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もうひとつの経済システムとしての社会主義

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もうひとつの経済システムとしての社会主義
大阪経大論集・第53巻第6号・2003年3月
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もうひとつの経済システムとしての社会主義
キューバ有機農業を手がかりに
池
野
高
理
1.グローバリズムに代わる経済システムを求めて
グ ロ ー バ リ ズ ム
これまで私は,世界大競争のなかでの一国の生き残り策が規制緩和・民営化しかな
いとする支配的な論調1)を批判(「みんなの経済学とはどういうものか」本誌第52巻第
5号 02年1月)し,地産地消を原則とした持続可能で自立した経済システム構築を
提示した(「日本経済のありようの問題」同第4号 01年11月)が,読者から生産者と
消費者の連帯のありようと意識的な消費者の確立の方策についての具体的な展開を求
められ(「農村に辿り着いた女性の自分史」同第53巻第2号 02年7月),その問いに
答えようと具体的なヒントを求め,歌野敬『田舎暮らしの論理』(葦書房 02年)を書
評した(同第3号 02年9月)。
その問題意識を共有するものとして,社会主義キューバとの「国際産直」に関わっ
た人たちの対談である,首都圏コープ事業連合編『有機農業大国キューバの風』(緑
風出版 02年)と,地域づくりには「自給」が欠かせないという視点でキューバから
江戸時代までの都市農業を論じた,吉田太郎『200万都市が有機野菜で自給できるわ
け』(築地書館 02年)が出版された。本稿では,もともとの問題意識である経済シス
1)支配的な論調が強固に見える仕掛けのタネを,イグナシオ・ラモネ『マルコス ここ
は世界の片隅なのか』(湯川順夫訳 現代企画室 02年)が明かしている
「考え方と
いうものが,大マスコミの助けを借りて次のような形で市民を納得させるイデオロギ
ー的接着剤を提供する役割を果たしているのです。すなわち,グローバリゼーション
は修正できるような類のものではないのであって,それは利益をもたらすものであり,
それに対するいっさいの対案は空想的,ユートピア的で非現実的であり,かつ非常に
危険である,というわけです」(pp. 42),と。
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テムの再構築とともに,先の二冊が社会主義国キューバを対象としていることから,
いきおい社会主義の問題についても考察することになる。社会主義がすっかり論議さ
れなくなっている今日だが,資本主義の行き詰まりを思えば,やはり社会主義は依然
として重要なテーマである。
2.キューバの社会主義革命
今日にあって“社会主義”は,すっかりマイナスの烙印を押されてしまっている。
以前にテレビ番組で,現状批判の意見に対し,「そんな社会主義みたいなことを言っ
ても仕方がないですよ」と切り捨てるシーンがあって驚かされた。首都圏コープ事業
連編著『有機農業大国キューバの風』はそうした風潮に異議を唱え,「社会主義とい
うのは『一つの釜の飯を食う』という関係の問題」だと定義した上で,「Socialism と
いうのは,society の問題であって,ソサイエティーというのは,もともと companion
つまり『パンを共に食う』という意味なんだよ。だから,食うことから始まって平等
と共生の問題が出てくる。平等にめしを食えるようになる関係を個人が結合してつく
りだしていこうとするのが社会主義なんだよ。そういう関係を,単に将来の課題とし
てだけではなく,いま,ここでおたがいに求めていこうとするのが社会主義の魂なん
だよ」(pp. 191192),と言う。
コ
ー
プ
これは,食品にこだわる生活協同組合事業という立場からの社会主義論である。ま
た,キューバでの社会主義の成立に際して同書が示す具体的なエピソードも興味深い
「革命後に初代大統領と総理大臣が,彼らは革命運動家じゃなくて旧体制下の法
律家だったんだが,一万ドルの給与を要求したのに対して,カストロとゲバラは俺た
ちは七〇〇ドルでいいって言ったわけだよ。このあと,すぐに大統領と首相はアメリ
カに亡命しちゃった。……/一九五三年七月二六日に,カストロたちはサンティアゴ
・デ・クーパのモンカダ兵営を襲撃した。この襲撃は失敗して,カストロの同志の多
くが殺され,残りもみんな逮捕された……/革命が成功したあと,このモンカダ兵営
襲撃の追悼記念集会が行なわれた。このとき,集会の壇上には殺された革命家の遺族
が招かれて並んでいただけではなく,そのときの襲撃で死んだバティスタ独裁政権軍
の兵士の遺族も招かれていたんだな。この話を聞いて,俺は非常な感銘を受けた。こ
れは,ちょっとまねできないことだよ。歴史上,こんなことってあるかい。勝てば官
軍,負ければ賊軍というのが世のなら い だ よ。……/しかも,モンカダ兵営襲撃の
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ときには,猛り狂ったバティスタが,『兵士一人の死に対してフィデリスタ [ フィデ
ル・カストロを中心とする集団 ] 一〇人を殺せ』と命令して,逮捕されたカストロ・
グループと市民六一人が翌日までに拷問の末に殺されている……/シエラマエストラ
でゲリラ戦をやっていたときでも,ゲリラ隊の将兵は,どんな場合でも捕虜の生命を
尊重して,戦傷者には手当を加え,重要な情報をもっている敵にも絶対に拷問を加え
ないことを規律にしていた。……このことによって革命軍の正義と高貴の精神をバテ
ィスタ軍の将兵に示すことになるんだ,と彼らは言っていた」(pp. 3536)。
キューバ革命と同時に現地を訪れた,L.ヒューバーマン/P.M.スウィージー
『キューバ』(池上幹徳訳 岩波新書 61年)も,「革命軍の勝利につづく戦犯裁判にか
んする歪められた報道」によって「フィデル・カストロがキューバで血のゆあみをは
じめた極悪人だと思いこまされた」が,「実際はまったく反対だった。フィデルは血
・・・
のゆあみを防いだのである」(pp. 123124)と指摘する。これは,モンカダ兵営を襲
撃して兵器を分捕り,放送局を手に入れて,キューバ人民に独裁者に反対して立ち上
がった反乱軍を支持するように呼びかけるという計画で実行されたものの結局は失敗
に終わった,一九五三年の襲撃で逮捕されたカストロが, 裁判のなかで次のように証
言しているところと重なる
「たおれて行った僚友のために,私は復讐をもとめは
しない。かれらの生命は貴く,殺人者自身の生命でそれを償うことはできなかった。
祖国のためにたおれた者の生命を償うことのできるのは,血によってではない。祖国
の人民の幸福だけがかれらにふさわしい手向けである」(p. 74)。
フィデル・カストロのこうした姿勢は,その革命のあり方をも予見させるものであ
った。つまり,「革命軍」(「反乱軍」)の「兵士は,カンペシノ[農民]がいままでみた
兵隊とはちがっていた。かれらはやさしくて,思いやりがあり,傲慢でもなければ残
忍でもなかった。かれらは掠奪も強姦もしなかった。それどころか,かれらは手に入
れるものにはすべて代金を払った。革命軍では強姦にたいする罰は死だった。兵士は
カンペシノを尊敬し,かれらを助けた」(p. 100)。あるいは,「反乱軍の指導者の人
間性と卓越した戦略は,捕虜を親切にとりあつかい,負傷者を手当するようにという
革命軍にたいする命令にも示されていた。革命軍はかれらを捕虜としておかずに,国
際赤十字に渡して家に送り返した。フィデル[カストロ]はそのわけを『ラジオ・レベ
ルデ』を通じて,次のように説明した。『われわれはこの人たちを愛する家族からひ
きはなしたくない。また実際上の理由からも,われわれはこの人たちを捕虜にしてお
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くことができない。われわれのところでは食料,タバコその他の品物が不足している
からだ。われわれは,キューバ人民がこの点についてわれわれの立場を理解してくれ
111)。
るものと期待している 」(pp. 110
こうしたキューバ「革命軍」の姿は,かつての中国の「人民からは針一本,糸一筋
も取らない」などの「三大規律」「六項注意(後に八項注意)」と同じである。もっと
も,かつての中国やソ連に見られたように,この革命の精神が革命後になし崩しにさ
れてしまったとすれば,それは色褪せたものでしかない。しかし,キューバではそれ
がなお燦然と輝く
「たとえば一九七〇年五月のペルーの大地震が発生した際に,
・
・
キューバにおいては一〇日間のうちに実に一〇万人を越える献血(献金でないことに
注意)が行われたことからも知られるであろう。GNP世界第二位を誇る大国が東パ
キスタンの大津波による惨禍の当初,世界中から八億円にも上る救援が集まった時点
で,わずか一五〇〇万円程度の物品を送って世界の失笑を買ったのとはなんという違
いだろうか」(西川潤『第三世界の歩み』(中公新書 76年 p. 210)。
3.キューバの社会主義経済
では,キューバは,中ソとは違って何故に今日にあってもその革命当初の原点を持
ち続けているのか?
