンターサークルにセットする。だが、サ
ウジアラビアはもうそんな行動をすることなく、ほとんどの選手が
のろのろと動いているだけだ。
そしてそれを叱咤し激励するべきベンチからの指示も、サポータ
932
ーからの声援もない。
︱︱つまりは心が折れたって事である。
油断はできない。驕ってはいけない。だがこの試合はすでに日本
のものだとこのゴールで確定したようだ。
俺はそう考えると大歓声とゴールして興奮したのか、さっきの上
杉に対抗して空手の型を始めようとする武田とそれを面白くなさそ
うな表情で見つめ﹁そこで頭でバーに当ててワイにパスを寄越すの
が関西の芸っちゅーもんやろ﹂と無茶な注文をするエースストライ
カー達に歩み寄る。
こんな濃いキャラ達がなぜ代表チームに集まっているのがなぜか
は判らないが、とにかく自分の得点でないというだけで口を尖らせ
ている上杉を引っ張って武田を祝福しなければ。
衆人環視の中でストライカーとストッパーの不仲説が流れるのも
面倒だし、なにより武田の背中に紅葉をつけるためには上杉という
屈強な弾避けが必要だからな。
俺や上杉に山下先輩や島津といった前線のメンバーのみならず、
日本の最終ラインから真田キャプテンやそこまで下がって武田とポ
ジションを入れ替わっていた明智が祝福に駆けてくる。
全員の顔から﹁この試合はもう勝った﹂という自信が放射されて
輝いている。だが無駄な力みが抜けたような状態であって決して緊
張感は失っていない。しかし彼らの間で交わされる会話は余り穏や
かでもなかった。
﹁さすが武田っすね、僕にディフェンスを任せて前に飛び出しただ
けの事はあるっすよ!﹂
﹁まあそう言ってやるな。島津なんかは毎度それをやってるし、今
回はアシカ君の指示だったしな﹂
﹁うむ、アシカの攻めろという命令がなければ前回の中国戦も今回
933
もオーバーラップはしなかったぞ。さすがはアシカだな、別段無理
をする場面ではなかったにも関わらず特攻を決断するとはあっぱれ
な男だ﹂
いつの間にか俺が全ての黒幕になってしまっているようだが、そ
れでもいい。こんな試合を何度もやれるのだったらな。
だが、俺だけに責任を問われるのは面白くない。ここは一つ最高
責任者にお鉢を回しておこう。
﹁いや、俺が指示をだしたのは監督の信任を受けたからですよ。大
体最年少の俺がみんなを好きに動かせる訳ないじゃないですか﹂
なぜ俺がこんな殊勝な言葉を言うと周りは胡散臭そうな表情をす
るんだろう。明らかに聞こえていないはずのベンチの山形監督まで
もが、なぜかお腹を押さえながら周りのイレブンと似た表情でこっ
ちを眺めているのが実に不思議なのだが。
934
第六十話 立ち上がって拍手をしよう
武田によるゴールで後半は凍り付いていたスコアがようやく四対
一へと動いた。
同時にこの得点でほぼ間違いなく日本の勝利と予選突破が決定さ
れたのだ。もちろんピッチ上にいる日本のイレブンの誰もが﹁もう
もらった﹂とか﹁九十九パーセント俺達の勝ちっすね﹂などといっ
たフラグめいた台詞は吐かない。むしろ﹁油断するなよ!﹂といっ
た気を引き締める言葉か﹁ワイによこせ、もう一点取りに行くで!﹂
といった気合いを入れるための会話ばかりだ。
すでに紙吹雪が舞い、踊り始めている気の早い観客席のサポータ
ー達とは対照的に、俺達選手はまだまだサッカーがやり足りないと
ばかりにサウジよりも先にポジションに戻っては試合再開を待って
いる。
そして日本のベンチからはなぜだか腹に手を当てて、厳めしい顔
をいつもよりさらにしかめた山形監督の怒鳴り声が響いてくる。
﹁これぐらいで満足するなよ! 攻め続けろ!﹂
はいはい、判っていますって。じろりと力を入れてベンチを見返
すと、気圧されたかのように後ずさる監督の姿があった。どうした
んだと周囲を見回すと、俺を含めたピッチ上の日本代表全員が闘志
に満ちた瞳で監督を睨みつけたらしい。
ああもう、山形監督は選手を自由に伸び伸びとプレイさせる放任
型の監督なんだから、ここまで試合に入り込んだ状態ならばもう何
も言わずに俺達に任せてくださいよ。
935
今の集中しているチームにとってはメンバー以外の声はほとんど
雑音にしか聞こえていないぞ。
これ以上は何も声をかけなくても、お望み通りサウジアラビアを
粉砕してみせますって。
そして俺達はほぼ戦意を失ったサウジアラビア相手に蹂躙戦を開
始した。
後になって考えると敵としては代表としての面子を抜きにすれば
内心では白旗を上げたかったのではないかと思う。向こうとしては
打てる手がほぼ残っていないのだ。交代要員も後半の開始の時点で
すでに二人使って残りのカードは一枚。
審判にしても、アウェーでの判定が酷過ぎるとFIFAに抗議ま
でされた後での日本のホームゲームである。今日にしても毒蛇に対
する俺の外見上はフェアな行為に観客や審判への心証もいいだろう、
サウジにとって有利な判定などはあり得ない。
おそらくベンチで立ち上がって異国語で泡を吹くほど叫び続けて
いる向こうの監督は﹁諦めるな﹂と敵チームを鼓舞しているのだろ
うが、ここまで来てしまっては効果が薄い。何より監督自身がまだ
追いつけると信じ切れてないのだろう、声は大きいがどうにも重み
がない。
まあ士気を低下させたのはサウジ側の都合であって俺達には関係
ないよな。
日本代表チームはホームでのサポーターからの大歓声に押される
ように攻勢をかける。観客にしても自国の代表が大差をつけてリー
ドして、しかも勝てば世界大会へ出場が決まるという展開だ。安心
してお祭り騒ぎに興じられるだろう。
半ば腰の引けたサウジの攻撃から日本DF陣は簡単にボールを奪
うと、アンカーを経由してまたもや俺へとボールが回ってくる。
936
さて、どうするか。
俺の目にはもうサウジ代表は敵ではなく獲物としか映っていない。
ならば自分で行ってみよう。
ぐっと俺が力を溜めた前傾姿勢になると、危険を察知してか目の
前にマークしにやってきた相手が顔を歪め口の中で何か呟く。言葉
は判らないが意味なら推測できる。こんな場面で口にするのは間違
いなく罵倒でしかない。
そんな彼の目の前にボールを差し出す。ほら、こんなに取りやす
そうな所にあるよ。ちょっと足を出せば奪えそうだろう? あ、我
慢するの? じゃあ、先に進んじゃうよ。
わざとらしいプレイ内容で挑発した俺が相手の右へと抜きかける。
ここまで必死に反応するのを自重してマーカーが待った甲斐があっ
たと飛びついてきた瞬間、足首でボールを切り返して股の間を通し
て抜き去った。変形エラシコによる股抜きである。
相手はチャンスとばかりに飛びかかろうとした寸前、自分の真下
をボールが通過していったのに気がついたのだろう、どうにかして
ボールを止めようとしては完全にバランスを崩して転倒する。
ボールを持ってにやけていた俺の口元がさらに歪む。性格が悪い
とは判っているが、相手に指一本も触れずにフェイントだけで尻餅
をつかせるとつい﹁見たか俺のテクニックを!﹂と嬉しくなってし
まうのだ。
まあ強引な抜き方をしたりして敵を力尽くで倒したりした訳じゃ
ないから、笑うぐらいは勘弁してくれよ。
笑みを留めながら俺はドリブルでミドルシュートの射程圏内にま
で深く敵陣へと侵入した。そのまま俺が躊躇わずにシュートモーシ
ョンに入ると、慌てたように最終ラインを構成していた敵のDFが
止めにくる。
そんなディフェンスなど目に入らなかったように俺は右足を振り
切った。
937
俺の目前にまでシュートを体で止めようと身を曝していたDFが
体を硬くして歯を食いしばっている。だが、俺の蹴った︱︱いや爪
先で跳ね上げたボールは彼の頭上をふわりと越える。
これは普通のキックに見せかけたフェイントのチップキックだが、
もちろんループシュートではない。キーパーが前へ出てない状況で
はループなんて撃てるもんか。
これはDFの壁とキーパーの間にボールを落としたパスである。
そこに走り込むのはいつものうちのエースストライカーじゃない。
上杉の奴は今回はまだ密着マークしているサウジのDF相手に肉弾
戦を交わしているからだ。
俺からの緩いボールに反応したのは、代表FWの中で一番影の薄
い少年だった。今も敵の影から気がついたらゴール前に現れていた
という、いかにも彼らしい存在感の無さを利用したマークの外し方
で左サイドから長距離をダッシュしてきた馬場にパスを出したので
ある。
まさにこの瞬間の馬場はシャドーストライカーと言うのにふさわ
しい存在だった。
俺が浮かしたダイレクトで撃つのには難易度が高いボールをボレ
ーで地面に向けて叩きつける。
丁度キーパーのいる辺りでバウンドしたシュートは、彼を一歩も
動かさずにゴールネットを中から上面へと突き上げた。
得点を決めた馬場は信じられないといった表情を見せた後、ゴー
ル前へ走り込んだ勢いそのままにメインスタンド前へ飛び出すとど
こかぎこちなく両手を掲げたガッツポーズをとった。
︱︱こいつあんまり久しぶり過ぎて、ゴールを決めた時にどうす
ればいいか喜び方を忘れてるんじゃないか? 俺がそう思ってしま
うほど、先ほど得点を挙げたDFの武田よりも様になっていないガ
ッツポーズだった。
938
予選で二点目となるゴールに普段は温厚な彼も喜びの色を隠せな
い。
だがそれに応じるべきサポーター席からの反応は結構酷い。﹁あ
いつ誰だっけ?﹂といったとまどった空気の後、俺の﹁さすが馬場
さんですね。馬場さんならやってくれると思ってパスを出したんで
すよ! よ、日本代表の不動の左ウイング背番号十一番の馬場さん
!﹂というまるで何かを宣伝しているように名前を連呼する説明臭
い声が響いた。
その後何かを誤魔化すような勢いでサポーターの席から馬場コー
ルと手拍子が起こった。若干不自然な感じもするが、まあこの状況
なら笑い話ですむからいいか。
実際馬場さんも苦笑いしながら﹁僕の事を忘れないでくれよー﹂
と上げていた手をスタンドに向けて振っていた。
日本側はもう試合を完全に決定付けるゴールにどこかチーム全体
の雰囲気が軽くなっていたが、逆にサウジアラビアの空気は重い。
自陣のゴールマウスからボールをセンターサークルへと蹴ってよ
こすキーパーの態度もどこか投げやりだ。
彼らももう勝敗が動かない事を理解しているのだろう。これまで
は心の中で押さえつけていた敗北の実感がまだ未熟な精神を蝕んで
いる。子供っぽいのは年齢的に仕方がないが、少しマナーが悪いぞ。
それにまだ試合は終わっていない。
もうしばらくの間︱︱といってももう残りはロスタイムぐらいし
かないが︱︱俺達の世界へ向けた戦いのスパーリングパートナーに
なってくれ。
ん? なんだここで俺とアンカー役が交代? ああ、仕方ないか。
まあ怪我明けだし試合も勝敗が決まっているしな。後の事はチーム
のみんなに任せるぞ。
得点した馬場への拍手が鳴りやまぬ中、引き上げる俺達を送る声
939
援も加わりまた大きく会場を包んでいった。
◇ ◇ ◇
実況席でもリードを広げる盤石の日本の試合展開に、アナウンサ
ーさえも興奮を隠せずに絶好調の日本代表を盛り上げている。最初
に失点こそしたが、そこから同点・逆転・追加点に駄目押し弾と見
どころに事欠かない。これほど実況のやりがいがある試合はめった
にないだろう。
一人でマシンガンのように話しを進めていたアナウンサーは咳払
いをして、この部屋の中で唯一なぜか表情を曇らせている解説者に
コメントを求める。
﹁松永さん! このままなら勝利は間違いないようですが、どうで
しょうか?﹂
﹁ええ、やりましたね。やってくれましたねぇ﹂
顎の下に組んでいた手どころか今では彼の体全体が小刻みに震え
ている。
﹁そうですね、若き代表チームとそれを率いる山形監督がやってく
れました!﹂
﹁もう、おしまいだぁ﹂
いきなりそのうめき声と共に頭を抱える松永。だがこの実況席で
は彼の奇行に突っ込むほど面倒見のいい人間はいなかった。もう松
永がどんな行動をしようとアナウンサーは絶対に彼と目を合わせな
いようにピッチだけを見つめながら実況を続ける。
940
﹁はい。そうですね残り時間はロスタイムのみです! 試合はもう
終わりに、そして厳しかったアジア予選ももうおしまいに近付いて
います﹂
﹁アシカがいなければ⋮⋮﹂
アナウンサーの明るい実況をよそに、松永は頭を抱えて影になっ
ているために表情は判らないが、そこから暗い声が呟かれる。
﹁あ、確かに足利選手がここでいなくなりますね。どうやら疲労の
著しいアンカーと一緒に交代でピッチを後にするようです! 小さ
な体で大活躍した今日の殊勲者が今スタンディングオベーションで
送られます﹂
頭を抱えて丸まっていた松永はがばっと体を起こすと、どこか空
元気めいた声を張り上げる。
﹁いや、まだだ! まだ世界大会が残っている。その結果いかんに
よってはまだこの代表の評価を百八十度変えられる可能性も⋮⋮﹂
﹁そうです、これで終わりではなく、まだアンダー十五の世界大会
が残っています! ご覧のチャンネルで世界大会の中継もいたしま
すので、このヤングジャパンの世界への挑戦を一緒に見守ろうでは
ありませんか! この年代の選手を松永さんが率いていた前回のア
ンダー十二の世界大会では、早々にグループリーグを突破しました。
しかしカルロスを体調不良で欠いた途端に、次のベスト八で惨敗し
﹁結局この年代の代表はカルロス頼みだった﹂と心無い悪評を被り
ました。ですが、この代表チームであれば見事にその悪評を払拭し
てくれることでしょう!﹂
アナウンサーの勝利に浮かれた脳天気な声に舌打ちしそうな表情
を見せた松永は、心底忌々しそうな声で告げた。
941
﹁そうですね。世界大会に期待しましょうか﹂
﹁まったくです、大いに期待しましょう!﹂
なぜか両者の声のトーンが正反対の実況と解説者のコンビだった。
942
第六十一話 みんなで胴上げをしよう
万雷の拍手の中、ピッチから戻って来たアシカとアンカーの両名
を山形は笑顔で出迎える。﹁よくやってくれたな﹂と軽く肩を抱い
て背中をポンと叩く。さすがに初夏の気候の中、ずっとプレイして
いたために二人とも汗でぐっしょり濡れているのは仕方ない。
﹁すぐに水分補給をしておけよ﹂
そんな言わずもがなの注意に対しても素直に二人とも頷く。うん
うん、このぐらいいつも俺の指示を聞いてくれれば監督業も楽なん
だが⋮⋮そう山形は苦笑する。どうにもうちの代表のメンバーは能
力と扱いづらさが比例して、スタメンクラスには問題児ばかりいる
ような気がしてしまう。
﹁ん? なんですか監督?﹂
胡散臭そうな視線に気がついたのか、スポーツドリンクを飲む手
を休めて不思議そうに首を傾げるアシカが尋ねてくる。いかん、試
合中だったな、何を油断しているんだ。問題児達への対策は後回し
にしてまずはこのサウジアラビア戦をしっかりと終わらせなければ。
とは言っても時計を見れば、もう残った時間はロスタイムの三分
のみ。もう監督が指示すべき場面ではないし、どう考えても日本の
勝利は動かない。
ピッチに視線を戻すと躍動する日本の選手達と体の重そうなサウ
ジの選手達。おそらく運動量そのものはよく攻める為のアクション
を起こしている日本の方が多いはずだが、メンタル面での疲労度の
943
差が動きに如実に表れている。
うん、審判さん勝負はついたんだ、もういいだろ? 早く終われ
って。
普段はする事もない山形の貧乏揺すりがベンチを微かに振動させ
て、前のめりな姿勢のままその時を待つ。同じくベンチで待ってい
る他の代表メンバーも、息を詰めて審判が試合終了の笛を吹くのを
じりじりしながら待ちわびているようだ。
そして上杉がかなりゴールから離れた場所から強引に撃ったロン
グシュートがサウジのゴールキーパーにしっかりとキャッチされる
と、そこで審判が長い笛を吹いた。
この試合終了とアジア予選の終わりも告げるホイッスルである。
山形は真っ先にベンチから立ち上がりピッチの選手へと駆け出そ
うとするが、その時にはもうすでにベンチに残っている者はいない。
全員がピッチになだれ込んでいる。ふう、さすがに元気な子供の選
手達だな。山形は嘆息する。瞬発力が何年も前に現役を引退した自
分なんかとは全然違う。
なんだか取り残された気分で抱き合って喜びを分かち合っている
選手達を見ていると、混ざれなかった自分が老けたって気がしてく
る。いや、監督としては山形はまだまだ若造扱いされる年代なので
はあるが。
彼が勝利したチームの監督に似つかわしくない少しブルーの入っ
た気持ちを振り払おうとしていると、急に選手達が全員でこっちに
突進してきた。
その先頭にいるのが日本代表で一・二を争う武闘派の上杉と武田
の二人だ。思わず山形は反射的にファイティング・ポーズをとって
覚悟を決めてしまう。座しては死なぬぞ、せめて相打ちに⋮⋮。あ
れ、なんでこんな展開に?
とまどう山形を尻目に上杉と武田が彼を担ぎ上げる。さらに常識
944
的だと信じていた他のメンバーまでもが参加しては彼を宙へと投げ
飛ばし、受け止めるとさらに宙へ浮かす⋮⋮これ胴上げじゃないか?
慌てていたため身を硬くして頭部をブロックしているという不格
好な姿ではあったが、無重力状態に身を委ねていると彼の胸の奥か
ら熱い物が込み上げてきた。喉からほとばしるのは少しいつもの厳
つい山形らしくはない高い笑い声だ。
サポーターからの拍手の中で選手達に胴上げされ宙を舞いながら
笑い続ける。
たぶん山形が監督になってから最高に幸せな瞬間だろう。
時間にして数十秒にも満たない僅かな間だったが、これは麻薬だ
な。降ろされた山形の笑いが止まらずに、またすぐにでも胴上げを
してもらいたくなるほどだ。
次の機会はこのチームでの世界大会か⋮⋮今度はその決勝で異国
の空をまた飛んでみたいものだ。彼は監督としてのキャリアや協会
とのパイプを作るためとかだけでなく、またこの最高の瞬間を味わ
う為にも頑張ろうと心を決めた。
◇ ◇ ◇
審判の笛が鳴るとピッチ上の日本代表の全員が飛び跳ねる。こう
いう時ってなんだか体の方がジャンプしたり、叫んだりと勝手に動
くんだよな。
俺達は誰彼構わずにチームメイトの全員で抱き合い﹁やりました
ね山下先輩!﹂﹁お前のおかげだよアシカ! でも今日俺にアシス
トせんかった事は許せん﹂などや﹁くそ、アシカが残っていてくれ
たらワイはハットトリックできたはずやのに!﹂﹁やっぱ狙ってた
んですか? 最後のシュートはさすがに無茶でしたよ﹂といったよ
うに和やかな会話で背中をバシバシと叩き合った後、俺は山形監督
945
がその輪の中にいなかったのに気がついた。少し俺達の輪から離れ
た場所から強面には似合わない穏やかな視線を投げかけている。
その姿を目にした上杉と武田の力の強い二人組が監督を目指して
ダッシュする。慌てて追随すると監督はなぜか﹁おい、止せよ﹂と
制止しながらも、﹁首だけは取らせぬぞ﹂というような防御姿勢を
とっている。そんな用心深い監督を皆でかつぎ上げて胴上げする。
慣れてないせいか最初のうちは監督の姿勢が定まらなかったが、
最後には大声で笑い出すぐらい上機嫌になったんだからやった甲斐
はあったな。
落としたりして怪我をしないように慎重に下ろすと、改めて皆で
サポーター達に挨拶に行く。
代表のメンバー全員が一列に整列すると、一際声と拍手が大きく
なった。真田キャプテンが﹁礼!﹂と一言だけ大声を出すと揃って
頭を下げるが、すぐに顔を上げる。
かしこまった一礼からすぐに砕けた雰囲気に戻り、選手の皆がサ
ポーターに応えている。俺にしても、これですべてが終わったとい
う解放感から安堵の笑みがこぼれる。ピッチ上でボールを持った時
の﹁にやり﹂という牙を剥いた表情ではなく、もっと柔らかく緩ん
だ笑みだ。
どこにいるのかまでは判らないが真も母もそしてクラスメイトも
たぶん拍手をしてくれているだろう。その誰に見られても恥ずかし
くない試合ができたはずだ。
序盤はちょっとばかりしくじったが、それでもメンタルの問題を
ゲーム中にきっちりと修正して一回り成長したのだ。
俺はアジア予選が始まる前と比べるとずいぶんとサッカー選手と
して進歩している。
これまでも俺は﹁上手い﹂プレイヤーだという自負はあったが、
946
今回の予選を通じ﹁強い﹂プレイヤーへと一皮剥けた。一つ一つの
要素を見れば、別段スピードが上がった訳でもなく急に技術が磨か
れたはずもない。だが、今の俺と予選前の俺が一対一の勝負をすれ
ば間違いなく今の俺が圧勝するだろう。
俺はこの予選を経て自分の選手としての格が一つ上がったと実感
している。
過酷なアウェーの戦いと日本中からのプレッシャーを受けるなん
ていう苦しくて貴重な体験は、肉体面に比べて弱かった精神面を無
理矢理鍛えてくれたのだ。 そしてまた世界大会へ行けることに心底ほっとしている。
俺はサウジアラビアで怪我をしたのは痛かったし、異国の真夏の
太陽の下でずっと走るのは苦しかった。クラスやネットで悪く言わ
れるのは辛かったし、サッカー部の奴らがよそよそしかったのは寂
しかった。
でもそれらの全てを踏まえて、なお代表にいる個性豊かなメンバ
ーとサッカーをするのが楽しかったのだ。
だからこいつらとまだ同じチームで戦えるのが嬉しくて仕方がな
い。
自分の為だけでなく、日本の為だけでもなく、このチームの為に
もまた世界大会で勝ち続けたいと強く思う。
そして、二回目のサッカー人生にしても自分がどこまで行けるの
かはまだ全然判らないのだ。前回のようにまた途中で倒れてしまう
のかもしれない。だが、それでも世界へ行くためのチケットをよう
やく手に入れたのだ。
ぐっと、拳を握りしめる。
︱︱俺の目標は世界一のサッカープレイヤーになる事だったよな。
ならばこの世界大会はいい機会じゃないか。とりあえず︱︱
947
﹁まずはこの世界大会で同年代最高のプレイヤーになってこようか﹂
その道の先にはブラジルに行ったあの少年や、まだ見ぬ凄い選手
がたくさんいるのだろう。だが今の俺は壊れた右足を抱えて羨まし
そうにテレビ画面の向こう側で観戦しているだけじゃない。
彼らと同じピッチで戦える立場にまでやってきたんだ。
体がぶるりと夏の日差しの中で震えた。
ああ今試合が終了したばかりなのに、またサッカーがやりたくて
たまらない。
待っていろよ、かつては見ているだけだった世界の舞台よ。俺が
日本から自慢のチームメイトを引き連れて参戦するからな。
948
外伝 ボクサーになりたかった少年
さすがにそろそろ顔を出さなあかんやろな。
前へ進もうとするのを躊躇う足を叱咤し、十五歳以下のサッカー
代表選手に選ばれている上杉はすっかり最近は縁遠くなってしまっ
たプレハブのような造りの小屋へと歩を進める。
上杉は﹁邪魔するで﹂と言葉遣いはともかく少々彼らしくない丁
寧な響きのする挨拶の後、簡単な造りの見た目とは裏腹に結構な重
量感のある抵抗をみせるスライドさせるドアを開けた。
風が吹けば飛んでいくような安っぽい外見を裏切って、ドアの内
部はしっかりとした造りで意外に密閉性は高い。そのせいで開けた
ドアからサウナのような気温と湿度が汗臭さを伴いつつむわっと外
へ洩れだした。湯気がたっていそうな室内のそこら辺の床には、ト
レーニングするための品が乱雑に転がっている。
その中で最も目を引くのは室内の中央にデンと安置されているリ
ングだろう、ロープが四本であることからこれはボクシングのリン
グだという事が判る。もしプロレスなどならリングに選手が乱入し
たり場外乱闘などで出入りをしやすいように、ボクシングよりもロ
ープの数が少ない三本のはずだからだ。
それを裏付けるように天井からは幾つものサンドバックが吊り下
げられている。
ジムではまだ朝が早いせいかリングの上を使った実戦的な練習を
している人間はいない。二・三人がトレーニングウェアの姿で縄跳
びや柔軟運動をして汗を流しているが、彼らにしてもまだウォーミ
ング・アップの途中で本格的な練習の前段階だろう。
その練習生の中には残念ながら彼の顔見知りはいなかったので、
面倒やなとは思いつつ上杉は軽く頭だけは下げておく。このジムの
949
会長がおそろしく礼儀に厳しいのは、文字通り上杉の頭へと会長自
身のげんこつによって叩き込まれているからだ。
朝早くから始動している熱心な練習生から放たれる訝しげな﹁誰
だこいつ﹂といった気配を上杉が感じとったちょうどその時、奥の
扉が開いて年を取ってはいるが眼光の鋭い老人が現れた。じろりと
ジム内を一瞥すると上杉の姿を確認して、前は灰色だったのが会わ
ない内に真っ白くなっていた眉を跳ね上げる。
﹁おう、上杉の小僧やないか。久しぶりやな﹂
﹁会長も元気そうやな﹂
﹁ワシが元気っちゅーより、最近の若いもんがヘタレすぎるさかい
にワシみたいな老いぼれが元気に見えるんや。お前ぐらいのイキの
ええ悪ガキはそうはおらんさかいな﹂
舌鋒鋭く若者と上杉を斬って捨てたが、以前よりしわが深くなり
目立つようになった頬を少し緩ませる。
﹁お前の方は頑張ってるみたいやな。サッカーなんてよう知らんワ
シでもテレビや新聞で名前見るぐらい活躍しとるやないか﹂
﹁まあな。ワイがその気になれば、ボクシングでもサッカーでもチ
ャンピオンになれるっちゅーこっちゃな﹂
﹁ふん、大口叩くのは前と変わらんな﹂
機嫌良くぽんぽんとテンポ良く掛け合いができたのに上杉は内心
で安堵する。自分が事故で拳を壊した後、このジムに顔を出したの
は今日が初めてだったのだ。小さい頃からずっと世話になってきた
この会長と、以前に彼がボクシングで世界チャンピオンを目指して
いた時同様に気安く会話ができるのはありがたい。
そんな上杉の考えを読んだのか、会長は彼を手招きして自分が今
出てきたドアへと戻るとくたびれたソファで茶を勧める。
950
﹁⋮⋮ほんまにお前の事はよう点を取るサッカー選手やとうちのジ
ムでも話題になっとる﹂
﹁当然やな﹂
ソファに腰かけた上杉は胸を張った。自分がこのボクシング狂の
老人に元気でやっていると伝えるには、サッカーでゴールするのが
一番だと気がついたのはサッカーを始めてからすぐのことだった。
上杉がハットトリックを連発していると小さく記事になったのを、
スポーツと言えばこれまでボクシング一筋だった会長がわざわざス
クラップにしてまで保存してくれているとジムの先輩から伝え聞い
たのが彼が何よりゴールに拘るストライカーになったきっかけの一
つだ。 それ以来上杉にとってはゴールを決めることが﹁自分はここにい
るぞ﹂と周りに知らしめるアイデンティティの一つになっているの
である。
﹁だがお前さんは、点を取る以外には他に何もせんそうやな。前の
代表の監督さんいう人がそうテレビでグチっておったで﹂
﹁⋮⋮そないな奴は知らんし、シュートの他はワイの仕事やない﹂
少し雲行きが変わったようだ。いつもは厳しく口をへの字に曲げ
てじろりと睨むのが様になっている会長が、眉根を寄せて心配げな
表情を見せている。会長のこんな顔は教え子のボクサーがKO寸前
に追い込まれた場面でしか上杉は見たことがない。
﹁少しは周りを見るんやで。ボクシングでも一発でKO狙いばかり
してたらカウンターをくってまう。パンチをぶんぶん振り回すだけ
でなく視野を広く持つのがチャンピオンになるボクサーの条件の一
つや﹂
951
﹁⋮⋮﹂
黙った上杉のつんつんと突っ立った髪をつぶさない程度に、軽く
しわの刻まれてはいるが未だ逞しさを残した手が撫でる。
﹁お前さんは優しい子じゃ﹂
そんなことあらへんと答えようにも、頭に感じる柔らかな感触の
せいで舌が凍り付いたように動かない。
﹁ワシらに心配をかけまいと誰からも注目される点取り屋になった
んやろう? だが無理にそんな事せぇへんでも、お前の事は勝手に
ワシらにまで伝わるぐらい有名になっとるよ。ワシはサッカーの事
はよう判らん。だが、無理せぇへんようにお前さんがチームに求め
られている仕事を手を抜かずに頑張りや﹂
◇ ◇ ◇ 上杉は二人のDFに挟まれながらもボールをキープしていた。す
でにここはもうペナルティエリアの中だ、倒せば即PKのためあま
り強引なディフェンスはしてこれない。これぐらいならばアジア予
選でもっとハードな反則上等なレベルの修羅場をくぐった自分であ
れば無理矢理にでもゴールを狙える!
そう強引にシュート体勢に入ろうとした刹那、ゴール前に飛び込
んでくる小柄なMFの足利の姿が目に入った。歯を喰いしばってス
トライカーとしての本能と躊躇いを押し殺すと体を捌き、ボールを
より得点する確率の高い足利に預ける。
ここまでゴールと至近距離にいる上杉がパスをしたのは初めてな
ので、DF達の虚を突いたのかマークを外して走り込む足利に簡単
952
に通せた。
パスを貰った足利でさえ驚きの表情を作ったが、それでもサッカ
ー選手としての習性か反射的に来たボールへと足を振り抜く。こい
つも代表に参加した当初は目を覆うような決定率だったが、今では
上杉ほどではないがかなり枠内を捉えるようになっている。ノーマ
ークでこの位置からなら外さへんやろという上杉の予想通り、足利
のシュートはキーパーにも邪魔されずにゴールへと叩き込まれた。
だがそこからの展開は上杉の予想を大きく越えていた。
﹁上杉さん、何やってるんですか!?﹂
練習試合の最中︱︱しかも今彼自身がゴールしたにも関わらず、
喜ぶどころか噛みつきそうな表情で上杉に向かって足取り荒く近付
いて来たのは足利だ。上杉にしてみれば、今こいつに自分を囮とし
た絶好のパスを出して得点をアシストしてやったのだからなぜ文句
を言われるのか見当がつかない。
﹁な、なんや。今のはええパスやったやろう?﹂
﹁あんなパスなんか欲しくありません!﹂
自分より頭半分は小さな少年にぴしゃりと言いきられる。
﹁いや、ワイがパス苦手なんは知っとるやろ? 段々上手くなるよ
って、もうちょい優しい目でみてくれんと﹂
今のパスに何かミスでもあったんか? でもゴールしたからええ
やないかと弁解する上杉も自分がパスを出すのはまだまだ下手だと
いう自覚があるので、この小柄な日本代表でもゲームメイクを担当
するほどのパスの専門家には強く言えない。
953
﹁上手い下手だなんてレベルの問題じゃないんです!﹂
足利は上杉の襟首を掴むとそれを引きつけるようにして、まるで
裏切り者を睨むような目つきで上杉の瞳をのぞき込んだ。足利より
もずっと喧嘩っ早い上杉だが、ここは勢いに飲まれてされるがまま
だ。
﹁上杉さんが今よりパスが十倍上手くても、このチームには入れま
せんでしたよ。でも今上杉さんは代表のスタメンを張っている。な
んでか判りますか?﹂
﹁な、なんでや?﹂
世界大会までに少しでもパスを上手くしようと考えていた上杉に
とって、彼のパスが十倍上手くても無駄だと言われる意味は全く理
解できない。
﹁上杉さんってFWが﹁パスで逃げずにシュートするストライカー﹂
だからここにいるんですよ。今更誰もあんたにアシストをしろだな
んて期待はしていません。上杉さんは最前線で常にシュートを狙っ
てくれていればそれでいいんです。下手にパスなんか覚えられたら
並以下のFWになってしまいます。
もう一度繰り返しますよ。うちが求めてるのは点取り屋の上杉さ
んで、シュートを撃たないあんたに用はありません。味方にパスを
回すFWが良ければ他の人をスタメンにしますよ。その方が上杉さ
んのパス技術を鍛えるより早いですしね。でもうちの監督は︱︱い
や日本はあんたを代表のFWに選んだんです。だからあんたはシュ
ートを撃つことだけを考えるエゴイストのままでいてください﹂
足利の﹁上杉のシュート以外には何の期待もしていない﹂発言に
954
上杉の気分が少し落ち込む。何しろボクシングジムの会長に会って
から、彼はサッカーをやり始めてから初めて真剣にパスやディフェ
ンスの練習をやりだしたのだ。それが全て無駄となれば時間を浪費
した気になるのも仕方がないだろう。
それを察したのか足利がフォローしようと声をかける。
﹁上杉さんはチームの事とかパスの事なんか考えずに本能に従って
プレイしてください。それが結果的に一番チームの為になりますか
ら﹂
﹁パスやディフェンスは忘れろってことかいな﹂
﹁その通りです﹂
無慈悲に断定されたにも関わらず、会話していく内に段々と上杉
の表情からなぜか曇りが拭われていくようだった。
﹁そか。ワイはシュートに拘る方がチームの、そして日本の為にな
るんやな﹂
何度も頷いては﹁くっくっく、それだけがワイのやるべき事でチ
ームから求められている事なんやな﹂と呟いた。
苦言を呈したにもかかわらずあまりに嬉しそうな上杉の姿にちょ
っと距離を取った足利が、言い過ぎたかとおそるおそるご機嫌取り
を試みる。
﹁あ、でも世界大会に行けば守備が凄く堅いチームもあるでしょう。
そんなシュートが撃てない時やパスした方がいいと思った時にだけ
限定でパスをしたり、守り切る時間帯だと感じたらディフェンスす
るのも悪くないですよ﹂
﹁なるほどな、そやけど⋮⋮﹂
955
答える上杉の表情はまた優れなくなってしまった。いや、これは
珍しく彼が困惑しているのだ。
﹁何か問題が?﹂
﹁ワイは今までシュートが撃てないとかパスした方がいいとか守ら
なアカンなんて、どんな試合でも一遍も思った事がないんやけど、
どないしたらええと思う?﹂
﹁⋮⋮もう世界大会が終わるまでは、上杉さんの好きにしたらいい
んじゃないですかね﹂
完全にさじを投げた格好の足利だったが、この会話が原因となっ
て数日後に﹁頼むからキックオフシュートを毎回狙うのは止めまし
ょうよ﹂﹁はあ? お前が常にゴールを狙えって言うたやんか﹂﹁
物には限度があるんですよ!﹂という会話を上杉とする事になるの
だった。
956
外伝 納豆少女のサッカー少年観察記
ほうじょう まこと
あしかが はやてる
北条 真からすれば引っ越した先で隣に住んでいた足利 速輝と
いう少年は、初対面の時から何だかよく判らないが気にかかる存在
だった。
それも仕方がないだろう。何しろ真はサッカーというスポーツそ
のものをテレビと体育の時ぐらいでしか見たことがないのに、その
スポーツでいきなり﹁俺は将来世界一になる!﹂と断言する相手を
どう判断しろというのか。せいぜいが﹁あ、うん、そうなんだ。頑
張ってね﹂としか言えないだろう。それ以上の世慣れた対応は当時
小学四年になったばかりの彼女にはちょっとばかり難しすぎる問題
だった。
次に真が彼を意識したのは、お昼の給食の時間に転校したばかり
の自分を元気付けようと納豆をプレゼントしてくれた時になる。こ
の時点では納豆を嫌いな日本人が︱︱いや納豆を嫌いな地球に住ん
でいる人間が︱︱いるとは彼女は少しも思っていなかったのだ。真
は納豆は地球で一番美味しい食べ物だと心の底から信じ込んでいた。
まあ、この半ば信仰にも似た納豆への偏愛は彼女が成長してからも
変わらずに続いていくのだが。
だから納豆をプレゼントされただけでそれを一生かかっても返す
べき凄い恩義のようにに感じてしまったのだ。それでとりあえずは
お返しにと、真はちょうどその時に偶然持ち歩いていた彼女の父か
らもらったばかりの新開発された珍しい素材で作られたミサンガを
渡したのである。
実はこの交換から数年後にミサンガが後の足利少年の身代わりと
なって彼の身を守る事になるのだが、もちろんそんな事の知らない
足利少年は﹁なんだこれ?﹂といったちょっと引きつった顔だった
957
がお礼を言って受け取ってくれた。
この価値からするとかなり不均衡なプレゼントのやり取りの末に
二人はお互いに﹁真﹂と﹁アシカ﹂と呼び合うようになり、親しい
本当の友達になれた気がしたものだ。真にとってはここに引っ越し
てからの性別を超えて作られた友達の第一号であった。
その後、彼の発言が大言壮語ではなく本気で最もメジャーなスポ
ーツで世界一になると言っていたのを知って﹁ホントなの!?﹂と
驚いた。またアシカが全国大会でも注目されるクラスの選手と知ら
された時は再び﹁ホントなの!?﹂と叫んでしまった。その後練習
試合を観戦してアシカがシュートをバーに五連続で当てた時なんか、
頭を抱えては悩む素振りのアシカをよそに﹁コントなの!?﹂と笑
っちゃったりして危うく派手な喧嘩になりかけた事もあった。
なんにせよ彼女にとってはアシカという少年は何とも驚かされる
ことの多い幼馴染みである。それでも彼によって一番驚かされたの
が、実はアシカが納豆を嫌っていると知らされた時だが⋮⋮。
しかし真は彼によってそれまではよく知らなかったサッカーとい
うスポーツに興味を引かれたのは確かだった。その興味の矛先が向
かったのが﹁自分も女子サッカーをやってみよう﹂とか﹁アシカの
やってるクラブのマネージャーになろう﹂でも﹁Jリーグへサッカ
ーの観戦をしにいこう﹂でもなく﹁サッカーゲームをやり込んでみ
よう﹂という物だったのが、女の子としては普通とはいささか感性
がズレていたかもしれない。
そのゲームをやり込んだ事が後の真をちょっと変わった道へ迷い
込ませた一因ではあった。さらに少し困った事にこの小学生の時期
からゲームにのめり込み過ぎたおかげで、かけていた彼女の眼鏡の
度がまた進んでしまってレンズが厚くなってしまったのだ。コンタ
クトが苦手な思春期の少女すれば、次第に厚くなっていく眼鏡の度
数は絶対に周りの人達には伏せておきたい秘密の一つである。
958
そんな真とアシカの日常は順調に進み、やがて二人とも地元の中
学へ進学する事となった。
大きく変化したのはアシカは中学に入学してからなぜかそれまで
疎外されていた年代別の代表チームに選出されて、急に外国での試
合が多くなりまた注目度も格段にアップした点だ。それはようやく
厳しかったアジア予選が終わって試合から解放されてからも変わら
ず、いや真の目に見える範囲では予選中よりもなぜかもっと忙しそ
うになってしまったようなのだ。
まずは全校集会で校長先生から激励される事に始まり、休み時間
にはクラスメイトやサッカー部などから練習試合に参加してくれと
の申し入れはともかく、世界大会へ持って行く物の買い物や祝賀カ
ラオケ会などの招待なども盛り沢山だ。
真からすれば﹁そりゃサッカー関係ないよね!﹂と突っ込みたく
なるようないろんなお誘いをする人達にアシカはひっきりなしに取
り囲まれていたのである。
その人の渦の中心地から何度かすがるような視線を感じたけれど、
アシカの顔がどうも女子生徒に囲まれて鼻の下が伸びていたようだ
ったから真は心を鬼にして助け舟は出さなかった。それどころか赤
いフレームの眼鏡の下から指を入れて目尻を下に引っ張り幼馴染み
に﹁あっかんべー﹂を突きつけたのだ。
アシカなんてきっと見かけだけは困った風だが本当は嬉しがって
いるに違いない。ふんと真は可愛らしく小さな鼻を鳴らして、無言
でSOSを発信している幼馴染みを無視することに決めた。
アシカはサッカーで忙しいからとクラスの女の子はもちろん最近
は真とさえも遊びに行ったりしないのに、なんでこんな時だけはい
つもみたいにぴしゃりと断わらないんだろう。真の偏見のフィルタ
959
ーを通した映像ではどうしても彼がデレデレしているとしか思えな
い。
でも本人に尋ねると﹁将来はプロになるんだから、ファンサービ
スと周囲の評判は大切にしないと﹂って無意味にきりっとした表情
で答えるのだ。囲まれてる最中のどこか浮かれた顔つきに反したそ
の隙のない答えがまた真の機嫌を損ねるのである。
そんな周囲が勝手にバタバタしているアシカだが、自ら積極的に
動いていた用件が一つだけあった。それは世界大会があるので、夏
休みの課題を減らしてはもらえないかという先生方との交渉である。
でもやっぱりどの教科でも反応はあまり芳しくないようだ。
﹁うんうん、足利は今度の世界大会は日本のためにも頑張ってこい
よ。でも宿題はそれとは別でうちは公立の中学なんだから減らすの
は無理だね。という訳で宿題もちゃんと頑張ってくれ﹂
という理屈でどの先生からも特別扱いはできないと却下されたの
だ。﹁うう、もっと代表戦に理解がある学校にすれば良かった。進
学先を間違えたかな⋮⋮﹂とうなだれるアシカだが、学業で困難に
ぶつかるアシカを真は初めて見た気がした。
アシカは英会話以外を勉強している素振りはないのに、なぜだか
成績はトップクラスを維持している。小学校時代に比べれば徐々に
順位を落としているようだけど、それでも代表に選ばれる生徒がこ
のレベルの成績なのは珍しいのか文武両道で大したものだと評判だ
った。
でも一度真が勉強のコツを聞いてみても﹁復習をしっかりするこ
と﹂だと当たり前のことしか言ってくれなかった。﹁アシカは復習
してないじゃない﹂と口を尖らせても﹁俺はまあ毎日の授業自体が
復習みたいなもんだからな﹂と彼女を煙に巻く答えを返すだけだっ
たのだ。サッカーについて質問するとなんでも饒舌に解説してくれ
960
るのに、勉強に関しては意外にケチな少年である。
だから彼が宿題について困っているのは学力ではなく純粋に時間
がかかるのが問題らしい。うん、部活をしている生徒よりも代表と
ユースの掛け持ちしているアシカの方が拘束される時間は長いもん
ねと真も納得した。
﹁なら自由研究ぐらいは共同研究って事にして手伝ってあげようか
?﹂
真の垂らした蜘蛛の糸に、立て続けに教師からつれない態度をと
られてうなだれていたアシカはすぐに飛びついた。
﹁本当か? あれが一番時間を食うんだが﹂
﹁うん、だけどその代わりに今度暇になったら一日付き合ってよね﹂
﹁それぐらいなら問題ない。いや、持つべき物は話の判る幼馴染み
だな﹂
彼女の差し出した小さな手を握ってぶんぶんと上下に振っては素
直に感謝を表すアシカに対し、ふふふと真は含み笑いをする。これ
で世界大会が終わった後の夏休みは、共同で自由研究をしていれば
なにかとアシカと自然に一緒にいる機会が多くなる。
こんな絡め手を使える点は幼馴染みの真だけの特権である。
これで今年の夏休みの終盤は大会が終わったアシカと一緒に遊べ
そうだと思うと、勝手に真の頬は緩んで大きな目が線のようになっ
てしまう。友達からは﹁猫が陽だまりで目を細めているみたい﹂と
褒められたのか貶されたのか曖昧だが実に嬉しそうに他人からは見
えるらしい表情だ。
アシカが﹁助かったぜ、真!﹂とスキップして他の教師に対して
961
宿題減の交渉に行った後も、真のにんまりとした笑みは薄れない。
それどころかますます緩みっぱなしのその口からは夏休みの自由研
究の予定がこぼれだしていた。
﹁ふふふ、家庭でできる美味しい納豆の作り方の研究をアシカと一
緒にやれるなんて楽しみだなぁ﹂
︱︱アシカが頭を抱えて﹁なぜ自由研究の内容を確認しておかな
かった⋮⋮﹂とうめくのはこれから一ヶ月後の話である。
夏休みが始まり外の熱気に対抗してエコは関係ないとばかりにき
んきんに冷房を利かせた自室で、真はその童顔でできるかぎりの真
剣な表情でページをめくっていた。
長い髪はポニーテールのように上でくくっているが、これは暑さ
に弱い彼女のおしゃれではなく少しでも首を涼しくしようと涙ぐま
しい努力である。
しばらくしてから真はばたんと図書館で借りてきた本を閉じると、
イスに深く腰掛け直し﹁んー﹂と背筋を伸ばす。それから﹁ん!﹂
と反動で勢いをつけて上体を起こすとパソコンの電源を入れる。自
由研究の下調べはこんな物でいいだろう。後はアシカと実際に大豆
を使ってやってみるだけだ。
なかなか立ち上がらないパソコンに少し苛立ちながら、今日はネ
ット上でどんな議論をするか想像した。よし、やはりアシカを中心
とした日本代表のフォーメーションとコンビネーションについてだ
ろうな。
この辺の話題になると、サッカー選手はアスリートとしての才能
がまずありきだとする、あのハンドルネーム﹁サッカーは爆発だ﹂
君を中心とするフィジカル論者の人達と真達の﹁サッカーはテクニ
962
ックだよ﹂派の結論の出ない仁義なき論争をまた覚悟しなければな
らないだろう。
でも、彼女は応援している幼馴染みのポリシーからも決してこの
論争で退くことはできない。どうしてもアシカをずっと見てきた立
場からすると、アスリートタイプよりもテクニシャンを贔屓してし
まうのだ。
まだブラインドタッチを修得していないために、ややたどたどし
くぽちぽちと書き込みを行っていく。
﹁現代表への反対派が何て言っても、現実にはアシカと明智を中心
にしたテクニシャン達がゲームを作ってアジア予選を突破している
んだよっと。ついでにプロテインを主食とするマッスル教など滅び
てしまえ、人類の健康食の頂点は納豆なんだよ! っと、ふう﹂
どこかサッカーとは関係ない私怨も入っているようだが、真はネ
ット上において現代表とアシカの擁護を行っているのだ。
すでにただの女子中学生からハンドルネーム﹁納豆少女﹂として
の論客の精神状態になっていた真は、アシカや日本代表のために夏
休みの間も休まずにネット上で戦っていた。⋮⋮一体それが何の役
に立っているのかは定かではなかったが。 963
外伝 ブラジル十番の朝の風景
早朝の爽やかな空気の中、ピッチの脇で一人カルロスは褐色の体
をゆっくりとほぐしていく。体重をかけて一本一本筋を丁寧に伸ば
して行くと、徐々にしなやかで強靱な筋肉に血液が行き渡り、じん
わりと熱を持って﹁早く動かせ﹂とまるで彼をせっついているよう
だった。カルロスの厳しいアスリートとしての観点から見ても、非
常に資質に恵まれた彼の肉体は今日も良好なコンディションをキー
プしている。
そして好調なのは身体面だけでなく精神的おいてもである。彼の
テンションが上がるだけの材料を昨日の内に伝えられたのだ。
それは彼のかつての母国であった日本が今度の大会に出場が決ま
ったという話だった。しかもカルロスにとっては嬉しいことに監督
が交代し、自分が居た頃のチームとはまるで様変わりしているそう
なのだ。これは緊急に入手してもらったビデオで日本代表のアジア
予選最後の試合を見て確かめたのだから間違いない。
普通ならば監督やチームメイトに戦術まで自分の居たチームが原
型を留めていないほど変化していたら、少しは寂しさを覚えるのか
もしれない。だが、カルロスにとっては以前の代表チームはあまり
良い思い出がなかったためにまったくそんなものは感じずに、新日
本チームに対する興味だけが胸に宿った。
カルロスがまだ小学生で日本にいたころは、チームメイトどころ
か代表の監督までもが認める﹁王様﹂だった。そんなカルロスに与
えられた役割は、日本代表の攻撃のほぼ全てを一手に任されるとい
うオフェンスでの全権委任だったのである。
964
それまでに所属していたユースチームではそれが当たり前だった
が、仮にも一国の代表が無条件で攻撃のタクトを少年一人に全てを
任せきるとは思わなかった。ほとんど監督やコーチは仕事を放棄し
ているんじゃないかと彼が疑っても仕方がないだろう。
そして彼の素質が開花していくにしたがい、カルロスを過大なま
でに尊重する傾向は次第に選手選考にまで及んでいった。彼自身は
何もいっていないのにチームメイトもカルロスに合う者ばかりが選
ばれるようになったのだ。
当時の監督やスタッフが彼と合わないと考えたタイプの選手は、
能力があっても多少なりとも癖があるために代表には必要がないと
排除されていったのである。その結果試合で隣に立つのは仲間と言
うよりも﹁臣下﹂ばかりであった。
そこまでされれば試合結果もまたカルロス次第となり、当然責任
も全て彼にのしかかってきた。
他国との試合ならば敵の中には歯ごたえのある相手もいて楽しむ
こともできたが、段々と味方と監督やスタッフに対しては期待など
しないようになっていたのだ。
そして彼頼りでアジア予選を突破したアンダー十二のチームだが、
世界相手でもその作戦は変更されなかった。そのまま突入した世界
大会の本戦では、彼の代役がいないチーム状況の中ではカルロスが
一試合でも休むわけにもいかなくなってしまったのである。
結果は彼が疲労でコンディションを維持できなくなった時点で、
あの時の日本代表はもう終わったも同然だったのだ。
︱︱今のブラジル代表と比べると凄い差だな。
現在のブラジルが誇る、宝石箱の中身のようにきらめいているチ
ームメイトと比べてカルロスは苦笑した。もともと国としてのサッ
カー人口が違うのだ、裾野が広ければ当然頂も高くなる。その頂上
である代表のレベルが富士山とエベレストぐらい違っていても仕方
ないのだろう。そして、混血が進みスポーツに向いた人種の多いブ
965
ラジルでもカルロスクラスの身体能力はそういないが、迫るぐらい
のアスリート能力を持った選手もいるのだ。
カルロスにしてみれば、一回ドリブルで抜いた相手に後ろから追
いつかれるのはここに来てから初めて経験する出来事だった。これ
までは突破した相手はいつも視界から後ろへさっさと消え去ってい
く石ころでしかなく、意識する必要はなかったのだ。
日本では彼がドリブルをしていてもただ走って追ってくるだけの
敵とさえ比べてそれほどスピード差があったのである。だがここに
はカルロスでも﹁ジョアンだ﹂と無視しえないレベルのDFが存在
している。
﹁よ、おはようカルロス。毎朝早いな﹂
人懐っこく挨拶をしてくるのは長身のカルロスを越えるこの大柄
なクラウディオという名のDFだ。そしてこの彼が先ほど述べたド
リブルするカルロスに追いついてきた選手の一人なのだ。すでにイ
ングランドのプレミアリーグでのデビューが秒読み段階の屈強なセ
ンターバックである。
これだけ身長が高くて十五歳とは思えないほどの分厚い完成され
た体躯をしているのに、パワーだけでなくスピードまで兼ね備えた
ブラジルが誇る期待の選手だ。出身地から付けられたあだ名の﹁サ
ンパウロの壁﹂としてハードなディフェンスと冷静な読みで知られ、
カルロス同様にもうしばらく成長を待ってからのフル代表にも選出
を確実視されている。
﹁二人ともおはよー﹂
もう一人あくび混じりに挨拶してきたのはクラウディオとは対照
的に童顔で小柄なFWのエミリオだ。
こいつは半分寝ぼけた風情だが、なぜだか今も彼の頭の上にはボ
966
ールが乗っている。そのままあくびや挨拶をしても頭上のボールは
ぴくりともしないのだから、とんでもないバランス感覚とテクニッ
クを併せもっている少年だ。まさにボールが体の一部と化している
と言っても過言ではない。
現在のブラジル代表のスタメンでは唯一のFWというだけで、エ
ミリオのその外見に似つかわしくない凄さが判るかもしれない。い
くらカルロスがいるからとはいえ、このエミリオが一人最前線にい
れば得点力には何も問題ないと攻撃大好きのはずのブラジルの国民
ですら納得しているのだ。それを裏付けるだけの実績と実力を兼ね
備えた南米予選の得点王である。
MVPこそアシスト王と得点二位になったカルロスに譲ったもの
の、その決定力と技術の高さはすでに国内のみならず海外クラブか
らも注目を集めている。
﹁ああ、おはよう。お前は眠そうだな﹂
﹁うん、カルロスが見たっていうから、僕も日本の試合のビデオを
見てたら眠るのが遅くなっちゃった﹂
﹁へえ、ねぼすけのエミリオが睡眠より優先するとは珍しいな。俺
も見ておくべきかもしれない、それほど興味を引かれるビデオだっ
たのか?﹂
いつものエミリオなら夜すぐに寝る。そして昼でも寝る。酷いと
きにはウォーミングアップが終わってから試合が始まるまでの僅か
な隙をついて寝る。しまいには興味がなくなった試合中でも寝てる
んじゃないかというほど睡眠大好きなストライカーだ。その彼が夜
更かししてまでチェックしたチームというのにクラウディオも興味
を引かれたようだ。
﹁うん、特にあのゲームメイカーの⋮⋮アザラシって奴が﹂
﹁アシカだよな﹂
967
カルロスが珍しく突っ込みに回る。普段クールを気取っているは
ずの彼のペースを狂わせるぐらい、このブラジル代表のメンバーも
濃いのだ。
﹁ああ、うん。そのアシカ君とFWの食い過ぎって奴が﹂
﹁たぶん、そいつは餓え過ぎ、じゃなくて上杉だな。というかお前
もしかして日本語判ってるんじゃないか?﹂
あだ名はともかく名前はユニフォームに書かれたローマ字を読め
ば判るはずだが、と日本語を駆使しての高度なボケを繰り返すエミ
リオをうろんな物を見る目つきで見据えるカルロスだった。だがそ
の対象はまた大口を開けてあくびを繰り返している。
あ、ぽろっと頭上からボールが落ちたが地面でバウンドする寸前
に右の足首で挟んでキャッチした。この間、大あくびをしていたエ
ミリオの目はおそらく閉じられていたにも関わらず、だ。
︱︱どうにも読みにくい奴だな。
カルロスのような天性の才能を持った少年でも理解しがたい幼い
無邪気さと、ゴール前で随所に覗かせる閃きがこの天衣無縫な小さ
なストライカーを形作っている。彼がいたころの日本のチームには
存在しなかった生粋のストライカータイプだけにどうにも扱いに困
り、ピッチ以外での息はあまりあっていない。
少々雰囲気が悪くなったのを察してキャプテンでもあるクラウデ
ィオが口を挟んだ。
﹁へえ、二人が同時に興味を示すとは珍しいな。カルロスがいなく
なってからは注目はしていなかったが、そんなに日本のチームが強
かったとはな﹂
﹁ああ、まあ知り合いは少なくなったが確かにエミリオが今言った
ような奴らは面白かった。それにうちの攻め上がりっぱなしのサイ
968
ドバックと同じぐらい上がりっぱなしのサイドバックもいたからな﹂
﹁⋮⋮ウイングじゃなくてか? またなんでそんな奴を⋮⋮﹂
﹁さあな、それを言うならうちの左サイドにまず文句を言わなきゃ
いけないだろう﹂
﹁まあそうだが⋮⋮、しかしうちの左と言えばフランコだがあいつ
と同じぐらい攻撃的なサイドバックだと? ウイングと間違えたん
じゃなければちょっと信じられんな、そんなDFがいるという事よ
りもそんな奴を試合に出す監督がいる方が、だが﹂
どう考えてもあいつより攻撃的なDFは想像がつかんぞ⋮⋮と首
を捻るクラウディオ。ブラジル代表の左サイドバックは﹁暴走特急﹂
や﹁片道特急﹂の異名を持つフランコの指定席だ。
優秀なサイドバックはそのサイドでの試合中の激しい上下運動の
スピードとスタミナを称えて﹁特急﹂という名を付けられることも
多いが、フランコの場合はその異名が示すとおりのとんでもない攻
撃特化型の選手である。
もちろん批判も多く﹁ブラジルの左サイドの特急は上りはあって
も下りはない﹂とか﹁あいつの暴走は誰にも止められない。それが
例えブラジルの代表監督でも﹂とまで評されている。それでも結果
を出せば、そしてそれが攻撃に関する事であれば大らかに認めるの
がブラジルの流儀だ。圧倒的な攻撃力を売りに南米予選で敵を粉砕
した後は、ここまで超攻撃的なサイドバックを持てるのは自分達の
国だけだろうという誇りも加わり、かなりの人気者としてスタメン
に名を連ねている。
いつも冷静にディフェンスを指揮するブラジル代表のキャプテン
だが、困惑した表情だけは年相応に幼さが覗く。この時点ではデー
タ分析が得意な彼も、日本の監督が胃を痛めながら守備に目をつぶ
って件の選手を使い続けている事まで判る筈もない。
﹁それにアシカや上杉って言ったっけ? あいつらならこっちでも
969
代表候補にぐらいはなれそうなぐらいだったよ﹂
﹁ほう、そこまで評価は高いか﹂
﹁うん、まあ僕らみたいなスタメン組と比べちゃかわいそうだけど
ねー﹂
あははとエミリオが無邪気な残酷さで脳天気に笑って﹁僕ならあ
のぐらいの予選なら全試合ハットトリックしてるからね﹂と付け加
える。その傍らでは難しそうな顔をした心配性なクラウディオが﹁
こいつらが興味を持つレベルだと? 日本なんてまるでノーマーク
だったな﹂とぶつぶつ言っている。
これまでブラジルでは全くノーマークだった日本がブラジルの僚
友に注目されると、もう日本とは関係がないと割り切ったはずのカ
ルロスにもなぜかむず痒いような気がしてきてぽりぽりと頭をかく。
確かにかの国への国籍は無くなったが、サッカーに国境は関係な
いからな。そのチームが強いかどうかが問題だ。そしてカルロスは
新しくなった日本代表を﹁面白い﹂チームと感じたのだ。自分のい
るこのブラジルには通用しないだろうが、少しは対戦が楽しめそう
なチームになって来たと胸が躍る。
﹁カルロスもなんで笑ってるの?﹂
問われて確かめると確かに自分の口角はつり上がっているなとカ
ルロスも納得する。自分を切り捨てた祖国に対してはいろいろ思う
ことがあるが、昨日見た試合の中には﹁一緒に戦おう﹂という約束
を果たせなかった小柄な少年もいたのだ。
カルロスの国籍がブラジルになるといった想定外の事情もあった
のだが、アシカが代表へたどり着くまで待っていられなかったのも
事実だ。だから約束を破った事についてはユニフォームの色は違っ
て敵となっても一緒のピッチで戦うってことで、勘弁してもらうし
かないか。
970
︱︱戦い甲斐があるのではなく、まだ今の日本は叩き潰し甲斐が
あるぐらいの相手でしかないとカルロスの笑みが深くなる。
そうだな、今の戦力で単純に考えると⋮⋮。カルロスは顎に指を
当てて簡単にシミュレーションすると五対一ぐらいでブラジルが完
勝するとの結果が出た。
まあ実際にやればどうなるか判らないし、もう少し楽しませてく
れるといいんだが。
遙かに離れた自分のもう一つの祖国を思って、日本と戦える日を
待つのだった。︱︱その対決する日は彼が想像したよりかなり早く
やってくる事となる。
971
外伝 サッカー小僧の出発前夜
﹁いただきます﹂
俺と母に真、もうお馴染みとなった三人の声が唱和して夕食が始
まる。
まるでこう言うといつも三人で食事をしているようだが、さすが
に幼馴染みのお隣さんでもそれはない。真まで一緒に食事を取るの
は彼女のご両親に急用があったか、それともちょっと特別な時ぐら
いだ。
そして今日の夕食は、俺が明日イギリスで開催されるアンダー十
五の世界大会へと出発するための身内での激励会みたいになってい
たのだ。
他の代表メンバーも含めた公式行事の激励会は二日前にあったが、
あれは食事よりサッカー協会のお偉いさん達の挨拶がメインだった
からな。おかげでご馳走のはずだったのに料理の味なんかちっとも
記憶に残っていない。ずっと笑顔で﹁頑張ります﹂とばかり言って
いたのだから励まされるところか逆に疲労が溜まるだけだったのだ。
それに比べると今夜のメニューは素朴だがずっと食欲をそそるな。
メインがトンカツと新鮮なお刺身でそれにサラダが一人につきボウ
ル一杯分となっている。その横になにか藁の人形に包まれた腐った
大豆があるようなのだが、俺は気が付かなかった。うん、気が付か
なかったんだから食べなくてもいいよな。
ちらちらと眼鏡越しの視線をその藁の人形に走らせて﹁その藁の
中身を察して味見しろ﹂と無言のプレッシャーをかけてくる幼馴染
みにも気が付かない振りをする。そうか、よくいるマンガの主人公
みたいな鈍感な振りって役に立つんだな。
972
その俺の気が付かなかったんだから仕方がないよね攻撃に対抗し
てか、真がそっと藁人形をプッシュしてくる。それも俺が視線を外
した隙に少しずつだ。だから目に入る度に、自分にちょっとずつ藁
人形が近付いてくる光景はテーブルのその一角だけを完全にホラー
と変えていた。
なんで俺を激励する夕食会のはずなのにこうなっているんだろう?
そんな火花の散りそうな戦いをしていると、母が助け船というか
話題を振ってくれた。 ﹁それで日本代表チームの調子はどうなの?﹂ ﹁一言で言うなら絶好調かな﹂
視界の隅から映るにじり寄る人形を無視するように俺は母へ短く
判りやすく答えるが、事実言葉通りに代表チームは全員が良好なコ
ンディションを維持している。予選最後に圧勝したサウジ戦の時と
比べても、遥かに個人の体調もチームとしての連携も格段に上昇し
ているのだ。
このぐらい成熟したチーム状態で予選に臨めれば楽勝だったよな
ぁ⋮⋮。
激戦のアジア予選を思い返すとそう考えてしまうが、逆にあれだ
け苦戦したからこそここまでチームが成長したとも言える。
個人的にもサウジアラビア戦での毒蛇とのマッチアップは良い経
験となり、自分を一つ上のレベルに押し上げてくれたとさえ思って
いる。もちろんこれは最終的に勝って予選突破した今だから言える
ことであり、特にアウェーで危険なファールされた時点では毒蛇を
呪っていたのだが。
まあ喉元を過ぎれば熱さを忘れて、苦難を糧として栄養にすると
それを消化して見事に成長した結果だけが残った、と。
﹁今の状態ならカルロスの居るブラジル相手でもいい試合ができる
973
んじゃないかな﹂
﹁あらそうなの? それは良かったわね。でもやっぱり速輝はブラ
ジルに行っちゃった今でも判断の基準がカルロス君なのねぇ﹂
どこかおかしそうな母の声に頬をかく。特別意識しているつもり
はなかったが、それでも一度しか戦っていないカルロスの印象は鮮
烈だった。それこそ強敵とやる時の比較対象がカルロスになってし
まうぐらいに。そして毎回﹁カルロスに比べればまだこいつを相手
をする方が楽だ﹂という結論に落ち着くのである。
これまでにも強いチームとやるときは何度もそう口にしていたか
ら、確かに母にからかわれるのも無理はないかもしれない。
﹁うん、まあそうかもしれないけどね。今度またあいつと戦えるよ
うになって嬉しいよ﹂
﹁あれ? ブラジルと当たるの?﹂
驚いたような高い声はこれまで静かにテーブルの外れの藁人形を
気配を消して前進させるのにかまけていた真だ。あ、こいつらに予
選の相手とか話してなかったかな? 手を箸に持ち替えた彼女にほ
っとしながら説明する。
﹁うん、予選で一緒の組になったんだ。他はナイジェリアとイタリ
アの四カ国で、総当たり戦で戦ってその内の一位と二位が本戦出場
になる﹂
カテナチオ
﹁へー、ブラジルは知ってるけど他の国も割と強そうだねー﹂
﹁そりゃ強いよ。イタリアは閂と呼ばれるほど世界中に知られた守
備に定評のある国だし、ナイジェリアもアフリカ勢らしく身体能力
が超人的な選手が多いそうだ。舐めてかかれる相手じゃない。とい
うより世界大会で相手を格下認定してたらそりゃ負けフラグを立て
ているようなもんだよ﹂
974
﹁そうなの? アシカはブラジル以外眼中にないのかと思ってたよ﹂
﹁そんな﹁予選の相手はブラジルだけ﹂とか明らかに予選グループ
で敗退する雑魚の台詞だよな。俺はどのチームも強敵だと警戒して
いるぞ﹂
ふむふむと、少し行儀悪く箸を咥えながら何やら思案する真。そ
の口から﹁むー、この予選相手では祭りになるし、また荒れるなぁ﹂
という呟きが漏れたようだが、彼女が行く予定の夏祭りの天気の心
配でもしているのだろうか? どうも最近この幼馴染みの思考が良
く判んないぞ。
﹁どうかしたのか真?﹂
﹁あ、ううん。何でもないよ。予選でブラジルと当たるって聞いて
祭りになるなーって思っただけ﹂
﹁うん? まあ注目はされるだろうけどな。なんだ、お祭りの日と
重なりそうでテレビで観戦しにくいとかなのか? せっかくの大舞
台なんだから応援してくれよ。帰ってきたらどっかのお祭りでなに
か一食はおごるからさ﹂
﹁え? 本当?﹂
途端に眼鏡のレンズが光ったかと錯覚するほど瞳を輝かせる真は、
正直言って少しちょろいと思う。このままでは悪い男に引っかから
ないかかなり心配である。恋愛感情とまではいかないが真とはもう
長い付き合いになるから充分に親愛の情は湧いているし、ほとんど
妹みたいな身内の感覚である。一人っ子の俺としては真は半端な男
には渡したくないというちょっとした独占欲もある。
前回の人生では別々の高校に進学したり、俺がサッカーを怪我で
諦めたりした辺りから段々と気安い関係は薄れていってしまった。
だが今回は明らかに前よりもっと親密になっている。なんとかこの
まま気の置けない幼馴染みの良い関係を壊さずにやっていきたいも
975
のだな。
﹁ああ、こっちの都合に合せてもらうけど俺も夏なんだから一回ぐ
らいはお祭りに行きたいしな﹂
﹁うん! じゃ、じゃあ色々とこの辺のお祭りを調べておくね!﹂
嬉しそうに目を細めて笑う真はどこか子猫っぽい。うん、まだま
だ子供扱いで問題なさそうだ、この距離感をキープしよう。たぶん
自分に好意を持ってくれているだろう幼馴染みを騙しているような
罪悪感で胸がチクチクするのは無視だな。俺はサッカーで精一杯で
恋愛にうつつを抜かしている暇はないんだ。
自分が人間としては少し冷たいかなと落ち込みそうになったが、
そこにまたタイミング良く母が声をかけてくれた。
﹁夏休みの後半を楽しむためには前半にしっかりと宿題と世界大会
を頑張らなくちゃね﹂
﹁はいはい、了解です﹂
首をすくめて答える。正直宿題そのものは難しくはないのだが時
間がかかるのがネックだ。こうなれば遠征先にも持っていって空い
た時間にちまちまと消化しなくては。手間がかかるが、それでも一
番やっかいな自由研究を共同研究ということで真が進めておいてく
れるのは実にありがたい。
その研究内容は﹁秘密だけど楽しみにしててね!﹂ってことだが
いったい何を企んでいるのかちょっと楽しみだ。お祭りに同伴する
時は大盤振る舞いをしてあげなければいけないな。
︱︱後に﹁まさか腐った豆の観察とは⋮⋮研究課題を確かめてお
くべきだった⋮⋮﹂とうなだれる事となるのだが、それは世界大会
が終わってからの話である。
976
しばらく近辺の夏祭りについて母がレクチャーしてくれたり、真
が﹁夏バテを防ぐには発酵食品だよ!﹂と興奮したりしていた夕食
会もほぼ終わりになろうとしていた。
﹁じゃ、俺は明日早くに出発するから真とはここまでだな﹂
﹁あ、そうなんだ。飛行機で行くなら見送りに行こうかと思ったん
だけど﹂
﹁なんだか協会の方で車を回してくれるみたいよ。それで子供達を
全員揃えてから空港に向かうみたい﹂
この年代はまだ子供と思われているのか、移動に関してはちょっ
と協会側からも配慮されているのだ。だから出発前にゆっくり二人
と言葉を交わせるのはこの機会が最後だろう。
日の丸を背負って世界と戦うってのは重圧もあるが、ここで﹁帰
ってきたら何かするんだ﹂とフラグを立てる訳にもいかないし⋮⋮
あれ? さっき食事中に﹁大会が終わったら一緒に夏祭りに行こう﹂
だなんて約束してしまったがあれは大丈夫だろうか。いや、別に戦
場にいくんじゃないからセーフだよな。
﹁それじゃ、アシカは頑張ってそして怪我しないようにね。あ、こ
れは念のためにもう一個渡しとくよ﹂
﹁ああ、サンキューだ真﹂
俺より頭一つは背の低い真が見上げて餞別にミサンガを渡してく
る。この前付け替えたばかりで当分切れるはずもないが、予備はあ
っても困らない。白く細い手から受け取るとまるでミサンガが、戦
場へ赴く兵士へと送られたお守りのように思えてくる。この応援に
は応えなきゃいけないよな。
渡されたミサンガをぎゅっと握りしめ、目線よりも下にある幼馴
染みの艶のある黒いロングヘアへと手を伸ばす。そして小学生の頃
977
のように撫でるというよりは軽くぽんぽんと叩いた。 うん、相変わらずさらさらした良い感触だ。でもあまり長い間こ
うしているわけにもいかない。
﹁真と初対面の時にした宣言が結構早く実現できそうだな﹂
﹁え?﹂
頭上に?マークを浮かべる真に、できるだけ期待させて心配をか
けまいと軽い口調で旅立ちの挨拶をする。 ﹁それじゃ、みんなとちょっとイギリスまで世界一になりに行って
くるよ。お土産は優勝メダルでいいよな﹂
978
第一話 最高の舞台を楽しもう
﹁おおー、今回はちゃんと試合する会場で練習させてもらえるんや
な﹂
自分のつんつんと逆立てた髪をかきあげながら、当たり前の事を
感心したように弾んだ声で言うのはうちのエースストライカーであ
る上杉だ。他のメンバーも試合会場となるプレミアリーグでも名門
の一つに数えられる有名サッカーチームのホームであるスタジアム
で試合できるのを喜んでいる傾向がある。だが特に喜んでいる上杉
の場合はなにしろこれまでで唯一の海外での試合経験が一番酷かっ
たサウジでのアウェー戦だ。
それだけに今回のイギリスがきちんとしたホスト国としての責任
と誇りを持って参加国を迎える待遇が心地いい驚きだったのだろう。
こうして他国へ行くと日本でのスポーツ大会における開催や運営
の平均レベルの高さに改めて感謝の念が湧く。恵まれてるんだよな、
俺を含めた日本のサッカー少年は。
﹁ま、驚いてないでみんなも試合中にとまどわないように会場の芝
の具合やボールの跳ね方、色々気になる点をチェックしておけよ﹂
監督のその言葉に頷いて皆が一斉にピッチ上に散らばる。よし、
俺も一通りチェックするか。小刻みなボールタッチや丁寧なコント
ロールを信条とする俺のプレイスタイルには、監督が指摘する要素
はどれも結構重要な要素だからな。
その冷静さもピッチに足を一歩踏み入れると吹き飛んだ。うわ、
なんだこのピッチの芝は。まるで絨毯のように毛足が長くふかふか
している。ここまで芝の状態が良いピッチコンディションは、日本
979
のJリーグのトップチームが戦う試合会場で試合した事がある俺で
も経験がないぞ。
さすがはサッカーの母国で芝には異常なこだわりがあるというイ
ギリスだ。種類に違いでもあるのだろうかいつも踏まれているはず
なのに生き生きとして緑の香りまでが日本の物より強く感じられる。
プレミアリーグなどのレベルが高いサッカーが提供される国には、
それに相応の舞台装置として最高のピッチが存在するって事か。
通常でも芝が長いと当たりが柔らかく足への負担は少なくなる。
それは当然としても、デメリットとして考えられる長い芝で足元が
ぐらついたり走りにくいといった点はない上に、パス回しや細かな
ボールコントロールはまるで自分が上手くなったんじゃないかと錯
覚するほどやりやすい。
バウンドしたボールは高く弾み、グラウンダーのパスは転がると
いうより氷の上を滑るように素直にイレギュラーせずに直進するの
だ。
︱︱これがヨーロッパのトップレベルのピッチかぁ。俺もいつか
こんな所で︱︱って、いやいつかじゃなくてこれから戦うんだよな。
﹁よし、うんいいな。このピッチ状態は日本にあってるんじゃない
か? いつも日本でやっているパスをつないで攻撃的にいくサッカ
ーが問題なく実行できそうだ﹂
俺の言葉に周りで同様に芝の感触を楽しそうに確かめていたチー
ムメイトも頷く。
﹁うん、そうっすね。ここまでしっかりと管理されたピッチコンデ
ィションなら大丈夫っす。日本のサッカーが世界に通じる︱︱いや
世界を制する事ができるって証明してみせるっす﹂
俺と同じ細かい技術を重視するタイプな為に自分のテクニックが
980
十全に発揮できそうなピッチを歓迎している明智が、真っ先に賛意
を示す。
﹁まあこんな芝の上で試合ができるなら、文句のつけようがないな。
俺も全力を出せそうだ﹂
殊勝な発言の主は最近少し攻撃面での影が薄くなってしまった山
下先輩だ。予選最後のサウジ戦で攻撃力より俺へのフォローが評価
されたのが本人的にはご不満らしい。このごろ俺からのパスが少な
いから得点が減ったんだ、とグチを吐かれたので攻撃のバランスに
配慮しながらもこの人に多めにパスを供給しなきゃいけないな。
﹁ワイはシュート撃つだけやから芝はあんまり関係ないわな。それ
よりここにはお客さんがようけ入りそうなんが嬉しいわ﹂
一人だけ芝などの下ではなく周りを見ているのは上杉だ。まるで
ピッチへ覆い被さってくるような何万人入るんだと尋ねたくなる観
客席の多さと高さにスタジアムの豪華さなどの方に目が行っている。
きょろきょろと首を振っては﹁くっくっく、ゴールパフォーマンス
はここにふさわしい派手なのを考えておかんと⋮⋮﹂と含み笑いを
している。相変わらずどこか他のチームメイトとは思考がズレてい
る少年だ。
とにかく俺達が想像以上のピッチコンディションに満足している
と、ぽんぽんと手を叩く音と﹁おーい、お前ら集まれー﹂と山形監
督の声が響く。どうやら極上の芝にはしゃいでしまって思ったより
も時間を消費してしまったようだ。
﹁よーし、短い時間だったがスタジアムで戦う感覚を少しはつかめ
ただろう? 本格的な練習は別に用意された練習場でやるからこの
ピッチの感触だけは忘れずに覚えておくんだぞ﹂
981
という監督の声を最後に二日後に試合を行うピッチから退場する
事になった。
改めてミニバスに乗ってホテルに帰るのだが、その車内でもやは
り話題になるのは今目にしたばかりのスタジアムについてだ。俺の
隣でちゃっかり﹁先輩の権利だ﹂と異国の町並みを観光できる窓際
をゲットして座っている山下先輩も、実際に戦う場を前にした興奮
がまだ冷めていないのか頬に赤みが残り唇には笑みが浮かんでいる。
﹁なかなかいいスタジアムだったな、さすがはサッカーの母国って
言うだけあるじゃないか﹂
腕組みをしながら自分があのピッチで活躍している姿を思い描い
ているのかにやにやしている。多少しまりのない顔が鬱陶しいが、
その感想には同意だ。あんなスタジアムで試合ができるなんてサッ
カー選手冥利につきる。
﹁ええ、本当に楽しみですね。あそこで試合ができるのが﹂
俺も頷くと﹁お、アシカが俺の意見に素直に賛成するのは珍しい
な﹂と肘でつつかれた。なんだか異国の地でハイになってるのか山
下先輩が異様にはしゃいでいる。俺も試合が近付いて試合会場の確
認までしていると高ぶってくる物はあるが、こんなに前から興奮し
てたら本番前に疲れてしまうのではないかと思う。
﹁まあとにかく初戦のナイジェリア戦と次のイタリア戦でこっちの
ピッチに慣れておかないと、ブラジル相手には勝負にならないでし
ょうね﹂
982
﹁ああ。今大会はブラジルが本命⋮⋮ていうかサッカーなら大体ど
の大会でもブラジルが有力候補なのは変わらないんだよな﹂
と顔を見合わせて苦笑する。波はあるがブラジルは毎年のように
名選手と名チームを生みだしている。特に俺達の年代は当たり年だ
ったのか、本来は日本代表だったはずのカルロスを始めとして綺羅
星のようなスター候補生が勢揃いしているのだ。同じ予選グループ
内ではイタリアも名門だが、どうしても今大会に参加してるメンバ
ーではブラジルに一歩譲ってしまう。
﹁でも多分同じ予選グループの他のチームは、俺達日本からは確実
に一勝を計算しているんでしょうね﹂
ちょっとため息交じりの俺の台詞には自虐が入ってしまったかも
しれない。﹁いつも強気のアシカらしくないな﹂と山下先輩が目を
見開く。
﹁いえ、出発前にちょっと見栄を張っちゃったんでどうやって勝ち
抜こうか頭を捻ってるんですよ﹂
﹁まあアシカと明智がうちの頭脳だからな。ゲーム展開ならいくら
考えても足りないかもしれんな﹂
﹁ええ、万が一予選で敗退なんかしたら夏の残りはお祭りと藁人形
に追われるのが確定してます。何が何でも勝ち上がらないと﹂
一抹の恐怖が混じった俺の言葉に前の座席から反応があった。
﹁なら話は簡単や、パスは全部ワイに寄越せばええ﹂
にゅっと頭を出して前の座席から後ろへと背もたれの上で手を組
むと、そこへ顎をのせた上杉がどこから話を聞いていたのか﹁他の
983
国がうちを甘く見るのは勝手やけど、そいつらの想像以上に日本は
︱︱というかワイは歯ごたえがあるで﹂と全く他国の強豪に気後れ
はしていない様子で牙を剥く。この少年の物怖じしない気性は面倒
でもあるが、仲間にすると実に頼もしくもあるな。
その上杉の隣からさらに真田キャプテンまでもが顔を出す。キャ
プテンという役目と真面目で責任感のある性格上、落ち着きに難の
ある上杉のお目付け役というか常にセットで行動させられている真
田キャプテンだが、彼にも俺達の会話が耳に入ったらしい。
﹁うーん。日本はまだ世界のサッカーシーンからすれば田舎には違
いないからね。他の国から見下されるのもある程度は仕方がないよ。
ブラジルやイタリアなんかはワールドカップで何度も優勝している
強豪だしね﹂
﹁何だか弱気ですねキャプテン。真田キャプテンがそんなに腰の引
けた態度じゃチームに影響しちゃうじゃないですか﹂
さっき自分が発言した自虐的コメントは棚に上げて、彼の弱気な
発言に対して周りに聞こえないように小声で叱咤する。だが、相手
の真田キャプテンはきょとんとして目を丸くすると、年下の俺に怒
られたにも関わらず含み笑いをし始めた。
﹁ああ御免、弱気に受け取られちゃったか。僕は﹁まだ﹂日本が注
目されていないって言いたかっただけだよ。未来でも見下されてい
るとは限らないよね。特に僕らの年代がこんな世界大会で大活躍し
た場合には﹂
にこやかな表情はそのままだが、口に出されたのは柔らかなだけ
ではなく芯を感じさせるいかにもキャプテンらしいプライドと責任
感に溢れる言葉だ。
これってつまり﹁この大会で大暴れして、世界に日本のサッカー
984
レベルの高さを思い知らせろ﹂って事だよな。
﹁じゃあ、何が何でも勝ち上がるだけじゃなく優勝して世界を驚か
せなきゃいけませんね﹂
﹁まったくや、ワイは最初からその気やで﹂
﹁その通りだな、俺も日本を発つ前に優勝コメントを考えておいた
からな﹂
﹁うん賛成。そこの二人ほどじゃないけど僕も負けるつもりでイギ
リスまでは来ないよ﹂
俺と上杉に山下先輩と真田キャプテンの四人は深く頷くと、全員
の拳を椅子の背もたれ越しに軽くぶつけ合った。
まだ相手に合わせた作戦などの細々したものはあるがとりあえず
試合前の心構えはこの拳をぶつけた瞬間に完了したのだ。後は実戦
でお互いがこの約束を守るだけである。そうすればここで約束した
全員の望む結果がついてくる最高のハッピーエンドになる⋮⋮とい
いんだけどな。世界はそこまで甘くないのも十分に承知している。
だからこそ﹁世界一になる﹂とか﹁絶対優勝する﹂とか口に出す
のだ。よく守れない約束はしない方がいいと言うが、俺はそうは思
わない。例え十対零で負けていたとしても﹁ここから必ず逆転でき
る﹂と断言できないような奴はチームメイトに欲しくはない。そし
て間違いなく叶えられるような物ならばわざわざ口に出すまでもな
いのだ。
叶うかどうか判らない、いや叶わない可能性の方が高いからこそ
俺は言葉にして自分と周りの人に誓いを立てる。
﹁絶対に世界一になりましょう﹂
﹁ああ﹂
﹁任しとき﹂
985
﹁ベストを尽くそう﹂
大言壮語に聞こえるが、こいつらとならやれるかもしれない。
いやミニバスの中を見回すとこのメンバーだけではない。それ以
外にも目立つ面子の明智や島津だけでなく、他にも労を惜しまない
左ウイングの馬場に屈強なセンターバックの武田と地味な黒子に徹
しているアンカー達に加え、練習試合の相手としての役割を文句一
つ言わずにこなしている控えの選手達まで日本代表の一員としてこ
こにいるんだ。
このチームならば必ずやれるはずだ。
986
第二話 必ず勝つと誓い合おう
ロッカールームの中は帯電しているかのようなピリピリとした雰
囲気と、これからすぐにお祭りでも出かけるみたいな浮ついた空気
が混合していた。
試合直前のロッカールームではこんなムードになるのは珍しくな
い。厳しい試合になるだろうという覚悟と強敵と戦える冒険心、そ
れに世界のサッカー関係者が注目している大会に初登場するという
高揚感。チーム全員の持つ色々な感情が無秩序にブレンドされてい
る。
そのざわついた落ち着かない空気を手を叩く音が破った。
﹁よし、注目。これからナイジェリア戦への作戦の最終確認をする
ぞ﹂
山形監督がすでにアップを終えて体の準備は出来上がっているチ
ームメイト達を見回すと、精神面でも最後の調整を行うためのミー
ティングを始めた。
﹁今日の相手のナイジェリアは、アフリカ勢らしい身体能力の高さ
と欧州のクラブチームから強い戦術面での影響を受けたカウンター
チームだ。速さと強さで真っ向勝負してあのアフリカ予選を勝ち抜
いてきたんだから、こっちとしても油断できない相手だ﹂
監督の告げる相手チームの強さに誰かが唾を飲む音が大きく響く。
それぐらい皆が真剣に聞き入っているのだ。
﹁ロングボールを蹴り合うようなカウンターの応酬で、単純な走り
987
っこの身体能力の勝負にされればこっちに勝算は少ない。だが向こ
うにもいくつかアフリカの予選で晒した穴がある。それはまだ選手
間でのコンビネーションが確立されていない点と精神的にむらがあ
るのか調子に波がある点だ。カウンター戦術は機能しているが熟成
されてないのか連携ではまだぎこちなさが残るし、伝統的にアフリ
カ勢は作戦がはまれば強いが一旦狙いが外れるともろさも見せるか
らな。試合の序盤はパスで向こうを守備に走り回らせて先制点を奪
えれば、後は敵が勝手に崩れてくれるはずだ﹂
﹁⋮⋮ずいぶんと都合がいい展開を期待してますね﹂
こちらが先制点を取るのが前提になっている作戦とは危なっかし
くて仕方がない。
﹁なんだ自信がないのか?﹂
挑発するような声音で山形監督が尋ねてきた。口調は軽いが目は
じっと俺が臆病風に吹かれていないのか観察している。
﹁まさか、俺達は優勝するつもりなんですよ。先制点を取れってぐ
らいの無茶振りは叶えてみせますよ、上杉さんが﹂
﹁お、おう。ワイにパスすればちゃんと点を取ったるで﹂
さらりと流して責任を上杉に被せる。監督や真田キャプテンから
の﹁あ、こいつ汚ね﹂という視線をスルーして試合に向けての確認
をする。
﹁では前半は守備を優先してカウンターを受けないように注意しな
がら、できるだけパスを回して向こうを守備に走り回らせるという
作戦なんですか?﹂
988
先発メンバーに島津なんか攻撃的なメンバーが多いのにずいぶん
と消極的だなぁと念の為に近い確認のつもりだったが、まだ俺を見
つめ続けていた監督は目を丸くする。
﹁うむ、俺が言ったのはその通りだが。アシカ、お前具合でも悪い
のか?﹂
﹁そうやで、こっち来てから何か悪いもんでも食ったんちゃうか?﹂
﹁くそっキャプテン、すまない。アシカの面倒をみるよう頼まれて
いたのに⋮⋮﹂
あまりに酷い言い草に﹁え?﹂と一瞬思考が停止する。その間に
も﹁まさかアシカの偽者やないやろな!?﹂とまで言われていると、
一番付き合いが長い山下先輩がどうして周りがこんな反応をしてい
るのか解説してくれた。
﹁いいか、アシカはこんな状況なら素直に監督の言う事に納得した
りしないだろう。いつものお前なら知らん振りしてパスを回しまく
って得点を狙うに決まっている。カウンターに注意しろって監督が
指示するのは当然だが、ゲームメイクするお前まで警戒して腰が引
けていたら日本の長所の攻撃力が生かせないだろう。普段のアシカ
なら︱︱﹂
﹁逆に攻撃を厚くしてナイジェリアがカウンターをする暇がないよ
うに追い込むはず、でしたか﹂
確かにいつも通りの俺ならば監督の言葉を聞いた振りだけして、
ピッチで勝手に強硬策を取っていたかもしれない。皆の俺への偏見
には物思う所があるが、普段の精神状態ではないという指摘にはっ
と息を飲む。自覚は無かったが世界大会という事で少し舞い上がっ
て消極的になっていたらしい。
俺はこれまで気が付かなかったけれど舞台が変わるとちょっと入
989
れ込む癖があるのかもしれないな。確か小学生の時の全国大会初戦
やアジア予選の初戦でも新たなステージへ立った初めての試合の序
盤は緊張のあまりプレイ内容が悪かったはずだ。
ふうっと深く息を吐いてはゆっくりと吸い込む。新鮮な酸素の供
給にロッカールームの照明が明るくなったような気さえする。よし、
これで平常運転だ。
﹁確かにちょっと俺らしくありませんでしたね。こほん。では今の
話し合いをやり直して、前半からアクセル踏みっぱなしの攻撃全開
で相手を叩き潰しにいきますが、それで構いませんね?﹂
﹁え、いやいくらなんでも監督の俺の前で堂々とそんな⋮⋮﹂
開き直った俺の発言に何やら慌てだす山形監督だが、それをスル
ーして賛成意見が続々と集まる。
﹁ワイは元からシュートしか撃つつもりあらへんから、攻めてくれ
るほうがビビって逃げ腰になるよりはええな﹂
﹁俺もアシカの意見に賛成だ。守備的だとポジション的に目立てな
いし、ここらで活躍しないと先輩としての面目が立たないからな﹂
﹁俺に期待されている役割は攻撃的なオーバーラップだろう。どん
な状況でも上がる覚悟はできているが、チーム全体で押し上げるの
を共通理解としてもらえるとありがたいな﹂
攻撃的な面子である上杉に山下先輩と島津が﹁どうせ俺達も指示
を無視して攻めるつもりだった﹂と同意してくる。言い出しっぺの
俺が言うのも何だが、ナチュラルに監督を無視するお前らは酷ぇ。
特に島津はDFのくせにこの試合だけでなく今までもずっと︱︱あ
あ、まあもういいかこいつは。
﹁お前ら⋮⋮﹂
990
﹁はい、何ですか?﹂
﹁いや⋮⋮﹂
俺達が攻撃面で大事な話し合いをしているというのに、監督のく
せにそれに加わろうとしなかった山形監督が遅れて口を挟もうとし
た。だが言葉を飲み込むと頭を振って大切な何かを諦めたやけに爽
やかな微笑みで、腹を押さえつつ山形監督は親指を立てる。
﹁頑張れよ!﹂
﹁はい!﹂
元気良く頷くと﹁なんでこんな時だけ素直に声が揃うんだ⋮⋮﹂
とうめき声が聞こえたような気がするが、今はそんな些事に関わっ
ている暇はない。忘れかけていたけどこれは試合前の最終ミーティ
ングなんだ。
﹁じゃあ監督、中盤より後ろへの指示をお願いします。DFは俺達
と違って作戦通りに守りますから︱︱島津以外は﹂
﹁ああ、うん﹂
どこか疲れた風情で胃の辺りを一撫でしてわざとらしく咳払いを
する。それで気分を切り替えたのか、疲労の影を一掃させて再び俺
達チーム全員を見渡す。
﹁まあ攻撃陣は話し合いの結果通りに前掛かりになって構わん。そ
うでないとうちの持ち味の攻撃力が生かせんし、予選グループ内の
力関係を考えると突破するためにはどうしてもナイジェリアからは
勝ち点三が欲しい。多少強引にでも得点を狙ってくれ。ただし必ず
シュートで攻撃を終える事、でないとカウンターが怖いからな。速
攻でフィニッシュまで持って行けなかったら、切り替えてパスで相
991
手を振り回せ。スタミナを消費させれば後半にそれがボディブロー
のように効いてくるはずだ。
そしてディフェンスについてだが向こうはスピードのある選手が
多い、後ろのスペースを空けないようにオフサイドを狙うのは控え
めにして慎重に対処しろ。相手のFWはトップスピードは速いが一
旦足を止めさせてしまえば、カルロスみたいに一歩で爆発的に加速
するような奴はいなかった。例えカウンターを食らっても慌ててボ
ールを奪おうとするよりよりまず相手の足を止めて守備を整える時
間を稼ぐを優先しろ。いいな?﹂
﹁はい、了解しました﹂
一際大きい声で返事をするのは真田キャプテンである。他はとも
かくこの人がしっかりと守備を引き締めてくれれば後方に不安はな
い。ないったらない。
もしも島津が上がっていてそのスペースを突かれたら危険だとか、
オフサイドトラップの使用を控えればDFラインと中盤の間にもス
ペースが空いてしまうのではないかという不安はとりあえず棚上げ
にしておく。中盤のアンカーが埋めるべきスペースはともかく、D
Fラインの穴は真田キャプテンが悩んでどう解決するかの指示を出
すべき問題だ。⋮⋮別に丸投げしたわけではないぞ。
﹁そしてDF陣が頑張っている間に攻撃陣が点を取ってくれるはず
だ。あれだけ俺の前で見得を切ったんだ、できないなんて言わせね
ぇからな﹂
監督はじろりとまだ固まって話し合っている俺達攻撃メンバーを
一瞥する。判ってるって、今更責任から逃れるつもりはない。なに
しろこの攻撃的なメンバーをまとめるのは俺になるはずだからな。
本来俺と明智が二人で交互に攻撃を指揮するはずだったのが、ア
ジア予選以降段々と俺が中心になりそれを明智がフォローするとい
992
う体勢に固まりつつあるのだ。もちろん俺のマークが厳しい場合は
一旦明智にタクトを渡すかもしれないが、基本的には俺がより前へ
でるという合意ができている。
本来自分が目指していたプレイスタイルからはややずれた姿だが、
チームからより攻撃的になれと要請されれば拒みはしない。元来の
気質はやはり俺も攻撃を好んでいるのだ。そして日本代表にはそん
な攻撃が好きなプレイヤーが多い。
島津なんかは普通のチームでは試合に出場できないか、DFから
ウイングへのコンバートをさせられるはずだ。でもこのチームのメ
ンバーは﹁ああ、島津が上がるなら俺も攻撃しに上がろう﹂という
メンタリティの持ち主ばかりなのだ。本来は守備のまとめ役である
はずの真田キャプテンでさえも最近は隙あらば﹁武田、行け!﹂と
オーバーラップをけしかけている。
こんな守備陣で大丈夫だろうか? いや、大丈夫じゃないとした
ら余計に点を取らなければならない。もし大丈夫なら、安心して点
を取るのに集中すればいい。結論として俺達攻撃陣が得点するのが、
グダグダ心配するよりずっと役立つんだよな。
だったらここは監督の挑発にも胸を叩いて請け合おう。
﹁はい、任せてください。絶対に先制点を取らせてみせますよ、俺
が﹂
今度は誰にも責任を回避することなく、それが自分の役目だとし
っかり皆の前で宣言した。
ここで終われば格好良かったのだろうが、なぜかその後続けて宣
言する者達が現れたのだ。
﹁じゃあ絶対に先制点を取ってやるで、ワイが﹂
﹁なら確実に追加点を入れてやるぜ、俺が﹂ 993
﹁だったら失点はさせないよ、僕が﹂
続々と自分の責任において役割を果たすという選手が現れ、結局
スタメンの全員がなにがしかの誓いを立てたようだった。
俺にたぶん良い意味でのプレッシャーをかけるつもりで挑発した
のだろう監督は、目を丸くしてこのドミノ現象の宣言を見つめてい
たがやがて﹁くくく﹂と笑い声を漏らすと、腹に当てていた手を外
し目の縁の涙を拭った。
﹁そうか、ならお前らを間違いなく勝たせてやるぞ、この俺が﹂
嬉しそうにかつ誇らしげに親指で最終的な責任を取ると自分を示
す山形監督。放任主義で選手の自主性に任せすぎのようだが、監督
という勝敗の全てを受け止める責任から逃げないこの人はやっぱり
このチームに一番ふさわしい監督なんだろうな。
994
第三話 日本からイギリスへ応援しよう
﹁さあついにアジアから巣立ち、世界へと羽ばたき始めた若きイレ
ブンがここイギリスで表舞台に立って自分達の力を発揮しようとし
ています。思えば今回アンダー十五に選ばれた年代の選手達と代表
チームはその初っ端から波瀾万丈の旅立ちを余儀なくされました。
この年代の代表のエースであり大黒柱と考えられていたカルロス
の突然のブラジルへの帰国と彼の国でのフル代表を目指すという発
表。そのハプニングにも関わらず今日も解説していただく松永さん
が懸命に指揮をとってのアジア一次予選通過。しかし代償として激
務のあまり松永さんが体調を崩してしまいました。
そこで日本サッカー協会は海外で活躍していた山形監督を急遽招
集。まだ若い彼にこの代表チームの全権委任するという柔軟で懐の
広い対応を取ります。そして協会のバックアップを得た山形監督の
下で短期間の内に攻撃的なチームへと改革し、タレント不足と嘆か
れていた選手達が見事にその才能を開花させてアジア予選を突破し
ました。松永さんも自身が率いていたチームが世界へ進むのを見る
と感慨深いんじゃないですか?﹂
いささか興奮気味に顔を赤くして早口でまくし立てるアナウンサ
ーに対し、逆にダークスーツをきっちり着こなしたいでたちのせい
かこれまでの放送よりも落ち着いた印象を与える松永がゆっくりと
答える。
﹁そうですね。私が大切に育てていた選手を上手く使って山形君は
アジア予選を突破してくれましたね。日本代表が世界大会まで来る
のはノルマでしたが、これ以上はボーナスと考えて多くを望まずに
無欲でぶつかっていくべきでしょう。この大会はあくまで選手達に
995
経験を積ませて成長を促す為のもので、無理に勝利を求めればまだ
将来のある少年達が潰されかねませんからね。私が慎重に見守るだ
けで決して試合に使おうとしなかった足利選手なども、今回のアジ
ア予選で一つ間違えれば選手生命の危機になりかねない怪我をしま
した。海外の少年などとは成長速度が違います、代表選手であり将
来を嘱望される彼らの今後も考えるとあまり無茶な選手起用は控え
て欲しいですね﹂
言外に︱︱というよりはっきりと山形監督の選手起用を批判して
いるコメントにアナウンサーはしばし固まった。だが、はっと画面
の外に視線を走らせて視聴者からは見えない位置にあるディレクタ
ーからの指示を読みとったのか咳払い一つで気を取り直す。
﹁そ、そうですか、中々に厳しいご意見ですね。つまり松永さんと
してはまだ伸びる余地の多いこの年代では今回の大会で無理に勝利
を目指すよりいい経験にした方がいいと﹂
﹁そうです。正直言ってグループ分けがよくありませんでした。ま
ず私が育てたカルロスを擁するブラジルが一抜けするのは確定で、
残り一つの椅子を日本とナイジェリアとイタリアが奪い合うのです
が、やはり二番手争いでは強豪国であるイタリアが有利です。今回
はタレントの数でブラジルに劣るとはいえ、他のグループなら首位
通過してもおかしくないチームですからね。非常に残念ながら日本
にはチャンスが少ないと考えるべきでしょう﹂
なぜだか松永は日本が不利になるという予想をする時だけ声に喜
色が混じっているようだが、被害妄想だと言われれば反論できない
程度の物だ。それでも不穏な空気を察したアナウンサーが早口で問
いかける。
﹁日本にとっては死のグループと呼ぶべき厳しい予選グループに入
996
ってしまったと言う訳ですか。いやーこれは若きイレブンには相当
頑張ってもらわねばなりませんね﹂
﹁私がアンダー十二を率いていた時はグループリーグは突破して本
選へ進みましたが今大会は難しいでしょう。何しろ強豪国が二つに
フィジカルに優れたアフリカの代表国、どの国も戦力的に充実して
いますからね。特にブラジルはカルロスをはじめ、エミリオにフラ
ンコにクラウディオとどの国でも中心選手になれそうな名手が揃っ
ています。どう戦うか山形監督のお手並み拝見という所でしょうか﹂
どうにも松永からは自分の時の代表以外では前向きなコメントが
取れないとアナウンサーは対応に苦慮しているようだ。その彼の表
情がピッチ上の変化に僅かに生気を取り戻した。
﹁そ、そうですか、山形監督の手腕に期待しましょう。あ、今両チ
ームの選手が入場してきました。それにスタメンも発表されました
ね。えーと、日本はアジア予選最終戦のサウジアラビア戦と変わっ
ていません。これが山形監督の考えるベストメンバーなんでしょう﹂
﹁うーん、初戦は手堅く入ると予想していたのでサイドバックであ
る島津のスタメンは意外でしたね。彼の攻撃力を生かすのならばむ
しろ得点が必要な時にスーパーサブで出した方がいいように思うの
ですが。緊張する初戦のゲームの序盤からリスキーな選択をしてい
ますね。これはどうなんでしょうか、私なら絶対に取らない作戦で
すね。島津が上がった右サイドをウィークポイントとして狙われか
ねません。
ただでさえ日本は予選の全試合で失点している唯一の出場チーム
なんですから、もっとディフェンスに気を配るべきでしょう。こん
な攻撃偏重では日本代表の攻撃と守備のアンバランスさを皮肉った
﹁ミサイルを装備した紙飛行機﹂というネット界隈で話題になった
ちょっと不名誉なニックネームは外せませんよ﹂
997
もう失う物がないとばかりに日本のマイナス面だけを伝える松永
に、さすがのアナウンサーも困惑の表情を隠せない。どこから探し
たのか妙なあだ名まで日本代表に貼り付けようとしている。放送席
にいるスタッフ全員が﹁もしかしてそのあだ名はあんたが名付け親
なんじゃ?﹂と突っ込みたそうだったが、生放送の最中にそんな事
が言えるはずがない。
﹁と、とにかくもうすぐキックオフです。苦戦が予想されるグルー
プリーグの初戦、なんとしても白星が欲しいところです。日本の皆
さんもイギリスまで応援を届けてください。それではコマーシャル
の後、いよいよ試合開始です﹂
◇ ◇ ◇
﹁アシカはこんな大きくて強そうな人達と試合して大丈夫かな⋮⋮﹂
テレビに映ったナイジェリアの選手達の姿を見て、不安そうに眼
鏡越しの大きな瞳を曇らせる真へ足利の母は笑いかける。アフリカ
系の選手はすでに少年ではなく青年のようで、見た目だけで日本の
まだ幼さが覗く選手達よりも強そうだとプレッシャーを与えられる
のだ。
﹁大丈夫よ。安心しなさい真ちゃん﹂
さすがに年の功といった所か、まだ年長の方がずっと落ち着いて
観戦している。彼女は自分の息子に直接的な危害が加わらなければ
意外と冷静なようであった。
﹁でも、やっぱり世界大会って言うとアジア予選で戦った国なんか
より強いチームばっかりだろうし﹂
998
﹁だから真ちゃんは速輝が怪我をしないように願いを込めてミサン
ガを贈ってくれたんでしょう? だったら心配いらないわ。ほら深
呼吸して落ち着きなさい﹂
うんと頷くと、一旦目を閉じた真はすーはーとラジオ体操のよう
に両手を開けたり閉じたりする身振り付きで深呼吸をする。それで
落ち着いたのかやや上擦っていた声がいつもの彼女の物に戻った。
﹁そうですね。大丈夫に決まってますよね! 昨日だってナイジェ
リアを相手にしてゲームで対戦したときは私の操作する日本代表が
圧勝しましたし、今回も勝てますよ!﹂
一気に安心した様子の真の姿に言葉を飲み込もうとした足利の母
だったが、自分の息子と同じで突っ込みの属性を持っているのかそ
の衝動を抑えられなかった。
﹁ねえ、真ちゃん。それってゲームでの話よね? もしかして真ち
ゃんの操作が上手かっただけじゃないかしら? しかもゲームに出
てるってたぶん日本も相手も選手達はフル代表なんじゃないの? それってこの試合に関係あるかしら?﹂
疑問系の突っ込みの嵐である。いつの間にか真が﹁すいません﹂
と部屋の隅に移動して小さくなっているのに気がついたのか、慌て
て手を振って﹁言い過ぎたわね、ごめんなさい﹂と謝罪する。
﹁でも、真ちゃんじゃないけれど私も速輝が勝つと思ってるのよね﹂
﹁へえどうしてですか?﹂
真はさっきの﹁ゲームで勝ったんだから現実でも楽勝理論﹂を否
定されたせいか、ちょっと好戦的だ。
999
﹁速輝はサッカーを始めた頃から毎日ずっと楽しんで練習を続けて
いるもの。凄く嬉しそうにボールを蹴っているからサボるとかそん
なの一日もなかったんじゃないかしら。むしろこの前みたいに怪我
してるのに練習したがるのを止めるのが大変なくらいよ﹂
﹁はあ⋮⋮﹂
話の結末がどこに行くのか見当がつかない真は生返事をする。
﹁世界大会なんだから速輝より才能がある子がいるかもしれない、
速輝よりもっと厳しいトレーニングをした子もいるかもしれない。
でもね、速輝よりサッカーを楽しんでる子はいないと思うの﹂
画面に映る我が子を見守る視線は優しい。
﹁好きこそ物の上手なれと言うでしょう? だったらうちの速輝が
世界中の誰とでもどっちがサッカー好きかを比べ合ったって負ける
はずないわ﹂ 部屋の隅での体育座りから話しの途中でなんだか黙ってフローリ
ングに両手をついた姿勢に変化してしまい、長い髪で顔が隠れてし
まった真を気遣う。
﹁どうかしたのかしら真ちゃん?﹂
﹁いや、なんだか二十は年上の方に女子力で負けたような気がして
⋮⋮﹂
何とか立ち上がるとテーブルに置いていた自分が大切にしている
人形を両手でぎゅっと握りしめる。﹁ヒロイン枠は私のはずだもん
⋮⋮この人にも最近アシカをちやほやし始めたクラスメイトにも負
1000
けないもん﹂と呟いて、画面の足利に向かって語りかける。
﹁私だってアシカが勝つって信じているんだからね!﹂
︱︱真がヒロイン枠を狙っているのなら、まずはその握りしめて
いる藁人形をどこかに置こうか。藁人形を手に﹁信じているよ!﹂
と言われても傍目からは応援ではなく呪っているようにしか見えな
いんだが、といつもならば親切に突っ込んでくれる幼馴染みは残念
ながらこの場にはおらずイギリスのスタジアムのピッチの上にいる
のだった。
1001
第四話 落ち着いて試合に臨もう
ゆっくりとピッチの中央で深呼吸を始めると同時に試合直前のい
つものルーチンワークである目をつぶっての体調診断と鳥の目の調
子を確認する。
特に鳥の目のような上空からピッチ全体を見渡す感覚は、どれだ
けウォーミングアップをしてもなぜか試合前には把握できない。こ
の特殊な技能なのか天からの贈り物なのか自分でもよく判らないビ
ジョンを使えるようになってからは、身に付けた後で試合に使用で
きなくなったことは無いのだが、今日も問題なくピッチを上から見
渡せる映像が脳裏に浮かんだのを確かめて改めてほっとする。
それに体調に関してもこの開幕試合に合わせて調整してきただけ
にベストコンディションに近い。ブラジルなどの常に優勝を意識し
ている超一流国は、スロースターターというか決勝戦に併せてピー
クを大会の後半に持っていくために、大会の序盤は調子が上がらず
にもたつくことがあるらしい。
だが日本チームにはそんな余裕はなく最初から全開である。それ
だけスタートダッシュをしようと気を使ったコンディション調整を
しているために、チームの全員が遠征の移動による疲れなど微塵も
感じていない。
深呼吸で心身の準備が整ったら、ちょうどいいタイミングで審判
がキックオフの笛を鳴らしてくれた。笛の音色は日本でいつも聞い
ている音よりちょっと金属的で甲高く耳障りに感じるな。それが笛
が違うせいなのか気候のせいかは不明だが。
緊張していたせいで試合前の国歌演奏や写真撮影のセレモニーな
どのこまごましたやり取りも、まとめてあっという間に過ぎ去って
ピッチに入るとすぐ試合に突入したような印象だ。
1002
だから開始の笛が鳴った瞬間、日本側からのボールが上杉に渡る
と心臓が大きく跳ねた。注意し忘れていたが、まさかいきなりキッ
クオフシュートはやらないよな? だが俺の心配は杞憂だったらし
く、ここではさすがに練習試合のような無茶は自重した彼が舌打ち
しそうな顔で日本陣内へパスする。
よけいな心労で激しく鼓動を打つ心臓に手を当てて焦るな、落ち
着けよと浮つきそうな自分に語りかける。これまでいろいろな初舞
台では毎回のようにちょっとした躓きをしてきたのだ、それらの経
験を生かして世界大会のデビュー戦だからと気負わずに自分らしく
シンプルにプレイしよう。
ようやく俺にまで下げられたボールを軽くトラップする。よし、
これは好調時のパスを柔らかく受け止めると言うよりかちりと音を
立てて足下にボールがはまるような感覚だ。
十分な足からの感触に満足する間もなく、敵であるナイジェリア
が間合いを詰めてくる。ここは無理する場面ではないとすぐに後方
の明智へとボールをはたいた。
受け取った明智がさらにボールを戻し、アンカーを経由してボー
ルが日本の守備陣を一巡する。これでDFも落ち着いただろう。サ
ッカー選手の習性なのか、とりあえずピッチ上で一回ボールに触れ
ると地に足が着くというか精神面が安定するのだ。
それに、今の何気ない一本のパスでも確認できたが、俺と明智と
の距離間とコンビネーションが上手くいっている。パスの交換がど
うこういう以前に、自然と互いの位置が把握できるようにかつ敵か
らパスカットをされにくいように動いているのだ。
俺と近いセンスを持っているのだろう、パスや指示でわざわざ動
かす必要がなく明智が自分で動いてくれるのが実に使い勝手がいい。
攻撃陣を操るポジションにいるとまれに将棋やチェスを指してい
1003
る感覚に陥るが、それならば明智は指し手が駒を動かす前に自主的
に最善手へ動いてくれる意志をもった駒である。彼がいるから、チ
ーム全体として敵より一手早く攻撃や防御の準備ができる。
まるで小学校の頃最初に全国大会に出場した時のキャプテンのよ
うに甲斐甲斐しくフォローしてくれ、さらにゲームメイクまで手伝
ってくれるのだ。ドリブルやアシストパスといった攻撃的センスや
得点力は俺が上だと思うが、それ以外では明智の方がMFとしては
バランスが取れているかもしれない。っと仲間の分析よりもまず当
面の敵であるナイジェリアを観察しようか。
監督はナイジェリアの全員が身体能力が高いと言っていたが、そ
れは逆に特筆する選手がいないことを意味している。平均的にレベ
ルが高いチームなんだろう。つまりそれは誰か一人を見極めれば、
他も大体の見当がつくということだ。
そういう訳で、まずは俺のマークについた中盤の守備を担当して
いるだろうナイジェリアの六番をまじまじと見つめた。
そういえば俺はアフリカ系の選手とは初めて対戦するな。長身だ
がこのぐらいならアジア予選でも沢山いたし、肌の黒さも事前に知
っていた。だから一番印象に残ったのは首から上の小ささだ。
え、俺よりも背が高いのに半分しか顔の大きさがないんじゃと錯
覚するほど、相手の頭や顔が小さく感じる。運動する場合は頭の重
さはデッドウェイトになる場合が多いからその分だけ有利になる。
本当にスポーツに向いた人種なんだよなアフリカ系の人達って。
⋮⋮えーと、身体的特徴の点で彼の足の長さについて言及しなか
ったのは特に意味はない。別に自分と比べてコンプレックスを持っ
たりしてはいないからな。
さて、この恵まれた体を持つマーカーを相手にどうしましょうか
ね。唇を舌で湿らす俺には敵の身体能力の高さを理解しても、なぜ
か焦りの感情は湧いてこない。自分の技術への信頼とコンディショ
1004
ンの良さが強敵相手でも気後れを起こさせないのだ。
余裕を持った態度が目に付いたのか、明智がいいタイミングでボ
ールを回してくれた。それでもパスを受け取ろうとした俺の背後に、
すっとマークが近付く気配がする。ここはすでに敵陣に浅くだが侵
入している、まだゴールまでは遠いとはいえゲームメイカーを簡単
に振り向かせてくれるつもりはなさそうだ。
だからこそこのファーストコンタクトで相手に自分の力を見せつ
ける!
敵も世界大会の初戦である。少なからず肩に力が入っているはず
だ。
しかもまだ一回もボールに触っていないこのマーカーはなおさら
落ち着いていないだろう。そこに強引にドリブルで突破をしかけて
抜ければ絶対にリズムをがたがたに崩すはずだ。
明智のパスをトラップするのではなく、勢いを少しだけ落して自
分の左斜め後ろに流すようにボールをちょこんとタッチする。
それと同時に左腕を張って、抑えつけた左腕で相手を軸に巻き込
むようにしてターンする。これで敵とボールの間に前を向いた俺の
体が入る事となる。左腕が強烈な圧力で押し返されているが、完全
に俺が有利な体勢になっている。いくらフィジカルに差があろうと、
すでに軸を作って回っている俺へこれ以上手出しをすると反則にな
るぞ。
ここまで綺麗に抜けば︱︱ってうわ! 危ねぇ、完全に届かない
と思っていたボールへ向かって相手が足を伸ばし、しかもそれが届
きかけたのだ。慌ててもう一度ボールをアウトサイドへ逃がしたか
ら奪われなかったが、こいつの射程距離を完全に読み違えていたな。
同じ身長の日本人選手と比べてスパイク三つ分は足が伸びてくる
と想定し直さなければ。
ナイジェリアのマークも無理してボールを奪おうとしたのだろう
1005
が、そのギャンブルは裏目にでた。体勢を崩すほどにチェックして
しまってたのでその後の俺のドリブルへの反応ができなかったのだ。
マークから逃れるためにタッチしたボールが少し右サイドへ流れ
てしまったが、それは全く問題ない。それどころか日本の右サイド
は攻撃の駒が揃っているために、俺までやってくると向こうがマー
クする人数が足りなくなるのだ。
だからほら、慌てた様子でドタバタとやってくるDFが到着する
前に速いがややズレたコースで山下先輩へと向かったパスを送る事
ができた。彼も当然マークを背負っているが、DFに張り付かれて
いるのを気にせずにそのままボールへと足を出してトラップを︱︱
しなかった。
え? と一瞬だがナイジェリアDF陣が凍り付く。よし、さすが
先輩だ。俺のパスの意図を判ってくれたな。
ミスキックでもないのに俺があんたにズレたパスを出すわけがな
いじゃないか。
山下先輩がスルーしたボールは右サイドのラインぎりぎりをオー
バーラップしてきた島津によって拾われたのだ。
この右サイドを快足で上がってきた暴走DFは、山下先輩がスル
ーする時にはすでに彼とほぼ同等の前目のポジションにまで侵入し
ていた。パスを受け取ってなおそのトップスピードを維持したまま
のドリブルでさらにナイジェリア陣内の奥へとボールを運び込む。
日本がゆっくりと自陣で横へボール回しをしていた状況からの、
縦への急展開に敵味方を問わず動きが慌ただしくなる。
こんな時にこそ有効なのが俺の持つ鳥の目だ。上空からピッチ上
の流れを読み取り、最善と思われる行動を選択する。
今はこうだな。左斜めへと進路を取ってダッシュする。
やや右サイドにいる俺の位置からはゴールへの最短距離であるコ
ースだ。当然ながら相手も危険な位置に黙って行かせる訳がない。
1006
だが、ここで俺へのマークがトラップで抜いた相手とゴール前から
ヘルプにやってきたDFの二人になっていた事が逆にこっちに有利
に作用する。
俺が二人のマーカーのちょうど中間地点を走り抜けようとすると
どちらも体で止めようとするのを躊躇したのだ。そのお互いがお見
合いをしている間に、俺は閉め切れなかったスペースを使って走り
抜けゴール前のシュートを撃てるバイタルエリアまで侵出する。
その間にもちろん島津もじっとしているはずがない。右サイドを
ケアすべきDFが俺と山下先輩に分散されているのを、自分の為の
露払いだと勘違いしたかのように喜々としてドリブルでインへと切
り込んで行く。
俺と島津が右サイドから中央へ寄って行ったその後ろでは、山下
先輩と明智がさりげなくポジションを右へと少し移し中盤のバラン
スを取ってカウンターに備えているのが確認できるが、まずはこの
攻撃を成功させることを考えよう。
まだ試合は序盤、ここで得点できれば間違いなく日本のペースに
巻き込める重要なポイントだ。
どうする島津? いや、お前に対してその問いは無粋だったよな。
島津はストライカーである上杉と精神的にはかなり近い、ゴールが
射程距離に入ったなら彼らがやることは一つしかない。
日本代表の今大会のファーストシュートは、この時はまだ知らな
かったが解説者にウィークポイントと批判された右サイドバックか
ら放たれたのだ。
1007
第五話 ハイタッチを交わそう
島津が躊躇する素振りも見せず、インに切れ込んだ時点で俺は﹁
あ、あいつならシュートを撃つな﹂と感じていた。
おそらく上杉もそう感じたのだろう、自分のポジションをパスを
受け取ろうとする場所からこぼれ玉を押し込もうとする位置へと小
刻みにステップを踏んで移動する。逆にそれがマークしているナイ
ジェリアのDFの警戒を集め、結果的に時間をロスした守備陣が詰
める前に島津にミドルシュートを撃つだけの余裕を与えたのだ。
ペナルティエリアのすぐ外の右四十五度、島津が最も好んでシュ
ートを放つ彼のスィートスポットだ。本来DFであるはずの彼がそ
んなシュートを撃ちなれた地点を持っているのが不思議だが、そこ
から放たれたシュートが唸りを上げてゴールを襲う。
敵のキーパーも長い手を伸ばすが、彼の守っている場所とシュー
トされたボールのコースの間はかなり離れて距離があったため飛び
ついてもボールには触れることもできない。
そうこの時点ではゴールの枠から逸れているぐらいのコースだっ
た為に、キーパーのセービングも届かなかったのだ。だが、キーパ
ーのグローブを通過するとボールはまるで意志を持ってその邪魔な
手を巻いて行くように曲がっていく。
島津はあの得意なポイントから何遍もシュートを撃っているのが
役に立った。
まるでフリーキッカーがいつも同じ位置からフリーキックの練習
をしていれば判るように、彼もこの自分が得意とするゾーンからア
ウトサイドにどのぐらい引っかけて撃てばゴールの枠にいくかを体
感的に知っているのだ。
1008
スピードを落とさずに急激に曲がったシュートは、ポストの内側
をこするようにしてゴールの中へと飛び込む。
開始してまだ三分、しかも伏兵のサイドバックによるゴールであ
る。
まだ会場の全てがあっけにとられたような空気の中、島津の雄叫
びと共に拳が天に振り上げられた。
ここまであまりにも攻撃的すぎるDFとして日本国内ではマスコ
ミ受けが悪かった島津である。早々に結果が出せなければスケープ
ゴートにされかねないと危機感があったのだろう、その鬱憤を晴ら
す腹の底からの叫びだ。
しかしDFが守備の拙さを指摘されてなお、自分の持ち味である
攻撃力を生かして得点することで先発出場に反対する意見を見事に
封殺するとは、なんと言うか実にうちのチームらしいやり方だな。
おっとそれより、得点した島津へ祝福にいかないと。
﹁ナイスシュートです、島津さん!﹂
﹁うむ、ありがとうアシカ。貴様のパスも山下のスルーも良かった
ぞ。またあんなコンビネーションを頼む﹂
空に向けて吼えるのを中止し、俺の言葉に応える島津の口調も弾
んでいる。世界大会と言う大舞台でゴールを決めたのだ、そりゃ嬉
しいに決まっているよな。
世界大会からは得点した選手の背中を平手で叩くのは自粛しよう
と決まっていた。チームで一番ゴールするであろう、そして間違い
なく一番凶暴な上杉がファイティングポーズを取りながらの﹁ワイ
の背中に手を出すんやない! 出したらやり返すで!﹂という﹁祝
福の赤い紅葉﹂を廃止しよう法案は彼の気迫に押されあっさりと可
決されていた。
だから代わりと言うわけではないが、俺が右手を掲げると島津が
1009
笑顔のまま大きく手を引いてからピッチに良い音が響くほど強くハ
イタッチを交わす。思ったより強い衝撃に赤くなった手に息を吹き
かけていると、いつの間にか俺の後ろには次々に手を掲げるメンバ
ーが列を作っていて、笑顔の島津によるぱしんという乾いた音が何
回も連続する事となった。
この先制点によって日本が今日の試合の主導権を握る事が確定す
る。
向こうはスピードのある選手を生かすために日本の陣地にスペー
スが欲しかったのだろう、だからこそ守備優先のカウンターでまず
は日本の前線の選手を充分に引き付けてから攻撃しようという戦術
を立てていたはずだ。少なくともアフリカ予選ではその作戦が成功
したせいか、ずっとそれだけで通して他の戦術は採用していなかっ
たのでおそらく戦術的な柔軟性はほとんどないだろう。
カウンターチームにとって先に点を取られるのは、普通のチーム
が先制されるよりもゲームプランが崩れるという意味ではずっとダ
メージが大きいのだ。
これでアフリカ予選の時のような余裕を持った戦い方はできない
だろう? ナイジェリアチームの方へと視線を走らせる。うん、大
会の初戦でしかも試合開始直後に失点だ。チーム全体が完全にパニ
ックに近いぐらい浮き足だっているな。
互いが掛け合う声も向こうの監督が出すベンチからの指示も苛立
ちと刺々しさが隠し切れていない。今ナイジェリアイレブンの頭の
中は真っ白に近いはずだ。だからこそ彼らが回復する前にここでま
た叩いておく必要がある。
俺はまだ喜び合っているチームメイトに声をかける。
﹁さあ、予定より早いけれど止めを刺しにいきましょう﹂
1010
その声に期待を込めた瞳で上杉と山下先輩が見つめてくる。俺も
日本の初得点はこの二人のどちらか︱︱たぶん上杉だと思っていた
から、島津に先を越されて悔しいのだろう。チーム内での得点王争
いだが、マイナス方向への物ではなく活性化をもたらす健全なライ
バル関係という奴だ。
チームが先制したのは嬉しいが、そのゴールを決めたのが自分で
なかったのが我慢できないというエゴイスト達を擁しての試合に俺
は手応えを感じていた。山下先輩もここ最近は俺のフォローに回っ
てくれているが、まだまだ牙を抜かれてはいないな。
お、審判が試合再開を急げと急かしている。確か英国での審判の
基準は厳格で、少しでも反抗的な態度を見せるとまずかったっけ。
始まったばかりで審判の機嫌を損ねても意味がない、ここは素直に
再開の指示に従おう。
センターサークル内に置いたボールの前でナイジェリアのFWが
スパイクの爪先で何度もピッチを蹴っている。先制され苛立たしい
気持ちはよく判るが、芝をむやみに傷付けるのはルール違反ではな
いがマナーには適っていないぞ。ほら、審判も少しだけ不快気に眉
を寄せているじゃないか。
対照的にこっちはゴールした島津への祝福で位置に着くのこそ遅
かったが、興奮と緊張が適度にブレンドされたサッカーをプレイす
るのに最適な精神状態だ。少なくともイライラしているのが丸判り
のナイジェリアチームよりよほど雰囲気がいいな。
審判が再開のホイッスルを吹くと、ナイジェリアはFWの二人が
フルスロットルで日本陣内へと駆け込んでくる。ふむ、やはりお前
達は日本を舐めて勝ち点三の皮算用をしていたな。だから失点を大
急ぎで取り返しにくるんだろう。
だがうちのDFも優秀だぞ。二人のFWが飛び出したぐらいでは、
いくらアフリカ系の特色であるスピードとパワーを併せ持ったカウ
1011
ンターのスペシャリストでも⋮⋮敵FWの情報を一つ一つ思い返す
と段々不安になってきたが本当に大丈夫だよな?
後方を確認すると真田キャプテンと武田の日本が誇るDFのパワ
ータッグがナイジェリアFWを足止めしている。監督の言うように
いったんストップすると迫力が半減するな、あいつらは。なんとか
なると胸を撫で下ろし、俺は改めて自分の仕事に集中し始めた。
現在のチーム事情では俺はボランチやセントラルMFという攻守
両面を支える中盤よりも、少し前目のトップ下に近い攻撃的MFの
ポジションについている。もちろん完全にそこだと決まっているの
ではなく、マークを外したり敵に読まれにくくするために頻繁に明
智や山下先輩ともポジションチェンジをするのだが。
だからここでの俺がやるべき行動はあえて守備には戻らずに、味
方のディフェンスがボールを取り返してくれると信じてパスを受け
取りやすくまた攻めやすい位置へと移動するのが正しいだろう。
俺が自陣に下がるどころか逆に前へ出て敵のDFとMFの間にあ
るスペースへと移動しようとしたのが気に入らなかったのか、マー
クしているナイジェリアの選手が肩をぶつけるようにして進路を塞
いだ。
反則ではないがかなりラフなプレイである。うんやっぱり先制さ
れた焦りで雑な行動が顔を出しているな。
もし国際試合の経験が豊富であれば試合はまだ始まったばかりだ
と感情的な行動にブレーキをかけられるのだろうが、向こうはチー
ム全体が上擦ってやがる。そんな精神状態では繊細なプレイなど出
来っこない。
ああ、言ったそばからナイジェリアのFWがファールを取られて
いる。どうやら真田キャプテンがボールとの間に上手く体を割り込
ませた時に手で押して倒してしまったようだな。
カードが出るほど悪質ではないが、その場から日本ボールでの再
1012
開となる。
速攻ですぐにも同点だと勢いよく飛び出していった相手の選手の
戻る足取りが、気落ちと徒労感で重いな。
それを見て取り、真田キャプテンによって素早くリスタートされ
たボールはまだ完全には守備に戻り切っていないナイジェリアイレ
ブンを慌てさせた。速く正確なパスがよく整備された芝の上を滑っ
ていく。
真田キャプテンからのボールが明智を経由して俺まで回ってきた。
周りのDFが大急ぎで守備のブロックを作り直しているな、ならば
⋮⋮。
俺はさっきの攻撃が右サイドからだったのを踏まえ、今度は左の
馬場へとパスを出す。
必死にバックしてきた敵MFがカットしようとスライディングす
るが、ここのピッチはボールを転がしても球足の強さは殺さないん
だ、そこからじゃ届かない。ほら、馬場へときっちり届いた。
慌ただしく駆け戻ってきたばかりの敵ディフェンス陣、しかも先
制されたのとは逆サイドからの攻撃にラインの乱れは隠せない。D
Fは急いでゴール前にブロックを作り、MFは攻撃的なポジション
にいる日本選手へと張り付く。
そこで俺は一旦引く。入れ替わるように明智が俺を追い越して前
へ上がっていった。
俺と山下先輩が右サイドでコンビを組んでいるのなら、日本の左
サイドからの攻撃は馬場と明智が背負っているのだ。呼吸の合った
タイミングで馬場から明智へとボールが回る。
明智はこの時点で敵の守備を見て速攻は無理と判断したのだろう、
プレイの速度を落としてマークが自分に付く直前に俺へパスを出す。
俺もまた普段よりゆっくりと敵が自分へとディフェンスに来るの
を待ってから右サイドの山下先輩へボールを任せる。
1013
ギアを一段落とした少し遅めのボール回しにナイジェリアDFの
守備が徐々に崩れていく。カウンターでの速攻と見せてからの明智
のゆっくりとしたパスによるチェンジオブペースで向こうのリズム
が完全に乱れているのだ。
しかも攻めるサイドを左から右へと何度も変更し、DFは両方の
サイドに振り回されている。それがまた俺達がわざとゆったりとし
たプレイをして遅めのパスを回しているものだから、間に合わなか
ったと諦める訳にはいかずに一回一回懸命に走ってマークにいかね
ばならない。その挙句に追い付いたら﹁ご苦労様﹂とまたボールを
よそに捌かれるのだから肉体的にも精神的にも消耗するだろう。
さすがだぜ明智、小学生の頃から似た戦法をやっていたお前の方
がこの作戦を指揮させたら上手いかもしれんな。
監督の言う﹁パスを回して相手を消耗させる﹂という作戦が見事
にはまって、ナイジェリアが痺れを切らすまでのしばらくの間はこ
のまま日本がボールを保持したままの時間が続く。
︱︱ただ一つだけ日本代表にとって想定外だったのは、うちのエ
ースストライカーがナイジェリアより先にこの展開に我慢しきれな
くなった点ぐらいか。
1014
第六話 駄々っ子にプレゼントを渡そう
ぷちん。ナイジェリアのゴール前から何かが千切れるそんな音が
した。
いや、もちろん現実に音として空気を震わせて耳に響いた訳では
ない。そこから漂う雰囲気が俺に幻聴を起こさせたのだ。その錯覚
は俺だけでなく日本代表のチームメイトにも共通していたようであ
り、その後に続く喚き声に全員が﹁ああ、原因はやっぱりあいつか。
もう面倒だなぁ﹂という表情になる。
﹁お前ら、いい加減にワイにもパス寄越さんかい!﹂
敵のDFとキーパーが﹁なんだこいつ﹂と訝しげな視線をいきな
り叫び声を上げた上杉に投げかけている。だが一応パスという単語
に反応してかボールを要求していると踏んだのだろう、一層彼への
マークが厳しくなった。
元々日本はワントップで常に最前線にいるのは上杉一人の布陣な
のだ。うちで彼が一番敵からマークされているのは間違いない。
そんな厳重にチェックされている奴︱︱しかもボールを持つとほ
ぼ百パーセントシュートしかしない奴にパス回しのボールを気軽に
は預けられないのも当然だろう。それが気に入らないのか、﹁俺は
ここにいるぞ﹂と上杉もがっちりと固めているナイジェリアディフ
ェンスの僅かな隙間を突き何度かフリーになりかける。
だが、この時点では攻撃を司っているのは明智である。俺ならば
自分がドリブルしてでも無理やりにゴール前の上杉へのパスコース
をこじ開けようとしたかもしれない。
けれども冷徹さであれば多分チーム一の少年は、上杉がフリーに
1015
なろうと動いては敵からの警戒を集めているのをこれ幸いと安全な
反対の方向にボールをサイドチェンジしたりしてゲームを作ってい
る。
明らかにチームメイト間のコンビネーションが上手くいっていな
いのだが、それが逆に敵のディフェンスに微妙な混乱と疑問を生ん
でいた。
それはもしかしてこの騒がしいFWは囮なんじゃね? という疑
惑である。実はこれは完全な誤解なのだが、傍から見ているとナイ
ジェリアのDFが上杉を最初は危険な奴を警戒する視線で見ていた
のが、段々煩いだけの面倒な奴だと舌打ち混じりに見下すものへと
変わっていた。
それがまた気に入らないのか上杉はまた両足で小刻みにステップ
を踏んでいる。あ、あれってもしかして地団駄を踏んでいるのか?
