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マッカ事件の回顧 - ワッハーブ派の系譜学
研究シンポジウム:30年の後 セッション6 「マッカ事件の回顧 - ワッハーブ派の系譜学」 同志社大学神学部 中田考 序. 本発表の目的は、マッカ事件の首謀者ジュハイマーン・アル=ウタイビーの思想を手掛かり に「ワッハーブ派とは何か」を考えることにある。 ジュハイマーンの論文集を編集したリファアト・サイイド・アフマドは、ジュハイマーンを 総論的にはワッハーブ派に属すと述べた後で、以下の5つの見解を特殊ジュハイマーン的思想 として挙げている。 (1)イスラーム国家が政府と異教徒の同盟国との政策に反する場合にイス ラームに敵対している。(2)サウディ政府はジハードを怠り、異教徒の外国と同盟している。 (3)異教徒の国と外交関係を結んでいる以上、ジハードは不可能。 (4)映画、遊興施設があ る限り勧善懲悪委員会は不在、 (5)シャリーアと預言者のスンナを施行していなければ首長権、 忠誠の誓いは無効。① このリファアトの分析は、そもそもワッハーブ派の思想とは何かが分かっていないため、全 く的外れに終わっている。そこで先ず次章では、ジュハイマーンを手掛かりにワッハーブ派と は何かを考える。 1 ジュハイマーンとイフワーン ジュハイマーンの祖父は、1929 年のシビラの戦いで殲滅されたイフワーンに属していた。② 人的系譜からは、ジュハイマーンを首謀者とするイフワーンは、アブドルアズズィーズ王が創 設したワッハーブ派の宣教屯田兵イフワーンの系列にあり③、それゆえしばしばネオ・イフワ ーンとも呼ばれる。 アブドルアズィーズに反旗を翻したイフワーンは屯田兵集団であり、叛乱を正当化する明白 な思想を持っていたようには思えない。主な理由はアブドルアズィーズ王が異教徒の外国と和 平を結びジハードを終結させ、イフワーンに徴税を始めたことにあったようである。 マッカ事件を引き起こすに当たって理論武装していたジュハイマーン/ネオ・イフワーンと違 いイフワーンには明確な理論はないが、ワッハーブ派の政治理論とアブドルアズィーズの建国 した(第3次)サウディアラビア王国の国家理念を比べることで、イフワーンの叛乱の思想的 原因はほぼ理解できる。 2 ワッハーブ派の国家原則 ワッハーブ派の国家原則は、 (1)ジハード(聖戦)による宣教、 (2)サウード家の王政の承認、 (2)無課税財政、に纏められるが、この 3 つの国家原理は以下のサウディアラビア王国の「建 国神話」イブン・サウードとムハンマド・ブン・アブディルワッハーブの政教盟約の中で既に ① cf., Rifÿat Saiyid A∆mad(ed), RasŸ±il Juhaim±n al=ÿUtaibμ, Cairo: Maktaba Madbπlμ, 1988, pp.13-15. ② Cf., ibid., p.11. ③ cf., Abπ al=Bar±Ÿ Murshid bn ÿAbd al=ÿAzμz bn Sulaim±n al=Najdμ, al=Kawashif al=Jliya fμ Kufr al=Daula al=Saπÿdμya, London,1994, pp.247-253 研究シンポジウム:30年の後 セッション6 明言されている。 「(イブン・サウードは言った)『私は貴方とその命を奉じタウヒードに背く者と戦いましょ う。ただ、貴方に対して 2 つのお願いがあります。もし我らが貴方を助け,アッラーフの道に 戦い、アッラーフが我らと貴方に諸国を征服させ給うた時、私は貴方が我々を捨てて、他の者 をして我々に替えられるのではないかと恐れます。2 つ目(の願い)というのは、私には現在ダル イーヤ地方の住民から果実収穫時に徴収している租税収入(q±nπn)があるのですが、貴方が住民 からは何も取ってはならないと私に命じるのではないかと心配しています。』そこでイブン・ア ブディルワッハーブ師は答えた。 『第 1 の願いに関しては、貴方の手を差し出しなさい。貴方の 血は私の血、貴方の死は私の死としよう。第 2 の願いについては、おそらくアッラーフが貴方 に征服地を与え、(現在得ている)租税(収入)以上の戦利品によって償って下さろう。』