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形成期前期におけるアンデス東斜面とアマゾニア上流域の関係性
形成期前期におけるアンデス東斜面と アマゾニア上流域の関係性 形成期前期におけるアンデス東斜面とアマゾニア上流域の関係性 井上 恭平 ( 文学部 4年 ) はじめに んでいるが、そうした遺跡の位置する生態環境を把握 し、地勢の知見を得る。 筆者は卒業論文において南米アンデス東斜面とアマ ゾニア上流域における形成期前期の地域関係について 2.派遣先・調査日程 土器装飾の側面から検証を行った。その対象としたの が東斜面側としてワヌコ盆地のコトシュ遺跡、シヤコ 派遣国:ペルー共和国 ト遺跡、アマゾニア側としてウカヤリ盆地のトゥティ 調査日程:8 月 20 ∼ 9 月 30 日 シュカイニョ遺跡である。 本稿では卒業論文に先立ち、 訪問先:天野博物館、国立人類学考古学歴史学博物 対象遺跡出土の土器の資料化を主な目的とした調査の 館、プカルパ地域博物館、トゥティシュカイニョ遺 概要を述べるとともに収集した資料から得られた作業 跡、国立博物館、ラルコ・オイレ博物館、サン・マ 仮説を提示する。 ルコス大学、カトリカ大学、カラル遺跡、クントゥ ル・ワシ遺跡、セロブランコ遺跡ほか 1.調査目的 3.対象地域 卒業論文執筆に際し、以下の目的で現地へ赴き、調 査・資料作成を行った。 ①これまでに収集した論文・報告書の資料だけでは 研究の対象となっている2地域はどちらもペルー共 和国内に属する地域である。しかしながらそれぞれの 分析対象が不足しているため、資料を製作し増加を図 生態環境や地理的性格はかなり異なっている。 る。 ワヌコ盆地はワヌコ県にある山地と盆地からなる地 資料の不足は特に熱帯低地側で顕著であり、トゥテ 域であり、アンデスの地域区分では中央山地南部に位 ィシュカイニョ遺跡出土の土器を資料化したものでア 置づけられる(Fig.1) 。アンデス形成期を通した遺跡 クセス可能なものは限られている。また利用可能なも の分布が見られ、形成期の通時的な研究を行うには重 のでも非常に残りの悪い資料しか提示されておらず、 要な地域である。気候は東の熱帯低地と隣接しなが 分析を行うには十分とは言えない。トゥティシュカニ ョ遺跡ではドナルド・レイスラップの調査に関する報 告書が 1963 年に彼の博士論文として出されているが、 日本においては入手の困難な文献である。しかし調査 地には何等かの形で保管されている可能性は高く、資 料の実測だけでなくその報告書の複写も今回の調査の 主要な目的であると言える。 また、ワヌコ盆地に位置するシヤコト遺跡は同盆地 に位置するコトシュ遺跡と比べ参照可能な資料数が不 足しており、実測図の作成及びその報告書の複写が資 料の補填という点で必要である。 ②現在行われている土器分類に対する理解を深める とともに検討を行うため、写真・実測・記述だけでは なく現地で資料を実見することでその知見を得る。 ③対象とする遺跡には熱帯低地など特殊な環境を含 Fig.1 アンデス形成期における主要な遺跡分布図(関 2010 Fig.13 より改変して転載) 25 井上 恭平 らも比較的暖かく乾燥している(大貫 2010) 。形成期 伝統ではない土器が外部よりもたらされ、両地域の初 前期にあたるのはこの地域の編年ではワイラヒルカ期 の土器伝統として定着したと考えて問題ない。議論に (前 1600 年∼前 1200 年)である。 なったのはその系統論的問題である。トゥティシュカ ウカヤリ低地はワヌコ県の東のウカヤリ県に属する イニョ遺跡を調査したレイスラップはウカヤリ低地、 (Fig.1)。アンデスを中心として見た場合、東部熱帯 すなわちアマゾニア上流域からアンデス東斜面へ土器 低地と呼ばれるが、アマゾニアでの区分はアマゾン上 伝統が伝わったと主張した(Wily1971)。しかしアマ 流域で西部に位置する。アマゾン川の主要な支流のう ゾニアのホライズン を設定したメガーズは東斜面か ちの一つであるウカヤリ川とその数多の支流、三日月 ら低地へ土器伝統が伝わったと主張する。両者の主張 湖、密林など熱帯地域特有の地形と自然からなる。