うわぁ生で見るのは初めてだが、運動神経のいい奴が地団駄を踏
んでもアップでよくやるその場でダッシュとしか思えんな。
まあそんなに上杉が軽く見られているのにはサイドバックである
島津がFWであるはずの上杉を一顧だにせず自分でシュートを撃っ
ていたのも影響しているな。島津があれほどのシューターとは想像
していなかったのだろう、おそらくではあるがナイジェリアはイタ
リアとブラジルに気を取られて日本の研究をあまりしていなかった
のではないかと思う。
もし事前にナイジェリアの監督から選手に対し厳重な注意を呼び
掛けていれば、失点した焦りからとはいえここまで早くうちで最も
危険な少年から警戒を薄れさせるはずがないのだから。
ま、これに関しては同じようにブラジルとイタリアの分析に時間
を割いた日本があまり大きなことは言えない。
時間が経過するに従って敵のDF達から緊張感が少しずつ失われ
ていく。日本のあまりゴールへ向かうという縦への気迫の無く、た
1016
だ守備陣を迂回してのパス回しにゴール前にいるFWへの侮りが加
わった。それらがほんの僅かにとはいえ敵DF達の集中力を鈍らせ
たのだ。
︱︱ここだ。
俺は中盤の後ろからギアを上げてぐいっと前へダッシュする。こ
れまではパスを捌くという横への展開に慣れきっていたナイジェリ
アのMFが、とりあえずはお義理ででも付いておこうかというよう
な気の抜けた動きでやって来る。だがそんなのに付き合う暇はない、
緩慢なマークを尻目にそれが近づく前にさっさと前方へ駆け抜ける。
そこへ明智がパスを出してくれた。さすがにタイミングも出す位
置も最高だ。ボールは足元ではなく最高速にしやすい前方のスペー
スへと俺の意図を完全に読んでいる。
パスを渡った時点ですでに俺のドリブルはトップスピード、向こ
うのDFはこれまでさんざん左右のサイドに振られて中央のスペー
スを誰が担当するのかが曖昧になっている。
こんな場合は躊躇することなく中央突破だ。もう少しだけ侵入で
きればミドルシュートが狙える距離と角度になる。
後数歩だけ進む余裕を願ったが、仮にも世界大会まで勝ち上がっ
てきた相手だ。そこまで自由にはしてくれない。危険なエリアに入
る直前にDFが正面にやってきた。
こいつもまた俺より頭一つ分は大きい。そんな相手にここまで真
正面に立たれるとシュートコースが消されてしまう。シュートが無
理ならば、こいつを抜くかそれともパスに切り替えるかの二択とな
る。
俺はトップスピードを落とさないように、フェイントすらせず進
路を少しずらして相手の左を抜けようとする。
こっちは上がってきたそのままの勢いで向こうは待ちかまえてい
た状態だ。反応はされたが、速度差から俺の正面に向き合ったまま
ではいられない。
1017
俺へ付いていくため半身に敵がなった瞬間、急ブレーキをかける。
長く柔らかい芝なのにスリップもせず、軽量級の俺はボールをコン
トロールしながらも何とかピタリと止まれた。重量級の敵は重心を
俺の進もうとしていた方向へ傾け始めたばかりだったのでどうして
も一瞬の間ができる。
その間に敵を抜くどころか一歩﹁下がった﹂おかげで俺はシュー
トコースはともかくゴール前へのパスコースを見いだしたのだ。
﹁上杉さんお待ちかねのプレゼントですよ!﹂
鳥の目によって脳内では彼の位置は把握しているが、直接アイコ
ンタクトするにはDFが壁となっている。だから俺は声でタイミン
グだけを教えて、ペナルティエリアで最もディフェンスが薄い場所
へとボールを送る。あいつならば必ずそこに走り込むはずだ。
俺の期待を裏切らず、上杉がDFの影から顔を出した。正直俺で
もどのルートを通って彼がこのシュートスポットにたどり着いたの
かさっぱり判らない。
だが、俺には上杉ならここへ来ると感じていたし、上杉も俺の声
がかかる前からゴール前にダッシュの準備をしていた。たぶんここ
へ駆け込めば自分がシュートを撃てるパスが来るとストライカーの
本能が体を動かしたのだろう。
DFはこの急展開についてはこれない。お互いが相手の姿を確認
もせずに行うコンビネーションなんて、セットプレイなどの予め決
められた作戦ならともかく普通はぶっつけ本番ではやらないだろう。
だがピッチを上から見るパサーの俺と、逆に自分の行動に周りが
合わせて当然と本能で動くストライカーの上杉はフィニッシュに至
る過程でだけはまるで何年もコンビを組んでいるかのような息の合
い方をするのだ。
イレギュラーのないピッチでは俺の出したパスはDFが邪魔しな
1018
ければ問題なく上杉に届く。そして彼の強靭な右足は俺からの美味
しいボールをシュートミスするはずがない。
これまで俺からのゴール前へのパスはほとんどトラップはせずワ
ンタッチでシュートを撃っている上杉は、今回もまたダイレクトで
豪快なキックによりボールをゴールマウスに叩き込んだ。
ペナルティエリア内とはいえキーパーが一歩も動けないほどスピ
ードのあるシュートである。
こいつは力一杯撃つと空に向かってボールを打ち上げてしまった
ことはないのだろうか? トラップもしないで全力で蹴っても浮か
ないボールを蹴れるのは、下半身だけでなく鍛えられた上半身でボ
ールを吹かさないように体幹をしっかり抑え込んで軌道をコントロ
ールしているからだろう。
まったく決定力に関する点では上杉は実に恵まれた羨ましい才能
だな。
﹁はっはっはー、見とるか! これがワイの世界デビュー弾や!﹂
天に向かってやたらと腰の入ったアッパーを突き上げた上杉は、
誰に対してアピールしているのか大声で叫ぶ。
周りのナイジェリアDFが忌々しげな目で睨み付けているのを全
く気にしていない。
いや、たぶん彼は気が付いてさえいないのだろう。守備陣からの
刺々しい敵意や威圧を完全にスルーしている。さすがは自分が得点
する以外は興味を持たない空気の読めない点取り屋だな。
﹁ナイスシュートだ上杉!﹂
ふと気がつくと俺ではなく他のチームメイトの方が早く上杉を囲
んでもみくちゃにしていた。背中に平手で紅葉を付けるのは禁止に
なったので、ほとんどの奴が頭をがしがしと彼の頭を乱暴に撫でて
1019
いる。
ハイタッチのつもりか天に突き出した後、広げられた上杉の掌は
無視されている。いや、なんかつんつんしていて触りたくなるもん
な、あいつの髪型は。そのせいか上杉が試合前に整えていた髪型が
ずいぶんと乱れているぞ。
自分でもそう感じたのか右手を下ろして手櫛で整えようとするが、
鏡もなく汗をかいている現状では試合前のようにはいかない。諦め
たのか最後は自棄になったように自分の手でぐしゃぐしゃにかき回
すと、俺を見つけては﹁こいつも同じにしたれ﹂とお返しのように
こっちの髪を乱雑にかき回して軽く拳で胸を突く。
﹁どや、ワイにパスすれば点を取ってやるって言うたやろ﹂
﹁ええ、俺も取らせてやるって言ってましたよ﹂ お互いが自分の手柄だと主張し合った後、同時に噴き出す。どっ
ちの貢献が大きかったかはとりあえず今は関係ない。本当に重要な
のは日本が追加点を奪ったという事実だけである。
日本側の陣地に戻りながら周囲に目を走らせると、ナイジェリア
のベンチは大忙しだ。なにしろカウンター戦術を柱にしているチー
ムが二点先に取られてしまったのだ、プランが根底から崩壊してい
るだろう。その立て直しと選手の士気を高めるためには短時間では
どうしようもないはずだ。
︱︱これはもらったな。
油断をするのは敗北への道だと判っているが、これはゲームメイ
カーとしての冷静な判断の結果だ。
このナイジェリアはまだチームとして成熟していない。身体能力
は高いが、仮想相手としてちょうど一つ上の年代であるアンダー十
八の選手達と思ってプレイすればそう外れていない。俺達と比べて
もスピードやパワーと間合いはナイジェリアの方が少し上だが、細
1020
かい技術や戦術面では逆に粗がある。
俺などのユース出身の選手は部活のように三年区切りではなく、
その上とも練習や試合の経験があるからちょうど年上のようにフィ
ジカル差があっても戸惑いなく対応できている。それは日本の他の
メンバー全員にも言えることだ。ほとんど問題なく試合に集中して
臨めているのだ。だから、油断さえしなければこの試合はずっとペ
ースを握ったままでいられるはずだ。
日本側のベンチも向こう同様に騒がしいのに違いはないが、雰囲
気は対照的に温かく柔らかい。ベンチ入りしているメンバーはアッ
プも兼ねているのだろうが全員総出で踊ってるな。体が熱くなって、
疼いて、暴れたくて仕方がないのだろう。
俺も一回目の人生ではベンチウォーマーの悲哀を味わった事があ
るから気持ちは良く判る。その悔しさをバネに努力を積み重ねて、
今はこのスタメンの地位にいるんだから。あいつらもこれをいい経
験にしてレギュラーを目指して欲しいものだ⋮⋮俺と同じポジショ
ンの奴を除いてだが。
俺と上杉が二人してベンチへ向けて拳を掲げると全員が同じよう
に応えてくれた。まるで日本代表が一斉に空へとパンチを撃ってい
るようだな。
ふと思い出して観客席を眺める。
試合前は緊張で見回す暇もなかったが確かに日の丸が客席の一角
ではためいている。
﹁上杉さん、サポーターの応援にも応えましょう﹂
﹁ああ、そやな﹂
多少の身長差がある俺達のコンビが肩を組んだままサポーターへ
手を振ると、旗が飾られている一角から爆発的に歓声が上がる。
ああ、本当に何回味わっても飽きない経験だ。自分達への応援と
1021
喜びの声を耳で聞くのではなく、シャワーのように全身で浴びると
いうのは。
俺は日本でテレビを見ながら応援してくれているはずの幼馴染み
と母へ向けて、上杉は誰か判らないが彼にとっての大切な人へ向け
て笑顔でガッツポーズを繰り返した。
1022
第七話 実況席では仲良くしよう
﹁いやー松永さん、前半が終了しましたが、ここまで日本代表は満
点の出来なんじゃないですか? 前半だけで二対零、序盤からずっ
とボールとペースを完全に支配しています。ボールの支配率でも六
割以上を日本が占めていますし、シュート数にコーナーキック数で
も相手のナイジェリアを圧倒していますよ﹂
﹁⋮⋮そうですね。予想よりずっと日本の調子がいいようですね﹂
なぜか試合が進むに連れて顔色が冴えなくなっていった松永をよ
そに、アナウンサーは日本代表の活躍に滑らかな舌の回転が止まら
ない。
﹁そして松永さんがウィークポイントにならないかと危惧していた
島津ですが、素晴らしい先制ゴールに加えて何度も攻め上がっては
チャンスを作っています。松永さんの不安を払拭する活躍ですね﹂
﹁⋮⋮サイドバックながらチャンスと見るや⋮⋮いえ、チャンスで
なくとも常に攻め上がる彼のプレイスタイルはリスクもありますが
上手くはまるとリターンもまた大きい。日本を舐めてかかってくる
相手には有効に作用しているのでしょう。
逆にナイジェリアは試合の入りを誤りましたね、まだ経験の浅い
チームが落ち着く前に先制されてしまいました。ナイジェリアはこ
の年代では世界大会のような大きな大会に初登場の選手がほとんど
のようでしたからね。大舞台に舞い上がっている内に日本に先制さ
れ、気が付けばボールを支配された上にワンミスが失点に繋がる守
備にずっと追われる精神的に消耗する展開です。二点ともどうやっ
て日本に点を取られたか判っていないのではないでしょうか﹂
1023
なんだか松永が珍しく解説者らしいことを喋っているようだが、
これは自身の間違いを認めるのではなく﹁俺が悪いんじゃなくて、
弱点を攻められないナイジェリアが悪いんだ﹂と言い訳しているよ
うな印象だ。
しかし、そんな事に頓着せずアナウンサーは話を進める。前半の
ダイジェストや他のグループの結果まで全ての情報をハーフタイム
中に収めようとするとあまりぐずぐずしていられないのである。
﹁さて前半のハイライトシーンをご覧ください。開始から三分、M
Fの足利のパスをウイングの山下がスルーした所にオーバーラップ
した島津が内に切り込んで豪快なミドルシュート。この先制点で流
れを引き付けた日本はゲームメイカーの明智を中心としたパスを繋
ぐポゼッションサッカーを披露します。そうしている内にナイジェ
リアディフェンスの綻びを見つけたのか明智・足利・そしてエース
ストライカーの上杉というホットラインからの追加点が生まれまし
た。
その後も反撃にきたナイジェリアのスピード感溢れるアタックを
DF陣がしっかりと守り、攻撃陣は冷静にパスを回してじっくりと
した攻めを続行していました。残念ながら三点目は奪えませんでし
たが、ボールの支配率からも判るように明らかに日本が押していま
す﹂
﹁まったく厄介な攻撃陣ですよねぇ。あ、いや日本を敵に回した敵
のDFの心情から考えてみたんですが、センターフォワードで日本
チームの得点王である上杉をマークしなければならないのは当然で
す。それに加えてアジア予選では共に攻守両面で活躍した両ウイン
グも無視できない、さらにゲームメイクのみならず決定力のあるM
Fの足利と明智も警戒対象です。そこへ予選でのシュート数では左
ウイングの馬場以上に撃っていた右サイドバックの島津ですか、こ
いつらみんなを止めようとするのはちょっと大変ですよ﹂
1024
なぜか心情的に日本ではなく敵チームの監督のような思考になっ
ている松永へ、アナウンサーが当然ながら突っ込みを入れる。とは
いえ色々としがらみがあるのかかなりソフトな物ではあったが。
﹁松永さんは敵のナイジェリア監督の心理がよくお判りのようです
ね。日本チームのウィークポイントへのご指摘は前半はあまり当て
はまらなかったようですし、相手への思い入れが強いのか試合中も
日本のオフェンスについてより敵のディフェンスについてあれこれ
アドバイスめいた言葉をおっしゃってましたが﹂
﹁べ、別にナイジェリアディフェンスを応援していた訳ではなくて
ですね、山形監督の作った日本代表をどう止めるか客観的にシミュ
レートしていただけです。あなたのような素人ならばただ自国の代
表を応援していればいいんでしょうが、私みたいなプロは第三者的
な視点で観戦しなければいけないんです﹂
﹁⋮⋮はあ、そうですか﹂
ここまではっきりとお前は素人で何も判ってないと公共の電波で
言われてはカチンとくる。アナウンサーは額の辺りの血管を浮き出
させながらなおも無理に冷静さを装う。
﹁で、では松永さんが試合前に﹁自分ならスタメンには出さない﹂
と断言した島津の見事なゴールをもう一度見てみましょう﹂
アナウンサーの言葉に﹁うわぁリプレイに行く前にわざわざ松永
の失態に言及しちゃったよ﹂とギスギスした空気が実況席を満たす。
松永も﹁そうですね、無駄なお喋りはやめてさっさと選手達がプレ
イしている画面へ切り替えましょうか﹂と、話をするのが商売のア
ナウンサーの存在意義を無くすような事を言ってから頷くと視聴者
の見ているテレビの画面上ではリプレイが始まる。
だが、アナウンサーと解説者は二人とも笑顔の仮面を張り付けた
1025
ような表情で、画面上のリプレイではなく互いの目から非友好的な
視線を離そうとはしない。
日本代表はいいリズムで試合を運んでいるが、実況席の方はそう
もいかないようだった。
◇ ◇ ◇
﹁決まったな﹂
日本対ナイジェリアの前半が二対零のままで終了すると、興味を
無くしたようにテレビから視線を外したカルロスはまたやりかけの
ストレッチを続行した。ぐっと身を沈めると彼の長い足がすっと抵
抗無く開いてそのまま下腹部が床に触れる。百八十度開脚するいわ
ゆる股割りだが、それを彼はあっさりやれるだけの柔軟性を持って
いるのだ。
普通のフットボーラーはそこまで股関節を柔らかくしようとしな
いし、発達した太股の太い筋肉が逆に邪魔になってなかなか完全に
百八十度までの開脚はできない。それをこの資質に恵まれた少年は
当然のようにやってのけるのだ。
そこまで柔軟性に拘らないブラジルのチームメイトが﹁なんでそ
こまで足が開くんだ?﹂と本人に聞いてみると﹁毎日ストレッチを
やってるんだから出来ない方がおかしい﹂という他の平凡なサッカ
ー少年に聞かれたら怒り出すような意見が出てくるのが彼らしいが。
そんなカルロスと同じように、黙ってアップをしながらテレビを
見ていたブラジルDFの要でキャプテンでもあるクラウディオが頷
いた。
﹁ああ、そうだなこの試合は日本の勝ちで決まりだろう。日本はカ
ルロスやエミリオが注目しているというだけあってなかなかやるじ
1026
ゃないか﹂
﹁うん、そうだね。この流れならまあ日本が逆転される可能性はな
いだろうね﹂
こっちはアップに飽きたのか、エミリオまでにししと笑いながら
カルロスとクラウディオの﹁日本の勝利﹂という予測に太鼓判を押
す。そんな小柄で子供っぽいストライカーにカルロスは溜め息混じ
りで忠告する。
﹁エミリオは今まで寝てたんだから、ちゃんとアップしなきゃ駄目
だろうが﹂ ﹁えー、これでもちゃんと試合前に起きたんだから偉くない? い
つもだったら開始のホイッスルまでうつらうつらしてるよ﹂
これまでこいつはそんな態度で南米予選を戦っていたのかと周り
を慄然とさせたが、ブラジルが誇るもう一人の天才は﹁いや、これ
までは別にお前が試合中も寝てたとしても俺一人で問題なかったけ
どな﹂とあっさり認めた。
﹁次の試合のイタリアはちょっと厄介だ﹂
﹁へえ、カルロスがそう言うほど?﹂
目を丸くするエミリオに事情通でもあるキャプテンのクラウディ
オが補足する。他のチームメイトには聞こえないように小声で﹁イ
タリアのゴールキーパーのジョヴァンニは間違いなく今大会のナン
バーワンキーパーだ。うちのキーパーの前では表だって言えんが、
頭一つ抜けているな﹂とあまり敵について情報を知ろうとしないエ
ミリオに耳打ちする。
﹁へぇ、そのぐらいいいキーパーなんだ﹂
1027
エミリオの笑顔の質がふわふわした物からどこか凄みをうかがわ
せる物へと変化していく。その雰囲気の推移を満足気に見つめてい
たクラウディオが頼もしげに目を細める。
﹁エミリオは国際大会は初めてか、ならこの先何度も奴とは当たる
だろうな。実際俺は︱︱ああカルロスもかな? 国際大会の度に当
たっていた。イタリアもうちもトーナメントを勝ち上がるからよく
ぶつかったんだ。そして毎回戦う度にあいつがブラジルに生まれて
くれてれば俺の仕事はもっと楽だったのにと思うんだよな﹂
﹁ああ、俺も二・三回戦ったことがあるがどうもやりにくいんだよ
なあいつは。それに大会ごとにベストイレブンを選ぶと俺やあいつ
なんかいつも入ってるから顔見知りにはなってるぞ﹂
カルロスまでもがイタリアのキーパーをただの﹁ジョアン﹂では
なく個人として認識した上で高い評価をしているようだ。
﹁へー、カルロスとクラウディオの二人が揃って警戒する相手って
カテナチオ
ちょっと興味が湧くなぁ﹂
﹁イタリアの閂の番人、ゴールキーパーのジョヴァンニだな。赤信
号という通称を持つ大型キーパーでもうじきセリエAのどこかでデ
ビューするはずだぞ﹂
﹁赤信号って?﹂
﹁ああ、あいつが燃えるような赤毛なのを引っかけたあだ名で、イ
タリアの記者がいつかの国際大会でジョヴァンニがナイスセーブを
連発した後に﹁世界のどこの攻撃陣が相手でも我らが赤信号を相手
にすれば停止せざる得ない﹂とか自慢した記事がきっかけになった
そうだ﹂
クラウディオに続けてカルロスも敵キーパーに加え敵チームの実
1028
力に太鼓判を押す。
﹁イタリアは一対零で勝つのを最高とする美学があるらしいからな。
あいつらの守備への拘りはちょっとついていけないぞ。だけど、楽
しく美しいサッカーが好きなブラジル国民には理解しがたい美学を
持っているとしてもイタリアの実力は本物だ。まあこのグループに
おいては二番目でしかないけどな﹂
﹁うん、じゃあ今からやる試合ではっきりとブラジルが一番だって
証明しなくちゃいけないね﹂
︱︱強敵との試合へ準備する彼らの脳裏には、グループで三位以
下の実力と判断した日本への関心は残っていないようだった。
1029
第八話 ロッカールームで喜び合おう
﹁ようし、お前らナイスゲームだったぞ!﹂
山形監督の声がロッカールームに響く。
試合に勝利しても俺達はなかなか即解放とはいかない。相手選手
との握手やユニフォームの交換にサポーターへの返礼。さらには取
材しにきたマスコミ関係との応対など雑多な用事が待っているのだ。
それらの試合終了後のセレモニーを一通り済ませると、俺達はロ
ッカールームにまで戻ってお互いの視線を無言で交わし合う。ここ
に日本代表の関係者以外がいないと確認できると、監督の言葉でよ
うやく金縛りが解けて俺達は喜びを爆発させた。
ピッチ上ではあまりに喜んだ姿を見せてはしゃぎすぎると、敗北
した相手への侮辱になりかねない。代表の自覚を持つんだと出発前
に諭されたせいか全員が少し抑え気味だったのだ。
その分他人の目がなくなるとメンバーが一斉に踊りだす。特に目
立つのは厳つい顔を赤くして、ピッチから戻ったばかりの汗だらけ
の選手を誰彼無く力一杯に頭をくしゃくしゃに撫でている山形監督
だ。あれは撫でているというより頭部をシェイクしているといった
方が正しいな。下手したら脳震盪を起こしそうなほどの乱暴な親愛
と喜びの表現である。
監督も大会初戦のプレッシャーを強く感じていたのだろう。それ
が三対一での勝利というこの上ない結果で解消されたのだ、安堵と
歓喜は隠しようがない。
まだ初戦とはいえグループリーグで戦う後の二試合の相手を考え
ると、ここで負けるどころか引き分けでも後がなくなったはずだ。
トーナメントまでたどり着くためには俺達は喉から手が出るほどナ
1030
イジェリア戦で勝ち点三が欲しかったのである。
﹁はっ、一点しか取れへんかったのはちょい残念やけど、次の試合
に期待やな﹂
﹁それは俺も同じだ﹂
上杉と後半に駄目押しの三点目を決めた山下先輩の二人組は、ち
ゃんと点を取ったのにまだ不満げである。こいつらはたぶんハット
トリックを達成しても﹁もっと取れたはずだ﹂と得点に関しては慢
性的に飢えていて、永遠に満腹しないでいるタイプなんだろうな。
だが勝利そのものはやはり嬉しいらしく、口の端が笑みに吊り上
っていて悔しがる口調にも暗さはない。
そんな贅沢な点取り屋達の不満はとにかく、今日の試合での俺自
身のプレイを採点してみるとほぼ満点だったと言えるのではないだ
ろうか。
自らの得点こそ無かったものの、明智と二人で完全にゲームの流
れを掌握できていた。相手のナイジェリアが中盤を省略するカウン
ターチームだったことも味方して、中盤でのボール支配率は日本が
独占していたのだ。
これまで自分が培ってきた技術が世界の舞台でも通用するのが嬉
しくて、つい明智と不必要なぐらいパス交換なんかをしてしまった
がそれでも問題はなかった。
しかし後半途中で俺や島津の攻撃的なメンバー二人が引っ込んだ
試合終了間際になると、ナイジェリアがなりふり構わず日本ゴール
前に人数を送り込んできた。そこでロングボールをただ前線に放り
込む単純なパワープレイに出た敵の勢いを止められずに失点してし
まったのがこの試合唯一の誤算である。しかしその失点も大勢に影
響はなかった。
その後も人数を日本のゴール前に割いて逆にDFラインが薄くな
1031
った相手に対し、明智から山下先輩へと綺麗なパスが繋がり日本の
三点目で試合が決着したのだ。
山下先輩は結果的に得点できたからいいじゃないかと思うが、俺
からのアシストでは無かったのがどうもご不満らしい。また愚痴を
こぼされるかもしれないな、覚悟しておくべきだろう。
真田キャプテンやアンカーなどのDFを預かる者は、最後の失点
のせいで手放しでは喜べないようだがそれでも表情は明るい。それ
らは次の試合への課題であって取り返しのつかない後悔ではないか
らだ。
少なくともグループリーグ突破への希望がぐっと現実味を帯びて
きた。いや、まだ最初の難関を越えただけで気を緩めてはいけない
のは理解しているが、どうしても緊張も頬も緩んでしまう。明日か
らまた頑張るから、試合が終わった直後ぐらいは気を抜くのを許し
てくれよ。
にたつく顔のままでチームメイトとハイタッチを交わしていると、
終わった自分達の事より段々と他の試合の事が気になって来る。
確か同じグループ内のブラジルとイタリアはちょうど今が試合中
なんじゃなかったかな。
どういう理由があるのか別会場の少しズレた時間帯でブラジル対
イタリアはやっているはずだ。テレビ局も人気カードだろうこの試
合について放送時間の都合とか色々あるみたいだが、重要なのは今
リアルタイムで観戦できるはずって事だ。
﹁山形監督、そういえばブラジル対イタリア戦はどうなっています
か?﹂
﹁⋮⋮そうだな﹂
監督の表情が勝利の喜びから一転して難しい顔になったが、﹁ま
1032
あ見た方が早いだろう﹂とロッカールームにある少し大きめのテレ
ビのスイッチを入れた。この口ぶりからすると山形監督は途中経過
をある程度知っているようだ。
ちょうどこの部屋で誰かが眺めていたのか、チャンネルを変える
ことなくブラジルとイタリアの試合が画面に映る。
だけど、どうも外国の放送のせいか表示が判りにくいな。ええと、
途中経過はどうなってるんだ? ブラジル戦をやっているのに気がついたチームメイトも全員がテ
レビに群がってきた。
﹁お、これブラジル対イタリアじゃん﹂
﹁ユニフォームはどっちの国もワールドカップなんかでよく見るけ
ど、やっぱ格好いいなぁ﹂
﹁あ、カルロスがここにいるぞ。なんかあいつ、またでかくなって
ねぇ?﹂
﹁⋮⋮あれ? これスコアはどうなってるんだ?﹂
最後の奴の台詞にかぶせるように山形監督が途中経過を口にする。
﹁今は後半が始まったばかりで、一対零でイタリアがリードしてる
な﹂
﹁⋮⋮え?﹂
思わず口があんぐりと開いてしまう。俺だけでなく日本チームの
ほぼ全員が、だ。
例外は﹁な、なんやこの空気は。俺一人リアクションが遅れてす
べったみたいやけど、どないしたらええんや﹂と関西人っぽく周り
の驚愕の反応に驚いている少年だけだ。
そんな上杉に向かって、山下先輩が呆れたように肩を叩く。
1033
﹁上杉、だってあのカルロスのいる優勝候補のブラジルがリードさ
れているんだぜ。ちょっと信じられないだろうが﹂
﹁あ、そや。尋ねときたかったんやけど、カルロスって誰なん? 時々名前聞くけどワイは会った事ないはずや。そんなに有名な奴な
んか?﹂
彼の言葉にちょっと戸惑う。あ、上杉は中学からサッカー始めた
んだったよな。だったらカルロスが日本にいた頃はまだボクシング
をやっていたのか。ならば俺達の年代のサッカー選手にとって一種
のシンボルだったカルロスを知らなくても仕方がない、かな。
﹁ま、確かにカルロス言うんがこいつなら、他の奴とはちょい格が
違うんは今の動きを見ただけで判るんやけど⋮⋮﹂
テレビ画面ではカルロスがその自慢のスピードを生かして、密集
したイタリア守備陣を強引に引き裂いてフィニッシュまで持ってい
った。
﹁あっちのイタリアのキーパーもかなりのモンや思うで﹂
だがそのパワフルなシュートはそこに来るのが判っていたかのよ
うに、絶妙のポジションを取っていた赤毛が特徴的な大柄なキーパ
ーの手によって弾かれてしまった。あれだけのスピードでDF網を
突破してそのまま強烈なシュートを枠内に撃てるカルロスも凄いが、
それを止めるイタリアのキーパーも只者ではない。
﹁あいつら、チャンピオン級の強いボクサーが纏っとる風格ちゅう
もんを持っとるな﹂
﹁まあそれは当然かもね。あの二人は年代別の世界大会では常連だ
し、そこでベストイレブンに何度も選出されているから﹂
1034
なるほど、真田キャプテンはカルロスと一緒にこれまで世界大会
に出場していただけに情報が細かい。でもとりあえずは今やってい
る試合の方が気になるな。
﹁でもこのまま、カルロスもブラジルもリードされたまますんなり
終わらせるとは思えませんが⋮⋮﹂
テレビの中でシュートを防がれたのが不服なのか、キーパーを睨
んでいるカルロスとその彼の肩に手を置いて何かささやいている小
柄なブラジル人のFWが映る。確かエミリオだったかな? ブラジ
ルの攻撃での二枚看板の一人だ。そんな奴ら相手にここまで無失点
でいるこのジョヴァンニってキーパーも、俺が今まで対戦したこと
のないレベルの相手な事は間違いない。
﹁とにかく次のイタリア戦で当たるこのジョヴァンニって赤信号を
どう攻略するか、考えなくちゃいけませんね﹂
全員が一斉に頷いた。山形監督までもがだ。本来ならあんたが考
えなくちゃいけない問題でしょうが。俺の冷たい視線に気が付いた
のか慌てたように監督は顔の前で手を振る。
﹁このジョヴァンニは穴がなく、キーパーとして求められる技術に
ついては全て平均的にレベルが高い。というか明確な弱点があれば
そう何年も年代別とはいえキーパー大国でもあるイタリアの正GK
を務めてはいられないだろう﹂
﹁それはそうですね⋮⋮﹂
納得できる意見だが攻略法には何一つ光明をもたらさない見解だ
な。そんな中、素人ならではのずばりと本質を突く言葉を放つのは
1035
やはりこの少年だ。
﹁ごちゃごちゃ考えんとたくさんシュート撃ったらええんちゃう?
どんなええキーパーや言うても今まで点取られた事ないはずない
やろ。でもとにかくシュートを撃たんことには入らないんは確かや
からな﹂
まあ、そうだよな。能天気なストライカーの意見に空気がふっと
軽くなる。こんな時、改めて上杉は頼りになる奴だと再確認する。 ﹁そうですね、じゃあイタリア戦での合言葉は﹁もっとシュートを
撃とうぜ﹂にしましょうか? どうです監督?﹂
﹁あ、一応俺にも確認とってくれるのか。念の為尋ねるが俺がその
作戦を却下したらどうする気だ?﹂
﹁表面上は﹁判りました﹂と従ったふりして、ピッチに出たらがん
がんシュートを撃ちまくります﹂
﹁⋮⋮うむ、俺に一応確認をとっただけでもいいか。試合が始まっ
てからやらかされるよりは、今チームの統一見解にした方がましだ
からな﹂
勝利したばかりなのに胃の上に手を当てて苦笑いする山形監督に、
なんとか元気を出してもらわないと。
﹁大丈夫ですって、次の試合はもっともっと攻撃的スタイルでいき
ますから心配しないでください﹂
﹁うん⋮⋮頼むぞ。一試合十本のシュートで満足しないFWと監督
を無視して攻めたがるゲームメイカーが攻撃的に行くって言ってる
んだ、そりゃ俺だってお前らが攻めまくるのには一片の疑いも抱い
てないさ﹂
1036
信用しているとは言いながら、ちっとも安心する素振りのないの
はなぜなんですかね、監督?
俺と同じように監督の体調を心配したのかもう一人元気づけよう
とする者が現れた。
﹁俺も今日のようにしっかりとオーバーラップするので、確かに攻
撃に関する心配はご無用に願おう﹂
﹁⋮⋮ああ、島津もか。うん、何と言うか⋮⋮その、ああいや何で
もない。頑張ってくれ﹂
なぜか俺達が声をかける度に山形監督は胃の具合が思わしくない
ような挙動をするが、本当に大丈夫だろうか。原因が判らないだけ
にちょっと心配だな。
1037
第九話 信号を青にしよう
カルロスは額から流れる汗を拭い、次第に雲行きが怪しくなって
きた試合の流れに舌打ちを一つした。
本来なら大会の初戦などさっさとハットトリックでも決めて早め
にピッチから下がりたいのだが、相手が悪かった事もありそう上手
くはいかない。大体、こんな風にリードされる展開になったのも試
合前のミーティングで想定したよりかなりイタリアの守備が堅固な
のが原因なのだ。
もともと楽天的なブラジルのお国柄とサッカーに対するプライド
の高さから敵への警戒は甘いのも確かだが、ここまでイタリアがチ
ーム一丸となって粘り強く守ってくるとは思わなかった。
カルロスでさえイタリアが強豪国だとは知っていても所詮ジョア
ンでないのはあのキーパーだけだ、他は警戒する必要がないだろう
と高を括っていたのだ。
しかしその舐めていたイタリアDF達の網は、彼に突破されるの
は仕方ないにしても良いタイミングやゴールを狙いやすい場所から
シュートを撃つのだけは必死で阻止してくる。得意ではない左足で
撃たされたり、無理な姿勢からのシュートを余儀なくされているの
だ。
それはブラジルのもう一人の天才FWエミリオも同様で、大統領
を警護するシークレットサービスのように小柄な彼の周りを常にD
Fが囲んでいる。
それでもこれまでの南米予選での試合ならば、例えカルロスは徹
底マークされた状態であっても一点ぐらいならば苦も無くもぎ取れ
1038
ていたはずだ。
それが出来なかった要因は二つある。
ブラジルはまだ大会初戦だと、チームスタッフがコンディション
を無理に上げようとしていなかった為に選手達の体の緩みを絞りき
れなかった点が一つ。
そしてもう一つは︱︱いや最大の理由はやはりこのイタリアの赤
毛のキーパー﹁赤信号﹂の存在に他ならない。
﹁あいつなかなかやるなぁ﹂
のんびりとした声をかけてきたのは、ここまでカルロスと同じよ
うに悉くシュートを止められているエミリオだ。後半に入ってまだ
敵にリードされているにも関わらず、いっこうにその陽気な表情に
は陰りが見えない。
だがそれはカルロスも一緒である。お互いにここまでの経過に不
満は持っていても追いつけないかもしれないという焦りは露ほども
ない。どちらも自分が本気でゴールを奪いにいけば、得点できない
はずがないと心の底から信じているからだ。己の得点力には狂信的
なまでの自信を持った二人である。
しかし対戦相手の力量が予想以上だった事への苛立ちが隠せない
だけだ。
好敵手を見つけてもあまり嬉しそうでないのは、二人とも攻撃的
な選手だけにどうにもディフェンスを専門としている敵選手には評
価が辛くなってしまったからだろうか。もし強敵の相手がFWなら
ば﹁どっちが点を取れるか勝負だ!﹂とこいつらなら喜ぶのだが。
しかし、このコンビの余裕がある態度はともかく時間的にも徐々
にブラジルが追い詰められつつあるのは確かである。
﹁いやー関係者の目を気にして綺麗に点を取ろうだなんて、ちょっ
と甘かったかも﹂
1039
そう頭をかくエミリオに白い目を向けるが、カルロスにしてもこ
こまでは全力を尽くしたと胸を張って誓えるプレイ内容でもない。
﹁あまり遊んでる時間はない。仕方ないがどんな形ででも、とにか
く試合をひっくり返すぞ﹂
﹁了解ー﹂
小柄な点取り屋は軽い口調で言い残すとスキップを踏んでるよう
な歩調で離れていく。ちょっとだけ﹁大丈夫かあいつ﹂という視線
を投げかけたカルロスだが、頭を振って雑念を追い払う。
エミリオが得点の匂いがする場所︱︱ペナルティエリア内では誰
よりもしっかりとしているのは、これまでの試合で実証済みである。
初日だから、初戦だからと驕っていたカルロスとブラジルの本気
での狩りが、遅まきながらようやくここから始まろうとしているの
だ。
カルロスは手を上げてチームメイトからの注目を集めると、クラ
ウディオキャプテンに目をやり視線を左に流す。そこにいるのはブ
ラジルが誇る暴走特急フランコだ。
失点の原因がフランコのオーバーラップした後のスペースを突か
れたものだったために、ここまでイタリアの鋭いカウンターに備え
てできるだけ自重させていた。
だがもうその封印を解くべきだろう。このままではこいつの長所
を生かしきれていない。
カルロスの視線に気がついたのか、フランコが自分の出番だなと
浅黒い顔の中で歯を輝かせて笑う。
やれやれ、カルロスは首を振った。さて、自分も加えたこれだけ
の攻撃陣からなる本気のアタックを止められるチームは世界中を探
そうともあるとは思えんな。 1040
さあ、行くぞ赤信号。そろそろ信号もお前の顔色も青くしてもら
おうか。
◇ ◇ ◇
テレビの中から大歓声に包まれて熱戦の試合終了を告げるホイッ
スルが響く。
それを耳にする俺達日本代表のメンバーは無言でその体はすっか
り冷え切ってしまっていた。
それも当然だ、ナイジェリア戦の後でシャワーも浴びずにブラジ
ル対イタリア戦をずっと観戦していたのだから。でもそんな些細な
事などこれから対戦する相手のプレイの数々を見ている内に頭から
吹き飛んでしまったのだ。
それは隣にいる明智も同様だったのだろう、お喋りなこいつが一
言も話さずに試合終了まで見つめていたのがその証拠だ。だがホイ
ッスルが鳴るとすぐに唾を飲み込んでかすれた声で俺に話しかける。
﹁⋮⋮凄かったっすね、特に残り十五分からの攻防は﹂
﹁ええ﹂
﹁やっぱりアシカもそう思うっすか? ブラジルの猛攻もイタリア
の堅守もちょっとお目にかかれないレベルだったっすよ。あいつら
各地の予選では三味線を弾いていたんすかね、僕の各国の情報を分
析したノートもこれじゃあ随分と訂正しなきゃいけないっす﹂
﹁それも無理ないでしょうね。二カ国ともちょっと俺の想定以上の
実力でした﹂
息を大きく吐き出してぶるっと身を震わせながら明智に対して頷
く俺の表情と言葉は硬い。
ブラジルの戦力については、前半と後半初頭を見た限りでは何と
1041
かなるんじゃないかと楽観していたのだ。だがそれは最後の十五分
間の攻防によって完全に粉砕された。
残り時間が少なくなってからのカルロスとエミリオというブラジ
ルが誇る攻撃の二大柱が共に爆発しての二対一でのブラジル代表の
逆転勝ちだ。
あの二人が得点したとはいえドリブル突破からの華麗なシュート
で得点した訳ではない。ほとんどFWと変わらない位置まで居座っ
ていた左のサイドバックをはじめとして、中盤からの押し上げが半
端じゃなかったのだ。守備的なポジションについていたとしてもさ
すがはサッカー王国のブラジルだ、その気になればそこらの国の十
番クラスのテクニックを持った選手がごろごろしている。
カルロスとエミリオの二人は決定力を生かして最後のゴール前で
の詰めをきっちり締めただけである。
だが、イタリアも簡単に破れた訳ではない。嵐のようなブラジル
の猛攻をじっと防ぎ、機を見てのカウンターで反撃まで仕掛けよう
としていた。
それでも結局は両国の攻撃陣の破壊力の差に屈した形だが、あの
﹁赤信号﹂とやらはカルロスとエミリオなど綺羅星のようなブラジ
ル攻撃陣の至近距離からのシュートを何度も防いでいたのだ。
そのシュートをダイビングして止めた直後で体勢が崩れた所にこ
ぼれ玉を押し込まれてしまってはいたが、どちらかというとあれは
キーパーではなくディフェンス陣に責任がある失点だよな。
﹁ブラジルでも完全には崩しきれなかった守備陣が次の相手、そし
てグループリーグ最終戦はブラジルかぁ﹂
緊張で乾いた口の中の唾を飲み下す。今戦っているのは国際大会
なのだ、相手が弱いと油断していたつもりはなかったがこうしてテ
レビを通して客観的に相手の試合を見ると改めて身震いがする。そ
1042
れは強敵と戦う恐れだけでなく、幾分かは確実に興奮も混じってい
る武者震いである。
﹁今のイタリア対ブラジルの結果は試合内容はともかく、ちょっと
俺達に運が向いてきた展開になるかもしれないっすね﹂
明智が何か思いついたように隣で腕組みをする。たぶん﹁どうし
てだ﹂とか尋ねて欲しいのだろう、ちらちらと横目でこっちの様子
を伺っている。面倒だとは思うが、ここは乗ってやるのが人の道か。
﹁へーどうしてです?﹂
﹁いやーアシカにそこまで尋ねられたら答えないわけにはいかない
っすね﹂
棒読みの口調で一回しか質問していないのに﹁仕方ないっすねー﹂
我が意を得たりとばかりに嬉しそうに頷く。
﹁イタリアがここで負けたって事は勝ち点三を取るために、うちと
の試合には攻撃的にくるって事っすよ。もしイタリアがブラジルと
でも引き分けたり勝ったりしていたら、引き分けでもオーケーだと
無理な攻撃を仕掛けてこないはずっすからね。あんな強力な守備陣
に引き籠られて亀にでもなられたらちょっとしゃれにならないっす
よ﹂
﹁まあそうかもしれないね﹂
﹁そうっす。もしそんな展開になるとうちが戦っても一点を争う試
合になりそうっすけど、このチームってそんなロースコアのゲーム
が一番苦手っすからね﹂
カテナチオ
ふむ、と明智の言葉に納得する。ブラジルとの試合を見る限りで
は、イタリアは伝統の鉄壁の守備である閂を基本として、あのキー
1043
パーを守りの中心に据えたカウンターチームだ。そんなチームが引
き分けでもいいやと守る事に重心を置かれたらと思うと寒気がする。
同じカウンター主体のチームにはさっき勝っただろうとは簡単に
言わないでほしい。
今日戦ったナイジェリアではイタリアと比較するには安定度に差
がありすぎるのだ。イタリアは単に勝ち負けではなく、一試合当た
りの失点数で比べるならば世界最高に近い成績を叩き出すだろう守
備の伝統国だ。そんなチームとうちが守りを固めてのカウンター合
戦をするだなんて考えたくない。
ま、それでも明智の言うようにイタリアが勝ち点三を狙いに、カ
ウンターを捨てて多少なりとも前へでてくれればこっちにも勝機は
ある。
いつものようにスコアが跳ね上がる打ち合いに巻き込めば良いだ
けだ。そしてそんな試合でこそ攻撃力に自信のある俺達の力が最大
限に発揮される。
﹁よし、じゃあとりあえず次のイタリア戦に向けて俺達がやること
は⋮⋮﹂
考えつつ俺が口にしようとすると﹁はっくしょん! とくらぁ﹂
と大きなくしゃみをする音が響く。まったく試合中もそうでない時
もやかましいストライカー様だこと。
﹁まずはシャワーを浴びて体を温めることだな﹂
﹁そうっすね﹂
1044
第十話 食事のことは大目にみよう
ナイジェリア戦で勝利した次の朝、ゆっくりと遅くまで睡眠を貪
った俺達日本代表はホテルでバイキング形式の朝食を摂る。
フル代表は専属の料理人が遠征先にまでついて来て調理してくれ
るそうだが、俺達にはまだそこまでの特別待遇は与えられていない。
いや、こんな高級ホテルに宿泊できているし旅費なんかも全て無料
で外国へ旅行できているんだから文句はどこにもないんだが。
ただ、イギリスに到着してから食事時になると、なぜかいつもチ
ームの誰からともなく﹁フル代表には専属のシェフが⋮⋮﹂という
話題になり﹁くそ、意地でもフル代表にまで昇っていくぞー!﹂と
いう叫びが上がるのだ。
ここは広い部屋の立派な調度品などからもかなり高級なホテルな
のだろうが、それでも食事の度に皆がげんなりとした顔を隠せなく
なっている。
パンにサンドイッチやスコーンにスープやサラダといった軽食で
も済ませられる朝食はともかく、しっかりと量を取りたい昼と夜に
はどうしても愚痴が出るのだ。
ある意味有名なイギリスの料理には誰一人期待してなかったのだ
が、それでも俺達はぶつぶつ文句を言っていた。そのあげくに成長
期の為に空腹には耐えきれず、味は無視してマナー違反にならない
ぎりぎりの速度で﹁舌には触れさせずに喉の奥に放り込むんだ!﹂
とかき込む有り様である。
不味いとかいう問題ではなく、たぶんイギリスの方は日本人とは
味覚が異なっているんだろうな。
いくら料理が口に合わなかったとはいえ、失礼な上に騒々しくて
1045
すいませんホテルの関係者さん。
さて、試合の翌日である今日は休養日であり体を使った練習はほ
とんどない。夕食後に次のイタリア戦へのミーティングがあるぐら
いで各々が自由に行動していい日なのだ。
控えの選手はエネルギーを持て余しているのか観光に行こうぜな
どと誘い合っているが、俺はパスだな。ただでさえチーム内でも一・
二を争うほど小柄な俺はエネルギーの貯蔵量が少ないのだ、休める
時にしっかり体を休めてまた試合に備えないと。
という訳でこれから軽くジョギングとストレッチで体をほぐした
後でマッサージを頼むとしようか。
俺がトレーニングウェアに着替えてジョギングへ出かけようとし
ていると、日本代表に与えられた少し大きめのミーティングルーム
の扉が開いているのを見かけた。
何事かと思わず覗き込むと、そこで椅子に座り携帯を熱心に覗き
込んでいる少年に出会った。
﹁ん? 明智さん何を見てるんですか?﹂
﹁ああ、アシカっすか。ちょっとこれで日本での昨日の試合の評価
や関連ニュースなんかをチェックしていたっす﹂
﹁へえ、それは面白そうですね﹂
俺が興味を示したのが嬉しかったのか、明智は画面をこちらに向
けながらその携帯が海外でも問題なく日本と同じようなネット環境
で使える便利なツールである事を得々として喋る。
なんだかこんなデータマンとか解説役って漫画でもそうだがお喋
りが多いよな。
いや、まあ話してもらわないとストーリーが進まないのも確かだ
が。っといけない、この時期ではまだ携帯からスマートフォンにな
ったばかりである。確かにこれはネットなどを使用するには役立つ
1046
のだが、その先の進化した機種を知っている俺は明智の言葉をただ
の自慢だと聞き流してしまった。
まだ日課である朝のジョギングをしていないから頭と体が目覚め
ておらずに集中できていないのかもしれないな。
ここはさっさと俺の方から話を切り出して本題を尋ねよう。
﹁それで、俺達の昨日の試合は日本でどう評価されているんですか
?﹂
﹁うん、まあ、そのっすねぇ﹂
いつもはきっぱりとした話し方をする明智がなぜか急に口ごもる。
俺が首を傾げると慌てたように﹁あ、俺達代表チームは勝ったんす
から、悪くは言われてはないっす﹂と顔の前で手を振る。
じゃあいったい何があったんだよ?
俺の疑惑の眼差しに明智が﹁えっーとっすねぇ﹂と頭をかくと何
か諦めたような表情で口を割る。
﹁俺達の試合に関係して、松永前監督のブログが大炎上っす﹂
﹁⋮⋮は?﹂
一瞬何を言われているのか判らなかった。なぜここで松永が出て
くる? それにあの人はブログなんてツールを使って世論操作でも
やってるの? など幾つも疑問が浮かぶがとりあえず一番知りたい
事を尋ねる。
﹁な、何で炎上したんですか?﹂
﹁どうもブログ上で僕達代表にいきすぎた批判をしたのと、昨日の
テレビの解説での反日本的な言動が原因みたいっすね。確かブログ
に納豆少女というハンドルネームの書き込みで﹁松永は代表に新加
入した選手を育ててなんかいない、むしろ邪魔してた﹂とか﹁新任
1047
の山形監督の仕事の邪魔までしている﹂とか﹁ヒロイン枠は渡さな
い。夏休みの課題は女子力アップだもん﹂なんてのがあったようっ
す。後半は良く判らないっすが、前半の書き込みは代表の内部情報
も結構詳しく書かれていて協会内からリークされたんじゃないかっ
て評判になってるっす。慌ててその書き込みは削除されたようっす
けど、ネット上では祭りになって俺達代表への注目度もアップした
みたいっすね﹂
何だと? ネット上で松永に対してそんな地道な批判をしている
人物がいるのか。
俺はその納豆少女とやらがどんな奴か想像しようとしたが上手く
いかない。どうしても納豆というと俺にとっては真のイメージが強
すぎて他の映像が浮かばないからだ。
でもまあ協会内部の人間らしいって話だし、きっとハンドルネー
ムで少女と名乗っていてもそれは偽装で本人はきっとごつい元フッ
トボーラ︱とかに決まっているよな。
ま、俺とは何のしがらみもない善意の第三者だ。自分には何の利
益もないだろうにご苦労さんだったな。
﹁じゃあ、これであの鬱陶しい松永前監督ともお別れですか。いや
ー、そうなると寂しいなー。代表の試合を録画するとあの人が解説
しているから、見返す時にはいつも音声をオフにしているぐらい嫌
いだったけど、これで顔を見られなくなるとつい踊りたくなるぐら
い悲しいなー﹂
悲しさの余りスキップして口笛を吹いちゃいそうだぜ。
﹁い、いや棒読みで華麗なステップを踏みながら悲しがっている振
りをしているアシカには残念なお知らせっすけど、お別れとはいか
ないっす﹂
1048
﹁え、なんで?﹂
意外な言葉に首を傾げると、明智が力無い笑顔でちょっとマスコ
ミのおかしな事情を話してくれた。
﹁いや、なんだか松永前監督の言動が話題になっちゃったせいで、
逆に今話題になっているあの人の解説を前面に押し出した方が視聴
率が稼げそうだとテレビ局が判断したみたいっす﹂
﹁なんだよそれ⋮⋮﹂
余りの下らない事情に二の句が継げない。明智も同感なのか、力
無い笑みのまま頭をかいている。
いや、あの松永前監督もブログが炎上している最中にそんな仕事
受けるなよと言いたいが、オファーを出すテレビ局の方がおかしい。
俺達一応は日の丸背負った日本代表だよ? 少しはこっちの味方し
てくれても良くない?
﹁⋮⋮マスコミと松永についてはスルーの方向で。それより俺達が
勝ち上がる方法を考えましょう。とにかく結果さえ出してしまえば
外野がどうこう言う口実は無くなるはずです﹂
﹁そうっすね﹂
明智も真剣に頷く。マスコミ関係は直接俺達が手出しする訳には
いかない問題である。俺達はピッチの上で結果を出して、プレイで
自分達の価値を証明するしかない。
ここからは遠い日本の地でどんな風に報道されるのかは気掛かり
ではあるが、俺達はサッカーに集中するのが正解のはずだ。
ちょっと他力本願だが、誰だか知らないが納豆少女って奴が頑張
って俺達に都合の良い方向へ持っていってくれないかな。
そんな儚い願いを託し、俺と明智のゲームメイカーコンビはイタ
1049
リア対策に頭を捻る事とする。とりあえず日課のジョギングなんか
は後回しだな。
﹁まず基本的なデータを押さえておくっすけど、イタリアはブラジ
ル戦でみせていたように堅守速攻のカウンターチームっす。ただそ
れだけだと俺達が今まで戦ってきたナイジェリアやサウジアラビア
と同じようっすが、はっきり言ってこれまでの相手とはレベルが違
うっす。ヨーロッパ予選でもほとんど相手を完封、二失点以上した
のは昨日のブラジル相手が初めてっすね。
特にあのキーパーのジョヴァンニはやばいっす。この大会以前の
他のトーナメントの話になるっすけど二試合続けてのPK戦になっ
た時、六本連続で止めて結局相手は一本も入れられなかった事があ
るとか。その時﹁赤信号﹂のニックネームがついたそうっす﹂
﹁⋮⋮本当なら凄ぇ﹂
いくら年少の方が精神的に未熟でPKを外しやすいとはいえ、そ
のストップ率はちょっと異常だ。
PKは敵味方が交互に撃って勝敗が確定すれば終わりだから、味
方のキーパーが三本止めてこっちが三本入れればそこで決着がつく。
だから二試合のPK戦を六本止めてシャットアウトするのも理論的
には可能だが、そんな試合を続けてやってのけられる奴がいたのか
よ。
PKなんて力量以上に運の要素が強く、そしてほとんどのキック
は入ると相場が決まっているはずなのだが。
﹁本当らしいっすよ。負けた相手チームの選手なんか﹁PKはあい
つが相手じゃ蹴る前から入る気がしなかった﹂って言ってた子もい
るらしいっす﹂
﹁いくら俺達の年代でも仮にも一国の代表が言っていい台詞じゃな
いよね、それ﹂
1050
﹁ええ、その選手も﹁負け犬が﹂って相当叩かれたらしいっすけど、
他のキッカーになった選手もこの赤信号が守ってるゴールは攻めに
くいって口々に洩らしているらしいっす﹂
そんな冗談みたいなキーパーが次の相手かよ。
これぞ世界大会って事だな、今までの日本ではいなかったタイプ
の強敵と立て続けに出会って戦うんだから。
収集したデータから窺われる相手の困難さに、顔をしかめている
明智へあえて笑って話しかける。
﹁いいキーパーって言ったって、絶対にゴールできない訳じゃない
ですよね? 実際ブラジルなんか二ゴールしてますし。上杉の言う
ようにバンバンシュートを撃つ事をまず考えましょう。そうすれば
きっと何本かは入りますよ﹂
﹁そうっすね! 考えすぎずにいつも通りの攻撃サッカーをした方
が建設的っすね﹂ ︱︱この時俺達二人が具体的な対策を立てず下手な鉄砲も数撃ち
ゃ当たると思考停止したのは、後から考えるとたぶん現実逃避の一
種だったのかもしれないな。
1051
第十一話 実況席では仲直りしよう
巨大なスタジアムに君が代が流れる中、ピッチに整列した日本代
表の選手達は皆、胸のユニフォームの日の丸に手を当てたまま目を
つぶって歌っていた。
そのスタジアムの客の入りは三割ほどだろうか、自国の代表であ
るイギリスではなく外国の少年達の試合としてはかなり入った方だ。
尤もやはり客席で目に付くのはイタリアと日本の国旗が振られてい
る姿なのだが。どうやら半分近くは地元のイギリスではなく対戦国
である両国のサポーターのようらしい。
演奏が終わると日本代表のイレブンはすぐに小さな輪になって全
員で声を掛け合う。
テレビ画面越しにはその交わし合う声までは拾えないが、どうも
円陣になり肩を組んでの﹁シュートをガンガン撃つぞ﹂﹁おう﹂﹁
カウンターに注意﹂﹁判ってる﹂といった短い会話のようだ。その
後青いユニフォームのメンバーは一斉にピッチの各々の持ち場に散
らばるとそこでまた体を暖め直す。
中にはセンターサークル付近でなぜか目を閉じたままぼうっと突
っ立って笑みを浮かべている小柄なMFもいるが、日本代表のチー
ム全体からこれから厳しい試合が始まるという緊張感が満ち溢れて
いた。
そこで軽快なBGMが流れて、一旦画面が切り替わる。前回のナ
イジェリア戦より若干広くなった実況席に置かれたデスクで、並ん
で座るスーツ姿の二人が揃って頭を下げた。
1052
﹁さあ、大好評につきリニューアルした実況席から、いつものよう
にアンダー十五の日本代表の試合をお伝えします。とは言ってもこ
の実況席でのメンバーは代わらずに実況は私と、解説は最近何かと
話題の松永前代表監督の二人で﹁これまで通り仲良く﹂日本代表を
応援していきたいと思います。それでは松永さん今日の試合もよろ
しくお願いします﹂
よろしく、との声が交わされ再びアナウンサーが簡単に日本代表
のこれまでの経過と、これからの展望をまとめて視聴者へ説明する。
﹁初戦のナイジェリア戦の勝利で見事に勝ち点三を手にした日本。
このグループでは同じく初戦を終えて勝ち点三のブラジルを得失点
差で抑え、なんと現在は暫定一位に輝いています。二位までが突破
できるグループリーグでの、おそらく最大のライバルになる今日の
イタリア戦もまた若きイレブンはやってくれるのではないでしょう
か。松永さんはどう思われますか?﹂
視聴者の知らない内に和解したのか、アナウンサーが水を向ける
と松永も柔和な表情のままで頷く。
﹁ええ、今大会のブラジル代表の実力は明らかに別格ですから、最
終的に彼らが一抜けするのは確定でしょう。そうなると日本のグル
ープリーグ突破のライバルはこのイタリアという事になります。す
でに一敗して後の無いこの堅い守備を持つ伝統国と日本がどう戦う
かのか楽しみですね﹂
﹁なるほど、ちなみにここイギリスのブックメイカーの賭け率では
大会前の時点ではグループリーグ突破の本命はブラジルで、対抗が
﹁赤信号﹂のジョヴァンニ率いるイタリアでした。日本はナイジェ
リア以下の八倍という最も倍率が高かったのですが、これは下馬評
では日本が不利で大穴だと思われていたんですね?﹂
1053
イギリスは何でも賭け事にするせいかブックメイカーの質は高く、
そのオッズはかなり正確に世間一般からの評価を写し出している。
その事から考えると日本の力はグループ内で最も劣るという意見の
人間が賭けた連中の中では多かったのだろう。もちろん初戦のナイ
ジェリア戦を勝利で終えた後は日本のグループリーグ突破の倍率は
急激に下がったのだが。
﹁そうですね。カルロスがいなくなった後、日本には国際的に名前
を知られた選手がこの年代にはいませんからね。それにアジア予選
で最終戦までもつれ込んだのもマイナスに影響しているでしょう。
他のチームはとっくに出場が決まった後でやっと出られることにな
ったわけですから、どうしても印象は悪いに決まっています﹂
﹁⋮⋮それは日本代表チームというよりアジア予選のスケジュール
の問題のような気がしますが﹂
もし予選突破の順番で強弱が決まってしまうのなら、こんな大会
を開く必要はなく突破したその順番に従って先着順で優勝チームを
決めればいいのではないかというアナウンサーを松永がなだめる。
自身のブログの炎上が何らかの精神的な成長を促したのか、今日
の松永はすぐ情緒不安定になりがちないつもの彼とはひと味違うよ
うだ。
﹁確かに予選は突破さえすればその順番は関係ありません。しかし
予選の内容は大いに関係があるんです。強豪ひしめく南米予選やヨ
ーロッパ予選を余裕たっぷりに通過したチームと、アジア予選でぎ
りぎり生き残った日本ではどうしても後者に点が辛くなるのは仕方
ありません。これらの評価を覆すには直接対決で勝利するしかない
でしょうね﹂
1054
もし勝利できるとしたらの話ですが、と付け加えるあたりやはり
どこか微妙に日本代表に対する棘が抜けきっていない。だが、松永
の言っている内容には間違いはない。
いやこの時代ではお世辞抜きならば、世界からの日本サッカーへ
の評価はもっと厳しいかもしれない。例を上げればチャンピオンズ・
リーグなどが行われる現在の世界のサッカーシーンの中心であるヨ
ーロッパでは、自分達の地域と南米まではチェックしてもアジアに
はまだ一顧だにしないクラブも多いのだ。
国際大会などで結果を出し続けねばアジアが軽視される傾向は今
後も変わらないだろう。
﹁なるほど、そう伺うとなおさら今日の試合の重要さが増すようで
すね。グループリーグ突破とブックメイカーから日本代表の実力を
侮られたお返しがこれからの一戦にかかっています。是非ともこの
イタリア戦で勝利して勝ち点六まで伸ばし、最終戦のブラジルとの
試合前にトーナメント進出を決めたい所です。では、松永さんにこ
れから戦うイタリア代表の簡単な説明をお願いしましょう﹂
促された松永はさっと手元の用紙に目を走らせて確認するとイタ
リア代表について語り出す。
﹁イタリアはご存じのようにセリエAという世界でもトップクラス
のサッカーリーグを持っています。当然十五歳以下の代表に選ばれ
るのはそのユースで頭角を現してきた少年ばかりです。
ですから皆がプロ予備軍なんですが、その中でも特に注目すべき
選手がゴールキーパーでありキャプテンでもあるジョヴァンニです
ね。赤信号のニックネームと共にPKストッパーとしても名高く、
まだ一軍デビューもしていないのにイタリアのサッカーファンの間
ではすでに﹁未来のイタリアの守護神﹂と期待されています﹂
﹁そんなに凄いキーパーなんですか!﹂
1055
松永の言葉に大仰にアナウンサーが驚く、そのタイミングの良さ
からこのイタリアについての会話は事前に二人の間で何か打ち合わ
せでも行われていた可能性が高いと思われた。
つまり彼らはいつの間にか冷戦状態を修復したのだろうとテレビ
に映らない部分での実況席の空気は安堵の雰囲気に包まれる。
二人の仲が険悪なのを懸念した現場のディレクターがどちらかの
変更を具申しても、局の上層部が﹁気にするな﹂とごり押ししたキ
ャスティングだからだ。
照明までが明るくなったんじゃないかと誤解しそうに雰囲気が良
くなった中、快調に松永が持論を展開する。
﹁ええ。私が監督をしていた時も、彼のいるイタリアはどの大会で
も必ずベスト四までは勝ち上がってきましたからね。当時のカルロ
スを擁する私の日本代表でもなかなかゴールを奪えなかったもので
すよ。はたして今の山形監督のチームがあの赤信号が守るゴールか
ら得点できるか高みの見物︱︱をすることなく応援しなければいけ
ませんでしたね、ええ﹂
﹁⋮⋮ほほう、つまりこの試合は日本が攻めてイタリアが守る展開
になると?﹂
一瞬黙り込んだ後で作り笑いを再構築したアナウンサーが合いの
手を入れると、その通りだと言いたげに松永が頷く。
﹁イタリアがグループリーグ突破するためには日本戦で勝ち点三が
必要です。しかしそれは無理に攻めようとするのとはイコールでな
いんです。守備に自信があるイタリアのようなチームであれば狙う
のは一点だけでいい。そしてイタリアは最少得点であればブラジル
が相手でも奪えるだけのカウンターの駒は揃っています。しかも相
手の日本はこれまで全ての試合で失点している攻撃優先でディフェ
1056
ンスの薄いチームなんですよ。ロースコアでのワンミスが命取りに
なる展開になれば、そんな緊張感のある試合を多くこなしているイ
タリアにペースを握られているとみていいでしょう﹂
どうしてもこの解説者の意見は﹁日本が不利﹂という結論から動
かないようだ。
﹁では松永さんは日本はどういった作戦でいくべきだとお考えです
か?﹂
﹁やはりこれまで予選を通じて無失点の試合がない守備をしっかり
立て直すべきでしょう。前回も話しましたが島津のような攻撃特化
の極端なタイプのDFより、どんな場面でも一定の力を発揮できる
タイプの方が攻守共に役立つのではないでしょうか。まして相手は
相当なレベルでカウンター攻撃を行って来ます、ディフェンスに穴
があればそこを徹底的に突いてきますよ﹂
相変わらず松永はDFなのに守備では全く役に立たない、ある意
味融通のきかない島津が嫌いなようだ。同じ攻撃専念の選手でも上
杉などはFWだからまだ大目に見られて批判が少ないのかもしれな
い。そう思わせた瞬間今度は批判の矢が上杉の方へ向く。
﹁ですから上杉などもパスをもらったらすぐシュートを撃つのでは
なく、もっと周りを見てプレイした方がいいんですよ。とはいえ今
日の相手はイタリアが誇るキーパーの赤信号ジョヴァンニです。彼
は存在感が凄いですからね、ゴール前に居るシューターには凄いプ
レッシャーがかかります。さすがに上杉もこれまで通りの傍若無人
な行動はできないのではないでしょうか﹂
﹁⋮⋮なるほど、攻撃的な日本代表でさえ攻めあぐねるのではない
かと予想されるほどイタリアのディフェンスは強固︱︱特にキーパ
ーのジョヴァンニ選手の与えるプレッシャーが強いというわけです
1057
か。
⋮⋮あ、そろそろ日本ボールからのキックオフですね。松永さん
からの興味深いお話でしたが、果たしてヤングジャパンはその強固
なイタリアディフェンスを相手にどう戦うのでしょうか、注目の一
戦です!﹂
﹁大事な試合ですからね、落ち着いた玄人好みの立ち上がりを期待
できると思いますよ︱︱あ!﹂
画面が試合開始の笛が吹かれたピッチへと切り替えられたが、音
声は実況席からのアナウンサーの叫びが響いた。
﹁上杉のキックオフシュートだー!﹂
1058
第十二話 守りは全部任せよう
イタリア戦のキックオフを目の前にして、俺はいつもと同じよう
に目をつぶって自身の調子を確認していた。体調は良好そのもので、
初戦の疲労はどこにも残っていない。鳥の目にしても瞼を閉じてい
てもピッチの隅々まで見通せるんじゃないかというぐらいに鮮明だ。
うわぁこれだけ良いコンディションで強敵と戦えるだなんて、思
わず顔がにやけてしまうな。
まさにサッカー選手として本望、こんな試合をやる為に俺はここ
までトレーニングを積み重ねてきたんだ。
他のチームメイトが試合前の緊張に満ちた顔つきをしているのに、
俺一人が笑顔でリラックスしているのが目立ったのかテレビがずっ
と俺の緩んだ表情を追っていたとは後日聞いた話だ。
自分の調子に満足していた俺は、勝手に動き出しそうな体をなだ
めながら試合開始を待つ。
その時日本代表の中に俺と同じぐらいそわそわと嬉しそうな少年
がいたのに気が付いた。あいつは何を笑ってやがるんだ? ︱︱し
まった今日はあれについて念押しをするのを忘れていたぞ! 俺が
慌てて声をかけるほんの少し前に開始を告げるホイッスルが鳴った。
﹁上杉さんちょっと待って!﹂
俺の叫びは上杉のキックオフシュートが放たれるのとほぼ同時だ
った。
絶句してボールの行方を見守る俺に、なぜか舌打ちした上杉が振
り返る。
1059
﹁なんやアシカ? 今ワイは監督の言う作戦を真面目に実行するん
で忙しいんやけど﹂
﹁え? あ、いや、いきなりシュートは止めてくださいって言いた
くて、あれ? がんがん撃とうという作戦通りならいいのかな? あっそれよりも惜しい! あのキーパーは本気で上手いですね。今
のはいきなりにしては結構いいコースだったのに、それをキャッチ
しますか﹂
上杉のキックオフシュートの結果を見ながらだったので、やや支
離滅裂な返事になってしまった。
﹁まあ、アシカがワイに言いたいことも判るわ﹂
﹁ああ、そうなんですか﹂
さすがに毎試合キックオフシュートをされてはたまらない、と俺
が思いとどまるように声をかけたのを理解してくれたか。上杉も判
ってくれるなら次からは自重してくれるだろう。
﹁でもな、これ以上早くシュートを撃とうにもルールの壁っちゅー
もんが⋮⋮﹂
﹁あ、もう今はそれ以上の弁解は結構です﹂
自重どころかどうやら上杉は俺が怒っているのは、あれでもシュ
ートを撃つタイミングが遅かったからだと誤解しているらしい。
⋮⋮でもキックオフのボールは審判が笛を吹いてからだって規則
で定められているから、これ以上の時間短縮は無理なんだ。
だからどうにかしてルールを越えて、ゴールした時間を限りなく
ゼロに近づける為にはもっと早くシュートを撃つんしかないんやと
か呟く少年を止めなければならない。
1060
﹁あ、そうや。キーパーに反応させへんようにするなら、開始の笛
の音がキーパーに届くまでにシュートしたボールが先にゴールにた
どり着けばええやないか﹂
﹁そんなマッハを越えようとする無茶なチャレンジに情熱を燃やす
のは止めてください﹂
もうこいつにキックオフシュートについては今更ここで蒸し返し
ても仕方がないな。
それより、敵味方全員の虚を突いたであろういきなりのシュート
をしっかりと掴んだ敵のキーパーであるジョヴァンニについて考え
なければ。
﹁いくら距離があったといっても、いきなりあれだけ良いコースに
上杉さんのシュートが飛んだんですよ。普通はボールを弾くのが精
一杯で捕ったりできないはずですが﹂
﹁ああ、それなんやけど﹂
上杉が逆立った髪をかきながら、言いにくそうに敵キーパーにつ
いて話しをする。
﹁あの赤信号は、ワイがシュート撃つ寸前に一歩下がってシュート
を止める体勢になってたで﹂
﹁へえ⋮⋮﹂
という事は誰も予想していなかったはずのキックオフシュートを
読んでいたのだろうか。手にしたボールを丁寧に転がしてDFに渡
す﹁赤信号﹂をじろっと睨む。
体が大きいが動作は敏捷で、おまけに読みか勘のどちらかが鋭い
キーパーが相手チームにいるなんて面倒で仕方がない。
1061
﹁なんかあいつ、どっかで見たような気がしてたんやけどやっと思
い出したわ。ワイの知っとるクロスカウンターの名手のライト級チ
ャンピオンに雰囲気がよう似とるんや。なんやどこ狙っても読まれ
てるようで気持ち悪うてしゃあない﹂
﹁上杉さんが言うぐらいだからよっぽど撃ちにくいんでしょうね﹂
このシュートジャンキーが撃ちにくいと言うのは初めて聞いた気
がするな。まあ予想してたとはいえ、やはりあのイタリアの赤信号
はただのウドの大木じゃなく優秀なキーパーであるのは間違いない
ようだ。
だとしたらますます一点が重要となる。なんとか先制点をとって
イタリアにも攻めさせないと、ずるずる向こうにペースが行ってし
まうぞ。明智と話し合ったようにロースコアでの神経戦は相手の十
八番の展開だからだ。
イタリアはキーパーのジョヴァンニから投げられたボールをじっ
くりとDFラインで回している。日本の攻撃陣もプレスをかけてそ
のパスを取りに行きたいが、行けば間違いなく最終ラインからのロ
ングパス一発で高速カウンターが待っている。おかげでそう気楽に
は俺もポジションを上げられない。
今イタリアがカウンターをしてこずにボールを回しているのは、
こっちのメンバーが上がる前に上杉がシュートを撃ったからだ。誰
も前線へ上がっていないチームにはカウンターのしようがないから
な。
俺達が警戒しているのは、いくらディフェンス力が突出して注目
されているいるとはいえイタリアのオフェンスも捨てた物ではない
からだ。大体攻守のどちらかに欠陥があるチームが厳しいヨーロッ
パの予選を勝ち抜いてこれるはずがない。
イタリアのフォーメーションは一応四・三・一・二という形には
1062
なっているが、ピッチ上では微妙にポジションを変えている。
三人のボランチはほぼ守備専門で、攻撃は前にいる三人だけで済
ませているのだ。
その攻撃的な選手でさえ全体的に引き気味のポジションである。
スピードに自信のあるはずの二人のFWでさえこっちのDFライン
から下がり目に位置取っているのだ。そこからいつでも日本のオフ
サイドラインを突破しにダッシュの準備ができてます、といった格
好で後方からのパスを待っている。
まるで侍が居合いの構えをしているようだ。うかつに足を踏み入
れるとカウンターという名の刀でバッサリと真っ二つにされてしま
う。
だからと言って怖がって腰の引けた攻撃であの赤信号の守るゴー
ルを割れるとは思えない。
どうするべきか⋮⋮悩みながらピッチ上を首を回して選手の動き
を確認していた俺の体が一瞬びくんと跳ねる。遠くにイタリアのゴ
ールマウスが見えて、そこに三人の人物がいるのを発見したからだ。
一人目は相手キーパーの赤信号ジョヴァンニである。こいつはい
い。
二人目はうちのエースストライカーの上杉だ。いつの間にあそこ
に行ったのか、そこはオフサイドだとか色々言いたい事はあるが、
まあ大目に見よう。
しかし、三人目の島津よ、なぜそこにいる! お前は仮にもDF
だろうが! 慌てて日本の右サイドのスペースを確認すると、やはり後方に大
きな穴が空いてしまっている。アンカーが気にはしているようだが、
中盤の底を一人で支えている彼にそこもフォローしろとは言うのは
無理な注文かもしれない。
1063
﹁島津の抜けたスペースは頼みます!﹂
でもあえて俺はその無茶な注文を出す。
島津のポジショニングで思い出したのだ、このスタメンで戦う試
合は撃ち合いに持ち込むしかないのだと。
人差し指で﹁え? そこのスペースまで俺?﹂と確認するアンカ
ーは可哀想だが、彼を島津の尻拭い役に勝手に任命した後は顔をそ
むけてそっちを見ないようにする。
向こうの攻撃が三人ならこっちはDFが三人にアンカーを足して
四人だ。きっとなんとかしてくれるだろう。
そう簡単な足し算でサッカーの方程式が作れれば楽なんだが、と
いった胸の呟きを封印する。今日の俺は攻撃の組み立てを考える役
目だ。ディフェンスは真田キャプテン達に任せるとしよう。
そんな俺の思いをよそに、イタリアDFからのロングボールが日
本の右サイド深くへと放り込まれた。普通ならば島津が守っていな
くてはいけないスペースだが、当然ながら現在は無人になっている。
やばいな、やはり俺も戻った方がいいか? と考えるより早くそ
のパスを体を張ってカットしたアンカーがボールを抑えてくれた。
よし﹁ナイスディフェンスだ!﹂俺の心からの叫びになぜか彼は敵
をマークする時より凄い目で睨み返してきた。
だが諦めたように首を振ると、結局はいつもよりやや右にポジシ
ョンをとって真田キャプテンと相談しながら島津の穴を埋めてくれ
るみたいだな。
ここで日本のボールにした事で完全に思考が攻撃的になった。鳥
の目によるピッチ全体を見渡す視界も日本陣内は無駄だと意識的に
カットしてイタリア陣にのみ焦点を合わせる。
くそ、ゴール前のペナルティエリア付近は渋滞を起こしそうなぐ
らい向こうのDFの人数が揃っているな。
1064
そしてサイドと中盤も攻め手を少なく絞っている分だけ、守りに
人数を割いてしっかりと危険なスペースを潰している。
基本に則った隙がない守備のブロックが構築されている。そして
その最後の砦として﹁赤信号﹂ジョヴァンニが控えているのだ。俺
でもちょっと攻撃に踏み切るのは覚悟がいる鉄壁の守備陣形だな。
だがビビったままでいる訳にもいかない。ボールを奪ったアンカ
ーからのボールが明智を経由して足元に回って来たのだから。
どう攻撃しようか悩んでいる最中だが、ついパスをトラップした
感触にまた頬が緩む。
試合中で感覚が鋭敏になっているせいか、練習の時よりもボール
を持っただけで勝手に胸の奥からわくわくする熱い物が溢れ出して
制御できなくなってしまう。
︱︱よし、行こう。
ボールに触れただけで思考が前向きになる俺もおかしいが、まあ
今更だ。それにうちには俺以上に前向き、と言うか前方しか見えな
いし進めない猪のような奴らがいるからな。
俺の今居る場所はボールを奪いに行く地点ではないと判断してい
るのだろう。敵からのプレッシャーはまだない。
よほど自分たちのキーパーを信頼しているのだろう、積極的にボ
ールを狩りにいくポイントを随分と深く設定している。ここまでボ
ール保持者を誘い込むと決めると守備ブロックも崩れにくいしボー
ルを奪えればカウンターの威力も増すが、フィニッシュまでもって
いかれる可能性も高くなる。
それでも至近距離からフリーででもシュートを撃たれない限り、
ジョヴァンニはゴールを許さないという信頼感を敵全員が持ってい
るのがはっきりと判る。
その信頼感が本物かどうか試させてもらおうか。
1065
ボールを足元に置いたまま俺は大きく息を吸い込み、目を瞑った。
いきなり動きを止めて目まで閉じた俺の態度に、近くのイタリア人
選手が困惑の表情を作ったのが視覚によらず知覚できる。
体の中のギアが切り替わり、暖気運動をしていた心臓と筋肉が躍
り出す。
︱︱俺は赤信号を無視する事を決心し、一気にイタリアゴールへ
向かってドリブルのアクセルを踏み込んだ。
1066
第十三話 敵の力を試してみよう
イタリア代表はキーパーが凄いのも守備組織が整っているのも判
った。
だったらカットされるリスクのあるパスを繋いだりするより、ま
ずは個人の技術でゴールへのルートをこじ開ける方がいい。
自分の力でぶつかっていきたい衝動を、そんな後付けの理屈を組
み立てて正論に仕立て上げた。
さあ、これで良心に恥じる事なしと、俺は体内のリズムをどんど
ん高速にしながら敵陣へとドリブルで突っかける。
一人で守備陣を粉砕したカルロスとまではいかないが、俺だって
日本国内では例え相手の年齢が上のカテゴリーの選手達でさえ切り
裂けるだけの鋭さを持っている。
スピードだけなら山下先輩や島津の方があるかもしれないが、小
刻みなタッチで足に吸い付かせたようなボールコントロールだけは
自慢できる。
このファーストアタックでイタリアの守備がどれほどのものかチ
ェックしてやろう。
俺の上から試すような思考に気がついた訳もないが、イタリアの
守備的MFが厳しい表情で前へと立つ。無理にボールを奪おうとす
るのではなくこれ以上の侵入を拒む、前を切るといったポジショニ
ングだ。
他のディフェンスは寄ってこないところをみると、明らかに人間
に密着マークするマンツーマンではなく個人個人が責任を持って自
分のエリアを封鎖しようとするゾーンディフェンスだ。
ブラジルとの試合ではカルロスやエミリオにはマンマーカーがつ
いていたようだったから、きっとあいつら相手には特別な対応をし
1067
ていたのだろう。そして、今のこのゾーンで守る姿がイタリアの最
も基本的なディフェンスの形のはずだ。
ただ、まだアタッキングゾーンには入ってはいないとはいえプレ
ッシャーが少ないのが妙な感じだ。どうも一時期イタリアのセリエ
Aから爆発的に広まったゾーンプレスの戦術のイメージが強くて、
そこの代表はもっとガツガツと積極的に当たってくるかと想像して
いたのだが。
これではむしろ弱小国のような︱︱ふとここで思い当たった。
こいつらブラジル戦の影響で微妙に腰が退けてるんじゃないのか
? ヨーロッパの予選ではほぼ無失点だったのに、終盤に猛攻を加
えられての逆転負けだ。
あのキーパーはともかく他のディフェンス陣はカルロスなんかに
もよく突破されていた。その感覚が残っていればそうそう簡単に自
分達からは積極的に動けないだろう。
とりあえず今だけは感謝しておくぞカルロス。 俺が躊躇い無く踏み込んでくるのにやや虚を突かれたのか、相手
が立ち後れる。
その動揺したタイミングを逃さず小さく右・左とボールを動かし
て、最後にボールを跨いで動かす振りをしただけのシザースフェイ
ントの後でバランスを崩した相手を抜いた。
普通はこの順番が逆で、ボールを動かす振りをして跨ぐシザース
を相手の体勢を崩すフェイントとして使い、最後に大きくボールを
動かす。効果が少ないからかその手順を逆にするような奴はあまり
いない。
だからこそこの技は初見の相手はよく引っかかる、小刻みなタッ
チを得意とする俺のちょっとした隠し技だ。
何とか一人を抜いてもここはすでに相手の守備陣が網を張ってい
1068
るエリアだ。しかも一人目にフェイントを多用したせいで時間をロ
スしてしまった。これではもう相手に次の対応を取られてしまうな。
うん、やっぱりすぐにイタリアの二人目が立ち塞がってくる。し
かも後ろからは今かわした相手が挟み込むように接近してくるのだ。
どうする? 敵が張り付くまでの短時間で、鳥の目を使って敵陣
の様子と味方の配置から最良の行動を探る。
そして俺は右斜め前にゴール前から戻ってきた山下先輩へと目を
付けた。
さっきまでは彼も点取り屋の二人に負けまいと、急いでイタリア
ゴール前のオフサイドの場所に集結していた。
だが、俺の行動を見ていつのまにかフォローするポジショニング
へ移行してくれたようだ。これは彼が精神的に成長したのか、それ
とも点取り屋としてのエゴイズムを忘れてしまったからなのか。願
わくばこの行動を起こした理由が成長だといいのだが。
とにかく、ゴール前から戻ってくる山下先輩へついているマーク
は彼が縦へ突破するのを警戒しているために、こっちへ向けたパス
コースは空いている。
新たに俺の前方に立ちはだかろうとするイタリアDFを避けるよ
うに、右斜めへパスを出すと同時に左前方へダッシュする。
山下先輩も心得ていたのだろう、すぐにダイレクトでリターンパ
スを返してくれた。基本的なワンツーリターンという壁パスだが、
攻める選手もパスもまっすぐ縦でなく斜めに角度をつけて進路をと
るとディフェンスは止めにくい。
ワンツーで一瞬だけ俺の前が空いたが、それでも警戒の厳しいゴ
ール前へのパスコースだけは閉じられている。
くそ、上杉も島津もいるはずなのに、そこへたどり着くルートは
きっちりと潰されていやがる。
1069
あの二人の内の長身の方の上杉でさえイタリアDFに比べると小
柄だから、しっかりブロックを作られるとイタリアのユニフォーム
でその姿は目では姿が確認し辛いほどだ。
ならば隠されているゴールへと俺が強引にシュートしてきっかけ
を作るしかない。
ここからは相手のキーパージョヴァンニの姿も見えないが、逆に
向こうもボールを確認できていないはず。ならばいきなりのシュー
トで虚を突けるかもしれない。
ブラジルだってゴール前でこぼれ球を押し込んで得点したんだ。
こっちにもごっつぁんゴールが得意なやたら得点には鼻が利くゴー
ルハンターが二人もいるんだ。枠内に強いシュートを撃てばビッグ
チャンスに繋がるはず。
DFがゴールを隠すように壁を作っているが、俺はいつものよう
に俯くと脳内のイメージを信じて足を振り抜く︱︱ん? なんだか
今キックする直前に嫌な感覚がした。
物理的な物ではない、はっきりとしない何かぼんやりとした嫌な
感覚が俺のメンタルに影響したのだ。
とはいえシュートそのものは申し分がない。カルロスや上杉のよ
うな豪快でパワフルなシュートではないが、鋭くゴールの隅へとコ
ントロールされた練習通りのシュートだ。
︱︱行けぇ! 俺のシュートにピッチがざわめく。イタリア語は判らないがおそ
らくはキーパーへの警告の叫びだろう。
それとなぜか﹁ワイへのパスやな!﹂﹁いいえ、俺へのです﹂と
いった味方のシュートについての論評とは思えない日本語までもが
聞こえてくる。
俺が周囲の雑音に直前の違和感などは忘れて顔を上げてボールの
1070
行方を見守っていると、イタリアのキーパーのジョヴァンニが急に
シュートコースへ割り込んでがっちりと胸でキャッチする姿を目撃
する。
嘘だろう? 今のはゴール右隅への狙いすましたシュートだぞ?
俺はこれまでミスでシュートを外した事や弾かれた事はあっても、
キャッチされた経験はほとんどないのだ。それぐらいぎりぎりのコ
ーナーを突くか、強烈なシュートを撃ってきたのだ。だからこんな
にも事も無げにキャッチされたのは初めてだ。
その驚きで思わず大きく口を開けてしまう。だが、その口を閉じ
る前に今自身に問いかけていた答えが出た。
俺はイタリアゴールの隙に撃ったのではなく、キーパーや守備陣
からあそこにシュートを撃つように誘われていたんだ。
だとした次に来るのは︱︱まずい!
﹁カウンターが来ます! 気を付けて!﹂
俺の叫びとほぼ同時にジョヴァンニがパントキックをする。
滞空時間の長いロングキックが狙うのは、もちろんそこを守る担
当のはずの人物が彼の目の前にいる場所だ。
サイドバックにもかかわらず、そこに居るはずの者がなぜか上杉
とコンビを組んで﹁くそ、ワイへのパスなのにボールをこぼさんへ
んかったか﹂と華麗にタップダンスのような地団駄を敵のペナルテ
ィエリア内で踏んでいる日本の右サイドに他ならない。
くそ、あいつら何してやがるんだ。
いつの間にか上杉の地団駄が洗練され、島津とも妙にシンクロし
ているようなのが気に障る。まさか二人でそんなくだらない動作を
合わせる練習なんてしてねぇだろうな。
怒りの炎を燃やしながら俺も慌てて自陣へ戻り、中盤から上がろ
うとするMFをけん制する。
1071
でもちょっとゴール前のディフェンスには間に合わないな。シュ
ートが狙えるエリアまで踏み込んだ為に、日本のゴールまでが遠い
のとイタリアのカウンターが高速だからだ。
ここで言う高速の意味はほとんどボールが寄り道をせずに縦に日
本のゴールへ向けてしか動いていない事を示している。
今回はアンカーの必死のカバーも間に合わず、右サイドでキーパ
ーからのボールを敵のFWに拾われてしまった。
こうなればディフェンスの方には選択肢があまりない。クロスボ
ールに備えてゴール前を固めて、さらにサイドのドリブラーへチェ
ックに行くぐらいだ。
だが、それよりも早くサイドを駆け上がったFWは一息付く間も
与えずに、日本のゴール前へアーリークロスを上げた。
ヘディング争いをさせようとする高いボールではなく味方の体の
どこかに、あるいは日本のDFに触れて角度が変わればそれがゴー
ルにつながるというほとんどシュートに近い鋭く速いボールだ。
ジョヴァンニが俺のシュートをキャッチしてから、まだ十秒ほど
しか経過していないのに、もう日本をピンチに陥らせている超高速
のカウンターである。
イタリアのFWと攻撃的MFの二人はキーパーがパスしてからこ
のゴール前へと一瞬も足を止めずに、そのまま上げられたボールへ
とダイビングしていく。
よし! なんとか真田キャプテンが身を投げ出すようにしてFW
の前に体を割り込ませてヘディングでクリアしてくれた。ナイスデ
ィフェンスだ、さすがキャプテン。
だが、素早く立ち上がった真田キャプテンがこっちを向いて吼え
る。
﹁お前ら、中途半端な攻撃はカウンターの餌食だって話していただ
1072
ろう! シュートを撃つのはいいが、もっとしっかり頼むぞ!﹂
これはたぶん直前にシュートを撃ってキャッチされた俺へ対して
の言葉なんだろうな。
﹁判りました。それとキャプテンナイスディフェンスです!﹂
﹁お、おう。判ってくれればいいんだ﹂
俺が怒鳴り返すどころか、褒め言葉を返したのでキャプテンもそ
れ以上は小言は続けられない。
しかし、さっきの俺のシュートだって悪くはなかったぞ。きっち
りコーナーを狙っていたし、威力だって捨てた物じゃなかった。そ
りゃパワー自慢のシューターからすれば一段落ちるかもしれないが、
あれを止めるだけならともかく、完全に読まれて捕られるとは思っ
てもみなかった。
要するにちょっと意表を突いたはずのロングシュートぐらいじゃ
あのキーパーの掌の上って事か。
どうする? もう少しゴールまで接近しないといけないのか? でもそうなるとDF達の壁が突破する邪魔になってくるし、マーク
も当然厳しくなる。
そこでちょっとでもミスすればボールを奪われ、即あの高速カウ
ンターの流れへとご招待だ。
だからといってこのまま点の動きが少ないプレッシャーのかかる
展開では、イタリアが得意なロースコアの流れになってくる。
⋮⋮くそ、以前この赤信号と戦って﹁シュートが入る気がしなか
った﹂って弱音を洩らした奴の気持ちが判り始めたぜ。
1073
第十四話 世界のレベルを実感しよう
開始直後の上杉のシュートはさておき、とりあえず両チームとも
一回ずつ攻撃し合った。
そのおかげでどちらのチームもある程度、お互いのチームの力量
がどんなものか試合前に調べたデータだけではなく肌で感じ取れた
のだ。
イタリアについて俺が抱いた印象は、キーパーとDFの守備は鉄
壁。カウンターは前の三人だけを警戒していればいい、だけど全員
が相当なスピードの持ち主なので油断は禁物といったところか。
これは試合前の事前情報とあまり変わらない。だからいくら向こ
うのチームがわざと隙を見せてこちらを誘導するのが上手いと判っ
ても、簡単にはシュートをどんどん狙う作戦も変更できないのだ。
だが、事前の情報よりも予想以上だったのはキーパーの能力の高
さと、攻守の切り替えの早さだ。俺のシュートを軽々とキャッチし
て、その十秒後には日本のゴール前まで逆襲されてるってのは尋常
じゃない。
相手は細かい技術よりも、カウンターの破壊力は速度に比例する
と割り切って前線の選手をスピードスターで揃えてきたようだ。
対するこっちは攻撃的なチームだから自分から踏み込んでいかな
いと戦力を生かせない。しかし、攻め込むと剃刀のようなカウンタ
ーを覚悟しなければならなくなる。
そしてあのキーパーのジョヴァンニから普通の攻めで問題なく得
点できるとお気楽には思えない。
このままでは日本がボールをキープしているのに、なぜか押し込
まれた雰囲気になってしまう。
よし、と俺は決断した。
1074
ここは多少無理にでも上杉にゴール前でシュートを撃ってもらお
う。なんだかんだ言ってもあいつはうちのエースストライカーだ。
あいつが撃てばチームも盛り上がるし、なにより爆発的なキック力
の持ち主だからそうそうキャッチまではされないだろう。
ならば入らなくてもカウンターが行われるまで時間がかかる。少
なくともさっきのような短時間での日本ゴール前の攻防にはならな
いはずだ。
中盤ではプレッシャーをかけられないことが判っていたので、俺
はセンターサークルまで戻ってボールを受け取りに行く。
このエリアで簡単にプレイできるってことは、まだ相手はこの時
間帯は勝負をかけていないという意味なのだろう。だったらそれを
利用させてもらうぞ。
振り向いてイタリアゴールへのルートを探るが、肉眼ではそんな
物はほとんど見つけられない。
ならばと鳥の目で上から観察しても、整然と配置されたDF陣が
ゴールへのルートとスペースを潰している。
これがイタリアの基本的な布陣なのだろう、なかなか完成されて
いて崩すのに手間取りそうだ。
これを論理的にカットされないような安全なパスのみで攻略する
のは容易ではない。強引な個人の力によってある程度は守備隊形を
壊さなければならないな。
考えてみればブラジルはカルロスを始め、個々の力量でマークの
一人ぐらい感単に外せる人材が揃っていたからあれだけ攻めっぱな
しにする事が出来たんだな。
普通のチームならフィニッシュに持っていくずっと前の段階で、
イタリアにボールを奪われてカウンターの餌食になっているぞ。
そこで俺は今度は個人突破ではなく、右サイドから人数をかけて
1075
崩していこうと考えた。
各自が持ち場を守るゾーンディフェンスと一極集中の攻撃は相容
れない。こちらが右サイドに俺と山下先輩に島津までもが集まって
攻めれば、どうしても他からDFを借りてこざるを得ないのだ。
そこでDFがポジションを変えれば必ず守備陣にズレが生じるは
ずだ。そのギャップを上杉に突かせると、よし、それでいこう。
考えをまとめた俺は右手を後ろに回して島津に上がれと合図をし
ようとしたが、すでに彼は山下先輩と並ぶぐらいの場所にまでポジ
ションを上げていた。今日の試合においてはほとんど守備に戻って
いないな、こいつは。
明らかに俺よりも敵陣内にいる時間が長いというのは如何なもの
だろう。
でも攻撃に関して察しがいいのがこの少年だ。いちいち指図して
から動かれるよりはタイムラグが無くて済むからいいか。
俺が右サイドへ寄っていくと守備のブロックも当然右へ傾く。だ
が、そのタイミングで中央へ明智がボランチの位置から押し上げる
と右へばかり警戒をするわけにはいかない。
ナイスフォローだ明智。
ここでまた一旦山下先輩にボールを預け、リターンパスをもらっ
てリズムとタイミングを計り直す。
よし、いくぞ!
俺と山下先輩、それに島津の三人が号令されたように、息を合わ
せて互いに斜めに交差するような進路で右サイドを制圧に走り出す。
イタリアのDFはここでちょっと混乱を起こした。
普通攻撃はスペースを使う︱︱つまり誰もいない空間をつかうの
がセオリーだ。だが、俺達は過剰なぐらいの戦力を右サイドの一点
に集中し、きちんと揃っているはずの守備の人数を飽和させようと
している。
1076
しかもその三人がまっすぐ縦へ上がるのではなく全員が左右に交
差してポジションチェンジを繰り返しながら突破しようとするのだ
から、マークしていたDFも一瞬誰に付くべきか判断に迷う。
その一瞬があれば十分だ。俺は山下先輩へと短く速いパスを出す。
受け取った先輩は僅かな守備のほつれからサイドから中央のゴー
ル前へと切り込んだ。さすがは先輩と感心させる切れ味の鋭いドリ
ブルだ。
危険な位置にまで潜り込んだ先輩へ敵のDFがどっと集まってく
る。さすがにその混戦ではフィニッシュにまでは持っていけない。
そこでサイドに残っていた俺へのリターンパスだ。幸いここら辺
のDFは全部山下先輩と島津がゴール前に引き連れていってくれた
ので、俺はマークがいない状態でボールを受けとることが出来た。
ここからならばコーナーキックのようなマイナスへ折り返す形に
なる高いセンタリングも上げられるが、俺は低く速いボールをゴー
ル前へ蹴り込んだ。
さっきのイタリアの速攻からのボールと似た状況だが、今度の方
が俺がピンポイントで狙いを定められる時間があっただけにクロス
の精度は高い。
誰を狙ったかって? 攻める前に言ったはずだろう、うちのエー
スストライカーへだ。
山下先輩と島津という新たなペナルティエリアへの闖入者が起こ
した混乱の隙にあいつは動いていた。彼らをDFに捧げる生贄の羊
にして手品の入れ替わりのような手際の良さでマークを振り切ると、
上杉はニアサイドへと自身のポジションを変えている。
そこへ俺がライナー性のボールを送り届ける訳だ。
これならば蹴るというより当てて角度を変えてくれれば十分⋮⋮
じゃないぞ! いつの間にかジョヴァンニが上杉の前にまでダッシ
ュしてあいつのシュートを防ぐには絶好のポジションを陣取ってい
1077
る。
赤信号は大きな体をしているのに、DFでさえ振り切られた上杉
のゴール前の不規則な動きにここまで機敏に反応できるのかよ。
これはただ普通のボレーで足を当てただけでは、間違いなくキー
パーにぶつかって止められてしまう。
とっさにミートするだけではなくブロックされない狭い角度へボ
ールをコントロールしてゴールに流し込もうとする上杉。
これだけ速いパスに対し反射的にシュートアクションを変更でき
る上杉も凄いが、さすがにそれには無理があった。
ジャストミートしそこねたボールが枠を逸れてポストの右側へと
外れてしまう。
溜め息が日本のベンチのみならず、ピッチを囲む観客席の全てか
ら響いてきた。
上杉がシュートミスするなんて滅多にない。いや、今のはミスで
はなくジョヴァンニのポジショニングによって防がれたと解釈する
べきだろう。
並みのキーパーならば今のタイミングでの、速く低い弾道のクロ
スへいきなり飛び込んでくる上杉には反応しきれないはずだ。
少なくとも今までに対戦した相手はそうだった。だが、その自信
を持った攻撃がこのイタリア人キーパーには通用しない。
ぞくりと背筋に冷たい物が走り肌が粟立つ。胸の奥に小さな火が
灯り熱い物が湧き上がってくる。思考より先に体の方が勝手に敵の
強さを認め、それに対抗するための準備を始めているのだ。
︱︱これが世界標準って奴か。
ボールを持った時とはまた違う形に唇をつり上げつつ、ゴールを
外した少年の背中を﹁ドンマイ﹂と軽く叩く。 ﹁上杉さん、ぼけてないでまたがんがん攻めますよ!﹂
﹁⋮⋮ああ、そやな﹂
1078
うん? 何だか反応が鈍いな。
疑問に思うが様子を窺うより早く島津や山下先輩もこっちに集ま
ってきた。本来ならカウンターに備えなければいけないのかもしれ
ないが、イタリアのゴールキックで再開されるので速攻で日本の守
備が崩される危険性は薄い。
うん、やっぱり無理矢理にでもフィニッシュまで持っていくのは
いいカウンター対策になるな。
一旦プレイが途切れるからその分守備を整える余裕ができるので、
パスカットされてその場から速攻をくらうよりずっとリスクが小さ
くなる。
下手に腰の引けた展開よりも逆に強引に攻め込んでシュートする
カウンターの封じ方がうちのチームの性にも合ってるもんな。
そんな風に考えていると、元気を無くしたように俯いていた上杉
が﹁くくく﹂と含み笑いを洩らした。
周りのメンバーがぎょっとしていると落ち込んでいるかと思われ
たエースストライカーは牙を剥きだして笑いだした。
﹁くくく、なるほどなぁ。これが世界レベルっちゅーもんか。爺が
ようけワイに﹁そんなもんは世界行ったら通じんぞ﹂と怒っとった
訳や。ボクシングもサッカーでも戦ってみないと世界の広さっての
は実感できへんもんやな﹂
嬉しそうな上杉に思わずどん引きしてしまう。他の二人もそうか
と思いきや、何やら納得したかのように深く頷いていた。
﹁なるほど、それなら俺も一度体験してみなきゃいけないな。そー
ゆー訳でパスくれアシカ﹂
﹁うむ、ならば俺もぶつかってみなければなるまい。良いボールを
期待しているぞアシカ﹂
1079
⋮⋮うん、カウンター対策云々じゃなく、もうこいつらに渡しさ
えすればとりあえず勝手にシュートまでは持っていってくれるよね?
高い山ほど登り甲斐があると、ゴールできなかったにも関わらず
満足気な点取り屋達に少しだけがっくり来る。
何でかって? いや、だって俺もあんなキーパー相手に点を取り
たいと燃えてきたのにこいつらが頑張ると出番が少なくなりそうだ
からだ。
なお付け加えるとこの時話し合っている俺達の後方では、すでに
ゴールキックから反撃が開始されていた。
ほら、真田キャプテンやアンカー達がイタリアのFWを相手に体
を張ったディフェンスを展開しているぞ、本当にご苦労だなぁ。
心苦しくはあるが、試合前に俺は攻撃へ重心を傾けたプレイを監
督からも指示されているのだ。イタリアがボランチの押し上げでも
しない限りはあんまり手伝えないんだよ、残念ながら。
断腸の思いでせめても応援に﹁頑張れ﹂DFラインに手を振る。
なぜか敵FWを見るより怖い視線で守備陣から睨まれるのが不可
解だな。いや、たぶんこれは手を振る仲間に島津が入っていたせい
に違いない。
島津も﹁く、助勢できないのが無念で堪らない﹂とか言って激し
く手を振らないで、遠慮せずに守備に戻ってかまわないのだがそん
な心づもりは全くないようだ。
とにかく攻撃陣と一緒に日本のディフェンスの奮闘を見ながらも、
次にどうやって赤信号を攻略するかに俺の頭の中は支配されていた。
1080
第十五話 笛の音に喜ぼう
上杉が強烈なボレーを撃つ。ジョヴァンニによって弾かれる。
島津がミドルシュートでゴールを狙う。赤信号の手でキャッチさ
れる。
山下先輩は俺からのスルーパスで抜け出しキックする。敵のキー
パーに止められる。
俺もキーパーの前目の位置を見てループシュートを放つ。瞬時に
バックステップしたジョヴァンニの長い手がゴールの枠から外へと
逃がす。
左ウイングの人⋮⋮ああ馬場だったな、彼がクロスに対してダイ
ビングヘッドを敢行する。当然イタリアの守護神に防がれる。
︱︱つまり日本の猛攻は忌々しい事に、ディフェンスは崩せても
最後のギリギリで全てあの赤信号キーパーのジョヴァンニに止めら
れてしまっているんだ。
その直後にイタリアのカウンターによって日本の右サイドを抉ら
れる。
自分の受け持ちのはずの場所を蹂躙される度に島津が﹁く、俺が
あそこに居さえすれば手助け出来たものを⋮⋮﹂と拳を震わせてい
るが、そう悔やんではいてもじゃあ下がろうかという発想はこいつ
にはないらしい。
普段の島津のポジショニングは、敵ボールの時はDFラインにい
て日本がボールを確保するとすぐに前線へ上がってくるという物だ。
どちらがボールを支配しているかで極端にアップダウンが激しい位
置をとっている。
だが今日はそれが正直上手く機能しているとは言えないな。ボー
ルキープ率は日本が多い為に島津は前線に数多く顔を出しているの
1081
だが、そこからのイタリアのカウンターが鋭すぎるせいで島津がD
Fラインに戻りきるまでの時間がないのだ。
結果として島津は真田キャプテンが率いるディフェンスを、俺達
と一緒に手を振って応援するしかない。
それでも日本の守りにも明るい材料もある。例えば今日のうちの
キーパーについては当たりの日だ。
多少調子に波がある日本の守護神だが、この試合ではDFが防ぎ
切れなかったボールを危なげなく処理している。見くびっていてす
まないが、正直毎試合失点しているうちのディフェンス陣がここま
でイタリアの攻撃陣を相手に頑張ってくれるとは思っていなかった。
しかし、何回も敵からシュートを撃たれるのは心臓に悪い。せめ
てこっちが先制していれば悪くても同点止まりだと、もう少しは安
心できるのだが。
つまりは俺達攻撃陣の不甲斐無さがこのサスペンスを作ってしま
っているんだ。
うちのキーパーがボールを抱え、DFを落ち着かせるように笑顔
のまま﹁大丈夫だ、こっちに来なくて良いぞ﹂と手で制する。温厚
で頼りがいのあるその姿は、俺達攻撃陣に対する厳しい態度とは随
分と違うな。
うう、このディフェンスの献身ぶりに応える為にも早く一点を取
らなければいけない。
今は守備が安定しているとはいえちょっとしたミス、あるいは不
運で失点しかねないのがカウンターの得意なチームとやる怖さだか
らな。
しかし、日本代表がこれだけ攻め込んでも得点できないなんてこ
れまでなかった。
アジア予選でのアウェーでは攻撃陣がほとんど不発だった試合も
1082
あったが、あの原因はどちらかというと敵のディフェンス能力では
なくラフプレイでゲームを壊されたせいである。
イタリアはここまでファールがほとんどない、激しいがクリーン
なディフェンスをしている。尤もそれはフェアプレイ精神だけでな
く、セットプレイになると万一があるからと無理をしてまでは止め
ずにキーパーへ任せるという共通理解もあるのだろうが。
何にしろ自分達が擁するキーパーへの絶大な信頼感のなせるプレ
イである。
そうした精神的支柱を持つチームは強い。
どんな逆境にあってもエースが健在な限り試合を諦めないからだ。
どれだけ日本が押していても最後の一線はジョヴァンニが防いでく
れるという、信仰にも似た思いがイタリアの強固な守備の骨格とな
っている。
だからイタリアの陣内でパスを繋いでDFを振り回しているにも
かかわらず、その精神的な疲労を感じていないようなのだ。全く持
って厄介な敵である。
とりあえず一点取って勝ち越してしまえば、向こうもキーパーに
対する信頼感が薄まって集中力も削がれるのだろう。だがその一点
がどうにも遠い。
いや、弱気になるな!
自分を叱咤する。遠いも何も、日本が攻め込んでいるのは確かだ。
だったらそこから最後の詰めを誤らなければ必ず得点できるのは間
違いない。
そろそろ時間も前半の残り五分を切っている。ここら辺で何とか
してゲームを動かしたい所だ。
カウンターを止めたディフェンスから今俺まで回されたパスも、
気のせいかやや雑になってきたように感じられる。この拮抗状態に
うちのDFも精神的に疲れが溜まって来たのかもしれない。
1083
改めて何とかせねばと気合を入れ直すが、やはりイタリアの守備
の壁は厚いんだよなぁ。
ふむ、ちょっと今度は違った手で行くか。
俺は少しずつ間合いを測ってゆっくりと前進する。他の攻撃役は
とりあえずその場で待機だ。その方がDFを引き付けていてくれる。
ここからが相手のボールを奪いに来ると設定したラインだと見て取
った、そこよりほんの僅かに手前の地点からシュートモーションに
入る。
これには慌てた様子でイタリアのボランチも慌てて体を寄せてシ
ュートコースを消そうとする。いくらキーパーを信頼しているとは
いえ無抵抗でシュートを撃たせるはずもない。
目の前にディフェンスが立ちはだかるのを無視して俺は右足を一
閃する。
俺の前には目を硬く閉じて身を強張らせた敵のボランチと、その
頭上に浮かぶボール。そう、俺はまた得意のチップキックでふわり
とボールを浮かせたのだ。
浮いたボールが落下すると同時に相手の脇を抜けて、落ちてくる
ボールを胸でトラップし前へコントロールする。抜かれた敵も俺の
袖を掴もうと手を伸ばしてきたが、空中のボールを目が追いかけて
いたせいで顎が上がって体のバランスが崩れている。手を振り払う
だけで簡単に突破できた。
数メートル前方の敵にとってはもう危険なエリアへ侵入すると、
ルックアップして周りを見回す。これは半分フェイントである。
この動作一つで俺へ詰め寄ろうとしたDFの動きが一瞬止まり、
パスを出されまいと日本の攻撃陣のポジションの確認作業に追われ
る。
だが、俺は最初から自分のドリブルで切り込むと決めていたのだ。
相手が寸時でも足を止めてくれればそれで十分だ。またすぐに体を
1084
前傾してドリブルの速度は緩めない。
俺へマークが寄ると最も警戒されている上杉と島津に山下先輩達
の右サイドを視線で見据えて、顔の向きとは反対の左ウイングの馬
場を使ってワンツーで突破していく。
ほら、これでペナルティエリアまで来られたじゃないか。
後はこのゴールにボールを入れさえすれば⋮⋮。
そこまで都合良くはいかない。いやイタリアの赤信号はいかせな
い。
シュートモーションに入る前にすでにコースを潰しながら、凄い
スピードで俺の方へとダッシュしてくる。
ちいっ! 慌てて飛びついてくるとか体を倒しながらスライディ
ングしてくるとかならまだ可愛いのだが、こいつは腰を落としても
尻餅をついたりは絶対にしない。
ぎりぎりまでバランスを保ちながらシューターの選択肢を狭めよ
うと粘り強い守りをするのだ。
どうする? 思い切ってここからキーパーの脇を抜けるニアサイ
ドへ撃つか? それとももう一度浮かせてループにするべきか?
駄目だ、これでは今撃ってもシュートが入るビジョンが見えない。
本当に目の前で赤信号が光っているみたいだ。
しかたなく一歩下がってステップを踏み直そうとすると、そこに
何かが足に引っかかってバランスを取る間もなく転倒する。
え? なんだ? しまった失敗だな。ジョヴァンニに気を取られ
過ぎて後ろのDFへのチェックを怠ってしまったのか。
どうして転んでしまったのかに自分で回答を出した時、俺にとっ
ては福音が鳴らされた。審判がファールの笛を吹いてペナルティス
ポットを指差したのだ。
︱︱ラッキー、PKだ。
1085
途端にわっと歓声が湧き起り、観客席で日の丸の振られる速度が
勢いを増す。ここまでじりじりする展開だったので、日本のサポー
ターもようやく得点できると盛り上がっている。
よし! 俺も芝の上で横たわったままぐっと拳を握りしめた。今
のは俺がステップしたせいで敵のタックルしようとした足に引っか
かったから、ファールを取ってもらえるかどうかの確率は半々だっ
た。だが、どうやら今回は幸運が微笑んでくれたようだ。
そこに手が差し出された。見上げると満面の笑みを浮かべた山下
先輩だ。
﹁いい突破だったぞ﹂
右手でぐいっと俺を引っ張り上げると、左手で髪をくしゃっと一
撫でする。
立ち上がるとイタリアのDFが血相を変えて審判に抗議していた。
だが、判定は覆るはずもない。
まあわざと足をひっかけたんじゃないのは判っているが、俺もP
Kを貰いにファールを受けた振りをするシミュレーションを演じた
わけでもない。今回はありがたくPKのプレゼントを受け取ってお
くとするか。
そしてうちのエースストライカー様はこっちへは一瞥もくれず、
すでにボールを抱えてペナルティスポットの前で陣取っている。
俺がその傍らに近付くと振り向く事なく﹁ワイが蹴るで﹂と釘を
刺してきた。
ああ、そう言えばPKは全部あんたに蹴らせると約束していたよ
な。
﹁ええ、うちのPKのキッカーは上杉さんと決まってますから異議
は唱えませんよ。ただあの赤信号がPKをストップするのを得意に
しているようですから注意と激励しに来ただけです﹂
1086
﹁おお、そうなんか。あ、そういえばアシカは大丈夫なん? 派手
に転んだみたいやけど﹂
俺がキッカーの役割を取らないと判った途端、急に体の具合を尋
ねてくるこいつはかなり現金である。
まあ俺としても気配りのできる常識人より、得点する以外には能
のない上杉の方がチームメイトとしては好ましい。
﹁とにかく、最高のチャンスなんですから確実に頼みますよ﹂
﹁任せとけ、PKなんて目を瞑って蹴ってもワイは外さへんて。す
ぐに片付けるさかい、ここは任しとき﹂
⋮⋮上杉が口にしているのは頼もしい言葉のはずなのに、聞けば
聞くほど何か嫌なフラグが立った気がしてしまう。
いや、それはきっと気のせいにすぎないだろう。頼んだぞ上杉!
1087
第十六話 落ち着いてPKを蹴ろう
上杉の言葉に不吉な予感を覚えつつも、こうなってはもう見守る
しかない。
なぜだか彼が任せろと胸を叩く度に視界に映るコーナーフラッグ
が風もないのに異常にはためいているようだが、きっとこそれも背
中から吹き出す冷や汗も気のせいにちがいないのだ。
審判は上杉が上機嫌に置いたボールの位置をチェックして、お互
いのチームの全ての準備を整えるのを待っていた。
日本の攻撃的なポジションのメンバーはがほとんどペナルティエ
リアのすぐ外まで来ている。
これはボールがこぼれたらすぐに押し込むためだが、でもできれ
ばそんな手間をかけずに素直にゴールして欲しいと俺と同じように
祈るような視線でうちのキッカーを見つめている。
おそらくはスタジアムの中だけでなく、日本からもテレビで観戦
しているサポーター達の注目を一身に受けているだろうに上杉はそ
の自信たっぷりな挙措には一切乱れがない。
これだけふてぶてしく周りを気にもしない︱︱言い方が悪ければ
精神的にタフなのは一種の才能である。
そして次は相対するイタリアのキーパーであるジョヴァンニを観
察する。
うん、悔しいがこっちも微塵も平常心を乱していないようだ。味
方のDFのミスでPKという絶体絶命のピンチに陥ったにもかかわ
らず、まるでこれから行われるのは実戦ではなくただのPK練習と
いうだけような自然さだ。
そのジョヴァンニが威嚇の一種なのか気合いをいれるように掌に
拳をぶつけて大きな音を立てると、ぐっと手を広げてようやくキッ
1088
クを待ち受ける体勢になる。
その構えで気が付いたのだが、こいつは背が高いだけじゃなくて
手足が同じ身長の人間と比較しても長いのだ。
その長い手を大きく広げて、赤い目立つ髪をなびかせて長身のジ
ョヴァンニが今にもキッカーに襲い掛かろうとするように構えるの
だ。ゴールライン上から放たれた威圧感がキッカーでもない俺達に
まで届いてくる。
おかげでジョヴァンニの体がより一層大きく、そしてゴールが随
分と小さく見えやがるな。
これならばPKですら﹁入る気がしない﹂と弱音を吐くFWがい
たのも頷けるぜ。
俺達の年代でナンバーワンと言われるPKストッパーのプレッシ
ャーとはこれほどの物だったのか。
だが、日本が誇る武闘派ストライカーの上杉はむしろその殺気を
心地良さそうに受けて牙を剥いている。元は世界を目指していたボ
クサーなのだ、こういう対峙で物怖じというものを全くしないのは
頼もしいぜ。
スタジアムを包むざわついた雰囲気が、ボールを挟んで睨み合う
二人の少年から発せられる気配に静まっていく。
そんな張りつめた空気の中、審判が笛を吹いた。
鳴った途端に躊躇いもせず、上杉が力強い助走で踏み込むと逞し
い右足を振り抜く。同時にジョヴァンニが左に跳ぶ。
ボールを蹴る音と空気を切り裂く音、その上に赤信号が芝を蹴り
ジャンプする音、そして何かが衝突する音までもが一瞬で混じり合
った。
その結果ボールは︱︱ゴールに入ることなく転がっていく。
あの赤信号が上杉のキックするコースを偶然か読み切ってなのか
止めやがったんだ。
1089
左にジャンプしたジョヴァンニ自身の顔の辺りのコースに来た威
力のあるボールを肘でブロックするように弾いたのだ。
しかも、弾いた方向は正面にではなく自分の真横方向へ強く、で
ある。
そのままコーナーフラッグ付近に転がっていくボールを見つめ、
舌打ちする。こんな方向へ弾かれてはキッカーの上杉や近くで待機
していた俺達日本の攻め手が詰めて押し込むのも難しい。
まさか⋮⋮ボールを弾く角度まで計算して止めたんじゃないだろ
うな、この赤信号の野郎は!
芝に四つん這いになりながら、PKを止めたにもかかわらず油断
を微塵も現さずに早くも体勢を整えようとしているジョヴァンニの
口から雄叫びが放たれた。
その叫びに滲む勝利の響きに苛立ちが走る。止められたのは俺じ
ゃねぇ。
次からは俺をPKキッカーにするよう上杉に抗議しようか。そん
な風に微かに意識がボールから離れる。
PKを止められ、しかもそのボールを押し込むのも無理。ならば
もう一度コーナーキックから立て直そう。
最大のチャンスを逃した事で日本代表は気が抜けていたのかもし
れないな。皆がそう考えて足を止めていたのだ。
しかし、相手も日本につき合う義理はない。いくらジョヴァンニ
でも狙って弾いたとまでは思えないが、イタリアはこんなキーパー
がいるのだからPKをストップするという状況に慣れがあったのだ。
PKで止めたボールが真横へ飛んでラインを越えそうになるとい
う事態など、赤信号がいるこのチームならばこれまでの戦いで何度
かあっても不思議はないのを俺は失念してしまっていた。
弾かれたボールがラインを割る前に、猛スピードでスライディン
グしたイタリアのDFによってピッチへと引き戻されてしまったの
1090
だ。この時点で俺を含めた日本代表はすでに集中とプレイを切って
しまっていた。
しかもPKのためにうちの選手は全員イタリア陣に近くまで接近
し、ディフェンスもラインを上げてしまっている。
ボールを確保したイタリアのDFは確実に笑っていた。それもピ
ンチを脱出した喜びからではない、絶好のカウンターのチャンスが
転がって来た事への興奮にである。
﹁カウンターが来るぞー!﹂
俺だけでなくPKで敵ゴール前にいた日本の全員が絶叫して、そ
いつからパスが出されるのを邪魔しようと動いた。
だが足が止まっていた俺達では相手がキックするのを止めように
も間に合わない。
こうなると問題は守備陣になるが、日本代表は攻撃的なチームだ
けにイタリアゴール前に多くが集まっていた。
でも、さすがに防御を専門とするDFの三人とアンカーだけは日
本陣内で控えてくれていたのだ。さすがは真田キャプテン達だ、守
備のスペシャリストとしての立場を忘れていない。とは言っても彼
らもかろうじてセンターラインの向こうにいたぐらいだが。
守りが一応はこれまで通りの四人はいる事にほっとする間もなく、
カウンターの狼煙となるロングボールがボールを拾ったDFから蹴
られた。
︱︱あれ? このコースは⋮⋮。
﹁今度は右サイドじゃない! 中央だ!﹂
俺が叫ぶが、それより早く日本のDFは右サイドへ偏った防御網
を敷いてしまっていた。仕方ないだろう、これまで前半の十回近い
イタリアのカウンターの全てが島津が空けていた右サイドから崩そ
1091
うとしてきたのだから。
逆襲をくらう全ての回で自分のポジションをお留守にしていた島
津もどうかと思うが、毎回そのサイドを抉ろうとするイタリアの動
きとリズムにすっかり慣らされてしまっていたのだ。
PKで得点できなかった気落ちもあり、日本の守備陣は何も考え
ずにただ反射的にこれまで通りの守りをしようと動いてしまった。
はっとした時にはすでに中央にはぽっかりとしたスペースが空いて
しまっている。
これまで日本の右サイドを蹂躙してきたイタリアの快足FWが、
喜々として日本陣のど真ん中をドリブルで駆け抜けていく。
本来そこにいてスペースを埋めるべきアンカーのポジションが右
にずれてしまっているのだ。
人が足りないディフェンスは仕方なく真田キャプテンが中盤の底
のエリアでチェックに行く。彼もいつもならばゴール前の番人をし
ているのに、こんなに前まで引っ張り出されてしまった。
快足FWはスピードに乗ってかわそうとするかと思いきや、すぐ
後ろに詰めていたイタリアの攻撃的MFへ戻し自分はダッシュする。
MFはダイレクトでふわりとキャプテンの頭上を越える優しいルー
プパスを出した。
そのパスが落ちた場所はもうペナルティエリアのすぐ前、必死に
寄せてきた最後のDF武田と日本のキーパーより一歩早くイタリア
FWの左足からシュートが放たれた。
飛び出しかけた体をなんとか捻り、シュートに触ろうとするうち
のキーパー。だが、無情にもボールは彼の指先をかすめるようにし
て進み続ける。
一瞬の空白の後、審判が強く笛を吹き鳴らした。
飛びついたキーパーが芝の上で横たわっているその後ろでは、ゴ
ールマウスの中を転々とボールが転がっているのだ。
1092
︱︱前半二十七分、イタリアの先制。
得点を上げたFWが叫び声を上げて走り出すが、数メートルも行
かない内にイタリアの他の選手に捕まってピッチの芝に埋もれるよ
うにもみくちゃにされている。
俺達が得点した時の背中をばしばしと叩かれる平手よりずっと手
荒い祝福だが、その対象となったFWはまるで痛みなど感じていな
いような輝く笑顔をしている。
俺達は三十秒も経たない内に起きた、両チームのあまりの立場の
逆転にただ呆然とその光景を見ているだけだ。
しかし困った事になったぞ。
攻めあぐねていた日本は、勝ち点でリードしていた事もありグル
ープリーグを勝ち抜くためには引き分け狙いの展開も頭にあったの
だ。
例えば上杉や島津をさげて守備的な選手を配置するといった守り
固めの戦術だ。不得意の分野だが、それで勝ち点一を確保するため
にリスクを避けてのスコアレスドローでよしとする消極策は使えな
くなってしまったのである。
いやそれどころか、この堅守のイタリアから何としてでも得点し
て最低でも同点にせねばグループリーグの突破も怪しくなってしま
ったのだ。
﹁まだまだこれからです。試合はまだ半分もすぎていませんよ!﹂
﹁おう、その通りだ!﹂
﹁そうっす!﹂
﹁そ、そやな﹂
そんな風にチームメイト鼓舞するが、やはり士気が落ちるのは避
1093
けられない。
そしてどれだけ取り返そうとしても前半に残された僅かな時間で
は、イタリアが分厚く築いた閂は小揺るぎもしない。
さらにまずい事にイタリアはFWの一人のポジションを下げて、
四・三・二・一という後方に重心を置いて中盤の守備まで引き締め
る、いわゆる﹁クリスマスツリー﹂という完全な逃げ切り型のフォ
ーメーションに切り替えてきたのだ。
DFが四人にほとんど守備専門のMFアンカー役が三人、そして
一応攻撃的と分類上はされるだろうが二人の攻撃的MFは攻めだけ
でなく中盤のチェックは怠らない。そしてワントップにはさっき得
点した快足FWという構成だ。
さらに、そしてそのツリーの根本に最後の砦としてジョヴァンニ
が控えてやがる。
ここら辺の容赦のない試合運びは、勝つ為ならばスペクタクルな
どいらないという恐ろしいまでの割り切り方からきているのだろう。
ここまでリアリズムに徹した試合運びができるのがイタリアの強さ
か。
︱︱冗談じゃない! このままでは日本はその強さの引き立て役
にしかならないじゃないか。
そんな焦りがじわりと忍び寄ってきた来た頃、審判が前半の終了
を告げる笛を吹き鳴らした。
1094
第十七話 監督を比べてみよう
﹁さて、山形監督率いるヤングジャパンの前半戦は、残念な事にリ
ードされて終わってしまいましたが松永さんはご覧になっていてど
う思われましたか?﹂
﹁そうですね﹂
デスクの上に肘を突いて口元を組んだ手で隠しながら松永が答え
る。テレビで撮影されているのに随分と礼儀がなっていない傲慢な
態度のようだが、そうでもしなければ彼の口元の笑みは隠しきれな
いのだ。
﹁いやぁ、実に残念な結果になったと思いますよ。だいたい島津を
スタメンで起用した段階で私はバランスが崩れないかと危惧してい
たんですよ。実際に試合を開始前にもそう言いましたよね? 戦術
と選手達が攻撃的に傾き過ぎていると。そこを突かれてのカウンタ
ーからの失点ですから、完全に作戦負けです。この敗戦の全ては監
督の責任と言わねばなりません﹂
笑みをテレビ画面に映らないように注意はしていう。だが、以前
率いていたメンバーがまだ数多く在籍している日本代表が不利にも
かかわらず、どこか松永前監督が現代表の苦戦に満足気に舌なめず
りをしているような雰囲気は隠し切れていない。
対するアナウンサーの表情は微妙である。この日本がピンチに陥
っているのに上機嫌な松永のノリについていっていいのか判断でき
ないのだろう。何度もちらりと画面の外で指示を出しているディレ
クターへ助けを求める視線を投げかけている。
1095
だが、そこにそっと示されるカンニングペーパーにも﹁頑張れ!﹂
としか書かれていない。何か問題が起っても自分に非難が向かない
ようにと考えた処置だろう。
残念ながらどこからもアナウンサーに救いの手は差し出されない
ようだ。この実況席の中に自分が責任を取ろうという男気のある人
物とアナウンサーの味方は誰もいないらしかった。
﹁え、ええと、さすがは前代表監督ですね。自身が経験したからこ
そ監督としての指揮でミスだと思われる部分がよく判るという事で
すか。ですが先ほどの松永さんの発言を一つだけ訂正しておきます
と、まだ前半が終了しただけで試合は終わっていません。ですから
日本代表の敗戦というのは先走りすぎですね﹂
﹁あ、いや、まだ負けてませんでしたか!? これは失礼しました。
ではこの敗戦ではなく苦戦の責任は監督にあると言い直しておきま
しょう﹂
松永は失言したのに悪びれた様子は全くない。開き直ったのか、
これまで散々やらかしたのにお咎めがなかったのに増長したのか堂
々とした態度である。
謝罪と訂正をしているはずなのに、背筋はピンと伸ばして頭を一
ミリたりとも下げる気配はなかった。
代わりに隣のアナウンサーの冷や汗が酷い。一刻も早くこのハー
フタイムが終わって試合が再開されないかを願っているようだ。ま
だ試合実況の方がこの松永とのやり取りを続けるよりは彼の胃への
ダメージは少ないからだろう。 ﹁で、では日本が後半に逆転するためにはどうすればいいとお考え
ですか? 松永さんが監督だった時はこんな場合はどうされていた
んでしょうか?﹂
﹁ふむ、そうですね。もし今のチームを率いているとすれば、島津
1096
を交代させて右サイドの守備にテコ入れをします。その上で、攻撃
はまあ何とかするしかないんですが⋮⋮イタリアのキーパーである
ジョヴァンニが健在であればなかなか難しいですね﹂
﹁そうですか。松永さんが監督だった頃はこんな場合どう対処され
たんでしょうか?﹂
そうですねぇ。そう呟いて顎に手をやり首を捻る松永は記憶を掘
り起こそうとしているようだった。
﹁私が監督だった時は︱︱カルロスに任せていたので、彼が万全な
らリードされるような問題はありませんでしたね。
ただ、前回の十二歳以下の世界大会で彼が体調不良で欠場した試
合は意欲的なフィジカルコーチが﹁これが最善です﹂と言ったので
彼の意見を採り入れましたが、結局上手く機能せず敗退してしまい
ましたからね。やはりいい選手といい監督が前面に出て手を組まな
いとチームは勝てないと痛感した苦い記憶があります。国際大会の
グループリーグという高いレベルで勝ち抜くには、どうしても現役
時代の実績を含めたいい監督とフィジカルに優れた選手達が必須で
しょう。
あ、ちなみにその時の私はカルロスを擁してグループリーグを突
破、本戦へ駒を進めましたから﹂
松永はフィジカルコーチに任せたと言う時は、いかにも裏切られ
たと言いたげに首を振りながらそう告げて溜め息を吐いていた。そ
の後に自身のアンダー十二でのベスト八までいった経歴を話した時
はまたご機嫌になっていたようだが、彼を取り巻く周りの空気は冷
ややかだった。
松永はグループリーグ突破の危機に陥っている山形監督の現代表
と違い、自分の時代のチームは本選まで勝ち進んだんだと誇らしげ
だったがその彼は白い目で見つめられている。
1097
この実況席にいるのは少なからずサッカーに関わりがある人間が
多い。皆声に出しては言えないが、突っ込みたくて仕方ないような
のだ。
それって攻撃面はカルロスに丸投げしてただけじゃないのか? そして彼が怪我でもしたら今度はコーチの責任? じゃあ監督のあ
んたには責任が少しもないとでも考えているのか?
⋮⋮こいつ役に立たねー。という無言の声が実況席を埋め尽くし
たようだった。
◇ ◇ ◇
リードされてのハーフタイムはどうしても重苦しい雰囲気になる。
ましてやそれが国際大会の重要な試合で、先制された相手が鉄壁の
守備を誇るイタリアであればなおさらだ。
しばらく、居心地の悪い沈黙が続いていたが、やはり一番気の短
い少年が爆発した。
﹁くそ、何やねんあのキーパーは!﹂
叫びと共にロッカールームの床に転がっていたタオルを上杉が蹴
飛ばす。それでもまだ収まらないのか、ふーふーと荒い息を吐きな
がら他に蹴る物がないか室内を物色している。ただタオルなんかの
布類だけを狙って、周囲に被害が出そうな固い物は避けている分冷
静さはのこしているようだ。
それにしても彼はPKを失敗しただけでなく、これまでのシュー
トを全て止められているためにだいぶフラストレーションが溜まっ
ているみたいだな。
﹁落ち着いてくださいよ上杉さん﹂
﹁はぁ? ワイは冷静やっちゅーねん。ワイは今まで頭に血が上っ
1098
た事なんか一遍もないのが自慢なんや﹂
⋮⋮俺が知る限り最も短気で好戦的な少年の台詞だと思うと、ど
こから突っ込めばいいのか判らない。だがそこに監督が落ち着いた
声で﹁おい﹂と話しかけると、さすがに上杉も誰とも視線を合わせ
ない様に少しばつが悪そうな態度になる。
﹁前半で上杉の打ったシュートはPKも含めて六本で無得点か⋮⋮﹂
﹁な、なんや。確かに今日はまだ入っとらんけど絶対にもうちょい
で︱︱﹂
﹁少なすぎるな﹂
交代でもさせられるのかと焦った上杉の言い訳を監督の言葉が遮
る。
でもちょっと意味不明な台詞である。前半で六本撃ったなら単純
計算で一試合通せば十二本だ。プロでも一試合で十本シュートを撃
つエゴイスティックなストライカーは少数である。
さらに時間が前後半を合わせて六十分とプロのフルタイムより三
十分も短縮されたこの大会では、前半だけで六本もシュートを撃っ
ているのは明らかに異常な数字のはずなのだ。それが少ないだって
? そんな驚きをよそに監督は上杉だけでなく、日本代表の俺達全員
へ語りかける。
﹁前半の出来はそれほど悪くなかったぞ。イタリアのカウンターへ
の対処とキーパーのジョヴァンニの実力をちょっと見誤っていただ
けだな﹂
﹁負けてるのに?﹂
俺のかなり皮肉っぽい言い方にも動揺せず、しっかりと頷く。
1099
﹁ああ、今は負けているが試合が終わった時点で勝利していれば何
の問題もないだろう﹂
そこで一つ息を吸い込むと、作戦の細部の変更を言い渡した。
﹁リードしたイタリアがカウンター戦術を変える理由はない。おそ
らく守備を更に堅くするぐらいの変更しかないはずだ。だからこっ
ちはもっと強引に攻めていくしかない。
この試合で負ければ次のブラジル戦はさらに不利な状況下での戦
いになるかもしれん。何としてもこの試合で得点を奪って最低引き
分けに︱︱いや違うな、逆転するしかグループリーグ突破の道はな
いと思った方がいい。
その為にも完全に守備はスリーバックに移行して、もうこの試合
は島津はDFに戻らないでゴールを狙いに行け。最初からお前を計
算に入れない方が守備は安定する。後は、攻撃陣の方だが⋮⋮﹂
島津を下げる気はないと明言した監督が、俺の顔を眺めて﹁フィ
ニッシュにまでは持っていけるんだがなぁ﹂と溜め息をつきながら
中盤の組立には問題がないと認めてくれた。そう、イタリアのディ
フェンスを崩す段階までは何とかクリアできるのだ。問題はその先、
ゴールを守っているあのジョヴァンニの存在である。
だが、あいつには明確な弱点という物は見当たらない。長身だけ
にハイボールにも強いし、前へ飛び出す度胸もある。キャッチング
の技術はこれまで見た同年代のキーパーの中では一番の上、反射神
経も読みも鋭い。
こんな奴どうしろって言うんだよ。
︱︱って決まっているよな、弱点がないなら力ずくで粉砕するし
かないのだ。
俺と同じ結論を出したような山形監督が真剣な表情で攻撃陣に話
1100
しかける。
﹁どんな扉でもノックを続ければ必ず開くはずだ。諦めないで上杉
達はシュートのノックを撃ち続けろ﹂
﹁それでも開かなければどうするんすか?﹂
明智からの茶々入れに、監督は力強く断言する。
﹁その扉は壊れてるって事だな、ノックする力をどんどん上げてい
ってイタリアの誇る閂を扉ごと叩き壊してやれ﹂
﹁おお、それは実にワイ好みのやり方やな﹂
あまりにも乱暴な言い方だが、そのどこかが上杉の琴線に触れた
ようだ。ハーフタイムが始まった当初の、PKを外したせいで鬱屈
した陰が彼の表情から綺麗に拭われたみたいになっている。
赤信号を攻略する具体論はでなかったが、それでも精神的なリフ
レッシュには成功したようだった。
こういった選手の感情に対するコントロールも監督に必須な技術
なのだろう。
﹁外してしまったとはいえ、PKを得るぐらいまで攻め込んだのは
確かだ。これまで以上に攻めれば必ず突破口は開くはずだ。失敗し
た場合の責任は全部俺がとるから、前半よりもっと自由に振る舞え。
焦りのせいか攻めが直線的になりすぎている傾向がある。
お前がいつも通りにプレイすれば抑えられる相手がいるはずない
んだからな。頼んだぞアシカ﹂
﹁⋮⋮そこまで信頼されたら任せてくださいとしか言えませんね﹂
肩をぽんと叩かれてそう激励されると、山形監督の褒めて選手を
伸ばすコントロール術に俺もたやすく転がされてしまう。
1101
うん、おだてられているのは判るが、日本を代表して戦っている
試合でここまで頼りにされると体の奥の闘志に点火されたのが自覚
できるんだ。
こうなると周りの都合や思惑なんてどうでもいい、早く全力を振
るいたくて我慢できなくなりそうに熱くなる。
そう、リードされたからといって落ち込んでいる暇なんてないぞ。
これから日本代表は逆転するために忙しくなるのだから。
1102
第十八話 反撃の狼煙を上げよう
審判が後半の開始を告げるまで体を暖め直しながら、そっとイタ
リアの様子を窺う。
敵チームの全員が﹁俺達の守りだったらこの一点で十分だ﹂とい
った自信に満ちた表情をしているが、そこに俺達に対する侮りの気
配はない。
ちぇっブラジル戦の逆転劇でこりたのか、向こうの監督に油断す
るなと喝でも入れられたか。
前半は耐えに耐え抜いてからのカウンターで得点したんだ、この
年代なら少しぐらいは作戦通りだと気を緩めてくれてもいいものを。
向こうの陣形にしても前半終了間際に見せた、守備最優先の四・
三・二・一のクリスマスツリーフォーメーションを変える様子はな
い。
カウンターでさらに追加点を狙うより、確実にこのままのスコア
での試合終了を目指しているようだ。
より一層守りに入って前半よりも堅くなったイタリアを、どうや
って攻略するべきなのか⋮⋮。
まあ攻めるしかないんだけどな。
最低でも引き分けに持ち込まないとうちのグループリーグの突破
は危うい。俺達日本代表が勝ち点を稼げない事よりも、ライバルで
あるイタリアに勝ち点三を与えるのがまずいのだ。
イタリアの実力を考えれば、第三戦で当たるナイジェリア代表相
手にも勝利しそうだからである。またブラジルも今日の試合でおそ
らく勝ち点三をゲットするだろう。
そうなれば日本が万が一このまま今日の試合を落とせば、二戦目
1103
を終えた段階でブラジルが勝ち点六のトップでイタリアと日本は勝
ち点三で並ぶ事になる。僅かに得失点では上回るが、それもイタリ
アとグループリーグ敗退が決まって消沈したナイジェリアの戦いで
は逆転される可能性が高い。
三戦目でイタリアが勝利するとの予想が当たると、予選突破のた
めには日本は次の最終戦のブラジルとの試合で得失点差を意識した
大量点での勝利を義務づけられてしまうのだ。
カルロスのいるブラジルを相手にして、そんな制限が付けられる
なんて罰ゲームのような試合は真っ平御免である。
従って何としてもこのイタリア戦を落とすわけにはいかないのだ。
よし、これでより攻撃的にシフトして特攻する理論武装は完璧だ。
後は実行に移すのみ。
審判のホイッスルによってピッチ上が慌ただしくなる中、俺は自
分の心臓が高鳴るのを実感していた。
だが現実はそう甘くはない。後半もすでに十五分を過ぎたが︱︱
まだ試合はスコアの変動もなく硬直した状態を維持していた。
あれだけアグレッシブだった前半よりも、さらに俺達日本代表が
攻勢を強めているのもかかわらず、だ。
イタリアの守備の堅固さはもはや異常なレベルである。カウンタ
ーを仕掛ける暇がないほどこっちが連続してアタックをかけている
のに、攻められっぱなしのはずのイタリアDF達には焦りの色も集
中が途切れる様子も見られない。
イタリアが中盤に一人とはいえ人数を増やしたせいか、俺達が前
半よりもフィニッシュにまで行ける回数が減っているせいもあるの
だろう。向こうは時間の経過と共に、攻められる精神的な疲労より
も試合終了が近付く充実感を味わっているみたいだ。
こっちとしては島津を完全に右ウイングとして固定し、真ん中に
1104
は上杉と山下先輩のツートップ。左からは馬場がウイングでそこか
ら一段下がってトップ下の俺とそして明智までもが攻撃的なMFの
ポジションに押し上げているのだ。
それら日本のオールスターのような面子が手を尽くしても、ジョ
ヴァンニが守っているイタリアのゴールは割れないでいる。
そうこうしている内にも時計の針は淡々と進む。
冷静に、焦らないでと自分に言い聞かせていた自制心がじりじり
とやすりにかけられて、苛立つ感情が弾けそうになってくる。
だが、俺以上に気が短い少年達が揃っているのが今の日本代表だ。
久しぶりにイタリアがロングボールを日本のゴール前に蹴り出す
が、そのままピッチからボールが出てしまった。
プレイが途切れて、日本のゴールキックとなるちょっとした間に
上杉の合図で攻撃陣が集まってくる。
﹁ええ加減に追いついておかんと、そろそろやばいで﹂
当たり前の事を口に出す上杉に、山下先輩が負けん気一杯の表情
で噛みつく。
﹁だったらどうすればいいんだ? ただ文句を言うだけならわざわ
ざみんなを集めんなよ﹂
﹁ああ先輩方落ち着いてください。それに上杉さんも何か案がある
んですか? 突破口を開けそうなアイデアなら歓迎しますが﹂
山下先輩をなだめながら上杉に尋ねると、迷う素振りもなく彼の
考える名案を披露する。
﹁時間も少なくなってきよったから、これからのボールは全部ワイ
にパスするってのはどうやろ? 監督ももっとシュートを撃てって
1105
発破かけとったし、そうなるとチームで一番シュート力あるワイが
撃ちまくるちゅうのはかなり名案やと思うんやけど﹂
⋮⋮うん、判ってはいたけれど彼にとってだけ都合のいい内容だ。
いや、作戦の幅が無くなる分守っているイタリアにとっても都合が
いいかもしれない。
とてもではないが採用ができない意見である。上杉は今日本が前
線に戦力を集めているのをどう考えているのか。
﹁ん? そりゃワイの囮になるためやろ?﹂
なんでそないな判りきった事を、と引き締まった顔をきょとんと
したものに変える元ボクサーの少年に力が抜ける。周りを見ればう
ちの他の攻撃陣も毒気を抜かれて呆れているようだ。
あまりにもブレない上杉に思わず吹き出してしまう。しまったと
自らの口を塞いだが、失笑したのは全員に確認されてしまったな。
﹁なんやアシカ。ワイの名案になんか文句でもあるんか?﹂
﹁いえ、上杉さんの認識に文句を付けるほど野暮ではありませんよ。
ですが、パスを全て上杉さんへ回すという作戦は却下します。他の
選手にもシュートがあると意識させた方がディフェンスは迷ってチ
ャンスは広がりますし、それに⋮⋮﹂
﹁それに?﹂
﹁そんな作戦じゃあ俺がゴールできないじゃないですか﹂
なぜか俺の至極真っ当な意見までもが上杉の迷作戦と同じ反応を
周囲にされると傷付いてしまう。
だが、このちょっと肩の力が抜けた状態でいい。これまでは焦り
のせいか少し入れ込みすぎていたからな。
1106
﹁まあ上杉さんの作戦は論外として少しリラックスしましょうか。
焦りで攻撃も単調になってきたような気がしますし、余裕を持った
プレイするのを忘れないように。日本代表の﹁楽しんで・攻めて・
そして勝つ﹂というモットーに従ってこのイタリア戦を楽しみまし
ょう﹂ ﹁そんなモットーあったっすか?﹂
﹁今、俺が作りました。そう言う訳で皆楽しそうにプレイしてくだ
さい。そうじゃない人にはパスしません﹂
﹁え、おい、ちょっと待つんやアシカ﹂
日本のゴールキックでプレイ再開されるとこれ以上は話し合いが
できないと、さっさと切り上げてボールを受け取りに少しポジショ
ンを下げる。
俺の言葉に納得できないのか上杉はさかんに首を捻っているが、
他のメンバーはリラックスして楽しめというメッセージを受け取っ
てくれたようだ。焦りの影が全員の表情から拭われている。
よし、いい具合に余計な力は抜けたようだ。あんな必死の形相に
なられてはリズムやパターンも一本調子になって逆に読まれやすく
なるからな。
あの勘と読みに秀でたジョヴァンニを相手にしてワンパターンな
攻撃など、どうかイタリアのカウンターでばっさりと斬ってくださ
いと介錯を頼んでいるようなものだ。
もっと余裕を持って攻略しないと、と言いつつさっきまでの俺も
視野狭窄に陥っていたんだよな。でも今の上杉との馬鹿話で僅かな
りとも心に余裕と遊びができた。
なるほど、戦場でエースと呼ばれる人達が緊張した場でジョーク
を飛ばすのは、こういった効果を狙っているからなんだろう。
さて、冷静になった目でもう一度イタリアの攻略を考えようか。
1107
俺も後半になってからは、できるだけ早く追いつこうと得点に直
結するゴール前の二人へのスルーパスばかり狙っていたような気が
するな。
もしかして組立が強引でシンプルになりすぎていたのか?
今はいつものポジションよりやや右サイドの位置にいるが、ボー
ルがようやく回って来たからちょっと試してみよう。
前を向きこれまで通りキックするモーションへ入ると、上杉に山
下先輩といったラインの裏側へ抜ける選手との間にDFが割り込み
カットする構えを見せる。そしてジョヴァンニはそのタイミングで
ポジションを前へ移動していた。
うん、やっぱり読まれていたか。
一拍おいてリズムを取り直して、逆サイドの馬場へとサイドチェ
ンジする。
あ、こんなにピッチを広く使うのも久しぶりだ。敵ゴールへの最
短距離である縦への突破に拘りすぎていたんだな。
そして今のディフェンスの動きで判ったが、おそらく中央に故意
に穴をいくつか空けているのだろう。だからこそ俺や明智のような
パサーで技術があればその小さな穴をパスでこじ開ける事ができる
が、相手もその穴から来ると攻撃する箇所をあらかじめ予測しやす
いのだ。
ましてや空けてある隙やパスコースなどはかなり小さいし、タイ
ミングもシビアだ。そのためどうしてもパスが厳しくなり、受けに
とっては優しくなくてシュートが難しいボールになる。
タイミングと場所を指定できるなら、あのキーパーにとっては止
められる程度のピンチにしかならないのだろう。
そんなリスキーな作戦を取るのが可能となっているのは、あのジ
ョヴァンニへの信頼感が高いからに他ならない。
だって安定感の無いキーパーが背後にいたらディフェンスは罠を
張ったり、わざと隙を見せて誘ったりなんて怖くてできやしないか
1108
らな。
︱︱でも隙は隙なんだよな。単純に壁を作られている場所より破
りやすくはある。
舌を出してぺろりと唇を舐める。
よし、なんだか楽しくなってきたな。
これまでずいぶんと舐められてイタリアの思うように踊らされて
いたが、手品も種が判ればそれを逆手に取るのは難しくない。
ではせっかく敵がご招待しているんだから、それを利用してイタ
リアのゴールまで案内してもらおうか。
これ以上時間をかけるとずっと攻め続けている攻撃陣の体力の消
耗と、ベンチで目立たない様に腹をさすっている山形監督の胃の具
合が心配だからな。
1109
第十九話 手強い相手を抜いてみよう
改めて鳥の目でイタリアのディフェンス陣形を見直すと、整然と
しているようだが確かに間隙も空いている。
それはそうだろう。十一人しかいない︱︱しかも守備に全員を割
けるわけでもない選手達で、ピッチ上の自陣のスペースを全て埋め
るのは不可能だからだ。
ならば守備側としてはどうするのか? 普通ならばより危険と判
断されるエリアにDFを配置するのだ。
もちろんそれは相手のフォーメーションによっても、若干の手直
しと変更される事が前提の物なのだが。
しかしイタリアの守備ではゴール前の重要な地点にしばしば穴が
あく。それもゴールに直結するような場所でだ。
鉄壁の守備に誇りを持つかの国がそんな無様な真似をするだろう
か? とてもそんな楽観はできない。そんな不注意なチームだった
らブラジルは苦戦なんかしないし、日本にしても前半の内に何点か
取れているはずだ。
だとすればこの隙はわざとそこへの攻撃を誘う為の罠でしかない。
つまりはこれまで日本の攻撃がことごとく読まれていたように防
がれたのは、シュートの前段階からその地点に来るように誘導され
ていたせいなのか!
くそ、舐めたまねをしてくれるものだ。
そうしている内にもチラチラと上杉へのパスコースが開いている
ように見える。俺ならば通せる︱︱逆を言えば俺や明智といったパ
サーでも通すにはギリギリで余裕がない。最終的なパスがそこに来
ると判って準備していれば、そんな遊びのない正直で正確なだけの
1110
攻撃は読みやすく対処しやすかったかもしれない。
おそらくブラジルも最初の内はこの敵からの誘いにずるずると乗
って、ペースを握られてしまったのだろう。
日本も同様の手口に乗って、これまではいいように踊らされてし
まったって事か。
頭に血が上っていくのを自覚する。ここまで俺達は相手に許可さ
れていた場所しか攻撃していなかったのか!
