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マレーシアで訪ねたイスラーム文化関連施設 井谷 鋼造

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マレーシアで訪ねたイスラーム文化関連施設 井谷 鋼造
マレーシアで訪ねたイスラーム文化関連施設
井谷 鋼造
はじめに
アジア・フィールドワークの引率教員として、文学部アジア文化学科の3,
4年生6名、
国際教養学部アジア学科の2年生lO名と2008年9月3日から10日までマレーシアを訪れ
た。マレーシアの首都クアラ・ルンプール(以下ではKLと略)では5泊、その間古都マラッ
カへの日帰り旅行を行ない、ペナン島では1泊した。今回の旅行や現地でのフィールドワ
ークの模様の一端は、参加した学生諸君による本誌掲載のレポートから窺えよう。
筆者は、今回も引率教員という立場であり、自分の研究のためにマレーシアを訪れたわ
けではなかったが、それでもマレーシア国内で自らの関心の一つであるイスラーム文化関
連施設をいくつか訪ねることができたので、これまでの経験をまとめてこの機会にそれら
を紹介しておきたい。歴史的にも、また現在でもマレーシアという国や地域にとってイス
ラームは最も重要な文化の源泉、社会構造を決定する最も主要な原理であり、近代以降の
華人やインド系移民がもたらしたインドや中国の文化は、マレー人を主体とするマレーシ
ア在地の人々に全く受け入れられることはなかったのである。それゆえ多民族国家といっ
ても、マレーシアではマレー人、華人、インド系の人々は文化的に互いに混淆することな
く生活を営んでいる。互いが文化的に尊重し合っているなどとはとても言えないような状
況で、それでも表面的には互いをあからさまに攻撃し合うことなく、敢えて言えば、互い
を文化的に無視し合うことで、かろうじて平穏を保っているようにさえ見えるのである。
イスラームとてマレーシアにとって外来の宗教、文化であることに変わりはない。西暦
15世紀以降西方から、とくに商人層によってもたらされたとされるイスラームは、スマト
ラ島北端からマレー半島や現在のインドネシアの島々にゆっくりと浸透していったと考え
られている。フィリピン南部の島嶼部にムスリム(イスラーム教徒)が多いのは、この動き
が及んだためである。アジア、アフリカ、ヨーロッパ、どの地域でも状況はほぼ同じであ
るが、イスラームは単に宗教としてだけでなく、生活に根ざした文化の形でマレーシアや
東南アジアでも根付くことになった。「イスラーム化」の問題はマレーシアのみならず、イ
スラームが広まった世界の各地で考究されねばならない重要な、そして興味深いテーマで
あるが、現実にイスラームが広まり、ムスリムが多数派となった地域では、イスラームを
抜きにしてその社会や文化を語ることができないのである。つまり、マレーシアのイスラ
ームを理解することなくして、マレーシアの文化や社会は語れない。
たとえば、2008年9月に筆者が重松伸司教授と共に上記のフィールドワークでマレーシ
アを訪れた際には、ちょうどラマダーン月の断飲食期間中(1∼30日)であったが、この
期間はマレー人だけでなく、約14億人を数える世界中全てのムスリムが日中飲食を避け、
禁欲生活を過ごす(ことになっている)。 日中飲食を断つことは、ムスリムにとっても難行、
苦行であり、ムスリムでない者にとっては甚だ理解に苦しむ戒律であるが、ムスリムは「神
の命令」としてその実行をためらわない。理性的に考えて断食の実行は健康に悪い影響か
おる、などという言説はムスリムには無縁である。(妊産婦や老人、幼児、病人、負傷者は断食
を実行しなくてもよい。また然るべき理由があって断飲食をしない場合は、後に代償行為をすることで許
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される。)特別な理由(旅行中や軍務など)のない、心身健康なムスリムは男女とも「神の命
