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文学 ・ 芸 術 ノンフィクション 加藤泰フィルモグラフィー・ コンプリート版が

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文学 ・ 芸 術 ノンフィクション 加藤泰フィルモグラフィー・ コンプリート版が
文学・芸術
加藤泰についての本で、最
映画華』と『加藤泰、映画を
う聞き手に対して、次のよう
風にはつながりますか」とい
05)が加藤泰に批判的な発
・鈴木尚之(1929~20
心といった 方 が い い 気 が す
への不満というよりは、嫉妬
観ている)が最後の作品とな
のようなかたちで、わたしは
されただけ で あ る )。 し ば ら
『映画監督山中貞雄』が刊行
間、シナリオ集が二冊、著書
刊・ 年)などがある(その
藤泰の映画 世 界 』( 北 冬 書 房
追悼本というかたちでの、『加
刊)、わた し も 執 筆 参 加 し た
刊・ 年、増補改訂版・ 年
・山田洋次 』( キ ネ マ 旬 報 社
三章(全体の六割近くを占め
イとインタビューを収め、第
と第二章には加藤泰のエッセ
なものになっている。第一章
ート版といっていい、画期的
ィルモグラフィー・コンプリ
て、現在時における加藤泰フ
元版にかなりの増補をしてい
来るまで考えてやってきまし
の画は、ひとつひとつ納得出
も、最初から、ひとつひとつ
たわけでは な い で す け れ ど
ということではっきり意図し
庶民なんですね。
(略)
思想、
すと、結局、僕はおセンチな
けれども、そう問われてみま
も知れない。しかし、本書は、 なんて考えてみたことはない
ここで脚本(家)論を展開す
倒したいい方だと思う。いま
しいといわれるが、それは転
まったくなされないのはおか
から作品がいいという批評が
はなっても、脚本がよかった
るとき、監督や俳優は対象と
側から、映画作品が評価され
のではない。よく、脚本家の
に魅せられてきた。それは、
関係者の証言や精緻な解説を
として、詳細な作品データ、
す。」(「雨、 風 、 … … そ し て
して撮り続けてきたといえま
からだ。脚本は、やはり活字
るかといえば、そうではない
ければ必ずいい作品に仕上が
るつもりはないが、脚本がよ
履歴書』
、
『懲役十八年』
、
『み
時次郎遊 一匹』
、
『男の顔は
た『日本カルト映画全集5沓
期に講演とシナリオを収録し
あと思う応答がある。
「
『沓掛
読してやはり加藤泰らしいな
インタビューのなかで、再
はなにかといえば、加藤泰美
けではない。映像(情感)と
を活字(論理)として観たわ
だことがない。
『街道をゆく』 同感したことになる。
▼佐野量幸著『司馬氏! し
ばし待たれい
司馬
太郎を丸裸にする(「坂の上
の雲」)よ り 』1・1 刊 、四 六
判 二 二 八 頁・本 体 一 二 〇 〇
円・日本文学館
ノンフィクション
太郎の陥穽をつく
痛快な本で、
溜飲を下げた
司馬
語る』の文庫版が出たことに
言をしているが、それは監督
「
(略)どうかな……案外、
る。加藤泰が亡くなった後の
に述べていく。
情感しかない男だから
(笑)
。
発言としても、許容できるも
なる。映画監督歴三十年、七
十年前後、鈴木清順とともに
思想なんて考えてないからね
長い間、わたしは、加藤泰
るわけだが、さらに って六
く空白があり、 年に『加藤
年に本書の
と、
『加藤泰資料集』
(北冬書
六〇年代、加藤映
房)、そし て 、
雪……
ことを、これまでにしてきた
