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学習メモ
第 72 〜 74 回
現代文編 評論2
自己基準と他者基準
すず き たか お
すが、幾つ色がありましたか。
」……これは読者(旅をし
鈴木孝夫
講師
た日本人)への質問です。
が、もちろん、「虹」そのものに違いがあるわけではなく、虹
(全三回)
渡部真一
②「ところがそうではないのです。例えばドイツ人にきいて
みてください。
」……今度は現地の人への質問です。
評 論 を 読 ん で、 文 章 の 構 成・ 展 開 を 理 解 し、 論 旨 を 的
をどう見るか、が異なっているのです。つまり、虹の色の数を
質問する相手が異なると、答えも違ってくるというわけです
確 に 捉 え ま す。 ま た、 筆 者 の 見 解 を も と に、 自 己 と 社 会
きかれた人が、どう答えるかがポイントになっています。筆者
■学習のねらい■
と の か か わ り に つ い て 考 え、 物 事 を 深 く 考 え る 態 度 を 養
はこの例を用いて何を言いたかったのでしょうか。
一 [自己基準と他者基準]
います。
全三回 の
学習のポイント2
「客観的」について確認する
などでよくお目にかかる基本的な用語です。その意味を確認し
学習のポイント1
導入に用いられた
具体例について理解する
ておきましょう。
するひとりよがりなさまを言うこともあります。
)
の立場から見たり考えたりする様子。
(自分だけに通用
「主観的」……物事を自分がどう見るか、ということ、自分
「客観的」は、その対意語である「主観的」とともに、評論
ドイツでは虹の色は「五色」、とあるのを読むと、私たちは
びっくりします。しかしこれは、読者の関心を引きつけるため
の、筆者の工夫です。次の二箇所に注目しましょう。
①「パリやハワイで異国の虹を見たという方もあると思いま
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現代文編
国語総合
第 72 〜 74 回
属する人が、異なったぐあいに見たり扱ったりしてしまうもう
だ単に人間によって、道具としておとなしく使われているだ
「私たちが平素無意識に使っている言葉というものは、た
筆者は次のように述べています。
前回の部分からこの後の部分へと話題を展開していくために、
人間の認識と
言葉の使い方の関連を確認する
学習のポイント1
⇔
全三回 の 二 [自己基準と他者基準]
「客観的」……自分だけの考えでなく、
誰が見てももっともだ、 と思われるような立場で考えること。
学習のポイント3 二つ目の具体例と
筆者の指摘を理解する
一つの例として蝶の話をしましょう。
」とあり、二つ目の例と
けではなく、使い手である人間の認識や思考にも大きな影響
「私たち人間をめぐる事実の世界を、それぞれ違った文化に
して、「蝶」(と「蛾」)の例が挙げられました。もちろん、一
力を持つものだ」
面白さはどこにあるのでしょうか。
今度は筆者は、スコットランドの小咄を紹介しました。その
スコットランドの
小咄の面白さを理解する
学習のポイント2
るでしょう。
る人々の認識や思考に大きくかかわっていることは、うなずけ
も、それぞれの文化の中で使っている言葉が、その使い手であ
たしかに、「蝶」と「蛾」の区別や、
「虹の色の数」の場合で
つ目の例は、先ほどの「虹の色の数」の話題です。この後、補
足的にトカゲなどの例も挙げたうえで、筆者は次のように述べ
ます。
次 の 二 か 所 は、 同 様 の 意 味 合 い で あ る こ と に 気 づ か れ る で
しょう。
「 日 本 人 な ら ば 誰 で も い ち お う 別 だ と 思 っ て い る、 し た
がって別の扱い方、違った名前を与えている対象(もの)
が、世界のどこでも同じように区別されるわけではない」
「人間がものを見る見方、ものに接する態度というものは、
多分にその人が生まれた風土や文化、特に言語に左右され
る」
* * * * − 196 −
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第 72 〜 74 回
①あるスコットランド人が、大国アメリカからの旅行者に対
して、「そんなら、あんた俺の国の人か。
」と言い、
「自分
の国がいちばん大きい」と思い込んでいること。
②ところが、「でもあんたの話し方にゃスコットランドなま
りがないね。」と、地方的なものの代表である「なまり」
を認めていること。
これらを筆者が少し後の部分で用いた表現で言うと、
「主観
的な自己評価と客観的な事実との間にズレがある」こと。これ
がこの小咄のポイントですね。
学習のポイント3
全三回 の
* * * * 三 [自己基準と他者基準]
学習のポイント1
「他者基準」の価値観を理解する
ユーラシア大陸の諸民族の価値観と比較して、筆者は今度は
日本人の価値観について述べます。筆者の言うように、
「私こ
そ日本を代表する日本人である」とか、