⋮⋮いや、そうじゃないよな。すっと急に思考がクリアになる。
もしすべてがイタリアの思惑通りにいっているのならPKなんても
らえるはずがないじゃないか。
いくらジョヴァンニが凄腕のPKストッパーだとしても、PKな
んて止められる確率の方が低いはずだ。あれはわざとではなくPK
なんて撃たせるつもりはなかったと考えたほうがいい。
ならばイタリアの計算が狂った理由はなんだ? ああ、そうか。
答えはすぐに出た。
俺の突破力がイタリアの想定以上だったのだろう。
前のブラジル戦でもカルロスのような個人で突破できるドリブラ
ーにはマンマークを付けていた。もしかしたら、このパスコースを
空けて誘導するディフェンスは強引なドリブルが苦手なのかもしれ
ない。
︱︱だったら試してみるしかないよな。
手を上げてまた後方の味方にボールを要求する。同時に山下先輩
に視線を飛ばす。
それだけで俺の意図を理解してくれたのだろう、彼は軽く一つ頷
きを返してくれた。
まだ自分の頭の中でも完全にはまとまっていない俺の作戦を理解
してくれるんだから、先輩ってものは本当に有り難い。
⋮⋮本当に判ってくれてるんだよな? 山下先輩。最近少し影が
1111
薄くなった先輩にちょっぴり危惧を覚えるぞ。
さっそく回ってきたボールにいつものように頬が緩む。だが今回
はそれがいつもより少な目である。
うう、俺は今フリーだからもっと優しいパスでもいいはずなのに
﹁いい加減点取ってこいや!﹂という日本ディフェンスの感情が込
められてような強いボールが来たからだ。
判ってるって、ただもうちょっとだけ待っていてくださいよ。
ぐっと体勢を前傾させ、高速ドリブルの姿勢になる。
本来ならピンと背筋を伸ばして周りを見ながら進むのが中盤のゲ
ームメイカーのドリブルとしては正しい。
しかし俺はその周辺の状況をドリブルを始める前に見回して、後
は鳥の目による脳内に映るイメージで把握して処理しているので問
題はないのだ。
逆に下を見てばかりいるから﹁どこを狙っているのか判らない﹂
﹁やっと顔を上げたと思ったら逆方向へノールックパスを出された﹂
とかマッチアップした相手からは不評の、マークがやりにくくて仕
方ないプレイスタイルらしい。
今日もイタリアのデイフェンスを何度か破っているし、スピード
じゃなくトリッキーな技術でかわす俺の突破は世界でも通用するん
じゃないかと希望が持てる。
まあここまで上手く行っているから自分のドリブルを試してみる
んだけどな。
足元にはボール。場所はプレミアリーグのホームグランド。舞台
は国際大会で相手はイタリア代表とくれば顔が綻んでしまうのも仕
方ない。
こんな日の当たる場所でサッカーが出来る幸せな選手はそうはい
ないだろう。
こんな場面で笑顔を作らないでいるのは、俺にとっては赤信号か
1112
らゴールを奪うのと同じくらいの難事である。
だいたいサッカー馬鹿の俺がしかめっ面をしているという時点で
それは日本が苦戦しているという事を意味しているんだ。俺の表情
一つで味方もサポーターも今の状況は厳しいと感じとってしまうだ
ろう。
だから﹁真面目にやっているのかあいつは?﹂と前の代表スタッ
フに文句を付けられた楽しそうな顔で、ダンスのようなステップで、
相手を小ばかにしたようなフェイントで敵を翻弄しよう。それがき
っと俺にできるベストなプレイなのだから。
覚悟を決めるとなんだか足取りまで軽くなったようだ。
よし、スルーパスを出すのに絶好のポジションにまでたどり着い
たが、ここからどうするべきか。
俺に予定通りの場所へパスさせるためかイタリアの守備陣のプレ
スが少しだけ遅く感じられる。あ、今ちらりと上杉の姿が肉眼でも
確認できた。俺ならパスが通せる程度のきわどいタイミングで、だ。
これまでならゴール前の上杉に反射的に鋭いパスを届けようとし
ただろう。
だが今はパスコースに穴が空いたはずなのにそれを埋めようとし
ないディフェンスの動きを見極めようとしているんだ。
うんやっぱり、イタリアのDFとキーパーはまだパスを受け取っ
ていない上杉をパスをもらった次の瞬間に潰そうと動き出している
な。
︱︱その誘いを今度はこっちが利用させてもらおうか。
俺は山下先輩へボールを渡すと、そのイタリアが見せた隙間を走
る。
上杉に予想したタイミングでパスが来ず、なぜか俺が誘いの隙を
見せた守備の穴を走っている事にディフェンスラインが僅かに乱れ
る。
1113
誘うためとはいえ、隙は隙なのだ。穴が開いていた分ディフェン
スは俺へ厳しいチェックができずにいる。
またそのタイミングで﹁あかん、オフサイドや﹂と上杉もまたゴ
ール前からDFラインの内へと戻って来たのだ。
さあ、どうするイタリアディフェンスの皆さんは?
その答えはよりゴールへ近く脅威度が上と思われる上杉へのタイ
トなマークだった。これまでは微妙に間合いを測ったマーカーが抱
きつきかねない密着マークへと変更された。
その分、俺へのマークがほんの少しだけ遅れる。
頼んだぜ山下先輩。あんたは元々はシューターではなくトップ下
のパサーでもあったんだ、いいボールを期待してますよ。
その無言のメッセージが届いたのか走っている俺の足下、しかも
利き足である右にぴたりと合わせられたパスが通った。
減速する必要もないほどドリブルにおあつらえ向きのボールだ。
この辺の呼吸は小学生以来の付き合いになるだけに寸分のズレもな
い。
止まってトラップせずにボールをワンタッチでコントロールでき
た分、俺はボールを受けとって三歩の後にはすでにトップスピード
乗っている。
そのままイタリアにとって危険なペナルティエリア前までくると、
DFがここから先へは通さんと、凄い迫力で立ち塞がる。
よし、今だ。
僅かに空いたゴール正面の上杉へのパスコースに向けて左のアウ
トサイドでボールを押し出す。
その次の瞬間幾つもの出来事が重なった。
まず一つ目は上杉がDFラインをすり抜けるようして裏を取った。
次にその上杉と俺への直線上に上杉をマークしていたはずのDF
1114
が割り込んで、パスがくればカットしようと絶好の位置を占めたの
だ。
そして最後に俺は上杉へとパスを﹁しなかった﹂。
左のアウトサイドで押した次のタイミングで足がボールを追い越
して、インサイドで切り返したのだ。パスに見せかけて少しだけボ
ールの持ちが長くした変形のエラシコである。 最後にお前らイタリアの誘導策の裏を突いたぜ。
エラシコについてこれなかったDFを振り切ってペナルティエリ
ア内にまで侵入する。ここまできたら敵DFもまたPKが怖くてタ
ックルにはこれない。
ましてや今DFは全員が俺の後ろにいるのだ。接触プレイは全て
危険なバックチャージとして、PKプラスレッドカードのおまけ付
きになってしまう。
この時点で俺はDFを意識の内から消していた。
そして︱︱持てる全ての集中力をいつの間にか目の前に飛び出し
て来た少年、赤信号ジョヴァンニの守るゴールを奪う事に費やして
いたのだ。 後はこいつさえ何とかすれば得点できる。
だがどうしてもシュートを撃つ事ができない。今俺がここからシ
ュートを撃ったとしても入るイメージが全く持てないからだ。
この少年の発するプレッシャーからかジョヴァンニの体がそれこ
そゴールを隠すぐらい大きく見えてしまう。こんなんじゃシュート
は撃つだけ無駄だ。確実に枠から逸れてしまうぞ。
なら誰か、例えば上杉にでもパスを出すか?
思考が逃げに流れそうになった時、俺の頭に実に今の日本代表チ
ームらしい攻撃的な発想が浮かんできた。
︱︱シュートが無理ならジョヴァンニまで抜いてしまえばいいん
1115
じゃないか?
確かにキーパーをドリブルで突破できればゴールは間違いないだ
ろう。
問題はこのナンバーワンキーパーを手が使えるペナルティエリア
内でかわせるかどうかだが、こればかりはやってみないと判らんよ
な。 だから、やってみる事にした。
1116
第二十話 ニックネームを頂戴しよう
赤信号ジョヴァンニをドリブルでぶち抜く。しかも相手が手の使
えるエリアの中で、その上にDFが追い付くまでの短時間という制
限付きで。
困難なミッションだが、それでも撃つ前に彼に防ぐのに最適なポ
ジションを取られてしまったシュートを狙うよりはまだゴールでき
る確率が高いはずだ。
というか今更捨てたシュートを撃つというプランを考えても仕方
がない。
ここまで接近されてしまうとシュートチャンスはもうなくなった
のだ。雑念を捨ててこの怪物キーパーをかわす事だけを考えなくて
は。
右・左と小刻みにフェイントをかけながらボールをタッチするが、
相手の軸はびくともしない。
俺とゴールの間に常に大きな体を割り込ませるように位置取りな
がら、じりじりと距離を詰めてくる。
これ以上は時間がかけられないと、ゴール正面に向かうフェイン
トを入れて実際にはシュートの角度がきつくなる縦への突破を試み
た。
え? これにもついてくるのかよ!
今の切り返しはキレのある会心の動きだったはずだが。こいつ手
を使わないでも絶対にイタリアの代表DFより一対一の防御が上手
いだろう。
くっ、危ない!
一瞬だけ余計な事を考えたのが仇になったのか、ジョヴァンニか
らのチェックで危うくボールを奪われそうになる。
1117
反射的にボールを引っ込めて体を反転し、身を捩って雛を守る親
鳥のように背中をキーパーに晒して懐にボールを抱え込んだ。
何とかボールを失う事だけは避けられたが、ジョヴァンニとゴー
ルに背を向ける格好になってしまったぞ。
ああ、しかもDFがエリア内に追い付いてきてキーパーのすぐ後
ろにバックアップとしてつきやがった。
本来ならDFが前に出てキーパーはその後ろに控えたいはずだ。
でもここでキーパーと位置を代わると、そのマークの受け渡しを
する僅かな隙に俺がシュートを撃つかもしれない。だからバックア
ップについたんだろう。
さらにもう一人のイタリアDFも遠いサイドのゴールポスト付近
に戻っていやがる。あそこに居られてはジョヴァンニの頭上を超す
ようなループを撃ってもあのDFに処理されてしまう。
しかし、イタリアの守備は鍛えられている。僅かな時間で守りを
整えてどんどん攻撃の手段を削ってくる。俺はこれでループシュー
トを撃つという選択肢までも失ってしまった。
どうする、どうする?
その時俺は一筋のシュートコースを見つけた。おそらく鳥の目を
持った俺にしか発見できないであろう道筋だ。
迷っている時間はない。決断すれば後はその直感に従って体を動
かすだけだ。
そしてこんな無茶な要求に応えられるように、俺はこれまで肉体
と技術を鍛え上げてきたのだ。
キーパーチャージにならないように気を付けながら、背中をジョ
ヴァンニに接触ギリギリまで近づけるとマルセイユルーレットのモ
ーションに入る。
相手もこの背中を向けた状態ではターンするかパスかの二択しか
ないと読んでいたのだろう、足を広げて腰を落とすと右からは抜か
1118
れない様にしている。
俺の左側はもうゴールラインギリギリで、これ以上は進めば外に
出てゴールキックになってしまうからだ。
このタイミングでしかシュートチャンスはない。
俺はゴールとジョヴァンニに背中を向けたままで思いきりヒール
キックを撃った。
長身のキーパーは足元が弱点だと言われるが、この赤信号に限っ
てはそうではなかった。これまでも狙ってはみたが、ことごとく防
がれたからだ。
だが今のこのタイミングならばどうだ?
至近距離でルーレットをしようと背中を見せている状態からのヒ
ールキックならば?
しかもジョヴァンニは自分の後ろにはちょうど今DFがバックア
ップに付いて、ゴールの守りが整ったと思った瞬間なら?
そしてゲームメイカーの俺にはここからはパスかドリブルしかな
いという判断でシュートへの集中が削がれた瞬間ならばどうだ?
背中越しの俺からヒールで撃たれたボールがこれほど強いとは思
ってもみなかったのだろう。ジョヴァンニの長い脚が閉じる事がで
きないうちに、その股の間をボールがすり抜けていく。
はっとしたジョヴァンニだが、後ろにバックアップのDFがいる
のを思い出したのかすぐ振り向く。彼がこのシュートをブロックし
てボールがこぼれた場合に備えて体勢を立て直したのだ。
仲間が俺のヒールショットを止めてくれると信じているのかそれ
ともキーパーとしての執念か、まだゴールを守るのをちっとも諦め
てはいないようだ。
うん、俺以外の鳥の目でピッチを眺めていないプレイヤーならば、
後ろを確認もしていない状況からのヒールシュートはただの悪あが
1119
きでしかなかっただろう。
でもな、俺はきちんとシュートコースを見つけて撃ったんだ。
キーパーだけでなくその後ろのDFの股下にもな。
ヒールキック一発で、キーパーとDFの二人を同時に股抜きでぶ
ち抜くシュートである。
キーパーがブラインドになったのか、後ろに控えていたDFは反
応すらできなかった。
どうやら自分の足の間をボールが通り過ぎてから初めて気が付い
たようで、驚愕に顔を歪めている。
ファーサイドへ構えていた残りのDFもまた、ループかパスを警
戒していた所へ仲間の影から突然現れたシュートなんか止められる
はずがない。 高い観客席からピッチを眺めていた観客達ですら、いきなりゴー
ルマウスの中にボールが出現したようにしか見えなかっただろう。
審判でさえゴール内にボールがあるのを二度確認してから、やや
遅くなったゴールの笛を吹いた。
俺も振り返って肉眼で確かめてから腹の底からの雄叫びを上げる。
﹁おおおー! 見たか! 俺を、いや日本代表を舐めるんじゃねー
ぞ!﹂
対戦相手への鬱憤を大声で晴らす。
この瞬間だけは試合中でありながら、ただゴールした感動と興奮
に我を忘れていい至福の時間だ。これまでの試合展開で受けた全て
のストレスが叫びと一緒に浄化されていく。
叫び終えようやく天に向けていた顔を戻して周りに気が使えるよ
うになると、叫ぶ場所をもう少し考えるべきだったかとちょっぴり
後悔した。
1120
なぜなら目の前にいたジョヴァンニの顔が髪と同じほど赤く染ま
り、歯を喰いしばっている音が聞こえそうなほど首の筋肉が膨れ上
がっていたからだ。正直怖ぇぞ。
だが仮にも相手も一国の代表選手、しかも主力である。
ぐっと何かをこらえると舌打ちと共に身を翻し、ゴールの中のボ
ールをセンターサークルへ向けて蹴り出した。
そして大声で怒鳴るようにまた仲間に指示し始める。まだまだ彼
は試合を諦めず、闘志に翳りはないようだ。
ここまで時間が経過してやっとゴールしたのが俺だと判ったのか、
チームメイトが祝福に駆け付けてくれた。
口々に﹁あの赤信号からゴールするなんて凄ぇ!﹂﹁後ろ向きの
方が決定力が高くなるなんてさすがアシカだな!﹂﹁さんざんワイ
を囮にしたんやからこのぐらいはやってもらわんとな﹂とバチバチ
背中を平手で叩きながら褒めてくれている。
﹁痛てて。あ、ありがとうございます。でもちょっと背中に紅葉を
つけるのは禁止でしたよね。勘弁してくださいよ﹂
俺の抗議にはっと一瞬チームメイトが手を止める。
だが﹁ふふふ、僕はそんなことしてないっすよ﹂という誰だかば
ればれの少年が見えてないと高を括ってかさらに平手で追い打ちを
かけると、﹁けけけけ、ワイも絶対してへんで﹂とか﹁ふはは、先
輩をもっと敬えー!﹂﹁デイフェンスの苦労はこんな物じゃないぞ
思い知れ﹂といったもはや得点とは何の関係もない言葉とともに、
勢いを増して背中の紅葉が数を増やす。
うう、こいつらに次のゴールをアシストしたら絶対にやり返して
やるぞ。
﹁まあ、ゴールして叩かれるなら本望やな!﹂
1121
﹁いやあんたがこの習慣に真っ先に反対したんですけどね﹂
﹁固いこと言うなや﹂
全員が悪気がないのだからこれ以上文句を付けても仕方がない。
次にこいつらがゴールした時に絶対お返しするのを楽しみにこれか
らはアシストに励もうか。
ようやく仲間からの拘束を解放された俺は、グシャグシャになっ
た髪とおそらくは大量の紅葉が付いた背中がひりひりとしてちょっ
と気にかかった。
だが俺の頬は緩みっぱなしだ。
そりゃそうだ。なにしろあの今大会ナンバーワンキーパーの呼び
声も高いイタリアの﹁赤信号﹂ジョヴァンニの守るゴールから得点
したんだもんな。
スタンドで盛んに振られている旗も歓声も俺一人に捧げられてい
るように錯覚してしまう。
自陣に戻る足取りがこれまで以上に軽く、まるで宙に浮いている
ような心地である。完全にゴールの美酒に酔ってしまった。
いかんいかん、このぐらいで満足してはいけないんだ。引き分け
ではなく、まだこれから逆転するという大仕事が残っているんだか
ら。
あんな曲芸染みたまねはジョヴァンニには二度と通用しないだろ
うし、一層気を引き締めたイタリアと赤信号が相手なんだから俺も
また気合を入れなおさなきゃいけない。
ああ、ほら見ろイタリアはもう完全に陣形を整えて再開に備えて
いるじゃないか。
イタリアの様子は同点に追いつかれても気落ちした様子を窺わせ
ない。ショックを外に出すことが自国の士気を下げ、相手を勇気づ
けると知っているのだろう。
1122
これからが本番だと声を掛け合い、自慢のキーパーが破られたダ
メージを表面上は完全に覆い隠している。ここら辺がサッカー伝統
国の持つ強さとしぶとさだな。
勝たなければグループリーグ敗退がほぼ決定のイタリアは攻撃的
に来るだろうが、日本もここから引き分け狙いに変更なんて器用な
真似はできない。もちろん明智や島津のポジションは前半の位置に
まで下げるが、攻撃を捨てて守りに徹する訳ではないのだ。
というか、俺の直感はそんな腰の引けた作戦を取ったらこのイタ
リアの覚悟に押し切られると告げている。
むしろ時間を気にするイタリアから先に一点取って、試合を決め
てしまうのがうちのチームの流儀なのだ。
さあ、ここからが勝負所。一番楽しく盛り上がるクライマックス
だな。
だからベンチで嬉しそうに右手を振りあげているが、左手は腹を
さすり続けている山形監督も安心してくれ。
上機嫌で親指を立てて監督にアピールすると、なぜかひきつった
表情をしながらもグッジョブと返してくれた。
この試合で見せたトリッキーなプレイとピッチ上での笑みを絶や
さない姿から﹁ピッチ上の道化師﹂という現在の代表の年代にスト
ライクな、中二病溢れるニックネームが俺に定着してしまったのだ
が、まあそれは試合後の事だ。
1123
第二十一話 残った力をつぎ込もう
日本を相手には、引き分けではなくあくまで勝ち点三を目指して
いるのだろう。イタリアは守備最優先の方針から、攻撃的に戦術を
シフトしてきた。
だがイタリアは攻撃的になるといってもむやみに前線を分厚くす
るのではなく、DFラインと中盤を押し上げてくる作戦を採用した
のだ。
これまでは自陣の深いところまで誘い込んでからのカウンターを
狙っていたが、もっと前の日本陣内でボール狩りを行ってからのシ
ョートカウンターで得点するつもりらしい。
その戦術の変更に従い今までは緩かった中盤でのプレスも、セリ
エA仕込みの激しい当りでぶつかってくる。
日本代表も中盤の潰し合いに備え、おそらくこの試合で一番走っ
ていたであろうアンカー役を交代でフレッシュな人材に交代させた。
うん、中盤の負担を全部押し付けたこっちを恨みがましい目で見
るのならまだいい。だが﹁後は頼むぞ!﹂と割に合わない黒子役だ
った彼から交代間際に純粋に応援されては、俺達も頑張らざるを得
ない。
今度のアンカー役はスタメンの彼に比べれば運動量はともかくス
ペースを埋めるセンスでは一枚落ちるが、残り時間も少ないし島津
も一応サイドの守備はするとは言ってはいる。
終了までなんとか中盤の底を支えてくれるはずだ。
﹁よし、同点に追い付いたからと守りに入るなよ。守備は僕達に任
せて攻撃陣はこれまで通り攻めまくれ!﹂
1124
新たな中盤の番犬の出現で後顧の憂いがなくなった俺達攻撃陣は、
真田キャプテンの檄に従って引き分けではなくもう一点を奪いに行
く。
だがここでちょっとしたアクシデントが一つ。
まずい事に、俺の足にもう疲労が溜まってきているのだ。
いや前半からずっとアクセルべた踏みのオーバーペースで攻め込
んでいたし、強引なドリブル突破も何度もした。足への負担は相当
な物だとは思うがこの勝負所で燃料切れかよ。
中学に入ってからスタミナは随分とつけたつもりだったが、国際
試合の激しく濃い内容の試合ではこれぐらいじゃまだ厳しいのか。
だからといっても泣き言は言えない。あれだけ後方をフォローし
てくれたアンカーから後を託されたんだ。その一分後に﹁疲れたか
らもう駄目﹂と下がったりしたら笑われてしまう。
それに何よりこれだけ楽しい試合で自分から降りたいなんて思う
はずがない。
この足でももうドリブルで突破するのは難しいかもしれないが、
一点目を決めた俺がいるだけでもイタリアにとってはプレッシャー
になるはずだ。
うん、自分から交代を申し出るのはなしだな。
︱︱それにしても、ちらりと山下先輩と馬場に目をやる。この二
人は前線で張っている役割なのに中盤の組立にも参加して時にはプ
レスにも加わっている。よく体力が持つもんだ。
﹁アシカ、どうかしたか!?﹂
目敏く俺の様子に気が付いた山下先輩から声がかかる。この人い
つの間にか俺の保護者みたいな位置にいるな。精神年齢は俺の方が
ずっと上のはずなんだが。
1125
﹁何でもないですよ。ただ問題があるとすれば皆に叩かれた背中が
痛いぐらいでしょうか﹂
スタミナ切れを誤魔化した俺の返答だが思い当たる節があるのか
そっぽを向く山下先輩。この辺の仕草は、小学生の矢張クラブで下
尾監督に叱られた時と全く同じで成長してないのが微笑ましい。
﹁まあ冗談はともかく、ゴールを決めた俺へのマークが厳しくなる
と思いますから上杉さんと先輩のどちらかで得点してくださいよ﹂
﹁おう任せておけよ、特に俺にな﹂
びっと親指を立てて請け合う先輩はこれまで長年の付き合いもあ
って信頼できる。
正直足の限界が近い俺が、自分でまたドリブル突破からゴールと
言うのは難しい。どうしても崩しの段階とラストパスを託す相手に
は自力でディフェンスをこじ開けてもらわなければならないのだ。
まあ、任せろといったんだから任せるぞ先輩よ。
新しく入ってきた日本のアンカーが、これまで試合に出れず溜め
込んだ鬱憤と体力を吐き出すように凄い勢いで走り回りイタリアか
らボールを奪った。
よし、あれだけ縦横無尽に駆け回ってくれると、こっちとしても
体力が温存出来てありがたい。
と、そんな事を考えている最中に俺へパスを寄越しやがった。守
備は楽をさせてくれても、ゲームメイクでサボらせてはくれるつも
りはなさそうだな。
新入りアンカーの昂ぶりを伝えるように、通されたパスも威勢が
いい。軽く引いてトラップしないと懐からこぼれてしまうほどだ。
今の中盤ではそんな些細なミスも許されない。これまではほぼノ
1126
ーマークだったハーフウェイ・ラインの手前でも、ほら背中に物理
的圧力を感じる程に敵のMFが当たってくる。
これはイタリアが俺を密着マークしなければならない相手だと認
めてくれたって事かね、それはまた光栄な事で。
でも俺はこうして相撲のように体を押し合うのは得意じゃないん
だ、失礼させてもいますよ。
ターンせずにまたもヒールで後ろ向きにパスを出す。
今度は股抜きではなかったが、パスを出されたのに気が付いた背
中に張り付いていたマーカーが舌打ちして俺を睨んでいる。どうや
らイタリアは俺のヒールがかなり気にいらないようだ。
さっきの同点ゴールの取られ方に相当プライドを傷つけられたの
かもしれない。
ヒールキックにしては正確で強いボールを蹴れるのが俺の強みで
ある。いや、そうじゃないとさすがにジョヴァンニを相手にシュー
トまでは撃とうと思わないよ。
とにかく俺が後ろ向きに出したボールはきちんと山下先輩の足元
に収まった。
先輩をマークするはずのDFは、ノールックだったために俺から
のパスのタイミングを計れなかったのかまだ体を寄せるまでは距離
を潰しきれていない。その隙に山下先輩が反転し前を向く。
こうなればドリブルでの一対一の勝負となる。
少しでもフォローしようと俺も萎えかけた足を叱咤すると、マー
クを引き連れてピッチの中央を駆け上がった。
俺と山下先輩のコンビネーションはこの試合で何度も披露してい
る。当然相手も警戒していたのだろう、先輩をマークしている相手
が幾分か俺へのパスルートを気にする素振りを見せた。
そこで山下先輩が俺とは逆のサイドへとキレのあるドリブルでマ
ークを一気に抜き去る。
1127
右サイドから縦への突破かとイタリアのサイドバックが警戒する
も、山下先輩のさらに右から島津がタッチライン沿いに爆走してき
た為にマークを絞り切れない。おい島津、お前はディフェンスを頑
張るってさっき言ってなかったか?
そんなオーバーラップの回数が俺より多いDFにパスを出すフェ
イクを入れて、山下先輩は内に切れ込んだ。
よしいい展開だ。
だが、もう少しでミドルシュートを撃てるバイタルエリアへ︱︱
といった所で先輩は敵DFからユニフォームを引っ張られ転倒する。
げ、危ない!
スピードに乗っていたから派手な転び方になって一瞬ヒヤリとす
るが、綺麗に体を丸めて芝の上で回転しているのだからきちんと受
け身を取ったのだろう。怪我の心配はたぶん無さそうだ。
でもやっぱり最近お世話になりっぱなしの俺が一番に駆けつけな
ければいけないだろう。
幸い位置が近かっただけに﹁痛てて﹂と顔をしかめている先輩に
真っ先にたどり着いたのは俺だった。
その表情からも深刻なダメージは負っていないと判断し、少し胸
を撫で下ろす。
﹁怪我はしてませんか?﹂
﹁ああ、ちょっと肩と肘を打っただけだ。他は⋮⋮うん、まあ問題
ないな﹂
山下先輩はゆっくりと体を起こすと、軽く屈伸までして体の損傷
を確かめる。すりむいた肘をちょっと気にしているがプレイを続行
するのに支障がある怪我はないらしい。
ならここからは俺の出番だな。
審判がファールをしたDFにイエローカードを突きつけているの
1128
を眺めてはっきり告げる。
﹁このフリーキックは直接俺が狙います﹂
この位置からなら俺の得意なブレ玉のフリーキックでゴールが狙
える。
もちろんあのジョヴァンニから簡単に得点できないのは覚悟の上
だが、ブレ玉だけはどんなに優秀なキーパーでもキャッチするのが
ほぼ不可能なボールだ。いくらあいつでもボールをこぼす可能性が
高い。
そこからルーズボールを押し込もうとする作戦は十分にありだろ
う。
同じくフリーキックが得意な明智や今倒れたばかりの山下先輩を
制して、俺が少し遠めのここから直接狙わせてもらう。
正直俺の体力は限界が近いのだ。
これ以上だらだらとプレイをするよりもこのセットプレイで得点
をして、勝ち越ししておかないとスタミナがもたないかもしれない。
日本のベンチではいつものように俺の交代要員がアップをしてい
るから、監督も俺の燃料切れはお見通しのようだ。
だからこそ、このフリーキックに残った全ての体力をつぎ込む!
審判が指示した場所にボールを置くと、丁寧にボールの空気穴を
自分に向ける。これをキックする時の目印にするとよく入るという
小学生時代からのジンクスだ、どうか今日も上手く揺れてくれよ。
そうボールに頼みながら、視線は一切上げない。
イタリアはゴール前に作った壁の位置をちらりと確認した後は、
ずっとボールを見つめたままの俺の姿を不気味そうに眺めている。
こら、見えてないと思っているみたいだが、ちゃんと把握してるん
だからな。
こうしてキッカーである俺が顔を上げないと、選手間の意志疎通
1129
の重要なトリックプレイではなく直接ゴールを狙ってくるのは嫌で
も伝わってしまう。
だが、それでも視線や仕草でジョヴァンニにシュートコースまで
読まれるのは避けたかったのだ。
いくらブレ玉が予測不能の揺れ方をするといっても、予めコース
に入られて待ち構えられていたら分が悪いからな。
そんな集中している俺を助けるように、明智が抗議して審判が壁
に下がれと指示をする。それをどこか遠くに感じるほど俺は自分の
世界に入り込み、フリーキックを撃つ事にだけ集中していた。
だから笛が耳に届いた時、無意識に体の方が勝手に動いていたの
である。気が付けば俺に出来る最高のキックで直接ゴールを狙った
ブレ玉シュートを撃っていたんだ。
︱︱行けぇ!
1130
第二十二話 得点王を狙ってみよう
俺の足に鈍いずしりとした感触を残してボールが飛んでいく。
この手応え︱︱いや足応えは決して悪い物ではない。すぱっと振
りぬいたキレのあるシュートではなく、俺のパワーと体重の全てを
受け取った重いボールになるからだ。
ブレ玉はそのボールのスピードが速ければ速いほど、回転数が少
なければ少ないほどよく揺れる。
この時の俺が蹴ったフリーキックは自分でも驚くほど揺れてくれ
た。
試合中のアドレナリンでリミッターが外れていたのか、練習でも
ここまで揺れた経験はない会心のシュートだ。漫画であれば間違い
なくボールが分身したように描かれるぐらいの出来である。
ここまで揺れが大きいと少しばかり距離がゴールまであっても問
題ない。いや却って距離があった分沢山揺れるだけの余裕が与えら
れている。
よし! 上手くイタリアの作った壁を越えてくれたな、後の問題
はこれだけブレてもちゃんとゴールの枠に収まってくれるのかとい
う点と︱︱ジョヴァンニだけだ。
そのジョヴァンニはさすがにもう素早くシュートコースに入って
いる。くそ、他のキーパーの反応よりも確実に一歩は速いぞ。
しかもそこで簡単に飛びついてくれないのが、赤信号とまで言わ
れる彼の安定感のなせる技だ。ブレ玉だけにぎりぎりまで見極めよ
うとして安易な手段を取ってくれない。
だがこれだけボールが揺れるのは彼にとっても想定外だったのだ
ろう、キャッチは諦めたのか引き付けたボールに叩き付けるように
強烈なパンチングをする。
1131
ブレ玉に対しては強く弾くのが対処法としては正しい。それによ
って遠くまでボールが跳んでくれればそれだけゴールから離れる事
になるし、ブレたせいできちんと拳に当たらなかったとしても真後
ろにあるゴールの枠を外れてくれる可能性が高くなるからだ。
だがジョヴァンニによって弾かれたボールは遠くまでは飛ばなか
った。
ここまでボールがブレたのは予想外だったのか、キーパーの上に
向けて遠くに飛ばそうとした意図に反してせいぜいがフリーキック
で作った壁の辺りまでしか跳ね返らなかったのだ。
そのこぼれ球にいち早く反応したのは山下先輩だ。
とてもさっきファールを受けたとは思えない反応でジョヴァンニ
の弾いたボールをダイレクトボレーで打ち返す。
しかし、これは運が悪く壁を作っていたイタリアのDFの体にぶ
つかってしまう。
ボールは落ち着かずに再び跳ねて人の居ないところへ︱︱あれ、
いつの間にか人が居るじゃないか。
さっきまではあのスペースには誰もいなかったはずなのに、なん
でそこで待ちかまえていたんだよ上杉とジョヴァンニは?
ボールが忙しく行き交う中、一人だけ違ったポジションをとって
いた日本のエースストライカーが満を持して豪快なシュートをイタ
リアゴールに向かって叩き込もうとする。
そして、それを止めようと立ちはだかる大会ナンバーワンキーパ
ー。
行けぇ! 俺だけでなくチームの全員が、いや日本代表を応援し
ている全員がそう叫んだだろう。
︱︱なのになぜ上杉よ、お前は違う事を叫んでいるんだ? ﹁死
にさらせ!﹂だなんて。
1132
◇ ◇ ◇
足利のフリーキックの軌跡を見つめながら、ようけブレてるなと
上杉は感心する。
あれだけ揺れるボールを蹴るなんて彼には無理だ。パワーだけな
ら足利とは比べ物にならないが、元々が本能でプレイしているので
止まっている球を蹴るよりダイレクトで撃った方がコントロールも
威力も上がるという珍しいタイプなのである。 だからPK以外のセットプレイでのキッカーの選択肢には上杉は
入っていないのだ。
とにかくそのフリーキックのボールとキーパーのジョヴァンニの
反応から上杉は自分がどう動くかを決定する。
彼の鋭い反射神経はキーパーが弾いたボールがほぼ正面へ跳ね返
るのに反応しかけた。
だがストライカーとしての本能がなぜかそれを拒否し、彼の体を
逆の方向へと動かす。
敵も味方もマーカーも全員がこぼれ球とそれをシュートする山下
に注目する中、上杉は一人だけ目もくれずにその場から離れるよう
にやや左へと自分のポジションを移動したのだ。
︱︱あの位置からこぼれ球を争っても間に合わなかった。だがこ
こへボールがくれば⋮⋮。
上杉のポジショニングが良かったのか、それとも確率を無視した
ストライカーの嗅覚なのかは不明だ。だがとにかく上杉は山下のシ
ュートがDFの壁に当たり、自分の方へとボールが落ちてくるのを
目撃した。
待ってたでと、左肩をゴールに向けて軸を作り右足を引き絞る。
彼がそこまで万全の態勢でボールを待っている所に邪魔者が姿を
1133
現した。
またもジョヴァンニが彼の前へ猛スピードでダッシュしてきたの
である。
他のDFが上杉の理に適っていない上杉の不規則な移動に振り切
られたのに、このキーパーの反応はまた別格だ。
足利のフリーキックを弾いた後、さらにDFが止めたとはいえ山
下のシュートにも止める準備していたはずだ。そこからすぐにまた
上杉の位置にまで一息で距離を詰めてくるのか。
上杉はこの日本のチャンスをあくまでも邪魔し続ける少年に、ど
う対応しようか寸時頭を悩ました。
これは前半も似た状況があった、あの時はこいつの横へコントロ
ールしたシュートをしようとして失敗したのだ。
ならループシュートならどうや? 頭に浮かんだその案を上杉は
却下する。こっちに向かってくるボールの速度はかなりの物だ。だ
からこそ他のDFが追いついて来ないのだが、それをダイレクトで
柔らかいループで返すなんて器用な真似は彼には無理である。
ならば︱︱これしかない。
﹁死にさらせ!﹂
その言葉と一緒に上杉はボールを全力でジョヴァンニの顔面に向
けて叩き付ける。
凄まじい唸りを上げて吸い込まれるようにジョヴァンニの引きつ
った顔へ向かったボールは、寸前で彼の腕によって防がれる。
だがとっさの出来事にさすがの怪物キーパーもキャッチなどはも
ちろん、しっかりとブロックもできなかったのだろう。脇の甘いブ
ロックでは勢いを殺しきれなかったボールがジョヴァンニの顔を捉
えて後方へとなぎ倒す。
1134
﹁よし、KOや!﹂
無意識にガッツポーズを取った上杉はすぐさま、これがサッカー
だと思い出す。
しくじった、相手を倒してもまだゴールやないんやったな。ボー
ルはどこいったんや? はっとする彼の目に、ジョヴァンニに当たってまたもゴール前に
こぼれて転々とするボールが映る。
あかん、ここからでは届かへん。そう判ってはいても可能性を信
じて飛び込もうとするのが点取り屋だ。
だが、上杉よりも早く近い場所で頭から飛び込んだ日本の選手が
一人いた。
この試合沈黙していたどころか、実況席ではウィークポイントと
して槍玉に上げられていた少年だ。
小柄で俊敏なその体躯を生かし、DFの壁をすり抜けて島津はこ
ぼれ玉へと誰より速くダイビングする。
その島津の額によって角度の変わったボールは、あまり勢いがな
くころころといった感じでゴールマウスの中に転がり込む。
審判が得点に笛を鳴らすのと島津が立ち上がって叫ぶのはほぼ同
時だった。
一斉に小さな点取り屋に集まる日本代表の選手達。だけどアシス
トする形になった上杉にとってその輪にはなんだか入りにくい。
これで島津はこのイギリスに来てから二得点、上杉を抜いて日本
代表内の得点王になったからだ。
これまで所属したチームで全て︱︱とは言っても中学のサッカー
部と日本代表だけだが、上杉はずっとエースストライカーで得点王
という主役だったのだ。
試合に勝つためには必要だと理解していても、自分より得点して
いる人間を素直に祝福できない。
1135
まあ、しゃあない。ワイがこれからもっと点をとればええこっち
ゃ。
一つだけ誰にも聞かれないように溜め息を吐くと、大股で島津へ
と近づく。
﹁ようやったな島津!﹂
そう声を張り上げた上杉によって付けられた島津の背中の紅葉は、
真っ赤になるほどでいくらなんでも力が入りすぎていた。それでも
島津は同じ点取り屋らしいシンパシーを感じたのか、ちょっとした
嫉妬もご愛敬だなと笑っていたのが周りの印象には残る。
どうやら上杉よりもずっと精神的には大人のようである⋮⋮あの
プレイスタイルからは想像できないのだが。
しかし上杉もこのままで終わるつもりはない、チーム内での得点
王を奪回すべくこの試合で攻撃のほとんどの指揮をとっている足利
にワイへもっとパスを寄越せと要求する視線を送る。
今日のお前なら、俺へ最高のアシストができるはずやと。
だが、その対象となった足利はベンチの方へと頭上で拍手しなが
ら歩み出していく。
え? なんやアシカはもう交代かいな。
決意が空振りになった上杉は拍子抜けの気分を抑えきれず、思わ
ず足利を呼び止めた。
﹁おいアシカちょい待てや﹂
﹁はい、何ですか?﹂
素直に立ち止まる足利に何と告げるべきか彼は悩んだ。怒るのも
文句を付けるのも違うだろう。こいつがこれまで頑張っていたのは
判る。
1136
パスが少なかった訳でもない。ジョヴァンニによってシュートを
止められただけでちゃんとゴール前に何度もボールを届けてくれて
いた。
交代なんかするなと言うのも無茶だ、監督の指示の上にこの小柄
なゲームメイカーには技術に見合った体力がまだ身についてないの
も理解している。残り時間も短いとはいえこれ以上出場し続けろと
言うのは酷だろう。
だが、結果的とはいえ自分にアシストしてくれなかった奴をよく
やったと褒めるのも上杉のキャラではない。自分をKOしたボクサ
ーを祝福しなければいけないような表現しがたい心境だ。
﹁あー、なんや﹂
交代する前に余計な時間はかけられない。上杉にとっては﹁まあ
ようやったな﹂と声をかけるぐらいが精一杯だった。
﹁きょ、今日はこのへんにしといたるわ!﹂
⋮⋮あれ? どうも思った通りのねぎらいの言葉が出てこない上
杉だった。
1137
第二十三話 テレビとネットに踊らされよう
﹁ああっとどうやらここで山形監督はトップ下で司令塔の役割を果
たしていた足利選手を下げますね。交代で入るのは守備が得意なM
Fの選手ですから、どうやらボランチだった明智選手を一列上げて
攻撃の組立を任せ、中盤の底の守りをフレッシュな交代メンバーで
固める作戦に出るようです。
今、チーム最年少の足利選手がサポーターからの拍手に送られな
がらピッチを後にしています。ピッチ上の道化師の舞台は今日の所
はこれにて閉幕を迎えたようですね。次回の公演を楽しみにしまし
ょう。
さあそして残り時間はロスタイムを考えても十分足らずといった
ところでしょうか、山形監督がアジア予選で何度も見せた守りの方
程式に従って最後の逃げ切りを図るようです﹂
﹁そ、そうですね。残り時間を考えればこの交代は悪くはないと思
いますよ﹂
解説役の松永の声は上擦っている。後半が始まるまでは自信満々
な態度だったのが、足利の同点ゴールからだんだんと元気がなくな
った。それ以降は大柄な体躯がしぼんだようで解説の言葉も徐々に
減ってきている。
松永の変化を肌で感じているアナウンサーが気配を感じて画面に
映らない場所を横目で見ると、そこには﹁どんどん松永に突っ込ん
でいいぞ﹂と書いたフリップを掲げているディレクターの姿が。
どうやら上の方針が視聴者からの苦情に耐えかねて松永を切り捨
てても構わないと決まったのだろう、やっと松永と正面から対決し
てもいいようだ。
自分勝手な松永に対してこれまでとらざる得なかった迂遠なやり
1138
とりや奥歯に物が挟まった態度とはもうおさらばだと思うと、アナ
ウンサーは長時間実況を続けてきた精神的疲労がみるみる回復する
ように感じられた。
俄然攻撃的になったアナウンサーが、表面上はあくまでもにこや
かに松永を問い詰め始める。
﹁さて足利選手ですが、松永さんは彼が同点のゴールを決めるまで
ずっと足利選手には辛口のコメントばかりでしたね。結果的に彼は
ピッチを後にする時、観客からスタンディングオベーションを受け
るほど活躍しましたが﹂
﹁い、いやいつもの試合よりパスをゴール前でカットされる率が高
かったですからね。それに結局ノーゴールで終わった前半のスコア
では攻撃を操る司令塔として責められて当然でしょう﹂
ソフトな語り口のアナウンサーに冷や汗混じりに答える松永。彼
我の立場が完全に逆転してしまっている。
﹁前半もPKを取ったりとなかなか活躍していた印象はありました
が⋮⋮、そういえば足利選手や島津選手など今日の試合で得点した
のは、どちらも松永さんが批判した選手ばかりですね﹂
﹁⋮⋮あれは、何と言うか、そう愛の鞭! 叱咤激励の喝です。甘
やかすだけでなく時には厳しい態度で臨むことで、まだまだ成長段
階であるこの年代のサッカー選手達は世界と戦えるぐらいに一段と
レベルを上げていくんですよ﹂
﹁それに足利選手のヒールキックでのファインゴールが決まった時
には﹁嘘だ!﹂と絶叫してましたが﹂
畳み掛けるようなアナウンサーの指摘にしばし固まっていた松永
は、はっと頭に豆電球が付いたような明るい表情で言い訳を開始す
る。
1139
﹁ああ、あれは﹁嘘だ﹂と言ったんじゃなくて﹁うんそうだ﹂と足
利のプレイに対して後押しの応援をしたんですよ。ああいったトリ
ックプレイは彼の持ち味ですからね。これまでさんざん手塩にかけ
た愛弟子のプレイをわざと悪く言うわけないじゃないですか﹂
必死に言い募る松永とは逆にアナウンサーの方は懐疑的だ。
﹁そうでしたか⋮⋮? ではVTRで松永さんの発言の確認を﹂
﹁それよりも今ピッチで行われている試合に集中しましょう! 日
本がここから守り切れるかどうかが大事なんです。ほら、もう残り
はロスタイムだけになっているんですよ!﹂
﹁そ、そうですね。松永さんへの追及はまた後ほどにして、頑張れ
日本! 残り僅かな時間、きっちり守り切ってくれ!﹂
ふう、何とか逃げ切ったなと顔に書いてあるような松永が、額の
汗を拭うとデスク上に置いてあった水をぐいと乱暴に飲み干して視
聴者に向けてなのか弁解する。
﹁これまで足利に対して何度も辛口のコメントをしましたが全部彼
に成長してもらいたいがためです。その証拠に私は代表監督時代に、
足利特有の下を向いたプレイスタイルやヒールキックの多用に文句
を一言も言ってません。これは彼に確認してもらっても構いません
よ。だから誤解を恐れずに言うなら足利の特異なプレイスタイルは
私が育てたと言っていいでしょう﹂
◇ ◇ ◇
はやてる
﹁アシカは、じゃなかった速輝は私が育てた!﹂
1140
テレビからの解説者の言葉に対抗するように日本では胸を張って
宣言する女性がいた。その隣の赤いフレームの眼鏡をかけた小柄な
少女が﹁そりゃアシカの実のお母さんなんだから当たり前なんだけ
ど、ちょっと落ち着こうよ⋮⋮﹂となだめる。
だが、少女は最初は抑える役割のはずだったが言葉を重ねている
内にだんだんと自分の方の血圧が上ってきてしまったようだ。艶や
かなポニーテールを振り回し、松永への弾劾を開始する。
﹁なんだか今の発言はおかしいよね。アシカのプレイスタイルに文
句を言わなかったって、そりゃほとんど話をした事がなかったから
じゃないか! アシカから聞いた話では、最初に挨拶した時そっけ
なく頷かれたぐらいしか対面した記憶はないって言ってたんだよ。
どこが育てたって言うんだ、もし本当にそう思っているならこの松
永って監督の下の選手は皆が育児放棄されてるよ!﹂ ﹁あ、あの真ちゃんどうどう﹂
立場を入れ替えて今度は真を足利の母が落ち着かせる番だ。
それでもいくら年長の彼女もずっと我慢ができるわけではない。
遠いイギリスの我が子と目の前で興奮している幼馴染みとどちらも
思い入れが深いだけに、前監督である松永のあまりに適当な言い草
にイライラが募ってきているようだった。
そんな頭に血が昇った二人の怒りの炎に油を注ぐように、またテ
レビから松永の空気を読んでいない発言が足利家のさして広くない
リビングに響く。
﹁足利については彼の自主性を尊重し、技術をいかしたトリッキー
な特質を損なわないようにとそれだけに気を使いましたね。その結
晶としてこの試合のヒールショットに繋がったのなら彼を初めて見
出した監督として誇らしいです﹂
1141
また画面越しの無責任な松永のコメントに﹁むきー﹂と真が吠え
る。
﹁それってよーするに、アシカに対しては何も指導してないってこ
とじゃないか! それに初招集してから後は一遍も呼ばなかったく
せに!﹂ そこで何かを思い出したように急いで携帯を取り出して操作する。
その小さく可愛らしい口元は歪み、眼鏡はレンズに光が反射して輝
きその下に隠れた瞳がどんな様子をしているのかは判然としない。
どこからともなく﹁ふふふ、実況スレで暴露してやるもん﹂とかい
った小さな声が漏れてくる。
もう我が子が出ていない試合よりも、何かにとりつかれたような
真の方が気にかかる足利の母も多少は息子の仲間がまだ戦っている
代表チームに対しては薄情かもしれない。
その足利の母からどこか心配そうな視線を受けていた真は携帯を
見つめて﹁ひぃ!﹂と悲鳴を上げる。
﹁うわーん、ネットでの代表のサッカー速報スレッドで﹁悲報! 日本代表に選ばれていた足利選手がイギリスにおいてバックで赤信
号を無視し強引に突破した模様。なおこの事件の目撃者は現地でも
1万人近く、テレビ撮影もされており被害を受けたイタリア人から
現在も罵声を浴びている。しかも足利少年はまだ十三歳であり当然
無免許であった。関係者は事態を重く考えて足利選手の身元を調査
している﹂なんて書き込んである⋮⋮どこから突っ込んでいいのか
判らない出鱈目が拡散してるよー!﹂
まるっきりの嘘ではないが、微妙に間違っている。これではまる
でサッカーについてではなく足利が無免許で自動車事故を起こした
1142
犯罪者のような記事になっているではないか。
もちろんこれはイタリア戦での、足利のヒールでのゴールとそれ
に対する観客の反応に関しての物である。イタリア人サポーターが
ブーイングをしたのは間違いないし、関係者が身元を調査って事は
海外クラブのスカウトが足利のプレイに興味を示して動き出したっ
てことだろう。
たぶんこれはネット上の冗談のつもりで書かれた速報には違いな
いが、大事な試合で活躍したにも関わらずこういったネタになると
は素直な賞賛とはとことん縁のない足利少年である。
そこへまた真の悲鳴が上がる。
﹁ああ、今度はアシカについて﹁後ろ向きで俯きがちな敵と目を合
わせられないチキン﹂とか書き込まれてる! なんでイタリアに勝
ち越した殊勲者をそうバッシングするのかな! あ、他にも﹁あの
フリーキックをアシカがヒールで蹴ってたらそれで入ってたんじゃ
?﹂ってなんだか普通のキックよりヒールで撃った方が威力のある
必殺技っぽく思われっちゃてるよ! 褒めている意見もあるけれど、
あのプレイスタイルは真面目なファンには人気がないのかな。なん
だかネタ扱いされている方が多いよー!﹂
﹁ま、真ちゃん。試合が終わって無事に日本が勝ったみたいだから、
もう携帯を見るのはその辺で、ね?﹂
⋮⋮結局試合は足利が居なくなってからも流れは変わらず、無事
に日本がリードを守り切っての勝利に終わった。
だが、真にとってアシカの試合が終わっても彼女自身の戦いはこ
れからだと拳を握りしめ、携帯からパソコンへ武器を持ち替えて孤
独なネット上で戦い始めるのだった。
この彼女の尽力によってネット上でのお祭りと論戦はさらに拡大
の一途をたどり、若き日本代表はサッカー関係のマスコミのみなら
1143
ず一般人を相手にするマスメディアからも、さらなる注目を浴びる
こととなった。だがそれはまた少し先の話である。
1144
第二十四話 体をゆっくり休ませよう
イタリア戦の翌日、俺は少し寝坊気味に目を覚ました。
あくびをしながらぐっと背筋を伸ばすとぽきぽきと凝り固まった
関節が鳴る。うう、ちょっとまだ疲労が抜けきっていないな。フル
出場は免れたのにと、他の最後まで戦ったスタメンに比べて自分の
体力の無さに落ち込みそうになる。
ま、まあ体力作りは長期的課題だ。小学生の頃も初の全国大会で
は息切れしたが、卒業する頃には一試合を通しても平気になってい
たのだ。
だからきっと試合時間が中学になってから延びたのにも、もうし
ばらくすれば適応できるはずだ。⋮⋮ただこの世界大会には間に合
わなさそうなのが辛いところだが。
さて眠い目をこすりつつ食堂に行き、あまり美味しいと思わずに
バイキングで消化の良さそうな朝食を取る。
食べなきゃ体力が回復しないのは判っているが、なんだかこっち
のパンは日本の物よりぱさついている感じなんだよな。元気一杯な
時はいいが、ちょっと疲れている時なんかはそんな僅かな違和感が
気にかかってしまう。
むにゃむにゃとゆっくり食べているといつの間にか食堂に残る最
後の一人になってしまった。
さて今日は試合直後の休養日だ、これからミーティングが行われ
る夕方までどうするかなと砂糖を多めに入れた食後の紅茶で喉を潤
しながら思考する。
本来はコーヒー党の俺だが、イギリスでは明らかに紅茶の方が美
味しいのでどうしてもそっちを頼むようになる。正確に言えばこの
ホテルのコーヒーがあんまり美味しくないのだが、これはもしかし
1145
たら海外からの宿泊客を紅茶党へ洗脳しようとする陰謀ではないか
と俺は密かに疑っている。
こんなくだらない陰謀論を考えられるのも、ようやくはっきりと
目が覚め脳に血が巡り始めて物が考えられるようになったおかげだ
な。
とりあえず、一回自室に戻って習慣になっているランニングをし
てからマッサージを頼もう。チームドクターではなくフィジカルコ
ーチにしてもらうのだが、これが中々に気持ちがいい。疲れている
時なんかは途中でいびきをかいてしまうほどリラックスできて、翌
日になるとだいぶ疲れが軽減されているのだ。
昨日も試合後してもらったがさすがにマッサージを希望する人数
が多く、あまりじっくりとやってはもらえなかった。今日ならば少
しはゆっくりと時間をかけて丁寧に揉みほぐしてもらえるかもしれ
ない。
自室からトレーニングウェアに着替えてランニングに行こうとす
ると、その途中でまた余計な物が目に入った。
ミーティングルームで明智が携帯をいじっていたのである。もし
かして、こいつ俺の進路を先回りしてないか?
前もこんな事があったよなと思いつつ、やっぱり無視は良くない
だろうと声をかける。
﹁明智さん何してるんですか?﹂
﹁ああ、昨日の試合の日本での評判をちょっとしらべてみたっす﹂
そう言って日本国内での俺達代表に対する反応を大雑把にまとめ
てくれた。
明智は情報を扱うのが好きなのか対戦相手や自分達のデータを尋
ねると、大体二つ返事で答えてくれるのだ。
1146
さてイタリア戦での勝利の後日本では山形監督率いる我がアンダ
ー十五の日本代表は、サッカー関係者だけでなく一般層にまで話題
になっているそうだ。
そりゃそうだろ。俺達の代表チームは手前味噌になるが、まず何
と言っても試合内容が面白い。
ほとんどやけくそでスタメンを選んだのではないかと邪推される
ほど、攻撃的な面子の多い刺激的なチームである。
そのためにアジア予選以来これまでのどの試合も必ず得点と失点
の両方があるので、報道するにしてもゴールシーンを中心に非常に
エキサイティングに編集しやすいのだそうだ。
そしてこれはプラス面もマイナス面もあったが、ネット発で俺達
代表に関する話題が沸騰したらしいのだ。
俺を含めた攻撃的でかつ突っ込み所の多いメンバーは、にわかフ
ァンにしても判りやすい実に何というか﹁キャラが立っている選手﹂
が多かったのである。
特に目立つ選手についてはプレイスタイルからこれまでのまだま
だ短いがキャリア通算の成績など、ネット上では詳細な記録に分析
までされている。
俺もそこで名前の挙がっている選手の一人だが、皆がこれまでの
公式戦が何試合で何得点とか書いてあるのだ。だがある人物だけは
何試合で何KOというKO率まで入った毛色の変わった経歴も持っ
ている。明らかにサッカーだけの情報じゃないよな。
そこまで調べているのは凄ぇが、これ一体何の役に立つんだ? 他にも好調な視聴率で扱いが大きくなった世界大会の生中継の実
況だが、アナウンサーと松永によってコントのような掛け合いが行
われているらしい。放送日に毎回のように炎上する自身のブログに
燃料を注ぎ続ける松永前監督が、一試合ごとにドヤ顔から冷や汗へ
と変化していく。それをリアルタイムで実況するスレは大人気だっ
1147
たそうだ。
おかげでネット上では謎の﹁納豆少女﹂のように現代表を応援す
るサポーター達と、松永は現役時代は凄かったんだとする一派が激
しく論戦を繰り広げているのだ。
この両者の戦いはもうほとんど戦術や選手選考の議論ではなく、
互いの嗜好の問題になってきてしまっている。
論戦の一例を挙げると﹁白飯の一番の友は納豆だよね、だからア
シカが後ろ向きでプレイしてもOKだよ!﹂﹁何を! 松永前監督
はJリーグになる前に得点王を取ったこともあるんだぞ。だから絶
対島津の先発出場はおかしかったんだ!﹂⋮⋮もはや戦術的にどち
らが正しいとか言うレベルではない泥沼の戦いの様相を呈していた。
それがまた白飯に最も合うのは梅干し派とか日本の歴代最高のス
トライカーは誰かなど、話題は代表そっちのけで場外乱闘のような
盛り上がりも見せていたのである。
﹁これって喜んでいいんでしょうかね?﹂
﹁さあ判らないっす。でも代表に注目度が上がったという点はプラ
スっすね。多くの人に応援されるとやっぱりやる気が違うっすから﹂
﹁⋮⋮まあそうとでも思っていないとやってられないですよね﹂
﹁その通りっす﹂
顔を見合わせて鏡に映ったように同時に苦笑いをして肩をすくめ
る。
注目を集めるのは確かに嬉しいが、同時にプレッシャーも大きく
強くなる。そのぐらいは代表に選ばれて青いユニフォームを着た時
から覚悟は出来ていたつもりだ。
だが、事前に予想していた以上に俺達の代表はマスコミから一般
人へ向けての露出が多いようだった。普通年代別の代表チームとか
は、オリンピックを目指すチームぐらいしか一般のマスコミには映
らないと思っていたのだ。
1148
まあ俺に関して言えばサッカー人気が上がるのは願ってもないこ
とだとは思う、でもあまりそれ以外の事で目立ちたくはないんだが
な。
例えば松永前監督との関係にしても彼があんまり適当な嘘をぺら
ぺら喋りすぎると、ついうっかり俺も本当の事を取材に来た記者さ
んにぽろっと洩らしてしまいかねない。
協会の関係者から﹁できるだけ松永前監督に対しては穏便に頼む﹂
と山形監督と一緒に言い含められていた。だが、俺達はともかくブ
ラジルにいるカルロスなんかにインタビューされたら一発でどんな
監督だったかバレてしまうんじゃないかな?
でもそこら辺の事情は俺が心配してやる義理は全くないはずであ
る。
これまでもインタビューなどで﹁足利君にとって松永前監督はど
んな監督でしたか?﹂﹁誰ですかそれ?﹂﹁⋮⋮足利君はあまり人
の名前を覚えるのは得意じゃなかったんでしたね﹂といった会話を
していたのだ。
一応嘘は言っていないし、どう解釈されたかは知らん。
それにあの記者も結構失礼な奴だよな。俺のどこが人の名前を覚
えるのが苦手なんだよ。
﹁まあ日本国内の話はここまでにして、次のブラジル戦についての
情報は真田キャプテンと石田も交えて話し合うっす。その方が守備
の戦術とも擦り合わせがスムーズにいくはずっすからね﹂
﹁ああ、了解。⋮⋮ところで石田って誰だったっけ?﹂
明智は信じられないような物を見る目で俺を数秒凝視し、﹁ギャ、
ギャグっすよね? これまでずっと一緒に中盤で戦ってきたうちの
アンカーじゃないっすか﹂と答える。
⋮⋮えっと、アンカー役の彼ってそんな名前だったっけ? う、
1149
うん、そうだったな。ど忘れとか人間誰でもたまにはあるよな。
だから心配そうな顔をして﹁ぼ、僕の名前は覚えてるっすよね?﹂
と念を押すな。お前のような特徴的な奴は忘れっこないから。そう
思って名前を呼んでやると露骨にほっとされるのも嫌だな。
大体アンカーのえっとそうだ石田は、その真面目過ぎる性格から
守備に関しては俺からの無茶ぶりも全部受け入れて、その上で黒子
に徹してくれているから別に名前を覚える必要性はなかったんだよ!
⋮⋮あれ? 今考えるとかなり有用な人材だな。
⋮⋮その、次の試合からはちゃんと名前を呼んであげようか。
そしてイタリア戦から四日後に行われたグループリーグ最終戦。
当然のようにナイジェリアを粉砕したブラジルとのグループリー
グ頂上対決になる。
もう両チームとも勝ち点六を得てグループリーグは突破が決定し、
すでに本戦のトーナメント進出が決まっていた。
お互いがむしゃらに勝利を求める試合ではない。だからこそ負け
てもリスクのない両代表がどんな戦い方をしてくれるのか、いつも
の負けられない試合への緊張感に満ちたものではなくリラックスし
た興味本位の視線が集まるのだ。
そして日本のサッカーファンと一般のマスコミにも注目された俺
達日本代表と、若きタレントに恵まれ世界中のサッカー関係者が注
目するブラジル代表の一戦が行われ︱︱日本は惨敗を喫した。
1150
第二十五話 仲間の戦いを応援しよう
﹁今回のブラジル戦ではBチーム主体でいくぞ﹂
山形監督は試合の三日前からそう宣言していた。
Bチームというのはナイジェリア・イタリアの二試合を戦ったス
タメンではなく、その控えを中心としたメンバーのチームだ。
便宜上Bチームと呼んでいるのは、俺を含むレギュラーチームを
Aチームとしてそこと毎日練習試合をしているからだ。
だが、ここのメンバーはスタメンを比較してもほとんど能力的に
は差がない。いや、むしろAチームの上杉や島津といった俺を除く
アクの強い個性的な選手がいない分素直で扱いやすいかもしれない。
他の監督ならばこのBチームをそっくりレギュラーへ昇格させても
おかしくないレベルである。
ただ、Bのメンバーは松永前監督が集めた選手が多いので、やや
守備的でフィジカルの強いカウンター向きの人材ばかりが揃ってい
る。その分だけ今のレギュラー達のAチームよりも柔軟性や攻撃の
面では物足りなさがあるかもしれない。
そこがまあ、今の山形監督の好みとはやや外れているせいでスタ
メン落ちの不遇をかこっているのだろうけれど。
だからこそ、この知らせを受け取ったBチームのメンバー達気合
の入り方は凄まじい。皆が拳を握りしめて目を輝かせている。
そんな次の試合の先発メンバーに山形監督は説明を続ける。
﹁次のブラジル戦はすでにグループリーグ突破を決めている同士の
対決だ。相手も無茶な作戦はとってこないだろう。あるいは日本を
1151
相手に戦術を工夫したとしても、それは日本がこれまでの試合で出
場してきた攻撃的なメンバー相手での話になるからな。Bチームで
いけば逆に意表を突けるかもしれん。
それで、お前達Bチームは前監督の元でもやっていて慣れている
カウンター戦術をしてもらうぞ。カルロスやエミリオなど破格の点
取り屋が多いのがブラジルの特徴だ。でもカルロスなんかは俺が来
る前に一緒のチームでやっていたお前達の方が特徴は良く判ってい
るだろう。だから奴を徹底的に封じ込めてのスコアレスの引き分け
を狙おうか。もちろん勝ってもかまわないが、まずは日本の守備の
堅さをブラジルと観戦者に見せつけてくれ。
これまでのように試合終盤の守備固めではなく、お前達がフルタ
イムで全力で戦える場だ。ここで一発目立つ活躍を期待しているぞ﹂
多分リップサービスも込みでの監督の熱弁だが、それでもこれま
で出番のなかったメンバーの士気は高い。
すぐにでも体を動かしたそうに胸の中の炎を持て余して、貧乏揺
すりまでしている選手もいる。
気になるのは今回はブラジルと戦えないスタメンの反応だが、事
前に連絡があっただけに俺も含めて動揺は少ない。そりゃ試合に出
れないのは残念だが、監督直々に﹁突破が決まったんだからトーナ
メントまで体を休めておいてくれ﹂と頼まれたんじゃ断れない。そ
れどころか大切に扱われているようで、正直優越感をくすぐられて
しまった。
ま、事前に連絡してくれて良かったと思うぞ。上杉なんか先に言
ってなかったら、絶対にこの場で噛み付いていただろう。あいつは
﹁次の試合でハットトリックしたる!﹂と息巻いていたからな。 そんな事情はともかく、ブラジルのような強豪国と戦えるのは羨
ましい。
1152
休めるときは休んでトーナメントの順位を上げるよう努力するの
ももちろん重要だが、公式戦で強敵と戦える経験というのも得難い
ものだからだ。
多少の嫉妬を交えて気合いを入れている次の試合のスタメンに﹁
恥ずかしい負け方をしないでくださいよ﹂と冷やかす。
﹁当たり前だ。俺達は日本代表だぞ、どこが相手でも恥ずかしい戦
いはできないに決まっている﹂
きっと睨み付けたのは次のブラジル戦でのゲームキャプテンだ。
シャレの判る真田キャプテンとは違って真面目で堅苦しいタイプだ
から俺は少し苦手なんだけど、言うことは一分の隙もない正論だっ
た。
確かに今の発言は失言だったな。俺はどうも自分で思うより次の
ブラジル戦に出場出来ないことに焦っているらしい。
﹁すいません、言い過ぎました﹂
素直に頭を下げる俺に表情を和らげ﹁判ってくれればいい﹂とす
ぐ謝罪を受け入れてくれた。⋮⋮悪い人じゃないんだよな、ノリが
ちょっと合わないだけで。
まあこんな優等生で委員長タイプが一人ぐらいはいないとまとま
らないのかもしれない。うちのチームはアクが強い選手が多いから
な。
自分が戦えないのは悔しいが、Bチームも日本代表の仲間だ。ブ
ラジルを相手に見事勝利して、一位通過をしてもらおうじゃないか。
﹁ああ、それと︱︱からこの代表へ当ててメッセージを預かってい
る﹂
1153
﹁⋮⋮誰?﹂
名前を聞いた途端盛り上がった周りと対照的に新加入組はきょと
んとした顔をしている。かく言う俺もその一人である。
全く聞き覚えがないんだが、有名人なのだろうか。
そんな代表入りして日が浅い連中の態度に気が付いた真田キャプ
テンが説明をしてくれた。
﹁ああ、お前達とは入れ違いになったんだったか。あいつはカルロ
スの直後、エースとして十番を受け継いだ奴だ﹂
﹁ああ、あの⋮⋮﹂
そこで言葉を飲み込んだ。カルロスの代役を強制され、敗戦の全
責任を松永前監督に押し付けられたと聞いた事がある。その彼がど
うしたんだろう?
﹁あいつも一時期はスランプになってサッカーを辞めようかとまで
悩んだそうだが、俺達のナイジェリア戦とイタリア戦を見てたら悩
むのが馬鹿らしくなったそうだ。
そのぐらいテレビで見たうちのチームは、代表のくせにプレッシ
ャーを感じないで伸び伸びと楽しそうにプレイしてたそうだぞ。だ
から今度は俺達みたいに楽しんだサッカーでいつか再び代表までた
どり着いてみせるから、その時はまたよろしく頼むとさ﹂
﹁そうですか⋮⋮﹂
チームメイトだった奴らは監督に預けられたメッセージに感慨深
そうだ。やはり一時とはいえ仲間だった少年の事は気にかかってい
たのだろう。
﹁おまけに日本が活躍して実況で解説者が困ってるのを見ると飯が
1154
旨いと言っていたから、ブラジル戦はきっとあいつも観戦するはず
だ。昔の仲間に対しても胸を張れるような試合を見せるぞ!﹂
﹁おう!﹂
うん、次の試合は初出場の体力十分で気合の入ったメンバー達に
よるいい試合が期待できそうだ。
◇ ◇ ◇
﹁強ええ⋮⋮﹂
思わず感嘆の溜め息が漏れた。その対象は残念ながらピッチで日
本代表として戦っている仲間ではなく、その敵のブラジル代表に対
しての物だ。 この予選突破が決まった後の最終戦では日本と同じ事を考えたの
か、ブラジルも主力選手を出さなかった。つまり、カルロスなんか
は出場していなかったんだ。
少し敵のスタメンに対して期待外れだったが、それはお互い様か
もしれない。だが、同様に柱となるメンバーを数人外した条件下で
もなお日本代表がブラジルに圧倒されている。
﹁ブラジルはやっぱりサッカー王国を名乗るだけあって個人の技量
が高いっすね。一対一ではいいようにやられてしまってるっすよ﹂
俺の隣のベンチでそう冷静に解説するのは明智だ。どうやらこい
つは日本を応援するよりブラジルの戦力分析に余念がなさそうだ。
﹁ちっ、ワイがおればなんとかするんやけどな﹂
1155
逆にぎらついた目で不利な戦況を見つめているのは上杉だ。彼に
とっては試合の観戦とは自分が出ていたらどうやって点を取るのか
といったシミュレーションでしかない。
これまでのスタメンで出ていた攻撃陣︱︱俺と山下先輩に明智と
上杉に島津は今日の所はお休みだ。あ、島津は攻撃陣じゃなくてD
Fだったけどまあいいか。
今回試合に出ているメンバーは初出場の者が多く、連戦のレギュ
ラー達より疲労がない為にコンディション面ではいいはずだ。精神
面にしたって昔の仲間が観戦していると気合が申し分なく乗ってい
た。
だが、そんな感傷や期待といった柔らかな幻想は、圧倒的な実力
差という現実によって容赦なく粉砕されてしまったのだ。
チーム力と言うのは一人一人の力を十一人分足したら答えが出る
ような単純な物ではない。だから世界的スター選手を集めたチーム
でもあっけなく負ける事がある。
しかしこの試合においてブラジルは徹底的に個人技術の優越を生
かす作戦をとってきた。カルロスなどのスターはいないのに、攻撃
時にはほとんど全てのポジションで一対一を仕掛けられ、そして勝
利されてしまっては作戦や戦術以前の問題で個の力の差が露呈して
しまっている。
向こうの監督はカルロスといったスタークラスの選手が居なくて
も、ブラジルならばタレントの差で勝てると踏んだのだろう。ベス
トメンバーの時と代わらないフォーメーションで、緩いルール以外
は選手達の自主性に任せたサッカーをやらせている。
うるさく組織を徹底させるより、全ての一対一の場面で勝利すれ
ば試合そのものも負けるはずがないという傲慢な発想だ。
マリーシア
それがまた子供の頃からずっとサッカーに親しんできた、年齢的
には幼いくせにサッカー経験は長い狡賢さと高い技術を持つ選手達
1156
に見事にマッチしているのだ。
﹁たぶんブラジルの選手達は自分のやっているポジションでは自分
が世界一上手いと思ってるんでしょうね。だから全員が一対一で勝
負するのに躊躇しない。尊大なまでのプライドとそれに見合った実
力ですか。こりゃ俺達が出てても苦労したでしょうね﹂
﹁ええ、そうっすね。しかも攻撃の要のカルロスやエミリオといっ
たツートップ、守備はキャプテンの﹁サンパウロの壁﹂クラウディ
オといった主力を休ませての話しっすからね。全ポジションで世界
一の選手を揃えたら負けるはずがない、そう言わんばかりの余裕た
っぷりの試合ぶりっすね﹂
⋮⋮この試合では交代要員でさえない俺達はここから応援するこ
としかできない。
あきらかに力の差があるにも関わらず、日本代表は最後まで諦め
なかった。ブラジルの倍は走っているんじゃないかと思うほど汗と
泥にまみれ、声を掛け合い、日本という国を代表する青いユニフォ
ームに恥じないよう全力を尽くした。
山形監督もテコ入れに選手を入れ替え、戦術をカウンターから攻
撃的にチェンジしたり、大声でメンバーを鼓舞したり必死にこの場
で打てるだけの手を打っていた。
それでも結果は三対ゼロ。ほとんど日本の攻撃による見せ場は無
し。超攻撃的と呼ばれるブラジルの左サイドバック﹁暴走特急﹂フ
ランコの一得点一アシストの活躍を見せつけられることとなったの
である。
⋮⋮結果論で言えば、ブラジルは相手がカウンターでくるのに異
常なまでに慣れていた。
日本もカルロスが出る場合の対策をして予想を外してしまってい
1157
たり、攻撃の主力を休ませていた。いくつもの誤算や先を見越した
采配の結果とはいえ、あまりにもあからさまで残酷な力の差が見え
てしまう結果が出たのである。
この結果に喜んだのはブラジル国民と日本では実況席の一人ぐら
いだけだったそうだ。
1158
第二十六話 凄いあだ名に冷や汗を流そう
﹁⋮⋮えっと三対ゼロでの敗戦と大変残念な結果に終わってしまっ
た今日の日本対ブラジルの試合でしたが、松永さんはどうご覧にな
りましたか﹂
﹁そうですねぇ﹂
口の端をひくひくさせて今にも笑い出したいのを我慢している素
振りの松永が、モニターで自分の表情をチェックして慌てて手をデ
スク上で組み喜悦に歪む口元を隠す。
﹁こほん、やはりブラジルの方が地力が上だったという事ですね。
特に今日の日本が採用した堅く守ってからのカウンターなどは強豪
相手にとられる手としては常套戦術です。ブラジルなどはそれに恐
ろしく慣れている︱︱しかもカウンター戦術においてはより習熟し
ていて日本の上位互換とも言えるイタリアを破っているのですから、
カウンターで戦うと選んだ時点で山形監督はこの結果は予想してい
なければなりませんでしたね﹂
表情に反して意外にまともな解説をする松永に、アナウンサーも
テレビの前で身構えていた視聴者も肩すかしである。あれ? こい
つこんな普通の事を喋る奴だったのか? そんな疑問が浮かぶ前に、
さすがは我らの松永前監督である期待にたがわずやってくれた。
﹁まあ、三点差で収まったのは運が良かったですよ。なにしろ今回
は私が育てて常に試合で使っていたブラジルの十番でエースのカル
ロスが出てませんでしたからね!﹂
1159
日本が敗れた直後にも関わらず思いっきり満面のドヤ顔である。
うざったいことこの上ない。
﹁え、ええ確かにカルロスは欠場してましたね。でも試合に出てな
いのは松永さんが育てたと公言している足利選手なんかもそうです
が﹂
﹁は? ああそう言えば出てなかったですね。まあ同じ出てないに
してもカルロス程の影響は無かったはずです﹂
もう開き直ったのか、松永もアナウンサーもお互いに交わす会話
には棘がある。
一応視聴率は取れているので、今大会の終了までずっと松永の解
説の座は譲らないと決定はしている。しかしこれだけ日本代表を応
援する視聴者の反感を買って、この先松永はどうするつもりなのか
がほとんど敵対関係の他人事なのに心配になってくるアナウンサー
である。
だが、ここで追及の手を緩めるわけにはいかない。
﹁残念ながら今日は欠場したカルロス選手にブラジル戦の前にイン
タビューが出来たんですが、彼も日本での思い出を懐かしそうに語
ってくれました。特に今代表に定着している足利選手と山下選手の
いた矢張との試合は印象深かったみたいで﹁ブレ玉はあの試合で初
めて見て驚いた﹂とか﹁アシカはあの頃からヒールが多かったから、
イタリア戦のゴールはブラジルのチームメイトと一緒に大笑いした﹂
などと答えてくれました。
でも代表チームの監督だった松永さんに関しては﹁あのチームに
監督って居たのか? 覚えてないな﹂とそっけない返事でしたよ﹂
﹁は、はははカルロスはサッカーだけでなく冗談も上手くなりまし
たねぇ﹂
1160
一瞬ぴきりと松永の挙動が固まったが、大量の冷や汗を流しなが
ら張りの無い笑い声を上げて誤魔化す。
﹁ちなみに足利選手にインタビューした時も﹁松永監督? 誰です
かそれ?﹂と答えていたようですね。いやー、松永さんが指導して
育てたと豪語している選手は揃いも揃って冗談が好きなんですかね
ぇ? それとも︱︱﹂ ﹁今日の試合に話しを戻しましょうか! 少なくとも今の日本の選
手達でのカウンターチームではここまでが限界だと結論が出てしま
いましたね。ですから、前回の私が率いていたチームが敗退したの
も仕方がないと批判されていた皆さんも納得できたのではないかと
思います。やはり、これ以上のレベルに挑戦するにはまず世界で通
用するカルロスのような個人が生まれないと厳しいんですよ﹂
何かを誤魔化すように大声で前回の大会の敗退は不可抗力だと主
張した後、続けてマイクに入らないぐらい小さな声で﹁ほれ見ろ誰
が監督してても勝てないのに、文句ばっか付けやがって﹂とテレビ
向けではない乱暴な口調で吐き捨てる。
松永のような人物でも精神的にダメージを負うぐらいカルロスが
抜けた後のぼろぼろになったチームの崩壊と惨敗は批判されたらし
い。まあ監督なんだから敗戦の責任を追及されるのは仕方ないとは
いえ、未だにその恨みが残っているようだ。 ﹁そうなんですか? ⋮⋮確か今日のメンバーを選出して前のチー
ムを作ったのも松永さんだったはずですが⋮⋮。責任は松永さんの
やり方を踏襲した山形監督にあるという訳ですね。
では、もし山形監督が新しく作り直したこの日本代表が決勝トー
ナメントで勝ち進めば、松永さんの全てはカルロスが急に抜けたか
ら難しくなったんだという前大会後の言葉は覆されますね﹂
1161
言質を取ろうとするアナウンサーの言葉にしばらく渋い顔をして
いた松永だが、ゆっくりと首を振る。
﹁いや、日本代表に期待したいのは山々ですがちょっと無理でしょ
う。グループ二位になってしまったために、トーナメントの一回戦
であの﹁皇太子﹂が率いるドイツとぶつかることになってしまいま
したからね﹂ ◇ ◇ ◇
黒く長い髪に赤いフレームの眼鏡をかけたいかにもインドア派の
少女が﹁うーん﹂と小動物のような可愛らしい顔の眉を寄せ、パソ
ほうじょう まこと
コンを睨みながら腕組みをして頭を悩ませている。
この少女︱︱北条 真が困っているのは、もちろん昨日行われた
日本対ブラジルの試合のせいだ。
この試合は彼女の知り合いである足利は出場していなかった、だ
からその結果についてはさほど興味がない。この辺は幼馴染みがい
ないとなると割とドライな少女である。
だが日本のいいところが全く出せずに敗れたその試合後に、松永
が﹁カルロスが出てなくて運が良かった﹂などと圧勝したにも関わ
らずブラジルは本気ではなかったと発言したために、初めて無得点
で終わった事と併せて日本代表への期待感が一気にしぼんでしまっ
たのである。
﹁むぅ、ここまで急にブームが冷えるとは思わなかったなぁ⋮⋮﹂
真としては別段マスコミの扱いが小さくなったからといってダメ
ージは全く無い。だがサッカー馬鹿の幼馴染みの事やブラジル戦後
に勢いづいた﹁ここまで勝ち上がったのは山形監督じゃなくて、松
1162
永が育てたカルロスやアシカが凄かったんじゃねぇ?﹂とする論調
が問題だ。
せっかく育てたカルロスをブラジルに強奪され、壊さないように
大切に育てていたアシカは体が出来上がるのが間に合わず、といっ
たストーリーで松永を悲運の名将扱いして擁護する意見が多くなっ
たのがちょっと気にかかるのである。
都合がいいことに、こんな意見の人はアシカからもカルロスから
も松永は﹁誰それ?﹂と忘れられていた存在だったのはノーカウン
トにしているのだ。
これでは松永から冷遇されていたアシカはたまったものではない
だろう。
﹁まあアシカの事だから次の試合が始まって、ボールを蹴っていれ
ば勝手に機嫌は直るだろうけど⋮⋮﹂
そう独り言を呟きながら真はパソコンで日本代表の今後のスケジ
ュールを確認する。
この時点で大会に残っているチームは僅かに十六ヶ国の代表しか
いない。トーナメントだから後四回勝ちさえすればこの年代のみと
は言え世界一の称号を得られるのだ。ただこれから先は当然ながら
強豪としかぶつからない。
二位でグループリーグを突破した日本代表は、次は別のグループ
リーグを首位で通過してきたドイツと戦う事に決定している。
﹁ドイツかぁ、うーんくじ運がわるいのかな。日本代表の戦う相手
ってどこも強そうって、ああ違った。世界大会なんだから敵が強い
のは当然ってアシカも言ってたっけ﹂
でもまだにわかファンの域を超えていない真でさえも、ドイツが
ワールドカップで何度も優勝している強豪国であると知っている。
1163
それぐらい決勝トーナメントまでは勝ち上がってきて当然レベルの
チームである。いくらいつかは当たると覚悟していたはいえ初戦の
相手としては厳しいだろう。
実際にざっと真が調べた限りでは日本対ドイツの対戦について、
下馬評では圧倒的にドイツの有利と報じている記事が多い。
特に今回出場してきたドイツの代表チームは、時代遅れと笑われ
ながらもこれまで固執してきたリベロを使ったシステムの完成形と
言われているらしい。あまりにも偉大すぎた西ドイツ時代の皇帝か
らようやく次の皇位継承者が生まれたとまで紹介されている。
その結果リベロであるキープレイヤーについたあだ名が﹁皇太子﹂
。偉大な﹁皇帝﹂の後継者であり、いつか必ず頂上を極め世界一の
座を戴冠するだろうと少年への期待が込められているあだ名だ。よ
ほど将来を嘱望されていなければドイツでこんな呼ばれ方をするは
ずがない。
イギリスのブックメーカーでは大会前にブラジルのスピードスタ
ー﹁超特急﹂カルロス、スペインが誇る﹁無敵艦隊の船長と酔っぱ
らい操舵手﹂フェルナンドとドン・フアンの中盤のダブル司令塔、
イタリアの閂﹁赤信号﹂ジョヴァンニそしてドイツの﹁皇太子﹂ハ
インリッヒの中で誰がMVPを取るかで賭が成立していたほど次に
当たるドイツの主将の評価が高いのだ。
ハインリッヒはただ傑出したDFというより第一にサッカー選手
としてのスキルが高いのである。
元々はトップ下でゲームメイクをしていたMFだったが、そのパ
スのキック力と精度が段違いだったために、どこまで深い所からア
シストが出来るかとだんだんポジションを下げていくと、最終的に
はDFラインから攻撃の指揮をとるようになったという変わり種の
DFだ。
1164
もちろんディフェンス能力もチーム随一であった為に、トップ下
の選手を削り彼に守備も攻撃も任せた方がチームとして機能するよ
うになったのだ。 恵まれた資質と強靭な精神力を併せ持ったドイツ国内ではすでに
彼が﹁皇帝﹂の名を継ぐのは既定路線になっている少年である。 ﹁うーんもしかして次、やばいのかなぁ﹂
調べれば調べるほど出てくる皇太子ハインリッヒへのサッカー関
係者からの賛辞に、真も心配になってしまう。
いくら世界大会を盛り上げる為にマスコミが煽っているとはいえ、
この年代になぜか﹁十年に一人﹂クラスの有望なタレントが集まっ
ているような気さえする。
この中でアシカはどのぐらいの所にランキングされているのか真
は想像しようとしたが、中々上手くいかない。
どうにも彼女の中でのアシカという存在はどれだけテレビで試合
を見ても、真剣に戦っているというより笑ってボールで遊んでいる
印象が強すぎるのだ。他の一流選手と客観的に比較できる訳がない。
﹁まあ、いくらドイツでも有名な選手が一人だけだったらアシカが
何とかしてくれるよね!﹂
この真の推察は正しい。だが、前提となる条件が間違っていたの
だ。
彼女は知らなかったが今回のドイツは新しい﹁皇帝﹂候補だけで
なく、新型の﹁爆撃機﹂候補までも揃えていたのである。
1165
第二十七話 気を取り直し、次の準備をしよう
﹁では、一回戦で当たるドイツ代表にどうやって勝つかミーティン
グするぞ﹂
山形監督は意図的に軽く語り始めたのだろうが、沈滞したままあ
まり雰囲気は良くならない。
せっかくグループリーグを突破したのにブラジル戦のせいで﹁や
はり世界のレベルは高い﹂とチーム全体が萎縮してしまっているよ
うだ。特に、絶対に勝つと気合を入れていたにも関わらず完敗した
Bチームの負った精神的なダメージは大きい。
あの後に練習試合をやっても俺達のAチームに苦も無く捻られて
しまった。いつもはもっと手応えがあるんだけどなぁ、完全に自信
を失ってしまっているようだ。
だからといって大会のスケジュールが彼らが立ち直るまでの時間
を考慮してくれるはずもない。俺や上杉に島津などといった精神的
に図太い人間以外はドイツ戦を前にしてもあまりよろしくないテン
ションのままなのだ。 ちょっと困ったように眉値を寄せる山形監督。そんな悩む表情作
ると彼の厳つい顔が怒るよりもいっそう迫力を増すな。
﹁あーまあ落ち込むのも判らんではないが、切り替えて一回戦に臨
まんとドイツ戦で前の試合と同じ目に合わされるぞ﹂
その言葉にぴくりと空気が変わった。前回のブラジルとの戦いの
屈辱の記憶が、まだ強く近いからこそ傷に触れそうな事柄には敏感
なのだ。
1166
﹁へえ、そんなに強いんか? ドイツは﹂
周囲の雰囲気を察することのないマイペースなうちのエースが質
問する。その問いに対する監督の答えはシンプルで短く躊躇いがな
かった。
﹁強い﹂はっきりとそう断言して、ぐるりと俺達全員を見回す。
﹁専門家によってはブラジルよりこっちの方を優勝候補の本命にあ
げている人もいるチームだぞ﹂
﹁へえ﹂
今度は俺の口から思わず驚きの声が漏れた。俺の中の物差しはカ
ルロスが基準になっているので、そのカルロスのいるブラジル以上
と言うチームがあるのを信じられなかったのだ。
そんな俺の内心にはお構いなしに山形監督はドイツの情報をチー
ムで共有しようと説明していく。
﹁ドイツは東西に分裂していた時代からサッカーが強かったのは知
っているだろうが、その後に統一してからは当然もっと強い代表に
なると思われた。だが予想に反し年々成績が低下しているのを重く
見たドイツのサッカーアカデミーが、年少の頃からエリートを育成
するプロジェクトを立ち上げたんだ。今回はその成功例︱︱という
かドイツ史上最高の選手だった﹁皇帝﹂の後継者とまで言われる﹁
皇太子﹂ハインリッヒが出場している。
時代遅れと言われ続けてとうとう変更が予定されていたリベロシ
ステムは、こいつが出現しただけでハインリッヒの能力を最も生か
せるシステムだからと続行が決められたといういわくつきの逸材だ。
それからハインリッヒが中心となったドイツは、予選とグループリ
1167
ーグでもほとんどの勝利と少しの引き分けで負けはない。掛け値な
しの強敵だな﹂
そうなのか? 俺が調べた時は確かに﹁皇太子﹂は目立っていた
が、勝ちきれない試合も多くワンマンチームの強さと脆さを併せ持
っていたような感じだったが。
﹁もちろん最注目選手は攻守の要である﹁皇太子﹂ハインリッヒだ
が、こいつはリベロで普段はDFの統率をするポジションにいるん
だ。そんな奴にわざわざマークをつけたりするとうちの売りである
攻撃サッカーができなくなる、オーバーラップしてきた時に注意す
るしかないな。だから日本の守備陣にとって警戒すべきそれ以外の
人物は、ヨーロッパ予選中に急遽加わったFWの﹁新型爆撃機﹂ヴ
ァルターだ。
グループリーグ終了時点ではカルロスやエミリオ、それに他国の
ストライカーを抑えて五得点で得点王になっている生粋の点取り屋
だぞ﹂
ああそうだった、そんな奴がいたな。どうやら俺は現在進行形の
情報を集めるのに一生懸命になりすぎて、逆行する前の同年代の選
手をかなり記憶から消去していたようだ。
まあ、以前は存在しなかったはずの上杉とか新たな選手がいるん
だから、あまりデータが前回の通りだと鵜呑みにするのはまずいが、
もう少し思い出しておかないといけないな。うっかりに顔をしかめ
ていると、俺の隣にいるチーム一の事情通から声が上がる。
﹁確かヴァルターは監督に嫌われていたせいで中々出番が回ってこ
なかったみたいっすね。でもハインリッヒの強い進言にしぶしぶ使
ってみたら、毎試合得点するもんでスタメンから外せなくなったみ
たいっす。華麗でオールラウンダーのハインリッヒと違って彼の仕
1168
事はペナルティエリア内でのシュートだけ、完全に得点特化型のス
トライカーっすね﹂
﹁⋮⋮つまり俺と同じっちゅーこっちゃな﹂
﹁ま、上杉さんやブラジルのエミリオと良く似たタイプである事は
たしかっすね。一回彼らの動きをビデオで確認するのをお勧めする
っす。どれだけこのタイプの選手が融通が利かなくて、守備の場面
では役立たずで、パスが来るまでは﹁寝てんじゃないのか?﹂と間
違われるぐらいぐうたらで、そしてペナルティエリア内では頼りに
なるのか良く判るっすから﹂
﹁⋮⋮お前ワイの事嫌いやろ?﹂
山形監督が手を叩いて注意を促し、危険な方向へ進みかけた会話
の針路を修正する。
﹁はいはい、上杉よ誰もお前の事を嫌っちゃいないぞー。それどこ
ろかエリア内では頼りにしてると言ってるんだからなー。
それよりも話が逸れたが、DFがドイツで警戒するのはまずこの
﹁新型爆撃機﹂ヴァルターだ。加入してからこいつがドイツの得点
の内の約九割を叩き出している。もちろん﹁皇太子﹂ハインリッヒ
にも油断はできないが、常に日本のゴール前にいるこいつを封じ込
めるのが、まず打倒ドイツへの第一歩だと思え﹂
とDFを統率する真田キャプテンにきつく言い渡す。
﹁ヴァルターには武田が密着マークして気持ちよくプレイさせるな。
お前ならそうそうパワーで引けはとらんはずだ。それと、ハインリ
ッヒについてはオーバーラップしたと気が付いたらアシカでも明智
でもすぐに大声でコーチングしろ。そしてアンカーの石田がすぐに
マークに行くんだ。お前の守る中盤の底より前へは進ませるな、い
いな?﹂
1169
﹁了解です!﹂
元気よく石田が返事をする。こいつのマークはしつこさが特徴だ
からな、俺が一対一をしても腰を落して粘っこいディフェンスをす
る。そして抜いたと確信しても、その身体能力とスタミナを生かし
て後ろから再度チェックをかけてくるのだ。時間を稼ぐにはもって
こいの人材である。
ハインリッヒが上がった場合でもこいつに一声かければ当座のス
トッパーにはなってくれるはずだ。
﹁じゃあ、守備はそれでいいとして攻撃はどうするんすか?﹂
明智からの質問に、監督が腕組みをして﹁判ってる﹂と頷く。
﹁ドイツのディフェンスはハインリッヒ以外ではキーパーが優秀だ
な。ドイツ代表のキーパーはこれまで外れがない。そんな、俺達か
らすれば嫌な伝統があるとはいえ、あの赤信号みたいな化け物染み
たキーパーじゃないから安心しろ。それより守備組織がよく整備さ
れているのが問題だ。ハインリッヒの指揮の下、かっちりとしたD
Fラインを作っている。いくら俺達が、イタリアの赤信号から点を
取ったとはいえ簡単な相手じゃないぞ﹂
﹁まあでもイタリアのあんなキーパーでないだけ気楽や、いくらワ
イのKO率が高いとは言っても毎回倒すのは骨が折れるさかいな﹂
﹁⋮⋮お、おう﹂
いまいち相手のキーパーの能力と上杉のKO率が関係してくるの
かが謎だったが、監督もそこには触れてはいけないと華麗にスルー
したようだ。
﹁ハインリッヒをかわすのは難しいが、あいつはDFの内の一人で
1170
しかいないんだ。サイドを広く使って左右に振れ、常にゴール前に
いた赤信号と違って釣り出せるんだからチャンスに焦らずにパスを
回す方向でいくぞ。イタリア戦みたいにやたらとシュートを急ぐん
じゃなくて、シュートチャンスを見極めろってことだな。それと、
ハインリッヒが守備ではなく敵がボールを持ってる状態で前へ動い
たら誰かが警告すること、これを忘れないように﹂
﹁はい!﹂
攻撃陣も一斉に返事をする。
それにしても次はあの﹁皇太子﹂かぁ⋮⋮確か逆行する以前にテ
レビで見たのは二十歳でチャンピオンズリーグで戦っていた試合だ
ったよな。若さに似合わない冷静さと技術を併せ持つ、すでに最高
級の完成されたリベロだったんだ。
それにあのポジションはもはや絶滅危惧種というより、他にリベ
ロをやっている選手を俺は知らない。たぶんこれから先も出てこな
いはずだ。
こんな国際大会でリベロをやれるのはDFとしての才能はもちろ
ん、前へ出るタイミングを読むゲームの流れを見る目、攻撃のセン
スとアップダウンを繰り返すスタミナ、そして周囲から認められる
信頼感と批判をねじ伏せる結果など全てが揃っていなければリベロ
となることさえ許されない。
つまり一種の天才しかなれないポジションなのだ。ディフェンス
の組織化・近代化もそうだが、その才能を全部持っている人間が希
少だからリベロというポジションが衰退していったのだろう。
そんな皇太子と新型爆撃機が相手か。さっきまで忘れてたけど、
ヴァルターもドイツの若きエースストライカーって以前の人生で耳
にした事があったな。確か怪我をしてしまったのと素行が悪かった
とかでマスコミやドイツサッカー協会ともめていたんだっけ。
そのせいか皇太子ほど早く国際的な活躍はできなかったが、こい
1171
つも二十前後でフル代表に選ばれていた逸材だったはずだ。
⋮⋮だからサッカー大国って嫌なんだよな、どんどん世界的に名
の知られる名選手が生まれてきやがる。
敵の強大さに内心で罵声を上げ、唇の端がつり上がってしまう。
心境と外見がバラバラだが、これは仕方ない。敵が強いってのは
冷静に考えればマイナスしかない。しかし、サッカー選手としては
強い相手と戦えるのが嬉しくないはずがないじゃないか!
やれやれ全くもう、勝てば勝つだけより強い敵と楽しいサッカー
が出来るんだから、国際大会はたまらないよななぁ。
1172
第二十八話 皇太子と爆撃機に挑戦しよう
﹁さあいよいよもうすぐ決勝トーナメントの一回戦、ドイツ対日本
の試合が行われます。これまで厳しいアジア予選、そしてくじ運悪
く強敵ひしめく死の組分けに入ってしまったグループリーグ。その
どちらの試練も乗り越えてきた若きアンダー十五の代表イレブンが
挑む新しい壁は﹁皇太子﹂ハインリッヒ率いる古豪ドイツ代表チー
ムです。
ドイツは予選・グループリーグとも一度として敗戦がない安定し
た戦いぶりでここまで勝ち上がってきました。専門家からも優勝候
補の一角と評価の高いこのチームを相手に我らが日本代表はどう戦
うのか、遠い日本からテレビでご覧の皆さんもぜひとも応援しなが
ら観戦してください!﹂
ほうじょう テレビの画面からもうすぐ始まる試合を盛り上げようと実況する
アナウンサーの声が響く。
まこと
リビングでこの日本対ドイツ戦の開始をじっと待っている北条 真も足利の母親も、この実況アナウンサーについては結構好感度が
高い。ただそれはもしかしたら本人の態度ではなく、この大会で彼
の傍らにいる人物に対する評価が酷いために相対的にアナウンサー
の株が上がっているだけなのかもしれないが。
ほら、現に今だって﹁今日の試合はあのブラジル戦の二の舞にな
らないことを代表に期待したいですね﹂とさりげなく⋮⋮いや、あ
からさまに解説者の松永は毒を吐いている。
それに対し﹁いやー前戦とはスターティングメンバーもフォーメ
ーションも違いますし、誰かと違って山形監督はチームの建て直し
が得意だそうですからきっと今日は大丈夫ですよ﹂とやり返すアナ
ウンサー。
1173
こっちも暗にカルロスがいなくなって代表を無様に崩壊させた松
永を揶揄しているようだ。
お互いに﹁いやぁ、楽しみな一戦ですね。はっはっは﹂と無駄に
白い歯を見せて冷たい瞳のまま表情筋だけで笑顔を作っている。
︱︱スポーツ中継のはずなのに実況席ではサスペンスドラマのよ
うな雰囲気が漂っている。だが﹁このギスギスした空気がたまらな
い!﹂と固定ファンがついているのだから、人気とは判らないもの
だ。
一方の日本の一室では心配そうに画面をのぞき込む大小の女性の
姿があった。
はやてる
﹁速輝を見てると、試合前の方が心配してしまうのよね。なんだか
いつも最初は真ん中に行って目を瞑っているから、あの子本当に大
丈夫かしらって﹂
﹁あ、それ判ります。私もアシカがピッチの中央で寝てるんじゃな
いかってドキドキしちゃいますから! もうちょっとしたら試合中
なのにニコニコしだすから安心するんですけど﹂
二人が夢中になってほんの少しだけ信用できない少年について話
し合う。足利少年は実力とこれまでに残してきた結果は申し分ない
はずなのだが、その特異なプレイスタイル故か基礎にうるさい頑固
な指導者のみならず身内からも信用が不足しているようだ。
﹁あ、ほら日本とドイツ代表が出てきましたよ﹂
﹁うーん、なんだかドイツの子達って年代のカテゴリーが日本より
が一つ上なんじゃないの? 速輝や真ちゃんの中学にはこんなに体
格のいい子いないでしょう?﹂
﹁身長だけならバスケットとかバレーなんかの運動部とかの先輩に
1174
もいます。だけど、なんだかドイツの選手達ってJリーガーみたい
に筋肉がむきむきで、日本の中学生と違って体が出来上がっている
感じですよね﹂
真が指摘する通り日本の選手達とドイツの選手達には体格差があ
る。しかも身長差より横幅の差が目立つのだ。日本でドイツのメン
バーと比べてぱっと見で遜色無いのは、真田キャプテンと武田とい
う体の強さを買われているセンターバックのコンビぐらいだろうか。
意外に思えるかもしれないが上杉は元ボクサーだったせいか、細
く引き締まっていて単に見た目ではドイツ選手より頼りなさそうに
感じるほどだ。
その日本代表の中にあってさえ頭半分近く低く、傍らのドイツ選
手に比較すると華奢にすら見えてしまう足利は判官びいきもあって
か、何度もテレビカメラが映している。
そして中継されている画面はすらりとした長身の彫りが深くハン
サムなキャプテンマークを巻いた少年と、少し肉付きが良すぎるサ
ッカー選手と言うより砲丸投げなどのパワー系のようなどっしりし
たドイツの少年の二人組へと変わった。
﹁キャプテンマークを巻いているのが、ドイツの﹁皇太子﹂と呼ば
れている注目の選手ハインリッヒです。その隣にいるのが⋮⋮ええ
とヴァルター選手ですね。予選途中に急遽参戦した﹁新型爆撃機﹂
とドイツ国内では呼ばれているFWです。彼についてはあまり資料
がないのですが、グループリーグで五得点の荒稼ぎにより現時点で
得点王に輝いている日本にとっては怖いFWですね﹂
﹁あー、ハインリッヒはアスリート能力と高い技術を兼ね備えた良
い選手ですよ。私が育てたカルロス程でないにしても、十分大会の
主役になってもおかしくないだけの実力があります。
ですが、隣のFWのヴァルターはどうですかね。画面越しにも体
1175
を絞り切れていないようですし、得点シーンも華麗なゴールより体
のどこかにぶつかって偶然入ったようなのばかり。もちろんごっつ
ぁんゴールを否定はしませんが、正直彼についてはそれほど恐れず
に、皇太子へのマークを厳しくした方がいいでしょう﹂
松永の解説に思わず頷いてしまう真の足利の母親の二人。皇太子
は雰囲気があるというかオーラみたいなものが漂っているが、隣の
ヴァルターにはなぜかまったくそういった物が見当たらない。だか
らこそ却って松永の言葉にひやりとする物を感じてしまう。
﹁まあ、専門家が怖くないって解説してはいるんだけど⋮⋮﹂﹁松
永が大丈夫って太鼓判押すのなら逆に⋮⋮﹂
不安そうな顔を見合わせて、同時に口に出す。
﹁嫌な予感がするわね﹂
と。
◇ ◇ ◇
俺はセレモニーが終わるといつものようにピッチの中央付近で、
目を閉じて体の調子と鳥の目を確認する。
うん、今回も問題なし。
試合を一回飛ばして休みをもらったおかげで心身ともに好調時の
コンディションに戻っている。
鳥の目にしても、世界レベルの試合をするごとにピントが合い見
える範囲がどんどん広がっていくような気がする。小学校時代はこ
こまで広範囲をフォローできなかったように思うが、まあ成長に伴
1176
って便利になっているんだから文句を付ける筋合いはどこにもない。
さて自身が万全だとすると、次に気にかかるのは敵の様子だな。
どの情報源からもドイツ代表は強いと伝えられているが、実際は
どんなものなのだろうか。
入場する際に、並んで歩いただけで体格面での不利は避けられな
いと悟ってはいる。だが俺にとっては体格面での不利など今更の話
だ。というか、俺より小さい選手はこの大会に入ってからアジア予
選を含めてもほとんど遭遇していない。
他の選手はどうか知らないが俺は端からパワー勝負を挑むつもり
がないのだから、この体格差はそれほど気にする必要がないのであ
る。
俺にとっての問題は⋮⋮と今回の日本の攻撃に対する壁になるだ
ろう﹁皇太子﹂を探す。遠く向こうのゴール前でキーパーと話し合
っているようだったから、鳥の目で居場所をチェックしただけだ。
それにしても長身でハンサムと身体面では文句がない上に、サッ
カーの才能まで溢れんばかりに恵まれている、か。
他の事はともかく、せめて今日の試合ぐらいは勝たないとやって
られないな。
そう嫉妬混じりに考えていたら、なぜかハインリッヒが眼光鋭く
もこっちを睨み付けている。
あいつも日本の攻撃を操る俺を警戒していたのか? それとも︱
︱あいつ俺から鳥の目で観察されていたのに気がついたとでもいう
のか? まさか、そんなはずはないか。
どちらにしろ皇太子の感覚が鋭いのは判った。それにあのイタリ
アの赤信号同様に一筋縄ではいかない独特の空気を纏ってやがる。
だが、俺達はなんとしてもこのリベロを攻略しなければならない
のだ。確かに一人でゲームメイクと守備の柱の両方をこなせるのは
1177
凄いが、この試合においては攻撃のセンスなんか発揮させずに守備
に忙殺してもらおうか。
こっちもあんたを倒すためにわざわざ幾つか作戦を練ってきたん
だ。
皇太子と新型爆撃機の同居しているドイツチーム相手に手の内を
隠して勝つとか、次の試合に向けて体力をセーブするとか出来るは
ずがない。
先の事は考えずこの一戦に全力をつぎ込む。惜しみなく用意して
きた全ての手を使わせてもらうぜ。
ま、それより先に、まず俺達が最初にやらなければならないのは
会場のムードを日本に持って来ることだな。なにしろドイツはこの
年代であっても有名な選手がいるのだ。日本もイタリア戦で名前を
売ったとはいえ知名度ではヨーロッパの強豪の方がここイギリスの
会場では圧倒的なのは仕方がない。
だからドイツに勝つためには日本のサポーターだけでなくイギリ
スの観客に﹁おやドイツだけでなく相手も強いじゃないか。よし、
頑張っている日本を応援してあげよう﹂と思わせて日本への声援を
引き出さなければいけない。
そうすれば前戦の敗戦を引きずって多少まだ空気が固いうちのチ
ームへのかっこうの景気づけになる。だからまずは試合開始直後に
一発大きな花火を上げる事が必要だ。 これまでずっとセンターサークルから相手ゴールを睨んでいる上
杉の背中をぽんと一つ叩く。
﹁では、ちょっとぶちかましましょうか﹂
それだけで俺が何が言いたいか察した彼の顔がぱっと輝く。いつ
もはやんちゃで鋭い目つきなのに笑みを見せると猫のように目が細
くなるんだな上杉は。
1178
遠く離れているはずなのに俺達のやりとりに不穏な物を感じたの
か、山形監督がベンチから立ち上がる。だがもう遅い、ようやく今
待ち望んだ審判の開始の笛が鳴ったからだ。
ドイツ対日本の戦いは、今大会二度目となる上杉のキックオフシ
ュートから始まった。
1179
第二十九話 観客を喜ばせよう
いきなりの上杉のシュートで始まった試合は、そのおかげで開幕
から会場の空気が一気にヒートアップする。
これまでどことなく力無く垂れ下がっていた感のある日の丸が元
気よく振られるようになり、日本を応援するコールがサポーター席
から湧き上がる。うん、これは期待通りの盛り上がりだ。しかも日
本のサポーターだけでなく、地元イギリス人からの声援も混じって
いるのがいい。
残念ながらシュートはポストから僅かに右に逸れ、ゴールはなら
なかったのだが元々得点する為の物ではない。そりゃ入ってたら文
句なしだが、これでも目的は果たしたと考えていいだろう。
﹁何やってんだお前!﹂
キックオフシュートに血相を変えて詰め寄る真面目なアンカーの
石田に、上杉が﹁あ、ああ枠を外してすまん。次は絶対に入れるさ
かい勘弁な﹂と照れくさそうに頬をかく。おそらく彼や他のメンバ
ーが怒っている理由は上杉が謝ったようにシュートを外してしまっ
たという理由ではない。
これでは全く話が通じないとみたか、矛先を上杉ではなく彼をそ
そのかした俺へと変えようとする石田に先手を打つ。
﹁この歓声を聞いてください﹂
﹁は?﹂
虚を突かれ口を開ける石田に畳み掛ける。
1180
﹁こんな盛り上がった歓声、ブラジル戦ではゴールされた時ぐらい
だったでしょう? それを今日は日本が三秒で引き出したんですよ。
観客を味方につけた、その事だけでも今のは悪いプレイじゃなかっ
た証明になるじゃないですか﹂
﹁え、あ、うん。そうなるのかな?﹂
サッカー選手としてはともかく、精神的にはまだ未熟なこの年代
の少年を言いくるめるのはお手の物だ。
﹁さあ、この勢いを逃さないように先制点を狙います! 後ろは頼
みますよ、アンカー⋮⋮じゃなかった石田さん!﹂
﹁おう、任せておけ﹂
よし、上手くいったな。会場も沸いたし、ピッチにいる他の仲間
も﹁シュートを焦るんじゃない﹂という監督の指示を破った俺達に
怒りを向けて頭に血を上らせているようだ。
ほとんどが﹁監督の作戦をまた無視しやがって﹂と腹を立ててい
るが、中には﹁俺にもキックオフシュート撃たせてくれればいいの
に﹂とむくれている奴もいる。
でもこの皆がかっかしている方が、うちの代表に似合わない沈滞
ムードよりは百倍はましだ。
それに、今の奇襲の一発でドイツディフェンスの実力が垣間見え
た。
いきなりのシュートに一番速く反応したのはやはり皇太子ハイン
リッヒだったのだ。彼の声ではっとしたようにキーパーが動いてボ
ールを追ったが、それでもあのイタリアの赤信号より一歩目は遅い。
なるほど、予想通り厄介なのはキーパーよりリベロであるハイン
リッヒの方だな。
情報通りの視野の広さとセンスの確かさ、そしてコーチングの速
1181
さに舌を巻く。
そう目星をつけた要注意人物が、キーパーから短いゴールキック
のボールを受けとってこっちを向く。たったそれだけの姿から不意
に危険だ、と反射的に俺の中の警報が鳴らされる。まだ敵のボール
は相手のゴール前にあるにもかかわらずである。
﹁ディフェンス、来るぞ!﹂
俺の叫びに、まだ近くにいたアンカーの石田も含めて一斉にボー
ルの位置を確認する。そして﹁驚かせるなよ﹂と言いたげにほっと
したように肩の力を抜いたのだ。馬鹿! 油断するなって。
次の瞬間、センターサークルにいる俺の頭上をかなりの速度でボ
ールが通り越した。
皇太子の撃った強烈なロングキックのパス一発が、そのまま前線
へ抜け出しかけたドイツの新型爆撃機ヴァルターの下へ⋮⋮行く前
に武田が体を寄せてカットする。ナイスだ武田! そしてすぐにそ
こからこぼれたボールをフォローしていた真田キャプテンが拾い、
敵の詰めていないサイドへと散らす。
ふう、とりあえず怖いラインの二人による速攻は防げたか。
それにしてもハインリッヒの奴ははなんていうキック力してるん
だ。しかもあれだけの距離がありながらDFがパスを止めなければ
ヴァルターの足下へピタリと通っていたぞ。
自分はドイツのDFのライン上にいながらゲームメイクができる
ってのは嘘じゃないみたいだな。プロでもそうはいないキック力と
精度を兼ね備えていやがる。
世界レベルの相手の実力に戦慄しながらもつい口元は歪む。
よしよし、武田ならフィジカルの強さでは爆撃機相手でも引けは
とっていない。それに、今はディフェンスに大きな身振りで指示を
出している皇太子の性格は意外と負けん気が強いと判った。
1182
プライドが高そうだとは思っていたけれどそれ以上にクレバーな
印象が強かった少年だが、こっちのキックオフシュートに対して即
報復をしてきやがったか。
やっぱり冷静だとか完成してるって評価はあれど、皇太子も人間。
しかもまだ血気盛んな少年時代だ。そのクールさの仮面の裏側にあ
る負けん気を上手く引き出せれば、ゴール前から釣り出す機会が産
まれるかもしれないな。よし、俺の心の中の﹁ドイツ皇太子攻略作
戦ノート﹂に書き込んでおこう。
それにしても今の日本ゴール前でのぶつかり合いは少し不思議な
感じがする。いくら武田の体が強くてもよくドイツが誇るストライ
カーから簡単にボールを奪えたな。
もしかして爆撃機は整備不良で調子が悪いのだろうか? もしそ
うならば日本代表にとってはプラスなんだが⋮⋮。 後に世界的な選手になるはずのヴァルターと正面から戦ってもみ
たかったが、コンディションを整えるのも勝負の内。お前が調子悪
くてもこっちは容赦しないぞ。
そう考えてヴァルターに目をやるが、あれ? あいつどこいった
? あ、いつの間にかうちのキーパーの真ん前にいやがる。そこは完
全にオフサイドだよな。意味が分からない行動に、密着マークに指
名されたDFの武田も困惑している。でも武田もやりにくそうだ。
ラインを上げればヴァルターの様子が見れないし、張り付けばライ
ンが崩れる。
今は一応ラインを上げてオフサイドの位置にヴァルターを置き去
りにしているが、ボールは前で展開されて自分のマークすべき人物
は後ろにいる。爆撃機を自分の目の届かない所に置くのは心臓に悪
いのだろう、忙しく首を振って体ごと振り向いては何度も両方の現
1183
在状況を確認している。
それにしてもこのヴァルターは何を考えてあんなボールが貰えな
いポジションでぶらついて武田やキーパーの動きをぼーっと眺めて
いるんだ? 純粋で天然の点取り屋ってのはどうも俺にはよく判ら
ない。
まあ、あまり気にし過ぎるのも良くないか。守備は一時真田キャ
プテンとマーカーの武田に任せて、攻撃に集中しよう。
真田キャプテンから左のサイドバックを経由して、石田・明智と
中盤の底を渡り俺へとパスが回る。
よし、まだ俺へのマークは緩い。さっきの上杉による威嚇の一発
がドイツディフェンスの心理に微妙に影響しているのだろう、少し
ばかり腰が引けDFのラインが下がっているぜ。
ハインリッヒがDFラインの最後尾から大声で叱咤しているよう
だが、ドイツ人でも誰もがお前みたいなタフな精神をしているはず
がない。精神力は修羅場をくぐった場数で培われるのだ、この年代
でさらにこの大舞台で動揺しないような奴がいればそっちの方が異
常に分類される。
さて、ではとりあえず一人動揺の素振りがない皇太子をゴール前
から引っぺがそう。今度の攻撃は監督の指示通りサイドへとボール
を振る。
右サイドで待ち構えていた山下先輩へ渡すと、先輩もマークのサ
イドバックをすぐには突破しようとはせず細かくボールと体を動か
す。しかし簡単には抜けそうはないとみたか俺へとボールを戻した。
俺もすぐさまパスを少しだけ下がった明智へはたく、明智もまた
迷わずに左サイドのウイング馬場へと攻めるサイドを変える。
リズミカルにボールと日本の選手がピッチで踊る。 うん、まだ得点はなくてもいいムードになって来たぞ。攻めあぐ
ねてボールをたらい回しにしているのではなく、じっくりと攻めの
1184
形を整えているテンポの良いパス回しだ。
相手のドイツはやりにくいだろう。右サイドから左へと中央を経
由してワイドにピッチを使って攻められているのだ。
オフサイドラインを上げればサイドでうずうずしているウイング
が駆け上がるスペースをくれるような物である。だからといってサ
イドへ人数を割くと中央が薄くなる。かといってプレスをかけよう
にも、俺達のパス回しは速く、そしてサイドチェンジなどのロング
ボールも混じっている。パスが回り始める前段階から準備していな
ければディフェンスが取り囲んで防ぐのは難しい。
ドイツの︱︱いやディフェンスを統括する皇太子が下した結論は
サイドのウイングにマークを付けるというやり方だった。
中央は薄くなろうと自分がいれば守り切れるという計算らしい。
だがそのプライドの高さが命取りだぜ。
サイドアタッカーの二人にはそこで待機してもらい、中央へ殴り
込みをかける。
ボールが真ん中へ戻ると、サイドバックは中央へポジションを絞
りたそうだがマークする相手の山下先輩と馬場は頑としてタッチラ
イン沿いから動かない。舌打ちしそうな顔をしながら両方のサイド
バックはゴール前から離れている。
さあ、ここまでお膳立てを整えてくれたんだ。ここからは俺達の
出番だよな。
サイドアタッカーの二人がいない為、残ったドイツのDFと守備
的MFは全員が俺と明智、そして最前線の上杉へとぴったり張り付
く。
でも、一人忘れているぞ。現在うちのチームの得点王だ。ここま
で我慢させて悪かった。さあ、お前の出番だぞ、行け島津!
1185
俺はいつもと違って右サイドではなく中央へ勢いよくオーバーラ
ップしてきた小柄な少年へとパスを出す。
その彼へと蹴ったボールが足を離れた瞬間に髪が逆立った。まず
い! ちょっと待て、いつの間にお前がそこに移動して島津の前で
パスカットしようとしてるんだよハインリッヒ!
1186
第三十話 先輩の力を見直そう
しまった! 自分のプレイの裏を突かれた屈辱に顔が歪む。
意表を突いたつもりで選択したパスコースが完全に皇太子に読ま
れ切っていたようだ。
後方から一気にオーバーラップしてきた島津の攻撃参加まで予想
していたのか、絶妙の位置で相手の体に触れることさえなくエレガ
ントにパスしたボールを奪われる。実にスマートな守備のやり方だ
が、それさえも余裕たっぷりみたいで余計に腹立つな。
しかし、そんな事に怒っている場合ではない。
俺がここまで綺麗にパスカットされたのは、サッカー人生のやり
直しをしてから初めてかもしれないのだ。そりゃこっちがキックの
ミスをしたり、受け手との意志疎通が上手く行かずに敵にボールが
渡った事はある。
だが完全に待ちかまえられてパスを遮られたのは珍しい。という
か記憶にない。
もちろんそんなにパス成功率が高いのは俺の鳥の目があっての話
だ。しかしハインリッヒはそれをかいくぐるような動きをしたのか、
それとも想定外のスピードにイメージが追いつかなかったのか、も
しくは俺の鳥の目と同じようなセンスを持っていてパスを予測して
対応したのか。
とにかくどれにしてもこいつが厄介なことには変わらない。
僅かに俺が呆然としてしまった隙に、皇太子はすでに反撃の狼煙
を自分のロングパスによって上げていた。
そのパスの標的は当然島津の抜けた日本の右サイドだ。
深い位置からドイツのサイドアタッカーの足元へ測ったようにボ
ールが送られる。無造作に蹴っているようだがDFの抜けた裏のス
1187
ペースへとアバウトに出すのではなく、距離があってもきっちりと
ピンポイントでパスを通しやがる。
しかしうちの守備陣はこれぐらいのサイドからのカウンターでは
そう簡単には崩されない。
なにしろこれまでもさんざん島津の空けた守備の穴を突かれてい
るのだ、日本の守備はサイドから崩されるのはある程度織り込み済
みである。
だから、この場合でもボールホルダーであるドイツのサイドMF
へアンカーの石田が寄せてはいくが無理に追いかけてまでボールを
奪おうとはしない。むしろゴール前に厳重に錠前をかけて固めよう
としている。
特にドイツの得点源であるヴァルターに対しては武田と真田キャ
プテンの二人が張り付いているな。よし、あの二人ならそう簡単に
競り負けたりしないはずだ。
俺の期待通りにドイツのサイドアタッカーが上げたクロスは武田
の頭によって跳ね返された。うん、あいつの高さと強さは貴重だ。
世界でも通用するし、いかにも体が重そうにジャンプしたヴァルタ
ーより頭一つ抜け出していたぞ。
それにしてもドイツの得点源のはずのヴァルターはここまでのプ
レイに本当に精彩がないな。まあ爆撃機が不調ならばそれはそれで
平和で結構な事だ。今戦っている日本にとって不利な事ではない。
それより、またディフェンスから回ってきたこのボールをどう展
開するか⋮⋮。背中にドイツ代表のマークがついてきた事よりも皇
太子にパスカットされたのが気にかかる。
偶然かもしれないが、さっきは完璧に止められたからな。これま
でそんな経験がないからどうにもゲームメイクをするのにやりにく
さを感じてしまうのだ。
1188
ならば今度は攻め方を変えてドリブルで行ってみるか。
すぐ右斜め前方にいる山下先輩へ軽くパスを出すと、マークを回
り込みながら前を向いてリターンパスを受け取る。
よし、いい形で敵陣でゴール方向へ前を向けたと思う間もなく、
今度は目の前には皇太子が立ちはだかっている。なんでこいつこん
なに反応が速いんだよ! ついさっきまでドイツのゴール前にいた
のを確認していたのに、俺が突破しに来るのを予測していたような
ディフェンスの仕方だ。
完全に俺の動き警戒してやがるな。皇太子からここまで注目され
るとはまた光栄な事で。
それにしても実際に対峙してみると判るが、この少年から放たれ
るプレッシャーはとんでもない。攻めているのはこっちなのに、逆
に餓えた虎からボールを狩られているような空気だ。こいつの本性
はあだ名に似合ったおとなしい奴じゃなく、間違いなく精神的には
ファイターである。
ここで一対一の勝負を挑みたいのは山々だが、俺の背後にはまだ
マークがくっついている。さらに敵のゴールまではまだ遠く、この
位置で皇太子を抜こうとするよりも得点チャンスを虎視眈々と狙っ
ているあいつにボールを渡した方がいい。
一回大きくボールを動かしドリブルで行くぞとフェイクを入れ、
コンパクトな足の振りで上杉へとパスを出す。
そこにハインリッヒが左足を伸ばしてカットしようとする。そこ
まで計算してこいつが届かないコースを選んだはずなのに、いつの
間にかとっていた間合いをほぼ消されてしまっていた。
幸いこのパスは皇太子の爪先をかすめるぐらいで、パスカットさ
れるには至らなかったのだが本当に厄介な奴だなぁ、こいつは。
しかし、その僅かに触れられた分だけボールの軌道がずれる。い
1189
つものようにDFラインの裏のスペースへ飛び出そうとしていた上
杉には合わなかったのだ。
そのままゴールラインを割るかと思いきや、なぜかさっきの攻撃
からDFラインに戻らずここまでオーバーラップしていたままのサ
イドバックの島津が、スライディングしながらボールをラインの中
に押しとどめる。
いや、まあこいつに攻め上がりを自重しろって言う方が無理なの
は判ってはいる。それに今回に限ってはその積極性が役立ちチャン
スがつながったから文句は言えない。 素早く立ち上がった島津がそのままセンタリングを上げた。
ドイツゴール前でのヘディング争いになるが、ここでは上杉が絶
好のヘディングポジションから複数のDFによって弾き出される。
一回裏へ飛び出したために却って危険な奴だと彼へマークが集中し
たようだ。
ゴール前からヘディングでこぼれた球を今度は俺とハインリッヒ
が奪い合う。
拾いに行くタイミング的には一歩先んじたのだが、彼も強引に体
を寄せてボールとの最短距離に体をねじ込もうとしてくる。
こいつ、いざとなれば恵まれた体格を生かしたパワーでごり押し
するプレイもできるのかよ。だからなんでもできるこんなエリート
は嫌いなんだ。
半ば体勢を崩されながらも、僅かに先に届いた足先で山下先輩へ
とボールを押し出す。こんな時はいつも俺から適度な距離感を保っ
ていい位置にいる先輩がありがたいぜ。
多少窮屈な姿勢ながら、パスを受け取った山下先輩がドリブルで
まだゴール前に密集している地帯に突っ込む。突破できれば一気に
ビッグチャンスになるがちょっと相手ディフェンスが多すぎる。さ
すがに無謀じゃないのか⋮⋮。
1190
ああ、やっぱりボールを取られちゃった。
いや、違う! その前に審判の笛が鳴っている。ドイツDFのフ
ァールだ!
ファールを受けた山下先輩が痛む素振りも見せずに拳を握りぐっ
と小さくガッツポーズをしている。ここ最近攻撃の場面での見せ場
が少なかったから自分のチャレンジで得た絶好のチャンスは嬉しい
のだろう。 日本チームとしても嬉しいチャンスだ。この位置からならば十分
に直接ゴールを狙えるし、何よりフリーキックをもらおうとするの
は試合前からの計画の一つだったのだ。
もちろんわざ反則を受けた振りをしたり、ダイビングして審判か
ら恵んでもらおうとはしない。イギリスの審判は特にそういう行為
が嫌いだから、そんな事をしたら全体的に日本に対する判定が辛く
なるからな。
だが、DFの密集した地域にカットインすれば相手が反則して笛
を吹いてもらえる確率は高まる。これは正当なプレイでどこにも恥
じることはない。
それでなぜ俺達がセットプレイの中でフリーキックに拘ったかと
いうと、DFの役目が限定されるからだ。PKほどではないがフリ
ーキックではキーパーの能力が一番重要になり、壁を作るぐらいし
かシュートを邪魔することができないこのワンプレイに限ってはD
Fの皇太子の価値が激減する。
俺はさっそく審判が示した位置にボールを置き、そこからゴール
まで視線を流してピッチ上の情報を頭に入れる。
明智がまた審判に﹁壁が近すぎるっす﹂と日本語でアピールした
後、流暢な英語で抗議した。あいつが成績がいいのは知っていたが、
英語で喋るのも上手いな。英会話ではまだぎこちない俺よりよっぽ
どネイティブに近い発音をしている。
1191
審判も苦笑いして明智からの抗議を認めドイツの選手達に下がる
よう指示すると、壁と距離ができた分少しだけシュートコースの選
択肢が広がった。
セットされたボールの前で俺と山下先輩が並び立つ。ここからな
らば俺の右でのブレ玉で狙えるが⋮⋮ちらっとハインリッヒに視線
を流すとこっちをじっと観察している。
なんだか細かい挙動から次のプレイを予測されているだけでなく、
思考まで読まれているようで気持ち悪いな。
先輩と二言三言交わし、助走の距離をとる。
じっと目を瞑って笛を待っている俺の耳に澄んだ音が届く。自然
に体が動き、ゴールの右隅だけがイメージの中で大きくなる。
そして俺が足がボールを撃つ︱︱その寸前に、山下先輩がその左
足から鋭い軌跡のシュートを描き出した。
おそらく会場中のほとんどの人間がボールをセットした俺がフリ
ーキックを蹴るという予想を裏切って、山下先輩が直接ゴールを狙
ったのだ。
代表ではほとんどが俺か明智がフリーキックを撃っていたために、
これまでは封印されていた先輩の久しぶりの一撃は、俺だけを警戒
して虚を突かれたドイツ代表の反応を遅らせた。
︱︱ただ一人を除いて。
それが誰だかはもう判るだろう。異常なディフェンスのセンスを
持った皇太子が、ゴールの左上を襲うボールをクリアしようと跳躍
する。
ハインリッヒよ、お前は俺をじっと見ていたのに俺が狙っていた
ゴールの反対側に来ると思わなかったのか? 山下先輩のフリーキックが皇太子の茶色い髪の頭を掠めてゴール
ネットを揺らすまでの数瞬の間に﹁俺が蹴ってたらハインリッヒに
1192
止められて入らなかったかもしれない﹂と少しだけ弱気の虫が顔を
出した。
いや、とにかく先制点だ!
隣で日本のサポーター席へと人差し指を掲げ﹁俺が一番だ!﹂と
アピールしている山下先輩を祝福しなくちゃいけない。
なにしろこれまで俺の背中にたっぷりと紅葉をつけてくれた主犯
格の一人だからな。
﹁山下先輩ナイスシュート!﹂
﹁へへっ、もっと褒めてもかまわないぞ!﹂
うん、自分で得たフリーキックを己の足で決めた先輩はテンショ
ンが最高潮だ。この流れならどさくさに紛れて背中を叩いても大丈
夫だな。
まるでこんな風にゴール後に背中を狙い合っていると、小学生に
戻ったような気がする。
まあ、それは他のチームメイトが集まるまでのほんの少しだけの
感傷なのだが。
︱︱前半十五分、日本が先制点を奪取。
その時歓喜で湧き立つ日本代表の中で、鳥の目を持つ俺だけがド
イツの主軸二人を見ていただろう。
皇太子ハインリッヒの悔しさに唇を歪めた表情と、新型爆撃機ヴ
ァルターの﹁ようやく出撃準備ができたぞ﹂と言いたげな自信に満
ちた笑顔を。
彼らはこの失点にいささかも戦意を損なっていないようだった。
そりゃそうだ、国の面子のかかった代表戦で一点失ったぐらいで
諦めるようなチームはここまで勝ち残っていられるはずないもんな
ぁ!
1193
先制したという興奮と、それに対してまるで覇気を失わない敵チ
ームに鳥肌が立つ。さあ、これからがドイツの皇太子と爆撃機を相
手にした戦いの本番だ。
1194
第三十一話 爆撃を受けてみよう
日本が先制し、ドイツボールでの試合が再開される。
するとここでドイツのDFと中盤がじりじりとラインを上げ、前
よりも攻撃的な構えになってきた。
フォーメーションそのものはダブルボランチの四・四・二のまま
で変わりはない。だが、明らかに前線はそのままなのにそれを支え
る中盤とDFラインが上がってそこまでの距離が縮まっている。い
や、この場合はDFでありながらゲームメイカーでもあるハインリ
ッヒの位置が前目になった方が重要か。
再開されてから俺は皇太子の動きに気を配っていた。どう考えて
もドイツ代表のキーマンはこの少年だ。
キーになるというならばもしかしたヴァルターもそうかもしれな
いが、あいつは敵のゴール前で真価を発揮するタイプだ。そこは日
本のDFに任せるしかない。俺が自分の力で何とかできるのはこっ
ちのハインリッヒを相手にした場合だろう。
それに深い位置からでも正確に前線へとパスを届けられる皇太子
とゴール製造機の爆撃機の距離が前半よりもさらに接近するなんて、
どう考えても日本にとって碌でもないことしか想像できないじゃな
いか。
爆撃機ヴァルターについてはきっちり武田がチェックしているよ
うだが、それでも相手はふらふらとオフサイドラインの向こう側な
ど不規則に歩いていくために姿を見失わないように苦労しているら
しい。
上杉もそうだが、生粋の点取り屋というのはどうにも他のポジシ
ョンの人間からすれば理解しがたい。効率とか基本をすっとばして
1195
ストライカーとしての本能で動く傾向があるからだ。
上杉にパスを出す俺でさえ時々﹁なんであいつあんな場所にいる
んだ?﹂と首を傾げたくなるのだから、マークする相手としては最
悪だろうな。そういった本能を持ち合わせていないDFをスピード
で振り切るのではなく、気が付けば姿を消して仕留めてしまう根っ
からのゴールの狩人達だ。
だが、心配ばかりする必要もない。何しろ現在リードしているの
は日本なのだから。それに、こっちにも点取り屋としての嗅覚では
負けていないはずのストライカーがちゃんといる。
ただ、その爆撃機に引けを取らないはずの上杉は、またも日本の
得点だが自分ではない奴がゴールした事でちょっと頬を膨らませて
いるのだが。
でもそんな不満はこいつにとってゴールへの飢えを募らせるスパ
イスにすぎない。まるで歴戦の兵士のように殺気を漂わせている背
中を軽く叩きこう告げる。
﹁ドイツが点を取り返しに来ました。厄介なあの皇太子も前へ出て
いますし、上杉さんがゴールするにはいい状況だと思いませんか?﹂
電流を流されたように体を小さく跳ねさせて、飢えでぎらついた
目でこっちを向く上杉に﹁これからはドイツの爆撃機と上杉さんの
どちらが早くゴールするかが勝負を分けます﹂と囁く。
﹁という事はワイにボールを集めるっちゅーこっちゃな?﹂
﹁ええ、向こうがラインを上げて来たのなら日本にもシュートチャ
ンスが必ず来るはずです。それを逃さないでゲットしてください﹂
﹁ああ了解や、そやけど⋮⋮﹂
不意に肉食獣染みた表情から、不安そうな少年の顔に戻って﹁今
1196
日はあいつに何遍もパスカットされてるけど、大丈夫なん?﹂と質
問する。
一瞬だけ俺の手足が凍りついて動かなくなったが、うん大丈夫だ。
今の質問にショックを受けたのは誰にもばれてない。できるだけ余
裕のありそうな笑みを表情筋を動かして作る。
﹁⋮⋮できないのならわざわざ上杉さんに声をかけたしりませんよ。
パスを届けるのは俺の仕事です、上杉さんはそこから先のゴールに
ボールを叩き込む事だけ考えてください﹂
﹁お、おう﹂
上杉はすぐに頷くと、何かにおびえたようにそそくさとドイツ陣
内の奥深くへ足を進める。きっと早くゴールしたくて気が急いてい
たのだろう。
全く、面倒をかけさせないでほしいものだ。こっちだってあの皇
太子の読みをどうやって外すか頭をしぼっている最中なのに。
その頭を悩ませる対象のハインリッヒがドイツの守備陣で回して
いたボールを、今度はロングボールをすぐに蹴らずに持ったままで
ポジションをすっと上げてオーバーラップしていく。
ちぃっ、少しぐらいあんたを相手にする時には考慮時間をいただ
けませんかね皇太子殿下。
﹁ハインリッヒが上がったぞ!﹂
そう大声を出して味方に警告し、その彼の前に立ちはだかる。す
ると相手は軽く横パスと同時にダッシュ、俺の体を力付くで押し退
けるようしてすれ違いざまにリターンパスをもらおうとする。基本
的だがスピードとキレのある壁パスだ、でも俺をそのぐらいで抜け
るつもりなら考えが甘い。
体勢を崩しながらもスライディングのように必死で足を伸ばして、
1197
ボールを奪おうとする。
技術が高く懐の深いハインリッヒから直接取ろうとするより、パ
スカットを狙う方が成功率が高いと考えての行動だ。しかし、その
足が後僅かな所で届かない。スライディングの体勢に入った俺の肩
を、最後の一押しとばかりハインリッヒが押したせいで伸びが足り
なかったのだ。
バランスを崩しはするがファールにはならないぎりぎりの力加減
である。
それでも前回の皇太子が俺のパスをカットしたプレイを繰り返す
ように、今度は俺の爪先にボールが触れる。
しかしそのコースが乱れてなおかつしかも俺が触ったせいでおか
しなスピンのかかったパスでさえも、敵味方の集う中盤の狭いスペ
ースで難なく足下に押さえてしまうハインリッヒ。
その目がボールから日本ゴールへ移された時、俺は尻餅をつきな
がら日本の守備陣に﹁頼んだぞ!﹂と叫ぶしかなかった。
明智や石田といった日本の中盤で守備を任されている仲間が来る
より速く、皇太子の右足からまたもシュートと見間違えるくらいに
鋭いパスが放たれる。
この時点での日本のDFである武田のとろうとした行動は間違っ
てはいなかった。
まずボールの軌道を予測し、次に自分がマークするべき対象の﹁
爆撃機﹂ヴァルターの位置を確認してからボールを渡さないように
動く。
ゴール前のヴァルターにパスを通さないようにするのが第一で、
そのためには彼とボールの直線上に自分の体を割り込ませる。そう
すればヴァルターは武田をファールででも倒さない限りボールを奪
えないからだ。
だがその予定通りに事は進まない。
1198
ボールの落下点近くへ移動し、そして爆撃機の姿をもう一度確認
しようと武田が振り向いた時にはすでにヴァルターの姿は消えてい
たのだ。
ぎょとしたように居たはずの場所を二度見し、その後に慌てて左
右を見回す武田だが、馬鹿そっちじゃないんだ! 相手のヴァルタ
ーはパスが出る直前に、お前の背後を回り込むようにしてオフサイ
ドの位置からDFラインの後ろへ戻っているんだ。
あの爆撃機はこれまでにぼーっとしているようだったが、武田が
マークする際の行動や振り向くときの回転方向やなどのプレイする
際の癖を全部チェックしてやがったんだな。
それでどう自分が動けばディフェンスの死角に入るのかを、誰に
も邪魔されないオフサイドの位置でチャンスを待ちながらじっくり
準備していたのだろう。
﹁武田、後ろだ後ろ!﹂
近くにいた真田キャプテンが声をかけると、ようやく慌てて振り
向いてマークすべき相手と向かい合うがこの時はすでにヴァルター
は皇太子からの速いパスを受け取った後だ。
最も警戒すべき敵の姿を見失い、気がつけばそいつにボールが渡
っている。
パニックになっている武田が止めるのは無理と見て、真田キャプ
テンが急いで抜かれた場合に備えDFラインの裏へのケアに行く。
だが爆撃機は強引に武田を突破しようとはしなかった。
目の前の混乱したDFであれば無視しても構わないと判断したの
かそのままシュートを撃ってきたのだ。しかも上半身はほとんど微
動だにせず、下半身︱︱いやほぼ膝から下の動きだけで強烈なシュ
ートが日本のゴールを襲った。
1199
マーカーの武田はいきなり消えたかと思った相手をようやく見つ
けた瞬間にシュートされたのだ、反応できる訳もない。
真田キャプテンは武田が抜かれた場合のフォローしようとダッシ
ュしていたのでこっちも防ぎようがない。
唯一の止められる希望のうちのキーパーでさえ、ほとんど予備動
作の無いくせに威力は十分の爆撃機のシュートには飛びついてはみ
たものの触れる事さえもできなかった。
ゴールに入ったボールに向けて満足そうに頷くと、何一つ特別な
事は無かったかのようにのっそりと自陣へ引き上げていく爆撃機ヴ
ァルター。
日本のDFは手玉に取られた武田も含め、声もなくその鈍重そう
なストライカーを見送る。
あいつはどんなひいき目でも凄いフットボーラ︱らしい雰囲気は
漂わせていない。
だが実際にはほとんど独力で、しかも爆発的なスピードや高度な
技術を使ったのでもなく気が付けば日本のゴールを簡単にこじ開け
ていたのだ。
どこか高慢な雰囲気の皇太子を含めて真面目そうなドイツ選手達
から無邪気にそして手荒く祝福されるのを、むしろ面倒そうに手を
振って応える爆撃機というドイツにとっては特に深い意味を持つあ
だ名を頂戴した少年、ヴァルター。このぐらいはあいつにとっては
特別喜ぶような事じゃないのかのようだ。
そのいかにも得点して当然と言いたげな姿を、この大会が始まっ
てから刻んだスコアの上では圧倒的な差をつけられている日本代表
のエースストライカーがじっと睨み続けていた。
安心しろ上杉、お前の出番は俺が後半ちゃんと作ってやるからな。
これまで皇太子に得意のゴール前へのスルーパスを封じられた俺
1200
は固く誓う。俺と上杉のホットラインがこの試合程機能しなかった
のは初めてだ。だが、ヴァルターが時間をかけて日本ディフェンス
を観察していたように、俺だってドイツディフェンスの攻略法を考
えていたんだ。後半もずっと同じだと思うなよ。
その内心の声が届いたはずもないが、タイミング良く審判が前半
終了の笛を吹き鳴らした。
1201
第三十二話 後半へ向けて作戦を練ろう
﹁よしよし、前半の出来は悪くなかったぞ。確かに終了間際の爆撃
機の一発を喰らったのは余計だった。でもな、お前らは優勝候補の
一角のドイツと互角にやれて、同点で試合を折り返しているんだか
らそれで悪いはずがないだろう? 自信を持つんだ! この日本代
表は優勝候補とも対等に戦える、いや勝てるチームなんだと!﹂
山形監督がまだ僅かにチーム内に残っているブラジル戦惨敗の暗
い雰囲気を完全に払拭しようと、大声を張り上げて味方を鼓舞して
いる。
これは実際ピッチで戦っていたスタメンより、どちらかというと
見守っていたベンチメンバーのBチームに向けての言葉だろう。そ
れにプラスして爆撃機にしてやられたディフェンス陣にも効果があ
りそうだな。
実際、監督の演説を聞いている内に前半の最後という最も警戒が
必要で痛い時間帯に失点してしまったショックから徐々に解放され
ているようだしな。武田や真田キャプテンなどDF陣の強ばってい
た表情が柔らかくなっている。
さてここまでは士気を上げるための言葉で、ではどうやってドイ
ツ代表に勝つかの具体論が続く。
﹁前半のセットプレイからの得点は良かったぞ。もう一回チャンス
があれば、今度も山下が狙うと見せて次はアシカか明智のどっちか
が蹴ってもいいだろう。その場の判断で誰をキッカーにするかは任
せるが、下手な小細工より直接ゴールを狙うという方針は変えるん
じゃないぞ。
1202
ああ、それと有効だからってもちろん無理にファールをもらいに
は行くのは禁止する。この大会の審判はダイビングなんかのスポー
ツマンらしくない反則には判定が厳しいし、第一ファールされるの
は覚悟していても危ないからな。痛い思いせずに得点できれば一番
いいんだ。敵DFの中に突っ込んだって、それで全員抜いてゴール
ができれば最高に決まっている。セットプレイでの得点はそれが出
来ない場合の次善の策でしかない﹂
そう心配そうに付け加える山形監督は以前から判ってはいたが、
勝敗よりまず選手の体を気遣うタイプの監督だ。勝負師としてはど
うかと思うが、まだプロではない成長期の俺達みたいな選手として
はありがたい。
特に俺のような変わったプレイスタイルの上に体力が無くて途中
交代が多いタイプは、監督によって使われ方が全く違う。これが俺
みたいな選手を全試合フルタイムで酷使したり、﹁負けている試合
の残り時間十五分限定のジョーカー﹂に役割を固定しているような
監督だったらここまで活躍は出来なかったからな。それどころか怪
我や体調を崩してもおかしくない。
まあ、そう言う訳でこの山形監督が代表監督を降ろされたら俺も
困る。できるだけ協力してやるべきだろう。
微妙に俺からの評価を上げた山形監督が、拳を握りしめて顔を赤
くして力説する。
﹁それとあのハインリッヒは運動量もポジショニングも読みも鋭い。
DFとしてのあいつの能力は厄介極まりないが、そこが弱点でもあ
る。何でもできるから自分で何でもしようとする傾向が強いんだ。
得点に関してはヴァルターに一任しているようだが、それでも攻
撃のタクトを振るっているのはボランチやサイドアタッカーではな
くあの皇太子だからな。攻撃でも守備でも大黒柱なんだからこそ、
かなり負担も大きいはず。そこで極端に言えばあいつのリズムさえ
1203
崩せればドイツチーム全体ががたがたになる﹂
﹁でもあいつはそう簡単に崩れそうにないっすよ﹂
明智から容赦ない突っ込みが入る。うん、ピッチで直接対峙する
俺達が誰よりもあの皇太子の隙の無さを痛感している。ちょっとや
そっとで崩れるような柔なメンタルの持ち主には見えなかった。
それは監督も理解していたのだろうさすがに﹁何とかしろ﹂と丸
投げはせず、攻略の糸口を指示する。
﹁ああ、さすがはドイツの皇太子様だけの事はあって崩すのは難し
いな。だから⋮⋮あいつには自分から崩れてもらおうか﹂
◇ ◇ ◇
﹁前半を終えて一対一の同点ですが、これは強豪で優勝候補にも挙
げられているドイツ相手に大健闘と言って良いんではないですか?