な殺しの霊歌』
、
『緋牡丹博徒
掛時次郎 遊 一匹』も刊行
時次郎 遊 一匹』を見てい
学ともいえる独特のローアン
の数篇を読んだだけで、あと
は、「司馬 氏 の 個 人 的 見 解 が
していいのではないかと、わ
だけは読むということも付加
の明治を象徴する、日本史上
では、「日露戦 争 は 」、「 栄 光
義」としたうえで、作品の特
純化、誇張、飛躍、御都合主
馬作品のキーワード」
を、
「単
論理で貫かれている」と、著
た」とされ る 、「 強 食 た ち の
日本国の叡智の集中がなされ
中でストーリーが展開する」
りがあるのではなく、語りの
まり、「ス ト ー リ ー の 中 に 語
その語りにある」という。つ
がけっこうあるの
から、「論 理 的 で は な く 、 矛
とは違うのだ。わたし
(たち) 溜飲を下げたといっていい。
ない思いを 募 ら せ て き た か
いえるものいいに、許容でき
たすら突っ 走 っ た 時 代 だ っ
実態は貧国強兵へ向かってひ
代とは、
タテマエは富国強兵、 は、その多くが思いつきだか
盾や誤
わたし(たち)が、加藤泰
は、
『沓掛時次郎 遊 一匹』 正直にいえば、わたしは、司
ら、本書で の 裁 断 の 手 捌 き に
し、記憶は定かではないが、
いまだにわたしには新鮮で強
今年は期せ ず し て 、『 加 藤 泰
って情感イコール思想という
を挟んで、 ますけれども、加藤さんにと
イズ出版刊・ 年)
などが醸し出す画像(物語)
長廻し、多角的なカット割り
加藤泰のような庶民ではない
はインテリかもしれないが、
り接しただけである。だがそ
はエッセイや談話に かばか
かかわらず、それをあえて断
「歴史は連動しているにも
も売れたのが『竜馬がゆく』
ものか。
」
「司馬作品でもっと
た。何が、坂の上を目指した
は理解できないでいる。わた
いることが、依然、わたしに
まだに多くの読者を獲得して
そのような司馬作品が、い
ら」だと断じる。
映画に魅せられる最大の理由
馬 太郎作品をほとんど読ん
うのは、妄言である。明治時
「明治時代は良かったとい
者は指弾していく。
立てられ、
兵力の集中ならぬ、 徴を
「ストーリー展開よりも、
最大の国家プロジェクトに仕
からだという。
『坂の上の雲』 たしなら思 う 。 著 者 は 、「 司
もっとも色濃く出た作品」だ
$
ってもいい。
初に刊行されたのは『遊 一
熱狂的に支持された加藤泰を
え。
(略)僕自身は、
『思想』
(1916~ )の映画世界
十年代から七十年代初めの諸
泰、映画を語る』
(筑摩書房) る頁数だ)は「加藤泰全作品」 た。それは、基本的な考えと
『世界の映画作家
いまでも変わることはない。
作品(敢えて十作あげてみる
治 客伝三代目襲名』
、
『沓掛
て、邦画、洋画にかかわらず、 ならば、
『幕末残酷物語』
、
『明
付している。
からだ。亡くなって二十八年
されている)が出て、さらに
ますと、こんなに情感豊かな
グルによる構図と、
場面展開、 して観ているのだ。鈴木尚之
元版『加藤 泰 映 画 華 』( 同 時
以上経ち、劇映画作品として
花札勝負』
、
『緋牡丹博徒お竜
空白期があり、編者の『冬の
映画もないという印象があり
これまた過剰な理想化とでも
は、
『炎のごとく』
( 年制作
参上』
、
『緋牡丹博徒お命戴き
加 藤 泰 の 世 界 』( ワ
痛快な本だ。読みながら、
・公開)、 ド キ ュ メ ン タ リ ー
ます』
、
『人生劇場青春・愛慾
つらさ
の世界であって、映像の世界
作品として『ざ・鬼太鼓座』
・残 篇』
となる)
を観ても、
!
