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梅謙次郎の子供たち

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梅謙次郎の子供たち
論 説
四
二
︶
一
︶
空
想
的
な
憶
説
常
識
的
な
仮
説
三
終
二
︶
一
︶
章
家
族
周
辺
人
物
梅
家
の
人
び
と
二
二
︶
本
家
一
︶
梅
家
梅
家
・
本
家
の
血
脈
一
二
︶
一
︶
序
我
妻
栄
の
同
級
生
献
詞
章
梅
謙
次
郎
の
子
供
た
ち
梅
震
七
戸
克
彦
381(83-3-115)
論 説
江
先
生
ら
し
い
選
択
だ
と
思
っ
た
。
そ
こ
で
、
以
下
で
は
、
後
の
ほ
う
の
話
を
直
江
教
授
に
献
呈
す
る
。
直
江
教
授
は
、
前
の
ほ
う
の
話
は
、
ち
ょ
っ
と
ね
⋮
⋮
﹂
と
い
っ
て
、
い
つ
も
の
よ
う
に
清
々
し
い
笑
い
を
浮
か
べ
た
。
い
か
に
も
直
ム
で
お
会
い
し
た
の
も
、
報
告
の
た
め
の
資
料
を
複
写
し
て
い
た
か
ら
で
あ
っ
た
︶
。
の
山
田
作
之
助
︵
山
田
喜
之
助
の
三
男
︶
に
つ
い
て
は
、
七
月
二
日
神
戸
学
院
大
学
で
の
報
告
を
控
え
て
い
た3
︵︶
直
江
教
授
と
コ
ピ
ー
ル
ー
一
京
助
の
弟
︶
に
つ
い
て
は
、
法
学
セ
ミ
ナ
ー
﹂
誌
の
四
月
号
で
触
れ
た
ば
か
り
で2
、︶
②
弁
護
士
︵
神
戸
弁
護
士
会
会
長
︶
・
最
高
裁
判
事
い
ま
一
つ
は
、
我
妻
栄
や
岸
信
介
と
大
学
で
同
級
だ
っ
た
人
物
の
話
①
第
一
高
等
学
︵
一
高
︶
か
ら
同
期
の
金
田
一
他
人
︵
金
田
仁
一
郎
後
任
の
商
法
講
座
担
当
の
話
も
あ
っ
た
我
妻
栄
が
、
な
ぜ
民
法
に
進
ん
だ
の
か
、
等
々
⋮
⋮
。
一
郎
後
任
の
京
大
ロ
ー
マ
法
講
座
担
当
の
口
も
あ
っ
た
田
中
耕
太
郎
が
、
な
ぜ
東
大
の
商
法
担
当
助
教
授
と
な
っ
た
の
か
、
⑤
一
時
は
ル
ノ
予
定
ナ
ク
シ
テ
ト
云
フ
条
件
ノ
下
ニ
﹂
助
教
授
に
任
用
さ
れ
た
末
弘
厳
太
郎
が
、
い
か
な
る
事
情
で
教
授
に
昇
進
し
た
の
か
、
④
春
波 木
ケ
の
弟
子
で
あ
る
三
潴
信
三
が
、
な
ぜ
最
後
ま
で
法
律
学
科
の
民
法
講
座
担
任
に
な
れ
な
か
っ
た
の
か
、
③
土
方
寧
に
嫌
わ
れ
﹁
教
授
ト
ス
家
の
﹁
お
家
芸
﹂
で
あ
る
法
理
学
講
座
に
貼
り
付
け
ら
れ
た
穂
積
重
遠
が
、
ど
の
よ
う
に
し
て
民
法
講
座
を
手
に
入
れ
た
の
か
、
②
ギ
ー
ル
京
都
帝
国
大
学
の
内
事
例
を
比
較
検
討
し
た
際
に1
書︶
き
残
し
た
、
東
大
の
教
授
就
任
・
講
座
担
当
を
め
ぐ
る
紆
余
曲
折
の
話
一
つ
は
、
法
政
研
究
﹂
誌
の
九
州
大
学
法
学
部
立
九
〇
周
年
記
念
号
で
、
九
州
帝
国
大
学
法
文
学
部
内
訌
事
件
と
東
京
帝
国
① 大
穂 学
積 ・
い
し
た
際
、
目
下
手
持
ち
の
法
関
係
の
題
材
の
う
ち
、
ど
ち
ら
を
お
読
み
に
な
り
た
い
か
直
接
お
尋
ね
し
て
み
た
。
本
稿
の
締
切
日
は
平
成
二
八
年
九
月
一
五
日
で
あ
っ
た
が
、
そ
の
三
か
月
前
の
六
月
、
直
江
眞
一
教
授
に
大
学
の
コ
ピ
ー
ル
ー
ム
で
お
会
一
一
︶
序
献
詞
章
(法政研究 83-3-116)382
梅謙次郎の子供たち(七戸)
︵
同
三
十
年
十
二
月
生
︶
あ
り
君
は
出
雲
江
藩
医
梅
薫
の
二
男
に
し
て
万
元
年
六
月
七
日
生
る
⋮
⋮
︹
中
略
︺
⋮
⋮
家
族
は
前
記
の
外
男
徳
︵
明
治
三
十
年
十
二
月
生
︶
同
光
男
震
明
治
二
十
九
年
╱
二
月
生
梅
謙
次
郎
従
四
位
勲
三
等
法
学
博
士
東
京
帝
╱
国
大
学
法
科
大
学
教
授
383(83-3-117)
だ
が
、
そ
れ
に
も
か
か
わ
ら
ず
、
明
治
三
六
年
刊
行
の
﹃
人
事
興
信
録
︹
初
版
︺
﹄
の
﹁
梅
謙
次
郎
﹂
の
項
に
は
、
妻
の
記
載
が
な
い6
。︶
娶
る
﹂
と
あ
り5
、︶
ま
た
、
後
述
す
る
よ
う
に
、
二
人
は
、
す
で
に
謙
次
郎
の
帰
国
直
後
よ
り
一
緒
に
暮
ら
し
て
い
る
︵
二
︵
一
︶
6
︵
1
︶
︶
。
謙
次
郎
が
留
学
か
ら
帰
国
し
た
︵
明
治
二
三
年
八
月
九
日
帰
朝
︶
四
か
月
後
の
﹁
十
二
月
一
日
旧
江
藩
士
本
理
左
衛
門
の
女
兼
子
を
大
正
六
年
刊
行
の
東
川
徳
治
﹃
博
士
梅
謙
次
郎
﹄
に
は
、
妻
カ
ネ
︵
な
お
、
東
川
は
彼
女
を
﹁
兼
子
﹂
と
表
記
し
て
い
る
︶
に
関
し
て
、
と
こ
ろ
で
、
彼
の
続
柄
に
関
し
て
﹁
長
男
︵
二
男
︶
﹂
と
い
う
奇
妙
な
書
き
方
を
し
た
の
に
は
、
少
々
理
由
が
あ
る
。
1
明
治
二
三
年
だ
が
、
彼
ら
の
同
期
の
中
に
、
梅
謙
次
郎
の
長
男
︵
二
男
︶
震
が
い
た
こ
と
は
、
ほ
と
ん
ど
知
ら
れ
て
い
な
い
。
院
で
我
妻
の
研
究
室
に
入
っ
た
、
我
妻
と
は
親
子
二
代
に
わ
た
る
付
き
合
い
で
あ
る
。
一
方
、
山
田
作
之
助
は
、
京
都
の
第
三
高
等
学
︵
三
高
︶
か
ら
東
大
に
進
ん
だ
が
、
彼
の
長
男
・
山
田
弘
之
助
︵
弁
護
士
︶
は
、
大
学
会
会
長
・
日
本
弁
護
士
連
合
会
会
長
の
成
富
信
夫
や4
、︶
第
二
東
京
弁
護
士
会
会
長
・
衆
議
院
議
員
の
三
輪
寿
壮
ら
が
い
る
。
で
彼
ら
と
同
期
だ
っ
た
こ
と
も
、
よ
く
知
ら
れ
て
い
る
。
他
に
も
、
一
高
か
ら
の
同
期
に
は
、
我
妻
と
縁
戚
関
係
を
結
ぶ
第
一
東
京
弁
護
士
ば
し
ば
書
き
記
し
て
い
る
。
ま
た
、
平
岡
梓
︵
平
岡
定
太
郎
の
長
男
で
平
岡
威
︹
三
島
由
紀
夫
︺
の
︶
が
、
や
は
り
一
高
・
東
大
独
法
我
妻
栄
と
岸
信
介
が
、
一
高
か
ら
東
京
帝
国
大
学
法
科
大
学
︵
卒
業
時
は
法
学
部
︶
独
法
科
の
同
期
で
親
し
か
っ
た
こ
と
は
、
両
人
が
し
二
︶
我
妻
栄
の
同
級
生
梅
震
論 説
郎
は
、
板
倉
太
郎
・
彦
治
夫
婦
の
二
女
・
梅
子
を
養
子
に
も
ら
い
、
四
日
後
の
三
月
一
七
日
、
ゆ
く
ゆ
く
は
緑
を
梅
子
の
女
婿
と
す
る
目
実 あ 七 る
家 っ 六 。
の た 五 一
の 条 方
母 で ﹁ 、
︵ 、 男 当
緑 端 ハ 時
か 的 満 ︵
ら に 十 明
見 結 七 治
れ 論 年 四
ば を 女 一
祖 い ハ 年
え 満 ︶
母 ば 十 一
︶
五 五
の
年 歳
子 、 ニ の
︵ 緑 至 緑
長 は ラ が
男 謙 サ 六
︶ 次 レ 歳
と 郎 ハ の
し と 婚 梅
て カ 姻 子
届 ネ ヲ の
出 の 為 ﹁
が 間 ス 女
さ の
婿
れ 実 コ ﹂
ト
た 子
と
も で ヲ 書
の あ 得 か
で り ス れ
あ 、 ﹂
︶ て
る 二 、 い
。 人
る
だ が
の
が 入 以 に
下
、 籍
は
明 し の 一
治 て 点 瞬
三 い は ぎ
八 な 、 ょ
年 か 当 っ
三 っ 時 と
月 た は す
一 た
る
三 め 知 が
日 、 の ︵
、 カ 事 民
謙 ネ 実 法
次 の で 旧
ま
ず
、
養
子
・
緑
に
関
す
る
記
載
か
ら
見
て
ゆ
く
と
、
彼
は
、
謙
次
郎
の
妻
カ
ネ
︵
か
ね
︶
と
二
五
歳
離
れ
た
姉
と
弟
と
い
う
こ
と
に
な
1
︶
明
治
三
八
年
三
月
一
三
日
梅
子
養
子
縁
組
・
三
月
一
七
日
緑
廃
家
養
子
縁
組
初
版
と
の
違
い
は
、
妻
︵
か
ね
︶
と
養
女
︵
梅
子
︶
と
養
子
︵
緑
︶
に
関
す
る
記
述
が
追
加
さ
れ
て
い
る
点
で
あ
る
。
本
利
︹
理
︺
左
衛
門
長
男
梅
子
女
婿
︶
あ
り
三
男
光
︵
同
三
十
年
十
二
月
生
︶
養
女
梅
子
︵
同
三
十
五
年
一
月
生
山
梨
県
平
民
板
倉
太
郎
次
女
︶
養
子
緑
︵
明
治
二
十
六
年
三
月
生
東
京
府
士
族
君
は
出
雲
男
妻
震
江
藩
医
梅
薫
の
二
男
に
し
て
万
か
ね
明
治
二
十
九
年
╱
二
月
生
明
治
元
年
十
月
生
╱
元
年
六
月
七
日
を
以
て
生
る
⋮
⋮
︹
中
略
︺
⋮
⋮
家
族
は
前
記
の
外
二
男
徳
︵
明
治
三
十
年
十
二
月
生
︶
本
理
左
衛
門
三
女
梅
謙
次
郎
正
四
位
勲
二
等
法
学
博
士
東
京
帝
国
╱
大
学
法
科
大
学
教
授
、
帝
室
制
度
調
╱
査
局
御
用
掛
、
法
政
大
学
理
╱
東
京
府
平
民
の
よ
う
に
変
化
し
て
い
る
こ
と
で
あ
る7
。︶
問
題
は
、
上
記
﹃
人
事
興
信
録
︹
初
版
︺
﹄
の
家
族
の
記
載
が
、
五
年
後
の
明
治
四
一
年
発
行
の
﹃
人
事
興
信
録
︵
第
二
版
︶
﹄
で
は
、
次
2
明
治
三
八
年
い
た
こ
と
に
つ
い
て
も
、
あ
ま
り
知
ら
れ
て
い
な
い
よ
う
で
あ
る
。
だ
が
、
問
題
は
そ
こ
で
は
な
い
。
な
お
、
震
の
二
人
の
弟
︵
徳
・
光
︶
の
生
日
が
同
年
同
月
な
の
は
、
彼
ら
が
双
生
児
だ
か
ら
で
あ
る
が
、
梅
謙
次
郎
に
双
子
の
子
供
が
(法政研究 83-3-118)384
梅謙次郎の子供たち(七戸)
二
七
日
没
︶
の
二
か
月
後
、
韓
国
併
合
︵
八
月
二
二
日
併
合
条
約
調
印
、
二
九
日
天
皇
裁
可
、
同
日
布
︶
の
四
日
前
の
こ
と
で
あ
っ
た8
。︶
チ
フ
ス
を
発
症
、
二
五
日
昼
一
二
時
五
〇
京
城
・
大
韓
病
院
に
お
い
て
死
去
し
た
。
享
年
五
〇
歳
一
か
月
。
ボ
ワ
ソ
ナ
ー
ド
の
死
︵
六
月
だ
が
、
入
籍
か
ら
五
年
後
の
明
治
四
三
年
七
月
︵
一
五
日
︶
韓
国
政
府
法
律
顧
問
の
職
務
の
た
め
渡
韓
し
た
謙
次
郎
は
、
八
月
九
日
に
腸
3
明
治
四
三
年
385(83-3-119)
八
三
六
条
一
項
﹁
庶
子
ハ
其
夫
婦
ノ
婚
姻
ニ
因
リ
テ
嫡
出
子
タ
ル
身
ヲ
取
得
ス
﹂
。
婚
姻
準
正
。
現
行
七
八
九
条
一
項
︶
。
出
し
、
法
律
上
の
夫
婦
と
な
っ
た
の
で
あ
る
。
こ
れ
に
よ
り
、
先
に
認
知
を
し
た
三
人
の
子
は
、
嫡
出
子
た
る
地
位
を
取
得
し
た
︵
民
法
旧
長
兄
・
緑
の
廃
家
・
養
子
縁
組
か
ら
四
か
月
後
の
七
月
二
三
日
、
一
五
年
も
の
間
内
縁
関
係
を
続
け
て
き
た
謙
次
郎
と
カ
ネ
は
婚
姻
届
を
提
法
に
い
う
﹁
庶
子
﹂
︶
た
る
地
位
を
得
て
い
た
が
︵
民
法
旧
八
二
七
条
二
項
﹁
カ
認
知
シ
タ
ル
子
ハ
之
ヲ
庶
子
ト
ス
﹂
︶
、
明
治
三
八
年
、
徳
・
光
が
一
歳
と
な
っ
た
明
治
三
二
年
︵
六
月
二
二
日
︶
に
認
知
届
が
出
さ
れ
、
こ
れ
に
よ
り
三
人
は
、
謙
次
郎
の
実
子
︵
非
嫡
出
子
。
旧
八
年
は
、
震
︵
当
時
九
歳
︶
と
双
子
の
弟
︵
徳
・
光
。
八
歳
︶
に
お
い
て
も
、
重
要
な
年
と
な
っ
た
。
彼
ら
三
人
に
つ
い
て
は
、
震
が
三
歳
、
我
妻
栄
の
同
級
生
で
あ
る
梅
震
を
、
梅
謙
次
郎
の
﹁
長
男
︵
二
男
︶
﹂
と
記
載
し
た
の
は
、
右
の
よ
う
な
理
由
か
ら
で
あ
る
が
、
明
治
三
2
︶
明
治
三
八
年
七
月
二
三
日
謙
次
郎
・
カ
ネ
入
籍
翌
明
治
三
九
年
二
月
六
日
、
祖
母
・
ク
ニ
は
本
家
の
再
興
届
を
出
し
、
四
女
コ
ト
も
母
に
従
い
再
興
さ
れ
た
本
家
に
入
っ
た
。
妹
︶
も
、
謙
次
郎
の
戸
籍
に
入
っ
た
が
︵
民
法
旧
七
六
三
条
﹁
戸
主
カ
廃
家
シ
テ
他
家
ニ
入
リ
タ
ル
ト
キ
ハ
其
家
族
モ
亦
其
家
ニ
入
ル
﹂
︶
、
縁 カ
者 的
組 ネ こ ハ で
は の れ 男 養
、
に 子 子
︵ よ ヲ 縁
本 緑 り 養 組
家 の 、 子 を
の 戸 謙 ト し
廃 籍 次 為 た
家 上 郎 ス 、
を の と コ と
前
緑 ト い
提 で の ヲ う
と も 間 得 こ
す あ に ス と
る る は 但 で
。 が 、 女 あ
そ ︶ 法 婿 る
の 理 律 ト ︵
結 左 上 為 民
果 衛 の ス 法
、 門 親 為 旧
戸 の 子 メ 八
主 死 関 ニ 三
・ 去 係 ス 九
緑 に が ル 条
の よ 成 場 ﹁
戸 り 立 合 法
籍 、 し ハ 定
上 緑 た 此 ノ
の は が 限 推
母
、 ニ 定
︵ 本 し 在 家
実 家 か ラ 督
際 の し ス 相
は 戸 、 ﹂
続
母 主 カ ︶
。 人
方 と ネ
タ
の な の
ル
祖 っ 実
男
母 て 家
子
︶ い ・
︹
ク た
梅
ニ 。 本
家
と 戸 家
の
、 主 に
場
四 で は
合
女 あ 男
に
コ る 子
は
ト 緑 が
震
︵ の な
︺
カ 養 く
ア
ネ 子 、
ル
論 説
徳
氏
は
第
三
高
等
学
︵
仏
法
志
願
︶
に
、
光
氏
は
第
二
高
等
学
︵
英
法
志
願
︶
に
在
学
し
、
梅
枝
子
は
板
倉
博
士
子
息
操
一
氏
に
嫁
す
。
博
士
に
四
男
一
女
あ
り
、
共
に
兼
子
の
出
な
り
。
男
を
緑
、
震
、
徳
、
光
と
曰
ひ
、
女
を
梅
枝
と
曰
ふ
。
震
氏
は
東
京
帝
国
大
学
法
科
︵
独
法
︶
に
、
婚
し
た
事
実
を
伝
え
る
が
、
そ
の
一
方
で
、
同
書
で
は
、
板
倉
家
か
ら
の
養
女
・
梅
子
の
名
が
消
え
て
い
る9
。︶
他
方
、
謙
次
郎
の
死
去
か
ら
七
年
後
の
大
正
六
年
刊
行
の
東
川
徳
治
﹃
博
士
梅
謙
次
郎
﹄
は
、
梅
枝
が
板
倉
太
郎
の
長
男
・
操
一
と
結
馬
車
に
同
乗
し
親
戚
一
同
之
に
亞
ぎ
に
儀
仗
兵
二
個
中
隊
続
き
行
そ
れ
よ
り
徒
歩
馬
車
腕
車
の
会
葬
者
約
五
千
て
之
に
従
ひ
た
る
が
絶
え
ず
伏
目
勝
な
る
未
亡
人
の
姿
を
見
て
は
涙
に
暮
る
ゝ
会
葬
者
も
尠
か
ら
ざ
り
き
次
に
板
倉
夫
人
平
田
コ
ト
子
黒
田
キ
ン
子
等
に
喪
章
を
附
し
少
年
な
が
ら
も
謹
厳
な
る
態
度
に
て
徒
歩
し
白
絽
の
喪
服
に
白
輪
子
の
帯
を
結
び
た
る
未
亡
人
カ
ネ
子
及
び
遺
族
梅
枝
梅
子
等
馬
車
に
▲
哀
涙
に
咽
ぶ
呉
床
の
次
に
は
喪
主
緑
氏
を
始
め
徳
、
震
、
光
︹
正
し
く
は
﹁
震
、
徳
、
光
﹂
の
順
︺
の
三
氏
何
れ
も
高
等
師
範
附
属
中
学
の
制
服
一
方
、
読
売
新
聞
明
治
四
三
年
九
月
四
日
朝
刊
﹁
故
梅
博
士
の
葬
儀
﹂
に
は
、
梅
枝
﹂
な
る
女
子
の
名
が
新
た
に
登
場
し
て
く
る
。
其
他
よ
り
貰
受
た
る
養
子
女
あ
り
博
士
の
妻
女
か
ね
子
は
東
京
府
士
族
本
理
右
︹
左
︺
衛
門
氏
の
三
女
、
博
士
と
の
間
に
長
男
震
︵
十
五
︶
次
男
徳
︵
十
四
︶
外
に
板
倉
大
審
院
判
事
の
名
が
な
い
︵
末
弟
・
光
に
関
し
て
は
、
生
日
が
兄
・
徳
と
一
緒
の
た
め
、
誤
植
と
判
断
さ
れ
削
除
さ
れ
た
の
だ
ろ
う
︶
。
東
京
朝
日
新
聞
明
治
四
三
年
八
月
二
七
日
朝
刊
﹁
梅
法
学
博
士
逝
く
╱
日
韓
合
併
の
折
柄
惜
い
事
な
り
﹂
に
は
、
長
兄
・
緑
と
末
弟
・
光
物
故
せ
る
博
士
の
令
兄
医
学
士
金
︹
錦
︺
之
丞
氏
は
日
本
医
科
大
学
殆
最
初
の
出
身
者
に
し
て
眼
科
学
の
始
祖
と
も
言
ふ
可
き
人
な
り
し
と
云
ふ
あ
り
震
氏
は
目
下
高
等
師
範
附
属
中
学
三
年
生
徳
光
氏
は
同
年
生
な
り
家
頗
る
平
和
に
し
て
て
放
任
主
義
の
下
に
子
女
を
教
養
せ
り
尚
数
年
前
▲
其
の
家
其
家
族
は
夫
人
カ
ネ
子
︵
四
三
︶
長
男
震
︵
十
五
︶
二
男
徳
︵
十
四
︶
三
男
光
︵
十
四
︶
及
び
養
子
緑
︵
十
八
︶
養
女
ウ
メ
子
︵
八
つ
︶
年
﹃
人
事
興
信
録
︵
第
二
版
︶
﹄
と
同
じ
で
あ
る
が
︵
な
お
、
謙
次
郎
の
兄
・
錦
之
丞
に
つ
い
て
も
言
及
さ
れ
て
い
る
︶
、
読
売
新
聞
明
治
四
三
年
八
月
二
六
日
朝
刊
﹁
法
曹
界
の
明
星
隕
つ
╱
本
社
評
議
員
╱
梅
博
士
逝
く
﹂
の
伝
え
る
家
族
構
成
は
、
明
治
四
一
と
こ
ろ
で
、
謙
次
郎
の
死
を
伝
え
る
新
聞
報
道
に
お
け
る
、
家
族
に
関
す
る
記
載
は
実
に
ま
ち
ま
ち
で
あ
る
。
(法政研究 83-3-120)386
梅謙次郎の子供たち(七戸)
そ
こ
で
、
以
下
で
は
、
年
代
を
追
っ
て
順
番
に
、
梅
家
・
本
家
の
家
族
関
係
を
見
て
ゆ
く
こ
と
に
し
よ
う
。
る
な
ど
、
謙
次
郎
の
家
族
を
め
ぐ
る
情
報
は
、
す
こ
ぶ
る
輻
輳
し
て
い
て
か
り
に
く
い
。
い
⑥
梅
子
は
養
子
縁
組
を
解
消
し
て
板
倉
家
に
戻
っ
た
。
さ
ら
に
、
翌
大
正
一
一
年
に
は
⑤
光
も
本
ク
ニ
の
養
子
と
な
っ
て
本
家
に
入
387(83-3-121)
年
に さ
板 ら ⑥
倉 に
、 梅
太 明 子
︵
郎 治 う
の 四 め
長 三 こ
男 年 ︶
・ の ⋮
操 謙 ⋮
一 次 謙
次
と 郎 郎
結 の 養
婚 死 子
、 後
大 は
正 ③
一 震
〇 が 明
年 戸 治
に 主 三
は と 五
② な 年
緑 り 一
が 、 月
母 大 五
日
方 正 生
の 三
い 年
と に ︵
こ は 板
︵ ① 倉
祖 梅 太
母 枝 郎
・ が ・
矢 彦
本 ヶ 治
ク 崎 夫
ニ 家 婦
の の の
二
孫 養 女
︶ 子 ︶
と と
結 な
婚 っ
し た
、 後
こ 、
れ 大
に 正
伴 五
⑤
④
③
②
①
光
徳
震
緑
︵
あ
き
ら
︶
⋮
⋮
三
男
︵
四
男
︶
︵
め
ぐ
む
︶
⋮
⋮
二
男
︵
三
男
︶
︵
し
ん
︶
︵
み
ど
り
︶
⋮
⋮
謙
次
郎
養
子
︵
長
男
︶
梅
枝
︵
う
め
え
︶
⋮
⋮
カ
ネ
養
子
︵
長
女
︶
明
治
三
〇
年
一
二
月
二
日
生
明
治
三
〇
年
一
二
月
二
日
生
明
治
二
九
年
二
月
一
四
日
生
明
治
二
六
年
三
月
七
日
生
明
治
二
五
年
三
月
二
五
日
生
︵
謙
次
郎
三
七
歳
・
カ
ネ
三
〇
歳
︶
︵
謙
次
郎
三
七
歳
・
カ
ネ
三
〇
歳
︶
︵
謙
次
郎
三
五
歳
・
カ
ネ
二
九
歳
︶
︵
謙
次
郎
三
二
歳
・
カ
ネ
二
六
歳
︶
︵
謙
次
郎
三
一
歳
・
カ
ネ
二
六
歳
︶
⋮
⋮
長
男
︵
二
男
︶
の
二
人
に
つ
い
て
は
、
他
の
者
の
実
子
と
し
て
届
け
出
ら
れ
た
後
、
母
・
カ
ネ
と
・
謙
次
郎
の
養
子
と
さ
れ
た
、
と
い
う
こ
と
で
あ
る
。
以
上
を
整
理
す
る
に
、
梅
謙
次
郎
の
子
は
、
実
子
が
五
人
︵
一
女
四
男
︶
、
養
子
が
一
人
︵
一
女
︶
で
あ
る
が
、
実
子
の
う
ち
年
長
夫
婦
の
長
女
と
し
て
出
生
届
が
さ
れ
、
そ
の
後
、
実
母
カ
ネ
と
の
間
で
養
子
縁
組
が
さ
れ
た
も
の
で
あ
る
。
梅
枝
は
、
明
治
二
五
年
三
月
二
五
日
、
謙
次
郎
・
カ
ネ
夫
婦
の
間
に
生
ま
れ
た
最
初
の
子
で
あ
っ
た
が10
、︶
戸
籍
上
は
矢
ヶ
崎
鶴
吉
・
い
し
論 説
【第1図】梅家・
本家略系図
(法政研究 83-3-122)388
梅謙次郎の子供たち(七戸)
一
二
月
一
〇
日
︵
一
八
三
二
年
一
月
一
二
日
。
江
藩
九
代
藩
主
・
平
斉
貴
の
時
代
︶
に
御
目
見
と
な
り
︵
江
藩
士
の
格
式
は
、
上
名
不
詳
︶
に
外
科
術
を
学
び
、
さ
ら
に
大
阪
・
江
戸
で
研
鑽
を
積
ん
で
帰
郷
、
三
代
目
・
道
竹
の
名
を
継
ぎ
、
香
雪
と
号
し
た
。
天
保
二
年
二
代
目
・
道
竹
の
子
︵
寛
政
一
〇
年
︵
一
七
九
八
年
︶
生
。
栄
︶
も
、
文
政
三
年
八
月
︵
一
八
二
〇
年
九
月
︶
長
崎
に
出
て
外
国
人
︵
氏
3
三
代
・
道
竹
︵
謙
次
郎
祖
道
竹
を
襲
名
。
だ
が
、
彼
は
、
養
の
︶ 死
去
の
二
年
前
︵
文
化
一
四
年
︵
一
八
一
七
年
︶
︶
四
〇
歳
に
至
ら
ぬ
若
さ
で
早
世
す
る
。
389(83-3-123)
が
迎
え
ら
れ
た
。
彼
も
長
崎
に
出
て
本
川
門
に
入
っ
て
外
科
術
を
学
び
、
帰
郷
後
初
代
・
道
竹
は
隠
居
し
て
、
養
嗣
子
・
道
栄
が
二
代
目
・
初
代
・
道
竹
に
は
男
子
が
い
な
か
っ
た
た
め
、
長
女
・
牧
子
の
婿
養
子
に
、
出
雲
国
能
義
郡
母
里
町
の
医
師
・
田
部
長
節
の
二
男
・
道
栄
2
二
代
・
道
竹
︵
謙
次
郎
曾
祖
︶
主 ︵ 兼
一
・
隆 梅
七 ︶ 家
七
平
で の
治 六 あ 始
郷 年 る11 祖
︵ ︶ 。︶ は
不 の 彼 、
昧 帰 は 謙
郷 、 次
︶ 後 二 郎
の に 〇 の
知
歳 四
る 家 の 代
と し 頃 前
こ て に 、
ろ 新 長 出
と た 崎 雲
な に に 国
り ﹁ 出 加
、 梅 て 茂
藩 ﹂ 本 村
医 氏 川 の
に を 道 外
取 名 悦 科
り 乗 に 医
立 り カ ・
て 、 ス 梅
ら
パ
れ 江 ル 木
た 城 流 ﹂
氏
。 下 外
文 で 科 ︵
政 開 術
二 業 を 母
の
年 。 学 名
︵ そ ぶ 不
一
こ
八 の と 詳
名
一
二 ︶
九 声 〇 の
年 は 余 二
男
︶ 、 年 に
没 ほ に 生
。 ど 及 ま
な ん
く だ れ
た
後
江 、 道
藩 安 竹
七 永 ︵
代 五 初
藩 年 代
。
門
︵ 梅
1 な 家
お と
初 、
代
本
・ 本 家
道 家 の
竹 は つ
︵ 代 な
謙 々 が
次 ﹁ り
郎 理 は
高 左 、
祖 衛 梅
門 ﹂
︶ ﹂
氏
を の
襲 開
名
祖
し で
た あ
︶
に る
初
嫁 代
い ・
だ 道
と 竹
こ の
ろ 末
ま 娘
で ・
と
る ね
。 が
、
謙
次
郎
の
妻
・
カ
ネ
の
祖
の
本
理
左
衛
二
一
︶
梅
家
梅
家
・
本
家
の
血
脈
論 説
三
六
年
︵
薫
六
九
歳
︶
、
読
売
新
聞
の
連
載
﹁
名
士
の
し
、
彼
は
芳
雪
と
号
し
た
︶
。
だ
が
、
彼
に
と
っ
て
、
医
母 家
﹂ を
に 継
掲 ぐ
載 こ
さ と
れ は
た 、
彼 ま
に っ
関 た
す く
る 不
記 本
事 意
に だ
よ っ
れ た
ば17 ら
︶
し
い
、 。
彼
の
晩
年
で
あ
る
明
治
沢
文
省
の
二
男
・
薫
︵
天
保
五
年
三
月
二
九
日
︵
一
八
三
四
年
五
月
七
日
︶
生
︶
が
迎
え
ら
れ
て
梅
家
を
継
い
だ
︵
養
の
号
・
香
雪
に
対
初
代
・
道
竹
と
同
じ
く
、
三
代
・
道
竹
に
も
男
子
が
い
な
か
っ
た
。
そ
の
た
め
、
婿
養
子
と
し
て
、
出
雲
国
八
束
郡
野
波
村
の
医
師
・
井
4
薫
︵
謙
次
郎
︶
慶
応
二
年
八
月
二
八
日
︵
一
八
六
六
年
一
〇
月
六
日
︶
没
。
享
年
六
九
歳
。
錦
之
丞
九
歳
、
謙
次
郎
七
歳
の
時
の
こ
と
で
あ
っ
た
。
素
養
は
、
大
い
に
役
に
立
っ
た
で
あ
ろ
う
。
は
、
フ
ラ
ン
ス
語
で
教
授
さ
れ
た
が
、
入
学
試
験
は
論
語
の
弁
書
と
資
治
通
鑑
の
白
文
訓
点
で
あ
っ
た
か
ら
、
祖
か
ら
教
わ
っ
た
漢
学
の
博
士
も
其
の
学
業
の
素
地
は
、
祖
の
掖
︹
三
代
︺
道
竹
氏
尚
ほ
在
に
し
て
、
専
ら
其
の
薫
陶
に
当
り
し
が
、
家
に
由
る
こ
と
を
認
め
居
た
り
﹂
と
い の
う16 教
。︶ 育
謙 は
次 、
郎 徳
の 器
進 の
ん 涵
だ 養
司 を
法 主
省 と
法 し
学 、
頗
の る
正 厳
則 粛
科 な
の り
講 き
義 。
出
雲 ま
に た
於 、
け 東
る 川
学 に
者 よ
詩 れ
人 ば
に 、
し 三
て 代
徳
道
学 竹
兼 氏
備 は
の 、
君 医
子 学
人 の
な 蘊
り 蓄
き 深
﹂ か
と り
さ し
れ15 の
、︶ み
博 な
士 ら
兄 ず
弟 、
︹ 経
錦 学
之 の
丞 造
・ 詣
謙 も
次 深
郎 く
兄 、
弟 其
︺ の
の
幼 友
年 は
時 孰
代 れ
は も
、 当
祖 時
子
の
末
妹
す
な
わ
ち
、
初
代
・
道
竹
の
末
娘
だ
っ
た
の
だ
ろ
う
。
と ︹
三
さ 代
れ ︺
る14
。︶ 道
竹
し が
か
し 新
番
、
謙 組
次 と
な
郎 り
の し
曾
は
祖 、
権
で
勢
あ あ
る る
二
代 本
・
道 氏
竹 の
は 力
、 に
初 負
代 ふ
・ 所
道 多
竹 か
の り
養 し
嗣 な
子 り
で 。
あ 梅
っ 家
た と
か
ら 本
、 家
と
と は
ね 此
﹂ の
子 如
は き
、 関
彼 係
の に
妻 在
・ り
牧
﹂
東
川
徳
治
に
よ
れ
ば
、
夫
人
︹
梅
謙
次
郎
妻
・
カ
ネ
︺
の
祖
母
﹃
と
ね
﹄
子
は
博
士
の
曾
祖
︹
二
代
︺
道
竹
の
季
妹
に
し
て
、
祖
組 九
・ 年
留 一
守 月
居 八
番 日
組 ︶
に に
加 は
え 新
て 番
新 組
た に
に 昇
設 格
け す
ら る
れ ︵
た
士 新
の 番
職 組
制 ﹂
で と
、 は
卒 、
か 宝
ら 暦
士 一
に 一
昇 年
進 九
し 月
た ︵
者 一
は 七
、 六
ま 一
ず 年
新 一
番 〇
組 月
に ︶
編 従
入 来
さ の
れ
た13 従
︶
番
︶
。 組
・
大
番
士
・
並
士
・
卒
・
軽
輩
の
四
つ
に
大
別
さ
れ
る
が
、
御
目
見
﹂
は
、
卒
の
職
制
の
中
の
一
つ
で
あ
る12
︶
︶
、
安
政
五
年
一
二
月
五
日
︵
一
八
五
(法政研究 83-3-124)390
梅謙次郎の子供たち(七戸)
ハ
同
じ
く
医
を
以
て
渡
世
と
す
る
事
な
り
し
が
、
一
藩
の
抱
医
と
し
て
養
家
に
あ
り
け
る
程
ハ
兎
も
角
も
、
元
よ
り
好
ま
ぬ
道
な
れ
バ
、
新
に
知
ら
ぬ
不
自
由
勝
な
り
け
れ
バ
、
ハ
遂
に
意
を
決
し
て
国
を
後
に
し
、
自
ら
出
京
せ
し
ハ
や
が
て
明
治
七
年
の
事
な
り
き
。
さ
て
差
当
た
り
て
の
が
職
業
う
東
京
に
出
し
、
続
て
謙
次
郎
氏
を
も
出
京
さ
せ
て
、
絶
え
ず
学
業
を
励
ま
し
居
り
し
が
、
元
よ
り
豊
な
ら
ぬ
生
計
と
て
、
遠
く
離
れ
居
り
て
ハ
常
に
此
間
家
内
の
不
自
由
一
二
に
し
て
止
ま
ら
ざ
り
し
か
ど
、
ハ
其
初
一
念
何
処
ま
で
も
子
息
を
し
て
貫
か
し
め
ん
も
の
と
、
兄
︹
長
男
・
錦
之
丞
︺
を
早
391(83-3-125)
の
後
ハ
、
や
が
て
家
督
を
相
続
せ
し
か
バ
、
責
任
益
す
重
き
を
加
へ
ぬ
。
何
く
れ
と
な
く
手
一
つ
に
処
理
し
、
此
頃
よ
り
已
に
病
疾
を
発
し
な
が
ら
、
一
度
君
侯
の
供
し
て
京
の
地
に
入
り
、
半
年
余
を
其
処
に
勤
め
て
帰
郷
斯
る
程
に
の
丗
三
才
に
至
れ
る
時
、
養
︹
三
代
︺
道
竹
は
無
常
の
風
に
誘
は
れ
て
空
し
く
黄
泉
へ
旅
立
ち
け
れ
バ
、
は
其
後
の
家
万
事
を
に 者
つ で
い あ
て っ
も た
、 彼
資 が
料 、
を な
発 ぜ
見 こ
で れ
き ほ
て ど
い ま
な で
い 医
。 業
以 を
下 嫌
、 っ
ひ て
と い
ま た
ず の
は か
読 、
売 梅
新 家
聞 に
の 入
記 っ
事 た
を ﹁
続 或
け 事
よ 情
う21 否
。︶ む
に
由
な
く
﹂
と
は
何
で
あ
っ
た
の
か
城
博 東
は 川 し
、 徳 み
薫 治 つ
の も ゝ
、
﹁ 、 身
志 薫 ハ
は
曾
天 氏 て
は
最
下
、
国 資 も
家 性 嫌
ひ
に
た
あ
る
っ に 医
家
た
し
﹂ て に
と 大 安
ん
す
志 じ
る を た
が19
り
、︶ 抱 き
き
岡
。
孝 医
は
は
﹁ 其
詩 の
歌 欲
、 す
歌 る
な 所
ど に
詩 あ
を ら
作 ざ
っ り
て き
生 ﹂
き と
た 述
か べ
っ る18
た 。︶
﹂ こ
と の
す 点
る20 に
。︶ 関
実 し
家 て
も 、
医
全
く
其
志
望
を
絶
ち
、
己
ハ
一
意
何
事
も
養
家
の
為
に
図
り
、
年
来
の
本
望
ハ
其
児
を
し
て
嗣
が
し
め
ん
も
の
と
、
こ
れ
よ
り
只
管
幼
児
の
生
長
を
楽
心
中
密
に
遺
憾
に
耐
へ
ず
、
そ
の
日
々
々
を
送
れ
る
中
に
、
廿
五
才
に
至
れ
る
時
、
始
め
て
一
男
子
︹
長
男
・
錦
之
丞
︺
出
生
せ
り
、
是
に
於
て
か
は
励
し
た
る
効
あ
り
て
、
見
事
養
家
の
名
を
汚
さ
ず
、
藩
主
の
覚
え
よ
目
出
度
き
事
と
な
り
ぬ
。
さ
も
あ
れ
養
家
の
光
栄
ハ
、
身
の
不
本
意
に
し
て
、
な
ら
ね
バ
、
こ
ゝ
に
年
来
の
望
を
絶
ち
て
、
専
心
医
学
を
研
究
す
る
事
と
決
し
、
一
九
才
よ
り
廿
三
才
に
至
る
五
年
間
ハ
、
夜
の
目
も
合
さ
ず
鋭
意
勉
り
が
た
く
し
て
、
遂
に
医
家
の
養
子
た
る
に
至
り
し
よ
り
、
心
中
常
に
不
快
に
耐
へ
ざ
り
し
が
、
さ
り
と
て
己
の
一
心
も
て
祖
先
の
家
職
を
抛
つ
事
も
︹
薫
︺
ハ
本
姓
江
沢
︹
井
沢
︺
と
称
し
、
元
よ
り
医
業
に
毫
も
志
望
な
か
り
し
の
み
か
、
医
師
ハ
其
最
も
嫌
ひ
た
る
処
な
り
し
に
、
一
片
の
事
情
さ
⋮
⋮
十
九
の
時
或
事
情
否
む
に
由
な
く
、
入
っ
て
梅
家
を
相
続
せ
る
な
り
。
論 説
と
い
う
人
に
三
百
円
出
し
て
も
ら
い
、
な
お
そ
の
他
渉
を
遂
げ
て
よ
う
や
く
洋
行
し
ま
し
た
。
生
活
に
は
一
向
駄
目
だ
ね
な
ど
申
し
て
笑
っ
た
の
で
す
が
致
し
方
あ
り
ま
せ
ん
。
私
が
三
百
円
出
し
、
最
も
親
し
く
し
て
い
た
江
州
の
村
地
︹
重
厚
︺
ど
う
し
て
そ
う
沢
山
あ
る
の
か
と
問
う
と
、
元
金
は
参
百
円
ぐ
ら
い
だ
が
高
利
が
嵩
ん
で
そ
れ
だ
け
に
な
り
ま
し
た
と
の
答
、
君
の
得
意
の
数
学
も
実
訳
に
も
行
か
ぬ
の
で
、
私
は
少
し
の
借
金
な
ら
片
付
け
て
立
た
せ
て
や
り
た
い
と
思
う
て
そ
の
額
を
聞
く
と
、
千
数
百
円
あ
っ
た
の
で
驚
き
ま
し
た
。
て
い
た
某
に
借
金
が
あ
る
の
で
早
く
金
を
取
る
こ
と
が
必
要
で
、
外
国
へ
は
行
け
な
い
と
の
こ
と
、
梅
も
有
望
な
俊
才
で
す
し
、
そ
う
そ
う
決
定
せ
ぬ
と
こ
ろ
が
梅
︹
錦
之
丞
︺
が
私
の
と
こ
ろ
に
来
て
申
す
に
は
、
誠
に
有
難
い
が
、
家
の
事
情
等
で
学
資
が
足
り
な
か
っ
た
た
め
に
大
学
に
小
を
し
黒 士
忠 の
悳 学
に 位
よ を
れ 取
ば23 得
︶
、
翌
、 一
二
年
第
一
回
の
官
費
留
学
生
に
選
ば
れ
る
。
と
こ
ろ
が
、
錦
之
丞
は
、
こ
の
留
学
を
当
初
辞
退
し
た
ら
し
い
。
石
困
の
中
、
長
男
・
錦
之
丞
は
、
明
治
一
一
年
一
一
月
東
京
大
学
医
学
部
本
科
を
卒
業
し
、
翌
一
一
年
卒
業
試
験
を
受
け
て
七
月
に
医
学
失 区
敗 西
し 紺
て 屋
、 町
最 で
後 呉
に 服
は 店
夜 を
間 開
大 く
道 も
に 、
露 た
店 ち
を ま
出 ち
し 詐
て 欺
手 に
拭 遭
い っ
と て
足 店
袋 を
を 閉
売 じ
る 、
ま 次
で に
零 薬
落 店
し を
た22 開
。︶ 業
し
た
が
失
敗
、
さ
ら
に
手
拭
屋
を
始
め
る
も
学
︵
明
治
一
〇
年
東
京
大
学
設
立
に
よ
り
同
大
学
医
学
部
︶
へ
転
じ
た
の
を
機
に
、
一
家
を
挙
げ
て
東
京
に
移
る
。
薫
は
、
は
じ
め
京
橋
薫
は
、
明
治
六
年
七
月
に
隠
居
し
て
家
督
を
錦
之
丞
︵
当
時
一
五
歳
︶
に
譲
り
、
翌
明
治
七
年
秋
、
錦
之
丞
が
大
阪
医
学
よ
り
東
京
医
何
事
も
其
望
を
妨
ぐ
る
事
な
く
、
各
自
の
長
所
を
充
に
発
揮
せ
し
め
ん
と
の
案
に
出
で
た
る
に
外
な
ら
ざ
り
き
。
家
の
養
子
と
な
り
、
我
初
一
念
寸
も
貫
く
に
由
な
く
、
一
生
を
空
し
く
遺
憾
の
中
に
暮
ら
し
た
る
よ
り
、
奮
励
一
番
愛
児
を
し
て
志
を
嗣
が
し
め
、
常
に
学
事
を
奨
励
せ
し
の
心
事
ハ
正
に
歎
賞
す
べ
き
も
の
あ
ら
む
。
こ
れ
ぞ
が
其
年
の
頃
如
何
に
事
情
さ
り
が
た
し
と
ハ
謂
へ
、
思
ひ
も
よ
ら
ぬ
兄
弟
の
苦
学
ハ
実
に
さ
る
事
な
が
ら
、
斯
く
ま
で
逆
境
に
沈
み
