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サロベツ湿原の瞳沼とその形成過程

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サロベツ湿原の瞳沼とその形成過程
湿地研究 Wetland Research Vol.1, 55-66(2010)
研究ノート
サロベツ湿原の瞳沼とその形成過程
岡田 操
㈱水工リサーチ
要 旨
瞳沼はサロベツ湿原中央の低地帯にある面積 0.7 ha ほどの沼である.小さい沼であるが,泥炭でで
きた相対的に大きな浮島を浮かべている点が特徴である.本稿では沼の現況の調査・計測結果を報告
するとともに,沼と浮島の形成史について考察する.浮島は周辺の泥炭地を農地開発する過程の影響
下で,二十世紀のわずか数十年の時間でできたと考えられる.開発のための排水路開削と通水の結果,
自然堤防が形成され,それが地下水や地表水の流動環境を変え,水位上昇を招いた.水位上昇に伴な
い浮力が増大し沼の周囲を含む低地帯の泥炭が浮上した.その後,浮いた泥炭の一部が周りから切り
離され,浮島として漂うようになったと考えられる.このように瞳沼の浮島は人為的行為が原因になっ
て形成されたこと,さらに形成時期をかなり特定できる点など特異な浮島であると言える.またその
形成過程も単純ではなく,泥炭堆積層の浮上とその後の切断分離という複合的な過程の結果形成され
たということも例が少ない.
キーワード:浮島,泥炭地,高位泥炭地,湿地溝,微地形
1. はじめに
本研究では現地調査で計測したデータを始め,過
サロベツ湿原は北海道の最北部,豊富町と幌延町
去に撮影された航空写真,レーザースキャナーで計
にわたって広がっている.かつて 15,000 ha 近い広
測された DEM データなどに基づき,沼と浮島の形
さであったが農地開発を経た現在は約 6,700 ha にま
状を定量化する.さらに沼が存在する環境の現状を
で減少している(辻井ら,2003).湿原の中には多
サロベツ湿原の開拓の歴史と関連させて,得られた
くの河道の痕跡がみられ,はげしい河道変遷を経て
知見に推論を加えて沼と浮島の形成過程について考
きた経緯がある(梅田・清水,2003).瞳沼はサロ
察する.なお「瞳沼」という名称はこの沼の名を最
ベツ湿原のほぼ中央,ペンケ沼の北北西約 1 km ほ
初に記載した辻井・岡田(2003)に依った.
どに位置している(Fig. 1)
.瞳沼はその規模からい
えば湿原にごく普通に存在する小さな池沼の一つに
2. 方法
過ぎないが,沼の大きさに比べて相対的に大きい浮
瞳沼及び浮島の形状を把握するため瞳沼の現地調
島を浮かべている点に特徴がある.
査を結氷季に 2 回と非結氷季に 2 回実施した.結氷
瞳沼はペンケ沼北方の低地(本稿では瞳沼低地帯
季の調査では瞳沼及び浮島の長軸・短軸の長さ,水
と呼称する)にあるため周囲から遠望できず,その
深などを計測した.非結氷季には沼の水深,浮島・
存在は航空機によって発見されるまで知られること
湖岸の泥炭の厚さなどを計測した.
はなかった.そのような経緯で環境省が国立公園管
結氷季の調査では,湖岸・湖面とも同一の水平面
理のために到達した以外,これまで人が瞳沼に入っ
で結氷していて形の上で境界を判断できないため,
た記録はなく,沼の名称もなかった.したがってこ
倒伏せずに氷上に突き出ている枯れたヨシの分布状
の沼や沼の周辺については佐々木伸宏氏の未発表の
態で湖岸線や浮島の輪郭を判断し,長軸・短軸の長
データがあるだけで,先行した研究はなく本稿が瞳
さを巻尺で測定した.水深は標尺を水中に挿入して
沼に関する最初の報告となる.
測定した.非結氷季には浮島上から,結氷季には穴
岡田 操 [email protected]
(2009 年 10 月 29 日受付,2010 年 6 月 3 日受理)
55
岡田 操
・6.0
Sarobetsu
Mire
・6.5
・5.5
・5.0
・4.5
・4.0
・3.0
・7.0
A
Bog rills
・5.0
・2.5
・4.5
R. Shimo-ebekorobetsu
Hitomi-numa
lowland area ・2.0
・2.5
・3.0
( Drainage channel)
・5.0
・2.5
P. Hitomi-numa
・5.0
A’
・2.5
・4.0
・4.0
L. Penkekitanuma
・3.0
・
・2.0
Natural levee
・2.0
・1.5
・3.0
・2.0
A’’
R. Sarobetsu
・
・1.5
・1.5
L. Penke-numa
・1.5
Fig. 1
Fig.1 瞳沼と低地帯の位置(2003 年 4, 5 月計測)
格子間隔は 200m,等高線間隔は 0.5m,図中の数値は地表標高.
