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まえがき 日本文学も, ようやく) 世界文学の世界に登壇しはじめたが, まだ

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まえがき 日本文学も, ようやく) 世界文学の世界に登壇しはじめたが, まだ
中 国 文 学 土 ネ ル ギ ー
On
the Energy of
荒
‘ Chinese
論
Litterateu?・s
木
修
(文理学部)
まえかき
本 論
第一章
寂寞について
第二章
第三章
第四章
巾国文学史のなかの寂寞の展開
中国文学史のなかの「文」と「武」
民俗文化遺産の問題
むすび
ま え が き ・ ●
日本文学も,ようやく,世界文学の世界に登壇しはじめたが,まだイ三シアティブを握るほどで
はない.同じ停滞的東洋に誕生しながら唐詩は,はやくドイツやイギリスの’ことばに翻訳され,そ
の国の詩人たちに大きな影響を及ぼした.とりわけ顕著な例を挙げるならば.
Das
Lied
von
der Erde
Gustav
Mahler
などは,むしろ中国文学専攻者以外の人びとによってディスククラブな
どに取りあげられている如くであり,李白や杜甫の愛好者は,むしろ中国本土よりも日本において
こそ,日本のどんな詩人の詩よりも広く深く愛好されているごとく思われることである.
藤村の詩,金子光晴の詩,人びとそれぞれその情熱や知性やに共感を覚えるに違いない.しか
し,それらには,世界文学の一つとして見るとき,中国の名詩に比しで力.を感ずることがすく
ない.それはなぜであろうか.一言にしていえば作者の思いにかかっている歴史の重みの違いとい
えよう.攬乱と凝集の時間,空間のスケールの大差があるのだ.これはむろん個人の責任ではな
い.いたしかたのないことである.
このように論断してしまえば一応けりはつくが,それでは,わかっているひとにしか,わたしの
意見は認められない.以下実際について細論し,批判を仰ぎたいとおもう次第である.
本 論
第一章 寂寞について
中国文学における寂寞は大体三種と思われるが,.その第一は比較的に純粋客観的な寂寞で,老子
第二十五章の
有物混成,先天地生,寂分寥分,独立而不改,周行而不殆,可以為天下母,吾不知其名,字之
日道,強為之名目大.
という寂寞である.老子文中の「寥」の宇は河上公本,王弼本(現行の)はこのようになっている
が,武内義雄博士の「老子の研究」によれば傅突本茫応元本は「寞」の字になっており,泄注に王
弼古本に同じと云っているから茫氏の見た玉木は「寞」になっていたと推論され,景龍碑と次解本
とは「漠」に作っているとのことである.そうすると
寂号寞分 あるいは 寂分漠竹 -’
ということになり,末代哲学の「冲漠無朕」への展開の原義がこの老子・め「寂」「寞」のなかにあ
の
172
高知大学学術研究報告 第15巻 人文科学 ’・第13号
ることか知られる,また上文の「道」と「大」とは老子第十八章の
大道廃有仁義. ノ
の「大道」に外ならない.これもまた超主観,純粋客観の世界を指七七いったものである.「寂分
寥分」の方が無音の状態が切実に感得できるのでこの方が通行しているであろうが,「寂号寞分」
「寂分漢竹」の方が存在論的意識の上では,よりはっきりする.恐らくは「寂号寞分」が原初の発
想法だったであろうが,荘子と並行するにいたって「寂分寥分」の方が通行しやすい条件を備えた
と推察できる.荘子内篇大宗師に
安釧而去化,乃入於寥天一. \
の陳注に「寥は虚なり」とあるが,そのような寥で,寞と通じてい.る点に注意すべきである.
なお,程子遺書には △
冲漠無朕,万象森然已具,未応不是先,已応不是後.
また,文選李善の注には ,
沖漠,冲虚恬漠也. クレご
とあり,梁の武帝の詔では
雅量沖進
などの文字も見える.これは空虚で広大の意であって,「寂寞」「沖漠」とはやや異る.
第二類の寂寞は,具体的に有無の意識かはたらいている.たとえば,李白の将進洒に見られる
古来賢連皆寂寞.憎有飲者留其名.
のごとく,もはや存命していない意のものとか,それより少しく弱い寂寞と思われる
芳心寂寞寄寒枝.(曽崇の虞美人草)
などが情景描写の「寂災」である.
なお,「古来賢達皆」のつぎの寂災の二字を死尽め二字に作っている本もあるから「存命」云々
といったことを断っておく. ,
第三類の寂寞は,主観的淋しさである.魯迅の聯咸自序に見える寂寞は,そのようなものであ
る.それは彼自身が「自己的寂寞的悲哀」といい,「無端的悲哀」と呼んだものではあるが,なか
なかエネルギーをもっていて
這寂莫又一天一天的長大起来,如大毒蛇,纒住了我的霊魂了.