ここにイ ブン・サウードは手を差し出し、イブン・アブド・アル=ワッハーブに、アッラーフとその使 徒の教えを守り、アッラーフの道でのジハードを行い、イスラームの法を施行し、勧善懲悪を 行う誓いを立てた。 」④ 3 サウディアラビア王国の変質とジュハイマーンの批判 前章で見たワッハーブ派の国家原則と照合すると、アブドルアズィーズ王の建国したサウデ ィアラビア王国にイフワーンが叛乱を起こした理由が明らかになる。 先に述べた通り、イフワーンの不満は、アブドルアズィーズ王の異教徒とのジハードの放棄 と、それに伴う戦利品の消滅と課税にあった。そしてそれは(1)ジハード(聖戦)による宣教、 (2)サウード家の王政の承認、 (2)無課税財政、の3つの国家原則のうちの首長が行うべき 2つの原則(1)ジハードと(3)無課税が共に守られていないことであり、それはその原則 の遵守に伴う首長の統治の正当性という第2原則をも無効にするとみなされたのである。 この意味においてイフワーンの叛乱はワッハーブ派の国家原則を破ったアブドルアズィーズ 王に対する抗議であったと言うことができる。ところが、ジュハイマーンの議論は全く異なっ ている。 アル=ウタイビーによると、イマーム(カリフ)は①ムスリムであること、②クライシュ族の出 自、③宗教(イスラーム法)の実施の 3 条件を満たすことが不可欠である。さらにこの条件を満 たす候補者が、ムスリムたちの自由意志による忠誠の誓いを受けることによって初めて彼は正 当なイマームとなり、ムスリムには服従が義務となる。彼は当時のサウード王家がイマームの 3 条件のうち②クライシュ族の出自、③宗教の実施の 2 つの条件を満たさず、自由意志による忠誠 の誓いを得ておらず、単なる力による覇権によって支配しているだけであるため、イマームでは なく正当性を有さず、覇権を恐れて服従することも許されるが、廃位が望ましいと述べる。⑤ つまりアル=ウタイビーは、ワッハーブ派だけでスンナ派4法学派の全てが認める「霸者の統 治権」を認めない一方で、ワッハーブ派と異なりイマーム(カリフ)の条件にはクライシュ族の出 ④ ≈usain bn Ghann±m, T±rμkh Najd, Riyadh, 1403, pp.80-81. 別伝には「…貴方は一族の長であり尊貴な方である。貴方に誓っていただきたい―この宗教のた めに戦うこと、そして首長職とイマーム権は貴方と貴方の子孫に属し、宗教におけるシャイフ職と (預言者の)代理権は私と私の子孫に属すること、われわれが同意しないかぎり、いかなる決定も講和 も戦争もなされないことを。」(小杉泰、『現代中東とイスラーム政治』、昭和堂、1994 年、271 頁参照。) と述べたとあるが、現代サウディアラビアの歴史学者の中には、この伝承の信憑性を疑う者もあり、 シャイフ家が宗教的権威を世襲するとの条件が明示されたとは考えにくい。cf., ‘Abd All±h al-™±li∆ al-‘ Uthaimμn, T±rμkh al-Mamlaka al-‘Arabμya al-Saπ‘dμya al-ŸUl±, vol.1, p.86. ⑤ cf., Rifÿat, op.cit, pp.69-70. 研究シンポジウム:30年の後 セッション6 自が不可欠であるとしており⑥、これは取りも直さずクライシュ族の出身でなく武力により支 配領域を拡大してきたサウード王家の支配の根本的な否定に他ならない。 ジュハイマーンとネオ・イフワーンは、リファアトが挙げたような異教徒との外交関係樹立 によるジハードの放棄と綱紀紊乱のようなサウディ王家、あるいは政府に対する「不満」のレ ベルにおいてはイフワーンと共通する点も見られるが、サウディ王家の支配の正当性に関わる 国家論の根幹の部分においてワッハーブ派から完全に逸脱していたのである。 4 ワッハーブ派の理念 前章で見た通り、ジュハイマーンはワッハーブ派の国家原則を根底から否定していたが、そ れでもなお、ワッハーブ派に属すると看做されている。それは、国家原則より一段高いレベル ではなおジュハイマーンはワッハーブ派の理念に忠実であったと考えられているからである。 