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第十二章 『古代・中世のイスラーム』 イスラーム その伝播の展望

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第十二章 『古代・中世のイスラーム』 イスラーム その伝播の展望
第十二章
イスラーム
『古代・中世のイスラーム』
その伝播の展望
イスラームはその名が示すとおり『唯一の神』への『服従』を意味する。イスラームは
622 年のヒジュラを始めとして中東地域、アフリカ北部、中央アジア、現在のスペイン方
面へと広がっていった。現在イスラームが支配的な地域は草創期ないし古代にイスラーム
が伝播した地域にインドネシア、インド北部、トルコ共和国やバルカン半島の一部を加え
たものである。後述する諸次元において地域差は多々あるが、しかし、どの地域において
も『クルアーン』の重要性は共通したものである。この『クルアーン』は正統アラビア語
(フォスハー)で書かれており、ゆえにイスラーム教は強いアラブ文化の要素を持つので
ある。
アッラーの使者の生涯
『預言者』ムハンマドは 570 年にメッカに生まれたとされる。当時メッカは東西交易の
要所として繁栄し、カァバ神殿を有する(多神教の)聖地であった。ムハンマドが強烈な
宗教経験を受けて『アッラーの使者』としての道を歩みだしたのは 610 年のときであった。
しかし彼の教えは主に『多神教の排斥』と『全能の神の裁き』という二つの理由で歓迎さ
れなかった。彼は 620 年に北方のメディナに紛争解決のために招かれ(聖遷)、外交手腕と
アッラーの教えをもってこれを成し遂げた。それにより彼は急速にその力を高め、630 年
にメッカを無血征服してアラビア半島全域にその名を轟かせたが 632 年死亡した。
ムハンマドはムスリムにとっては完全で理想的な人間であり、彼の言行録『ハディース』
は実質的に『クルアーン』に告ぐ第二の経典となっている。
預言者と啓示の次元:大天使ジブリール(熾天使ガブリエル)による最初の啓示。預言者
ムハンマドが死に際してエルサレムの上空へ飛行し、神殿から昇天した『夜の飛行』。そし
て何より『クルアーン』の作成などが挙げられる。
特に『クルアーン』はキリスト教の
『聖書』以上にムスリムにとって重要である。神の属性の一つは言葉(正統アラビア語)
であり、アラビア語以外の『クルアーン』はありえない。その意味では『神』は正統アラ
ビア語(フォスハー)で考えるのである。それゆえクルアーンを他言語に翻訳することは
不可能(もちろん技術的には何の問題も無いのだが)であり、英語や日本語でクルアーン
を読む場合はアラビア語版に対する注釈、解説という形をとるのが一般である。
儀礼の次元:日の出前、正午過ぎ、午後、日没後、就寝前の五回、定例化された動作と呪
文による礼拝。ラマダンの月の断食、一生のうち一回は『カァバ神殿』への巡礼。信仰告
白、ザカート(救貧税)の支払いなど。これらは全イスラーム共同体の統一を思い起こさ
せるものとなっている。
経験の次元:預言者ムハンマドの幻視、アッラーの神霊的な力が共同体に強烈な刻印を押
した。(神の絶対性を強調)
倫理的次元:
『シャリーア』というイスラーム法の存在。預言者自身の言行録『ハディース』
を模範とした倫理体系
制度の次元:ムスリム全体(ウンマ)を一つの国家として認識。カリフと呼ばれるムハン
マドの後継者の元に団結すべきであるという理論の存在
教義の次元:創造主たる『神』の唯一性(この点でキリスト教の"三位一体"と対比をなす)
。
物語の次元:アダムとエヴァ以来のユダヤ、キリスト教の預言者(アブラハム、ヤコブ、
キリスト)等の系譜を含むムスリムによる人類史理解の物語。
草創期以後:古代イスラームの形成
ムハンマドの死後、後継者争いが勃発、その後、アブ・バクルが初代正統カリフ(後継
者)になり、ウマルが二代目となった三代目正統カリフ・ウスマ―ンがそれを継ぐが、暗