つ
ゝ
、
其
児
を
し
て
少
し
も
後
安
か
ら
し
め
ん
も
の
と
、
其
身
の
労
苦
を
つ
ゆ
厭
は
ず
、
ど
、
絶
え
て
子
息
の
教
育
怠
る
事
な
く
、
い
て
ハ
錦
之
丞
氏
兄
弟
も
と
其
苦
を
共
に
し
つ
ゝ
、
只
管
学
事
を
励
み
た
り
き
。
土
地
へ
開
業
し
て
よ
り
、
何
時
も
面
白
か
ら
ざ
る
事
の
み
続
き
て
、
其
後
の
困
苦
一
方
な
ら
ず
、
遂
に
ハ
労
働
を
為
さ
ぬ
ば
か
り
の
状
態
に
陥
り
し
か
(法政研究 83-3-126)392
梅謙次郎の子供たち(七戸)
も
っ
と
も
、
岡
孝
‖
江
戸
恵
子
に
よ
れ
ば
、
従
来
は
、
梅
は
法
律
上
の
義
務
が
な
い
の
に
兄
の
借
金
を
返
済
し
た
と
解
さ
れ
て
い
た
が
を
辞
せ
ん
と
し
た
る
事
さ
へ
あ
り
き
と
な
む
。
斯
て
ハ
現
今
相
州
酒
匂
の
別
業
に
あ
り
て
年
来
の
持
病
を
養
ひ
居
れ
り
。
り
と
い
ふ
。
謙
次
郎
氏
が
常
に
の
身
上
を
思
へ
る
ハ
、
尚
之
の
み
に
止
ま
ら
ず
、
其
曾
て
洋
行
を
命
ぜ
ら
れ
し
折
も
、
老
体
の
を
思
ふ
の
余
の
借
財
弁
償
の
義
務
な
け
れ
ど
、
其
没
後
の
困
苦
を
見
る
に
忍
び
ず
、
自
ら
進
ん
で
そ
の
債
務
支
弁
を
思
ひ
立
ち
、
今
ハ
悉
く
其
責
を
果
た
し
た
393(83-3-127)
謙
次
郎
氏
ハ
元
よ
り
梅
家
の
別
家
と
て
︹
留
学
か
ら
帰
国
し
た
年
︵
明
治
二
三
年
八
月
九
日
帰
国
︶
の
一
〇
月
八
日
家
に
よ
り
戸
主
と
な
る
︺
、
長
兄
お
、
前
記
読
売
新
聞
の
連
載
に
よ
れ
ば
、
謙
次
郎
も
ま
た
、
兄
・
錦
之
丞
と
同
様
、
留
学
を
辞
退
す
る
こ
と
を
且
つ
勉
学
の
時
間
を
割
き
て
原
稿
を
書
き
、
其
の
稿
料
な
ど
を
以
て
一
方
、
錦
之
丞
が
東
大
を
退
職
す
る
明
治
一
八
年
一
二
月
、
謙
次
郎
に は
月 官
月 費
六 留
十 学
弗 で
乃 日
至 本
百 を
弗 離
を れ
送 る
り が
て 、
其 留
の 学
え 生 中
た 活 ﹁
と 費 博
い に 士
う28 供 は
。︶ し 学
資
た27
︶ を
﹂
。 節
な し
、
ま は
り 、
の 医
借 者
財 に
が 似
残 合
っ は
て ぬ
を 豪
り 放
ま な
し 人
た で
﹂ 、
と 小
い さ
う26 い
。︶ こ
と
に
着
し
な
い
の
で
、
従
っ
て
生
活
費
も
嵩
み
、
な
く
な
り
ま
し
た
時
に
は
二
万
円
あ
家 あ 活
は る を そ
、 が 為 の
︶ し 後
・ 、 た 、
生
薫 活 る 錦
と
が 之
兄 が
乱 如 丞
・
し25 が
錦 れ ﹂︶ 明
之 て 。 治
身 だ
丞 体 が 一
の を 、 六
多
年
壊 生
額 し 来 一
の 、
月
借
に
明 譲
財 治 り 帰
に 一 の 国
再 八 豪 し
び 年 放 、
苦 一 な 三
し 二 性 月
む 月 格 東
こ に で 京
と 東 、 大
と 大 大 学
な を い 医
る 退 に 学
。 職 酒 部
謙 、 を 講
次 翌 好 師
郎 一 ん に
の 九 だ 就
妻 年 錦 任
カ 四 之 し
ネ 月 丞 た
に 八 は 後
よ 日 ︵ は
れ 急 こ 、
ば 性 の
、 肺 点 と
兄 炎 は 兄
︹ で 弟 と
錦 死 ・ は
之 去 謙 大
丞 し 次 に
︺ た 郎 豪
と た も 奢
い め 同 な
う 、 様 る
人 梅 で 生
る
こ
と
あ
り
き
。
是
れ
余
の
現
に
見
て
記
憶
す
る
所
な
り
﹂
と
。
尚
ほ
奉
養
の
為
め
に
新
聞
雑
誌
の
原
稿
も
書
き
し
が
如
し
。
此
点
に
付
き
博
士
に
種
種
の
宜
を
与
へ
ら
れ
た
り
。
大
町
桂
月
氏
は
曰
く
﹁
博
士
は
明
治
十
六
七
年
、
ま
だ
在
学
中
明
治
義
塾
に
教
鞭
を
執
ら
れ
た
博
士
は
官
庁
其
他
の
託
嘱
を
受
け
諸
種
の
翻
訳
に
従
事
し
、
得
る
所
の
報
酬
を
の
小
遣
銭
に
供
せ
し
な
り
。
当
時
文
部
省
に
在
り
し
中
川
元
氏
は
ト
を 一
し 方
て 、
家 兄
計 ・
を 錦
支 之
え 丞
た の
。 留
東 学
川 中
徳 の
治 明
に 治
よ 一
れ 三
ば24 年
︶
に
司
、 法
省
法
学
の
補
欠
入
学
を
果
た
し
た
弟
・
謙
次
郎
は
、
勉
学
の
傍
ら
、
ア
ル
バ
イ
論 説
江
に
は
蘭
学
ず
き
の
藩
主
が
い
て
、
金
森
錦
謙
と
い
う
蘭
学
者
を
招
き
雇
っ
た
り
し
て
、
当
時
と
し
て
は
開
花
的
な
空
気
が
こ
の
山
陰
の
一
隅
に
謙 薫
次 ・
郎 志
の ん
二 ︵
男 淳
︵ 子
三 ︶
男 夫
。 婦
双 の
子 間
の の
兄 子
︶ は
梅 、
徳 長
は 男
、 ・
二 錦
人 之
の 丞
名 、
の 二
由 男
来 ・
に 謙
関 次
し 郎
て の
、 二
次 人
の の
よ 男
う 子
に だ
述 け
べ で
て あ
い る
る37 。
。︶
6
錦
之
丞
・
謙
次
郎
な
ら 読
れ 売
た 新
の 聞
を 明
非 治
常 四
に 四
残 年
念 八
に 月
思 二
ひ 五
、 日
如 朝
何 刊
な ﹁
る 梅
夜
博
で 士
も 追
就
寝 悼
記
前 念
に
母 号
︶
堂 未
の
戒 亡
名 人
の
を
唱 追
懐
へ
て 談
﹂
居 に
ら よ
れ
た れ
﹂ ば
と 、
い 謙
次
う36 郎
。︶ は
、
母
堂
が
早
く
亡
く
中
南
町
七
六
︵
現
在
は
谷
中
一
丁
目
︶
の
日
蓮
宗
六
浦
山
・
だ
が
、
彼
女
は
、
一
家
が
困
に
あ
え
ぐ
明
治
九
年
一
〇
月
寿 病
寺35 に
。︶ 倒
れ
、
翌
明
治
一
〇
年
八
月
一
三
日
に
死
去
し
た
。
墓
所
は
東
京
・
谷
手 の
を 西
携 郊
へ に
て あ
妙 り
見 ︶
堂 に
に 祈
月 り
参 て
を 錦
為 之
し 丞
、 氏
其 を
の 挙
成 げ
業 し
を か
祈 ば
り 、
し 爾
と 来
云 熱
ふ34 心
﹂︶ な
。
る
妙
見
の
信
者
と
な
り
、
博
士
兄
弟
の
幼
少
時
代
は
、
自
ら
両
児
の
じ
博
士
を
し
て
母
の
子
た
り
し
を
欣
ぶ
と
言
は
し
め
た
る
賢
母
な
り
き
。
且
つ
母
は
梅
家
に
家
祖
以
来
男
子
少
き
を
憂
ひ
、
妙
見
堂
︵
東
川
徳
治
に
よ
れ
ば
、
彼
女
は
、
︹
で
あ
る
三
代
︺
道
竹
氏
の
気
質
を
享
け
、
気
宇
寛
大
に
し
て
慈
愛
に
富
み
、
経
学
の
一
般
に
も
江 通
竹
の
三
女
で
、
婿
・
薫
と
同
い
年
の
天
保
五
年
六
月
二
日
︵
一
八
三
四
年
七
月
八
日
︶
生
ま
れ
と
す
る
文
献
も
あ
る
。
に 三
し 代 東
て ・ 川
後 道 徳
の 竹 治
︹ の ﹃
‖ ﹁ 博
三 次 士
代 女 梅
︺ ︵ 謙
道 長 次
竹 女 郎
氏 出 ﹄
に 嫁31 は
︶
ハ ︶
﹂ 、
、 、 薫
女 婿 が
子 の 婿
一 薫 養
人 よ 子
あ り と
り 二 な
し 歳 っ
の 年 た
み 上 三
、 と 代
他 し ・
に て 道
一 い 竹
人 る の
の が32 娘
子 、︶ ・
女 前 志
な 掲 ん
か 読 ︵
り 売 東
し 新 川
か 聞 は
バ 記 ﹁
﹂ 事 淳
と ﹁ 子
あ 名 ﹂
る 士 と
一 の 表
方33
記
、︶ 母 す
彼 ﹂ る
女 に ︶
を は に
三 、 関
代
し
・ 不 て
道 幸 、
5
志
ん
︵
淳
子
︶
謙
次
郎
母
︶
︵
例
え
ば
﹃
博
士
梅
謙
次
郎
実 ﹄
業 の
之 山
日 口
本30 宗
﹂︶ 義
︶
﹂ の
。 談
話29
︶︶
、
事
実
は
そ
れ
と
は
異
な
り
、
か
な
り
の
額
が
梅
の
名
義
で
な
さ
れ
、
あ
る
い
は
梅
が
保
証
し
た
よ
う
で
あ
る
︵
(法政研究 83-3-128)394
梅謙次郎の子供たち(七戸)
︵
安
政
五
年
︵
一
八
五
八
年
︶
生
︶
・
謙
次
郎
︵
万
元
年
︵
一
八
六
〇
年
︶
生
︶
兄
弟
の
名
を
つ
け
た
人
物
を
、
・
薫
︵
天
保
五
年
︵
一
一
方
、
桃
裕
行
の
﹁
憶
説
﹂
が
、
金
森
錦
謙
が
早
く
か
ら
忘
れ
去
ら
れ
た
人
物
か
ど
う
か
﹂
と
い
う
疑
問
か
ら
始
ま
る
の
は
、
錦
之
丞
江
戸
新
番
組
の
金
森
錦
謙
が
、
江
に
赴
い
た
記
録
は
な
い
の
で
、
梅
徳
の
仮
説
は
、
そ
も
そ
も
前
提
に
お
い
て
誤
っ
て
い
る
。
組 を
入 修
と め
な た
る ︶
。 に
文 同
久 藩
二 ・
年 江
五 戸
月 屋
一 敷
日 の
︵ 蘭
一 学
八 師
六 範
二 に
年 迎
五 え
月 ら
二 れ
九 、
日 嘉
︶ 永
江 七
戸 年
に 七
て 月
没40 一
。︶ 二
日
︵
一
八
五
四
年
八
月
五
日
︶
に
は
、
江
戸
新
番
組
に
395(83-3-129)
学
を
教
授
し
た
。
嘉
永
二
年
四
月
一
六
日
︵
一
八
四
九
年
五
月
八
日
︶
、
江
藩
九
代
藩
主
・
平
斉
貴
︵
彼
も
自
ら
下
曽
根
門
下
で
砲
術
塾
に
入
門
。
そ
の
後
、
幕
府
砲
術
師
範
・
下
曽
根
信
教
︵
金
三
郎
︶
方
に
滞
留
し
て
蘭
書
の
翻
訳
を
行
う
一
方
、
信
教
の
子
・
信
之
ら
に
蘭
れ
る
が
、
生
地
・
生
年
月
日
等
の
詳
細
は
不
明
。
若
く
し
て
長
崎
で
オ
ラ
ン
ダ
人
に
蘭
学
を
学
ん
だ
後
、
江
戸
に
出
て
坪
井
信
道
の
日
習
堂
江
藩
蘭
学
教
授
の
金
森
錦
謙
︵
か
な
も
り
・
き
ん
け
ん
︶
通
称
は
策
、
錦
謙
は
諱
、
号
は
鳶
巣
の
生
国
は
備
中
と
伝
え
ら
域
を
出
な
い
と
思
っ
て
い
る
。
ろ
、
氏
は
面
白
が
っ
て
、
戦
後
梅
謙
次
郎
が
記
念
切
手
に
な
っ
た
時
﹁
ゆ
う
び
ん
﹂
と
い
ふ
雑
誌
に
こ
の
こ
と
を
書
い
た
。
し
か
し
私
は
未
だ
憶
説
の
森
錦
謙
の
名
の
二
字
を
と
っ
て
二
人
の
男
子
の
名
に
冠
し
た
の
で
は
な
い
か
、
と
思
付
き
謙
次
郎
の
三
男
梅
徳
︵
う
め
・
め
ぐ
む
︶
氏
に
話
し
た
と
こ
藩
に
学
び
、
後
、
医
学
、
法
学
で
名
の
聞
こ
え
た
梅
錦
之
丞
・
謙
次
郎
兄
弟
の
名
で
あ
る
。
兄
弟
の
梅
香
雪
︹
芳
雪
。
薫
︺
は
同
藩
洋
学
の
先
輩
金
金
森
錦
謙
が
早
く
か
ら
忘
れ
去
ら
れ
た
人
物
か
ど
う
か
に
つ
い
て
、
私
は
あ
る
憶
説
を
立
て
た
こ
と
が
あ
る
。
江
藩
医
家
の
出
身
で
、
幼
時
江
梅 敬
家 ︵
に 後
残 記
さ 三
れ ︵
て 一
い ︶
た 1
文 ︶
書 と
に 東
基 京
づ 帝
い 国
て 大
、 学
錦 ・
之
丞 料
の 編
年 纂
譜 所
も の
作 同
成 僚
し 。
て 戦
い 後
る38 は
︶︶ 東
の 京
﹁ 大
憶 学
説 ・
﹂
の 料
受 編
け 纂
売 所
り 教
で 授
あ 。
る な
。 お
桃 、
は 戦
い 前
う39 に
。︶ 、
桃
は
、
し
か
し
、
こ
の
仮
説
は
、
徳
の
オ
リ
ジ
ナ
ル
で
は
な
く
、
桃
裕
行
︵
桃
﹂
家
は
、
江
藩
儒
の
家
系
。
し
か
も
、
桃
裕
行
は
、
三
成
重
で
は
な
い
か
と
思
う
。
ち
な
み
に
み
な
ぎ
っ
て
い
た
も
の
ら
し
い
。
の
家
は
代
々
蘭
方
医
で
あ
っ
た
。
の
兄
を
錦
之
丞
と
い
い
、
が
謙
次
郎
と
名
づ
け
ら
れ
た
の
も
、
こ
の
金
森
錦
謙
の
名
を
け
て
与
え
ら
れ
た
の
論 説
末
、
遺
子
を
海
外
に
留
む
る
は
、
そ
の
情
よ
り
論
ず
れ
ば
、
復
た
怪
む
に
足
ら
ず
。
た
ゞ
撫
育
の
費
を
送
ら
で
、
母
子
を
し
て
飢
餓
に
ら
し
む
る
は
、
を
帯
び
、
骨
格
邦
人
に
似
た
り
と
云
ふ
。
梅
某
の
情
婦
は
余
伯
林
に
在
り
し
と
き
、
余
と
倶
に
一
盞
の
を
喫
し
た
る
こ
と
あ
り
き
。
客
窓
排
悶
の
日
本
人
の
欧
洲
に
在
り
て
児
を
生
ま
せ
し
は
、
独
り
︹
緒
方
︺
惟
直
氏
の
み
な
ら
ず
。
已
に
伯
林
に
も
梅
某
の
子
、
中
村
某
の
子
あ
り
。
皆
面
色
黄
リ
ン と
で こ
﹁ ろ
梅 で
某 、
の 森
情 鴎
婦 外
﹂ ︵
と 明
一 治
緒 一
に 七
コ 年
ー 八
ヒ 月
ー ∼
を 二
飲 一
ん 年
だ 九
、 月
と ド
あ イ
る43 ツ
。︶ 留
学
︶
の
﹃
独
逸
日
記
﹄
明
治
一
九
年
七
月
一
五
日
の
条
に
は
、
ベ
ル
じ
く
、
梅
家
︵
本
家
︶
の
墓
所
で
あ
る
台
東
区
谷
中
の
部
講
師
と
な
る
が
、
明
治
一
八
年
一
二
月
一
八
日
依
願
退
寿 職
寺 、
。 翌
戒 一
名 九
は 年
普 四
明 月
院 八
殿 日
妙 没
照 。
錦 行
海 年
日 二
観 七
居 歳
士 一
梅 〇
家 か
第 月
五 。
世42 墓
。︶ は
、
母
・
志
ん
と
同
大
学
医
学
部
卒
業
後
ド
イ
ツ
留
学
︵
明
治
一
二
年
一
一
月
∼
一
六
年
一
月
︶
、
ベ
ル
リ
ン
大
学
で
眼
科
を
学
び
、
帰
国
後
は
東
京
大
学
医
学
長
男
・
錦
之
丞
は
、
安
政
五
年
四
月
二
〇
日
︵
一
八
五
八
年
六
月
一
日
︶
出
雲
国
江
町
に
生
ま
れ
た41
。︶
先
に
触
れ
た
よ
う
に
、
東
京
1
︶
長
男
・
錦
之
丞
な
氏
名
と
な
っ
た
。
そ
の
意
味
で
は
、
板
倉
家
か
ら
の
養
子
の
梅
・
梅
子
と
い
う
名
前
の
由
来
も
、
す
こ
ぶ
る
不
審
で
あ
る
︶
。
子
で
あ
る
旨
を
示
す
る
趣
旨
か
︵
だ
が
、
母
カ
ネ
の
養
子
と
な
っ
た
彼
女
は
、
謙
次
郎
と
カ
ネ
の
入
籍
の
結
果
、
梅
・
梅
枝
と
い
う
珍
妙
前
を
息
子
た
ち
に
つ
け
た
の
だ
ろ
う
か
。
他
方
、
女
子
に
つ
け
ら
れ
た
﹁
梅
枝
﹂
な
る
名
前
の
由
来
も
気
に
な
る
。
男
子
と
同
様
、
梅
家
の
緑
・
震
・
徳
・
光
錦
之
丞
・
謙
次
郎
の
に
つ
け
ら
れ
て
い
る
点
が
気
に
な
る
。
謙
次
郎
は
、
薫
の
孫
で
あ
る
旨
を
示
す
趣
旨
で
、
同
じ
﹁
一
文
字
﹂
名
・
薫
に
関
し
て
は
、
む
し
ろ
、
同
じ
特
徴
的
な
﹁
一
文
字
﹂
名
前
が
、
謙
次
郎
の
四
人
の
息
子
︵
薫
の
孫
︶
め
、
た
と
え
仮
に
書
面
の
や
り
取
り
が
あ
っ
た
と
し
て
も
、
二
人
が
直
接
対
面
し
た
こ
と
は
な
い
で
あ
ろ
う
。
年
一
二
月
五
日
︵
一
八
五
九
年
一
月
八
日
︶
︶
の
五
年
前
で
あ
る
︶
。
も
っ
と
も
、
上
記
の
よ
う
に
、
金
森
錦
謙
は
江
戸
藩
邸
詰
で
あ
る
た
場
合
に
は
、
彼
と
金
森
錦
謙
は
、
ま
さ
に
同
時
代
人
で
あ
る
︵
金
森
錦
謙
の
江
戸
新
番
組
入
り
は
、
三
代
・
道
竹
の
新
番
組
入
り
︵
安
政
五
八
三
四
年
︶
生
︶
と
え
る
か
ら
で
あ
る
が
、
し
か
し
、
命
名
者
を
祖
の
三
代
・
道
竹
︵
寛
政
一
〇
年
︵
一
七
九
八
年
︶
生
︶
と
え
た
(法政研究 83-3-130)396
梅謙次郎の子供たち(七戸)
で
は
な
く
、
れ
て
い
る
写
真
・ 一
薫 葉
で 、
あ 中
る 泉
ら 論
し 文
い51 に
。︶ 掲
他 載
方 さ
、 れ
中 て
泉 い
論 る
文 写
の 真
写 三
真 葉
の に
う 写
ち っ
、 て
い
第 る
3 人
図 物
﹂ で
と 、
し 山
て 賀
掲 論
載 文
さ が
れ 掲
て 載
い す
る る
一 肖
〇 像
名 写
の 真
人 は
物 、
の 錦
集 之
合 丞
は
、 右
謙 の
次 よ
郎 う
の に
二 、
男 岡
︵ は
戸 、
籍 梅
上 謙
は 次
長 郎
男 の
︶ 子
震 の
に う
取 ち
材 、
し 長
て 男
、 ︵
資 戸
料 籍
や 上
写 は
真 養
の 子
提 ︶
供 緑
を の
受 家
け 系
て か
い ら
る50 調
。︶ 査
興 を
味 行
深 っ
い て
の い
は る
、 。
山 一
賀 方
論 、
文 山
に 賀
掲 と
載 中
さ 泉
397(83-3-131)
ド
イ
ツ
人
と
し
て
徴
兵
さ
れ
戦
死
し
た
、
と
い
う
こ
と
な
の
か
。
戦 の 中
前 事 泉
後 で 行
に あ 正
消 る48 の
︶
息 ﹂
牧
が 。 野
ま
不 た 英
明
一
に 、 に
な 岡 対
孝
っ の す
た 梅 る
と
聞
醇
い に き
う49 対 取
﹂︶
り
。 す
日 る に
露 聞 よ
れ
戦 き
争 取 ば
で り 、
日 で 戦
本 も 争
人 、 に
と 中 徴
し 泉 兵
て 氏 さ
徴 の れ
兵 指 る
さ 摘 事
れ ど を
る お 恐
の り れ
を 、 て
嫌 日 か
っ 露 秘
て 戦 密
帰 争 の
国 直 中
し 前 に
た に 独
が 帰 乙
、 国 に
第 し 帰
一 、 っ
次 第 て
世 一 し
界 次 ま
大 世 っ
戦 界 た
で 大 と
そ
の
後
、
こ
の
遺
児
は
、
明
治
三
七
年
日
露
戦
争
が
始
ま
る
頃
︵
二
〇
∼
二
四
歳
の
頃
︶
ド
イ
ツ
に
帰
国
し
た
が
、
そ
の
理
由
に
つ
き
、
①
・
②
い
ず
れ
の
説
に
立
っ
て
も
一
応
の
平
仄
は
合
う
が
、
子
の
年
齢
や
謙
次
郎
の
家
計
等
か
ら
え
て
、
②
説
の
ほ
う
が
現
実
的
か
。
年
で
あ
る
。
一
方
、
独
逸
学
協
会
学
普
通
科
﹂
が
﹁
独
逸
学
協
会
中
学
﹂
に
名
称
変
さ
れ
る
の
は
明
治
二
九
年
で
あ
る
か
ら
、
錦
之
丞
が
留
学
中
︵
明
治
一
二
年
∼
一
六
年
︶
に
も
う
け
た
子
が
、
中
学
の
就
学
年
齢
︵
一
二
歳
︶
に
達
す
る
の
は
、
明
治
二
五
年
∼
二
九
よ
れ
ば
、
こ
の
子
供
は
ド
イ
ツ
協
会
学
野 に 取
一 在 っ
郎 籍 た
に ︶ の
依 が で
頼 明 あ
し 治 る
て 二 が
日 三 、
本 年 そ
に 留 の
連 学 経
れ か 緯
て ら に
来 帰 関
て 国 し
に も す て
通 ら る 、
っ っ 際 ①
た た に 山
と と 一 田
い す 緒 三
う る45 に 良
﹂ 。︶ 連 や
と な れ 岡
記 お 帰 孝
し 、 っ ・
て ① た 江
い 岡 と 戸
る は す 恵
が46 、 る 子
、︶
の は
② 梅 に 、
山 ︹ 対 謙
賀 謙 し44 次
は 次 、︶ 郎
、 郎 ② ︵
︺ 山 明
ド の 賀 治
イ 令 勇 二
ツ 孫 は 二
協 ・ 、 年
会 醇
中 ︹ 帰 か
学 緑 国 ら
﹂ の 後 一
に 長 数 年
通 男 年 間
っ ︺ 経 ベ
っ ル
た 氏 て リ
と の
ン
す 話 か
ら
る47 に 本 大
学
。︶
こ
こ ん
に 。
い
う
﹁
梅
某
﹂
と
は
梅
錦
之
丞
の
こ
と
で
あ
り
、
借
金
同
様
、
彼
の
遺
児
︵
氏
名
不
詳
︶
に
つ
い
て
も
、
弟
・
謙
次
郎
が
引
き
い
と
悲
む
べ
き
事
な
り
。
独
乙
の
法
、
一
児
の
養
育
料
は
大
概
一
時
二
千
麻
を
投
じ
て
足
る
。
留
学
生
の
如
き
、
こ
の
資
力
な
く
し
て
醜
を
遺
す
な
ら
論 説
政
章
様
に
も
融
通
し
て
い
た
だ
き
ま
し
て
、
急
ぎ
の
だ
け
は
返
済
い
た
し
ま
し
た
が
、
と
て
も
全
部
と
申
す
わ
け
に
は
な
り
ま
せ
ん
。
層
心
配
し
て
下
さ
い
ま
し
て
、
お
様
の
故
読
売
新
聞
社
長
本
野
盛
亨
様
に
お
話
し
て
下
す
ッ
て
、
お
立
替
へ
下
さ
い
ま
し
た
。
ま
た
法
学
博
士
富
井
の
大
金
で
ご
ざ
い
ま
す
。
大
学
か
ら
い
た
だ
く
俸
給
だ
け
で
は
何
と
も
い
た
し
方
が
ご
ざ
い
ま
せ
ん
。
そ
れ
を
今
の
露
国
大
男
爵
本
野
一
郎
様
が
大
高
利
貸
し
な
ど
は
、
家
の
内
に
座
り
込
ん
で
居
催
促
を
す
る
と
い
ふ
有
様
で
、
主
人
も
非
常
に
苦
心
い
た
し
ま
し
た
。
二
万
円
と
申
せ
ば
な
か
な
か
は
、 一
高 方
利 、
貸 謙
し 次
で 郎
あ が
る 留
。 学
妻 か
カ ら
ネ 帰
は 国
、 す
次 る
の の
よ を
う ︵
に 明
回 治
想 二
す 三
る52 年
。︶ 八
月
九
日
帰
国
。
謙
次
郎
三
〇
歳
︶
手
ぐ
す
ね
引
い
て
待
ち
構
え
て
い
た
の
記
載
は
﹁
謙
二
郎
﹂
で
あ
っ
た
の
を
、
明
治
三
四
年
一
月
一
八
日
付
で
﹁
謙
次
郎
﹂
に
改
め
た
も
の
で
あ
る
。
な
お
、
彼
の
名
前
に
関
し
て
は
、
謙
二
郎
﹂
と
い
う
記
載
を
し
ば
し
ば
見
か
け
る
が
、
こ
れ
は
必
ず
し
も
誤
り
で
は
な
く
、
戸
籍
上
の
教
授
。
東
川
徳
治
﹃
博
士
梅
謙
次
郎
﹄
の
記
述
に
従
え
ば
、
一
二
月
一
日
本
理
左
衛
門
・
ク
ニ
の
三
女
カ
ネ
と
結
婚
。
ン
大
学
で
学
位
取
得
の
後
、
明
治
二
二
年
七
月
一
七
日
ベ
ル
リ
ン
到
着
、
翌
明
治
二
三
年
八
月
九
日
帰
朝
後
、
一
八
日
帝
国
大
学
法
科
大
学
か
ら
、
翌
明
治
一
八
年
一
〇
月
東
京
大
学
法
学
部
教
員
に
任
ぜ
ら
れ
、
留
学
の
た
め
一
二
月
二
九
日
横
浜
を
出
航
、
本
野
一
郎
の
い
る
リ
ヨ
よ
う
に
、
東
京
外
国
語
学
か
ら
、
明
治
一
三
年
司
法
省
法
学
正
則
科
第
二
期
生
に
編
入
、
明
治
一
七
年
首
席
卒
業
後
は
司
法
省
御
用
掛
二
男
・
謙
次
郎
は
、
万
2
︶
二
男
・
謙
次
元 郎
年
六
月
七
日
︵
一
八
六
〇
年
七
月
二
四
日
︶
兄
と
同
じ
く
出
雲
国
江
町
に
生
ま
れ
た
。
す
で
に
触
れ
た
以
前
に
、
兄
・
錦
之
丞
と
知
己
の
間
柄
で
あ
っ
た
。
で
あ
る
が
、
彼
ら
が
集
合
写
真
を
撮
る
に
至
っ
た
理
由
に
つ
い
て
は
不
明
で
あ
る
。
と
も
あ
れ
、
穂
積
陳
重
は
、
梅
謙
次
郎
と
面
識
を
も
つ
許
可
は
四
月
一
四
日
︶
、
帰
国
の
た
め
ベ
ル
リ
ン
を
発
つ
の
が
翌
一
四
年
三
月
二
九
日
で
あ
る
か
ら
、
写
真
は
こ
の
間
に
撮
影
さ
れ
た
も
の
か
、
穂
積
陳
重
の
姿
が
認
め
ら
れ
る
。
穂
積
が
ロ
ン
ド
ン
か
ら
ベ
ル
リ
ン
に
到
着
す
る
の
が
明
治
一
三
年
三
月
四
日
︵
ベ
ル
リ
ン
大
学
入
学
写
真
に
は
、
梅
錦
之
丞
・
原
新
之
助
︵
水
産
学
者
。
水
産
講
習
所
︵
の
ち
東
京
水
産
大
学
を
経
て
現
在
は
東
京
海
洋
大
学
︶
所
長
︶
の
ほ
(法政研究 83-3-132)398
梅謙次郎の子供たち(七戸)
は
今
福
島
県
若
市
で
弁
護
士
を
し
て
を
ら
れ
る
前
田
兵
郎
氏
の
こ
と
︶
し
か
と
は
覚
え
ま
せ
ん
が
、
座
敷
は
、
六
畳
と
四
畳
の
二
間
ぎ
い
ふ
と
こ
ろ
か
ら
、
だ
け
は
向
島
に
残
し
て
お
い
て
、
主
人
と
私
と
書
生
と
三
人
で
、
本
郷
真
砂
町
の
下
宿
に
移
り
ま
し
た
。
書
生
と
﹁
そ
れ
か
ら
間
も
な
く
︹
明
治
二
三
年
八
月
一
八
日
︺
帝
国
大
学
の
教
授
と
な
り
ま
し
た
の
で
、
通
勤
す
る
の
に
遠
方
で
不
②
①
本
郷
真
砂
町
廿
五
番
地
⋮
⋮
読
売
新
聞
明
治
二
三
年
八
月
①
二
七
日
朝
刊
・
②
二
八
日
別
刷
︵
転
居
広
告
︶
東
京
本
所
請
地
村
九
百
六
十
三
番
地
寓
⋮
⋮
読
売
新
聞
明
治
二
三
年
八
月
一
八
日
朝
刊
︵
帰
朝
報
告55
︶︶
。
で
困
る
と
399(83-3-133)
京
向
島
に
住
ん
で
を
り
ま
し
た56
﹂︶
。
﹁
主
人
の
洋
行
し
た
の
は
明
治
十
九
年
で
、
帰
朝
し
た
の
が
明
治
二
十
三
年
で
ご
ざ
い
ま
し
た
が
、
帰
朝
し
ま
し
た
当
時
は
と
共
に
東
妻
カ
ネ
の
回
顧
談
と
重
ね
合
わ
せ
な
が
ら
、
順
番
に
見
て
い
く
と
、
以
下
の
よ
う
に
な
る
。
明
治
三
四
年
小
石
川
林
町
に
は
じ
め
て
持
ち
家
を
築
す
る
ま
で
の
一
一
年
の
間
に
、
実
に
一
〇
回
に
わ
た
っ
て
借
家
を
転
々
と
し
て
い
る
。
聞
と
の
つ
な
が
り
が
深
い
の
で
あ
る
が
、
同
紙
に
掲
載
さ
れ
た
転
居
広
告
を
拾
い
上
げ
て
み
る
と
、
謙
次
郎
は
、
明
治
二
三
年
の
帰
朝
か
ら
、
り
の 謙
た 次 た
め 郎 。
原 は
稿 、
を リ
書 ヨ
き ン
、 大
死 学
去 留
の 学
年 時
︵ 代
明 よ
治 り
四 、
三 本
年 野
︶ 一
の 郎
三 の
月
に ・
は 本
富 野
井 盛
政 亨
章 の
・ 経
高 営
田 す
早 る
苗 読
と 売
と 新
も 聞
に の
評 社
議 友
員 と
に な
就 っ
任 て
す 、
る
な ・
ど54 薫
、︶ へ
読 の
売 仕
新 送
差
向
の
時
に
は
い
つ
も
膝
の
上
に
手
を
置
い
て
、
御
話
を
し
て
居
ま
し
た
。
こ
れ
は
祖
や
母
上
の
躾
け
も
影
響
し
て
ゐ
る
か
と
私
は
存
じ
て
ゐ
ま
し
く
ほ
ど
で
、
私
共
が
へ
て
こ
れ
は
少
し
御
無
理
で
は
な
か
ら
う
か
と
思
ふ
様
な
要
求
で
も
﹁
上
の
仰
だ
か
ら
﹂
と
い
ふ
て
従
ふ
の
が
常
で
上
と
家
を
新
築
し
よ
う
と
い
ふ
こ
と
に
な
り
ま
し
て
、
先
づ
上
の
為
め
に
別
荘
を
買
ひ
ま
し
た
。
主
人
が
上
に
対
し
て
素
直
で
あ
り
ま
し
た
こ
と
は
驚
物
権
篇
二 ︶
十 ﹄
九
年
頃
に
は
全
部
負
債
の
償
却
が
済
み
ま
し
て
、
そ
れ
か
ら
唐
縮
緬
の
蒲
団
と
麻
の
蚊
帳
な
ど
を
求
め
ま
し
た
。
金
が
少
し
貯
り
ま
し
た
の
で
、
借
金
を
完
済
す
る
の
は
帰
国
か
ら
六
年
後
、
明
治
二
九
年
﹃
民
法
要
義
︵
巻
之
一
九
月
一
二
日
刊
行
︶
を
出
版
し
た
頃
で
、
東
川
徳
治
﹃
博
士
梅
謙
次
郎
﹄
の 則
伝 篇
え ︶
る ﹄
妻 六
カ 月
ネ 七
の 日
談 刊
に 行
よ ︶
・
れ ﹃
ば53 民
︶
法
要
、 義
︵
巻
之
二
論 説
調
査
会
の
委
員
を
命
ぜ
ら
れ
ま
し
た
。
╱
調
査
会
の
方
は
非
常
に
忙
し
い
の
で
、
主
人
は
、
朝
も
早
く
出
掛
け
ま
す
し
、
夜
も
︹
注
︺
⋮
⋮
⑤
・
⑥
の
転
居
に
関
し
て
、
カ
ネ
は
何
も
語
っ
て
い
な
い
。
な
お
、
カ
ネ
は
、
か
く
て
明
治
二
十
四
年
に
、
主
人
は
、
法
典
⑥
⑤
④
③
本
郷
区
円
山
福
山
町
四
番
地
第
一
号
駒
込
西
片
町
一
地
番
︹
番
地
︺
⋮
⋮
読
売
新
聞
明
治
二
五
年
四
月
三
〇
日
朝
刊
︵
転
居
広
告
︶
駒
込
西
片
町
五
番
地
⋮
⋮
読
売
新
聞
明
治
二
四
年
四
月
九
日
朝
刊
︵
転
居
広
告
︶
根
津
西
須
賀
町
十
一
番
地
⋮
⋮
読
売
新
聞
明
治
二
四
年
一
月
五
日
朝
刊
︵
転
居
広
告
︶
⋮
⋮
読
売
新
聞
明
治
二
五
年
一
二
月
四
日
朝
刊
︵
転
居
広
告
︶
︹
注
︺
⋮
⋮
明
治
二
五
年
三
月
二
五
日
、
長
女
・
梅
枝
生
。
﹁
そ
の
う
ち
に
、
私
ど
も
は
都
合
あ
っ
て
、
本
郷
西
片
町
に
引
移
り
、
だ
け
は
前
の
西
須
賀
町
に
別
居
し
て
を
り
ま
し
た59
︶
﹂
。
け
て
ま
ゐ
り
ま
す
の
で
、
私
な
ど
は
、
主
人
の
留
守
に
は
、
一
一
こ
れ
に
挨
拶
す
る
の
を
仕
事
に
し
て
ゐ
た
く
ら
ゐ
で
ご
ざ
い
ま
す58
︶
﹂
。
毎
日
の
や
う
に
催
促
に
ま
ゐ
り
ま
す
。
こ
れ
に
は
実
に
閉
口
し
て
し
ま
ひ
ま
し
た
。
根
津
に
引
移
り
ま
し
て
か
ら
は
、
な
ほ
烈
し
く
押
懸
貸
し
た
方
で
は
主
人
の
帰
朝
を
今
や
遅
し
と
待
ち
構
へ
て
を
り
ま
し
た
が
、
主
人
は
、
帰
り
ま
す
と
す
ぐ
大
学
教
授
に
な
り
ま
し
た
の
で
、
人
が
、
二
万
円
あ
ま
り
の
借
金
を
残
し
て
亡
く
な
っ
て
し
ま
ひ
ま
し
た
の
で
、
そ
の
債
務
は
主
人
が
悉
く
引
受
け
る
こ
と
に
な
り
ま
し
た
。
須
賀
町
に
引
移
り
、
と
同
棲
す
る
こ
と
に
な
り
ま
し
た
。
と
こ
ろ
が
、
前
に
お
話
し
い
た
し
ま
し
た
主
人
の
兄
の
錦
之
丞
と
申
し
ま
す
﹁
し
か
し
、
下
宿
住
居
は
ど
う
も
不
自
由
な
こ
と
が
多
い
の
で
、
そ
れ
よ
り
は
一
家
を
持
つ
ほ
う
が
よ
か
ら
う
と
い
っ
て
、
本
郷
根
津
西
何
を
意
味
し
て
い
る
の
か
は
不
明
で
あ
る
。
謙
次
郎
﹄
の
年
譜
に
あ
る
﹁
︹
明
治
二
三
年
︺
十
二
月
一
日
旧
江
藩
士
本
理
左
衛
門
の
女
兼
子
を
娶
る
﹂
と
の
記
載
が
、
︹
注
︺
⋮
⋮
こ
の
よ
う
に
、
カ
ネ
は
、
謙
次
郎
の
帰
国
直
後
よ
り
一
緒
に
暮
ら
し
て
い
る
の
で
あ
り
、
そ
れ
ゆ
え
、
東
川
徳
治
﹃
博
士
梅
一
ヶ
月
の
賄
費
四
円
五
拾
銭
づ
つ
と
い
ふ
こ
と
に
極
め
て
、
主
人
は
そ
こ
か
ら
大
学
に
通
勤
し
て
を
り
ま
し
た57
﹂︶
。
り
で
、
そ
こ
に
寝
道
具
や
本
箱
机
な
ど
を
お
い
て
、
三
人
が
起
臥
し
て
を
り
ま
し
た
も
の
で
す
か
ら
、
実
に
狭
く
て
困
り
ま
し
た
。
一
人
(法政研究 83-3-134)400
梅謙次郎の子供たち(七戸)
⑦
に
足
ら
ぬ
お
金
が
あ
る
ば
か
り
で
、
ど
う
す
る
こ
と
も
で
き
ま
せ
ん
か
ら
何
と
か
し
て
月
末
ま
で
ば
し
て
い
た
だ
く
わ
け
に
は
ゆ
か
ぬ
ご
ざ
い
ま
し
た
。
月
半
ば
に
上
か
ら
、
二
十
円
だ
け
都
合
し
て
く
れ
と
い
ふ
御
無
心
が
ま
ゐ
り
ま
し
た
。
そ
の
時
、
私
の
手
に
は
一
円
な
る
こ
と
が
あ
っ
て
、
を
り
を
り
余
の
お
金
を
無
心
し
て
お
よ
こ
し
に
な
る
こ
と
が
ご
ざ
い
ま
し
た
。
丁
度
二
十
六
年
の
秋
の
こ
と
で
こ
の
上
と
申
す
方
が
、
や
は
り
兄
の
錦
之
丞
と
同
じ
く
、
性
質
の
豪
放
な
方
で
し
た
か
ら
、
毎
月
三
十
円
の
お
金
で
は
時
時
足
ら
な
く
401(83-3-135)
困
っ
た
も
の
で
ご
ざ
い
ま
す
。
て
も
必
ず
や
り
通
し
ま
せ
う
と
け
れ
ば
な
ら
ぬ
の
だ
か
ら
、
随
へ
て
を
り
ま
し
た
が
、
い
つ
も
月
の
半
ば
に
な
り
ま
す
と
、
お
金
が
足
り
な
く
な
り
ま
し
て
、
随
つ
ら
い
だ
ら
う
が
、
我
慢
し
て
や
っ
て
く
れ
と
申
さ
れ
ま
し
た
の
で
、
私
は
、
い
か
な
る
艱
難
に
遇
っ
梅
枝
は
戸
籍
上
の
母
で
あ
る
矢
ヶ
崎
鶴
吉
・
い
し
夫
妻
に
里
子
に
出
さ
れ
て
い
た
と
思
わ
れ
る
︺
暮
ら
し
て
ゆ
き
、
相
応
に
際
も
し
な
主
人
は
私
に
向
っ
て
、
三
十
円
で
一
家
三
人
︹
引
用
者
注
⋮
⋮
﹁
三
人
﹂
と
は
、
謙
次
郎
・
カ
ネ
夫
婦
と
、
長
男
・
緑
で
あ
ろ
う
。
長
女
・
﹃
上
の
仰
せ
に
は
背
か
れ
ぬ
﹄
た
。
月
の
半
ば
に
な
り
ま
す
と
、
野
菜
を
買
ふ
お
金
に
も
困
る
こ
と
が
ご
ざ
い
ま
し
た
。
す
る
こ
と
に
し
て
侘
し
い
生
活
を
し
て
を
り
ま
し
た
。
毎
月
三
十
円
で
生
活
す
る
と
い
ふ
こ
と
は
、
そ
の
当
時
で
も
随
骨
が
折
れ
ま
し
け
は
、
の
扶
養
料
と
し
て
毎
月
差
上
げ
、
主
人
と
私
ど
も
は
三
十
円
で
暮
ら
し
を
立
て
、
残
金
三
四
十
円
は
、
毎
月
債
主
の
方
へ
返
済
﹁
そ
れ
か
ら
麹
町
一
番
町
に
引
移
り
ま
し
た
が
、
そ
の
頃
の
主
人
の
収
入
は
、
月
に
百
円
ほ
ど
で
ご
ざ
い
ま
し
た
。
こ
の
う
ち
三
十
円
だ
一
番
町
五
番
地
⋮
⋮
読
売
新
聞
明
治
二
六
年
五
月
二
八
日
朝
刊
︵
転
居
広
告
︶
な
お
、
⑥
円
山
福
山
町
時
代
の
、
明
治
二
六
年
三
月
七
日
、
長
男
・
緑
生
。
の
が
同
年
一
〇
月
七
日
で
、
法
典
調
査
会
が
設
置
さ
れ
る
の
は
明
治
二
六
年
三
月
の
こ
と
で
あ
る
。
民
法
商
法
期
法
律
案
が
帝
国
議
会
で
可
決
さ
れ
る
の
は
明
治
二
五
年
五
月
一
六
日
、
謙
次
郎
が
民
法
商
法
取
調
委
員
に
な
る
遅
く
帰
っ
て
ま
ゐ
り
ま
し
て
、
少
し
も
暇
は
ご
ざ
い
ま
せ
ん
の
で
、
私
も
驚
い
た
く
ら
ゐ
で
ご
ざ
い
ま
す
﹂
と
述
べ
て
い
る
が60
、︶
論 説
⑨
⑧
飯
田
町
五
丁
目
三
十
四
番
地
⋮
⋮
読
売
新
聞
明
治
三
一
年
二
月
二
〇
日
朝
刊
︵
転
居
広
告
︶
小
石
川
指
ヶ
谷
町
百
四
十
番
地
⋮
⋮
読
売
新
聞
明
治
二
八
年
五
月
五
日
朝
刊
︵
転
居
広
告
︶
る
︵
震
の
生
は
明
治
二
九
年
二
月
一
四
日
徳
・
光
の
生
は
明
治
三
〇
年
一
二
月
二
