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修 士 論 文 - SAWADA LAB

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修 士 論 文 - SAWADA LAB
2005 年度
修
芝浦工業大学大学院
士
論
文
題目:街を変えた建築に関する研究
―代官山ヒルサイドテラスからみる街づくり―
専攻
工学研究科(修士課程)建設工学専攻
学籍番号
504041-5
ふりがな
さとう
氏名
佐藤
正和
指導教員
衣袋
洋一
まさかず
街を変えた建築に関する研究
―代官山ヒルサイドテラスからみる街づくり―
専攻 工学研究科(修士課程)建設工学専攻
学籍番号 504041-5
氏名 佐藤 正和
指導教員 衣袋 洋一
目次
目次
序章 第一章
研究背景と目 ・・・・
1
・・・・
3
・・・・
6
1−1.背景
1−2.目的
1−3.研究方法
第二章
街の構成 2−1.街の成り立ち
2−2.代官山の概要
2−3.旧山手通りの概要
2−4.代官山ヒルサイドテラスの構成
第三章
調査分析 ・・・・ 17
3−1.代官山ヒルサイドテラスおよび旧山手通り沿いのファサードの調査
3−2.代官山ヒルサイドテラスおよび旧山手通り沿いの店舗用途の変遷
第四章
結論 ・・・・ 54
序章
序章
1
序章
建築家槇文彦氏は、1964 年に『集合体の調査』1 を発表した。それは、
「日本
の都市と都市開発には、
有意義な環境を作り出すための空間への配慮に欠けて
いる」ことを指摘した。当時の日本が戦後の焼け野原から復興を遂げ、21 世紀
には先進工業国の仲間入りを果たそうと産業化を急ピッチで進めていたことを
考えると、この槇氏のコメントには納得がいく。しかしながら私が困惑するの
は、40年以上も前の彼の指摘が未だに今日の日本の都市に当てはまるという点
である。
2
第一章 研究背景
・ 目的
・ 研究方法
第一章 研究背景・
目的・
第一章 研究背景と目的
1−1.背景
1−2.目的
1−3.研究方法
3
第一章 研究背景
・ 目的
・ 研究方法
第一章 研究背景・
目的・
1−1.研究背景
東京をはじめ、日本の大半の都市は、中心部が均一化、画一化された没個
性的なオフィスや商業施設で構成されている。また臨海地は工業化されてい
たが、テーマパークなどの娯楽施設が進出し、道路網や線路が無秩序に張り
巡らされるようになった。1984 年のバブル以降、商店建築が建築賞を受賞す
るようになってから、公共建築から商業建築へと移っていった。そして、そ
れらの都市の中に国内外の有名建築家の手による建築がモザイク模様のよう
にはめ込まれている都市ができあがっていった。このように、多くの大都市
の空間は雑然とした建物に埋め尽くされている。
日本は文化的都市遺産の存続のために十分な時間と費用をかけるだけの豊
かさを持っていながらも、いかに効率よくできるかということを優先的に考
えてきたその結果、近代的なショッピングプロムナードや最先端オフィスを
組み合わせた即席都市ができあがり、 日本古来の地域密着型の木造の家並
みや寺社からなる伝統的な都市形態が急速に破壊され、現在、日本の都市は
その特性を失い続けている。大規模かつ急速な都市開発が引き起こした現状
を受け止め、新たな都市空間形成、街づくりのあり方を考えていく必要があ
る。
1−2.目的
代官山の街は閑静な屋敷町で、幅 22m の旧山手通りが通っていたが交通量
もほとんど無かった。1926 年東横線の開業と 1927 年の同潤会アパート完成
に端を発し、外国人の街として成長し、モダンな高級住宅としての代官山が
出来上がっていった。1969 年のヒルサイドテラス A 棟、B 棟の誕生は、住
居地域に商業店舗そのものを入れることでその後の代官山の都市形成におい
て決定的な意味を持ち、ヒルサイドテラスは建築というハードが街をつくっ
た稀有な例として高い評価を受けている。代官山ヒルサイドテラスは代官山
の街を語るにあたってなくてはならない存在になった。代官山ヒルサイドテ
ラスは約四半世紀という長い時間をかけて完成された計画であり、また、建
築竣工時に完成するのではなく、時の流れの中で環境として成長し、随時更
新するという非常に柔軟な進展手法をとっている。本研究では、代官山ヒル
サイドテラスを対象建築とし、旧山手通り沿いにどのような影響を与えたの
かを調査分析し、これから重要になっていく街を変える建築について考察す
ることを目的とし、研究を進める。
4
第一章 研究背景
・ 目的
・ 研究方法
第一章 研究背景・
目的・
1−3.研究方法
研究対象範囲
1 )現在の旧山手通りを見ると、代官山ヒルサイドテラスが誕生したことに
よって与えた建物の高さ、素材、色の変化が旧山手通りの景観に何かしらの影
響を与えたと考えられる。旧山手通り沿いの建物のファサードに与えられた代
官山ヒルサイドテラスの影響を見るため、要素を高さ、素材、色、配置と設定
し、それらがどのように影響しているかを分析する。まず、ヒルサイドテラス
におけるファサードを調査、
分析することで代官山ヒルサイドテラス自体の統
一があるかを考察する。そして、旧山手通り沿いのファサードの調査、分析を
することでヒルサイドテラスが街並みに対して与えた影響を考察する。
2 )対象地域の用途変化を調査し、対象地域の年代調査における地図へのプ
ロットを行い、代官山における建設が開始されたときの対象地域を含んだ周辺
の全体構造(敷地、商業施設、住宅、等の状態)と、その後の状況の移り変わ
りを分析し、代官山ヒルサイドテラスが街にどのような影響を与え、街の変化
があったのかを読み取る。
代官山ヒルサイドテラスの空間構成を分析することで、街づくりへの仕掛けが
どのように働いたかを考察する。
5
第二章 街の構成
第二章 街の構成
2−1.街の成り立ち
2−2.代官山の概要
2−3.旧山手通りの概要
2−4.代官山ヒルサイドテラスの構成
6
第二章 街の構成
1)古代の都市
・都城の変遷
古代日本の天皇の居処は「宮」と呼ばれ,推古朝の豊浦宮・小墾田宮にはじ
まり天武朝の浄御原宮まで約1世紀の間、遷宮を繰り返しながら飛鳥地方を中
心に宮が継続的に営まれた。7 世紀後半になると北方の藤原へと市街地が広が
り、
「倭京」が形成される。持統朝に入り、この倭京を母体としながら、はじ
めて条坊制に基づく新益京(藤原京)が造営された。その後、宮都は古代日本
の政治体制の発展・変容のなかで、平城京、長岡京、平安京へと遷都を繰り返
すことになる。飛鳥から藤原京さらに平城京に至る都城は大和盆地に引かれた
最初のグ リッドとでもいうべき大和古道(上ツ道・中ツ道・下ツ道・横大路)
を基準線としていたのに対し、難波京から長岡京に至る都城は淀川水系と密接
な関わりを持っていた。これら二つの北に向かって成長する主都・副都の潮流
を一つにまとめて完成したのが平安京と言える。
2)平安京の中世都市化
・京外の発展
平安京は10世紀以降右京が衰退し、左京が都市的な中心になり、東京極の東
の京外に「白河」
「六波羅」、平安京の北限となる一条大路より北の「一条北辺」、
南の「鳥羽」における鳥羽離宮の建設などが如と成立し、一方束山では古代以
来の祇園社・清水寺はもとより院政期から鎌倉時代にかけて多くの寺院が建設
され一大宗教地域が形成される。
このように律令制支配の装置としての平安京
の外側に中世的要素が胚胎してゆく。
・宅地割の変容と「町」通りの発生
条坊制に基づく街区内宅地割は「四行八門」制と呼ばれるものであった。こ
れは街区内に南北の小路を通し、
各敷地は東西からアプローチをとることが前
提となっていた。しかし平安から鎌倉にかけての土地売券によると、こうした
行門地割に従わない敷地が徐々に登場するようになり、街区四周の道路に画し
た間口が狭く奥行の深い敷地が増えてゆく。これは明らかに面路型の都市住宅
の出現を示唆するものであった。12世紀に入ると、それまでの官設市場であっ
た東西市にかわって、鯛の商業地区「町」が登場する。こうした町は当時一大
商業地区を形成していた左衛門町・修理職町に通ずる町口小路、町尻小路と東
西の大路が交差する周辺の繁華な場に立地した。町口・町尻小路はやがて「町」
と呼ばれるようになり、条坊制において街区を意味していた「町(ちょう)」が、
道路呼称として「町(まち)」へと構造変化を遂げる。このころ条坊制の道路
名とは異なる慣用道路名が数多く発生しており、道路空間が都市の生活や商業
の空間として重要な存在になっていった。
7
第二章 街の構成
3)城下町の構造
近世城下町の成立
近世城下町は領国を一元的に支配する公権力を確立した大名領主が,政治経
済上の首都として建設した計画都市で,城館,市町,寺社など中世に成立した
都市要素の再編を果たすことによって形成された。風水思想に規定された古代
都城から脱却を果たした日本に固有の都市類型で、都市空間も絶対方位に従う
ことなく、地域固有の自然条件や社会経済的達成を踏まえつつ計画された。
城下町の全体構成は、
公権力を体現する大名の居住する城を中心として求心