殺される。その後、アリー(四代目正統カリフ・シーア派初代イマーム)がカリフを宣言
するが、この時点で分裂が起こる。アリーは暗殺され、その遺児フサインも戦死(シーア
派最初の殉教者とされる)する。ウマイヤ朝の崩壊後、アッバース朝が成立。イスラーム
文化は栄光の時代に入るが、競合的なカリフが擁立され帝国の分裂が始まる。北アフリカ
にはカイロを首都としてファーティマ朝が、スペインには後ウマイヤ朝が出現する。
この時代、三つの大きな変化が起こる。一つはアリーの子孫に忠誠を尽くし、スンナ派
と敵対するシーア派が離反したこと。もう一つはギリシャ哲学がイスラーム世界に持ち込
まれたこと。最後に『瞑想』をイスラームに持ち込んだ『神秘主義者』
(スーフィー)の出
現である。
イスラーム神学の展開
『クルアーン』の永遠性を認めない。合理主義的な思想を用いた「ムーラジラ派」の出
現。アシュアリーによるスンナ派の系統立て。
スーフィーの普及
禁欲的な修行と神秘学的な瞑想をもって神との合一を図ろうとする人々。正統派からは
神に対する冒涜と受け取られたが、ガザーリーの擁護等によって次第に認められ、イスラ
ーム教の布教(特に中央アジア)において重要な役割を果たした。
イスラーム法の発達
『クルアーン』、
『ハディース』等を基本とした法体系が 10 世紀無いし 1 世紀ごろまでに確
立。法は対象とする行為を 5 つの範疇に大別していた。
ジハード(聖戦)
信仰のために戦うという意味だけでなく、多神教との戦い、キリスト教徒にムスリムの
大権を認めさせるために戦うことを義務とみなしていた。
シーア派の台頭とイマームの概念
イランやイラクで有力であり、イスラーム教徒のおよそ 1 割を占める宗派。イマーム(宗
教的指導者)の理論について多数派(スンニ派)と異なる。カリフ制は早い段階で腐敗し、
生きている系譜は『イマーム』の流れだけだとする。7 代目以降の『イマーム』は雲隠れ状
態であり、世の終末に再臨すると考えられている(マフティー)。
こういった考えや殉教者フサインなどの諸要素がシーア派に神秘主義的な要素を持たせ
前述のスーフィー達がスンニ派、シーア派両共同体を横断する形になった。
シーア派イスマイール派
エジプトにファーティマ朝を創設。アズハル大学が創られ華麗な時代となった。イスマ
イール派の全体系は秘密の知識に依存し、達人の地位を体系化していた。
イスラームの支脈
ドルーズ派・アラウィー派
ドルーズ派:自らを神とみなし、スンニー派、ユダヤ教徒らを迫害。レバノン等において
有力であった
アラウィー派:北西シリアにおいて、シーア派の流れを組みつつキリスト教の諸観念・諸
行事を多大に取り入れた人々
いずれの例も少数派だが、イスラームが他宗教と融合した稀な例である。
中世のイスラーム:スペインのイスラーム:イブン・ルシュドとイブン・アラビー
イブン・ルシュド(アヴェロエス):13 世紀スペインーイスラーム混合文化を代表する
人物。アリストテレスの著作の編纂・注釈に力を注いだ
イブン・アラビー:セビリヤで勉強し、その後スーフィズムに強い関心を持つ。クルア
ーンを含め、物事を深層的に解釈する必要性を説いた。
モンゴル襲来以後:ティムール帝国・ムガル帝国・オスマン帝国
13 世紀にチンギス・ハン率いるモンゴル帝国によりイスラーム世界は大打撃を受けるが、
やがて彼の後継者の一部はイスラームに改宗した。中央アジアはティムールによって席巻
された。インドではバーブルによってムガル帝国が設立され、ごく短期間ではあるが、ヒ
ンドゥー教と共存した。小アジアに出現したオスマン帝国はアナトリアに進出、一時ティ
ムールに敗れるも、最終的にビザンツ帝国を滅ぼしバルカン、エジプトを含む広大な領域
を支配下に置いた。インドネシアとマレーシアにもイスラームは浸透した。インドやオス
マン帝国内では建築や能書が栄えた。
中央アジアのイスラーム
ティムールの時代に中央アジアは完全にイスラーム化されたが、その大きな担い手はス
