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『 本国は天にあります 』
知多教会説教 2016/02/21 四旬節第2主日 知多教会 牧師:花城 裕一朗 エレミヤ書 26:7-19 フィリピの信徒への手紙 3:17-4:1 ルカによる福音書 18:31-43 『 本国は天にあります 』 私たちの父である神と主イエス・キリストからの恵みと平和が、あなた がたにあるように。 アーメーン。 最近、テレビを見ていると、「自動車に関するCMが多いなぁ」と思っ ておりますが、その中で、子どもの前をカメレオンが通っていて、子ど もがカメレオンを踏みそうになるというCMがあります。すると、そのカ メレオンが言うのです。「目に映っているのに気付かない。これが、カ メレオン・トラップじゃ。」つまり、車を運転する際に、歩行者が歩いてい るのが目に映っているんだけども、それでも気付かないということがあ り得る。だから、自動ブレーキ・システムが重要ですよと、そういうCM です。まあ、これは、自動車運転の話なんですけども、実はこれと同じ ようなことが、聖書の言葉でも言えるなぁと私は思うのです。聖書の言 葉に関して言えば、日本語で書いてあるのだから、誰でもそれは、読 もうと思えば読める。しかし、ちゃんと目に映っており、読めているの に、それでも、大事なことには気付いていない、そのようなことがあり 1 得るということです。 本日与えられた、第二の日課を見てみましょう。 (フィリピ 3:18-20)「何度も言ってきたし、今また涙ながらに言います が、キリストの十字架に敵対して歩んでいる者が多いのです。彼らの 行き着くところは滅びです。彼らは腹を神とし、恥ずべきものを誇りとし、 この世のことしか考えていません。しかし、わたしたちの本国は天にあ ります。そこから主イエス・キリストが、救い主として来られるのを、わた したちは待っています。」 ここで、パウロが言っていることは、事実であり、偉大な真理を含んで います。即ち、今もなお、キリストの十字架に敵対して歩んでいる者が 多いということです。彼らについて、パウロはどう言っているでしょう か?即ち、こう書いてあります。「彼らは腹を神とし、恥ずべきものを誇 りとし、この世のことしか考えていません。」と。 なぜ彼らがキリストの十字架に敵対する者になってしまうのか?そ の理由は、彼らが「この世のことしか考えていない」からです。今生き ているこの世でのことしか考えていないと、そのような生き方は、「腹を 神とする」生き方になってしまい、また、信仰の目から見たら「恥ずべき ものを誇りとする」生き方になってしまうということです。 2 或るクリスチャンが、次のようなことを言っていました。「私たちの人生 って、本当は、マラソンの42.195キロを走っているようなものだよね ぇ。でも、世の中の人たちって、人生は 100m走だと思って、走ってる みたいだよねぇ」と、そんな風に言っていました。私はそれを聞いて、 「なるほど、うまいこと言うなぁ」と思いました。 私たちの人生は、100m走なのか?それとも、42.195キロのマラソ ンなのか? もちろんこれは譬え話ですので、聖書の真理をこれです べて正確に言い表せているわけではないのですけども、100m走な のか?それとも、42.195キロのマラソンなのか? ということで、敢 えてそのように選択肢を置くならば、それは間違いなく、「42.195キ ロのマラソンだ」ということになるでしょう。 私たちの人生について、この世で生きている時間しか考えていない ならば、それは100m走だと思って走っているのと同じです。100m でゴールだと思って走り終わってみたら、まだそれから、今まで走っ てきた分の何十倍も、何百倍も、まだまだ人生は続くのです。そしてそ の時間の長さというのは、42.195キロどころではありません。永遠の 時間がそこから続くのであります。 人生を100m走だと思って、この地上での人生を1番で走り終えたか 3 らと言って、それは何か誇らしいことなのでしょうか?いいえ、それは、 本当は、恥ずべきことなのです。