と魯迅が書いたようなものである.中国人と交際するとき,も・しわれわれが独身であれば「恋寂寞
公」ときかれるであろう.それは妻なき夜の無聊をきかれているのであり,それは多分に肉体的,
物質的な土合をともなった質問である.これも第三類に入れてよいと思う.第三類は純粋感性的寂
寞といえよう.第二類の寂寞は第一類と同様,客観的であるが,第三類は主観的である,とはい
え,その主観的感性は,実は李準の弔古戦場文のなかの「鳥無声分山寂寂」のごとく「無声」とい
う現実に発するもので,人間的体験としては,杜甫の夢李白のなかの「死別己呑声」や,哀江頭の
「少陸野老呑声哭」というふうに声を呑むことになり/生命の停滞を意味する点で,第一,第二の
寂寞へ実在の意識を通じて客観性を帯びることを無視できない.
第一類,第二類の寂寞は,いねば休息,静思による養生であり,エネルギーの蓄積であるに対
し,第三類の寂寞は陰圧の蓄積,いいかえれば負のエネルギー,で,禄の下から出てくるような力を
生む.心理学的にとらえれば劣等感,不満,欲求不満から暴力○○にまでたかめられるような水平
回帰のエネルギーである.個人個人では大したことはないが,多く集まり,いちどに,その力が発
抑されると,すごいエネルギーになることを思わなくてはならない.
老子に「犬音希声,大象無形.」(41章)といい,また「希言自然.故瓢風不終昿願雨不終日.」
(23章)というのは大道が「氾分其可左右」(34章)のごとく地の穴をうめて欠けたるをみたし,す
べては不測不知の間に大戊させるからである.形而下的エネルギーはあっても見せないし,形而上
中 国 文 学 エ ネ ノレ ギ ー 論 (荒木) 173
学的にも捕捉しがたい無限の宇宙間の変幻自在のエネルギーの諸相を直指しているわけである.
老子は区区たる人間界の些末なエネルギーの消費から救うため,人間エネルギーの源泉との結
合,復帰を説いたが,恐らくそれを如実に感得したものは少なかったであろう.それは現存の多く
の解説書を見れば察知できるところで,説者みずから観念論に終止しているものが多い.
以上で,寂寞についての三種の分類を行なったので,中国文学史のなかの寂寞について分析的な
推論を展開しやすくなった.以下それを試みることにしよう.
第二章 中国文学史のなかの寂寞の展開
わたくしの郷里長野県では「信濃の国」といううたが愛唱されているか,その故郷から出た名人
傑士の名が出る.荻生狙侠の高弟,太宰春台もこの歌のなかで,その名をうたわれているか,彼の
「詩論」の一節に次のような文がある.
大凡古人作詩,皆必有不平之思,然後発之詠歌.不能已者也.
余嘗観三代之人,不作詩也.其有作詩者,皆有思者也.無思不作.
余嘗謂飛何一刺客也.臨別而歌,其辞僅両切.項羽一猛将也.臨死而歌,其辞僅四切.夫此二
歌者風清調高.不為奇語険辞而千載之下,生色不変.今諏詠之可以想見当時気象,豊不妙哉.
以上三つのうち,最後のものは附録のものであるが,司馬遷の史記列伝巻86刺客列伝によれば,
読書撃剣好きの荊何か紹介者兼秦王暗殺計画立案者である田光先生に自刎して激励され,燕に亡命
中のもと秦の将軍焚於期の願いによって,その自到した首を携え,易水のほとりで飲み仲間の高漸
離がうつ筑の音に和して歌った’「風蕭蕭分易水寒.壮士一去今不復還.」の調子は変徴から羽声に
高まっていったという.変徴の律数値は:6.12であるが羽は9.06で,その中間にある徴は7.02であ
る.この考察は田辺尚雄の東洋音楽史(昭和15年12月5日雄山閣発行 東洋史講座第14巻)
170頁の記載
によったが,上海中草書局出版新文化叢書,中西文化之関係76頁にある鄭寿麟の説明によれば,宮
商角徴羽の音階のうち角と徴の間は,他のものの音階の差に比して二倍である.そのため徴より一
段低いところに,角より0.90音程値高い変値が生まれたと考えられる.同様な理由で宮の下にも
0.90音程値の低い変宮かあるか,その他の各音程値の差は2.04である.このような傾慨の気は初唐
の魏微の五言古詩の「投筆事戎軒.縦横計不就.糠慨志猶存.\季布無二諾.侯瓜重一言.人生感
意気.功名誰復論.」というような気慨として唐の名詩を貫く精神となっていて,李白,白楽天の
決死の批判精神,杜甫の調諌の精神の源泉であり,こういう人間としての生命感と歴史感覚の重み
とか唐詩の重みと感動的な力のもとになっているのである.
