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日本美学の批判的検討のために
「日本美学の批判的検討のために」シンポジウム「ジャポニスムの過去・現在・未来」報告、 『ジャポニスム研究』第28号、2008年、22-24頁 日本 美 学 の 批 判 的 検 討 の た め に 稲 賀繁美 大島清次先生が晩年力説 されたことを受けて、 ジ ャポ ニスム研究学 の 会 将来にむけての布石を二っ 詠1軋 勇 腋 鼻胤 き ∫鐵 亀fltti:ξ 鷲 鶉 冬 :× ①ζ ttI t急 、 美 術 あ るい は 工 藝 とい っ た 範 疇 意 識 の 背 後 に 潜 む 制靴櫻颯 鰊 : 、2 0 0 7 ) お よび 、 国 際 日本 文 化 研 究 セ ン タ ー で 開 催 した 国 際研 究集 会 の 報 告 書 ル a ″ ″ο a f J a p a n e s θ4 r お a n d θi a F t s 力 泌 θ2 1 s ιa t t ι υッ , I R C 」s , 2 0 0 7 を 出 発 点 と して 、脱 工 業 化 ・情 報“ 化社 会 にお け る a r s , t e c h n e の再 定義 を提 唱 した い。 『茶 の本』刊行百 年 天 心 ・岡倉覚 三 の 『茶 の 本』 ( 1 9 o 6 ) が 出版 され て 百年 が 経 した 過 。 たい へ ん大 掴 み に い うな らば 、岡倉 の この 著 書 は 、 日本 に 関す る美 意識 の歴 史的転換 点 に位 置 してい る。 す なわ ち、それ までの フ ラ ンス 中心 につ くられ た ジ ャポ ニ スム の 日本 美術観 は 2 0 世 紀以降退 い て ゆき、その 代 わ りに禅 美術観 に代 表 され る美 意識 が 支配 的 にな っ て ゅ く。 だが この 変 化 には も うひ とつ の媒介項 が介在 してい る。 1 9 o o 年 の パ リ万 国博 覧会 で 日本 帝国は 、 キ リ シア 。ロー マ の 西洋古 典美術 に匹 敵す る東洋 の美 の 宝庫 を列 強 に示 そ うと腐 心 した。 それ まで欧米 で人 気 の あった 江 戸時 代以 降 の 浮世絵 な どに代 わ っ て 、それ よ り千 年 ほ ど遡 った 飛鳥 、 白鳳 、天 平 の 仏 教美術 に 、東 洋 の 美 の 精 華 を見定 め よ うとす る。 それ は欧州 の 古 典 主 義 的 な美 的価値判断 に則 って東洋 を再 解釈 す る試 み で あ る とと もに、 日本 に東洋 の 精 髄 が失 われ るこ とな く保存 され てい る ことを示 そ うとす る国 威 発揚 の 演 出で もあ っ た 。 1 9 0 0 年 の パ リ万 国博覧会 を機 に 出版 され た 『稿本 日本帝 国美術略 記』 はフランス 語訳 で の頒布 に主 眼 を置 い た 編纂物 とみ て よか ろ う。 い わ ば外 向 きに公 式 の一 国美術 史 と して の 日本 美術 史が要請 され ていた こ とにな る。 岡倉 は この 編集 途 中で離脱 したが 、 この 著作 と 1 9 0 6 年 の 『茶 の 本』 とに は 、 大 きな隔 た りが 認 め られ よ う。 公 の 空 間 に展 示 す べ き美 術 作 品では な く、む しろ私 的 な空 間 で鑑 賞 され 賞玩 され る美 的体 験 と して 、岡倉 は 意 図的 に 茶席 を選 んだ節 が ある。欧米流 の 巨大 な博物 館 ・ 美術館 は物 質的 な豪 奢 を見せ つ けよ うとす るが 、そ の対極 と して 、簡 素 に して 自己主 張 を殺 した茶室 の 美学 を訴 える姿勢が 『茶 の 本』 には顕 著 に認 め られ る。 もはや 西洋 の美 意識 に伍 して 張 り合 ので う はな く、反 対 に西 洋 の 美意識 と共通 の規則 には乗 らない代替案 を提 出 しよ うとす る意趣 返 しが色 濃 く見 られ る。 南画復興 この よ うに見 て くる と、 ジ ャ ポ ニ スムの延長 上 で 、東洋人 に よる 自己認 識 と して 、東 洋 美学 の 形成 が 促 され た様 子 が 見 えて くる。 