令」(聖典『クルアーン』に基づくシャリーアで規定された「五行ノの一一つ」であるから、議論の余
地なく空腹と渇きに耐えて禁欲・断飲食を実行するのである。ムスリムにもそれぞれ個人
的な事情かおるから、断飲食を実行しない人間か直ちにムスリムでないとは言えないが、
普通のムスリムは当然の勤めとして断飲食と禁欲を30日間実行している。従って、ラマダ
ーンの期間マレーシアでは、ムスリムと非ムスリムの生活上の違いはその他の期間よりも
明らかになる。
2008年に訪れた、断飲食を行わない、異教徒たる華人などの人口が多いKL,
マラッカ、ペナンなどでは断飲食期間を意識することはその他の地域よりも少ないかもし
れないが、マレー人の比率が高いマレー半島の東岸地方などでは、ラマダーン月はムスリ
ムがムスリムたることを強烈に意識し、社会に宗教的な情熱が高楊する時期なのである。
『地球の歩き方 マレーシア、ブルネイ』などの旅行案内書にはイスラーム文化関連施
設の所在等がごく簡単に紹介されており、専門家ではない一般の観光客にとってはこれら
で十分であろう。しかし、以下で紹介されるように、博物館内部の展示内容や展示物につ
いて専門の研究者の目を通して紹介されることは、イスラーム文化や東南アジアの歴史に
関心を持っていたり、あるいはこれから学んでいこうとする学生にとって大きな意味があ
ると思われる。本稿ではそうした立場から、西南アジア史、イスラーム文化の研究者であ
る筆者が自ら訪ね得たマレーシアのイスラーム文化関連施設を紹介したい。
1。2002年フ月のマレーシア訪問
筆者はこれまで4回マレーシアを訪ねる機会があった。それらのうち3回は今回のフィ
ールドワークも含めて、大学の授業としての訪問であり、2002年7月は正信公章教授と共
にシンガポールを中心に現地演習を行なった。(24∼30日)マレーシア滞在は1泊2日で
あり、7月27日朝8時発のマレー鉄道でシンガポールを出発、ジョホール・バルを経て2
時間後にジョホール州内のクルアン(Kluang)という町で下車、パーム榔子林の見学など
をした後、ジョホール・バル市内で一泊した。翌日はジョホール・バル市内を見学。有名,
なスルターン、アブー・バカル・マスジド(Masjid
Sultan Abu Bakar)を訪ねた。このマ
スジドはヨーロッパの建築技法で建てられた建物であり、他に類例を見ない珍しい形態の
マスジドである。但し、建物内部を見学することはできない。
シンガポールやマレーシア国内のイスラームは、東南アジアの各地に広まったスン
ニー・シャーフィイー・マズハブ(法学派)の影響の下、マスジド本体の絨毯が敷かれた
部分への具教徒の立ち入りを認めておらず、外観を眺め、マスジド入口から内部を窺うこ
とができるだけである。マスジドの心臓部ともいうべきミフラーブ(聖地マッカの方角を示す、
装飾された壁面のくぼみ)やミンバル(階段状の説教壇)に近寄って至近距離から見ることはで
きない。マレーシアの各地やシンガポールで、この状況は基本的にどこも同じである。こ
の点は、永年のスンニー・ハナフィー・マズハブの影響下で、具教徒でも建物内部にほぼ
自由に立ち入りできるトルコ共和国内のマスジド、ジャーミウなどとは状況が異なる。現
I拙稿「講義録摘要 イスラームの世界A」『追平門学院大学文学部アジア文化学科年報』9、2006年11
月、6-8頁参照。
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実のイスラーム世界は、地域、国家、歴史などの条件によって生活や文化上も多くの差異
があり、決して一様ではない。
2002年7月はシンガポールでも毎日よく雨が降り、シンガポール島から狭い水道を隔て
ただけのジョホール・バルの町でもアブー・バカル・マスジドを訪れた後、敷地が隣接す
るジョホール・バルの動物園を見学中、猛烈なにわか雨に遭い、2時間近く雨宿りするほ
かなく、足止めを食ってしまったことを覚えている。
2.