"
#
烈な印象を与えてくれるとい
のと本を語るのとでは、対象
うことにも思い至りました」
りにも囚われすぎているとい
かかわらず、人間社会にあま
然や宇宙に囲まれているにも
無生物、微細な菌類などの自
そして人間は、植物、動物、
孤独の深さに気付きました。
らも、王子さまが抱えている
深い叡智の持ち主でありなが
詩人でした。しかし、とても
よる絵も含めてかわいらしい
は、サンテグジュペリ本人に
読んだとき、王子さまの印象
も変わった 。「 過 去 に 抄 訳 で
がら、作品世界に思いを馳せ
い。しかし朗読に耳を傾けな
文章自体もとても分かりやす
非常に有名な物語であり、
ね。愛の難しさを感じます」
れているの か も し れ ま せ ん
コンスエロとのことが投影さ
サンテグジュペリの奔放な妻
ままにしました。この場面は
にはできないと思って、その
いましたが、二度と同じよう
もう一度録音しようかとも思
まってとにかく困りました。
切ないというか、涙が出てし
面だった。
「悲しいというか、 のって憧れるでしょう? 飛
憧れを感じます。不思議なも
平成二五年度文化庁映画賞
に対する距離の取り方が違う
読解の錘鉛はさらに深部へ
さまが棘のある花と別れる場
・映画功労部門を受賞した活
からです。しかも『星の王子
ると、そこに漂う不思議な感
の起源すらも感じることがで
分からないところがある……
ますが、神秘なものがあり、
みどころになっていると思い
了されている。一生忘れない
でしょう。だから砂漠に何回
も行くと思う、消えたところ
はあのあたりだったと……」
。
本書九四頁にある何の変哲も
ない絵が大切な一枚になると
いう意味で、読者は王子さま
の姿を求めて、何度も読み返
すのだろう。
そして「私の極私的な『星
の王子さま』観」として、
「王
子さまは、不自由さを抱えて
いる私たちを見ている。見ら
れている私たちは、王子さま
のような存在になってみたい
とも思う。私たちが映画スタ
ーに憧れて
も、銀幕の
グレタ・ガ
ルボは私た
ちを見てい
ない。しか
し王子さま
はこちらを
見ている。
語なのです」と語った。
と
「買ってくださった方が、
何度も聴 い て い ま す
からない作家の歴史観とは、
絶していると決めつけてはば
ちらも、日頃本を読まない政
と『坂の上の雲』である。ど
りの中でストーリーが展開」
道をゆく』でも、確かに「語
しの数少ない司馬体験の『街
するというものだった。わた
れでも、テレビドラマ化され
しには、読み辛さとしてしか
ということが、批判発言の中
があり、長く読みつがれてい
記憶に残っていないのだが、
の力だとい っ て い い 。「 ひ と
ろうか。
」
「実像とかけ離れた
る。なぜか。/それは、天下
もしかしたら論理的ではない
治家や経営者にたいへん人気
見ただけで、司馬史観(本書
別の人物像を創り出し、あた
国家がテーマとなっているか
「語り」の巧みさが多くの読
いったいどういうものなのだ
そういう意味でいえば、加
の著者なら、司馬には史観な
かもそれが真実の姿であるか
らである。そして、庶民や庶
たものや映画化作品の断片を
てやってきた」という「ひと
藤泰は孤独 な 映 画 監 督 だ っ
んてないのだというかもしれ
のように美化し、理想化させ
に潜在していたと思う。
つひとつの画」そのものが、
た。だから こ そ 、「 情 感 し か
ない)なるものに、わたしは
者の気持ちをつかんでいくの
つひとつ納得出来るまで考え
わたしたちに物語として、深
ない男だ」といい切れるのか
民の生活のことがいっさい無
い情感と思想性を湛えて語り
た主人公の、どこに人生の意
もしれないし、そこにわたし
疑義を抱きつづけてきたので
かけてくれるのだ。いうなれ
かもしれないが、それは物語
ある。坂本竜馬という存在を
視されているからである。
」
(たち)は率直に共感できた
『坂の上の雲』である。それ
ら著者がテクストとしたのは
人たちの多くが、司馬 太郎
はなく、
「日頃本を読まない」 ない。
本書で、司馬作品のなかか
尽きるような気がする。
司馬の陥穽は、このことに
