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知の知の知の知 - 社会福祉法人大阪手をつなぐ育成会
い~な あまみ 中 央 しらさぎ さくら 大阪+知的障害+地域+おもろい=創造 知の知の知の知 社会福祉法人大阪手をつなぐ育成会 社会政策研究所情報誌通算 1710 号 2013.12.31 発行 ============================================================================== 今年のスタートが 1111 号。そして、1710 号と切りのいいところで年内最終号です。1 年間 で 600 号のご愛読ありがとうございました。来年もよろしくお願いします。【kobi】 障害者トラブルへの支援者育成 湖国の福祉関係者ら 京都新聞 2013 年 12 月 31 日 知的障害や発達障害がある人が、犯罪につながるトラブルを起こしたり、警察に逮捕さ れた場合に福祉の支援体制を整える「トラブルシューター」の育成に滋賀県内の福祉関係 者らが取り組んでいる。障害がある人たちは十分な意思疎通ができず、周りの障害への理 解不足から誤解されるケースがあるといい「障害の特性に対する理解を広げたい」として いる。 障害者福祉施設「大津市立やまびこ総合支援センター」によると、障害がある人たちは 障害の特性で、強いこだわりや周りとコミュニケーションがうまく取れないことがあると いう。そのため、じっと人を見つめたり、いきなり人の物に触るなどしてしまい、警察か ら注意を受けたり、逮捕されることがあるという。 トラブルシューターは、障害者の権利擁護活動をするNPO法人「PandA-J」(東 京都)が考案。障害がある人たちがトラブルを起こしたり逮捕された時に、警察や被害者 らに障害の特性を説明し、理解を求める。その後、トラブルや事件が起きないように、福 祉支援体制や生活環境を整える。同NPOの養成セミナーを受講すれば修了証がもらえ、 トラブルシューターと認定される。 滋賀県内では2011年4月に社会福祉士や弁護士、臨床心理士ら十数人が集まって勉 強会を発足させた。11月には大津市内で同NPOの養成セミナーを開き、約60人が参 加。刑事手続きについて弁護士から説明を受け、精神科医からは罪を犯した障害者の特徴 について話を聞いた。 取り組みを広げているやまびこ総合支援センターの相談員越野緑さん(38)は「事案 が起きた時にすぐに動けるネットワーク体制を作りたい。行政関係者や企業など障害者に 関わりのある幅広い人たちに参加してほしい」と話している。 阪大がカタールに再生医療拠点…来月、協定締結 読売新聞 2013 年 12 月 30 日 大阪大は、中東カタールに再生医療の拠点を構築することを決め、来月末、現地の病院 関係者と人材交流などに関する協定を締結する。 心臓病や角膜の病気を最先端技術の細胞シートを使って治療するもので、中東における 日本発の医療技術移転となる。 拠点は、カタール政府出資の財団が2015年にも首都ドーハの病院に設置予定の「再 生医療・細胞シートセンター」 (仮称)。日本の官民共同設置の社団法人「メディカル・エ クセレンス・ジャパン」や医療機器メーカーが運営や細胞の空輸で連携する。 阪大は医師の派遣などを通し、治療や培養の技術を現地の医師らに伝える。〈1〉患者か ら採った足の筋肉細胞をシート状に培養し心臓に貼る〈2〉口の粘膜の細胞を培養し角膜 に貼る――などを計画している。 う~みさんと障害者、大震災被災者らがCD発売 高知新聞 2013 年 12 月 31 日 アルバム「夢が叶ったぞう!」を手にするう ~みさん(高知新聞社)=左、CD完成の記 念コンサートで歌う宮川賢司さん=手前=と う~みさん(19日、宮城県南三陸町)=右 あふれる思い、詩とメロディーに―。 障害のある人や東日本大震災の被災者 らが作詞作曲などを手掛けたCDアルバム「夢が叶(かな)ったぞう!」が完成した。制 作に参加した高知県内外9人のグループ名は「うみともランド」 。プロデュースした高知市 在住の歌手、う~みさん(36)は「みんなの気力が詰まったアルバム。