白矢印は Fig.2 の撮影方向,鎖線内は Fig.8 の範囲,破線は瞳沼から南へ向かう旧流路.
Location of Hitomi-numa Pond and surrounding lowland area.
Grid interval is 200 m, contour interval is 0.5 m, values are the elevations of ground height above sea level.
岡田 操
あけドリルで氷に穴を開けて測定した.測深位置は
オプテック社製 ALTM1225 で,対地高度 800 m,コー
簡易 GPS で計測した.
ス間隔 200 m,レーザー発射回数 25,000 Hz,スキャ
浮島の泥炭の厚さを把握するために手製の層厚測
ン角度 ± 20 °,サイドラップ 66 % で計測したもの
定器を用いて測定した.この測定器はコウモリ傘の
である.DEM データは平面直角座標第 12 系(原点
原理で開閉する装置を塩化ビニール管の中に装着し
北緯 44°
0′
0″,東経 142°
15′
0″)に基づいた 1 m グリッ
たものである.装置を閉じて塩化ビニール管を浮島
ドの標高値であり,計測は 2003 年 4 月 27 日,5 月
泥炭に挿入し突き抜けたところで開閉部分を開き泥
1 日,5 月 3 日に実施された.この時期は融雪が終
炭の厚さを測定した.
了した直後であるため枯れた植生の多くは積雪に
また航空機による斜め空中写真撮影を 5 回(1986
よって倒伏した状態となっており,地表の凹凸を良
年 8 月,1987 年 8 月,1987 年 10 月,1998 年 10 月,
く反映している.DEM データはレーザーパルスを
2009 年 10 月)実施し(Fig. 2),その写真によって
利用しているため,水面ではレーザーが水に吸収さ
浮島の位置や向きなどを調べた.さらに本稿では環
れたり正反射したりしてデータを得ることができな
境省(2003)が計測した DEM データを用いて地形
い.そこで沼の水域周囲の計測標高を調べ,最小値
図や断面図を作成し,沼と浮島の面積を計測した.
を水位として使用した.
DEM データ取得に使用したレーザースキャナーは
56
サロベツ湿原の瞳沼とその形成過程
3. 結果
3.1 対象地域の概要
瞳沼の短軸方向の長さ(西南西扌東北東):71 m
Fig. 1 は上記の DEM データを用いて描いた瞳沼
に浮上している.
周辺の地形図である.地形を等高線と濃淡で表わし
浮島の長軸方向の長さ:74 m
たもので,水面を黒く表わしている.これに描かれ
浮島の短軸方向の長さ:54 m
浮島は極めて平坦な状態で,沼の水面上にわずか
ているとおり瞳沼は平坦な瞳沼低地帯の中央にある.
この低地帯の北と東は高位泥炭地の平たいドーム状
3.2.2 瞳沼と浮島の面積
地形末端の傾斜地にあたり,サロベツ湿原特有の微
DEM データをもとに瞳沼の面積を計測した結果,
地形である湿地溝が数多く分布している.湿地溝は
7,059 m2 を得た.これは浮島を含んだ面積である.
高位泥炭地に形成される樹枝のような形状をした自
浮島の面積は同様にして 1,965 m2 を得た.差し引
然水路であり,形成初期には沼や川に対して直角に
くと瞳沼の開水面面積は 5,094 m2 である.これら
流入するものと考えられている(岡田,2009).瞳
には計測誤差が含まれるので概略で以下のように見
沼低地帯の西側にはサロベツ川との間に比高 1.5 ~
積もられる.
2.0 m 程度の微高地がある.排水計画が立てられる
瞳沼全体の面積:7,000 m2 1921(大正 10)年以前,低地帯の南側はペンケ沼
浮島の面積 :2,000 m2 の開水面につづいていたが,現在では下エベコロベ
開水面の面積 :5,000 m2
ツ川の送流土砂で形成された標高 3 m を超える自然
堤防によって隔てられている.現在の下エベコロベ
3.2.3 瞳沼の水深
ツ川は開拓初期の 1926(大正 15)年に農業用排水
瞳沼の水深計測の結果を Fig. 3 に示した.非結氷
路として掘削され,1928(昭和 3)年に通水したも
季の計測値(図中○)と,結氷季の値(図中●)を
ので,当時は 7 号幹線排水路と称していた(北海道
区別して表示した.瞳沼の深さは 2.05 m から 2.25
開発局,1972;環境庁自然保護局,1998 ).
m の間で平坦である.湖岸はほぼ垂直に切り立って
いて湖岸から直ぐに最深部に連なっている.湖底の
性状は破砕された泥炭などが沈降堆積したものと思
われ陸上で堆積した泥炭よりはゆるい圧密度となっ
ている.