1 9 1 1 年 の 辛亥革 命 に続 く時期 には 、呉 昌碩 W u Changshuo(1844‐ 1 9 2 7 ) 、羅 振 玉 L u o Z h e n g y u ( 1 8 6 61‐ 9 4 0 ) を は じめ とす る清朝遺 臣が 日本 亡命 し、それ と踵 を接 す るよ うに 、2 0 年 代 には 南画 の復 が 興 、 中 日を通 じて顕著 な風 潮 となる。 大正 の新南画 につ い ては 千葉 慶 に優れ た博 士 論文 が あ るので 、そ ち らに譲 るが 、 とえば夏 目漱 石晩 年 の 南画 の 試 み も、西洋 社 会 に 見 られ るよ うな芸術 家 とい う社 会範 疇 が なお 成 立 途上 にあった 、 日露 戦争後 の 極東 の 島国 で 、文筆や 書 に 画 よって 世 渡 りをす る階 級 の 不安定 な 自意識 を 、何 が しか反 映 した 営 み だ った こ とだ ろ う 。所 謂 高等遊 民 とは 、 中 22 のか 、そ れ とも資本 主義 の 昂 べ 国 の 隠道 に模範 を とる き閑適 の 営 み に理想 を見 出す境 地 な のか。 萬鉄 五郎 の 南画 進 す る時代 の な かで 、富裕 階級 に寄生す る隷属意識 の 裏 返 しだつた の芸 術 的前衛 の 自覚 を下支 に関 す る議論 に も、『白樺』 な どを経 由 して移入 された西洋舶 来 へ の 接木 を図 ろ うとす る志 えす るに相応 しい生活感 の受 け皿 と して、東洋的 な精神 的境地 が、 ま ざま ざと露 呈 してい るもの ともい えるだ ろ う。 東洋 美学 へ の東洋の覚醒 上す る。 美学 的 な次元で 一 点だ け指摘 してお けば、気韻 生動 をめ ぐる議論 が この時期 に浮 を組 む。 に美術特集 1 9 2 9 年 い は 上海 モ ダ ニズム を代表す る総合雑誌 とい つて よ 『東方雑誌』 ンス キー の そ こで 有名 な随筆 家 ・漫画 家 の 豊子 憶 F e n g Z i k a i ( 1 8 9 8 1‐9 7 5 ) は、カ ンデ ィ こで豊 「 藝 術 にお け る精神 的 な も の 」 ( 1 9 1 3 ) ほか を取 り上げ、 中国 の 美学 と比較す る。 そ 六 時代 、南 で に中国では 朝 美 学 は、す は、西欧 で近年 最新 流行 の感 情移 入 E i n f i i h l u n g の 「 い 気 韻 生動」 の 説 に よ つて 、 は るか昔 に 論破 」 され て る、 と主 張す 宗 の 謝赫 が説 いた 「 一 る。 日本 留学経 験 の あ る豊 は、 この 論 文 を執筆す るにあた り、中村 不折、伊 勢専 郎 、園 「 術の ける中国美 にお 頼 三、金原省 吾 らの 著 作 を参 照 して いた。 豊子憧 の論 文は 現代藝術 に立 と うと躍 勝利 」 と題 され ていた。 東洋 の 自意識 が 、美学 の うえで、西洋 に対 して優位 へ の で あ つた な の ニスム の 覚醒 が西洋 側 東洋 ジ ポ 起 に な つていた時代 の様相 が 見 え る。 ヤ つて ろ う。 ち い よいだ いた 、と ら、豊 は反 対 に美学意識 にお け る 「東 洋 の 党醒 」を促 して た なみ に 1 9 0 2 年 の イ ン ド滞在 の お りに岡倉 が 現 地 で執筆 し、 生前未刊行 の ままに遺 され の と題 東洋 覚醒』 に訳 され て 、『 日本語 つて 発 見 され 草稿 「われ らはひ とつ 」 が 、遺族 に よ を改 めて初 めて出版 され る のは 、 1 9 3 9 年 の こととな る。 島崎藤村 の ブ エノス ・アイ レスでの 「雪舟 」講演 へ この よ うに、時代 が昭和 を迎 え、 1 9 3 0 年 代 に入 る と、思想 上で も東洋 の志向は、 よ り 顕著 な ものに な る。 ここで はそ の 典型 として、島崎藤 村 の場合取 り上げた い。 1 9 8 6 年 に 日 ペ ン クラブ 大 本 ペ ン クラブ 代表 と して 島崎藤 村 は南 米、 ブエ ノス ・ア イ レス に旅 し、国際 の 《山水 会 へ の 日本最初 の 参カロを果 たす。 とともに、当地 の 日本領 事館 で 、持参 した雪舟 長巻》 ( 1 4 8 6 ) 原 寸大複製 を展 覧 し、 「も つ とも 日本 的 な るもの 」l o m i s t i p i c o d e l J a p 6 n 「 と題 す る講 演 を行 つてい る。 