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平成21年度教師海外研修プログラム(ブラジル) 研修報告書
学校名
浜松市立高台中学校
氏
名
森 由香里
■ 印象に残る写真3点 ■
●「アマゾンの川岸学校にぃ∼、日本人がぁ∼、来たぁ∼(ウルルン風に)」
子どもたちの輝く瞳とアレシャンドレ先生の信念を、日本
の教育現場に持ち帰りたいと思いました。
[Natsu_DSCF0004 ]
●「ベレンの越知日伯学園の子どもたち」
将来の夢は医者、弁護士・・・同じアマゾンの学校とは思
えないです。
[Yamad_IMG_0361 ]
●「研修、終了ぉ∼!みんなでバンザイ∼!」
おかげさまで研修の全行程を終えました。ブラジリアの
三権広場で爽快にバンザイ!
[ Natsu_P8102540 ]
1.現地研修に対する各自の目的 とその達成度
私は学生時代からブラジルと関わってきており、教育という面でブラジルと日本の架け橋になりたいと思い、浜松
で教員になりました。今回の研修は、その自分の役割を再認識したいという思いで参加しました。留学や旅行では知
ることのできないブラジルの一面を知ること、また、戦前の移民政策から始まった日本とブラジルとのつながりが100
年経ってブラジル社会にどれだけ浸透しているのかを JICA の支援事業を通して確認することが目的でした。研修
中、さまざまな訪問先での出会いを通してこれらのことを感じ取ることができ、自分自身、そして教員としての今後の
自分のあり方に大いに影響を受けました。
2.訪問国から学んだこと (気づいたこと、わかったこと、大切に思ったことなど)
日本人がブラジルに入植して101年が経ちますが、日本人の苦労や栄光を訪問先で直接見たり聞いたりすること
ができ、ブラジルの歴史の中に日本人がしっかり刻まれているということを実感しました。また、それぞれの訪問先で
出会った方々が今まで一生懸命生きてこられ、今もさまざまな分野で夢をもって生きておられるということに感動しま
した。これらのことに加えて、人との関わりの中で生きることの大切さや、自然や人に感謝して生きることなども最大限、
日本の人たちや在日ブラジル人の人たちに伝える責任が自分にはあると思います。教師としても、一人の人間として
も、まずは自分が変わることが大切であり、人との出会いに感動できる心と、人の生き方から学ぶ姿勢をもち続け、目
標をもってまっすぐに生きていかなければいけないということを学びました。
この研修を通して知った日本とブラジルのつながりの深さから、両国の今後の関係に期待されること、また自分が
教員としてできることが見えてきたように思います。100年かけて日本人がブラジル社会に浸透して「信頼できる日本
人」を確立したように、日本社会に影響を与えることができる日系ブラジル人を育てることができるかもしれないと思う
と、教育者としての誇りと責任の重さを痛感するだけでなく、子どものもつ無限の可能性に勝負できるこの仕事に喜び
を感じます。
今後は教員として日々子どもに接する中で、「子どもを通して社会を変える」という視点が新たに加わりました。目
の前の子どもが数年後、数十年後どういう大人になり、どういう社会を作っていくのか、ということを考えながら教育活
動に励みたいと思います。
3.現地研修の経験を生かす授業実践の意欲やねらい
子どもたちには、身近にいるたくさんの日系ブラジル人の人たちが、自分たちとつながっているということを理解さ
せたいです。そして、そのつながりが日本人の子どもたちにとってもブラジル人の子どもにとっても良かったと思える
ようなアプローチをしたいです。研修での感動を事実として伝え、国は違うけれど、人としての同一性、非言語コミュ
ニケーションの大切さを感じさせられればと思います。また、JICAの支援事業を通して日本人がさまざまな分野でブ
ラジル中で生き生きと活躍しているということも中学生の生徒たちに伝え、職業選択の幅を広げ、生き方について考
える機会にしたいと思います。
さらに、今回の研修で教育機関を訪問して学んだことが、「目的をもって学ぶ」ことの大切さです。ブラジルの子ど
もたちの学ぶことへの貪欲さや輝きの表情が強く印象に残っています。「より良い自分に成長したい」と子どもならだ
れもがもつ思いが、目的ひとつ与えるか否かで、学びに深みが増します。教える側も、子どもたちが目的をもって「自
分で学ぶ」ことができるような日々の授業をしていかなければいけないと思います。
4.JICAの国際協力事業 の 「良い!と思ったところ」 と 「今後あるといいなと思う視点」
ブラジルで活躍中の日系社会ボランティアの方々とお会いして感じたのは、みなさんが輝いて生きていらっしゃる
ということです。もともとそういう方たちがボランティアとして来られたのか、ブラジルという国がそういう気持ちにさせる
のか分かりませんが、一人ひとりが人としての魅力をもっており、その魅力を最大限発揮できる方法で今を生きていら
っしゃると思います。人との出会いを通して自分が変わり、さらに国をより良く変えることに携われるJICAの支援事業
のもつ力の大きさを感じます。
草の根的なことから、国家規模のプロジェクトまで、規模はさまざまですが、どの事業においても、そのプロジェクト
を推し進めているのは人の力であり、プロジェクトに対する彼らの熱い思いを今回の研修で聞けたことはとても大きな
財産になりました。JICAの支援事業だけでなく、事業に携わる人たちの思いについてもより多くの人に知ってもらい、
JICAの支援事業への理解をえられるといいなと思います。
5.ここまでの研修自体 (国内・海外) に対して 「良かったこと」 と 「今後あるといいなと思う視点」
事前研修でブラジルでの訪問先についてある程度の知識を入れていたことで、実際に現場を訪問した際に大変
