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根こそぎ動員 - 大八洲開拓農業協同組合

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根こそぎ動員 - 大八洲開拓農業協同組合
洲においてさえも破綻していたといえよう。
大八洲では、農地の個人への配分登記の手続き中に満州開拓の幕は下りた。満州での土地持ちの夢は実
質的に実らず、﹁まぼろしの土地﹂に終ったのだった。
六、夫たちの﹁根こそぎ動員﹂そして暗転
◆舵を失った舟のように
昭和二十年八月九日未明からのソ連軍の国境侵攻の情報が入ってから、佐藤団長ら幹部は非常事態に備
えて部落巡回をしていた。そこへ、十七歳から四十五歳までの開拓団員に兵役に就くようにという口頭命
令が
がと
とど
どい
いた
た。
。いい,わゆる﹁根こそぎ動員﹂と称せられた軍隊への総ざらいに大八洲開拓では、団長はじめ
十四名が該当した。
予告なしに、幹部連がごっそり団から引き抜かれるというてんやわんやの時に、樺川県から﹁佳木斯方
面からの避難民の収容を頼む﹂の通報が入ったかと思うと、すぐ取り消してきたりで、県や警察の命令系
統に混乱が出始めていることがうかがえた。
男たちが兵役につく八月十日は、ひどい雨降りだった。骨抜きになる開拓団や家族の安否に後ろ髪をひ
かれながら、昼前に集合場所の千振警察署へ向かった。途中、佳木斯や鶴立︵カクリッ︶など、北の方か
llf代を背負って海を渡った111形の女たち
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ら避難して来る数千の女や子供たちの群れに出会った。昨日の県からの電話から推して、大八洲開拓では、
その人たちの受け入れ側のつもりだったから、避難の人々に同情しながらすれ違ったという。千振駅に来
てみると入って来る佳木斯行きや逆の林ロ行きの汽車は、すでに避難民で満員状態だった。
指導者たちが﹁根こそぎ動員﹂された大八洲開拓では、その後、荒れ狂う海に自らは舵取りができなく
なった船のように、最悪のドラマが展開していった。
開拓内で動ける男は高木、田中、今野、滝口など数人だった。開拓本部事務所、国民学校の周辺には、軍
に納める味噌、醤油、漬物、その原材料などを納めた加工所があり、精米所には米百俵ほどが入っていた。
また
た、
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事務
務所
所に
には
は団
団員員
ま
家家
族族
むむ
狸けの配給の品がストックされていたので、団の手薄に乗じた物盗りの警備を
優先 し な け れ ば な ら な か っ た 。
開拓本部の運営にかかわってきた女たちが団を守らなければならなくなった。国民学校で代用教員をし
ていた庄司きい、看護婦の加藤光子など四、五人の子供のいない、身軽な女たちが開拓の警備につくこと
になった。銃一丁を頼りに女性二人ずつが組んで、事務所の周りに張り巡らした土手を巡回し、見回わる
ことになった。豪雨で、本部まわりの土手の土がゆるみ足元が滑る。漆黒の闇の中を警戒しながら歩くの
も容易なことではない。闇を透かしてじ−つとこちらをうかがっている鋭い目があるようで、体じゅうの
神経をとがらせながら、巡回していた。銃を相手方に奪われることは致命的なので、人の気配がしたら、﹁ャ
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マ﹂﹁カワ﹂と隠語で味方を確認し合いながら、なんとか団中枢部を三日三晩にわたって女たちで警備して
いた。
にもかかわらず何時の間にか倉庫の壁に穴をあけ、なかの物資を盗み出す者が出てきた。
﹁緊急事態になった。荷物をまとめ、貴重品をもって事務所前に集まれ!﹂と開拓本部から早馬が各部落
に飛んだ。いよいよ、開拓地を出て行かなければ危険という情勢判断が下った。その時はだれしも、近く
の千振飛行場の防空壕あたりに一時避難していて、また帰って来るつもりだった。
*﹁根こそぎ勤興﹂
﹁七月十日付で﹃耶令陸叩第一○六号﹄が発令され、召集令状がいっせいに発送された。動員予定人数は約二十万人I
ということは、在満の邦人成年者約三十万人のうち、岐低限の要員約十万人を除いたすべてが含まれる。いわゆる﹃根
︵﹃ある恋兵の記録﹄の中で引用された児島製著﹃満州諸国﹄を孫引きした︶
こそぎ動員﹄であるが、動員される邦人の多くは、役人、商人、会社員、開拓団員にしても、二十代は少なく三十代さ
らに四十代の壮年者である﹂
◆赤ん坊を抱えてとっさの旅支度
大八洲開拓の花嫁たちは十五年以降に結婚した人が多かったから、まさに妊娠、出産、育児の真っ最中
だった。そのうえ夫は軍隊に召集されてしまっていた。その時、この開拓団地内には十歳以下の子供が総
時代を背負って海を波った山形の女たち
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勢で八十人いたことになっている。
仲野みよ子は、夫が出征した後に生まれた四カ月の乳児をかかえていた。ソ連軍の侵入という予想もし
なかった出来事に、避難のための荷物整理といっても手が震え胸がどきどきするだけで、ままならなかっ
た。主なものは倉庫に入れ、とりあえず持ち出す荷物だけを用意した。みよ子は、飼っている豚に餌もや
れなくなるからと、大小二頭を現地民に売りに行った。七百円ぐらいになった。次の日、豚を売ろうとし