的な空間構造を呈した。
城の周りには兵農分離策によって在地から切り離され
た家臣団の居住地が置かれ、
堀などを隔てて在地に成立した市町を商農分離策
によって結集した町人地が置かれ、さらに周縁には足軽町と寺社地が集中的に
配置された。こうした在地社会から切り離された城下町の建設を推し進めたの
は織豊政権で、各地の大名領主はこの近世城下町の建設を通して織豊政権の政
策を受容し、近世社会が切り開かれていった。
成立期の城下町は周囲を囲摸する総構などによって周辺の農村と区分された
閉鎖的な空間構造をも呈した。
・武家地の構造
城下町の中心に置かれた武家地は大名領主の居館が置かれた城郭を核として
軍団編制にのっとった空間構成をなした。城郭の周りに一門衆・家老の家中屋
敷、さらに堀を隔てて騎馬兵たる組頭・物頭・平侍の家中屋敷が配され、城下
の縁辺部に歩兵たる徒士・足軽・中間・小者の居住する足軽町が配された。武
家地の構成単位をなす家中屋敷も周囲に塀・垣を巡らして門を構え、重層的か
つ閉鎖的な空間構成を呈した。
この武家地に集住した家臣団は、在地との結びつきを絶たれた結果、公権力
を体現する唯一の領主=大名のイエに包摂され、軍事・警察・行政を担う官僚
集団と化した。公権力の政務は城の御殿で執り行われ、町の行政は町奉行、寺
社は寺社奉行が管轄し、制度的にも武士と町人、寺社は明確に区分され。それ
ぞれ固有の社会と空間を形成した。
・町人地の構造
城下町の町人地は在地社会に個別に成立していた公界の原理を、公権力が普
遍的に保障し、在地や寺社境内・門前に成立した町場や職人集団を結集するこ
とによって成立した。領国内の地名を冠した町名,紺屋町や材木町などの職種
に関わる町名、三日町や七日町などの市日を冠した町名の存在は、諸町の出自
を物語る。こうして出自を異にする町が地縁的共同体である両側町を形成しつ
つ城下を貫く街道に沿って連続的に連なり、一元的な町人地が形成された。し
かし、中世以来の有力商人を媒介として町人地が形成された城下町では、大手
門近くの表通りに有力町人の居住する大町や本町が置かれた。
町人地全体の空間構造も、関ケ原戟以前に成立した城下町では、城から領内
に向かう縦の道筋に沿って町人地が形成される縦町型の計画が卓越し、城に近
い中心から周縁に向かって空間的な序列が生じた。城に向かう縦の町筋が設定
された。
一元化を果たした町人地の内部はまだ差異を内包した空間構造を呈し
ていた。
・寺社地の構造
在地や城下に存在した寺院を移動し、城下の縁辺部に集中配置することに
よって寺町が形成された。領主の菩提寺を含むこれら寺院はかつて境内・門前
に従えた町場との関係を断ち切り、新たな寺地を得て寺請制度に基づく近世寺
院へと性格を変えた。高山の照蓮寺などの有力寺院には、寺内や門前に子院や
町場を従えた寺中が形成された。
城下町の神社の在り方は多様であるが、
先行して存在した有力神社が崇敬さ
れた他、八幡神社など城下町全体の鎮護神が勧請され武家地の要をなす位置に
置かれた。町人地には諸町を束ねた氏神が、城下町成立以前の氏子圏も踏まえ
つつ再配置された。17世紀半ばには全国の城下町に東照宮が勧請され、城下の
枢要な位置を選んで配置された。
8
第二章 街の構成
4)近代の東京計画
銀座煉瓦街
銀座煉瓦街の建設は、わが国における近代都市計画の嚆矢となった事業であ
る。1872 年に丸の内、京橋、銀座、築地にわたる大規模な大火があった。そこ
で明治政府と東京府は、
すぐさま道路の改正と家屋の煉瓦造化を内容とする銀
座煉瓦術計画を決める。都市の不燃化という目的もあったが、明治政府の一連
の欧化事業のひとつとしての意味が大きかった。ただし、明治初期の政府内部
の混乱と、住民の反発などにより、事業そのものは当初の計画から多くの後退
を余儀なくされている。実現したのは、街路の計画では約 27m を最大にした広
幅貞道路と、初の歩道の設置である。またそこに並木も整備し、わが国初とな
るガス灯も設置した。家臣では、全家屋の煉瓦造化はもちろん、様式の統一ま
でもくろまれたが、行政による直営施行の「官築」の他に、民間に任せられる
「自築」によるケースも認めざるをえず、実際には計画地全体で煉瓦造・石造
の比率は51%にとどまった。実際の計画・設計は大蔵省御雇外国人技師である
イギリス人トマス・ジェームズ・ウォートルズが当たっている。1877 年 5 月の
完成後には批判も多く空き家も目立ったが、その後、旧来の商業中心地である
日本橋もしのいで東京を代表する商店街へと成長する。それは、この煉瓦街計
画が、
近代の消費スタイルのための環境を提供したことを考えれば当然のこと
であった。
市区改正計画
1919 年に旧都市計画法が公布されるまで,わが国では都市計画を「市区改
正」という言葉で表したが、これは、もともと東京での「市区改正」事業を語
源としている。この事業は、銀座煉瓦街や官庁集中計画などの局地的なもので
なく、
東京全体を近代的に開かれた町に改造するという大掛かりなものであっ
た。端緒は、1884 年に芳川顕正東京府知事により提出された「東京市区改正意
見書」である。これは街路計画を中心としたものだったが,これに公園,市場,
取引所などの施設と築港を加え,
オスマンのパリ改造なども引き合いに出され
ながら大掛かりにした計画が,明治 18 年(1885)の市区改正審査会案である。
その後,明治 21 年(1888)に「乗京市区改正条例」が公布され,翌年に市区
改正委員会案が登場するここでは,築港や上下水道計画などが含まれないこと
になり,街路計画を軸とした公園などの施設計画が中心となった。こうした計
画内容の変遷には,
当時の都市計画に対する理念の揺れをうかがうことができ
る。しかしその後,財政難などから事業は大幅に遅れることになり,これだけ
はぜひとも行わなければならないという事業だけを選んだ,いわゆる新設計
が,1903 年に市区改正委員会により決められている。ここでは,皇居周辺や日
本橋大通りなどの道路整備などが中心となり,市街鉄道の敷設を積極的に利用
するなど,比較的短期間に実現することがもくろまれた。結局,この事業が完
了したのは,大正 3 年(1914)である。しかし,いずれにしてもこの計画によ
り,初めて東京は近代都市としての構造的基盤を得ることとなった。その後,
多くの近代固有の社会問題が顕在化し,閉鎖的な封建都市からの脱却に迫られ
ていた他の大都市も,こうした事業を切望することになる。
「東京市区改正条
例」は、1918 年以降、阪市、京都市、名古屋市などの大都市にも準用されるこ
とになり、これらの都市でも大正末から昭和初期にかけて大掛かりな「市区改
正」事業が行われている。
9
第二章 街の構成
2−2 . 代官山の概要
・位置
地名としての代官山 JR 山手線の西寄りにある渋谷駅・恵比寿駅、渋谷から
横浜へ出ている東急東横線の二つ目駅として目黒駅がある。これらの 3 駅に
囲まれた範囲が現在代官山と呼ばれている。
・地形
渋谷区は、東京山ノ手丘陵上に商流する渋谷川を中心として、その周り開析
されて残る五つの丘と河岸の低地とから成り、地質時代の複雑な構成の歴史
の結果でき上った地形であった。全体をローム層が覆い、その表面と低地部を
沖積期の黒灰色土が覆っているが、共に農耕土壌としては懐性強く必ずしも
好適ではない。代官山の地形は、渋谷川と目黒川に挟まれた小高い台地に
なっており、坂を下ると渋谷川が流れているという周辺環境になっており、
周辺には坂も多く、現在も緑が多く残っており、小さな路地がめぐり張らさ
れている。
・歴史的要素
農村としての当区に 1 つの宿命を与えた。しかし、その位置が大消費都市江
戸の西部にあるので、この丘陵は農地としてよりも、江戸を囲む外廓武家屋敷
地帯と、郊外と江戸を結ぶ通路の通過地として利用された。きらにこれは明治
以後になると東京人の住宅地と、より郊外との接続地として活用きれ、大い
に発展をとげるもととなった。渋谷古代文化の母なる川であった渋谷川は、幾
耕への利用度が低かったかわりに、水車をまわして新しい企業を区内におこ
したりしたが、舟運の便をみる程の河川でもなかったことは、かえって交通路
の横断をさまたげなかった。
区名
町名
面積(K㎡) 世帯数
渋谷区 桜丘町
0.15
894
鴬谷町
0.11
670
南平台町
0.15
624
鉢山町
0.11
520
猿楽町
0.16
1102
代官山町
0.1
643
0.13
1047
恵比寿西1丁目
0.09
1139
恵比寿西2丁目
0.09
677
恵比寿南3丁目
目黒区 青葉台1丁目
0.16
1376
青葉台2丁目
0.13
451
上目黒1丁目
0.13
918
中目黒1丁目
0.12
1739
合計
1.63
11800
人口
1511
1252
1172
1016
2077
1175
1948
2142
1288
2444
846
1497
2755
21123
・人口と世帯
代官山と言われる範囲は右図の表に表記された町を含んでいる。それぞれ
の面積、世帯数、人口を表記している。
代官山の人口と世帯数
・街としての始まり