役に立ちました。学びの3つの視点や配慮事項を重んじたワークショップをしていただいたおかげで、チームの団結
力もよく、より充実した学びができました。
事前研修に今後あるといいなと思うのは、教師海外研修に臨む参加者全体の相互交流です。帰国後の報告会で
初めて相手チームの参加者の顔ぶれや研修内容を知ることになったので、事前に分かっていたらお互いを励ました
りそれぞれのチームの特色をより発揮したりできたかなと思います。
6.訪問先ごとの 「感じたこと」 や 「学んだこと」
●8/1 :JICAサンパウロ支所ブリーフィング
約33時間の長旅の後、ブラジルに到着してすぐのJICAサンパウロ支所訪問でした。サンパウロの国際空港から
車で市内に入る幹線道路の道中、道沿いにチエテ川という大きな川が流れていました。このチエテ川は、雨が降ると
氾濫して、そのたびに幹線道路を塞いで渋滞の原因になったり、川自体の水質汚染があったりと、何かと問題のある
川でしたが、数年前までJBICの援助を受けており、久しぶりに見ると堤防がきれいに整備されていて、水質も改善さ
れていたことに感動しました。新たに出来た堤防には小泉元総理が来伯した際に植林されたパウ・ブラジルというブ
ラジルの国名の由来になった記念樹もあり、到着してすぐに車窓からJICAの援助の現場と日本とブラジルの友好的
な関係について気づくことができました。
JICAサンパウロ支所では、ブラジル事務所とのTV会議を通して、研修参加者の私たちに期待されることを実感し、
武者震いしました。新JICAの事業やブラジルの国について説明を受け、JICAとブラジルの関係を把握できたことは、
その後の研修を進めていく上で大変意義のあることだと思いました。
●8/1 :日系社会ボランティア(現職教師等)との対話
今年からブラジル現地校への現職教員の特別参加制度が始まったということで、現職教員の6名の先生方とお会
いしました。先生方はエネルギッシュな方ばかりで、それぞれの魅力が前面に出ており、大変刺激を受けました。ブ
ラジルに来て2週間ほどしか経っておらず、これから任地の学校へ赴くところということでしたが、肯定的にブラジル
をとらえておられるところにも共感をもちました。ワークショップでは、ブラジルに興味をもったきっかけについて自己
紹介をし、「第一印象とこれからの思い」という題で交流をしました。先生方全員と話をすることはできませんでしたが、
私が交流した先生はどなたも、2年間の派遣を終えて日本の学校に戻ってから自分が果たすべき使命と責任を重く
受け止めておられたのが印象的でした。2年後、ブラジルと日本をつなぐ太い柱となって教育現場への復帰と活躍が
期待されそうです。
●8/1 :デカセギ問題パネル
・ISEC(文化教育連帯協会) 吉岡黎明さんのお話
90年の入管法改正から約20年が経ち、今の日系ブラジル人社会の大きな課題は子どもたちの教育と少年犯罪で
あると指摘されました。日本の外国人少年犯罪の一位はブラジルだそうです。日本にデカセギとして行く前に、日本
の情報をきちんと理解し、計画を立てて目的をもって日本に行くことが大切だとおっしゃっていました。
・川村リリー先生のお話
デカセギのブラジル人と日本人との共生が実現しない理由のひとつに、ブラジルのショッピングセンターの出現が
あるそうです。それまで日本のスーパーで買い物をしていた街中のブラジル人は、ショッピングセンターに行くように
なり、日本人との接触が減り、トラブルは減少したという効果はありましたが、交流の機会がないだけ、お互いの偏見
や認識の差がなかなか改善されなくなったという新たな問題が生まれました。差別というものはお互いを知らずに先
入観で相手を判断することで生まれるものなので、まずはお互いをよく知るということが、現状での解決の糸口になる
のではないかと思いました。
・NGO 大川りえさんのお話
Grupo NikkeiというNGOの「ただいまプロジェクト」は、無職者と元デカセギの人たちへの就職支援をしています。
就職を斡旋するだけでなく、心理的ケアにも力を入れており、支援を求めている人たちを元気づけたり、自尊心をよく
したりすることを目標にして活動しています。デカセギの人たちがブラジルに帰国後、スムーズに職に就けるようにす
るということは、国レベルで取り組まなければいけないことだとおっしゃっていました。
・ISEC 中川きょうこさん
三井物産との協力で行っている「かえるプロジェクト」は、日本からブラジルに帰国した子どもたちへの心理的ケア
や教育支援を行っています。世界経済の悪化の影響を受けて、ブラジルに帰国する子どもたちにも変化が出てきて
います。以前の帰国者は、「いつかは帰国すると心の準備ができていなので納得して帰国している」だったのが、最
近では、「親に無理やり帰国させられたと思っており、納得できない。さらに、母国語のポルトガル語ができない」状態
で帰国する子どもが増えたということです。日本に帰国する前に、ギャップを少なくするよう家庭で心の準備をしてい
くことが大切だと思います。
全体の話を通して、デカセギ問題の一番の犠牲者は子どもであるということを改めて感じました。デカセギで日本
に行くとき、またブラジルに帰国するとき、親は何か目的をもつことが大切で、自分の人生に目的をもつことは生きる
上での責任だということに気づかされました。
また、この問題は私たち教師一人だけの力では何も解決できないということを教わりました。職場ではチームで子
どもたちの状態について考えて話し合うファシリテーターとなり、ブラジルと日本の文化の違う面も含めて知ってもら
い、自分も相手も変わっていき、少しずつ組織に影響を与えて、社会を変えていくことが大切だと学びました。
●8/2:地域警察プロジェクト
JICAの技術協力の現場を初めて見させていただきました。日本の交番制度を参考に、サンパウロの治安改善に