ではそのワッハーブ派の理念とは何であろうか。 イブン・サウードの知遇を得る以前のウヤイナ時代のイブン・アブド・アル=ワッハーブの 活動の中に既に、後のワッハーブ派の宣教の方向性を見て取ることができる。それは先ず(1) タウヒードの宣教であり、次いで(2)「善の命令と悪の禁止」の実践、そして(3)イスラ ーム法の厳格な施行、と纏めることができよう。 イブン・アブド・アル=ワッハーブの主著が端的に『タウヒードの書』と名付けられている ことに象徴されるように、タウヒード概念こそ、彼の宣教の本質を成す。イブン・アブド・ア ル=ワッハーブは真のイスラームとはタウヒードの実践、つまりシルクの峻拒にあるとし、そ れを犯すことによってムスリムがイスラーム共同体から「破門(mukhrij al-milla)」されるシ ルクの形態の解明に学的努力を傾注した。 彼の目に映った当時の「ムスリム」は、聖者に祈願を行い、最後の審判の日の執り成しを祈 り、聖者廟に参拝し、また霊験あらたかな聖木を祠るといった宗教生活を送っていたが、それ はタウヒードの否定であり「破門」に値するシルクにおいて他ならなかった。それゆえイブン・ アブドルワッハーブは自ら率先して聖者の廟を破壊し、聖木を伐採したが、それは「善の命令 と悪の禁止」の実践を意味した。「善の命令と悪の禁止」の実践が力に応じた義務であるため、 公権力に影響力を及ぼすことができるようになると、姦通を犯した女性に法定の礫殺刑を施行 させるに至っていた。 この3つの理念の土台になるのがタウヒード概念である。タウヒード(アッラーの唯一性) の語自体はありふれた用語であるが、ワッハーブ派のタウヒード概念の特徴は、それが徐々に 深まって完成に至る段階的なものではなく、シルク(多神崇拝)と二者択一的に把握されてお り、その判定基準が一義的に明らかであると看做されている点にある。そしてその判定基準と は、クルアーンとスンナの字義との一致であり、このタウヒード概念はイブン・タイミーヤと その弟子イブン・アル=カイイムによって理論化されたものである。 ジュハイマーンはクルアーンとハディースの重要性を論じた後、最も権威あるハディース修 正『アル=ブハーリー真正集』 『ムスリム真正集』の標準注釈の著者イブン・ハジャルとアル= ⑥ 建国以前のワッハーブ派の法学者アブー・バティーンは、クライシュ族の出自がイマーム(カリフ) の条件でありイブン・アブド・アル=ワッハーブもその追随者たちもその資格を欠くとの論難に対 して、イマーム(カリフ)位がクライシュ族の手を離れた以上、新たに選ぶならクライシュ族からイマ ーム位を纂奪したトルコ人の手からイマーム位をアラブ人の手に奪回するのが筋であると明言して い る 。 cf., Majmπ‘ al=Ras±’il wa al=Mas±’il al=Najdμya, Riyadh, 1409(h), vol.2(3), pp.168-169. 研究シンポジウム:30年の後 セッション6 ナワヌィーを「その信条において多くの間違いがある」と切って捨てた後、イブン・タイミー ヤとイブン・アル=カイイムを、「両名は真理を明らかにする導師(im±m±n mu∆aqqiq±n)であ り、彼らの著作は大変有益である」と絶賛し、彼らの著作は全て無条件に薦められると述べて おり、次いでムハンマド・ブン・アブディルワッハーブの著作を挙げている。⑦ ジュハイマーンが国家原則においてワッハーブ派から明確に逸脱しているにもかかわらず、 なおワッハーブ派とみなされるのは、彼がイブン・タイミーヤの定式化しワッハーブ派が継承 したタウヒードの教えに忠実だったからに他ならないのである。 5 呼び名の問題 ワッハーブ派はワッハーブ派と呼ばれることを嫌う。「ワッハーブ派」という呼び名自体は、 ムハンマド・ブン・アブドディルワッハーブに因んだ名であり特に悪い意味はない。ワッハー ブ派がワッハーブ派と呼ばれるのを嫌うのは、第一にワッハーブ派の名に、オスマン・カリフ 国以来「当代のハーリジー派」⑧として忌み嫌われてきた歴史が刻んできた蔑称としてのニュ アンスがこびりついているからであり、第二に、ワッハーブ派自信は、ワッハーブ派がムハン マド・ブン・アブドディルワッハーブによって創始された新しい党派ではなく、自分たちこそ が預言者ムハンマドのイスラームの使信を正しく継承しているとの自負による。