第一の答は,西川氏のそれである
「あらゆる国で,原始蓄
積時には社会の特定層が他の諸層,あるいは他の民族を搾取する方法を選んできたの
に対し,キューバでは決然とその道が拒否されている」(p. 167)。つまり,資本主義
がそのシステムを作動する(原始蓄積)ためには二つの方法がこれまであった。典型
的にはイギリスの産業革命時に見られたように,農民を土地から追放して自らの労働
力を売る以外に生活手段のないプロレタリアートを創出し,「所得とそれに伴う機会
不平等を促進する道」と,かつて日本が後進国から成り上がるために「他民族の従属
174)を採る道である。しかし,キューバはこれらの典型的な道
化と搾取」(pp. 173
のいずれをも採用せずに新たな道を模索した。それは,「集団主義的連帯感情を基礎
とし,かつ社会的緊張の発生を最小限にとどめるやり方で,経済の発展をはかる方法
である。このような発展方法は,当然,従来の『先進』地域で練り上げられてきた経
済発展の考え方とは異なる発展に関する概念に立脚し,したがっていわゆる先進地域
でつくり上げられてきた経済学を構成する基礎的範疇
とくに自由と私的所有
とは対立する諸範疇にもとづいて構成されるべきものである。キューバの場合,それ
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はなかんずく社会的正義(=社会的所有)を実質的平等,そして物質的利害の排除に
175)。そこに,キューバ社会主義の真
よって実現するという形で現れた」(pp. 174
髄があるのであり,それゆえに,キューバは革命の原点を持ち続けているのだ。
第二の答は首都圏コープのそれである
「キューバの現在の社会主義は『いま・
ここ』の社会主義をめざしている」が,これまでの社会主義は,「 やがて・どこか』
の社会主義,いま・ここでは,ともかくがんばって生産力を高めて蓄積していけば,
将来,地上の楽園がもたらされるというものでしかなかった」,つまり「現在を犠牲
にしないで,理想は掲げるけれど,その理想を現在に内在化させることをこそ追求す
る。そういう社会をつくろうとしている」(p. 28)。この視点は,社会主義が来れば
すべてが変わるとかつて考えられていたことに対して,未来は現在のなかから生まれ
るのだとしたら,それは単なる革命待望論でしかないという確かな批判に立つ。こう
して「キューバの方向はアメリカ主導のグローバリゼーションに反対し,市場原理主
義に対置する新しい社会経済のありかたを模索しているもの」であり,「日本にとっ
ても『もう一つの道』を示唆する」(p. 26)。
さらに,後藤政子『キューバは今』(お茶の水書房 01年)は,「キューバは経済回
復のために他のラテンアメリカ諸国のようなネオリベラリズム[規制緩和・民営化]体
制の道をとらなかった。それは世界の流れに逆らうものであり,ソ連が消滅して後ろ
盾を失ったうえに,世界で孤立したまま米国の敵視政策に身をさらすものであった。
それにもかかわらず,あえて独自の道を選んだのは,やはり,ここで革命の成果を無
にすれば何のために多数の命を犠牲にして革命をやってきたのか,という思いによる」
(p. 59)と,キューバの最近の動きを高く評価している。
4.アメリカによるキューバ経済封鎖
さて,「米国の台所の一部」とまで呼ばれたキューバでの革命は,アメリカにとっ
て一大事であった。だからこそ,アメリカはキューバに革命が起きたあと一貫してキ
ューバ敵視政策を採ってきているが,じつはキューバ革命直後にカストロがまず訪れ
たのはそのアメリカだった。それは今でこそ奇妙に思えるが,革命当初のカストロは
アメリカと友好関係を結ぶことで社会改革を実現しようとしていたからである。
革命前のキューバでは,過半数の農民が,電気も水道もトイレもない,屋根は椰子
の葉でふかれ,床はたいてい土の,土間だけの掘っ建て小屋に住んでいた。仕事があ
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るのはサトウキビ収穫期の四カ月くらいで,あとは「死の季節」と呼ばれる失業状態
であり,マラリヤや結核や寄生虫病がはびこっていた。だからこそ,カストロは前述
の裁判で逆に当時の政府を鋭く告発したのである
「農村の子供の九〇%が,はだ
しの足を通って土から入ってくる寄生虫にやられている。上流社会は一人の子供が誘
拐されたり,殺されたりするのをきいて同情をよせるが,何千という子供が,施設の
ないため,苦痛にもだえながら毎年死んで行く大量殺人には,犯罪に近い無関心さで
ある。……一家の主人が一年に四カ月しか働けない状態で,どうして子供たちに衣料
や薬を買ってやることができようか?
子供たちは佝僂病をもったまま大きくなり,
三十歳になるころには健康な歯は一本もなくなる。かれらは一千万回も演説をきくが,
結局は窮乏と欺瞞のうちに死んで行く」(ヒューバーマン/スウィージー p. 68)。
経済状況について言えば,四六年の農業国勢調査によれば,総数の〇・一%の農場
が全体の土地の二〇・一%を占め,八%の農場が七一・一%を占めていた。二六年の
キューバの砂糖生産の六三%がアメリカ人所有の工場で占められた。こうした砂糖プ
ランテーション経済ゆえに,キューバの状況は典型的な植民地の姿を呈していた2)。
たとえば,「キューバには利用できる原料が沢山あるが,国内では十分に利用されて
いない。なかには国内で利用されずに輸出されているものさえある。しかも,同じ原
料からつくられた完整品が輸入されている。……毎年一一〇〇万kgのトマトが輸出
されるが,そのうち九〇〇万kgに相当する分が,トマト・ソース,ペースト,ケチ
・・・・・・・・・・
ャップなどさまざまな形でキューバに戻ってくる」(p. 16)という状況だった。
・・・
こうした状況の変革が,当初のキューバ革命によって目指され,したがってアメリ
カとの関係が模索されたのである。しかし,革命とともに大規模な農地改革が実施さ
れたことで,キューバに利権を持っていたアメリカの大資本の権益が侵害されるとこ
ろとなり,アメリカ資本はアイゼンハワー政権に砂糖割り当ての停止や経済と通商の
2)このようにキューバ経済を牛耳っていたアメリカは,当時の中央アメリカにおいては
一般的なことであった
「一九世紀半ば以降,世界でも有数のバナナ生産・輸出市
場となった中央アメリカ諸国は『バナナ共和国』と言われたが,実態は,アメリカ合
衆国資本が広大な土地を占有し,生産・輸送・販売の全権を掌握しており,地域全体
の政治・経済・社会のあり方を規定するものだった。とりわけ旧ユナイテッド・フル
ーツ社は,触れるものすべてを絞め殺すタコ『エル・プルポ』の異名をとるほどだっ
た」(イグナシオ・ラモネ『マルコス』訳注 p. 79)。
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封鎖などのキューバ敵視政策を取らせることとなった。六一年四月にはCIAの指揮
の下に革命キューバを潰そうとした3)。そのために,ついにキューバはアメリカと鋭
く対決することになった。
アメリカのキューバ敵視政策が如何に熾烈なものであったかというと,「ソ連崩壊
をカストロ政権を倒すよいチャンスとばかり,アメリカは一九六一年から引き続く経
済封鎖をより一層強化する。一九九二年に,国内外のアメリカ系企業及び全子会社が
キューバとの貿易取引を行うことを禁じた法律,トリチェリ法こと『キューバ民主化
法』を制定。キューバに寄港した船舶は,半年間アメリカに寄港することを禁じられ,
違反した場合は貨物没収の罰が科せられた。ロシアをはじめソ連崩壊後に誕生した新
たな国々はアメリカなど西側諸国に援助を求めたが,それに対してアメリカが設けた
条件のひとつがキューバとの貿易をすべて止めることであったのである。/トリチェ
リ法により失われた貿易量の七〇%は食料と医薬品であった。こうした非人道的な政
策がすでに危機的な状況下にあったキューバの食糧危機に一層の打撃を与えた」(吉
田 p. 30)。そして,「九六年にはヘルムズ・バートン法こと『キューバ自由民主連帯
法』を制定し,さらに封鎖の締め付けを強化する。同法で,全アメリカ及びアメリカ
系企業は食料や医薬品の販売を禁じられた。スイス,フランス,メキシコなどにある
企業は,『石鹸であれ牛乳であれ,キューバへの販売予定をキャンセルせよ。さもな
くば,商取引上での報復を受けるであろう』とアメリカ大使館員から警告された……
/アメリカは,イランや北朝鮮のようにテロ国家とみなす国々を経済封鎖しているが,
医薬品や食料のような人道的な物資についてはその項目から除外している。だが,キ
ューバにおいては違ったのである」(pp. 3233)4)。
3)「CIAと国防総省はアメリカ政府が気に入らない政権を転覆させるため,代理軍を
組織したりもした。たとえば,1961年には,キューバ革命をひっくり返すため,軍艦
に小規模の傭兵部隊を乗せてキューバに送り,ピッグス湾に上陸させた」(ジョエル
・アンドレアス『戦争中毒』きくちゆみ監訳 合同出版 02年 p. 21)。
4)この指摘は,二〇〇一年九月十一日の同時多発事件を契機にアメリカがその外交政策
を変えたかのように言われていることへの重要な反証である。アメリカはその経済・
軍事力を背景にして一貫して世界の独裁的な警察官なのである。たとえば,辺見庸
「時代を撃つ」( 週刊金曜日』02年11月1日号)は,「9・11によってベールがはが
され,本来の姿があらわれただけなのだ」と言い,ダグラス・ラミス/鶴見俊輔『グ
ラウンド・ゼロからの出発』(光文社 02年)は,「ブッシュ大統領は九月十一日で世
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こうした歴史を背景に,「先進国が資源を独占し,過大な消費をあおることで資源
を破壊し,さらには軍事力の行使も含めて環境を破壊してきた」のだから,「その犠
牲になってきた発展途上国に対して,さらには地球に対して先進国が『環境債務』を
負っていることになるんだ」という認識に立って,カストロ首相は九二年六月にブラ
ジルのリオデジャネイロで開かれた「地球環境サミット」で「先進国は環境債務を返
済せよ」と演説して後進諸国からの喝采を浴び,さらに「九六年にローマで開かれた
『世界食糧サミット』でも,カストロは浪費をむさぼる富める先進国を痛烈に批判し
て,大きな喝采を浴び」(首都圏コープ p. 101)た5)。
5.精神労働と肉体労働・都市と農村の差別を解消する経済システム
さて,本稿のもうひとつのテーマである,経済のありようについてである。
「食糧自給率の向上をめざして,国内の農畜産業が消費者の支持を受けて発展する
ように生協としても努めること」を国際提携品開発のポリシーとする首都圏コープは,
だから,「国内で生産できるものは国内の生産物を供給することを基本として」いる。
この姿勢は地産地消という原則に通じるもので,生協として基本的なところである。
そして,「コーヒーの場合は[日本]国内で生産されていませんから,国際提携品の