役立てるというプロジェクトです。交番を導入するだけでなく、勤務形態や署員の勤務評価なども日本的にクリアなも
のにしています。プロジェクトの担当のジョルジ軍曹が、「警察が地域を作るのではなく、地域が警察を作る」とおっし
ゃっており、このプロジェクトを信じて仕事に誇りをもって取り組んでいる姿が非常に印象的でした。今では第三国支
援としてJICAの技術協力が広がっており、JICAの技術協力は人や地域社会をこれほど変える力があるということを
肌で感じました。途中で、福岡出身の日系1世のおばあさんが交番を訪ねて来られ、「このあたりは本当に治安が良
くなって安心して生活できるようになった。」と地域住民の生の感想を聞けたことからも、JICAの援助がサンパウロに
根付いて、よりよい地域づくりに役立っていることを実感しました。
●8/2 :Mercado Municipal 市場
果物、ジュース、野菜、魚、肉、チーズ、豆など、ありとあらゆるブラジルの食材がおいしそうに陳列されているサン
パウロ最大の市場を見学し、ブラジルの食文化について学びました。ブラジル人の暮らしの一端を垣間見ることがで
き、市場の人との温かい交流もありました。カカオ、クプアスー、パインコーン、カシューなどなど、さまざまな珍しい
熱帯果樹を五感を使って体験しました。また、柿やデコポン、ポンカン、ふじりんごなど、日本でおなじみの果物が実
は caqui、decopon、poncan、fuji という名でブラジルに普及しており、その背景に日本人移民の苦労とJICAの支援
があるということを知りました。
●8/2:日本移民史料館
以前から本などで知っていた知識でしたが、実際に資料館に行くと、9万7千点という膨大な数の資料のひとつひ
とつにこれまでの100年間の日本人の苦労がにじみ出ており、使っていた人たちの息吹が聞こえてきそうでした。
第1回の笠戸丸以前からブラジルと日本は交流があったということを知りました。移民船の歴史や移民の生活の変
化、さらに目をそむけてはいけない戦後の勝ち組・負け組闘争も日本人の残した歴史的事実として展示してありまし
た。今現在や今後の日伯関係について考えるために、資料館を訪れてブラジルと日本の関係の原点に立ち戻ったこ
とは大変意義のあることだと思います。
●8/2:リベルダージ地区
街を歩けば人との触れ合いがあります。日曜の蚤の市も含めて、街歩きは研修中のごく限られた時間でしたが、大
変貴重で有意義な時間を過ごせました。提灯の形をした街灯の下、日本のお土産屋、本屋、レストランが軒を連ね、
さらに蚤の市では威勢のいい法被姿で焼きそばや餃子などの日本料理を売る屋台、盆栽や日本庭園のミニチュアを
売る屋台などを見ると、「ブラジルなのに日本」の違和感を覚えました。ここでは毎朝、日本のラジオ体操も行われて
いるということです。昔はこの地区は「日本人街」といわれていましたが、今では韓国人や中国人経営者がほとんどの
ようで、「東洋人街」となってしまいましたが、日本人にとって、ここはアイデンティティーの拠点の地区だったというこ
とを実感しました。
●8/3:JICAオンダリンパプロジェクト
ブラジル郊外のサントス沿岸部の衛生改善プロジェクトというJICAのブラジル支援の中でも大規模な円借款プロ
ジェクトです。プロジェクト全体で約400億円の予算のうち、JICAの円借款が約半分を占めています。約300万人の
人口を抱えるサントス沿岸部の下水道の整備によって期待されることは、水を介した感染症の減少、水質浄化、観光
業の発展、住民の所得増加、工事による雇用創出(3800人)、乳児死亡率の減少などだそうです。下水道処理施設
の工事現場を視察しましたが、完成すると15万世帯の汚水処理力があるということです。「サントスの海は汚くて泳げ
ない」と言われていましたが、2011年にプロジェクトが終了する頃には安心して泳げる海になっているといいなと思
いました。
●8/3:無収水管理プロジェクト
JICAのプロジェクト専門家、下村さんは生命の命綱である水を扱う仕事に対する誇りに満ち溢れていました。無収
水とは、水漏れなどで収入にならない水のことをいいますが、水というものは自然界のものであり、自然のダムである
山を大事にしたり、水の自然な循環を大切にしたりすることが求められる世の中になってきていることから、今では無
収水は経営面よりも社会的な環境対策として重視されてきているそうです。
日本は水道水が飲める数少ない国です。蛇口をひねると水を飲めるという当たり前のことが、どれだけ大切なこと
かということを実感します。「水を大切にしよう」と子どもに教えるということは、蛇口の水を飲む文化を伝えることであり、
学校で子どもに水筒を持たせるということは、「蛇口の水は飲んではいけない」と教えるのと同じである、ぜひ水道水
を飲んでください、と下村さんが熱く語る姿がとても印象的でした。下村さんの思いを受け止め、自分の行動を変える
ことで周囲に伝えていくことが自分にできることだと思いました。
●8/4:憩の園
移民の母、ドナ・マルガリータさんが創設された日系の高齢者施設です。現在の入居者数は80名、85歳以上の方
は1世で、NHKを見て楽しんでおられるということです。「ここは日本と同じ。日本の文化を全部持ってきている。」と
シスターの雲田さんがおっしゃるように、敷地内にはさくらの木が300本植えられており、行事も食事も何から何まで
日本風でした。食事の時間に音楽がなるだけで、足腰の健康な入居者は自由に敷地内を出入りできます。日本の高
齢者施設との違いを感じます。施設の経営は国からの援助はなくて赤字だそうですが、日系・非日系を問わず多くの
人たちや企業からの寄付やバザー、ボランティアなどがこの施設を支えているそうです。雲田シスターは「今まで一
生懸命がんばって生きてこられた入居者のみなさんに楽しんでいただければ」という思いで仕事をしているそうです。