聴いた人も絶対、 元気になる」とPRしている。 う~みさんは県内外で音楽活動を展開し、津波で大きな被害を受けた宮城県南三陸町で も支援コンサートを開くなどしている。そうした活動中、体は動かないけど詩を書いてい ると話す人たちに出会った。 「詩を見せてもらうと、すごくいい。まだ誰にも知られていないダイヤの原石。何とか 世に出したいと思いました」 一方、5月には、重症心身障害児者施設「土佐希望の家」(南国市)の職員から、う~み さんに1通の手紙が届いた。施設で暮らす中城幸子さん(46)が書いた詩に曲を付けて ほしい、と。中城さんの夢だった。 う~みさんは快諾し、 「ずっと」 「あなたが風になって」の2曲が出来上がった。 たくさんの「ダイヤの原石」を曲にして、全国に送り出そうと決めたのは、そのころだ ったという。 制作には中城さんのほか、北海道の全盲の中学生ら7人が作詞や作曲、歌で参加。メー ルやファクスを通じて詩を練った。レコーディングでは、う~みさんが「つらいことをつ らそうに歌わないで」などと“ダメ出し”することもあった。 東日本大震災の際、自宅と共に大事な楽器を津波で失った南三陸町の宮川賢司さん(3 9)はこう歌う。 〈あの日 君は言ったよね/悲しい事はためないの/さびしい事もためないの/胸いっ ぱい愛をさけぼう〉 ( 「いちごいちえをくれないか」 ) 交通事故で生死をさまよい、体に障害が残る北海道函館市の真島輝(あきら)さん(3 2)は「空にうたえば」を作詞作曲し、妻と歌った。 〈君が哀(かな)しみに打ちのめされた時/また明日を歩きたくなる糧になる/涙する のも生きてる証/幸せだから唄(うた)うんじゃない/幸せになる為(ため)に唄おう〉 「土佐希望の家」の中城さんの2曲も収録された。中城さんは「ここまでしてくれて、 心からありがとうの気持ちでいっぱいです。とってもすてきな曲になってうれしい」。ほか のメンバーも「夢みたい」と喜んでいるという。 アルバムジャケットのカラフルなゾウは、高知大付属特別支援学校高等部3年の尾崎憧 汰郎君(18)がフィギュアで制作した。 う~みさんは「みんなの思い、元気が凝縮されている。プロの作品ができた。たくさん の人に聴いてほしい」と話している。 9曲入りで、1枚2千円。県内の「TSUTAYA」各店で販売中。メール(nato wa78@yahoo.co.jp)でも注文を受け付ける。メール注文の発送は南三陸 町のNPO法人「みらい南三陸」が担い、売り上げの一部は同NPOに寄付される。 重度知的障害、重複障害者 母親が介護96% 大阪の市民団体 “自助限界、解消を” しんぶん赤旗 2013 年 12 月 31 日 会見で調査報告をする「大阪障害児・者を守る会」の人 たち=12 月3日、厚生労働省 重度知的障害や重複障害のある人たちの約9 割は家族と同居し、母親が介護する割合が96・ 3%であることがこのほど、わかりました。「大 阪障害児・者を守る会」 (播本裕子会長)の調査によるもの。対象は、大阪府内に住む障害 児者1620人です。 調査からは、障害児者の暮らしを支える社会保障制度がぜい弱なため、家族介護に頼ら ざるを得ず介護の大半を担う母親は疲弊しきっている実態が浮かび上がりました。 家族と同居する障害者が87・7%を占め、グループホーム等に住む人は8・8%でし た。ヘルパーなどを活用して一人暮らしをする人は、わずか0・5%にとどまっています。 介護者の健康状態についての設問では、 「よく肩がこる、痛い」と答えた人は60・7%。 「朝起きたとき疲れが残っている感じ」は57・1%でした。97%の親が何らかの体調 不調があると回答しています。 大阪千代田短期大学の山本敏貢副学長は「女性の健康に関す る各種調査結果と比較して、障害児者を介護する人の健康は深 刻な状態だ。家族中心の介護は限界を迎えている」と指摘。 「介 護者の負担を解消する福祉施策が必要だ」と訴えます。 「わが子との将来の関係」についての設問で、 「親と子は別々 の生活をしたい」と回答した親は43・4%。「自宅で親と子 で一緒に住みたい」は39・7%で「一緒にケアハウスなどの 施設に入りたい」が19・4%でした。 