2004年9月のマレーシア訪問
この時も正信教授に同行した現地演習。マレーシア国内は2泊3日。シンガポール経由
で空路KLへ入り、一泊後KL市内を回り、マラッカ(ムラカ)で一泊。翌日はマラッカを
観光した後ジョホール・バル経由でシンガポールへ到着(11∼13日)。 KL市内では、マス
ジド・ヌガラ(Masjid Negara)と国立博物館を見学した。マスジド・ヌガラは1965年8
月27日に完成した「国立礼拝所」であり、約1万5千人の収容能力かおるという。建物は
モダンで、基底部からの高さ71.6mのミナーレ1本がそびえ、マスジドというより体育館
を思わせる。建物の中心にある開きかけた傘型のドームは直径61m、床面からの高さ25.6
mあるという。ここも礼拝所本体の絨毯が敷き詰められた部分への異教徒の立ち入りはで
きない。(写真6参照)床の表面はよく磨かれた大理石で、靴を脱いで階段を上る。掃除な
どのために表面が濡れている際はよく滑るので、要注意である。このマスジドに程近く。
「マレーシア・イスラーム博物館」かおるが、2004年は訪れる時間がなかった。国立博物
館はマスジド・ヌガラとKL中有駅の開にあるが、ここは自然史や考古・民俗的な展示が主
で、マレーシア各地のマスジドのミンバルや木製品、金属器、陶器類(銘文や刻文の見ら
れるものもある)なども展示されている。
マラッカでは現在「世界文化遺産」ともなった旧市街を回ったが、イスラーム文化関係
では、カンポン・クリン・マスジド(Masjid Kampung Id ing)を見学した。このマスジド
は、四角錘の形状で二段になった緑色の瓦屋根を戴き、ミフラーブ方向を除いて壁のない
柱だけの開放的な建物で2、東南アジアのマレー半島、インドネシア方面の伝統的なマスジ
ドの形態を留めている。(写真1,2参㈱
3。2005年3月のマレーシア訪問
2004年度、当時の文学部アジア文化学科では「アジアの市場(いちば)の現状と背景−
ヒトとモノの出会いと交流−」という共通テーマの下に共同研究を行い、その成果は2005
年3月発行の研究成果報告書にまとめられている。筆者も当時この共同研究に参加してお
り、2005年3月にこの共同研究の資料調査を目的にマレーシアを訪れた。(25∼31日)前
述のように、前年の秋に現地演習でマレーシアに行っていたので、単独で調査を行なうこ
の機会に前年訪れることのできなかった場所を、時間をかけて見てくることにした。
2深見奈緒子『世界のイスラーム建築』(講談社現代新書、2005年)によれば、屋根の形状から「ピラミ
ディカル・モスク」と呼ばれる。(同書258頁)
101 −
KLで訪れたのは、前述の「マレーシア・イスラーム美術館」(Muzium
Malaysia)である。(c5j^しa
小気ぷ J胞\ t
Kesenian Islam
゛乙) というのが同館のアラビア語表記
であり、このアラビア文字表記が図案化されて同館で販売されているグッズ類にもロゴ・
マークとして使用されている。場所は前述のマスジド・ヌガラのすぐ近くにあり、1998年
に開館された建物で4階建て、最上部にタイル装飾の小ぶりなドームを戴いている。展示
のスペースは二階分で広々としており、マレーシアのみならず、イスラーム世界全般にわ
たる様々な展示が行われている。
2008年の9月にも訪れたが、全般に展示内容が充実した
が、主要な展示内容は変わっていないという印象を受けた。
建物の1階エントランス部分は受付と入場券売り場、荷物を保管しておくロッカー部分
などで、2008年にぱBeyond
Orientalism"
と題された特別展がギャラリーで開催されて
いたが、常設の展示部分はない。建物の2階部分けミュージアムショップとレストランな
どが入っている。ここのショップはイスラーム美術関係の書籍などが揃っており、土産物
を買うのにも一見の価値がある。 3階から常設展示が始まるが、このフロアにはまず、マ
ッカのハラーム・マスジドをけじめとするイスラーム世界の有名な建築物の精巧な模型を
展示した部分があり、中央アジア、ウズベキスタンのブハーラー市内にある「カラーン・
マスジド」、カザフスタンのトゥルキスクン市内の「アフマド・ヤサヴィー廟」3、トルコ
共和国のエディルネ市内にあるオスマーン朝期の著名なモニュメント「サリーミーヤ・ジ
ャーミウ」4など筆者自身が過去に訪れたことのある有名な建築物の精巧な模型に思わず目
を奪われる。 2008年9月の訪問の際は、そのちょうど3週間前にトルコ共和国エディルネ
市内に3泊して連日サリーミーヤを訪れていたので、KLでの模型との再会が奇遇に思えた。
続いてイスラームの聖典『クルアーン』の様々な手稿本、その他のアラビア語、ペルシ
ア語、オスマーン・トゥルク語などの写本類が展示されたコーナー、インド関係、中国(華
人)関係、マレー関係の全てイスラーム文化に関わる展示が広いフロア一杯に続いている。
