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Page 1 哲学の窮極の関心は、人間の自由である、と一応規定することが

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Page 1 哲学の窮極の関心は、人間の自由である、と一応規定することが
愛・自 由
一つの断想
国 谷 純
良
β
常識的なそれと区別されて、哲学の歩みは徹底的・根源的であり、科学のそれと区別されて、主体的・自覚的である。し
るのである。だが哲学が関心する仕方は、他の諸々の人間の営みのそれと区別されており、より段階的に言えば、日常的・
思う。哲学はさまざまの人間の営みの一つであり、その一つとしてまさしく人問の自由ということを窮極の関心としてい
しかしこの自由ということは、一層適切に言えば単に哲学だけでなく、人間の一切の営みの根抵にある関心であろうと
て表わそうとするわけである。
を指しているものと解することが出来ないであろうか。私は此処でこの一つの事柄を、端的に人間の自由という言葉を以
であるかの色彩を帯びるだけであって、その関心とするところは決して異なるものではなく、窮極に於いて唯一つの事柄
幸福、解放、浄福、解脱、救済などの言葉を用いても、その扱い方が日常的・自然的であるか、倫理的であるか、宗教的
哲学の窮極の関心は、人間の自由である、と一応規定することが出来るかと思う。もちろん自由という言葉の代りに、
一
かも哲学が自由への関心に於て、主体的.根源的である点は、宗教と似かよい、宗教性を帯びることとなるが、宗教なら
一27一
知
ぬ哲学として自らを立てるところのものは、その知的・理性的媒介性にある。哲学はもともと、りぼδω8ぼ鋤の語が示す
ように、知恵を愛することであり、知恵が知識ならぬ知恵として、対象的な事物に関わる知と区別されて、主体的.実存
的な知を意味するとしても、感性ならぬ信仰ならぬ理性の主導性が、哲学を固有なものとさせていることは言う倹をたな
い。ただこの理性は、感性や信仰とどのように関わるか、対象的な知がどのような位置にあるかを自覚しているのである。
とにかく哲学は、理性の原理の導きのもとに、主体的・自覚的に、徹底的・根源的に、その窮極の関心である人間の自由
を探求するわけである。
さてこのような一般的な考察から哲学そのものの世界へ一歩踏み込んで見れば、そこには同じく哲学と言っても、自由
の把握の異ったいくつかの仕方がうかがえるのである。例えばへーゲルに於けるように、絶対精神の中にすべての特殊的
なもの、個別的なものを埋没させることによって、自由が実現されるとするものに対して、キェルケゴールやニィチェに
於けるように、個的主体をあくまで確保しながら永遠者と関わることによって自由となる仕方、更にマルクスに於けるよ
うに、歴史的・物質的社会の必然性の中に実践を投入することによる自由の獲得などがある。もちろんこの他にも尚いく
つかの型があげられるが、此処では特に右の三つのものについて考察を進めることにしたい。
などの固有性が消失してしまうからであり、又、キェルケゴールの﹁単独者﹂、ニイチエの﹁権力意志﹂の主体は個別者で
なく、へーゲルの絶対精神は普遍者であり、自由の力点はすべて此処に集中せしめられ、個人ρ個別者︶や社会︵特殊者︶
に於けるそれは、特殊が普遍と個別とを吸収しつくすことであると言って差支えないであろう。なぜならば、申すまでも
った区別はさておぎー個別が特殊を除外して、端的に着遍と関わり、普遍を吸収することであると言、兄るし、マルクス
5①ω︶ とを吸収し去ることであると言うことが出来、キェルケゴールやニィチェに於ける自由とは、1此の両者の立入
今、論理学的に表現すれば、へーゲルに於ける自由とは、普遍︵︾ロσqゆ日似口①ω︶が特殊︵こd①ω05αo冨ω︶と個別︵国ぢN2
一28一
あり、これを中心として自由は展開し、神︵普遍者︶や超人︵普遍者︶も、その個別者なしには意味を持たないからであ
る。更に、マルクスの﹁社会﹂國は特殊老であり、自由は社会に於ける自由としてのみ真に自由であり、神︵普遍者︶や個