1926 年東横線の開業と 1972 年の同潤会アパート完成に端を発し、モダン
な高級住宅としての代官山が出来上がる。1955 年には日本初の外国人専用の
高級集合住宅である代官山東急アパートメントができ、多くの外国人が移り
住んだ。また、その影響からか外資系会社の社宅などもあり、国際色豊かな
街となった。その後、旧山手通り沿いにヒルサイドテラスが建てられたこと
で通りは整備されて行き、大使館の街として発展し、通り沿いの史跡も新た
な役割を与えられ街に組み込まれた。同潤会アパートは取り壊され、2000 年
の跡地の再開発である代官山アドレスの建設後には高層マンションと店舗群
の複合施設が姿を現し、通り沿いにはファッションビルが現れ、街は更に変
化を見せる。
10
第二章 街の構成
・交通基盤
東急東横線代官山駅は渋谷から一つ目駅であり、JR 山手線渋谷駅、恵比寿
駅、東急東横線目黒駅、地下鉄日比谷線恵比寿駅、目黒駅が周辺を囲んでお
り、鉄道機関は充実している。
道路は山手通り(環状 6 号線)、明治通り、青山通り(国道 246 号線)
、駒
沢通りの四本に囲まれている。
代官山の交通網
・商業
メディアの注目により、お洒落な店やレストランが集まっている。それに
加えて、大手企業の覆面ショップや、新業態の実験店舗やフラッグショッ
プ、あるいはファッション系企業のプレスルームなどが多数集まっている。
また、企画、設計、マーケティング、デザイン、アート、コンテンツ、IT 関
係といった新しい都市型ビジネスも集積されている。
・街の動き
代官山に人が来ないことを解消するために、1975 ∼ 1982 年に代官山ヒルサ
イドテラスにて「代官山交歓バザール」を開催し、住民、企業、大使館関係者
なども参加して盛り上がったが、
次第に人が集まりすぎてトイレやゴミ問題な
どの環境問題が発生してしまい、1982 年に中止となってしまった。しかし、現
在も多くのイベントを行っており、建築家の登竜門となっている「SDレビュー
展」や、
「トスポの復興展」
、集会室を使っての「ヒルサイドプラザ・サロンコ
ンサート」など、代官山ヒルサイドテラスのスペースを使い人々の注目を集め
る。
・人の流れ
代官山のメインストリートは商業的な視点、規模的に見て旧山手通り、
八幡通り、駒沢通りといえる。代官山にはメインストリートから一歩奥まっ
たキャッスルストリートをはじめ裏代官山と呼ばれる一帯がある。表である
大通りに人が集まり、裏である小さな小路にも人が流れあちこち散策したの
ちに大通りへと戻ってくるという構造をしており、回遊性を持った街であ
る。
11
第二章 街の構成
2−3.旧山手通りの概要
・地形
太平洋戦争付近に軍事目的により現在の旧山手通りがつくられた。
代官山事
態が坂の多い街なので、旧山手通りも緩やかな傾斜があり、街に変化をつけて
いる。
・歴史的要素
文化財的価値のある渋谷会議所、三田用水路跡地、古墳時代の前方後円墳
といわれる猿楽塚、暗闇坂、といった歴史的遺産がまだ多く残っている。ま
た、弥生時代の住居跡もあり、その後の縄文時代の土器も多数出土してい
る。江戸時代には鷹狩りの場として利用された。
・緑地、歴史的なものの保存状況
旧山手通りに面した樹木に関しては、
デンマーク大使館脇にあるクスノキ
のみであり、昔から残っているものは少ない。その他の樹木はヒルサイドテ
ラスができてから植えられたものであるので、樹齢30年のものがほとんどで
ある。また、珍しい例であるが、朝倉氏の敷地内にあった猿楽塚はヒルサイ
ドテラスに囲まれるようにして保存されている。そして、ヒルサイドテラス
の裏側にある旧朝邸周辺は、ヒルサイドテラス建設以前からの鬱蒼とした
木々に囲まれて残っている。今日の都市において、最も必要とされる自然的
環境資源と都市的文化性の巧みな融合が、代官山ヒルサイドテラスに凝縮し
て表現され、代官山全体に黙示的に好ましい影響を及ぼしている。
12
第二章 街の構成
2−4代官山 ヒルサイドテラスの構成
第1期
第2期
計画
ヒルサイドテラスA・B
棟
ヒルサイドテラスC棟
施設内容
設計
196812-1969.10
住居、店舗 槇総合計画事務所
1972-1973.05
住居、店舗 槇総合計画事務所
第3期
ヒルサイドテラスD・E
棟
1976.10-1977.12
住居 槇総合計画事務所
第4期
ヒルサイドテラス・ア
ネックスA・B棟
1985.12
オフィス、住居 スタジオ建築計画
1986-1987.06
ホール
槇総合計画事務所
19911-1991.12
住居、店舗
槇総合計画事務所
第5期
第6期
ヒルサイドプラザ
ヒルサイドテラスF・G
棟・N邸
素材
コンクリート
吹き付け材
コンクリート
吹き付け材
15×15角のタイル(D)
吹き付け材(E)
ヒルサイドウエスト
白
白
ガラス
オフィス、店舗、住宅
槇総合計画事務所
敷地面積
建築面積
延床面積
7167㎡
642.8㎡
1849.1㎡
第1種高度地区
住居専用地区
規模
最高高さ
A棟 地上3階、地下1階
B棟 地上3階、地下1階
7167㎡
764.2㎡
2436.3㎡
C棟 地上3階、地下1階
7319.8㎡
1274.7㎡
4978.4㎡
D棟 地上3階、地下2階
D棟11.5m
E棟 地上3階、地下2階
E棟14.2m
第1種高度地区
第1種住居専用地域
準防火地域
第1種住居専用地域
第1種住居専用地域
7167.0㎡
642.0㎡
1849.0㎡
A棟 地上3階、地下1階
B棟 地上3階、地下1階
331㎡
準防火地域
アルミ
1998.11
敷地条件
住居専用地区
準防火地域
ガラス
金属
第7期
色
白
白
第1種住居専用地域
F棟1978.9㎡
F棟1361.9㎡
F棟5140.3㎡
F棟 地上6階、地下1階
F棟19.5m
第2種住居専用地域
G棟993.5㎡
G棟665.3㎡
G棟2726.9㎡
G棟 地上4階、地下2階
G棟14.0m
N邸331.7㎡
N邸207.2㎡
N邸497.0㎡
1,230.16m2
706.00m2
2,957.51m2
N邸9.9m
地上5階、地下2階
代官山ヒルサイドテラスの構成表
代官山ヒルサイドテラスは朝倉氏の所有していた広大な一つの敷地を計画
するに当たり、法規的に敷地に対して一軒しか建てられないということか
ら、一団地申請という手法を取り入れ、マスタープランを作り直しながらつ
くり上げていった。一団地申請という手法は都市計画的な要素を取り入れざ
るを得なく、そのためにコンセプトは、都市計画的なものになった。そこか
ら生まれた仕掛けは、旧山手通りを取り込む仕掛けとなっている。
代官山ヒルサイドテラス計画はほぼ 7 段階に分けて実行された。
第1期は小規模の公共と私有の空間を歩行者用連絡通路で連結し、ひと続き
の低層住宅を街路沿いの店舗上に配置し 1969 年に完了した。
第2期には計画の焦点はさらに内方向へと移り、朝倉家の住居をオフィスや
店舗が混在する空間と調和させ、
渋谷区の発展に伴って生じる騒音と混雑を回
避するために、大通りに通じる中庭を配置し 1973 年後半に完了した。
第3期は地域の人口統計の推移を考慮し再び有機的に展開された。オフィス
空間の需要の高まりに伴い住居群は多目的型に設計され、
ファッション地区と
しての代官山の成長にあわせて店舗スペースが追加され、4 年後に完了した。
第4期では、さらなるオフィスを収容するためのヒルサイドテラスアネック
スが1985年に建設され、これと並行してデンマーク大使館の建設が行われた。
朝倉氏は代官山ヒルサイドテラスに隣接する土地をデンマーク政府に売却する
際に、槇氏と共同事業者たちが大使館の設計を担当することを条件としたた
め、大使館の設計および計画は進行中のプロジェクトの開発と一貫性を保つこ
とができた。
第5期は、新ファッションエリアに対してますます高まるニーズに対応しな
がらも、勾配のある自然の地形に留意し、ライブ公演や展示、ファッションイ
ベントのために街路に面して配置された開放的で広大な公共空間を特徴とする
ヒルサイドプラザが 1987 年に完成した。
第6期の頃には、代官山地区のイメージの変化に伴う住居開発ブームに従い
高層ビル建設が認可されていた。
しかし槇氏は朝倉家の所有地の最後の区画に
オープンスペースと通路沿いの店舗、オフィス、住居を融合させ開発済の区画
との調和をはかり、
高層階をセットバックさせることで高層ビルの規模を抑え
プロジェクトの全体的な規模を保持し、1992 年に完了した。
第7期は1996年から1998年にかけてヒルサイドウェストの開発が行われた。
最初の複合住宅が位置する大通りから見ると、下方に緩やかなカーブを描き、
オフィスと店舗空間が表通りの旧山手通りに面しているヒルサイドウェスト
は、下方と裏手から往来可能な地形に沿って建設されていることによって裏手
の住宅のプライバシーが守られている。また複合住宅の中心に位置する緑豊か
で開放的な中庭は、上部の大通り沿いのオフィスと店舗を結びつけている。こ
のヒルサイドウェストはヒルサイドテラスとは場所を異にするものの、住居、
オフィス、店舗を融合させた槇氏の設計からは一貫した姿勢が見られる。