雲田さんの温もりが入居者の暮らしの安心感につながっていると思いました。
入居者のみなさんの前で、出し物を披露し、交流をしました。「君が代」を聞いたとたん、涙を流す入居者たち、「ふ
るさと」の歌詞を3番まで暗記されて歌われる方たち、個別の交流でお話をさせていただいた入居者たち、「ふるさと」
を一緒に歌っているときの入居者さんたちの気持ち――私たちは「察する」ことはできても「共有」することはできない、
と思うと、言葉にできない感情が湧いてきて、琴線に触れました。
●8/4 :モンテ・アズール・ファベーラ(プレゼン)
日本のNGOであるCRIのスタッフとしてボランティア活動をされている福井さんと、モンチ・アズール出身で職員
であるエビーニャさんのプレゼンを受けました。「子どものよりよい時代を作る」というシュタイナーの思想のもと、モン
チ・アズール・ファベーラというスラム街において、保育園や職業支援・芸術関連の学校の設立などの教育活動、そし
て女性や若者の自立支援活動を図っています。親が安心して働きに出られるように、地域に保育園を作ることから30
年前に始まったこの活動は、今では住み心地の良い住宅環境、教育の充実、雇用など、成果が実感できるそうです。
30年たってようやく成果につながってきており、それはやはり、健全な地区になるように信じて日々ベストを尽くして
きたからだろうと思います。今では良くなってきているとはいえ、今回は治安の悪化のために現地を訪問することが
できませんでした。1つのファベーラを変えるためにはとてつもない時間と協力と財政上の壁を乗り越えていくパワー
が必要であり、何よりも「良くしたい」という思いと、自分たちがやっていることを信じることだということを、福井さんとエ
ビーニャさんの内面からあふれ出る誇りと自信から感じ取りました。
●8/5:漁村&農村における学校
ベレンから車で2時間、イニャンガピという町に行き、さらにそこから3時間近くアマゾン川の支流をボートで下り、
最初に訪問した川岸すれすれの学校は、川の増水で地面が浮いているような土地の上に建てられていました。やし
の木やアサイーの木が生い茂る、まさにアマゾンという場所でした。ここの人たちはアサイーややしの実を取ってお
金にして生活しているそうです。
「貧困とは、経済的貧困と、必要な時に必要な物にアクセスできない貧困とに分けられる」と事前に学んでいました
が、アマゾンの川岸の学校は、後者の意味では貧困にはあたらないのかもしれない、と思いました。それは、子ども
たちは安心して学びに来ることを保障されている、と感じたからです。イニャンガピの市政府が積極的に教育環境の
改善に動いており、「子どもに『よりよい時代』を送らせることは、大人としての最低限の義務であり責任である」と市長
自らがおっしゃっていたことや、この地域の教育の問題を解決するために立ち上がったたった一人のアレシャンドレ
先生の存在も大きいと思います。「この土地には街の学校みたいな学校はできないけれど、この学校はここになくて
はならないものだし、この地域に合った学校である」と先生はおっしゃっており、子どもたちの将来の可能性を信じて、
夢をもって日々こつこつ努力しておられる姿に感動しました。「一方で、日本の教師はどうだろう?」「夢を語れる人は
どれだけいるのか?」「子どものよりよい未来を信じているのか?」と考えましたが、まずは自分が変わらなければ、と
決意することができました。
●8/5 :環境調和型養殖
及川さんは、JICAの草の根技術協力で、鹿児島の水族館での研修で養殖の技術を学び、それをアマゾン地域に
取り入れようとされました。直接真似しては成功しないと思い、まずは地域の人たちに地元の魚について知ってもら
ったり、子どもたちに顕微鏡を使って魚を実際に見てもらったり、教室では教えられないことを体験してもらう水質環
境教育を行ったそうです。そして、地元で自然との共生を昔からやってきた方法で、地元の魚の稚魚を養殖したそう
です。日本での研修の学びを地域に合った方法で普及させるという発想が新鮮でした。
「大人はそう簡単には変わらない。子どもたちへの教育を通して、大人の意識を変え、社会を変えていく。」と信じ
て、「自分の仕事は人生のプロジェクトだ」と熱く語っておられました。難しい分、やりがいはとても大きいようでした。
及川さんの夢は、アマゾン川の河口に熱帯魚の水族館を作ることだそうで、「自分の夢がみんなの夢になることを願
っている」とおっしゃる姿に、教師として、学ぶことがたくさんありました。私たちはつい、やりたいことができない理由
を環境や組織のせいにしてしまいますが、アマゾンの人たちは、「現状」=今あるもの、今の環境でベストを尽くすこ
とができます。環境調和の行動とは、自分たちのそういう意識を変えていくことから始まるのはないかと思いました。
●8/6:越知日伯学園(小学校)
ベレンの越知日伯学園はモンテッソーリ教育を基盤にした私立の小学校です。特別な教材を使い、自立と社会性
を目指す教育に重点を入れています。さらに、バイリンガル教育に力を入れ、日本語教育を実施しています。「よき市
民に成長する」、「人間としての生き方を考えさせる」ために、日々の教育活動の中で生活教育を取り入れています。
たとえば、自分でおやつが食べられる、机・椅子を運ぶ、くつ紐を自分で結ぶなど、本来は家庭で教えるべきことを
学校で教えているそうです。その背景には、日本と同じく若い女性が働きに出るようになったことがあげられます。日
本でも家庭での教育力が学校に求められるようになり、そのことへの批判がありますが、越知先生は、「働くお母さん
の代わりに子どもをしつけて教育をしてさしあげている」とおっしゃっており、私自身の発想の転換ができました。
子どもたちとの交流では、3∼4年生のクラスに入り、日本について説明をしました。かんたんな日本語なら理解で