試合内容もほぼ互角、いやひいき目かもしれませんが日本代表の
方がきちんと中盤を作ってビルドアップしていたようでしたね。皇
太子ハインリッヒからのロングパスで攻撃のスイッチが入ると決ま
っているドイツよりも、ずっとモダンな戦術のサッカーをしている
ようでした﹂
アナウンサーの言葉に欧米人のようにオーバーアクションで肩を
すくめ首を振る松永解説者。彼の言動はテレビ映りを気にしている
のか、段々と派手になっていくようだ。
﹁サッカーの戦術に古い・新しいは関係ありません。その戦術で勝
てるかどうかだけが問題なんです。そしてドイツのリベロを使った
サッカーは確かに今の時代の潮流からは取り残されていますよね。
1204
ではなんでドイツのサッカー協会がこのシステムを認めていると思
います? 勝てるからですよ。
ハインリッヒとヴァルターの二人がいればこの大会で優勝さえ狙
えるだけの自信があるから、二人を最もいかせるこの時代遅れの作
戦を採っているんです。偉大なドイツの先人もこう言っています﹁
勝った方が強いチームだ﹂とね。その意味でこのドイツ代表は確か
に強いチームですよ。ちょっと素人目で見たぐらいで、日本が中盤
でのパス回しが上手くいってるからどうこうと判断してほしくない
ですね﹂
相変わらず実況席の二人の意見は噛み合わない。アジア予選から
世界大会のグループリーグを経て、このアナウンサーと解説役の松
永は協力するのではなくほとんどライバル関係になっていた。 もうこの番組の視聴者も慣れた物で、ある意味プロレスの実況の
ような感覚でこの二人のバトルを楽しみにしているファンも多いの
だそうだ。真面目なサッカーファンは解説や実況の声がない会場の
音声のみの副音声で試合を観戦しているらしいのだが、果たしてそ
れでいいのだろうか。
露骨に﹁素人め﹂と馬鹿にされたアナウンサーが額に青筋走らせ
ながら、言葉は穏やかに語りかける。表情や感情がどうであろうと
口調が乱れないのは訓練の賜物だろう。
﹁なるほど⋮⋮しかし松永さんが試合前に酷評していた新型爆撃機
ヴァルターが活躍しましたが、それについて何かご意見は?﹂
﹁ええ、そうですね。彼があれほどの選手だったとはこの松永の目
を持ってしても見抜けませんでした。ですが、もしもマークしてい
たのが武田ではなく真田だったらもう少し何とかしたかもしれませ
ん。パワーと高さなら武田の方が上ですが、駆け引きに関しては真
田の方が遙かに上手いですからね。私の頃からキャプテンを続けて
いる彼の力を信じずに爆撃機のマークをさせなかったのが失点原因
1205
でしょう﹂
松永は自分の目が曇っていた事は認めても、依然として山形監督
のやり方が悪いとの意見は頑なに変えない。別に山形監督の悪い点
をあげつらっても彼の株が上げるはずがないのだが⋮⋮。それなの
になぜか松永の監督としての評価が上がるという摩訶不思議な事が
まれにマスコミやネット上で起こっている。
ピッチ上での駆け引きよりより複雑怪奇な戦いがサッカー協会を
中心として行われているのだろう。
それを不愉快に思っても、松永ほど自由裁量を持たないアナウン
サーはかろうじて皮肉めいた会話をするしかない。
﹁⋮⋮前半途中まで爆撃機のことを﹁私ならスタメンにいれない﹂
とまで断言していた解説者とは思えない、相手のFWを最大限に警
戒していたかのような貴重なご意見をありがとうございます﹂
﹁はっはっは、﹁確かに彼の体が重そうですね。爆撃機は重量オー
バーですか﹂と同意してくれたアナウンサーから褒めてもらえると
は光栄ですよ﹂
︱︱この二人はテレビで生中継されているというのを忘れている
のではないだろうか? スタジオの皆がそう危惧し始めるとその淀
んだ空気を読んだかのようにピッチ上に選手達が現れた。
もうすぐ後半戦が開始する為に軽いアップをしようと出てきたよ
うだ。
実況席の二人も不毛な争いに嫌気がさしたのか目を互いからピッ
チへと移す。
﹁さて、では松永さんに後半戦の予想と注目選手をお伺いしましょ
う﹂
1206
﹁そうですね、やはり注目選手では前半に得点したヴァルターと山
下の二人は外せないでしょう。それにドイツの攻守の柱として皇太
子ハインリッヒ、彼をどうにかしないとセットプレイ以外からの得
点は難しいですよ。
それを前半はゴール前へのラストパスがことごとく皇太子にカッ
トされてしまった、足利と明智の二人のゲームメイカーがどうする
かが後半の見ものですね﹂
松永は彼にしては順当な予想を組み立てる。アナウンサーも松永
にしては珍しく納得できる意見なのか﹁なるほど﹂と頷く表情には
拍子抜けだと書いてある。
﹁ではずばり勝敗の予想は﹂
﹁もちろん日本を応援しているのは確かなんですが、足利と明智と
言ったゲームメイカーが抑えられていますからね。攻撃と守備のバ
ランス面で考えるとどうしてもドイツが有利なのは否めません。前
半の最後になってエンジンがかかってきた爆撃機を始め、皇太子な
どの戦力を考えるとドイツが二対一か三対一での勝利が妥当なとこ
ろでしょうか﹂
日本の国内ではそんな松永の言葉を聞いた途端、頭に血が昇るよ
りも﹁ほっ﹂と胸を撫で下ろす人間の方が多かった。こういう予想
に関しては﹁日本に有利な予想だけはしないでくれ﹂と逆の方向で
妙な信頼を得てしまっている松永だったのだ。
1207
第三十三話 互いの長所を潰し合おう
後半の開始前、審判の笛を待つ俺の表情は少しばかり強ばってい
るかもしれない。
ほんの一分前はリラックスして体をほぐしながらいつものルーチ
ンワークをこなしている最中だったのに、体力の残量と鳥の目の調
子をチェックしていた時にちょっとした問題が発生したのだ。
別段俺の体に関するトラブルではないのだが、俺にとってはかな
り重要な気掛かりだ。
まずその前に心配していた体力の方については大丈夫である、前
半にあまり活躍できなかったせいでまだスタミナが有り余っている
せいだな。前半の相手によって抑え込まれたのは喜ばしい事ではな
いが、逆に後半にガス欠になる心配が少なくなったとプラスに考え
よう。
だから、俺の体調に関しては何も問題はないのだ。
問題があったのはその次に鳥の目のチェックしている時の事だ。
当面の相手となる皇太子ハインリッヒを﹁スタミナが切れてたり、
どこか痛む場所でもかばっている様子はないか﹂と弱点を探すため
にじっと観察していると、彼がこっちを見返して楽しそうにウイン
クしてきたのだ。
いかにもドイツ人らしいどこか厳しく気位が高そうな少年だが、
茶目っ気も年齢相応にあるらしい。
俺は思わずウインクされた相手が自分ではなく他に誰かいるので
はないかと周りを見回したが、ピッチを俯瞰した図で確認してもそ
こには誰もいない。だとすれば⋮⋮あいつ俺が鳥の目で見ているの
に気がついていたんだな。
ああ、なるほど。俺が前半プレイを潰されていたのは俺のパスが
1208
鳥の目に頼りきりだったからか。便利すぎる力に慣れ、無意識の内
に依存したプレイをしてしまっていたようだ。
だが、相手も鳥の目を感じ取れるといった選手だとすればこっち
の対応だって自然と変わる。俺が子供の頃からトレーニングして手
に入れた技術は断じて鳥の目を生かす為の物だけではないのだ。
確かに相手の皇太子と呼ばれるハインリッヒが持って産まれた資
質は間違いなく俺以上だろう。ドイツの皇帝と呼ばれた偉大な選手
の後継者として、名前負けしないだけの心・技・体の何一つ欠けて
いない才能と高いレベルでバランスのとれた実力を当然のごとく持
っていやがる。
だけどな皇太子様はどこか勘違いして見下しているようだが、俺
の最大の特徴は鳥の目なんかではなくしぶとい所なのである。例え
死んでもサッカーをやるためだったら復活するぐらい執念深く諦め
が悪い性格をしているのだ。
待っていろよ、この後半で道化師が決して皇太子にピッチ上では
劣らないことを思い知らせてやるぜ!
そういった決意を固めている最中に後半が始まったが、ドイツは
前半の最後から始めたDFラインと中盤を前に押し上げる陣形を続
行している。
これは終了間際の得点に至るまでの流れが良かったと判断して、
いいリズムを崩さないようにしているのだろう。
こっちとしてはちょっと判断の難しい展開だな。
もちろん得点源のFWヴァルターとDFラインからゲームを操る
リベロのハインリッヒを警戒しないわけにはいかないが、他の選手
を無視していいはずがない。
仮にもサッカー大国のドイツ代表だ、エース格の二人ほど目立た
ないとはいえ粒は揃った選手達である。
1209
特に厄介なのが俺達日本のDFの注意が自分達から逸れているの
がプライドを刺激したのか、サイドアタッカー達がここが勝負所だ
と積極的にドリブルで勝負を仕掛けてくるようになったのだ。
もちろんそのサイドからの攻撃の最終目的は爆撃機ヴァルターに
弾薬を補給⋮⋮ではなくクロスを供給する事だ。このドイツの両翼
のサイドアタッカーはこれまでのグループリーグでは得点がないこ
とから、ゴール前での決定力はないのだろうがクロスを上げられる
のだけは警戒しないわけにはいかない。
なにしろ神出鬼没だが破壊力満点の爆撃機がうちのゴール前をふ
らついているからだ。
このヴァルターは﹁ペナルティエリア内とゴールできそうな所﹂
なら日本陣内のどこにでも移動するのでマークしにくくて仕方がな
い。もしもステルス性の爆撃機を保有している国と戦争をするのな
ら、こんな﹁いつどこから急に爆撃されるか判らない﹂怖さを常に
感じてしまうのだろうな。
そこで日本の守備に目を転じれば、言うまでもなく右サイドはも
ろい。それは島津をサイドバックとして登用している時点で判りき
った事だ。
では左サイドはどうなのか? これはアジア予選の最初の内はも
ちろん島津に比べればずっと守備の上手い、というか守りの局面で
ちゃんとそのポジションにいるサイドバックを先発させていた。
だが右サイドを抉られてクロスを上げてくる敵を相手にした場合、
片方のサイドだけが守りが堅くてもあまり意味がないと結論が出た
のだ。
従って、島津がスタメンの時には左には上下に運動量の多いサイ
ドバックではなく、屈強なセンターバックタイプのDFを使っての
真田キャプテンと武田を含む三人のDFが中央に絞ってスリーバッ
クの守備体型を形作っている。
1210
武田と真田キャプテンに加え、もう一人長身のDFが日本ゴール
にいればそう簡単にセンタリングからのヘディングで得点は許さな
い。なにしろ島津がスタメンって時点でそのパターンで攻め込まれ
るのはさんざん経験しているからだ。
ドイツを相手にした場合も日本代表で一番ヘッドに強い武田が得
点率の高い爆撃機ヴァルターと空中で争い、真田キャプテンがその
フォロー、そしてもう一人のFWを残ったDFが相手をしている。
オールラウンドに活躍できる真田キャプテンは別としても、島津
以外の二人のDFはフィジカルと対人での強さを買われての先発起
用である。これなら中国の楊みたいな規格外の長身のエアバトラー
でもない限り大丈夫だ。
さて、日本の守備について一安心したところでここから先は俺が
担当する攻撃についてである。
こっちの方はなかなか上手い事行っていない。
なにより皇太子がDFラインで頑張っているからなかなか突破す
るのは難しいからだ。それにこいつは個人的なディフェンス能力以
前にラインの統率やカバーリングのタイミングが絶妙なんだよな。
遠くからスルーパスでラインの裏を狙うとオフサイドトラップに
引っかかり、もう少し踏み込んでラストパスを出そうとするといつ
の間にか間合いを潰されて彼と一対一をやるはめになる。
これは皇太子が自分がディフェンス側となった場合の一対一での
勝負に絶対の自信を持ってるから出来るんだよな。自分がマークし
た相手に抜かれる事はもちろん前へはパスさえも通させないという
尊大な自負心のなせる業だ。それがまた嘘やハッタリじゃない所が
腹立たしい。
だから俺がボールを持って中央からの展開を図ると、ここまでは
ほとんどがバックパスで終わる結果になってしまっている。むしろ
1211
俺を囮にした攻撃の方が得点に繋がった山下先輩のドリブル突破の
ように効果的なのだ。
でも後半になるとさすがにそのパターンも通用しなくなってきた。
俺も皇太子のプレッシャーに負けてゴールに背を向けてばかりじゃ
なく、なんとかこのドイツディフェンスを打開しなければ⋮⋮。
まあ、そのための餌は少しずつ撒いているのだが。
何度もボールが俺へと回される度、後ろにすっと音もなく気配が
近づく。振り返って相手の顔を確認する必要も、鳥の目を使う必要
もない。このタイミングでくっついてくるのは皇太子ハインリッヒ
以外には考えられないからだ。
ピタリと張り付いて反転しにくいというほど密着マークはしてい
ない。だが、ターンをしようとするとそのアクションの最中に無防
備になる一瞬で踏み込まれてボールを奪われそうな嫌な距離の取り
方だ。
パワーはあるのに体を押し付けてごり押しをしてこない綺麗な守
備のやり方だが、ここまで洗練されてレベルの高い一対一のディフ
ェンスを受けるのは俺も初めてである。
これまでに皇太子ほどではなくとも、高いディフェンス能力を持
った選手にマンマークされ似たような状況に追い込まれた事は経験
がある。だが、その場合は背中を向けたままでヒールパスを何本か
通してやれば相手が混乱し出したのだ。
それがこの皇太子相手には通じない。
ヒールキックは基本的にかかとの向いた方向にしかボールを蹴れ
ないという欠点がある。それでもボールの出所が判らなかったりタ
イミングが計れなかったり、ノールックでパスが出せるとは思わな
かったりと敵の虚をつく事で俺はヒールキックでも高いパス成功率
を誇っていたのだ。
しかしこの皇太子が俺と似たピッチを俯瞰できる視点を持ってい
1212
るとするとどうなるか? 俺がヒールで撃とうとしているタイミン
グもコースも丸判りでカットし放題になるのだ。ヒールで撃つこの
場合はどうしても普通のキックでパスするよりも球足が遅くなるの
がカットしやすさに輪をかけてしまう。
もちろんドイツの攻撃の始点になるこいつにボールを簡単に渡す
わけにはいかないよな。そんなことをしたらあっと言う間にカウン
ターとなるパスを爆撃機に出されて逆転されてしまう。
それに何度も同じ相手にボールを奪われるなんて俺のプライドが
許さない。
従って無理な攻撃は諦めるという悪循環だ。
俺が背後からの皇太子のプレッシャーに負けたようにバックパス
を繰り返すと﹁アホー﹂だの﹁ワイとの約束を破るんか?﹂と罵声
が飛ぶが、もうしばらく我慢してくれよ。
そんな微妙な硬直状況がしばらく続いたが、ようやく試合を動か
せる場面がやってきた。
ボールが俺へと回ってくるのだが、僅かに皇太子が寄せるのが遅
い。いや、実はそうではない。後半に入ってから俺がボールを受け
とる度にポジションを毎回ほんの少しだけ下げていたからだ。
具体的にはほんの半歩ずつ。最初からこの位置でゲームメイクを
していれば俺がドイツ陣内にもうちょっと踏み込むまで泳がせよう
としたかもしれない。
だけど長い間をおかずに適度なタイミングで俺がパスを受け取っ
てはじりじりと俺が皇太子を釣り上げていたのには気がつかなかっ
たようだ。
ここまで誘い出されてはDFラインに戻るまでには致命的なタイ
ムロスが生じてしまう。ならばこの場で俺からボールを奪うしかな
い。そう腹を決めたのかハインリッヒがさらに寄せるスピードを上
1213
げた。
︱︱ちょっとぐらいは迷えよ、可愛気がないなぁこいつは。
だが、その間にこっちは完全にターンしてドイツゴールへ向かう
準備は終了している。条件としては完全に五分だろう。
ここに至って、ようやく俺が万全の体勢でドイツの皇太子ハイン
リッヒと真正面から一対一をできる状況が出来上がったのだ。
ドイツ人である彼には通じないと判っていてもつい口にしてしま
う。
﹁さあ楽しもうぜ皇太子!﹂ 1214
第三十四話 皇太子を相手にしよう
俺達の年代において、おそらく世界最高レベルのディフェンス能
力を持つドイツの皇太子ハインリッヒと試合の重要なポイントとな
るであろう時間と場所での直接対決だ。
しかも今の俺はボールを持ってゴール方向を向いているという願
ってもない状態である。
これで燃えなきゃサッカーをやっている甲斐がないよな。
相手の皇太子も大事な場面と判断してか俺にそれ以上の準備はさ
せてくれない。すぐにパスやシュートを撃てる距離を消そうと微妙
な位置にまで素早く体を寄せてきた。
普通のDFならば俺にはもう少しくっつくか離れるかの二択で、
こんな風に正面から向き合う事はめったにない。それはパワーで劣
る俺を接触プレイで強引に潰そうとするか、ドリブルで抜かれるの
を警戒しすぎて間合いを広く取るかのどちらかを選んでいるからだ。
しかし一対一ならば絶対にドリブルでは抜かれない自信があるの
か、無造作に思えるほど素早く踏み込んでくる皇太子。
確かにこのぐらいの間合いがあればドリブル突破だけでなく前方
へパスされた場合にも対応できるだろうが、俺にとっては最も技術
を発揮しやすい中間距離でもあるぞ。
よし行くかと軽くボールを右左へタッチして揺さぶり、肩や首に
視線といった物まで駆使して﹁抜くぞ抜くぞ﹂と誘っては先に相手
を動かそうとする。
ちぃっ、これぐらいじゃ引っかかってはくれないか。
もしこんな時に慌てて足を出してくれる奴だったらその逆を突い
て突破するのはさほど難しくはないのだが、相手もドイツの誇るリ
1215
ベロでありそんな無様に抜かれるようなまねはしてくれない。
それどころか隙あらばボールを取るぞと、無言のプレッシャーを
かけて追いつめられた俺の方こそ一か八かの無理なドリブル突破を
するように誘導しているようだ。
くっ、この一見地味にさえ映るディフェンスなのだが、基本に忠
実でなお落ち着き払っている。さすがに一筋縄ではいかないようだ。
これまでに相対してきた数々のDF達は俺がここまでフェイント
を重ねれば我慢しきれずタックルを仕掛けてきたりバランスを崩し
たりしてきた。そうやって先に相手を動かしてから後の先で突破し
てきたのだ。
いや例え抜けはしなくても少なくともどこかしら綻びと突くべき
弱点が浮かんできたのだが、皇太子からはそんな隙らしき物は微塵
も見当たらない。
これほど一対一が厳しく感じるのはちょっと事情は違うがイタリ
アのキーパーの赤信号とペナルティエリア内でやった時以来か。
ちらりと弱気の虫が顔を出しそうになり、バックパスで逃げよう
かという思考が脳裏をよぎる。
無意識の内に鳥の目で連携が長く最もパスがしやすい山下先輩と、
俺の危機には必ずフォローに現れててくれるはずの明智の位置を確
認した。
だがその瞬間に前の皇太子から受けるプレッシャーが僅かに減っ
たのだ。
あ、もしかして⋮⋮。
俺はすっと顔を伏せると今度は上杉の姿を探す。
うん、あいつはいつも通りオフサイドラインぎりぎりの所で俺か
らのスルーパスを待っている。普段ならばもっと思い切り良く飛び
出すのだが、今回はいつものように俺からほとんど溜めなしで出さ
れているパスとは違う為にタイミングが取れないらしい。
1216
そして俺が上杉に注目している間、さっきまでの立ち位置を変え
て皇太子は完璧に彼へのパスルートを潰している。
つまりどういう理屈か判らないが、俺がどこを狙っているのかこ
いつに読まれていると確定していいだろう。
それが俗に言う気配を読んでの話か、それともディフェンスに長
けたが故の勘なのか、それとも俺の鳥の目めいたものを持っている
のかは知らん。それでも一つだけ判ったのは︱︱これは利用できる
って事だ。 俺は改めてこれまでの手足の小刻みなフェイクに加え、ボールを
左右に動かし・跨ぎ・ヒールキックにスピンでの微妙なボール操作
まで切る手札を増やしてていく。
その上でボールがいかにも﹁相手が足を伸ばしたら取れそう﹂な
ぎりぎりのラインに設置し続ける。さらには首の振りに顔の向きに
味方の位置、さらに鳥の目での視界まで総動員しての駆け引きは継
続中だ。
観客は俺の隙に見せかけた誘いに、なぜ皇太子はチェックしにい
かないのか不思議がっているだろうな。
どうでも良いことだが、テレビ画面越しなどではこの俺と皇太子
の一対一での細かい機微が判らずに俺がボールを保持したまま二人
で向き合ってぼーっとしているように映るのかもしれない。
松永前監督なんかにはどんな解説されるか判ったもんじゃないな。
まあそんな心配は後回しにして、この厄介な相手を攻略するのに
集中しよう。
このままではらちが明かないと決意してもう一度深く顔を伏せる
が、これは鳥の目ではなくスタートダッシュに必要な前傾姿勢を目
立たなくするためである。
ここまで色々とパスやフェイントに意識を割かせたんだ、一番シ
ンプルなスピードとキレで勝負する縦へのドリブルでの突破への警
1217
戒は薄れているはず。
別に完全に相手の裏をかくんじゃない、﹁またフェイントか﹂と
疑ってくれるだけで構わない。国際戦のレベルでは敵が一%でいい
から対処が遅れてくれればそれだけで勝負が決められるのだ。
そして俺はその色々とフェイントを仕掛けている最中にも皇太子
の挙動︱︱特に肩の動きを注視していた。こいつは軸がぶれない分
だけ逆に呼吸の際の肩の上下が良く判る。そして肩が上がるのは息
を吸い込んでいる時で、その瞬間だけはどんな人間でも反応が遅れ
るのだ。
︱︱よし、今だ!
俺の持てる全てのフェイントと観察力を発揮してチャンスだと決
断したアクションは、相手のハインリッヒ対して一歩半だけ先んじ
るアドバンテージをもたらしてくれた。
一歩半踏み込んだというのは一対一をやっている敵とちょうど肩
が並ぶぐらい場所である。
後は速度を上げて抜き去るだけなのだが、皇太子も自分の不利を
悟ったようだ。抜かれない様にと無駄な動きはせずに並んだ肩をぐ
いっと押し込むようにして俺のバランスを崩そうとする。
ぎりぎりでファールを取られない程度のチャージが、すれ違いか
けた俺の肩に強い衝撃を与えた。
安定感よりスピードと切れ味を重視したダッシュではその圧力に
耐えきれず体は傾いていくが、皇太子を相手にしてるんだ、このぐ
らいは想定済みだぜ!
受け身よりも俺はそのままの体勢から右足を振り抜くことを迷わ
ず優先する。
その俺が蹴ったボールが向かうスペースはドイツゴール前にいる
うちのエースストライカーと、それをマークしているDFの裏側だ。
1218
一対一で皇太子が前へボールを通すはずがないと味方を信頼しき
っている敵のDF。
俺と皇太子ハインリッヒの勝負には微塵も興味も抱かずに、自分
へパスが来るかどうかだけを気にしている味方の点取り屋。
この二人のボールに対する反応の速さは、当然ながら性格が悪い
方へと軍配が上がった。
斜めになっていく視界の中、ボールがイメージ通りのラインでオ
フサイドをかいくぐった上杉に渡ったのを確認した俺は、日本が得
点する事までも信じて身をよじると背中と尻でピッチへ転がるよう
に受け身を取る。
お前へとパスを送るのが俺の役目で、そこから先はお前の仕事な
んだからな上杉。外したりしたら本気で怒るぞ。
︱︱ピッチに倒れ背中とお尻をぶつけた際の刹那の意識の空白の
後、俺は﹁痛てて﹂と突いた尻餅に顔をしかめた。
その時にはすでに上杉が叫び声付きのシャドウボクシングをしな
がら、自身の久しぶりのゴールをサポーターに向かって誇示してい
る所だった。
うん、ちゃんとイメージ通りにゴールしてくれたようだな。
倒れた体の各部位の軽い痛みも全く気にならずに頬を緩めている
と、すっと目の前に差し出された手に﹁お、サンキュ﹂と捕まって
立ち上がる。
だがその大きな手をたどっていくと、それはドイツの皇太子の物
だった。
思わず俺を倒した相手にも関わらず﹁ダ、ダンケシェーン?﹂と
疑問形の感謝のドイツ語に言い直したが、立ち上がらせてもなお身
長さからくる見下ろしは無表情のままだ。
今の攻防と失点に相当プライドが傷つけられたのか、そのまま身
を翻してドイツゴールへ帰っていくまで彼の鉄の仮面で出来たよう
1219
な厳しい表情は崩れなかった。
その孤高の後ろ姿を見送っている内に、上杉のあまりに堂に入っ
たシャドウに近づけないチームメイトが諦めたのか代わりに俺の方
へと近づいてきたのだ。
﹁ナイスアシストだ、アシカ!﹂
防ぐ間もなく次々に俺の背へとハンコのように赤い手形が押され
てゆく。気が付けばその中にちゃっかり上杉までもが紛れ込んでい
るじゃないか。
お前もしかして、興奮に我を忘れた当初はともかく途中からは紅
葉を避ける為にシャドウボクシングを続けていたな。
﹁痛てて、俺は今転んだばかりなんですから手加減してくださいよ﹂
﹁え、どこか怪我したのか?﹂
途端に心配そうに尋ねてくる山下先輩に﹁いえ、背中と尻餅をつ
いただけで特にダメージは⋮⋮﹂と打ち消すと﹁じゃ、オッケーや
な﹂と紅葉の嵐を続行しようとする拳を握ったり開いたりして自分
の番が待ちきれない様子の上杉。
その彼に敢然と立ちはだかるのは頼りになる山下先輩だ。
﹁待て、アシカを叩きたいのなら⋮⋮﹂
﹁いや、別に無理してまで叩きたくはないっす﹂
とその寸劇に対して顔の前で手を左右に振る明智を無視し﹁俺を
倒していけ﹂とでも格好をつけるのかと期待したが、先輩は人差し
指を上杉へと突き付ける。
﹁そのゴールした野郎を存分に叩いてからだ﹂
1220
﹁あ、それもそうっすね﹂
﹁そっちは僕も叩きたいかも﹂
ついちょっと前まで俺の背に群がっていたチームメイトが一斉に
上杉をロックオンする。
じりじりと生存者ににじり寄るゾンビの群のような代表選手達に
囲まれた上杉は、ファイティングポーズを取って絶体絶命のアクシ
ョン映画のヒーローのように叫んだ。
﹁くっ、アシカ! お前裏切ったんやな!﹂
﹁え? これって俺のせい? あ、でも俺も参加しますね。上杉さ
んの背中で行われる紅葉狩りには﹂
﹁参加料は無料っすからどんどん参加してオッケーっす。それと上
杉今頃気が付いたんすか? 基本的に全部アシカのせいっすよ﹂
﹁うん、このチームの不都合は大体アシカのせいだな﹂
山下先輩や明智が責任を俺に押し付けながら、楽しそうにゴール
を決めた殊勲者にじゃれかかる。
⋮⋮この代表選手達の俺に対する評価は一度はっきりさせなけれ
ばならないと心に刻んだ。まあ、それより今は上杉の背後をとるの
が先決だけどな。
若干他のチームとはノリが異なっているようだが、とにかく勝ち
越し点を挙げた日本の雰囲気は最高に盛り上がっていた。 1221
第三十五話 ゲルマン魂に対抗しよう
ゴールした上杉となぜか俺に甚大な被害を与えた馬鹿騒ぎが一頻
り終わると、俺達は厳しい顔付きの中にも苦笑を覗かせた審判に促
され日本の陣内へと戻っていく。
その時すれ違いざまにドイツ代表からは鋭い視線を浴びせられた。
だが、そんなのはこれまで何度も通った道だ。むしろ重要な試合で
敵がこういうぎらついた目をしていない方が不自然である。
ただ一つ気になったのは、これまでずっと試合中もプレイするの
が面倒そうで鈍重なイメージの強かった爆撃機ヴァルターが、その
太めの体に纏っていたもっさりとした雰囲気を全て払いのけてじっ
とこっちを睨んでいた点だろうか。
でも今更目を覚ましたって遅いぜ、こっちはもうすでに勝ち越し
てるんだ。お前さんの得点能力は認めるが、今回は俺達が勝たして
もらうぞヴァルター。
そして精悍な作りの顔を一層引き締めたドイツの皇太子ハインリ
ッヒさんよ、そんな厳しい表情をしているとハンサムなだけに迫力
が増してちょっと怖いぞ、女性ファンが減るんじゃないか? 気を
つけるんだな。
浮かれている日本代表とは異なり、なぜかリードされたにも関わ
らず士気がちっとも下がる様子のないドイツ代表。それどころか不
利な状況に陥って一層チーム全員の気合が入ったようだ。これまで
以上に熱の入った声をお互いに掛け合っている。
劣勢でも諦めが全く見当たらない、これが話に聞くゲルマン魂っ
て奴か。
そしてゲームが動き出したせいかピッチの外からの動きもあった。
ドイツの方では選手交代が行われ、これまでかなり走り回ってい
1222
たサイドアタッカーにフレッシュな人材を投入してきたのだ。日本
の弱点となるサイドをとことん抉るつもりだな。
それを見た山形監督も控えのDFにアップを指示したのだろう、
にわかに両ベンチの動きが慌ただしくなる。その日本ベンチでの騒
ぎを面白くなさそうな表情で見つめる島津。
ああ、DFを交代させて守備固めをする場合ピッチを去る第一候
補はこいつだからな。自分が代えられるかと思うとそりゃ渋い表情
にもなるか。
︱︱そして再開の笛が吹かれ、追いつこうとするドイツ代表の逆
襲が始まった。
その手始めとして素人目でもすぐに判る変化が一つ。
皇太子がDFラインから前へ、アンカーに相当する守備位置まで
出るいわゆる﹁フォアリベロ﹂というポイントにまでポジションを
上げたのだ。しかもその場所からこれまでよりも頻繁にオーバーラ
ップを繰り返す。
もともと守備的なポジションの奴が毎度のように駆け上がってく
るのは、それを相手にする側としてはかなり精神的にきつい物があ
る。
日本チームでは島津がその代表格だな。ポジションに見合わない
攻撃意欲に満ちたオーバーラップは﹁なんでお前がそこまで攻め上
がるんだよ﹂って文句を言いたくなるんだと敵にやられて初めて身
に染みたよ。
こうなると監督の指示した﹁皇太子が上がった場合は全員で声を
掛け合って注意し合う﹂というのは意味がない。何しろ相手は常に
上がろうと機会をうかがっているのだから。それに従ってこっちの
守備の分担も変えなければならない。
これまではせいぜいが中盤の底辺りからパスを散らすハインリッ
1223
ヒからのパスコースを制限すればいいぐらいだったが、皇太子自ら
前線にまで御出陣されるのだからマークを付けないわけにはいかな
い。
中盤でマークに付くのはアンカーの石田ということになった。そ
れ以上上がった場合はDFとマークを受け渡しをする。島津の代わ
りにDFを入れた分だけゴール前の守備の枚数は余っているからだ。
ま、別に﹁面倒な仕事は全部アンカーのあいつ⋮⋮ああ石田だっ
たな、あいつに投げておけ﹂って苛めている訳ではない、一応理由
はあるのだ。
ドイツはトップ下を置かないでサイドアタッカーと皇太子がゲー
ムメイクをする戦術だけに、石田はこれまでは特定のマークを受け
持たなかったからここで選ばれたのだ。
これまではせいぜいが、中盤のスペースを埋める役割と上がりっ
ぱなしだった右サイドバック島津のフォロー、それに神出鬼没な爆
撃機がボールをもらいに下がってきた場合と、俺や明智がゴール前
に侵入した時のケアにしか石田は働いていなかったからな。
⋮⋮あれ? 列挙すると彼はこれまでもなんだか凄い仕事量をこ
なしているような気がするな。
ま、まあ監督の指示だから従わないと。
苦労性のアンカー石田のブラック企業並の仕事量から目を逸らし
て、自分の仕事へと目を向ける。
皇太子のポジションが上がったからといって、俺のトップ下の役
割は楽にならない。それどころか難易度が上がったようにすら思え
る。
なぜなら皇太子の上がった中盤の底のポジションと、俺のトップ
下のポジションがピッチ上で重なってしまうからだ。
これでは今までよりもずっと厳しいプレッシャーを感じてしまう
のも無理はないだろう。こいつは役割が攻撃的になったにもかかわ
1224
らず、相変わらず守備に関しても手抜きはしてくれないのだ。
むしろ俺に激しくチェックをかけてボールを奪い、そこからカウ
ンターにしようとしている。
しかたなくこちらも背中を向けてボールを奪われないような防御
的な体勢になるが、この少年を相手に速度の落ちるヒールパスは相
性が悪いのはこれまでに判明している。カットされる危険性が高い
ために今は封印せざる得ない。
そして間が悪いことに、こういう時に後ろからオーバーラップし
てくる島津はすでに交代済みだ。あいつがいれば俺も敵ゴールに背
を向けたままで安心して、どうせ指示しなくても上がってくる島津
へバックパスをはたいて前へ向けたのだが。
ちっ、ゲームの流れがこっちの思うように進まないと思考までが
愚痴っぽくなってしまうな。
だが冷静になればドイツに攻め込まれる回数が多くなったとはい
え、一点リードしているのはまだこっちだ。見方を変えれば、向こ
うにボールを渡して時間を使わせているとも言えなくもない。
いつのまにかバランスのとれたセントラルMFを目指していた俺
までも、この日本代表のチームカラーである攻撃最優先主義に染ま
りかけているぞ、気をつけよう。
ドイツの攻勢はゲームメイカーである皇太子が前へ出た事と、途
中出場に力が有り余っている感じのサイドアタッカーによって強め
られている。
だが、最終的なゴールを許していないのは日本が爆撃機ヴァルタ
ーへのマークを厳重にしているからだ。島津と交代で入ったDFは
そのまま武田と組んで彼を二人がかりで抑え込む役割だな。監督も
この爆撃機から漂う危険な雰囲気を察知したようだ。
1225
こうなるとドイツの攻撃がサイドからのクロスに偏っているのは
ありがたい。ヘディングの高さにおいてだけは爆撃機よりもうちの
武田の方があきらかに勝っているからだ。
皇太子からの後方からのパス一発でのカウンターには武田と真田
キャプテンが上手くカットしてくれている。まあそれには俺と明智
にアンカーの石田の三人が、体を寄せてパスを出すコースを制限し
たり時間をかけさせているという隠れた努力があっての事だが。
そういう地味な働きも評価してくださいよ、日本の関係者の皆さ
ん。
とにかく、ゲームの流れはドイツが押してはいるが日本の抵抗で
拮抗した重苦しい空気が漂っている。このまま何事もなく試合が終
了してくれれば波乱が無く、ゲームとしては面白くはないが日本に
とっては一番リスク管理という観点からは良い戦いになるな。
⋮⋮なんておとなしい考えを俺達が持つはずがない。
このままの硬直状況が続けば国際戦の経験が浅く、守備に穴があ
る日本代表の方が不利だ。リードしている今こそが止めを刺す絶好
の機会なのである。
あ、念の為にもう一度繰り返しておく。俺は攻守のバランスが取
れたセントラルMFを目指していて、この超攻撃的な日本代表のチ
ームカラーには一切染まってはいないぞ! こほん。そういった試合を決定付ける一点を狙うと言う意味では、
皇太子が中盤の底まで出て来たのは日本にとってもラッキーだった。
そのフォアリベロ、またはアンカーのポジションはおそらく最も守
備的ポジションでは運動量が必要な位置である。
いくら皇太子が体力的に恵まれていたとしても前半同様に攻守両
面に渡って活躍しようとすれば、必ずオーバーヒートを起こすはず
だ。そこはスタミナと運動量に自信のある守備の専門家達でさえフ
1226
ル出場したら音を上げるハードなポジションだからだ。
監督の言う﹁皇太子には自分から崩れてもらう﹂というのはプラ
イドの高い彼を攻守に走り回らせ、体力を奪おうとする作戦だった。
もちろん一つ間違えれば彼に大活躍されるリスクもある。だが攻
撃もできるDFのリベロだった前半と、個人のディフェンスもオフ
ェンスの組み立てもさらにオフサイドの指示やチーム全体を見ての
コーチングの声掛けまでも自分一人でやらなければならない今の立
場の疲労度は比べ物にならないはずだ。
ほら、その証拠にこれまで以上に肩の上下動が激しくなり端正な
顔の唇が開いて息を荒げているじゃないか。
強敵の苦境につい頬が緩んでしまうとは俺も人が悪くなってしま
ったかな。
おっと、ちょうどこの残り十分ぐらいでの、得点すれば駄目押し
になり試合が決まるいい時間帯で俺にボールが回ってきたな。
そしてやっぱり皇太子は俺へマークにつくタイミングが微妙に遅
れている、疲労がピークに差し掛かって足が動かなくなっているの
かもしれない。
よし、チェックに来る前にターンして簡単に前を向けた。それで
も皇太子によってゴール前の上杉へのパスコースだけはきっちり消
されているのは見事だが、今の消耗したお前に怖さは感じないぜ!
皇太子ハインリッヒが近付こうとする寸前に俺は思いきり右足を
振り上げた。
そこで立ち止まろうとするハインリッヒだが足が踏ん張り切れな
かったのか、ぐっと身を縮めながらも上体は前へつんのめる。
もらった! そう内心で快哉を叫びながら右足を振り切った。
しかし、俺が蹴ったボールは前へではなく宙へ浮いていた。そう、
俺の得意技の一つチップキックだ。
1227
これで皇太子の頭上を抜いて後ろにボールを落せば、そこからよ
ーいドンでのダッシュ競争となる。
もう足にきて、体勢が崩れているこいつが相手ならば突破するの
は問題ないはずだ。なあハインリッヒ。
かわしたと確信してダッシュをしかけた俺の足がもつれるように
して急停止する。
その瞬間俺は信じられない物を見たからだ。
完全に疲れ切っていたはずのハインリッヒが空中の獲物を襲う豹
のように跳躍し、ボールを額で受け止めていたのだ。
嘘だろう? 長身のハインリッヒでも届かないように上げたはず
の高さのボールを完全にへばっていたにも関わらず、だぜ。
冗談抜きに今の跳躍は高ぇ。これほどのジャンプ力をまだ隠し持
っていたのか。
しかも、浮かせたとはいえそれなりの速度があったはずのボール
を単に頭で弾いてクリアするのではなかった。
空中での不自由な体勢でありながら首と上半身で柔らかくボール
の勢いを完全に吸収し、そのまままっすぐ自分の真下に落としたの
だ。着地した時にはすでに彼の足元でコントロールされている。
あれだけ大きな体をしているくせに、なんて瞬発力と柔軟性に技
術までも兼ね備えていやがるんだよ。
︱︱一連の動作を淀みなくこなした皇太子の口が釣り上がる。そ
の顔から疲労の色は隠せないのだが、なぜかその笑みは凄みをもっ
てはっきりと俺の目には刻まれた。
まだ敵陣であるにも関わらず、戦慄に鳥肌を立てた俺は大声を上
げていた。
﹁皇太子が来るぞ!﹂
1228
と。それは警告ではなく、半ば恐怖の叫びだった。
1229
第三十六話 二人の実力を認めよう
見る者をゾクリとさせる切れるような冷たい雰囲気をまき散らし
ながら、皇太子ハインリッヒが俺から奪ったボールを持ったままで
ピッチの中央を通ってのオーバーラップをかける。
これまでの彼のプレイスタイルならばここでサイドへロングパス
を供給するのだが、今回に限っては自分のドリブルで突破口を開こ
うとしているようだ。
ここは彼に一番近く、ボールを奪われた責任もある俺が真っ先に
止めにいくべきだろう。
さっきのチップキックで抜いたもんだと早合点して敵陣にダッシ
ュしかけていた体はたたらを踏んでしまうが、それを引き戻して必
死に追い縋る。
全力で追うと、さすがの皇太子も疲労からかドリブルも前半ほど
の速度はないのだろう、ハーフウェイラインの所で追いつけた。 俺が前へ立ちはだかりコースを切ろうとするのを左手でガードし、
半ば押し退けるようにして強引に突破を図る皇太子。
これまで彼はずっとパワーを生かす強引な接触プレイを避けてエ
レガントなプレイをし続けていたが、さすがにもう表面上を取り繕
っている余裕はなさそうだ。端正な表情を歪めて今までよりも荒々
しいプレイぶりなのだが、それでもファールにならないようにぎり
ぎりの一線だけはきちんと守っている。
誇り高いこの少年が必死になっているのがその動きからも伝わっ
てくる。だからこそ絶対に止めなくてはならない。
俺がブロックされながらもしつこくチェックに行くことでさらに
ドリブルの速度は落ちる。その間に中盤の守備メンバーの要である
1230
石田や明智までが包囲しようと駆け寄ってきた。
舌打ちが聞こえると、さらにぐっと俺の体が押されて皇太子から
突き放された。そしてそのスペースが開いた僅かな間を逃さずに皇
太子からドイツのサイドアタッカーへとロングパスが渡される。
流れは似てはいるが、これまでのドイツのカウンターとは少しだ
け展開が違う。皇太子が自分で中央へ敵を引き付けて十分にタメを
作ったせいで、日本の中盤のディフェンスが彼に集中してしまった
からだ。おかげでこっちのサイドの守備はすかすかである。
いくらゴール前の爆撃機達には厳重なマークが張り付いていると
はいえ、これだけサイドを完全にフリーにするのはまずい。
慌てて石田がパスの後追いでサイドへと走っていく。
おそらくこのタイミングではクロスを上げる前に追いつくのは無
理だろうが、それでもサイドの選手に少しでもプレッシャーを与え
て味方の守備陣を有利にしようと自分の果たすべき役割に手を抜い
たりしない。
俺も急いで敵味方が集結し始めた日本のゴール前へと駆けだした。
まだ成長途中の俺の身長と競り合いの弱さでは屈強なメンバー達と
のヘディング争いには加わるだけ無駄だろうが、一番危険な相手に
くっついて邪魔をするぐらいならできるはずだ。
少なくとも石田の無駄走りを厭わない献身ぶりを見ていたら﹁守
備は任せた﹂とくつろいでなんかいられない。自分の出来る事は最
大限にやらなければ。
そしてドイツのサイドアタッカーがコーナーの奥深く、ほとんど
旗が立っている直前の位置にまで侵入してからの折り返しのクロス
を上げた。
やはり石田はクロスを阻止するのには間に合わなかったが、それ
でも敵のサイドアタッカーがゴール前に上げるタイミングを遅らせ
1231
るのと精度を落とすのには成功したようだ。
日本のゴール前に飛んでくるボールはややスピードが無く、しか
も明らかにターゲットにしていたはずの爆撃機ヴァルターの頭上を
遥かに超えていく。
彼も届かないと諦めたのかジャンプして競り合いをする素振りす
らしなかったほどだ。
だが、その後ろにドイツでおそらく最もヘディングの最高到達点
の高い少年︱︱皇太子ハインリッヒが走り込んでいる。
サイドへロングパスを通した後、疲れているはずの体に鞭を打っ
て休まずにここまでオーバーラップしてきたのだ。
偶然なのかサイドの選手の狙いか、それとも走り込む皇太子のピ
ッチを見渡すセンスの結果か不明だがちょうど彼が跳躍したスペー
スにクロスのボールが落ちてきた。
この危険な少年を追いかけていた俺と、アンカーの石田から皇太
子のマークを受け渡された途中出場のDFも同時に飛ぶ。
だけどヘディング勝負ではとてもボールにまでは届くはずがない。
そりゃそうだ、相手の皇太子が半端な跳躍力じゃないのはさっきチ
ップキックを止められた時に思い知らされている。
仕方ない、ジャンプをする前から届かないのは承知の上である。
ボールを競り合うのはDFに任せて、俺はむしろ空中で皇太子の
体にジャンプした勢いと体重でぶつかった。ファールを取られて万
が一にもPKにならないようないように注意しながらも、相手に万
全の体勢でヘディングシュートをさせないことに心血を注ぐ。
くそ、判ってはいたがこいつ高ぇ!
同時に飛ぶとなおさら皇太子の高さとジャンプ力が際立つ。体感
的にはあの中国の巨人、楊と同等のレベルの手が届かない空中戦の
高さに歯噛みする。
先ほど俺のチップキックを難なく捉えたあの跳躍力を存分に生か
1232
し、ハインリッヒはこっちの頭が胸までも届かないほど飛び上がる
と大きく首を後方に引いてから思いきり振ってクロスボールに額を
ぶつける。
ちぇっ、俺より高いはずのDFの二人がかりのマークですらほと
んど意味ないじゃないか!
そのヘディングのタイミングに合わせてこっちも皇太子に体を預
けて邪魔をしたが、それがどれだけ効果が合ったか怪しい物だ。
それでもやるだけの事をやったおかげか、皇太子の豪快なヘディ
ングシュートは日本のキーパーの手で防がれた。
足で撃たれたシュートと同等なほど威力のある至近距離からのシ
ュートをよくぞ止めたが、さすがにキャッチするまでは至らない。
こぼれ球に殺到する敵味方の選手達、俺も参戦したいがヘディン
グ争いの後で皇太子ともつれるよう倒れていて動けない。
さすがの皇太子もボールを奪ってからの一連のプレイに、あれだ
けの高さまで跳んでのヘディングは脚力を消耗したようだ。シュー
トと同時に仕掛けた俺からのチャージでバランスを崩して俺ともう
一人のDFと一緒にピッチに膝をついているのだ。
﹁止めろ!﹂
﹁︱︱!﹂
俺の叫びと一部しか聞き取れない皇太子のドイツ語の叫びが交錯
する。
その声が届いたのかゴールの中に飛び込んだ物が。しかしネット
に突き刺さったのはボールではない、ドイツのユニフォームの太め
の少年だ。
この爆撃機ヴァルターがヘディング争いには参加すらしなかった
のは、まさかこのルーズボールに備えていたからなのか? そんな
はずはない、あの時点ではキーパーが弾いたボールがどこに転がる
1233
か判るどころか、皇太子のヘディングシュートさえまだ撃つ前だっ
たのだから。
あ、それよりボールはどこだ? ゴールの中にはヴァルターの姿
しか見当たらないんだから、早くクリアしなければならない。
だがゴール前の混戦に目を凝らし、鳥の目を使っても見つからな
い。俺がようやく立ち上がりながら首を傾げた時、審判が長い笛を
吹いた。
これは得点が入った時の音色だ。
いつのまにゴールを奪われたんだと改めてゴールの中を見つめる
と、そこではヴァルターがゆっくりと身を起こすところだった。
するとその体の下からようやくボールが転がり出てきた。どうや
ら彼の体の下敷きになっていたらしい。
立ち上がったドイツのエースストライカーであるヴァルターが冷
静だった一回目の得点と違い、今度は顔を真っ赤にして天に向けて
咆哮を上げる。
これまでのどこか鈍重な印象を覆す、まるで爆撃機というより自
身が爆弾のような危険な雰囲気を放っているぞ、今のこいつは。
その気配に臆することなく群がるドイツ代表が、まだ叫び続けて
いる彼に抱きついたり髪をくしゃくしゃにかき回したりしている。
冷たく規律正しいイメージの彼らだが、同点に追い付いた今だけ
は年齢通りの子供っぽさを垣間見せていた。
しかしゴールシーンは確認できなかったが、ヴァルターは綺麗に
ヘディングやキックで押し込んだのではないはずだ。
倒れ込んだ彼の腹の下から海亀の産卵のようにボールがこぼれた
って事は、まさに体を投げ出してそのままゴール内に飛び込んだっ
てことになる。おそらく足でも頭でも処理できない曖昧な高さのボ
ールを自分の体全部を使って、かなりのスピードで体もろともゴー
1234
ル内に突っ込んだのだろう。
こんなのはコーチが正しいポジショニングを教えてどうこうでき
るプレイではない。
こぼれ球がどこにくるかの嗅覚とそれに誰より速く追い付く身の
こなしと反射神経、さらに躊躇わずゴールに飛び込める勇気を持っ
ているかいないか︱︱つまり点取り屋の本能があるかどうかという
問題だ。
それに加えて溢れるぐらいの決定力を持った爆撃機に見事にして
やられたってことだな。
いや、彼だけでなくその前の皇太子の強引でパワフルな一連のプ
レイも見事だった。あれが無ければ爆撃機にもっと厳しくマークが
ついていたはずだからだ。
なにしろゴール前で俺と一緒に皇太子のヘディングを止めようと
マークを受け持ったDFは、本当なら武田と一緒に爆撃機を潰す役
割をしていたはずなのだから。あいつが張り付いていればヴァルタ
ーもこれほど簡単に得点できなかったかもしれない。
オールラウンダーな皇太子に、シュートエリア内でのみ危険な爆
撃機。この二つの化学反応がドイツ最高のコンビの実力なのだろう。
一足す一が十にも二十にもなっていやがる。 リードされていても決して焦らずに、絶対に最後まで勝負を諦め
ない。それどころか危機になればなるほどそのプレイは鋭さと力強
さを増していく。
さすがは﹁最後に勝つのはいつもドイツ﹂と言われたゲルマン魂
を受け継いでいるチームだな。
なんというかこう、これだけ強いチームと戦っていると、こっち
まで最後まで諦めないゲルマン魂が注入されたみたいに燃えてくる
じゃないか。
1235
ああ、日本代表ならば大和魂になるのか。
自分では使った事がない言葉だが、死んでも諦めないって意味な
ら俺は間違いなくそれを備えているはずだ。
それ以前に、こんな楽しい試合を諦めるだなんてもったいない選
択肢は今の俺の脳内には存在していない。
たぶん俺のミスからの失点だと実況では叩かれているかもしれな
いが、そんな事など気にならないぐらい強敵との戦いに高揚してい
た。
1236
第三十七話 暗い雰囲気を吹き飛ばそう
残り時間も十分を切る、後もう少しで逃げ切れるという時間帯で
同点に追いつかれてしまった。
だが俺の心の中では悔しいという感情よりもさすがはサッカー大
国のドイツだ、やるじゃないかという賞賛の念の方が強かった。
別段手を抜いた覚えもないし、集中力をなくしたつもりもない。
しかしドイツの力︱︱特に皇太子の気迫に若干押されていたののは
認めなくてはならないだろう。
この代表チームに加わってからは失点を追いかける展開が多かっ
たので、逆に何度リードして突き放してもしぶとくくらいついてく
るドイツの粘り強い戦いぶりは新鮮な感覚を味あわせてくれる。
たぶん俺達と戦っていた相手もこんな風に常に追いつかれそうな
プレッシャーに晒されていたのだろう。
自分達のリードがなくなったのを喜ぶわけにはいかないが、対戦
する相手が諦めを知らない強敵だとこっちにも気合が入るってもん
だ。逃げ切るんじゃなくて、もう一点とって叩き潰さないと勝負は
つかない。
センターサークルでそう覚悟を決め直す俺の隣では、明らかに唇
の端を笑みの形につり上げている少年がいた。
上杉は残り時間を守る為に消費しようとするのではなく、また得
点を奪いに攻撃的にシフトしなければならなくたった状況を明らか
に喜んでいるようだった。リードしていた先ほどよりも体の動きが
楽しそうに弾んでいたのだ。
⋮⋮せめてもう少しだけでも内心を隠せばいいのになぁ。
失点して肩を落す日本のDF陣の厳しい視線がこっちに集まって
いる。守備陣から睨まれる不器用なゴールハンターを憐れんでいる
1237
と、その上杉がこっちを振り向き﹁おい、アシカ﹂と呼びかけてき
た。
﹁何ですか上杉さん?﹂
﹁お前はもう少しにやけるのを加減した方がええんやないか? 同
点に追いつかれて笑ってるんは感じ悪いわ﹂
思わず自分の頬に手を当てると、うん確かに自覚しているより緩
みが大きかったようだ。自身も浮かれている上杉に気づかれるぐら
いなのだからよっぽど酷かったのだろう。
いかんと慌てて両掌で音が鳴るほど頬を叩く。それで頬と気を一
気に引き締めると、目を丸くして俺の乱暴な目覚ましを見つめてい
る上杉に向き直った。
棒若無人な彼にしては珍しくチームメイトに気を使ってくれたん
だ、俺からも一つ忠告を送ろう。
﹁上杉さん今度はキックオフシュートはなしですよ﹂
﹁⋮⋮お、おう。もちろんや﹂
一瞬体を電流が流されたように硬直させた後、あからさまに図星
を指された表情で﹁ワイがそないな考えなしな事をすると思ってる
んか!﹂と逆ギレをして声を荒げてきた。
﹁ああ、良かった。ならこれから上杉さんはキックオフシュートは
もう一回もやらないんですね﹂
﹁⋮⋮いやこの試合の一発目かてお前がやれって言うたからやない
か! それに、そうやカンフル剤としていきなりシュート撃つのも
必要な時もあると思わへん? 思うよな! ならこれからワイが初
っ端に撃って外した場合は全部アシカの責任っちゅー事で﹂
1238
⋮⋮なんだかメンバーから﹁このチームの問題は大体アシカのせ
い﹂って言われている原因が判ってきた。
しかもこのストライカーは﹁あ、でもキックオフからのシュート
が入った場合の得点と功績はワイのもんやで﹂と追い打ちをかけて
いるのだ。プレイと違って上杉は口を開くごとに緊張感が削がれて
いく。
そこに俺達二人の間に漂う微妙な空気を読まず口を出す少年がや
ってきた。
﹁あの、もうキックオフっすよ﹂
﹁⋮⋮そ、そうでしたね﹂
﹁ワ、ワイは忘れてへんかったで﹂
とりあえず今度の再開では、俺の活躍によりまたいきなりのシュ
ートで始まるのは防がれたのだった。
失点したばかりの状況では俺と上杉の会話は不謹慎なやり取りに
見えてしまうかもしれれないが、得点を奪いに行く攻撃陣の雰囲気
が落ち込んだりするよりはずっとましだよな。 さて残りが十分を切った時点で同点であれば、普通の試合は中盤
を省略したロングボールの蹴り合いとなる場合が多い。
下手に中盤でボールをじっくり回しているとそれをカットされれ
ば大ピンチになりかねないからだ。この時間帯で失点すればリカバ
リーが効かない為に、どうしても消極的にすら見える安全策を取ろ
うとしてしまう。
さらに体力が尽きそうな試合の最終盤なのである、スタミナが残
り少ない後ろのディフェンスの方から押し上げを期待せずに前のメ
ンバーだけで攻撃してくれといった理由もあるだろう。
1239
でも俺達日本代表はそんな前線だけのカウンターで攻撃するチー
ムじゃない。中盤でじっくりとパスを回し、サイドを経由したとし
ても高さで勝負するクロスを上げるより、グラウンダーで最前線の
FWの足元へボールを繋いで最終的にシュートへ持っていくのが攻
撃の基本形である。
なによりワントップの所にドリブルがさほど上手くなく、フィニ
ッシュしかできない上杉を配置した段階で﹁前からボールを取りに
行く事で結果的にカウンターになっても、自分達から引いて守って
カウンターを狙う事はしない﹂と宣言しているようなものだ。
だからこそ、中盤に試合を組み立てられる俺と明智のゲームメイ
カーが二人もいるのだが。
その俺と明智は中央からの崩しに拘っていた。
確かに皇太子のディフェンス能力は脅威だが、それでもかなりス
タミナを消費しているのも事実だ。そして彼を相手にして攻撃する
ことはそれをディフェンスをさせる事によってさらに体力を使わせ
て攻撃への余力を無くさせる事にも繋がる。
うんこの辺は理路整然としているな。
これでさっきの失点のきっかけが完璧に抜けると思ったチップキ
ックをカットされたせいで、頭に来たからもう一回皇太子の所から
攻めようとしているのではないと証明されたような物だ。
俺は完全に冷静で落ち着いている。さっき明智に相談しても﹁う、
うん。アシカはれ、冷静っすね。あ、ちょっと監督が僕を呼んでい
るような気がしないでもないっす﹂と認めてくれている。その後で
なぜか俺から足早に遠ざかりながら﹁やっぱりこのチームの最大の
売りも厄介事も大体アシカのせいっす﹂と呟いていたが、なんでだ
ろうな? 上杉と言い明智と言い問題児ばかりが俺の責任にしたが
るのは困ったもんだ。 しかし、正直この皇太子を無視してロングボールを敵のゴール前
1240
に放り込む作戦ではドイツを相手にしては成功率は低い。日本の長
所であるはずの中盤の組み立てを放棄したようなものになってしま
うし、空中戦では上杉も長身のドイツDF相手には分が悪いからだ。
だから明智にしても冗談交じりにでも俺の中央突破作戦を承認し
てくれたのだろう。
そう言うわけで今も頑張ってドイツ攻撃陣からボールを奪還した
ディフェンス陣に、ボールを渡せと要求する。 ﹁真田キャプテン、パスください!﹂ 右手を上げて声を出すと、日本語が判らなくても雰囲気で内容を
察したらしい皇太子の奴が音も無く接近してくる。その姿に明智が
ちらりと視線を流してこいつも手を上げた。
﹁こっちにも頼むっす﹂
おそらく明智の行動はマークの厳しい俺への負担を減らすためと、
皇太子及びドイツディフェンスに対する﹁日本の攻撃の起点はアシ
カだけじゃないっすよ﹂という牽制だろう。これでマークが分散し
てくれるはずだ。
だが、それに感化されたのか他にも前線で上がる手の数がさらに
二つも増殖する。
﹁あ、俺にもよこせって!﹂
﹁アホ! ボールはワイのもんや!﹂
⋮⋮もうやだこいつら。
上杉と山下先輩の挙手の追加にパスを出そうとする真田キャプテ
ンはもちろん、敵のドイツ人までがうろんな目つきで見つめてくる。
たぶん二人の点取り屋も俺へと警戒が集中するのを防ごうとした
1241
んだろうが、どうにも本気で﹁パスをよこせ、シュートを撃ちたい
からできれば今すぐに﹂と言いたげな表情をしているためにちょっ
とだけ信用ができない。
いっそのこと﹁どうぞどうぞ﹂とこいつら最前線の奴らにボール
を譲ってやろうか、そんな考えを頭を振って追い払う。そんな単純
なロングパスをした所で強靱なフィジカルを持つドイツDFに弾き
返されるだけだ。
﹁そこの二人は無視してください!﹂
点取り屋二人をないがしろにする言葉を出すと共に前線から凄い
殺気を感じた気がしたが、あくまで気のせいにしておきたいのでし
ばらく肉眼はもちろん鳥の目でもそこら辺は見ないようにする。
さて、真田キャプテンからのなんとなく﹁お前らいい加減にしろ
よ﹂というため息が混じっているような感覚のパスを受け取ると、
覚悟を決めて自分とドイツゴール付近の状況を確認する。
挙手してまで注目を集めていた上杉と山下先輩の二人は当然マー
クがきつい。特に一番ゴールに近い上杉にはマーカーが密着してい
る。
残りの前線の駒は左サイドの馬場ぐらいだが、ドイツの守備はあ
いつだってそうそうフリーにはしてくれない。
まあゴールから離れている分まだマークが緩いが、その分得点す
るためにはそこからさらに何か一手必要だ。
︱︱つまり効率を考え、リスクを無視すれば皇太子のいる中央を
突破するのが一番なのだ。そしてそれを理解しているからこそ大黒
柱の彼を据えているのだろう。
ならば今度こそ正面から突破してやるぞ。
1242
そう固く決意をした一分後、少しだけ気合いが空回りした俺と日
本の攻撃陣は皇太子ハインリッヒにボールを奪還されてしまう。
完全に体力を使い果たしたかと思ったのだが、この少年は勝負所
では想像以上の力を発揮するという敵に回すと厄介極まりない主人
公補正のような特徴があるようだ。
こいつにしてやられるのは、今日これで何度目になるのか判らな
いぐらいである。
だがこの時にボールを奪われてしまったプレイが、結果的に最後
のゴールへと繋がったのだから俺と日本代表にとってはずっと忘れ
られない失敗の記憶の一つとなるのだった。
1243
第三十八話 ピンチをチャンスへ塗り変えよう
俺がボールを持つと皇太子ハインリッヒがすっと寄ってくる。ま
だ前半に彼がDFラインにいた時などは他の選手がマークしたりも
していたが、日本が二点目をとって皇太子が前のボランチに近いポ
ジションに出るようになってからは専ら彼がマークしてくる。
他の選手ならばもう少しパスするにしろ抜くにしろ楽にプレイで
きるのだが、敵もそれは承知の上らしい。DFラインを置いても俺
への対応を優先するようだ。
すこしばかり過大評価な気もするが、そのチームで最も守備の上
手い︱︱さらに﹁皇太子﹂とまで呼ばれるドイツの大黒柱をマーカ
ーにされるというのは名誉な事でもある。
だが、それは全て勝った場合の話だ。
負ければまんまとドイツの作戦と罠にかかった間抜けなゲームメ
イカーという事になってしまう。
今回も俺は皇太子が完全に接近するまでの間に敵ゴールへと振り
向く事はできた。うん、やっぱりこいつのスタミナはもう残ってい
ないのだろう、その動きにはキレがなくなっている。
だが、それでもなお近付きながらも俺から前線へのパスコースは
きっちりその体でカバーしていた。瞬間的なスピードこそ失ってい
るようだが、ディフェンスにおけるその正確な読みと判断力にはい
ささかの翳りもない。
まあそれらまで無くしていたら監督も交代させるだろうが、ここ
まで消耗してもなお自分の弱みを外見からは判別が難しいぐらいに
隠しきっている。
おそらくドイツのチームメイト以外は、実際に至近距離でピッチ
で対峙している俺や明智ぐらいしかこの誇り高い皇太子ハインリッ
1244
ヒが疲れ切っていると見抜いた人間は少ないはずだ。
つまり皇太子はかなり無理をしてきているはずなのだが、依然と
して普通の選手よりずっと上のレベルでのプレイを続けているので
ある。
ならその衰えを衆目に晒して、もう無理はさせないようにしてあ
げよう。皇太子の支配しているはずのエリアから突破すれば、彼を
心理的な支柱にしているドイツ代表も動揺して士気が下がるはずだ
しな。
さて、目の前にはボールを持った俺を腰を落として待ち構えてい
るようなハインリッヒ。
こいつの方が距離を詰めて俺へとチェックにきたはずなのに、な
ぜか向き合うといつもこいつの準備した罠へ飛び込んでしまった獲
物の気分になる。
まあいい。前回止められたように個人技で抜けないのならコンビ
ネーションで突破すればいいだけだ。
幸いなことに現時点での俺と消耗した皇太子では、一瞬の切れ味
だけの勝負なら俺に軍配が上がるはずである。
ならば別に今ここでテクニック自慢をするつもりもないのだ、で
きるだけシンプルな方法で突破するのがいいだろう。
やや前線から引いてきた山下先輩の位置を確認して、ボールを預
けると同時にダッシュをかける。
基本的なパス&ゴーで、先輩から返ってくるのはダイレクトでの
壁パスになる。
このコンビプレイは小学生時代から何遍やったことか。お互いが
相手の呼吸を感じ取ってアイコンタクトの必要もないぐらいだ。
皇太子との間合いを測って、横パスを出すと全力でダッシュに移
る。
1245
こうなると技術よりも純粋な瞬発力の競争だ。万全の状態ならと
もかく、現在の彼が相手なら問題なく振り切れ⋮⋮ないな。なんで
だよ!
予想外の展開に冷や汗が背中を伝う。ボールを持っていない状況
なら接触プレイもできないだろうとパスで預けてのダッシュの競争
だぞ? もうばてて足が動かなくなっている皇太子にとっては一番
きつい条件のはずだ。なのに相手の皇太子は長いストライドを生か
して一歩ごとにぐいっと体を加速させている。
スピード勝負に持っていけば、為す術が無くおいていける︱︱い
や、場合によっては追いかけようともせず諦めるかもしれないとさ
え考えていた。
だって、これまでのデータでは俺が負けるはずのない勝負なのだ。
それなのに︱︱なんでこんな冷や汗を流さねばならない? しかもこいつ、下手したら俺のダッシュより速くスタートをきっ
て先輩からのパスルートへと最短距離を取っている。
山下先輩からのリターンパスのコース上に割り込もうとした皇太
子と軽く接触して、軽量級の悲しさで弾き飛ばされそうになった。
すぐにバランスを取り返したが、ほんの一歩だけ遅れてしまう。
サッカーの試合においてこの一歩の差というのは絶望的に大きい。
さっきまでは互角に肩でぶつかったのが、今度は俺からチャージに
行くと後ろからのファールで一発退場になりかねない。
またも自分が原因でボールをロストしたことに身の毛がよだつが、
今はそんな感情に身を任せていい場合じゃない。すぐに取り返しに
いかねば。
幸い俺だけでなく近くにいた山下先輩も左サイドの馬場も緊急事
態と感じたのか、慌ててプレスをかけに来てくれる。明智も目立た
ないようフォローに走るが、こいつは残念ながら少し距離が長いな。
ワンテンポ遅れてしまいそうだ。でも三人もいれば皇太子を包囲で
1246
きる!
そう囲もうとするが、今度はさっきの強引なオーバーラップと違
って彼はあっさりとボールを離す。
﹁山下先輩、馬場さん、そいつ囲みます!﹂
パスでいなされても諦めないで、しつこくバックパスされたDF
に対して追いかける。
皇太子の包囲網を素早く解くと俺とその二人でさらに包みこむよ
うに包囲して潰そうとする。ここでボールを奪えれば最高のショー
トカウンターになるのだが、さすがに相手も自陣のゴール近くでは
無理をしようとはしないだろう。
俺と山下先輩が直線的に突っ込み、馬場は元々自分のいた左サイ
ドを封じながら追い込んで行く。
まあセーフティに大きくクリアされるだろうなとは覚悟する。そ
れでも皇太子からの正確なロングパスによる高速カウンターの芽を
潰せたと考えるとそれほど悪くはない。
だが、カウンターと繋がりを重視するドイツのDFは安易にクリ
アしようとはせず、ここでも彼らにとって一番頼りになる近いノー
マークの相手へとパスを回す。
︱︱そうここで皇太子にパスしたのだ。
これは予想できる、いや期待していた展開だ。
左サイドへのパスは馬場がコースを切った。そしてもう一人の中
央のDFのそばには上杉という危険なFWがいる。さらにこいつは
自分のキックには自信がない。そうでもなければドイツのDFライ
ンからの組み立てが皇太子一辺倒になるはずもないからな。
何も俺は考えなしにボールに食いついて皇太子のマークを外した
のではない。ついていた三人が一斉に外れてノーマークにすること
でそこにパスを出すように誘ったのだ。
1247
だから、ほら。ちゃんと今度は俺達三人の包囲に慌てたDFから
皇太子へのパスコースには気配を消していたように遅れて隠れてい
た明智が入っている。
明智がしてやったりという表情でカットしようとする。
だが明らかに自分へパスが来る前にも関わらず、皇太子が必死の
形相でまだボールを受けていない明智にチェックをかける。嘘だよ
な、こいつ絶対にスタミナが切れてるはずだよね? なんでこんな
に動けるの?
俺の内心の抗議を無視し、一呼吸で密着するとここでも体格とパ
ワーを生かして明智が受け取りかけたボールを奪い返そうとする皇
太子。
お前は勝負所になるとパワーアップする漫画の主人公体質なのか
よ! 助けに行こうと駆け寄っていく俺の心からの突っ込みを無視して
競り合う二人の足が激しく交錯し、ボールが不規則に跳ね回る。
お互いの足にぶつかったボールはどちらの意志とも無関係な位置
へとピッチ上を転がっていく。
そこへ﹁よく来たな﹂とでも言いだげにスピンのかかったボール
をちょこんと抑える少年が。
そのままひょいと緊張の欠片も見せず、上杉が俺達とドイツDF
が激しく争っていたボールを軽くドイツゴールへ向けて蹴り込む。
ピッチ上の狭い区域をピンボールのように左右に慌ただしく弾か
れていたボールは、そのままあっけなくゴールマウスの中へと吸い
込まれていった。
これまでの激しい奪い合いとは全く違うリズムとタイミングでの
シュートに、飛びつくどころか反応すらできなかったドイツキーパ
ー。
1248
ピッチ上の他の選手も﹁え? 何事?﹂とまだ事態が呑み込めず
にきょとんと口を空けている。
空気を読めないストライカー上杉が、皆がボールを奪い合う中で
一人だけ冷静に﹁ゴールする﹂という事だけを考えて迷わずに実行
したのだ。 上杉が右拳を掲げたまま駆け出して日本のサポーター席に﹁ワイ
の得点や!﹂とアピールする。何度もアッパーのように右拳を突き
上げる彼の姿に、ようやく日本が勝ち越し点を上げたという実感が
湧いてきた。
同時に視界の隅にとうとう限界だったのか、がっくりと膝を落し
た皇太子の姿が映る。その気落ちして肩を落すドイツの主将に﹁こ
れで勝った﹂という歓喜が胸の中を満たす。ゴールしたエースの姿
より、敵の落ち込む姿に実感が湧くとは俺も人が悪くなったもんだ。
最後の得点はかなり偶然ぽかったけれど、それでも立派なゴール
である。
俺達前線の選手がプレッシャーをかけて守備陣からボールをロス
トさせ、そのボール争いでマークが緩くなった上杉がゴールを決め
る。狙ってやった訳ではないが最高のショートカウンターの形にな
った。
さて後はロスタイムを合わせても一・二分だ。もちろん油断など
するはずもないが、ここから追いつかれるとは思えない。
手の届かない所でガッツポーズを繰り返している上杉を見て、俺
も小さく拳を握りしめ唇の端をつり上げる。
他の上杉の所へまた祝福に駆け付けていた日本代表のチームメイ
トは気付かなかったかもしれない。だが、俺はドイツの誇り高きが
皇太子がどこかドイツ代表に馴染みきっていなかった爆撃機ヴァル
ターの手で立ち上がらされたのを目撃していたのだ。
1249
そのまま何か会話を交わすあの二人はこれまでプレイ以外での接
点はなかったはずなのに、何だか今は強い絆を感じさせる。この試
合があのコンビを一層深く結びつけたのかもしれないな。
ピッチに膝をついた姿勢から体も、そして精神的にも立ち直った
皇太子が激しく手を叩き、大声で檄を飛ばす。
︱︱たぶん、このまま今日の試合は勝てる。でも次やればもっと
強くなったドイツ代表に勝てるとは自信過剰の気がある俺でさえも
断言できそうにない。
というか、間違っても今のこいつらと延長戦なんてやりたくねぇ。
勝利間近でありながら、俺の冷や汗は止まらなかった。
1250
第三十九話 前監督の予想を楽しもう
審判が短く二度鳴らした後に長く笛を吹き、試合の終了を告げる。
その音色に日本の青いユニフォームは飛び上がり、ドイツ代表の
白を基調としたユニフォームはピッチへと崩れ落ちた。
長かった。上杉の勝ち越しゴールから三分も無かったはずなのに、
たったそれだけの時間を守りきるのがこんなに精神的に疲労すると
は思わなかった。
もちろん普通のチーム相手ならここまで苦労はしない。だが相手
は皇太子ハインリッヒと爆撃機ヴァルターを揃えたドイツ代表で、
そいつらがリスクや後先を考えないパワープレイを仕掛けてきたん
だ。僅かな間だとはいっても抑えるのに手を焼いたって仕方ないじ
ゃないか。 だが勝ちさえすればその喜びがこれまでの試合中の疲れを全て吹
き飛ばしてくれる。
日本代表のメンバーは、皆が跳ねるような足取りでチームメイト
の誰彼となく肩を叩きあってお互いを祝福し合っている。俺のとこ
ろにも試合中によく絡む相手達が顔を輝かせてやってきた。
﹁アシカもお疲れ様っす﹂
﹁今日はまあなかなか良かったで、ワイも二ゴールを決めたしな。
残った課題はこの世界大会でどの試合でハットトリックを決めるか
と、後何点とればワイが得点王になれるかやな﹂
明智はねぎらい、上杉は貪欲にこれから先の展望を語りまた自分
の決定力をアピールする。まるで正反対のようだが、これで結構こ
の二人も気が合うしプレイの相性も悪くないのだから不思議なもの
1251
だ。
苦笑して俺も二人を祝福する。
﹁明智は今日も俺のフォロー色々としてくれて助かりました。そし
て上杉さんにはちゃんと一点目綺麗なパスを通したじゃないですか。
これからはもっと敵のレベルも上がるんですから、得点王になりた
いとかあんまりワガママ言わないでくださいよ﹂
﹁なんやて! 別にワイが点を取りたいんやなくて、日本の為にゴ
ールをしたいんだけやで。得点王の事なんか一切気にしてへん!﹂
視線をこちらから観客席の方へと泳がせながら、まるで信用でき
ない言葉を断言する上杉。ついさっき得点王について言及したばか
りだろうが、本当にこいつは嘘が下手だなぁ。
俺達が笑顔で﹁じゃ日本が勝てば、上杉さんは得点できなくても
いいんですね﹂﹁え? ワイがゴールせんでどうやって勝つんや?﹂
などと本気の混じった会話をしていると、そこにドイツのユニフォ
ーム姿の長身の少年が現れた。
何事か身構える俺の顔をじっと見下ろした後、皇太子が何か呟い
て手を差し伸べてくる。常識的に考えると、これはたぶん握手なん
だろうなと当たりをつけておそるおそる握り返す。
外れていたら恥ずかしいと思ったが、俺の手は想像以上にぎょっ
と強い力で握られた。その握った手を放した後に皇太子は射るよう
な視線で最後の一瞥をくれて、さらにドイツ語で何か言葉をかけて
去っていった。
どうにもいちいち動きが芝居がかっているというか、格好いいな
あいつは。でも問題が一つ、皇太子が何言ってたかさっぱり判らな
い。
﹁挨拶したのはアシカだけで、ワイらは無視かい﹂
1252
﹁まあ主にマッチアップしたのが俺でしたからね。でも結局何が言
いたいのか判りませんでしたけど﹂
ドイツ語で話されてもなぁと肩をすくめる俺に救いの手が差し伸
べられた。
﹁今のは﹁おめでとう、だが次は負けんぞ﹂って言ってたっすね﹂
﹁へえ、明智はドイツ語が判るのか?﹂
﹁はい。英語はもちろんっすが、ドイツ語・イタリア語・ポルトガ
ル語は日常会話程度ならオッケーっすよ﹂
﹁ほー、じゃあサッカー強豪国との会話には不自由しないな﹂
俺が感心すると、明智は得意そうに少し鼻を膨らませて胸をそら
す。うん、教養は凄いが態度は子供だ。
すると少しの間、黙って皇太子を見送っていた上杉が﹁なんや皇
太子の奴は負けて一皮剥けたボクサーみたいや。次にやる時は厳し
くなるかもしれへんな﹂と呟いた。それについては全く同感だな。
少しだけチームに溶け込んでいなかった爆撃機との仲も改善された
ようだし、次に戦う時はまた一段階強くなっているだろう。
だから明智の﹁その時はまたアシカに皇太子の相手を任せるっす﹂
という言葉は聞き逃せない。
﹁なんで俺にばかり任せるんですか!?﹂
﹁そりゃこのチームの厄介事はお前が引き寄せたのが多いからやな
いか?﹂
からからと笑う上杉と﹁その通りっす。皇太子もアシカをご指名
のようでしたっす﹂としきりに頷く明智に苛立つ。
野性的な上杉はともかく、明智からもそう思われてるのかよ。
正直明智にはサッカー以外でも一目おいている。今回判明した語
1253
学力にしても英会話ぐらいで手一杯な俺にとっては羨ましい話だ。
そんな奴からトラブルメイカーと思われるのは辛いな。
俺も一応は優等生の端くれだが、正直少しずつ下降線を描いてい
るのは否めない。
圧倒的にサッカーで時間を使うから他の教科は教科書を読んで、
授業を聞いているぐらいしかできないのだ。それが昔にした勉強の
記憶の掘り起こしと復習になっているから今は成績は目立って下が
っていないだけだ。 だからサッカーを熱心にやりながらも何ヶ国語も話せる、素で頭
のいい明智は不本意ながら尊敬してしまう。ただ一つだけケチをつ
けるなら、外国語を学ぶ前に普通に俺達と話す時にあの﹁っす﹂と
いう口調を直すのはできなかったのかというぐらいだ。
まあ勉強については今は考えなくてもいい。何しろ俺達日本代表
はまだこの世界大会に勝って次へ進めるんだからな!
まだまだ終わらない、世界から集められたサッカーのお祭りに参
加し続けられる事に俺は満足していた。
◇ ◇ ◇
実況席の後ろの大きな画面では今日の試合のハイライトシーンと
インタビューが映し出されている。
ヒーローインタビューに呼ばれた今日二得点の上杉だが、彼のい
つもはつんつんと逆立てている髪は汗に濡れてしまい、きつめの顔
立ちは勝利に綻んでいつもの不良っぽいイメージは随分と薄れてい
た。
だが彼の機嫌に反してインタビューは余り順調にはいかなかった。
﹁ワイが何で点を取れるかって? それは生まれながらのストライ
カーだからや!﹂﹁なんでワイがボクシングしてたかって? それ
も生まれながらのストライカーだからや!﹂といった出てくるのは
1254
勢いだけであまり要領を得ないコメントばかりだったからだ。
そんな映像をバックに、解説者である松永前監督とアナウンサー
の二人が今日の試合のまとめに入る。 柔和な顔を僅かに勝利の興奮で朱に染めて、アナウンサーが語り
出した。
﹁さて、ご覧のように見事日本代表は三対二でドイツ代表を撃破し
ました。松永さんによると優勝候補の一つであったドイツを破った
のは大きな自信になるんではないですか?﹂
松永はどこか面白くなさそうにこめかみの辺りをひくつかせて答
える。
﹁そうですね。思った以上に皇太子ハインリッヒが不甲斐なかった
ですね。彼ならカルロスにも対抗できるかと思ったんですが、今日
の出来ではとてもとても。いくら攻撃も受け持つと言っても三点取
られるようでは守備の統率者として失格ですね﹂
首を振りながらドイツの主将でもある皇太子を攻める松永。彼の
解説はミスしたり調子が悪い選手を責める傾向が強く、あまり褒め
る場面はない。特にそれは日本代表が対象の場合は顕著である。
﹁なんとも厳しいお言葉です。とても試合前にドイツの皇太子を絶
賛して、爆撃機ヴァルターを酷評していた解説者とは思えないコメ
ントをいただきました﹂ もうそんな解説に慣れてきたのか、アナウンサーも皮肉たっぷり
に言葉を返す。それにむっとしたのか松永は子供っぽく頬を膨らま
せて反論する。
1255
﹁試合前は私の意見に同意していたアナウンサーの自分を棚に置い
た態度には負けますよ。はっはっは﹂
テレビからはBGMとインタビューの続きが流れているのだが、
この二人の会話のせいでそれらがかき消されるほど凄まじく白々と
した空気になってしまう。
アナウンサーがそんな雰囲気を払拭しようと小さく咳払いをし、
無理に明るくこれからの展望を語り出す。
﹁ま、まあ今日の試合は素直に日本の勝利を喜ぶべきでしょう。で
すが、これで日本代表は次にベスト四の座を賭けてイングランド対
アメリカの勝者と激突することになりましたね松永さん﹂
﹁ええ、おそらくですが対戦する事になるのはイングランドでしょ
う。やはりサッカーの母国だけあってレベルが高いのは当然ですが、
今回は自国開催で慣れたピッチです。しかもこの年代から熱狂的な
サポーター︱︱フーリガンとまでは言いませんが強烈な応援が付い
てます。これだけの強力なホームコートアドバンテージがある相手
にどう日本代表が抵抗するのか実に楽しみですね﹂
﹁ふむふむ、松永は次も日本より相手のイングランドが有利と予想
しているんだね﹂
解説者の松永が微妙に引っかかる発言をしても、なぜか真は眼鏡
の奥の目を細めている。軽く握った拳を小さな口元にあてて、しき
りに頷いている彼女の姿を不思議に思ったのか足利の母が小首を傾
げた。
﹁あら真ちゃんはご機嫌ね。あんまり速輝にとってはいいニュース
じゃなかったみたいだけど﹂
1256
﹁この松永の解説と予想はよく外れるって評判なんですよ!﹂
テレビから顔の向きを変えて松永の予想の的中率の低さを説明す
るが、その真の表情はなんとも複雑だ。幼馴染みの足利と日本代表
チームを悪く言われるのが愉快なはずはないが、その一方でイギリ
スと戦った場合の不利な点を指摘してくれればくれるほど逆に日本
が有利になっていく気がするからだ。
﹁あんまり嬉しくはないけれど、これで次のイギリス戦はもらった
も同然だね!﹂
いつも以上にイングランドの有利な点を並べ立てる松永に、最近
は彼に対して怒るより呆れるか生暖かい視線を注ぐようになってき
た真だった。むしろ、最近では彼がアシカを褒めたりするとなにか
不吉な予感がしてしまうほどだ。
ある意味毒舌をもっと言ってくれとコアなサポーターから願われ
るという、得なポジションを獲得している松永解説者だった。
︱︱だが真はこの二時間後、イングランド代表をアメリカ代表が
破るという番狂わせの報に接し﹁しまった、今回の松永予想で逆に
なるのはそっちだったのかー!﹂と叫ぶこととなるのだった。
1257
第四十話 バスケットボールに進路を変更させよう
﹁というわけで次の敵はアメリカだ﹂
﹁なにがというわけなのか判りませんが、とりあえず次の対戦相手
がアメリカだという事についてだけは了解しました﹂
ミーティング開幕での監督の色々と省略しすぎた言葉にとりあえ
ず一言突っ込んでおく。なぜかこのチームでの突っ込み役は俺だと
皆に思われてるせいか、俺がやらないとくだらないボケがスルーさ
れたままでの微妙な空気が長引いてしまうのだ。
年齢的には自分より遙か下の選手に突っ込まれたはずの監督が妙
に嬉しそうだからまだいいが、本来の俺のキャラとは違ってきてい
る気もする。
なんで最年少の俺がそんな役目を担っているのか真田キャプテン
に尋ねた事もあるが、その返答は﹁ほらアシカって監督や年上相手
でも物怖じしないし、知識はあるし、最年少だし、アシカだし﹂と
いったあまり要領を得ないものだった。大体アシカだしって表現は、
このチーム内では通用しているようだが本当にどういう意味なんだ
ろうな?
だが、以前に俺が突っ込みを怠って居心地が悪くなるほどミーテ
ィングの会話の流れが滞ってしまった事があったので、仕方なく今
も俺がその役目をやっているのだ。
あの時﹁よし、行くぞ! 中国を倒しチャイナ!﹂とボケた監督
と、静まり返った周りのチームメイトの﹁お前の出番だぞアシカ﹂
といった救いを求めるような目は忘れられない。あれだけ人が集ま
っているのに秒針の動く音どころか、誰かの鼓動が聞こえそうなほ
ど物音一つしなかったのはさすがにかなり怖かったぞ。俺に助けの
1258
手を求めるなんてのは、せめて強敵相手の試合中だけに限定してほ
しい。
この代表チームに合流してから、なんだか周囲の俺に対する認識
と自分の理想像とが少しずつずれてきているな。
ま、でもこの山形監督は選手に言葉を挟まれるのが苦にならない
タイプの指導者だから色々と助かってるんだよな。考えてみると俺
と相性がいい指導者は小学生時代の下尾監督といい、どちらかとい
うとそんな寛容なタイプの放任型が多い。
規律に厳しく選手を縛るタイプの松永前監督なんかは相性がどう
こう言う以前の問題だったが。
とにかく俺からの言葉は監督の期待していたタイミングでの突っ
込みだったのだろう、厳つい顔を綻ばせてミーティングを続ける。
﹁うむ、アメリカはスポーツ大国だが例外的にサッカーだけは世界
の流行から外れていると思われていた。だが近年サッカーが盛んな
国からの移民や、若年層でのプレイヤーの増加さらにはプロリーグ
の復活などによって侮れないレベルにまで急浮上している。元々科
学的トレーニングに関するアプローチなんかではあの国は最先端だ
しな⋮⋮いやでもさすがに今大会でイングランド代表に勝つまで急
成長するとは思わなかったが﹂
﹁ええ、そうっすね。僕の予想でもイングランド有利は動かなかっ
たんすけど、ホームで戦ってるイングランドでさえあのFWにほん
の一瞬の隙を突かれてカウンターで失点してたっすね﹂
明智が補足しては鏡に映したようにそっくりな体勢で腕を組み、
同時に首を傾げる二人。だが、俺からしたらそんなに悩む問題では
ない。敵としてみれば各ポジションに名のある選手を揃えていたイ
ングランドより、まだ番狂わせで勝ち上がったアメリカの方が戦い
やすい相手のはずだ。
1259
ただ今の二人の会話で気になる点があった。
﹁あのFWって誰なんです? アメリカに有名なFWっていました
っけ?﹂
前の人生の分を合わせても俺の記憶には同年代に有名なFWはい
ないのだが。
またも監督と明智が顔を見合わせたが、どちらかというと説明好
きな明智の方が買って出たようだ。
﹁今話に出たジェームスって選手はアメリカでは有名なんすけど、
それって他のスポーツで有名なんすよ。アメリカは素質のある子供
は一人で何種目もスポーツを掛け持ちするのは多いっすけど、この
ジェームスって奴はバスケットでかなり鳴らした奴っすね。年齢別
とはいえそっちの方でもオールアメリカンチームの一員だったそう
っす。
それが他のスポーツもして運動能力を伸ばすクロストレーニング
って名目でサッカーをやり始めたみたいっすね。それですぐに代表
に選ばれるんだからどれだけの化け物っすか、まさに才能と運動神
経の塊って噂っす。そしてサッカーでは無類の空中戦の強さでつい
たあだ名が﹁スラムダンカー﹂っすね。実際バスケットではチャン
スがあれば常にゴールにダンクで叩き込んでいるスタープレイヤー
だそうっす。
黒人でバスケットの選手という事は当然ながらかなりの長身の上、
全身のバネとジャンプ力もとんでもないっすからヘディングの強さ
は今大会ナンバーワンじゃないかって評判っす。まあ、中国の楊ク
ラスの空中戦の相手と思ってください。
ただまだ本格的にサッカーをやり始めてから日が浅いので、テク
ニックはまだ未熟みたいっすけどね。付け込むとしたらそこっすね﹂
1260
明智が待っていたとばかりに喜々として自分の集めた情報を開示
する。
﹁お、おう、そこまで詳しい情報を調べているとはな⋮⋮﹂
﹁ちなみにジェームスがサッカーをやり始めた切っ掛けはアメフト
をやろうとフットボールクラブに参加したら、それがアメフトでは
なくサッカークラブだったとかいう笑い話があるっすね。それでも
やらせてみたらあんまり才能が有り過ぎてサッカーもやるように懇
願されたのが始まりだったとかいう話しっす﹂
明智の情報収集能力にちょっと監督も退いているようだ。そりゃ
一介の中学生のはずが、協会のコネクションもある自分よりデータ
が豊富だったら驚くよな。
だが、さすがに次の試合が気になるのだろう、すぐに体勢を立て
直し俺達を激励する。
﹁とにかく次のアメリカ戦は真っ向勝負だ、そんな半分素人のいる
チームには負けるわけにはいかん! 守備の堅さでは今大会でも有
数のイタリアから二点、ドイツから三点取ったうちの自慢の攻撃力
を見せつけてやるぞ!﹂
﹁おお!﹂
俺達日本代表の全員の心は間違いなく﹁絶対に次のアメリカ戦も
勝つ!﹂という意志で統一されていた。
もちろん相手のアメリカ代表やスラムダンカーについて警戒心が
足りなすぎたと後悔するのだったが。イングランド代表を破ったの
がフロックだとつい自分達に都合の良いように受け取ってしまった
のである。
俺なんかもぼんやりとスラムダンカーなんてあだ名だったら、そ
のジェームスって奴がバスケをしている時は逆にフットボーラーと
1261
かダイビングヘッダーとか呼ばれてるのかななどと暢気に考えてい
た。
そしてこの時点では誰も気がついていなかったが、最もアメリカ
を甘く見ていたのが監督の山形だったという事が日本代表にとって
洒落にならない事態を引き起こすのだった。
◇ ◇ ◇
﹁では次に日本代表とアメリカ代表の試合への展望をお願いします﹂
アナウンサーから明日に迫ったアメリカ戦について質問を受けた
松永前監督が、画面の中で気持ち良さそうにその舌を回転させてい
た。
﹁アメリカはスポーツ科学が発達して運動能力が高い選手が多いの
は、オリンピックでのあの国のメダル獲得数を思い出せば納得でき
るでしょう。そこから考えてもアメリカ代表のメンバーは全員の成
長が早い為に体格が大きく、運動能力でも上をいっています。対戦
相手が強豪のイングランドではなくアメリカになったとしてもやは
り日本の不利は覆せませんね﹂
﹁日本代表はここまでアジア予選やグループリーグさらにはドイツ
戦でも、平均身長などではかなり上回られているチームにも技術と
チームワークで対抗して勝ってきました。それでもやはり不利なん
ですか?﹂
アナウンサーからの疑問に、はぁーといかにも人を馬鹿にしたよ
うな大きくため息を吐く松永。彼はアナウンサーを﹁気合いと根性
があればどこが相手でも負けるはずがない﹂という妄言を吐く重度
の精神論者であるかのような哀れみの目で見つめる。
1262
﹁体格以上に身体能力の差は一番大きく勝負に影響しますよ。例え
ば⋮⋮そうですね、より顕著にフィジカルの差が表れる女子でのサ
ッカー日本代表︱︱最近ではナデシコジャパンなんて呼ばれている
ようですが、外国人とのその身体能力の差はちょっと埋めがたい物
があります。そして今女子サッカーで一番身体能力と実力が上で世
界ランキング一位なのは、ブラジルやイタリアといった技術をベー
スにしたサッカー大国ではなくアメリカなんです。
おそらくナデシコがアメリカなどの体格や運動能力で大きく上回
られているチームに勝つのは後数十年、いやそれ以上かかるかもし
れません。目標と掲げているワールドカップ制覇などはまあ今のと
ころ夢のまた夢でしょうね⋮⋮っと、話が少し逸れましたがスポー
ツをしている限りは身体能力が上であれば圧倒的なアドバンテージ
がある事は間違いないんです。いくら今の代表が私が基礎を作った
チームといった点を加味しても良くて五分のどちらに転ぶか判らな
い勝負になるでしょうね﹂
なぜか元々の日本代表チームとは関係が薄く、女性差別になりか
ねない意見を平然と口に出した。
この松永による﹁日本の女子サッカーは世界で通用しない﹂発言
のVTRを保管していた後のある指導者が、数年後の女子ワールド
カップに優勝することとなるチームのメンバー達に見せた所凄まじ
い発奮材料になったという真偽不明な噂が流れるのだった。
そしてこの大会において数々の物議と話題を作り出した﹁当たら
ない松永の解説﹂はサッカー界で囁かれるあの男に褒められないよ
うに気をつけろという警告と一緒に長い間都市伝説として残るのだ
が、それはずっと未来の別の話である。
ほうじょう まこと
実際にリアルタイムでこの放送を目の当たりにした足利の幼馴染
みである北条 真などは﹁大丈夫、大丈夫。松永が吠えれば吠える
1263
ほどアシカと日本代表が有利になるんだから⋮⋮それに、これまで
の予想に比べたらまだましな方だし﹂としばらく自分で小刻みに震
える自分の肩を抱きしめるようにしてじっとしていた。
だが﹁うがー、やっぱり我慢できないよ!﹂と叫びつつパソコン
のキーボードをとんでもない勢いでタイプし始めたのだ。彼女がど
こに書き込みをしたのかは⋮⋮まあ想像がつくだろう。
真だけでなく他の女性達やサッカーファン達も同じように感じた
のか、松永のブログは即座に炎上した。だがそんなファンの行動と
は逆に、彼が解説する試合の視聴率はアップするというおかしな現
象がまたもや起こってしまったのだ。
こうして自分から油をまいて焼身自殺してるんじゃ? というぐ
らいの勢いで松永の炎上商法は成功し、彼の出演するスポーツニュ
ースや解説する世界大会の視聴率はクレームの数が増えるのに比例
するように好調に高く推移していく。
世界大会で勝ち上がっている足利達日本代表は自分達の奮闘によ
る得失点の多い試合の面白さだけでなく、それに加えピッチ外での
実況席から巻き起こされる騒動などでネットだけでなくテレビでも
話題になった。
そんな、ちょっとサッカーの本筋から離れた野次馬的な興味によ
るものまで加わりますます山形監督の率いる若き日本代表は注目を
集めるようになっていくのだった。
それがいいのか、悪いのかは別として。
1264
第四十一話 ベンチで頭を悩まそう
日本代表を率いる山形監督はゆったりと深くベンチの椅子に腰か
けて腕組みをしたままじっと視線をピッチに固定していた。彼の厳
つい外見は泰然自若としながらも、心の中では緊張のあまり出そう
な貧乏揺すりを止めるのに気を遣い、ラインぎりぎりまで走り出て
大声で檄を飛ばしたいのを我慢しているのだ。
この代表チームのメンバーには細かい指示を出すよりも、自信満
々に座ったままで﹁お前達を信頼しているぞ﹂という無言のメッセ
ージを送った方がいいと判っているからだ。
それでも彼の頭の中だけは忙しくこれからどう動くべきかのシミ
ュレーションを繰り返していた。
だからといっても目の前で行われている日本対アメリカ戦の前半
戦は旗色が悪いわけではない。
むしろ試合の立ち上がりに日本が明智・山下・足利といった中盤
のコンビネーションでアメリカの守備を崩し、最後は司令塔の足利
から上杉へのホットラインが機能しての得点で一対ゼロとリードし
ているのだから有利な状況であるのは間違いない。
しかし監督は試合の状況に一喜一憂するのではなく、現在の戦況
から未来を予測してその中で最も都合がいい結果が導かれるように
常に準備しておかなければならないのだ。
今現在一点リードしているからと楽観しているだけでは監督とし
て失格だろう。
山形はトーナメント二回戦がアメリカと決まった時は無意識の内
に唇が綻んでいた。これまでのデータでも明らかにアメリカよりも
イングランドの方が強敵︱︱というかイングランドが相手ならこっ
1265
ちが総力戦でかかっても勝敗はどう転ぶか判らなかった。だが、ア
メリカが相手ならば日本代表の方に色々な選択ができるだけの余地
があると判断しているからだ。
だから今日のアメリカ戦だけでなく先を見越した作戦を事前に幾
つか立案し、その腹案を持って試合に臨んでいたのである。
これまでは中盤を制圧しボール保持率を高くする作戦がはまり、
敵は有効な攻撃が出来ていない。スラムダンカーにはヘディング争
いをする機会さえほとんど与えていないのだから、守備陣には花丸
を上げるべきだろうなと山形監督は思う。
だが他にも考えていた作戦を実行しようにも、山形が躊躇うよう
な条件がここで二つ。
まずは日本のリードが一点だけということ。
二点差もあればサッカーではある程度のセーフティリードになる。
もちろん油断は禁物だが、二点差がつくという事は敵の守りが上
手くいっていないのとこちらの作戦が功を奏しているのを意味して
いる。そこから試合をひっくり返すのはなかなか難しいのだ。
だからこそ二点以上の差がついた後からでも逆転した試合が大逆
転としてクローズアップされ﹁二点差は最も危険﹂と言われるのだ
ろうが、そんな試合は実力が拮抗した試合ではあまりない。二点差
というのは勝敗の一つの目安だと山形監督は考えている。
そうなるとまだリードが一点だけの今はデリケートな状態であり、
日本が押しているというこの微妙なバランスを崩すのが怖くてなん
とも自分の方からは動きにくいという状況なのだ。
次に気になるのが天候だ。
試合前からぱらついていた小雨が時間進行に併せて徐々に強まっ
てきている。さすがはプレミアリーグでも使われるスタジアムだけ
あって、整備が行き届いているのか水はけも良くいまだにピッチの
コンディションは悪くない。
1266
だが、このまま雨がさらに降り注ぐと芝の上に水たまりが浮くよ
うな悪条件下でのプレイも覚悟しなければならないだろう。
トーナメント、しかもそれが国際試合などではできるだけ日程を
動かさないようにするために多少のアクシデントを無視してでも試
合を続行するからだ。
したがってこれ以上雨足が強まるのなら、こちらも泥だらけのピ
ッチで戦うのを前提にした対策を考えなければならない。
そこまで思考を進めていると、ピッチ上で動きがあり山形監督は
思わずベンチから腰を浮かして前のめりな姿勢になる。
敵の陣地に少し踏み込んだトップ下の位置で足利がまた曲芸を披
露したのだ。
明智からのパスを敵のゴールに背を向ける形で受け取ろうとした
足利が、ちらりと右サイドの山下へ視線を流す。だがそれはフェイ
ントだ。
彼はトラップでボールを足下に止めるのではなく、ダイレクトで
ふわりと真上に浮かせたのである。そのワンタッチで自分について
いた背後のマークを振り切った。
足利の体で影になっていた死角から、いつの間にか彼の頭上をボ
ールが通過しているのに全く気が付いていないアメリカのDF。
最初のフェイクで右へのパスかとコースを切ろうとした直後に慌
てて自分を抜こうとする足利を止めようとするが、完全にボールを
見失い混乱して足が止まる。
一瞬でそのマーカーを引き離すが、足利の脚力ではシュートレン
ジにはまだ遠いのかもう一度空中にあるボールを軽くタッチする。
リフティングの要領で浮き球にしたままボールキープして前へ出る
うちの誇る小柄な道化師。
だがゴール前ともなるとアメリカもそうは長い間フリーにしてく
れない。空中に舞うボールに三度目のタッチをするタイミングで足
1267
利がボレーシュートの体勢に入ると、ほぼ同時に彼の前に新たなD
Fが立ちはだかりシュートコースを塞ぐ。
それを無視したようにボールをめがけて格闘技のミドルキックの
ように真横に右足を振り切る足利。
︱︱ボレーを撃つはずの足利の右足は空を切った。
だがすぐさま空振りしたはずの右足は地面に着き、それと同時に
左足がさらにその外側からピッチに落ちる寸前のボールをすくい上
げる。
リフティングからのボレーシュートと見せかけた変形のラボーナ
だ。
山形監督を含めたベンチのメンバーですら、足利の右足がシュー
トを完全に空振りしたように見えた瞬間には頭にクエッションマー
クを浮かべて動きが止まっていた。
ましてやそんな珍しいプレイに直面しているアメリカ守備陣は、
固まったままラボーナによってDFの裏へと出されたボールを視線
で追いかけるだけになっていた。
足利のこういったゴール前でのラストパスは、どんなトリッキー
なキックでも︱︱例えそれがヒールキックでもノールックでもラボ
ーナであろうが異常なまでに精度は高い。それどころか、普通のパ
スより正確なんじゃないかとさえ話題になるほどだ。
スピードはないが絶妙にコントロールされたパスがアメリカにと
って最も危険な位置、ペナルティエリア内のDF裏へと運ばれる。
敵の守備陣がはっと気を取り直した時には、すでにそのボールは
髪を逆立てた日本の点取り屋が豪快にダイレクトでアメリカゴール
へと蹴り込んでいた。
上杉はエリア内へ飛び込んできたそのままの勢いで敵のゴールを
通り過ぎて、日本のサポーター席前までその足は止まらない。
1268
天に突き上げたガッツポーズで﹁俺が点を取ったんや﹂と観客席
に自分の拳を見せつけると、すぐにそっちには背を向けてピッチか
ら祝福に駆け付けるメンバーへと正対する。
どうしてだろう、一つ一つは不自然ではない動きのはずなのだが
山形監督の目にはなぜか上杉がチームのメンバーに背を見せないよ
う警戒しているように感じられたのだ。
実際今も得点したうちの自慢のストライカーはフェンス際の看板
に背中をくっつけて守るようにしている。まるで自分の背後に回ら
れるのを嫌がる国際的狙撃手のような挙動だが、何かあったのだろ
うか?
そんな埒もない疑問に頭を悩ますべきではないと打ち切り、ベン
チから他のメンバーに混じり声を出す。
﹁ナイスシュートだ上杉! それにナイスパスだアシカ!﹂
俺に声をかけられた能力は申し分ないのだが実に扱い辛いコンビ
は、大歓声の中でも俺からの祝福が届いたのか振り返るとベンチに
向けて二人揃って親指をびっと立ててきた。
目上であるはずの監督に対しての仕草としてはあまり行儀がよろ
しくないが、得点した直後なのだからここは大目に見よう。そう考
えて山形監督も格好をつけて親指を立て返す。
へへっと照れくさそうに歯を見せる少年達にこっちも頬が緩む。
うん、まあ悪い子達じゃないんだよなこいつらは。サッカーに関し
ては凄く優秀だし。
ただ落ち着いていて自分の言葉をよく守る選手より、少しやんち
ゃなこいつらの方がずっと頼りになる。一癖も二癖もある選手達を
スタメンに抜擢した山形は自分をそう納得させる。
思い起こすと山形監督は、行儀よく規律正しい松永前監督の残し
たチームに限界を感じたからこいつらを受け入れて攻撃的なチーム
1269
作りに着手したのである。
その彼の選択は間違いではなかったとここまでの大会の成績と今
日のスコアが証明してくれている。
過去の自分の決断を自画自賛している山形監督の頬にぽつりと水
滴がかかった。
ベンチから立ち上がって前へ進んだ拍子に屋根になっている部分
からはみ出し、雨が降りかかる場所まで来てしまったらしい。
自分の体で実感して判ったが、思った以上に雨粒が大きく勢いが
激しい。
﹁これは⋮⋮本降りになるな﹂
なるほど、足利がボールを浮かしてプレイしていたのは単に奇を
てらって相手の動揺を誘うだけでなく、出来るだけボールを芝に着
けないようにしていたのか。山形監督も自軍の得点に綻んでいた唇
を引き締める。
足利がそうした小細工をしなければならないほどピッチの中では
精巧なボールコントロールが難しくなっているのかもしれない。お
そらくベンチで見るよりもずっと雨の影響が強いのだろう。
仕方ない。
ピッチから一層暗くなり始めた空へと視線を移していた山形監督
は、前半だけで二アシストを記録した足利を引っ込める決断を下し
ていた。
1270
第四十二話 ピッチ外からフラグを立てよう
﹁このままで最後までいけるっす!﹂
﹁アシカ、もっとワイにパス寄越さんかい! 今日こそワイにハッ
トトリックせぇって神さんがお膳立てしとるんや!﹂
﹁それよりアシカは俺へラストパスをくれよ。コンビプレイは上手
くいってもゴールと離れすぎでシュートできないじゃないか。上杉
だけでなく長い付き合いの先輩にもっと愛の手をプリーズだ﹂
前半の勢いをそのままに騒がしく戻ってきた俺達は、勝っている
時限定の高揚した馬鹿話をハーフタイム中のロッカールームで交わ
し合う。
水分補給をするために浴びるようにスポーツドリンクをがぶ飲み
してはむせたり、タオルで汗だけでなくしのつく雨で塗れた体を冷
まさないように手早く拭ったりと忙しい。
しばらくすると、そこまでチームのいい雰囲気を壊さないように
とちょっとの間は黙って待っていたのだろう山形監督が軽く手を叩
いて皆の注目を集めた。
﹁よし、前半は申し分のない出来だ。だが、少しずつ雨が激しくな
ってきたな。残念ながら予報でもこれからの時間帯の降水確率は悪
くなる一方だ、当然ピッチコンディションも悪化するだろう。だか
ら無理をして足を滑らせて転んだりして怪我をしないように気を付
けるんだぞ。そして、悪条件下で体力を消耗する後半は作戦を守備
的に変更する事で今の二点のリードをきっちり守り切ろう﹂
監督はぐるりと首を巡らしてチーム全員の顔を見回す。
それに応える俺達スタメンの表情は正直言って渋い。その原因は
1271
俺達が攻撃好きなだけでないのだ。
この山形監督はチームをまとめたりモチベーションを上げたりす
る試合前のマネジメントの手腕は優秀だが、リアルタイムで行われ
る実戦での戦術家としては少々頼りないからだ。
特にこれまでの試合では作戦を守備的に変更する際にその欠点が
強く表れるように思う。もちろんその作戦を実行段階で上手く遂行
できない俺達も悪いとは思うのだが、この攻撃的なメンバーを揃え
た代表チームでは根本的にスタメンや戦術を一変させない限り守備
を重視するシステムとは相性が悪いのだ。
だからといって監督の戦術的な指示を一選手の俺が覆せるはずも
ない。ま、いざとなれば守備的な変更なんか無視して俺がピッチ上
で攻撃的にシフトチェンジしたゲームメイクをしてやればいいか。
そんな俺のお気楽な考えは次に発せられた山形監督の言葉にあっ
さりと潰える。
﹁後半はアシカと山下がアウトだ﹂
え? 俺と山下先輩が交代? 冗談かと耳を疑うが、どうやら紛
れもなく本気のようだった。監督は淡々と俺の代わりには守備が上
手く運動量の豊富なボランチを入れ、先輩のポジションには島津を
前線に上げてその分は空いたデイフェンスラインにDFを一人増や
すと続ける。
確かにそれで守備はかなり安定するだろうが、そんなチーム全体
の事情より俺は自分が途中で下ろされるショックで頭が一杯だった。
なにしろやり直してからこれまで、俺はスタミナが尽きたか怪我し
た場合ぐらいしかピッチを後にした経験がないからだ。
ましてや今日は前半だけで二アシスト、ゴールに繋がる活躍をし
てチームに貢献していると自負していたのだ。とても途中交代には
納得なんてできない。
1272
抗議しようとする俺を突き出した手と視線だけで制し、監督は後
半ピッチへ向かうメンバーに指示を出す。
﹁さっきも言ったが少しずつ雨が強くなってきた、当然ピッチコン
ディションも時間経過に従って悪化していくはずだ。後半の司令塔
役の明智は細かいパスやドリブルは多用せずに、ロングパスやサイ
ドチェンジなんかの大きな展開でゲームを組み立てろ。
DFは相手も似たようなロングパスをゴール前に放り込んで敵の
攻撃陣が駆け込んでくるキック&ラッシュでくると想定して守れよ。
前半もアメリカはその傾向が強かったが、後半はもっと連中のフィ
ジカルの強さにものを言わせた肉弾戦を挑んでくるはずだ。守備の
人数が増えたからといってDFラインを統率する真田はもちろん他
のDFも集中を切らさずに、いざとなったら体で止めるのも躊躇う
な﹂
﹁はい!﹂
元気よく返事をする後半戦も出場するメンバー。くそ、今ここで
監督に不満をぶちまけるのはこれから戦う仲間の士気を下げる愚行
だな。
隣で同じように面白くなさそうな顔をしている山下先輩と一緒に
腹の底から湧き上がる文句を飲み込み、ぐっと唇を噛みしめる。
そこに一通り後半戦も出続けるメンバーへの戦術上の指示を終え
た監督が俺達へと手招きする。
ちょっとだけ膨れっ面の俺と山下先輩がいつもよりのろのろと歩
いていく。そんな俺達の無言の反抗に苦笑した監督が交代の指示を
出したのを誤魔化そうとしてるのか﹁お前達も前半はよくやったな﹂
と大きなバスタオルで二人まとめて頭をごしごしと拭う。
うわ、労っているつもりかもしれないがやり方が乱暴すぎるぞ。
ほら、一つのタオルで強引に二人を一緒にやるから俺と先輩の頭が
1273
ぶつかっちゃったじゃないか。
﹁お、すまん﹂
うずくまって鈍い音を立てた頭を押さえたまま恨みがましい視線
で見つめる。すると山形監督は全く悪びれずに自分もしゃがみ込む
と、また俺と山下先輩の二人をまとめて首に太い腕を回して強引に
肩を組んでくる。
そして、あまり唇を動かさずに周囲には聞こえないほど小さな声
で囁いた。
﹁あんまり不満げな行動をするなよ、チームの雰囲気が悪くなるだ
ろう。それに俺はお前達を見限ったんじゃない。逆に次の準決勝︱
︱相手は強敵のスペインだな、そことベストコンディションで戦わ
せるために早めに戻したんだ。この試合はもうお前達が居なくても
勝てるが、次の試合はベストなお前らが必要なんだ。だから体力を
消耗する後半の泥仕合から救出したんだぞ﹂
⋮⋮いやー、まあ代表の監督からそう言われてしまえば仕方ない
かなぁ。うん、ほら山下先輩も一気にご機嫌になってるし、そこま
で期待されているんならこの交代も受け入れて上げましょうか。
それにしても俺の力をそんなに必要としているなんて、仕方ない
監督さんだなぁ。
全く俺達がいないと駄目なんだからこの山形監督は⋮⋮。そう愚
痴りながらもついついここまで評価されている事に唇が綻んでしま
うのだった。
この時は俺も山下先輩も監督が﹁計画通り﹂といったドヤ顔をし
ていたとは、後に真田キャプテンに教えられるまで想像もしていな
かった。
1274
◇ ◇ ◇
﹁さて、前半は日本の計画通りの展開だったんじゃないでしょうか。
スコアも二点のリードでボールの支配率も六十パーセントを超えて
います。攻守共に安定していてどうやら松永さんの懸念材料だった
身体能力の差はあまりなかったようですね﹂
﹁あー、そうですね。日本が良かったのもありますが、アメリカの
ストライカーの﹁スラムダンカー﹂ジェームスが全然機能してませ
ん。敵の前線では彼を最も警戒していたんですが、今日の所はコン
ディションでも悪かったのか彼からは全然ゴールの臭いも危険な香
りもしませんね。このままの状態では私なら途中で交代させますよ﹂
いつも通りアナウンサーと解説者松永という二人の間の空気は悪
いが、それでもこれまでの試合よりは幾分ましだ。
おそらくそれは日本が二点もリードしているという状況と、昨日
の直前予想では松永が﹁アメリカの選手達の身体能力は凄いが勝敗
の可能性は五分五分﹂と言っていただけで、これまでのようにはっ
きりと﹁日本が負けるでしょう﹂と断言していないからだろう。
だから松永も若干アメリカ贔屓ではあっても、これまでのように
笑顔の裏で日本が不利になれと願っているような不穏な雰囲気は醸
し出していないのだ。
比較的なごやかに両者が前半のハイライトシーンを話し合う。特
に二点目に繋がった足利のリフティングからの一連のプレイを松永
が﹁普通の監督ならこんな派手なプレイは自重させるのかもしれま
せんが、私は一度もこんな曲芸を止めろと彼に指示したことはあり
ませんよ﹂と胸を張ったのだが、アナウンサーに﹁ええと指示もな
にも、足利選手は松永さんとの会話は最初に挨拶した記憶しかない
とインタビューに答えてましたが﹂﹁⋮⋮か、彼は忘れっぽい選手
1275
ですからね﹂と冷や汗をかいたいった一幕もあった。
そうこうする内にハーフタイムも終わり、後半に向けて交代する
メンバーが発表される。それを確認して松永が頷く。
﹁攻撃的な駒である足利と山下を下げてディフェンシブな選手を投
入ですか。ま、山形君にしてはいい采配だと思いますよ。二点のセ
ーフティリードがあればカウンターをくらうリスクの高い細かいパ
スを繋ぐ攻撃を避けるには十分です。となるとサイドアタッカーの
一人である山下と、トリッキーなプレイが持ち味の足利を無理して
起用し続ける必要もない。この二人はドリブルや細かい技術が売り
物のコンビですから、雨で芝とボールの動きが不安定になるとベス
トな働きはできないでしょう。
そんな彼らと守備の意識の高い二選手を入れ替えれば格段にディ
フェンス力はアップします。雨で文字通りの泥仕合になる可能性も
あるのですから、パワーとスタミナとディフェンスを最重視して逃
げ切るつもりですね。なかなか理に適った作戦で、私でもこの状況
なら守備固めの手を打つかもしれません﹂
﹁ほう! いつもは厳しい愛の鞭が多い松永さんが認めるほど正統
派で勝算の高い作戦なのですね。それならばこれからも安心して見
ていられそうです。この中継をご覧の視聴者もほっと胸を撫で下ろ
してリラックスして観戦できるのではないでしょうか。ですが、気
を抜かずにこれまでと変わらずに声援をお願いします。日本からの
応援がここイギリスの地にまで届いて選手達の力となっているのは
間違いありません。後半もぜひ声が枯れるまで応援をしてください﹂
画面から届くアナウンサーの声に、画面の日本人選手を一人一人
指さしで確認していた女性が首を傾げる。
﹁あら、本当に速輝がいなくなっちゃったのね﹂
1276
後半に向けてピッチへ出ていくメンバーの中に息子の姿を見つけ
られずに、少しの落胆とどことなく安心の表情を浮かべる足利の母。
﹁そ、そうですけど、ほらアシカが今日は駄目だったからって交代
するんじゃないみたいです。試合に勝つためには必要な作戦とメン
バーチェンジだって褒めてますよ﹂
我が子の活躍機会も失ったが、同時に危険な目にも会う事も無く
なった寂しさと安堵の入り交じった足利の母だった。だがその顔を
元気を無くしたと誤解したのか、いつも一緒に観戦している仲間を
元気づけようと慌ててフォローする意外と気配りをする真。
﹁でも、その日本の作戦を褒めてる解説者って⋮⋮﹂
﹁ええ、まあ松永なんですけど⋮⋮﹂
解説者の名前を呼ぶだけでお互いの表情に不安の影を差す。その
不穏な空気を察した真が、空元気で心配はいらないはずですよと自
分のまだささやかな胸を叩く。
﹁きっと大丈夫ですよ! なにしろ二点もリードしてるんですから、
例え松永が褒めてもきっとこのまま勝てますって。大丈夫、大丈夫
!﹂
︱︱これだけ盛大にフラグを立てたのだ。当然ながらちっとも大
丈夫ではなかった。
1277
第四十三話 バスケットボールでは勝てないと認めよう
﹁スラムダンカー﹂の異名を持つジェームスは後半開始の笛を待
ちながら、イライラして爪を噛みそうになるのを自制していた。こ
の指先はバスケットの選手としての大切な商売道具なのだ、綺麗に
整えて割れないようにマニキュアまでしているのに自ら傷を付ける
なんてとんでもない。
そんな矯正したはずの昔の癖が出そうにまでなった彼のストレス
の原因は、前半の試合展開のもどかしさに尽きる。
これまでジェームスはバスケットやアメリカンフットボールでも
絶賛された恵まれた身体能力で、サッカーにしても難なくこなして
きたのだ。だが、初めて味わう世界大会はこれまでとはちょっと勝
手が違う。
特に今日は自分のやりたい豪快で観客にアピールするプレイがで
きずに、なかなかゴールが決められない。あげくに前半の最後の辺
りには味方からのパスさえ禄に回ってこないようにすらなってしま
った。
対戦相手である日本のチビのMFやボクサー崩れのFWが活躍し
て拍手や歓声を受けているにも関わらずだ。
彼は別段サッカーというスポーツに拘りを持つつもりはない。た
だ、偶然やる機会があったのと知り合いが﹁世界で最も競技人口が
多く競争が厳しいスポーツ﹂と口にしたから試しにやってみただけ
だ。それなのに気が付いたらこんな所までアメリカ代表の一員とし
て連れてこられていたのである。
まったく人気者は辛いぜ。こう引っ張りだこになるのも天才の宿
命かとプレイ中にも関わらずジェームスはオーバーアクションで肩
をすくめる。ま、俺がいろんなチームに勧誘されるのはいつものこ
1278
とだしなとセレクションの度に繰り返されるスカウト合戦を思い返
す。
ジェームスは己の才能に関する自信で胸に積もっていた苛立ちを
振り払った。
少し冷静になるとこれまでに大量の汗をかいているのが気になる。
目に入りそうになっていた額の汗を乱暴に拭うと、クールダウンさ
れた頭で自分をマークする日本のチームを観察した。
子供の頃ストリートバスケットで賭けの相手にしていたハーレム
の大人の奴らとは比べ物にならない。日本の同じ年齢であるDFな
んかはずっと細くて小さくジェームスが全力でぶつかったら壊れそ
うな奴ばかりだ。こんなのに封じ込まれているのかよ俺様が。
まあサッカーを続けるよりバスケットやアメフトなんかの方が金
になるだろうが、ここで負けて終わるのも面白くないよな。
餌を見つけた狼のようにジェームスはぺろりと分厚い唇を一舐め
する。
この大会で優勝すればバスケットのプロとしての契約金を釣り上
げるネタにもなるはずだし、スポンサーに対してもいいプロモーシ
ョンにもなる。なによりこんなチビどもに負けるのも気分悪いしな。
反則じゃなければ俺のプレイで相手が怪我しても問題ないはずだ。
﹁俺にかなう奴なんていない。みんな俺に触れただけでぶっ飛ぶ﹂
いつもの自己暗示の呪文を己に向けて呟くと、体に力が漲り勝手
に牙を剥くようにと彼の口元がつり上がった。黒い肌に映える白い
歯は自らが光りを発するように鋭く輝く。
いまいちこれまでテンションが上がらなかったジェームスの波の
あるメンタルは、ようやく敵を叩き潰すという一点に絞られた事で
安定したのだ。 1279
アメリカンフットボール、バスケット、これまでも様々なスポー
ツで存分に才能と運動能力の高さを見せつけていた才能溢れる﹁ス
ラムダンカー﹂の本領が、よりにもよって日本を相手にした今サッ
カーでも発揮されようとしていた。
︱︱そして彼の黒光りするスキンヘッドからのヘディングシュー
トは、後半だけで三回もゴールネットを揺らす事となる。
◇ ◇ ◇
﹁ああ! またもアメリカの攻撃です! 後半の十分過ぎにジェー
ムスのダイビングヘッドで一点差にされてから試合の流れが一変し
ました。身長とパワーで圧倒的に勝るアメリカのパワープレイに日
本が防戦一方です!﹂
﹁だから試合前に言ったんですよ、あのスラムダンカーは危険だと
!﹂
日本のピンチにも関わらずなぜか嬉しそうに﹁ほれ見た事か﹂と
言いたげな松永を、アナウンサーがきっと睨みつけた。
﹁でも松永さんはその後のハーフタイムで﹁ここまでスラムダンカ
ーが不調だと、後半は交代もあるかもしれません﹂って言い直して
ましたよね!﹂
﹁⋮⋮今はそんな事言い争ってる場合じゃないでしょう! 日本の
ピンチなんですよ、何とかしてあのスラムダンカーを止めないとあ
いつ一人に試合を決められてしまいます!﹂
急に掌を返す松永とアナウンサーの攻防は意味もなく熱い。
テレビからはアナウンサーVS松永、そして日本対アメリカの緊
迫した実況が流れてくる。
1280
もっともその緊張感の何割かは点差が詰まった試合による物だけ
でなく、楽勝ムードだった日本が苦戦に陥るという事態について、
実況の二人がお互いに予想のミスを押し付けあう為の物でもあるの
だが。
この放送をしている時点でもう試合は後半は二十分過ぎていた。
後十分だけしのいでくれれば日本の準決勝への道が開けるのだが、
予想したよりもはるかにその道は険しいようだ。
試合が行われているスタジアムから随分と離れた日本の地でも固
唾を飲んで激闘を見守っている人々がいた。
その中に画面から目を離さずに耳では喧嘩しているような実況を
聴きながらも、お互いの手を握り合っている足利と縁の深い女性が
二人いる。祈るように応援している年齢差のあるその二人の女性も、
現地で応援している他のサポーター同様に応援で息を弾ませ鼓動を
激しくしていた。
自分の応援している息子や幼馴染みがピッチからいなくなったと
はいえ、ここで逆転なんてされては困る。次の試合へ進めなくなっ
た足利ががっかりと肩を落して帰国する姿が目に浮かんでしまうか
らである。
他のことはともかく、サッカーで敗北した時の足利の落ち込みに
は特効薬がない。
表面上は取り繕っても次の大会が始まるまでは、どんなに元気づ
けても気落ちして食欲をなくす︱︱特にこっそりと真がばれない様
に食事に忍ばせていた納豆など一口も食べなくなる︱︱のが続いて
しまうのだ。なぜか目には映らないように工夫しても、足利はまる
で文字通り嗅ぎ分けているかのようにその料理を残してしまうのを
二人とも何度も体験していたのだ。だからこそ足利がいなくなった
ピッチでも日本が勝利してくれと一心に願う。
だが、その﹁なんとか最後までしのぎ切って﹂という彼女達を含
1281
む日本の純粋なサッカーファンの応援も通じずにとうとうここまで
良く守っていた日本のゴールが再びこじ開けられてしまった。
◇ ◇ ◇
﹁馬鹿! 気を抜くな!﹂
山形監督は裏返りそうな叫び声をベンチから上げた。
もう試合時間が終わろうかというタイムリミットぎりぎり。
時計を見て残りはロスタイムのみだとほんの僅かに集中力を切ら
した日本のDF陣が、サイドからの突破を許しスラムダンカーへの
いいセンタリングを上げさせてしまったからだ。
そして空中戦になれば、バスケットのリングに易々とボールを叩
き込めるほどの最高到達点を誇るスラムダンカーが存分にその高さ
を発揮してしまう。
恐怖に凍り付く監督の視界の中で武田に真田キャプテンといった
日本が誇る守備の壁の上を、黒く輝く頭が一人だけ密集地から抜け
てボールを額で捉えた。そのパワフルかつ豪快な天から叩き落とす
ヘディングシュートが日本のゴールに突き刺ささる。
日本のイレブンとベンチのメンバー、観客席にいるサポーターさ
らには遠く離れた日本の地から応援をしていたサッカーファン。
全員が言葉を失い、呆然とアメリカのスラムダンカーが胸の星条
旗マークに口付けて天を指さす芝居がかったパフォーマンスを見つ
める。
終了間際という最悪に近い時間帯での失点である。
山形も自分の顔から血の引く音をはっきり耳にしたが、頭を抱え
込みたくなる衝動はなんとかねじ伏せる。ここで指揮官が動揺した
姿を見せてしまえばもう立て直せない、逆転される前に試合が終わ
1282
ってしまう。
どこで間違ったのかと後悔が山形監督の頭の中をよぎる。
後半は日本のカウンターによる攻撃は機能せず、ほぼ一方的にア
メリカのペースになってしまっていた。
特に厳しかったのは足利が外れた段階でアメリカの中盤のプレッ
シャーが全て明智に集中した点だろう。それまでは二人の司令塔が
適度な距離間を保ってパス交換をしていたのだが、後半は攻撃の起
点が一つなのだからそこを真っ先に潰そうとするのは当然かもしれ
ない。
それでも監督が期待したように明智は持ち前の高い技術を生かし
てそんな厳しい条件下でも前線にパスを通そうとするが、ピッチコ
ンディションはどんどん悪化していったのがまた痛かった。芝の上
をスピードを落とさずに滑るスルーパスなどが蹴れなくなったので
ある。
これには相手の裏へ走る上杉と島津も困ってしまった。彼らがD
Fラインを駆け引きで出し抜いても、いつものような鋭いスルーパ
スが来なくては攻め手に詰まるからだ。
ここまで雨が日本のパスワークを乱すとは山形監督には予想外だ
った。いや、正確には今日好調だった足利と山下を外した時点から
チームのリズムが変調して、雨がそれをより一層はっきりと浮き出
させたのかもしれないが。
その修正をする間もなく、アメリカが後半から採用したボールを
持つととにかく怒濤のロングキックで敵ゴール前へ殺到しするとい
う作戦が功を奏してきた。いわゆるキック&ラッシュと呼ばれる単
純な戦術である。
シンプルな作戦で融通も利かないが、アメリカのような運動能力
に優越したチームが体力に任せてこれでごり押ししてくると守備側
は辛い。一気に敵に流れをもっていかれてしまったのだ。 1283
山形監督は失点で同点になってしまったショックに鈍痛を訴え始
めた胃を押さえ、緊張に止めていた呼吸を無理矢理再開させる。
動揺するのは試合後にいくらでもできる。今は明らかに悪い流れ
をどうやって断ち切るか、そして延長も見据えての交代をどうする
かだと彼は自らを叱咤し頭を悩ませた。
その隣では﹁ほらやっぱり僕がいないと駄目なんですよ!﹂﹁馬
鹿、俺がいなかったからここまでやばくなったんだ!﹂と煩く騒ぐ
途中交代のコンビがいる。
少しは静かにしろよと叫びかけた自分の口を抑え、奥歯を噛みし
める。ここで怒鳴るのは明らかに監督である自分の作戦が失敗した
八つ当たりになるからだ。
ここで怒りに身を任せるよりも、これから先どうするかを考える
のが自分の役目だろう。
ぎりぎりで自分の中の一線を守った山形監督は、もう三分もない
ロスタイムに動くより延長戦に賭ける事に決めた。作戦の変更を選
手に伝達し理解させるのには、それなりの時間がかかるからだ。
こんな残り時間が少ない切迫した状況では、下手な選手交代をし
たら事態を好転させるどころか悪化︱︱最悪の場合はパニックに陥
らせてしまう。その混乱を起こさないためには僅かな時間とはいえ
監督が直に指示を下す必要がある。後半が終了し、延長が始まるま
でに設けられた短い休憩とはいえその短い時間でも戦術を変えるに
は必須なのだ。
そして戦術を変えるのならば、上杉に代えて前線に体を張ったポ
ストプレイが出来るFWを入れるべきだろうと山形は思考を進める。
不本意だがアメリカと同じようなパワープレイに持っていくしかな
いか。
ここまで交代のカードを一枚残しておいて良かった、まだ戦術を
1284
変えて流れをこっちに持ってくる切っ掛けになる。よし、まだ運は
残っているな。
無理やりラッキーだったとこじつけて山形は気を取り直す。
自分の後半での選手交代と作戦変更がミスだったと認めながらも、
代表チームの監督は最後まで勝負を諦めるわけにはいかないのだ。
⋮⋮結果論になるのだがこの試合は延長戦になる前に片が付いた
ため、彼の悲愴な決心は無駄になるのだったが。
1285
第四十四話 バスケでの再戦は遠慮しよう
俺の隣では腹を押さえながら唇を噛んでいる山形監督がじっとピ
ッチを睨み付けている。まさかこの雨でお腹を壊したんじゃないだ
ろうなと心配しつつもやはり試合の方がより気にかかる。
後半が開始されてからここまで終始押されっぱなしだった日本が、
終盤に執念を見せたからだ。
ロスタイムに突入して日本ボールでのキックオフした直後、同点
に追いついた勢いそのままの押せ押せ状態でラインを上げたアメリ
カDFの裏に明智がポンと大きくボールを蹴り込んだ。
パスと言うには余りに大きく速い球足は単にミスキックのようだ
ったが、なぜか一回もバウンドせずにそこで停止する。まるでプロ
ゴルファーのグリーンへのアプローチショットのようだった。
おそらくあれは明智がキックする際に目一杯に逆スピンをかけ、
そのスピンが水を吸って重くなっていた芝をがっちり噛んだ結果だ
ろう。明智の技術がボールをストップさせてフィールドの外へ跳ね
てゴールキックになるのを防いだのだ。
そこに突っ込んでくるのは攻撃意欲では日本で一・二を争う元D
Fの島津だ。現在はポジションを上げられて守備の負担が減らされ
たせいか、前へでるのにいつも以上に躊躇いがなくスタートが早い。
皆があのキックの強さではピッチの外に出るだろうと判断してい
たのだろう。この明智からのロングパスに対するアメリカディフェ
ンスの反応は鈍かった。
ましてや体力の尽きる終盤戦、それも走りにくい雨のピッチでは
足が止まりがちなのだ。むしろこの状況下では、無駄走りになる可
能性の方が高かった明智からの大きなパスにフルスピードでダッシ
1286
ュする島津の方が判断としてはおかしい部類に入る。
真っ先にパスに追いついたそのどこかおかしい島津は、ボールが
止まっていた場所から強引にシュートを狙う。だが、これは角度の
ない位置からだったせいでキーパーのパンチングに阻まれた。しか
しそのままボールが外へ出たためにまだ日本のチャンスは残ってい
る。
ロスタイムもほぼなくなった、もう審判が終了の笛をいつ吹くの
か判らないという時間でコーナーキックをもぎ取った日本。守備と
いう負担を捨て去った島津の我武者羅な突破がこの最後のチャンス
を呼び込んでくれた。
早く再開しなければこのワンプレイの前に審判が笛を吹くかもし
れないと、打ち合わせも碌にせずに合図はアイコンタクトとハンド
サインのみで済ませ、キッカーである明智は急いでコーナーへ向か
う。
そしていざコーナーキックという場面で、凄い勢いでDFの武田
がアメリカゴール前に走り込んで来たのだ。
おそらく残り時間を計算してこのセットプレイに賭けたのだろう
が、これで日本の陣地に残っている守備はキーパーだけである。
万が一このコーナーキックの後に数秒でも審判が続行を認め、ア
メリカがカウンターを仕掛けたらどうするつもりなのか? もし周
りのディフェンス陣との話し合いをしていないなら、これは勇気が
あるというより蛮勇でしかない。
そんな常識論を口に出せば﹁アシカが言うな!﹂と返されそうだ
が、俺の背中から雨粒よりも冷たい汗が流れる。ベンチの皆も総立
ちで祈るようにこの最後のチャンスであるコーナーキックの顛末を
見守った。
だがこの強引なオーバーラップは敵にも動揺を与えたらしい。う
1287
ちで一番高さのある武田の突然の来襲だ。しかもヘディング勝負に
なりやすいコーナーキックの直前のタイミングでは、いきなり現れ
た敵の長身選手にマークがついていなければ守備側が混乱するのも
当然か。
そこでアメリカも対抗して急遽一番ヘディングの強い選手を武田
のマークに付けた。アメリカ代表で最も空中戦を得意とする奴︱︱
すなわちスラムダンカーだ。
ま、こいつをコーナーを防いだ後のカウンター要員から守備に回
させただけでも、このギャンブルは成功だな。
スラムダンカーと武田がペナルティエリアに入りそうになったの
を見計らってコーナーキックを明智が蹴る。
だが、これは意表を突いてのショートコーナーだった。
このぎりぎりに追いつめられた状況下でなお小細工をするの所が
実に明智らしい。時間がないからといって、考えるのを放棄しての
ただの運任せにはしない少年だ。
相手のアメリカもまさかこの緊迫した場面でショートコーナーを
してくるとは思わなかったようだ、虚を突かれほんの僅かにだがマ
ークがずれる。そのおかげで敵味方の入り乱れるゴール前にぽっか
りと空白なエアポケットが生まれた。
すかさずそこへ武田とマークしているスラムダンカーが二人でも
つれるようにして走り込む。
ショートコーナーでボールを渡された島津が、いかにもクロスを
蹴り慣れたサイドの選手らしくコントロールされたセンタリングを
上げた。
ここで上げられた速く鋭い弧を描くヘディングに絶好のボールは
スラムダンカーと武田の空中戦の結果にゆだねられた。
その勝負は﹁スラムダンカー﹂ジェームスに軍配が上がる。
武田はボールに触れることさえ出来なかったのだ。
1288
ポジション的にはむしろ武田の方が良かったにも関わらずである。
島津からのボールはアメリカゴールから戻ってくるように︱︱い
わゆるマイナス気味へ折り返されたセンタリングだったために、武
田とスラムダンカーはどちらもゴール方向へと向けてのジャンプに
なったのだから。
ただ余りにもスラムダンカーのヘディングの強さと高さが有りす
ぎただけだ。
武田と体をぶつけ合いながらも頭一つ抜け出したスラムダンカー
の額に強く弾かれたボールは︱︱クリアされずにそのままアメリカ
のゴールネットに突き刺さったのだ。
⋮⋮﹁スラムダンカー﹂ジェームスによる痛恨のオウンゴールで
ある。
アメリカのゴールネットを揺らしたボールとさらに審判のゴール
と試合終了を告げる笛の両方を聞いて、俺達日本のベンチが爆発す
る。
もう試合が終了したからお構いなしだとピッチに駆けていって、
チームメイトの誰彼ともなく抱きつくのだ。
実は得点と終了が重なるのはサッカーの試合ではあまりない。ち
ょっと前はVゴールやゴールデンゴールなんてあったそうだが、俺
はそのルールで戦った事はないからな。例外はPK戦ぐらいだろう
か。
とにかくゴールの興奮と勝利の喜びが一遍に押し寄せて、じっと
してはいられない。これが日本代表の誰かが決めたゴールならそい
つの背中を標的としてもっと盛り上がれたのだが、まあそれは贅沢
と言うものだろう。
俺も手近に居た山下先輩と肩を組んではお互いの体をばしばしと
叩き合う。本当は山形監督の背中も叩きたかったのだが、さすがに
お腹を抑えていて喜んでいるはずなのに顔色を悪くしている人に手
1289
は上げられない。
俺にしたって勝利でアドレナリンが出まくっている今は大丈夫だ
が、また背中に紅葉がたくさん増えたなこりゃ。大会が終わるまで
俺の背中の皮膚が頑張ってくれることを祈ろう。
いやまあ、だからといって得点や勝利の数が減るよりは乱暴なス
キンシップに我慢する方がずっと気分がいいのだが。この背中の痛
みは、いい気分でほろ酔いになった後の二日酔いみたいなものだと
諦めて受け入れようか。
こんな嬉しい時なのだが、まだピッチを見渡していた鳥の目は気
にかかる物をみつけてしまう。それは今まで戦っていたスラムダン
カーが濡れたピッチにへたり込んでいる姿だ。
日本に明確なヒーローがいない一方で、オウンゴールをしてしま
ったジェームスは戦犯とされかねない。これまで彼の活躍で同点に
追いついたのだが、この失点で全ての功績を無になってしまったと
彼自身も感じているのだろう。さっきまで黒光りしていた肌がはっ
きりと判るぐらい青白くなっている。
正直あのオウンゴールは仕方がないと俺は思っていた。
島津のクロスは速く鋭くスピンが利いた、いわゆる﹁誰か触れば
ゴールになるボール﹂なのだ。ずっと日本陣内で攻撃していて、島
津のクロスの速度も軌道も初見であるジェームスでは、あれを完璧
にクリアしろという方が要求が高すぎる。
﹁ちょっと失礼﹂
そう一声かけて山下先輩の拘束から離れると、尻餅を突いたまま
のスラムダンカーに向かって手を差し出す。
きょとんとしたスラムダンカーに、ここぞとばかり付け焼き刃と
はいえ勉強した英語で語りかける。
1290
﹁ナイスゲーム、ユーアー グッドフットボールプレイヤー﹂
⋮⋮あれ? なんか習ったはずの会話例が口から出ずに、小学生
みたいなカタカナで単語のみの言葉になってしまった。いかん、全
く英会話の勉強が役に立っていないぞ。そう焦れば焦るほど口ごも
ってしまう。
だが、そのたどたどしい言葉と発音が逆に真実味を増したらしい。
彼もふっと緊張を解いたように薄く笑うと俺の手を取り立ち上がる。
うお、やっぱり隣に立たれるとでかいなこいつ。
そして彼はまるで子供にするように俺の髪をくしゃりと撫でる。
それに訛りの強い英語で語りかける。なになに﹁今度はバスケット
で勝負だ﹂だと。聞き取りは問題ないが、俺はお前みたいにサッカ
ーとバスケットで掛け持ちするつもりはないんだが。こいつ本当に
俺をサッカープレイヤーではなく子供と誤解していないか? ちょっとむっとして睨むと言葉が通じていないとでも思ったのか
今度は彼はゆっくりと判りやすい発音で﹁サンキュー﹂とお礼を言
い、﹁グッドラック﹂ともう一度俺の髪をかきまわすとアメリカの
チームメイトのもとへと帰っていく。
その足取りはさっきまでうずくまっていた少年の物とは思えない
ほどしっかりしていて、俯いていた顔は誇り高く掲げられて正面を
見つめている。
うん、なんだか同年代扱いはされなかったのが不満だが、あいつ
も元気が出たみたいならいいか。
改めてアメリカ代表から自分のチームである日本に目を移すと、
全員が笑顔でサポーター席に向かって行くようだ。おっと応援のお
礼なら俺も遅れない様に参加しないといけない。
サポーターもこんな時に普通は決勝点を入れた選手のコールをす
るのだが、今回はその対象がいない。
1291
だからなのか﹁ニッポン﹂と大合唱している。
ああ、これなら誰か一人にスポットライトが当たるんじゃなく、
チームの全員がサポーターに祝福されているみたいで周りの仲間と
顔を見合わせて照れ笑いが出るぐらいに気持ちがいい。
終わり方がちょっとだけ格好良くなかったが、それでもきちんと
した勝利なのだから十分に誇っていいはずだ。オウンゴールなんて
のは相手を押し込んでいなければ生まれないものだからな。
正直俺は追いつかれた時点で日本が敗北するのも覚悟していた。
ベンチから試合を見守るだけで手出しができないという状況は俺に
とって精神的にかなりきつかったのである。
まだベンチスタートであれば出番が回ってくる可能性もあるが、
交代して退いたからにはもう何もできなかったからだ。
だが、俺の想像以上に日本のチームは強かった。いや強いと言う
より精神的にタフだったと言う方が正確だろう。
明らかな逆境になり流れがアメリカにいっているのを承知で、無
駄走りを厭わずに強引にシュートを仕掛けた島津。ずっと前線で相
手DFを引き付け続けた上杉。土壇場で時間がないにも関わらず、
スピンを効かせたロングパスや意表を突いたショートコーナーを蹴
った明智。スラムダンカーのマークを止めてアメリカのゴール前に
飛び込んだ武田の勇気。
それらの要素が全て噛み合ったのが最後に日本のゴールと言う結
果につながったのだ。決してアメリカがミスしたから棚ぼたで勝利
がもたらされた訳ではない。
どうやら俺は自分が居なければ日本は勝てないと自惚れていたの
かもしれない。
だいたい、体力面での不安がなければ監督も俺を引っ込めて温存
しようなんてしなかったはずだ。ディフェンス面でもっと信頼され
ていれば逃げ切り用の布陣でも居場所はあったはずなのだ。
1292
監督の采配ミスもあるが、それを引き起こした遠因は俺にもある。
いつのまに俺はこんなに天狗になっていたのだろう。甘く感じて
いた勝利の味に苦い自嘲が混じる。
だが自信過剰になっていたのを敗北の取り返しが効かなくなった
状態で気付かされたのではなく、チームメイトに勝ってもらった試
合で目を覚ます事になって本当に良かったな。
大歓声で﹁ニッポン﹂というコールだけでなく、活躍した選手の
名前を呼んでくれているサポーターに手を振りながら心に自戒の念
を刻みつけた。勝利に喜んでいるサポーターからの歓声の中には俺
の名前も入っているが、そんなつもりはなかったのに自分の未熟さ
を隠しているようで心苦しい。
この期待と応援に応える為には、俺はもっともっと強くならなけ
ればいけない。
1293
第四十五話 スカウトの目を向けさせよう
﹁最後は敵のオウンゴールによる日本の勝利と意外な結果に終わり
ましたが、松永さんはアメリカ戦を振り返っていかがでしたか?﹂
視聴者に信頼感を与えるようなどこか真面目そうな作りの顔へ笑
みを宿して、松永前監督に問いかけるアナウンサー。ここまでの試
合経過における松永の解説と予想とがことごとく外れているのを突
っ込みたくてうずうずしているようだ。
答える松永の表情は反対に硬くて渋い。
﹁そうですね⋮⋮まず日本代表の前半は悪くなかったですが、後半
は守備的なシステムへの変更と選手交代でリズムを崩して流れを向
こうにやってしまいましたね﹂
﹁ああ、あの松永さんが褒めていた日本の選手交代でアメリカペー
スになりましたね﹂
さらりと松永にとって忘れたままでいてほしい痛い点を補足する
アナウンサー。その一瞬額に血管が浮いたようにも見えたが、それ
でもめげずに松永は話を続ける。
﹁あとアメリカについてですが、やはりスラムダンカー・ジェーム
スは私が指摘していたように良くも悪くもキープレイヤーになりま
したね﹂
﹁ええ、松永さんが注目選手と紹介していた前半は無得点で、交代
させた方がいいと見限った後に怒涛のツーゴール。さらに、ここま
で来たら勢いを止めるのは難しいと警告した途端にオウンゴールで
日本に決勝点を献上してくれました。いやー、さすがサッカーの専
1294
門家の解説はひと味違いますねぇ﹂
おそらく内心からこみ上げる悪戯心を抑えきれないのだろう、口
の端をひくつかせ相手チームにもちょっと失礼な茶々を入れるアナ
ウンサー。その態度に臍を曲げたのかむっとしたように、デスクの
上で肘を付き顔の下半分を組んだ両手で隠すポーズで黙り込む松永。
生放送中にこの態度はまずいのではないだろうか? さすがにそ
のまま居心地の悪い無言の数秒経過すると周りもざわついていてく
る。解説者が残りの放送時間に一切口を開いてくれないと放送事故
になるとでも思ったのか、アナウンサーの方も慌てて話題の変更を
試みる。
﹁えーと、ではアメリカ戦を振り返るのはこのぐらいにして、日本
代表の次の試合の展望についてですね。相手はすでにベスト四を決
めていたスペイン代表との戦いになりますが、まずはこの無敵艦隊
と豪華で強そうな愛称を持つチームはどのような相手なのでしょう
か?﹂
﹁⋮⋮専門家の予想と解説が当てにならないと思われるなら、アナ
ウンサーのあなたが全部やればいいのでは?﹂
公共の電波に乗ってこの実況席の様子が流れる中で、解説者とい
う自分の役割を思い切りブン投げて横を向く松永。すねているのか
もしれないが、四十男にそんな事をやられればかわいいどころかは
っきり言ってかなり鬱陶しい。
目を大きく見開いた後、ため息がでそうなげんなりとした色を隠
せないアナウンサーだったが、カメラの下に出された﹁予想をなん
とか引き出せ﹂というフリップの指示にすぐにニュースなどの報道
番組用の真面目な顔を作り直す。この辺の切り替えの速さはさすが
プロフェッショナルだ。
朝のテレビ番組でやるいい加減な星占いより当たらないと評判の
1295
松永の予想は、ある意味名物的な物となってどんな予想が飛び出す
のか期待しているファンも多いのだ。制作側としては外すわけには
いかない番組のポイントなのだろう。
﹁いやー、試合が終わってから采配や予想にいちゃもんを付けるの
は簡単ですが、それには土台になるしっかりとした専門家のご意見
があってのことです。私たちのような素人は松永さんなどの専門家
と違って結果論でしか試合を議論できませんからね﹂
﹁⋮⋮まあそういう事なら仕方ありませんね﹂
アナウンサーが自分を素人と認めた事であっさりと機嫌を直した
らしい松永が軽く咳払いをして、改めてテレビカメラに視線を向け
る。
﹁スペイン代表は大会前から優勝候補に挙げられてましたが、その
期待通りにここまで危なげない試合内容で勝ち上がってきました。
その強さの秘密はチーム全体の技術の高さによる中盤の構成力と
ボールキープ率です。極端な話、ゴールキーパーを含めた全員が他
国の司令塔並みのパス能力とテクニックを持っているんですよ。ど
こからでもゲームを作れる、また簡単なパスミスがほとんどない。
それが圧倒的なボールの支配率に繋がり、攻撃のチャンスを増やす
んです。相手はどこからでも、また何度でも攻撃を繰り返されて疲
れ切って最後にはサンドバック状態になってしまうという一方的な
展開がほとんどでした﹂
﹁それは⋮⋮確かに強そうですね﹂
さっきまでの面白がっている態度から一変させ、相手となるスペ
インの評価に唾を飲み込んで相槌を打つアナウンサーの声音は暗い。
﹁実は私が代表を率いていた下の年代でのスペイン代表は、同じよ
1296
うにボール支配率こそどのチームより上でしたがここまでの強さは
持っていませんでした。パスは良く回るのですが、ゴールを決めき
れない内に相手チームからの手数の少ないカウンターで失点という
シーンが少なくなかったのです﹂
﹁ほう、それなのに今大会は好調ですね?﹂
合いの手を入れるアナウンサーに松永の舌の回転も滑らかになっ
ていく。
﹁ええ、今の無敵艦隊は艦隊を指揮する船長と酔っぱらい操舵手が
コンビで語られるように、﹁酔いどれ﹂と呼ばれるドン・ファンが
今大会のスペイン代表に参加してからチーム事情が好転し始めまし
た。元々ずっと代表のキャプテンを務めている﹁船長﹂フェルナン
ドによる全体的なゲームコントロールは問題なかった訳ですから、
最後のスパイスとして異質なリズムを持つファンタジスタのドン・
ファンが参加した途端ゴール数が爆発的に増加したんです。
そうして一度でもリードするとボールを保持して失わないという
スペインの特性が生きてくるんですよ。今大会でも闘牛士が牛に少
しずつダメージを与えていくように、相手が反撃しようとやっきに
なってもリズミカルなパス回しで相手を翻弄して止めを刺す︱︱追
加点を取って終わりというゲームばかりでした﹂
﹁なるほど強敵ですね⋮⋮では日本代表はそんな相手とどう戦うべ
きでしょうか?﹂
アナウンサーからの質問に﹁うーん難しいですね﹂と腕組みをし
て悩む素振りの松永。
﹁こういったパスを回すチームにはまずきっちり守備を固めて引い
て守り、カウンターで得点する戦術が定石であり有効です。ですが
スペインは、そういった作戦を採用してくるチームを悉く粉砕して
1297
準決勝までやってきましたからねぇ。正直私が率いていた頃の代表
でもカルロスのような強力な切り札が居ないと厳しいです。まして
や山形監督が作り直したチームは今日のアメリカ戦でもそうでした
が、守り切るのが苦手な選手構成なんです。さて、どうやって攻略
するのか山形監督のお手並み拝見ですね﹂ どうやら度重なる炎上騒ぎに少し慎重になったのか、勝敗につい
ては口を濁す松永。しかしその話す内容は明らかにスペイン寄りで
ある。
少なくとも彼が監督していたままの日本代表ならば、カルロス級
の助っ人を入れなければ勝てないと断言しているに等しい言い草だ
からだ。
﹁なるほど、次の戦いは日本代表にとって厳しい物になりそうです﹂
︱︱アナウンサーの言葉に嘘はなさそうだった。
◇ ◇ ◇
﹁あら、次もまた強そうなとこと当たっちゃったみたいね﹂
﹁強そうどころじゃなくて、めちゃくちゃ強いんですよスペインは
!﹂
﹁でも、松永さんの解説ではいつも日本の相手は強そうに聞こえる
し⋮⋮﹂
足利の母からこぼれた素直な感想に思わずその眼鏡をかけた細面
を頷かせる真だった。テレビから流れる松永前監督の解説では、こ
れまでほぼ不吉な事しか言われていない。普通こんな状態のチーム
事情と実況席の空気だったら日本は敗退、松永は解説者を下ろされ
1298
ていただろう。
それがベスト四のここまで続いたのだから、日本代表も松永の運
も相当な物だ。少なくとも他国ならば確実にどっちかが潰れている
状況のはずである。
だが今では逆に﹁松永の日本に対する批判が収まったら負けそう
な気がする﹂とネット上では話題になるほど松永の辛口のコメント
は注目されている。
真のような代表の選手に近い位置にいるファンからすれば、ほと
んどいちゃもんをつけているような松永の意見なのだが、それが厳
しければ厳しいほど次の試合の勝算が上がると信じられているのだ。
却って松永が日本の選手に期待しているような事を言うと﹁これ
は孔明の⋮⋮いや松永の罠だ!﹂と騒然となってしまう。なぜなら
これまで松永が対戦相手として注目し、期待していると解説で紹介
した外国の敵選手のほとんどが沈んでいったのだ。
おかげで日本代表の勝利を願う熱心なファンは、松永に期待のコ
メントを貰おうと敵チームの主力を彼のブログやツイッターに向け
て情報を発信して紹介しているのである。
そのおかげなのか、世界大会でイギリスに来てからは日本チーム
の道のりはほぼ順調だった。唯一ブラジル戦だけでは敗退したが、
あれは完全な力負けで運の要素の入る余地はなかったせいだ。
だからこそ真もスペインが強豪なのは承知していても、松永が敵
のチームを褒めているという一点で次の試合に期待が持てるのだ。
そしてこれまでの試合とアメリカ戦の前半で目立つ活躍をしてい
たのだが、足利の評価は意外な事にまだ定まっていない。
日本国内ならばそこそこ名の知られたプレイヤーなのだが、世界
的に見れば実績不足で知名度も活躍した試合も少なすぎるからだ。
これには松永が監督をしていた時代の、カルロスが居て世界の目を
1299
集めていた代表とすれ違ってしまったことも一因である。
スカウトとしても派手でトリッキーなプレイは目を引く選手だが、
サンプル不足でまだ実力は未知数だとそのサッカー選手としての能
力を測りかねているのだ。
足利の真価が試されるのは、テクニシャン揃いのスペインの中盤
︱︱中でも無敵艦隊の船長と酔いどれの操舵手を相手にした時とな
るのは間違いない。それまでチェックはするが拙速な判断はやめて
おこうというのが、この時点では日本人選手を登用する事に慎重な
海外のスカウト達の判断になる。
日本と足利、そのどちらにとってもスペイン戦は重要な一戦にな
るのだった。
1300
第四十六話 休日はゆっくり過ごそう
俺は自分の携帯からではなく部屋についている固定電話で日本に
かける。今こっちが昼の十一時だから時差を考えると⋮⋮日本では
夜の八時か。まだこの時間ならかけても大丈夫だろう。
国際電話は料金が高いらしいがこのホテルの部屋代は協会持ちで
ある。世界大会に参加する選手の諸経費は全てサッカー協会が払っ
てくれるので、度を過ぎない程度の電話やルームサービスであれば
使っても問題がないのだ。ま、そりゃそうか。代表選手が宿代を払
えなくて拘置されるとかの事件になれば、そんな選手を代表とした
国も恥ずかしいからな。
俺が国際電話をかけるといつもより少しだけ長く待たされた後、
幼馴染みの透き通った声がした。真の声は受話器越しでも高く綺麗
なのだが、どこかにまだ子供っぽい鼻にかかった甘い響きが残って
いるな。
﹁もしもし?﹂
﹁こちらはイギリス滞在中のサッカー選手だけど、久しぶりだな。
真は元気か?﹂
﹁アシカだ! あ、うん、私は元気だよ。だって毎日納豆を食べて
るもんね! 夏バテや冷房病なんて私には全然関係ないよ﹂
用心のためか一言目には名前を出さなかった真に対し、俺も遠回
りな名乗りを返してしまった。久しぶりなせいでそんな風に探り探
り会話をしていると、いつの間にか普段通りの呼吸で掛け合いが始
まる。あー、なんだかこいつと話をしているだけで連戦の疲れで精
神的にささくれ立っていたのが癒されるな。
1301
﹁あー、まあ真の好物はともかく日本で何か変わりはないか?﹂
﹁ん、さっきも言ったけど私は元気だし、アシカの試合がある時は
おばさんと一緒に応援してあげてるしね! その声援に対する感謝
の証としてイギリスからのお土産を頼むよ!﹂
﹁はいはい。それじゃあ何も問題なしなんだな﹂
﹁んー特にはなかった⋮⋮あ、でもそう言えばアシカが勝ち上がっ
ていくに連れてアシカの友達だっていう子達が増えて大変だってお
ばさんが言ってたね﹂
﹁そうか⋮⋮﹂
まあ名が売れれば親戚が増えるってのは良く聞く話だしな、俺が
顔も覚えていない知り合いや友達が増加するのも判る。あまり愉快
ではないが有名税と考えれば仕方ないのだろう。
ため息が出そうになるのを咳払いで誤魔化して我慢する。わざわ
ざ国際電話でそんなのを聞かせたらこいつに心配をかけてしまうじ
ゃないか。煩わしさを振り払うため、ここは真でもからかっておこ
う。
﹁真が俺の不在に耐えかねて、ウサギは一匹だけだと寂しくて死ん
じゃうんだよって状態にまで衰弱してるんじゃないかと心配して電
話したんだけどな﹂
﹁別に寂しくなんかないよ! こっちだって毎日お祭りしてるし﹂
﹁え? それって俺が帰ってから一緒に行くって話じゃなかったの
か﹂
﹁ん、だから私はほとんど家から画面越しに眺めているだけだよ?
