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日本基督教団石神井教会 2016 年 11 月 20

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日本基督教団石神井教会 2016 年 11 月 20
終末主日(収穫感謝日)礼拝説教「あなたのために!」
日本基督教団石神井教会 2016 年 11 月 20 日
【使徒書日課】ヨハネの黙示録 19章11~16節
11そして、わたしは天が開かれているのを見た。すると、見よ、白い馬が現れ
た。それに乗っている方は、「誠実」および「真実」と呼ばれて、正義をもって
裁き、また戦われる。12その目は燃え盛る炎のようで、頭には多くの王冠があっ
た。この方には、自分のほかはだれも知らない名が記されていた。13また、血に
染まった衣を身にまとっており、その名は「神の言葉」と呼ばれた。14そして、
天の軍勢が白い馬に乗り、白く清い麻の布をまとってこの方に従っていた。 15こ
の方の口からは、鋭い剣が出ている。諸国の民をそれで打ち倒すのである。また、
自ら鉄の杖で彼らを治める。この方はぶどう酒の搾り桶を踏むが、これには全能
者である神の激しい怒りが込められている。16この方の衣と腿のあたりには、「王
の王、主の主」という名が記されていた。
【福音書日課】マタイによる福音書 25章31~46節
31「人の子は、栄光に輝いて天使たちを皆従えて来るとき、その栄光の座に着
く。32そして、すべての国の民がその前に集められると、羊飼いが羊と山羊を分
けるように、彼らをより分け、33羊を右に、山羊を左に置く。34そこで、王は右
側にいる人たちに言う。『さあ、わたしの父に祝福された人たち、天地創造の時
からお前たちのために用意されている国を受け継ぎなさい。35お前たちは、わた
しが飢えていたときに食べさせ、のどが渇いていたときに飲ませ、旅をしていた
ときに宿を貸し、36裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ね
てくれたからだ。』37すると、正しい人たちが王に答える。『主よ、いつわたし
たちは、飢えておられるのを見て食べ物を差し上げ、のどが渇いておられるのを
見て飲み物を差し上げたでしょうか。38いつ、旅をしておられるのを見てお宿を
貸し、裸でおられるのを見てお着せしたでしょうか。39いつ、病気をなさったり、
牢におられたりするのを見て、お訪ねしたでしょうか。』40そこで、王は答える。
『はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、
わたしにしてくれたことなのである。』
41それから、王は左側にいる人たちにも言う。『呪われた者ども、わたしから
離れ去り、悪魔とその手下のために用意してある永遠の火に入れ。42お前たちは、
わたしが飢えていたときに食べさせず、のどが渇いたときに飲ませず、43旅をし
ていたときに宿を貸さず、裸のときに着せず、病気のとき、牢にいたときに、訪
ねてくれなかったからだ。』44すると、彼らも答える。『主よ、いつわたしたち
は、あなたが飢えたり、渇いたり、旅をしたり、裸であったり、病気であったり、
牢におられたりするのを見て、お世話をしなかったでしょうか。』45そこで、王
は答える。『はっきり言っておく。この最も小さい者の一人にしなかったのは、
わたしにしてくれなかったことなのである。』46こうして、この者どもは永遠の
罰を受け、正しい人たちは永遠の命にあずかるのである。」
ひとつに集められるとき
今日はじめておいでくださった方がいらっしゃるならば、わたしは、その方に
まず申し上げたいことがあります。「ようこそ、おいでくださいました。今日、
ここにおいでくださったあなたは、ここですばらしい奇跡を見ているのです。あ
なたと、わたしと、そして他の人たちが、今、ひとつところに集められているこ
と。ここでひとつに集められて、互いに出会わされていること。それは、間違い
なく、奇跡です。すばらしい奇跡です。その奇跡のただ中に、皆さんは、今いら
っしゃる。その奇跡を、ご覧になられている。」
「教会に来てみたら、牧師がいきなりおかしなことを言い出した」と思われた
方も、あるかもしれません。けれども、わたしは、何度でもみなさんに申し上げ