超正統派とし てのワッハーブ派の現在の自称はアフル・アル=スンナ・ワ=アル=ジャマーア(スンナと連 帯の徒)であるが、これはアシュアリー/マートリィーディー派の自称、つまりスンナ派全体の 自称であり、元祖スンナ派、本家スンナ派のようなもので、紛らわしいため、しぶしぶ認める 呼び方がサラフィー(教父的伝統主義)である。 ムハンマド・ブン・アブドルワッハーブ自身に遡るなら、彼は研究者の間でしばしば遣われ るムワッヒィド(タウヒードの徒)という名称すら使っておらず、自称はただ「ムスリム」で あり、批判される対象は固有名を持たずただ「ムシュリク(多神教徒) 」と呼ばれている。 発表者は、ワッハーブ派が預言者ムハンマドの使信を継承する教父(サラフ)的伝統に連な ること自体を全面的に否定はしないが、やはりその思想内容には名祖ムハンマド・ブン・アブ ドディルワッハーブの学問形成の歴史性が色濃く反映されているためワッハーブ派と呼ぶのが 最も適切だと考える。 6 ハディースの徒 ワッハーブ派の主たる思想的源泉はムハンマド・ブン・アブドルワッハーブの属するハンバリ ー派のイブン・タイミーヤのタウヒード論であるが、近年注目されているのが、ムハンマド・ ブン・アブドルワッハーブの師の一人であったインド出身のハディース学者ムハンマド・ハヤ ー・アル=スィンディー(d.1750)の影響である。 ムハンマド・ハヤー・アル=スィンディーは法学においてはハナフィー派、スーフィズムに おいてはナクシュバンディー教団に属したが、当時のマディーナの指導的なハディース学者で あった。彼は有名なインドのイスラーム改革者シャー・ワリーユッラー(1762 年没)の兄弟弟 子にもあたり、John Voll が「18世紀のイスラーム革新・改革」と呼ぶ預言者のスンナへの回 ⑦ cf., Rifÿat, RasŸ±il Juhaim±n, pp.440-441. ⑧ オスマン朝期の最も重要な法学書であるイブン・アービディーン(1889 年没)著 Radd al-Muht±r(Multaq± al-Ab∆ur 脚注)はワッハーブ派を名指しで叛徒ハワーリジュ派と記している。 研究シンポジウム:30年の後 セッション6 帰を説く思想潮流に属していた。⑨ こうした思想潮流は「ハディースの徒(ahl al-∆adμth)」と呼ばれるもので、スンナ派4法学派 成立期には、 「自由推論の徒(ahl al-ra’y)」と対立し、後者が後に法学派としてハナフィー派に 結集したのに対して、マーリキー派、シャーフィイー派、ハンバリー派の3法学派を形成した。 そうした歴史的経緯から「ハディースの徒」にはハナフィー派は少なかったが、この「18世 紀のイスラーム革新・改革」以降、インドを中心にハナフィー派にも「ハディースの徒」が広 がることになった。その直接の成果が、スンナの厳格な遵守に基づくスーフィズムの改革を推 し進めたデオバンディー学派の成立であり、その記念碑的作品が Zafar A∆mad ‘Uthm±nμ(1974 年没)の I‘l±’ al-Sunan(スンナの高揚)である。⑩ 法学派成立期にあってはスーフィズムも後の教団組織はまだ存在せず、当時の「ハディース の徒」の教団所属を問うことは意味がなかった。スーフィー教団がイスラーム世界全域に広が っていた18世紀の歴史情況の下でイスラーム革新改革運動がスーフィズムの改革の形をとっ ており、ムハンマド・ブン・アブディルワッハーブが、ナクシュバンディー教団のムハンマド・ ハヤー・アル=スィンディーに師事したことは、後のワッハーブ主流派がスーフィズムを全面 否定するようになるのに対してムハンマド・アブディルワッハーブがその著作集の中で多神教 の批判の中でスーフィーの語を一切用いていないことを説明する有力な手掛かりとなる。 ムハンマド・ブン・アブディルワッハーブを18世紀のイスラーム革新改革を主導した「ハ ディースの徒」のムハンマド・ハヤー・アル=スィンディーの学統に位置づけることによって、 我々はワッハーブ派とデオバンディー学派(とその支流としてのターリバーン)などの南アジ アのイスラーム運動の付かず離れずの関係をより良く理解することができるようになると思わ れる。 