「日本は世界でいちば
ん よ い 国 で す、 こ ん な す ば ら し い 住 み や す い 国 は あ り ま せ ん
よ」などと言う日本人は、あまりいそうにありません。そこで
筆者は次のように指摘します。
「要するに日本人は価値の基準を自分自身におかず、他者に
それを求めるという他者基準的価値観を持っているのです。国
価値体系の中心に自分をおく
考え方について理解する
次に話題になったフランス西北部のブルターニュ地方での出
日本人は、自分や自分の国を中心と見る(いちばんいいと考
のレベルでは、自分の国を世界の中心とは考えず、むしろ遅れ
「ユーラシア大陸の諸民族は程度の差こそあれ、どこの国
える)のではなく、他人・他国を中心と見て、自分たちはそれ
来事は、さきほどのスコットランド人の小咄と似ています。こ
の人も、自分の国がいちばんいい、大きいと思っている」
とは違うもの、あるいは劣ったものと見る、
そんな価値観を持っ
て劣ったものと見る周辺主義なのです。
」
「自分の国、いやひいては自分自身が世界の中心だと思う」
ているのだ、ということです。
れらから筆者は次のように述べました。
「人が生きていくための価値体系の中心に自分を、自分の
国をおくという自己中心的な考え方がどこでもふつうなの
です」
これらは、どれも同様の考え方ですね。これが、この文章の
題名にもある「自己基準」の考え方なのでしょう。
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「自己基準的価値観」と
「他者基準的価値観」についての
考察を読み取る
学習のポイント2
第一段落……同じ一つの物事についても、異なる文化に属す
全体を振り返って、各段落の主な内容を確認しましょう。
学習のポイント3
観」との対比および考察。
実質的な主題 …「自己基準的価値観」と「他者規準的価値
深いかかわりがあること。
形式的な主題 …言葉の使い方は、社会や文化の成り立ちと
とも言えます。
そうすると、この文章には、次のような二種類の主題がある
ついて。
他者を中心と見る、日本人の他者基準の価値観に
第三段落……自分(または自分の国)に価値の基準をおかず、
ついて。
ユーラシア大陸の諸民族の自己基準の価値観に
第二段落……自分(または自分の国)が世界の中心だとする、
について。
る人は、違った見方をし、異なる表現をすること
全体の構成を振り返って
主題を確認する
筆者の指摘したこれらの価値観について、対比して整理しま
しょう。
ユーラシア大陸の諸民族の「自己基準」の価値観
①自分(あるいは自分の国)が世界の中心であると見て、自
己中心的に考える。
②その見方は、客観的な判断とは、ずれていることも多い。
③自分(自分の国)に優越感を持ち、満足していると、外国
に征服され滅亡してしまう危険がある。
日本人の持つ「他者基準」の価値観
①他者を価値の基準とし、自分の国は劣っているとする周辺
主義の考え方である。
②大陸の文明の恩恵を受け続けてきたという歴史的、地理的
な理由がある。
③その見方から生まれる劣等感が、絶えざる向上心・競争心
につながり、経済発展を支えてきた。
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自己基準と他者基準
すず き たか お
鈴木孝夫
講師
渡部真一
雨上がりの空に、美しい虹がかかるのを見たことがない人はまずいないでしょ
せきとうおう
りよく
せいらん
し
う。ところで虹には幾つ色があるのか知っていますか。もちろん七ですね。あな
た方の中には、赤橙黄緑青藍紫と色の順序まで覚えている人もあるかと思います。
さて外国の虹はどうでしょう。近頃は海外旅行が盛んですから、パリやハワイ
で異国の虹を見たという方もあると思いますが、幾つ色がありましたか。恐らく
皆さんの答えは、ばかばかしい、自然現象だもの、どこだって七に決まってるじゃ
ないか、でしょう。
ところがそうではないのです。例えばドイツ人にきいてみてください。五色だ
と言います。
イギリス人やアメリカ人のような英語を使う人々は、六と言う人が多いと思い
ます。でも七だと言う人もなくはありません。中には知らないとか、数えたこと
がないとか、いや無限じゃないのかなどと答える人もいます。トルコ人やポーラ
ンド人にきいてみますと、ほとんどの人がよく知らないと言います。ところがフ
ランスの人は、日本人と同じく誰にきいても、即座に七つと返事します。これは
どうしたことでしょうか。
虹は空中の水滴が太陽の光線に対してプリズムのはたらきをして、太陽光線を
それぞれ異なった波長の光に分解してできた色彩の帯(輪)です。そこには人間
の肉眼で見える波長の最も長い赤の光から、反対に最も短い紫まで、異なる波長
の光(色)がずうっと切れ目なく連続しているのですから、本当は色の数を七と
か五とか数えることができないものなのです。それを特定の数に区切って、虹に
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は色が七つある、いや五つあるというぐあいに言うのは、見る人々の使う言語の