いま,わたしは「歴史感覚」ということばを使ったが,これは文学作品を噛みしめる上で甚だ肝
腎なことである.明治までの漢文教育,漢学教育では中国の史書を教えたので,いわず語らずのう
ちに,ある程度少年たちにも作品の背後が理解できたが,いまは作品の背景か除かれて字面だけ
で,自分の体験に結びつけることが多く,理解は主観的になりやすく,また力も弱まる道理であ
る.最近,部分的には史的背景を解説するものが勧迎されているが,それも譜:く方が通史に詳しく
ないので断片的になって,中国の精神的伝統と風土とを結びつける感党に乏しい.
わたくしは,そこで,中国文学史のなかでの「文」と「武」というかたちで人間,風土,政治,
権力,自由……という問題を考えることを提案したい.次にそれを述べてみよう.
第三章 中国文学史のなかの「文」と「武」
詩経王風黍離,麦秀歌,采薇歌などすべて生命の衰兆を悲しんでいる.葵抗は外武の衰えを悲し
ましめ,革命は内武の衰えを悲しましむるものである.薇抗もまた詩経以来のものである.内武の
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高知大学学術研究報告 第1路 人文科学 第13号
−
衰えが外武の衰えを助長したことは左伝以来のことであり,漢武,唐玄両帝の晩年か最も典型的で
ある.
孔子が「小子鳴鼓攻之可也.」といったのも「可也.」という云いまわしから察して止むを得ざる
なりの感が深いが,とにかく「武」の精神の発露であるには違いない.老子は攻撃武,積極武を戒
めているが自己の生命を守護するための消極武を止むを得ざるものとして認めているごとくであ
る.(老子31章)人間に本来闘争の本能ありとする説には,叫わかに賛成しがたいか,生命保存伸
長のため運動を必要とし,その結果,快感が新鮮な刺激を喚ぶ事実は認めなければならない.葬が
狩猟に溺れ,妻に逃げられたという伝説も,弱年にして外征を好み,晩年酒色に溺れる帝王の輩出
にも原理はあるわけで,ともに攻撃という点と快感という点では同じである.その対象が外地の憧
憬であるか,手近な美人,臣下,人民であったにすぎない.中国の恩を施すという思想構造は譚嗣
同が仁学のなかで指摘した破らなくてはならない網の一つであったに違いない.
文王,武王の思想構造のなかで文が武の上に出るのは文が理想で武が具体的な実現方法であるこ
とを裏書きしている.実際,中国の名詩のなかで意外にも武に対する評価は魏徴以外にも多い.李
長之が論じた陶淵明伝論(聚隷出版社1953年2月初版張芝著)には淵明と革命との関係を詳しく紹介
している.李白も亦,革命に関係しており,杜甫でさえも,そのような渦中で任官を受けている.
すべて,これらは生活,主義主張と密着している.彼らを単なる文人作家と思ってはならない.淵
明の「招集百夫良」は詩経秦風黄鳥の詩の穆公に殉じた千車の三人の子,奄息,仲行,鍼虎を,そ
れぞれ「百夫之特」「百夫之防」「百夫之禦」と詠じた古人の心が反映しているであろうし,李白
の「子夜呉歌」の「良人」は,そういう意味での「良人」であろう.楊爛の従軍行に「寧為百夫
長,勝作―書生.」とあるのも文人の気概を示すものであるが,李白にしても杜甫にしても若くし
て撃剣を好み,中年動ζもすれば飲酒放蕩の気,女性愛好の傾向(杜甫については馮至の杜甫伝,
幸川幸次郎博士著杜甫ノートに紹介があり,李白についてはいうまでもない.)か露呈しているこ
とが,彼らの悲憤,羨望か詩作エネルギーの源泉となっていることを知らしめるものである.淵明
か読山海経十三首のなかで精衛の鳥と刑天の化物とをうたって猛志を讃えたことは知られている
が,詠刑帽で「惜哉剣術疎,奇功遂不成.其人雖已歿,千載有余情.」とうたったことを評価する
ことに一般がやぶさかであることを借しいと思う.
魯迅に「憂剣生雑記」という短い文章があり,いま全集補遺続編の上に収められている.これは
1898年,すなわち,彼18才のときの作である.内容は家郷を離れ,「夷人」の閑語を聞いて,いよ
いよ故郷の人を想い,鱗魚飯を珍とし,焼酒の活酒,死酒をテストする方法などに気を奪われる繊
細なものではあるか,出郷の事情と「憂剣」の名の勇ましさと,同年作の「蒔花雑志」,幼少より
の花好きとは,正反対の傾向のごとく見えて,実は,生命尊mの強さの両側面といえるのである.
古来,中国文学が,伯夷,叔斉の清狂に支えられ,屈原の美的悲憤に高揚され,魏晋,唐宋の文
学の精神を縦に貫くのは,文学の精神浄化の作用が評価されていたからである.
