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モンゴル史研究と考古学的成果

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モンゴル史研究と考古学的成果
北東アジア中世遺跡の考古学的研究」第1回総合会議
於:札幌学院大学
2003年11月15・16日
モンゴル史研究と考古学的成果
村岡 倫(龍谷大学)
1.モンゴル史研究の課題と考古学(
[白石 2002]より)
(1)モンゴル部族の登場とモンゴル高原への進出
唐代の文献に「蒙兀室韋」が大興安嶺北部のアルグン河流域にいたということが記される。
そして、11 世紀前半に移動開始、12 後半に「三つの河の源」に到達(図1)
。しかし、実証的
データによる裏づけなし。
考古学的成果、墓制や遺物の特徴から。特に埋葬姿勢に注目。
「蒙兀室韋」がモンゴル起源
であること、そのモンゴル高原への進出時期は、12 世紀前葉以降で、12 世紀中葉∼後葉の間
(図2)
[白石 2002:16-38]
。
(2)モンゴル強大化の背景
文献には他部族との戦闘が多々記されるが、その要因の具体的諸相はほとんどわからない。
しかし、考古学的に見ると、鉄資源の獲得と連動するものであることが想定される。例えば、
1204 年のナイマン征討後のチンギス・カンのセレンゲ下流域・アルタイ・イルティシュ河上流
域地帯・キルギス攻略、
『元朝秘史』ではこれらの戦いの目的を残党狩りとするが、実際には、
軍事力の基盤となる鉄資源を確保することが、主な目的であった(図3)
[白石 2002:51-55]
。
(3)チンギス・カンの宮殿―アウラガ遺跡[白石 2002:179-194]
(4)
「カラコルム首都圏」
モンゴル帝国の皇帝の移動季節と直轄地(領域)
、その範囲内の四季離宮などに関しては、
文献に詳しく記されるが、文献からではその地名の具体的な場所を明確にすることは不可能で
あるし、その実態もほとんど復元できない。表面的な理解のみ。首都圏内の土地利用の状況も
不明確。考古学的な成果から明確に(図4)
[白石 2002:300-337]
。
(5)遺物編年の作成
レンガ編年と尺度編年―「カラコルム編年」
[白石 2002:111-172]
。これによる遺跡の実年
代の測定。
※大都遷都以降、モンゴル高原についての文献史料は激減。意図的に漠北の情報を外部に漏らさ
ない策が講じられた[和田 1942:291-303]?文献から当時の漠北社会を再現するのには限界。
考古学的成果に期待。
2.発表者が関わった現地調査の成果
(1)科学研究費補助金、国際学術研究、平成 8 年∼平成 10 年「突厥・ウイグル・モンゴル帝
国時代の碑文及び遺蹟に関する歴史学・文献学的調査」
(略称「ビチェース・プロジェクト」。
研究代表者:大阪大学大学院教授森安孝夫)での成果
①宣威軍城址
1276 年に天山北路のアルマリクで勃発した「シリギの乱」の反乱軍は、翌年にはカラコルム
にまで迫ったが撃退された。しかし、その後もカラコルム方面に侵入してきたため、それを防
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北東アジア中世遺跡の考古学的研究」第1回総合会議
於:札幌学院大学
2003年11月15・16日
ぐため、クビライは 1278 年に劉国傑ひきいる1万人の漢人部隊をモンゴリアに派遣[村岡
1985]。彼らが駐屯地として建設したのが、宣威軍城、現ホクシン・テール遺跡(図5)[白
石 2002:268-274、堀江 1988,1994,1995]。
この城址は北から南に第1城・第2城・第3城と並ぶ。3つの城址には総計 1,240 もの穴が
存在。そのうちの一つ、第2城の穴をモンゴル側が発掘調査。鉄鏃などの武具、食料だったと
思われる羊骨が多数出土[Bayar・Günchinsüren1999]。文献に「きびしい寒さを、穴を掘り、
その穴の中で寝起きして防いだ」とあるように、この穴が兵士たちの寝起きしていた生活空間
であった可能性が高い[堀江 1994:20-22、村岡・松田 1999]。