習慣、つまり特定の文化によって決定される解釈にすぎないのです。日本では虹
は昔から七色と決まっており、親子代々この知識が伝わり、そのことが絵本や辞
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書にも示されているために、日本人ならばいつの間にか虹は七色だと覚え、しか
もそれが客観的な事実だと思い込むようになるのです。
ちよう
私たち人間をめぐる事実の世界を、それぞれ違った文化に属する人が、異なっ
が
たぐあいに見たり扱ったりしてしまうもう一つの例として蝶の話をしましょう。
日本語で蝶と蛾は互いにはっきりと区別されています。蝶は昼間、花から花へ
りんぷん
とヒラヒラ飛び回り、蛾は夜になると電灯に集まってきます。もちろんどちらも
羽に粉(鱗粉)がついているとか、口が伸縮自在の管になっているなど似ている
点もたくさんありますが、いちおう、蝶と蛾は別物です。英語でも蝶はバタフラ
イで蛾はモスと別の名前がついています。しかしフランス語ではこの蝶と蛾を区
別しません。どちらもパピヨンと言います。その証拠にフランスの百科事典でパ
まつばらひでいち
ピヨンのところを見ますと、一枚の図版の中に蝶も蛾も順序不同、ごちゃまぜに
出てくるのです。このことは私も友人のフランス語学者松原秀一氏から教えられ
て気がついたことです。英語の事典の場合は、日本語のそれと同じく、蝶と蛾は
左右か上下に分けて、蝶は蝶、蛾は蛾でまとめて絵が出ています。
もちろんフランスでも昆虫学者が科学的に虫を扱う時は、日本やイギリスの学
者と全く同じ基準で、蝶の仲間と蛾のたぐいを区別しますが、一般の人の常識的
なレベルでは、どちらも同じグループの昆虫として考えられているのです。
英語は蝶と蛾を区別する点では日本語と同じですが、いつも同じというわけで
は
ちゅう
るい
はありません。例えば日本語でトカゲと言えば夏に石の間を走り回る、青くて細
長い爬虫類のことで、ヤモリと言えば夜に街灯などにへばりついて虫を食べる灰
色の気味悪いやつを指します。ところが英語では、どちらもトカゲの仲間に入れ
られてしまい、ともにリザードと呼ばれます。
私がこのような例で言いたいことは、日本人ならば誰でもいちおう別だと思っ
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第 72 〜 74 回
ている、したがって別の扱い方、違った名前を与えている対象(もの)が、世界
のどこでも同じように区別されるわけではないということです。人間がものを見
る見方、ものに接する態度というものは、多分にその人が生まれた風土や文化、
特に言語に左右されることを示したかったのです。
このように単語一つを取ってみても、私たちが平素無意識に使っている言葉と
いうものは、ただ単に人間によって、道具としておとなしく使われているだけで
はなく、使い手である人間の認識や思考にも大きな影響力を持つものだというこ
とが理解できたと思いますが、それでは次に、そのような性質を持つ言葉を、人
こ
ばなし
がいつどこで、どのように使うかの点でも、異なった民族や文化の間では非常な
違いがあることをお話ししましょう。
先日私がある本でスコットランドの民話小咄を読んでいたところ、その中に次
のようなおもしろい話を見つけました。
スコットランド見物に来ていた一人のアメリカ人に向かって、ホテルのバーで
隣に座ったスコットランド人が尋ねたのです。
ス「あんたどっから来たかね。」
ア「世界でいちばん大きい国からさ。
」
ス「そんなら、あんた俺の国の人か。でもあんたの話し方にゃスコットランド
なまりがないね。」
ただでさえ小さいイギリスの島の、それも北の隅の一部分にすぎず、しかも何
百年も前にイギリス人に征服されて今は独立国でさえもないスコットランドの
人々は、いまだに自分たちがイギリス人とはできが違うことを、ことごとに主張
し、公平な第三者の目には空いばりとしか見えぬ強がりを言うので有名です。
この小咄はそのような滑稽さを突いた一つですが、私がこの話を引き合いに出
したわけは、スコットランド人をよく知っている欧米の人々は、この話を聞くと
さもありなんと大笑いするからこそ小咄になることを注意していただきたいから
です。自分の国が小さく力もないのに、それが世界でいちばん大きくりっぱな国
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だと思い、しかもそのことを平然と口に出す民族は、実はスコットランドに限ら
ず世界にたくさんあるのです。
もう数年前のことになりますが、京都大学がヨーロッパを調査するために何人
かの学者を、欧州各地に派遣したことがありました。その一人がフランスの西北
部のブルターニュ地方を訪れ、とある村の酒場に入って、この地方の歴史や伝統、
そして言語などに詳しい人はいないだろうかと、隣にいた男にきいたのです。こ
へん ぴ
のブルターニュは同じフランスでも、かつてフランス人に征服されたケルト系の