気 は真っ向から対立している。その後何人かの研究者に 候もまた同様に熱帯のものであり高温多湿、大量の雨 よって異なる意見も出されてはいるが、この議論は最 が特徴であるが、それに伴う雨季の川の氾濫は流路の 終的な結論が出されていないと筆者は考える。また、 変更を促し、気候的な条件と主な構造物が木材を用い 系統論が先行し、形成期前期に共伴関係にあったワヌ ていたことも相まって考古学的な痕跡は非常に残存し コ盆地の集団とウカヤリ低地の集団の関係に関する議 難い環境となっている。この地域に限ったことではな 論が軽んじられているようにも思われる。以上のよう く熱帯低地全般にわたって言えることであるが非常に な問題を考察するためにも、今一度土器資料に立ち返 調査が困難で研究に手が付けにくい一つの要因となっ り精査を行う必要がある。 1 ている。 5.調査内容 4.研究史と問題意識 上述の目的および問題を確認した上で、調査は主に アンデス東斜面とアマゾニア上流域における個別研 リマとプカルパ近郊で行なった。複数の博物館、遺跡 究はなされているが、両者の関係論を扱った研究はあ で調査を行ったが、リマの天野博物館を今回の調査の まり多くない。そもそも南米先史研究の主な関心がア 受け入れ機関・基点として活動した。調査内容につい ンデス地域にあるため、アマゾニアの考古学的研究の て主だった調査地別に紹介する。 数自体が少ないためであるとも言える。しかしそれ以 ①リマ、天野博物館:リマはペルーの首都に当たり、 上に、アマゾニアには「未開の処女地」、そこに生き 博物館や大学などの研究機関が集中している。その る先住民たちには「高貴な野蛮人」という見方がアマ ため滞在中はリマを中心とした活動が中心であった ゾニアの先史研究自体を大きく遅らせているようにも が、特に今回の調査で得た主な資料は天野博物館で収 思われる(Mann2007) 。 「未開の処女地」「高貴な野蛮 蔵されていた土器から製作したものである。形成期前 人」とは今も昔も変わらぬ姿で自然と「調和」しなが 期・中期の土器資料を実見し、実測 50 点、写真撮影 ら生きる先住民に対する畏敬とも揶揄とも取れる呼称 を 200 点で行った。シヤコト遺跡出土の資料が中心で であるが、最近の研究では自然と「調和」していたの あり、資料は時期区分・土器分類がなされた状態で保 ではなく積極的に「改変」し手なずけていたことが指 管されているものが多く、非常に扱いやすいものであ 摘されている (同上)。 こうした最近の研究動向の中で、 る。分類の方法から、おそらく狩野千秋氏が 1979 年 アンデス ― アマゾニアの関係論も見直されなければ に示した分類に基づいており、その論文内で用いられ ならないと筆者は考えている。 ていた資料が数点存在していたことから見て間違いな 対象地域であるワヌコ盆地とウカヤリ低地との間で いと思われる(Kano1979)。しかし小さな土器片を含 は、形成期に属する土器の類似が指摘されている(関 む資料群の中には掲示されている出土遺跡、時期区分 2010,Wily1971 ほか) 。興味深いそれらの類似に関して と異なる注記の資料もあった。シヤコト遺跡の他には は後述するが、重要な点としては類似のみられる土器 ワイラヒルカ遺跡と思しき資料やコトシュ遺跡の書き が両地域で初の土器伝統であること、そして初出の 込みがされた資料もあったが、注記の規則を押さえて 土器伝統としては非常に洗練されているという点であ いるわけではないため、分析の際にはコンテクストの る。前段階の土器伝統を伴わないため、在地の技術・ はっきりしているものを選別しなければならない。 26 形成期前期におけるアンデス東斜面と アマゾニア上流域の関係性 ②リマ、国立人類学考古学歴史博物館:展示されてい 遺跡が近隣に位置している(Lathrap1958)。 た資料のほかに収蔵庫に保管されている土器片を実 ウカヤリ地域公園(El parque region de Ucayali)内 見、写真撮影を行うことができた。