きる力をもっており、質問するときに「先生!」と日本語で聞くなど、教室言葉は日本語に統一されていました。日本か
ら持ってきた新聞の広告や日本の学校の様子の写真など、どれもとても関心を示してくれて、子どもたちの目の輝き
がまぶしいほどでした。全体との交流では、体いっぱい使って歌を歌い、踊りました。とても感動的でした。
今回の私立の学校とアマゾンの川岸の学校と比較すると、子どもの置かれている環境があまりにも違いすぎると思
います。平等に教育を受けることの大切さを国のリーダーシップで推し進めていく必要があると感じます。越知学園
には、割と裕福な環境の子どもが多いですが、人懐っこさや子どもらしさは地域を越えて、学校を超えて、国境を越
えて、共通するものがあるなと改めて感じました。
●8/6 :汎アマゾニア日伯協会&アマゾン入植80周年委員会
・汎アマゾニア日伯協会
ベレンには17校の日本語学校があり、汎アマゾニア日伯協会は北ブラジルの日本語学校の中心だそうです。日
系社会シニアボランティアの中瀬さんに、昨今の北伯における日本語教育事情について話をしていただいた中で、
印象的だったのは、日本語学習者の日本語を学ぶ動機が近年変わってきたということです。以前はマナウスを中心と
する北伯地域の日系企業で就職するために日本語を勉強したいという人が多かったのが、最近は、純粋に日本のこ
とに興味をもって勉強したがる人が増えてきたそうです。また、日本語を教えたいという非日系のブラジル人が多くな
ってきたそうです。
学ぶ日本語が外国語としての日本語なのか、第一言語としての日本語なのかによって、日本語教育の方法は全く
変わってくるそうです。日本語を学ぶ動機は学習者によってさまざまですが、在日ブラジル人の子どもへの日本語教
育であれば、日本語を学ぶ目的を精神的なところまではっきりとらえさせ、母語をしっかり生かすということが大切だと
おっしゃいました。
・アマゾン入植80周年委員会
トメアスーに日本人が入植して今年で80年になります。今年93歳になる協会事務局長の須藤さんは、1954年に
第2回アマゾン移民としてトメアスーに入られました。ベレンからトメアスーまで、今では車で4時間の距離を、当時は
船で17日もかけてアマゾン川を上ったそうです。不毛の未開地に降り立ったとき、「こんな所に連れてきて・・・日本政
府は責任を取るべきだ」と思ったほど、土は砂利もなくドロだらけだったそうですが、「土地は広くて物もある、だけど
売る方法がないのでもったいない国だ」と思ったそうです。日本への思いをたずねたところ、「アマゾンに来たけど何
もない所からの出発だった。苦しいことはあったけれど、ブラジルは自由があるすばらしい国。ブラジルに来たことは
後悔していない。」と清々しくおっしゃいました。それでも、「故郷である日本はとても大切な存在で、帰化しているけ
ど自分はやっぱり日本人で、同胞も絶対に日本を忘れていない」と、日本への哀愁をこぼされる表情からは、ブラジ
ルも日本も肯定的に受け入れて、これまで生きてきた達成感と満足感が伝わってきました。偶然、須藤さんの好きな
歌が「ふるさと」ということで、歌を披露して差し上げました。「ふるさと」への思いは1世の方でしか感じ取れないもの
があると思いますが、心を通い合わせることができたと感じた瞬間、身が震える感動をしました。
●8/6 :アマゾンペーパープロジェクト
従業員15名のJICAの草の根技術協力の現場を訪問しました。「クラワ」というソテツ科の植物の繊維を使って、日
本の紙すきの技術で紙を作ります。クラワの繊維は耐久性が高く、強く、やわらかい紙になるそうです。このプロジェ
クトは、クラワを栽培しているコミュニティーの森林伐採を防ぐために始まったそうです。育ててもらったクラワを買い
取り、紙を作ります。今後、このプロジェクトが持続的に維持されるためには、紙を売り続けなければならず、経営は
赤字ですが、協会団体からの支援で経営しているそうです。マーケットは国内外ともに競争が激しく、輸出もほとんど
できない状態で、買い手も企業・団体からの受注生産が多く、紙だけでなく、付加価値をつけて紙を加工していくこと
を考えているそうです。環境保護への取り組みが評価され、少しずつ口コミでアマゾンペーパーが知られてくるよう
になってきたことを実感しているということでした。従業員の方たちは、アマゾンペーパーが売れると、クラワ生産地の
人々の生活向上と森林伐採防止につながるということで、「みんなプロジェクトを信じて希望を大切にしてがんばって
いる」と誇らしげにおっしゃっていました。また、「自分たちは職人として自尊感情と誇りをもつことができるようになり、
生活の質も大変よくなった」と、大切な家族を養える今、とても幸せだ、とみなさんとても満ち足りた表情で話してくだ
さいました。従業員同士の信頼関係と笑い声が職場中にあふれており、あの明るい雰囲気の中だと、自然とプロジェ
クトも持続的に続いていけそうだなと期待がもてました。
●8/7:Ver o Peso 市場
港に面したベレンの市場で、教材探しと買い物をしました。治安が良い所ではないため、パラ州警察の固い警護
に守られて、カメラとビデオを堂々と振りかざして撮影することができました。個人の旅行でブラジルに来た時も、や
はり市場で写真撮影するのは身の危険に関わるため、今まで一度もできませんでしたが、今回は警察の護衛の元で
安心して教材集めと写真撮影ができたことに感謝するとともに、「安全」のありがたさも痛感しました。この市場は食材
から日用品まで、「ないものはない」くらいすべてが手に入ります。珍しい商品の説明や値切り交渉など、現地の人と
の貴重な交流の場となりました。警護をしてくださった警察官にも夢や仕事のやりがいなどをインタビューし、ここでも
また、「家族を守り、良い暮らしをさせてあげることが夢であり、生きがいだ。」という答えが多かったです。
