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地 図 に 見 る現代世界
図 日 本 の 経 済 援 助 静岡県立大学教授 小 浜 裕 久 地 に 見 代 世界 現 る とはOECD(経済協力開発機構)の委員会の一つ 1.経済援助の定義と分類 で、 開 発 援 助 委 員 会(Development Assistance 「日本の経済援助」の地図(次ページ)から分 Committee)のことである。一般に援助というと かるように、多くの発展途上国で、日本はトップ・ きは、ODAをさしている場合が多い。 ドナー(その途上国にとって、一番多く援助を供 ODA: 与してくれる国)になっている。いくつかの国に ①中央および地方政府を含む公共部門ないしその ついて、ピンクの円グラフが示されているが、よ 実施機関により発展途上国および国際機関に供 く見ると、ベトナムやインドネシアのように、返 与されるものであること(途上国のリストも 済義務のある援助(円借款)の割合が高い国もあ DAC が発表している) 。 れば、ケニヤのように返さなくていい無償資金協 ②発展途上国の経済・社会開発に寄与することを 力と技術協力の割合が高い国もある。 主たる目的とするものであること、 「 経 済 援 助 」 、 「経済協力」 、 「政府開発援助 ③グラント・エレメント(GE=grant element)が (ODA) 」などいろいろな言葉があるが、これら 25%以上であること。 はみな同じ概念だろうか。援助を考える場合、若 グラント・エレメント(GE)とは、通常の民 干の定義・分類を知っておく必要がある。広義の 間銀行からの融資と比較してどれくらい貸付条件 経済協力は、表1のように4つに分けられる。 が借り手である途上国にとって優遇されたもので この表から分かるように、経済協力資金の流れ あるかを表す指標のことである。贈与の場合は、 は、政府のお金か民間のお金かによって大きく2 GEは100 %でまったく問題なくODAだが、ロー つに分けられる。OECDのDACによれば、ODAと ンの場合はこれが問題になる。GEを規定するの いうのは、以下の3条件を満たす途上国への資金 は、市場金利と比較してどれくらいそのローンの や技術の移転と定義される。DAC (ダックと読む) 金利が安いかとか、据置期間がどれくらい長いか ̶1̶ 帝国書院「新詳高等地図 最新版」p.123 ってもよいと筆者は 考えている。技術協 力の有償化だが、こ れは海外貿易開発協 会(JODC) の 一 般 型専門家派遣におけ る現地企業の4分の 1負担という考え方 にもヒントを得てい る。 2.日本の援助予 算と援助の特徴 表1 経済協力の分類 日本とアメリカ・EU諸国などの援助を比べた 1.政府資金 1.1 政府開発援助(ODA) 二国間援助 贈与 無償資金協力 技術協力 政府間貸付 国際機関を通ずる援助 贈与 出資など 貸付 1.2 その他政府資金(OOF) 輸出信用(1年間) 直接投資金融など 国際機関に対する融資など 場合、援助方法に大きな違いがあるわけではない が、援助の構造は大きく違っている.まず第1の 違いは日本のODAの場合、借款の割合が高い(下 がってきたとはいえ、2001年で51.8%) 。これに 対して、アメリカ、イギリスは贈与の割合がそれ 2.民間資金 2.1 民間営利資金(PF) 輸出信用(1年超) 直接投資など 国際機関に対する融資など 2.2 非営利民間団体による贈与(NGO) ぞれ99.2%、97.7%で借款はきわめて少ない。フラ とか、償還期間はどれくらい長いのかといったロ 予算の原資の問題が大きかった。1980年代、日本 ーンの諸条件によって決まってくる。 政府は援助額を増やそうとしたが、一般会計だけ 表1でODAは二国間援助と国際機関を通じる では不十分と考えて、財政投融資を活用した。財 援助に分けられているが、二国間援助というのは、 投資金は利子を付けて返済しなくてはならないの ンス、ドイツも贈与の比率は9割弱である。 日本は借款の比率が高いが、これは1つには、 日本がたとえばスリランカの病院建設のために無 で、財投資金を無償援助に使うことはできない。 償資金協力を行ったり、港の整備のためにインド 「あと理屈」かもしれないが、返済義務が、自助 ネシアにローンを供与するといった援助のことで 努力を促進するという面があることは事実で、 「自 ある。この病院や港などへの援助をプロジェクト 助努力の促進」は、開発にとってとても重要なこ 援助といい、一般財政支援あるいは国際収支支援 とはいうまでもない。 などの援助をノン・プロジェクト援助あるいはプ 援助分野も違う。2001年の数字で見ると、日本 ログラム援助という。 は二国間援助の34%が経済インフラ(道路・鉄 日本の場合、技術協力は基本的に贈与(grant) 、 道・港湾・電力・灌漑など)援助だが、アメリカ、 すなわち、返済の必要がない資金・技術の流れで フランス、イギリス、ドイツの経済インフラ援助 ある。技術協力が贈与でなくてはいけないという は、それぞれ、3.6%、7.7%、8.0%、19.4%であ 経済的必然性はないと思う。場合によっては、返 る。これに対して日本の社会インフラ(病院・学 済義務のある(すなわち、有償の)技術協力があ 校・上下水道など)援助は17.0%だが、アメリカ、 ̶2̶ フランス、イギリス、ドイツの社会インフラ援 でもないが、アメリカやEU諸国が「額」を大き 助は、それぞれ、45.4%、38.6%、23.8%、40.4% く増やしているなか、日本は「年金も危ないんだ ( 『国際協力便覧(2004年) 』pp.72∼73)となって から、途上国のことなんか知らないよ」といって いる。 いてよいのだろうか。マーシャル・プランで有名 地図から分かるように、日本の二国間政府開発 なマーシャル米国務長官(当時)は「遠く離れた 援助は、地域的に大きな差がある。アフリカ・南 人々の窮状が、私たちの安全を脅かし、世界の平 米のほうが援助を必要としているという意見もあ 和に悪影響を与える恐れがある」と、国民に語っ るが、 「困っている人に援助する」という理由だけ たという。 で援助額が決まるわけではない。政治的、経済的、 たしかにODAの質を高めるための制度改革は 歴史的、地理的な観点から援助額は決まる。そう 着実に進んでいることも事実だ。 「ODA大綱」も でなければ、旧ザイールのモブツに対する援助な 2003年夏に改訂されたし、国別援助方針も整備さ ど、冷戦下の米ソ援助競争を考えなければ理解不 れつつある。現場主義、関係機関の調整、ほかの 能である。日本の場合は、1人あたりの数字で見 ドナー(援助国)との調整も進みつつあるようだ。 たとき、比較的貧しい国(人)に援助が配分され でもこれらの動きはまだ緒に就いたばかりで、コ ていることはたしかだ。 アとなる担当者が有能でやる気にあふれ、新しい ことを進める元気がある場合はうまくいくが、そ 3.援助の質と日本の国際貢献 うでない場合は依然沈滞しているように思う。 1956年から昨年までのOECD・DAC(開発援助 「援助の質を高める」には、事後評価も重要だ。 委員会)主要国のODA実績(支出純額)が図1に 調査終了後、外務省のサイトにすぐ要約が出るよ 示されている。この図から分かるように、1991年 うになったし、昔よりは遙かに改善されている。 から2000年まで10年間、日本は世界一の援助大国 しかし、依然として「過去の失敗から学んで将来 であった。2003年の数字でも、日本のODAは世界 の援助の改善をする」という事後評価の本質が分 かっていない。 