開発が必要になる」ゆえに,その国際提携品開発の対象となった。といって,コーヒ
ーを海外から安く持って来ればいいわけではない。そこには「もう一つのポリシー」
として,「環境保全型農業と有機農産物の普及に努めること」がある(p. 53)。
この二つのポリシーから,「九〇年代の初めから国を挙げて有機農業に取り組んで
い」て「実は大変な有機農業先進国」であるキューバが登場する。だから,首都圏コ
ープがキューバとの国際提携品として扱うコーヒーは,「農薬や化学薬品はほとんど
界が変わったと言っています。私[ラミス]はそうは思いません。以前にも大きなテロ
はあったのです。そうではなくて,このテロを戦争だと言って報復戦をやるとブッシ
ュが言った段階で世界が変わったのです」(p. 65)と言う。
5)この路線は,かつて社会主義中国が「第三世界」として後進諸国を結集し,先進国の
利害に囚われない独自の世界経済システムを提唱したことを受け継ぐものである。そ
の中国は,今日では自国の発展だけを念頭においた路線を歩んでしまっている(私の
「グローバリゼーションと中国」 技術と人間』02年3月号,および「 メイド・イン
・チャイナ』の安さの構造」本誌第53巻第1号 02年5月 で展開した)。
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まったく使っていません」(p. 54)。しかし,それゆえに「手作業の比重が増えて,
コーヒー農民の労働の負担は大きく」,さらに「よいコーヒーができる場所」は「お
おむね高い山の中腹で,寒暖の差が激しくて,よく霧が出るところにある」。「それか
ら,キューバのコーヒーは,高い木の下にコーヒーの潅木を植えて栽培する品種なの
で,おいしいコーヒーができるのだけれど,農民は日陰で湿気の強い場所で毎日働か
なければならない」(p. 59)。だからこそ,高い評価がその労働に与えられなければ
ならない。その点をカストロは,「我々は農業を最も賞賛され,最も促進され,最も
好まれる職業の一つに転換しなければならない」(p. 80)と洞察している。その施策
の一つとして,「キューバでは小学校には必ず農園が設けられていて,中学校になる
と四五日間の農作業実習の必須の授業があ」り,「高校でも農作業実習は選択だけど
ほとんどの生徒がやっている」(p. 105)。これは,肉体労働と精神労働,都市と農村
の差別解消のための実践である。カストロのこの思いは,すでに彼の裁判(前述)の
なかで,「ラテン・アメリカでは重大な誤りがおかされている。住民がほとんど土地
の生産物だけにたよって生活しているのに,矛盾したことには,教育は農村生活より
都市生活に重点をおいている」という愛国者マルティの言葉を引用して,「教育制度
の完全な改革を行い,幸福な国に生活する特権をもつ世代を教育する考え」を提唱し
ている(ヒューバーマン/スウィージー p. 71)。
この実践は,じつは文化大革命時代の中国のそれである。ところが,今日の中国は
文革精神を全否定し,ひたすら経済発展志向に堕している。そのことは,たとえば,
辻康吾「 三農問題』に直面する中国」( 世界』02年9月号)が指摘する「都市によ
る農村収奪」=「都市と農村の格差」情況から明らかである
「全国小学校の八〇%,
中学校の六四%が農村にあるが,農村の中学の予算は全国総額の四七・八%」,「義務
教育における都市住民の自己負担率は一三%,農村では六〇%。義務教育(九年制)
の小中校でも月謝が払えず休退学する生徒が多い」。こうした情況ゆえに,都市では
「親が『悪い子は農村にやるよ』と子供を叱るような社会的差別」が幅を利かしてお
り,貿易自由化の影響で国際価格より国内生産コストが高いということで「吉林省で
四千万トン,約二年分の総生産量に匹敵するトウモロコシが在庫となっている」など
の矛盾を抱えていること,あるいは,次のようなキューバ人研究者の中国印象記から
明らかである
「北京では一番大きな研究センターを訪ねましたが,研究者は研究
をするだけで農家との交流がなかったのです。私は,それはよくない制度だと感じま
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した。キューバでは研究者全員が同時に普及員にもなっていて,自分の研究成果を農
家に普及します。それは研究者にとっても便利です。研究が間違っていないかどうか
を検証できるからです」(吉田 p. 114)。こうした発想=姿勢がキューバ研究者にあ
るのは,「大学教授や学生の農村労働(一年間に四五日間)などにみられるような人
格形成期における生産と学問の結合の強調とそこから若い世代が獲得する新しい倫理」
(西川 p. 201)の必然の産物である。
キューバのこの姿勢と,遅れた=儲からない農業を切り捨てて先端技術に特化する
ことこそが生き残る道だという日本との違いはあまりにも大きい。たとえば,「去年
のミカンはタダ同然だった。……三人で収穫して青果市場へ出荷し,夜,にぎり寿司
の上を三人前とったら赤字だった」,あるいは,瓜を「青果市場に出したら十キロで
六十円だった」(山下惣一『産地直想』創森社6) 02年 p. 59,p. 197)というのが,日
本の農業の現実なのである。もっとも,九九年の「食料・農業・農村基本法」第三六
条二項で「国は,都市及びその周辺における農業について,消費地に近い特性を生か
し,都市住民の需要に即した農業生産の振興を図るために必要な施策をこうずるもの
とする」と明記された。しかし,それが口先でしかないことは,「五年前には五万ヘ
クタールあった三大都市圏の都市農地が今は三万八〇〇〇ヘクタールしかないという
ように年々減り続けているのが現状である」(吉田 p. 84)ことから明らかである。
6.消費者の課題
ところで,そうした理念に基づくコーヒーの輸入は,それを消費する私たちに大き
な課題を突き付ける。首都圏コープは,「そういう労働によって生産されたコーヒー
なんだということを,利用する生協組合員,消費者が知ること,我々供給側が知らせ
ること」(p. 59)が重要な役目となると言うが,同時に,消費者がそれを受けて消費
する=学ぶことが不可欠になる。しかし,“価格破壊”という名で安売り競争が蔓延
る今日の日本において,こうした活動は狭められる。とりわけ,不況=リストラの長
6)都市=消費者の独善性が農村=生産者を痛めつけてきた歴史を撃つ本書が言う,「昭
和三十年ごろまでに育った農村の子供たち」(p. 188)に近い私(一九四八年生まれ)
は氏の主張に共感するところが多いが,同書における家族・結婚=離婚観には大きな
違和感を持つ。
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引く日本の現実は,生活の切り詰めを消費者に否応なく強制するゆえに,いっそう厳
しい環境が生協の理念にのしかかる。規制緩和推進を社是とするマスコミは,安いと
いうだけでその社会の流れを好意的に取り上げる。たとえば,『朝日新聞』02年10 月
13日の「ひと」欄は,「中国と提携し,90円のスニーカーを売り出す」靴小売りチェ
ーン「ヒラキ」の社長を紹介しているが,しかし,それを支えるために課されたであ
ろう厳しい労働条件には一切言及していない。
このように,今日では生協の理念の広がりは難しい局面にあるのだが,日常生活を
検証すると,じつは私たちは必要でもない商品を数多く購入している7)。首都圏コー
プもその視点から,「働きすぎと浪費の悪循環」を説く『浪費するアメリカ人』(ジュ
リエット・B・ショア著)を借りて,「世界で最も富んだ国民であるといわれている
アメリカ人の半分が,いまだに物質的な不満を感じていて,必要なものを買う余裕が
ないと言っている」,しかも「年に一〇万ドル(約一六〇〇万円)でも貧しく感ずる」
(p. 183)という現実8)のなかで,「ギアをロウに入れ換えて,消費と労働の関係,ひ
いては暮らし方を変える人たち」=「ダウンシフター(downshifter)減速生活者」の
「生活様式が一般化するのが,循環共生型社会であり,協同社会だ」(p. 184),と言
う。これに対して,「そういう社会は生産性が低い,またそんなふうに消費を減らせ
ば経済は難破する」と反論が予想されるが,「確かに低消費文化の下では経済成長率
は低くなるけれど,それは人々の選択と優先順位が変わったことを意味するにすぎな
い」(p. 185)のであり,「むしろ経済は安定する」(p. 186)と再反論する。
7)これについては,川上卓也『貧乏神髄』(WAVE出版 02年)に詳しい。なお,新妻
昭夫「今どきのフリーターは健全だ」( 朝日新聞』02年11月3日の書評)は,同書を
「特筆すべきは,著者の生活感覚とくに金銭感覚の健全さ」と激賞する。第8節で見
るように今日では「ダメ若者」論が蔓延っているが,新妻氏はその書評のなかで「い
まどきの若いものは仕事も長つづきしないし,なにを考えているのかわからない,と
いう前に読んでみてほしい」と薦める。
8)私は「過剰消費の病理を撃つ」( 社会評論』第131号 02年秋)と「サラ金の経済学」
(本誌 第53巻第4号 03年11月)で,今日の消費社会における巨額な将来の所得の先
取り(借り入れ)の一般化の問題を指摘したが,ここで簡潔に示せば,「五万ドル
(1ドル一三〇円とすると,六五〇万円)から一〇万ドル(一三〇〇万円)の所得の
世帯では,六三パーセントがカード負債をもちます」(桜井哲夫『アメリカはなぜ嫌
われるのか』ちくま新書 02年 p. 179)という極めて危うい情況にある。
186
大阪経大論集
第53巻第6号
ところで,問題とされるべき今日の消費を象徴するのが,「米国の大人
31%太り
すぎ」( 朝日新聞』02年10月9日)である。ジョン・ハンフリース『凶食の時代』
(永井喜久子+西尾ゆう子訳 講談社 02年)によれば,「二一世紀が始まったころ,毎
年,全人口の一〇パーセントが食べ物を原因とする病気にかかると推定されていた。
今,その比率はさらに高くなり,病気もいっそう深刻なものになっている」。とりわ
け,「子どもたちが恐るべき速さで肥満への道をたどってい」て,「二〇〇〇年には,
ざっと見積もって,一五歳人口のおよそ半分が太りすぎか,実質的に肥満と呼べる水
準だった。[この数字は]二〇世紀初めの数字の三倍であ」り,だから,「医学の専門
家は,長年,子供たちの食事を見直すべきだと警告してきたが,彼らの声はファース
トフードや発泡飲料メーカーの宣伝文句にかき消されてしまった。二〇年前,食品委
員会の調査書の中で,ハンバーガーは塩分と脂肪が多すぎる
小さじ六杯の脂肪を含むものがある
焼いた後でも,まだ
しかも化学薬品が大量に含まれていると糾弾
された。しかし,何も変わらなかった」(pp. 42∼44)。じつは,「政府内では食品メ
ーカーに対しパッケージに警告ラベルをつけるよう命じるべきだという声があがって
いる。以前煙草メーカーに命じたのと同じようなものである。警告文は恐ろしく簡単
だ。/『警告!