人︵個別者︶のそれはむしろ否定せられるべき性格のものだからである。これらの哲学は各々、人間の自由に関して類稀
な境地に立ち、その発言するところは﹁+字架の中の薔薇﹂︵へーゲル︶と聞かれ、 ﹁キリストとの同時性﹂ ︵キェルケ
ゴール︶、﹁運命愛﹂ ︵ニィチエ︶と呼ばれ、 ﹁社会の主人﹂ ︵エソゲルス︶などと説かれている。そしてそれぞれの基礎
体験に於ては、互に侵入することを許さない固有の深みを踏まえて立ち、特有の色調を漂わせている。しかし自由の論理
的構造を取り上げれば、それぞれの体験の差別は、右に述べたような普遍、特殊、個別の相互の諸関係の区別として理解
一29一
することが出来るのである。
理性の原理の導きの下に、体験を論理化し、原理的に究明することは哲学の任務である。しかもこのことはあくまで根
源的究明への意図のもとになされるのであり、根源へ、・そして根源からの解明により、既成の体験相゜互の問にも了解の道
が開け、新たな自由探求への展望の地歩も確保出来るであろう。私が右の三種の哲学を取り上げるのも、つまるところ新
たな自由探求のためである。だが、此の小論に於けるさしあたっての目標は、これらの哲学的立場の相互理解を果す統一
点を見きわめることにある。
それには論理的構造を手がかりにすることが必要であり、従って統一点という場所もそこでどのような論理的構造が構
築されるかということに、問題は赴くであろう。先ずへーゲル哲学の性格の立入った考察からなされなければならない。
﹁真理とは自己自身となる過程であり、終りを目的として予め定立して始めとなし、そしてただ実現と終りとによっての
二
み現実的となる円運動である。﹂丘ΦσqΦド℃げ餌8ヨ窪o一〇ゆq貯αΦωΩΦ訪ぢρ口o中ヨoδ房﹁ω︾偉ωびq°膳b巳hレGり゜b。O︶。﹃精神現
象学﹄は、ヘーゲルの全哲学体系の序論のような位置にあるが、この書の序文の中に右のような言葉が語られている。此
処で人は直ちにへーゲルの弁証法論理のことを聞きとるであろう。或は又目的論という概念を直ちにこれに投げかけるで
あろう。もちろんそうしてよいに違いない。だが何よりも此処でへーゲルの普遍主義とも言うべきものが読みとれるので
へ も へ ぬ
ある。﹁終り﹂は﹁始め﹂からある。しかしそのあり方は現実的ではなくて潜勢的ではあるが、とにかく意識の経験の運
動を導く原動力として、終りと言うものは始めからあるのである。 ﹁終り﹂とは此処では言うまでもなく﹁絶対知﹂であ
る。すなわち絶対精神が自己自身を概念の形に於て知ることである。最も低次的・直接的な意識である感覚から出発し、
対象的意識は自ら自己意識であることを経験し、自己意識は理性の段階を経て精神であることを経験し、遂にさきに述べ
た絶対知に達する意識の経験の弁証法的運動は、予め絶対知を知っている絶対精神の背後からの導きによっているのであ
る。このさい意識の各段階は、それぞれ自らが個別的に固有のものであるかのような装いを持つが、結局内部から起る自
己矛盾により、懐疑と絶望とに陥って、次の高次の段階に止揚されて行く。へーゲルはその間の事情を、﹁知の働きとは、
働きを抑制するかのように、限定とその具体的生命とが自分では自己維持と特殊的な関心算を営むつもりでいながら、実
も ヘ カ
は全く反対に自己自身を解体して全体の契機としているのを観望する諦計である﹂︵帥三自‘Qり゜蔭9と言っている。このよ
うに全体すなわち絶体知の契機となっている意識の各段階は、その都度に、自らが解体されるのだが、絶対精神が背後に
於て誰計を以てそれを動かし眺めているのである。これが﹃歴史哲学﹄に行って、薯名な﹁理性の誰計﹂の思想となって
ね あ
いる。へーゲルが冊界史的個人の運命について語るところでそれは述べられている。すなわち、﹁特殊者は互に闘い合い、
その↓部が滅ぼされて行く。けれどもこの韓殊者の闘争、滑落の中にこそ一般者が結果して来るのである。この一般者は
妨害されない・対立と闘争とに陥り危険に瀕するものは一般的理念ではない。一般的理念は攻撃や殿害を受けずに背後に
30一
潜在していて、熱情的な特殊者を闘争の修羅場に送って互に磨滅させるのである。これを理性の誰計と呼ぶことが出来