年代別でみると、親の年齢が上がるに従って別居を希望。5 0歳代でピークとなります。30歳未満の親で「一緒に住みた い」 「一緒に施設に入りたい」と回答したのは、合わせて65・ 0%を占め、「別々の生活」より30ポイントも上回っていま す。50歳代では、 「一緒に住みたい」 「一緒に施設に入りたい」は52・0%で、「別々の 生活」より1・6ポイントだけ多くなります。 ところが、70歳代になると、 「一緒に住む」 「一緒の施設に入る」を希望するのは69・ 6%。 「別々の生活」より31・6ポイントも上回ります。 播本会長は「地域に障害者の生活を支える資源が少ないため、親が高齢に伴い自分で介 護できなくなっても、第三者に依頼することすらできない状態になっている」と指摘しま す。 政府の批准が決まった国連の障害者権利条約は、障害者に障害のない人と同じ程度の暮 らしをする権利を認めています。 播本会長は「障害者や家族の実態は、障害者権利条約のめざす水準からかけ離れている。 障害者と家族は、安倍政権が求める“自助”をやりつくしている。国と自治体の公的責任で、 権利条約に見合う社会になるよう施策の整備が必要だ」と強調します。 “老老介護”さらに深刻に NHK ニュース 2013 年 12 月 30 日 認知症の患者を介護している人の年齢は、30年前に比べて70歳以上の人の割合が3 倍以上に増えて37%に上り、老老介護が進んでいることが患者を介護している家族の会 の調査で分かりました。 「認知症の人と家族の会東京都支部」は、 介護している人を対象に電話相談を行ってい て、昨年度とその30年前について相談内容 などの変化などを比較しました。 その結果、介護している人の年齢は、30 年前は70歳以上の割合が12%でしたが、 昨年度は37%と3倍以上に増えていて、老 老介護が進んでいることが分かりました。 認知症の人の家族構成は、30年前は5 9%に上っていた「3世代や4世代同居」と「親と子ども夫婦」の割合が、昨年度は13% に減った一方、 「単身」や「夫婦」 、 「親と子」の割合が合わせて36%から86%に増えま した。 また、介護している人と認知症の患者の関係では、30年前は最も多かった息子の妻の 割合が43%から7%に急激に減った一方、娘の割合が24%から33%に、妻の割合が 20%から31%にそれぞれ増えていて、老老介護が進んだ背景に核家族化などがあるこ とがうかがえます。 東京都支部の大野教子代表は「老老介護は悩みを1人で抱え込みがちなので、地域や行 政が本人や家族の立場にたった支援を広げていく必要がある」と話しています。 大戦中に復員軍人援護局のロボトミー採用を決定付けた 1 人の医師 ウォール・ストリート・ジャーナル日本版 2013 年 12 月 30 日 第 2 次世界大戦のさなか、復員軍人援護局(VA)の 2 人のベテラン医師はある処置の驚 くべき結果を報告した。著名な神経学者であるウォルター・J・フリーマン博士と神経外科 医のジェームズ・ワッツ氏だ。2 人は精神病の患者の頭蓋骨を切り開き、脳の神経線維を切 断する処置を行ったのだ。フリーマン博士は、これをロボトミーと呼んだ。 治療が難しい精神病を患った退役軍人に対するロボトミーの推奨が、メモという形で VA のフランク・ハインズ局長の元に届けられたのは、1943 年 7 月 26 日のことだった。この メモには、その手術は「場合によっては局部麻酔で行える」、そして「その処置に高度な外 科技術は必要ない」とあった。 翌日、ハインズ局長はそのメモに紫のインクで「承認」のスタンプを押した。 ウォール・ストリート・ジャーナル(WSJ)が発見した大量の VA の書類(ハインズ局 長の承認印が押されたメモを含む)によると、米国政府はその後の 10 年余りで約 2000 人 の退役軍人にロボトミーを施したようだ。ハインズ局長のメモには「治療の進歩に遅れた くないという我々の意思に沿った」決断だったと書かれている。 1943 年のその決断は、VA とロボトミーの最も熱心なセールスマンであり、当時はもて はやされたが、今となっては悪名高いフリーマン博士との協調関係を生み出した。