日
︶
。
二
男
︵
長
男
︶
震
、
双
子
の
三
男
・
四
男
︵
二
男
・
三
男
︶
徳
・
光
が
生
ま
れ
る
の
も
、
こ
の
⑧
小
石
川
指
ヶ
谷
町
時
代
で
あ
し 親
た62 の
﹂︶ 死
。
な
れ
た
時
の
苦
し
か
っ
た
こ
と
を
思
ふ
と
、
贅
沢
ど
こ
ろ
か
、
も
の
を
粗
末
に
す
る
こ
と
も
で
き
ぬ
と
申
し
て
を
り
ま
し
た
時
は
、
こ
れ
か
ら
は
少
し
も
気
も
伸
び
伸
び
す
る
だ
ら
う
、
少
し
は
贅
沢
も
で
き
る
だ
ら
う
と
は
申
さ
れ
な
が
ら
も
、
母
て
、
夏
に
な
っ
て
も
木
綿
蚊
帳
を
吊
っ
て
を
り
ま
し
た
が
、
よ
借
金
を
返
済
し
て
し
ま
っ
て
、
初
め
て
麻
の
蚊
帳
を
吊
り
ま
町
時
代
の
こ
と
で
あ
り
、
カ
ネ
に
よ
れ
ば
、
主
人
も
、
借
金
を
返
す
た
め
に
、
二
十
九
年
ご
ろ
ま
で
は
苦
労
に
苦
労
を
か
さ
ね
︹
注
︺
⋮
⋮
こ
の
転
居
に
関
し
て
、
カ
ネ
は
何
も
語
っ
て
い
な
い
。
な
お
、
謙
次
郎
が
借
金
を
完
済
す
る
の
は
、
こ
の
⑧
小
石
川
指
ヶ
谷
話
さ
れ
ま
し
た
が
、
上
の
仰
せ
と
あ
ら
ば
、
ど
ん
な
こ
と
で
も
喜
ん
で
承
知
す
る
と
い
ふ
風
で
ご
ざ
い
ま
し
た61
︶
﹂
。
の
時
の
上
の
喜
び
は
ま
た
格
別
で
ご
ざ
い
ま
し
た
。
主
人
は
、
上
の
笑
顔
を
み
る
の
が
何
よ
り
楽
し
み
だ
と
、
あ
と
で
私
ど
も
に
も
ま
せ
ん
の
で
、
い
ろ
い
ろ
尋
ね
た
上
、
質
屋
へ
ま
ゐ
り
ま
し
て
二
十
円
の
金
を
借
り
出
し
、
そ
れ
を
上
に
お
届
け
い
た
し
ま
し
た
。
そ
を
え
ず
、
主
人
の
も
の
と
私
の
も
の
と
、
衣
類
雑
品
を
一
纏
め
に
し
て
、
質
に
入
れ
る
こ
と
に
し
ま
し
た
。
私
は
、
質
の
入
れ
方
も
存
じ
私
も
、
な
る
ほ
ど
と
同
意
は
い
た
し
ま
し
た
も
の
の
、
な
い
袖
は
振
れ
ぬ
の
譬
で
、
お
金
は
ど
う
し
て
も
で
き
ま
せ
ん
。
そ
れ
か
ら
止
む
﹃
衣
服
を
質
入
れ
し
て
親
に
奉
ず
﹄
は
ゆ
か
な
い
と
申
さ
れ
ま
し
た
。
今
残
っ
て
ゐ
る
の
は
親
だ
け
で
あ
る
。
親
に
孝
行
を
す
る
時
は
今
よ
り
外
に
な
い
の
だ
か
ら
、
何
と
し
て
も
の
仰
せ
に
背
く
わ
け
に
も
の
で
せ
う
か
と
、
主
人
に
話
を
し
ま
す
と
、
主
人
は
、
そ
れ
は
い
け
な
い
、
親
の
仰
せ
で
は
な
い
か
、
母
は
苦
し
い
時
に
死
な
れ
て
、
(法政研究 83-3-136)402
梅謙次郎の子供たち(七戸)
▲
昨
年
の
今
日
今
夜
︵
二
十
三
日
は
︶
韓
国
の
病
院
で
博
士
か
ら
最
後
の
言
葉
を
聞
か
れ
た
の
で
あ
っ
た
。
未
亡
人
が
彼
の
地
の
南
大
門
に
着
か
れ
去 月 婦 時
の 一 と ︶
模 五 子 に
様 日 供 病
に 渡 た 死
つ 韓 ち し
い 中 の て
て の た い
は 謙 め る
、 次 に 。
彼 郎 用 一
の チ い 方
一 フ ら 、
周 ス れ
忌 で 、 ・
の 重 明 薫
二 態 治 の
日 と 四 死
前 の 一 後
︵ 報 年 ︵
明 を 謙 明
治 妻 次 治
四 カ 郎 三
四 ネ は 八
年 が 大 年
八 受 韓 四
月 け 民 月
二 た 国 二
三 の の 三
日 も 民 日
︶ 、 事 死
に こ 訴 去
。
カ の
ネ 別 法 謙
が 荘 草 次
語 で 案 郎
っ 避 を 四
た 暑 こ 五
追 中 の 歳
懐 の 別 ︶
、
談 こ 荘 こ
を と で の
聞 で 起 別
こ あ 草 荘
う67 っ し は
。︶ た た65 、
が66 。︶ 謙
、︶ 明 次
謙 治 郎
次 四 ・
郎 三 カ
の 年 ネ
死 八 夫
403(83-3-137)
も
っ
と
も
、
先
に
触
れ
た
よ
う
に
、
母
・
志
ん
は
、
謙
次
郎
の
留
学
よ
り
は
る
か
以
前
の
明
治
一
〇
年
八
月
一
三
日
︵
謙
次
郎
一
七
歳
の
氏
の
如
き
は
母
に
孝
養
の
場
所
と
し
て
之
を
打
て
た
る
也
。
此
の
一
事
を
見
て
如
何
に
故
博
士
が
孝
心
に
厚
き
か
を
察
し
得
べ
し
。
別
墅
を
築
し
、
老
親
を
其
の
処
に
移
し
て
晩
年
を
楽
し
く
過
さ
し
め
た
り
。
当
今
貴
紳
の
多
数
は
一
身
の
逸
楽
の
た
め
別
荘
等
を
設
く
る
も
、
故
梅
を
尽
す
こ
と
能
は
ざ
り
し
を
以
て
、
博
士
は
常
に
之
を
非
常
に
遺
憾
と
せ
り
。
故
に
其
後
聊
か
財
産
に
余
裕
を
得
る
や
直
に
湘
南
酒
匂
の
地
を
卜
し
て
▲
寔
に
孝
道
の
士
也
故
博
士
は
天
性
至
孝
に
し
て
非
常
に
母
を
大
切
に
し
た
る
が
、
仏
国
よ
り
帰
朝
当
時
は
家
政
裕
か
な
ら
ず
充
母
に
孝
養
て
は 自
、 宅
山
口 築
宗 よ
義 り
も も
、 先
次 に
の
よ ・
う 薫
に の
述 た
べ め
て に
い 購
る64 入
。︶ し
た
、
神
奈
川
県
足
柄
下
郡
酒
匂
町
︵
昭
和
一
五
年
よ
り
小
田
原
市
酒
匂
︶
の
家
に
つ
い
⑩
ら
れ
ま
す
時
は
、
務
で
止
む
を
え
ぬ
場
合
の
外
は
、
土
曜
日
毎
に
必
ず
親
を
見
舞
っ
て
、
翌
日
曜
日
に
帰
京
い
た
し
ま
し
た63
﹂︶
。
小
石
川
の
只
今
の
家
を
て
て
三
十
四
年
に
、
私
ど
も
は
、
そ
こ
へ
引
移
り
ま
し
た
。
は
七
年
前
に
歿
し
ま
し
た
が
、
が
酒
匂
に
を
に
親
の
家
を
作
っ
て
上
げ
な
け
れ
ば
な
ら
ぬ
と
申
し
て
、
相
州
酒
匂
に
家
を
て
、
そ
こ
に
を
住
ま
は
せ
ま
し
た
。
そ
れ
か
ら
後
に
﹁
そ
の
後
、
お
ひ
お
ひ
手
も
と
の
貯
へ
も
で
き
ま
し
た
の
で
、
住
宅
を
作
ら
う
な
ど
と
申
し
ま
し
た
が
、
自
の
入
る
家
よ
り
も
、
第
一
小
石
川
林
町
三
十
番
地
⋮
⋮
読
売
新
聞
明
治
三
四
年
七
月
七
日
朝
刊
︵
転
居
広
告
︶
︹
注
︺
⋮
⋮
右
の
二
回
の
転
居
︵
⑨
・
⑩
︶
に
つ
い
て
も
、
カ
ネ
は
何
も
語
っ
て
い
な
い
。
小
石
川
江
戸
川
町
五
番
地
⋮
⋮
読
売
新
聞
明
治
三
二
年
一
〇
月
九
日
朝
刊
︵
転
居
広
告
︶
論 説
会
っ
た
と
き
た
だ
し
た
と
こ
ろ
、
両
人
は
同
時
代
の
人
で
あ
り
郷
里
も
山
一
つ
越
し
た
隣
村
な
の
で
、
二
人
の
出
会
と
い
う
こ
と
も
無
き
に
し
も
あ
ら
の
教
師
用
を
つ
く
る
と
き
武
蔵
の
こ
と
を
い
ろ
い
ろ
調
べ
た
。
す
る
と
武
蔵
と
沢
庵
の
流
は
ど
の
記
録
に
も
見
当
ら
な
い
。
こ
の
点
を
吉
川
氏
に
○
︹
叔
・
徳
が
︺
岩
波
の
国
語
の
教
科
書
の
編
集
を
や
っ
て
い
た
頃
、
吉
川
英
治
の
﹁
宮
本
武
蔵
﹂
の
一
節
を
教
科
書
に
の
せ
た
こ
と
が
あ
っ
た
。
そ
兄
︶
と
一
緒
に
暮
ら
し
て
い
た
が
、
折
に
触
れ
て
叔
が
語
っ
た
話
の
中
に
、
母
方
・
梅
醇
︵
謙
次
郎
の
長
男
・
緑
の
長
男
︶
は
、
昭
和
一
二
年
か
ら
昭
和
二
〇
年
ま
で
の
八
年
間
、
叔
本
家
の
始
祖
の ・
話 梅
が 徳
あ ︵
っ 謙
た70 次
。︶ 郎
の
三
男
。
双
子
の
二
︶
本
家
に ︹
留
︺ 学
改 か
め
ら ら
帰
れ 国
し
な し
た
り69
︶ 二
﹂
。 か
こ 月
れ 後
に の
対 明
し 治
て 二
、 三
謙 年
次 一
郎 〇
の 月
子 八
の 日
代
の ・
墓 薫
所 の
は 家
、 よ
護 り
国
寺 家
で ︺
は 今
な 回
く 斯
雑 く
司 は
ヶ ︹
谷 真
霊 言
園 宗
に 豊
あ 山
る 派
。 の
大
本
山
・
護
国
寺
な
お
、
梅
謙
次
郎
の
墓
所
は
、
博
士
の
家
は
代
々
日
蓮
宗
に
て
墓
地
は
谷
中
︹
寿
寺
︺
な
れ
ど
博
士
は
家
し
た
る
も
の
な
れ
ば
に
あ
っ
た
野
間
清
治
︵
講
談
社
挨
拶
回
り
を
勤
め
、
未
亡
人
に
付
業 き
者 添
︶ い
で 荼
あ 毘
っ に
た68 付
。︶ さ
れ
た
遺
骨
を
持
ち
帰
っ
た
の
は
、
当
時
東
京
帝
国
大
学
法
科
大
学
の
首
席
書
記
の
職
一
方
、
明
治
四
三
年
八
月
二
五
日
の
死
去
の
後
、
東
京
帝
国
大
学
長
︵
浜
尾
新
︶
の
名
代
と
し
て
韓
国
統
監
︵
寺
内
正
毅
︶
以
下
へ
の
単
に
﹁
判
る
﹂
と
答
ら
れ
た
の
み
で
、
今
へ
る
と
是
が
最
後
の
言
葉
で
す
﹂
と
未
亡
人
は
当
時
を
目
の
当
り
に
偲
ん
で
袖
を
ら
れ
た
。
何
れ
明
日
は
ゆ
っ
く
り
話
さ
う
と
云
ふ
事
で
あ
っ
た
が
、
其
の
明
日
の
廿
三
日
に
は
最
早
話
す
事
も
出
来
ず
只
未
亡
人
の
顔
が
判
る
か
と
聞
か
れ
て
簡
り
と
し
て
居
ら
れ
た
が
軈
て
﹁
小
供
等
は
相
変
ら
ず
夫
か
﹂
と
聞
か
れ
た
。
未
亡
人
は
其
由
を
答
へ
る
と
﹁
夫
の
が
一
番
結
構
だ
﹂
と
云
は
れ
て
良
人
の
苦
し
い
呻
き
声
を
聞
き
な
が
ら
遂
に
博
士
の
顔
を
見
る
事
が
出
来
な
か
っ
た
。
翌
廿
一
日
の
朝
始
め
て
博
士
の
傍
に
行
く
と
暫
ら
く
は
ぼ
ん
や
た
の
が
廿
日
の
夜
で
、
直
に
病
院
に
博
士
を
見
舞
ふ
と
﹁
夜
中
で
あ
る
か
ら
お
ひ
に
な
る
と
却
っ
て
病
状
を
増
し
ま
す
か
ら
﹂
と
云
ふ
事
で
別
室
で
(法政研究 83-3-138)404
梅謙次郎の子供たち(七戸)
藩
主
・
土
岐
頼
行
に
仕
え
た
。
寛
永
六
年
︵
一
六
二
九
年
︶
紫
衣
事
件
で
上
山
に
配
流
さ
れ
た
沢
庵
宗
彭
と
出
会
い
、
新
流
開
の
志
を
告
俊
に
管
槍
を
学
ん
で
印
可
を
得
る
。
そ
の
後
は
、
山
形
で
最
上
義
光
や
鳥
井
忠
政
に
仕
え
た
が
、
寛
永
初
年
出
羽
上
山
に
移
っ
て
初
代
上
山
門
森
重
。
幼
少
か
ら
文
武
に
励
み
、
数
え
二
〇
歳
と
な
っ
た
慶
長
一
〇
年
︵
一
六
〇
五
年
︶
佐
渡
に
渡
っ
て
日
本
覚
天
流
の
槙
野
久
兵
衛
茂
本 1
長
門 家
守 祖
定 ・
好
︵ 本
一 長
指 門
︶ 守
は 定
、 好
天 ︵
正 一
一 指
四 ︶
年
︵
一
五
八
六
年
︶
越
後
国
府
に
生
ま
れ
た72
。︶
は
、
も
と
佐
々
成
政
家
臣
の
本
彦
左
衛
405(83-3-139)
一
流
の
武
芸
者
で
あ
り
、
武
蔵
と
違
っ
て
沢
庵
和
尚
と
面
識
が
あ
っ
た
と
す
る
、
徳
の
言
葉
に
偽
り
は
な
い
。
し
た
が
っ
て
、
醇
な
い
し
徳
は
、
先
祖
の
名
前
を
誤
っ
て
覚
え
て
い
た
こ
と
に
な
る
が
、
し
か
し
、
本
一
指
が
宮
本
武
蔵
と
並
ぶ
当
世
か 覚
れ 左
た 衛
も 門
の 、
も 中
多 頃
い 理
が 左
、 衛
本 門
来 、
は 後
法 長
号 門
の 守
と と
お 称
り し
一 、
指 法
流 号
で を
あ 一
る71 指
﹂︶ と
。 号
し
た
。
流
名
に
つ
い
て
は
後
世
一
旨
流
と
か
日
下
一
旨
流
な
ど
と
書
て 手
一 右 で
方 手 槍
、 で の
繰 柄
を
本 り
出 握
一 す っ
旨
が て
﹂ 、 管
の 管 の
﹁
一 槍 中
を
旨 の
管 滑
流
﹂ は ら
は 、 せ
② 刺
、
﹃ の 突
日 場 す
本 合 る
武 の 。
道 掌 素
大 の 槍
系 摩 の
﹄ 擦 場
に 抵 合
よ 抗 、
れ に ①
ば よ 両
、 る 腕
刺 を
突 同
本 速 時
長 度 に
門 の 前
守 低 に
定 下 突
好 を き
の 解 出
消 す
め す か
た る 、
流 た ②
儀 め 左
で の 掌
あ も の
る の 中
。 で で
定 あ 柄
好 る を
は 。 滑
初
ら
め
せ
管 あ
る
︹ 。
管
槍
︺
﹂
と
は
、
素
槍
の
柄
に
管
︵
輪
。
多
く
は
金
属
製
︶
を
通
し
た
槍
の
こ
と
で
、
右
利
き
の
場
合
、
左
手
で
管
を
握
り
、
右
叔
は
事
実
、
沢
庵
、
武
蔵
、
一
旨
の
料
を
相
当
集
め
て
い
た
よ
う
で
あ
る
。
又
一
旨
の
伝
記
を
書
き
初
め
て
あ
る
程
度
ま
と
め
て
い
た
よ
う
で
記
録
は
ど
こ
に
も
な
い
が
、
こ
の
二
人
を
結
び
つ
け
て
作
を
も
の
し
て
み
る
の
も
面
白
い
。
暇
を
み
つ
け
て
や
っ
て
み
た
い
。
家
に
あ
っ
た
。
一
旨
も
武
蔵
も
当
時
の
一
流
の
武
芸
者
で
あ
り
、
も
ち
ろ
ん
双
方
と
も
そ
の
名
は
相
知
っ
て
い
た
で
あ
ろ
う
。
両
人
が
会
っ
た
と
い
う
母
方
の
祖
先
は
本
一
旨
と
い
っ
て
一
旨
流
管
の
始
者
で
沢
庵
と
親
が
あ
っ
た
。
そ
の
の
伝
書
も
沢
庵
筆
と
い
わ
れ
戦
災
で
焼
け
る
ま
で
ず
と
思
い
、
武
蔵
と
沢
庵
を
結
び
つ
け
て
あ
の
小
説
を
書
い
た
と
い
う
こ
と
で
あ
っ
た
。
論 説
日
梅
謙
次
郎
養
子
・
梅
子
の
女
婿
と
す
る
た
め
本
家
を
廃
家
・
謙
次
郎
と
養
子
縁
組
を
し
た
、
と
い
う
経
緯
で
あ
る
。
は
不
明
。
と
も
あ
れ
、
理
左
衛
門
の
死
に
よ
り
、
戸
籍
上
の
長
男
・
緑
が
本
家
の
戸
主
と
な
っ
て
い
た
と
こ
ろ
、
明
治
三
八
年
三
月
一
七
理
左
衛
門
・
ク
ニ
の
長
男
と
し
て
届
出
が
さ
れ
て
い
る
か
ら
、
理
左
衛
門
が
こ
の
時
点
で
存
命
で
あ
っ
た
こ
と
は
明
ら
か
で
あ
る
が
、
没
年
日
︶
生
︶
。
一
方
、
す
で
に
触
れ
た
よ
う
に
、
梅
謙
次
郎
と
カ
ネ
の
間
の
実
子
︵
長
男
︶
緑
︵
明
治
二
六
年
三
月
七
日
生
︶
は
、
戸
籍
上
は
の
廃
家
養
子
縁
組
に
よ
り
母
ク
ニ
と
と
も
に
一
時
謙
次
郎
の
戸
籍
に
入
っ
て
い
た
コ
ト
︵
明
治
四
年
五
月
五
日
︵
一
八
七
一
年
六
月
二
二
な
い
が
、
三
女
は
梅
謙
次
郎
の
妻
カ
ネ
︵
兼
子
。
明
治
元
年
一
〇
月
八
日
︵
一
八
六
八
年
一
一
月
二
一
日
︶
生
︶
、
四
女
は
明
治
三
八
年
緑
元
年
一
月
二
七
日
︵
一
八
四
四
年
三
月
一
五
日
︶
生
︶
と
の
間
に
は
四
人
の
女
子
が
生
ま
れ
た
。
長
女
・
二
女
に
つ
い
て
は
調
べ
き
れ
て
い
一
方
、
梅
謙
次
郎
の
妻
カ
ネ
の
・
理
左
衛
門
は
、
本
家
六
代
・
定
静
で
あ
る
。
彼
と
、
江
藩
士
・
玉
木
秀
平
の
長
女
ク
ニ
︵
弘
化
娘
︵
と
ね
︶
と
結
婚
し
た
の
は
、
本
家
五
代
・
本
理
左
衛
門
定
重
︵
理
外
︶
の
よ
う
で
あ
る
。
﹃
日
本 2
武 カ
道
大 ネ
︵
系 兼
﹄
子
掲 ︶
載
の
一 ・
指 理
左
流
の 衛
系 門
図
と74
、︶
福
田
明
正
﹃
雲
藩
武
道
﹄
の
記
述
を
突
合
し
て
推
測
す
る
に
、
初
代
・
梅
道
竹
の
末
指
流
は
、
江
戸
・
江
の
両
地
を
拠
点
と
し
て
全
国
に
広
ま
っ
た
。
術
師
職
と
な
る
。
彼
は
、
そ
の
後
江
戸
に
出
て
一
指
流
を
広
め
、
後
年
再
び
江
に
帰
参
し
て
槍
術
師
職
に
復
帰
す
る
が
、
そ
の
た
め
、
一
の
孫
︵
三
代
︶
理
左
衛
門
定
良
︵
号
・
節
外
︶
は
、
と
く
に
秀
で
た
い
手
で
、
元
禄
七
年
︵
一
六
九
四
年
︶
一
八
歳
で
本
家
最
初
の
槍
一
指
流
の
管
槍
は
、
全
長
二
間
︵
約
三
・
六
メ
ー
ト
ル
︶
あ
り
、
そ
の
刺
突
の
速
さ
か
ら
槍
銃
と
も
称
さ
れ
る
が
、
開
祖
・
定
好
︵
一
指
︶
家
と
は
家
格
が
違
う
。
万
治
三
年
九
月
五
日
︵
一
六
六
〇
年
一
〇
月
九
日
︶
江
に
て
没
。
享
年
七
二
歳
。
な 法
っ 号
た を
際 授
に け
、 る
再 。
三 そ
の の
招 後
き 、
に 彼
応 は
じ 江
て 戸
同 に
藩 出
の て
槍 新
術 流
指 派
南 を
役 広
と め
な た
り が
、 、
大 寛
番 永
組 一
に 五
組 年
み ︵
入 一
れ 六
ら 三
れ 八
る 年
。 ︶
禄
高 平
は 直
三 政
五 が
〇
石 江
で73 藩
、︶ ・
新 初
番 代
組 藩
の 主
梅 と
げ
て
伝
書
の
執
筆
を
乞
う
た
。
沢
庵
は
彼
の
人
物
に
感
じ
て
こ
れ
を
諾
し
、
同
年
一
〇
月
九
巻
の
伝
書
を
与
え
る
と
と
も
に
、
一
指
﹂
の
(法政研究 83-3-140)406
梅謙次郎の子供たち(七戸)
三
に
、
な
ぜ
彼
ら
が
、
帰
国
後
同
居
を
始
め
て
一
五
年
間
明
治
三
八
年
七
月
二
三
日
だ
か
ら
で
あ
る
。
そ
し
て
、
第
の
記
述
の
意
味
が
か
ら
な
い
。
彼
ら
が
入
籍
す
る
の
は
、
謙
次
郎
﹄
に
あ
る
、
一
二
月
一
日
謙
次
郎
と
カ
ネ
の
結
婚
は
謙
次
郎
し
か
い
な
い
。
第
二
に
、
東
川
徳
治
﹃
博
士
梅
錦
之
丞
は
明
治
一
九
年
に
死
去
し
て
お
り
、
家
を
嗣
ぐ
者
の
返
済
の
理
由
が
不
明
で
あ
る
。
一
方
、
梅
家
の
嗣
子
・
し
な
い
。
本
家
の
借
金
か
ら
逃
れ
る
た
め
な
ら
、
そ
の
後
国
二
か
月
後
の
一
〇
月
八
日
に
家
し
た
理
由
が
判
然
と
帰
国
後
の
謙
次
郎
と
カ
ネ
の
行
動
で
あ
り
、
第
一
に
、
帰
か
し
、
仮
に
そ
う
で
あ
る
と
す
れ
ば
、
不
可
解
な
の
は
、
次 の 日 謙
郎 と 横 次
や
浜 郎
え 出 が
・ ら 発 留
薫 れ ︶ 学
と る に に
暮 。 は 出
ら あ 、 発
し る す す
て い で る
い は に 明
た 留 結 治
の 学 婚 一
か 前 が 八
も か 決 年
し ら ま ︵
れ す っ 一
な で て 二
い に い 月
。 、 た 二
し 謙 も 九
【第2図】梅家・小泉家略系図
407(83-3-141)
八
月
九
日
︶
直
後
よ
り
謙
次
郎
と
暮
ら
し
て
い
る
か
ら
、
よ
う
に
、
謙
次
郎
が
留
学
か
ら
帰
国
し
た
︵
明
治
二
三
年
夫
・
謙
次
郎
よ
り
八
歳
年
下
の
妻
カ
ネ
は
、
先
に
見
た
3
理
左
衛
門
三
女
・
カ
ネ
︵
兼
子
︶
論 説
者
。
東
京
帝
国
大
学
料
編
纂
官
﹂
明
治
七
年
五
月
二
三
日
江
生
ま
れ
﹂
明
治
二
七
年
に
郁
文
館
︹
中
学
︺
を
中
退
し
、
二
九
年
開
拓
﹃
二
〇
世
紀
日
本
人
名
事
典
﹄
の
記
述
を
そ
の
ま
ま
転
記
す
れ
ば
、
三
成
重
敬
︵
み
な
り
・
し
げ
ゆ
き
︶
は
、
明
治
∼
昭
和
期
の
歴
学
1
三
成
重
敬
い 三 に 人
え 成 協 の
ば 重 力 親
、 敬 し 戚
謙 ︵ て ︶
次 東 い と
郎 京 る い
の 帝 よ う
妻 大 う 資
カ 資 で 料
ネ ︹ あ 収
の
る 集
い ︺ ﹂ に
と 料 と 役
こ 編 さ 立
で 纂 れ77 つ
あ 掛 、︶ 者
る 勤 梅 が
︵
︻ 務 謙 い
次 た
第 ︶
2 よ 郎 。
図 り を か
の
︼ 資 研 小
究
料
参
照79 の す 泉
る 八
︶ 提
︶
。 供 際 雲
を の も
受 必 梅
け 読 に
﹂ 書 資
た で 料
も あ の
の る 収
で 東 集
あ 川 を
る 徳 依
が78 治 頼
、︶ ﹃ し
博 て
親
お
戚 士 り
梅
﹂
、
と 謙 梅
次
い
は
う 郎 三
﹄
の
成
は も を
、
、
具 梅 っ
体 の て
的 親 八
に 戚 雲
要
人
物
が
い
る
。
梅
の
ま
わ
り
に
は
、
梅
の
世
話
で
明
治
三
一
年
以
来
右
の
よ
う
に
、
小
泉
八
雲
の
妻
セ
ツ
︵
節
子
︶
は
、
梅
謙
次
郎
の
妻
カ
ネ
料 の
編 叔
纂
掛 の
に 妻
写 の
字 い
生 と
と こ
し で
て あ
勤 っ
め た
て が
い 、
た よ
三 り
成 近
重 い
敬 縁
︵ 戚
梅 に
の も
夫 重
三
一
︶
周
辺
人
物
梅
家
の
人
び
と
葬 ︵
後
儀 任
委 は
員
長 、
周
を 知
務
め の
よ
た76
︶ う
。
に
夏
目
漱
石
︶
、
早
稲
田
大
学
学
監
・
高
田
早
苗
に
講
師
雇
入
れ
を
依
頼
し
、
翌
三
七
年
の
八
雲
の
死
去
の
際
に
は
謙
次
郎
は
、
八
雲
の
後
見
役
の
よ
う
な
地
位
に
あ
り
、
明
治
三
六
年
八
雲
が
東
京
帝
大
文
科
大
学
英
文
科
の
講
師
を
解
雇
さ
れ
た
際
に
は
も
な 内
お 縁
、 関
カ 係
ネ を
の 続
母 け
ク た
ニ の
の か
末 が
弟
・ か
玉 ら
木 な
十 い
之 。
助
の
妻
れ
ん
︵
錬
︶
は
、
小
泉
八
雲
の
妻
セ
ツ
︵
節
子
︶
の
い
と
こ
で
あ
っ
た75
。︶
そ
の
縁
で
、
(法政研究 83-3-142)408
梅謙次郎の子供たち(七戸)
桃
開
拓
社
と
い
う
の
は
そ
れ
で
す
か
。
望
さ
ん
等
の
グ
ル
ー
プ
の
機
関
誌
だ
っ
た
。
え
、
梅
︵
謙
次
郎
︶
先
生
に
頼
ん
で
竹
越
三
叉
先
生
の
﹁
世
界
之
日
本
﹂
新
聞
に
入
社
し
た
。
月
給
七
円
で
す
。
こ
の
新
聞
は
陸
奥
宗
光
・
西
園
寺
三
成
私
は
明
治
七
年
出
雲
の
江
生
ま
れ
で
す
が
、
十
六
七
ご
ろ
か
ら
東
京
に
あ
こ
が
れ
、
二
十
六
年
に
上
京
し
た
が
、
二
年
ほ
ど
し
て
学
資
が
絶
409(83-3-143)
桃
︹
裕
行
︺
三
十
一
年
十
一
月
二
十
二
日
で
す
。
今
日
調
べ
た
の
で
す
。
三
成
︹
重
敬
︺
高
柳
︹
光
寿
︺
こ
の
ご
ろ
年
と
っ
て
記
憶
力
が
い
け
な
く
な
っ
て
い
る
が
、
明
治
三
十
一
年
の
末
だ
と
思
う
の
だ
が
ね
。
一
番
初
め
に
伺
い
ま
す
が
、
あ
な
た
の
料
︹
編
纂
所
︺
に
入
っ
た
の
は
い
つ
で
す
か
。
の
座 三
談 成
会 が
︵ 自
先
に の
金 経
森 歴
錦 等
謙 に
の 関
個 し
所 て
で 最
参 も
照 詳
し し
た く
桃 触
裕 れ
行 て
も い
参 る
加 の
し は
て 、
い 管
る 見
︶ の
に 及
お ぶ
け 限
る り
、 で
以 は
下 、
の 東
よ 京
う 大
な 学
会 ・
話
で 料
あ 編
る82 纂
。︶ 所
の
現
役
・
O
B
私
が
資
料
を
提
供
し
て
、
東
川
徳
治
氏
が
、
こ
れ
を
伝
記
に
ま
と
め
た
。
私
が
東
大
料
編
纂
所
に
永
ら
く
席
を
置
い
て
い
る
の
も
梅
先
生
の
紹
介
に
よ
る
と
こ
ろ
で
あ
り
、
法
政
大
学
か
ら
刊
行
し
た
﹃
博
士
梅
謙
次
郎
﹄
は
、
私
は
明
治
七
年
出
雲
江
生
れ
で
、
二
十
六
年
梅
謙
次
郎
博
士
を
た
よ
っ
て
上
京
し
、
そ
れ
か
ら
親
し
く
梅
家
へ
出
入
し
て
今
日
に
至
っ
て
い
る
。
小
一 泉
方 節
、 子
三 の
成 ﹃
自 思
身 い
は 出
、 の
次 記
の ﹄
よ 出
う 版
に に
記 力
し を
て 尽
い く
る し
が81 た
︶
﹂
や
東
山
御
文
庫
・
醍
醐
寺
文
庫
の
料
調
査
な
ど
に
従
事
。
、 昭 ま
和
三 た
、
七 遠
年
二 縁
に
月 当
一 た
六
る
日 小
没80
︶ 泉
﹂
。 八
雲
に
資
料
を
提
供
し
、
八
雲
の
没
後
は
彼
の
妻
事
務
補
佐
員
、
二
四
年
東
京
大
学
雇
を
経
て
三
一
年
に
退
職
。
そ
の
間
、
長
き
に
渡
っ
て
﹃
大
日
本
古
文
書
﹄
の
東
寺
文
書
の
整
理
・
編
纂
庫
取
調
嘱
託
と
な
っ
た
。
昭
和
一
二
年
に
料
編
纂
官
に
任
ぜ
ら
れ
る
が
、
同
年
退
官
し
て
嘱
託
と
な
り
、
二
三
年
東
京
大
学
料
編
纂
所
理
・
調
査
に
あ
た
り
、
大
正
二
年
同
料
編
纂
補
助
嘱
託
、
九
年
同
料
編
纂
官
補
を
歴
任
。
そ
の
一
方
で
一
四
年
に
は
臨
時
に
東
山
御
文
社
に
入
社
し
た
の
を
経
て
三
一
年
に
東
京
帝
国
大
学
文
科
大
学
の
写
字
生
と
な
る
。
以
来
同
大
学
の
料
編
纂
掛
に
勤
務
し
て
資
料
の
整
論 説
が
、
営
利
と
念
ず
る
書
肆
に
う
け
い
れ
ら
れ
る
底
︹
体
︺
の
も
の
で
は
な
か
っ
た
よ
う
だ
。
こ
の
山
口
さ
ん
が
、
徳
さ
ん
は
﹂
と
い
っ
て
大
い
に
望
を
︹
裕
︺
な
親
類
が
あ
る
け
れ
ど
も
渉
を
没
し
、
隠
者
の
如
く
梅
家
の
玄
関
子
に
安
ん
じ
て
い
た
。
﹃
理
学
大
乗
論
﹄
と
い
う
著
書
の
原
稿
が
あ
っ
た
い
と
こ
ろ
も
あ
る
阿
羅
漢
と
い
っ
た
風
格
が
あ
っ
た
。
妻
も
な
く
子
も
な
く
、
故
郷
に
は
三
島
︹
佐
治
右
衛
門
。
山
口
五
郎
の
実
兄
︺
な
ど
富
有
次
郎
が
次
郎
が
と
い
っ
て
話
す
人
で
、
謙
次
郎
の
兄
錦
之
丞
と
は
友
人
関
係
で
あ
っ
た
よ
う
だ
。
山
口
さ
ん
は
脱
俗
的
で
あ
る
が
、
ど
こ
と
な
く
厳
し
で
、
明
治
十
六
年
に
﹃
道
徳
の
原
理
﹄
、
同
十
七
年
に
﹃
哲
学
原
論
﹄
な
ど
を
刊
行
し
て
い
る
。
北
尾
次
郎
博
士
︵
江
出
身
の
物
理
学
者
︶
の
こ
と
を
、
は
明
治
初
期
の
新
人
で
あ
り
、
哲
人
で
あ
っ
た
。
元
来
江
藩
の
士
族
で
な
く
、
大
き
い
町
家
の
若
旦
那
で
、
日
本
に
ス
ペ
ン
サ
ー
を
紹
介
し
た
学
者
︹
明
治
三
四
年
︺
梅
家
が
新
築
さ
れ
る
と
、
山
口
五
郎
氏
が
来
て
玄
関
番
に
お
さ
ま
っ
た
。
そ
れ
は
梅
家
の
玄
関
に
ち
ょ
っ
と
異
彩
を
放
っ
た
。
彼
ま
ず
、
梅
家
の
食
客
と
な
っ
た
山
口
五
郎
に
つ
い
て
、
三
成
重
敬
は
次
の
よ
う
に
語
っ
て
い
る83
。︶
2
山
口
五
郎
し
た
文
章
の
中
に
は
、
梅
家
に
出
入
り
し
て
い
た
、
興
味
深
い
人
物
に
言
及
し
た
も
の
が
あ
る
。
こ
の
座
談
会
に
は
、
三
成
が
参
加
し
た
東
山
御
文
庫
・
醍
醐
寺
文
庫
の
料
調
査
の
話
も
出
て
く
る
が
、
省
略
す
る
。
一
方
、
三
成
の
残
日
給
二
十
五
銭
也
で
あ
っ
た
。
ろ
ご
ろ
し
て
い
て
、
ま
た
梅
先
生
か
ら
三
上
︵
参
次
︶
先
生
に
紹
介
し
て
も
ら
っ
て
、
料
編
纂
掛
に
御
厄
介
に
な
る
こ
と
に
な
っ
た
。
こ
ん
ど
は
歳
末
に
東
京
に
帰
っ
た
。
自
然
と
人
情
風
俗
を
勉
強
す
る
と
い
う
つ
も
り
で
あ
っ
た
。
柄
に
な
い
お
は
ず
か
し
い
次
第
だ
。
そ
れ
か
ら
し
ば
ら
く
ご
て
も
ら
っ
て
、
こ
こ
で
一
週
間
滞
在
し
、
そ
れ
か
ら
大
阪
に
入
っ
て
、
ま
た
金
が
な
く
な
り
、
こ
こ
に
親
類
が
あ
っ
た
の
で
、
ま
た
金
を
借
り
て
、
原
で
と
ま
り
、
沼
津
、
そ
れ
か
ら
佐
野
に
寄
る
と
い
っ
た
行
程
で
、
鈴
鹿
山
を
越
え
て
京
都
に
入
っ
た
ら
旅
費
が
な
く
な
り
、
東
京
か
ら
金
を
送
っ
た
。
そ
ん
な
こ
と
か
ら
こ
の
失
業
し
て
い
る
間
に
東
海
道
を
歩
い
て
み
た
い
と
え
、
十
一
月
初
め
こ
ろ
か
ら
旅
に
上
っ
た
。
鎌
倉
で
泊
り
、
小
田
と
な
っ
た
。
そ
の
こ
ろ
の
書
生
は
政
治
趣
味
の
も
の
が
多
か
っ
た
が
、
私
は
文
学
趣
味
の
方
で
小
説
で
も
書
い
て
み
た
い
と
い
う
え
を
も
っ
て
い
三
成
そ
う
で
す
。
明
治
三
十
年
︹
八
月
二
四
日
︺
陸
奥
宗
光
さ
ん
が
な
く
な
っ
た
の
で
、
や
が
て
新
聞
は
廃
刊
と
な
り
ま
し
た
。
そ
れ
で
私
は
浪
人
(法政研究 83-3-144)410
梅謙次郎の子供たち(七戸)
転
々
と
居
候
暮
ら
し
を
続
け
て
い
た
漂
泊
の
哲
学
者
は
、
梅
の
新
居
の
居
心
地
が
よ
ほ
ど
良
か
っ
た
の
だ
ろ
う
、
明
治
三
九
年
三
月
一
九
区 物 の
小 学 未
石 大 刊
川 乗 行
林 論 部
町 ︶
三 上 ︵
十 巻 前
番 ︶ 編
地 の 中
梅 原 巻
邸 稿 ・
︹ で 下
寓 あ 巻
、
︺
﹂ り9︶1 後
、
と
そ 編
あ
︵
る92 れ 理
︶ が
。
証 想
拠 差
に 別
、 界
こ 大
れ 乗
ら 論
の ︶
書 上
籍 巻
の ・
下
奥 巻
付 ︶
記 か
載 、
の あ
山 る
口 い
は
五 ﹃
郎 理
の 学
住 第
所 四
に 大
は 乗
、 論
東 ﹄
京 前
市 編
小 ︵
石 実
川 験
411(83-3-145)
の
う
ち
前
編
︵
力
学
大
乗
論
︶
の
上
巻
は
、
す
で
に
刊
行
さ
れ
て
い
る
。
そ
れ
ゆ
え
、
三
成
重
敬
が
目
に
し
た
の
は
、
﹃
理
学
第
三
大
乗
論
﹄
山
口
が
梅
謙
次
郎
の
新
居
に
転
が
り
込
ん
だ
明
治
三
四
年
七
月
に
は
、
﹃
理
学
大
乗
論
﹄
﹃
理
学
次
大
乗
論
﹄
と
、
﹃
理
学
第
三
大
乗
論
﹄
独
自
の
哲
学
書
を
世
に
問
う
た
時
期
⋮
⋮
上
記
三
成
重
敬
の
文
章
に
あ
る
﹃
理
学
大
乗
論
﹄
を
著
し
て
以
降
の
時
期
で
あ
る
が
③
第
三
期
は
、
明
治
二
九
年
以
降
、
か
つ
て
信
奉
し
て
い
た
ス
ペ
ン
サ
ー
の
進
化
論
を
、
大
乗
仏
教
の
教
説
を
も
っ
て
超
克
せ
ん
と
、 す
る
②
論 な
﹄ っ 第
な て 二
ど 以 期
の 降 は
著 の88 、
述 、︶ 陸
を 政 奥
行 体 宗
っ 関 光
た 係 の
時 の 政
期90 著 治
、︶ 作 新
を 聞
精 ﹁
力 寸
的 鉄
に ﹂
出
版 明
し 治
た 二
時 四
期 年
⋮ 一
⋮ 一
﹃ 月
第 二
三 一
期 日
帝 発
国 刊
議 ∼
会 翌
見 二
聞 五
録 年
﹄ 一
の 二
編 月
集 二
や89 日
︶
廃
、
﹃ 刊
帝 ︶
権 の
論 編
﹄ 集
﹃
民 人
権 と
① る 相 ト
確
。 手 の 山
な 第
に 四 口 て
話
書 一
福 男
名 期
沢 に 五 し
は は
諭 生 郎 た
こ
﹃ 、
吉 ま は と
道 明
の れ 、 が
徳 治
自 た84 安 あ
之 一
由 。︶ 政 る
原 五
主 明 元 。
理86 年
義 治 年 ま
︶
﹄
∼
を 六 二 た
山
︺
、 一
啓 年 月 口
﹃
蒙 一 一 さ
哲 八
し 九 六 ん
学 年
の
た 歳 日 の
原
が85 で ︵ こ
論 ス
ペ
、︶ 慶 一 と
﹄
︹ ン
そ 応 八 を
書
正 サ
の 義 五 い
確 ー
後 塾 四 て
な の
再 に 年 み
書 著
び 入 三 た
名 作
上 塾 月 い
は の
京 し 一 と
﹃ 翻
。 て 四 も
哲 訳
以 英 日 い
っ
学 時
降 学 ︶ て
原 期
の を
い
理87 ⋮
彼 学 江 た
﹄︶ ⋮
の び の 。
︺
著 、 裕
上
な
作 明 福
ど 記
活 治 な
の 三
動 九 両
翻 成
は 年 替
重
訳
、 の 商
敬
を
以 本 ︵
行 の
下 科
っ 文
の 修 江
た 章
三 了 藩
に
時
期 後 の
期 あ
に は 掛
、 る
大
屋
﹃
別 江 ︶
道
す に 山
徳
る 戻 口
の
こ っ 源
原
と て 助
理
が 若 と
﹄
︹
で 者 妻
正
き 衆 モ
か
け
て
い
た
。
こ
の
少
年
、
学
へ
は
い
っ
た
時
、
先
生
の
教
え
る
こ
と
は
大
概
知
っ
て
い
て
、
不
勉
強
の
習
慣
が
つ
い
て
損
を
し
た
と
、
後
年
笑
っ
論 説
に
藤
森
塾
を
設
け
て
受
験
数
学
を
指
導
し
、
明
治
四
三
年
四
月
刊
行
の
受
験
参
書
﹃
幾
何
学
へ
方
と
解
き
方
﹄
青
野
文
魁
堂
︶
し
、
斉
藤
秀
三
郎
設
立
の
有
名
予
備
・
正
則
英
語
学
の
数
学
教
師
の
後
、
翌
四
〇
年
立
教
中
学
に
就
職
。
そ
の
一
方
で
、
彼
は
、
自
宅
保
科
百
助
︵
五
無
斎
︶
が
苦
学
生
の
た
め
に
開
い
た
私
塾
︵
保
科
塾
︶
教
師
か
ら
、
青
森
県
・
木
造
中
学
教
師
を
経
て
明
治
三
九
年
に
上
京
治
三
六
年
東
京
物
理
学
︵
現
・
東
京
理
科
大
学
︶
の
数
学
科
を
卒
業
。
そ
の
後
は
長
野
商
業
学
の
数
学
教
師
と
な
る
が
半
年
で
退
職
、
者
で
あ
る
。
兄
の
良
蔵
は
、
諏
訪
実
科
中
学
か
ら
、
明
治
三
二
年
長
野
師
範
学
に
入
学
す
る
が
一
年
で
理
不
尽
な
退
学
処
を
受
け
、
明
た
受 藤
験 森
指 良
導 蔵
・ ︵
数 ふ
学 じ
教 も
育 り
の ・
エ り
キ ょ
ス う
パ ぞ
ー う
ト ︶
で95 は
、︶ 、
弟 明
の 治
藤 一
森 五
省 年
吾 七
︵ 月
ふ 一
じ 五
も 日
り 、
・ 長
せ 野
い 県
ご 士
。 族
明 ・
治 藤
一 森
八 良
年 知
二 の
月 長
一 男
〇 と
日 し
生 て
︶ 上
も 諏
著 訪
名 に
な 生
教 ま
育 れ
降
っ
た
り
遅
く
な
っ
た
り
す
る
と
、
私
を
下
宿
ま
で
俥
で
送
っ
て
く
だ
さ