階段またはエレヴェイクーで昇る4階のフロアには、サファヴィー朝期のイーラーンで作
られた鎖帷子などの武具を含打金属製晶、イスラーム世界各地(現在のトルコ共和国やシリア・
アラブ共和国など)で作られた陶器類、古銭のコレクション、木製品、宝石、織物、衣裳や
生活用具などを中心とした民俗的な展示が見られる。これらのうちで筆者の特に目につい
たのは、オスマーン帝国時代のアナトリア西部の有名な陶器産地であるイズニク5やキュタ
フヤで作られたタイルや陶器類が多く展示されていることで、展示品の質も高い。
さて、2005年の訪問の際、筆者はインド関係の展示を行っているコーナーでムガル帝国
時代の勅令(ファルマーン)の一つを目にし、写真が撮れなかったために、全文をメモ帳
に写し取ってきた。それは、以下のような内容の本文全7行の勅令文であり、この博物館
の展示品を紹介する上で、実例の一つとして挙げてみたい。(原文中の縦線は改行を示し、日本
語訳文中の下線は固有名詞、( )は本文の補足、【 】は原語のカタカナ表記を表している。)
3この建物とその内部の遺物に残された刻銘文については、拙稿「トゥルキスタン市のアフマド・ヤサヴ
ィー廟について」『アジア観光学年報』5、2004年3月、59-68頁参照。
4このジャーミウに残された石板銘文については、拙稿「オスマーン帝国のモニュメントに残された刻銘
文資料の語るもの一西暦15-17世紀−」『追手門学院大学国際教養学部紀要』2、2009年1月、19-20頁
参照。
5この町に残るオスマーン朝初期の歴史的な石板銘文については、拙稿「トルコ共和国イズニク市内にあ
る西暦14-15世紀のアラビア文字碑板」『追手門学院大学国際教養学部紀要』1
、2008年1月、参照。
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−
(日本語訳)
気高き帝王、アブルムザッファル・ジャラールッディーン・ムハンマド・シャーフ=アー
ラムの勅令
この幸運なる時に、高貴な勅令、服従さるべき命令が出された。神の恩恵の見本である、
ハーカーンの余りある恩恵、ホスロウの過ぎたる好意に従って、恩顧に値する献身者、栄
一
勝ある名士であるジャムスリレトヴェン・エルフィンシュトンを王権の支援者【ナスィー
ル】、国運の補佐人【ムイーン】、勇敢なる戦士【バハードゥル】という呼びかけで貴顕や
桂国たちの間、同僚や同輩たちの裡で名誉あらしめるように、朕は命じた。高貴な生まれ
の、幸福で、名高い子供たちや権力ある大臣たち、高位のアミールたち、世界の中心であ
る宮廷の全ての支柱たる者たち、諸地方の統治者たちは、帝王たる恩寵溢れる御方からの
これら選び抜かれた呼びかけと認可された称号が行き渡ることによって、件の献身者を尊
び、栄誉ある者と心得、朕の恩顧の目線が件の勇者の幸運なる状況に日々いや増し、無窮
なることを知らねばならない。高貴な、永遠に伴われた即位から43年目のムハッラム月
29日に書かれた。
(解説)
筆者のメモによると、この勅令は全体が金文字の大きな読み易いナスタアリーク書体で
賠かれており、朱字でシャクル(発音上の母音符号などの位置を示す記号)が打たれている。本
文1行目の(こi呼・)の語は(こ丿少・)と綴られているが、これでは意味が取れないの
で、上記のよ引こ解釈した。また、「栄誉ある名士である」と訳した部分の原語は(φメ)
と綴られている。これも難読語であり、ペルシア語やアラビア語ではなく、英語起源の単
悟かとは思ったが、筆者はどうしても読めなかったので、インド史、ムガル帝国史の専門
研究者である本学名誉教授、近藤治博士に問い合わせたところ、この語は(cJy^i為)すな
わち英語の(Honourable)を写したものではないか、というご教示をいただいた。実に明
解、至当の解釈であり、このご教示に従って、上記のように訳した。また、綴り字の細部
に関して、人名(iJ山釧)の綴り中の(と)の文字には原文で上方に点が4個打たれて
いる。(上記のテクストではこの文字のフォントがないので、表記できていない。)これはサンスクリ
103
ツト系の巻舌のt音を写すためである、という理由も同じく近藤博士よりのご教示により
理解できた。近藤治先生の懇篤なるご教示に厚く御礼申し上げたい。なお細部に関して付
け加えれば、人名(じpふii]l)の名前(Ruthven)の2番目の文字は、上記のテクスト通り、
原文でもウルドゥー語の(占)の文字が使用されている。
勅令の文頭の部分である(声。心よー一QjJll(j匈ぺμ^I
j
(^l=・.Lu心(jし・J)
という表現は本文やや右上に別記され、その脇に印章が捺されている。その印章には以下
のような銘文が読み取れる。(目本語訳文中の{ }は個人名を示している。)
(印章の銘文)
J卜Li山丿斗(jj!
