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南シナ海の波濤を越えて中国へ

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南シナ海の波濤を越えて中国へ
14世紀の世界旅行 イブン・バットゥータをめぐるユーラシア世界 第3回
南シナ海の波濤を越えて中国へ
早稲田大学特任教授 家 島 彦 一
れたが、そのかわりに3年近くにわたって、モルディ
はじめに
ブ諸島、スリランカ、南インド、ベンガルなどのイン
イブン・バットゥータの旅は、デリーでの8年間の
ド洋交易の要衝地を歴訪する機会に恵まれた。そし
滞在のあと、アラビア海に面した港市キンバーヤ(現
て、ついにベンガルの港市スナルカーワーン(現ダッ
キャンベイ)に出ると、船でインドの南西海岸を南下
カの南東)で、スマトラ島に向けて出港しようとして
し、マラバール海岸のカーリクート(カリカット、現
いた一艘のジャンク船を見つけた。
このジャンク船は、
コジコーデ)に達する。今回の旅の目的は、トゥグル
おそらくスムトラ(スマトラ)
・パサイ王国の王の所
ク朝第2代目のスルタン=ムハンマド・シャー(在位
有する船と考えられ、中国の広州もしくは泉州(ザイ
1324/5 〜 51)の命により国家使節団の随員として、
トゥーン)で建造されたものであろう。イブン・バッ
中国元朝の皇帝へ親書と贈物を届けることにあった。
トゥータは、
このあとのスマトラ島から中国への航海、
使節団には中国皇帝の使節一行も同行し、多数の軍隊
そして中国に滞在のあと、泉州から船出して、ふたた
によって護衛されていたので、無事・安泰な旅のよう
び南シナ海を下り、スマトラ島経由、カーリクートに
に思われたが、デリーを出てまもなく「異教徒」たち
戻る際にも、
同じ王国のジャンク船を利用した。当時、
の攻撃に遭って捕らえられ、さらにアラビア海では海
スムトラ・パサイ王国の王が出資し、中国で建造され、
賊の急襲をうけて、財産も衣服もすべて奪われ命から
中国系やマレー系の船員たちの乗り組むジャンク船が
がら逃げまどった。最大のトラブルは、カーリクート
南シナ海・マラッカ海峡・ベンガル湾の海域で広く活
において、出港準備を終えたジャンク船団を突如とし
躍していたことは興味深い点である。
て大嵐が襲い、使節団の乗った船の多くが座礁・大破
南シナ海の航路は、
すでに西暦紀元前後のころから、
したことであった。このとき、特使として派遣された
東南アジアと南中国を結ぶ重要な交易路にあたってい
代表者の2人が溺死し、中国皇帝に贈る積載の荷物も
たが、西沙・南沙の群島とミンダナオ南西部の島々が
含めて所持品のほとんどが失われた。このような危機
点在して座礁・難破の危険性が高いことや、台風と竜
的状況のなかで、イブン・バットゥータは旅を続行す
巻がひんぱんに発生する危険な海域であるため、この
ることがもはや不可能であると判断し、一度はデリー
」
、
またスールー(スル)
海は「波の沸き立つ海(漲海)
に戻ることを決意した。しかし、スルタンによる厳し
海のような珊瑚礁に囲まれた海域は数十日にわたって
い咎めを恐れた彼は、嵐を避けて沖に避難したジャン
風がまったく停止するため「凪の海」
「澱みの海」と
ク船を捜索して、南西海岸の諸港を南に北にめぐるこ
呼ばれて、船乗りたちは海の難所として恐れていた。
とを決めた。持ち物のすべてを失い、一人の随行者も
イブン・バットゥータは、マラッカ海峡に面したス
ない絶望的な状況にあったが、彼は未知の国、中国を
ムトラ・パサイ王国で、南シナ海を北上航海するのに
旅したいという強い憧れを抱きつつ、あらゆる機会を
必要な季節風を待って半月間滞在のあと、ふたたび
とらえて中国に達するルートを探り続けたのである。
ジャンク船に乗ると、34日のあとに凪の海、澱みの海
連載の第3回では、イブン・バットゥータが南シナ海
と呼ばれる海域に入り、さらに37日間の航海を続ける
を経て、中国に至った旅について考えてみよう。
と、やがて謎の国タワーリスィーに着いた。タワーリ