るでしょう。今、ここで起こっていることは、奇跡です。わたしたちが、今、こ
のようにひとつところに集められていることは、奇跡です。何となれば、わたし
たちは、今、神を礼拝する営みの中にいるからです。神の前に立つという営みの
中に、わたしたちは皆、導かれて来た。その営みの中に、ひとつ集められてきた。
そして、ひとつに集められて、神の前で互いに出会うようにとされている。神が
そうしてくださったからです。神がそのように導いてくださり、集めてくださり、
ここに共にいるようにとしてくださった。だから、奇跡なのです。
今日は、日曜日です。わたしは、牧師ですから当然のように、自分の仕えるこ
の石神井教会にまいりました。他のことは何も考えませんでしたけれども、きち
んと教会にまいるための準備をしてきました。教会の皆さんも、当然のように、
ご自分の属するこの石神井教会においでくださった。他のご用事のある方もあっ
たかもしれませんが、ご自分で判断して、今日はここに来ることを決断して、お
いでになられた。そして、他の皆さんも、この石神井教会に来ることは当然では
なかったかもしれないけれども、ご自分の意志で、今日は、ここにおいでくださ
ったでしょう。無理に連れてこられたという方がいらっしゃらないとは限りませ
んが、そう言われる方も、たとえ嫌々だとしても、首に縄をかけられてここにい
らっしゃるわけではないでしょう。渋々でも、最後はご自分で決められた。
けれども、そういう皆さんの集まりであるとしても、教会は、それを、神がな
してくださったことと言うのです。そう信じるのです。なぜならば、教会は、神
がわたしたちすべての者をひとつにしようとしてくださっている、と信じている
からです。神は、いつか必ず、すべての者をひとつにしてくださる。その目標を
目指して、神は、まず教会から、神を信じ、神の御前に進み出てくる者の集まる
ところから、そのご計画を始めてくださっている。そう信じて、ひとつ集められ
たところで、神のお働きの始まっていること、奇跡を見出しているのです。
「最も小さな者の一人」
教会の皆さんには、この何週間か毎日曜日にお話しをしてきましたが、今日は、
教会暦(カレンダー)で一年一巡りの終わりの週の日曜日です。
「週報」には、
「終
末主日」と記しています。
「終末」や「世の終わり」を憶える日です。もちろん、
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そうは言っても、何か、世界が破滅するときがやってくる、というようなことを
考えるわけではありません。
ただ、そのように申し上げても、皆さんの中には、聖書の中に描かれた、「最
後の審判」のようなイメージばかりを、「終末」や「世の終わり」という言葉か
ら想像される方もあるかもしれません。今日の福音書は、まさに、そのような「最
後の審判」のイメージを強くする箇所であるとも言えます。
世の終わりの最後のとき、まるで「閻魔大王」のようなイメージの神がすべて
の者をご自分の前に並ばせて、順番に右と左に選り分けるのです。そして、右に
選り分けられた者に対して告げられます。「お前たちは、祝福された者だ。お前
たちのために用意しておいたものを受け取るがよい」と。左に選り分けられた者
に対しても、告げられます。「お前たちは、呪われた者だ。お前たちは、追放だ。
悪魔と一緒に永遠の火の中で焼かれてしまえ」と。この、右に選り分けられた者
と、左に選り分けられた者の、違いは何か。それは、「神の兄弟である最も小さ
い者の一人に対して、憐れみをもって接してくれたかどうか」だというのです。
しかも、それは、当人さえ気づかずにしていたこと、しなかったことが問われて、
最終的にその人が救われるのかどうかの運命が決まってしまう。
随分、厳しい審判です。もちろん、ここに挙げられているような、飢えている
人、渇いている人、旅の宿を求めている人、裸の人、病気の人、牢に囚われてい
る人に対して、憐れみをもって、食べさせたり、飲ませたり、宿や服を提供した
り、見舞ったり訪ねたりすることは、大切なことでしょう。特に、だれからも目
を向けてもらえずにいる小さく弱い存在に対して目を向けることは、信仰のある
なしにかかわらず大切なこととして、わたしたちは教えられています。できれば、
そのようにするべきだと思うし、それができなかったときには、わたしたちは、