3.2.4 瞳沼の水位
Fig. 4 に DEM データによって描いた瞳沼低地帯
からペンケ沼に至る断面図を示した. 断面の位置
は地形図 Fig. 1 中に A ~ A’~ A’
’で示した.瞳沼
低地帯の北部(Fig. 4 の左)には二つの湿地溝の谷
が横切っている.低地帯は概ね標高 2.1 から 2.3 m
前後で推移しているが,上流側(左)よりも下流側
(右)が若干高い標高となっている.瞳沼の水位は
Fig. 2 瞳沼の斜め空中写真(1998 年 10 月 23 日撮影)
矢印は瞳沼から南へ向かう旧流路
Oblique aerial photograph of Hitomi-numa Pond.
周囲の湖岸標高から 2.1 m 前後であると判断できる.
最下流のペンケ沼の水位は計測時に 1.1 m 程度で
3.2 瞳沼と浮島の形状
岡田 操
Fig. 2
3.2.1 瞳沼と浮島の大きさ
あるが,自然堤防で分断された北側の沼(以後ペン
瞳沼の大きさは以下のとおりである.
の水位よりも高い.
ケ北沼と呼称する)は約 2.4 m となっており,瞳沼
瞳沼の長軸方向の長さ(北北西扌南南東)
:156 m
57
岡田 操
● 2.20 m
N
● 2.10 m
○ 2.20 m
○ 2.20 m
○ 2.20 m
●
● 2.20 m
2.20 m
● 2.05 m
●
2.10 m
● 2.15 m
● 2.25 m
0
50
100 m
Fig. 3 瞳沼の水深(●:結氷季調査,○:非結氷季調査)
Depth of Hitomi-numa Pond.
(●:Measured in frozen over period, ○:Measured in open water period)
Elevation (m)
5
岡田 操
A
Lowland area of
Hitomi-numa
4
↑
Bog Rill
Bog Rill
2 ↑
0
Fig. 3
A’’
R. Shimo-ebekorobetsu ↓
Natural Levee ↓ ↓
Floating Peat (islet)
↓
3
1
A’
W.L.≒2.40 m
L. Penkekita-numa
W.L.≒2.07 m
P. Hitomi-numa
W.L.≒1.11 m
0
200
400
600
800
1000
1200
1400
1600
L. Penke-numa
1800
2000
Distance (m)
Fig. 4 瞳沼低地帯の断面図
水平格子間隔は 100 m,垂直格子間隔は 1 m
Sectional profile of Hitomi-numa lowland area.
Horizontal grid interval is 100 m, vertical grid interval is 1 m
3.2.5 浮島と瞳沼湖岸泥炭の厚さ岡田
Fig. 4
操
一部の泥炭下部にも水塊があることを確認した.そ
浮島泥炭の厚さは測定した 5 点の中で最も厚い部
の部分の泥炭の厚さは浮島とほぼ等しい 1 m か,や
分は 1.25 m,薄い部分は 0.85 m で,平均値は 1.02 m
や薄いところとがあった(Fig. 5).
であった(Fig. 5)
.仮に浮島全体の厚さの平均を 1.00
m とすると面積との積により浮いている浮島の体積は
約 2,000 m ,重量は約 2,000 トンと見積もられる.
3.3 浮島の動きと瞳沼形状の変遷
3.3.1 浮島の浮沈
また沼周囲の湖岸の泥炭の層厚を計測した結果,
結氷季の調査時には,湖面部分と浮島部分とはと
3
58
サロベツ湿原の瞳沼とその形成過程
島が回転できる角度は 90 度程度の範囲に限られて
N
いる.つまり最も右に回転したものが C や D の状態,
左に回転したものが A や B の状態となっている.
■
0.85 m
■
0.95 m
■
1.15 m
0.90 m
■
■
0.60 m
■
1.25 m
0.70 m
■
■
1.00 m
0
50
Fig. 6 浮島と湖岸の状態
ポールを両岸に渡して撮影.手前の湖岸も向こう側の浮島
表面も同じ高さである
Condition between the pond shore and a floating islet.
Picture was taken by placing a pole on both bank.