出土遺跡はトゥテ にあるウカヤリ地域博物館(El museo regional)に地 ィシュカイニョ遺跡のものではなく UCA-34 という遺 域最古の土器伝統であるトゥティシュカイニョ期の土 跡であったが、同じ土器複合に属する前期・後期トゥ 器が所蔵されているという当たりをつけていたが、実 ティシュカイニョ期の土器であり、トゥティシュカイ 際展示されていたのは現在もヤリナコチャ近郊で生活 ニョ遺跡以外の遺跡を熱帯低地側の対象遺跡として追 する先住民シピーボ族の土器が展示されているのみで 加できる可能性がある。しかし実見できた土器はあま あった。 りに小さく残りの悪い資料ばかりであり(Fig.2)、装 リマの国立人類学考古学歴史博物館においてレイ 飾の単位はおろか装飾すら確認できないものばかりで スラップの報告書に掲載されていた遺跡地図(Fig.2) あった。そのためここでは実測図を製作しなかった。 からヤリナコチャと遺跡の大まかな位置関係は把握で また、保管は遺跡・土器伝統ごとの大まかなコンテク きていたため、トゥティシュカニョ遺跡をはじめとす ストに分けて木箱に収められているが、ペルー中の遺 る UCA-1 ∼ 6 の遺跡と近郊の踏査を試みた。これは 跡から集められた膨大な資料が山積みされているた 調査目的③で挙げた遺跡の分布する環境の実見という め、相当な時間と労力をかけなければ目的の資料を探 点と、表層に散在する土器片の発見という2点の目的 し出すのは難しい。また、土器以外にも数点の石器資 から行ったものである。土器片を発見した場合、今回 料を写真に収めることができた。 の調査では、筆者に発見した土器を報告し資料化する さらに、レイスラップが著したトゥティシュカイニ ことはおそらく困難であったが、図面を作成し位置を ョ遺跡の発掘報告書についてもこの博物館の付属する 記録することで今後の研究の蓄積となることは間違い 図書館において複写することができた。しかし残念な ない。 ことに、二部(記述編と図版編)からなる報告書の記 述部に当たる前半部分しか所蔵されておらず、卒業論 レイスラップが調査の基点としていたシピーボ族 文において重要な資料となるはずであった前期トゥテ の生活するサンフランシスコ村(Lathrap1958)で住 ィシュカイニョのまとまった実測資料は得ることがで 民から遺跡に関する話と位置を聞き、何人かの情報 きなかった。 と UCA-6、すなわちトゥティシュカイニョ遺跡の大 ③プカルパ、ヤリナコチャ近郊:プカルパはペルーの 東部熱帯低地に位置するウカヤリ県の県都である。ヤ リナコチャとはプカルパに隣接する大きな三日月湖の 名称であり、トゥティシュカイニョ遺跡(UCA-6)を はじめとするレイスラップの 50 年代後半の調査対象 Fig.2 UCA-34 出土の土器片(国立人類学考古学歴史博物館 所蔵) Fig.3 ヤリナコチャ周辺遺跡分布地図(Lathrap1963Fig.1 より 改変して転載) 27 井上 恭平 まかな位置が一致していたためガイド2人を同行し現 地へ向かった。遺跡近辺は密林の生い茂るいわゆるジ ャングルであり、三日月湖の水位が上昇する雨季に は密林帯のかなり奥まで冠水するとのことであった (Fig.10) 。遺跡が微高地に位置しているのはそうした 冠水への対策であると考えられ、季節的な移動集落の 痕跡ではなく年中の利用があったことを示唆してい る。密林帯のすぐそばには最近のカムカム栽培園跡が あったが、それ以外の表土は繁茂する木々で覆われて Fig.4 シヤコト遺跡出土の鉢(天野博物館所蔵) おり表採遺物を探すだけでも容易ではなく、実際土器 片らしき遺物は発見できなかった。 この他、海岸部に位置し世界遺産にも登録されてい るカラル遺跡、アンデス北部山地に位置し形成期後期 の大神殿のあるクントゥル・ワシ遺跡など多くの遺跡 とラルコ・オイレ博物館や国立博物館などを様々な博 物館・研究施設で見学を行った。対象地域・時期と直 接的に関係していなかったためそれぞれでの活動をこ こでは述べないが、実際のフィールド、遺物に接する ことで得られた知見は多い。 6.調査成果 Fig.5 シヤコト遺跡出土の無頚壷(天野博物館所蔵) 以上の主な調査から得られた成果を目的①∼③に対 応させるかたちで順を追って示していきたい。 ①の資料の増加という点では飛躍的に資料の補填を 行うことができたといってよい。