...

p4-7 俳優 仲村トオルさん インタビュー

by user

on
Category: Documents
23

views

Report

Comments

Transcript

p4-7 俳優 仲村トオルさん インタビュー
仲村
トオ
ル
仲 村ト
オル
1985年、主演映画で、鮮烈なデビューを果たしたのはハタチのとき。
間もなく横浜が舞台のドラマ「あぶない刑事」に出演して不動の人気を掴んだ。
映画もシリーズ化されたこの[アブデカ]の撮影で、二十代前半は横浜に日参。
近年もロケで頻繁に横浜を訪れ、街の魅力や変遷を、肌で感じてきた仲村さん。
2010年には、みなとみらいに立地する東京藝術大学のスタジオで、同大学院
の映像研究科、第5期生が制作する短編映画『紙風船』に主演されました。常に
第一線で走り続ける仲村さんのハタチの頃の思い、最新作で二十代前半の創作
者と触れ合った印象をうかがい、みなさんへのエールもいただきました。
主演俳優への応募はバイト探し感覚で
い建物が未来を感じさせる一方で、昭和初期の洋館も大切に残されている。そんな街並み
中学生の頃は野球部で、プロ野球選手になりたくて。でも、
3年間で22㎝も背が伸びて、
が、監督やカメラマンを刺激するんだと思います。
しかも、いいロケ・ポイントがギュっと凝縮
いつも足の関節痛があって上手くならなかったし、近隣の中学校と試合をしただけでも、自分
されているような地の利なので、移動時間が節約できる。[アブデカ]以前も、以降も、横浜が
より上手い奴がいる。とてもプロにはなれない、と野球をあきらめてしまったんです。
多くの映像制作者に愛され続ける理由はそのへんではないか、と。2000年頃、よく上海に行
高校も第一志望を落ちて、仕方なく通った感じの大学の付属高校の3年間はただ無気力。
きましたが、やはり港町である上海のBANDあたりの景観とも似ているかと思います。
卒業が迫って『このまま社会に放り出されても何もできないから、4年間、社会に出る猶予を
もらおう』
と、そのまま進学しました。ところが、入学直後に父親が急逝してしまった。兄もまだ
大学生でしたし、妹もいる。
『4年間の猶予なんて呑気に構えていられない』
と奨学金の手続
きや、アルバイトに奔走し始めました。
1年の夏に映画のオーディションを受けたのも、夏休み
のバイトを探そうと、本屋さんで立ち読みした雑誌に、出演者募集の記事を見つけたから。履
歴書を送るという応募方法は『ほかのバイトを決めるのと最初の手続きは同じだ』
と。まさか
選ばれて役者になるとは、思ってもみなかったんです。
ヨコハマは創作者たちを刺激し続ける
『ビー・バップ(・ハイスクール)』
がヒットして、続編の撮影も決まった頃、テレビの連続ドラ
マ
『あぶない刑事』
のロケで、横浜に通い詰めるような日々が始まりました。
この頃は、ほとんど舘(ひろし)サンか(柴田)恭兵サンに、中華街で飯を御馳走になっていま
した。当たり前のように奢ってもらっていた(笑)だけでなく、このおふたりの<模倣>で役者
仲村トオル(なかむら とおる)
1985年、映画『ビー・バップ・ハイスクール』
でデビュー。
数々の新人賞を受賞。以後、国内外の映画、TVドラマ、舞台でも活躍。
出演作は150タイトルを超える。
2002年、韓国映画『ロスト・メモリーズ』
(共演/チャン・
ドンゴン)では韓国のアカデミー賞と
いわれる、大鐘映画祭賞・助演男優賞を外国人として初めて受賞。
2003年、中仏合作映画『パープル・バタフライ』
(共演/チャン・ツィイー)に出演。
同作品は第56回カンヌ映画祭コンペ部門に出品され、
レッド・カーペットを踏む。
2010年、デビュー25年を迎える。映画『行きずりの街』
(阪本順治監督)が公開。
オムニバス映画『紙風船』
(全4篇)の主題作『紙風船』
に主演。
(共演/緒川たまき)
同作はティムバートン、ジムジャームッシュらを輩出
した仏・クレルモンフェラン国際短編映画祭への出品
も決定。
国内では、2011年早春に公開予定。
としての自分ができあがったと思うので、未だに頭が上がらないんですけど。