Both surfaces are level. Hither is a shore, thither is a floating islet
100 m
Fig. 5 泥炭の厚さ
Thickness of floating peat
岡田 操
Fig. 6
岡田 操
Fig. 5
もに氷とその上に積もった雪に覆われていた.氷に
穴を開けると湖面・浮島部分とも氷の表面下 2 ~3
cm 程度のところまで水が上昇してくる.湖面の氷
N
厚は約 50 cm,浮島上の氷厚は正確には計測できな
かったが 20 ~ 30 cm の間と推測される.いずれの
時にも結氷季の浮島表面は水面以下の位置にあった.
A
結氷していない秋季の調査では浮島・湖岸とも乾
いた部分が多いのに対して,融雪が終わった直後の
春季の調査では 20 ~ 30 cm 程度冠水している部分
C
が多かった.非結氷季には湖岸の泥炭表面と浮島の
表面の高さにはほとんど差が見られず,水面に対し
B
て湖岸も浮島と同様な挙動をしているように観察さ
れた(Fig. 6 )
.
3.3.2 浮島の位置
D
浮島はその重量の割に風向が変わると弱い風でも
動いて位置を変える.しかし 4 回の現地調査の際も
0
5 回の斜め空中写真撮影の際も浮島は湖岸のどこか
に接岸していた.浮島が接岸する位置には一定の規
50
100 m
Fig. 7 瞳沼における浮島の位置の例
Examples of the position of a floating islet in Hitomi-numa Pond
則性が見られる.現地調査と空中写真撮影の際には
浮島は Fig.7 の A・B・C・D などの位置にあり,浮
岡田 操
59
Fig. 7
岡田 操
3.3.3 瞳沼の輪郭の変遷
水面の形は大きく異なり,1947 年の写真には浮島
この地域で最初に編集された地形図は明治 31 年
が写っておらず,沼の輪郭には凹凸があり細長く流
版であるが,昭和 30 年代の航空測量の時代になる
路の一部とも見做せるのに対して,1998 年のそれ
までは地上測量による作図が行なわれていたため,
では湖岸線は滑らかになり長方形に近い形に変わり,
瞳沼の地形図への記載はない.初めて航空写真に基
浮島が接岸している様子が写っている.
づいて作成された昭和 31 年版にも周辺流路だけで
国土地理院では上記の 2 枚の写真撮影時期の間
沼は描かれておらず,瞳沼が初めて表わされたのは
に 7 回(1964 年,70 年,75 年,84 年,89 年,93
昭和 47 年版の地形図である.
年,94 年)の垂直空中写真を撮影し,画像をホー
Fig. 8 は戦後まもなく 1947 年に米軍によって撮
ムページ「国土変遷アーカイブ(http://archive.gsi.
影された垂直写真(左)と 1998 年に撮影された同
go.jp/ airphoto/)」上で公開している.これらによる
じ部分の写真(右)を並べたものである.これらの
と 64 年と 70 年の写真では沼の輪郭は 47 年米軍撮
範囲は地形図 Fig. 1 中に鎖線で囲んで示した.両者
影写真と同様な形であり,浮島は写っていないのに
を比較すると上部に写った湿地溝との位置関係から
対して,75 年以降撮影の写真には湖岸から切り離
瞳沼が同じ位置にあることが判る.しかし双方の開
された浮島が写っている.
Fig. 8 瞳沼の垂直空中写真
左:1947 年 10 月米軍撮影,右:1998 年 8 月 ㈱水工リサーチ撮影
Aerial photographs of Hitomi-numa Pond.
Left : taken at Oct. 1947, Right : Aug.1998
4. 考察と形成史
4.1 考察
4.1.1 3 つの沼の水位
Fig. 8
を取り囲むように堆積したからであろう.ペンケ北
岡田 操
沼への水供給源としては湿地溝が一つあるだけであ
るのにこの高さの水位を保っているのは自然堤防が
瞳沼の現地調査時の水深測定結果を比較すると,
形成された南側だけでなく,北側の水理地質構造も
結氷季・非結氷季とも 2.20 m という値が多く得ら
水を通しにくいものになっている反映であろう.
れ,結氷季と非結氷季の観測時に瞳沼の水位はあま
最も下流のペンケ沼周辺にも継続的に水位を観測
り大きくは変動していない.したがって計測された
する施設はない.国土地理院が 2005 年 9 月 30 日か
2.1 m という瞳沼の水位は一年を通してあまり変化
ら 10 月 11 日にかけて実施した調査によって,その
していないものと考えられる.