天野博物において分 類、時期区分が既になされている資料を追加できた ことはその後の資料の整理・管理の点でも有益であ り、さらにワヌコ盆地の中でも手元に資料の少なかっ たシヤコト遺跡の遺物であったことも大きな前進であ ったと言える。しかしながら、最も資料の不足してい た熱帯低地側の資料、前期トゥティシュカイニョ期の Fig.6 シヤコト遺跡出土の鉢(天野博物館所蔵) 土器が十分に補填できなかった点は問題である。国 立人類学考古学歴史博物館ほどの規模の大きな博物館 でも保存状態の良好な資料は保管されていない。レイ スラップはトゥティシュカイニョ遺跡とウパイヤ遺 跡の資料をもとにウカヤリ低地の編年を組んでいるが (Lathrap1970)、ペルーでの現状を考えるとそれを可 能にしたまとまった資料群はおそらくレイスラップが 所属していたカリフォルニア大学に現在も保管されて いる可能性が高いと考えられる。所在の掴めていない 資料が多い中でこうした現状を把握できたことも一つ の前進であったと捉えたい。 28 Fig.7 シヤコト遺跡出土の三角鉢(天野博物館所蔵) 形成期前期におけるアンデス東斜面と アマゾニア上流域の関係性 的な利用の可能性が高いと考えらえる土器も比較的し っかりとした表面調整がなされており(Fig.5)、前段 階を下層に伴わず突然出現することには戸惑いを隠せ ない。そうした実見の所見の中でも特にワヌコ盆地と ウカヤリ低地の類似する要素として挙げられている zoned hatching、ポストコクションという技法をはじめ とする技法や表面調整を実見して得られたものは大き い。zoned hatching は土器の器高に対し水平な刻文の 帯や幾何学文の内部を、先の尖った施文具で引っ掻く ようにつけたケバ線で埋める技法である(Fig.4,6,8) 。 Fig.8 シヤコト遺跡出土の三角鉢(天野博物館所蔵) この施文部位は焼成後に赤色の顔料が擦り込まれて充 填される。この焼成後の顔料充填がポストコクション である(Fig.4,6,7,8) 。zoned hatching と関連するポス トコクションの顔料は主に赤色だが、ワヌコ盆地では 黄色や白の顔料も用いられていた。またポストコク ションは削り取り(excision)と関連することも多い (Fig.7,8) 。削り取りは主に幾何学文のかたちに器壁を 切り出すことで施文部位と器壁に凹凸をつけ文様を強 調する技法である。この技法もまたワヌコ盆地とウカ ヤリ低地に共通して見られるものである。土器を成形 Fig.9 シヤコト遺跡出土の鍔付き鉢(天野博物館所蔵) し水分が乾ききらないうちに内面から器壁を押し出し 主に円形の張り出しを付ける Fig.8 のような技法はワ ヌコ盆地でしか筆者は確認していないが、三角鉢など と関連して頻出する。また、考察で詳述するが、形成 期前期においてはシヤコト遺跡においてのみ保有され る人面表象やネコ科表象の顔にも頻繁に Fig.8 のよう な張り出しの技法が関連して用いられている。 卒業論文の対象時期とはしなかったが、天野博物館 では形成期中期の土器の記録も行っている。前期の土 器とは装飾スタイルが一新され、特徴的だった zoned hatching は下火となる。胴部に鍔(flange)もしくは 突帯が付く外反鉢(Fig.8)が増加するなど様式の変 Fig.10 トゥティシュカイニョ遺跡付近の密林;写真中央の林 冠の開けた場所は雨季の冠水時には水路となる 化(Izumi1972)が今回実見した土器でも確認された。 文様では菱型の外枠と内部に刺突や斜十字を描いたモ ②の遺物の実見に関しては、非常に多くの遺物を展 チーフが増加するように思われる。 示、あるいは実際に手に取って見る機会を得ることが ③の遺跡の位置する生態環境・地勢の把握に関して でき、これまで報告書などの実測・写真・記述では把 は、今回はワヌコ盆地を訪れることができなかったが、 握し切れなかった部分を含め理解を深めることができ アマゾン上流域であるプカルパ近郊の環境を、踏査を た。中央アンデス、アマゾニア上流域で最も古い時期 通して実体験できたことは実りあるものであった。