「これは失敗だ」と書くと、お役人 図1 DAC主要国のODA実績(支出純額) 100万ドル 18000 16000 14000 12000 10000 はすぐ「ご説明したい」と来る。 柔軟な頭でもって、前例にとらわれず、新しい 資料:DAC. ことを進めないと「よい援助」はできない。しか フランス ドイツ 日本 イギリス アメリカ し、日本の人事考課は依然「減点主義」だ。新し いことをするということは、リスクを冒すという 8000 ことである。 「やってみなはれ」のサントリーの例 6000 を引くまでもなく、企業であれ、国であれ、よい 4000 ことを、リスクをとって進めていかなければ、衰 2000 0 1956 1960 1970 1980 1990 退するしかない。 2000 2003 政策一貫性も重要だ。援助だけが日本の国際貢 第2位であるが、アメリカの6割にも満たない。 献の政策手段ではない。途上国からの輸入拡大も、 この図にある他の先進国に抜かれ、第5位に転落 外国人労働者の規制緩和も国際貢献の重要な要素 するのは目に見えている。このままでよいのだろ だ。日本はODAで途上国の農業支援をしていても、 うか。 コメその他の農産品輸入はきわめて制限している。 ODAの質を高めることが大切なことはいうま これら2つの政策はあきらかに矛盾している。 ̶3̶ いきいき体験 授業実践 地理A編 民族の本質を学ぶ異文化学習:単元「アラブ人ってどんな人?」 広島県立祇園北高等学校(非常勤講師) 浜 岡 由 希 子 とは、もともと砂漠に生きる遊牧の民をさす言葉 1.はじめに −今なぜアラブ理解か− であるが、彼らが厳しい自然環境の中で培った 2001年9.11米国同時多発テロ以降、急速にイ 相互扶助システムが、現在のイスラム法の内容と スラム教への注目が高まっている。連日マスコミ なっている。イスラム教は人間に、とりわけ弱者 から流れる情報によって、生徒たちのイスラム教 に優しい宗教である 。この点を理解しなければ、 徒、とくにアラブ民族についての関心は高い。し 自然の恵みに支えられて生きてきた私たち日本人 かし、彼らに対するイメージは良くない。 「テロ」 がアラブ民族を理解することは難しい。アラブに 1 「聖戦」 「断食」「アラーの神」…など浅く偏った 限らず、このように本質的に異文化を見る方法を イメージがほとんどである。日本では在日外国人 習得することにより、その地域の人々とコミュニ が急増しており、多民族国家になる日もそう遠く ケートする時の偏見や誤解をできるだけ防ぐこと ない。その中にはもちろんイスラム教徒も含まれ ができるだろう。 る。彼らとの共生を考えるうえでも、また、資源 地理Aでは、作業を通した地理的技能・思考の 希少国である日本がこれからも現在の経済活動を 学習が重視されている。生徒たちは概して手を動 維持し続けるうえでも、アラブ世界との調和はこ かす作業学習が好きである。しかしその時頭が同 れからも必須である。 時に動いているのか怪しい時もある。それを克服 するためにも、作業のための学習ではなく、あく 2.アラブ民族の本質から学ぶ 「民族」 ・ 「文化」 までも自分で資料から傾向や違いを読み取る力、 『高校生の地理A 最新版』の「第2章異文化 読み取ったものから一般的な理論を引き出す力、 の共存について考えよう 2アラブ世界の共通点 そしてその理論をさらに違う事象へ応用し考えて とは?」 (p.86∼89)の単元は、この課題を克服 いく力、最後にその知識をもとにこれからの自分 する内容である。これまで行われがちであった異 の生き方を決定し他者へ発信する力、を育成する 文化理解学習は、自己の文化との差異を強調し多 ▼④世界の公用語と言語別人口(1998年) 〈The World Almanac 1999.ほか〉 様性を認識するだけのものが多い。これでは結局 興味本位に表面的違いを意識するだけとなってし まう。しかしこの単元では、アラブ民族を例とし て、民族の本質的な性質を学ぶことができる。 「ア ラブ民族」とは、国・地域の境界を超え、アラビ ア語を共有する人々のことをさす。そしてアラビ ア語がイスラム教の聖典 「コーラン」 の言葉となっ ていることから、人種を超え、宗教・生活習慣・ 社会制度・価値観などを共有している。 「アラブ」 「高校生の地理A 最新版」p.87 ̶4̶ ためにこれを用いたい。もちろん、生徒にすべて [展開3:アラブ文化] ・アラブの人々はどのよう を任せることは難しいので、教師が適宜アドバイ な暮らしをしているのだろうか? 〈仮説①〉基 スを与え、より本質的な理解を援助することが必 本的な生活習慣(例:衣・食・住や「五行」な 要である。 ど) 〈仮説②〉社会制度(例:結婚は単なる 「契約」とみなされ、離婚も少なくない。親が離 3.授業展開− 「アラブ人ってどんな人?」 − 婚した場合の子への財産の配分などもイスラム法 [導入1:おもな問いの提示、仮説の提示] ・ア で詳しく決められている。 ) 〈仮説③〉 :価値観・ ラブ人とはどのような人々か? どこに住む人々 人間観(例:もともとは遊牧民のため「定住」よ か? そのイメージは?(既有のイメージを確 り「移動」を好む、自然の厳しさから労働に合 認) 理性は求めない、他の民族や人種への寛容性、な [展開1:白地図作業を通した仮説の検証] 〈仮 ど。 ) 説①〉アラブ地域に住む人…地図上には「アラブ ・なぜこのような文化が生まれたのだろうか。写 地域」という表記は存在せず。 〈仮説②〉イス 真からわかる地形や気候から考えよう。 ラム教を信じる人々…教科書p.88を参考に、白地 [終結:アラブ世界の文化的・地理的背景] ・なぜ 図に記入。その際、該当する国名も調べて書き込 アラブ人は国や人種を超えて同じ文化を共有して む。以下同。 〈仮説③〉アラビア語を話す人々 いるのだろうか?…アラビア語はイスラム教の聖 (=正解)…教科書p.86を参考に白地図に記入。 典コーランの言語である。言語を共有するという 〈仮説④〉 「アラブ人」という人種…存在せず。 ことは同時に宗教も共有していることであり、イ 仮説③の該当地域に住む人種を地図帳などの人種 スラム教独特の生活習慣や社会制度、価値観など 2 分布図 を参考に白地図に記入。 も共有している。アラブの民は厳しい自然環境の [展開2:アラブ人の定義] ・仮説③「アラビア語 中で生きているが、イスラム教はその中での人間 を話す人々」が「アラブ人」である(おもに西ア の弱さ・小ささを自覚し、細かく決まりを定め相 ジア・北アフリカに国を越えて分布) 。それぞれ、 互に助け合う社会のしくみを作り出した。民族と 仮説②と仮説④はどの地域で異なるのか、挙げて は、そのような共通の文化を有している人々が、 みよう(イスラム教徒は西アジア・北アフリカ以 自分の居場所と感じている(帰属意識を持つ)人 外にも分布。アラビア語を話す人々はほとんどイ 人の集団のことである。 スラム教徒。 「アラブ人」にはコーカソイドが多い [発展学習:民族の定義の応用] ・私たちが「日本 が、他にもネグロイド、混血のコーカソイド・ネ 人」という場合、どのようなイメージを持ってい グロイドも) 。 るだろうか?「日本人」とは民族か、人種か、そ ▼①世界の宗教分布と宗教別人口(1998年) 〈Diercke Weltatlas 1992.ほか〉 れとも国籍だろうか。クラスで話し合い、そのイ メージを確かめてみよう。 1 この点については、片倉もとこ『アラビア・ノート』 (筑 摩書房、2002)が非常に参考になる。