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学習メモ
世界史
テレビ学習メモ
講師:鶴 間 和 幸
唐帝国の国際性 ~長安を訪れた日本人留学生~
第8回
今回学ぶこと
中国は漢王朝の後、魏晋南北朝時代の分裂期を経て再び隋や唐の統一王朝の時代
に入った。隋は短命であったが、唐帝国は 300 年近く続き、都長安は 100 万を超
かいげん
ち
える人口を得て、繁栄の時代を迎えた。しかし 8 世紀の「開元の治」と呼ばれた第
ようこくちゅう
6 代玄宗皇帝の時代、皇帝に寵愛された楊貴妃や、その一族の宰相・楊国忠、節度
あんろくざん
使の安禄山など、皇帝の周辺の何人かの人間に焦点を当てると、唐帝国が大きく変
化していることが見えてくる。
学習前チェック
楊貴妃にまつわる唐詩を調べてみよう。
日本が唐から受容した唐文化にはどのようなものがあるか調べてみよう。
唐の長安と奈良の平城京とを比べてみよう。
▼
う」「後宮の佳麗三千人、三千の寵愛一身に在り」。
1st stage
歌によって亡き楊貴妃の姿が長安の人々のなかによ
玄宗の時代には李白や杜甫の詩人が現れたが、玄
みがえってきた。
宗の死後、中唐の詩人白居易は玄宗と楊貴妃のロマ
2nd stage
ちょう ごん か
ンスを回顧して 長 恨歌の長編の詩に残した。日本
にも伝わり『源氏物語』桐壺の巻の冒頭に引用され
ている。長恨歌の句をいくつか拾ってみる。
遣唐使として日本から唐に入った阿倍仲麻呂や、
これまで名も知られていなかった日本の留学生など
「漢皇(漢の皇帝とは唐の玄宗のこと)色を重ん
むすめ
は、唐という帝国をどのように見ていたのだろうか。
じて傾国を思う」「楊家に 女 有り、初めて長成す、
遣唐使を迎えた唐の皇帝でも、都長安を脱出せざる
養われて深閨に在り、人未だ識らず」「春寒くして
をえない混乱に直面せざるをえなかった、帝国の変
浴を賜う、華清の池、温泉水滑らかにして凝脂を洗
化の歴史がそこにはあった。
しん けい
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高校講座・学習メモ
世界史
唐帝国の国際性
一方、遣唐使が唐から持ち帰ったものには何があ
都城の北端に宮城を置き、南に向かって中央に朱雀
るだろうか。正倉院に伝えられる御物は唐から持ち
大路が走り、都城全体を左右に分け、東西に市を配
帰ったものであり、参考になる。漢音(唐代の漢字
置する基本的な構造は同じである。しかし平城京は
の音)
、律令、仏教(天台宗、真言宗など)、唐三彩、
長安城の4分の1、朱雀大路も2分の1というよう
茶(固形の茶を砕いて煮て茶葉を食べていた)、貨幣、
に規模に違いがある。
楽器(琵琶・琴など)、遊具(囲碁)、書物(『文選』
唐長安城は東西 10 キロ、南北 9 キロと横に長い
『白氏文集』など)、食品(胡椒・酪〈チーズ〉・醍
が、平城京は東西 4.3 キロ、南北 4.7 キロと縦に長い。
醐〈ヨーグルト〉など発酵食品)、調度品(青銅製鏡・
それにしても唐の朱雀大路の幅は 150 メートルもあ
ガラス)など盛りだくさんである。
り、遣唐使の使節は巨大な帝国の首都の威容を目の
日本にとって唐は先進文化の発祥地であった。
当たりにしたことであろう。
3rd stage
唐の長安城にならって造られた日本の平城京は、
▼
今回のまとめ
618年に建国された唐帝国は、100万の人口を擁する壮大な都・長安を建設した。
周辺の国々から訪れた人は、中国の文化や制度を持ち帰った。
かいげん
ち
712年に即位した玄宗は、「開元の治」と称される善政を敷き、後の歴代王朝の手
あ べのなか ま ろ
セイシンセイ
本となった。その治世には、阿倍仲麻呂や井真成らが遣唐使として派遣された。
755年に起こった安禄山の反乱によって、唐帝国の威信は大きく傷つき、徐々に衰
退していった。
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