期間中のペンケ沼の水位は最高 1.83 m,最低 0.21
3 つの沼の水位の中でペンケ北沼の水位が 2.4 m
m,平均 0.792 m と報告されている(国土地理院,
で最も高いのは,自然堤防が向きを変えてこの部分
2007).ペンケ沼は天塩川を通じて日本海からの感
60
サロベツ湿原の瞳沼とその形成過程
潮域にあり,国土地理院が観測した水位は潮汐と調
方向の長さが約 71 m であるのに対して浮島の長軸
査期間中の降雨により下エベコロベツ川から流入し
方向の長さが約 74 m となっており,このわずかな
た小規模な出水の反映であると考えられる.これに
長さの差から浮島は A・B の状態より反時計回りに
対して DEM データから得られたペンケ沼水位 1.10
回転できないものと考えられる(Fig. 7).現在この
m は融雪出水の末期で無降雨時よりもやや高めに計
ような状態にあるのはもともと浮島があった位置
(後述)に関係しているが,今後浮島が湖岸と何度
測された結果だと推測される.
も衝突を繰り返すうちに双方の突起が凹んで回転で
きるようになる可能性はある.
4.1.2 浮島の浮沈と結氷
浮島は積雪・結氷により毎年浮沈を繰り返してい
ると考えられる.瞳沼の水位があまり変動しないこ
4.1.4 接続する水路
とを考慮すると,浮島は冬季には浮力の減少と氷雪
湿地溝の一つの末端から流路が伸び,瞳沼につな
の加重で水面下に沈み,雪融けとともに浮上するが,
がっている.さらに瞳沼から南に向かう流路が現在
一気にではなく徐々に浮力を回復して浮上するもの
でも残っており,DEM データでは計測されず地形
と考えられる.Fig. 1 には瞳沼の西側に沼と同規模
図にも表わされていないが,昭和 31 年版以降の地
の開水面が描かれているが,融雪が終わり泥炭が浮
形図には記載されている.Fig. 2 にはこれが不鮮明
力を回復する過程で見られる季節的な浅い水溜りで
ではあるが写っている(Fig. 2 に矢印で,Fig. 1 に破
あると考えられ,
秋に撮影した写真(Fig. 2 )には写っ
線で示した).現在この流路の末端は自然堤防によっ
ていない.この浮沈のプロセスについては京都市の
て埋められ機能していないと考えられるが,少なく
深泥池の研究で以下のように解釈されている.有機
とも過去には瞳沼の水はこの流路を通ってパンケ沼
物が分解されて発生したメタンガスや二酸化炭素な
に流入していたものと考えられる.水理環境が変化
どの気体が泥炭中にたまって浮力となるが,バクテ
した結果,流路としての機能が失われ単なる開水面
リアなどの生物が活発に活動する夏季には浮力が増
となった.Fig. 8 の左写真右方の 1947 年当時の開
し,冬季には減少するために浮沈が起こる(深泥池
水面は現在では水面上に進出した植物に被われて水
学術調査団,1981;深泥池七人会編集部会,2008)
.
面を見ることはできない状態となっている.
これは氷雪の影響の少ない京都市での場合であるが,
国土地理院の「国土変遷アーカイブ」の画像によ
より寒冷なサロベツ湿原では浮力の減少はより著し
れば 1984 年撮影の写真まではこの水路が判別でき
いであろう.瞳沼の浮島は沈んでいたと言っても着
る程度に写っているが,89 年以降に撮影された写
底していたのではなく氷の下面に浮島の表面が付い
真では不鮮明となっている.
た状態であった.気体の発生が減り,浮島の比重が
水と同程度となり浮島と水面が等しくなると,浮島
4.2 瞳沼と浮島の形成史
表面上に水が浸入し凍結する.この過程を何度か繰
サロベツ湿原の緩やかなドーム状をなした高位泥
り返すうちに氷の重量によって浮島は水面下に沈め
炭地形の形成開始は 6,300 から 6,400 年前にさかの
られていくものと考えられる.
ぼるとされている(紀藤,2009).またこの地域の
泥炭の最深部からはミズゴケ泥炭が出てくることか
4.1.3 浮島の回転
ら,形成開始当時の泥炭地は陸上にあり,その後の
浮島が沼の内部を漂っている時間は短く,多くの
傾動運動により低下したとの考え方もある(阪口,
時間は湖岸に接岸しているものと考えられる.沼の
1974).さらに岡田(2009)はサロベツ湿原特有の
内部を漂うとき浮島は移動するとともに回転もする
微地形である湿地溝が上記の泥炭ドームに埋没した
が,その浮島の回転角度が 90 度程度の範囲に限ら
旧河道(梅田・清水,2003)を成因としているため,
れるのは瞳沼と浮島双方の形状に関係していると考
約 2,000 年前以降に成立した可能性を指摘している.