義を見出せようか。
」
ば、脚本家が紡ぎ出すストリ
過剰に拡大し、幕末期を都合
を読むということとは別次元
からこそ、いまだに加藤泰映
「日頃本を読まない」とい
ートと台詞が、加藤泰による
のことのような気がしてなら
よく解釈するに至っては、小
ういい方が、なかなかシニカ
画を切実なものとして受け止
はいかないからだ。もうひと
った。初めて知った。民間の
が置かれている社会的位置を
科」で近代 経 済 学 を 、「 資 本
済学部では「社会主義経済学
(社会批評)
ルだ。政治家や経営者だけで
め続けているのだ。
つは、明治という時代への、
説家だからいいというわけに
映像力によって、加藤泰の思
(評論家)
想や情感のように伝わってく
るというこ と に な る 。『 沓 掛
時次郎 遊 一匹』の脚本家
年当時は、
「マルクス」や「マ
義経済学を学ぶという皮肉な
主義経済学科」でマルクス主
事実は実に意味深く、教訓的
できるだけ客観的に知る」と
とはいえ問題は、
やはり
「自
だ。勉強会の後に学生や若い
出版人としてはさすがに政党
分の位置」
を知った後、
何をな
労働者と飲食をした時「割り
ルクス主義」という言葉は社
しうるかではないだろうか。
勘」にしようとしたら、その
いうことにあったようだ。
そんなことを思い出しなが
「民主」という形容詞を頭
「発想自体が資本主義のイデ
の管理・統制下にある出版物
した書籍が 沢 山 並 ん で も い
ら、本書を読み進むうちに、
に冠しても「集中制」を原理
オロギーだ」と鎌倉氏に叱ら
会のいたる と こ ろ で 飛 び 交
た。自ら編集者としてマルク
私自身もいつしかマルクスを
とする組織であるかぎり一元
を刊行する気にはなれず全集
スに関する本も何冊か手掛け
読まなくなっていたことに気
的指導体制となり、それが何
たれた本書は、若き日の『資
さて、「 師 弟 対 談 」 と 銘 打
主義や新左翼の悲惨な歴史が
をもたらすかは、スターリン
忠実に継承しているという心
れ、以来佐藤氏もその教えを
の復刊は断念した。
た。しかし、八九年以降の東
づかされた。
が崩壊していくなかで、それ
▼鎌倉孝夫・佐藤優著『はじ
私にとって〈はじめてのマ 者を自認、誇示していた知識 本論』の勉強会の講師(鎌倉 教えている通りであろう。ま 温まるエピソードも、考えて
めての マ ル ク ス 』 ・ 刊 、
四 六 判 一 八 四 頁・本 体 一 三 ルクス〉は、中学生のときに 人たちの多くが、その事態に 氏 当時 歳)と受講生(佐 さしく「資本主義を人間が真 みれば「各人は能力に応じて
〇〇円・金曜日
読んだ『賃労働と資本』であ ついて誰よりも語る資格(権 藤氏 当時 歳)の出会いの 面目に克服しようとすると、 働き、
必要に応じて受け取る」
まで公然と「マルクス主義」
は「マルクス」という名を冠
欧、ソ連などの社会主義体制
い、 れていた。書店の に
-
今回の訳書を通じて、印象
動弁士の澤登翠氏が、サンテ
と降りてい く 。「 宇 宙 が 誕 生
覚を味わう は ず だ 。「 一 般 的
きました。とても多面的、多
そこがいい。小島先生は詩人
か、落ち込んだときに温かい
ものを感じました とおっし
(
+
行士はすっかり王子さまに魅
グジュペリの
『星の王子さま』 さま』の完訳でとても不安で
してから人間が生まれてくる
決め手になったのは、翻訳
した」
には清らかで美しい場面が読
を朗読。刊行七〇周年にあた
こと、私たちの存在そのもの
る二〇一三年に、日本初の全
文朗読CDブ
ックとして発
売された。
「『 夜 間 飛
の素晴らし さ だ っ た 。「 小 島
重的で、さまざまな色彩や音
でもいらっしゃるので、鋭い
一方通行ではなく双方向の物
存在の起源すらも感じることができる
『星の王子さま』
は 究極の文学
と人生には魅かれるものがあ
俊明先生の日本語は、本当に
に満ちている。それが一つの
感受性が訳に反映されていま
ゃってくださいました。とて
も嬉しいです。読者には特に
若い女性が目立ち、子供さん
ことも多いようです。深くて
42
大学では『賃労働と資本』を