例えばヒルサイドテラスのファサードと外壁は、開発の各段階においても象
徴的なものであったが、
全体的にはヒルサイドテラスの内外の装飾空間を継続
的かつ明快に分離する象徴的な境界となっている。このようなところに建築に
おける伝統的な日本のテーマである建物と自然との継続性の提示が感じられ
る。また開放的な緑の空間と広場を取り囲むように中庭に浮かび上がるシンプ
ルなデザインのガラス壁は、
街路のファサードを区切ると同時に自然の要素を
建物に取り込んでいる。さらに店舗空間は自然と建築形態が混在し、現代的な
機能性を備えている。
13
第二章 街の構成
このようにヒルサイドテラスでは、
内と外の継続性と周囲の都市構造が留意
されており、近代的な設計を取り入れながら同時に失われつつあった日本の伝
統的な都市形態が巧みに反映されている。
今日の東京の現代的な都市ニーズに
も見事に適応する本プロジェクトは、
経済効率を向上させ商業価値を最大化し
ているだけでなく、規模、形態といった美観においても十分に満足感を与える
ものとなっている。
繰り返される建築言語
代官山ヒルサイドテラスにおける仕掛け
・円柱による統一性:旧山手通りに面しているところには円柱を配置し、
ヒルサイドテラスの統一を出している。
・回遊性のある空間:建物に対して正面から入るのではなく、斜めからの
進入にすることで、歩きながら自然に建築の中に入り 込むという空間構成
になっている。
・内・外のパブリックスペースの配置:一団地申請という手法のため、必
然的にパブリックスペースを配置しなければならなくなった。
代官山ヒルサイドテラスの円柱の分布
14
第二章 街の構成
15
第二章 街の構成
16
・分析
第三章 調査・
第三章 調査
第三章 調査・分析
3−1.代官山ヒルサイドテラスおよび旧山手通り沿いのファサードの調査
3−2.代官山ヒルサイドテラスおよび旧山手通り沿いの店舗用途の変遷
17
・分析
第三章 調査・
第三章 調査
3−1.代官山ヒルサイドテラスおよび旧山手通り沿いのファサードの調査
現在の旧山手通りを見ると、代官山ヒルサイドテラスが誕生したことによっ
て与えた建物の高さ、素材、色の変化が旧山手通りの景観に何かしらの影響を
与えたと考えられる。旧山手通り沿いの建物のファサードに与えられた代官山
ヒルサイドテラスの影響を見るため、要素を高さ、素材、色、配置と設定し、
それらがどのように影響しているかを分析する。まず、ヒルサイドテラスにお
けるファサードを調査、
分析することで代官山ヒルサイドテラス自体の統一が
あるかを考察する。そして、旧山手通り沿いのファサードの調査、分析をする
ことでヒルサイドテラスが街並みに対して与えた影響を考察する。
18
・分析
第三章 調査
第三章 調査・
旧山手通り沿いの立面
19
・分析
第三章 調査
第三章 調査・
旧山手通りにおける高さ
20
・分析
第三章 調査・
第三章 調査
旧山手通りと周辺の高さの比較
1)旧山手通りにおける建物の高さの統一
代官山ヒルサイドテラス:A、B棟の建設当初の用途地域は住居専用地区であ
り、旧山手通りが 22m 幅の道路というものに対して高さ規制により 10m という
制限の中で棟までの計画が行われてきた。この22mという幅の道路に対する
10m という高さ制限というものは稀である。それまでにできたものに関しては
高さが 10m と統一されている。そして、規制変更以降に建てられた棟は、容積
率の関係上制限いっぱいに建てられているが、10m 以上の上階をセットバック
させ、庇を出すことによって水平方向の線を強調し、高さを感じさせないよう
に配慮されている。これは、代官山ヒルサイドテラスの持つ高さのスケールを
継続させるために行われている。
周辺の建物:現在の用途地域が施行された後に建設された建物もあるが、代
官山ヒルサイドテラスで統一された10mという高さのラインを意識していると
思われるものが多い。上階部分をセットバックさせることでそれまでの用途地
域変更前の計画通りの10mという高さを強調させ、通りとしての連帯感がある。
通りを広域に見ても、旧山手通りの高さは全体的に低く統一されているとい
える。
21
・分析
第三章 調査
第三章 調査・
旧山手通りに対するセットバック
22
・分析
第三章 調査・
第三章 調査
2)旧山手通りに面する建物の状況
代官山ヒルサイドテラス完成当時の街並み
代官山ヒルサイドテラスのセットバック
代官山ヒルサイドテラス:一団地申請という手法をとっているので、パブ
リックスペースを挿入させなければならず、内部、外部問わずに所々にパブ
リックスペースが構成されている。これにより、自然とセットバックされた空
間が出来上がっている。F・G 棟に関しては、N 邸という個人住居を含めた空間
をパブリックスペースとして使っている。これは、代官山ヒルサイドテラスと
いう建物群の構成を考えた上でのことである。
周辺の建物:急山手通りに対して多くの建物が敷地境界線からセットバック
した空間を作っているのがわかる。これは代官山ヒルサイドテラスの空間構成
と同じ構成である。特に、ヒルサイドテラスによって囲まれた範囲に多く見ら
れる。セットバックさせていることに加え、敷地に対して建築物の密度が低
く、その大きく開いたスペースに樹木や小道が入り込んでいる。通りに対して
平面的に建っている建物が少なく、旧山手通りを通る人々にとって奥行きのあ
る空間構成になっており、回遊性のある街を作り出している要因になってい
る。
代官山ヒルサイドテラスのセットバック
23
・分析
第三章 調査
第三章 調査・
旧山手通りにいける素材の分類
24
・分析
第三章 調査
第三章 調査・
素材:アルミ
25
・分析
第三章 調査
第三章 調査・
素材:ガラス
26
・分析
第三章 調査
第三章 調査・
素材:鉄
27
・分析
第三章 調査
第三章 調査・
素材:木
28
・分析
第三章 調査
第三章 調査・
素材:石
29
・分析
第三章 調査
第三章 調査・
素材:レンガ
30
・分析
第三章 調査
第三章 調査・
素材:タイル
31
・分析
第三章 調査
第三章 調査・
素材:コンクリート
32
・分析
第三章 調査
第三章 調査・
素材:布
33
・分析
第三章 調査・
第三章 調査
代官山ヒルサイドテラス A・B 棟完成時の旧山手通り
コンクリート
タイル
アルミ
3)旧山手通り沿いの建物におけるファサードの素材の統一性
代官山ヒルサイドテラス:同時期に建てられた棟以外、基本的に素材の統一
は見られない。時代性を持たせるために、常にそのときの新しい素材を使うよ
うにしているので、その当時の新しい素材や、流行していた素材、が使われて
いるのがわかる。
全体的にガラスを使った箇所は少ないが、セットバックスペースを多用して
いるので、圧迫感のないファサードになっている、旧山手通りに面しているガ
ラスを使った箇所は主に店舗が入っている1階部分に集中しており、上階部分
は居住者のための採光を確保する程度の窓になっている。
ヒルサイドテラス自体のファサードの素材
・A・B 棟 …コンクリートの打ちっぱなしを採用。
・C 棟 …コンクリートの打ちっぱなしを採用。
・D棟 …15 ×15 角のタイルを使用。この時期から建物に時代性を持たせる
という考えが生まれ、
今までのものと違う素材を使用するように なった。タイルは当時上等な素材だった。デンマーク大使館も同じ
タイルを仕様している。
・E 棟 …コンクリートの打ちっぱなしを採用。
・F・G棟 …アルミ、ガラス、金属などの新しい素材を使用。各種アルミのコー
トゲートパネルやパンチングメタルを使用し、
フレーミングを施し
た大きな開口部など軽快な印象を与えるための仕掛けがなされてい
る。
周辺の建物:ヒルサイドテラスA・B棟が竣工した頃は上の図のような大谷石
の塀に木造の民家が並ぶ屋敷町だった。
それぞれの時建設期により、
そのときの流行の素材を使っていることがわか
る。
旧山手通り沿いの建物は、ただのハコ型ではなく、意匠の凝ったつくりのも
のが多いが、奇抜な素材を使わずに、タイル、レンガ調、石、ガラスを多用し
ている。
代官山ヒルサイドテラスがそれぞれの棟に時代性を持たせる操作をしている
が、周辺の建物が時代の流行の素材を追うといった行動とることにより、代官
山ヒルサイドテラスが求めたその建物の時代性というものを自然に継承してお
り、それぞれ違う素材を使っているが、それの繋ぎ役として代官山ヒルサイド
テラスが存在し、旧山手通りにおけるファサードの素材の統一感を持つことが
できている。
旧山手通り一帯は商業店舗が多いため、1、2階部分はガラスの使用率が高く
なっている。そのため、ガラスの透過性により奥に広がりのある通りが形成さ
れている。これは、代官山ヒルサイドテラスの奥性の構成と同じである。
34
・分析
第三章 調査
第三章 調査・
旧山手通りにおける色の分類
35
・分析
第三章 調査・
第三章 調査
4)旧山手通り沿いの建物におけるファサードの色の統一性
代官山ヒルサイドテラス:素材の統一にて時代性を出すことによってひとつ
の建築ではなく建築群となるように構成していたが、
素材の違いから塗装の仕