記述された時期は少 し古いが、アラブの生活や考え方が生き生きと書かれてい る。 2 『新詳高等地図 最新版』p.117∼118 「④人種」などを参照。 「高校生の地理A 最新版」p.88 ̶5̶ いきいき体験 授業実践 地理B編 身近な地域からの国際理解教育 −横浜・中華街を教材にして 神奈川県立六ッ川高等学校 青 柳 光 茂 また、華人の出身地を中国の地域で見ると、最も 1.はじめに 多いのが広東で、次いで台湾、福建、上海の順に 本校の所在する横浜市は国際貿易港として栄え なっている。そこで「標準高等地図」 (帝国書院) てきた経緯があるが、その過程の中で多くの外国 で広東省の位置と地形の把握をし(平野に乏しい 人が居住してきた特色をもつ。なかでも華人の町 丘陵状の地形など) 、また、地域資料図(p.13∼ である中華街は、国内は勿論、世界に散在する中 14)や教科書の「中国の生活」 (p.88∼89)でそ 華街の中でも最大規模のものとして知られている。 の地域の先進性・開放性について理解し、華人を 本校では1年生の必修科目として地理Bを履修 多数輩出した要因について考察してみる。 させている。 「楽しく学ぶ世界地理B」 (帝国書院) 3.中国の食文化を知る の第4章「現代世界の諸地域と近隣諸国の調査」 において、その中華街を教材に選び、地域調査の 教科書の中国①「多様な自然と豊かな食材」 方法や分析、それを基礎に中国の文化や社会を中 (p.80∼81)にある 「現地リポート」 で、中国四大 心とする地誌を理解できるような授業実践を試み 料理の特徴を理解し、またその相関性を図⑦「中 てみたい。 国の農業地域」で確認させる。その後、中華街に おける中華 2.中華街の華人の歴史と特色について知る 料理店の種 幕末に日本が開国し、横浜港が開港されると、 類とその割 米英仏などから大勢の商人が横浜を訪れ、外国人 合を確認し、 居住地(居留地)に商館を開いた。彼らは横浜進 中華街に広 出に際し、中国人を伴ってきた。中国人は漢字に 東料理店が よって日本人と筆談が可能なため、欧米人と日本 多い理由を 人の間にたち、生糸や茶などの貿易現場で不可欠 考える。中 な存在となり、彼らが中華街華人のルーツとなる。 華街の店舗 その後、横浜と上海・香港との間に定期航路が開 「楽しく学ぶ世界地理B 最新版」p.81 設されると、多様な技術をもった中国人が横浜を インターネットの利用(教科書p.78のSKILLコー 訪れ、明治初年には華人人口は約1000人にまで成 ナーで基礎知識を学習したうえで)や、横浜中華 長した。1899年、居留地が撤廃され、内地雑居が 街発展会協同組合などの資料が便利である。 前提となると、日本人の職業保護のために、華人 については、 4.中華街における中国語の使用について知る の職種も三刀業(理髪・洋裁・料理)など一定の職 業制限が実施され、主として中華料理店(約200 日本を生地とし、滞在年数も長い人々が多いこ 店舗)が増加する要因になることを理解させる。 とから、中華街の華人社会では、家庭内で日本語 ̶6̶ しか使用しない人が44%を占めている反面、中国 行に基く色調である青赤白黒で彩られている。四 語のみという人も14%を占め、民族アイデンティ つの牌楼と守護神、色調は以下の通りである。 ティの高さを示している。しかし、職場(主とし [東]朝陽門…日出を迎える門を朝日が街全体を て中華料理店)では日本語のみが32%、中国語の 覆い繁栄をもたらす。青龍神、青。 みが11%とそれぞれ減少し、日本語・中国語双方 [南]朱雀門…厄災を払い、大いなる福を招く。 を使用する人口が大きな割合を示している。職場 朱雀神、赤。 では日本と中国のそれぞれの出身者がいるため、 双方が意思疎通のために歩み寄っていることなど [西]延平門…平和と平安の安らぎが末永く続く ことを願う。白虎神、白。 が要因だと推測してみる。 [北]玄武門…子孫の繁栄をもたらす。玄武神、 また教科書の現地リポート(p.82)で中国語の 黒。 発音の多様性を理解し、華人子弟のための民族学 風水思想では、時間と方位を関連させ、時間の 校(横浜には大陸系と台湾系の2校がある)では 移り変わりとともにその方位の守護神が入れ替わ 北京語での教育が行われていることも紹介する。 り、四つの門の内部を守るとしている。つまり中 華街を24時間365日を途絶えることなく守護神の 5.中国の祭事と風水思想について知る 下におくという発想である。これは子孫代々まで 中華街では年間を通じ、中国の伝統的な祭事が の繁栄を願った漢民族の知恵の継承であり、真の 催され、観光の目玉にもなっている。中国の正月 中国文化を継承させるという、中華街の使命でも にあたる春節はその代表的な祭事であり、その他 あることを理解させる。 にも、お彼岸にあたる清明節、三国志の英雄・関 また、中華街には関羽を祭る関帝廟があり、簿 羽の生誕を祝う関帝誕、収穫祭である中秋節など 記の発明者であり、義を重んじ誠を尽くし約束事 多種多様である。教科書p.83を用いて、日本の年 を守る関羽の精神が商人にとって大切であること 間行事との相違点に着目して学習したい。 から、商売の神様として信仰を集めていることも 知る。 6.おわりに 以上のように中華街という地域を教材に、地域 の文献資料や統計資料あるいはフィールドワーク を通じて、近隣の外国である中国の多様な文化を 体感することが可能である。国際理解教育とは単 なる知識の習得や語学学習に終始するのではなく、 偏見をもたずに異文化を尊重し、共有することが 「楽しく学ぶ世界地理B 最新版」p.79 ②春節の祭り 何より大切なことである。地理を教育する者とし 中華街には中国の風水思想に基いて「東南西 て、常に生徒に対し偏狭なナショナリズムに陥る 北」に牌楼が建立され、それぞれの牌楼には邪気 ことなく、人間愛に根ざした真の国際理解を実践 や悪災を防ぎ、内部の繁栄と安全をはかり願う守 していくことが重要であり、それこそが最大の使 護神として四神が据えられている。牌楼は陰陽五 命であると考えている。 ̶7̶ 資料で学ぼう アンデス高地原産のジャガ 多様なジャガイモ の世界への伝播 ジャガイモの伝播 イモが世界中に広がり、3億 tもの生産量に達したのは、 栽培しやすく、素晴らしい食 べ物であったから。 アンデスのジャガイモ 昔、アンデスで1万品種以上 ペルー も栽培されていたのはソラナムフレハなどの小さな、 チリ 美味しいが、あまり穫れないイモであった。千数百年 前、突然染色体が倍加して大きくなったジャガイモ、 航海食の伝播ルート 越冬食の伝播ルート 早生ジャガイモの伝播ルート ソラナムアンディジェナが出現、美味しくはないが生 ア人がジャガイモと魚で元気だったという。最上徳内 産量の多いこのジャガイモが南米各地に広がったが、 が千島でロシア人からジャガイモを貰い蝦夷地(北海 美味しいイモを食べたいアンデスの人々は古い小さな 道)に持ち帰ったのは18世紀末。それ以前に北前船が イモ、フレハを自給用に栽培し続けていた。 漁場で働く人々の越冬食としてジャガイモを伝えてい スペイン人が持ち帰ったイモ ピサロらが持ち帰った るが、オホーツクには達していなかった。 イモは大きなアンディジェナ、征服者のスペイン人も アイルランドの悲劇とチリのジャガイモ ジャガイモ 美味しい小さなイモより、不味くても大きなイモに魅 の普及で人口の急増したアイルランドを南米から侵入 力があった。食料不足の貧しい時代だったから。 した疫病が襲ったのは18世紀前半、当時のジャガイモ この不味さがジャガイモの普及のネックになった。 