えられる.沼と浮島の形状を比較すると,沼の短軸
湿地溝は直角に近い角度で開水面に流入するという
61
岡田 操
説(岡田,2009)と,その湿地溝が瞳沼低地帯で急
が上昇したことになる.ペンケ沼は自然堤防形成以
な角度で南東方向へ折れ曲がっている事実から判断
前も現在もサロベツ川と天塩川を経由して日本海に
すると,湿地溝が形成され始めたころにはペンケ沼
注いでおり,その水位に影響を与える感潮域として
を含む瞳沼低地帯は一つのまとまった開水面であっ
の環境はほとんど変わっていない.
た可能性がある.その後泥炭の堆積によって徐々に
現在瞳沼から南方に伸び,かつてはペンケ沼につ
開水面が狭められ,ペンケ沼とペンケ北沼の範囲を
ながっていた流路がどの程度の流下能力をもってい
残すのみとなっていったと考えられる.
たかを知る術はすでにないが,平常時の水源として
は湿地溝からにじみ出る水を集めている程度である
4.2.1 排水路掘削と水流動環境の変化
から,大雨後などを除いてわずかな流量しか流れて
瞳沼低地帯では排水路掘削がペンケ沼へ土砂を流
いなかったと推定できる.そのような条件下で,自
入させる結果を招き,水の流動環境が急速に変化し
然堤防が形成される前の時代(1928 年以前)には
た.1910(明治 43)年に始まる北海道第一期拓殖
瞳沼の水はほとんど落差なしでペンケ沼に注いで
計画では大正年間に土地開発に関する種々の調査
いたはずである.現在の水位状況(瞳沼水位 2.1 m,
が実施され,続く第二期拓殖計画時代 1927(昭和
ペンケ沼水位 1.1 m)から判断すると,瞳沼の水位
2)~ 1946(昭和 21)年を通じ原野開発の前提であ
および瞳沼低地帯の地下水位は最大で 1 m 程度上昇
る排水路工事が行なわれた(北海道開発局,1972).
したことになる.
その一つで現在も機能している第 7 号幹線排水路
(現・下エベコロベツ川)は 1926(大正 15)年か
4.2.3 泥炭堆積層の浮上
ら 1928(昭和 3)年までの 3 ヶ年に施工された.下
瞳沼低地帯では泥炭堆積層が広範囲で水に浮い
エベコロベツ川の水をペンケ沼に排水するもので全
ている可能性が大きい.1947 年に米軍が撮影した
長 9,735 m である(環境庁自然保護局,1998).第 7
写真(Fig. 8; 左)には瞳沼以外に水面は見られず,
幹線排水路が機能し始めた昭和初期から流水に運ば
周辺はひろく植生に被われていたものと見られる.
れる土砂がペンケ沼を埋塞しはじめた(国土地理院,
現在の瞳沼周辺も非常に低湿ではあるが湿原植生に
2007)
.排水路通水直後にはペンケ沼に流入した土
被われて,湿地溝へ連なる流路以外に開水面をみせ
砂は慣性力で南西に向かって伸びるが,埋塞が進む
るところはない.植生の基盤は泥炭であり,泥炭表
と方向を北西に転じやがて対岸に突き当たり流向を
面は地下水位と同等かそれよりも僅かに高い.上記
南に変えた.この過程でペンケ沼内部では排水路が
のように徐々にしろ 20 年程度の短期間で上昇する
運んだ大量の土砂で自然堤防が形成され,河道が天
水位とともに地表の泥炭の堆積層厚が増加したと考
井川のようになり河床高はペンケ沼の水位よりも高
えるには無理がある.一般に泥炭堆積速度の平均は
くなっていった(Fig. 1).
1 mm/y 前後と言われており(例えば平川,2002;
紀藤,2009),栄養塩の供給が多い水域で堆積速度
4.2.2 瞳沼低地帯における水位上昇
が大きいとしても,20 年で堆積する泥炭は 2 cm か
瞳沼低地帯では次のような過程で水位が上昇した
ら数 cm 程度であろう.また瞳沼低地帯の標高は現
ものと考えられる.すなわち第 7 号幹線排水路の通
在大半が 2.1 ~ 2.3 m の範囲にあるが,水位が 2.1
水により自然堤防が形成された結果,ペンケ沼が二
m に達する以前からほとんど平坦なこの標高に揃っ
つに分断され,分離されたペンケ北沼と更に北側に
ていたということも考えにくい.現に浮いている浮
つながった瞳沼低地帯の水位と地下水位は上昇した.
島の泥炭表面標高は約 2.2 m と計測されている.