これを食べると,あなたの健康を害する恐れがあります 」(p. 45)。
これが,現実の姿なのである。
このように,アメリカ人の太り過ぎの背景には間違いなくファーストフードの広が
りがある。そして,そのアメリカン・スタイルがグローバル化し,日本でもファース
トフードが席巻している。それだけに,食品の賢明な選択が焦眉の課題となる。だと
すれば,今後,自らの身体に関わる商品に関しては安全・健康という基準が第一の指
標となり,そこに生協の将来を展望することができるのではないか。そして,消費の
ありようの点検は,商品を生み出す産業・労働の再評価にもつながっていくことにな
る9)。だから,「グローバリゼーションの中で,どう生き残っていくのかという問題」
に直面している首都圏コーポは,今日の価格破壊に対し「価格には還元されない価値
9)エリック・シュローサー『ファストフードが世界を食いつくす』(楡井浩一訳 草思社
02年)と,ジョージ・リッツア『マクドナルド化する社会』(正岡寛司監訳 早稲田大
学出版部 99年)は,単にファストフードが健康に悪いというだけでなく,私たちの
働き方・暮らし方までをも規定していることを指摘し,告発している。
もうひとつの経済システムとしての社会主義
187
を,我々の供給する商品に具現化して,それで勝負していく」しか歩む道は残されて
いない。そして,現に「私たちはそういう観点から山形県の米沢郷の生産者の鶏肉の
産直を二〇年にわたって積み重ねてきましたが,この鶏肉は,市場価格からいったら,
かなり高いです。それだけの労働が投下されているわけですからね。でも,生協組合
員は,たくさん利用してくれるんです。それは価値を知っているからですね。全米ブ
ロイラー協会の会長は,MRSA(メチシリン耐性黄色ブドウ球菌)を使うなという
要求に対して,『こんな価格の鶏肉に抗生物質を使うなというのか』と平気で言うわ
けですよ。そういう食糧生産の体系に接続したグローバルなロジスティックスに対し
て,私たちは価値創造で対抗してきたわけです」(p. 143)。
7.キューバ農業の転換
ところで,首都圏コーポの取引先としてのキューバの経済はどのようなものか。
キューバは,これまでサトウキビのモノカルチャー(大規模単一栽培)を中心とし
た経済構造であった。キューバに限らず,歴史的に植民地とされた多くの後進国が政
治的な独立後にあっても,先進国の利害を優先する世界経済システムに巻き込まれた
結果として,そうした経済構造を押しつけられたのである。
一般的にモノカルチャー型の経済構造は国際市場の激しい価格変動に晒されて後進
国にはきわめて不利なのだが,じつはキューバにはソ連の支援という特有の事情から
革命後もモノカルチャー(「クラシカル・モデルの農業生産」)が政策的に維持されて
いた。こうして革命後もとりあえずキューバは旧来のモノカルチャー型経済構造を続
けることができたのだが,じつはその代償も大きかった。というのは,ソ連に依存し
た農業の機械化と化学肥料・農薬の代金の支払いという金銭的なものの他に,「機械
化を通じて都市への人口集中を引き起こし,農地の侵食や圧密,塩害,生態系の破壊
などによって持続的生産の基盤を壊していった」からである。ところが,幸か不幸か
ソ連崩壊はキューバに重大な選択を迫ることになった。もはや安定した価格での砂糖
のソ連への輸出は望めなくなり,農業に必要な機械・燃料・資材のソ連からの輸入も
不可能になったからである。「ここでキューバは,従来のクラシカル・モデルからオ
ルターナティブ・モデルへと農業構造の急速な転換をただちに図る」のだが,具体的
には,「機械や投入資材に頼る代わりに,牛などの動物による耕起,穀物・牧草の輪
・・・
作,有機的な土地修復,バイオロジカルな手段による病虫害のコントロール,有機肥
188
大阪経大論集
第53巻第6号
・・・
料やバイオ農薬の使用などを通じて,低投入型で持続型の有機農業をつくりだそうと
するもの」(首都圏コープ pp. 7475 傍点−池野)である,という。
ところで,この「バイオ」という言葉から私たちには「先端科学技術」がイメージ
されてしまうが,その内実はというと,カストロ首相が九二年のブラジル環境サミッ
・・・
トでの演説で「窒素固定菌・根粒菌・菌根のようなバイオ肥料の増加,立ち枯れや病
害に対する生物学的制御技術の開発」(p. 83)と言っているように,きわめて伝統的
な有機農業の基盤技術なのである。それは,次のようなものである
「例えばバナ
ナの木の下で大量のミミズを飼っていて,バナナ自体はそのミミズ堆肥の養分だけで
りっぱに育っていますし,そこで生産された堆肥をほかのところで利用するだけでな
く,増えたミミズは魚の餌にも使っています。/それから,ミミズを使った家庭用の
生ゴミ堆肥化装置も開発されています。廃材となった発泡スチロールの空き箱なんか
を再利用して,ごく簡単な生ゴミ堆肥化装置が作られていて,それでもけっこう良い
堆肥ができるということです。そういうふうに,コストをかけずに,さまざまな試み
が総動員されています」(p. 96)10)。
ソ連崩壊を受けて苦境に陥ったことを契機にやむを得ず選択したとはいえ,キュー
バは,今や「オルターナティブ・モデルへと農業構造の急速な転換」をした。その結
果,「ハバナとその近郊の生産者が作った有機農産物はハバナの消費者が食べるとい
う形になって」(首都圏コープ p. 87)いる。そして,この転換は社会のありようにも
大きな変化を引き起こした。たとえば,有機農業は手間がかかるので「政府は都市住
民の農業支援を促進して,都市の市民が順番に各地の農村に出かけて,泊まりがけで
農作業に従事するようになった」。現に「ハバナだけでも,一年間に十数万人の市民
が参加する」規模にまでなった。こうした一時的な援農だけでなく,「ANAP[中
小農民全国連合]では就農訓練学校を開いていて,ここで有機農業の技術教育を受け
103)制
た人たちが農村に土地を貸与されて移住して農業に従事していく」(pp. 102
度も整備されている。さらには,「都市農業の展開,都市の遊休地を農地にして,都
10)同じことを吉田氏も指摘している
「バナナの茎を切断し,砂糖や蜂蜜の液を塗り
つけ,アリのコロニーがある場所に置く。アリが茎に誘い寄せられたことが確認でき
たら,今度はこれをサツマイモ畑に持ち込んで茎を日光にさらす。アリは強い日差し
を避けるためその場で土中に巣を作り,アリモドキゾウムシの幼虫を食べてしまう。
きわめて原始的な方法だが,生産コストも安く防除効果も高い」(p. 112)。
もうひとつの経済システムとしての社会主義
189
市で農業生産を行なう試みも発展し」,その具体的な一例として「都市農業プロジェ
クト」が示される
「都市の休閑地に都市住民の手で主に野菜を栽培して,それを
同じ都市の中で供給しようという『地産地消』のプロジェクトです。全国で六〇〇〇
ヘクタールの都市農園が新たに作られていて,七五万トンの野菜が作られて」おり,
じつは「これも,都市と農村の対立をなくし,都市でもできるかぎり食糧を生産して
自給していこうという試みで」,「私たちが訪問した農業省の前庭にも,芝生をつぶし
て畑にした農園が造られていて,農業省の役人が水をやったり,耕作したりしていま
した。指導する官僚が,まずみずから率先してやっているわけで,そういうふうにや
れば,政策の実行も進む」(p. 106),と。
ここに,都市と農村,および精神労働と肉体労働との差別解消を掲げたキューバ革
命の真髄が具体化されている。次にその例を示してみよう。
例Ⅰ:「低開発地域のどこにでもみられる大都市が周辺の貧しい農村に君臨し,農
村の住民がたえず大都市に引きよせられスラム街を膨張させている光景」はキューバ
にはない。逆に,大都市「ハバナのうらびれた光景」と「農村にみなぎる明るさと活
気」がある。「この光景は偶然の産物ではない。それは『都市に最小の注意を払い農
村に最大の注意を注ぐ』革命政権の一貫した経済政策にほかならない。革命の一二年
間に,政府は固定資本形成を国内総生産の一二%から三〇%にまで引き上げた。その
過程を通じて,革命前には総投資の七〇%を受けていたハバナが投資を受ける比率は
二三%と大きく低下し,ハバナ以外の地域に対する投資が,実に総投資の四分の三を
占めるに至った。すなわち政府は,その干渉力の増大を通じて,組織的に農村の発展
と都市化の抑制とをはかったのである」(西川 pp. 132134)11)。
例Ⅱ:「共産党の政治局員や政府の閣僚が,配給手帳をもって配給所に並んで食糧
120)。砂
の配給を受け」,「官房長官や外務大臣が自転車で通勤している」(pp. 119
糖きびの「サフラ(収穫)の初期,カストロ首相が激務のなかで毎朝四時間刈入れに
従事した」(p. 156)。「カストロが居住しているのはごく普通の住宅だし,贅沢品と
いっても大型のテレビくらいのもの」で,「カルロス・ラヘ官房長官も自転車で通勤
11)ここにあるのは,「まず農業を発展させることによって革命の担い手であった農村の
発展主導力を最大限に発揮させ,工業化を通ずる農村の都市に対する再従属を回避す
るという長期的な政治目標に従っていたことである」(西川 p. 155)。
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第53巻第6号
するし,ロベルト・ロバイナ元外相は『大臣として仕事をするうえで,国民とかけ離
れた生活をしないように努力しています。国民と同じ暮らしをすることがよい理解に
つながるのです』と言っている。/食料品についても同じで,国会議長も日曜日には
市民と同じく買い物の列に並ぶ」(吉田 p. 21)。
ノーメンクラトゥーラ
このようにキューバでは社会的格差が少なく,支配官僚層が存在しないからこそ,
日本の四〇∼五〇代にとっては,「キューバ人は貧しいのに明るくがんばってて,え
らいな,という感想が先に来る」のだが,「若い人たちは,そうではなくて,キュー
バ人の明るさにそのまま共感して,これは豊かな生き方だって感じ」(首都圏コープ
p. 152)る。そしてこのことは,今日の日本の若者批判への正当な反論となる。
8.若者ダメ論を超えて
このところ,大学生の「学力低下」とかフリーター批判など,今日の若者への批判
がすさまじい。しかし,後者の批判は,日本経済がグローバリゼーションのなかでの
生き残り策としてアルバイト・パートなどの細切れ労働を必要としているという背景
を抜きに語られており,すべての責任を若者に押しつけるという,いわば論理の倒錯
の上で成り立つものでしかない。だから,バイト先の唐突な閉店のことを次のように
ゼミ新聞に書いた学生の言い分は至極まともであり,ありきたりな若者・学生批判の
浅薄さを示している
,
(略)20日でバイト先の店が閉まりました。今回のことで一番私がムカついたのは
本部の態度です。閉店一週間前に話を聞かされて,本部からは何の説明もありませ
んでした。次のバイトの斡旋や特別手当なんか当然ナシでした。少なくとも一カ月
前に言うとか,ちゃんと説明しに来るとか,そういうのをして欲しかった。
私は約2年間働きました。大学よりもはるかに長い時間を店で過ごしました。店
長が代わって厳しくて,それでもその厳しい店長に何とかついていって仕事を覚え
ていって,いつからか信頼されとうって感じれるようになりました。それが自分の
自信にもなりました。だから,余計にこんな終わり方はつらいです。会社が,売上
が大切なんは分かります。ただ,もう少しやり方があったやろっ。私は「売上より
スタッフの方が大切なんちゃうか」って気持ちです。しかし,ただの理想論にすぎ
んのかも。社会に出たら,今書いてるようなこと思わんくなってしまう日が来るん
もうひとつの経済システムとしての社会主義
191
かもしれません。
私は今まで,テレビのニュースでリストラとか倒産のニュースが流れても,本当
に何も考えんと聞き流してました。今回いろいろ考えました。上の偉い人はみんな
勝手や,って本気で思います。簡単にスタッフをきって,子会社とか支店をつぶし
て,他にはムダはないんでしょうか?