っ
た
。
奥
さ
ん
が
え
ら
か
っ
た
﹂
と
ず
ば
り
と
語
る
。
り
奥
さ
ん
が
え
ら
い
﹂
と
い
っ
た
。
力
強
い
断
言
だ
っ
た
。
私
は
書
生
ッ
ポ
だ
っ
た
が
、
奥
さ
ん
は
私
を
先
生
と
し
て
待
遇
し
て
く
だ
さ
っ
た
。
雨
が
は
ほ
と
ん
ど
語
ら
ぬ
、
語
れ
ば
無
駄
が
な
い
。
そ
し
て
ポ
ツ
リ
と
語
る
時
に
は
数
学
の
式
に
な
っ
て
い
る
よ
う
だ
。
突
然
の
よ
う
に
﹁
ア
ァ
先
生
よ
森
さ
ん
と
私
と
震
君
の
三
人
が
新
橋
の
料
亭
に
招
か
れ
た
。
そ
の
席
で
藤
森
さ
ん
に
会
っ
て
、
こ
れ
は
非
凡
な
と
こ
ろ
の
あ
る
人
だ
と
気
づ
い
た
。
彼
生
に
私
が
相
見
し
た
の
は
ず
っ
と
後
の
こ
と
で
、
震
君
が
︹
昭
和
一
四
年
︺
満
洲
中
央
銀
行
の
東
京
支
店
長
と
な
っ
た
時
、
今
昔
を
な
つ
か
し
み
、
藤
梅
兄
弟
の
少
年
時
代
を
偲
び
つ
つ
、
も
う
一
人
語
り
た
い
人
が
あ
る
。
梅
家
の
家
教
師
を
し
た
こ
と
の
あ
る
藤
森
良
蔵
の
風
格
で
あ
る
。
こ
の
先
と く
し い 申
か ふ し
し
ま
な を せ
が 持 ん
ら っ 。
、 て も
三 を の
成 り が
重 ま わ
敬 し か
の た る
文 ﹂ や
章 と う
の い に
中 う93 な
に 。︶ れ
は
ば
、
自
次
然
の
に
よ
良
う
く
な
な
人
る
物
も
も
の
登
を
場
、
す
あ
る94
ま
。︶
り
や
か
ま
し
く
干
渉
す
る
と
却
っ
て
悪
く
し
て
し
ま
ふ
と
こ
ろ
で
、
梅
謙
次
郎
の
妻
カ
ネ
に
よ
れ
ば
、
夫
・
謙
次
郎
は
、
3
藤
森
良
蔵
日
五
二
歳
で
病
死
す
る
ま
で
、
梅
家
に
居
座
り
続
け
た
。
子
供
に
対
し
て
は
常
に
放
任
主
義
を
と
っ
て
、
け
っ
し
て
や
か
ま
し
(法政研究 83-3-146)412
梅謙次郎の子供たち(七戸)
あ
る
﹂
。
昭
和
二
一
年
一
一
月
二
二
日
死
去
。
享
年
六
五
歳
。
行
部
数
を
通
算
す
る
と
二
百
万
部
を
突
破
す
る
と
い
ふ
。
即
ち
二
百
万
以
上
の
受
験
学
生
に
直
接
間
接
藤
森
氏
の
息
が
掛
っ
て
ゐ
る
わ
け
で
上
も
版
を
重
ね
た
も
の
な
ど
は
、
蘆
花
の
小
説
﹃
不
如
帰
﹄
な
ら
ば
知
ら
ぬ
こ
と
、
全
く
稀
有
の
記
録
で
あ
ら
う
。
そ
し
て
右
の
記
事
は
続
け
て
次
の
よ
う
に
述
べ
る
。
な
ん
と
驚
く
べ
き
で
は
あ
る
ま
い
か
。
一
冊
の
書
物
で
三
百
九
十
八
版
だ
の
、
い
や
三
︹ 百
発 版
︺ 以
413(83-3-147)
▲
漢
文
▲
国
文
▲
算
術
⋮
一
二
二
版
⋮
一
〇
五
版
⋮
九
四
版
▲
三
角
法
▲
代
数
初
歩
⋮
一
三
〇
版
⋮
一
六
五
版
▲
代
数
︵
下
︶
⋮
三
〇
四
版
▲
代
数
︵
上
︶
⋮
三
九
八
版
▲
幾
何
初
歩
▲
幾
何
︵
続
︶
⋮
九
八
版
⋮
五
九
版
▲
幾
何
︵
正
︶
⋮
三
二
六
版
︹
今
日
い
う
﹁
版
﹂
と
﹁
刷
﹂
を
合
わ
せ
た
数
字
で
あ
る
。
以
下
同
様
︺
方
叢 藤
書 森
﹂ が
が 、
、 ど
昭 れ
和 ほ
一 ど
〇 す
年 ご
ま い
で ﹁
の 神
二 様
五 ﹂
年 か
間 に
に 関
、 し
ど て
れ 、
だ 昭
け 和
版 一
︵ 〇
刷 年
︶ の
を 読
重 売
ね 新
た 聞
か は
の 、
数 上
字 記
を 明
挙 治
げ 四
て 三
い 年
る97 ﹃
。︶ 幾
何
学
﹄
に
始
ま
る
﹁
へ
大
正
六
年
に
は
受
験
生
向
け
の
月
刊
雑
誌
﹁
へ
方
﹂
を
刊
し
、
受
験
の
神
様
﹂
と
呼
ば
れ
る
よ
う
に
な
る
。
三
八
年
、
震
の
中
学
入
学
は
明
治
四
一
年
、
徳
・
光
の
中
学
入
学
は
明
治
四
三
年
︶
。
大
正
三
年
に
受
験
予
備
が
ベ
ス
ト
セ
ラ
ー
と
な
る
。
梅
謙
次
郎
の
子
供
た
ち
の
家
教
師
と
な
っ
た
の
は
、
こ
の
前
後
の
こ
と
で
あ
ろ
﹁ う
日 ︵
土 緑
講 の
習 中
会 学
入
﹂ 学
を
開 は
講96 明
治
、︶
論 説
仙
台
の
二
高
に
進
ん
だ
が
︵
明
治
四
一
年
九
月
入
学
︶
、
不
良
学
生
で
あ
っ
た
彼
の
家
教
師
を
務
め
た
の
は
五
島
慶
太
で
あ
っ
た
︶︶
。
男
・
周
︵
明
治
二
三
年
八
月
生
︶
も
、
梅
謙
次
郎
の
長
男
・
緑
や
二
男
・
震
と
同
様
、
東
京
高
師
附
属
中
学
か
ら
︵
東
京
の
一
高
で
は
な
く
︶
か
か
わ
ら
ず
、
な
か
な
か
ど
う
し
て
、
受
験
の
神
様
﹂
が
二
人
も
出
入
り
す
る
英
才
教
育
の
家
で
あ
る
︵
ち
な
み
に
、
富
井
政
章
の
長
四
∼
大
正
元
年
、
震
は
大
正
二
∼
三
年
、
徳
は
大
正
四
∼
五
年
、
光
は
大
正
四
年
︶
、
謙
次
郎
・
カ
ネ
夫
婦
の
﹁
放
任
主
義
﹂
の
言
葉
に
も
佐
川
が
受
験
指
導
を
行
っ
た
梅
謙
次
郎
の
四
人
の
男
子
の
高
受
験
は
、
い
ず
れ
も
謙
次
郎
の
死
去
後
で
あ
る
が
︵
緑
の
受
験
は
明
治
四
ギ
ス
﹂
同
人
の
俳
人
・
佐
川
雨
人
と
し
て
も
知
ら
れ
る
。
昭
和
四
三
年
一
月
二
六
日
没
。
享
年
八
九
歳
。
〇
年
二
月
の
空
襲
で
す
る
。
そ
の
後
、
同
舎
と
自
宅
を
失
っ
た
佐
川
は
、
三
月
は
、
正
則
英
語
学
を
し
の
ぐ
名
声
を
博
す
る
が
、
昭
和
一
九
年
英
語
教
育
に
対
す
る
軍
部
の
圧
力
で
廃
い
し
て
勢
い
に
翳
り
が
生
じ
、
大
正
八
年
四
月
佐
川
は
斉
藤
と
袂
を
徳
・
光
の
入
学
は
佐
川
の
退
職
後
︵
明
治
四
一
年
・
四
三
年
︶
で
あ
る
。
そ
の
後
、
正
則
英
語
学
江
に
帰
か
郷
ち
。
、
戦
翌
後
九
は
年
島
七
根
月
大
東
学
京
の
・
英
神 は
文
田 、
学
三 斉
の
崎 藤
講
町 秀
師
に 三
等
日 郎
を
進 の
務
英 強
め
語 烈
た
学 な
。
個
ホ 、 を 性
ト 翌 設 も
ト 二 立 災
で
あ
る
︶
。
な
お
、
梅
謙
次
郎
の
子
弟
の
う
ち
、
明
治
三
八
年
高
師
附
属
中
学
入
学
の
緑
は
、
佐
川
の
在
職
期
間
と
一
年
重
な
る
が
、
震
・
月
斉
藤
秀
三
郎
の
正
則
英
語
学
の
英
語
講
師
に
転
ず
る
︵
こ
れ
ま
た
藤
森
良
蔵
が
正
則
英
語
学
の
数
学
講
師
に
就
任
し
た
の
と
同
時
期
東
京
物
理
学
卒
業
と
同
年
︶
東
京
高
等
師
範
学
明
治
一
一
年
一
二
月
二
九
日
旧
江
藩
士
・
佐
川
の 内
専 蔵
修 之
科 進
を の
卒 長
業99 男
。︶ に
そ 生
の ま
後 れ
は た
母 彼
は
の 、
附
属 江
中 中
学 学
の か
教 ら
員 、
と 明
な 治
る 三
が 六
、 年
明 ︵
治 藤
三 森
九 良
年 蔵
一 の
の ち
ゃ
江 ん
出 が
身 あ
の り
、 、
こ 四
れ 人
ま と
た も
﹁ 私
受 が
験 高
の
神 進
様 学
﹂ へ
佐 ︵
川 今
春 な
水 ら
︵ さ
さ し
が ず
わ め
・ 大
は 学
る 進
み 学
︶ ︶
で の
あ コ
る98 ー
。︶ チ
役
を
承
っ
た
﹂
と
語
る
の
は
、
梅
夫
婦
と
同
郷
だ
が
、
梅
家
の
子
弟
の
家
4
佐
川
春
水
教
師
を
務
め
た
の
は
、
数
学
の
藤
森
良
蔵
だ
け
で
は
な
い
。
英
語
に
関
し
て
、
梅
先
生
に
は
四
人
の
坊
(法政研究 83-3-148)414
梅謙次郎の子供たち(七戸)
も
っ
と
も
、
同
年
︵
明
治
四
四
年
︶
八
月
二
五
日
に
執
り
行
わ
れ
た
謙
次
郎
の
一
周
忌
に
関
す
る
法
律
新
聞
の
記
事
で
は
、
カ
ネ
の
年
齢
と
し
て
い
る
点
も
気
に
な
る
。
と
し
て
い
る
の
は
、
い
か
な
る
理
由
に
基
づ
く
誤
解
な
の
だ
ろ
う
か
。
明
治
元
年
生
ま
れ
の
カ
ネ
の
年
齢
を
、
干
支
が
一
回
り
若
い
三
二
歳
こ
の
記
事
で
は
、
四
人
の
男
児
の
う
ち
、
長
兄
・
緑
と
末
弟
・
光
の
名
前
が
な
ぜ
か
落
ち
て
い
る
。
一
方
、
母
カ
ネ
を
謙
次
郎
の
﹁
後
妻
﹂
415(83-3-149)
墓
参
を
缺
さ
ず
故
博
士
の
墓
前
に
額
づ
き
て
は
つ
く
〴
〵
と
其
の
一
日
の
出
来
事
を
告
ぐ
る
を
常
と
さ
る
ゝ
と
か
り
し
が
博
士
が
没
後
以
来
は
尚
一
層
遺
児
を
し
て
博
士
の
名
を
汚
さ
ヽ
ら
し
め
ん
も
の
と
其
の
教
育
に
朝
な
夕
な
心
を
砕
き
つ
ヽ
日
に
一
度
は
必
ら
ず
衛
門
の
三
女
に
生
れ
故
博
士
が
後
妻
と
し
て
入
嫁
し
た
る
以
来
継
し
き
間
の
長
男
震
氏
︵
十
五
︶
次
男
緑
氏
︵
十
四
︶
を
愛
育
し
良
妻
賢
母
の
声
高
か
次
郎
氏
の
未
亡
人
カ
ネ
子
︵
三
二
︶
夫
人
な
り
と
の
誰
れ
言
ふ
と
な
く
伝
は
り
て
今
は
誰
れ
知
ら
ぬ
も
の
な
し
夫
人
は
東
京
府
士
族
本
理
右
︹
左
︺
が
正
あ 翌
九
雨 る 明 1 年
の 。 治
に
日
四 謙 居
風
四 次 住
の
年 郎 ︶
日
四 妻 が
の
月 ・ 住
厭
ひ
二 カ ん
な
二 ネ だ
く
日 ︵ 場
小
法 兼 所
石
律 子 と
川
新 ︶ 同
音
聞
一
羽
七
番
護
国
一
地
寺
〇
で
に
号
あ
墓
二
る
参
頁
。
す
に
る
は
人
、
品
賎
梅
し
夫
か
人
ら
の
ぬ
一
日
婦
参
人
╱
あ
故
り
博
是
士
れ
を
ぞ
悼
小
石
む
川
余
高
り
田
﹂
老
と
題
町
す
十
七
る
、
次
故
の
法
よ
学
う
博
な
士
記
梅
事
謙
授
時
代
に
居
住
︶
・
本
間
久
雄
︵
英
文
学
者
。
大
正
九
年
早
稲
田
大
学
講
師
・
早
稲
田
文
学
﹂
主
幹
時
代
に
居
住
︶
・
内
田
百
転
居
先
の
﹁
小
石
川
区
高
田
老
町
一
七
番
地
﹂
は
、
後
の
大
正
期
に
高
木
俊
雄
︵
日
本
神
話
学
者
。
大
正
二
年
東
京
高
等
︵ 師
作 範
家 学
。
大 教
払
っ
て
、
雑
司
が
谷
に
移
っ
た
。︶
明
治
四
三
年
八
月
二
五
日
の
謙
次
郎
の
死
去
か
ら
二
か
月
後
の
一
〇
月
三
〇
日
、
妻
カ
ネ
と
子
供
た
ち
は
、
小
石
川
林
町
の
邸
宅
を
引
き
二
︶
家
族
論 説
小
供
は
緑
︵
十
八
︶
に
、
震
︵
十
五
︶
に
、
徳
︵
十
四
︶
に
、
光
︵
十
四
︶
の
何
れ
も
男
で
御
座
い
ま
す
、
是
等
に
対
し
て
主
人
は
、
そ
の
晩
酌
の
な
お
、
カ
ネ
に
よ
れ
ば
、
亡
夫
・
謙
次
郎
も
ま
た
、
生
前
、
子
供
た
ち
に
、
自
の
若
い
頃
の
話
を
し
て
聞
か
せ
て
い
た
と
い
う
。︶
れ
を
語
る
至
誠
は
之
れ
を
聞
く
遺
児
の
胸
に
如
何
に
響
く
事
で
あ
ら
う
か
。
志
伝
中
の
人
だ
け
あ
っ
て
、
波
乱
曲
折
が
多
い
。
赤
の
他
人
で
さ
へ
故
博
士
の
生
立
を
聞
い
て
は
奮
起
せ
ざ
る
を
得
な
い
程
な
の
に
、
其
未
亡
人
が
之
街
路
に
夜
店
を
出
し
て
手
拭
足
袋
を
売
っ
た
事
や
、
夏
の
夜
に
蚊
帳
が
な
く
て
蒲
団
を
頭
か
ら
冠
っ
て
蒸
暑
い
思
ひ
を
し
な
が
ら
寝
た
苦
心
な
ど
、
立
幼
い
博
士
が
令
兄
︹
錦
之
丞
︺
の
学
ぶ
中
庸
一
巻
を
側
で
聴
聞
し
、
小
坊
は
も
う
教
は
ら
ん
で
も
よ
い
﹂
と
云
っ
て
人
々
を
驚
か
し
た
事
や
、
東
京
の
頭
に
置
い
て
幼
少
の
時
か
ら
臨
終
迄
の
故
博
士
生
涯
の
奮
闘
の
歴
を
折
に
ふ
れ
時
に
ふ
れ
遺
子
に
話
し
聞
せ
て
、
只
管
其
教
養
指
導
に
努
め
て
ゐ
る
。
偲
ぶ
家
宝
と
な
っ
て
ゐ
る
。
尚
ほ
未
亡
人
は
稀
に
見
る
意
志
強
き
女
夫
で
、
自
ら
故
博
士
小
伝
を
書
き
綴
り
﹁
お
さ
ま
は
﹂
と
懐
か
し
い
言
葉
を
ら
れ
﹁
世
の
中
は
夢
ば
か
り
な
る
も
の
を
か
し
夢
に
夢
見
る
夢
の
世
の
中
﹂
精
神
一
到
何
事
か
成
ら
ざ
ら
ん
﹂
の
二
幅
の
遺
墨
は
ま
ざ
〳
〵
と
故
人
を
⋮
⋮
小
石
川
雑
司
ヶ
谷
の
邸
で
一
周
忌
、
指
ヶ
谷
の
邸
で
三
周
忌
を
営
み
、
故
人
の
英
姿
は
岡
田
三
郎
助
画
伯
の
霊
筆
に
依
っ
て
梅
家
の
壁
間
に
掲
げ
治
四
五
年
八
月
二
五
日
護
国
寺
で
の
三
回
忌
は
、
一
家
が
指
ヶ
谷
︵
現
在
の
白
山
一
丁
目
︶
に
住
ん
で
い
た
頃
の
こ
と
と
す
る
。
を
明
治
四
四
年
秋
と
し
て
い
る
が
、
読
売
新
聞
大
正
三
年
二
月
二
七
日
朝
刊
記
事
﹁
若
き
未
亡
人
︵
九
︶
梅
博
士
未
亡
人
か
ね
子
﹂
は
、
明
寺
と
春
日
通
り
の
間
の
谷
町
︶
に
転
居
し
た
。
梅
震
‖
本
︹
梅
︺
光
︵
編
著
︶
﹃
追
想
梅
徳
を
偲
び
て
﹄
の
年
譜
は
、
転
居
の
時
期
そ
の
後
、
一
家
は
、
カ
ネ
の
毎
日
の
墓
参
の
た
め
、
一
家
は
、
謙
次
郎
の
墓
所
で
あ
る
護
国
寺
に
ほ
ど
近
い
小
石
川
大
塚
坂
下
町
︵
護
国
散
会
し
た
る
が
⋮
⋮
︹
後
略
︺
⋮
⋮
男
震
︵
十
六
︶
三
男
徳
︵
十
五
︶
四
男
光
︵
十
五
︶
の
各
自
は
同
焼
香
し
親
族
其
他
の
参
詣
者
順
次
に
行
ひ
て
式
を
終
へ
に
墓
前
に
参
詣
し
て
一
同
︹
中
略
︺
⋮
⋮
未
亡
人
カ
ネ
子
女
︵
四
十
四
︶
静
如
か
に
起
っ
て
自
ら
亡
き
尊
霊
に
焼
香
礼
拝
し
次
で
忘
れ
形
見
の
嗣
子
緑
氏
︵
十
九
︶
を
先
き
に
次
去
る
廿
五
日
は
故
法
学
博
士
梅
謙
次
郎
氏
没
後
恰
も
一
周
忌
に
相
当
す
る
な
り
同
日
午
前
九
時
音
羽
護
国
寺
に
於
て
其
追
悼
法
会
を
営
ま
れ
た
り
⋮
⋮
や
男
児
の
名
は
正
し
く
記
載
さ
れ
て
い
る
。︶
(法政研究 83-3-150)416
梅謙次郎の子供たち(七戸)
徳
郎
︺
、
奥
田
︹
義
人
︺
、
寺
尾
︹
亨
︺
、
平
沼
︹
騏
一
郎
︺
、
美
濃
部
︹
達
吉
︺
、
富
井
︹
政
章
︺
、
金
井
︹
︺
、
岸
︹
清
一
︺
等
の
諸
博
士
、
早
川
千
吉
子
供
が
生
命
で
暮
ら
し
て
居
れ
る
﹂
と
語
ら
れ
ま
し
た
。
昨
日
午
後
六
時
か
ら
は
上
野
精
養
軒
で
穂
積
︹
陳
重
︺
、
横
田
︹
国
臣
︺
両
男
爵
、
一
木
︹
喜
れ
た
の
で
す
。
処
が
幸
に
も
子
供
達
が
揃
ひ
も
揃
っ
て
恥
ず
か
し
く
な
い
だ
け
の
人
物
に
出
来
た
や
う
な
の
で
大
層
喜
ん
で
居
り
ま
す
今
で
は
も
う
只
△
心
配
さ
れ
た
や
う
で
す
余
り
心
配
し
て
は
い
け
な
い
放
任
主
義
を
と
っ
た
が
よ
い
と
親
戚
一
同
が
し
き
り
に
申
し
た
の
で
夫
人
も
そ
の
気
に
な
ら
417(83-3-151)
は
子
供
の
事
で
す
。
博
士
が
歿
せ
ら
れ
た
時
子
供
達
は
ま
だ
小
さ
か
っ
た
の
で
、
如
何
に
教
育
し
た
ら
よ
い
か
と
い
ふ
事
で
大
守
の
や
う
に
寺
の
裏
に
住
ん
で
居
る
の
を
見
て
も
そ
の
淋
し
い
悲
し
い
胸
中
が
察
せ
ら
れ
ま
す
が
、
夫
人
に
は
猶
も
一
つ
大
き
な
苦
労
が
あ
る
。
そ
れ
の
親
戚
知
己
集
り
共
に
故
人
追
憶
の
談
に
耽
っ
た
の
︹
で
︺
夫
人
は
今
の
如
く
新
し
き
涙
に
く
れ
て
居
ら
れ
ま
し
た
。
親
戚
の
一
人
は
﹁
夫
人
が
墓
高
等
学
に
勉
学
中
の
次
男
震
氏
︵
二
一
︶
三
男
光
氏
︵
二
〇
︶
及
び
矢
張
二
高
入
学
準
備
中
の
四
男
徳
氏
︵
二
〇
︶
の
四
子
打
ち
揃
っ
た
外
に
数
多
△
護
国
寺
裏
の
大
塚
坂
下
町
九
十
一
番
地
の
樹
立
の
陰
に
居
を
定
め
て
居
ら
れ
ま
す
。
当
日
は
帝
大
文
科
に
通
ふ
長
男
緑
氏
︵
二
三
︶
仙
台
の
第
二
参
に
利
な
為
と
て
今
は
げ
て
昨
︹
四
月
︺
五
日
午
後
三
時
よ
り
墓
所
な
る
音
羽
護
国
寺
に
於
て
遺
族
に
よ
り
て
法
要
を
営
ま
れ
ま
し
た
。
兼
子
未
亡
人
︵
四
九
︶
は
毎
日
の
墓
民
法
の
泰
斗
法
学
博
士
梅
謙
次
郎
氏
が
朝
鮮
で
逝
去
さ
れ
て
か
ら
本
年
は
恰
好
七
回
年
に
相
当
し
ま
す
が
、
命
日
八
月
廿
五
日
は
酷
暑
の
頃
と
て
繰
上
う
に
伝
え
て
い
る
︵︶
な
お
、
記
事
中
、
四
人
の
男
児
の
通
っ
た
高
は
、
実
際
に
は
、
緑
・
震
が
二
高
、
徳
・
光
が
三
高
で
あ
る
︶
。
一
方
、
そ
の
後
の
大
正
六
年
、
命
日
の
酷
暑
を
避
け
て
四
月
五
日
に
執
り
行
わ
れ
た
七
回
忌
の
模
様
に
関
し
て
は
、
読
売
新
聞
が
次
の
よ
ふ
ッ
つ
り
と
止
め
て
仕
舞
ひ
、
今
日
ま
で
其
通
り
に
致
し
て
参
り
ま
し
た
。
時
代
、
人
並
勝
れ
て
の
煙
草
好
き
で
し
た
が
、
勉
強
す
る
に
は
之
が
大
層
脳
に
悪
い
と
云
ふ
こ
と
を
、
自
身
で
悟
り
ま
し
た
の
で
、
十
八
歳
の
時
か
ら
の
で
、
頭
か
ら
蒲
団
を
冠
っ
て
寝
た
こ
と
も
一
時
あ
っ
た
、
夫
故
お
前
達
も
そ
の
積
り
で
勉
強
し
な
け
れ
ば
な
ら
な
い
と
善
く
申
し
ま
し
た
、
又
書
生
夜
書
物
を
読
み
た
い
の
は
山
々
だ
が
、
油
が
無
い
の
で
夫
が
出
来
ず
、
其
侭
に
し
て
寝
る
の
が
、
如
何
に
も
残
念
で
な
ら
な
ん
だ
、
又
蚊
帳
が
無
い
折
に
自
の
身
上
話
を
し
て
聞
せ
ま
し
た
、
夫
は
お
前
方
は
斯
う
し
て
順
当
に
勉
強
が
出
来
て
行
く
け
れ
ど
、
私
の
書
生
時
代
は
大
層
乏
で
有
っ
た
、
論 説
科
大
学
法
律
学
科
仏
蘭
西
部
卒
業
で
、
横
田
秀
雄
・
城
数
馬
・
水
町
袈
裟
六
ら
司
法
省
法
学
か
ら
の
編
入
組
︵
正
則
科
第
三
期
生
︶
と
同
一
方
、
平
兵
衛
の
長
男
・
太
郎
は
、
慶
応
四
年
四
月
二
三
日
︵
一
八
六
八
年
五
月
一
四
日
︶
生
ま
れ
、
明
治
二
一
年
七
月
帝
国
大
学
法
嗣
子
に
迎
え
ら
れ
た
人
で
あ
る
か
ら
、
梅
家
・
本
家
の
郷
里
・
江
と
は
縁
が
な
い
。
板
倉
家
は
山
梨
県
の
平
民
の
家
で
あ
り
、
板
倉
太
郎
の
・
平
兵
衛
は
、
千
葉
県
平
民
・
大
久
保
吉
右
衛
門
の
二
男
で
、
板
倉
家
に
養
1
︶
板
倉
太
郎
契
機
等
に
関
し
て
は
、
見
当
が
つ
か
な
い
。
一
方
、
板
倉
家
に
関
し
て
は
、
当
主
・
太
郎
ほ
か
家
族
に
関
す
る
情
報
は
入
手
で
き
る
が
、
し
か
し
、
梅
家
と
板
倉
家
を
結
び
つ
け
る
家
に
嫁
い
だ
事
情
も
不
明
で
あ
る
。
大
方
の
ご
教
示
を
賜
り
た
い
。
こ
の
う
ち
、
矢
ヶ
崎
家
に
関
し
て
は
、
ま
っ
た
く
手
が
か
り
を
得
ら
れ
な
い
。
大
正
三
年
に
矢
ヶ
崎
家
に
入
っ
た
後
、
大
正
五
年
に
板
倉
の
女
性
︵
不
詳
︶
と
養
子
縁
組
し
、
二
年
後
の
大
正
五
年
六
月
二
日
板
倉
太
郎
の
長
男
・
操
一
と
結
婚
し
た
。
東
京
府
立
第
一
高
等
女
学
卒
業
。
そ
の
後
、
二
二
歳
と
な
っ
た
大
正
三
年
一
一
月
一
八
日
養
家
︵
戸
籍
上
は
実
家
︶
で
あ
る
矢
ヶ
崎
家
詳 女
独
︶
身 そ
、 と 謙
次 2 を の
板 し
て 郎
通 後
倉 出 ・ カ し 、
カ ネ た 彼
太 生
届 ネ 養 徳 女
郎 が 夫 子 と は
の
さ 婦 ︵ 起 、
二 れ の 長 居 震
女 、 第 女 を の
で
謙 同 一 ︶
・ 共 一
子 梅 に 家
次 夫
婦 ・
し や
郎
枝
た 徳
の の 梅
。 と
養 許 枝
で ︵
昭 一
子
和 緒
と 養 明
育
治
三 に
な
さ 二
〇 、
っ
年 大
た れ 五
三 正
梅 て 年
い 三
月 一
子 た 月
︹ 二
と
日 年
と よ 二
う 五
不 四
も で 日
詳 月
に
あ
生
︺ 豊
、
る ︶
死 多
謙 が は
去 摩
次 、 、
。 郡
郎
そ す
享 和
の の で
年 田
葬
後 に
八 堀
儀 、 触
六 村
の
れ
歳 ︵
際 カ
ネ
た
。 現
に
と よ
在
遺 の う
の
族 間 に
杉
と に 、
並
し 養 矢
区
て
和
参 子 ヶ
泉
列 縁 崎
町
し 組 鶴
︶
て が 吉
さ
・
に
い
転
る れ い
︵ し
居
。 年 夫
し
月 婦
、
日 の
終
不 長
生
を
眺
め
た
時
夫
人
は
又
も
や
云
ひ
知
れ
ぬ
涙
に
咽
ば
れ
た
の
で
し
た
。
郎
氏
等
の
朝
野
の
名
士
に
よ
っ
て
盛
な
る
追
悼
会
が
開
か
れ
、
四
人
の
子
息
は
打
ち
揃
っ
て
其
処
に
出
席
さ
れ
ま
し
た
が
、
立
派
に
成
長
し
た
そ
の
姿
(法政研究 83-3-152)418
梅謙次郎の子供たち(七戸)
③
②
①
二
男
・
長
女
・
雄
子
長
男
・
操
一
明
治
二
八
年
六
月
生
⋮
⋮
⋮
陸
軍
士
官
学
明
治
二
六
年
一
月
生
⋮
⋮
⋮
東
京
府
立
第
三
高
等
女
学
明
治
二
四
年
一
二
月
生
⋮
⋮
東
京
高
等
工
業
学
卒
。
田
代
英
作
︵
静
岡
︶
弟
・
訂
︵
工
学
士
︶
と
結
婚
築
技
師
。
妻
・
梅
枝
と
の
間
に
は
、
三
男
三
女
が
生
ま
れ
た
。
卒
。
陸
軍
歩
兵
中
佐
。
加
藤
八
太
郎
︵
東
京
︶
五
女
・
寿
子
と
結
婚
。
卒
。
一
方
、
彼
ら
夫
婦
の
子
は
、
実
子
九
人
︵
五
男
四
女
︶
・
養
子
一
人
︵
一
女
︶
の
合
計
一
〇
人
で
あ
る
。
419(83-3-153)
板
倉
太
郎
の
妻
・
彦
治
︵
彦
子
。
慶
応
三
年
四
月
生
︶
も
山
梨
県
人
で
あ
り
、
梅
家
・
本
家
の
郷
里
・
江
と
は
縁
が
な
い
。
2
︶
板
倉
家
の
人
び
と
一
五
日
午
後
二
時
東
京
・
品
川
区
上
大
崎
の
自
宅
で
死
去
。
享
年
七
三
歳
。︶
︵
満
六
二
歳
︶
退
官
。
退
官
後
は
早
稲
田
大
学
専
門
部
教
授
等
を
務
め
る
。
晩
年
は
脳
血
に
倒
れ
病
臥
に
あ
っ
た
が
、
昭
和
一
五
年
六
月
年
一
月
判
事
︵
大
審
院
部
長
︶
、
大
正
一
四
年
会
計
検
査
官
長
会
裁
判
所
裁
判
官
、
昭
和
六
年
四
月
二
三
日
大
審
院
刑
事
第
一
部
長
停
年
中
華
民
国
政
府
に
招
聘
さ
れ
北
京
在
勤
︵
∼
大
正
一
一
年
四
月
︶
、
大
正
一
一
年
六
月
会
計
検
査
官
長
会
裁
判
所
予
備
裁
判
官
、
大
正
一
三
岩
田
宙
造
ら
一
三
名
︶
、
大
正
七
年
一
月
八
日
判
事
検
事
登
用
第
二
回
試
験
委
員
、
大
正
八
年
五
月
二
五
日
岩
田
一
郎
︵
判
事
︶
と
と
も
に
正
五
年
一
月
二
〇
日
判
事
検
事
登
用
第
二
回
試
験
臨
時
委
員
、
四
月
法
学
博
士
︵
博
士
会
推
薦
。
他
に
谷
野
格
・
岡
義
正
・
泉
二
新
熊
・
治
四
四
年
一
月
一
八
日
大
審
院
特
別
刑
事
部
判
決
︶
の
検
事
、
大
正
四
年
六
月
判
事
検
事
登
用
第
一
回
試
験
委
員
・
弁
護
士
試
験
委
員
、
大
な
お
、
梅
謙
次
郎
の
逝
去
後
の
履
歴
に
つ
い
て
も
触
れ
て
お
く
と
、
明
治
四
四
年
室
致
・
平
沼
騏
一
郎
と
と
も
に
大
逆
事
件
判
決
︵
明
審
院
判
事
、
明
治
四
〇
年
一
〇
月
大
審
院
検
事
と
い
う
キ
ャ
リ
ア
で
あ
り
、
梅
謙
次
郎
と
の
接
点
は
見
出
せ
な
い
。
判
事
、
一
二
月
東
京
控
訴
院
判
事
、
三
一
年
三
月
函
館
控
訴
院
判
事
、
三
二
年
四
月
同
部
長
、
三
六
年
一
月
東
京
控
訴
院
検
事
、
一
二
月
大
芝
各
裁
判
所
判
事
を
経
て
、
明
治
二
八
年
九
月
東
京
地
方
裁
判
所
判
事
、
一
〇
月
千
葉
地
方
裁
判
所
部
長
、
三
〇
年
一
月
東
京
地
方
裁
判
所
さ
ら
に
、
卒
業
後
の
経
歴
は
、
明
治
二
一
年
一
二
月
判
事
試
補
︵
甲
府
始
審
裁
判
所
詰
︶
、
明
治
二
七
年
四
月
以
降
前
橋
・
京
橋
・
麹
町
・
年
卒
業
で
あ
る
が
、
し
か
し
、
彼
自
身
は
編
入
組
で
は
な
い
の
で
、
司
法
省
法
学
の
筋
か
ら
は
、
梅
謙
次
郎
と
の
関
係
は
見
出
せ
な
い
。
論 説
出
発
の
前
に
、
あ
る
日
、
子
供
の
話
が
出
ま
し
た
。
宅
の
子
供
は
、
長
男
が
緑
︵
十
八
︶
次
男
が
震
︵
十
五
︶
三
男
が
徳
︵
十
四
︶
四
男
が
光
︵
十
三
︶
そ
の
五
年
後
、
謙
次
郎
が
死
去
す
る
明
治
四
三
年
の
夏
、
渡
韓
の
前
に
謙
次
郎
は
、
緑
の
進
路
に
つ
い
て
カ
ネ
と
話
を
し
て
い
る
。︶
家
を
廃
家
し
て
養
子
・
梅
子
の
女
婿
と
な
す
た
め
謙
次
郎
と
養
子
縁
組
。
た ク
小 ニ 謙
学 夫 次 3
婦 郎
は の ・ 婿
調 長 カ 養
べ 男 ネ 子
き と 夫 ︵
れ し 婦 長
て て の 男
い 出 第 ︶
・
な 生 二 緑
い 届 子
が が ・
、 さ 緑
中 れ ︵
学 た 明
は が 治
東 、 二
京 梅 六
高 枝 年
等 と 三
師 違 月
範 い 七
学 、 日
謙 生
附 次 ︶
属 郎 は
中 ・ 、
学 カ 先
ネ に
。 夫 述
中 婦 べ
学 の た
入 許 よ
学 で う
直 育 に
前 て 、
の ら カ
明 れ ネ
治 た の
三 。
八 明 母
年 治 で
三 三 あ
月 二 る
二 年
七 四 本
日 月 理
に に 左
、 入 衛
学 門
本 し ・
に
な
っ
た
ろ
う
。
そ
の
後
、
梅
子
は
、
海
軍
少
佐
︵
の
ち
大
佐
︶
鈴
木
光
信
︵
府
立
四
中
卒
、
海
軍
兵
学
四
六
期
︶
と
結
婚
し
た
。︶
い
と
こ
と
結
婚
し
て
し
ま
い
、
梅
子
は
養
子
縁
組
を
解
消
し
て
板
倉
家
に
戻
っ
た
。
梅
家
と
板
倉
家
の
関
係
は
、
お
そ
ら
く
気
ま
ず
い
も
の
歳
︶
謙
次
郎
の
養
子
と
な
っ
て
い
た
。
と
こ
ろ
が
、
操
一
・
梅
枝
の
結
婚
か
ら
五
年
後
の
大
正
一
〇
年
︵
梅
子
一
九
歳
︶
、
緑
は
一
方
、
板
倉
家
の
二
女
・
梅
子
は
、
ゆ
く
ゆ
く
は
梅
家
の
長
兄
・
緑
と
結
婚
す
る
こ
と
を
前
提
に
、
明
治
三
八
年
三
月
一
三
日
︵
本 当
家 時
の 三
大
正
五
年
の
矢
ヶ
崎
︵
梅
︶
梅
枝
と
板
倉
家
の
長
男
・
操
一
が
結
婚
す
る
に
至
っ
た
事
情
に
つ
い
て
は
、
調
査
し
き
れ
て
い
な
い
。
⑩
⑨
⑧
⑦
⑥
⑤
④
養
子
・
綾
子
四
女
・
寶
子
三
女
・
妙
子
五
男
・
珪
二
女
・
梅
子
四
男
・
泰
三
男
・
駿
明
治
四
五
年
二
月
生
⋮
⋮
⋮
鴻
巣
幸
太
郎
︵
千
葉
︶
庶
子
。
倉
本
統
一
︵
山
梨
。
④
参
照
︶
と
結
婚
。
明
治
四
〇
年
三
月
生
⋮
⋮
⋮
聖
心
女
子
学
院
卒
。
相
川
敏
夫
︵
医
学
博
士
︶
と
結
婚
。
明
治
三
八
年
五
月
生
⋮
⋮
⋮
聖
心
女
子
学
院
卒
。
子
安
平
司
︵
千
葉
︶
弟
・
豊
と
結
婚
明
治
三
六
年
九
月
生
⋮
⋮
⋮
東
京
高
等
工
業
学
明
治
三
五
年
一
月
生
⋮
⋮
⋮
東
京
府
立
第
三
高
等
女
学
明
治
三
二
年
一
月
生
⋮
⋮
⋮
法
政
大
学
卒
。
大
竹
治
吉
︵
長
野
︶
三
女
・
さ
い
と
結
婚
。
明
治
三
〇
年
三
月
生
⋮
⋮
⋮
東
京
帝
大
医
学
部
卒
。
海
軍
軍
医
中
佐
。
倉
本
統
一
︵
山
梨
。
⑩
参
照
︶
妹
・
ヤ
チ
ヨ
と
結
婚
。
卒
。
清
水
組
勤
務
。
千
葉
真
一
︵
医
学
博
士
︶
長
女
・
初
枝
と
結
婚
。
卒
。
海
軍
少
佐
・
鈴
木
光
信
︵
東
京
︶
と
結
婚
。
家
。
(法政研究 83-3-154)420
梅謙次郎の子供たち(七戸)
る
が
、
い
ず
れ
に
せ
よ
、
緑
と
の
結
婚
を
前
提
に
梅
子
を
養
子
に
入
れ
て
い
た
板
倉
家
に
対
す
る
背
信
行
為
で
あ
る
。
そ
の
結
果
、
梅
子
し
れ
な
い
。
そ
れ
が
、
い
と
こ
と
の
間
の
自
由
恋
愛
に
基
づ
く
も
の
か
、
そ
れ
と
も
梅
家
・
本
家
の
意
向
に
基
づ
く
も
の
か
は
不
明
で
あ
実
母
カ
ネ
に
訂
正
し
た
う
え
、
三
日
後
の
二
月
二
四
日
、
い
と
こ
︵
ク
ニ
の
孫
。
詳
細
不
詳
︶
と
結
婚
し
た
こ
と
と
関
係
し
て
い
る
の
か
も
彼
に
起
き
た
異
変
は
、
大
正
一
〇
年
二
月
二
一
日
︵
緑
が
二
八
歳
に
な
る
直
前
︶
、
戸
籍
の
緑
の
母
に
関
す
る
記
載
を
、
祖
母
ク
ニ
か
ら
421(83-3-155)
大
学
を
中
退
し
た
よ
う
で
あ
る
。
に
名
前
が
あ
る
の
を
最
後
に
、
在
籍
者
名
簿
に
も
卒
業
者
名
簿
に
も
氏
名
が
登
場
し
な
く
な
る
。︶
ど
う
や
ら
彼
は
、
大
正
一
〇
年
前
後
に
、
ろ
が
、
大
学
に
入
っ
て
か
ら
再
び
変
調
を
来
し
た
よ
う
で
、
本
来
な
ら
大
正
七
年
卒
業
の
と
こ
ろ
、
大
正
九
年
九
月
段
階
で
の
在
籍
者
名
簿
中
学
時
代
と
異
な
り
順
調
に
三
年
で
高
家
し
て
い
る
。
こ
れ
は
、
伯
・
錦
之
丞
、
を 祖
卒
業 ・
し 薫
た の
緑 死
は 去
、︶ に
大 よ
正 り
四 絶
年 家
九 と
月 な
、 っ
東 て
京 い
帝 た
国 本
大 家
学 を
文 嗣
科 が
大 せ
学 る
文 趣
学 旨
科 の
に よ
入 う
学 で
す あ
る る
。︶ 。
と
こ
督
相
続
し
て
戸
主
と
な
っ
た
の
は
次
弟
・
震
で
、
一
方
、
長
兄
・
緑
は
、
二
高
に
入
学
が
決
ま
っ
た
大
正
元
年
九
月
六
日
に
震
の
家
か
ら
な
お
、
緑
は
、
明
治
四
三
年
の
謙
次
郎
の
葬
儀
の
喪
主
や
、
追
悼
会
・
一
周
忌
・
三
周
忌
の
遺
族
代
表
を
務
め
て
い
た
が
、
謙
次
郎
を
家
お
そ
ら
く
成
績
不
良
が
原
因
だ
ろ
う
。
し
た
か
、
あ
る
い
は
高
入
試
で
失
敗
し
て
浪
人
し
た
か
で
あ
る
。
地
元
・
東
京
の
第
一
高
等
学
︵
一
高
︶
に
進
学
し
な
か
っ
た
の
も
、
結
局
、
緑
は
、
二
年
後
の
大
正
元
年
九
月
、
仙
台
の
第
二
高
等
学
︵
二
高
︶
に
入
学
す
る
。︶
こ
の
ブ
ラ
ン
ク
は
、
中
学
で
さ
ら
に
留
年
謙
次
郎
や
母
・
カ
ネ
の
い
う
﹁
放
任
主
義
﹂
と
は
、
緑
の
学
業
に
つ
い
て
、
世
間
体
を
取
り
繕
う
も
の
な
の
か
も
し
れ
な
い
。
緑
は
、
本
来
な
ら
こ
の
年
︵
明
治
四
三
年
︶
の
三
月
に
中
学
を
卒
業
し
て
い
る
は
ず
で
あ
る
か
ら
、
一
年
留
年
し
た
こ
と
に
な
る
。
・
を
り
ま
し
た
。
よ
中
学
を
卒
業
す
る
こ
と
に
な
る
が
、
嗜
好
は
文
学
ら
し
い
か
ら
、
文
科
に
入
学
さ
せ
た
が
よ
か
ら
う
と
い
っ
て
、
高
等
学
に
入
学
の
話
を
し
て
︹
正
し
く
は
︵
十
四
︶
。
三
男
・
徳
と
双
子
で
あ
る
こ
と
が
か
ら
ず
、
記
者
の
側
で
勝
手
に
直
し
た
の
だ
ろ
う
︺
と
い
ふ
の
で
ご
ざ
い
ま
す
が
、
長
男
は
論 説
▲
記
者
は
小
石
川
原
町
の
震
君
の
家
に
就
て
梅
博
士
夫
人
の
談
話
を
聞
い
た
、
夫
人
曰
く
﹁
震
の
兄
も
あ
り
ま
す
が
、
こ
れ
は
良
人
の
兄
の
相
続
人
云
々
、
兎
角
順
境
に
生
れ
た
児
童
は
惰
弱
に
流
れ
る
も
の
で
す
が
震
君
は
毫
も
其
弊
が
無
い
の
で
本
の
職
員
会
議
の
結
果
教
育
会
へ
推
薦
し
た
次
第
で
あ
る
さ
う
し
て
、
尋
常
一
年
か
ら
今
日
ま
で
規
律
を
守
る
習
慣
、
厳
正
な
る
態
度
が
終
始
一
貫
し
て
自
然
と
他
の
衆
生
が
震
君
の
善
行
を
見
習
っ
て
居
る
、
▲
誠
之
小
学
に
居
る
、
其
長
杉
浦
恂
太
郎
氏
の
談
に
曰
く
、
震
君
は
頗
る
勤
勉
で
厳
粛
で
意
志
が
強
固
で
、
上
級
生
に
附
和
雷
同
す
る
が
や
う
な
こ
と
が
な
い
、
君
は
有
