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カラモジアの残した財産
カラモジアの残した財産 ―― ミャンマーで流した元理事長の涙の意味 ―― 平成18年11月18日ミャンマー連邦シャン州ニャウンシュエ郡教育事務所の会議室で財 団法人カラモジア(以下カラモジアと略す)元理事長宮下亮善は挨拶のために立ち上がった。 「み、な、さ、ん・・・・」流れ落ちる涙を拭こうともせず机に両手をついて泣いた、言葉が 続かない。カラモジア元技術専門委員長の下津はカメラのシャッターを押せずにもらい泣きし た。列席した50数名の現地の人々はきょとんとしている。この涙が綴る物語を知る者はスタ ディツアー同行14名のうちあと大重と私である。 ←涙で握手する宮下と下津、駆け寄る大重。 1999年からシャン州の南部、観光地で 有名なインレー湖のほとりにあるニャウンシ ュエ郡教育事務所管轄下にある小中学校の生 徒を対象にカラモジアは奨学金貸与の事業を 開始した。経済的理由で中学校や高校に行け ない子どもを各学校から推薦してもらい、カ ラモジア現地駐在員が面接のうえ奨学金受益 者を選定、その後年間約5000チャット(小学校の生徒、当時1チャットは約0.1円)の 奨学金を中学校卒業まで毎年貸与するのである。この奨学金を受けて学校を卒業した子どもた ちは、その後働きながら少しずつ奨学金基金にお金を返していくことを条件に。 2003年6月当時現地駐在員Tからのメールは次のようであった。 「先月末、新しく奨学金を受給する子ども達の家庭訪問を行いました。確かに子ども達の家 庭の経済状況は苦しいですが、日本の子ども達と違い、とても目が活き活きしていると私は感 じました。そして、子ども達は皆『学校での勉強がとても楽しい』と笑顔で答えます。 中にはこんな男の子(13歳)もいました。 長男の彼には一歳とびに五人の兄弟がいます。お母さんは女の子が欲しいので産み続けた結 果です。そしてやっと六人目に女の子が生まれたそうで、そのことをお父さんとお母さんはと てもうれしそうに話してくれました。 でもその長男は家計が苦しいことを心配し、自らの意志で学校を辞め日雇いの仕事をしよう と考えていました。その男の子に会い私はとても感動しました。そして、男の子には奨学金を 受けながら是非学校での勉強を続けて欲しいと思いました。こうした出会いを通じて生まれる のが一つの協力の形かもしれません。 彼らにはお金はないですが、決して「不幸」ではないと思います。しかしインレー地域(シ ャン州)ではお金がないが故に、子ども達の教育を受ける機会が失われてしまっているのが現 状だと思います。」 また、こういう話もある。 ある村からは奨学金の推薦書が一枚も上がってこなかった。駐在員Hが行って聞くと 「推薦書に貼る写真代40チャット(4円)が無いし、写真を撮りに街まで行けない」という 返事だったという。それ以降先進国日本では簡単な写真貼付は廃止した。 開発途上国では、いわゆる支援金の「貰い癖」がついていて、とにかく先進国からの支援を 少しでも引き出そうとする「ずる賢さ」を生み出すのが通常だという。学校が建つと支援が終 わる。すると窓ガラスを割って「修理費を支援してくれ」という例もあるという。カラモジア は支援の基本精神に「100%の支援は絶対にしない」を掲げていた。当時行なっていたメイ ンの支援である農業支援事業のうち、土着菌堆肥講習会では講習参加費を農民から徴収した。 これには当初、現地政府事務所の係官が猛反発した。 「国連や他の NGO は交通費を払ってくれ るのに、カラモジアは逆に金を取るのか」と。カラモジアは言った「国づくりに自助努力をし ないものには支援しない」と。数回重ねるうちに、土着菌堆肥の効果が上がるとカラモジアの 噂が口コミで広がり、参加を締め切った講習会に2日がかりで歩いて来て「参加させて欲しい」 という農民が現れ始めたという。 この自助努力なしに支援しない精神は、奨学金制度では以下の3つの効果を生み出した。当 時ミャンマーの首都ヤンゴンでカラモジア駐在員として政府との交渉に当たり、現在国連関係 の難民救済事業にたずさわっているIの言を借りれば、 「ニャウンシュ郡における奨学金貸与制度が、地元の人を中心とした地域に根ざした活動に 展開して行ったのは、開発途上国では稀有な例である。カラモジアの始めた奨学金制度を核と して現地の人たちが奨学金制度を充実させ、且つ満足な給与も出ていない教師が基金を出し合 い、さらに貰った子ども達が奨学金の返還を始めるまでになった例は聞いたことが無い。これ はとりもなおさず、カラモジアの自助努力を生かす支援の精神が産んだ賜物である」というこ とになる。 