7 ワッハーブ派のタウヒード論 ワッハーブ派の教義の中心はタウヒード論である。ワッハーブ派はイブン・タイミーヤに倣 ってタウヒードを(1)神性におけるタウヒード(taw∆μd i1ahμya)、 (2)主性におけるタウヒー ド(taw∆μd rubπbμya)、 (3)名前と属性におけるタウヒード(taw∆μd asm±’ wa-≠if±t)に分ける。⑪ イブン・タイミーヤは「多くの神学者は「主性」の側面のみにしか「一性(wa∆ad±nμya)」を認め ない。しかし使徒たちは神性における一性を宣教したのである。・・・中略・・・、多神教徒 たちは、それ(アッラーの主性)を全て認めていたにも拘らず「多神崇拝」(の大罪)を免れ なかったのであり、アッラーはクルアーンの中で彼等にその科(多神崇拝)を帰したのであり、 ⑨ Cf., John O. Voll, “Linking Groups in the Networks of Eighteenth-Century Revivalist Scholars The Mizjaji Family in Yemen” Nehemia Levtzion and John O. Voll(ed.), Eighteenth-Century Renewal and Reform in Islam Syracuse, NY ,1987,p p.69-93 ⑩ Muhammad Qasim Zaman, “Tradition and Authority in Deobandi Madrasas of South Asia”, Robert Hefner & Muhammad Qasim Zaman (ed.), Schooling Islam, Princeton-Oxford, 2007, pp.63-66. ⑪ ワッハーブ派の教義学は、この 3 つのタウヒード概念で整理される。例えば、ムハンマド・アル =サーリフ・アル=ウサイミーン『イスラームの信仰』イスラミックセンター・ジャパン 2003 年、 6頁参照。思想史的には、イブン・タイミーヤの思想体系においては、 「神名と属性におけるタウヒ ード」は「主性におけるタウヒード」の一部であり、タウヒードを三分法で整理したのは、イブン・ アビー・イッズ・アル=ハナフィー(1390 年没)の『アル=タハーウィー信条注釈』である。「神 名と属性におけるタウヒード」 研究シンポジウム:30年の後 セッション6 使徒一彼にアッラーの使徒もそれと闘ったのである。」⑫と述べ、アッラーが創造主であるこ とを認める信仰「主性におけるタウヒード」はムスリムがムスリムになる条件としては不十分 であり、アッラーのみに崇拝を捧げる「神性におけるタウヒード」こそムスリムと多神教徒を 区別するイスラームのメルクマールであるとした。そしてアッラーのみに崇拝を捧げるとはク ルアーンとスンナにのみ従ってアッラーを崇拝することであり、聖墓参詣などの聖者崇拝を行 う者は、アッラーが創造主であることを認めていてもムスリムではなく、多神教徒に過ぎない のである。 ムハンマド・ブン・アブディルワッハーブのタウヒードの宣教の特徴は、このイブン・タイ ミーヤの「主性におけるタウヒード」論に基づいていることにあり、聖墓参詣などの聖者崇拝 を行うムスリムを多神教徒とみなし、それゆえそうした多神教徒に対してはムスリムに対して は許されないジハードが許されるのみならず義務となるため、タウヒードの宣教がジハードと 結びつくことになるのである。 聖者崇拝を行う者をムスリムではなく多神教徒であると判定することを可能とするイスラー ムのメルクマールとしての「神性におけるタウヒード」概念こそ、ハディースの徒の中でもイ ブン・タイミーヤの信奉者に独自の思想であり、ムハンマド・ブン・アブドルワッハーブを1 8世紀のイスラーム革新改革潮流の中でも最も先鋭な反スーフィズム・シーア派に駆り立てた 動因であり、今も昔も、この聖者崇拝との戦いこそが、ワッハーブ派のレゾンデートルなので ある。 