方の違はあるが、色の統一は全てにおいて白を基調にして行われている。白に
統一している理由としては、簡単に塗り替えをすることができ、比較的簡単に
白さを復活させることができるということがある。
・A・B 棟 …白い吹きつけ素材を使っているが、道路に面しているため、すぐ
に色が黒くなってしまった。
・C 棟
…白い新しい吹きつけ素材を仕様し汚れにくくした。数年で黒く
なったファサードの A・B 棟もそれに合わせ塗装し直した。
・D 棟 …色は白を基調としている。同時期に建てられたデンマーク大使館
の素材は同じだが、同色だとヒルサイドテラスと同化してしまう
という大使館 側からの ¥ 要望で、大使館として区別をするとい
うことで色はピンクになっている。
・E棟 …色は白を基調としている。C棟と同じ吹きつけ素材を使用してい る。
・F・G 棟 …建物全体は色は白を基調としているが、アルミ素材を使ってお
り、ファサードは明るいグレーが目立つ。1、2 階のヒューマンス
ケールな部分 は白を基調としているため、通りを通っていても、
他
の代官山ヒルサイドテラスと同じ認識をする。
周辺の建物:色に関しての統一は特に見られず、通り全体として様々な色を
使ってはいるが、白、茶色、グレー、ベージュ、といった落ち着いた色を基調
としている建物が多く見られる。
比較的新しい建物は代官山ヒルサイドテラス
と同様に白を基調としているか、
またはグレースケールを基調とした建物が多
く、これは代官山ヒルサイドテラスを意識したものと思われる。看板を出す店
もなく、そのために極端な原色を使った建物がない。また、緑が多いため、自
然に樹木に隠れてしまうので、通り全体が主張しすぎない色を使っている。
36
・分析
第三章 調査・
第三章 調査
5)まとめ
旧山手通りには、
代官山ヒルサイドテラスに高さとデザインをあわせた建物
が続いている。代官山一帯に形成されていく建築群は、代官山ヒルサイドテラ
スによって触発されてできていったと言える。代官山のヒューマンで美しい街
並みの骨格をつくりだしてきた象徴的存在が代官山ヒルサイドテラスである。
この地域は長い間、高さ10m、建蔽率80%、容積率150%という法規制によっ
て守られてきた。1974 年の地域地区全国改定、1982 年の建築基準法改正によ
り規制が緩和されてもなお、ヒルサイドテラスは、低層のスカイラインを守り
続けた。近代都市デザインのボキャブラリーをもって、三層 10m という高度制
限のなかで自然や地形の変化に対応し展開されていった簡素さと複雑さを併せ
持つ建築群は、その後代官山に建てられていく新しい建築物に圧倒的な影響力
を持ち続けた。ヒルサイドテラスはこの地域を高層化・高密度化から守ってき
た。
ヒルサイドテラスが成功した要因は、
単独の建築から街を変えるのではな
く、一建物群によって街を構成し、それにより、周辺を巻き込む仕組みを置く
ことで影響を与えることができたことである。ファサードからわかるように、
先進的なものが一つある状態では何の変化もなく、それらが街並みとしてある
程度完成した状態でなくては街は積極的に動かない。
過去から現在までの旧山手通り沿いのファサードの変化について、槇設計事
務所の方にお話を聞いたところ、
旧山手通り沿いにおける周辺建築のファサー
ドの変化はここ十年くらいによるものであるとのことがわかった。それ以前
は、1960年代からヒルサイドプラザ正面にあったガソリンスタンドによって結
う山手通りの景観の統一はなされず、綺麗な街並みではなかったが、1990年代
に入り、代官山ヒルサイドテラスF・G 棟が完成し、ガソリンスタンドがなくな
り、新しい商業店舗ができることで現在のファサードができあがった。現在の
旧山手通りの景観は、代官山ヒルサイドテラス計画が完成する以前には見られ
なかったことから、
ファサードに影響が出るまでにはある程度街の基準が出来
上がってから出なくてはならない。
代官山ヒルサイドテラスの建築群が通りを
挟んで完成したことで、その影響力は街を変えるものとなった。特に、代官山
ヒルサイドテラスによって囲われた範囲はその影響を直に受けることとなった
のである。代官山ヒルサイドテラスは四半世紀の長期間を使うことで、通りの
反対側のファサードにも影響を与え、街の景観をつくってきた。
旧山手通りには、
代官山ヒルサイドテラスに高さとデザインをあわせた建物
が続いている。代官山一帯に形成されていく建築群は、代官山ヒルサイドテラ
スによって触発されてできていったと言える。代官山のヒューマンで美しい街
並みの骨格をつくりだしてきた象徴的存在が代官山ヒルサイドテラスである。
37
・分析
第三章 調査・
第三章 調査
3−2.代官山ヒルサイドテラスおよび旧山手通り沿いの店舗用途の変遷
対象地域の用途変化を調査し、
対象地域の年代調査における地図へのプロッ
トを行い、代官山における建設が開始されたときの対象地域を含んだ周辺の全
体構造(敷地、商業施設、住宅、等の状態)と、その後の状況の移り変わりを
分析し、代官山ヒルサイドテラスが街にどのような影響を与え、街の変化が
あったのかを読み取る。
38
・分析
第三章 調査・
第三章 調査
ヒルサイドテラス
旧山手通り沿いの用途地区変更
建蔽率
容積率
周辺の変化
インフラ
街の動き
・同潤会代官山アパート完成
1920年代
1930年代
1940年代
・1950年12月1日施行 住居地域
60%
表記なし
60%
表記なし
60%
表記なし
60%
表記なし
・1973年11月20日施行 第一種住居専
用地域(一部住居地域)
50~60%
(60%)
表記なし
表記なし
・1981年4月10日施行 第一種住居専用
地域
(一部 第二種住居地域・住居地域)
・第一種高度地区
60%
(60・60%)
150%
(200%・400%)
・1986年3月17日施行 第一種住居専用
地域
(一部 第二種住居地域・住居地域)
・第一種高度地区
60%
(60・60%)
150%
(200%・400%)
・1987年4月16日施行 第一種住居専用
地域
(一部 第二種住居地域・住居地域)
・第一種高度地区
60%
(60・60%)
150%
(200%・400%)
・1989年1月20日施行 第一種住居専用
地域
(一部 第二種住居地域・住居地域)
・第一種高度地区
60%
(60・60%)
150%
(200%・400%)
・1989年10月11日施行 第二種住居専
用地域(道路から30m)
(一部 第二種住居地域・住居地域)
・第三種高度地域
60%
(60%・60%)
300%
(200%・400%)
・1990年12月6日施行 第二種住居専用
地域(道路から30m)
(一部 第二種住居地域・住居地域)
・第三種高度地域
60%
(60%・60%)
300%
(200%・400%)
・1991年2月28日施行 第二種住居専用
地域(道路から30m)
(一部 第二種住居地域・住居地域)
・第三種高度地域
60%
(60%・60%)
300%
(200%・400%)
・1996年5月31日施行 第二種住居専用
地域(道路から30m)
(一部 第二種住居地域・住居地域)
第三種高度地域
60%
(60%・60%)
300%
(200%・400%)
1950年代
・東急代官山アパート完成
・1954年1月13日施行 住居専用地区
・1964年11月12日施行 住居専用地区
1960年代
・ヒルサイドテラス A、B 棟着工
(第1期計画)
・ヒルサイドテラス A、B 棟完成
・1968年3月5日施行 住居専用地区
(施工/竹中工務店 以下第6期
まで。 デンマーク大使館含む)
1970年代
・ヒルサイドテラス
2期計画)
・ヒルサイドテラス
・ヒルサイドテラス
(第3期計画)
・ヒルサイドテラス
1980年代
1990年代
C 棟着工(第
C 棟完成
D、E 棟着工
D、E 棟完成
・ヒルサイドテラス・アネックス
A、B 棟着工(第4期計画)
・ヒルサイドテラス・アネックス
A、B 棟完成
・ヒルサイドプラザ着工(第5期
計画)
・ヒルサイドプラザ完成
・ヒルサイドテラス F、G 棟着工
(第6期計画)
・ヒルサイドテラス F、G 棟完成
・F棟前モザイク壁画「垂直の
夢」 (宇佐美圭司)設置
・ヒルサイドウェスト着工 (第7期
計画)
・ヒルサイドウェスト完成
・デンマーク大使館開館
・営団地下鉄日比谷線全線開
・エジプト・アラブ共和国大使館 通
開館
・マレーシア大使館開館
・セネガル大使館開館
・渋谷区内の都電全廃
・地下鉄千代田線代々木駅まで
開通
・東急新玉川線、 渋谷・二子玉
川園間開通
・地下鉄半蔵門線、 渋谷・青山
一丁目間開通
・ヒルサイドテラス内テナン
ト会発足
・代官山交歓バザール開
始
・代官山商店会発足
・代官山交歓バザール終
了
・東急代官山駅新装、駅ビル完
成
旧山手通り沿いにおける用途地域の変遷
39
・分析
第三章 調査・
第三章 調査
1)都市計画図による用途地域の変遷
渋谷区における用途地域計画において 1950 年 12 月 1 日に施行された都市計
画図がもっとも古いものであった。この都市計画図には、代官山ヒルサイドテ
