Comments
Description
Transcript
立ち止まる自由 - 金城学院大学
立ち止まる自由 キリスト教センター実務助手 西 野 三緒子 マタイによる福音書 11章28節 「…疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげ よう。…」 今朝はまず、埼玉県新座市というところにある、立教新座中学・高等学校の 校長先生である渡邉憲司先生という方の卒業式に生徒達へ送ったメッセージを ご紹介したいと思います。実はこのメッセージは2011年3月に行なわれるはず だった高校の卒業式のメッセージなのですが、あの震災のため卒業式が中止に なり、「卒業式を中止した立教新座高校3年生諸君へ」というタイトルで、学 校のホームページに掲載されているものです。その一部をそのまま読んでみた いと思います。 「諸君らのほとんどは、大学に進学する。大学で学ぶとは、又、大学の場にあって、 諸君がその時を得るということはいかなることか。大学に行くことは、他の道を行くこと といかなる相違があるのか。大学での青春とは、如何なることなのか。 大学に行くことは学ぶためであるという。そうか。学ぶことは一生のことである。いか なる状況にあっても、学ぶことに終わりはない。一生涯辞書を引き続けろ。新たなる知識 を常に学べ。知ることに終わりはなく、知識に不動なるものはない。大学だけが学ぶとこ ろではない。日本では、大学進学率は極めて高い水準にあるかもしれない。しかし、地球 全体の視野で考えるならば、大学に行くものはまだ少数である。大学は、学ぶために行く と広言することの背後には、学ぶことに特権意識を持つ者の驕りがあるといってもいい。 多くの友人を得るために、大学に行くと云う者がいる。そうか。友人を得るためなら、 このまま社会人になることのほうが近道かもしれない。どの社会にあろうとも、よき友人 はできる。大学で得る友人が、すぐれたものであるなどといった保証はどこにもない。そ んな思い上がりは捨てるべきだ。 楽しむために大学に行くという者がいる。エンジョイするために大学に行くと高言する 者がいる。これほど鼻持ちならない言葉もない。ふざけるな。今この現実の前に真摯であれ。 君らを待つ大学での時間とは、いかなる時間なのか。学ぶことでも、友人を得ることで も、楽しむためでもないとしたら、何のために大学に行くのか。 ― 119 ― 誤解を恐れずに、あえて、象徴的に云おう。 大学に行くとは、 『海を見る自由』を得るためなのではないか。 言葉を変えるならば、 『立ち止まる自由』を得るためではないかと思う。現実を直視す る自由だと言い換えてもいい。 中学・高校時代。君らに時間を制御する自由はなかった。遅刻・欠席は学校という名 の下で管理された。又、それは保護者の下で管理されていた。諸君は管理されていたのだ。 大学を出て、就職したとしても、その構図は変わりない。無断欠席など、会社で許さ れるはずがない。高校時代も、又会社に勤めても時間を管理するのは、自分ではなく他 者なのだ。それは、家庭を持っても変わらない。愛する人を持っても、それは変わらない。 愛する人は、愛している人の時間を管理する。 池袋行きの電車に乗ったとしよう。諸君の脳裏に波の音が聞こえた時、君は途中下車し て海に行けるのだ。高校時代、そんなことは許されていない。働いてもそんなことは出来 ない。家庭を持ってもそんなことは出来ない。 『今日ひとりで海を見てきたよ。 』そんなこ とを私は妻や子供の前で言えない。大学での友人ならば、黙って頷いてくれるに違いない。 」 と、少々引用が長くなりましたが「大学へ行く意味」を渡邉先生は「海を見る 自由を得るため」、「立ち止る自由を得るため」であると語り、「大学という青 春の時間は、時間を自分で管理できる煌きの時である」と言われます。自分の 時間を自分で管理できるということは、当たり前のようでそうではないので す。そして、大学生活はそれができるという意味で、人生の中できらっと光る 一瞬の貴重な時なのです。ですから大学はその自由を、時間を管理し、立ち止 まるという自由を学生さんに保証しなくてはいけないのではないかとも思わさ れます。また、渡邉先生のメッセージでは、青春とは、「現実を直視する自由 を得る」ことだとも言っています。社会に出れば、自分にとって、会社にとっ て、その社会にとって都合の悪い現実を直視できなくなってしまうのかもしれ ません。都合の悪いことを見ないようにして、ただ、効率や利益を求めること を優先してしまうかもしれません。時間的にも精神的にも現実を直視し、立ち 止まって考えるという余裕や自由がなくなります。 大学生活が人生の中で立ち止まることが許されるときであるなら、礼拝もま た、一日の中で、また一週間の中でしばし立ち止まることができる時ではない でしょうか。一日の初め、また、一週間の初めにしばし心を静め、神様と向き 合い、自分を見つめ、神の言葉に聞き、自分が赦された存在であることを知り、 そして、一日を一週間を始めます。始めるために、歩き出すために、前に進む ために、しばし立ち止まるのです。途中下車して海へ行かなくても、私たちは ― 120 ― 礼拝で自分を見つめ、現実を見つめ、神様を見つめ、そしていかに生きるべき かを考え、示されます。また、重荷を負っていても休むことができます。 時間を自分で管理できること、自分を直視する自由を得られることが大学生 になる意味であるなら、このように礼拝という時間があり、出席する自由があ ること、それがこの金城学院大学で学ぶ意味ではないでしょうか。 ここにおられる多くの学生さんは、1年生だと思います。今は、必修の授業 の関係があって礼拝に来ているという方が多いと思います。でも4月からはそ の授業もなくなり、礼拝に来なくてはいけない理由はなくなるでしょう。 あなたの管理するあなたの時間の中にこの「礼拝」という時間を加えてみて ください。毎日でなくても、あなたの管理する時間のときどきに、「礼拝」と いう時間を置いてみてください。上級生になっても、授業とは関係なくなって も、どうぞ、ぜひ、この礼拝という時間を覚えて出席してください。そしてま た将来、大学を卒業してからも、教会では毎週日曜日に礼拝を守っています。 そのような場所があることをみなさんはご存知なのですから、そのことを覚え ていてください。 上級生になっても、卒業しても、金城学院で出会った礼拝という時間を忘れ ないでいていただきたいと思います。 2013年1月15日 朝の礼拝 ― 121 ―