遺 の土器伝統にしては洗練され過ぎているということで 跡が分布するのは三日月湖の付近であるため、現在も あったが、三角鉢や外反鉢などの装飾土器は器壁が 同様であるが過去においても豊富な水産資源を利用し 薄く、程度のばらつきはあるものの光沢が出るまでに ていたことは想像に難くない。またサンフランシスコ 入念な表面調整がなされているものもあり、焼成も良 村や遺跡付近のカムカム農園の分布は雨季の水位と周 好であった(Fig.4) 。また無頚壷をはじめとする日用 辺の土地利用の関係を考える上で類推のヒントと成り 29 井上 恭平 得るかもしれない。 の総数の中でどの程度の割合であるのかを見る。これ 加えて、村民から遺跡に関する情報を聞いた際、人 によって単なる中心 ― 周辺という関係だけでなく遺 数的に多いとは言えないものの、何等かの情報を持っ 跡間の結びつきの強さを文様装飾から考察しようと試 ている者が少なくとも存在したことは今後の調査のこ みた。 とを考える上で有益であろう。レイスラップの調査は その結果、今回分析に用いた資料では三つの遺跡で もう半世紀ほども前のものであり、さらにこの地域で シヤコト遺跡が最も多くの文様のバリエーションを有 も比較的知名度があるはずのトゥティシュカイニョ遺 していたことが明らかになった。また、コトシュ遺跡 跡を含め史跡公園として整備されたような遺跡は存在 との関係を見るとシヤコト遺跡はコトシュ遺跡の基本 しない。遺跡の存在が彼らの生活に大きく関わってい 的なモチーフのほとんどを直接共有、あるいは間接的 るとは考え難いが、それにも関わらず住民の間で遺跡 に共有している。基本的なモチーフを共有していなが に関する知識が保有されていることは興味深い。今後 らも、両者の差異としてシヤコト遺跡の方がより複雑 もこの地域で調査を続けていくには現地住民の協力が で多様な組み合わせパターンを有しており、コトシュ 不可欠である。 遺跡はそれに比べ簡単なものが多い。その結果がバリ 巨視的な話をすると、ペルーは緯度で断面を取った エーションの多寡として反映されていると考えられ 際、海岸部、山岳部、東部熱帯低地と大きく三つの環 る。また、両遺跡の弁別的な点として、シヤコト遺跡 境が認められる。今回結果的にその三つの地域に足を では S 字モチーフの存在、U 字モチーフの卓越という 運ぶことができ、ペルーの様々な環境とそこに生活す 幾何学文に見られる点と人面表象(Fig.11)やネコ科 る人々の生活を目にできた。今後研究を進める上で、 表象(Fig.12,14)など幾何学文ではなく具象的なモチ 東斜面と熱帯低地という限られた範囲だけではなく南 ーフを有している点が挙げられる。具象的なモチーフ 米先史を巨視的に捉えるための下地となる経験ができ に関しては、基本的にはコトシュ遺跡でも見られる幾 たと考えている。 何学モチーフの組み合わせからそれらが形成されてい 7.考察 以下では今回の調査とこれまでに収集してきた資料 をもとに、研究テーマとして掲げた形成期前期におけ る東斜面と熱帯低地の関係について、卒業論文で考察 した点について簡潔に述べたい。但し、調査で熱帯低 地側の資料が十分に集められなかったため分析数が東 斜面側に偏り、考察は推測に頼る部分が大きくなって しまっている。以下に述べるのは今後検証していくべ き作業仮説としての提示としたい。 Fig.11 シヤコト遺跡出土の人面表象(天野博物館所蔵) 分析資料を装飾土器とした上でコトシュ遺跡 180 点、シヤコト遺跡 174 点、トゥティシュカイニョ遺跡 29 点を対象に記号論を理論的素地 2 として適用した文 様構造の分析を行った。その際、各遺跡で保有されて いる文様のバリエーションの多寡を遺跡に集積されて いる情報の多寡と読み替える。すなわち、二遺跡間の 文様のバリエーションの相対関係において、数の多い 遺跡は情報の集積が多い地域の中心的な遺跡とし、少 ない遺跡は中心に対する周辺遺跡と捉えることができ る。さらに文様のバリエーションの中で二遺跡間に共 有が見られる場合、その数が各遺跡のバリエーション 30 Fig.12 シヤコト遺跡出土のネコ科表象(天野博物館所蔵) 形成期前期におけるアンデス東斜面と アマゾニア上流域の関係性 ている(同上) 。