もともとインドア派だしね﹂
うわ、そんな風に言われると罪悪感が微かに生じる。約束を守る
ためにお祭りに参加するのを我慢するとかそこまでしてくれている
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のか、真ってこんなにしおらしい女の子だったかな。
﹁あー、なんだか真にまで気を使わせたみたいで御免な。俺が帰国
したらその見てるだけだったお祭りにも一緒に参加しよう﹂
﹁ええっ! それは止めた方がいいんじゃないかな。大騒ぎになっ
ちゃうよ!﹂
﹁いや、年代別の代表選手になって地上波じゃないテレビに試合で
何回か出たぐらいじゃそこまで騒がれないって﹂
﹁でもこのお祭りに参加している人達ってサッカーファンばっかり
なんだから、アシカ本人だってバレたらいっきに伸びちゃうんだっ
て﹂
思ったより真からの抵抗が強いな、まあお礼のつもりなのに無理
強いするのは良くないか。
﹁そんなもんなのか? ま、終了時間なんかが伸びたら迷惑をかけ
ることにはなるな。無理な参加は止めておくよ﹂
﹁うん、それがいいよ。松永なんて登場してたのが本人だと確認さ
れたら、凄い騒ぎになったからね!﹂
﹁へー、あの人ってまだ人気あるんだな。それにお祭りになんかに
も参加してるのか、ちょっと意外だ﹂
﹁というかほとんど主役で、なんだかずいぶんと燃え上がっていた
よ﹂
﹁そんなにお祭り好きだったのか、あの人﹂
マイナスばかりだった松永前監督だが、若干イメージの変更を余
儀なくされる。
どこで祭りをやっているのか尋ねようとした時に、この部屋のド
アでノックと俺を呼ぶ声がする。あ、遊びに行くっていってた奴ら
が帰って来たようだ。
1303
﹁それじゃまた電話するよ﹂
と会話を終わらせようとすると、﹁え、えっと⋮⋮﹂といつもは
歯切れの良い真が口ごもってるような様子がする。なんだろうと思
いつつ待っていると、受話器の向こうから小さく深呼吸するような
音が聞こえた。
﹁あの⋮⋮怪我しないでね。一緒にお祭りに行くの楽しみにしてい
るんだから。それとさっきねだったお土産は大会の優勝カップがい
いな﹂
﹁おう、選手の一人一人に優勝カップはもらえないだろうけど、記
念品ぐらいは見せに行く﹂
真なりに精一杯考えての激励に俺は軽く応じた。
電話を切りながら、これで優勝するしかないと改めて覚悟を決め
る。こういった小さな約束や決心の積み重ねが苦しいときに最後に
自分を支えてくれる精神力の原動力となるんだ。電話越しだからと
いって約束を忘れずにおこう。
おっとこっちの方を忘れていたと急いでノックされたドアを開け
る。苛立っているのかどんどんキツツキのようにノックが激しくな
っているからだ。
ドアの向こうにはいろいろな袋を抱えた山下先輩達の姿が。休養
日でトレーニングはないとはいえ朝っぱらからよく出かけて買い物
までする暇と体力があるもんだ。
俺なんか今日は軽くストレッチとボールタッチをした後はずっと
体を休めているのにな。もともとそんな風に静養する為に休養日っ
てあるもんだろ。
こいつらみたいに休みの日には外へ遊びにくり出すタフな奴らば
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かりだったら、大会期間中に休みなんて作られなかったんじゃない
のかな。そう考えるとちょっと怖い。
とりあえずドアから入った途端に意気揚々と戦利品を他人の部屋
のテーブルに乱暴に置き始めるチームメイトを呆れて見守る。こり
ゃまた凄い量を買ってきたな。
テーブルに重そうな音を立てて置き終わると、胸を張るのは日本
の参謀役だ。
﹁ふふん、僕は料理の方もリサーチは完璧っす。知り合いの人に頼
んでイギリス名物のテイクアウトを買い出ししてきたっすよ﹂
そう、こいつらは﹁ホテルの料理は飽きた﹂﹁美味しい物が食べ
たいっす﹂と言い残して勝手に料理を買ってきたのである。本当は
これはしてはいけない事と判ってはいる。水が体質に合わないだけ
で下痢などをする事があるのだ、その土地の物を勝手に食べて体調
を崩してはたまらない。事前に代表のスタッフから極力買い食いは
しないよう注意がされていたのだ。
だが勝ち進んでホテル滞在が長くなるにつれ、だんだんその辺は
ルーズになっていった。まあ発展途上の国とは違い、日本からの観
光客も多いイギリスである。出所さえしっかりしていて熱を通して
あれば食中毒やお腹を壊すといった可能性は低いだろうと黙認され
るようになったのだ。
﹁で、自信ありげな明智は何を買ってきたんだ?﹂
俺の疑問にふふんと鼻で笑って答えると、勢いよく袋から見慣れ
ない食物を取り出していく。
﹁まずは、開店当初から使い続けている伝統の油で熟成された白身
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魚と芽の部分の皮を切っただけのジャガイモをじっくりと揚げたイ
ギリスのファスト・フードの代表格、フィッシュ&チップスっす。
それにインパクトは絶大な、羊の腸とその内容物を一緒に食べられ
るまさに一粒で二度美味しい癖になる味というスコットランド伝統
料理のハギス。そして蒲焼きでもご存知のスタミナ抜群の鰻を使っ
たメニューである鰻のゼリー寄せっす。素材の味を生かすためにゼ
ラチンにほぼ生の鰻を入れただけっていう一品っすね。この三種類
だけでも食べればイギリス料理は制覇したも同然だそうっすよ﹂
いかにも﹁どや!﹂といった顔で明智が自信満々にテーブルに出
した物は、あまり口に合わないイギリス料理に対しても敬意を払お
うと決めている俺にすらとても食料とは思えなかった。
俺の目に映るのは油ぎっているどころか茶色い油の固まりのよう
な物体と丸ごと揚げられたチップと言う名に反したジャガイモ、そ
して恐るべき臭気を放っている羊の腸らしきもの。さらに盛り上が
ったゼリーの中にびっしりと小さな鰻が詰まってその全ての目が恨
みを含んでこっちを睨んでいるかのような一皿だった。
﹁⋮⋮これ、まじで食えるの?﹂
﹁ちゃんと、イギリス料理の伝統を忠実に守っている店からのテイ
クアウトっすよ﹂
ここまでとは思わなかったのだろう、明智に同行していたくせに
そろそろと部屋から脱出しようとする奴らもいる。この料理に退い
ている連中を逃がして試食役が俺だけにならないように、慌ててそ
の腕を掴む。
﹁どこへ行くんですか上杉さんに山下先輩?﹂
﹁あ、俺はちょっと⋮⋮その山へ芝刈りに﹂
﹁じゃあワイは川へ洗濯に﹂
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﹁そんな巨大な桃を拾う後期高齢者のまねなんかしても無駄です。
絶対に逃がしませんよ﹂
二人をがっちりと捕獲するが、それでも身をよじって逃走を計る
山下先輩に上杉。
明智がそんな俺達を呆れたように見つめているが、この下らない
寸劇は無駄ではなかった。ここで新たな登場人物が参加するまでの
時間を稼いだのだから。
﹁お前達うるさいぞ。いくら休養日だからといってあんまり騒いで
ホテルに迷惑をかけるな﹂
ドアを開けて注意するのは山形監督だ。どうやらノックはしたら
しいが、俺達は料理のインパクトとその後の騒動で気がつかなかっ
たらしい。
そこで監督が﹁ん?﹂と首を捻る。どうやらテーブル上の料理に
気がついてしまったらしい。
﹁お前達、それはどうしたんだ?﹂
買い食いは禁止だろうと言わんばかりの厳しい声に俺と山下先輩
に上杉の視線が重なる。ピッチで常に連携しているサッカー選手達
はこんな時にでも瞬時にアイコンタクトが成立するのだ。
俺達三人は声を揃えて監督に答えた。
﹁山形監督へのプレゼントです﹂
﹁え?﹂
大きく口を開けた監督と明智に今がチャンスだと畳み掛ける。
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﹁ほら、山形監督が最近疲れてるみたいだったから、美味しい物で
も食べてもらって少しでも回復してもらおうとしたんです。皆でお
金を出し合ってイギリス名物をご馳走しようと買って来ました﹂
ちょっとあっけにとられた表情の山形監督に、テーブル上のあま
り食欲をそそらないメニューを明智が出したばかりの袋にさっさと
まとめて手渡す。
﹁お、おう。ありがとな﹂
訝し気だがその中に嬉しさを隠しきれない監督が﹁部屋でゆっく
り食べてください﹂とにこやかな笑みを張り付けた俺に送り出され、
大量の料理を持って部屋から出て行く。
ふう、完全犯罪成功だ。あの見た目と嗅覚が食べ物ではないと警
告をだす料理を始末し、さらに買い食いはしないというルールを破
った事もうやむやにしてのだから。
ただここで展開の速さについていけなかった明智がぽつりと聞き
捨てならない事を呟いた。
﹁監督、最近胃を悪くしてたみたいっすけど。あのイギリスの名物
料理食べても大丈夫っすかね?﹂
部屋にいた全員の目が合い、再びアイコンタクトでの相談が始ま
る。食べて大丈夫じゃないかもしれない物をお前は仕入れて来たの
かと突っ込みたいが、今はそれどころじゃない。
ここで監督に倒れてもらっては困るのだ。
だが、同時に怒られずにあの料理を回収する上手い言い訳なんか
あるはずもない。
しかし、一番早く行動を起こしたのはやはり日本が誇るストライ
カーだった。こいつはとにかく決断と行動の速さは天下一品だ。
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﹁大丈夫や! これまでの経験上、顎先を斜め四十五度の角度でピ
ンポイントに打ち抜くと相手はその前後の五分間ぐらいの記憶を無
くしとった。脳を揺さぶって料理を回収すれば直前のこの部屋での
記憶も失って丸く収まるはずや!﹂
何が大丈夫なのか一切わからない台詞を言い捨てて、ドアから飛
び出していく上杉。
直後にまたもや外から悲鳴が届く。
﹁上杉、いきなり俺に殴りかかるなんて何考えてるんだ!?﹂
﹁男は拳を振るわなアカン時があるんや!﹂
﹁それってたぶん今じゃないぞ。とにかく落ち着けって。あ、武田
! 良い所にいた、助けてくれ!﹂
ドアの外の喧噪を尻目に、窓から空を見上げる。うん昨日のアメ
リカ戦での雨が嘘みたいな上天気だ。これからの試合のスケジュー
ルでも晴天が続いてくれればいいんだけどな。アメリカ戦みたいな
泥仕合はもう御免だ。
外の騒ぎはさらにボリュームを上げている。叫び声から判断する
と上杉の乱闘に武闘派の武田まで参戦したようだ。そろそろ止めな
いとまずいかと俺もしぶしぶながら出陣の決心をする。
それにしても休養日のはずなのになんて騒々しい奴らだろう。ま、
精神的にはリフレッシュしたからよしとするか。
なんで俺がこんな事の後始末をしなければいけないのかと思いつ
つ、騒動の真ん中へ歩き出す。
﹁アシカまで来たぞー!﹂
﹁やっぱり面倒事はアシカと明智の仕業か!﹂
﹁アシカ、襲撃失敗やどないする?﹂
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﹁そうっす、アシカが監督にあんな事しなければここまで大事にな
らなかったっすよ!﹂
﹁発端は絶対に俺のせいじゃないよね!﹂
混乱が増す一方の中、いつの間にかこの事件が﹁だいたいアシカ
のせい﹂という事態に陥りそうになってしまっていた。
︱︱強敵であるスペイン戦を控えて、息が詰まりそうな緊張感に
満ちた日本代表チームは休養日にも規律正しい生活を送っていた。
監督やスタッフからの日本への連絡には、この日もそう報告され
ていたそうだ。ありがとう山形監督。そして、このチームにはもう
少しチームワークというものが必要ではないかと痛感した一日だっ
た。 1310
第四十七話 理想のチームを追い越そう
﹁ん? どうかしたかドン・ファン?﹂
そう﹁酔いどれ﹂という変わったあだ名を持つ少年、ドン・ファ
ンに声をかけるのはスペインが誇る代表チーム﹁無敵艦隊﹂のキャ
プテンである﹁船長﹂フェルナンドだ。
呼ばれた方の酔いどれはそのあだ名に似つかわしくない、まだあ
どけなさとそばかすの残る童顔を振り向かせた。
﹁あ、フェルナンドか。今ちょうど次の日本戦のビデオを見返して
いたとこ﹂
﹁ほう、お前にしては珍しいな﹂
根っからのキャプテン気質なフェルナンドは少しでも変わった点
があれば、チームの不安要素ではないかと首を突っ込んで確認した
がる。この時も、いつもは相手の研究なんてしないドン・ファンが
なぜかイタズラっぽく目を細めて次の対戦相手のビデオを見ている
というのが気になった。
﹁何かお前の注意を引く事でもあったのか?﹂
﹁いや、そういった訳ではないんだけどね⋮⋮﹂
そう言いつつも彼の目は、テレビ画面で楽しそうな笑顔を浮かべ
てヒールキックのパスを通している小柄な日本人選手から離れない。
﹁僕と似てる奴がいるなーって﹂
﹁そうか?﹂
1311
逆に研究家タイプであるフェルナンドの方はすでに日本への分析
を終えているのか、ちらりと画面を一瞥しただけだ。﹁俺にはとて
もこのアシカって奴とお前とは似てるようには思えないがな﹂と真
面目な顔で首を捻る。
﹁あ、もちろん外見とかじゃなくてプレイスタイルの話だよ?﹂
﹁ならばますますこいつなんかとは似てないな﹂
きっぱりと船長が言い放つ。
﹁お前の方が十倍は上手い。次の試合で存分に一対一の相手をして
それを思い知らせてやれ。ムードメーカーで司令塔のこのアシカっ
てチビを潰せば、日本も俺達との実力差が判っておとなしくなるだ
ろうからな﹂
﹁やっぱり? 実は僕もこいつを直接対決で叩き潰したいと思って
たんだ!﹂
船長とは気が合うから楽でいいなーとスペインの天才少年は目を
細めて猫のように笑う。足利と一対一での勝負させてもらえると喜
ぶドン・ファンとフェルナンドの顔には、酔いどれが負ける可能性
など一パーセントすら見あたらないのか一片の曇りもなかった。
◇ ◇ ◇
﹁さて俺達が次に当たるスペインが強豪で、これまでに当たったブ
ラジルやドイツと並んで今大会の優勝候補に挙げられていたのは知
っているよな﹂
1312
山形監督は全員のミーティングに集めた選手達の顔を見つめなが
ら話し出す。この人の話はいつも始まりが結構唐突なんだよな。そ
う思いながらも今回は突っ込まずに黙って頷く。
彼が﹁いつ食べたのかよく覚えていないが、イギリス名物を口に
してから腹の調子が悪いんだ﹂と言い出してから、俺や明智に上杉
といった問題児に分類されるメンバーはなぜだか皆、監督に優しく
なったのだ。
そんな秘密を持った俺達を含むチーム全員の顔付きから真剣さが
滲みだしているのに満足したのか、さっそく監督は準決勝で激突す
る強敵をどうやって倒すかのミーティングを始める。
だが彼にはその前に俺達へ一つ言っておかないといけない事があ
るようだった。
﹁実はこのスペイン代表ってのは俺が最初に作ろうと考えていた日
本代表のモデルとなったチームなんだよな。ブラジルに勝利するた
めの対抗策を考えたんだが、カルロスを擁する相手の圧倒的な攻撃
を完全に防ぐのは無理だ。ならばこっちがボールを多く保持して攻
撃の回数を増やし、相手のチャンスの数を減らす⋮⋮。そういう観
点からこのボールの支配率が最も高かったスペイン代表を一つの理
想としたチームを作り始めた。
まあ俺が集めてきた攻撃的なタレントが、上杉にアシカに島津や
山下といったアクの強いメンバーだったためにうちのチームの方向
性はかなり異なってしまったがな。でも当然ながら、モデルにした
ぐらいだから相手のスペインはパスを繋いで延々と攻め続けるチー
ムとしての一つの完成型だ。少しでも気を緩めると、開始から終了
までずっと向こうのボールになりかねん。一瞬たりとも手を抜くん
じゃないぞ﹂
﹁はい!﹂
全員の声は大きいが硬い。チームを作る時のモデルにしたという
1313
敵の強さへの実感と、ベストフォーまで勝ち進んだというプレッシ
ャーがじわじわと俺達の肩にのし掛かってきたのが感じ取れる。い
くらこの年代にしては精神的にタフな連中ばかりだと言っても俺以
外はまだ精神年齢が子供なのだ、多少の動揺は仕方ないだろう。
そしていつもは敵のチーム全体への大雑把な説明の後は警戒すべ
き有力選手を挙げるのだが、ここで山形監督はしばし口ごもって躊
躇した後に明智を指名した。
﹁どうやらお前の方が詳しいみたいだからスペインの有力選手に関
する説明を頼むぞ。ああ、もし重大な言い抜けがあれば俺の方から
補足するから、明智は好きなように喋ってくれればいい﹂
﹁了解っす!﹂
元気よく起立して前へ進み出る明智に、俺は仲間の一員が話しを
することで少しはチームメイトの緊張がほぐれるかと期待する。
山形監督が選手の意見をないがしろにせず重要視しているという
メッセージでもあるからだ。
そして実務的な面もある。なにしろ協会から提出されたスペイン
代表の資料にはタレントの数が多すぎたのか、これまでの試合でス
タメンの数より多い有力な選手が記載されていたらしいのだ。とて
もではないが準決勝までの短い期間では情報の取捨選択ができなか
っただろうと明智経由で聞かされている。
もちろんある程度は監督や同行しているスタッフでもまとめたよ
うだが、時間的制限により内容としては貧弱な物になってしまった
のだろう。
だからここで情報通な明智に好きに話させれば、うちで一番情報
通の彼の意見も聴けるし選手の意見が反映されると士気も上げられ
ると監督なりに計算したのではないか。
山形監督は自分でも気が付いていないみたいだけど、アメリカ戦
1314
での采配ミスによって代表を率いるのに必要な確固たる自信を失い
かけているんじゃないかな?
そんな不安を少し心に宿した中、スペイン代表の情報どころか日
本サッカー協会内部、さらにはこの代表チームのスタッフにまで諜
報の手を伸ばしている少年が話し出した。
﹁ではスペインの要警戒選手っすが、これはもうこの二人組﹁無敵
艦隊の船長と酔っぱらい操舵手﹂フェルナンドとドン・フアンで決
まりっす。このニックネームはスペイン代表の愛称である﹁無敵艦
隊﹂にちなんだ物っすね。でももうスペインのお二人のあだ名もブ
ラジルの﹁超特急﹂カルロスやドイツの皇太子ハインリッヒと同じ
レベルで浸透しているっすね。その中でも﹁酔いどれ﹂ドン・ファ
ンはこれまで噂が先行しているわりには表舞台に立ったことがない
ので、世界中の有力チームのスカウトが血眼になって注目している
そうっす﹂
明智の言葉に真田キャプテンが自嘲を込めて頷いた。
﹁ああ、そう言えば﹁船長﹂フェルナンドとは国際大会で何回か顔
を合わせた事があった。向こうは日本の印象としてはカルロスしか
なかったかもしれないけど﹂
そうか、その頃は松永監督が意図的にカルロスのワンマンチーム
を作っていたのだ。他の選手の影が薄くなるのはしょうがない。
﹁船長フェルナンドは下のカテゴリーから一貫してその代表チーム
のキャプテンを任される逸材だったっす。で、無敵艦隊のキャプテ
ンをずっと務めていたからあだ名が﹁船長﹂これは判りやすいっす
ね。もう一人の﹁酔っぱらい操舵手﹂とか﹁酔いどれ﹂ってのは司
令塔のドン・ファンのニックネームっすが、まあこいつもゲームメ
1315
イカーだから船の針路を決める操舵手ってあだ名になるのは判るっ
すよね? 酔いどれとかってのは、代表のデビュー戦でドン・ファ
ンがふらふらとポジションを無視してうろついていたのを解説者が
﹁あいつは酔っぱらってるのか!?﹂と罵倒したのがきっかけだそ
うっす。ま、そのデビュー戦では結局一得点三アシストを記録した
そうっすけど﹂
﹁何それ怖い﹂
調子が悪そうで、しかもまだコンビネーションも固まっていない
だろうデビュー戦でそれかよ。
﹁とにかくその二人を中心にした中盤のパスワークがスペインの生
命線っすね。これを攻略しないことにはどうにもならないっすよ﹂
そう言って山形監督の顔を伺うと彼も渋い表情で頷く。彼もスペ
インの中盤が豪華であるのを認め、それを破らなければ日本に勝利
はないと考えているのだろう。監督の同意を確認した明智が続ける。
﹁たぶん相性的にはテクニシャンでファンタジスタタイプの酔いど
れにはアシカが、比較的オーソドックスなMFの船長には僕がマッ
チアップした方がいいっす。念のためにアンカーの石田には俺達の
フォローを頼むっす﹂
﹁ああ、判ったよ﹂
﹁それと中盤をコンパクトに保つためにDFは思い切ってラインを
上げるようお願いするっす。幸い向こうはパサーが多く、一人でラ
インをちぎるようなスピードスターはいないっすから﹂
いつの間にか選手の分を越えて作戦にまで口出しをしているが、
本当にいいのだろうか?
明智の嬉々とした演説を耳にしながら、強敵スペインについてだ
1316
けでなく少し元気を無くした山形監督の事も気がかりだった。
﹁山形監督﹂
ミーティングが終わり、他の人影がいなくなった室内で資料を揃
え直していた監督に声をかける。次の試合までにはいつものこの人
に戻っていてもらえないと、選手としては試合に集中できないから
な。
﹁なんだ?﹂
﹁元気がないようですが、大丈夫ですか? あ、もしかしてまだ誰
が差し入れたか不明なイギリス名物を食べた影響が残っているとか
⋮⋮﹂
心配そうな俺の様子に微かに唇を歪めると﹁体調には問題ない。
ちょっとあの名物料理を食べた前後の記憶が曖昧だが、それ以外は
以前より快調なくらいだ﹂と答えた。
ではなんで疲れた様子なんだろうと俺が問うより早く、監督は自
分の頭をかく。
﹁俺はスペインをモデルにしたって言っただろ? 次にそのチーム
と戦うんだが、はたして模倣したチームが本物に勝てるのかってな
⋮⋮。あ、いや、別にお前らにとっては関係ない話なんだが﹂
試合を前にして余計なことを選手に言ってしまったと思ったのか、
手を顔の前で左右に振って﹁今のは聞かなかったことにしてくれ﹂
と頼む山形監督。
だが、ここで聞き流すのは無理だ。聞いてないふりどころか、し
っかりと意思のこもった眼差しで監督を見返した。
1317
﹁もし俺達がスペインに勝てば、監督は自分の理想を超えるチーム
を作れたってことですよね。それって俺達も監督のどっちも本物を
超えられたのは自分の力だって自慢できるんじゃないですか﹂
ちょっと格好を付けすぎたかもしれない。
だが、しばらく黙っていた山形監督は不意に﹁わはは﹂と大口を
開けて笑うと﹁子供がそんないらん事なんか考えるな。選手は監督
の事なんか心配するな。それは俺の仕事なんだから﹂と力を込めて
髪の毛をくしゃくしゃに撫でてきた。
まあ、まだ空元気にすぎないだろうがとにかく監督も元気が出た
ようで何よりだ。
だが、ここまで格好を付けて言ったのだからスペインに勝たない
と山形監督の落ち込み具合が酷くなってしまうよな。
でもこれで、また俺が酔いどれとスペインに負ける訳にはいかな
い理由が一つ増えた。
1318
第四十八話 化け物のいるチームと戦おう
スペイン代表と並んでピッチへ入場しながら横へ視線を滑らせる。
俺の隣は幸運にも﹁酔いどれ﹂という変わったニックネームを持つ
ドン・ファンだったからだ。ま、トップ下というポジション的には
被っているから隣になっても不思議はないか。
実はこいつについては明智の講釈を聞く前に、俺はある程度の知
識を持っていた。﹁酔いどれ﹂のホームである欧州でさえもまだ噂
と名前が先行しているだけなのに、なぜそんなマイナーな選手を俺
が知っていたのか? 答えは簡単である、やり直しの前からの持ち
越した知識の内の一つだったのである。
ドン・ファン、通称は﹁酔いどれ﹂という将来を嘱望されていた
若手選手はテレビの画面越しに見てさえも明らかに別格のテクニシ
ャンだった。成人する前にすでにスペインの名門クラブの中心選手
として名を馳せていた同年代最高クラスのファンタジスタ。
俺が繰り返し見ていたスーパープレイ集にはデビューしてからの
年数が少ないはずなのに、何遍もこいつが出てきたな。その才能を
見せ付けられるプレイを眺める度に﹁俺も足さえ無事ならこんな風
プレイできるはずだった﹂と唇を噛んでいた。
もっと率直に言うならば、俺は少なからずこの小柄な名選手に自
分が果たせなかった夢を託して嫉妬と憧れの相半ばする感情を抱い
ていたのである。
そんな風に世界に名を轟かすはずの奴と俺はこれから戦うんだよ
な。
体がぶるりと震える。それを察知したのか、酔いどれはこっちを
振り向くとにこりと笑いかけてきた。童顔の上、まだ鼻の周りに残
1319
っているそばかすが一層彼の外見を幼くしている。
負けるもんかとこっちも不敵な笑みを浮かべたつもりだが、いつ
もより表情筋の動きが鈍い。
それにしても童顔なだけでなく身長にしても、敵のチームでこい
つみたいに俺より低い選手は世界大会に来てからは初めて出会うん
じゃないかな。まあ、その分体格はかっしりしているようだが。特
に下半身の筋肉︱︱腿の太さなどは頭一つは大きい選手にも劣らな
いぐらい発達している。
なるほど、小さな体にそれだけの筋肉があればそりゃどんなトリ
ッキーな動きでも軽々とこなせるはずだ。軽自動車のボディにスポ
ーツカーの馬力のあるエンジンが搭載されているようなもんだから
な。
確か俺が見たプレイ集では酔いどれの身長は、名門チームゆえに
周りが大きい選手ばかりだったにもかかわらず比較的小柄に見える
程度だった。おそらくこれから急激に背を伸ばすのだろうが、逆に
言えばまだ体が成長しきっていない今の段階でさえも注目されるレ
ベルの選手なのは間違いない。
俺は自分のこれまでの二回の人生で築き上げた技術に自信を持っ
ている。持ち越した分だけの知識と経験が同年代の誰より上だと信
じているからだ。
だが、その経験をおそらく才能で覆せる本物の才能が目の前にい
る。
この酔いどれのドン・ファンとマッチアップすると想像するだけ
で、踏んでいる芝の長さが倍になったみたいに足の感覚がふにゃふ
にゃと頼りなく感じてしまう。
ああ、これは代表でのデビュー戦と同じ感覚だ。鼓動だけが大き
なって、他の音が耳に入らず、自分の周りで何が起こっているのか
判らなくなる。
耳元で誰かが話しかけているのは解るのに、言葉が耳に入ってこ
1320
ない。まともな反応すらできないままで固まっていた俺はいきなり
背中を叩かれた。
その痛みより自分の背で鳴った大きな音ではっと我に返る。振り
向くと、俺の背中を平手で打ったのは山下先輩だ。
﹁どうした? アシカはまさか寝不足って訳じゃないよな?﹂
からかうような口調の中に、気遣うような響きがある。慣れ親し
んだ腐れ縁の先輩の声で俺はやっと体の強張りが解け、周囲の動き
が判るようになった。これまでは鳥の目どころか周りを肉眼で見回
しもしていなかったもんな。
大きく深呼吸すると、今度は自分の頬をさっき先輩から背中へ受
けたのと同じぐらいの威力で張る。痛ってて。よし、目が覚めたぞ。
﹁いえ、寝てはいませんでしたが今ので気合いが入りましたよ。で
も後で背中の紅葉のお返しはさせてもらいますからね﹂
﹁はっ、アシカがアシストパスをくれた後でならいくらでももらっ
てやるよ﹂
互いに緊張をほぐそうと会話をしていく内にどんどん頭がクール
になる感覚があった。アップの終わった体にはもう火が入っている
のに思考は冷めて澄み渡っていく。
さっきまでの惚けていた視界がアナログのしかも白黒テレビなら、
今は一気にデジタル放送に変わったぐらい劇的に周囲を鮮明に認識
できるようになったのだ。
足下に転がっていたボールを爪先だけで宙に浮かせ、額に乗せる。
このボールの存在すらさっきまでは気がついていなかったんだよな。
そのバランスを保った状態で静止すること十秒、俺は落としたボ
ールをこちらを向いた上杉にラストパスを出す感覚で蹴る。
うん、糸を引くように直線で日本のストライカーの足に収まった
1321
な。
今のキックといい、その前のボールタッチといい俺の脳内で描い
たイメージと寸分の狂いもない。
メンタルに関しても山下先輩に助けられ、頭は冷静に心と体は燃
えている。今日の俺は間違いなくベストコンディションである。
さあ、これで世界最高峰のパスサッカーを標榜するスペインの無
敵艦隊と戦う準備は万端だぞ。
国家斉唱や全員集まっての写真撮影といったイベントも終わり、
ようやく審判が試合開始の笛を吹く。
スペインからのキックオフにさらに自身の集中力が高まっていく
のを感じる。今の俺にとって世界にはこのピッチしか存在していな
い。それぐらい試合に入り込んでいるのだ。
おそらく他の日本のメンバーもそうなのだろう、動きに迷いがな
い。監督に指示された通りにDFはラインを高く設定し、強力な攻
撃陣を相手に勇気を持って上がっていく。
ラインを高くすると裏を取られる危険性は跳ね上がりこれまで以
上に守備の負担は増えるだろうが、キーパーを含めディフェンスの
誰一人として指示に不満を洩らさなかった。それだけのリスクを負
わなければスペインには勝てないと彼らも覚悟を決めているのだろ
う。開始直後から真田キャプテンとキーパーから激しい指示が飛ん
でいる。
そして俺を含めた中盤の激戦区を担当するMFは、敵のパスコー
スとマークすべき相手へのアプローチを開始する。さらに最前線を
担う上杉となぜか島津の二人は敵陣へ向けて突っ込んでいく。
全員が受けに回っては駄目だと自分達から先にスペイン代表へ襲
いかかったのだ。
1322
これまでにないほど研ぎ澄まされた神経がスペインの最初のパス
回しを観察する。キックオフからのボールが淀みなくスペインの中
盤を流れる。さすが今大会ナンバーワンと称されるMF達だ、ほと
んどワンタッチなのにパススピードは速く精度は高い。
リズミカルに回るボールが俺のマッチアップする相手である﹁酔
いどれ﹂の下へ届いた。
この少年はトラップ一つでも洗練されている。彼へのパスはかな
りの速度があったにも関わらず、まるで決められているかのように
左足の少し前の彼が一番蹴りやすい位置へぴたりと収まった。
ここまで酔いどれのプレイはボールをトラップするタイミングで
さえほどんど足下を見ていない。その視線は俺とおそらく上杉さら
には日本の守備陣に当てられていた。
彼のそれまですっと伸ばされていた背筋が前傾し、こちらを向い
ていた顔が伏せられた。そのまま右足が力強く踏み込まれる。
よし、こいつがワンタッチで蹴らずにボールを止めたって事はロ
ングパスか、それとも裏をかいてドリブルで来るのか? 初対決だ
と勇んで俺が接近する前に酔いどれの足元から大砲の発射音のよう
な鈍い音が響く。
え? まさか⋮⋮、彼の意図に気がついて戦慄する。
ここから日本のゴールまでどのぐらい距離があると思ってるんだ。
俺がまだマークについていない事からも解るだろうが、センターサ
ークルよりさらに向こうのスペインの陣内だぞ。
キック力ではうちで一・二を争うエースストライカーの上杉が撃
つキックオフシュートと変わらない、いやそれ以上に無謀なチャレ
ンジのはずである。
﹁キーパー!﹂
咄嗟に叫ぶが、俺の声が日本の守護神に届いた時にはすでに手遅
1323
れとなっていた。
いきなりのシュートに二・三歩背走した日本のキーパーが頭上を
襲うシュートに必死で手を伸ばすも、その上を酔いどれの蹴ったボ
ールは越えていく。ここまで速度を落とさずにぐんぐんと伸びてき
たボールはキーパーを越すとあざ笑うかのように落下の軌道を描き、
クロスバーをかすめながらゴール内へ飛び込むとネットを揺らす。
これは上杉が時折やる審判が笛を吹く前からシュートを撃つと決
めて半分威嚇でゴールを狙う﹁決め撃ち﹂でのキックオフシュート
とは根本的に異なっている。
酔いどれは自分がパスを受け取る瞬間まで、シュートを撃とうと
は考えてなかったはずだ。だが、日本のDFラインが中盤をコンパ
クトに保つためにこれまでの試合より高く、さらにその後ろをケア
するためにキーパーが前へ出ているのを見て取った。
しかも風向きや芝の感触に開始して初めてのボールタッチの感覚
から、これだけ離れたゴールの枠をぎりぎりで狙えると確信したの
だろう。
敵味方の置かれた状況と自身とピッチのコンディションの確認作
業を一瞬でこなして、自分ならここからでも決められると冷静に判
断した上でシュートを放ったのだ。
しかもこれら全てを試合が開始されてまだ数秒の内に、だ。 ハーフウェイラインより後ろの距離からゴールを狙えるパワーだ
けではない。どんな状況でも常にゴールを奪おうとするアイデアと、
それを可能にするテクニック。さらにそれにチャレンジするスピリ
ットがこの少年をファンタジスタたらしめているのだ。
しかも、シュートを撃つ前に俺と上杉に目をやっていたというの
は、これまでにやった上杉のキックオフシュートに対して﹁こう撃
つんだよ﹂という見本のつもりだったのかもしれない。
画面越しに眺めている時は酔いどれは面白く見て楽しい選手と思
1324
っていたが、相手にするとこんなに恐ろしい相手とは思わなかった。
ピッチの中央で駆け寄ってきたチームメイトにもみくちゃにされ
ながらも、嬉しそうに踊っている両チームの中で最も小柄な選手。
その輝かしい才能の中で最も不得意なはずのパワーを要する技術で
開始直後に得点したファンタジスタ。
気がつけば俺だけではなく、日本チームの全員が酔いどれに対し
て同じ言葉を口にしていた。
﹁化け物め⋮⋮﹂ 1325
第四十九話 とにかく士気を高めよう
たとえどんなに化け物だろうが、今は無邪気に踊っているだけの
相手をずっと睨み付けていても始まらない。
俺達日本代表は気を取り直し、お互いを鼓舞するために大声を交
わし合う。
正直今の失点は交通事故みたいなものだ。これからはさらに長距
離からのシュートにも警戒しなければいけないが、誰が悪いという
訳ではない。反省をするのは試合後にして、酔いどれから受けた衝
撃は忘れてしまうのが上策だ。
だからこんな時に叫ぶように大声で話し合うのはストレスを発散
するガス抜きにもなり、さらに仲間の声が耳に届くと﹁一人で戦っ
ているんじゃない﹂という安心感が生まれる。
劣勢の時には、俺も自分のキャラクターには合っていないかもし
れないが雄叫びを上げることもあるのだ。今も酔いどれ一人に重苦
しくさせられた雰囲気を変えるために、味方に対してすでに彼らも
承知しているはずの指示をもう一度繰り返す。
﹁酔いどれのマークは俺が受け持つから、ディフェンス陣はいきな
りのロングシュートに対してだけ注意してくれればいい!﹂
﹁僕は船長に付くっすから以下同文っす。ラインを上げるのとロン
グを防ぐのは大変っすが、後ろの方の守りはDFと石田さん任せた
っす!﹂
﹁了解だ。いつもの無茶ぶりに比べればそのぐらいは軽いぞ!﹂
﹁あ、石田さんには中盤のスペース消しだけでなく、万一僕達が抜
かれたらそのフォローもお願いしてるっすね。その上でそれ以外の
選手がロングを撃ちそうになったら、そっちの方もなんとかしてく
ださいっす﹂
1326
﹁⋮⋮うん、善処するよ。まあ、そのぐらいの追加業務は覚悟して
いたしね﹂
苦笑して頷く中盤の守備の要である石田。どうも彼は厳しい仕事
を無茶振りすればするほど輝くタイプみたいだな。よし、だったら
これからもどんどん彼に仕事を割り振ろう。
なぜか悪寒を感じたようにぶるっと身を震わす日本のアンカー役
が頼りになるのを再確認できたな。ディフェンス陣がまだ落ち着い
ているのに少しだけ安堵の感情が湧き、心拍数の落ち着いた俺は改
めて自分の戦うべき相手を見つめる。
自分より小さい︱︱つまりこれまで対峙してきたライバル達より
はずっと小さいはずなのに、それ以上の威圧感が漂ってくる。
間違いなくこの﹁酔いどれ﹂ドン・ファンが本物って事だよな。
失点直後で場違いかもしれないが俺の唇は引き締めていたつもり
が勝手に綻びる。いつものボールで遊ぶ時に自然と湧き上がってく
るような微笑みだ。
怪我をしてサッカーが出来なくなった後、諦めきれずに同年代で
活躍しているこいつのプレイ動画を嫉妬混じりに何度も見直したり
していた。そして、やり直してまたサッカーができるようになって
からは、記憶にあったこいつのプレイをさんざん真似したり技術を
盗もうとして試行錯誤していたものだ。
その憧れていた相手の﹁酔いどれ﹂ドン・ファンが目の前に立っ
ている。この少年が贋物なんかではなく倒しがいのある敵で本当に
良かった。
そこまで思考を進めてまた両手で己の頬を叩く。今はそんな感傷
に浸っている場合じゃないだろ!
もう審判が再開しようとしているじゃないか、しゃっきりしろ!
﹁すぐに逆転するぞ!﹂
1327
﹁おう!﹂
俺が景気付けに吼えるとそれに応じる上杉と山下先輩に島津とい
った攻撃的メンバー。
彼らには気落ちした様子は全くない。うん、こいつらがいればき
っとスペインの攻撃力にも対抗できるはずだ。
⋮⋮まあいつの間にか島津が攻撃的な面子の中に混じっているの
はもう気にしないでくれ。少なくとも俺は気にしていない。なぜな
らほら、今も島津に﹁お前も上がるのか!?﹂と指摘した石田が﹁
ええ、気にかかるならば俺の後方のフォローも頼みます﹂と新たな
任務を追加されたからだ。
石田が順調に貧乏くじを引き続けているのに、酔いどれとの対戦
を控えている俺まで首は突っ込みたくない。
一名だけ顔を引きつらせている人間がいるが、とりあえず日本代
表の攻撃陣は活力を取り戻した。守備側はというと⋮⋮真田キャプ
テンが手を叩いて声を張り上げ、必死に皆を鼓舞しているな。
うん、彼に任せておけば大丈夫だろう。
それにここだけの話、うちのディフェンスは点を取られるのに慣
れて免疫がついてるしな。いくら開始直後のスーパーゴールとはい
え、先制されたぐらいで今更ショックは受けないだろう。
DFの誰かに聞かれたら怒られそうな感想を抱きつつ、俺の精神
状態はまた戦闘モードへと切り替わった。
敵の守備の特色についてもう一度思い出す。
ここまでの試合でスペインはほとんど失点していない。だから強
力なDFを揃えているかと言えばそうでもないのだ。
ではなぜ点を取られないのか? その秘密にもおそらく今大会随
一の質を誇る彼らの中盤の仕業が関わってくる。
まず異常なまでに自分達がボールキープする事に拘っているため
に、ボールを支配している時間が長い。イコール敵に攻められる回
1328
数が少ないという訳だ。
次に積極的に前の方からプレスをかけ、中盤ではさらに激しく人
数をかけて組織的なプレッシャーとパスカットの網を広げている。
そのプレスの仕方はイタリアやアメリカ式の体力やパワーに任せた
ものではなく、速く・上手く・規律正しい技術的なものだった。
これまでの試合では通用していた、のろのろとしたパスや不正確
なボールなどは全てスペインに奪われてしまうのだ。
その厳しい中盤を飛ばそうとしてのロングパス一辺倒では、相手
の攻撃も単調にならざるえないためにスペインデイフェンスも警戒
するポイントが絞りやすく守りやすい。
つまり﹁中盤で主導権を握っている﹂のがスペインの攻撃にも守
備にも好影響を与えているのだ。
︱︱ならば、日本の中盤を預かる者としてやることは決まってい
る。
世界一の中盤を叩き潰して、こっちが世界一の中盤になるしかな
いって事だよな。
◇ ◇ ◇
﹁酔いどれ﹂ドン・ファンは再開された後も、笑みを絶やすこと
なくこの試合の展開を楽しんでいた。
それは試合開始直後の超ロングシュートが決まったからではない。
失点したから追いつくためには仕方ない面もあるとはいえ、日本が
得点するために攻撃的な戦術で真っ向勝負を挑んできてくれたのが
嬉しいのだ。
元々スペイン代表は強豪だった。しかも彼が加入してからはヨー
ロッパ予選を通じ勝ちまくっているのだ。そんなチームと真剣勝負
の場でリスクの高い攻撃的な戦術を取ってくる相手はほんの僅かし
1329
かいなかった。
少なくとも酔いどれが試合した中ではまともにやり合った感覚が
あるのは二・三チームしかなかったのだ。その数少ない場合でさえ
も彼がまだ遊び足りない内に、どの相手もスペインの中盤とのあま
りの実力差と次第に開いていく得点差に耐えかねて早々に攻撃的な
作戦からの変更を余儀なくされていたのである。
だから実力はともかくとして、前半の半ばを過ぎたこの時間まで
自分達に正面から懸命にかかってくる日本のチームには敬意を払っ
ている。彼にしてみたら、からかうのにはちょうどいい元気で負け
ず嫌いな遊び相手を見つけたようなわくわくする気持ちになってし
まうのだ。
﹁こら、ドン・ファン。にやにやするな﹂
﹁いや、でも嬉しくてさー﹂
スペインのミスからボールが外に出てしまい、珍しく日本からの
ゴールキックで再開されるまで少し空白になった時間ができた。
こうした凡ミスが起こる事自体が、日本が少なからずこちらへプ
レッシャーをかけ返しているという証明ではある。
その僅かな間を使い、スペインの要であるフェルナンドがドン・
ファンに近付いてきた。
キャプテンであるフェルナンドが注意しても、酔いどれの緊張感
のないにやけ顔は収まらない。それどころか、せっかく遊べる相手
が来てくれたのに無愛想な歓迎では失礼じゃないかと一層笑みを深
める。
﹁大丈夫、油断なんかしないよ。こういう日本みたいなチームが好
きって言うのは、じっくりと楽しみながら潰せるから好きなんだよ
ね。特にあのアシカみたいなテクニック自慢の奴は大好物。ストリ
ートじゃ毎日あんな生意気な相手の子供を泣かせてたからなー。今
1330
日も、これまで通り生意気そうな相手を尻餅つかせて泣かせちゃお﹂
﹁⋮⋮俺にはお前の方がずっと子供っぽく見えるんだがな﹂
はしゃいだ様子で﹁ここなら相手を泣かせてもその親から怒鳴ら
れたりしないしねー﹂と拳を固めるドン・ファンにフェルナンドが
ぼそりと呟く。
﹁一対一でお前が引けを取るはずがないが、油断だけはするな。そ
れとあのアシカって奴を抜いた後でも手を緩めるなよ。そのままき
ちんとゴールまで繋げるんだ。また予選の頃みたいなDFを抜くだ
け抜いて後は知らんといったふざけたプレイをしたら許さんぞ﹂
﹁了解、船長﹂
びしっと敬礼して片目を閉じる酔いどれに、何かを諦めたかのよ
うなため息を吐いて首を二・三度振ったフェルナンドが念を押す。
﹁この試合が終わっても、また次にはたぶんカルロスって遊び相手
を用意してやれる。だからできるだけ真面目に頼む﹂
﹁うん、判ったって! 日本のチームとアシカを真面目にきちんと
叩き潰せばいいんだね。さっきはシュートコースが空いてたからつ
いうっかり撃って入れちゃったけど、今度はちゃんと誰の目にもア
シカより俺の方が上だと見せつけてからゴールするよ﹂
﹁⋮⋮そうだな、頼むぞ﹂
仮にも準決勝へ勝ち上がってきた相手に﹁ついうっかり﹂であん
なロングシュートのゴールを決めてしまう酔いどれに、さすがのフ
ェルナンドも少し退き気味だった。
1331
第五十話 時代遅れの騎士になろう
俺達が代わって世界一の中盤になってやると意気込んでみたもの
の、やはりスペインの経験豊富で組織だったMF達を攻略するのは
一筋縄ではいかずに手こずってしまう。
この大会随一︱︱つまり俺達の年代では世界一と評される中盤な
のだ、全てにおいてレベルが高いのは承知していた。だが、実際に
体験してみると最も厳しいギャップを感じたのは日本とスペインと
の絶対的なスピードの差である。
彼らは攻守における一つ一つのプレイが早いのだ。
いや、行動する速度が肉体的に速いのではない。単に反射速度だ
けならばアフリカ系選手の方が優っているだろう。だがスペインの
選手達は次に自分がどう動くべきかという判断が速いために、プレ
イへの初動と一歩目のスタートが早いのだ。
その一歩分の猶予を持って敵に先んじているおかげで、彼らはボ
ールを淀みなく展開するのを可能にしている。ちょっとだけ敵より
先に動けた分、パスやマークの受け渡しといった基本的なプレイが
正確になる。そしてそれがスペインの選手にまた余裕を与えて、さ
らに落ち着いたプレイが出来るといった好循環が生まれている。
結果としてスペイン代表だけが連鎖的にアクションのスタートが
どんどん早くなっていくのである。
しかし相手がそのスピードアップにはついていくのは至難の業だ。
こっちには迷う間すら与えてくれず、スペインはさっさと次から
次とアクションを続けている。そういう展開が続くと相手はスペイ
ンの後追いをしているだけの間抜けな案山子になってしまう。
日本としてはいつものように中央で敵の穴を探るパス交換をしよ
うとするだけで、ゴール前へのアシストパスを通そうとする時のよ
1332
うなシビアな精度とタイミングを要求されるのだ。
当然そんなぎりぎりの集中で渡ろうとする綱渡りは長続きはしな
い。シュートどころか前線の上杉などに届く前にあえなくカットさ
れスペインのボールとなってしまう。
だが、スペインの攻撃もまた日本の必死のディフェンスを突破で
きないでいた。中盤は豪華だが、スペインには一人でDFラインを
破ってゴールを決められるような傑出したストライカーはいない。
いや、パサー揃いで技巧派を集めた敵の中盤構成からすると、強
引に突破するタイプよりパスの受け手や出し手として優秀な人材の
方がスペインの戦術にマッチする。監督がそう考えて上杉のような
すぐに撃つシュータータイプよりゴールに拘らずパスやアシストが
上手いタイプのFWをスタメンに選択したのかもしれないが。
なんにせよ、ボールを自分達がキープする事を好むスペインはリ
スクが高いパスはそうそう出してこないのだ。だからこそまだ日本
の守備が開幕直後の一点だけの失点で持ちこたえられている。
今はまだ試合の序盤で、俺達も体力を気にする必要がなく集中力
が途切れないでいるからスペインについて行けている。
スタミナが十分なおかげで中盤が完全に崩されないうちはいいが、
このままハイペースでのパスサッカーをお互いに続けて消耗戦にな
っていけばどうしてもこの早いテンポに不慣れな日本が不利になっ
てしまう。それはこの十分間で身に染みて理解できた。
これまでスペインと当たったチームも中盤のプレスのかけ合いで
は互角に戦えないと感じて、引いて守るカウンター戦術へと方針転
換をしたんだろう。
だが俺は、いや日本代表はそう素直に負けを認めるほど従順では
ない。
最終ラインの真田キャプテンが上手く体を入れて相手FWへのボ
1333
ールを奪うと、素早くそしていいタイミングで俺へと渡してくれた
パスを反撃のきっかけにする。
いつもは石田や明智といったもう一つ下のポジションを経由する
のだが、今回はそこを飛ばして目の合ったトップ下の俺への直通の
ロングパスだ。一段跳ばしが功を奏したのか、アイコンタクトを受
けた俺の移動の成果かまだマークが甘い状態の俺へとボールが来た
のだ。
こんなチャンスはめったにない。これまでの試合中はほとんどの
場合がボールが来た瞬間、いや下手をしたらトラップする以前から
敵に囲まれていただけに今の周りに敵がなくプレッシャーのかから
ない状態が心地よい。
そして、これで酔いどれとの一対一をやれる舞台も整った。
俺はこのスペインが誇る天才が未来で成長した姿でプレイしてい
るのをすでに見たことがあると言ってたよな? 当然ながら、彼の
特徴も得意な技も全てはっきりと覚えているのだ。
ある意味酔いどれと呼ばれる選手の完成形を知っているのだから、
それよりも幼くまだ未熟で引き出しの少ないこの時点でのドン・フ
ァンに負ける要素はない。
だからこそ彼と直接対決できる状況に拘ったのだ。
スペインの攻撃の切り札である﹁酔いどれ﹂ドン・ファンはいつ
かインタビューで﹁少年時代に一対一で負けた経験がない﹂と答え
ていたはずだ。当然スペイン代表の奴らも練習などの際にこの天才
に一対一を挑んだが敵わなかったのだろう。だったらこれが酔いど
れに刻まれる最初の一対一での敗北となるはずなのだ。
初めて一騎打ちに負ける酔いどれはもちろん、こいつの才能を知
っている分だけスペインのショックも大きいだろう。その動揺に付
け込んで、酔いどれを抜いた勢いを削がずに速攻で襲いかかり一気
に同点に追いつく!
1334
俺は仲間に﹁任せろ﹂とフォローを必要としないという意味のハ
ンドサインを出し、酔いどれの待ち構えているセンターサークルに
向けて突進した。
◇ ◇ ◇
画面の中では足利とドン・ファンがちょうどセンターサークルの
中に二人だけの世界を作って対峙していた。その間では小刻みにそ
して不規則にボールが動く、複雑な駆け引きとフェイントの応酬を
絶え間なく行われている。
ボールを跨ぎ、インサイドで転がし、アウトで戻すと、次は足裏
で引きずる。ボールは忙しそうに跳ね回り一瞬たりとも止まらない。
二人共忙しそうにステップを踏んでは肩を落とし、手を振って、
顔は常に抜くコースを探すように左右を見渡しているが、その行動
のほとんどが相手に対するフェイントだ。
会場の両国サポーターとイギリスの観客も、日本とスペインの二
人のちびっ子テクニシャンのマッチアップに大きな歓声を上げてい
る。
そんなピッチ中央での激しい争いに、日本の実況席からは松永の
声だけが二人の戦いに重なった。
﹁お互いのトップ下がピッチの真ん中でワンオンワンをするなんて
全くナンセンス極まりない。こんな事は近代サッカーではまずあり
えませんよ! 近代化されて組織が整備されればされるほど攻守ど
ちらのフォローもすぐにやってくるからです。
どんなスター選手でも狭いスペースで組織的に襲いかかればボー
ルは奪える。量は確実に質を凌駕するんです。なのになんでこのピ
ッチの一番目立つところで二人のゲームメイカーが一騎打ちしてい
るのに他の誰も参加しないんですか!﹂
1335
怒ったような松永の解説は珍しく的を外していない。だが、幾つ
かの前提条件が異なっている。
この場面だけで考えれば松永の意見は理にかなっているのだが、
両チームともこのマッチアップはこの場限りのものではなく今後の
試合の流れを決めるための対決と捉えているのだ。
足利は向こうのエースである酔いどれを倒すことで日本に勢いを
つけるために一人で抜くことに拘り、スペインに至っては本人だけ
でなく仲間も端から酔いどれが抜かれるはずがないとフォローに行
く必要性を感じていないのだ。
それが日本とスペインの両選手に対する信頼を示し、相手が加勢
しないならこっちもしない方がアクシデントもおこらずに順当に自
分のチームの司令塔が突破するはずだと信じている。ならば両チー
ムともその後の攻撃に有利なように、マッチアップしている司令塔
をフォローするよりも速攻の準備を進めている方がいいだろうと考
えているのだ。
つまりどちらも自分達のチームのファンタジスタが負ける心配よ
りも、勝って相手を抜いた後にどうやって攻撃して得点に繋げるか
を問題視しているのである。
その両チームの思惑を読みとったのか、松永が時代遅れな戦いで
すね吐き捨てる。
﹁こんな個人戦のような戦いをするのはセピア色に古ぼけた時代の
名残でしかありませんよ。他の選手が障害物に隠れて銃撃戦をやっ
ている戦場のど真ん中で、鎧を着けた騎士達が﹁我こそは﹂と名乗
りを上げて一騎打ちをしているようなものです。さっさと介入しな
い他の選手も対応が遅いですが、足利ももっと早くヘルプを頼まな
いと﹂
そこでようやくアナウンサーが興奮した口調で割り込む。
1336
﹁確かに最近では余り見なくなったピッチ真ん中での個人的に勝負
している場面ですが、この一対一にはなんて言うのか両選手のロマ
ンというかお互いの意地と誇りが垣間見えますね。戦っていると言
うよりもそう、まるで二人のストリートダンサーが相手の目の前で
交互に華麗なステップを披露し﹁どうだ俺は凄いだろう、お前にで
きるか?﹂と技を競い合って挑発し合っているような感じです﹂
松永の声はあくまでも懐疑的だ。
﹁そうでしょうかね?﹂
﹁ええ、だってほら二人とも笑ってますよ﹂ 確かに画面上の二人はハイレベルな技術と反射神経を駆使して激
しい一対一を繰り広げながらも、その唇は綻んでいるようだった。
その小柄な体格と童顔のせいで身につけているのが両国の代表ユ
ニフォームでなければ、そして舞台が世界大会の準決勝のピッチ上
でなければの話だが、技術が高度すぎる以外はどこかの街の日溜ま
りで無邪気にじゃれあってサッカーボール遊んでいる子供達となん
ら変わりがない雰囲気だったのである。
﹁あの二人、本当に楽しそうに踊ってますね﹂
﹁そうですかね﹂
やはり松永だけは賛同しなかったが、それでも二人の子供達は時
代遅れの一騎打ちをしながらも笑い続けていた。
1337
第五十一話 強く拳を握りしめよう
俺は酔いどれとの戦いに邪魔が入らないのを驚きつつも喜んでい
た。
来るなと指示した日本の仲間はともかく、リードしているスペイ
ンがわざわざリスクのある一騎打ちに乗ってくれるかが不明だった
からだ。
それでも酔いどれに任せたって事は、よほどこいつを信頼してい
るのだろう。
スペインのような強国にそれだけ信じられている相手の力に対し
て鳥肌が立つが、逆に言えば俺が勝てばそれだけ敵チームに与える
精神的ダメージもでかいって事になると自分を励ます。
なんにしろ、邪魔が入らない二人だけの戦いになるのは望ましい。
不確定要素が少なくなればなるほどこいつの動きの予測がつきやす
いからである。
動画によく映っている名プレイってのはどうしてもゴールした場
面かドリブルで相手を抜くシーンが多く、パスの場面は少ないから
な。ここで第三者へのパスがないと断定できるなら酔いどれとの勝
負に集中できるのだ。
また開幕の時のような虚を突いたロングシュートに関しての心配
も、今みたいにキーパーどころかピッチ上全ての選手に注目された
状況では必要ない。
うん、つまり後顧の憂いなしで一対一に専念するための最高の舞
台なのだ。
センターサークルのど真ん中で俺を迎え撃つ酔いどれの前にボー
ルを差し出す、と見せかけて蹴り足がボールを追い越してのエラシ
1338
コで切り返す。
む、やはりついてくるか。
ならば左肩で相手をガードしつつ右から抜く、と思わせての軸足
の後ろを通すクライフターンは⋮⋮くそ見破られてたか。
俺の技はこれまで以上に最高のキレを見せているんだが、それで
もこの酔いどれを振り切れない。
と、しまった! 次の一瞬だけボールを止めて跨ぐ動作がフェイ
ントとばれたのか、酔いどれにボールを奪われてしまった。
こっちが右足を動かしたらお前の動きもシンクロして追随してい
たくせに、フェイントに引っかかったんじゃないのかよ。俺の初動
からワンタッチめがフェイクになると読んでいたのか?
ボールを取ったら、微塵も躊躇せずそのまま俺を突破しようとす
る相手に少しだけ感謝と尊敬の念を抱く。
よし! 酔いどれが向かって来るのならまだ挽回できるはずだ。
パスで組み立て直しなんかせず、この酔いどれも俺を一対一でねじ
伏せようとしてきたのだからな。きっとお前の負けず嫌いな性格か
らしてそうくると信じていた。
それに、俺を抜きもしないでピッチ中央のここからのパスならば
ゴールにまでは直結しない。中盤へバックパスで逃げる手もあるが、
そこからのディフェンスは石田なんかの汗かき役の仕事としてとり
あえず今は脳裏から消そう。でも、この﹁酔いどれ﹂ドン・ファン
が敵に背を向けるとは思えないけどな。
さあ、抜けるもんなら抜いてみろ。
俺が誘いの隙を見せると、そこに食いついて来た! けどそれは
フェイクだよね? ほら、お前の右足は踏み込んでいるけれど重心
は後ろに残ったままだ。
なら、当然次はそれに反応させて逆を突く酔いどれの得意技だろ
う? ごめん、でも実は俺はその技は初見じゃないんだ。これまで
の相手みたいに一発で突破できると甘い考えは捨ててもらおうか。
1339
このタイミングでステップを踏んでボールにチャージすれば⋮⋮、
よし奪取成功。
奪い返したボールを仲間に託すという考えは頭に浮かびもせず、
再び酔いどれとの勝負に没頭する。
俺が毎朝イメージトレーニングで一対一をする相手の中に、カル
ロスと同様酔いどれも入っている。そのせいかこれほど手が合うと
いうか、マッチアップが噛み合うとは思っていなかった。
どんどん自分と相手の動きにキレが増していき、フェイントは鋭
く、踏み込みは速くなっていく。
︱︱しかし、その均衡が破れる時がやってきた。
右から来ると反応しかけた俺の体が停止する。確かに酔いどれの
突破しようとしたコースは右からだ。だがボールはどこへ行った? 試合中にボールが見えなくなるのはさほど珍しいことではない。
敵味方の体が障害物になって見えなかった、シュートやパスが速
すぎて目の動きが追いついていかなかったなど理由は色々ある。
だが、ボールが今どこにあるのか判らないというのはそれとは別
次元の問題だ。
俺がボールの行方を完全に見失ったというのは、やり直してから
初めての体験になる。
これまではどんなに速い動きでも、俺の鳥の目で脳内のイメージ
画像ではっきりと捉えていたからである。
マズい! 動揺した瞬時の隙を突かれ、酔いどれが俺を抜きにか
かる。だがボールは⋮⋮どこなんだよ! その時、ようやく見つけ
たのはちょうど俺の股間を通り過ぎていった所だった。
嘘だろう? どうやっていつの間に股抜きなんかをしやがった!?
そんな仕草はしなかったはずだし、こいつのプレイ集でもこんな
1340
タイミングと動きで股抜きしたのなんかお目にかかった事がないぞ。
俺に見えないようにヒールで触ったのか? それとも回転をかけ
てボールを動かしたのか? もしくは死角に隠した後ろ足の爪先で
トーキックか? 未来の技術を含めた俺の知識でさえ、今の酔いど
れのプレイがどうやったのかまだ理解できない。
理解できているのは今、俺が一対一の戦いに敗北しそうだってだ
けだ。
無理に足を閉じてボールを止めようとするが、そのブロックより
も一瞬速く体の真下をすり抜けていく。
﹁くっ﹂
急な体勢の変更に耐えきれずにバランスを崩して、俺は芝に尻餅
をついてしまった。倒れる前に相手をつかんで立ち直ろうにも、ド
リブルで抜いた酔いどれはすでにここから遠ざかりつつあったのだ。
痛みより屈辱に顔を歪めて振り向くと、酔いどれから展開された
ボールがさらに日本陣内を侵略する姿が映った。
﹁頼む、誰か止めてくれ﹂
俺の口から、哀願する口調で言葉が漏れる。
俺を振り切った酔いどれは、周りが遠巻きにしていたその少しだ
け無人のスペースを生かして一気に加速する。
こんな奴がすでにトップスピードに乗った状態で突っ込んでくる
のだ、一人で止めるのは無理と判断したのだろう。石田と真田キャ
プテンという、うちのディフェンスで二大貧乏くじを引く役目の人
間がコンビを組んで立ちはだかった。
だが、なぜかここであっさりと酔いどれがボールを手放す。
1341
俺とあれだけ一対一に執着していたにも関わらず、急に興味を失
ったように淡泊なボール離れだ。
それが一層の混乱を日本ディフェンス陣へ引き起こした。
俺と石田に真田キャプテンという日本の背骨に当たる中央のライ
ンが、全部酔いどれに引きつけられてピッチの真ん中に固まってし
てしまっている。
しかも、相手スペインの攻撃的ポジションの選手達は酔いどれが
俺を抜いた瞬間に﹁待ってました﹂と、全員が事前に決められてい
たのだろうフォーメーションでの速攻の動き出しをスタートさせて
いるのだ。
守備の中心人物は誘い出され、スペインの他の選手の息のあった
一斉の動きも補足しきれない。
こんな状況でまともなディフェンスができるはずもないだろう。 ︱︱だから酔いどれからのパスを素早くFWがリターンし、それ
を受け取った﹁船長﹂フェルナンドの豪快なミドルシュートによっ
て追加点を奪われたのは守備陣の責任ではない。
俺のせいなのだ。
尻餅をついたまま呆然と日本ゴールの中を転がっているボールを
見つめていると、その視界に差し出された手が。
少しだけ放っておいてくれればいいのにと罰当たりな感想を思い
つつ、差し出されたその手の主を見上げる。
視線を上に動かすとそこにあるのは満面の笑みを浮かべた﹁酔い
どれ﹂ドン・ファンの姿だった。
こいつは子供特有の無邪気な残酷さで、たった今叩きのめしたば
かりの相手に﹁大丈夫か? 立ち上がれよ﹂とばかりに手を出した
のだ。
反射的に払い除けそうになった自分を抑え、せめてもの意趣返し
に力一杯握り返しながら立ち上がる。
1342
その反動で軽量級の酔いどれがふらつき、二人共また尻餅をつき
かけたのはご愛嬌だろう。
こいつは身長や体重などを含め、俺とフィジカル面においてはほ
とんど差がないのだ。それなのにこれほどに実力差があるのかと思
うと貧血でもないのに視界が暗くなる。
おそらくさっき俺を抜いた技にしても、たぶんこいつが試合前か
ら準備していたのではなくこの場でとっさに出たアドリブの技なん
だろう。俺は事前に蓄えたデータを頼りしすぎて、この天才の閃き
についていけなかったのだ。
︱︱これが俺のようなやり直しによるまがい物ではなく本物の才
能って奴かぁ。
唇を噛み締めながら俺が自分の足で立ったのを見届けると、彼は
なにやらスペイン語で呟きながら肩をぽんと軽く叩いて去っていっ
た。
いや、スペイン語で話されても俺は判らないんだがな。
とりあえず聞き取れた単語だけをスペイン語も堪能だと聞いてた
明智に質問する。 ﹁今の酔いどれが言ったブエナ・スエルテって単語の意味判ります
か?﹂
﹁確かスペイン語で⋮⋮頑張れって意味だったはずっす﹂
はは、そうか。明智の答えを聞いた俺の喉の奥からは乾いた笑い
声しか出てこない。
無意識に握りしめていた酔いどれに助け起こされた右手を開く。
掌には跡が残りそうなぐらい爪が食い込んでいるな。
⋮⋮ああ、そうか、なるほど。
俺は一騎打ちで負けて無様に尻餅をついた上に日本の失点の原因
になり、挙句の果てには自分を抜いた酔いどれに助け起こされて﹁
1343
頑張れ﹂と励まされた訳か。
もう一度、今度はもっと強く血が滲むほど右の拳を握りしめた。
舐めるな。
1344
第五十二話 激励のお返しをしよう
﹁今の失点は言い訳しようがないぐらい、全部酔いどれに抜かれた
俺の責任です﹂
まずはしっかりと自分の落ち度を認めた。だが謝ってる態度じゃ
ないと自覚できるぐらいに歯を食いしばり、拳を握り締めてチーム
メイトへ向けて目をぎらつかせるという形相である。
﹁でももう二度とあんな無様な抜かれ方はしないので、今の作戦を
絶対に変更しないでください﹂
﹁おお、凄い自信っすね。僕はアシカのへこみ方からすると、もう
この試合では使いものにならないかと思ってたっす﹂
さらりと残酷なことを告げるのは、俺が酔いどれに手を貸される
までは呆然と尻餅をついたままだったのを知る明智だ。
﹁ああ、さっきみたいな尻餅ついとったままで涙目のアカン状態が
続くようやったら、アシカの代わりにワイが酔いどれの相手に立候
補しよう思ったで﹂
﹁いや、上杉さんは一対一の勝負をするようなドリブラータイプじ
ゃないでしょうが﹂
﹁そやかて、自信なくした奴よりはマシやろ思てたけど、案外に立
ち直り早いもんやな﹂
﹁それが取り柄ですからね。例え死んでも復活してみせますよ﹂
さらりと本音を混ぜてしまったが、MF同士の話しにもしゃしゃ
り出てくるうちの点取り屋を相手にするのには手を焼く。こいつは
1345
ゴール前でしか役に立たないんだから、中盤で酔いどれとマッチア
ップするなんて余計な事は考えないでほしいものだ。
﹁上杉は余計なことをせず、敵ゴール前で張ってろ﹂
俺が言いたいことをズバリと代弁してくれたのは、いつもは穏や
かな真田キャプテンである。
さっきまでベンチ前で監督の傍らにいたのだが、指示を聞き終わ
ったのかセンターサークル付近のこっちにやって来たのだ。
﹁⋮⋮ずいぶんな言い種やな﹂
拳を固め剣呑な雰囲気を漂わせ始めた上杉に、真田キャプテンは
事も無げに﹁︱︱と山形監督が言っていた﹂と続ける。
どうやらさっきの言葉は監督から上杉に対する指示を伝えただけ
らしい。それを理解したチーム一喧嘩っ早い少年も気が抜けたよう
に﹁さよか﹂と手持ち無沙汰になった拳を開いて髪を逆立てている
頭をかく。
﹁明智についても、船長だけでなくもっと酔いどれへの注意とフォ
ローをするように。後その警戒する分だけもう少しポジションを下
げろってさ﹂
﹁了解っす﹂
明智にも監督からの指示を伝えると、真田キャプテンが俺の方へ
顔を向ける。
もしかして、酔いどれとマッチアップはやめろとかカウンター戦
術に切り換えろとか言われないよな。監督からの命令が戦術変更な
らばそれでも従いたくないという感情と、一対一で完全に破れてし
まったのだから従わざるえないという理性がせめぎ合い身構えてし
1346
まう。
﹁アシカは笑え﹂
﹁は?﹂
﹁酔いどれに抜かれてからずっと厳しい顔をしているって言ってだ
ぞ。まあ確かに今もほらしかめっ面をしているよな。でもお前は笑
っている時が一番リラックスしていいプレイができるから、一回抜
かれたぐらいで笑顔をなくすなとさ﹂
﹁はは﹂
監督から予想外の指示にさっき酔いどれの言葉の意味を知った時
と同じ笑い声が漏れる。だが今度はあの時のように乾いた自虐的も
のではなく、暖かく潤った心から素直に溢れ出るものだった。
なんだ意外と信用されてるじゃないか、俺って。
﹁うん、アシカはそのぐらい相手を舐めてた方がいいっす﹂
明智までもが﹁初対決の時はPK戦まではずっとアシカが笑って
たせいか、もの凄く手強くてやりづらかったっす﹂と太鼓判を押し
てくれる。
よし、安堵して頬を緩ませたら体から無用の強ばりまでも抜けた。
さっきからずっと握りっ放しで爪が食い込んでいた拳も自然と解け
てるじゃないか。リラックスしているとはまだ言いがたいが、十全
に力を発揮できる状態だ。
つい先刻までの酔いどれへのリベンジに囚われすぎて、がちがち
に入れ込んで体中の筋肉が堅くなったコンディションとは雲泥の差
である。
︱︱イギリスの名物料理を食べさせたり、胃薬を必要とさせたり
と山形監督にはいろいろ迷惑をかけているんだ。せめてピッチの上
1347
でだけは楽にしてやらないといけないよな。
もう一度深呼吸をして意識的にさらに体の力を抜くと、ベンチの
向かって指示された通りにできるだけの笑顔を作っては心臓を叩く。
あんたの言葉がちゃんと胸に染み込んだぞというメッセージだ。
監督も同じ仕草で返そうとしたのだろうが、その際に最後のジェ
スチャーで抑えた場所が胸ではなくお腹の辺りになっているのが泣
ける。早めに点を取り返して負担を減らしてやらないとそのうち胃
に穴が空いてしまいそうだ。
﹁すぐに逆転するぞ!﹂
俺が叫ぶと再開に備えていたスペインの選手達は驚いたような顔
を一瞬したが、すぐにそれは苦笑に変わる。
おそらくあいつらは日本語の意味は判らないなりに﹁酔いどれに
抜かれた負け犬が虚勢を張って遠吠えをしている﹂ぐらいにしか感
じていないのだろう、だがそれでいい。俺の実力をこいつらに見せ
つけるよりも試合に勝つほうがずっと重要だ。その為には侮って油
断していてくれた方が攻略するには都合がいいからな。
それに、今俺が見返したいのはお前だけなんだ酔いどれのドン・
ファン。ちょっと待っててくれよ、すぐにお前にも俺が味わったの
と同じ敗北感をご馳走してやる。
再開のホイッスルを聞きながら、俺は酔いどれに対してそう心で
語りかけていた。
再開後もスペインは中盤での激しいプレスと高速のパスワークは
変わらなかった。
二点も取ったのだから、こいつらも少しぐらいはペースダウンし
てくれるんじゃないかという期待は甘かったようだ。いや、想像す
るのも怖いが相手にとってはこれぐらいが通常のプレイなのかもし
1348
れない。
だが、その中で一つだけ付け込めそうなポイントがあった。
俺に関するマークが緩いのだ。
もちろん敵のゴール前へのパスコースの遮断などはきっちり行わ
れているが、後ろに酔いどれが張り付いている場合は他の選手は集
まってこない。おそらく意図的に彼が俺と一対一をしやすい状況を
作っているのだろう。
一人だけでも組織だってプレッシャーをかけなくていい相手がい
ると周りも足を止めて息がつけるし、また酔いどれがボールを奪え
ればすぐにカウンターのチャンスに備えられると俺は放置されてい
るようだった。
これは俺と酔いどれがマッチアップすれば、絶対に彼が勝つと決
め込んだ作戦である。
舐められているのに腹が立つが、若干頭に血が上るのを自覚しつ
つも必死にクールになれと呪文のように呟いては対応策のタイミン
グを計る。
何度か来たパスを強引に前へ進めようとはせずに左右へと散らし
ながら辛抱を重ねていく。
俺だって攻撃したいが、敵ゴールの方を向くと酔いどれが﹁待っ
てました﹂とチャージをかけてくるのだ。この時間帯にボールを奪
われてもう一点取られてしまえばそこで試合が決まってしまう。少
しでも作戦の成功率を高くするためには、ここは我慢の一手である。
こうしている間にも少しずつ日本は押し込まれ、形勢はリードし
ているスペインの有利に傾いていく。
腹の中がじりじりと焼かれるような焦燥を抑えつつ、じっとチャ
ンスという獲物が来るのを熟練の狩人のように息を潜めて待つ。
あまり気が長くないと自覚している俺がいい子にしていたご褒美
なのか、人の集まりと動きが狙っていた物にほぼ重なるグッドタイ
1349
ミングがやってきた。
ここでマーカーの酔いどれから距離を取るように少し位置を下げ
る。同時に中央の底やや左の位置でボールを持った明智に特別な注
文をつけたパスを要求し、右サイドの山下先輩と島津には﹁上がれ﹂
とサインを出す。上杉はここでは無視だ。あいつは勝手に動いてく
れた方が下手に命令するより決定率が高くなる、生粋の肉食獣だか
らな。
明智からふわりとした浮き球のパスが、俺の隣で高くバウンドし
て前方のピッチへ跳ねる。
その軌道と交差するようなコースをとって走り出す。さすがは明
智である、この柔らかく山なりになったボールは要求通りだ。これ
ならイメージ通りのプレイができる。
距離的にはどうやっても酔いどれよりも俺の方がこのパスには早
く追いつく。そう考えたのだろう、酔いどれが停止して待ちの体勢
に変わった瞬間の事だ。俺は急加速してまだ宙へ浮いているボール
を追い越した。 酔いどれからしたら俺が彼との一対一から逃げてボールをスルー
したように見えたはずだ。
パスがそのままのコースをたどれば、丁度俺の合図でそこへ移動
してきた山下先輩や島津に渡りそうなルートを辿るのがその予測に
拍車をかける。
舌打ちしそうな表情で酔いどれはボールを通り越した俺を一瞥以
外は無視し、その背後に隠れたボールをカットしようとする。その
行動は動きかけた時点で再び足を止めざるえなかった。
俺が抜かれた時同様、あいつは思ったはずだ。あるはずのボール
が消えたと。
俺は併走していた浮き球を追い越すと、走りながらボールの落ち
際をヒールでひっかけてその軌道を変え自分の前方へ飛ばしたのだ。
1350
しかもその一連のアクションを酔いどれに見えないようボールが
背後に隠れた状態の時に、ばれないようにノールックでだ。
博打に近いトリックプレイだが、このぐらいしなければ酔いどれ
を抜くアイデアがなかったのだから仕方がない。
おそらく相手の酔いどれもこんな技を使われるのは初めてのはず
だ。
ストリートの狭い場所ではこんなにスピードに乗って大きくスペ
ースを使うヒールリフトはやれない。また普通のピッチでサッカー
をするようになれば、こんな馬鹿げたプレイをする選手もそういな
いだろう。
傍目からはかなり分の悪い賭けに見えるだろうが、鳥の目を持ち
後ろからのボールの来るタイミングを計れる俺ならば勝算は十分に
あった。
それにハイリスクなプレイだったからこそまたリターンも大きい。
ほら、敵にとっても酔いどれが一発で抜かれるのは想定外だった
のか自由に動けるフリースペースが彼の後ろにはあったのだ。
組織的なディフェンスが持ち味のスペインが相手なのだから、例
えそれがほんの僅かでもノーマークの状態で動ける敵陣のスペース
は俺にとって黄金のように貴重な時間と場所である。
だが、それでもいち早くスペインのキャプテンマークを着けた奴
が接近してきやがる。さすがにスペインのキャプテンともなると危
機への反応が俊敏だ。これでは雨のアメリカ戦のように二・三度と
リフティングをして都合のいいポジションへ移っている暇はない。
落ちてくるボールをダイレクトで撃つのが最善の選択肢だろう。
俺の現在地はスペインゴールからやや遠目の正面から少し左であ
る。角度とタイミングからして左足で撃つしかないな。本来なら利
き足の右に持ち変えたい所だが、凄い勢いで間合いを詰めててくる
﹁船長﹂フェルナンドはそれを許してくれるような甘い相手ではな
1351
い。
なあに、こんな事もあろうかと俺は利き足ではない左足も鍛えて
きたんだ!
新発明を発表する科学者のような感想を漏らしつつ、左足を一閃
させる。
心地よい抵抗感を残して、ボールがスペインゴールへ向けて放た
れた。
落ちて来るボールを左足のボレーでアウトサイドに引っかけて撃
った︱︱つまり通常より足の小指側で蹴ったのだから回転がかかり、
蹴った当初は外れたかに見えるゴールの枠に向かっていい角度でス
ライドして行く。
しかしスペインのキーパーも対処が速かった。さすがは強豪国の
守護神である。自分達のエースが抜かれたという動揺も最小限に抑
えて、すぐに精神的な再建を果たして俺のキックに飛びつこうと反
応する。 だが、それ以上に動き出しが速い者がいた。
酔いどれが抜かれた事によるディフェンス陣の刹那の集中の乱れ
を感じ、得点の臭いがする場所へ常に顔を出すハイエナのように貪
欲な日本のゴールゲッターだ。
一瞬足が止まったDF達の裏へと走り抜けると、ミサイルのよう
に飛び込んでのダイビングヘッドを敢行する。
ほとんど打ち合わせなどしていない、ぶっつけ本番のコンビネー
ションだが上杉のヘディングは見事に俺のシュートのような速いパ
スを額で捉えた。
その結果俺のキックをシュートだと判断して動き出していたキー
パーは目を見開いて、上杉の弾丸ヘッドによってゴールネットが揺
れるのを確認するしかなかったのだ。
よし!
1352
俺はまた右拳を力一杯握り締めてガッツポーズを作るが、今度は
まったく痛みを感じない。血が滲んでいるのに我ながら現金な痛覚
をしているとは思うが、これはゴールした後の紅葉が映える背中の
痛みが軽いのと同じようなものか。
さてとりあえず、本来ならば真っ先にやるべき祝福は後回しだ。
勢いをつけすぎて跳躍したせいでお腹を打ったと呻いている上杉
にはもうちょっと後で御機嫌伺いをすればいいだろう。
あいつも﹁アカン、レバーにいいの貰った時みたいや﹂なんてと
ぼけたコメントできるぐらいだからきっと大丈夫だろう。
あれはたぶん本気で痛がっているのではなく、俺の観察眼では上
杉は背中に紅葉をつけられるのを嫌がってダメージを過大に周囲に
晒しているように見えた。仰向けになって腹を押さえているあいつ
の体からは﹁腹が痛いんやから背中に触るんやないで﹂と無言のア
ピールをしているような雰囲気が立ち上っている。
いや、もしかしたらそれだけでなく自分をマークしているスペイ
ンの相手DFに対してもダメージを喧伝する事でこの際に少しでも
油断させようとしているのかもしれないが。得点を取るためならな
んでもする抜け目のない奴だからな。
でも俺にはまだ上杉の元にいく前にやらなければいけない事があ
る。
ゴールの騒ぎに背を向けると歩を進める。
ああ、ここにいたか。こっちを睨むような目で口をへの字にして
いるスペインが誇る童顔の天才に肩を叩いてほほ笑みかけた。
せっかく得点したんだ、さっきの返礼として酔いどれに対して俺
もこれだけは上から目線で言い返しておかなくては。
頑張れよ
﹁ブエナ・スエルテ﹂
ってな。
1353
第五十三話 立ったと皆で手を叩こう
﹁よし、後一点ぐらいならワイにパス出せばすぐに追いつけるで!﹂
﹁俺は囮にばっかり使われてないか? 先輩なんだからちゃんとア
シストになるパスもくれよ﹂
﹁僕も前線の左サイドにいるんだけど、攻める時に存在を忘れられ
てないよね?﹂
﹁右サイドを幾度となく駆け上がっている、俺のオーバーラップの
労力も失念しないように頼む﹂
ハーフタイムにロッカールームへ戻る最中、ひっきりなしに攻撃
的なポジションの奴らから声をかけられる。ああ、なんだかそろそ
ろ島津が攻撃陣に混じっていても違和感がなくなってきたな。
それにしても彼らの意見を要約すると、そのほとんどが﹁パスを
くれ﹂というものだからその意図は判りやすくはある。声をかけて
きた奴は皆、得点したいんだよな。
﹁はいはい。逆転するためにはもう失点しないとしても後二点は必
要ですから、最低でもそれぐらいはアシストのパスを供給するつも
りですよ﹂
俺の返答に各々がよしと拳を握り締めている。
まあ、まだスペインにリードされているのだが前半の内に一点取
り返した事で攻撃陣は完全に士気が回復したな。それにうちの連中
は逃げきろうとしての駄目押し弾を狙うより、相手を追いかける後
がない展開の方が気合いが入りやすい傾向にあるようだ。
本当はどっちでも同じぐらいモチベーションを保たないと計算が
立たなくてマズいんだが、こんな逆転しようって時には逆境に燃え
1354
やすいのはありがたい気質である。
逆に日本の守備陣に漂う空気はまだ硬い。前半のみで二失点、し
かもその元凶がたった一人の相手選手というのだから精神的なダメ
ージが大きかったのだろう。ただその相手というのが世界大会でも
最高クラスのファンタジスタというのがこの試合の難しい所なのだ
が。
他の勝負所については試合前から準備していたおかげで、俺達の
年代では世界最高レベルと評されているスペインのパス回しが相手
でも持ちこたえられているのだ。今のところまだ、守りを崩されて
も決定的なシュートまでは撃たれないようになんとか抑えていると
いう感じだけどな。
それだけにDF達は失点の原因である酔いどれへの対策に有効な
手だてがなく、マークしている俺に頑張って貰うぐらいしかないの
が辛そうだ。 偉そうに斯く言う俺も、酔いどれを止めるのは一人ではなく明智
や石田といった守備の上手いMFのフォローがなければ厳しいんだ
けどね。
そんな中ポンポンと手を叩く軽い音がロッカールームに響く。お
馴染みの山形監督がチーム全員の注目を集めるための合図だ。
﹁よし、前半の内に一点を取り返せたのは大きい。これなら間違い
なく逆転できるぞ﹂
状況を整理して俺達にまずは一息つかせると、それから後半の指
示が始まった。
﹁スペインは後半もこれまでと同様に中盤で回すパスサッカーのプ
レイ内容は変えないはずだ。あいつらは中盤でボールキープし続け
1355
るのが異常に上手いからな。駄目押しを狙ってくるだろうが、それ
ができなくとも引いては守らない。
自分達のゴールから遠い場所でボールをキープすれば敵に攻めら
れる危険が少ないというのが奴らの哲学だ。追加点を狙わずに試合
を終わらせようとする場合でも、必ず自分達でパスを回す事によっ
て時間を経過させようとするはずだ。だから、基本的な対応はこれ
まで通りの戦術で構わない﹂
リードされてるくせにやけに余裕たっぷりな台詞だ。ただその左
手が胃の辺りを抑えていなければもっと説得力があったんだろうが。
とにかく痛んでいるであろう胃を抑えている手以外、表面上は何
一つ心配してない計算通りだと言いたげな様子のまま監督は続ける。
﹁ただ酔いどれにボールが渡った場合は、アシカがマンツーマンに
つくだけじゃなくてその後ろに石田や明智のどっちかが必ずフォロ
ーに行け。今日のあいつは間違ってもフリーにしちゃいけない相手
だ。アシカを信用してない訳じゃないが、できるだけ失点に繋がる
リスクは避けないといけないからな。
それとDFは絶対にラインを下げるなよ。中盤との間をコンパク
トに保ってスペースを消していないとスペインの高速パスワークに
は対抗できない。苦しくなっても真田はDFのラインを上げ続ける
んだ﹂
﹁判ってます﹂
真田キャプテンはしっかりと頷いた。これ以上の失点を防げるか
どうかは判らないが、彼の真剣な表情ときっぱりとした口調から察
するとすでに後半も厳しい戦いをする覚悟は決まっているようだ。
どうやら敵の猛攻に耐えきれず、ズルズルとラインを下げていっ
てスペインの素早いパス攻撃で蹂躙されるという最悪の展開にはな
らなさそうだと胸を撫で下ろす。
1356
となると守備での一番の問題は俺が酔いどれを止められるかにか
かっているのか。
ふむ、そうだな。幾つかアイデアが浮かんできた。
﹁ちょっと石田さん、酔いどれ対策を今の内に決めておきましょう
か﹂
﹁ああ、あいつの対応を全部を俺に丸投げするとかじゃなきゃ相談
に応じるぞ﹂
﹁⋮⋮それも悪くないですね﹂
﹁おい!﹂
俺の冗談に石田は顔を引きつらせる。嫌だなぁ、貧乏籤ならとも
かくそんな美味しく楽しい仕事を押しつけるわけないじゃないか。
うん、それにしても試合前に僅かにあった優勝候補や世界の強豪
と戦うという気後れは一切なくなっているな。
騒々しいがリードされているのを忘れるぐらい日本代表のロッカ
ールームは活気に溢れていた。
◇ ◇ ◇
﹁さて前半はスペインと﹁酔いどれ﹂ドン・ファン選手の活躍によ
って二対一と日本代表にとっては少し厳しい結果になっていますが、
松永さんはご覧になってどう感じましたか?﹂
﹁そうですね⋮⋮﹂
興奮のせいかやや早口になっているアナウンサーに対し、松永は
逆に余裕がある様子だ。実況席の椅子には背もたれがないにも関わ
らず、深く腰掛けているようなゆったりとリラックスした態度で返
答する。
1357
﹁やはりスペインの﹁無敵艦隊﹂は優勝候補の看板に偽りなしとい
う事でしょうか、戦力的には日本を上回っているようですね。山形
監督は勇敢にも攻め合いを選んだようですが、それが裏目に出て中
盤の厚みと技術の差でかなりの時間帯でボールを支配されて押され
ていました。特に今日は向こうの﹁酔いどれ﹂が調子良さそうなの
が痛いですね。その乗っている相手とマッチアップしている足利が
止められなければ、これから何点取られるか判りませんよ。ま、私
の見立てではあの酔いどれはちょっと止められそうにありませんが﹂
﹁そ、そうですか。なぜか松永さんが敵のエースを止められないと
言った瞬間に、実況席の空気がほっと緩んだような気がしましたが
実に不思議です。それはともかく、足利選手がドン・ファン選手を
止められない理由がなにかあるんでしょうか?﹂
和やかになった実況席の雰囲気に僅かにむっとした気配を滲ませ、
松永はアナウンサーの質問に答える。
﹁ええ、ここまで二人のマッチアップは他者の影響が少ない一対一
の状況で行われています。そうなると二人の間に圧倒的なスピード
やパワーの差がない場合は技術とセンス、そして一対一での経験に
勝敗は左右されるんですよ。
やはりそうなると物心ついた頃にはすでにストリートでサッカー
ボールを蹴っていたという酔いどれの方が優位なのは動きません。
足利も才能がある選手だとは思いますが、いかんせん彼がサッカー
を初めたのは小学三年とスタートの時期が少し遅かった。そして最
初からチームスポーツとしてのサッカーを学んでいるんです。スト
リートでまず一対一を遊びながら覚えた相手にその得意分野で勝負
するのは無謀です﹂
松永の説明は理が通っている。もし、スピードもパワーを考えず
1358
に純粋にテクニックのみで戦う一対一のコンテストでもあれば、酔
いどれドン・ファンはこの十五歳以下という年代なら間違いなく世
界チャンピオンになれるほどの逸材だからだ。
ただ、解説者である彼の関知しない事柄がいくつかあったのであ
る。
まず一つは足利の経験が松永の調べたそれと一致していない事。
これは仕方がないだろう、何しろ怪我で途中で断たれてしまったと
はいえ選手生命一回分のサッカーを経験した後でやり直していると
は想像もできないからだ。
次に松永が知らない点として、足利は実況席の誰よりも酔いどれ
の事を詳しく︱︱ある意味酔いどれ本人よりも知っていると言える
点だ。
未来の酔いどれがこれからなるはずの成長した姿を目に焼き付け
ていたのだから、ビデオでチェックしたとはいえ参考になるデータ
があまりなかった酔いどれよりも足利の方が相手に対する情報量で
は圧倒している。己と敵を知れば百戦危うからずだと胸を張る割に
は、すでに酔いどれを相手にしたマッチアップで足利は何度か負け
てはいるがこのアドバンテージも大きい。
そして一番の問題はこの大会で松永がした予測は悉く外れている
のを、まだ彼自身だけは﹁そんな事ない、ちょっと外れたのを私を
嫌いな奴がネットなどで大げさに叩いているだけだ﹂と絶対に認め
ようとしていなかった事なのかもしれない。
だから余計に彼の中の常識に当てはめてはムキになって予想を立
て、それがまた外れてしまうという悪循環をもたらしているのであ
る。
﹁でしたらやはり日本代表は不利だと?﹂
﹁ええ、頑張ってほしいのですが一点とはいえリードされた状態で
後半に突入し、こちらのストロングポイントである中盤の力はスペ
1359
インが世界一なのです。どうしても不利なのは否めないでしょう﹂
もちろん、日本代表を応援しているのですが⋮⋮、と松永が続け
る前に彼にとっては不愉快な事にコメントが終わるとほっとしたよ
うな安堵の空気が実況席を覆った。
そして彼の知らない所では多くの日本人に﹁これまで通り予想が
外れるのを信じてるからね、松永∼﹂などと画面越しに声をかけら
れていたのだ。
日本の不利を伝える松永の言葉に、サポーターはなぜか逆転の可
能性の高まりを感じて安堵の吐息を洩らしているのだからある意味
最高の解説者なのかもしれない。 この予想と逆の目が出る現象は﹁安心の松永クオリティ﹂とネッ
トでは呼ばれ、実況を反映している掲示板などでは﹁日本の逆転す
るフラグが立った、立ったよ!﹂と元アルプス在住だった少女の友
達が車椅子から立ち上がった時のような喜ばれ方をしているのを、
まだ日本代表の前監督は気がついていないのである。
まあ、知ったからといって誰も幸せにはなれない情報ではあるの
だが。
1360
第五十四話 黒子役にも注目しよう
後半が始まってしばらくしても、ゲームは前半と変わらず両チー
ムの間で流れが拮抗していた。
日本・スペインともにメンバーの交代や戦術の変更などといった
積極的な変化を選ばなかったのだから、これはある意味当然だとも
言える。
こっちには酔いどれに対するマークを厳しくしたりするなどの細
かい修正点は幾つかあったものの、敵であるスペインも同じように
微妙な変化と対応してくるのでスコアが動くような派手な展開には
ならないのだ。
だがこのままではジリ貧になるのは自分達の方だとピッチの上に
立っている俺達日本代表には判っていた。
中盤のパス回しのスピードで優るスペインに、少しずつついてい
くのが困難になってきているのをやっている本人達が誰よりも実感
しているからだ。
これまでこっちは体力配分なんて考えずにアクセル全開で走って
いた。だからなんとか技量が上のスペインにも対抗できていた。し
かしレベルが上の敵と互角に戦うために、相手よりも運動量を増や
すことで辻褄を合わせていくのはどうしてもいつも以上に急速にス
タミナを減らしていく。
試合が進んでいくに連れてどんどん日本の消耗が激しくなり、ス
ペインのペースについていくのが厳しくなっているのだ。
後半も十分が過ぎたほどの時間帯に俺は少なからぬリスクを犯す
決断を下す。
これ以上均衡状態を保つのは難しい。今の内に同点に追いついて
1361
おかなければ、仲間の体力よりも先に気力の方が萎えてしまう。
どちらもパスワークが冴えて、しかもクリーンな試合内容である
ために時計が止まる事が少ない事さえマイナスに働いてしまってい
る。一息を入れる間がほとんどなく、通常の試合以上のオーバーワ
ークを強いられる日本のイレブンにはすでに疲労の色が見え隠れし
ているのだ。
半ば見切り発車だが、俺は勝負をかけようと仲間にハーフタイム
に話し合っていた合図を出す。
その指示に従い、微妙に位置を変える日本のメンバー達。もちろ
ん試合中の最適なポジションからこのプレイの為に僅かな間とは言
えフォーメーションからずらしているのだから、早くお役御免にし
て元の位置に戻さなければならない。
そしてこのタイミングで酔いどれにパスが回る。
うん、それは予想していたよ。今の俺の指示でほぼ前回の一対一
の時と同じ俺達が孤立した状況ができあがっているからな。個人の
戦いに絶対の自信を持つ酔いどれだったら自分へ寄越せとボールを
要求してまた抜こうとしてくるよね、そりゃ。
俺も覚悟と策を胸中に秘めて彼の前へと立ちはだかる。
今度の対峙は十秒で決着が付いた。
完全に体勢を崩された俺が抜かれた、そう酔いどれが思ったはず
の瞬間に罠が口を開く。
この場から離れていたはずの石田が、いつの間に近寄っていたの
か酔いどれから死角になる俺の真後ろから出現したのだ。
例え俺が酔いどれを一人で止めることが出来なくても、抜かれる
のが右からか左からかという風にコースを限定はできる。そこにう
ちで一番運動量の多いアンカーのこいつを呼んでおいたのだ。
一対一に集中していた酔いどれは地雷がセットされていたのに気
1362
が付かなかっただろう、ディフェンス専門の石田だけあってドンピ
シャリの襲いかかるタイミングである。
だが、ここで酔いどれは急停止する。
しつこいマークが外れて、振り切ろうと今まさにスピードに乗ろ
うとした体勢からの急ブレーキである。普通の選手なら止まれない。
いや、止まろうとしてもつんのめるどころか芝で足を滑らせてもお
かしくない。
相当な選手でも、自分の体が出現した相手にぶつからないように
するだけで精一杯でボールまではコントロールできないはずだ。
だがスペインの若き天才の強靱な下半身と高度な技術は、その小
柄な体とボールを同時にストップする事を可能とした。
ここで慌てた様子になったのが石田である。作戦が嵌ったと確信
した瞬間に相手がチャージをかける寸前で避けようとしているのだ。
酔いどれの危険性を考えると、自分まで抜かれてこいつを自由にす
るわけには絶対に行かない。
その緊張した場面に忘れられてた俺が顔を出す。
ここまでは計算通りだ!
俺は後方から酔いどれの足下にあるボールを爪先でつつくように
して石田へと蹴り出した。
こいつならば万が一がありかねんと、素直に罠に引っかからない
可能性も考えていて良かったぜ。
酔いどれならば俺との一対一と思わせておいてからの伏せていた
石田の奇襲もかわしてしまうかもしれない。
だが、こいつが急停止するの瞬間はボールも止まっているって事
だよな?
後ろからでもボールを奪えるんだぜ。
こんな風に酔いどれの体に指一本も触れないでボールだけを蹴れ
ば、後ろからのチャージでも反則にはならない。 1363
俺がこんなに速く追いついてくるとは思いもしていなかっただろ
う酔いどれが、目を見開いて背後の俺を振り返った。
だから抜かれるのを前提にしていたんだって。本気でバランスを
崩すほどフェイントに引っかかるような深入りしてはいないに決ま
っているだろうが。
冷や冷や物だった内心を押し隠しながらも相手にはさらにダメー
ジを与えるようにやりと余裕に満ちた笑みを残す。
そして俺はまた身を翻して酔いどれが去った後のスペースへ走り
出した。
すぐに石田からボールが俺へ戻されるが、今度は前半よりマーク
がつくのが早い。
敵も俺が突破する可能性を考慮して、前よりも少し腰を引いた陣
形をしていたようだ。
だけどスペインの守備は組織的とはいえ、どうしてもドリブルす
る俺に対してマークをずらしていくと穴ができてしまう。
特にほら、その最中にオーバーラップしてくる奴までは捕まえき
れないだろう?
右サイドをぐいぐいと上がってくる島津の前へとボールを捌く。
よし、中盤の右の敵は山下先輩へ引きつけられている。十分な時
間とスペースの余裕を持って残った右サイドのDFとの駆け引きが
できるはずだ。
島津はボールを受けとると躊躇わずにDFラインの突破をはかる。
こいつの頭には迷いとか回り道とかないんだろうな。俺も敵もそ
う考えた瞬間、島津が直線的な縦へのドリブルを止めた。
とはいっても弱気になったようでもない。なにしろサイドライン
沿いの突破から中央へのカットインに切り換えただけだからだ。
なまじDFが﹁この島津というサイドアタッカーは迷わず縦へ突
破してくる﹂と信じていただけに、その急激なコース変更について
1364
いけない。
スペインのDFさん念のために注意しておきますが、そいつはサ
イドからクロスボールを蹴り上げるだけのセンタリングマシンでは
なく、自ら切り込んでシュートまで持っていけるアタッカーなんで
すよ。
あ、それと信じられないでしょうが彼はウイングではなくDFで
す。キックオフの時しかそのポジションにいないのでチームメイト
の俺達も忘れかけていますけれど。
なぜか丁寧語で﹁ウイングより攻撃的なサイドバック﹂と評され
たうちの島津のプレイぶりを脳裏で解説ながら俺もスペインのゴー
ル前へ走る。
あいつならば間違いなくシュートかそれに繋がるパスを出すはず
だ。
その予想通り、島津がちらりと内を窺うと素早くボールを蹴る。
そのキックはアーリークロスとも普通のクロスとも言い切れない中
途半端な位置からだけに敵の守備体型にも迷いがある。
しかもここで島津は素直にゴール前へセンタリングを上げるので
はなく、蹴ったのは逆サイドの左サイドにいた馬場へのサイドチェ
ンジだったのだ。
そして改めて島津はゴール前へ駆け出す。
うん、どうやら彼はアシストするより自分で決めたかったからパ
スしたようだ。
動機はともかく相手を左右に振りまくった絶好のチャンスである。
スペインのゴール前にはFWの上杉も含め日本の人数も揃ってい
る。いいボールが馬場から入れば絶好のシュートチャンスになるぞ。
︱︱あ!
﹁馬場さん危ない!﹂
1365
危機意識を刺激されたのだろうスペインのDFが猛然と彼にチャ
ージをかけたのだ。
しかも彼の後ろから。
もんどりうって倒れる青いユニフォームに鋭い笛の音が響く。駆
け寄って倒れた馬場の容態を確認すると、その傍らで厳しい表情で
イエローカードをかざしている審判の姿があった。
その前で手を合わせて恭順の姿勢を見せているのは危険なタック
ルをした相手のDFだが、イエローぐらいは当たり前だな。一発退
場でもおかしくないファウルだったぞ。
今のファールで直接ゴールを狙える位置からフリーキックを得た
が、それぐらいでは仲間の怪我の代償だとしたら全く割に合わない。
畜生、危険なファウルをしやがって。呪いのこもった視線を倒し
た敵DFから味方へ戻し、芝の上で足を押さえている馬場の様子を
見守る。
あ、日本ベンチではもう監督が馬場を交代させる準備をしている。
どうやら怪我の如何に関わらず、これまでの時間に目立たないが
ずっと走り続けていた彼をここで試合から離すつもりか。
﹁馬場さん大丈夫ですか?﹂
﹁ああ、引っ掛けられた足よりもセンタリングを上げられなかった
方が痛いぐらいだ﹂
顔をしかめながらも馬場が自力で立ち上がれた所からすると、今
のファウルによるダメージそのものは心配いらないようだ。
でも、こいつはスペインの中盤に対抗するため前線の攻撃要員の
はずなのに守備専門のアンカーである石田と同じぐらいに守備にも
駆け回っていた。馬場の攻守を問わない豊富な運動量がなければ世
界一の中盤とここまで拮抗した状態は作れなかっただろう。
その代償として足に疲労が溜まり、危険な反則をかわしきれなか
1366
ったのだとしたらここで交代もいたしかたがない、か。
ならばせめて彼が後顧の憂いがない状態でピッチを後にさせなけ
ればな。
﹁馬場さん、絶対にあなたのくれたこのチャンスで同点にします。
安心してベンチで見守ってください﹂
﹁そや、草場の陰で見守っといてくれ﹂
⋮⋮上杉、それはなんか違うぞ。まるで成仏しろって言ってるみ
たいじゃないか。
﹁上杉も俺を勝手に殺すのはやめてくれ。それより試合からいなく
なるとすぐにお前らに忘れられないかの方が心配だよ﹂
馬場の声は案外切実だった。よし、これは前線の中ではキャラの
薄い彼にスポットライトを当てる為にも最後に彼が得たフリーキッ
クを頑張って得点に繋げねば。
もし、このフリーキックで得点してもゴールした奴はともかく馬
場が目立つかどうかは別問題ではある。だけど、まあ馬場よその辺
は目を瞑ってくれ。お前の奮闘で作ったチャンスは無駄にはしない
からさ。
1367
第五十五話 信頼は壊さないようにしよう
審判が指し示したポイントへ慎重にボールを設置する。これまで
と同様に自分が蹴る場所へ空気穴が当たるようにするのは、ほとん
ど習慣と化しているので忘れたりはしない。
偶にそこを蹴らなくてもあまり変わりがないとアドバイスしてく
れる人もいるが、すでに空気穴を蹴るのがフリーキックの極意だと
頭に刷り込みが入っている。だからそうじゃないとなんだか忘れ物
をしたようにもやもやしてキックに集中できないのだ。
最近のボールはどんどん進化して変化しやすくなったが空気穴が
判りにくい物も増えた。俺としては製図技術の進歩は嬉しいが、穴
が一目で判るタイプが好みである。
さて俺の嗜好はともかくとしてこれまでさんざん世話になった馬
場が身を削ってまで手に入れたフリーキックなのだ、無駄にするわ
けにはいかないよな。
壁を作るスペインの選手達を眺めて大きく深呼吸をする。こいつ
らも日本国内で戦う相手に比べたら大きいのだが、これまでに世界
大会で当たった奴らほど俺のサイズとかけ離れてはいない。ここか
らならば壁が作られていても十分にゴールを狙える位置と角度だ。
おそらくボールを置く様子などから間違いなく俺がキッカーだと
予想されているだろうが、それでもなおゴールできる確率を高める
だけの技術を俺は所持している。
そうブレ球である。小学生時代から使い続けていた俺のフリーキ
ックにおける切り札は、経験を積むのと同時に体が成長するのに伴
いキック力が増すに連れ、少しずつ薄紙を重ねるようにその威力を
上げていった。
ボールのブレ方や落差も今ではやり直す前の自分を完全に越え、
1368
納得できるレベルにまで仕上がっている。
ただ一つの不安要素はそれをおおよそのコースでしかコントロー
ルできないということだが、蹴った本人もどこに行くか判らないボ
ールの行方をキーパーが読めるはずないだろう。
審判が笛を鳴らした後、俺が丁寧にセットしたボールをもう一人
のキッカーである明智が蹴る素振りを見せて通り過ぎる。
囮の明智が通った後で踏み込むと、上体を折りたたみ思い切り右
足を振り抜いた。
助走をつけた自分の体重が全てパワーとなってボールに乗り移っ
たような、甘い痺れを伴う最高の感覚が蹴り足へ残る。
これならば! 伏せていた顔を上げて﹁入れ﹂と祈りつつシュー
トの行方を見守る。
狙い通りにジャンプした壁の上をギリギリで通過すると、そこか
らは不規則にボールがブレる。力とスピードがあればあるだけ揺れ
るこいつはそう簡単には止められないはずだ。
スペインのキーパーも俺が蹴ると読んで待っていたんだろうが、
その彼の必死に突き出した拳をボールが枯葉のようにすり抜けてい
く。
よし、ゴールだ! ガッツポーズをとりかけて緩みかけた俺の頬
がその直後に凍りつく。
揺れたボールはキーパーの手をすり抜けるとさらに曲がり、ゴー
ルポストを直撃したのだ。
くそ、あんなに曲がらなくてよかったのだ。ほんの五センチでい
いから内側に入ってくれてたらそのまま俺の得点になっていたのに!
舌打ちしながらもこぼれ球を押し込もうと、フリーキックで足を
振り切った姿勢からすぐにダッシュへと切り替えようとする。
しかし俺からボールまでは当然ながら敵の作った壁を隔てていて、
クリアされるまで間に合いそうもない。
1369
こういう時に一番頼りになる上杉は、今回はマークが恋人を抱擁
するかのようにがっちりとしがみつかれていて動きがとれていない。
だが、ここで頼りになる俺の兄貴分が動く。
山下先輩はまるで俺のシュートがバーに直撃するのを予想してい
たかのような素晴らしい反応速度で、跳ね返ったボールを膝と腿の
中間辺りの部分で蹴るというよりもそのまま体ごとゴールの中へ押
し込んだのだ。
スペインゴールに自分もボールともどもネットに手足が絡むほど
突っ込んだが、審判のゴールを認める笛を耳にしたか猛然ともがい
てはネットを振り払い俺と味方の待つ方へと走ってくる。
当然俺達だって待つんじゃなくて、殊勲者を迎えに行くに決まっ
ている。
全員が抱きついたり肩や背中を叩こうとするが、それよりも先に
山下先輩が俺達にかけた第一声は︱︱。
﹁アシカなら絶対にバーに当ててボールが戻ってくると信じていた
ぞ!﹂
⋮⋮い、嫌な俺に対する信頼感だな。
小学生時代、特に最初の頃にシュートをバーに当てまくっていた
頃からコンビを組んでいる先輩はこれだから敵わない。あの時と違
って俺は今は決定力だって相当高くなっているんだぜ。
今回はブレ球だったから狙いが多少ズレるのは仕方ない面が大き
いんだよ、そう言い訳が口から出そうになる。
だが得点した直後喜んでいる先輩にそう突っ込むのは無粋だろう。
﹁ナ、ナイスシュートです山下先輩﹂
だけど賞賛の声が裏返って笑顔は引きつり、先輩の背中を叩く力
1370
がいつもよりちょっと強くなっても大目に見てくれよな。
これはベンチで立ち上がって拍手している馬場の分も含んでいる
んだから。
足にアイスパックを巻き付けたピッチ上では黒子役に徹していた
左ウイングに、俺はそっとガッツポーズを送った。うん、立ち上が
っているって事は怪我の影響はなさそうだな。
ほっとして味方のガッツポーズしている向きにも気が付く、俺だ
けじゃなく皆が馬場へ﹁お前の穫ったファールで得点したぞ﹂とア
ピールしてるじゃないか。やっぱり一緒のチームにいる連中は、あ
いつが居てくれるありがたさが身に沁みているからだろう。
⋮⋮でも山下先輩と馬場がこんなに祝福されているんだからフリ
ーキックを撃った俺も、その、なんだ、もう少し誉めてくれてもい
いのにな。
あ、痛てて。
いや、今のグチは別に背中への紅葉が欲しいって訳じゃないです
って山下先輩。さっきの一撃が効いたからってこんなお返しはいり
ませんよ。
◇ ◇ ◇
﹁同点、同点です! 足利選手のフリーキックがゴールポストに直
撃したそのこぼれ球を、山下選手がまるでそれが判っていたかのよ
うな見事な反応で押し込みました! 後半十五分、ついに日本が追
いつきましたね松永さん!﹂
﹁⋮⋮ええ見事なゴールでした﹂
﹁松永さんが足利のセットプレイでのキックは入らない可能性が高
いとおっしゃった時は、ちょっと心配でしたが結果的には日本のゴ
ールとなりましたね!﹂
1371
喜びの声の中にも若干解説を責める響きがある。額に大粒の汗を
かきながら、松永は焦ったように反論し始めた。
﹁ほ、ほら足利のキックその物は入らなかったでしょう? 確か彼
のセットプレイにおけるキックは狙いが正確な割に小学生時代から
決定力が足りなかったんですよ﹂
﹁そうですか?﹂
アナウンサーはごそごそと手元の資料をかきまわす。
﹁最近︱︱とは言ってもここ一・二年の話ですがかなり足利選手は
フリーキックでもブレ球を武器に得点していますよ。松永さんはい
つの事をお話になっているのでしょうか?﹂
﹁あ、じゃあ⋮⋮そうだ! 私が彼に決定力不足を指摘した後きっ
と猛練習したんでしょうね﹂
﹁え? でも足利選手は松永さんとは挨拶ぐらいしかしたことがな
いとか⋮⋮﹂
﹁⋮⋮サッカーに限らずスポーツを教えるのには言葉だけでは伝え
られないこともあるのです﹂
なにやら精神論どころかオカルトじみた事を言い始めた松永にア
ナウンサーが﹁それってもうテレパシーとか超能力の類では﹂と突
っ込みかけた所へ松永が言葉を被せる。
﹁ほら、それよりも試合がすぐに再開されますよ。実況アナウンサ
ーが応援をしないで余談で気を逸らしてどうするんですか!﹂
﹁そうですね、今審判の笛が吹かれスペインボールで試合が再び動
き出そうとしています。松永さんへの追求は試合後にでもまとめて
するとにして、同点に追いついた日本代表のこれからの戦いぶりに
注目しましょう﹂
1372
強ばった表情で﹁後で追求はするのか⋮⋮﹂と呟いた松永だった
が、すぐに頭の上に豆電球が点灯したような明るい笑顔を作る。
﹁とにかくゴールを決めたのは山下ですが、そのきっかけとなった
フリーキックを得られたのは馬場のおかげです。足利や得点した山
下だけに焦点を当てるのではなく、もっと広い視点で多くの選手を
応援して欲しいものです。トリッキーなプレイで目立つ足利や明智
によく得点している上杉や島津や山下といった派手な選手が活躍で
きるのも、地味な仕事を労を厭わず他の代表選手も全員で頑張って
いるおかげなんですから﹂
松永の言葉は尤もである。だが彼が名前を挙げた、派手だという
選手は山形が代表の新監督になってから抜擢された者ばかりな所か
ら目論見が透けて見える。彼ら以外の選手は前の代からいるのだか
ら、昔の松永指揮下の代表チームのメンバーこそが土台になってい
ると言いたいのだろう。
それは一面事実ではある。
だが、それは前のチームを率いて結果を残せなかった監督の言っ
て良い台詞なのだろうか?
アナウンサーがその考えを公共電波なのでマイルドにして口に出
そうとする前に、松永監督がさらに言葉を続ける。
﹁なんにせよ、日本は同点に追いついたこの勢いで一気に勝ち越し
までしておきたいところですね﹂
︱︱この台詞の後、もちろん試合再開直後にスペインの強烈な逆
襲が始まったのは言うまでもない。
1373
第五十六話 頭を空にしてみよう
俺達日本代表は急にテンポアップしたスペインの猛攻を受けてい
た。
これまでの試合中において相手が使用していたパスやコンビネー
ションも十分にハイレベルだったが、今の怒涛の連続攻撃に比べる
と色褪せたように思えるほどだ。
どうやら酔いどれが開幕直後にゴールしたせいで、無敵艦隊は本
気の攻めという物を追いつかれる今までしていなかったらしい。
ギアが一段上がったように互いへのパススピードがよりいっそう
速くなり、たとえ俺達がボールを持ち守備に回ったとしてもマーク
は一歩早く詰め寄られプレッシャーはどんどん強くなっていく。
世界に名高い無敵艦隊が、総員で張った帆に追い風を一杯に受け
ての全力アタックを開始し始めたのだ。
対する日本はかなり忙しい。
ゴールこそ許してもいないものの、一方的に押し込まれカウンタ
ーの目処も立たないサンドバッグ状態になってしまっている。
なにしろやっと同点に追いついたと意気が上がった途端、相手が
いきなり一段ギアを上げたのだからその盛り上がりに水を注されて
しまった。おかげでディフェンスの責任者である真田キャプテンは
声を枯らして味方に檄を飛ばさねばならないのだ。
﹁絶対に引いてオフサイドのラインを下げるなって! 一歩でも引
くとそのまま押し切られるぞ! 石田と連携してスペースを埋める
のと侵入者を潰すのは俺がやるから、お前達はゴール前にいる人間
に付け。ここが勝負所だ、全員集中するんだ! ⋮⋮それから島津
には今言ったゴール前ってのはうちの事だから勘違いするなと、ス
1374
ペインのキーパー近くにいるあいつに伝えてくれ﹂
最後はディフェンス陣の問題児のせいでちょっとしまらなかった
が、真田キャプテンの強い意志の込められた命令に俺を含めた日本
のチームメイトはやっとの事で地に足が着く。
やっぱり国際試合の経験が一番豊富なだけに頼りになるぜ、うち
のキャプテンは。
俺はこれまでのチームではいいキャプテンにばかり当たっている
よな。いや、まあ日本代表のキャプテンが碌でもない奴のはずがな
いか。
これまでは代表チームの失点が多いからと過小評価していた真田
キャプテンの評価を引き上げて、俺は自分の仕事に戻る。
俺のやらねばならない仕事とはボールが回って来ないために開店
休業の攻撃に関してではない。真剣になった酔いどれとのマッチア
ップである。
こいつは自分が抜かれたり、ボールを奪われたのがかなりプライ
ドに触ったのかムキになったようにやたらと個人技での突破を仕掛
けてくるのだ。
終盤の足に疲労の溜まる時間帯に﹁さあ行くぞ﹂とばかりにドリ
ブルで勝負を挑まれると少々辛い。
もちろん俺もこいつとの一対一は望むところなのだが、それより
も今は日の丸を背負った代表戦なのだ。俺がではなく日本が勝つこ
とを優先しなければならないからな。
現在の俺が酔いどれと真っ正面から戦って勝てる確率は低い。な
んとか勝算が五分以上になるような計算が立ってから戦うようにし
なくては。
そのために酔いどれがボールを持って突っかけてくると、自分の
準備より先に石田や明智といった面子をフォローとして呼ぶように
している。
1375
相手の酔いどれは俺が仲間を呼ぶと口を尖らせておもちゃを取り
上げられた子供の顔付きになるが、すまないなこれ以上のワガママ
は諦めてもらおうか。
残念ながら彼は諦めてくれなかった。
それどころか周りの敵が連携して俺との一対一を実現させるよう
に動きやがる。
酔いどれの近くからは人を消し、彼からのパスが通りそうな少し
離れた場所へと配置する。その敵を一人一人マークしようとすると、
中盤の人数が多いフォーメーションを採用しているスペインが相手
では日本はディフェンスの人数が足りなくなってしまう。
必然的に俺のバックアップをするか、それとも危険そうなスペー
スへ走る敵の選手をマークするのかといった二者択一を中盤の守備
役である石田や明智にさせることとなるのだ。
ちなみに明智はゴール前を窺う勢いの﹁船長﹂フェルナンドにつ
いていってすでに俺からは離れている。確かにあの決定力と展開力
を兼ね備えた船長を日本陣内でノーマークにするわけにはいかない
から妥当な判断ではあるだろう。
しかしそれで俺へのフォローが心許なくなったのは否めない。さ
らに石田までも引き剥がそうとスペインがパスを回しながら機会を
窺っている段階だ。
そこで不意に酔いどれがボールを持ったまま鋭いドリブルで突っ
込んできた。
俺は一人で対処するのは避けて、正面から斜めに圧力をかけて徐
々に石田のいる方面へと下がりながら追い込んでいく。もちろん前
に使った作戦の焼き直しでもあるが完全に抜かれないようにするよ
りは、抜かれるコースを限定する方が遥かに難易度が下がるから有
効なはずだ。
まだ石田が俺へのフォローから外れていない段階だったから取れ
1376
た手だが、とうとうこいつも痺れを切らしたのだろう。いくらこれ
までは一対一で負けた経験がないとはいえ若すぎるぞ酔いどれ。
よし、上手く石田と二人で酔いどれを挟み込んだ。
そう確信した刹那、ボールが俺と石田の間を通り抜けていく。
ちょうど俺は石田とぶつからないよう、そっちの足に体重をかけ
たばかりで足を伸ばして止めることができない。
横の石田も同様なのか表情が強ばっている。そのボールが通った
道を正確になぞるように、酔いどれの小さな体が二人の間のボール
一個分ほどしかない狭い隙間をすり抜けようとしていく。
くそ! 舌打ちするがダブルチームなら止められると油断したつ
もりは毛頭ない。
だがほんの僅かな間、俺は酔いどれだけではなく味方である石田
との距離を測った。その隙とまでは言えない一瞬の呼吸の乱れを見
逃さずに突かれてしまったのだ。
逃がすまいと俺と石田がユニフォームへ伸ばした手をかき分ける
ようにして振り払う酔いどれドン・ファン。彼がその作業をこなす
間に少しだけボールが足元から離れる。
時間にしてゼロコンマ数秒程度、距離にして一歩分。
俺達二人が邪魔できた時間はせいぜいそれだけでしかなかったが、
けして無駄ではなかった。
いつの間にか俺達の後ろに戻っていた明智のスライディングによ
って、酔いどれが持つボールをピッチから外へクリアできたからだ。
凄ぇ、このタイミングで戻ってくる明智の守備センスや戦術観も
感心するが、何よりあの船長を日本のゴール前に放り出してくる度
胸が並ではない。
額に浮かんだ冷や汗混じりの汗を拭い、ちらりと確かめると船長
の横には真田キャプテンが張り付いていた。いつの間にか二人でき
っちりとマークの受け渡しをしていたらしい。
しかし、俺と石田の二人がぴたりと張り付いていたつもりだが、
1377
それでも酔いどれ相手ではなお振り切られそうになるのかよ。
守備がこれだけ献身的にやってくれてるんだから俺ももっと気合
いを入れないといけない。
いや、それ以上に他のメンバーまでが俺をフォローする為に必要
だとすれば相当マズい。これからもし酔いどれが囮になったプレイ
をされれば間違いなく日本の守備網に穴が空く。
これは試合前に覚悟していた世界の頂点レベルとの戦いなのだ。
例え厳しくとも俺が越えなければいけない壁だろう。
よし。
﹁石田さん、もう一度俺に酔いどれと一対一をさせてくれませんか﹂
﹁⋮⋮勝てるのか?﹂
﹁理論上は完璧です﹂
口には出さなかったが前日にした脳内でのシミュレーションでは
俺が酔いどれに圧勝して負ける要素がなかったのだ。なのになぜか
今日の実戦の場では明らかに形勢が不利である。予想と妄想の区別
が付いていないと指摘されれば一言もないが、あまりにも想定と事
実と異なっている。
これはやはり酔いどれのアドリブ能力の高さと、俺が描いていた
イメージと実物との間に齟齬があったせいだろうな。相手の情報が
多くてもそれに振り回されて処理し切れていなかった。酔いどれと
直接対決するのは初めてなのだから、試合前から何もかも見通した
つもりでいるのは傲慢すぎたのだ。
俺がいるこの世界はすでにバタフライ効果のせいか、すでに色々
な変化が顕れている。
だから俺は酔いどれを未来の名選手のまだ未熟な卵としてではな
く、それに似た現在俺達の世代で最高のファンタジスタとして向き
1378
合わなければいけなかったんだ。
相手のデータはすでに頭に焼き付いている。しかし、これからは
それをいったん消去して予断を持たずに戦うべきだろう。
なあに、大丈夫。酔いどれとのマッチアップはトレーニングの一
環として毎朝のように頭で描いていたんだ。頭では忘れても体の方
はたとえ相手が未来の酔いどれであっても反応はできるように鍛え
上げてきたはずである。 こう覚悟を決めても敵が酔いどれを使って攻めてこなければ無駄
なのは判っている。だが、俺は必ずスペインが彼にボールを集めて
くると踏んでいた。
予選前までは調子の上がらなかったスペインを、一気に優勝候補
の一角に引き上げたのは間違いなくあの小柄なテクニシャンだ。そ
して今日の二得点の原動力も間違いなく彼なのだ。
国際大会の準決勝で残り時間が少なく、同点というこの状況でジ
ョーカーを切らないチームはない。
︱︱よし来い! 酔いどれドン・ファン、俺と一騎打ちだ。
俺の心が伝わったかのように、またもやスペインの天才少年がボ
ールを受けとるとドリブルで突進してきた。
今度は味方へフォローを頼むのは止めて、深く息を吸い腰を落と
して目を凝らす。踵が軽く浮いて両腿とふくらはぎの筋肉が盛り上
がる。
ここが天王山だ、俺がこいつからボールを奪ってさらに抜ければ
日本は勝つ。いや、万一俺が抜かれたとしても日本は負けないけど
ね。
一方的に自分が有利な賭けを天に預け、俺は酔いどれとの勝負に
集中しようとする。おっと、その前に監督のアドバイスを忘れると
ころだったな。
唇を釣り上げて相手を見ると、酔いどれも鏡に映したように牙を
1379
剥いていた。どうやら一対一になるのがお気に召したようだ。
やっぱりどこか似てるな。
いや俺がプレイを真似したからこいつにスタイルが似てきたのか。
とにかく、この一対一を終えた後でも笑っていられるのは俺の方だ
ぜ。
1380
第五十七話 サインを間違えた事にしておこう
俺と酔いどれの二人はこの試合何度目になるか判らない一対一の
勝負をやり始めた。
気負う様子もなく無造作に相手は俺の間合いにまで踏み込んでく
るが、この軽いステップはフェイントだな。
つい足を出してボールにちょっかいをかけたくなるタイミングで
はあるが、もし足を出す素振りを見せたら次の瞬間には出した足の
外側に逃げられてしまう。
だから下半身ではなく逆に肩をピクリと上下させてこっちもフェ
イントを返し﹁先に動けよ﹂とプレッシャーをかける。
酔いどれも﹁少しは反応しろよ、ケチ﹂とばかりさらに足の裏を
使ってボールを押し出す︱︱ように見せて切り返す。
でも残念ながらそれはこっちの読み通りだ。このルートは通行止
めだとボールを奪いに行く、っとマズいこいつもフェイントかよ!