名
な
る
法
学
博
士
梅
謙
次
郎
氏
で
あ
る
、
こ
れ
も
本
郷
教
育
会
の
依
嘱
に
因
り
て
在
学
せ
る
小
学
よ
り
選
出
せ
ら
れ
た
善
行
児
童
で
あ
る
、
梅
震
君
は
今
本
郷
区
西
片
誠
之
小
学
第
二
学
年
誠
之
小
学
高
等
科
第
二
学
年
梅
震
●
善
行
児
童
と
其
家
そ
の
三
年
前
、
東
京
朝
日
新
聞
明
治
四
〇
年
一
〇
月
一
一
日
朝
刊
に
は
、
次
の
よ
う
な
写
真
入
り
の
記
事
が
あ
る
。
得
、
明
治
1 四
︶
三
略 年
歴
の
死
か
ら
四
日
後
の
八
月
二
九
日
家
督
相
続
届
に
よ
り
一
四
歳
で
梅
家
の
戸
主
と
な
っ
た
。
光
︶
と
と
も
に
、
・
謙
次
郎
に
よ
っ
て
認
知
さ
れ
、
明
治
三
八
年
七
月
一
三
日
の
謙
次
郎
・
カ
ネ
の
入
籍
に
よ
り
、
嫡
出
子
の
地
位
を
取
謙
次
郎
・
カ
ネ
夫
婦
の
第
三
子
・
震
︵
明
治
二
九
年
二
月
一
四
日
生
︶
は
、
三
歳
に
な
っ
た
明
治
三
二
年
六
月
二
二
日
、
双
子
の
弟
︵
徳
・
4
長
男
︵
二
男
︶
・
震
出
版
社
の
編
集
者
と
な
っ
た
人
で
あ
る
。︶
な
お
、
梅
謙
次
郎
の
研
究
者
の
取
材
先
で
あ
る
緑
の
長
男
・
醇
は
、
叔
・
徳
︵
双
子
の
兄
︶
か
ら
正
の
手
ほ
ど
き
を
受
け
て
、︶
後
に
そ
の
後
の
緑
の
履
歴
等
に
つ
い
て
は
、
調
査
し
て
い
な
い
。
昭
和
一
二
年
一
月
︹
日
不
詳
︺
死
去
。
享
年
四
三
歳
。
︵
当
時
一
九
歳
︶
は
、
養
子
縁
組
を
解
消
し
て
実
家
に
戻
っ
た
。
(法政研究 83-3-156)422
梅謙次郎の子供たち(七戸)
本
人
の
貴
重
な
記
録
と
し
て
、
平
成
二
四
年
に
復
刊
さ
れ
て
い
る
︶
︶
。
帰
国
の
翌
昭
和
二
五
年
一
二
月
秋
田
木
材
︵
株
︶
社
長
に
選
任
さ
れ
月
︶
後
、
補
筆
の
う
え
﹃
戦
後
の
満
洲
四
星
霜
﹄
梅
震
、
昭
和
三
三
年
︶
に
ま
と
め
ら
れ
た
︵
同
書
は
、
終
戦
後
に
満
州
に
留
ま
っ
た
日
帰
還
。
敗
戦
後
四
年
間
の
生
活
を
綴
っ
た
手
記
は
、
日
本
銀
行
旧
友
会
誌
﹁
日
の
友
﹂
に
連
載
さ
れ
た
︵
昭
和
二
九
年
一
一
月
∼
三
二
年
二
清
理
︹
‖
清
算
︺
事
務
の
た
め
残
留
し
、
二
一
年
八
月
の
遣
送
で
家
族
が
帰
国
し
た
後
も
当
地
に
残
り
、
昭
和
二
四
年
九
月
二
四
日
舞
鶴
に
423(83-3-157)
一
七
年
渡
満
し
て
新
京
︵
長
春
の
満
州
国
時
代
の
呼
称
︶
在
勤
、
一
九
年
六
月
理
事
に
就
任
、
昭
和
二
〇
年
八
月
の
終
戦
後
も
満
洲
中
銀
の
銀
行
に
入
行
、
神
戸
支
店
次
長
ま
で
昇
る
が
、
昭
和
一
三
年
三
月
満
洲
中
央
銀
行
に
転
じ
て
行
営
業
処
経
理
、
翌
一
四
年
東
京
支
店
長
、
大
正
九
年
七
月
大
学
を
卒
業
後
、
同
級
生
の
我
妻
栄
は
大
学
院
に
進
み
、
岸
信
介
と
平
岡
梓
は
農
商
務
省
に
入
省
し
た
が
、
梅
震
は
日
本
郎
に
つ
い
て
触
れ
た
際
に
、
大
学
の
同
級
生
に
梅
の
息
子
が
い
た
﹂
く
ら
い
書
い
て
よ
さ
そ
う
な
も
の
だ
が
︶
。
い
る
が
、
管
見
の
及
ぶ
限
り
で
は
、
彼
ら
の
友
関
係
の
記
録
の
中
に
、
梅
震
の
名
前
を
見
出
す
こ
と
が
で
き
な
い
︵
我
妻
な
ら
、
梅
謙
次
本
稿
冒
頭
で
も
触
れ
た
よ
う
に
、
独
法
科
の
同
級
生
に
は
、
我
妻
栄
・
岸
信
介
・
平
岡
梓
・
成
富
信
夫
・
三
輪
寿
壮
・
山
田
作
之
助
ら
が
は
、
二
高
で
三
年
ま
で
進
級
し
て
、
大
正
六
年
九
月
東
京
帝
国
大
学
法
科
大
学
独
逸
法
兼
修
入
学
。︶
組
︵
独
法
文
科
。
四
一
人
︶
に
小
出
廉
二
が
い
た
が
、
彼
は
翌
年
一
高
の
英
文
科
を
受
け
直
し
二
高
を
中
退
し
た
。︶
こ
れ
に
対
し
て
、
梅
震
な
お
、
こ
の
年
に
二
高
に
入
学
し
た
同
級
生
に
は
、
石
浜
知
行
︵
た
だ
し
甲
組
︵
英
法
文
科
︶
な
の
で
別
の
ク
ラ
ス
︶
の
ほ
か
、
同
じ
乙
て
い
る
の
は
︵
た
だ
し
専
攻
は
法
科
志
望
︶︶
、
兄
・
緑
と
同
様
、
中
学
で
留
年
し
た
か
、
高
入
試
で
一
浪
し
た
か
で
あ
る
。
格
し
た
場
合
に
は
、
大
正
二
年
九
月
高
入
学
に
な
る
が
、
翌
大
正
三
年
九
月
、
兄
が
進
ん
だ
の
と
同
じ
仙
台
の
第
二
高
等
学
に
入
学
し
そ
の
後
は
、
明
治
四
一
年
四
月
、
長
兄
・
緑
と
同
じ
く
東
京
高
等
師
範
学
附
属
中
学
に
入
学
、
順
調
に
卒
業
し
て
、
高
に
現
役
合
も
富
貴
の
子
弟
に
は
出
来
無
い
事
だ
、
ば
気
が
済
ま
ぬ
と
見
え
ま
し
て
、
例
へ
ば
御
飯
の
給
仕
で
も
学
に
出
る
準
備
で
も
凡
て
自
で
や
っ
て
居
り
ま
す
云
々
と
、
何
で
も
な
き
事
な
れ
ど
と
な
る
の
で
、
震
が
こ
の
家
を
相
続
す
る
の
で
ご
ざ
い
ま
す
、
震
は
性
で
御
座
い
ま
せ
う
下
女
や
下
男
に
用
を
命
ぜ
ず
、
一
切
自
で
や
ら
な
け
れ
論 説
な
お
、
岡
孝
‖
江
戸
恵
子
は
、
震
の
妻
・
文
子
か
ら
も
取
材
を
し
て
い
る
が
、︶
彼
女
は
玄
洋
社
初
代
社
長
・
平
岡
浩
太
郎
の
孫
、
母
は
侯
昶
子
︵
昭
和
四
年
六
月
生
︶
、
長
男
・
卓
夫
︵
昭
和
九
年
三
月
生
︶
で
あ
る
。
右
の
文
章
に
あ
る
﹁
妻
と
三
人
の
子
ど
も
﹂
と
は
、
妻
・
文
子
︵
明
治
三
六
年
七
月
生
︶
、
長
女
・
晴
子
︵
大
正
一
五
年
二
月
生
︶
、
二
女
・
や
っ
と
ひ
た
る
こ
と
が
で
き
た
、
何
と
言
お
う
と
こ
こ
は
日
本
で
あ
る
。
の
家
に
落
ち
着
い
て
、
の
ん
び
り
し
た
、
ほ
ん
と
う
に
解
放
さ
れ
た
不
安
の
な
い
気
満
洲
で
二
六
時
中
あ
こ
が
れ
て
い
た
あ
の
気
に
、
生
活
は
ど
ん
な
も
の
で
あ
ろ
う
か
、
そ
こ
に
は
ま
た
新
し
い
苦
し
み
も
あ
る
に
ち
が
い
な
い
。
し
か
し
そ
れ
は
と
も
か
く
、
わ
た
し
は
今
こ
う
し
て
自
言
葉
は
な
く
た
だ
に
こ
に
こ
笑
顔
を
見
せ
合
う
だ
け
で
あ
っ
た
。
こ
れ
で
敗
戦
後
四
年
間
の
流
人
生
活
は
終
り
を
告
げ
た
、
こ
れ
か
ら
始
ま
る
日
本
の
長
春
へ
の
り
で
な
じ
み
の
あ
の
バ
ラ
ッ
ク
に
、
め
っ
き
り
年
を
と
っ
た
母
︹
梅
謙
次
郎
妻
カ
ネ
︺
が
、
そ
れ
で
も
元
気
で
待
っ
て
い
た
。
お
互
に
ち
ょ
っ
と
無
我
夢
中
の
態
で
あ
る
。
団
長
野
原
氏
の
挨
拶
が
あ
っ
て
か
ら
解
散
、
自
動
車
で
代
田
橋
に
向
か
う
。
き
く
こ
と
が
で
き
な
か
っ
た
。
改
札
口
を
出
る
と
、
弟
た
ち
︹
徳
・
光
︺
や
日
銀
中
銀
の
知
友
が
手
を
さ
し
の
べ
て
待
っ
て
い
た
、
た
だ
た
だ
感
激
、
熱
く
な
っ
て
涙
が
こ
ぼ
れ
て
来
た
、
続
い
て
満
蒙
援
護
会
の
山
本
紀
綱
氏
か
ら
迎
え
の
挨
拶
を
受
け
た
が
た
だ
黙
っ
て
頭
を
下
げ
る
ば
か
り
で
、
口
を
て
陸
橋
を
渡
り
か
け
て
い
る
と
、
向
こ
う
か
ら
妻
と
三
人
の
子
ど
も
が
駆
け
寄
っ
た
、
こ
ど
も
た
ち
の
大
き
く
な
っ
た
の
が
目
に
つ
く
、
目
が
し
ら
が
︹
昭
和
二
四
年
︺
十
月
一
日
午
前
十
時
列
車
は
品
川
駅
に
す
べ
り
込
ん
だ
。
引
揚
列
車
は
こ
こ
が
終
点
に
な
っ
て
い
た
の
で
あ
る
。
フ
ォ
ー
ム
に
お
り
梅
震
﹃
戦
後
の
満
洲
四
星
霜
﹄
は
、
次
の
よ
う
な
文
章
で
終
わ
る
。︶
2
︶
家
族
変 日
本
し に
た お
︶︶ け
。
震 る
ノ
は ン
、
バ
同 ン
社 ク
の
取 の
締 草
役
を け
、 的
な
昭
和 企
四 業
で
五
年 あ
︹ る
。
月 な
日
不 お
、
詳 同
︺
社
七 は
四 、
歳 昭
︶ 和
の 四
死 九
去 年
ま 四
で 月
勤 商
め 号
た を
よ 現
う 在
で の
あ ﹁
る 株
。 式
会
社
日
貿
信
﹂
に
設
立
の
株
式
会
社
台
湾
銀
行
で
、
同
行
が
終
戦
に
よ
り
閉
鎖
機
関
に
指
定
さ
れ
、
清
算
手
続
が
さ
れ
た
残
余
財
産
を
用
い
て
設
立
さ
れ
た
、
た
後
、
昭
和
三
二
年
四
月
一
日
発
足
の
日
本
貿
易
信
用
株
式
会
社
の
取
締
役
に
就
任
︵
同
社
の
前
身
は
、
日
清
戦
争
後
の
明
治
三
二
年
七
月
(法政研究 83-3-158)424
梅謙次郎の子供たち(七戸)
議
会
が
設
置
さ
れ
る
と
︵
七
月
一
八
日
委
員
任
命
︶
、
そ
の
﹁
諮
問
第
一
号
﹂
さ
れ
︵
六
月
一
日
。
郵
電
離
︶
、
郵
政
大
臣
の
諮
問
機
関
と
し
て
郵
政
審
に
始
ま
る
が
、
翌
二
四
年
逓
信
省
が
郵
政
省
と
電
気
通
信
省
の
二
省
に
︾
シ
リ
ー
ズ
切
手
を
模
倣
し
た
企
画
で
、
立
案
は
昭
和
二
三
割 年
四
〇
∼
四
一
年
︵
昭
和
一
五
∼
一
六
年
︶
に
発
行
さ
れ
た
︽
Famous
と
し
て
、
文
化
切
手
発
行
の
可
否
と
文
化
先
覚
者
の
選
定
方
法
が
諮
問
さ
れ
American
た
。
そ
し
て
、
こ
の
郵
政
審
議
会
の
初
代
会
長
に
就
任
し
た
の
が
末
弘
厳
太
員
の
証
言
が
収
録
さ
れ
て
い
る
。
文
化
切
手
﹂
と
は
、
ア
メ
リ
カ
で
一
九
の
﹁
第
二
部
文
化
切
手
の
で
き
る
ま
で
﹂
に
、
関
係
者
の
談
話
や
選
定
委
が
、︶
詳
し
い
経
緯
に
関
し
て
は
、
高
久
茂
︵
編
︶
﹃
切
手
に
な
っ
た
日
本
人
﹄
す
れ
ば
、
梅
先
生
よ
り
他
に
は
な
い
﹄
と
い
っ
た
と
い
う
﹂
と
述
べ
て
い
る
と
で
あ
る
。
そ
の
と
き
、
彼
は
、
﹃
日
本
で
法
学
界
か
ら
代
表
者
を
選
ぶ
と
と
、
梅
先
生
を
す
い
せ
ん
し
た
人
は
末
弘
厳
太
郎
博
士
で
あ
っ
た
と
い
う
こ
大
内
兵
衛
は
、
選
定
委
員
の
一
人
で
あ
っ
た
谷
川
徹
三
君
の
話
に
よ
る
の
梅
謙
次
郎
の
文
化
切
手
・
第
一
号
を
贈
ら
れ
て
い
る
。︶
日
で
あ
る
八
月
二
五
日
に
、
時
の
郵
政
大
臣
・
佐
藤
栄
作
か
ら
、
同
日
発
売
【第3図】 梅謙次郎」文化切手(封筒:渡辺木版)発行日消印
425(83-3-159)
梅
震
は
、
満
洲
引
揚
げ
か
ら
三
年
後
の
昭
和
二
七
年
、
・
謙
次
郎
の
命
3
︶
文
化
切
手
爵
・
西
郷
従
道
の
二
女
・
栄
子
︵
明
治
一
八
年
五
月
生
︶
で
あ
る
。︶
論 説
博
士
の
横
顔
を
き
く
。
ジ
は
か
な
り
徹
底
し
た
封
ぎ
ら
い
だ
っ
た
⋮
﹂
次
男
震
氏
︵
五
六
︶
は
秋
田
木
材
社
長
、
三
男
徳
氏
︵
五
四
︶
は
岩
波
書
店
嘱
託
、
二
人
の
兄
弟
に
に
反
対
し
て
﹁
何
よ
り
も
た
し
か
な
こ
と
は
今
の
家
族
制
度
が
亡
ぶ
こ
と
だ
﹂
と
さ
え
い
っ
て
い
る
。
フ
ラ
ン
ス
に
学
ん
だ
せ
い
も
あ
ろ
う
が
、
オ
ヤ
を
穂
積
博
士
が
か
ゝ
げ
れ
ば
﹁
知
ら
ず
や
我
が
国
の
旧
習
は
封
鎖
国
の
慣
習
に
し
て
立
憲
国
に
適
せ
ざ
る
を
﹂
と
譲
ら
な
い
。
当
時
の
大
家
族
制
度
て
個
人
の
尊
厳
と
男
女
の
自
由
平
等
を
基
調
と
す
る
博
士
は
花
々
し
く
論
戦
の
火
花
を
散
ら
し
た
。
民
法
出
で
て
忠
孝
亡
ぶ
﹂
の
名
高
い
ス
ロ
ー
ガ
ン
博
士
と
の
論
争
は
梅
博
士
一
生
の
出
来
事
で
あ
っ
た
。
女
こ
ど
も
﹂
の
自
由
を
抑
え
戸
主
権
の
絶
対
親
権
、
夫
権
の
強
大
を
主
張
す
る
保
守
派
に
対
し
○
⋮
﹁
先
日
ラ
ジ
オ
の
〟
私
は
だ
れ
で
し
ょ
う
〝
に
オ
ヤ
ジ
の
問
題
が
出
た
ん
で
す
が
、
と
う
〳
〵
判
ら
ん
で
し
た
﹂
民
法
制
定
に
当
っ
て
穂
積
八
束
転
記
し
て
お
く
が
、
本
稿
の
察
対
象
と
の
関
係
で
興
味
深
い
の
は
、
最
初
の
﹁
か
な
り
徹
底
し
た
封
ぎ
ら
い
﹂
の
エ
ピ
ソ
ー
ド
で
あ
る
。
謙
次
郎
の
二
男
・
震
と
三
男
・
徳
の
二
人
へ
の
イ
ン
タ
ビ
ュ
ー
記
事
が
、
両
人
の
写
真
入
り
で
掲
載
さ
れ
て
い
る
。
以
下
に
、
そ
の
全
文
を
一
方
、
梅
謙
次
郎
の
切
手
発
行
か
ら
三
か
月
後
の
朝
日
新
聞
昭
和
二
七
年
一
一
月
一
四
日
朝
刊
﹁
文
化
切
手
の
顔
梅
謙
次
郎
﹂
で
は
、
な
お
、
家
永
三
郎
は
、
こ
の
選
定
に
対
し
、
必
ず
し
も
承
服
し
か
ね
る
か
の
よ
う
な
口
吻
を
も
ら
し
て
い
る
。︶
員
推
薦
の
候
補
者
表
に
は
載
っ
て
い
な
か
っ
た
が
、
末
広
︹
弘
︺
郵
政
審
議
会
長
の
熱
心
な
主
張
に
動
か
さ
れ
た
形
で
あ
っ
た
﹂
と
語
る
。︶
て
、
異
議
な
く
き
ま
っ
た
よ
う
に
覚
え
て
い
る
︶
﹂
。
梅
謙
次
郎
に
つ
い
て
も
同
様
で
、
犬
丸
秀
雄
も
、
学
術
の
梅
謙
二
︹
次
︺
郎
は
専
門
委
生
か
ら
﹃
こ
う
い
う
あ
ま
り
目
立
た
な
い
、
し
か
も
長
い
間
一
つ
仕
事
に
集
中
さ
れ
た
人
は
ぜ
ひ
推
し
た
い
﹄
と
い
う
意
味
の
言
葉
も
あ
っ
を
発
揮
し
て
選
定
作
業
を
仕
切
り
、
管
井
準
一
に
よ
れ
ば
、
自
然
科
学
野
に
つ
い
て
も
、
木
村
栄
博
士
に
つ
い
て
は
、
た
し
か
末
弘
先
の
名
は
挙
げ
ら
れ
て
い
な
い
。︶
と
こ
ろ
が
、
九
月
一
九
日
の
専
門
委
員
の
会
合
に
乗
り
込
ん
で
き
た
末
弘
会
長
は
、
強
力
な
イ
ニ
シ
ア
チ
ブ
専
門
委
員
が
推
薦
し
た
切
手
候
補
者
は
全
部
で
六
五
名
で
、
法
学
関
係
で
は
、
大
井
憲
太
郎
や
木
下
尚
江
が
推
薦
さ
れ
た
が
、
梅
謙
次
郎
名
の
専
門
委
員
の
う
ち
、
人
文
科
学
野
の
委
員
が
、
家
永
三
郎
と
谷
川
徹
三
の
二
名
で
あ
っ
た
。︶
郎
で
あ
り
、
一
方
、
審
議
会
は
、
文
化
切
手
発
行
を
可
と
し
、
文
化
先
覚
者
選
定
の
た
め
専
門
委
員
を
選
任
す
る
旨
を
決
定
し
た
が
、
一
三
(法政研究 83-3-160)426
梅謙次郎の子供たち(七戸)
兄
・
震
と
と
も
に
朝
日
新
聞
の
取
材
に
応
じ
て
い
る
徳
︵
明
治
三
〇
年
一
二
月
二
日
生
ま
れ
の
双
子
の
兄
︶
に
つ
い
て
は
、
兄
・
震
と
5 そ
二
男
︵
三
男
︶
・
徳
れ
を
見
ず
し
て
死
ん
だ
の
は
心
残
り
で
も
な
か
っ
た
で
し
ょ
う
﹂
で
い
た
と
い
う
か
ら
助
か
ら
ん
わ
け
で
す
。
日
韓
合
邦
は
そ
の
後
間
も
な
く
の
こ
と
︹
謙
次
郎
の
死
去
の
四
日
後
︺
、
合
邦
に
は
反
対
の
オ
ヤ
ジ
だ
か
ら
、
427(83-3-161)
と
ガ
ン
バ
っ
て
い
た
。
明
治
四
十
三
年
八
月
、
京
城
に
行
っ
た
が
、
チ
フ
ス
に
か
か
り
急
死
し
た
。
熱
が
あ
る
の
に
前
の
日
ま
で
ウ
ィ
ス
キ
ー
を
飲
ん
邦
問
題
で
ワ
タ
リ
合
っ
た
こ
と
も
あ
る
。
オ
ヤ
ジ
は
韓
国
は
韓
国
と
し
て
残
し
て
お
き
仲
良
く
し
て
ゆ
か
ね
ば
い
か
ん
、
領
土
を
と
る
の
は
よ
く
な
い
、
浪
の
武
キ
ョ
ウ
小
説
を
ぼ
く
ら
が
読
ん
で
い
た
ら
〟
恐
露
病
〝
を
け
し
か
け
る
よ
う
な
小
説
は
よ
く
な
い
と
む
ず
か
し
い
顔
を
し
た
、
軍
人
と
日
韓
合
小
石
川
林
町
の
自
宅
へ
学
生
を
呼
ん
で
は
ワ
イ
〳
〵
や
っ
て
い
た
が
後
に
中
国
革
命
の
中
心
人
物
と
な
っ
た
人
も
多
い
、
そ
の
こ
ろ
は
や
っ
た
押
川
春
民
も
い
た
。
い
ま
働
い
て
い
る
人
で
は
サ
ン
フ
ラ
ン
シ
ス
コ
会
議
に
行
っ
た
華
北
人
民
政
府
主
席
董
必
武
や
中
共
幹
部
の
沈
儒
な
ど
が
い
る
。︶
当
時
○
⋮
﹁
法
政
が
大
学
に
な
っ
た
と
き
の
初
代
長
だ
っ
た
が
、
オ
ヤ
ジ
は
法
学
速
成
科
を
作
っ
て
清
国
や
韓
国
の
留
学
生
を
教
え
た
。
汪
兆
銘
や
胡
漢
上
っ
た
﹂
そ
う
で
あ
る
。
し
か
し
酒
は
子
供
の
こ
ろ
か
ら
飲
ん
で
い
た
。
親
達
が
困
っ
て
〟
ウ
ン
と
飲
ま
し
た
ら
こ
り
る
だ
ろ
う
〝
と
試
し
た
と
こ
ろ
、
以
来
グ
ン
と
ウ
デ
が
は
葉
巻
党
。
プ
カ
〳
〵
と
や
た
ら
タ
バ
コ
の
煙
が
吹
っ
か
ゝ
る
。
こ
れ
に
は
閉
口
し
た
ら
し
く
い
つ
も
シ
カ
メ
面
で
好
き
な
相
撲
を
見
物
し
て
い
た
、
○
⋮
﹁
や
か
ま
し
い
オ
ヤ
ジ
で
は
な
か
っ
た
が
タ
バ
コ
は
す
ご
く
き
ら
い
だ
っ
た
。
角
狂
同
士
の
土
方
寧
先
生
と
サ
ジ
キ
を
と
っ
て
い
た
が
土
方
さ
ん
た
そ
う
だ
。
リ
ヨ
ン
市
の
賞
状
よ
り
こ
の
方
が
得
意
だ
っ
た
か
も
し
れ
な
い
﹂
と
い
う
。
い
〝
の
博
士
は
エ
レ
ベ
ー
タ
ー
を
わ
な
か
っ
た
。
三
百
メ
ー
ト
ル
も
あ
る
ハ
シ
ゴ
を
コ
ツ
コ
ツ
昇
っ
て
降
り
た
と
い
う
の
で
新
聞
で
も
随
騒
が
れ
ン
市
か
ら
賞
杯
を
も
ら
い
、
そ
の
博
士
論
文
は
市
費
で
出
版
さ
れ
た
。
当
時
エ
ッ
フ
ェ
ル
塔
は
出
来
上
っ
て
い
た
が
〟
不
器
用
の
く
せ
に
負
け
ず
ぎ
ら
う
が
、
割
合
に
若
く
て
死
ん
だ
の
で
ボ
ロ
を
出
さ
ず
に
す
ん
だ
。
長
生
き
し
て
い
れ
ば
ど
う
で
す
か
ね
﹂
。
リ
ヨ
ン
大
学
の
成
績
が
よ
か
っ
た
の
で
リ
ヨ
○
⋮
﹁
ま
ァ
ブ
ル
ジ
ョ
ア
自
由
主
義
者
と
い
う
の
で
し
ょ
う
。
民
法
、
商
法
を
作
っ
た
こ
と
ゝ
日
本
で
初
め
て
判
例
批
評
を
始
め
た
の
が
仕
事
で
し
ょ
論 説
に
母
堂
を
敬
愛
さ
れ
て
い
た
︶
﹂
。
梅
さ
ん
は
お
母
様
が
礼
儀
正
し
い
厳
格
な
お
方
で
し
た
か
ら
、
い
つ
も
キ
チ
ン
と
身
ぎ
れ
い
に
和
服
に
袴
彼
は
一
生
独
身
を
通
し
、
年
老
い
た
母
と
一
緒
に
暮
ら
し
て
面
倒
を
見
続
け
た
。
彼
を
知
る
人
間
は
、
口
を
揃
え
て
い
う
。
徳
君
は
特
内
出
血
で
即
死
。
享
年
六
〇
歳
。
年
間
入
院
生
活
を
送
る
。
そ
の
三
年
後
の
昭
和
三
三
年
一
月
三
一
日
午
後
一
一
時
四
五
再
び
自
宅
近
く
の
甲
州
街
道
で
車
に
轢
か
れ
、
脳
る
。︶
昭
和
三
〇
年
三
月
に
母
カ
ネ
が
死
去
し
た
一
か
月
後
︵
四
月
︶
自
宅
近
く
の
甲
州
街
道
で
タ
ク
シ
ー
に
轢
か
れ
て
右
脚
を
骨
折
し
、
半
社
員
、
一
〇
年
一
月
正
社
員
と
な
り
、
戦
後
の
昭
和
二
五
年
一
月
に
は
正
課
長
と
な
る
が
、
翌
二
六
年
一
〇
月
依
願
退
職
し
て
嘱
託
と
な
そ
の
後
は
、
書
籍
・
雑
誌
の
刊
行
や
、
編
集
・
正
に
従
事
し
、
昭
和
四
年
岩
波
書
店
の
仕
事
を
手
伝
っ
た
の
を
機
に
、
昭
和
七
年
臨
時
中
途
退
学
に
な
っ
て
し
ま
う
。︶
は
、
東
京
帝
国
大
学
文
学
部
の
選
科
に
入
学
す
る
が
、
し
か
し
、
こ
れ
も
規
定
単
位
の
未
取
得
と
学
費
滞
納
を
理
由
に
、
大
正
一
一
年
秋
に
二
年
の
三
学
期
︵
大
正
八
年
の
春
︶
高
を
辞
め
る
と
言
い
始
め
、
六
月
の
試
験
前
に
退
学
届
を
提
出
し
た
。︶
そ
の
後
、
東
京
に
戻
っ
た
彼
だ
が
、
二
年
に
進
級
し
た
二
〇
歳
の
頃
か
ら
深
酒
を
し
て
遅
刻
欠
席
が
目
立
つ
よ
う
に
な
っ
た
彼
は
、
三
年
に
進
級
で
き
ず
、
二
度
目
の
あ
る
。
当
時
フ
ラ
ン
ス
語
の
学
科
は
一
高
と
三
高
と
に
し
か
な
か
っ
た
﹂
た
め
と
い
う
。︶
高
を
選
ん
だ
。
将
来
外
官
に
な
ろ
う
か
と
い
う
意
志
が
あ
っ
て
、
そ
れ
に
は
フ
ラ
ン
ス
語
の
修
得
が
必
要
な
条
件
と
さ
れ
て
い
た
か
ら
で
科
︶
に
合
格
。︶
三
高
を
志
望
し
た
理
由
は
、
兄
・
震
に
よ
れ
ば
、
京
都
と
い
う
土
地
に
対
す
る
憧
れ
と
、
仏
法
科
を
志
望
し
た
た
め
に
三
大
正
四
年
中
学
を
卒
業
し
た
徳
は
、
京
都
の
第
三
高
等
学
を
受
験
す
る
が
失
敗
、
一
浪
し
て
翌
五
年
九
月
に
一
部
丁
類
︵
仏
法
仏
文
光
さ
ん
の
左
の
目
の
下
に
小
さ
な
黒
子
が
あ
る
こ
と
を
見
出
し
て
、
最
初
は
そ
れ
を
目
当
て
に
し
た
も
の
で
あ
っ
た
︶
﹂
。
む
。
一
年
乙
組
の
同
級
生
・
戸
塚
武
彦
に
よ
れ
ば
、
徳
と
光
は
﹁
何
し
ろ
良
く
似
た
兄
弟
で
、
誰
に
も
区
別
は
つ
か
な
か
っ
た
程
で
あ
る
が
、
明
治
三
七
年
四
月
弟
・
光
と
と
も
に
東
京
高
等
師
範
学
附
属
小
学
に
入
学
し
た
彼
は
、
明
治
四
三
年
四
月
に
同
弟
・
光
に
よ
っ
て
追
悼
文
集
が
編
ま
れ
て
い
る
の
で
、︶
詳
細
は
同
書
を
参
照
さ
れ
た
い
。
附
属
中
学
に
進
(法政研究 83-3-162)428
梅謙次郎の子供たち(七戸)
た
ち
は
か
わ
り
番
に
各
自
の
家
で
晩
会
を
も
っ
た
が
、
岡
野
先
生
の
家
に
よ
ば
れ
た
時
、
鯛
の
目
玉
ば
か
り
の
ウ
シ
オ
椀
が
出
て
、
は
目
玉
を
民
法
の
つ
ぎ
に
は
、
岡
野
敬
次
郎
、
田
辺
︹
田
部
︺
芳
の
両
氏
ら
と
商
法
の
起
草
に
あ
た
っ
た
が
、
そ
の
こ
ろ
の
逸
話
を
ひ
と
つ
。
⋮
⋮
︹
中
略
︺
⋮
⋮
。
族
制
度
が
ほ
ろ
ぶ
こ
と
だ
﹂
と
さ
え
い
っ
て
い
る
。︶
当
時
委
員
429(83-3-163)
十
四
年
は
二
十
世
紀
の
第
一
年
に
当
っ
た
が
、
そ
の
頃
新
聞
に
載
っ
た
談
話
﹃
二
十
世
紀
の
法
律
﹄
の
な
か
で
、
何
よ
り
も
た
し
か
な
こ
と
は
今
の
家
フ
ラ
ン
ス
に
学
ん
だ
せ
い
も
あ
ろ
う
が
、
は
か
な
り
徹
底
し
た
封
ぎ
ら
い
で
、
し
た
が
っ
て
当
時
の
家
族
制
度
に
も
反
対
で
あ
っ
た
。
明
治
三
⋮
⋮
︹
中
略
︺
⋮
⋮
。
い
た
。
も
っ
と
も
寺
内
正
毅
が
二
代
統
監
に
な
っ
て
か
ら
は
、
あ
ま
り
お
も
し
ろ
く
な
か
っ
た
ら
し
い
。
韓
国
へ
は
、
伊
藤
博
文
の
初
代
統
監
時
代
か
ら
、
法
制
顧
問
と
い
っ
た
よ
う
な
形
で
、
帝
大
の
夏
と
冬
の
休
暇
を
利
用
し
て
年
に
二
度
ず
つ
行
っ
て
義
に
出
か
け
て
い
た
。
う
熱
が
あ
る
の
に
ウ
イ
ス
キ
ー
な
ん
か
飲
ん
で
い
た
と
い
う
話
だ
。
も
っ
と
も
平
生
か
ら
病
気
に
強
く
、
三
十
九
度
ぐ
ら
い
熱
が
あ
っ
て
も
大
学
の
講
い
う
か
ら
、
合
邦
を
見
ず
に
死
ん
だ
こ
と
に
は
心
残
り
は
な
か
っ
た
で
あ
ろ
う
。
わ
た
し
達
は
死
に
目
に
あ
わ
な
か
っ
た
が
、
酒
ず
き
の
は
そ
う
と
ら
、
合
邦
直
前
と
云
っ
て
も
よ
い
が
、
兄
︹
震
︺
の
記
憶
に
よ
る
と
、
同
じ
年
ご
ろ
は
あ
る
席
で
軍
人
と
合
邦
を
論
じ
さ
か
ん
に
反
対
し
て
い
た
と
と
重
複
す
る
内
容
が
多
い
た
め
、
目
新
し
い
記
述
に
つ
い
て
の
み
、
一
部
抜
粋
し
て
引
用
す
れ
ば
思 迎 を
一 い え つ
方 ま て け
、 す も て
は
。 、 お
明
・ ま も ら
治
謙 れ し れ
四
次 に 御 ま
十
郎 み 母 し
三
年
に る 堂 た
の
関 親 と が
八
し 孝 の 、
月
て 行 折 そ
韓
、 な り れ
国
文 方 合 が
京
化 と い よ
城
切 敬 が く
で
手 服 う お
チ
フ
発 し ま 似
ス
行 て く 合
に
の い い い
か
際 ま か で
か
に す な し
り
徳 ﹂︶ か た
、
。
︶
が
っ ﹂
そ
。
寄
た
の
二
せ
場 独
十
た
合 身
五
文
を で
日
章
通
満
は
慮 さ
五
、︶
せ れ
十
兄
ら た
歳
・
れ の
で
震
て は
な
く
と
、 、
な
一
親 御
っ
緒
子 母
た
に
水 堂
。
入 に
日 、 受
け
ら 孝
韓
た
ず 行
合
朝
で を
邦
日
お つ
が
そ
新
過 く
の
聞
ご し
月
の
し た
の
イ
に い
二
ン
な ⋮
十
タ
っ ⋮
九
ビ
た 夫
日
ュ
事 人
だ
ー
と を
か
論 説
大
正
四
年
九
月
京
都
の
第
三
高
等
学
第
一
部
英
法
文
科
に
合
格
。︶
翌
大
正
五
年
一
年
遅
れ
で
兄
・
徳
も
三
高
に
入
学
し
て
く
る
が
、
兄
と
弟
・
光
は
、
兄
・
徳
と
同
じ
く
東
京
高
等
師
範
学
附
属
小
学
・
中
学
を
卒
業
、
そ
の
後
は
、
三
人
の
兄
た
ち
と
異
な
り
現
役
で
、
ね
ば
り
強
く
、
自
説
を
譲
ら
ず
、
私
の
軽
々
し
い
動
作
と
は
対
照
的
に
見
え
た
の
だ
ろ
う
。
い
の
だ
が
こ
ど
も
の
時
、
兄
は
ド
ウ
ガ
メ
︵
ス
ッ
ポ
ン
の
こ
と
︶
と
云
わ
れ
、
強
情
で
有
名
で
あ
っ
た
、
私
は
ヤ
ン
チ
ャ
で
通
っ
て
い
た
。
兄
は
双
生
児
と
い
う
の
に
兄
と
私
は
ま
る
で
性
向
が
違
う
、
こ
う
観
る
人
が
案
外
多
か
っ
た
よ
う
で
あ
る
。
実
は
私
自
身
は
必
ず
し
も
そ
う
思
わ
な
末
弟
・
光
︵
明
治
三
〇
年
一
二
月
二
日
生
︶
は
、
同
日
生
ま
れ
の
双
子
の
兄
・
徳
と
自
と
を
、
次
の
よ
う
に
対
比
し
て
い
る
。︶
の
6 察
対
三 象
男 と
︵ の
四 関
男 係
︶ で
・ は
光
、
こ
こ
で
も
登
場
す
る
﹁
か
な
り
徹
底
し
た
封
ぎ
ら
い
﹂
と
い
う
言
葉
が
気
に
な
る
。
比
較
的
早
く
死
ん
だ
こ
と
で
、
老
醜
の
無
惨
を
曝
さ
な
く
て
よ
か
っ
た
、
と
い
う
の
は
真
実
か
も
し
れ
な
い
。
そ
れ
に
つ
け
て
も
、
本
稿
進
歩
的
な
面
だ
け
を
わ
た
し
た
ち
の
記
憶
に
残
し
て
く
れ
た
。
も
っ
と
生
き
の
び
て
い
た
ら
や
は
り
ち
が
っ
た
面
を
残
し
た
か
も
し
れ
な
い
。
か
え
っ
て
よ
か
っ
た
と
い
え
る
か
も
し
れ
な
い
。
早
く
日
本
資
本
主
義
の
上
向
期
に
死
ん
だ
だ
け
に
、
は
リ
ベ
ラ
リ
ス
ト
と
し
て
の
、
い
わ
ば
が
五
十
歳
で
死
ん
だ
の
を
惜
し
い
と
か
な
ん
と
か
い
う
人
が
い
る
。
し
か
し
今
か
ら
え
て
み
る
と
、
す
く
な
く
と
も
わ
た
し
な
ど
に
と
っ
て
は
、
⋮
⋮
︹
中
略
︺
⋮
⋮
。
ち
や
ま
︺
元
の
横
綱
大
砲
︶
を
連
れ
て
家
に
来
た
り
し
た
。
所
が
は
じ
ま
る
と
、
大
学
や
役
所
の
帰
り
に
ほ
と
ん
ど
毎
晩
出
か
け
た
。
国
技
館
の
で
き
る
と
き
に
は
太
刀
山
の
師
匠
の
友
綱
取
締
が
待
乳
山
︹
ま
つ
酒
の
ほ
か
に
、
趣
味
と
い
え
ば
相
撲
だ
っ
た
ろ
う
。
富
井
︹
政
章
︺
先
生
、
岡
野
先
生
、
土
方
寧
先
生
ら
と
組
ん
で
桟
敷
を
一
つ
と
っ
て
お
り
、
場
と
え
ら
く
感
心
し
て
帰
っ
て
来
た
そ
う
で
あ
る
。
﹁
さ
す
が
に
岡
野
は
江
戸
っ
児
だ
﹂
十
い
く
つ
か
食
べ
、
(法政研究 83-3-164)430
梅謙次郎の子供たち(七戸)
状
況
証
拠
か
ら
導
か
れ
る
常
識
的
な
推
測
は
、
・
薫
が
結
婚
に
反
対
し
た
、
と
い
う
も
の
で
あ
る
。
暮
ら
し
、
子
ど
も
を
も
う
け
な
が
ら
、
ど
う
し
て
明
治
三
八
年
ま
で
入
籍
し
な
か
っ
た
の
か
、
と
い
う
点
で
あ
る
が
、
こ
こ
ま
で
見
て
き
た
だ
が
、
そ
れ
に
も
増
し
て
気
に
な
る
の
は
、
彼
ら
子
供
た
ち
の
・
謙
次
郎
が
、
留
学
か
ら
帰
国
し
た
明
治
二
三
年
よ
り
カ
ネ
と
一
緒
に
431(83-3-165)
四
一
︶
常
識
的
な
仮
説
終
章
中
退
す
る
な
ど
、
こ
の
時
期
の
梅
家
に
は
少
々
不
自
然
な
出
来
事
が
連
続
し
て
い
る
が
、
そ
の
背
景
事
情
は
詳
ら
か
に
な
ら
な
い
。
兄
・
緑
が
い
と
こ
︵
ク
ニ
の
孫
︶
と
結
婚
し
て
、
板
倉
家
か
ら
の
養
子
・
梅
子
が
離
縁
し
、
一
一
年
秋
に
は
双
子
の
兄
・
徳
が
東
大
選
科
を
一
八
日
に
母
方
の
祖
母
・
本
ク
ニ
と
養
子
縁
組
を
し
て
本
家
を
嗣
い
だ
た
め
で
あ
る
。
一
方
、
前
年
︵
大
正
一
〇
年
︶
二
月
に
は
、
長
な
お
、
﹃
京
都
帝
国
大
学
一
覧
﹄
の
彼
の
氏
名
の
記
載
が
、
梅
光
﹂
か
ら
﹁
本
光
﹂
に
変
わ
っ
て
い
る
の
は
、
彼
が
大
正
一
一
年
五
月
店
に
入
り
、
私
は
横
浜
の
会
社
に
、
や
が
て
台
湾
へ
、
ま
た
満
洲
へ
と
流
れ
て
い
っ
た
﹂︶
。
頭
商
人
︵
テ
キ
ヤ
︶
に
売
ら
せ
る
と
い
う
、
そ
ん
な
出
版
社
を
作
っ
て
、
五
年
ほ
ど
兄
と
生
計
を
共
に
し
た
が
、
そ
の
う
ち
に
兄
は
岩
波
書
就
職
﹂
し
た
が
、
昭
和
四
年
会
社
を
辞
め
て
帰
京
し
⋮
⋮
兄
︹
徳
︺
と
二
人
で
﹃
街
頭
社
﹄
と
い
う
、
こ
れ
は
我
々
が
編
集
し
た
本
を
街
に
合
格
し
て
卒
業
︵
つ
ま
り
一
年
留
年
し
た
と
い
う
こ
と
で
あ
る
︶︶
。
卒
業
後
の
光
は
、
彼
自
身
の
文
章
を
拾
え
ば
、
結
局
朝
鮮
の
会
社
に
と
こ
ろ
が
、
彼
は
、
順
調
に
ゆ
け
ば
大
正
一
〇
年
三
月
の
学
士
試
験
に
合
格
し
て
卒
業
し
て
い
る
と
こ
ろ
、
大
正
一
一
年
三
月
学
士
試
験
法
経
済
学
部
に
進
学
。︶
別
々
に
暮
ら
し
て
い
た
こ
と
か
ら
、
悪
影
響
を
受
け
ず
に
済
ん
だ
の
だ
ろ
う
、
順
調
に
高
を
卒
業
し
て
、
大
正
七
年
九
月
京
都
帝
国
大
学
論 説
る
こ
と
と
な
っ
た
。
二
十
世
紀
の
法
律
﹂
に
お
け
る
謙
次
郎
の
過
激
な
談
話
は
、
い
か
に
も
煮
え
切
ら
な
い
、
ど
っ
ち
つ
か
ず
の
半
端
な
次
郎
は
、
一
五
年
も
の
長
き
に
わ
た
っ
て
カ
ネ
と
法
律
上
の
夫
婦
に
な
ら
ず
、
結
果
と
し
て
、
子
供
た
ち
に
複
雑
な
身
関
係
を
押
し
つ
け
だ
が し
、 て
家
に
よ
っ
て
、
戸
主
で
あ
る
・
薫
が
カ
ネ
を
自
の
家
に
入
れ
な
い
障
壁
を
取
り
除
い
た
に
も
か
か
わ
ら
ず
、
そ
の
後
も
謙
居
る
者
ハ
夫
婦
と
し
て
認
め
る
事
に
為
ッ
た
、
新
民
法
ハ
斯
る
場
合
に
ハ
其
戸
主
の
監
督
を
離
れ
て
離
籍
す
る
事
の
出
来
る
様
に
し
て
在
る
、
が
法
律
以
外
に
夫
婦
の
状
態
と
為
す
の
で
あ
る
、
斯
る
場
合
に
ハ
裁
判
所
な
ど
で
も
随
八
釜
敷
議
論
も
有
た
が
、
詰
ま
り
実
際
上
夫
婦
の
状
態
と
為
に
認
め
ら
れ
ぬ
夫
婦
が
有
た
、
是
ハ
男
女
が
互
に
想
い
想
は
れ
て
夫
婦
に
為
り
度
い
と
云
ふ
て
も
、
戸
主
又
ハ
親
が
許
さ
ぬ
と
云
ふ
場
合
に
、
其
男
女
⋮
⋮
、
新
民
法
施
行
以
前
ハ
別
段
是
と
云
ふ
法
律
も
無
く
唯
だ
慣
習
で
や
ッ
て
居
た
所
か
ら
、
婚
姻
な
ど
ハ
極
め
て
圧
制
主
義
で
有
た
為
に
、
随
⋮
⋮
︹
中
略
︺
⋮
⋮
。
ナ
ゼ
