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梅謙次郎の子供たち
論 説 四 二 ︶ 一 ︶ 空 想 的 な 憶 説 常 識 的 な 仮 説 三 終 二 ︶ 一 ︶ 章 家 族 周 辺 人 物 梅 家 の 人 び と 二 二 ︶ 本 家 一 ︶ 梅 家 梅 家 ・ 本 家 の 血 脈 一 二 ︶ 一 ︶ 序 我 妻 栄 の 同 級 生 献 詞 章 梅 謙 次 郎 の 子 供 た ち 梅 震 七 戸 克 彦 381(83-3-115) 論 説 江 先 生 ら し い 選 択 だ と 思 っ た 。 そ こ で 、 以 下 で は 、 後 の ほ う の 話 を 直 江 教 授 に 献 呈 す る 。 直 江 教 授 は 、 前 の ほ う の 話 は 、 ち ょ っ と ね ⋮ ⋮ ﹂ と い っ て 、 い つ も の よ う に 清 々 し い 笑 い を 浮 か べ た 。 い か に も 直 ム で お 会 い し た の も 、 報 告 の た め の 資 料 を 複 写 し て い た か ら で あ っ た ︶ 。 の 山 田 作 之 助 ︵ 山 田 喜 之 助 の 三 男 ︶ に つ い て は 、 七 月 二 日 神 戸 学 院 大 学 で の 報 告 を 控 え て い た3 ︵︶ 直 江 教 授 と コ ピ ー ル ー 一 京 助 の 弟 ︶ に つ い て は 、 法 学 セ ミ ナ ー ﹂ 誌 の 四 月 号 で 触 れ た ば か り で2 、︶ ② 弁 護 士 ︵ 神 戸 弁 護 士 会 会 長 ︶ ・ 最 高 裁 判 事 い ま 一 つ は 、 我 妻 栄 や 岸 信 介 と 大 学 で 同 級 だ っ た 人 物 の 話 ① 第 一 高 等 学 ︵ 一 高 ︶ か ら 同 期 の 金 田 一 他 人 ︵ 金 田 仁 一 郎 後 任 の 商 法 講 座 担 当 の 話 も あ っ た 我 妻 栄 が 、 な ぜ 民 法 に 進 ん だ の か 、 等 々 ⋮ ⋮ 。 一 郎 後 任 の 京 大 ロ ー マ 法 講 座 担 当 の 口 も あ っ た 田 中 耕 太 郎 が 、 な ぜ 東 大 の 商 法 担 当 助 教 授 と な っ た の か 、 ⑤ 一 時 は ル ノ 予 定 ナ ク シ テ ト 云 フ 条 件 ノ 下 ニ ﹂ 助 教 授 に 任 用 さ れ た 末 弘 厳 太 郎 が 、 い か な る 事 情 で 教 授 に 昇 進 し た の か 、 ④ 春 波 木 ケ の 弟 子 で あ る 三 潴 信 三 が 、 な ぜ 最 後 ま で 法 律 学 科 の 民 法 講 座 担 任 に な れ な か っ た の か 、 ③ 土 方 寧 に 嫌 わ れ ﹁ 教 授 ト ス 家 の ﹁ お 家 芸 ﹂ で あ る 法 理 学 講 座 に 貼 り 付 け ら れ た 穂 積 重 遠 が 、 ど の よ う に し て 民 法 講 座 を 手 に 入 れ た の か 、 ② ギ ー ル 京 都 帝 国 大 学 の 内 事 例 を 比 較 検 討 し た 際 に1 書︶ き 残 し た 、 東 大 の 教 授 就 任 ・ 講 座 担 当 を め ぐ る 紆 余 曲 折 の 話 一 つ は 、 法 政 研 究 ﹂ 誌 の 九 州 大 学 法 学 部 立 九 〇 周 年 記 念 号 で 、 九 州 帝 国 大 学 法 文 学 部 内 訌 事 件 と 東 京 帝 国 ① 大 穂 学 積 ・ い し た 際 、 目 下 手 持 ち の 法 関 係 の 題 材 の う ち 、 ど ち ら を お 読 み に な り た い か 直 接 お 尋 ね し て み た 。 本 稿 の 締 切 日 は 平 成 二 八 年 九 月 一 五 日 で あ っ た が 、 そ の 三 か 月 前 の 六 月 、 直 江 眞 一 教 授 に 大 学 の コ ピ ー ル ー ム で お 会 一 一 ︶ 序 献 詞 章 (法政研究 83-3-116)382 梅謙次郎の子供たち(七戸) ︵ 同 三 十 年 十 二 月 生 ︶ あ り 君 は 出 雲 江 藩 医 梅 薫 の 二 男 に し て 万 元 年 六 月 七 日 生 る ⋮ ⋮ ︹ 中 略 ︺ ⋮ ⋮ 家 族 は 前 記 の 外 男 徳 ︵ 明 治 三 十 年 十 二 月 生 ︶ 同 光 男 震 明 治 二 十 九 年 ╱ 二 月 生 梅 謙 次 郎 従 四 位 勲 三 等 法 学 博 士 東 京 帝 ╱ 国 大 学 法 科 大 学 教 授 383(83-3-117) だ が 、 そ れ に も か か わ ら ず 、 明 治 三 六 年 刊 行 の ﹃ 人 事 興 信 録 ︹ 初 版 ︺ ﹄ の ﹁ 梅 謙 次 郎 ﹂ の 項 に は 、 妻 の 記 載 が な い6 。︶ 娶 る ﹂ と あ り5 、︶ ま た 、 後 述 す る よ う に 、 二 人 は 、 す で に 謙 次 郎 の 帰 国 直 後 よ り 一 緒 に 暮 ら し て い る ︵ 二 ︵ 一 ︶ 6 ︵ 1 ︶ ︶ 。 謙 次 郎 が 留 学 か ら 帰 国 し た ︵ 明 治 二 三 年 八 月 九 日 帰 朝 ︶ 四 か 月 後 の ﹁ 十 二 月 一 日 旧 江 藩 士 本 理 左 衛 門 の 女 兼 子 を 大 正 六 年 刊 行 の 東 川 徳 治 ﹃ 博 士 梅 謙 次 郎 ﹄ に は 、 妻 カ ネ ︵ な お 、 東 川 は 彼 女 を ﹁ 兼 子 ﹂ と 表 記 し て い る ︶ に 関 し て 、 と こ ろ で 、 彼 の 続 柄 に 関 し て ﹁ 長 男 ︵ 二 男 ︶ ﹂ と い う 奇 妙 な 書 き 方 を し た の に は 、 少 々 理 由 が あ る 。 1 明 治 二 三 年 だ が 、 彼 ら の 同 期 の 中 に 、 梅 謙 次 郎 の 長 男 ︵ 二 男 ︶ 震 が い た こ と は 、 ほ と ん ど 知 ら れ て い な い 。 院 で 我 妻 の 研 究 室 に 入 っ た 、 我 妻 と は 親 子 二 代 に わ た る 付 き 合 い で あ る 。 一 方 、 山 田 作 之 助 は 、 京 都 の 第 三 高 等 学 ︵ 三 高 ︶ か ら 東 大 に 進 ん だ が 、 彼 の 長 男 ・ 山 田 弘 之 助 ︵ 弁 護 士 ︶ は 、 大 学 会 会 長 ・ 日 本 弁 護 士 連 合 会 会 長 の 成 富 信 夫 や4 、︶ 第 二 東 京 弁 護 士 会 会 長 ・ 衆 議 院 議 員 の 三 輪 寿 壮 ら が い る 。 で 彼 ら と 同 期 だ っ た こ と も 、 よ く 知 ら れ て い る 。 他 に も 、 一 高 か ら の 同 期 に は 、 我 妻 と 縁 戚 関 係 を 結 ぶ 第 一 東 京 弁 護 士 ば し ば 書 き 記 し て い る 。 ま た 、 平 岡 梓 ︵ 平 岡 定 太 郎 の 長 男 で 平 岡 威 ︹ 三 島 由 紀 夫 ︺ の ︶ が 、 や は り 一 高 ・ 東 大 独 法 我 妻 栄 と 岸 信 介 が 、 一 高 か ら 東 京 帝 国 大 学 法 科 大 学 ︵ 卒 業 時 は 法 学 部 ︶ 独 法 科 の 同 期 で 親 し か っ た こ と は 、 両 人 が し 二 ︶ 我 妻 栄 の 同 級 生 梅 震 論 説 郎 は 、 板 倉 太 郎 ・ 彦 治 夫 婦 の 二 女 ・ 梅 子 を 養 子 に も ら い 、 四 日 後 の 三 月 一 七 日 、 ゆ く ゆ く は 緑 を 梅 子 の 女 婿 と す る 目 実 あ 七 る 家 っ 六 。 の た 五 一 の 条 方 母 で ﹁ 、 ︵ 、 男 当 緑 端 ハ 時 か 的 満 ︵ ら に 十 明 見 結 七 治 れ 論 年 四 ば を 女 一 祖 い ハ 年 え 満 ︶ 母 ば 十 一 ︶ 五 五 の 年 歳 子 、 ニ の ︵ 緑 至 緑 長 は ラ が 男 謙 サ 六 ︶ 次 レ 歳 と 郎 ハ の し と 婚 梅 て カ 姻 子 届 ネ ヲ の 出 の 為 ﹁ が 間 ス 女 さ の 婿 れ 実 コ ﹂ ト た 子 と も で ヲ 書 の あ 得 か で り ス れ あ 、 ﹂ ︶ て る 二 、 い 。 人 る だ が の が 入 以 に 下 、 籍 は 明 し の 一 治 て 点 瞬 三 い は ぎ 八 な 、 ょ 年 か 当 っ 三 っ 時 と 月 た は す 一 た る 三 め 知 が 日 、 の ︵ 、 カ 事 民 謙 ネ 実 法 次 の で 旧 ま ず 、 養 子 ・ 緑 に 関 す る 記 載 か ら 見 て ゆ く と 、 彼 は 、 謙 次 郎 の 妻 カ ネ ︵ か ね ︶ と 二 五 歳 離 れ た 姉 と 弟 と い う こ と に な 1 ︶ 明 治 三 八 年 三 月 一 三 日 梅 子 養 子 縁 組 ・ 三 月 一 七 日 緑 廃 家 養 子 縁 組 初 版 と の 違 い は 、 妻 ︵ か ね ︶ と 養 女 ︵ 梅 子 ︶ と 養 子 ︵ 緑 ︶ に 関 す る 記 述 が 追 加 さ れ て い る 点 で あ る 。 本 利 ︹ 理 ︺ 左 衛 門 長 男 梅 子 女 婿 ︶ あ り 三 男 光 ︵ 同 三 十 年 十 二 月 生 ︶ 養 女 梅 子 ︵ 同 三 十 五 年 一 月 生 山 梨 県 平 民 板 倉 太 郎 次 女 ︶ 養 子 緑 ︵ 明 治 二 十 六 年 三 月 生 東 京 府 士 族 君 は 出 雲 男 妻 震 江 藩 医 梅 薫 の 二 男 に し て 万 か ね 明 治 二 十 九 年 ╱ 二 月 生 明 治 元 年 十 月 生 ╱ 元 年 六 月 七 日 を 以 て 生 る ⋮ ⋮ ︹ 中 略 ︺ ⋮ ⋮ 家 族 は 前 記 の 外 二 男 徳 ︵ 明 治 三 十 年 十 二 月 生 ︶ 本 理 左 衛 門 三 女 梅 謙 次 郎 正 四 位 勲 二 等 法 学 博 士 東 京 帝 国 ╱ 大 学 法 科 大 学 教 授 、 帝 室 制 度 調 ╱ 査 局 御 用 掛 、 法 政 大 学 理 ╱ 東 京 府 平 民 の よ う に 変 化 し て い る こ と で あ る7 。︶ 問 題 は 、 上 記 ﹃ 人 事 興 信 録 ︹ 初 版 ︺ ﹄ の 家 族 の 記 載 が 、 五 年 後 の 明 治 四 一 年 発 行 の ﹃ 人 事 興 信 録 ︵ 第 二 版 ︶ ﹄ で は 、 次 2 明 治 三 八 年 い た こ と に つ い て も 、 あ ま り 知 ら れ て い な い よ う で あ る 。 だ が 、 問 題 は そ こ で は な い 。 な お 、 震 の 二 人 の 弟 ︵ 徳 ・ 光 ︶ の 生 日 が 同 年 同 月 な の は 、 彼 ら が 双 生 児 だ か ら で あ る が 、 梅 謙 次 郎 に 双 子 の 子 供 が (法政研究 83-3-118)384 梅謙次郎の子供たち(七戸) 二 七 日 没 ︶ の 二 か 月 後 、 韓 国 併 合 ︵ 八 月 二 二 日 併 合 条 約 調 印 、 二 九 日 天 皇 裁 可 、 同 日 布 ︶ の 四 日 前 の こ と で あ っ た8 。︶ チ フ ス を 発 症 、 二 五 日 昼 一 二 時 五 〇 京 城 ・ 大 韓 病 院 に お い て 死 去 し た 。 享 年 五 〇 歳 一 か 月 。 ボ ワ ソ ナ ー ド の 死 ︵ 六 月 だ が 、 入 籍 か ら 五 年 後 の 明 治 四 三 年 七 月 ︵ 一 五 日 ︶ 韓 国 政 府 法 律 顧 問 の 職 務 の た め 渡 韓 し た 謙 次 郎 は 、 八 月 九 日 に 腸 3 明 治 四 三 年 385(83-3-119) 八 三 六 条 一 項 ﹁ 庶 子 ハ 其 夫 婦 ノ 婚 姻 ニ 因 リ テ 嫡 出 子 タ ル 身 ヲ 取 得 ス ﹂ 。 婚 姻 準 正 。 現 行 七 八 九 条 一 項 ︶ 。 出 し 、 法 律 上 の 夫 婦 と な っ た の で あ る 。 こ れ に よ り 、 先 に 認 知 を し た 三 人 の 子 は 、 嫡 出 子 た る 地 位 を 取 得 し た ︵ 民 法 旧 長 兄 ・ 緑 の 廃 家 ・ 養 子 縁 組 か ら 四 か 月 後 の 七 月 二 三 日 、 一 五 年 も の 間 内 縁 関 係 を 続 け て き た 謙 次 郎 と カ ネ は 婚 姻 届 を 提 法 に い う ﹁ 庶 子 ﹂ ︶ た る 地 位 を 得 て い た が ︵ 民 法 旧 八 二 七 条 二 項 ﹁ カ 認 知 シ タ ル 子 ハ 之 ヲ 庶 子 ト ス ﹂ ︶ 、 明 治 三 八 年 、 徳 ・ 光 が 一 歳 と な っ た 明 治 三 二 年 ︵ 六 月 二 二 日 ︶ に 認 知 届 が 出 さ れ 、 こ れ に よ り 三 人 は 、 謙 次 郎 の 実 子 ︵ 非 嫡 出 子 。 旧 八 年 は 、 震 ︵ 当 時 九 歳 ︶ と 双 子 の 弟 ︵ 徳 ・ 光 。 八 歳 ︶ に お い て も 、 重 要 な 年 と な っ た 。 彼 ら 三 人 に つ い て は 、 震 が 三 歳 、 我 妻 栄 の 同 級 生 で あ る 梅 震 を 、 梅 謙 次 郎 の ﹁ 長 男 ︵ 二 男 ︶ ﹂ と 記 載 し た の は 、 右 の よ う な 理 由 か ら で あ る が 、 明 治 三 2 ︶ 明 治 三 八 年 七 月 二 三 日 謙 次 郎 ・ カ ネ 入 籍 翌 明 治 三 九 年 二 月 六 日 、 祖 母 ・ ク ニ は 本 家 の 再 興 届 を 出 し 、 四 女 コ ト も 母 に 従 い 再 興 さ れ た 本 家 に 入 っ た 。 妹 ︶ も 、 謙 次 郎 の 戸 籍 に 入 っ た が ︵ 民 法 旧 七 六 三 条 ﹁ 戸 主 カ 廃 家 シ テ 他 家 ニ 入 リ タ ル ト キ ハ 其 家 族 モ 亦 其 家 ニ 入 ル ﹂ ︶ 、 縁 カ 者 的 組 ネ こ ハ で は の れ 男 養 、 に 子 子 ︵ よ ヲ 縁 本 緑 り 養 組 家 の 、 子 を の 戸 謙 ト し 廃 籍 次 為 た 家 上 郎 ス 、 を の と コ と 前 緑 ト い 提 で の ヲ う と も 間 得 こ す あ に ス と る る は 但 で 。 が 、 女 あ そ ︶ 法 婿 る の 理 律 ト ︵ 結 左 上 為 民 果 衛 の ス 法 、 門 親 為 旧 戸 の 子 メ 八 主 死 関 ニ 三 ・ 去 係 ス 九 緑 に が ル 条 の よ 成 場 ﹁ 戸 り 立 合 法 籍 、 し ハ 定 上 緑 た 此 ノ の は が 限 推 母 、 ニ 定 ︵ 本 し 在 家 実 家 か ラ 督 際 の し ス 相 は 戸 、 ﹂ 続 母 主 カ ︶ 。 人 方 と ネ タ の な の ル 祖 っ 実 男 母 て 家 子 ︶ い ・ ︹ ク た 梅 ニ 。 本 家 と 戸 家 の 、 主 に 場 四 で は 合 女 あ 男 に コ る 子 は ト 緑 が 震 ︵ の な ︺ カ 養 く ア ネ 子 、 ル 論 説 徳 氏 は 第 三 高 等 学 ︵ 仏 法 志 願 ︶ に 、 光 氏 は 第 二 高 等 学 ︵ 英 法 志 願 ︶ に 在 学 し 、 梅 枝 子 は 板 倉 博 士 子 息 操 一 氏 に 嫁 す 。 博 士 に 四 男 一 女 あ り 、 共 に 兼 子 の 出 な り 。 男 を 緑 、 震 、 徳 、 光 と 曰 ひ 、 女 を 梅 枝 と 曰 ふ 。 震 氏 は 東 京 帝 国 大 学 法 科 ︵ 独 法 ︶ に 、 婚 し た 事 実 を 伝 え る が 、 そ の 一 方 で 、 同 書 で は 、 板 倉 家 か ら の 養 女 ・ 梅 子 の 名 が 消 え て い る9 。︶ 他 方 、 謙 次 郎 の 死 去 か ら 七 年 後 の 大 正 六 年 刊 行 の 東 川 徳 治 ﹃ 博 士 梅 謙 次 郎 ﹄ は 、 梅 枝 が 板 倉 太 郎 の 長 男 ・ 操 一 と 結 馬 車 に 同 乗 し 親 戚 一 同 之 に 亞 ぎ に 儀 仗 兵 二 個 中 隊 続 き 行 そ れ よ り 徒 歩 馬 車 腕 車 の 会 葬 者 約 五 千 て 之 に 従 ひ た る が 絶 え ず 伏 目 勝 な る 未 亡 人 の 姿 を 見 て は 涙 に 暮 る ゝ 会 葬 者 も 尠 か ら ざ り き 次 に 板 倉 夫 人 平 田 コ ト 子 黒 田 キ ン 子 等 に 喪 章 を 附 し 少 年 な が ら も 謹 厳 な る 態 度 に て 徒 歩 し 白 絽 の 喪 服 に 白 輪 子 の 帯 を 結 び た る 未 亡 人 カ ネ 子 及 び 遺 族 梅 枝 梅 子 等 馬 車 に ▲ 哀 涙 に 咽 ぶ 呉 床 の 次 に は 喪 主 緑 氏 を 始 め 徳 、 震 、 光 ︹ 正 し く は ﹁ 震 、 徳 、 光 ﹂ の 順 ︺ の 三 氏 何 れ も 高 等 師 範 附 属 中 学 の 制 服 一 方 、 読 売 新 聞 明 治 四 三 年 九 月 四 日 朝 刊 ﹁ 故 梅 博 士 の 葬 儀 ﹂ に は 、 梅 枝 ﹂ な る 女 子 の 名 が 新 た に 登 場 し て く る 。 其 他 よ り 貰 受 た る 養 子 女 あ り 博 士 の 妻 女 か ね 子 は 東 京 府 士 族 本 理 右 ︹ 左 ︺ 衛 門 氏 の 三 女 、 博 士 と の 間 に 長 男 震 ︵ 十 五 ︶ 次 男 徳 ︵ 十 四 ︶ 外 に 板 倉 大 審 院 判 事 の 名 が な い ︵ 末 弟 ・ 光 に 関 し て は 、 生 日 が 兄 ・ 徳 と 一 緒 の た め 、 誤 植 と 判 断 さ れ 削 除 さ れ た の だ ろ う ︶ 。 東 京 朝 日 新 聞 明 治 四 三 年 八 月 二 七 日 朝 刊 ﹁ 梅 法 学 博 士 逝 く ╱ 日 韓 合 併 の 折 柄 惜 い 事 な り ﹂ に は 、 長 兄 ・ 緑 と 末 弟 ・ 光 物 故 せ る 博 士 の 令 兄 医 学 士 金 ︹ 錦 ︺ 之 丞 氏 は 日 本 医 科 大 学 殆 最 初 の 出 身 者 に し て 眼 科 学 の 始 祖 と も 言 ふ 可 き 人 な り し と 云 ふ あ り 震 氏 は 目 下 高 等 師 範 附 属 中 学 三 年 生 徳 光 氏 は 同 年 生 な り 家 頗 る 平 和 に し て て 放 任 主 義 の 下 に 子 女 を 教 養 せ り 尚 数 年 前 ▲ 其 の 家 其 家 族 は 夫 人 カ ネ 子 ︵ 四 三 ︶ 長 男 震 ︵ 十 五 ︶ 二 男 徳 ︵ 十 四 ︶ 三 男 光 ︵ 十 四 ︶ 及 び 養 子 緑 ︵ 十 八 ︶ 養 女 ウ メ 子 ︵ 八 つ ︶ 年 ﹃ 人 事 興 信 録 ︵ 第 二 版 ︶ ﹄ と 同 じ で あ る が ︵ な お 、 謙 次 郎 の 兄 ・ 錦 之 丞 に つ い て も 言 及 さ れ て い る ︶ 、 読 売 新 聞 明 治 四 三 年 八 月 二 六 日 朝 刊 ﹁ 法 曹 界 の 明 星 隕 つ ╱ 本 社 評 議 員 ╱ 梅 博 士 逝 く ﹂ の 伝 え る 家 族 構 成 は 、 明 治 四 一 と こ ろ で 、 謙 次 郎 の 死 を 伝 え る 新 聞 報 道 に お け る 、 家 族 に 関 す る 記 載 は 実 に ま ち ま ち で あ る 。 (法政研究 83-3-120)386 梅謙次郎の子供たち(七戸) そ こ で 、 以 下 で は 、 年 代 を 追 っ て 順 番 に 、 梅 家 ・ 本 家 の 家 族 関 係 を 見 て ゆ く こ と に し よ う 。 る な ど 、 謙 次 郎 の 家 族 を め ぐ る 情 報 は 、 す こ ぶ る 輻 輳 し て い て か り に く い 。 い ⑥ 梅 子 は 養 子 縁 組 を 解 消 し て 板 倉 家 に 戻 っ た 。 さ ら に 、 翌 大 正 一 一 年 に は ⑤ 光 も 本 ク ニ の 養 子 と な っ て 本 家 に 入 387(83-3-121) 年 に さ 板 ら ⑥ 倉 に 、 梅 太 明 子 ︵ 郎 治 う の 四 め 長 三 こ 男 年 ︶ ・ の ⋮ 操 謙 ⋮ 一 次 謙 次 と 郎 郎 結 の 養 婚 死 子 、 後 大 は 正 ③ 一 震 〇 が 明 年 戸 治 に 主 三 は と 五 ② な 年 緑 り 一 が 、 月 母 大 五 日 方 正 生 の 三 い 年 と に ︵ こ は 板 ︵ ① 倉 祖 梅 太 母 枝 郎 ・ が ・ 矢 彦 本 ヶ 治 ク 崎 夫 ニ 家 婦 の の の 二 孫 養 女 ︶ 子 ︶ と と 結 な 婚 っ し た 、 後 こ 、 れ 大 に 正 伴 五 ⑤ ④ ③ ② ① 光 徳 震 緑 ︵ あ き ら ︶ ⋮ ⋮ 三 男 ︵ 四 男 ︶ ︵ め ぐ む ︶ ⋮ ⋮ 二 男 ︵ 三 男 ︶ ︵ し ん ︶ ︵ み ど り ︶ ⋮ ⋮ 謙 次 郎 養 子 ︵ 長 男 ︶ 梅 枝 ︵ う め え ︶ ⋮ ⋮ カ ネ 養 子 ︵ 長 女 ︶ 明 治 三 〇 年 一 二 月 二 日 生 明 治 三 〇 年 一 二 月 二 日 生 明 治 二 九 年 二 月 一 四 日 生 明 治 二 六 年 三 月 七 日 生 明 治 二 五 年 三 月 二 五 日 生 ︵ 謙 次 郎 三 七 歳 ・ カ ネ 三 〇 歳 ︶ ︵ 謙 次 郎 三 七 歳 ・ カ ネ 三 〇 歳 ︶ ︵ 謙 次 郎 三 五 歳 ・ カ ネ 二 九 歳 ︶ ︵ 謙 次 郎 三 二 歳 ・ カ ネ 二 六 歳 ︶ ︵ 謙 次 郎 三 一 歳 ・ カ ネ 二 六 歳 ︶ ⋮ ⋮ 長 男 ︵ 二 男 ︶ の 二 人 に つ い て は 、 他 の 者 の 実 子 と し て 届 け 出 ら れ た 後 、 母 ・ カ ネ と ・ 謙 次 郎 の 養 子 と さ れ た 、 と い う こ と で あ る 。 以 上 を 整 理 す る に 、 梅 謙 次 郎 の 子 は 、 実 子 が 五 人 ︵ 一 女 四 男 ︶ 、 養 子 が 一 人 ︵ 一 女 ︶ で あ る が 、 実 子 の う ち 年 長 夫 婦 の 長 女 と し て 出 生 届 が さ れ 、 そ の 後 、 実 母 カ ネ と の 間 で 養 子 縁 組 が さ れ た も の で あ る 。 梅 枝 は 、 明 治 二 五 年 三 月 二 五 日 、 謙 次 郎 ・ カ ネ 夫 婦 の 間 に 生 ま れ た 最 初 の 子 で あ っ た が10 、︶ 戸 籍 上 は 矢 ヶ 崎 鶴 吉 ・ い し 論 説 【第1図】梅家・ 本家略系図 (法政研究 83-3-122)388 梅謙次郎の子供たち(七戸) 一 二 月 一 〇 日 ︵ 一 八 三 二 年 一 月 一 二 日 。 江 藩 九 代 藩 主 ・ 平 斉 貴 の 時 代 ︶ に 御 目 見 と な り ︵ 江 藩 士 の 格 式 は 、 上 名 不 詳 ︶ に 外 科 術 を 学 び 、 さ ら に 大 阪 ・ 江 戸 で 研 鑽 を 積 ん で 帰 郷 、 三 代 目 ・ 道 竹 の 名 を 継 ぎ 、 香 雪 と 号 し た 。 天 保 二 年 二 代 目 ・ 道 竹 の 子 ︵ 寛 政 一 〇 年 ︵ 一 七 九 八 年 ︶ 生 。 栄 ︶ も 、 文 政 三 年 八 月 ︵ 一 八 二 〇 年 九 月 ︶ 長 崎 に 出 て 外 国 人 ︵ 氏 3 三 代 ・ 道 竹 ︵ 謙 次 郎 祖 道 竹 を 襲 名 。 だ が 、 彼 は 、 養 の ︶ 死 去 の 二 年 前 ︵ 文 化 一 四 年 ︵ 一 八 一 七 年 ︶ ︶ 四 〇 歳 に 至 ら ぬ 若 さ で 早 世 す る 。 389(83-3-123) が 迎 え ら れ た 。 彼 も 長 崎 に 出 て 本 川 門 に 入 っ て 外 科 術 を 学 び 、 帰 郷 後 初 代 ・ 道 竹 は 隠 居 し て 、 養 嗣 子 ・ 道 栄 が 二 代 目 ・ 初 代 ・ 道 竹 に は 男 子 が い な か っ た た め 、 長 女 ・ 牧 子 の 婿 養 子 に 、 出 雲 国 能 義 郡 母 里 町 の 医 師 ・ 田 部 長 節 の 二 男 ・ 道 栄 2 二 代 ・ 道 竹 ︵ 謙 次 郎 曾 祖 ︶ 主 ︵ 兼 一 ・ 隆 梅 七 ︶ 家 七 平 で の 治 六 あ 始 郷 年 る11 祖 ︵ ︶ 。︶ は 不 の 彼 、 昧 帰 は 謙 郷 、 次 ︶ 後 二 郎 の に 〇 の 知 歳 四 る 家 の 代 と し 頃 前 こ て に 、 ろ 新 長 出 と た 崎 雲 な に に 国 り ﹁ 出 加 、 梅 て 茂 藩 ﹂ 本 村 医 氏 川 の に を 道 外 取 名 悦 科 り 乗 に 医 立 り カ ・ て 、 ス 梅 ら パ れ 江 ル 木 た 城 流 ﹂ 氏 。 下 外 文 で 科 ︵ 政 開 術 二 業 を 母 の 年 。 学 名 ︵ そ ぶ 不 一 こ 八 の と 詳 名 一 二 ︶ 九 声 〇 の 年 は 余 二 男 ︶ 、 年 に 没 ほ に 生 。 ど 及 ま な ん く だ れ た 後 江 、 道 藩 安 竹 七 永 ︵ 代 五 初 藩 年 代 。 門 ︵ 梅 1 な 家 お と 初 、 代 本 ・ 本 家 道 家 の 竹 は つ ︵ 代 な 謙 々 が 次 ﹁ り 郎 理 は 高 左 、 祖 衛 梅 門 ﹂ ︶ ﹂ 氏 を の 襲 開 名 祖 し で た あ ︶ に る 初 嫁 代 い ・ だ 道 と 竹 こ の ろ 末 ま 娘 で ・ と る ね 。 が 、 謙 次 郎 の 妻 ・ カ ネ の 祖 の 本 理 左 衛 二 一 ︶ 梅 家 梅 家 ・ 本 家 の 血 脈 論 説 三 六 年 ︵ 薫 六 九 歳 ︶ 、 読 売 新 聞 の 連 載 ﹁ 名 士 の し 、 彼 は 芳 雪 と 号 し た ︶ 。 だ が 、 彼 に と っ て 、 医 母 家 ﹂ を に 継 掲 ぐ 載 こ さ と れ は た 、 彼 ま に っ 関 た す く る 不 記 本 事 意 に だ よ っ れ た ば17 ら ︶ し い 、 。 彼 の 晩 年 で あ る 明 治 沢 文 省 の 二 男 ・ 薫 ︵ 天 保 五 年 三 月 二 九 日 ︵ 一 八 三 四 年 五 月 七 日 ︶ 生 ︶ が 迎 え ら れ て 梅 家 を 継 い だ ︵ 養 の 号 ・ 香 雪 に 対 初 代 ・ 道 竹 と 同 じ く 、 三 代 ・ 道 竹 に も 男 子 が い な か っ た 。 そ の た め 、 婿 養 子 と し て 、 出 雲 国 八 束 郡 野 波 村 の 医 師 ・ 井 4 薫 ︵ 謙 次 郎 ︶ 慶 応 二 年 八 月 二 八 日 ︵ 一 八 六 六 年 一 〇 月 六 日 ︶ 没 。 享 年 六 九 歳 。 錦 之 丞 九 歳 、 謙 次 郎 七 歳 の 時 の こ と で あ っ た 。 素 養 は 、 大 い に 役 に 立 っ た で あ ろ う 。 は 、 フ ラ ン ス 語 で 教 授 さ れ た が 、 入 学 試 験 は 論 語 の 弁 書 と 資 治 通 鑑 の 白 文 訓 点 で あ っ た か ら 、 祖 か ら 教 わ っ た 漢 学 の 博 士 も 其 の 学 業 の 素 地 は 、 祖 の 掖 ︹ 三 代 ︺ 道 竹 氏 尚 ほ 在 に し て 、 専 ら 其 の 薫 陶 に 当 り し が 、 家 に 由 る こ と を 認 め 居 た り ﹂ と い の う16 教 。︶ 育 謙 は 次 、 郎 徳 の 器 進 の ん 涵 だ 養 司 を 法 主 省 と 法 し 学 、 頗 の る 正 厳 則 粛 科 な の り 講 き 義 。 出 雲 ま に た 於 、 け 東 る 川 学 に 者 よ 詩 れ 人 ば に 、 し 三 て 代 徳 道 学 竹 兼 氏 備 は の 、 君 医 子 学 人 の な 蘊 り 蓄 き 深 ﹂ か と り さ し れ15 の 、︶ み 博 な 士 ら 兄 ず 弟 、 ︹ 経 錦 学 之 の 丞 造 ・ 詣 謙 も 次 深 郎 く 兄 、 弟 其 ︺ の の 幼 友 年 は 時 孰 代 れ は も 、 当 祖 時 子 の 末 妹 す な わ ち 、 初 代 ・ 道 竹 の 末 娘 だ っ た の だ ろ う 。 と ︹ 三 さ 代 れ ︺ る14 。︶ 道 竹 し が か し 新 番 、 謙 組 次 と な 郎 り の し 曾 は 祖 、 権 で 勢 あ あ る る 二 代 本 ・ 道 氏 竹 の は 力 、 に 初 負 代 ふ ・ 所 道 多 竹 か の り 養 し 嗣 な 子 り で 。 あ 梅 っ 家 た と か ら 本 、 家 と と は ね 此 ﹂ の 子 如 は き 、 関 彼 係 の に 妻 在 ・ り 牧 ﹂ 東 川 徳 治 に よ れ ば 、 夫 人 ︹ 梅 謙 次 郎 妻 ・ カ ネ ︺ の 祖 母 ﹃ と ね ﹄ 子 は 博 士 の 曾 祖 ︹ 二 代 ︺ 道 竹 の 季 妹 に し て 、 祖 組 九 ・ 年 留 一 守 月 居 八 番 日 組 ︶ に に 加 は え 新 て 番 新 組 た に に 昇 設 格 け す ら る れ ︵ た 士 新 の 番 職 組 制 ﹂ で と 、 は 卒 、 か 宝 ら 暦 士 一 に 一 昇 年 進 九 し 月 た ︵ 者 一 は 七 、 六 ま 一 ず 年 新 一 番 〇 組 月 に ︶ 編 従 入 来 さ の れ た13 従 ︶ 番 ︶ 。 組 ・ 大 番 士 ・ 並 士 ・ 卒 ・ 軽 輩 の 四 つ に 大 別 さ れ る が 、 御 目 見 ﹂ は 、 卒 の 職 制 の 中 の 一 つ で あ る12 ︶ ︶ 、 安 政 五 年 一 二 月 五 日 ︵ 一 八 五 (法政研究 83-3-124)390 梅謙次郎の子供たち(七戸) ハ 同 じ く 医 を 以 て 渡 世 と す る 事 な り し が 、 一 藩 の 抱 医 と し て 養 家 に あ り け る 程 ハ 兎 も 角 も 、 元 よ り 好 ま ぬ 道 な れ バ 、 新 に 知 ら ぬ 不 自 由 勝 な り け れ バ 、 ハ 遂 に 意 を 決 し て 国 を 後 に し 、 自 ら 出 京 せ し ハ や が て 明 治 七 年 の 事 な り き 。 さ て 差 当 た り て の が 職 業 う 東 京 に 出 し 、 続 て 謙 次 郎 氏 を も 出 京 さ せ て 、 絶 え ず 学 業 を 励 ま し 居 り し が 、 元 よ り 豊 な ら ぬ 生 計 と て 、 遠 く 離 れ 居 り て ハ 常 に 此 間 家 内 の 不 自 由 一 二 に し て 止 ま ら ざ り し か ど 、 ハ 其 初 一 念 何 処 ま で も 子 息 を し て 貫 か し め ん も の と 、 兄 ︹ 長 男 ・ 錦 之 丞 ︺ を 早 391(83-3-125) の 後 ハ 、 や が て 家 督 を 相 続 せ し か バ 、 責 任 益 す 重 き を 加 へ ぬ 。 何 く れ と な く 手 一 つ に 処 理 し 、 此 頃 よ り 已 に 病 疾 を 発 し な が ら 、 一 度 君 侯 の 供 し て 京 の 地 に 入 り 、 半 年 余 を 其 処 に 勤 め て 帰 郷 斯 る 程 に の 丗 三 才 に 至 れ る 時 、 養 ︹ 三 代 ︺ 道 竹 は 無 常 の 風 に 誘 は れ て 空 し く 黄 泉 へ 旅 立 ち け れ バ 、 は 其 後 の 家 万 事 を に 者 つ で い あ て っ も た 、 彼 資 が 料 、 を な 発 ぜ 見 こ で れ き ほ て ど い ま な で い 医 。 業 以 を 下 嫌 、 っ ひ て と い ま た ず の は か 読 、 売 梅 新 家 聞 に の 入 記 っ 事 た を ﹁ 続 或 け 事 よ 情 う21 否 。︶ む に 由 な く ﹂ と は 何 で あ っ た の か 城 博 東 は 川 し 、 徳 み 薫 治 つ の も ゝ 、 ﹁ 、 身 志 薫 ハ は 曾 天 氏 て は 最 下 、 国 資 も 家 性 嫌 ひ に た あ る っ に 医 家 た し ﹂ て に と 大 安 ん す 志 じ る を た が19 り 、︶ 抱 き き 岡 。 孝 医 は は ﹁ 其 詩 の 歌 欲 、 す 歌 る な 所 ど に 詩 あ を ら 作 ざ っ り て き 生 ﹂ き と た 述 か べ っ る18 た 。︶ ﹂ こ と の す 点 る20 に 。︶ 関 実 し 家 て も 、 医 全 く 其 志 望 を 絶 ち 、 己 ハ 一 意 何 事 も 養 家 の 為 に 図 り 、 年 来 の 本 望 ハ 其 児 を し て 嗣 が し め ん も の と 、 こ れ よ り 只 管 幼 児 の 生 長 を 楽 心 中 密 に 遺 憾 に 耐 へ ず 、 そ の 日 々 々 を 送 れ る 中 に 、 廿 五 才 に 至 れ る 時 、 始 め て 一 男 子 ︹ 長 男 ・ 錦 之 丞 ︺ 出 生 せ り 、 是 に 於 て か は 励 し た る 効 あ り て 、 見 事 養 家 の 名 を 汚 さ ず 、 藩 主 の 覚 え よ 目 出 度 き 事 と な り ぬ 。 さ も あ れ 養 家 の 光 栄 ハ 、 身 の 不 本 意 に し て 、 な ら ね バ 、 こ ゝ に 年 来 の 望 を 絶 ち て 、 専 心 医 学 を 研 究 す る 事 と 決 し 、 一 九 才 よ り 廿 三 才 に 至 る 五 年 間 ハ 、 夜 の 目 も 合 さ ず 鋭 意 勉 り が た く し て 、 遂 に 医 家 の 養 子 た る に 至 り し よ り 、 心 中 常 に 不 快 に 耐 へ ざ り し が 、 さ り と て 己 の 一 心 も て 祖 先 の 家 職 を 抛 つ 事 も ︹ 薫 ︺ ハ 本 姓 江 沢 ︹ 井 沢 ︺ と 称 し 、 元 よ り 医 業 に 毫 も 志 望 な か り し の み か 、 医 師 ハ 其 最 も 嫌 ひ た る 処 な り し に 、 一 片 の 事 情 さ ⋮ ⋮ 十 九 の 時 或 事 情 否 む に 由 な く 、 入 っ て 梅 家 を 相 続 せ る な り 。 