ぷ倆・US雨声・U
[jj! ,LuJ内白臨・us
J刄。皿all
(jj卜Lj山メ斗山卜Lj山斗・Lui
心扮.y‘ベジ・loj山ふ(jj│
屏t
OJ^I
(^1 ・Lu
aljjj山(jj函oA ^四Uj山メ(
i・Uよλ!●U^卜Lki
jjI μUJI
メ
jljj無
j_jj│sLuJ内メ与
よ−(j似しijj卜Lai
呼−に仙し丿
u'J
i_j−しー
(日本語訳)
彼(神)は勝利者である。{アブルムザッファル・ジャラールッディーン・シャーフ=ア
ーラム・バードシャーフ・ガーズィー(聖戦に従事する帝王)}
■イブンベアーラムギー
ル・バードシャーフ}■イブン■{ジャハーンダール・シャーフ}■イブン■{シャーフ=アー
ラム・バードシャーフ}
・イブン・
フ=ジャハーン・バードシャーフ}
{アーラムギール・バードシャーフ}
■イブンベシャー
・イブンベジャハーンギール・バードシャーフ}
・イブ
ン・{アクバル・バードシャーフ}・イブンベフマーユーン・バードシャーフ}■イブン■{バ
ーブル・バードシャーフ}■イブン・{ウマル=ジャイブ・シャーフ}■イブン■{スルターン・
アブー・サイード・シャーフ}
{ミーラーン・シャーフ}
■イブンベスルターン・ムハンマド・シャーフ}
■イブン・
■イブン■ {アミール・ティームール・サーヒブ・キラーン}
一見して分かるように、この印章の銘文はアミール・ティームール(1336-1405)の第三
子ミーラーン・シャーフに始まるムガル皇帝の系譜を示しており、ティームールを除いて
計14名の「バードシャーフ」または「シャーフ」の名前が列挙されている。この印章に出
てくる個人名の連なりは、世界史上一般に「ムガル」帝国と呼ばれる国家が、支配者の系
譜から言えば、インド地域を支配した「後ティームール朝」に他ならないことを明らかに
している。16世紀の初め新興の遊牧ウズベク族の圧迫により中央アジア(マーワラーアン
ナフル)を追われ、アフガーニスターンを経て、北西インドでティームール朝の再興を図
って活動したバーブル・バードシャーフ(1483-1530)の活動は、自らが残した『バーブル・
ナーマ』6の精彩ある記述によって、現在の我々の眼前にも生き生きと蘇ってくる。ハープ
6『バーブル・ナーマ』はチャガタイ・トゥルク語の原テクスト、索引、訳注とともに、筆者の恩師であ
る間野英二博士によって刊行されており、(松香堂、1995,
1996,!998年)その研究篇である『バーブルと
その時代』(松香堂、2001年)と共に世界最高水準の文献学的、歴史学的研究の成果と評価されている。
日本の東洋史学、西南アジア地域研究、トゥルク文献学上の最高峰であり、おそらくは空前絶後となるで
あろう、このような優れた業績の存在が更にもっと世に知られるべきであると思う。
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ル直系の子孫であるフマーユーン、アクバル(大帝)'、ジャハーンギール、有名な世界遺
産であるアーグラの華麗な墓廟「タージ・マハル」を建設させたシャーフ=ジャハーン、ア
ーラムギール(アウラングゼーブ)らの名前も現れている。
当代のシャーフ=アーラム2世はムガル帝国末期の皇帝であり、ムガル帝国の没落期の
1759-1806年に在位した人物である。 18世紀のムガル帝国は、アウラングゼーブ帝没後強
力、有能な支配者を欠き、国内ではヒンドゥー・マラーター勢力が勃興して強力となり、
一方、イーラーンのトゥルクマーン、アフシャール部族出身のナーディル・シャーフが1736
年にサファヴィー朝を廃してアフシャール朝を建てた後インドに遠征し、1739年にはムガ
ル帝国軍を破ってデリーの町を征服した。 1747年のナーディル・シャーフの暗殺後はアフ
ガーン系サアドザイ部族出身のアフマド・シャーフ・ドゥッラーニーが独立して20世紀後