最終的な結論を出すにはさらに調査が必要であるが、これが、モンゴリアに駐屯した漢人兵
士たちの生活を知る貴重な手掛かりとなることは確か。鉄鏃に関しては大澤正己氏(九州テク
ノリサーチセンター)に組成分析ならびに加工技術の検討を依頼し、今後の鉄製品分析の重要
な基礎資料を得た[松田・大澤 2002]
。
②突厥・ウイグル・モンゴル時代の遺跡出土の瓦・レンガ
各遺跡から収集将来した瓦・レンガ片については、三辻利夫氏(奈良教育大学教授)にエッ
クス線による組成分析を依頼し、遺蹟編年・遺蹟相互の関係を解明する重要な成果を得た[三
辻・村岡 1999]
。
(2)科学研究費補助金基盤研究(B)(1)、平成 12 年∼13 年度「碑刻等史料の総合的分析によるモンゴ
ル帝国・元朝の政治・経済システムの基礎的研究」(研究代表者:大阪国際大学教授松田孝一)での
成果
チンカイ屯田の発見
ゴビアルタイ・アイマックのシャルガ・ソムで発見(図6・7・8)。発掘は行なっていな
いが、表面調査で数多くの遺物を発見。13 世紀、中国金代の鈞窯で作られた磁器片、13∼14
世紀の屯田兵がよく使う土器片など[松田・村岡・白石 2002、村岡 2003]
。
3.今後の考古学調査に期待するもの
(1)シャルガ農耕地跡の元代の土城
チンカイ屯田に比定されるシャルガの農耕地跡の航空写真に、元代のものと思われる土城が写
る。一辺が約 190 m の正方形。1 尺=31.6 cm 、1 里=1200 尺の元尺で、一辺 0.5 里(600 尺)、
周囲 2 里(2400 尺)でつくられている。この尺が使用されたのは、1270 年代∼1340 年代前半。
この土城の発掘調査を。
(2)モンゴル時代以前の遺物発見も期待
このチンカイ屯田は、唐代から存在した回鶻路の途上につくられた可能性がある(図9)。考
古学的な調査により、モンゴル時代以前の遺物の発見も期待。
〈長春真人一行の旅程、ハンガイ∼サマルカンド(『長春真人西遊記』より)〉(図 10)
① 6 月 28 日、ハンガイ山中のチンギス・カンのオルドの東に宿泊した。その地で消費する麦粉
は天山山脈の向こう側 2,000 余里の地に産出するもので、西域の賈胡(ウイグル商人)が駱
駝に背負わせて運んでくる。
②7 月 20 日頃、ウリヤスタイ方面からウイグル人の農耕地(五条河屯田)へ。
③7 月 26 日、山嶺を越えて南方へ、チンカイ屯田に到着。
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北東アジア中世遺跡の考古学的研究」第1回総合会議
於:札幌学院大学
2003年11月15・16日
④8 月 8 日、チンカイ屯田の地を出発。アルタイ山脈を越える。
⑤8 月 27 日、天山北麓の小城(独山城か?)に到着。ウイグル人が郊外に迎えた。
⑥翌日、旧西ウイグル王国の古都ビシュバリク到着。ウイグル王の部族の者たちが葡萄酒を供し
てくれた。
⑦9 月 2 日、輪台の東に到着。ネストリウス派キリスト教徒の長がやって来て出迎えた。
⑧ウイグルのジャンバリク城に到着。その王のウイグル人はチンカイと旧知の仲であった。
⑨9 月 27 日、アルマリク城に到着
⑩10 月 15 日頃、イリ河を渡って二週間後にウイグル人の小城に到着。
⑪10 月の終わりにサイラム城に到着。ウイグル人の王がやって来て出迎えた。
⑫11 月に入ってウイグル人を王とする2つの城を通過した。
⑬井戸水を供給するウイグルの老人がいて、かつてチンギス・カンは遠征の途上、これを見て賞
賛し、この老人の税と労役を免じる命を下した。
⑭11 月 18 日、サマルカンドの北に到着。耶律阿海、モンゴル人やウイグル人の首長が酒を携え
出迎えた。
(3)混一疆理歴代国都之図に載せられるモンゴル高原の地名の比定
龍谷大学所蔵の『混一疆理歴代国都之図』(元代地理情報に基づく世界地図)のモンゴル高原
および周辺域の地名の分析からモンゴル高原各要地配置の実態の検討。考古学的な調査に期待。
上記地図に載る主な地名:「和寧」「称海」「白八里」「憨答孫」「金山」「忙哥」など(図1
1)
参考文献
青山定雄 1938:
「元代の地図について」
『東方学報』東京 8.