ただ,最近中国で屈原の像を損壊する若者か出現したのは,屈原精神には神仙的個人救済の要素
かおり,「敗北主義」的である点があり,陰圧をつなげ組織化して問題を具体的に打開する力が欠け
ている点が見られ,知識人逃避の隠れ家になりやすい点を見逃してきた従来の盲点をついたもので
ある.時代背景の上からアリストクラシーを支えたこ・とは,また別に検討する周到さがなくてはな
らないであろう.
第四章 民俗文化遺産の問題
孔子は中夏の服装か夷狭によって強制的に変更される危険から管仲が救ったことを高く評価して
いるが,そこに礼制と政権の強固な結合を見ることができる.しかし民間は珍らしく便利なものに
中 国 文 学 に ネ ル ギ ー 論 (荒木)
は敏感であり,風土,気候に適合するものの摂取には熱心である.それが詩の国風誕生の背景であ
り,采詩の宮の必要性は,そこに生まれたとみてよいわけであるか,後には,宮廷それ自体が珍奇
なものを漁って,その生活の陳腐沈滞を救おうとした.馬,玉碗,酒,女性等は歴史学が多く関係
するところであるか,文学の面では楽器,楽律,踊りの中国への伝締は重要な問題である.漢の趙
飛燕以来,この方の宮廷の弊は増大し,胡旋女は白楽天が「莫空舞,数唱此歌悟明主.」と期待し
たのに反して中原自有の胡旋の者をしていよいよ胡旋の機を得しめた.そうでなければ,唐詩にあ
れほど屈原を哀しむ詩があるはずではなく,またあれほど班娃好を思う詩が書かれるわけはない.
ただ胡旋が人気を得だのは廟堂のリズムの沈滞を救い,新奇な女性の美の発見にあったわけで,
すべての「新声」なるものは,そのチャンスの道具であったと推定する根拠か李延年その他の楽律
官と皇帝とのやりとりの間にうかがわれる.
楚辞のうたが民間の風習,民俗を題材にとりあげ,いろいろの民間歌曲,朗誦のリズムを反映し
ていることは人の知るところであるか,中国の有名詩人,いいかえれば国民の多数から愛好され,
支持された詩人ほど民間の風物,人情,自然,事件に敏感であったことにはもっと注意がはらわれ
なくてはなるまい.彼らが,それだけ強く生き生きとした生活を要求する力があったといわなくて
はなるまい.力強い欠乏感が,力強い民俗文化の吸収力を持ち得たと考えなくてはならない.李杜
の詩に俗語が巧みに織り込まれているのは,そこに他の語では置き換えられない独自性があったと
見られなくてはならない.それは魏晋の大胆な男女の愛情の風俗描写,たとえば春林花多媚,春鳥
意多哀,春風復多惰,吹我羅裳開.青荷蓋緑水,芙蓉発紅鮮,下有並根薪,上.生同心蓮.の詩のご
とき,また祝英台の伝奇のごとき,すべて生ま生ましい生活のエネルギーか湧出している生活の把
握と表現の伝統に負うものが大きいと見られる.たまり水が腐ったような廟堂の空気を流動させる
ものとしての,このような生活の豊富な増幅はもともと悪いものであるはずはないが,政治と人間,
生命と安全,進展と交代の原則を無視した中国文学史の側面は,前章「文」「武」の両立,「文上武
下」,人間理想徹底実現のだたかいにまずかった知識人の責任として考えて然るべきものであろう.
知識人か孔子以来,理想に走って,現実に「迂」なる評価を受け続けていることは,知そのもの
の問題であるが,今回は,このことは割愛し,ヤスパースの言を引いておくにとどめよう.
大事なのは,学習内容を持っているということではなくて,判断力である.〔出I来上った〕知
識ではなく,自分の創意によって必要な知識を創造する能力,ものごとを諸々の観点のもとで思
考的につかみ,また問うことのできる能力こそが,ちからになるのである.ところでこのような
能力は,知識素材の習得によって得られるものでなく,生きた研究との接触によって得られるの
である.(「大学の理念」森昭訳による.)
む す び
ヤスパースは「大学の理念」のなかで衛生学のように独立の科学的方法の立てにくい科学がいく
つかあることを指摘しているか,わたくしは文学研究も,そのひとつではないかと思う.これを救
って科学たらしめる’にはテーヌのごとく「人種」「環境」「時代」の三つの本源的原勁力の側面か
ら研究することが,まず不可欠であろうし,わたくしも二十年にわたってその努力を続けてきた
が,いまテーヌを突き破るものとして如上の見解を公表したわけであるが,今後江湖の批判,援助
によって,さらに確立して行きたいものと思う次第である.
(昭和41年9月30日受理)
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