とが
ちょう
よど
スィーとは、そこに君臨する王に由来する名前で、イ
凪と嵐の海、南シナ海
ブン・バットゥータの船が投錨したのはその国のカイ
失意 の う ち に カ ー リ ク ー ト を 出 た イ ブ ン・ バ ッ
ルーカリーと呼ばれる港町であった。町を統治するの
トゥータは、さまざまな事情から中国行きは大幅に遅
は、勇猛な王女で、招待を受けて挨拶すると、トルコ
− 19 −
当時の泉州がエジプトのアレク
サンドリア、スーダーク(黒海
のスダク)
、
インドのカーリクー
トとカウラム(カヤンクラム)
とならぶ「世界の五大港」の一
つで、
「まちがいなく[それら
のなかの]最大のものであり、
私は実際にその港で約100艘の
大型ジャンク船を見た。さらに
小型船にいたっては、多くて数
えられないほどであった」とそ
の港の隆盛ぶりを伝えている。
ようやく中国に到着したイブ
ン・バットゥータは、とにもか
くにも王都ハーン・バーリク
(大
都、北京)に至り、元朝の皇帝
に謁見し、インドのスルタン=
ムハンマド・シャーの親書の内
容を直接伝えたい気持ちが強
かったと思われる。そこで、彼
は泉州の税関長(提挙市舶)を
通じて、国内旅行の許可と皇帝
に謁見したい旨を伝える書簡を
ハーン・バーリクの皇帝のもと
「最新世界史図説タペストリー 六訂版」 p.27(14 世紀ころ)
に送った。幸いにも賓客待遇で
迎えるとの皇帝の返答を得る
語を喋ったという。イブン・バットゥータは、中国を
と、スィーン・カラーン(広州)を訪れたのち、内陸
訪問のあと、泉州を離れてスマトラ島に至る復路の航
運河を北上してカンジャンフー
(建昌府もしくは福州)
、
海でも同じ海域で大嵐に遭い、その国の近くを通過し
ハンサー(杭州)などのムスリムたちの多く住む都市
ているので、おそらくインドシナ半島、ボルネオ島か
を歴訪し、ついにハーン・バーリクまで至った。
フィリピンの島々のどこかにあったと思われるが、確
イブン・バットゥータによる中国の記述は、元朝の
かなことはわからない。
交通・行政制度、都市の構造、市場の賑わい、陶磁器・
織物・工芸品などの産業、紙幣(交鈔)の使用、豚肉
元朝支配下の中国
の食習慣や中国ムスリム社会の様子など、多くの貴重
タワーリスィー国から出帆し、順風に恵まれ、南シ
な情報にあふれている。しかし、中国における旅の感
ナ海を17日間、北上航海のあとにザイトゥーン、すな
想について、イブン・バットゥータは「中国地方は、
わち泉州に着いた。泉州は、中国福建省東部の晋江の
国としてはまことに素晴らしいところだが、私にはな
北岸、泉州湾の奥に位置する港市で、元朝の時代には
るほど素晴らしいと感じさせるものがなく、異教徒た
広州をしのぐ中国第一の外国貿易港として賑わい、イ
ちが中国の絶対的支配権を握っているため、私の心は
スラーム教・キリスト教・ユダヤ教・ヒンドゥー教な
いつも[不安と恐怖で]激しく動揺していた」と語り、
どのさまざまな外国商人たちが集まって、
「蕃坊」と呼
それまでに自由気ままな旅を楽しんできた彼には、た
ばれる居留地に住んでいた。イブン・バットゥータは、
とえ国費により安全で立派な待遇を受けたにせよ、人
− 20 −
の行動をつねに監視され、自由な移動を許さない中国
と考えることもできるが、イブン・バットゥータは20
の厳しい国家体制が好きになれなかったと告白してい
年近く以前に起こった内乱事件について、なぜ彼が実
る。そうしたなかで、彼がハーン・バーリクへ向かう
際に目撃したかのように語っているのか、大きな疑問
旅の途中、思わぬ人との劇的な出会いがあり、はらは
が残る。
らと感激の涙を流したひとときがあった。カンジャン
イブン・バットゥータは元朝の皇帝に謁見するとい
フーに滞在していたときのこと、中国ムスリムたちの
うかねての念願を果たすことなく、騒乱拡大の危険を
あいだで名声の高いキワーム・ウッディーンという法
避けて、急遽、泉州に戻った。そのあと、ジャンク船
学者の所有する豪華な船一艘が着いた。その人はイブ