た人には、もう金を出して買おうとする現地民はいなかった。十三日、十四日と事態は刻々緊迫してきた。
満州は真夏といっても、日中の暑さにくらべ夜中の冷えがはげしい所なので、みよ子は夫の防寒着を着、
赤ん坊には綿入れを着せ背中におぶった。両手におしめの替えやとりあえずの食糧などを下げた程度で集
合場所へと向かった。
やはり夫を軍隊にとられていた安藤まさは、家を出る前に、朝鮮人の入植者の家を回って、﹁ちょっと留
守にするけれど、主人が帰った時背広は着るから、これだけは処分しないでおいてな﹂と頼んで回ったと
ころ、﹁水を飲みながらこれを食べていればもつから﹂と、妙り米に砂糖をからませたものを三升ほどくれ
た家があった。﹁あの時にもう日本が負けるのがわかっていたのではないか﹂と、まさは後日になってその
妙り米の意味を納得した。卵を売って神棚に供えておいたお金と貯金通帳などを体に巻きつけ、避難食用
に蒸した鶏や、米などを馬車に積み、四人の子供を連れ出した。
じきに帰って来るつもりだったから、集落ごと一、二カ所に各家から箪笥や、行李、布団など大きな家
財を集めて、バラ線を張りめぐらして置いてきた。
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現金といっても、農産物の出荷代金や労賃は開拓本部の管理下にあったので、各戸では卵を売った金な
ど二、三百円手元にあればいい方だった。時計、貯金通帳など貴重品を雑嚢︵布で長方形の袋を縫い、口
に紐をとおしたもの︶に入れ、着替えととりあえずの食糧を用意した程度で家を離れた。
八月十四日。開拓本部の周りには総勢二百名ほどの家族が集まってきていた。わずかな荷物を手に持っ
て、馬車に分乗して一時避難することになった。
﹁おらあ、一人になってもここを離れたくねえ!﹂
コ時の避難だよ。一人残らず行かなくちゃあだめだ﹂﹁うんだが⋮:。﹂と、指揮の高木とのやりとりが
つづいた。口にこそ出さないが、誰もが二度とここには戻れないような不吉な予感がだんだん強まってき
ていたので、同じようにつらい気持ちだった。骨を埋めるところと自分に言い聞かせながら、つらいこと
も乗り越えて、ようやく﹁乳と蜜の流れる里﹂の実現がかい間見えてきたその矢先だった。
午後四時をまわった頃、十台ほどの馬車は出発した。開拓本部と国民学校の間のメイン。ストリートを
ゆっくり通り、刈り取り寸前になったまっ黄色の麦畑の中の道を進んで行った。この日もまだ、梅雨の頃
のような小雨が降っていたが、誰も雨なんか眼中にはなかった。開拓地を目に焼き付けておこうと涙にう
るんだ目で見つめる人、盆や祭りに招いてくれた親しい現地民と別れを惜しむ人、饅別をもらったり手を
握り合っている人とさまざまだった。錦を飾って山形に帰郷する夢ばかり見ていたから、こんなみじめな
形で開拓地を出る日を誰が想像しただろうか。万感こめた別れの場をふきっとばすような事態が起こっ
た。しんがりの馬車が、開拓本部の前を通り抜けるやいなや、どっと人の波が建物をめがけて押し寄せて
ll│寺代を背負って海を渡った山形の女たち
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来た。開拓地との別れの感傷はこの光景でふっ飛んだ。親しい人との涙ながらの別れの一方で、馬車の通
過を今かいまかと待って開拓本部周辺の食糧、資材のストックを、われ先に盗ろうと待ちかまえていた黒
山のような現地民たちがいた。開拓民が思っている以上に、容易ならない方向へと事態がぐんぐん動いて
いることを知らされた。ジャゴイ︵旦那さん︶、タイタイ︵奥さん︶などの言いなりに見えた現地民たちの
急変の様子からも、一時的な退避では片付かないのでは?・・︲・・・不安は一層膨らんできた。こんな最悪の
時、頼りの男の団員といえば年寄り六人だけだった。開拓地域内からほとんど外へ出たことがなかった女
たちは、これからの行く先ざきが不案内だった。それに、団の統率力のなさが判るだけに凶暴化の様相を
見せ始めた現地民の姿が迫ってきて、底知れぬ恐怖感で体がこわばってしまい、なにか言おうとしても言
葉にもならなかった。こんな時こそ頼りの夫がそばにいて欲しかった。そして佐藤団長始め幹部たちも揃
っていてほしかった!
馬車は、真っ黒の群衆に追われるように開拓地を駆け抜け、佳木斯と図椚間の最寄り駅、﹁千振﹂へ向か
って行った。
*﹁日ソ開戦後における在満邦人の概況
満州、関東州に居留していた一般邦人は開拓団を含め約一五五万人で、昭和二十年六月以降約一五万人が逐次関東軍
に召集されていた。
開拓団は満州の全省に入植し、一般開拓団九五五カ所、開拓義勇隊九九個中隊、報国農場七三カ所等の総人員は約二
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い
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︵昭和五十三年四月厚生省援誰局刊行﹃引揚げと援誰三十年の歩み﹄より︶
時代を背負って海を渡った山形の女たち
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七万人で、このうち壮年男子約五万人が軍に召集され、日ソ開戦時には老幼婦女子を主体とする約一三万人が居留して
た
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