精神病 を治療するために脳外科手術を――批評家たちによると見境なく――多用したことで、博士 は米国の医学史で最も物議を醸した医師と言えよう。 フリーマン博士は VA において倫理的に容認される医療の領域を押し広げようとした。博 士は手術の訓練を受けていない精神科医たちにもアイスピックのような器具と小槌で眼窩 に穴を開ける方法のロボトミーの実施が許可されるべきだと述べた。さらには、せっかく 患者たちの頭蓋骨が切り開かれているだから、VA の外科医たちには研究目的での生体脳の サンプル採取を許可すべきだとも主張した。 資料には VA が博士の説得にどれほど大きな影響を受けたのかが示されている。WSJ は 今回初めて、国立公文書館の記録、ジョージ・ワシントン大学に保管されていたフリーマ ン博士の論文、軍の文書や医療記録、当時の医師たち、ロボトミーを受けた退役軍人たち の家族、そして生存者の 1 人である 90 歳のローマン・トリッツさんらへのインタビュー取 材などに基づいて、VA の精神外科プログラムの詳細を記事にした。 1950 年代半ばに最初の重要な精神病治療薬であるソラジンが市場に出回ると、VA のロ ボトミーの利用は漸減していった。フリーマン博士とその代名詞とも言うべき手術に対す る世論は、称賛から嫌悪へと一転した。 第 2 次世界大戦中とその直後、ロボトミーに対する拒否反応は今日ほど強くなかった。 それでも、フリーマン博士の考え方は VA 内でも激しい議論を引き起こした。博士自身が「手 術によって誘発される小児期」と説明する処置が適切であるかと倫理が問題になった。 VA のある上席精神科医は 1948 年に、フリーマン博士が「非行から首の痛みまでほとん どすべての治療にロボトミーを用いていると揶揄(やゆ)するメモを書いている。他の医 師たちはこうした思い切った医学的処置を押し進める前に研究を深めることを強く求めた。 特にフリーマン博士のアイスピック手術に異議を唱える医師たちは多かった。 それでもフリーマン博士の影響には決定的なものがあった。VA はフリーマン博士の弟子 であり、神経外科医のジェームズ・ワッツ氏をコンサルタント、旗振り役として迎え入れ、 VA の医師たちは、東はマサチューセッツ州から西はオレゴン州までの 50 もの病院で退役 軍人たちにロボトミーを施した。 精神病を切除するという考え方が生まれた経緯 1895 年にフィラデルフィア在住の医師の両親の下に生まれたフリーマン博士はエール大 学を卒業後、第 1 次大戦の退役軍人たちを含む精神病患者が完治の望みもなく収容されて いた聖エリザベス病院の病棟で働いたことで精神外科に傾倒していった。フリーマン博士 は、心理療法、電気ショック療法、冷水の高圧噴射、一時的な昏睡を引き起こすためのイ ンスリン注射といった当時の治療では脳の物理的欠陥が原因の重篤な精神病の完治は難し いと信じていた。そこで博士は、前頭葉前部と脳の他の部分を結ぶ神経経路、ロボトミー の専門家たちが極端な感情を促進すると考えていた連絡線維を切断することを提案した。 このアプローチの先駆者であるポルトガル人医師、エガス・モニス氏は、1935 年に最初 のロボトミー(当時は前頭葉白質切断術と呼ばれていた)を実施した。その 14 年後、モニ ス氏にはノーベル生理学・医学賞が与えられた。 1936 年、フリーマン博士とワッツ医師による最初のロボトミーが、うつ病、強い不安、 不眠に苦しむ 63 歳の女性に施された。ジョージ・ワシントン大学の資料として残っている 1979 年のインタビューでワッツ医師は「私のことを急進的だと考える人もいるだろうとい うことは、精神病患者の物理的には正常な脳の切断術を行ってすぐに自覚した」と述べて いる。 本人の計算によると、フリーマン博士は最終的に 3500 件ものロボトミーに携わったとい う。4 歳という幼さでこの手術を受けた子供たちがいたことも大学の資料に残っている。 フリーマン博士の息子で自身も神経生物学の教授であったウォルター・フリーマン 3 世 氏は、 「私の父が直接行った手術はうまくいっていた」と話す。「父の熱意の理由もそこに ある」 同氏によると、フリーマン博士とワッツ医師は、2 人による手術の 3 分の 1 は成功したと 考えていたという。