民族がいまだに住んでいる地方で、経済的な中央の繁栄からは見放された辺鄙な
所です。言葉も以前はブルトン語という、別なものを使っていたのです。
さて京大の先生に相談を持ちかけられたくだんの男は、ポンと先生の肩をたた
いて、「あんたは運がいい。あんたの探している人はこの俺だよ。俺がこの地方
のことはいちばん詳しいんだ。そこいらにいるやつらはだめさ。
」と言ったもの
です。京大の先生は大喜びでいろいろと質問して別れましたが、次の日に別の所
で同じ質問を他の男に向けてみると、驚いたことにその男も、前日の酒場の男と
全く同じ反応を示すではありませんか。なんのことはない、この地方の男は誰も
が自分こそブルターニュのいちばん正統な代表人物だと自負していたというわけ
です。
日本人から見ると、米中ソのような超大国の国民が、自分たちの国は世界でい
ちばん大きい、強いぞと言うのなら、まだ分かります。また年とった村長さんで
もあるならば、俺をおいてほかに詳しいやつなんかいないよと言ってもあまり不
思議に聞こえません。ところが小さな国や辺境の地に住むごく平凡な人の口から、
そんなことを聞くとは想像もできないことです。
どうしてそうなのかの理由を簡単に言いますと、ユーラシア大陸の諸民族は程
度の差こそあれ、どこの国の人も、自分の国がいちばんいい、大きいと思ってい
るのです。現実の客観的な大きさや強さで話をしているのではなくて、自分の国、
いやひいては自分自身が世界の中心だと思うのです。つまり人が生きていくため
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の価値体系の中心に自分を、自分の国をおくという自己中心的な考え方がどこで
もふつうなのです。そのような主観的な自己評価と客観的な事実との間にズレが
ある時、人はそれを小咄に作って笑うことになるのです。大切なことはどこの国
の誰もがそう思っているという事実があるという点です。
日本人ならどうでしょうか。例えば外国から客が来て、典型的な日本人に会い
たい、代表的な日本の家を見学したいなどと言った時、私の家に来なさい、よそ
を見る必要なんかありませんよ、私と話をすればほかの誰とも会う必要はありま
せんよなどと言う人があるでしょうか。私はむしろ逆だと思います。たいていの
人は尻込みして、私の家なんか狭くて汚くて、だいいち日本間なんてありやしな
いし、というようなことで、結局有名な日本料理屋か何かに案内して、これが典
型的な日本の家でしてとか、お茶を濁す始末になるのがオチでしょう。私こそ日
本を代表する日本人であると平気で言う人もいないのではないでしょうか。
日本人が自分の国である日本に対する態度もユーラシアの人々とは反対です。
国土は狭いし資源はなし、生活程度もまだまだ、福祉は不十分といったぐあいに
しらふ
欠点を並べるのは上手でも、日本は世界でいちばんよい国です、こんなすばらし
い住みやすい国はありませんよなどと外国人に向かって素面で言う人がいるで
しょうか。
要するに日本人は価値の基準を自分自身におかず、他者にそれを求めるという
他者基準的価値観を持っているのです。国のレベルでは、自分の国を世界の中心
とは考えず、むしろ遅れて劣ったものと見る周辺主義なのです。このことは歴史
的、地理的に理由のないことではありません。日本は太古から、高度に発達した
大 陸 の 文 明 の お こ ぼれにあずかるという構造になっていて、しかも長期間にわ
たって異民族に征服されたり迫害されるという経験を持ちません。そこで手放し
で外国はよい、自分の国はだめだと言い続けてきたのです。
しかしこのことはよしあしの問題とはいちおう別の事実です。いや、このよう
な精神の仕組みを日本人が持ち続けたからこそ、今日のようなすばらしい経済発
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展を遂げることができたと言えます。多くの民族が、自分の国はいちばんいい、
強いと思って落ち着いていたために、外国に侵され滅亡していったのです。日本
人の絶えざる向上心とは、裏を返せば日本はだめだ、外国はすばらしいという劣
等感にほかならないのです。他人に負けまいとする競争心とは、要するに他人の
ほうが自分よりいいということを認める他者基準の価値観があるからです。
劣等感を捨て、自己に満足するようになると、個人は落ち着き、社会は一時平
和になりますが、やがては沈滞するか強力な外国に征服されてしまうかのどちら
かになります。
このように一つの国の人が、他国の人の質問にどう答えるかという一事を分析
してみるだけでも、言葉の使い方は社会や文化の成り立ちと無関係でないことが
分かると思います。
▼作者紹介
鈴木孝夫(すずき・たかお)1926年〜。東京都生まれ。
言語社会学者。主な著書に、『ことばと文化』『ことばと社
会』『武器としてのことば』『日本語と外国語』など。本文
は『ことばの人間学』(1978年刊)による。
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