私には,現場で働く人よりもその偉そうな
人たちの方がよっぽどムダな存在に思えます。うちの店だって,何でかしらんけど
一丁前に会社の車とかあって,本部のオッサンが店に来る時はそれで来ます。自分
の車があるねんからそれで来い,って思います。そんなんしとって配達人の保険代
をケチるねんから,わけ分かりません。流通科学大学に行ってる友達は,ダイエー
の中内功っていう人は授業に教えに来るのにわざわざSPを何人もつけてくるのを,
「誰が襲うねん。そんな金あるなら,ダイエーを何とかしろ」って言ってました。
トップ
上のオッサンにしたら何の思い出もない店でも,そこで働く人にとったら大切な
店で,生活の一部です。会社は,現場の人,底辺の人が支えてるんですよね?
数
人の偉そうなオッサンが支えてるんじゃない。売上が悪かったり,経営が苦しいの
は仕方ない。そこで,最後の方法として社員を削ったり店を閉めるなら,お金とか
マ マ
じゃなくて,ちゃんと誠意を見せないと……。
こんなん思うの,私が子どもやからかもしれんけど,うちの本部のオッサンみた
いな人には「今の若い子は」とか言われたくないです。一発,本部のオッサン,殴
ってやりたい!!
三回生
首都圏コープ編著は,たとえば,キューバ社会主義の独自性について「もっといい
ものを食いたい,もっといい服を着たい,もっと楽をしたいってことは,だれだって
思っていますよ。だけど,そういうものを得るために,いま・ここでの楽しみを犠牲
にしてあくせくするのはつまらない,この条件の中で生きることを楽しみつくして生
活しようじゃないか,という気持ちが強いんだと思いますね」と位置づけ,じつは日
本の若者の間に「 呪われた勤勉』から脱却した,というか,もともとそういうもの
にとらわれていない若者がかなり大量に生まれはじめている」,だからこそ,「キュー
バ人は豊かだ,とストレートにとらえられる若者たち」があり,若者たちの「こうい
う傾向を『刹那主義』とか『享楽主義』とかとしてしかとらえられない人たちが,若
者はダメになったと言っているんじゃないでしょうか」(pp. 153154),と通俗的な
192
大阪経大論集
第53巻第6号
若者批判に反論する。この若者論はさらに深められ,若者が「日本に豊かさを感じず,
キューバに貧しさを感じないというのは,手段それ自体に価値をおいていないからだ」
と説かれ,そこから「協同社会への接近」が次のように構想される
,
手段的価値と即自的価値という分け方があって,自分がやっていることに何らかの
目的を実現するための手段として価値を見出す,そのときの価値が手段的価値,そ
れに対して,自分がやっていること自体に価値があると感じる,そのときの価値が
即自的価値ですね。そして,「幸せ」というのは即自的価値なんですね。……
一般に社会を指導し運営していく人間にとっては,目的が重要です。……ですか
ら手段的価値を否定するわけではないんですが,その目的が手段から自立して神聖
化されてしまいがちだと思うんです。そうすると,目的は固定化されて祭壇に上げ
られてしまって,現実的な労働や作業,活動といった場面では,手段をそれ自体に
価値があるかのごとく追求する傾向が出てくる。専門エリートがそうです……
若者たちは,すっかり支配的になっているそうした関係から本能的に逃れようと
しているんだと思います。だから,いま・ここで最大限の楽しさを追求すること,
つまりいま・ここでの即自的価値に生きることをよしとしているキューバの人たち
に豊かさを感じるんだと思うんです。
これを労働ということに適用して考えますと,労働は生活資材をえるための手段
だ,一所懸命労働すれば暮らしが楽になる,だからつらくても我慢してやろう,と
いうのが手段的価値としての労働のとらえかたです。それに対して,労働は楽しく
なくちゃいけない,おもしろく働こう,つらくても楽しくおもしろければいいじゃ
ないか,というのが即自的価値としての労働のとらえかたです。そのとき,楽しさ,
おもしろさというのは,狭い意味のもの,単に個人の実感だけに還元されるもので
はないでしょうけれどね。
僕は,このあとのほうの,即自的価値として労働をとらえる,そういう労働を実
現していこうと考える,そういう方向の中からこそ,労働者生産協同組合や労働者
のほうから協同社会への接近も出てくるんじゃないか,と思うんですよ。
pp. 178180
そして,さらに「協同社会への接近」が「可能性」として論じられる。それは,
もうひとつの経済システムとしての社会主義
193
「環境保全型農業の価値観というのは,循環共生型社会の価値観に発展していくもの
を含んでいるし,自然環境との共生が,人と人との,社会集団と社会集団との共生の
関係をつくる方向に発展していくことは可能なことだと思う」(p. 183)という立場
から構想される社会である。「環境保全型農業」を唱える同書は,かつて「連合(日
本労働組合連合会)で『百万人農民計画』というのをぶちあげようとしたやつがいる
んだが,だれからも賛同をえられなかったらしいね(笑い)。労働組合の幹部の価値
183)と,いわゆる伝統的な左
観は,まだまだ旧態依然たるものなんだな」(pp. 182
翼への批判にもなるが,さらに積極的に「人と人との,社会集団と社会集団との共生
の関係をつくる方向に発展していく」ものが提示される。
具体的には,今日の競争そのものが分析される。まず,『共生の冒険』(毎日新聞社)
から「競争にも二つある」という考え方が紹介される。一つは,「まねをする」とい
う意味の言葉からきている「エミュレーション(emulation)としての競争」で,「そ
の都度あたえられた目標や範型にむかって,『右にならえ』 遅れをとるな』 追いつ
き追い越せ』とがんばっていく競争」,そしてもう一つは,「あらかじめあたえられた
目標や範型の達成に向かって競い合うのではなくて,そもそも目標や範型自体を『共
に(com)探し求める(petere)』営み」=「コンペティション(competition)としての
競争」である。そして第二の意味の競争が重視され,「 まねをする』を否定して,何
のために,何をめざして,みんなで励みあうのか,ということを探し求めながら,み
んなで励む,という形の競争を,むしろ積極的に組織していくべき」と言う。「それ
は協同組合の運営原理にも合致するもの」だとして,「価格が安ければ品質はどうで
もいいわけではなく,品質がよければ価格が高くてもいいわけではない。価格が安く
て品質がよければ,発展途上国の生産者を犠牲にしたものでもいいのか。発展途上国
の生産者の利益になっても,日本の農業を破壊するようなものであっていいのか。ど
ういう商品を供給すべきかという問題をめぐっても,目標そのものが多様に考えられ
るし,それがあらかじめあたえられているということはないし,やっていくうちに目
標が変わらなければならないことだってあるわけです。それを組合員の参加型民主主
義を通じて,『共に探し求める』のが競争だというなら,それは私たちがやっている
ことです」(pp. 170171)と自負する。
194
大阪経大論集
第53巻第6号
9.社会システムの教育機能
先の「何のために,何をめざして,みんなで励みあうのか,ということを探し求め
ながら,みんなで励む,という形の競争を,むしろ積極的に組織していく」試みは,
資本主義社会というシステムのなかにある私たちには思いもつかないユートピアとし
てしか映らないかもしれない。
現に,日本での大学「改革」のなかで強行されているものは,いい会社への就職の
ための資格取得の奨励など,あくまでも個人主義的なものである。秀実/高橋順一
「大学に知の可能性はあるのか」( 情況』02年11月号)は,「大学を出れば然るべき
ところに就職できる,大学教員と同じ程度の階級に属するパスポートが与えられると
いうことがなくな」り,「学生はすでにアンダークラス予備軍と化している」今日に
あって,にもかかわらず,「学生の側もダブルスクールで資格を取らなくちゃとか汲々
としている。直に社会に接合されて,もろに権力の論理や階級の論理の中で動かざる
を得ない状況が,しかし一方においては主体的に内在化されている」 と, こうした情
・・・・・・・・・
況をいささかショッキングな論調で指摘している。
私が「いささかショッキングな論調」と言ったのは,二人の対談者たちの,たとえ
ば,「大学を出てもルンプロ化するしかないという部分を排出し始めた」「低偏差値」
の「Fランクの私立四年制大学」は今や「四年間ヤンキーみたいな奴を囲う監禁装置
以外の何ものでもない」という表現に,ギョッとさせられたからである。しかし,よ
く読み込めば,それは世間で蔓延るダメ学生論ではない。そのことは,「茶髪のヤン
キーのおニイチャンやおネエチャンたちは確かにひどいかもしれないけど,そのひど
さの責任を彼ら個人に帰することは当然できない」という二人の立場から明らかであ
る。で,そうした状況のなかでなおかつ大学が果たすべき役割というものがあるとす
れば,と二人の対談は続く
世の中には「矛盾があるということを教えることが世
のため人のため社会のために大学がある」という立場から,「このまま行けば直面す
るであろう状況に対処する武器を準備するプロセス」として大学を位置づけ,そして,
「ライフサイクルの崩壊を観念で耐えるということと,シビアな階級間格差に直面す
ることと,その二つの問題に対して教員なり学生なりが,自分自身の戦略というか判
断というか,それを鍛え上げる場所みたいな形で大学を位置づけられないか」,「学生
たちがシビアな社会に直面するとば口のところで,大学の側が実践的なレベルも含め
もうひとつの経済システムとしての社会主義
195
て有効な形で社会の側へ差し戻せる武器というものを,どれだけ提供できるかという
こと」にある。それが,「大学の矛盾を隠蔽して……四年なり六年なりで学生を無責
任に放り出すだけであって,社会に対しても何の役にもたっていないという」現実12)
からの,とりあえずの対処である,と13)。
さて,キューバにおいては「何のために,何をめざして,みんなで励みあうのか,
ということを探し求めながら,みんなで励む,という形の競争を,むしろ積極的に組
織していく」試みが模索された。そのひとつが, 六三年から六四年にかけての「過渡
期の発展動因を何に求めるかについての大論争」(西川 p. 175)である。ソ連・東欧
流に個別企業に大きな自主機能をもたせて自己の合理性をノルマ超過率と利潤によっ
イ ン セ ン テ ィ ブ
て計測し,そこで働く労働者には物質的な刺激をもって個別的に報奨を与えるという,
市場と競争を重視した企業組織方法(自主金融方式)を採るか,国家予算にもとづい
て中央に経済計算を集中して経済を運営する方法を採るかを巡っての論争で,この論
争に決着をつけたのは工業相ゲバラによる前者方式批判であった。その批判論理のな
かに,キューバが求める新しい人間像を垣間見ることができる
「自主金融方式の
もとでは,個々の労働者たちは,社会全体の見地からする経済計画を理解してそれに
協同するよりも,むしろ自己の賃金と報奨の増大のみを目的として働くような,利己
主義的態度を植えつけられる」(p. 176),あるいは,「商品が資本主義社会を動かす
核である以上,商品範疇が存在する限り,その影響は社会主義社会においても生産−
流通−消費を通ずる所有関係に発現せざるをえず,商品範疇は人間の意識に対する影
響を通じて社会的所有を私的所有へとたえず変化させる要因となる。すなわち『直接
的な物質的刺激と革命意識とは両立しない』というゲバラの問題意識が,この論争を
通じてしだいにキューバの人びとの間に浸透した」(p. 178)。つまり,資本主義的な
自主金融方式では商品とか市場とか競争が幅を利かしてしまい,それらがその下で働
く労働者たちの意識を利己主義的なものに教育してしまう
私たちの国の現状がそ
12)「政府の方針で院生はこの10年で約22万人に倍増。あぶれた院生が学部の学生と企業
を回っている」のが,今日の現実である( 朝日新聞』02年11月5日夕刊)。