は9月にならないと太らないアンディジェナ種だった 貧乏人のパン、と呼ばれ、豊かな人たちはジャガイモ ため、9月の秋雨で激発する疫病は壊滅的な被害をも を食べなかった。より豊かになり、肉や酪農製品、油 たらし、ジャガイモを主食としていたアイルランドの と一緒に食べられるようになるとその美味しさに気づ 人口は餓死と新大陸への移民で半減した。この移民者 く。 「ジャガイモは貧しい人には不味く、豊かな人には が持ち込んだジャガイモが北米で広がって、今でもア 美味しい食べ物」だったのである。 イリッシュポテトと呼ばれている。 航海食、越冬食として世界に広がった スペイン、ポ アイルランドだけでなくヨーロッパを脅かした疫 ルトガルの航海者はジャガイモを食べ続けると野菜不 病の対策として取られたのがペルーとは別の原産地チ 足による壊血病(ビタミンC欠乏症)にならないこと リのジャガイモ、ラフパープルチリという品種の導入 を知る。大量のジャガイモを積んで船出し、世界の港 (交雑種子の利用)であった。ヨーロッパの夏のよう でジャガイモを栽培させた。日本へはジャカルタから に日照時間の長いチリのジャガイモは早くイモを太ら 長崎へオランダ人が運んできた。ジャガイモの名の由 せるので、結果として疫病の被害を回避できたのであ 来である。江戸末期、ペリー提督が函館開港を迫った る。今私たちが食べているジャガイモ品種はすべてこ のは当時北海道沖に来ていた捕鯨船乗組員へのジャガ の時に育成された品種、アーリーローズの子孫である。 イモと水の供給が目的だったと言われている。松前藩 ソラナムフレハの見直し 豊かになった先進国の人々 が亀田で栽培、納めた記録がある。 はアンデスの美味しい、小さなジャガイモに気づく。 一方、スペインからドイツ、ロシアへは越冬食とし 私たちが育成した「インカのめざめ」 、スウェーデンの て広がった。冬の野菜不足対策である。ジャガイモを 「アーモンドポテト」 、北米の「ナッティポテト」 、す 携えたエカテリーナの征服者たちはウラル、シベリア べてフレハの改良種。アンデスの心豊かな人たちに追 を越えてアラスカに達する。冬期間、オホーツク沿岸 いつくのに500年もかかったことになる。 の南部藩の防人は壊血病で倒れていたが、対岸のロシ ̶8̶ (日本いも類研究会顧問 梅村芳樹) 資料で学ぼう モンゴルの定住化 2003年現在、モンゴル国の た生活は保障された。夏休みや週末になると郊外に職 総人口は250万人。このうち定 場ごとに建てられた別荘地で、自然との触れ合いを楽 住地の人口、つまり、首都、 しんだ。定年退職者は、郊外にゲルを立て、家畜と共 県や郡の中心地の人口は146 生する、時間に縛られない暮らしに戻っていった。 万人である。これは総人口の 社会主義末期の1980年代には遊牧民人口が減る。首 58.4%が定住していることをあらわしている。さらに 都はソ連東欧に畜産物を輸出した代価で近代化したが、 首都ウランバートルの人口は89万人で、モンゴル人の 原資を生み出す遊牧民の労働と生活は変わらず、都市 3人に1人は首都に住んでいることになる。 と地方の格差が拡大したためである。遊牧民は教育や 人民革命以前の定住化 1921年の人民革命直前の1918 兵役制度を通じて、地方から首都へ脱出し、そこに安 年、モンゴルの人口は64万人であった。これは現在の 定した生活を求めた。 4分の1。この年の定住地は首都クーロンとラマ廟で 民主化後の社会変化 1990年の政治の民主化後、1991 あるが、首都の10万人とラマ廟の4万人とあわせて14 年にショック療法による市場経済への移行が敢行され 万人、全人口の21%が定住していたことになる。さら た。急激な国営企業の民営化は倒産を招き、失業者が に首都クーロンの人口の民族分類を見ると、中国人が 増え、激しいインフレとなった。この結果、人々は生 8万5千人で62%を占め、モンゴル人は5万人。つま 活不安から担ぎ屋になり、中国、ドイツ、ロシアに出 り、革命前のモンゴル最大の定住地は外国人の都、漢 かけるようになる。社会においてはモラルの低下、治 人の植民地であったことがわかる。モンゴル人民革命 安の悪化、家庭においては離婚、家庭内暴力、ストリ は、まず、このクーロンをモンゴル人の手に取り戻す ートチルドレンの問題が顕著になった。一方、遊牧民 こと、革命後はモンゴル人がそこに住み、政治や経済 人口は、家畜の私有化をきっかけに増加する。自分の を動かしていくことが課題となった。 家畜を増やし、経営規模を拡大し、経済的には豊かに 近代化と定住化 第二次世界大戦を終えた1950年代、 なる。しかし、地方の教師や医師の首都移住にともな モンゴルはようやく近代化に取り組めるようになる。 い、教育や医療の水準が低下した。子どもの将来を考 遊牧を経済の基盤として強化し、その原料で食料品、 えて郡から県の中心地の学校に子どもを移す家、母親 繊維、皮革工業を発展させた。大規模工場に必要な大 が通学のため子どもと定住地に住み、父親が家畜と遊 量の労働者は、無料の教育制度によってモンゴル全土 牧地に残る家も現れた。1990年代の後半に西部地域で から生み出された。遊牧民の子どもたちは郡の中心地 春の大寒・大雪、夏の旱魃などの自然災害が続き、家 で寄宿舎生活をしながら、小中学校の義務教育を受け、 畜財産を失った遊牧民は家族ごと首都へ移住するよう さらに県の中心地の高等学校、専門学校、首都の大学 になった。首都を囲む山の斜面には囲い付きのゲルが に進学した。優秀な子はソ連・東欧に留学した。社会 びっしりとはりついている(写真) 。市場経済移行後 が必要とする専門性を身につけた子どもたちは、首都 の首都労働者の失業問題に加えて、地方からの移住遊 に用意された高層アパートに住み、労働者の権利を享 牧民の貧困問題が深刻 受して国を支えた。 化している。首都に定 モンゴルの近代化、都市化はソ連の援助の賜物であ 住した人口は、さらに った。ソ連はコンビナートを建設すると、そこで働く よりよい生活を求めて、 労働者のために高層アパート、学校など地域社会を丸 ドイツ、 韓国、 日本、 アメリカへ移住していく。 革命によ ごとプレゼントしてくれた。アパートには電気、水道、 って取り戻した首都は、グローバリズムの下、空洞化 温水、集中暖房、水洗トイレが完備している。アパー しつつある。 (国立大学法人大阪外国語大学アジアⅠ講 トへの入居を待つ人々はゲルに住んでいたが、電化し 座助教授 今岡良子) ̶9̶ 資料で学ぼう デカン高原の綿花栽培 「デ インドの 綿花栽培の変化 3500 bls おもな州の綿花生産量 カン高原では綿花栽培が盛ん 3000 Andhra Pradesh である。 」呪文のように唱え 2500 Gujarat 2000 Haryana 1500 Madhya Pradesh られてきたこのフレーズはイ ンドの綿花栽培の現状を端的 1000 に表したものでも、デカンの農業の現状を端的に表し 500 たものでもない。 0 Maharashtra Punjab 1970 1975 1980 1985 1990 1995 2002 確かに現在でも、デカンの綿花地帯を構成するマハ 注 bls=約170kg たとえば、1969年=1969年3月∼1970年2月と読みとって下さい。 出典:CMIE(Center for Monitoring Indian Economy Pvt. Ltd.)農業統計 ーラーシュトラ州(以下MHA)やマッディヤプラデ シ生産は限定的で70年当時は全国生産の1%に満たな シュ州(以下MP)を中心にした地域がインドの作付 かったものが、90年代以降急速に拡大して、主要生産 面積の5割を占めていることは事実である。