論 説 と い う 人 に 三 百 円 出 し て も ら い 、 な お そ の 他 渉 を 遂 げ て よ う や く 洋 行 し ま し た 。 生 活 に は 一 向 駄 目 だ ね な ど 申 し て 笑 っ た の で す が 致 し 方 あ り ま せ ん 。 私 が 三 百 円 出 し 、 最 も 親 し く し て い た 江 州 の 村 地 ︹ 重 厚 ︺ ど う し て そ う 沢 山 あ る の か と 問 う と 、 元 金 は 参 百 円 ぐ ら い だ が 高 利 が 嵩 ん で そ れ だ け に な り ま し た と の 答 、 君 の 得 意 の 数 学 も 実 訳 に も 行 か ぬ の で 、 私 は 少 し の 借 金 な ら 片 付 け て 立 た せ て や り た い と 思 う て そ の 額 を 聞 く と 、 千 数 百 円 あ っ た の で 驚 き ま し た 。 て い た 某 に 借 金 が あ る の で 早 く 金 を 取 る こ と が 必 要 で 、 外 国 へ は 行 け な い と の こ と 、 梅 も 有 望 な 俊 才 で す し 、 そ う そ う 決 定 せ ぬ と こ ろ が 梅 ︹ 錦 之 丞 ︺ が 私 の と こ ろ に 来 て 申 す に は 、 誠 に 有 難 い が 、 家 の 事 情 等 で 学 資 が 足 り な か っ た た め に 大 学 に 小 を し 黒 士 忠 の 悳 学 に 位 よ を れ 取 ば23 得 ︶ 、 翌 、 一 二 年 第 一 回 の 官 費 留 学 生 に 選 ば れ る 。 と こ ろ が 、 錦 之 丞 は 、 こ の 留 学 を 当 初 辞 退 し た ら し い 。 石 困 の 中 、 長 男 ・ 錦 之 丞 は 、 明 治 一 一 年 一 一 月 東 京 大 学 医 学 部 本 科 を 卒 業 し 、 翌 一 一 年 卒 業 試 験 を 受 け て 七 月 に 医 学 失 区 敗 西 し 紺 て 屋 、 町 最 で 後 呉 に 服 は 店 夜 を 間 開 大 く 道 も に 、 露 た 店 ち を ま 出 ち し 詐 て 欺 手 に 拭 遭 い っ と て 足 店 袋 を を 閉 売 じ る 、 ま 次 で に 零 薬 落 店 し を た22 開 。︶ 業 し た が 失 敗 、 さ ら に 手 拭 屋 を 始 め る も 学 ︵ 明 治 一 〇 年 東 京 大 学 設 立 に よ り 同 大 学 医 学 部 ︶ へ 転 じ た の を 機 に 、 一 家 を 挙 げ て 東 京 に 移 る 。 薫 は 、 は じ め 京 橋 薫 は 、 明 治 六 年 七 月 に 隠 居 し て 家 督 を 錦 之 丞 ︵ 当 時 一 五 歳 ︶ に 譲 り 、 翌 明 治 七 年 秋 、 錦 之 丞 が 大 阪 医 学 よ り 東 京 医 何 事 も 其 望 を 妨 ぐ る 事 な く 、 各 自 の 長 所 を 充 に 発 揮 せ し め ん と の 案 に 出 で た る に 外 な ら ざ り き 。 家 の 養 子 と な り 、 我 初 一 念 寸 も 貫 く に 由 な く 、 一 生 を 空 し く 遺 憾 の 中 に 暮 ら し た る よ り 、 奮 励 一 番 愛 児 を し て 志 を 嗣 が し め 、 常 に 学 事 を 奨 励 せ し の 心 事 ハ 正 に 歎 賞 す べ き も の あ ら む 。 こ れ ぞ が 其 年 の 頃 如 何 に 事 情 さ り が た し と ハ 謂 へ 、 思 ひ も よ ら ぬ 兄 弟 の 苦 学 ハ 実 に さ る 事 な が ら 、 斯 く ま で 逆 境 に 沈 み つ ゝ 、 其 児 を し て 少 し も 後 安 か ら し め ん も の と 、 其 身 の 労 苦 を つ ゆ 厭 は ず 、 ど 、 絶 え て 子 息 の 教 育 怠 る 事 な く 、 い て ハ 錦 之 丞 氏 兄 弟 も と 其 苦 を 共 に し つ ゝ 、 只 管 学 事 を 励 み た り き 。 土 地 へ 開 業 し て よ り 、 何 時 も 面 白 か ら ざ る 事 の み 続 き て 、 其 後 の 困 苦 一 方 な ら ず 、 遂 に ハ 労 働 を 為 さ ぬ ば か り の 状 態 に 陥 り し か (法政研究 83-3-126)392 梅謙次郎の子供たち(七戸) も っ と も 、 岡 孝 ‖ 江 戸 恵 子 に よ れ ば 、 従 来 は 、 梅 は 法 律 上 の 義 務 が な い の に 兄 の 借 金 を 返 済 し た と 解 さ れ て い た が を 辞 せ ん と し た る 事 さ へ あ り き と な む 。 斯 て ハ 現 今 相 州 酒 匂 の 別 業 に あ り て 年 来 の 持 病 を 養 ひ 居 れ り 。 り と い ふ 。 謙 次 郎 氏 が 常 に の 身 上 を 思 へ る ハ 、 尚 之 の み に 止 ま ら ず 、 其 曾 て 洋 行 を 命 ぜ ら れ し 折 も 、 老 体 の を 思 ふ の 余 の 借 財 弁 償 の 義 務 な け れ ど 、 其 没 後 の 困 苦 を 見 る に 忍 び ず 、 自 ら 進 ん で そ の 債 務 支 弁 を 思 ひ 立 ち 、 今 ハ 悉 く 其 責 を 果 た し た 393(83-3-127) 謙 次 郎 氏 ハ 元 よ り 梅 家 の 別 家 と て ︹ 留 学 か ら 帰 国 し た 年 ︵ 明 治 二 三 年 八 月 九 日 帰 国 ︶ の 一 〇 月 八 日 家 に よ り 戸 主 と な る ︺ 、 長 兄 お 、 前 記 読 売 新 聞 の 連 載 に よ れ ば 、 謙 次 郎 も ま た 、 兄 ・ 錦 之 丞 と 同 様 、 留 学 を 辞 退 す る こ と を 且 つ 勉 学 の 時 間 を 割 き て 原 稿 を 書 き 、 其 の 稿 料 な ど を 以 て 一 方 、 錦 之 丞 が 東 大 を 退 職 す る 明 治 一 八 年 一 二 月 、 謙 次 郎 に は 月 官 月 費 六 留 十 学 弗 で 乃 日 至 本 百 を 弗 離 を れ 送 る り が て 、 其 留 の 学 え 生 中 た 活 ﹁ と 費 博 い に 士 う28 供 は 。︶ し 学 資 た27 ︶ を ﹂ 。 節 な し 、 ま は り 、 の 医 借 者 財 に が 似 残 合 っ は て ぬ を 豪 り 放 ま な し 人 た で ﹂ 、 と 小 い さ う26 い 。︶ こ と に 着 し な い の で 、 従 っ て 生 活 費 も 嵩 み 、 な く な り ま し た 時 に は 二 万 円 あ 家 あ 活 は る を そ 、 が 為 の ︶ し 後 ・ 、 た 、 生 薫 活 る 錦 と が 之 兄 が 乱 如 丞 ・ し25 が 錦 れ ﹂︶ 明 之 て 。 治 身 だ 丞 体 が 一 の を 、 六 多 年 壊 生 額 し 来 一 の 、 月 借 に 明 譲 財 治 り 帰 に 一 の 国 再 八 豪 し び 年 放 、 苦 一 な 三 し 二 性 月 む 月 格 東 こ に で 京 と 東 、 大 と 大 大 学 な を い 医 る 退 に 学 。 職 酒 部 謙 、 を 講 次 翌 好 師 郎 一 ん に の 九 だ 就 妻 年 錦 任 カ 四 之 し ネ 月 丞 た に 八 は 後 よ 日 ︵ は れ 急 こ 、 ば 性 の 、 肺 点 と 兄 炎 は 兄 ︹ で 弟 と 錦 死 ・ は 之 去 謙 大 丞 し 次 に ︺ た 郎 豪 と た も 奢 い め 同 な う 、 様 る 人 梅 で 生 る こ と あ り き 。 是 れ 余 の 現 に 見 て 記 憶 す る 所 な り ﹂ と 。 尚 ほ 奉 養 の 為 め に 新 聞 雑 誌 の 原 稿 も 書 き し が 如 し 。 此 点 に 付 き 博 士 に 種 種 の 宜 を 与 へ ら れ た り 。 大 町 桂 月 氏 は 曰 く ﹁ 博 士 は 明 治 十 六 七 年 、 ま だ 在 学 中 明 治 義 塾 に 教 鞭 を 執 ら れ た 博 士 は 官 庁 其 他 の 託 嘱 を 受 け 諸 種 の 翻 訳 に 従 事 し 、 得 る 所 の 報 酬 を の 小 遣 銭 に 供 せ し な り 。 当 時 文 部 省 に 在 り し 中 川 元 氏 は ト を 一 し 方 て 、 家 兄 計 ・ を 錦 支 之 え 丞 た の 。 留 東 学 川 中 徳 の 治 明 に 治 よ 一 れ 三 ば24 年 ︶ に 司 、 法 省 法 学 の 補 欠 入 学 を 果 た し た 弟 ・ 謙 次 郎 は 、 勉 学 の 傍 ら 、 ア ル バ イ 論 説 江 に は 蘭 学 ず き の 藩 主 が い て 、 金 森 錦 謙 と い う 蘭 学 者 を 招 き 雇 っ た り し て 、 当 時 と し て は 開 花 的 な 空 気 が こ の 山 陰 の 一 隅 に 謙 薫 次 ・ 郎 志 の ん 二 ︵ 男 淳 ︵ 子 三 ︶ 男 夫 。 婦 双 の 子 間 の の 兄 子 ︶ は 梅 、 徳 長 は 男 、 ・ 二 錦 人 之 の 丞 名 、 の 二 由 男 来 ・ に 謙 関 次 し 郎 て の 、 二 次 人 の の よ 男 う 子 に だ 述 け べ で て あ い る る37 。 。︶ 6 錦 之 丞 ・ 謙 次 郎 な ら 読 れ 売 た 新 の 聞 を 明 非 治 常 四 に 四 残 年 念 八 に 月 思 二 ひ 五 、 日 如 朝 何 刊 な ﹁ る 梅 夜 博 で 士 も 追 就 寝 悼 記 前 念 に 母 号 ︶ 堂 未 の 戒 亡 名 人 の を 唱 追 懐 へ て 談 ﹂ 居 に ら よ れ た れ ﹂ ば と 、 い 謙 次 う36 郎 。︶ は 、 母 堂 が 早 く 亡 く 中 南 町 七 六 ︵ 現 在 は 谷 中 一 丁 目 ︶ の 日 蓮 宗 六 浦 山 ・ だ が 、 彼 女 は 、 一 家 が 困 に あ え ぐ 明 治 九 年 一 〇 月 寿 病 寺35 に 。︶ 倒 れ 、 翌 明 治 一 〇 年 八 月 一 三 日 に 死 去 し た 。 墓 所 は 東 京 ・ 谷 手 の を 西 携 郊 へ に て あ 妙 り 見 ︶ 堂 に に 祈 月 り 参 て を 錦 為 之 し 丞 、 氏 其 を の 挙 成 げ 業 し を か 祈 ば り 、 し 爾 と 来 云 熱 ふ34 心 ﹂︶ な 。 る 妙 見 の 信 者 と な り 、 博 士 兄 弟 の 幼 少 時 代 は 、 自 ら 両 児 の じ 博 士 を し て 母 の 子 た り し を 欣 ぶ と 言 は し め た る 賢 母 な り き 。 且 つ 母 は 梅 家 に 家 祖 以 来 男 子 少 き を 憂 ひ 、 妙 見 堂 ︵ 東 川 徳 治 に よ れ ば 、 彼 女 は 、 ︹ で あ る 三 代 ︺ 道 竹 氏 の 気 質 を 享 け 、 気 宇 寛 大 に し て 慈 愛 に 富 み 、 経 学 の 一 般 に も 江 通 竹 の 三 女 で 、 婿 ・ 薫 と 同 い 年 の 天 保 五 年 六 月 二 日 ︵ 一 八 三 四 年 七 月 八 日 ︶ 生 ま れ と す る 文 献 も あ る 。 に 三 し 代 東 て ・ 川 後 道 徳 の 竹 治 ︹ の ﹃ ‖ ﹁ 博 三 次 士 代 女 梅 ︺ ︵ 謙 道 長 次 竹 女 郎 氏 出 ﹄ に 嫁31 は ︶ ハ ︶ ﹂ 、 、 、 薫 女 婿 が 子 の 婿 一 薫 養 人 よ 子 あ り と り 二 な し 歳 っ の 年 た み 上 三 、 と 代 他 し ・ に て 道 一 い 竹 人 る の の が32 娘 子 、︶ ・ 女 前 志 な 掲 ん か 読 ︵ り 売 東 し 新 川 か 聞 は バ 記 ﹁ ﹂ 事 淳 と ﹁ 子 あ 名 ﹂ る 士 と 一 の 表 方33 記 、︶ 母 す 彼 ﹂ る 女 に ︶ を は に 三 、 関 代 し ・ 不 て 道 幸 、 5 志 ん ︵ 淳 子 ︶ 謙 次 郎 母 ︶ ︵ 例 え ば ﹃ 博 士 梅 謙 次 郎 実 ﹄ 業 の 之 山 日 口 本30 宗 ﹂︶ 義 ︶ ﹂ の 。 談 話29 ︶︶ 、 事 実 は そ れ と は 異 な り 、 か な り の 額 が 梅 の 名 義 で な さ れ 、 あ る い は 梅 が 保 証 し た よ う で あ る ︵ (法政研究 83-3-128)394 梅謙次郎の子供たち(七戸) ︵ 安 政 五 年 ︵ 一 八 五 八 年 ︶ 生 ︶ ・ 謙 次 郎 ︵ 万 元 年 ︵ 一 八 六 〇 年 ︶ 生 ︶ 兄 弟 の 名 を つ け た 人 物 を 、 ・ 薫 ︵ 天 保 五 年 ︵ 一 一 方 、 桃 裕 行 の ﹁ 憶 説 ﹂ が 、 金 森 錦 謙 が 早 く か ら 忘 れ 去 ら れ た 人 物 か ど う か ﹂ と い う 疑 問 か ら 始 ま る の は 、 錦 之 丞 江 戸 新 番 組 の 金 森 錦 謙 が 、 江 に 赴 い た 記 録 は な い の で 、 梅 徳 の 仮 説 は 、 そ も そ も 前 提 に お い て 誤 っ て い る 。 組 を 入 修 と め な た る ︶ 。 に 文 同 久 藩 二 ・ 年 江 五 戸 月 屋 一 敷 日 の ︵ 蘭 一 学 八 師 六 範 二 に 年 迎 五 え 月 ら 二 れ 九 、 日 嘉 ︶ 永 江 七 戸 年 に 七 て 月 没40 一 。︶ 二 日 ︵ 一 八 五 四 年 八 月 五 日 ︶ に は 、 江 戸 新 番 組 に 395(83-3-129) 学 を 教 授 し た 。 嘉 永 二 年 四 月 一 六 日 ︵ 一 八 四 九 年 五 月 八 日 ︶ 、 江 藩 九 代 藩 主 ・ 平 斉 貴 ︵ 彼 も 自 ら 下 曽 根 門 下 で 砲 術 塾 に 入 門 。 そ の 後 、 幕 府 砲 術 師 範 ・ 下 曽 根 信 教 ︵ 金 三 郎 ︶ 方 に 滞 留 し て 蘭 書 の 翻 訳 を 行 う 一 方 、 信 教 の 子 ・ 信 之 ら に 蘭 れ る が 、 生 地 ・ 生 年 月 日 等 の 詳 細 は 不 明 。 若 く し て 長 崎 で オ ラ ン ダ 人 に 蘭 学 を 学 ん だ 後 、 江 戸 に 出 て 坪 井 信 道 の 日 習 堂 江 藩 蘭 学 教 授 の 金 森 錦 謙 ︵ か な も り ・ き ん け ん ︶ 通 称 は 策 、 錦 謙 は 諱 、 号 は 鳶 巣 の 生 国 は 備 中 と 伝 え ら 域 を 出 な い と 思 っ て い る 。 ろ 、 氏 は 面 白 が っ て 、 戦 後 梅 謙 次 郎 が 記 念 切 手 に な っ た 時 ﹁ ゆ う び ん ﹂ と い ふ 雑 誌 に こ の こ と を 書 い た 。 し か し 私 は 未 だ 憶 説 の 森 錦 謙 の 名 の 二 字 を と っ て 二 人 の 男 子 の 名 に 冠 し た の で は な い か 、 と 思 付 き 謙 次 郎 の 三 男 梅 徳 ︵ う め ・ め ぐ む ︶ 氏 に 話 し た と こ 藩 に 学 び 、 後 、 医 学 、 法 学 で 名 の 聞 こ え た 梅 錦 之 丞 ・ 謙 次 郎 兄 弟 の 名 で あ る 。 兄 弟 の 梅 香 雪 ︹ 芳 雪 。 薫 ︺ は 同 藩 洋 学 の 先 輩 金 金 森 錦 謙 が 早 く か ら 忘 れ 去 ら れ た 人 物 か ど う か に つ い て 、 私 は あ る 憶 説 を 立 て た こ と が あ る 。 江 藩 医 家 の 出 身 で 、 幼 時 江 梅 敬 家 ︵ に 後 残 記 さ 三 れ ︵ て 一 い ︶ た 1 文 ︶ 書 と に 東 基 京 づ 帝 い 国 て 大 、 学 錦 ・ 之 丞 料 の 編 年 纂 譜 所 も の 作 同 成 僚 し 。 て 戦 い 後 る38 は ︶︶ 東 の 京 ﹁ 大 憶 学 説 ・ ﹂ の 料 受 編 け 纂 売 所 り 教 で 授 あ 。 る な 。 お 桃 、 は 戦 い 前 う39 に 。︶ 、 桃 は 、 し か し 、 こ の 仮 説 は 、 徳 の オ リ ジ ナ ル で は な く 、 桃 裕 行 ︵ 桃 ﹂ 家 は 、 江 藩 儒 の 家 系 。 し か も 、 桃 裕 行 は 、 三 成 重 で は な い か と 思 う 。 ち な み に み な ぎ っ て い た も の ら し い 。 の 家 は 代 々 蘭 方 医 で あ っ た 。 の 兄 を 錦 之 丞 と い い 、 が 謙 次 郎 と 名 づ け ら れ た の も 、 こ の 金 森 錦 謙 の 名 を け て 与 え ら れ た の 論 説 末 、 遺 子 を 海 外 に 留 む る は 、 そ の 情 よ り 論 ず れ ば 、 復 た 怪 む に 足 ら ず 。 た ゞ 撫 育 の 費 を 送 ら で 、 母 子 を し て 飢 餓 に ら し む る は 、 を 帯 び 、 骨 格 邦 人 に 似 た り と 云 ふ 。 梅 某 の 情 婦 は 余 伯 林 に 在 り し と き 、 余 と 倶 に 一 盞 の を 喫 し た る こ と あ り き 。 客 窓 排 悶 の 日 本 人 の 欧 洲 に 在 り て 児 を 生 ま せ し は 、 独 り ︹ 緒 方 ︺ 惟 直 氏 の み な ら ず 。 已 に 伯 林 に も 梅 某 の 子 、 中 村 某 の 子 あ り 。 皆 面 色 黄 リ ン と で こ ﹁ ろ 梅 で 某 、 の 森 情 鴎 婦 外 ﹂ ︵ と 明 一 治 緒 一 に 七 コ 年 ー 八 ヒ 月 ー ∼ を 二 飲 一 ん 年 だ 九 、 月 と ド あ イ る43 ツ 。︶ 留 学 ︶ の ﹃ 独 逸 日 記 ﹄ 明 治 一 九 年 七 月 一 五 日 の 条 に は 、 ベ ル じ く 、 梅 家 ︵ 本 家 ︶ の 墓 所 で あ る 台 東 区 谷 中 の 部 講 師 と な る が 、 明 治 一 八 年 一 二 月 一 八 日 依 願 退 寿 職 寺 、 。 翌 戒 一 名 九 は 年 普 四 明 月 院 八 殿 日 妙 没 照 。 錦 行 海 年 日 二 観 七 居 歳 士 一 梅 〇 家 か 第 月 五 。 世42 墓 。︶ は 、 母 ・ 志 ん と 同 大 学 医 学 部 卒 業 後 ド イ ツ 留 学 ︵ 明 治 一 二 年 一 一 月 ∼ 一 六 年 一 月 ︶ 、 ベ ル リ ン 大 学 で 眼 科 を 学 び 、 帰 国 後 は 東 京 大 学 医 学 長 男 ・ 錦 之 丞 は 、 安 政 五 年 四 月 二 〇 日 ︵ 一 八 五 八 年 六 月 一 日 ︶ 出 雲 国 江 町 に 生 ま れ た41 。︶ 先 に 触 れ た よ う に 、 東 京 1 ︶ 長 男 ・ 錦 之 丞 な 氏 名 と な っ た 。 そ の 意 味 で は 、 板 倉 家 か ら の 養 子 の 梅 ・ 梅 子 と い う 名 前 の 由 来 も 、 す こ ぶ る 不 審 で あ る ︶ 。 子 で あ る 旨 を 示 す る 趣 旨 か ︵ だ が 、 母 カ ネ の 養 子 と な っ た 彼 女 は 、 謙 次 郎 と カ ネ の 入 籍 の 結 果 、 梅 ・ 梅 枝 と い う 珍 妙 前 を 息 子 た ち に つ け た の だ ろ う か 。 他 方 、 女 子 に つ け ら れ た ﹁ 梅 枝 ﹂ な る 名 前 の 由 来 も 気 に な る 。 男 子 と 同 様 、 梅 家 の 緑 ・ 震 ・ 徳 ・ 光 錦 之 丞 ・ 謙 次 郎 の に つ け ら れ て い る 点 が 気 に な る 。 謙 次 郎 は 、 薫 の 孫 で あ る 旨 を 示 す 趣 旨 で 、 同 じ ﹁ 一 文 字 ﹂ 名 ・ 薫 に 関 し て は 、 む し ろ 、 同 じ 特 徴 的 な ﹁ 一 文 字 ﹂ 名 前 が 、 謙 次 郎 の 四 人 の 息 子 ︵ 薫 の 孫 ︶ め 、 た と え 仮 に 書 面 の や り 取 り が あ っ た と し て も 、 二 人 が 直 接 対 面 し た こ と は な い で あ ろ う 。 年 一 二 月 五 日 ︵ 一 八 五 九 年 一 月 八 日 ︶ ︶ の 五 年 前 で あ る ︶ 。 も っ と も 、 上 記 の よ う に 、 金 森 錦 謙 は 江 戸 藩 邸 詰 で あ る た 場 合 に は 、 彼 と 金 森 錦 謙 は 、 ま さ に 同 時 代 人 で あ る ︵ 金 森 錦 謙 の 江 戸 新 番 組 入 り は 、 三 代 ・ 道 竹 の 新 番 組 入 り ︵ 安 政 五 八 三 四 年 ︶ 生 ︶ と え る か ら で あ る が 、 し か し 、 命 名 者 を 祖 の 三 代 ・ 道 竹 ︵ 寛 政 一 〇 年 ︵ 一 七 九 八 年 ︶ 生 ︶ と え た (法政研究 83-3-130)396 梅謙次郎の子供たち(七戸) で は な く 、 れ て い る 写 真 ・ 一 薫 葉 で 、 あ 中 る 泉 ら 論 し 文 い51 に 。︶ 掲 他 載 方 さ 、 れ 中 て 泉 い 論 る 文 写 の 真 写 三 真 葉 の に う 写 ち っ 、 て い 第 る 3 人 図 物 ﹂ で と 、 し 山 て 賀 掲 論 載 文 さ が れ 掲 て 載 い す る る 一 肖 〇 像 名 写 の 真 人 は 物 、 の 錦 集 之 合 丞 は 、 右 謙 の 次 よ 郎 う の に 二 、 男 岡 ︵ は 戸 、 籍 梅 上 謙 は 次 長 郎 男 の ︶ 子 震 の に う 取 ち 材 、 し 長 て 男 、 ︵ 資 戸 料 籍 や 上 写 は 真 養 の 子 提 ︶ 供 緑 を の 受 家 け 系 て か い ら る50 調 。︶ 査 興 を 味 行 深 っ い て の い は る 、 。 山 一 賀 方 論 、 文 山 に 賀 掲 と 載 中 さ 泉 397(83-3-131) ド イ ツ 人 と し て 徴 兵 さ れ 戦 死 し た 、 と い う こ と な の か 。 戦 の 中 前 事 泉 後 で 行 に あ 正 消 る48 の ︶ 息 ﹂ 牧 が 。 野 ま 不 た 英 明 一 に 、 に な 岡 対 孝 っ の す た 梅 る と 聞 醇 い に き う49 対 取 ﹂︶ り 。 す 日 る に 露 聞 よ れ 戦 き 争 取 ば で り 、 日 で 戦 本 も 争 人 、 に と 中 徴 し 泉 兵 て 氏 さ 徴 の れ 兵 指 る さ 摘 事 れ ど を る お 恐 の り れ を 、 て 嫌 日 か っ 露 秘 て 戦 密 帰 争 の 国 直 中 し 前 に た に 独 が 帰 乙 、 国 に 第 し 帰 一 、 っ 次 第 て 世 一 し 界 次 ま 大 世 っ 戦 界 た で 大 と そ の 後 、 こ の 遺 児 は 、 明 治 三 七 年 日 露 戦 争 が 始 ま る 頃 ︵ 二 〇 ∼ 二 四 歳 の 頃 ︶ ド イ ツ に 帰 国 し た が 、 そ の 理 由 に つ き 、 ① ・ ② い ず れ の 説 に 立 っ て も 一 応 の 平 仄 は 合 う が 、 子 の 年 齢 や 謙 次 郎 の 家 計 等 か ら え て 、 ② 説 の ほ う が 現 実 的 か 。 年 で あ る 。 一 方 、 独 逸 学 協 会 学 普 通 科 ﹂ が ﹁ 独 逸 学 協 会 中 学 ﹂ に 名 称 変 さ れ る の は 明 治 二 九 年 で あ る か ら 、 錦 之 丞 が 留 学 中 ︵ 明 治 一 二 年 ∼ 一 六 年 ︶ に も う け た 子 が 、 中 学 の 就 学 年 齢 ︵ 一 二 歳 ︶ に 達 す る の は 、 明 治 二 五 年 ∼ 二 九 よ れ ば 、 こ の 子 供 は ド イ ツ 協 会 学 野 に 取 一 在 っ 郎 籍 た に ︶ の 依 が で 頼 明 あ し 治 る て 二 が 日 三 、 本 年 そ に 留 の 連 学 経 れ か 緯 て ら に 来 帰 関 て 国 し に も す て 通 ら る 、 っ っ 際 ① た た に 山 と と 一 田 い す 緒 三 う る45 に 良 ﹂ 。︶ 連 や と な れ 岡 記 お 帰 孝 し 、 っ ・ て ① た 江 い 岡 と 戸 る は す 恵 が46 、 る 子 、︶ の は ② 梅 に 、 山 ︹ 対 謙 賀 謙 し44 次 は 次 、︶ 郎 、 郎 ② ︵ ︺ 山 明 ド の 賀 治 イ 令 勇 二 ツ 孫 は 二 協 ・ 、 年 会 醇 中 ︹ 帰 か 学 緑 国 ら ﹂ の 後 一 に 長 数 年 通 男 年 間 っ ︺ 経 ベ っ ル た 氏 て リ と の ン す 話 か ら る47 に 本 大 学 。︶ こ こ ん に 。 い う ﹁ 梅 某 ﹂ と は 梅 錦 之 丞 の こ と で あ り 、 借 金 同 様 、 彼 の 遺 児 ︵ 氏 名 不 詳 ︶ に つ い て も 、 弟 ・ 謙 次 郎 が 引 き い と 悲 む べ き 事 な り 。 独 乙 の 法 、 一 児 の 養 育 料 は 大 概 一 時 二 千 麻 を 投 じ て 足 る 。 留 学 生 の 如 き 、 こ の 資 力 な く し て 醜 を 遺 す な ら 論 説 政 章 様 に も 融 通 し て い た だ き ま し て 、 急 ぎ の だ け は 返 済 い た し ま し た が 、 と て も 全 部 と 申 す わ け に は な り ま せ ん 。 層 心 配 し て 下 さ い ま し て 、 お 様 の 故 読 売 新 聞 社 長 本 野 盛 亨 様 に お 話 し て 下 す ッ て 、 お 立 替 へ 下 さ い ま し た 。 ま た 法 学 博 士 富 井 の 大 金 で ご ざ い ま す 。 大 学 か ら い た だ く 俸 給 だ け で は 何 と も い た し 方 が ご ざ い ま せ ん 。 そ れ を 今 の 露 国 大 男 爵 本 野 一 郎 様 が 大 高 利 貸 し な ど は 、 家 の 内 に 座 り 込 ん で 居 催 促 を す る と い ふ 有 様 で 、 主 人 も 非 常 に 苦 心 い た し ま し た 。 二 万 円 と 申 せ ば な か な か は 、 一 高 方 利 、 貸 謙 し 次 で 郎 あ が る 留 。 学 妻 か カ ら ネ 帰 は 国 、 す 次 る の の よ を う ︵ に 明 回 治 想 二 す 三 る52 年 。︶ 八 月 九 日 帰 国 。 謙 次 郎 三 〇 歳 ︶ 手 ぐ す ね 引 い て 待 ち 構 え て い た の 記 載 は ﹁ 謙 二 郎 ﹂ で あ っ た の を 、 明 治 三 四 年 一 月 一 八 日 付 で ﹁ 謙 次 郎 ﹂ に 改 め た も の で あ る 。 な お 、 彼 の 名 前 に 関 し て は 、 謙 二 郎 ﹂ と い う 記 載 を し ば し ば 見 か け る が 、 こ れ は 必 ず し も 誤 り で は な く 、 戸 籍 上 の 教 授 。 東 川 徳 治 ﹃ 博 士 梅 謙 次 郎 ﹄ の 記 述 に 従 え ば 、 一 二 月 一 日 本 理 左 衛 門 ・ ク ニ の 三 女 カ ネ と 結 婚 。 ン 大 学 で 学 位 取 得 の 後 、 明 治 二 二 年 七 月 一 七 日 ベ ル リ ン 到 着 、 翌 明 治 二 三 年 八 月 九 日 帰 朝 後 、 一 八 日 帝 国 大 学 法 科 大 学 か ら 、 翌 明 治 一 八 年 一 〇 月 東 京 大 学 法 学 部 教 員 に 任 ぜ ら れ 、 留 学 の た め 一 二 月 二 九 日 横 浜 を 出 航 、 本 野 一 郎 の い る リ ヨ よ う に 、 東 京 外 国 語 学 か ら 、 明 治 一 三 年 司 法 省 法 学 正 則 科 第 二 期 生 に 編 入 、 明 治 一 七 年 首 席 卒 業 後 は 司 法 省 御 用 掛 二 男 ・ 謙 次 郎 は 、 万 2 ︶ 二 男 ・ 謙 次 元 郎 年 六 月 七 日 ︵ 一 八 六 〇 年 七 月 二 四 日 ︶ 兄 と 同 じ く 出 雲 国 江 町 に 生 ま れ た 。 す で に 触 れ た 以 前 に 、 兄 ・ 錦 之 丞 と 知 己 の 間 柄 で あ っ た 。 で あ る が 、 彼 ら が 集 合 写 真 を 撮 る に 至 っ た 理 由 に つ い て は 不 明 で あ る 。 と も あ れ 、 穂 積 陳 重 は 、 梅 謙 次 郎 と 面 識 を も つ 許 可 は 四 月 一 四 日 ︶ 、 帰 国 の た め ベ ル リ ン を 発 つ の が 翌 一 四 年 三 月 二 九 日 で あ る か ら 、 写 真 は こ の 間 に 撮 影 さ れ た も の か 、 穂 積 陳 重 の 姿 が 認 め ら れ る 。 穂 積 が ロ ン ド ン か ら ベ ル リ ン に 到 着 す る の が 明 治 一 三 年 三 月 四 日 ︵ ベ ル リ ン 大 学 入 学 写 真 に は 、 梅 錦 之 丞 ・ 原 新 之 助 ︵ 水 産 学 者 。 水 産 講 習 所 ︵ の ち 東 京 水 産 大 学 を 経 て 現 在 は 東 京 海 洋 大 学 ︶ 所 長 ︶ の ほ (法政研究 83-3-132)398 梅謙次郎の子供たち(七戸) は 今 福 島 県 若 市 で 弁 護 士 を し て を ら れ る 前 田 兵 郎 氏 の こ と ︶ し か と は 覚 え ま せ ん が 、 座 敷 は 、 六 畳 と 四 畳 の 二 間 ぎ い ふ と こ ろ か ら 、 だ け は 向 島 に 残 し て お い て 、 主 人 と 私 と 書 生 と 三 人 で 、 本 郷 真 砂 町 の 下 宿 に 移 り ま し た 。 書 生 と ﹁ そ れ か ら 間 も な く ︹ 明 治 二 三 年 八 月 一 八 日 ︺ 帝 国 大 学 の 教 授 と な り ま し た の で 、 通 勤 す る の に 遠 方 で 不 ② ① 本 郷 真 砂 町 廿 五 番 地 ⋮ ⋮ 読 売 新 聞 明 治 二 三 年 八 月 ① 二 七 日 朝 刊 ・ ② 二 八 日 別 刷 ︵ 転 居 広 告 ︶ 東 京 本 所 請 地 村 九 百 六 十 三 番 地 寓 ⋮ ⋮ 読 売 新 聞 明 治 二 三 年 八 月 一 八 日 朝 刊 ︵ 帰 朝 報 告55 ︶︶ 。 で 困 る と 399(83-3-133) 京 向 島 に 住 ん で を り ま し た56 ﹂︶ 。 ﹁ 主 人 の 洋 行 し た の は 明 治 十 九 年 で 、 帰 朝 し た の が 明 治 二 十 三 年 で ご ざ い ま し た が 、 帰 朝 し ま し た 当 時 は と 共 に 東 妻 カ ネ の 回 顧 談 と 重 ね 合 わ せ な が ら 、 順 番 に 見 て い く と 、 以 下 の よ う に な る 。 明 治 三 四 年 小 石 川 林 町 に は じ め て 持 ち 家 を 築 す る ま で の 一 一 年 の 間 に 、 実 に 一 〇 回 に わ た っ て 借 家 を 転 々 と し て い る 。 聞 と の つ な が り が 深 い の で あ る が 、 同 紙 に 掲 載 さ れ た 転 居 広 告 を 拾 い 上 げ て み る と 、 謙 次 郎 は 、 明 治 二 三 年 の 帰 朝 か ら 、 り の 謙 た 次 た め 郎 。 原 は 稿 、 を リ 書 ヨ き ン 、 大 死 学 去 留 の 学 年 時 ︵ 代 明 よ 治 り 四 、 三 本 年 野 ︶ 一 の 郎 三 の 月 に ・ は 本 富 野 井 盛 政 亨 章 の ・ 経 高 営 田 す 早 る 苗 読 と 売 と 新 も 聞 に の 評 社 議 友 員 と に な 就 っ 任 て す 、 る な ・ ど54 薫 、︶ へ 読 の 売 仕 新 送 差 向 の 時 に は い つ も 膝 の 上 に 手 を 置 い て 、 御 話 を し て 居 ま し た 。 こ れ は 祖 や 母 上 の 躾 け も 影 響 し て ゐ る か と 私 は 存 じ て ゐ ま し く ほ ど で 、 私 共 が へ て こ れ は 少 し 御 無 理 で は な か ら う か と 思 ふ 様 な 要 求 で も ﹁ 上 の 仰 だ か ら ﹂ と い ふ て 従 ふ の が 常 で 上 と 家 を 新 築 し よ う と い ふ こ と に な り ま し て 、 先 づ 上 の 為 め に 別 荘 を 買 ひ ま し た 。 主 人 が 上 に 対 し て 素 直 で あ り ま し た こ と は 驚 物 権 篇 二 ︶ 十 ﹄ 九 年 頃 に は 全 部 負 債 の 償 却 が 済 み ま し て 、 そ れ か ら 唐 縮 緬 の 蒲 団 と 麻 の 蚊 帳 な ど を 求 め ま し た 。 金 が 少 し 貯 り ま し た の で 、 借 金 を 完 済 す る の は 帰 国 か ら 六 年 後 、 明 治 二 九 年 ﹃ 民 法 要 義 ︵ 巻 之 一 九 月 一 二 日 刊 行 ︶ を 出 版 し た 頃 で 、 東 川 徳 治 ﹃ 博 士 梅 謙 次 郎 ﹄ の 則 伝 篇 え ︶ る ﹄ 妻 六 カ 月 ネ 七 の 日 談 刊 に 行 よ ︶ ・ れ ﹃ ば53 民 ︶ 法 要 、 義 ︵ 巻 之 二 論 説 調 査 会 の 委 員 を 命 ぜ ら れ ま し た 。 ╱ 調 査 会 の 方 は 非 常 に 忙 し い の で 、 主 人 は 、 朝 も 早 く 出 掛 け ま す し 、 夜 も ︹ 注 ︺ ⋮ ⋮ ⑤ ・ ⑥ の 転 居 に 関 し て 、 カ ネ は 何 も 語 っ て い な い 。 な お 、 カ ネ は 、 か く て 明 治 二 十 四 年 に 、 主 人 は 、 法 典 ⑥ ⑤ ④ ③ 本 郷 区 円 山 福 山 町 四 番 地 第 一 号 駒 込 西 片 町 一 地 番 ︹ 番 地 ︺ ⋮ ⋮ 読 売 新 聞 明 治 二 五 年 四 月 三 〇 日 朝 刊 ︵ 転 居 広 告 ︶ 駒 込 西 片 町 五 番 地 ⋮ ⋮ 読 売 新 聞 明 治 二 四 年 四 月 九 日 朝 刊 ︵ 転 居 広 告 ︶ 根 津 西 須 賀 町 十 一 番 地 ⋮ ⋮ 読 売 新 聞 明 治 二 四 年 一 月 五 日 朝 刊 ︵ 転 居 広 告 ︶ ⋮ ⋮ 読 売 新 聞 明 治 二 五 年 一 二 月 四 日 朝 刊 ︵ 転 居 広 告 ︶ ︹ 注 ︺ ⋮ ⋮ 明 治 二 五 年 三 月 二 五 日 、 長 女 ・ 梅 枝 生 。 ﹁ そ の う ち に 、 私 ど も は 都 合 あ っ て 、 本 郷 西 片 町 に 引 移 り 、 だ け は 前 の 西 須 賀 町 に 別 居 し て を り ま し た59 ︶ ﹂ 。 け て ま ゐ り ま す の で 、 私 な ど は 、 主 人 の 留 守 に は 、 一 一 こ れ に 挨 拶 す る の を 仕 事 に し て ゐ た く ら ゐ で ご ざ い ま す58 ︶ ﹂ 。 毎 日 の や う に 催 促 に ま ゐ り ま す 。 こ れ に は 実 に 閉 口 し て し ま ひ ま し た 。 根 津 に 引 移 り ま し て か ら は 、 な ほ 烈 し く 押 懸 貸 し た 方 で は 主 人 の 帰 朝 を 今 や 遅 し と 待 ち 構 へ て を り ま し た が 、 主 人 は 、 帰 り ま す と す ぐ 大 学 教 授 に な り ま し た の で 、 人 が 、 二 万 円 あ ま り の 借 金 を 残 し て 亡 く な っ て し ま ひ ま し た の で 、 そ の 債 務 は 主 人 が 悉 く 引 受 け る こ と に な り ま し た 。 須 賀 町 に 引 移 り 、 と 同 棲 す る こ と に な り ま し た 。 と こ ろ が 、 前 に お 話 し い た し ま し た 主 人 の 兄 の 錦 之 丞 と 申 し ま す ﹁ し か し 、 下 宿 住 居 は ど う も 不 自 由 な こ と が 多 い の で 、 そ れ よ り は 一 家 を 持 つ ほ う が よ か ら う と い っ て 、 本 郷 根 津 西 何 を 意 味 し て い る の か は 不 明 で あ る 。 謙 次 郎 ﹄ の 年 譜 に あ る ﹁ ︹ 明 治 二 三 年 ︺ 十 二 月 一 日 旧 江 藩 士 本 理 左 衛 門 の 女 兼 子 を 娶 る ﹂ と の 記 載 が 、 ︹ 注 ︺ ⋮ ⋮ こ の よ う に 、 カ ネ は 、 謙 次 郎 の 帰 国 直 後 よ り 一 緒 に 暮 ら し て い る の で あ り 、 そ れ ゆ え 、 東 川 徳 治 ﹃ 博 士 梅 一 ヶ 月 の 賄 費 四 円 五 拾 銭 づ つ と い ふ こ と に 極 め て 、 主 人 は そ こ か ら 大 学 に 通 勤 し て を り ま し た57 ﹂︶ 。 り で 、 そ こ に 寝 道 具 や 本 箱 机 な ど を お い て 、 三 人 が 起 臥 し て を り ま し た も の で す か ら 、 実 に 狭 く て 困 り ま し た 。 一 人 (法政研究 83-3-134)400 梅謙次郎の子供たち(七戸) ⑦ に 足 ら ぬ お 金 が あ る ば か り で 、 ど う す る こ と も で き ま せ ん か ら 何 と か し て 月 末 ま で ば し て い た だ く わ け に は ゆ か ぬ ご ざ い ま し た 。 月 半 ば に 上 か ら 、 二 十 円 だ け 都 合 し て く れ と い ふ 御 無 心 が ま ゐ り ま し た 。 そ の 時 、 私 の 手 に は 一 円 な る こ と が あ っ て 、 を り を り 余 の お 金 を 無 心 し て お よ こ し に な る こ と が ご ざ い ま し た 。 丁 度 二 十 六 年 の 秋 の こ と で こ の 上 と 申 す 方 が 、 や は り 兄 の 錦 之 丞 と 同 じ く 、 性 質 の 豪 放 な 方 で し た か ら 、 毎 月 三 十 円 の お 金 で は 時 時 足 ら な く 401(83-3-135) 困 っ た も の で ご ざ い ま す 。 て も 必 ず や り 通 し ま せ う と け れ ば な ら ぬ の だ か ら 、 随 へ て を り ま し た が 、 い つ も 月 の 半 ば に な り ま す と 、 お 金 が 足 り な く な り ま し て 、 随 つ ら い だ ら う が 、 我 慢 し て や っ て く れ と 申 さ れ ま し た の で 、 私 は 、 い か な る 艱 難 に 遇 っ 梅 枝 は 戸 籍 上 の 母 で あ る 矢 ヶ 崎 鶴 吉 ・ い し 夫 妻 に 里 子 に 出 さ れ て い た と 思 わ れ る ︺ 暮 ら し て ゆ き 、 相 応 に 際 も し な 主 人 は 私 に 向 っ て 、 三 十 円 で 一 家 三 人 ︹ 引 用 者 注 ⋮ ⋮ ﹁ 三 人 ﹂ と は 、 謙 次 郎 ・ カ ネ 夫 婦 と 、 長 男 ・ 緑 で あ ろ う 。 長 女 ・ ﹃ 上 の 仰 せ に は 背 か れ ぬ ﹄ た 。 月 の 半 ば に な り ま す と 、 野 菜 を 買 ふ お 金 に も 困 る こ と が ご ざ い ま し た 。 す る こ と に し て 侘 し い 生 活 を し て を り ま し た 。 毎 月 三 十 円 で 生 活 す る と い ふ こ と は 、 そ の 当 時 で も 随 骨 が 折 れ ま し け は 、 の 扶 養 料 と し て 毎 月 差 上 げ 、 主 人 と 私 ど も は 三 十 円 で 暮 ら し を 立 て 、 残 金 三 四 十 円 は 、 毎 月 債 主 の 方 へ 返 済 ﹁ そ れ か ら 麹 町 一 番 町 に 引 移 り ま し た が 、 そ の 頃 の 主 人 の 収 入 は 、 月 に 百 円 ほ ど で ご ざ い ま し た 。 こ の う ち 三 十 円 だ 一 番 町 五 番 地 ⋮ ⋮ 読 売 新 聞 明 治 二 六 年 五 月 二 八 日 朝 刊 ︵ 転 居 広 告 ︶ な お 、 ⑥ 円 山 福 山 町 時 代 の 、 明 治 二 六 年 三 月 七 日 、 長 男 ・ 緑 生 。 の が 同 年 一 〇 月 七 日 で 、 法 典 調 査 会 が 設 置 さ れ る の は 明 治 二 六 年 三 月 の こ と で あ る 。 民 法 商 法 期 法 律 案 が 帝 国 議 会 で 可 決 さ れ る の は 明 治 二 五 年 五 月 一 六 日 、 謙 次 郎 が 民 法 商 法 取 調 委 員 に な る 遅 く 帰 っ て ま ゐ り ま し て 、 少 し も 暇 は ご ざ い ま せ ん の で 、 私 も 驚 い た く ら ゐ で ご ざ い ま す ﹂ と 述 べ て い る が60 、︶ 論 説 ⑨ ⑧ 飯 田 町 五 丁 目 三 十 四 番 地 ⋮ ⋮ 読 売 新 聞 明 治 三 一 年 二 月 二 〇 日 朝 刊 ︵ 転 居 広 告 ︶ 小 石 川 指 ヶ 谷 町 百 四 十 番 地 ⋮ ⋮ 読 売 新 聞 明 治 二 八 年 五 月 五 日 朝 刊 ︵ 転 居 広 告 ︶ る ︵ 震 の 生 は 明 治 二 九 年 二 月 一 四 日 徳 ・ 光 の 生 は 明 治 三 〇 年 一 二 月 二 日 ︶ 。 二 男 ︵ 長 男 ︶ 震 、 双 子 の 三 男 ・ 四 男 ︵ 二 男 ・ 三 男 ︶ 徳 ・ 光 が 生 ま れ る の も 、 こ の ⑧ 小 石 川 指 ヶ 谷 町 時 代 で あ し 親 た62 の ﹂︶ 死 。 な れ た 時 の 苦 し か っ た こ と を 思 ふ と 、 贅 沢 ど こ ろ か 、 も の を 粗 末 に す る こ と も で き ぬ と 申 し て を り ま し た 時 は 、 こ れ か ら は 少 し も 気 も 伸 び 伸 び す る だ ら う 、 少 し は 贅 沢 も で き る だ ら う と は 申 さ れ な が ら も 、 母 て 、 夏 に な っ て も 木 綿 蚊 帳 を 吊 っ て を り ま し た が 、 よ 借 金 を 返 済 し て し ま っ て 、 初 め て 麻 の 蚊 帳 を 吊 り ま 町 時 代 の こ と で あ り 、 カ ネ に よ れ ば 、 主 人 も 、 借 金 を 返 す た め に 、 二 十 九 年 ご ろ ま で は 苦 労 に 苦 労 を か さ ね ︹ 注 ︺ ⋮ ⋮ こ の 転 居 に 関 し て 、 カ ネ は 何 も 語 っ て い な い 。 な お 、 謙 次 郎 が 借 金 を 完 済 す る の は 、 こ の ⑧ 小 石 川 指 ヶ 谷 話 さ れ ま し た が 、 上 の 仰 せ と あ ら ば 、 ど ん な こ と で も 喜 ん で 承 知 す る と い ふ 風 で ご ざ い ま し た61 ︶ ﹂ 。 の 時 の 上 の 喜 び は ま た 格 別 で ご ざ い ま し た 。 主 人 は 、 上 の 笑 顔 を み る の が 何 よ り 楽 し み だ と 、 あ と で 私 ど も に も ま せ ん の で 、 い ろ い ろ 尋 ね た 上 、 質 屋 へ ま ゐ り ま し て 二 十 円 の 金 を 借 り 出 し 、 そ れ を 上 に お 届 け い た し ま し た 。 そ を え ず 、 主 人 の も の と 私 の も の と 、 衣 類 雑 品 を 一 纏 め に し て 、 質 に 入 れ る こ と に し ま し た 。 私 は 、 質 の 入 れ 方 も 存 じ 私 も 、 な る ほ ど と 同 意 は い た し ま し た も の の 、 な い 袖 は 振 れ ぬ の 譬 で 、 お 金 は ど う し て も で き ま せ ん 。 そ れ か ら 止 む ﹃ 衣 服 を 質 入 れ し て 親 に 奉 ず ﹄ は ゆ か な い と 申 さ れ ま し た 。 今 残 っ て ゐ る の は 親 だ け で あ る 。 親 に 孝 行 を す る 時 は 今 よ り 外 に な い の だ か ら 、 何 と し て も の 仰 せ に 背 く わ け に も の で せ う か と 、 主 人 に 話 を し ま す と 、 主 人 は 、 そ れ は い け な い 、 親 の 仰 せ で は な い か 、 母 は 苦 し い 時 に 死 な れ て 、 (法政研究 83-3-136)402 梅謙次郎の子供たち(七戸) ▲ 昨 年 の 今 日 今 夜 ︵ 二 十 三 日 は ︶ 韓 国 の 病 院 で 博 士 か ら 最 後 の 言 葉 を 聞 か れ た の で あ っ た 。 未 亡 人 が 彼 の 地 の 南 大 門 に 着 か れ 去 月 婦 時 の 一 と ︶ 模 五 子 に 様 日 供 病 に 渡 た 死 つ 韓 ち し い 中 の て て の た い は 謙 め る 、 次 に 。 彼 郎 用 一 の チ い 方 一 フ ら 、 周 ス れ 忌 で 、 ・ の 重 明 薫 二 態 治 の 日 と 四 死 前 の 一 後 ︵ 報 年 ︵ 明 を 謙 明 治 妻 次 治 四 カ 郎 三 四 ネ は 八 年 が 大 年 八 受 韓 四 月 け 民 月 二 た 国 二 三 の の 三 日 も 民 日 ︶ 、 事 死 に こ 訴 去 。 カ の ネ 別 法 謙 が 荘 草 次 語 で 案 郎 っ 避 を 四 た 暑 こ 五 追 中 の 歳 懐 の 別 ︶ 、 談 こ 荘 こ を と で の 聞 で 起 別 こ あ 草 荘 う67 っ し は 。︶ た た65 、 が66 。︶ 謙 、︶ 明 次 謙 治 郎 次 四 ・ 郎 三 カ の 年 ネ 死 八 夫 403(83-3-137) も っ と も 、 先 に 触 れ た よ う に 、 母 ・ 志 ん は 、 謙 次 郎 の 留 学 よ り は る か 以 前 の 明 治 一 〇 年 八 月 一 三 日 ︵ 謙 次 郎 一 七 歳 の 氏 の 如 き は 母 に 孝 養 の 場 所 と し て 之 を 打 て た る 也 。 此 の 一 事 を 見 て 如 何 に 故 博 士 が 孝 心 に 厚 き か を 察 し 得 べ し 。 別 墅 を 築 し 、 老 親 を 其 の 処 に 移 し て 晩 年 を 楽 し く 過 さ し め た り 。 当 今 貴 紳 の 多 数 は 一 身 の 逸 楽 の た め 別 荘 等 を 設 く る も 、 故 梅 を 尽 す こ と 能 は ざ り し を 以 て 、 博 士 は 常 に 之 を 非 常 に 遺 憾 と せ り 。 故 に 其 後 聊 か 財 産 に 余 裕 を 得 る や 直 に 湘 南 酒 匂 の 地 を 卜 し て ▲ 寔 に 孝 道 の 士 也 故 博 士 は 天 性 至 孝 に し て 非 常 に 母 を 大 切 に し た る が 、 仏 国 よ り 帰 朝 当 時 は 家 政 裕 か な ら ず 充 母 に 孝 養 て は 自 、 宅 山 口 築 宗 よ 義 り も も 、 先 次 に の よ ・ う 薫 に の 述 た べ め て に い 購 る64 入 。︶ し た 、 神 奈 川 県 足 柄 下 郡 酒 匂 町 ︵ 昭 和 一 五 年 よ り 小 田 原 市 酒 匂 ︶ の 家 に つ い ⑩ ら れ ま す 時 は 、 務 で 止 む を え ぬ 場 合 の 外 は 、 土 曜 日 毎 に 必 ず 親 を 見 舞 っ て 、 翌 日 曜 日 に 帰 京 い た し ま し た63 ﹂︶ 。 小 石 川 の 只 今 の 家 を て て 三 十 四 年 に 、 私 ど も は 、 そ こ へ 引 移 り ま し た 。 は 七 年 前 に 歿 し ま し た が 、 が 酒 匂 に を に 親 の 家 を 作 っ て 上 げ な け れ ば な ら ぬ と 申 し て 、 相 州 酒 匂 に 家 を て 、 そ こ に を 住 ま は せ ま し た 。 そ れ か ら 後 に ﹁ そ の 後 、 お ひ お ひ 手 も と の 貯 へ も で き ま し た の で 、 住 宅 を 作 ら う な ど と 申 し ま し た が 、 自 の 入 る 家 よ り も 、 第 一 小 石 川 林 町 三 十 番 地 ⋮ ⋮ 読 売 新 聞 明 治 三 四 年 七 月 七 日 朝 刊 ︵ 転 居 広 告 ︶ ︹ 注 ︺ ⋮ ⋮ 右 の 二 回 の 転 居 ︵ ⑨ ・ ⑩ ︶ に つ い て も 、 カ ネ は 何 も 語 っ て い な い 。 小 石 川 江 戸 川 町 五 番 地 ⋮ ⋮ 読 売 新 聞 明 治 三 二 年 一 〇 月 九 日 朝 刊 ︵ 転 居 広 告 ︶ 論 説 会 っ た と き た だ し た と こ ろ 、 両 人 は 同 時 代 の 人 で あ り 郷 里 も 山 一 つ 越 し た 隣 村 な の で 、 二 人 の 出 会 と い う こ と も 無 き に し も あ ら の 教 師 用 を つ く る と き 武 蔵 の こ と を い ろ い ろ 調 べ た 。 す る と 武 蔵 と 沢 庵 の 流 は ど の 記 録 に も 見 当 ら な い 。 こ の 点 を 吉 川 氏 に ○ ︹ 叔 ・ 徳 が ︺ 岩 波 の 国 語 の 教 科 書 の 編 集 を や っ て い た 頃 、 吉 川 英 治 の ﹁ 宮 本 武 蔵 ﹂ の 一 節 を 教 科 書 に の せ た こ と が あ っ た 。 そ 兄 ︶ と 一 緒 に 暮 ら し て い た が 、 折 に 触 れ て 叔 が 語 っ た 話 の 中 に 、 母 方 ・ 梅 醇 ︵ 謙 次 郎 の 長 男 ・ 緑 の 長 男 ︶ は 、 昭 和 一 二 年 か ら 昭 和 二 〇 年 ま で の 八 年 間 、 叔 本 家 の 始 祖 の ・ 話 梅 が 徳 あ ︵ っ 謙 た70 次 。︶ 郎 の 三 男 。 双 子 の 二 ︶ 本 家 に ︹ 留 ︺ 学 改 か め ら ら 帰 れ 国 し な し た り69 ︶ 二 ﹂ 。 か こ 月 れ 後 に の 対 明 し 治 て 二 、 三 謙 年 次 一 郎 〇 の 月 子 八 の 日 代 の ・ 墓 薫 所 の は 家 、 よ 護 り 国 寺 家 で ︺ は 今 な 回 く 斯 雑 く 司 は ヶ ︹ 谷 真 霊 言 園 宗 に 豊 あ 山 る 派 。 の 大 本 山 ・ 護 国 寺 な お 、 梅 謙 次 郎 の 墓 所 は 、 博 士 の 家 は 代 々 日 蓮 宗 に て 墓 地 は 谷 中 ︹ 寿 寺 ︺ な れ ど 博 士 は 家 し た る も の な れ ば に あ っ た 野 間 清 治 ︵ 講 談 社 挨 拶 回 り を 勤 め 、 未 亡 人 に 付 業 き 者 添 ︶ い で 荼 あ 毘 っ に た68 付 。︶ さ れ た 遺 骨 を 持 ち 帰 っ た の は 、 当 時 東 京 帝 国 大 学 法 科 大 学 の 首 席 書 記 の 職 一 方 、 明 治 四 三 年 八 月 二 五 日 の 死 去 の 後 、 東 京 帝 国 大 学 長 ︵ 浜 尾 新 ︶ の 名 代 と し て 韓 国 統 監 ︵ 寺 内 正 毅 ︶ 以 下 へ の 単 に ﹁ 判 る ﹂ と 答 ら れ た の み で 、 今 へ る と 是 が 最 後 の 言 葉 で す ﹂ と 未 亡 人 は 当 時 を 目 の 当 り に 偲 ん で 袖 を ら れ た 。 何 れ 明 日 は ゆ っ く り 話 さ う と 云 ふ 事 で あ っ た が 、 其 の 明 日 の 廿 三 日 に は 最 早 話 す 事 も 出 来 ず 只 未 亡 人 の 顔 が 判 る か と 聞 か れ て 簡 り と し て 居 ら れ た が 軈 て ﹁ 小 供 等 は 相 変 ら ず 夫 か ﹂ と 聞 か れ た 。 未 亡 人 は 其 由 を 答 へ る と ﹁ 夫 の が 一 番 結 構 だ ﹂ と 云 は れ て 良 人 の 苦 し い 呻 き 声 を 聞 き な が ら 遂 に 博 士 の 顔 を 見 る 事 が 出 来 な か っ た 。 翌 廿 一 日 の 朝 始 め て 博 士 の 傍 に 行 く と 暫 ら く は ぼ ん や た の が 廿 日 の 夜 で 、 直 に 病 院 に 博 士 を 見 舞 ふ と ﹁ 夜 中 で あ る か ら お ひ に な る と 却 っ て 病 状 を 増 し ま す か ら ﹂ と 云 ふ 事 で 別 室 で (法政研究 83-3-138)404 梅謙次郎の子供たち(七戸) 藩 主 ・ 土 岐 頼 行 に 仕 え た 。 寛 永 六 年 ︵ 一 六 二 九 年 ︶ 紫 衣 事 件 で 上 山 に 配 流 さ れ た 沢 庵 宗 彭 と 出 会 い 、 新 流 開 の 志 を 告 俊 に 管 槍 を 学 ん で 印 可 を 得 る 。 そ の 後 は 、 山 形 で 最 上 義 光 や 鳥 井 忠 政 に 仕 え た が 、 寛 永 初 年 出 羽 上 山 に 移 っ て 初 代 上 山 門 森 重 。 幼 少 か ら 文 武 に 励 み 、 数 え 二 〇 歳 と な っ た 慶 長 一 〇 年 ︵ 一 六 〇 五 年 ︶ 佐 渡 に 渡 っ て 日 本 覚 天 流 の 槙 野 久 兵 衛 茂 本 1 長 門 家 守 祖 定 ・ 好 ︵ 本 一 長 指 門 ︶ 守 は 定 、 好 天 ︵ 正 一 一 指 四 ︶ 年 ︵ 一 五 八 六 年 ︶ 越 後 国 府 に 生 ま れ た72 。︶ は 、 も と 佐 々 成 政 家 臣 の 本 彦 左 衛 405(83-3-139) 一 流 の 武 芸 者 で あ り 、 武 蔵 と 違 っ て 沢 庵 和 尚 と 面 識 が あ っ た と す る 、 徳 の 言 葉 に 偽 り は な い 。 し た が っ て 、 醇 な い し 徳 は 、 先 祖 の 名 前 を 誤 っ て 覚 え て い た こ と に な る が 、 し か し 、 本 一 指 が 宮 本 武 蔵 と 並 ぶ 当 世 か 覚 れ 左 た 衛 も 門 の 、 も 中 多 頃 い 理 が 左 、 衛 本 門 来 、 は 後 法 長 号 門 の 守 と と お 称 り し 一 、 指 法 流 号 で を あ 一 る71 指 ﹂︶ と 。 号 し た 。 流 名 に つ い て は 後 世 一 旨 流 と か 日 下 一 旨 流 な ど と 書 て 手 一 右 で 方 手 槍 、 で の 繰 柄 を 本 り 出 握 一 す っ 旨 が て ﹂ 、 管 の 管 の ﹁ 一 槍 中 を 旨 の 管 滑 流 ﹂ は ら は 、 せ ② 刺 、 ﹃ の 突 日 場 す 本 合 る 武 の 。 道 掌 素 大 の 槍 系 摩 の ﹄ 擦 場 に 抵 合 よ 抗 、 れ に ① ば よ 両 、 る 腕 刺 を 突 同 本 速 時 長 度 に 門 の 前 守 低 に 定 下 突 好 を き の 解 出 消 す め す か た る 、 流 た ② 儀 め 左 で の 掌 あ も の る の 中 。 で で 定 あ 柄 好 る を は 。 滑 初 ら め せ 管 あ る ︹ 。 管 槍 ︺ ﹂ と は 、 素 槍 の 柄 に 管 ︵ 輪 。 多 く は 金 属 製 ︶ を 通 し た 槍 の こ と で 、 右 利 き の 場 合 、 左 手 で 管 を 握 り 、 右 叔 は 事 実 、 沢 庵 、 武 蔵 、 一 旨 の 料 を 相 当 集 め て い た よ う で あ る 。 又 一 旨 の 伝 記 を 書 き 初 め て あ る 程 度 ま と め て い た よ う で 記 録 は ど こ に も な い が 、 こ の 二 人 を 結 び つ け て 作 を も の し て み る の も 面 白 い 。 暇 を み つ け て や っ て み た い 。 家 に あ っ た 。 一 旨 も 武 蔵 も 当 時 の 一 流 の 武 芸 者 で あ り 、 も ち ろ ん 双 方 と も そ の 名 は 相 知 っ て い た で あ ろ う 。 両 人 が 会 っ た と い う 母 方 の 祖 先 は 本 一 旨 と い っ て 一 旨 流 管 の 始 者 で 沢 庵 と 親 が あ っ た 。 そ の の 伝 書 も 沢 庵 筆 と い わ れ 戦 災 で 焼 け る ま で ず と 思 い 、 武 蔵 と 沢 庵 を 結 び つ け て あ の 小 説 を 書 い た と い う こ と で あ っ た 。 論 説 日 梅 謙 次 郎 養 子 ・ 梅 子 の 女 婿 と す る た め 本 家 を 廃 家 ・ 謙 次 郎 と 養 子 縁 組 を し た 、 と い う 経 緯 で あ る 。 は 不 明 。 と も あ れ 、 理 左 衛 門 の 死 に よ り 、 戸 籍 上 の 長 男 ・ 緑 が 本 家 の 戸 主 と な っ て い た と こ ろ 、 明 治 三 八 年 三 月 一 七 理 左 衛 門 ・ ク ニ の 長 男 と し て 届 出 が さ れ て い る か ら 、 理 左 衛 門 が こ の 時 点 で 存 命 で あ っ た こ と は 明 ら か で あ る が 、 没 年 日 ︶ 生 ︶ 。 一 方 、 す で に 触 れ た よ う に 、 梅 謙 次 郎 と カ ネ の 間 の 実 子 ︵ 長 男 ︶ 緑 ︵ 明 治 二 六 年 三 月 七 日 生 ︶ は 、 戸 籍 上 は の 廃 家 養 子 縁 組 に よ り 母 ク ニ と と も に 一 時 謙 次 郎 の 戸 籍 に 入 っ て い た コ ト ︵ 明 治 四 年 五 月 五 日 ︵ 一 八 七 一 年 六 月 二 二 な い が 、 三 女 は 梅 謙 次 郎 の 妻 カ ネ ︵ 兼 子 。 明 治 元 年 一 〇 月 八 日 ︵ 一 八 六 八 年 一 一 月 二 一 日 ︶ 生 ︶ 、 四 女 は 明 治 三 八 年 緑 元 年 一 月 二 七 日 ︵ 一 八 四 四 年 三 月 一 五 日 ︶ 生 ︶ と の 間 に は 四 人 の 女 子 が 生 ま れ た 。 長 女 ・ 二 女 に つ い て は 調 べ き れ て い 一 方 、 梅 謙 次 郎 の 妻 カ ネ の ・ 理 左 衛 門 は 、 本 家 六 代 ・ 定 静 で あ る 。 彼 と 、 江 藩 士 ・ 玉 木 秀 平 の 長 女 ク ニ ︵ 弘 化 娘 ︵ と ね ︶ と 結 婚 し た の は 、 本 家 五 代 ・ 本 理 左 衛 門 定 重 ︵ 理 外 ︶ の よ う で あ る 。 ﹃ 日 本 2 武 カ 道 大 ネ ︵ 系 兼 ﹄ 子 掲 ︶ 載 の 一 ・ 指 理 左 流 の 衛 系 門 図 と74 、︶ 福 田 明 正 ﹃ 雲 藩 武 道 ﹄ の 記 述 を 突 合 し て 推 測 す る に 、 初 代 ・ 梅 道 竹 の 末 指 流 は 、 江 戸 ・ 江 の 両 地 を 拠 点 と し て 全 国 に 広 ま っ た 。 術 師 職 と な る 。 彼 は 、 そ の 後 江 戸 に 出 て 一 指 流 を 広 め 、 後 年 再 び 江 に 帰 参 し て 槍 術 師 職 に 復 帰 す る が 、 そ の た め 、 一 の 孫 ︵ 三 代 ︶ 理 左 衛 門 定 良 ︵ 号 ・ 節 外 ︶ は 、 と く に 秀 で た い 手 で 、 元 禄 七 年 ︵ 一 六 九 四 年 ︶ 一 八 歳 で 本 家 最 初 の 槍 一 指 流 の 管 槍 は 、 全 長 二 間 ︵ 約 三 ・ 六 メ ー ト ル ︶ あ り 、 そ の 刺 突 の 速 さ か ら 槍 銃 と も 称 さ れ る が 、 開 祖 ・ 定 好 ︵ 一 指 ︶ 家 と は 家 格 が 違 う 。 万 治 三 年 九 月 五 日 ︵ 一 六 六 〇 年 一 〇 月 九 日 ︶ 江 に て 没 。 享 年 七 二 歳 。 な 法 っ 号 た を 際 授 に け 、 る 再 。 三 そ の の 招 後 き 、 に 彼 応 は じ 江 て 戸 同 に 藩 出 の て 槍 新 術 流 指 派 南 を 役 広 と め な た り が 、 、 大 寛 番 永 組 一 に 五 組 年 み ︵ 入 一 れ 六 ら 三 れ 八 る 年 。 ︶ 禄 高 平 は 直 三 政 五 が 〇 石 江 で73 藩 、︶ ・ 新 初 番 代 組 藩 の 主 梅 と げ て 伝 書 の 執 筆 を 乞 う た 。 沢 庵 は 彼 の 人 物 に 感 じ て こ れ を 諾 し 、 同 年 一 〇 月 九 巻 の 伝 書 を 与 え る と と も に 、 一 指 ﹂ の (法政研究 83-3-140)406 梅謙次郎の子供たち(七戸) 三 に 、 な ぜ 彼 ら が 、 帰 国 後 同 居 を 始 め て 一 五 年 間 明 治 三 八 年 七 月 二 三 日 だ か ら で あ る 。 そ し て 、 第 の 記 述 の 意 味 が か ら な い 。 彼 ら が 入 籍 す る の は 、 謙 次 郎 ﹄ に あ る 、 一 二 月 一 日 謙 次 郎 と カ ネ の 結 婚 は 謙 次 郎 し か い な い 。 第 二 に 、 東 川 徳 治 ﹃ 博 士 梅 錦 之 丞 は 明 治 一 九 年 に 死 去 し て お り 、 家 を 嗣 ぐ 者 の 返 済 の 理 由 が 不 明 で あ る 。 一 方 、 梅 家 の 嗣 子 ・ し な い 。 本 家 の 借 金 か ら 逃 れ る た め な ら 、 そ の 後 国 二 か 月 後 の 一 〇 月 八 日 に 家 し た 理 由 が 判 然 と 帰 国 後 の 謙 次 郎 と カ ネ の 行 動 で あ り 、 第 一 に 、 帰 か し 、 仮 に そ う で あ る と す れ ば 、 不 可 解 な の は 、 次 の 日 謙 郎 と 横 次 や 浜 郎 え 出 が ・ ら 発 留 薫 れ ︶ 学 と る に に 暮 。 は 出 ら あ 、 発 し る す す て い で る い は に 明 た 留 結 治 の 学 婚 一 か 前 が 八 も か 決 年 し ら ま ︵ れ す っ 一 な で て 二 い に い 月 。 、 た 二 し 謙 も 九 【第2図】梅家・小泉家略系図 407(83-3-141) 八 月 九 日 ︶ 直 後 よ り 謙 次 郎 と 暮 ら し て い る か ら 、 よ う に 、 謙 次 郎 が 留 学 か ら 帰 国 し た ︵ 明 治 二 三 年 夫 ・ 謙 次 郎 よ り 八 歳 年 下 の 妻 カ ネ は 、 先 に 見 た 3 理 左 衛 門 三 女 ・ カ ネ ︵ 兼 子 ︶ 論 説 者 。 東 京 帝 国 大 学 料 編 纂 官 ﹂ 明 治 七 年 五 月 二 三 日 江 生 ま れ ﹂ 明 治 二 七 年 に 郁 文 館 ︹ 中 学 ︺ を 中 退 し 、 二 九 年 開 拓 ﹃ 二 〇 世 紀 日 本 人 名 事 典 ﹄ の 記 述 を そ の ま ま 転 記 す れ ば 、 三 成 重 敬 ︵ み な り ・ し げ ゆ き ︶ は 、 明 治 ∼ 昭 和 期 の 歴 学 1 三 成 重 敬 い 三 に 人 え 成 協 の ば 重 力 親 、 敬 し 戚 謙 ︵ て ︶ 次 東 い と 郎 京 る い の 帝 よ う 妻 大 う 資 カ 資 で 料 ネ ︹ あ 収 の る 集 い ︺ ﹂ に と 料 と 役 こ 編 さ 立 で 纂 れ77 つ あ 掛 、︶ 者 る 勤 梅 が ︵ ︻ 務 謙 い 次 た 第 ︶ 2 よ 郎 。 図 り を か の ︼ 資 研 小 究 料 参 照79 の す 泉 る 八 ︶ 提 ︶ 。 供 際 雲 を の も 受 必 梅 け 読 に ﹂ 書 資 た で 料 も あ の の る 収 で 東 集 あ 川 を る 徳 依 が78 治 頼 、︶ ﹃ し 博 て 親 お 戚 士 り 梅 ﹂ 、 と 謙 梅 次 い は う 郎 三 ﹄ の 成 は も を 、 、 具 梅 っ 体 の て 的 親 八 に 戚 雲 要 人 物 が い る 。 梅 の ま わ り に は 、 梅 の 世 話 で 明 治 三 一 年 以 来 右 の よ う に 、 小 泉 八 雲 の 妻 セ ツ ︵ 節 子 ︶ は 、 梅 謙 次 郎 の 妻 カ ネ 料 の 編 叔 纂 掛 の に 妻 写 の 字 い 生 と と こ し で て あ 勤 っ め た て が い 、 た よ 三 り 成 近 重 い 敬 縁 ︵ 戚 梅 に の も 夫 重 三 一 ︶ 周 辺 人 物 梅 家 の 人 び と 葬 ︵ 後 儀 任 委 は 員 長 、 周 を 知 務 め の よ た76 ︶ う 。 に 夏 目 漱 石 ︶ 、 早 稲 田 大 学 学 監 ・ 高 田 早 苗 に 講 師 雇 入 れ を 依 頼 し 、 翌 三 七 年 の 八 雲 の 死 去 の 際 に は 謙 次 郎 は 、 八 雲 の 後 見 役 の よ う な 地 位 に あ り 、 明 治 三 六 年 八 雲 が 東 京 帝 大 文 科 大 学 英 文 科 の 講 師 を 解 雇 さ れ た 際 に は も な 内 お 縁 、 関 カ 係 ネ を の 続 母 け ク た ニ の の か 末 が 弟 ・ か 玉 ら 木 な 十 い 之 。 助 の 妻 れ ん ︵ 錬 ︶ は 、 小 泉 八 雲 の 妻 セ ツ ︵ 節 子 ︶ の い と こ で あ っ た75 。︶ そ の 縁 で 、 (法政研究 83-3-142)408 梅謙次郎の子供たち(七戸) 桃 開 拓 社 と い う の は そ れ で す か 。 望 さ ん 等 の グ ル ー プ の 機 関 誌 だ っ た 。 え 、 梅 ︵ 謙 次 郎 ︶ 先 生 に 頼 ん で 竹 越 三 叉 先 生 の ﹁ 世 界 之 日 本 ﹂ 新 聞 に 入 社 し た 。 月 給 七 円 で す 。 こ の 新 聞 は 陸 奥 宗 光 ・ 西 園 寺 三 成 私 は 明 治 七 年 出 雲 の 江 生 ま れ で す が 、 十 六 七 ご ろ か ら 東 京 に あ こ が れ 、 二 十 六 年 に 上 京 し た が 、 二 年 ほ ど し て 学 資 が 絶 409(83-3-143) 桃 ︹ 裕 行 ︺ 三 十 一 年 十 一 月 二 十 二 日 で す 。 今 日 調 べ た の で す 。 三 成 ︹ 重 敬 ︺ 高 柳 ︹ 光 寿 ︺ こ の ご ろ 年 と っ て 記 憶 力 が い け な く な っ て い る が 、 明 治 三 十 一 年 の 末 だ と 思 う の だ が ね 。 一 番 初 め に 伺 い ま す が 、 あ な た の 料 ︹ 編 纂 所 ︺ に 入 っ た の は い つ で す か 。 