先に示した断面図(Fig. 4)のように現在ではペン
非結氷季に湖岸と浮島表面の高さがほとんど同じ
ケ沼の水位が 1.1 m 程度であるのに対して,元々は
で,水面に対して同様に浮沈の挙動をしているとい
同じ湖面であったペンケ北沼の水位は 2.4 m となっ
う事実からは,少なくとも湖岸の一部は浮島と似た
ており,わずか 20 年足らずの時間で 1.3 m も水位
状態で浮いている部分もあると考えるのが自然であ
62
サロベツ湿原の瞳沼とその形成過程
ろう(Fig. 6)
.更に湖岸の泥炭層の下にも水塊の層
Original position of
floating islet
が挟まれているという観測結果も沼周囲の泥炭地が
Outline of Hitomi-numa Pond
at Oct. 1947
N
浮いていることの有力な証拠となる(Fig. 5)
.
水域であった所に泥炭が堆積していく場合,底部
に湖底堆積物の層を挟むことになる.この層は粉砕
Outline of Hitomi-numa Pond
at Aug. 1998
された泥炭片やプランクトンの遺骸などが堆積した
0
もので,植物繊維を多く含む泥炭の堆積層に比べ固
50
100 m
Fig. 9 瞳沼の輪郭
実線:1998 年 8 月,破線:1947 年 10 月,点線:浮島の形状
Outlines of Hitomi-numa Pond.
Solid line : Aug. 1998, Broken line : Oct. 1947, Dotted line :
Shape of floating islet
着力が弱いと考えられる.これらのことを踏まえる
と,瞳沼低地帯では地下水位の上昇に起因する浮力
の増大に伴なって泥炭堆積層中の固着力の弱いとこ
ろで切り離された泥炭堆積物が水に浮いた状態と
岡田 操
なっている可能性が大きい.
Fig. 9
さは 1 m 前後であり,面積との積から浮島はおおよ
そ 2,000 m3 の体積と 2,000 トンの重量がある.冬季
4.2.4 瞳沼と浮島の成立
間に浮島は積雪・結氷の重量が加わるため水面下に
瞳沼の浮島は戦後まで存在しておらず(Fig. 8),
沈み,雪融けとともに徐々に浮上することを繰り返
その後それまでに既に浮いていた泥炭堆積物の一部
している.これは泥炭の分解によって発生するガス
が岸から切り離されてできたと考えられる.
の量の季節的な多寡が浮力の増減に影響を及ぼして
Fig. 8 の 2 枚の写真の湖岸線をトレースし重ね
いる結果であると考えられる.
合わせたものを Fig.9 に示した.実線が 1998 年の,
現在の瞳沼とそこに浮かぶ浮島は昭和初期に掘削
破線が 1947 年の湖岸線であり,形の違いが大きい.
された第 7 号幹線排水路(現・下エベコロベツ川)
両湖岸線の間の点線の位置に現在の浮島を移動する
によって引き起こされた水の流動環境の変化が原因
とそのままの形状ではまり込む.この関係から類推
となって形成されてきたと考えるのが合理的である.
すると,1947 年当時には水に浮いてはいるが周囲
開拓がはじまり排水路が開削され通水されると,上
とつながった泥炭の塊があり,その一部分が,何ら
流から土砂が運ばれてペンケ沼湖面の北部に自然堤
かのイベントを契機に岸から切り離されて浮島に
防が形成された.自然堤防は瞳沼低地帯からペンケ
なった.その後浮島が風に吹かれて動きまわり,湖
沼に向かう地表・地下水の流れを遮断し,ペンケ北
岸への衝突を繰り返すうちに双方の輪郭とも滑らか
沼と低地帯の水位を上昇させた.開拓以前にはこの
になり現在見られるような形になったものと考えら
地域一帯の水位を支配していたペンケ沼では現在,
れる.この経緯でできたものとすれば現在の浮島は
水位が標高 1.1 m 前後であるのに対して,自然堤防
切り離される前には Fig.9 の点線の位置にあった泥
に隔てられたペンケ北沼は 2.4 m,瞳沼は 2.1 m と,
炭塊であると考えられる.この位置は湿地溝の一つ
これより高くなっている.水位上昇に伴ない低地帯
が瞳沼に流入する地点に当たるので(Fig. 2 参照),
に堆積していた泥炭の一部は浮力を受けて剥離・浮
湿地溝が浮島切り離しの契機になんらかの影響を与
上した.浮上した泥炭は互いにつながって存在して
えている可能性もある.
いたが,一部が切断されて浮島になった.その時期
は国土地理院「国土変遷アーカイブ」の画像を根拠
5. 結論とまとめ
に 1970 年 6 月から 1975 年 7 月の間であったと考え
瞳沼では現在,面積約 7,000 m の湖面に約 2,000
られる.
m の浮島が浮いて漂っている.双方の形状による
以下に瞳沼とその浮島の形成過程について整理し,
制約で浮島は限られた範囲を移動している.沼の
Fig. 10 に模式的に図示した.