●8/7:熱帯果実加工工場
アマゾンの熱帯果樹をジュースに加工するカンタ組合の工場を見学させていただきました。現在、アサイー、アセ
ロラ、パッションフルーツ、カカオ、クプアスなど、14種類の果樹を加工しています。組合員は133名で、日系人の割
合が95%だそうです。アマゾンでのジュース加工に至る背景にはアマゾン入植80年の歴史が深く関わっています。
日本人がアマゾンに入植し始めたばかりの頃、世界経済はコショウ危機で打撃を受けていました。臼井牧乃助とい
う日本人がシンガポールからコショウの苗を20本ブラジルに持ち帰り、育てたところ、2本だけ苗が実ったそうです。
その貴重な苗を挿木で20本にまで育て、ブラジルの土で見事に実がなり、大成功しました。しかし、その後マラリア
やコショウの病害などで、多くの農家が新しいコショウ栽培地を求め、トメアスーを去ったそうです。貧しい人はアマゾ
ンに残るしかなく、知恵を絞った結果、コショウの単作が見直され、カカオやパッションフルーツなど、複数の作物を
栽培するようになりました。ジュース加工工場が作られると、さらに熱帯果樹栽培が普及し、多角経営栽培(アグロフォ
レストリー)が注目されるようになりました。今では、世界的な健康志向で日本やアメリカを始め世界中に加工された冷
凍ジュースが輸出されています。今後は、中国・インド市場に向けのチョコレートの売り込みが盛んになると考えられ
ており、アマゾンの質の良いカカオが世界中の菓子メーカーから注目を集めることになると見込んでいます。「協会
独自でチョコレート工場を建設すれば、農家も協会もさらに潤うので、その方向でプロジェクトを進めている」と、カン
タ工場のイヴァンさんは夢を語っておられました。このアグロフォレストリーや熱帯果樹の普及は、世界的な健康ブー
ムと、アマゾンの農家の人たちが生き抜くために試行錯誤を重ねた知恵とが合致した結果であり、自然との調和とい
う点でも行き着くべくして行き着いたものなのかもしれないと思いました。
●8/7:トメアスー文化協会
文化協会の2階の部分は、アマゾン入植70周年を記念して、10年前に資料館が作られていました。今年はアマゾ
ン入植80年を迎えますが、トメアスー日系社会の歴史や農業の歩みについて、今までいろいろな訪問先で見たり聞
いたりして学んだことがパネルにまとめられており、学びがより深まりました。コショウの粒ひとつとっても、あるひとつ
の物の背景を探ると、その物の歴史が見えてくるし、世界とのつながりを感じることができるということに気がつきまし
た。
資料館ができて10年が経ち、日本やブラジル都市部へのデカセギなど、後継者の不足が依然として深刻だという
ことを文化協会の松崎さんからうかがいました。アグロフォレストリーの魅力の普及と生活基盤作りを推し進め、次世
代の後継者育成がトメアスー農業の新たな課題だそうです。
●8/8:トメアスー産業組合
坂口理事長さんの熱いお話は、私の心を打ち付け、いつまでも鳴り響いたまま余韻が残るものでした。坂口さんの
お父さんは昔のカカオ栽培の失敗から、カカオ栽培には日陰が3∼4割必要であるということを取り入れ、カカオの入
植に成功されて景気の波に乗られたようです。病害のリスクから単作を避けて、米、野菜、メロン、パパイヤ、パッショ
ンフルーツ、カカオなど、それぞれの栽培年数と特徴を組み合わせたアグロフォレストリーに取り組んでいくようにな
りました。アグロフォレストリーは自然のサイクルを生み出し、農薬や肥料をほとんど使わない農業だそうです。従来
の農薬至上主義の農業からアグロフォレストリーに変わったということは、人間や自然との調和を大切にした農業へと
変化してきたということを意味しています。冷凍ジュース工場を作り、事業の拡大を図ったものの、94年のレアル経済
政策により、輸出業者の組合はレアル高の影響で大打撃を受けたそうですが、辛抱してがんばって経営を続けたそ
うです。そこには、「生まれてきた以上は何かを残したい」という坂口さんの強い信念があったそうです。「逃げるのは
簡単。だけど、続けるのであれば知恵を絞ってやっていくしかない」と辛抱してやってきた結果、その後のアサイー
人気とコショウ景気のおかげで組合は救われたそうです。
08年の世界経済の落ち込みの影響を今も大いに受けているそうですが、入植してきた日系人の先輩たちが生き
残りをかけてやってきた結果、「農薬・化学肥料を使わずに植物ができるには」、という考えから生まれたアグロフォレ
ストリーを日系人の後輩として続けていきたいとおっしゃっていました。「今、自分たちがやっていることは、歴史に残
ることだ。」とおっしゃる坂口さんは使命感と誇りに満ちており、「自分だけでなくみんなに残せるものを残したい。だ
から諦めずにがんばる。それが人間なんですよ。」とおっしゃる言葉の中に、人間としての強さとたくましさを感じまし
た。坂口さんのやりがいをたずねたところ、それは「深い責任」だそうです。「人間は責任の持ち方で生き方が変わり
ます。自分がやったことの答えは自分に返ってきます。今自分がやっていることが認められるか分からないけれど、
それくらい責任をもってやらなければ成功は絶対にできない。」とおっしゃる姿勢には、100年かけて「保障のできる
日本人(ジャポネース・ガランチード)」をブラジル社会に浸透させた日本人としての誇りが感じられました。
坂口さんのお話には心を揺さぶられるものがあり、人としてどう生きるべきかと、いうことを教わりました。日本の子
どもたちにも自分の生き方に誇りをもって生きてほしいし、「信頼できる日本人」となってもらいたいと強く思います。そ
のために自分にできることを探し、この「人としての気づき・学び」を多くの人に伝えていきたいと思いました。
●8/8:アグロフォレストリー(小長野農場、乙幡農場、高木農場)