岩村忍 1961:
「長春真人西遊記」
『世界ノンフィクション全集』19 筑摩書房、pp. 311-391.
大葉昇一 1982:「モンゴル帝国=元朝時代の称海屯田について」『史観』106、pp. 82-95.
白石典之 2001:『チンギス・カンの考古学』同成社.
2002:
『モンゴル帝国史の考古学的研究』同成社.
杉山正明 2000:『世界史を変貌させたモンゴル―世界史のデッサン―』角川書店.
陳得芝 1980:「元称海屯田考」『元史及北方民族史研究集刊』4, pp.14-17.
野村栄三郎 1937:
「蒙古新疆旅行日記」上原芳太郎編『新西域記』下巻、有光社、pp.439-555.
播磨樽吉訳・クレメンツ 1940:「外蒙古内西遊記の考証」『蒙古学報』1、pp.245-264.
日比野丈夫 1948:
「阿爾泰軍台について―その歴史と現状―」
『中国歴史地理研究』pp.577-611、
同朋舎、1977(原載は『東方学報』京都 16、1948)
堀江雅明 1988:
「ホクシン=テール碑と宣威軍城址―至元 15 年に建設された元代モンゴリアの城
―」
『東洋史苑』30・31、pp.141-174.
1994:
「宣威軍城址再訪―1994 年モンゴル旅行報告―」
『東洋史苑』44、pp.12-27.
1995:
「フビライ時代の石碑と城址―1991 年モンゴル旅行報告―」
『小田義久博士還暦記念
東洋史論集』朋友書店、pp.495-515.
前田直典 1948:
「十世紀時代の九族達靼―蒙古人の蒙古地方の成立―」
『元朝史研究』pp.233-263、
1973(原載は『東洋学報』32-1、1948)
。
3
北東アジア中世遺跡の考古学的研究」第1回総合会議
於:札幌学院大学
2003年11月15・16日
松田孝一 2002:「モンゴル帝国における工匠の確保と管理の諸相」平成 12∼13 年度科学 研究費
補助金・基礎研究(B)(1)報告書『碑刻等史料の総合的分析によるモンゴル帝国・元朝の
政治・経済システムの基礎的研究』(代表:大阪国際大学教授松田孝一、以下、『松田科
研報告書』と略)、pp. 171-199.
松田孝一・大澤正己 2002:「モンゴル宣威軍城(ホクシン=テール)遺蹟出土の 13∼14 世紀の鉄
鏃の分析」『大阪国際大学紀要 国際研究論叢』16-1、pp.21-33.
松田孝一・村岡倫・白石典之 2002:「2001 年モンゴル国史蹟調査記録」『松田科研報告書』pp.
201-219.
三辻利一・村岡倫 1999「突厥・ウイグル・モンゴル時代の遺蹟跡出土瓦とレンガ」森安孝夫・オ
チル(編)
『モンゴル国現存・碑文調査研究報告』中央ユーラシア学研究会、pp.106-110.
村岡倫 1985:「シリギの乱―元初モンゴリアの争乱―」
『東洋史苑』24・25、pp.307-344.
2003:「モンゴル西部におけるチンギス・カンの軍事拠点―2001 年チンカイ屯田調査報告
をかねて―」『龍谷史壇』119・120、pp.151-170.
村岡倫・松田孝一 1999:「宣威軍城址」『モンゴル国現存・碑文調査研究報告』pp.261-262.
森安孝夫 1997a:
「オルトク(斡脱)とウイグル商人」平成 7∼8 年度科学研究費補助金・基礎研
究(B)(2)報告書『近世・近代中国および周辺地域における諸民族の移動と地域開発』(代
表:大阪大学教授森安孝夫)、pp.1-48.
1997b:「
《シルクロード》のウイグル商人―ソグド商人とオルトク商人のあいだ―」
『岩波
講座 世界歴史 11 中央ユーラシアの統合』pp.93-119.
和田清 1942:
『東亜史論叢』生活社.
Bayar・Günchinsüren1999:Хогшин Тээлийн балгасанд
зртний судлалын малтага судалгаа
хийсэн тухай. 『モンゴル国現存・碑文調査研究報告』pp.278-292.
Bretschneider,E 1910:Mediaeval Resarches,Vol.Ⅰ,London.
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