13)私の大学「改革」についての立場は,この対談とかなり重なるところがある。詳しく
は,巨大情報システムを考える会 知の植民地支配』(社会評論社 98年),同『不
思議の国の「大学改革」』(同 91年),同『国際化と大学立国』(同 95年),同『学問
が情報と呼ばれる日』(同 97年)などに収めた私の諸論文を参照されたい。
196
大阪経大論集
れである
第53巻第6号
という根源的な批判14)が,そこにはある。
そして,「価値法則を止揚し,新しい社会主義的人間を形成するという基本的展望
のもとに[経済計画は]立案される」べきで,この計画のもとでは,「労働者個々人
は,経済計画の諸要請を実現し社会全体の共産主義への進展を進める主体として現れ
るから,かれらに対する報奨は賃上げやボーナスなどの物質的刺激ではなく,主とし
て精神的な刺激(賞状の授与,栄誉ある称号の付与等)である。たとえ物質的な刺激
が与えられる際にも,それは個々人に対してではなく(ソ連のスタハーノフ運動!),
むしろ集団的・社会的報奨(企業・職場全体に対する消費財や休暇村切符の優先配給
等)の形態をとる」(p. 177)。こうしたキューバ革命政権の思想ゆえに,「金銭関係
から離れた倫理を積極的に育成するために,政府は住民からは税金をいっさい徴収し
ない。公共サービスはすべて,金銭による取引関係を離脱したものとして,社会の住
14)人間を変革するモラルという発想ゆえに,ゲバラは「先進工業国で帝国主義をつくり
・・
出している巨大機構によって抑圧され疎外されている人びとに対しての責任」をも唱
える
「 わが方,つまり世界のなかで収奪され開発の遅れた国の責任は,帝国主義
の土台を除去することである。土台となっているのはわれわれ被抑圧国なのだ。……
だから,この戦略目標の基本的要因は,すべての人民の真の解放である 。/なぜ
“責任”なのか。それは帝国主義をつくり出している側の国に住む人びとは,帝国主
義というひとつの政治的・経済的・文化的体制の網の目のなかにとらえられており,
この体制なりの合理的システムのなかに埋没して……この体制がいかに人間を抑圧し,
人間性を疎外するかを見つめる目を失ってしまいがちだからである。怪物の行動は決
して怪物の頭や心臓自体から問いかえされることはないだろう。そうした体制の問い
かえしは,この体制のもたらす抑圧と疎外とを直接その土台を支えつつ感じとり,こ
れを大多数の人民にとっての非合理的システムと把握する人びとによってこそもっと
も直截な形で提起されるだろう。/そして低開発の人びとにとって,こうした問題を
提起し,この体制の土台を除去することこそは,この体制の内部で人間性を失ってい
る『先進国』の人びとに対する義務と責任にほかならないのだ。それゆえ,キューバ
の人びとの好んで引用することばのひとつは,『われわれにとって大切なことは,ど
ちら側でよい生活を送ることができるかということではなく,どちら側に義務がある
かということだ』というホセ・マルティのことばなのである。ここには,労働者階級
の物質的=私的利害を回復するという資本主義の枠と,社会主義の祖国を守るという
ナショナリィステックな枠との双方のなかで,形成当時に生き生きとして存在した国
際主義の原理をしだいに放棄するに至った西欧・ソ連におけるマルクス主義を,その
原理からもう一度とりあげて大きく発展させようとする第三世界の目がある」(西川
pp. 210212)。
もうひとつの経済システムとしての社会主義
197
民に対する当然のサービスとして給付されるのである」(pp. 186
187)。
10.社会主義に飴と鞭は必要か?
ところが,ここに難題が持ち上がってくる。西川氏はそのことを,前節終わりの引
用文に続いて次のように言う
「しかし単に分配面での平等はそのまま大衆を自発
的に新しい社会づくりへと動かしえないだろう。大衆は単に新しい社会のもたらすサ
ービスの受益者にとどまるかもしれないからである。ここにキューバ経済にとって死
活事である生産面における組織という問題が提起されてくる」(p. 187)。
この問題については,さきに見たように首都圏コープ編著が「何のために,何をめ
ざして,みんなで励みあうのか,ということを探し求めながら,みんなで励む,とい
う形の競争を,むしろ積極的に組織していく」試みを楽観的に説いたのと違って,吉
田氏の場合はこの点においてもう少し懐疑的である。吉田氏にあっては,「よく働く
人も,働かない人も同じ権利を持てば,人はなまけたくなります。人権は平等であっ
ても,なまける人も一生懸命働く人と同じ権利を持つことには納得できない」と言う
社会主義国キューバ人を紹介し,氏自身も「たしかに,働いても働かなくても同じ所
得が得られるのであれば,人間はやる気を出さない。多くの国営農場の生産効率が低
下し,キューバ全体の自給率が低迷してしまったのも,ひとつには社会制度上の問題
であった」(pp. 139140)と考える。
吉田氏のこの問題提起については,西川氏も,本稿第二節で言及したところの革命
直後の膨大な数の国外亡命者の問題とともに,「一九六七,八年頃から大衆の生産過
程への動員と統合が,欠勤者,怠け者(バゴ)の増大によって,必ずしも円滑に機能
しなくなってきた」(p. 197)いくつかの事例を上げている。まず前者について,西
川氏は次のように言う
革命後キューバの「消費生活の統制はもちろん一部の中産
階級に不満と倦怠の念を与えている。『グサノ』(うじむし)と呼ばれる亡命者たちの
主たる基盤はこの層であり,キューバの人びとはかれらのことを『ハムが食べたいと
いって逃げ出す連中』と軽蔑している。しかし,私がメキシコへの飛行機のなかで,
直接これらの亡命者と話した印象からすると,かれらは食糧や消費財の不足に不満な
のではなく,むしろその統制に伴う精神的雰囲気
集団主義的な発展方向
の進
展に不満の意を示している。『なんでも命令だ,自由がない』とかれらはいう。しか
し革命と社会主義建設の歩みについてゆけない人びとが,物が不足ということよりは
198
大阪経大論集
第53巻第6号
むしろ社会的所有=実質的平等の進展を理解しようとせず,これに反撥を感じる人び
とであることはたいへん示唆深い。……/同じ亡命の道にあったある技術者は,自分
が月収六〇〇ペソを受けながら,配給制のために実際には使い道がないことをこぼし
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ ・・・・・
た。しかしかれが労働者の平均月収の五倍を受けとりうるということは,単にかれ自
・・・・・・・・・・・・ ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
身の能力によるのではなく,実は精神的労働と肉体的労働との分業という名目によっ
・・・・・・・・・・・・・ ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
て維持されている社会の支配−被支配機構の一つの歯車としてかれの労働が機能して
・・・・・・・・・
いることを意味することにほかならないのではなかったのか。かれが六〇〇ペソとい
う金額の意味する価値支配力に固執するとき,かれは私的利害の立場から残存する社
会の支配
被支配機構の維持の側に密着して,これを廃棄しようとする革命の立場と
182 傍点−池野)。
対立を示すに至ったといえよう」(pp. 181
西川氏が言うように,個人の高い賃金が「単にかれ自身の能力によるのではなく,
実は精神的労働と肉体的労働との分業という名目によって維持されている社会の支配
被支配機構の一つの歯車としてかれの労働が機能している」という視点からすれば,
今日その経済的成功ゆえに誉めそやされているビル・ゲイツの評価も全く変わること
になる。その一例を示せば,「ビル・ゲイツは,俗物であるアメリカ人の究極のシン
ボルかもしれない。ソフトウェアのことしか眼中にないため,社会でうまく立ちまわ
る力量にはまるで欠けているが,なんとそのおかげで世界一の金持ちにもなった一人
のコンピューターおたくなのである」(マーク・ハーツガード『だからアメリカは嫌
われる』忠平美幸訳 草思社 02年 p. 147)。
では,革命後の社会における「欠勤者,怠け者(バゴ)の増大」について西川氏は
どう考えているのかというと,「社会主義経済組織は分配面での平等をいちじるしく
進めるが,もしこの組織運営に民衆の参加が欠けているとしたら,民衆は受けとるこ
とに慣れ,自らつくり出す能動的意欲を欠いた人間として現れるだろう。社会主義的
経済は決して自動的に社会主義的人間を生みだすものではない,むしろその反対なの
である。そのような場合には,かれに示される生産目標(ノルマ)も,単に義務的な
ものとしてしか受けとめられず,いきおい仕事の質も粗雑化し,仕事に対する情熱も
失せる」(pp. 199200)として,「ハバナで私にガイドとしてついてくれたG青年」
の例を示す
「G青年は,革命前は銀行のボーイで,黒人であるがゆえに出世でき
なかった。かれは革命後勉強を発意し,ハバナ大学政治学部に入り,立派なアパート
メントと給食と一二〇ペソの奨学金を与えられている。かれは社会主義制度の恩恵を
もうひとつの経済システムとしての社会主義
199
十二分に享受し,革命の熱烈な支持者である。しかし現実には,かれは自分がくたび
れると重要なインタビューやガイドの途中で通訳を中断してしまい,しばしば行方不
明になり,運転手の同僚を『同志』(コンパニエーロ)とではなく『運転手』と呼びつ
け,行く先々で外国のゲストに出される貴重品のタバコや果物をかかえて帰った。私
216)。西川
はかれと行動するたびにミニ官僚と一緒にいる気分になった」(pp. 215
氏が,組織運営への「民衆の参加」を不可欠とする所以である。
さて,この問題提起をした吉田氏にあっては,この問題について別のキューバ人の
次のような発言を示す
,
「その通りです。解雇されたり,家を失ったり路頭に迷うことへの恐怖。これこそ
が人々に働く意欲を起こさせるための資本主義的手法です。もちろん,社会主義が
別の形の動機づけを持たなければならないことは否定しません。工場や農場や職場
が自分たちのものだという主体意識を強化しなければなりません。以前は温情主義
をとりすぎて,自分の責務を果たさない労働者がなんらの制裁も受けずに置かれた
こともありました。モノよりはモラルを重視したチェ[・ゲバラ]でさえ,責務を
果たさない労働者を解雇するなど,ペナルティを考えていましたが,キューバ革命
は人々が働く動機について,モラルであれ,物質であれ,飴については検討してき
ましたが,鞭については十分に論じてこなかったのです。
ですが,効率性を上げるというためだけに,ベーシック・ヒューマン・ニーズを
保障することから社会主義が引き下がるべきだとは思いません。……医療,住宅,
教育。こうしたベーシックなヒューマン・ニーズの権利を保とうとしたときに市場
の力では支配されないものがあると信じているからです。人間の尊厳は市場より上
にあり,暮らしの権利は自由市場よりも重要なのです。……
私たちは,社会に不平等や不公正を持ち込むことなく,より柔軟性があり,効率
がよい経済体制を作ろうと思っているのです。中国が実験しているような経済政策
は短期的には繁栄をもたらすでしょうが,長期的には破滅を招くのではないでしょ
うか。こうした懸念もあって,すぐに多くの経済変革を行うことはしていないので
す」
pp. 348349
じつは,このキューバ人の発言は,「その通りです」と言いながらも,「働いても働
200
大阪経大論集
第53巻第6号
かなくても同じ所得が得られるのであれば,人間はやる気を出さない」という吉田氏
・・・
の問題提起への穏当な反論ともなっている。そして,その反論それ自体には私は全く
異論はないのだが,ここでは,そもそも「働いても働かなくても同じ所得が得られる
・・・・・・
のであれば,人間はやる気を出さない」という発想そのものを問題としたい。
11.脱トリックの試み
なぜ,もっと根源的にそうした発想を問う必要があるのか?