産業組合や文化協会で聞いていたアグロフォレストリーの農場を実際に見させていただきました。
◇小長野農場
小長野さんは60年にブラジルに来られました。父親は5年契約でコショウ園に入ったそうです。苦しい生活環境の
中で小学校を過ごした小長野さんは12歳ころから野菜売りやコショウ作りを手伝うようになり、「周りみたいに豊かな生
活を自分もしたい」と強く思うようになりました。お父さんは病気がちで、「苦労してがんばってきたけど一向に暮らし
はよくならない。10年経っても日本に帰れない。」とノイローゼ気味になり、破傷風で亡くなられたそうです。小長野さ
んは小学校を5年で卒業し、その先は自分で覚えてがむしゃらに仕事したそうです。家族を守るために必死だったと
いう小長野さんは、周囲から心配して反対されるほど、農薬を使いまくって、生活を安定させてきたそうです。「人間の
底力はすごい」と小長野さん自身、昔を振り返っておっしゃっていました。
今では850ヘクタールの土地のうち180ヘクタールでアグロフォレストリーの農作物を作っており、年間40人の職
員を雇っています。小長野さんの仕事に対する思いで感銘を受けたのは、この40人の職員を「家族」だと思って大切
にされていることです。「自分たちだけが儲かるのではなく、職員にも儲けてほしい」とおっしゃいます。「ただ雇われ
るだけでなく、彼らにも自分の暮らしを良くしてほしいし、アグロフォレストリーを学んで、この農場を去っていつか自
立してほしい。」と職員への愛情を惜しげもなく伝えておられました。みんなをひとつの家族のように思い、お互いを
守り合っていい生活を送ろうとすることの喜びはお金では買えません。「まずは自分が信じなければ信頼してもらえま
せん。」とおっしゃいますが、小長野さんは、職員だけでなく、育てている農作物も人間のように愛情を注いで世話し
ている様子でした。アグロフォレストリーのような自然をうまく使った農業をすることで、人間は自然を大切にするように
なるそうです。
実際に農場を見せていただきましたが、足を踏み入れてすぐ、カカオの葉が地上一面に5∼10センチほどのじゅ
うたんを作っていました。大切な肥料になって、また土に還るのだそうです。農薬を使わないので、職員はきれいな
空気の中で仕事ができます。さらに、アサイーの木の陰で涼しいところで作業ができます。人間にとってもカカオにと
っても快適な環境です。
アグロフォレストリーが安定した収入となるためには、10年はかかるといわれています。収入を得るまでの10年間
を貯蓄や融資でやっていかなければいけないことと、アグロフォレストリーを実践する指導者を育てていかなければ
いけないという課題があります。日系人が考えたこのシステムは今ではトメアスー中に広がっており、自然への付加
が少ない農業ということで世界的にも注目されていますが、まだまだ乗り越えるべき課題があるということを実感しまし
た。
◇乙幡農場
乙幡さんは1930年の第5回アマゾン移民の3世です。もともと農業以外の分野で活躍されていましたが、今は専
門の経営学を生かして、小さい面積でいかに生産性を高める農業をするか、ということを意識して農業をされていま
す。「ご先祖様のおかげ、コショウのおかげ、熱帯果樹のおかげ」、というトメアスーの日系農業社会の歴史の今後が
良くなるか悪くなるかは後継者次第だ、と後継者不足に悩むトメアスーの農業課題が垣間見えました。しかし、出稼ぎ
の日系ブラジル人が日本の経済の低迷を理由に帰国するようになり、農業の後継者が出てき始めていることはよい
傾向のようです。「今までデカセギの人たちの仕送りで農業が続けてこられたので、感謝している。日本は人を信じて
人間関係を大切にするすばらしい国です。」と日本への哀愁を漂わせる乙幡さんの表情からは、生産性を高める農
場経営者というよりも、自分のルーツである日本人としての生き方に誇りと自信をもった日系人の一面がうかがえまし
た。
◇高木農場
突然の雨で、コショウの木と実を少ししか見ることができませんでしたが、小さくて青いコショウの実を1粒恐る恐る
口にして、味をしばらく噛み締めて、ようやく、「あ!本当にコショウだ!」と分かるまで、ずいぶん間がありました。瓶
の中に入っているコショウの姿と、木になっている本来の姿とのギャップがあったからだと思います。体で発見をする、
とても貴重な体験をすることができました。
小長野さんと乙幡さんに共通することは、「がけっぷちから湧いてきた知恵」、「新しいエネルギーを取り入れて、挑
戦する気持ち」、「夢があるからこその今の努力」だと思います。今までの数ある苦難を乗り越えて働き続けてきたから、
大きなチャンスに人生を賭けてみる力がみなぎってくるのだろうな、とお二人を見ていて感じました。
●8/8−9:ホームステイ
文化協会の松崎さん宅にホームステイをさせていただきました。ブラジルでは珍しい核家族の家庭で、日本語教
師である奥さんのアリサさんと4歳の息子さんイッサくんとの3人暮らしです。松崎さんもアリサさんも日系2世で、家庭
内では日本語で話しをしています。イッサくんも保育園に行く前までは日本語で会話していたそうですが、保育園に
行くようになってポルトガル語しか話さなくなってしまったそうです。しかし、イッサくんはこちらの話かける日本語を完
璧に理解して、返事は完璧なポルトガル語でするという不思議な現象を見せてくれます。イッサくんのバイリンガル力
に感動しました。家族の形も多様化していて、それぞれの形でみんなが自分の家族を大切に思い、より良い生活を
したいと願ったり、夢を語ったりして日々を生活していて、それが家族の幸せなのだな、と思います。
夕食は文化協会の日本語教師の先生方や日青ボの南さん、さらに運転手の3人まで来てくださり、トゥクピーという
アマゾン地域の料理を始め、肉料理、ギョウザ、煮魚など、それぞれ持ち寄りの料理を囲み、にぎやかな食卓でした。