の 座 三 談 成 会 が ︵ 自 先 に の 金 経 森 歴 錦 等 謙 に の 関 個 し 所 て で 最 参 も 照 詳 し し た く 桃 触 裕 れ 行 て も い 参 る 加 の し は て 、 い 管 る 見 ︶ の に 及 お ぶ け 限 る り 、 で 以 は 下 、 の 東 よ 京 う 大 な 学 会 ・ 話 で 料 あ 編 る82 纂 。︶ 所 の 現 役 ・ O B 私 が 資 料 を 提 供 し て 、 東 川 徳 治 氏 が 、 こ れ を 伝 記 に ま と め た 。 私 が 東 大 料 編 纂 所 に 永 ら く 席 を 置 い て い る の も 梅 先 生 の 紹 介 に よ る と こ ろ で あ り 、 法 政 大 学 か ら 刊 行 し た ﹃ 博 士 梅 謙 次 郎 ﹄ は 、 私 は 明 治 七 年 出 雲 江 生 れ で 、 二 十 六 年 梅 謙 次 郎 博 士 を た よ っ て 上 京 し 、 そ れ か ら 親 し く 梅 家 へ 出 入 し て 今 日 に 至 っ て い る 。 小 一 泉 方 節 、 子 三 の 成 ﹃ 自 思 身 い は 出 、 の 次 記 の ﹄ よ 出 う 版 に に 記 力 し を て 尽 い く る し が81 た ︶ ﹂ や 東 山 御 文 庫 ・ 醍 醐 寺 文 庫 の 料 調 査 な ど に 従 事 。 、 昭 ま 和 三 た 、 七 遠 年 二 縁 に 月 当 一 た 六 る 日 小 没80 ︶ 泉 ﹂ 。 八 雲 に 資 料 を 提 供 し 、 八 雲 の 没 後 は 彼 の 妻 事 務 補 佐 員 、 二 四 年 東 京 大 学 雇 を 経 て 三 一 年 に 退 職 。 そ の 間 、 長 き に 渡 っ て ﹃ 大 日 本 古 文 書 ﹄ の 東 寺 文 書 の 整 理 ・ 編 纂 庫 取 調 嘱 託 と な っ た 。 昭 和 一 二 年 に 料 編 纂 官 に 任 ぜ ら れ る が 、 同 年 退 官 し て 嘱 託 と な り 、 二 三 年 東 京 大 学 料 編 纂 所 理 ・ 調 査 に あ た り 、 大 正 二 年 同 料 編 纂 補 助 嘱 託 、 九 年 同 料 編 纂 官 補 を 歴 任 。 そ の 一 方 で 一 四 年 に は 臨 時 に 東 山 御 文 社 に 入 社 し た の を 経 て 三 一 年 に 東 京 帝 国 大 学 文 科 大 学 の 写 字 生 と な る 。 以 来 同 大 学 の 料 編 纂 掛 に 勤 務 し て 資 料 の 整 論 説 が 、 営 利 と 念 ず る 書 肆 に う け い れ ら れ る 底 ︹ 体 ︺ の も の で は な か っ た よ う だ 。 こ の 山 口 さ ん が 、 徳 さ ん は ﹂ と い っ て 大 い に 望 を ︹ 裕 ︺ な 親 類 が あ る け れ ど も 渉 を 没 し 、 隠 者 の 如 く 梅 家 の 玄 関 子 に 安 ん じ て い た 。 ﹃ 理 学 大 乗 論 ﹄ と い う 著 書 の 原 稿 が あ っ た い と こ ろ も あ る 阿 羅 漢 と い っ た 風 格 が あ っ た 。 妻 も な く 子 も な く 、 故 郷 に は 三 島 ︹ 佐 治 右 衛 門 。 山 口 五 郎 の 実 兄 ︺ な ど 富 有 次 郎 が 次 郎 が と い っ て 話 す 人 で 、 謙 次 郎 の 兄 錦 之 丞 と は 友 人 関 係 で あ っ た よ う だ 。 山 口 さ ん は 脱 俗 的 で あ る が 、 ど こ と な く 厳 し で 、 明 治 十 六 年 に ﹃ 道 徳 の 原 理 ﹄ 、 同 十 七 年 に ﹃ 哲 学 原 論 ﹄ な ど を 刊 行 し て い る 。 北 尾 次 郎 博 士 ︵ 江 出 身 の 物 理 学 者 ︶ の こ と を 、 は 明 治 初 期 の 新 人 で あ り 、 哲 人 で あ っ た 。 元 来 江 藩 の 士 族 で な く 、 大 き い 町 家 の 若 旦 那 で 、 日 本 に ス ペ ン サ ー を 紹 介 し た 学 者 ︹ 明 治 三 四 年 ︺ 梅 家 が 新 築 さ れ る と 、 山 口 五 郎 氏 が 来 て 玄 関 番 に お さ ま っ た 。 そ れ は 梅 家 の 玄 関 に ち ょ っ と 異 彩 を 放 っ た 。 彼 ま ず 、 梅 家 の 食 客 と な っ た 山 口 五 郎 に つ い て 、 三 成 重 敬 は 次 の よ う に 語 っ て い る83 。︶ 2 山 口 五 郎 し た 文 章 の 中 に は 、 梅 家 に 出 入 り し て い た 、 興 味 深 い 人 物 に 言 及 し た も の が あ る 。 こ の 座 談 会 に は 、 三 成 が 参 加 し た 東 山 御 文 庫 ・ 醍 醐 寺 文 庫 の 料 調 査 の 話 も 出 て く る が 、 省 略 す る 。 一 方 、 三 成 の 残 日 給 二 十 五 銭 也 で あ っ た 。 ろ ご ろ し て い て 、 ま た 梅 先 生 か ら 三 上 ︵ 参 次 ︶ 先 生 に 紹 介 し て も ら っ て 、 料 編 纂 掛 に 御 厄 介 に な る こ と に な っ た 。 こ ん ど は 歳 末 に 東 京 に 帰 っ た 。 自 然 と 人 情 風 俗 を 勉 強 す る と い う つ も り で あ っ た 。 柄 に な い お は ず か し い 次 第 だ 。 そ れ か ら し ば ら く ご て も ら っ て 、 こ こ で 一 週 間 滞 在 し 、 そ れ か ら 大 阪 に 入 っ て 、 ま た 金 が な く な り 、 こ こ に 親 類 が あ っ た の で 、 ま た 金 を 借 り て 、 原 で と ま り 、 沼 津 、 そ れ か ら 佐 野 に 寄 る と い っ た 行 程 で 、 鈴 鹿 山 を 越 え て 京 都 に 入 っ た ら 旅 費 が な く な り 、 東 京 か ら 金 を 送 っ た 。 そ ん な こ と か ら こ の 失 業 し て い る 間 に 東 海 道 を 歩 い て み た い と え 、 十 一 月 初 め こ ろ か ら 旅 に 上 っ た 。 鎌 倉 で 泊 り 、 小 田 と な っ た 。 そ の こ ろ の 書 生 は 政 治 趣 味 の も の が 多 か っ た が 、 私 は 文 学 趣 味 の 方 で 小 説 で も 書 い て み た い と い う え を も っ て い 三 成 そ う で す 。 明 治 三 十 年 ︹ 八 月 二 四 日 ︺ 陸 奥 宗 光 さ ん が な く な っ た の で 、 や が て 新 聞 は 廃 刊 と な り ま し た 。 そ れ で 私 は 浪 人 (法政研究 83-3-144)410 梅謙次郎の子供たち(七戸) 転 々 と 居 候 暮 ら し を 続 け て い た 漂 泊 の 哲 学 者 は 、 梅 の 新 居 の 居 心 地 が よ ほ ど 良 か っ た の だ ろ う 、 明 治 三 九 年 三 月 一 九 区 物 の 小 学 未 石 大 刊 川 乗 行 林 論 部 町 ︶ 三 上 ︵ 十 巻 前 番 ︶ 編 地 の 中 梅 原 巻 邸 稿 ・ ︹ で 下 寓 あ 巻 、 ︺ ﹂ り9︶1 後 、 と そ 編 あ ︵ る92 れ 理 ︶ が 。 証 想 拠 差 に 別 、 界 こ 大 れ 乗 ら 論 の ︶ 書 上 籍 巻 の ・ 下 奥 巻 付 ︶ 記 か 載 、 の あ 山 る 口 い は 五 ﹃ 郎 理 の 学 住 第 所 四 に 大 は 乗 、 論 東 ﹄ 京 前 市 編 小 ︵ 石 実 川 験 411(83-3-145) の う ち 前 編 ︵ 力 学 大 乗 論 ︶ の 上 巻 は 、 す で に 刊 行 さ れ て い る 。 そ れ ゆ え 、 三 成 重 敬 が 目 に し た の は 、 ﹃ 理 学 第 三 大 乗 論 ﹄ 山 口 が 梅 謙 次 郎 の 新 居 に 転 が り 込 ん だ 明 治 三 四 年 七 月 に は 、 ﹃ 理 学 大 乗 論 ﹄ ﹃ 理 学 次 大 乗 論 ﹄ と 、 ﹃ 理 学 第 三 大 乗 論 ﹄ 独 自 の 哲 学 書 を 世 に 問 う た 時 期 ⋮ ⋮ 上 記 三 成 重 敬 の 文 章 に あ る ﹃ 理 学 大 乗 論 ﹄ を 著 し て 以 降 の 時 期 で あ る が ③ 第 三 期 は 、 明 治 二 九 年 以 降 、 か つ て 信 奉 し て い た ス ペ ン サ ー の 進 化 論 を 、 大 乗 仏 教 の 教 説 を も っ て 超 克 せ ん と 、 す る ② 論 な ﹄ っ 第 な て 二 ど 以 期 の 降 は 著 の88 、 述 、︶ 陸 を 政 奥 行 体 宗 っ 関 光 た 係 の 時 の 政 期90 著 治 、︶ 作 新 を 聞 精 ﹁ 力 寸 的 鉄 に ﹂ 出 版 明 し 治 た 二 時 四 期 年 ⋮ 一 ⋮ 一 ﹃ 月 第 二 三 一 期 日 帝 発 国 刊 議 ∼ 会 翌 見 二 聞 五 録 年 ﹄ 一 の 二 編 月 集 二 や89 日 ︶ 廃 、 ﹃ 刊 帝 ︶ 権 の 論 編 ﹄ 集 ﹃ 民 人 権 と ① る 相 ト 確 。 手 の 山 な 第 に 四 口 て 話 書 一 福 男 名 期 沢 に 五 し は は 諭 生 郎 た こ ﹃ 、 吉 ま は と 道 明 の れ 、 が 徳 治 自 た84 安 あ 之 一 由 。︶ 政 る 原 五 主 明 元 。 理86 年 義 治 年 ま ︶ ﹄ ∼ を 六 二 た 山 ︺ 、 一 啓 年 月 口 ﹃ 蒙 一 一 さ 哲 八 し 九 六 ん 学 年 の た 歳 日 の 原 が85 で ︵ こ 論 ス ペ 、︶ 慶 一 と ﹄ ︹ ン そ 応 八 を 書 正 サ の 義 五 い 確 ー 後 塾 四 て な の 再 に 年 み 書 著 び 入 三 た 名 作 上 塾 月 い は の 京 し 一 と ﹃ 翻 。 て 四 も 哲 訳 以 英 日 い っ 学 時 降 学 ︶ て 原 期 の を い 理87 ⋮ 彼 学 江 た ﹄︶ ⋮ の び の 。 ︺ 著 、 裕 上 な 作 明 福 ど 記 活 治 な の 三 動 九 両 翻 成 は 年 替 重 訳 、 の 商 敬 を 以 本 ︵ 行 の 下 科 っ 文 の 修 江 た 章 三 了 藩 に 時 期 後 の 期 あ に は 掛 、 る 大 屋 ﹃ 別 江 ︶ 道 す に 山 徳 る 戻 口 の こ っ 源 原 と て 助 理 が 若 と ﹄ ︹ で 者 妻 正 き 衆 モ か け て い た 。 こ の 少 年 、 学 へ は い っ た 時 、 先 生 の 教 え る こ と は 大 概 知 っ て い て 、 不 勉 強 の 習 慣 が つ い て 損 を し た と 、 後 年 笑 っ 論 説 に 藤 森 塾 を 設 け て 受 験 数 学 を 指 導 し 、 明 治 四 三 年 四 月 刊 行 の 受 験 参 書 ﹃ 幾 何 学 へ 方 と 解 き 方 ﹄ 青 野 文 魁 堂 ︶ し 、 斉 藤 秀 三 郎 設 立 の 有 名 予 備 ・ 正 則 英 語 学 の 数 学 教 師 の 後 、 翌 四 〇 年 立 教 中 学 に 就 職 。 そ の 一 方 で 、 彼 は 、 自 宅 保 科 百 助 ︵ 五 無 斎 ︶ が 苦 学 生 の た め に 開 い た 私 塾 ︵ 保 科 塾 ︶ 教 師 か ら 、 青 森 県 ・ 木 造 中 学 教 師 を 経 て 明 治 三 九 年 に 上 京 治 三 六 年 東 京 物 理 学 ︵ 現 ・ 東 京 理 科 大 学 ︶ の 数 学 科 を 卒 業 。 そ の 後 は 長 野 商 業 学 の 数 学 教 師 と な る が 半 年 で 退 職 、 者 で あ る 。 兄 の 良 蔵 は 、 諏 訪 実 科 中 学 か ら 、 明 治 三 二 年 長 野 師 範 学 に 入 学 す る が 一 年 で 理 不 尽 な 退 学 処 を 受 け 、 明 た 受 藤 験 森 指 良 導 蔵 ・ ︵ 数 ふ 学 じ 教 も 育 り の ・ エ り キ ょ ス う パ ぞ ー う ト ︶ で95 は 、︶ 、 弟 明 の 治 藤 一 森 五 省 年 吾 七 ︵ 月 ふ 一 じ 五 も 日 り 、 ・ 長 せ 野 い 県 ご 士 。 族 明 ・ 治 藤 一 森 八 良 年 知 二 の 月 長 一 男 〇 と 日 し 生 て ︶ 上 も 諏 著 訪 名 に な 生 教 ま 育 れ 降 っ た り 遅 く な っ た り す る と 、 私 を 下 宿 ま で 俥 で 送 っ て く だ さ っ た 。 奥 さ ん が え ら か っ た ﹂ と ず ば り と 語 る 。 り 奥 さ ん が え ら い ﹂ と い っ た 。 力 強 い 断 言 だ っ た 。 私 は 書 生 ッ ポ だ っ た が 、 奥 さ ん は 私 を 先 生 と し て 待 遇 し て く だ さ っ た 。 雨 が は ほ と ん ど 語 ら ぬ 、 語 れ ば 無 駄 が な い 。 そ し て ポ ツ リ と 語 る 時 に は 数 学 の 式 に な っ て い る よ う だ 。 突 然 の よ う に ﹁ ア ァ 先 生 よ 森 さ ん と 私 と 震 君 の 三 人 が 新 橋 の 料 亭 に 招 か れ た 。 そ の 席 で 藤 森 さ ん に 会 っ て 、 こ れ は 非 凡 な と こ ろ の あ る 人 だ と 気 づ い た 。 彼 生 に 私 が 相 見 し た の は ず っ と 後 の こ と で 、 震 君 が ︹ 昭 和 一 四 年 ︺ 満 洲 中 央 銀 行 の 東 京 支 店 長 と な っ た 時 、 今 昔 を な つ か し み 、 藤 梅 兄 弟 の 少 年 時 代 を 偲 び つ つ 、 も う 一 人 語 り た い 人 が あ る 。 梅 家 の 家 教 師 を し た こ と の あ る 藤 森 良 蔵 の 風 格 で あ る 。 こ の 先 と く し い 申 か ふ し し ま な を せ が 持 ん ら っ 。 、 て も 三 を の 成 り が 重 ま わ 敬 し か の た る 文 ﹂ や 章 と う の い に 中 う93 な に 。︶ れ は ば 、 自 次 然 の に よ 良 う く な な 人 る 物 も も の 登 を 場 、 す あ る94 ま 。︶ り や か ま し く 干 渉 す る と 却 っ て 悪 く し て し ま ふ と こ ろ で 、 梅 謙 次 郎 の 妻 カ ネ に よ れ ば 、 夫 ・ 謙 次 郎 は 、 3 藤 森 良 蔵 日 五 二 歳 で 病 死 す る ま で 、 梅 家 に 居 座 り 続 け た 。 子 供 に 対 し て は 常 に 放 任 主 義 を と っ て 、 け っ し て や か ま し (法政研究 83-3-146)412 梅謙次郎の子供たち(七戸) あ る ﹂ 。 昭 和 二 一 年 一 一 月 二 二 日 死 去 。 享 年 六 五 歳 。 行 部 数 を 通 算 す る と 二 百 万 部 を 突 破 す る と い ふ 。 即 ち 二 百 万 以 上 の 受 験 学 生 に 直 接 間 接 藤 森 氏 の 息 が 掛 っ て ゐ る わ け で 上 も 版 を 重 ね た も の な ど は 、 蘆 花 の 小 説 ﹃ 不 如 帰 ﹄ な ら ば 知 ら ぬ こ と 、 全 く 稀 有 の 記 録 で あ ら う 。 そ し て 右 の 記 事 は 続 け て 次 の よ う に 述 べ る 。 な ん と 驚 く べ き で は あ る ま い か 。 一 冊 の 書 物 で 三 百 九 十 八 版 だ の 、 い や 三 ︹ 百 発 版 ︺ 以 413(83-3-147) ▲ 漢 文 ▲ 国 文 ▲ 算 術 ⋮ 一 二 二 版 ⋮ 一 〇 五 版 ⋮ 九 四 版 ▲ 三 角 法 ▲ 代 数 初 歩 ⋮ 一 三 〇 版 ⋮ 一 六 五 版 ▲ 代 数 ︵ 下 ︶ ⋮ 三 〇 四 版 ▲ 代 数 ︵ 上 ︶ ⋮ 三 九 八 版 ▲ 幾 何 初 歩 ▲ 幾 何 ︵ 続 ︶ ⋮ 九 八 版 ⋮ 五 九 版 ▲ 幾 何 ︵ 正 ︶ ⋮ 三 二 六 版 ︹ 今 日 い う ﹁ 版 ﹂ と ﹁ 刷 ﹂ を 合 わ せ た 数 字 で あ る 。 以 下 同 様 ︺ 方 叢 藤 書 森 ﹂ が が 、 、 ど 昭 れ 和 ほ 一 ど 〇 す 年 ご ま い で ﹁ の 神 二 様 五 ﹂ 年 か 間 に に 関 、 し ど て れ 、 だ 昭 け 和 版 一 ︵ 〇 刷 年 ︶ の を 読 重 売 ね 新 た 聞 か は の 、 数 上 字 記 を 明 挙 治 げ 四 て 三 い 年 る97 ﹃ 。︶ 幾 何 学 ﹄ に 始 ま る ﹁ へ 大 正 六 年 に は 受 験 生 向 け の 月 刊 雑 誌 ﹁ へ 方 ﹂ を 刊 し 、 受 験 の 神 様 ﹂ と 呼 ば れ る よ う に な る 。 三 八 年 、 震 の 中 学 入 学 は 明 治 四 一 年 、 徳 ・ 光 の 中 学 入 学 は 明 治 四 三 年 ︶ 。 大 正 三 年 に 受 験 予 備 が ベ ス ト セ ラ ー と な る 。 梅 謙 次 郎 の 子 供 た ち の 家 教 師 と な っ た の は 、 こ の 前 後 の こ と で あ ろ ﹁ う 日 ︵ 土 緑 講 の 習 中 会 学 入 ﹂ 学 を 開 は 講96 明 治 、︶ 論 説 仙 台 の 二 高 に 進 ん だ が ︵ 明 治 四 一 年 九 月 入 学 ︶ 、 不 良 学 生 で あ っ た 彼 の 家 教 師 を 務 め た の は 五 島 慶 太 で あ っ た ︶︶ 。 男 ・ 周 ︵ 明 治 二 三 年 八 月 生 ︶ も 、 梅 謙 次 郎 の 長 男 ・ 緑 や 二 男 ・ 震 と 同 様 、 東 京 高 師 附 属 中 学 か ら ︵ 東 京 の 一 高 で は な く ︶ か か わ ら ず 、 な か な か ど う し て 、 受 験 の 神 様 ﹂ が 二 人 も 出 入 り す る 英 才 教 育 の 家 で あ る ︵ ち な み に 、 富 井 政 章 の 長 四 ∼ 大 正 元 年 、 震 は 大 正 二 ∼ 三 年 、 徳 は 大 正 四 ∼ 五 年 、 光 は 大 正 四 年 ︶ 、 謙 次 郎 ・ カ ネ 夫 婦 の ﹁ 放 任 主 義 ﹂ の 言 葉 に も 佐 川 が 受 験 指 導 を 行 っ た 梅 謙 次 郎 の 四 人 の 男 子 の 高 受 験 は 、 い ず れ も 謙 次 郎 の 死 去 後 で あ る が ︵ 緑 の 受 験 は 明 治 四 ギ ス ﹂ 同 人 の 俳 人 ・ 佐 川 雨 人 と し て も 知 ら れ る 。 昭 和 四 三 年 一 月 二 六 日 没 。 享 年 八 九 歳 。 〇 年 二 月 の 空 襲 で す る 。 そ の 後 、 同 舎 と 自 宅 を 失 っ た 佐 川 は 、 三 月 は 、 正 則 英 語 学 を し の ぐ 名 声 を 博 す る が 、 昭 和 一 九 年 英 語 教 育 に 対 す る 軍 部 の 圧 力 で 廃 い し て 勢 い に 翳 り が 生 じ 、 大 正 八 年 四 月 佐 川 は 斉 藤 と 袂 を 徳 ・ 光 の 入 学 は 佐 川 の 退 職 後 ︵ 明 治 四 一 年 ・ 四 三 年 ︶ で あ る 。 そ の 後 、 正 則 英 語 学 江 に 帰 か 郷 ち 。 、 戦 翌 後 九 は 年 島 七 根 月 大 東 学 京 の ・ 英 神 は 文 田 、 学 三 斉 の 崎 藤 講 町 秀 師 に 三 等 日 郎 を 進 の 務 英 強 め 語 烈 た 学 な 。 個 ホ 、 を 性 ト 翌 設 も ト 二 立 災 で あ る ︶ 。 な お 、 梅 謙 次 郎 の 子 弟 の う ち 、 明 治 三 八 年 高 師 附 属 中 学 入 学 の 緑 は 、 佐 川 の 在 職 期 間 と 一 年 重 な る が 、 震 ・ 月 斉 藤 秀 三 郎 の 正 則 英 語 学 の 英 語 講 師 に 転 ず る ︵ こ れ ま た 藤 森 良 蔵 が 正 則 英 語 学 の 数 学 講 師 に 就 任 し た の と 同 時 期 東 京 物 理 学 卒 業 と 同 年 ︶ 東 京 高 等 師 範 学 明 治 一 一 年 一 二 月 二 九 日 旧 江 藩 士 ・ 佐 川 の 内 専 蔵 修 之 科 進 を の 卒 長 業99 男 。︶ に そ 生 の ま 後 れ は た 母 彼 は の 、 附 属 江 中 中 学 学 の か 教 ら 員 、 と 明 な 治 る 三 が 六 、 年 明 ︵ 治 藤 三 森 九 良 年 蔵 一 の の ち ゃ 江 ん 出 が 身 あ の り 、 、 こ 四 れ 人 ま と た も ﹁ 私 受 が 験 高 の 神 進 様 学 ﹂ へ 佐 ︵ 川 今 春 な 水 ら ︵ さ さ し が ず わ め ・ 大 は 学 る 進 み 学 ︶ ︶ で の あ コ る98 ー 。︶ チ 役 を 承 っ た ﹂ と 語 る の は 、 梅 夫 婦 と 同 郷 だ が 、 梅 家 の 子 弟 の 家 4 佐 川 春 水 教 師 を 務 め た の は 、 数 学 の 藤 森 良 蔵 だ け で は な い 。 英 語 に 関 し て 、 梅 先 生 に は 四 人 の 坊 (法政研究 83-3-148)414 梅謙次郎の子供たち(七戸) も っ と も 、 同 年 ︵ 明 治 四 四 年 ︶ 八 月 二 五 日 に 執 り 行 わ れ た 謙 次 郎 の 一 周 忌 に 関 す る 法 律 新 聞 の 記 事 で は 、 カ ネ の 年 齢 と し て い る 点 も 気 に な る 。 と し て い る の は 、 い か な る 理 由 に 基 づ く 誤 解 な の だ ろ う か 。 明 治 元 年 生 ま れ の カ ネ の 年 齢 を 、 干 支 が 一 回 り 若 い 三 二 歳 こ の 記 事 で は 、 四 人 の 男 児 の う ち 、 長 兄 ・ 緑 と 末 弟 ・ 光 の 名 前 が な ぜ か 落 ち て い る 。 一 方 、 母 カ ネ を 謙 次 郎 の ﹁ 後 妻 ﹂ 415(83-3-149) 墓 参 を 缺 さ ず 故 博 士 の 墓 前 に 額 づ き て は つ く 〴 〵 と 其 の 一 日 の 出 来 事 を 告 ぐ る を 常 と さ る ゝ と か り し が 博 士 が 没 後 以 来 は 尚 一 層 遺 児 を し て 博 士 の 名 を 汚 さ ヽ ら し め ん も の と 其 の 教 育 に 朝 な 夕 な 心 を 砕 き つ ヽ 日 に 一 度 は 必 ら ず 衛 門 の 三 女 に 生 れ 故 博 士 が 後 妻 と し て 入 嫁 し た る 以 来 継 し き 間 の 長 男 震 氏 ︵ 十 五 ︶ 次 男 緑 氏 ︵ 十 四 ︶ を 愛 育 し 良 妻 賢 母 の 声 高 か 次 郎 氏 の 未 亡 人 カ ネ 子 ︵ 三 二 ︶ 夫 人 な り と の 誰 れ 言 ふ と な く 伝 は り て 今 は 誰 れ 知 ら ぬ も の な し 夫 人 は 東 京 府 士 族 本 理 右 ︹ 左 ︺ が 正 あ 翌 九 雨 る 明 1 年 の 。 治 に 日 四 謙 居 風 四 次 住 の 年 郎 ︶ 日 四 妻 が の 月 ・ 住 厭 ひ 二 カ ん な 二 ネ だ く 日 ︵ 場 小 法 兼 所 石 律 子 と 川 新 ︶ 同 音 聞 一 羽 七 番 護 国 一 地 寺 〇 で に 号 あ 墓 二 る 参 頁 。 す に る は 人 、 品 賎 梅 し 夫 か 人 ら の ぬ 一 日 婦 参 人 ╱ あ 故 り 博 是 士 れ を ぞ 悼 小 石 む 川 余 高 り 田 ﹂ 老 と 題 町 す 十 七 る 、 次 故 の 法 よ 学 う 博 な 士 記 梅 事 謙 授 時 代 に 居 住 ︶ ・ 本 間 久 雄 ︵ 英 文 学 者 。 大 正 九 年 早 稲 田 大 学 講 師 ・ 早 稲 田 文 学 ﹂ 主 幹 時 代 に 居 住 ︶ ・ 内 田 百 転 居 先 の ﹁ 小 石 川 区 高 田 老 町 一 七 番 地 ﹂ は 、 後 の 大 正 期 に 高 木 俊 雄 ︵ 日 本 神 話 学 者 。 大 正 二 年 東 京 高 等 ︵ 師 作 範 家 学 。 大 教 払 っ て 、 雑 司 が 谷 に 移 っ た 。︶ 明 治 四 三 年 八 月 二 五 日 の 謙 次 郎 の 死 去 か ら 二 か 月 後 の 一 〇 月 三 〇 日 、 妻 カ ネ と 子 供 た ち は 、 小 石 川 林 町 の 邸 宅 を 引 き 二 ︶ 家 族 論 説 小 供 は 緑 ︵ 十 八 ︶ に 、 震 ︵ 十 五 ︶ に 、 徳 ︵ 十 四 ︶ に 、 光 ︵ 十 四 ︶ の 何 れ も 男 で 御 座 い ま す 、 是 等 に 対 し て 主 人 は 、 そ の 晩 酌 の な お 、 カ ネ に よ れ ば 、 亡 夫 ・ 謙 次 郎 も ま た 、 生 前 、 子 供 た ち に 、 自 の 若 い 頃 の 話 を し て 聞 か せ て い た と い う 。︶ れ を 語 る 至 誠 は 之 れ を 聞 く 遺 児 の 胸 に 如 何 に 響 く 事 で あ ら う か 。 志 伝 中 の 人 だ け あ っ て 、 波 乱 曲 折 が 多 い 。 赤 の 他 人 で さ へ 故 博 士 の 生 立 を 聞 い て は 奮 起 せ ざ る を 得 な い 程 な の に 、 其 未 亡 人 が 之 街 路 に 夜 店 を 出 し て 手 拭 足 袋 を 売 っ た 事 や 、 夏 の 夜 に 蚊 帳 が な く て 蒲 団 を 頭 か ら 冠 っ て 蒸 暑 い 思 ひ を し な が ら 寝 た 苦 心 な ど 、 立 幼 い 博 士 が 令 兄 ︹ 錦 之 丞 ︺ の 学 ぶ 中 庸 一 巻 を 側 で 聴 聞 し 、 小 坊 は も う 教 は ら ん で も よ い ﹂ と 云 っ て 人 々 を 驚 か し た 事 や 、 東 京 の 頭 に 置 い て 幼 少 の 時 か ら 臨 終 迄 の 故 博 士 生 涯 の 奮 闘 の 歴 を 折 に ふ れ 時 に ふ れ 遺 子 に 話 し 聞 せ て 、 只 管 其 教 養 指 導 に 努 め て ゐ る 。 偲 ぶ 家 宝 と な っ て ゐ る 。 尚 ほ 未 亡 人 は 稀 に 見 る 意 志 強 き 女 夫 で 、 自 ら 故 博 士 小 伝 を 書 き 綴 り ﹁ お さ ま は ﹂ と 懐 か し い 言 葉 を ら れ ﹁ 世 の 中 は 夢 ば か り な る も の を か し 夢 に 夢 見 る 夢 の 世 の 中 ﹂ 精 神 一 到 何 事 か 成 ら ざ ら ん ﹂ の 二 幅 の 遺 墨 は ま ざ 〳 〵 と 故 人 を ⋮ ⋮ 小 石 川 雑 司 ヶ 谷 の 邸 で 一 周 忌 、 指 ヶ 谷 の 邸 で 三 周 忌 を 営 み 、 故 人 の 英 姿 は 岡 田 三 郎 助 画 伯 の 霊 筆 に 依 っ て 梅 家 の 壁 間 に 掲 げ 治 四 五 年 八 月 二 五 日 護 国 寺 で の 三 回 忌 は 、 一 家 が 指 ヶ 谷 ︵ 現 在 の 白 山 一 丁 目 ︶ に 住 ん で い た 頃 の こ と と す る 。 を 明 治 四 四 年 秋 と し て い る が 、 読 売 新 聞 大 正 三 年 二 月 二 七 日 朝 刊 記 事 ﹁ 若 き 未 亡 人 ︵ 九 ︶ 梅 博 士 未 亡 人 か ね 子 ﹂ は 、 明 寺 と 春 日 通 り の 間 の 谷 町 ︶ に 転 居 し た 。 梅 震 ‖ 本 ︹ 梅 ︺ 光 ︵ 編 著 ︶ ﹃ 追 想 梅 徳 を 偲 び て ﹄ の 年 譜 は 、 転 居 の 時 期 そ の 後 、 一 家 は 、 カ ネ の 毎 日 の 墓 参 の た め 、 一 家 は 、 謙 次 郎 の 墓 所 で あ る 護 国 寺 に ほ ど 近 い 小 石 川 大 塚 坂 下 町 ︵ 護 国 散 会 し た る が ⋮ ⋮ ︹ 後 略 ︺ ⋮ ⋮ 男 震 ︵ 十 六 ︶ 三 男 徳 ︵ 十 五 ︶ 四 男 光 ︵ 十 五 ︶ の 各 自 は 同 焼 香 し 親 族 其 他 の 参 詣 者 順 次 に 行 ひ て 式 を 終 へ に 墓 前 に 参 詣 し て 一 同 ︹ 中 略 ︺ ⋮ ⋮ 未 亡 人 カ ネ 子 女 ︵ 四 十 四 ︶ 静 如 か に 起 っ て 自 ら 亡 き 尊 霊 に 焼 香 礼 拝 し 次 で 忘 れ 形 見 の 嗣 子 緑 氏 ︵ 十 九 ︶ を 先 き に 次 去 る 廿 五 日 は 故 法 学 博 士 梅 謙 次 郎 氏 没 後 恰 も 一 周 忌 に 相 当 す る な り 同 日 午 前 九 時 音 羽 護 国 寺 に 於 て 其 追 悼 法 会 を 営 ま れ た り ⋮ ⋮ や 男 児 の 名 は 正 し く 記 載 さ れ て い る 。︶ (法政研究 83-3-150)416 梅謙次郎の子供たち(七戸) 徳 郎 ︺ 、 奥 田 ︹ 義 人 ︺ 、 寺 尾 ︹ 亨 ︺ 、 平 沼 ︹ 騏 一 郎 ︺ 、 美 濃 部 ︹ 達 吉 ︺ 、 富 井 ︹ 政 章 ︺ 、 金 井 ︹ ︺ 、 岸 ︹ 清 一 ︺ 等 の 諸 博 士 、 早 川 千 吉 子 供 が 生 命 で 暮 ら し て 居 れ る ﹂ と 語 ら れ ま し た 。 昨 日 午 後 六 時 か ら は 上 野 精 養 軒 で 穂 積 ︹ 陳 重 ︺ 、 横 田 ︹ 国 臣 ︺ 両 男 爵 、 一 木 ︹ 喜 れ た の で す 。 処 が 幸 に も 子 供 達 が 揃 ひ も 揃 っ て 恥 ず か し く な い だ け の 人 物 に 出 来 た や う な の で 大 層 喜 ん で 居 り ま す 今 で は も う 只 △ 心 配 さ れ た や う で す 余 り 心 配 し て は い け な い 放 任 主 義 を と っ た が よ い と 親 戚 一 同 が し き り に 申 し た の で 夫 人 も そ の 気 に な ら 417(83-3-151) は 子 供 の 事 で す 。 博 士 が 歿 せ ら れ た 時 子 供 達 は ま だ 小 さ か っ た の で 、 如 何 に 教 育 し た ら よ い か と い ふ 事 で 大 守 の や う に 寺 の 裏 に 住 ん で 居 る の を 見 て も そ の 淋 し い 悲 し い 胸 中 が 察 せ ら れ ま す が 、 夫 人 に は 猶 も 一 つ 大 き な 苦 労 が あ る 。 そ れ の 親 戚 知 己 集 り 共 に 故 人 追 憶 の 談 に 耽 っ た の ︹ で ︺ 夫 人 は 今 の 如 く 新 し き 涙 に く れ て 居 ら れ ま し た 。 親 戚 の 一 人 は ﹁ 夫 人 が 墓 高 等 学 に 勉 学 中 の 次 男 震 氏 ︵ 二 一 ︶ 三 男 光 氏 ︵ 二 〇 ︶ 及 び 矢 張 二 高 入 学 準 備 中 の 四 男 徳 氏 ︵ 二 〇 ︶ の 四 子 打 ち 揃 っ た 外 に 数 多 △ 護 国 寺 裏 の 大 塚 坂 下 町 九 十 一 番 地 の 樹 立 の 陰 に 居 を 定 め て 居 ら れ ま す 。 当 日 は 帝 大 文 科 に 通 ふ 長 男 緑 氏 ︵ 二 三 ︶ 仙 台 の 第 二 参 に 利 な 為 と て 今 は げ て 昨 ︹ 四 月 ︺ 五 日 午 後 三 時 よ り 墓 所 な る 音 羽 護 国 寺 に 於 て 遺 族 に よ り て 法 要 を 営 ま れ ま し た 。 兼 子 未 亡 人 ︵ 四 九 ︶ は 毎 日 の 墓 民 法 の 泰 斗 法 学 博 士 梅 謙 次 郎 氏 が 朝 鮮 で 逝 去 さ れ て か ら 本 年 は 恰 好 七 回 年 に 相 当 し ま す が 、 命 日 八 月 廿 五 日 は 酷 暑 の 頃 と て 繰 上 う に 伝 え て い る ︵︶ な お 、 記 事 中 、 四 人 の 男 児 の 通 っ た 高 は 、 実 際 に は 、 緑 ・ 震 が 二 高 、 徳 ・ 光 が 三 高 で あ る ︶ 。 一 方 、 そ の 後 の 大 正 六 年 、 命 日 の 酷 暑 を 避 け て 四 月 五 日 に 執 り 行 わ れ た 七 回 忌 の 模 様 に 関 し て は 、 読 売 新 聞 が 次 の よ ふ ッ つ り と 止 め て 仕 舞 ひ 、 今 日 ま で 其 通 り に 致 し て 参 り ま し た 。 時 代 、 人 並 勝 れ て の 煙 草 好 き で し た が 、 勉 強 す る に は 之 が 大 層 脳 に 悪 い と 云 ふ こ と を 、 自 身 で 悟 り ま し た の で 、 十 八 歳 の 時 か ら の で 、 頭 か ら 蒲 団 を 冠 っ て 寝 た こ と も 一 時 あ っ た 、 夫 故 お 前 達 も そ の 積 り で 勉 強 し な け れ ば な ら な い と 善 く 申 し ま し た 、 又 書 生 夜 書 物 を 読 み た い の は 山 々 だ が 、 油 が 無 い の で 夫 が 出 来 ず 、 其 侭 に し て 寝 る の が 、 如 何 に も 残 念 で な ら な ん だ 、 又 蚊 帳 が 無 い 折 に 自 の 身 上 話 を し て 聞 せ ま し た 、 夫 は お 前 方 は 斯 う し て 順 当 に 勉 強 が 出 来 て 行 く け れ ど 、 私 の 書 生 時 代 は 大 層 乏 で 有 っ た 、 論 説 科 大 学 法 律 学 科 仏 蘭 西 部 卒 業 で 、 横 田 秀 雄 ・ 城 数 馬 ・ 水 町 袈 裟 六 ら 司 法 省 法 学 か ら の 編 入 組 ︵ 正 則 科 第 三 期 生 ︶ と 同 一 方 、 平 兵 衛 の 長 男 ・ 太 郎 は 、 慶 応 四 年 四 月 二 三 日 ︵ 一 八 六 八 年 五 月 一 四 日 ︶ 生 ま れ 、 明 治 二 一 年 七 月 帝 国 大 学 法 嗣 子 に 迎 え ら れ た 人 で あ る か ら 、 梅 家 ・ 本 家 の 郷 里 ・ 江 と は 縁 が な い 。 