それは,その発想が
今日あまりに安易に通用してしまっており,それゆえに今日の規制緩和・“能力主義”
を正当化する根拠となり,同時に,頭から社会主義が全否定されてしまっているから
である。たとえば,「一般の,経済学に関心のない人でも,苦もなく読める経済学の
本」(p. 209)と自負する,西村和雄『世界一かんたんな経済学入門』(講談社 02年)
は,「試験や競争があるから社会全体が豊かになるのです」(p. 18)・「競争のない社
会は,社会主義社会で……崩壊した」(p. 19)と言い,あるいは,「共産主義が汚れ
て地に落ち」た(p. 133)と言う,村山宏『異色ルポ
中国・繁栄の裏側』(日経ビ
ジネス文庫 02年)は,「毛沢東が夢見た『みんなで働く共産社会 」の破綻原因を
「生産手段の共有化と計画経済は労働者のやる気をそぎ,役人の跋扈を許した」こと
にある(p. 60),と断定している。
さらには,エンロン社やワールドコム社などのアメリカ大企業が破綻した経緯を描
く,大島春行/矢島敦視『アメリカがおかしくなっている』(NHK出版 02年)が,
エンロン社の売り上げ・収益の不法なかさ上げ(粉飾)がまかり通ったことの内部要
因の一つとして,その問題に気づいた社員たちが黙っていた理由に「エンロンを儲け
させた者には高額のボーナスで報いる」という「業績評価の仕組み」=「徹底した実力
主義」(p. 96)にあったと指摘しながら,それでも,その実力主義について次のよう
に肯定的に述べているところからも,そうした発想の蔓延ぶりは明ら か で あ る
「社員の業績評価が徹底した実力主義に基づいて行われること自体は,大いに結構か
も知れない。企業を成長させる大きな要素でもあるだろう。むしろ,人間関係やさま
ざまなしがらみなどが業績評価に大きな影響を及ぼす日本のような文化風土のほうが,
企業の活力を削ぐと指摘されれば,そちらの議論に与したいと思ってしまう。しかし,
その制度が飽くなき欲望と結びついたときには,人間はいとも簡単にその欲望を満た
すほうに走ってしまうことを,このエンロンの実状は示している」(p. 97)。
もうひとつの経済システムとしての社会主義
201
つまり,著者たちは,エンロン社のような極端ないきすぎはダメだが,「徹底した
実力主義」「に与したい」と言う。では,そのいきすぎをどう止めるのかという問題
に対しては一般的には企業倫理が想定されるが,じつは同書の著者たちはその無力さ
を正確に見抜いている。すなわち,「不正経理を隠しつづけ」たエンロン社員,「エン
ロンに関する膨大な書類をシュレッダーにかけて,不正行為のもみ消しをはかろうと
していた」監査法人アンダーセンの担当者などについて,著者たちは次のように糾弾
し,その対策としての企業倫理の教育をナンセンスと批判している
「一体このエ
リートたちは,何のために高い教育を受けていたのだろうか。こうした批判を受けて,
多くのアメリカの大学が企業倫理を学ぶ『コーポレート・ガバナンス』の講座を新設
した。いかに企業の利潤を最大化させるかを実践の事例を駆使して教え込んできたビ
ジネススクールが,まったく同じ調子で,今度は企業の倫理を教えてくれるのだとい
うが,おそらくそうはうまくいかないだろう。企業倫理の問題は,今年はこの色が流
行っているからこの色にしようというわけにはいかない。ビジネススクールは,人は
なぜ学ぶのかといった七面倒くさい問題はさておいて,いきなりケーススタディを通
じて技能を向上させることに特化している。皆,ここできちんと技能を向上させて早
く会社に戻らなければならないからだ。皆,忙しいのだ。しかしそうである限り,そ
こで学んだ人たちは,目前の問題を解決するためには,どうしたって手段を選ばずに
目的を達成しようとする。手段を選ばなければ企業倫理の王道から道を外すことも起
・・・・・・・・
きてくるだろう。言い換えれば,企業の不正行為は,こうしたビジネススクールでの
・・・・・
・・・・・・・・・・
教育のあり方の当然の帰結として,いわば起こるべくして起きた側面もあるのだ。企
業倫理の問題は,ビジネススクールが一生懸命教えてきたこと,すなわち企業の利益
を極大化するというテーマと,本質的に相容れない。ビジネススクールは,『さてお
いて』いた問題を教育の対象にしない限り,企業倫理問題を教えることは本質的にで
きないだろう。そこを素通りして,『今度はコーポレート・ガバナンスもやりますか
ら』と,あっけらかんとすぐさま対応するところがアメリカらしいが,それは通らな
179 傍点−池野)。
い」(pp. 178
著者たちはビジネススクールの教育の欺瞞性を批判するなかで皮相な「光と蔭」論
からせっかく自由になっている15)のに,どうして「徹底した実力主義」それ自体は善
15)それに比べて,同書に収められている伊藤元重「本書に寄せて」は,典型的な「光と
202
大阪経大論集
第53巻第6号
であると言うのか。論理的に矛盾しているのは明らかだが,じつはそれほどに実力主
義という発想が幅を利かしている現実を示しているとも言える16)。
さて,吉田氏の場合である。じつは,氏はその発想を覆す事例をも示している
「日本と違って,キューバ人に感心させられるのは,単なる経済的利益だけを求めて
はいないことだ。/『お金がないなら,払える値段で販売するよ。誰も飢えたままに
させたくはないからね 。三人の仲間と一緒に農場を経営する都市農家ラルフ・サン
チェスさんは言う。サンチェスさんだけではない。農産物をそのまま丸ごと販売すれ
ば,大きな利益をあげられるにもかかわらず,ハバナの都市農場や市民農園の八割は,
生産物の一定割合を地区の小学校やデイケアセンター,老人ホームなどに無償で寄付
しているし,園芸クラブも生産量の約一割を近くの学校,老人クラブ,マタニティ・
クリニックに寄付している」(p. 150),と。これを,氏は「献身的な行為」であり,
「キューバの人たちの助け合いと団結精神の表れのひとつであろう」(p. 151)と言
い,先の発想とは無関係に済ましているが,これは,明らかに「働いても働かなくて
も同じ所得が得られるのであれば,人間はやる気を出さない」という先の命題と対立
する。とすれば,いったいこの対立をどう考えればいいのだろうか。
資本主義のなかで現に「仕事や収入を失うことへの恐怖心」から働いており,「様々
な社会サービスが充実して」いない現実に住むがゆえに,そして,その資本主義文化
にどっぷり浸かっているがゆえに,そうではないと「人々は働く意欲を失ってしまう」
蔭」論に囚われている
「九〇年代のアメリカ経済は,市場経済が細部に宿す『悪
魔』[→蔭]も『神』[→光]も見せてくれた。……アメリカを起点とした市場経済の
波は,アフリカ諸国などの貧困を置き去りにしようとする富の格差の拡大を引き起こ
しつつ,他方で途上国の多くの若者に所得拡大の夢を与えつづけている。中国やイン
ドなど経済発展とは無縁と考えられていた地域も,こうした技術革新の大きな波によ
って変わろうとしている」(p. 9)。氏は,「悪魔」と「神」の重層関係をこそ説かね
ばならなかったのである。
16)「働いても働かなくても同じ所得が得られるのなら,人間はやる気を出さない」とい
う発想が今日の日本でも一般的なものとなっていることは,大阪府が「約3万5千人
の一般職員の仕事へのやる気を引き出すため8月に新設した『優秀職員等表彰 」で
「個人に5万円相当,団体には2万円相当の旅行券を贈る」( 朝日新聞』02年11月6
日 大阪北摂版)という事態からも読み取れる。こうした「表彰」で「仕事へのやる
気を引き出す」ことができるものなのだろうか? むしろ,職員の間に不要な軋轢を
もたらすだけではないかと,私は大いに疑問である。
もうひとつの経済システムとしての社会主義
203
・・・・・・
(p. 348)といつの間にか無意識に考え(させられ)てしまっているのではないか。
これは,想像力の問題でもある。吉田氏がキューバ人に,「日本と違って……単なる
経済的利益だけを求めてはいない」と「感心」するのだが,おそらくキューバ人は自
然に振る舞っているだけなのだ。なぜなら,彼(女)らは日常的にそうした文化のな
かに生きているのだから。そして,だからこそゲバラは,「直接的な物質的刺激[利
潤をめざした商品生産システム]と革命意識とは両立しない」と語ったのである(前
節参照)。だとすれば,「働いても働かなくても同じ所得が得られるのであれば,人間
・・・・・
はやる気を出さない」という発想は,資本主義のなかで生きている者のある意味で必
然の産物なのであり,また同時に,じつは案外と資本主義を正当化するための
ト
リ
ッ
ク
文化装置と言えよう。
ト
リ
ッ
ク
文化装置という視点で言えば,「ギアをロウに入れ換えて,消費と労働の関係,ひ
いては暮らし方を変える人たち」=「ダウンシフター(downshifter)減速生活者」の
「生活様式が一般化する」循環共生型社会=協同社会に対して,「そういう社会は生
産性が低い,またそんなふうに消費を減らせば経済は難破する」という反論が予想さ
ト
リ
ッ
ク
れることを先に首都圏コープ編著は指摘したが,じつはこうした反論もまた文化装置
だと言える。さらに,トリックのひとつを山下氏が紹介している
淡路島はタマネ
ギの産地だが,その「産地内の業者の倉庫前に積み上げられたぼう大なタマネギは米
国産。加工すれば原産地表示は不要だから皮一枚はいで『淡路タマネギ』になる。地
元のは『淡路産タマネギ』だ」(p. 103)。このように食物も文化(人々の意識を含む)
もトリックが蔓延る現代だからこそ,地道な私たちの暮らしの点検を通した世直しが
求められる。なにせ,今日では「食は命懸けの時代」(同 p. 1)・「勉強しないと自
分の命が守れない時代」(p. 165)であり,「日々のその選択が農業を変え世の中を動
かす。それを食べるということは支持の表明であり,信任投票でもある」(p. 65)の
だから。
12.経済のありようの問題