ラス周辺となる旧山手通り一帯は住居地域(建蔽率 60%、容積率未記入)と
なっている。これについで 1954 年 1 月 13 日に施行された都市計画図では、住
居専用地区(建蔽率60%、容積率未記入)という変更がなされた。その後、1964
年 11 月 12 日、1968 年 3 月 5 日と施行されたが、旧山手通りの変更は見られな
い。そして、その年に代官山ヒルサイドテラス A、B 棟(第 1 期計画)が着工
し、翌年完成している。
1972 年に代官山ヒルサイドテラス C 棟(第 2 期計画)が着工し、1973 年には
完成している。その年の 11 月 20 日に施行された都市計画図は、第 1 種住居専
用地域(一部住居地域)
(建蔽率 50 ∼ 60%、容積率未記入)という変更がなさ
れる。そしてその三年後、1976 年にヒルサイドテラス D、E棟(第 3 期計画)が
着工、翌年完成している。
1981 年 4 月 10 日に施行されたものは第 1 種住居専用地域(一部 第 2 種住居
地域・住居地域)(建蔽率 60%、容積率 150%)に変更されており、また、この
回施行されたものから高さ制限である第1種高度地区が適応した。1985年にヒ
ルサイドテラス・アネックス A、B 棟(第 4 期計画)完成している。その後、区
は 1986 年 3 月 17 日、1987 年 4 月 16 日、1989 年 1 月 20 日と施行しているが、代
官山ヒルサイドテラスを含む旧山手通りの変更はない。だが、約十ヵ月後の
1989年10月11日に施行されたものは旧山手通りの道路境界から30mまでの地
域を第 2 種住居専用地域(一部 第 2 種住居地域・住居地域)
(建蔽率 60%容積
率 300%)にというように大幅に容積率の変更が見られた。また、高さ制限は
第 1 種高度地区から第 3 種高度地域へと変更された。その後、1991 年に代官山
ヒルサイドテラスF、G棟(第 6 期計画)が着工し、翌年に完成、F棟に関して
は地上 6 階という規模のもので、今までのものよりも明らかに高く、用途地域
にあわせた建築になったといえる。
これ以降の建蔽率、容積率の変更はなされていない 2004 年 8 月 2 日施行都市
計画では第 2 種中高層住居専用地域(一部第 2 種住居地域)へと変更され、現
在に至る。
40
・分析
第三章 調査・
第三章 調査
2)代官山ヒルサイドテラス内における用途の変遷
1969 年 11 月に代官山ヒルサイドテラス A、B 棟がオープンする。A 棟 3 店舗、
B 棟 1 店舗、居住者 1 組、朝倉家直営の文化スペースでのスタートであった。当
時、お洒落なブティックもレストランもあるような地域ではなかった代官山
で、朝倉兄弟は、このモダンな建物にふさわしいテナントを見つけてこなけれ
ばならなかった。
最初にテナントとして入居が決まったのは、戦後におけるフランス料理店の
先駆けのひとつレンガ屋である。稲川は代官山ヒルサイドテラスB棟半地下に
レストランを、A 棟半地下に喫茶店を出店することとなる。初期の代官山ヒル
サイドテラスはレンガ屋のある代官山ヒルサイドとして有名になった。レンガ
屋の出店決定で、他のテナントも決まっていった。第 1 期のテナントはみな稲
川の友人たちである。オートクチュールカナイの金井茂平は、森英恵に裁縫を
教えていたこともある洋裁家で、銀座通りに出していた店を、駐車場難から4、
5 年前に閉めていた。さらに金井の友人の鈴木邦夫が雑貨屋サンクスを出店す
ることになる。青田美容室の青田房子は、それまではただの主婦という素人で
あったが、稲川の「近所に美容院があると便利だ」という言葉に促されて、美
容院をやることに決めた。青田美容室は B 棟 1 階ワンフロア 3 店舗分を借りる
こととなった。素人ではあったものの、当時はめずらしい紳士用の美容コー
ナーもある広々とした美容室は人気があり、芸能人等も顧客であった。こうし
て店舗は、特別な常葉をするわけでもなく、人の緑ですべて決まっていった。
だが、朝倉兄弟にとって、店舗が埋まったことで、テナント業が終わったわけ
ではなかった。通りに向かって顔を出すという槇氏の当初の目論見通りのテナ
ント展開にならなかったのである。第 2 期の計画ができ上がるまで、少しこの
店舗数はすくなすぎ、規模として拠点になる強さを持っていなかった。当分の
間、各経営者は苦労することになる。
テナントが順調に決まっていったのとは裏腹に、住居部分の入居者さがしは
難航した。A棟 2 階の住居部分は稲川がワンフロアで住むことになったが、B棟
のメゾネット四戸は貸家の看板を立てたり、新聞広告などを出し、営業をかけ
たが入居者は見つからなかった。
槇氏は代官山ヒルサイドテラスを500ドルアパートと考えていた、と朝倉兄
弟は言う。1 階が居間、食堂などの公共スペース、2 階に 3 つの個室のプライ
ベートスペースとトイレ・浴室・台所等が設けられたメゾネットは、当時の日
本ではほとんど見られない住戸スタイルで、馴染みが薄かった。約30坪あった
が、アメリカではアパートの最低の広さであり、ワンルームに近い感覚であっ
たようである。日本に駐在する外国人に対し支給される住宅手当が500ドルで
あった。しかし 1 ドル= 360 円の時代の家賃 18 万円は高く、外国人向けの高級
アパートとしては、シンプルすぎた。その結果、建物の完成から 1 年以上、入
居者が見つからない状態が続いた。最初の入居者は、BIGI 創生期の菊池武夫・
稲葉任意夫妻だった。メゾネットの 1 階を事務所に、2 階を住居に使うという
ことだった。BIGI は代官山ヒルサイド入居の年、1970 年に表参道にブティッ
クを出し、以後どんどん事業を拡大、第 2 期にかけて代官山ヒルサイドだけで
7、80 人の社員を抱えるまでになった。BIGI を皮切りに、B 棟メゾネットには
アパレル系事務所が入居するようにった。1970年代が始まり、代官山ヒルサイ
ドテラスが創り出すモダンな都市空間は、ファッション誌やタウンガイド誌、
ライフスタイルマガジンにも紹介され、都市文化の舞台装置として認知されて
いった代官山ヒルサイドにおいて、メゾネットは、都市文化をつくりだす側の
オフィスとなっていった。
C棟に入居した店舗は、代官山ヒルサイドテラスの「商」の顔をつくっていっ
た。1973 年のオープン時にはトムスサンドイッチとくらふと滝陶。1975 年に
はクリスマスカンパニー、1976 年にはフローリストイグサ(現在は G 棟)が入
居し、1 階中庭を囲むことになる。いずれも現在最も古いテナントである。
C 棟には、朝倉一族が住むというはっきりした目的があった。それまで朝倉
家の面々は、現在の D 棟の位置にあった木造平屋に住んでいた。1970 年には健
吾が山口玲子と結婚。誠一郎夫婦と四男・誠之、徳道家族、健吾夫婦、そして
誠一郎の娘・法子夫婦、計四家族が、C 棟 2、3 階に住むことになった。以後、
代官山ヒルサイドテラスが増築されるにつれ、家族数も増え、現在は九家族が
代官山ヒルサイドテラス内に住んでいる。
代官山ヒルサイドテラスとは、朝倉家が代官山に住みつづけるための家なので
あった。朝倉家以外の C 棟の住居部分については、第 1 期同様、アトリエ型の
オフィスとしての使用希望者がほとんどだった。しかし住居の事務所使用は、
41
・分析
第三章 調査・
第三章 調査
第1種住居専用地区では認められておらず、都の建築基準局により朝倉不動産
は始末書を書かされたこともあった。
この規制に関して朝倉兄弟は少なからず不満を持っていたが、しかし一方
で、第一種住居専用地区、10m の高さ制限、容積率 150%という規制が、この
地域の環境を守ってきたことも事実である。この規制をうまく乗りこなし、良
い方向に転じたのが代官山ヒルサイドテラスであった。
第 2 期は、住宅地であった代官山が商業地としての様相をもつ転換期でも
あった。その転換の契機をつくったのが、代官山ヒルサイドテラスであった。
時代は「住居」以上に、商業の場、オフィスの場としての代官山ヒルサイドテ
ラスを求めていた。だが、朝倉家はこの街における「住みつづける」ことの重
要性を知っていた。
「都市に住む」ということをテーマに構想された「代官山集合住居計画」に
とって、第 3 期はあらためて「住」のあり方について考える場となる。
テナントは増えてはいたものの、それぞれの営業にはやはり厳しいものが
あった。トムスサンドイッチの佐藤は、
「夕方五時近くなると人の動きはまっ
たく途絶え、八時まで店を開けていることの虚しさや、人気のない空間に怯え
ることもありました。タクシーすら旧山手通りには走っていませんでした」と
語っている。初めからある程度覚悟していたとはいえ、実際の客の少なさは予
想以上だった。1975年にはテナント会が結成され、代官山ヒルサイドテラスの
プロモーションのあり方が検討された。事務局長には、㈱アスピの岩橋謹次が
就任する。
第 3 期から第 4 期の間には 8 年の歳月が流れている。この間、1979 年には D
棟の隣に槇氏の設計によるデンマーク大使館が竣工する。