半まで存続したアフガーニスクーン王国の基礎を築き、その後度々インドに侵攻して1757
年にはデリーを占領した。この間インドに進出を図っていた英仏両国の東インド会社は現
地で激しい競合を繰り返し、1757年にはヨーロッパの七年戦争の余波もあって、イギリス
東インド会社軍はベンガル地方のプラッシーでフランス東インド会社の後援を受けたベン
ガル総督スィラージュッダウラ軍を撃破し、ベンガル方面での優勢を確保した。このよう
な状況の中でムガル皇帝に即位したのが、シャーフ=アーラム2世であった。
シャーフ=アーラム2世の即位直後、再びデリーを占領したアフガーンのアフマド・シャ
ーフ軍とマラーター軍の間で1761年パーニーパトの戦いが起こり、アフガーン軍が大勝し
た。この後、シャーフ=アーラムは帝国勢力の復活をばかり、1764年には東インド会社と
対立してベンガル総督を追われたミール・カースィム、アワド州長官シュジャーウッダウ
ラ、シャーフ=アーラム2世が連合してバクサールでイギリス東インド会社軍と戦ったが、
敗れ、その結果シャーフ=アーラム2世は1765年にベンガル、ビハール、オリッサ3州の
ディーフーニー(地租徴収権)を束インド会社に授与する勅令を発し、その見返引こ年額
260万ルピーの支払いを受けることになった。 1772年にはマラーター勢力と同盟してデリ
ーに帰還するが、その結果年金受給資格を失い、この後はマラーター有力諸侯の一人、マ
ハーダジー・スィンディヤー(シンデー)の庇護下に入った。 1788年にはアフガーン系ロ
ーヒーラ部のグラーム・カーディルが2ヶ月半デリーを占領し、この際シャーフ=アーラム
2世は失明させられ、一時帝位を失うが、まもなく復位した。 1789年以後はマハーダジー・
スィンディヤーによって日額300ルピーを与えられるようになり、その後書類上では170
万ルピーの税収のある領土を割り当てられていたが、1803年に第二次マラーター戦争の結
果、英人がデリーを占領すると、シャーフ=アーラム2世にはデリー要塞の管理権と自らの
称号、生活のみが保障されるだけであったという。シャーフ=アーラム2世の後、その孫バ
ハードゥル・シャーフ2世時代に起こったインド大反乱(スィパーヒーの反乱)の結果、
1858年ムガル帝国は廃され、イギリスの直接統治が開始されるに至った。8
7」ユ記の本文でも言及し、かつて本学に在職されたムガル帝国史、インド史の優れた研究者である近藤治
博士によって、根本史料に基づいたアクバル帝治世を中心とした歴史研究がおこなわれ、次の研究書にま
とめられている。『ムガル朝インド史の研究』(京都大学学術出版会、2003年)
8上掲本文の「当代のシャーフ=アーラム2世は∼」以下、ここまでの内容については/」ヽ谷汪之編『世界歴史
大系 南アジア史2 中世・近世』の第5章「マラーターの興隆とムガル帝国の衰退」(小谷汪之)第7章「イ
ギリス東インド会社によるインド植民地化」(小谷汪之)と補説「ペルシア語文化圏とムガル帝国」(近藤イ言彰)
及びEncydopaed臨of
Islam, New EditionのShah 'Alatii
IIの項目(M. Athar Ali)を参考にした。
105
このような事情を考慮すれば、シャーフ=アーラム2世在位当時のムガル帝国に昔日の大
帝国たる支配領域や権威、栄華は最早絶え果てており、シャーフ=アーラムがイギリス東イ
ンド会社やマラーター有力諸侯の一人であるマハーダジー・スィンディヤーの財政的、軍
事的な庇護に甘んじながら、漸く皇帝位の体面を維持しえたに過ぎなかったことは明らか
であろう。本稿で紹介した勅令(ファルマーン)は、マレーシア・イスラーム博物館で展
示品の傍らに掲げられた解説と筆者による上掲の日本語訳から明らかなように、シャーフ=
アーラム2世の在位43年目に当たる1216年ムハッラム月29日(1801.6.