カ
と
云
ふ
に
、
家
族
制
度
と
云
ふ
も
の
ハ
元
来
封
の
遺
習
で
あ
ッ
て
、
到
底
今
日
の
社
会
の
進
歩
に
伴
は
な
い
制
度
で
あ
る
か
ら
だ
、
⋮
⋮
。
ハ
百
年
と
云
は
ず
コ
ヽ
二
十
年
か
三
十
年
の
中
に
ハ
、
恐
ら
く
実
行
さ
れ
る
事
で
あ
ら
う
と
思
ふ
。
先
づ
民
法
の
事
に
就
て
云
は
ふ
な
ら
、
家
族
制
の
廃
滅
及
び
隠
居
制
の
廃
滅
、
夫
か
ら
養
子
制
の
減
少
、
是
ハ
今
日
に
於
て
断
言
し
て
憚
ら
ぬ
、
是
用
す
る
読
売
新
聞
明
治
三
三
年
一
月
年
頭
の
談
話
﹁
二
十
世
紀
の
法
律
﹂
の
該
当
部
は
、
次
の
よ
う
な
も
の
で
あ
っ
た
。︶
婚
問
題
が
関
係
し
て
い
る
の
か
も
し
れ
な
い
。
と
い
う
の
も
、
子
供
た
ち
が
、
の
﹁
か
な
り
徹
底
し
た
封
ぎ
ら
い
﹂
の
例
証
と
し
て
引
明
治
二
三
年
一
〇
月
八
日
の
謙
次
郎
の
家
に
つ
い
て
も
、
梅
・
本
家
︵
薫
・
錦
之
丞
︶
の
借
金
を
免
れ
る
意
図
の
ほ
か
、
カ
ネ
と
の
結
に
関
わ
る
事
柄
な
の
か
は
か
ら
な
い
が
︶
、
カ
ネ
な
い
し
本
家
と
の
縁
組
に
反
対
の
立
場
に
翻
意
し
た
こ
と
に
な
る
。
て
︵
お
そ
ら
く
は
謙
次
郎
の
帰
国
後
に
︶
、
何
ら
か
の
理
由
か
ら
︵
そ
れ
が
薫
・
カ
ネ
両
人
の
個
人
に
関
わ
る
事
柄
な
の
か
、
梅
家
・
し
留
学
中
︶
に
、
梅
家
と
本
家
の
間
で
話
が
ま
と
ま
っ
て
い
た
と
え
る
の
が
自
然
で
あ
る
。
と
な
れ
ば
、
・
薫
は
、
そ
の
後
に
本 な
家 っ
し
か
し
、
謙
次
郎
が
留
学
か
ら
帰
国
直
後
よ
り
カ
ネ
と
暮
ら
し
て
い
る
こ
と
か
ら
す
れ
ば
、
二
人
の
結
婚
は
、
謙
次
郎
の
留
学
前
︵
な
い
1
明
治
二
三
年
(法政研究 83-3-166)432
梅謙次郎の子供たち(七戸)
さ
ら
に
、
シ
ン
ポ
ジ
ウ
ム
の
席
上
で
、
次
の
よ
う
に
補
足
す
る
。︶
藩
士
の
本
理
左
衛
門
の
娘
か
ね
を
娶
っ
た
の
も
、
郷
土
江
に
惹
か
れ
る
も
の
が
あ
っ
た
の
で
あ
り
ま
し
ょ
う
。
フ
ラ
ン
ス
の
リ
ヨ
ン
市
長
が
嫁
を
世
話
せ
ん
と
し
、
又
帰
朝
後
早
々
に
陸
奥
宗
光
が
原
敬
を
通
し
て
嫁
を
世
話
し
よ
う
と
し
た
の
を
断
っ
て
、
昂
︵
︻ 平
第 成
二
2 年
図
︼ 、
参 江
照
に
︶ 梅
は 謙
、
基 次
調 郎
の
講
演 顕
で 彰
碑
次
の が
よ
立
う
に さ
述 れ
た
べ 際
︶
の
シ
、 ン
ポ
ジ
ウ
ム
で
、
謙
次
郎
の
妻
カ
ネ
や
三
成
重
敬
の
縁
戚
で
あ
る
後
藤
江
433(83-3-167)
二
︶
空
想
的
な
憶
説
の
な
の
か
、
そ
れ
と
も
薫
が
了
承
し
、
あ
る
い
は
死
期
の
近
づ
い
た
彼
が
、
梅
・
本
家
を
嗣
が
せ
る
た
め
自
ら
望
ん
だ
こ
と
な
の
か
。
て
は
、
こ
の
時
期
に
行
う
こ
と
の
、
合
理
的
な
説
明
が
思
い
浮
か
ば
な
い
。
こ
の
養
子
縁
組
に
つ
い
て
は
、
・
薫
が
あ
ず
か
り
知
ら
ぬ
も
没
︶
。
七
月
の
入
籍
に
関
し
て
は
、
の
反
対
と
い
う
障
害
が
な
く
な
っ
た
か
ら
、
と
い
え
そ
う
で
も
あ
る
が
、
三
月
の
養
子
縁
組
に
つ
い
・
薫
が
死
去
し
た
の
は
、
梅
子
・
緑
と
の
養
子
縁
組
の
一
か
月
後
、
二
人
の
入
籍
の
三
か
月
前
で
あ
る
︵
明
治
三
八
年
四
月
二
三
日
で
は
、
明
治
三
八
年
三
月
の
梅
子
・
緑
と
の
養
子
縁
組
と
、
七
月
の
謙
次
郎
・
カ
ネ
の
入
籍
は
、
ど
の
よ
う
に
読
み
解
か
れ
る
べ
き
か
。
2
明
治
三
八
年
酒
匂
の
家
に
薫
を
隠
居
さ
せ
た
と
き
に
は
、
よ
う
や
く
厄
介
払
い
が
で
き
た
と
、
ほ
っ
と
し
た
こ
と
だ
ろ
う
。
た
の
は
、
明
治
二
四
年
一
月
初
め
か
ら
四
月
初
め
ま
で
の
、
た
っ
た
三
か
月
に
す
ぎ
な
い
。
経
済
的
に
余
裕
が
で
き
て
真
っ
先
に
購
入
し
た
て
い
る
の
に
、
薫
は
一
人
で
三
〇
円
を
い
、
そ
れ
で
も
足
り
な
い
と
言
っ
て
無
心
ま
で
す
る
。
薫
と
謙
次
郎
・
カ
ネ
夫
婦
が
同
居
し
て
い
他
方
、
嫁
の
カ
ネ
と
舅
の
薫
の
関
係
は
最
悪
で
あ
っ
た
と
思
わ
れ
る
。
謙
次
郎
・
カ
ネ
・
緑
の
三
人
が
月
三
〇
円
の
乏
暮
ら
し
を
続
け
自
自
身
に
対
す
る
苛
立
ち
の
よ
う
に
も
感
じ
る
。
論 説
き
倒
し
で
、
当
時
の
封
的
な
家
制
度
の
下
で
は
、
姻
戚
関
係
と
な
る
先
方
の
家
に
関
す
る
情
報
を
得
や
す
い
、
同
郷
の
家
ど
う
し
の
結
婚
第
二
に
、
郷
土
を
愛
し
て
い
た
か
ら
結
婚
し
た
﹂
と
の
後
藤
の
仮
説
に
つ
い
て
い
え
ば
、
そ
れ
は
さ
す
が
に
郷
土
・
江
の
贔
屓
の
引
物
で
、
こ
れ
は
﹁
津
田
︹
出
︺
の
娘
﹂
の
誤
植
︵
後
藤
の
発
言
を
テ
ー
プ
起
こ
し
し
た
際
の
聞
き
取
り
ミ
ス
︶
で
あ
る
。
に
も
あ
っ
た
と
は
思
わ
れ
な
い
︶
︶
。
な
お
、
陸
奥
宗
光
が
原
敬
を
通
じ
て
持
ち
込
ん
だ
縁
談
の
相
手
を
、
津
軽
娘
﹂
と
し
て
い
る
の
は
噴
飯
サ
ー
ビ
ス
が
潤
色
さ
れ
た
も
の
で
あ
ろ
う
︵
資
料
︵
料
︶
的
に
見
て
、
兄
・
錦
之
丞
の
ベ
ル
リ
ン
で
の
行
状
と
同
様
の
状
況
が
、
謙
次
郎
に
よ
る
結
婚
相
手
の
周
旋
の
話
は
、
お
そ
ら
く
は
梅
の
博
士
論
文
が
ヴ
ェ
ル
メ
ー
ユ
賞
を
受
賞
し
た
際
に
、
市
長
が
贈
っ
た
リ
ッ
プ
・
第
一
に
、
先
に
引
用
し
た
梅
徳
の
追
悼
文
の
記
述
も
そ
う
で
あ
る
が
、
三
成
重
敬
の
記
憶
談
に
は
、
か
な
り
誤
り
が
多
い
。
リ
ヨ
ン
市
長
く
れ
る
料
理
、
い
わ
ゆ
る
お
国
の
料
理
、
こ
れ
を
非
常
に
愛
し
た
よ
う
で
す
。
の
人
を
三
成
重
敬
な
ん
か
は
非
常
に
褒
め
て
お
り
ま
す
。
立
派
な
人
間
だ
と
い
っ
て
褒
め
て
お
り
ま
す
が
、
そ
れ
は
そ
う
と
し
て
、
こ
の
人
が
作
っ
て
な
い
人
だ
。
な
か
な
か
が
っ
ち
り
と
し
た
体
格
の
人
で
す
。
四
角
張
っ
た
、
あ
そ
こ
に
も
写
真
が
出
て
お
り
ま
す
が
、
非
常
に
素
朴
な
人
で
す
が
、
こ
い
、
国
の
親
し
み
と
い
う
も
の
が
あ
っ
た
と
思
い
ま
す
。
も
ち
ろ
ん
、
か
ね
子
と
い
う
人
は
美
人
、
私
も
よ
く
知
っ
て
い
ま
す
が
、
美
人
と
は
思
わ
れ
子
を
娶
っ
て
お
り
ま
す
。
こ
の
よ
う
に
多
く
の
い
い
話
が
あ
っ
て
も
、
国
の
女
、
国
の
人
と
結
婚
を
す
る
と
い
う
こ
と
は
、
や
は
り
国
を
離
れ
た
く
な
あ
っ
た
よ
う
で
す
が
、
こ
れ
を
振
り
切
っ
て
、
そ
の
年
八
月
に
帰
っ
て
一
二
月
に
は
国
の
出
身
、
い
わ
ゆ
る
先
ほ
ど
話
し
た
本
理
左
衛
門
の
娘
か
ね
ま
た
、
帰
っ
て
か
ら
陸
奥
宗
光
、
こ
の
人
が
原
敬
を
立
て
ま
し
て
、
ぜ
ひ
津
軽
娘
を
世
話
し
て
や
る
と
い
う
よ
う
に
言
わ
れ
て
い
ろ
い
ろ
渉
が
で
し
ょ
う
が
、
誰
で
も
あ
ん
た
の
希
望
が
あ
れ
ば
世
話
す
る
ぞ
﹂
と
い
う
話
が
あ
っ
た
よ
う
で
す
が
、
そ
れ
を
振
り
切
っ
て
お
り
ま
す
。
話
し
よ
う
﹂
と
い
う
よ
う
な
話
も
あ
っ
た
。
も
う
リ
ヨ
ン
の
い
わ
ゆ
る
ナ
ン
バ
ー
ワ
ン
と
も
言
わ
れ
る
、
ミ
ス
・
リ
ヨ
ン
﹂
と
で
も
言
わ
れ
る
人
な
ん
結
婚
の
問
題
が
あ
り
ま
す
。
梅
先
生
は
リ
ヨ
ン
時
代
に
あ
る
女
の
人
と
恋
愛
を
し
た
よ
う
で
す
。
リ
ヨ
ン
の
市
の
方
か
ら
、
あ
ん
た
の
好
む
人
を
お
世
の
時
に
自
の
一
生
の
思
い
出
の
こ
と
を
ぽ
ん
ぽ
ん
ぽ
ん
と
書
い
て
お
り
ま
す
。
い
ろ
ん
な
こ
と
が
あ
り
ま
す
が
、
そ
の
中
に
出
て
く
る
ん
で
す
が
、
先
ほ
ど
ち
ょ
っ
と
お
話
し
し
ま
し
た
三
成
メ
モ
と
い
う
の
が
残
っ
て
お
り
ま
し
て
、
こ
れ
は
晩
年
、
こ
の
人
は
八
八
歳
で
死
ぬ
の
で
す
が
、
八
五
歳
(法政研究 83-3-168)434
梅謙次郎の子供たち(七戸)
智
と
、
稀
な
美
貌
の
持
主
で
あ
っ
た
︶
﹂
。
女
子
奨
励
会
︵
女
子
教
育
奨
励
会
。
日
本
ノ
貴
婦
人
ニ
欧
米
諸
国
ノ
貴
婦
人
ト
同
等
ナ
ル
佳
良
ノ
の
学
に
通
ず
、
其
れ
巧
手
象
︹
通
訳
︺
の
技
の
如
き
は
、
特
に
其
の
土
︹
腐
葉
土
︺
の
み
︹
耳
︺
﹄
と
い
っ
て
誇
っ
て
ゐ
る
絶
倫
な
才
の
縁
談
相
手
は
、
当
時
一
九
歳
の
長
女
・
品
子
で
あ
っ
た
ろ
う
。
品
子
は
、
﹁
出
が
自
ら
﹃
品
女
夙
に
和
漢
の
書
を
読
み
、
兼
て
英
仏
独
な
お
、
津
田
出
に
は
五
人
の
娘
が
い
た
が
、
長
姉
を
差
し
置
い
て
先
に
妹
た
ち
の
嫁
入
り
を
進
め
る
こ
と
は
え
に
く
い
か
ら
、
謙
次
郎
435(83-3-169)
し
け
れ
ば
一
捨
て
て
津
田
家
に
乗
り
換
え
る
こ
と
を
す
べ
し
﹂
と
の
謙
次
郎
の
返 え
答 、
は
、 の
意
本 に
家 従
と う
の よ
関 う
係 孝
解 行
消 息
の 子
た の
め 謙
の 次
必 郎
要 に
期 命
間 じ
だ た
っ で
た あ
の ろ
か う
も 。
し
れ 四
な 五
い ヶ
。 月
え
て
く
れ
る
に
相
違
な
い
。
謙
次
郎
は
、
こ
の
縁
談
話
を
、
・
薫
に
伝
え
た
で
あ
ろ
う
。
そ
し
て
、
薫
の
性
格
な
ら
ば
当
然
、
ば
し 本
て 家
宜 を
田
出
の
元
老
院
議
官
の
給
料
だ
け
で
も
勅
任
一
等
年
俸
三
五
〇
〇
円
で
あ
る
か
ら
、
梅
家
の
苦
し
む
二
万
円
の
借
金
な
ど
、
容
易
に
立
て
替
津
田
家
は
楠
木
正
儀
︵
楠
木
正
成
三
男
︶
の
後
裔
で
、
徳
川
期
に
は
紀
州
藩
の
重
臣
だ
っ
た
名
門
の
家
系
。
ま
た
、
同
家
の
財
力
は
、
津
断
る
の
外
な
け
れ
ど
も
四
五
ケ
月
ば
し
て
宜
し
け
れ
ば
一
す
べ
し
と
の
事
と
な
り
と
申
来
れ
り
、
依
て
其
旨
陸
奥
大
臣
に
内
談
せ
り
。
友
人
故
に
之
を
周
旋
せ
し
に
明
日
ま
で
確
答
を
ば
し
て
く
れ
よ
と
云
ふ
事
な
り
し
が
、
本
日
本
野
一
郎
来
訪
に
て
梅
は
今
直
に
返
答
せ
よ
と
あ
れ
ば
二
十
七
日
梅
謙
次
郎
を
訪
ふ
て
元
老
院
議
官
津
田
出
の
娘
を
嫁
入
さ
す
る
事
を
内
談
し
た
り
、
是
れ
は
陸
奥
大
臣
の
内
意
に
出
た
る
事
に
て
余
は
こ
の
縁
談
話
に
つ
い
て
は
、
﹃
原
敬
日
記
﹄
の
明
治
二
三
年
八
月
二
七
日
の
条
に
、
次
の
よ
う
な
記
載
が
あ
る
。︶
1
と
の
﹁
憶
説
﹂
を
明
治
二
三
年 え
た
こ
と
が
あ
っ
た
。︶
も
っ
と
も
、
筆
者
に
あ
っ
て
も
、
か
つ
て
、
陸
奥
宗
光
の
持
ち
込
ん
だ
縁
談
話
に
、
謙
次
郎
は
一
瞬
心
が
動
い
た
の
で
は
な
い
か
、
謙
次
郎
が
カ
ネ
と
別
れ
ず
内
縁
関
係
を
続
け
た
の
は
、
彼
女
の
人
柄
に
惚
れ
込
ん
だ
か
ら
だ
ろ
う
。
ネ
が
人
格
的
に
非
常
に
優
れ
た
明
な
女
性
で
あ
っ
た
こ
と
は
、
皆
が
口
々
に
証
言
す
る
と
こ
ろ
で
、
・
薫
の
翻
意
に
も
か
か
わ
ら
ず
、
が
多
い
だ
け
の
話
で
あ
っ
て
、
恋
愛
結
婚
が
稀
な
当
時
に
お
い
て
、
全
国
一
般
に
共
通
す
る
現
象
で
あ
る
。
一
方
、
器
量
は
と
も
か
く
、
カ
論 説
少
か
ら
ず
陸
奥
︹
宗
光
︺
、
土
方
︹
久
元
︺
の
両
大
臣
、
河
田
︹
景
与
︺
、
福
羽
︹
美
静
︺
の
両
議
官
を
始
め
金
子
︹
堅
太
郎
︺
、
伊
藤
︹
伊
東
巳
代
治
︺
出
氏
の
邸
を
出
棺
し
谷
中
天
王
寺
へ
仏
葬
せ
し
が
遉
に
ハ
元
老
院
議
官
と
云
ひ
女
ハ
際
社
会
に
有
名
な
る
美
人
な
り
け
れ
バ
会
葬
せ
し
人
々
ハ
○
際
家
津
田
品
子
女
の
葬
儀
過
日
の
紙
上
に
死
去
の
旨
を
記
し
た
る
同
女
の
葬
儀
ハ
一
昨
廿
三
日
午
後
一
時
麹
町
区
番
町
な
る
従
三
位
津
田
な
お
、
彼
女
の
葬
儀
の
模
様
を
伝
え
る
新
聞
記
事
か
ら
も
、
津
田
家
が
ど
れ
ほ
ど
の
名
家
で
あ
る
か
を
垣
間
見
る
こ
と
が
で
き
る
。︶
津
田
出
氏
の
令
嬢
な
り
な
り
し
が
先
頃
よ
り
腎
臓
腫
瘍
症
に
罹
り
薬
石
其
効
を
奏
せ
ず
遂
に
去
る
︹
明
治
二
三
年
九
月
︺
廿
日
黄
泉
の
客
と
な
ら
れ
た
り
女
ハ
元
老
院
議
官
を
持
ち
込
ん
だ
、
わ
ず
か
一
か
月
後
に
死
ん
で
し
ま
う
。
新
聞
記
事
に
よ
れ
ば
べ
く
○
高
津
等
田
教
品
育
子
を
女
施
さ
逝
く
れ
た
女
、
日
ハ
本
本
の
年
貴
二
婦
十
歳
人
︹
の
数
蕾
え
で
年
あ
︺
っ
に
た
し
。
て
と
学
問
こ
を
ろ
好
が
み
、
音
︶
彼
楽
女
に
長 、 は
、
じ
陸
又
英
奥
独
宗
仏
光
三
が
国
原
の
敬
語
を
を
通
善
じ
く
し
て
梅
際
謙
社
次
会
郎
に
に
有
縁
名
談
の
話
人
時
あ
た
か
も
鹿
鳴
館
の
欧
化
政
策
時
代
、
品
子
は
、
当
時
の
明
治
日
本
の
最
上
流
階
級
の
子
女
と
し
て
、
欧
米
諸
国
の
貴
婦
人
に
比
肩
す
大
山
︹
厳
︺
伯
︹
爵
︺
等
の
諸
氏
な
り
し
と
な
り
又
当
日
来
賓
の
重
も
な
る
人
々
ハ
小
宮
︹
彰
仁
親
王
︺
及
び
同
御
息
所
伊
藤
伯
︹
爵
︺
及
び
同
夫
人
、
土
方
︹
久
元
︺
子
︹
爵
︺
及
び
同
夫
人
、
其
本
元
た
る
外
国
人
に
す
ら
甚
だ
六
箇
敷
狂
言
な
れ
ど
も
今
回
ハ
俄
か
の
思
付
に
も
拘
は
ら
ず
至
極
上
出
来
に
て
来
賓
ハ
何
れ
も
感
賞
し
た
り
と
の
事
︹
清
康
︺
海
軍
少
将
の
令
嬢
操
子
、
津
田
︹
出
︺
元
老
院
議
官
の
令
嬢
品
子
の
五
氏
に
て
何
れ
も
見
事
に
演
じ
た
り
と
云
ふ
殊
に
セ
ー
ク
ス
ピ
ア
の
曲
ハ
英
語
会
員
た
る
伊
藤
︹
博
文
︺
枢
密
院
議
長
の
令
嬢
生
子
、
三
条
︹
実
美
︺
内
大
臣
の
令
嬢
智
恵
子
、
本
田
︹
親
雄
︺
元
老
院
議
官
の
令
嬢
米
子
、
林
て
無
言
の
曲
を
演
じ
次
に
セ
ー
ク
ス
ピ
ヤ
の
﹁
メ
ル
チ
ャ
ン
ト
ヴ
ヰ
ニ
ス
﹂
五
幕
を
演
じ
た
り
し
が
此
の
役
者
ハ
同
奨
励
会
中
に
設
け
あ
る
ユ
ニ
オ
ン
赤
坂
見
附
内
の
女
子
奨
励
会
に
て
ハ
去
二
十
一
日
を
以
て
開
業
式
を
行
ひ
し
由
な
る
が
其
節
同
会
生
徒
の
演
劇
あ
り
最
初
ハ
﹁
眠
り
姫
﹂
と
云
ふ
題
に
会
長
は
北
白
川
能
久
親
王
︶
が
、
翌
二
一
年
に
開
し
た
東
京
女
学
館
の
開
業
式
を
伝
え
る
新
聞
記
事
に
は
、
次
の
よ
う
に
あ
る
。︶
教
化
及
家
事
ノ
訓
練
﹂
を
受
け
さ
せ
る
目
的
で
明
治
二
〇
年
に
設
立
さ
れ
た
団
体
。
立
委
員
長
は
当
時
の
理
大
臣
・
伊
藤
博
文
、
初
代
(法政研究 83-3-170)436
梅謙次郎の子供たち(七戸)
に 5 男 4
︶
︶
、
が
本 東 、 成
文 川 首 富
二 徳 都 信
〇 治 大 夫
二 ﹃ 学 と
頁 博 東 妻
に 士 京 ・
も 梅 教 千
﹁ 謙 授 恵
明 次 の ︵
治 郎 我 鵜
二 ﹄ 妻 沢
十
学
三 法 で 明
政
年
あ 二
十 大 る 女
二 学 。 ︶
と
月 ・
の
博 有
間
士
の
に 閣
三
嫁 、
女
し 大
・
て 正
愛
よ 六
子
り 年
が
、 ⋮
、
苦 ⋮
我
楽 ︹
妻
を 復
栄
共 刻
の
に 版
二
す ︺
男
る 大
・
こ 空
尭
と 社
の
・
前
妻
伝
後
と
記
二
な
叢
十
る
年 書
。
、
ち
所 、
な
謂 平
み
糟 成
に
糠 九
、
の 年
我
妻 ︶
妻
な 年
尭
り 譜
・
﹂ 一
愛
と 三
子
あ 頁
夫
る 。
婦
。 さ
の
ら
長
437(83-3-171)
成 3 年 2
︶
︶
二
︶
八 七 扉 七
年 戸 頁 戸
︶ 克 。 克
八 彦
彦
七 ﹁
﹁
頁 山
法
。 田
学
喜
者
之
の
助
本
・
棚
正
︶
三
金
・
田
作
一
之
他
助
・
人
弘
﹃
之
身
助
も
魂
も
神
戸
学
金
院
田
大
一
学
他
・
人
山
遺
田
稿
作
﹄
之
╱
助
我
関
妻
係
栄
資
の
料
青
に
春
寄
﹂
せ
法
て
学
﹂
セ
神
ミ
戸
ナ
学
ー
院
七
法
三
学
五
四
号
六
︵
巻
平
二
成
号
二
︵
平
八
︵
九
州
大
学
法
学
部
立
九
〇
周
年
記
念
号
、
平
成
二
七
年
︶
一
四
一
頁
。
1
︶
七
戸
克
彦
﹁
九
州
帝
国
大
学
法
文
学
部
内
訌
事
件
東
京
帝
国
大
学
・
京
都
帝
国
大
学
の
内
・
辞
職
事
例
と
の
比
較
﹂
法
政
研
究
八
一
巻
四
号
の
入
籍
︵
七
月
二
三
日
︶
の
一
か
月
前
の
こ
と
で
あ
っ
た
。
な
お
、
津
田
出
の
死
去
は
、
梅
謙
次
郎
の
・
薫
の
死
去
︵
明
治
三
八
年
四
月
二
三
日
︶
の
二
か
月
後
の
六
月
二
日
謙
次
郎
と
カ
ネ
た
﹃
2 壺
碑
明
治
三 津
八 田
年 出
小
伝
﹄
の
中
に
も
、
品
子
を
悼
む
文
章
や
詩
歌
が
多
数
収
め
ら
れ
て
い
る
。︶
か
月
後
の
一
一
月
六
日
の
読
売
新
聞
朝
刊
に
は
﹁
津
田
出
貴
族
院
議
員
の
慟
哭
﹂
と
題
す
る
記
事
が
あ
る
ほ
か
、
彼
の
死
去
後
に
出
版
さ
れ
あ
る
い
は
死
因
は
新
聞
報
道
の
伝
え
る
腎
臓
腫
瘍
で
は
な
か
っ
た
の
か
も
し
れ
な
い
。
娘
の
突
然
の
死
に
、
・
出
の
嘆
き
は
大
き
く
、
二
津
田
出
が
、
病
気
の
娘
の
縁
談
を
進
め
る
と
も
思
え
な
い
か
ら
、
品
子
の
病
気
は
、
わ
ず
か
一
か
月
の
間
に
急
速
に
進
行
し
た
も
の
か
、
山
県
理
大
臣
、
伊
藤
宮
中
顧
問
官
、
陸
奥
農
商
務
大
臣
其
他
貴
顕
方
よ
り
贈
り
し
造
花
百
二
十
余
対
も
あ
り
し
と
外
国
教
師
八
名
、
貴
顕
の
夫
人
令
嬢
十
余
名
並
に
元
老
院
、
枢
密
院
、
裁
判
所
等
の
各
高
等
官
等
無
慮
三
百
余
名
に
て
小
宮
︹
彰
仁
親
王
︺
殿
下
、
の
両
書
記
官
長
、
外
山
︹
正
一
︺
文
科
大
学
長
、
伊
沢
︹
修
二
︺
音
楽
学
長
、
山
県
︹
有
朋
︺
、
伊
藤
︹
博
文
︺
両
伯
爵
の
代
拝
者
、
東
京
女
学
館
の
論 説
23 年
︶
︶
石 一
黒 八
忠 頁
悳 以
﹃ 下
懐 、
旧 東
九 川
十 徳
年 治
﹄ ・
前
岩 掲
波
文 注
庫 5
、 ︶
・
昭
和 本
文
五 二
八 一
年
︶ 頁
以
二 下
四
一 。
頁
、
中
泉
行
正
・
後
掲
注
41
︶
・
七
四
頁
。
22 21 委
︶ ︶
員
梅
会
名
、
か
士
平
ね
子 の 成
四
﹁
大 母 年
道 ︶ ︶
の 梅 一
夜 薫 一
店 ﹂ 七
に 前 頁
足 掲 ︹
袋 注 岡
を 17 孝
売 ︶ 発
言
っ ・
︹
て 初 ︺
。
両 出
親 ︺
を ②
養 ⋮
ひ ⋮
飯 ︹
炊 所
き 収
ま ︺
で 一
し 三
て 六
勉 ∼
強 一
し 三
た 八
良 頁
人 。
の
20 19 18 出
︶ ︶ ︶
︺
東 ①
シ 城 川 ⋮
ン 博 徳 ⋮
ポ ﹁ 治 ︹
ジ 梅 ・ 所
ウ 先 前 収
ム 生 掲 ︺
︶ と 注 一
梅 ワ
三
謙 レ 5 四
︶
次 ッ ・ ∼
郎 ト 本 一
博 豆 文 三
士
七 五
の
頁 頁
人 幼 。 。
と 年
学 時
問 代
﹂ の
﹃ 一
わ
が こ
ま
民 ﹂
法
の 月
刊
・ ゆ
梅 う
謙 び
次 ん
郎 ︵
博 郵
士 政
・ 弘
顕 済
彰 会
碑 郵
乏
時
代
﹂
婦
人
世
界
五
巻
一
三
号
︵
明
治
四
三
立
の
記
録
﹄
梅
謙
次
郎
博
士
顕
彰
記
念
誌
編
集
文
化
部
︶
三
巻
九
号
︵
昭
和
二
七
年
︶
一
〇
頁
。
紫
陽
‖
箕
輪
撫
﹃
名
士
の
母
﹄
文
武
堂
、
昭
和
五
年
︶
一
三
二
頁
﹁
一
四
17 16 15 14 其
︶ ︶ ︶ ︶
の
読 東 東 東 子
売 川 川 川 再
新 徳 徳 徳 び
聞 治 治 治 卒
明 ・ ・ ・ に
治 前 前 前 下
三 掲 掲 掲 る
六 注 注 注 ﹂
︶
年
。
三 5 5 5
︶ ︶ ︶
月 ・ ・ ・
① 本 本 本
二 文 文 文
四 七 六 二
日 頁 頁 〇
朝 。 。 三
刊
頁
・
。
②
二
五
日
朝
刊
﹁
名
士
の
母
梅 ╱
薫 ▲
梅
︵ 薫
法 ╱
学 ︵
博 法
士 学
梅 博
謙 士
次 梅
郎 謙
氏 次
の 郎
氏
︶ の
﹂
。
本
文
引
用
個
所
は
、
︹
初
︶
﹂
⋮
⋮
︹
所
収
︺
安
藤
ん
委
員
会
︵
編
︶
﹃
新
修
江
市
誌
﹄
江
市
役
所
、
昭
和
三
七
年
︶
二
六
七
頁
︵
卒
進
ん
で
新
番
士
と
な
り
、
功
あ
れ
ば
組
士
に
進
み
、
な
け
れ
ば
13 12 11 10 命
︶ ︶ ︶ ︶
に
﹃
上
東 働
野 新 名 川 く
修
富
士 徳 積
太 江 の 治 り
郎
・ だ
‖ 市 母 前 、
誌
野 ﹄ ︶ 掲 然
津
梅 注 し
靜 後 薫
六
掲
一
﹂ 5 十
注
︶
郎
後 ・ に
︵ 13 掲 年 成
編 ︶ 注 譜 た
・
纂 二 17 一 な
︶
﹃ 六 ︶ 四 ら
・ 頁 ば
七 ︹ 。 、
江 頁 初
チ
市 。 出
ャ
誌
︺
ン
﹄
①
と
⋮
遺
⋮
江
言
︹
市
を
所
庁
書
収
、
い
︺
昭
て
一
和
置
三
一
か
二
六
う
頁
年
と
、
︶
、
東
二
善
川
五
く
徳
〇
申
治
∼
し
・
二
て
前
五
居
掲
一
っ
注
頁
た
、
5
か
六
︶
ら
・
一
で
本
一
御
文
∼
座
五
六
い
頁
一
ま
以
三
す
下
頁
﹂
。
。
、
江
市
誌
編
さ
に
取
り
ま
し
て
全
く
夢
の
様
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御
座
い
ま
す
、
夫
は
普
段
主
人
が
、
私
は
如
何
な
事
が
あ
ら
う
と
、
八
十
迄
は
生
き
る
積
り
、
而
し
て
又
夫
迄
は
一
生
懸
9 8 7
︶ ︶ ︶
﹃
梅 東
か 川 人
事
ね 徳 興
子 治 信
﹁ ・
朝 前 録
︵
鮮 掲 第
半 注
二
嶋
に 5 版
︶ ︶
客 ・ ﹄
死 本
せ 文 人
事
る 二 興
良 〇 信
人 二
の ∼ 所
、
追 二 明
想 〇
﹂ 三 治
新 頁 四
一
家 。 年
二
巻
一
〇
号
︵
明
治
四
三
年
︶
一
九
頁
﹁
五
十
一
や
其
処
等
で
死
亡
ら
う
と
は
、
私
共
六
月
一
八
日
発
行
︶
う
之
部
七
六
〇
頁
﹁
梅
謙
次
郎
﹂
。
6
︶
﹃
人
事
興
信
録
︹
初
版
︺
﹄
人
事
興
信
所
、
明
治
三
六
年
四
月
一
八
日
発
行
︶
う
之
部
六
四
六
頁
﹁
梅
謙
次
郎
﹂
。
(法政研究 83-3-172)438
梅謙次郎の子供たち(七戸)
38 な
︶
っ
桃 た
の 日
作 本
成 文
し 化
た 人
梅 ﹄
錦
之 一
丞 二
三
の 書
年
譜 房
、
は 昭
、 和
中
泉 二
八
行 年
正
・ ︶
後 一
五
掲 七
注
頁
41 。
︶
・
七
四
∼
七
五
頁
に
掲
載
さ
れ
て
い
る
。
37 な
︶
い
梅 と
徳 い
﹁ ふ
こ
を と
語 で
る し
﹂ た
月 ﹂
刊 と
ゆ あ
う る
び 。
ん な
︵ お
郵 、
政 梅
弘 か
ね
済 子
会 ・
郵 前
掲
文 注
化
部 9
︶ ︶
・
三 二
巻 〇
九 頁
号 、
︵ 東
昭 川
和 徳
二 治
七 ・
年 前
︶ 掲
八 注
頁 5
⋮ ︶
⋮ ・
︹ 本
所 文
収 二
︺ 六
高 六
久 頁
茂 も
︵ 参
編 照
︶ 。
﹃
切
手
に
だ
と
申
さ
れ
ま
し
た
。
そ
れ
ま
で
私
は
気
が
つ
き
ま
せ
ん
で
し
た
が
、
毎
晩
床
に
入
っ
て
か
ら
、
必
ず
唱
名
す
る
の
が
例
で
、
一
晩
も
缺
か
し
た
こ
と
は
439(83-3-173)
入
り
ま
し
て
か
ら
、
何
か
口
の
中
で
申
し
て
を
り
ま
す
か
ら
、
あ
な
た
は
何
を
仰
し
ゃ
る
の
で
す
と
尋
ね
ま
す
と
、
イ
ヤ
、
母
の
戒
名
を
唱
へ
て
ゐ
る
の
死
別
れ
た
こ
と
が
、
ど
ん
な
に
残
り
惜
し
か
っ
た
か
と
い
ふ
こ
と
は
話
の
序
に
は
必
ず
母
の
話
が
出
る
の
で
も
わ
か
り
ま
す
。
あ
る
夜
の
こ
と
、
臥
床
に
36 35 34 33 32 31 ⋮ 30 顕
︶ ︶ ︶ ︶ ︶ ︶
︶
⋮
彰
梅 東 東 ﹁ 東 東 ︹ 岡 会
か 川 川
川 川 所 孝 、
名
ね 徳 徳 士 徳 徳 収 ‖ 昭
子 治 治 の 治 治 ︺
﹃ 江 和
︵ ・ ・
・ ・
戸 三
談 前 前
前 前 わ 恵 二
母
が
︶ 掲 掲 ︶ 掲 掲 民 子 年
注 注
注 注
﹁ ︶
二
梅
法 梅
万 5 5 薫 5 5 の 謙 三
円 ︶ ︶ ﹂ ︶ ︶
九
の ・ ・ 前 ・ ・ ・ 次 一
本 本
年 本
郎
借 文 文 掲 譜 文 梅 著
金
注
謙
山
一 七 次 書 口
を 二 七
五
∼
1
7
頁
頁
及
返
郎
宗
∼ 八 ︶ 。 。
び
済 二 頁 ・
博 論 義
︹
し
士
︵
た 七 。 初
・ 文 嘉
頁
出
目
良 。
顕 録 永
︺
彰
四
人
①
碑
∼
の
⋮
昭
苦
⋮
そ
立 の 和
心
︹
の
九
﹂
所
記 書 、
婦
収
誌
録
銀
人
︺
学
﹄ 的 行
世
一
前
家
界
三
掲 研 ︶
五
三
究 ﹂
注 ﹂ 三
巻
∼
一
一
20 法 三
四
三
︶
・ 学 三
号
四
志 頁
二 林 。
︵
頁
七
明
。
二 八
治
二
頁 巻
四
。 三
三
年
・
︶
四
四
号
〇
︵
頁
昭
に
和
も
六
﹁
〇
主
年
人
︶
は
二
、
一
母
〇
親
頁
に
注
早
14
く
︶
一
一
歳
の
頃
︶
、
謙
次
郎
の
妻
カ
ネ
の
・
本
理
左
衛
門
に
就
い
て
一
指
流
槍
術
を
学
ん
で
い
る
。
伊
原
青
々
園
︵
編
︶
﹃
出
雲
国
人
物
誌
﹄
伊
原
博
士
前 29 28 学 録
︶ ︶
掲 ︹
生 を
注
時 書
引 名 代 い
5 用
士
の て
︶ 者
・ 注 の 追 幾
本
懐
文 ︺ 母 ╱ の
山
二 口 ︶ ▽ 金
三
梅 法 を
四 宗 薫 学 得
義
頁
﹂ 博 之
︵
以 談 前 士 を
下
掲 田 親
。 ︶ 注 部 元
な 博 17 芳 に
お 士 ︶ 氏 送
、 の ・ 談 て
山 一 ︹ ﹂ 居
初
口 生 出 ⋮ た
宗 ﹂
⋮ 様
義 読 ︺ ︹ だ
②
︵ 売
所 っ
⋮
嘉 新 ⋮ 収 た
永 聞
︺ ﹂
四 明 ︹ 東 と
所
年 治 収 川 述
九 四 ︺ 徳 べ
月 四
治 る
二 年 一 ・ 。
三
日 八 九 前 読
︵ 月
掲 売
一 二 ∼ 注 新
一
八 五
四 5 聞
五 日 〇 ︶ 明
一 朝
・ 治
年 刊 頁 本 四
。
九 ﹁
文 三
月 梅
二 年
二 博
二 八
六 士
九 月
日 追
頁 二
︶ 悼
。 六
生 記
日
︶ 念
朝
は 号
刊
、 ﹂
﹁
文 ⋮
法
久 ⋮
曹
二 ︹
界
年 所
の
︵ 収
明
一 ︺
星
八 東
隕
六 川
つ
二 徳
﹂
年 治
。 ・
▲
27 26 25 24
︶ ︶ ︶ ︶
東
川
徳
治
・
前
掲
注
5
︶
・
本
文
四
六
頁
。
こ
の
点
に
つ
い
て
は
、
司
法
省
法
学
同
期
の
田
部
芳
も
、
ヨ
ー
ロ
ッ
パ
に
行
っ
て
居
る
時
に
も
講
義
梅
か
ね
子
・
前
掲
注
東
川
徳
治
・
前
掲
注
東
川
徳
治
・
前
掲
注
22 5
︶ ︶
・ ・
二 本
三 文
頁 四
。 二
頁
。
5
︶
・
本
文
四
一
頁
。
論 説
家
文
書
は
、
戦
災
に
よ
っ
て
お
し
く
も
凡
て
失
わ
れ
た
が
、
只
こ
れ
よ
り
先
、
東
京
大
学
料
編
さ
ん
所
の
桃
裕
行
氏
が
、
こ
れ
を
写
し
取
っ
て
お
か
れ
お
世
話
に
な
り
、
錦
之
丞
先
生
外
遊
中
の
写
真
を
は
じ
め
、
多
く
の
資
料
を
提
供
し
て
い
た
ゞ
い
た
。
記
し
て
厚
く
御
礼
申
し
上
げ
ま
す
。
又
貴
重
な
梅
47 46 45 る
︶ ︶ ︶
﹂
山 岡 山 法
賀 孝 賀 学
勇 ・ 勇 志
・ 前 ・ 林
前 掲 前 八
掲 注 掲 八
注
44 注 巻
41 ︶ 41 四
︶
・ ・ ︶ 号
四 三 ・ ︵
七 六 四 平
頁 頁 七 成
に 。 頁 三
。 年
は
︶
﹁
一
本
一
稿
頁
を
。
ま
と
め
る
に
あ
た
り
、
梅
謙
次
郎
博
士
嗣
子
梅
震
氏
︵
東
京
都
杉
並
区
和
泉
町
三
六
一
︶
に
非
常
な
掲 博 44 学
︶
注 士
の
梅 山 人
30 謙 田 物
︶
・
︹ 次 三 伝
初 郎 良
出 先 ﹁
︺ 生 嗚 鴎
二 ﹂ 呼 外
一 学 法 と
〇 士 学 民
頁 会 博 法
注 会 士 典
報 梅 の
14 二 謙 起
︶ 七 次 草
⋮ 一 郎 者
⋮ 号 先 た
︹ ︵ 生 ち
所 明 ﹂ ﹂
収 治 法 法
︺ 四 学 学
二 三 協 セ
七 年 会 ミ
二 ︶ 雑 ナ
頁 七 誌 ー
、 頁 二 六
岡 、
︹ 八 五
孝 所 巻 二
﹁ 収 九 号
明 ︺ 号 ︵
治 東 ︵ 平
民 川 明 成
法 徳 治 二
と 治 四 一
梅 ・ 三 年
謙 前 年 ︶
次 掲 ︶ 二
郎 注 巻 〇
頭 頁
5 一 参
︶
帰 ・ 〇 照
国 本 頁 。
一 文 ⋮
〇 二 ⋮
〇 三 ︹
年 九 再
を 頁 録
機 、 ︺
に 岡 山
そ 孝 田
の ‖ 三
業 江 良
績 戸 ﹁
を 恵 嗚
振 子 呼
り ・ 法
返 前 学
43 42 四
︶ ︶
十
引 山 八
用 賀 番
は 勇 地
、 ・ ﹂
。
ち 前
く 掲
ま 注
文
庫 41
﹃ ︶
・
森 四
鴎 七
外 頁
全 、
集 中
13 泉
独 行
逸 正
日 ・
記 前
╱ 掲
小 注
倉 41
日 ︶
記 ・
﹄ 七
三
筑 頁
摩 。
書
房
、
平
成
八
年
︶
一
二
〇
∼
一
二
一
頁
。
な
お
、
七
戸
克
彦
﹁
民
法
一
九
年
四
月
一
三
日
朝
刊
に
、
・
梅
薫
の
名
義
の
会
葬
御
礼
︵
四
月
一
一
日
付
︶
が
あ
る
。
な
お
、
こ
の
と
き
の
薫
の
住
所
は
﹁
本
郷
区
元
町
貳
丁
目
﹃
海
を
越
え
た
日
本
人
名
事
典
﹄
は
、
錦
之
丞
の
没
年
月
日
を
明
治
一
九
年
四
月
二
〇
日
と
し
て
い
る
が
、
四
月
八
日
が
正
し
い
。
東
京
日
日
新
聞
明
治
康
正
‖
園
田
真
也
︵
共
編
著
︶
﹃
眼
科
医
家
人
名
辞
書
﹄
思
文
閣
出
版
、
平
成
一
八
年
︶
二
五
頁
﹁
梅
錦
之
丞
﹂
。
な
お
、
前
記
﹁
太
陽
﹂
記
事
お
よ
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年
︶
七
三
頁
、
富
田
仁
︵
編
︶
﹃
新
訂
増
補
︶
海
を
越
え
た
日
本
人
名
事
典
﹄
日
外
ア
ソ
シ
エ
ー
ツ
、
平
成
一
七
年
︶
一
五
一
頁
﹁
梅
錦
之
丞
﹂
、
奥
沢
生
﹂
日
本
医
事
新
報
一
六
四
〇
号
︵
昭
和
三
〇
年
︶
四
五
頁
、
中
泉
行
正
﹁
日
本
初
代
眼
科
教
授
梅
錦
之
丞
先
生
﹂
臨
床
眼
科
九
巻
一
〇
号
︵
昭
和
三
〇
41 謙
︶
﹂
。
故
梅
錦
之
丞
君
の
事
蹟
検
眼
器
の
発
明
﹂
太
陽
一
巻
七
号
︵
明
治
二
八
年
︶
一
四
二
頁
、
山
賀
勇
﹁
我
が
国
最
初
の
眼
科
教
授
梅
錦
之
丞
先
39
金 学 40 江
︶
︶
森 文
市
学 桃 誌 桃 桃
策 部 裕 ﹄ 裕 裕
﹂
、 論 行 前 行 行
﹃ 叢 ① 掲 先 ・
新 四 ﹁ 注 生 後
修 九 ﹃
の 掲
鉄 13
号
︶ 業 注
江 ︵
・ 績
市 昭 鑄 八 ﹂ 40
鑑
誌 和
二 ﹃ ︶
・
﹄
わ
﹄ 四 訳 一 が ②
前 九
頁
三
掲 年 者 以 民 三
金
法
注 ︶ 森 下 の ∼
三
13 三 錦 。
頁 謙
・ 四
︶
・ 、
梅 頁
に
二 伊 就
謙 注
四 原
次 17
て
六 青
郎 ︶
﹂
頁 々
博 。
科
、 園 学
士 な
武 ︵
・ お
内 編
顕 、
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博 ︶ 究
彰 桃
︵ ﹃ 四
碑 裕
編 出 ・
行
著 雲 五
立 に
国
︶
の つ
﹃ 人 号
記 い
日 物 ︵
録 て
本 誌 昭
﹄ は
洋 ﹄ 和
前 、
一
学
掲 田
人 伊 八
注 中
名 原 年
隆
事 博 ︶
20 二
典 士 一
︶
・ ﹁
﹄ 顕 一
五
四
彰
一 江
柏
頁
頁 と
書 会 、
。 洋
房 、 同
、 昭 ②
学
江
平 和 ﹁
藩
成 三 雲
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六 二 藩
・ 中
年 年 洋
桃 フ