手引きによるものだった。理
にわたって失業していた父の
社を解雇され、その後十数年
レス・コード)違反」で新聞
った。戦後直ぐ
「占領政策
(プ
版」されるに至った。余りに
かった。
その所為もあってか、 なくなり、
ついに邦訳版は
「絶
解はもとより通読すらできな
情けない事態に、出版社を興
ス・エンゲルス全集』も売れ
裏づけるかのように『マルク
なのかと思った。その事態を
何処かへ四散していった。何
はずなのに問題を放り出し、
利)と責任(義務)があった
る状況」だ 。「 人 間 そ の も の
ちが一〇〇〇万人を超えてい
「年収二〇〇万円以下の人た
と下がりっ ぱ な し 」、 い ま や
は上がったかというと、ずっ
たのは非正規雇用だけ。賃金
用は増えたかというと、増え
しましたけど、その過程で雇
は大企業の利潤は急速に拡大
時は流れ「二〇〇〇年以降
縁から生まれたものである。
論』と、宇野弘蔵の三段階論
対談者はマルクスの『資本
ことに思えてくる。
作り出すことは容易ならざる
を克服し、新たな社会体制を
運動や組織によって資本主義
ば、単一の思想原理に基づく
倉)といわれる現実を考えれ
をまとった フ ァ シ ズ ム 」( 鎌
険があるし 、「 民 主 主 義 の 衣
忍び込んで く る 」( 佐 藤 ) 危
そこにファシズムという病が
能力があろうとなかろうと、
遇にあろうと、いかに才能や
うに思えなくもない。
しれないことを教えているよ
毒されない生き方も可能かも
制下でも、「 カ ネ の 呪 縛 」 に
ささやかとはいえ資本主義体
じているようにも思えるし、
という共産主義の考え方に通
に嗅ぎ取ったメッセージは、
分け前などではない〉という
ぎず、断じて生産にたいする
たいする資本家の買い値に過
はなく、あくまでも労働力に
それは労働にたいする対価で
は全集の版 権 は 当 社 に は な
お申し出ではありますが、実
社長の返答は「折角の心ある
にされるなら全集の版権を譲
編集長に面 会 を 求 め 、「 絶 版
ろうというのが本書である。
いから三六年を経て改めて探
はどのようなものかを、出会
に行ったことがあった。
だが、 うな仕組みで動き、その行方
渡して」くれるよう申し入れ
対談者の二人が拠って立つ思
主義社会とはいったいどのよ
犠牲にすることを強いる資本
なかで、カネのために命さえ
く、考えさせられるところも
的エピソー ド の ほ う が 面 白
は余談的に語られている体験
かにしようとされるが、私に
今日の資本主義の性格を明ら
らの理論と方法を手がかりに
分析」)を 高 く 評 価 し 、 そ れ
(「原理論」「 段 階 論 」「 現 状
た。本書を思想書として薦め
ならないと い う も の で あ っ
でも「自分自身」でなければ
も、偉大であるためにはいつ
続けること、そしてなにより
とする限り勉強し続け、考え
ろうと、人間として生きよう
また自分がどんなに非力であ
どんな時代、どんな立場や境
ことくらいだ。社会人になり
く、日本共産党中央委員会直
い
精読した。
あれから四十余年、 して間もなかった私は身の程
テキストにしたゼミを選択し
もわきまえず、同『全集』を
の商品化」が進行する体制の
労働組合に も か か わ り 、『 資
しています」というものであ
話が成立す る 根 拠 は 、「 自 分
想原理はまるで異なるのに対
ソ連時代のモスクワ大学の経
少なくなかった。たとえば、
たい。
私が出版社に入社した七〇
を目指したが、
第一巻で挫折。 属の翻訳委員会にあると承知
(編集者)
本論』も全巻買い え、完読
せ
いま記憶に 残 っ て い る の は
刊行していた発行元の社長と
ともあれ本書から私が勝手
〈そもそも賃金とは何か
17
行』など、も
りました。私の活弁を気に入
言葉を失うくらい感動的で素
物語に結晶すると、とても澄
澤登翠、
サンテグジュペリ、
小島俊明のコラボで紡ぎ出される朗読世界
ってくださっていた編集担当
晴らしいと思いました。生涯
み切ったものとして表出して
を「究極の文学」と評した。
神秘的で美しい物語です。い
!!
