(2010) “Holy shrines (maqamat) in modern Palestine/Israel
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(2010) “Holy shrines (maqamat) in modern Palestine/Israel
執筆者:今野泰三 執筆日:2015 年 4 月 21 日 Mahmoud Yazbak (2010) “Holy shrines (maqamat) in modern Palestine/Israel and the politics of memory,” in Marshall J. Breger, Yitzhak Reiter, and Leonard Hammer (eds.) Holy Places in the Israeli-Palestinian Conflict: Confrontation and Co- existence. London and New York: Routledge. パレスチナのユダヤ教・キリスト教・イスラームは、かつて多神教で信仰されていた神聖 な場所を聖地として吸収した。特に十字軍時代とそれに続くマムルーク朝時代、ユダヤ教と キリスト教で信仰されていた聖者廟が「再発見」され、ムスリムも巡礼するようになった。 マムルーク朝時代とオスマン朝時代、ムスリムとユダヤ教徒とキリスト教徒は互いの信仰 を尊重し、同じ聖者廟(maqam; maqamat)を共同で管理し、ユダヤ人旅行者が巡礼時に ムスリムのガイドに頼ることもあった。 例えば、ゾハル書の著者であるシモン・バール・ヨハイ(ムスリムはシェイフ・アル=シ ュウラと呼ぶ)の墓をかつてムスリムも巡礼(ziyara)していた。この墓地ではユダヤ教徒 とムスリムがアラビア語で歌って一緒に祭日を祝っていたという。だが、1948 年のイスラ エル建国以降、ムスリムとキリスト教徒のパレスチナでの巡礼(ziyarat と mawasim)は、 ほぼ消滅した。 パレスチナでの聖者廟への巡礼は、地元に根付いた宗教実践・民間伝承であった。例えば、 アン=ナビー・ムーサ、アン=ナビー・サレフ、アン=ナビー・ルビンの聖者廟は、有名な 巡礼地として毎年数万人を集めていた。 だが、例えばアン=ナビー・ルビン聖者廟では、周辺のパレスチナ住民が 1948 年に難民 となったため巡礼が行われなくなり、巡礼の資金源となっていたワクフ寄進地はイスラエ ル国家に接収され、聖者廟に隣接するモスクは破壊され、聖者廟もユダヤ教の礼拝所へと転 換された。 また、ユダヤ教で預言者エリヤフ、キリスト教でマール・エリヤス(Mar Eliyas) 、イス ラームでアル・ハディール(al-khadir)として知られる聖人の廟は、イスラエル建国以前 はムスリムの家族が管理し、スンニ派ムスリム、ドルーズ派ムスリム、ユダヤ教徒、キリス ト教徒が共同利用する場所だった。だが、イスラエル建国以降、管理人は国外難民となり、 代わりにイスラエル政府が接収・管理し、ユダヤ教施設に転換し、キリスト教徒とムスリム がかつてのように巡礼・礼拝することはできなくなった。 12 世紀頃から巡礼が始まり、オスマン帝国政府がユダヤ教徒の巡礼・礼拝を保証してい たエルサレムのアン=ナビー・サミュエル聖者廟も、1967 年戦争直後から同様の被害に遭 1 執筆者:今野泰三 執筆日:2015 年 4 月 21 日 い、ムスリムの巡礼は消滅し、聖者廟・モスクの一部はユダヤ教施設に転換された。 ナーブルス市内にあるヨセフの墓も、1948 年までムスリムとユダヤ教徒が共同利用する 場所だった。だが 1980 年にユダヤ人入植者が占拠してイェシバへと転換し、ムスリムの利 用を禁じた。一つの宗教が墓地を独占することやシオニストによるパレスチナの植民化に 対する抗議として、地元住民が 2000 年、ヨセフの墓に放火し、誰も使用できないようにし た。 他の聖者廟も、1948 年以降、イスラエルのユダヤ教機関によって接収・管理され、イス ラームの飾りを取り去られ、ムスリムが巡礼・礼拝することは禁じられ、一神教の共有財産 という意味づけを奪われた。