︶ ︶ 学
家 ラ
一 二 補
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八 五 前
い 学
頁 頁 篇
て に
﹁ ﹁ ﹂
は つ
金 三 立
、
森 二 正
﹃ い
錦 九 大
て
(法政研究 83-3-174)440
梅謙次郎の子供たち(七戸)
の
手
つ
か
ず
に
あ
る
月
初
め
か
、
あ
の
折
で
無
け
れ
ば
如
何
と
も
工
夫
が
つ
き
ま
せ
ん
の
で
、
止
む
を
得
ず
質
を
置
い
た
こ
と
も
御
座
い
ま
す
﹂
と
あ
る
。
親
か
ら
急
に
十
円
の
無
心
を
申
越
さ
れ
ま
し
た
、
然
し
月
中
葉
で
あ
っ
て
、
限
り
あ
る
収
入
の
身
で
は
、
月
末
の
月
給
日
か
、
夫
と
も
受
取
っ
た
残
り
薄
給
の
折
に
も
、
其
中
の
半
を
親
へ
差
上
げ
、
残
り
の
丗
五
円
に
て
、
私
共
夫
婦
一
切
の
暮
し
を
立
て
た
時
も
御
座
い
ま
す
、
而
も
そ
の
頃
、
61 60 59 58 57 56 刊
︶ ︶ ︶ ︶ ︶ ︶
、
梅 梅 梅 梅 梅 梅 ②
か か か か か か 一
ね ね ね ね ね ね 六
子 子 子 子 子 子 日
・ ・ ・ ・ ・ ・ 別
前 前 前 前 前 前 刷
掲 掲 掲 掲 掲 掲 、
注 注 注 注 注 注 ③
一
36 36 36 36 36 36 八
︶ ︶ ︶ ︶ ︶ ︶
・ ・ ・ ・ ・ ・ 日
三 三 三 三 三 三 朝
六 六 六 五 五 五 刊
∼ 頁 頁 ∼ 頁 頁 ︶
、
三 。 。 三 。 。 住
八
六
所
頁
頁
が
。
。
記
も
載
っ
さ
と
れ
も
て
、
い
梅
る
か
の
ね
は
子
、
・
本
前
文
掲
掲
注
記
9
の
︶
③
・
一
二
八
〇
日
頁
朝
の
刊
談
の
は
み
、
で
若
あ
干
る
異
。
な
り
、
去
る
明
治
廿
七
年
頃
の
441(83-3-175)
55 54 53 頁 52 謙 時
︶ ︶ ︶
︶
注
次 梅
な 読 東
梅 郎 謙
お 売 川 14 か 家 次
︶
、 新 徳 ⋮ ね の 郎
留 聞 治 ⋮ 子 先 家
・ 代 ︵
学 明 ・
か 治 前 ︹ 前 で 戸
所 掲
ら 四 掲 収
あ 主
注 る は
帰 三 注
︺
国 年
36 薫 震
し 三 5 二 ︶ の ︶
︶ 七 ・
た 月 ・ 二
写 に
三 真 手
謙 二 本
頁
五 が 紙
次 二 文
も
郎 日 二 参 頁 送 を
は 朝 六 照 。 ら 出
な れ し
、 刊 七
読 ﹁ 頁 。 お て て
、 き 肖
売 ▲ 。
東 た 像
新 社
川 も 写
聞 告
徳 の 真
に ╱
治 ら の
合 今
・ し 貸
計 後
前 い 出
三 の
掲 。 し
回 読
注 中 を
の 売
﹁ 新
5 泉 求
帰 聞
行 め
︶
・ 正 た
国 ﹂
。
本 ・ 際
報
文 前 に
告
二 掲 、
﹂
六 注 た
の
七
広
だ
頁 41 単
告
︶
、
を
・ に
岡 七 ︵
掲
孝
載
六 医
‖ 頁 者
し
江
て
。 の
戸
い
︶
恵
る
梅
子
が
先
・
︵
生
前
明
﹂
掲
治
と
注
二
だ
三
30
け
年
︶
書
・
八
︹
い
月
初
た
①
出
こ
一
︺
と
五
二
か
日
一
ら
朝
〇
、
ら
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ら
れ
た
﹂
も
の
で
、
や
せ
型
の
や
さ
し
い
男
﹂
の
写
っ
た
﹁
手
札
形
で
楕
円
形
に
鶏
卵
紙
に
焼
き
付
け
て
あ
っ
た
﹂
も
の
の
複
写
で
あ
る
が
、
当
51 50 49 48 震
︶ ︶ ︶ ︶
法
山 山 岡 中 学
賀 賀 孝 泉 士
論 勇 ・ 行 に
文 ・ 前 正 も
が 前 掲 ・ 御
掲 掲 注 前 面
載 注 44 掲 接
す
注 し
る 41 ︶
・
て
︶
肖 ・ 三 41 よ
︶
像 四 六 ・ く
写 七 頁 七 伺
真 頁 。 六 っ
は 。
頁 た
、
。 の
東
で
大
こ
の
れ
眼
は
科
間
教
違
室
が
で
な
﹁
い
大
確
正
実
の
に
末
錦
年
之
頃
丞
教
先
室
生
の
で
歴
あ
代
る
の
﹂
先
と
生
あ
の
る
肖
。
像
写
真
を
つ
く
っ
て
研
究
室
の
壁
間
に
な
頁
に
は
﹁
今
回
の
写
真
は
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野
︹
英
一
︺
名
誉
教
授
の
お
話
に
よ
り
謙
次
郎
先
生
の
若
年
の
頃
に
よ
く
似
て
い
る
と
の
事
で
あ
っ
た
。
⋮
⋮
又
後
裔
の
梅
け た
、 た
め
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誉 て
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授 な
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御 を
埋
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経 こ
た と
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と 出
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し と
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く と
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礼 る
申 。
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げ 稿
ま を
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﹂ 表
と す
あ る
り に
、 先
中 立
泉 ち
行 、
正 梅
・ 震
前 氏
掲 の
注 内
閲
41
︶ 正
・
七 を
六 受
論 説
山 72 流 71 70 69 よ
︶
︶ ︶ ︶
陰 ﹃ ﹂
り
。 ﹃
文
梅 読 見
日 醇 売 舞
化
江
本 ﹁ 新 の
市
武 思 聞 為
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ー
﹄
大 だ 治 に
ズ
前
系 す 四 特
9 掲
・ ま 三 派
、
第 ま 年 し
昭 注
七 に 九 た
和 13
巻 ﹂ 月 る
四 ︶
・
︵ ﹃ 二 野
〇 八
槍 追 日 間
年 三
術 想 朝 書
︶ 一
・
一 頁
刊 記
薙
〇 、
﹁ は
梅
刀
〇
梅 、
徳
附
術
頁
を 博 此
録
・
﹁
士 の
﹂
棒 偲 葬 夜
び
術
江 四
儀 天
・ て 前 真
藩 、
鎖 ﹄ 記 楼
一 碑
鎌 後 ╱ に
指 銘
術 掲 ︹ 著
流 ﹂
・ 注 九 し
管 一
手
槍 七
月 、
裏 ︶ ︺
の 一
・
剣
開 三
三 長
術 四 日 の
祖 頁
七
︶
﹁
﹄ ∼ 午 命
本 一
後 を
同 四 一 伝
理 指
八
左
朋
時 へ
頁
衛 本
舎 。 葬 、
門 君
儀 一
、
定 墓
執 同
昭
好 碑
行 と
和
﹂ ﹂
﹂ 共
五
、 、
。
に
七
一 福
霊
年
五 田
前
︶
二 明
に
四
頁 正
通
〇
﹁ ﹃
夜
九
付 雲
す
頁
録 藩
﹂
﹁
︶ 武
と
道
管
あ
槍
江
る
﹄
の
藩
。
流
武 今
術 井
儀
︶
年 書
一
譜 店
﹂
指
、 ・
記
編
纂
会
、
昭
和
一
九
年
︶
二
九
八
頁
も
参
照
。
な
お
、
東
川
徳
治
﹃
博
士
梅
謙
次
郎
﹄
本
文
二
〇
四
頁
に
も
、
68
︶ 5
︶
野 ・
間 本
清 文
治 二
﹃ 〇
〇
増
補 ∼
二
︶ 〇
私 一
の
半 頁
の
生 記
﹄
述
大 は
日 、
本 こ
雄 ち
弁 ら
会 に
講 依
談 拠
社 し
、 て
昭 い
和 る
一 。
四
年
︶
三
五
三
頁
。
さ
ら
に
、
中
村
孝
也
﹃
野
間
清
治
伝
﹄
先
き
に
浜
尾
新
東
京
帝
国 野
大 間
学 清
治
長 伝
し
ま
す
と
、
﹃
夫
な
の
が
何
よ
り
だ
﹄
と
申
し
た
だ
け
で
、
そ
の
後
は
一
切
人
事
不
省
に
な
っ
て
し
ま
ひ
ま
し
た
﹂
と
あ
り
、
東
川
徳
治
・
前
掲
注
に 67 の し 東
︶
は
方 直 京
、 読 に に 自
売 を 渡 邸
そ
れ 新 り 韓 に
で 聞 ま し も
明 し 廿 急
も 治 た 日 電
子
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四 で り り
の 年 ﹂ 親 し
こ 八 。 し が
と
な
が 月 お く 此
二
博 時
気 五 、 士 か
に
東
な 日 川 の ね
り 朝 徳 病 子
刊
床 夫
ま ︵ 治 に 人
す
・
も 梅 前 侍 は
謙
し 相
の 次 掲 て 州
と 郎 注 看 酒
み
え 博 5 護 匂
士 ︶ に の
て 記 ・ 従 別
、
本
﹃ 念 文 事 邸
子 号 二 し に
供 ︶
居 避
〇 り 暑
は
未 〇
ど 亡 頁 し 中
う
が に
し 人 も ﹂ て
の
参
、 洪
た
追 照 梅
﹄ 懐 。 か 水
と
の
ね た
申 談
﹂
子
さ 。
・ め
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前
ま れ
掲 通
す に
注 杜
か 対
絶
36 し
ら し
︶
﹃ て
・ 如
何 、
三 何
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九 と
も か
頁 も
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﹁
者 子
当 方
で ・
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私 く
掲
ざ
は 十
注
い
神 六
ま 36
奈 日
す ︶
川 漸
・
﹄ 三
県 く
と 九
酒 帰
申 頁
匂 京
66 本
︶
法
東 を
京 そ
朝 の
日 ま
新 ま
聞 韓
明 国
治 に
四 適
三 用
年 す
八 べ
月 き
二 と
五 す
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朝 勢
刊 力
﹁ に
梅 よ
法 っ
学 て
博 、
士 棚
病 ざ
む ら
╱ し
朝 に
鮮 さ
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窒 し
扶 ま
斯 う
頗 。
る
重
態
﹂
十
五
日
腸
窒
扶
斯
と
診
定
さ
れ
同
時
に
八
月
中
に
こ
の
草
案
を
委
員
会
の
審
議
に
付
し
、
倉
富
︹
勇
三
郎
︺
議
長
の
下
に
、
一
瀉
千
里
で
議
了
し
た
﹂
。
し
か
し
、
結
局
、
こ
の
法
律
案
は
、
日
︹
韓
国
︺
民
事
訴
法
の
起
案
に
取
り
か
か
り
、
日
本
の
そ
れ
と
殆
ど
同
じ
数
量
の
条
項
を
に
二
ヶ
月
間
で
脱
稿
、
五
回
目
の
渡
韓
即
ち
同
年
の
七
、
郎
博
士
記
念
特
集
号
、
昭
和
八
年
︶
一
〇
〇
∼
一
〇
一
頁
﹁
︹
明
治
四
一
年
一
月
の
渡
韓
か
ら
︺
間
も
な
く
先
生
は
、
内
地
に
帰
ら
れ
酒
匂
の
別
荘
で
、
65 本
︶
文
川 二
崎 三
万 四
蔵 頁
﹁ 。
梅
謙
次
郎
博
士
の
思
い
出
︶
朝
鮮
に
於
け
る
梅
博
士
立
法
事
業
、
旧
慣
調
査
等
に
因
み
て
﹂
法
学
志
林
四
九
巻
一
号
︵
梅
謙
次
64 63 62
︶ ︶ ︶
山
口
宗
義
︵
談
︶
博
士
の
一
生
﹂
読
売
新
聞
明
治
四
四
年
八
月
二
五
日
朝
刊
﹁
梅
博
士
追
悼
記
念
号
﹂
⋮
⋮
︹
所
収
︺
東
川
徳
治
・
前
掲
注
梅
か
ね
子
・
前
掲
注
梅
か
ね
子
・
前
掲
注
36 36
︶ ︶
・ ・
四 四
〇 〇
∼ 頁
四 。
一
頁
。
5
︶
・
(法政研究 83-3-176)442
梅謙次郎の子供たち(七戸)
の
上
京
も
、
祖
・
秀
平
の
末
子
・
十
之
助
一
家
と
一
緒
だ
っ
た
と
い
う
。
一
方
、
当
時
、
梅
家
は
麹
町
一
番
丁
の
元
旗
本
屋
敷
に
住
ん
で
い
た
。
玉
木
弟
・
玉
木
十
之
助
の
孫
。
︻
第
2
図
︼
参
照
︶
に
よ
れ
ば
、
三
成
重
敬
は
、
三
歳
の
と
き
に
両
親
を
失
い
、
祖
・
玉
木
秀
平
に
養
育
さ
れ
、
明
治
二
六
年
82 81 る
︶ ︶
︶
。
三
座 成
談 重
会 敬
︶ ﹁
黒 一
板 文
勝 化
美 人
博 の
士 生
を 涯
偲 ﹂
﹃
び 追
な 想
が
ら
︵ 梅
上 徳
︶ を
﹂ 偲
日 び
本 て
歴 ﹄
後
一 掲
三 注
四
号
︵ ︶
・
昭 四
和 〇
三 頁
四 。
年
︶
二
三
頁
。
な
お
、
後
藤
昂
︵
カ
ネ
の
母
ク
ニ
の
末
443(83-3-177)
80 の
︶
﹃ 兄
︶
二 が
〇
世 ﹁
紀 当
時
日 京
本
人 都
か
名 ら
事 東
典 京
︵ の
そ 三
∼ 成
わ 重
︶ 敬
﹄
氏
日 ︵
外
東
75
ア
︶
・ ソ 大
二
七 シ 料
三 エ 編
頁 ー 纂
以 ツ 所
下 、 員
参 平 ・
照 成 母
︵ 一 の
な 六 従
お 年 弟
、 ︶ ︶
三 二 に
〇 四 宛
七 三 て
頁 八 た
以 頁 は
下 ﹁ が
に 三 き
は 成 が
﹁ 重 残
思 敬 っ
ひ ﹂
。 て
出 な い
の お る
記 、 が
﹂ ﹃ ﹂
全 思 と
文 い あ
が 出 る
収 の 。
録 記
さ ﹄
れ 出
て 版
い の
詳
し
い
経
緯
に
つ
い
て
は
、
長
谷
川
洋
二
・
前
掲
注
の
子
で
あ
る
。
な
お
、
梅
震
﹁
弟
徳
を
憶
う
か
れ
の
生
涯
﹂
﹃
追
想
梅
徳
を
偲
び
て
﹄
後
掲
注
︶
・
六
一
頁
に
も
、
徳
︵
双
子
の
弟
の
う
ち
79 子
︶
﹁
長 楊
谷 舟
川 ・
洋 東
二 川
・ 徳
前 治
掲 年
注 譜
75
﹂
︶
・ 法
巻
頭 学
﹁ 志
小 林
泉 九
セ 二
ツ 巻
関 四
係 号
系 ︵
図 平
﹂ 成
に 七
よ 年
れ ︶
ば 三
、 九
三 頁
成 。
重
敬
は
、
カ
ネ
の
母
ク
ニ
の
妹
タ
ミ
︵
た
み
︶
と
夫
・
三
成
脩
の
間
78 の 77 明
︶
︶
は
治
東 、 岡 三
川 明 孝 七
徳 治 ‖ 年
治 三 江 一
・ 五 戸 〇
前 年 恵 月
掲 の 子 二
注 こ ・ 日
前
5 と 掲 朝
で
刊
︶
注 ﹁
・
︹ あ
復 る 30 小
刻 。 ︶
・ 泉
版 詳 ︹ 八
︺ 細 初 雲
出
安 は ︺ 氏
の
岡 、
昭 長 一 葬
七
男 谷 九 儀
﹁ 川 頁 ﹂
に
解 洋
説 二 注 も
・
﹂
1 、
五 前 ︶ 而
頁 掲 ⋮ し
。 注 ⋮ て
な 75 ︹ 梅
お ︶ 所 法
、 ・ 収 学
東 二 ︺ 博
川 二 二 士
徳 〇 五 ハ
治 ∼ 七 遺
に 二 頁 族
関 二 。 の
し 二 三 後
て 頁 成 見
は 。 重 を
、
敬 な
安
が し
岡
小 ﹂
﹁
泉 と
解
八 あ
説
雲 る
﹂
の 。
四
仕
∼
事
五
を
頁
手
の
伝
ほ
う
か
よ
、
う
江
に
戸
な
恵
る
76 二
︶
﹃
野 八
島 雲
幹 の
郎 妻
﹁ ・
梅 小
謙 泉
次 セ
郎 ツ
博 の
士 生
・ 涯
顕 ﹄
彰
の 平
辞 成
︵ 二
五 六
・ 年
完 ︶
︶ 巻
﹂ 頭
法 ﹁
律 小
の 泉
ひ セ
ろ ツ
75 ば 関
四
︶
・ 四 係
系
二
〇 巻 図
五
﹂
頁
。
、 号
︵
長
谷 昭
川 和
洋 五
二 六
・ 年
前 ︶
掲 五
注 八
頁
75 、
︶
・ 後
一 藤
一 昂
三 ﹁
頁 梅
。 謙
な 次
お 郎
、 と
読 八
売 雲
新 の
聞 こ
と
な
ど
﹂
へ
る
ん
一
九
号
︵
昭
和
五
七
年
︶
五
頁
、
野
島
幹
郎
・
前
掲
注
75 74 〇
︶ ︶
﹃ 石
野
、
島 日 嘉
本
幹 武 永
郎 道 年
﹁
間
梅 大 の
系
謙 ・ 六
次
代
郎 第 ・
七
博
理
巻
士 ﹄ 左
の
衛
五 前 門
掲
〇 注 定
年
静
﹂ 71 ︵
﹃ ︶ カ
わ ・
が 四 ネ
の
民 一
法 〇 ︶
の 頁
。 二
〇
・
〇
梅
石
謙
。
次
郎
博
士
・
顕
彰
碑
立
の
記
録
﹄
前
掲
注
20
︶
・
二
二
頁
﹁
系
図
﹂
、
長
谷
川
洋
年
間
の
五
代
・
理
左
衛
門
定
重
︵
理
外
。
カ
ネ
の
祖
︶
一
〇
〇
石
、
天
保
年
間
の
理
左
衛
門
︵
カ
ネ
の
祖
︵
五
代
︶
か
︵
六
代
︶
か
不
明
︶
一
〇
73 ︹
︶
井
た
だ
二
し ︺
、 。
福
田
明
正
・
前
掲
︶ 注
一
72
〇 ︶
〇 ・
石 一
、 五
宝 五
暦 ∼
年 一
間 五
の 六
四 頁
代 ﹁
・
理 江
左 藩
衛 士
門 槍
定 術
国 家
︵ 一
戯 覧
斉 表
。 ﹂
カ に
ネ よ
の れ
曾 ば
祖 、
享
︶ 和
は 年
な 間
ぜ の
か 三
二 代
〇 ・
石 理
︵ 左
誤 衛
植 門
か 定
︶
、 良
文 ︵
化 節
外
。
梅
謙
次
郎
妻
カ
ネ
の
高
祖
﹃
日
本
武
道
大
系
・
第
七
巻
﹄
前
掲
注
71
︶
・
四
〇
九
∼
四
一
一
頁
、
﹃
日
本
歴
人
物
事
典
﹄
朝
日
新
聞
社
、
平
成
六
年
︶
一
五
八
九
頁
﹁
本
一
指
﹂
論 説
89 と
︶
合
山 冊
口 さ
れ
五 て
郎 、
︵ 信
編 山
輯 社
︶ ﹃
﹃ 日
第
三 本
立
期 法
帝
国 資
議 料
全
会 集
見
聞 ・
別
録 巻
﹄
興
文
社
、
明
治
二
五
年
︶
。
﹄
と
し
て
復
刊
さ
れ
た
。
国
魏
象
︹
ギ
ゾ
ー
︺
原
著
︶
・
︹
ア
ン
ド
リ
ー
︵
英
訳
︶
︺
・
藤
田
四
郎
︵
重
訳
︶
﹃
欧
洲
代
議
政
体
起
原
︵
第
二
巻
︶
﹄
自
由
出
版
社
、
明
治
一
六
年
︶
年 氏 ら
︶
、 著 の
・ 重
仏 日 訳
国
ギ 本 ﹃
山 代
ゾ 口 議
ー
政
︵ 五 体
原 郎 原
著 訳 論
︶ ﹃ ﹄
・
︹ 代 の
ア 議 ﹁
ン 政 序
ド 体 ﹂
リ 原 を
ー 論 執
︵ ︵ 筆
英 完 し
訳 ︶ て
﹄ い
︶
︺
・ 出 る
漆 版 、
間 人 旧
真 ・ 知
学 加 の
︵ 藤 間
重 正 柄
訳 七 で
︶
﹃ 、 あ
代 発 る
議 兌 。
政 人 な
体 ・ お
起 大 、
原 倉 同
孫 書
︵ 兵
第 衛
一 、 正
冊 明 確
︶ 治 な
﹄ 一 書
自 六 名
由 年 は
出 ︶ 、
仏
版
国
社
は 学
、 、
明 最 士
魏
治
近
一 ︵ 像
五 平 ︹
ギ
年 成 ゾ
︶
、 二 ー
仏 五 ︺
間
学
部
紀
要
五
号
︵
平
成
二
四
年
︶
八
一
頁
。
寸
鉄
﹂
の
主
筆
・
織
田
純
一
郎
は
、
明
治
一
六
年
に
山
口
五
郎
が
翻
訳
し
た
ギ
ゾ
ー
の
著
作
の
英
訳
か
88 月
︶
、
政 上
治 巻
新 之
聞 三
﹁ ・
寸 明
鉄 治
﹂ 一
に 八
関 年
し 二
て 月
は ︶
、
上
野
隆
生
﹁
陸
奥
宗
光
と
﹃
寸
鉄
﹄
政
治
的
人
間
と
政
治
新
聞
に
つ
い
て
の
一
察
﹂
和
光
大
学
現
代
人
87 本
︶
山
英 口
国
ス 五
ペ 郎
ン 訳
サ ﹃
ー 刑
氏 法
著 原
・ 理
日 ・
本 獄
山 則
口 論
綱
五 ・
郎 完
訳 ﹄
述 山
﹃ 口
哲
学 五
原 郎
理 、
﹄ 明
加 治
藤 一
正 五
七 年
、 五
上 月
巻 二
之 十
一 七
・ 日
明 版
治 権
一 免
七 許
年 、
六 明
月 治
、 一
上 五
巻 年
之 一
二 〇
・ 月
明 印
治 行
︶
一 。
七
年
一
二
山 山 〇
口 口 日
版
五 五 権
郎 郎 免
訳 訳 許
﹃ ﹃ 、
商 社 明
業 会 治
利 組 一
害 織 六
論 論 年
・ ・ 七
完 完 月
﹄ ﹄ 出
版
加
藤 永 ︶
。
正 保 山
七 太 口
、 郎 の
明 、 ス
治 明 ペ
一 治 ン
五 一 サ
年 五 ー
五 年 の
月 五 訳
一 月 書
七 三 に
日 日 は
版 版 、
権 権 英
免 免 国
許 許 学
、 、 士
明 明 波
治 治 ・
一 一 斯
五 五 辺
年 年 鎖
八 五 ︹
月 月 ハ
刊 印 ー
行 行 バ
︶ ︶
、 、 ー
英 英 ト
国 国 ・
ス
学 学 ペ
士 士
波 斯 ン
・ 辺 サ
斯 鎖 ー
辺 氏 ︺
鎖 著 氏
氏 ・ 著
著 大 ・
・ 日 日
日 本 本
86 治
︶
六
英 年
国 三
学 月
士 ﹂
斯 と
辺 さ
鎖 れ
︹ て
ス お
ペ り
ン 、
サ 山
ー 口
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氏 帰
著 郷
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大 時
日 期
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山 に
口 合
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五 な
郎 い
訳 。
述
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徳
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原
理
・
完
﹄
須
原
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二
・
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藤
正
七
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、
明
治
一
五
年
六
月
三
沢
諭
吉
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教
化
を
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け
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江
市
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山
口
五
郎
が
帰
郷
し
刊
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た
﹂
地
方
新
聞
と
し
て
、
島
根
新
聞
誌
﹂
を
紹
介
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が
、
同
紙
の
刊
は
﹁
明
85 民 七
︶
法 年
な の 六
お
月
、 ・ 一
小 梅 〇
野 謙 日
増 次 、
平 郎 一
﹁ 博 一
草 士 日
・ ︵
期 顕 な
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中 碑 、
国
同
地 立 紙
方 の は
の 記 日
新 録 刊
聞 ﹄ 紙
﹂ 前 で
広 掲 あ
島 注 る
経
︶
20 、
済 ︶ 銭
大 ・ 本
学 三
研 〇 二
究 頁 ﹁
論 。 西
集
洋
三
と
一
東
巻
洋
二
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号
出
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会
平
い
成
二
〇
八
年
雲
︶
と
七
山
二
口
頁
は
五
、
郎
と
慶
梅
応
謙
義
次
塾
郎
に
﹂
学
﹃
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わ
福
が
大
乗
仏
教
山
口
五
郎
﹂
、
後
藤
昂
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・
山
口
五
郎
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ス
ペ
ン
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哲
学
の
紹
介
者
︵
上
︶
下
︶
﹂
山
陰
中
央
新
報
昭
和
五
84 83 人
︶ ︶
が
中 三 月
村 成 三
元 重 〇
﹃ 敬 円
比 ・ で
較 前 暮
思 掲 ら
想 注 す
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困
先 81 窮
︶
駆 ・ 生
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球 。 か
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志
、
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二
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十
は
一
、
人
か
﹄
な
広
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大
学
変
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出
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版
た
部
に
、
違
昭
い
和
な
五
い
七
。
年
︶
五
五
頁
﹁
二
、
ス
ペ
ン
サ
ー
と
と 一
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江 は
﹂ 、
﹃
わ こ
が こ
に
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法
の 寓
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梅 ﹂
謙 と
次 さ
郎 れ
博 る
士 ︵
・ 後
顕 藤
彰 昂
碑 ﹁
梅
立 謙
の 次
記 郎
録 と
﹄ 八
前 雲
掲 の
注 こ
20 と
な
︶
・ ど
一 ﹂
〇 前
八 掲
頁 注
も
参 76
照 ︶
・
︶ 五
。
麹 頁
町 、
一 六
番 頁
町 。
時 さ
代 ら
の に
梅 、
謙 後
次 藤
郎 昂
は ﹁
、 梅
一 謙
家 次
三 郎
(法政研究 83-3-178)444
梅謙次郎の子供たち(七戸)
今
あ
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た
め
て
業
績
を
る
﹄
日
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ソ
シ
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ー
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、
平
成
二
三
年
︶
一
五
一
頁
。
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﹂
英
語
青
年
一
一
四
巻
五
号
︵
昭
和
四
三
年
︶
三
二
頁
︵
通
頁
三
一
六
頁
︶
、
竹
下
和
男
﹃
英
語
天
才
・
斉
藤
秀
三
郎
英
語
教
育
再
生
の
た
め
に
、
99 九
︶
頁
佐 。
川
春
水
﹁
明
治
の
英
学
回
顧
︵
二
︶
﹂
日
本
英
学
研
究
会
研
究
報
告
一
九
六
五
年
一
六
号
︵
昭
和
四
〇
年
︶
一
頁
、
追
悼
・
佐
川
春
水
氏
を
偲
98 97 の
︶ ︶
い
佐 読 わ
川 売 れ
春 新 は
水 聞 、
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梅 和 と
徳 一 も
君 〇 と
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﹂
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二 と
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出
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﹁ の
江 親 放
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水 後
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聞
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三
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月
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﹃
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徳
た
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の
偲
だ
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う
て
﹂
﹄
。
後
掲
注
︶
・
二
445(83-3-179)
96 エ
︶
ー
小 ツ
島 、
信 平
夫 成
﹁ 一
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当 年
の ︶
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藤 ﹂
森 。
良
蔵
﹂
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日
新
聞
昭
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四
三
年
一
二
月
一
七
日
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に
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、
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習
会
﹂
の
﹁
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数
学
の
大
衆
化
﹂
大
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教
育
大
学
数
学
教
育
研
究
二
七
号
︵
平
成
一
〇
年
︶
三
九
頁
、
﹃
二
〇
世
紀
日
本
人
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事
典
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そ
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わ
︶
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人
﹄
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て
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い
﹂
︶
、
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哲
夫
﹁
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間
数
学
教
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・
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森
良
蔵
と
良
夫
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事
の
概
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﹃
へ
方
﹄
の
普
及
と
そ
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く
﹃
第
一
次
大
戦
の
は
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ま
る
こ
ろ
か
ら
第
二
次
大
戦
が
終
わ
っ
て
間
も
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ろ
ま
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間
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学
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わ
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学
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た
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﹄
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説
社
、
昭
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六
二
年
︶
一
八
五
頁
﹁
第
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藤
森
良
蔵
と
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方
研
究
社
を ﹂
受
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し の
た 人
こ の
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あ 、
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門
学
95 94 93 四
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年
﹃
三 梅 四
新 成 か 月
人
物 重 ね 刊
立 敬 子 行
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伝
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注 注 学
第
苦 81 36 三
学 ︶ ︶
力 ・ ・ 大
四 四 乗
行 二 一 論
﹄
頁 頁 ﹄
大 。 ⋮ 前
日
⋮ 編
本
︹ 上
雄
所 巻
弁
収 の
会
︺ 奥
、
東 付
大
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正
徳 は
一
治 ﹁
一
・ 下
年
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︶
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一
注 三
〇
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三
輪
︶
頁
・ 町
﹁