ここで,キューバにおける経済のありようの問題から日本のそれを考えておこう。
圧倒的なアメリカ支配の軛に捕らわれていたキューバだったから,革命後もやむな
く世界的な分業体制に立脚しつつ自国の発展を指向せざるをえなかった。すなわち,
革命後の相変わらずの砂糖キビの輸出による外貨獲得,それによる工業化の推進が,
204
大阪経大論集
第53巻第6号
それであった。ただ,キューバが独特であったのは,単なる工業化ではなく,農業の
発展を前提とし,それにあわせて工業化を進めたことであった。だが,単一作物であ
る砂糖キビを買い入れたソ連が崩壊して,やっとその経済のありようの矛盾が噴出し
たことで,有機農業での再生を打ち出したのである。その方向は,従来からのキュー
バの都市と農村・肉体労働と精神労働の差別の解消にも合致するものであるし,同時
に,緊急に迫られている環境問題にも対処可能なものである。
翻って,日本はどうか。この間ずっと日本は,長引く不況克服策として相変わらず
の世界的な分業体制に依拠した経済のありようを続けようと足掻いている。規制緩和
・・・・・・・
論者たちが言う「経済再生」という場合のその経済とは,これまで通りの先進国に有
利な世界的分業体制に乗ったそれなのであり,したがって,彼らの念頭には第一次産
業のことなどない。たとえば,「①環境問題は〈農業問題〉でもある,②環境問題は
〈平等と社会主義〉を志向する」という立場から農業問題と社会主義を関連づける,
村岡到「エコロジー・農業・社会主義」( 技術と人間』02年11月号)は,ヨーロッパ
などで「次第に活動が定着しつつある緑の運動における二つの代表的な文書を対比す
ると,残念ながら〈農業問題〉認識での後退すら起きている」として次のように危機
感を示している
その「二つの代表的な文書」とは「二〇〇一年四月にオーストラ
リア・キャンベラにおける第一回グローバル・グリーンズ世界会議において採択され
た『グローバル・グリーンズ憲章』(世界緑の憲章)と一九九〇年に発表された『ヨ
ーロッパにおける緑のオルタナティブのために』のことである。後者では『北半球の
住民に化学物質や合成物質がつまっている一連の製品を消費させ,南半球の住民の一
部を飢えさせている政策に,今すぐけりをつけなくてはならない』として,〈農業問
題〉を強調しているが,前者には『農業』について断片的な叙述しかない。」
そこで,彼らが依拠するところの世界的な分業体制というものがじつはどのような
ものであるのかを示しておかねばならない。それについては,具体的な実践と闘いを
語る,J・ポヴェ/F・デュフール『地球は売り物じゃない!』(新谷淳一訳 紀伊國
屋書店 01年)が興味深い。ここでは,ポヴェ氏のインタビュー「農民の真のインタ
ーナショナルを」(秋本陽子訳『世界』02年9月号)の一部を示す
「国境を開いた
ことは,自国の自給農業に対する直接的な攻撃を招くことになります。例えば,韓国
とフィリピンはかつて米を自給自足していましたが,今日では自国の生産物よりも安
い,品質の悪い米の輸入を強いられ,水田生産が破壊されています。また,インドや
もうひとつの経済システムとしての社会主義
205
パキスタンでは織物繊維の輸入が強制されており,綿花農民が壊滅的な打撃を受けて
います。主要な農産物輸出国のブラジルでは,実際に栄養失調で苦しむ人が増えてい
ます。多国籍企業は土地の接収を進めており,多くの耕作農民に土地利用を禁じて,
自給の可能性を否定しています。」
つまり,規制緩和論者たちが寄りかかろうとする,先進国に有利な世界的分業体制
は世界の発展途上各国に大打撃を与えているものなのであり,だから,それはいつま
でも続かないことは明白である。そして,じつはそのことをキューバが示したのであ
る。それが,本稿の重要なテーマでもあった。そのことを確認するために,最後に,
今日的な食の問題を示しておこう。
ファストフードの食材が「質を保証できない集中飼育」17)(p. 27)と「運輸産業に頼
17)同じことは,先の『マクドナルド化する社会』も指摘している
「一羽のニワトリ
のために確保されているスペースは,〇・五平方フィートにすぎない。また,三・五
ポンドのニワトリのために確保されているのは,A四版の紙の面積に満たない」,
「そうした密集した小屋にニワトリを閉じ込めてしまうために,暴力や共食いのよう
な予測不可能性が生じる。農場主は,ニワトリが十分な大きさになるにつれて照明を
薄暗くしたり,共食いをしないように『くちばし抜き』をしたりするなど,さまざま
な方法によって非合理的な『欠陥』に対処している」(p. 183),また,「子牛は筋肉
が発達し,肉がかたくなるのを防ぐために,すぐに小さい仕切りのなかに閉じ込めら
れ,そこでは運動することができず,大きくなるにつれて,回ることさえできなくな
る。……子牛に確実に最大限のえさを食べさせるために,水は与えない。そのために
子牛は液状のえさを飲み続けざるをえないのである」(p. 184),と。
ところで,同書が私にとって面白かったのは,マクドナルドという現代的なファス
トフードに象徴させて今日の社会のありようをあらゆる面から具体的に論じているか
らであるが,さらに,その際の著者の確かな未来への視点にもある
「[社会の]
マクドナルド化の批判に対するひとつの根拠は過去にあるが,もうひとつの根拠は未
来にある。この意味における未来とは,マクドナルド化という拘束を受けていない人
間の潜在能力として定義される。こうした批判が保持している考えによれば,人は現
在よりずっと思慮に富み技能に恵まれ,創造的で,円満で釣り合いのとれた存在であ
る可能性を秘めている。もしかりに,世界がこれほどマクドナルド化されていなけれ
ば,人は十分人間の潜在力にしたがってもっといい生活ができるであろう。こうした
マクドナルド化に対する批判は,過去において人がなしてきた事柄に基づいているの
ではなく,未来において人がなしうるであろう事柄に基づいているのであり,マクド
ナルド化されたシステムの拘束がなくなるか,少なくとも十分に緩められるのであれ
41)。
ば,そうなるであろうと言っているのである」(pp. 39
206
大阪経大論集
第53巻第6号
り過ぎ」(p. 103)ている今日のシステムでは大企業による「単一栽培・大量生産」
を必然化しており,また「遺伝子操作の危険を冒し,その結果,動植物の種の多様性
が抹殺されようとしている」(p. 29)現状にあって,「集中的な大量生産を押しつけ
られた農業が後戻りできないところまで来たとき,唯一の道は,品質に対する新たな
要望や環境を大切にし,価値の高い情報に照らして考え直した,昔からの農業を回復
することだ」(p. 115),つまり「マクロ経済理論に対抗し,地方レベルで生産をおこ
ない,生産と供給の方法を再び組立て直す」(p. 157)ことを提唱する,カルロ・ペ
トリーニ『スローフード・バイブル』(中村浩子訳 NHK出版 02年)は,先進国に
有利な世界的分業体制下で「ごまかしが隠されている」と次のように告発す る
平均量の2∼3倍の牛乳を生産するために,牛は3年間,ポンプで乳を吸い出され
る。乳牛としての働きを終えると,同じように集中栄養補給により,成長を加速さ
せる餌を利用して,肉牛に変えられる。急いで肉牛の数を増やすためである。数カ
月たつと,クレモニーニ・グループの「イタリア国産牛」であることを示す証明書
とともに,ビッグ・マックの中にその肉を見つけることになる。これでは情報とし
ては一部しか伝えていないのではないか?
今度は鶏肉を見てみよう。フライドチキンとチキン・マックナゲットがおいしい
とすれば,年間およそ7000億リラの売り上げを誇るアマリード社のおかげである。
鶏がイタリア産であることには何の疑いもなく,大量飼育とも言えない。事実,鶏
は地面の上で飼育されているが,一羽あたり問題にもならないような狭いスペース
で,足が筋肉萎縮することも多く,飼育場の外の湿度を吸う大きな体を支えきれな
い。
同じアマリード社が生産する餌で飼育され,鶏を“健康に”保つ抗生物質をくり
返し注射した雄鶏の場合,48∼56日で約3キロ(雌鶏は2・2キロ)に成長する。
この“極小生活”によってたまったストレスや,“家畜の福祉不十分”さは肉に
反映される。成熟した鶏のおいしいスープを抽出することは,絶対にできない。鶏
が生まれ,肥らされ,殺されるまで2カ月に満たないのだから。従来の鶏なら,同
じ重量に達するまで,少なくとも5∼6カ月はかかるのだ。……
90年まで,マクドナルド純正ブレンドオイルのうちラードは93%だったが,折し
もコレステロールの高さが批判を受けていたので(フライドポテト1グラムにハン
,
もうひとつの経済システムとしての社会主義
207
バーガー1個分以上の飽和脂肪酸が含まれていた),そのカモフラージュがおこな
われた。ラードを植物油に切り替える際に,元の味をそのままにするために香料を
添加したのだ。この香料こそは冷凍食品,フリーズドライ食品によく使われている
製法不明の不思議な添加物である。
pp. 25
30
こうした生産システムだからこそ,ハンバーガーのパンに環境ホルモン(内分泌撹
乱化学物質)の疑いのある農薬(マラチオン)が残留していることが判明しても,日
本マクドナルド広報部は「食品衛生法に基づく農薬の残留基準をクリアした小麦粉を
使っているので,安全と認識している」とか,「マラチオンが環境ホルモンと確認さ
れたわけではない。こうした状況では,具体的な対策をたてることはできない」と弁
明し,それが通用する現実となる(渡辺雄二「残留農薬入りファストフード」( 買っ
23)。
てはいけない Part 2』週刊金曜日別冊ブックレット 02年 pp. 22
いまや,このシステムがいつまでも続けることなどできないことが確認できる。
[本稿は,02年度特別研究費の成果の一部である。]
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