た英国人The
11.)に発令され
Honourable James Ruthven Elphinstoneの軍功を称え、「王権の援助者」
(^lUトU一)「国運の補佐人バも」へjJX・)「勇敢な戦士」「よ≒・j」ねツ臨)
という称号を授与するという内容を持つ。英国人である「栄誉ある名士」ジェイムズリレ
スヴェン・エルフィンストーン9が何故ムガル皇帝から称号を授与されたのかも、上記のよ
うな事情を考慮すれば、その理由が推察できよう。この時期に実質的な権力や財力を全く
失っていたムガル皇帝にとって、たとえ相手が異教徒、外国人であるうと、あたかも10∼
12世紀頃のアッバース朝時代を想起させる古めかしい「∼ムルク」「∼ダウラ」のような
ムスリム国家の伝統的な称号の授与は、自らの手許に残された最後の、そして唯一の体面
を維持するための権限であったのである。 10
このようなムガル皇帝の出した勅令が現在何故KLにあるマレーシア・イスラーム博物館
に所蔵されるのかについて、残念ながら筆者は何の情報も得ていない。少なくともこの勅
令を出したムガル皇帝シャーフ=アーラム2世々この勅令を受け取った英国人エルフィン
ストーン(1776-1828)が現在のマレーシアやその国民と歴史的に直接の関係があったとは
認められない。おそらくは欧米での競売に掛けられた勅令が落札・入手されたものではな
いかと思われるが、詳しくは今後の調査に待ちたいと思う。
2005年3月のマレーシア調査では、KLの他、KL近傍のスランゴール州都シャーフ・ア
ーラムとマラッカを訪ねた。シャーフ・アーラムはKL中央駅からKTMコミューターの電車
で約30分の距離にある新しい町で、コミューターの駅付近は何の施設もなく不便である。
やむなくタクシーで町の象徴である大マスジドへ向かった。別名を英語で「ブルー・モス
ク」とも言うここのマスジドは正式名を「マスジド・スルターン・サラーフッディーン・
アブドゥルアズィーズ=シャーフ」(aui
jj w]│ lie (jjaSIこX-●Jl似し.
^*>..
−)といい、
1988年3月11日(1408年ラジャブ月22日)に開館された、最大2万4千人を収容できる
建物である。「スルターン、サラーフッディーン・アブドゥルアズィーズ=シャーフ」はペ
ルシア語風の、現在のスランゴール・ダールルイフサーン州のスルターンの名前であり、
建物の中央に聳える大ドームは地上から350ft
(約105m)、直径170ft
(約51m)の規模
を持ち、表面はエナメル・ガラスを吹き付けた三角形の鋼板で覆われており、蒼地に白い
9英国Cambridge関係のウェブ・サイトであるJanusの情報によれば、この人物は、第H代エルフィン
ストーン卿の3男で、Bengal Civil Service の任にあった。1828年8月1日没。墓は大西洋上のセント・
ヘレナ島にあるという。
10本文に名前の出てきたベンガル総督スィラージュッダウラ(もjJI
どji≪)やアワド州長官シュジャーウ
ッダウラ(褐JI 砂μ)さらに後世ニザーム藩王国の名祖となったニザームルムルク(
cilUトU^)などの
称号の存在を考慮すると、ムガル帝国ではこれらの古めかしい称号が現実に使用されていたらしい。
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網目のデザインで、映える地のコバルト・ブルーが「ブルー・モスク」という別名の由来
である。 ドームの四方にはバルコニーが3個付いた尖塔型のミナーレが聳え立ち、その高
さは460ft (約138m)である。ドーム下部の周囲にはエジプトの書家ジャイブ・アブドゥ
ルムンイム・ムハンマド・アワー・アッシャルカウィー((_5
瓦μ謳よ一一り心all
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の手になる聖典『クルアーン』の章句が書かれている。
このマスジドはマレーシア最大の規模を持つ有名な建物で、マラッカなどで見られる伝
統的な様式ではなく、現代的な、また中央アジア今西アジアの影響を含めた、汎イスラー
ム的とも言ってよい諸地域文化折衷的な形態をとっているが、これこそが現代のマレーシ
アのイスラーム文化を代表するマスジドなのである。マレーシアのイスラーム文化、及び
イスラーム文化一般に関心のある研究者はぜひ訪れるべき建物であると思う。このマスジ
ドも無論絨毯の敷かれた礼拝室本体への異教徒の立ち入りは許されず、入口の受付で記名
した上で、見学することができる。(写真3,4,5参照)
4.