人生を100m走だと思っている人、つ まり、人生について、この世で生きている時間のことしか考えていない 人は、その人にとって、キリストの十字架はどのように見えているので しょうか? きっと、その人にとっては、キリストの十字架は、他人のた めに自己を犠牲にする、自己犠牲の崇高な愛の姿として、その人の目 に映っているでしょう。そして、「自分もあのように生きてみたい」と、自 分自身の生きる目標にするかもしれません。しかし、誤解を恐れずに 敢えて言うならば、それこそが実は、キリストの十字架に敵対して歩ん でいるということなのです。 キリストの十字架は、第一番目のこととしては、それは、倫理的な目標 であってはいけません。キリストの十字架は、第一番目のこととしては、 私たちの罪を明らかにするものであって、そして同時に、私たちの罪 を贖うものとして、そのように受け止めるべき、信じるべきものなので す。倫理的な目標とするのは、その後です。 しかしながら、人生は100m走だと思い、人生についてこの世で生き ている時間のことしか考えない人たちは、いつまでたっても、キリスト の十字架のことを、そのように受け止めることはできないでしょう。キリ ストの十字架は、私たちの永遠の人生を指し示しているものなのです。 4 キリストの十字架は、私たちの地上での人生だけを指し示しているもの ではありません。私たちの地上での人生、地上での罪を指し示し、そし てなおも、永遠に続く、永遠の人生を指し示しているのです。聖書の御 言葉は、その事をはっきり証ししています。 本日与えられた福音書の御言葉を見てみましょう。イエス様が、12 使 徒たちを呼び寄せて、御自分の十字架の死と復活について、3度目の 予告をはっきり言われています。しかし、弟子たちは分かりませんでし た。こう書いてあります。 (ルカ 18:34)「十二人はこれらのことが何も分からなかった。彼らには この言葉の意味が隠されていて、イエスの言われたことが理解できな かったのである。」そしてその後に続いて、エリコの近くで盲人が癒さ れる記事が書かれてあります。盲人は叫び続けました。(ルカ 18:38) 「ダビデの子イエスよ、わたしを憐れんでください!」そしてイエス様 は彼を癒し、盲人の目は開かれました。 この、エリコの盲人の記事は、イエス様の十字架と復活を理解できな い人たち、そのようなすべての人たちに向けて、書かれているのでは ないでしょうか。彼らは言うべきです。「ダビデの子イエスよ、わたしを 憐れんでください! 十字架と復活を理解できるように、わたしの目を 開いてください!」と、叫び続けるべきなのであります。 5 十字架と復活は、この世のことだけを考えていても決して理解するこ とはできません。彼らは敵対しているつもりはないでしょう。しかし、キ リストの十字架と復活を、この世的に考えようとするならば、それは、キ リストに敵対するのと同じことなのです。彼らの目は開かれて、永遠の 世界のことを知る必要が、どうしてもあるのです。 イエス様を信じる者にとっては、人生は、地上で生きている時間だけ で終わるものではありません。イエス様を信じる者は、自分の人生を生 きる本当の場所として、永遠の世界を仰ぎ見るようになります。(フィリピ 3:20)「わたしたちの本国は天にあります」と本日の第2の日課で言わ れている通りです。彼にとって、地上での人生は短すぎます。そして、 まず、永遠の世界の観点から、永遠の世界のところに土台をまず据え て、そこから、この地上の人生を生きるように、そのように私たちは、変 えられていくのであります。 イエス様ご自身、次のように仰っている通りです。 (ルカ 9:23-26)「わたしについて来たい者は、自分を捨て、日々、自 分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の命を救いたいと 思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを救うの である。人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の身を滅ぼしたり、 失ったりしては、何の得があろうか。わたしとわたしの言葉を恥じる者 6 は、人の子も、自分と父と聖なる天使たちとの栄光に輝いて来るときに、 その者を恥じる。」 私たちの本国は天にあります。この、私たちを救う≪真実の言葉≫ が、いつも、私たちの心の内にありますように、お祈り致しましょう。 祈りましょう。 7