しかしこ 州の一角を占めるに至った。この間、生産量は14万t の地域が全国生産量に占める割合は約3割に過ぎない。 (90年) 、34万t(95年)と増加し、02年には74万t デカンの綿作地帯はインド最大の作付面積を擁しなが に達している。綿花とは異なり生産性もこの間に向上 ら、生産性は主要綿花生産州で最低という水準を脱し し、上位生産州に肉薄している。州内の主要生産地は ないままにいるのである。 アウランガーバード、ドゥーレなどのほか、かつては インドの綿花栽培 黒色綿花土壌とも呼ばれるデカン 綿花の一大集散地として知られたショラープルも有数 のレグール土との関連もあって、デカンと綿花はいわ のトウモロコシ産地となっている。 ゆる「環境条件をいかした農業」という文脈で教え続 また、大豆生産の拡大も急で、70年にわずか1万t けられてきたのかもしれない。しかし、独立以来、イ 余だった生産量は、80年に44万t、90年に260万t、02 ンドの綿花生産の主力を担ったのは、デカンにグジャ 年には456万tに達し、インドは世界第5位の生産国 ラート州とパンジャブ州を加えた地域であり、決して に進出し、輸出量も急増している。その中枢がデカン デカンが唯一の綿作地域ではなかった。 で、02年のMP州の全国シェアは56.6%、MHA州が34.7 事実、生産量の首位は70年代から80年代にかけては %で、この2州で全国生産の9割を占める。かつて綿 グジャラート州、80年代後半からはパンジャブ州であ 工業都市として知られたインドールは大豆生産、加工 った。また、アンドラプラデシュ州やハリヤーナ州が 業の一大拠点となっている。 90年代に入って急速に生産量を伸ばしていることも特 さらに注目されるのが、生鮮野菜生産である。穀 徴的である。2000年に前後してMHA州が作付面積の 物生産を対象とした「緑の革命」やミルク生産にかか 広さを背景に首位となる。しかし、生産性は高いわけ わる「白い革命」に次ぐ農業政策として、インドは目 ではない。 たとえば、 02年度のMHA州のそれは158kg/ha 下園芸農作物を対象とした「黄金色の革命(ゴールデ で、パンジャブ州の410kg/ha、 新興のハリヤーナ州の ンレボリューション) 」を進めている。そうした中で 340kg/ha、 アンドラプラデシュ州の230kg/haと比較して MHA州は全国的なタマネギ、トマトの生産州と位置 大きな差が開いたままである。 づけられ、とくにナーシクはインドの主要都市に向け デカン高原の農業 デカンでは、綿花だけではなく、 てトマトを長距離出荷する拠点として成長しつつある。 多様な農業が展開されており、とくに近年の変化には このようにインドでは新興の綿花栽培地域が台頭す インドの農産物需給にも大きな影響を与える動きを見 るとともに、デカンの農業も、綿花だけではなく、ト て取ることができる。第1はMHA州におけるトウモ ウモロコシ、大豆あるいはトマトなどの一大生産拠点 ロコシ生産の急速な拡大で、02年度には全国生産の約 として新たな展開を迎えている。 7%を占めるに至っている。元来同州ではトウモロコ ̶ 10 ̶ (山口大学教育学部助教授 荒木一視) さな洪水となる。農村部でも田畑に水が氾濫し、時々 守屋留学生交流協会奨学生の記 湖と間違えるほどである。また、湿原が水でいっぱい バングラデシュの雨季と乾季 になり、魚などもたくさん捕れる。この雨季には川の 水も溢れて、国土の3分の1は洪水となり、耕地に肥 バングラデシュは1947年に英領インド帝国から分 沃な土を供給している。バングラデシュでは、雨の日 離独立したパキスタンの一部、東パキスタン州として はのんびり過ごすことが多く、雨の日に食べるキチュ 発足した。しかし、政府は東西間の機会の均等を図る リ(ご飯と豆を混ぜたカレー味のもの)などもまた楽 ことができなかった。経済的にも西パキスタン(現在 しみである。子どもたちも学校に行かないで雨の中で のパキスタン・イスラム共和国)に支配されており、 遊んだり、家でゆっくりしていることが多いのである。 言語をウルドゥー語に統一するといった動きの中で、 秋 8月中旬雨が段々少なくなり、雨季が終わっ 1971年3月25日にパキスタンからの分離独立を宣言 た9月下旬頃から、再び暑さが続く。雨季と乾季の変 し、9か月の内戦を経て(300万人もの命が奪われた) 、 わり目には、ベンガル湾に強力なサイクロン(熱帯低 1971年の12月16日に独立を達成している。バングラデ 気圧)が発生する。毎年サイクロンによって大きな被 シュの人口は約1億3000万人(2001年) 、ベンガル人が 害がもたらされる。1991年には14万人もの死者が出た。 その大半を占め、 国教はイスラム教(ゆるやかである) 、 霜季 10月中旬から始まり、この季節の星はたい 公用語はベンガル語である。 へん美しい。とくに、田舎では満天の星となる。また、 バングラデシュは西・北・東をインドに囲まれてお 一年中で、蛍が一番多く見られる時期である。この時 り、南方にはベンガル湾がある。平野が多く、この中 期バングラデシュの旅行シーズンであり、たいへん暮 央をパドマ(ガンジス) 、メグナ、ジャムナ、ブラマプ らしやすく、日本の秋口に似た気候である。この季節 トラおよびその支流の川が流れ、世界最大の三角州を に新しいお米ができ、バングラデシュ人の6割以上を つくっている。たくさんの川が流れているので、わが 占める農民たちは忙しく、また農村がもっとも豊かな 国は母なる川の国といわれる。 な季節でもあり、農民にとって一番楽しい時期である。 バングラデシュの気候は熱帯モンスーン気候に属し 冬 12月中旬に冬が始まり、農村では新米のいろ ている。大きく、雨季(4月∼9月)と、乾季(10月 いろな食べ物やお菓子で楽しい生活が続く。日本の冬 ∼3月)に分かれる。実際には6つの季節があり、そ より寒くなく、一番寒くて6℃ぐらいで約2週間続く。 れは夏(4月上旬∼) 、雨季(6月中旬∼) 、秋(8月 バングラデシュでは北の方が一番寒い。設備もよくな 中旬∼) 、霜季(10月中旬∼) 、冬(12月中旬∼) 、春 い生活では、人々はこのくらいの寒さでも耐えられず、 (2月中旬∼)である。 死亡している人も少なくない。しかし、首都ダッカで 夏 バングラデシュは一年中暑い国と思われがち はあまり寒さは感じられない。 だが、4月下旬から5月にかけては夏の真っ盛りで、 春 2月上旬から春に入り、花がとても美しい季 一番暑い季節である。5月下旬からそろそろ雨が降り 節で、チューリップ、マリーゴールド、コスモスなど 始める。スコールのあとは涼しくて気持ちがよい。こ はこの頃咲き、タゴールの詩もこの季節をうたったも の時期には果物はたいへんおいしい。ライチやマン のが多い。気温が上がるのは3月に入ってからである。 ゴー、そして代表的な果物ジャックフルーツ、ブラッ 高温が続いて乾季が始まり、水が足りなくなった畑な クベリーなどが雨季の間中、市場に出まわる。 どはたいへんな状況になる。 6月中旬から本格的な雨季が始まる。気温 このように、バングラデシュでは6つの季節を過ご はそれほど高くないが、湿度はとても高くなる。雨季 している。 ( (財) 守屋留学生交流協会第21回奨学生 になると一日中雨が降り続き、ダッカ市内などでは小 シャヒン=モハメド=ミザヌル=ラハマン) 雨季 財団法人「守屋留学生交流協会」は、1982年元帝国書院社長守屋紀美雄氏の株式の寄付によって設立、アジアからの留学生に奨学金を給付している。奨学生は現在までに18か国・地域231名。 ̶ 11 ̶ ����� ��� 現代アフリカの理解に向けて 神戸大学大学院国際協力研究科教授 高 橋 基 樹 (約6億7400万人)が、アフリカに住んでいる(2001 “地理感覚の外の地” 年) 。そうした重要性にもかかわらず、アフリカの人び 「アフリカは忘れ去るべき、歴史の外の地である」 との暮らしについての、日本における理解はきわめて と論じたのは、かの哲学者ヘーゲルであった。これは、 乏しい。アフリカと聞いてわれわれが思い浮かべるイ アフリカを劣った野蛮な社会と見なす考えの典型とい メージは、密林やサバンナ、野生動物、あるいは貧困・ ってよい。このような見方に反して、アフリカが人類 飢餓と停滞、紛争といった固定観念の域を出ない。 の誕生の地であり、それ以来実に豊かな歴史を刻んで 最新の高等学校の地理教科書を拝見すると、そうし きた大陸であることが、考古学・歴史学の進展により、 た固定観念を超えたアフリカの実像を紹介するための 近年分かってきている。 工夫が見られる。しかし、残念ながら、上で触れたよ ヘーゲルのような知性であっても、アフリカを理解 うな日本人一般のアフリカ理解の乏しさは、ここ数十 することはできなかった。その背景には、アフリカ大 年変化のないままといってよいだろう。その意味でア 陸のほとんどの土地が、サハラ砂漠や過酷な自然条件 フリカは依然として日本人にとって“地理感覚の外の によってヨーロッパから隔絶されていたこと、またア 地”である。 フリカ人の多くは文字を持たず、まれにしか外へ向け アフリカの激動の要因 て自己主張しなかったことがある。しかし、一方で、 ヘーゲルなどヨーロッパ中心主義者たちが、ヨーロッ たしかにアフリカ人は、経済的な基準では一般的に パ以外の諸社会をありのままに見ず、理解しようとし 非常に貧しい。 日本の1人当たり国民総所得は3万5610 なかったことも関係しているだろう。 米ドルなのに対し、サハラ以南のアフリカの平均は このことは、日本人の開発途上国、とくにアフリカ 460米ドルである (2001年) 。アフリカの平均所得は、 の理解についても大事な教訓を含んでいるように思わ 日本の約77分の1でしかない計算になる。世界におけ れる。異なる社会を理解するためには、われわれの価 るこうした巨大な格差は決して座視できるものではな 値基準で一方的に判断してはならず、古い固定観念を い。そこに国際社会の一員として、われわれがアフリ 捨て去り、豊富な現地の情報を集め、各社会の実像を カに注目しなければならない理由もある。 見つめてゆく必要がある。 アフリカが貧しいというと、近代以前の状態のまま ひと口にアフリカといっても、アフリカ大陸および 停滞している社会が連想されるかもしれない。しかし、 周辺には53の国家があり、多様な人びとが住んでいる。 現代のアフリカは、むしろ激動のただなかにある。多 ここではそのなかでサハラ砂漠以南のアフリカを中心 くの諸国が独立した1960年代以降の約40年間に、アフ に論じよう (一部の地理教科書では、南アフリカ共和国 リカは人類史上空前の、ほぼ3倍という人口増加を経 をその他の国々から区別しているが、ここでは同国も 験した。人口急増の原因は、周知のようにワクチン、 含むものとする) 。 ヘーゲルが歴史の外へ追いやろうと 抗生物質など近代医療技術の普及である。その意味で したのも、 サハラ以南のアフリカであった (以下、 アフ アフリカは、近代以前にとどまっているのではなく、 リカとは、 サハラ以南のアフリカをさすものとする) 。 近現代の歴史をわれわれと共にしているのである。 世界の人口約61億3000万人のうち、ほぼ9人に1人 アフリカの直面する問題のひとつは、こうした人口 ̶ 16 ̶ 急増に、所得の増加が追いつかないことにある。その 作物しか耕作していないと考えるのは大きな誤解であ ためにアフリカの多くの国で長期的に1人当たり所得 る。その証拠に小規模農民の畑地に足を踏み入れてみ が低下するという事態が起こっている。言い換えれば、 ると、コーヒーのような商品作物からキャッサバなど アフリカは昔のままに貧しいのではなく、国によって の食用作物まで、多種多様な作物を栽培している様子 は昔より貧しくなってしまっている。そして人口の急 を目にすることができる。それは一見雑然としていて、 増は、土地や水の生産への利用の効率性、すなわち生 整然と区画された日本の田畑とは対照的な光景である。 産性が上がらないことと相まって、耕地、放牧地、水 こうした先進国農家とは異なる栽培形態は、近代的 源など生活資源の相対的な減少を招いている。そして 技術の採用が進んでいないこととともに、アフリカ農 アフリカの農民たちは、生き延びるために森林ややせ 民の無知や頑迷固陋な非合理性のなせるわざと考えら た土地の開墾、休閑期間の短縮、放牧地の拡大、出稼 れてきた。しかし、最近の研究によって、アフリカの ぎなどを余儀なくされている。こうした状況が森林の 農業には、それなりの合理性があることが明らかにさ 減少、土壌劣化、過放牧、都市への人口集中とスラム れている。 の拡大などの背景にある。 アフリカ大陸は一般に土壌がやせており、農耕の環 境としては恵まれていない。生産性は低く、農業の主 アフリカ農民の合理性 要目的は、市場向け商業生産ではなく、人びとの生存 ここで、アフリカ諸国が所得と生産性を向上させる を保障するための自給に置かれている。そして洪水、 ことができないのは何故か、ということが当然問題と 旱魃、その他の天候不順、イナゴなどの虫害などに加 なろう。さまざまな要因が考慮されなければならない え、灌漑や貯蔵の施設の未整備のために、作物の生産 が、本論では従来から指摘されてきたアフリカ経済の と供給が不安定になりやすい。コーヒー、カカオなど モノカルチャーと農民の保守性、そして民族対立につ 商品作物の国際市況が変動しやすいことも、不安定性 いて考えてみたい。 を助長する。アフリカの農民は、こうした条件の下で 従来、アフリカをはじめとする開発途上国経済の特 食料と現金収入を確保し、生き延びなければならない。 徴は、輸出・生産が一部の産品に偏っていることとさ 自分の畑地にさまざまな作物を植えるのも、自然条件 れてきた。こうした特徴はモノカルチャー (単一耕作) への耐性や価格変動の作物ごとの違いを利用して、少 と呼ばれ、途上国経済の脆弱性の元凶と考えられてき しでもリスクを分散しようという知恵なのである。近 た。たしかに、多くのアフリカ諸国の輸出は特定産品 代的技術の導入が遅れているのも、それに必要な多額 に偏っており、外貨収入、ひいては経済全体の不安定 の投資が失敗に終わった場合に、生存や生活が危機に につながっている。しかし、こ れは単一耕作というより、単一 日本とアフリカの経済指標の比較 輸出(モノエクスポート)と呼 人口(2001年) 国民総所得 1人当たり国民 人口増加率 国内総生産成長 作付面積に占め (億米ドル) 所得(米ドル) (1980-2001) 率(1980-2001) る主食の割合 ぶべきであろう。モノエクスポ 日本 1億2700万人 45,233 35,610 0.4% 2.6% ートは、産品の導入や開発、運 アフリカ合計 6億7400万人 3,110 460 2.7% 2.1% ̶ 搬・積み出しのためのインフラ ウガンダ ナイジェリア 2300万人 1億3000万人 51 371 260 290 2.7% 2.9% 4.9% 2.1% 30.8% 26.6% 建設を、植民地時代の支配者ら が一方的に進めたことに原因が ある。 