板 倉 家 は 山 梨 県 の 平 民 の 家 で あ り 、 板 倉 太 郎 の ・ 平 兵 衛 は 、 千 葉 県 平 民 ・ 大 久 保 吉 右 衛 門 の 二 男 で 、 板 倉 家 に 養 1 ︶ 板 倉 太 郎 契 機 等 に 関 し て は 、 見 当 が つ か な い 。 一 方 、 板 倉 家 に 関 し て は 、 当 主 ・ 太 郎 ほ か 家 族 に 関 す る 情 報 は 入 手 で き る が 、 し か し 、 梅 家 と 板 倉 家 を 結 び つ け る 家 に 嫁 い だ 事 情 も 不 明 で あ る 。 大 方 の ご 教 示 を 賜 り た い 。 こ の う ち 、 矢 ヶ 崎 家 に 関 し て は 、 ま っ た く 手 が か り を 得 ら れ な い 。 大 正 三 年 に 矢 ヶ 崎 家 に 入 っ た 後 、 大 正 五 年 に 板 倉 の 女 性 ︵ 不 詳 ︶ と 養 子 縁 組 し 、 二 年 後 の 大 正 五 年 六 月 二 日 板 倉 太 郎 の 長 男 ・ 操 一 と 結 婚 し た 。 東 京 府 立 第 一 高 等 女 学 卒 業 。 そ の 後 、 二 二 歳 と な っ た 大 正 三 年 一 一 月 一 八 日 養 家 ︵ 戸 籍 上 は 実 家 ︶ で あ る 矢 ヶ 崎 家 詳 女 独 ︶ 身 そ 、 と 謙 次 2 を の 板 し て 郎 通 後 倉 出 ・ カ し 、 カ ネ た 彼 太 生 届 ネ 養 徳 女 郎 が 夫 子 と は の さ 婦 ︵ 起 、 二 れ の 長 居 震 女 、 第 女 を の で 謙 同 一 ︶ ・ 共 一 子 梅 に 家 次 夫 婦 ・ し や 郎 枝 た 徳 の の 梅 。 と 養 許 枝 で ︵ 昭 一 子 和 緒 と 養 明 育 治 三 に な さ 二 〇 、 っ 年 大 た れ 五 三 正 梅 て 年 い 三 月 一 子 た 月 ︹ 二 と 日 年 と よ 二 う 五 不 四 も で 日 詳 月 に あ 生 ︺ 豊 、 る ︶ 死 多 謙 が は 去 摩 次 、 、 。 郡 郎 そ す 享 和 の の で 年 田 葬 後 に 八 堀 儀 、 触 六 村 の れ 歳 ︵ 際 カ ネ た 。 現 に と よ 在 遺 の う の 族 間 に 杉 と に 、 並 し 養 矢 区 て 和 参 子 ヶ 泉 列 縁 崎 町 し 組 鶴 ︶ て が 吉 さ ・ に い 転 る れ い ︵ し 居 。 年 夫 し 月 婦 、 日 の 終 不 長 生 を 眺 め た 時 夫 人 は 又 も や 云 ひ 知 れ ぬ 涙 に 咽 ば れ た の で し た 。 郎 氏 等 の 朝 野 の 名 士 に よ っ て 盛 な る 追 悼 会 が 開 か れ 、 四 人 の 子 息 は 打 ち 揃 っ て 其 処 に 出 席 さ れ ま し た が 、 立 派 に 成 長 し た そ の 姿 (法政研究 83-3-152)418 梅謙次郎の子供たち(七戸) ③ ② ① 二 男 ・ 長 女 ・ 雄 子 長 男 ・ 操 一 明 治 二 八 年 六 月 生 ⋮ ⋮ ⋮ 陸 軍 士 官 学 明 治 二 六 年 一 月 生 ⋮ ⋮ ⋮ 東 京 府 立 第 三 高 等 女 学 明 治 二 四 年 一 二 月 生 ⋮ ⋮ 東 京 高 等 工 業 学 卒 。 田 代 英 作 ︵ 静 岡 ︶ 弟 ・ 訂 ︵ 工 学 士 ︶ と 結 婚 築 技 師 。 妻 ・ 梅 枝 と の 間 に は 、 三 男 三 女 が 生 ま れ た 。 卒 。 陸 軍 歩 兵 中 佐 。 加 藤 八 太 郎 ︵ 東 京 ︶ 五 女 ・ 寿 子 と 結 婚 。 卒 。 一 方 、 彼 ら 夫 婦 の 子 は 、 実 子 九 人 ︵ 五 男 四 女 ︶ ・ 養 子 一 人 ︵ 一 女 ︶ の 合 計 一 〇 人 で あ る 。 419(83-3-153) 板 倉 太 郎 の 妻 ・ 彦 治 ︵ 彦 子 。 慶 応 三 年 四 月 生 ︶ も 山 梨 県 人 で あ り 、 梅 家 ・ 本 家 の 郷 里 ・ 江 と は 縁 が な い 。 2 ︶ 板 倉 家 の 人 び と 一 五 日 午 後 二 時 東 京 ・ 品 川 区 上 大 崎 の 自 宅 で 死 去 。 享 年 七 三 歳 。︶ ︵ 満 六 二 歳 ︶ 退 官 。 退 官 後 は 早 稲 田 大 学 専 門 部 教 授 等 を 務 め る 。 晩 年 は 脳 血 に 倒 れ 病 臥 に あ っ た が 、 昭 和 一 五 年 六 月 年 一 月 判 事 ︵ 大 審 院 部 長 ︶ 、 大 正 一 四 年 会 計 検 査 官 長 会 裁 判 所 裁 判 官 、 昭 和 六 年 四 月 二 三 日 大 審 院 刑 事 第 一 部 長 停 年 中 華 民 国 政 府 に 招 聘 さ れ 北 京 在 勤 ︵ ∼ 大 正 一 一 年 四 月 ︶ 、 大 正 一 一 年 六 月 会 計 検 査 官 長 会 裁 判 所 予 備 裁 判 官 、 大 正 一 三 岩 田 宙 造 ら 一 三 名 ︶ 、 大 正 七 年 一 月 八 日 判 事 検 事 登 用 第 二 回 試 験 委 員 、 大 正 八 年 五 月 二 五 日 岩 田 一 郎 ︵ 判 事 ︶ と と も に 正 五 年 一 月 二 〇 日 判 事 検 事 登 用 第 二 回 試 験 臨 時 委 員 、 四 月 法 学 博 士 ︵ 博 士 会 推 薦 。 他 に 谷 野 格 ・ 岡 義 正 ・ 泉 二 新 熊 ・ 治 四 四 年 一 月 一 八 日 大 審 院 特 別 刑 事 部 判 決 ︶ の 検 事 、 大 正 四 年 六 月 判 事 検 事 登 用 第 一 回 試 験 委 員 ・ 弁 護 士 試 験 委 員 、 大 な お 、 梅 謙 次 郎 の 逝 去 後 の 履 歴 に つ い て も 触 れ て お く と 、 明 治 四 四 年 室 致 ・ 平 沼 騏 一 郎 と と も に 大 逆 事 件 判 決 ︵ 明 審 院 判 事 、 明 治 四 〇 年 一 〇 月 大 審 院 検 事 と い う キ ャ リ ア で あ り 、 梅 謙 次 郎 と の 接 点 は 見 出 せ な い 。 判 事 、 一 二 月 東 京 控 訴 院 判 事 、 三 一 年 三 月 函 館 控 訴 院 判 事 、 三 二 年 四 月 同 部 長 、 三 六 年 一 月 東 京 控 訴 院 検 事 、 一 二 月 大 芝 各 裁 判 所 判 事 を 経 て 、 明 治 二 八 年 九 月 東 京 地 方 裁 判 所 判 事 、 一 〇 月 千 葉 地 方 裁 判 所 部 長 、 三 〇 年 一 月 東 京 地 方 裁 判 所 さ ら に 、 卒 業 後 の 経 歴 は 、 明 治 二 一 年 一 二 月 判 事 試 補 ︵ 甲 府 始 審 裁 判 所 詰 ︶ 、 明 治 二 七 年 四 月 以 降 前 橋 ・ 京 橋 ・ 麹 町 ・ 年 卒 業 で あ る が 、 し か し 、 彼 自 身 は 編 入 組 で は な い の で 、 司 法 省 法 学 の 筋 か ら は 、 梅 謙 次 郎 と の 関 係 は 見 出 せ な い 。 論 説 出 発 の 前 に 、 あ る 日 、 子 供 の 話 が 出 ま し た 。 宅 の 子 供 は 、 長 男 が 緑 ︵ 十 八 ︶ 次 男 が 震 ︵ 十 五 ︶ 三 男 が 徳 ︵ 十 四 ︶ 四 男 が 光 ︵ 十 三 ︶ そ の 五 年 後 、 謙 次 郎 が 死 去 す る 明 治 四 三 年 の 夏 、 渡 韓 の 前 に 謙 次 郎 は 、 緑 の 進 路 に つ い て カ ネ と 話 を し て い る 。︶ 家 を 廃 家 し て 養 子 ・ 梅 子 の 女 婿 と な す た め 謙 次 郎 と 養 子 縁 組 。 た ク 小 ニ 謙 学 夫 次 3 婦 郎 は の ・ 婿 調 長 カ 養 べ 男 ネ 子 き と 夫 ︵ れ し 婦 長 て て の 男 い 出 第 ︶ ・ な 生 二 緑 い 届 子 が が ・ 、 さ 緑 中 れ ︵ 学 た 明 は が 治 東 、 二 京 梅 六 高 枝 年 等 と 三 師 違 月 範 い 七 学 、 日 謙 生 附 次 ︶ 属 郎 は 中 ・ 、 学 カ 先 ネ に 。 夫 述 中 婦 べ 学 の た 入 許 よ 学 で う 直 育 に 前 て 、 の ら カ 明 れ ネ 治 た の 三 。 八 明 母 年 治 で 三 三 あ 月 二 る 二 年 七 四 本 日 月 理 に に 左 、 入 衛 学 門 本 し ・ に な っ た ろ う 。 そ の 後 、 梅 子 は 、 海 軍 少 佐 ︵ の ち 大 佐 ︶ 鈴 木 光 信 ︵ 府 立 四 中 卒 、 海 軍 兵 学 四 六 期 ︶ と 結 婚 し た 。︶ い と こ と 結 婚 し て し ま い 、 梅 子 は 養 子 縁 組 を 解 消 し て 板 倉 家 に 戻 っ た 。 梅 家 と 板 倉 家 の 関 係 は 、 お そ ら く 気 ま ず い も の 歳 ︶ 謙 次 郎 の 養 子 と な っ て い た 。 と こ ろ が 、 操 一 ・ 梅 枝 の 結 婚 か ら 五 年 後 の 大 正 一 〇 年 ︵ 梅 子 一 九 歳 ︶ 、 緑 は 一 方 、 板 倉 家 の 二 女 ・ 梅 子 は 、 ゆ く ゆ く は 梅 家 の 長 兄 ・ 緑 と 結 婚 す る こ と を 前 提 に 、 明 治 三 八 年 三 月 一 三 日 ︵ 本 当 家 時 の 三 大 正 五 年 の 矢 ヶ 崎 ︵ 梅 ︶ 梅 枝 と 板 倉 家 の 長 男 ・ 操 一 が 結 婚 す る に 至 っ た 事 情 に つ い て は 、 調 査 し き れ て い な い 。 ⑩ ⑨ ⑧ ⑦ ⑥ ⑤ ④ 養 子 ・ 綾 子 四 女 ・ 寶 子 三 女 ・ 妙 子 五 男 ・ 珪 二 女 ・ 梅 子 四 男 ・ 泰 三 男 ・ 駿 明 治 四 五 年 二 月 生 ⋮ ⋮ ⋮ 鴻 巣 幸 太 郎 ︵ 千 葉 ︶ 庶 子 。 倉 本 統 一 ︵ 山 梨 。 ④ 参 照 ︶ と 結 婚 。 明 治 四 〇 年 三 月 生 ⋮ ⋮ ⋮ 聖 心 女 子 学 院 卒 。 相 川 敏 夫 ︵ 医 学 博 士 ︶ と 結 婚 。 明 治 三 八 年 五 月 生 ⋮ ⋮ ⋮ 聖 心 女 子 学 院 卒 。 子 安 平 司 ︵ 千 葉 ︶ 弟 ・ 豊 と 結 婚 明 治 三 六 年 九 月 生 ⋮ ⋮ ⋮ 東 京 高 等 工 業 学 明 治 三 五 年 一 月 生 ⋮ ⋮ ⋮ 東 京 府 立 第 三 高 等 女 学 明 治 三 二 年 一 月 生 ⋮ ⋮ ⋮ 法 政 大 学 卒 。 大 竹 治 吉 ︵ 長 野 ︶ 三 女 ・ さ い と 結 婚 。 明 治 三 〇 年 三 月 生 ⋮ ⋮ ⋮ 東 京 帝 大 医 学 部 卒 。 海 軍 軍 医 中 佐 。 倉 本 統 一 ︵ 山 梨 。 ⑩ 参 照 ︶ 妹 ・ ヤ チ ヨ と 結 婚 。 卒 。 清 水 組 勤 務 。 千 葉 真 一 ︵ 医 学 博 士 ︶ 長 女 ・ 初 枝 と 結 婚 。 卒 。 海 軍 少 佐 ・ 鈴 木 光 信 ︵ 東 京 ︶ と 結 婚 。 家 。 (法政研究 83-3-154)420 梅謙次郎の子供たち(七戸) る が 、 い ず れ に せ よ 、 緑 と の 結 婚 を 前 提 に 梅 子 を 養 子 に 入 れ て い た 板 倉 家 に 対 す る 背 信 行 為 で あ る 。 そ の 結 果 、 梅 子 し れ な い 。 そ れ が 、 い と こ と の 間 の 自 由 恋 愛 に 基 づ く も の か 、 そ れ と も 梅 家 ・ 本 家 の 意 向 に 基 づ く も の か は 不 明 で あ 実 母 カ ネ に 訂 正 し た う え 、 三 日 後 の 二 月 二 四 日 、 い と こ ︵ ク ニ の 孫 。 詳 細 不 詳 ︶ と 結 婚 し た こ と と 関 係 し て い る の か も 彼 に 起 き た 異 変 は 、 大 正 一 〇 年 二 月 二 一 日 ︵ 緑 が 二 八 歳 に な る 直 前 ︶ 、 戸 籍 の 緑 の 母 に 関 す る 記 載 を 、 祖 母 ク ニ か ら 421(83-3-155) 大 学 を 中 退 し た よ う で あ る 。 に 名 前 が あ る の を 最 後 に 、 在 籍 者 名 簿 に も 卒 業 者 名 簿 に も 氏 名 が 登 場 し な く な る 。︶ ど う や ら 彼 は 、 大 正 一 〇 年 前 後 に 、 ろ が 、 大 学 に 入 っ て か ら 再 び 変 調 を 来 し た よ う で 、 本 来 な ら 大 正 七 年 卒 業 の と こ ろ 、 大 正 九 年 九 月 段 階 で の 在 籍 者 名 簿 中 学 時 代 と 異 な り 順 調 に 三 年 で 高 家 し て い る 。 こ れ は 、 伯 ・ 錦 之 丞 、 を 祖 卒 業 ・ し 薫 た の 緑 死 は 去 、︶ に 大 よ 正 り 四 絶 年 家 九 と 月 な 、 っ 東 て 京 い 帝 た 国 本 大 家 学 を 文 嗣 科 が 大 せ 学 る 文 趣 学 旨 科 の に よ 入 う 学 で す あ る る 。︶ 。 と こ 督 相 続 し て 戸 主 と な っ た の は 次 弟 ・ 震 で 、 一 方 、 長 兄 ・ 緑 は 、 二 高 に 入 学 が 決 ま っ た 大 正 元 年 九 月 六 日 に 震 の 家 か ら な お 、 緑 は 、 明 治 四 三 年 の 謙 次 郎 の 葬 儀 の 喪 主 や 、 追 悼 会 ・ 一 周 忌 ・ 三 周 忌 の 遺 族 代 表 を 務 め て い た が 、 謙 次 郎 を 家 お そ ら く 成 績 不 良 が 原 因 だ ろ う 。 し た か 、 あ る い は 高 入 試 で 失 敗 し て 浪 人 し た か で あ る 。 地 元 ・ 東 京 の 第 一 高 等 学 ︵ 一 高 ︶ に 進 学 し な か っ た の も 、 結 局 、 緑 は 、 二 年 後 の 大 正 元 年 九 月 、 仙 台 の 第 二 高 等 学 ︵ 二 高 ︶ に 入 学 す る 。︶ こ の ブ ラ ン ク は 、 中 学 で さ ら に 留 年 謙 次 郎 や 母 ・ カ ネ の い う ﹁ 放 任 主 義 ﹂ と は 、 緑 の 学 業 に つ い て 、 世 間 体 を 取 り 繕 う も の な の か も し れ な い 。 緑 は 、 本 来 な ら こ の 年 ︵ 明 治 四 三 年 ︶ の 三 月 に 中 学 を 卒 業 し て い る は ず で あ る か ら 、 一 年 留 年 し た こ と に な る 。 ・ を り ま し た 。 よ 中 学 を 卒 業 す る こ と に な る が 、 嗜 好 は 文 学 ら し い か ら 、 文 科 に 入 学 さ せ た が よ か ら う と い っ て 、 高 等 学 に 入 学 の 話 を し て ︹ 正 し く は ︵ 十 四 ︶ 。 三 男 ・ 徳 と 双 子 で あ る こ と が か ら ず 、 記 者 の 側 で 勝 手 に 直 し た の だ ろ う ︺ と い ふ の で ご ざ い ま す が 、 長 男 は 論 説 ▲ 記 者 は 小 石 川 原 町 の 震 君 の 家 に 就 て 梅 博 士 夫 人 の 談 話 を 聞 い た 、 夫 人 曰 く ﹁ 震 の 兄 も あ り ま す が 、 こ れ は 良 人 の 兄 の 相 続 人 云 々 、 兎 角 順 境 に 生 れ た 児 童 は 惰 弱 に 流 れ る も の で す が 震 君 は 毫 も 其 弊 が 無 い の で 本 の 職 員 会 議 の 結 果 教 育 会 へ 推 薦 し た 次 第 で あ る さ う し て 、 尋 常 一 年 か ら 今 日 ま で 規 律 を 守 る 習 慣 、 厳 正 な る 態 度 が 終 始 一 貫 し て 自 然 と 他 の 衆 生 が 震 君 の 善 行 を 見 習 っ て 居 る 、 ▲ 誠 之 小 学 に 居 る 、 其 長 杉 浦 恂 太 郎 氏 の 談 に 曰 く 、 震 君 は 頗 る 勤 勉 で 厳 粛 で 意 志 が 強 固 で 、 上 級 生 に 附 和 雷 同 す る が や う な こ と が な い 、 君 は 有 名 な る 法 学 博 士 梅 謙 次 郎 氏 で あ る 、 こ れ も 本 郷 教 育 会 の 依 嘱 に 因 り て 在 学 せ る 小 学 よ り 選 出 せ ら れ た 善 行 児 童 で あ る 、 梅 震 君 は 今 本 郷 区 西 片 誠 之 小 学 第 二 学 年 誠 之 小 学 高 等 科 第 二 学 年 梅 震 ● 善 行 児 童 と 其 家 そ の 三 年 前 、 東 京 朝 日 新 聞 明 治 四 〇 年 一 〇 月 一 一 日 朝 刊 に は 、 次 の よ う な 写 真 入 り の 記 事 が あ る 。 得 、 明 治 1 四 ︶ 三 略 年 歴 の 死 か ら 四 日 後 の 八 月 二 九 日 家 督 相 続 届 に よ り 一 四 歳 で 梅 家 の 戸 主 と な っ た 。 光 ︶ と と も に 、 ・ 謙 次 郎 に よ っ て 認 知 さ れ 、 明 治 三 八 年 七 月 一 三 日 の 謙 次 郎 ・ カ ネ の 入 籍 に よ り 、 嫡 出 子 の 地 位 を 取 謙 次 郎 ・ カ ネ 夫 婦 の 第 三 子 ・ 震 ︵ 明 治 二 九 年 二 月 一 四 日 生 ︶ は 、 三 歳 に な っ た 明 治 三 二 年 六 月 二 二 日 、 双 子 の 弟 ︵ 徳 ・ 4 長 男 ︵ 二 男 ︶ ・ 震 出 版 社 の 編 集 者 と な っ た 人 で あ る 。︶ な お 、 梅 謙 次 郎 の 研 究 者 の 取 材 先 で あ る 緑 の 長 男 ・ 醇 は 、 叔 ・ 徳 ︵ 双 子 の 兄 ︶ か ら 正 の 手 ほ ど き を 受 け て 、︶ 後 に そ の 後 の 緑 の 履 歴 等 に つ い て は 、 調 査 し て い な い 。 昭 和 一 二 年 一 月 ︹ 日 不 詳 ︺ 死 去 。 享 年 四 三 歳 。 ︵ 当 時 一 九 歳 ︶ は 、 養 子 縁 組 を 解 消 し て 実 家 に 戻 っ た 。 (法政研究 83-3-156)422 梅謙次郎の子供たち(七戸) 本 人 の 貴 重 な 記 録 と し て 、 平 成 二 四 年 に 復 刊 さ れ て い る ︶ ︶ 。 帰 国 の 翌 昭 和 二 五 年 一 二 月 秋 田 木 材 ︵ 株 ︶ 社 長 に 選 任 さ れ 月 ︶ 後 、 補 筆 の う え ﹃ 戦 後 の 満 洲 四 星 霜 ﹄ 梅 震 、 昭 和 三 三 年 ︶ に ま と め ら れ た ︵ 同 書 は 、 終 戦 後 に 満 州 に 留 ま っ た 日 帰 還 。 敗 戦 後 四 年 間 の 生 活 を 綴 っ た 手 記 は 、 日 本 銀 行 旧 友 会 誌 ﹁ 日 の 友 ﹂ に 連 載 さ れ た ︵ 昭 和 二 九 年 一 一 月 ∼ 三 二 年 二 清 理 ︹ ‖ 清 算 ︺ 事 務 の た め 残 留 し 、 二 一 年 八 月 の 遣 送 で 家 族 が 帰 国 し た 後 も 当 地 に 残 り 、 昭 和 二 四 年 九 月 二 四 日 舞 鶴 に 423(83-3-157) 一 七 年 渡 満 し て 新 京 ︵ 長 春 の 満 州 国 時 代 の 呼 称 ︶ 在 勤 、 一 九 年 六 月 理 事 に 就 任 、 昭 和 二 〇 年 八 月 の 終 戦 後 も 満 洲 中 銀 の 銀 行 に 入 行 、 神 戸 支 店 次 長 ま で 昇 る が 、 昭 和 一 三 年 三 月 満 洲 中 央 銀 行 に 転 じ て 行 営 業 処 経 理 、 翌 一 四 年 東 京 支 店 長 、 大 正 九 年 七 月 大 学 を 卒 業 後 、 同 級 生 の 我 妻 栄 は 大 学 院 に 進 み 、 岸 信 介 と 平 岡 梓 は 農 商 務 省 に 入 省 し た が 、 梅 震 は 日 本 郎 に つ い て 触 れ た 際 に 、 大 学 の 同 級 生 に 梅 の 息 子 が い た ﹂ く ら い 書 い て よ さ そ う な も の だ が ︶ 。 い る が 、 管 見 の 及 ぶ 限 り で は 、 彼 ら の 友 関 係 の 記 録 の 中 に 、 梅 震 の 名 前 を 見 出 す こ と が で き な い ︵ 我 妻 な ら 、 梅 謙 次 本 稿 冒 頭 で も 触 れ た よ う に 、 独 法 科 の 同 級 生 に は 、 我 妻 栄 ・ 岸 信 介 ・ 平 岡 梓 ・ 成 富 信 夫 ・ 三 輪 寿 壮 ・ 山 田 作 之 助 ら が は 、 二 高 で 三 年 ま で 進 級 し て 、 大 正 六 年 九 月 東 京 帝 国 大 学 法 科 大 学 独 逸 法 兼 修 入 学 。︶ 組 ︵ 独 法 文 科 。 四 一 人 ︶ に 小 出 廉 二 が い た が 、 彼 は 翌 年 一 高 の 英 文 科 を 受 け 直 し 二 高 を 中 退 し た 。︶ こ れ に 対 し て 、 梅 震 な お 、 こ の 年 に 二 高 に 入 学 し た 同 級 生 に は 、 石 浜 知 行 ︵ た だ し 甲 組 ︵ 英 法 文 科 ︶ な の で 別 の ク ラ ス ︶ の ほ か 、 同 じ 乙 て い る の は ︵ た だ し 専 攻 は 法 科 志 望 ︶︶ 、 兄 ・ 緑 と 同 様 、 中 学 で 留 年 し た か 、 高 入 試 で 一 浪 し た か で あ る 。 格 し た 場 合 に は 、 大 正 二 年 九 月 高 入 学 に な る が 、 翌 大 正 三 年 九 月 、 兄 が 進 ん だ の と 同 じ 仙 台 の 第 二 高 等 学 に 入 学 し そ の 後 は 、 明 治 四 一 年 四 月 、 長 兄 ・ 緑 と 同 じ く 東 京 高 等 師 範 学 附 属 中 学 に 入 学 、 順 調 に 卒 業 し て 、 高 に 現 役 合 も 富 貴 の 子 弟 に は 出 来 無 い 事 だ 、 ば 気 が 済 ま ぬ と 見 え ま し て 、 例 へ ば 御 飯 の 給 仕 で も 学 に 出 る 準 備 で も 凡 て 自 で や っ て 居 り ま す 云 々 と 、 何 で も な き 事 な れ ど と な る の で 、 震 が こ の 家 を 相 続 す る の で ご ざ い ま す 、 震 は 性 で 御 座 い ま せ う 下 女 や 下 男 に 用 を 命 ぜ ず 、 一 切 自 で や ら な け れ 論 説 な お 、 岡 孝 ‖ 江 戸 恵 子 は 、 震 の 妻 ・ 文 子 か ら も 取 材 を し て い る が 、︶ 彼 女 は 玄 洋 社 初 代 社 長 ・ 平 岡 浩 太 郎 の 孫 、 母 は 侯 昶 子 ︵ 昭 和 四 年 六 月 生 ︶ 、 長 男 ・ 卓 夫 ︵ 昭 和 九 年 三 月 生 ︶ で あ る 。 右 の 文 章 に あ る ﹁ 妻 と 三 人 の 子 ど も ﹂ と は 、 妻 ・ 文 子 ︵ 明 治 三 六 年 七 月 生 ︶ 、 長 女 ・ 晴 子 ︵ 大 正 一 五 年 二 月 生 ︶ 、 二 女 ・ や っ と ひ た る こ と が で き た 、 何 と 言 お う と こ こ は 日 本 で あ る 。 の 家 に 落 ち 着 い て 、 の ん び り し た 、 ほ ん と う に 解 放 さ れ た 不 安 の な い 気 満 洲 で 二 六 時 中 あ こ が れ て い た あ の 気 に 、 生 活 は ど ん な も の で あ ろ う か 、 そ こ に は ま た 新 し い 苦 し み も あ る に ち が い な い 。 し か し そ れ は と も か く 、 わ た し は 今 こ う し て 自 言 葉 は な く た だ に こ に こ 笑 顔 を 見 せ 合 う だ け で あ っ た 。 こ れ で 敗 戦 後 四 年 間 の 流 人 生 活 は 終 り を 告 げ た 、 こ れ か ら 始 ま る 日 本 の 長 春 へ の り で な じ み の あ の バ ラ ッ ク に 、 め っ き り 年 を と っ た 母 ︹ 梅 謙 次 郎 妻 カ ネ ︺ が 、 そ れ で も 元 気 で 待 っ て い た 。 お 互 に ち ょ っ と 無 我 夢 中 の 態 で あ る 。 団 長 野 原 氏 の 挨 拶 が あ っ て か ら 解 散 、 自 動 車 で 代 田 橋 に 向 か う 。 き く こ と が で き な か っ た 。 改 札 口 を 出 る と 、 弟 た ち ︹ 徳 ・ 光 ︺ や 日 銀 中 銀 の 知 友 が 手 を さ し の べ て 待 っ て い た 、 た だ た だ 感 激 、 熱 く な っ て 涙 が こ ぼ れ て 来 た 、 続 い て 満 蒙 援 護 会 の 山 本 紀 綱 氏 か ら 迎 え の 挨 拶 を 受 け た が た だ 黙 っ て 頭 を 下 げ る ば か り で 、 口 を て 陸 橋 を 渡 り か け て い る と 、 向 こ う か ら 妻 と 三 人 の 子 ど も が 駆 け 寄 っ た 、 こ ど も た ち の 大 き く な っ た の が 目 に つ く 、 目 が し ら が ︹ 昭 和 二 四 年 ︺ 十 月 一 日 午 前 十 時 列 車 は 品 川 駅 に す べ り 込 ん だ 。 引 揚 列 車 は こ こ が 終 点 に な っ て い た の で あ る 。 フ ォ ー ム に お り 梅 震 ﹃ 戦 後 の 満 洲 四 星 霜 ﹄ は 、 次 の よ う な 文 章 で 終 わ る 。︶ 2 ︶ 家 族 変 日 本 し に た お ︶︶ け 。 震 る ノ は ン 、 バ 同 ン 社 ク の 取 の 締 草 役 を け 、 的 な 昭 和 企 四 業 で 五 年 あ ︹ る 。 月 な 日 不 お 、 詳 同 ︺ 社 七 は 四 、 歳 昭 ︶ 和 の 四 死 九 去 年 ま 四 で 月 勤 商 め 号 た を よ 現 う 在 で の あ ﹁ る 株 。 式 会 社 日 貿 信 ﹂ に 設 立 の 株 式 会 社 台 湾 銀 行 で 、 同 行 が 終 戦 に よ り 閉 鎖 機 関 に 指 定 さ れ 、 清 算 手 続 が さ れ た 残 余 財 産 を 用 い て 設 立 さ れ た 、 た 後 、 昭 和 三 二 年 四 月 一 日 発 足 の 日 本 貿 易 信 用 株 式 会 社 の 取 締 役 に 就 任 ︵ 同 社 の 前 身 は 、 日 清 戦 争 後 の 明 治 三 二 年 七 月 (法政研究 83-3-158)424 梅謙次郎の子供たち(七戸) 議 会 が 設 置 さ れ る と ︵ 七 月 一 八 日 委 員 任 命 ︶ 、 そ の ﹁ 諮 問 第 一 号 ﹂ さ れ ︵ 六 月 一 日 。 郵 電 離 ︶ 、 郵 政 大 臣 の 諮 問 機 関 と し て 郵 政 審 に 始 ま る が 、 翌 二 四 年 逓 信 省 が 郵 政 省 と 電 気 通 信 省 の 二 省 に ︾ シ リ ー ズ 切 手 を 模 倣 し た 企 画 で 、 立 案 は 昭 和 二 三 割 年 四 〇 ∼ 四 一 年 ︵ 昭 和 一 五 ∼ 一 六 年 ︶ に 発 行 さ れ た ︽ Famous と し て 、 文 化 切 手 発 行 の 可 否 と 文 化 先 覚 者 の 選 定 方 法 が 諮 問 さ れ American た 。 そ し て 、 こ の 郵 政 審 議 会 の 初 代 会 長 に 就 任 し た の が 末 弘 厳 太 員 の 証 言 が 収 録 さ れ て い る 。 文 化 切 手 ﹂ と は 、 ア メ リ カ で 一 九 の ﹁ 第 二 部 文 化 切 手 の で き る ま で ﹂ に 、 関 係 者 の 談 話 や 選 定 委 が 、︶ 詳 し い 経 緯 に 関 し て は 、 高 久 茂 ︵ 編 ︶ ﹃ 切 手 に な っ た 日 本 人 ﹄ す れ ば 、 梅 先 生 よ り 他 に は な い ﹄ と い っ た と い う ﹂ と 述 べ て い る と で あ る 。 そ の と き 、 彼 は 、 ﹃ 日 本 で 法 学 界 か ら 代 表 者 を 選 ぶ と と 、 梅 先 生 を す い せ ん し た 人 は 末 弘 厳 太 郎 博 士 で あ っ た と い う こ 大 内 兵 衛 は 、 選 定 委 員 の 一 人 で あ っ た 谷 川 徹 三 君 の 話 に よ る の 梅 謙 次 郎 の 文 化 切 手 ・ 第 一 号 を 贈 ら れ て い る 。︶ 日 で あ る 八 月 二 五 日 に 、 時 の 郵 政 大 臣 ・ 佐 藤 栄 作 か ら 、 同 日 発 売 【第3図】 梅謙次郎」文化切手(封筒:渡辺木版)発行日消印 425(83-3-159) 梅 震 は 、 満 洲 引 揚 げ か ら 三 年 後 の 昭 和 二 七 年 、 ・ 謙 次 郎 の 命 3 ︶ 文 化 切 手 爵 ・ 西 郷 従 道 の 二 女 ・ 栄 子 ︵ 明 治 一 八 年 五 月 生 ︶ で あ る 。︶ 論 説 博 士 の 横 顔 を き く 。 ジ は か な り 徹 底 し た 封 ぎ ら い だ っ た ⋮ ﹂ 次 男 震 氏 ︵ 五 六 ︶ は 秋 田 木 材 社 長 、 三 男 徳 氏 ︵ 五 四 ︶ は 岩 波 書 店 嘱 託 、 二 人 の 兄 弟 に に 反 対 し て ﹁ 何 よ り も た し か な こ と は 今 の 家 族 制 度 が 亡 ぶ こ と だ ﹂ と さ え い っ て い る 。 フ ラ ン ス に 学 ん だ せ い も あ ろ う が 、 オ ヤ を 穂 積 博 士 が か ゝ げ れ ば ﹁ 知 ら ず や 我 が 国 の 旧 習 は 封 鎖 国 の 慣 習 に し て 立 憲 国 に 適 せ ざ る を ﹂ と 譲 ら な い 。 当 時 の 大 家 族 制 度 て 個 人 の 尊 厳 と 男 女 の 自 由 平 等 を 基 調 と す る 博 士 は 花 々 し く 論 戦 の 火 花 を 散 ら し た 。 民 法 出 で て 忠 孝 亡 ぶ ﹂ の 名 高 い ス ロ ー ガ ン 博 士 と の 論 争 は 梅 博 士 一 生 の 出 来 事 で あ っ た 。 女 こ ど も ﹂ の 自 由 を 抑 え 戸 主 権 の 絶 対 親 権 、 夫 権 の 強 大 を 主 張 す る 保 守 派 に 対 し ○ ⋮ ﹁ 先 日 ラ ジ オ の 〟 私 は だ れ で し ょ う 〝 に オ ヤ ジ の 問 題 が 出 た ん で す が 、 と う 〳 〵 判 ら ん で し た ﹂ 民 法 制 定 に 当 っ て 穂 積 八 束 転 記 し て お く が 、 本 稿 の 察 対 象 と の 関 係 で 興 味 深 い の は 、 最 初 の ﹁ か な り 徹 底 し た 封 ぎ ら い ﹂ の エ ピ ソ ー ド で あ る 。 謙 次 郎 の 二 男 ・ 震 と 三 男 ・ 徳 の 二 人 へ の イ ン タ ビ ュ ー 記 事 が 、 両 人 の 写 真 入 り で 掲 載 さ れ て い る 。 以 下 に 、 そ の 全 文 を 一 方 、 梅 謙 次 郎 の 切 手 発 行 か ら 三 か 月 後 の 朝 日 新 聞 昭 和 二 七 年 一 一 月 一 四 日 朝 刊 ﹁ 文 化 切 手 の 顔 梅 謙 次 郎 ﹂ で は 、 な お 、 家 永 三 郎 は 、 こ の 選 定 に 対 し 、 必 ず し も 承 服 し か ね る か の よ う な 口 吻 を も ら し て い る 。︶ 員 推 薦 の 候 補 者 表 に は 載 っ て い な か っ た が 、 末 広 ︹ 弘 ︺ 郵 政 審 議 会 長 の 熱 心 な 主 張 に 動 か さ れ た 形 で あ っ た ﹂ と 語 る 。︶ て 、 異 議 な く き ま っ た よ う に 覚 え て い る ︶ ﹂ 。 梅 謙 次 郎 に つ い て も 同 様 で 、 犬 丸 秀 雄 も 、 学 術 の 梅 謙 二 ︹ 次 ︺ 郎 は 専 門 委 生 か ら ﹃ こ う い う あ ま り 目 立 た な い 、 し か も 長 い 間 一 つ 仕 事 に 集 中 さ れ た 人 は ぜ ひ 推 し た い ﹄ と い う 意 味 の 言 葉 も あ っ を 発 揮 し て 選 定 作 業 を 仕 切 り 、 管 井 準 一 に よ れ ば 、 自 然 科 学 野 に つ い て も 、 木 村 栄 博 士 に つ い て は 、 た し か 末 弘 先 の 名 は 挙 げ ら れ て い な い 。