る。﹂ ︵∪器くΦヨロロ津ヨユ興OΦωoげ一〇げけρの゜一〇伊 く2,ひq噌く°=o跨ヨΦ一ωけΦ炉α︾二自︶と言う。記すまでもなく、へー
ゲルは世界史について、﹁歴史は自由の意識の進歩である﹂︵筐α‘Gっ゜①。。︶となし、﹁理性が世界を支配する﹂︵一ぼα;の・
ニ説き、﹁神の摂理が世界を支配する﹂︵コリ一α二Gり゜GQQQ︶とも言いかえている。従って彼の歴史哲学は一つの神義論で
せ疲れさせながら、しかもそこで直接には自ら此の過程に入り込まず、ただ自らの目的を遂行させること﹂︵国昌N賓匹o冨−
の誰計﹂は、より論理的に表現すれば、 コ般に媒介的な働きの中にあり、此の働きは様々な客体を意のままに互に働か
人でさえも・理性の誰計・すなわち絶対精神の誰計・狡知によって操作される単なる施働にしか過ぎないのである。﹁理性
へーゲルでは、個人の個別的自由というものは何処にも説かれていない。たとい世界精神と言われるような世界史的個
ある。いな彼の全哲学の性格がそうであった。此処ではそれを普遍主義と言うわけである。
p。)
の孤島で孤独に死んで行ったその末路などを思えば、この世界史的個人にとって誰計の語はまことに的確である。すなわ
まさに驚くべきこと、又は呆れるべき二とではないだろうか。あの全欧州を震憾させた英雄ナポレオソが、セソトヘレナ
る。すなわちさきに、普遍が特殊や個別を吸収すると言った次第である。
ね へ
﹁誰計﹂ピぢけは狡知とも訳されるが、冷酷な響きをもった言葉である。しかしこの言葉に託して自由が語られるとは、
言う﹁自由﹂の構造は、明確に示されたと言える。これは個人の個別的自由ではなく、絶対精神と言う普遍者の自由であ
るために、個人を手段に使い、国家を﹁材料﹂︵<°冒90ごQ◎°旨O︶とするとへーゲルは説いている。もはやへーゲルの
に他ならない。此処では明らかに個人は手段である。そして絶対精神は自らの窮極目的を実現ー此の内容が自由ーす
ぬ ロ
へ自己を定立し、自己と客体との問に他の客体を挿入すξこと﹂︵類一ωω①コωoげ凶津α窪ピoΦq貯H一・ω・ωりQ◎・い鋤ωωo昌︾ロωひq・︶
島① ユ興bげ=oωob三ωoずΦ昌宅尻ω①pωoび昧8P吻b。OりNOω讐斜ピ鋤ωωo口︾Oωσq°︶であり、﹁目的が客体との直接的な関係
一31一
b。
ち誰計は、運命に翻弄された人間が、運命の冷酷に対して発する言葉である。そして運命による翻弄は、単に世界史的個人
に於てだけでなく、この歴史の現実に生きるあらゆる個人にも共通した事柄であろう。歴史の現実は人間にとってまこと
に偶然と災厄とに充ちた世界である。﹁歴史は幸福のための地盤ではない﹂︵一σ一鳥←ω゜㊤b⊃︶と言われている通りである。し
かしそれにも拘らずへーゲルは、﹁歴史は自由の意識の進歩である﹂と説き、自由を語る。この自由はすでに述べたように
絶対精神の自由だからである。だが私は此処で少しの間立止らなければならない。哲学の窮極の関心は人間の自由である
と冒頭に私は記したが、へーゲルが人間に無関係な絶対精神又は神の自由について説くだけであるならぽ、それは無用であ
り、滑稽という他はない。実はへーゲル哲学もその窮極の関心として、人間の自由を問題としているのであると思う。だが
一見人間の自由と全く反対の妻柄が語られているとしか考えられない彼の叙述は、どのように解したらよいのであろうか。
このことはやはりへーゲル自身に聞き入ることによって、そこから答を与えられるだろう。彼は言う、 ﹁客観的に考え
れば、理念と特殊な個別性とは必然と自由との大きな対立関係に立っている。それは運命に対する人間の闘争である。
しかしわれは必然性を運命という外的必然性としてではなく、神的理念の必然性と考えるのであり、ここにいかにしてこ
の崇高な理念が人間の自由と融合され得るかという問題が提起される。個人が抽象的に自己の意志するものを絶対的に措
定することが出来る場合、個人の意志は自由である。﹂︵<°一口α゜∩γ噂ω゜◎Qもo︶と。此処には﹁自由﹂に対立するものとして
の﹁必然﹂という概念が先ず用いられている。そして運命とは外的必然性のことである。しかし必然性が神的理念の必然