に乗ってスマトラ経由でインドのカーリクートに達し
ン・バットゥータの故郷の町タンジールからほど近い
た彼は、一度はデリーに戻ることも考えたが、スルタ
セウタ(サブタ)の出身者であり、しかも彼とはすで
ン=ムハンマド・シャーによる叱責を恐れたため、ダ
に10年ほど前にインドで出会い、人並み優れたマーリ
ウ船に乗り換え南アラビアのザファーリ、オマーンの
ク派法学の学識者であることを知っていた。彼との再
諸都市、ホルムズ経由、さらに陸路イランとイラクを
会の瞬間について、イブン・バットゥータは「ふと心
とおってシリアのダマスカスに至り、そしてメッカ巡
によぎるものを感じたので、その人をじっと見つめて
礼を果たしたあと、帰国の途についた。
いた。すると、 その人は『まるであなた様は、 このわし
『大旅行記』の信憑性をめぐる議論
のことをすでにお見知りのごとくご覧になられている
が』
と言った。そこで私は『どこのお国のご出身でしょ
イブン・バットゥータの旅は、長く滞在していたイ
うか。 あなた様は』と質問した、『セウタの出身です』
ンドとモルディブ諸島を離れ、ベンガル湾を経て中国
と彼は答えたので、『この私は、タンジールの出身です』
に近づくにつれて、しだいに現実と虚構とが入り交じ
と言うと、彼は改めて私に挨拶しながら涙ぐんだので、
る「驚異(アジャーイブ)の世界」に踏み込んでゆく。
私の方も彼につられてもらい泣きするほどであった」
中国に至る旅の行程がきわめて曖昧であることや、犬
と述べている。 おそらく、 2人は遠い故郷を懐かしみ
の口を持った全裸人の住む島に続いて、女人国伝説に
つつ、マグリブ方言のアラビア語で心ゆくまで打ち解
類するタワーリスィー国、澱みの海や嵐の渦巻く未知
けて語り合い、旅の疲れを癒したことであろう。
の海、巨鳥ルフなどの奇談がつぎつぎに語られたり、
広州や泉州と並ぶ外国貿易の中心として繁栄した杭
また当時の元朝の皇帝をトゴン・テムルとすると、そ
州を出たイブン・バットゥータは運河を北上して、や
の死去の年は1370年であって、
『大旅行記』の編纂年
がてハーン・バーリクに到着した。しかし、ちょうど
次(1356年)より大幅にあとになるなど、疑問とすべ
時の皇帝とその従兄弟のフィールーズ(ファイルーズ)
き点は多い。そこで、果たして本当に中国まで来たの
との間に政権をめぐる激しい抗争が起こり、皇帝が敗
だろうか、と疑る研究者も少なくない。この問題につ
れて殺害されたため、中国国内は騒乱状態に陥ってい
いて、私は、①おそらく彼はインド南西海岸、モル
た。イブン・バットゥータのハーン・バーリク到着を
ディブ諸島とスリランカをめぐったあと、カーリクー
1345年もしくは46年とすると、その時の元朝皇帝は順
ト経由で帰国の途についた、②東南アジアと中国の情
帝トゴン・テムル(在位1333 〜 70年)であったこと
報はおもにデリー滞在中にスムトラ・パサイ王国と元
になる。史実では、順帝は1368年、明朝の北伐軍によっ
朝の使節団や商人たちから得たのではないか、③編纂
て大都を追われ、配下のモンゴル軍団を率いて内モン
者であるイブン・ジュザイイは文学者としての関心か
ゴルの応昌へ退却し、1370年にその地で他界したこと
ら、
「驚異」にかかわる逸話や奇談の蒐集に興味を抱
になっている。いっぽう、イブン・バットゥータはそ
いていたことなどの点を指摘したい。しかし、
イブン・
の皇帝は敗れて殺害されたと記録しているので、当然、
ジュザイイ直筆による『大旅行記』のパリ写本(後編、
順帝トゴン・テムルとは別の皇帝でなければならない。
1356年2/3月筆写)
が現存しているかぎりにおいて、
一つの推論として、中国の全土を巻き込んだ騒乱を
彼の記録内容が14世紀半ばのものであることに疑いの
1328年、元朝の泰定帝イスン・テムル(在位1323 〜
余地はなく、その点で史料的価値を損なうものではな
28年)の没後に起こった内乱、いわゆる「天暦の内乱」
いと考えている。
うたぐ
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