2
2
① サロベツ地域の低位泥炭地と高位泥炭地の形
底は平坦で平均水深は 2.17 m,最大で 2.25 m と深
成(6,400 年前~)(紀藤,2009)
く,湖岸は垂直に切り立っている.浮島の泥炭の厚
63
岡田 操
⑤ ペンケ沼北岸を取り囲む自然堤防形成とペン
② 傾動運動による瞳沼低地帯の湖沼化(~ 2,000
ケ北沼の分離(1930 年頃~ 1947 年以前)
年前)
⑥ 瞳沼低地帯の水位上昇と低地帯泥炭の浮上(⑤
③ 湿地溝の形成と瞳沼低地帯の泥炭堆積(2,000
と同時進行)
年前以降~)
(岡田,2009)
⑦ 浮上泥炭の切断と浮島の分離(1970 年~ 1975
④ 7 号幹線排水路(現下エベコロベツ川)開削・
年)
通水とペンケ沼の埋積開始(1930 年頃~)
2,000 B.P. ~
Peat surface
Peat deposit
↓
←Bog rill
←Bog rill
Open water
1928
Lowland area
Drainage
channel
↓P. Hitomi-numa
L. Penke- numa
1930 ~ 1947
Ascent of
water-table
L. Penkekitanuma
L. Penkenuma
1970 ~ 1975
Gap under the peat deposit
↓Floating islet
L. Penkekitanuma
L. Penkenuma
Fig. 10 瞳沼と浮島の形成模式図
Formative process of Hitomi-numa Pond and a floating islet
岡田 操
Fig. 10
従来,浮島の成因として以下のような報告がある.
スの後に A のプロセスが続いた結果,形成された
北海道雨竜沼湿原で佐々木(2002)が報告している
ものと考えられる.
ように A:湖岸の泥炭塊が切り離されるか崩落する
瞳沼の浮島はこのように複合的な成因によってで
ことによってできる場合,羽田(1937)が北海道霧
きたと考えられる点,形成のきっかけが泥炭地開拓
多布湿原で報告した B:湖底堆積物が有機物分解で
のための排水路掘削という人為的なものであった点,
生じたガスにより浮上してできる場合,
大竹(1970)
最近になって比較的短い期間に形成された点など,
が福島県蓋沼で報告した C:既に陸上で堆積してい
他の地域に見られる浮島とは異なった特異な形成過
た泥炭が地滑りなどによる周囲の水位上昇の結果浮
程をもつ例として特筆すべきものである.
上した場合などである.瞳沼の浮島は C のプロセ
64
サロベツ湿原の瞳沼とその形成過程
謝 辞
本研究の実施に際し,現地調査には環境省稚内自
然保護官事務所の全面的な協力を得,佐々木伸宏・
村元正己両氏にはデータと現地情報の提供を戴いた.
石橋亮介・稲垣紘順・稲垣順子・賀勢朗子・片岡澄江・
高橋英紀・千田智基・辻田香織の各氏には調査の支
援を戴いた.また環境省西北海道地区自然保護事務
所(当時)からはレーザー計測 DEM データの提供
を受けたことを最後に記して謝意を表します.なお
本研究の一部は環境省の環境研究総合推進費(課題
番号:D-0908)の支援により実施された.
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岡田 操
Formation of Hitomi-numa Pond in Sarobetsu Mire
Misao OKADA
Suiko Research Co., Ltd.
Abstract: Hitomi-numa Pond is situated in the lowland areas in the central region of Sarobetsu Mire. This
small pond (area, 0.7 ha) contains a relatively large floating islet which is composed of peat. This paper reports
objective data that describe the current state of the pond and considers the processes underlying the formation
of the pond and the floating islet. The islet was formed within only a few decades of the 20th century, under the
influence of agricultural development in the surrounding mire. An excavated drain was constructed in this region
for agricultural purposes. Through this drain, sand and mud flowed into the lowland area, eventually forming a
natural levee. This levee altered the flow of ground- and surface water, and the water level in the lowland area
gradually rose. Owing to the buoyancy of peat, the peat deposits in the lowland area surrounding the pond floated
to the top of the pond as the water level elevated. A fragment of the floating peat presumably separated from the
peat matrix and drifted on the surface of the pond. The floating islet of Hitomi-numa Pond is peculiar since it
was formed because of an artificial act and since the time required for its formation can be accurately determined.
Moreover, the process of its formation was complex, involving multiple factors.
Key words : floating islet, peatland, bog mire, bog rill, microtopography
66
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