先ず、第一が現地でのボランティア団体の設立である。これは現地で通訳をお願いしている エイエイ先生が発起人である。 「ミャンマーから遠い、縁もゆかりも無いカラモジアが来てミャンマーの子どもたちのため に奨学金を貸している。何故現地の私たちが黙っておれましょうか。友人知人に話しをしてミ ャットセタナーという奨学金支援団体を作りました。毎月少しずつ基金を集めています。」これ には、元教師、歯医者、商店主、経営者、タクシー運転手などが協力しているという。 第二が、地元教師のボランティアの動きである。 教育事務所の働きかけで、ニャウンシュエ郡の教師全員約1200名が月給の中から小学校 教師25チャット、中学校50チャット、高校70チャットずつを出し合って基金を設立した ということである。開始当時の教師の給与は小学校が7000チャットであったという。現在 の残額は100万チャット余であると所長は通帳を見せてくれた。貸与した額を含めると相当 額になるはずだ。この報告をする教育事務所長は「カラモジア」という単語を話の中に何回も 入れた。 第三が奨学金を借りた子どもたちによる返還が始まったことである。 当日、十数名の奨学金被貸与者が列席していた。そのうちの一人、保健学校を出て政府から 助成を受けながら助産師研修をしている学生は次のように話した。 「自分は小学校を出たら上へ の進学をあきらめていた。先生の勧めでいただいたカラモジアの奨学金で無事に中学、高校、 専門学校を出ることが出来てとても感謝している。私の妹や弟たちにあたる村の子どもたちに も是非奨学金で学校を出て欲しいから、少しずつお返しします」と。彼女は最近15,000 チャット返還した。ほかの子どもの分を併せて50,800チャットが変換されている。他の 参加者も異口同音のことを話す。当日不参加だったが3年後には医師になる被貸与者もいると いう。 (写真は奨学金被貸与者に囲まれる宮下) 宮下は子どもたちの言葉に感激したのである。 「あの時に、財団を解散して投げ出さずに良か った。もしあの時にミャンマー事業を放棄して しまっていたらこの子どもたちの現在は無かっ た。連日連夜の理事会や県庁との話し合いやマ スコミ対応等苦しい日々であったし、給与も払 えずH、T、Iの現地駐在員にも迷惑をかけた が、この子どもたちの話を聞き笑顔をみたら、 あのとき苦労してどうにか財団を継続できてよ かった、そう思うと恥ずかしながら涙が止まら なかった。」帰路のバスの中で下津も大重も大きくうなずく。 2002年財団の基本財産を発足当初の K 理事長らが取り崩したことによる財団解散の危 機にあって、僧職にありながら財団建て直しを任されて理事長を引き受けた宮下にとって1億 7千万円の基本財産回復は容易なことではなかった。一度地に落ちた信用は回復しがたく浄財 も集まらず解散が幾度と無く取りざたされた。そのなかでも数少ない支援者のおかげでミャン マー事業は中断することなく継続していたが、矢尽き刀折れた2003年9月佐賀県の NPO 法人「地球市民の会」に移管し、彼は辞任した。現在も農業事業は継続されている。 財団法人カラモジアが今年8月解散承認を受けたという報道を読んだ。NPO 法人にカライモ 交流という大隈半島で起きた大きな運動は財産となって引き継がれていく。しかし、もう一つ の財産がミャンマーでは、現地の人の手によって「日本=カラモジア=自助努力」という概念 に近い形で教育現場において引き継がれていることを是非県民の皆さんに知っていただきたい と思い筆を執った次第です。 第2次大戦当時のビルマ戦線には約30数万の日本兵が駐留しそのうち約18~9万の方々 が亡くなったという。戦後60年、未だに還らない遺骨が多く眠るっているであろう大地の上 を歩む私たちに出来ることは、彼らが願っていた祖国日本とミャンマーの人々の平和な生活の 建設である。時を経て経済的余裕のある私たちがいくばくかの協力をすることにより、シャン 州という限られた地域ではあるがミャンマーの子ども達が一人でも多く学校に行き笑顔で学ぶ ことを願わずにはおれない。彼の国への恩返しの意味もこめて。 それにしても恵まれた教育環境の日本で起こる子どもの自殺は、いったいどちらが豊かな国 なのかと疑問に思う。帰国早々開いた南日本新聞を読みながら暗澹たる気分になった。 最後に我田引水になるが、2003年5月からカラモジアの教育支援を引き継いだ私どもの 会の支援は、今回の訪問までに奨学金貸与者が1156名になり、学校建設は30校目となっ た。(なお文中登場者の敬称は略した) 平成18年11月 ミンガラーバー地涌の会 事務局 福永大悟