︶ と こ ろ が 、 九 月 一 九 日 の 専 門 委 員 の 会 合 に 乗 り 込 ん で き た 末 弘 会 長 は 、 強 力 な イ ニ シ ア チ ブ 専 門 委 員 が 推 薦 し た 切 手 候 補 者 は 全 部 で 六 五 名 で 、 法 学 関 係 で は 、 大 井 憲 太 郎 や 木 下 尚 江 が 推 薦 さ れ た が 、 梅 謙 次 郎 名 の 専 門 委 員 の う ち 、 人 文 科 学 野 の 委 員 が 、 家 永 三 郎 と 谷 川 徹 三 の 二 名 で あ っ た 。︶ 郎 で あ り 、 一 方 、 審 議 会 は 、 文 化 切 手 発 行 を 可 と し 、 文 化 先 覚 者 選 定 の た め 専 門 委 員 を 選 任 す る 旨 を 決 定 し た が 、 一 三 (法政研究 83-3-160)426 梅謙次郎の子供たち(七戸) 兄 ・ 震 と と も に 朝 日 新 聞 の 取 材 に 応 じ て い る 徳 ︵ 明 治 三 〇 年 一 二 月 二 日 生 ま れ の 双 子 の 兄 ︶ に つ い て は 、 兄 ・ 震 と 5 そ 二 男 ︵ 三 男 ︶ ・ 徳 れ を 見 ず し て 死 ん だ の は 心 残 り で も な か っ た で し ょ う ﹂ で い た と い う か ら 助 か ら ん わ け で す 。 日 韓 合 邦 は そ の 後 間 も な く の こ と ︹ 謙 次 郎 の 死 去 の 四 日 後 ︺ 、 合 邦 に は 反 対 の オ ヤ ジ だ か ら 、 427(83-3-161) と ガ ン バ っ て い た 。 明 治 四 十 三 年 八 月 、 京 城 に 行 っ た が 、 チ フ ス に か か り 急 死 し た 。 熱 が あ る の に 前 の 日 ま で ウ ィ ス キ ー を 飲 ん 邦 問 題 で ワ タ リ 合 っ た こ と も あ る 。 オ ヤ ジ は 韓 国 は 韓 国 と し て 残 し て お き 仲 良 く し て ゆ か ね ば い か ん 、 領 土 を と る の は よ く な い 、 浪 の 武 キ ョ ウ 小 説 を ぼ く ら が 読 ん で い た ら 〟 恐 露 病 〝 を け し か け る よ う な 小 説 は よ く な い と む ず か し い 顔 を し た 、 軍 人 と 日 韓 合 小 石 川 林 町 の 自 宅 へ 学 生 を 呼 ん で は ワ イ 〳 〵 や っ て い た が 後 に 中 国 革 命 の 中 心 人 物 と な っ た 人 も 多 い 、 そ の こ ろ は や っ た 押 川 春 民 も い た 。 い ま 働 い て い る 人 で は サ ン フ ラ ン シ ス コ 会 議 に 行 っ た 華 北 人 民 政 府 主 席 董 必 武 や 中 共 幹 部 の 沈 儒 な ど が い る 。︶ 当 時 ○ ⋮ ﹁ 法 政 が 大 学 に な っ た と き の 初 代 長 だ っ た が 、 オ ヤ ジ は 法 学 速 成 科 を 作 っ て 清 国 や 韓 国 の 留 学 生 を 教 え た 。 汪 兆 銘 や 胡 漢 上 っ た ﹂ そ う で あ る 。 し か し 酒 は 子 供 の こ ろ か ら 飲 ん で い た 。 親 達 が 困 っ て 〟 ウ ン と 飲 ま し た ら こ り る だ ろ う 〝 と 試 し た と こ ろ 、 以 来 グ ン と ウ デ が は 葉 巻 党 。 プ カ 〳 〵 と や た ら タ バ コ の 煙 が 吹 っ か ゝ る 。 こ れ に は 閉 口 し た ら し く い つ も シ カ メ 面 で 好 き な 相 撲 を 見 物 し て い た 、 ○ ⋮ ﹁ や か ま し い オ ヤ ジ で は な か っ た が タ バ コ は す ご く き ら い だ っ た 。 角 狂 同 士 の 土 方 寧 先 生 と サ ジ キ を と っ て い た が 土 方 さ ん た そ う だ 。 リ ヨ ン 市 の 賞 状 よ り こ の 方 が 得 意 だ っ た か も し れ な い ﹂ と い う 。 い 〝 の 博 士 は エ レ ベ ー タ ー を わ な か っ た 。 三 百 メ ー ト ル も あ る ハ シ ゴ を コ ツ コ ツ 昇 っ て 降 り た と い う の で 新 聞 で も 随 騒 が れ ン 市 か ら 賞 杯 を も ら い 、 そ の 博 士 論 文 は 市 費 で 出 版 さ れ た 。 当 時 エ ッ フ ェ ル 塔 は 出 来 上 っ て い た が 〟 不 器 用 の く せ に 負 け ず ぎ ら う が 、 割 合 に 若 く て 死 ん だ の で ボ ロ を 出 さ ず に す ん だ 。 長 生 き し て い れ ば ど う で す か ね ﹂ 。 リ ヨ ン 大 学 の 成 績 が よ か っ た の で リ ヨ ○ ⋮ ﹁ ま ァ ブ ル ジ ョ ア 自 由 主 義 者 と い う の で し ょ う 。 民 法 、 商 法 を 作 っ た こ と ゝ 日 本 で 初 め て 判 例 批 評 を 始 め た の が 仕 事 で し ょ 論 説 に 母 堂 を 敬 愛 さ れ て い た ︶ ﹂ 。 梅 さ ん は お 母 様 が 礼 儀 正 し い 厳 格 な お 方 で し た か ら 、 い つ も キ チ ン と 身 ぎ れ い に 和 服 に 袴 彼 は 一 生 独 身 を 通 し 、 年 老 い た 母 と 一 緒 に 暮 ら し て 面 倒 を 見 続 け た 。 彼 を 知 る 人 間 は 、 口 を 揃 え て い う 。 徳 君 は 特 内 出 血 で 即 死 。 享 年 六 〇 歳 。 年 間 入 院 生 活 を 送 る 。 そ の 三 年 後 の 昭 和 三 三 年 一 月 三 一 日 午 後 一 一 時 四 五 再 び 自 宅 近 く の 甲 州 街 道 で 車 に 轢 か れ 、 脳 る 。︶ 昭 和 三 〇 年 三 月 に 母 カ ネ が 死 去 し た 一 か 月 後 ︵ 四 月 ︶ 自 宅 近 く の 甲 州 街 道 で タ ク シ ー に 轢 か れ て 右 脚 を 骨 折 し 、 半 社 員 、 一 〇 年 一 月 正 社 員 と な り 、 戦 後 の 昭 和 二 五 年 一 月 に は 正 課 長 と な る が 、 翌 二 六 年 一 〇 月 依 願 退 職 し て 嘱 託 と な そ の 後 は 、 書 籍 ・ 雑 誌 の 刊 行 や 、 編 集 ・ 正 に 従 事 し 、 昭 和 四 年 岩 波 書 店 の 仕 事 を 手 伝 っ た の を 機 に 、 昭 和 七 年 臨 時 中 途 退 学 に な っ て し ま う 。︶ は 、 東 京 帝 国 大 学 文 学 部 の 選 科 に 入 学 す る が 、 し か し 、 こ れ も 規 定 単 位 の 未 取 得 と 学 費 滞 納 を 理 由 に 、 大 正 一 一 年 秋 に 二 年 の 三 学 期 ︵ 大 正 八 年 の 春 ︶ 高 を 辞 め る と 言 い 始 め 、 六 月 の 試 験 前 に 退 学 届 を 提 出 し た 。︶ そ の 後 、 東 京 に 戻 っ た 彼 だ が 、 二 年 に 進 級 し た 二 〇 歳 の 頃 か ら 深 酒 を し て 遅 刻 欠 席 が 目 立 つ よ う に な っ た 彼 は 、 三 年 に 進 級 で き ず 、 二 度 目 の あ る 。 当 時 フ ラ ン ス 語 の 学 科 は 一 高 と 三 高 と に し か な か っ た ﹂ た め と い う 。︶ 高 を 選 ん だ 。 将 来 外 官 に な ろ う か と い う 意 志 が あ っ て 、 そ れ に は フ ラ ン ス 語 の 修 得 が 必 要 な 条 件 と さ れ て い た か ら で 科 ︶ に 合 格 。︶ 三 高 を 志 望 し た 理 由 は 、 兄 ・ 震 に よ れ ば 、 京 都 と い う 土 地 に 対 す る 憧 れ と 、 仏 法 科 を 志 望 し た た め に 三 大 正 四 年 中 学 を 卒 業 し た 徳 は 、 京 都 の 第 三 高 等 学 を 受 験 す る が 失 敗 、 一 浪 し て 翌 五 年 九 月 に 一 部 丁 類 ︵ 仏 法 仏 文 光 さ ん の 左 の 目 の 下 に 小 さ な 黒 子 が あ る こ と を 見 出 し て 、 最 初 は そ れ を 目 当 て に し た も の で あ っ た ︶ ﹂ 。 む 。 一 年 乙 組 の 同 級 生 ・ 戸 塚 武 彦 に よ れ ば 、 徳 と 光 は ﹁ 何 し ろ 良 く 似 た 兄 弟 で 、 誰 に も 区 別 は つ か な か っ た 程 で あ る が 、 明 治 三 七 年 四 月 弟 ・ 光 と と も に 東 京 高 等 師 範 学 附 属 小 学 に 入 学 し た 彼 は 、 明 治 四 三 年 四 月 に 同 弟 ・ 光 に よ っ て 追 悼 文 集 が 編 ま れ て い る の で 、︶ 詳 細 は 同 書 を 参 照 さ れ た い 。 附 属 中 学 に 進 (法政研究 83-3-162)428 梅謙次郎の子供たち(七戸) た ち は か わ り 番 に 各 自 の 家 で 晩 会 を も っ た が 、 岡 野 先 生 の 家 に よ ば れ た 時 、 鯛 の 目 玉 ば か り の ウ シ オ 椀 が 出 て 、 は 目 玉 を 民 法 の つ ぎ に は 、 岡 野 敬 次 郎 、 田 辺 ︹ 田 部 ︺ 芳 の 両 氏 ら と 商 法 の 起 草 に あ た っ た が 、 そ の こ ろ の 逸 話 を ひ と つ 。 ⋮ ⋮ ︹ 中 略 ︺ ⋮ ⋮ 。 族 制 度 が ほ ろ ぶ こ と だ ﹂ と さ え い っ て い る 。︶ 当 時 委 員 429(83-3-163) 十 四 年 は 二 十 世 紀 の 第 一 年 に 当 っ た が 、 そ の 頃 新 聞 に 載 っ た 談 話 ﹃ 二 十 世 紀 の 法 律 ﹄ の な か で 、 何 よ り も た し か な こ と は 今 の 家 フ ラ ン ス に 学 ん だ せ い も あ ろ う が 、 は か な り 徹 底 し た 封 ぎ ら い で 、 し た が っ て 当 時 の 家 族 制 度 に も 反 対 で あ っ た 。 明 治 三 ⋮ ⋮ ︹ 中 略 ︺ ⋮ ⋮ 。 い た 。 も っ と も 寺 内 正 毅 が 二 代 統 監 に な っ て か ら は 、 あ ま り お も し ろ く な か っ た ら し い 。 韓 国 へ は 、 伊 藤 博 文 の 初 代 統 監 時 代 か ら 、 法 制 顧 問 と い っ た よ う な 形 で 、 帝 大 の 夏 と 冬 の 休 暇 を 利 用 し て 年 に 二 度 ず つ 行 っ て 義 に 出 か け て い た 。 う 熱 が あ る の に ウ イ ス キ ー な ん か 飲 ん で い た と い う 話 だ 。 も っ と も 平 生 か ら 病 気 に 強 く 、 三 十 九 度 ぐ ら い 熱 が あ っ て も 大 学 の 講 い う か ら 、 合 邦 を 見 ず に 死 ん だ こ と に は 心 残 り は な か っ た で あ ろ う 。 わ た し 達 は 死 に 目 に あ わ な か っ た が 、 酒 ず き の は そ う と ら 、 合 邦 直 前 と 云 っ て も よ い が 、 兄 ︹ 震 ︺ の 記 憶 に よ る と 、 同 じ 年 ご ろ は あ る 席 で 軍 人 と 合 邦 を 論 じ さ か ん に 反 対 し て い た と と 重 複 す る 内 容 が 多 い た め 、 目 新 し い 記 述 に つ い て の み 、 一 部 抜 粋 し て 引 用 す れ ば 思 迎 を 一 い え つ 方 ま て け 、 す も て は 。 、 お 明 ・ ま も ら 治 謙 れ し れ 四 次 に 御 ま 十 郎 み 母 し 三 年 に る 堂 た の 関 親 と が 八 し 孝 の 、 月 て 行 折 そ 韓 、 な り れ 国 文 方 合 が 京 化 と い よ 城 切 敬 が く で 手 服 う お チ フ 発 し ま 似 ス 行 て く 合 に の い い い か 際 ま か で か に す な し り 徳 ﹂︶ か た 、 。 ︶ が っ ﹂ そ 。 寄 た の 二 せ 場 独 十 た 合 身 五 文 を で 日 章 通 満 は 慮 さ 五 、︶ せ れ 十 兄 ら た 歳 ・ れ の で 震 て は な く と 、 、 な 一 親 御 っ 緒 子 母 た に 水 堂 。 入 に 日 、 受 け ら 孝 韓 た ず 行 合 朝 で を 邦 日 お つ が そ 新 過 く の 聞 ご し 月 の し た の イ に い 二 ン な ⋮ 十 タ っ ⋮ 九 ビ た 夫 日 ュ 事 人 だ ー と を か 論 説 大 正 四 年 九 月 京 都 の 第 三 高 等 学 第 一 部 英 法 文 科 に 合 格 。︶ 翌 大 正 五 年 一 年 遅 れ で 兄 ・ 徳 も 三 高 に 入 学 し て く る が 、 兄 と 弟 ・ 光 は 、 兄 ・ 徳 と 同 じ く 東 京 高 等 師 範 学 附 属 小 学 ・ 中 学 を 卒 業 、 そ の 後 は 、 三 人 の 兄 た ち と 異 な り 現 役 で 、 ね ば り 強 く 、 自 説 を 譲 ら ず 、 私 の 軽 々 し い 動 作 と は 対 照 的 に 見 え た の だ ろ う 。 い の だ が こ ど も の 時 、 兄 は ド ウ ガ メ ︵ ス ッ ポ ン の こ と ︶ と 云 わ れ 、 強 情 で 有 名 で あ っ た 、 私 は ヤ ン チ ャ で 通 っ て い た 。 兄 は 双 生 児 と い う の に 兄 と 私 は ま る で 性 向 が 違 う 、 こ う 観 る 人 が 案 外 多 か っ た よ う で あ る 。 実 は 私 自 身 は 必 ず し も そ う 思 わ な 末 弟 ・ 光 ︵ 明 治 三 〇 年 一 二 月 二 日 生 ︶ は 、 同 日 生 ま れ の 双 子 の 兄 ・ 徳 と 自 と を 、 次 の よ う に 対 比 し て い る 。︶ の 6 察 対 三 象 男 と ︵ の 四 関 男 係 ︶ で ・ は 光 、 こ こ で も 登 場 す る ﹁ か な り 徹 底 し た 封 ぎ ら い ﹂ と い う 言 葉 が 気 に な る 。 比 較 的 早 く 死 ん だ こ と で 、 老 醜 の 無 惨 を 曝 さ な く て よ か っ た 、 と い う の は 真 実 か も し れ な い 。 そ れ に つ け て も 、 本 稿 進 歩 的 な 面 だ け を わ た し た ち の 記 憶 に 残 し て く れ た 。 も っ と 生 き の び て い た ら や は り ち が っ た 面 を 残 し た か も し れ な い 。 か え っ て よ か っ た と い え る か も し れ な い 。 早 く 日 本 資 本 主 義 の 上 向 期 に 死 ん だ だ け に 、 は リ ベ ラ リ ス ト と し て の 、 い わ ば が 五 十 歳 で 死 ん だ の を 惜 し い と か な ん と か い う 人 が い る 。 し か し 今 か ら え て み る と 、 す く な く と も わ た し な ど に と っ て は 、 ⋮ ⋮ ︹ 中 略 ︺ ⋮ ⋮ 。 ち や ま ︺ 元 の 横 綱 大 砲 ︶ を 連 れ て 家 に 来 た り し た 。 所 が は じ ま る と 、 大 学 や 役 所 の 帰 り に ほ と ん ど 毎 晩 出 か け た 。 国 技 館 の で き る と き に は 太 刀 山 の 師 匠 の 友 綱 取 締 が 待 乳 山 ︹ ま つ 酒 の ほ か に 、 趣 味 と い え ば 相 撲 だ っ た ろ う 。 富 井 ︹ 政 章 ︺ 先 生 、 岡 野 先 生 、 土 方 寧 先 生 ら と 組 ん で 桟 敷 を 一 つ と っ て お り 、 場 と え ら く 感 心 し て 帰 っ て 来 た そ う で あ る 。 ﹁ さ す が に 岡 野 は 江 戸 っ 児 だ ﹂ 十 い く つ か 食 べ 、 (法政研究 83-3-164)430 梅謙次郎の子供たち(七戸) 状 況 証 拠 か ら 導 か れ る 常 識 的 な 推 測 は 、 ・ 薫 が 結 婚 に 反 対 し た 、 と い う も の で あ る 。 暮 ら し 、 子 ど も を も う け な が ら 、 ど う し て 明 治 三 八 年 ま で 入 籍 し な か っ た の か 、 と い う 点 で あ る が 、 こ こ ま で 見 て き た だ が 、 そ れ に も 増 し て 気 に な る の は 、 彼 ら 子 供 た ち の ・ 謙 次 郎 が 、 留 学 か ら 帰 国 し た 明 治 二 三 年 よ り カ ネ と 一 緒 に 431(83-3-165) 四 一 ︶ 常 識 的 な 仮 説 終 章 中 退 す る な ど 、 こ の 時 期 の 梅 家 に は 少 々 不 自 然 な 出 来 事 が 連 続 し て い る が 、 そ の 背 景 事 情 は 詳 ら か に な ら な い 。 兄 ・ 緑 が い と こ ︵ ク ニ の 孫 ︶ と 結 婚 し て 、 板 倉 家 か ら の 養 子 ・ 梅 子 が 離 縁 し 、 一 一 年 秋 に は 双 子 の 兄 ・ 徳 が 東 大 選 科 を 一 八 日 に 母 方 の 祖 母 ・ 本 ク ニ と 養 子 縁 組 を し て 本 家 を 嗣 い だ た め で あ る 。 一 方 、 前 年 ︵ 大 正 一 〇 年 ︶ 二 月 に は 、 長 な お 、 ﹃ 京 都 帝 国 大 学 一 覧 ﹄ の 彼 の 氏 名 の 記 載 が 、 梅 光 ﹂ か ら ﹁ 本 光 ﹂ に 変 わ っ て い る の は 、 彼 が 大 正 一 一 年 五 月 店 に 入 り 、 私 は 横 浜 の 会 社 に 、 や が て 台 湾 へ 、 ま た 満 洲 へ と 流 れ て い っ た ﹂︶ 。 頭 商 人 ︵ テ キ ヤ ︶ に 売 ら せ る と い う 、 そ ん な 出 版 社 を 作 っ て 、 五 年 ほ ど 兄 と 生 計 を 共 に し た が 、 そ の う ち に 兄 は 岩 波 書 就 職 ﹂ し た が 、 昭 和 四 年 会 社 を 辞 め て 帰 京 し ⋮ ⋮ 兄 ︹ 徳 ︺ と 二 人 で ﹃ 街 頭 社 ﹄ と い う 、 こ れ は 我 々 が 編 集 し た 本 を 街 に 合 格 し て 卒 業 ︵ つ ま り 一 年 留 年 し た と い う こ と で あ る ︶︶ 。 卒 業 後 の 光 は 、 彼 自 身 の 文 章 を 拾 え ば 、 結 局 朝 鮮 の 会 社 に と こ ろ が 、 彼 は 、 順 調 に ゆ け ば 大 正 一 〇 年 三 月 の 学 士 試 験 に 合 格 し て 卒 業 し て い る と こ ろ 、 大 正 一 一 年 三 月 学 士 試 験 法 経 済 学 部 に 進 学 。︶ 別 々 に 暮 ら し て い た こ と か ら 、 悪 影 響 を 受 け ず に 済 ん だ の だ ろ う 、 順 調 に 高 を 卒 業 し て 、 大 正 七 年 九 月 京 都 帝 国 大 学 論 説 る こ と と な っ た 。 二 十 世 紀 の 法 律 ﹂ に お け る 謙 次 郎 の 過 激 な 談 話 は 、 い か に も 煮 え 切 ら な い 、 ど っ ち つ か ず の 半 端 な 次 郎 は 、 一 五 年 も の 長 き に わ た っ て カ ネ と 法 律 上 の 夫 婦 に な ら ず 、 結 果 と し て 、 子 供 た ち に 複 雑 な 身 関 係 を 押 し つ け だ が し 、 て 家 に よ っ て 、 戸 主 で あ る ・ 薫 が カ ネ を 自 の 家 に 入 れ な い 障 壁 を 取 り 除 い た に も か か わ ら ず 、 そ の 後 も 謙 居 る 者 ハ 夫 婦 と し て 認 め る 事 に 為 ッ た 、 新 民 法 ハ 斯 る 場 合 に ハ 其 戸 主 の 監 督 を 離 れ て 離 籍 す る 事 の 出 来 る 様 に し て 在 る 、 が 法 律 以 外 に 夫 婦 の 状 態 と 為 す の で あ る 、 斯 る 場 合 に ハ 裁 判 所 な ど で も 随 八 釜 敷 議 論 も 有 た が 、 詰 ま り 実 際 上 夫 婦 の 状 態 と 為 に 認 め ら れ ぬ 夫 婦 が 有 た 、 是 ハ 男 女 が 互 に 想 い 想 は れ て 夫 婦 に 為 り 度 い と 云 ふ て も 、 戸 主 又 ハ 親 が 許 さ ぬ と 云 ふ 場 合 に 、 其 男 女 ⋮ ⋮ 、 新 民 法 施 行 以 前 ハ 別 段 是 と 云 ふ 法 律 も 無 く 唯 だ 慣 習 で や ッ て 居 た 所 か ら 、 婚 姻 な ど ハ 極 め て 圧 制 主 義 で 有 た 為 に 、 随 ⋮ ⋮ ︹ 中 略 ︺ ⋮ ⋮ 。 ナ ゼ カ と 云 ふ に 、 家 族 制 度 と 云 ふ も の ハ 元 来 封 の 遺 習 で あ ッ て 、 到 底 今 日 の 社 会 の 進 歩 に 伴 は な い 制 度 で あ る か ら だ 、 ⋮ ⋮ 。 ハ 百 年 と 云 は ず コ ヽ 二 十 年 か 三 十 年 の 中 に ハ 、 恐 ら く 実 行 さ れ る 事 で あ ら う と 思 ふ 。 先 づ 民 法 の 事 に 就 て 云 は ふ な ら 、 家 族 制 の 廃 滅 及 び 隠 居 制 の 廃 滅 、 夫 か ら 養 子 制 の 減 少 、 是 ハ 今 日 に 於 て 断 言 し て 憚 ら ぬ 、 是 用 す る 読 売 新 聞 明 治 三 三 年 一 月 年 頭 の 談 話 ﹁ 二 十 世 紀 の 法 律 ﹂ の 該 当 部 は 、 次 の よ う な も の で あ っ た 。︶ 婚 問 題 が 関 係 し て い る の か も し れ な い 。 と い う の も 、 子 供 た ち が 、 の ﹁ か な り 徹 底 し た 封 ぎ ら い ﹂ の 例 証 と し て 引 明 治 二 三 年 一 〇 月 八 日 の 謙 次 郎 の 家 に つ い て も 、 梅 ・ 本 家 ︵ 薫 ・ 錦 之 丞 ︶ の 借 金 を 免 れ る 意 図 の ほ か 、 カ ネ と の 結 に 関 わ る 事 柄 な の か は か ら な い が ︶ 、 カ ネ な い し 本 家 と の 縁 組 に 反 対 の 立 場 に 翻 意 し た こ と に な る 。 て ︵ お そ ら く は 謙 次 郎 の 帰 国 後 に ︶ 、 何 ら か の 理 由 か ら ︵ そ れ が 薫 ・ カ ネ 両 人 の 個 人 に 関 わ る 事 柄 な の か 、 梅 家 ・ し 留 学 中 ︶ に 、 梅 家 と 本 家 の 間 で 話 が ま と ま っ て い た と え る の が 自 然 で あ る 。 と な れ ば 、 ・ 薫 は 、 そ の 後 に 本 な 家 っ し か し 、 謙 次 郎 が 留 学 か ら 帰 国 直 後 よ り カ ネ と 暮 ら し て い る こ と か ら す れ ば 、 二 人 の 結 婚 は 、 謙 次 郎 の 留 学 前 ︵ な い 1 明 治 二 三 年 (法政研究 83-3-166)432 梅謙次郎の子供たち(七戸) さ ら に 、 シ ン ポ ジ ウ ム の 席 上 で 、 次 の よ う に 補 足 す る 。︶ 藩 士 の 本 理 左 衛 門 の 娘 か ね を 娶 っ た の も 、 郷 土 江 に 惹 か れ る も の が あ っ た の で あ り ま し ょ う 。 フ ラ ン ス の リ ヨ ン 市 長 が 嫁 を 世 話 せ ん と し 、 又 帰 朝 後 早 々 に 陸 奥 宗 光 が 原 敬 を 通 し て 嫁 を 世 話 し よ う と し た の を 断 っ て 、 昂 ︵ ︻ 平 第 成 二 2 年 図 ︼ 、 参 江 照 に ︶ 梅 は 謙 、 基 次 調 郎 の 講 演 顕 で 彰 碑 次 の が よ 立 う に さ 述 れ た べ 際 ︶ の シ 、 ン ポ ジ ウ ム で 、 謙 次 郎 の 妻 カ ネ や 三 成 重 敬 の 縁 戚 で あ る 後 藤 江 433(83-3-167) 二 ︶ 空 想 的 な 憶 説 の な の か 、 そ れ と も 薫 が 了 承 し 、 あ る い は 死 期 の 近 づ い た 彼 が 、 梅 ・ 本 家 を 嗣 が せ る た め 自 ら 望 ん だ こ と な の か 。 て は 、 こ の 時 期 に 行 う こ と の 、 合 理 的 な 説 明 が 思 い 浮 か ば な い 。 こ の 養 子 縁 組 に つ い て は 、 ・ 薫 が あ ず か り 知 ら ぬ も 没 ︶ 。 七 月 の 入 籍 に 関 し て は 、 の 反 対 と い う 障 害 が な く な っ た か ら 、 と い え そ う で も あ る が 、 三 月 の 養 子 縁 組 に つ い ・ 薫 が 死 去 し た の は 、 梅 子 ・ 緑 と の 養 子 縁 組 の 一 か 月 後 、 二 人 の 入 籍 の 三 か 月 前 で あ る ︵ 明 治 三 八 年 四 月 二 三 日 で は 、 明 治 三 八 年 三 月 の 梅 子 ・ 緑 と の 養 子 縁 組 と 、 七 月 の 謙 次 郎 ・ カ ネ の 入 籍 は 、 ど の よ う に 読 み 解 か れ る べ き か 。 2 明 治 三 八 年 酒 匂 の 家 に 薫 を 隠 居 さ せ た と き に は 、 よ う や く 厄 介 払 い が で き た と 、 ほ っ と し た こ と だ ろ う 。 た の は 、 明 治 二 四 年 一 月 初 め か ら 四 月 初 め ま で の 、 た っ た 三 か 月 に す ぎ な い 。 経 済 的 に 余 裕 が で き て 真 っ 先 に 購 入 し た て い る の に 、 薫 は 一 人 で 三 〇 円 を い 、 そ れ で も 足 り な い と 言 っ て 無 心 ま で す る 。 薫 と 謙 次 郎 ・ カ ネ 夫 婦 が 同 居 し て い 他 方 、 嫁 の カ ネ と 舅 の 薫 の 関 係 は 最 悪 で あ っ た と 思 わ れ る 。 謙 次 郎 ・ カ ネ ・ 緑 の 三 人 が 月 三 〇 円 の 乏 暮 ら し を 続 け 自 自 身 に 対 す る 苛 立 ち の よ う に も 感 じ る 。 論 説 き 倒 し で 、 当 時 の 封 的 な 家 制 度 の 下 で は 、 姻 戚 関 係 と な る 先 方 の 家 に 関 す る 情 報 を 得 や す い 、 同 郷 の 家 ど う し の 結 婚 第 二 に 、 郷 土 を 愛 し て い た か ら 結 婚 し た ﹂ と の 後 藤 の 仮 説 に つ い て い え ば 、 そ れ は さ す が に 郷 土 ・ 江 の 贔 屓 の 引 物 で 、 こ れ は ﹁ 津 田 ︹ 出 ︺ の 娘 ﹂ の 誤 植 ︵ 後 藤 の 発 言 を テ ー プ 起 こ し し た 際 の 聞 き 取 り ミ ス ︶ で あ る 。 に も あ っ た と は 思 わ れ な い ︶ ︶ 。 な お 、 陸 奥 宗 光 が 原 敬 を 通 じ て 持 ち 込 ん だ 縁 談 の 相 手 を 、 津 軽 娘 ﹂ と し て い る の は 噴 飯 サ ー ビ ス が 潤 色 さ れ た も の で あ ろ う ︵ 資 料 ︵ 料 ︶ 的 に 見 て 、 兄 ・ 錦 之 丞 の ベ ル リ ン で の 行 状 と 同 様 の 状 況 が 、 謙 次 郎 に よ る 結 婚 相 手 の 周 旋 の 話 は 、 お そ ら く は 梅 の 博 士 論 文 が ヴ ェ ル メ ー ユ 賞 を 受 賞 し た 際 に 、 市 長 が 贈 っ た リ ッ プ ・ 第 一 に 、 先 に 引 用 し た 梅 徳 の 追 悼 文 の 記 述 も そ う で あ る が 、 三 成 重 敬 の 記 憶 談 に は 、 か な り 誤 り が 多 い 。 リ ヨ ン 市 長 く れ る 料 理 、 い わ ゆ る お 国 の 料 理 、 こ れ を 非 常 に 愛 し た よ う で す 。 の 人 を 三 成 重 敬 な ん か は 非 常 に 褒 め て お り ま す 。 立 派 な 人 間 だ と い っ て 褒 め て お り ま す が 、 そ れ は そ う と し て 、 こ の 人 が 作 っ て な い 人 だ 。 な か な か が っ ち り と し た 体 格 の 人 で す 。 四 角 張 っ た 、 あ そ こ に も 写 真 が 出 て お り ま す が 、 非 常 に 素 朴 な 人 で す が 、 こ い 、 国 の 親 し み と い う も の が あ っ た と 思 い ま す 。 も ち ろ ん 、 か ね 子 と い う 人 は 美 人 、 私 も よ く 知 っ て い ま す が 、 美 人 と は 思 わ れ 子 を 娶 っ て お り ま す 。 こ の よ う に 多 く の い い 話 が あ っ て も 、 国 の 女 、 国 の 人 と 結 婚 を す る と い う こ と は 、 や は り 国 を 離 れ た く な あ っ た よ う で す が 、 こ れ を 振 り 切 っ て 、 そ の 年 八 月 に 帰 っ て 一 二 月 に は 国 の 出 身 、 い わ ゆ る 先 ほ ど 話 し た 本 理 左 衛 門 の 娘 か ね ま た 、 帰 っ て か ら 陸 奥 宗 光 、 こ の 人 が 原 敬 を 立 て ま し て 、 ぜ ひ 津 軽 娘 を 世 話 し て や る と い う よ う に 言 わ れ て い ろ い ろ 渉 が で し ょ う が 、 誰 で も あ ん た の 希 望 が あ れ ば 世 話 す る ぞ ﹂ と い う 話 が あ っ た よ う で す が 、 そ れ を 振 り 切 っ て お り ま す 。 話 し よ う ﹂ と い う よ う な 話 も あ っ た 。 も う リ ヨ ン の い わ ゆ る ナ ン バ ー ワ ン と も 言 わ れ る 、 ミ ス ・ リ ヨ ン ﹂ と で も 言 わ れ る 人 な ん 結 婚 の 問 題 が あ り ま す 。 梅 先 生 は リ ヨ ン 時 代 に あ る 女 の 人 と 恋 愛 を し た よ う で す 。 リ ヨ ン の 市 の 方 か ら 、 あ ん た の 好 む 人 を お 世 の 時 に 自 の 一 生 の 思 い 出 の こ と を ぽ ん ぽ ん ぽ ん と 書 い て お り ま す 。 い ろ ん な こ と が あ り ま す が 、 そ の 中 に 出 て く る ん で す が 、 先 ほ ど ち ょ っ と お 話 し し ま し た 三 成 メ モ と い う の が 残 っ て お り ま し て 、 こ れ は 晩 年 、 こ の 人 は 八 八 歳 で 死 ぬ の で す が 、 八 五 歳 (法政研究 83-3-168)434 梅謙次郎の子供たち(七戸) 智 と 、 稀 な 美 貌 の 持 主 で あ っ た ︶ ﹂ 。 女 子 奨 励 会 ︵ 女 子 教 育 奨 励 会 。 日 本 ノ 貴 婦 人 ニ 欧 米 諸 国 ノ 貴 婦 人 ト 同 等 ナ ル 佳 良 ノ の 学 に 通 ず 、 其 れ 巧 手 象 ︹ 通 訳 ︺ の 技 の 如 き は 、 特 に 其 の 土 ︹ 腐 葉 土 ︺ の み ︹ 耳 ︺ ﹄ と い っ て 誇 っ て ゐ る 絶 倫 な 才 の 縁 談 相 手 は 、 当 時 一 九 歳 の 長 女 ・ 品 子 で あ っ た ろ う 。 品 子 は 、 ﹁ 出 が 自 ら ﹃ 品 女 夙 に 和 漢 の 書 を 読 み 、 兼 て 英 仏 独 な お 、 津 田 出 に は 五 人 の 娘 が い た が 、 長 姉 を 差 し 置 い て 先 に 妹 た ち の 嫁 入 り を 進 め る こ と は え に く い か ら 、 謙 次 郎 435(83-3-169) し け れ ば 一 捨 て て 津 田 家 に 乗 り 換 え る こ と を す べ し ﹂ と の 謙 次 郎 の 返 え 答 、 は 、 の 意 本 に 家 従 と う の よ 関 う 係 孝 解 行 消 息 の 子 た の め 謙 の 次 必 郎 要 に 期 命 間 じ だ た っ で た あ の ろ か う も 。 し れ 四 な 五 い ヶ 。 月 え て く れ る に 相 違 な い 。 謙 次 郎 は 、 こ の 縁 談 話 を 、 ・ 薫 に 伝 え た で あ ろ う 。 そ し て 、 薫 の 性 格 な ら ば 当 然 、 ば し 本 て 家 宜 を 田 出 の 元 老 院 議 官 の 給 料 だ け で も 勅 任 一 等 年 俸 三 五 〇 〇 円 で あ る か ら 、 梅 家 の 苦 し む 二 万 円 の 借 金 な ど 、 容 易 に 立 て 替 津 田 家 は 楠 木 正 儀 ︵ 楠 木 正 成 三 男 ︶ の 後 裔 で 、 徳 川 期 に は 紀 州 藩 の 重 臣 だ っ た 名 門 の 家 系 。 ま た 、 同 家 の 財 力 は 、 津 断 る の 外 な け れ ど も 四 五 ケ 月 ば し て 宜 し け れ ば 一 す べ し と の 事 と な り と 申 来 れ り 、 依 て 其 旨 陸 奥 大 臣 に 内 談 せ り 。 