藤村 は、1 5 世 紀 の禅 宗 の 画家 、雪舟 に 日本 の 典型 」を見出 つ して いた 。日本 を離れ る際 には、雪舟 の絵 が南米の人 々 に訴 えるか ど うか 、まだ 自信 はな か の た 、 と作 家 自 らは告 白 して い る。 だが、 日本 ペ ンクラブ 初代 会長 がそ の公式 任務 と して った の は が あ 成熟 外遊 に際 して 、雪舟 をわ ざわ ざ選 んだ 背 景 には、東洋美 学 をめ ぐる意識 ず だ。 そ の 詳細 は別 途分析 した ので 、 ここでは最小限 の復習 に とどめ よ う。 まず 、当時、《山水 の一 般 公 長 巻》 1 本 は毛利 家 、 も う一本 は原 三 渓 の所蔵 とされ てお り、 これ がひ ろ く東京 名 宝展」 が 最初 の機 会だ つた。複 製 とは 衆 の 眼 に触れ た のは 、 1 9 8 0 年 読 売新 聞社 主催 の 「 い え、南米 で の 展 覧 は 、 日本 人移 民 │ │ とつて も最初 の観 覧 の機 会 だ つた ことにな る。 そ し つ て 、第 二 に 、雪舟 が 「画聖 」と呼 ばれ 、研 究 が本格化す るの も 1 9 3 0 年 代 に入 つての こ とだ ( 「 空 雪舟 の 自然観 」 を発表す るが 、 それ は和辻哲郎 の禅解釈 た。 蓮 実重康 は 1 9 3 4 年 に 「 この前 いた として、 。 さ らに第二 す なは ち絶対 的否 定 の 実践的体得 」) に 大 き く影響 され て が け ざまに発表 され るよ うにな め る学説 続 に見定 の 中世 後 か ら、 日本 固有 美学 を室町時代 ( 1 9 3 1 ) で、古代 の 「ま こと 」、 中 る。 国文学者 の久 松 潜 一 は 『岩 波講座 日本 文学概 説』 「 古 の 「あはれ 」が 中世 の 「幽 玄 」に渾然 と融合 してい る と指摘 し、 この 展 開流転 す る精 神 」が芭蕉 の 「さび 」に至 る とす る、 一種 の発展史観 を示 して い る。 また岡崎義恵 は 『日本 幽玄」や 「冷 え寂び 」に、中世国 文学理解 の鍵 となる術語 を探 り当て る。 文藝学』( 1 9 3 5 ) で 「 藤 村 は 岡崎 の 「有 心 と幽 玄 」の 考察 に賛 意 を表 明 し、そ こに 「中世 時代 の 文藝 か ら近 代 の それ へ かけての間 をつ な ぐ好 き距離 」を見 て取 ってい る。 そ の背後 には 、藤村 と同郷 の 、 信州 出身 の親 しい友人 で あ つ た 、歌人 の 大 田水穂 が 『芭蕉俳 諧 の根本 問題』 ( 1 9 2 5 ) ほかの 著作 で 、 中世 の 「佗 び 」が芭蕉 の 「さび 」へ と受 け継 がれ た との説 を唱 えて い た こ とも共 鳴 して い るだ ろ う。 同様 の 発想 で 、 ブ エ ノ ス 。ア イ レス 講 演 にお け る藤 村 は 「日本 の 近代 精神 は、雪舟 にその最初 の 表現 を見 いだ した 」( 旧 全集 1 3 巻 4 2 2 ) と主張 していた。 欧米か らみ た 日本 中世美学 英語 圏 に こ うした 日本 美 学 の 用語 が取 り込 まれ る の も、 ほぼ 同時代 とみ て よい だ ろ う。 O E D に よれ ば、 「幽 玄 」初 出 は ア ー サ ー ・ウ ェ イ リー の 『日本 の 能 楽 』 ( 1 9 2 2 ) 。 「 “表 " を の の した にあるも 面 意 味 し、 明 白な も の とは 反 対 の 、仄 か な も の 、表 明で は な く暗 万t」meaning that which lies under the surface,vague and oppOsite of the ObviOus, Ъる。 「さ び 」は ^ミア ト リ ス ・ レ イ :説明 さ オ suggestion rather than a manifestatiOnと ン ・スズ キ B e a t r i c e L a n e S u z u k i の 『能 楽』 ( 1 9 3 2 ) が初 出。 