つまり、患者が「生産的な生活」を送れるようになったのだ。もう 3 分の 1 は自宅に戻ったものの、自立はできなかった。ワッツ医師によると、残りの 3 分の 1 は失敗だったという。 1994 年に死去したワッツ医師は、晩年にロボトミーの最盛期を率直に評価している。 「そ れは脳を損傷する手術だった。患者の性格を変えてしまった」と 1979 年のインタビューで 述べている。 「われわれには患者の苦しみの軽減が予想できたし、自殺願望や自殺未遂とい った特定の症状の軽減はかなり正確に予想することができた。強い不安や情緒的緊張につ いても同様だった。ところが、患者がどういう人格になるかについては、そこまで正確に 予想できなかった」 その他の副作用の可能性としては、引きつけの発作、失禁、感情的爆発が挙げられ、ま れに命を落とすこともあった。 「今や陽光と優しさで輝く」世界 あごひげと眼鏡が特徴的なフリーマン博士は州立病院を回り、精神外科の素晴らしさを 説いて回った。当初、彼は自分の経歴が称賛と共にメディアで伝えられていることに気付 いた。サタデー・イブニング・ポスト紙は 1941 年に、「かつては苦難、残酷さ、憎しみに 支配されていた世界が、今や陽光と優しさで輝いている」とロボトミー手術を受けた患者 のことを書いている。 フリーマン博士の未発表の回想録によると、1952 年の夏、博士はウエストバージニア州 を回り、12 日間で 225 人のロボトミー手術に携わったという。 フリーマン博士が神経学を教えていたジョージ・ワシントン大学の資料によると、全米 の VA 病院はコンサルタント料として 1 日 50 ドル(今日の価値にして約 450 ドル)をフリ ーマン博士とワッツ医師のそれぞれに支払ってまで、博士の時間を奪い合ったという。博 士が VA 本部のロボトミー委員会で委員を務めたことで、VA はその手術が利用しやすくな ったという側面もある。1950 年代初め、フリーマン博士はウォルター・リード陸軍病院で も助言していた。 VA はフリーマン博士と契約することのリスクを承知していた。1946 年、VA が彼をロボ トミーのコンサルタントとして雇うか否かを決めようとしているとき、ある内部メモは次 のように指摘していた。 「フリーマン博士は偏狭で熱狂的なロボトミー推進者だという理由 で、彼にその役職を与えることには一定の反対意見がある」 VA の神経科の責任者だったピアース・ベイリー医師は、VA の上席精神科医、ダニエル・ ブレイン氏に宛てたメモで「状況(反対意見)に適切に対処すれば、フリーマン博士を雇 うことで得られるメリットはデメリットを上回るというのが私の見解だ」と書いている。 ブレイン医師はそれに同意し、そのメモの余白に手書きで「多くの精神科医が」フリー マン博士に懐疑的だが、 「おそらく彼が最適任者だろう」と記している。ロボトミーは「慢 性の症例において、VA に大きく貢献するかもしれない」とも書いている。 標準的ロボトミーと呼ばれたフリーマン博士の初期の手術で、外科医のパートナーであ るワッツ医師は患者の頭蓋骨に穴を開けた。神経学者で外科医ではなかったフリーマン博 士は手術時、患者から 2 メートル弱離れて立っているのが普通だった。これは患者の頭部 がよく見え、器具を挿入して神経線維を切断するワッツ医師に指示を与えるためである。 そうした開頭手術は、医師たちに脳のどの部分がどの身体機能を司っているのかという 謎を解明する機会を与えた。だが、1947 年には VA 内で論争を巻き起こした。同局のシア トル支部がワシントンの本部に、ロボトミーの最中に研究目的で生体脳組織を 1 立方セン チメートル切除することの実行可能性と合法性について問い合わせてきたためだ。 「もちろん、そうした切除には患者の親族から許可を得るべきだろう」 。シアトル支部の ある医師は本部に宛てた手紙に書いている。「しかしながら、脳組織の切除が誤って解釈さ れ、患者がモルモットに使われたと親族が感じてしまうリスクを冒すことになるかもしれ ないと憂慮している」 VA 本部はフリーマン博士を含む数人の医療関係者から助言を得ようとした。