性と解せられるとき、この必然性はもや自由と対立するものではなく、却て融合されるものとなる。個人が抽象的に、す
なわち単に恣意的に自分の意志を働かせるときには、運命という外的必然性に衝突するだけであるが、絶対的に、すなわ
ち神的理念の必然性に合致するように働かせるとき、そこに自由が開けると言うのである。此処でヘーゲルの自由は必然
と合致する自由、或は端的に必然の自由と呼ぶことが出来る。このとき、.人間の自由が全く見られなかったような、さき
も へ あ も も
32
に考察して来た事柄の中に、われわれは大いなる人間の自由が語られているのを知るのである。
誰計という言葉を用いながらへーゲルが自由について語る秘密を、われわれは今や窺い得たかに思う。絶対精神すなわ
ち普遍者の自由とは誰計に於て個別者を手段化するものであるが、個別者は普遍者のその必然性に自らの意志を合致させ
るとき、個別者の特殊的意志は止揚されて普遍者の意志となる。個別老の個別性は没して、普遍者の一部として、いな更
に自ら普遍者として、個別者は自已を自覚するのである。このとき普遍者の自由はそのまま個別者の自由となり、誰計や
手段と呼ばれる事態は解消して、すべては明るく直き神的理念の必然性だけになる。顧みれば﹃精神現象学﹄に於て、意
識の経験のあらゆる段階を貫いて導く絶対精神の謎計も、個別者がその意識の弁証法的運動に於て、絶えず普遍者に高ま
ヘ カ
ヘ へ ぬ ヘ へ
って行く過程を通じて、自ら体験する絶対知の自由の必然性に他ならないわけである。
ぬ あ
へーゲル哲学が汎神論と呼ばれるのは、自由の右のような構造から結果する普遍者と個別者との合一という事態に由来
する。ヘーゲルは此の限りに於ては、スピノザと軌を]にし、又シュライエルマッヘルとも同類である。﹁スピノザ主義
者となることは、あらゆる哲学的思索の本質的な端初である﹂︵出①σqoだく〇二〇讐昌αqの口体σ臼島①O①のoぼo匿①α興勺げロ9
一33
ωoO三ρHじdΩ゜Qり゜H①9臼8罵昌臼ω︾oωσq°︶と彼は述べて、あらゆる特殊的なものを普遍者の限定として発出させることが
哲学する必要条件であることを主張しているが、スピノザに欠けていた弁証法論理を駆使したことの他は、へーゲルはま
さにスピノザ主義を離れていなかった。シュライエルマッヘルがへーゲルの主知主義に反対して、 ﹁宇宙の直観と感情﹂
庶O虫①戦ヨ鋤oげ①さ開①α①昌体σ興巳①国①一一σqδPGり゜駅9H︾ロ中︶を宗教の固有の本質として提唱したことも著名である
者の必然的決定の中に、それと合一する個別者の自由を体験したのである。これの思想的表現が汎神論と呼ばれているも
験と、ヘーゲルのそれとは理性と感情との方法的な差異を他にしては異るところはなかったのである。彼等はすべて普遍
が、﹁私は無限な世界の懐に横たわる。この瞬間、私は世界の魂である。﹂︵=り一〇°’ω゜刈bΩ︶というシュライエルマッヘルの体
(Qo
のに他ならない。
しかしへーゲルの汎神論は、主知主義乃至合理主義の汎神論である。彼の自由の体験の主軸にあるものは知性乃至理性
の卓越した活動なのである。彼の哲学はまさに此の理性活動そのものであった。すなわち﹁哲学は不正に見える現実的な
ものを理性的なものに和解せしめ、浄化し、現実的なものが理念自体に根拠を持ち、それによって理性が満足させられる
べきものであることを示す﹂︵<°ぎα゜O°ω.刈Q。︶と言う。此処に語られている和解くΦ話αげづ億づひqという事柄こそ、へ
ーゲルの自由の内実をなすものである。これに関して更に引用すれば、﹁理性を蕎薇として、現在界の十字架のうちに認
ね へ ぬ ぬ ミ
識し、以て現在を悦び楽しむこと、この理性的洞察こそは、概念的把握をなそうとする、既つ実体的であるものに於て主
体的自由を保つと共に、主体的自由を以て特殊や偶然のうちに朔止らないで、絶対的に査るものの︶らに立とうとする内
的要求の一度起った人々に、哲学が与える現実との和解である。﹂︵Ω毎5自犀巳oコ鮎突℃7自oのo℃三Φ自①ω閑①o鐸ω゜<oほΦ︻
である。彼はどのようにしてこの高貴な体験に立つことが出来たのであろうか。だが先ず高貴とは何のことか。それは日