[アブデカ]以降も、たとえば連続ドラマ
『海猿』で海上保安庁の船舶で撮影させてもらった
り、幾度となくロケで訪れていますが。海あり、丘あり、異国情緒あり。斬新なデザインの新し
PROFILE
1965年9月5日生まれ。
仲村トオル公式ホームページ
http://www.kitto-pro.co.jp/
映像の世界にかぎらず
つけた脚力は 生きてくる
撤退できないと逡巡していたあのころ
仕事を始めたときから、ロケには、ほとんど自分で車を運転して行っています。出番と出番
しまって、礎のようなものがない』
といつも不安でした。あいだの九十九段を、どうやって埋め
ようか、二十代、いや、三十代に入っても、いま思うと本当に恥ずかしいくらい、もがいて
のあいだに〈中アキ〉と呼ばれる待ち時間ができる日があるんですが、家に一旦帰るには時
いたと思う。同時に、謙虚であろう、あろうとはしていたけれど、根拠のない自信というか、
間がなさすぎると、現場の近くで時間を潰すんです。[アブデカ]の頃、廃船を改造した駐車
自惚れやこだわりがあって、もう、若気の至り満載でした(笑)。
場を見つけて。普通の駐車場に止めて車中で待つ、では味気ないですが、デッキに車を止
人生の交差点のようなところで、別の道を選んだらどうなっていたかな、と振り返ることが
めて海を眺めている感覚なんです。車の窓を開けて潮風を感じて……いる時間より、早朝
あります。でも、右を選んで先に進んでみたら、結局、左からきた道と同じ道に繋がっていた
から深夜まで連日撮影で、昼寝していた時間のほうが長かったかもしれませんが(笑)。
んだ、と気付いたこともある。そんな風に遠回りしたり、道を間違えたり、地団駄踏んだりし
そんな中で大学は5年かかって、何とか卒業しました。卒業させてもらったといったほうが
て、そのときつけた脚力が、いま生きている、と思うんです。ですから、みなさんには、もがい
正確ですが。
『次々と作品に出演できる状況がいつまでも続くわけがない、役者をやめざる
てついた筋力は決して無駄にならない、という言葉を贈りたいですね。
を得ないときが来るかもしれない』
と思うと、大学をやめてしまう気にはなれなくて。でも、作
品評価的にも興業成績的にも、いい結果が出ない作品もあったりしたので、逆に『このまま
役者から撤退するのも悔しいな。いままで自分が経験したことの中で一番おもしろいと思え
ることなんだし、できることなら続けていきたいな』
と逡巡してましたね。
0歳児が監督になるほどの年月の重み
2010年の夏に
2010年の夏に
『紙風船』
という映画に出演しました。馬車道に校舎があり、みなとみらい
にスタジオがある、東京藝大の大学院生が創る作品です。岸田國士戯曲賞という演劇界の
芥川賞といわれている賞がありますが、その岸田さんが80年くらい前に書いた短編の戯曲
を、映画の原作に据える着想をしたのは、企画当時23歳の山下さんという女性プロデュー
サー。戯曲を現代に置き替えての脚本の執筆も、カメラも美術も照明も録音も、すべて二十
代前半の学生が担当しました。経験値が少ない分、多少のたどたどしさを感じることもある
にはあったんですが、百戦錬磨のプロの現場と遜色のないペースで、予定どおり撮影が終
わりました。
僕は役者を始めて25年経ちますが、すべては通過点だと思うほうで、特別な感慨はなか
ったんです。でも、監督の秋野クンが25歳で。監督と役者として彼と対等に向き合えて、嬉
しかったし、完成作を観て『僕が俳優としてデビューした年に、この世にデビューした赤ん坊
が、25年経つと、こんな立派な映画を撮るようになるんだ。これはなかなか重みのある年月
だぞ』
と、25年を初めてに近い感じで実感しました。この先、プロになっても、変に摺り切れ
ず、いまの素直で熱い映画への気持ちを持ち続けて欲しい。役者は自己申告で現役でいら
れるので、僕がジイちゃんになっても、キャスティングして欲しいです。
二十代でもがいてつけた筋力が役立つ
確かに僕は幸運なデビューをしたとは思います。でもあのころは『何の準備もないまま
<俳優という仕事>が始まってしまった。一段目からいきなり百段目くらいのところに登って
Fly UP