また Fig.11 で示した人面表象はワヌ コ盆地の中期に当たるコトシュ期で一般化するもので あるが、シヤコト遺跡は他の遺跡に先んじてこの人面 表象を保有していた(松本 2010) 。このこともシヤコ ト遺跡がワヌコ盆地で有力な集団であったことの傍証 Fig.13 トゥティシュカイニョ遺跡出土のネコ科表象 (Lathrap1970) となろう。 次にワヌコ盆地と熱帯低地との関係であるが、トゥ ティシュカイニョ遺跡のバリエーションが資料数を考 慮すると網羅できているとは考えにくい。しかし現時 点で言及できる範囲ではワヌコ盆地の二遺跡に比べ少 ないと言わざるを得ない。またモチーフの利用の仕方 もワヌコの二遺跡とは顕著な差異を示した。しかし遺 跡間での文様のバリエーションの共有を見ると、若干 の違いを見せる。トゥティシュカイニョ遺跡で見られ る基本的なモチーフの多くはコトシュ遺跡でも保有さ れている。しかしトゥティシュカイニョ遺跡は S 字 モチーフを保有しており、また資料数が少ないにも関 わらず S 字・U 字モチーフの出現頻度がコトシュ遺 跡より高く主要なモチーフとして位置づけられてい Fig.14 シヤコト遺跡出土のネコ科表象(Kano1979) たと考えられ、同じ点をレイスラップも指摘してい る(Lathrap1970) 。これはシヤコト遺跡とコトシュ遺 跡の弁別的な点であった。シヤコト遺跡とトゥティシ ュカイニョ遺跡でもシヤコト遺跡がトゥティシュカイ ニョ遺跡の基本的なモチーフをほぼ保有しており、そ の利用の仕方にも大きな差異が認められる。しかし S 字モチーフの存在、U 字モチーフの卓越という点では ある程度の結びつきを見せており、コトシュ ― トゥ ティシュカイニョ<シヤコト ― トゥティシュカイニ ョという構図が浮かび上がってくる。 この構図は具象的なモチーフの存在においても指摘 Fig.15 ジャガーの斑紋(筆者撮影) ができる。トゥティシュカイニョ遺跡では人面表象の ることが指摘できる。それにも関わらずコトシュ遺跡 発見例はないが、ネコ科モチーフの発見例が一点あ が具象的なモチーフを、敢えて言えばそうした情報を る(Fig.13)。技法は刻線と zoned hatching という両地 保有していなかったことは興味深い点と言えよう。以 域に一般的なものであるが、そのスタイルはシヤコト 上を踏まえ、シヤコト ― コトシュ間で関係を見た場 遺跡のネコ科表象とはかなり異なっている。先にも 合、結びつきの強い中心遺跡(シヤコト遺跡)と周辺 述べた通りシヤコト遺跡の場合は幾何学文を組み合わ 遺跡(コトシュ遺跡)という構図がワヌコ盆地内の遺 せから形成されていたが Fig.13 は単純ながら幾何学 跡間関係として提起できる。この構図は土器以外の考 文の組み合わせとは捉えがたい。しかしネコ科動物を 古資料とすり合わせても矛盾はないと思われる。シヤ 描くことがなかったコトシュ遺跡にはないバリエーシ コト遺跡は早期の頃からワヌコ盆地内でもかなり大規 ョンを、シヤコト遺跡とトゥティシュカイニョ遺跡が 模な神殿を有しており、前期以降は墓として転用され 共有していることは間違いない。さらに、シヤコト ている(Kano1979) 。おそらく早期以来特別な場所で 遺跡のネコ科表象の中には、円の中に刺突文を付加し あったことが記憶として引き継がれていたと指摘され た文様がネコ科表象の一部として描かれることがある (Fig.14) 。筆者はこの手の描写がジャガーの斑紋を表 31 井上 恭平 現したものではないかと考える。ジャガーには黄色の 作業仮説としたい。 地毛に黒毛で中に点を持つ斑紋がある(Fig.15)が、 Fig. 14 は牙、ヒゲなどを含めジャガー的な要素が多 8.今後の展望 分に見られる。なおジャガーの生態域は基本的に熱帯 今回の調査で熱帯低地の資料の不足と保存状態に関 低地であり、隣接しているとはいえワヌコ盆地ではあ する問題がはっきりしてきたため、今後の具体的な対 まり頻繁に目にする動物であるとは考え難い。全ての 策を考えていかねばならない。