8 イブン・タイミーヤの革命のジハード論 ムハンマド・ブン・アブドルワッハーブの時代には「神性におけるタウヒード」に背く多神 崇拝の罪を犯し多神教徒に出したムスリムとは聖者崇拝を行うスーフィー、シーア派に他なら ず、アブドルアズィーズ王がサウディアラビアを建国した時点においても情況は殆ど変わって いなかった。アブドルアズィーズ王がジハードを停止したことを咎めて反旗を翻したイフワー ンの念頭にあったのはこの「神性におけるタウヒード」に背く多神崇拝の罪を犯すスーフィー、 シーア派たちとのジハードの停止であった。 ジハードによる宣教は、サウディアラビアの建国原理に背く重大な裏切りであるが、だから と言って、即、それが支配の正当性を失わしめ、叛乱を正当化するわけではない。古典イスラ ーム学は為政者が支配の正当性を失い放伐が義務となる条件を厳密に定めているのであり、そ れは支配者が明確な背教に陥った場合に限られる。イフワーンは、アブディルアズィーズ王に 反旗を翻したが、彼を背教者と断じる法判断を自ら下すこともワッハーブ派のウラマーゥたち から取り付けることもできなかった。またジュハイマーンとネオ・イフワーンも既に見た通り、 法学的に叛乱を正当化できないカリフ条件の欠格のみを理由に掲げて叛乱に踏みきり、ワッハ ーブ派の民衆とウラマーの支持を得られず、あえなく失敗に終わった。 ハディースの徒の中でも、イブン・タイミーヤの信奉者は、神性におけるタウヒードをイス ラームと多神教を区別するメルクマールとする特殊な思想性を有することは前節で指摘したが、 実はイブン・タイミーヤにはジハード論におけるもう一つの重要な創見が存在する。それはイ スラーム法を施行しない支配者を不信仰者と断じジハードによる放伐を命ずる革命のジハード 論である。これは当時、名目的にシーア派のイスラームに改宗したイル・ハン国(1295 年即位 のガザンの時代)が、イスラーム法を施行せず、スンナ派のムスリムを襲撃しており、マムル ーク朝に拠るイブン・タイミーヤがスンナ派のイスラームを守るために、イル・ハン国と戦っ ていた歴史情況を反映しているが、イスラーム法を施行しないことを背教と断定することで、 ⑫ Ibn Taimiya, ar-Ris±1a at-tadmurμya, Cairo, 1357(A.H.), p.59. 研究シンポジウム:30年の後 セッション6 スンナ派カリフ論によって為政者放伐が義務となる背教の内容を明示した点において画期的で あった。 そしてイブン・タイミーヤの直系を自負するワッハーブ派は、この革命のジハード論を発展 させるのである。 9 アール・アル=シャイフの反実定法論とその発展 1950 年代から 60 年代は、王制打倒を訴えるアラブ社会主義・共和国制諸国と、イスラーム主義 を掲げる王制諸国のイデオロギー闘争の時代であった。このイデオロギー闘争の中で、人定法 (実定法)を継受する共和国体制を不信仰の体制と断ずる反人定法論を定式化したのが、元サウ ディアラビア王国最高法官ムハンマド・ブン・イブラーヒーム・アール・アル=シャイフであ った。 アール=アル=シャイフは『人定法の裁定(Ta∆kμm al=Qaw±nμn)』(1960/1 年初版)の中で、信 条における不信仰を6つの分類しに、5 番目に「(5)フランス法や英米法や異端宗派の法の 混在する実定法を法源とし人々に強制的に適用すること。」を挙げ、それを「これがイスラー ム法を拒みアッラーフとその使徒に反逆する最も明白で包括的な最悪の形態。」と最悪の不信 仰の形態と断じ、それが多くのムスリム諸国の法制度であるとした上で、「この『不信仰』に まさる『不信仰』があろうか」、『ムハンマドはアッラーフの使徒である』との信仰告白に対 するこれ以上の背反があろうか』」⑬と激烈な調子で非難している。 また彼は「たとえほんの僅かであっても実定法の一部でも裁決の根拠に援用するなら、それ はアッラーフとの使徒の裁決への不満、そしてアッラーフとその使徒の裁決に欠陥、紛争解決 と権利の回復における不完全性を帰す一方で、実定法による裁決が完壁であり紛争解決に十分 であるとみなすことを意味するのは疑う余地はありませんが、こうした考え方はイスラーム共 同体から破門されるべき(naqil al=milla)不信仰です。」