危ねぇ、酔いどれのボールコントロールがスピードに乗っていた
せいで引っかかりそうになったじゃないか。
俺が憧れていた選手の一人である酔いどれドン・ファンを相手取
って堂々と渡り合える充実感と、試合に勝つためにはまずこのマッ
チアップに勝たねばならないというプレッシャーが同時に肩へずし
りと乗っている。その重みを苦しいどころか心地よく感じているん
だから、俺もまた懲りない救いがたい人間だよな。
ここでいつまでも遊んでいたいが、そういう訳にもいかない。最
後の対決は俺の勝利で幕引きをさせてもらわなければな。
俺がアタックするために微かに間合いを詰めようとしたのと同時
に酔いどれも踏み込んだ。
1381
げ、この至近距離とタイミングにボールの位置はやばい。ほらこ
いつの得意技の⋮⋮違う! しまった逆か! 肩を掴めそうなぐら
い密着した状態からの高速フェイントで、完全に予想を裏切られた
俺のバランスが崩れそうになる。それを尻目に反対方向から抜こう
とする酔いどれ。
完全に抜かれた! 目を瞑りそうになりながら覚悟するが、この刹那俺の体はほとん
ど無意識の内に動いていた。 片手を芝に突いて体を支えながら、酔いどれの体を避けるように
して足を伸ばすとボールだけを引っかけていたのだ。
バランスを崩してからここまではほとんど無駄な動きどころか予
備動作のない反射的な行動で、たぶんボールを奪われた酔いどれよ
り俺の方が驚いているかもしれない。
ああ俺の肉体は勝手に最適な行動をとれるぐらいにまで鍛えられ
ていたのか。
毎朝欠かすことのなかったトレーニングはこの瞬間の為にあった
ような気さえする。
それにしても俺は自分の体がこれほどのリカバリー能力と素早く
動けるポテンシャルを秘めていたのに気がつかなかった。
アジア予選で戦ってきた相手は皆自分より大きく速い選手ばかり
だったために、身体能力に関しては多少自信喪失気味だったのだ。
だが、考えてみればこの酔いどれと俺はサイズがほぼ同じなのだ。
しかも同じテクニシャンタイプとすれば極端な肉体的なハンデはな
くエンジンも似たような物なのだろう。
これまでさんざん自分より年齢も身長も上の奴らとやり合ってい
た甲斐があったぜ、いつの間にか相手に合わせるように俺の体もレ
ベルアップしていたんだな。
自分の体の吸収力に感謝しつつ、未だ片手をついたままボールを
明智へとはたいてから跳ねるように身を起こす。
1382
さあ、反撃だ。
しかし今度はこれまでの酔いどれからボールを奪った後の、敵ゴ
ールに近い地点からの速攻︱︱いわゆる﹁ショートカウンター﹂と
は異なり、まだスペインのゴールは遠く俺にはマークがぴたりとく
っついている。
その相手はもちろん酔いどれドン・ファンだ。
どうやらボールを奪われたせいで負けず嫌いに火が付いたのか、
光栄にも俺から目を離さずに密着マークするみたいだな。こいつか
ら警戒されるなんて厳戒態勢のVIP待遇は正直嬉しくないぞ。
日本のボールは明智から左サイドの交代で入ったMFへ回される
が、すぐにまた中央の底で待つアンカーである石田へと戻ってくる。
仕方ない、交代で入って来たのは馬場と同様の労を厭わない運動量
が持ち味の選手である。
本職のサイドアタッカーのように自分でドリブル勝負をがんがん
仕掛けるタイプではないからな。
それにドリブラーなら他にもいる。石田もそう考えたのか今度は
右サイドへとパスを振った。
山下先輩が﹁待ってました﹂と言わんばかりの輝く笑顔でそれを
受け、守りの堅い中央からサイドライン沿いへドリブルで流れてい
く。その針路と交差するようにDFラインから上がってきた島津は
中央へ走り込む。
うん、まるで波が打ち寄せるように多人数で行われるダイナミッ
クで大きな展開だ。
組織だった守備が特徴のスペインもこれだけボールが両サイドを
行き来し、DFのはずの島津がトップ下の俺の真ん前にいるような
オーバーラップが頻繁に行われる状況では守備のブロックが乱れる
のは当然だろう。
1383
俺もチャンスが来たとゴール前へ走り込むが、どうしても酔いど
れのマークを外せない。
彼の未来におけるプレイスタイルはボールを持っている相手でな
ければチェックは淡泊だったように記憶しているが、どうやら今こ
こにいるドン・ファンはそうではないらしい。肉体的な接触はない
のだが、蜘蛛の巣が絡んでくるように俺へのパスコースを執拗に潰
している。 その為に味方も俺をパス回しの一員にできず、それ以外のメンバ
ーでボールを回しつつ攻め込んでいるのだ。
だが、案外俺を使わないのがいい囮になっているのかリズムのい
い攻撃が続く。
山下先輩がサイドを深く抉ると中央へ正確なボールを折り返した。
ニアサイドへ絶妙のタイミングで飛び込み、その速く低いセンタ
リングへ足を合わせる上杉。 ゴール前を固め、ヘディング争いに備えていたDFはその動きに
ついていけない。駆け引きでノーマークになりワンタッチで角度を
変えただけの彼お得意のゴールか!? その期待もシュートも飛びついたキーパーによって弾き出された。
さすがはスペインの守護神、今のダイレクトシュートを止めるな
んてなかなかやるなぁ。
コーナーキックになったのをいい事に額の汗を拭い、相手のキー
パーを称える。今までの相手だったらキーパーがあの﹁赤信号﹂以
外だと、得点になっていてもおかしくはないぐらいに良い攻撃にシ
ュートだったんだが。
やはり少し揺さぶったぐらいじゃゴールは割らせてくれないか。
俺はちらりとマークする酔いどれに目を走らせるが、今のスペイ
ンの危機にも微塵も揺らいでいないようだ。ヤバい。相当集中して
いるな。こいつをかいくぐって得点に絡むには一筋縄ではいかなさ
1384
そうだ。
だけど、このプレイだけは俺をマークしてもあまり意味がないぞ。
﹁おーい、明智。このコーナーは俺に蹴らせてくれ﹂
﹁え、あ、はい。いいっすよ﹂
コーナーキックは明智がいつも蹴ってるのだが、今回だけは俺に
譲ってもらう。ほら、これならマークのしようがないだろう? ふ、
酔いどれも﹁そんなのあり?﹂って顔をして集中が削がれている。
よし、この緊張が緩んだ間にさっさと逆転してしまおうか。
右手で複雑なサインを出す。
頷く上杉に島津と山下先輩というアタッカー達。他の日本のメン
バーは動きがないが、得点力の高いメンバーが揃ってサインを出し
た後に移動するのだからディフェンスも大変だ。
そして、動いた奴らは皆それほど背が高くない。ヘディング争い
よりもDFを振り切る一瞬のキレが命綱の連中なのである。
そいつらが全員ゴール前の密集地から数歩下がる。当然ながらノ
ーマークにする訳にもいかずに釣られてDFも数人ついていく事と
なる。
俺はその光景を見届けると全力でキックを放った。
コーナーキックをフルパワーで蹴るなんて滅多にないが、曲がり
や高さより速さを追求したセンタリングに見えるだろう。
攻める側も合わせるのが大変だが、これだけスピードがあると守
る側もオウンゴールにならないようにクリアするだけでもタイミン
グがシビアになる。
その高速クロスがゴール前に上がった。
ストレートなように見える軌道から少し下がった日本のアタッカ
ー連中へのボールだと判断したのか、キーパーもDFも一斉に前へ
1385
飛び出す。
そうだ、そう見えるように蹴ったんだからな。
曲がれ!
その念が通じたように俺が蹴ったボールがそこからゴール方向へ
とスライドする。
回転をかけるようにわざとこすって上げたのではなく、蹴るポイ
ントを中心から僅かにずらして勝手にスピンがかかるようにして曲
げたのだ。
野球の球種で言えばカーブではなくスライダーの軌道と言うべき
か、普通のカーブより小さく速く遠くで曲がる。
その会心のキックは俺のサインによって集まったメンバー、それ
に釣られたDF、飛び出したキーパーの誰にも触れることなくその
ままスペインのサイドネットの内側に突き刺さったのだ。
一拍おいた後に審判の笛が響く。
﹁おおおー! 見たか、俺のキックはブレ球だけじゃねーんだぞ!﹂
俺は天に向けて大声で吠える。今のは偶然でもなんでもなく、完
全に自分の力でコントロールされたゴールだ。さっきのフリーキッ
クなどはポストに嫌われていたが、これでもう誰にもセットプレイ
からの得点力が低いだなんて文句は言わせねえぞ。
空を見上げて叫んでいると慌ただしい足音が近づいて来たので、
荒い呼吸のままそっちへと顔を向ける。
身構える間もなく、ゴール前に集まっていた日本の仲間が全員で
飛びついてきた。
﹁ぐはっ!﹂
ほとんどラグビーやレスリングのタックルのような勢いのつきす
ぎた抱きつきで、芝の上に押し倒されて肺の中の空気が絞り出され
1386
る。慌ててベアハッグしている腕を叩いてギブアップするが興奮の
あまり上に乗っている誰も気がついてくれないようだ。
﹁凄ぇ! やるじゃないかアシカ!﹂
﹁ワイを囮にしたのは許さんが、許す!﹂
﹁あのアタッカーを下げるハンドサインは全部嘘だったんすね? さすがはアシカっす! 僕は敵はともかく味方までは騙せないっす
よ!﹂
といった称賛の声とやや褒めているのか判断できない言葉などが
酸素不足に陥っている俺にかけられた。
へへへ、背中の皮が痛くなったり息が苦しくなったりと大変だが
やっぱりゴールした後は格別だ。ピッチの上で寝ころんでいるのに
空を飛んでいる気分だぜ。こりゃ上杉なんかのストライカーがゴー
ル中毒になるのも判るな。
しかもこの喜びはこれまでの幾つも経験したものより比較になら
ないほど大きい。
たぶん参加している大会のグレードが上がるほど、注目を集める
ほどにこの高揚感は大きくなっていくんだろうな。準決勝でこれな
ら、もし決勝でゴールしたらどんな気分になれるのか楽しみだぜ。
いや、それはこっちを睨んでいるスペインをきっちり仕留めてか
らの話になるか。
1387
第五十八話 本当にDFなのか確かめよう
スコアは三対二と日本が一点だけリードしている有利な情勢。後
は後半の残り五分間とロスタイムだけの僅かな時間を守りきれば決
勝戦へ駒を進められるのだ。
そんな状況でこの相手が黙って見ているはずがない。
スペインも強引なまでに圧力を強めて点をもぎ取りにやってきた。
だがこれまでの国のように、いきなり日本のゴール前に人数とボ
ールを放り込むといった運任せのパワープレイではない。
スペインのDFラインをそれこそハーフウェイラインまで引き上
げた、チーム一丸となっての前掛かりな攻撃である。他のチームな
らともかく、全員が高いボールテクニックを持つスペインにこれだ
け全体的にラインを上げられるとこっちも辛い。
なぜなら最後方のDFですら今日の試合での日本で言えば、明智
といった攻撃の起点となるポジションの役目を果たせるだけの技術
を持っているからだ。そんな後方に前線へパスを配給するメンバー
が複数いて、さらに前にはそれ以上に危険な司令塔である酔いどれ
や船長がシュートもアシストも狙える位置にポジションを上げてい
るのだ。
いくら山形監督がベンチから﹁DFラインを下げるな!﹂と叫ん
でも、日本の守備がじりじりと押し込まれるのは防ぎようがないじ
ゃないか。
俺までもがマッチアップしている酔いどれに付き合わされて、普
段は石田がいるはずの中盤の底︱︱いやDFラインの一歩手前にま
でポジションを下げている始末だ。
ここまで人数が日本陣内に密集する状況ではさすがのスペインも
完璧にパスを通すのは難しい。これまでも何度かボールを奪い、反
1388
撃するチャンスはあった。
しかし、その手段が制限されてしまっている。極端に前に設定さ
れたスペインのDFラインはただ無策にその裏へ放り込んでもオフ
サイドになるか快足DFに追いつかれるだけだ。
相手がここまで前へラインを上げていると日本が取れる反撃はカ
ウンターの一択となる。しかし、こうなるとカウンターの矢となる
べき上杉が特別俊足でないのが痛い。
だが、日本には上杉以上に決定力があり、スペインに警戒心を抱
かせるFWは存在しない。相手に与えるプレッシャーを考えるとそ
うそう交代もさせられないだろう。
ほら、今また敵の強引なシュートをDFが防いでそのこぼれ球を
俺が抑えたにも関わらず、パスの出しどころがどこにもない。
ここまで人口密度の高い場所ではいくらなんでも相手陣まで抜い
ていくこともできないし、大きく外へクリアするしかないか⋮⋮。
ピッチの外へ蹴りだそうとする俺の脳内スクリーンに、今まさに
敵のオフサイドラインを破ろうとする少年が映った。
﹁島津!﹂
酔いどれからのプレスに体勢を崩しながら右サイドの裏へとボー
ルを蹴り出す。このコースにボールを出せば、たとえ島津が追いつ
けなくてもピッチの外に出てクリアにはなるはずだ。
中央では上杉が﹁なんでや!?﹂と叫んでいるが、お前のいるそ
こにパスしたらオフサイドじゃないか。もう一度下がって︱︱いや
島津が抜け出したんだ、少しだけあいつに遅れてゴール前に走れ!
この押されっぱなしの局面で、なぜサイドバックの島津がウイン
グの山下先輩より前にいるのかはおいておき、このカウンターに俺
は手応えを感じていた。
1389
カウンター攻撃が成功するかどうかではなく、ボールがスペイン
陣内へ入った瞬間に真田キャプテンが怒鳴った﹁上がれ﹂という指
示に残った日本のDFが一斉にラインを上げたのが目に入ったから
だ。
あれだけ攻められっ放しでもまだ統率は失われていないし、逆に
スペインの何人かはオフサイドの位置で置き去りにされているじゃ
ないか。
しかも島津の後を追うよーいドンといった短距離走のスタートと
なった場面では、向こうのDFの中にも足取りが重い奴がいる。
やはり強豪国とはいえ同じ人間でしかも同世代なのだ。逆転され
た後に全力で攻めていたスペインの選手はこれまで見せなかった疲
労を隠しきれなくなっている。
後半の残り時間も僅かな体力面で最も厳しい場面であるが、体力
の消耗が激しいはずのサイドバックである島津がまだこれだけの足
を残している理由は言うまでもない。︱︱守備してないもんなぁ、
あいつ。
そのせいかもしれないが、もう足を止めた真田キャプテンや武田
といった日本のDFからは﹁いけー島津! 点が取れなかったら帰
って来るな! いや待て、逆だ逆。点を取っても取れなくても守り
に帰って来てくれ。頼む!﹂と応援しているんだか嘆願してるんだ
か判らない叫びが聞こえてくるのだ。
これだけ守備に負担をかけているんだからゴールに繋げろよ、島
津!
声援を背に受けて島津は加速する。
背は俺より低く、ほぼ酔いどれと同じくらいというピッチで最も
小柄な体格にもかかわらず、こいつは初速だけでなくトップスピー
ドも高い。なおかつスタミナも残しているものだからスペースがあ
ると、興奮した猟犬の如く涎を垂らさんばかりに喜んだ様子でドリ
1390
ブルをしている。
その後を追いかけている敵のDFや上杉までもが、なかなか距離
を詰められないほどスピードが乗っている。前に誰もいないせいか
ボールを長く蹴りだしてはタッチ数の少ないドリブルで右のサイド
ライン沿いを爆走している。
よし、そろそろ中央に待つ上杉に折り返しても良いタイミングだ。
そう島津も思ったのか、スペインゴールへ視線を向けて︱︱その
まま自分で突っ込む。
ここまでのカウンターでのドリブルとカットインが速すぎたため、
日本からは上杉ぐらいしかその動きをフォローしきれていない。
二列目の俺だってパスを出した後体勢を崩してしまったからスタ
ートダッシュが遅れたんだ。交代投入された左サイドは守備に追わ
れて反撃の機微を感じる暇もなかった。今回はお前ら二人だけでフ
ィニッシュまで持っていってくれ。それならシュートを外しても文
句は言わないからさ。
さすがにペナルティエリア付近までは敵も簡単に近寄らせてはく
れない。いくら強引な島津でもここが最後の砦だと、追いついたD
Fがきっちり固めた姿に躊躇したのか中央行きの針路を再び変更す
る。
するととドリブルが少し長すぎたのかエンドラインぎりぎりまで
たどり着いてしまった。これ以上進めばスペインのゴールキックに
なってしまう。
だからいい加減折り返せって。
その焦りを含んだ心の声が聞こえたのか島津がようやくスペイン
ゴールに向けてボールを蹴る。
出すなら高さでは上杉は敵DFに対抗できないと判っているのか、
この試合では多用される速く鋭いクロスだな。ニアサイドからキー
パーの手を逃れるようにして走り込んだ上杉へ︱︱そう期待してい
1391
た俺の予想は裏切られた。
島津が思いきり蹴ったのはパスではなく明らかにシュートだった
のだ。
おそらく折り返して来ると飛び出しかけていたキーパーが、慌て
て狭い範囲に重心を移して手を伸ばすが間に合わない。
ほとんど角度がない位置からの無理矢理なシュートがスペインの
ゴールを奪ったのだ。
一人咆哮を上げて元気に日本のサポーター席前へダッシュする島
津。一拍遅れてようやく、歓喜と祝福の声を上げて俺達がその後を
追う。さっきまでの速攻の後追いするより明らかに足取りが軽くな
っているな。
サポーターへ高々と人差し指を掲げて自分が一番だとアピールす
る島津の姿は実に堂にいっている。普通DFには得点した後のポー
ズなんかに慣れないもんだけどなぁ。
ま、今はあいつには何も言えない。ほとんど独力でゴールを強奪
したのだからどれだけ格好をつけても文句が付けられないのだ。
ようやく集まった皆に頭と髪をサポーターの目の前でぐしゃぐし
ゃにされた島津はどこか照れくさそうだった。とてもさっきまでD
Fのくせに強引な突破をして無理やりゴールを奪った奴とは思えな
いほど、プレイ面以外では本当に真面目で大人な少年なのである。
それにしてもよく最後のシュートを撃ったものだ。入ったから良
かったものの外れてたら︱︱その可能性の方が遥かに高かったはず
だが︱︱なぜパスを出さなかったとかなりバッシングされたはずだ。
しかし島津はそんな事など気にも留めていない様子でフィニッシ
ュまで持っていった。その事に最も不満を募らせているのは囮に使
われたこの少年だろう。
ふざけている風に島津へ肩を組んだ姿勢から、絡めた腕に力を込
めてじりじりとヘッドロックに移行しつつ上杉が口を開く。たぶん
1392
この会話はすぐ近くのチームメイトぐらいしか耳に入らないだろう。
﹁あそこから撃つぐらいやったら、ワイにパス寄越せや﹂
周りにおかしく思われないようもちろん彼は笑顔を貼り付けたま
まだ。 ﹁むう、しかしあそこでボール持っていたのが上杉ならばどうして
いた?﹂
﹁そりゃ⋮⋮撃っとったけどな﹂
﹁そうだ、もしあそこで撃たないならそいつはストライカーの名を
返上しなければいかんだろう﹂
﹁そ、そやな﹂ なにやら納得したのかすっきりした表情で組んでいた肩を解く上
杉だが、お前の隣の少年はDFだからな。最近チーム全体で忘れか
けているが、島津はストライカーじゃないんだぞ。
突っ込もうかと迷っている時に島津が俺の方へ振り向く。 ﹁アシカも有難うな。お前の助力がなければ得点は難しかった﹂
﹁え、俺はきっかけに適当なパスを出しただけで完全な島津さんの
ワンマンゴールでしたが⋮⋮﹂
﹁ああ、その前のアシカのコーナーからの得点でスペインのキーパ
ーはあの角度からのシュートに弱いと判明したからな。だから迷わ
ずにシュートに専念できた﹂
﹁いや、その理屈はおかしいです﹂
どうやら俺の島津に対する個人的評価は変人度と攻撃力を大いに
アップさせなければならないようだ。
ざっと脳内からチームメイトである島津の評価欄を確かめると﹁
1393
積極的に攻め上がるシュートとセンタリングの精度が高いサイドバ
ック。長所としては同じ右サイドでウイングの山下先輩より攻撃参
加が多いぐらい意欲が高く、終盤までオーバーラップとドリブルの
スピードが落ちない。欠点としては守備をしない、というよりDF
なこと﹂とあった。
⋮⋮改めて考えると、これってDFのデータじゃないな。
頬を引きつらせる俺に対して首を傾げる得点したばかりの超攻撃
的サイドバック。いかん、少しは嬉しそうな姿を見せなくてはと親
指を立てる。
嬉しそうにグッジョブと親指を立て返す島津だが、こいつをDF
の一角に擁しながら守備を安定させている真田キャプテンに対する
尊敬の念が、得点した島津以上に深まったのだった。
1394
第五十九話 拙い言葉を教えあおう
ロスタイムに今にも突入しそうな時間帯で、こっちのリードが二
点となる駄目押し弾はなぜかDFの島津によって生まれた。
ピッチに立つ俺達日本代表の誰もがもう勝利を確信していた。と
はいえこれは別段油断しているわけじゃないぞ。むしろその逆であ
る。
こうなればたとえ納得できない判定によってPKを取られたとし
ても勝敗は動かない。そんな心の余裕がチーム全体の精神状態と組
織的な守備を安定させているのだ。
各々がもう負けはないんだからと、焦りをなくして自分の仕事に
打ち込める環境となっている。
反対にスペインは大変だろう。
優勝候補と呼ばれ、今日だって前半までは優勢に勧めていたのに
かかわらず、現在は二点もリードされたこのスコアである。そして、
すでにもうそろそろどんなタフな精神の持ち主でも敗北を認めざる
えない時間へと差し掛かっているのだ。
さすがに経験豊富なメンバーが多いのかまだしっかりと顔を上げ
て普段と変わらないようにプレイをしているが、明らかにお互いが
かけ合っている声どこか陰を帯びて刺々しくなっている。
うちでスペイン語が理解できるのは明智だけだが、他の日本人選
手にも話の内容ではなくその口調で相手の焦りと苛立ちが垣間見え
るのだ。
そのささくれだった敵の雰囲気がより一層俺達日本代表の﹁勝て
る﹂という気持ちを堅固な物にしている。
余裕が出てきたおかげで、急いで前へ進めようとしてくる敵の素
1395
早いパスワークにもこれまでのようにバタバタと追いかけるのでは
なく、どっしりと中央とゴール前の危険なエリアだけに絞って腰を
落として待ち構えていられる。
無理にボールを奪いに行こうとせず、安全にそしてできるだけ時
間を使わせようとする俺達のディフェンスに、攻める側のスペイン
も時間がないという焦りからかプレイが次第に雑になっていくのだ。
これならば抑えきれる。
そう確信を抱いた時、なぜか不意に敵の攻めのテンポが跳ね上が
った。
いや正確にはスペインのチーム全体がではない。積極的に動こう
としない俺達の守備には相性が悪いと見切ったのだろう、チーム全
体で行う華麗なパスワークを捨てて酔いどれと船長の二人だけのコ
ンビネーションと個人技で強引に突破を仕掛けてきたのだ。
どちらも今大会屈指のテクニシャン、しかもドリブルもパスも共
に超一流のコンビだ。それが併走するようにボールを交換しながら
ディフェンスを切り裂いていく。
マンツーマンで酔いどれについていた俺までも、また彼の個人突
破だと騙されてしまった。このコンビがタイミングと距離を見計ら
ってのドリブルからの綺麗なワンツーパスで丁寧に抜こうとされれ
ば止めようがない。
というかこの二人組が同時に突っ込んで来るのを、俺一人でどう
しろって言うんだよ! パスもドリブルをしてもほとんどスピードを落とさない二人の切
り込みに対し、スペインが誇るパスワークを警戒してDFのライン
を上げていた日本の守備網は上手く機能できなかった。
それこそあっという間にゴール前までの侵入を許してしまったの
だ。
試合終了間際にまだあいつらはこれだけの足が残っているなんて、
外車のエンジンは燃費が悪いんじゃなかったのかよ。
1396
文句を言いながら必死に酔いどれに追いすがる。これ以上こいつ
を活躍させてたまるもんか。
その決意をあざ笑うかのように軽快で複雑なステップを踏む酔い
どれ。
そのリズムが一瞬止まったと俺がボールへスライディングしよう
とする寸前、上体を微動だにさせない膝から下だけの動きでパスが
出された。
とてもそんな小さな動きで生み出されたとは思えないぐらい強く
正確なパスの行く手には、スペインのFWがペナルティエリア内で
陣取っている。
そこからならマークが甘いDFを押し退けてシュートまで持って
いけるだろう。
やられたか! そう思ったがなぜかFWは自分で撃つのではなく
ダイレクトでのリターンパス。
ここまできても焦って無闇にシュートを撃つんじゃないとは。よ
り確率の高い所へ繋ぐ自分達のパスサッカーを貫き通すその姿勢は、
たぶん頑固でも意地でもない。チーム全体を貫いている信念とか伝
統という奴なんだろうな。
そのスペイン伝統のパスワークの最終地点にはキャプテンである
船長が現れて、彼による強烈なミドルシュートによって締めくくら
れた。
日本ゴールの片隅で弾むボールに溜め息を一つだけ吐く。
失点してしまったが俺達の守備にはミスらしいミスはなかったの
だから、今の敵の攻撃は止められなくても仕方がない。これは﹁一
点差に追いつかれた﹂ではなく、すぐに﹁試合終了間際でまだ一点
リードしている﹂と精神状態を切り替えて虎の子の一点を守りきら
なければいけないな。
あ、そういえばロスタイムは後どのぐらいだ? 日本ベンチに残
1397
り時間を確認しなくては。
そう思ってベンチを見ると、山形監督やベンチメンバーが審判に
時計を見ろと左手首を差してアピールしている。ああ、あんなジェ
スチャーをしているところからすると、もうほとんどゼロなんだろ
う。
ゴールしたばかりのスペイン代表の船長が急いでボールを抱え上
げて、一刻も早く再開させようとセンターサークルへ駆けていく。
向こうももう残された時間が僅かだと判ってはいるのだろう、そ
れでも最後の一秒まで諦めようとはしない。いや、一国の代表に選
ばれた時から試合を諦めるという贅沢は許されなくなっているのだ。
だがその不屈の少年の足が止まり、手にしていたボールをピッチ
に落とすと天を仰いだ。
審判が長い笛を吹き、準決勝の終わりを告げたからである。
よし、と小さく拳を握り締める。右拳からは前半に爪を立てた際
の傷が小さな痛みを伝えてくるが、勝利の喜びがそれをかき消して
くれる。
最後に一点返されるなどちょっと締まらない部分や精神的に押さ
れかけた点もあったが、反省は後日にして今はただチームメイトや
ピッチに入ってきた監督なんかと抱き合って喜びを分かち合おう。
最終スコアが四対三という点の取り合いの幕切れは、お互いのサ
ポーターからもイギリスの観客からも大きな声援で迎えられた。
勝利した日本だけでなく敗れたスペインのサポーターさえもブー
イングではなく、全力を尽くしたピッチ上の選手全員に素晴らしい
試合だったと拍手を送ってくれているのだ。
もし負けたのが、スペインのフル代表であればここまで寛大な態
度ではなかったかもしれない。だが、まだ今日戦っていた選手の皆
は若いのだ。これからの前途への期待料も込めているのだろうが暖
1398
かく優しい行為には違いない。
敵とか味方とか関係のない戦っていた俺達全員への賞賛と尊敬の
込められたスタンディング・オベーションに、日本代表のメンバー
の動きがぎこちなくなる。
俺も観客席のほぼ全てが立ち上がって拍手してくれるなんて思っ
ていなかった。
日本のサポーターへの応援感謝だけをすればいいかと考えていた
が、これでは会場中に手を振らなければならないじゃないか。
面倒だなと隣あった上杉なんかと憎まれ口を叩き合いながらも、
日本チーム全員の顔には自然と笑みが浮かぶ。
うん、敵チームのサポーターやサッカー発祥国の観客から試合の
後でこんな風に受け入れられるなんて悪くはないな。ゴールした後
の腹の底から沸き上がってくる高揚感や歓喜とはまた違う。拍手が
まるで冬の寒い日にあたる焚き火の熱みたいに、外から鼓膜ではな
く内蔵や骨に染み込んでくるように暖かく感じられるんだ。
手を振ると歓声が大きくなるものだから、ついつい止め時が判ら
ずに腕がだるくなるまで両手を掲げてしまった。明日は足だけでな
く腕まで筋肉痛だな、こりゃ。 一通り観客の声援と試合後のスタンディング・オベーションへの
感謝がすむと、今度は戦っていた相手とのいつもの儀式だ。日本と
スペインの選手がばらばらに混ざり合って握手をしては﹁いい試合
だった﹂﹁お前ら優勝しろよ﹂と肩を叩く。
このぐらいは言葉がなくても通じ合うってのは、やっぱり一試合
を戦うってのが濃密なコミュニケーションだからだろう。相手が何
を言いたいのかおおよそ判断できるのだ。
それに、お互いフェアプレイを心がけていたおかげで選手間には
遺恨はない。おそらくスペイン代表には敗れた悔しさがあるだろう
が、それを表に出さないで日本を祝福するだけの心の余裕が残って
いるようだ。
1399
両チーム共に卑怯な手を使わずに戦っている場合に限るのだが、
相手への尊敬というかもっと単純に漫画でよくある河原で喧嘩した
後の不良同士のような﹁なかなかやるじゃないか﹂﹁お前こそ﹂と
いった憎むべき敵ではなくて尊敬すべきライバル同士のような心情
が生まれるのだ。
俺も酔いどれに近づいて青いユニフォームを脱ぐ。ちょっと汗臭
いがそれはお互いだと勘弁してもらおう。
童顔に戸惑った表情を浮かべていたが、俺が彼の十番を指差すと
どうやら俺が交換したがっていると気がついてくれたようだ。すん
なりと応じて小さめのサイズであるユニフォームを渡してくれた。
未来のスペイン代表にもなり世界に名を轟かせる選手だ、いつか
このユニフォームもお宝になるかもな。俺がそうにんまりしている
と、酔いどれもどこか悔しさだけではなく少し興味深そうな表情で
俺が渡した日本代表のユニフォームを眺めている。
だが、俺が見つめているのに気がつくと表情を引き締めて手を差
し伸べてきた。
こっちは逆に頬を緩めてその手を受け取った。
試合中とは違い今度はどちらとも無理に相手の手を締め上げよう
とはしていないごく普通の、だがしっかりとお互いの掌を握る握手
である。
そして、酔いどれは去り際に俺がこの試合で初めて覚えたスペイ
ン語を呟いた。
﹁ブエナ・スエルテ﹂
その言葉は前回彼に言われた時とは異なり、すんなりと胸に染み
込んできた。
︱︱ああ、判ってるって。言われなくて頑張るに決まってるだろ
うが。
1400
でもこっちばかりがスペイン語を教わるってのも面白くない。
酔いどれにも一言だけ日本語を教えてやろう。短い単語なら覚え
られるだろうし、これからきっとこいつとは何回も顔を合わす事が
あるに決まっているからな。
ええとどんな単語がいいだろうか? やはり﹁頑張れ﹂と言い返
すべきか、それとも﹁幸運を﹂がいいかな。いや単純に﹁さよなら﹂
も捨てがたい。
だが結局俺が選んで酔いどれに対して口にしたのは別れではなく、
再会を約束する言葉だった。
﹁またな﹂
いつかこいつとまたピッチで戦い、そしてお互い﹁またな﹂と言
い合って別れる。それは俺にとって想像するだけでも楽しくなる未
来予想図だ。
1401
第六十話 解説者の意見を拝聴しよう
いつの間にか買い換えられ、大画面になったテレビからはロスタ
イム間際に得点したばかりで高揚した様子の島津と足利のツーショ
ットが流れている。
二人共満面の笑みかと思いきや足利はどこか硬い表情で、なぜか
今のカウンター攻撃には関わりがないはずの守備の要である真田キ
ャプテンに向かって﹁お前も大変だな﹂とねぎらうように親指を立
てているのがやや不自然な光景だ。島津も﹁得点したのは自分なの
に﹂とどこか不思議そうに日本のゲームメイカーと日本のキャプテ
ンが目と目で労り合う会話しているのを眺めている。
それにしても残り時間が三分を切った段階での駄目押し弾の効果
は大きい。
ほうじょう まこと
ピッチ上の代表選手達はこれぐらいの点差が付いても油断なんて
しないだろう。だが、北条 真のように日本から異国で戦っている
幼馴染みを応援しているだけの身にはそうではない。ずっと入って
いた肩の力が抜けてほっと大きな吐息がつけるぐらい心の余裕が生
じたのだ。 そこで彼女は自分が何かを握りしめている事に気が付く。あれ、
これって何?
今の島津がカウンターを仕掛けようとした瞬間に思わずぎゅっと
握りしめた隣に座っている足利の母の手の柔らかい感触に、しばら
くどうしていいか判らずに動作が停止する。いかに仮説を組み立て
ても緊張のあまり自分から手を取ったのは間違いないと思い至った
後にそっと手を離し、さりげなく見えるようその手で自慢の癖のな
い長髪を軽くかき上げる。どうやらこの少女は無意識の内に手を握
ってしまったのを無かった事にしてしまうらしい。
1402
観戦の興奮だけではない赤みを頬に残して、照れくささを紛らわ
すように真は口を開いた。
﹁アシカ達って本当に強いんだなぁ、相手のスペインだって優勝候
補だったのに﹂
あしかが はやてる
この足利家であっても幼馴染みである彼女が足利 速輝をアシカ
呼ばわりするのは黙認されていた。なにしろどこから漏れたのか、
彼のあだ名の﹁アシカ﹂という方が本名より売れてしまったのだか
ら仕方がない。それにある意味選手のあだ名が本名以上に広まるの
は、その力が関係者だけでなく一般的なファンやマスコミ関係にも
認められたという事だと本人もそれほどは嫌がってはいないからだ。
なお同じ日本代表の中にも他にドン何とかというマフィアのボス
のようなあだ名を持つ選手がいたらしいのだが、これは本人の強い
抵抗にあい記事に出すのは不採用となったそうだ。そこら辺りはさ
すがに子供を相手にしているせいか、マスコミも意外と柔軟に本人
の意向を受け入れている。 真はそんな豆知識もちょっと前まで足利の母の手を取っていたの
も忘れて、﹁みんな本当に子供なんだから﹂と画面の中で無邪気に
喜び合っている日本代表を眼鏡越しに眩しそうに見つめていた。
いや確かにこの年代の代表はまだ子供と言っても間違ってはいな
いのだが。それでも同年代の少女に言われたくはないだろう。
﹁これなら大丈夫そうね﹂
同じように試合が終わっていないにもかかわらずほっとしたよう
に表情を緩ませたのは、真の隣に座っている足利の母である。
さっきまで真に握りしめられたその手には、ハーフタイムに注ぎ
直したお茶が入っている湯呑みがある。しかし、まだ一口もつけら
れていないまま緊迫した試合展開により忘れられ、すっかり冷めて
1403
しまっていたのだ。
足利の母もようやく二点のリードで喉の渇きを気にする余裕がで
きたのだろうが、唇をつけた途端に﹁冷めちゃっているわね﹂と少
し肩を落としてしょんぼりとした風情だ。
それをどう誤解したのか、真が元気づけようと答えた。
﹁ええと、お茶はともかく二点差もあれば試合の方は大丈夫ですよ
! あ、別に私は日本が逆転する前からちっとも心配なんてしてま
せんでしたけどね!﹂
﹁真ちゃん⋮⋮私に向けてそんな気の強いヒロインっぽく振舞われ
ても困るから、そういう台詞は速輝が帰ってきてからにしなさいね﹂
ため息をついてちょっとばかり意地の悪い姑の予行演習をすると、
慌てたように頬を染めて﹁違うんです、別にアシカに対してもいつ
もこんな風な言い方してるんじゃないんです!﹂と言い訳するどこ
ろかさらに墓穴を掘っている真に足利の母は優しい目を向ける。
﹁ほらほら、速輝が帰ってきてからじゃないと、そんな台詞は解説
者の松永みたいにおかしなフラグを立てたと思われちゃうわよ﹂
その言葉通りにテレビからは、この家ではかなり嫌われている前
代表監督である解説者の声が流れてきた。
﹃二点差がつきましたか⋮⋮残り時間を考えると日本がよほどのミ
スをしないかぎりもうスペインの逆転はないでしょう。日本がほぼ
決勝への道が開いたと言っていいですね﹄
﹃ええ、松永さんの仰る通り日本が勝利するまでカウントダウンが
始まっています! それにしても敵陣深くの角度が無いの位置から、
素晴らしいシュートで日本の駄目押し弾が決まりましたね。まるで
松永さんが﹁守備固めをするのならまず島津をひっこめるべき﹂と
1404
の指摘が聞こえて奮起したかのような、DFの島津の手によって⋮
⋮いえ足によってロスタイムに入る直前に貴重な追加点が記録され
ています﹄
﹃⋮⋮まあ実質三点目で勝負は決まっていましたからね。あの駄目
押し弾はゴールという結果が出たから良かったものの、作戦として
は彼のような攻撃的なサイドバックを外して守備固めをする方が常
道なんです。最終的に一点でもリードしてればいいのであって、四
点目が入ったというのはカウンターのおまけでありあまり重要では
ありませんね﹄
﹃なるほど得点しても相変わらず辛口のコメントですが、その松永
さんでさえも日本の勝利は間違いないと太鼓判を押してくれれば安
心できます。おっと、ここでスペインの速攻になりましたがまるで
何かスイッチが入ったかのように、酔いどれドン・ファンと船長フ
ェルナンドの二人が日本陣内を切り裂いていく﹄
ここで酔いどれと船長のスペイン二枚看板が最後の力を振り絞っ
ての執念のゴールを上げ、強豪国としてのプライドを見せつけて残
り時間が僅かながら最後の追い上げを図る。
﹃⋮⋮あーっと! スペインの見事な攻撃に日本は一点を失ってし
まいました。これはさすがに優勝候補としての底力なのかそれとも
意地なのか、どちらにせよすごい粘りですね。
しかし、まだリードしていますし時間ももうほとんどありません。
日本のイレブンもサポーターも気落ちする必要は全然ないんです。
松永さんは重要ではないと仰いましたが、島津による四点目の保険
があって助かりました! おかげでスペインに追いすがられていま
すがきっと日本は大丈夫ですよね、松永さん﹄
﹃いや、これは明らかに日本の守備の気が緩んでるのが失点した原
因ですよ。終了直前は一番点が入りやすい時間帯なんですから。そ
こで点を取られるなんて監督が上手くチームを統率できてないんじ
1405
ゃないですかね? これではもしかしたら追いつかれる可能性も︱
︱﹄
松永の言葉を遮るように今度は審判による試合終了のホイッスル
が鳴り響く。
なんとなくではあるが夏の陽気のはずなのに、実況席の中は肌寒
い風が通り過ぎていったような雰囲気だ。
アナウンサーが咳払いして、口をつぐんでしまった松永の代わり
に慌てて収拾に取り掛かった。 ﹃こほん。⋮⋮えーと、これで試合終了です。日本代表は四対三の
スコアで見事にスペイン代表を下しました。両代表によってビュー
ティフルゴールの量産されたこの試合、視聴者の皆さんもご満足さ
れたのではないでしょうか? 決勝戦も是非彼らの活躍をご覧のチ
ャンネルでお楽しみください。
さて、それにしても日本代表の得点者は松永さんが派手だと仰っ
ていたメンバーがほとんどでしたね。特に足利選手などに対しては
﹁セットプレイが決められない﹂とフリーキックの後でも主張して
いましたが、結局コーナーキックを直接入れてしまいましたが﹄
アナウンサーが大雑把に試合を総括してちくちくと松永に対する
攻撃を始めたが、ようやく終了後のフリーズから再起動した彼は意
に介さない。まるで直前までの自分の発言を全て忘れているような
悠然とした態度でかいていたはずの冷や汗まで引っ込んでいる。
﹃⋮⋮さて日本代表の次戦は決勝になりますね。正直トーナメント
表を見たときは厳しいと思っていたんですが、山形監督もよくここ
まで私が基礎を作ったチームを率いて勝ち上がってきたものです﹄
1406
まるでアナウンサーの言葉が聞こえていないように華麗にスルー
して別の話題を振る松永解説者。アナウンサーが﹁え?﹂と口を開
けているのに勝手に次の試合についての話しに巻き込んでしまう。 ﹃対戦相手の決まるもう一つの準決勝の方はまだでしたよね?﹄
﹃え、ええそうです。決勝の相手は、これからすぐに行われる南米
対決となるブラジルとアルゼンチンの試合の勝者ということになり
ますね﹄
アナウンサーもこのまま醜い争いをするのを視聴者に見せるのは
まずいと折れたのか、それとも実況席に同席しているはずのディレ
クターからの指示なのか話を次の試合にシフトさせた。
﹃両チームとも優勝候補ですが、南米予選とこれまでの試合を見る
限りブラジルが決勝の相手になるのは間違いないでしょう。
そしてそのブラジルでも最も警戒すべき選手は、やはり私の元教
え子のカルロスしかいません。元々速かったあいつのスピードには
成長に伴い更に磨きがかかっていますよ。そして本場で随分と揉ま
れたんでしょう、速さだけでなくフットボーラーとしての強さも高
いレベルで兼ね備えています。日本にいたころより遙かにスケール
アップしたあのスピードスターをどうにかしないかぎり、序盤でゴ
ールを量産されて試合が決まってしまいかねません﹄
なぜか日本の勝利の後だというのに、まだ決まっていない仮想敵
であるブラジルを詳細に語り出す前監督のはずの解説者。それを引
きつった笑顔で拝聴するアナウンサー。
文句が相当くるかと覚悟していた番組担当のディレクターだった
が、番組終了した直後に届いたクレームとそれに匹敵するほどの多
くの﹁もっと松永にブラジルを褒めさせろ﹂という日本代表サポー
1407
ターからの頼みに首を捻ることとなる。
まあ視聴率はいいし、決勝戦も解説は松永でいいかと業界特有の
結構気楽なノリで決める番組担当ディレクターだった。
︱︱三日後の決勝戦の開始直前、松永の解説を覚えていたある意
味熱心な視聴者でもある真と足利の母は彼の予言の恐ろしさを思い
知ることとなる。
決勝の相手としてピッチで日本代表と対峙する敵イレブンの中に、
カルロスの名は無かったのだ。
1408
第六十一話 監督業は胃に優しくないお仕事です
ブラジルで十五歳以下の代表を率いている監督はまだ騒いでいる
勝利の輪から足早に離脱する。ようやく自分一人きりになれた部屋
に入ると、急いでタバコに日をつけて肺の底から満足気に紫煙を吐
き出した。
いくら細かな規則にルーズなのがブラジルの流儀とはいえ、さす
がに未成年ばかりの代表メンバーが集まっている場では堂々とタバ
コは吸えない。もしメディアにでも取り上げられたら﹁子供の健康
についてどう考えているのか﹂と騒がれて面倒事になるのは間違い
ないからだ。
仕方なく自分が一人になれる自室まで我慢したが、それだけの甲
斐はある。勝利の後の一服というのはいつ吸うよりも芳しく、本当
に堪えられない。緊張を解いたややだらしない格好で椅子に腰掛け
た姿勢のまま、吐き出した煙をぼんやりと見つめながら今日の試合
を反復する。
世界大会の準決勝に勝利したのだから監督が機嫌を悪くしようが
ないし、その上破った相手がライバル関係のアルゼンチンというの
がまたいい。どちらが南米の盟主の座に相応しいかを全世界の前で
叩き込んでやったのだ。これで奴らも身の程を知るだろうし自分の
手腕への評価もアップするはずだ。
﹁ふふふ⋮⋮﹂
知らず知らずのうちに彼の口からは笑い声が漏れていた。
﹁ご機嫌ですね監督﹂
1409
そこへ彼からすればあまり愉快ではない人物から声がかけられた。
無感情というか機械的な響きで、発音には訛りや淀みといったマイ
ナス面がまったくないのに温かみもゼロという抑揚のない声だ。
ノックどころか扉が開く音さえしなかったぞ。舌打ちしてだらけ
た体を起こすが、毎回この男が訪れる度に感じるストレスのせいか
咥えていたタバコからの煙までもが急に不味くなったように錯覚さ
え起きてしまう。
ついこいつもこうできればいいのにと思いつつ、タバコを灰皿へ
と乱暴にぐりぐり押し付けた。
﹁ああ、決勝への道が開かれたのは喜ばしい事ではないのかね? それとも何かご不満でもあるんですかねスポンサー様達は?﹂
監督は椅子を勧めようともせず、皮肉気な質問から入ったが慇懃
無礼な訪問者には何一つダメージを与えられなかったようだ。試合
後にまだ着替えをせずにジャージ姿のラフな服装の監督に対し、シ
ルエットまで計算されているおそらくはオーダーメイドのダークス
ーツに身を包んだまだ若い男は立ったままで鉄面皮を崩さず答えた。
﹁いえいえ、皆さんも結果については満足していますよ。ただ⋮⋮﹂
﹁ただ、何かね?﹂
監督が発する苛立たしげな問いは、何遍もこの男を通したスポン
サーの意向に振り回された結果身に付いたものだ。この男からの伝
達事項に従うと約束しなければ、選手や監督としての実績もコネも
無い彼に年代別とは言え代表監督の職なんて回ってこなかった。そ
れについては感謝しなければならないはずなのだが、それ以上に作
戦や選手起用にまで干渉されるのが鬱陶しくてたまらない。
﹁ブラジルの財産である少年達を酷使するのは実に憂慮すべき事態
1410
だと皆さん心を痛めております。特にカルロスにエミリオといった
アタッカー陣は連戦で疲労が溜まっているのではないかと大変心配
しておりました﹂
﹁⋮⋮それは、あいつらがビジネスやコマーシャルに打って付けだ
からだろうが!﹂
最近人気が高まりつつあるスター候補生の二人の名を挙げられて、
どういう意図でこいつが訪れたのか大体想像がついてしまうブラジ
ルの監督だった。まだ選手に平等に口出ししてくるならともかく、
スポットライトの当たりにくいDF達には何も言わないのが余計に
腹が立ってしまう。
例えばキャプテンであるクラウディオなんかは国内外でも評価が
高いDFだが、すでにプレミアリーグのあるチームと契約が終わっ
ていて彼らが手出しできないようになっているため全く関心がない
ようなのである。
荒くなりかけた息を整え、それでもまだ選手起用について何も言
われた訳ではないと一縷の望みをかけて確認をとる。
﹁で、話の内容はなんだよ?﹂
﹁カルロスとエミリオの二選手について決勝戦は半分の出場時間に
収めてもらいたいとの要請です。そしてそれは優勝カップを掲げる
事になる時間が望ましいそうです﹂
﹁つまり後半から出場させろってことか﹂
食いしばった歯からきしむような嫌な音が漏れているのを自覚し
つつ、監督は相手が正気かどうか最後にもう一度だけ問いただす。
﹁そんな指示に従うとでも思っているのか?﹂
﹁彼らも連戦で疲労が蓄積してますし、アルゼンチン戦では激しく
削られていたようです。前半を休ませるのはさほどおかしな作戦で
1411
もないでしょう。何より彼らを出さずにグループリーグで完勝した
相手にそのぐらいで勝てなくなるような無能な監督なら、今すぐ辞
任するべきだと皆さんがお考えです﹂
﹁決勝まで連れてきた監督をか?﹂
﹁ええ。ブラジルには代わりの人材はいくらでもいますから﹂
淡々と告げるスーツ姿の男の目には一切の嘘が含まれていない。
彼の雇い主達が必要とあれば即日監督の首をすげ替える事もやりか
ねないと信じきっているようだ。
﹁わざわざ日本から買い戻した宝石やワールドカップで得点王をね
らえる原石をここで勝手に壊してもらっては採算が合わなくて困り
ます。特にカルロスを日本から買い戻すのにいくらかかったと思い
ます? ここで潰れてしまえば大赤字になるんですよ。それにカル
ロスやエミリオが負傷すれば困るのはあなたも同じでしょう。選手
を使い潰す監督との風評を得れば、この後の指導者人生も困難とな
りますしね﹂
冷ややかながら明らかな脅し混じりに言葉に監督は抵抗する術が
ない。彼は舌打ちしながら頭の中の決勝のスターティングメンバー
からカルロスとエミリオの二人を除いたのだった。
あの二人を使えないなら右サイドの超攻撃サイドバックのフラン
コをスタメンにして、攻めに厚みを持たせるしかないか⋮⋮。
監督は不愉快な青年を二度と視界に入れないように顔を背けて考
え込む。エースの二人をフル回転させるという選択肢を削られなが
らも、より勝率の高い方法を模索するのであった。
なに、日本とブラジルとの戦力差はグループリーグでも歴然とし
ていた。このぐらいならハンデとはなりえないはずである。
そう自分を落ち着かせようとしながらも、絶対の自信を持ってい
た決勝戦に対し少しだけ不安が芽生えたブラジルの監督なのであっ
1412
た。
◇ ◇ ◇
山形監督も決勝戦におけるスターティングメンバーをどうするか
で頭を悩ませていた。
もしも日本代表のメンバー全員のコンディションが万全ならば迷
う必要はない。スペイン戦と同じチームを組んで決まりである。し
かし、主力組に連戦の疲れが見えてきたのが悩みの種なのだ。
単純にコンディションのみを重視して選ぶと試合によく出ている
メンバーが引っ込み︱︱グループリーグでブラジルに惨敗したセカ
ンドチームの出番になってしまう。
はたしてあの時と同じメンバーでもう一度戦い、そして勝てるの
か? 自分の率いているチームだと贔屓目で見ても極めて難しいと
言わざる得ない。
ちらりとデスクの上の小さなテレビで流しっぱなしにしていた準
決勝のVTRに目をやる。
日本対スペイン戦の後すぐに行われたブラジル対アルゼンチン戦
は、観戦していた山形監督や日本代表のメンバーの予想を超え、ブ
ラジルの圧倒的な強さを見せ付けるだけの結果となった。
別段アルゼンチンが弱かったわけではない。たまたまこの年代で
は有名なタレントがいなかったとはいえ準決勝まで勝ち上がってき
た南米の強豪国であり、相手がライバルのブラジルという事もあっ
て戦意も高かった。
だが試合開始早々にブラジルが誇る二人の天才によって、アルゼ
ンチンの立てていたであろうゲームプランは彼らの守備ごと粉砕さ
れたのだ。
アルゼンチンの守備は乱暴さと紙一重のハードなやり方で有名で
ある。当然、カルロスやエミリオといった名の知られたストライカ
1413
ーには厳しく当たり︱︱そして簡単に突破されてしまった。
テクニシャン揃いの南米予選でもほぼ完封試合を繰り返してきた
彼らが、ブラジルの怪物達には一対一で子供扱いされてしまったの
だ。
仕方なくマークする人数を増やすと、今度はパスでかわされ厳し
い当たりは反則に取られてフリーキックやPKといったセットプレ
イで得点される。日本がグループリーグで陥ったトラブルを繰り返
すようにほぼ同じ展開になってしまったのだ。ただ、今回はブラジ
ルにカルロスやエミリオといったよりレベルの高いメンバーがいる
だけに一層事態は酷い。山形監督も一旦こうなってしまえばどう立
て直していいか判らない。
結果的に序盤で守備が崩壊したアルゼンチンは最終的には退場者
二人を出した上で、四対ゼロという屈辱的な敗北を喫したのだ。
試合内容も荒れ放題で、特に決勝へ進む目のなくなった後半のア
ルゼンチンのラフプレイは選手の育成を第一とする山形監督の顔を
しかめさせるには十分だった。それこそ実力云々以前に決勝で戦う
のがブラジルになって良かったとホッとするほどに。
試合後も両チームとブーイングと罵声の飛び交う観客席の雰囲気
が刺々しく、とても少年達がサッカーをした後のサポーターの様子
とは思えなかった。
本当は将来日本を背負うであろう選手達にもそういった楽しくな
い経験も積ませておくべきなのかもしれない。だがそれでも﹁うち
の子供達があんな目に遭わなくて良かった﹂と思ってしまうのが、
勝負師としては彼の甘い所なのだろう。
まあ過ぎた準決勝の事はともかく、まずは決勝に出る日本のメン
バーをどうするかだ。山形監督はデスクに突いていた頬杖を止め、
椅子にきちんと座り直し思考を引き戻す。姿勢が正しくないと、そ
れに引きずられて発想まで曲がってしまいそうだからだ。
1414
ブラジルはおそらく今日のベストメンバーと同じ構成で来るはず
だ。それと対抗するにはどうするべきか⋮⋮。
一つ考えていたのは足利や島津といった攻撃的なメンバーを後半
からスーパーサブ的な扱いで投入し、後半に勝負をかけるという作
戦だ。これならば彼らの体力が最後まで持つかという心配もないし、
前半はセカンドチームの守備力を当てにできる。
だがこの作戦にも問題がある。松永が今日のスペイン戦で実況最
後の方で喋っていたそうだが、もし前半の内にカルロスなんかに大
暴れされて大量失点をしてしまったらそこで試合が終わってしまい
かねないのだ、今見ていたアルゼンチンのように。
特にセカンドチームはブラジルがトラウマになりかねないほどグ
ループリーグでやられ放題だったのだ。それがよりプレッシャーの
かかる決勝で、しかも今度は前回いなかったカルロスやエミリオと
いったエースがいる相手を失点せずに抑えろと指示するのは酷すぎ
る。 山形監督は唇を噛むと、スターティングメンバーに上杉・島津と
いったチームにとってメリットもデメリットも大きい選手と共に足
利や山下と明智などのスペイン戦と同じ超攻撃的なメンバーを並べ
る。
これでいい。
元々日本代表はチャレンジャーで成長の途中なのだ、攻撃するこ
とを恐れて﹁負けないこと﹂に終始した試合はやるべきではないだ
ろう。
なに、もしこれで無残な負け方をしたならば自分が責任を取れば
いいだけである。協会との契約もこの大会までだし、ここまで勝ち
上がったチームの監督なのだから今後の就職活動に有利な実績には
なったはずだ。この決勝戦まで自分の首がつながっている方が予想
外なのだから、最後は自分が選んで手塩にかけた選手達に任せよう。
なによりも攻撃的な選手の自主性に任せるのが次の決勝戦では最
1415
も勝率が高いと考えたのだ。なぜなら︱︱
﹁世界大会の決勝でブラジルを相手にしての正面から点の取り合い
をして勝てだなんて、あいつらが一番燃えるはずのシチュエーショ
ンだろ﹂ さすがに監督だけあって、かなり調子に乗りやすい自分の選手達
の性格についてよくお判りのようだった。 1416
第六十二話 朝食は静かに食べよう
スペイン戦の激闘を終えた翌朝、俺はいつも通りの時間より少し
だけ遅くベッドの上で目を覚ました。
柔らかく心地いい寝具が﹁おいでおいで﹂と誘う二度寝の誘惑を
ぼんやりした頭でもなんとか振り払えたのは、自分のお腹から届く
虫の音のおかげである。
うん、昨日のスペイン戦はかなりハードな試合だったもんな。成
長期の体が消費した栄養を補給しろと声高に要求してもおかしくは
ない。
よいしょっと外見に似つかわしくない年寄り臭い声を出して床に
降り、組んだ手を上げて背伸びをした。背筋の関節が鳴る軽い音が
響くのと一緒に次第に意識が鮮明になっていく心地がする。
よし、頭がすっきりしたら次は朝食に行く前にコンディションの
チェックだ。
まず一番心配な足の具合を診断したが不思議なぐらいにこれが問
題ない。準決勝という厳しい舞台だった割にはかえって普通の試合
後よりもダメージが少ないぐらいだ。
普段なら試合が終わる毎に、軽い打ち身やら捻挫の治療でアイス
パックをべたべたとテーピングで固定するのが習慣のようになって
いるのにな。湿布などを貼るのはしばらくしてからの話で、試合直
後は熱を下げるために直接患部を氷で冷やすのが手っとり早いから
だ。まあ冷やしすぎないように時間を小分けに空けたり、患部との
間にタオルを挟んだりもするんだけどね。
だが昨日はそんなある意味直接的な治療法はほとんど必要なかっ
た。筋肉の疲労はともかく、物理的な打撲などのダメージを敵から
ほとんど受けなかったからである。
1417
これは俺がマッチアップしていた相手がテクニシャンの酔いどれ
だったのと、クリーンな試合を好むスペインだったのが大きい。
もちろん日本も汚いファールは犯さなかったのでスペインの選手
達にも怪我などが少なかったはずだ。あれだけの試合をして体力の
消耗はともかく、試合をしていた誰にも肉体的な損傷がないのはか
なり嬉しい出来事である。
お互いが納得できる良い試合をすると、もし次にスペインとやる
事になっても俺達みたいにピッチにいた選手の間ではまた敬意を持
って正々堂々戦えるという嬉しい予想が成り立つのだ。
﹁うーん、よし!﹂
体調をチェックしながらの背伸びも終わり、体の気だるさと眠気
が一気に払拭される。
まだ筋肉の張りと重く感じる疲れは残っているが、今日明日ぐら
いマッサージを受けてじっくり回復に専念すれば結構いいコンディ
ションにまで戻れそうだ。
やはり俺がグループリーグのブラジル戦やアメリカ戦の後半を休
ませてもらったのが、地味にこの早い回復に繋がっているようで結
果的には監督からのありがたい配慮だったな。
そんな事を考えながら食堂へ行くとちょうど上杉や島津に明智、
それと山下先輩などが勢揃いしたテーブルの席が二つ空いていた。
そこに集まって居る皆の顔色にも体調不良を思わせる影はない。俺
と同等以上に疲れているはずだが勝利した喜びがそれらをカバーし
ているようだった。
ちょうど朝食にはぴったりの時間帯なのか他のテーブルも結構埋
まっている。
まあここでいいかと﹁おはようございます﹂と最年少らしく丁寧
に挨拶をして座ることとする。
1418
試合でもよく絡むメンバーがいる席に腰を落ち着けてから、もし
かしてこれは濃いキャラクターばかりの隔離された席なのではと思
い至った。いや、でも今更慌てて席を移るのも変だしな。
常識人で精神年齢の高い俺がここにいるのも不相応な気もするが、
周りのテーブルにいたチームメイトも俺がこの席についたらなんだ
かほっとしたような空気を醸し出していた。あれはきっと俺にこの
テーブルの奴らを上手くコントロールして面倒を起こさないように
してくれって思っていたんだろう。
ふむ、チームでは最年少なのだがここまで皆に頼られるのも悪く
ない。
俺はパンやフルーツと言ったあまり料理人の手が加わっていない
メニューを手にしてテーブルへ着いた。朝食だから軽いものを選ん
だのではなく、消去法でこういったメニューになったのだ。
偏見かも知れないが俺が学んだ美味しいイギリスの料理は﹁でき
るだけ調理してない﹂物だった。和食のように素材の味がどうこう
ではなく、手間暇がかかっていないというのが味を損なわない結構
重要なポイントである。
手間がかかっているとその分外れ籤を引く可能性が高くなるのだ。
さっきから随分上から目線で辛口な感想だが、これは俺の嗜好がイ
ギリスの料理と随分かけ離れているせいかもしれない。
手を合わせてかなり吟味したつもりでもやっぱり水気が少なくパ
サついた感じの朝食をとっていると、そこへ山形監督がやってきた。
俺達のテーブルのメンバーに微かに目を剥いたようだったが﹁大
丈夫ですって、俺がついています﹂という思いを込めてウインクを
すると彼は安心したのか溜め息を吐いたようだった。試合翌日の選
手以上に疲れているのだろうか? 胃の辺りを押さえているし、こ
の問題児達をまとめ上げるのにはきっと人知れない苦労があるんだ
ろう。
1419
同情を込めた眼差しに監督がひきつった笑みを作り弱々しく腹を
さするような動作をする。きっと俺から伝わる同情の念が身に沁み
ているんだろうな、監督がどこか修行を終えた僧侶みたいに悟った
ような表情になっているじゃないか。
するといつもは他人の事など気にも留めていないような上杉が、
不器用ながらも調子の悪そうな山形監督を気遣う。
﹁なんや具合が悪いみたいやけど、欲しい食いもんあるなら取って
きてもええで﹂
﹁あ、ああ。じゃあちょっと疲れのせいか食欲がないんで胃に優し
いものを⋮⋮﹂
思いがけない人物からの問いに、驚いたように答える監督。だが
その答えに﹁なんや胃に優しいモンって?﹂と眉を寄せる上杉。う
ん、お前はこれまで胃が痛くなった経験なんてなさそうだしね。
困惑した上杉だったが、そこへタイタニック号並に信頼性のある
助け船が明智から出された。
﹁上杉さん。中国には昔から医食同源という考え方の中に、体の中
で不調な部分を食事で補うと良いという思想があるっす。つまり肝
臓が悪ければレバーを食べればいいとかって話っすね﹂ ﹁お、おう。マンガかなんかで聞いたことはあるわな﹂
いきなりちょっとピントの外れた事を言い出した明智に思わずテ
ーブルの皆が注目する。
﹁すなわち監督の胃が悪いならば、用意するべきは胃袋を使った料
理っす! つまり以前監督にあげた羊の胃袋に詰め物をした名物料
理のハギスのような⋮⋮﹂
﹁アホ! あれを監督に食わしたんは秘密やろ!﹂
1420
﹁ハギス? 秘密? う、なんだか胃だけではなく頭痛も⋮⋮﹂
﹁か、監督、無理をして思い出そうとしないほうがいいですよ!﹂
﹁アシカも安心するんや! 今まであの角度でワイのパンチが顎に
決まっとって記憶の残っていた奴なんておれへん!﹂
﹁うう、胃と頭だけでなくそんな記憶はないのにまるで殴られたよ
うに顎までもが痛くなってきたような⋮⋮﹂
﹁いかん、山形監督がUFOに連れ去られ謎の手術を受けた被害者
のような意味不明な事を呟いて呻きを始めたぞ!﹂
﹁アシカこれどうしたらいいと思うっすか?﹂
いや俺に聞かれても困るんだが。
監督に朝食のメニューを尋ねただけなのに、なぜだか大騒ぎにな
る俺達のテーブル。それなのに他のテーブルについている日本代表
の面々は﹁ああ、あそこのテーブルにいる面子が集まるとやっぱり﹂
とでも言いたげな表情でこっちを眺めるだけだ。
たぶん皆は俺が止めてくれると期待していたのか、俺に対しては
特にきつい視線が浴びせられているような気がする。
いや、もしかして俺がこのグループの責任者だと勘違いしている
のかと苛立つが、思い出せば騒ぎになった後の会話で名前が出てき
たのは俺と山形監督ぐらいだ。原因が俺だと勘違いされても不思議
はない。
そこに朝なのにすでに疲れているようなちょっとよれよれとした
雰囲気の真田キャプテンがいいタイミングやってきた。
おお、さすが日本代表の主将だ。姿を見てないと思っていたが、
どうやら俺達と一番距離があるテーブルで気配を消すように食事を
していたらしい。あんな所にいたら、まるで俺達にみつからないよ
う隠れていたみたいじゃないか。遠慮せずにこっちのテーブルに来
れば良かったのにな。遠慮深いキャプテンだったが、それでも騒ぎ
が起こるとホテルに伝わるような面倒事になる前に消火をしにきて
くれたようだ。
1421
﹁アシカ、どうした?﹂
え? あんたも第一声が俺に対する質問? なんだか不条理さを
感じながら事態を収拾するべく簡単に説明する。このままでは事情
が判らない真田キャプテンが可哀想だもんだ。
﹁えーと、明智が監督に﹁胃が痛いならハギスでも食えっす﹂って
言ったら今度は監督が頭痛を訴えたんで、上杉がボクシングやって
た時代にKOした相手の容態を解説したんです。するとなぜだか監
督が胃や頭だけでなく顎を押さえて記憶障害になったと呻きを上げ
ただけですね﹂
俺の言葉に数秒キャプテンの動きが止まり、軽く頷いて返事をす
る。
﹁全く意味が判らん﹂
﹁そうでしょうね。今ので判ったら、たぶんこれから先かくかくし
かじかだけの説明でどんな事態でも理解できるようになりますよ﹂
自分の顎を指で触れていた真田キャプテンは﹁いや一つだけ判っ
た事があるな﹂と一人合点する。一応このチームでの突っ込み役は
俺だけという自覚があるので、半ば義務感からか質問をしておく。
﹁何が判ったんですか?﹂
﹁アシカがいると騒ぎが大きくなるって事だな﹂
﹁ちょっとそれは冤罪です!﹂
なぜかキャプテンの言葉に﹁うんうん﹂とか﹁そやな﹂と納得し
ている風な同じテーブルの仲間を睨む。
1422
それに応じ﹁いつも事件に巻き込まれる探偵みたいっすね!﹂と
喜んだり﹁ワイは被害者にならへんで﹂とファイティングポーズを
とったりする連中。これではたして日本代表はチームワークが取れ
ていると言えるのだろうか?
真田キャプテンがぼそりと呟いた。
﹁まあ類は友を呼んだのか、朱に交わってお互いを赤く染め合った
のかは判らないけど﹂
﹁ひどい、俺をこいつらと一緒にしないでくださいよ!﹂
俺の必死の抗議に﹁いや、お前ら一緒のチームだろうが﹂と無情
に答えるキャプテン。
﹁じゃあ、真田キャプテンはそのチームのキャプテンですが﹂
俺の突っ込みが痛いところに入ったのか﹁い、いやそれはだな﹂
と口ごもるキャプテン。
その姿に思わず仏心を出してしまう、キャプテンには世話になっ
ているし俺だって鬼じゃないんだから。
﹁ああ、ならやっぱりこのチームの全責任は監督にあるって事で﹂
﹁む、うん、そうだな﹂
意外とあっさり納得するキャプテン。知らなかったがこの人も意
外とノリがいいみたいだ。
とにかくそういった訳で、朝食時に食堂で騒いだのはなぜか胃と
顎と記憶の障害を訴える山形監督が全て責任をとってホテル側に謝
罪することとなったのだった。
﹁その、俺が朝食の場で具合を悪くしてちょっとした騒ぎになった
1423
みたいだな。ホテルの責任者には通訳の方からお詫びを、そして看
病してくれようとした選手達には礼を言っておいてくれ﹂
しばらくして落ち着いた山形監督の言葉に少しだけ﹁悪かったか
なぁ﹂と罪悪感が湧いたが、これまでに彼から受けた恩は決勝の活
躍で全てお返しすることにしよう。
1424
第六十三話 世界一になるため話し合おう
﹁もしもし?﹂
耳に入る少し甘く高い子供っぽさの残ったソプラノに頬が緩む。
意識もしていなかったどこか張り詰めていた部分がふっと緩んだよ
うな感覚だ。試合の時はともかく、大会期間までこんな肩の凝りそ
うな緊張感をずっと維持していたら疲れてしまう。まあ、自分でも
そう思ったからこそ、安心できるというか話していると脱力する幼
馴染みの真に電話をかけたんだけどな。
﹁ああ、こちらはイギリスに来て﹁もしかして納豆ってそれほどお
かしな食べ物でもないのか?﹂と思い始めたサッカー選手だけど、
真だよな?﹂
﹁うん、って声を聞けば判るよね!? それに日本では私がどうや
っても考え方を変えられなかったのに、イギリスで何を食べてその
結論に至ったの? 確かにそっちはあんまり料理が美味しくないっ
て有名だけど⋮⋮﹂
﹁そうだな、イギリスご自慢の名物伝統料理っていうフィッシュ&
チップスやハギスにウナギのゼリー寄せなんかを﹂
﹁うわぁ、よりによってきついのを﹂
真が身を震わせて眼鏡の奥にある大きな瞳を細めたのが声の響き
だけで察知できる。きっと俺がそんなゲテモノを口にしたかと心配
したのだろう、ではすぐにそれを取り払ってやらねば。
﹁監督に食わせた﹂
﹁何やってるの!?﹂
1425
﹁いや、知ってるだろう。俺はこっちでサッカーをやってるんだが。
それに監督の件も心配は無用だ。ちょっと泡吹いて記憶障害が残っ
ただけだし﹂
﹁それかなり大事だよね!? 監督さん本当に大丈夫なの!?﹂
﹁大丈夫、顎に対して四十五度の角度でスマッシュを撃ち抜けば何
も問題はあらへんと胸を叩いてた﹂
﹁その保証してる人って誰? 絶対お医者さんじゃないよね!?﹂
ぽんぽんと返ってくるテンポの良い突っ込みに唇がつり上がる。
やばい、代表では俺が突っ込み役を任されているせいか本気で心配
している真が面白すぎて馬鹿話の終わらせ時が見つからない。
今の真が頭の中で想像している日本代表チームがどうなっている
のか、帰国してから確かめるのが楽しみである。きっと彼女のイメ
ージする代表チームの食事風景は、悪魔崇拝の儀式に使われるよう
な廃墟の祭壇に、縛った監督を横たえると口を無理矢理開かせてフ
ォアグラのようにイギリスの名物料理を詰め込んでいる物になって
いるんじゃないかな。
うん、このまま誤解を解かない方が楽しそうだ。
幼馴染みとの気の置けない電話を終えるとなんだか心がすっきり
と落ちついているようだった。自覚症状がなかったがやはり次は決
勝戦だとプレッシャーがかかっていたみたいだな。
俺はやっぱり知らない人達の期待までは背負えない。せいぜいが
自分を応援してくれている身近な人達に頑張った姿を見せたいと思
うぐらいだ。そのぐらいがプレッシャーに潰されないで支えにでき
る適切な刺激なんだろう。
身近な人って言うと家族や真に学校の友達。そしてこれまでサッ
カー関係で一緒にやった人ぐらいで、皆が俺に優しくしてくれた人
たちばかりだからな。悪く言うのは代表の前監督だった松永ぐらい
だが、あの人の場合は悪口を叩かれた方が逆に調子が良くなるみた
1426
いだから別にいいや。
夕食後に山形監督は俺達を集めて恒例の試合前日のミーティング
を開催した。
さすがに次は決勝戦だけあって、代表メンバーの集まった会議室
にはいつも以上にぴりぴりした空気が漂っている。
ただ監督だけは常と変わらない態度だ。とは言っても別段悠然と
しているのではなく、いつも通り胃の辺りを押さえて顎をさすって
いるといった意味だが。
その監督が始まりの合図である手を叩き、全員の注目を集める。 ﹁よし、じゃあ俺達が世界一になる為の話し合いを始めるぞ。でも
その前に聞いておくが、明日の試合に支障があるような体調不良や
怪我をした奴はいるか?﹂
そう尋ねるが、選手の間からは誰も手が上がらない。そりゃこん
な大舞台でプレイできる機会は滅多にない。多少の不調なら隠して
でも出場したいだろう。それを理解しているのだろう監督もチーム
ドクターに目を走らせるが、ドクターも軽く頷くだけだった。あの
軽いリアクションはおそらく何も問題がないというしるしのはずだ。
おそらくドクターが今一番ここにいる人間の中で体調を心配してい
るのは、胃の痛みと記憶障害を訴えている監督に対してである。
山形監督も納得したように頷き返す、この辺はたぶんすでに連絡
されていて今の質問は選手への確認を含めた最終チェックのつもり
だったのだろう。
﹁それじゃ、明日のブラジル戦のスタメンを発表しようと思うが⋮
⋮まず先に決勝ではどう戦うかのコンセプトを話しておくか。
明日の決勝戦のテーマは﹁正面からの殴り合い﹂だ。より多くの
1427
点を取った方が勝つというシンプルな試合をするぞ。ん? それは
当たり前じゃないっすかだと? いいか、グループリーグでブラジ
ルと戦った時はいかに失点を少なくするかがうちのテーマだったん
だ。だがそれが通用しないから新しいテーマを考えたんじゃないか。
ああそうだな、上杉なら判りやすいかもしれない。ボクシングな
らたとえ守りが下手でも先に相手をKOしてしまえば防御の上手い
下手は関係ないって話だ。つまりブラジルを相手に︱︱しかも今度
はカルロスやエミリオといった化物が加わったチームと戦うんだ、
失点を無くすのは不可能だろう。だけどそれ以上にこっちが攻撃的
に戦えば向こうの攻撃力を削いで試合に勝つのは可能なんだ﹂
そう言ってじろりと室内を見回す。俺達がじっと真剣に聞き入っ
ているのに安心したのかそこで厳しい表情を崩しにやりと唇をつり
上げる。左手を腹に添えているのが気にならないほど余裕たっぷり
の仕草だ。他のメンバーも﹁そうだよな、守るんじゃなくこっちも
ブラジル以上に点を取ればいいんだ﹂という監督の言葉に乗せられ
たような雰囲気になっている。
﹁だからスタメンの布陣はスペイン戦と同じの攻撃的な面子で行く
ぞ! もちろん試合中足が止まったらすぐに交代させるからな、短
距離走のつもりでスタートからアクセル全開で行け!﹂
﹁はい!﹂
元気よく返事をする俺達に満足そうに腕組みをする山形監督。胃
の痛みは話している間に幾分軽減されたようだ。
﹁なにしろこっちの右サイドバックが島津、ブラジルの左サイドバ
ックがフランコだ。どうしてもこの超攻撃的なサイド二人が直接ぶ
つかり合うのは避けられない。一歩でも引いたらそのまま押し切ら
れるぞ。スペイン戦でもそうだったが、たとえ失点してもラインを
1428
下げるな。一点や二点失っても試合は終わらんが、ラインをずるず
る下げたらその時点で負けが確定するんだ。真田もそのつもりでD
Fラインを指揮しろ﹂
﹁毎試合そんな無茶を言われているような気がしますが了解しまし
た﹂
﹁いや、まあお前にぐらいしかこんな指示言えないしな⋮⋮﹂
真剣な中に珍しく冗談風味を滲ませた真田キャプテンからの返答
に困ったように頬をかく山形監督。
﹁たとえばラインを上げる指示をしろと島津に任せたりしたら⋮⋮﹂
﹁不肖真田、全力を持ってDFラインの指揮に当たります!﹂
急に顔を真っ青にして大声で﹁自分がやります﹂と訴える真田キ
ャプテン。おそらく島津が構築するDFラインを想像してしまった
のだろう。彼の動きに合わせてディフェンスが上下するなんて、必
ず上がりっぱなしで守りに戻ってこなくなるじゃないか。
俺も一瞬敵のゴール前で常に敵味方のDFラインが重なっている
試合を思い浮かべてしまったが、うん即座に記憶から消去しよう。
考えただけで心臓に悪い。
一人﹁無念だ⋮⋮攻撃は最大の防御だというのに﹂と呟いている
小柄な少年がいるが、皆そっちを見ないようにしていた。というか
仮にもDFがその信条を持っていては駄目だろう島津。
監督も自分がスタメンに抜擢した右サイドバックをさりげなく視
界から外し、何事もなかったかのように話題をまた切り替えて守備
に関する指示を続ける。
﹁問題は前回出てこなかったカルロスとエミリオの二人組だ。
まず、エミリオは判りやすく言うと上杉が決定力は変わらずにテ
クニックを数倍にしたタイプと思えば間違っていない。基本的には
1429
パスをそのままダイレクトでシュートするが、独力で二・三人は抜
いてゴールするぐらいは今大会でも軽くやっている。だが、俊敏性
はともかくトップスピードはそれほど高くないのが救いだ。オフサ
イドラインを下げないように注意しつつ密着して武田が体で止めろ﹂
﹁うっす﹂
日本代表で一番体が強い武田がマンマーカーに選ばれた。おそら
く真田キャプテンは指示で手一杯、となるとサイドの守備に専念し
ている右サイドバックを除く中央のDFは彼しかいない。対人の守
りではなかなか頼りになる武田が、頑張ってパワーで押さえ込んで
くれるのを祈ろう。ちなみにナチュラルにDFの頭数の中に島津が
入っていないのは誰も気にもしていない。
﹁後一番厄介なカルロスだが、これは二枚で止める。とは言っても
今大会でも三人掛かりでボールを奪いにいってもあっさり振り切っ
てしまうシーンがあったから、他のメンバーもいつでもフォローが
できるように注意しとけ。
それじゃまずマーカーだが、明智と石田がカルロスの前後を挟む
ように張り付け。俺達のゴールから見るとカルロスの上に常に明智
がいるようにして、ブラジルの後ろからのパスを全部遮断するんだ。
お前の空間把握能力からすればそれほど難しくないだろう? そし
て石田は逆にボールではなくてカルロスの体だけを見ろ。足下への
パスが明智にカットされるならあいつのスピードを生かして前のス
ペースへのスルーパスを狙ってくるはずだ。その時にカルロスの一
歩目を止めろ。スタートのタイミングさえ狂わせてしまえば上げて
いるDFラインがボールに追いつけるはずだ。確か石田はカルロス
と代表でもチームメイトだったころに一対一の練習もよくしたんだ
って言ってたよな? その経験を活かしてカルロスかお前のどちら
かが倒れるまで走り続けるんだ﹂
1430
まあ、ただカルロスと追い駆けっこしろってよりは現実的な作戦
だ。
﹁だが、これでもシャットアウトできる保証はない。というより何
点か失うのは承知の上で撃ち合いを選んだんだ、一回殴られたら二
発殴り返せ! ⋮⋮上杉、今のは比喩だからな。シャドーボクシン
グなんかしているが、本気で相手にパンチを撃つんじゃないぞ﹂
ところどころで選手に注意というか突っ込みを問題の多いチーム
メイトにしている監督は本当に大変そうだ。あれじゃ胃も悪くする
はずだと同情していると、その視線がこっちを向く。
﹁さてアシカは守備の負担は減らしてやったんだから、攻撃に関し
ては任せるぞ。グループリーグの時にうちが何度も繰り返したカウ
ンター戦術では点が取れなかった。だから今度は前回の対戦にいな
かったお前がブラジルに対しての切り札になる。
どうだ? 世界大会の決勝でブラジル代表を相手に攻撃の指揮を
できるんだぞ。たぶんこの年代の日本にいるサッカー選手なら誰も
が羨む立場だ。やれるよなアシカ?﹂
答える前に目を瞑り大きく深呼吸をする。確かに誰もが望む状況
だ。俺だってこんな場面に立てるのをずっと夢見て、想像して毎日
トレーニングに励んでいたんだからな。震えそうになる掌を拳に変
え、強く強く握り締める。
まぶたを開くとしっかりと監督の目を見つめ返し頷いた。
﹁つまり、日本の攻撃陣を操って点を取りまくり、ブラジル代表の
トップ下であるカルロスに勝てばいいだけなんでしょう? わざわ
ざ念押ししなくても俺はその為に日本代表へ呼ばれたんだと思って
ましたよ﹂
1431
覚悟は決まり、周りにいる頼りになるチームメイトを見回す。よ
し、俺は一人じゃない、こいつらも一緒に戦うんだよな。もう体の
どこにも震えてる部分はないぞ。 ﹁攻撃に関しては任せてください。上杉を世界一のストライカーに、
山下先輩と馬場を世界一の左右のウイングに、島津を世界一の右サ
イドバックにしてみせます﹂
ああ、そうだ。もう一名この人も追加しておかなくてはな。 ﹁そしてついでに山形監督も世界一の監督にしてみせますって﹂
1432
第六十四話 審判の笛を待とう
決勝のピッチに入場してまず感じたのは、自分達を包む匂いや雰
囲気が今までとはまるで違うという事だった。
いつもは芝から緑の匂いが立ち上ってくるのだが今回はその様子
すら変わっている。しかしスタジアムは異なれど、日本代表が戦っ
ていたのも同じプレミアリーグで使われていたピッチなのだから芝
の種類などがそう違っているはずがない。
ピッチではなく俺達を取り巻く環境そのものに違いが現れていた
のだ。
俺が鼻に感じた刺激は煙に似たツンとする物だった。ふと周りを
見回すと満員に近い観客席の幾つかから白い煙が立ち上っている。
ああ、あれがおそらくは刺激臭の発生源である発煙筒なのだろう。
他にも爆竹なのか続けざまに破裂音と微かな火薬の匂いまで漂って
くる。確かそういったのは禁止されていたはずだが、もはやこれか
ら試合が行われるというよりもお祭りがすでに開始されているかの
ようだ。世界大会の決勝ってのは、ここまで盛り上がるものなのか
よ。
イギリスはサッカーのみならずフーリガンの本場でもあったが、
この時代ってどんな取り締まりしてたっけ? 確か警備は厳重にな
ったはずだけど、選手の安全は確保されていたよな?
少しだけ不安を感じたが、今日戦うのは両国とも地元ではない日
本とブラジルである。
どちらが勝ったとしてもそこまでフーリガンが暴れる要素はない
し、場内の雰囲気も騒然とはしているが殺伐としたり混乱している
ようではない。日本では考えられないが、プレミアリーグの行われ
るスタジアムでは試合の度にこのぐらい騒々しくなるのが普通の状
1433
態なのかも知れないな。
とりあえず危険はないようだと観客席から目を離すと、俺は足慣
らしをしたりボールに触れるよりも今日はまずピッチへ入った途端
に顔を空へ向けて目を閉じる。
毎回試合直前にしているコンディション確認のルーチンワークだ。
スタジアムの異様な雰囲気に飲み込まれないようにするためにも、
忘れない内にこなしてから落ち着いていつも通りの行動を心がけな
くては。
視覚を閉ざしても耳だけでなく肌から否も応なく伝わってくる歓
声と轟音を無視して、まずはできるだけ客観的にかつ手早く自分の
体を検査する。
体のどこにも痛みや違和感を訴える部分はなし。これまでの激戦
の疲労やプレッシャーの影響も自覚症状がでるほど大きくはない。
うん、体調に関しては問題なしである。最後に靴紐が結ばれている
かミサンガとすねに付けたプロテクターが全部きちんと装備されて
いる状態なのかなどの細かい部分を確認し、意識を鳥の目の映像へ
切り替える。
よし、今日も脳裏に写るスクリーンに一切曇りがない。ピッチの
隅々までどころか、スタジアムの観客席の様子まで判りそうな気さ
えする。
ピッチをひとまずぐるりと観察していると、なぜかブラジルベン
チで頬杖を突いているカルロスの姿を発見してしまい、思わず瞑っ
ていた目を見開いてそっちを振り向き凝視してしまう。
え? あいつ今日は出ないの? あ、カルロスのお隣にはエース
ストライカーのはずのエミリオまでベンチにジャージ姿で腰掛けて、
小学生がよくやるみたいに足をブラブラさせているじゃないか。ブ
ラジルが誇る攻撃の二枚看板がどちらともお休みになるのかよ。
俺の周りでもその異変に気が付いた日本のチームメイトが驚いた
1434
ような表情で、ブラジルベンチで面白くなさそうに座っている元日
本代表のエースを見つめている。
正直この試合でなぜカルロスが先発出場しなかったのか、結局最
後まで俺には判らなかった。
後にこの試合を分析して記事にした日本とブラジルのマスコミや
明智の調査でさえもはっきりとした理由は不明だったそうだから仕
方がないかもしれない。ただ理由はいろいろ推測はされ詮索もされ
ていたらしい。
まず最初に頭に浮かんでくるのは、彼らに疲労や怪我といったコ
ンディション面でのトラブルがあったからだというもっともらしい
説だ。それから、グループリーグで彼らがいなくても完勝したから
今回の決勝にはバランスを崩しかねないエースは不必要だと外され
たのではないかとする説。あるいはカルロスやエミリオといった個
性の強い選手達とは相性のあまり良くないブラジルの監督から、カ
ルロスは﹁元母国相手だと手加減するんじゃないか﹂と疑われた説。
他にもスポンサーの意向だっただの、ある解説者による呪いの影響
ではないとかいう信憑性の薄いオカルト染みたものまで取り沙汰さ
れたのだ。
スタメンではなかっただけでもニュースになるという影響力の強
さに、いかにブラジルでは彼らの存在が大きなものだったかという
証拠になるだろう。
ブラジル代表の細かい事情は判らないものの、俺達にとっては理
由はどうあれカルロスとエミリオという特別にマークすべき厄介な
二人の点取り屋がピッチ上にいないという点だけが重要である。
直前までベンチのカルロスに焦点を結んでいた視線が戻されて、
日本代表のチームメイト間で忙しく行き交う。
そして俺を含む攻撃陣の全員が一斉に頷いた。
1435
﹁つまりカルロスがいないって事は、二人掛かりのマークを外して
普通に攻めても良いって事っすね!﹂
﹁おう、そうやな。ちゃんとワイがゴールできるようににアシスト
するんやぞ!﹂
﹁ちぃ、俺の方が日本の十番を背負うに相応しいと認めさせるチャ
ンスだったんだがな﹂
﹁ふっカルロスなどの存在に関わらず、俺は攻め上がるのを監督直
々に許されている﹂
山形監督から攻撃の駒として指名されたメンバーは皆が﹁これで
もっと攻めるチャンスが来る﹂と興奮しているが、喜びがもっと大
きいはずのディフェンス陣︱︱特に真田キャプテンや石田といった
カルロスを直接知る面々は嬉しさより安堵した様子で胸を撫で下ろ
していた。それほど試合前にも関わらず彼らはカルロスと戦う事に
感じていたプレッシャーは激しかったらしい。
彼らが出てくるのではなく、これから戦うのがグループリーグで
三失点したブラジルの選手達が相手で助かったと自然とガッツポー
ズが出るほどに、カルロスやエミリオと対峙するのはDFにとって
は厳しい事態なのだろう。
まあなんにせよカルロス。お前が試合に出場して一緒に技を競え
ないのは残念だが、それでも試合に出られるだけのコンディション
と環境を作れなかったという時点でお前の負けなんだ。
日本が世界チャンピオンの座に付くのを今日のところはベンチで
おとなしく座って見守っていな。
そこで思考をカルロスの不在から自分の仕事である攻撃の指揮に
シフトさせる。
ふむ、カルロスがいないのなら少し作戦をいじれるな。攻撃に関
しては監督から全権を委任されたんだから、俺が最善だと思うよう
にやらせてもらおう。
1436
ここに来るまでに準備していた体を冷まさないように、軽くウォ
ーミング・アップをしている前線の選手達に声をかける。
﹁カルロスがいないみたいだから、ちょっとだけ作戦の変更をしま
す。
まず明智さんはカルロスの代わりにトップ下に入った相手のパス
カットに専念するだけじゃなくて攻撃の組立にも参加してもらいま
すよ。俺も中盤でのパスルートの制限なんかは手伝いますから、想
定したポジションより少しばかり上がり目に位置していてください。
そして島津さんは右サイドを予定通りがんがん上がってくださいよ。
もしブラジルがカルロスやエミリオを温存しているなら、左サイド
バックのフランコを攻めの駒として使ってくるはずですから絶対に
サイドの攻防で押し負けないように。
とにかくあの二人が出てくる前に先制点を取っておく必要があり
ますからね。もし結局彼らが出てこなくても前回は押されっぱなし
だった俺達日本代表が積極的に攻撃に出ることで相手のディフェン
スの混乱を誘えますしね。あ、この辺は監督の指示通りですから後
は省略します。最後に⋮⋮﹂
見回していた視線を一人の少年に固定する。
﹁上杉さん。日本ボールからだってキックオフシュートはなしで﹂
﹁な、なんでや! 挨拶もせんと無礼な奴と勘違いされるやんか!﹂
⋮⋮もしかして上杉はキックオフシュートを、ボクシングのゴン
グ直後にグローブを合わせる儀式のような物だとでも勘違いしてい
たのだろうか?
﹁とりあえず最初の挨拶としてピンポンダッシュをするのが礼儀や
ろ!﹂
1437
﹁どこの礼儀っすか﹂
これは突っ込む明智が正しい。どうも上杉の常識は一般の物と大
きく異なっているようだ。そのぐらいどこかズレて破天荒な方が優
秀なストライカーになれるのかもしれないが。
別にこの感想は俺が点取り屋としての資質を欠いている妬みでは
ないぞ。
﹁大丈夫ですよ上杉さん﹂
﹁何が大丈夫やねん﹂
﹁慌てなくてもすぐにたくさんのシュートを撃たしてあげますから﹂
正面からの撃ち合いなのだ、戦場で銃弾を惜しめないようにこれ
からの試合でシュートを躊躇うような贅沢が許されるはずもない。
ああ今の俺は牙を剥くように笑っているだろうな。癖はあるが頼
りになる仲間達と世界大会の決勝でブラジルと戦うことができるの
だ。子供の頃に望み、そして一回挫折した夢の舞台そのままじゃな
いか。
心臓の鼓動が次第に大きくなり早く試合が始まれと体は熱を帯び
てくるが、逆にどんどん頭と思考は冷たく冴え渡っていく。サポー
ター達からの歓声が高まっているにも関わらずどこか遠い世界のよ
うで、ピッチの中はしんと静まったように外とは切り離されている
ようなイメージだ。ここまで集中して自分の世界に入り込めるなん
て間違いない、俺の体はこの決勝に合わせたようにベストコンディ
ションになっている。
これなら今までにたくさんの人と約束したように試合に勝つ事が、
そしてそれ以上に多くの人と約束した怪我をしないで存分にサッカ
ーを楽しむことができそうだ。
それが審判による開始の笛が吹かれる前に浮かんだ最後の思考だ
った。 1438
︱︱日本対ブラジル。十五歳以下のサッカー世界最強国を決める
戦いが、今ようやく幕を開けた。
1439
第六十五話 サンパウロの壁を破ろう
上杉が舌打ちしそうな表情でキックオフのボールを俺へとパスす
る。そんなにシュートがしたかったのかよ、お前は。
だが、少なくとも助言を受け入れてくれるぐらいにはあの気難し
いボクサーと信頼関係が築けているようだと前向きに受け入れよう。
さて、俺もすぐにボールを中盤の明智に渡してピッチで移動を始
めるブラジル選手達の状況を確かめる。いくら事前に相手のデータ
を集めていても、今日のカルロスとエミリオのスタメン落ちみたい
に想定外の事態はいくらでも起こりうるからだ。
こうして戦況を確認する場合にピッチ上を一望できる鳥の目は役
に立つ。いちいち仲間と声かけをして相手のオーバーラップを見逃
さないように警戒する必要や、敵のポジションチェンジを背番号な
どでチェックしたり、ベンチやキーパーなどから大声でコーチング
してもらうといったタイムラグがないから手っとり早いのだ。
さてそんな中、試合早々にまず目に付いたのがうちとブラジルの
二人の点取り屋がすれ違う場面だった。
まるで西部劇で早撃ちが得意なガンマン同士や時代劇で居合いを
使う侍達のように緊張感を持って互いに視線を逸らさずに間合いを
計りつつ、半円を描くような足取りで位置を変えてすれ違う。する
と、そこで初めて相手から目を切ってそのまま得点を奪おうと敵ゴ
ールへと走っていく。
⋮⋮天性の攻撃センスと持った二人のストライカーによる緊迫感
あふれるちょっとしたやりとりだが、残念ながら島津とフランコ。
たぶん忘れているだろうがお前らは二人ともDFだからな。
おそらくフランコのプレイスタイルに頭を痛めているだろうブラ
ジルのキャプテン、クラウディオに少しだけ親近感を覚えた。 1440
中盤から下げられたボールの方は軽快なリズムで日本陣内を一周
すると、徐々に日本代表から過剰だった緊張がほぐれていく。よし、
これで決勝だからと目をつり上げて肩に力が入り過ぎたチームメイ
トはいなくなって皆が落ち着いたようだ。サッカープレイヤーはと
りあえず試合が始まってから一回ボールに触れるのがなによりも効
果的な精神安定剤になるからな。
そろそろ﹁いい加減ボールをよこせ﹂ってブラジルのプレスもか
かってきたし、本格的な攻撃を開始しようか。自分の足下にボール
が戻ってきたおかげで反射的に笑みを浮かべつつそう決意する。
もっとも日本がパス回ししている間、俺はただぼけっと棒立ちし
ていただけではない。じっくりとブラジルのフォーメーションを確
認しておいたのだ。
その観察の結果、攻めるべきポイントはやはりここしかないよな。
行け! 島津。
俺は背後から近づいてボールへチェックしにきた敵のボランチを
肩と腕でブロックしつつ右サイドへ振った。このちょっとしたプレ
イの中で特筆すべきが二つある。
まず俺が敵と接触プレイを嫌がらなかった点だな。スペイン戦の
酔いどれとさんざん一対一をやったおかげで自分のフィジカルの弱
さに対するコンプレックスから脱却できた。
そりゃもちろん最前線での体を張った激しいプレイなんかは無理
だが、何が何でも接触プレイは避けようとまでする必要はないはず
だったのだ。それを今の安全な場所でのワンプレイで試し、これな
ら実戦でも通用すると確かめたのである。
もう一つのチェックポイントはブラジルディフェンスにおける大
きな穴である左サイドバック︱︱こちらからすれば右サイドの存在
だった。島津とよく似た﹁守備をしないDF﹂がいると当然そこに
はぽっかりとスペースが空いてしまう。
1441
その敵の守備網に空いた穴を突こうというのだ。
フランコと島津という超攻撃的なサイドバックが同じサイドにい
るものだから、マッチアップするはずのサイドバックがマークをし
合わずにお互いが敵のDFラインに吸収されているといった理解し
がたい事態になっているのである。
両チームのオフサイドラインには四人のDFが一直線に並んでい
るが、その中に一人ユニフォームの色が違った奴が混じっていると
いう非常事態が常態化している。おそらくこんな馬鹿げた、しかも
危険なマッチアップは他に存在しないだろう。
普通はサイドバック同士の戦いと言えば押し合いにも似た、強い
ほうが前へポジションを上げていくといった形になる。つまり弱い
方がズルズルと押されて後退していくわけだ。
だが、この二人の場合は超攻撃的な﹁肉を切らせて骨を断つ﹂と
いう思考が噛み合ってしまって、押し合いにならずに刃物が肉に食
い込んだ状態のまま、さらに刃が進み互いの急所であるゴールにま
で届きそうになっているのだ。
こんな危険で心臓に悪いマッチアップをどうにかするにはとにか
く攻めるしかない。受けに回ったら間違いなくそのサイドから敵に
攻め潰されてしまうからだ。
おそらくこの攻撃が実らなかった場合はブラジルの猛烈なカウン
ターがまた右サイドからくるのだろう。だが、それでもあまり危機
感が湧かないのは、あまりに島津のサイドから攻められることが多
かったせいだろう。なんだか﹁また敵が右から攻めて来たな﹂﹁よ
うこそ右サイドからおいでやす﹂という感覚はチーム全体がちょっ
と島津の穴から攻撃され過ぎてピンチに対する感度が鈍くなってい
る悪影響かもしれない。
島津が積極的に攻め上がるのを、敵も味方も山形監督も誰も止め
られないものだから﹁右サイドはノーガードで当然﹂という誤った
1442
常識が今の日本代表には定着しそうになっているぞ。
そんな色々の思惑を秘めているボールが右サイドの島津へと繋が
った。しかし、いくらがら空きとは言え最終ラインをただで突破さ
せてくれるほど敵も気前がいいわけがない。すぐにブラジルのDF
がヘルプに行く。
だが、それは当然ながら中央のディフェンスが緩むことを意味し
ている。
すかさずその空いたゴール前のスペースを目指し、山下先輩や俺
といった二列目が速度を上げて走り込む。
島津がDFを引きつけたことで、その周辺が厳戒態勢になり随分
と慌ただしくなってきた。
その混乱が治まるより早く、マークが自分に食い付いてキックが
しにくくなる直前のタイミングで島津は彼お得意の低弾道で速いク
ロスを上げた。
それもホットスポットとなった俺や山下先輩の殺到するエリアへ
ではない。逆に気配を消すようにしてそこから離れ、自分の前にス
ペースを作ってチャンスを伺っていた日本のゴールハンターへのセ
ンタリングだ。
絶好のボールが上杉の元へ向かい、彼もまた最高のタイミングで
ダイレクトのボレーシュートを放つ。
上杉はこれまでもゴール前では直接蹴れるボールはほとんどがト
ラップすることなくシュートしていた。それはトラップすることで
シュートを撃つべきタイミングが遅れ、守備側が対応できるだけの
タイムをロスしていると考えている︱︱のか本能的なのかさっぱり
判らないが、とにかくワンタッチでのシュートが多い。
マークを外す不規則な動きとストライカーの本能を合わせ持った
うちのエースによる強烈なボレーシュート。
これまでの試合では今回ぐらい綺麗な形になれば、枠を外したり
1443
イタリアの赤信号のような化物クラスのキーパーがいない限り必ず
得点になっていた。そしてうちのエースは異常に枠内へのシュート
率が高いのが自慢なのだ。
決まったか!? 日本のイレブンは全員が期待する。
だが、上杉のシュートはキックした位置から二メートルも進まず
に敵の体に吸収されてしまう。
そこでシュートを完全にブロックしたのは、褐色の肌が多いブラ
ジルの中でも一際黒く輝く肌をしている敵のキャプテンでもあるク
ラウディオだった。
さすがにブラジルのディフェンスの要であるこいつだけはそう簡
単には出し抜けなかったか。
長身でがっしりしているというDFの理想像のようなパワーと高
さを兼ね備えた体格なのに、俊敏性が取り柄である上杉が見せたキ
レのある一瞬の動きにもついていけるスピードまであるのか。くそ、
恵まれた身体能力しやがって。
かなりの威力を持っているはずの上杉のシュートをなんなくその
体で止めたクラウディオが、日本の選手が近くにいないDFへボー
ルを渡すと相手はそれを大きく前線へ蹴り出す。
ちぇっ今の強力なシュートを受け止めても痛む素振りすらなしか。
相手が怪我するのを望んでいる訳ではないのだが、まるでダメージ
がないようだとそれはそれで面白くない。ちっとも弱点が見えてこ
ないような奴は攻略するのが難しいからだ。
少しでも痛そうな反応を見せれば、次にまた上杉へボールが渡れ
ばブロックを躊躇う事はなくても反射的にシュートモーションに対
し体がぎゅっと固まるはずだ。それを逆手にとってのキックフェイ
ントなども使えるのだが、あれじゃあ無理だなそんな小細工に引っ
かかりっこない。
会心のシュートを止められた上杉がクラウディオに殴りかかりた
そうな目で睨んでいるが、なんとか落ち着いてくれ。おまえぐらい
1444
しかその﹁サンパウロの壁﹂と呼ばれたDFと戦えるFWは日本に
いないんだから。
日本陣内にいるブラジルのトップ下を狙ってへ蹴り出されたロン
グボールは、そのパスコースに上手く割って入った明智によってカ
ットされた。やはりブラジルはこれまでのデータ通りトップ下にボ
ールを集めるようだな。作戦通りそこに張ってあった罠が作動して
敵のカウンターが成立しなくなったのに一息つく。
しかし、ここまでの試合展開を通じての感触だがカルロスやエミ
リオが出てこなかったのは予想外だったが、日本にとってはメリッ
トしかない話でデメリットや問題は何もなさそうだ。こっちの意表
を突く作戦かと思いきや向こうもそんなつもりはなかったようだな。
そして、今の一連のプレイで大雑把だがブラジルの戦力評価もと
りあえず判断できた。
ブラジル代表は個人的なテクニックではスペインをも上回ってい
るかもしれない。だが、チームとしてはスペイン代表の方が遙かに
成熟していた。
確かブラジルは個人個人の技術や強さを大事にする伝統があった
はず、つまり﹁最高の十一人を集めれば最高のチームにならないは
ずがない﹂という思想だ。でも、今の各々の役割を完全に理解して
カバーし合っている俺達ならば十分にチームプレイによって対抗で
きる。準決勝でハイテンポかつハイレベルの真剣勝負を経験した事
が、俺達日本代表のレベルを引き上げてくれていたのだ。
これならば監督や皆にした世界一にしてやるって約束を反故しな
いで済みそうだな。
まずその第一歩として︱︱ブラジルが築いたクラウディオという
強固な﹁サンパウロの壁﹂を破ることから始めようか。
1445
﹁上杉さん﹂
﹁なんや?﹂
﹁世界一のストライカーになりたいのなら、そんな壁ぐらいぶち壊
してくださいよ﹂
俺からの無理なリクエストにも関わらず、彼は本当に嬉しそうに
牙を剥いた。これは狼がご馳走を前にしたのではなく獲物を発見し
た時にだけ見せる野生の笑みだ。
﹁ワイもそのつもりや﹂
1446
第六十六話 鬼の居ぬ間に先制しよう
前半も十分が過ぎ、互いの力量を探り合う段階は終わった。
ここら辺でそろそろ本腰を入れて点を取っておかないとな。
格下が格上を倒す︱︱いわゆる﹁ジャイアント・キリング﹂に何
より必要なのは先制点である。俺は今日の試合の手応えからして日
本がブラジルより格下だとは思わないが、スタジアムの席を埋めて
いる観客の大部分は圧倒的に日本が不利だと考えているだろう。
ブラジルだってそのつもりだろうし、ましてや日本はグループリ
ーグで下した相手なのだ、少なからずサッカー王国としての驕りが
あるはずである。だからこそ前半の内に一点、いやできれば二点以
上取ってしまいたい。そうなれば後半の敵は焦りが焦りを呼んで普
段のプレイができないという悪循環に陥るはずだ。
おっと、そんな先の事よりまずは先制点を取りに行く事に集中し
ようか。
折りよくボールが足下に来たのににやりと唇をつり上げる。これ
はボールが自分の元に来たからだけではない、背後にいる邪魔なマ
ーカーを抜く算段がついたからである。
こいつはブラジルで攻守の要に位置するボランチのポジションを
任されるぐらいに、速くて上手い好選手だ。
だが試合前に仮想敵だと想定していたカルロスのように常軌を逸
したスピードスターではない。
そして準決勝で戦った酔いどれほどに何をされたのか判らず抜か
れるほどのファンタジスタでもない。
毎日俺がイメージトレーニングで戦っている相手のレベルではな
いのだ。彼らに比べると技術やフィジカルといった要素だけでなく
存在感からして違っている。
1447
選手が放つオーラとか格の差なんて物は画面には映らないし、外
で話せば絶対笑われるだろう。だけど同じピッチに立つと時々﹁本
当にこいつは人間か?﹂と疑いたくなるような一種異様な雰囲気と
存在感を持った奴に遭遇する事がある。
もちろんそこら辺にいるんじゃない。世界大会レベルになると偶
に出現するのだ。
例えばイタリア戦で会ったキーパーの﹁赤信号﹂、あいつはゴー
ルに立っているだけでどこにシュートを撃っても入りそうにない雰
囲気を放っていた。ドイツの﹁皇太子﹂の持つ風格はこいつをドリ
ブルで抜くのは無理だとつい逃げのパスを選ばせてしまう。スペイ
ンの﹁酔いどれ﹂は逆にふらふらとした浮ついた空気ですぐボール
にちょっかいを出したくなるが、そうするといつの間にか抜き去ら
れている。
おそらくカルロスやエミリオといった今日はお休みのスター達も
独特の空気を持っているはずだ。そういった怪物達との戦いに比べ
ると、ただ上手いだけの選手には付け入る隙もやりようもある。
ああ、なるほど。早い内から海外に出て強豪との試合経験を積ん
でおけと言われるはずだ。強敵と戦った事があるだけで、それより
も格下の相手を見下してプレイができる。
舐めているのではない。あくまでも強気で積極的に挑めるという
意味だ。
こいつらブラジル代表のプレイヤーは一対一の勝負には強い。だ
がこれまでの観察では選手間のコンビネーションがまだ確立されて
いないような感じがしている。
敵の声や間合いの取り方をなどちょっとした物かもしれないが、
ピッチ上で直に対面していると微妙にブラジルの連携が上手くいっ
ていないように肌で感じるのだ。ああ、悪いとまで言うのは過言だ
1448
が、連携を含めた守備に関しては他国並に落ちるというぐらいが正
確か。
だからここはまずパスでブラジルの守備組織を揺さぶる!
一旦明智にはたき、マーカーから斜めにずれるようにして前を向
く。今日の明智はカルロスがいない分前目に位置しているのでパス
交換がしやすいぜ。
ほら、そのおかげで敵ゴール方向を振り向いた俺へちょうどいい
タイミングでボールが戻ってくる。
マークしているボランチも俺がボールを渡した際、少しだけこっ
ちから注意を外したな。俺があくまで一対一での突破にこだわって
いれば集中力は削がれなかっただろうに、仲間にパスした瞬間はそ
のボールが向かう先であるチームメイトの守備を気にしていた。完
全に仲間を信用しきれていないってことだ。
振り向いた俺はドリブルでの勝負も行ける状況だが、ここでは山
下先輩へのパスをもう一度選択する。先輩がマークを外しながらボ
ールを受け取る態勢になっているのだからここは右サイドを活性化
させねば。
山下先輩が受け取ると、にわかに右サイドは慌ただしくなる。
急いで先輩に急行する相手DFとそのさらに外側から回り込むよ
うにオーバーラップしていく島津。ブラジルのディフェンスが右サ
イドへ引き付けられる。
俺や明智も同時にポジションを押し上げ、一気にブラジル陣内は
構築しているDFラインが張り上げる声で賑やかになった。
ここで目立たないながらも重要な役目で汗をかいているのが左サ
イドウイングの馬場だ。彼が何度もゴール前に突っ込むポーズを見
せ、そして一歩引いては自分の前に誰もいないフリースペースを作
ろうとしている。
こんな動きをされてはブラジルのDFも彼を無視できずに、ディ
1449
フェンスを中央だけに絞りきれないのだ。
そんな中ボールを預けられた山下先輩もドリブルではなくタメを
作ってパスで俺へ戻す。さらに俺はそれをダイレクトで明智へ流し
た。
個人で当たるより連携で勝負した方が分がいいというのは俺達攻
撃陣の共通見解だ。明智もまた余計な手間をかけずにこっちへ戻す。
ボールを長く持っていない分、日本代表の個々に張り付いたマーク
が機能していない。パス&ゴーの連続で一人ではなく中盤の組織ご
と敵陣へ攻め上がっていく。
よし、いい位置とタイミングだな。
ここまでパスでボールを進めるのに徹していたからこそ、最後の
個人技での勝負が効果的なアクセントになる。
俺はボールをトラップしたその足で巻き込むようにしてルーレッ
トを開始する。
これは回転する時に相手を引き込むようにして自分との位置関係
を入れ替えるのが技の要となる。
俺がトラップしてボールを止めると、ようやく来たかと足を出す
マーカーに﹁ご苦労様﹂と彼の勢いを利用するようにぐるりと回転
し綺麗にポジションを入れ替える。
ははっ、小学生でのデビュー戦からずっと磨き続けたこの技も、
世界の舞台で十分通用するぐらいにまでレベルアップしているじゃ
ないか。
だがそんな喜びも束の間、かわして無人になったはずのマーカー
の影になっていた場所からもう一人DFが現れた。読まれていたは
ずがないとは思うが、抜かれると勘で食いついてきたのならばさす
がにブラジルだと言うしかない、信じられないほど対応が速ぇ。
ルーレットが終わった瞬間に訪れる停止したタイミングを狙われ
ていると感じた俺は、とっさに止まらずに回転を連続で続けること
1450
にした。
しかし二回目のルーレットは敵との距離がやや離れている。
さっきも説明したがこの技は敵を引き込めるかどうかが成否の鍵
を握るのだ。この距離では敵を回転に巻き込むにはいささか苦しい。
俺へチャージをしかけていた相手もそれは百も承知なのだろう、
ステップを踏み自分の立ち位置を変えて二度目の回転に巻き込まれ
ないようにしていた。
それでも連続回転するなんて相手も予想外だったのか、驚いたよ
うに何か呟きながら慌てた様子で腰が引ける敵のDF。
大丈夫、お前までは抜いたりしないから心配するな。
俺はそう内心で呟きながら、回転しながらもヒールでパスを出す。
傍目からすればいきなりぐるぐる回りだしてマークを抜き、二人
目の敵が来ても止まらずにルーレットを続ける。しかもかそのダブ
ルアクセルの最中に、敵ゴールに背中を向けたタイミングでヒール
キックを撃ったのだから狙いなど定まっているようには見えないは
ずだ。
しかし俺には上からピッチを眺めるような視界の鳥の目がある。
このタイミングでのパスならばブラジルのDFが動けないと判断し
ていたのだ。
このトリッキーなプレイに即座に反応できたはただ一人、うちの
エースストライカー様だけである。
俺からのノールックでのヒールパスに対して飛び出すと、絶好の
ポジションでシュートしよう待ち構えている。
だが、そこに現れたのはブラジルのキャプテンであるクラウディ
オだ。こいつだけは今のパスにも付いてこれたらしい。さすがに独
特である俺のリズムに慣れている上杉ほどではないが、一拍とそし
て一歩分遅れただけのタイミングで追いついたのだ。
1451
そして位置関係から上杉へ渡るボールを奪うのは無理と判断した
か、ダッシュして追いかけて来た勢いそのままのショルダーチャー
ジをかける。吹き飛ばしてファールを取られるほどラフな当たりで
はなく、バックチャージを取られるような危険な角度でもない。
きっちりと肩に肩をぶつけた正当なチャージだが、左肩を押され
た格好になった上杉はシュートのために右足を振り上げていたので
右に傾く体を止めるために踏ん張るのは無理だ。
そこまでとっさに判断してチャージするサンパウロの壁も並みの
DFではない。
ここで上杉は倒れるかシュートを諦めるかの苦しい選択を迫られ
た。
もちろん彼の性格ならばどちらを選ぶのかは判りきっているよな。
そのまま倒されたんだよ、シュートモーションを止めることなく。
完全に体が傾いた状態でのダイレクトシュート。普通ならばボー
ルを足に当てられるだけでも大したものかもしれない。しかし上杉
は止まっているボールを蹴るより試合でボレーを撃つ方が狙いが正
確になるという実戦向きのストライカーだ。
軸足が浮くぐらいにバランスを崩しながらも右腕を芝に着いて体
を支え、シュートする右足のミートポイントだけは最後まで確保し
ていたのだ。
下手をしたらショックで自分の腕を怪我しかねないほど乱暴なプ
レイだが、上杉の剛腕は見事に体重プラス衝撃を右腕一本で抑えき
った。
ピッチと体が平行になるほど傾きながらも、きっちりとボールの
芯を捕らえた不格好ながら力強いボレーシュート。 その分受け身を取る余裕はなくしたが、上杉が顔から芝の上に倒
れるのとほぼ同時にボールがブラジルのゴールネットを揺らす。
上杉は倒れた次の瞬間にボールが反動で弾むようにすぐ跳ね上が
1452
ると、まず自分を倒したクラウディオの目の前に立ち、後一歩踏み
込むと強力なアッパーカットになるような勢いで拳を空へ振り切る
と咆哮を上げる。
審判のゴールを告げる笛と混じり、それはまさに勝利の雄叫びの
ようだった。
上杉が倒れるのを目撃俺も、あいつ大丈夫かとをダメージを心配
はした。だけど、うん、なんだか怪我の心配はいらないみたいだな。
それどころか相手に殴りかからないかひやりとしたじゃないか。
あれが得点になったから良かったが、もしもシュートが枠を外し
てたら少しやばかった。チャージしてきたクラウディオのせいだと
本気でファイトを始めかねないからな。上杉のいかにもFWらしい
激情型の性格は取り扱い注意である。
上杉がどうやらゴールしてご機嫌だと判ったのか、どっと日本の
メンバーが彼に集まった。まるで狼かなにかの肉食獣に対し﹁こい
つは今満腹してるんだろうな?﹂と恐る恐る様子を伺っていたよう
だ。
いや、まあ俺もその一人だけどね。
だが一頻り縄張りを主張する狼のような遠吠えを上げていた上杉
は、満面の笑みを作るとこっちへ振り向いた。
﹁アシカ、ナイスパスや! お前がぐるぐる回り始めた途端ピンと
きたで! アシカがおかしな事をやりよる時はええパスが来るって
な、だからじっとタイミングを計ってたんや!﹂
﹁ええ、確かに抜け出すタイミングは絶妙でしたよ﹂
上杉は天性のストライカーらしく自分の力を誇示するが、同時に
アシストをくれた人間にも今の俺にするように髪をくしゃくしゃに
なるほど乱暴に撫でて感謝を表す。そうでないと自分にいいパスが
来ないと本能的に理解しているのだろう。
1453
まったくもう、都合のいい奴扱いされているのは判っているのだ
がやめられない。
これだけ確実に決めてくれるストライカーならどんな苦労をして
でもパスを貢いでしまう。まるで悪いホストに騙されているみたい
だな。
考えてみればストライカーってのは狡い。どんなに失敗を繰り返
しても守りで手を抜いてもゴールさえ決めれば、不良が雨の中捨て
られた子犬を助けたようにそれまでの都合が悪いことが全てなかっ
た事になるんだから。
特に上杉なんか得点が多いだけその分狡いストライカーの筆頭で
ある。
まあ上杉がどのぐらい狡いかはさておき、まだ前半の内に得点が
できて前回の無得点で惨敗した記憶を払拭できたのは大きい。代表
のイレブンのみならず、サポーターまで大騒ぎしているじゃないか。
ようやく日本がブラジルに勝つ事を信じ始めてくれたらしい。初っ
端から撃ち合い上等で行けという監督の指示は当たりだったな。
どうだカルロス! ベンチに座っている異国に行った知り合いに
笑みを向ける。お前がいない日本代表だって捨てたもんじゃないだ
ろう?
︱︱前半十二分、日本代表がブラジルを相手に先制した。
1454
第六十七話 先輩とは仲良くしよう
日本代表が先制した事で明らかにゲームの流れがこっちに傾いた。
元々ブラジルはグループリーグで完勝した相手の日本が決勝の敵
となり、油断とは言っては酷なぐらい僅かかもしれないが見下す気
持ちがどこかにあったのだろう。それはまあ仕方のない事だよな。
たった二週間前に手も足も出なかった相手が、それから現在まで
の短期間に自分達を上回るほど急激にレベルアップしているとは考
えにくい。
ましてや気分屋で楽天的な傾向のあるブラジルの子供の集まった
チームであれば、試合前に監督やコーチがどんなに気を引き締めろ
といってもそう簡単に必死にはなれなかったのだろう。
それなのに決勝という大舞台で見下していた相手に一点とはいえ
リードされて、チーム内で少なからぬ摩擦と混乱が起こっているの
だ。明らかに彼らの間に漂う空気が刺々しい。
この隙を突かない手はない。
島津に上がれとハンドサインを︱︱出そうとしてすでに敵のDF
ラインにまで侵入していることに気が付いた。本当に暇があればサ
イドを上がっていく少年である。頼りになるが、また同時にかなり
リスキーでもある。
しかし、それを咎めようにも今対戦しているブラジルの左サイド
バックもまた似たようなメンタリティで日本陣内に侵入しているの
だ。
この二人の守らないDFが居る限りスリリングなゲームが落ち着
くことはないだろう。
だがゲームをコントロールする事はできる。そしてそれが俺の役
目なのだ。コントロール不能の右サイドには見切りを付け、今度は
1455
指示に従ってくれる明智や石田といった中盤の仲間にサインを出す。
その二人がここまで張り付いているブラジルのトップ下ポジショ
ンの選手は、司令塔として優秀であるが化け物ではない。マークを
何枚も一人でひっぺがしてゴールに結びつけるのは無理だろう。そ
りゃいくらブラジルだって、カルロスや酔いどれといったレベルの
プレイヤーがごろごろしている訳がない。もし控えまで同レベルの
怪物だったら、俺は白旗を掲げて泣き出すぞ。
幸いこのトップ下は天才ではなく、俺達でも理解が届くクラスの
有能な選手である。だからこそ彼の打つ攻め手がある程度読める。
いや誘導することが可能なのだ。
折りよくちょうどそのブラジルのトップ下にボールが入る。
これは明智の事前のチェックが幾分甘かったせいだ。そのおかげ
でパスはもらえたものの、なかなかそこから彼にとって都合良く展
開してくれない。うちのアンカーである石田は、カルロスの出場を
想定していた時もマーカーとして一番手に上げられているほど一対
一は上手いのだ。相手が今みたいな窮屈なポジションで背を向けて
いるなら、そう簡単に抜かせるどころか前を向かせもしない。
あ、でもトップ下の選手が上手い体捌きで綺麗にターンして日本
ゴールの方へ振り向いた。いや、舐めてたわけじゃないがさすがは
ブラジル代表だ。
だが、ここで後ろから追いついた俺がちょっかいを出す。そう楽
に石田に一対一ができると思うなよ。
横目で俺の姿を確認した相手は舌打ちしそうな顔で個人突破を諦
めた。
そうなると次はパスで来るはずである。うちの急所であり、しか
もブラジルの左サイドバックであるフランコが待っているサイドに
向けて。
1456
セオリー通りにトップ下からフランコへとボールが出される。技
術が高いだけあってその狙いはオーバーラップしているフランコの
足下へ直線を引いたコースから寸分の狂いもない。だからこそ判り
やすい。
そこに罠を張っておいて良かったぜ。張ったヤマが見事に当たり、
ブラジルの超攻撃的サイドバックへのボールは届かない。寸前でト
ップ下のマークから離れて、隙を窺って気配を消していた明智がパ
スカットに成功したのだ。
﹁ナイスカットだ明智!﹂
﹁お前ならやってくれると思ってたぞ!﹂
﹁このぐらい当たり前っす!﹂
今のプレイに協力した俺と石田が口々に褒める。それを受ける明
智も照れくさそうだが誇らしげだ。
そしてこの声でブラジルはフランコを狙わせたのが完全に罠だっ
たと理解してくれたはずだ。日本語は判らないだろうが、全員がく
どくなるほどドヤ顔をしてやったしな。
罠だったとそう印象づけておけば次に島津のいない右サイドから
攻める場合、一瞬の躊躇いとパスカットを狙っている奴がいないか
慎重な確認を必要とするはず。そのほんの僅かだが守備にとっては
何より貴重な時間を得るために、今のパスカットに関わった三人が
協力して偶然ではなく連携してボールを奪ったと敵にアピールした
のだ。
だが、せっかく日本ボールにしたのだから攻撃の糸口を見つけな
ければ⋮⋮って考えている間に明智が力強くボールを蹴り込んだ。
今度は逆にブラジルのサイド奥深くに待っている島津へのロング
パスである。
しかしそれもまた敵に遮られてしまう。
1457
日本から見て右サイドを守っているはずのフランコがいなければ
簡単に通るはずだったのだが、ブラジルのボランチの一人がいつの
間にか空いているはずのスペースをカバーしていたのだ。
ちぇっ、俺達と同様に超攻撃的なサイドバックを持ったチームは、
ディフェンス時にそこを突かれるのは想定済みって事かよ。
悔しそうに﹁⋮⋮っす﹂と小さく放送禁止用語を呟く明智に﹁ド
ンマイ!﹂と励ます。
長い目で見れば今のロングパスにしても悪くはない。ミスしたの
は残念だが俺一人に攻撃の指揮が偏らないのが大事なのだ。俺だけ
にボールが集中するとなれば相手も囲んで潰しに来るだろうからな。
そうならないよう、決定的な場面以外ではパスを散らすようにもし
なくちゃいけない。
しばらく両チーム間での主導権争いが行われる。
先制点を取った日本と個人技術に勝るブラジル、どちらの綱引き
が勝つか正面からの力比べだ。そのためにお互いに攻め込むのだが、
決定的なシュートまではなかなか至らない。
中盤でのパスルートの潰し合いに空いたスペースの優先権争い、
オフサイドラインの駆け引きに大きなサイドチェンジでディフェン
スの寸断と体力の消耗を狙うといった地味だがハイレベルな攻防が
繰り広げられているのである。
どちらのチームも我慢比べを強いられる中、僅かに焦りの色を見
せ始めたのはブラジルの方だった。
正確に言えばトップ下とFWの二人のプレイが序盤に比べ、微か
に荒く直線的なものになっていたのだ。この時間帯ならまだスタミ
ナが切れるはずもないし、エースの代役を務めさせられているプレ
ッシャーでも感じているのだろうか? とにかく日本にとっては明
るい材料である。
1458
強引にシュートを打とうとするブラジルのFWを武田は体で止め
た。彼はブラジルベンチで欠伸をしているエミリオのような素早い
テクニシャンタイプを相手にするより、今相手している大柄なFW
の方がやりやすいようだ。
特にこういったパワー対決に関しては本当に強い。海外の大型選
手と競り合ってもまるで引けは取っていない。ましてや余裕がなく
焦っているようなプレイではそう簡単には出し抜かれたりしないは
ずだ。
ほら、その証拠に二人の激突でこぼれ球を処理した真田キャプテ
ンからボールが攻撃陣に渡って反撃のチャンスが回ってきたじゃな
いか。
石田、明智とボランチを経由して俺へパスが通る。この辺は連携
に慣れているし、スペイン戦でもっと厳しい組織的なプレスを受け
ていたので高速でボールが展開するのだ。
ブラジルはその展開速度にちょっと対応が追いついていない。最
終ラインはともかく中盤のプレッシャーがかかっていないぞ。
パスで振り回され、マークがルーズになったピッチのど真ん中を
俺はドリブルで進む。
しかし敵も中盤はともかくそれより先の危険なエリアまでフリー
にはしない。すぐに敵のディフェンスが飛んできた。
その相手が俺に付く前に、山下先輩へパスを出してダッシュのテ
ンポを更に一段上げる。先輩も心得たものですぐに俺へとボールを
戻し自分も走る。シンプルなワンツーだが相手の組織が整っていな
い場合は威力は絶大だ。
俺がフリーになった事で日本のアタッカー達が俄然活気づいて、
ブラジルゴール前になだれ込む。
残ったDFが﹁何やっているんだ!﹂と我慢しきれずに飛び出す
が、俺はちらりと顔を上げ上杉とオフサイドラインを確認する。も
1459
ちろんこれはフェイントだ、それが効いてDFにチャージしていい
のかと刹那の迷いを生じさせる。
そこでもう一手、左肩を入れて半身になる。
アタックしかけていた敵DFはピンときただろう、このモーショ
ンは一点目の時に使ったルーレットだと。慌てて回転に巻き込まれ
ないように一歩下がる。
そこまで足を止めさせれば十分だ。
半身になった姿勢から一気にブラジルゴールへ向けてカットイン
する。そのリズムと縦への変化についてこれないDF。
中央のディフェンスは上杉についている﹁サンパウロの壁﹂クラ
ウディオを除けばあと一枚。そいつが俺へ突っ込んでくる。
どうするコースは狭いがここからシュートを撃つか? いやこの
タイミングでエリア内に走り込んできた人影がある。
顔を上げるとそこには島津の姿が。さすが﹁ゴール前に常駐する
DF、ただし敵ゴールに限る﹂と揶揄されるだけのことはあるぜ。
視線でしっかりと島津を捉えたままキックし、俺が出したパスは
狙い通りに山下先輩へ渡った。
﹁え?﹂
幾つかの声が重なる。言語の差はあれ全てがノールックパスへ対
する驚きの響きだ。
その中でも大きいのは日本人ストライカーの二人だが、島津には
飛びしたキーパーがそして上杉にはクラウディオが密着していたん
だから仕方ないだろ。
島津が引きつけた後のスペースに走り込んできた山下先輩ならノ
ーマークで、簡単にシュートまで持っていけるんだ。
先輩の落ちついた、威力よりコースを重視した軽いキックはブラ
ジルのゴールへ優しく滑り込みゴールネットで乾いた音をたてる。 ここまで若干目立たなかった山下先輩が仁王立ちし、人目もはば
1460
からず歓喜の叫びを上げた。
﹁見たか、俺が日本の十番なんだぞ!﹂
ユニフォームに背負った数字を親指で示し、自身のプライドを込
めた短い叫びを世界中に届けと吼える。
ああ、先輩はカルロスを勝手にライバル認定して、自分で選んだ
十番もエース番号だとプレッシャーを感じていたみたいだもんな。
叫び終えた山下先輩はどこかすっきりした表情でこっちに駈けて
きては、俺の首に腕を絡ませるようにして無理矢理肩を組む。
いてて、これは肩組みってよりプロレスの技であるヘッドロック
を掛けてますよね。タップしても離してくれず、その首を極められ
たままの格好で日本のサポーター席まで一緒に走ることとなった。
いや、この姿勢は転びそうで怖いんですが。そう抗議しようとす
るがその前に満面の笑みで山下先輩が声を弾ませる。
﹁最高のパスだったぞアシカ!﹂
あまりにストレートな物言いに、ちょっとなんて答えればいいの
か判らなくなる。
﹁あ、いや、まああのノールックパスに反応できる先輩もさすがで
すよ﹂
﹁そりゃアシカみたいな奴と何年もやってりゃ、自然にあそこで飛
び込むんだという阿吽の呼吸が叩き込まれるさ﹂
﹁ええ、助かります。ノールックパスは受け手が判ってくれないと
単なるミスキックになって恥ずかしいですからね﹂
サポーターの集まる前に到着すると俺と先輩の二人が肩を組んだ
1461
まま残ったもう一方の手を上げた。うわぁ、歓声がシャワーどころ
か鉄砲水のように襲いかかってくるじゃないか。
他のメンバーが追いついてくるとさすがに組んだ肩は外さないと
いけない。その前にぐっと引きつけられ﹁お前が後輩で良かったぜ﹂
と小さく囁かれた。
こんな褒め言葉を山下先輩から聞いたのは初めてかもしれない。
いつもはアシストしてもさっきみたいに﹁ナイスパス﹂ぐらいしか
言ってくれない厳しい先輩だからな。
少し照れたような赤い顔をして俺から離れ、皆から手荒い祝福を
背に受けている山下先輩の姿に頬が緩む。
決勝のせいか変なテンションでの先輩からかけられた言葉で困っ
てばかりだ、今度はこっちが反撃してやる。
﹁山下せんぱーい、歓声が凄くて聞こえなかったんですが、今なん
て言いました?﹂
俺のにんまりとした表情と棒読みの口調にからかわれていると瞬
時に判断できたのだろう、さらに顔を赤く染めて﹁アシカみたいに
先輩を敬わない奴は大っ嫌いだぁ! でもこれからもちゃんとパス
はよこすんだぞって言ったんだよ!﹂と叫んだ。
いやぁ、やっぱり俺と山下先輩の関係は変に馴れ合うよりこの怒
鳴り合う﹁かわいくない後輩﹂と﹁すぐ怒る先輩﹂の方がしっくり
くるな。
1462
第六十八話 後半の展望を話し合おう
ピッチから引き上げてくるブラジル代表の足取りは一様に重い。
まさかグループリーグはあれだけ楽勝した日本を相手に、二点もリ
ードされて前半を終えるとは誰も想像していなかったからだ。
これまで何度も栄光を掴んできた自慢のカナリアイエローのユニ
フォームまでもが鮮やかさを失い、色褪せているような印象さえ見
る者に与えてしまう。
ベンチで出番を待っていた控えメンバーやコーチは口々に声をか
け、手を叩いて淀んでいる雰囲気を変えようとするがスタメンの選
手は皆が返事もしようとしない。ほとんどが無言で用意されたスポ
ーツドリンクなどを飲んでいるだけだ。
冷えたドリンクやタオルを手渡しても疲れた顔のまま、ほとんど
感謝の言葉さえ返ってこないのだから重症だ。
ロッカールームの空気はこのブラジル代表が結成されて以来最悪
の物である。
そんな居心地の悪いロッカールームに監督が大きな音と共にドア
を開き登場する。
いつもは選手達がピッチから帰還するのをオーバーなアクション
で出迎えていた監督が今日に限ってこの場にいなかった。これまで
の試合はほとんどがリードしてハーフタイムを迎えていたために、
監督が機嫌良く選手を受け入れるのが当然のようになっていたのだ。
しかし今回はハーフタイムになるとすぐにベンチから席を外して
携帯電話を片手にどこかへ行ってしまった。その行動がまた不自然
で、ロッカールームがぎくしゃくしたムードになった要因の一つで
もある。
微かにその身にタバコの香りを漂わせながら監督は足音高く入っ
1463
てくる。入口でじろりと視線を走らせると、ほとんどの選手がバツ
が悪げに俯いた。例外はベンチスタートのカルロスやエミリオだけ
だ。なんでよりによって扱い辛いこの二人がうちのエースでスポン
サーから特別待遇を受けているんだろう、そんな内心を押し殺しな
がら監督は声を張り上げた。
セレソン
﹁俺達ブラジル代表はここに優勝するために来た!﹂
セレソン
いきなりの大音声にびくりと身を震わせるブラジル代表の選手達。
その反応にお構いなく監督は演説を続ける。
﹁ブラジルがサッカーの大会で優勝できないなんて無様な事はあっ
てはならないんだ。なのになんだこの体たらくは、お前らは優勝し
たら家族を殺すと脅迫でもされたのか? それとも優勝カップを手
にしたら死に至る病でも患っているのか? いい加減に目を覚まし
てさっさと逆転するぞ!﹂
言いたい放題のようだがこれでも彼は言葉を選んでいるつもりだ
った。その証拠に、狙い通りに少年達の表情に彼へ反発する色が混
じってきた。落ち込まれるよりは、まだ監督に対して怒るぐらいの
方がプレイするためのエネルギーとして利用できるからだ。
ざわつくブラジルの少年達へ﹁文句があるなら言ってみろ﹂と顎
をしゃくると全員が不満げに口をつぐむ。いや二人ほど﹁俺達を出
さないからだ﹂と抗議している者もいるが、他のメンバーは全員が
ここまでは不甲斐ないプレイをしていると自覚しているのだ。
とりあえず怒りの感情ではあっても、ただ落ち込むだけの沈滞ム
ードの底は打ったと判断した監督はすぐ次に具体策へ入る。簡単に
まとめられた前半の資料を片手に、後半に向けてのメンバー交代を
発表したのだ。
1464
﹁後半の頭からカルロスとエミリオをいつものポジションで投入す
るぞ。日本の実力はもう判っているよな? グループリーグの時と
は全然違うチームになっている。あんまり舐めないで本気でアタッ
クしなければならん。そしてカルロスとエミリオは相手がお前らの
プレイに慣れる前に︱︱そうだな後半開始五分以内に一点は取るん
だ。リードが一点になれば相手も焦りが出てこれまでの余裕がなく
なるはずだ。そこまで持っていけばチームとしての地力と経験の差
が出てくるからな﹂
五分以内に点を取れと言う困難なミッションを授けられたベンチ
スタートだった少年達だが、なぜかあまり緊張していないようだっ
た。
﹁え? たった一点でいいの?﹂
﹁オレも一気に同点に追いつけって言われるかと思ってたな﹂
カルロスとエミリオのあまりに軽い返事にブラジルの監督は眉を
しかめる。本当に事態の重要さを理解しているのだろうか? この
試合は世界大会の決勝で、その結果には彼の首がかかっているのだ。
﹁⋮⋮追いつけって言えばできるのかよ?﹂
﹁まあ、そりゃ五分もあるなら二点ぐらいは﹂
﹁僕とカルロスが一点ずつ取ればすぐじゃない? あ、でも二点と
も僕がゴールした方がいいかなぁ﹂
ブラジルの二大エースは口にしているそれが全く難しい事だとは
思っていないようだった。
◇ ◇ ◇
1465
日本のイレブンは凱旋しているように声をかけ合い、ハイタッチ
し合ってロッカールームへ帰ってきた。
室内に入ってくる一人一人の手を取り﹁よくやったな﹂﹁上出来
だ﹂と背中を軽く叩いて労う山形監督の表情も明るい。序盤から勝
負をかけるという彼の作戦が的中した形なのだから、機嫌が悪くな
りようがない。
二点のリードが精神的な安定剤となり、皆が興奮したテンション
の中でも浮ついているのではなく気合と集中が高まっているという
チームが望みうる最高の空気だ。
そこで山形監督がいつものように手を叩いて、各々で休憩してい
る全員の注意を集める。
﹁よし、ここまではほぼ最高の展開だな、後半もこのままのペース
でいくぞ。ただブラジルのメンバーや戦術が変わらなければこっち
もこのままでいいが、さすがに負けてるんだから向こうが先手を打
って変更してくるはずだ。その時はまた試合展開や相手の作戦に応
じて指示を出す。そしてもし後半からカルロスやエミリオが出てき
たら、試合前に指示していたやり方できちんと潰せ。
すでにこっちが二点リードして折り返しているんだから、今更向
こうの切り札を使ってきても日本の優位は揺るがない。もしカルロ
スやエミリオなんかが入ってきても、交代のカードを先に使わせて
しかもリードしている分勝利に近いのは俺達で間違いないんだ。落
ち着いてさえいれば何も問題がない﹂
﹁はい!﹂
答える声も曇りがなく明るい。全員が前半の出来に手応えを感じ
ている証拠だな。正直ここまでの試合展開では準決勝で戦ったスペ
インの方が手強かった。いや、ハイレベルなスペイン戦を経験して
いたからこそ今日の試合では有利に進めていられるのだろう。 1466
しかしカルロスやエミリオといったスター選手がいないと、ブラ
ジル代表ほどのチームでもここまで脆くなるとはちょっと予想外だ
ったな。ブラジルは試合毎に出来不出来の波が激しいのは知ってい
たが、ちょうど俺達が彼らにとっては一番モチベーションが上がら
ないチームだったのかもしれない。
ブラジルからすれば、グループリーグですでに格付けが終わった
はずの相手となんでまた決勝で戦わなくちゃいけないのか判らなか
っただろう。しかも準決勝は宿命のライバルアルゼンチンと激しい
肉弾戦の末に、完全にねじ伏せて勝利した後の試合でだ。さあ日本
と決勝だと言われてもテンションが上がらないのは、まあ判らなく
はない。
そして始まってみれば格下と見下した日本に先制され、さらに追
加点まで献上したのだから向こうのリズムはガタガタになっている
はずだ。
ただ、エースがおらずにリズムが崩れたとはいえブラジルの圧力
は相当な物だった。
真田キャプテンが﹁簡単に言ってくれるが、あのブラジルのアタ
ックをシャットアウトしている 俺達 DFの頑張りも褒めてほし
いです﹂とぼやくのは実によく判る。
それに山形監督も﹁ああ、ブラジルを零点に押さえ込んでいるん
だ。本当によくやってるな﹂と答えるのも判る。
だが﹁いや、そこまで賞賛されると照れるな﹂と頬をかいている
右サイドバックの心情はよく判らんぞ。お前は守りに参加してない
だろうが。
さてほぼ満点の前半はともかく、後半戦に備えてブラジルがどう
出るか想像する。
負けているんだから攻撃的な戦術をとってくるのは間違いない。
それが前線に人数を増やすパワープレイでくるか、それとも動きの
1467
悪かった選手を交代させてフォーメーションはいじらないかのどっ
ちだろう。ここは情報分析の専門家に意見を求めようか。
﹁明智、ブラジルは後半どう攻めてくるかな?﹂
﹁そうっすね⋮⋮﹂
明智は俺からの質問に少し俯くと、自分の額に人差し指をあてト
ントンと軽くつついた。おそらく試合前にまとめていたデータを記
憶から呼び出しているのだろう。
だがすぐに顔を上げると﹁向こうの監督のデータからの推測っす
けど﹂と答えを出す。
凄い、俺の情報を教えてくれって言うんじゃなく予想をしてくれ
って質問に即答できるなんて、データの収集や処理の仕方は山形監
督を上回ってないか、こいつ?