デンマーク大使館は
それまで南青山にあった。朝倉不動産が竹中工務店を介して土地売却の際にデ
ンマーク大使館に提示した条件は、槇氏が設計を行うということだった。それ
まで 10 年をかけて創ってきた街並みをここで途切れさせたくなかった。
こうして旧山手通り沿いには、
それまで進められてきた一連の風景を引き継
ぎながら大使館という新たな彩りが加わることになる。ちなみに旧山手通りに
は、デンマーク大使館の他、エジプト大使館、マレーシア大使館が並び、大使
館通りと呼ばれていた時期もある。南平台にはフィリピン大使館、青葉台には
セネガル大使館、代官山町にはリビア大使館もある。外国人住居も多く、アメ
リカンスクールやバプテスト教会等もあり、インターナショナルな空気をこの
地域に運んでいる。
ヒルサイドプラザは旧山手通りの南側約200メートル続く街並みの最後を飾
るプロジェクトだった。それまで駐車場として使われていた B・C 棟の間のス
ペースに地下ホールをつくったものである。地下にしたことには理由があっ
た。ヒルサイドプラザは、中央官庁の会議所として使われている旧朝倉邸の
ちょうど裏手にあたるのだが、朝倉家は、旧邸の緑豊かな庭園をやがては公園
にしたいという希望をもっていた。中目黒から上ってきて、JR 跡地の林を抜
け、公園へと至る。そのエントランスプラザとして地上スペースが使われると
きのことを考え、ホールは地下に埋め込まれたのである。旧朝倉邸の門に隣接
するアネックスもまた、
公園の入り口にふさわしいものになるように考えられ
ている。代官山ヒルサイドテラスはこのように先を読んでつくられている。
代官山ヒルサイドテラスは、第 2 期より A 棟の現在のヒルサイドギャラリー
があるスペース、E 棟ロビーなど、文化催事ができるスペースが設えられてい
たが、
ヒルサイドプラザの誕生はそれをさらに積極的に推し進めていく大きな
転機となった。文化的スペースを創り出していく試みは、第 6 期計画でさらに
展開する。
バブルの喧騒の中にあっても朝倉不動産は泰然としていた。土地投機等に
もー切手を出さず、その恩恵もダメージも極端に受けることはなかったとい
う。ただ、テナントの入居をめぐってはバブルの影響と無縁というわけにはい
かなかった。それまで、A 棟から E 疎までのテナントや住人の多くは、朝倉家
や横の個人的ルートで入居していた。人と人の緑だから、決まるまでに時間を
要し効率的ではなかったが、
一種の家族的関係の延長にある安心や信頼があっ
た。しかし、バブルの影響で店舗の需要は増大する。代官山ヒルサイドテラス
や代官山の知名度から、商社など大資本からもオファーが来るようになり、今
までの素人商売的手法から営業筆法に切り換えざるを得なくなった。その結
果、新都市研究開発がテナント誘致を担当することとなった。
テナントの押し寄せる波が強かった分、引く波は速かった。それはまさにバ
ブルそのもので、多くのテナント候補が消えていった。水上らの健闘の結果、
42
・分析
第三章 調査・
第三章 調査
B1
A
B
1F
アートフロント
ギャラリー(アー
トギャラリー)
プチバトーブ
ティック(カジュア
ルファッション)
タンタンボックス
代官山(キャラク
ター雑貨)
松之助N.Y.(ケー
キ&ベーキング
サロン)
住居
ル・ビストロ パッ アート・フロント・
ション(軽食&デ グラフィックス(版
リ)
画ショップ)
アップリカ(ベ
ビー&マタニティ
用品)
ガンプス(ギフト
ショップ)
家具・インテリア ヒルサイドカフェ
サロン花伝舎
(カフェ)
(オーダーインテ
フローリスト イグ
サ(生花)
レストラン・パッ
ション(フランス
料理)
C
D
パパ・アントニオ インサレント
(イタリアンレスト (オールドウォッ
ラン)
チ)
住居
2F
ヴェガ(美容室)
住居
サンズコート
トムスサンドイッ カフェ・パティス クリスマスカンパ 陶房テラ(陶芸教 代官山ファースト ジ・オブセッショ
(ハーブショップ) チ(サンドイッチ・ リー・ラターブル ニー(クリスマス 室)
(セレクトショッ
ン・ギャラリー
カフェテリア)
(ケーキ&ダイニ 雑貨販売)
プ)
(アートギャラ
チェリーテラス
チェリーテラス
(クッキング&
ブックコーナー
テーブルウェア)
住居
E
F
G
延楽(日本料理) マリア ラブレース
(ウェディングドレ
ス)
ヒルサイドパント
リー代官山(フー
ズショップ)
住居
シグナ(ヨーロッ 山田平安堂(漆
パのインテリア小 器)
物と生活用具)
藤沢歯科医院
(歯科)
代官山ヒルサイドテラス内のテナント
何とか入居したテナントも、初期のテナントが、代官山ヒルサイドテラスだか
らとお客が来ないのにも耐えて、居続けたのとは対照的に、商売が厳しいとな
るとすぐに撤退してしまった。営業的手法の困難と限界があった。それは
ヒューマンリレーションこそが、代官山ヒルサイドテラスをつくり、守ってき
たことを証明することにもなった。だが、空いたテナントの穴を無理に埋める
ことはせず、自然の流れに任せていた。
第 6 期計画は、これまでと同様、地階・地上レベルに店舗とパブリックスペー
ス、2、3 階が住居となっている。そして横の言葉通り、中央の広場の奥にガラ
ス張りの展示ホール・ヒルサイドフォーラムとカフェ、さらに奥にギャラリー
が設けられた。第 6 期の特徴は、オーナー直営のスペースが増えていることで
ある。F 棟のカフェ、フォーラム、ギャラリー、そして G 棟のパントリー。当
初ギャラリーは、フランスにベースがあり、国際的に展開するエンリコ・ナバ
ラ・ギャラリーがテナントとして運営していた。ナバラはマリノ・マリーニや
シャガールなど重量のある展覧会を開催したが、その後撤退。ギャラリーは
フォーラムと一体のスペースとして、朝倉不動産が運営することになった。
43
・分析
第三章 調査・
第三章 調査
1966年
分類項目
代官山ヒルサイドテラス
住居
店舗(服飾・飲食・雑貨)
オフィス
住居+オフィス
住居+店舗
オフィス+店舗
住居+オフィス+店舗
役所関係
アパート・マンション
大使館
ガソリンスタンド
歴史的な物
駐車場
学校
植生
倉庫
その他
44
・分析
第三章 調査・
第三章 調査
分類項目
1974年
代官山ヒルサイドテラス
住居
店舗(服飾・飲食・雑貨)
オフィス
住居+オフィス
住居+店舗
オフィス+店舗
住居+オフィス+店舗
役所関係
アパート・マンション
大使館
ガソリンスタンド
歴史的な物
駐車場
学校
植生
倉庫
その他
45
・分析
第三章 調査・
第三章 調査
分類項目
1978年
代官山ヒルサイドテラス
住居
店舗(服飾・飲食・雑貨)
オフィス
住居+オフィス
住居+店舗
オフィス+店舗
住居+オフィス+店舗
役所関係
アパート・マンション
大使館
ガソリンスタンド
歴史的な物
駐車場
学校
植生
倉庫
その他
46
・分析
第三章 調査・
第三章 調査
分類項目
1986年
1978年
代官山ヒルサイドテラス
住居
店舗(服飾・飲食・雑貨)
オフィス
住居+オフィス
住居+店舗
オフィス+店舗
住居+オフィス+店舗
役所関係
アパート・マンション
大使館
ガソリンスタンド
歴史的な物
駐車場
学校
植生
倉庫
その他
47
・分析
第三章 調査・
第三章 調査
分類項目
1988年
代官山ヒルサイドテラス
住居
店舗(服飾・飲食・雑貨)
オフィス
住居+オフィス
住居+店舗
オフィス+店舗
住居+オフィス+店舗
役所関係
アパート・マンション
大使館
ガソリンスタンド
歴史的な物
駐車場
学校
植生
倉庫
その他
48
・分析
第三章 調査・
第三章 調査
分類項目
1991年
代官山ヒルサイドテラス
住居
店舗(服飾・飲食・雑貨)
オフィス
住居+オフィス
住居+店舗
オフィス+店舗
住居+オフィス+店舗
役所関係
アパート・マンション
大使館
ガソリンスタンド
歴史的な物
駐車場
学校
植生
倉庫
その他
49
・分析
第三章 調査・
第三章 調査
分類項目
1992年
代官山ヒルサイドテラス
住居
店舗(服飾・飲食・雑貨)
オフィス
住居+オフィス
住居+店舗
オフィス+店舗
住居+オフィス+店舗
役所関係
アパート・マンション
大使館
ガソリンスタンド
歴史的な物
駐車場
学校
植生
倉庫
その他
50
・分析
第三章 調査・
第三章 調査
分類項目
2003年
代官山ヒルサイドテラス
住居
店舗(服飾・飲食・雑貨)
オフィス
住居+オフィス
住居+店舗
オフィス+店舗
住居+オフィス+店舗
役所関係
アパート・マンション
大使館
ガソリンスタンド
歴史的な物
駐車場
学校
植生
倉庫
その他
51
・分析
第三章 調査・
第三章 調査
3)旧山手通り沿いにおける用途の変遷
1966年から現在までの用途の変遷をみると、住宅地から商業の街へと徐々に
移り変わっていることがわかる。1960 年代当時は、住居専用の指定があり、そ
れによりオフィスビルや商業店舗が単体で建つことはできず、職住一体のもの
でしかだめだったが、そのため、住民に密着した地域地盤が生まれた。現在は
山手通りに面してところには殆ど住宅はなく、主に被服、インテリア、雑貨と