と西欧の人定法を少しでも法制化す ることは、背教にあたる不信仰であることを議論の余地の無い形で明言したのである。⑭ 人定法の法制化が背教に当たるとのアール=シャイフの反人定法論が、今もワッハーブ派の 共通理解であることは、サウディアラビアが、西欧の人定法とみなされる「法律(q±nπn)」の語 の使用に以上に神経質で、法制上決して使用しないことのうちにも明確に現れている。 纏めに変えて - ワッハーブ派の歴史におけるビン・ラーディン アフガニスタンにおける対ソ連ジハードの義勇兵でもあったウサーマ・ビン・ラーディンは、 湾岸戦争においてサウディアラビアが米軍を初めとする異教徒の軍隊を国内に引き入れたこと に反対し反体制に転じ、「諌言・イスラーム法的権利護機関」の 4 月 13 日付声明第 2 号(ファハド 国王宛公開書簡)の中で、サウード王家が人定法をイスラーム法と取り替え、ムスリムに敵対し ⑬ cf., Muhammad bn Ibr±hμm bn ÿAbd al=Laμªf ∞l al=Shaikh, Ta∆k±m al=Qaw±μn, Riyadh: 1411(h), pp.16-23. ⑭ Abu BaraŸ, op.cit.,pp.48-49。またアール・アル=シャイフの弟子の前サウディアラビア王国最 高ムフティー・アブドルアズィーズ・ブン・バーズも、1993 年 4 月 25 日付の『アル=シャルクア ル=アウサト』紙の紙上インタビューにおいて、「姦通犯にハッド刑(イスラーム法に定めのある刑) が課されず、窃盗犯にハッド刑が課さず、飲酒犯にハッド刑が課されないという趣旨の法律を定め るなら、その立法行為は無効であり、その法律自体も無効である。そしてもし為政者がその法律を 認可すれば、彼は不信仰に陥ったことになる。」と述べている。 研究シンポジウム:30年の後 セッション6 ている異教徒の国々を援助することにより、明白な背教(naw±qiΩ al=Isl±m al=Jalμya)の罪を犯 していると非難し、王家との対決姿勢を鮮明にした。 イスラーム法に代えて人定法を法制化したとの非難はアール=シャイフの理論化した反人定 法論であり、これはイスラーム法を施行しない為政者とはジハードが義務となるとのイブン・ タイミーヤの革命のジハード論を継承するワッハーブ派には、王家の放伐が義務となったとの メッセージである。 アラビア半島内陸部に生きたムハンマド・ブン・アブディルワッハーブは、直接に異教徒の 外国人と対面する機会は殆ど無く、彼の説いた不信仰者とのジハードとは、聖者崇拝によって 多神教徒に堕したと看做されたムスリムを対象とするものであった。イフワーンの叛乱におい ても、アブドルアズィーズ王が欧米諸国と和平を結んだことによるジハードの停止において、 イフワーンが不満を抱いたのは、欧米諸国とジハードをしなかったことではなく、欧米諸国の 勢力圏であった周辺のムスリム諸国に対してジハードによるタウヒードの宣教が停止させられ たことであった。ジハードは、イブン・サウードとの盟約以来のワッハーブ派の国家原理であ ったが、ムスリムの聖者崇拝と戦うタウヒードの宣教のための対内ジハードをレゾンデートル としてきたワッハーブ派にとって、西欧諸国がジハードの主要敵とみなされるようになったと いう意味で、このビン・ラーディンの宣言は同派の思想史の分水嶺とみなされることになろう。 ジュハイマーンとネオ・イフワーンの引き起こしたマッカ事件は、スンナ派イスラームの政 治からも、ワッハーブ派の国家原則からも外れた徒花であったが、それに焦点を絞ることによ り、ワッハーブ派の思想史的系譜の全体像をくっきりと浮き上がらせる役割を果たしていると も言えよう。 参考文献 中田考「聖戦(ジハード)論再考」 『オリエント』 35 巻 1 号, pp.16-31, 1992/09 中田考「ワッハーブ派の政治理念と国家原理 -宣教国家サウディアラビアの成立と変質-」 『オリエント』 38 巻 1 号, pp.79-95, 1995/09 中田考「サウディアラビアとワッハーブ派の政治経済理念」 『GCC諸国の石油と経済開発』アジア経済研究所, pp.207-233,1996/04