﹁理性の誰計﹂を誰計ならぬ﹁神的理念の必然性﹂として貯うこと、この自由の体験の主体は、ほかならぬへーゲル自身
、兄ることはすでに述べた。だが私は此処で、このようなヘーゲル哲学に対して、批判的補足をしなければならない。
中の薔薇﹂であると言うことが出来る。これが論理学的には、普遍が特殊と個別とを吸収する形をなし、普遍主義とも言
さて右に考察して来たところからへーゲルの自由観をまとめれば、﹁必然の洞察﹂であり、﹁和解﹂であり、﹁十字架の
架の現実の中に花ひらくものとせられているのは、明らかに彼の合理主義を物語るものである.、
現実との和解が果される。そして此処に人間の自由が確立されるわけになる。このさい理性が薔薇にたとえられて、+字
ぬ へ
た現実の中に生きているが、その現実を貫く神的必然性を理性によって洞察することによって、辞悩が悦楽にかえられ、
αρGo°H9団o龍90冨冨お︾oのσq°︶というわけである。言いかえれぽ、人間は日々十字架を負うような不正と苦悩に充ち
34一
常性を超越していることである。日常的・常識的立場からは、誰計は偶然であり運命であっても決してそれ以上のもので
あることは出来ない。従って誰計を必然にひるがえすことは日常性を突破超越するところでこそ初めて可能なのである。
この体験を今高貴と呼んだ。このような価値判断的な表現をさしひかえるとしても、これはとにかく異常な、又は非常な
体験であると言う他はない。すなわち文字通り日常性を超えたところの体験である。この体験の主体には、深い否定性の
自覚が伴わなければならないことは明らかであろう。へーゲルの個別的主体の内部には、日常的自己の烈しい自己否定の
体験が秘められていたものと見なければならない。
今や端的にへーゲルの原体験の深みに肉薄すべきときとなった。﹁理性の誰計﹂を﹁運命の外的必然性﹂としてでなく
﹁神的理念の必然性﹂して肯うものは、へーゲルの個人精神としての理性であるが、それは彼の個別的な個体的存在を離
れたものではあり得ないと思う。此のとき理性が洞察するということは単に知ることや観ることではなくて、外的世界の
ヤ へ
必然性をすなわち自己の必然性として自ら進んで選び取る内的行為でなければならないであろう。しかし此処で言う選び
へ ぬ あ へ
ということは、不動の存在者が﹁あれかこれか﹂を恣意的に選び得ることを意味するのではなく、選ぶことによって自己
の存在を決定するような立体的な選びを意味する。従って此処にある自由は、いわゆる選択の自由を超えた決断の自由で
ぬ う へ も カ へ ね も も へ
ある。個別者の自由は世界を貫く普遍者の外的必然性の決定によって全く否定されたものでありながら、しかも否定の深
淵からこの決定を選び取り、必然的決定はそのまま自己の能動的な働きに転じ、そこに自由な自己存在が誕生する。﹁理
性の洞察﹂の真相は知の事柄ではなくてまさに意志の事柄でなければならない。すなわち個的主体の理性と共にある個的
主体の意志が、必然を決断的に選び取ることによって、そこに古き自己存在の死を通った新しい自己存在の復活があるの
である。このような個的主体が﹁実存﹂であることはもはや言うまでもない。へーゲルの自由観の根祇には、彼自身の原
体験としての実存的自由の体験があったものと考えられるのである。
一35
しかし見えるへーゲル哲学は、このような実存的自由をあらわには語っていない。彼の生きた十九世紀初期の円熟した
ゲルマソ市民社会の歴史的状況と、冷静な主知主義とは、自らの生々しい原体験を完全に蔽いつくし、彼の哲学をおしな
べて汎神論的色彩で塗りつぶした。彼は類稀な弁証法論理を駆使しながら、その弁証法は絶対理念の普遍者の中に一切の
特殊・個別を溶解させる綜合弁証法であり、否定と矛盾対立の真意義を軽視し、その結果、アリストテレス的同一性論理
に顛落したかのような印象をさえ与える。彼の自由は、外見ではあくまで普遍者たる絶対精神の自由で、個別的個体的人
間の自由ではなかった。彼の理性は観想する理性であって、実践する理性ではなかった。所詮﹁黄昏に飛ぶ、・・ネルヴァの
棊﹂︵内Φ餅声くo霞①畠ρG。・嵩︶として、後向きの理性ではあっても前向きの理性ではなかったのである。此処に、見え
るヘーゲル哲学の根本的な限界があるわけである。
