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東日本大震災5周年追悼・復興記念ミサ説教

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東日本大震災5周年追悼・復興記念ミサ説教
東日本大震災5周年追悼・復興記念ミサ説教
2016年3月11日(金) 東京カテドラルにて
[聖書朗読箇所]
説教
今日、東日本大震災が起こってちょうど5周年を迎えました。東日本
大震災により多くの命を奪われ、また多くの人が行方不明になり、
さらに津波によって福島第一原発事故が起こりました。東日本大震
災によって、日本列島に住む人だけでなく、世界中の人が大きな、
深刻な衝撃を受けたのです。
いまなお多くの人々が心身の傷に苦しみ、不安を抱いていいます。
依然として、多くの人々は故郷を追われて、不自由で不安な避難の
生活を余儀なくされたのです。
紛れもなく、東日本大震災という出来事には天災と人災の両面があ
ります。地震と津波は自然災害ですが、しかし原発事故は人間が引
き起こした災害です。
大震災に出会った日本に住む小学2年生の少女が教皇ベネディクト16
世に質問を送ったところ、驚いたことに教皇は丁寧にお答えになり、
その答えが公表されました。
日本に住む一少女の質問に教皇ベネディクト16世が愛を込めて丁寧
にお答えくださったことをわたしは決して忘れません。
少女の質問は、「どうして日本の子どもは悲しい、怖い思いをしな
ければならないのですか」ということでした。
教皇の答えは、「それはわたしにも分かりません。しかし信じてく
ださい。神様はあなた方の苦しみは御存じです。神様にいつもあな
た教方と一緒にいます。そのわけが分かるときがいつかくるでしょ
う」という趣旨でありました。(『教皇ベネディクト一六世 霊的
講話集2011 イエスについて、参照』
わたしはこの5年間、この少女の質問は、「地震と津波はどうして起
こったのですか」という趣旨であると思ってきましたが、やがって、
これはわたしの思い違いである、とはっきり思うようになりました。
彼女は「福島第一原発事故」を含めての「この恐ろしい大災害がど
うして起こったのか」と質問したのだと思います。
自然災害がおこることをわたしたちは止めることができません。し
かし人災は別です。原発は人災です。人災である原発事故は人間の
責任です。
わたしたたちはどうしたらいいでしょうか。そのためには、原子力
発電所の安全を確保して、絶対に原発事故が起こらないようにする
か、あるいは、原発自体を廃止するしか、ないと思います。
原子力の平和利用と言いながら人類は何度も原発事故を起こしてき
ました。原発は安全であるという主張を信用することはできません。
原発事故を起こさないためには原発自体を廃止するしかないのです。
そもそも原発自体が、人類の思い上がりであるのです。それはあた
かも創世記にでてくる「バベルの塔」のようなもので、人類の神へ
の反抗、不従順、不信仰のしるしなのです。
2011年11月8日、仙台に集まった日本の司教たちはこの事故について
メッセージを発表し、即時廃止を訴えました。
「わたしたち人間には神の被造物であるすべてのいのち、自然を守
り、子孫により安全で安心できる環境をわたす責任があります。利
益や効率を優先する経済至上主義ではなく、尊いいのち、美しい自
然を守るために原発の廃止をいますぐ決断しなければなりません。
・・・新たな地震や津波による災害が予測されるなか、・・・原発
が今回のような甚大な事故を起こす危険をはらんでいます。自然災
害に伴う人災を出来る限り最小限にくい止めるためには原発の廃止
は必至です。」
またわたしたちの反省と自戒の念を含めて次のようにも訴えました。
「わたしたちキリスト者には、何よりも神から求められる生き方、
つまり「単純質素な生活、祈りの精神、すべての人々に対する愛、
とくに小さく貧しい人々への愛、従順、謙遜、離脱、自己犠牲」(パ
ウロ6世の「福音宣教」よりの引用)などによって、福音の真正なあ
かしを立てる務めがあります。」(以上、2011年11月8日 仙台にて、
日本カトリック司教団 )
今日の福音でイエスは言われました。
「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。
休ませてあげよう。わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を
負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得
られる。わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。」
(マタイ11・28-30)
わたしたちは、このイエスの招きに応えて、主イエスからや安らぎ
をいただき、イエスに学び、神の愛の実行に努めなければなりませ
ん。いつくしの神のみ顔である主イエスは人々の痛み、嘆き、苦し
みをご存知です。
祈りましょう。
「どうか主よ、わたしたちにいつくしみと癒し励ましの恵みをお与
ください。ひとり一人が自分の軛を負いながら、ともに人々の苦し
みを担うことができますよう、聖霊を注いでください。」
今日の第一朗読でパウロは教えます。
「愛は忍耐強い。愛は情け深い。・・・不義を喜ばず、真実を喜ぶ。
7すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える。愛
は決して滅びない。」(一コリント13・4-8)
ところで先日東京カテドラルに三博士(三賢王)の聖遺物を持参された
ケルンのヴェルキ枢機卿は、ドイツへ避難してきた膨大な難民を受
け入れることについて熱を込めて語っています。※1
難民を兄弟姉妹として受け入れることはパウロの教える神の愛の実
行そのものです。具体的に、衣食住の問題、さらに難民の教育と仕
事の世話などの課題についても枢機卿は話しました。
神は愛です。神の愛は聖霊によってわたしたちの心に注がれていま
す。( ローマ5・5
参照)
この厳しい現実の中で神の愛を信じ続け希望し続け、愛を実行する
恵みをお祈りいたしましょう。
※1: わたしどものホーム・ページにある「教区からのお知らせ」の
欄で、ヴェルキ枢機卿が行った説教の日本語訳を見ることができま
す。
聖書朗読箇所
第一朗読 使徒パウロのコリントの教会への手紙(一コリン
ト13・4-13)
福音朗読 マタイによる福音(マタイ11・25-30)
(本文)
愛は忍耐強い。愛は情け深い。ねたまない。愛は自慢せず、高ぶら
ない。礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱か
ない。不義を喜ばず、真実を喜ぶ。すべてを忍び、すべてを信じ、
すべてを望み、すべてに耐える。
愛は決して滅びない。預言は廃れ、異言はやみ、知識は廃れよう、
わたしたちの知識は一部分、預言も一部分だから。完全なものが来
たときには、部分的なものは廃れよう。幼子だったとき、わたしは
幼子のように話し、幼子のように思い、幼子のように考えていた。
成人した今、幼子のことを棄てた。わたしたちは、今は、鏡におぼ
ろに映ったものを見ている。だがそのときには、顔と顔とを合わせ
て見ることになる。わたしは、今は一部しか知らなくとも、そのと
きには、はっきり知られているようにはっきり知ることになる。
それゆえ、信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る。そ
の中で最も大いなるものは、愛である。
そのとき、イエスはこう言われた。「天地の主である父よ、あなた
をほめたたえます。これらのことを知恵ある者や賢い者には隠して、
幼子のような者にお示しになりました。そうです、父よ、これは御
心に適うことでした。すべてのことは、父からわたしに任せられて
います。父のほかに子を知る者はなく、子と、子が示そうと思う者
のほかには、父を知る者はいません。
疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休
ませてあげよう。わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負
い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得ら
れる。わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。」
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