「わび 」は 「さび」 と並 ん ( 1 9 3 2 ) に で鈴 木大 拙 の E " a y s u i n Z θ 見 え る とされ 、 「わび 」に は “ Eternal loneliness i s s o m e t h i n g k n o w n p er“ me i‐n e n t l y i n a」p a n と 見 え 、 「さび 」に つ い て は同 じ大拙 の Zen 3uごdカゴ sm(1938)が ラ│かオ Ъ“ Sabi conSists in rustic unpretentiOusness or archa i m p e r f e c t i o n , a p p a r e n t s i l n p l i c i t y o r e f f o r t l e s s n e s s i n e x e c,u tainod五r i c h n e s s i n historical associationど s "とあ な る。 やや後 にな るが、大西克 l C は 現象 学美 学 の 立 場 か ら、『幽 玄 とあはれ 』 ( 1 9 3 9 ) の歌論研 究 につづ き 『風雅論 「さび 」 の研 究』 ( 1 9 4 0 ) で芭蕉俳諧 へ と考察 を展 開す る。 ここに も詩 学 にお け る 日本 的精神 の 系譜 を学 問的 に攻 究 しよ うとす る時代 の 風潮 が窺 える。 大西 は基 本 的 な美 的範 疇 と して 「美 」「崇 高 」「フモール 」の 3 つ をた て 、西洋 で は 「 芸術 的契機 」 Kunstastetische Momentの 優 位 ゆ え に 、 お の お の が 「優 美 さ 」「悲劇 的 」「滑稽 」へ と 変貌 す る の にたい し、 「日本或 い は東 洋 の 藝 術 」で は 「自然観 的契機 」N a t u r a s t h e t i s c h e M o m e n t の 優位 ゆ えに、お の お のが 「あわれ 」「幽 玄 」「さび 」へ と分節 され るとの 図式 を 提 出す る ( 『万葉集 の 自然感情 』 1 9 4 3 : 4 95‐ 1)。 の の にみ 大西 思索 える特 徴 うち、3 点 を指摘 したい。 まず 日本 に典型的 な美学概念 に よ っ て東 洋 を代表 させ よ うとす る傾 向。 第 二 に こ うした 日本美 学 の 概念 は西洋 の範疇では不適 切 で あろ うとす る判断。 ここには 、 日本 の 美学傾 向を西洋 の概念 の派 生 と して分類 しつつ 、 しか も西洋 の範疇 には還元 で きな い もの と して定 義す る とい う、 い わば服従 と逸脱 とが背 中合 わせ にな つ た 姿勢 が認 め られ る。 最後 に第 二 と して 、西 欧概 念 へ と還 元で きな い 要 素 に 「深み 」T i e f e あるい は 「暗 さ 」D u n k e l h e i t とい った 言葉 を当てはめ、そ こに言語 によっ て容 易に は分 節 で きな い精神 的 な深淵 を見 出そ うとす る、 あ る種 、神 秘主義的 な傾 向は否 定で きま い。 西欧 の美 学体 系 の 普遍性 を信 じ、 日本 或 い は東洋 をそ の 派 生形 態 と して 解 析 す る こ とが 、 学 問 へ の 貢献 にな る と信 じ得 た時代。 そ の 時代 が 終焉 を迎 えた 今 、 しか しこの時 代 の 大西 の 思 索を乗 り越 え る東洋美 学 が 果 た して彫琢 され た とい え るだ ろ うか。 こ こに ジ ャ ポ ニ ス ム研 究 の 大 きな課題 が横 たわ っ て い る。 これ が 予告 した 第 2 の 論 点 に繋 が るが 、そ の 詳細 (註 を弁 じるのは 、また別 の機会 とした い。 1 ) 註 1 . 本 文 は 、 ジ ャ ポ ニ ス ム 学 会 で の 口頭 発 表 を採 録 した も の で あ る。 これ に加 筆 訂 正 を加 え 、 詳 細 な註 を施 し、 ま た この 先 の 展 開 を試 み た拙 稿 と して 「「日本 の 美 学 」」 そ の 陥 穿 と可 能性 と 一 触 覚 的 造 形 の思想 ( 史 ) 的反省にむけて」『思想』N o . 1 0 0 9 、 2 0 0 8 年 5 月 、2 9 - 6 2 頁 がその後刊行 されてい る。 あわせてご参照いただければ幸 いである。 24