それにも拘らず私は見えざるへーゲル哲学の根砥にいどみ、彼自身の原体験に鉾先をさしつけるのである。それはへー
ゲルを回避せずに、ヘーゲルを突破・超克して行くためである。この鉾が私の﹁実存﹂である。
私の実存が探りあてたものは、へーゲルがそのブイロゾフィーレソの道程に於て忘却し去った彼自身の実存である。薔
薇色の汎神論の忘却の淵から彼の実存を呼び醒ますときに、へーゲル哲学は新たな装いを呈し、新たな光を帯びて再びわ
れわれのもとに来ることがないであろうか。然り、へーゲル哲学を実存の光のもとに連出すときに、この哲学の窮極的な
関心である自由も、新たな論理構造に於て再構築され、新たな生気と力とを発揮することが期待されるのである。その論
理構造についてはもはや詳論のいとまがないが、普遍者の自由、普遍者のみの自由は、個別の自由として、更に普遍.特
殊・個別の相互媒介の自由として、三一的な論理構造のもとに捉えられ、観想性を脱却して、真に実践的な哲学への通路
を開くもののように思えるのである。
実存を知るものは実存である。実存を覚醒させるものは実存である。此処に実存の交わりが開始される。およそあらゆ
一36一
る非実存的と見える哲学の中にも、忘却された、隠れた実存があるが、実存の光の照明がそれらを探知し覚醒させること
が可能ではなかろうか。へーゲル哲学を此処に取り上げたのも、その試みの貧しい一こまとしてである。しかしこのこと
を充分に確かに果して行くためには、実存を実存的に自覚したと言うキエルケゴール及びニィチエに転じてそれらの実存
的自由の立入った検討を欠かすことは出来ないのである。
﹁私にとって真理であるような真理を見出すことが大切である。⋮⋮客観的なものは決してそれぞれの場合について、私
ヘ ヘ へ も へ
の本来のものではない。それではなくて、私の実存の最も深い根と共に成長するもの⋮⋮そしてたとえ全世界が崩壊し去
し へ
っても、私がそれにすがりつき得るもの、−それを得ようと私は奮い立つ。﹂︵一八三五年夏︶と、二十二歳の青年キェ
ルケゴールは日記に書き記した。﹁私にとって﹂という語は個的主体性を意味するものであり、此処に実存的自覚の誕生
が窺い得る。歴史的にはへーゲル哲学への反抗として、十九世紀三四十年代の西欧市民社会の頽廃を背景として、彼の特
異な哲学は生み出された。
へ あ コ ぬ ミ ヘ ヘ セ も ぬ へ
キェルケゴールがへーゲル哲学に対決して提唱した﹁実存﹂とはどのようなものであろうか。それは先ず普遍に対して
個別であり、個別的自己である。次に可能に対して現実に生きるものである。更に本質に対して存在である。第四に必然
に対して自主的自由である。第五に観想に対して行為である。第六に和解に対して決断である。これらを自覚する主体が
ヘ へ あ へ う ヤ へ ぬ へ
実存にほかならない。
しかもこの実存は、単にあるものではなくて、生成するものである。周知のようにキェルケゴールの実存は三段階をと
って飛躍しつつ生成する。すなわち美的段階、倫理的段階及び宗教的段階である。しかも宗教的実存の段階に於て、宗教
一37
三
性Aと宗教性Bの区別がある。言うまでもなく前者は汎神論的宗教性であり、後者は啓示的宗教性である。前者には蹟き
はないが、後者には蹟きが伴う。これが両者を決定的に分ける点である。宗教的実存は宗教性Bに於て、膿きを乗り越え、
逆説を信ずる信仰に於て生成の極点に立つのである。この実存の生成は、各段階が虚無に直面し絶望に落ち込むことによ
って、飛躍的に行われる。一々の飛躍は言わば虚無の克服である。虚無の克服こそ、実存の自由の内実をなすものであり、
実存の生成は、実存の白由追求の姿であると昌.口うことが出来る。
ところで此処での問題は、信仰と自由との関係の問題である。信仰と自主的自由とは、一見全く相容れない間柄であ
ある。では彼に於て信仰とはどのようなものか。それは逆説への信仰である。逆説とは、神が人となったところの救主キ
る。しかしキェルケゴールに於てはこの両者は全く一つであり、信仰こそ自由であることが実存的に体験されているので
ヘ セ
リストの秘義である。ナザレのイエスに於て永遠が時間となったということは、理性にとっては全く背理でしかない。へ