﹁ブラジルの監督はうちの山形監督と一緒で、予選前に急に抜擢さ
れた監督っすね。選手時代や監督になった後も無名だったみたいっ
す。そして実績という後ろ盾がない分慎重なのか、マスコミや世論
から攻撃されるような思い切った作戦はこれまで取ったことはない
っす。
ま、今まではほとんど監督がどうこうするまでもなくブラジル代
表はチームの力の差で楽勝が多かったっすけどね。ただ、これまで
の試合では選手の入れ替えはあってもフォーメーションは崩した事
は一回もないっすから、選手交代で流れを変えると考えたほうが妥
当っすね。後はラインを上げたり、プレスを強めたりと細かい修正
じゃないっすか﹂
﹁となると、たぶん⋮⋮﹂
﹁ええ、推測っすけどカルロスとエミリオが出てくるのは間違いな
いっす。大体あの二人が怪我したりという情報はなかったから、ス
タメンにいないのに気がついたらびっくりしたっすよ﹂
1468
﹁なるほど⋮⋮﹂
明智の情報はこれまでもほとんどが正確だった。だから後半から
あの二人が出てくるという予測は確度が高いだろう。
あいつらと戦うと想像しただけでぶるりと体が勝手に大きく震え
る。前半に流した汗がロッカールームの冷房で冷えたのではない、
これは武者震いって奴だ。
世界最高を争う舞台で、酔いどれドン・ファンに続けてカルロス
とも戦えるなんて願ってもないシナリオじゃないか。
日本代表の勝利だけを望むなら、このままカルロスやエミリオな
んて化物は出てこない方がいい。
だがブラジルに勝つためには、世界一になるためにはそういった
化物と戦うのを避けて通れないのだ。
﹁大丈夫っすか、震えてるっすけど?﹂
明智がちょっと黙り込んだ俺の顔を覗くようにして尋ねる。俺が
震えているのを弱気の表れとでも受け取ってしまったのだろうか。
まあ彼にとっても、中盤でコンビを組む俺の調子がどうかなのかは
気になる情報なのだろう。
でも心配するなって。
﹁ああ大丈夫。震えるぐらい後半が楽しみなだけだ﹂
1469
第六十九話 不吉な予兆には気を付けよう
足利家のリビングに設置してある大画面テレビからは、日本代表
の前半のプレイに関する実況が早口で流れてくる。半ばを終えて日
本がブラジルを相手にリードしているという予想外の試合展開に、
興奮した口調でアナウンサーが捲し立てているのだ。
﹃日本代表がブラジルを相手に二点のリードという願ってもいない
状況です。失礼ながら優勝候補筆頭のブラジルを相手にここまで素
晴らしい戦いを見せてくれるとは思っていませんでした。引き分け
てPK戦になってもいいというような、守りに徹してからのカウン
ターなどではありません! 堂々と正面から撃ち合ってのこの点差
なのですから、松永さんこれはもう偶然などではなく日本の実力と
考えていいんですよね!?﹄
﹃⋮⋮偶然かどうかはともかく日本に実力があるのは確かです。な
にしろこの代表は私が基礎を整えたチームですしね。それに力がな
ければこの世界大会決勝まではたどり着いてはいませんよ。しかも
この試合に限っては、幸運の女神も日本代表に味方しているのも間
違いありません﹄
日本が有利な形勢なのにどことなく残念そうな翳りのある解説者
の松永だった。それでもさりげなく日本代表の好成績に対して自分
の手柄を混ぜているのは抜け目がない所だ。だが松永が日本代表が
優勢なのを快く思ってないのを察知したのか、アナウンサーが無邪
気さを装った声をかける。
﹃どうしました松永さん? 松永さんが予選退任したチームを山形
監督が短期間で立て直したとはいえ、日本がリードしている最高の
1470
状況じゃないですか、そんなに陰気にならずもっと元気に行きまし
ょうよ。それともまさか敵であるブラジルの応援でもしてるんです
か?﹄
﹃あ、いやそんな事はありませんよ! 日本が押しているのは嬉し
いですし、別に敵のブラジルがなんで調子が悪いんだろうなんて心
配も⋮⋮ああ元教え子のカルロスが今日の試合に出場していないの
は心配ですし、残念だとは思いますが。そう、さっき述べた日本の
幸運というのは彼が欠場している事に対してです﹄
﹃ああ、なるほど。元日本代表で、今はブラジル代表に加入してい
るカルロス選手の事もありましたね﹄
アナウンサーは手元の資料にさっと目を走らせる。
﹃カルロス選手について少し視聴者にご説明しますと、日本とブラ
ジルのハーフであり二重国籍だった彼はしばらく前にブラジル代表
になることを表明しました。そしてそれまで参加していた年代別の
日本代表から引退し、改めてブラジル代表に入ったという事のよう
です﹄
資料を読みながら首を捻る、この辺はアナウンサーもよく理解で
きていないようだ。ざっと流す感じ説明を終えて国籍や代表資格の
問題は簡単に流そうとしている。
﹃えーとそして彼がなぜ今日の出場してないのかは、ちょっとこち
らでも判りません。怪我や体調不良といった情報も入ってきていま
せんし、一体どうしたのでしょうか? あるいはこれもブラジルの
作戦で後半からの投入があるのでしょうか?﹄
﹃馬鹿なことを言ってはいけません﹄
これだから素人は、と吐き捨てるように松永がアナウンサーの推
1471
測を遮る。目の前でしかもマイクに音声が拾われるにも関わらず思
いっきり馬鹿にしている。
﹃カルロスやエミリオといった超一流クラスの選手が試合に出られ
るなら、どの監督でも間違いなく先発出場させますよ。素人考えの
ようにわざわざ後半からと時間を区切って出場させるなんて、戦力
を逐次投入するようなもったいないことはしません。
ですから彼らは試合に出られない事情があると言うことでしょう。
⋮⋮私が育てたブラジルが誇る世界最高峰のアタッカーを見ること
が出来ないのは非常に残念ですが、これも日本にとって追い風です。
後半もこのまま失点しないように丁寧な試合運びをしていれば、こ
の二点のリードを守って逃げきりで勝利できる確率は高いですね﹄
﹃⋮⋮おお! アナウンサーに対しても容赦なく辛口コメントする
のが持ち味の松永さんから勝利の太鼓判を押されました日本代表。
はたしてすんなりと世界一になれるのでしょうか? その彼らの勇
姿はもうすぐ始まる後半戦でお楽しみください。それでは一旦CM
です﹄
コマーシャルに切り替わった画面に、それまで息を詰めていたの
か大きな吐息が二つ。リモコンでテレビのボリュームを小さくして
ほうじょう まこと
音を絞るのはこの家の住人ではなく招かれた少女だ。
決勝戦もまた当然のように、北条 真と足利の母はリビングで一
緒に応援している。
今日は家の中には女二人だけのせいか、両方とも涼しげで楽な服
装である。
自分の家のために部屋着の足利の母はともかく、真は純白でシン
プルなラインのワンピースだ。長い黒髪と縁無しのメガネがアクセ
ントになって避暑地にきた読書好きのお嬢さんのような見た目であ
る。
1472
この二人が観戦しているといつもの日本代表のハラハラする試合
展開ならば、見ていられないと足利の母がおろおろしては画面から
目を離すのを真がフォローする事態になる。とは言ってもせいぜい
が実況を伝えたり﹁大丈夫ですって﹂と不利な状況下でも励まして
手を握ったりなどしているだけだが、今日に限ってはそんな苦労は
必要なかった。
なぜか日本らしからぬリードを保ったままの安定した試合っぷり
に、足利の母も安心して観戦ができている。
これまでの真の仕事は、二人とも好んでいないコマーシャルの時
に音を小さくするぐらいしかなかったのだ。まあ日本代表がブラジ
あしかが はや
ルをここまで押す展開になるとは誰も想像していなかったのだが、
真の仕事がないのはいい傾向だろう。
てる
しかも二人が応援している息子と幼馴染みの少年である足利 速
輝はこれまでに二アシスト。日本の全得点に絡む大活躍なのだ。彼
を嫌っているはずの松永でも文句がつけられないほど十分に司令塔
としての役目を果たしている。
こんな余裕たっぷりの状況では観戦している二人の女性のムード
も穏やかなものだ。
にこにこしながら真が紅茶の入ったティーカップに口をつけた。
﹁ん、美味しい。香りもいいし、マスカットみたいな果実の風味も
さっぱりして飲みやすいです。それになにより日本が優勝しそうな
時に飲めるというのが一番嬉しいですね﹂
えへへ、と多少の猫を被り通ぶって紅茶を評論する真だったが、
足利の母もその年齢より若く見える顔にちょっと失敗しちゃったと
バツが悪そうな笑みを刻む。
﹁あの真ちゃんには悪いけどちょっと間違えちゃった﹂
﹁え、何をです? じゃあまさか私がグルメ漫画で学んだばかりの
1473
美味しい紅茶を褒めるべきポイントがずれてたんですか? もしか
して実はこれが本当は紅茶に見せかけてコーヒーだったとか!?﹂
﹁コーヒーと紅茶を間違えるなら病院へ行った方がいいわね。そう
じゃなくてそのティーカップがお客様用じゃなくて速輝のいつも使
っている物だったのよ﹂
その返答を聞いた瞬間、真は﹁え? あ! じゃあこれって!?﹂
と慌ててカップから口を離して自分の手でその瑞々しい唇を覆う。
それを﹁あらあら﹂と急におばさん臭くなった仕草で面白そうに見
つめる母親。
しかし、微笑ましい光景はそこまでだった。不意になんの前触れ
もなく真が手にしていたティーカップの取っ手が割れ、まだ中身が
入ったまま床に落下したのだ。
床からのカップが粉々になる澄んだ音に体をすくめ﹁きゃっ﹂と
意外に女の子らしい可愛い悲鳴を上げる真。﹁あらあら﹂とおっと
りした態度は変えずに、手早く真をカップが割れた現場から避難さ
せる足利の母。
﹁真ちゃんはどこにも怪我はない? 体や服に紅茶はかかってない
わよね? あ、割れたカップを素手で触っちゃだめよ手を切っちゃ
うから﹂
そう言っててきぱきと後始末を始める。今のは真にはなんの落ち
度もないアクシデントだが、庇われた形の真の方が棒立ちになって
手持ち無沙汰だ。
中身の一滴もかぶらず、破片でかすり傷一つおっていないのに自
分が手にしていたカップの掃除を見ているだけというのが申し訳な
さを募らせる。
真の内心は八つ当たりの対象を探し、これもきっとアシカのせい
だ、あいつが意地悪だからティーカップも私に意地悪するんだと完
1474
結する。
理不尽な怒りの対象をここに存在さえしていない幼馴染みし、彼
が帰国したらとりあえず藁人形二号君をぶつけるのが彼女の予定に
追加決定された。 真も何かお手伝いを何かしたかったが、足利の母から細かい破片
が落ちているのかもしれないのでその場から動いちゃダメと制止さ
れてしまう。家主の言葉には逆らえず、手伝いもできないで見守る
だけの真を尻目に、さっさと全て終わらせる足利の母。
彼女は真に女子力の差を思い知らせ、多少の劣等感を抱かせたこ
とも知らずに一番大きく残っていたカップの欠片を見つめて首を捻
る。
﹁このティーカップはひびも入ってなかったみたいだし、まだ買っ
てから日も浅かったのになんで壊れたのかしら?﹂
﹁あの、ごめんなさい⋮⋮﹂
﹁ああ、真ちゃんのせいじゃないわよ。きっとこれはいつも速輝が
乱暴に扱っているせいね。あ、それよりもう後半が始まりそうじゃ
ないの﹂
カップ破損の掃除などをしている間に後半が開始する時間になっ
ていたようだ。
リビングの大画面テレビの中では、日本の選手達がセンターサー
クルに集まってキックオフをしようとしている。それは今まで彼女
達も何度も目にした光景であった。だが何か⋮⋮画面のどこかに違
和感がある。
﹁あれ? 日本ボールからのキックオフだったかな?﹂
真が疑問を発し、居心地が悪いもやもやした物を抱えて顔を見合
1475
わせた二人。違和感の正体は判らないながらもとりあえず紅茶のこ
ぼれた場所を避けて座って大切な少年の戦いを見守ることにした。
そこでようやく真と足利の母が腰を落ち着けてテレビ音声のボリ
ュームを上げると、やっと届いたアナウンサーの言葉と画面の上に
表示されている文字で違和感の正体を把握したのだ。
﹃さて同点に追いつかれてしまった日本代表。まだ後半は五分しか
経過してませんが、なんとかこのブラジルに傾いてしまった流れを
断ち切ってほしい。頑張れヤングジャパン!﹄
﹁⋮⋮ええ!?﹂
画面の上には試合映像の邪魔にならないよう小さく﹁後半五分 二対二﹂と表示されていた。どうやらティーカップを割った際のゴ
タゴタで目を離している内にすでに試合の後半は再開されていたよ
うだ。
しかも、日本にとってはかなり悪い方向への展開へ、である。
それを確認した今度もまた、二人の女性の声が揃う。
﹁嘘でしょう!?﹂
︱︱残念ながら本当だった。 1476
第七十話 王国の底力を思い知ろう
後半も開始間近になりピッチで足慣らしを始めようとした俺達日
本代表は、同じくピッチに出現したカナリアイエローのユニフォー
ムに身を包んでいる良く知っていた少年の姿に目を奪われた。
その横には同じく後半から出場するイタズラっぽく目を輝かせた
ちょっと小柄なブラジル代表のエースストライカーである少年もい
るのだが、どうしてもこれまでの経緯や自然に放たれている強者の
風格から長身の十番を背負った選手に注目が集まってしまう。
︱︱やっぱり出てきたんだなカルロス。
ごくりと自分の喉が音を立てる。
思えば小学生時代に彼といつか一緒に戦おうと約束してからもう
何年経ったのだろう。今では俺達の所属するチームどころか代表ユ
ニフォームの色も国籍さえも違っている。だが、これでもカルロス
と同じピッチで戦うという数年越しの約束は果たしたって事にはな
るよな。ならば、後は日本にいる皆とここにいる仲間との﹁優勝す
る﹂というもう一つの約束を果たすだけだ。
勝利するための貯金として前半の内に二点も貯め込んでいたんだ
からな。イーブンな条件ではなくこの点差があれば、いくらカルロ
スのいるブラジルを相手にしてもプレッシャーを与える事ができて
有利に戦えるはずである。
俺達日本代表のほとんどの選手とカルロスは知り合いのはずだっ
た。だが元から持っていた彼の孤高の雰囲気は一層強くなっていて、
黙々とアップをするカルロスにうちのチームの誰一人として話しか
けられない。
ま、いいか。試合をやればプレイ内容でお互いのこれまでの練習
の密度や積んだ経験などが嫌でも伝わり、会話以上に濃密なコミュ
1477
ニケーションとなる。
強敵の出現に前半以上の緊張感がピッチ全体を覆う中、後半戦開
始の笛が吹かれた。
ブラジルのパスが初めてカルロスに回った瞬間、彼のトラップ一
つでこれまでうるさかったスタジアムが静まり返る。観客席の全員
が彼の起こす﹁何か﹂に期待して騒ぐ手を止め息を飲んだのだ。
山形監督は明智や俺にカルロスへボールが渡らないようにカット
しろと言っていたが、向こうのキックオフからではどうしようもな
い。 とっさに膝と腰を落とし重心を低くした状態へ移り、いつでも来
いと突破に備える。
だが俺達の背に走る期待と恐怖をはぐらかす様に、カルロスはあ
っさりとボールを後ろにはたく。
その途端観客席の全てから残念そうな溜め息がつかれるのを感じ
る。
なんだよ、ただのバックパスか。緊張に乾いた唇を舌で湿らせ一
息入れようとすると、いつの間にかカルロスがすぐ自分の目の前に
まで接近している。
嘘だろ? 今俺はパスの行方を目で追っただけだぜ。それだけの
短時間で俺との間合いをゼロにまで詰めるなんて、こいつは瞬間移
動でもしたのかよ。
これまでもスピードスターと呼ばれる快足の選手とは何度も対峙
したが、あきらかにカルロスは他の奴とは桁が違うぞ。以前にこい
つと戦ったのは小学生時代だから比較にならないぐらいに速さが増
しているのは当然だ。だがしなやかさや軽やかさはそのままで走る
姿は格段に力強くなっている。ハイパワーのレーシングカーを低い
ギアでゆっくり運転してもその背後に莫大なエネルギーが隠れてい
1478
るように、軽い身のこなしだけで彼我のエンジンの違いを実感して
しまう。
マズイ、どこが体調不良だよ。
ほんの一瞬の踏み込みだけでカルロスが絶好調だって判るじゃな
いか。
風を切って俺の隣を通過していくカルロスに遅れまいと慌ててそ
の背を追う。こんな奴へボールを持たせては堪らない。失点の危険
を告げる警報が、後半開始してまだ一分も経過してないのに最大の
ボリュームで脳内に響きわたっている。
ここでブラジルのディフェンスからのグラウンダーのパスが、ピ
ッチを斜めに横切って日本の右サイド後ろのスペースへ出された。
ピッチが丁寧に整備されているせいか、ボールは芝の上を滑るよ
うに転がっていく。やはり相手もこっちのウィークポイントである
島津のいる︱︱いや正確にはいつも留守にしているサイドから攻め
てくるつもりか。
しかし敵のパスはブラジルの超攻撃的サイドバックであるフラン
コには通らなかった。
別に日本の守備網に引っかかった訳じゃないぞ。
ではなぜ通らなかったのか? カルロスがそのボールをカットし
たからだ。
ほんの軽くといったダッシュと長いリーチのある足で、自分へ出
されたものではない味方へのパスを途中で奪ったのだ。
こいつにボール持たせるなと指示されていたし、カルロスへのパ
スは全部遮ってやると意気込んでいた。だが今のパスは明らかにカ
ルロスへ対してのものではない弾道だったので反応ができなかった
のだ。
もちろん今の敵が出したパスにしたって俺が遮ろうとしなかった
のは、カルロスへのパスではないと無視したのではなくカットしよ
1479
うとしても間に合わないと判断していたからだ。
それなのにこのブラジルの十番にとってはちょっと足を伸ばせば
簡単に届く程度のボールだったのである。彼と俺の判断の基準が数
年の間にかなり異なってしまっているらしい。
スピードがあるというだけで、カルロスはあらゆる行動にアドバ
ンテージを得ているのだ。それを忘れてしまうと大変な事になって
しまう。
ブラジルの十番がボールを持ったことで場内はブラジルサポータ
ーを中心に今度は歓声が湧く。プレイ一つでサポーターの声援を止
めたり上げさせたり、いちいち観客の感情を刺激する奴だなこいつ
は。
とにかくカルロスお得意の縦へゴールまでの直線的な突破だけは
最優先で防がねばならない。
しかし彼の前へ守備ブロックを敷こうとするより速く、カルロス
は行動を開始する。
だからお前はアクションのスタートが速すぎるんだよ! どうし
てもこっちが後手を踏んでしまうじゃないか。
対戦時のカルロスの性格とプレイスタイルから、俺はこの場面で
は間違いなくドリブルで抜きに来ると確信していた。
しかしここで彼の選んだのはシュートだった。少なくとも俺はカ
ルロスのキックを見てそう思ったのだ。
前に壁を作るより速くロングシュートを撃たれたと。
﹁キーパー頼む!﹂
俺を含む中盤の全員が日本ゴールを振り返るが、カルロスの蹴っ
たボールはゴールネットではなくその少し手前にいる小柄なブラジ
ル人ストライカーにぶつかった。
いや、ぶつかったんじゃなくあれはトラップしたんだ。
1480
カルロスの撃った強烈なシュートを受けたせいでボールが上に跳
ねたからぶつけられたように見えたが、胸で勢いを吸収し真上に浮
かべたらしい。
嘘だろ? あれだけのスピードとパワーのボールをコントロール
しきっているのか?
だとすると、カルロスのあのパワフルなキックはシュートではな
く狙い通りのパスだったのだろう。
相手の持つ高い技術とコンビネーションにぞくりと背筋の毛が逆
立つ。
危険だ。ゴール前でボールを受けとった、ブラジルが誇る二大エ
ースの片割れであるこのエミリオは一体何をするつもりだよ。
カルロスのキックに目を奪われたDFが接近するまでのごく短時
間に、どうやってシュートを撃てばゴールになる確率が最も高いの
か?
ブラジルのエースストライカーがその疑問に出した回答は、最も
早いタイミングで最も強くシュートを撃つというシンプル過ぎるも
のだった。
しかし、それを実行に移せるのは常人にはできない発想と高い技
術に優れた身体能力を併せ持ったストライカーであるエミリオだけ
だ。
トラップで浮かせたボールがピッチに完全に落下してくるのを待
たずに、自分の頭の位置にまで落ちてくるとそれをオーバーヘッド
でシュートしたのである。
高い打点から放たれ、慌てて守ろうとやって来たDFの足元を抜
けて芝へ叩きつけられたようなアクロバティックなシュート。
カルロスをよく知っているだけに、彼にシュートされたと反応し
てしまった日本の守備陣。そのせいでエミリオへの警戒が薄れてし
まっていた彼らにこれほど芸術的なシュートを止めるのは不可能だ
1481
った。
オーバーヘッドで上から叩きつけられバウンドしたボールが、下
からゴールネットを突き上げる。
芝の上に﹁ぐぇ﹂と日本語でもおそらくブラジルの公用語である
ポルトガル語でもない呻きを上げ、背中から着地したエミリオは芝
の上に横たわったまま右腕を高々と上げて人差し指を一本上げる。
オーバーヘッドで得点した直後というのに格好良いというより、
悪戯が成功して喜んでいる子供といった風情である。
その上ブラジルの選手が集まってくるよりも早く、首の隣に両手
を置いて下半身を引きつけるとそれを戻す反動︱︱いわゆるヘッド
スプリングでぴょこんと起きあがったのだ。
その姿にはすでに背中から落下したダメージの影響は欠片すら残
っていない。受身が上手いというのもあるだろうが、こいつもまた
体中がバネかゴムで出来ているような柔らかく鮮やかで重力を感じ
させない少年だ。
︱︱カルロスだけじゃなく、こんな化け物までいるのかよ。
ブラジルの人材のあまりの豊富さに舌を巻いてしまう。
それに中盤で数人掛かりで潰すはずだったカルロスがアシストに
回ったのもマズい。これまではどんなに囲んでも強引にフィニッシ
ュまで持っていくタイプだったが、彼がゴール前に決定的なパスを
供給する事も考慮すると事前に講じた前を切る作戦でいいのか不安
になってしまう。
いや、まだ日本がリードしているんだ。何を心配しているんだよ。
落ち着いてこれからの失点を防げばいいだけだ。
ブラジルサポーターの前で軽々と前方宙返りをして喝采を受けて
いるエミリオの運動能力にちょっと引きながら、きっと大丈夫だと
自分に言い聞かせる。
1482
二分後、またもブラジルのゴールが生まれた。
失点の動揺を隠しきれない日本ディフェンスを切り裂く単独のド
リブル突破からDFを引きつけたカルロスがラストパス。
マークの甘くなったエミリオがシュートするがこれはマークして
いた武田が必死に体でブロックする。だがそのこぼれ球をずっと日
本のゴール前まで上がりっ放しだった、ブラジルの超攻撃的左サイ
ドバックであるフランコに押し込まれたのだ。
トップ下カルロスの突破力、FWエミリオの決定力、DFのはず
のフランコの攻撃意欲。どれをとっても厄介きわまりないが、三人
揃うことでより一層危険な化学変化を起こしている。
あれよあれよと言う間の同点劇にブラジルサイドは湧き上がって
いる。ベンチに座っていた敵監督まで飛び上がってガッツポーズを
作っているんだから、さすがに南米のチームはノリがいい。
向こうで唯一不服そうなのは、シュートの直後に二本の指をピー
スサインのように上げかけてはすぐにこそこそと隠したエミリオぐ
らいだ。
前半俺達日本があれだけ必死になって積み上げた二点のリードは、
たった五分間のブラジルベストメンバーによる猛攻によって、大波
にさらわれて崩れ去る砂の城のようにはかなくも消滅してしまった。
1483
第七十一話 とりあえず落ち着きを取り戻そう
たったの五分間で、前半に必死で作った貯金を吐き出してしまっ
た俺達日本代表の表情は暗い。
真田キャプテンが手を叩いて﹁イーブンに戻っただけだ! ここ
からだぞ、集中しろ集中!﹂と大声を上げて士気を鼓舞しようとす
るが、正直俺を含めたピッチ上のメンバーにはあまりその熱が伝わ
ってはこない。
だが、ここでうちの山形監督が守備の崩壊を見かねたのか手を打
ってきた。
この大会ほぼ全ての試合でフル出場している左のサイドバックを
下げ、センターバックのDFを投入したのだ。
これははっきりと守備をスリーバックに切り替えて、中央のカル
ロスとエミリオのラインを断つという意図らしい。ざっくりとサイ
ドの守備を切り捨ててゴール前を固める作戦にでたのだ。
一応筋は通っているな。日本の左のサイドの守備は薄くなるが、
ブラジルはそこからの攻撃はあまりない。それより真ん中の守りが
強化され、却ってフランコの攻めてくる日本の弱点である右サイド
までもある程度カバーできるようになると考えれば悪くない。
それに加えて連戦で疲労の溜まっている選手をフレッシュな人材
と交代させ、守備の動きを活性化させようというつもりだろう。
それにしてもブラジルの攻撃力は想像以上である。いくらカルロ
スやエミリオの二人が天才同士だとしても、コンビを組ませるとそ
の化学変化の結果がここまでの破壊力を持つようになるとはな。
今すぐにでもやり返してやりたいという思いを耳障りな音が立つ
ほどに奥歯を食いしばって押し留め、短時間でずたずたにされた守
備組織の立て直しを優先する。
1484
真田キャプテンと武田に交代加入したDFがあれこれ怒鳴り合っ
てコミュニケーションをとっている間、俺達中盤はボールを回して
いくらかの時間を稼ぐ。
いきなり守備陣形を変更しようとしても、その認識のすり合わせ
やマークの受け渡しのラインなど話し合わなくてはいけない点も多
い。
守備が組織として機能するまでには、選手を交代させてリセット
したとしても再起動するまで時間が必要なのだ。
だからこのボール回しはこれまで日本やスペインがやっていた、
ボールの支配率を高めて相手の陣の隙を窺うといった攻撃の前提と
してのパス交換ではない。今の俺達がしているのはディフェンスが
安定するまで敵に攻められないようにする﹁逃げ﹂のボールキープ
だ。
もちろんこの時間帯にはボールを失うようなリスクは僅かでも犯
すわけにはいかない。まだまとまっていない守備状況で、ブラジル
の攻撃を受けてしまえばそれを止められるなんて到底思えないから
だ。
特にカルロスのスピードは彼が守りに回っても日本代表チーム全
体が脅威と認識していて、彼がボールを持った選手に近づく度に﹁
カルロスが来たぞ!﹂とまるで古代中国で項羽に襲われる劉邦の軍
のように悲鳴混じりの警戒の声が上がる。いやそれは、いくらなん
でも怯えすぎだろう。
その懸念が当たってしまった。全く嫌な予感だけは的中率が高い
んだからな嫌になるぜ。
カルロスからできるだけ遠ざかろうとする傾向なんて数回やって
いれば敵にもバレてしまう。
カルロスを囮としたブラジルのボール狩りに見事に引っかかり、
1485
彼のやってくる方向と逆サイドへ流そうとしていたパスを奪われて
しまったのだ。
相手も後半開始して早々に同点に追いつけたせいか鼻息が荒く、
勢い込んで攻撃に移ろうとする。
だが俺達が冷や汗を流しながら綱渡りでボールキープを続けてい
た甲斐はあった。この時点になってようやく日本はDFラインを含
む守備の整備が完了したのだから。
ボールを奪った敵の勢いが減速する。思ったよりこっちの守備組
織がしっかりしているのに気がついたのだろう。﹁余計な手間をか
けやがって﹂と言いたげな態度で守りの穴とパスの出しどころを探
す。
しかしこちらの新たに構築したディフェンスは後半のブラジルの
陣形に、より最適化されたフォーメーションだ。特に中央はカルロ
スの警戒をしているために枚数が揃っている。
そこで俺は後ろを任せ、ボール持っている選手に対してアタック
をかける。 こんな積極的な守備はついさっきまでは不可能だった。ゴール前
がしっかりしていると信じられるだけでここまで守る側の意識が劇
的に変化してくるとはな。
自分の位置を常にボールホルダーとカルロスの間に置くよう気を
付け、敵に近づいていく。
相手もこの攻め方は失敗したと感じたのか、後ろに戻してやり直
しを図ろうとした。
だが、ここで相手はミスを犯す。俺に間合いを詰められていると
簡単に後ろにはたいたのだが、そこには普通いるはずのない少年が
存在していたのだ。
そう、日本陣内では滅多に守備をしないDFの島津である。それ
が、本のエリアではやらないけどブラジル陣内へのバックパスなら
1486
ば話は別だ、ボールを奪えばすぐにゴールチャンスになるもんねと
ばかり、張り切ってボールを獲りにやってきたのだ。しかもそのパ
スコースに最短距離で入るカットのやり方もタイミングも、守備力
が必要とされるサイドバックとして考えても文句の付けようがない
見事な物であった。
実際、今も無警戒で出されたパスを見事に横取りする事に成功し
た。だけどさぁ、
﹁島津、お前守れるんなら日本の陣地でもやれよ!﹂
思わず日本選手のほとんどが口を揃えて叫んだのは悪くないと思
う。
しかし、チームが一丸となって声を合わせて突っ込んだのは無駄
ではない。連続失点してから硬くなっていたピッチ上のイレブンを
覆う雰囲気が一気に柔らかくなったのだ。
カルロスとエミリオのツートップが与えるプレッシャーとは関係
ない、うちのDFの問題行動︱︱しかも結果的には日本の利になる
プレイに全員の唇に苦笑が湧き肩の力が抜けリラックスができた。
ただ本人の島津だけは、そんなことは関係ござらんとばかり奪っ
たボールを落ち着かせずに敵ゴールへと殴り込みをかける。
本当になんでDFをやってるんだろうこいつ? 何度目になるか
数え切れないぐらいに抱いた疑問を浮かべつつ、俺達攻撃的なポジ
ションのメンバーもその前進に追随する。
だがブラジルの守備は前半と変わっていないにも関わらず、日本
が島津をフォローする動きは一呼吸おくれてしまう。その原因は敵
のディフェンスではなく反対にアタッカーであるカルロスとエミリ
オの存在にあるからだ。
いくら日本が攻撃するチャンスであってもこいつらを無視するわ
けにはいかない。最低限の気配りはしておかないといけないのだ。
1487
最低限彼ら一人につき二人のマークが必要なのだから、こいつら
に人数を割くとどうしても攻撃の手が足りなくなってしまう。
特に俺の立場からすれば明智をカルロスのマークに取られたのが
厳しい。いつでもすぐ後ろにいて、パス交換や攻撃の組み立て直し
など第二の司令塔として参加していてくれたからだ。
ええい、使えない駒を悔やむより今出来る攻撃に集中しろ!
自分を叱咤し、ピッチの全景を眺める。
島津がゴール前やや右方面でボールを持っているが、前を塞がれ
彼一人の力ではフィニッシュまで持っていけずに手の打ちようがな
い。
かといってセンタリングを上げる目標となるべきFWの上杉は、
今回はきっちりマークしているクラウディオに完全に抑え込まれて
いる。島津の相手は他のDFに任せ、ブラジル最高のDFは上杉を
封じ込めるために全力を尽くすようだ。
︱︱しまった。警告のタイミングが遅れた。
﹁島津、一旦戻せ!﹂
俺の声に渋々といった態度を隠そうともせずに、ボールを下げよ
うとする島津。本当は強引にでも切り込んで行きたかったのだろう、
だがその成功率が低すぎると自制したようだ。シュートまでいける
のであれば無理矢理でもやる価値はあるが、その前段階で潰されて
しまいそうではいくら彼でも突っ込むのが躊躇われるのだ。
だが、そうじゃない。俺が﹁戻せ﹂と叫んだのは島津が無理矢理
カットインしても上手くいきそうにないからではないのだ。
お前の後ろにいつの間にかカルロスの奴が接近しているんだよ。
カルロスをマークしている連中も、自陣深くへ帰るカルロスに最
後まで付き合うようなみっともないマネをするわけがない。彼が完
全にブラジルディフェンスに参加するようだと判断すると、また上
1488
がってくるまで監視はしてもマークは甘くなる。 その自由に動ける自陣での時間を有効活用しやがった。
島津の死角から凄いスピードでチャージをかける。ボールを完全
に奪うのではなく、ボールをつついてコントロールを失わせ体勢を
崩させるのが目的だ。その目論見通りにカルロスのチャージに足下
からボールを失う島津。
そんな隙を島津の前を切っていたDFが見逃すわけがない。体か
ら離れたボールを素早くかっさらう。
この展開はかなり危険である。
久しぶりの攻撃のチャンスだと日本のフォーメーションが前掛か
りになっているからだ。だが、後ろに残してきたDFの守備ブロッ
クはしっかりしている。ならばここでカウンターの得意なカルロス
へのパスさえ通さなければ何とかなる!
そう脳内シミュレーションした俺は、とっさにカルロスの後ろに
向かった。ここに陣取れば前は島津、後ろには俺と二枚で彼を囲ん
でいる形になる。
ボールを奪ったDFはこちらに一瞥をくれるとカルロスに渡すの
は諦めたのか、大きく日本陣内に蹴り込んだ。クリアと見間違うぐ
らい大雑把なキックだ。これならうちのDFなら何とかしてくれる
だろう。そう安堵し、息を抜く。
その時、カルロスが今日初めて俺に話しかけてきた。以前より少
しだけ声は低く大人っぽくなり日本語の発音が硬くなっているな。
しかし、問題とするべきなのはその内容だろう。
﹁あいつを甘く見ているようだな﹂
カルロスが示すあいつ︱︱それがエミリオを指すのだという事に
気がつくと、俺と会話を漏れ聞いていたらしい島津の視線が合う。
1489
ブラジル代表のストライカーを甘く見ていたつもりはない。だが
カルロスは脅すような事は言わないタイプだ。それなのにここまで
言うほど高く評価している相手ならば警戒するどころか恐怖に値す
る。
その少年に今ボールが渡ろうとしているのだ。
俺と島津の喉から絶叫が迸った。 ﹁エミリオを止めろ!﹂
と。
1490
第七十二話 踊る子供に注意しよう
﹁エミリオを止めろ!﹂
俺達前線の喉も破れよというぐらい力を込めた絶叫は、ピッチを
覆う歓声の中でもなんとか日本のDF達に届いたようだ。
カルロスといったトップ下がいつものポジションにいないブラジ
ルは、攻め手としてはFWのエミリオへのロングパスを放り込むぐ
らいしかない。
そこまではこっちも予想していた。そのために今のエミリオには
マークがきちんと二枚ついている。これまでのブラジルが奪ったゴ
ールは、全てカルロスからの鋭いアシストパスが起点となってフリ
ーのエミリオにフィニッシュまで持って行かれていた。
だからこの大雑把なパスに対しても守備組織がしっかりまとまり、
FWのマークが外れていない状況ならばそう簡単には得点されたり
しないはずだ。
この見解は間違っていたとは思わない。ただ例外を設けておかな
ければならなかったのだ︱︱ただし相手FWが天才の場合を除く、
と。
ブラジルDFからのやや正確さを欠いたパスをいち早く受け取っ
たのはエミリオだ。
本来ならこいつにはボールにも触れさせないのが最善なのだが、
彼についている二人はパスカットより対人がプレイ得意なセンター
バックの屈強なDFである。エミリオに抜かれないよう、シュート
を撃たれないようにとディフェンスしていれば自ずと彼とゴールの
間に立つような位置関係になる。
これでは後方からのロングボールを事前にクリアできなかったか
1491
らといって責められない。彼らの目的はパスを遮断する事ではなく、
エミリオにシュートさせない事なのだから。
なにしろこの段階ではブラジルのアタッカーは彼一人に対し、守
る側の日本はセンターバックが二人にバックアップ役として真田キ
ャプテンまでいたのだ。じっくりと待ち構える体勢になるのが一番
リスクが少ないはずだった。
それでも人数が揃っているからと気を抜かず、俺と島津の叫びに
最終ラインは警戒感を強める。
エミリオはボールを持つとその場で身軽に反転し、日本のゴール
を窺う。
だがその時にはすでに武田と途中出場のDFがきっちりシュート
コースを消している。更には真田キャプテンが二人が抜かれた場合
に備えながら距離を詰めてきているのだ。普通のFWであれば即座
にバックパスし援軍を待つしかない状況である。
しかし、このブラジル産のゴールハンターはいい意味でも悪い意
味でも普通ではなかった。
ほとんど三対一で不利な勝負になるのを理解してなお嬉々として
守備網が待つペナルティエリアへと突入してきたのだ。
ここまでエミリオの行動はブラジルにとって悪い意味で普通では
ない。状況判断のできないFWはDFの獲物になるしかないからだ。
しかし客観的には愚行なはずなのに、自身の持つテクニックで予想
される結果をひっくり返して見せるのだから質が悪い。
日本にとって悪い意味で普通でなかったのは彼の細かいタッチの
ドリブル技術の高さだ。これほどのテクニシャンのFWには決勝ま
で勝ち上がった日本の最終ラインもこれまでお目にかかった事がな
かったのである。
ドイツの﹁新型爆撃機﹂はもっと無骨でゴールに直結する技しか
なかった。スペインの酔いどれはMFで生粋のゴールハンターでは
1492
なかった。ペナルティエリア内で、日本が最終ラインを任せている
三人がかりでもボールを奪えないどころかエリアから追い出せもし
ないなんてことは今まで一度もなかったのだ。
囲んでいるDFより一回り小さく細い体が小刻みに、しかもリズ
ミカルに楽しげにステップを踏む。
﹁あいつペナルティエリア内で踊ってやがる⋮⋮﹂
﹁ああ、あれぐらいはやるさ。このオレが認めたFWだぞ﹂
無意識に呟いてしまった言葉にまだ隣にいたカルロスが答えた。
こいつが認めるほどの才能なのか⋮⋮、そこまで考えてはっとした。
感心している場合じゃないだろう。
﹁石田さんに明智も守備に戻りますよ!﹂
俺の声にあまりに鮮やかなエミリオのダンスに見とれていた二人
が再起動する。ここからでは日本の最終ラインでの戦いに参戦する
のは間に合わなくとも、エミリオが踊っている時間を使って一斉に
押し上げ始めているブラジルの攻撃陣を牽制するぐらいの事はでき
る。
自分のできる事をやらずにディフェンスを頑張っている仲間を見
殺しにするわけにはいかない。
だが俺達が戻るより早く、審判の吹く笛によって試合が止められ
てしまう。
得点を認める響きではなく、反則があった時の笛の音だ。
おそらく試合会場全てからの視線が注がれる中、審判が途中加入
した日本のDFにイエローカードを示すと少し体を捻りペナルティ
スポットを指さす。
1493
カードを突きつけられたDFは﹁反則なんてやっていない﹂と必
死な表情で詰め寄るが、その体を武田に後ろから抱えこまれて暴れ
そうなその行動を抑えられている。確かにこれ以上興奮した状態で
乱暴な抗議すると警告が累積して退場させられかねないからな。
そしていつも冷静な真田キャプテンが審判とファールを取られた
DFの間に立ち、作り笑顔で今のジャッジに間違いないのかと確認
をしている。
俺の鳥の目による状況確認では、エミリオの誘うフェイントに引
っかかってついDFが足を出した瞬間に、狡猾なブラジルのストラ
イカーがタイミングを見計らってわざとその足に引っかかって転ん
だようだった。
しかし一度下された判定はまず覆らない。それにエリア内でボー
ルを持ったFWの足にDFの出した足が触れたのも事実だ、微妙な
判定だがミスジャッジとも言い切れない。
あのDFは途中加入だっただけに、いきなり世界最高クラスの技
術とハイテンポのドリブルについていけなかったようだな。交代直
後に時々ある流れに乗り損ねた状態だろう。
アップで体は十分に暖気していたはずなのに、テンションの差や
これまでの試合展開を経験しているか否かで、周りの選手に比べ精
神的に一歩引いている分反応が遅くなってしまう事があるのだ。
どうやら試合の流れに乗る前に、エミリオのリズムに飲まれてし
まったか。
クリーンではないが貪欲にゴールを狙うエミリオ。彼には才能だ
けではなく、子供の頃からブラジルのストリートサッカーで磨かれ
た反則すれすれの行為を審判にバレずに行う狡賢さ﹁マリーシア﹂
があった。
その狡賢い点取り屋は審判が反則だと笛を吹くまでは、ぐったり
とピッチに転がっていた。
DFに比べ一回り小さな体が同情を誘ったのかは定かではないが、
1494
現金な事に笛が吹かれPKが確定した途端走ってボールを確保に動
いたのだから肉体的なダメージそのものについては心配いらないよ
うだ。
ボールを抱えて元気一杯にペナルティスポット前に立ち、今か今
かとPK開始を待ちわびて陽気な笑みを浮かべているエミリオに苛
立ちが募る。
そりゃ、ルール違反はしてないけど少しぐらいは悪びれればいい
のに。
日本代表とベンチメンバー、それにプラスして会場内の日本を応
援するサポーター全員がエミリオへ向けて﹁外せ外せ﹂と呪いの念
を飛ばす。
緊迫した空気を切り裂き、審判の笛が響く。同時にキーパーが両
手を叩き、大きく広げた。その威圧感は彼の体が倍に膨らんだよう
でゴールが小さくなったようにさえ感じさせる。
エミリオはえくぼを作ったままでモーションに入ると鋭く右足を
振り抜いた。
彼の蹴ったボールは日本のキーパーが飛んで無人になったど真ん
中へ柔らかな軌道を描く。まるで子供がふわっと宙に優しく放り投
げたようなシュートでこの重大な場面でのPKを決めたのだ。
キックモーションはそのままでタイミングにボールの速度とコー
スを足首だけで完全にコントロールしている。傍目には素人が蹴っ
たシュートに見えるかもしれないが、地味ながらハイテクニックで
ある。
ゴールネットを揺らす逆転されたゴールの音はほんの僅かで、俺
の耳に届く前にブラジルサポーターの上げる大歓声にかき消されそ
うなほどだった。
神経を尖らせてヤマを張り、エミリオのキックするタイミングに
1495
合わせて飛んだうちのキーパーを小馬鹿にしたようなシュートだな。
誇らしげにピースサインのように指を二本突き出した右手を掲げ
るエミリオ。どうやらあれは﹁二点獲ったぞ﹂というアピールらし
い。さっき同点に追いついた時もこれをやろうとしたんだろう、今
度こそそのポーズがとれてご機嫌なのか満面の笑みを浮かべている。
さっきのちょっとインチキ臭いPK奪取といい、エミリオは完全
にリラックスしてプレイしていやがる。これが俺達の年代でブラジ
ル最高、いやもしかしたら世界最高の点取り屋な本来の持ち味なの
か。カルロスみたいな剛の凄さではなく柔の上手さを持っているタ
イプである。
この二人のコンビは本当に厄介だ。完全に抑えきるのは厳しいぞ。
少しだけ弱音を吐きたくなった俺はベンチを伺う。
そこには失点の動揺を微塵も表に出さず、毅然とした態度でブラ
ジルゴールを指さす山形監督の姿があった。
本当ならあんたが一番頭を抱えていたいだろうに、意外と肝が据
わっているじゃないか。
指揮官が堂々としていると、下の人間は落ち着くものだ。まだエ
ミリオにしてやられた感が強い日本代表だが、監督の姿を見て徐々
に混乱が収まってきた。
確かに今の失点は痛いが、あれはエミリオの個人技と演技にやら
れただけで組織としてのミスではない。勝ち越されたからといって
同点にされた後に選んだ日本の攻撃態勢を変えるより、更に強める
べきだ。
最低でも後一点取って同点にしなければ、延長戦やPK戦にまで
も持ち込めないのだから。
今日の試合が厳しいのも敵が強いのも覚悟していたはずだろ? 前半の楽勝ムードに腑抜けてしまっていたかな。これは世界大会の
決勝戦、俺達の年代でサッカーが一番強い国を決める試合なのだ。
1496
このぐらいの苦境は予想してしかるべきだったんだ。
うん、そうだな。だから落ち着いて冷静に、うちの守備陣を虚仮
にしやがったブラジルをボコボコにしてやる。
失点したがまだ一点差だ。この日本代表がこれまでどれだけリー
ドされた試合を逆転した来たと思っている。却って追いかける展開
の方が慣れていてやりやすいぐらいだぞ。
俺達日本代表の士気は逆転されたにも関わらず、未だに高いまま
だった。
1497
第七十三話 化物と戦ってみよう
DFからのパスを受け取ったカルロスは、自分がボールを持った
途端に周りにまとわりついてくる複数のマークが鬱陶しくなった。
ただでさえ暑いピッチの上なのに、これだけ密着されるとサウナ
にでも入っているようだ。
だいたい後半早々に三ゴールも連続して奪いブラジルが逆転した
のに、こいつらはちっともショックを受けた様子がないどころか更
に精力的にプレイするとは彼にとっては予想外だったのだ。
何とも元気でタフな奴らだと考え、自分の所属していた時代との
あまりの違いに楽しくない思い出が浮かんでしまう。
オレが居た頃の日本代表は、こんな状況だとすぐオレと監督の顔
色を伺ってばかりだったのに、と。
首を振って昔のチームの面影を追い出すが、相手からのチェック
は厳しくなる一方だ。
おいおいここはまだブラジルの陣内だぜ、そう慌てなくてもいい
だろうが。明らかに自分より弱いはずの猟犬に吠えかかられる虎の
ように辟易しながらカルロスはどうするか一瞬だけ考えた。
パスを回すか? その思考がよぎるがすぐに却下する。なんで自
分が逃げなくてはいけないのかと考えただけで腹が立つ。
ゴールへ繋がるアシストパスを出せるならば構わない。
ブラジルまで来て初めて頼りになるFWのエミリオという味方を
得て、アシストする楽しみを覚え始めたからだ。彼に出会うまでは
カルロスのアシストと記録されたのもあまり意識的な物ではなかっ
た。自分がゴールするには敵が多すぎて難しいからと、仕方なくマ
ークの緩いチームメイトにパスを回したら結果的にアシストになっ
たというだけの感覚だったのだ。
1498
だがエミリオといった希代のゴールゲッターが相棒になり、ゴー
ルを奪うための積極的な選択肢としてパスを選べるようになった。
自分の能力が高すぎるだけに他者への要求もまたハードルが高す
ぎたのだろう。現時点でもカルロスの要求を満たせるのはブラジル
でも今日すでに二ゴール奪っている小柄なゴールハンターしかいな
いのだから。
だがこの場面では彼からエミリオへのパスコースは幾重にも厳重
な人の壁に遮られ、空いているパスコースはDFへのバックパスぐ
らいしかない。
選択肢を小細工で幾つか消されてしまっているのだ。
ジョアン
面倒だな、不意にカルロスの中にある残酷で子供っぽい部分がそ
う囁いた。
面倒なら、邪魔ならばさっさとオレの進む道にいるこいつらをど
ければいいだけか。
そう判断したカルロスは三人でマークしている包囲網から脱出を
試みる。
彼が抜け出すのに要したのは、僅か五歩であった。
◇ ◇ ◇
﹁アシカ、さっさとパスよこさんかい!﹂
﹁判ってますよ!﹂
上杉の貪欲な要求に怒鳴り返す。本当に判ってはいるのだ。
逆転されてしまったのだから俺達日本代表は追いつくためには攻
撃するしかない。もともとこのチーム構成は守りには不向きなのだ、
途中経過はどうあれ積極的に攻勢でいくしかないのだから。
今もブラジルディフェンスからのボールをカルロスに持たれたが、
1499
即座に三人掛かりで囲みに行く。
うん、前線からのプレスが効果的に機能しているな。日本全体が
前傾姿勢になっているためにまだ敵陣にもかかわらずキーマンを包
囲するだけの人数が揃っていたのだ。
左サイドでパスを受けたカルロスを明智・石田と言った監督から
指名されたマーカーだけではなく、左ウイングの馬場までもが加わ
ってたった一人を潰そうとしている。
よし、あそこでボールを奪えればブラジル陣内の深い位置からの
いいカウンターができる。
俺はその速攻に参加するつもりで自分のポジションをさらに前へ
出そうとするが、なぜかその場から足が動こうとしない。動くなと
言う体からの警告が冷気を伴い背筋を走ったのだ。なんら兆候が無
いにもかかわらずピッチにいる選手全員が俺と同様に寒気を感じた
のか身震いしたようだった。
ピッチの外にいては感じ取れないこの異様な雰囲気は、俺が知る
限りではただ一人の少年しか発する事ができない物である。
つまりは︱︱カルロスが本気になっているのだ。
カルロスが密着マークの三人全てを振り切るのには五歩しか必要
としなかった。
静止状態からいきなりボールを強くファーストタッチしてトップ
ギアで飛び出す。
名ドリブラーと呼ばれる選手に多い小刻みなピッチ走法ではなく、
長いストライドを活かした一歩でぐいっと進む走りだ。
いきなりトップギアになるスタートダッシュに、まず彼の後ろを
カバーする形だった馬場が置き去りにされる。
だがカルロスのダッシュはたった二歩で急停止する。
彼がブラジルの地で成長した一番の能力はこのブレーキかもしれ
ない。スピードだけなら日本に居たころでも十分以上だったが、今
1500
は一層磨きがかかっている。そのほぼ最高速度に近い状態からたっ
た一歩でボールごと完全に停止できるだけの強靱な下半身を向こう
のトレーニングで手に入れたのだろう、それがこの急ブレーキを可
能にしているのだ。
ここで二人目の明智がそのブレーキについて行けず、たたらを踏
みながら芝で足を滑らせ転倒する。
さらにカルロスは急停止から間を置かずにボールを伴ったロケッ
トのようなダッシュを再開。
なんとかこれまでの挙動についていった最後のマークであった石
田でさえも、その再加速によって置いて行かれた。
ここまでカルロスが動いたのはほんの五歩。
ストップ&ゴーというフェイントですらない基本的なスピードの
変化だけで、三人のマークが赤子扱いされてしまった。
サッカー選手としての技術がどうとかいう問題ではない。アスリ
ートとしての身体能力の差があまりにも大きすぎるのだ。
そのまま前へドリブルを続け、彼は一気にセンターラインを通り
越して日本陣内へと侵入する。
マズいぞ。戦慄で冷や汗が背中を流れるのを感じながら鳥の目で
戦況を確認する。
左サイドの三人を突破されたためにもうサイド守備からのフォロ
ーはない。ディフェンスは慌ててゴール前にブロックを作って対応
しようとするが、間に合うかどうか。
唯一の有利な点はあまりにカルロスの駆け上がるスピードが速す
ぎて、ブラジルも中央にはまだエミリオぐらいしかカウンターを受
けようとゴール前に飛び込む準備が出来ている選手がいないことぐ
らいだ。
だがそのエミリオでさえも明智や石田といった中盤を守るボラン
チが全員カルロスについていってしまったので、今は俺が見ている
状態である。
1501
次第に日本の最終ラインとペナルティエリアが近づいてくる。
これまでの約束事では中央を守るDFにエミリオのマークを受け
渡す地点はすぐそこだ。
しかし、ここでエミリオを最終ラインに任せてしまってはこいつ
のマークに人数が取られカルロスの突破に備える人間がいなくなる。
だがこいつを無視するわけにも行かない。これまでさんざん見せ
つけられてきたエミリオの得点能力を考えると、カルロスからエリ
ア内でフリーのこいつへホットラインが通じるなんて考えたくもな
いからな。
そんな余計な事に神経を回していたのが悪かったのか、エミリオ
が一瞬の隙を突いて俺の背後を取るような動きでゴール前に単独で
向かう。
しかもそれに合わせたようなタイミングでカルロスがDFライン
の裏を狙うパスを出したのだ。
ドクン。
自分の心臓が大きく跳ねるのが自覚できた。
カルロスのパスはDFがどうするか判断に迷う守備側にとっては
嫌な曖昧な位置からだった。DFがエミリオにつくのかラインを上
げてオフサイドを狙うのか真田キャプテンが指示する一呼吸前にパ
スが出されてしまった。
最終ラインが整わず、俺もこの小柄なゴールハンターを抑えきれ
ていない。
このままエミリオを素直に突破されてしまえばリードが二点差に
広がる可能性が高い。
ほとんど恐怖に駆られ、俺は自分のプライドを捨てる決断を下し
た。
併走するエミリオの肩を掴むとユニフォームを引きずるようにし
て自分ごとピッチへと転がる。
1502
ボールがないところでのあからさまなファールである。相手が怪
我しないように気をつけていたとは言えイエローカードぐらいは間
違いなくもらうはずだ。
クリーンなプレイが信条の俺がこんな卑怯な真似をするなんて⋮
⋮。
しかし、それでも俺にはこの状況で失点を免れるには他の方法が
思いつかなかったのだから仕方がない。
一緒に倒れたエミリオの非難の目から顔を背けるようにして審判
の方を向く。悪いのは判っているよ、反省もしている、だから早く
笛を吹いてくれ。
︱︱審判はしっかりと俺の反則を目の当たりにして笛を口にして
いた。しかし、そこから音は流れない。
なぜだ? 審判は見ていたはずだし俺もプレイを止めるのが目的
だから隠そうとはしていない。なぜ彼が笛を吹かないのか俺には理
解ができなかった。
まさかアドバンテージを取っているのか?
背筋に再び寒気を覚えて鳥の目でピッチを上から見ても、カルロ
スのパスを受け取ろうとしてエミリオの後からゴール前に走り込ん
でいる人間はいなかった。
いや、いなかったのだ。この段階では。
ではなぜ審判がアドバンテージを取ったのか? それは次の瞬間
に凄まじい勢いでカルロスのスルーパスを受け取ろうと突っ込んで
きた少年によって明らかになった。
慌ててDFが作ったラインの隙間から、豪快に屈強な日本DFを
吹き飛ばすようにして駆け込んできたのはカルロス自身だった。
︱︱パスを出したのも受け取るのも彼一人でやる、一人スルーパ
スかよ!
自分の出した鋭いボールをも上回る速度でダッシュしてきたカル
1503
ロスの前に、決死の表情で飛び出す日本代表のキーパー。
キーパーの反応も悪くはなかった。
止められていただろう、相手がカルロスでさえなかったら。
カルロスが出した鋭いスルーパスに誰よりも早くもう一度触れた
のは再びカルロスの右足だった。しかも今度は強烈なキックによる
シュートだ。
その弾丸シュートは至近距離まで必死に伸ばしていたキーパーの
手を弾き飛ばしながら、いささかも威力が衰えた様子もコースさえ
も変わらずにそのままゴールネットに突き刺さる。
うずくまるキーパーを尻目に両手を広げ天に向けて叫びを上げる
カルロス。その姿に審判がゴールを認めるホイッスルと担架を要請
するアクションが続く。
今のプレイでキーパーが怪我をしたのか? 俺が半ば呆然としな
がら倒れたキーパーへ近づくと、審判は思い出したようにイエロー
カードを俺へ向けて高々と示した。
ああ、そうか。俺は失点を防ぐつもりで、今となってみればエミ
リオに全く無駄なファールをしたんだ。
力なく頷いて素直にカードと注意を受け入れながら、すぐに担架
に乗せられピッチから出て行ったキーパーの様子を窺う。
なんてこった、ドクターが彼のグローブを外した手を一目見ただ
けですぐに手でバツ印を作り、控えのキーパーが慌ててアップをし
ているぞ。やはりさっきのシュートでどこか怪我していたようだ。
はは、口から勝手に乾いた笑いが漏れる。
カルロスが一回ドリブルしただけでうちの守りは全部ぶち抜かれ、
キーパーは怪我させられて俺はイエローカードかよ。
自分の活躍の余波で巻き起こされた日本代表の怪我人や、俺の受
けたイエローカードのトラブルを気にもとめずにカルロスはサンバ
を踊っている。
1504
まるでリオのカーニバルのように盛り上がるブラジルのサポータ
ー。その観客席へ拳を掲げて一緒にリズムに合わせて踊る化物から、
俺はさっきエミリオによって失点した時の数倍の精神的ダメージを
受けている。
ああそうか、もう笑うしかないってのはこんな場合なんだろうな。
1505
第七十四話 下手な日本語に苦笑しよう
審判が得点したカルロスを中心にしていつまでも騒いでいるブラ
ジルに対し﹁そろそろ自陣に戻れ﹂と促している。
会場中がカルロスのビューティフルゴールに沸いているが、日本
代表とそのサポーター席に限ってはそこだけ太陽が雲に隠れて光が
差していないかのように暗く沈み込んでいる。
この沈滞ムードをどうにかしなければとも思うが、俺自身も頭の
中は今カルロスに見せつけられたプレイで一杯だった。
あれは︱︱卑怯だろう。
あんな化け物じみたスピードを身に付けるなんて、俺ではたとえ
人生の始めから全ての時間を短距離走の練習に捧げたとしても到底
無理である。
自分がすでに一回やり直せた事や鳥の目を持っている事などは棚
に上げ、カルロスの持つ圧倒的なスピードに対する嫉妬の念が腹の
中で熱を持ってじりじりと内臓を焼いていく。
だってあれだけのスピードがあれば、俺がこれまで苦労して身に
つけて磨き上げていたテクニックだの戦術眼だのがまるで意味のな
い無駄な物だったみたいじゃないか。
こんなに差がつくなんて、俺は一体今まで一体何をやっていたん
だろう?
ぐるぐると体中を答えの出ない問いが駆け巡る。
これまで一日も怠ることなく鍛えてきたはずの足の感覚すらおぼ
つかなく、気を抜けばKOパンチを受けたボクサーのように芝の上
に膝を突いてしまいそうだ。
1506
そんなぼうっとした状態の俺の耳へふいに子供っぽく高い声が突
き刺さった。
ブラジルを讃える大歓声の中で、棒立ちになりぼんやりと遠くな
っていた俺の耳にもは何か気になったたのはどこかで聞き覚えのあ
る単語のせいだった。﹁ブエナ・スエルテ﹂︱︱この単語は確かス
ペイン語で頑張れって意味だったか。そう言えばスペイン語もブラ
ジルで使われているポルトガル語もよく似ている言語だったよな。
カルロスはこれだけ大暴れしてもなお、もっと﹁頑張れ﹂って子
供からも応援されているのか。
いやよく聞けばこの声は﹁ブエナ・スエルテ﹂だけでなく、その
後に﹁マタネー!﹂とも続けて叫んでいるようである。なんだかお
かしな声援だなと思いつつ、ふと何の気なしにその声のする方向に
目をやる。
観客席の最前列でスペイン代表の酔いどれが立ち上がってこっち
に向かって叫んでいた。
﹁ぶほっ﹂
俺の口から含んでいた水を吹き出したような驚きの音が漏れる。
あいつあんな所でなにしてるんだ? あ、いやスペイン代表は三位決定戦があったからまだイギリスに
いるのはいいが、わざわざこの決勝戦を最前列で見に来ていたのか
よ。
酔いどれの心配そうな視線と声援に元気を受け取るというより、
恥ずかしい所を見るなよと負けん気がむくりと起きる。
ああ、そうだよな。こんなかつて倒したライバルに心配されてい
る場合か?
俺達日本代表はあの酔いどれや船長を擁する無敵艦隊を沈没させ、
1507
赤信号がゴールを守るイタリアのカテナチオを開錠してこの決勝と
いう場に立っているんじゃないか。みっともない姿を見せれば俺達
だけでなく、これまでに戦ったライバル達までもが馬鹿にされてし
まう。
俺達の肩には日本の名誉だけでなく、これまでに対戦した相手の
誇りも乗っているのだから。 深く息を吸い、ゆっくりと吐き出す。
一連の深呼吸の間に大事なことを思いだした。やり直してからこ
れまで何をしてきたのか?
決まっているじゃないか、俺はこれまでサッカーを心底楽しんで
きたのだ。
だったらスピードではカルロスに負けたとしても、今ここでプレ
イしているのを楽しむ事だけは誰にも負ける訳にはいかないよな。
観客席の最前列にしっかりと顔を向け親指を立てて﹁心配するな﹂
と合図する。
了解したのか満面の笑みと共に返ってきたのはまたもや﹁ブエナ・
スエルテ! マタネー!﹂という両手を振っての応援メッセージだ。
でもな酔いどれ、俺の教えた﹁またね﹂っていうのは別れの挨拶
だぞ。ちょっとお前の日本語の使い方は間違っているからな。
だけど、ありがとうよ。
さて出直しだと、精神的ダメージのせいでふらついて頼りなくな
っていた膝に喝を入れるため太股を平手で叩く。
肌の痛みがちゃんと伝わって熱を帯びる。よし、これで芯が入っ
たな。
大丈夫だ、俺の足は動く。まだ戦えるし、これからもサッカーが
できる。
⋮⋮うう、怪我がないのは良かったが気合を入れようとちょっと
1508
力が入りすぎた。腿に赤い手形が残るぐらいの威力でやってしまっ
たな。だがそのおかげではっきりと目が覚めたぜ。
いつの間にかそばにやってきて、奇妙な目で俺の奇行を見つめて
いた上杉と山下先輩の二人が心配そうに口を開く。
﹁アシカ大丈夫か?﹂
﹁まだ足殴るんならワイも手伝おうか?﹂
⋮⋮何となくこいつらがカルロスのスーパープレイを見ても、二
点差がついてもへこたれない理由が判った。二人とも根本的に図太
いんだ。
そう内心で悪態をつくが、彼らの顔色が青ざめているのにも間近
で接してようやく気がつく。そうか、こいつらだって必死に強がっ
ているんだな。
いくら神経が図太くてもこの状況に放り込まれて中学生が平気な
訳ないじゃないか。こいつらでも表情が硬くなるのなら他のメンバ
ーはもっと厳しい状態のはずだ。
まともに戦うためには、まずこの日本の停滞した空気を払拭しな
くては。
また大きく息を吸い込むと今度は肺一杯の空気を叫びに変える。
﹁ああああ!﹂
意味のない、ただ大きいだけの声にピッチ上の注目が集まる。も
ちろん会場の観客もさっきの上杉と山下先輩のようにおかしな目で
俺を見るが、そんな事を気にしてはいられない。
﹁絶対に勝つぞ!﹂
俺が続けて上げた叫びに日本代表の呪縛が解ける。
1509
一番近くにいた二人からは﹁当たり前やないか!﹂﹁そのつもり
じゃなきゃ、もう日本代表やかわいくない後輩を残して帰国してる
よ!﹂と力強いコメントが寄せられた。うん、なんだかいつものう
ちらしく騒がしい調子が少し戻ってきたな。
次に日本代表の皆とベンチにいる監督に向けて唇をつり上げて笑
顔を見せる。なんだか強ばってしまったような気がするからサービ
スでウインクまで追加だ。あ、目を逸らすなよ監督のくせに。
でもこれで虚勢でもなんでも山形監督に対しては俺が精神的に立
ち直ろうしているのは伝わっただろう。
さてそろそろ審判が怒りだしそうだから、早くキックオフをしな
ければならない。
しかし試合を再開すると、またカルロスとエミリオが攻めてくる
と考えただけで足が震えるな。これだけプレッシャーのかかった経
験は初めてだ。
ははっ、なるほど。世界最高峰の山を登りたければそれ相応の恐
怖に耐える覚悟が必要という事か。
俺がどうブラジルを攻略するか思い巡らしていると、センターサ
ークル付近まで頼りになる真田キャプテンが顔を出してこれまでの
ブラジルの攻撃で気になった点を指摘する。
カルロスのスピードによって失点したとしてもただ悔しがるだけ
でなく、そこから役立つ情報を読みとろうとする日本代表ディフェ
ンスの柱も得難い人材である。
﹁ブラジルだって体力的に厳しいのはうちと一緒のはずだ。カルロ
スとエミリオがここまでやりたい放題に暴れ回っていられるのも、
途中出場で体力に余裕があるせいと出ずっぱりの俺達のスピードが
落ちているせいでもあるからな。ただそのせいでブラジル側も前半
から試合に出て疲れが出ている奴らとカルロスなんかに微妙なズレ
1510
が生じているみたいだ。あの左サイドバック︱︱フランコか、あい
つが今のカウンターに参加していなかったのもその証だな。その体
力的・精神的なギャップを突こう﹂
﹁ああ、なるほど。島津さんみたいな攻撃好きなサイドバックのは
ずなのに上がってませんでしたからね。⋮⋮そう言えばうちの島津
さんはまだ攻め上がれますよね?﹂
﹁ああ問題ない。俺は下がれなくなった事は多々あるが、上がれな
くなった事は一度もない﹂
⋮⋮自信を持って﹁絶対に下がらない﹂と断言する島津にそれも
どうかと首を捻る。まあ追いつかなければならない今、島津の守備
力を云々しても仕方がない。日本の守りはスリーバックになってい
る事だし、もう島津は攻撃の駒としてだけ考えよう。
﹁島津さんに上杉さんと山下先輩はいつでもゴール前に走り込める
ように準備しておいてください。攻撃のメンバーはもうこの際守備
は忘れて、得点することだけを考えてプレイしましょう。後方の守
備責任はきっと真田キャプテンや石田さんがとってくれますから。
俺達は攻撃陣は同点に追い付く事だけに専念しますよ﹂
俺としてはこれだけの攻撃力を持つブラジル相手に前線が守備を
放棄するというのはかなり怖い決断だと思っていた。しかし、皆の
反応を伺うとそうでもなさそうだ。
﹁ハナからワイは守りはせんと言うとったやろ﹂ ﹁俺も監督からこの試合では守りを免除されている﹂
﹁アシカ⋮⋮ようやく俺を先輩と認めてくれたような気がするぜ﹂
攻撃陣は最初から覚悟を決めていたようだ。しかし緊張感が足り
ないのか後方は﹁いやその作戦の尻拭いをするのは僕かい?﹂﹁そ
1511
りゃキャプテンなら当然でしょう﹂﹁石田! お前一人だけいい子
ぶって責任免れようとしてないか?﹂﹁何の事やら﹂と騒がしい。
やれやれ、ディフェンス陣も俺達を見習ってもっと試合中は真剣に
なってもらいたいものだな。
こうした話し合いもありなんとかチームは士気を取り戻せたよう
だが、所詮は空元気にすぎない。
それを確固たるものにするためには目に見える結果︱︱つまりは
ゴールが必要である。
対するブラジルは後半に入り怒濤の四得点でムードは最高潮にな
っている。前半ノーゴールに抑え込まれた鬱憤もあるだろうし、元
来攻撃好きのお国柄だから今の状況が楽しくて仕方がないのだろう。
だからこそ隙を突ければ日本のカウンターが成功しやすい状況で
もある。
ブラジルは後半から逆転したとは言え、その得点に絡んだのはほ
とんどが途中出場したカルロスとエミリオの二人だ。このまま勝っ
たとしても、二人はともかく他のメンバーに対する世間の評価はど
うだろうか? 彼らが自分達も得点したいと思うのは自然なはずだ。
そう、だからここでカルロスとエミリオの二人を厳重にマークす
る事により﹁二人にはパスコースがなかった﹂という言い訳を与え
ておけば、必ず彼ら二人抜きでのアタックをやろうと考える。 そうすればブラジル代表はきっと他のメンバーへパスするはずだ。
そこに罠を設置しておく。
真田キャプテンからの提案を受け入れたかなりのギャンブルだが、
ブラジルの勢いを止めるにはこれぐらいしか思いつかない。
︱︱そして俺と真田キャプテンが立てた作戦は見事に嵌った。
二人の点取り屋を敬遠するとなれば、向こうの選択肢は自ずと超
攻撃的サイドバックのフランコに絞られる。ヤマを張って事前にパ
1512
スコースを読み切っていた真田キャプテンがそのボールを見事にカ
ットしたのだ。
さてそうなると、カウンターはボールを奪って反撃スタートして
からフィニッシュに到達するまでどれだけタイムを削れるかが勝負
となる。
そう言いたげな意志の込められた速いパスをトップ下の俺にまで
慌ただしく繋がれた。もちろん俺だって﹁いいカウンターとはフィ
ニッシュに至るまでが最短タイムでのアタックの事である﹂という
格言に従うよう、もたもたせずにダイレクトでゴール前へ流す。
よし、このタイミングなら通る。これまでの俺の計算では間違い
なく前線へ繋がったはずのパスである。
強さもコースも狙い通り、ミスの入る余地はない。
これがゴール前の上杉に通れば逆転の狼煙になるはずだ!
だからそのボールがカットされたのはミスではない。他の国では
ありえなかったブラジルだけが有する不確定の要素によって止めら
れてしまったのだから。
そいつは爆発的なスピードで、彼以外ならば絶対に届かなかった
はずのボールに追い付いてしまったのだ。これだから計算外の化け
物は手に負えない。
︱︱畜生、なんでお前がそこでディフェンスしているんだよカル
ロス!
1513
第七十五話 黒子役にも敬意を払おう
カルロスはボールを奪った途端に迷わず正面から突っ込んで来た。
その躊躇いのない姿を見て石田は胸の中で苦笑した。
随分とうちのディフェンスは舐められているようだ、と。日本代
表のアンカーを任されている石田としては見過ごせない非常事態で
ある。
ただこの苦笑いからも判るようにブラジルのエースがスピードに
乗って攻めてくるという絶体絶命の危機でも、彼は笑えるだけの精
神的余裕は確保していた。
もし簡単に彼が抜かれてしまえば︱︱いや抜かれなくとも後半だ
けで二ゴールも決めているエミリオにいいタイミングでのパスが渡
ってしまうだけで失点する可能性は高い。それでもなお石田の中に
諦めといった感情はなかった。
才能の差というのを理解していないのではない。それどころかお
そらく彼は日本代表の誰よりも生まれ持った資質の骨身に染みて思
い知らされていると言ってもいいだろう。
カルロスは覚えていないだろうが、石田と彼との付き合いは結構
長い。カルロスが代表に鳴り物入りでデビューした際、同時期に彼
もまた代表入りをしたからだ。石田は中盤での守備力と運動量を買
われて彼と一緒の合宿の時に初招集されたのだった。
そのため同期としてカルロスと石田はよくコンビを組んで練習す
る事になる。そこで本物の才能と出会い、地元では一対一では誰に
も抜かれなかった石田の天狗の鼻はへし折られることとなったのだ。
だがそれで良かったと彼は思っている。自分の進むべき道は目立
たない汗かき役だと早い内に認識できたのだから。
結果的にカルロスはブラジル代表へと道を違えてしまったが、ア
1514
ンカー役に定着した石田はこれまでずっと日本代表の中盤の底で黙
々と役割をはたしてきた。
攻撃と守備の両方を受け持つボランチを違い、アンカーというの
はほぼ守備関係のプレイだけで忙殺される。その分目立たず、仮に
目立つ時があるとしたらミスして失点に繋がったシーンぐらいとい
う報われなさだ。
しかし彼は監督が誰に交代しようと、その苦労の多いポジション
でずっと目立つことなく代表チームの一員として先発でプレイを続
けていた。︱︱つまり代表歴を通じて石田のプレイに明確なミスな
どはほとんどなかったのだ。
石田の脳裏に今は敵になったブラジルの十番と過ごしたできれば
思い出したくない記憶が甦る。代表で一対一の練習していた時はほ
とんどまともにカルロスのドリブルを止められた事なんてなかった
よな。でも俺だってあれから少しは成長したんだぜ。
たとえボールを奪えなくても、僅かにだったら時間を稼げるぐら
いにはな。
そう告げると石田はカルロスがボールタッチをする呼吸を読み、
ボールに触れる直前に体を彼に寄せていく。このタイミングで接近
されるのは誰でも嫌なはずだ。
更にゴールまでの直通ルートを防ごうと、歯を食いしばり踏ん張
っていた体ごとぐいっと押しのけられた。
うん、力負けするのも想定内だ。でもこれ以上力を込めて俺を吹
き飛ばしたりなんかしたらファールだぞ。石田の考えを見通したよ
うに力押しの強引な突破からパスへとカルロスは切り替え、僅かに
開いたコースを正確に通ったボールはDFラインの裏に走ったエミ
リオへと渡る。
しかし、これはオフサイドだった。
ほらな。
1515
石田はスピードだけでなくパワーでも自分を上回っている怪物に
胸中で語りかける。お前には俺の行動なんか無駄で余計なことをし
ているだけにしか思えないだろうが、俺のプレイでほんの少し時間
を稼ぐだけでも意味はあるんだ。
真田キャプテンのラインコントロールなら、ちゃんと自分とカル
ロスが行う刹那の攻防に合わせてラインを上げてオフサイドをとっ
てくれると信じていた。 ほっと一息つく石田は、ぽんと肩に手を置かれた感触に気が付く。
﹁やるじゃないか石田﹂
﹁お、おう。ありがとう﹂
少し驚いて対応が雑になる。まさかカルロスがマークしている相
手を褒めるような台詞を言うとはな。
日本にいた頃は自分のプレイを邪魔をした相手に声をかける奴じ
ゃなかったんだが、精神的に成長したのだろうか。そして最後にち
ゃんと俺の名前を呼んでいた。
なんだよジョアンとかアンカーみたいな適当なあだ名じゃなく、
カルロスだって俺の名前を憶えていたんだな。
カルロスが彼の名を呼ぶ前にちらりとユニフォームの背に目を走
らせたことには気づかず、石田はにやりと唇をつり上げる。
しかしいい事ばかりは続かない。その時に彼の左腿の裏側にびり
っとした軽い電流が走る。
あ、これは肉離れの予兆だ。
前に同じ場所を故障した経験が一瞬で症状を診断し、そう囁く。
まあカルロスからの攻撃を止めるために無理をした代償ならば俺の
左足一本ぐらいやっても悪い取引ではない。
だが、すでに日本は二人の交代枠を使っている。特にスタミナに
不安のあるアシカがピッチにいる状況では自分の代役を立ててもら
1516
うのは難しい。だがもちろんカルロスのマーカーがゲームの終了ま
で足を止めることなどは許されない。石田にとっても日本にとって
もハードな状況だ。
たとえカルロスのスピードがあったとしてもアシカがさっきのよ
うにパスを通し損ねるなんて、これまでほとんどなかった。つまり
まだアタッカー陣は動揺を抑えきれておらず、普段のプレイができ
ていないのだろう。
ならばまだまだケツが青い前線の奴らが落ち着きを取り戻すまで、
代表歴の長い石田が傷ついた体を張って何とかするしかないのだ。
﹁でもゴール前がストライカーの見せ場であるように、こういう過
酷な場面が俺達みたいなアンカー役の華だよな﹂
そう呟いて戦況を見守る。石田にはパスでの展開力はあっても、
自身のドリブル突破による打開力はない。いや日本国内のレベルで
戦うならともかく、世界大会決勝という舞台では攻撃に関しては貢
献できる武器が少ないのだ。アンカーのポジションで無理をすれば
即失点に繋がってしまう。
だからキーパーと同様に点を取ってくれるように味方を信じ、こ
こで相手の攻撃の芽を摘む作業をひたすらこなすしかないのだ。
しかし、ブラジルにしたってそう簡単にゴールを割らしてくれな
い。後半に入ってから一気に逆転したせいか自信と余裕に満ちたデ
ィフェンスをしてくる。これではいくらアシカや明智といったゲー
ムメイカーでもなかなか上手く攻撃の形を作るのは難しい。それど
ころか相手はカウンターで更に得点を加えようと虎視眈々とボール
とゴールを奪うタイミングを狙っているのだ。
くそ、ほらまたおいでなさったか。
島津からのクロスはゴール前の上杉へ渡る前にカットされた。
だが今度の状況はかなりのピンチだ。これまでと違い明智が攻撃
1517
に上がった隙を突かれたカウンターである。カルロスに来る前にボ
ールをカットどころか、時間を使わせて守備を整えさせる事さえで
きていない。
︱︱マズイ。ここで抜かれたら試合が終わる。
石田の表情には険しさが増す。パスを受け取ったカルロスはいと
も簡単にターンしてセンターライン越しに二人は正面から向き合っ
た。石田の左足には軽い痺れが残っているがアシカも明智も居ない
今、ここを守れるのは彼一人しかいない。 カルロスはおそらく自分の事を舐めている。ならば一発賭けるに
はちょうどいいな。
石田はネガティブな感情抜きにそう考える。こっちはお前を相手
にして止めるイメージトレーニングを同僚であった時から数えて何
回やったと思っているんだ。最後には夢の中でまで一対一をやるは
めになって、しかもそれで止められないものだから随分とうなされ
たんだぞ。
今更ながらやや八つ当たり気味の感想を抱く。だが、その悪夢に
うなされた日々が今役に立つ。
イメージの中でも貴様に勝てたのは百回の内の一回ぐらいだった。
その百分の一をここで現実の物にしてみせる。
カルロスは相手を気にするまでもないジョアンだと舐めている場
合は、ほとんどフェイントをかけずにゴールの正面へとスピードで
突破しようとする。これまでの敵だって判ってはいたが、それでも
止められなかったのはカルロスは他の選手とは比較にならない程突
破の一歩目が鋭く、そこから更に加速するために反応が間に合わな
かったからだ。
石田はフェイントは全て無視した上でカルロスがゴールへの近道
である自分の左を抜くと勝手に決めて、その一歩目の踏み込みのタ
イミングを捉える事だけに集中する。彼はたぶん日本で一番カルロ
スと一対一で負けた選手かもしれない。
1518
だからこそお互いのリズムと癖は判っている。ただ石田にはカル
ロスのリズムが刻み込まれていてもカルロスの方は彼のプレイを覚
えているだろうか? ブラジルへ行った後の成長分の誤差はようやく修正できたのだ、
そのスピード差は気合いで百二十%の出力を出すことで埋めてやる。
石田は視線を強くし敵の僅かな挙動も見過ごさない。
カルロスは俺の事をまだジョアンだと思っているんだろ? だっ
たら負けるわけにはいかないよな!
日本代表アンカーとしての誇りを百分の一しかない勝率のギャン
ブルに賭け、そして勝利した石田の足元には今ブラジル代表の十番
から奪い取ったボールが収まった。
だが全力以上の反応を見せた代償もまた大きい。ボールを奪った
瞬間、自分の腿の後ろでパンと軽い音が響いたのを石田だけが感じ
る。
なんだ故障する音はよくゴムが千切れるような音とか言われてた
けど、俺の場合は風船が破裂するような音じゃないか。
その異変を感じ取った彼がまず考えたのは、痛みが来る前に仲間
にボールを渡さなければということだった。
死ぬ前の走馬灯のようにではないが、周りがスローモーションの
ようにゆっくり動いてる中で石田の思考が冴える。
たぶんもうこの左足では踏ん張れない。だからいつもとは逆に右
を軸足にして無理にでも左足でキックする。
ボールを蹴ったそのインパクトの刹那に代償がやってきた。
うめき声と共に体が勝手に少しでも痛みを逃がそうと身をよじる。
自分からのパスが明智に繋がったのを見届けて、石田はゆっくり
と倒れそうになるが必死に右足一本でけんけんをするようにして体
を支えた。
ここで倒れたら間違いなくプレイが止まり、自分がピッチの外に
1519
運ばれるまで試合が中断する。
だからこのカルロスからボールを奪ってブラジルの守備が緩んで
いるワンプレイが終わるまでは、なんとか立っていなくては︱︱。
駄目だ、倒れる体を片足では支えきれない。
そんな石田の傾いていく体を抱きとめたのは、カナリアイエロー
に身を包んだかつてのチームメイトだった。
﹁ぐうっ。サ、サンキュー、カルロス﹂
石田の言葉にどこか不機嫌そうに唇を歪めると、カルロスは遠い
ブラジルゴールを見やる。そしてそのしかめっ面が一層酷くなった。
日本が今のカウンターによってゴールしたのだ。
石田からは誰が得点したのかは判らない。それはアシカや上杉と
いった攻撃陣が気にすることだ。
とにかく今は日本がゴールしたことに喜び、次にドクターに左足
の具合を診察してもわなくてはならない。
こんな風に二番目に自分の事がくるのがいかにも黒子役の彼らし
い思考の流れだ。 石田は左足を浮かせたけんけんの要領でカルロスに肩を貸されて
日本ベンチへ向かう。
﹁いや、本当に悪いなカルロス﹂
心を込めた謝罪にふんと鼻を鳴らして答える褐色の少年。
﹁オレを止めた人間を寝かせたままでいるわけにはいかないだろう。
これは怪我したジョアンへの同情じゃなくて俺を止めた敵への敬意
だ﹂
﹁⋮⋮そうか﹂
﹁次にまた試合するまでには治しておけよ﹂
1520
そうあくまでも偉そうに言い残すとベンチ前に石田を横たえ、す
ぐに敵陣へ帰ってしまう。
カルロスがボールを奪われたのが今回の失点した原因の一つなの
だが、その後すぐに彼はディフェンスに戻らず敵の怪我人の世話を
している。
ブラジル側からすればちょっと納得がいかない流れかもしれない
が、そんな不協和音は実力で黙らせるだけの自信がカルロスにはあ
るのだろう。彼の足取りに淀みはなかった。
横たえられた石田の左足を一目見た日本代表のチームドクターは、
すぐに監督にバツ印を出す。
ああやっぱりここまでか。
覚悟はしていたが石田の胸にやり切れない思いがこみ上げる。限
界を超えてプレイした事に対しては後悔はない。そうでもなければ
カルロスは止められなかったからだ。後悔しているのはそれで壊れ
るぐらいの鍛え方しかしていなかった事の方である。
︱︱練習メニューを二十パーセント増しでやるべきだったか。代
表メンバーの誰よりも練習で走っている汗かき役は、リハビリを終
えるともっとハードなトレーニングにしようと心に決めた。
後悔を胸に秘めつつ、石田は氷のパックを左腿にテーピングでぐ
るぐる巻きにされた状態で仲間に﹁さっさとピッチに戻れ﹂と声を
掛ける。
得点直後の再開されてない状況だからベンチ近くまで皆が詰めか
けてきたが、俺なんかの心配をするより早く逆転の算段をつけろと
ぼやきながら石田は手を振って追い払った。うむ、ピッチから去る
自分の心配をしても無駄だし︱︱照れるじゃないか。
そのつれない態度にチームメイトは引き下がるが、ただ一人だけ
一番付き合いが長く代表のディフェンスでずっと一緒にやってきた
1521
真田キャプテンだけがまだ残っていた。
﹁何かまだ用か?﹂
﹁いや⋮⋮﹂
真田キャプテンは首を振る。彼も石田と同じであまり言葉が多い
方ではない。だからよく厄介な貧乏くじを引かされるのだが、そう
いった面ではよく似たディフェンスのコンビだった。
結局真田キャプテンが残し、石田が答えたのはほんの短い単語の
みである。
﹁後は任せておけ﹂
﹁⋮⋮ああ、任せた﹂
交代のアンカーが入りチームの状況が一段落すると、監督が﹁馬
鹿野郎﹂とかるく石田の頭を小突いた。もちろん患部には障らない
ように力の入っていない形だけの物だ。
﹁本当に倒れるまで走る奴がいるか﹂
﹁はは、俺はそれしかできないもんで﹂
石田は自分の足をさすり笑って答える。
﹁そうでもないだろう。お前はカルロスからボールが奪えたし、日
本が一点差に追い付くきっかけも作ってくれた﹂
山形監督はそう言って今度は優しく石田の頭を撫でる。
﹁今のゴールはもしかしたらアシカや上杉がいなくても取れたかも
1522
しれない。だが、お前がいなければ絶対に入らなかった得点だぞ﹂
﹁⋮⋮へへ、照れますね﹂
石田は首に巻いていたタオルを頭から被った。だってアンカーっ
てポジションは黒子役なんだぜ、その目に汗が滲んでいるところな
んて誰にも見せられるわけないじゃないか。
石田はいつも通りに全力を尽くし、今回もまたいつも通り味方に
ボールを託しただけだ。後はまたいつものようにピッチに立つ信頼
する仲間にエールを送るだけしかできない。︱︱後は任せたぞ、と。
奇しくもそれは真田キャプテンへ向けた言葉と同じだった。
1523
第七十六話 自分の仕事を頑張ろう
﹁石田の具合はどうっすか? あいつ何でも我慢しちゃうっすけど、
本当に大丈夫っすかね?﹂
ベンチ前から最後に帰ってきた真田キャプテンに対し、明智が真
っ先に口にしたのはついさっきまで中盤の底でコンビを組んでいた
アンカーの石田の状態についてだ。相棒が負傷欠場となったのに動
揺を隠せないのか、明智の視線は落ち着かな気にちらちらと日本ベ
ンチへ注がれている。
今こんな風にイレブンが集まって話せているぐらいにプレイが途
切れているのは日本がゴールしたからだ。
石田がカルロスからボールを奪った直後に、彼が止められるとは
思ってなかったのか僅かに緩んでいたブラジルディフェンスを裂い
ての日本が高速カウンターが成功した。
石田と明智のアンカーコンビを経由してからの俺が出したラスト
パスはやはりこいつしかいないと上杉へ回る。執拗なクラウディオ
のマークに苦しんでいた上杉は、中央へ切れ込んでいた馬場を壁役
にして相手をかいくぐり強引にねじ込んだのだ。得点する才能とい
うよりも﹁何が何でもゴールする﹂という執念のシュートが決まり、
日本は一点差に追いついたのである。
だが得点した事についての日本代表が躍り上がって喜ぶアクショ
ンは、ゴールしてから石田がカルロスによってベンチに運ばれるて
いるのに気がつくまでの短時間で終了している。
すでに交代要員の新しいアンカーが入っているためにこの試合で
の石田の復帰はないと判っているが、これまでずっと試合中に黒子
役として皆の代わりに汗をかいていてくれた地味な少年をチームの
1524
全員が頼りにしていたのだ。だからこそ彼の容態が気にかかる。
﹁ああ、意外と元気で大丈夫そうだ。この試合は無理でもすぐにま
たプレイできそうだったぞ﹂
﹁おー、良かったやないか﹂
大仰なリアクションで胸を撫で下ろすのは先程得点した上杉だ。
彼のように守備に気を使わないように見える少年でさえ背後を守る
石田の事を心配していたらしい。
﹁⋮⋮でも石田さんのためにも負けられませんね﹂
﹁ああ、勿論だ﹂
俺がぽつりと漏らした言葉に力強く答える真田キャプテン。これ
まで守備陣にはキャプテンシーを発揮していたが、攻撃面に関して
は俺達アタッカーに任せてあまり口出ししてこなかった。だが今回
はちょっと彼の様子と迫力が違う。
﹁石田の為にも絶対に勝つぞ!﹂ ﹁おお!﹂
真田キャプテンの力強い檄に、日本代表の全員が腹の底から返事
をした。
石田のためにも絶対追いつこうと日本の士気は最高潮だが、ブラ
ジルボールのキックオフからの再開である。
しかも残り時間が五分を切った段階で一点リードしているブラジ
ルはどうやらもう無理な攻撃はするつもりがないようだ。
これはおそらく向こうの監督の指示だろう。これまでは二点差の
1525
セーフティリードがあったから選手のわがままも認め、好きに攻め
させていた。だが一点差に迫られ残された時間もない状況では、甘
さを捨てて勝負に徹するためにこのままのスコアでの逃げきりを目
指しているのだ。
前線にはカルロスとエミリオといったスピードと決定力を合わせ
持つ危険なコンビを残し、他のメンバーはまずしっかりと守備のブ
ロックを作ることを優先している。
こうなると日本も攻めあぐねてしまう。何しろただでさえ技術が
高く身体能力に優れた選手が多いブラジル代表なのだ。それがただ
勝利するためだけに、本来ならば彼らが嫌っているはずの一番﹁堅
い﹂方法を使ってきたのだから。
このブラジルが敷いた堅牢な守備陣を破るためには一筋縄ではい
かない。攻撃にかける人数と時間が必要となってくる。
しかしこちらが攻撃の枚数については、ブラジルのエースコンビ
が日本ゴール前で張っているために制限されこれ以上は割けない。
そして残り時間の方は︱︱後三分かよ。後半は得点が多く入った分
ロスタイムが長いとしてもそろそろ追い付かなければいけない時間
帯だ。
しかし、どうすればいい?
焦りばかりが募ってくる。
上杉はフィニッシュでしか役に立たず、山下先輩にはマークが張
り付いている。左サイドの馬場に対してはもうカットインはさせな
いとブラジルの右サイドバックが付きっきりである。俺の背中にも
密着マークしているのが一人と、その後ろには抜かれた場合のフォ
ロー兼中盤のスペースを穴埋めする為の人材までが用意してあるの
だ。
ここはこいつを使うしかないか。
珍しく下がって自分の守備位置にいる島津へ﹁上がれ﹂と合図を
出す。
1526
元々島津がサイドバックのポジションにいたのは守るためではな
く、前線に出るとマークがくっつくのを嫌ったためと助走距離をと
ってのトップスピードで突破するためのものだ。今だってマーカー
から距離を取るために下がっていたにすぎない。
つまりここでオーバーラップを促すと、自陣で目一杯弦を引き絞
った状態から島津という矢が発射されるのだ。
﹁行け島津!﹂
﹁合点、承知!﹂
ブラジルが守っている右サイドの直前にパスを出す。ボールの落
とされた位置までの距離は島津とブラジルの守りもほぼ変わらない。
だが島津はすでに助走を終えてトップスピード、守備のために腰を
落としている敵DFとではボールを拾う対決では勝負にならない。
相手もそう考えたのだろう、俺からのパスをカットしようとする
のではなく逆に一歩下がって自分の後ろのスペースを消す。
そこで抜きにかかるのを躊躇するようなら島津ではない。敵がこ
ないならこっちから行くぞと更にテンポアップしてDFラインを引
きちぎろうとする。
テクニックの勝負ならば本場仕込みのブラジル代表にはかなわな
い。だがこういった一瞬の切れ味対決だと島津は真価を発揮する。
迷いを一切見せずに突っ込む島津に対し、逆に相手のDFの方が
逡巡したようだ。
あまりに真っ直ぐにフェイントの素振りすらなく正面から向かっ
てくる島津にこれは罠ではないかと疑ってしまったらしい。
そう俺が考えたのは、この対決は島津がいきなり縦からゴールへ
方向転換した時に一発で決まったからだ。相手DFが島津の気迫に
飲まれ自分の後ろに抜かれることだけはすまいと硬くなったのを確
1527
認してからカットインしたらしい。
その鋭いターンについて行けないブラジルDF。
もともと加速度のついた島津と腰が引け気味だったDFでは相対
速度が違う。縦を切っていたマークから離れ、敵の密集するゴール
前に臆することなく突っ込む島津。
ブラジルの最終ラインも油断はしていなかったが、まさかど真ん
中に飛び込んでくるとは思わなかったのだろう僅かに対処が遅れる。
特に対応能力に優れたクラウディオは上杉にかかりきりで島津の
面倒はみる暇はない。
そしてブラジルはここまで圧倒的な勝利が多く、守りを固めるよ
うな展開の試合がなかったことが裏目に出た。
ワントップという守備的にも思えるフォーメーションを採用して
いるブラジルだが、実は暴走左サイドバックのフランコを入れてい
る辺りからも判るようにメンバーには攻撃力のある選手が多い。
しかも逃げきろうとする割に、後半の頭にカルロスとエミリオを
入れたおかげで守備専門の選手を加入させることができなかったの
だ。
完全に構築されていたはずの守備ブロックの中に、突然飛び込ん
できた異物に対し思わず過敏に反応してしまう。
島津の小さな体がカナリアイエローのユニフォームの波に飲まれ
た。姿を消したと思ったら審判の笛が会場内に響き、一拍遅れて大
歓声が湧く。
ブラジル選手が引いた後の芝の上では腹ばいに寝ている島津は、
そのままの姿勢でぐっと拳を握りしめている。
島津の足を引っかけたブラジルのファールにより、日本がゴール
前のいい位置からのフリーキックを得たのだ。
﹁ナイスチャレンジだ島津!﹂
1528
﹁当然だな、これが俺の仕事だ﹂
差し伸べた手を握り返し、力強く島津は答える。
﹁そしてここからはアシカの仕事だろう﹂
﹁︱︱ああ、そうだな﹂
直接ゴールが狙える位置からのフリーキック。これまではこのぐ
らいの距離と角度ならば俺が最も多く撃たしてもらっていた。しか
しこの世界大会決勝の舞台で、しかも残り時間は⋮⋮ああもうロス
タイムに入りそうな時間帯じゃないか。これは絶対に外せない、実
に痺れる場面だぜ。
集まろうとした仲間に手を振りさっさと散れと合図する。
こういった態度が年下のくせに生意気だと思われるの原因なのか
もしれないが、今は何より時間が惜しい。
大体この位置からのフリーキックならば直接俺が狙うしかない。
つまり他の選手とはほとんど話し合う余地は残っていないのだ。な
らば俺のそばにいるよりもこぼれ球を拾いやすいポジションで早く
準備してもらった方がいい。
目を瞑り自然とスタジアムにあるはずの全ての音が遮断されるぐ
らい神経を集中する。
俺のイメージする世界の中にあるのはボールとゴールだけである。
間に存在しているはずの壁やキーパーなどの遮蔽物は、どんな対策
を練ろうと俺が完璧なキックをすれば邪魔になりえない。
セットプレイのキッカーは、蹴る瞬間だけは試合中なのに敵では
なく自分と戦っているのだ。
自分の呼吸音だけが響く静かな俺の世界に唯一外部から干渉を許
していた笛の音が届く。
1529
いつもと同じリズムとタイミングで助走し、最後の一歩は強く踏
み込む。
一流のフリーキッカーは、インパクトの瞬間にその蹴ったボール
が辿る未来の軌道が見えるという。
おこがましいかもしれないが代表チームでフリーキックを任され、
そのチームが世界大会の決勝まで勝ち上がってきたのだから俺もそ
の一流の端くれに居ると言ってもいいだろう。
だからこそ判りたくもないのに理解してしまう。
スタミナが尽きて僅かに萎えた軸足がほんの少しだけ芝の上を流
れ、イメージと違うキックの感触となってしまった結果を。
︱︱これはミスキックだな、と。
1530
第七十七話 キャプテンの真価に驚こう
︱︱これはミスキックだ。
足が伝える感触から瞬時にそう悟ったが、蹴ってしまった以上俺
に出来ることは少ない。後はもうボールの行方を天に祈り、どこへ
行くか判らないこぼれ球を味方に押し込んでもらうという幸運を願
うしかないのだ。
他力本願のようだが、ゴールできるなら何だって構わない。
﹁リバウンドを拾ってくれ!﹂
全力を込めたキックの勢いで、まだ空中に体が浮いたまま必死に
怒鳴る。
もし俺のシュートが完全にゴールの枠を外れてしまっていたら、
そのまま敵のゴールキックになり日本のチャンスは潰えてしまった
だろう。
だがここでは俺と日本にまだ運があった。
俺のミスは軸足が前に数ミリズレた結果である。いわゆるダフッ
ってしまった状態なので狙いよりも弾道が低くなってしまう失敗だ
ったからだ。
俺の蹴ったフリーキックはブラジルの作っていた壁にまともにぶ
つかって大きく上へ跳ねた。同じミスキックでもプレイが途切れて
ブラジルのボールになる枠外へのシュートより、まだセカンドチャ
ンスが続くこっちの方がずっとマシである。
ベストショットではなくとも俺の全力で蹴ったブレ球を至近距離
で頭に受けた壁役のブラジルDFは銃撃されたようにピッチへ倒れ、
ボールは不安定な軌道で空中に舞った。すまん。一言だけKOした
1531
相手に謝り、謝罪はすんだとばかりすぐに彼の事は意識から消去す
る。
ボールはペナルティエリア内ではあるが壁にぶつかって跳ね返っ
たため、ゴールから離れていく。こういう球筋になるとうかつにキ
ーパーは飛び出せない。
しかも味方DFが作った壁が彼が前へ出ようとすると邪魔になる
のだからブラジルのキーパーはゴール前で大人しくしているしかな
いだろう。必然的に空中のボールを奪い合うのは手の使えないフィ
ールドプレイヤー同士となり、激しく体をぶつけ合ったヘディング
での争いになる。
こうなると平均身長が低く、しかも前線には高さより速さを特徴
とするタイプを揃えた日本では厳しい。
なんとかしてくれと願うが、ゴチャついた混乱の中からジャンプ
で頭一つ抜けだしたのは﹁サンパウロの壁﹂クラウディオだ。長身
とバネを生かした高い打点のヘディングでルーズボールを大きくク
リアする。
高さだけではなくパワーも併せ持ったクラウディオのヘディング
は大きく弾み、ゴール前どころかセンターサークルにまで届きそう
な放物線を描いた。
これは︱︱マズイ。クリアされただけでなく敵の高速カウンター
のきっかけにもなりかねない。
なにしろ残り時間はもう僅かである。同点に追いつくのはおそら
く最後のチャンスかもしれないセットプレイだったのだ。日本代表
はほとんどの守備選手もブラジルゴールに上げていた。
この状況下でクリアしたボールがもしカルロスのようなスピード
スターにでも渡れば、今みたいにスペースの空いた日本陣内とがら
がらの守備網では抵抗する余地もなく簡単に駄目押し点を奪われて
しまう。
俺も急いで飛んでいくボールを追おうかとしたが、焦る気持ちと
1532
は裏腹に体がついて来ずにつんのめり芝に膝を突いてしまった。
畜生いつの間にかシューズが鉛に変化したみたいに足が重く、関
節は錆び付いたみたいに軋んでいるじゃないか。ブレ球を撃つのに
はただでさえパワーが必要なのに、残った体力の全てを注ぎ込んで
シュートを撃ったせいで足に力が入らない。
これではディフェンスには到底間に合わないとクリアされたボー
ルの軌道を祈るように見守る。すると思わず安堵の吐息が洩れた。
敵味方がブラジルゴール前で混雑していた中、その後方のぽっか
り空いているスペースには真田キャプテンの堂々とした姿が陣取っ
ているではないか。
おそらく彼は自分一人だけで日本が捨てた自陣全ての守りを支え
る覚悟をしていたはずだ。それだけの決意をして長身で攻撃力のあ
る武田など他のDFはブラジルのゴール前に上がらせたのだろう。
その﹁日本は自分が守るんだ﹂という悲壮な決意がこぼれ球を引
き寄せたのか、それとも長年代表のDFを務めていた経験なのかク
リアボールが落ちてくる絶好のポジションで待っていてくれた。う
ん、これでクリアされた球はなんとか日本の物にできそうだ。
よし、ではここからまた一から攻撃は立て直しだな。 だがここで目を疑う光景が。
真田キャプテンがクリアされたボールに対し柔らかく胸でトラッ
プすると、体が開かないように左肩を固めてしっかりとした壁を作
りその場からのロングシュートを放ったのだ。
日本代表の中でも彼以外のメンバーがシュートを撃ったのなら俺
もこんなには驚かない。
だが、これまで一緒に過ごした試合経験でも彼のロングシュート
など見たことがなかったからだ。真田キャプテンが撃ったシュート
といえば、せいぜいがこれまではコーナーキックなどのセットプレ
イ時に長身を生かしてのヘディングで得点を狙ったぐらいしか記憶
1533
にない。
だから俺はてっきり守備一筋だったアンカーの石田と同じで、真
田キャプテンは決定力に欠けるから攻撃に参加しないのだと勝手に
判断していたのだ。
しかしそんな考えを覆す鮮やかな右足の一振り。フリーキックを
撃った地点よりも離れた場所からの意表を突いた一撃だ。
真田キャプテンは日本代表の中でシュートの名手として挙げられ
る上杉もかくやという豪快なロングシュートを放つ。
鋭い回転のかかったボールは綺麗な弧を描きブラジルゴールを襲
った。
鮮やかな軌道を見せるシュートはゴール前で密集する敵味方の選
手達を越え、ブラジルキーパーの伸ばした手までかいくぐりゴール
の隅へと突き刺さる。
一瞬スタジアムがゴールネットをボールがこする音が聞こえるぐ
らいに静まり返り、直後に大歓声が沸き起こった。
特にもう時間がないために俺のフリーキックが入らなかった時点
で敗北を覚悟していたのだろう日本のサポーター席は凄い騒ぎだ。
爆発するような拍手と喜びの叫びに加えて大きな日の丸が狂ったよ
うに大きく左右に振られている。
いや日本のサポーター席だけではなく、スタジアムそのものが大
音量のあまりに揺れているような印象だ。俺でさえも自分の体が震
えているのかピッチが揺れているのか判別できない。
それにしても代表のキャプテンにまでなる人間は凄い。
俺は鳥肌を立てながらこれまで真田キャプテンを過小評価してい
たと痛感する。この人はシュートを撃てないんじゃなくて、自分は
攻撃せずに守りに力点を置いたほうが日本に利すると考えていたか
ら自分が攻め上がるのを控えていたんだ。そしていざという場合に
伝家の宝刀を抜いた訳か。
1534
能ある鷹だったと言うべきか敵を騙すにはまず味方からと言うべ
きか、ブラジルディフェンス同様俺もすっかり欺かれていた。
真田キャプテンもこれまでシュートを撃ったというデータのない
自分に対してキーパーが注目してないと判断したから、あれだけの
ロングシュートを撃ったのだろう。予選と決勝のタイムアップ寸前
までかけて日本のキャプテンが仕掛けた罠にブラジルは見事に嵌っ
てしまったのだ。
信じられないようにゴールの中のボールを凝視していた俺達日本
代表のメンバーは、近くの選手どころか日本ゴールを守っているキ
ーパーまでもが一斉に真田キャプテンの下へ駆け寄る。
そしてここでようやく高らかに鳴らされる得点と後半の終了を同
時に告げるホイッスル。
うわ、どうやら俺が思っていた以上に残された時間は切羽詰まっ
ていたみたいだな。ちらりと時計に目をやりとっくに試合時間がロ
スタイムを数分過ぎているのに冷や汗を流す。
しかし殊勲のゴールを挙げて延長戦の扉を開いた真田キャプテン
は、サポーターの声援に応えたり観客に自分の力をアピールするよ
り先にやるべき事があったようである。礼儀正しく人に合わせる傾
向のあるキャプテンがここでは珍しく自身の感情を優先させた。
サポーターの声にも走り寄ってくるピッチ上のメンバーにも目も
くれずに、自分の撃ったシュートがゴールしたのを見届けた途端真
っ先に日本のベンチに駆け寄ったのだ。そしてベンチの隣のスペー
スでまだ横たわったままで試合を眺めていた少年に近づいた。
﹁どうだ石田! 任せておけって言っただろう!?﹂
﹁ええ、キャプテンなら絶対にやってくれると信じてましたよ﹂
きつく手を握り合う真田キャプテンと石田。
日本代表でずっと報われにくく黒子役の目立たない部分を背負っ
1535
てきた二人だが、その分お互い対しては親近感と長い間に培われた
硬い絆があったらしい。
ここ一番でやってのけた大仕事に興奮が冷めやらないにも関わら
ず、まず真田キャプテンは怪我で離脱した戦友への﹁約束をはたし
たぞ﹂という報告を優先したのだ。
そこに他のメンバーもやって来てベンチ前がぐちゃぐちゃになる。
﹁ワイだってキャプテンはやってくれる男やと信じてたで! ただ
アシカにはあのフリーキックで決めるか最悪でもワイにアシストし
てくれるちゅう期待は裏切られたけどな﹂
﹁いや全部お前にアシストするのはさすがのアシカでも無理だろ。
もっと優先しなきゃいけない義理のある先輩の俺もいるし﹂
﹁俺だって石田に劣らずキャプテンを信頼しています。ですからほ
ら、いつも守備は全面的に任せて右サイドを戻ってこないでしょう
?﹂
﹁いや島津のは真田キャプテンを信頼してるってよりディフェンス
を丸投げだよな!﹂
﹁それ以上突っ込むのなら、優勝後のインタビューで日本代表のキ
ャプテンのドン・ロドリゲスは頼りになったと答えてしまうかもし
れんと警告しておこう﹂
真田キャプテンと石田だけではなく、日本代表メンバー全員が入
り乱れての冗談交じりの会話に花が咲く。時間ギリギリで敗北を免
れたのだから喜びを爆発させるのは当然だろう。 だけど俺はその輪に加われなかった。
別にフリーキックが入らなかったからと拗ねている訳ではない。
ただ単にベンチまで走って行くのが辛かっただけだ。
俺は足を怪我したのでもないしトラブルが起こったのではない。
延長へ持ち込んだと喜んでいる皆にわざわざ告げて水を差す必要も
1536
ないだろう。
試合開始からアクセル全開でプレイしてきた俺の体は、完全にガ
ス欠となってしまっているのだ。
完全にスタミナが尽きて歩くのさえも億劫になっているが、すで
に日本は交代のカードも使いきっている状態だ。だから俺を交代さ
せるのは不可能である。きっとこの歩くのもきつい状態で延長戦が
前後半を合わせて二十分も残っているけどなんとかなるさ。⋮⋮た
ぶん。
日本代表が湧いている中、俺一人だけがどこか引きつった表情を
していた。
1537
第七十八話 目上からの問いにはきちんと答えよう
後半が終了してから延長戦が始まるまで、俺達選手が準備ができ
る時間は短い。
僅か十分間というインターバルでは、作戦の確認をしているだけ
であっと言う間に終わってしまうのだ。
しかし幸か不幸か日本代表には交代枠は使いきり、選手交代とい
うカードはもう切れない。戦術を変更しようにもうちの攻撃的な面
子を集めた選手構成では、やれることの幅は狭い。
消去法的な理由でだが結局チャレンジャーらしく攻め合いを挑む
事に落ち着きそうだった。
別に俺達だってブラジルを相手に正々堂々とぶつかって玉砕する
つもりではない。それが今の日本代表が取りうる作戦の中では最も
勝算が高いと監督が判断したのである。
だが、ここで山形監督が短い休憩の時間中ずっと足のマッサージ
をしてもらっている俺に気懸かりそうな目を留めた。
﹁アシカ、お前の足は生まれたての子鹿みたいにぷるぷる震えてい
たが大丈夫なのか?﹂
﹁ええ、まだ走れますよ﹂
俺は芝の上に横たわり、足を上に持ち上げられてぶるぶると震わ
されるマッサージで筋肉から乳酸を除去されている最中だ。その様
子が子鹿の足のようだったのであり、断じて後半が終了してからベ
ンチへたどり着くまでの俺の足取りが震えていたのではない。
その横になった格好のままにしては出来るだけさりげなくフラッ
トな口調で答えたつもりだが、監督に﹁目を逸らして答えるなよ﹂
と突っ込まれた。
1538
﹁走れるかどうかは聞いてないぞ。本当にお前の足の具合は無理し
てるんじゃなくて大丈夫なんだよな?﹂
﹁だからまだ走れますって言ってるでしょうが﹂
俺と山形監督が﹁がるる﹂とお互いに唸りを上げて、高低差の激
しい睨み合いをしていると、それをを制止する少年が現れた。自ら
の体を削って仲間の為に倒れるまで走っていたアンカーの石田だ。
上半身は起こしているので背に芝を付けていないが、彼もまたベン
チの下でテーピングと氷パックでぐるぐる巻きにされている。その
傷ついた足を伸ばした状態から静かに問う。
﹁アシカ、お前の力はブラジルに勝つためには絶対に必要なんだ。
だからもしお前が大丈夫じゃないなら作戦が大幅に変更する事にな
る。アシカが大丈夫かどうかはチーム全員が知っておかなくちゃい
けない情報なんだ、教えてくれないか﹂
﹁⋮⋮ちょっと延長までの短時間では回復しきるのは難しいです﹂
俺が顔をしかめて答えると、足をマッサージをしてくれているフ
ィジカルコーチも眉を寄せて頷く。たぶん彼も揉んでいる足の筋肉
の状態からそう判断したんだろう。ちくしょう、もう少しでいいか
ら休む時間があればいいんだが。
この時の俺達は山形監督の﹁え? アシカは石田には素直に答え
るの? しかも俺に対してより丁寧な敬語で?﹂と目を見開いて出
した驚きの声は無視している。全くこんな時に場違いな事で騒ぐな
んて修羅場では役に立たない監督だなぁ。
石田は俺の返答に残念そうに一つため息を吐いただけだったが、
その隣にいる仲の良い真田キャプテンが﹁仕方ないな﹂と話を続け
る。
なら
1539
﹁アシカの力はブラジルに勝つためには絶対必要なのはもう石田が
言っていたよな。それにうちには交代させる権利も残っていないん
だし、アシカが石田みたいに無理してピッチからいなくなるのは許
されないからな。もし延長が始まってもまだ厳しいようなら、体力
を回復させるために前半は休んでおけ﹂
﹁判りました﹂
勝手に作戦を提案する真田キャプテンと素直な態度で即答する俺
に山形監督が﹁監督としての威厳が⋮⋮﹂と頭を抱えていたが、さ
すがにアクの強い選手を扱っているだけにこういった事態に慣れて
いるのだろう。すぐに気持ちを切り替えたのか﹁ならブラジルと正
面からぶつかる作戦は変更だ﹂と表情を引き締めて手を叩く。
﹁前半のアシカは極力省エネでいけ。体力を使うドリブルやダッシ
ュなんかはやめて極力パスを捌くだけでゲームを組み立ててくれ。
島津と山下に馬場は常に中盤からのアシカが出すパスを意識してお
けよ。いつもみたいにラストパスじゃなくてその手前の段階で回っ
てくるからな。上杉はアシカからじゃなくてその三人からのゴール
前へのパスを待つんだ。
守備はまだスタミナが残ってる途中交代組にこれまで以上に走っ
てもらうぞ。真田の指示に従って従来より少し引き気味で最終ライ
ンだけは突破されないようにするんだ﹂
全員が真剣に監督の指示に聞き入っている。
うう、自身の体力のなさで日本代表の作戦まで変更させてしまっ
て申し訳ない。でももうしばらく間だけでも休ませてもらえないと
足の筋肉に力が入らない。
﹁すいません、迷惑かけます﹂
1540
俺が頭を下げるとなぜかピッチで一緒に戦っている全員がぎょっ
とした顔になる。なんだよせっかく俺が謝ってるのにそんな態度は
ないだろう。
﹁ちょっと待て、お前本当に俺の後輩のアシカか? あいつなら自
分の足が動かない場面でも﹃良かったですね先輩、俺の代わりに守
備の出番が増えましたよ﹄と感謝を強制させるぐらい生意気なはず
だが、どこであいつと入れ替わった!?﹂
﹁そうっす、いくらアシカのスタミナがないからってそっくりさん
を替え玉にして出場させるのはマズイっす! だいたいサッカーの
技術はともかく、こんな殊勝な性格の奴にはあのアシカの替え玉は
務まらないっす!﹂
﹁お前ら⋮⋮﹂
握り締めた拳がぶるぶると震える。
いや判ってるんだよ、山下先輩や明智が俺に負担を感じさせない
ように馬鹿な事を喋ってるってぐらいは。でもこいつらの口の悪さ
はもう少しどうにかならないのかな。 普段の自分を忘れ、失礼な年上の仲間に少しだけ腹を立てる。ま
ったく、ここまで俺をコケにしたんだから復活するまでは無失点で
しのいでくれないと許さないからな。
◇ ◇ ◇
慌ただしいのは選手達や監督といった試合を行っている連中ばか
りではない。
実況席も延長戦が始まるまでの間に、これまでの試合のまとめと
これからの展望を語らねばならないのだ。いろいろと忙しい。
﹁さて見事同点に追いついて延長戦に持ち込んだ日本代表ですが、
1541
まずは大荒れでゴールラッシュとなった後半を振り返りましょうか。
後半が始まった途端ブラジル怒涛の攻撃に日本代表の守備は崩壊
しいきなりの四失点。特にカルロスはスーパーゴールを含む一得点
二アシスト、エミリオは二得点と松永さんの﹁カルロス達は後半か
らは出てこないはず。出てきても体調不良で日本はこのままリード
を守り切れる﹂という言葉を裏切りあっさり逆転されるどころか二
点も勝ち越されてしまいました。
ですが、この逆境から日本代表は解説者も受け入れかけていた敗
北を拒む大和魂を発揮します。まずは中盤の守りの要である石田選
手が怪我をしながらも、ブラジルのエースであるカルロスから執念
でボールを奪取。そこからの高速カウンターで一点差に。最後の同
点弾はロスタイムが切れる間際でした。足利選手の撃ったフリーキ
ックからのこぼれ球をキャプテンである真田選手が豪快に蹴り込ん
だゴールです。
いやー改めて見ても日本の土壇場での粘りは素晴らしいですね﹂
﹁⋮⋮ええそうですね。ブラジル代表についてですが後半からカル
ロス達が出てきたのはちょっと予想外でした。しかもピッチでの動
きを見る限り同じく後半からの出場であるエミリオと同様怪我など
のはっきりしたマイナス面はないようです。となると考えられるの
はよほど試合前の練習などでコンディション面で不安があったので
しょうか。これまでの連戦で彼らはどうしてもスタメンが多かった
為に、体調不良の彼らは体力面での心配から時間を限っての出場と
なったのでしょう。
しかし、ブラジルの猛攻を受け突き放されてなお折れない精神を
持ったメンバー達、特にそれを体現した石田と真田は偉いですよ。
私が抜擢して代表に選んだ甲斐があったとしみじみ思いますね﹂
日本代表を賞賛し、その裏でさり気なく解説者である松永を貶し
ているアナウンサー。それに対する松永の反応はどこかバツが悪そ
うだがそれを覆い隠している。
1542
さすがにここまで展開予想が外れれば自分の解説者生命が危険だ
と理解してるのだろう、ブラジル贔屓の発言が多いものの慎重さと
自分の功績をなんとか現代表へ盛り込もうとする行為がより露骨に
表れてきているようだ。
手強いと感じたかアナウンサーも松永への戦闘モードを取りやめ、
真っ当な実況に戻る。
﹁ではこれからの延長戦に入ってからの展望をお願いします﹂
﹁後半の序盤に大量失点してからは日本が守備の乱れを修正して、
更に二得点を取り返して追いついています。この流れで行くと当然
ながら最後にゴールした日本の方が有利な流れになりますね。カル
ロスとエミリオのブラジルが誇る二人組も後半の最後の方では得点
がストップしていたというのは、やはりコンディション的に問題が
あったからでしょう。だからフル出場は見合わせていたのかもしれ
ません。そうだとするとスタミナの面でも問題のない日本が有利と
いうことになります﹂
﹁なるほど⋮⋮﹂
松永が延長戦について自分の見解を話す度に実況席の空気が硬く
なっていく。ある意味ここまで信頼されている松永は凄い。
とうとう担当ディレクターが携帯を片手に番組のアシスタントデ
ィレクターに向かって何やら耳打ちしている。相当顔色が悪く、か
つ焦っている様子からするとスポンサーからのクレームか視聴者か
ら受け取った抗議の数が予想以上だったのかもしれない。
慌てた様子で﹁松永さんあまり日本代表を褒めないで!﹂と書か
れたカンペを叩いて見せようとするアシスタントディレクター。ア
ジア予選では日本代表を叩いたと批判され、現在は日本を褒めると
逆に恐怖される松永も大変ではある。
だがカンペを読む前にこの番組の看板解説者は、延長戦での戦い
は日本が有利だと結論を出す。
1543
﹁ブラジルは切り札のコンビを出しても勝負を決めきれなかった、
しかも優勝カップに手が届く寸前で阻止されたんです。当然ながら
かなり士気は落ちますし、流れが自分達の物ではないと自覚したで
しょう。体力面にしても途中出場させざる得なかったほど不安要素
が多い。
ならば、やはり今日の試合でほぼ全ての攻撃とアシストを請け負
っているゲームメイカーの足利が絶好調な日本が有利なのは間違い
ありません。いやぁあいつを育てた私も鼻が高いですよ﹂
﹁そ、そうなんですか﹂
カンペを眺めて冷や汗を流しているのはアナウンサーだ。この解
説の後で日本の形勢が不利になればまた番組に当てたクレームが山
のように来ると想像したのだろう。
不思議なことに﹁松永に日本有利なコメントをさせたな﹂という
番組への文句はあっても、松永個人にはあまり不満の矛先は向かわ
ない。
なぜなら以前別のサッカー番組中に、松永が自分宛の手紙を取り
出して自分の応援しているJリーグのチームは絶対に勝つというフ
ァンからのお便りに﹁はいはい、そうなってくれるといいですね﹂
と馬鹿にしたような応援をした事があったからだ。その結果は︱︱
当然というべきなのか応援されたチームは見るも無残な惨敗を喫し
た。
それ以来、松永には余計な事を言わない方が良いという空気が出
来上がったのだ。もはや一種の祟り神である。
しかしすでに松永の予想が終わってしまったここに至っては、も
はや日本が延長が開始されてすぐに得点して勝負を決めてくれと願
うぐらいしかアナウンサーにできることはない。
1544
︱︱もちろんこの時点では実況席の中にいる者達に責任はない。
松永にしても﹁体力面で有利﹂と語っていた日本代表の中では足利
のスタミナがすでに尽きていることや、カルロスにエミリオがまだ
まだ元気でいることなど知ってはいなかったのだから。
1545
第七十九話 ブラジルの猛攻を耐え抜こう
延長戦が始まってから、ボールのほとんどが俺達日本陣内で動い
ている。
ブラジルもこの土壇場で失点するのは怖いのか、後半の最後と変
わらずにどちらかと言えば守り重視のフォーメーションだ。だがそ
れ以上に日本は自陣に引いて守っているせいである。
しかし攻撃に関しては個人能力で状況を打破できるエースが揃っ
ているブラジルは、たとえ後ろに多くの選手を残していても攻撃一
回毎の破壊力は高い。
カルロスというスピードスターとエミリオというゴールハンター
の二人が前線にいれば、それだけで下手な代表チームが行う総攻撃
以上の破壊力を持っているのだ。ブラジルの攻めてくる人数が少な
いなんて油断してしまえばそれは即失点を意味している。
対して日本はこれまでトップ下だった俺が体力不足で満足に動け
ないという不甲斐ない理由もあるが、攻めるどころかパスを繋ぐこ
とさえままならない。攻守のリンク役である俺は足が止まり、明智
はカルロス対策に追われている。
監督の指示通りサイドの山下先輩や馬場が下がって繋ぎ役をしよ
うとするが、そうすると前線の駒が少なくなる。前へパスのターゲ
ットが減ると容易にルートを看過され、カットされずにボールを進
めるのは難くなる。そのせいでこちらの攻撃が薄いと判断したブラ
ジルの攻撃参加する人数が時間経過と共に増えていくのだ。
山形監督の指示したように延長前半は、まだじっと我慢するしか
ない雌伏の時だ。
そんな守備一辺倒の日本代表は、いわばコーナーに追いつめられ
サンドバック状態になったボクサーのようである。しかしいまにも
崩れ落ちそうになりながらも、それでもしぶとく粘りダウン︱︱失
1546
点だけはしない。
日本のピンチには真田キャプテンが最後の砦として、そして最終
ラインの指揮者として堂々と振る舞って最高のプレイをしているか
らだ。
時間ぎりぎりの同点ゴールを決めた辺りから、自信なのか俺や周
りの見る目が変わったのか真田キャプテンまでもが一流選手のオー
ラの如き物を纏っているようである。 これが大舞台で活躍して一皮剥けたって奴なのかもしれない。
心の中を仲間への賞賛が大部分が占めて、残りをほんの少しの悔
しさで満たす。もし俺の体力が尽きておらず、万全の状態でフリー
キックが撃てていればあの同点ゴールも今の彼の守備能力に頼った
綱渡りのディフェンスもなかった。まるで俺が真田キャプテンの覚
醒に手を貸したようじゃないか。
味方がレベルアップするのは嬉しいし頼もしいが、どうせなら俺
自身が壁を乗り越えたかったな。日本の危機を傍観しているだけの
現状に併せて次第に苛立ちが募る。 日本のディフェンス陣が集中しているとはいえ、カルロスやエミ
リオといったブラジルが誇る最高クラスのアタッカーに対しては人
数をかけて守るしかない。その多人数を組織的に守らせるという難
しい指揮を嬉々として真田キャプテンがほぼ完璧に行い、延長戦が
始まってからここまで敵にゴールを許してはいないのだ。
練習試合でもほとんど同じチームだから相手として戦った経験は
あまりないのだが、今の真田キャプテン指揮下の守備陣からはそう
そう失点しそうな雰囲気は感じないな。
唯一の懸念材料だった途中出場のDFとキーパーそれにアンカー
も、延長に入ってからはすっかり落ち着いて自分の役割を果たして
いる。
⋮⋮うん、こうなってくるとただ体力の回復に努めているだけの
1547
俺が情けなくなってきてしまう。
ダッシュはしない早足程度でスペースを埋めたりパスを捌いてい
るが、どうしてもこれまでのプレイに比べると効果的とは言いがた
い。体力がないのは自分のせいなのにフラストレーションが溜まっ
ていく。
手助け出来ないくせに鳥の目で戦況を把握しているのものだから、
余計に日本のピンチに敏感になってしまうのだ。ほら、またブラジ
ルが攻めてきた。
危ない! カルロスがスペースのないDFラインを引き裂こうと
している。
交代で入ったアンカーが残っている体力をぶちまけるような執拗
なチェックでなんとか食い止める。
マズい! エミリオがロングシュートを狙っているぞ。
武田がその大きな体を投げ出すようにして必死にゴールへのコー
スを潰し、コーナーキックへ逃れる。
しまった! フランコが日本の弱点である右サイド奥深くからゴ
ール前にクロスを上げようとしている。
真田キャプテンの操るDFラインが各自のマークしている相手に
抱きつくようにして、せめて自由にヘディングだけはさせないよう
に力を尽くす。
ああ、助かった。キーパーが前へ飛び出してキャッチして何度目
になるか数え切れないピンチを救ってくれた。
延長も半ばを過ぎるとブラジルのオフェンスが多彩な手段で攻め
込んでくる。特に今の時間帯はほぼ一方的に攻められているだけの
状態だ。
それをことごとく凌ぎきっている日本のディフェンスも見事では
ある。なぜここまで守れて四失点もしているのか判らないぐらいだ。
攻め合いの中での失点と固く閉じこもっている場合では守りやすさ
1548
も違うだろうが、一番の違いは真田キャプテンの影響力が増したか
らというのは明らかだ。
でもそれがいつまで保つか保証はない。
こんなピンチの時こそ落ち着かなければ。
ボールが一旦外に出たのを良い機会だと、サイドライン沿いに置
いてあるドリンクから水分を補給する事にした。ついでにそこで足
を止めたまま数度深呼吸をする。
新鮮な酸素が肺を満たし、白っぽく薄れていた視界にはっきりと
色が戻ってくる。
やれやれ、水分不足に陥りかけていた俺にはまさに命の水だった
ようだ。
足が震えていたほどの疲労が回復するに連れ、徐々に思考がクリ
アになっていくのを感じる。さっきまでは場当たり的な考えしか浮
かばず、鳥の目を使うのも忘れるほど視界が狭くなっていた。
だが延長の前半もだいぶ過ぎると、これまでさぼらせてもらえた
おかげで随分と体力が回復したな。
これならばなんとかチームの役に立てそうだ。
延長に入ってからの俺の役割はボランチの位置からパスを配球す
るだけだった。そこへまたもDFから﹁前線へ繋いでくれ﹂といっ
たパスを受け取るが、今度はちょっと左右のサイドに渡すだけじゃ
なく自分で突破してみようか。
幸い延長に入ってからここまでは自分で前へ行こうだなんて色気
を出していないのが良かったのか、今の俺はほぼノーマークだ。
ここがチャンスだと敵ゴール方向へとターンする。
⋮⋮その足がもつれボールがこぼれた。
近くに敵がいなかったから良かったものの、もしマークされてい
たら一発でボールを奪われていた。 1549
いや近くにはいなかったはずなのに、いつの間にかカルロスが持
ち前のスピードを生かして急接近している。あいつは俺を相手にし
ている時が一番チェックが厳しいな。 慌ててバランスを崩して尻餅を突いたまま、格好など気にする余
裕もなくボールを明智へと託す。
危ねぇ! 俺からのパスにすぐに反応して追いかけたカルロスの
せいで、明智までもがボールを失いそうになる。
またもやバックパスすることでようやくカルロスからの追求を逃
れるが、それでも最終ラインのDFまで随分ボールを押し込まれて
しまった。
すると今度はそこに襲いかかるエミリオの姿が。くそ、いつもは
お前は守備なんてしないくせにブラジルの得点に繋がりそうな時だ
け顔を出しやがって。
武田とエミリオが交錯し、ボールが日本ゴール前を不規則に転が
る。
こうなってしまっては花開いた真田キャプテンの統率力も通じな
い。こんな場合にボールに追いつく為に一番役に立つ能力は味方を
指揮する力よりも純粋なスピードだからだ。 そしてブラジルにはスピードならば誰にも負けない奴が一人いる。
カルロスがボールに追いつく︱︱その寸前にスライディングで滑
り込み、ボールをキーパーへ返す選手がいた。手を使ってはいけな
いバックパスを慌てて大きく蹴ってクリアするキーパー。
ブラジルのスピードスターを食い止めたのは、これまで日本のデ
ィフェンスラインに存在しなかった少年だ。
﹁ナイススライディングだ島津!﹂
﹁島津がまさかDFらしい仕事をするなんて⋮⋮﹂
﹁あいつがスライディングしてキーパーへボールを返すとは俺の目
1550
が悪くなったのかな﹂
﹁え? 島津が守備をした? 面白い冗談っすね﹂
珍しく守りで貢献したにも関わらず、若干いじられる割合が多い
島津だがこれはもう自業自得だろう。なにしろ試合前後の整列とハ
ーフタイムの間しか自陣にいなかったと、一試合を通じたデータで
示された事のあるDFなのだ。その島津ですら守りに入らねばなら
ぬほど日本は攻め込まれていた。
それより今のクリアでボールは外に出たか。やっぱりあそこまで
戻されると、もう一回中盤に戻して組み立て直すより完全に外へ出
すようにした方がいいな。
ブラジルからのスローインになるが、悪い流れも切れるしその方
がいいとキーパーが判断したんだろう。
それにしても⋮⋮今の危機の引き金となった俺に対する仲間の視
線が冷たい。﹁だから休んでろって言ってるだろうが﹂と責めてい
るようだ。うん、少しは懲りたな。しばらくダッシュなどは控えて
また体力を回復することに専念しようか。
俺の謙虚な気持ちは三分間は続いた。まあ俺にしては長持ちした
方だ。
芝を爪先でつついて足から伝わる感触を確かめる。
よし、さっきまでのようなふにゃふにゃした頼りないものではな
く、一本芯の通った感覚だ。これならばもうゲームから消えてなく
てもいいだろう。ピンチを招いた時もそう思ったが、今度こそ大丈
夫のはずだ。
待たせたな、今俺が日本が押されているゲームの流れを変えてや
る! 決意を込めてこれまで俺を休ませてくれたチームメイトへ叫ぶ。
1551
﹁もういいぞ! 俺にボールを回して︱︱﹂
声がそこで途切れたのは、ちょうど俺の声に被るタイミングで延
長の前半終了を告げる笛が鳴り響いたからである。俺の声に耳を傾
けかけていたチームメイト達も半笑いになっている。
⋮⋮ちぇっ締まらないなぁ。俺ってこういう間の悪い所があるの
だ。
でもこの格好悪さは後半になって挽回するしかない。それが前半
に必死で守りきってくれた守備陣への返礼になるだろう。⋮⋮なる
よな?
1552
第八十話 一番得意な作戦を採用しよう
延長の後半になり敵味方の陣地を交換する。俺も疲労のせいで頭
が回らずになぜか忘れてたが、そう言えば延長の場合はハーフタイ
ムがなかったんだ。くそ、体力を回復するにはいい機会なのに。
日本の他のチームメイトもそう考えたのだろう、すぐにポジショ
ンににつかずサイドラインを沿いに置いてあるドリンクを飲むなど
してゆっくりとしている。
その俺達に監督が早口で声をかける。審判に遅延行為だと注意さ
れる前に指示を終わらせようと大慌てだな。
﹁よしよし、よくあのブラジルの攻撃をゼロに抑え込んだな。真田、
大殊勲だぞ﹂
﹁ははっ、そりゃどうもありがとうございます﹂
今日だけでも随分と株を上げた真田キャプテンが笑顔で答える。
確かに延長行きを決めたゴールを抜きにして守備面だけの貢献で考
えても、ブラジルの強力な攻撃陣を敵にしてるんだから彼の指揮が
なければ失点の数がもっと多かったはずだ。
﹁それと島津も最後の方はナイスディフェンスだったぞ﹂
﹁ああ、あれは助かったな。言っちゃなんだが島津らしくない献身
的な守りだった﹂
山形監督と真田キャプテンというベンチとピッチ両方の中心から
褒められたにも関わらず、当人である島津はあまり嬉しそうではな
かった。却って褒められた途端に誰からも離れた場所に体育座りし
て俯き、ドリンクに口をつけながら羞恥に耳まで赤くしている。え
1553
? なにこの反応。
﹁いや⋮⋮あれは、やむを得なかったからで非常手段でしかない。
だから守備で俺をあまり頼りにされると、その困る﹂
﹁え? 島津はDFだろ?﹂
﹁うむ、だから恥を忍んで守備に回ったのだ。でもあのような真似
は今回限りだ﹂
﹁いや、だから島津のポジションはDFだよな?﹂
なぜか守りに入ったのが島津の﹁超攻撃的サイドバック﹂として
のプライドを傷つけたらしい。カルロスを止めたシーン以外にも要
所で守ってくれていたのだが、彼にとってはそれは必要悪でしかな
かったようだ。
もう誰かこいつの妙なプライドを捨てさせろと思うが、この決勝
戦の延長後半に突入しようとしている緊迫した場面で島津に対して
カウンセリングなんてやっている場合でもない。
おそらくチーム全員がそう考えたのだろう、どこか困惑した苦笑
を浮かべている。あ、一名だけ﹁そやな、点取り屋が守りをするな
んてやーさんに喧嘩を売るより覚悟を決めなあかん。島津、プライ
ドを捨ててよう頑張ったな﹂と共感して瞳を潤ませているストライ
カーがいるがそれは絶対的な少数派だ。というかセンターフォワー
ドと価値観が同じサイドバックをレギュラーにしてよくここまで俺
達勝ち上がってこれたもんだ。
だがそのディフェンスを指揮している真田キャプテンの充実した
表情には、苦笑いだけでなく疲労の影が滲んでいる。そりゃそうだ、
延長に入る前からあのカルロスやエミリオを相手取っているのだか
らな。あれだけ強力なアタッカー達から精神的なプレッシャーを相
当受けていなければおかしい。
ましてや真田キャプテンはこれまでのほぼ全試合に出ずっぱりだ。
1554
そのぐらいチームにとって替えが利かない精神的な支柱なのである。
今大会のこれまでの連戦における疲れもピークに差し掛かっている
だろう。
それに山形監督も気が付いているのか、褒めている割にはどこか
心配気な難しい顔をして腕組みをしている。
﹁⋮⋮だが真田、あいつらを最後まで抑えきれるか?﹂
﹁きついですね、それは﹂
真田キャプテンの口から弱音にも聞こえる言葉が出てきたのは初
めてだ。いや、弱音というより彼が下した客観的な評価に近いのか
もしれない。
つまりこのままの引きこもってばかりの戦術ではブラジルに対し
て守りきってのPK戦にまで持ち込むのは難しいと。
山形監督もそれを理解したのだろう、俯いて溜め息を一つ吐く。
だがその体勢から三秒後、再び上げた我らが指揮官の顔にはなぜか
悩みが無くなりすっきりした表情になっていた。
﹁なら後半の作戦は決まりだな﹂
一人で勝手に納得して頷くとこっちへと振り向いて確認をとる。
﹁アシカ前半は休ませたんだ。⋮⋮もう大丈夫だよな?﹂
﹁ええ、大丈夫です﹂
俺も延長に入る前のようにはぐらかすような返答ではなく、しっ
かりと監督の目を見て親指を立てる。
﹁そうか、なら延長の後半は俺達日本代表がこれまでにやってきた
一番得意な作戦と指示で行くしかないな﹂
1555
﹁何っすかその作戦と指示は?﹂
理論派だけに早く作戦を確認しておきたいのか明智が突っ込む。
そろそろ審判が怒りだして監督にカードを出しそうな頃合だから、
回りくどい返答は求めていないのだ。
そのせいか山形監督の答えは実に短くシンプルで俺好み︱︱いや
この日本代表の好みに沿ったものだった。
﹁作戦は﹁総攻撃﹂で指示は﹁勝て﹂だ﹂
◇ ◇ ◇
足利宅のリビングにあるテレビ画面の中では二人の男が深刻そう
に話し合っている。解説役の予想からはまったく正反対の状況だか
らだ。しかも、陣地を替えるだけの短い間に延長前半の総括をしな
ければならない。
スタミナの面に不安があるような日本側は、一番移動距離のある
キーパーがゆっくりと歩いて時間稼ぎをしているようだが与えられ
ている時間は僅かしかない。
﹁松永さんの延長に入れば日本が有利ではないかという予想に反し、
日本代表は前半は攻められっ放しの苦しい展開となりました。キャ
プテンである真田選手の奮闘とFWの島津のディフェンスもあり⋮
⋮あ、失礼しました。島津はDFとして登録されてましたね。こほ
ん、それでなんとか失点だけは免れましたが、この状況を松永さん
はどう分析しているんでしょうか?﹂
﹁そうですね⋮⋮﹂
ちくりと言葉の棘に刺された内心の動揺を鎮めるためか、話しを
振られた彼は水を一口飲んで一拍置く。
1556
﹁どうやらブラジルの看板選手達はベストコンディションだったよ
うですね。ならばどうしてカルロスやエミリオといったスター選手
達を先発出場させなかったのか非常に疑問は残りますが、まあ今考
えるべき問題ではないでしょう。ただ彼らが体調の面で問題がない
のなら日本は確実に不利です﹂
﹁ほう! やはりそうですか?﹂
質問するアナウンサーは嬉しそうだ。そしてそれよりも嬉しそう
なのが同じ室内にいる番組のスタッフ達だ。祖国の代表が不利だと
分析されたにも関わらず﹁うんうん﹂と頭を激しく上下に動かして
﹁もっともっと﹂と松永の解説を煽っている。
﹁逆に日本代表の方が体力面に不安があるからですよ。ここまで日
本は三人の交代カードを使いきっていますが、二人は怪我によるも
ので一人は戦術上の理由で交代しています。純粋に疲労した選手か
らフレッシュな選手への切り替えという意味では交代枠を使ってな
いのです。選手の体力をカバーするようなローテーションは組めて
いません。まあ怪我人が複数出てしまったのは計算外とはいえ、こ
こで山形監督の若さがでてしましたね。私ならば延長に入ってから
ぴたりと足の止まってしまった足利を代えるために一枚はカードを
残しておきますよ。もともと最年少の足利は体力がないのが判って
いたんですから、スタートから出場させるなら何らかの配慮するべ
きでしたね﹂
﹁はあ⋮⋮﹂
山形監督や足利といった他人の欠点をあげつらう場合には急に饒
舌になる松永に、アナウンサーはちょっと腰が引け椅子ごと後ろに
退いてしまう。
それに気が付いたのか、松永はこほんと咳払いをしてこの場の気
1557
まずさを取り繕おうとする。
﹁と、とにかく延長後半では私が抜擢した真田を中心とした守備を
徹底し、PK戦にまで持ち込むのが最善の策でしょう。PK戦であ
れば日本が勝利する可能性も十分にありますからね﹂
﹁なるほどいかにも松永さんが監督時代によくやっていたと聞く、
手堅い守備的な作戦ですね。確か監督をされていた期間も、カルロ
ス選手が出場していなかった場合は相手が格上格下に関係なく引き
分けが多かったとか。そのおかげでPK戦の経験も豊富だったそう
ですね。しかし、今の代表はPK戦の経験がほとんどありません。
さてそれでも日本代表も松永さんが予想したような守備重視のPK
戦を視野に入れた作戦で延長の後半を戦うのでしょうか? もうす
ぐ世界最強のチームを決める最後の十分間が始まります。日本代表
の健闘を期待しましょう﹂
日本でこの実況を眺めている女性二人の心境は穏やかではない。
特に足利の母は﹁えーとこのテレビ局の番号は何番だったかしら﹂
と松永のコメントに対する抗議の電話を入れる気満々だった。とこ
ろが同様に憤慨していたはずの真が彼女の携帯を持つ手を抑えて制
止する。
﹁それは止めておきましょう﹂
﹁あら、真ちゃんはまさか松永の意見に賛成なの?﹂
﹁んー、それこそまさかですね﹂
長い髪が乱れるぐらい首を横に振る。そのいつもより少し荒い仕
草にどうやら真も相当腹を立てている事が窺える。ではどうして?
と尋ねたそうな足利の母に真が説明する。
1558
﹁松永の解説はともかく予想はだいたい正反対方向へ外れる可能性
が高いんです。だったら今のコメントから考えれば逆に延長の後半
でアシカが活躍してくれるってことじゃないですか! だいたい今
から電話かけても繋がる頃にはすぐに後半がはじまっちゃってます
よ﹂
﹁それはそうだけど⋮⋮﹂
まだ不服そうな親心に配慮したのか﹁それに⋮⋮﹂と真は持ち込
んでいたバッグをごそごそと探る。
﹁電話するより三号君を送った方が絶対効果は高いです!﹂
誇らしげに小さなバッグから取り出されたほぼ等身大の藁人形に
思わずソファから転がり落ちそうになった足利の母。彼女は真の言
葉に気圧されたように﹁た、確かに効果ありそうね﹂とこくこくと
頷くばかりだ。明らかにバッグの容量以上の体積を持つ人形の出現
に度肝を抜かれたようである。 ﹁ふふふ、この三号君はこういう時の相手への贈り物として最適な
んですよ! 何しろ相手は外見だけでビックリ箱を開いた並に驚き
ますし、配達されるところを周囲の人に見られたらヒソヒソ話の種
になります。その上テレビ局だからってテロ対策やイタズラ対策を
していても無駄なんです。これには危険物なんて入ってませんし、
警察犬なんかも臭いでKOしちゃいます。しかも中身をチェックし
ようだなんてしたら、ぱんぱんに詰められた芥子入りの中身が飛び
散るようになってる優れ物ですからね!﹂
真の明るい解説になぜかどんどん足利の母の表情は引きつってい
く。
1559
﹁う、うん。優れ物ね。でもそれってどんな用途のために開発され
たのかしら﹂
﹁ん? 納豆好き同士の贈答用ですよ?﹂
﹁そ、そうなの。⋮⋮うちは速輝が納豆を苦手だから送らないでね﹂
﹁んーそれだけがアシカの目立つ欠点ですよねぇ。あ、でも後半に
なってもアシカが復活しないようだったらスタミナを付けるために
も必要なんじゃ⋮⋮決勝の結果によってはこっちの二号君をアシカ
にプレゼントしてもいいですよ!﹂
どこに入っていたのか同じバッグから新たな藁人形を取り出す真
に足利の母が戦慄していると、画面上でも動きがあった。
﹁あ、ようやく始まるみたいです。ん、アシカも生まれたての小鹿
みたいじゃなくなってる。よーし頑張るんだぞー!﹂
﹁そうよ、頑張るのよ速輝! 松永の予想にも真ちゃんの納豆にも
ブラジルにも負けちゃ駄目!﹂
︱︱こうした経緯により足利家からの抗議の電話は取りやめられ、
代わりに北条家から藁人形三号君がテレビ局に送られる事となった。
真からも個人情報を知らない松永個人に渡す術はないために贈り物
のターゲットは第二候補のテレビ局になったのだが、そういった面
でも松永という解説者は非常に運の良い男なのは間違いがなかった。
1560
第八十一話 分の悪い賭ならばやめておこう
後半になり入れ替わったピッチの中央で大きく深呼吸をする。毎
週のようにプレミアリーグの試合が行われている、この整備の行き
届いた素晴らしいスタジアムで俺が戦えるのも後僅かな時間しかな
い。
少しだけ感傷に浸っていると、その隣へ焚き火が周りに熱を放射
するように自然と存在感をまき散らしている少年がやってきた。
ただ歩み寄って来るだけなのにその姿に観客の目が引きつけられ
ている。なんとも目立つ奴だなカルロスは。
﹁アシカはようやくお目覚めか﹂
﹁ええ、ちょっと寝起きが悪いもんで﹂
延長の前半はほとんど死んでいたのを皮肉られるがこっちも軽口
で返す。一見余裕に満ちているようだが互いの目は笑ってはいない。
まだ後半は始まったばかりだが、この時点から気を張っていなけ
れば知らない内に圧倒されて終わるだけだ。だから俺は強気に告げ
る。
﹁でも日本の強さに驚いたんじゃないですか? カルロスがいなく
ても世界大会の決勝まで来て、しかもここまでブラジルと互角の戦
いですよ。たぶんカルロスがいた頃より強くなってますね﹂
﹁ああ、驚いたな﹂
意外と素直に頷くブラジル代表の十番。そしてにやりと唇をつり
上げる、この少年の笑みは黒豹が獲物を発見したときに牙を剥くの
と変わりない。
1561
﹁日本もアシカも倒し甲斐があるようになったな﹂
﹁随分な自信ですが、もう日本は失点しませんよ。絶対にゴールは
守りきってみせます⋮⋮あの真田キャプテンが﹂
﹁え? あ、お、おう。まだあいつがキャプテンなんだったな﹂
迫力たっぷりのカルロスを、後方でディフェンスの指揮をしてい
る真田キャプテンにぶん投げる。DF陣に指示を出していた彼も驚
いたようだが、試合中に敵のエースとゆっくりと話をする暇はない。
それに確か二人とも一緒に代表チームでやっていた時期もあったは
ずだし積もる話もあるだろう。
本来のカルロスのマーク役である明智が何か﹁えーと、一応マー
クについている俺のことは無視っすか﹂と言いたげな表情をしてい
るが、徐々にヒートアップし始めたピッチではゆっくりお喋りをす
る贅沢はもうそろそろ終わりだ。
これからが決勝戦の︱︱いや世界大会のクライマックスである。
後半は延長の前半とは様相を変え、両チームとも積極的に攻撃を
仕掛けるようになった。
日本は後半からの方針が総攻撃なのだから当然だが、敵も更に前
へ人数をかけて攻勢に出る。おそらくギャンブルの要素が強くなる
PK戦になるよりは、ブラジルご自慢のアタッカー陣を活用して得
点を奪い試合と優勝を決めてしまおうという目論見だな。
俺達日本代表だってゴールしようという意欲は一緒だ。ただブラ
ジルと真っ向からぶつかり合うと俺達は少しだけ受け太刀になって
しまうのも否めない。
個人個人の技術は相手の方に一日の長があるのに加えて、どうし
ても日本は敵にいるカルロスとエミリオの二枚看板を無視できない
からだ。こいつらを無警戒で野放しにしてたら点の取り合いではな
1562
く一方的に蹂躙されてしまうだけになってしまう。
二人の化け物対策のためこいつらのマークだけは外さずに攻めて
いるのだが、それが逆にいつもの日本のように極端に前掛かりにな
らずバランスのとれた攻撃になっているのが面白いものだ。
まあその影には俺が結構苦心してゲームメイクしているのもある
のだが。でも俺が延長の前半に休んでいる間はチームが一丸となっ
てフォローしてくれたんだ、これぐらいお安い御用︱︱とまではい
かないが全力を尽くすだけの価値はある。
ボランチでいつもはゲームメイクを任せている明智がカルロスの
マークに忙殺されているため、俺が両サイドを幅広く使おうと積極
的にパスを回す。
これまではチームを滑らかに動かす組み立てが明智の仕事で、ど
ちらかというと俺は決定的なラストパスを狙うような感じが多かっ
た。今は俺がその両方の責務を担っているのだから、大変ではある
がやり甲斐も十分だ。
自分を囮にしてタメを作る事で中央を固めさせ、そこからサイド
へ展開する。数度そのパターンを続けてブラジルの守備が十分にサ
イドへ広がったら、今度は真ん中を自らのドリブルや壁パスなどを
使って突破を試みる。
この時ワンツーの相手役になるのは山下先輩が多い。やはり長く
コンビを組んでいるだけあって、俺とは呼吸を合わせる必要もない
ぐらいにぴたりとタイミングが一致するのだ。
しかし、いくら息のあったコンビネーションでも最後のなかなか
得点に至る扉は開けない。
ブラジルゴール前の決定的なエリアだけはカバーが充実している
せいである。その中でも上杉は﹁サンパウロの壁﹂であるクラウデ
ィオがぴったりと張り付いているVIP待遇だ。
でも優秀なDFが一人付いただけで、数々の激戦を征してきた日
1563
本のホットラインを止められると思うなよ。
俺は狙撃手がチャンスを待つように慎重に攻撃のスイッチを入れ
るタイミングを測る。
いくら休んで体力が回復したとはいっても簡単に燃料は満タンに
はならない。俺が全力でプレイできる回数は限られている。とても
じゃないが無駄撃ちはできないからだ。
またもや日本の守備陣から回ってきたボールをがっちりと保持す
ると、背中にくっつくブラジルDFを押し込むようにしてじりじり
とバックのまま敵陣を進む。まるでバスケットボールのドリブルだ
な。
俺が常に顔を左右に振ってキープしているために、ここが勝負所
だと押し上げてくる日本のサイドを警戒して包囲をかけようとする
敵はおらずに一対一をさせてくれるようだ。
相手は小柄な俺を倒してファールを取られないようにと気を使っ
ていたようだが、次第に苛立ってきたのか﹁いいかげんにしろ﹂と
ばかり肘を背骨に当てて押し返す。
背中の中心を肘みたいなとがった部分でぐりぐりされると痛いん
だよな。だが腹が立つのを我慢して、相手の集中が乱れてきたなと
自分に言い聞かせまたもや背中で押す。
相手DFもムキになったのかさっき以上の力を込めて肘を突き立
てようとする。
その瞬間に俺が行動すべきイメージが脳裏に描かれ、マークが押
し返そうとした肘打ちに合わせて体を引く。重心が崩れて体が泳い
だマークを回るようにしていなし、半回転だけの旋回を鋭く決めた。
マークを外したと言ってもほんの一歩だけで、ゴール前へのパス
を出せる空いたコースの幅も狭い。まるで地雷原を突破しなければ
いけないようだが、山下先輩とだけでなく俺から上杉へのコンビネ
ーションもここまで勝ち上がるのに何度も似たような修羅場をくぐ
り抜けている。
1564
今回もまた、俺がターンするより早くあいつはオフサイドライン
を破る準備を終えていた。さすが上杉はゴールする機会に対してだ
けは恐ろしく鼻が利くゴールハンターだ。
足元からすっと彼へ伸びるパスルートが脳裏に浮かび、そのピッ
チに敷かれたレールにボールを乗せるようにして丁寧だが力強くキ
ックする。
狙いは誤らず、ボールは絶妙のタイミングでオフサイドラインを
超えたうちのエースストライカーの下へ。
彼の前にいるのは飛び出しそこねた敵キーパーだけという決定的
な状況だ。
絶好のチャンスに蹴られたそのボールは力無く転がり、キーパー
のキックによってクリアされた。
しかしこれは上杉のシュートミスではない。
彼がミートする直前にボールを奪われたのである。
上杉はキックオフの止まったボールを蹴り損ねることはあっても、
ゴール前でシュートミスする事はまずない。そのぐらいシュートす
るキックは正確なのだ。
では誰が蹴ったのか?