そうした切 除にまったく異存がないフリーマン博士は次のように書いている。「私は、われわれの生体 組織研究実施のために、ワッツ医師にそれ(切除)を指示することが多いが、その結果と して悪影響が出た例を見たことがない」 。 最終的に VA はフリーマン博士の助言を退けた。VA 本部の上席医師はシアトル支部への 手紙に「われわれはそうした切除をひどく危惧している」と書いた。 VA がそれを承認しなかった理由 フリーマン博士の積極的なロボトミー擁護は、あまり干渉するタイプではない医師たち をも動揺させた。 その翌年にワシントンで開かれた精神医学会の会議で、フリーマン博士がキャリアをス タートさせた聖エリザベス病院の最高責任者であるウィンフレッド・オーバーホルサー医 師は、同病院でロボトミーを受けた患者に関する悲観的な報告をした。 「残念だが、患者た ちの症状が改善した場合でさえ、決して自慢できるほどではない」とオーバーホルサー医 師は述べた。 「われわれはこの手術に乗り気ではない」 1950 年末、イリノイ州ハインズの VA 病院のロボトミー委員会で委員長を務めていたフ ランシス・ガーティ医師は、十分な注意を払った結果、当病院ではロボトミーが実施され ていないと本部に報告した。ガーティ医師は「この手術の利用を正当化するのであれば、 その前に多くの問題の根本的な側面に関して、より慎重な研究がなされなければならない」 と書いている。 1946 年、フリーマン博士は頭蓋骨への新たな進路を開拓した。博士は電気ショックを使 ってある女性患者の意識を失わせ、アイスピック――自宅のキッチンから持ち込んだもの ――を小槌で叩くことで眼窩の薄い骨を砕いて脳まで到達させた。そしてアイスピックを横 に回転させることで思い通りの切断を行った。 博士はこのアイスピック手術を外科医の手助けなしで行える医院内処置と考え、通常は 手袋やマスクもせずに実施し続け、最終的な件数は数千に及んだ。この処置方法はワッツ 医師にかなりの衝撃を与え、博士とのパートナーシップは 1948 年に解消された。ワッツ医 師は 2 人で共有していたワシントンの事務所も去った。 フリーマン博士がアイスピック手術の利点を詳述したある医学会議で、ワッツ医師は立 ち上がり、かつての盟友を批判した。ワッツ医師は数年後、「私はそのやり方を間違ってい ると思った」と述べている。 手術がうまくいかなかったとき、フリーマン博士はその結果について、一歩距離を置き、 淡々とした言葉で説明した。日付がないある資料に博士はこう書いている。「器具の先が折 れてばつの悪い思いをしたことが 2 度ある。どちらの場合も患者の脳に損傷はなかったよ うだが、手術による恩恵もなかった」 「2 度目のときは、 丈夫だと思っていた器具が先端から 6 センチのところで折れてしまい、 患者の眼球に裂傷を負わせてしまった。患者の女性は手術による恩恵を受けなかったばか りか、その目を失明し、金属片を取り除くための手術も受けなければならなかった」と書 いている。 こうした失敗により、フリーマン博士はより強靭なアイスピックを注文するようになっ た。博士はこのアイスピックについて「ドアの鍵穴に入れたら、曲ったり折れたりせず、 ドアをドア枠から外せるほど」強靭だと説明している。 激しい批判を呼んだアイスピック手術 フリーマン博士のアイスピック手術は VA でも騒動を引き起こした。 1948 年、アラバマ州タスキーギーの VA 病院がフリーマン博士を招待し、アイスピック・ ロボトミーの実演指導をしてもらうことになった。タスキーギーのある医師はその対象者 が「その時点で収容されているであろう」15 から 20 人ほどの退役軍人になると VA 本部に 報告している。フリーマン博士は治療の結果を比較するために、別の退役軍人のグループ に電気ショック療法だけを施すことを提案した。 ところが、その訪問の 1 カ月前、VA のコンサルタントであるフランシス・マーフィー氏 がそれに異議を唱えた。同氏はメンフィスで評判の医師であり、かつては軍の神経外科医 だった。