友 人 故 に 之 を 周 旋 せ し に 明 日 ま で 確 答 を ば し て く れ よ と 云 ふ 事 な り し が 、 本 日 本 野 一 郎 来 訪 に て 梅 は 今 直 に 返 答 せ よ と あ れ ば 二 十 七 日 梅 謙 次 郎 を 訪 ふ て 元 老 院 議 官 津 田 出 の 娘 を 嫁 入 さ す る 事 を 内 談 し た り 、 是 れ は 陸 奥 大 臣 の 内 意 に 出 た る 事 に て 余 は こ の 縁 談 話 に つ い て は 、 ﹃ 原 敬 日 記 ﹄ の 明 治 二 三 年 八 月 二 七 日 の 条 に 、 次 の よ う な 記 載 が あ る 。︶ 1 と の ﹁ 憶 説 ﹂ を 明 治 二 三 年 え た こ と が あ っ た 。︶ も っ と も 、 筆 者 に あ っ て も 、 か つ て 、 陸 奥 宗 光 の 持 ち 込 ん だ 縁 談 話 に 、 謙 次 郎 は 一 瞬 心 が 動 い た の で は な い か 、 謙 次 郎 が カ ネ と 別 れ ず 内 縁 関 係 を 続 け た の は 、 彼 女 の 人 柄 に 惚 れ 込 ん だ か ら だ ろ う 。 ネ が 人 格 的 に 非 常 に 優 れ た 明 な 女 性 で あ っ た こ と は 、 皆 が 口 々 に 証 言 す る と こ ろ で 、 ・ 薫 の 翻 意 に も か か わ ら ず 、 が 多 い だ け の 話 で あ っ て 、 恋 愛 結 婚 が 稀 な 当 時 に お い て 、 全 国 一 般 に 共 通 す る 現 象 で あ る 。 一 方 、 器 量 は と も か く 、 カ 論 説 少 か ら ず 陸 奥 ︹ 宗 光 ︺ 、 土 方 ︹ 久 元 ︺ の 両 大 臣 、 河 田 ︹ 景 与 ︺ 、 福 羽 ︹ 美 静 ︺ の 両 議 官 を 始 め 金 子 ︹ 堅 太 郎 ︺ 、 伊 藤 ︹ 伊 東 巳 代 治 ︺ 出 氏 の 邸 を 出 棺 し 谷 中 天 王 寺 へ 仏 葬 せ し が 遉 に ハ 元 老 院 議 官 と 云 ひ 女 ハ 際 社 会 に 有 名 な る 美 人 な り け れ バ 会 葬 せ し 人 々 ハ ○ 際 家 津 田 品 子 女 の 葬 儀 過 日 の 紙 上 に 死 去 の 旨 を 記 し た る 同 女 の 葬 儀 ハ 一 昨 廿 三 日 午 後 一 時 麹 町 区 番 町 な る 従 三 位 津 田 な お 、 彼 女 の 葬 儀 の 模 様 を 伝 え る 新 聞 記 事 か ら も 、 津 田 家 が ど れ ほ ど の 名 家 で あ る か を 垣 間 見 る こ と が で き る 。︶ 津 田 出 氏 の 令 嬢 な り な り し が 先 頃 よ り 腎 臓 腫 瘍 症 に 罹 り 薬 石 其 効 を 奏 せ ず 遂 に 去 る ︹ 明 治 二 三 年 九 月 ︺ 廿 日 黄 泉 の 客 と な ら れ た り 女 ハ 元 老 院 議 官 を 持 ち 込 ん だ 、 わ ず か 一 か 月 後 に 死 ん で し ま う 。 新 聞 記 事 に よ れ ば べ く ○ 高 津 等 田 教 品 育 子 を 女 施 さ 逝 く れ た 女 、 日 ハ 本 本 の 年 貴 二 婦 十 歳 人 ︹ の 数 蕾 え で 年 あ ︺ っ に た し 。 て と 学 問 こ を ろ 好 が み 、 音 ︶ 彼 楽 女 に 長 、 は 、 じ 陸 又 英 奥 独 宗 仏 光 三 が 国 原 の 敬 語 を を 通 善 じ く し て 梅 際 謙 社 次 会 郎 に に 有 縁 名 談 の 話 人 時 あ た か も 鹿 鳴 館 の 欧 化 政 策 時 代 、 品 子 は 、 当 時 の 明 治 日 本 の 最 上 流 階 級 の 子 女 と し て 、 欧 米 諸 国 の 貴 婦 人 に 比 肩 す 大 山 ︹ 厳 ︺ 伯 ︹ 爵 ︺ 等 の 諸 氏 な り し と な り 又 当 日 来 賓 の 重 も な る 人 々 ハ 小 宮 ︹ 彰 仁 親 王 ︺ 及 び 同 御 息 所 伊 藤 伯 ︹ 爵 ︺ 及 び 同 夫 人 、 土 方 ︹ 久 元 ︺ 子 ︹ 爵 ︺ 及 び 同 夫 人 、 其 本 元 た る 外 国 人 に す ら 甚 だ 六 箇 敷 狂 言 な れ ど も 今 回 ハ 俄 か の 思 付 に も 拘 は ら ず 至 極 上 出 来 に て 来 賓 ハ 何 れ も 感 賞 し た り と の 事 ︹ 清 康 ︺ 海 軍 少 将 の 令 嬢 操 子 、 津 田 ︹ 出 ︺ 元 老 院 議 官 の 令 嬢 品 子 の 五 氏 に て 何 れ も 見 事 に 演 じ た り と 云 ふ 殊 に セ ー ク ス ピ ア の 曲 ハ 英 語 会 員 た る 伊 藤 ︹ 博 文 ︺ 枢 密 院 議 長 の 令 嬢 生 子 、 三 条 ︹ 実 美 ︺ 内 大 臣 の 令 嬢 智 恵 子 、 本 田 ︹ 親 雄 ︺ 元 老 院 議 官 の 令 嬢 米 子 、 林 て 無 言 の 曲 を 演 じ 次 に セ ー ク ス ピ ヤ の ﹁ メ ル チ ャ ン ト ヴ ヰ ニ ス ﹂ 五 幕 を 演 じ た り し が 此 の 役 者 ハ 同 奨 励 会 中 に 設 け あ る ユ ニ オ ン 赤 坂 見 附 内 の 女 子 奨 励 会 に て ハ 去 二 十 一 日 を 以 て 開 業 式 を 行 ひ し 由 な る が 其 節 同 会 生 徒 の 演 劇 あ り 最 初 ハ ﹁ 眠 り 姫 ﹂ と 云 ふ 題 に 会 長 は 北 白 川 能 久 親 王 ︶ が 、 翌 二 一 年 に 開 し た 東 京 女 学 館 の 開 業 式 を 伝 え る 新 聞 記 事 に は 、 次 の よ う に あ る 。︶ 教 化 及 家 事 ノ 訓 練 ﹂ を 受 け さ せ る 目 的 で 明 治 二 〇 年 に 設 立 さ れ た 団 体 。 立 委 員 長 は 当 時 の 理 大 臣 ・ 伊 藤 博 文 、 初 代 (法政研究 83-3-170)436 梅謙次郎の子供たち(七戸) に 5 男 4 ︶ ︶ 、 が 本 東 、 成 文 川 首 富 二 徳 都 信 〇 治 大 夫 二 ﹃ 学 と 頁 博 東 妻 に 士 京 ・ も 梅 教 千 ﹁ 謙 授 恵 明 次 の ︵ 治 郎 我 鵜 二 ﹄ 妻 沢 十 学 三 法 で 明 政 年 あ 二 十 大 る 女 二 学 。 ︶ と 月 ・ の 博 有 間 士 の に 閣 三 嫁 、 女 し 大 ・ て 正 愛 よ 六 子 り 年 が 、 ⋮ 、 苦 ⋮ 我 楽 ︹ 妻 を 復 栄 共 刻 の に 版 二 す ︺ 男 る 大 ・ こ 空 尭 と 社 の ・ 前 妻 伝 後 と 記 二 な 叢 十 る 年 書 。 、 ち 所 、 な 謂 平 み 糟 成 に 糠 九 、 の 年 我 妻 ︶ 妻 な 年 尭 り 譜 ・ ﹂ 一 愛 と 三 子 あ 頁 夫 る 。 婦 。 さ の ら 長 437(83-3-171) 成 3 年 2 ︶ ︶ 二 ︶ 八 七 扉 七 年 戸 頁 戸 ︶ 克 。 克 八 彦 彦 七 ﹁ ﹁ 頁 山 法 。 田 学 喜 者 之 の 助 本 ・ 棚 正 ︶ 三 金 ・ 田 作 一 之 他 助 ・ 人 弘 ﹃ 之 身 助 も 魂 も 神 戸 学 金 院 田 大 一 学 他 ・ 人 山 遺 田 稿 作 ﹄ 之 ╱ 助 我 関 妻 係 栄 資 の 料 青 に 春 寄 ﹂ せ 法 て 学 ﹂ セ 神 ミ 戸 ナ 学 ー 院 七 法 三 学 五 四 号 六 ︵ 巻 平 二 成 号 二 ︵ 平 八 ︵ 九 州 大 学 法 学 部 立 九 〇 周 年 記 念 号 、 平 成 二 七 年 ︶ 一 四 一 頁 。 1 ︶ 七 戸 克 彦 ﹁ 九 州 帝 国 大 学 法 文 学 部 内 訌 事 件 東 京 帝 国 大 学 ・ 京 都 帝 国 大 学 の 内 ・ 辞 職 事 例 と の 比 較 ﹂ 法 政 研 究 八 一 巻 四 号 の 入 籍 ︵ 七 月 二 三 日 ︶ の 一 か 月 前 の こ と で あ っ た 。 な お 、 津 田 出 の 死 去 は 、 梅 謙 次 郎 の ・ 薫 の 死 去 ︵ 明 治 三 八 年 四 月 二 三 日 ︶ の 二 か 月 後 の 六 月 二 日 謙 次 郎 と カ ネ た ﹃ 2 壺 碑 明 治 三 津 八 田 年 出 小 伝 ﹄ の 中 に も 、 品 子 を 悼 む 文 章 や 詩 歌 が 多 数 収 め ら れ て い る 。︶ か 月 後 の 一 一 月 六 日 の 読 売 新 聞 朝 刊 に は ﹁ 津 田 出 貴 族 院 議 員 の 慟 哭 ﹂ と 題 す る 記 事 が あ る ほ か 、 彼 の 死 去 後 に 出 版 さ れ あ る い は 死 因 は 新 聞 報 道 の 伝 え る 腎 臓 腫 瘍 で は な か っ た の か も し れ な い 。 娘 の 突 然 の 死 に 、 ・ 出 の 嘆 き は 大 き く 、 二 津 田 出 が 、 病 気 の 娘 の 縁 談 を 進 め る と も 思 え な い か ら 、 品 子 の 病 気 は 、 わ ず か 一 か 月 の 間 に 急 速 に 進 行 し た も の か 、 山 県 理 大 臣 、 伊 藤 宮 中 顧 問 官 、 陸 奥 農 商 務 大 臣 其 他 貴 顕 方 よ り 贈 り し 造 花 百 二 十 余 対 も あ り し と 外 国 教 師 八 名 、 貴 顕 の 夫 人 令 嬢 十 余 名 並 に 元 老 院 、 枢 密 院 、 裁 判 所 等 の 各 高 等 官 等 無 慮 三 百 余 名 に て 小 宮 ︹ 彰 仁 親 王 ︺ 殿 下 、 の 両 書 記 官 長 、 外 山 ︹ 正 一 ︺ 文 科 大 学 長 、 伊 沢 ︹ 修 二 ︺ 音 楽 学 長 、 山 県 ︹ 有 朋 ︺ 、 伊 藤 ︹ 博 文 ︺ 両 伯 爵 の 代 拝 者 、 東 京 女 学 館 の 論 説 23 年 ︶ ︶ 石 一 黒 八 忠 頁 悳 以 ﹃ 下 懐 、 旧 東 九 川 十 徳 年 治 ﹄ ・ 前 岩 掲 波 文 注 庫 5 、 ︶ ・ 昭 和 本 文 五 二 八 一 年 ︶ 頁 以 二 下 四 一 。 頁 、 中 泉 行 正 ・ 後 掲 注 41 ︶ ・ 七 四 頁 。 22 21 委 ︶ ︶ 員 梅 会 名 、 か 士 平 ね 子 の 成 四 ﹁ 大 母 年 道 ︶ ︶ の 梅 一 夜 薫 一 店 ﹂ 七 に 前 頁 足 掲 ︹ 袋 注 岡 を 17 孝 売 ︶ 発 言 っ ・ ︹ て 初 ︺ 。 両 出 親 ︺ を ② 養 ⋮ ひ ⋮ 飯 ︹ 炊 所 き 収 ま ︺ で 一 し 三 て 六 勉 ∼ 強 一 し 三 た 八 良 頁 人 。 の 20 19 18 出 ︶ ︶ ︶ ︺ 東 ① シ 城 川 ⋮ ン 博 徳 ⋮ ポ ﹁ 治 ︹ ジ 梅 ・ 所 ウ 先 前 収 ム 生 掲 ︺ ︶ と 注 一 梅 ワ 三 謙 レ 5 四 ︶ 次 ッ ・ ∼ 郎 ト 本 一 博 豆 文 三 士 七 五 の 頁 頁 人 幼 。 。 と 年 学 時 問 代 ﹂ の ﹃ 一 わ が こ ま 民 ﹂ 法 の 月 刊 ・ ゆ 梅 う 謙 び 次 ん 郎 ︵ 博 郵 士 政 ・ 弘 顕 済 彰 会 碑 郵 乏 時 代 ﹂ 婦 人 世 界 五 巻 一 三 号 ︵ 明 治 四 三 立 の 記 録 ﹄ 梅 謙 次 郎 博 士 顕 彰 記 念 誌 編 集 文 化 部 ︶ 三 巻 九 号 ︵ 昭 和 二 七 年 ︶ 一 〇 頁 。 紫 陽 ‖ 箕 輪 撫 ﹃ 名 士 の 母 ﹄ 文 武 堂 、 昭 和 五 年 ︶ 一 三 二 頁 ﹁ 一 四 17 16 15 14 其 ︶ ︶ ︶ ︶ の 読 東 東 東 子 売 川 川 川 再 新 徳 徳 徳 び 聞 治 治 治 卒 明 ・ ・ ・ に 治 前 前 前 下 三 掲 掲 掲 る 六 注 注 注 ﹂ ︶ 年 。 三 5 5 5 ︶ ︶ ︶ 月 ・ ・ ・ ① 本 本 本 二 文 文 文 四 七 六 二 日 頁 頁 〇 朝 。 。 三 刊 頁 ・ 。 ② 二 五 日 朝 刊 ﹁ 名 士 の 母 梅 ╱ 薫 ▲ 梅 ︵ 薫 法 ╱ 学 ︵ 博 法 士 学 梅 博 謙 士 次 梅 郎 謙 氏 次 の 郎 氏 ︶ の ﹂ 。 本 文 引 用 個 所 は 、 ︹ 初 ︶ ﹂ ⋮ ⋮ ︹ 所 収 ︺ 安 藤 ん 委 員 会 ︵ 編 ︶ ﹃ 新 修 江 市 誌 ﹄ 江 市 役 所 、 昭 和 三 七 年 ︶ 二 六 七 頁 ︵ 卒 進 ん で 新 番 士 と な り 、 功 あ れ ば 組 士 に 進 み 、 な け れ ば 13 12 11 10 命 ︶ ︶ ︶ ︶ に ﹃ 上 東 働 野 新 名 川 く 修 富 士 徳 積 太 江 の 治 り 郎 ・ だ ‖ 市 母 前 、 誌 野 ﹄ ︶ 掲 然 津 梅 注 し 靜 後 薫 六 掲 一 ﹂ 5 十 注 ︶ 郎 後 ・ に ︵ 13 掲 年 成 編 ︶ 注 譜 た ・ 纂 二 17 一 な ︶ ﹃ 六 ︶ 四 ら ・ 頁 ば 七 ︹ 。 、 江 頁 初 チ 市 。 出 ャ 誌 ︺ ン ﹄ ① と ⋮ 遺 ⋮ 江 言 ︹ 市 を 所 庁 書 収 、 い ︺ 昭 て 一 和 置 三 一 か 二 六 う 頁 年 と 、 ︶ 、 東 二 善 川 五 く 徳 〇 申 治 ∼ し ・ 二 て 前 五 居 掲 一 っ 注 頁 た 、 5 か 六 ︶ ら ・ 一 で 本 一 御 文 ∼ 座 五 六 い 頁 一 ま 以 三 す 下 頁 ﹂ 。 。 、 江 市 誌 編 さ に 取 り ま し て 全 く 夢 の 様 で 御 座 い ま す 、 夫 は 普 段 主 人 が 、 私 は 如 何 な 事 が あ ら う と 、 八 十 迄 は 生 き る 積 り 、 而 し て 又 夫 迄 は 一 生 懸 9 8 7 ︶ ︶ ︶ ﹃ 梅 東 か 川 人 事 ね 徳 興 子 治 信 ﹁ ・ 朝 前 録 ︵ 鮮 掲 第 半 注 二 嶋 に 5 版 ︶ ︶ 客 ・ ﹄ 死 本 せ 文 人 事 る 二 興 良 〇 信 人 二 の ∼ 所 、 追 二 明 想 〇 ﹂ 三 治 新 頁 四 一 家 。 年 二 巻 一 〇 号 ︵ 明 治 四 三 年 ︶ 一 九 頁 ﹁ 五 十 一 や 其 処 等 で 死 亡 ら う と は 、 私 共 六 月 一 八 日 発 行 ︶ う 之 部 七 六 〇 頁 ﹁ 梅 謙 次 郎 ﹂ 。 6 ︶ ﹃ 人 事 興 信 録 ︹ 初 版 ︺ ﹄ 人 事 興 信 所 、 明 治 三 六 年 四 月 一 八 日 発 行 ︶ う 之 部 六 四 六 頁 ﹁ 梅 謙 次 郎 ﹂ 。 (法政研究 83-3-172)438 梅謙次郎の子供たち(七戸) 38 な ︶ っ 桃 た の 日 作 本 成 文 し 化 た 人 梅 ﹄ 錦 之 一 丞 二 三 の 書 年 譜 房 、 は 昭 、 和 中 泉 二 八 行 年 正 ・ ︶ 後 一 五 掲 七 注 頁 41 。 ︶ ・ 七 四 ∼ 七 五 頁 に 掲 載 さ れ て い る 。 37 な ︶ い 梅 と 徳 い ﹁ ふ こ を と 語 で る し ﹂ た 月 ﹂ 刊 と ゆ あ う る び 。 ん な ︵ お 郵 、 政 梅 弘 か ね 済 子 会 ・ 郵 前 掲 文 注 化 部 9 ︶ ︶ ・ 三 二 巻 〇 九 頁 号 、 ︵ 東 昭 川 和 徳 二 治 七 ・ 年 前 ︶ 掲 八 注 頁 5 ⋮ ︶ ⋮ ・ ︹ 本 所 文 収 二 ︺ 六 高 六 久 頁 茂 も ︵ 参 編 照 ︶ 。 ﹃ 切 手 に だ と 申 さ れ ま し た 。 そ れ ま で 私 は 気 が つ き ま せ ん で し た が 、 毎 晩 床 に 入 っ て か ら 、 必 ず 唱 名 す る の が 例 で 、 一 晩 も 缺 か し た こ と は 439(83-3-173) 入 り ま し て か ら 、 何 か 口 の 中 で 申 し て を り ま す か ら 、 あ な た は 何 を 仰 し ゃ る の で す と 尋 ね ま す と 、 イ ヤ 、 母 の 戒 名 を 唱 へ て ゐ る の 死 別 れ た こ と が 、 ど ん な に 残 り 惜 し か っ た か と い ふ こ と は 話 の 序 に は 必 ず 母 の 話 が 出 る の で も わ か り ま す 。 あ る 夜 の こ と 、 臥 床 に 36 35 34 33 32 31 ⋮ 30 顕 ︶ ︶ ︶ ︶ ︶ ︶ ︶ ⋮ 彰 梅 東 東 ﹁ 東 東 ︹ 岡 会 か 川 川 川 川 所 孝 、 名 ね 徳 徳 士 徳 徳 収 ‖ 昭 子 治 治 の 治 治 ︺ ﹃ 江 和 ︵ ・ ・ ・ ・ 戸 三 談 前 前 前 前 わ 恵 二 母 が ︶ 掲 掲 ︶ 掲 掲 民 子 年 注 注 注 注 ﹁ ︶ 二 梅 法 梅 万 5 5 薫 5 5 の 謙 三 円 ︶ ︶ ﹂ ︶ ︶ 九 の ・ ・ 前 ・ ・ ・ 次 一 本 本 年 本 郎 借 文 文 掲 譜 文 梅 著 金 注 謙 山 一 七 次 書 口 を 二 七 五 ∼ 1 7 頁 頁 及 返 郎 宗 ∼ 八 ︶ 。 。 び 済 二 頁 ・ 博 論 義 ︹ し 士 ︵ た 七 。 初 ・ 文 嘉 頁 出 目 良 。 顕 録 永 ︺ 彰 四 人 ① 碑 ∼ の ⋮ 昭 苦 ⋮ そ 立 の 和 心 ︹ の 九 ﹂ 所 記 書 、 婦 収 誌 録 銀 人 ︺ 学 ﹄ 的 行 世 一 前 家 界 三 掲 研 ︶ 五 三 究 ﹂ 注 ﹂ 三 巻 ∼ 一 一 20 法 三 四 三 ︶ ・ 学 三 号 四 志 頁 二 林 。 ︵ 頁 七 明 。 二 八 治 二 頁 巻 四 。 三 三 年 ・ ︶ 四 四 号 〇 ︵ 頁 昭 に 和 も 六 ﹁ 〇 主 年 人 ︶ は 二 、 一 母 〇 親 頁 に 注 早 14 く ︶ 一 一 歳 の 頃 ︶ 、 謙 次 郎 の 妻 カ ネ の ・ 本 理 左 衛 門 に 就 い て 一 指 流 槍 術 を 学 ん で い る 。 伊 原 青 々 園 ︵ 編 ︶ ﹃ 出 雲 国 人 物 誌 ﹄ 伊 原 博 士 前 29 28 学 録 ︶ ︶ 掲 ︹ 生 を 注 時 書 引 名 代 い 5 用 士 の て ︶ 者 ・ 注 の 追 幾 本 懐 文 ︺ 母 ╱ の 山 二 口 ︶ ▽ 金 三 梅 法 を 四 宗 薫 学 得 義 頁 ﹂ 博 之 ︵ 以 談 前 士 を 下 掲 田 親 。 ︶ 注 部 元 な 博 17 芳 に お 士 ︶ 氏 送 、 の ・ 談 て 山 一 ︹ ﹂ 居 初 口 生 出 ⋮ た 宗 ﹂ ⋮ 様 義 読 ︺ ︹ だ ② ︵ 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事 典 ﹄ 日 外 ア ソ シ エ ー ツ 、 平 成 一 七 年 ︶ 一 五 一 頁 ﹁ 梅 錦 之 丞 ﹂ 、 奥 沢 生 ﹂ 日 本 医 事 新 報 一 六 四 〇 号 ︵ 昭 和 三 〇 年 ︶ 四 五 頁 、 中 泉 行 正 ﹁ 日 本 初 代 眼 科 教 授 梅 錦 之 丞 先 生 ﹂ 臨 床 眼 科 九 巻 一 〇 号 ︵ 昭 和 三 〇 41 謙 ︶ ﹂ 。 故 梅 錦 之 丞 君 の 事 蹟 検 眼 器 の 発 明 ﹂ 太 陽 一 巻 七 号 ︵ 明 治 二 八 年 ︶ 一 四 二 頁 、 山 賀 勇 ﹁ 我 が 国 最 初 の 眼 科 教 授 梅 錦 之 丞 先 39 金 学 40 江 ︶ ︶ 森 文 市 学 桃 誌 桃 桃 策 部 裕 ﹄ 裕 裕 ﹂ 、 論 行 前 行 行 ﹃ 叢 ① 掲 先 ・ 新 四 ﹁ 注 生 後 修 九 ﹃ の 掲 鉄 13 号 ︶ 業 注 江 ︵ ・ 績 市 昭 鑄 八 ﹂ 40 鑑 誌 和 二 ﹃ ︶ ・ ﹄ わ ﹄ 四 訳 一 が ② 前 九 頁 三 掲 年 者 以 民 三 金 法 注 ︶ 森 下 の ∼ 三 13 三 錦 。 頁 謙 ・ 四 ︶ ・ 、 梅 頁 に 二 伊 就 謙 注 四 原 次 17 て 六 青 郎 ︶ ﹂ 頁 々 博 。 科 、 園 学 士 な 武 ︵ ・ お 内 編 顕 、 研 博 ︶ 究 彰 桃 ︵ ﹃ 四 碑 裕 編 出 ・ 行 著 雲 五 立 に 国 ︶ の つ ﹃ 人 号 記 い 日 物 ︵ 録 て 本 誌 昭 ﹄ は 洋 ﹄ 和 前 、 一 学 掲 田 人 伊 八 注 中 名 原 年 隆 事 博 ︶ 20 二 典 士 一 ︶ ・ ﹁ ﹄ 顕 一 五 四 彰 一 江 柏 頁 頁 と 書 会 、 。 洋 房 、 同 、 昭 ② 学 江 平 和 ﹁ 藩 成 三 雲 儒 就 六 二 藩 ・ 中 年 年 洋 桃 フ ︶ ︶ 学 家 ラ 一 二 補 に ン 一 七 つ ス 八 五 前 い 学 頁 頁 篇 て に ﹁ ﹁ ﹂ は つ 金 三 立 、 森 二 正 ﹃ い 錦 九 大 て (法政研究 83-3-174)440 梅謙次郎の子供たち(七戸) の 手 つ か ず に あ る 月 初 め か 、 あ の 折 で 無 け れ ば 如 何 と も 工 夫 が つ き ま せ ん の で 、 止 む を 得 ず 質 を 置 い た こ と も 御 座 い ま す ﹂ と あ る 。 親 か ら 急 に 十 円 の 無 心 を 申 越 さ れ ま し た 、 然 し 月 中 葉 で あ っ て 、 限 り あ る 収 入 の 身 で は 、 月 末 の 月 給 日 か 、 夫 と も 受 取 っ た 残 り 薄 給 の 折 に も 、 其 中 の 半 を 親 へ 差 上 げ 、 残 り の 丗 五 円 に て 、 私 共 夫 婦 一 切 の 暮 し を 立 て た 時 も 御 座 い ま す 、 而 も そ の 頃 、 61 60 59 58 57 56 刊 ︶ ︶ ︶ ︶ ︶ ︶ 、 梅 梅 梅 梅 梅 梅 ② か か か か か か 一 ね ね ね ね ね ね 六 子 子 子 子 子 子 日 ・ ・ ・ ・ ・ ・ 別 前 前 前 前 前 前 刷 掲 掲 掲 掲 掲 掲 、 注 注 注 注 注 注 ③ 一 36 36 36 36 36 36 八 ︶ ︶ ︶ ︶ ︶ ︶ ・ ・ ・ ・ ・ ・ 日 三 三 三 三 三 三 朝 六 六 六 五 五 五 刊 ∼ 頁 頁 ∼ 頁 頁 ︶ 、 三 。 。 三 。 。 住 八 六 所 頁 頁 が 。 。 記 も 載 っ さ と れ も て 、 い 梅 る か の ね は 子 、 ・ 本 前 文 掲 掲 注 記 9 の ︶ ③ ・ 一 二 八 〇 日 頁 朝 の 刊 談 の は み 、 で 若 あ 干 る 異 。 な り 、 去 る 明 治 廿 七 年 頃 の 441(83-3-175) 55 54 53 頁 52 謙 時 ︶ ︶ ︶ ︶ 注 次 梅 な 読 東 梅 郎 謙 お 売 川 14 か 家 次 ︶ 、 新 徳 ⋮ ね の 郎 留 聞 治 ⋮ 子 先 家 ・ 代 ︵ 学 明 ・ か 治 前 ︹ 前 で 戸 所 掲 ら 四 掲 収 あ 主 注 る は 帰 三 注 ︺ 国 年 36 薫 震 し 三 5 二 ︶ の ︶ ︶ 七 ・ た 月 ・ 二 写 に 三 真 手 謙 二 本 頁 五 が 紙 次 二 文 も 郎 日 二 参 頁 送 を は 朝 六 照 。 ら 出 な れ し 、 刊 七 読 ﹁ 頁 。 お て て 、 き 肖 売 ▲ 。 東 た 像 新 社 川 も 写 聞 告 徳 の 真 に ╱ 治 ら の 合 今 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︶ 一 〇 〇 ∼ 一 〇 一 頁 ﹁ ︹ 明 治 四 一 年 一 月 の 渡 韓 か ら ︺ 間 も な く 先 生 は 、 内 地 に 帰 ら れ 酒 匂 の 別 荘 で 、 65 本 ︶ 文 川 二 崎 三 万 四 蔵 頁 ﹁ 。 梅 謙 次 郎 博 士 の 思 い 出 ︶ 朝 鮮 に 於 け る 梅 博 士 立 法 事 業 、 旧 慣 調 査 等 に 因 み て ﹂ 法 学 志 林 四 九 巻 一 号 ︵ 梅 謙 次 64 63 62 ︶ ︶ ︶ 山 口 宗 義 ︵ 談 ︶ 博 士 の 一 生 ﹂ 読 売 新 聞 明 治 四 四 年 八 月 二 五 日 朝 刊 ﹁ 梅 博 士 追 悼 記 念 号 ﹂ ⋮ ⋮ ︹ 所 収 ︺ 東 川 徳 治 ・ 前 掲 注 梅 か ね 子 ・ 前 掲 注 梅 か ね 子 ・ 前 掲 注 36 36 ︶ ︶ ・ ・ 四 四 〇 〇 ∼ 頁 四 。 一 頁 。 5 ︶ ・ (法政研究 83-3-176)442 梅謙次郎の子供たち(七戸) の 上 京 も 、 祖 ・ 秀 平 の 末 子 ・ 十 之 助 一 家 と 一 緒 だ っ た と い う 。 一 方 、 当 時 、 梅 家 は 麹 町 一 番 丁 の 元 旗 本 屋 敷 に 住 ん で い た 。 玉 木 弟 ・ 玉 木 十 之 助 の 孫 。 ︻ 第 2 図 ︼ 参 照 ︶ に よ れ ば 、 三 成 重 敬 は 、 三 歳 の と き に 両 親 を 失 い 、 祖 ・ 玉 木 秀 平 に 養 育 さ れ 、 明 治 二 六 年 82 81 る ︶ ︶ ︶ 。 三 座 成 談 重 会 敬 ︶ ﹁ 黒 一 板 文 勝 化 美 人 博 の 士 生 を 涯 偲 ﹂ ﹃ び 追 な 想 が ら ︵ 梅 上 徳 ︶ を ﹂ 偲 日 び 本 て 歴 ﹄ 後 一 掲 三 注 四 号 ︵ ︶ ・ 昭 四 和 〇 三 頁 四 。 年 ︶ 二 三 頁 。 な お 、 後 藤 昂 ︵ カ ネ の 母 ク ニ の 末 443(83-3-177) 80 の ︶ ﹃ 兄 ︶ 二 が 〇 世 ﹁ 紀 当 時 日 京 本 人 都 か 名 ら 事 東 典 京 ︵ の そ 三 ∼ 成 わ 重 ︶ 敬 ﹄ 氏 日 ︵ 外 東 75 ア ︶ ・ ソ 大 二 七 シ 料 三 エ 編 頁 ー 纂 以 ツ 所 下 、 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︶ ︶ 巻 ﹂ 頭 法 ﹁ 律 小 の 泉 ひ セ ろ ツ 75 ば 関 四 ︶ ・ 四 係 系 二 〇 巻 図 五 ﹂ 頁 。 、 号 ︵ 長 谷 昭 川 和 洋 五 二 六 ・ 年 前 ︶ 掲 五 注 八 頁 75 、 ︶ ・ 後 一 藤 一 昂 三 ﹁ 頁 梅 。 謙 な 次 お 郎 、 と 読 八 売 雲 新 の 聞 こ と な ど ﹂ へ る ん 一 九 号 ︵ 昭 和 五 七 年 ︶ 五 頁 、 野 島 幹 郎 ・ 前 掲 注 75 74 〇 ︶ ︶ ﹃ 石 野 、 島 日 嘉 本 幹 武 永 郎 道 年 ﹁ 間 梅 大 の 系 謙 ・ 六 次 代 郎 第 ・ 七 博 理 巻 士 ﹄ 左 の 衛 五 前 門 掲 〇 注 定 年 静 ﹂ 71 ︵ ﹃ ︶ カ わ ・ が 四 ネ の 民 一 法 〇 ︶ の 頁 。 二 〇 ・ 〇 梅 石 謙 。 次 郎 博 士 ・ 顕 彰 碑 立 の 記 録 ﹄ 前 掲 注 20 ︶ ・ 二 二 頁 ﹁ 系 図 ﹂ 、 長 谷 川 洋 年 間 の 五 代 ・ 理 左 衛 門 定 重 ︵ 理 外 。 カ ネ の 祖 ︶ 一 〇 〇 石 、 天 保 年 間 の 理 左 衛 門 ︵ カ ネ の 祖 ︵ 五 代 ︶ か ︵ 六 代 ︶ か 不 明 ︶ 一 〇 73 ︹ ︶ 井 た だ 二 し ︺ 、 。 福 田 明 正 ・ 前 掲 ︶ 注 一 72 〇 ︶ 〇 ・ 石 一 、 五 宝 五 暦 ∼ 年 一 間 五 の 六 四 頁 代 ﹁ ・ 理 江 左 藩 衛 士 門 槍 定 術 国 家 ︵ 一 戯 覧 斉 表 。 ﹂ カ に ネ よ の れ 曾 ば 祖 、 享 ︶ 和 は 年 な 間 ぜ の か 三 二 代 〇 ・ 石 理 ︵ 左 誤 衛 植 門 か 定 ︶ 、 良 文 ︵ 化 節 外 。 梅 謙 次 郎 妻 カ ネ の 高 祖 ﹃ 日 本 武 道 大 系 ・ 第 七 巻 ﹄ 前 掲 注 71 ︶ ・ 四 〇 九 ∼ 四 一 一 頁 、 ﹃ 日 本 歴 人 物 事 典 ﹄ 朝 日 新 聞 社 、 平 成 六 年 ︶ 一 五 八 九 頁 ﹁ 本 一 指 ﹂ 論 説 89 と ︶ 合 山 冊 口 さ れ 五 て 郎 、 ︵ 信 編 山 輯 社 ︶ ﹃ ﹃ 日 第 三 本 立 期 法 帝 国 資 議 料 全 会 集 見 聞 ・ 別 録 巻 ﹄ 興 文 社 、 明 治 二 五 年 ︶ 。 ﹄ と し て 復 刊 さ れ た 。 国 魏 象 ︹ ギ ゾ ー ︺ 原 著 ︶ ・ ︹ ア ン ド リ ー ︵ 英 訳 ︶ ︺ ・ 藤 田 四 郎 ︵ 重 訳 ︶ ﹃ 欧 洲 代 議 政 体 起 原 ︵ 第 二 巻 ︶ ﹄ 自 由 出 版 社 、 明 治 一 六 年 ︶ 年 氏 ら ︶ 、 著 の ・ 重 仏 日 訳 国 ギ 本 ﹃ 山 代 ゾ 口 議 ー 政 ︵ 五 体 原 郎 原 著 訳 論 ︶ ﹃ ﹄ ・ ︹ 代 の ア 議 ﹁ ン 政 序 ド 体 ﹂ リ 原 を ー 論 執 ︵ ︵ 筆 英 完 し 訳 ︶ て ﹄ い ︶ ︺ ・ 出 る 漆 版 、 間 人 旧 真 ・ 知 学 加 の ︵ 藤 間 重 正 柄 訳 七 で ︶ ﹃ 、 あ 代 発 る 議 兌 。 政 人 な 体 ・ お 起 大 、 原 倉 同 孫 書 ︵ 兵 第 衛 一 、 正 冊 明 確 ︶ 治 な ﹄ 一 書 自 六 名 由 年 は 出 ︶ 、 仏 版 国 社 は 学 、 、 明 最 士 魏 治 近 一 ︵ 像 五 平 ︹ ギ 年 成 ゾ ︶ 、 二 ー 仏 五 ︺ 間 学 部 紀 要 五 号 ︵ 平 成 二 四 年 ︶ 八 一 頁 。 寸 鉄 ﹂ の 主 筆 ・ 織 田 純 一 郎 は 、 明 治 一 六 年 に 山 口 五 郎 が 翻 訳 し た ギ ゾ ー の 著 作 の 英 訳 か 88 月 ︶ 、 政 上 治 巻 新 之 聞 三 ﹁ ・ 寸 明 鉄 治 ﹂ 一 に 八 関 年 し 二 て 月 は ︶ 、 上 野 隆 生 ﹁ 陸 奥 宗 光 と ﹃ 寸 鉄 ﹄ 政 治 的 人 間 と 政 治 新 聞 に つ い て の 一 察 ﹂ 和 光 大 学 現 代 人 87 本 ︶ 山 英 口 国 ス 五 ペ 郎 ン 訳 サ ﹃ ー 刑 氏 法 著 原 ・ 理 日 ・ 本 獄 山 則 口 論 綱 五 ・ 郎 完 訳 ﹄ 述 山 ﹃ 口 哲 学 五 原 郎 理 、 ﹄ 明 加 治 藤 一 正 五 七 年 、 五 上 月 巻 二 之 十 一 七 ・ 日 明 版 治 権 一 免 七 許 年 、 六 明 月 治 、 一 上 五 巻 年 之 一 二 〇 ・ 月 明 印 治 行 ︶ 一 。 七 年 一 二 山 山 〇 口 口 日 版 五 五 権 郎 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給 費 生 の 募 集 が 発 表 さ れ た の で 、 こ れ に 応 募 す る こ と に 決 し 、 推 薦 方 を 富 井 男 爵 に お 願 い し ま し た 。 こ の 兎 に 角 、 か よ う な 次 第 で 、 如 何 に も 金 を 出 し て 頂 く に 忍 び な か っ た 。 と こ ろ が 、 丁 度 そ の 頃 、 法 科 大 学 の 掲 示 板 に 陸 奥 ︹ 宗 が 国 家 よ り 受 け る 俸 給 の み で 生 活 し て お れ ば 、 あ れ が 当 然 で あ り ま す 。 こ れ は 全 く 、 男 爵 の 人 格 高 潔 の 現 わ れ に 外 な ら な い 。 ん ど 人 臣 と し て 最 高 の 地 位 に 在 ら れ た 方 で あ る に 拘 わ ら ず 、 財 産 と し て は 一 銭 の 余 裕 も な い 状 態 で あ り ま し た 。 も と よ り 、 官 を 承 知 し て い る 自 と し て は 、 引 続 き 学 資 を 出 し て 頂 く に 忍 び ま せ ん で し た 。 富 井 先 生 は 枢 密 顧 問 官 、 男 爵 、 法 学 博 士 と 、 殆 窮 す る 状 態 で あ り ま し た 。 男 爵 に 相 談 す る と 、 俺 が 出 す と 言 わ れ る の で あ る が 、 短 い 間 で も 一 緒 に 暮 ら し て 男 爵 家 の 家 計 状 態 周 氏 が か よ う に し て 高 等 学 に 入 学 致 し ま し た の で 、 私 は 富 井 男 爵 の 所 は 辞 退 し よ う と 思 っ た が 、 辞 め る と た ち ま ち 学 資 に た 。 私 は そ の 後 、 確 か 一 度 か 二 度 、 様 子 を 見 に 行 っ た 記 憶 が あ り ま す 。 ⋮ ⋮ ︹ 中 略 ︺ ⋮ ⋮ 。 沢 俊 樹 氏 で あ り ま す 。 か く し て 、 富 井 氏 は 三 好 先 生 の 経 営 さ れ て い た 明 善 寮 と い う 寄 宿 舎 に 唐 沢 氏 と 同 宿 す る こ と に な り ま し 生 と 同 宿 さ せ て 頂 く よ う に お 願 い し ま し た 。 そ し て 、 先 生 の ご 紹 介 に よ っ て 選 任 せ ら れ た の が 、 先 に 警 保 局 長 を 務 め ら れ た 唐 好 愛 吉 先 生 で 、 以 前 長 野 県 の 中 学 長 を し て お ら れ た 方 で あ っ た の で 、 先 生 に 富 井 周 氏 の 将 来 を 頼 み 、 な お 二 高 在 学 中 の 模 範 兎 に 角 、 か よ う に し て 翌 年 、 仙 台 の 第 二 高 等 学 の 入 学 試 験 を 受 け さ せ た と こ ろ 、 無 事 に 入 学 で き た 。 当 時 、 二 高 の 長 は 三 周 氏 は 良 く な い 少 年 で 、 中 学 生 の く せ に 酒 は 飲 む 、 煙 草 は 吸 う と い う 風 で 時 に は 腕 力 を も っ て 懲 ら す 必 要 が あ る 位 で あ っ た 。 