ーフィーであった。インドにおいても同様で、スーフィー達は土着の儀礼的次元を取り入
れつつ社会の中に溶け込んでいった。
中世イスラームの諸次元
儀礼の次元:土着の宗教の影響により、聖者の墓所の神聖性が重要になった
宗教経験の次元:宗教経験を消滅、あるいはそれを超越した何かに求める人々と伝統的な
イスラームの捉え方をする人々の間に緊張があった
法的・倫理的な次元:中世的に様々な変形があったが、マドラサの世界は比較的一様であ
り、アズハル大学などの権威はあった。
教義面:きわめて豊かな哲学的多様性が花開いた。イブン・ルシュドの合理的思想や、歴
史家イブン・ハルドゥーンの世界終末問題など。
制度的次元:基本的に聖職者階級や中枢的階級制度は無かった。ただし、オスマン帝国は
信仰の中心的な人物を多く動かした。
宗教的芸術・有形文化の次元:モロッコからインドネシア、ムガル帝国、オスマン帝国に
おいて詩、能書、建築など多様な文化が花開いたが、安定性に乏しかった。
疑問点1
草創期においてイスラームはキリスト教をはるかに上回る速度で浸透・標準化され、イス
ラーム帝国もアッバース朝からオスマン帝国に至るまで恐竜的進化を遂げたが、その最大
の要因は何であったか?
疑問点2
『クルアーン』は速やかに、少数の手によって編纂され、新約聖書が抱える問題を持ち得
なかったが、逆に速やかに編纂され、かつ内容が一貫するが故に持ちえる問題があるとす
れば、それは何か?
疑問点 1 に対して
イスラーム、およびイスラーム王朝が強大な力を比較的短期間で手に入れた理由の一つが
アラビア半島の国際性にあると思われる。預言者ムハンマドが生まれたメッカや、初期ウ
ンマの本拠地となったメディナは当時からシルクロードを通じた東西貿易の中継地として
栄えており、アラブ人、ペルシャ人、ソグド人といった多種多様な人種が行きかっていた。
メッカを訪れた彼らがイスラームに改宗していったとしたら、信仰を早い段階で拡散させ
ていける。そして、イスラームが彼らの信頼を勝ち得たのは、ムハンマドの手腕もさるこ
とながら、その公平性にあったと私は推測する。
当時の古い貿易スタイルが現在も東トルキスタンの一部に残っている。そこには、売り手・
買い手の間を取り持ち、どちらにも過剰な利益、不利益が生じないように取り計らう"仲介
人"という存在がいる。彼らはイスラームの信仰に基づき、貿易を円滑で公平に進めるのだ
と語る。このように"商業"との折り合いが比較的容易であったため、商業行為をあまり奨励
しないキリスト教カトリックよりも早い段階で多くの信者と巨大な帝国を持つことができ
たのではないだろうか。
疑問 2、及び第 20 章レジュメ『闇を抜けるイスラーム』、疑問その1に対して
クルアーンが持ち得なかった問題とは、いわゆる宗教的な解釈の問題である。中世神学に
おいては、しばしば聖書の解釈において対立が生じたが、クルアーンは比較的そういった
問題を起こさなかったようである。しかし、復古主義的のタカ派、俗に言う"原理主義"はキ
リスト教世界と同様に問題をはらみ、事イスラーム世界は政治的不安定さからイスラーム
原理主義を掲げたテロ組織の存在が世界を揺るがしているのが現状である。内容の一貫性
は、ともすれば機械工学や量子力学といった 20 世紀の先端技術の受け入れにとってマイナ
スに働くこともあり、その点でも貧しく政治的に不安定な中東の小国の発展を妨げる可能
性がある。
このような現代科学と共存する第一条件は、その恩恵を国民が実感できる環境である必要
がある。人はすがるものを求めて宗教を生み出したわけであるから、科学技術によってそ
れが達成されるなら、科学を享受し、かつ宗教を信奉することは十分可能である。しかし、
現実、植民地時代以降も多発した内戦や外国の干渉によって未だ低レベルの経済発展しか
果たしていない国家も少なくなく、これらの国が科学と宗教をどのように受け止めていく
かはまだ予測できる範疇に無い。
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