ーゲルのような﹁理性の洞察﹂は、此処では役に、立たない。理性にとっては、その背理、逆説は、まさに蹟きである。こ
れを分岐点として、宗教性Aは宗教性Bに飛躍する。蹟きの石を前にし、理性と衝突する信仰は、実に﹁冒険﹂である。
冒険的な飛躍、それが信仰である。すなわち﹁真理は客観的不確実性を無限の情熱を以て選択する冒険に成立つ。⋮⋮冒
険がなければ信仰はない。信仰とはまさに内面性の無限の情熱と客観的不確実性との矛盾に他ならない。﹂︵〆一Φ蒔①σq鋤弩9
身に託しつづけて、それから離れようとはしないであろう。又若し何か客観的に確実なもの︵理性によってもよらなくて
わち客観的不確実性と理性自身の虚無と。若し理性自身が絶対的に確実なものであったなら、人は尚無限の情熱を理性自
信仰は此のように冒険であるが、それがまさに冒険であるのは、個的主体が二つの無に囲まれているためである。すな
ヘ めへ
ぬ
のoげ冨日bh信昌αΩo#ωoぽ①鳥.︶といわれている如くである。
︾99ロ①ωω①巳①自昌≦冨の①易9珠二け冨Zρ・o冨oξ一津豊α8℃ぼざω8ぼの9①旨じdδoぎp戸ω゜b。①P呂の歯簿N辞く8
一38
も︶があれば、たとえ理性の手を離れても人は尚問題なく安らぎ得るであろう。だが此の二つの確実性は無いのである。
それらは、すでに無いことと未だ無いこととの二つの無であり、個的主体は此の間に停む。いな虚無の中に浮ぶだけであ
ミ も ヘ ヘ へ も ヘ ヘ へ
る。この虚無を乗り越えるためには、主体は自ら進んで﹁客観的不確実性を無限の情熱を以て選択﹂し、決断して無の中
に躍り込むほかはない。冒険とはこのことである。
従って信仰は絶望体験の上にあるものである。絶望は虚無意識であるが、それが深ければ深い程、冒険は真に冒険とな
る。キェルケゴールは信仰の前段階としての絶望の精緻な分析を行った。要約して、絶望して自己自身であろうと欲しな
い場合と、絶望して自己自身であろうと欲する場合との二つになる。特に注目すべきは、後者の絶望である。これは強情
の絶望と言えるものである。もともと絶望が起るのは、人間が自己自身に聞係する関係であると共に、その関係を措定し
た第三者への関係でもあるからである。従って無限と有限、永遠と時間との綜合だからである。若し人間が綜合でなかっ
たならば、絶望など起らないであろうし、又綜合が根源的に神の手にあるものでなかったなら、同じく絶望は生れない。
絶望は、綜合が分裂する可能性に於て生れるのである。絶望して自己自身であろうと欲する主体は、自己が第三者たる神
によって措定された自己であるという根源的な絶望の根拠そのものを拒否する。即ち第三者との関係を否定しようとし、
この点に於てこの絶望は強情の絶望なのである。この絶望の主体は、絶望しながら自己を他のものにすり代えることを拒
否し、絶望的にあくまで自分を保持しようとする。彼にとっては信仰とは自己を神に譲り渡すことであり、このようなこ
とは妥協であり、ごまかしであり、断じて肯んじない。ましてや神以外の喜物に対しては尚更のことである。この絶望は、
とどのつまりは悪魔的な狂暴さにまで深まる。注意すべきことは、この絶望の主は絶望しているからこそ、どのような意
へ た ヘ へ
ぬ ヘ ヘ へ も へ ぬ ぬ ヘ ヤ も も
味ででも平安はない。しかも自己自身であろうと欲することに於てその絶望にあくまで止まるのであり、何か自己特有の
平安を作り出すのではない。これを悪魔的と言わなくては何と言おうか。キェルケゴールのこれについての叙述を引け
一39一
ば、﹁悪魔的な絶望が最もその度を強めたところの形態であり、⋮⋮この絶望の中では人間は自己11神化によって彼自身
であろうと欲するのでさえもない。たとい欺隔的ではあっても自己H神化はなお或る意味では自己の完全性をR指してい
る、否、そこでは彼は自己の存在を憎悪しながら、しかもなお彼自身であろうと欲するのである。悲惨なままの自己自身
であろうとするのである。彼が彼自身であろうと欲するのは、単なる強情のためではなく、むしろ挑戦しようとするため
である。彼は自分の自己をそれを措定した力から強情的に引き離そうと欲するものではなく、むしろ挑戦的にそれに迫っ