2008年9月のマレーシア訪問
以上のような3度の訪問を経て、2008年9月にフィールドワークの授業でマレーシアを
訪ねた。訪れた場所は、KL,マラッカ、シャーフ・アーラムでは2005年の時とほぼ同じで
あり、重複する場所については繰り返さない。
KLのイスラーム博物館でも展示の内容は大
きく変わっていなかった。上でも述べたように、この時はラマダーン月の真最中で2階の
レストランは閉まっており、筆者は展示を見終えてショップで土産物を買うと、空腹を抱
えてマスジド・ヌガラ脇からクアラリレンプール鉄道駅へ向かい、KTMコミューターで1
駅乗った後、KL中央駅構内の人目に付かないクイ・レストランの奥で遅い昼食を取った。
KLではまた、これまで訪れていなかった「マスジド・ジャーミウ」を訪ねた。このマス
ジドはプトラLRT、スターLRT両路線のマスジド・ジャメ(Masjid
Jamek)駅に近く、近代
都市KL発祥の地とも言われる便利な場所にある。建物は小規模だが浦洒で、イスラーム建
築の専門家である深見奈緒子氏によれば、「ムガル朝インドの建築と中世スペインのイスラ
ーム建築がミックスした形J
"であり、マレーシアがイギリスの植民地であった1909年に
イギリス人の建築家A玉Hubbockにより建てられたという。筆者がこのマスジドを訪れ九
時は、暑い日の昼下がりで、絨毯の敷かれた礼拝室前の、屋根があって周囲に柱が立ち並
ぶ、開放的で風通しのよい大理石張りの床上には、インド系らしい男性の労働者たちが大
勢思い思いに横だわって昼寝をしていた。
シャーフ・アーラムのスルターン、サラーフッディーン・アブドゥルアズィーズ=シャー
フ・マスジドは観光バスで訪れ、隣接する敷地内の博物館(
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を見学後、生憎の雨の中学生諸君とマスジド本体の建物を見学した。(9月4剛博物館の
名前になっている「スルターン、アーラム=シャーフ」は現在のスルターンの父君(故人)
スルターン、フサームッディーン・アーラム=シャーフ(
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のことである。ここの博物館は、KLの国立博物館と似て、自然史、民俗的な展示品が多い。
ペナン島のジョージタウンの町は、今回初めて訪れたが、直前の2008年7月にジョージ
11深見奈緒子『世界のイスラーム建築』(講談社現代新書、2005年)254-6頁。
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タウンはマラッカと共にその旧市街が、世界文化遺産に選定され、それを祝う垂れ幕など
が見られた。ペナン島もマラッカやKLと並んで、華人人口比率が高い町であるが、「カピ
タン・クリン・マスジド」(Masjid Kapitan Kling)という由緒あるマスジドも残っており、
今回は時間がなくてできなかったが、再訪する機会があれば、このマスジド入口の刻銘文
を調査してみたいと考えている。
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写真1 2005年3月マラッカのカンポン・クリン・マスジド
写真2 通りから見たカンポン・クリン・マスジドとミナーレ
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写真3,
4 (上・下)シャーフ・アーラムのスルターン・サラーフッディーン・アブドゥルアズィーズ=
シャーフ・マスジドのドームとカリグラフィー、2005年3月
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写真5 2008年9月のシャーフ・アーラムのマスジド、礼拝室入口へ続く回廊
写真6 2008年9月、KLのマスジド・ヌガラ内部。正面にミフラーブが見える。
−Ill
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