資料の所在に関しては ネコ科表象に一般化するのは危険であるが、ネコ科表 継続して国立人類学考古学歴史博物館の収蔵庫内の整 象の熱帯低地との共有は、単なる要素の共有というよ 理を行いながら、調査を行ったペルー以外の海外の研 りもむしろ熱帯低地的な要素をシヤコト遺跡が保有し 究機関へのコンタクトも選択肢として考慮していかね ていると捉えることができるかもしれない。また、シ ばならない。さらに遺物の出土状態が筆者の予想以上 ヤコト遺跡のネコ科表象は顔の輪郭として U 字モチ に悪かったことを踏まえ、そのような状態でも適用可 ーフを多用しており、分析の際に U 字モチーフが卓 能な研究・分析方法を考えることも必要だろう。ただ 越する結果となった要因とも考えられるが、同じ U でさえ限られた資料が分析に耐えられないのでは研究 字モチーフはトゥティシュカイニョ遺跡でも卓越して の前進は望めまい。具体的な方法を挙げれば、マイク いる。熱帯低地的な性格が強い可能性のある2つの要 ロスコープを用いた胎土分析などは残存部位の少ない 素が結びついている点は重要である。 資料でも適用可能であろう。東斜面と熱帯低地では土 以上の考察から、遺跡間の関係が先ほど提起したコ 壌も大きく異なることが予想され、胎土として用いる トシュ ― トゥティシュカイニョ<シヤコト ― トゥテ 粘土や混和材の差異がはっきりと表れる可能性は高 ィシュカイニョという構図を取る可能性は十分にあり い。実際レイスラップはトゥテシシュカイニョ遺跡出 得るのではないだろうか。コトシュ遺跡とトゥティシ 土土器の胎土・混和材に関する分類を行っているが、 ュカイニョ遺跡で類似しているのはむしろ文様の単純 前期トゥティシュカイニョ期の土器には土器片が混和 さであり、より複雑で多くのバリエーションを有した 材として混入しているとの記述があり、こうした点を シヤコト遺跡を中心とする周辺遺跡としての位置づけ 胎土分析から指摘していくことで両地域の搬入土器な という点でコトシュ遺跡とトゥティシュカイニョ遺跡 どに関する議論に発展させることができるかもしれな は共通項を持つのかもしれない。 い。 さらに論を進めれば、シヤコト遺跡が影響力と規模 また、考察部分では触れなかったが対象地域の土器 が大きくワヌコ盆地で卓越した集団であったこと、コ の系統論に対する取り組みも行っていかねばならない トシュ遺跡のような周辺的な遺跡よりも熱帯低地的な だろう。一番手っ取り早い方法は発掘調査によって優 要素を多く有していたことに何等かの相関性があった 良な資料を得ることであるが、特に熱帯低地において 可能性を考えることもできる。シヤコト遺跡が熱帯低 は容易なことではない。形成期前期の中でも土器出現 地と結びつくことで経済的・イデオロギー的な面など 直後の両地域の資料を比較できるようになれば興味深 で他の遺跡にはないメリットを得ていたのであれば、 い分析ができると思われるが、ワイラヒルカ期は約 この時期の東斜面と熱帯低地の関係性として捉えるこ 400 年のスパンが設定されており、まずは細分化の作 とが可能であるかもしれない。しかしそれを検証する 業が必要となってくる。 ためにはまず、先ほど挙げた構図が他の遺跡の土器を 調査・研究の難しい地域ではあるが今後も根気強く 資料とした際にも当てはまるのかどうか確認せねばな 取り組み、アマゾニアとアンデスの双方から見た関係 らない。すなわち、①ワヌコ盆地内の遺跡と熱帯低地 論の構築、位置づけを行っていきたい。 の遺跡の文様構造の関係を明らかにした上で、②熱帯 低地との共有度にワヌコ盆地内の遺跡間で格差があ 謝辞 り、且つ共有の卓越する遺跡はそうでない遺跡に比べ その規模や情報の集積の面でも大きいというケースの 最後になりましたが、今回研究を行うにあたり、中 積み重ねを行わなければならないだろう。 村慎一先生に数多くのご教示とご指導を賜りました。 考察が長くなってしまったが、最後に示した部分を 本研究の目的とした東斜面と熱帯低地の関係に対する 32 また資料収集を目的とした調査での折、ペルーでお世 形成期前期におけるアンデス東斜面と アマゾニア上流域の関係性 話になりました天野博物館の阪根博さんと博物館職員 のみなさんにもお礼を述べたいと思います。