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師
七 十
範
〇 三
を
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二 地
逐
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頁 常
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方
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寓
し
﹂
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と
﹃
あ
る
へ
。
方
﹄
の
藤
森
良
蔵
君
﹂
、
治
三
一
年
二
月
・
五
月
刊
行
の
中
巻
・
下
巻
の
奥
付
に
は
﹁
日
本
橋
句
上
槙
町
八
番
地
小
島
法
律
事
務
所
﹂
、
梅
謙
次
郎
の
新
居
完
成
間
際
で
あ
る
明
治
三
92 乗
︶
論
こ 上
れ 巻
に ﹄
︺
対 ・
し 明
て 治
、 三
明 八
治 年
二 一
九 一
年 月
刊 ︶
。
行
の
﹃
理
学
大
乗
論
﹄
の
上
巻
の
奥
付
に
は
﹁
芝
区
佐
久
間
町
二
丁
目
二
丁
目
十
六
番
地
青
木
鍵
之
助
方
﹂
、
明
下
巻
・
明
治
三
六
年
一
〇
月
、
後
編
・
明
治
三
七
年
七
月
︶
、
﹃
理
学
第
四
大
乗
論
﹄
山
口
五
郎
、
前
編
上
巻
︹
﹃
組
立
理
学
第
四
大
乗
前
編
実
験
物
学
大
口 91 月
︶
﹃ ︶
。
五
郎 理
学
、 大
明 乗
治
三 論
﹄
二
年 山
︶ 口
、
﹃
理 五
学 郎
第 、
三 上
大 巻
乗 ・
論 明
﹄ 治
二
山 九
口 年
一
五 〇
郎 月
、 、
前 中
編 巻
上 ・
巻 明
・ 治
明 三
治 一
三 年
四 二
年 月
四 、
月 下
、 巻
前 ・
編 明
中 治
巻 三
・ 一
明 年
治 五
三 月
五 ︶
年 、
﹃
一 理
一 学
月 次
、 大
前 乗
編 論
上 ﹄
巻
・ 山
月 90
︶
︶
、
山
山 口
口
五
郎
︵
著
︶
﹃
行
政
裁
判
論
﹄
五
郎
︵
著
︶
﹃
検
察
官
必
携
﹄
五
郎
、
明
治
二
六
年
一
二
月
︶
、
山
口
五
郎
、
明
治
二
六
年
八
月
︶
、
山
口
山
山
口 口
五
郎
︵
著
︶
﹃
民
権
論
﹄
五
郎
︵
著
︶
﹃
帝
権
論
﹄
山
山 口
口
五
五 郎
郎 、
、 明
明 治
治 二
二 六
七 年
年 一
五 一
論 説
給
費
生
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選
委
員
は
加
藤
高
明
伯
爵
、
神
田
乃
武
男
爵
、
増
島
六
一
郎
氏
、
穂
積
八
束
博
士
、
陸
奥
潤
吉
氏
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五
人
で
あ
り
ま
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た
が
、
富
井
男
光
︺
伯
爵
の
奨
学
資
金
給
費
生
の
募
集
が
発
表
さ
れ
た
の
で
、
こ
れ
に
応
募
す
る
こ
と
に
決
し
、
推
薦
方
を
富
井
男
爵
に
お
願
い
し
ま
し
た
。
こ
の
兎
に
角
、
か
よ
う
な
次
第
で
、
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何
に
も
金
を
出
し
て
頂
く
に
忍
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な
か
っ
た
。
と
こ
ろ
が
、
丁
度
そ
の
頃
、
法
科
大
学
の
掲
示
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に
陸
奥
︹
宗
が
国
家
よ
り
受
け
る
俸
給
の
み
で
生
活
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て
お
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ば
、
あ
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が
当
然
で
あ
り
ま
す
。
こ
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は
全
く
、
男
爵
の
人
格
高
潔
の
現
わ
れ
に
外
な
ら
な
い
。
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ど
人
臣
と
し
て
最
高
の
地
位
に
在
ら
れ
た
方
で
あ
る
に
拘
わ
ら
ず
、
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産
と
し
て
は
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銭
の
余
裕
も
な
い
状
態
で
あ
り
ま
し
た
。
も
と
よ
り
、
官
を
承
知
し
て
い
る
自
と
し
て
は
、
引
続
き
学
資
を
出
し
て
頂
く
に
忍
び
ま
せ
ん
で
し
た
。
富
井
先
生
は
枢
密
顧
問
官
、
男
爵
、
法
学
博
士
と
、
殆
窮
す
る
状
態
で
あ
り
ま
し
た
。
男
爵
に
相
談
す
る
と
、
俺
が
出
す
と
言
わ
れ
る
の
で
あ
る
が
、
短
い
間
で
も
一
緒
に
暮
ら
し
て
男
爵
家
の
家
計
状
態
周
氏
が
か
よ
う
に
し
て
高
等
学
に
入
学
致
し
ま
し
た
の
で
、
私
は
富
井
男
爵
の
所
は
辞
退
し
よ
う
と
思
っ
た
が
、
辞
め
る
と
た
ち
ま
ち
学
資
に
た
。
私
は
そ
の
後
、
確
か
一
度
か
二
度
、
様
子
を
見
に
行
っ
た
記
憶
が
あ
り
ま
す
。
⋮
⋮
︹
中
略
︺
⋮
⋮
。
沢
俊
樹
氏
で
あ
り
ま
す
。
か
く
し
て
、
富
井
氏
は
三
好
先
生
の
経
営
さ
れ
て
い
た
明
善
寮
と
い
う
寄
宿
舎
に
唐
沢
氏
と
同
宿
す
る
こ
と
に
な
り
ま
し
生
と
同
宿
さ
せ
て
頂
く
よ
う
に
お
願
い
し
ま
し
た
。
そ
し
て
、
先
生
の
ご
紹
介
に
よ
っ
て
選
任
せ
ら
れ
た
の
が
、
先
に
警
保
局
長
を
務
め
ら
れ
た
唐
好
愛
吉
先
生
で
、
以
前
長
野
県
の
中
学
長
を
し
て
お
ら
れ
た
方
で
あ
っ
た
の
で
、
先
生
に
富
井
周
氏
の
将
来
を
頼
み
、
な
お
二
高
在
学
中
の
模
範
兎
に
角
、
か
よ
う
に
し
て
翌
年
、
仙
台
の
第
二
高
等
学
の
入
学
試
験
を
受
け
さ
せ
た
と
こ
ろ
、
無
事
に
入
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で
き
た
。
当
時
、
二
高
の
長
は
三
周
氏
は
良
く
な
い
少
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で
、
中
学
生
の
く
せ
に
酒
は
飲
む
、
煙
草
は
吸
う
と
い
う
風
で
時
に
は
腕
力
を
も
っ
て
懲
ら
す
必
要
が
あ
る
位
で
あ
っ
た
。
そ
訪
の で ね
家 、 て
先 、
教 頃 何
育 英 と
を 国 か
委 皇 学
ね 帝 資
ら の を
れ 戴 得
た 冠 る
の 式 方
で に 法
あ も は
り 参 無
ま 列 い
す し も
。 た の
私 故 か
は 政 と
男 章 相
爵 男 談
家 爵 し
の の た
前 長 と
に 男 こ
家 富 ろ
を 井 が
借 周 、
り 氏 家
て が
、 、 教
周 当 師
氏 時 の
と 附 口
起 属 を
居 中 探
を 学 し
共 の て
に 四 く
す 年 れ
る か ま
こ 五 し
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に に 。
な 在 そ
り 学 れ
ま 中 が
し で 富
た あ 井
が っ 男
、 た 爵
当 の の
時 で ご
の 、 家
ま
っ
た
の
で
た
ち
ま
ち
学
資
に
窮
し
て
し
ま
っ
た
。
そ
こ
で
私
は
、
高
等
師
範
に
在
学
し
た
縁
故
か
ら
、
嘉
納
治
五
郎
先
生
や
故
小
泉
又
一
先
生
を
︹
東
京
帝
国
大
学
の
︺
学
費
は
一
ヶ
月
三
〇
円
位
で
足
り
た
の
で
あ
る
が
、
教
員
生
活
中
に
貯
え
た
か
な
金
は
、
そ
の
年
の
中
に
費
消
し
て
し
島 島 の 四
慶 慶 長 四
太 太 男 年
﹁ ・ 七
生 吾 周 月
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一 半 家 科
三 生
大
〇 の 教 学
年 体 師 政
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念 を 務 学
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﹂ の 業
︹
熱 初 は 、
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東 一
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五 東
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、 内 に 試
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・ ︵ 政
五 五 章
商 し
︶
業 て
学 青 五
木 島
の 小 慶
英 学 太
語
︵
教 代 明
師 用 治
と 教 一
な 員 五
る と 年
も な 四
、 る 月
翌 が 一
四 、 八
〇 二 日
年 年 生
四 後 ︶
月 の は
職 三 、
を 六 明
辞 年 治
し 四 三
て 月 三
再 東 年
び 京 三
上 高 月
京 等
、 師 本
九 範 中
月 学 学
東
京 英 卒
帝 文 業
国 科 、
大 に 東
学 入 京
の 学 高
選 、 等
科 三 商
に 九 業
入 年 学
学 三
後 月 ︵
、 卒 現
翌 業 ・
一 後 一
〇 は 橋
月 四 大
本 月 学
科 三 ︶
に 重 の
編 県 受
入 立 験
学 四 に
し 日 失
て 市 敗
、
(法政研究 83-3-180)446
梅謙次郎の子供たち(七戸)
二
年
甲
組
︵
英
法
文
科
︶
四
十
三
人
﹂
一
五
六
頁
﹁
東
京
高
等
師
範
附
属
︶
﹃
第
二
高
等
学
一
覧
︵
自
大
正
二
年
至
大
正
三
年
︶
﹄
第
二
高
等
学
一
年
甲
組
︵
英
法
文
科
︶
四
十
七
人
﹂
一
五
三
頁
に
﹁
東
京
高
等
師
範
附
属
梅
、
緑 大 梅
緑
東 正
二
京
東
年
﹂
、 一 京
﹃
﹂
第 一 と
月
二 ︶ あ
高
る
等 第 。
学 七
章
一
覧 生
︵ 徒
自 ︵
大 大
正 正
三 二
年 年
至 十
大 月
正 調
四 ︶
﹂
年
︶ 第
﹄ 一
第 部
な
り
梅
、
﹃
か
人
ね
事
子
興
・
信
前
録
掲
一
︵
注
覧
第
︵ 36
八
自 ︶ 東 版
・
大
京 ︶
三
﹄
正 八 府
元
人 人
年 頁 海 事
至 。 軍 興
大
少 信
正
佐 所
二
鈴 、
年
木 昭
︶
光 和
﹄
信 三
第
に 年
二
⋮ ︶
高
⋮ イ
等
嫁 一
学
せ 七
り 四
、
﹂ 頁
大
と ﹁
正
あ 板
二
る 倉
年
。
一
太
一
郎
月
﹂
、
︶
﹃
人
第
事
七
興
章
信
録
生
︵
徒
第
︵
九
大
版
正
︶
元
﹄
年
人
十
事
月
興
調
︶
信
﹂
所
第
、
一
昭
部
和
︶
﹃
第
二
高
等
学
︶
447(83-3-181)
六
年
︶
イ
二
〇
〇
頁
に
は
、
子
と
な
れ
り
﹂
と
あ
る
が
︵
一
九
歳
︶
、
﹃
人
事
興
信
録
︵
第
七
版
︶
﹄
人
事
興
信
所
、
大
正
一
四
年
︶
い
一
一
六
頁
﹁
板
倉
太
郎
﹂
で
は
記
載
が
な
く
︶
梅
子
の
名
は
、
﹃
人
事
興
信
録
︵
第
七
版
︶
﹄
人
事
興
信
所
、
大
正
一
〇
年
︶
い
一
〇
九
頁
﹁
板
倉
太
郎
﹂
で
は
﹁
故
法
学
博
士
梅
謙
次
郎
の
養
界
人
物
事
典
・
第
三
巻
︹
司
法
篇
︺
﹄
ゆ
ま
に
書
房
、
平
成
七
年
︶
三
七
頁
。
法
篇
︺
﹄
ゆ
ま
に
書
房
、
平
成
七
年
︶
五
一
頁
、
﹃
帝
国
法
曹
大
観
︵
改
訂
三
版
︶
﹄
帝
国
法
曹
大
観
編
纂
会
、
昭
和
四
年
︶
⋮
⋮
︹
復
刻
︺
﹃
日
本
法
曹
七
年
︶
四
九
頁
、
﹃
帝
国
法
曹
大
観
︵
改
訂
増
補
︶
﹄
帝
国
法
曹
大
観
編
纂
会
、
大
正
一
一
年
︶
⋮
⋮
︹
復
刻
︺
﹃
日
本
法
曹
界
人
物
事
典
・
第
二
巻
︹
司
︶
﹃
帝
国
法
曹
大
観
﹄
帝
国
法
曹
大
観
編
纂
会
、
大
正
四
年
︶
⋮
⋮
︹
復
刻
︺
﹃
日
本
法
曹
界
人
物
事
典
・
第
三
巻
︹
司
法
篇
︺
﹄
ゆ
ま
に
書
房
、
平
成
︶ ︶ ︶
読
売
新
聞
大
正
五
年
四
月
六
日
朝
刊
﹁
博
士
未
亡
人
の
新
し
き
涙
╱
揃
っ
て
立
派
な
四
令
息
の
生
立
﹂
。
梅
か
ね
子
・
前
掲
注
9
︶
・
一
九
∼
二
〇
頁
。
法
律
新
聞
七
三
七
号
︵
明
治
四
四
年
八
月
三
〇
日
︶
一
六
頁
﹁
故
梅
博
士
の
一
周
忌
﹂
。
町
十
七
番
地
に
移
転
す
る
由
﹂
。
︶
読
売
新
聞
明
治
四
三
年
一
〇
月
二
八
日
朝
刊
﹁
●
梅
邸
の
移
転
故
法
学
博
士
梅
謙
次
郎
氏
遺
族
は
三
十
日
小
石
川
林
町
を
引
払
ひ
同
区
高
田
老
七
年
︶
九
三
頁
。
郎
や
加
藤
高
明
︺
は
た
だ
強
い
一
方
の
人
だ
っ
た
﹂
と
語
っ
て
い
る
。
五
島
慶
太
﹂
山
田
勝
人
︵
編
︶
﹃
私
の
修
業
時
代
﹄
実
業
之
日
本
社
、
昭
和
二
し
て
い
た
の
は
富
井
政
章
で
あ
り
、
ほ
ん
と
う
に
私
に
親
切
に
、
人
間
は
か
く
あ
る
べ
き
だ
と
教
え
て
く
れ
た
の
は
富
井
さ
ん
だ
。
ほ
か
︹
嘉
納
治
五
こ
の
よ
う
に
、
五
島
慶
太
は
、
東
京
帝
国
大
学
の
学
生
時
代
、
嘉
納
治
五
郎
・
富
井
政
章
・
加
藤
高
明
と
い
っ
た
人
物
の
世
話
に
な
っ
た
が
、
最
も
尊
敬
を
卒
業
致
し
ま
し
た
。
す
か
ら
と
言
わ
れ
た
。
そ
こ
で
私
は
、
現
伯
爵
の
加
藤
厚
太
郎
氏
を
一
週
一
回
、
学
友
と
し
て
訪
問
す
る
事
と
な
り
、
伯
爵
の
援
助
に
よ
り
て
大
学
し
て
も
よ
い
が
、
自
は
最
近
大
と
し
て
英
国
に
赴
任
し
な
け
れ
ば
な
ら
な
い
か
ら
、
留
守
中
、
自
の
子
供
を
見
て
貰
い
た
い
、
金
は
私
が
出
爵
か
ら
加
藤
高
明
伯
爵
に
話
し
て
頂
き
ま
し
た
の
で
最
初
に
加
藤
伯
爵
に
面
会
致
し
ま
し
た
。
と
こ
ろ
が
、
加
藤
伯
爵
は
、
陸
奥
の
奨
学
資
金
を
貸
論 説
う
と
親
身
に
江
藩
洋
学
の
系
譜
を
想
定
し
、
三
敬
え
て
下
さ
っ
て
居
り
、
私
は の
出 気
来 に
栄 大
を い
楽 に
し 召
み し
に た
し こ
て と
い も
る あ
﹂ る
と 。
あ こ
る の
。 因
な 縁
お 浅
、 か
田 ら
中 ざ
隆 る
二 梅
・ さ
前 ん
掲 は
注 、
39 私
の
︶
・ 為
五
三
頁
も
参
照
。
に
よ
い
本
を
作
っ
て
や
ろ
字 る 裕
を 梅 行
醇 、
ん 氏 昭
で で 和
与 あ 五
へ る 一
た 。 年
︹ 氏 ︶
謙 は の
次 梅 ﹁
郎 謙 あ
の 次 と
字 郎 が
﹁ の き
子 孫 ﹂
順 に 一
﹂ 当 二
の ら 〇
名 れ 頁
付 、 に
け 先 は
親 に 、
︺ 名 最
。 を
又 挙 後
私 げ に
は た 今
か 三 回
つ 成 の
て 重 出
天 敬 版
愚 と に
孔 親 当
平 戚 っ
、 で て
望 あ 御
月 る 世
兎 。 話
毛 謙 に
、 次 な
金 郎 っ
森 は た
錦 修 の
謙 道 は
、 館 中
入 日 央
江 記
文 に 論
郎 登 事
、 場 業
梅 す 出
謙 る 版
次 し に
郎 、 勤
と 節 め
い 山 ら
ふ は れ
︶
桃
裕
行
が
刊
行
し
た
限
定
一
五
〇
部
の
私
家
版
桃
節
山
︵
著
︶
・
桃
裕
行
︵
編
︶
﹃
西
遊
日
記
・
肥
後
見
聞
録
桃
節
山
歿
後
百
年
記
念
﹄
桃
に
呼
び
寄
せ
、
自
の
手
許
で
正
の
仕
事
を
手
伝
わ
せ
て
い
た
の
で
あ
る
﹂
。
ら
東
京
に
引
取
っ
て
以
来
、
農
業
大
学
に
入
っ
て
兵
隊
に
取
ら
れ
る
ま
で
、
ず
っ
と
め
ん
ど
う
を
見
、
終
戦
後
清
瀬
で
働
い
て
い
た
の
を
、
三
十
年
東
京
が
、
そ
の
目
白
に
引
越
し
た
あ
と
、
し
ば
ら
く
甥
の
醇
だ
け
が
残
っ
て
、
ふ
た
り
で
自
炊
生
活
を
続
け
た
。
徳
は
、
こ
の
甥
が
中
学
二
年
の
時
、
広
島
か
年
九
梅 月
震 ︶
・ 卒
前 業
掲 生
注 姓
79 名
﹂
︶
・
五 文
学
九 部
頁
﹁ ﹂
一
徳 一
は 頁
母
︹ 以
下
カ に
ネ
︺ も
の 記
載
死 が
後
︹ な
い
昭 。
和
︺
三
十
二
年
の
二
月
ま
で
、
兄
︹
緑
︺
の
遺
族
と
い
っ
し
ょ
に
暮
ら
し
て
い
た
︶
京
帝
国
大
学
、
大
正
一
三
年
八
月
︶
学
生
生
徒
姓
名
︵
大
正
十
二
年
九
月
末
現
在
︶
﹂
文
学
部
﹂
五
一
頁
以
下
、
月
至
大
正
十
一
年
七
月
︶
卒
業
生
姓
名
﹂
文
学
部
﹂
に
緑
の
名
は
な
く
、
そ
の
後
の
﹃
東
京
帝
国
大
学
一
覧
︵
従
大
正
十
二
年
至
大
正
十
三
年
︶
﹄
自
大
正
十
一
年
八
月
至
大
正
十
二 東
学
部
﹂
二
一
頁
以
下
、
﹃
東
京
帝
国
大
学
要
覧
︵
従
大
正
十
一
年
至
大
正
十
二
年
︶
﹄
東
京
帝
国
大
学
、
大
正
一
二
年
二
月
︶
附
録
﹂
自
大
正
十
年
八
要
覧
︵
従
大
正
十
年
至
大
正
十
一
年
︶
﹄
東
京
帝
国
大
学
、
大
正
一
一
年
二
月
︶
附
録
﹂
月 文
調
︶
︶ 学 ﹃ ︶
﹂
部
学 ﹂ 東 第
生
京
生 大 帝 一
徒 正 国 部
三
姓 四 大 年
名 年 学
︵ 入 一 乙
組
大 学 覧 ︵
正 ﹂ ︵ 独
九 五 従
年 〇 大 法
文
九 頁 正 科
月 ﹁ 八 ︶
末 梅 年 四
現 緑 至 十
大 人
在
東 正
︶
﹂ 京 九 ﹂
一
第 平 年 五
︶
五 ﹂
、 ﹄ 一
﹃
頁
文 東 東 ﹁
京
京
学
東
部 帝 帝 京
国
国
﹂
高
大 大
大 学 学 師
正 一 、 附
四 覧 大 属
年 ︵ 正
入 従 九 梅
学 大 年 震
﹂ 正 三
四 九 月 東
九 年 ︶ 京
﹂
頁 至
。
﹁ 大 学
梅 正 生
緑 十 生
徒
年
東 ︶ 姓
京 ﹄ 名
平 東 ︵
﹂ 京 大
正
と
帝 八
あ
国 年
る
大 九
が
学 月
、
﹃ 、 末
東 大 現
京 正 在
帝 一 ︶
国 〇 ﹂
自
大
正
八
年
十
月
至
大
正
十
年
七
月
︶
卒
業
生
姓
名
﹂ 大 年 第
文 学 三 五
梅 等 一
︶
震 学 年 ﹃
乙
第
東 、 組 二
京 大 ︵ 高
﹂ 正 独 等
、
﹃ 四 法 学
第 年 文
二 一 科 一
高 一 ︶ 覧
等 月 四 ︵
学 ︶ 十 自
三 大
一 第 人 正
覧 七 ﹂ 三
︵ 章 一 年
六 至
自
大 生 二 大
正 徒 頁 正
︵ ﹁
五
大 東 四
年 正 京 年
︶
至
四 高 ﹄
大 年 師
第
正
十 附 二
六
属
月
高
年 調
等
︶
梅
﹄ ︶
﹂ 震 学
第
第
、
二
一 東
高 部 京 大
正
等
二 ﹂ 三
学 年 、
﹃
年
乙 第 一
、
二
大 組 高 一
︵
月
正 独 等 ︶
学
五
法
第
年 文
一 七
一
科 覧 章
一 ︶
月 四 ︵
︶ 十 自 生
大 徒
第 人 正 ︵
七 ﹂ 四 大
章 一 年 正
五 至 三
生 九 大 年
徒 頁 正 十
︵ ﹁ 五 月
大 東 年 調
正 京 ︶ ︶
五 高 ﹄ ﹂
年 師 第 第
十 附 二 一
月 属 高 部
名
︵
大
正
四
年
十
月
調
︶
﹂
二
六
九
頁
﹁
第
一
部
英
文
科
﹂
八
名
中
に
﹁
東
文
梅
緑
東
京
﹂
の
名
が
認
め
ら
れ
る
。
附 二
属 高
等
梅 学
緑
、
東 大
京 正
﹂
。 三
年
さ 一
ら 一
に
、 月
︶
第
二 第
高 七
等 章
学
生
一 徒
覧 ︵
︵ 大
自 正
大 三
正 年
四 十
年 月
至 調
大 ︶
正 ﹂
五 第
年 一
︶
﹄ 部
三
第 年
二 甲
高 組
等 ︵
学 英
法
、 文
大 科
正 ︶
四 三
年 十
一 九
一 人
月 ﹂
︶ 一
第 五
八 四
章 頁
﹁
卒 東
業 京
生 高
氏 師
(法政研究 83-3-182)448
梅謙次郎の子供たち(七戸)
委
員
一
三
名
の
氏
名
が
掲
載
さ
れ
て
い
る
。
︶ ︶
中
村
宗
文
﹁
文
化
切
手
の
発
行
に
つ
い
て
主
と
し
て
発
行
ま
で
の
経
緯
﹂
﹃
切
手
に
な
っ
た
日
本
文
化
人
﹄
前
掲
注
37
︶
・
二
〇
四
頁
に
、
選
定
大
内
兵
衛
﹁
梅
先
生
の
葬
儀
梅
謙
次
郎
伝
・
そ
の
一
﹂
法
政
︵
法
政
大
学
︶
三
巻
五
号
︵
昭
和
二
九
年
︶
一
五
頁
。
泉
町
三
六
三
梅
信
︹
震
︺
氏
に
、
こ
の
切
手
の
第
一
号
が
佐
藤
郵
相
か
ら
贈
ら
れ
る
﹂
。
で
凸
版
印
刷
の
大
型
な
も
の
。
同
氏
が
亡
く
な
っ
た
明
治
四
十
三
年
八
月
二
十
五
日
を
記
念
、
発
売
さ
れ
る
わ
け
だ
が
、
当
日
は
同
氏
の
令
息
杉
並
区
和
449(83-3-183)
十
五
日
か
ら
全
国
の
各
郵
局
で
売
り
出
す
。
明
治
の
法
学
者
と
し
て
立
法
上
に
功
績
を
残
し
た
元
東
京
帝
大
教
授
梅
謙
次
郎
氏
を
描
い
た
十
円
切
手
︶
朝
日
新
聞
昭
和
二
七
年
八
月
二
一
日
朝
刊
﹁
文
化
切
手
二
五
日
発
売
╱
梅
謙
次
郎
教
授
の
肖
像
入
り
﹂
郵
政
省
は
第
十
四
回
目
の
文
化
切
手
を
二
・
平
岡
浩
太
郎
は
四
人
兄
弟
の
二
男
で
、
長
男
・
内
田
良
五
郎
の
三
男
が
内
田
良
平
、
四
男
・
平
岡
常
次
郎
の
長
男
が
平
岡
昇
で
あ
る
。
の
︶ ︶ ︶
通
﹃
岡 梅 り
追 孝 震 ⋮
想
‖ ・ ⋮
江 前 ▽
戸 掲 同
梅 恵 注 ︹
徳
‖
を 子
・
取
偲 前 ︶
・ 締
び 掲 一 役
て
﹄ 注 八 ︺
九 梅
後 30 頁 震
掲 ︶
注 ・
︹ 。 ︵
元
初
満
出
︶
洲
︺
に 一
中
は
央
四
、
銀
一
平
行
頁
岡 注
理
昇
事
か 25
︶
﹂
ら ︶
⋮
の
も ⋮
名
追
が
悼 ︹
所
認
文 収
め
が
ら
寄 ︺
れ
せ 二
三
る
ら 八
の
れ
で
て 頁
。
、
い
就
る
任
が
時
︵
期
三
は
四
、
頁
昭
﹁
和
徳
三
さ
二
ん
年
の
四
思
月
い
一
出
日
﹂
で
︶
、
あ
文
ろ
子
う
の
。
祖
新
聞
昭
和
三
二
年
三
月
三
日
朝
刊
﹁
社
長
に
佐
々
木
義
彦
氏
╱
四
月
一
日
発
足
日
本
貿
易
信
用
会
社
﹂
の
記
事
に
は
、
内
定
し
た
役
員
の
氏
名
は
次
﹃
同
︵
二
四
版
︶
﹄
昭
和
四
三
年
︶
う
一
〇
〇
頁
、
﹃
同
︵
第
二
五
版
︶
﹄
昭
和
四
四
年
︶
う
一
〇
四
頁
は
﹁
昭
和
三
三
年
四
月
﹂
と
し
て
い
る
が
、
朝
日
六
年
︶
う
六
三
頁
は
﹁
昭
和
三
三
年
六
月
﹂
と
し
、
﹃
同
︵
第
二
二
版
︶
﹄
昭
和
三
九
年
︶
う
七
二
頁
、
﹃
同
︵
第
二
三
版
︶
﹄
︶ ︶ 大
正
梅 加
震 藤 六
年
の 聖 ︵
取 文 一
締 ︵
役 編 九
三
就 集 人
任 ︶
の ﹃ ︶
﹂
時 殖 二
民
期 地 六
に
一
つ 帝 頁
国
き 人 ﹁
、
﹃ 物 東
法
人 叢
事 書
興 63 梅
緑
信 満
録 州 東
︵ 国
第 24 京
﹂
二 戦 。
〇 後
版 の
︶ 満
﹄
洲
人 四
事 星
興 霜
信 ︹
所 梅
、 震
昭 ︺
﹄
和
三 ゆ
四 ま
年 に
︶ 書
う 房
五 、
二 平
頁 成
、 二
﹃
同 四
年
︵ ︶
第 。
二
一
版
︶
﹄
昭
和
四
一
年
︶
う
八 昭
八 和
頁 三
、
︶
﹃
第
二
高
等
学
一
覧
︵
自
大
正
六
年
至
大
正
七
年
︶
﹄
第
二
高
等
学
、
大
正
六
年
一
一
月
︶
第
八
章
卒
業
生
氏
名
﹂
第
一
部
独
法
科
﹂
学
部
に
進
学
す
る
が
、
大
正
一
一
年
の
卒
業
後
、
改
め
て
法
学
部
に
入
り
直
し
て
大
正
一
三
年
に
卒
業
し
た
。
大
学
体
育
連
合
、
昭
和
五
三
年
︶
二
八
頁
で
は
、
二
高
に
在
籍
し
た
経
歴
が
省
略
さ
れ
て
い
る
。
ち
な
み
に
、
小
出
は
、
そ
の
後
、
東
京
帝
国
大
学
経
済
二
教
授
古
稀
記
念
論
文
集
、
昭
和
四
三
年
︶
五
七
七
頁
、
小
出
廉
二
﹁
私
の
履
歴
書
﹂
体
育
・
ス
ポ
ー
ツ
・
ク
リ
エ
ー
シ
ョ
ン
四
巻
二
号
︵
社
団
法
人
全
国
第
一
部
一
年
三
之
組
英
文
科
︵
四
十
一
人
︶
﹂
一
三
二
頁
。
な
お
、
小
出
廉
二
教
授
略
歴
﹂
法
律
論
叢
︵
明
治
大
︶
四
一
巻
四
・
五
・
六
号
︵
小
出
廉
頁
︶
︶
﹃ 。 ﹃
第
東
一
京
高
帝
等
国
学
大
学
一
一
覧
覧
︵
︵
自
従
大
大
正
正
四
四
年
年
至
至
大
大
正
正
五
五
年
年
︶
︶
﹄
﹄
第
一
高
等
学
、
大
正
四
年
一
二
月
︶
第
七
章
生
徒
姓
名
︵
大
正
四
年
九
月
末
調
︶
﹂
東
京
帝
国
大
学
、
大
正
五
年
二
月
︶
学
生
生
徒
姓
名
︵
大
正
四
年
九
月
末
現
在
︶
﹂
五
二
論 説
︶
︹
引
用
者
注
︺
⋮
⋮
梅
謙
次
郎
の
談
話
﹁
二
十
世
紀
の
法
律
﹂
は
、
実
際
に
は
、
前
年
の
明
治
三
三
年
一
月
の
読
売
新
聞
①
五
日
朝
刊
、
②
六
日
朝
︶ ︶ ︶ ︶
梅
徳
・
前
掲
注
林
幹
﹁
梅
さ
ん
37 を
偲
︶
・ び
︹ て
初
出 ﹂
﹃
武
井
と
の
子
﹁
課
外
読
物
刊
行
会
と
梅
さ
ん
﹂
﹃
下
俊
雄
﹁
亜
細
亜
学
生
会
の
︺ 追
こ
八 想
ろ
∼
の
一
梅
〇 梅
徳
頁 徳
君
⋮ を
﹂
⋮ 偲 追 ﹃
︹ び 想 追
所 て
想
収 ﹄
︺ 前 梅
一 掲 徳 梅
五 注 を 徳
七
偲 を
∼ ︶ び 偲
一 ・ て び
六 九 ﹄ て
一 頁 前 ﹄
頁 。 掲 前
。
注 掲
注
︶
・
八
頁
。
︶
・
六
頁
。
て
い
な
い
こ
と
は
残
念
で
な
ら
な
い
﹂
と
あ
る
。
さ
ら
に
、
同
書
に
は
、
三
成
重
敬
へ
の
言
及
も
あ
る
︵
一
一
九
頁
、
一
六
六
頁
︶
。
﹃
大
同 ︶ ︶ ︶ ︶
正
時
な 梅 梅 梅 五
代
震
震
震
年
お
﹄ 、 ・ ・ ・ 九
︹ 品 前 前 前 月
全 川 掲 掲 掲 三
六 力 注 注 注 十
巻 ﹃ 79 79 79 日
。 古
調
昭 書 ︶
・ ︶
・ ︶
・ ﹂
和 巡 六 六 六
第
二 礼 九 三 一 一
四 ﹄ 頁 頁 頁
∼
。 。 。 部
一
二 青
年
九 英
年 舎
丁
︺ ・
類
に 星
お 雲
三
け 社
十
る 、
八
故 昭
人
梅 和
﹂
徳 五
一
氏 七
二
の 年
五
︶
頁
意 一
﹁
に 九
東
よ 一
京
る 頁
高
索 に
師
引 は
は 、
梅
、 そ
徳
こ れ
の に
東
道
京
の つ
﹂
範 け
。
と て
す も
べ 岩
き 波
も 書
の 店
が の
い ︹
ま 三
だ 宅
に ︺
取 雪
上 嶺
げ 博
ら 士
れ 著
︶
﹃
第
三
高
等
学
︶ ︶
戸
塚
武
彦
﹁
徳
一 さ
ん
覧 と
︵ の
大
正
り
五 ﹂
年 ﹃
九 追
月 想
起
大
正 梅
六 徳
年 を
八 偲
月 び
止 て
︶ ﹄
﹄ 前
第 掲
三 注
高
等
︶
学 ・
一
、 頁
大 。
正
五
年
一
二
月
︶
本
大
学
予
科
生
徒
︵
九
百
十
八
人
︶
梅
震
‖
本
光
︵
編
︶
﹃
追
想
梅
徳
を
偲
び
て
﹄
梅
震
、
昭
和
三
五
年
︶
。
は
、
梅
謙
次
郎
の
時
代
よ
り
少
し
後
と
い
う
。
〇
周
年
記
念
冊
子
︵
上
巻
・
報
告
集
︶
﹄
法
政
大
学
、
平
成
二
七
年
︶
二
五
六
頁
に
よ
れ
ば
、
董
必
武
︵
中
国
国
家
副
主
席
︶
が
法
政
大
学
で
学
ん
だ
の
︶
︹
引
用
者
注
︺
た
だ
し
、
王
敏
﹁
第
二
回
シ
ン
ポ
ジ
ウ
ム
︶
研
究
動
向
梅
謙
次
郎
と
清
国
留
学
生
﹂
﹃
ボ
ア
ソ
ナ
ー
ド
・
梅
謙
次
郎
没
後
一
〇
関
係
者
と
し
て
、
例
え
ば
田
口
卯
吉
の
如
き
が
漏
れ
て
西
周
と
梅
謙
次
郎
と
だ
け
が
入
っ
て
い
る
の
も
、
果
し
て
適
当
で
あ
っ
た
ろ
う
か
﹂
。
進
歩
的
な
色
彩
が
加
味
で
き
た
ろ
う
に
、
と
今
に
し
て
残
念
に
思
っ
て
い
る
。
╱
二
葉
亭
四
迷
な
ど
も
、
慮
せ
ら
る
べ
き
で
あ
っ
た
ろ
う
。
人
文
科
学
あ
っ
た
が
、
政
治
家
は
入
れ
な
い
方
針
で
あ
っ
た
の
で
、
問
題
に
な
ら
な
か
っ
た
。
し
か
し
、
せ
め
て
木
下
尚
江
ぐ
ら
い
入
れ
て
置
い
た
ら
、
も
う
少
し
と
思
う
が
、
少
し
革
新
的
な
活
動
を
し
た
人
物
も
入
れ
る
べ
き
で
は
な
か
っ
た
ろ
う
か
。
投
票
さ
れ
た
候
補
者
の
中
に
は
、
大
井
憲
太
郎
な
ど
の
名
も
︶ ︶ ︶ ︶
家
永
三
郎
﹁
文
化
切
手
主
題
人
物
の
選
定
に
つ
い
て
﹂
﹃
切
手
に
な
っ
た
日
本
文
化
人
﹄
前
掲
注
犬
丸
秀
雄
﹁
文
化
切
手
銓
衡
の
思
い
出
﹂
﹃
切
手
に
な
っ
た
日
本
文
化
人
﹄
前
掲
注
管
井
準
一
﹁
文
化
切
手
に
よ
せ
て
専
門
委
員
の
一
人
と
し
て
﹂
﹃
切
手
に
な
っ
た
37 日
︶
・ 本
二 文
四 化
37 一 人
頁 ﹄
︶
・ 。 前
二
掲
三
注
三
37
頁
︶
﹁
・
人
二
物
三
の
四
選
頁
定
。
は
大
体
は
適
当
だ
中
村
宗
文
・
前
掲
注
︶
・
二
〇
五
頁
に
、
六
五
名
の
候
補
リ
ス
ト
が
掲
載
さ
れ
て
い
る
。
(法政研究 83-3-184)450
梅謙次郎の子供たち(七戸)
の
学
位
論
文
の
ヴ
ェ
ル
メ
ー
ユ
賞
受
賞
は
、
梅
が
リ
ヨ
ン
か
ら
ベ
ル
リ
ン
に
移
っ
て
か
ら
︵
明
治
二
二
年
七
月
一
七
日
ベ
ル
リ
ン
着
、
二
四
日
ベ
ル
リ
生 め 博 東
活 て 士 京
の 来 が 帝
た 独 国
本 。 身 大
か 博 で 学
ね
あ 法
と 士 っ 律
は
結 フ た 大
婚
の 学
し ラ で 教
ン
た
、 授
ス
の の 縁 の
で
談 席
あ 彼 も が
女
っ に 出 設
た 対 て え
。
来 ら
こ す た れ
る
れ 未 。 て
は
陸 あ
練
ま は 奥 り
た あ 宗 、
、 っ 光 や
フ た は が
ラ よ 、 て
ン う 元 、
ス で 老 和
の あ 院 仏
愛 っ の 法
人 た 津 律
と が 田 学
の ︶ 出
縁 、 の の
を 結 娘 学
き 局 を 監
っ こ 世 、
ぱ れ 話 文
り を し 官
絶 博 よ 高
ち 士 う 等
切 は と 試
る 、 し 験
決 は て 委
意 っ 、 員
で き 原 と
り 敬 な
も 断 を り
あ り
、
っ 、 者 多
た 自 と 忙
﹂ ら し な
。
だ 同 て 生
が 郷 、 活
、 の こ で
謙 、 れ あ
次
を っ
郎 乏 進 た
。
451(83-3-185)
帰
る
こ
と
を
告
げ
、
共
に
日
本
に
帰
る
こ
と
を
促
し
た
が
、
彼
女
は
そ
の
決
心
な
ら
ず
、
離
別
し
て
、
帰
国
し
た
の
で
あ
っ
た
。
博
士
は
帰
国
す
る
と
、
リ
ヨ
ン
に
、
求
婚
の
権
利
が
与
え
ら
れ
た
。
博
士
は
、
こ
こ
で
求
婚
し
、
婚
約
し
た
の
で
あ
っ
た
。
し
か
し
、
博
士
は
リ
ヨ
ン
市
に
永
住
せ
ず
、
日
本
に
﹃
論
文
﹄
は
リ
ヨ
ン
市
で
出
版
さ
れ
、
後
か
ら
フ
ラ
ン
ス
政
府
か
ら
勲
章
が
贈
ら
れ
て
い
る
。
又
慣
例
に
よ
っ
て
、
そ
の
年
度
の
最
優
等
生
に
は
、
ミ
ス
、
ラ
ン
ス
の
リ
ヨ
ン
大
学
で
成
績
抜
群
、
卒
業
論
文
の
﹃
和
解
論
﹄
は
、
最
高
の
栄
誉
を
与
え
ら
れ
た
。
リ
ヨ
ン
市
か
ら
、
ヴ
ェ
ル
メ
ー
ユ
賞
を
贈
ら
れ
、
︶ ︶ ︶ ︶ ︶
こ
後 読
れ シ 藤 売
に ン 昂 新
対 ポ ﹁ 聞
し ジ 梅 明
て ウ 謙 治
、 ム 次 三
後 ︶ 郎 三
藤 梅 と 年
昂 謙
一
﹁ 次 江 月
梅 郎 ﹂ 五
謙 博 前 日
次 士 掲 朝
郎 の 注 刊
と 人
・
八 と 82 前
︶
雲 学 ・ 掲
の 問 一 注
こ ﹂ 一
と 前 三
︶
な 掲 頁 ①
ど 注 。
。
﹂
20
前 ︶
掲 ・
注 一
︵ 二
76 二
︶ 頁
・ ︹
六 後
頁
は 藤
昂
、 発
次
の 言
︺
よ 。
う
な
ロ
マ
ン
ス
を
語
っ
て
い
る
。
博
士
は
、
フ
本
光
・
前
掲
注
︶
・
五
一
頁
。
学
、
大
正
十
三
年
三
月
︶
二
年
一
月
︶
卒
業
生
姓
名
︵
経
済
学
士
︶
﹂
五
三
四
頁
﹁
徒
︵
大
正
十
年
十
一
月
現
在
︶
﹂
三
四
四
頁
﹁
梅
光
卒
業
生
姓
名
︵
経
済
学
士
︶
東
﹂
京
五
八 本 ﹂
、
八 光 ﹃
京
頁
﹁ 東 都
京 帝
本 ﹂ 国
光 、
﹃ 大
京 学
東 都 一
京 帝 覧
﹂ 国 ︵
。
大 自
学 大
一 正
覧 十
︵ 一
自 年
大 至
正 大
十 正
二 十
年 二
至 年
大 ︶
﹄
正
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第
一
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(法政研究 83-3-186)452
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