て行こうと欲するのである。⋮⋮自己の苦悩を以て全存在に抗議を提出することが出来るように、苦悩をもったままの彼
自身であろうと欲するのである。﹂︵国惹昌評げ①片N信ヨ↓oαρω・刈倉口σ興ω無暮くoロ霞おoゴ゜︶。ところで絶望というもの
は自己意識が深くなればなる程、それに伴って深まって行く。しかも自己意識は神意識が高まる程高まり、逆に自己意識
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が深まれば神意識も深まる。神意識−自己意識ー絶望という各項が、それぞれに増大し合う関係が此処にある。そして自
己が個的主体として、﹁単独者﹂として、神の前に立つことを意識するとき、自己は真実の無限の自己なのである。この
ような自己の絶望が罪と呼ばれるものである。
さきに絶望は虚無意識であり、それが深ければ深い程冒険は真に冒険となると述べた。信仰は冒険であり、冒険が真に
冒険になることは、信仰が愈々鮮かになることである。又、﹁絶望は罪﹂であり、﹁罪の反対は信仰である﹂︵︵ま陣ユこQっ。
ゥらである。信仰は罪のアソトニムである。すなわち信仰は罪の赦しという意味を持つ。なぜなら神が人となったと
さて当面の問題点は、信仰と自由との関係であった。実存の自由は自主的自由である。もちろん自主的と言っても、カ
なる。しかし絶望が深ければ、そこに起される信仰は真に深くなるのである。
の絶望となる。これは言いかえれば、虚無の克服への絶望であり、絶望して自己自身であろうと欲する悪魔的な絶望とも
いう逆説への、キリストへ信仰は、罪の赦しという神の行為への信仰だからである。従って逆説への蹟きは、罪の赦しへ
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ソト的な実践理性の、普遍意志の自発性ではない。カソトが斥けた感性をも含む、身心的個体の主体性である。この個体
的自己こそ、実存は本来的な自己として自覚する。実存の自由は、個的主体の主体性である。キェルケゴールに於てはど
のようにこの自由が信仰と結合しているのであろうか。
主体性に関して、キェルケゴールは奇異なことを言っている。彼は﹁真理は主体性である﹂︵Z鋤oげのoげ嵩⇒N°qもげ=oω゜
ィo冨PQり゜b。らQ。︶という著名な命題を掲げたが、これは﹁主体性は虚偽である﹂と言うことにより、却て前者の真理性
が明らかになると言う。︵巳り一α; Qo° b◎①oQ︶この﹁主体性が真理である﹂は、実は宗教性Aの立場に於て言われ、﹁主体性は
虚偽である﹂は宗教性Bの立場で言われるのである。主体性が同一性的に連続保持されるときに、﹁主体性は真理である﹂
はあくまで無媒介に主張される。しかし逆説に身をさらしてその前に自己自身を投げ打つとき、もはや主体の連続性は断
ち切られる。逆説の真理の前には確実性に立脚した主体性の真理は崩壊するのである。此処に﹁主体性は虚偽である﹂事
態淡出現する。しかし﹁第一次的には虚偽﹂︵一げ置゜︶なのであり、﹁それにも拘らずしかも尚真理である﹂ことが、第二次
的に主張される。このとき、 ﹁主体性は真理である﹂は一層内面的なものとして主張される。これは破滅した真理の新生
と言えるものである。主体性が死して復活した事態に他ならない。キェルケゴールの逆説への信仰という事柄は、このよ
うな事態を含むのである。これはヘーゲルの﹁必然の洞察﹂の主体性−すなわち宗教性Aの内在主義ーを突破する立
場であるが、しかし単に超越するのではなくて、それを不断の否定的媒介とするのである。ところで自由とは主体性であ
る。すでに考察して来たところから、自由の直接無媒介性が破れ、第一次的な自由から第二次的な自由への転換が窺い得
られる。それは不自由を媒介とした自由である。信仰はこの自由と不断の緊張関係に立つのである。しかし緊張関係は単
に宗教性という屠内に於てだけでなく、さきに考察した悪魔的な絶望の主体、この主体性の自由とも、根源的に関わるも
のである。 ︵未完︶
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