いった店が大半を占めている。
1989 年に用途地域が第 1 種住居専用地域(建蔽率 60%、容積率 150%、住居
の環境を保護するための地域。3000 ㎡までの一定条件の店舗・事務所・ホテル
等が建てられる。)から第 2 種住居専用地域(建蔽率 60%容積率 300%、主に住
居の環境を保護するための地域。店舗・事務所・ホテル・パチンコ屋・カラオ
ケボックス等が建てられる。)へとなったことが、代官山ヒルサイドテラス計
画と共に代官山が商業の街に変わる大きなポイントとなった。
年代が進むにつれ、細かく区分けされた住宅地から、それよりも大きな規模
のビルになり、多様なテナントが入り、現在の代官山ができている。
以前からヒルサイドプラザ正面にあったガソリンスタンドが1990年代に入り
なくなってからは、
そこに新たに建った店舗によってより商業の色が強くなっ
た。
また、旧山手通りは樹木の多さが目立つ。1960年代から現在に至るまでその
ままの姿で残っているものが多い。現在、区の所有地となっている旧朝倉邸を
含む雑木林、猿楽塚、デンマーク大使館脇のクスノキ、急山手通りの歩道に
建っている樹木、G 棟横にある区の所有地となっている雑木林が大きく目立つ
緑地といえる。旧山手通りの歩道に立っている樹木は古いものではなく、樹齢
30 数年のものである。現在では大きく成長し、通りの顔となっている。旧山手
代官山ヒルサイドテラス A・B 棟完成当時の旧山手通り 通りは建築に対して樹木の比率が高い。旧朝倉邸に関しては、以前区は開発し
ようとしていたが、区民からの要望によって保存が決まっている。これによっ
て、旧山手通り沿いの樹木の多さが確保された。これほどまでに本来のままの
緑地が残り、その土地に定着している地域は少ない。
52
・分析
第三章 調査・
第三章 調査
4)まとめ
代官山ヒルサイドテラスA・B棟の建設当時、代官山は住居専用地区というこ
ともあり、それによりオフィスビルや商業店舗が単体で建つことはできず、職
住一体のものでしかだめだったそのため、住民に密着した地域地盤が生まれ
た。もともと商店がない地域で、渋谷、恵比寿方面まで足を運ばなければなら
なかった。だが、代官山ヒルサイドテラス A・B 棟建設により、特例ではあるが
その中にテナントが入ることで、街が変わるきっかけとなったといえる。しか
し、当初入ったテナントはフランス料理店などだったので、街のための商店と
は言いがたい。だが、今後の方向性を示した内容だったといえる。元屋敷町と
いう場所柄により、
元々人通りがなかったところに建てられた代官山ヒルサイ
ドテラスに初めはなかなかテナントが入らず、また、店主はお客が少なく苦労
し長年店主達は頭を抱え続けていたが、1990年代から注目されるにつれて人の
流れができるようになり、現在の集客力を得るようになった。地域性はヒルサ
イドテラスによって作り出された。旧山手通りはその象徴である。
代官山ヒルサイドテラス内のテナントは、竣工当初より、朝倉氏の要望に
よって槇氏がヒルサイドテラスに入るテナントを選定している。この方法は現
在も続いている。このことから、代官山ヒルサイドテラス内のテナントの変遷
は、設計者である槇氏の選定によって選ばれた内容の良い店だけを入れること
によって全体の質を保っているといえる。それにより、周辺の店舗の意識も必
然的に高くなり、質の高い店が出店することで街の統一ができた。
53
終章 結論
終章
結論
54
終章 結論
現在の旧山手通りの統一は、代官山ヒルサイドテラス計画が完成する以前
には見られなかったことから、
代官山ヒルサイドテラスによってその影響を直
に受けることとなった。特に、代官山ヒルサイドテラスに囲まれた範囲の影響
は大きかったといえる。
代官山ヒルサイドテラスは四半世紀の長期間を使うこ
とで、
自然に通りに対する意識をいうものが通りをはさんだ反対側のファサー
ドにも影響を与え、街の景観をつくってきたのである。
旧山手通り沿いは用途地域の変更によって、法規的には商業的な街に変
わっていったが、代官山ヒルサイドテラス計画が完成するにあたって、周辺の
変化も盛んになり、現在の街並みになった。商業店舗を入れることが難しかっ
た地域にヒルサイドテラスの積極的な働きがきっかけとなった。設計者である
槇氏の選定によって選ばれた内容の良い代官山ヒルサイドテラス内の店舗によ
り、周辺の店舗の意識も高くなり、旧山手通りの統一が導かれている。
代官山ヒルサイドテラスは、現在の都市建築の流れから見ると明らかに違
う視点で動いている。長期間の工程によって作り上げられてきたスローアーキ
テクチャーとなり、
一つの時代を作り上げることで旧山手通りに長期間かけて
浸透して行き、街を変える要素になっているといえる。
代官山ヒルサイドテラスと旧山手通りのように街と建築が対話を繰り返し
ながら、ひとつの風景をつくりあげてゆけたのは、この開発が、四半世紀とい
う長い時間をかけて、それぞれの時代状況に対応する形でゆっくりと進められ
ていったことによるところが大きい。
開発と呼ぶにはあまりにも自然体で進め
られたこの一団地計画は、猛烈な勢いで進行する現代の巨大プロジェクトの対
極にある。ヒルサイドテラスが、箱をつくつて、売って終わり、という開発と
決定的に異なるのは、そこに開発者である朝倉家が住みつづけていることであ
り、その長い歳月をかけた開発のバックボーンとなったのは、地域社会のなか
で何ができるのか、その責任の所在を問いつづける、代々そこに住みつづける
施主と一人の建築家・槇文彦氏との深い信頼関係に基づく協働であった。街と
は、建築ができた時に完成するのではなく、時間の流れの中でそれが環境とし
て成長し、成熟することによってつくられていくものである。代官山ヒルサイ
ドテラスの開発に使われた時間は、旧山手通りがひとつのコミュニティとして
成長するプロセスに必要な時間であった。
代官山ヒルサイドテラスが成功した要因は、朝倉氏の所有していた一つの
敷地を計画するに当たり、敷地に対して一軒しか建てられないということか
ら、一団地申請という手法を取り入れ、マスタープランを作り直しながらつく
り上げて行き、一団地申請という手法が都市計画的な要素につながった。そし
て、単独の建築から街を変えるのではなく、一建物群によって街を構成し、そ
れにより、周辺を巻き込む仕組みを置くことで影響を与えることができたこと
である。ファサードからわかるように、先進的なものが一つある状態では何の
変化もなく、それらが街並みとしてある程度完成した状態でなくては街は積極
的に動くことはない。
55
参考文献
参考文献
56
参考文献
参考論文
□藤慶介(南條設計室)・古市修・小林正美・小池博: 都市の変化要因とその波及効果に関
する研究代官山ヒルサイドテラス周辺地区におけるケーススタディ
□木原良太(アスピ)・上原勝・橋本都子・高橋鷹志: 代官山ヒルサイドテラスにおける居住
環境形成に関する研究
□三島伸雄・山田学:隣接建築物との関係から見たウィーン市の連続壁面タウンスケープの
評価と分析 - 建築史上の著名建築家による建築作品を中心として □木原良太(アスピ)・上原勝・橋本都子・高橋鷹志: 代官山ヒルサイドテラスにおける居住
環境形成に関する研究
□天明周子: 代官山地区の発展における街路空間の特質
□西山亮介: 代官山から考察する街ブランド形成に関する研究 経験経済に着目して
参考文献
□渋谷区史
□日経アーキテクチュア編: 建築がまちを変える , 日経 B P 社
□前田礼: ヒルサイドテラス物語−朝倉家と代官山のまちづくり . 現代企画室
□岩橋 謹次:「代官山」ステキな街づくり進行中 . 繊研新聞社
□槇文彦:見えがくれする都市 . 鹿島出版会
□槇文彦 / アトリエ・ヒルサイド:ヒルサイドテラス白書 . 住まいの図書館出版局
□:都市の歴史.鹿島出版会
□ケヴィン・リンチ:都市のイメージ
□建築文化 1969.12/1972.10/1973.10/1976.7/1978.4/1980.2/1988.6/1992.6
□ SD:1979.6/1986.1/1993.1
□日経アーキテクチュア:1978.4.3/1988.1.11/1992.5.25
□新建築:1973.10/1976.7/1969.12/1978.4/1992.6
□ JA:1974.1/1979.3 □ GA JAPAN:1993 No.2 □造景 1998.4
57
謝辞
謝辞
58
謝辞
謝辞 本研究を行うに際し大学院二年間、また、学部時に御指導頂いた衣袋先生に
深く感謝し御礼申し上げます。副査の中野先生、桑田先生には本論に御意見、
御感想を頂き、御礼申し上げます。また、忙しい中、時間を割いてヒアリング
をさせて頂いた槇総合設計事務所の志田さん大変ありがとうございました。
衣袋研究室・建築研究会の皆さん、先輩方、同輩の河合さん、矢倉さん、古
橋さん、神田君、柴田君、早瀬君、三年間ありがとうございました。
長年に渡り私を支えてくれた家族の皆さん心から感謝致します。
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