マーフィー医師は「私が知る限り、フリーマン博士はこの件に関して全国誌に論 文を発表していないので、私にはアイスピック・ロボトミーの危険性、合併症、結果など を知る由がない」と述べ、アトランタにある VA の神経精神病科の責任者であるレイモン ド・クリスペル医師に警告した。 マーフィー医師が問題視していたのは、アイスピック手術を行う医師に脳の切断する部 分が見えていないという点だった。 「われわれがロボトミーに関してあらゆる安全策を講じ るために努力してきたことを知るあなたが、私に手紙を書き、標準的な外科的処置からあ まりにも逸脱したそうした処置の承認を得ようとしたことに驚いている」とマーフィー氏 は書いている。 当初、VA 本部はフリーマン博士の訪問を承認していたが、博士が非正統的なテクニック を用いることを患者の親族に知らせることを強く要求していた。国立公文書館に保存され ていたある手紙によると、フリーマン博士のような神経外科医が VA 病院でロボトミーの施 術を許可されることは「私が生きているうちはない」という VA の神経外科のコンサルタン ト、R・グレン・スパーリング医師の言葉が同僚によって引用されたことで、この騒動はさ らに大きくなったという。 VA は結局、その招待を撤回した。 ケンタッキー州レキシントンの VA 病院の運営者、F・M・クック医師は、本部に宛てた 手紙でアイスピック手術を行うのに外科医である必要はないというフリーマン博士の見解 に触れ、そのテクニックの利用を許可してほしいと書いた。精神科医たちはその処置を 2 ‐3 週間の訓練で習得することができるとクック医師は書いている。「われわれはそれでか なりの費用が節約できると気付いた」。 クック医師は「そうしたプログラムが制御不能に陥ってしまわないように」病院が慎重 に管理することを約束した。 当初、VA の精神科の責任者、トンプキンス医師はレキシントンの病院の要望を退けた。 トンプキンス医師はその病院に宛てた返信に、アイスピック・ロボトミーの実施を許可さ れたのはマサチューセッツ州ベッドフォードの VA 病院だけで、それも研究の一環としての み行われると書いた。 ところがその 1 年後、VA は方針を転換した。トンプキンス医師は 2 通目の手紙で、手術 方法をめぐっては VA の医師たちのあいだでも「意見が大きく対立している」が、どの処置 を採用するかという決断は各病院に任せるという裁定を下した。 患者を訪ねてキャンピングカーで全米を放浪 抗精神病薬の到来と共にフリーマン博士の名声は色あせ始め、世論はロボトミーを奇跡 の治療ではなく患者に障害を残すものと捉え始めた。ロボトミーのイメージは、精神病を 患った主人公がその反逆性からロボトミーを施されてしまうケン・キージーの 1962 年の小 説『カッコーの巣の上で』でさらに邪悪なものになった。 1954 年、フリーマン博士はワシントンからカリフォルニアに移り住んだ。博士はそこで も、数が減りつつあったアイスピック・ロボトミーを許可する病院で手術をし続けた。 息子であるフリーマン教授は、父親が 1960 年代の学会に患者やその家族から届いたクリ スマスカードでいっぱいの大きな箱を持ち込んだことを覚えている。感謝されているとい う証拠を示して、他の医師たちに自分の手術が良い結果をもたらしたことを分かってもら おうとしたのだ。フリーマン博士は晩年、自分でもそのことを確かめるかのように、キャ ンピングカーで国内を放浪しながらかつての患者の写真を撮った。 「父は世間の目に触れる形でロボトミーを説明し、正当化するためにより一層の努力を した」とフリーマン教授は振り返る。「父は闘士だった」 1972 年に死去したフリーマン博士による最後の 2 つの手術は、1967 年のある 1 日に行 われた。博士は未発表の回想録に 1 人の患者については「うまくいった」と書いている。 フリーマン博士によるロボトミーをすでに 2 度も受けていたもう 1 人の女性患者は 3 日後 に出血によって命を落とした。 月刊情報誌「太陽の子」、隔月本人新聞「青空新聞」、社内誌「つなぐちゃんベクトル」、ネット情報「たまにブログ」も 大阪市天王寺区生玉前町 5-33 社会福祉法人大阪手をつなぐ育成会 社会政策研究所発行