夕食後、マッサージ師でもある松崎さんに指圧のサービスをしていただき、今までの体の疲れが吹き飛び、快適な眠
りにつくことができました。
翌日は、松崎さんのデンデ農場、文化協会に併設されている移民の森と日系の小学校を訪ねました。アグロフォレ
ストリーについて意見をたずねたところ、成果がでるまでの10年が課題だそうで、かなりまとまった額の資本金が必
要だということを教えてくださいました。松崎さん自身もアグロフォレストリーに対しては様子見の状態で、今は確実に
収入の得られるデンデやカカオを栽培しているとおっしゃっていました。
●8/5∼9:パラ州での移動途中(ベレン−イニャンガピ、ベレン−トメアスー)
アマゾン地域の移動はすべて、3人の運転手さん方(太田さん、アビジアスさん、クレイトンさん)にお世話になりま
した。5日間、ずっと一緒に行動していて打ち解けることができ、ブラジル同行者パウロさんも含め、みんながひとつ
の家族のような連帯感と絆をつくることができました。彼らの細かい配慮と安全な運転がなければ、アマゾン地域での
研修はこれほどかけがえのないものにはならなかったかもしれません。アマゾン川の支流をフェリーで渡る間や車内
での道中、訪問先で感じたことを共有する輪の中に彼らの姿が自然とあり、的確な助言や情報を与えていただけたこ
とは、新たな視点での学びにつながるものでした。
●8/10:ブラジル教育省
首都ブラジリアでの研修最後の訪問先でした。環境教育について、ブラジルでの現状を詳しく説明していただきま
した。政府が国内フォーラムで出た意見をすくい上げ、さまざまな政策をたたき上げ、すぐに現場の学校へおろすと
いう点では日本より理想的な姿だと思います。現場での環境教育の実践が期待されますが、環境教育のファシリテー
ターの育成過程が、大学などの教育機関に今までなかったということが課題でした。「これから通信教育によって
徐々に環境教育のファシリテーターが養成されることで、国のプロジェクトが持続可能なものとして現場に浸透してい
くでしょう」、と担当のルシアノさんたちはおっしゃっていました。また、日本の子どもたちに伝えたいこととして、「世界
を変えるためには、まず自分の身近な地域で行動をし、自分を変えること」という言葉が印象的でした。日本の子ども
たちが自分の住んでいる地域で何を変えられるのか、考えさせることが大切だと思います。
●8/10:JICAブラジル事務所 報告会
JICA ブラジル事務所、サンパウロ支所、JICA中部とのビデオ会議で今回の研修の報告会がありました。この研修
を通してたくさんの人との出会いがあり、人を通して生き方や人生について学ばされたことが数多くありました。また、
教員になって初めてブラジルを訪れ、今回は教師としての視点でブラジルを知ることができ、教師としての自分を振
り返ることができました。子どものもつ可能性を信じて、自分自身が変わることへの挑戦を続けていきたい、ということ
を話しました。サンパウロ新聞とニッケイ新聞の記者の質問は、在日ブラジル人への教育に関する質問が多かったで
す。
報告会が終わると、すべてのプレッシャーから解き放たれ、どっと安堵感が溢れてしまいましたが、メンバーのみ
んなで乗り越えたという思いから、さらに結束力が確認できました。みんなとても良い表情をしており、このメンバーで
研修ができたことを心から感謝しました。
●8/10ブラジリア市内見学(世界遺産等)
メンバーのそれぞれがそれまで内に込めていたものを前面に出し切り、報告会後の解き放たれた「ありのままの
私」の状態で、市内見学へ行きました。当初の予定では車窓からの見学でしたが、車を降りて歩くことができ、初めて
観光らしいものができたありがたい時間でした。世界遺産の大聖堂、国会議事堂、三権広場、大統領官邸、JK橋を訪
れ、それぞれの場所で晴れ晴れしく写真を撮ったり駆け回ったりしたメンバーの姿が印象的です。さらに、JK橋での
夕暮れのあまりの美しさと、この研修をこれほどの充足感で無事終えることができることへの感動で、夕日に拝んでし
まいました。
7.その他全般を通じての感想・意見など
・JICA、NIED、チームのメンバーをはじめ、この研修を無事に実りあるものとしてくださったすべての方たちに心
から感謝の意をお伝えしたいです。けして治安の良くない国ですが、安全のために、またみんなが気持ちよく研修が
できるよう、細かい所まで配慮をしていただけたおかげで、安心して守られながら研修に力を注ぐことができました。
ともに感動し、食べ、笑い合い、涙を流した2週間、自分自身をみつめ直すこともでき、今後の自分の人生の転機に
なるほど大きな影響を与えていただきました。ありがとうございました!
・イニャンガピや、憩の園、スコールなど、大幅な予定変更を余儀なくされた日がありましたが、想定外の時こそ素敵
な学びが得られることもありました。
・国際線、ブラジル国内線を含め、航空機の預け荷物の重量や個数制限の把握が事前に共有できていたらありが
たいなと思います。
8. 来年度参加する先生へのアドバイス (持ち物、必要な準備、学びの視点、注意事項など)
・
日程がかなりハードでした。心身の健康を第一に。寝られるときにはしっかり寝てください。
・
事前研修で訪問先の活動を事前に把握しておいたことが現地を訪問する際に非常に役立ちました。
・
自分の名刺は、持っていくと交流の際に役立つと思います。
・
メモは貪欲に取ろう!振り返りや報告の際に非常に参考になります。
・
帰国後の報告書は、帰国後すぐに取りかかった方がいいです。想像以上にハードだったので、計画的にやる
ことをおすすめします。
・
足がダニに刺されたようです。帰国してから症状が出る人が多かったので、場所の特定はできませんが。
以上
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