アンデス 文明研究会のみなさんには毎回貴重なアドバイスと情 報を頂きました。この場を借りてお礼申し上げます。 松本雄一 2010 「ペルー、ワヤガ川上流域における形成期の再検討」 『古 代アメリカ』13:1-28 Onuki,Y.(大貫良夫) 1992「中央アンデス先土器時代と形成期の神殿」『ジャガーの 足跡 アンデス・アマゾンの宗教と儀礼』友枝啓泰・ 松本亮三 編 ,pp.95-122. 東海大学出版会 註 1 メガーズによってアマゾニアの 4 つのホライズンが設定さ 2010「第一章 アンデス文明形成期研究の 50 年」『古代アン れている。Zoned Hature Horizon( 前 1800 年頃∼前 1400 年頃 )、 デス 神殿から始まる文明』大貫良夫・加藤泰建・関 Incised Ri m Horizon( 前 1000 年頃 )、Polychrome Horizon( 前 雄二 編 ,pp55-103. 朝日新聞出版 , 東京 400 年頃 )、Incised and Punctate Horizon( 後 1000 年∼後 1200 年 ) の4つである(willy1971、井口 1995)。前期・後期ト ゥティシュカイニョは一番はじめの zoned hature Horizon に 属する。なお年代は参照する文献によってかなりの差異が 認められる。ここでの年代は井口 1995 を参考とした。また、 アマゾンのホライズンは、アンデスのホライズンよりも地 域も広く、時代のスパンも長い。これもアマゾニアがまだ Mann,C. 2007 1491 日本放送出版協会 Seki,Y.(関雄二) 2010『世界の考古学① アンデスの考古学』同成社 , 東京 Willy,G. 1971 An introduction to American Archaeology:Volume two,South America まだ精査の進んでいないことの傍証であろう。 2 言語の分節構造に則り文様装飾を各段階に区分して文様を 記号化して捉える方法を卒業論文で提起した。具体的には 文様を構成する最小の文様要素(音素)にアルファベット と数字を割り当て、実際に配置される文様単位(語彙)を 記述する方法を採った。考察部分で述べている文様バリエ ーションの多寡は文様要素と文様単位の多寡を指している。 またそれらの共有は今回の調査の資料を含めたデータベー ス(Access2010)を基に算出している。 参考文献 井口欣也 1995 「アマゾニアとカリブ海地域の古代美術」 『世界美術大 全集 西洋編1先史美術と中南米美術』pp.229-231 小 学館 井口欣也・大貫良夫・鶴見英成・松本雄一・アルバロ・ルイス 2002 「ペルー、ワヌコ盆地一般調査概報」『古代アメリカ』 5:69-88 Izumi,S. and T.Sono 1963 Andes 2:Excavations at Kotosh,Peru,1960.Kadokawa publishing Co.Tokyo Izumi,S. and K.Terada(eds.) 1972 Andes 4:Excavation at Kotosh,Peru,1963 and 1966.The University of Tokyo Press,Tokyo Kano,C.(狩野千秋) 1979 The Origins of the Chavin Culture. Dumbarton Oaks Trustees for Harvard University,Washington,D.C. Lathrap,D.W. 1958 The Cultural Sequence at Yarinacocha,Eastan Peru. American Antiquity 23(4)pp.379-388 1962 Yarinacocha:Stratigraghic Excavation in the Peruvian montana.Ph.Dissertation,Harvard University,Depertment of Anthropology,Cambridge 1970 The Upper Amazon. Thamas and Hudson,Lomdon. 33