そ 訪 の で ね 家 、 て 先 、 教 頃 何 育 英 と を 国 か 委 皇 学 ね 帝 資 ら の を れ 戴 得 た 冠 る の 式 方 で に 法 あ も は り 参 無 ま 列 い す し も 。 た の 私 故 か は 政 と 男 章 相 爵 男 談 家 爵 し の の た 前 長 と に 男 こ 家 富 ろ を 井 が 借 周 、 り 氏 家 て が 、 、 教 周 当 師 氏 時 の と 附 口 起 属 を 居 中 探 を 学 し 共 の て に 四 く す 年 れ る か ま こ 五 し と 年 た に に 。 な 在 そ り 学 れ ま 中 が し で 富 た あ 井 が っ 男 、 た 爵 当 の の 時 で ご の 、 家 ま っ た の で た ち ま ち 学 資 に 窮 し て し ま っ た 。 そ こ で 私 は 、 高 等 師 範 に 在 学 し た 縁 故 か ら 、 嘉 納 治 五 郎 先 生 や 故 小 泉 又 一 先 生 を ︹ 東 京 帝 国 大 学 の ︺ 学 費 は 一 ヶ 月 三 〇 円 位 で 足 り た の で あ る が 、 教 員 生 活 中 に 貯 え た か な 金 は 、 そ の 年 の 中 に 費 消 し て し 島 島 の 四 慶 慶 長 四 太 太 男 年 ﹁ ・ 七 生 吾 周 月 が の 法 一 半 家 科 三 生 大 〇 の 教 学 年 体 師 政 記 験 を 治 念 を 務 学 誌 語 め 科 る た 卒 ﹂ の 業 ︹ 熱 初 は 、 誠 出 、 一 ﹄ 東 一 ︺ 京 月 五 東 島 急 帝 文 国 官 育 本 大 高 英 社 学 等 会 社 、 内 に 試 入 験 平 報 学 に 成 ﹁ 二 清 し 合 五 和 た 格 明 し 年 ﹂ 治 て ︶ 昭 三 和 四 鉄 〇 道 七 一 ∼ 院 頁 二 四 に ︶ 年 。 七 一 入 年 省 月 の ⋮ 号 ⋮ こ ⋮ と と ⋮ で い ︹ あ う 所 収 る 経 。 歴 ︺ 五 の ﹃ 東 島 持 京 は 主 以 で 都 下 あ 市 大 の る よ が 学 う 、 グ に 五 ル ー 回 島 が プ 想 の す 富 祖 る 井 ・ ︵ 政 五 五 章 商 し ︶ 業 て 学 青 五 木 島 の 小 慶 英 学 太 語 ︵ 教 代 明 師 用 治 と 教 一 な 員 五 る と 年 も な 四 、 る 月 翌 が 一 四 、 八 〇 二 日 年 年 生 四 後 ︶ 月 の は 職 三 、 を 六 明 辞 年 治 し 四 三 て 月 三 再 東 年 び 京 三 上 高 月 京 等 、 師 本 九 範 中 月 学 学 東 京 英 卒 帝 文 業 国 科 、 大 に 東 学 入 京 の 学 高 選 、 等 科 三 商 に 九 業 入 年 学 学 三 後 月 ︵ 、 卒 現 翌 業 ・ 一 後 一 〇 は 橋 月 四 大 本 月 学 科 三 ︶ に 重 の 編 県 受 入 立 験 学 四 に し 日 失 て 市 敗 、 (法政研究 83-3-180)446 梅謙次郎の子供たち(七戸) 二 年 甲 組 ︵ 英 法 文 科 ︶ 四 十 三 人 ﹂ 一 五 六 頁 ﹁ 東 京 高 等 師 範 附 属 ︶ ﹃ 第 二 高 等 学 一 覧 ︵ 自 大 正 二 年 至 大 正 三 年 ︶ ﹄ 第 二 高 等 学 一 年 甲 組 ︵ 英 法 文 科 ︶ 四 十 七 人 ﹂ 一 五 三 頁 に ﹁ 東 京 高 等 師 範 附 属 梅 、 緑 大 梅 緑 東 正 二 京 東 年 ﹂ 、 一 京 ﹃ ﹂ 第 一 と 月 二 ︶ あ 高 る 等 第 。 学 七 章 一 覧 生 ︵ 徒 自 ︵ 大 大 正 正 三 二 年 年 至 十 大 月 正 調 四 ︶ ﹂ 年 ︶ 第 ﹄ 一 第 部 な り 梅 、 ﹃ か 人 ね 事 子 興 ・ 信 前 録 掲 一 ︵ 注 覧 第 ︵ 36 八 自 ︶ 東 版 ・ 大 京 ︶ 三 ﹄ 正 八 府 元 人 人 年 頁 海 事 至 。 軍 興 大 少 信 正 佐 所 二 鈴 、 年 木 昭 ︶ 光 和 ﹄ 信 三 第 に 年 二 ⋮ ︶ 高 ⋮ イ 等 嫁 一 学 せ 七 り 四 、 ﹂ 頁 大 と ﹁ 正 あ 板 二 る 倉 年 。 一 太 一 郎 月 ﹂ 、 ︶ ﹃ 人 第 事 七 興 章 信 録 生 ︵ 徒 第 ︵ 九 大 版 正 ︶ 元 ﹄ 年 人 十 事 月 興 調 ︶ 信 ﹂ 所 第 、 一 昭 部 和 ︶ ﹃ 第 二 高 等 学 ︶ 447(83-3-181) 六 年 ︶ イ 二 〇 〇 頁 に は 、 子 と な れ り ﹂ と あ る が ︵ 一 九 歳 ︶ 、 ﹃ 人 事 興 信 録 ︵ 第 七 版 ︶ ﹄ 人 事 興 信 所 、 大 正 一 四 年 ︶ い 一 一 六 頁 ﹁ 板 倉 太 郎 ﹂ で は 記 載 が な く ︶ 梅 子 の 名 は 、 ﹃ 人 事 興 信 録 ︵ 第 七 版 ︶ ﹄ 人 事 興 信 所 、 大 正 一 〇 年 ︶ い 一 〇 九 頁 ﹁ 板 倉 太 郎 ﹂ で は ﹁ 故 法 学 博 士 梅 謙 次 郎 の 養 界 人 物 事 典 ・ 第 三 巻 ︹ 司 法 篇 ︺ ﹄ ゆ ま に 書 房 、 平 成 七 年 ︶ 三 七 頁 。 法 篇 ︺ ﹄ ゆ ま に 書 房 、 平 成 七 年 ︶ 五 一 頁 、 ﹃ 帝 国 法 曹 大 観 ︵ 改 訂 三 版 ︶ ﹄ 帝 国 法 曹 大 観 編 纂 会 、 昭 和 四 年 ︶ ⋮ ⋮ ︹ 復 刻 ︺ ﹃ 日 本 法 曹 七 年 ︶ 四 九 頁 、 ﹃ 帝 国 法 曹 大 観 ︵ 改 訂 増 補 ︶ ﹄ 帝 国 法 曹 大 観 編 纂 会 、 大 正 一 一 年 ︶ ⋮ ⋮ ︹ 復 刻 ︺ ﹃ 日 本 法 曹 界 人 物 事 典 ・ 第 二 巻 ︹ 司 ︶ ﹃ 帝 国 法 曹 大 観 ﹄ 帝 国 法 曹 大 観 編 纂 会 、 大 正 四 年 ︶ ⋮ ⋮ ︹ 復 刻 ︺ ﹃ 日 本 法 曹 界 人 物 事 典 ・ 第 三 巻 ︹ 司 法 篇 ︺ ﹄ ゆ ま に 書 房 、 平 成 ︶ ︶ ︶ 読 売 新 聞 大 正 五 年 四 月 六 日 朝 刊 ﹁ 博 士 未 亡 人 の 新 し き 涙 ╱ 揃 っ て 立 派 な 四 令 息 の 生 立 ﹂ 。 梅 か ね 子 ・ 前 掲 注 9 ︶ ・ 一 九 ∼ 二 〇 頁 。 法 律 新 聞 七 三 七 号 ︵ 明 治 四 四 年 八 月 三 〇 日 ︶ 一 六 頁 ﹁ 故 梅 博 士 の 一 周 忌 ﹂ 。 町 十 七 番 地 に 移 転 す る 由 ﹂ 。 ︶ 読 売 新 聞 明 治 四 三 年 一 〇 月 二 八 日 朝 刊 ﹁ ● 梅 邸 の 移 転 故 法 学 博 士 梅 謙 次 郎 氏 遺 族 は 三 十 日 小 石 川 林 町 を 引 払 ひ 同 区 高 田 老 七 年 ︶ 九 三 頁 。 郎 や 加 藤 高 明 ︺ は た だ 強 い 一 方 の 人 だ っ た ﹂ と 語 っ て い る 。 五 島 慶 太 ﹂ 山 田 勝 人 ︵ 編 ︶ ﹃ 私 の 修 業 時 代 ﹄ 実 業 之 日 本 社 、 昭 和 二 し て い た の は 富 井 政 章 で あ り 、 ほ ん と う に 私 に 親 切 に 、 人 間 は か く あ る べ き だ と 教 え て く れ た の は 富 井 さ ん だ 。 ほ か ︹ 嘉 納 治 五 こ の よ う に 、 五 島 慶 太 は 、 東 京 帝 国 大 学 の 学 生 時 代 、 嘉 納 治 五 郎 ・ 富 井 政 章 ・ 加 藤 高 明 と い っ た 人 物 の 世 話 に な っ た が 、 最 も 尊 敬 を 卒 業 致 し ま し た 。 す か ら と 言 わ れ た 。 そ こ で 私 は 、 現 伯 爵 の 加 藤 厚 太 郎 氏 を 一 週 一 回 、 学 友 と し て 訪 問 す る 事 と な り 、 伯 爵 の 援 助 に よ り て 大 学 し て も よ い が 、 自 は 最 近 大 と し て 英 国 に 赴 任 し な け れ ば な ら な い か ら 、 留 守 中 、 自 の 子 供 を 見 て 貰 い た い 、 金 は 私 が 出 爵 か ら 加 藤 高 明 伯 爵 に 話 し て 頂 き ま し た の で 最 初 に 加 藤 伯 爵 に 面 会 致 し ま し た 。 と こ ろ が 、 加 藤 伯 爵 は 、 陸 奥 の 奨 学 資 金 を 貸 論 説 う と 親 身 に 江 藩 洋 学 の 系 譜 を 想 定 し 、 三 敬 え て 下 さ っ て 居 り 、 私 は の 出 気 来 に 栄 大 を い 楽 に し 召 み し に た し こ て と い も る あ ﹂ る と 。 あ こ る の 。 因 な 縁 お 浅 、 か 田 ら 中 ざ 隆 る 二 梅 ・ さ 前 ん 掲 は 注 、 39 私 の ︶ ・ 為 五 三 頁 も 参 照 。 に よ い 本 を 作 っ て や ろ 字 る 裕 を 梅 行 醇 、 ん 氏 昭 で で 和 与 あ 五 へ る 一 た 。 年 ︹ 氏 ︶ 謙 は の 次 梅 ﹁ 郎 謙 あ の 次 と 字 郎 が ﹁ の き 子 孫 ﹂ 順 に 一 ﹂ 当 二 の ら 〇 名 れ 頁 付 、 に け 先 は 親 に 、 ︺ 名 最 。 を 又 挙 後 私 げ に は た 今 か 三 回 つ 成 の て 重 出 天 敬 版 愚 と に 孔 親 当 平 戚 っ 、 で て 望 あ 御 月 る 世 兎 。 話 毛 謙 に 、 次 な 金 郎 っ 森 は た 錦 修 の 謙 道 は 、 館 中 入 日 央 江 記 文 に 論 郎 登 事 、 場 業 梅 す 出 謙 る 版 次 し に 郎 、 勤 と 節 め い 山 ら ふ は れ ︶ 桃 裕 行 が 刊 行 し た 限 定 一 五 〇 部 の 私 家 版 桃 節 山 ︵ 著 ︶ ・ 桃 裕 行 ︵ 編 ︶ ﹃ 西 遊 日 記 ・ 肥 後 見 聞 録 桃 節 山 歿 後 百 年 記 念 ﹄ 桃 に 呼 び 寄 せ 、 自 の 手 許 で 正 の 仕 事 を 手 伝 わ せ て い た の で あ る ﹂ 。 ら 東 京 に 引 取 っ て 以 来 、 農 業 大 学 に 入 っ て 兵 隊 に 取 ら れ る ま で 、 ず っ と め ん ど う を 見 、 終 戦 後 清 瀬 で 働 い て い た の を 、 三 十 年 東 京 が 、 そ の 目 白 に 引 越 し た あ と 、 し ば ら く 甥 の 醇 だ け が 残 っ て 、 ふ た り で 自 炊 生 活 を 続 け た 。 徳 は 、 こ の 甥 が 中 学 二 年 の 時 、 広 島 か 年 九 梅 月 震 ︶ ・ 卒 前 業 掲 生 注 姓 79 名 ﹂ ︶ ・ 五 文 学 九 部 頁 ﹁ ﹂ 一 徳 一 は 頁 母 ︹ 以 下 カ に ネ ︺ も の 記 載 死 が 後 ︹ な い 昭 。 和 ︺ 三 十 二 年 の 二 月 ま で 、 兄 ︹ 緑 ︺ の 遺 族 と い っ し ょ に 暮 ら し て い た ︶ 京 帝 国 大 学 、 大 正 一 三 年 八 月 ︶ 学 生 生 徒 姓 名 ︵ 大 正 十 二 年 九 月 末 現 在 ︶ ﹂ 文 学 部 ﹂ 五 一 頁 以 下 、 月 至 大 正 十 一 年 七 月 ︶ 卒 業 生 姓 名 ﹂ 文 学 部 ﹂ に 緑 の 名 は な く 、 そ の 後 の ﹃ 東 京 帝 国 大 学 一 覧 ︵ 従 大 正 十 二 年 至 大 正 十 三 年 ︶ ﹄ 自 大 正 十 一 年 八 月 至 大 正 十 二 東 学 部 ﹂ 二 一 頁 以 下 、 ﹃ 東 京 帝 国 大 学 要 覧 ︵ 従 大 正 十 一 年 至 大 正 十 二 年 ︶ ﹄ 東 京 帝 国 大 学 、 大 正 一 二 年 二 月 ︶ 附 録 ﹂ 自 大 正 十 年 八 要 覧 ︵ 従 大 正 十 年 至 大 正 十 一 年 ︶ ﹄ 東 京 帝 国 大 学 、 大 正 一 一 年 二 月 ︶ 附 録 ﹂ 月 文 調 ︶ ︶ 学 ﹃ ︶ ﹂ 部 学 ﹂ 東 第 生 京 生 大 帝 一 徒 正 国 部 三 姓 四 大 年 名 年 学 ︵ 入 一 乙 組 大 学 覧 ︵ 正 ﹂ ︵ 独 九 五 従 年 〇 大 法 文 九 頁 正 科 月 ﹁ 八 ︶ 末 梅 年 四 現 緑 至 十 大 人 在 東 正 ︶ ﹂ 京 九 ﹂ 一 第 平 年 五 ︶ 五 ﹂ 、 ﹄ 一 ﹃ 頁 文 東 東 ﹁ 京 京 学 東 部 帝 帝 京 国 国 ﹂ 高 大 大 大 学 学 師 正 一 、 附 四 覧 大 属 年 ︵ 正 入 従 九 梅 学 大 年 震 ﹂ 正 三 四 九 月 東 九 年 ︶ 京 ﹂ 頁 至 。 ﹁ 大 学 梅 正 生 緑 十 生 徒 年 東 ︶ 姓 京 ﹄ 名 平 東 ︵ ﹂ 京 大 正 と 帝 八 あ 国 年 る 大 九 が 学 月 、 ﹃ 、 末 東 大 現 京 正 在 帝 一 ︶ 国 〇 ﹂ 自 大 正 八 年 十 月 至 大 正 十 年 七 月 ︶ 卒 業 生 姓 名 ﹂ 大 年 第 文 学 三 五 梅 等 一 ︶ 震 学 年 ﹃ 乙 第 東 、 組 二 京 大 ︵ 高 ﹂ 正 独 等 、 ﹃ 四 法 学 第 年 文 二 一 科 一 高 一 ︶ 覧 等 月 四 ︵ 学 ︶ 十 自 三 大 一 第 人 正 覧 七 ﹂ 三 ︵ 章 一 年 六 至 自 大 生 二 大 正 徒 頁 正 ︵ ﹁ 五 大 東 四 年 正 京 年 ︶ 至 四 高 ﹄ 大 年 師 第 正 十 附 二 六 属 月 高 年 調 等 ︶ 梅 ﹄ ︶ ﹂ 震 学 第 第 、 二 一 東 高 部 京 大 正 等 二 ﹂ 三 学 年 、 ﹃ 年 乙 第 一 、 二 大 組 高 一 ︵ 月 正 独 等 ︶ 学 五 法 第 年 文 一 七 一 科 覧 章 一 ︶ 月 四 ︵ ︶ 十 自 生 大 徒 第 人 正 ︵ 七 ﹂ 四 大 章 一 年 正 五 至 三 生 九 大 年 徒 頁 正 十 ︵ ﹁ 五 月 大 東 年 調 正 京 ︶ ︶ 五 高 ﹄ ﹂ 年 師 第 第 十 附 二 一 月 属 高 部 名 ︵ 大 正 四 年 十 月 調 ︶ ﹂ 二 六 九 頁 ﹁ 第 一 部 英 文 科 ﹂ 八 名 中 に ﹁ 東 文 梅 緑 東 京 ﹂ の 名 が 認 め ら れ る 。 附 二 属 高 等 梅 学 緑 、 東 大 京 正 ﹂ 。 三 年 さ 一 ら 一 に 、 月 ︶ 第 二 第 高 七 等 章 学 生 一 徒 覧 ︵ ︵ 大 自 正 大 三 正 年 四 十 年 月 至 調 大 ︶ 正 ﹂ 五 第 年 一 ︶ ﹄ 部 三 第 年 二 甲 高 組 等 ︵ 学 英 法 、 文 大 科 正 ︶ 四 三 年 十 一 九 一 人 月 ﹂ ︶ 一 第 五 八 四 章 頁 ﹁ 卒 東 業 京 生 高 氏 師 (法政研究 83-3-182)448 梅謙次郎の子供たち(七戸) 委 員 一 三 名 の 氏 名 が 掲 載 さ れ て い る 。 ︶ ︶ 中 村 宗 文 ﹁ 文 化 切 手 の 発 行 に つ い て 主 と し て 発 行 ま で の 経 緯 ﹂ ﹃ 切 手 に な っ た 日 本 文 化 人 ﹄ 前 掲 注 37 ︶ ・ 二 〇 四 頁 に 、 選 定 大 内 兵 衛 ﹁ 梅 先 生 の 葬 儀 梅 謙 次 郎 伝 ・ そ の 一 ﹂ 法 政 ︵ 法 政 大 学 ︶ 三 巻 五 号 ︵ 昭 和 二 九 年 ︶ 一 五 頁 。 泉 町 三 六 三 梅 信 ︹ 震 ︺ 氏 に 、 こ の 切 手 の 第 一 号 が 佐 藤 郵 相 か ら 贈 ら れ る ﹂ 。 で 凸 版 印 刷 の 大 型 な も の 。 同 氏 が 亡 く な っ た 明 治 四 十 三 年 八 月 二 十 五 日 を 記 念 、 発 売 さ れ る わ け だ が 、 当 日 は 同 氏 の 令 息 杉 並 区 和 449(83-3-183) 十 五 日 か ら 全 国 の 各 郵 局 で 売 り 出 す 。 明 治 の 法 学 者 と し て 立 法 上 に 功 績 を 残 し た 元 東 京 帝 大 教 授 梅 謙 次 郎 氏 を 描 い た 十 円 切 手 ︶ 朝 日 新 聞 昭 和 二 七 年 八 月 二 一 日 朝 刊 ﹁ 文 化 切 手 二 五 日 発 売 ╱ 梅 謙 次 郎 教 授 の 肖 像 入 り ﹂ 郵 政 省 は 第 十 四 回 目 の 文 化 切 手 を 二 ・ 平 岡 浩 太 郎 は 四 人 兄 弟 の 二 男 で 、 長 男 ・ 内 田 良 五 郎 の 三 男 が 内 田 良 平 、 四 男 ・ 平 岡 常 次 郎 の 長 男 が 平 岡 昇 で あ る 。 の ︶ ︶ ︶ 通 ﹃ 岡 梅 り 追 孝 震 ⋮ 想 ‖ ・ ⋮ 江 前 ▽ 戸 掲 同 梅 恵 注 ︹ 徳 ‖ を 子 ・ 取 偲 前 ︶ ・ 締 び 掲 一 役 て ﹄ 注 八 ︺ 九 梅 後 30 頁 震 掲 ︶ 注 ・ ︹ 。 ︵ 元 初 満 出 ︶ 洲 ︺ に 一 中 は 央 四 、 銀 一 平 行 頁 岡 注 理 昇 事 か 25 ︶ ﹂ ら ︶ ⋮ の も ⋮ 名 追 が 悼 ︹ 所 認 文 収 め が ら 寄 ︺ れ せ 二 三 る ら 八 の れ で て 頁 。 、 い 就 る 任 が 時 ︵ 期 三 は 四 、 頁 昭 ﹁ 和 徳 三 さ 二 ん 年 の 四 思 月 い 一 出 日 ﹂ で ︶ 、 あ 文 ろ 子 う の 。 祖 新 聞 昭 和 三 二 年 三 月 三 日 朝 刊 ﹁ 社 長 に 佐 々 木 義 彦 氏 ╱ 四 月 一 日 発 足 日 本 貿 易 信 用 会 社 ﹂ の 記 事 に は 、 内 定 し た 役 員 の 氏 名 は 次 ﹃ 同 ︵ 二 四 版 ︶ ﹄ 昭 和 四 三 年 ︶ う 一 〇 〇 頁 、 ﹃ 同 ︵ 第 二 五 版 ︶ ﹄ 昭 和 四 四 年 ︶ う 一 〇 四 頁 は ﹁ 昭 和 三 三 年 四 月 ﹂ と し て い る が 、 朝 日 六 年 ︶ う 六 三 頁 は ﹁ 昭 和 三 三 年 六 月 ﹂ と し 、 ﹃ 同 ︵ 第 二 二 版 ︶ ﹄ 昭 和 三 九 年 ︶ う 七 二 頁 、 ﹃ 同 ︵ 第 二 三 版 ︶ ﹄ ︶ ︶ 大 正 梅 加 震 藤 六 年 の 聖 ︵ 取 文 一 締 ︵ 役 編 九 三 就 集 人 任 ︶ の ﹃ ︶ ﹂ 時 殖 二 民 期 地 六 に 一 つ 帝 頁 国 き 人 ﹁ 、 ﹃ 物 東 法 人 叢 事 書 興 63 梅 緑 信 満 録 州 東 ︵ 国 第 24 京 ﹂ 二 戦 。 〇 後 版 の ︶ 満 ﹄ 洲 人 四 事 星 興 霜 信 ︹ 所 梅 、 震 昭 ︺ ﹄ 和 三 ゆ 四 ま 年 に ︶ 書 う 房 五 、 二 平 頁 成 、 二 ﹃ 同 四 年 ︵ ︶ 第 。 二 一 版 ︶ ﹄ 昭 和 四 一 年 ︶ う 八 昭 八 和 頁 三 、 ︶ ﹃ 第 二 高 等 学 一 覧 ︵ 自 大 正 六 年 至 大 正 七 年 ︶ ﹄ 第 二 高 等 学 、 大 正 六 年 一 一 月 ︶ 第 八 章 卒 業 生 氏 名 ﹂ 第 一 部 独 法 科 ﹂ 学 部 に 進 学 す る が 、 大 正 一 一 年 の 卒 業 後 、 改 め て 法 学 部 に 入 り 直 し て 大 正 一 三 年 に 卒 業 し た 。 大 学 体 育 連 合 、 昭 和 五 三 年 ︶ 二 八 頁 で は 、 二 高 に 在 籍 し た 経 歴 が 省 略 さ れ て い る 。 ち な み に 、 小 出 は 、 そ の 後 、 東 京 帝 国 大 学 経 済 二 教 授 古 稀 記 念 論 文 集 、 昭 和 四 三 年 ︶ 五 七 七 頁 、 小 出 廉 二 ﹁ 私 の 履 歴 書 ﹂ 体 育 ・ ス ポ ー ツ ・ ク リ エ ー シ ョ ン 四 巻 二 号 ︵ 社 団 法 人 全 国 第 一 部 一 年 三 之 組 英 文 科 ︵ 四 十 一 人 ︶ ﹂ 一 三 二 頁 。 な お 、 小 出 廉 二 教 授 略 歴 ﹂ 法 律 論 叢 ︵ 明 治 大 ︶ 四 一 巻 四 ・ 五 ・ 六 号 ︵ 小 出 廉 頁 ︶ ︶ ﹃ 。 ﹃ 第 東 一 京 高 帝 等 国 学 大 学 一 一 覧 覧 ︵ ︵ 自 従 大 大 正 正 四 四 年 年 至 至 大 大 正 正 五 五 年 年 ︶ ︶ ﹄ ﹄ 第 一 高 等 学 、 大 正 四 年 一 二 月 ︶ 第 七 章 生 徒 姓 名 ︵ 大 正 四 年 九 月 末 調 ︶ ﹂ 東 京 帝 国 大 学 、 大 正 五 年 二 月 ︶ 学 生 生 徒 姓 名 ︵ 大 正 四 年 九 月 末 現 在 ︶ ﹂ 五 二 論 説 ︶ ︹ 引 用 者 注 ︺ ⋮ ⋮ 梅 謙 次 郎 の 談 話 ﹁ 二 十 世 紀 の 法 律 ﹂ は 、 実 際 に は 、 前 年 の 明 治 三 三 年 一 月 の 読 売 新 聞 ① 五 日 朝 刊 、 ② 六 日 朝 ︶ ︶ ︶ ︶ 梅 徳 ・ 前 掲 注 林 幹 ﹁ 梅 さ ん 37 を 偲 ︶ ・ び ︹ て 初 出 ﹂ ﹃ 武 井 と の 子 ﹁ 課 外 読 物 刊 行 会 と 梅 さ ん ﹂ ﹃ 下 俊 雄 ﹁ 亜 細 亜 学 生 会 の ︺ 追 こ 八 想 ろ ∼ の 一 梅 〇 梅 徳 頁 徳 君 ⋮ を ﹂ ⋮ 偲 追 ﹃ ︹ び 想 追 所 て 想 収 ﹄ ︺ 前 梅 一 掲 徳 梅 五 注 を 徳 七 偲 を ∼ ︶ び 偲 一 ・ て び 六 九 ﹄ て 一 頁 前 ﹄ 頁 。 掲 前 。 注 掲 注 ︶ ・ 八 頁 。 ︶ ・ 六 頁 。 て い な い こ と は 残 念 で な ら な い ﹂ と あ る 。 さ ら に 、 同 書 に は 、 三 成 重 敬 へ の 言 及 も あ る ︵ 一 一 九 頁 、 一 六 六 頁 ︶ 。 ﹃ 大 同 ︶ ︶ ︶ ︶ 正 時 な 梅 梅 梅 五 代 震 震 震 年 お ﹄ 、 ・ ・ ・ 九 ︹ 品 前 前 前 月 全 川 掲 掲 掲 三 六 力 注 注 注 十 巻 ﹃ 79 79 79 日 。 古 調 昭 書 ︶ ・ ︶ ・ ︶ ・ ﹂ 和 巡 六 六 六 第 二 礼 九 三 一 一 四 ﹄ 頁 頁 頁 ∼ 。 。 。 部 一 二 青 年 九 英 年 舎 丁 ︺ ・ 類 に 星 お 雲 三 け 社 十 る 、 八 故 昭 人 梅 和 ﹂ 徳 五 一 氏 七 二 の 年 五 ︶ 頁 意 一 ﹁ に 九 東 よ 一 京 る 頁 高 索 に 師 引 は は 、 梅 、 そ 徳 こ れ の に 東 道 京 の つ ﹂ 範 け 。 と て す も べ 岩 き 波 も 書 の 店 が の い ︹ ま 三 だ 宅 に ︺ 取 雪 上 嶺 げ 博 ら 士 れ 著 ︶ ﹃ 第 三 高 等 学 ︶ ︶ 戸 塚 武 彦 ﹁ 徳 一 さ ん 覧 と ︵ の 大 正 り 五 ﹂ 年 ﹃ 九 追 月 想 起 大 正 梅 六 徳 年 を 八 偲 月 び 止 て ︶ ﹄ ﹄ 前 第 掲 三 注 高 等 ︶ 学 ・ 一 、 頁 大 。 正 五 年 一 二 月 ︶ 本 大 学 予 科 生 徒 ︵ 九 百 十 八 人 ︶ 梅 震 ‖ 本 光 ︵ 編 ︶ ﹃ 追 想 梅 徳 を 偲 び て ﹄ 梅 震 、 昭 和 三 五 年 ︶ 。 は 、 梅 謙 次 郎 の 時 代 よ り 少 し 後 と い う 。 〇 周 年 記 念 冊 子 ︵ 上 巻 ・ 報 告 集 ︶ ﹄ 法 政 大 学 、 平 成 二 七 年 ︶ 二 五 六 頁 に よ れ ば 、 董 必 武 ︵ 中 国 国 家 副 主 席 ︶ が 法 政 大 学 で 学 ん だ の ︶ ︹ 引 用 者 注 ︺ た だ し 、 王 敏 ﹁ 第 二 回 シ ン ポ ジ ウ ム ︶ 研 究 動 向 梅 謙 次 郎 と 清 国 留 学 生 ﹂ ﹃ ボ ア ソ ナ ー ド ・ 梅 謙 次 郎 没 後 一 〇 関 係 者 と し て 、 例 え ば 田 口 卯 吉 の 如 き が 漏 れ て 西 周 と 梅 謙 次 郎 と だ け が 入 っ て い る の も 、 果 し て 適 当 で あ っ た ろ う か ﹂ 。 進 歩 的 な 色 彩 が 加 味 で き た ろ う に 、 と 今 に し て 残 念 に 思 っ て い る 。 ╱ 二 葉 亭 四 迷 な ど も 、 慮 せ ら る べ き で あ っ た ろ う 。 人 文 科 学 あ っ た が 、 政 治 家 は 入 れ な い 方 針 で あ っ た の で 、 問 題 に な ら な か っ た 。 し か し 、 せ め て 木 下 尚 江 ぐ ら い 入 れ て 置 い た ら 、 も う 少 し と 思 う が 、 少 し 革 新 的 な 活 動 を し た 人 物 も 入 れ る べ き で は な か っ た ろ う か 。 投 票 さ れ た 候 補 者 の 中 に は 、 大 井 憲 太 郎 な ど の 名 も ︶ ︶ ︶ ︶ 家 永 三 郎 ﹁ 文 化 切 手 主 題 人 物 の 選 定 に つ い て ﹂ ﹃ 切 手 に な っ た 日 本 文 化 人 ﹄ 前 掲 注 犬 丸 秀 雄 ﹁ 文 化 切 手 銓 衡 の 思 い 出 ﹂ ﹃ 切 手 に な っ た 日 本 文 化 人 ﹄ 前 掲 注 管 井 準 一 ﹁ 文 化 切 手 に よ せ て 専 門 委 員 の 一 人 と し て ﹂ ﹃ 切 手 に な っ た 37 日 ︶ ・ 本 二 文 四 化 37 一 人 頁 ﹄ ︶ ・ 。 前 二 掲 三 注 三 37 頁 ︶ ﹁ ・ 人 二 物 三 の 四 選 頁 定 。 は 大 体 は 適 当 だ 中 村 宗 文 ・ 前 掲 注 ︶ ・ 二 〇 五 頁 に 、 六 五 名 の 候 補 リ ス ト が 掲 載 さ れ て い る 。 (法政研究 83-3-184)450 梅謙次郎の子供たち(七戸) の 学 位 論 文 の ヴ ェ ル メ ー ユ 賞 受 賞 は 、 梅 が リ ヨ ン か ら ベ ル リ ン に 移 っ て か ら ︵ 明 治 二 二 年 七 月 一 七 日 ベ ル リ ン 着 、 二 四 日 ベ ル リ 生 め 博 東 活 て 士 京 の 来 が 帝 た 独 国 本 。 身 大 か 博 で 学 ね あ 法 と 士 っ 律 は 結 フ た 大 婚 の 学 し ラ で 教 ン た 、 授 ス の の 縁 の で 談 席 あ 彼 も が 女 っ に 出 設 た 対 て え 。 来 ら こ す た れ る れ 未 。 て は 陸 あ 練 ま は 奥 り た あ 宗 、 、 っ 光 や フ た は が ラ よ 、 て ン う 元 、 ス で 老 和 の あ 院 仏 愛 っ の 法 人 た 津 律 と が 田 学 の ︶ 出 縁 、 の の を 結 娘 学 き 局 を 監 っ こ 世 、 ぱ れ 話 文 り を し 官 絶 博 よ 高 ち 士 う 等 切 は と 試 る 、 し 験 決 は て 委 意 っ 、 員 で き 原 と り 敬 な も 断 を り あ り 、 っ 、 者 多 た 自 と 忙 ﹂ ら し な 。 だ 同 て 生 が 郷 、 活 、 の こ で 謙 、 れ あ 次 を っ 郎 乏 進 た 。 451(83-3-185) 帰 る こ と を 告 げ 、 共 に 日 本 に 帰 る こ と を 促 し た が 、 彼 女 は そ の 決 心 な ら ず 、 離 別 し て 、 帰 国 し た の で あ っ た 。 博 士 は 帰 国 す る と 、 リ ヨ ン に 、 求 婚 の 権 利 が 与 え ら れ た 。 博 士 は 、 こ こ で 求 婚 し 、 婚 約 し た の で あ っ た 。 し か し 、 博 士 は リ ヨ ン 市 に 永 住 せ ず 、 日 本 に ﹃ 論 文 ﹄ は リ ヨ ン 市 で 出 版 さ れ 、 後 か ら フ ラ ン ス 政 府 か ら 勲 章 が 贈 ら れ て い る 。 又 慣 例 に よ っ て 、 そ の 年 度 の 最 優 等 生 に は 、 ミ ス 、 ラ ン ス の リ ヨ ン 大 学 で 成 績 抜 群 、 卒 業 論 文 の ﹃ 和 解 論 ﹄ は 、 最 高 の 栄 誉 を 与 え ら れ た 。 リ ヨ ン 市 か ら 、 ヴ ェ ル メ ー ユ 賞 を 贈 ら れ 、 ︶ ︶ ︶ ︶ ︶ こ 後 読 れ シ 藤 売 に ン 昂 新 対 ポ ﹁ 聞 し ジ 梅 明 て ウ 謙 治 、 ム 次 三 後 ︶ 郎 三 藤 梅 と 年 昂 謙 一 ﹁ 次 江 月 梅 郎 ﹂ 五 謙 博 前 日 次 士 掲 朝 郎 の 注 刊 と 人 ・ 八 と 82 前 ︶ 雲 学 ・ 掲 の 問 一 注 こ ﹂ 一 と 前 三 ︶ な 掲 頁 ① ど 注 。 。 ﹂ 20 前 ︶ 掲 ・ 注 一 ︵ 二 76 二 ︶ 頁 ・ ︹ 六 後 頁 は 藤 昂 、 発 次 の 言 ︺ よ 。 う な ロ マ ン ス を 語 っ て い る 。 博 士 は 、 フ 本 光 ・ 前 掲 注 ︶ ・ 五 一 頁 。 学 、 大 正 十 三 年 三 月 ︶ 二 年 一 月 ︶ 卒 業 生 姓 名 ︵ 経 済 学 士 ︶ ﹂ 五 三 四 頁 ﹁ 徒 ︵ 大 正 十 年 十 一 月 現 在 ︶ ﹂ 三 四 四 頁 ﹁ 梅 光 卒 業 生 姓 名 ︵ 経 済 学 士 ︶ 東 ﹂ 京 五 八 本 ﹂ 、 八 光 ﹃ 京 頁 ﹁ 東 都 京 帝 本 ﹂ 国 光 、 ﹃ 大 京 学 東 都 一 京 帝 覧 ﹂ 国 ︵ 。 大 自 学 大 一 正 覧 十 ︵ 一 自 年 大 至 正 大 十 正 二 十 年 二 至 年 大 ︶ ﹄ 正 十 京 三 都 年 帝 ︶ 国 ﹄ 大 京 学 都 、 帝 大 国 正 大 十 三 二 四 頁 ﹁ 梅 光 東 京 ﹂ 、 ﹃ 京 都 帝 国 大 学 一 覧 ︵ 自 大 正 九 年 至 大 正 十 一 年 ︶ ﹄ 京 都 帝 国 大 学 、 大 正 十 年 一 二 月 ︶ 経 済 学 部 学 生 及 生 京 一 り 刊 ︶ ︶ ︶ ︶ か 、 ﹃ ﹂ 。 ﹃ 年 ﹃ 甲 、 ③ 京 京 組 第 本 二 七 都 都 ︵ 二 光 十 日 帝 帝 英 高 ﹁ 世 朝 国 国 法 等 兄 紀 刊 大 大 文 学 の の 、 学 学 科 こ 始 ④ 一 一 ︶ 一 と め 八 覧 覧 四 覧 ﹂ か 日 ︵ ︵ 十 ︵ ﹃ 、 朝 自 自 六 自 追 世 刊 大 大 人 大 想 紀 、 正 正 ﹂ 正 の ⑤ 八 七 一 四 事 九 年 年 六 年 梅 ハ 日 至 至 一 至 徳 マ 朝 大 大 頁 大 を ァ 刊 正 正 ﹁ 正 偲 何 、 九 八 東 五 び 方 ⑥ 年 年 京 年 て で 一 ︶ ︶ 高 ︶ ﹄ ﹄ ﹄ も 〇 ﹄ 前 師 第 掲 宜 日 京 京 附 い 朝 都 都 属 二 注 と 刊 帝 高 帝 し の 国 国 梅 等 ︶ て 計 大 学 ・ 大 光 ⋮ 六 学 五 ⋮ 回 学 、 、 一 、 東 ﹂ に 大 大 京 大 頁 と わ 正 正 。 正 ﹂ の た 九 。 四 言 っ 八 年 年 葉 て 年 三 一 で 連 八 月 一 始 載 月 ︶ 月 ま さ ︶ ︶ 経 る れ 経 済 第 ︶ た 。 ︵ 済 学 七 学 部 章 談 部 学 話 学 生 生 の 生 及 徒 冒 及 生 ︵ 頭 生 徒 大 は 徒 ︵ 正 ﹁ ﹂ 大 四 今 三 正 年 年 二 九 十 が 年 一 十 月 一 九 頁 調 世 月 ﹁ ︶ ﹂ 紀 初 梅 第 の 現 光 一 終 在 ︶ 東 部 わ ﹂ 論 説 れ た 際 に 蒐 集 さ れ た 、 数 々 の 貴 重 な 料 ・ 資 料 の ご 提 供 を 受 け た 。 厚 く 御 礼 申 し 上 げ た い 。 島 根 県 ︶ 日 本 民 法 の ・ 梅 謙 次 郎 博 士 夕 陽 の 湖 岸 に 立 っ て ﹂ 法 学 教 室 一 四 六 号 ︵ 平 成 四 年 ︶ 一 〇 頁 を 執 筆 さ ︻ 謝 辞 ︼ 本 稿 執 筆 に 際 し て は 、 木 佐 茂 男 ・ 本 学 名 誉 教 授 ︵ 梅 謙 次 郎 と 同 郷 の 江 出 身 ︶ よ り 、 教 授 が ﹁ 郷 土 と 法 学 者 ・ 三 頁 、 一 七 四 頁 、 二 三 三 頁 、 二 三 四 頁 。 ︶ ︶ ︶ ︶ 津 田 道 太 郎 ︵ 編 纂 ︶ ﹃ 壺 碑 読 売 新 聞 明 治 二 三 年 九 月 二 五 津 日 田 朝 刊 出 ﹁ 小 伝 際 ﹄ 家 青 津 木 田 藤 品 作 子 、 女 大 正 の 六 葬 年 儀 ︶ ﹂ 一 。 〇 五 頁 、 一 五 九 ∼ 一 六 四 頁 、 一 六 六 頁 、 一 六 七 頁 、 一 七 読 売 新 聞 明 治 二 三 年 九 月 二 二 日 朝 刊 ﹁ 津 田 品 子 女 逝 く ﹂ 。 東 京 朝 日 新 聞 明 治 二 一 年 一 二 月 二 六 日 朝 刊 ﹁ 女 子 奨 励 会 の 演 劇 ﹂ 。 た も の で あ る 。 ︶ ︶ ︶ 津 田 出 小 伝 ﹄ 一 六 一 頁 ﹁ 傷 阿 品 ﹂ 中 の ﹁ 品 女 夙 読 和 漢 書 、 兼 通 英 仏 独 之 学 、 其 如 巧 手 象 之 技 、 特 其 土 耳 ﹂ の 句 を 書 き 下 し 井 上 右 ﹃ 津 田 出 の 実 行 勤 王 ﹄ 撰 書 堂 、 昭 和 一 八 年 ︶ 三 九 三 頁 。 な お 、 引 用 さ れ て い る 津 田 出 の 言 は 、 後 掲 注 ︶ ﹃ 壺 碑 原 奎 一 郎 ︵ 編 ︶ ﹃ 原 敬 日 記 ︵ 第 一 巻 ・ 官 界 言 論 人 ︶ ﹄ 福 村 出 版 、 昭 和 四 〇 年 ︶ 一 六 五 頁 。 七 戸 克 彦 ﹁ 現 行 民 法 典 を っ た 人 び と ︵ 二 六 ︶ 外 伝 閨 閥 ﹂ 法 学 セ ミ ナ ー 六 七 八 号 ︵ 平 成 二 三 年 ︶ 六 四 頁 。 ベ ル リ ン に と ん ぼ 返 り し た だ ろ う 。 ン 大 学 入 学 ︶ 三 か 月 後 の 一 一 月 四 日 の こ と で あ る か ら 、 受 賞 に 際 し て ベ ル リ ン か ら リ ヨ ン へ 赴 い た と し て も 、 愛 人 を 作 る 間 も な く (法政研究 83-3-186)452