他方、アフリカの人口の多数 を占める小規模農民が、単一の 65.0% 出所:The World Bank World Development Indicators 2003;Food and Agricultural Organization FAOSTAT. 注1:国民総所得、1人当たり国民所得は2001年の数値。日本の国民総所得がアフリカ合計よりはるかに大きい(約15倍)ことに注意さ れたい。 注2:アフリカ合計とナイジェリアでは、人口増加率よりも国内総生産成長率の方が低いことに注意されたい。 注3:「作付面積に占める主食の割合」は2002年の各国の主要な作物の作付面積のうち、最大の作物(主食)の比率を示した。最も作付 面積の大きい作物は、日本は稲、ウガンダはメイズ、ナイジェリアはソルガムで、各々の国で主食ないしそれに準ずるものであ る。日本よりもアフリカの農民の方が多様な作物を栽培するため、各々の国で主食作物の作付面積も相対的に小さくなっている。 むしろ日本の方が稲により偏った栽培形態となっていることが分かる。 ̶ 17 ̶ 陥ることを予測して、慎重な合理的判断をした結果と 争もたくさんある。ソマリアの内戦は同じソマリ人同 考えることができる。 士の紛争であるし、残虐行為が注目を浴びたシェラレ ただ、こうした生存の知恵も、生産拡大の点からは オネ紛争の主要な争点は民族対立ではなく、底辺に置 必ずしも望ましいものではない。社会的に分業を進め、 かれ、機会を奪われた社会階層や若年層の不満だった。 各々の農民が特定の産品に特化してゆく方が、ノウハ むしろ、アフリカの草の根では、多様な民族集団の ウの蓄積、高度な技術の導入、規模の経済の実現につ 共生のための営為が積み重ねられてきた。農耕民が遊 ながるはずである。だが、社会的分業は、農民が自給 牧民に休閑畑を貸し、お返しに牛やヤギの糞を肥やし 水準を十分超える生産をし、市場に多くの余剰を出荷 にもらうなど、異なる民族間で様々な協力が行われて できてはじめて、本格的に達成される。つまり、低生 いる。多様な隣人と対話するために、数種類の言語を 産と社会的分業の未発達はニワトリと卵のように互い 操る人びともたくさんいる。 を制約する関係にある。そしてその背景には農民の生 国家再構築のための支援を 存の論理があり、それは合理的であるからこそ解きほ ぐすのが難しい貧困のメカニズムを作り出している。 従来の議論に欠けていたのは、過去、アフリカの国 家が本当に人びとに必要とされて来たのかどうか、と 先入観としての民族対立 いう視点である。アフリカの国家の根本的な問題は、 アフリカの慢性的貧困の原因として、しきりに言及 多様な民族の並存ではなく、その外生的な起源と浅い されるもう一つの問題は、政治的不安定と武力紛争、 歴史にある。アフリカの国家機構は社会の要請によっ そしてその背後にあるとされる民族対立である。いわ て長い時間をかけて形成されたのではなく、植民地化 く、ヨーロッパ諸国の植民地分割により国家の枠組み によって突如外から持ち込まれた。自給自足の小規模 が押しつけられ、言語や文化を異にする諸民族が同じ な社会に住んでいた人びとにとって、巨大な行政機構 国境内に住むことになった、そのためにアフリカ諸国 は元々とくに必要のないものだった。しかもほとんど は内部対立の芽をかかえて政情不安となり、政府の開 の国家は独立後たかだか40年の歴史しか持っていない。 発政策が奏功せず、経済的困難が助長された…こうし こうした国家が、すぐさま有効な開発政策の担い手に た説明が繰り返されてきた。この説明の背後には、民 なり得ないのは当然のことといえよう。 族集団同士は古くから本質的に異なり、互いに相容れ 最近の対アフリカ開発支援の潮流は、過去の失敗に ず、並存すれば対立するという固定観念がある。 鑑み、国民の利益にかなう国家の再構築への取り組み しかし、われわれが考えるほどアフリカの民族間の を強めている。欧米や国際機関による民主化や行政改 相違は明確なものではなく、異なる民族が言語や文化 革支援は、その一環である。 を共有している場合も多い。たとえば、大量虐殺に発 こうしたなか、日本はアフリカ開発会議(TICAD) 展したルワンダの内戦は、フツ人とツチ人の民族紛争 を主催し、アフリカ向け政府開発援助(ODA)として、 として報道された。しかし、実はフツとツチは同じ言 年間約8億5000万米ドル (ODA全体の11.4%。2001年) 語を話し、居住地や生業も重なっており、両者の間の を供与している。日本とアフリカの希薄な関係を考え 婚姻も珍しくない。フツとツチの対立は、古来の宿命 れば相当の巨額であるが、中身を見ると、依然として 的なものではなく、植民地宗主国ベルギーの分割統治 施設・機材などのモノやハードな技術の提供が主体で や独立後の権力闘争に起因する、という説が有力なの ある。求められているのは、むしろ国家の再構築に向 である。 けた適切な知的支援をさしのべることである。そのた またアフリカの武力紛争には民族対立のラベルが安 めにも、アフリカ社会の実像の的確な理解を欠かすこ 易に貼られる傾向があるが、民族対立とは無関係の紛 とはできない。 ̶ 18 ̶ リ ト ア ニ ア 旅 行 記 長野県丸子実業高等学校 山 闢 義 幸 2004年1月2日から7日まで日本人があまり行 だ社会主義の名残りが見られて、古めかしさがう かないリトアニアへ行って来た。今回の私の旅行 かがえた。となれば、資本主義国内にある工場の 目的は首都ビリニュス市内の様子を知ることと、 外観との違いを知ることが可能である。 個人的な平和学習として、杉原千畝が活躍したカ 市街地の中心部は「旧市街」と「新市街」に分 ウナスの旧日本領事館、現在の杉原記念館を訪ね かれている。旧市街には国民の多くが信仰してい るというものだった。短い冬休みの6日間しか滞 るカトリックの教会がところどころにあり、 「十字 在できないことから訪問する都市を2つに絞った。 を切る」信者を見かけることもあった。新市街は 日本人の場合、90日以内の滞在なら観光ビザも ビジネス、ファッションの街といえるほど西ヨー 要らないので、旧ソ連というイメージがほとんど ロッパの都市と似ている。周辺部はマンションが 薄くなった「容易に行ける国」になっている。経 何棟も立ち並んでいる地区が多い。また、各地区 由地から乗った航空機内からビリニュス着陸直前 の町並みはレストランやスーパーマーケットとい に見た風景は一面雪景色である。 った生活するのに事足りる程度の施設くらいしか 見られなかったことから、職住近接の例となるイ Ⅰ ビリニュス滞在 ギリスのニュータウンとは違うように思う。しか し、中心部 ビリニュスの空港で入国審査を終えて出口を出 から近いわ ると、花を持っている人が多いのに驚く。入国し りに樹木や た知人に贈るためである。日本では、あまり見ら 広場をよく れない光景である。周りをよく見ると花屋があり、 見かけたの 気に入ったものが簡単に買える。昼時でも氷点下 で、自然が の寒さの中で温かみが感じられた。 豊富という 空港はビリニュスの市街地から南に約4km離 旧市街の大聖堂 れているため、バスに乗って向かった。窓から見 印象を受け た。各地区 ると、ヨーロッパ諸国や韓国、そして日本などの を結ぶ主た 外資系企業の看板があり、リトアニアに進出して る周辺道路 いるのがよくわかる。1991年の独立以来、 「西側 は2、3車 資本」を受け入れていることを考えると、旧ソ連 線もあった ということを忘れてしまうくらいである。 ので、アメ しかしながら、煙突がある工場を見ると設備の リカ合衆国 古さが感じられ、社会主義時代の面影を残してい のハイウェ るところもあった。