ともとサンテ
者からCDブックの話があっ
このような機会はないと思っ
す。サンテグジュペリと小島
てお引き受けしました」
くる」と驚きを露わにした。
俊明という詩人が出会って生
たときは、私にできるかな…
録音に際して、サンテグジ
まれた完訳だと思いますね」
「彼は絶えず死の危険にさら
「人が空を飛びたい
ろいろ想像しながら読んでも
思ってきたこと。
憧れですね。 ら紡ぎ出される三位一体のコ
の王子さま』に新たな生命が
宿った。
20
!
94
▲澤登翠
(さわと・みどり)
氏 活動弁士。日本独自の話
芸である活弁を現代のエンターテインメントとしてよ
みがえらせ、
国際的にも高い評価を獲得。的確な解釈に
よる多彩な語り口で邦洋合わせて500本以上の活弁を
務めている。
…と思いました。映画を語る
ュペリの写 真 集 な ど の 資 料
される飛行 士 で も あ り ま し
るところではない、想像力の
らえると面白いと思います」
サンテグジュペリと小島俊
違う星からやってきた王子さ
明、そして澤登翠の出会いか
おける精神と身体の表現がす
まは、私たちの感受性とは近
とい
ごいと思いました。こうした
いけれど独特なものがある。
&
抒情と情動
11・30刊 文庫判582頁 本体1500円
ワイズ出版
▼アントワーヌ・ド・サンテグジュペリ著、
小島俊明訳、澤登翠
朗読、
湯浅ジョウイチ音楽『星の王子さま 澤登翠朗読CDブ
ック』 ・ 刊、
A5判九八頁・本体四五〇〇円・第三書房
た。『南方 郵 便 機 』 を 読 み 返
世界の中にある異次元に浮遊
澤登氏は、
『星の王子さま』 へのプレゼント用に買われる
すと、暴風雨の中、ぎりぎり
うのは誰もが多かれ少なかれ
することができたら
や、
ほかの小説も読み込んだ。
の燃料で雲の上を目指して上
今あ
昇を続ける描写、極限状態に
読み込みの過程がとても楽し
ラボレーシ ョ ン に よ り 、『 星
かったですね」と振り返る。
"
#
%
グジュペリは
'
*
%
そんな不思議な王子さまに、
11
難波裕太
83
81
82
08
特に難しかったのは、王子
「そもそものはじめは紺の絣かな」
(安東次男)
!加藤泰映画華
好きな作家
-
'
画の情感とはなにか」
)
( 年制作、 年公開。ただ
様々な映画を観ていくという
72
!
室沢 毅
めぐる刊行書の少なさをいま
加藤泰 の 世 界 』( 幻 燈 社
刊・ 年)であり、その後、
さら述べても、仕方がないか
匹
'
加藤泰
"
70
加藤泰の映画世界を起点にし
14
94
77
$$
'
甦る自分にとっての
〈はじめてのマルクス〉
久保 隆
で、彼の文学
"
#
'
年か 年頃に一般公開試写
'
81
,
'
95
)
85
86
#
"
#
"
#
澤登 翠 氏
『星の王子さま』
を朗読した
'
"
加藤泰フィルモグラフィー・
コンプリート版が登場
さわ と みどり
ポートレート
加藤 泰 著
鈴村たけし 編
6
29
!
2014年1月25日(土曜日) 6
図書新聞
(第三種郵便物認可)
第3143号
深い情感と思想性を湛えて語りかけてくれる加藤泰映画
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