心の中に良心の呵責のようなものを感じないわけにはいかないものです。
けれども、それができたかどうかで、その人の最終的な運命、その人の価値が
決まってしまうとしたら、ずいぶん厳しいことです。キリスト教は、そういう厳
しい倫理観を教えている、と言うこともできるかもしれません。では、キリスト
者と呼ばれる者は、皆、最後の審判で右に選り分けてもらえるようにと、こうい
う倫理観を強く持って生き、行動することに、日々勤しんでいるのでしょうか。
そうできているのでしょうか。
先立ち進まれる方に目を向けてこそ…
そういう倫理観を強く持って生きることを望んで、キリスト者になられた方も、
きっといらっしゃると思います。そのように日々努力なさっている方も、少なく
ないでしょう。事実、そのような生き方を実践され、残して行かれた先達は、い
くらでも挙げることができます。
けれども、そういう実践を「偽善だ」と見る方もあるでしょう。確かに、それ
が、最後の審判の採点対象になっているのだとしたら、それは単なる要領のよい
「点取り虫」に有利な話になってしまいます。実際、わたしたちは、周りからキ
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リスト者としてみられるときには、どこか、格好をつけようとする。教会に初め
ておいでの方があるかもしれないからと、わたしたち教会の者は、どこか緊張し
て、「キリスト者らしく振る舞わなければ」などと考えているところがある。中
身はともかく、せめて外面で、「あんな人がクリスチャンか」とつまずかせるこ
とがないようにしたい、と思ったりしている。
本当のことを言いましょう。わたしたちキリスト者は、本当のところ、最後の
審判で羊と山羊のように右と左に選り分けられるとしたら、自信をもって「自分
は右に行ける」などと思ってはいないのです。そんな保証は、どこにもない。そ
れが、わたしたちキリスト者の、自覚です。
では、わたしたちは皆、左に行かされるのか。神の怒りを買って、最後の審判
の時に至って、神のもとから追放されてしまうのか。
そうではありません。わたしたちは、きっと、右側に招かれるのです。右側に
ふさわしくないのだけれども、右側に招き入れていただけるのです。いや、すで
に、右側に招かれているのです。ふさわしくないままで、すでに、右側に招き入
れていただけているのです。
この羊と山羊の選り分けられるたとえをお語りになられたのは、主イエス・キ
リストです。主イエスは、このたとえを、どのような思いでお語りになられたの
でしょうか。弟子たちを脅して、仮に偽善であったとしてもよいから倫理的に振
る舞うべきであると教えたのでしょうか。そうではないでしょう。
このたとえを聞いた弟子たちは、きっと、この右側に選ばれた人のしてきたこ
と、飢えている人に食べさせ、渇いている人に飲ませ、旅する人に宿を、裸の人
に服を提供し、病気の人を見舞い、牢獄にいる人を訪ねるということを実践した
人として、すぐに主イエスのことを思い浮かべたと思います。それ以外に、あり
得ない。いや、弟子たちこそが、主イエスに食べさせてもらい、飲ませてもらい、
宿や服を与えてもらい、病気の時に見舞ってもらい、牢を訪ねてもらった、と思
い当たったのではないでしょうか。
「主の兄弟である最も小さい者の一人」とは、実は、他でもない、弟子たちの
こと、わたしたちのことです。このわたしに主なる神がしてくださったこと。そ
こに目を遣るならば、わたしたちは、小さいながらも、同じようにしないわけに
はいかない思いを抱くのです。主イエスが、わたしたちの行くべき道を先立ち進
んでくださっているのです。
「あなたのために」と手を差し伸べてくださるお方。そのような神、そのよう
な主イエス・キリストが、出会ってくださいます。そして、「わたしの後につい
て来なさい」とお招きくださいます。そして、ご自分のもとに集められた者を、
「教会」としてくださっているのです。
だから、わたしは、ここで、「主の兄弟である最も小さな者」である皆さん一
人ひとりと出会わせていただいている。互いに「主の兄弟である最も小さな者」
として出会わせていただいている。ここで、主と出会い、主の兄弟と出会い、「あ
なたのために」と一歩前に進み出る歩みを、共に始めさせていただくのです。
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