独立後10数年の期間では、ま テレビ塔から見たビリニュスの風景 ̶ 22 ̶ イを思わせ る。 ッフの飯田英司さんが携わっておられた。現地ス 空港から タッフの中には日本語を話す方がおり、私はとて ある路線バ も嬉しい気持ちになった。 スに乗ると、 館内には杉原氏が実際にビザを発給したときに 中心部の北 使用した机が置かれており、当時の状況をしのば 方のとある せる。また彼の功績をまとめたビデオを日本語で マンション 視聴をすることが可能である。展示物は彼の偉業 群があると を記したものをはじめ、修学旅行で訪れた高校の ころが終点 生徒たちが作成した模造紙の展示もあった。 ビリニュスのハイウェイ だった。リトアニア語がわからない私は運転手の 前述のとおり、杉原記念館の建物には日本語教 ジェスチャーで終点だとわかり、降りて町中を歩 育センターが置かれており、日本語の書物をはじ いてみる。辺りは雪が積もり、道路や歩道は圧雪 め、NHKの国際放送が視聴できる設備があって であった。歩いている途中で2人の小学生くらい 教育環境はよい。リトアニアでの日本語教育とし の子どもたちが珍しそうに私を見ていたので、英 て重要な役目を果たしており、また地元カウナス 語で話しかけたが、通じなかった。せっかくなの 大学日本語学科の講義でも使われている。 で、周りの看板や標識の読み方を確認してもらっ 杉原氏は多くのユダヤ人を救ったことで、イス たあと、お礼を言って別れた。ちなみに2人は ラエル政府はその功績を讃えたが、そのことにつ 「はい」の答え方からロシア人ではないかと思っ いては地元の人たちも考えは同じであり、とくに た。 スタッフたちも杉原記念館の将来について、真剣 に話していたことからもそれはうかがえた。日本 Ⅱ 杉原千畝ゆかりの地、カウナス 語教育も彼の偉業のおかげであろう。 Ⅲ まとめ 私個人の平和学習として、ビリニュスから約 100km西方の都市、カウナスへ行った。この都市 はユダヤ人約6000人をナチスドイツから救うため 今回は短期間で行ってきたため、ビリニュスの に「命のヴィザ」を発給、 「日本のシンドラー」 全体像を十分に見ることができなかったので、新 と呼ばれる故杉原千畝氏が勤務した当時の日本領 旧市街の中をもっと観察してみたいと思った。 事館が置かれたところである。 また杉原氏の功績を直に触れることができたこ カウナス市の高台にある住宅街の中に領事館だ とで、人の命をより考えるようになった。世界に った建物があり、現在は杉原記念館と日本語教育 はさまざまな民族や思想、宗教がある。その中で センターの2施設が入っている。建物は現在老朽 戦争があり、現在でも犠牲者がいることは悲しい 化のため改装が必要であるが、資金が足りず寄付 としかいえない。平和というものをもっと理解で を募っている(詳細はホームページhttp.//www. きるように地理教育を生かすにはどうしたらよい geocities.jp/lithuaniasugiharahouse/ を参照) 。 か、改めて考えさせられる旅であった。 私が訪れたときには、現地の館長さんをはじめ ボランティアスタッフの方々、そして日本人スタ ̶ 23 ̶ [写真解説]パリ中央市場は1862年以来パリ中心部にあったが、そこが手 狭になったため、1969年にパリ郊外南のオルリー空港に程近いランジス中 央市場として生まれかわった。パリ中央市場の約10倍、東京ドームの約50 倍に相当する市場内には、専門棟、冷凍倉庫、ショッピングセンター、銀行、 会社、鉄道駅、バスターミナルがあり、毎年250万tもの食料品を扱ってい る。それらの75%はフランス南部から、15%はフランス西部から、10%はフ ランス北部と東部、イスラエル、アルゼンチン、カナダ、オーストラリアな フランスの食文化と ランジス中央市場 どからやってくる。1千万人以上のパリ住民が1年に消費する75万tの野 菜、同量のパン、50万tの肉、10万tの魚、15億褄のワインも、ここから 食卓にのぼるのである。ヨーロッパにこれほど重要な市場は他にない。 (写真 ユニフォトプレス) 食べることはどこにいても必要なことだが、音楽や 料理である。アリゴはクリームやチーズとジャガイモ 建築と同様に、料理もまた芸術である。中国料理は東 を混ぜ裏ごしして分厚い生地にしたもので、ねっとり 洋で最も奥が深く、フランス料理は西洋で最もおいし している。 いとよくいわれるが、世界には、文化の数だけ異なっ どこの国でも、食事は非常に重要なしきたりであっ た料理や食べ方がある。 て、食事の支度のしかたも文化によって異なる。フラ フランスの食文化について考えてみよう。ここでは、 ンス人は左右対称を重んじるので、フォーク・スプー 数多くある有名なフランス料理店ではなく、家庭での ン・ナイフを皿の右と左に、グラスをちょうど真ん中 料理について語ることにしよう。フランスの家庭料理 に置く。皿やグラスは驚嘆されるものをそろえたい。 においては、パンとワインが2大シンボルである。こ そして、食事を出す順序はほぼ完全に規則正しい。ス の2つがない食事など考えられないし、おいしいパン ープや前菜が最初に出され、魚や肉が出て、それから とワインの作り方は古くから伝わっている。フランス サラダが出て、チーズが続き、最後にデザートが出て では300種類以上のチーズが生産されており、チーズ くる。好みにもよるが、さまざまなワインを料理に合 のない食事もまた想像できない。 わせて飲むことになる。 ところで、20世紀以降、フランス料理は徐々に「女 しかし、世界中の家庭料理と同様に、フランス料理 性化」してきている。つまり、男性が好むパン・豚 が何よりも大切にするのは友情である。家庭でもレス 肉・猟獣肉・ロースト肉よりも、女性が好むビスコッ トランでも、おいしい食事を通して親交を深めること ト・茹で肉・卵・野菜・魚が家庭の食卓にのぼること がフランス人にとって非常に大切なのである。ラブレ が多くなったのである。 ーの時代から今日に至るまで、フランスのあらゆる偉 しかし、食材や調理法が変化しても、フランス料理 大な作家たちは、自分の書く小説の中で登場人物が作 の真の秘訣たるソースの役割が非常に重要なことは変 るごちそうについて語っている。食事の席でフランス わっていない。 「ラルースの料理事典」では97種類も 人はしょっちゅう料理について話し、その作り方を教 のソースの作り方−とても簡単で誰でも自分の好みに え合ったり、互いに自宅に招いて料理をふるまったり 合わせて作ることができるマヨネーズソースから作る する。彼らにとって料理とは大切な芸術であり、偉大 のがたいへんむずかしいソースまで−が主婦に紹介さ な「シェフ」はスポーツのチャンピオンと同じくらい れている。 有名であるし、主婦たちもそれぞれ自分の料理に誇り ところで、フランスは異なる歴史をもつ諸地域から をもっている。 構成されているため、各地方にそれぞれ特徴のある料 このようなわけで、フランス人の食生活にとって、 理がある。その代表的な例は、アルザス地方のシュー 世界各国からの食材が集まるランジス中央市場は重要 クルート、プロヴァンス地方のブイヤベース、オーヴ な役割をもつ。それは、フランス人の料理に対するこ ェルニュ地方のアリゴなどである。シュークルートは、 のような大いなる情熱を満たす市場なのである。 発酵したキャベツ、ジャガイモ、ソーセージなどを混 (文学博士 〈人文地理学〉 ジャック・プズー=マサビュオ) ぜたもので、白ワインにあわせる。ブイヤベースは地 翻訳:編集部 中海のさまざまな魚をトマトやスパイスで味つけした