イスラエル建国直後から 18 年間続いた軍事行政下の移動制限 でムスリムやキリスト教徒がアクセスできない間に、破壊されたり、イスラエル国家から所 有権を委譲された民間人によってレストラン、博物館、シナゴーグ、結婚式場、売春宿、パ ブ、ディスコ、牛小屋などに転換されたりした聖者廟もある。イスラエル政府はまた、多く のムスリムの墓地も破壊・接収した。 こうしたイスラエルによる土地や聖者廟の収奪・独占は、国家の基盤としての民族を創出 するという近代ユダヤ・ナショナリズムの要請から生じたものである。だが、民間伝承や伝 統の中に心の慰めや安心感を求めてきた大半のパレスチナ人にとっては、聖者廟が破壊・接 収ないしは汚されることは苦痛以外の何物でもない。そこでパレスチナ社会は最近、こうし た苦痛に対処し、自らの存在を脅威にさらすシオニストの攻撃から身を守り、新たなアイデ ンティティを構築するため、聖者廟を復興・再発明することに力を入れる。 その一例が、ベツレヘム近郊のマール・エリヤス(アル=カディール)修道院である。ベ ツレヘムやその周辺のパレスチナ人のキリスト教徒とムスリムが、修道院に集まり、中に設 置された鉄の鎖を首に巻くことでエリヤスの信仰と苦しみを追体験するのが習慣になって いる。また、ベイト・サフールでは、中心部にある溜池がマリアと関係する聖地と見なされ、 キリスト教徒とムスリムが巡礼・共同利用する場所として 1983 年に整備され、ナショナル・ アイデンティティの拠り所となっている。 他方で、イスラエル政府が聖者信仰と巡礼を意図的に奨励する例もある。アン=ナビー・ シュアイブ(al-Nabi Shu’ayb)がその典型である。1948 年まで、アン=ナビー・シュアイ ブ聖者廟は、公式の祝日も大きな巡礼もない小さな廟で、ドルーズ派ムスリムとスンニ派ム スリムが共同利用していた。だが、1948 年、スンニ派ムスリムの大半が国外難民となった 一方、イスラエル政府はドルーズ派に留まることを許した。その上で政府は、彼らを他のパ レスチナ人から物理的・文化的・宗教的に分離する政策を実行した。ドルーズ派は、 「非敵 2 執筆者:今野泰三 執筆日:2015 年 4 月 21 日 対的な」マイノリティーに対するイスラエルの「寛大な態度」を世界に示すための事例とし ても重宝された。アン=ナビー・シュアイブ聖者廟(maqam)は、ドルーズ派のナショナ ル・アイデンティティをドルーズ教およびイスラエル国家と融合させ、同時に他のパレスチ ナ人から分離するという、イスラエルの分離統治政策の手段として利用されたのである。 1948 年から、ドルーズ派はこの聖者廟でイスラエル軍に忠誠を誓うようになり、それが 巡礼として慣習化され、1954 年には巡礼週間がドルーズ派のみの公式の祝日として政府に よって認定された。他方、ドルーズ派指導者とイスラエル宗教省は、それまでドルーズ派と スンニ派のムスリムがともに祝っていたラマダーン明けのイード・アル・フィトルの廃止を 決めた。これによりイスラエルは、 「イスラエル人ドルーズ派」という新しい意識を創出す ることに成功した。 ムスリムとキリスト教徒のパレスチナでの巡礼はほぼ消滅した。他方で、イスラエルに移 住したミズラヒーム(スファラディーム)による聖者信仰が活発化している。この二重の現 象は、イスラエル国家とそれを独占するアシュケナジー・ユダヤ人が、ユダヤ教とイスラー ムの聖地共有の伝統を消し去ると同時に、中東・北アフリカ出身のユダヤ人移民(ミズラヒ ーム)のアラブ性を消し去ろうとしてきたことに起因する。 ヨーロッパから移住したシオニスト・ユダヤ人は、ミズラヒーム・ユダヤ人のアラブ性を、 同質な民族国家(ネーション)を作る上での脅威と見なした。そのため、ミズラヒーム・ユ ダヤ人の新移民は自己否定を強要された。だが、 「ヨーロッパ的イスラエル」というイデオ ロギーは、彼らのアラブ性を完全に消し去ることはできなかった。近年、ミズラヒーム・ユ ダヤ人のアシュケナジー・ユダヤ人支配層に対する抵抗は、様々な領域で盛んになっており、 聖者信仰の興隆もそうした抵抗の一部と見なすことができる。 こうした状況に鑑み、ミズラヒームの歴史を脱シオニズム化し、パレスチナ人の歴史との 関連性から、ユダヤ・イスラームに共通する歴史と伝統(Judeo-Islamic heritage)を掘り 起こしていく作業がより一層必要とされている。 3