後ろからクラウディオがボールに触れてキーパーへ押し出したの
だ。ペナルティエリア内で後方からのスライディングタックルであ
りながら、上杉にはかすりもせずボールだけにしか触らなかったと
いう神業のようなディフェンス技術である。
普通のDFならば完全にPKものだが、上杉でさえシュートしよ
うとした右足を空振りした後で﹁今のなんだ﹂とスライディングし
てきたクラウディオを振り返っている。﹁何でそこにおるんや? 振り切ったはずやん﹂と目を見開いている。
だがここで感心ばかりはしていられない身の毛がよだつ事態が。
キーパーによってクリアされたボールはそのままラインを割らず、
ブラジルのDFによって拾われてしまったのだ。
1565
日本が攻撃のスイッチを入れたのは僅かな時間だが、その間は前
掛かりになっていた。つまりは後ろにスペースを与えてしまったっ
て事だ。
後ろにスペースを空けたカウンターの撃ち合いになるとスピード
のある方が有利となる。つまり両チームのどちらに分があるかと言
えば勿論ブラジルだ。
そして間違いなくスピードで言えば今大会でもナンバーワンの少
年が手を上げ大声を上げた。
ブラジルで使われているポルトガル語の判る人間は日本代表では
明智ぐらいしかいない。だが彼が何を要求しているのかだけは日本
代表の誰もが理解できた。
あいつはボールをくれと叫んでいるに違いないぞ。だから日本代
表の全員が一斉に叫んだ。
﹁カルロスにだけは突破させるな!﹂
﹁判ってるっす!﹂
怒鳴り返すカルロスのマーカーである明智の声にもいつものよう
な余裕はない。今忙しくあいつの頭の中では、どうすればこのカウ
ンターを止められる可能性が高いかのシミュレーションが行われて
いるのだろう。
そして苦渋に満ちた顔付きをするとカルロスの背中に張り付く。
その理由も判る。おそらく﹁カルロスにパスが渡る前にカットす
る﹂というボールとカルロスを遮断するこれまでの作戦は、背後に
スペースが空いている現状では通じないと考えたのだ。
簡単にぽんと空いたサイドのスペースにボールを放り込まれると、
技術での勝負はできずにただカルロスと駆けっこになってしまう。
何しろうちには自分の後方に残した広大なスペースを無視して上
がる島津がいて、今もまたブラジルゴールへお出かけしていて留守
1566
にしているからだ。
スピードに乗ったカルロスを相手にして開けた場所で競争すれば、
また三歩で置いて行かれるのは火を見るより明らかである。
だから彼の好みではない﹁体で止める﹂選択をしたのだろう。
明智の中では自分の拘りよりもチームに貢献することの方が遥か
に優先順位が上のようだった。
その明智の決意とポジショニングが効を奏したのか、ブラジルの
DFからのパスはスペースにではなくカルロスの足下を狙った物だ。
しかもそのボールは正確にはほど遠く、わざわざカルロスが中央へ
受け取りに戻らねばならなかった。せっかく日本陣内へ向けて疾走
する準備を整えていたにも関わらず、一旦バックするのが不満そう
なカルロス。
くそ、今のパスがもう少しずれてくれてたら俺がカットできたの
に。戻ってくるスピードまでここまで速いってカルロスは本当に不
公平だよな。
しかし今のパスも蹴ったブラジルDFの単なるミスキックではな
い。パスを出そうとするブラジルDFにプレッシャーをかけて邪魔
した島津が偉かったのだ。
うん、島津は延長前半にディフェンスをしていた事を恥じ入って
いたけど、敵への体の寄せ方なんかは代表のDFとして厳しく見て
もしっかりしている方じゃないか。守り方の基礎はきちんとできて
いるんだよな、ただ普通のサイドバックに比べると守備位置が五十
メートル前なだけで。
それでも彼が前からプレスをかけてくれたおかげで、パスが乱れ
こうやって日本ディフェンスが守備を整える時間と俺がカルロスに
追いつく余裕を与えてくれた。
島津の前からのプレスもあって若干手こずったものの、母国の十
番へボールが渡った途端一気に沸騰するブラジルサポーター。
1567
煩せぇぞ。ボールを貰った位置もタイミングもそんなに良くはな
いだろ、無理に盛り上がるなよ。そう舌打ちしそうになった時、カ
ルロスの口元がつり上がっているのに気がついた。
背筋を走る戦慄と共に確信した。
来る! 間違いなく今のこいつはパスなんて考えていないぞ。ま
たこの化け物が自分の力で強引な突破をしてくる。
おそらく会場の中にいるほとんどの人間が、これからまたカルロ
スがドリブルを始めるのに疑問は持たなかっただろう。理屈ではな
くそういう雰囲気を彼が放っていたのだ。
ただ日本にとって問題なのはどのコースでカルロスが仕掛けてく
るのかである。
島津のおかげで一気にサイドを切り裂かれるのは防げたが、パス
がずれてカルロスの位置が中央になった分だけ選択肢が増えている。
鳥の目を持っている俺でさえこいつがどう来るのかは判らない。
俺からすればゴールへ至るどのルートも日本の誇る優秀なDFが通
行止めをしているように思えるからだ。
ただカルロスが肉食獣の笑みを絶やさないという事は、それでも
自分ならこのぐらいの守りは抜けると確信しているからだろう。
百三十キロしか球速のない投手は投げるコースに迷うが、百六十
以上の剛速球があればコースなんか気にならないで好きな所に投げ
られるのかもしれない。それぐらい俺とカルロスとの間にはポテン
シャルの差がありすぎてここからの彼の行動については予想ができ
ないのだ。 読みが当たっていてさえもなかなか止められないスピードスター
が、明智と日本ゴールに向けて一歩ドリブルで踏み出す。
この時点でカルロスがどう動くのか判った日本の選手はピッチ上
に誰もいなかった。
いや、ドリブルで全員をぶち抜こうとしているのは判るが、まず
1568
は目の前でマークしている明智の右からかそれとも左から行くのか
が問題だ。仲間が抜かれるのを前提にするのは嫌だが、一人じゃ止
められないんだからせめて犠牲を無駄にしないようにしなければ。
明智が抜かれるその一瞬がカルロスにチャージに行く最大のチャン
スなのだから。
くそ、もし近くに松永前監督が居ればカルロスの突破方向を右か
左かだけでも予想してもらい、その逆にヤマを張るものを!
俺達日本代表は鎖を解かれたカルロスがボールを持っただけで、
失点の危機に冷や汗を流す。
このままカルロスのドリブルを碌な予測も準備もできないまま、
好き放題にやらせてしまえば日本が負けてしまうと肌で感じたから
だ。
真田キャプテンはDF全体に目を配るためカルロスだけを注視は
できない。
おそらく代表で一番状況が読めて鳥の目を持ち、更に近くにいる
俺が明智と共にボールを奪いにいくしかないのだ。そして多分、俺
と明智のファーストアタックが抜かれた時点でカルロスの奴はスピ
ードに乗る。そうなれば失点は覚悟するべきだろう。
読みが当たっていても止められないかもしれないような化け物を
相手にする場合は賭けに出るしかないよな。それで外れても仕方な
いじゃないか。
重心の位置とボールの場所、足の爪先の向きといったカルロスの
挙動からこいつは明智を右から抜こうとする! 俺はそう判断した。
⋮⋮結果的に言えば俺の読みは完全に間違っていたのだが、まあ、
その、仕方ないよな?
1569
第八十二話 ボールで意思を伝え合おう
カルロスが明智を抜くのが右からか左からなのか、二者択一の簡
単な問題のはずだ。
自在に動くボールと違って俺はカルロスを体で止めようとするの
だから股下とか上からはなく、彼の肉体が左右どちらかに動くのか
は五分五分の確率である。
俺は相手を観察した結果、右からに賭けた。
同時に彼の足がボールごと右に⋮⋮、よし!
﹁違う、左だ!﹂
歓声をつんざいてピッチの外からよく耳に馴染んだ叫びが響く。
その声の主はもう交代してベンチで横になっているが、日本代表
の中ではもっともカルロスとマッチアップした経験の多い少年の石
田だった。
はっとして見直すと彼の指摘通り今のカルロスの動きはフェイン
トで、ボールを跨いだだけでしかない。俺の予想とは逆に彼は左か
ら抜こうとしていたのだ。
くそ、人間ってあそこまで体を傾けて重心を移したくせに逆方向
へと動けるのかよ。どんなバランス感覚してやがる。
だが、ここで石田のアドバイスによって思わぬ効果が。
明智がその声に従って左から抜こうとするカルロスに反応したの
だ。これまでずっと相棒だった石田の言葉に一片の疑い持たずに素
直に従う明智。
ここで更にもう一つカルロスの方にも異変が起こる。
彼のスピードを持ってすれば、おそらく明智がアドバイスを聞い
1570
てから左へと動いたとしてもそれより速く突破するのも可能だった
はずだ。しかし単にそれだけを実行するには彼の反射係数は高すぎ
たのだろう、それがマイナスに働いた。
普通の選手ならここまで重心が動いてしまっては踏みとどまれな
い。しかしカルロスの卓越した身体操作能力はそこからの進路変更
を可能とする。
一度自分が試合中に止められた石田が抱いた自分のフェイントを
完璧に読み切った声と、その指示通りに明智が動いたのを確認して
しまえばそのままにはできない。念の為になのだろうが更にもう一
度右への切り返し行ったのだ。
跨いだボールを左へそして相手の反応を見てからもう一度右と、
ボールを左右に振って方向を変えるという基本的な動きだ。ただそ
れが異様なまでに速い。後付けしたフェイントにも関わらず、初め
から逆方向へ切り返すのを前提とした俺のエラシコ並みの速度であ
る。
コースを読んでいた石田からの助言を受けてなお、彼の左を防ぐ
防御行動に対して追加で旋回したカルロスに右から抜かれてしまう
明智。
風を切り裂くように去っていくカルロスの姿を止める事はできな
い。
だがそこには忘れられていたかもしれないが、カルロスが右から
来ると賭けていた俺がいる。俺の予測は完全に裏切られはしたが、
それが結果的に彼の方からやってくるという幸運に導いてくれたの
だ。
いくらブラジルの十番を背負うテクニシャンでも、ドリブルの最
中にボールを強く反対方向へ動かすとどうしても足下から離れてし
まう。
1571
ましてや想定外の切り返しなのだから、この場合のカルロスがド
リブルしているボールも必要以上にスピードが乗ってしまい時間と
しては僅かだが彼から距離が遠くなってしまっていた。
これならばボールを奪える!
差し出す俺の足はボールを挟んでカルロスの足とぶつかった。
嘘だろ!? もう明智の所からここまで追い付いたのか! どれ
だけ踏み込みが速いんだよ。
ここで下手に彼のキックを受け流そうとすれば却って怪我をしか
ねない。俺はぐっと軸足で芝を噛み、蹴り足は逆に無理矢理にでも
相手の方へ押し込もうとする。
俺とカルロスの二つの間で潰れたまま寸時硬直するボール。だが、
力では俺はカルロスに到底敵わない。競り合った右足が吹き飛ばさ
れるように弾かれた。
痛ぇ、でもぶつかったのがボール越しで良かったぜ。これほどの
威力を持つキックを直接に受けてしまったら膝の関節が外れてもお
かしくないからな。
俺と明智のマークを強引に突破してしまったカルロス。
だがさすがに急遽コースを変更し、競り合いを力ずくで物にした
ツケは大きい。
もともとスピードで華麗に相手をかわすのが彼のスタイルなのだ。
特に俺に対しての無理矢理な突破というのは、性に合わないアクシ
ョンを基本性能の高さで押し通したようなものである。身体は前へ
出れてもボールの繊細なコントロールまではできはしない。
俺の足を弾くのと同時に、ボールは明智をかわした時以上に大き
くこぼれる。
ここで飛び出したのがうちの頼りになる真田キャプテンだ。
後ろのDFラインにエミリオといったゴールハンターを残しても、
中盤の底まで勇気を持って駆け上がってきてくれた。
1572
これなら彼がこぼれ球をクリアしてくれる。そう胸を撫で下ろし
かけたが、ブラジルの怪物はまだ止まらない。
ピッチを跳ねるように加速すると、真田キャプテンが追い付く寸
前にシュートを撃ったのだ。
どれだけ速度差があれば自分よりもボールに近くしかも転がって
くるのを迎える形の相手より、後ろから追いかけて先に触れるのか
判らない。
しかしいくらなんでもこれは強引すぎた。
おそらくシュートを撃ちさえすればブラジルもカウンターは喰ら
わない。そしてカルロスは自分のキック力ならばこの位置からでも
入る可能性が高く最悪でもボールがこぼれると予想したのだろう。
でもそれは日本を舐めすぎだぜ。
真田キャプテンは自分が空けたスペースを意識して指示していた
のだろう、その隙間を埋めていたうちのキーパーが見事にシュート
を真正面で弾く。
いつものブラジルならばそのこぼれ球に駆け込んでくるはずのエ
ミリオというゴール前のどんなボールでも差別しないハイエナは、
しっかりと武田がその強靱な肉体で羽交い締めのようにして封じ込
めている。
おいおい、熱心なのはいいがエリア内で反則とられるなよ。
弾いたボールをまるで鷹に襲われようとした雛のいる鳥の巣を保
護するみたいに、腹に抱え込み地に伏せたキーパー。
うむ、かなり大仰だがあれならば相手も手出しはできない。
凌ぎきった。
そう確信した俺達は顔を合わせて安堵の表情を見せ合う。
俺達というのは俺に加えて明智に真田キャプテンといった日本代
表の攻守の要である三人だ。カルロス一人を止めるためにこれぐら
1573
いは必要なんだからたまらないな。
エミリオを含めるとブラジルの二人を止めるのに、こっちは武田
とキーパーも加えて五人がかりかよ。それでも何とか防ぎ切ったん
だから文句はない。
しかし、ほっとして緩んでいた俺達の顔に緊張感が戻る。
ここにいる全員がピッチ全体の絵と戦術を描けるプレイヤーばか
りだ。その三人ともぴくっと肩を揺らした。
俺の場合は背筋に弱く甘い電流が流れた感覚だが、他の二人も似
たようなものだろう。これは日本がゴールチャンスを得た時に興奮
した体の反応だ。
でもまだ日本のゴール前でうちのキーパーがボールを持っている
状態なのに?
遠くのキーパーを見つめると、立ち上がりつつある彼までもがぶ
るりとまるで電流が流れたように身を震わせていた。
いや、それだけでなくピッチ上の日本代表全員が武者震いしてい
たのだ。
もう一度だけ明智や真田キャプテンと目を合わせると、さっと散
開する。
打ち合わせはないのにアイコンタクトだけでお互いの意図が通じ
合っていた。
つまりここは一旦バラバラになってマークを外そうという事だ。
すぐに日本が反撃するなら面倒なカルロスが近くにいるこの場所に
留まるのはデメリットでしかない。
俺達だけではなく日本代表のメンバー全員が一斉に行動を開始し
ていた。
ほとんどテレパシーのような意思伝達が今の間にはこの三人だけ
でなくチームメイトへと通じ合っていたのだ。
1574
キーパーがその手にボールをまるで赤子を守るレスキュー隊員の
ようにしっかりと抱きかかえている。その命がけで守ったボールを
大切そうにDFラインまで駆け戻った真田キャプテンへ投げ渡す。
︱︱ブラジルゴールにぶち込んでくるまで帰ってくるな! そう
無言の叫びが聞こえるようだ。
手で投げられた分キックより正確なパスをキャプテンが受け取ろ
うとした瞬間に再び俺と目が合い、ここでも意志が通じ合う。
アイコンタクトどころか超能力じみたやりとりが視線だけで交わ
されているぞ。
ここから先俺達には言葉は必要ではなかった。
いいパスには出し手の意志が込もると言うが、ほとんどボールの
受け渡しのみでピッチ上にいる俺達日本代表のメンバーは会話が繋
がっていくのだ。
ボールはすぐに急襲してきたエミリオへとまとわりつかれたキャ
プテンから隣のDF武田へ渡されたが、その後即座に﹁上がれ﹂と
目で促されていた俺へとロングパスが来る。
六歩前へ進んでそろそろ来るかと振り向くと、ドンピシャリのタ
イミングでボールが飛んできた。
武田からの正確なフィードをノートラップで無造作に左サイドへ
とはたくと、そこのスペースには﹁アシカからのパスは久しぶりだ
な﹂とここまで攻撃参加した事がほとんどない左サイドバックが駆
け上がっていた。
彼もまた俺からのボールをダイレクトで﹁ほらよ、受け取れ﹂と
中央へいるアンカーへと折り返す。
石田の代わりに入った代役の彼も短いが厳しい決勝の戦いの中で
すでにチームの一部となっている。
まるで前任者のように堅実なプレイで﹁石田だったららこうする
よな﹂とシンプルに近くにいる明智へパスを出す。
1575
明智はすぐに﹁僕とのコンビネーションのタイミングは判ってる
っすね﹂とよく組んで攻撃している左サイドのウイングである馬場
へと正確なキックを放った。
相手の中盤とDFの間の絶妙なスペースに転がったボールに、馬
場は追いついた途端﹁よし、敵は十分こっちに引きつけたぞ!﹂と
アーリークロス気味に蹴る。
だが、それはゴール前へのセンタリングではなく右への大きなサ
イドチェンジだった。
大きくサイドを変えるロングボールをここまで上がってきた︱︱
いや違う、カルロスがボールを持っても一歩も下がろうとしなかっ
た︱︱島津が、右のサイドラインぎりぎりで﹁次回はもう少し優し
いパスを注文する。俺でなければ場外へ出かねなかったぞ﹂とジャ
ンプして頭で折り返した。
いや、日本の右サイドバックが島津じゃなければ、馬場だってそ
んな無茶なサイドチェンジはしなかったはずだけどな。
ヘディングで繋げられたボールを今度は山下先輩が﹁アシカなら
ここへ来る。走るのをサボってたらそんな奴は俺の後輩じゃねぇ﹂
とノールックで中央へ回す。
俺も﹁はい先輩、受け取りました﹂と貰うのだが、ここで前に立
ちはだかるカルロスの影が。
彼はシュートを外した後、責任を感じたのかカットしようと走り
回っていた。だがこの少年のスピードでも今の日本のパス回しには
追いつけない。
ただボールを追うのでは速いパスワークに振り回されるだけだと、
方針を変えてそのパス回しの核である俺の真っ正面に駆けてきたの
だ。
せっかく日本代表の全員が駆け上がり、高速のパスでマーカーを
引き剥がしたってのに迷惑な奴だな。
1576
確かにそこにいれば俺のドリブル突破も前方へのパスも、彼のス
ピードを持ってすればケアできるだろう。
だが俺が相手の思惑に付き合う必要はない。ならば後ろだ。
山下先輩からのパスをあっさりとヒールキックで後ろに流して走
ると、俺をフォローして一緒に上がっていた明智もそれに応える。
鳥の目によって背後にいる明智のプレイが脳裏に映し出された。
俺からのボールをふわりとした浮き球のリターンパスに変えてカ
ルロスの頭上へ蹴ったのだ。キックと言うより自分に向かって来た
ボールと芝の間にシューズを差し込むような、振り切らずに芝で蹴
り足が止まり柔らかいバックスピンのかかるやり方だ。
カルロスの俊足がここで短時間とはいえ完全に止まる。
なにしろ俺がヒールでまずボールをカルロスの視界から隠し、そ
の直後ダッシュでカルロスに並ぶ。
俺の動きに反応しかけた時点で、ようやく自分の真上を明智の蹴
ったボールが通過しようと気が付いたのだから彼も大変だ。
ヒールキックによる後ろへのパスと俺の前方へのダッシュ、更に
無警戒だった上への浮き球全てに対処するのはいくらお前でも無理
だろう。
何でもできるお前だが、全部を一遍にできる訳じゃない。
逆に俺なんかはこれだけやってもカルロスを一歩遅らせるのが精
一杯だな。
でもそれだけ短い時間でもあればゴール前にパスは送れるぞ。
この一連のコンビネーションプレイが始まってからは、疲労だと
か足の重さなんかどこかへ行ってしまったみたいで体が軽いのだ。 おお、カルロスが俺のユニフォームへ手を伸ばしている。
こいつが掴みかかろうとするなんて初めてじゃないのか? 今ま
でその必要がなかったからだろうが、随分と下手くそなやり方だ。
1577
たぶんこいつはこんなにあっさりと抜かれた経験なんてないからど
うすればいいか判らないのだろう。
でもこれぐらいで止められるかよ。ブラジル十番の天才が出した
手を振り払い、俺は更に先へ進む。
明智からの落ちてくるボールを右足で捉えて、ほとんどボレーシ
ュート気味にエリア内へ速いパスを出す。
お前ならそこで待っていてくれるよな? うちで一番の点取り屋
さんよ。
上杉は﹁当たり前やないか、ようやくワイのとこまでボールを持
ってきたな﹂と言いたげに、パスが届く前により良いシュート体勢
になるためステップを踏む。
だが、ここでも最後の壁となって立ちはだかるのが﹁サンパウロ
の壁﹂クラウディオだ。
ブラジルのカウンターチャンスや日本の高速パスワークにもブレ
ず、上杉をマークするという己に課した役目をきっちりと果たして
いる。
それでも上杉の動きを追うだけでは俺からのパスの出所までは抑
えきれない。
会心のボールが﹁上杉お前判っているよな﹂と日本が誇るエース
ストライカーの足下に送られた。
ここまで日本のキーパーがボールを投げたスタート以外は繋げた
パスの全てがダイレクト。受け手の全員がトップスピードで走りな
がらだ。
もちろん日本代表の皆が俺みたいな鳥の目でピッチ全体を見えて
いる訳ではないと思う。 だがチームの全員が﹁ここに走ればパスが来るし、自分が渡す相
手はあそこに行く﹂と確信してプレイができていたのだ。
そんなハイスピードの連携によって紡がれた糸はエリア内の上杉
1578
に託され、そして彼もいつものワンタッチゴーラーらしく、そして
ここまでの皆のようにダイレクトでボールを蹴る。
上杉の目の前にはほとんど完璧にシュートコースを消して体を張
るクラウディオと猛ダッシュするキーパーの姿があった。 シュートジャンキーとまで表現される上杉はこの試合初めて︱︱
もしかしたら俺が知る限り初めて︱︱ペナルティエリア内からパス
を出した。
彼からのボールはなんとなく﹁アジア予選の後、アシカにだけは
こんな時はパスを出すと約束してたさかい仕方ないわな﹂と恩着せ
がましい雰囲気を纏っている。
これは外したら殺されるぞと感じつつ、上杉からのラストパスを
俺は丁寧に受け取る。
俺はうちのキーパーが真田キャプテンにボールを投げてからここ
まで一回も足を止めていない。パスを出す時も全て走りながらのダ
イレクトプレイである。
そんな日本陣内からブラジルゴール前までノンストップで疾走す
る奴に、ずっとマークし続けている敵なんているはずがなかった。
邪魔をするはずのカルロスや敵DFでさえ、ゴール前にいたシュ
ートマニアである上杉のリターンパスに反応できていない。
俺は決定力に難があると思われがちだが、今だけは不思議なこと
にプレッシャーも感じずに外す気も全くしなかった。
シュートというよりもこれまでのパスワークの延長のように優し
く、そしてダイレクトでブラジルゴールに蹴り込む。
大歓声の中だったが、俺の耳にははっきりとボールがゴールネッ
トと擦れる音が聞き取れた。
ほら見ろ。ここまで皆で持ってきたんだ入って当たり前じゃない
か。
1579
興奮ではなく安堵感が俺の胸を満たす。
奇妙に落ち着いたままゴールに転がったボールをじっと見つめて
いると、首をぐいっとばかりに引っ張られ乱暴に肩を組まれる。
いてて、上杉、お前は力が強いんだから手加減しろって。
次は逆方向に山下先輩から頭を撫でられる。やめろ、脳震盪を起
こしそうな荒っぽさで揺らすな。
そう抗議する間もなく、続々とチームメイト集まってくる。
いつの間にかキーパーまでもが加わり円陣を組むようにして俺達
は一つの大きな輪を作る。
だが、ゴールしてからここまで俺達全員は荒い呼吸をするだけで
無言だった。
パスを回していた時のテレパシーじみた残滓で、まだお互いの言
いたい事がなんとなく理解し合えるのだ。
︱︱まあ俺の後輩ならここで決めるのは当たり前だよな。
︱︱やはり俺のようなサイドバックが下がらなかったのは間違い
ではなかったようだ。
︱︱約束やからな、これから先も世界大会の決勝だけはパスを出
してやるわ。
︱︱このチームでキャプテンをしていて本当に良かった。
様々な思いが組んだ肩や繋いだ手から伝わってくる。
全員が顔を合わせ﹁へへっ﹂とどこか照れくさそうに頬を緩める。
その時になってようやく俺の耳に会場を割れんばかりの歓声が包ん
でいるのが届いた。
驚いて観客席を見ると、日本のサポーター達の席はもちろんほと
んどの観客が立ち上がって拍手をしてくれている。中には両手を突
き上げて叫んでいる男性や、日の丸を一心不乱に振り回しているレ
プリカの日本代表ユニフォームを身に纏った青年もいる。
1580
ああ本当にありがたい。あなた達がくれた声援のおかげでここま
で踏ん張れました。
円陣の真ん中から手を振ると一層騒ぎが大きくなりスタンディン
グオベーションが起こった。
立ち上がっていない一部の例外は、消沈し掲げた国旗の位置まで
低くなっているブラジルサポーター席ぐらいだ。
場内ほぼ全ての人間から拍手を送られているのが判ると勝手に耳
が熱くなる。周りの仲間も熟したリンゴのような顔色になっている
ぞ。
あれ、それにもうチームメイトの目を見ただけで意志が伝わるよ
うな感覚がなくなってしまったな。
まあいい、そのために言葉というものがあるのだ。
深く息を吸い、俺は顔は赤く染めたままで今大会だけでなくこれ
までに何度も繰り返した決意を叫ぶ。
﹁世界一になるぞ!﹂
﹁おお!﹂
答えてくれた日本代表の気合いに満ちた雄叫びは、場内の歓声を
裂いてテレビで視聴している者達の耳でさえ確認できたそうだ。
1581
第八十三話 審判の笛を待ち続けよう
ピッチ上の日本代表選手全員が雄叫びを上げ、自分達が一丸とな
りパスを繋げてゴールした喜びを全身を使って爆発させている。ゴ
ールした時に選手がガッツポーズをするのは別にアピールするのが
目的なのではない。勝手に手足が動いてしまいじっとしていられな
いのだ。
しかし、一番最初に叫んだ俺はそのせいか最初に頭が冷えてよう
やく自分達の立場を思い出す。
いかん、まだ俺達は勝った訳じゃないのだ。ここで気を緩めて逆
転されるなんて間抜けな真似はごめんだぞ。
叫びで掠れた喉の調子を咳払いで戻し、気合いを入れ直そうとす
る。
﹁こほん、皆⋮⋮﹂
﹁いいか、ここからが本当の勝負だ! 世界一になりたければ、残
り五分の間一瞬でも油断するな。得点した嬉しさはここまでにして、
残りは試合後までとっておけよ。俺達は世界の頂点を決める舞台で
もう一踏ん張りするために今まで厳しいトレーニングをしてきたん
だろう? 試合終了するまで後ほんの少しの間だけ足を止めずにに
全員で戦おう!﹂
﹁おう!﹂
真田キャプテンの獅子吼に俺の言葉はかき消される。いや本当に
この試合で覚醒して頼り甲斐があるようになっちゃったなうちのキ
ャプテンは。
だけどできれば俺が格好を付けるシーンを横取りしないで欲しか
った。まあ、あんたの叱咤で日本代表の全員がまた戦う顔になった
1582
から別にいいんだけどね。
﹁それとアシカは何か言いかけたか?﹂
﹁いいえ何も﹂
ついでに台詞を取られて口を開けたままぱくぱくさせていた、俺
のちょっと格好悪い姿をスルーしてくれればもっと良かったのだが。
頭を勢い良く振って気を取り直し、闘志を再注入している日本代
表の仲間から目を離してセンターラインの向こう側にいるブラジル
代表を眺める。
ああ彼らはもう逆襲の体勢を整えて、まるで剣を何本も突き立て
られている闘牛のように荒ぶっているじゃないか。
さすがに年齢は若くとも歴戦の強者だな、土壇場で失点したぐら
いで気落ちしている選手は一人もいないか。 なあに相手がどれほど気合いを入れていても、ロスタイムを含め
後五分を守りきればいいだけだ。そのぐらい軽いもんさ。
時計の針よ加速して進め、さあ遠慮なく笛を吹け。
ほんの数分前までの余裕は消し飛び、ブラジルのコーナーキック
の場面で腕時計に視線をやる審判に対して必死に念を送るが通じな
い。
審判は視線を時計からピッチに戻した。もう少しだけ試合は続行
されるようだ。
このまま終われば日本が勝利するという時に限ってロスタイムが
異常に長く感じるものだが、それが世界大会の決勝でブラジルに追
われているなら尚更体感する時間は長い。
こんなに俺が焦燥感に苛まれているのも、ブラジルも残った体力
の全てを振り絞るようにして猛攻をかけてくるからだ。
攻撃に力を振り切ると、さすがにとんでもなく迫力があるぞブラ
1583
ジルって国は。
ドリブルの名手を一人止めても、また後ろから他国のエースクラ
スのドリブラーがやってくる。シュートを一本防いでも、またどの
クラブでも得点王になれそうなシューターがこぼれ球からゴールを
狙ってくる。
一瞬であっても俺達が気を抜いたら即失点は免れない。
リードしているのがたった一点だけでは、いつか弾丸が出るロシ
アンルーレットを延々とやらされている気がして特にディフェンス
陣は精神的に消耗が激しいぜ。
俺が得点した後の場内で日本のサポーターが上げるのは﹁止めろ
!﹂という怒号か悲鳴ばかりである。
しかし、その苛烈な攻撃を俺達は一丸となって体を張って守りき
っている。いくらなんでも、もうそろそろロスタイムも尽きるはず
だ。⋮⋮そうだよな?
さっきからそう考えて自分を元気づけているが、自分を誤魔化せ
ないほど疲労と焦りがつもっていく。
さてこれが最後のセットプレイになるのか、ブラジルがコーナー
からゴール前にキックした。
だが敵にも残り時間が少ないのが影響したのか、慌ただしくボー
ルをセットしてすぐさまゴール前に入れるが微妙に上がったセンタ
リングのコースが雑である。
そのやや目的意識を欠いたコーナーキックは日本選手中最高峰の
DFである武田がヘディングで跳ね返した。やるじゃないか武田。
コーナーキックがゴール前からこぼれると一斉に日本ディフェン
スは上がっていく。
これはゴール前に残っている敵攻撃陣にパスが渡ればオフサイド
の反則を取れるからだ。当然オフサイドを取られるのが嫌なブラジ
ル選手も、そのラインを気にして魚が網に引っ張られるようにゴー
1584
ル前から引き上げられる。
しかも日本のDFだけでなく敵味方が一遍に上がってくるので、
例えルーズボールを拾った敵がいてもプレッシャーが与えられてシ
ュートコースは恐ろしく狭くなるのだ。
だがこの時ブラジルでこぼれ球を拾ったのはエミリオだった。
背が低くヘディング争いではあまり役に立たないと、このゴール
ハンターは少しゴール前の混雑から離れていやがった。
彼にマークで付くべき武田はその高さを買われてゴール前で壁と
なっていたのだから、どうもマークの受け渡しが上手くいかなかっ
たようだ。
しかし武田がいなければさっきのコーナーキックを防げたかは判
らないので、これをミスと言えるかは微妙だな。
こぼれ球を狙っていたのは俺も同じでゴール前にはいなかったが、
ルーズボールの奪い合いでは彼に一歩遅れをとってしまう。
鳥の目で密集具合を判断しても俺の方へ転がってくる確率の方が
高かったはずなのに、なぜかエミリオの方へと弾かれるボール。
これだから理屈抜きの狩猟本能を持ってポジショニングしている
選ばれたFWは嫌いなんだ。
ほとんどシュートコースがないにも関わらず、ボールを足下に収
めると冷ややかな笑みでエミリオは唇の端を歪める。
まずい。
俺の位置からではエミリオの邪魔は出来ない為に、直接彼の元へ
ではなく人波に逆行しゴール前に急ぐ。しかしそれよりも早くエミ
リオは行動した。
ふわりと優雅な弧を描くループシュート。
誰もがテンパっている場面でピッチの時間を止めるような柔らか
いボールである。
ブラジルの天才が計算し尽くしたコースに繊細なタッチで送られ
1585
たボールは、ゴール前の混雑どころか日本のキーパーまで完全に通
り越しそこから急激に落下する。
いかん、あの軌道ではバーを掠めてゴールに入ってしまう。
この状況で日本の選手がキーパーの後方にいるなど、少しでもデ
ィフェンスの知識があれば守っているはずない。
何しろそんな場所にいればオフサイドが全て無効になるのだから
ブラジルを有利にするだけなのだ。
だがなぜか今だけはキーパーの後ろに仁王立ちしている少年が一
人いた。
﹁ワイが守備するのは国際大会の決勝戦だけやからなー!﹂
おそらく日本代表メンバー以外には血迷い言をと一蹴される叫び
を上げて、思い切りジャンプしエミリオのループシュートを頭で弾
き返したのはうちのエースストライカー上杉である。
バネのある彼のヘディングは角度をつけて落ちてきたボールへも
なんとか届き、ヘディングに適した額ではなく頭頂部に当たるとふ
わりと打ち返された。
こいつがまさか守備をするとは味方を含め誰も想像すらしていな
かったので、日本陣内では敵も味方も彼についてはノーマークだっ
たのだ。
しかし、FWである彼の守備知識の無さがここではプラスに働い
たな。
オフサイドラインを乱さないように規律正しく組織されていたデ
ィフェンスの隙を、素人が見事に防いでくれたのだから。
でも多分まぐれにすぎないから無理するな。やっぱりこいつは敵
ゴール前の方が似合う。
止めてくれたかと一息も付かず、俺は上杉がヘディングで返した
ボールへと駆け寄る。
1586
上杉にとって勝手が判らないゴール前のクリアはやはり曖昧で、
弾き返したボールの行方は不確かだ。どうせ頭で止めるならキーパ
ーに返すかいっその事ラインの外へ出してしまえば良かったのだが。
いや、ぎりぎりで上杉の頭が届いたぐらいだからそこまでコント
ロールを求めるのは酷か。
守備に慣れていない彼ならばゴールに入らないようにするだけで
精一杯だったのだろうし、それで十分だ。
しかしここで日本のDFがラインを上げて、僅かなりとも空いた
ゴール前のスペースへ走り込む影が俺以外にも一つ。
鳥の目で状況を把握して、上杉がクリアするよりも先に動き出し
た俺と同じぐらい素早い反応を見せられるような反応ができるのは
一人しかいない。カルロスの奴だ。
持ち前の快速を活かして瞬間移動したかのようにクリアボールに
迫るカルロス。
だが、ここで俺が彼の前に割り込んだ。
へへ、確かにお前は速いよカルロス。俺の足なんか比較にならな
いだろうさ。
でもな、俺は鳥の目と予測でお前よりもずっと﹁早く﹂行動して
いたんだ。
例えカメでもスタート時間が早ければウサギが居眠りをしなくて
も競争に勝てるんだぜ!
俺は頭でボールを大きくピッチの外に弾き出した。
結局俺を追い抜けずボールに絡めなかったカルロスが歯軋りをし
ながら俺を見下ろすが、今だけはこの身長差が気にならない。
︱︱よし、負けていない。俺はカルロスとだって互角に戦ってい
るぞ。
解説をしているはずの松永や世界中のサッカー関係者に向けて堂
々と胸を張る。
だが胸を張っているのは俺だけではない。もう一人、日本代表に
1587
は褒めて欲しくてたまらない人物がいるようだ。
﹁はぁはぁ、まぁなんや決勝戦ぐらいはパスやら守備やら性に合わ
ん事でもやってみたんやけど、ワイぐらいの才能があればぶっつけ
でも結構様になるもんやな﹂
得意げに指で鼻の頭をこする上杉。だが彼に対する仲間の態度は、
ピンチを救ったにも関わらず意外と冷ややかだった。
﹁良くやったな上杉。でも今回はたまたま上手く行ったが、守備を
請け負っている俺には知らせてくれないとオフサイドラインが乱れ
るから困るぞ﹂
﹁ナイスディフェンスだったな。でもお前っていうカウンターの柱
がいなくなると敵のDFが押し込んでくるから上杉は前線にいてく
れた方がいいな﹂
﹁上杉がまさか守備をするなんて⋮⋮そんな事をする奴とは思わな
かったぞ。もう俺達らしくないプライドを捨てるような真似は止め
た方がいいだろうな﹂
救世主のつもりだった上杉もたじろぎながら反論する。
﹁な、なんや意外と不評やな。特に最後の島津から﹁誇りを捨てた
のか、屑め﹂って感じの見下げ果てた目でダメ出しされるのはなん
か納得いかへんで﹂
上杉は引き締まった頬を膨らます。殊勲者なのに誰も褒めてくれ
ないのが不服なのだろう。
どうどう、なだめるように彼の背中を軽く叩いて落ち着かせる。
﹁確かに今回は助かりましたが、やっぱり上杉にはこっち側より敵
1588
陣に居る方が似合ってますね﹂
俺からの援護射撃は上杉側への物ではなく、真田キャプテンなど
のディフェンス側へ立っての物だった。
ちょっと肩を落とす日本のエースストライカーに明智からも追い
打ちがかけられる。
﹁上杉はもう守らなくていいっす。ブラジルにプレッシャーをかけ
るためにカウンター要員として敵ゴール前に残っていて欲しいっす
ね﹂
﹁了解﹂
了承する声がユニゾンする。⋮⋮え? なんで返事が重なってる
んだ? 上杉と声を合わせて返事した者はすぐに判明する。
﹁いや、島津。お前は残れよ﹂
﹁俺に残って一体何をしろと?﹂
心底不思議そうに首を傾げる少年に全員で突っ込む。
﹁守備しろよ、DFなんだから!﹂
驚いたように目を瞬かせ、島津は深く頷いた。
﹁断らせてもらう﹂
もうやだこいつ。
そんなちょっとした幕間を挟みつつ、俺達日本代表はディフェン
スに心血を注ぎ集中を高めて体を盾にしてゴールを守っていた。
1589
あの上杉までプライドを捨てて守備をしたんだから、石に齧り付
いてでも勝ちたい。
日本は攻撃的なメンバー構成だが、前線にカウンター要員を二人
置いて残りの全員がゴール前の壁となる覚悟を決めていたのだ。
まあ、そのブラジル陣内に残しているメンバーがFWとDFのコ
ンビなのがちょっとだけおかしいが。
とは言え俺や前の二人が狙っているのは守備だけではない。
ボールを持てば、すかすかになったブラジルのディフェンスライ
ンを切り裂いてスルーパス一発での追加点を奪ってやる。そうなれ
ば追加点が決まった時点で終わりだ。
敵もそれを察知してかなかなかディフェンスをがら空きにまでは
しない。
よしよし、こんな風に警戒させて腰を引かせるだけでも効果はあ
る。もちろん相手も前掛りにはなっているが、一番高さのあるクラ
ウディオなどを上杉に張り付かせているだけでこのカウンターは威
嚇としては十分だ。
制空権のあるあいつが日本のゴール前にいれば向こうのパワープ
レイが一層脅威になってしまうからな⋮⋮って、おいとうとうクラ
ウディオさんまで日本陣内へお出ましですか。
日本は反撃を企てながらも、やはりほとんどの時間はリスクを承
知で本気になって攻めてくるブラジルを相手にしてはサンドバッグ
状態になるのは避けられない。
汗と土にまみれ、俺達はブラジルの攻撃を体で受け止めている。
くそ、まるで決壊しかけたダムを全員で崩れないように押し返し
ているような報われない作業をしている気がしてきたぞ。どうか早
く終わってくれ︱︱。
もうロスタイムに入ってから一時間が経過したのではと思うほど、
走り回り体力を消耗し尽くしている。
どんなに大きく息を吸っても酸素が足りない。息が荒くなるどこ
1590
ろか酸欠で頭痛までしてきた。
一歩ごとに芝が絡み付いてくるように足が重い。今にも足がつり
そうでふくらはぎの筋肉がひくついている。
サッカーが個人競技ならもうとっくにギブアップを宣言している
ぞ。チームと日本を背負ってなければこんな厳しい戦いをやってら
れるもんか。
頼むから早く終わってくれ。願いから懇願になりかけた時、よう
やく待ち望んだ音が鼓膜に届いた。
二度短くそして三度目は長い笛の音がピッチに鳴り響く。この試
合の終了を告げる日本にとっては福音である。
念の為に仲間と顔を合わせ﹁今の笛は終了の合図で間違いないよ
な?﹂と視線で尋ね合う。
だが戦いに集中しきっていたメンバーが確認するより早く、ピッ
チに山形監督とベンチメンバーが駆け込んできた。
ああ、間違いない。
確信すると緊張が緩んだのか、視界が滲んでしまう。
試合中はそんな事はなかったのに汗が目に入ってしまったんだな。
くそ、駆け寄ってくる仲間の顔がよく見えないじゃないか。
視覚ではなく、背中を叩かれ髪をぐしゃぐしゃにされる感触でよ
うやく実感できた。
︱︱俺達は世界一になったんだなって。
1591
第八十四話 画面越しの敵も倒そう
﹁ああ、またブラジルが強引に攻め込んで来たぞ! 危ない、ここ
は何とかして守ってくれ! よし、真田が体で止めたぞ、ナイスブ
ロックだ! ⋮⋮こほん、えーと残り時間は僅かです、ぜひ最後ま
で頑張ってリードを保持して欲しい日本。世界の頂点を目指してピ
ッチにいる全員が魂のディフェンスを見せています!﹂
﹁ええ、ここからが本当の実力が試される場面ですよ。あれだけ私
も目をかけていたのですから何とかこのぎりぎりの時間帯に真価を
見せてもらわねばなりません! それにロスタイムはまだまだ残っ
ていますからね。ここで焦らずにじっくり行くのが肝心ですよ﹂
ロスタイムに入ろうとする時間帯、我を忘れかけた絶叫調のアナ
ウンサーに比べて解説の松永は冷静だ。
あるいはそう装っているのか、表情筋は動かさないようにしてい
るが画面に映らない彼の背中からは紺のスーツが黒く染まったよう
に見えるほど汗をかいている。
そして、どうにも松永の言葉は素直に日本代表を応援しているア
ナウンサーのそれとは微妙にズレている印象が付きまとっている。
そんなぎこちない解説を続ける松永の血色の悪い顔をちらりと眺
めて、アナウンサーは残り時間が少なくなって煮詰まりだした試合
の実況を続ける。
﹁ああ、コーナーキックからのこぼれ球を拾ったエミリオのループ
シュートが⋮⋮いや! 防いだ! 防ぎました。敵のゴール前以外
では働いたら負けかなとインタビューで答えていた上杉が、驚いた
ことに日本陣内でキーパーの後ろという背後霊のようなポジション
で守ってクリアしました!﹂
1592
﹁なら上杉は負けですよ。私は言ったことを守らない奴は嫌いです
ね﹂
﹁そんな意地悪を言わないでも、松永さんだって結構⋮⋮っといけ
ない! そのこぼれ球にカルロスが!﹂
﹁来たー!﹂
緊張感溢れる早口の実況をするアナウンサーと、ちょっとずれた
タイミングで日本のピンチなのになぜか喜色を滲ませてハートマー
クが付きそうな声を張り上げる解説者。
﹁いや、ここで足利だー! 小柄なゲームメイカーがコースに割り
込んでブラジルの宝石より先にボールに触れてクリアしました!﹂
﹁あ、足利ぁ⋮⋮あいつはやってくれますねぇ﹂
﹁ええ、この日本代表で最年少の指令塔はやります。彼は大会を通
じて完全にブレイクしましたね。今日もアシストに得点にそして今
みたいにディフェンスにと大活躍です!﹂
興奮してしだいに紅潮するアナウンサーに比べどんどん松永の顔
色は悪くなっていく。日本が有利な状況にも関わらずどこか苛立ち
を隠しきれない雰囲気だ。
そしてリードしているとはいえ一方的にブラジルに攻められっぱ
なしの、鉄板の上で焼かれているようなじりじりする時間が過ぎて
いき、ようやく実況室でもおそらく一人を除いた日本陣スタッフの
全員が待ち望んでいた試合終了のホイッスルが鳴り響いた。
﹁ここで試合終了です! ついに若き日本代表が世界の頂点に立ち
ました!﹂
﹁そんな⋮⋮信じられない⋮⋮﹂
アナウンサーの歓喜の叫びと解説役の呻き声は好対照だ。
1593
終了の笛で雷に撃たれたかのように体を硬直させた松永の口から
は掠れ声が漏れ、目は潤んでいるというより充血している。
﹁いつもは厳しい松永さんまでもが信じられないと泣いています。
一時は苦楽を共にした教え子達の晴れ姿に感無量なのでしょう﹂
﹁まさか⋮⋮いや、きっとこれは夢に違いない﹂
﹁いいえ現実ですよ! 日本が夢にまで見た優勝です!﹂
テンションが上がりっぱなしなアナウンサーと正反対な様子の松
永解説者である。そしてアナウンサーに現実だと念押しされた松永
の目が、ふっと焦点を失ったように虚ろになるとぐらりと上体が揺
れた。
﹁う⋮⋮﹂
喉の奥から絞り出したような呻きを残すと、上半身だけが映るよ
うに撮影されていた松永は画面の下へ消えていく。
どうやら椅子からずり落ちたらしい。しかし、ただバランスを崩
して落ちたにしては直前の彼の態度がおかしかった。
まさか何かの発作でも起こしたのだろうか? 周囲の関係者の頭
には嫌な予想が駆け巡った。
松永が今ピッチで優勝カップを受け取ろうとしている代表チーム
から身を引いた表向きの理由は健康上の問題だったのだから。
実況席でもさっきまで解説をしていた人間が倒れたのに混乱して
いるのか、画面が上下に揺れて動きが定まらない。
映像が映っていない角度の場所からは﹁どうした?﹂﹁大丈夫か
?﹂と心配そうな声と﹁いかん、頭を動かすな!﹂﹁衛生兵、衛生
兵!﹂﹁いや、衛生兵はいないから救急車を呼べ!﹂といった実務
的な叫びが交差している。
1594
しばらくしてようやく中継をしているのに気付いたかのように画
面は騒然とする実況室から、決勝のピッチ上で行われている表彰式
へと切り替わった。
テレビ局側としてもこれ以上混乱した実況室を映すより、例え解
説や実況がなくても日本の選手達が表彰されている場面をお茶の間
に流した方がいいだろうという判断だ。
画面の中で起こっている大騒ぎにちょっとテンションが下がった
のは足利邸の女性陣二人である。
なにしろ足利が延長後半にゴールを決めてからは、真と足利の母
はずっと立ち上がったままだったのだからその興奮度合いが判るだ
ろう。しかもその後のブラジルに攻め込まれたシーンでも、二人で
手を握りあって声を枯らしそうなほど絶叫していた。
心臓に悪いロスタイムの間はピッチで駆けているいる選手達と変
わらないぐらい息を切らし、逃げきった時には抱き合って喜んだも
のだ。
そのおかげでついさっきまでは自慢の息子と幼馴染は世界一だと
はしゃいでいたのに、松永が倒れた事でその喜びに何か水を差され
てしまった。つくづく今回の解説者とは相性が悪い二人である。
﹁あ、あれ松永が倒れちゃったみたいだけど⋮⋮﹂
﹁速輝の事を悪く言うからあの人は嫌いだったけれど、こうなると
お気の毒ね﹂
﹁でもタイミング悪いよー。盛り上がってたのが一気に冷めちゃっ
たもん﹂
瑞々しいぷっくりした唇を尖らせて真が愚痴をこぼす。
その湯気を立てそうな頭から流れる黒髪は、足利の母によって優
しく撫でられた。 1595
﹁でも速輝達はピッチにいて、こんな時まで前監督がらみのドタバ
タに巻き込まれないで良かったわね﹂
﹁うんうん、せっかく一生の記念になる場面なのに、さんざんアシ
カの邪魔した松永がまたここまで体を張った妨害されるとは思わな
かったよ。本当にアシカや優勝した日本代表のチームメイトがこっ
ちの騒ぎと関係ない場所で表彰されていて良かったよ﹂
倒れた松永には冷たい二人である。これまで何度も公共の電波を
使って足利が非難されていたので、具合を悪くしたとはいえ松永に
かける情けはほとんどないようだ。
そしてテレビ局もこのまま実況室の様子を垂れ流すのはマズいと
思ったのか、今画面に映し出されている映像はあれからずっと日本
代表の物だけであった。
揺れていた画面はロングで撮影している表彰式の様子だけになり、
実況室のてんやわんやはもう流れていない。実況や解説の声が全く
ない事以外は何一つおかしな事はない放送だ。
画面に流れる優勝のセレモニーは世界大会とはいえ簡素なもので
すぐに終了した。
おそらくは試合で疲労した選手達︱︱しかもまだ子供達だ︱︱に
負担をかけないように気を使われているのだろう。大らかというか
日本での大会ではありえない無造作さとシンプルさだ。
優勝カップが日本のキャプテンである真田に手渡されると、それ
を掲げて写真撮影された後はもう両チームの選手達が思い思いに散
らばっている。
日本代表選手のほとんどはサポーターが陣取っている席前まで行
って、これまでの応援に応えて各々が挨拶をしている。
手を振り返したり頭を下げたりと、やることは違えど自分達を支
1596
えてくれたサポーターに対する感謝の意は同じようだ。
足利もその小さな体をチームメイトにもみくちゃにされながらも
そこへやって来た。
彼は周りの仲間より頭半分ぐらい低いのでいじられやすい。その
せいか髪をくしゃくしゃされているし、汗と土にまみれているのだ
が内側から喜びで輝くような笑顔には一点の曇りもない。
そして選手達だけでなく山形監督がサポーター席前につくと、ピ
ッチを包む歓声は更に大きくなる。
サポーターからの大音響の歓声でピッチの声はかき消されて聞こ
えないが、なにか足利が真田に耳打ちしていた。
身長差のせいか足利が真田にちょっと背伸びして耳元へささやい
ているようなのが、これまでの激戦を戦った戦士に似つかわしくな
くどこか可愛らしい。
足利の進言に真田も同意したのか大きく頷くと周りのチームメイ
トに声をかけた。
すぐに仲間がキャプテンである真田の声に従って動き出したのは
彼の人徳やリーダーシップという奴だろう。足利もそれが判ってい
るから先に真田へ話を通したのだ。
足利が仲間に声をかけると、チームメイトは指示を理解する前に
﹁またなんかやるのかこいつ﹂と反射的に腰が引け気味になってし
まうのだから。 指示するだけでなく真田キャプテンも率先して動き、サポーター
達の前で代表監督である山形の胴上げが始まった。 今世界一の称号を得て宙に舞っている山形の前任者である松永の
情報が入ったのはその時だった。見事なまでに現監督と前監督には
くっきりと明暗が分かれてしまった。
優勝監督を胴上げしている映像が画面の左上に四分の一に縮小さ
1597
れて、これまでの放送で解説者の松永とコンビを組んでいたアナウ
ンサーがやや硬い表情でメモに目を通しながら読み上げる。
﹁えー、番組の途中で体調を崩して降板し、視聴者の皆様にご心配
をかけていました松永解説者ですが今入りました情報によると命に
別状はないようです。
彼は心配されたような脳卒中や心筋梗塞といった重篤な病状では
ありませんでした。どうやら肉体的なものではなく精神的なショッ
クを受けた時に起こる、転換性ヒステリーといったお菓子を欲しが
る子供や敵の奇襲に動揺したエリート参謀がよくなる症状だったよ
うですね。とにかく命に関わらず状態が落ち着いたようで何よりで
した﹂
大きく息をつくとまた別の紙を取り出す。
﹁あーそして大会の個人賞も発表されました。注目のMVPは︱︱
ブラジル代表のカルロスです。選考理由としては﹁個人能力では疑
問の余地なくナンバーワン﹂や﹁決勝でもフル出場させていれば勝
敗は判らなかった﹂などの意見が上がっています。
うーんMVPが優勝した日本代表から選ばれなかったのは残念で
すが、最優秀監督には山形監督が選出されていますね。﹁個性的な
メンバーをまとめ上手くチームをマネジメントしていた﹂や﹁戦力
的には劣っているチームを優勝に導いた﹂というのが選ばれた理由
だそうです。
そして更にベストイレブンの中にも日本人選手が入っています!
三・五・二のフォーメーションで構成された優秀選手のまずゴー
ルキーパーは日本も対戦時にさんざん苦しめられたイタリアの赤信
号ジョヴァンニです。
DFにはブラジルから﹁サンパウロの壁﹂クラウディオとドイツ
の皇太子ハインリッヒ、そして日本からはキャプテンの真田選手が
1598
入りました。
次にMFはボランチの位置にアルゼンチンの心臓でありダイナモ
のベルグラーノ、そして一列前には今大会で豊作だった攻撃的MF
を四人ずらりと並べています。スペインの無敵艦隊からは酔いどれ
ドン・ファンと船長フェルナンドの名コンビ、そしてブラジルから
MVPを取った﹁ブラジルの宝石﹂カルロスも当然ここに入ってい
ますね。そして日本からはこのイレブンの中でも最年少の﹁ピッチ
上の道化師﹂足利選手が選ばれています。
FWには得点ランキングで上位のゴールハンター達が順当に選ば
れていますよ。得点王であるブラジルのエミリオと二位の日本の上
杉でした。いやーまさか日本代表からベストイレブンに三人も選ば
れるとは思いませんでしたね。
それに日本と対戦した国ばかりから選ばれているようですが、反
対側のブロックではブラジルが相手チームを圧倒していたせいで他
のチームは印象が悪くなったそうです。その分接戦で激闘の多かっ
た日本が戦った試合がクローズアップされて、視聴者にもお馴染み
の名前が多く挙がったこの結果に繋がったようですね。⋮⋮逆に言
えばこれだけハードな道のりをよく乗り越えて世界一になったもん
ですよ日本代表は。誰からも組み合わせに恵まれたなどの陰口は出
てこない見事な優勝です!﹂
アナウンサーの長広舌の発表に足利家のリビングも更に高揚した
雰囲気になる。誰もスイッチには触れていないのにもう一段階照明
が明るくなったようにぱっと華やいだのだ。
﹁うわぁ、アシカがベストイレブンに選ばれてるよ﹂
﹁あの速輝が⋮⋮ちょっと前までは朝に泣いたり叫んだりぴょんぴ
ょん片足立ちでジャンプしてた、あの子がねぇ﹂
1599
目を丸くしている真とどこか遠く懐かしいものを見る眼差しの足
利の母の会話は、どうにもその対象となる世界代表チームに選抜さ
れた少年には少し厳しいものだった。
たぶんまだ彼女達は足利という自分達に近しい人間が、世界の舞
台で表彰されるのに適応していないのだろう。
﹁あ⋮⋮﹂
真が小さな声を上げて自分の左手首を目の前に持ってくる。まる
で腕時計で時間を確かめるような仕草だが、彼女の左手首に巻いて
いたのはそれだけではない。
﹁ああ、本当にアシカは世界一になったんだなぁ﹂
そこに巻いていたミサンガが床に落ちている。
そっと手に取ると、そう簡単には千切れたりしないはずの特別な
素材で作られたミサンガがすっぱりと切断されていた。きっとかけ
ていた願いが叶ったと判断すると空気を読んでひとりでに落葉する
ように手首から落ちたのだろう。
彼女の肌の中で細く日焼けしていない一条の筋がついさっきまで
そこにミサンガがあった事を主張しているが、どうも彼女は長く付
けすぎたのか何も巻いていない方が落ち着かないようだ。
﹁また新しくミサンガを付けなくちゃいけないか、今度は恋愛成就
のために﹂
﹁真ちゃん何か言った?﹂
﹁ええ、次に付けるミサンガも早く切れるといいなって﹂
にんまりと笑う真の瞳は暖かかったが、どこか獲物を発見した猫
科の肉食獸の光も伴っている。
1600
﹁ちょ、ちょっと怖いわよ真ちゃん﹂
足利の帰還を待つ二人の女性達も、この世界大会を終えてどこか
強くなったようだった。
1601
第八十五話 皆で乾杯をしよう
壁一面を覆い尽くすかのような巨大なスクリーンには、ブラジル
ディフェンスを日本代表全員が参加したパスワークで切り裂いて得
点するシーンが映し出されている。
最後に足利が上杉からのリターンを受け取って、ゴールへと丁寧
に流し込むという一番の見所であるシュートの場面で画面は一時停
止された。
﹁これがつい先ほど行われたブラジル対日本の結果です﹂
画面から目を離してこれまでビデオに解説を加えていた男は会議
室にいる周りのメンバーを見つめる。ユース年代の強化部長を任さ
れている彼としては絶対に見逃せない一戦であったから当然決勝は
テレビで観戦し録画もしていたが、これほどまでに早く意見を求め
られるとは思っていなかった。
おかげでまだ映像の編集も大雑把でポイントも整理しきれてはい
ない。
それでもオーナーからの注文であれば従わざる得ないのが辛いと
ころだ。
﹁オーナーからの指示通り日本の足利を中心にまとめてみましたが
⋮⋮﹂
﹁ああ、十分だ。これだけでも足利の能力は判断できるだろう。監
督はどう思う?﹂
﹁オーナーがこの日本の小柄なMFを気に入ったのは判りますが、
まだ若いと言うより幼くしかもジャポネーゼです。J傘下のユース
に入っているせいで引き抜くには手続きとお金が必要なようですし、
1602
もう少し時期を見ては?﹂ トップチームに即戦力を求めているためにユース年代の青田狩り
には慎重論を唱える監督、その意見に乗ってきたのは財政面を司る
クラブ役員だ。
﹁今いきなり引き抜いても、まだ試合に出せないから数年育成しな
くてはいけないぞ。それぐらいならまだ金のかからない地元のユー
スで育てた方がいい。この足利って少年が将来うちでやれるぐらい
まで日本で成長したなら改めてそこでオファーをかければいいだろ
う。わざわざうちに引っ張らないでもすぐに試合に出られる年代ま
では日本で頑張ってもらった方がずっとお得だ。もっとこいつが日
本で名前を売ってくれた後の方がジャパンマネーを引っ張るスポン
サーも付きやすいし、うちとしてはリスクが少なく有利な条件にな
るはずだからな﹂
金にうるさいこのクラブ役員は、完全に足利を選手としてよりビ
ジネスの材料としてしか見ていない考え方をしている。
しかし、そこに当然異を唱えるスタッフも当然居る。
﹁いや、そんなにぐずぐずしていたらこいつは他のクラブにかっさ
らわれるぞ。世界大会に同行しているスカウトからは彼だけでなく
他の日本代表にもうすでに複数のクラブから接触があったらしいと
報告が来ている。条件面で折り合えるかはともかく、大会ベストイ
レブンに選ばれるクラスの選手には全員声をかけておくべきだ﹂
﹁そりゃカルロスやエミリオみたいな実績のある国やクラブから輩
出されたブラジル人なら大枚を叩いても惜しくはないが、まだプロ
でもないジャポネーゼに大金を賭けるのはなぁ﹂
﹁だが技術だけなら光る物がある。スペインの酔いどれとも互角に
やれる奴なんかは、南米やヨーロッパでもそうはいないぞ﹂
1603
議論が熱を帯び出したとき、ここまでの話し合いには積極的に関
わろうとしなかったオーナーから基本的な確認をする質問が出る。
﹁ふむ、では日本人だとか年齢を無視してこの足利という選手を評
価すればどうかね?﹂
クラブ役員達は目を見交わした後、獲得には消極的だったはずの
財政担当の役員が答える。
﹁それは⋮⋮まあ獲得に動くべき選手ですが﹂
﹁ならばうちの一員にしよう﹂
オーナーの熱意に押される形で足利へのオファーを出すことが決
定された。あまりにも乗り気なオーナーの態度に思わずスタッフの
一人が疑問を呈する。
﹁確かに面白い素質を持っているとは思いますが、オーナーはこの
足利という選手がずいぶんお気に入りのようですね。一体どのよう
な点が気に入ったので? 酔いどれと並ぶぐらいのテクニックを持
っているな所ですか、それとも決勝で勝負を決める得点を奪うとい
う大舞台に強い心臓ですか?﹂
名物オーナーとして知られ、寝る時以外は常にブランド物のスー
ツを身にまとっていると噂される伊達男は画面に映っている今まさ
にシュートを撃とうとしている足利の顔を指さす。
﹁ああ、そんなんじゃない。俺が一番気に入ったのはこいつの笑顔
だな。だってこんなに楽しそうにプレイする奴を他のクラブに取ら
れたくないじゃないか﹂
1604
◇ ◇ ◇
﹁それじゃあ、日本代表の世界大会優勝を祝って乾杯!﹂
﹁かんぱーい!﹂
山形監督の音頭に日本代表の全員がコップを掲げて陽気な声音で
応える。俺達の年齢が年齢だけに乾杯でもアルコールは抜きで中身
がジュースなのが幾分残念だが、勝利の味付けがただのジュースを
どんな美酒より美味しく感じさせてくれる。
乾杯した後はもう祝勝会用に準備されたパーティールームは大混
乱である。
試合でも放任主義に近い指揮をしていたのだからと、山形監督は
長々しい演説や挨拶は省略して﹁お疲れさまだったな、今夜はとに
かく楽しめ﹂と無礼講を許可する短いスピーチと乾杯しかやらなか
ったのだ。
そうなればかしこまったままで終わるような大人しい奴らではな
い。
日本代表の肉食系男子はまず、わっと唯一の日本人でも認めるイ
ギリスの肉料理であるローストビーフに群がった。その理由は単に
これが美味しいからだけではない。
もしローストビーフなどのオーソドックスなメニューを食いっぱ
ぐれてしまえば、残された料理はなぜか大量の伝統的イギリス料理
ばかりとなって彼らを待ち構えているからだ。
どうやらホテル滞在中に明智がハギスやウナギのゼリー寄せなど
を入手していたのを目撃されていたらしく、こっそりと買い求める
ぐらい好物だと勘違いされたのかそれらが大量に運び込まれるとい
う事態を引き起こしてしまった。
1605
しかもわざわざ専門的な店から取り寄せたらしく、揚げたてにも
関わらず賞味期限が切れているフィッシュ&チップスに未消化の内
容物がたっぷりとつまった独特の異臭を放つハギス、更に大きめの
ウナギを贅沢に使い小骨などを取らないことでカルシウムの補給に
ぴったりの小骨が喉や口内を攻撃するウナギのゼリー寄せなどイギ
リス人でも﹁これは⋮⋮﹂と目を丸くする本格派ぞろいだ。
人気のある普通の料理が足りなくなれば罰ゲームのようにイギリ
ス名物を食べるしかないのだから、皆がローストビーフの確保に走
るのは当然だろう。
そんな食べ物や飲み物に関するちょっとした不満もあったが、祝
勝会そのものの雰囲気は悪くない。いや世界一になったお祝いなん
だから、参加している全員のテンションが最高潮なのは当たり前か。
これまでは常にどこかに漂っていた戦いの前だという緊張感がほ
ぐれ、最高の結果を得た皆の身にまとう空気が柔らかいものに変わ
っている。
で、当然ながらこんなリラックスした場面になると最年少である
俺は立場が弱くイジられるわけだ。
まあそうは言っても俺をからかうなんて度胸のある人間はチーム
に数名ぐらいしかいないんだけどね。
その内の一人であるジュースを片手にした明智が、さっそく俺に
ついて入手したばかりの情報を開示する。
﹁そう言えばアシカには気の早い海外クラブからオファーがあった
そうっすね?﹂
﹁ん⋮⋮俺もさっき連絡されたばかりなのに凄いな。俺についての
情報なのに自分より明智の方が良く知ってそうでちょっと怖いぞ。
まあ、どこかからか話があったのは確かみたいだけど詳しい話はま
だ聞いてないんだ﹂
1606
明智は本当に耳が早いな。確かにこの大会で俺のプレイを見たク
ラブから、まだトーナメントを勝ち進んでいる最中にも関わらず所
属するユースの方へ打診があったそうだ。
でも俺の情報を照会して先に唾を付けておこうとしている段階だ
ろうし、どこのクラブが接触してきたかまでは教えてもらえていな
い。ということはまだ正式なオファーではないって事なんだろうな。
それにしてもやはり海外は移籍が日常なせいか、対応するスピー
ドが少し慌てすぎじゃないかというぐらい速い。この辺は日本のク
ラブより遙かにフットワークが軽い感じがする。
俺だってできれば早い内に海外へ出たいが、所属しているユース
や学校も含めて自分一人の問題でもないんだからじっくりと考えな
ければならない。
それに今度の活躍で所属しているユースの上層部に注目されたよ
うで、俺だけでなく山下先輩もトップチームに早めに引き上げる予
定だそうだ。このまま行けばJリーグにも早期にデビューさせても
らえる可能性が高い。
実際にこれまでも中学生でJへ初出場を飾った者もいたし、話と
俺のアピールが上手く進めば中学校に在学中でもJリーガーにるの
も夢ではないかもしれない。
一旦日本でプロフットボーラーとしての基礎を固めるか、それと
も海外にチャレンジするか。うーむ、難しいが胸が躍る贅沢な悩み
だな。
﹁なんやアシカは外国のクラブ行くんか?﹂
﹁いえ、まだそう決めた訳でもありませんけど﹂
﹁なんや寂しくなるなー﹂
﹁だからまだ決めてないって﹂
﹁ぐすっ、ちゃんとこんな大会の時は日本へ帰って来るんやで﹂
﹁⋮⋮誰だよ上杉にアルコール飲ませた奴は﹂
1607
涙目になってくだを巻いている上杉の姿をマスコミに撮られたり
したらマズいだろ。
だが俺の非難を上杉の傍らにいる真田キャプテンが否定する。
何々﹁上杉はシェフがフランべするのを見てたらそのアルコール
分で酔っぱらっただけ﹂だと? それなら、まあいい⋮⋮のかな?
大体、フランべすればアルコール分は全部燃えて消えるんじゃな
いのか? それにどこでフランベする料理があったんだ? え? イギリス名物を食わされるのが嫌で、美味しそうなのは自分達だけ
で隠してた? 名物料理が増えたのはアシカ達のせいだから仕方な
いだろう、ハギス食いねぇだと? お前らなぁ⋮⋮まあいいか。
未成年での飲酒はマスコミが煩いけれど上杉のこれは不可抗力だ
よな。
だが、おそらくこのアルコール耐性の低さでは将来も下戸であろ
う上杉は、そのキャラクターからすれば意外にも絡み酒であり泣き
上戸なのは間違いない。
こいつはこれだけ面倒なら大人になっても飲めない方がいいぞ絶
対。これで上杉とはどうせしばらくはお別れになるから俺がわざわ
ざ気を配ってやる必要はもうないのが少し寂しいけれど。
﹁しかし、上杉が泣いてる所なんて初めて見たな﹂
﹁ア、アホ。これは目にゴミが入っただけ⋮⋮てかアシカの方こそ
涙目になっているやないか!﹂
﹁こ、これは水棲哺乳類特有の目を守る作用です!﹂
﹁いやそれは水族館か動物園におる方のアシカの方やろう﹂
酔っぱらっている割に的確な突っ込みだ。うわ、こんな時だけ冷
静になるなんて本気で面倒臭い。俺の小声の呟きにこんな時だけ耳
聡く酔っぱらった上杉は反応する。
1608
﹁なんやて、この世界一の点取り屋様に文句があるんか!﹂
﹁大会の得点王はエミリオでした! それに俺だって世界一のゲー
ムメイカーです﹂
﹁ふ、アシカは僕に勝つまで世界一のゲームメイカーは名乗って欲
しくないっすね﹂
﹁明智、話がややこしくなるから絡んでくるなよ﹂
﹁上杉は自身が世界一の点取り屋との大口を叩くのも僕の前では無
用に願います﹂
﹁島津、お前も対抗心を燃やすのなら相手はDFにしろよ、な?﹂
﹁その世界一のゲームメイカーでも頭が上がらないのが先輩である
俺だ。なんなら俺を世界一の先輩と呼んでくれても良いぞアシカ﹂
﹁うんうん、山下先輩は俺という﹁世界一の選手の﹂先輩ってこと
ですね﹂
明智と島津に山下先輩まで参戦してきた。いやまだ明智は同じ中
盤だから俺と張り合うのは判るが、上杉の世界一の点取り屋という
のに抗議している島津は一応DFだろうし、山下先輩の自分を世界
一の先輩と呼べに至っては何を言っているのかさっぱり判らない。
こいつら全員アルコールではなく勝利に酔っているな。
﹁だいたいなんで準優勝チームがMVPと得点王を独占してるんや、
おかしいやないか!﹂
﹁それは日本のFWよりブラジルの方が上だったってだけでは⋮⋮﹂
﹁そうか、無念だ﹂
﹁いや、なんで島津が落ち込むの? あんたはDFだって言ってる
でしょう!﹂
﹁あー、じゃあ喧嘩が起こらないように間をとって、俺が世界一の
点取り屋って事に決定しよう﹂
1609
山下先輩までもが上杉と島津の自分が最強のストライカーだとい
う議論に加わって大騒ぎだ。
﹁こら、お前等なに騒いでるんだ!﹂
﹁あかん、山形監督が来た。みんな散るんや!﹂
﹁おう!﹂
試合中にも見られなかったような息の合いっぷりで全員が綺麗な
ラインを作り、近づいてきた監督から逃げ出す。
俺は本当なら捕まってしかられてもいいと思っていた。このチー
ムメイトと一緒に山形監督に怒られるなんてもう二度とないのかも
しれないのだから⋮⋮。
﹁こら! 待たんか﹂
﹁あ、石田さん良いところに! 最後の後始末をお願いします!﹂
﹁え? 何?﹂
でもこれまで何度も怒られそうになった時のように反射的に逃げ
るのに最善の手を選択してしまう。
この場合は逃げる最中に見かけた椅子に腰掛けたままの苦労性の
うちのアンカーに監督の足止めを頼んだのだ。中盤の影の立役者だ
ったこの人ならこういう敵をくい止める役割にはぴったりのはずだ
からな。
だから後ろから﹁こら石田! お前怪我してるのに騒いじゃ駄目
だろ!﹂﹁ええ? なんで俺怒られてるの!?﹂といった叫びは無
視することにした。 俺達は食事が終わってもずっと騒ぎ続けていた。
軽い怪我や連戦の疲労も忘れたように思い切り陽気に飲んで食っ
てはしゃいでいたが、あくびをする者が増えて夜が更けていくに連
1610
れ少しずつ場が静かになり収まりそうになる。そうなると慌てたよ
うにまた誰かがふざけ出すのだ。
多分皆の気持ちも俺と一緒なのだろう、今日という日が終わって
しまうのが惜しくて寂しくてたまらないのだ。
今日俺たちは世界一になった。
だが、明日になればまた一から次の世界の頂きに向けての厳しい
挑戦の繰り返しになる。それは俺達はサッカー選手なのだから別段
それは辛いわけではない。
でも皆がまた元々所属するチームに戻って別れると、中にはもう
これから先二度と顔を合わさなくなる奴だっているかもしれないの
だ。
このメンバー全員でこうして馬鹿をやっていられるのも今日だけ
だってちゃんと判っている。
だから眠らなければ今日という日が終わらないんだとばかり、俺
達はずっと夜更けまで世界一の仲間とはしゃぎ続けたんだ。
だがどれだけ引き伸ばしても終わりの時はやってくる。
﹁それじゃ最後に乾杯してお開きにするぞー﹂
﹁ええ!? 監督もう少しぐらい⋮⋮﹂
﹁借りてる会場の閉まる時間だから仕方ないだろ。さて何に乾杯す
るか、やっぱり優勝にかな﹂
﹁いや次の世界大会で得点王になるこの上杉に乾杯せぇへん?﹂
﹁それぐらいならば、サイドバックとして得点王になる予定の俺へ
杯を傾けてくれた方が⋮⋮﹂
﹁DFが得点王とったら確かにその大会は歴史に残るっすけど、き
っとそれは黒歴史っすよ﹂
あーもう、最後までまとまらない奴らだなぁ。ここは俺が出しゃ
ばって最後の乾杯の音頭を取ろう。
大きく息を吸って声を張る。
1611
﹁じゃ、俺がいきますよ! ︱︱世界一の仲間達に!﹂
﹁乾杯!﹂
全員の杯が掲げられ、こうして俺達の世界一幸せな夜は終わりを
告げた。
1612
エピローグ
﹁くー、なんか日本に帰って来てからの方が、イギリスで試合して
るよりも疲れるな。凄ぇ肩が凝ってるぞ﹂
首を回した後に昇ったばかりのお日様へ向けて思い切り背伸びを
すると、自分でも驚くほど背中と肩胛骨の間から関節の鳴る音が連
続した。しかもいつも伸びをした時に出るような軽い音ではなく、
どこか重量感のある鈍い響きである。
う、これはマズい。今朝はいつもより更に入念にストレッチをし
て体をケアしないと。相当筋肉と関節に疲労が溜まっているな。
﹁うわー、なんだかヒーローが最初に出てきた雑魚敵を倒す時に指
をボキボキ鳴らすみたいな音がここまでしたよ。相当凝ってるねぇ﹂
なぜか日本に帰ってからは、ずっとと言ってもいいぐらいよく一
緒にいる真が俺の背中から鳴る音に目を丸くする。
ただでさえこの幼馴染の瞳は大きめなのだ、今みたいに眼鏡のレ
ンズ越しに見開くと本物の少女と言うよりもちょっとデフォルメさ
れた精巧な人形が動いているような印象だな。
朝練にもドリンクの差し入れだけでなく、なぜか最初から付き沿
うようになった彼女がぽんぽんと俺の背で嫌な音がした部分を赤ん
坊をあやすように叩く。
子供扱いするなとも思うが、それでも小柄な真の細くて柔らかな
手で労られるとちょっとは肩の凝りが楽になった気がするから、ま
あいいか。
1613
今日は世界大会で優勝して日本へ帰ってから四日目で、時間はい
つもの朝練をする日が昇り始めたばかりの早朝である。
ようやく昨日になってから朝も普段通りの練習を始められるぐら
い余裕ができたのだ。
初日の時差ボケで起きれなかったのは仕方ないにしても、次の日
は完全に予定外だったな。
ワイドショーに出演するのなんかVTRを除けば一分もなかった
のに、いつも以上に早起きさせられたのだ。しかもそのうちの九十
九%はずっと待機してるだけの時間だったもんなぁ。
その上俺はカメラに映されたほとんどがにこにこして笑顔を作っ
ていただけだったし。
あれ、わざわざ録画じゃなくライブでやる必要なかっただろ。
俺への雑な扱いはともかくとして、試合以外でテレビに露出する
ようになった事からも判るように、U︱十五の世界大会で優勝した
のは結構話題になったらしい。次の日から俺やチームメイトの周辺
は随分と騒がしくなってしまったのだ。
イギリスにいてもサッカー関係者や知り合いからお祝いのメッセ
ージが頻繁に伝えられたのだが、帰国してからはそれまでの比では
ないくらい周りが騒ぎ立てるのだからたまらない。
小学生時代に所属していた矢張SCの下尾監督やキャプテン、チ
ームメイトまでは判るさ。俺だって彼らにお礼の電話やメールする
のは楽しかったしな。
でも名前を言われても思い出せないような薄い知り合いやマスコ
ミ関係者から、一斉に遊びのお誘いや取材要請をされても、その、
困る。
特に﹁倒れた松永前監督に一言お願いします﹂なんてマイクを向
けられても﹁松永さんお大事に。入院中はもう俺や日本代表の応援
をしようだなんて無理はせずにゆっくり休んでください﹂としか答
えられなかったぞ。
1614
ただ﹁もう俺の応援はしないでくれ﹂ってのは真から日本での放
送事情を聞いてから、心底から松永に対して頼みたくなった本音だ。
松永がまた元気になるのは構わない。だがこれから先、もしも彼に
﹁頑張れアシカ、怪我にだけは注意するんだ﹂なんて応援された未
来を予想すると、ちょっとぞっとしてしまうからな。
ぶるぶると水に落ちた犬のように頭を激しく振って嫌な予感を追
い出す。それだけで俺にとってはあまり愉快な人間でない松永前監
督関係をすっぱり忘れることに成功した。
この切り替えができるかどうかは結構重要である。世界大会に出
て少しは名が売れたが、周りの騒ぎから判るようにそれは良いこと
ばかりではない。
ここまで来るとスルースキルや積極的に嫌な記憶を脳裏から消す
技術は必須なのである。マスコミやネットにいい加減なことを書か
れても気にしないようにしなければ、どんなタフな選手でも潰れて
しまうからだ。幸い俺は二度目の人生を過ごしているだけにそう言
った面での精神年齢は高い︱︱はずだよな。最近どうも自信がなく
なってきたが。
とにかくある程度は﹁有名税さ﹂と笑って済ませるだけの余裕が
ある。でも喧嘩っ早い代表のチームメイトの中にはそういった大人
の対応ができるのかが心配な奴もいる。そう言えばあいつらは確か
⋮⋮。
少し前まではずっと一緒にいた代表のチームメイトの事を考えて
いると、現在隣に並んで公園までゆったりとしたランニングを共に
している少女が﹁私を無視するな﹂とばかり袖をくいくいと引っ張
ってアピールしてくる。
真は軽やかな足取りで俺の正面へ回り込むと、後ろ手を組み上半
身を少し折り曲げた。そして俺からすればたったこれだけの距離を
走っただけなのに息遣いを荒くしながらも上目遣いで尋ねる。
1615
﹁それで、アシカは、どこで、プレイするか、決めたの?﹂
﹁うーん、結構誘いはあるんだけど少し迷ってる。ユースの監督な
んかできればまだ残って欲しいって言ってるけど、海外へ挑戦する
なら要求した条件を満たしているオファーを出したクラブだったら
オーケーだって。
俺からしたらやっぱり若い内に海外で経験を積みたいんだ。で、
せっかく英会話の勉強をしていたからその意味ではイギリスのプレ
ミアリーグがいいんだけど、あそこはEU以外の選手はビザを取る
のが難しいらしいし﹂
﹁んー、色々、あるんだ、ね﹂
まだアップの一環としてのゆったりとしたジョギングで体を暖め
ているていどだが、それでもぜいぜいと言っている真に合わせるた
めスピードを更に落とす。これではほとんど速歩きと変わらないぐ
らいだ。
もしこのスピードにもついてこれないなら、インドア派とはいえ
真は運動不足にもほどがあるな。明日からは最初のアップからでは
なく途中参加にしてもらおうか。
少しずつ息が整ってきた彼女をちらっと観察しながら、そりゃヨ
ーロッパの事情は複雑怪奇だと解説しながら肩をすくめる。
でもそういった事情を飛び越えてさっさと決めた奴らもいるんだ
よな。
﹁まあ、代表で一緒だった中には海外のユースへ行くって決めた奴
もいるみたいだが﹂
﹁あ、もう決めちゃった人がいるんだ。決断早いね﹂
どこか焦った風な真の様子に首を傾げながら、明智経由で回って
きた情報を教える。
1616
﹁ああ一番早かったのは上杉だったそうだ。なんだか知らないけれ
ど﹁格闘技の本場から誘われたら、背を向けられへんやろ﹂ってオ
ランダのクラブへ行くそうだ。﹁ワイより強い奴に会いに行くんや﹂
って言ってたそうだけど、あいつ大丈夫かな? ま、理由はともか
く確かにオランダって伝統的に攻撃が強いイメージはあるし、ラフ
プレイにも寛容な感じであいつには似合ってると思うけど﹂
﹁へ、へぇ。えっと上杉君は本当にサッカーをしに行くんだよね?﹂
相変わらず理解不能だったエースストライカーの行動に、眉を寄
せている困惑しているらしい真。そうだろうな、俺にもあいつの行
動原理はよく判らん。
一応昨夜の内に電話で確認はしたんだが﹁安心しろ、ワイはもっ
と凄いストライカーになってチャンピオンとして帰ってくるで﹂と
答えていた。
⋮⋮ストライカーってサッカー用語以外ではパンチやキックを撃
つ打撃系格闘家を指す事もあるがきっと考えすぎだよな。チャンピ
オンってチャンピオンズリーグの事だよな? あいつの後ろでゴン
グが鳴る音やサンドバッグを叩いているような音もしたが、いった
いあいつはどこでトレーニングしているんだろうか。
数々の疑問が浮かんだが全てスルーした。うん、きっと大丈夫だ。
根拠もないがそう思う。
まあ、あいつのことだからどこに行っても元気にシュートを撃ち
まくるのは変わらないだろうし、俺が心配をする必要はない。
次に上杉に対面する際にも彼がまだフットボーラーであることを
祈りつつ、もう一人海外へ行くのを決めた奴を話題に出す。
﹁ええっと、次に島津だがスペインのクラブへ行くらしいぞ。でも
最初はそのクラブの幹部から﹁あの島津って右ウイングが欲しい﹂
﹁島津はサイドバックですが⋮⋮﹂﹁あ、失礼選手名を間違えたよ
1617
うだ。また確認してかけなおす﹂って会話を何度か繰り返して話が
進まなかったらしいぞ。背番号と名前を何度も確認してようやくあ
いつのポジションがサイドバックだったと納得してもらったらしい。
それから後はスムーズに話は進んだみたいだけどな。あの二人の決
断力もあるが、やっぱりクラブに所属してないと交渉は選手の意志
だけで決まるから早い﹂
そういった意味では学校の部活に所属している奴らはフットワー
クが軽い。ある意味外国への転校と同じような形であっさり海外へ
行けるからだ。でも俺のようにユースに入っていると選手個人だけ
でない利害関係が絡んでくるからちょっと交渉が面倒になるのだ。
勿論俺だってこれまでクラブ側から提供された充実したトレーニ
ング施設や指導者なんかの恩恵を受けとっているから、こうした場
面では今いるクラブにも配慮しなければならないのは当然ではある
が。
それでもやはり面倒だとの本音は押し殺せない。
もし自分だけの意見で決められるならどこがいいか想像してみる。
これから先の世界の趨勢を考えると、イギリスのプレミアリーグ
にスペインのリーガ、ドイツのブンデスなんかがいいだろうか。
しかしこうしてみると、意外に英語はサッカー界では世界共通言
語ではないのに気づく。
むう、どうせ勉強しなくちゃいけないならスペイン語とも互換性
の高いポルトガル語を習えば良かったかな、それならヨーロッパの
スペイン語圏内だけでなくブラジルやアルゼンチンなんか南米の選
手やチームとも話せたし。
いや、語学はどこ行くか決めてから改めて学べばいいだけか、別
に英語が話せるようになっても損した訳じゃないしな。そう俺は気
を取り直す。
他の諸条件は無視して、まずはサッカー関連で一番条件が良いと
1618
ころを選ぶべきだろう。
俺が百面相をしていると﹁どうしたの?﹂と説明を求める真。今
日は追求が厳しいなぁ。
どうやら習う言語を間違えたらしいと話すと﹁そっかぁ﹂と頷い
た。
そして立ち位置を俺の前から隣へと変えてそっぽを向くようにし
て顔を逸らして提案する。
﹁んー、だったら私がポルトガル語を習ってあげようか?﹂
さらりと真が口に出した台詞がなぜか俺の背中に冷たい物を走ら
せる。え? なんで真が勉強するんだ? そしてこの寒気をどうし
てここで感じるんだ? これはピッチ上で時折感じる試合を左右す
る失点の危機を知らせる信号だぞ。
何となくマズい、それだけしか判らない。
肩を並べて話しているのに真っ正面を向いて不自然なほどこちら
へ視線をよこさないようにしている真に対し、危険信号を感知した
俺は不誠実な対応をすることにした。 ﹁え? 今、真は何か言ったか?﹂
耳を真っ赤にしてしばらく明後日の方角を眺めたまま、固唾を呑
んで待っていたらしい真は俺の返答で再起動する。
﹁べ、別に何も言ってないよ! ほ、本当に聞こえなかったのかな
? ⋮⋮んーと、あ、そうだ! アシカは外国のクラブに行くって
決めてるみたいだけど大変じゃない?﹂
﹁う、うむ全然聞こえてないぞ! えーと、それに世界一のサッカ
ー選手を目指しているんだからちょっとぐらいの大変さは覚悟して
1619
るよ。でも世界一高い山へ登るなら厳しくて当たり前だろ? むし
ろ簡単だったら拍子抜けして落胆するぞ﹂
真はしばらく声には動揺が混じっていたが、喋っていると最後に
は声も落ち着いていたな。俺の返答に少し呆れたように細い肩をす
くめる。
ふむ、それに対する俺の態度も堂々として動じた素振りを欠片も
見せていなかったしな。聞こえなかったという鈍感な振りという逃
げが良かったのか、もういつもの快活な幼馴染の女の子に戻ってい
る。
でもやっぱりそんな俺の態度に腹を据えかねたのか、薄く影のあ
る笑みを浮かべて真はトゲのある言葉を口に出す。
﹁まったくアシカったら幾つになっても、初対面の時と同じ子供の
頃とちっとも変わらないサッカー馬鹿だね﹂
﹁うん、そうだな﹂
自覚はあるだけに彼女の辛辣な意見に頷かざるえない。
だが、たぶん答える俺の口元はボールを扱っている時と同じ笑み
を浮かべていただろう。
ちょうど今、俺が見据えるその視線の先にいつもトレーニングに
使っている公園の中に少年達の姿を発見したのだ。あそこでボール
を使って遊んでいるのは間違いなく俺と同様のサッカー馬鹿達だよ
な。
先に公園にいるのは山下先輩と小学生の時所属していた矢張SC
のキャプテンの二人である。最近は彼らとここで会うこともなくな
っていたが、今日は久しぶりに朝練への参加を希望しているようだ。
ははっ、何だよ。俺だけでなくあいつらだって、いや他にも日本
中︱︱いや世界中にサッカー馬鹿はたくさんいるじゃないか。
それも仕方ないよな、サッカーってこんなに楽しいんだから。
1620
胸を張って真に本音を告げる。 ﹁たぶん俺は幾つになっても、いや何度人生をやり直したとしても、
ずっとサッカー小僧のままだ。それだけは間違いないぞ﹂
1621
外伝 お見舞いに行こう
﹁ただいまー﹂
今日も充実した練習ができましたっと。無事に家までたどり着き、
ほっと一息をつく。
クラブでもかなりハードなトレーニングをしていたのだが、この
年代の健康な体は帰宅している間にさえ疲労を回復させてむしろ空
腹感の方が強く訴えかけてくる。
﹁あら、おかえり速輝。ちょうど今あんたがテレビに出てるわよ﹂
﹁あ、おかえりお疲れさまー。うわー本当だ。アシカって意外にテ
レビ映りいいんだね﹂
﹁ん? どの番組? それに自然に真が家に居るのは何でだ?﹂
帰ってきてドアを開けた途端に、待ってましたと言わんばかりの
タイミングで出迎えた母さんと真の二人。その交わされた会話に俺
は色々な疑問が噴出する。
﹁ああ、私が真ちゃんを夕食に誘ったのよ。今日はご両親が遅くな
って真ちゃんが隣で一人きりって聞いたから。どうせ作るなら二人
分も三人分も手間はそんなに変わらないしね﹂
﹁そういう訳でお呼ばれしたんだよ! 手土産はちゃんと持ってき
たからね﹂
﹁そ、そうか。それと何かと納豆をこの家に持ち込むのは勘弁な﹂
くつろいだ様子でシンプルな部屋着のままの女性陣。なのになぜ
だかスペイン戦でパスを回されたまま自陣へと押し込まれていくよ
1622
うな、強敵に徐々に外堀を埋められていくプレッシャーを真から感
じてしまう。
いやきっとこれは俺の気にしすぎだよな。そう自分に落ち着くよ
う言い聞かせ、もう一つ気になった事を尋ねる。
﹁じゃあ俺が出てるテレビってどんなの?﹂
﹁あ、今ちょうど始まったばっかりの所だね。ニュースの中のワン
コーナーで、えーと新聞のテレビ欄には﹁優勝戦士達が恩師へお見
舞い﹂⋮⋮って書いてあるよ﹂
﹁⋮⋮ああ、あれか﹂
﹁な、なんなのその疲れが増したように肩を落とした態度は?﹂
事情を知らなかった母さんが戸惑っているし、真も小首を傾げて
いる。はあ、仕方ない説明するか。
﹁これは俺達が松永前監督をお見舞いに行くようテレビ局に頼まれ
て、カメラマンなんかのスタッフと一緒に行った奴だよ﹂
﹁え? お見舞いって、じゃあやらせなの? それによく考えたら
松永の病気って入院してすぐ面会ができるぐらい簡単に回復するの
?﹂
﹁やらせかどうかはよく判らない。テレビ局からの依頼とはいえ一
応行ったのは確かだしな。そしてテレビ局と松永があいつの症状は
軽いんだとアピールしようとコネを使ったんじゃないかな﹂
コネで精神的な病気って治るの? さあ名医が手術するのとは違
うし無理なんじゃない? と不思議がっている二人を尻目にテレビ
を確認する。
ちょうど画面では俺達U︱十五の世界大会で優勝したメンバーが
松永の入院している病室をノックする場面からだった。
ああ、思い出したこれから酷い展開になるんだよな。
1623
二日前にテレビ局によって要請された松永へのお見舞いを記憶の
中で再生する。
聞こえなければ﹁留守だな﹂と帰るつもり満々の小さなノックに
対し、残念ながら﹁どうぞ﹂と威厳のあるバリトンが中から響く。
声はいいんだよな前監督の松永って奴は。監督は指示を出したり選
手に安心感を与えるため声がいいと役立つし、視聴者と相対する解
説に至っては言わずもがなだ。だからコネだけって訳でもなくテレ
ビ中継の解説者役にも選ばれたのだろう。
しかし、返事があっても俺達代表チームのメンバーはなかなかド
アを開けようとはしない。今日はユニフォーム姿で病院には訪れら
れないと、皆が別々の学校の制服を着ているので統一感も仲間意識
も薄れてしまっているのだ。
お互いが罰ゲームのように﹁お前が扉を開けて矢面に立てよ﹂と
日本特有の麗しい謙譲の美徳を発揮し合っている。
とうとう根負けしたのかそれとも責任感の強さゆえか、テレビ局
が用意して無理やり持たされた花束を抱えている真田キャプテンが
ドアを開いた。
﹁お久しぶりです。松永さんご加減はいかがですか?﹂
強ばった表情で先頭に立って入室した真田キャプテンは、ベット
で上半身を起こしている松永へ代表して声をかけた。
松永は病人らしくパジャマのままだが上から派手なピンクのカー
ディガンを羽織っている。夏の気候ではその服装は少し暑そうだが
エアコンが利いたこの病室ではちょうど良さそうな格好だ。派手な
色合いのおかげか顔色もだいぶ良く見えるな。
﹁ああ、大丈夫だ。俺が育てた教え子で世界一になったお前達の顔
1624
を見たらまた気分が良くなったな﹂
﹁え? ワイは育てられた覚えはないで﹂
松永の過大表現に対して不用意に直球で返しすぎた上杉の声に室
内の空気が早速ピシリと凍りつく。その独り言というには大きな上
杉の突っ込みをスルーできず固まる松永。
以前ならここで相手が少年だろうと構わずに逆上していたかもし
れないが、入院したおかげか自制心が強くなったようだ。
だがもともと気の短そうな前監督の額にはすでにくっきりと青筋
が浮かんできた。そうだよな、ワガママだからこその転換性ヒステ
リーという症状だもんな。まだ完治していないそんな患者と対面し
て一分も経過していない内に気まずくなってしまったのだが、大丈
夫なのだろうか?
俺の懸念をよそに松永は深呼吸をしただけで額の青筋を引っ込め
る。
おお、確かに入院する前より落ち着いているらしい。いや、ほと
んど彼と直接の面識がないから前のチームから居残っている真田キ
ャプテンや石田などからエピソードを聞いて組み立てた松永のイメ
ージからの推測に過ぎんが。
﹁そ、そう言えばまだ言ってなかったな。優勝おめでとう、よくや
ったな﹂
﹁ありがとうございます﹂
表情を取り繕い、かけられた祝福の言葉に一応は殊勝に頭を下げ
ておく。それを見て﹁うむうむ﹂と頷いた松永が調子に乗る。
﹁俺が最後まで面倒を見られなかったのは悪かったが、俺の見い出
したお前達と俺が推薦した山形ならきっと世界大会でも良いところ
まで行くと信じていたぞ﹂
1625
などとちょっとでも急遽編成された山形代表チームの内幕を知っ
ていれば一蹴される戯れ言をほざく。お見舞いに来たほぼ全員が﹁
嘘だ!﹂と否定の叫びを上げかけて、テレビに撮影されているのを
思い出してぐっと飲み込む。
十数人の体がピクリと硬直し、その後一斉に何かを噛み殺すのに
似た挙動をしたのだ。病室の中がまたも一種異様な雰囲気になる。
そのムードのまま明智が無理に作ったと一目で判る笑顔で答えた。
﹁それにしちゃ実況の解説では結構きついこと言ってたっすね﹂
﹁⋮⋮獅子は我が子を千尋の谷に突き落とすと言うだろ。あれも親
心だ判ってくれるよな﹂
﹁全然判らないっす。あんたに突き落とされた谷はグランドキャニ
オンクラスだったっすよ! 這い上がるよりもコイの滝登りのグラ
ンドキャニオンバージョンだったっす。意味もなく落とされた谷底
から這い上がるのは滅茶苦茶大変だったっす!﹂
的確に突っ込み返す明智をじとっと睨みつける松永。最近まで世
界を相手に戦ってきた明智に全く引けをとらないほど威厳が漂って
いる、例えそれがパジャマ姿であってもだ。うん、まったく無意味
なはったりにしかならないオーラであるのだが。
﹁明智は細かい事を気にしすぎだ、だから中々代表に選ばれなかっ
たんだぞ﹂
﹁僕を選ばなかったのはあんたっす!﹂
﹁まあまあ、明智も落ち着いて。病人を興奮させちゃ駄目じゃない
か。特に松永さんの病は興奮させるとマズいみたいだし﹂
ボルテージが上がっている一方の二人を心配して俺が止めに入っ
た。そのおかげで、いったん水入りになる。お互いカメラの前であ
1626
ることを思い出したのか頭が冷えたようだ。
だが雰囲気はそう簡単にほぐれる訳もなく、まだ固いままである。
と言うより面会に来た当初からほぼ全ての時間がピリピリした今に
も発火しそうなムードだ。
ここは俺が話の接ぎ穂を提供しようか。
﹁そういえばブラジル戦のすぐ後に松永さんが倒れたと耳にした時、
カルロスに松永さんへ何か言付けがあるか尋ねてみたんですが﹂
﹁おお、でかしたアシカ! 俺が育てたカルロスはなんて言ってい
た? 早く元気になるようにか、それともわざわざ日本にまで見舞
いに来るとでも言っていたか? いやいや、まいったなー。そこま
でしてくれなくてもいいのに。カルロスが来たらまたテレビ局との
打ち合わせが大変になるじゃないか﹂
お見舞いに来てから一番嬉しそうに一人芝居をして頬をかく松永。
﹁何人育ててるんやこのおっさん﹂とぼやく上杉と﹁彼の中ではと
りあえずこれまで代表名を連ねた選手の全員はこの人が育てた事に
なっているはずだ﹂と冷静に分析する真田キャプテン。さすがに松
永の代からキャプテンを続けているだけに彼との付き合い方とスル
ースキルを心得ているようだ。
そんな脇での雑談を無視し、松永は﹁で、あいつはなんて伝えて
くれと言っていた?﹂と嬉しそうに尋ねる。負けじと俺もテレビ映
りが良いだろうと自分で思う微笑を浮かべて答えた。
﹁忘れた﹂
﹁はぁ? 何だとアシカ、お前伝言もまともにできないのか!?﹂
﹁いや、だからカルロスが松永さんに伝える事ないかって聞くと﹁
松永って誰だ? はあ、日本代表の監督だった奴? すまん忘れた﹂
って﹂
﹁⋮⋮﹂
1627
﹁ああ、でも﹁何の役にも立たないジョアンだったのだけは覚えて
るぞ﹂って﹂
ふいに松永はベットの上で顔を俯けてぶつぶつと呟き出す。
その完全に陰になって表情が窺えなくなった部分からは低く﹁カ
ルロスの奴、今大会も俺があれだけ応援してやったのに許さない。
絶対に許さない﹂と洩れだしている。あまりの松永の急変に伝えた
俺も含め全員の腰が引けてしまう。
よし、お見舞いの挨拶もしたし伝言も伝えた。最小限の役割は終
えたはずだ。
﹁それじゃ伝言も終えましたし、そろそろ帰った方がいいっすね。
これ以上は松永さんの体に障りかないっすからね。ああ、そうだっ
たっす。松永さんは解説者をはずれて無職になるみたいっすけど、
この病院は高いみたいだから早く退院できるといいっすね﹂
まだ腹の虫がおさまらなかったのか、かなりの毒を含んだ明智の
最後っ屁に対し松永は短時間の内に一気に青白くなった顔を上げる。
﹁忠告ありがとうよ。てめえら︱︱特に明智とアシカの暴言は忘れ
んぞ。必ずこの礼はさせてもらうからな﹂
﹁え? 俺も?﹂
真っ向から喧嘩を売った明智とは違い、俺はカルロスからの伝言
を教えただけなのだが。
それでもテレビカメラの前で彼をがっかりさせた対象としてロッ
クオンされたようだ。まあこいつから俺が狙われるのはいつものこ
とかもしれないが。
1628
ちなみにこの後病院を退去して解散するとすぐに、明智からメー
ルで連絡があったんだよな。﹁松永から二度とお前らを応援も贔屓
しないってメールが来たっす!﹂だと。
どうして明智にだけ松永からメールがきたのかは単純な話で、彼
以外の全員が松永とアドレス交換をしていないからだ。あれだけ嫌
っていても情報収集のためにアドレスを手放さない明智の根性は見
上げたものだ。
あれだけ性格が温厚な真田キャプテンでさえも、代表監督が山形
監督へ変わった後は即座に携帯とアドレスを変更し、更に松永へだ
けはそれを連絡するのをうっかり忘れてしまったのだから前監督の
人望がどれほどの物だったか窺えるよな。
まあ病室を出た途端に明智へメールが来るのは早すぎるとか、病
室で携帯使ってよかったのかとか、明智は文章でも﹁っす﹂とわざ
わざ書いて語尾に付けるのかといった突っ込みどころもある。だが
それより大事なのは、もうが俺達を褒めたりしないだろうって事だ。
そういった意味ではこのお見舞は大成功だったのだろう。
それ以外の部分ではお見舞いとしては放送禁止レベルだったと思
うがどうなる事か。
︱︱まあ結局そんな俺の心配は裏切られたんだけどな。
以下、ナレーション付きで実際に放送されたシーンをお楽しみく
ださい。
﹃花束を渡す真田キャプテンに嬉しそうに受け取る松永。その花束
の豪華さは彼らチームの全員から松永への敬意の大きさをあらわし
ているようだった。例え前監督になろうともその尊敬の念に陰りは
ない。
優勝して間もないにも関わらず取るものも取り敢えず駆けつけた
1629
教え子達に、体を起こして痛々しげな顔に慈愛に満ちた笑みを浮か
べる名伯楽。 ﹁松永さんご加減はいかがですか?﹂
﹁教え子のお前達の顔を見たら気分がよくなった﹂
病状にあっても常に教え子に対する労いを忘れないこのような態
度がカリスマを生むのだろう︱︱松永前監督は実に多くの教え子達
から慕われている。
﹁カルロスからの伝言です﹂
﹁早く元気になるように、わざわざ日本まで見舞いにくる。まいっ
たなー、そこまでしなくても﹂
その教え子達との信頼関係と絆は、例え相手の国籍が海外へと変
わろうとスター選手となっても不変なのだ。これが師弟関係の理想
かもしれない。
﹁早く、退院できるといいっすね﹂
﹁ありがとう、必ずこの礼はさせてもらう﹂
お見舞いにきた誰もが彼の早期の退院を願い、応援などで無理だ
けはしてくれるなと口を揃える。これほどお見舞いにくる者達の心
を一つにさせる人格者もなかなかいないのではないか。
こうして短いながらも心温まる交流は終わった。これからも自分
の身を削るようにして教える恩師とそれに見いだされた若き才能に
溢れる選手達との美しい師弟関係は日本サッカー界の宝となってい
くはずだ﹄
1630
異常に短くカットされて編集された台詞と映像だけを見ればごく
普通のお見舞いにしか思えない。
あまりに流れが不自然で途切れ途切れなのを誤魔化すためなのか、
無理矢理壮大な音楽で感動的に仕上げてある。
酷い。俺達のお見舞いも褒められた物じゃなかったが、あんまり
な捏造である。これがマスコミでは当たり前なのか?
番組を見終わり、一緒に番組を眺めていた真と母さんと共になん
とも言い難い沈黙に包まれた中、場違いな着信音が響く。あ、俺の
携帯じゃん。
えーと、明智からだが﹁マズイっす、松永からまあ放送見る限り
反省しているようだから僕とアシカも許してや今後も応援してやる
ってメールが来たっす!﹂って、なんだよそれ。
⋮⋮俺のことは許さなくていいんだってば!
これからも松永との戦いは続いてしまうようだった。
世界と戦う為には代表監督に選ばれるように活躍し、さらに松永
に褒められないようにしなければならないという無駄に難しいミッ
ションが課されてしまった。
⋮⋮やっぱり俺は早めに海外のクラブへ移籍した方がいいかもし
れない。
﹁えーと、その速輝。ファイト!﹂
﹁そ、そうだよ! 私も付いてるから頑張れアシカ!﹂
うん、やっぱり海外への脱出を急いだ方がいいな。このままずる
ずると真のペースに乗っているといつの間にかなぜか彼女と二人で
海外に行くことになりかねない。
別段真のことが気に入らないわけじゃないが、今はとにかく色恋
1631
よりもサッカーに集中したい。
でもなぜかピッチ上でプレイするより複雑な状況に置かれてしま
ったようだ。
こればっかりはやり直しても、俺はまだ人生経験が未熟なままな
んだよな。
眼鏡の奥の目を細めている幼馴染に対し﹁頑張るよ﹂と頭をかく
しかない俺は、恋愛経験においては外見通りの子供なんだから。
経緯はどうあれ、俺の外国クラブへ行こうという決意は固くなり
事態を動かす事となる。
後に俺はインタビューでなぜ海外へ焦ったように移籍を求めたの
かという質問にこう答えた。
﹁上手くなるのには早く海外へ出た方がいいだろうと思ったのが一
つ。後は、なんだか怖かったから﹂
と。その時も隣にいた幼馴染が微妙な表情をしていたが、それは
間違いなく本音だった。
1632
外伝 異国の地にて
これがスペインのスタジアムか。
伝統である真っ白な名門チームのユニフォームに身を包み、カル
ロスは満足げに唇をつり上げた。
そしてピッチの真ん中に立っていても耳鳴りがしそうなぐらい反
響する歓声に、スタジアムの盛り上がりは上々だなと頷く。何しろ
ブラジルの宝石とまで謳われる彼の満を持してのリーガデビュー戦
である。
成年になるまで代表ではともかくクラブレベルではブラジル国内
に秘蔵されていたカルロスについては、欧州では見る機会が少ない
だけにどんどんサッカーファンの期待と飢餓感を煽り移籍金は高騰
していた。
ようやく争奪戦に決着が付いた今季、彼が入団すると決まるとシ
ーズンチケットとユニフォームの売上は記録的になったそうである。
まだプレイをしていないにも関わらず、移籍金をペイしてしまいそ
うな勢いだ。
この満員になった観客にしても何割かはカルロスが出場すると聞
いたためにチケットを購入したのだろう。
︱︱ならたっぷりオレ様の妙技を見せてやらなきゃいけないな。
自信満々に俺様なアメリカンプロレスラーのような事を考えるカ
ルロスの頭の中に緊張の文字はない。彼はこれまでブラジルでも同
じようなスターとして注目を集める扱いを受けていたからだ。今更
セレソン
これぐらいのプレッシャーで萎縮するような柔なメンタルでは、ブ
ラジル代表の十番を背負えるはずがない。
カルロスはこれまで慣れ親しんだ南米の芝よりも微妙に乾燥して
いるようなピッチの感触を確かめながら、ボールを使って足慣らし
1633
をする。
そのアップ中に遊び半分で彼が軽くリフティングするだけで観客
席からどよめきが湧くのをどこかくすぐったく感じていた。
試合になればもっとプレイで湧かせてやるから、もうちょっとだ
け待っていろよ。カルロスはそう考えながらピッチ全体を見渡すよ
うに首を巡らす。
すると今日対戦するチームに同年代の見知った相手を発見し、彼
は獲物を見つけた時限定の牙を覗かせる獰猛な表情を作る。
これまでの楽しげな雰囲気からいきなり飢えた虎のようになった
カルロスの存在感は、観客や敵だけでなく味方からの目まで集めて
しまった。
﹁どうした、お前でもデビュー戦では緊張するのかカルロス?﹂
﹁いや、ちょっとテンションが上がってるだけですよ﹂
カルロスの放つ気配の変化に気が付いた年長のチームメイトから
声をかけられると、彼には獲物から目を離して丁寧に返事をする。
何しろ各国代表をずらりと揃えたこのチームのスタメンではカルロ
スが最年少なのだ、移籍早々にあまりでかい態度はとれない。
︱︱まあ、これまでどのチームに行ってもそうなったように二・
三試合もすれば勝手に周囲が﹁王様﹂扱いしてくれるだろうけどな。
これまでもチームに馴染むというより無理やりそのチームの王冠
を簒奪してきた、強者である彼なりの思考法だ。
それにしてもほとんどのチームメイトと言葉の壁がないのは助か
る。カルロスはその点についてだけは安堵していた。
スペインはブラジルの公用語であるポルトガル語とある程度の互
換性があるので、会話に関しては問題がないのが嬉しい。彼が話せ
るのはポルトガル語と日本語の二ヶ国語だが、残念ながらサッカー
界においては日本語はあまり重要視されていない。
1634
だがブラジル人選手は世界中のリーグに広がっているので、とり
あえずポルトガル語が喋れればサッカーをやるには問題がない場合
が多いのだ。
そうして彼が周囲から一身に注目と期待を集めながら肉体と精神
的に準備を整えている内にも時計の針は進み、試合開始の笛が鳴る。
この音は世界中のどこで聞いても同じの、カルロスにとっては仕
事ではなく楽しい遊びが始まる合図だ。
︱︱さて、プレイする場所が変わっても相手がジョアンばかりな
のは変わらない。今日もオレのダンスパートナーを努めてもらおう
か。
カルロスはもともと対戦相手についてあまり研究をするタイプで
はない。自身のコンディションとパフォーマンスを高めればそれだ
けでゴールという結果が出せているからだ。その為に敵は特に気に
なる相手以外は全員が﹁ジョアン﹂でしかない。
あと少しだけ注意しているのは、最初ぐらいは一応監督の指示に
従っているように見せる振りはしなければならない事である。監督
の不興を被ったら試合に出してもらえない可能性があるからだ。
でもこのデビュー戦で引っ込められる前に実力を示してしまえば
その心配はなくなる。例え嫌っていようともゴールとアシストを連
発する選手をベンチに置いておくような監督はいない。次第にカル
ロスの特性に合わせたチームにしていくしかないのだから。
そんな風にあまり敵や味方に関しても興味の薄いカルロスである。
ただ、彼が気にしていたどこかで見た日本人選手は記憶違いでなく
ちゃんと敵チームのスタメンにいたのだ。
試合開始早々彼の目の前にやってきたこの少年である。 カルロスは目の前の自分より頭一つ小さい相手を好戦的なきつい
1635
視線で刺す。
おそらく見上げている日本人の彼も身長が伸びたのだろうが、そ
れ以上にカルロスが大きくなったせいで却って元々あった身長差は
広がったようである。
彼と直接言葉を交わした回数は少ないが、カルロスにとっては母
国の片割れである日本の代表選手だった。
こいつもこのスペインのリーガ・エスパニョーラへ来るとはな。
カルロスにとっては意外だったが、確かにこの少年の個性的で攻撃
的なプレイスタイルはこのリーグ向きかもしれない。
そう言えばこいつはUー十五の大会ではかなりゴールも決めたん
だっけ。もしかしたらそれが評価されてスペインのクラブに獲得さ
れたのかもしれないな。そう思い出すとカルロスの気合いも入るっ
てものだ。
︱︱久しぶりの顔合わせだな、楽しませてもらおうか島津! どこかで﹁え? 俺じゃないの?﹂と驚いた声がしたような気が
する。試合中にここにはいない生意気なもう一人の日本人の幻聴が
するとは、自覚していないがカルロスもデビュー戦に高ぶっている
のかもしれない。そんな彼の至近距離まで島津がやってきた。
﹁おいおい、お前のポジションはここじゃないだろ。それともお前
がこのオレを試合マークするのか?﹂
しばらく使わなかったせいで硬くなった口調の日本語で島津に喋
りかける。しかし、島津は自分に守備を要求するとは戯れ言だなと
切って捨てた。
﹁カルロスへ果たし状を差し出そうと思ってな﹂
﹁⋮⋮なんだやっぱりお前がマークするのか。俺を止められるつも
1636
りなら随分と思い上がってるじゃないか﹂
まあ他の知らないジョアンを相手にするよりはいいか。そう思い
かけたカルロスを島津が制止する。
﹁いや心得違いをするな﹂
﹁は?﹂
﹁この試合、俺の方がお前より点を取ると言ってるんだ﹂
︱︱ははっ、ディフェンスのサイドバックが攻撃的ポジションの
トップ下にいるオレ以上にゴールするつもりなのかよ!
カルロスの知っていた真田や石田みたいな真面目が取り柄だった
奴らとジョアンだけしかいなかった日本代表はもう存在していない
みたいだ。
もう国籍が日本ではなくなってしまった天才は僅かに寂しさを感
じる。
こいつに上杉やアシカといった個性の強いオレでも名前を覚える
ぐらいの奴らが昔の代表にいれば、オレの日本での生活ももっと楽
しかったのにな、と。
◇ ◇ ◇
ハクション、俺は手で押さえる間もなく大きなくしゃみを一つす
る。続けざまにもう一発。
むう、これから試合が始まるのに縁起が悪い。誰か俺の噂でもし
ているのだろうか。
﹁どうしたアシカ? 風邪か?﹂
1637
﹁ああ、いやなんでもない﹂
ドイツ語でかけられた声に俺は勉強中のまだぎこちない発音で答
える。できるだけ正確に話そうとするせいで、喋りはかなり遅くな
るが勘弁してもらおう。
それにしても異国へ来ても呼びかけられるあだ名はアシカのまま
なのがちょっと残念である。
でも﹁アシカ﹂という俺のあだ名は数年前のU︱十五の世界大会
以降サッカー界では広まってしまって、今更変更するのは難しい。
ま、日本ではもうクラスメイトや仲間だけでなく、マスコミに出
る場合でも皆が俺の事をあだ名で呼んでるから諦めるしかない。無
名よりはマシだと割り切ろう。
さてくしゃみの後ちょっと鼻をすするが、鼻水や熱と言った風邪
の兆候はないな。
﹁二回くしゃみをすると悪い噂だそうだから、また顔見知りの元監
督なんかが俺の事をけなしているのかもしれないな。ちょっと気を
付けておかないと﹂
﹁そうなのか? うちでレギュラーにまでなったアシカに文句をつ
けるとは、また厄介な知り合いがいるもんだな。でも普段通りのお
前のプレイを見せれば悪く言ってもそれに乗せられる奴はそれほど
いないだろうから、気にする必要はないだろう。しかし、さっきお
前が言うように日本では二回のくしゃみは悪い噂なのか。こっちで
はくしゃみを二回続けたら何かプレゼントが貰える予兆って話だが
な﹂
﹁へえ、国によって随分違うもんだな﹂
俺が感心したように頷くと、皇太子もドイツと日本は気質は似て
るんだがさすがに迷信までは似てないなと苦笑する。
このチームに所属してから知ったのだが、彼は俺が勝手にイメー
1638
ジしていた頑固なゲルマン民族の典型というものもよりずっと明る
い性格だったようだ。
だが、他のチームメイトからは﹁皇太子はアシカと同じチームに
居て能天気に染まってしまった﹂という意見が圧倒的である。どう
やら俺がチームに参加するまで彼はもっと王道のDFであって、リ
ベロとしても攻め上がるのもずっと控え目だったそうだ。
しかし俺が参加してから明らかに皇太子の持ち前の得点力に磨き
がかかっている。
加えて世界大会でベストイレブンに選出されるレベルだった守備
力までもがぐんぐん上がり、一対一で抜かれるような場面はほとん
どなくなっていた。勿論それは対戦相手がプロでも、という条件で
だ。
結果的に皇太子はDFでありながら守備が評価されるだけでなく
一層攻め上がる機会とゴール数が増しているのだから彼が最近機嫌
が良いのも当然だろう。
ただこれには裏話があり、俺が前でしっかりとボールキープとタ
メを作れるから安心して自分もオーバーラップできるんだと皇太子
は言っていた。
ここでちょっと嫌なことを思い出す。
もしかして島津なんかが頻繁に敵ゴール前に上がっていたのには、
俺のプレイスタイルも影響していたのだろうかと。
以前に頭を痛めていた日本代表が変態的なまで攻撃に傾いたチー
ムになった責任の一端はどうやら俺にもあったようだ。うう、俺は
あのチームではアンカーだった石田と並ぶ常識的な人間だったつも
りなのに。
﹁体調管理はしっかりと頼むぜ、今度のオリンピックではお前達日
本代表とまた戦うのを楽しみにしているんだからな﹂
﹁ああ、俺も楽しみだよ。でも心配せずともドイツが勝ち上がって
1639
いけばいつかは当たるよ﹂
﹁⋮⋮そりゃ楽しみだ﹂
言外に含ませた日本が途中で負けるはずがない、ドイツの方こそ
大丈夫なのか? という問いに皇太子は唇の端を緩める。 代表で彼の相方とされるドイツの新型爆撃機もすでに若手ながら
トップリーグで得点王候補に挙げられるほど成長を遂げている。こ
の誇り高い青年は、今再戦すれば間違いなくリベンジが達成できる
と考えているのだろう。
やれやれ、世界ってのは広い。 U︱十五でやっと世界の頂点に立ったかと思ったのだが、どうや
らあれは単なる上のステージへのパスポートでしかなかったようだ。
俺が戦っているドイツのブンデスリーグの若手だけ考えても皇太
子や新型爆撃機の他に、爆発的なキック力を保つ﹁戦車砲﹂という
異名のシューターや、一人で広大なスペースをケアして入り込んだ
相手の足を吹き飛ばす﹁地雷原﹂といった敵だけでなく味方にまで
被害を及ぼしそうなおっかないアダ名の奴らが顔を揃えている。
⋮⋮ところでなんでドイツは軍事系の異名が多いんだろうな。
オリンピックに出場を決めている国の中では、俺達の代ではやた
ら日本と縁があるブラジルは勿論相変わらずタレントの宝庫である。
他にも以前戦ったイタリア代表などは、伝統の守備はカテナチオ
の守護神の後継として赤信号がますます威圧感を増した以外にも攻
撃のキーマンが生まれているそうだ。最後のファンタジスタとして
美しいパス技術を喧伝されているトップ下の﹁ピッチに描く印象派﹂
という画家のような異名のセリエAで話題になっているらしい。
スペインにしても支配率なら世界一と称される華麗なパスワーク
だけでなく、前線の核になる長身の﹁灯台﹂を名乗る大型FWが無
敵艦隊の編むパスの目的地とフィニッシャーになってゴールを量産
している。
1640
各国が誇る名手達はほどよく中二病的に格好良く、名前を聞くだ
けで早く戦ってみたいと思うような面子ばかりだ。俺の﹁ピッチの
道化師﹂や﹁アシカ﹂なんかももっとこう強そうな奴に変えられな
いだろうか。
そんな馬鹿な事を思うほどライバルは多い。うかうかしていると
以前の同世代で世界一だったはずの俺達は置いていかれかねないな。
これからの俺の予定は代表ではオリンピック、そしてクラブでは
ドイツ国内のリーグ戦とチャンピオンズリーグ。休む間もないほど
戦う場は多い。
ドイツへ居場所を移そうともまだサッカーボールに触れると自然
に洩れてしまう笑みを浮かべ、俺はまず自分の戦場であるピッチへ
向かった。
この先にある大きな大会よりも目の前にある試合が楽しみで仕方
ない所が、さんざん幼馴染に言われる子供っぽい部分なんだろうな。
でもこの幼く青臭いサッカー小僧である部分を失わないのが、技
術や鳥の目以上の俺が持つ強みなんだと思う。
強敵と戦うってのにプレッシャーがかかるどころか、胸を躍らせ
ているなんて我ながら相当にタフでポジティブな神経になったよな。
ここまで成長できたのは心のどこかに子供のような楽しむ余裕があ
ったからこそだ。
そしてこれからは、もっと厳しくもっとわくわくさせてくれる世
界が俺を待っているはずである。
﹁そのために今日も楽しく激しく怪我しないように頑張りますかね﹂
小学生時代から変わらぬモットーを口に出し、まずはこれから自
分が出場する試合に全力を尽くそうと決心するのだった。 1641
外伝 とりあえず蹴ってみよう
﹁よくここまで来たな。またアシカと戦えて嬉しいぜ﹂
浅黒く精悍な引き締まった顔にどこか喜んでいる声と表情を乗せ
て、カルロスは握手しようと手を差し伸べてきた。
試合前にお互いのチームが一列になってする、ほどんどすれ違い
ながらに近い握手での事だ。俺に返答する時間はなくじろりと彼を
睨むだけにしておいた。
﹁ここまで﹂か、言葉にすれば短いが俺達には本当に遠かったん
だぞ。
カルロスの軽い喋り方に﹁こっちの苦労も知らずに﹂と額の血管
がぴくっ引きつるようにと反応してしまう。
今いる舞台はオリンピックの準決勝だぜ? ブラジル代表を率い
ているお前にとってはここまでの道のりは舗装されたハイキングコ
ースのような物だったかもしれないが、俺︱︱いや俺達日本代表に
とってはエベレスト登頂に近い過酷な旅だった。
ホームはともかくアウェーでは技術よりフィジカルとハートの強
さを試されたアジア予選。それをなんとか突破したと一安心してい
たら、オリンピックではグループリーグの組分けからして﹁地獄の﹂
と冠された厳しい組へと入ってしまったのだ。
ロンドンでオリンピックの開催式がまだ行われる前、初戦でぶつ
かったイタリアの赤信号を相手にした試合では見事に相手の堅守速
攻策に嵌ってしまった。
何しろ枠内シュート数では二十対一で圧倒したにも関わらず敗北
を喫したのだから、イタリアのお家芸である典型的なカウンターサ
1642
ッカーの餌食になったと言われても弁明できない。
元々実力は認めていた鬱陶しい相手キーパーが当たりに当たりま
くったせいで﹁イタリア制の赤信号は九十分輝き続け、日本の攻撃
陣は全てが通行止めにさせられた﹂と日本のマスコミでは報道され
たそうだ。唯一の失点にしても、前線へ出すパスはオフサイドかカ
ットしてばかりで抑え込んでいたイタリアのファンタジスタがただ
一本だけ針の穴ほどの隙間を通したアシストに屈した悔しい敗戦で
ある。
初戦を落としたせいでグループリーグを突破するために必勝を求
められた俺達代表は、いつもの馴染んだスタイルであるノーガード
で得点をもぎ取りに行く戦術へと戻った。
その二戦目になる対南アフリカ戦は敵味方とも攻撃重視の姿勢が
噛み合い、両チーム合わせて三人のハットトリッカーを生むという
大馬鹿試合となっての六対五で勝利。
明智経由で知らされたが、このオリンピックではあるテレビ局の
サッカー担当にまで復帰していた松永解説者曰く﹁六分の五で弾が
でるロシアンルーレットで互いに向けて何度も引き金を引き合った
ら、たまたま南アフリカの方に弾が出なかっただけ。つまりは運が
良かったにすぎない﹂という日本にしても些か前のめりすぎてバラ
ンスを欠いてしまった反省も多い戦いだ。
グループリーグ最終戦は南米の雄であるアルゼンチンと、勝った
方がトーナメントへ進出できるというトーナメントに近い状況での
試合となった。
それが悪かったのか荒っぽいアルゼンチンディフェンスのペース
に巻き込まれ、﹁終了の笛が鳴った時にはピッチ上に生き残ってい
た選手は十八人﹂というレッドカードが三枚乱れ飛び負傷による交
代または退場が五人という凄惨なサバイバルの様相を呈した肉弾戦
になってしまったのだ。
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この試合でのMVPはゴールとKOの数を飛躍的に伸ばした上杉
で、南アフリカ戦に続き二試合連続のハットトリックと誰もが認め
る大活躍だった。彼がいなければサッカーのスコアでも倒した選手
の数でも勝利するのは難しかっただろう。
それだけゴールした上で、彼へ執拗にマークしていた二人いなく
なるほど暴れたにも関わらず自分だけはカードを貰っていないのだ
から、明らかにオランダへ行ってから上杉の攻撃は質が良くなって
いるがタチは悪くなっている。
普段も頼りになるのだがこういった厳しい荒れた展開になればな
るほど光を放つのだから、どうにも評価に困る奴である。
そして問題が起こったのはなにもピッチ上だけではない。
なぜか日本代表の持ち込んだ食料が夜の内に消え、全ての食料が
ハギスとウナギのゼリー寄せと納豆にすり替わっていたという難事
件が勃発。
しかも食料を置いていた場所には﹁ふはは、食料は全部明日まで
預かったっす! イギリスに来たからにはわざわざ準備したこれを
食わないといけないっすよね。それと今回は用意しなかったもう一
つの名物フィッシュ&チップスはどこでも買えるっすし、食べたい
人は自腹で食うといいっす。あ、でもこの納豆がイギリス名物にい
つから紛れ込んでいたのかはマジで判んないっす﹂と書かれたカー
ドが残されていた。
⋮⋮次の日にはまた失われたはずの食料が忽然と現れたので、お
そらく犯人は誰だかチームの全員が判っていながらも﹁酷いイタズ
ラをする奴がいるもんすね∼﹂と何食わぬ顔をしている明智を糾弾
する事はできなかった。
ちなみにロンドンのチームに所属し、土地勘もイギリス名物を食
べさせようとする動機も揃った真犯人の疑いが濃い明智も、混ざっ
ていた納豆についてだけは﹁納豆に関しては絶対にノータッチっす
!﹂と本気で慌てていた。だとするとあの藁人形二号君が混じった
1644
迷惑な贈り物は一対誰がやったんだろう。
まさかとは思うが⋮⋮。
いや、証拠がないのに自分の彼女を疑うのは止めなければ。
俺がオリンピックに出発する前に見た真は、一仕事終えたような
爽やかな顔をして﹁ロンドンへ行っても好き嫌いしちゃ駄目だよ﹂
と快く送り出してくれたじゃないか。うん、そうだ。真を信じるべ
きだよな。
他にも日本の勝利に対し挑発的な態度で接近してきたフーリガン
へ、彼ら以上に嬉々とした態度でバスから降りてまで迎え撃とうと
した上杉の﹁ワイの得意なんはカウンターや﹂事件。抑えるのに真
田キャプテンが苦労して俺達へ﹁いいか、敵FWやフーリガンより
まず上杉を止めるんだ!﹂と叫んだのが印象的だったな。
それだけにとどまらず大会関係者からかけられた迷惑もあった。
﹁島津のポジション表記が間違っています、至急訂正してください﹂
﹁あ、DFで間違ってないですよ﹂
﹁舐めてるのか貴様! 書類のミスがあったとしてペナルティを与
えるぞ!﹂
といった連絡や書類に関する問題など、ある意味試合以上に代表
スタッフを疲れさせる小さな事件が頻発したのだ。
それら大小のトラブルをくぐり抜け、今俺達は準決勝に臨むピッ
チに立っている。これは日本代表が一過性ではなくどんな時でも常
にいい成績をキープできるだけの実力が付いたって事だろう。
⋮⋮そのトラブルのほとんどが身内から起こされているようなの
は気のせいにするべきだな、うん。
さて一瞬でこれまでに至る波瀾万丈の記憶を蘇らせた俺は、回想
で上がりすぎたテンションを落ち着かせるためにもいつものように
目を瞑り自分の状態を確認する。
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手足は軽いな。体調は若干興奮で鼓動が速くなっている以外は問
題ない。
ドイツに移籍する前から続けている連戦でも疲労を残さないよう
にトレーニングしてきた効果がようやく実ってきたようだ。鳥の目
もこの巨大なスタジアムの隅々まで見渡せそうなぐらい視界がいい。
マスコミに復帰していた松永も、この試合はブラジルが圧倒的に
有利だと日本代表に悲観的な予想を立てていたのもこっちにとって
は好材料である。
ちなみに松永がマスコミへ復帰した契機となったは、彼の発信し
ているJリーグでの勝敗予想を参考にするとトトカルチョがよく当
たるとネットで噂になったからだそうだ。
誰も松永の予想が当たったとは言わないし調べてみても彼の勝敗
予想の正当率は一割にも満たないが、なぜか彼の勝敗予想を聞いて
からだと耳にした人間の的中率が跳ね上がるらしい。一部の人達か
らは﹁松永が予想すると当選者が増えすぎてトトカルチョの配当が
一桁下がった﹂とまで崇められているそうだ。
そんな彼に﹁ブラジル有利﹂と予想されたのだから闘争心も燃え
上がるってもんだぜ。
よし、心身共にベストコンディションだ。
万全だと自分の調子を確認してから日本代表チーム全体に目を向
ける。
このチームはさっき何人か名前を出した時に判っただろうが、以
前優勝したU︱十五のメンバーをベースにしているために俺の知り
合いが多数揃っている。しかもそのほとんどが海外のクラブで揉ま
れているいわゆる海外組だ。
クラブは違うが俺と同様にドイツでプレイしている真田キャプテ
ン。彼は高さと強さに磨きをかけ、ここでもキャプテンマークを左
腕に巻いている。敵の攻撃と味方の暴走を止められるのはやはり彼
しかいない。
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スペインにいるのは自慢だったオーバーラップの鋭さと決定力は
更に研ぎ澄まされ、守備力は更に鈍化したポジション偽装疑惑のあ
る島津。
向こうではサイドバックにも関わらず、昨シーズンはチーム内で
最多得点と最多シュート数に最多オフサイドにかかった選手として
記録され名を馳せている。⋮⋮DFとしては明らかにおかしい記録
を作るなよ。現地では﹁さすが日本人は凄い。神風や特攻や忍者の
末裔なだけはある﹂と大人気のようだけど、これ以上おかしな日本
人のイメージを植え付けないでくれ。
オランダからはキック力とパンチ力が飛躍的にアップし、試合中
マッチアップする相手DFをKOする率までも高まった上杉だ。﹁
ワイは前にアシカと会った時より倍は強くなったで﹂って、それサ
ッカーについてだよね? ずっと向こうでサンドバッグを叩いたり、
リングに上がっていたんじゃないよね? そう尋ねても笑って答え
てくれなかったのだけが気がかりだ。
お次はイギリスで﹁パパラッチ以上にサッカー界の裏側を知る男﹂
と恐れられるほど情報収集と分析に実績を積み、ダブルオー機関か
ら勧誘があったと噂される明智。あ、ちなみにこのダブルオー機関
に関する噂は自分から流したそうだ。
彼曰く﹁端で眺めているより渦の中心にいる方が情報は入手しや
すい﹂そうだが、別に俺にスパイの心得を伝授されても困るぞ。
⋮⋮あれ? なんだかこいつらは頼りになる仲間と言うよりアウ
トサイダーの集団のような気がするな。
これならばドイツで﹁ピッチ上の道化師﹂だけでなく﹁皇太子の
宮廷道化師﹂や﹁後ろ向きのマイスター﹂に﹁笑うゴールへの運び
屋﹂などといったあまり格好の良くない異名が増えただけの俺なん
か可愛いものだ。 他と違って判りにくい﹁後ろ向きのマイスター﹂など妙なあだ名
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もあるが一応由来はある。
ドイツのデビュー戦では敵が皆俺より大きいためになかなか前を
向けず、苦戦したものだ。そこで開き直った俺が﹁前向けないなら、
向かなくていいや﹂とヒールキックでパスをしたところそれがブン
デスリーグでの初アシストへと繋がった。
それ以来﹁アシカは前を向いた時より後ろ向きの方が怖い﹂と噂
されるようになってしまった。これが﹁後ろ向きなマイスター﹂と
命名された経緯だな。
今では俺が敵陣深くの位置で前を向くと敵・味方チームの両方の
ファンがうめき声を上げるほど浸透してしまっている。いや、敵は
ともかく味方やファンは俺が敵ゴール方向を向いたらチャンスだと
喜べよ。それほど俺を後ろ向きにさせたいか?
嫌な思い出をぷるぷると首を振って追い出す。これから試合なの
にテンションを下げてたまるか。
さて紹介したように世界各国へ赴き一層キャラが濃くなった日本
代表の個性派が揃うと、単にキックオフするだけで大もめになる。
切っ掛けは上杉の﹁じゃ、まずワイがピンポンダッシュしてみる
わ﹂という言葉からだった。
ここで﹁ピンポンダッシュ?﹂と首を捻った俺達は悪くないはず
だ。
上杉は溜め息を吐くと、
﹁とりあえずキックオフシュートをワイが撃って、ブラジルにご機
嫌伺いをするっちゅー事やな﹂
皆が﹁ああ、いかにも上杉らしい﹂と納得しかけたが、猛然とそ
れに反論したのは意外かもしれないが攻撃的な思考では上杉と並ぶ
島津からだった。
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﹁カルロスには開幕で上杉がシュートを撃つかもしれないと読まれ
ているはずだ。スペインでも上杉のキックオフシュートには大笑い
したと言及した事があった。いきなり上杉が撃つのは奇襲にならな
いぞ。止めた方が無難だな﹂
﹁なるほど﹂
同じスペインの地で戦っていた島津のカルロスを評する言葉には
説得力がある。上杉も反論できずに口元をへの字に歪めている。
それにしても島津が攻撃面に関して自重を求めるだなんて、やっ
ぱり随分と成長したものだ。
チームメイトの顔を見回して皆を説得できたか確かめていた島津
は満足そうに頷いた。よほど上杉のキックオフシュートを制止でき
たのがご満悦らしい。
だからそんなに大人になったはずの彼がこう告げるとは思っても
いなかった。
﹁そういう訳でカルロスから読まれも予想もされてない俺がキック
オフシュート撃とう。これで敵の度肝を抜けるはずだ﹂
﹁おい!﹂
その場にいる全員が声を揃え、手の甲で軽く島津へ突っ込んだ。
やけに熱心に上杉にストップをかけていたと思えば自分がやりた
かったのかい。ああ、もうそんなことを言い争っている暇はないぞ。
﹁とりあえず、キックオフぐらいは一旦俺へボールを預けてくれ。
ほら、あんまり俺達が話をしているから審判が苛ついている﹂
﹁ちっアシカが言うならしゃーないな﹂
﹁むう、不服だが従おう﹂
完全に納得した風ではなかったが、何とか説得できた。
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さてようやくこれで試合が開始される。心なしか審判まで﹁やれ
やれやっと始められるな﹂と安心したような表情になっているじゃ
ないか。
ホイッスルが鳴るのと同時に上杉が頬を膨らませて中盤の俺へボ
ールを戻す。
そこへに向かって全力でダッシュすると最後の左足をぐっと踏み
芝を噛む、そうやって下半身を安定させた俺は走って来た勢いを百
%ボール伝えるように思いきり右足を振り抜いた。
足の甲に小気味いい感触を残し、糸を引くような軌跡でブラジル
ゴールへと飛んでいく。
開幕早々のシュートに同時にスタジアムから一斉に歓声と怒号に
驚愕の叫びが響く。 ポルトガル語に混じり﹁それ、ワイの仕事やろ!﹂﹁いや俺がす
べき役目だった﹂﹁お前ら、特に島津は黙れ!﹂といった日本語の
声がボールを蹴った直後、ブラジルゴールに到達するまでに耳に入
る。
たぶん日本で見ている真や母さんなんかにも松永の﹁馬鹿なこと
をするな!﹂なんて解説付きで実況されているはずだ。
シュートがゴールの枠ぎりぎりのコースに乗り、慌てたようにキ
ーパーが飛びつく。どうだ? 入ったか? 鳥の目を持ってしても
混乱するブラジルゴール前の詳細は判らない。だが一層高まるポル
トガル語と日本語の絶叫の響くピッチど真ん中で俺は笑っていた。
ああ、やっぱりサッカーをするのは︱︱特にこのメンバーでやる
のは楽しいぜ。
四方からシャワーのように歓声と罵声を浴びながら俺はたぶん小
学三年生で初めて、或いはやり直して再び触れた時と同じように純
粋にボールの感触が嬉しくて笑顔を浮かべていた。
こうやって注目を浴びるのと同等に、いやそれ以上にボールを蹴
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っているだけで幸せになる自分の単純さは幾つになっても変わらな
い。
﹁さあ今日もサッカーを楽しもうか﹂
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PDF小説ネット発足にあたって
http://ncode.syosetu.com/n9987bi/
やり直してもサッカー小僧
2016年7月8日20時34分発行
ット発の縦書き小説を思う存分、堪能してください。
たんのう
公開できるようにしたのがこのPDF小説ネットです。インターネ
うとしています。そんな中、誰もが簡単にPDF形式の小説を作成、
など一部を除きインターネット関連=横書きという考えが定着しよ
行し、最近では横書きの書籍も誕生しており、既存書籍の電子出版
小説家になろうの子サイトとして誕生しました。ケータイ小説が流
ビ対応の縦書き小説をインターネット上で配布するという目的の基、
PDF小説ネット︵現、タテ書き小説ネット︶は2007年、ル
この小説の詳細については以下のURLをご覧ください。
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